増鏡


P001
校註 増鏡

二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺に詣でて、常在霊鷲山など心のうちに唱へて、拝み奉る。傍に、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかゝりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひたちつれど、いと腰痛くて堪へ難し。今宵は、この局にうち休みなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つき/゛\しき程なるをば、返しぬめり。
「釈迦牟尼仏」とたび/\申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近く傾きぬめる日かげかな。我身の上の心地こそすれ」とて、寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く
P002
寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかゞ」などいへば、「このわたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る、あはれになん」といふ。「さても、いくつにか成給ふらん」と問へば、「いさ。よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百とせにもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしも有り難かりし世の騒ぎにも、この御寺ばかりは、恙なくおはします。猶、やむごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。
年の程など聞くも、めづらしき心地して、かゝる人こそ昔物語もすなれと、思ひ出でられて、まめやかに語らひつゝ、「昔の事の聞かまほしきまゝに、年のつもりたらん人もがなと思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しの給はせよ。おのづから古き歌など書き〔置き〕たる物の片はし見るだに、その世にあへる心地するぞかし」といへば、〔うち〕すげみたる口うちほゝゑみて、「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、こゝらの年比に、ぬばたまの夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へる
P003
気色なれば、いよ/\いひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。又かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様のやうなる人にこそ侍りけめ。猶の給へ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよ/\口すげみがちにて、「そのかみは、げに人の齢も高く機も強かりければ、それに従ひて、魂もあきらかにてや、しか聞えつくしけむ。あさましき身は、いたづらなる年のみ積もれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事をだに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふる事どもは、いかにぞ」といふ。
「いさ。たゞおろ/\見及びし物どもは、水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあらゝかにしるせり。その次には、大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。又世継とか、四十帖の草子にぞ、延喜より堀川の先帝までは少し細やかなる。又なにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡には、後一条より高倉院までありしなめり。誠や、いや世継は、隆信朝臣
P004
の、後鳥羽院の御位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。その後の事なん、いとおぼつかなくなりにける。おぼえ給へらむ所々までもの給へ。今宵誰も御伽せん。かゝる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契あらん物ぞ」など語らへば、「そのかみの事は、いみじうたど/\しけれど、誠に事のつゞきを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえ/゛\に少しなん。ひが事ども多からんかし。そはさし直し給へ。いと傍いたきわざにも侍るべきかな。かの古き事どもには、なぞらへ給ふまじう〔ぞ〕なん」とて、
愚なる心や見えん増鏡古き姿に立ちは及ばで
とわなゝかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、今の給はん事をも、また書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今もまた昔を書けば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん
P005
第一おどろのした
御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御諱は尊成、これは高倉院第四の御子、御母は七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめ也。高倉院御位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられし程に、忍びて御覧じはなたずや有けん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。その年の春の比、建礼門院后宮と聞えし御腹の第一の御子、安徳天皇 三に成給ふに位を譲りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一族のみいよ/\時の花をかざし添へて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。又の年、養和元年正月十四日に、院さへかくれさせ給ひにしかば、いよ/\位などの御望み
P006
あるべくもおはしまさざりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たちわたし聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のまゝに〔と〕思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて、泣き給ひければ、「あなむつかし」とて、ゐてはなち給ひて、「四の宮こゝにいませ」との給ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫におはしけれ。故院の児おひにも、まみなどおぼえ給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四にて位につかせ給ひけり。内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫に率ておはしにければ、こたみ初て三種の神器なくて、めづらしき例に成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰のぼりにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。かくて此御門、元暦元年七月二十八日御即位、その程の事、常のまゝなるべし。平家の人々、未だ筑紫にたゞよひて、先帝と聞ゆるも御兄なれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。
P007
同年の十月二十五日に御禊、十一月十八日〔に〕大嘗会なり。主基方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波国長田村とかやを、
神世よりけふのためとや八束穂に長田の稲のしなひそめけむ
御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治二年十二月一日、御書始めせさせ給ふ。御年七なり。同じ六年、女御参り給ふ。月輪関白殿の御女なり。后立ありき。後には宜秋門院と聞え給ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞え給ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元服し給ふ。
同じき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給ひにし後は、御門ひとへに世をしろしめ〔し〕て、四方の海波靜かに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、あまねき御うつくしびの浪、秋津島の外まで流れ、しげき御恵み、筑波山のかげよりも深し。よろづの道々に明らけくおはしませば、国に才ある人多く、昔に恥ぢぬ御代にぞ有ける。中にも、敷島の道なん、すぐれさせ給ひける。御歌かず知らず人の口にある中にも、
P008
奥山のおどろの下も踏みわけて道ある世ぞと人に知らせん
と侍るこそ、まつり事大事と思されける程しるく聞こえて、いといみじくやむ事なくは侍れ。
建久九年正月十一日、第一の御子土御門院 四になり給ふに、御位譲り申させ給ひて、おり〔ゐ〕給ふ。御年十九。位におはしますこと十五年なりき。今日明日、二十ばかりの御齢にて、いとまだしかるべき御事なれども、よろづ所せき御有様よりは、中々やすらかに、御幸など御心のまゝならんとにや。世をしろしめす事は今もかはらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給ひて、常に渡り住まはせ給へど、猶又水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しば/\通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はる/゛\と川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてこそは、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕は秋と何思ひけむ
P009
かやぶきの廊・渡殿など、はる/゛\と艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝落とされたる石のたゝずまひ、苔深き深山木に枝にさしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞なり。前栽つくろはせ給へる比、人々あまた召して、御遊びなどありける後、定家の中納言、未だ下臈なりける時に、奉られける。
ありへけむもとの千年にふりもせで我君ちぎる峰の若松
君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こす数は千世も見えけり
今の御門の御諱は為仁と申しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつれる程に、この御門生まれさせ給ひて後には、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞えき。かの大臣の北方の腹にておはしければ、もとより〔は〕、後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、誠の御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日に御禊、十一月二十二日は例の大嘗会なり。元久二年正月三日御冠し給ひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父御門よりは、少しぬるくおはしましけれど、御情深う、物のあはれ
P010
など聞こし召しすぐさずぞありける。
今の摂政は、院の御時の関白基通の大臣。その後は後京極殿良経と聞え給ひし、いと久しくおはしき。此大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申しおこなはせ給ひける。文治の比、千載集ありしかど、院未だきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを当帝位の御程に、又集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君右衛門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位・定家の中将・家隆・雅経などにの給はせて、昔より今までの歌を、ひろく集めらる。おの/\奉れる歌を、院の御前にて、身づからみがき整へさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞えつる摂政殿、とりもちて行なはせ給ふ。大かた、いにしへ奈良の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、万葉集を撰びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則・貫之・躬恒・忠岑。天暦のかしこかりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、未だ蔵人少将など聞えけるころ、和歌所の別当とかやにて、梨壷の五人におほせられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞きにや侍らん。その後、拾遺抄は、花山の法皇
P011
の身づから撰ばせ給へるとぞ。白川院位の御時は、後拾遺集、通俊治部卿うけたまはる。崇徳院の詞花集は、顕輔三位えらぶ。又、白川院おりゐさせ給ひて後、金葉集かさねて俊頼朝臣におほせて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁の親王の御なのりを書きたる。わろしとてなほされ、又奉れるにも、何事とかやありて、三度奏して後こそ納まりにけれ。かやうの例も、おのづからの事なり。をしなべて〔は〕、撰者のまゝにて侍るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌浦に降り立ちあさらせ給へば、誠に心ことなるべし。
この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りを撰ばせ給ひて、その道の聖たち判じけるに、やがて院も加はらせ給ながら、猶このなみには立ち及び難しと卑下せさせ給ひて、判の言葉をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へり。中々いと艶に侍りけり。上のその道を得給へれば、下もおのづから時を知る習にや、男も女も、この御世にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれ
P012
ど、官あさくてうち続き、四位ばかりにて失せにし人の子也。まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそ、いと有り難く侍りけれ。この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面起すばかり、よき歌つかうまつれ〔よ〕」とおほせらるゝに、面うち赤めて、涙ぐみて候ひけるけしき、限りなき好きの程も、あはれにぞ見えける。さてその御百首の歌、いづれもとり/゛\なる中に、
薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪の村消え
草の緑の濃き薄き色にて、去年のふる雪の遅く疾く消ける程を、おしはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、この度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月二十六日、竟宴といふ事、春日殿にて行なはせ給ふ。いみじき世のひゞきなり。かの延喜の
P013
昔おぼしよそへられて、院の御製、
いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡を又尋ねつゝ
摂政殿良経の大臣、
敷島の葉海にして拾ひし玉はみがかれにけり
次々、ずん流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何となく明暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を、院かぎりなくかなしき物に思ひ聞えさせ給へれば、二なくきよらを尽し、いつくしうもてかしづき奉り給事なのめならず。終に同じ四年十一月に、御位につけ奉り給ふ。もとの御門、ことしこそ〔は〕十六にならせ給へば、未だ遙かなるべき御さかりに、かゝるを、いとあかずあはれと思されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衛院をすゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひて、その夜になるまで、勅使を度々奉らせ給ひつゝ、内侍所・剣璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さてその御憤りの末にてこそ、保元の乱もひき出で給へりしを、
P014
この御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏し給はず。世にもいとあえなき事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて、いと胸痛く思されけり。其年の十二月に、太上天皇の尊号あり。新院と聞ゆれば、父の御門をば、今は本院と申す。なを、御政事はかはらず。今の御門は十四にぞなり給ふ。御諱守成と聞えしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕うまつられたりし資実の中納言に、この度も悠紀方の御屏風の歌めさる。長楽山、菅の根のながらの山の峯の松吹きくる風も万代の声かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新しく聞えなすこそ、老のひが事ならめ。この〔御〕世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり。建保二年、春日社に行幸ありしこそ、有り難き程いどみつくし、おもしろうも侍りけれ。さてその又の年、御百首の御歌よませ給ひけるに、去年の事思しいでて、内の御製、
P015
春日山こぞのやよひの花の香にそめし心は神ぞ知らん
御心ばへは、新院よりも少しかどめひて、あざやかにぞおはしましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いとやむごとなくものし給ふ。朝夕の御いとなみは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に、八雲などいふ物つくらせ給へるも、この御門の御事なり。摂政殿のひめ君まいり給ひて、いと花やかにめでたし。この御腹に、建保二年十月十日、一の皇子生まれ給へり。いよ/\物あひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王に成奉り給ひて、同じ二十六日、坊にゐ給ふ。未だ御五十日だにきこしめさぬに、いちはやき御もてなし、めづらかなり。心もとなく思されければなるべし。今一しほ、世の中めでたく、定まりはてぬるさまなめり。新院は、いでやと思さるらんかし。
かくて院の上は、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花紅葉の折々にふれて、よろづの遊びわざをのみ尽くしつゝ、御心ゆくさまにて過ごさせ給ふ。誠に万世もつきすまじき御世の栄へ、次々今よりいと頼もしげにぞ見えさせ給ふ。御碁うたせ給ふついでに、若き殿上人ども召し
P016
て、これかれ心のひき/\に、いどみ争はさせ給へば、あるは小弓・双六などいふ事まで、思ひ+に勝負をさうどきあへるも、いとおかしう御覧じて、様々の興ある賭物ども取う出させ給とて、なにがしの中将を御使ひにて、修明門院の御方へ、「何にても、男どもにたまはせぬべからん賭物」と申させ給ひたるに、とりあへず、小さき唐櫃の金物したるが、いと重らかなるを、参らせられたり。この御使ひの上人、何ならんと、いといぶかしくて、片端ほのあけて見るに銭なり。いと心得ずなりて、さと面うち赤みて、あさましと思へる気色しるきを、院御覧じおこして、「朝臣こそ、むげに口惜しくは有けれ。かばかりの事、知らぬやうやはある。いにしへより、殿上の賭弓といふことには、これをこそかけ物にはせしか。されば、今、かけ物と聞えたるに、これをしも出だされたるならむ、いにしへの事知り給へるこそ、いたきわざなれ」とほほゑみてのたまふに、「さはあしく思けり」と、心地騒ぎて思ゆべし。
大かた、この院の上は、よろづの事にいたり深く、御心も花やかに、物にくはしうぞおはしましける。夏の比、水無瀬殿の釣殿に出でさせ給ひて、氷水めして、
P017
水飯やうの物など、若き上達部・殿上人どもに賜はさせて、大御酒参るついでにも、「あはれ、いにしへの紫式部こそはいみじくはありけれ。かの源氏の物語にも、「近き川のあゆ、西川より奉れるいしぶしやうの物、御前に〔て〕調じて」と書けるなむ、すぐれてめでたきぞとよ。たゞ今さやうの料理仕〔う〕まつりてんや」などのたまふを、秦のなにがしと〔か〕いふ御随身、勾欄のもと近く候ひけるが、うけ給て、池のみぎはなる篠を少し敷きて、白き米を〔水に〕洗ひて奉れり。「拾はば消えなん」とにや。これもけしかるわざかな」とて、御衣ぬぎてかづけさせ給ふ。御かはらけ度々きこしめす。その道にも、いとはしたなく物し給ふ。何事もあいぎやうづき、めでたく見えさせ給ふ御ありさま、千年を経とも飽く世あるまじかめり。
また、清撰の御歌合とて、限りなくみがかせ給ひしも、水無瀬殿にての事なりしにや。当座の衆議判なれば、人々の心地、いとゞ置き所なかりけむかし。建保二年九月の比、すぐれたる限りぬき出で給ふめりしかば、いづれか愚ならん。中にもいみじかりしことは、第七番に、左、院の御歌、
P018
明石潟浦ぢ晴れゆく朝なぎに霧にこぎ入るあまのつり舟
とありしに、北面の中に、藤原秀能とて、年比もこの道に許りたるすき物なれば、召し加へらるゝ事常の事なれど、やむ事なき人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過ぎざりしに、この秀能九首まで召されて、しかも院の御かたてにまいれり。さてありつるあまのつり舟の御歌の右に、
ちぎりをきし山の木の葉の下紅葉そめし衣に秋風ぞ吹く
と詠めりしは、その身の上にとりて、長き世の面目、何かはあらん、とぞ聞侍りし。
昔の躬恒が、御階のもとに召されて、「弓はりとしもいふ事は」と奏して、御衣給しをこそ、いみじき事にはいひ伝ふめれ。又、貫之が家に、枇杷の大臣、魚袋の歌の返し、とぶらひにおはしたりしをも、道の高名とこそ、世継には書きて侍れ。近き頃は、西行法師ぞ北面の者にて、世にいみじき歌の聖なめりしが、今の代の秀能は、ほと/\古きにも立ちまさりてや侍らん。この度の御歌合、大かた、いづれとなくうち
P019
みだして、勝れたる限りを撰り出でさせ給ひしかば、各むら/\にぞ侍りける。吉水の僧正〔慈円〕と聞えし、又たぐひなき歌の聖にていましき。それだに四首ぞ入り給ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。この僧正、世にもいと重く、山の座主にて物し給事も年久しかりしその程に、やむごとなき高名数知らずおはせしかば、あがめられ給さまも、二なく物し給ひしかど、猶、飽かず思す事やありけん。院に奉られける長歌、
さてもいかにわしのみ山の月のかげ鶴の林に入りしより経にける年をかぞふれば二千年をも過ぎはてて後のいつゝの百とせになりにけるこそかなしけれあはれ御法の水のあはの消え行ころになりぬればそれに心を澄ましてぞわが山川にしづみゆく心あらそふ法の師はわれも+と青柳のいとところせくみだれきて花ももみぢも散りゆけば木ずゑ跡なきみ山辺の道にまよひて
P020
過ぎながらひとり心をとゞむるもかひもなぎさの志賀の浦跡垂れましし日吉のや神のめぐみをたのめども人のねがひをみつかはの流れもあさくなりぬべしみねの聖のすみかさえこけの下にぞむもれゆくうちはらふべき人もがなあなうの花の世の中や春の夢路はむなしくて秋の木ずゑをおもふより冬の雪をもたれかとふかくてや今はあと絶えむと思ふからにくれはとり怪しき夜のわが思ひ消えぬばかりを頼みきて猶さりともと花の香にしゐて心をつくばやましげきなげきのねをたづねしづむむかしの魂をとひ救ふこゝろはふかくしてつとめ行こそあはれなれ深山のかねをつく/゛\とわが君が世をおもふにもみねの松かぜ
P021
のどかにて千世に千とせをそふる程法のむしろの花のいろ野にも山にもにほいてぞ人をわたさむはしとしてしばし心をやすむべき遂にはいかゞあすか川あすより後やわが立ちし杣のたつきのひゞきよりみねのあさ霧晴れのきてくもらぬ空に立ち帰るべき
反歌
さりともとおもふ心ぞなを深き絶えで絶え行山川の水
定家の中将、おりふし御前に候)ひければ、これ返しせよとて、さし給はする、げに、いと疾く書きて、御覧ぜさせけり。
久かたの天地ともにかぎりなき天つ日つぎをちかひてし神もろともにまもれとて我たつ杣をいのりつゝむかしの人のしめてける峯の杉むら色かへずいく年々をへだつとも八重のしら雲
P022
ながめやる宮この春をとなりにて御法の花もおとろへずにほはん物と思ひをきし末葉の露もさだめなきかやが下葉にみだれつゝもとの心のそれならぬうきふししげき呉竹になく音をたつるうぐひすのふるすは雪にあらしつゝ跡絶えぬべき谷がくれこりつむなげき椎柴のしゐてむかしにかへされぬ葛のうら葉はうらむとも君は三笠の山たかみ雲井の空にまじりつゝ照日を世々に助けこし星の宿りをふりすててひとり出でにしわしのやまよにもまれなるあととめて深き流れにむすぶてふ法の清水のそこすみてにごれる世にもにごりなしぬまの葦間に影やどす秋の中半の月なればなを山の端をゆきめぐり空吹くかぜをあふぎてもむなしくなさぬ行すゑをみつの川なみ
P023
立ちかへり心のやみをはるくべき日吉の御かげのどかにて君をいのらんよろづよに千代をかさねて松が枝をつばさにならす鶴の子のゆづるよはひはわかの浦や今は玉もをかきつめてためしもなみにみがきをく我道までも絶えせずば言の葉ごとのいろ/\に後みむ人も恋ひざらめかも
反歌
君を祈る心深くば頼むらん絶えてはさらに山川の水
新院も、のどかにおはしますまゝに〔は〕、御歌をのみ詠ませ給へど、よろづの事、もて出でぬ御本性にて、人々など集めて、わざとあるさまには好ませ給はず。建保の比、うち/\百首御歌よみ給へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、いふかひなき児の詠めるとて、つかはして見せ給ひしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、
秋の色を送り迎へて雲の上になれにし月も物わすれすな
P024
とある所に、定家の君おどろきかしこまりて、裏書に、「あさましくはかられ奉りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思ふらめ古き涙も忘られぬ世を
と奏せられたり。院もえんありて御覧ずべし。げにいかゞ御心〔も〕動かずしもおはしまさむと、その世の事かたじけなくなむ。今も少し、世の中隔たれるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御有様なめれとぞ。
P025



