増鏡


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校註 増鏡
(序)
二月(きさらぎ)の中の五日は、鶴(つる)の林(はやし)に薪(たきぎ)尽(つ)きにし日なれば、かの如来二伝(にでん)の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺(せいりやうじ)に詣(まう)でて、常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)など心のうちに唱(とな)へて、拝(をが)み奉(たてまつ)る。傍(かたはら)に、八十(やそぢ)にもや余(あま)りぬらんと見(み)ゆる尼(あま)ひとり、鳩(はと)の杖(つえ)にかゝりて参(まゐ)れり。とばかりありて、「たけく思(おも)ひたちつれど、いと腰(こし)痛(いた)くて堪(た)へ難(がた)し。今宵(こよひ)は、この局(つぼね)にうち休(やす)みなん。坊へ行(ゆ)きてみあかしの事などいへ」とて、具(ぐ)したる若(わか)き女房の、つき/゛\しき程(ほど)なるをば、返(かへ)しぬめり。
「釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)」とたび/\申(まう)して、夕日(ゆふひ)の花(はな)やかにさし入(い)りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端(は)近(ちか)く傾(かたぶ)きぬめる日かげかな。我身の上(うへ)の心地(ここち)こそすれ」とて、寄(よ)りゐたる気色、何(なに)となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近(ちか)く
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寄(よ)りて、「いづくより詣(まう)で給(たま)へるぞ。ありつる人の帰(かへ)り来(こ)ん程(ほど)、御伽(おんとぎ)せんはいかゞ」などいへば、「このわたり近(ちか)く侍れど、年のつもりにや、いと遙(はる)けき心地(ここち)し侍る、あはれになん」といふ。「さても、いくつにか成(なり)給(たま)ふらん」と問(と)へば、「いさ。よくも我ながら思(おも)ひ給(たま)へわかれぬ程になん。百(もゝ)とせにもこよなく余(あま)り侍(はべ)りぬらん。来(こ)し方(かた)行先(ゆくさき)、ためしも有(あ)り難(がた)かりし世の騒(さわ)ぎにも、この御寺ばかりは、恙(つつが)なくおはします。猶(なほ)、やむごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代(こだい)にみやびかなり。
年(とし)の程(ほど)など聞(き)くも、めづらしき心地(ここち)して、かゝる人こそ昔(むかし)物語(ものがたり)もすなれと、思(おも)ひ出(い)でられて、まめやかに語(かた)らひつゝ、「昔(むかし)の事の聞(き)かまほしきまゝに、年のつもりたらん人もがなと思(おも)ひ給(たま)ふるに、嬉(うれ)しきわざかな。少(すこ)しの給(たま)はせよ。おのづから古(ふる)き歌など書(か)き〔置き〕たる物の片(かた)はし見るだに、その世にあへる心地(ここち)するぞかし」といへば、〔うち〕すげみたる口(くち)うちほゝゑみて、「いかでか聞(きこ)えん。若(わか)かりし世に見聞(き)き侍(はべ)りし事は、こゝらの年比(としごろ)に、ぬばたまの夢ばかりだになくおぼほれて、何(なに)のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思(おも)へる
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気色なれば、いよ/\いひはやして、「かの雲林院(うんりんゐん)の菩提講(ぼだいかう)に参(まゐ)りあへりし翁(おきな)の言(こと)の葉をこそ、仮名(かんな)の日本紀にはすめれ。又かの世継(よつぎ)が孫(うまご)とかいひし、つくも髪(がみ)の物語(ものがたり)も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様(おんありさま)のやうなる人にこそ侍(はべ)りけめ。猶の給(たま)へ」などすかせば、さは心得(う)べかめれど、いよ/\口(くち)すげみがちにて、「そのかみは、げに人の齢(よはひ)も高(たか)く機(き)も強(つよ)かりければ、それに従(したが)ひて、魂(たましゐ)もあきらかにてや、しか聞(きこ)えつくしけむ。あさましき身は、いたづらなる年(とし)のみ積(つ)もれるばかりにて、昨日今日(きのふけふ)といふばかりの事をだに、目(め)も耳(みゝ)もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪(あや)しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧(らん)じ集(あつ)めけるふる事どもは、いかにぞ」といふ。
「いさ。たゞおろ/\見及(みおよ)びし物どもは、水鏡(みづかゞみ)といふにや。神武天皇の御代より、いとあらゝかにしるせり。その次(つぎ)には、大鏡(かゞみ)、文徳のいにしへより、後一条の御門(みかど)まで侍(はべ)りしにや。又世継(よつぎ)とか、四十帖(でう)の草子(さうし)にぞ、延喜より堀(ほり)川の先帝(せんてい)までは少(すこ)し細(こま)やかなる。又なにがしの大臣(おとど)の書(か)き給(たま)へると聞(き)き侍(はべ)りし今鏡(いまかゞみ)には、後一条より高倉院(たかくらのゐん)までありしなめり。誠(まこと)や、いや世継(よつぎ)は、隆信(たかのぶの)朝臣
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の、後鳥羽院(ごとばのゐん)の御位の御程(おんほど)までをしるしたりとぞ見え侍(はべ)りし。その後(のち)の事なん、いとおぼつかなくなりにける。おぼえ給(たま)へらむ所々までもの給(たま)へ。今宵(こよひ)誰(たれ)も御伽(おんとぎ)せん。かゝる人に会(あ)ひ奉(たてまつ)れるも、しかるべき御契あらん物ぞ」など語(かた)らへば、「そのかみの事は、いみじうたど/\しけれど、誠(まこと)に事(こと)のつゞきを聞(きこ)えざらんもおぼつかなかるべければ、たえ/゛\に少(すこ)しなん。ひが事ども多(おほ)からんかし。そはさし直(なほ)し給(たま)へ。いと傍(かたはら)いたきわざにも侍るべきかな。かの古(ふる)き事(こと)どもには、なぞらへ給(たま)ふまじう〔ぞ〕なん」とて、
愚(おろか)なる心や見(み)えん増鏡(ますかゞみ)古(ふる)き姿(すがた)に立(た)ちは及(およ)ばで
とわなゝかし出(い)でたるもにくからず、いと古代(こだい)なり。「さらば、今(いま)の給(たま)はん事をも、また書(か)きしるして、かの昔(むかし)の面影(おもかげ)にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今(いま)もまた昔(むかし)を書(か)けば増鏡(ますかゞみ)ふりぬる代々の跡にかさねん
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第一おどろのした
御門(みかど)始(はじ)まり給(たま)ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院(ごとばのゐん)と申(まう)すおはしましき。御諱(おんいみな)は尊成(たかひら)、これは高倉院(たかくらのゐん)第四の御子(みこ)、御母は七条院と申(まう)しき。修理大夫信隆(のぶたか)のぬしのむすめ也。高倉院(たかくらのゐん)御位の御時(おんとき)、后の宮の御方に、兵衛督(ひやうゑのかみ)の君とて仕(つか)うまつられし程(ほど)に、忍(しの)びて御覧(らん)じはなたずや有けん、治承四年七月十五日に生(む)まれさせ給(たま)ふ。その年(とし)の春の比(ころ)、建礼門院后宮(きさいのみや)と聞(きこ)えし御腹(おんはら)の第一の御子(みこ)、安徳天皇 三(みつ)に成(なり)給(たま)ふに位を譲(ゆづ)りて、御門(みかど)はおり給(たま)ひにしかば、平家の一族(ぞう)のみいよ/\時(とき)の花をかざし添(そ)へて、花やかなりし世なれば、掲焉(けちえん)にももてなされ給(たま)はず。又の年(とし)、養和元年正月十四日に、院さへかくれさせ給(たま)ひにしかば、いよ/\位などの御望(のぞ)み
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あるべくもおはしまさざりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙(はる)かなる西(にし)の海にさすらへ給(たま)ひにし後(のち)、後白河法皇、御孫の宮たちわたし聞(きこ)えて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ時、三の宮を次第のまゝに〔と〕思(おぼ)されけるに、法皇をいといたう嫌(きら)ひ奉(たてまつ)りて、泣(な)き給(たま)ひければ、「あなむつかし」とて、ゐてはなち給(たま)ひて、「四の宮こゝにいませ」との給(たま)ふに、やがて御膝(ひざ)の上に抱(いだ)かれ奉(たてまつ)りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠(まこと)の孫におはしけれ。故院(こゐん)の児(ちご)おひにも、まみなどおぼえ給(たま)へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四にて位につかせ給(たま)ひけり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣は、譲位の時必(かなら)ず渡(わた)る事なれど、先帝筑紫(つくし)に率(ゐ)ておはしにければ、こたみ初(はじめ)て三種の神器なくて、めづらしき例(ためし)に成(なり)ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱(はこ)ばかり帰(かへり)のぼりにけれど、宝剣は遂(つひ)に、先帝の海に入(い)り給(たま)ふ時(とき)、御身に添(そ)へて沈(しづ)み給(たま)ひけるこそ、いと口惜(くちを)しけれ。かくて此御門(みかど)、元暦(げんりやく)元年七月二十八日御即位、その程(ほど)の事、常(つね)のまゝなるべし。平家の人々、未(いま)だ筑紫(つくし)にたゞよひて、先帝と聞(きこ)ゆるも御兄(このかみ)なれば、かしこに伝(つた)へ聞(き)く人々の心地(ここち)、上下さこそはありけめと思(おも)ひやられて、いとかたじけなし。
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同年の十月二十五日に御禊(ごけい)、十一月十八日〔に〕大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基(すき)方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波国長田村とかやを、
神世よりけふのためとや八束穂(やつかほ)に長田(ながた)の稲(いね)のしなひそめけむ
御門いとおよすけて賢(かしこ)くおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治(ぶんぢ)二年十二月一日、御書始(ふみはじ)めせさせ給(たま)ふ。御年七なり。同(おな)じ六年、女御参(まゐ)り給(たま)ふ。月輪(つきのわの)関白殿の御女なり。后立(きさきだち)ありき。後(のち)には宜秋門院(ぎしうもんゐん)と聞(きこ)え給(たま)ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞(きこ)え給(たま)ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元服し給(たま)ふ。
同(おな)じき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給(たま)ひにし後(のち)は、御門(みかど)ひとへに世(よ)をしろしめ〔し〕て、四方(よも)の海波(なみ)靜(しづ)かに、吹(ふ)く風(かぜ)も枝を鳴(な)らさず、世治(おさ)まり民安(やす)くして、あまねき御うつくしびの浪、秋津(あきつ)島の外まで流(なが)れ、しげき御恵(めぐ)み、筑波(つくば)山のかげよりも深(ふか)し。よろづの道々(みちみち)に明(あき)らけくおはしませば、国に才(ざえ)ある人多(おほ)く、昔(むかし)に恥(は)ぢぬ御代にぞ有ける。中にも、敷(しき)島の道(みち)なん、すぐれさせ給(たま)ひける。御歌かず知(し)らず人の口(くち)にある中(なか)にも、
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奥山(おくやま)のおどろの下(した)も踏(ふ)みわけて道ある世ぞと人に知(し)らせん
と侍(はべ)るこそ、まつり事大事と思(おぼ)されける程(ほど)しるく聞(き)こえて、いといみじくやむ事なくは侍れ。
建久九年正月十一日、第一の御子(みこ)土御門院 四になり給(たま)ふに、御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ひて、おり〔ゐ〕給(たま)ふ。御年十九。位におはしますこと十五年なりき。今日明日(けふあす)、二十(はたち)ばかりの御齢(よはひ)にて、いとまだしかるべき御事なれども、よろづ所せき御有様(おんありさま)よりは、中々やすらかに、御幸(ごかう)など御心のまゝならんとにや。世をしろしめす事は今(いま)もかはらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給(たま)ひて、常(つね)に渡(わた)り住(す)まはせ給(たま)へど、猶又水無瀬(みなせ)といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しば/\通(かよ)ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊(あそ)びをのみぞし給(たま)ふ。所がらも、はる/゛\と川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合(あ)はせられしにも、とりわきてこそは、
見渡(わた)せば山もとかすむ水無瀬(みなせ)川夕は秋と何(なに)思(おも)ひけむ
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かやぶきの廊(らう)・渡殿(わたどの)など、はる/゛\と艶(えん)にをかしうせさせ給(たま)へり。御前の山より滝(たき)落(お)とされたる石のたゝずまひ、苔(こけ)深(ふか)き深山木(みやまぎ)に枝にさしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞(ほら)なり。前栽(せんざい)つくろはせ給(たま)へる比、人々あまた召(め)して、御遊(あそ)びなどありける後、定家の中納言、未(いま)だ下臈(げらふ)なりける時に、奉(たてまつ)られける。
ありへけむもとの千年(とせ)にふりもせで我君ちぎる峰の若松
君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こす数は千世も見(み)えけり
今(いま)の御門の御諱(おんいみな)は為仁と申(まう)しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕(つか)うまつれる程(ほど)に、この御門生(む)まれさせ給(たま)ひて後には、内大臣通親(みちちか)の御子になり給(たま)ひて、末(すゑ)には承明門院と聞(きこ)えき。かの大臣(おとど)の北方の腹にておはしければ、もとより〔は〕、後(のち)の親(おや)なるに、御幸(おんさいはひ)さへひき出(い)で給(たま)ひしかば、誠(まこと)の御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日に御禊、十一月二十二日は例(れい)の大嘗会なり。元久二年正月三日御冠(かうぶり)し給(たま)ひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父(ちゝ)御門よりは、少(すこ)しぬるくおはしましけれど、御情(おんなさけ)深(ふか)う、物のあはれ
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など聞(き)こし召(め)しすぐさずぞありける。
今(いま)の摂政は、院の御時の関白基通の大臣(おとゞ)。その後(のち)は後京極殿良経と聞(きこ)え給(たま)ひし、いと久(ひさ)しくおはしき。此大臣(おとゞ)はいみじき歌の聖(ひじり)にて、院の上同(おな)じ御心に、和歌の道(みち)をぞ申(まう)しおこなはせ給(たま)ひける。文治の比、千載集ありしかど、院未(いま)だきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを当帝位の御程(おんほど)に、又集(あつ)めさせ給(たま)ふ。土御門の内の大臣(おとど)の二郎君右衛門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位・定家の中将・家隆・雅経などにの給(たま)はせて、昔(むかし)より今(いま)までの歌を、ひろく集(あつ)めらる。おの/\奉(たてまつ)れる歌を、院の御前にて、身づからみがき整(とゝの)へさせ給(たま)ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞(きこ)えつる摂政殿、とりもちて行(おこ)なはせ給(たま)ふ。大かた、いにしへ奈良(なら)の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、万葉集を撰(えら)びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則(とものり)・貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)・忠岑(たゞみね)。天暦のかしこかりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、未(いま)だ蔵人(くらうどの)少将など聞(きこ)えけるころ、和歌所の別当とかやにて、梨壷(なしつぼ)の五人におほせられて、後撰集は集(あつ)められけるとぞ、ひが聞き(ぎゝ)にや侍らん。その後(のち)、拾遺抄は、花山の法皇
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の身づから撰ばせ給(たま)へるとぞ。白川院位の御時は、後拾遺集、通俊(の)治部卿うけたまはる。崇徳院(しゆとくゐん)の詞花集は、顕輔三位えらぶ。又、白川院おりゐさせ給(たま)ひて後(のち)、金葉集かさねて俊頼朝臣におほせて撰(えら)ばせ給(たま)ひしこそ、初(はじ)め奏(そう)したりけるに、輔仁(すけひと)の親王の御なのりを書(か)きたる。わろしとてなほされ、又奉(たてまつ)れるにも、何事(なにごと)とかやありて、三度(たび)奏(そう)して後(のち)こそ納(おさ)まりにけれ。かやうの例(ためし)も、おのづからの事なり。をしなべて〔は〕、撰者のまゝにて侍(はべ)るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌(の)浦に降(を)り立(た)ちあさらせ給(たま)へば、誠(まこと)に心ことなるべし。
この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給(たま)ひしにも、すぐれたる限(かぎ)りを撰(えら)ばせ給(たま)ひて、その道(みち)の聖(ひじり)たち判じけるに、やがて院も加は(くはゝ)らせ給ながら、猶このなみには立(た)ち及(をよ)び難(がた)しと卑下(ひげ)せさせ給(たま)ひて、判の言(こと)葉をばしるされず、御歌にて優(まさ)り劣(おと)れる心ざしばかりをあらはし給(たま)へり。中々いと艶(えん)に侍(はべ)りけり。上(かみ)のその道を得(え)給(たま)へれば、下もおのづから時(とき)を知(し)る習(ならひ)にや、男(おとこ)も女も、この御世にあたりて、よき歌よみ多(おほ)く聞(きこ)え侍(はべ)りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後(のち)に、俊房(としふさ)の左の大臣(おとゞ)と聞(きこ)えし人の御末(すゑ)なれば、はやうはあて人なれ
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ど、官(つかさ)あさくてうち続(つゞ)き、四位ばかりにて失(う)せにし人の子也。まだいと若(わか)き齢(よはひ)にて、そこひもなく深(ふか)き心ばへをのみ詠(よ)みしこそ、いと有(あ)り難(がた)く侍(はべ)りけれ。この千五百番の歌合の時、院の上(うへ)のたまふやう、「こたみは、みな世に許(ゆ)りたる古(ふる)き道の者(もの)どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面(おもて)起(おこ)すばかり、よき歌つかうまつれ〔よ〕」とおほせらるゝに、面(おもて)うち赤(あか)めて、涙ぐみて候(さぶら)ひけるけしき、限(かぎ)りなき好(す)きの程(ほど)も、あはれにぞ見(み)えける。さてその御百首の歌(うた)、いづれもとり/゛\なる中に、
薄(うす)く濃(こ)き野辺のみどりの若(わか)草に跡まで見(み)ゆる雪の村消(ぎ)え
草の緑(みどり)の濃(こ)き薄(うす)き色にて、去年(こぞ)のふる雪の遅(おそ)く疾(と)く消(きえ)ける程(ほど)を、おしはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思(おも)ひ寄(よ)り難(がた)くや。この人、年(とし)つもるまであらましかば、げにいかばかり、目(め)に見えぬ鬼(おに)神をも動(うご)かしなましに、若(わか)くて失(う)せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、この度(たび)撰(えら)ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月二十六日、竟宴(きやうえん)といふ事、春日殿にて行(をこ)なはせ給(たま)ふ。いみじき世(よ)のひゞきなり。かの延喜の
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昔(むかし)おぼしよそへられて、院の御製、
いそのかみ古(ふる)きを今(いま)にならべこし昔(むかし)の跡を又尋(たづ)ねつゝ
摂政殿良経の大臣(おとゞ)、
敷島(しきしまや大和言(こと)の葉海にして拾(ひろ)ひし玉はみがかれにけり
