義経記(国民文庫本)
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義経記巻第一目録
義朝都落の事
常盤都落の事
牛若鞍馬入の事
聖門坊の事
牛若貴船詣の事
吉次が奥州物語の事
遮那王殿鞍馬出の事
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義経記巻第一
義朝都落の事 S0101
本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊■、張良は武勇と雖も名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世にほどこし、万事の、目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、九郎義経とて、我が朝にならびなき名将軍にておはしけり。父義朝は平治元年十二月二十七日に衛門督藤原信頼卿に与して、京の軍に打ち負けぬ。重代の郎等共皆討たれしかば、其の勢二十余騎になりて、東国の方へぞ落ち給ひける。成人の子供をば引き具して、幼ひ達をば都に棄ててぞ落ちられける。嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮大夫進朝長十六、三男右兵衛佐頼朝十二になる。悪源太をば北国の勢を具せよとて越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石山寺に篭りけるを、平家聞きつけ、妹尾、難波を差し遣はし
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て、都へ上り、六条河原にて斬られけり。弟の朝長も山賊が射ける矢に弓手の膝口を射られて、美濃国青墓と言ふ宿にて死にけり。其の外子供方々に数多有りけり。尾張国熱田の大宮司の娘の腹にも一人有りけり。遠江国蒲と言ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司とぞ申しける。後には三河守と名乗り給ふ。九条院の常盤が腹にも三人有り。今若七歳、乙若五歳、牛若当歳子なり。清盛是を取つて斬るべき由をぞ申しける。
常盤都落の事 S0102
永暦元年正月十七日の暁、常盤三人の子供を引き具して、大和国宇陀郡岸岡と言ふ所に契約の親しき者有り。是を頼みたづねて行きけれども、世間の乱るる折節なれば、頼まれず。其の国のたいとうじと言ふ所に隠れ居たりける。常盤が母関屋と申す者、楊梅町に有りけるを、六波羅より取り出だし、糺問せらるる由聞こえければ、常盤是を悲しみ、母の命を助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。子供を助けんとすれば、老いたる親を失ふべし。親には子をば如何思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、
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堅牢地神も納受有るとなれば、子供の為にも有りなんと思ひ続け、三人の子供引き具して泣く泣く京へぞ出でにける。六条への事聞こえければ、悪七兵衛景清、堅物太郎に仰せつ、子供具し、六条へぞ具足す。清盛常盤を見給ひて、日頃は火にも水にもと思はれけるが、怒れる心も和ぎけり。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は事を好ませ給ひければ、洛中より容顔美麗なる女を千人召されて、其の中より百人、又百人の中より十人、又十人の中より一人撰び出だされたる美女なり。清盛我にだにも従がはば、末の世には子孫の如何なる敵ともならばなれ。三人の子供をも助けばやと思はれける。頼方景清に仰せつけて、七条朱雀にぞ置かれける。日番をも頼方はからひにして守護しける。清盛常は常盤がもとへ文を遣はされけれども、
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取りてだにも見ず。され共子供を助けんが為に遂には従ひ給ひけり。さてこそ常盤三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺に上せ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾におはしけるが悪襌師殿と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはしけれども、腹悪しく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。後には紀伊国に有りける新宮十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たれけり。牛若は四つの年まで母のもとに有りけるが、世の幼ひ者よりも心様振舞人に越えたりしかば、清盛常は心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、遂には如何有るべき」と仰せられければ、京より東、山科と言ふ所に源氏相伝の、遁世して幽なる住居にて有りける所に七歳まで置きて育て給ひけり。
牛若鞍馬入の事 S0103
常盤が子供成人するに従ひて、中々心苦しく、初めて人に従はせんも由なし。習はねば殿上にも交はるべくもなし。只法師になして、跡をも弔ひ
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てなんど思ひて、鞍馬の別当東光坊の阿闍梨は義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣はして仰せけるは、「義朝の御末の子牛若殿と申し候ふを且は知召してこそ候ふらめ。平家世ざかりにて候ふに、女の身として持ちたるも心苦しく候へば、鞍馬へ参らせ候ふべし。猛くともなだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせて賜はり候へ」と申されければ、東光坊の御返事には、「故頭殿の君達にて渡らせ給ひ候ふこそ殊に悦入り候へ」とて、山科へ急ぎ御迎ひに人をぞ参らせける。七歳と申す二月はじめに鞍馬へとぞ上られける。其の後昼は終日に師の御坊の御前にて経を誦み、書学びて、夕日西に傾けば、夜の更け行くに仏の御燈の消ゆるまではともに物を読み、五更の天にもなれ共あまも宵もすぐまで、学問に心
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をのみぞ尽しける。東光坊も山三井寺にも是程の児有るべしとも覚えず、学問の精と申し、心様眉目形類なくおはしければ、良智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も「かくて廿歳ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種をつぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人」とぞ申されける。母も是を聞き、「牛若学問の精よく候ふとも、里に常に有りなんとし候はば、心も不用になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、人を賜はり候て、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて返し候はん」と申されける。「さなくとも児を里へ下す事おぼろげならぬにて候ふ」とて、一年に一度、二年に一度も下さず。かかる学問の精いみじき人の如何なる天魔のすすめにや有りけん、十五と申す秋の頃より学問の心以ての外に変りけり。其の故は古き郎等の謀反をすすむるにてぞ有りける。
聖門坊の事 S0104
四条室町に古りたる郎等の有りける。すり法師なりけるが、是は恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子鎌田次郎正清が子なり。平治の乱の時
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は十一歳になりけるを、長田の庄司是を斬るべき由聞こえければ、外戚の親しき者有りけるが、やうやうに隠し置きて、十九にて男になして、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近二十一の年思ひけるは保元に為義討たれ給ひぬ。平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫絶え果てて、弓馬の名を埋んで、星霜を送り給ふ。其の時清盛に亡ぼされし者なれば、出家して諸国修業して、主の御菩提をも弔ひ、親の後世をも弔ひ候はばやと思ひければ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前国御笠の郡大宰府の安楽寺と言ふ所に学問して有りけるが、故郷の事思ひ出だして、都に帰りて、四条の御堂に行ひ澄ましてゐたりけり。法名をば聖門坊とぞ申しける。又四条の聖とも申しけり。勤行の隙には平家の繁昌しけるを見て、めざましく思ひける。如何なれば平家の大政大臣の官に上り、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は保元、平治の合戦に皆滅ぼされて、大人しきは斬られ、幼ひは此処彼処に押し篭められて、今までかたちをも差し出だし給はず。果報も生まれ変り、心も剛にあらんずる源氏の、あはれ思召し立ち給へかし。何方へなりとも御使して世を乱し、本意を遂げばやとぞ思ひける。勤行の隙々には指を折りて、国々の源氏をぞ数へける。紀伊国には新宮十郎義盛、河内国には石川判官義兼、
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津国には多田蔵人行綱、都には源三位頼政卿、卿君円しん、近江国には佐々木源三秀義、尾張国には蒲の冠者、駿河国には阿野禅師、伊豆国には兵衛佐頼朝、常陸国には志田三郎先生義教、佐竹別当昌義、上野国には利根、吾妻、是は国を隔てて遠ければ、力及ばず。都近き所には鞍馬にこそ頭殿の末の御子、牛若殿とておはする者を、参りて見奉り心がらげにげにしくおはしまさば、文賜はりて、伊豆国へ下り、兵衛督殿の御方に参り、国を催ほして、世を乱さばやと思ひければ、折節其の頃四条の御堂も夏の時分にて有りけるを打ち捨てて、やがて鞍馬へとぞ上りける。別当の縁にたたずみける程に、「四条の聖おはしたり」と申しければ、「承り候ふ」と申されければ、さらばとて東光坊のもとにぞ置かれける。内々には悪心を差しはさみ、
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謀反を起して来れるとも知らざりけり。ある夜の徒然に、人静まりて、牛若殿のおはする所へ参りて、御耳に口をあてて申しけるは、「知召されず候ふや、今まで思召し立ち候はぬ。君は清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子、かく申すは頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛が子にて候ふ。御一門の源氏国々に打ち篭められておはするをば、心憂しとは思召されず候ふや」と申しければ、其の頃平家の世を取りて盛なれば、たばかりてすかすやらんと打ち解け給はざりければ、源氏重代の事を委しく申しける。身こそ知り給はねども、かねて左様の者有ると聞きしかば、さては一所にてはかなふまじ。所々にはとて聖門をば返されけり。
牛若貴船詣の事 S0105
聖門に逢ひて給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れはてて、明暮謀反の事をのみぞ思召しける。謀反起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづ早業を習はんとて、此の坊は諸人の寄合所なり。如何に叶ひ難きとて、鞍馬の奥に僧正が谷と言ふ所有り。昔は如何なる人が崇め奉りけん、貴船の明神
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とて霊験殊勝に渡らせ給ひければ、智恵有る上人も行ひ給ひけり。鈴の声も怠らず。神主も有りけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世末にならば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒し、偏へに天狗の住家となりて、夕日西に傾けば、物怪喚き叫ぶ。されば参りよる人をも取り悩ます間、参篭する人もなかりけり。されども牛若かかる所の有る由を聞き給ひ、昼は学問をし給ふ体にもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなり参らせんと申しつる大衆にも知らせずして、別当の御護りに参らせたる敷妙と言ふ腹巻に黄金作りの太刀帯きて、只一人貴船の明神に参り給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡大菩薩」と掌を合せて、源氏を守らせ給へ。宿願誠に成就あらば、玉の御宝殿を造り、千町の所領を寄進し奉らん」と祈誓して、正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本有りけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、懐より毬杖の玉の様なる物を取り出だし、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とを懸けられける。かくて暁にもなれば、我が方に帰り、衣引かづきて臥し給ふ。人是を知らず。和泉と申す法師の御介錯しけるが、此の御有様