校註 増鏡
P025
第二 新島守
たけき武士の起こりを尋ぬれば、いにしへ田村、利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折に従ひて、おほやけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば、柏原の御門とも申しけり。その御子に式部卿の親王と聞えしより五代の末に、平将軍貞盛といふ人、維衡・維時とて、二人の子をもたりけり。間近く栄へし西八条の清盛の大臣は、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一門亡びしかば、この頃は、僅にあるかなきかにぞ、さまよふめる。さてかの維時が名残は、ひたすらに民と成りて、平四郎時政といふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それ
P026
も維時には六代の末なるべし。
又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなり。二条院の御時、平治の乱に、伊豆の国蛭が小島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れに、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣、やう>栄花衰へんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、しかるべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散りはてて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、頼朝いよ>権をほどこして、さらに君の御後見を仕うまつる。相模の国鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごころの中に思ひき。みな人知り給へることなれば、いまさらに申すも中々なれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞ゆ。建久の初めつかた、都にのぼる。その勢ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊びものどもまゐる。遠江の国橋本の宿に著きたるに、例の遊女、多くえもいはず装束き
P027
てまゐれり。頼朝うちほほゑみて、
橋本の君になにをか渡すべき
といへば、梶原平三影時といふ武士、とりあへず、
ただ杣山のくれであらばや
いとあいだてなしや。馬鞍こんくくり物など運び出でてひけば、喜びさわぐ事かぎりなし。
その年の十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼たり。十二月の一日ごろ、よろこび申して、おなじき四日、やがて官をば返し奉る。この時ぞ、諸国の総追捕使といふ事承りて、地頭職に、我が家の兵どもをなし集めけり。此日本国の衰ふる初めは、これよりなるべし。さて東に帰りくだるころ、上下色々のぬさ多かりし中に、年頃も祈りなどし給ひし吉水僧正、かの長歌の座主、のたまひつかはしける。
あづまぢのかたに勿来の関の名は君を都に住めとなりけり
御返し、頼朝、
P028
みやこには君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ
その後も、又上りて、東大寺の供養に詣でたりき。〔かくて〕新院の御位のはじめつかた、正治元年正月十一日、東にて頭おろして、おなじき十三日、年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。
北の方は、さきに聞えつる北条四郎時政が女なり。その腹に男二人あり。太郎をば頼家といふ。弟をば実朝と聞ゆ。大将かくれて後、兄はやがてたち継ぎて、建仁元年六月二十二日従三位、おなじ日、将軍の宣旨を賜はる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、すこしおちゐぬ心ばへなどありて、やう>兵どもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守といひて、故大将のありし時より私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよ>身重く勢ひそふ事かぎりなく、うけばりたるさまなり。子〔二人〕あり。太郎は宗時、次郎は義時といへり。次郎は心もたけく魂まされるものにて、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君につき従ひて、思ひかまふる事などもありけり。督は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、
P029
年二十二にて頭おろす。世中残りおほく、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万といふにぞ、世をば譲りけれど、うけひく者なし。入道は、かの病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へ出で湯あびに越たりける程に、かしこの修善寺といふところにて、遂に討たれぬ。一万もやがて失はれけり。これは、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。
さて、今はひとへに、実朝、故大将の跡をうけつぎて、官・位とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。おなじ六年、権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。その年やがて内大臣になりても、猶大将もとのままなり。父にもやや立まさりていみじかりき。この大臣は、大かた、心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、武士のなびき従ふさまも父にも越えたり。いかなる時にかありけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも
とぞよみける。
P030
時政は建保三年にかくれにしかば、義時は跡をつぎけり。故左衛門督の子にて公暁といふ大徳あり。親の討たれにし事を、いかでか安き心あらん。いかならむ時にかとのみ思ひわたるに、この内大臣、又右大臣にあがりて、大饗など、めづらしく東にて行なふ。京より尊者をはじめ上達部・殿上人多くとぶらひいましけり。さて、鎌倉に移し奉れる八幡の御社に、神拝にまうづる、いといかめしきひびきなれば、国々の武士はさらにもいはず、都の人々も扈従し〔たり〕けり。たち騒ぎののしる者、見る人も多かる中に、かの大徳、うちまぎれて、女のまねをして、白き薄衣ひき折り、大臣の車より降るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうちおとしぬ。その程のどよみいみじさ、思ひやりぬべし。かくいふは、承久元年正月二十七日なり。そこらつどひ集まれる者ども、ただあきれたるよりほかの事なし。京にも聞しめしおどろく。世中火を消ちたるさまなり。扈従に西園寺の宰相中将実氏も下り給ひき。さならぬ人々も、泣く>袖をしぼりてぞ上りける。
いまだ子もなければ、たち継ぐべき人もなし。事しづまりなん程とて、故大臣の母
P031
北の方二位殿政子といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほす間もなく、しをれ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君だち一所下し聞えて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申しのぼせければ、あへなんと思すところに、九条左大臣殿の上は、この大臣の御女なり。その御腹の若君の、二つになり給ふを、下し聞えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんもおなじことと思して、定め給ひぬ。
その年の六月に、東に率て奉る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのうちの御有さまは、ただ形代などを祝ひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞ初めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後は、その御太刀あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
かくて世をなびかししたため行なふ事も、ほと>古きには越えたり。まめやかにめざましき事も多く成りゆくに、院の上、忍びて思したつ事などあるべし。近く
P032
仕うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面などいふも、みなこのかたにほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし。剣などを御覧じ知事さへ、いかで習はせ給ひたるにか、道の者にもややたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。
かやうのまぎれにて、承久も三年になりぬ。四月二十日、御門降りさせ給ふ。春宮四にならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃、みなこの御齢にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末ならんかし。おなじき二十三日、院号の定めありて、今降りさせ給へるを、新院と聞ゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をば本院とぞ聞えさする。この程は、家実の大臣〈 普賢寺殿の御子 〉関白にておはしつれど、御譲位の時、左大臣道家の大臣〈 光明峯寺殿 〉、摂政になり給ふ。かの東の若君の御父なり。
さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、やう>もれ聞えて、東ざまにも、その心づかひすべかんめり。あづまの代官にて伊賀判官光季といふ者あり。かつ>”かれを御勘事の由おほせらるれば、御方に参る兵どもおしよせたるに、逃がるべきやうなくて、腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ、院は思しめし
P033
ける。
東にも、いみじうあわて騒ぐ。「さるべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふ物から、「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にてかばねをさらさじ、おほやけと聞ゆとも、身づからし給ふ事ならねば、かつ我身の宿世をも見るばかり」と思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて、都にのぼす。泰時を前にすゑていふやう、「おのれをこの度都に参らする事は、思ふところ多し。本意のごとく清き死をすべし。人に後ろを見えなんには、親の顔、又見るべからず。今を限りとおもへ。いやしけれども、義時、君の御ために後ろめたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心をたけく思へ。おのれうち勝つものならば、二たびこの足柄・箱根山は越ゆべし」など、泣く>いひきかす。「まことにしかなり。又親の顔拝む事もいとあやうし」と思ひて、泰時も鎧の袖をしぼる。かたみに今や限りにあはれに心ぼそげなり。
かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただひとり、鞭をあげて馳せ
P034
きたり。父、胸うちさわぎて、「いかに」と問ふに、「いくさのあるべきやう、大かたのおきてなどをば、仰のごとく
その心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先だてて、御旗をあげられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、その時の進退、いかが侍るべからん。この一事をたづね申さんとて、ひとり馳せ侍りき」といふ。義時、とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。
都にも思しまうけつる事なれば、武士ども召しつどへ、宇治・勢多の橋もひかせて、敵を防ぐべき用意、心ことなり。公経の大将ひとりのみなむ、御孫のこともさる事にて、北の方、一条の中納言能保といふ人の女なり。其母北の方は、故
P035
大将のはらからなれば、一かたならず東を重くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、あぶながり給ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相中将範茂など、つぎ>あまた聞ゆれど、さのみはしるしがたし。軍に交じりたつ人々、このほかの上達部にも殿上人にも、あまたありき。
御修法ども数知らず行なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時こそ頼もしきわざならめ。おの>心を致して仕うまつる。御身づからもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心のうちに、いかめしき願ども立てさせ給ふ。夜すこし深けしづまりて、御社すごく、燈篭の光かすかなる程に、をさなき童の臥したりけるが、にはかにおびえあがりて、院の御前にただまゐりに走りまゐりて、託宣しけり。「かたじけなくもかく渡りおはしまして、愁へ給へば、聞き過ごしがたくは侍れど、一とせの御輿振りの時、情けなく防がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨みて、陣のほとりにふり捨て侍りしかば、空しく馬牛のひづめにかかりし事は、いまに怨めしく思ひ給ふるにより、
P036
この度の御方人は、え仕うまつり侍るまじ。七社の神殿を、金銀にみがきなさんと承るも、もはら受け侍らぬなり」とののしりて、息も絶えぬるさまに臥しぬ。きこしめす御心地、物に似ずあさましう思さるるに、ただ御涙のみぞ出でくる。過にしかた悔しう取り返さまほし。さま>”おこたりかしこまり申させ給ふ。山の御輿防き奉りけん事、かならずしも身づから思しよるにもあらざりけめど、「責め一人に」といふらん事にやと、あぢきなし。中院は、あかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそ物し給はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒ぎにも、ことにまじらせ給はざめり。新院は、おなじ御心にて、よろづ軍の事などもおきておほせられたり。
いつの年よりも五月雨晴れ間なくて、富士川・天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬もうち渡しがたければ、攻め上る武者どもも、あやしくなやめり。かかれども、遂に都に近づく由、聞ゆれば、君の御武者も出でたつ。其勢ひ、六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かちつかはす。世の中響きののしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは、深き山へ逃げこもり、遠き世界に落ちくだり、すべて
P037
安げなく騒ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱れて思しまどふ。かねては猛く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわただしく、色を失ひたるさまども、頼もしげなし。六月十日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、遂にみかたの軍やぶれぬ。荒磯に高潮などのさし来るやうにて、泰時と時房と、乱れ入りぬれば、いはんかたなくあきれて、上下ただ物にぞあたりまどふ。
東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、先鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるにて、六月六日入らせ給ふ。今日を限りの御ありき、あさましうあはれなり。「物にもがなや」と思さるるもかひなし。その日やがて御髪おろす。御年四十に一二やあまらせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して、御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて、おなじき十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、
P038
この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報ひにかとうらめし。
新院も佐渡国に移らせ給ふ。まことや七月九日、御門をもおろし奉りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降り給へるためしも、これや初めなるらん。もろこしにぞ、四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、唐の書読みし人のいひし心地する。それもかやうの乱れやありけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残るなく、この事にふれにし類は、重く軽く罪にあたるさま、いみじげなり。
中の院は初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多といふ所にわたらせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや、若宮いでき給へり。承明門院の御兄に、通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがて、かの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈
P039
一人、召次などばかりぞ、御供仕りける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし風吹き荒れふぶきして、来しかた行くさきも見えず、いと堪へがたきに、御袖もいたく氷りて、わりなき事多かるに、
うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬ我涙かな
せめて近き程にと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。
さても、このたび世のありさま、げにいとうたて口惜しきわざなり。あるは、父の王を失ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひためれ。まして、世下りて後、唐土にも日の本にも、国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それもみな、一ふし二ふしのよせはありけむ。もしは、すぢ異なる大臣、さらでも、おほやけともなるべききざみの、すこしの違ひめに、世に隔たりて、その怨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて、君の亡び給へるためし、この国には、いとあまたも聞えざめり。されば、承平の将門、天慶
P040
の純友、康和の義親、いづれもみな猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院〈 後白河 〉の、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川のおなじ流れと申しながら、猶、時の御門をまもり給はする事は、強きなめりとぞ、古き人々も聞えし。又、信頼の衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、遂に、空しきかばねをぞ、道のほとりに捨てられける。かかれば、ふりにし事を思ふにも、猶さりとも、いかでか上皇今上あまたおはします王城の、いたづらに亡ぶるやうやはあらんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷ひの愚かなる前には、猶いとあやしかりし。
四にて位につき給ひて、十五年おはしましき。降り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶天の下は同じ事なりしかば、すべて卅八年が程、この国のあるじとして、万機の政を御心ひとつにをさめ、百の官を従へ給へりしその程、吹風の草木をなびかすよりも優れる御ありさまにて、遠きをあはれび、近きを撫で給ふ御めぐみ、雨のあしよりもしげければ、津の国のこやのひま
P041
なきまつり事をきこしめすにも、難波の葦の乱れざらん事をおぼしき。藐姑射の山の峯の松も、やう>枝をつらねて、千世に八千世をかさね、霞の洞の御すまひ、いく春をへても、空行く月日の限り知らずのどけくおはしましぬべかりける世を、あり>て、よしなき一ふしに、今はかく花の都をさへたち別れ、おのがちり>”にさすらへ、磯のとま屋に軒を並べて、おのづからこととふ者とては、浦に釣するあま小舟、塩焼く煙のなびくかたをも、我ふる里のしるべかとばかり、ながめ過ぐさせ給ふ御住居どもは、それまでと月日を限りたらんだに、明日知らぬ世のうしろめたさに、いと心細かるべし。まいて、いつをはてとか、めぐりあふべき限りだになく、雲の波煙の波のいくへとも知らぬさかひに、代をつくし給ふべき御さまども、口惜しともおろか也。このおはします所は、人離れ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山かげにかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、気色ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿おぼし
P042
出づるも夢のやうになん。はる>”と見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹き来るをきこしめして、
我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け
おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり
年もかへりぬ。所々浦々、あはれなる事をのみ思しなげく。佐渡院、明くれ御行なひをのみし給ひつつ、猶、さりともとおぼさる。隠岐には、浦よりをちのはる>”と霞みわたれる空をながめ入りて、過ぎにしかた、かきつくし思ほし出づるに、行方なき御涙のみぞとどまらぬ。
うらやましながき日影の春にあひて潮汲むあまも袖やほすらん
夏になりて、かやぶきの軒端に、五月雨のしづくいと所せきも、御覧じなれぬ御心地に、さまかはりてめづらしくおぼさる。
あやめ吹かやが軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露
初秋風のたちて、世の中いとど物悲しく露けさまさるに、いはんかたなくおぼしみだる。
P043
ふる里を別れぢにおふるくずの葉の秋はくれども帰る世もなし
たとしへなくながめしをれさせ給へる夕暮れに、沖のかたに、いと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎくるを、あまの釣舟かと御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。すみぞめの御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒に思ひやり聞えさせ給ひて、七条院より参れる御文、ひきあけさせ給ふより、いといみじく、御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましくも、かくて月日経にける事。今日明日とも知らぬ命の中に、いま一度、いかで見奉りてしがな。かくながらは、死出の山路も越えやるべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔におしあてて、
たらちねの消やらで待つ露の身を風よりさきにいかでとはまし
八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえんとたえぬ玉のを
初雁のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息のみつねに奉るを御覧ずるにつけても、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、おほかた、歌の道につけて、むつまじく召し使ひし人
P044
なれば、夜ひる恋ひ聞ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨に参りけんも、かくやとおぼゆるまで、巻きかさねて書きつらねまゐらせたる、「和歌所の昔のおもかげ、かず>忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍る事の恨めしき由など、えもいはずあはれ多くて、
ねざめして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯浪の暁のこゑ
とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたくしぼらせ給ふ。
浪間なき隠岐の小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて
木枯の隠岐のそま山吹しをり荒くしをれて物おもふ頃
をり>詠ませ給へる御歌どもを書き集めて、修明門院へ奉らせ給ふ。其中に、
水無瀬山我がふる里は荒れぬらむまがきは野らと人もかよはで
かざし折る人もあらばや事とはん隠岐の深山に杉は見ゆれど
限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて
かやうのたぐひ、すべて多く聞ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いま又思ひ
P045
出でば、ついで求めてとて。