次々、ずん流(なが)るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何(なに)となく明暮(あけく)れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二(の)宮御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。修明門院の御腹(おんはら)なり。この御子を、院かぎりなくかなしき物に思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)へれば、二(に)なくきよらを尽(つく)し、いつくしうもてかしづき奉(たてまつ)り給事なのめならず。終(つひ)に同(おな)じ四年十一月に、御位につけ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。もとの御門、ことしこそ〔は〕十六にならせ給(たま)へば、未(いま)だ遙(はる)かなるべき御さかりに、かゝるを、いとあかずあはれと思(おぼ)されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞(きこ)えて、近衛院をすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひし時は、御門(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひて、その夜になるまで、勅使を度々(たびたび)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつゝ、内侍所・剣璽(けんじ)などをも渡(わた)しかねさせ給(たま)へりしぞかし。さてその御憤(いきどを)りの末(すゑ)にてこそ、保元の乱(みだれ)もひき出(い)で給(たま)へりしを、
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この御門(みかど)は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思(おぼ)しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏(ゝら)し給(たま)はず。世にもいとあえなき事に思(おも)ひ申(まう)しけり。承明門院などは、まいて、いと胸(むね)痛(いた)く思(おぼ)されけり。其年の十二月(しわす)に、太上天皇の尊号あり。新院と聞(きこ)ゆれば、父の御門(みかど)をば、今は本院と申(まう)す。なを、御政事(まつりごと)はかはらず。今(いま)の御門は十四にぞなり給(たま)ふ。御諱(おんいみな)守成と聞(きこ)えしにや。建暦(けんりやく)二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時(おんとき)も仕(つか)うまつられたりし資実(すけざね)の中納言に、この度(たび)も悠紀(ゆき)方の御屏風の歌めさる。長楽(ながら)山、菅(すが)の根(ね)のながらの山の峯の松吹(ふ)きくる風(かぜ)も万代の声かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新(あたら)しく聞(きこ)えなすこそ、老のひが事ならめ。この〔御〕世には、いと掲焉(けちえん)なる事おほく、所々の行幸しげく、好(この)ましきさまなり。建保(けんぽう)二年、春日社に行幸ありしこそ、有(あ)り難(がた)き程(ほど)いどみつくし、おもしろうも侍(はべ)りけれ。さてその又の年(とし)、御百首の御歌よませ給(たま)ひけるに、去年(こそ)の事思(おぼ)しいでて、内の御製、
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春日(かすが)山こぞのやよひの花の香(か)にそめし心は神ぞ知(しる)らん
御心ばへは、新院よりも少(すこ)しかどめひ(い)て、あざやかにぞおはしましける。御才(ざえ)も、やまともろこし兼(か)ねて、いとやむごとなくものし給(たま)ふ。朝夕(あさゆふ)の御いとなみは、和歌の道(みち)にてぞ侍(はべ)りける。末(すゑ)の世に、八雲などいふ物つくらせ給(たま)へるも、この御門の御事なり。摂政殿のひめ君まいり給(たま)ひて、いと花やかにめでたし。この御腹(おんはら)に、建保二年十月十日、一の皇子(みこ)生(む)まれ給(たま)へり。いよ/\物あひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王(みこ)に成(なし)奉(たてまつ)り給(たま)ひて、同(おな)じ二十六日、坊にゐ給(たま)ふ。未(いま)だ御五十日(いか)だにきこしめさぬに、いちはやき御もてなし、めづらかなり。心もとなく思(おぼ)されければなるべし。今(いま)一しほ、世の中めでたく、定(さだ)まりはてぬるさまなめり。新院は、いでやと思(おぼ)さるらんかし。
かくて院の上(うへ)は、ともすれば水無瀬殿(みなせどの)にのみ渡(わた)らせ給(たま)ひて、琴笛(ことふえ)の音につけ、花紅葉の折々(をりをり)にふれて、よろづの遊(あそ)びわざをのみ尽(つ)くしつゝ、御心ゆくさまにて過(す)ごさせ給(たま)ふ。誠(まこと)に万世(よろづよ)もつきすまじき御世(よ)の栄(さか)へ、次々今(いま)よりいと頼(たの)もしげにぞ見えさせ給(たま)ふ。御碁うたせ給(たま)ふついでに、若(わか)き殿上人ども召(め)し
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て、これかれ心のひき/\に、いどみ争(あらそ)はさせ給(たま)へば、あるは小弓・双六(すぐろく)などいふ事まで、思(おも)ひ+に勝負(かちまけ)をさうどきあへるも、いとおかしう御覧じて、様々の興(けう)ある賭物(かけもの)ども取(と)う出(で)させ給とて、なにがしの中将を御使(つか)ひにて、修明門院の御方(かた)へ、「何(なに)にても、男(をのこ)どもにたまはせぬべからん賭物(かけもの)」と申(まう)させ給(たま)ひたるに、とりあへず、小(ちい)さき唐櫃(からびつ)の金(かな)物したるが、いと重(おも)らかなるを、参(まゐ)らせられたり。この御使(つか)ひの上(うへ)人、何(なに)ならんと、いといぶかしくて、片端(かたはし)ほのあけて見るに銭なり。いと心得(え)ずなりて、さと面(おもて)うち赤(あか)みて、あさましと思(おも)へる気色しるきを、院御覧(らん)じおこして、「朝臣こそ、むげに口惜(くちを)しくは有けれ。かばかりの事、知(し)らぬやうやはある。いにしへより、殿上の賭弓(のりゆみ)といふことには、これをこそかけ物にはせしか。されば、今(いま)、かけ物と聞(きこ)えたるに、これをしも出(い)だされたるならむ、いにしへの事知(し)り給(たま)へるこそ、いたきわざなれ」とほほゑみてのたまふに、「さはあしく思けり」と、心地(ここち)騒(さわ)ぎて思(おぼ)ゆべし。
大かた、この院の上(うへ)は、よろづの事にいたり深(ふか)く、御心も花やかに、物にくはしうぞおはしましける。夏の比、水無瀬(みなせ)殿の釣殿(つりどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、氷水(ひみづ)めして、
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水飯(すいはん)やうの物など、若(わか)き上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)どもに賜(たま)はさせて、大御酒(おほみき)参(まゐ)るついでにも、「あはれ、いにしへの紫(むらさき)式部こそはいみじくはありけれ。かの源氏の物語(ものがたり)にも、「近(ちか)き川のあゆ、西(にし)川より奉(たてまつ)れるいしぶしやうの物、御前に〔て〕調(てう)じて」と書(か)けるなむ、すぐれてめでたきぞとよ。たゞ今(いま)さやうの料理(れうり)仕(つか)〔う〕まつりてんや」などのたまふを、秦(はた)のなにがしと〔か〕いふ御随身(みずいじん)、勾欄(かうらん)のもと近(ちか)く候(さぶら)ひけるが、うけ給(たまはり)て、池のみぎはなる篠(さゝ)を少(すこ)し敷(し)きて、白(しろ)き米(よね)を〔水に〕洗(あら)ひて奉(たてまつ)れり。「拾(ひろ)はば消(き)えなん」とにや。これもけしかるわざかな」とて、御衣(ぞ)ぬぎてかづけさせ給(たま)ふ。御かはらけ度々(たびたび)きこしめす。その道(みち)にも、いとはしたなく物し給(たま)ふ。何事(なにごと)もあいぎやうづき、めでたく見えさせ給(たま)ふ御ありさま、千年(ちとせ)を経(ふ)とも飽(あ)く世あるまじかめり。
また、清撰の御歌合とて、限(かぎ)りなくみがかせ給(たま)ひしも、水無瀬(みなせ)殿にての事なりしにや。当座の衆議判なれば、人々の心地(ここち)、いとゞ置(お)き所なかりけむかし。建保二年九月の比、すぐれたる限(かぎ)りぬき出(い)で給(たま)ふめりしかば、いづれか愚(おろか)ならん。中にもいみじかりしことは、第七番に、左、院の御歌、
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明石潟(あかしがた)浦ぢ晴(は)れゆく朝(あさ)なぎに霧にこぎ入(い)るあまのつり舟
とありしに、北面(おもて)の中に、藤原秀能(ひでよし)とて、年比もこの道に許(ゆ)りたるすき物なれば、召(め)し加(くは)へらるゝ事常(つね)の事なれど、やむ事(ごと)なき人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過(す)ぎざりしに、この秀能九首まで召(め)されて、しかも院の御かたてにまいれり。さてありつるあまのつり舟(ぶね)の御歌の右に、
ちぎりをきし山の木の葉の下紅葉そめし衣(ころも)に秋風ぞ吹(ふ)く
と詠(よ)めりしは、その身の上(うへ)にとりて、長(なが)き世の面目(めいぼく)、何かはあらん、とぞ聞(きき)侍(はべ)りし。
昔(むかし)の躬恒(みつね)が、御階(はし)のもとに召(め)されて、「弓はりとしもいふ事は」と奏(そう)して、御衣(ぞ)給(たまはり)しをこそ、いみじき事にはいひ伝(つた)ふめれ。又、貫之(つらゆき)が家に、枇杷(びは)の大臣(おとゞ)、魚袋(ぎよたい)の歌の返し、とぶらひにおはしたりしをも、道の高名(かうみやう)とこそ、世継(よつぎ)には書(か)きて侍れ。近(ちか)き頃は、西行法師ぞ北面の者(もの)にて、世にいみじき歌の聖(ひじり)なめりしが、今(いま)の代の秀能(ひでよし)は、ほと/\古(ふる)きにも立(た)ちまさりてや侍らん。この度(たび)の御歌合、大かた、いづれとなくうち
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みだして、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(ゑ)り出(い)でさせ給(たま)ひしかば、各(おのおの)むら/\にぞ侍(はべ)りける。吉水(よしみづ)の僧正〔慈円〕と聞(きこ)えし、又たぐひなき歌の聖(ひじり)にていましき。それだに四首ぞ入(い)り給(たま)ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。この僧正、世(よ)にもいと重(おも)く、山の座主にて物し給事も年(とし)久(ひさ)しかりしその程に、やむごとなき高名数知(かずし)らずおはせしかば、あがめられ給さまも、二(に)なく物し給(たま)ひしかど、猶(なほ)、飽(あ)かず思(おぼ)す事やありけん。院に奉(たてまつ)られける長(なが)歌、
さてもいかにわしのみ山の月のかげ鶴(つる)の林(はやし)に入(い)りしより経(へ)にける年をかぞふれば二千年(ふたちとせ)をも過(す)ぎはてて後(のち)のいつゝの百(もゝ)とせになりにけるこそかなしけれあはれ御法(みのり)の水(みづ)のあはの消(き)え行(ゆく)ころになりぬればそれに心を澄(す)ましてぞわが山川にしづみゆく心あらそふ法(のり)の師はわれも+と青柳(あをやぎ)のいとところせくみだれきて花ももみぢも散(ち)りゆけば木ずゑ跡なきみ山辺の道(みち)にまよひて
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過(す)ぎながらひとり心をとゞむるもかひもなぎさの志賀(しが)の浦(うら)跡(あと)垂(た)れましし日吉(よし)のや神のめぐみをたのめども人のねがひをみつかはの流(なが)れもあさくなりぬべしみねの聖(ひじり)のすみかさえこけの下(した)にぞむもれゆくうちはらふべき人もがなあなうの花の世の中(なか)や春の夢路はむなしくて秋の木ずゑをおもふより冬の雪をもたれかとふかくてや今(いま)はあと絶(た)えむと思(おも)ふからにくれはとり怪(あや)しき夜(よる)のわが思(おも)ひ消(き)えぬばかりを頼(たの)みきて猶(なほ)さりともと花の香(か)にしゐ(ひ)て心をつくばやましげきなげきのねをたづねしづむむかしの魂(たま)をとひ救(すく)ふこゝろはふかくしてつとめ行(ゆく)こそあはれなれ深山(みやま)のかねをつく/゛\とわが君が世をおもふにもみねの松かぜ
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のどかにて千世に千(ち)とせをそふる程(ほど)法(のり)のむしろの花のいろ野にも山にもにほいてぞ人をわたさむはしとしてしばし心をやすむべき遂(つひ)にはいかゞあすか川あすより後やわが立(た)ちし杣(そま)のたつきのひゞきよりみねのあさ霧晴(は)れのきてくもらぬ空に立(た)ち帰(かへ)るべき
反歌
さりともとおもふ心ぞなを深(ふか)き絶(た)えで絶(た)え行(ゆく)山川の水
定家の中将、おりふし御前に候(候(さぶら))ひければ、これ返しせよとて、さし給(たま)はする、げに、いと疾く書(か)きて、御覧(らむ)ぜさせけり。
久かたの天地(あめつち)ともにかぎりなき天(あま)つ日つぎをちかひてし神もろともにまもれとて我たつ杣(そま)をいのりつゝむかしの人のしめてける峯の杉むら色かへずいく年々(としどし)をへだつとも八重のしら雲
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ながめやる宮この春をとなりにて御法(のり)の花もおとろへずにほはん物と思(おも)ひをきし末葉(すゑば)の露もさだめなきかやが下葉(したば)にみだれつゝもとの心のそれならぬうきふししげき呉(くれ)竹になく音をたつるうぐひすのふるすは雪にあらしつゝ跡絶(た)えぬべき谷(たに)がくれこりつむなげき椎柴(しゐしば)のしゐ(ひ)てむかしにかへされぬ葛(くず)のうら葉はうらむとも君は三笠(みかさ)の山たかみ雲井の空にまじりつゝ照日(てるひ)を世々(よゝ)に助(たす)けこし星(ほし)の宿(やど)りをふりすててひとり出(い)でにしわしのやまよにもまれなるあととめて深(ふか)き流(なが)れにむすぶてふ法(のり)の清水(しみづ)のそこすみてにごれる世(よ)にもにごりなしぬまの葦間(あしま)に影(かげ)やどす秋の中半(なかば)の月なればなを山の端(は)をゆきめぐり空吹(ふ)くかぜをあふぎてもむなしくなさぬ行(ゆく)すゑをみつの川なみ
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立(た)ちかへり心のやみをはるくべき日吉(よし)の御かげのどかにて君をいのらんよろづよに千代をかさねて松が枝(え)をつばさにならす鶴(つる)の子のゆづるよはひはわかの浦(うら)や今(いま)は玉もをかきつめてためしもなみにみがきをく我道(みち)までも絶(た)えせずば言(こと)の葉ごとのいろ/\に後みむ人も恋(こ)ひざらめかも
反歌
君を祈(いの)る心深(ふか)くば頼(たの)むらん絶(た)えてはさらに山川の水
新院も、のどかにおはしますまゝに〔は〕、御歌をのみ詠(よ)ませ給(たま)へど、よろづの事、もて出(い)でぬ御本性(じやう)にて、人々など集(あつ)めて、わざとあるさまには好(この)ませ給(たま)はず。建保の比、うち/\百首(の)御歌よみ給(たま)へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、いふかひなき児(ちご)の詠(よ)めるとて、つかはして見(み)せ給(たま)ひしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、
秋の色を送(おく)り迎(むか)へて雲の上になれにし月も物わすれすな
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とある所に、定家の君おどろきかしこまりて、裏書(うらがき)に、「あさましくはかられ奉(たてまつ)りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思(おも)ふらめ古(ふる)き涙も忘(わす)られぬ世(よ)を
と奏(そう)せられたり。院もえんありて御覧(らん)ずべし。げにいかゞ御心〔も〕動(うご)かずしもおはしまさむと、その世の事かたじけなくなむ。今(いま)も少(すこ)し、世の中(なか)隔た(へだゝ)れるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御有様(おんありさま)なめれとぞ。
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校註 増鏡
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第二 新島守(にひしまもり)
たけき武士(もののふ)の起(お)こりを尋(たづ)ぬれば、いにしへ田村、利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠(みみどほ)ければさしおきぬ。そのかみより今(いま)まで、源平(げんぺい)の二流(ふたなが)れぞ、時(とき)により折(をり)に従(したが)ひて、おほやけの御守(まも)りとはなりにける。桓武天皇と聞(きこ)えし御門(みかど)をば、柏原(かしはばら)の御門とも申(まう)しけり。その御子に式部卿の親王(みこ)と聞(きこ)えしより五代の末(すゑ)に、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)といふ人、維衡(これひら)・維時(これとき)とて、二人(ふたり)の子をもたりけり。間近(まぢか)く栄(さか)へし西八条の清盛の大臣(おとど)は、かの太郎維衡(これひら)より六代の末(すゑ)なりき。その一門(ひとつかど)亡(ほろ)びしかば、この頃(ごろ)は、僅(わづか)にあるかなきかにぞ、さまよふめる。さてかの維時が名残(なごり)は、ひたすらに民と成(な)りて、平四郎時政といふ者(もの)のみぞ、伊豆(いづ)の国北条の郡(こほり)とかやにあ(ン)める。それ
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も維時には六代の末(すゑ)なるべし。
又源氏武者といふも、清和の御門(みかど)、あるは宇多院(うだのゐん)などの御後(おんのち)どもなり。二条院の御時、平治の乱(みだれ)に、伊豆の国(くに)蛭(ひる)が小島へ流(なが)されし兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、清和の御門(みかど)より八代の流(なが)れに、六条判官(はうぐわん)為義(ためよし)といひし者(もの)の孫なり。左馬頭(さまのかみ)義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣(おとど)、やう>栄花衰(おとろ)へんとて、後白河院(ごしらかはのゐん)をなやまし奉(たてまつ)りしかば、安(やす)からず思(おぼ)ほされて、かの頼朝を召(め)し出(い)でて、軍(いくさ)を起(おこ)し給ひしに、しかるべき時(とき)や至(いた)りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯(こがら)しに散(ち)りはてて、遂(つひ)にわたつ海(うみ)の底(そこ)のもくづと沈(しづ)みにし後、頼朝いよ>権(けん)をほどこして、さらに君の御後見(おんうしろみ)を仕(つか)うまつる。相模(さがみ)の国鎌倉(かまくら)の里(さと)といふ所に居(を)りながら、世をばたなごころの中に思(おも)ひき。みな人知(し)り給(たま)へることなれば、いまさらに申(まう)すも中々なれど、院の上(うへ)、位につかせ給(たま)ひしはじめより、世のかためと成(な)りて、文治元年四月、二の階(はし)をのぼりしも、八島(やしま)の内の大臣(おとど)宗盛を生捕(いけど)りの賞と聞(きこ)ゆ。建久の初(はじ)めつかた、都にのぼる。その勢(いきほ)ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊(あそ)びものどもまゐる。遠江(とほたふみ)の国(くに)橋本(はしもと)の宿に著(つ)きたるに、例(れい)の遊女、多(おほ)くえもいはず装束(さうぞ)き
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てまゐれり。頼朝うちほほゑみて、
橋本(はしもと)の君になにをか渡(わた)すべき
といへば、梶原(かぢはら)平三影時(かげとき)といふ武士、とりあへず、
ただ杣山(そまやま)のくれであらばや
いとあいだてなしや。馬鞍(むまくら)こんくくり物など運(はこ)び出(い)でてひけば、喜(よろこ)びさわぐ事かぎりなし。
その年(とし)の十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼(かね)たり。十二月(しはす)の一日(ついたち)ごろ、よろこび申(まうし)して、おなじき四日、やがて官(つかさ)をば返(かへ)し奉(たてまつ)る。この時(とき)ぞ、諸国の総追捕使(そうついぶくし)といふ事承(うけたまは)りて、地頭職(ぢとうしき)に、我が家の兵(つはもの)どもをなし集(あつ)めけり。此(この)日本国の衰(おとろ)ふる初(はじ)めは、これよりなるべし。さて東(あづま)に帰(かへ)りくだるころ、上下色々のぬさ多(おほ)かりし中に、年頃も祈(いの)りなどし給ひし吉水(よしみづの)僧正、かの長歌(ながうた)の座主、のたまひつかはしける。
あづまぢのかたに勿来(なこそ)の関の名は君を都に住(す)めとなりけり
御返し、頼朝、
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みやこには君に相坂(あふさか)近(ちか)ければ勿来(なこそ)の関は遠(とほ)きとを知(し)れ
その後(のち)も、又上(のぼ)りて、東大寺の供養に詣(まう)でたりき。〔かくて〕新院の御位のはじめつかた、正治元年正月十一日、東(あづま)にて頭(かしら)おろして、おなじき十三日、年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下(した)に用(もち)ゐられて、二十年(はたとせ)ばかりや過(す)ぎぬらん。