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只事にはあらじと思ひて、目を放さず、ある夜御跡を慕ひて隠れて叢の蔭に忍び居て見ければ、斯様に振舞ひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊に此の由申しければ、阿闍梨大きに驚き、良智坊の阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ」とぞ申されける。良智坊此の事を聞き給ひて、「幼き人も様にこそよれ。容顔世に越えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃剃り参らさせ給へ」と申しければ、「誰も御名残はさこそ思ひ候へ共、斯様に御心不用になりて御わたり候へば、我が為、御身の為然るべからず候ふ。只剃り奉れ」と宣ひければ、牛若殿何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものをと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右なく寄りて剃るべし共見えず。覚日坊
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の律師申されけるは、「是は諸人の寄合所にて静かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、それがしが所は傍にて候へば、御心静にも御学問候へかし」と申されければ、東光坊もさすがにいたはしく思はれけん、さらばとて覚日坊へ入れ奉り給ひけり、御名をば変へられて遮那王殿とぞ申しける。それより後には貴船の詣も止まりぬ。日々に多聞に入堂して、謀反の事をぞ祈られける。
吉次が奥州物語の事 S0106
かくて年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。正月の末二月の初めの事なるに、多聞の御前に参りて所作しておはしける所に、其の頃三条に大福長者有り。名をば吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦してゐたりけるが、此の幼ひ人を見奉りて、あら美しの御児や、如何なる人の君達やらん。然るべき人にてましまさば、大衆も数多付き参らすべきに、度々見申すに、只一人おはしますこそ怪しけれ。此の山に左馬頭殿の君達のおはする物を。「誠やらん、
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秀衡も「鞍馬と申す山寺に左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰大弐位清盛の、日本六十六ケ国を従へんと、常は宣ふなるに、源氏の君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を建て、二人の子供両国の受領させて、秀衡生きたらん程は、大炊介になりて、源氏を君とかしづき奉り、上見ぬ鷲のごとくにてあらばや」と宣ひ候ふものを」と言ひ奉り、拐し参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付かばやと思ひ、御前に畏まつて申しけるは、「君は都には如何なる人の御君達にておはしますやらん、是は京の者にて候ふが、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候ふが、奥方に知召したる人や御入候ふ」と申しければ、「片ほとりの者なり」と仰せられて、返事もし給はず。是ごさんなれ、聞こゆる黄金商人吉次と言ふ者なり。奥州の案内者やらん、彼に問はばやと思し召して「陸奥と言ふは、如何程の広き国ぞ」と問ひ給へば、「大過の国にて候ふ。常陸国と陸奥との堺、菊田」の関と申して、出羽と奥州との堺をば伊奈の関と申す。其の中五十四郡と申しければ、「其の中に源平の乱来たらん用に立つべき者如何程有るべき」と問ひ給へば、国の案内は知りたり。吉次暗からずぞ申しける。「昔両国の大将軍をばおかの大夫とぞ申しける。彼等が一人の子有り。安倍権守とぞ申しける。
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子供数多有り。嫡子厨川次郎貞任、二男鳥海三郎宗任、家任、盛任、重任とて六人の末の子に境の冠者良増とて、霧を残し霞を立て、敵起る時は水の底海の中にて日を送りなどする曲者なり。是等兄弟丈の高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、何れも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は一丈三寸候ける。安倍権守の世までは宣旨院宣にも畏れて、毎年上洛して逆鱗を休め奉る。安倍権守死去の後は宣旨を背き、偶々院宣なる時は、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべき由申され候ひければ、片道賜はり候ふべきとて下さるべかりしを、公卿僉議有りて、「是天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせ給へ」と申されければ、源の頼義勅宣を承つて、十六万騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に陸奥へ下し給ふ。駿河国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野国いもうと言ふ所に著く。貞任是を聞きて、厨川の城を去つて阿津賀志の中山を後にあてて、安達の郡に木戸を立て、行方の原に馳せ向ひて、源氏を待つ。大蔵の大夫大将として五百余騎白川関打ち越えて行方の原に馳せつき、貞任を攻む。其の日の軍に打ち負けて、浅香の沼へ引き退く。伊達郡阿津賀志の中山にたて篭り、源氏は信夫の里摺上河の端、はやしろと
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言ふ所に陣取つて、七年夜昼戦ひ暮らすに、源氏の十一万騎皆討たれて、叶はじとや思ひけん、頼義京へ上りて、内裏に参り、頼義叶ふまじき由を申されければ、「汝叶はずは、代官を下し、急ぎ追討せよ」と重ねて宣旨下されければ、急ぎ六条堀河の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。「汝が名をば何と言ふぞ」と御尋ね有りけるに、「辰の年の辰の日の辰の時に生れて候ふ」とて、「名をば源太と申し候ふ」と申しければ、無官の者に合戦の大将さする例なしとて、元服せさせよとて、後藤内範明を差し添へられて、八幡宮に元服させて、八幡太郎義家と号す。其の時御門より賜はりたる鎧をこそ源太が産衣と申しけり。秩父十郎重国先陣を賜はりて、奥州へ下る。阿津賀志の城を攻めけるに、猶も源氏打ち負けて、事
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悪しかりなんとて、急ぎ都へ早馬を立て、此の由を申しければ、年号が悪しければとて、康平元年に改められ、同き年四月二十一日阿津賀志の城を追ひ落す。しからざるにかかりて伊奈の関を攻め越えて、最上郡に篭る。源氏続いて攻め給ひしかば、雄勝の中山を打ち越えて、仙北金沢の城に引き篭り。それにて一両年を送り戦ひつれども、鎌倉権五郎景政、三浦平大夫為継、大蔵大夫光任、是等が命を捨てて攻めける程に、金沢の城をも落されて、白木山にかかりて、衣川の城に篭る。為継、景政重ねて攻めかかる。康平三年六月二十一日に貞任大事の手負ひて梔子色の衣を着て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は降人となる。境の冠者、後藤内生捕にしてやがて斬られぬ。義家都に馳せ上り。内裏の見参に入れて、末代までの名をあげ給ふ。其の時、奥州へ御伴申し候ひし三つうの少将に十一代の末淡海の後胤、藤原清衡と申す者国の警護に留められて候ひけるが、亘理の郡に有りければ、亘理の清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし、十四道の弓取五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八万騎もちて候ふ。是こそ源平の乱出で来らば、御方人ともなりぬべき者にて候へ」と申しける。
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遮那王殿鞍馬出の事 S0107
遮那王殿是を聞き給ひて、かねて聞きしに少しも違はず、世に有る者ごさんなれ。あはれ下らばや。左右なく頼まれたらば、十八万騎の勢を十万騎をば国にとどめ、八万騎をば率して、坂東に打ち出で、八ケ国は源氏に志有る国なり。下野殿の国なり。是をはじめとして十二万騎を催して二十万騎になつて、十万騎をば伊豆の兵衛佐殿に奉り、十万騎をば木曾殿につけて、我が身は越後国に打ち越え、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になりて、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江にかかりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待得て、逢坂の関を打ち越えて、都に攻め上り、十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん由を申さんに平家猶も都に繁昌して空しかるべくば、名をば後の世にとどめ、屍をば都に曝さん事身に取りては何の不足か有るべきと思ひ立ち給ふも十六の盛には恐ろしくぞ覚えける。此の男奴に知らせばやと思し召して仰せられけるは、「汝なれば知らするぞ。人に披露有るべからず。我こそ
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左馬頭義朝が子にてあれ、秀衡がもとへ文一つ言伝ばや。何時の頃返事を取りてくれんずるぞと仰せられければ、吉次座敷をすべりおり、烏帽子の先を地につけて申しけるは、「御事をば秀衡以前に申され候ふ。御文よりも只御下り候へ、道の程御宿直仕まつり候はんずる」と申しければ、文の返り事待たんも心もとなし。さらば連れて下らばやと思召しける。「何時ごろ下り候はんずるぞ」と宣へば、「明日吉日にて候ふ間、形の如くの門出仕まつり候はんずる」と申しければ、「さらば粟田口十禅師の御前にて待たんずるぞ」と宣ひければ、吉次は「承り候ふ」とて下向してんげり。遮那王殿別当の坊に帰りて心の中ばかりに出で立ち給ふ。七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星をいただき、日夜朝暮なれし馴染の師匠の御名残も今ばかりと思はれければ、しきりに忍ぶとし給へ共、涙にむせび給ひけり。されども心弱くては叶ふべきにあらざれば、承安四年二月二日の曙に鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一かさねに唐綾を着かさね、播磨浅葱の帷子をうへに召し、白き大口に唐織物の直垂めし、敷妙と言ふ腹巻着篭めにして、紺地の錦にて柄鞘包みたる守刀、黄金作の太刀帯いて、薄化粧に眉細くつくりて、髪高く結ひあげ、心細げにて壁を
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隔てて出で立ち給ふが、我ならぬ人の訪れて通らん度にさる者是に有りしぞと思ひ出でて、あとをも弔へかしと思はれければ、漢竹の横笛取り出だし、半時ばかり吹きて、音をだにあとの形見とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、其の夜は四条の聖門坊の宿へ出でさせ給ひて、奥州へ下る由仰せられければ、善悪御伴申し候はんと出で立ちけり。遮那王殿宣ひけるは、「御辺は都にとどまりて、平家のなり行く様を見て知らせよ」とて、京にぞとどめられける。さて遮那王殿粟田口まで出で給ふ。聖門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち給へば、吉次未だ夜深に京を出で、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋の馬に負せて先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。間々引柿したる摺尽しの直垂に秋毛
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の行縢はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍置いてぞ乗りたりける。児乗せ奉らんとて、月毛なる馬に沃懸地の鞍置きて、大斑の行縢、鞍覆にしてぞ出で来る。遮那王殿「如何に、約束せばや」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ乗せ奉り、かかる縁に会ひけるよと世に嬉しくぞ思ひける。吉次を招きて宣ひけるは、「や、殿、馬の腹筋馳せ切つて、雑人奴等が追ひ着かん。かへりみるに駆足になりて下らんと覚ゆるなり。鞍馬になしと言はば、都に尋ぬべし。都になしと言はば、大衆共定めて東海道へぞ下らんずらんとて、摺針山よりこなたにて追掛けられて、帰れと言はんずる者なり。帰らざらんは仁義礼智にもはづれなん。都は敵の辺也。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と言ふは源氏に志の有る国なり、言葉の末を以て、宿々の馬取りて下るべし、白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知るまじきぞ」と宣へば吉次是を聞きてかかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹をだにも乗り給はずして、恥有る郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ恐ろしけれとぞ思ひける。されども命に従ひ、駒を早めて下る程に松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関打ち越えて大津の浜
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をも通りつつ瀬田の唐橋打ち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は吉次が年頃の知る人なりければ、女房数多出だしつつ色々にこそもてなしけれ。
義経記巻第一
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義経記 国民文庫本