校註 増鏡

P046
第三 藤衣
其の頃、いと数まへられ給はぬ古宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子也。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目まれなれば、年を経て荒れまさりつつ、草深く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細くながめおはするに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる物あまた参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各用意して候はれよ」といふと見てければ、いと怪しう
P047
覚えて、宮に語り聞えけれど、「いかでかさ程の事あらん」と、思しもよらで、遂に御髪をさへおろし給ひて、此の世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、此の乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりのおきてにて、彼の入道の親王の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞ゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひおはしける宮なり。
孫王にて位に即かせ給へる例、光仁天皇より後は絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし。其の十二月一日に御即位、明くる年貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母、基家の中納言の女、北白河院と申しき。家実の大臣、又摂政になり返らせ給ひて、万おきて宣ふも、様々に引き返したる世なりかし。又の年五月の頃、法皇かくれさせ給ひぬれば、天下皆黒み渡りぬ。上
P048
も御服奉る。きびはなる御程に、いといみじうあはれなる御事なめり。
前の御門は、四にて廃せられ給ひて、尊号などの沙汰だに無し。御母后東一条院も、山里の御住居にて、いと心細くあはれなる世を、つきせず思し歎く。此の宮は故摂政殿後京極良経の姫君にて物し給へば、歌の道にもいと賢う渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給はず。御琴なども、限りなき音を引きとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、あまりなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限りなき御志の中に、飽かずなん思ひ聞えさせ給ひける。彼の遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思しくだけつつ、いよいよ沈み臥しておはしますに、古く仕うまつりける女房の、里に篭り居たりけるもとより、あはれなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、
思ひ出づるころもはかなし我も人も見しにはあらずたどらるる世に
又、御手習ひのついでに、からうじて洩れけるにや、
消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契を
P049
さこそは、げに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いと忝なし。
はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なく変はりて、寛喜元年になりぬ。此の程は光明峰寺殿道家又関白にておはす。此の御娘女御に参り給ふ。世の中めでたく花やかなり。これより先に、三条の太政大臣公房の姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしを、おしのけて、前の殿〔家実〕の御女、未だ幼くておはする、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条の后の宮、浄土寺とかやに引き篭りて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿摂〓変はり給ひて、今の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返り給ひぬれば、又此の姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。珍しきが参り給へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土には、三千人なども候ひ給ひけるとこそ、伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後には各院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひ
P050
し殿の女御は、鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよくおはするに、引きこめ難しとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣に譲り聞え給ひて、我が御身は大殿とて、后の宮の御親なれば、思ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、例なき程なり。東の将軍、山の座主、三井寺の長吏、山階寺の別当、仁和寺の御室、皆此の殿の君達にておはすれば、すべて、天下はさながらまじる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所などに、常はうちとけ候ひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世の政事など聞え給ふ。北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。
誠や、其の年十一月十一日、阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪おろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度、都をも御覧ぜ
P051
ずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こしめし歎く。承明門院は、様々のうき事を見尽して、猶ながらふる命のうとましきに、又かく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、いはん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜しう思しこがるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召使ひける御調度、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人の参らせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息などを、一つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心地し給ふ。家隆の二位の女、小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人よりことに思ひ沈みて、御服など黒う染めけり。
うしと見しありし別は藤衣やがて着るべき門出なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家の中納言承りて、撰集の沙汰ありつるを、此の程御門降りさせ給ふべき由聞ゆればにや、いととく十月二日奏せられける。一年の内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞ゆ。「元久に新古今出で来て後、程なく世の中も引きかへぬるに、又新
P052
の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。
さて同じき四日、降り居させ給ふ。御悩み重きによりて也けり。去年の二月、后の宮の御腹に、一の御子出で来給へりしかば、やがて太子に立たせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、彼の承久の廃帝の、生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。上は降りさせ給ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩み猶怠らず。大方、世も静かならず。此の三年ばかりは、天変しきり地震ふりなどして、さとししげく、御慎みおもきやうなれば、いかがおはしまさむと、御心ども騒ぐべし。今上は二歳にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善の主に定まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前の世ゆかしき御有様なり。昔、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬ例なり。閑院殿の清涼殿にて、まづ御袴奉る。十二月五日、御即位はことなく果てぬれば、めでたくて年も変はりぬ。
中宮も御物の怪に悩ませ給ひて、常はあつしうおはしますを、院はいとど晴れ間なく
P053
思し歎く。卯月の頃、年号改まる。天福といふなるべし。其の同じ頃、中宮も位去り給ひて、藻璧門院とぞ聞ゆなる。今年も又例ならず悩ませ給へば、めでたき御事の数そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭り祓へ、何くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程近くなりては、天の下やすき空なく、山々寺々社々、御祈りひびき騒げども、御物のけこはくて、いみじうあさまし。遂に、九月十八日に、かくれさせ給ひぬ。其の程のいみじさ、推し量りぬべし。今年二十五にならせ給ふ。若く清らに美しげにて、盛りなる花の御姿、時の間の露と消え果て給ひぬる、いはん方なし。殿・上思し惑ふ様、悲しともいへば更なり。院に候ふ民部卿の典侍と聞ゆるは、定家の中納言の娘なり。此の宮の御方にも、け近う仕うまつる人なりけり。限りなく思ひ沈みて、頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる御返事に、
悲しさはうき世のとがとそむけども只恋しさのなぐさめぞなき
当代の御母后にておはしつれば、天下皆一つ墨染めにやつれぬ。此の御歎き
P054
に、いよいよ院は沈みまさらせ給ひて、うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて、月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残りなく勤めののしる。医師・陰陽師、祭り・祓へなど、天の下騒ぎ満ちたり。又年号変はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝、十七になり給へるも、五月二十日に失せ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐にも、うち続きあはれなる事どもを、聞こしめし歎くべし。佐渡には、まして心うくあさましと思さる。此の御さしつぎの宮、猶おはしますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。
かくいひしろふ程に、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにておはしますべき事の、かくあへなき御有様、口惜しなど聞ゆるもなのめなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美しうととのほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御程に、御才なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事につけても、いとあたらしうおはしませば、世の人の惜しみ聞ゆる様限り無し。只くれ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御果て
P055
だに過ぎず、又とり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人思ふべし。御契りの程のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。只ここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙にうき沈みてぞ過し給ひける。
うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変はりて、嘉禎元年といふ。誠や、三月の末つかたより、〔洞院の〕摂政殿〔教実〕重くわづらひ給ふ。故院の御位の程より、大殿の、御譲りにて、関白と聞えしが、御門幼くおはしませば、此の頃は摂政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなく失せ給ひぬれば、大殿の御歎きたとへん方無し。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞え給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへり成り給ひぬ。かくて三度政事ををさめ給ひぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、彼の殿と一つにて、世は弥御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会行はる。
P056
様々めでたくもあはれにも色々なる都の事どもを、ほのかに伝へ聞こしめして、隠岐にはあさましの年のつもりやと、御齢に添へても、尽きせぬ御歎きぐさのみしげりそふ慰めには、思しなれにし事とて、敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へも、たよりにつけつつ題を遣はし、歌を召せば、あはれに忘れがたく恋ひ聞ゆる昔の人々、我も我もと奉れるを、つれづれに思さるるあまりに、自ら判じて御覧ぜられにけり。家隆の二位も、今まで生ける思ひ出でに、これをだにとあはれに忝なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集めて参らせける。昔の秀能は、ありし乱れの後、頭おろして深く篭り居たり。如願とぞいひける。それも此の度の御歌合に召せば、今更に、其のかみの事、さこそは思ひ出づらめ。例のかずかずはいかでか。只片端をだにとて、左、御製、
人心うつり果てぬる花の色に昔ながらの山の名もうし
右、家隆の二位、
なぞもかく思ひそめけん桜花山とし高く成りはつるまで
P057
秀能、
わたの原八十島かけてしるべせよ遙かに通ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製、
軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆、
さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心地して
法皇御自ら判の言葉を書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏の御勤めなどに、まぎらはしてぞおはします。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上に涙ばかりぞ面がはりせぬ。
故郷は入りぬる磯の草よ只夕潮満ちて見らく少なき
此の浦に住ませ給ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十にてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御志深かりしかど、遂に
P058
空しくてやみ給ひにし事、いと忝なく、あはれに情けなき世も、今更心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人少なに、心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば、能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。彼の法花堂には、修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はのきはまで持たせ給ひける桐の御数珠なども、かしこに未だ侍るこそ、あはれに忝なく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなむ。



校註 増鏡

P059
第四 三神山
さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいときやうざくに、御かたちもいとうるはしく、けだかくやむごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞えけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕うまつる人もなく、心細げにて、何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若くて失せにし人の御女なり。それさへかくれ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、おはしける。
P060
二にて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶此の世の中におはすと思されしまでは、おのづからあひ見奉るやうもやなど、人知れず幼き御心にかかりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、かくれさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思しくんじつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しう悲しと見奉り給ふ。
はかなく明け暮れて、仁治二年にもなりにけり。御門は今年は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱秀仁と聞ゆ。其の年の十二月に、洞院の故摂政殿教実の姫君、九に成り給ふを、祖父の大殿、御伯父の殿原などゐ立ちて、いとよそほしくあらまほしき様にひびきて、女御参り給ふ。父の殿一人こそ物し給はねど、大方の、儀式万飽かぬことなくめでたし。上もきびはなる御程に、女御もまだかく小さうおはすれば、雛遊びのやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。
土御門殿の宮は二十にもあまり給ひぬれど、御冠の、沙汰も無し。城興寺の宮僧正真性と聞ゆる、御弟子にと語らひ申しければ、さやうにもと思して、女院
にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌め聞えさせ給ふ。其の冬の頃、宮いたう忍びて、石清水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に、「椿葉の影二度改まる」と、いとあざやかにけだかき声にて、うち誦じ給ふと聞きて、御覧じあげたれば、明けがたの空澄み渡れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかに見えつる御夢ならんと怪しく思さるれど、人にも宣はず。とまれかくまれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。
年もかへりぬ。春の初めは、おしなべて、程々につけたる家々の身の祝など、心行ほこらしげなるに、正月の五日より、内の上例ならぬ御事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思しあへるに、九日の暁、かくれさせ給ひぬとて、ののしりあへる、いとあさましともいふばかり無し。皆人あきれまどひて、中々涙だに出でこず。女御も未だ童遊びの御様にて、なに心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめり
P062
くんじてゐ給へる、いとをさなげにらうたし。大殿の御心の中、思ひやるべし。御兄〈 左大臣忠家 〉の若君も殿上し給へる。只御門の同じ御程にて、騒がしきまでの御遊びのみにて明かし暮らさせ給ひけるに、かいひそみて群がり居つつ、鼻うちかみ、うち泣く人よりほかは無し。かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにも、彼の遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし、御歎きどものつもりにやとぞ、世の人もささめきける。御悩みの始めも、なべての筋にはあらず、あまりいはけたる御遊びより、損はれ給ひにけるとぞ。未だ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中いかに成りゆかんずるにかと、たどりあへる様なり。
さてしもやはにて、東へぞ告げやりける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞ゆ。御後見は、承久に上りたりし泰時の朝臣なり。時房の朝臣と一所にて、小弓射させ酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、「京よりの走り馬」といへば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席よりやがて神事始めて、若宮の社にて、くじをぞとり
P063
ける。
其の程、都には、いとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞えければ、修明門院にも、御心時めきして、内々其の御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使、都に入る由聞ゆる日は、両女院より白河に人を立てて、いづ方へか参ると、見せられけるぞことわりに、げに今見ゆべき事なれども、物の心もとなきは、さおぼゆるわざぞかしと、例の口すげみてほほゑむ。
日ぐらし待たれて、城介義景といふ者、三条河原にうち出でて、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、彼の院より立てられたる青侍の、いと怪しげなるにしも問ひければ、聞く心地、うつつとも覚えず。しかじかと申すままに、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強くかため、扉もさびつき柱根くちて、開かざりけるを、郎等どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、庭には草深く、青き苔のみむして、松風より外は、こたふるものなく、人の通へる跡も無し。故通宗宰相中将の御弟を子にし給へりし定通の大臣ばかりぞ、何となく
P064
おのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子直衣にて候ひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は、切戸の脇にかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と、申し出でぬ。院の中の人々、上下夢の心地して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。
世の人の心地、皆驚きあわてて、おし返しこなたに参り集ふ馬車の響き騒ぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思しまさるべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに、左大臣良実参り給ふ。理髪、頭弁定嗣仕うまつりけり。御諱邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉万里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式、いとめづらし。
其の後こそ、閑院殿には追号の定め、御わざの事など沙汰ありけれ。二十五日、東山の泉湧寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺に、御庄など寄せて、今に御菩提を祈り奉るも、前の世の故ありけるにや。此の御門、未だ物などはかばかしく宣はぬ程の御齢なりける時、誰とかや、「前の世はいかなる人にておはしましけん」と、只何となく聞えたりけるに、
P065
彼の泉湧寺の開山の聖の名をぞ、たしかに仰せられたりける。又、人の夢にも、此の御門かくれさせ給ひて後、彼の上人、「我すみやかに成仏すべかりしを、由なき妄念を起こして、今一度人界の生をうけて、帝王の位に至りて、かへりて我が寺を助けんと思ひしに、はたしてかくなん」とぞ見えける。誠に、其の余執の通りけるしるしにや、御庄どもも寄りけむとぞ覚え侍る。
さて仁治三年三月十八日〔過ぎて〕御即位、万あるべき限りめでたくて過ぎもて行く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣兼経、摂政にていませしかば、其のままに、今の御代の始めも関白と聞えつれど、三月二十五日、左の大臣〈 良実、二条殿の御家の始めなり 〉に渡りぬ。此の殿も、光明峰寺殿の御二郎君なり。神無月になりぬれば、御禊とて世の中ひしめきたつも、思ひよりし事かはとめでたし。大嘗会の悠紀方の御屏風、三神山、菅宰相為長仕まつられける。
いにしへに名をのみ聞きて求めけん三神の山はこれぞ其の山
主基方、風俗の歌、経光の中納言に召されたり。
末遠き千代の影こそ久しけれまだ二葉なる岩崎の松
P066
当代かくめでたくおはしませば、通宗の宰相も左大臣従一位をおくられ給ふ。御女も后の位をおくり申されし、いとめでたしや。誠や、此の頃、右大臣と聞ゆるは、実氏の大臣よ。其の御女、十八に成り給ふを、女御に立て奉り給ふ。六月三日、入内あり。儀式有様、二なく清らを尽くされたり。母北の方は、四条の大納言隆衡の女なり。女御の君、いとささやかに、愛敬づきてめでたく物し給へば、御覚えいとかひがひしく、万うちあひ、思ふ様なる世の気色、飽かぬ事無し。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。其の程のめでたさ、いへば更なり。源大納言の家に、無品親王とて怪しう心細げなりし程には、たはぶれにも思ひより聞え給はざりけんと、めでたきにつけても、人の口やすからず、さはとかく聞ゆべし。