北の方(かた)は、さきに聞(きこ)えつる北条四郎時政が女(むすめ)なり。その腹(はら)に男(をのこ)二人(ふたり)あり。太郎をば頼家といふ。弟(おとうと)をば実朝と聞(きこ)ゆ。大将かくれて後(のち)、兄(あに)はやがてたち継(つ)ぎて、建仁元年六月二十二日従三位、おなじ日、将軍の宣旨を賜(たま)はる。又の年(とし)、左衛門督になさる。かかれども、すこしおちゐぬ心ばへなどありて、やう>兵(つはもの)どもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守(とほたふみのかみ)といひて、故大将のありし時(とき)より私(わたくし)の後見(うしろみ)なりしを、まいて今(いま)は孫の世なれば、いよ>身重(おも)く勢(いきほ)ひそふ事かぎりなく、うけばりたるさまなり。子〔二人(ふたり)〕あり。太郎は宗時、次郎(じらう)は義時といへり。次郎(じらう)は心もたけく魂(たましひ)まされるものにて、左衛門督をばふさはしからず思(おも)ひて、弟(おとうと)の実朝の君につき従(したが)ひて、思(おも)ひかまふる事などもありけり。督(かみ)は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病(やまひ)をさへして、建仁三年九月十六日、
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年(とし)二十二にて頭(かしら)おろす。世中(よのなか)残(のこ)りおほく、何事もあたらしかるべき程(ほど)なれば、さこそ口惜(くちを)しかりけめ。幼(をさな)き子の一万といふにぞ、世をば譲(ゆづ)りけれど、うけひく者(もの)なし。入道は、かの病(やまひ)つくろはんとて、鎌倉より伊豆(いづ)の国へ出(い)で湯(ゆ)あびに越(こえ)たりける程(ほど)に、かしこの修善寺といふところにて、遂(つひ)に討(う)たれぬ。一万もやがて失(うしな)はれけり。これは、実朝と義時と、一(ひと)つ心にてたばかりけるなるべし。
さて、今(いま)はひとへに、実朝、故大将の跡(あと)をうけつぎて、官(つかさ)・位(くらゐ)とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。おなじ六年、権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。その年(とし)やがて内大臣になりても、猶(なほ)大将もとのままなり。父(ちち)にもやや立まさりていみじかりき。この大臣(おとど)は、大かた、心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過(す)ぎて、武士(もののふ)のなびき従(したが)ふさまも父にも越(こ)えたり。いかなる時(とき)にかありけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも
とぞよみける。
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時政は建保三年にかくれにしかば、義時は跡(あと)をつぎけり。故左衛門督の子にて公暁(くげう)といふ大徳(だいとこ)あり。親(おや)の討(う)たれにし事を、いかでか安(やす)き心あらん。いかならむ時(とき)にかとのみ思(おも)ひわたるに、この内大臣、又右大臣にあがりて、大饗(たいきやう)など、めづらしく東(あづま)にて行(おこ)なふ。京より尊者をはじめ上達部(かんだちめ)・殿上人多(おほ)くとぶらひいましけり。さて、鎌倉(かまくら)に移(うつ)し奉(たてまつ)れる八幡の御社(みやしろ)に、神拝にまうづる、いといかめしきひびきなれば、国々の武士(ぶし)はさらにもいはず、都(みやこ)の人々も扈従(こせう)し〔たり〕けり。たち騒(さわ)ぎののしる者(もの)、見(み)る人も多(おほ)かる中に、かの大徳(だいとこ)、うちまぎれて、女のまねをして、白(しろ)き薄衣(うすぎぬ)ひき折(を)り、大臣(おとど)の車より降(お)るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首(くび)をうちおとしぬ。その程(ほど)のどよみいみじさ、思(おも)ひやりぬべし。かくいふは、承久元年正月二十七日なり。そこらつどひ集(あつ)まれる者(もの)ども、ただあきれたるよりほかの事なし。京にも聞(きこ)しめしおどろく。世中(よのなか)火を消(け)ちたるさまなり。扈従(こせう)に西園寺の宰相中将実氏も下(くだ)り給ひき。さならぬ人々も、泣(な)く>袖をしぼりてぞ上(のぼ)りける。
いまだ子もなければ、たち継(つ)ぐべき人もなし。事しづまりなん程(ほど)とて、故大臣(おとど)の母
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北の方(かた)二位殿政子といふ人、二人(ふたり)の子をも失(うしな)ひて、涙(なみだ)ほす間(ま)もなく、しをれ過(す)ぐすをぞ、将軍に用(もち)ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君だち一所(ひとところ)下(くだ)し聞(きこ)えて、将軍になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と、公経の大臣(おとど)に申しのぼせければ、あへなんと思(おぼ)すところに、九条左大臣殿の上(うへ)は、この大臣(おとど)の御女なり。その御腹(おんはら)の若君(わかぎみ)の、二つになり給(たま)ふを、下(くだ)し聞(きこ)えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんもおなじことと思(おぼ)して、定(さだ)め給ひぬ。
その年(とし)の六月に、東(あづま)に率(ゐ)て奉(たてまつ)る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのうちの御有さまは、ただ形代(かたしろ)などを祝(いは)ひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫(ごんのだいぶ)義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍に成(な)り給(たま)へるは、これぞ初(はじ)めなるべき。かの平家の亡(ほろ)ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後(のち)は、その御太刀(たち)あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今(いま)の若君(わかぎみ)の御事にこそありけめ。
かくて世(よ)をなびかししたため行(おこ)なふ事も、ほと>古(ふる)きには越(こ)えたり。まめやかにめざましき事も多(おほ)く成(な)りゆくに、院の上(うへ)、忍(しの)びて思(おぼ)したつ事などあるべし。近(ちか)く
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仕(つか)うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈(げらふ)・西面(にしおもて)などいふも、みなこのかたにほのめきたるは、あけくれ弓矢(ゆみや)兵仗(ひやうぢやう)のいとなみより外(ほか)の事なし。剣(つるぎ)などを御覧じ知(しる)事さへ、いかで習(なら)はせ給(たま)ひたるにか、道の者にもややたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定(さだ)めさせ給(たま)ふ。
かやうのまぎれにて、承久も三年になりぬ。四月二十日、御門降(お)りさせ給(たま)ふ。春宮四(よつ)にならせ給(たま)ふに譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。近頃(ちかごろ)、みなこの御齢(おんよはひ)にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末(ゆくすゑ)ならんかし。おなじき二十三日、院号の定(さだ)めありて、今(いま)降(お)りさせ給(たま)へるを、新院と聞(きこ)ゆれば、御兄(あに)の院をば中の院と申(まう)し、父(ちち)御門をば本院とぞ聞(きこ)えさする。この程(ほど)は、家実の大臣(おとど)〈 普賢寺殿の御子 〉関白にておはしつれど、御譲位の時(とき)、左大臣道家の大臣(おとど)〈 光明峯寺殿(くわうみやうぶじどの) 〉、摂政になり給(たま)ふ。かの東(あづま)の若君(わかぎみ)の御父(ちち)なり。
さても院の思(おぼ)し構(かま)ふる事、忍(しの)ぶとすれど、やう>もれ聞(きこ)えて、東(ひんがし)ざまにも、その心づかひすべかんめり。あづまの代官にて伊賀(いがの)判官光季(みつすゑ)といふ者(もの)あり。かつ>”かれを御勘事(かうじ)の由(よし)おほせらるれば、御方(みかた)に参(まゐ)る兵(つはもの)どもおしよせたるに、逃(の)がるべきやうなくて、腹(はら)切(き)りてけり。まづいとめでたしとぞ、院は思(おぼ)しめし
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ける。
東(あづま)にも、いみじうあわて騒(さわ)ぐ。「さるべくて身の失(う)すべき時(とき)にこそあんなれ」と思(おも)ふ物から、「討手(うつて)の攻(せ)め来(き)たりなん時(とき)に、はかなき様(さま)にてかばねをさらさじ、おほやけと聞(きこ)ゆとも、身づからし給(たま)ふ事ならねば、かつ我身の宿世(しゆくせ)をも見(み)るばかり」と思(おも)ひなりて、弟(おとうと)の時房(ときふさ)と泰時といふ一男と、二人(ふたり)をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて、都(みやこ)にのぼす。泰時を前(まへ)にすゑていふやう、「おのれをこの度(たび)都(みやこ)に参(まゐ)らする事は、思(おも)ふところ多(おほ)し。本意のごとく清き死をすべし。人に後(うし)ろを見(み)えなんには、親(おや)の顔(かほ)、又見(み)るべからず。今(いま)を限(かぎ)りとおもへ。いやしけれども、義時、君(きみ)の御ために後(うし)ろめたき心やはある。されば、横(よこ)ざまの死をせん事はあるべからず。心をたけく思(おも)へ。おのれうち勝(か)つものならば、二たびこの足柄(あしがら)・箱根山(はこねやま)は越(こ)ゆべし」など、泣(な)く>いひきかす。「まことにしかなり。又親(おや)の顔(かほ)拝(をが)む事もいとあやうし」と思(おも)ひて、泰時も鎧(よろひ)の袖をしぼる。かたみに今(いま)や限(かぎ)りにあはれに心ぼそげなり。
かくてうち出(い)でぬる又の日、思(おも)ひかけぬ程に、泰時ただひとり、鞭(むち)をあげて馳(は)せ
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きたり。父(ちち)、胸(むね)うちさわぎて、「いかに」と問(と)ふに、「いくさのあるべきやう、大かたのおきてなどをば、仰(おほせ)のごとく
その心をえ侍(はべ)りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先(さき)だてて、御旗(はた)をあげられ、臨幸(りんかう)の厳重(げんでう)なる事も侍らんに参(まゐ)りあへらば、その時(とき)の進退(しんだい)、いかが侍(はべ)るべからん。この一事をたづね申(まう)さんとて、ひとり馳(は)せ侍(はべ)りき」といふ。義時、とばかりうち案(あん)じて、「かしこくも問(と)へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿(こし)に向(むか)ひて弓を引(ひ)くことは、いかがあらん。さばかりの時(とき)は、かぶとをぬぎ弓の弦(つる)を切(き)りて、ひとへにかしこまりを申(まう)して、身をまかせ奉(たてまつ)るべし。さはあらで、君は都(みやこ)におはしましながら、軍兵を賜(たま)はせば、命を捨(す)てて千人が一人になるまでも戦(たたか)ふべし」と、いひもはてぬに急(いそ)ぎ立(た)ちにけり。
都(みやこ)にも思(おぼ)しまうけつる事なれば、武士(もののふ)ども召(め)しつどへ、宇治・勢多の橋(はし)もひかせて、敵(かたき)を防(ふせ)ぐべき用意(ようい)、心ことなり。公経の大将ひとりのみなむ、御孫のこともさる事にて、北の方、一条の中納言能保(よしやす)といふ人の女(むすめ)なり。其母北の方は、故
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大将のはらからなれば、一かたならず東(あづま)を重(おも)くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽(かろ)き事と、あぶながり給(たま)ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経(きよつね)・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐(かい)の宰相中将範茂など、つぎ>あまた聞(きこ)ゆれど、さのみはしるしがたし。軍(いくさ)に交(ま)じりたつ人々、このほかの上達部にも殿上人にも、あまたありき。
御修法(みしゆほふ)ども数(かず)知(し)らず行(おこ)なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時(とき)こそ頼(たの)もしきわざならめ。おの>心を致(いた)して仕(つか)うまつる。御身づからもいみじう念ぜさせ給(たま)ふ。日吉(ひよし)の社に忍(しの)びて詣(まう)でさせ給(たま)へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦(ねんず)し給ひて、御心のうちに、いかめしき願ども立(た)てさせ給(たま)ふ。夜すこし深(ふ)けしづまりて、御社(みやしろ)すごく、燈篭(とうろ)の光(ひかり)かすかなる程(ほど)に、をさなき童(わらは)の臥(ふ)したりけるが、にはかにおびえあがりて、院の御前にただまゐりに走(はし)りまゐりて、託宣(たくせん)しけり。「かたじけなくもかく渡(わた)りおはしまして、愁(うれ)へ給(たま)へば、聞(き)き過(す)ごしがたくは侍れど、一とせの御輿振(みこしぶ)りの時(とき)、情(なさ)けなく防(ふせ)がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨(うら)みて、陣のほとりにふり捨(す)て侍(はべ)りしかば、空(むな)しく馬牛のひづめにかかりし事は、いまに怨(うら)めしく思(おも)ひ給(たま)ふるにより、
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この度(たび)の御方人(かたうど)は、え仕(つか)うまつり侍(はべ)るまじ。七社の神殿を、金(こがね)銀(しろがね)にみがきなさんと承(うけたまは)るも、もはら受(う)け侍らぬなり」とののしりて、息(いき)も絶(た)えぬるさまに臥(ふ)しぬ。きこしめす御心地(ここち)、物に似(に)ずあさましう思(おぼ)さるるに、ただ御涙(なみだ)のみぞ出(い)でくる。過(すぎ)にしかた悔(くや)しう取(と)り返(かへ)さまほし。さま>”おこたりかしこまり申(まう)させ給(たま)ふ。山の御輿(こし)防(ふせ)き奉(たてまつ)りけん事、かならずしも身づから思(おぼ)しよるにもあらざりけめど、「責(せ)め一人に」といふらん事にやと、あぢきなし。中院は、あかで位をすべり給ひしより、言(こと)に出(い)でてこそ物し給(たま)はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒(さわ)ぎにも、ことにまじらせ給(たま)はざ(ン)めり。新院は、おなじ御心にて、よろづ軍(いくさ)の事などもおきておほせられたり。
いつの年(とし)よりも五月雨(さみだれ)晴(は)れ間(ま)なくて、富士川(ふじがは)・天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬(りゆうめ)もうち渡(わた)しがたければ、攻(せ)め上(のぼ)る武者(むしや)どもも、あやしくなやめり。かかれども、遂(つひ)に都に近(ちか)づく由(よし)、聞(きこ)ゆれば、君の御武者も出(い)でたつ。其勢(いきほ)ひ、六万余騎とかや。宇治(うぢ)・勢多(せた)へ分(わ)かちつかはす。世の中響(ひび)きののしるさま、言(こと)の葉も及(およ)ばずまねびがたし。あるは、深(ふか)き山へ逃(に)げこもり、遠(とほ)き世界(せかい)に落(お)ちくだり、すべて
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安(やす)げなく騒(さわ)ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱(みだ)れて思(おぼ)しまどふ。かねては猛(たけ)く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわただしく、色を失(うしな)ひたるさまども、頼(たの)もしげなし。六月十日あまりにや、いくばくの戦(たたか)ひだになくて、遂(つひ)にみかたの軍(いくさ)やぶれぬ。荒磯(あらいそ)に高潮(たかしほ)などのさし来(く)るやうにて、泰時と時房(ときふさ)と、乱(みだ)れ入(い)りぬれば、いはんかたなくあきれて、上下ただ物にぞあたりまどふ。
東(あづま)よりいひおこするままに、かの二人(ふたり)の大将軍はからひおきてつつ、保元の例(ためし)にや、院の上、都の外(ほか)に移(うつ)し奉(たてまつ)るべしと聞(きこ)ゆれば、女院・宮々、所々に思(おぼ)しまどふ事さらなり。本院は隠岐(おき)の国におはしますべければ、先(まづ)鳥羽殿へ、網代車(あじろぐるま)のあやしげなるにて、六月六日入(い)らせ給(たま)ふ。今日(けふ)を限(かぎ)りの御ありき、あさましうあはれなり。「物にもがなや」と思(おぼ)さるるもかひなし。その日やがて御髪(みぐし)おろす。御年(とし)四十に一二やあまらせ給(たま)ふらん。まだいとほしかるべき御程(ほど)なり。信実(のぶざね)の朝臣召(め)して、御姿(すがた)うつしかかせらる。七条院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)はんとなり。かくて、おなじき十三日に御船(ふね)に奉(たてまつ)りて、給(たま)ふ。遙(はる)かなる浪路をしのぎおはします御心地(ここち)、
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この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報(むく)ひにかとうらめし。
新院も佐渡国に移(うつ)らせ給(たま)ふ。まことや七月九日、御門(みかど)をもおろし奉(たてまつ)りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降(お)り給(たま)へるためしも、これや初(はじ)めなるらん。もろこしにぞ、四十五日とかや位(くらゐ)におはする例(れい)ありけるとぞ、唐(から)の書(ふみ)読(よ)みし人のいひし心地(ここち)する。それもかやうの乱(みだ)れやありけん。さて上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、それより下(しも)はた残(のこ)るなく、この事にふれにし類(たぐひ)は、重(おも)く軽(かろ)く罪(つみ)にあたるさま、いみじげなり。
中の院は初(はじ)めより知(しろ)しめさぬ事なれば、東(あづま)にもとがめ申(まう)さねど、父(ちち)の院、遙(はる)かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐(おそ)れありと思(おぼ)されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多(はた)といふ所にわたらせ給ひぬ。去年(こぞ)の二月(きさらぎ)ばかりにや、若宮(わかみや)いでき給(たま)へり。承明門院の御兄(せうと)に、通宗(みちむね)の宰相中将とて、若(わか)くて失(う)せ給ひし人の女(むすめ)の御腹(おんはら)なり。やがて、かの宰相の弟(おとうと)に、通方といふ人の家にとどめ奉(たてまつ)り給ひて、近(ちか)くさぶらひける北面の下臈(げらふ)
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一人、召次(めしつぎ)などばかりぞ、御供(とも)仕(つかうまつ)りける。いとあやしき御手輿(たごし)にて下(くだ)らせ給(たま)ふ。道(みち)すがら雪かきくらし風吹(ふ)き荒(あ)れふぶきして、来(こ)しかた行(ゆ)くさきも見えず、いと堪(た)へがたきに、御袖もいたく氷(こほ)りて、わりなき事多(おほ)かるに、
うき世にはかかれとてこそ生(む)まれけめことわり知(し)らぬ我涙かな
せめて近(ちか)き程(ほど)にと、東(あづま)より奏(そう)したりければ、後には阿波(あは)の国に移(うつ)らせ給ひにき。
さても、このたび世(よ)のありさま、げにいとうたて口惜(くちを)しきわざなり。あるは、父の王を失(うしな)ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説(と)き給(たま)ひためれ。まして、世下(くだ)りて後、唐土(もろこし)にも日の本(もと)にも、国を争(あらそ)ひて戦(たたか)ひをなす事、数(かぞ)へ尽(つ)くすべからず。それもみな、一ふし二ふしのよせはありけむ。もしは、すぢ異(こと)なる大臣、さらでも、おほやけともなるべききざみの、すこしの違(たが)ひめに、世(よ)に隔(へだ)たりて、その怨(うら)みの末(すゑ)などより、事起(お)こるなりけり。今(いま)のやうに、むげの民と争(あらそ)ひて、君の亡(ほろ)び給(たま)へるためし、この国には、いとあまたも聞(きこ)えざ(ン)めり。されば、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)
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の純友(すみとも)、康和の義親、いづれもみな猛(たけ)かりけれど、宣旨(せんじ)には勝(か)たざりき。保元に崇徳院の世(よ)を乱(みだ)り給ひしだに、故院〈 後白河(ごしらかは) 〉の、御位にてうち勝(か)ち給ひしかば、天照大神(あまてるおほむかみ)も、御裳濯川(みもすそがは)のおなじ流(なが)れと申(まう)しながら、猶、時(とき)の御門をまもり給(たま)はする事は、強(つよ)きな(ン)めりとぞ、古(ふる)き人々も聞(きこ)えし。又、信頼の衛門督(ゑもんのかみ)、おほけなく二条院をおびやかし奉(たてまつ)りしも、遂(つひ)に、空(むな)しきかばねをぞ、道のほとりに捨(す)てられける。かかれば、ふりにし事を思(おも)ふにも、猶さりとも、いかでか上皇今上あまたおはします王城の、いたづらに亡(ほろ)ぶるやうやはあらんと、頼(たの)もしくこそ覚(おぼ)えしに、かくいとあやなきわざの出(い)で来(き)ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷(まよ)ひの愚(おろ)かなる前(まへ)には、猶(なほ)いとあやしかりし。