P057
義経記巻第二目録
鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事
遮那王殿元服の事
阿濃の禅師に御対面の事
義経陵が館焼き給ふ事
伊勢三郎はじめて臣下になる事
義経はじめて秀衡対面の事
鬼一法眼の事
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義経記巻第二
鏡の宿吉次が宿に強盗の入る事 S0201
抑都近き所なれば、人目もつつましくて、女房共の遙かの末座に遮那王殿を直しける。恐れ入りてぞ覚えける。酒三献過ぎて、長者吉次が袖に取り付きて申しけるは、「抑御辺は一年に一度、二年に一度此の道を通らぬ事なし。されども是程美しき子具し奉りたる事、是ぞ初めなる。御身の為には親しき人か他人か」とぞ問ひける。「親しくはなし。又他人にてもなし」とぞ申しける。長者はらはらと涙を流して、「あはれなる事共かな。何しに生きて初めて憂き事を見るらん。只昔の御事今の心地して覚ゆるぞや。此の殿の立居振舞身様の頭殿の二男朝長殿に少しも違ひ給はぬものかな。言葉の末を以ても具し奉りたるかや。保元、平治より此のかた、源氏の子孫、此処や彼処に打ち篭められておはするぞかし。成人し
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て思ひ立ち給ふ事有らば、よくよくこしらへ奉りて渡し参らせ給へ。壁に耳、岩に口と言ふ事有り。紅は園生に植ゑても隠れなし」と申しければ、吉次「何それにては候はず。身が親しき者にて候ふ」と申しけれども、長者「人は何とも言はば言へ」とて、座敷を立ちて、少き人の袖を引き、上座敷に直し奉り、酒すすめて夜更けければ、我が方へぞ入れ奉る。吉次も酒に酔ひて臥しにけり。其の夜鏡の宿に思はざる事こそ有りけれ。其の年は世の中飢饉なりければ、出羽国に聞こえける窃盗の大将、由利太郎と申す者、越後国に名を得たる頚城郡の住人藤沢入道と申す者二人語らひ、信濃国に越えて、佐久の権守の子息太郎、遠江国に蒲与一、駿河国に興津十郎、上野国に豊岡源八以下の者共、何れも聞こゆる盗人、宗徒の者二十五人、其の勢七十人連れて、「東海道は衰微す。少しよからん山家山家に至り、下種徳人有らば追ひ落して、若党共に興有る酒を飲ませて都に上り、夏過ぎ秋風立たば、北国にかかり国へ下らん」とて、宿々山家山家に押し入り、押し取りして上りける。其の夜しも鏡の宿に長者の軒を並べて宿しける。由利太郎藤沢に申しけるは、「都に聞こえたる吉次と言ふ黄金商人奥州へ下るとて、おほくの売物持ち、
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今宵長者の許に宿りたり。如何すべき」と言ひければ、藤沢入道、「順風に帆を上げ、棹さし押し寄せて、しやつが商物取りて若党共に酒飲ませて通れ」とぞ出で立ちける。究強の足軽共五六人腹巻著せて、油さしたる車松明五六台に火を付けて、天に差し上げければ、外はくらけれども、内は日中の様に有りけり。由利太郎と藤沢入道とは大将として、其の勢八人連れて出で立ち、由利は唐萌黄の直垂に萌黄威の腹巻著て、折烏帽子に懸して、三尺+五寸の太刀はきて出づる。藤沢褐の直垂に黒革威の鎧著て、兜の緒を締め、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大長刀杖につき、夜半ばかりに長者の許へ討ち入りたり。つと入りて見れども人もなし。中の間に入りて見れども人もなし。こは如何なる事ぞとて簾中深く切り入りて、障子五六間切り倒す。吉次是に驚き、がばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来たる。是は信高が財宝に目をかけて出で来るを知らず、源氏を具し奉り、奥州へ下る事、六波羅へ聞こえて討手向ひたると心得て、取る物も取り敢へず、かいふいてぞ逃げにける。遮那王殿是を見給ひて、すべて人の頼むまじきものは次の者にて有りけるぞや。形の如くも侍ならば、かくは有るまじき物を、とてもかくても都を出でし日よりして命をば宝故に奉る。屍をば鏡の宿にさらすべしとて、大口
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の上に腹巻とつて引き着て、太刀とり脇にはさみ、唐綾の小袖取りて打ちかづき、一間なる障子の中をするりと出で、屏風一よろひに引きたたみ、前に押し寄する。八人の盗人を今やと待ち給ふ。「吉次奴に目ばし放すな」とて喚いてかかる。屏風のかげに人有りとは知らで、松明ふつて差し上げ見れば、いつくしきとも斜ならず。南都山門に聞こえたる児鞍馬を出で給へる事なれば、きはめて色白く、鉄漿黒に眉細くつくりて、衣打ちかづき給ひけるを見れば、松浦佐用姫領巾振る野辺に年を経し、寝乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の時ならば李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風に押し纏ひてぞ通りける。人も無き様に思はれて、生きては何の益有るべき。末の世に如何しければ、義朝の子牛若と言ふもの謀反をおこし、奥州へ下るとて、鏡の宿にて強盗に会ひて、甲斐無き命生きて、今また忝くも太政大臣に心を懸けたりなどと言はれん事こそ悲しけれ。とてもかくてものがるまじと思召して、太刀を抜き、多勢の中へ走り入り給ふ。八人は左右へざつと散る。由利太郎是を見て、「女かと思ひたれば、世に剛なる人にて有りけるものを」とて、散々に斬りあふ。一太刀にと思ひて、以て開いてむずとうつ。大の男の太刀の寸は延び
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たり。天井の縁に太刀打ち貫き、引きかぬる所を小太刀を以てむずと受け止め、弓手の腕に袖を添へてふつと打ち落し、返す太刀に首を打ち落す。藤沢入道は是を見て、「ああ切つたり。そこを引くな」とて大長刀打ち振りて走りかかる。是に懸かり合ひて散々に斬り合ひ給ふ。藤沢入道長刀を茎長に取りてするりと差し出だす。走り懸かり切り給ふ。太刀は聞こゆる宝物なりければ、長刀の柄づんど切りてぞ落されける。やがて太刀抜き合はせけるを抜きも果てさせず、切り付け給へば、兜の真向しや面かけて切り付け給ひけり。吉次はものの陰にて是を見て、恐ろしき殿の振舞かな。如何に我を穢しと思召すらんと思ひ、臥したりける帳台へつつと入り、腹巻取つて著、髻解き乱し、太刀を抜き、敵の棄てたる松明打ち振り、大庭に走り出でて、遮那王殿と一つになり
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て、追うつ捲くつつ散々に戦ひ、究竟の者共五六人やにはに切り給ふ。二人は手負ひて北へ行く。一人追ひにがす。残る盗人残らず落ち失せにけり。明くれば宿の東のはづれに五人が首をかけ、札を書きてぞ添へられける。「音にも聞くらん、目にも見よ。出羽国の住人、由利太郎、越後国の住人、藤沢入道以下の首五人斬りて通る者、何者とか思ふらん。黄金商人三条の吉次が為には縁有り。是を十六にての初業よ。委しき旨を聞きたくば、鞍馬の東光坊の許にて聞け、承安+四年二月四日」とぞ書きて立てられける。さてこそ後には源氏の門出しすましたりとぞ舌を巻いて怖ぢ合ひける。其の日鏡を発ち給ひけり。吉次はいとどかしづき奉りてぞ下りける。小野の摺針打ち過ぎて、番場、醒井過ぎければ、今日も程無く行き暮れて、美濃国青墓の宿にぞ著き給ふ。是は義朝浅からず思ひ給ひける長者が跡なり。兄の中宮大夫の墓所を尋ね給ひて、御出で有り。夜とともに法華経読誦して、明くれば率都婆を作り、自ら梵字を書きて、供養してぞ通られける。児安の森を外処に見て、久世河を打ち渡り、墨俣川を曙に眺めて通りつつ、今日も三日に成りければ、尾張国熱田の宮に著き給ひけり。
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遮那王殿元服の事 S0202
熱田の前の大宮司は義朝の舅なり。今の大宮司は小舅なり。兵衛佐殿の母御前も熱田のそとのはまと言ふ所にぞおはします。父の御形見と思召して、吉次を以て申されければ、大宮司急ぎ御迎ひに人を参らせ入れ奉り、やうやうに労り奉りける。やがて次の日立たんとし給へば、様々諌言に参り、とかくする程に、三日まで熱田にぞおはします。遮那王殿吉次に仰せられけるは、「児にて下らんは悪し。かり烏帽子なりとも著て下らばやと思ふは、如何にすべき」。吉次「如何様にも御計ひ候へ」とぞ申しける。大宮司烏帽子奉り、取り上げ、烏帽子をぞ召されける。「かくて下り、秀衡が名をば何と言ふぞと問はんに、遮那王と言うて、男になりたる甲斐なし。是にて名を改へもせで行かば、定めて元服せよと言はれんずらん。秀衡は我々が為には相伝の者なり。他の謗も有るぞかし。是は熱田の明神の御前、しかも兵衛佐殿の母御前も是におはします。是にて思ひ立たん」とて、精進潔斎して大明神に御参り有り。大宮司、吉次も御伴仕り、二人に仰せけるは、「左馬頭殿の子供、
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嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四郎蒲殿、五郎禅師の君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ言はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、其の跡をつがん事よしなし。末になる共苦しかるまじ。我は左馬九郎と言はるべし。実名は祖父は為義、父は義朝、兄は義平と申しける。我は義経と言はれん」とて、昨日までは遮那王殿、今日は左馬九郎義経と名を変へて、熱田の宮を打ち過ぎ、何と鳴海の塩干潟、三河国八橋を打ち越えて、遠江国の浜名の橋を眺めて通らせ給ひけり。日頃は業平、山蔭中将などの眺めける名所名所多けれども、牛若殿打ち解けたる時こそ面白けれ、思ひ有る時は名所も何ならずとて、打ち過ぎ給へば、宇津の山打ち過ぎて、駿河なる浮島が原にぞ著き給ひける。
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阿濃禅師に御対面の事 S0203
是より阿濃禅師の御許へ御使ひ参らせ給ひける。禅師大きに悦び給ひて、御曹司を入れ奉り、互に御目を見合はせて、過ぎにし方の事共語り続け給ひて、御涙に咽び給ひける。「不思議の御事かな。離れし時は二歳になり給ふ。此の日頃は何処におはするとも知り奉らず。是程に成人してかかる大事を思ひ立ち給ふ嬉しさよ。我もともに打ち出で、一所にてともかくもなりたく候へども、偶々釈尊の教法を学んで、師匠の閑室に入りしより此のかた、三衣を墨に染めぬれば、甲冑をよろひ、弓箭を帯する事如何にぞやと思へば、打ち連れ奉らず。且は頭殿の御菩提をも誰かは弔ひ奉らん。且は一門の人々の祈をこそ仕り候はんずれ。一ケ月をだにも添ひ奉らず、離れ奉らん事こそ悲しけれ。兵衛佐殿も伊豆の北条におはしませ共、警固のもの共きびしく守護し奉ると申せば、文をだに参らせず。近き所を頼みにて音信もなし。御身とても此の度見参し給はん事不定なれば、文書き置き給へ。其の様を申すべし」と仰せられければ、文書きて跡に留め置き、其の日は伊豆の国府
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に著き給ふ。夜もすがら祈念申されけるは、「南無三島大明神、走湯権現、吉祥駒形、願はくは義経を三十万騎の大将軍となし給へ。さらぬ外は此の山より西へ越えさせ給ふな」と、精誠をつくし、祈誓し給ひけるこそ、十六のさかりには恐ろしき。足柄の宿打ち過ぎて、武蔵野の堀兼の井を外処に見て、在五中将の眺めける深き好を思ひて、下総国庄高野と言ふ所に著き給ふ。日数経るに従ひて、都は遠く、東は近くなる儘に、其の夜は都の事思召し出だされける。宿の主を召して、「是は何処の国ぞ」と御問ひ有りければ、「下野国」と申しける。「此の所は郡か庄か」「下野の庄」とぞ申しける。「此の庄の領主は誰と言ふぞ」。「少納言信西と申しし人の母方の伯父、陵介と申す人の嫡子、陵の兵衛」とぞ申しける。
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義経陵が館焼き給ふ事 S0204
きつと思召し出だされけるは、義経が九つの年、鞍馬に有りて東光房の膝の上に寝ねたりし時、「あはれ幼き人の御目の気色や。如何なる人の君達にて渡らせ給ひ候ふやらん」と言ひしかば、「是こそ左馬頭殿の君達」と宣ひしかば、「あはれ、末の世に平家の為には大事かな。此の人々を助け奉りて、日本に置かれん事こそ獅子虎を千里の野辺に放つにてあれ。成人し給ひ候はば、決定の謀反にて有るべし。聞きも置かせ給へ。自然の事候はん時、御尋ね候へ。下総国に下河辺の庄と申す所に候ふ」と言ひしなり。遙々と奥州へ下らんよりも陵が許へ行かばやと思召し、吉次をば「下野の室八嶋にて待て。義経は人を尋ねてやがて追ひつかんずるぞ」とて、陵が許へぞおはしける。吉次は心ならず、先立ち参らせんと奥州へぞ下りける。御曹司は陵が宿所へぞ尋ねて御覧ずるに、世に有りしと覚しくて、門には鞍置き馬共、其の数引き立てたり。差しのぞきて見給へば、遠侍には大人、若きもの五十人ばかり居流れたり。御曹司人を招きて「御内に案内申さん」と
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宣ひければ、「何処よりぞ」と申す。「京の方よりかねて見参に入りて候ふものにて候ふ」と仰せける。主に此の事を申しければ、「如何様なる人」と申す。「尋常なる人にて候ふ」と言へば、「さらば是へと申せ」とて入れ奉る。陵「如何なる人にて渡らせ給ふぞ」と申しければ、「幼少にて見参に入りて候ひし、御覧じ忘れ候ふや。鞍馬の東光坊の許にて何事も有らん時尋ねよと候ひし程に、万事頼み奉りて下り候ふ」と仰せられければ、陵此の事を聞きて、「かかる事こそ無けれ。成人したる子供は皆京に上りて小松殿の御内に有り。我々が源氏に与せば、二人の子供徒になるべし」と思ひ煩ひて、しばらく打ち案じ申しけるは、「さ承り候ふ。思召し立たせ給ひ候ふ。畏まつて候へども、平治の乱の時、既に兄弟誅せられ