校註 増鏡

P067
第五 内野の雪〔おほうち山とも〕
今后の御父は、先にも聞えつる右大臣実氏の大臣、其の父、故公経の太政大臣、其のかみ夢見給へる事ありて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更にうち返しくづして、艶なる園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来は誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしう
P068
あらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、さし歩みておはしたりき。其の簔笠は宝蔵にこめて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院といふは愛染王の座さまさぬ秘法とり行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にて侍るめり。又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木ども、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひけり。
山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと
彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継もいひためれど、これは猶山の気色さへ面白く、都はなれて眺望そひたれば、いはん方なくめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心のままに、飽かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世の
P069
おもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。
京には、様々めでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には、御悩と聞えし、程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみ、もしやなど思しよる事どもありしも、空しう隔たりのみ果てぬる世を、いと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく、御悩など重るやうにて、失せ給ひけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いと哀なる世の中なるべし。
 かくて年変はりぬれば、寛元元年と聞ゆ。五月二十六日より、最勝講始めて行はる。関白を始め上達部、殿上人残りなく参り給ふ。左右大将 忠家実基 の車、陣に立つるとて、争ひののしりて、いみじう恐ろし。右は上首、左は下臈にておはしければ、御前ども、かたみにひしめきて、あさましかりけり。されども相対へて立てて後ぞ、しづまりにける。又の日は、久我の前内大臣通光鳥羽の御家にて、八講し給ふとて、上達部多くかしこに集ひ給ふ。大臣は更にもいはず。堀川の大納言、具実 御子の通忠の大納言、土御門の大納言、顕定 通成の三位の中将、通行の宰相の中将
P070
など、すべて一門の人々、〓榔毛にておはして、多く高欄につき給ふ。ほとほと、内の御八講にも劣らず見えたり。殿上人は、まして数しらず。雅通の大臣の書きおき給へるものに、「公務の日なりとも、暇を申して、この八講にあふべし」とかや侍るなるに、誠に、かかるおほやけ事の折ふしも、猶さし合せておはし集ふ。いとやむごとなきわざなめり。猶末の代には、いかがあらんといぶかし。二十八日は、内の最勝講五巻の日にて、又、人々数を尽して参り給ふ。二十九日には、法性寺の浄光明院にて、普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の荘厳のめでたさ限りなし。誠の浄土思ひやらるる様なり。ここもかしこも、この程は、尊き事のみ多く、耳ぞ多くほしかりける。
 誠や、去年より、中宮は、いつしかただならずおはします。六月になりて、その程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日頃の御祈りにうちそへ、世の中ゆすり騒ぐ。六月より、七仏薬師、五壇の御修法など始まる。中壇は、桜井の宮 後鳥羽院の御子 勤めさせ給ふ。今出川の大臣におはしませば、御家の殿ばら絶えず候ひ給ふ。十日の曙より、その御気色あれば、殿の内立ち騒ぐ。白き
P071
御よそひに改めて、母屋に移らせ給ふ。天の下ののしり立ちて、馬車走りちがふ様、いとこちたし。内よりも御使ひなまし。寮の御馬にて、雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々の気色、いとわりなし。后の宮、いと苦しげにし給ひて、日たけゆくに、色々の御物の怪ども名のりいでて、いみじうかしがまし。大臣、北の方、いかさまにと御心惑ひて、思し歎く様、あはれに悲し。かやうのきざみは、高きも下れるも、おろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、いみじう思さるべし。内の御乳母大納言の二位殿おとなおとなしき内侍のすけなど、さるべき限り参り給へり。今日も猶、心もとなくて暮れぬれば、いと恐ろしう思す。伊勢のみてぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使、四位五位数を尽して鞭をあぐる様、いはずともおしはかるべし。大臣、とりわき、春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
 内には、更衣腹に、若宮二所おはしませど、この事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ、平らかにおはしますとも、もし女宮ならばと、まがまがしき
P072
あらましは、かねて思ふだに、胸つぶれて口惜し。かつは、我が御身の宿世、見ゆべききはぞかしと思して、大臣も、いみじう念じ給ふに、未の下り、既にことなりぬ。まづ、何にかと、心騒ぐに、宮の御兄公相の大納言、「皇子御誕生ぞや」と、いと高らかに宣ふを、聞く人々の心地、夜の明けたらんやうなり。父大臣「誠か」と宣ふままに、よろこびの御涙ぞおちぬる。哀なる御気色と、見奉る人も、こといみしあへず。公相、公基、実雄、大納言三人、権の大夫実藤、大宮の中納言公持、皆御ゆかりの殿ばら、上の衣にて候ひ給ふ。御修法ども、やがて結願すべしとて、僧ども法師ばらまで、したり顔に、汗おしのごひつつ、いそがしげにありくさへぞめでたき。月次の御神事なる上、今日、日ついで心やましき事とかやにて、わざと奏し給はねど、御験者桜井の宮の僧正 覚仁法親王 をはじめ奉りて、次々、皆、禄給ふ。法親王には、宮の御衣・大夫とりて奉り給ふ。宇治の前の僧には、公基の大納権、房意法印には、権の大夫公持
P073
かづけ給ふ。御馬は、各本坊に送られけり。又の日、月次の祭果てて、御はかし参る。勅使隆良なりき。
 十二日、三夜の儀式、本宮の御沙汰にて、いとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち、五位十人、六位十人ならびたつ。御ふみの博士光兼の朝臣、右衛門の権の佐資定、大外記師光など、寝殿の南おもての庭に立ちて、孝経の天子の章をぞよむ。上達部簀子に候ひ給ふ。朝の御湯果てて皆まかでて後、又、夕の御湯殿の儀式、さきのままにて、果てぬる後、寝殿の東南の間に、白き袖口どもおし出ださる。しろゑの五尺の屏風たてわたして、上達部よりすべて、響どもすゑわたす。公卿の座に、人々二行につき余る程なり。右大将実基、大夫公相、公基、実雄、以上大納言。中納言に、左衛門の督顕親、権の大夫実藤、公持、侍従の宰相資季、別当公光、左大弁の宰相経光、新宰相定嗣、右兵衛の督有資、新宰相の中将通行などつきたり。その座の末に、紫べりの畳に、殿上人中将実直朝臣を始めて、数しらず参れり。御前のものども、殿上の四位はこぶ。児御子の御衣の案二脚、はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫公相、朗詠、「嘉辰令月」
P074
と宣へば、有資声くはへらる。又、「昭王」とおし重ねて出さる。御声々宿徳に、あらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。
 十四日に、五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり。実基の大将殿 徳大寺 拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位の中納言良教、篳篥兼教朝臣、琵琶大夫公相、箏の琴権の大夫実藤、和琴有資、末の拍手も同じ人なりしにや、安名尊、鳥破、席田、伊勢海、万歳楽、三台急、例の事なり。かずかずめでたし。
 十六日、七夜の御産養、内よりの御沙汰なれば、今少し、儀式ことにていかめし。関白殿、右の大臣、右大将、具実 大納言定雅、公相、公基、実雄。中納言には、例の人々、顕親、実藤、公持、資季、公光、経光、定嗣、三位の中将、通成 殿上人頭中将継師より始めて、残るは少なし。勅使蔵人の侍従宗基、目録もちて参れり。大夫対面し給ひて、白き御衣かづけ給ふ。本宮のものどもにも、内より禄給ふ。内膳司参りて、うるはしき作法にて、南殿より御膳参る様、日頃のには似ず、けだかうめでたし。
P075
その後、御遊び始まる。人々の所作、さのみは珍しげなくてとどめつ。
 九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年頃、思しむすぼほれつる女院の御心の中、名残なく胸あきて、めでたく思さるる事限りなし。閑院殿修理せらるる程とて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとどしげうさへ見奉らせ給ふに、御心ゆく事多く、げにいみじき老の御栄えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞ゆ。上の同じ御腹におはすれば、万定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定め侍るままに、陣より、上達部、皆ひきつれて、承明門院へ参る。大臣は御簾の内にて、女房の事どもなど、忍びやかにおきて宣ひけり。
その夜、また、兵衛の内侍の御腹の若宮 宗尊親王の御事なり 御五十日の儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子程こそおはせねど、これも、御門、わたくしものに、いといとほしう
P076
思す事なれば、御気色にしたがひて、上達部、殿上人、いみじう参り集ふ。関白殿参り給ひて、くくめ奉り給ふ。陪膳は通成の三位中将、役送は家定朝臣仕うまつりける。人々の勧盃響などはなし。建久に、土御門院の御五十日きこしめしける例とぞ。
 かくて中宮の若宮は、その二十八日に親王の宣旨あり。さて七月二十八日に、中宮も、今の宮も、内に参り給ふ。例の事なれば、かなたこなたの供奉、上達部、殿上人、数を尽して、古き例も、いと稀なる程にぞ聞えける。宮は御輿、御子は青糸毛の御車、近衛の大将、検非違使の別当をはじめて、ゆゆしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。後七月二日、内にて皇子の御五十日きこしめす。内蔵寮より事ども調じて参る。御膳の物、屯食、折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりて、上こなたに渡らせ給ふ。御供に関白殿、堀川の大納言、具実 大夫、公相 左大将、忠家 関白の御子の三位の中将参り給ふ。上くくめ奉らせ給ふ様、いといとめでたし。同じ事のやうなれば、こまかには書かず。
かくて八月十日、すがやかに太子に立ち給ひぬ 後の深草院の御事なり 大臣御心おちゐて、
P077
すずしくめでたう思す、ことわりなり。「大方かのいみじかりし世のひびきに、女御子にておはせましかば、いかにしほしほと、口惜しからまし。いときらきらしうて、さし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまれて、かたじけなう覚え給ふ」とぞ、年たくるまで、常は、大臣人に宣ひける。中頃はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりは、ことの外に、世にも重く、やむごとなう物し給ひつるに、この后の宮参り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ栄えまさり給ふ。行末おしはかられて、いとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かかる御末ども見給ふも、さこそは御心ゆくらめと、おしはかるもしるく、その年の十月七日かとよ、都を立ちて、熊野にまうで給ふ。作法のゆゆしさ、昔の古き御代の御幸どもにも、やや立ち勝る程にぞ侍りし。御子孫ひき具し給ふ。大納言に実雄、御子 公相、御孫公基、前藤大納言とありしは、為家の事にや。坊門前の大納言も、追従に、京出は〓従せられたり。大宮の中納言、公持 左の宰相の中将、実任 右兵衛の督、有資 殿上人は三十余人侍りけり。いといみじかりしことどもなり。 かくて、同じき十一月十一日は、土御門の院の御十三年とて、おほやけより、
P078
御法事行はるるもいとめでたし。金原にて御八講あるべければ、承明門院も、かねてより渡らせ給ふ。上達部、殿上人参り集ふ様こよなし。
 十二月一日は、石清水の社の行幸あり。当代には初めたる度なれば、万清らを尽さる。文治建久の例をまねばる。関白殿御馬にて仕うまつり給ふ。滝口十二人、馬ぞへに具し給ふ。色々の綾錦、目も輝くばかり立ち重ねたり。左右の大将 忠家実基 の番長、又心も詞も及ばず、いどみ尽したり。左大将のは馬にて前行、右大将のは張綱にて、移し馬をひかせけるとぞ。左大将は、紅梅の二重織物の半臂下がさね、萌黄の織物の上の袴、右大将は、うら山吹の半臂下がさね、左衛門の督は、梅がさねのうき織物の半臂下がさね、浮紋の上の袴、殿上人は、花山院の中将通雅の君ばかりぞ、萌黄の上の袴、うら山吹の半臂下がさね著給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は、例の上達部もたたれけり。笛二位の中納言、拍子左衛門の督など勤められけり。かずかずめでたくて、又の日の午の時ばかりにぞ、帰らせ給ひける。
P079
 同じ五日、やがて賀茂の社に行幸し給ふ。関白殿、今日も御馬なり。上達部、殿上人、さきにいたく変らず。別当通成いみじうきらめかれたり。けさうじ給へるをぞ、「若き人なれども、検非違使の別当、白きものつくる事やある」など、古き人うちささめきけるとかや。春宮の大夫馬ぞへ八人具し給ひけり。権大納言実雄、土御門大納言顕定、権中納言公親、同顕親、左衛門の督実藤など、いづれも清らにめでたし。殿上人、中将には実久の朝臣、為氏、実治、経定、顕良、基雅、通雅、通定、定平、実直、師継、雅継、輔通、雅家、雅忠。少将には、隆兼、公直、季実、為教、忠継、輔時、顕方、惟継、公為、資平朝臣、信通など、我劣らじど、華族も下臈も心ばかりはいどみ尽したり。申の時に、まづ下の宮に行幸、暮れ果てて、上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして、還御は明方にぞなりにける。霜いと白きに、たてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程も、いと面白くぞ侍りける。
この行幸過ぎぬれば、天下の騒ぎ、少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日 十二月六日 また仁和寺の御室、准后 観音寺にて灌頂し給ふとて、世の中ののしる
P080
様、いとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々、親王こそ伝へ給ふめれど、峰殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母上の西園寺入道殿の御女に、准后をさへ譲り給ふとか聞えて、いとゆゆしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ、世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、仏母院におはす。関白殿は御兄なれば、ましておはします。右大臣殿、左大将殿、心ことにて参り給ふ。時なりて、大阿闍梨二品法親王道深輿にて渡り給ふ。喜多院の南の門より、上達部、殿上人歩み続きて、そこら参り集ふ。吉田の中納言為経、二条の中納言忠高、侍従の宰相、藤宰相、左の宰相の中将、左大弁経光、新宰相、みな列をひき、受者もみぎりにおり立ち給へる、いと若う美しうて、地蔵菩薩に似給へるを、入道殿いと悲しと見奉り給ふ。紫の袈裟に、香炉もちて渡り給へば、もとより並び立てる上達部、皆礼をいたす気色、やむごとなく見ゆ。関白、左大将殿などの御随身ども、えもいはずきらめきて、階のもとにたてあかししろくして、なみ居たる気色、めでたく面白し。伝法の様は、人見ぬ事なれば知らず。教授は良恵僧正つとめられけり。かくて事果てぬれば、後朝の儀式猶いみじ。法親王
P081
の御布施、被物五重ね この内一つは織物 御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、綿一つつみ、関白殿とりて奉り給ふ。次々の衆僧には、大中納言ほどほどに随ふべし。導師の布施、久安、仁安など、又、建暦、寛喜などの度は、別当とりたりけれども、今日はその人参らねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は二十余人参る。万の事、人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて、今年もくれぬ。
 又の年寛元二年、東の大納言頼経の君、一とせ二歳にて下り給ひし、峰殿の御子ぞかし。悩み給ふ由聞えしが、御子の六になり給ふに譲りて、都へ御かへりと聞ゆ。若君は、その日、やがて将軍の宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名のり給ふ。泰時朝臣も、をとどし入道して、うまごの時頼の朝臣に世をば譲りしかば、この頃は、天の下の御後見は、此相模守時頼の朝臣仕うまつる。いみじう賢きものなれば、めでたき聞えのみありて、兵も靡き従ひ、大方、世もしづかに、をさまりすましたり。
 かくて寛元も四年になりぬ。正月二十八日春宮に御位を譲り申させ給ふ。この御門も、また四にぞならせ給ふ。めでたき御例どもなれば、行末も推し量られ給ふ。
P082
光明峰寺殿御三郎君、左大臣実経の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御兄の福光園院殿、もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人まで摂〓し給へる例、ふるくは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿、その又御子ども中の関白殿、粟田殿、法成寺の入道殿、これふた度なり。近くは法性寺の御子ども、六条殿、松殿、月輪殿、これぞやがて、今の峰殿の御祖父よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も、宣旨かうぶり給へりしばかりにて、七日にて失せ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ、今に絶えず。御流久しき藤なみにて、立ち栄え給へるこそ、たぐひなきやむごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政殿をば、後には円明寺殿とぞ聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。摂政にて二年ばかりおはしき。
女院の御父も、太政大臣になり給ひて、牛車ゆり給ふ。さるべき事といひながら、いとめでたし。その頃、北山の花の盛りに、院に奏し給ふ。その花につけ
P083
て、
 朽ちはつる老木にさける花桜身によそへても今日はかざさん
御返しを忘れたるこそ口惜しけれ。
かくて御即位御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの女の少将の内侍、大内の女工所に候ふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積りたる暁、太政大臣宣ひ遣はしける、
 九重の大内山のいかならん限りも知らずつもる雪かな
御返し、少将の内侍、
 九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道を見るかな
後嵯峨の院の上は、いつしか所々に御幸しげう、御遊びなど、めでたく、今めかしき様に好ませ給ふ。西園寺に、はじめて御幸なりし様こそ、いと珍らかなる見物にて侍りしか。太政大臣御あるじ申されし様、いかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に、代々の御手本奉らるとて、大臣、
 伝へきく聖の代々の跡を見て古きを移す道ならはなん
P084
御返し、御製、
 知らざりし昔に今やかへりなんかしこき代々の跡ならひなば
 中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。安らかに、常は、一つ御車などにて、ただ人のやうに、花やかなる事どものみ隙なく、万あらまほしき御有様なり。院の上、石清水の社にまうでさせ給ひて、日頃おはしませば、世の人残りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら、猶いみじう、御心にも、一年の事思し出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして、宝殿にこめさせ給ひし中に、
 石清水木がくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
宝治の頃、神無月二十日あまりなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉の濃きうすき、縫物、織物、綾錦、すべて世になき清らを尽し騒ぐ。いみじき見物なり。殿上人の船に、楽器をまうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、
P085
そぞろ寒き程なるに、折知り顔に、空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どもの、色々散りまがふ気色、いひ知らず面白し。女房の船に、色々の袖くち、わざとなくこぼれ出でたる、夕日に輝きあひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に、中一日渡らせ給ひて、様々の面白き事ども数知らず。網代に氷魚の夜もさながらののしり明かして、帰らせ給ふ。