四にて位につき給ひて、十五年おはしましき。降(お)り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶(なほ)天(あめ)の下は同(おな)じ事なりしかば、すべて卅八年が程(ほど)、この国のあるじとして、万機の政(まつりごと)を御心ひとつにをさめ、百(もも)の官(つかさ)を従(したが)へ給(たま)へりしその程(ほど)、吹(ふく)風の草木をなびかすよりも優(まさ)れる御ありさまにて、遠(とほ)きをあはれび、近(ちか)きを撫(な)で給(たま)ふ御めぐみ、雨のあしよりもしげければ、津の国(くに)のこやのひま
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なきまつり事をきこしめすにも、難波(なには)の葦(あし)の乱(みだ)れざらん事をおぼしき。藐姑射(はこや)の山の峯の松も、やう>枝をつらねて、千世に八千世をかさね、霞の洞(ほら)の御すまひ、いく春をへても、空行(ゆ)く月日の限(かぎ)り知(し)らずのどけくおはしましぬべかりける世(よ)を、あり>て、よしなき一ふしに、今(いま)はかく花の都をさへたち別(わか)れ、おのがちり>”にさすらへ、磯(いそ)のとま屋(や)に軒(のき)を並(なら)べて、おのづからこととふ者(もの)とては、浦(うら)に釣(つり)するあま小舟(をぶね)、塩(しほ)焼(や)く煙(けぶり)のなびくかたをも、我ふる里(さと)のしるべかとばかり、ながめ過ぐさせ給(たま)ふ御住居(すまひ)どもは、それまでと月日を限(かぎ)りたらんだに、明日(あす)知(し)らぬ世(よ)のうしろめたさに、いと心細(ぼそ)かるべし。まいて、いつをはてとか、めぐりあふべき限(かぎ)りだになく、雲の波(なみ)煙(けぶり)の波のいくへとも知(し)らぬさかひに、代をつくし給(たま)ふべき御さまども、口惜(くちを)しともおろか也。このおはします所は、人離(はな)れ里遠(とほ)き島の中なり。海づらよりは少(すこ)しひき入(い)りて、山かげにかたそへて、大(おほ)きやかなる巌(いはほ)のそばだてるをたよりにて、松の柱(はしら)に葦(あし)ふける廊(らう)など、気色(けしき)ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵(いほり)のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給(たま)へり。水無瀬(みなせ)殿おぼし
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出(い)づるも夢のやうになん。はる>”と見(み)やらるる海の眺望(てうばう)、二千里の外(ほか)も残(のこ)りなき心地(ここち)する、いまさらめきたり。潮風(しほかぜ)のいとこちたく吹(ふ)き来(く)るをきこしめして、
我こそは新島(にひじま)もりよ隠岐(おき)の海の荒(あら)き浪かぜ心して吹(ふ)け
おなじ世に又すみの江の月や見(み)んけふこそよそに隠岐(おき)の島もり
年もかへりぬ。所々浦(うら)々、あはれなる事をのみ思(おぼ)しなげく。佐渡院、明(あけ)くれ御行(おこ)なひをのみし給ひつつ、猶(なほ)、さりともとおぼさる。隠岐(おき)には、浦よりをちのはる>”と霞(かす)みわたれる空をながめ入(い)りて、過(す)ぎにしかた、かきつくし思(おも)ほし出(い)づるに、行方(ゆくへ)なき御涙(なみだ)のみぞとどまらぬ。
うらやましながき日影の春にあひて潮(しほ)汲(く)むあまも袖やほすらん
夏になりて、かやぶきの軒端(のきば)に、五月雨のしづくいと所せきも、御覧(ごらん)じなれぬ御心地(ここち)に、さまかはりてめづらしくおぼさる。
あやめ吹(ふく)かやが軒端(のきば)に風過(す)ぎてしどろに落(お)つる村雨の露
初秋風(かぜ)のたちて、世の中いとど物悲(がな)しく露けさまさるに、いはんかたなくおぼしみだる。
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ふる里を別(わか)れぢにおふるくずの葉の秋はくれども帰る世(よ)もなし
たとしへなくながめしをれさせ給(たま)へる夕暮(ぐ)れに、沖(おき)のかたに、いと小(ちひ)さき木の葉の浮(う)かべると見えて漕(こ)ぎくるを、あまの釣舟(つりぶね)かと御覧(ごらん)ずる程(ほど)に、都(みやこ)よりの御消息(せうそこ)なりけり。すみぞめの御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒(よさむ)に思(おも)ひやり聞(きこ)えさせ給ひて、七条院より参(まゐ)れる御文(ふみ)、ひきあけさせ給(たま)ふより、いといみじく、御胸(むね)もせきあぐる心地(ここち)すれば、ややためらひて見給(たま)ふに、「あさましくも、かくて月日経(へ)にける事。今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ命(いのち)の中に、いま一度(ひとたび)、いかで見奉りてしがな。かくながらは、死出(しで)の山路も越(こ)えやるべうも侍らでなん」など、いと多(おほ)く乱(みだ)れ書(か)き給(たま)へるを、御顔(かほ)におしあてて、
たらちねの消(きえ)やらで待(ま)つ露の身を風よりさきにいかでとはまし
八百(やほ)よろづ神もあはれめたらちねの我待(ま)ちえんとたえぬ玉のを
初雁(はつかり)のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息(せうそこ)のみつねに奉(たてまつ)るを御覧ずるにつけても、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召(め)し加(くは)へられ、おほかた、歌の道につけて、むつまじく召(め)し使(つか)ひし人
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なれば、夜ひる恋(こ)ひ聞(きこ)ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨(すま)に参(まゐ)りけんも、かくやとおぼゆるまで、巻(ま)きかさねて書(か)きつらねまゐらせたる、「和歌所の昔(むかし)のおもかげ、かず>忘(わす)れがたう」など申(まう)して、つらき命(いのち)の今日(けふ)まで侍(はべ)る事の恨(うら)めしき由(よし)など、えもいはずあはれ多くて、
ねざめして聞(き)かぬを聞(き)きてわびしきは荒磯浪(あらいそなみ)の暁のこゑ
とあるを、法皇もいみじと思(おぼ)して、御袖いたくしぼらせ給(たま)ふ。
浪間なき隠岐(おき)の小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて
木枯(こがらし)の隠岐(おき)のそま山吹しをり荒(あら)くしをれて物おもふ頃(ころ)
をり>詠(よ)ませ給(たま)へる御歌どもを書(か)き集(あつ)めて、修明門院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。其中に、
水無瀬山(みなせやま)我がふる里(さと)は荒(あ)れぬらむまがきは野(の)らと人もかよはで
かざし折(を)る人もあらばや事とはん隠岐(おき)の深山(みやま)に杉(すぎ)は見(み)ゆれど
限(かぎ)りあればさても堪(た)へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて
かやうのたぐひ、すべて多(おほ)く聞(きこ)ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いま又思(おも)ひ
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出(い)でば、ついで求(もと)めてとて。



校註 増鏡

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第三 藤衣(ふぢごろも)
其の頃(ころ)、いと数(かず)まへられ給(たま)はぬ古宮(ふるみや)おはしけり。守貞(もりさだ)の親王(しんわう)とぞ聞(きこ)えける。高倉院(たかくらのゐん)第三の御子也。隠岐(おき)の法皇の御兄(このかみ)なれば、思(おも)へばやむごとなけれど、昔(むかし)、後白河(ごしらかは)の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣(な)き給(たま)ひしによりて、位にも即(つ)かせ給(たま)はざりしかば、世(よ)の中(なか)物怨(うら)めしきやうにて過(す)ごし給(たま)ふ。さびしく人目(ひとめ)まれなれば、年を経(へ)て荒(あ)れまさりつつ、草深(ふか)く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細(ぼそ)くながめおはするに、建保の頃、宮(みや)の内(うち)の女房の夢に、冠(かうぶり)したる物あまた参(まゐ)りて、「剣璽(けんじ)を入(い)れ奉(たてまつ)るべきに、各(おのおの)用意(ようい)して候(さぶら)はれよ」といふと見てければ、いと怪(あや)しう
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覚(おぼ)えて、宮に語(かた)り聞(きこ)えけれど、「いかでかさ程(ほど)の事あらん」と、思(おぼ)しもよらで、遂(つひ)に御髪(みぐし)をさへおろし給(たま)ひて、此(こ)の世の御望(のぞ)みは絶(た)ち果てぬる心地(ここち)して物し給(たま)へるに、此(こ)の乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、一院の御族(ぞう)は、皆(みな)様々(さまざま)にさすらへ給(たま)ひぬれば、おのづから小(ちひ)さきなど残(のこ)り給(たま)へるも、世にさし放(はな)たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東(あづま)よりのおきてにて、彼(か)の入道の親王(みこ)の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即(つ)け奉(たてまつ)る。父(ちち)の宮をば太上天皇になし奉(たてまつ)りて、法皇と聞(きこ)ゆ。いとめでたく、横(よこ)さまの御幸(さいは)ひおはしける宮なり。
孫王(そんわう)にて位に即(つ)かせ給へる例(ためし)、光仁天皇より後は絶(た)えて久(ひさ)しかりつるに、珍(めづら)しくめでたし。其の十二月(しはす)一日に御即位(そくゐ)、明くる年(とし)貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱(いみな)茂仁(もちひと)と申(まう)す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母、基家の中納言の女、北白河院(きたしらかはのゐん)と申しき。家実(いへざね)の大臣(おとど)、又摂政になり返らせ給(たま)ひて、万(よろづ)おきて宣(のたま)ふも、様々(さまざま)に引き返(かへ)したる世なりかし。又の年(とし)五月の頃、法皇かくれさせ給(たま)ひぬれば、天下(てんか)皆(みな)黒(くろ)み渡(わた)りぬ。上(うへ)
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も御服(ぶく)奉(たてまつ)る。きびはなる御程(ほど)に、いといみじうあはれなる御事な(ン)めり。
前(さき)の御門(みかど)は、四にて廃(はい)せられ給(たま)ひて、尊号などの沙汰(さた)だに無し。御母后東一条院も、山里(やまざと)の御住居(すまひ)にて、いと心細(ぼそ)くあはれなる世(よ)を、つきせず思(おぼ)し歎(なげ)く。此(こ)の宮は故摂政殿後京極(ごきやうごく)良経の姫君(ひめぎみ)にて物し給(たま)へば、歌の道(みち)にもいと賢(かしこ)う渡(わた)らせ給(たま)へど、大方(おほかた)奥(おく)深(ふか)うしめやかに重(おも)き御本性(ごほんじやう)にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給(たま)はず。御琴なども、限(かぎ)りなき音を引きとり給(たま)へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世(よ)もなく、あまりなるまで埋(う)もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限(かぎ)りなき御志の中に、飽(あ)かずなん思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ひける。彼(か)の遠(とほ)き御別(わか)れの後は、いみじう物をのみ思(おぼ)しくだけつつ、いよいよ沈(しづ)み臥(ふ)しておはしますに、古(ふる)く仕(つか)うまつりける女房の、里に篭(こも)り居(ゐ)たりけるもとより、あはれなる御消息(せうそこ)を聞(きこ)えて、十月一日の頃(ころ)、御衣がへの御衣(ぞ)を奉(たてまつ)りたりける御返事(かへりごと)に、
思(おも)ひ出(い)づるころもはかなし我も人も見(み)しにはあらずたどらるる世(よ)に
又、御手習(なら)ひのついでに、からうじて洩(も)れけるにや、
消(き)えかぬる命ぞつらき同(おな)じ世にあるも頼(たの)みはかけぬ契(ちぎり)を
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さこそは、げに思(おぼ)し乱(みだ)れけめ。おろかなる契(ちぎ)りだに、かかる筋(すぢ)のあはれは浅(あさ)くやは侍(はべ)る。いかばかりの御心の中にて過し給(たま)ふらんと、いと忝(かたじけ)なし。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、貞応(ぢやうおう)もうち過(す)ぎ、元仁・嘉禄・安貞(あんてい)などいふ年も程(ほど)なく変(か)はりて、寛喜元年になりぬ。此(こ)の程(ほど)は光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)道家又関白にておはす。此(こ)の御娘(むすめ)女御に参(まゐ)り給ふ。世の中めでたく花(はな)やかなり。これより先(さき)に、三条の太政大臣公房の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて后だちあり。いみじう時めき給(たま)ひしを、おしのけて、前の殿〔家実(いへざね)〕の御女、未(いま)だ幼(をさな)くておはする、参(まゐ)り給(たま)ひにき。これはいたく御覚(おぼ)えもなくて、三条の后(きさい)の宮(みや)、浄土寺とかやに引き篭(こも)りて渡(わた)らせ給ふに、御消息(せうそこ)のみ日に千度(せんたび)といふばかり通(かよ)ひなどして、世(よ)の中(なか)すさまじく思(おぼ)されながら、さすがに后だちはありつるを、父(ちち)の殿摂〓(せうろく)変(か)はり給(たま)ひて、今(いま)の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返(かへ)り給(たま)ひぬれば、又此(こ)の姫君(ひめぎみ)入内ありて、もとの中宮はまか(ン)で給(たま)ひぬ。珍(めづら)しきが参(まゐ)り給(たま)へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土(もろこし)には、三千人なども候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ、伝(つた)へ聞(き)くにも、しなじなしからぬ心地(ここち)すれど、いかなるにかあらん。後には各(おのおの)院号(ゐんがう)ありて、三条殿(さんでうどの)の后は安喜門院、中の度(たび)参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞(きこ)えける。今(いま)の女御もやがて后だちあり。藤壺(ふぢつぼ)わたり今(いま)めかしく住(す)みなし給(たま)へり。御はらからの姫君(ひめぎみ)も、かたちよくおはするに、引きこめ難(がた)しとて、内侍のかみになし奉(たてまつ)り給ふ。
同(おな)じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣(おとど)に譲(ゆづ)り聞(きこ)え給(たま)ひて、我が御身は大殿(おほとの)とて、后(きさい)の宮(みや)の御親(おや)なれば、思(おも)ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄(さか)え給ふ様(さま)、例(ためし)なき程(ほど)なり。東(あづま)の将軍、山(やま)の座主、三井寺(みゐでら)の長吏、山階寺(やましなでら)の別当、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)、皆(みな)此(こ)の殿(との)の君達(きんだち)にておはすれば、すべて、天下(てんか)はさながらまじる人少(すく)なう見えたり。いとよそほしく重々(おもおも)しげにて、内の御宿直所(とのゐどころ)などに、常(つね)はうちとけ候(さぶら)ひ給(たま)へば、関白殿、次々(つぎつぎ)の御子どもも大臣などにて、立(た)ち変(か)はり御前に絶(た)えず物し給(たま)ひて、世の政事(まつりごと)など聞(きこ)え給ふ。北の方(かた)は公経の大臣(おとど)の御女なれば、まして世の重(おも)く靡(なび)き奉(たてまつ)る様(さま)、いとやんごとなし。
誠(まこと)や、其の年十一月十一日、阿波(あは)の院かくれさせ給(たま)ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例(れい)ならず思(おぼ)されければ、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひにけり。ここら物をのみ思(おぼ)して、今年は三十七にぞならせ給(たま)ひける。今(いま)一度(ひとたび)、都(みやこ)をも御覧(ごらん)ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲(かな)しきを、隠岐(おき)の小島(こじま)にも聞(き)こしめし歎(なげ)く。承明門院(しようめいもんゐん)は、様々(さまざま)のうき事を見尽(つく)して、猶(なほ)ながらふる命(いのち)のうとましきに、又かく、同(おな)じ世をだに去(さ)り給(たま)ひぬる御歎(なげ)きの、いはん方(かた)なさに、「など先(さき)立(だ)たぬ」と、口惜(くちを)しう思(おぼ)しこがるる様(さま)、ことわりにも過(す)ぎたり。かしこにて召使(めしつか)ひける御調度(てうど)、何(なに)くれ、はかなき御手箱(てばこ)やうの物を、都(みやこ)へ人の参(まゐ)らせたりける中に、たまさかに通(かよ)ひける隠岐(おき)よりの御文、女院の御消息(せうそこ)などを、一(ひと)つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目(め)もきりふたがる心地(ここち)し給ふ。家隆(いへたか)の二位の女、小宰相と聞(きこ)えしは、おのづからけぢかく御覧(ごらん)じなれけるにや、人よりことに思(おも)ひ沈(しづ)みて、御服(ぶく)など黒(くろ)う染(そ)めけり。
うしと見(み)しありし別(わかれ)は藤衣やがて着(き)るべき門出(かどで)なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家(ていか)の中納言承(うけたまは)りて、撰集の沙汰(さた)ありつるを、此(こ)の程(ほど)御門(みかど)降(お)りさせ給ふべき由(よし)聞(きこ)ゆればにや、いととく十月二日奏(そう)せられける。一年(ひととせ)の内(うち)に奏(そう)せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞(きこ)ゆ。「元久に新古今出(い)で来(き)て後(のち)、程(ほど)なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続(つづ)きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍(はべ)りけるとかや。
さて同(おな)じき四日、降(お)り居(ゐ)させ給ふ。御悩(なや)み重(おも)きによりて也けり。去年(こぞ)の二月、后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)に、一の御子出(い)で来(き)給(たま)へりしかば、やがて太子に立(た)たせ給(たま)ひしぞかし。例(れい)の人の口(くち)さがなさは、彼(か)の承久の廃帝(はいたい)の、生(うま)れさせ給ふとひとしく坊に居(ゐ)給(たま)へりしは、いと不用(ふよう)なりしを」などいふめり。上(うへ)は降(お)りさせ給(たま)ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らず。大方、世(よ)も静(しづ)かならず。此(こ)の三年(みとせ)ばかりは、天変しきり地震(なゐ)ふりなどして、さとししげく、御慎(つつし)みおもきやうなれば、いかがおはしまさむと、御心ども騒(さわ)ぐべし。今上は二歳にぞならせ給(たま)ふ。あさましき程(ほど)の御いはけなさにて、いつくしき十善(じふぜん)の主(あるじ)に定(さだ)まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前(さき)の世ゆかしき御有様(ありさま)なり。昔(むかし)、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給(たま)へりし、いづれもいと心ゆかぬ例(ためし)なり。閑院殿の清涼殿(せいりやうでん)にて、まづ御袴(はかま)奉(たてまつ)る。十二月五日、御即位(そくゐ)はことなく果(は)てぬれば、めでたくて年も変(か)はりぬ。
中宮も御物(もの)の怪(け)に悩(なや)ませ給(たま)ひて、常(つね)はあつしうおはしますを、院はいとど晴(は)れ間(ま)なく