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給ふべく候へしを、七条朱雀の方に清盛近づかせ給ひて、其の芳志により、命助からせ給ひぬ。老少不定の境、定無き事にて候へども、清盛如何にもなり給ひて後、思召し立たせ給へかし」と申しければ、御曹司聞召て、あはれ彼奴は日本一の不覚人にて有りけるや。あはれとは思召しけれども、力及ばず、其の日は暮し給ひけり。頼まれざらんもの故に執心も有るべからずとて、其の夜の夜半ばかりに陵が家に火をかけて残る所無く散々に焼き払ひて、掻き消す様に失せ給ひけり。かくて行くには、下野の横山の原、室の八嶋、白河の関山に人を付けられて叶ふまじと思召して、墨田河辺を馬に任せて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて二日に通りける所を一日に、上野国板鼻と言ふ所に著き給ひけり。
伊勢三郎義経の臣下にはじめて成る事 S0205
日も既に暮方になりぬ。賎が庵は軒を並べ有りけれ共、一夜を明かし給ふべき所もなし。引き入りてま屋一つ有り。情有る住家と覚しくて竹の透垣に槙の板戸を立てたり。池を掘り、汀に群れ居る鳥を見給ふに付けても、情
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有りて御覧ずれば、庭に打ち入り縁の際に寄り給ひて、「御内に物申さん」と仰せければ、十二三ばかりなる端者出でて、「何事」と申しければ、「此の家には汝より外に大人しき者は無きか。人有らば出でよ。言ふべき事有り」とて返されければ、主に此の様を語る。やや有りて年頃十八九ばかりなる女の童の優なるが、一間の障子の陰より「何事候ふぞ」と申しければ、「京の者にて候ふが、当国の多胡と申す所へ人を尋ねて下り候ふが、此の辺の案内知らず候ふ。日ははや暮れぬ。一夜の宿を貸させ給へ」と仰せられければ、女申しけるは、「易き程の事にて候へ共、主にて候ふ者歩きて候ふが、今宵夜更けてこそ来たり候はんずれ。人に違ひて情無き者にて候ふ。如何なる事をか申し候はんずらん。それこそ御為いたはしく候へ。如何すべき。余の方へも御入候へかし」と申しければ、「殿の入らせ給ひて無念の事候はば、其の時こそ虎臥す野辺罷り出で候はめ」と仰せられければ、女思ひ乱したり。御曹司「今宵一夜は只貸させ給へ。色をも香をも知る人ぞ知る」とて、遠侍へするりと入りてぞおはしける。女力及ばず、内に入りて大人しき人に「如何にせんずるぞ」と言ひければ、「一河の流れを汲むも皆是他生の契なり。何か苦しく候ふべき。遠侍には叶ふまじ。二間所へ入れ奉り給へとて」、様々の菓子共
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取り出だし、御酒勧め奉れども、少しも聞き入れ給はず。女申しけるは、「此の家の主は世に聞こえたるえせ者にて候ふ。構へて構へて見えさせ給ふな。御燈火を消し、障子を引き立てて御休み候へ。八声の鳥も鳴き候はば、御志の方へ急ぎ急ぎ御出で候へ」と申しければ、「承り候ひぬ」と仰せける。如何なる男を持ちて是程には怖づらん。汝が男に越えたる陵が家にだに火を懸け、散々に焼き払ひて、是まで来たりつるぞかし。況てや言はん、女の情有りて止めたらんに、男来たりて、憎げなる事言はば、何時の為に持ちたる太刀ぞ。是ごさんなれと思召し、太刀抜きかけて、膝の下に敷き、直垂の袖を顔にかけて、虚寝入してぞ待ち給ふ。立て給へと申しつる障子をば殊に広く開け、消し給へと申しつる燈をばいとど高く掻き立てて、夜の更くるに従つて、今や今やと待ち給ふ。子の刻ばかりになりぬれば、主の男帰り、槙の板戸を押し開き、内へ通るを見給へば、年廿四五ばかりなる男の、葦の落葉付けたる浅黄の直垂に萌黄威の腹巻に太刀帯いて、大の手鉾杖につき、劣らぬ若党四五人、猪の目彫りたる鉞、焼刃の薙鎌、長刀、乳切木、材棒、手々に取り持ちて、只今事に会うたる気色なり。四天王の如くにして出で来たり、女の身にて怖ぢつるも理かな。
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や、彼奴は雄猛なるものかなとぞ御覧じける。彼の男二間に人有りと見て、沓脱に登り上がりける。大の眼見開きて、太刀取り直し、「是へ」とぞ仰せられける。男は怪しからぬ人かなと思ひて返事も申さず、障子引き立てて、足早に内に入る。如何様にも女に逢うて憎げなる事言はれんずらんと思召して、壁に耳を当てて聞き給へば、「や御前御前」と押し驚かせば、暫しは音もせず。遙かにして寝覚めたる風情して、「如何に」と言ふ。「二間に寝たる人は誰」と言ふ。「我も知らぬ人なり」とぞ申しける。されども「知られず、知らぬ人をば男の無き跡に誰が計らひに置きたるぞ」と世に悪しげに申しければ、あは事出で来たるぞと聞召しける程に、女申しけるは、「知られず知らぬ人なれども「日は暮れぬ。行方は遠し」と打ち佗び給ひつれども、人のおはしまさぬ跡に泊め参らせては、御言葉の末も
知り難ければ、「叶はじ」と申しつれ共、「色をも香をも知る人ぞ知る」と仰せられつる御言葉に恥ぢて今宵の宿を参らせつるなり。如何なる事有りとも今宵ばかりは何か苦しかるべき」と申しければ、男、「さてもさても和御前をば志賀の都の梟、心は東の奥のものにこそ思ひつるに、「色をも香をも知る人ぞ知る」と仰せられける言葉の末を弁へて、貸しぬるこそ優しけれ。何事有りとも苦しかるまじきぞ。今宵一夜は明かさせ参らせよ」
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とぞ申しける。御曹司、あはれ然るべき仏神の御恵みかな。憎げなる事をだにも言はば、ゆゆしき大事は出で来んと思召しけるに、主人言ひけるは、「何様にも此の殿は只人にてはなし。近くは三日、遠くは七日の内に事に逢うたる人にてぞ有るらん。我も人も世になしものの、珍事中夭に逢ふ事常の事なり。御酒を申さばや」とて、様々の菓子共調へて、端者に瓶子抱かせて、女先に立てて、二間に参り、御酒勧め奉れども、敢て聞召し給はず。主申しけるは、「御酒聞召し候へ。如何様御用心と覚え候ふ。姿こそ賎しの民にて候ふとも、此の身が候はんずる程は御宿直仕り候ふべし。人は無きか」と呼びければ、四天の如くなる男五六人出で来たる。「御客人を設け奉るぞ。御用心と覚え候ふ。今宵は寝られ候ふな。御宿直仕れ」と言ひければ、「承り
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候ふ」と言ひて、蟇目の音、弓の絃押し張りなんどして御宿直仕る。我が身も出居の蔀上げて、燈台二所に立てて腹巻取つて側に置き、弓押し張り、矢束解いて押し寛げて、太刀刀取りて膝の下に置き、あたりに犬吠え、風の木末を鳴らすをも、「誰、あれ斬れ」とぞ申しける。其の夜は寝もせで明かしける。御曹司、あはれ彼奴は雄猛者かなと思召しけり。明くれば御立有らんとし給ふを、様々に止め奉り、仮初の様なりつれども、此処に二三日留まり給ひけり。主の男申しけるは、「抑都にては如何なる人にて渡らせ給ひ候ふぞ。我等も知る人も候はねば、自然の時は尋ね参るべし。今一両日御逗留候へかし」と申す。「東山道へかからせ給ひ候はば碓氷の峠海道にかからば足柄まで送り参らすべし」と申すを都に無からん
もの故に、尋ねられんと言はんも詮なし。此のものを見るに二心なんどはよも有らじ、知らせばやと思召し、「是は奥州の方へ下る者なり。平治の乱に亡びし下野の左馬頭が末の子牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、今男になりて、左馬九郎義経と申す也。奥州へ秀衡を頼みて下り候ふ。今自然として知る人になり奉らめ」と仰せけるを、聞きも敢へず、つと御前に参りて、御袂に取り付き、はらはらと泣き、「あら無慙や、問ひ奉らずは、争でか
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知り奉るべきぞ。我々が為には重代の君にて渡らせ給ひけるものをや。かく申せば、如何なる者ぞと思すらん。親にて候ひし者は、伊勢の国二見の者にて候ふ。伊勢のかんらひ義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、清水へ詣で下向しける、九条の上人と申すに乗合して、是を罪科にて上野国なりしまと申す所に流され参らせて、年月を送り候ひけるに、故郷忘れんが為に、妻子を儲けて候ひけるが、懐妊して七月になり候ふに、かんらひ遂に御赦免も無くて、此の所にて失ひ候ひぬ。其の後産して候ふを、母にて候ふ者、胎内に宿りながら、父に別れて果報つたなきものなりとて捨て置き候ふを、母方の伯父不便に思ひ、取り上げて育て成人して、十三と候ふに元服せよと申し候ひしに、「我が父と言ふ者如何なる人にて有りけるぞや」と申して候へば、母涙に咽び、とかくの返事も申さず。「汝が父は伊勢国二見の浦の者とかや。遠国の人にて有りしが、伊勢のかんらひ義連と言ひしなり。左馬頭殿の御不便にせられ参らせたりけるが、思ひの外の事有りて、此の国に有りし時、汝を妊して、七月と言ひしに、遂に空しく成りしなり」と申ししかば、父は伊勢のかんらひと言ひければ、我をば伊勢の三郎と申す。父が義連と名告れば、我は義盛と名告り候ふ。此の年頃平家の世になり、源氏は皆亡び果てて、偶々残り止り
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給ひしも押し篭められ、散り散りに渡らせ給ふと、承りし程に、便りも知らず、まして尋ねて参る事もなし。心に物を思ひて候ひつるに、今君を見参らせ、御目にかかり申す事三世の契と存じながら、八幡大菩薩の御引合とこそ存じ候へ」とて、来し方行末の物語互に申し開き、只仮初の様に有りしかども、其の時御目にかかり始めて、又心無くして、奥州に御供して、治承四年源平の乱出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿御仲不快にならせ給ひし時までも、奥州に御供して、名を後の世に上げたりし、伊勢の三郎義盛とは、其の時の宿の主なり。義盛内に入りて、女房に向ひ、「如何なる人ぞと思ひつるに、我が為には相伝の御主にて渡らせ給ひける物を、されば御伴して奥州へ下るべし。和御前は是にて明年の春の頃を待ち給へ。もし其の頃も上らずは、はじめて人に見え給へ。見え給ふとも義盛が事忘れ給ふな」と申しければ、女泣くより外の事ぞ無き。「仮初の旅だにも在りきの跡は恋しきに、飽かで別るる面影を何時の世にかは忘るべき」と歎きても甲斐ぞ無き。剛の者の癖なれば、一筋に思ひきつて、やがて御供してぞ下りける。下野の室の八嶋をよそに見て、宇都宮の大明神を伏し拝み行方の原に差しかかり、実方の中将の安達の野辺の白真弓、
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押し張り素引し肩にかけ、馴れぬ程は何おそれん、馴れての後はおそるぞ悔しきと詠めけん、安達の野辺を見て過ぎ、浅香の沼の菖蒲草、影さへ見ゆる浅香山、着つつ馴れにし忍ぶの里の摺衣、など申しける名所名所を見給ひて、伊達の郡阿津賀志の中山越え給ひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞き給ひて、いさ追ひ著いて物問はん。此の山は当国の名山にて有るなるにとて、追つ著いて見給へば、御先に立ちたる吉次にてぞ有りける。商人のならひにて、此処彼処にて日を送りける程に、九日先に発ち参らせたるが、今追ひ著き給ひける。吉次御曹司を見付け参らせて、世に嬉しくぞ思ひける。御曹司も御覧じて、嬉しくぞ思召す。「陵が事は如何に」と申しければ、「頼まれず候ふ間、家に火をかけて散々に焼き払ひ、是まで来たるなり」と仰せられければ、吉次今の心地して、恐ろしくぞ思ひける。「御供の人は如何なる人ぞ」と申せば、「上野の足柄のものぞ」と仰せられける。「今は御供要るまじ。君御著き候ひて後、尋ねて下り給へ。後に妻女の嘆き給ふべきも痛はしくこそ候へ。自然の事候はん時こそ御伴候はめ」とてやうやうに止めければ、伊勢の三郎をば上野へぞ返されける。それよりして治承+四年を
待たれけるこそ久しけれ。かくて夜を日についで下り給ふ程に武隈の松、阿武隈と申す名所名所過ぎて宮城野の原、
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躑躅の岡を眺めて、千賀の塩竃へ詣でし給ふ。あたりの松、籬の島を見て、見仏上人の旧蹟松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にて祈誓申させ給ひて、姉歯の松を見て、栗原にも著き給ふ。吉次は栗原の別当の坊に入れ奉りて、我が身は平泉へぞ下りける。
義経秀衡にはじめて対面の事 S0206
吉次急ぎ秀衡に此の由申しければ、折節風の心地し臥したりけるが、嫡子本吉の冠者泰衡、二男泉の冠者忠衡を呼びて申しけるは、「さればこそ過ぎにし頃黄なる鳩来たつて秀衡が家の上に飛び入ると夢に見たりしかば、如何様源氏の音信承らんとするやらむと思ひつるに、頭殿の君達御下り有るこそ嬉しけれ。掻き起こせ」とて、人の肩を押へて、烏帽子取りて引つこみ、直垂取つて打ち掛け申しけるは、「此の殿は幼くおはするとも、狂言綺語の戯れも、仁義礼智信も正しくぞおはすらん。此の程の労に家のうちも見苦しかるらん。庭の草払はせよ。すけひら、もとひら早々出で立ちて御迎に参れ。事々しからぬ様にて参れ」と申されければ、畏まつて承り、其の勢三百五十余騎
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栗原寺へぞ馳せ参る。御曹司の御目にかかる。栗原の大衆五十人送り参らする。秀衡申しけるは、「是まで遥々御入候ふ事返す返す畏まり入り存じ候ふ。両国を手に握りて候へども思ふ様にも振舞はれず候へ共、今は何の憚か候ふべき」とて、泰衡を呼びて申しけるは、「両国の大名三百六十人を択りて、日々■飯を参らせて、君を守護し奉れ。御引出物には十八万騎持ちて候ふ郎等を十万をば二人の子供に賜はり候へ。今八万をば君に奉る。君御事はさて置きぬ。吉次が御供申さでは、争か御下り候ふべき。秀衡を秀衡と思はん者は吉次に引手物せよ」と申しければ、嫡子泰衡白皮百枚、鷲の羽百尻、良き馬三疋、白鞍置きて取らせける。二男忠衡も是に劣らず、引出物しけり。其の外家の子郎等我劣らじと取らせけり。秀衡是を見て、「獣の皮
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も鷲の尾も、今はよも不足有らじ。御辺の好む物なれば」とて、貝摺りたる唐櫃の蓋に砂金一蓋入れて取らせけり。吉次此の君の御供し、道々の命生きたるのみならず、徳付きてかかる事にも逢ひけるものよ。多聞の御利生とぞ思ひける。かくて商ひせずとも、元手儲けたり。不足有らじと思ひ、京へ急ぎ上りけり。かくて今年も暮れければ、御年十七にぞなり給ふ。さても年月を送り給へども、秀衡も申す旨もなし。御曹司も「如何有るべき」とも仰せ出だされず。中々都にだにも有るならば、学問をもし、見たき事をも見るべきに、かくても叶ふまじ、都へ上らばやとぞ思ひける。泰衡に言ふとも叶ふまじ、知らせずして行かばやと思食し、仮初の歩きの様にて、京へ上らせ給ふとて、伊勢の三郎が許におはして、しばらく休らひて、東山道にかかり、木曾の冠者の許におはして、謀反の次第仰せあはされて都に上り、片ほとりの山科に知る人有りける所に渡らせ給ひて、京の機嫌をぞ窺ひける。