校註 増鏡

P086
第六 烟の末々
宝治二年十一月二十日頃、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣、皇后宮の大夫隆親直衣、
P087
花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣、別当定嗣直衣、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣、浮織物の指貫、紅の衣、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々を尽す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣、白きひとへにて、えもいはぬ様して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様にと好みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々の紅葉を、濃く薄く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参り給ふ。宰相の三位殿と聞ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、
P088
この頃は三位し給へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移る程、夕つかたになりぬ。御船さし、色々の狩襖にて、八人づつ、様々なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参らす。平等院の釣殿に、御船寄せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参る。しろがねの錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々様々の風流のくだもの、衝重など、由ある様に、
P089
なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣、皆御供に候ひ給ふ。
 又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊び始まる。船の内に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣ひけん、「をちのしら浪」も、艶なる音を添へたるは、万折からにや。
 二十三日還御の日ぞ、御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋参らせらる。院よりも、あるじの大臣に御馬奉り給ふ。院の御随身ども、けはひことにて、ほうだうの前の庭にひき出でたれば、衛門佐親朝、親継、二人うけとる。殿おり給ひて拝し給ふ。 岡屋兼経の大臣の御事なり その後賞行はる。左の大臣一品し給ふべき由、院の上自ら宣はすれば、また立ち出でて直衣を奉りながら、拝舞し給ふ。万御心ゆく限り遊びののしらせ給ひて、帰らせ給ふままに、左大臣殿兼平従一位し給ふ。殿の家司季頼四品ゆるさせ給ふ、いとこよなし。寛治
P090
には、良経正四位下、保元に、月輪殿従下の阿品をぞし給ひける。今の御有様は、かの古き例にも越えたり。いとめでたく面白し。還御の当日に、女房の装束皆具、色々にいと清らなる十具、各平づつみに長櫃にて、大納言の二位の曹司におくらる。又宰相の三位のもとへも別に遣はされけり。建久には夏なりしかば、一へがさね二十具ありけるを、思し出でけるにや。様々ゆゆしき事どもにて過ぎぬ。
 この御るすの程に、二条油小路に火いできて、閑院殿のついがきの内なれば、内のおもの屋焼けて、神代より伝はれる御釜も、焼け損はれけるをぞ、いとあさましき事には申し侍りし。かの釜、昔は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、円融院の御代永観の頃、二つは失せにけり。今一つ残りたるに、かかる事の出できぬるは、いとよろしからぬわざなりとて、神祇官に尋ねられ、古き事ども考へらる。平野といひけるを、陰陽寮に据ゑて、みづのとの祭といふことに用ひけれど、中頃よりかの祭は絶えぬ。忌火といふにては、六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて、常の御膳をば仕うまつる。
P091
かかれば、いとたいだいしき事にて、初めはいもしに仰せらるべきかとも申す。古きを損はれたる所ばかりを、猶さるべきかとも、色々に定めかねられたり。入道太政大臣なども、古きをなほさるべしと、申さるとぞ聞えける。
 その頃、宰相の三位の若宮 宗尊親王の御事なり 御書始とて、人々参り集ひ給ふ。七つにならせ給ふべし。関白殿をはじめ、大臣、上達部残りなし。十二月の二十五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて、人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後、文台めして、詩の披講ありき。勧盃の儀式、何事も保延の例とぞ承りし。
 かくて年明けぬれば、宝治も三年になりぬ。春たちかへる朝の空の光は、思ひなしさへいみじきを、院、内の気色、誠にめでたし。摂政殿にも拝礼行はる。院の御前は更にもいはず、大宮院にもあり。まづ、冷泉万里小路殿といふは、鷲の尾の大納言隆親の家ぞかし。この頃、院のおはしませば、拝礼に人々参り給ふ。摂政殿、兼経 左大臣、兼平 右大臣、家忠 内大臣、実基 大納言には公相、実雄、顕定、道良、
P092
中納言に為経、良教、資季、冬忠、実藤、公光、通成、定嗣、宰相に通行、師継、顕朝、殿上人は、両貫首をはじめ数知らず。常の年々に越えて、この春は参りこみ給へり。人々立ちなみ給へる時、左の大臣は、摂政の御子なれば、引き退きて立ち給へり。右もまた、その同じつらに立たれたるに、内の大臣すすみ出で給へり。それにつぎて、大納言も同じつらなり。良教、公光、師継、顕朝、また退きて立ちたれば、出入して屏風に似たり。この事見にくしと、後まで、様々院の御前に仰せられて、摂政殿に尋ね申され、沙汰がましく侍りけるを、貞応元年の例などいできて、故野の宮左大臣、今の内の大臣の御親の、右大臣にて退きたるつらに立たれたりけるを、その時の記録など見給はざりけるにやとて、内の大臣の御ふるまひ、心えずとぞ沙汰ありける。院の拝礼果てて、内の小朝拝、節会などに、皆人々困じ給へるに、又大宮院の拝礼めでたくぞ侍りける。 四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御様の、つきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なう、いみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫、紅の御衣奉れり。上達部、殿上人、直衣、上の衣、思ひ思ひなり。摂政殿も参り給ふ。
P093
夜に入りて帰らせ給ひぬれば、やがてやがて又、大宮院、内へ御幸はじめ、これも上達部、殿上人、ありつる限り残りなし。網代びさしに奉る。皇后宮の御方の東むきへ御車寄せて、宮御対面、いとめでたし。上は、まだいといわけなき御程にて、かくいつくしき万乗の主にそなはり給へる御有様を、女院も、いとやむごとなく、かたじけなしと見奉り給ふ。
 皇后宮と聞ゆるは、これも院の御兄にて、位におはしましし時も、御母代など聞えさせ給ひしを、この御門幼く渡らせ給へば、今は、いとどまして、内にのみおはしまして、去年の八月より、皇后宮と聞ゆる、後には、仙華門院と聞えし御事なるべし。
 院の若宮十三にならせ給ふは、公宗の中将といひし人の女の御腹なり。円満院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて、正月二十八日に、その御用意あり。承明門院より渡り給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、具実の大納言を上首にて六人、殿上人十六人、馬にて、色々にいとよそほしう、めでたくておはしましぬ。その夜、やがて御ぐしおろして、御法名円助と聞ゆ。いとうつくしげさ、
P094
仏などの心地して、あはれに見え給ふ。院の宮達の御中には、御兄にてものし給へど、御外戚の弱きは、今も昔もかかるこそ、いといとほしきわざなりけれ。御匣殿の御腹の若宮も三にならせ給へる、承明門院にて、御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中に、この御子は、御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。
 かくいふ程に、二月一日の夜、常よりも、九重の宮の内、人ずくなにて、大方、夜も静なるに、子の時ばかりに、閑院殿の二条おもての対より、火いできて、棟もえ落つる程にぞ、始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく、只あわて騒ぎ、我も人も移し心なければ、公直の中将の御とのゐに候ひけるが、車の陣なるを召して、皇后宮の御方へ寄す。内の上をば、御匣殿抱き奉らせ給ひて、宮も奉る。剣璽ばかりとり具して、門を急ぎ出でさせ給ふ。とばかりありて、権中納言実雄の参り給へりける車に召し移りて、春日富の小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。その程にぞ、摂政殿をはじめ、前の太政大臣、
P095
左大臣、内大臣より下残りなく人々参り集ひ給ふ。院も御車引き出でて見奉らせ給ふ。かかる程に、閑院殿より、春日は、方はばかりありとて、院のおはします万里小路殿へ、ひき返して行幸あり。夜明け果てて後、又前の太政大臣 実氏 の冷泉富の小路へ行幸なりて、しばし内裏になりぬ。内の焼くることは、これを始めにもあらず。世あがりての事はさしおきぬ。天徳四年、村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた、既に二十余度になりぬるにや。聖の御代にしも、かかる事は侍りしかど、承元に焼けにし後は、久しく、この四十四年はなかりつるに、去年の冬、御釜焼け損じて、又、かくうち続きぬるを、いとあさましう思す。何よりも、御門の御車に奉りて出でさせ給へるを、いたく例なき事とかやとて、人々かたぶき申す。院も驚き思されて、古き事ども広く尋ねられなどすべし。
 院も内も、はひ渡る程の近さなれば、御とのゐの人々など、日頃よりも参り集ひて、御旅の雲井なれど、なかなか、いと顕証なり。北の対のつまなる紅梅の、いと面白く咲きたるが、院の御前より御覧じやらるる程なれば、雅家の宰相の中将
P096
して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、
 色も香も重ねてにほへ梅の花九重になる宿のしるしに
とて、かの梅に結びつけさせらる。御返し、弁の内侍うけたまはりて、申すべしと聞き侍りしを、なのめなりといふ事にて、大臣、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口惜しけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。
 世の中とかく騒がしとて、年号かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶火災しづまらで、二十三日、またまた、姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて、百余町焼けたり。夥しともいふ方なし。
寛元四年の六月にも、恐ろしき火侍りしかど、この度は、猶それよりも越えたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆焼けたるに残れる、いといと不思議なりとぞ、見る人ごとにあざみける。暁より出できたる火、夜に入るまで消えず、未の時ばかりに、蓮華王院の御堂に燃えつきければ、俄に、院も御幸なる。御道すがらも、さながら煙を分けさせ給ふ。いとめづらかにあさまし。摂政殿も御車に参り給へり。三十三間の御堂の千体の千手、一時のほのほにたぐひ
P097
給へば、不動堂、北斗堂も残らず、宝蔵、鎮守ばかりぞ、辛うじてうちけちにける。後白河の院の、さばかり御志深う思ほし立ちて、長寛二年供養ありし後は、やむごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又、今熊野の鐘楼、僧坊など、多く焼けぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり、ほのほの飛ぶこと鳥の如し。またの朝まで燃えけり。その昼つ方、さきの火もえつきて後、双林寺といふわたりに、火いできて、なにがしの姫君の御もと、古き昔の跡、皆、けぶりになりぬ。その火消えて後、又、夕つかた岡崎わたりに火いできて、摂政殿の御もと、少々焼けけり。又、承明門院の近き程にも、火いできて、人々参り集ふ。中御門より二条まで、また、火出できて、十八町焼けぬ。すべて二十三日よりつごもりに及ぶまで、日をへ時をへて、あるは一日に二三度、二むら三むらにわけて燃えあがる。かかる程に、都は既に三分の二焼けぬ。いといと珍らかなりし事なり。ただ事にあらずとて、院の御前に、陰陽師七人召して、御占行はる。重き御つつしみと申せば、御修法どもはじめ、山々にも、御祈り仕う奉るべき由、こと更に仰せらる。
P098
 院の上の御有様の、万にめでたくおはしますを思ふには、何の御つつしみも、なでふ事かあらんとぞ覚え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を経て、春の中に、必ずまづ石清水に七日御こもり、その中に、五部の大乗経供養せさせ給ふ。御下向の後は、やがて賀茂に御幸、平野、北野なども、さだまれる御事なり。寺には嵯峨の清涼寺、法輪、太秦などに御幸ありて、寺司に賞行はれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ仏を尊びさせ給ふこと、来しかたも、行末も、例あらじとぞ、世の人申しあひける。
 鳥羽殿も、近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふ事講ぜられしに、太政大臣、序を書き給へりき。「夫鳥羽、仙洞三五累聖、離宮一百余載」とかや。又、御身のいみじき事には、「蓬の髪霜寒くて七代に伝へたり」と侍りしこそめでたけれ。
祝ひおく始めと今日を松が枝の千年の影に澄める池水
院の御製、
P099
影うつす松にも千代の色見えて今日すみそむるやどの池水
大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。
色かへぬ常盤の松の影添へて千代に八千代に澄める池水
ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに、龍頭鷁首寄せて、いと面白く吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。
又、太政大臣の津の国吹田の山荘にも、いとしばしばおはしまさせて、様々の御遊び数を尽し、いかにせむともてはやし申さる。河に臨める家なれば、秋深き月の盛りなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風に靡く気色、妻どふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集め、あはれそひたる所の様に、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いと珍しうをかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、
川舟のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん
と講じあげたる程、主の大臣いみじう興じ給ふ。「此の家の面目今日に
P100
侍る」とぞ宣はする。げにさる事と、聞く人皆誇らしくなん。
降り居給へる太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、未だ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬づき、めでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべき太政大臣さへ、何わざをせんと、御心にかなふべき御事をのみ思ひまはしつつ、いかで珍しからんと、もて騒ぎ聞え給へば、いみじうはえばえしき頃なり。御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざより外の御営み無し。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、うち解けにくく心づかひすめり。
節会・臨時の祭り、何くれの公事どもを、女房にまねばせて御覧ずれば、太政大臣興じ申し給ひて、ことさら、小さき笏など作らせてあまた奉り給へば、上も喜び思す。入道太政大臣の御娘大納言の三位殿といふを関白になさる。按察の典侍隆衡の女・大納言の典侍・中納言典侍・勾当の内侍・弁の内侍・少将の内侍、
P101
かやうの人々、皆男の官にあてて、其の役をつとむ。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて、曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉に書きて、彼の局にさし置かせける。
津の国の葦の下根のいかなれば波にしをれて乱れがほなる
返し、
津の国の葦の下根の乱れわび心も波にうきてふる哉
五月五日、所々より御かぶとの花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露おきたる蓬の中に、ふかきといふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶ありて見ゆるを、上も御目とどめて、「何とまれ、いへかし」と宣ふを、人々も、およすけて見奉るを、弁の内侍、
P102
あやめ草底知ら沼の長き根にふかきといふや蓬生の露
と、ありつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしけり。御返り、公親、
あやめ草底知ら沼の長き根を深き心にいかがくらべん
又其の頃、天王寺に院の詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸あり。「神はうれし」と、後三条院仰せられけん例、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出車ども、色々の袖口ども、春秋の花紅葉を、一度に並べて見る心地して、いと美しく、目も輝くばかりいどみ尽されたり。上達部・若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、珍しき姿どもを、心々にうちまぜたり。釣殿の簀子に、人々候ひて、あまた聞えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、
今日やまた更に千とせを契らん昔にかへる住吉の松
さても、院の第一の御子は、右中弁平の棟範の主の女、四条院に兵衛の内侍とて候ひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、
P103
其の御腹に出で物し給へりしかど、当代生れさせ給ひにし後は、おし消たれておはしますに、また建長元年、后腹に二の宮さへさし続き光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいとあはれと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すに、猶飽かねば、只御子にて、東の主になし聞えてんと思して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず。内蔵寮何くれ、清らを尽し給ふ。やがて三品の位賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊親王と申すめり。
同じ二月十九日に、都を出で給ふ。其の日将軍の宣旨冠り給ふ。かかる例は未だ侍らぬにや。上下、珍しく面白き事にいひ騒ぐべし。御迎へに東の武士どもあまた上り、六波羅よりも名ある者十人、御送に下る。上達部・殿上人・女房など、あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこに候ふとも、限りあらん官冠りなどは、障りあるまじ」とぞ仰せられける。何事も、只人がらによると見えたり。きはことによそほしげなり。誠に大やけとなり給はずば、これよりまさる事、何事かあら
P104
ん。にぎははしく花やかさは並ぶ方無し。院の上も、忍びて、粟田口のほとりに御車立てて御覧じ送りけるこそ、あはれに忝なく侍れ。きびはに美しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍は、あはれに忝なしと思ひ聞ゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位中将は、其の四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今下り給へるを、もてあがめ奉る様、いはん方無し。宮の中のしつらひ、御まうけの事など限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年は暮れぬ。
明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御冠し給ふ。御年十一、御諱久仁と申す。いとあてにおはしませど、あまりささやかにて、又御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、猶いとあさましうおはしましけるを、閑院の内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内の焼けたるあさましさは何ならず、此の御腰の直りたる喜びをのみぞ、上下思しける。
院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世
P105
にある限りの上達部・殿上人仕うまつる。色々の菊紅葉をこきまぜて、いみじう面白し。女院もおはしませば、拝し奉り給ふを、太政大臣見奉り給ふに、喜びの涙ぞ人わろき程なる。
例なき我が身よいかに年たけてかかるみゆきに今日仕へつる
げに、大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末と見給ふ大臣の心地、いかばかりなりけむ。
来し方も例なきまで、高麗・唐土の綾錦を立ち重ねたり。太政大臣ばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし。池には、うるはしく唐のよそひしたる御船二艘漕ぎ寄せて、御遊び様々の事どもめでたくののしりて、帰らせ給ふひびきのゆゆしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。
其の頃ほひ、熊野の御幸侍りしにも、よき上達部あまた仕うまつらせ給ふ。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出車はなくて、只一両にて見奉り給ひしこそ、やん事なさも面白く侍りけれ。弁の内侍、
P106
折りかざすなぎの葉風の賢さに一人道ある小車の跡
御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川舟に奉りてさし渡す程、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬ様なれば、院の上、
熊野川瀬ぎりに渡す杉舟のへなみに袖のぬれにける哉
其の後も、又程無く御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。皆人しろしめしたらん事、中々にこそ。