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思(おぼ)し歎(なげ)く。卯月の頃、年号改(あらた)まる。天福といふなるべし。其の同(おな)じ頃、中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、藻璧門院(さうへきもんゐん)とぞ聞(きこ)ゆなる。今年(ことし)も又例(れい)ならず悩(なや)ませ給(たま)へば、めでたき御事の数(かず)そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭(まつ)り祓(はら)へ、何(なに)くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程(ほど)近(ちか)くなりては、天(あめ)の下(した)やすき空なく、山々寺々社々、御祈(いの)りひびき騒(さわ)げども、御物(もの)のけこはくて、いみじうあさまし。遂(つひ)に、九月十八日に、かくれさせ給(たま)ひぬ。其の程(ほど)のいみじさ、推(お)し量(はか)りぬべし。今年(ことし)二十五にならせ給ふ。若(わか)く清(きよ)らに美(うつく)しげにて、盛(さか)りなる花の御姿(すがた)、時の間(ま)の露と消(き)え果て給(たま)ひぬる、いはん方(かた)なし。殿・上(うへ)思(おぼ)し惑(まど)ふ様(さま)、悲(かな)しともいへば更(さら)なり。院に候(さぶら)ふ民部卿の典侍(すけ)と聞(きこ)ゆるは、定家(ていか)の中納言の娘(むすめ)なり。此(こ)の宮の御方にも、け近(ぢか)う仕(つか)うまつる人なりけり。限(かぎ)りなく思(おも)ひ沈(しづ)みて、頭(かしら)おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問(と)へる御返事(かへりごと)に、
悲(かな)しさはうき世のとがとそむけども只(ただ)恋しさのなぐさめぞなき
当代(たうだい)の御母(はは)后にておはしつれば、天下(てんか)皆(みな)一(ひと)つ墨染(すみぞ)めにやつれぬ。此(こ)の御歎(なげ)き
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に、いよいよ院は沈(しづ)みまさらせ給(たま)ひて、うち絶(た)えて御湯(ゆ)などをだに御覧(ごらん)じいるる事なくて、月日(つきひ)つもらせ給(たま)へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残(のこ)りなく勤(つと)めののしる。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)、祭(まつ)り・祓(はら)へなど、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ちたり。又年号変(か)はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝(はいたい)、十七になり給(たま)へるも、五月二十日に失(う)せ給(たま)ひぬ。いと若(わか)き御程(ほど)に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐(おき)にも、うち続(つづ)きあはれなる事どもを、聞(き)こしめし歎(なげ)くべし。佐渡には、まして心うくあさましと思(おぼ)さる。此(こ)の御さしつぎの宮、猶(なほ)おはしますは、修明門院養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給ふめり。
かくいひしろふ程(ほど)に、院の御悩(なや)み日々に重(おも)くならせ給(たま)ひて、八月六日、いとあさましうならせ給(たま)ひぬ。世のおもしにておはしますべき事の、かくあへなき御有様(おんありさま)、口惜(くちを)しなど聞(きこ)ゆるもなのめなり。大方(おほかた)、御本性(ごほんじやう)も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美(うつく)しうととのほりて、二十(はたち)に三つばかりや余(あま)らせ給(たま)ふらん。若(わか)う盛(さか)りの御程(ほど)に、御才(ざえ)なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事(なにごと)につけても、いとあたらしうおはしませば、世の人の惜(を)しみ聞(きこ)ゆる様(さま)限(かぎ)り無し。只(ただ)くれ惑(まど)へる心地(ここち)どもなり。後堀川院とぞ申(まう)しける。故宮の御果て
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だに過(す)ぎず、又とり重(かさ)ねて、諒闇(りやうあん)の三年(みとせ)までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人(みなひと)思(おも)ふべし。御契(ちぎ)りの程(ほど)のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊(ごけい)・大嘗会(だいじやうゑ)なども、いとど延(の)びぬ。只(ただ)ここもかしこも、高(たか)きも下(くだ)れるも、都も遠(とほ)きも、島々(しまじま)も、涙(なみだ)にうき沈(しづ)みてぞ過し給(たま)ひける。
うち続(つづ)き、かくのみ世の中(なか)騒(さわ)がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変(か)はりて、嘉禎(かてい)元年といふ。誠(まこと)や、三月の末(すゑ)つかたより、〔洞院(とうゐん)の〕摂政殿〔教実〕重(おも)くわづらひ給ふ。故院の御位の程(ほど)より、大殿(おほとの)の、御譲(ゆづ)りにて、関白と聞(きこ)えしが、御門幼(をさな)くおはしませば、此(こ)の頃は摂政殿(どの)と申(まう)すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなく失(う)せ給(たま)ひぬれば、大殿(おほとの)の御歎(なげ)きたとへん方(かた)無し。二十六にぞなり給(たま)ひける。いと悲(かな)しくし給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)・若君(わかぎみ)など物し給ふをも、今(いま)は峰殿のみひとへにはぐくみ聞(きこ)え給(たま)ひけり。摂政にも、大殿(おほとの)立(た)ちかへり成(な)り給(たま)ひぬ。かくて三度(みたび)政事(まつりごと)ををさめ給(たま)ひぬるにや。北政所の御父(ちち)は、公経の大臣(おとど)なれば、彼(か)の殿と一(ひと)つにて、世(よ)は弥(いよいよ)御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改(あらた)まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会(だいじやうゑ)行(おこな)はる。
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様々(さまざま)めでたくもあはれにも色々(いろいろ)なる都の事どもを、ほのかに伝(つた)へ聞(き)こしめして、隠岐(おき)にはあさましの年(とし)のつもりやと、御齢(おんよはひ)に添(そ)へても、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きぐさのみしげりそふ慰(なぐさ)めには、思(おぼ)しなれにし事とて、敷島(しきしま)の道(みち)にのみぞ御心をのべける。都(みやこ)へも、たよりにつけつつ題を遣(つか)はし、歌を召(め)せば、あはれに忘(わす)れがたく恋ひ聞(きこ)ゆる昔(むかし)の人々、我(われ)も我(われ)もと奉(たてまつ)れるを、つれづれに思(おぼ)さるるあまりに、自(みづか)ら判じて御覧(ごらん)ぜられにけり。家隆(いへたか)の二位も、今(いま)まで生(い)ける思(おも)ひ出(い)でに、これをだにとあはれに忝(かたじけ)なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集(あつ)めて参(まゐ)らせける。昔(むかし)の秀能は、ありし乱(みだ)れの後(のち)、頭(かしら)おろして深(ふか)く篭(こも)り居(ゐ)たり。如願(によぐわん)とぞいひける。それも此(こ)の度(たび)の御歌合に召(め)せば、今更(いまさら)に、其のかみの事、さこそは思(おも)ひ出(い)づらめ。例(れい)のかずかずはいかでか。只(ただ)片端(かたはし)をだにとて、左、御製(ぎよせい)、
人心うつり果てぬる花の色(いろ)に昔(むかし)ながらの山の名もうし
右、家隆(いへたか)の二位、
なぞもかく思(おも)ひそめけん桜花山とし高(たか)く成(な)りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島(やそしま)かけてしるべせよ遙(はる)かに通(かよ)ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製(ぎよせい)、
軒端(のきば)あれて誰(たれ)か水無瀬(みなせ)の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆(いへたか)、
さびしさはまだ見(み)ぬ島の山里(やまざと)を思(おも)ひやるにもすむ心地(ここち)して
法皇御自(みづか)ら判の言葉(ことば)を書(か)かせ給(たま)へるに、「まだ見(み)ぬ島を思(おも)ひやらんよりは、年久(ひさ)しく住(す)みて思(おも)ひ出(い)でんは、今(いま)少(すこ)し志深(ふか)くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給(たま)へる、いとあはれにやさしき御事な(ン)めり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏(あみだぼとけ)の御勤(つと)めなどに、まぎらはしてぞおはします。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上(うへ)に涙ばかりぞ面(おも)がはりせぬ。
故郷(ふるさと)は入(い)りぬる磯(いそ)の草よ只(ただ)夕潮(ゆふしほ)満(み)ちて見らく少(すく)なき
此(こ)の浦に住(す)ませ給(たま)ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十(むそぢ)にてかくれさせ給(たま)ひぬ。今(いま)一度(ひとたび)都へ帰(かへ)らんの御志深(ふか)かりしかど、遂(つひ)に
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空(むな)しくてやみ給(たま)ひにし事、いと忝(かたじけ)なく、あはれに情(なさ)けなき世(よ)も、今更(いまさら)心うし。近(ちか)き山にて例(れい)の作法(さほふ)になし奉(たてまつ)るも、むげに人少(ずく)なに、心細(ぼそ)き御有様(おんありさま)、いとあはれになん。御骨をば、能茂(よしもち)といひし北面の、入道して御供(とも)に候(さぶら)ひしぞ、首(くび)にかけ奉(たてまつ)りて都に上(のぼ)りける。さて大原の法花堂(ほつけだう)とて、今(いま)も、昔(むかし)の御庄(みさう)の所々(ところどころ)、三昧料(さんまいれう)に寄(よ)せられたるにて、勤(つと)め絶(た)えず。彼(か)の法花堂(ほつけだう)には、修明門院の御沙汰(さた)にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿(みなせどの)を渡(わた)されけり。今(いま)はのきはまで持(も)たせ給(たま)ひける桐(きり)の御数珠(ずず)なども、かしこに未(いま)だ侍るこそ、あはれに忝(かたじけ)なく、拝(をが)み奉(たてまつ)るついでのありしか。始(はじ)めは顕徳院と定(さだ)め申(まう)されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃(ころ)ぞ、後鳥羽院(ごとばのゐん)とは更(さら)に聞(き)こえ直(なほ)されけるとなむ。



校註 増鏡

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第四 三神山
さても、源大納言(だいなごん)通方の預(あづ)かり奉(たてまつ)られし阿波(あは)の院の宮は、おとなび給(たま)ふままに、御心ばへもいときやうざくに、御かたちもいとうるはしく、けだかくやむごとなき御有様(おんありさま)なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思(おも)ひ聞(きこ)えけり。大納言(だいなごん)さへ、暦仁(りやくにん)の頃失(う)せにしかば、いよいよ真心(まごころ)に仕(つか)うまつる人もなく、心細(ぼそ)げにて、何(なに)を待(ま)つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思(おぼ)さるべし。御母(はは)は、土御門(つちみかど)の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若(わか)くて失(う)せにし人の御女なり。それさへかくれ給(たま)ひにしかば、宰相のはらからの姫君(ひめぎみ)ぞ、御乳母(めのと)のやうにて、瞿曇弥(けうどんみ)の釈迦仏養(やしな)ひ奉(たてまつ)りけん心地(ここち)して、おはしける。
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二にて父御門には別(わか)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、御面影(おもかげ)だに覚(おぼ)え給(たま)はねど、猶(なほ)此(こ)の世の中(なか)におはすと思(おぼ)されしまでは、おのづからあひ見(み)奉(たてまつ)るやうもやなど、人知(し)れず幼(をさな)き御心(こころ)にかかりて思(おぼ)し渡(わた)りけるに、十二の御年(とし)かとよ、かくれさせ給(たま)ひぬと伝(つた)へ聞(き)き給(たま)ひし後は、いよいよ世のうさを思(おぼ)しくんじつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院(しようめいもんゐん)は心苦(ぐる)しう悲(かな)しと見奉(たてまつ)り給(たま)ふ。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、仁治二年にもなりにけり。御門は今年(ことし)は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱(いみな)秀仁と聞(きこ)ゆ。其の年の十二月に、洞院(とうゐん)の故摂政殿教実の姫君(ひめぎみ)、九に成(な)り給(たま)ふを、祖父(おほぢ)の大殿(おほとの)、御伯父(をぢ)の殿原などゐ立(た)ちて、いとよそほしくあらまほしき様(さま)にひびきて、女御参(まゐ)り給ふ。父(ちち)の殿(との)一人(ひとり)こそ物し給(たま)はねど、大方(おほかた)の、儀式(ぎしき)万(よろづ)飽(あ)かぬことなくめでたし。上もきびはなる御程(ほど)に、女御もまだかく小(ちひ)さうおはすれば、雛遊(ひゐなあそ)びのやうにぞ見えさせ給ひける。天(あめ)の下はさながら大殿(おほとの)の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。
土御門(つちみかど)殿(どの)の宮は二十(はたち)にもあまり給(たま)ひぬれど、御冠(かうぶり)の、沙汰(さた)も無し。城興寺(じやうこうじ)の宮僧正真性と聞(きこ)ゆる、御弟子にと語(かた)らひ申しければ、さやうにもと思(おぼ)して、女院
にもほのめかし申(まう)させ給(たま)ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌(いさ)め聞(きこ)えさせ給(たま)ふ。其の冬の頃、宮いたう忍(しの)びて、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給ひ、御念誦のどかにし給(たま)ひて、少(すこ)しまどろませ給(たま)へるに、神殿の中に、「椿葉(ちんえふ)の影(かげ)二度(ふたたび)改(あらた)まる」と、いとあざやかにけだかき声(こゑ)にて、うち誦(ずん)じ給ふと聞(き)きて、御覧(ごらん)じあげたれば、明(あ)けがたの空澄(す)み渡(わた)れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかに見(み)えつる御夢ならんと怪(あや)しく思(おぼ)さるれど、人にも宣(のたま)はず。とまれかくまれと、いよいよ御学問(がくもん)をぞせさせ給ふ。
年もかへりぬ。春の初(はじ)めは、おしなべて、程々(ほどほど)につけたる家々(いへいへ)の身の祝など、心行(こころゆき)ほこらしげなるに、正月の五日より、内の上(うへ)例(れい)ならぬ御事にて、七日の節会にも、御帳(みちやう)にもつかせ給(たま)はねば、いとさうざうしく人々思(おぼ)しあへるに、九日の暁、かくれさせ給(たま)ひぬとて、ののしりあへる、いとあさましともいふばかり無し。皆人(みなひと)あきれまどひて、中々涙だに出(い)でこず。女御も未(いま)だ童遊(わらはあそ)びの御様(さま)にて、なに心なくむつれ聞(きこ)えさせ給(たま)へるに、いとうたていみじければ、うちしめり
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くんじてゐ給(たま)へる、いとをさなげにらうたし。大殿(おほとの)の御心の中、思(おも)ひやるべし。御兄(せうと)〈 左大臣忠家 〉の若君(わかぎみ)も殿上し給(たま)へる。只(ただ)御門の同(おな)じ御程(ほど)にて、騒(さわ)がしきまでの御遊(あそ)びのみにて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ひけるに、かいひそみて群(むら)がり居(ゐ)つつ、鼻(はな)うちかみ、うち泣(な)く人よりほかは無し。かくのみあさましき御事どものうち続(つづ)きぬるは、いかにも、彼(か)の遠(とほ)き浦々にて沈(しづ)み果(は)てさせ給(たま)ひにし、御歎(なげ)きどものつもりにやとぞ、世の人もささめきける。御悩(なや)みの始(はじ)めも、なべての筋(すぢ)にはあらず、あまりいはけたる御遊(あそ)びより、損(そこな)はれ給(たま)ひにけるとぞ。未(いま)だ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡(わた)らせ給(たま)はねば、世の中いかに成りゆかんずるにかと、たどりあへる様(さま)なり。
さてしもやはにて、東(あづま)へぞ告(つ)げやりける。将軍は大殿(おほとの)の御子(こ)、今(いま)は大納言(だいなごん)殿(どの)と聞(きこ)ゆ。御後見(おんうしろみ)は、承久に上(のぼ)りたりし泰時の朝臣なり。時房(ときふさ)の朝臣と一所にて、小弓(こゆみ)射(い)させ酒(さか)もりなどして、心とけたる程(ほど)なりけるに、「京よりの走(はし)り馬」といへば、何事(なにごと)ならんと驚(おどろ)きながら、使(つか)ひ召(め)し寄(よ)せて聞(き)くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席(むしろ)よりやがて神事始(はじ)めて、若宮(わかみや)の社にて、くじをぞとり
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ける。
其の程(ほど)、都には、いとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞(きこ)えければ、修明門院にも、御心時(とき)めきして、内々(うちうち)其の御用意(ようい)などし給ふ。承明門院(しようめいもんゐん)も、もしやなど、様々(さまざま)御祈(いの)りし給ふ。東(あづま)の使、都(みやこ)に入る由(よし)聞ゆる日は、両女院より白河(しらかは)に人を立(た)てて、いづ方へか参(まゐ)ると、見せられけるぞことわりに、げに今(いま)見ゆべき事なれども、物の心もとなきは、さおぼゆるわざぞかしと、例(れい)の口(くち)すげみてほほゑむ。
日(ひ)ぐらし待(ま)たれて、城介(じやうのすけ)義景(よしかげ)といふ者(もの)、三条河原にうち出(い)でて、「承明門院(しようめいもんゐん)のおはしますなる院はいづくぞ」と、彼(か)の院より立(た)てられたる青侍(あをざぶらひ)の、いと怪(あや)しげなるにしも問(と)ひければ、聞(き)く心地(ここち)、うつつとも覚(おぼ)えず。しかじかと申すままに、土御門(つちみかど)殿(どの)へ参(まゐ)りたれど、門はむぐら強(つよ)くかため、扉(とびら)もさびつき柱根(はしらね)くちて、開(あ)かざりけるを、郎等(らうどう)どもにとかくせさせて、内に参(まゐ)りて見まはせば、庭には草深(ふか)く、青き苔(こけ)のみむして、松風(まつかぜ)より外は、こたふるものなく、人の通(かよ)へる跡(あと)も無し。故通宗宰相中将の御弟(おとと)を子にし給(たま)へりし定通の大臣(おとど)ばかりぞ、何(なに)となく
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おのづからの事もやと思(おも)ひて、なえばめる烏帽子(えぼし)直衣(なほし)にて候(さぶら)ひ給(たま)ひけるが、中門に出(い)でて対面(たいめん)し給ふ。義景(よしかげ)は、切戸(きりど)の脇(わき)にかしこまりてぞ侍(はべ)りける。「阿波(あは)の院の御子、御位に」と、申(まう)し出(い)でぬ。院の中の人々、上下夢の心地(ここち)して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。
世の人の心地(ここち)、皆(みな)驚(おどろ)きあわてて、おし返(かへ)しこなたに参(まゐ)り集(つど)ふ馬車の響(ひび)き騒(さわ)ぐ世(よ)のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思(おぼ)しまさるべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入(い)れに、左大臣良実参(まゐ)り給(たま)ふ。理髪、頭弁定嗣仕(つか)うまつりけり。御諱(いみな)邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)へ移(うつ)らせ給(たま)ひて、閑院殿より剣璽(けんじ)など渡(わた)さる。践祚の儀式(ぎしき)、いとめづらし。
其の後(のち)こそ、閑院殿には追号の定(さだ)め、御わざの事など沙汰(さた)ありけれ。二十五日、東山の泉湧寺(せんゆうじ)とかやいふほとりにをさめ奉(たてまつ)る。四条院と申(まう)すなるべし。やがて彼(か)の寺に、御庄(みさう)など寄(よ)せて、今(いま)に御菩提(ぼだい)を祈(いの)り奉るも、前(さき)の世の故(ゆゑ)ありけるにや。此(こ)の御門、未(いま)だ物などはかばかしく宣(のたま)はぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なりける時(とき)、誰(たれ)とかや、「前(さき)の世はいかなる人にておはしましけん」と、只(ただ)何(なに)となく聞(きこ)えたりけるに、
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彼(か)の泉湧寺の開山の聖(ひじり)の名をぞ、たしかに仰せられたりける。又、人の夢にも、此(こ)の御門かくれさせ給(たま)ひて後、彼(か)の上人(しやうにん)、「我(われ)すみやかに成仏すべかりしを、由(よし)なき妄念(まうねん)を起(お)こして、今一度人界(にんがい)の生をうけて、帝王の位に至(いた)りて、かへりて我が寺を助(たす)けんと思(おも)ひしに、はたしてかくなん」とぞ見えける。誠(まこと)に、其の余執(よしう)の通(とほ)りけるしるしにや、御庄どもも寄(よ)りけむとぞ覚(おぼ)え侍る。