義経鬼一法眼が所へ御出の事 S0207
此処に代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書有り。異朝にも
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我が朝にも伝へし人一人として愚かなる事なし。異朝には太公望是を読みて、八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は一巻の書と名付け、是を読みて、三尺の竹に上りて、虚空を翔ける。樊■是を伝へて甲胄をよろひ、弓箭を取つて、敵に向ひて怒れば、頭の兜の鉢を通す。本朝の武士には、坂上田村丸、是を読み伝へて、悪事の高丸を取り、藤原利仁是を読みて、赤頭の四郎将軍を取る。それより後は絶えて久しかりけるを、下野の住人相馬の小次郎将門是を読み伝へて、我が身のせいたんむしやなるによつて朝敵となる。されども天命を背く者の、ややもすれば世を保つ者少なし。当国の住人田原藤太秀郷は勅宣を先として将門を追討の為に東国に下る。相馬の小二郎防ぎ戦ふと雖も、四年に味方滅びにけり。最後の時威力を修してこそ一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに八人の敵をば射たりけり。それより後は又絶えて久しく読む人もなし。只徒に代々の帝の宝蔵に篭め置かれたりけるを、其の頃一条堀河に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武二道の達者有り。天下の御祈祷して有りけるが、是を賜はりて秘蔵してぞ持ちたりける。御曹司是を聞き給ひて、やがて山科を出でて、法眼が許に佇みて見給へば、京中なれども居たる所もしたたかに拵へ、四方に堀を掘りて水をたたへ、
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八の櫓を上げて、夕には申の刻、酉の時になれば、橋を外し、朝には巳午の時まで門を開かず。人の言ふ事耳の外処になしてゐたる大華飾の者なり。御曹司差し入りて見給へば、侍の縁の際に、十七八ばかりなる童一人佇みて有り。扇差し上げて招き給へば、「何事ぞ」と申しける。「汝は内のものか」と仰せられければ、「さん候」と申す。「法眼は是にか」と仰せられければ、「是に」と申す。「さらば汝に頼むべき事有り。法眼に言はんずる様は、門に見も知らぬ冠者物申さんと言ふと急ぎ言ひて帰れ」と仰せられける。童申しけるは、「法眼は華飾世に越えたる人にて、然るべき人達の御入の時だにも子供を代官に出だし、我は出で合ひ参らせぬくせ人にて候ふ。まして各々の様なる人の御出を賞翫候ひて対面有る事候ふまじ」と申しければ、御曹司、「彼奴は不思議の者の言ひ様かな。主も言はぬ先に人の返事をする事は如何に。入りて此の様を言ひて帰れ」とぞ仰せける。「申す共御用ゐ有るべしとも覚えず候へ共、申して見候はん」とて、内に入り、主の前に跪き、「かかる事こそ候はね。門に年頃十七八かと覚え候ふ小冠者一人佇み候ふが、「法眼はおはするか」と問ひ奉り候ふ程に、「御渡り候ふ」と申して候へば、御対面有るべきやらん」と申しける。「法眼を洛中にて見下げて、さ様に
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言ふべき人こそ覚えね。人の使ひか、己が詞か、よく聞き返せ」と申しける。童、「此の人の気色を見候ふに、主など持つべき人にてはなし。又郎等かと見候へば、折節に直垂を召して候ふが、皃達かと覚え候ふ。鉄漿黒に眉取りて候ふが、良き腹巻に黄金作りの太刀を帯かれて候ふ。あはれ、此の人は源氏の大将軍にておはしますらん。此の程世を乱さんと承り候ふが、法眼は世に越えたる人にて御渡り候へば、一方の大将軍とも頼み奉らんずる為に御入候ふやらん。御対面候はん時も世になし者など仰せられ候ひて、持ち給へる太刀の脊にて一打も当てられさせ給ふな」と申しける。法眼是を聞きて、「雄猛者ならば行きて対面せん」とて出で立つ。生絹の直垂に緋威の腹巻著て、金剛履いて、頭巾耳の際まで引つこうで、大手鉾杖に突きて、縁とうとうと踏みならし、
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暫く守りて、「抑法眼に物言はんと言ふなる人は侍か、凡下か」とぞ言ひける。御曹司門の際よりするりと出でて、「某申し候ふぞ」とて縁の上に上り給ひける。法限是を見て、縁より下に出でてこそ畏まらんずるに、思ひの外に法眼にむずと膝をきしりてぞ居たりける。「御辺は法眼に物言はんと仰せられける人か」と申しければ、「さん候」「何事仰せ候ふべき。弓一張、矢の一筋などの御所望か」と申しければ、「やあ御坊、それ程の事企てて、是まで来たらんや。誠か御坊は異朝の書、将門が伝へし六韜兵法と言ふ文、殿上より賜はりて秘蔵して持ち給ふとな。其の文私ならぬものぞ。御坊持ちたればとて読み知らずは、教へ伝へべき事も有るまじ。理を抂げて某に其の文見せ給へ。一日のうちに読みて、御辺にも知らせ教へて返さんぞ」と仰せ有りければ、法眼歯噛をして申しけるは、「洛中に是程の狼籍者を誰が計らひとして門より内へ入れけるぞ。」と言ふ。御曹司思召しけるは、「憎い奴かな。望をかくる六韜こそ見せざらめ。剰へ荒言葉を言ふこそ不思議なれ。何の用に帯きたる太刀ぞ。しやつ切つてくればや」と思召しけるが、よしよし、しかじか、一字をも読まず共、法眼は師なり、義経は弟子なり。それを背きたらば、堅牢地神の恐もこそあれ。法眼を助けてこそ六韜兵法の在所も知らんずれ
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と思召し直し、法眼を助けてこそ居られけるは、継ぎたる首かなと見えし。其の儘人知れず法眼が許にて明かし暮し給ひける。出でてより飯をしたため給はねども、痩せ衰へもし給はず。日に従ひて美しき衣がへなんど召されけり。何処へおはしましけるやらんとぞ人々怪しみをなす。夜は四条の聖の許にぞおはしける。かくて法眼が内に幸寿前とて女有り。次の者ながら情有る者にて、常は訪ひ奉りけり。自然知る人になる儘、御曹司物語の序に、「抑法眼は何と言ふ」と仰せられければ、「何とも仰せ候はぬ」と申す。「さりながらも」と問はせ給へば、「過ぎし頃は「有らば有ると見よ。無くば無きと見て、人々物な言ひそ」とこそ仰せ候ふ」と申しければ、「義経に心許しもせざりけるごさんなれ。誠は法眼に子は幾人有る」と問ひ給へば、「男子二人女子三人」「男二人家に有るか」「はやと申す所に、印地の大将して御入り候ふ」「又三人の女子は何処に有るぞ」「所々に幸ひて、皆上臈婿を取りて渡らせ給ひ候ふ」と申せば、「婿は誰そ」「嫡女は平宰相信業卿の方、一人は鳥養中将に幸ひ給へる」と申せば、「何条法眼が身として上臈婿取る事過分なり。法眼世に超えて、痴れ事をするなれば、人々に面打たれん時、方人して家の恥をも清め
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んとは、よも思はじ。それよりも我々斯様に有る程に婿に取りたらば、舅の恥を雪がんものを。舅に言へ」と仰せられければ、幸寿此の事を承りて、「女にて候ふとも、然様に申して候はんずるには、首を切られ候はんずる人にて候ふ」と申しければ、「斯様に知る人になるも、此の世ならぬ契にてぞ有るらめ。隠して詮なし。人々に知らすなよ。我は左馬頭の子、源九郎と言ふ者なり。六韜兵法と言ふものに望みをなすに依りて、法眼も心よからねども、斯様にて有るなり。其の文の在所知らせよ」とぞ仰せける。「如何でか知り候ふべき。それは法眼の斜ならず重宝とこそ承りて候へ」と申せば、「扨は如何せん」とぞ仰せける。「さ候はば、文を遊ばし給ひ候へ。法眼の斜ならず、いつきの姫君の末の、人にも見えさせ給はぬを、賺して御返事取りて参らせ候はん」と申す。「女性の習ひなれば、近づかせ給ひ候はば、などか此の文御覧ぜで候ふべき」と申せば、次の者ながらも、斯様に情有る者も有りけるかやと、文遊ばして賜はる。我が主の方に行き、やうやうに賺して、御返事取りて参らする。御曹司それよりして法眼の方へは差し出で給はず。只大方に引き篭りてぞおはしける。法眼が申しけるは、「斯かる心地良き事こそ無けれ。目にも見えず、音にも聞こえざらん方に行き失せよかしと思ひつるに、
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失ひたるこそ嬉しけれ」とぞ宣ひける。御曹司、「人にしのぶ程げに心苦しきものはなし。何時まで斯くて有るべきならねば、法眼に斯くと知らせばや」とぞ宣ひける。姫君は御袂にすがり悲しみ給へども、「我は六韜に望有り。さらばそれを見せ給ひ候はんにや」と宣ひければ、明日聞こえて、父に亡はれん事力なしと思ひけれども、幸寿を具して、父の秘蔵しける宝蔵に入りて、重々の巻物の中に鉄巻したる唐櫃に入りたる六韜兵法一巻の書を取り出だして奉る。御曹司悦び給ひて、引き拡げて御覧じて、昼は終日に書き給ふ。夜は夜もすがら是を服し給ひ、七月上旬の頃より是を読み始めて、十一月十日頃になりければ、十六巻を一字も残さず、覚えさせ給ひての後は、此処に有り、彼処に有るとぞ振舞はれける程に、法眼も早心得て、「さもあれ、其の男は何故に姫が方には有るぞ」と怒りける。或る人申しけるは、御方におはします人は、左馬頭の君達と承り候ふ由申せば、法眼聞きて、世になし者の源氏入り立ちて、すべて六波羅へ聞こえなば、よかるべき。今生は子なれ共、後の世の敵にて有りけりや。切つて捨てばやと思へ共、子を害せん事五逆罪のがれ難し。異姓他人なれば、是を切つて平家の御見参に入つて、勲功に預からばやと思ひて伺ひけれども、我が身は行にて叶はず。あはれ、心も剛ならん者もがな、
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斬らせばやと思ふ。其の頃北白河に世に越えたる者有り。法眼には妹婿なり。しかも弟子なり。名をば湛海坊とぞ申しける。彼が許へ使ひを遣はしければ、程無く湛海来たり、四間なる所へ入れて様々にもてなして申しけるは、「御辺を呼び奉る事別の子細に有らず。去んぬる春の頃より法眼が許に然る体なる冠者一人、下野の左馬頭の君達など申す。助け置き悪しかるべし。御辺より外頼むべく候ふ人なし。夕さり五条の天神へ参り、此の人を賺し出だすべし。首を切つて見せ給へ。さも有らば五六年望み給ひし六韜兵法をも御辺に奉らん」と言ひければ、「さ承りぬ。善悪罷り向ひてこそ見候はめ。抑如何様なる人にておはしまし候ふぞ」と申しければ、「未だ堅固若き者、十七八かと覚え候ふ。良き腹巻に黄金造りの太刀の心も及ばぬを持ちたるぞ。心許し給ふな」と言ひければ、湛海是を聞きて申しけるは、「何条それ程の男の分に過ぎたる太刀帯いて候ふとも何事か有るべき。一太刀にはよも足り候はじ。ことごとし」と呟きて、法眼が許を出でにけり。法眼賺しおほせたりと世に嬉しげにて、日頃は音にも聞かじとしける御曹司の方へ申しけるは、見参に入り候ふべき由を申しければ、出でて何にかせんと思召しけれども、呼ぶ
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に出でずは臆したるにこそと思召し、「やがて参り候ふべき」とて使を返し給ひける。此の由を申しければ、世に心地よげにて、日頃の見参所へ入れ奉り、尊げに見えんが為に、素絹の衣に袈裟懸けて、机に法華経一部置いて一の巻の紐を解き、妙法蓮華経と読み上ぐる所へ、はばかる所無くつつと入り給へば、法眼片膝をたて、「是へ是へ」と申しける。即ち法眼と対座に直らせ給ふ。法眼が申しけるは、「去んぬる春の頃より御入候ふとは見参らせ候へども、如何なる跡なし人にて渡らせ給ふやらんと思ひ参らせ候へば、忝くも左馬頭殿の君達にて渡らせ給ふこそ忝き事にて候へ。此の僧程の浅ましき次の者などを親子の御契りの由承り候ふ。まことしからぬ事にて候へども、誠に京にも御入り候はば、万事頼み奉り存じ候ふ。さても北白河に湛海と申す奴御入り候ふが、何故共無く法眼が為に仇を結び候ふ。あはれ失はせて給はり候へ。今宵五条の天神に参り候ふなれば、君も御参り候ひて、彼奴を切つて首を取つて賜はり候はば、今生の面目申し尽くし難く候ふ」とぞ申されける。あはれ人の心も計り難く思召しけれども、「さ承り候ふ。身において叶ひ難く候へども、罷り向ひて見候はめ。何程の事か候ふべき。しやつも印地をこそ為習うて候ふらめ。義経は先に天神に参り、下向し様にしやつが首切りて参らせ
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候はん事、風の塵払ふ如くにてこそ有らめ」と言葉を放つて仰せければ、法眼、何と和君が支度するとも、先に人をやりて待たすればと、世に痴がましくぞ思ひける。「然候はば、やがて帰り参らん」とて出で給ひ、其の儘天神にと思しけれども、法眼が娘に御志深かりければ、御方へ入らせ給ひて、「只今天神にこそ参り候へ」と宣へば、「それは何故ぞ」と申しければ、「法眼の「湛海切れ」と宣ひてによつてなり」と仰せられければ、聞きも敢へず、さめざめと泣きて、「悲しきかなや。父の心を知りたれば、人の最後も今を限りなり。是を知らせんとすれば、父に不孝の子なり。知らせじと思へば、契り置きつる言の葉、皆偽となり果てて、夫妻の恨、後の世まで残るべき。つくづく思ひ続くるに、親子は一世、男は二世の契りなり。とても人に別れて、片時も世に永らへて有らばこそ、憂きも辛きも忍ばれめ。親の命を思ひ棄てて、斯くと知らせ奉る。只是より何方へも落ちさせ給へ。昨日昼程に湛海を呼びて、酒を勧められしに、怪しき言葉の候ひつるぞ。「堅固の若者ぞ」と仰せ候ひつる。湛海「一刀には足らじ」と言ひしは、思へば御身の上。かく申せば、女の心の中却りて景迹せさせ給ふべきなれども、「賢臣二君に仕へず。貞女両夫に見えず」と申す事の候へば、知らせ奉るなり」とて、