校註 増鏡

P107
第七 おりゐる雲
春過ぎ夏たけ、年去り年きたれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣の第二の御娘、〈 東二条院公子 〉女御に参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかる例はあまた侍るべし。十二月十七日、豊の明かりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添へて今めかしうめでたく、其の日御消息を聞え給ふ。
夕暮にまつぞ久しき千年までかはらぬ色の今日の例を
関白書かせ給ひけり。紅のにほひの箔もなき、八重に重ねたるを、結びて包まれたり。時成りぬとて人々まう上りあつまる。女御の君、裏濃き蘇芳七・濃き一重・蘇芳の表着・赤色の唐衣・濃き袴奉れり。准后添ひて参り給ふ。
P108
皆紅の八・萌黄の表着・赤色の唐衣き給ふ。出車十両、皆二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿太政大臣の娘、右に二条殿公俊の大納言の女、二の左按察君隆衡〔の大納言〕の女、右に中納言の君実任の娘、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々くだくだしければとどめつ。御童・下仕へ・御はした・御雑仕・御ひすましなどいふ物まで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所あるべし。御兄の殿原、右大臣公相・内大臣公基参り給ふ。限りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、
いよいよいつかれ給ふ様、いはん方無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参り給へりし例にやとぞ、心あてには覚え侍りし。院の一つ御腹の姫君、此の頃皇后宮とて、其の御方の内侍ぞ、御使ひに参る。まう上り給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げなき事に思したれば、とみにはえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御木丁按察殿、御火とり中納言持たれたり。上は十四になり給ふに、女御は二十五にておはしける。
P109
御門、きびはなる御程を、中々、あなづらはしきかたに思ひなし聞え給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞えかかり給ふを、准后は美しと見奉らせ給ふ。御衾は、紅のうち八四方なるに、上にはうはざしの組あり。糸の色など、清らにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程は候ひ給ふ。上達部に勧盃あり。
二十三日、又御消息参る。御使ひ頭の中将通世、こたみも殿書かせ給ふめり。此の頃、殿と聞ゆるは、太政大臣兼平の大臣、岡の屋殿の御弟ぞかし。後には照念院〔殿〕と申しけり。御手勝れてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家の始めなるべし。
朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色も見えける
御返し、太政大臣聞え給ふ。
朝日影あらはれそむる雲の上に行すゑ遠き契をぞしる
女の装束、細長添へてかづけ給ふ。
今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供に関白殿・右大臣
P110
公相・内大臣公基・四条の大納言隆親・権大納言実相良教通成・左大将基平など、おしなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭中将隆顕仕うまつる。太政大臣、夜の御殿よりとりいれ給ふ。御心の中のいはひ、いかばかりかとおしはからる。人々の禄、紅梅のにほひ・萌黄の表着・葡萄染めの唐衣・袿・細長・こしざしなど、しなじなに従ひて、けぢめあるべし。
かくて今年は暮れぬ。正月、いつしか后に立ち給ふ。只人の御女の、かく后・国母にて立ち続き候ひ給へる、例稀にやあらん。大臣の御栄えなめり。御子二人大臣にておはす。公相・公基とて、大将にも左右に並びておはせしぞかし。これも、例いとあまたは聞えぬ事なるべし。我が御身太政大臣にて、二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし御勢ひのめでたさは、めづらかなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、誠に其の器物に足りぬと見え給へり。昔後鳥羽院に候ひし下野の君は、さる世のふるき人にて、大臣に聞えける。
藤波の影さしならぶ三笠山人にこえたる梢とぞ見る
P111
返し、大臣、
思ひやれ三笠の山の藤の花咲きならべつつ見つる心を
かかる御家の栄えを、自らもやんごとなしと思しつづけてよみ給ひける。
春雨は四方の草木をわかねどもしげきめぐみは我が身也けり
正嘉元年の春の頃より、承明門院御悩み重らせ給へば、院もいみじう驚かせ給ひて、御修法何かと聞えつれど、遂に七月五日、御年八十七にてかくれさせ給ひぬ。ことわりの御年の程なれど、昔の御名残とあはれにいとほしう、いたづき奉らせ給ひつるに、あへなくて、御法事など懇ろにおきて宣はする、いとめでたき御身なりかし。明くる年八月七日、二の皇子〈 亀山の院 〉坊にゐ給ひぬ。御年十なり。万定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。
其のまたの年、正嘉三年三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又来し方行くすゑも例あらじと見ゆるまで、世の営み、天の下の騒ぎには侍りしか。関白殿・左右大臣・内大臣・左右の大将・検非違使の別当を始めて、残るは少なし。馬・鞍、随身・舎人・雑色・童の、髪・かたち・たけ・姿まで、かたほなるなくえりととのへ、
P112
心を尽くしたるよそほひども、かずかずは筆にも及び難し。かかる色もありけりと、珍しく驚かるる程になん。銀・黄金を延べ、二重三重の織物・縫物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の木の紋・裾濃・浮線綾、色々様々なりし上の衣・狩衣、思ひ思ひの衣を出だせり。いかなる龍田姫の錦も、かかる類はありがたくこそ見え侍りけれ。かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。あまりに染め尽して、某の中将とかや、紺村濃の指貫をさへぞ着たりける。それしもめづらかにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。院の御様かたち、所がらはいとど光を添へて、めでたく見え給ふ。後土御門の内大臣定通の御子の顕定の大納言、大将望み給ひしを、院もさりぬべくおほせられければ、除目の夜、殿の内の者どもも心づかひして、侍るを心もとなく思ひあへるに、引きたがへて、先に聞えつる公基の大臣におはせしやらん、なり給へりしかば、怨みに堪えず、頭おろして、此の高野に篭り居給へるを、いとほしくあへ無しと思されければ、今日の御幸のついでに、彼の室を尋ねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣はし
P113
たるに、昨日までおはしけるが、夜の間に、彼の庵をかきはらひ、跡もなくしなして、〔いと〕清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて、人も無し。我が身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。その由奏しければ、「今更に見えじとなり、いとからい心かな」とぞ、宣はせける。
かくのみ所々に御幸しげう、御心ゆく事隙なくて、いささかも思し結ぼるる事もなく、めでたき御有様なれば、仕うまつる人々までも、思ふ事なき世なり。吉田の院にても、常は御歌合などし給ふ。鳥羽殿には、いと久しくおはします折のみあり。春の頃、御幸ありしには、御門も御鞠に立たせ給へり。二条の関白良実上鞠し給ひき。内の女房など召して、池の御船に乗せて、物の音ども吹きあはせ、様々の風流の破子・引出物など、こちたき事どももしげかりき。又嵯峨の亀山のふもと、大井川の北の岸にあたりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのづから情けを加へたる所がら、いみじき絵師といふとも、筆及び難し。寝殿のならびに、乾にあたりて、西に薬草院、東に
P114
如来寿量院などいふもあり。橘大后の昔建てられたりし壇林寺といひし、今は破壊して礎ばかりになりたれば、其の跡に浄金剛院といふ御堂を建てさせ給へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置かる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みて桟敷殿造らる。大多勝院と聞ゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。かやうの引き離れたる道は、廊・渡殿・そり橋などを遙かにして、すべていかめしう三葉四葉に磨きたてられたる、いとめでたし。
正元元年三月五日、西園寺の花ざかりに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年頃思しおきてけるをも、いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いと賢く、ありがたき御事なれば、院も同じ御心にゐ立ち宣ふ。楽屋の者ども、地下も殿上も、なべてならぬをえりととのへらる。其の日になりて行幸あり。春宮も同じく行啓なる。大臣・上達部、皆上の衣にて、左右にわかれて、御階の間の勾欄に著き給ふ。法会の儀式、いみじくめでたき事ども、まねび難し。
又の日、御前の御遊び始まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶、春宮御笛、まだいと小さき
P115
御程に、びむづら結ひて、御かたちまほに美しげにて、吹きたて給へる音の、雲井を響かして、あまり恐ろしき程なれば、天つ乙女もかくやと覚えて、太政大臣〔実氏〕、事忌みも〔え〕し給はず、目おしのごひつつためらひかね給へるを、ことわりに、老しらへる大臣・上達部など、皆御袖どもうるほひ渡りぬ。女院の御心の内、ましておき所なく思さるらんかし。前の世に、いかばかり功徳の御身にて、かく思す様にめでたき御栄えを見給ふらんと、思ひやり聞ゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。御遊び果てて後、文台めさる。院の御製、
色々に枝をつらねて咲きにけり花も我が世も今盛りかも
あたりをはらひて、きはなくめでたく聞こえけるに、主の大臣、歌さへぞ、かけあひて侍りしや。
色々にさかへて匂へ桜花我君々の千代のかざしに
末まで多かりしかど、例のさのみはにて、とどめつ。いかめしうひびきて帰らせ給ひぬる又の朝、無量光院の〔花の〕もとにて、大臣、昨日の名残思し出づるもいみじうて、
P116
此の春ぞ心の色はひらけぬる六十あまりの花は見しかど
其の年の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御諱恒仁と聞ゆ。世の中に様々ほのめき聞ゆる事あれば、御門は飽かず心細う思されて、夜居の間の静かなる御物語のついでに、内侍所の御拝の数をかぞへられければ、五千七十四日なりけるを承りて、弁の内侍、
千代といへば五つ重ねて七十に余る日数を神は忘れじ
かくて、十一月二十六日、おり居させ給ふ夜、空の気色さへあはれに、雨うちそそぎて、物悲しく見えければ、伊勢の御が、「あひも思はぬももしきを」といひけんふる事さへ、今の心地して、心細くおぼゆ。上も思しまうけ給へれど、剣璽の出でさせ給ふ程、常の御幸に御身を離れざりつるならひ、十三年の御名残、引きわかるるは、猶いとあはれに、忍びがたき御気色を、悲しと見奉りて、弁の内侍、
今はとており居る雲のしぐるれば心の内ぞかき暗しける