さて仁治三年三月十八日〔過(す)ぎて〕御即位(そくゐ)、万(よろづ)あるべき限(かぎ)りめでたくて過(す)ぎもて行(ゆ)く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣(おとど)兼経、摂政にていませしかば、其のままに、今(いま)の御代の始(はじ)めも関白と聞(きこ)えつれど、三月二十五日、左の大臣(おとど)〈 良実、二条殿の御家の始めなり 〉に渡(わた)りぬ。此(こ)の殿も、光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御二郎君なり。神無月(かみなづき)になりぬれば、御禊とて世(よ)の中(なか)ひしめきたつも、思(おも)ひよりし事かはとめでたし。大嘗会(だいじやうゑ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風、三神山(みかみやま)、菅(くわん)宰相(さいしやう)為長仕(つか)まつられける。
いにしへに名をのみ聞(き)きて求(もと)めけん三神の山はこれぞ其の山
主基方(すきがた)、風俗の歌、経光の中納言に召(め)されたり。
末(すゑ)遠(とほ)き千代の影(かげ)こそ久(ひさ)しけれまだ二葉なる岩崎(いはさき)の松
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当代(たうだい)かくめでたくおはしませば、通宗の宰相も左大臣従一位をおくられ給(たま)ふ。御女も后の位をおくり申(まう)されし、いとめでたしや。誠(まこと)や、此(こ)の頃、右大臣と聞(きこ)ゆるは、実氏の大臣(おとど)よ。其の御女、十八に成り給ふを、女御に立て奉(たてまつ)り給ふ。六月三日、入内あり。儀式(ぎしき)有様(ありさま)、二(に)なく清(きよ)らを尽(つ)くされたり。母(はは)北の方は、四条の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の女なり。女御の君、いとささやかに、愛敬(あいぎやう)づきてめでたく物し給(たま)へば、御覚(おぼ)えいとかひがひしく、万(よろづ)うちあひ、思(おも)ふ様(さま)なる世の気色、飽かぬ事無し。同(おな)じ年八月九日、后に立(た)ち給ふ。其の程(ほど)のめでたさ、いへば更(さら)なり。源大納言(だいなごん)の家に、無品親王(むほんしんわう)とて怪(あや)しう心細(ぼそ)げなりし程(ほど)には、たはぶれにも思(おも)ひより聞(きこ)え給(たま)はざりけんと、めでたきにつけても、人の口(くち)やすからず、さはとかく聞(きこ)ゆべし。



校註 増鏡

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第五 内野(うちの)の雪〔おほうち山とも〕
今(いま)后の御父(ちち)は、先(さき)にも聞(きこ)えつる右大臣=実氏の大臣(おとど)、其の父(ちち)、故公経の=太政大臣(おほきおとど)、其のかみ夢見給(たま)へる事ありて、源氏(げんじ)の中将わらはやみまじなひ給(たま)ひし北山のほとりに、世に知(し)らずゆゆしき御堂(みだう)を建(た)てて、名をば西園寺(さいをんじ)といふめり。此(こ)の所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給(たま)ひてけり。もとは、田畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、更(さら)にうち返しくづして、艶(えん)/なる園(その)に造(つく)りなし、山のたたずまひ木深(こぶか)く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙(なみだ)催(もよほ)しぬべく、心ばせ深(ふか)き所(ところ)の様(さま)なり。本堂は西園寺(さいをんじ)、本尊の如来/は誠(まこと)に妙(たへ)なる御姿(すがた)、生身(しやうじん)もかくやと、いつくしう
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あらはされ給(たま)へり。又、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此(こ)の不動(ふどう)は、津の国(くに)より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉(たてまつ)りて、さし歩(あゆ)みておはしたりき。其の簔笠(みのかさ)は宝蔵(ほうざう)にこめて、三十三年に一度出(い)ださるとぞ承(うけたまは)る。石橋(いしばし)の上には五大堂。成就心院といふは愛染王(あいぜんわう)の座さまさぬ秘法(ひほふ)とり行(おこな)はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟(けさ)数珠(ずず)の糸まで、同(おな)じ色にて侍るめり。又、法水院(ほすゐん)・化水院(けすゐん)、無量光院とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空(こくう)に現じ給(たま)へる御姿(すがた)も侍るめり。北の寝殿(しんでん)にぞ大臣(おとど)は住(す)み給(たま)ふ。めぐれる山の常盤木(ときはぎ)ども、いと旧(ふ)りたるに、なつかしき程(ほど)の若木(わかき)の桜(さくら)など植(う)ゑ渡(わた)すとて、大臣(おとど)うそぶき給(たま)ひけり。
山桜(やまざくら)峰にも尾にも植(う)ゑ置(お)かん見(み)ぬ世の春を人や忍(しの)ぶと
彼(か)の法成寺(ほふじやうじ)をのみこそ、いみじき例(ためし)に世継(よつぎ)もいひた(ン)めれど、これは猶(なほ)山の気色さへ面白(おもしろ)く、都(みやこ)はなれて眺望そひたれば、いはん方(かた)なくめでたし。峰殿の御舅(しうと)、東(あづま)の将軍の御祖父(おほぢ)にて、万(よろづ)世(よ)の中(なか)御心のままに、飽(あ)かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今(いま)の右の大臣(おとど)、をさをさ劣(おと)り給(たま)はず、世の
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おもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。
京には、様々(さまざま)めでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には、御悩と聞えし、程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみ、もしやなど思しよる事どもありしも、空しう隔たりのみ果てぬる世を、いと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく、御悩など重るやうにて、失せ給ひけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いと哀なる世の中なるべし。
 かくて年変(か)はりぬれば、寛元元年と聞ゆ。五月二十六日より、最勝講始めて行はる。関白を始め上達部、殿上人残りなく参り給ふ。左右大将 忠家実基 の車、陣に立つるとて、争ひののしりて、いみじう恐(おそ)ろし。右は上首、左は下臈にておはしければ、御前ども、かたみにひしめきて、あさましかりけり。されども相対へて立てて後ぞ、しづまりにける。又の日は、久我の前内大臣通光鳥羽の御家にて、八講し給(たま)ふとて、上達部多(おほ)くかしこに集(つど)ひ給ふ。大臣(おとど)は更にもいはず。堀川の大納言、具実 御子の通忠の大納言、土御門の大納言、顕定 通成の三位の中将、通行の宰相の中将
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など、すべて一門の人々、〓榔毛にておはして、多(おほ)く高欄につき給ふ。ほとほと、内の御八講にも劣らず見えたり。殿上人は、まして数しらず。雅通の大臣(おとど)の書きおき給へるものに、「公務の日なりとも、暇を申して、この八講にあふべし」とかや侍るなるに、誠に、かかるおほやけ事の折ふしも、猶さし合せておはし集(つど)ふ。いとやむごとなきわざな(ン)めり。猶末の代には、いかがあらんといぶかし。二十八日は、内(うち)の最勝講五巻の日にて、又、人々数(かず)を尽して参り給ふ。二十九日には、法性寺の浄光明院にて、普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の荘厳のめでたさ限りなし。誠(まこと)の浄土思ひやらるる様(さま)なり。ここもかしこも、この程は、尊き事のみ多(おほ)く、耳ぞ多(おほ)くほしかりける。
 誠(まこと)や、去年より、中宮は、いつしかただならずおはします。六月になりて、その程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日頃の御祈(いの)りにうちそへ、世の中ゆすり騒(さわ)ぐ。六月より、七仏薬師、五壇の御修法など始(はじ)まる。中壇は、桜井の宮 後鳥羽院の御子 勤めさせ給ふ。今出川の大臣(おとど)におはしませば、御家の殿ばら絶えず候ひ給ふ。十日の曙(あけぼの)より、その御気色あれば、殿の内立(た)ち騒(さわ)ぐ。白き
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御よそひに改めて、母屋に移(うつ)らせ給ふ。天の下ののしり立(た)ちて、馬車走りちがふ様、いとこちたし。内よりも御使ひなまし。寮の=御馬にて、雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々の気色(けしき)、いとわりなし。后の宮、いと苦しげにし給ひて、日たけゆくに、色々(いろいろ)の御物(もの)の怪(け)ども名のりいでて、いみじうかしがまし。大臣、北の方、いかさまにと御心惑ひて、思し歎く様(さま)、あはれに悲(かな)し。かやうのきざみは、高きも下れるも、おろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世の気色(けしき)をとり具(ぐ)して、いみじう思(おぼ)さるべし。内の御乳母大納言の二位殿おとなおとなしき内侍のすけなど、さるべき限り参り給へり。今日も猶、心もとなくて暮れぬれば、いと恐(おそ)ろしう思(おぼ)す。伊勢のみてぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使、四位五位数を尽(つく)して鞭をあぐる様(さま)、いはずともおしはかるべし。大臣、とりわき、春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
 内には、更衣腹(かういばら)に、若宮二所おはしませど、この事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ、平らかにおはしますとも、もし女宮ならばと、まがまがしき
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あらましは、かねて思ふだに、胸つぶれて口惜(くちを)し。かつは、我が御身の宿世、見ゆべききはぞかしと思(おぼ)して、大臣も、いみじう念じ給ふに、未の下(くだ)り、既にことなりぬ。まづ、何にかと、心騒(さわ)ぐに、宮の御兄公相の大納言、「皇子御誕生ぞや」と、いと高らかに宣(のたま)ふを、聞く人々の心地(ここち)、夜の明けたらんやうなり。父大臣(おとど)「誠(まこと)か」と宣(のたま)ふままに、よろこびの御涙ぞおちぬる。哀なる御気色と、見奉る人も、こといみしあへず。公相、公基、実雄、大納言三人、権の大夫実藤、大宮の中納言公持、皆御ゆかりの殿ばら、上(うへ)の衣(きぬ)にて候ひ給ふ。御修法ども、やがて結願すべしとて、僧ども法師ばらまで、したり顔に、汗おしのごひつつ、いそがしげにありくさへぞめでたき。月次の御神事なる上、今日、日(ひ)ついで心やましき事とかやにて、わざと奏し給はねど、御験者桜井の宮の僧正 覚仁法親王 をはじめ奉りて、次々(つぎつぎ)、皆、禄給(たま)ふ。法親王には、宮の御衣・大夫とりて奉り給ふ。宇治の前の僧には、公基の大納権、房意法印には、権の大夫公持
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かづけ給ふ。御馬は、各(おのおの)本坊に送られけり。又の日、月次の祭果てて、御はかし参(まゐ)る。勅使隆良なりき。
 十二日、三夜の儀式、本宮の御沙汰にて、いとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち、五位十人、六位十人ならびたつ。御ふみの博士光兼の朝臣、右衛門の権の佐資定、大外記師光など、寝殿の南おもての庭に立ちて、孝経の天子の章をぞよむ。上達部簀子に候(さぶら)ひ給ふ。朝の御湯果てて皆まかでて後、又、夕の御湯殿の儀式、さきのままにて、果てぬる後、寝殿の東南の間に、白き袖口どもおし出ださる。しろゑの五尺の屏風たてわたして、上達部よりすべて、響どもすゑわたす。公卿の座に、人々二行につき余(あま)る程なり。右大将実基、大夫公相、公基、実雄、以上大納言。中納言に、左衛門の督顕親、権の大夫実藤、公持、侍従の宰相資季、別当公光、左大弁の宰相経光、新宰相定嗣、右兵衛の督有資、新宰相の中将通行などつきたり。その座の末に、紫べりの畳に、殿上人中将実直朝臣を始めて、数しらず参(まゐ)れり。御前のものども、殿上の四位はこぶ。児御子の御衣の案二脚、はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫公相、朗詠、「嘉辰令月」
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と宣(のたま)へば、有資声くはへらる。又、「昭王」とおし重ねて出(いだ)さる。御声々宿徳(しゆうとく)に、あらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。
 十四日に、五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり。実基の大将殿 徳大寺 拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位の中納言良教、篳篥兼教朝臣、琵琶大夫公相、箏の琴権の大夫実藤、和琴有資、末の拍手も同(おな)じ人なりしにや、安名尊、鳥破、席田、伊勢海、万歳楽、三台急、例の事なり。かずかずめでたし。
 十六日、七夜の御産養、内よりの御沙汰なれば、今少し、儀式ことにていかめし。関白殿、右の大臣(おとど)、右大将、具実 大納言定雅、公相、公基、実雄。中納言には、例の人々、顕親、実藤、公持、資季、公光、経光、定嗣、三位の中将、通成 殿上人頭中将継師より始めて、残るは少(すく)なし。勅使蔵人の侍従宗基、目録もちて参れり。大夫対面し給ひて、白き御衣かづけ給ふ。本宮のものどもにも、内より禄給(たま)ふ。内膳司参(まゐ)りて、うるはしき作法にて、南殿より御膳参(まゐ)る様(さま)、日頃のには似ず、けだかうめでたし。
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その後、御遊(あそ)び始(はじ)まる。人々の所作、さのみは珍しげなくてとどめつ。
 九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年頃、思(おぼ)しむすぼほれつる女院の御心の中、名残なく胸あきて、めでたく思さるる事限(かぎ)りなし。閑院殿修理せらるる程とて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとどしげうさへ見奉らせ給ふに、御心ゆく事多(おほ)く、げにいみじき老の御栄(さか)えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞(きこ)ゆ。上(うへ)の同(おな)じ御腹におはすれば、万(よろづ)定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定(さだ)め侍るままに、陣より、上達部、皆ひきつれて、承明門院へ参(まゐ)る。大臣は御簾の内(うち)にて、女房の事どもなど、忍びやかにおきて宣(のたま)ひけり。
その夜、また、兵衛の内侍の御腹の若宮 宗尊親王の御事なり 御五十日の儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子程(ほど)こそおはせねど、これも、御門、わたくしものに、いといとほしう
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思(おぼ)す事なれば、御気色(けしき)にしたがひて、上達部、殿上人、いみじう参(まゐ)り集(つど)ふ。関白殿参(まゐ)り給ひて、くくめ奉り給(たま)ふ。陪膳は通成の三位中将、役送は家定朝臣仕うまつりける。人々の勧盃響などはなし。建久に、土御門院の御五十日きこしめしける例とぞ。
 かくて中宮の若宮は、その二十八日に親王の=宣旨あり。さて七月二十八日に、中宮も、今の宮も、内に参(まゐ)り給ふ。例の事なれば、かなたこなたの供奉、上達部、殿上人、数を尽(つく)して、古(ふる)き例(ためし)も、いと稀なる程(ほど)にぞ聞えける。宮は御輿、御子は青糸毛の御車、近衛の大将、検非違使の=別当をはじめて、ゆゆしき人々仕(つか)うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。後七月二日、内にて皇子の御五十日きこしめす。内蔵寮より事ども調じて参(まゐ)る。御膳の物、屯食、折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりて、上(うへ)こなたに渡らせ給ふ。御供に関白殿、堀川の大納言、具実 大夫、公相 左大将、忠家 関白の御子の三位の中将参(まゐ)り給ふ。上くくめ奉らせ給ふ様(さま)、いといとめでたし。同(おな)じ事のやうなれば、こまかには書かず。
かくて八月十日、すがやかに太子に立ち給ひぬ 後の深草院の御事なり 大臣(おとど)御心おちゐて、
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すずしくめでたう思す、ことわりなり。「大方かのいみじかりし世のひびきに、女御子にておはせましかば、いかにしほしほと、口惜しからまし。いときらきらしうて、さし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまれて、かたじけなう覚え給ふ」とぞ、年たくるまで、常は、大臣(おとど)人に宣(のたま)ひける。中頃はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりは、ことの外に、世にも重(おも)く、やむごとなう物し給ひつるに、この后の宮参(まゐ)り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ栄えまさり給ふ。行末おしはかられて、いとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かかる御末ども見給ふも、さこそは御心ゆくらめと、おしはかるもしるく、その年の十月七日かとよ、都を立ちて、熊野にまうで給ふ。作法のゆゆしさ、昔の古(ふる)き御代の御幸どもにも、やや立(た)ち勝る程にぞ侍りし。御子孫ひき具し給ふ。大納言に実雄、御子 公相、御孫公基、前藤大納言とありしは、為家の事にや。坊門前の大納言も、追従に、京出は〓従せられたり。大宮の中納言、公持 左の宰相の中将、実任 右兵衛の督、有資 殿上人は三十余人侍りけり。いといみじかりしことどもなり。 かくて、同(おな)じき十一月十一日は、土御門の院の御十三年とて、おほやけより、
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御法事行はるるもいとめでたし。金原にて御八講あるべければ、承明門院も、かねてより渡らせ給ふ。上達部、殿上人参り集(つど)ふ様(さま)こよなし。
 十二月一日は、石清水の社の行幸あり。当代には初めたる度なれば、万(よろづ)清らを尽(つく)さる。文治建久の例をまねばる。関白殿御馬にて仕うまつり給ふ。滝口十二人、馬ぞへに具し給ふ。色々(いろいろ)の綾錦、目も輝(かがや)くばかり立ち重ねたり。左右の大将 忠家実基 の番長、又心も詞も及ばず、いどみ尽(つく)したり。左大将のは馬にて前行、右大将のは張綱にて、移(うつ)し馬をひかせけるとぞ。左大将は、紅梅の二重織物の半臂下がさね、萌黄の織物の上(うへ)の袴、右大将は、うら山吹の半臂下がさね、左衛門の督は、梅がさねのうき織物の半臂下がさね、浮紋の上(うへ)の袴、殿上人は、花山院の中将通雅の君ばかりぞ、萌黄の上(うへ)の袴、うら山吹の半臂下がさね著給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は、例の上達部もたたれけり。笛二位の中納言、拍子左衛門の督(かみ)など勤められけり。かずかずめでたくて、又の日の午の時ばかりにぞ、帰らせ給ひける。
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 同(おな)じ五日、やがて賀茂の社に行幸し給ふ。関白殿、今日も御馬なり。上達部、殿上人、さきにいたく変らず。別当通成いみじうきらめかれたり。けさうじ給へるをぞ、「若き人なれども、検非違使の=別当、白きものつくる事やある」など、古(ふる)き人うちささめきけるとかや。春宮の大夫馬ぞへ八人具し給ひけり。権大納言実雄、土御門大納言顕定、権中納言公親、同=顕親、左衛門の督実藤など、いづれも清らにめでたし。殿上人、中将には実久の朝臣、為氏、実治、経定、顕良、基雅、通雅、通定、定平、実直、師継、雅継、輔通、雅家、雅忠。少将には、隆兼、公直、季実、為教、忠継、輔時、顕方、惟継、公為、資平朝臣、信通など、我劣らじど、華族も下臈も心ばかりはいどみ尽(つく)したり。申の時に、まづ下の宮に行幸、暮れ果てて、上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして、還御は明方にぞなりにける。霜いと白きに、たてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程も、いと面白(おもしろ)くぞ侍りける。
この行幸過ぎぬれば、天下の騒(さわ)ぎ、少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日 十二月六日 また仁和寺の御室、准后 観音寺にて灌頂し給ふとて、世の中ののしる