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袖を顔に押し当てて、忍びも敢へず泣き居たり。御曹司是を聞召し、「もとより、打ち解け思はず知らず候ふこそ迷ひもすれ。知りたりせば、しやつ奴には斬られまじ。疾くこそ参り候はん」とて出で給ふ。頃は十二月廿七日の夜ふけがたの事なれば、御装束は白小袖一重、藍摺引き重ね、精好の大口に唐織物の直垂着篭めにして、太刀脇挟み、暇申して出で給へば、姫君は是や限りの別れなるらんと悲しみ給へり。妻戸に衣被きてひれ臥し給ひけり。御曹司は天神に跪き、祈念申させ給ひけるは、「南無大慈大悲の天神、利生の霊地、即機縁の福を蒙り、礼拝の輩は千万の諸願成就す。此処に社壇ましますと、名付けて、天神と号し奉る。願はくは湛海を義経に相違無く手にかけさせて賜べ」と祈念し、御前を発つて南へ向いて、四五段ばかり歩ませ給へば、大木一本有り。下の仄暗き所五六人程隠るべき所を御覧じて、あはれ所や、此処に待ちて切つてくればやと思召し、太刀を抜き待ち給ふ所に湛海こそ出で来たれ。究竟の者五六人に服巻着せて、前後に歩ませて、我が身は聞こゆる印地の大将なり、人には一様変はりて出で立ちけり。褐の直垂に節縄目の腹巻着て、赤銅造りの太刀帯いて、一尺+三寸有りける刀に、御免様革にて、表鞘を包みてむずとさし、大長刀の鞘をはづし、杖
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に突き、法師なれども常に頭を剃らざりければ、をつつかみ頭に生ひたるに、出張頭巾ひつ囲み、鬼の如くに見えける。差し屈みて御覧ずれば、首のまはりにかかる物も無く世に切りよげなり。如何に切り損ずべきと待ち給ふも知らずして、御曹司の立ち給へる方へ向いて、「大慈大悲の天神、願はくは聞こゆる男、湛海が手にかけて賜べ」とぞ祈誓しける。御曹司是を御覧じて、如何なる剛の者も只今死なんずる事は知らずや、直に斬らばやと思召しけるが、暫く我が頼む天神を大慈大悲と祈念するに、義経は悦びの道なり。彼奴は参りの道ぞかし。未だ所作も果てざらんに切りて社壇に血をあえさんも、神慮の恐有り。下向きの道をと思召し、現在の敵を通し、下向をぞ待ち給ふ。摂津国の二葉の松の根ざしはじめて、千代を待つよりも猶久し。湛海天神に参りて見れども、人もなし。聖に会うて、あからさまなる様にて、「さる体の冠者などや参りて候ひつる」と問ひければ、「然様の人は、疾く参り下向せられぬ」と申しける。湛海安からず、「疾くより参りなば、逃すまじきを。定めて法眼が家に有らん。行きて責め出だして切つて棄てん」」とぞ申しける。「尤も然有るべし」とて、七人連れて天神を出づる。あはやと思召し、先の所に待ち給ふ。其の間二段ばかり近づきたるが、湛海が弟子禅師と申す法師申し
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けるは、「左馬頭殿の君達、鞍馬に有りし牛若殿、男になりて、源九郎と申し候ふは、法眼が娘に近づきけるなれば、女は男に会へば、正体無き物なり。もし此の事を聞き、男に斯くと知らせなば、斯様の木蔭にも待つらん。あたりに目な放しそ」と申しける。湛海「音なしそ」と申しける。「いざ此の者呼びて見ん。剛の者ならば、よも隠れじ。臆病者ならば、我等が気色に怖ぢて出でまじき物を」と言ひける。あはれ只出でたらんよりも、有るかと言ふ声に付きて出でばやと思はれけるに、憎げなる声色して、「今出河の辺より世になし源氏参るや」と言ひも果てぬに、太刀打ち振り、わつと喚いて出で給ふ。「湛海と見るは僻目か。斯う言ふこそ義経よ」とて、追つかけ給ふ。「今まではとこそ攻め、かくこそ攻め」と言ひけれども、其の時
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には三方へざつと散る。湛海も二段ばかりぞ逃げける。「生きても死しても弓矢取る者の臆病程の恥や有る」とて、長刀を取り直し、返し合はせ、御曹司は小太刀にて走り合ひ、散々に打ち合ひ給ふ。もとよりの事なれば、斬り立てられ、今は叶はじとや思ひけん、大長刀取り直し、散々に打ち合ひけるが、少しひるむ所を長刀の柄を打ち給ふ。長刀からりと投げかけたる時、小太刀打ち振り、走りかかりて、ちやうど切り給へば、切先頚の上にかかるとぞ見えしが、首は前にぞ落ちにける。年三十八にて失せにけり。酒を好む猩々は樽のほとりに繋がれ、悪を好みし湛海は由無き者に与して失せにけり。五人の者共是を見て、さしもいしかりつる湛海だにも斯くなりたり。まして我々叶ふまじと皆散り散りにぞ成りにける。御曹司是を御覧じて、「憎し。一人も余すまじ。湛海と連れて出づる時は、一所とこそ言ひつらむ。きたなし、返し合はせよ」と仰せ有りければ、いとど足早にぞ逃げにける。彼処に追ひつめ、はたと切り此処に追ひつめ、はたと切り、枕を並べて二人切り給へば、残りは方々へ逃げけり。三つの首を取りて、天神の御前に杉の有る下に念仏申しおはしけるが、此の首を棄てやせん、持ちてや行かんと思召すが、法眼が構へて構へて首取りて見せよとあつらへつるに、持ちて行きて、胆をつぶさせんと
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思召し、三つの首を太刀の先に差し貫き帰り給ひ、法眼が許におはして御覧ずれば、門を閉して、橋引きたれば、今叩きて義経と言はばよも開けじ。是程の所は跳ね越し入らばやと思召し、口一丈の堀、八尺の築地に飛び上がり給ふ。木末に鳥の飛ぶが如し。内に入り、御覧ずれば、非番当番の者共臥したり。縁に上がり見給へば、火ほのぼのと挑き立て、法華経の二巻目半巻ばかり読みて居たりけるが、天井を見上げて、世間の無常をこそ観じけれ。「六韜兵法を読まんとて、一字をだにも読まずして、今湛海が手にかからん。南無阿弥陀仏」と独言に申しける。あら憎の面や。太刀の脊にて打たばやと思召しけるが、女が嘆かん事、不便に思召して、法眼が命をば助け給ひけり。やがて内へ入らんと思召すが、弓矢取りの、立聞などしたるかと思はれんとて、首を又引きさげて門の方へ出で給ふ。門の脇に花の木有りける下に、仄暗き所有り。此処に立ち給ひて、「内に人や有る」と仰せければ、内よりも、「誰そ」と申す。「義経なり。此処開けよ」と仰せければ、是を聞き、「湛海を待つ所におはしたるは、良き事よも有らじ。開けて入れ参らせんか」と言ひければ、門開けんとする者も有り。橋渡さんとする者も有り。走り舞ふ
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所に、何処よりか越えられけん、築地の上に首三つ引きさげて来たり会ふ。各々胆を消し見る所に人より先に内に差し入り、「大方身に叶はぬ事にて候ひつれ共、「構へて構へて首取りて見せよ」と仰せ候ひつる間、湛海が首取つて参りたる」とて、法眼が膝の上に投げられければ、興ざめてこそ思へども、会釈せでは叶はじとや思ひけん、さらぬ様にて「忝き」とは、申せども、世に苦々しくぞ見えける。「悦び入りて候ふ」とて、内に急ぎ逃げ入り、御曹司今宵は此処に止まらばやと思召しけれども、女に暇乞はせ給ひて、山科へとて出で給ふ。飽かぬ名残も惜しければ、涙に袖を濡らし給ふ。法眼が娘、後にひれ伏し、泣き悲しめども甲斐ぞ無き。忘れんとすれ共、忘られず、微睡めば夢に見え、覚むれば面影に沿ふ。思へば弥増りして遣る方もなし。冬も末になりければ、思ひの数や積りけん、物怪などと言ひしが、祈れども叶はず、薬にも助からず、十六と申す年、遂に嘆き死に死にけり。法眼は重ねて物をぞ思ひける。如何なるらん世にも有らばやとかしづきける娘には別れ、頼みつる弟子をば斬られぬ。自然の事有らば、一方の大将にもなり給ふべき義経には仲をたがひ奉りぬ。彼と言ひ、是と言ひ、一方ならぬ嘆き思ひ入りてぞ有りける。
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後悔底に絶えずとは此の事、只人は幾度も情有るべきは浮世なり。義経記巻第二
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義経記巻第三目録
熊野の別当乱行の事
弁慶生まるる事
弁慶山門を出づる事
書写炎上の事
弁慶洛中において人の太刀を取る事
義経弁慶君臣の契約の事
頼朝謀反の事
義経謀反の事
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義経記巻第三
熊野の別当乱行の事 S0301
義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長懇ろに申し給ひければ、さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事有り。東の方は叶はじ。明年の春の頃と約束せられけり。御年十五と申す夏の頃如何なる宿願にか、五条の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、辰巳の方より俄に風吹き来たりて、御身にあたると思ひ給ひければ、物狂はしく
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労ぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、「今度の病たすけさせ給へ。明年の春の頃は参詣を遂げ、王子王子の御前にて宿願を解き候ふべし」と祈られければ、程無く平癒し給ひぬ。斯くて次の年の春、宿願を晴らさせ給はん為に参詣有り。師長、大納言殿よりして、百人道者付け奉りて、三の山の御参詣を事故無く遂げ給ふ。本宮証誠殿に御通夜有りけるに別当も入堂したりけり。遙かに夜更けて、内陣にひそめきたり。何事なるらんと姫君御覧ずる処に、「別当の参り給ひたる」とぞ申したり。別当幽なる燈火の影より此の姫君を見奉り給ひて、さしも然るべき行人にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、「如何なる人ぞ」と問はれければ、「是は二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方」とぞ申しける。別当、「それは約束ばかりにてこそあんなれ。未だ近づき給はず候ふと聞くぞ。先々大衆の、あはれ熊野に何事も出で来よかしと人の心をも我が心をも見んと言ひしは今ぞかし。出で立ちてあしきの無からん所に、道者追ひ散らして、此の人を取つてくれよかし。別当が児にせん」とぞ宣ひける。大衆是を聞きて、「さては仏法の仇、王法の敵とやなり給はんずらん」と申しければ、「臆病の致す所にてこそあれ。斯かる事を企つる習ひ、
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大納言殿、師長、院の御所へ参り、訴訟申し給はば、大納言を大将として畿内の兵こそ向はんずらめ。それは思ひ設けたる事なれ。新宮熊野の地へ敵に足を踏ませばこそ」とぞ宣ひける。先々の僻事と申すは大衆の赴きを別当の鎮め給ふだにも、ややもすれば衆徒逸りき。況んや、是は別当起こし給ふ事なれば、衆徒も兵を進めけり。我も我もと甲冑をよろひ、先様に走り下りて、道者を待つ所に又後より大勢鬨を作りて追つかけたり。恥を恥づべき侍共皆逃げける。衆徒輿を取つて帰り、別当に奉る。我が許は上下の経所なりければ、若し京方の者有るやとて、政所に置き奉り、諸共に明暮引き篭りてぞおはしける。若し京より返し合はする事もやと用心きびしくしたりけり。されども私の計らひにて有らざれば、急ぎ都へ馳せ上りて、此の由を
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申したりければ右大臣殿大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人共を催して、師長、大納言殿を両大将として、七千余騎にて、「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ」とて、熊野に押し寄せ給ひて攻め給へば、衆徒身を捨てて防ぐ。京方叶はじとや思ひけん、切目の王子に陣取て、京都へ早馬を立て申されければ、「合戦遅々する仔細有り。其の故は公卿僉議有りて、平宰相信業の御娘、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひしを、今此の事に依つて熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には此の姫君を内より返し奉り給はば、何の御憤りか有るべき。又二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべきか。年長けたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ」とぞ僉議事畢りて、切目の王子に早馬を立て、此の由を申されければ、右大臣公卿僉議の上は申すに及ばずとて、打ち捨てて帰り上り給ふ。二位の大納言は又我一人して憤るべきならずとて、打ち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりと雖も、ややもすれば兵共我等がする事は宣旨院宣にも従はばこそと自嘆して、いよいよ代を世ともせざりけり。扨姫君は別当に従ひて年月を経る程に、別当は六十一、
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姫君に馴れて子を儲けんずるこそ嬉しけれ。男ならば仏法の種を継がせて、熊野をも譲るべしとて、斯くして月日を待つ程に、限り有る月に生まれず、十八月にて生まれける。
弁慶生まるる事 S0302
別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置いては仏法の仇となりなんず。水の底に紫漬にもし、深山に磔にもせよ」とぞ宣ひける。母是を聞き、「それは然る事なれ共、親となり、子と成りし、此の世一つならぬ事ぞと承る。忽ちに如何失はん」と嘆き入りてぞおはしける所に、山の井の三位と言ひける人の北の方は、別当の妹なり。別当におはして幼き人の御不審を問ひ給へば、「人の生まるると申すは九月十月にてこそ極めて候へ。彼奴は十八月に生まれて候へば、助け置きても親の仇と