校註 増鏡

P117
〔ますかがみ中〕
第八 山のもみぢ葉
正元元年十一月二十六日、譲位の儀式常のごとし。十二月二十八日御即位。万めでたく、あるべき限りにて、年もかへりぬ。おりゐの御門は、十二月の二日、太上天皇の尊号ありて新院と聞ゆ。本院と常は一つに渡らせ給ひて、御遊びしげう心やりて、中々いとのどやかにめやすき御有様に、思しなぐさむやうなり。中宮も、院号の後は、東二条院と聞ゆ。二条富小路にぞ渡らせ給ふ。太政大臣も入道し給ひぬ。常盤井とて、大炊御門京極なる所にぞ、折々住み給ふ。此の入道殿の御弟に、其の頃、右大臣実雄と聞ゆる、姫君あまた持ち給へる中に、すぐれたるをらうたき物に思しかしづく。今上の女御代に出で給ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思しおきてたり。院にも
P118
御気色賜はり給ふ。入道殿の御孫の姫君も、参り給ふべき聞えはあれど、さしもやはと、おし立ち給ふ。いとたけき御心なるべし。
此の姫君、御兄あまたものし給ふ中の兄にて、中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけむ、したたく煙にくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじき事と思ひはなつにしも、従はぬ心の苦しさを、起き臥し葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我彼の気色にてのみほれ過し給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。初秋風気色だちて、艶なる夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、うす色に女郎花など引き重ねて、木丁に少しはづれてゐ給へる様かたち、常よりもいふ由なく、あてに匂ひ満ちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらん様して、少し色なるかたにぞ見え給へど、筋こまやかに、額より裾までまがふ筋なく美し。只人には、げに惜しかりぬべき人がらにぞおはする。木丁おしやりて、わざとなく拍子うちならして、御箏弾かせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」と宣へば、うちかしこまりて、御簾の内に候ひ
P119
給ふ様かたち、此の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたる様して、あてに美し。いとどもてしづめて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。笛少し吹きなどし給へば、雲井にすみ上りて、いと面白し。御箏の音のほのかにらうたげなる、かきあはせの程、中々聞きもとめられず、涙浮きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれかかりて、少し傾きかかり給へる傍め、まめやかに、光をはなつとは、かかるをやと見え給ふ。よろしきをだに、人の親はいかがは見なす。ましてかく類なき御有様どもなめれば、よに知らぬ心の闇にまよひ給ふも、ことわりなるべし。
十月二十二日、参り給ふ儀式、これもいとめでたし。出車十両、一の車の左は大宮殿二位の中将基輔の女、〔三位の中将実平の女〕とぞ聞えし。二の左は春日、三位の中将実平の女。右は新大納言、此の新大納言は、為家の大納言の女とかや聞こえしにや。それより下は、〔まして〕くだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川といひし。此の
P120
貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出で物し給ひき。其の姫宮は、末に近衛の関白〈 家基 〉の北政所になり給ひにき。万の事よりも、女御の御様かたちのめでたくおはしませば、上も思ほしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人しくおよすけ給へれば、めやすき御程なりけり。彼の下くゆる心地にも、いと嬉しき物から、心は心として、胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、遂にいかになり給はんと、いとほしき。程もなく后立ちありしかば、大臣、心ゆきて思さるる事限り無し。
西園寺の女御も、さし続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしもあらず。これも九にぞなり給ひける。冷泉の大臣公相の御女なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、〔いと〕聞きにくき事もあるべし。宮仕へのならひ、かかるこそ昔人は面白くはえある事にし給ひけれど、今の世の人の御心どもは、あまりすくよかにて、みやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ。今の后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかに
P121
も見え奉らせ給はねば、御覚え劣りざまに聞ゆるを、思はずなる事に、世の人もいひさたしたり。父大臣も、心やましく思せど、さりともねび行き給はばと、只今は怨み所なく思しのどめ給ふ。
かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色、常よりもことなれば、行幸あるべく思しおきつ。関白二条殿良実、此の三年ばかり又返りなり給へば、御随身ども花を折りて、行幸よりも先に参りまうけ給ふ。其のほかの上達部も、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船ども浮かべて、をかしき様なる童、四位の若き程乗せて、花の木かげより漕ぎ出でたる程、二なく面白し。舞楽様々曲など手を尽されけり。御遊の後、人々歌奉る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製、
尋ね来てあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげに過ごさん
かやうのかたまでも、いとめでたくおはしますとぞ、古き人々申すめりし。かへら
P122
せ給ふ日、御贈り物ども、いと様々なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝につけ奉らせ給ふとて、院の上〈 後嵯峨 〉
梅が枝に代々の昔の春かけてかはらず来居る鴬の声
御返しを忘れたるこそ、老のつもり、うたて口惜しけれ。
其の年にや、五月の頃、本院、亀山殿にて如法経書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白河院こそかかる御事はせさせ給ひけれ。それも御髪おろして後の事なり〔けり〕。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。さるは、あまた度侍りしぞかし。男は、花山院の中納言師継一人候ひ給ひける。やんごとなき顕密の学士どもを召しけり。昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養果てて後は、浄金剛院へ御自ら納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供仕うまつられけるも、様々珍しく面白くなん。
其の年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせ給ふ。かやうの事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、皆もらし
P123
ぬ。此の度は、心ことに磨かせ給ふ。右は関白殿にて歌ども撰りととのへらる。左は院の御前にて御覧ぜられける。此の程殿と申すは、円明寺殿〈 又一条殿と申す 〉の御事なり。新院の御位の初めつかた、摂政にていませしが、又此の一年ばかり、かへりならせ給へり。前の関白殿は、院の御方に候はせ給ふ。其の外すぐれたる限り。右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父の左大臣殿より下、皆此の道の上手どもなり。左は大殿よりかずだてつくりて、風流の州浜、沈にて作れる上に、白金の舟二に、色々の色紙を書き重ねてつまれたり。数も沈にて作りて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、
外よりは時雨もいかが染めざらん我が植ゑて見る山のもみぢ葉
遂に、左御勝ちの数まさりぬ。披講果てて夜深け行く程に、御遊び始まる。笛は花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙は公秋の中将にておはせしにや。篳篥は忠輔の中将、琵琶は太政大臣〈 公相 〉、具氏の中将も弾き給ひけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。東の御方と聞えしは、新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君
P124
もひかれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門の大納言通成など朗詠し給ふ。忠輔・公顕、声加へたる程面白し。河浪も深けゆくままにすごう、月は氷をしける心地するに、嵐の山の紅葉、夜の錦とは誰かいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子にて、御酒参るかはらけの中などに散りかかる、わざと艶なることのつまにもしつべし。若き人々は、身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、各御かはらけどもあまた度下る。明け行く空も名残多かるべし。
誠や、此の年頃、前内大臣〈 基家 〉、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁の入道など、承りて、撰歌の沙汰ありつる、只今日明日ひろまるべしと聞ゆる、面白うめでたし。彼の元久の例とて、一院自ら磨かせ給へば、心ことに、光そひたる玉どもにぞ侍るべき。年月に添へては、いよいよ、外ざまに分くる方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へりける、げにぞめでたきや。
P125
金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、此の度は、彼の東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふ事行はせ給ふ、いと面白かりき。此の集をば、続古今と申すなり。



校註 増鏡

P126
第九 北野の雪
 文永も三年になりぬ。卯月に、蓮華王院の供養に御幸あり。一の院は、あか色の上の御ぞ、新院は、青色の御袍奉れり。女院 大宮 の御車に、平准后も参り給ふ。人だまひ三輛は、綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕うまつられたる上臈だつ人のにや。あはせの五つぎぬ、藤のうはぎ、袖口出さる。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継を上首にて十人、殿上人十二人、御随身ども、藤、山吹をつけたり。居飼、御厩舎人まで、世になくきらめきたり。常の見物に過ぎたるべし。行幸は、当日の午の時ばかりなるに、諸司百官残るなし。左右の大臣、薄色、蘇芳などなり。右大将通雅、花橘の下襲、権中納言公藤、同じ色、左大将家経、蘇芳の下襲、萌黄の上の袴、侍従の中納言為氏、権中納言通基、左衛門の督通頼、
P127
衣笠の宰相の中将経平、これらは、皆蘇芳の下がさね、萌黄の上の袴なり。別当高定、宰相の中将通持、三位の中将実兼、右衛門の督師親、殿上人には、頭中将具氏、忠秀、この人々は、松重の下がさね、藤の上のはかま、同じ色なる、念なしとぞ沙汰ありける。具氏は、花橘の下がさねを著給へりしと、申す人も侍りしは、いづれか誠なりけん。近衛の将曹二十四人、とりどり色々に織り尽したる、めでたかりけり。関白殿御事にて参り給ふ。まづ女院の御車東の廂の北の妻戸へ、左右大臣寄せらる。院司の大納言通成、事の由を奏せられて、楽屋の乱声など、常の如し。御寺の儀式、ありし法勝寺にかはらず。御導師は聖基僧正、御方々の引出物ども、いとゆゆしう、法師ばらのたけとひとしき程に、積み重ねたり。万歳楽、地久など、賞仰せらる。人々の禄、関白殿には、織物の袿一重ね、蔵人頭とりて奉る。大臣には綾の袿、納言は平絹なり。御門新院、御対面の儀式など、定めて男の記録に侍らんかし。御願文の清書は経朝の三位、
P128
料紙は紫の色紙、額は、かの建て始められし長寛に、教長書きたりけるが、焼けざりければ、この度も、それをぞ用ひられける。
 かくて、少し人々の心のどかに、うちしづまりて思さるるに、東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、将軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有様にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時頼朝臣の嫡子、政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる。
中務の御子の御上りの代はりに、かの御子の三つになり給ふ若君達、近衛殿の姫君の御腹ぞかし。七月二十七日に、将軍の宣旨蒙らせ給ひて、やがて四品し給ふ。経任の中納言を御使にて、東へ下されなどして、苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに、故承明門院の御跡、土御門万里の小路殿へ御移ろひありて後
P129
ぞ、院の上、御母准后なども参り、始めて御対面あり。さるべき人々も、参り仕うまつりなどして、世の常の御有様にはなりにけれど、建長四年、御年十一にて御下りありし後、今まで十五年が程、賑ははしく、いみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゆしかりつる御住居にひきかへて、物淋しく心細うなど、思さるる折々もありけるにや、
 虎とのみもてなされしは昔にて今は鼠のあなう世の中
又、雪のいみじう降りたる朝、右近の馬場の方御覧じにおはしまして、よませ給ひける、
 猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は
など聞えき。大方、この御子の、歌の聖にておはします事、皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども、人ごとに、めでののしる御歌なるべし。されば、世を乱らんなど、思ひよりけるもののふの、このみこの御歌すぐれてよませ給ふを、夜昼、いとむつまじく仕うまつりける程に、おのづから、同じこころなるものなど多くなりて、宮のみ気色あるやうに、いひなしけるとか
P130
や。
 又の年二月には、亀山殿の浄金剛院にて、十五日、涅槃の儀式を移し行はせ給ふ。それより五日の御八講に、人々才賢き限りを選び召しけり。大殿にも西八条にて、故東山殿の御ために、八講行はせ給ふ。関白殿 二条殿 も、光明峰寺にて、結縁灌頂とり行はる。鷹司殿には、昔の御北の方の十三年の法事とて、大宮殿にていかめしき事ども営ませ給ふ。中に絵像の阿弥陀、余五将軍の臨終仏なりけるを、恵心の僧都伝へられたりけるを、持たせ給ひて、供養し給ふ。常の御様には変はり給ひて、化仏の御光など、めでたくおはしましけり。ここもかしこも、尊き事のみ耳に満ちて、劫濁とはいひ難し。安嘉門院も、御法事行はる。男も法師もいとまなく、あかれあかれ参り仕うまつらる。仏法の盛とぞ見えたる。その頃、殿の大将、内大臣になり給ひぬ。節会はつるままに、大饗行はる。尊者には、新大納言為氏参られけり。御遊など、例の事ども面白くなん。今出川の中納言実兼も、琵琶弾き給ふ。春の曙の艶なるに、物の音もてはやさるべし。その頃、又、東二条院熊野へ御参り、めでたかりし事どもも、
P131
あまりになれば、さのみはにて漏しつ。
 かくて、四月二十三日より、院の上は、又、亀山殿にて御如法経あそばす。女院も書かせおはしましけり。五月二十三日、十種供養の御経二部、浄土の三部経も書かせ給へり。斎会の御有様は、いつよりも猶いみじ。時なりて寝殿の御しつらひ、浄土の荘厳も、かばかりにこそと見えて、玉の幡、瑠璃の天蓋、天に光を輝かし、金銀の飾り、地を照せる様、筆も及び難し。上達部左右につき給ふ。左大臣基平、内大臣家経、大納言は良教、資季、通成、師継、通雅。中納言は公藤、長雅、通教、経俊。宰相は時継、資平、宗雅、雅言、具氏など候はる。盤渉調の調子を吹きて、天童二人、玉の幡を捧げて、伝供ども次第に奉る程、鳥向楽を吹き出したり。中島に楽屋は飾られたれば、橋の上を、楽人つらねて参る程、院の上も出でさせ給ひて、伝供に立ち加はらせおはします御様いとかたじけなくめでたし。関白殿、太政大臣、左大臣、内大臣、皆伝供に従はせ給ふ。宗明楽、秋風楽を奏して、繰り返したる程、面白き事、身の毛もたつばかりなり。御前の御遊には、笙は公藤、通頼、房名、宗雅、笛は長雅、師親、相保、篳篥
P132
は実成朝臣、光顕、御琵琶は、新院、今出川の中納言実兼、富の小路の三位公成、箏は大納言の二位殿、院の上この頃、又なき御めしうど、故入道相国の御女とぞ聞えし。又刑部卿 中宮の御母 、少納言、新兵衛、男には、良教の大納言などぞひかれける。勝れたる上手どもの、手を尽し給ひけんは、弥勒菩薩も、いかばかりゑみを含み給ひけん。御経一部は、北野の社へ御奉納あり。今一部と三部経は、八幡へ御幸ありて、籠め奉らせ給ふ。女院の書かせおはしましたるは、横川にぞ籠められける。かく同じ御心に、仏法の御営みも、やむごとなくのみおはしますこそ、聖武天皇、光明皇后の御例にやと、ありがたく承りしか。
 今年、五月雨、常よりも晴間なくて、伊勢の宮河も岸をひたして、斎宮の御参りも御船なり。祭主も別の船にて、御供仕うまつる。道すがら、歌うたひ、糸竹の調べなどして、面白く遊び暮らす。御下りの後、四とせになりぬ。古き例にまかせて、准后の宣旨参る。御使に中院の少将為定朝臣下りて、事の由申す。殿上に召して、裳、唐衣禄給ふ。舞踏して後、都の物語など、さるべきおとなだつ人々に、少し聞えかはす。艶なる心地して、ただの宮ばらならば、
P133
はかなし事なども聞えぬべけれど、かうがうしく、けどほき御有様なれば、すくよかにてまかでぬ。
 その年九月の頃、左の大臣 近衛殿 の日野山庄へ、一の院、新院、大宮院御幸あり。世になき清らを尽さる。銀金の御皿ども、螺鈿の御台、うち敷、見なれぬ程の事どもなり。院の御分、御小直衣皆具、夜の御衾、白御太刀、御馬二疋、唐綾、魚綾などにて、二階つくられて、御草子箱、御硯は、世々を経て重き宝の石なり。管絃の御厨子、楽器、色々の綾錦などにて、造りて置かる。女院の御かた、新院の御分なども同じやうなり。大納言の二位殿にも、装束、まもりの筥まで、いとなまめかしう、清らなるものどもありける。上達部、殿上人にも、馬牛ひかる。銀のかたみを五つ組ませて、松茸入れらる。山へ皆入らせおはしまして、御覧の後、御かはらけ幾返となくきこしめせば、人々も酔ひ乱れ、様々にて過ぎぬ。
 その同じ頃、安嘉門院、丹後の天の橋立御覧じにとておはします。それより
P134
但馬の城崎のいでゆめしに、下らせ給ふ。為家の大納言、光成の三位など、御供仕うまつらる。この女院の御有様ぞ、又、いといみじう、来しかた行く末の例にもなりぬべく、万の事、御心のままに、好ましくものし給ひける。童舞、白拍子、田楽などいふこと好ませ給ひて、古への郁芳門院にも、やや勝りてぞおはします。候ふ人々も、常にうちとけず、衣の色あざやかに、はなばなと、今めかしき院の内なり。又、安養寿院といひて、山の峰なる御堂には、常にたてこもらせ給ひて、御観法などあるには、人の参る事もたやすくなし。鳴子をかけて引かせ給ひてぞ、おのづから、人をも召しける。
 又、その頃にや、秋の雨、日頃ふりて、いと所せかりしに、たまたま雲間見えて、空の気色物すごき程に、一の院、新院、大宮院、東二条院など、皆一つ御方におはします。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候ひ給ふ。前の左の大臣実雄、久我大納言雅忠など、うとからぬ人々ばかりにて、大御酒参る。あまた下りながれて、上下、少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御盃を賜はり給ひて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮 今出川院 さて
P135
おはしませば、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華衰ふべからず、実兼も、けしうは侍らぬ男なり。うしろめたくも思ひ侍らぬに、一つの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々、「何事にか」とおぼつかなく思す。左の大臣実雄は、中宮の御事かく宣ふを、いでやと、耳にとまりて、うち思さるらんかし。一の院、「何事にか」と宣ふに、しばしありて、「入道相国に、いかにも先立ちぬべき心地なんし侍る。『恨の至りて恨めしきは、盛りにて親に先だつ恨み、悲の至りて悲しきは、老いて、子に後るるには過ぎず』とこそ、澄明におくれたる願文にも、かきて侍りしか」など申し給ひて、うちしほたれ給へば、皆、いとあはれに聞き思す。入道殿は、まして、墨染の御袖ぬらし給ひける、ことわりなりかし。
 また、その頃大風ふきて、人々の家々、損はれ失する事数知らぬ中に、明堂殿もまろびぬ。この内には、木にて人形をつくりて、宮殿を金にてつくりて、入れたる宝あり。眼をあてては見ぬものなり。おのづからも誤りて見つる人は、目のつぶれけるぞ恐ろしき。陰陽寮の守護神の社もまろびぬ。山の文殊楼、稲荷の中の宮なども、吹き損ひて、すべて、来しかた行く末も例ありがたき
P136
風なり。西国の方には、人の家を、さながら吹きあぐれば、内なる人は、塵のやうに落ちて、死に失せなどしけるぞ、珍らかなる。あまりにかくおびただしき風なれば、御占行はれけるにも、「重き人の御つつしみ、軽からぬ」など奏しけり。果してその頃、西園寺の太政大臣 公相 なやましくし給ふとて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、かしがましくひびきののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日失せ給ひぬ。入道殿を始め、思し歎く人々数知らず。中宮も、御服にて出で給ひぬ。北の方は、徳大寺の太政大臣 実基 の御女なれど、この御腹には、更に御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ、女房の生み聞えたれど、北の方の御子になして、男公達も、腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。この大臣、入道殿よりは、少し情けおくれ、いちはやくなどおはしければ、心のそこには、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下短かにて、中半程に、御目のおはしましければ、外法とかやまつるに、かかる生首のいることにて、なにがしの聖とかや、東山のほとりなりける人、取りてけるとて、後に、沙汰がましく
P137
聞えき。中宮の御事などを、深く思さるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ、世の人も思ひ申しける。ありし一ことを思しいでつつ、誰もあはれに悲しくて、女院の御方々もそれをのみ宣はせけり。
 皇后宮は、日にそへて、御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせん」と、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。程近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて給ひ、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠にや侍りけん。
P138
かくいふは、文永四年十二月一日なり。例の御物の怪ども現れて、叫びとよむ様いと恐ろし。されども、御祈のしるしにや、えもいはず、めでたき玉の男御子生れ給ひぬ。その程の儀式、いはずとも推しはかるべし。上も、限りなき御志にそへて、いよいよ思す様に、嬉しと聞し召す。大臣も、今ぞ御胸あきて、心おちゐ給ひける。新院の若宮も、この殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中おしはかられ、大方も又、うけばりやむごとなき方にはあらねば、万聞し召しけつ様なりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ、一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
 その頃近衛の左大臣殿へ、摂〓渡りぬ。二十二にぞなり給ふ。いとめでたき様なり。岡の屋殿の御太郎君ぞかし。御悦申に、両院より御馬ひかる。大宮院琴、東二条院は御笛など、贈物ども、いつものことなるべし。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申しき。