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様(さま)、いとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々、親王こそ伝へ給ふめれど、峰殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母上(ははうへ)の西園寺入道殿の御女に、准后をさへ譲り給ふとか聞えて、いとゆゆしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ、世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、仏母院におはす。関白殿は御兄なれば、ましておはします。右大臣殿、左大将殿、心ことにて参り給ふ。時なりて、大阿闍梨二品法親王道深輿にて渡(わた)り給ふ。喜多院の南の門より、上達部、殿上人歩み続きて、そこら参り集ふ。吉田の中納言為経、二条の中納言忠高、侍従の宰相、藤宰相、左の宰相の中将、左大弁経光、新宰相、みな列をひき、受者もみぎりにおり立(た)ち給へる、いと若(わか)う美しうて、地蔵菩薩に似給へるを、入道殿いと悲(かな)しと見奉り給ふ。紫の袈裟に、香炉もちて渡(わた)り給へば、もとより並び立てる上達部、皆礼をいたす気色、やむごとなく見ゆ。関白、左大将殿などの御随身ども、えもいはずきらめきて、階のもとにたてあかししろくして、なみ居たる気色(けしき)、めでたく面白(おもしろ)し。伝法の様(さま)は、人見ぬ事なれば知らず。教授は良恵僧正つとめられけり。かくて事果てぬれば、後朝の儀式猶(なほ)いみじ。法親王
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の御布施、被物五重(かさ)ね この内(うち)一つは織物 御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、綿一つつみ、関白殿とりて奉り給(たま)ふ。次々の衆僧には、大中納言ほどほどに随ふべし。導師の布施、久安、仁安など、又、建暦、寛喜などの度は、別当とりたりけれども、今日はその人参(まゐ)らねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は二十余人参(まゐ)る。万(よろづ)の事、人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて、今年もくれぬ。
 又の年寛元二年、東(あづま)の大納言頼経の君、一とせ二歳にて下り給ひし、峰殿の御子ぞかし。悩み給ふ由(よし)聞えしが、御子の六になり給ふに譲りて、都へ御かへりと聞ゆ。若君は、その日、やがて将軍の=宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名のり給ふ。泰時朝臣も、をとどし入道して、うまごの時頼の朝臣に世をば譲りしかば、この頃は、天の下の御後見は、此相模守時頼の朝臣仕(つか)うまつる。いみじう賢きものなれば、めでたき聞えのみありて、兵(つはもの)も靡き従ひ、大方(おほかた)、世もしづかに、をさまりすましたり。
 かくて寛元も四年になりぬ。正月二十八日春宮に御位を譲り申させ給ふ。この御門も、また四にぞならせ給ふ。めでたき御例どもなれば、行末も推し量られ給ふ。
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光明峰寺殿御三郎君、左大臣実経の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御兄の福光園院殿、もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人まで摂〓し給へる例(ためし)、ふるくは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿、その又御子ども中の関白殿、粟田殿、法成寺の入道殿、これふた度なり。近くは法性寺の御子ども、六条殿、松殿、月輪殿、これぞやがて、今の峰殿の御祖父(おほぢ)よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も、宣旨かうぶり給へりしばかりにて、七日にて失せ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ、今に絶えず。御流久しき藤なみにて、立ち栄(さか)え給へるこそ、たぐひなきやむごとなさな(ン)めれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政殿をば、後には円明寺殿とぞ聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。摂政にて二年ばかりおはしき。
女院の御父も、太政大臣になり給ひて、牛車ゆり給ふ。さるべき事といひながら、いとめでたし。その頃、北山の花の盛(さか)りに、院に奏し給(たま)ふ。その花につけ
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て、
 朽ちはつる老木にさける花桜身によそへても今日はかざさん
御返(かへ)しを忘れたるこそ口惜(くちを)しけれ。
かくて御即位御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの女の少将の内侍、大内の女工所に候(さぶら)ふに、雪いみじう日頃(ひごろ)降りて、いかめしう積りたる暁(あかつき)、太政大臣宣(のたま)ひ遣(つか)はしける、
 九重の大内山のいかならん限(かぎ)りも知らずつもる雪かな
御返(かへ)し、少将の内侍、
 九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道(みち)を見るかな
後嵯峨の院の上(うへ)は、いつしか所々に御幸しげう、御遊(あそ)びなど、めでたく、今めかしき様(さま)に好(この)ませ給ふ。西園寺に、はじめて御幸なりし様(さま)こそ、いと珍らかなる見物にて侍りしか。太政大臣御あるじ申されし様(さま)、いかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に、代々の御手本奉らるとて、大臣(おとど)、
 伝へきく聖(ひじり)の代々の跡を見て古きを移(うつ)す道ならはなん
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御返し、御製、
 知らざりし昔に今やかへりなんかしこき代々の跡ならひなば
 中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。安らかに、常は、一(ひと)つ御車などにて、ただ人のやうに、花やかなる事どものみ隙なく、万(よろづ)あらまほしき御有様なり。院の上(うへ)、石清水の社にまうでさせ給ひて、日頃(ひごろ)おはしませば、世の人残りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら、猶いみじう、御心にも、一年の事思し出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして、宝殿にこめさせ給ひし中に、
 石清水木がくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
宝治の頃、神無月二十日あまりなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部、殿上人、思ひ思ひ色々(いろいろ)の狩衣、菊紅葉の濃きうすき、縫物、織物、綾錦、すべて世になき清らを尽(つく)し騒(さわ)ぐ。いみじき見物なり。殿上人の船に、楽器をまうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、
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そぞろ寒き程(ほど)なるに、折知(をりし)り顔(がほ)に、空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どもの、色々(いろいろ)散りまがふ気色(けしき)、いひ知らず面白(おもしろ)し。女房の船(ふね)に、色々(いろいろ)の袖くち、わざとなくこぼれ出(い)でたる、夕日に輝(かかや)きあひて、錦(にしき)を洗(あら)ふ九の江かと見えたり。平等院に、中一日渡(わた)らせ給(たま)ひて、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事ども数(かず)知(し)らず。網代(あじろ)に氷魚(ひを)の夜(よる)もさながらののしり明(あ)かして、帰(かへ)らせ給(たま)ふ。



校註 増鏡

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第六 烟の末々
宝治二年十一月二十日頃(ごろ)、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々(いろいろ)の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営(いとな)みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉(たてまつ)る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣(きぬ)、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結(むす)び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣(なほし)、皇后宮の大夫隆親直衣(なほし)、
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花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣(きぬ)、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣(かりぎぬ)、別当定嗣直衣(なほし)、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣(かりぎぬ)、浮織物の指貫、紅の衣(きぬ)、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣(かりぎぬ)、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々(いろいろ)を尽(つく)す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣(きぬ)、白きひとへにて、えもいはぬ様(さま)して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様(さま)にと好(この)みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣(かりぎぬ)の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々(いろいろ)の紅葉を、濃く薄(うす)く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参(まゐ)り給ふ。宰相の三位殿と聞(きこ)ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、
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この頃は三位し給(たま)へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様(さま)なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参(まゐ)らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移(うつ)る程(ほど)、夕つかたになりぬ。御船さし、色々(いろいろ)の狩襖にて、八人づつ、様々(さまざま)なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参(まゐ)らす。平等院の釣殿に、御船寄(よ)せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参(まゐ)る。しろがねの(    )錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々(いろいろ)様々(さまざま)の風流のくだもの、衝重など、由(よし)ある様(さま)に、
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なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上(うへ)、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣(おとど)、皆御供に候(さぶら)ひ給ふ。
 又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊(あそ)び始(はじ)まる。船の内(うち)に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白(おもしろ)う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程(ほど)なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣(のたま)ひけん、「をちのしら浪」も、艶(えん)なる音を添へたるは、万(よろづ)折(をり)からにや。
 二十三日還御の日ぞ、御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋参(まゐ)らせらる。院よりも、あるじの大臣(おとど)に御馬奉り給ふ。院の御随身ども、けはひことにて、ほうだうの前の庭にひき出でたれば、衛門佐親朝、親継、二人うけとる。殿おり給ひて拝し給ふ。 岡屋兼経の大臣(おとど)の御事なり その後賞行(おこな)はる。左の大臣一品し給ふべき由(よし)、院の上自(みづか)ら宣(のたま)はすれば、また立ち出でて直衣を奉りながら、拝舞し給ふ。万(よろづ)御心ゆく限(かぎ)り遊びののしらせ給ひて、帰らせ給ふままに、左大臣殿兼平従一位し給ふ。殿の家司季頼四品ゆるさせ給ふ、いとこよなし。寛治
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には、良経正四位下、保元に、月輪殿従下の阿品をぞし給ひける。今の御有様(おんありさま)は、かの古き例(ためし)にも越えたり。いとめでたく面白(おもしろ)し。還御の当日に、女房の装束皆具(かいぐ)、色々(いろいろ)にいと清らなる十具、各(おのおの)平づつみに長櫃にて、大納言の二位の曹司におくらる。又宰相の三位のもとへも別に遣(つか)はされけり。建久には夏なりしかば、一へがさね二十具ありけるを、思し出でけるにや。様々(さまざま)ゆゆしき事どもにて過ぎぬ。
 この御るすの程(ほど)に、二条油小路に火いできて、閑院殿のついがきの内(うち)なれば、内のおもの屋焼けて、神代より伝はれる御釜も、焼け損(そこな)はれけるをぞ、いとあさましき事には申し侍りし。かの釜、昔(むかし)は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、円融院の御代永観の頃、二つは失せにけり。今(いま)一つ残りたるに、かかる事の出できぬるは、いとよろしからぬわざなりとて、神祇官に尋ねられ、古(ふる)き事ども考へらる。平野といひけるを、陰陽寮に据ゑて、みづのとの祭といふことに用ひけれど、中頃(ごろ)よりかの祭は絶えぬ。忌火といふにては、六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて、常の御膳をば仕(つか)うまつる。
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かかれば、いとたいだいしき事にて、初めはいもしに仰せらるべきかとも申す。古きを損(そこな)はれたる所ばかりを、猶(なほ)さるべきかとも、色々(いろいろ)に定めかねられたり。入道太政大臣なども、古きをなほさるべしと、申さるとぞ聞えける。
 その頃、宰相の三位の若宮 宗尊親王の御事なり 御書始とて、人々参り集(つど)ひ給ふ。七つにならせ給ふべし。関白殿をはじめ、大臣、上達部残(のこ)りなし。十二月の二十五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて、人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後、文台めして、詩の披講ありき。勧盃の儀式、何事も保延の例(ためし)とぞ承りし。
 かくて年明けぬれば、宝治も三年になりぬ。春たちかへる朝(あした)の空の光は、思ひなしさへいみじきを、院、内(うち)の気色、誠にめでたし。摂政殿にも拝礼行(おこな)はる。院の御前は更にもいはず、大宮院にもあり。まづ、冷泉万里小路殿といふは、鷲の尾の大納言隆親の家ぞかし。この頃、院のおはしませば、拝礼に人々参り給ふ。摂政殿、兼経 左大臣、兼平 右大臣、家忠 内大臣、実基 大納言には公相、実雄、顕定、道良、
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中納言に為経、良教、資季、冬忠、実藤、公光、通成、定嗣、宰相に通行、師継、顕朝、殿上人は、両貫首をはじめ数(かず)知らず。常の年々に越えて、この春は参りこみ給へり。人々立ちなみ給へる時、左の大臣は、摂政の御子なれば、引き退きて立ち給へり。右もまた、その同じつらに立たれたるに、内の大臣すすみ出で給へり。それにつぎて、大納言も同じつらなり。良教、公光、師継、顕朝、また退きて立ちたれば、出入して屏風に似たり。この事見にくしと、後まで、様々(さまざま)院の御前に仰(おほ)せられて、摂政殿に尋(たづ)ね申され、沙汰(さた)がましく侍りけるを、貞応元年の例(ためし)などいできて、故野の宮左大臣、今の内の大臣の御親の、右大臣にて退きたるつらに立たれたりけるを、その時の記録など見給はざりけるにやとて、内の大臣の御ふるまひ、心えずとぞ沙汰ありける。院の拝礼果てて、内の小朝拝、節会などに、皆人々困(こう)じ給へるに、又大宮院の拝礼めでたくぞ侍りける。 四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御様(さま)の、つきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なう、いみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫、紅の御衣奉(たてまつ)れり。上達部、殿上人、直衣、上(うへ)の衣、思ひ思ひなり。摂政殿も参(まゐ)り給ふ。
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夜に入りて帰らせ給ひぬれば、やがてやがて又、大宮院、内へ御幸はじめ、これも上達部、殿上人、ありつる限り残(のこ)りなし。網代びさしに奉(たてまつ)る。皇后宮の御方の東むきへ御車寄(よ)せて、宮御対面、いとめでたし。上(うへ)は、まだいといわけなき御程にて、かくいつくしき万乗の主にそなはり給へる御有様(おんありさま)を、女院も、いとやむごとなく、かたじけなしと見奉り給ふ。
 皇后宮と聞ゆるは、これも院の御兄(このかみ)にて、位におはしましし時も、御母代など聞えさせ給ひしを、この御門幼く渡(わた)らせ給へば、今は、いとどまして、内にのみおはしまして、去年の八月より、皇后宮と聞(きこ)ゆる、後には、仙華門院と聞えし御事なるべし。
 院の若宮十三にならせ給ふは、公宗の中将といひし人の女の御腹なり。円満院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて、正月二十八日に、その御用意あり。承明門院より渡(わた)り給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、具実の大納言を上首にて六人、殿上人十六人、馬にて、色々(いろいろ)にいとよそほしう、めでたくておはしましぬ。その夜、やがて御ぐしおろして、御法名円助と聞ゆ。いとうつくしげさ、
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仏などの心地(ここち)して、あはれに見え給ふ。院の宮達の御中には、御兄にてものし給へど、御外戚(げさく)の弱(よわ)きは、今も昔もかかるこそ、いといとほしきわざなりけれ。御匣(みくしげ)殿(どの)の御腹の若宮も三にならせ給へる、承明門院にて、御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中に、この御子は、御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。
 かくいふ程に、二月一日の夜、常よりも、九重の宮の内、人ずくなにて、大方(おほかた)、夜も静なるに、子の時ばかりに、閑院殿の二条おもての対より、火いできて、棟もえ落つる程にぞ、始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく、只あわて騒ぎ、我も人も移(うつ)し心なければ、公直の中将の御とのゐに候ひけるが、車の陣なるを召して、皇后宮の御方へ寄す。内の上(うへ)をば、御匣(みくしげ)殿(どの)抱き奉らせ給ひて、宮も奉(たてまつ)る。剣璽ばかりとり具して、門を急ぎ出でさせ給ふ。とばかりありて、権中納言実雄の参り給へりける車に召し移(うつ)りて、春日富の小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。その程(ほど)にぞ、摂政殿をはじめ、前の太政大臣、
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左大臣、内大臣より下残りなく人々参り集(つど)ひ給ふ。院も御車引き出でて見奉らせ給ふ。かかる程(ほど)に、閑院殿より、春日は、方はばかりありとて、院のおはします万里小路殿へ、ひき返(かへ)して行幸あり。夜明け果てて後(のち)、又前の太政大臣 実氏 の冷泉富の小路へ行幸なりて、しばし内裏になりぬ。内の焼くることは、これを始めにもあらず。世あがりての事はさしおきぬ。天徳四年、村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた、既に二十余度になりぬるにや。聖の御代にしも、かかる事は侍りしかど、承元に焼けにし後は、久しく、この四十四年はなかりつるに、去年の冬、御釜焼け損じて、又、かくうち続きぬるを、いとあさましう思(おぼ)す。何よりも、御門の御車に奉りて出でさせ給へるを、いたく例なき事とかやとて、人々かたぶき申す。院も驚き思(おぼ)されて、古(ふる)き事ども広(ひろ)く尋ねられなどすべし。