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もなるべく候へば、助け置く事候ふまじ」と宣ひける。叔母御前聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親の為に悪しからんには、大唐の黄石が子は腹の内にて八十年の歯を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳、丈低く色黒くして、世の人には似ず。されども八幡大菩薩の御使者現人神と斎はれ給ふ。理をまげて、我等に賜はり候へ。京へ具して上り、善くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪くは法師になして、経の一巻も読ませたらば、僧党の身として罪作らんより勝るべし」と申されければ、さらばとて叔母に取らせける。産所に行きて産湯を浴びせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、具して京へ上り、乳母を付けてもてなし伝きける。鬼若五つにては、世の人十二三程に見えける。六歳の時疱瘡と言ふものをして、いとど色も黒く、髪は生まれたる儘なれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて、比叡の山の学頭西塔桜本の僧正の許に申されけるは、「三位殿の為には養子にて候ふ。学問の為に奉り候ふ。眉目容貌は参らするに付けて恥ぢ入り候へども、心は賢々しく候ふ。書の一巻も読ませて賜び候へ。心の不調に候はんは直させ給ひ候ひて、如何様にも御計らひにまかせ候ふぞ」とて上せけり。桜本にて学問する程に、精は月日の重なる
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に随ひて、人に勝れてはかばかし。学問世に越えて器用なり。されば衆徒も、「容貌は如何にも悪かれ。学問こそ大切なり」と宣ひぬ。学問に心をだにも入れなば、さてよかるべきに、力も強く骨太なり。児、法師原を語らひて、人も行かぬ御堂の後ろ、山の奥などへ篭り居て、腕取、腕押、相撲などぞ好みける。衆徒此の事を聞きて、「我が身こそ、徒者にならめ、人の所に学問する者をだに賺し出だして、不調になす事不思議なり」とて、僧正の許に訴訟の絶ゆる事なし。斯く訴へける者をば敵の様に思ひて、其の人の方へ走り入りて、蔀、妻戸を散々に打ち破りけれども、悪事も武用も鎮むべき様ぞ無き。其の故は父は熊野の別当なり。養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊の学頭の児にて有る間、手をも指して良き事有るまじとて、只打ち任せてぞ狂は
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せける。されば相手は変はれども鬼若は変はらず、諍の絶ゆる事なし。拳を握り、人を締めければ、人々道をも直に行得ず。偶々逢ふ者も道を避けなどしければ、其の時は相違無く通して後、会うたる時取つて抑へて、「さもあれ、過ぎし頃は行き逢ひ参らせて候ふに、道を避けられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ」と問ひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする物を、肱捩ぢ損じ、拳を以てこは胸を押し損じなどする間、逢ふ者の不祥にてぞ有りける。衆徒僉議して、僧正の児なり共、山の大事にて有るぞとて、大衆三百人院の御所へ参りて申しければ、「それ程の僻事の者をば急ぎ追ひ失へ」と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰所に公卿僉議有りて、古き日記見給へば、「六十一年に山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にて是を鎮めつれば、一日が中に天下無双の願所五十四ケ所ぞと言ふ事有り。今年六十一年に相当たる。只棄て置け」とぞ仰せける。衆徒憤り申しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒と思召しかへられ候ふこそ遺恨なれ。さらば山王の御輿を振り奉らん」と申しければ、神には御料を参らせ給ひければ、衆徒此の上はとて鎮まりけり。此の事鬼若に聞かすなとて隠し置きたりしを、如何なる痴の者か知らせけん、「是は遺恨なり」とて、いとど散々に振舞ひける。僧正もて扱ひ
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て、「有らば有ると見よ。無くは無しと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。
弁慶山門を出づる事 S0303
鬼若僧正の憎み給へる由を聞きて、頼みたる師の御坊にも斯様に思はれんに、山に有りても詮なし。目にも見えざらん方へ行かんと思ひ立つて出でけるが、斯くては何処にても山門の鬼若とぞ言はれんずらん。学問に不足なし。法師になりてこそ行かめと思ひて、髪剃り、衣を取り添へて、美作の治部卿と言ふ者の湯殿に走り入りて、盥の水にて手づから髪を洗ひ、所々を自剃にしたりける。彼の水に影を写して見れば、頭は円くぞ見えける。斯くては叶はじとて、戒名をば何とか言はましと思ひけるが、昔此の山に悪を好む者有り。西塔の武蔵坊とぞ申しける。廿一にて悪をし初めて、六十一にて死にけるが、旦座合掌して往生を遂げたると聞く。我等も名を継いで呼ばれたらば、剛になる事も有らめ。西塔の武蔵坊と言ふべし。実名は父の別当は弁せうと名乗り、其の師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶とぞ
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名乗りける。昨日までは鬼若、今日は何時しか武蔵坊弁慶とぞ申しける。山上を出でて、小原の別所と申す所に山法師の住み荒らしたる坊に誰留むると無けれども、暫くは尊とげにてぞ居たりける。されども児なりし時だにも眉目悪く、心異相なれば、人もてなさず、まして訪ひ来る人も無ければ、是をも幾程無くあくがれ出でて、諸国修行にとて又出でて、津の国河尻に下り、難波潟を眺めて、兵庫の嶋など言ふ所を通りて、明石の浦より船に乗つて、阿波の国に著きて、焼山、つるが峰を拝みて、讚岐の志度の道場、伊予の菅生に出でて、土佐の幡多まで拝みけり。かくて正月も末になりければ、又阿波国へ帰りける。
書写山炎上の事 S0304
弁慶阿波国より播磨国に渡り、書写山に参り、性空上人の御影を拝み奉り、既に下向せんとしたるが、同じくは一夏篭らばやと思ひける。此の夏と申すは諸国の修行者充満して、余念も無く勤めける。大衆は学頭の坊に集会し、修行者経所に著く。夏僧は虚空蔵の御堂にて、人に付いて夏中の様を聞きて、
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学頭の坊に入りけるに、弁慶は推参して、長押の上に憎気なる風情して、学頭の座敷を暫く睨みて居たりけり。学頭共是を見て、「一昨日昨日の座敷にも有り共覚えぬ法師の推参せられ候ふは、何処よりの修行者ぞ」と問ひければ、「比叡の山の者にて候ふ」と申しければ、「比叡の山はどれより」「桜本より」と申す。「僧正の御弟子か」と申せば、「さん候」「御俗姓は」と問はれて、事しげなる声して、「天児屋根の苗裔、中の関白道隆の末、熊野の別当の子にて候ふ」と申しけるが、一夏の間は如何にも心に入れて勤め、退転無く行ひて居たりける。衆徒も「初めの景気今の風情相違して見えたり。されば人には馴れて見えたり。隠便の者にて有りけるや」とぞ褒めける。弁慶思ひけるは、斯くて一夏も過ぎ、秋の初めにもなりなば、又国々に修行せんとぞ思ひける。されども名残を惜しみて出でもやらで居たり。さてしも有るべき事ならねば、七月下旬に学頭に暇乞はんとて行きたりければ、児大衆酒盛してぞ有りける。弁慶参じては詮無しと思ひて出でけるが、新しき障子一間立たる所有り。此処に昼寝せばやと思ひて、暫く臥しけるに、其の頃書写に相手嫌はぬ諍好む者有り。信濃坊戒円とぞ申しける。弁慶が寝たるを見て、多くの修行者見つれども、彼奴程の広言して憎気なる者こそ無けれ。彼奴に恥をかか
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せて、寺中を追ひ出ださんと思ひて、硯の墨摺り流し、武蔵坊が面に二行物を書いたりけり。片面には「足駄」と書き、片面には「書写法師の足駄に履く」と書きて、
弁慶は平足駄とぞなりにけり面を踏めども起きも上がらず W001
と書き付けて、小法師原を二三十人集めて、板壁を敲いて同音に笑はせける。武蔵坊悪しき所に推参したりけるやと思ひて、衣の袂引き繕ひて衆徒の中へぞ出でにける。衆徒是を見て、目引き鼻引き笑ひけり。人は感に堪へで笑へども、我は知らねばをかしからず。人の笑ふに笑はずは、弁慶遍執に似ると思ひ、共に笑ひの顔してぞ笑ひける。されども座敷の体隠しげに見えければ、弁慶我が身の上と思ひて、拳を握り、膝を抑へて、「何の可笑しきぞ」と叱りける。学頭是を見給ひて、「あはや此の者座こそ損じて見え候へ。如何様寺の大事となりなんず」と宣ひて、「詮無き事に候ふ。御身の事にては候はぬ。外処の事を笑ひて候ふ。何の詮かおはすべき」と宣へば、座敷を立つて、但島の阿闍梨と言ふ者の坊、其の間一町ばかり有り、是も修行者の寄合所にて有りければ、何処へ行き会ふ人々も弁慶を笑はぬ人はなし。怪しと思ひて、水に影を写して見れば、面に物をぞ書かれたる。さればこそ、是程の恥に当たつて、
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一時なりとも有りて詮なし。何方へも行かんと思ひけるが、又打ち返し思ひけるは、我一人が故に山の名をくたさん事こそ心憂けれ。諸人を散々に悪口して咎むる者をならはして、恥をすすぎて出でばやと思ひて、人々の坊中へめぐり、散々に悪口す。学頭此の事を聞きて、「何ともあれ。書写法師面を張り伏せられぬと覚ゆる。此の事僉議して、此の中に僻事の者有らば、それを取つて修行者に取らせて、大事を止めん」とて衆徒催して、講堂にして学頭僉議す。されども弁慶は無かりけり。学頭使者を立てけれども、老僧の使の有るにも出でざりけり。重ねて使ひ有るに、東坂の上に差し覗きて、後ろの方を見たりければ、廿二三ばかりなる法師の、衣の下に伏縄目の鎧腹巻著てぞ出で来たる。弁慶是を見て、こは如何に、今日は隠便の僉議とこそ聞きつるに、
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彼奴が風情こそ怪しからね、内々聞くに、衆徒僻事をしたらば拷を乞へ、修行者僻事有らば小法師原に放ち合はせよと言ふなるに、かくて出で、大勢の中に取り篭められ叶ふまじ。我もさらば行きて出で立たばやと思ひて、学頭の坊に走り入りて「こは如何」と人の問ふ返事をもせず、人も許さざりけるに、何時案内は知らねども、納殿につと走り入りて、唐櫃一合取つて出で、褐の直垂に黒糸威の腹巻著て、九十日剃らぬ頭に、揉烏帽子に鉢巻し、石■の木を以て削りたる棒の、八角に角を立てて、本を一尺ばかり丸くしたるを引杖にして、高足駄を履いて、御堂の前にぞ出で来る。大衆是を見て、「此処に出で来る者は何者ぞ」と言ひければ、「是こそ聞こゆる修行者よ」「あら怪しからぬ有様かな。此の方へ呼びてよかるべきか、捨てて置きてよかるべきか」「捨て置いても、呼びてもよかるまじ」「さらば目な見せそ」と申しける。弁慶是を見て、如何にとも言はんかと思ひつるに、衆徒の伏目になりたるこそ心得ね。善悪を外処にて聞けば大事なり。近づきて聞かばやと思ひ、走り寄つて見ければ、講堂には老僧児共打ち交りて三百人ばかり居流れたり。縁の上には中居の者共、小法師原一人も残らず催したり。残る所無く寺中上を下に返して出で来る事なれば、千人ばかりぞ有りける。其の中に悪しく候ふとも言はず、
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足駄踏みならし、肩をも膝をも踏み付けて通りけり。あともそとも言はば、一定事も出で来なんと思ふ。皆肩を踏まれて通しけり。階の許に行きて見れば、履物共ひしと脱ぎたり。我も脱ぎ置かばやと思ひけるが、脱げば災を除くに似ると思ひ、履きながらがらめかしてぞ上りけり。衆徒咎めんとすれば事乱れぬべし。詮ずる所、取り合ひて詮なしとて、皆小門の方へぞ隠れける。弁慶は長押の際を足駄履きながら彼方此方へぞ歩きける。学頭「見苦しきものかな、さすが此の山と申すは、性空上人の建立せられし寺なり。然るべき人おはする上、幼き人の腰もとを足駄履いて通る様こそ奇怪なれ」と咎められて弁慶つい退つて申しけるは、「学頭の仰せは勿論に候ふ。然様に縁の上に足駄履いて候ふだにも狼藉なりと咎め給ふ程の衆徒の、何の緩怠に修行者の面をば足駄にしては履かれけるぞ」と申しければ、道理なれば衆徒音もせず。中々放ち合はせて置きたらば、学頭の計らひに如何様にも賺して出づべかりしを、禍起こりたりける。信濃是を聞きて、「興なる修行法師奴が面や」と居丈高になりて申しける。「余りに此の山の衆徒は驍傲が過ぎて、修行者奴等に目を見せて、既に後悔し給ふらんものを、いで習はさん」とて、つと立つ。あは、事出で来たりとて犇めく。弁慶是を見て、「面白し、彼奴こそ
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相手嫌はずのえせ者よ。己れが腕の抜くるか、弁慶が脳の砕くるか。思へば弁慶が面に物を書きたる奴か、憎い奴かな」とて、棒を取り直し、待ち懸けたり。戒円が寺の法師原五六人、座敷に有りけるが、是を見て、「見苦しく候ふ。あれ程の法師、縁より下に掴み落して、首の骨踏み折つて捨てん」とて、衣の袖取りて結び、肩にかけ、喚き叫んで懸かるを見て、弁慶えいやと立ち上がり、棒を取つて直し、薙打に一度に縁より下へ払ひ落しける。戒円是を見て走り立ちて、あたりを見れども打つべき杖なし。末座を見れば、檪を打ち切り打ち切りくべたる燃えさしを追つ取り、炭櫃押しにじりて、「一定か和法師」とて走り懸かる。弁慶しきりに腹を立て、以て開いてちやうど打つ。戒円走り違ひてむずと打つ。弁慶、がしと合はせて、潛り入りて、弓手の腕を差しのべ、かうを掴んでむずと引き寄せ、右手の腕を以て戒円が股を掴みそへて、目より高く引つさげて、講堂の大庭の方へ提げもて行く。衆徒是を見て、「修行者御免候へ。それは地体酒狂ひするものにて候ふぞ」と申しければ、弁慶見苦しく見えさせ給ふものかな。日頃の約束には修行者の酒狂ひは大衆鎮め、衆徒の酒狂ひをば修行者鎮めよとの御約束と承りしかば、命をば殺すまじ」と言うて、一振振つて「えいや」と言ひて、講堂の軒の高さ一丈一尺有り