校註 増鏡

P139
第十 あすか川
隙行く駒の足にまかせて、文永も五年に成りぬ。正月二十日、本院のおはします富の小路殿にて、今上の若宮、御五十日聞こし召す。いみじう清らを尽くさるべし。今年正月に閏有り。後の二十日余りの程に、冷泉院にて舞御覧有り。明けむ年、一院、五十に満たせ給ふべければ、御賀あるべしとて、今より世の急ぎに聞こゆ。楽所始めの儀式は、内裏にてぞ有りける。試楽、二十三日と聞こえしを、雨ふりて、明くる日つとめて、人々参り集ふ。新院はかねてより渡らせ給へり。寝殿の御階の間に、一院の御座設けたり。其の西によりて、新院の御座を設く。東は大宮院・東二条院、皆白き御袴に、二御衣奉れり。聖護院の法親王・
P140
円満院など参り給ふ。土御門の中務の宮も参り給ふ。上達部・殿上人、数多御供し給へり。仁和寺の御室・梶井の法親王なども、すべて残り無く集ひ給ふ。月花門院・花山院の准后などは、大宮院のおはします御座に御几帳押しのけて渡らせ給ふ。寝殿の第四の間に、袖口共心異にて押し出ださる。大納言の二位殿・南の御方など、やむごとなき上臈は、院のおはします御簾の中に、引きさがりて候ひ給ふ。いづれも、白き袴に二衣なり。東のすみの一間は、大宮院・月花門院の女房共参り集ふ。西の二間には、新准后候ひ給ふ。御前の簀子には、関白殿を始めて、右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言良教・源大納言通成・花山院の大納言師継・右大将通雅・権大納言基具・一条の中納言公藤・花山院の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮権大夫隆顕・大炊御門の中納言信嗣・前の源宰相有資・衣笠宰相の中将経平・左大弁の宰相経俊・新宰相の中将具氏・別当公孝・堀川の三位中将具守・富小路三位中将公雄、皆御階の東に著き給ふ。西の第二の間より、又、前の左大臣実雄・二条の大納言経輔・前の源大納言雅家・中宮大夫雅忠・藤大納言為氏・皇后宮大夫定実・四条の大納言隆行・帥の中納言経任、此の外
P141
の上達部、西東の中門の廊、それより下ざま、透渡殿・打橋などまで著きあまれり。皆、直衣に色々の衣重ね給へり。時なりて、舞人共参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて桜を織れり。赤地の錦の表着・紅の匂の三衣・同じ単・しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたりしも、あな清げと見えたり。大炊御門中将冬輔と言ひしにや、装束先のに変はらず。狩衣はから織物なりき。花山院の中将家長、右大将の御子、魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫ひ物にしたり。紅の打衣を輝くばかりだみ返して、萌黄の匂の三衣・紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫ひ物にしたる、珍しく美しく見ゆ。花山院の少将忠季は師継の御子也、桜の結び狩衣、白き糸にて水を隙無く結びたる上に、桜柳を、それも結びてつけたる、なまめかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文をおく。紅の二衣・同じ単・紫の指貫、これも柳桜を縫ひ物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮少将公重実藤の大納言の子、唐織物の桜萌黄の狩衣・紅の打衣・紫の匂の三衣・紅の単、指貫例の紫に桜を白く縫ひたり。
P142
堀川の少将基俊基具の大納言の子、唐織物、裏山吹、三重の狩衣、柳だすきを青く織れる中に桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみつけにして、輪違へを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂つつじの三衣、紅の三重の単、これも箔ちらす。二条の中将経良良教の大納言の御子也、これも唐織物の桜萌黄・紅の衣・同じひとへなり。皇后宮権亮中将実守、これも同じ色の樺桜の三衣・紅梅の〔匂の〕三重の単、右馬頭隆良隆親の子にや、緑苔の赤色の狩衣、玉のくくりを入れ、青き魚綾の表着・紅梅の三衣・同じ二重の単・薄色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣・紅の打衣・紫の二衣、これも色々の縫ひ物・おき物など、いとこまかになまめかしくなしたり。陵王の童に、四条の大納言の子、装束常の儘なれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意気色、いみじくもてつけて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙は公秋・宗実、篳篥は兼行、太鼓は教実、鞨鼓はあきなり、三の鼓はのりより、
P143
左万歳楽、右地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右落蹲、左春鴬囀、右古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も実冬舞ひ給ひしにや。暮れかかる程にて、何のあやめも見えずなりにき。御たかだか宮達、あかれ給ひぬ。
同じ二月十七日に、又、新院富の小路殿にて舞御覧。其の朝、大宮院先づ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は、日たけてなる。冷泉殿より只はひ渡る程なれば、楽人・舞人、今日の装束にて、上達部など皆歩み続く。庇の御車にて、御随身十二人、花を折り錦を立ち重ねて、声々、御さき花やかに追ひ罵りて、近く候ひつる、二無く面白し。新院は、御烏帽子直衣・御袴際にて、中門にて待ち聞こえさせ給ひつる程、いと艶にめでたし。御車中門に寄せて、関白殿、御佩刀取りて、御匣殿に伝へ給ふ。二重織物の萌黄の御几帳のかたびらを出だされて、色々の平文の衣共、物の具は無くて押し出ださる。今日は正親町の院も御堂の隅の間より御覧ぜらる。
大臣・上達部、有りしに変はらず。猶参り加はる人は多けれど、洩れたるは無し。
P144
実冬、今日は、花田うら山吹の狩衣、二重うち萌黄など、思ひ思ひ心々に、前には皆引きかへて、様々尽くしたり。基俊の少将、此の度は、桜萌黄の五重の狩衣・紅の匂の五衣、打衣は〔やりつき、〕山吹の匂、浮織物の三重のひとへ・紫の綾の指貫、中に勝れてけうらに見え給へり。此の度は、多く緑苔の衣を着たり。万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池の汀に桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲など有り。日暮らし面白く罵りて、帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出ださる。右大将取りて、院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は、実俊の中将とかねては聞こえしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛殿の前の関白殿の御子三位中将と聞こゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、此の試楽より先なりしにや、内々白河殿にて試み有りしに、父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いと美しう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしけり。
かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍と言ふ事起こりて、御賀止まりぬ。人々口惜しく、
P145
本意無しと思すこと限り無し。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと、公家・武家、只此の騒ぎなり。されども、程無く鎮まりて、いとめでたし。
かくて、今上の若宮、六月二十六日親王の宣旨有りて、同じき八月二十五日、坊にゐ給ひぬ。かく花やかなるにつけても、入道殿はあさましく思さる。故大臣の先だち給ひし歎きに沈みてのみ物し給へど、「かかる世の気色を、賢く見給はぬよ」と思しなぐさむ。中宮は、御服の後も参り給はず。万引きかへ、物怨めしげなる世の中なり。
一院は、御本意をとげ給はん事をやうやう思す。其の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多く参り集ふ。御歌合有りしかば、内の女房共召されて、色々の引き物、源氏五十四帖の心、様々の風流にして、上達部・殿上人までも分かち賜はす。院の御製、
我のみや影も変はらんあすか川同じふち瀬に月はすむとも
かねてより袖も時雨て墨染めの夕べ色ます峰の紅葉葉
P146
此の御歌にてぞ、御本意の事思し定めけりと、皆人、袖をしぼりて、声も変はりけり。あはれにこそ。民部卿入道為家、判ぜさせられけるにも、「身をせめ心をくだきて、かきやる方も侍らず」とかや奏しけり。
かくて神無月の五日、亀山殿へ御幸なる。今日を限りの御旅なれば、心異に整へさせ給ふ。新院も例のおはします。大宮・東二条院、一つ御車にて、同じく渡らせ給ふ。大宮女院は白菊の御衣、東二条院は青紅葉の八、菊の御小袿奉る。先づ、北野・平野の社へ御参りあれば、御随身共花を折り尽くし、今日を限りと、様あしきまで装束きあへり。両社にて、馬上げさせられけり。神もいかに名残多く見給ひけん。空さへうち時雨て、木の葉さそふ嵐も折知り顔に物悲しう、涙争ふ心地し給ふ人々多かるべし。中務の御子、「今日の袂さぞしぐるらん」と宣ひし御返し、中将、
袖ぬらす今日をいつかと思ふにも時雨てつらき神無月かな
やがて其の夜御髪おろし給ひぬ。御戒の師には、青蓮院の法親王参り給ふ。其の頃やがて、御逆修始めさせ給へば、其の程、女院色々の
P147
御捧持共奉り給ふ。今は弥法の道をのみもてなさせ給ひつつ、ある時は止観の談義、ある時は真言の深き沙汰・浄土の宗旨などをも尋ねさせ給ひつつ、万に御心通ひ暗からず物し給へば、何事も、前の世より賢くおはしましける程あらはれて、今行末も、げに頼もしく、めでたき御有様なり。
かくて今年も暮れぬ。又の年三月の一日、月花門院、俄に隠れさせ給ひぬ。法皇も女院も、限り無く思ひ聞こえさせ給ひつるに、いとあさまし。さるは誠にや有らん、又、人違へにや、とかく聞こゆる御事共ぞ、いと口惜しき。四辻の彦仁の中将、忍びて参り給ひけるを、基顕の中将、彼の御まねをして、又参り加はりける程に、あさましき御事さへ有りて、それ故隠れさせ給へるなど、ささめく人も侍りけり。猶さまでは有らじと思ひ給ふれど、いかが有りけん。
法皇は、又文永七年神無月の頃、御手づから書かせ給へる法華経一部、供養せさせ給ふ。御八講、名高く才勝れて賢き僧共を召しけり。世の中の人残り無く仕る。新院かねてより渡り給へり。さるべき御事とは申しながら、何につけても、御心ばへのうるはしくなつかしうおはしまして、院の思いたる
P148
筋の事は、必ず同じ御心に仕り、いささかも、いでやとうち思さるる一ふしも無く物し給ふを、法皇もいと美しう忝しと思されけり。第二日の夜に入りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物共参り集ふ。様々学び尽くし難し。内の御捧物は、紙屋紙に黄金を包みて、柳箱にすゑて、頭弁ぞ持ちたる。つぎに新院・女院達、宮々御方々、皆そなたざまの宮司・殿上人などもて続きたり。関白・大臣など座につき給ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自らの捧物を持ちて渡る。各心々にいどみ尽くして、様々をかしき中に、兵部卿隆親は、糸鞋をはきて、鳩の杖をつきて出でたり。此の杖をやがて捧物にとなりけり。銀にてひた打ちにして、先は黄金にて鳩をすゑたりけり。結願の日は、舞楽などいみじく面白くて過ぎぬ。又の年正月に、忍びて新院と御方わかちの事し給ふ。初めは法皇御負けなれば、御勝ちむかひに、上達部皆五節のまねをして、色々の衣あつづまにて、「思ひの津に船のよれかし」とはやして参る。新院引きつくろひて渡り給ふ。御酒
P149
いく返りと無く聞こし召さる。一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。かねの地盤に、銀の伏篭に、たき物くゆらかして、「山は富士の嶺いつ