 院も内も、はひ渡る程(ほど)の近さなれば、御とのゐの人々など、日頃(ひごろ)よりも参り集(つど)ひて、御旅の雲井なれど、なかなか、いと顕証なり。北の対のつまなる紅梅の、いと面白(おもしろ)く咲きたるが、院の御前より御覧じやらるる程(ほど)なれば、雅家の宰相の中将
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して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、
 色も香も重(かさ)ねてにほへ梅の花九重(ここのへ)になる宿のしるしに
とて、かの梅に結びつけさせらる。御返(かへ)し、弁の内侍うけたまはりて、申すべしと聞き侍りしを、なのめなりといふ事にて、大臣(おとど)、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口惜(くちを)しけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。
 世の中とかく騒がしとて、年号かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶(なほ)火災しづまらで、二十三日、またまた、姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて、百余町焼(や)けたり。夥しともいふ方なし。
寛元四年の六月にも、恐(おそ)ろしき火侍りしかど、この度は、猶それよりも越えたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆焼けたるに残れる、いといと不思議なりとぞ、見る人ごとにあざみける。暁より出できたる火、夜に入るまで消えず、未の時ばかりに、蓮華王院の御堂に燃えつきければ、俄に、院も御幸なる。御道すがらも、さながら煙を分けさせ給ふ。いとめづらかにあさまし。摂政殿も御車に参(まゐ)り給へり。三十三間の御堂の千体の千手、一時のほのほにたぐひ
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給へば、不動堂、北斗堂も残らず、宝蔵、鎮守ばかりぞ、辛うじてうちけちにける。後白河の院の、さばかり御志深う思(おも)ほし立ちて、長寛二年供養ありし後は、やむごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又、今熊野の鐘楼、僧坊など、多(おほ)く焼けぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり、ほのほの飛ぶこと鳥の如し。またの朝まで燃えけり。その昼つ方、さきの火もえつきて後、双林寺といふわたりに、火いできて、なにがしの姫君の御もと、古(ふる)き昔の跡、皆、けぶりになりぬ。その火消えて後、又、夕つかた岡崎わたりに火いできて、摂政殿の御もと、少々(せうせう)焼けけり。又、承明門院の近き程にも、火いできて、人々参(まゐ)り集(つど)ふ。中御門より二条まで、また、火出できて、十八町焼(や)けぬ。すべて二十三日よりつごもりに及ぶまで、日をへ時をへて、あるは一日に二三度、二むら三むらにわけて燃えあがる。かかる程に、都は既に三分の二焼(や)けぬ。いといと珍らかなりし事なり。ただ事にあらずとて、院の御前に、陰陽師七人召して、御占行はる。重き御つつしみと申せば、御修法どもはじめ、山々にも、御祈(いの)り仕う奉るべき由(よし)、こと更に仰せらる。
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 院の上(うへ)の御有様(おんありさま)の、万(よろづ)にめでたくおはしますを思ふには、何の御つつしみも、なでふ事かあらんとぞ覚え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を経て、春の中に、必ずまづ石清水に七日御こもり、その中に、五部の大乗経供養せさせ給ふ。御下向の後は、やがて賀茂に御幸、平野、北野なども、さだまれる御事なり。寺には嵯峨の清涼寺、法輪、太秦などに御幸ありて、寺司に賞行(おこな)はれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ仏を尊びさせ給ふこと、来しかたも、行末も、例(ためし)あらじとぞ、世の人申しあひける。
 鳥羽殿も、近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじう修理し磨(みが)かせ給(たま)ひて、はじめて御幸(みゆき)なりし時(とき)、「池の辺(ほとり)の松」といふ事講ぜられしに、太政大臣(おほきおとど)、序を書(か)き給(たま)へりき。「夫鳥羽、仙洞三五累聖、離宮一百余載」とかや。又、御身のいみじき事には、「蓬の髪霜寒くて七代に伝へたり」と侍りしこそめでたけれ。
祝(いは)ひおく始(はじ)めと今日(けふ)を松が枝の千年(ちとせ)の影(かげ)に澄(す)める池水(いけみづ)
院の御製(ぎよせい)、
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影(かげ)うつす松にも千代の色見えて今日(けふ)すみそむるやどの池水(いけみづ)
大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(きこ)えしは、為家(ためいへ)の民部卿の娘(むすめ)なりしにや。
色かへぬ常盤(ときは)の松の影(かげ)添(そ)へて千代に八千代(やちよ)に澄(す)める池水(いけみづ)
ずん流(なが)るめりしかど、例(れい)のうるさければなん。御前の御遊(あそ)び始(はじ)まる程(ほど)、そり橋(はし)のもとに、龍頭鷁首(りようとうげきす)寄(よ)せて、いと面白(おもしろ)く吹(ふ)きあはせたり。かやうの事、常(つね)の御遊(あそ)び、いとしげかりき。
又、太政(おほき)大臣(おとど)の津(つ)の国(くに)吹田(すいた)の山荘にも、いとしばしばおはしまさせて、様々(さまざま)の御遊(あそ)び数(かず)を尽(つく)し、いかにせむともてはやし申(まう)さる。河に臨(のぞ)める家なれば、秋深(ふか)き月の盛(さか)りなどは、ことに艶(えん)ありて、門田(かどだ)の稲(いね)の風(かぜ)に靡(なび)く気色、妻(つま)どふ鹿(しか)の声(こゑ)、衣うつ砧(きぬた)の音、峰の秋風(あきかぜ)、野辺の松虫、とり集(あつ)め、あはれそひたる所(ところ)の様(さま)に、鵜飼(うかひ)などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いと珍(めづら)しうをかしと御覧(ごらん)ず。日頃(ひごろ)おはしまして、人々に十首の歌召(め)されしついでに、院の御製(ぎよせい)、
川舟(かはふね)のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿(やど)と定(さだ)めん
と講(かう)じあげたる程(ほど)、主(あるじ)の大臣(おとど)いみじう興(きよう)じ給(たま)ふ。「此(こ)の家の面目(めいぼく)今日(けふ)に
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侍(はべ)る」とぞ宣(のたま)はする。げにさる事と、聞(き)く人皆(みな)誇(ほこ)らしくなん。
降(お)り居(ゐ)給(たま)へる太上天皇など聞(きこ)ゆるは、思(おも)ひやりこそ、大人(おとな)びさだ過(す)ぎ給(たま)へる心地(ここち)すれど、未(いま)だ三十(みそぢ)にだに満(み)たせ給(たま)はねば、万(よろづ)若(わか)う愛敬(あいぎやう)づき、めでたくおはするに、時(とき)のおとなにて重々(おもおも)しかるべき太政大臣(おほきおとど)さへ、何(なに)わざをせんと、御心にかなふべき御事をのみ思(おも)ひまはしつつ、いかで珍(めづら)しからんと、もて騒(さわ)ぎ聞(きこ)え給(たま)へば、いみじうはえばえしき頃(ころ)なり。御門、まして幼(をさな)くおはしませば、はかなき御遊(あそ)びわざより外(ほか)の御営(いとな)み無し。摂政殿さへ若(わか)く物し給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひ給(たま)ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁(らんご)・貝(かい)おほひ・手(て)まり・へんつきなどやうの事どもを、思(おも)ひ思(おも)ひにしつつ、日を暮(く)らし給(たま)へば、候(さぶら)ふ人々も、うち解(と)けにくく心づかひすめり。
節会(せちゑ)・臨時(りんじ)の祭(まつ)り、何(なに)くれの公事(くじ)どもを、女房にまねばせて御覧(ごらん)ずれば、太政大臣(おほきおとど)興(きよう)じ申(まう)し給(たま)ひて、ことさら、小(ちひ)さき笏(しやく)など作(つく)らせてあまた奉(たてまつ)り給(たま)へば、上も喜(よろこ)び思(おぼ)す。入道太政大臣(おほきおとど)の御娘(むすめ)大納言(だいなごん)の三位殿といふを関白になさる。按察(あぜち)の典侍隆衡(たかひら)の女・大納言(だいなごん)の典侍・中納言(ちゆうなごんの)典侍・勾当(こうたう)の内侍・弁(べん)の内侍・少将(せうしやう)の内侍、
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かやうの人々、皆(みな)男(をとこ)の官(つかさ)にあてて、其の役(やく)をつとむ。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍(すけ)を権大納言(だいなごん)実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて、曹司(ざうし)に下(お)るるに、上もいみじう笑(わら)はせ給ふ。弁の内侍、葦(あし)の葉に書(か)きて、彼(か)の局(つぼね)にさし置(お)かせける。
津の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)のいかなれば波にしをれて乱(みだ)れがほなる
返(かへ)し、
津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の乱(みだ)れわび心も波にうきてふる哉
五月五日、所々(ところどころ)より御かぶとの花・薬玉(くすだま)など、色々(いろいろ)に多(おほ)く参(まゐ)れり。朝餉(あさがれひ)にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言(だいなごん)公親の奉(たてまつ)れる、根に露おきたる蓬(よもぎ)の中に、ふかきといふ文字(もじ)を結(むす)びたる、糸(いと)の様(さま)もなよびかに、いと艶(えん)ありて見(み)ゆるを、上も御目(め)とどめて、「何(なに)とまれ、いへかし」と宣(のたま)ふを、人々も、およすけて見奉(たてまつ)るを、弁の内侍、
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あやめ草底(そこ)知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)にふかきといふや蓬生(よもぎふ)の露
と、ありつる使(つか)ひ、はや帰(かへ)りにければ、蔵人を召(め)して、殿上より遣(つか)はしけり。御返り、公親、
あやめ草底知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)を深き心にいかがくらべん
又其の頃(ころ)、天王寺に院の詣(まう)でさせ給ふついでに、住吉(すみよし)へも御幸(みゆき)あり。「神はうれし」と、後三条院仰(おほ)せられけん例(ためし)、思(おも)ひ出(い)でられ侍(はべ)りき。大宮院も御参(まゐ)りなれば、出車(いだしぐるま)ども、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)ども、春秋の花紅葉(はなもみぢ)を、一度(ひとたび)に並(なら)べて見(み)る心地(ここち)して、いと美(うつく)しく、目(め)も輝(かかや)くばかりいどみ尽(つく)されたり。上達部・若(わか)き殿上人などは、例(れい)の狩襖(かりあを)、裾濃(すそご)の袴(はかま)など、珍(めづら)しき姿(すがた)どもを、心々(こころごころ)にうちまぜたり。釣殿(つりどの)の簀子(すのこ)に、人々候(さぶら)ひて、あまた聞(きこ)えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、
今日(けふ)やまた更(さら)に千(ち)とせを契(ちぎる)らん昔(むかし)にかへる住吉の松
さても、院の第一の御子(みこ)は、右中弁平の棟範(むねのり)の主(ぬし)の女、四条院に兵衛の内侍とて候(さぶら)ひしが、剣璽(けんじ)につきて渡(わた)り参(まゐ)れりしを、忍(しの)び忍(しの)び御覧(ごらん)じける程(ほど)に、
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其の御腹(おんはら)に出(い)で物し給(たま)へりしかど、当代(たうだい)生(むま)れさせ給(たま)ひにし後(のち)は、おし消(け)たれておはしますに、また建長元年、后腹(きさきばら)に二の宮(みや)さへさし続(つづ)き光(ひか)り出(い)で給(たま)へれば、いよいよ今(いま)は思(おも)ひ絶(た)えぬる御契(ちぎ)りの程(ほど)を、私物(わたくしもの)にいとあはれと思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ふ。源氏(げんじ)にやなし奉(たてまつ)らましなど思(おぼ)すに、猶(なほ)飽(あ)かねば、只(ただ)御子(みこ)にて、東(あづま)の主(あるじ)になし聞(きこ)えてんと思(おぼ)して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠(かうぶり)し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣(おと)らず。内蔵寮(くらづかさ)何(なに)くれ、清(きよ)らを尽(つく)し給ふ。やがて三品の位賜(たま)はり給ふ。御年十一なるべし。中務(なかづかさ)の卿宗尊親王(しんわう)と申すめり。
同(おな)じ二月十九日に、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ふ。其の日将軍の宣旨(せんじ)冠(かうぶ)り給ふ。かかる例(ためし)は未(いま)だ侍らぬにや。上下、珍(めづら)しく面白(おもしろ)き事にいひ騒(さわ)ぐべし。御迎(むか)へに東(あづま)の武士どもあまた上(のぼ)り、六波羅(ろくはら)よりも名ある者十人、御送(おくり)に下(くだ)る。上達部・殿上人・女房など、あまた参(まゐ)るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこに候(さぶら)ふとも、限(かぎ)りあらん官(つかさ)冠(かうぶ)りなどは、障(さは)りあるまじ」とぞ仰せられける。何事(なにごと)も、只(ただ)人がらによると見(み)えたり。きはことによそほしげなり。誠(まこと)に大(おほ)やけとなり給(たま)はずば、これよりまさる事、何事(なにごと)かあら
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ん。にぎははしく花やかさは並(なら)ぶ方(かた)無し。院の上も、忍(しの)びて、粟田口のほとりに御車立(た)てて御覧じ送(おく)りけるこそ、あはれに忝(かたじけ)なく侍れ。きびはに美(うつく)しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍は、あはれに忝(かたじけ)なしと思(おも)ひ聞(きこ)ゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位中将は、其の四月に都へ上(のぼ)り給(たま)ひぬ。いとほしげにぞ見(み)え給(たま)ひける。さて、今(いま)下(くだ)り給(たま)へるを、もてあがめ奉(たてまつ)る様(さま)、いはん方(かた)無し。宮の中のしつらひ、御まうけの事など限(かぎ)りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年(ことし)は暮(く)れぬ。
明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御年(とし)十一、御諱(いみな)久仁と申(まう)す。いとあてにおはしませど、あまりささやかにて、又御腰(こし)などの怪(あや)しく渡(わた)らせ給ふぞ、口惜(くちを)しかりける。いはけなかりし御程(ほど)は、猶(なほ)いとあさましうおはしましけるを、閑院の内裏焼(や)けけるまぎれより、うるはしく立(た)たせ給(たま)ひたりければ、内の焼(や)けたるあさましさは何(なに)ならず、此(こ)の御腰(こし)の直(なほ)りたる喜(よろこ)びをのみぞ、上下思(おぼ)しける。
院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月(かみなづき)の十日頃、朝覲(てうきん)の行幸し給ふ。世(よ)
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にある限(かぎ)りの上達部(かんだちめ)・殿上人仕(つか)うまつる。色々(いろいろ)の菊紅葉(もみぢ)をこきまぜて、いみじう面白(おもしろ)し。女院もおはしませば、拝し奉(たてまつ)り給ふを、太政大臣(おほきおとど)見(み)奉(たてまつ)り給ふに、喜(よろこ)びの涙ぞ人わろき程(ほど)なる。
例(ためし)なき我が身よいかに年たけてかかるみゆきに今日(けふ)仕(つか)へつる
げに、大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末(すゑ)と見給(たま)ふ大臣(おとど)の心地(ここち)、いかばかりなりけむ。
来(こ)し方(かた)も例(ためし)なきまで、高麗(こま)・唐土(もろこし)の綾錦(あやにしき)を立(た)ち重(かさ)ねたり。太政(おほき)大臣(おとど)ばかりぞねび給(たま)へれば、裏表(うらおもて)白(しろ)き綾(あや)の下襲(したがさね)を着(き)給(たま)へるしも、いとめでたくなまめかし。池には、うるはしく唐(から)のよそひしたる御船(みふね)二艘(にそう)漕(こ)ぎ寄(よ)せて、御遊(あそ)び様々(さまざま)の事どもめでたくののしりて、帰(かへ)らせ給(たま)ふひびきのゆゆしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。
其の頃(ころ)ほひ、熊野の御幸(みゆき)侍(はべ)りしにも、よき上達部あまた仕(つか)うまつらせ給(たま)ふ。都出(い)でさせ給(たま)ふ日、例(れい)の桟敷(さじき)など、心ことにいどみかはすべし。車は立(た)てぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出車はなくて、只(ただ)一両にて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひしこそ、やん事なさも面白(おもしろ)く侍(はべ)りけれ。弁(べん)の内侍、
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折(を)りかざすなぎの葉風の賢(かしこ)さに一人(ひとり)道ある小車の跡
御幸(みゆき)、熊野の本宮につかせ給(たま)ひて、それより新宮の川舟(かはふね)に奉りてさし渡(わた)す程(ほど)、川のおもて所せきまで続(つづ)きたるも、御覧(ごらん)じなれぬ様(さま)なれば、院(ゐん)の上、
熊野川(くまのがは)瀬(せ)ぎりに渡(わた)す杉舟のへなみに袖のぬれにける哉
其の後(のち)も、又程(ほど)無く御幸(みゆき)ありしかば、女院も参(まゐ)り給(たま)ひけり。皆人(みなひと)しろしめしたらん事、中々にこそ。



校註 増鏡

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第七 おりゐる雲
春過(す)ぎ夏たけ、年去(さ)り年(とし)きたれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣(おほきおとど)の第二の御娘(むすめ)、〈 東二条院公子 〉女御に参(まゐ)り給ふ。女院の御はらからなれば、過(す)ぐし給(たま)へる程(ほど)なれど、かかる例(ためし)はあまた侍るべし。十二月十七日、豊の明(あ)かりの頃(ころ)なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添(そ)へて今(いま)めかしうめでたく、其の日御消息(せうそこ)を聞(きこ)え給(たま)ふ。
夕暮にまつぞ久(ひさ)しき千年(ちとせ)までかはらぬ色の今日(けふ)の例(ためし)を
関白書(か)かせ給(たま)ひけり。紅(くれなゐ)のにほひの箔(はく)もなき、八重に重(かさ)ねたるを、結(むす)びて包(つつ)まれたり。時成(な)りぬとて人々まう上(のぼ)りあつまる。女御の君、裏(うら)濃(こ)き蘇芳(すはう)七・濃(こ)き一重(ひとへ)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・濃(こ)き袴(はかま)奉(たてまつ)れり。准后添(そ)ひて参(まゐ)り給ふ。
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皆(みな)紅(くれなゐ)の八・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)き給ふ。出車十両、皆(みな)二人づつ乗(の)るべし。一の車、左に一条殿太政(おほき)大臣(おとど)の娘(むすめ)、右に二条殿公俊(きんとし)の大納言(だいなごん)の女、二の左按察君隆衡(たかひら)〔の大納言(だいなごん)〕の女、右に中納言の君実任(さねたふ)の娘(むすめ)、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々(つぎつぎ)くだくだしければとどめつ。御童(わらは)・下仕(しもづか)へ・御はした・御雑仕(ざふし)・御ひすましなどいふ物まで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所(みどころ)あるべし。御兄(せうと)の殿原、右大臣公相・内大臣公基参(まゐ)り給ふ。限(かぎ)りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、
いよいよいつかれ給ふ様(さま)、いはん方(かた)無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参(まゐ)り給(たま)へりし例(ためし)