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ける上に、投げ上げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転び落ち、雨落ちの石たたきにどうど落つ。取つて押ヘて、骨は砕けよ、脛は拉げよと踏んだり。弓手の小腕踏み折り、馬手の肋骨二枚損ず。中々言ふに甲斐なしとて、言ふばかりもなし。戒円が持ちたる燃えさしを、さらば捨てもせで、持ちながら投げ上げられて、講堂の軒に打ち挟む。折節風は谷より吹き上げたり。講堂の軒に吹き付けて、焼け上がりたり。九間の講堂七間の廊下多宝の塔、文殊堂、五重の塔に吹き付けて、一宇も残さず、性空上人の御影堂、是を始めて、堂塔社々の数、五十四ケ所ぞ焼けたりける。武蔵坊是を見て、現在仏法の仇となるべし、咎をだに犯しつる上は、まして大衆の坊々は助け置きて、何にかせんと思ひて、西坂本に走り下り、松明に火を付けて、軒を並べたる
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坊々に一々に火をぞ付けたりける。谷より峰へぞ焼けて行く。山を切りて懸造にしたる坊なれば、何かは一つも残らず、残るものとては礎のみ残りつつ、廿一日の巳の時ばかりに武蔵坊は書写を出でて、京へぞ行きける。其の日一日歩み、其の夜も歩みて、二十二日の朝に京へぞ着きにける。其の日は都大雨大風吹きて、人の行来も無かりけるに、弁慶装束をぞしたりける、長直垂に袴をば赤きをぞ著たりける。如何にしてか上りけん、さ夜更け、人静まりて後、院の御所の築地に上り、手を拡げて火をともし、大の声にてわつと喚きて、東の方へぞ走りける。又取つて返し、門の上につい立ちて、恐ろしげなる声にて、「あらあさまし。如何なる不思議にてか候ふやらん、性空上人の手づから自ら建て給ひし書写の山、昨日の朝、大衆と修行者との口論によつて、堂塔五十四ヶ所、三百坊一時に煙となりぬ」と呼ばはつて、掻き消す様に失せにけり。院の御所には是を聞召し、何故、書写は焼けたると、早馬を立てて御尋ね有り。「誠に焼けたらば学頭を始めとして衆徒を追ひ出だせ」との院宣なり。寺中の下部向ひて見れば、一宇も残らず焼けければ、全く時を移さず、参りて陳じ申さんとて、馳せ上り、院の御所に参じて陳じ申しければ、「さらば罪科の者を申せ」と仰せ下さる。「修行者には武蔵坊、衆徒には戒円」と申す。
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公卿是を聞き給ひて、「さては山門なりし鬼若が事ごさんなれば、是が悪事は山上の大事にならぬ先に、鎮めたらんこそ君ならめ。戒円が悪事是非なし。詮ずる所戒円を召せ。戒円こそ仏法王法の怨敵なれ。しやつを取りて、糾問せよ」とて、摂津国の住人昆陽野太郎承つて、百騎の勢にて馳せ向ひ、戒円を召して、院の御所に参る。御前に召されて、「汝一人が計らひか、与したる者の有りけるか」と尋ねらる。糾問厳しかりければ、とても生きて帰らん事不定なれば、日頃憎かりしものを入ればやと思ひて、与したる衆徒とては十一人までぞ白状に入れたりける。又昆陽野太郎馳せ向ふ所に、かねて聞こえければ、先立て十一人参り向ふ。されども白状に載せたりとて召し置かる。陳ずるに及ばず、戒円は遂に責め殺さる。死しける時も「我一人の咎ならぬに、残りを失はれずは、死するとも悪霊とならん」とぞ言ひける。かく言はざるだにも有るべし。さらば斬れとて、十一人も皆斬られにけり。武蔵坊都に有りけるが、是を聞きて、「かかる心地良き事こそ無けれ。居ながら敵思ふ様にあたりたる事こそ無けれ。弁慶が悪事は朝の御祈りになりけり」とて、いとど悪事をぞしたりける。
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弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事 S0305
弁慶思ひけるは、人の重宝は千揃へて持つぞ。奥州の秀衡は名馬千疋、鎧千領、松浦の太夫は胡■千腰、弓千張、斯様に重宝を揃へて持つに、我々は代はりの無ければ、買ひて持つべき様なし。詮ずる所、夜に入りて、京中に佇みて、人の帯きたる太刀千振取りて、我が重宝にせばやと思ひ、夜な夜な人の太刀を奪ひ取る。暫しこそ有りけれ、「当時洛中に丈一丈ばかり有る天狗法師の歩きて、人の太刀を取る」とぞ申しける。かくて今年も暮れければ、次の年の五月の末、六月の初めまでに多くの太刀を取りたり。樋口烏丸の御堂の天井に置く。数へ見たりければ、九百九十九こそ取りたりける。六月十七日五条の天神に参りて、夜と共に祈念申しけるは、「今夜の御利生によからん太刀与へて賜び給へ」と祈誓し、夜更くれば、天神の御前に出で、南へ向ひて行きければ、人の家の築地の際に佇みて、天神へ参る人の中に良き太刀持ちたる人をぞ待ち懸けたり。暁方になりて、堀河を下りに行きければ、面白く笛の音こそ聞こえけれ。弁慶是を聞きて、面白や、さ夜更けて、天神へ参る人の吹く笛か、法師やらん男やらん、よからん太刀を持ち
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たらば、取らんと思ひて、笛の音の近づきければ、差し屈みて見れば、未だ若人のしろき直垂に胸板を白くしたる腹巻に、黄金造りの太刀の心も及ばぬを帯かれたり。弁慶是を見て、あはれ太刀や、何ともあれ、取らんずるものをと思ひて待つ所に、後に聞けば恐ろしき人にてぞ有りける。弁慶は如何でか知るべき。御曹司は見給ひて、四辺に目をも放たれず、むくの木の下を見給ひければ、怪しからぬ法師の太刀脇挟みて立ちたるを見給へば、彼奴は只者ならず、此の頃都に人の太刀奪ひ取る者は彼奴にて有るよと思はれて、少しもひるまずかかり給ふ。弁慶さしも雄猛なる人の太刀をだにも奪ひ取る、まして是等程なる優男、寄りて乞はば、姿にも声にも怖ぢて出ださんずらん。げに呉れずは、突倒し奪ひ取らんと支度して、弁慶現れ出で、申しける
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は、「只今静まりて敵を待つ所に怪しからぬ人の物具して通り給ふこそ怪しく在じ候へ。左右無くえこそ通すまじけれ。然らずは其の太刀此方へ賜はりて通られ候へ」と申しければ、御曹司是を聞き給ひて、「此の程さる痴の者有りとは聞き及びたり。左右無くえこそ取らすまじけれ。欲しくは寄りて取れ」とぞ仰せられける。「さては見参に参らん」とて、太刀を抜いで飛んでかかる。御曹司も小太刀を抜いで築地の許に走り寄り給ふ。武蔵坊是を見て、「鬼神とも言へ、当時我を相手にすべき者こそ覚えね」とて以て開いてちやうど打つ。御曹司「彼奴は雄猛者かな」とて、稲夫の如く弓手の脇へづと入り給へば、打ち開く太刀にて築地の腹に切先打ち立てて、抜かんとしける暇に、御曹司走り寄りて、弓手の足を差し出だして、弁慶が胸をしたたかに踏み給へば、持ちたる太刀をからりと棄てたるを取つて、えいやと言ふ声の内に九尺ばかり有りける築地にゆらりと飛び上がり給ふ。弁慶胸はいたく踏まれぬ。鬼神に太刀取られたる心地して、あきれてぞ立ちたりける。御曹司「是より後にかかる狼藉すな。さる痴の者有りかとかねて聞きつるぞ。太刀も取りてゆかんと思へども、欲しさに取りたりと思はんずる程に取らするぞ」とて築地の覆ひに押し当てて、踏みゆがめてぞ投げかけ給ふ。太刀取つて押し直し、御曹司の方をつらげに
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見遣りて、「念無く御辺はせられて候ふ物かな。常に此の辺におはする人と見るぞ。今宵こそ仕損ずるとも是より後においては心許すまじき物を」とつぶやきつぶやきぞ行きける。御曹司是を見給ひて、何ともあれ、彼奴は山法師にてぞ有るらんと思召しければ、「山法師人の器量に似ざりけり」と宣へども、返事もせず。何ともあれ、築地より下り給はん所を切らんずるものをと思ひて待ちかけたり。築地よりゆらりと飛び下り給へば、弁慶太刀打ち振りてづと寄る。九尺の築地より下り給ひしが、下に三尺ばかり落ちつかで、又取つて返し上にゆらりと飛び返り給ふ。大国の穆王は六韜を読み、八尺の壁を踏んで天に上がりしをこそ上古の不思議と思ひしに、末代と雖も、九郎御曹司は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びの中に宙より飛び返り給ふ。弁慶は今宵は空しく帰りけり。
弁慶義経に君臣の契約申す事 S0306
頃は六月十八日の事なるに、清水の観音に上下参篭す。弁慶も何ともあれ、昨夕の男清水にこそ有るらんに、参りて見ばやと思ひて参りける。白地に清水
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の惣門に佇みて待てども見え給はず。今宵もかくて帰らんとする所に何時もの癖なれば、夜更けて清水坂の辺に例の笛こそ聞こえけれ。弁慶「あら面白の笛の音や、あれをこそ待ちつれ。此の観音と申すは、坂上田村丸の建立し奉りし御仏なり。我三十三身に身を変じて衆生の願ひを満てずは、祇園精舎の雲に交り、永く正覚を取らじと誓ひ、我地に入らん者には福徳を授けんと誓ひ給ふ御仏なり。されども弁慶は福徳も欲しからず、只此の男の持ちたる太刀を取らせて賜べ」と祈誓して、門前にて待ちかけたり。御曹司ともすればいぶせく思召しければ、坂の上を見上げ給ふに、彼の法師こそ昨日に引き替へて、腹巻著て、太刀脇挟み、長刀杖に突き待ちかけたり。御曹司見給ひて、曲者かな、又今宵も是に有りけるやと思ひ給ひて、少しも退かで門を指して上り給へば、弁慶「只今参り給ふ人は、昨日の夜天神にて見参に入りて候ふ御方にや」と申しければ、御曹司「さる事もや」と宣へば、「さて持ち給へる太刀をば賜び候ふまじきか」とぞ申しける。御曹司「幾度も只は取らすまじ。欲しくは寄りて取れ」と宣へば、「何時も強言は変はらざり」とて、長刀打ち振り、真下りに喚いて懸かる、御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。弁慶が大長刀を打ち流して、手並の程は見しかば、あやと肝を消す。さもあれ、手にもたまらぬ人かな
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と思ひけり。御曹司「終夜、斯くて遊びたくあれども、観音に宿願有り」とて打ち行き給ひぬ。弁慶独言に、「手に取りたるものを失ひたる心地する」とぞ申しける。御曹司、何ともあれ、彼奴は雄猛なる者なり。あはれ、暁まであれかし。持ちたる太刀長刀打ち落して、薄手負せて生捕にして、独り歩くは徒然なるに、相伝にして召し使はばやとぞ思召しける。弁慶此の企を知らず、太刀に目を懸けて、跡につきてぞ参りける。清水の正面に参りて、御堂の中を拝み奉れば、人の勤の声はとりどりなりと申せば、殊に正面の内の格子の際に、法華経の一の巻の始めを尊く読み給ふ声を聞きて、弁慶思ひけるは、あら不思議やな、此の経読みたる声は有りつる男の「憎い奴」と言ひつる声に、さも似たるものかなと、寄りて見んと思ひて持ちたる長刀をば正面の長押の上に差し上げて、帯きたる太刀ばかり持ちて、大勢の居たる中に、「御堂の役人にて候ふ。通させ給へ」とて人の肩をも嫌はず、押へて通りけり。御曹司御経遊ばして居給へる後ろに踏みはたかりて立ち上がりけり。御燈火の影より人是を見て、「あらいかめしの法師や、丈の高さよ」とぞ申しける。何として知りて是まで来たるらんと、御曹司は見給へども、弁慶は見付けず。只今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣打ち被き居給ひたり。武蔵坊思ひわづらひてぞ有り
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ける。中々是非無く推参せばやと思ひ、太刀の尻鞘にて、脇の下をしたたかに突き動かして、「児か女房か、是も参りにて候ふぞ。彼方へ寄らせ給へ」と申しけれども返事もし給はず。弁慶さればこそ、只者にては有らず。有りつる人ぞと思ひ、又したたかにこそ突いたりけれ。其の時御曹司仰せられけるは、「不思議の奴かな。己れが様なる乞食は木のした、萱の下にて申す共、仏の方便にてましませば、聞召し入れられんぞ。方々おはします所にて狼籍なり。其処退き候へ」と仰せられけれども、弁慶「情無くも宣ふものかな。昨日の夜より見参に入りて候ふ甲斐も無く、其方へ参り候はん」と申しもはたさず、二畳の畳を乗り越え、御傍へ参る。人推参尾篭なりと憎みける。斯かりける所に、御曹子の持ち給へる御経を追つ取つて、ざつと開いて、「あはれ御経や、御辺の経か、人の経か」と申しける。されども返事もし給はず、「御辺も読み給へ。我も読み候はん」と言ひて読みけり。弁慶は西塔に聞こえたる持経者なり。御曹司は鞍馬の児にて習ひ給ひたれば、弁慶が甲の声、御曹司の乙の声、入り違へて二の巻半巻ばかりぞ読まれたる。参り人のえいやづきもはたはたと鎮まり、行人の鈴の声も止めて、是を聴聞しけり。万々世間澄み渡りて尊く心及ばず、暫く有りて、「知る人の有るに立ち寄り
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て、又こそ見参せめ」とて立ち給ふ。弁慶是を聞きて、「現在目の前におはする時だにもたまらぬ人の、何時をか待ち奉るべき。御出候へ」とて、御手を取りて引き立て、南面の扉の下に行きて申しけるは、「持ち給へる太刀の真実欲しく候ふに、それ賜び候へ」と申しければ「是は重代の太刀にて叶ふまじ」「さ候はば、いざさせ給へ。武芸に付けて、勝負次第に賜はり候はん」と申しければ、「それならば参りあふべし」と宣へば、弁慶やがて太刀を抜く。御曹司も抜き合はせ、散々に打ち合ふ。人是を見て、「こは如何に。御坊の、是程分内もせばき所にて、しかも幼き人と戯れは何事ぞ。其の太刀差し給へ」と雖も、聞きも入れず、御曹司上なる衣を脱ぎて捨て給へば、下は直垂腹巻をぞ著給へる。此の人も只人にはおはせざりけりとて、
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人目をさます。女や尼童共、周章狼狽き、縁より落つるものも有り、御堂の戸を立て、入れじとするものも有り。されども二人の者はやがて舞台へ引いて、下り合うて、戦ひける。引いつ進んづ討ち合ひける間、始めは人も懼ぢて寄らざりけるが、後には面白さに行道をする様に付きてめぐり、是を見る。他人言ひけるは、「抑児が勝るか、法師が勝るか」「いや児こそ勝るよ。法師は物にても無きぞ。早弱りて見ゆるぞ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「さては早我は下になるごさんなれ」とて、心細く思ひける。御曹司も思ひきり給ふ。弁慶も思ひきつてぞ討ち合ひける。弁慶少し討ちはづす所を御曹司走りかかつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむ所を太刀の脊にて、散々に討ちひしぎ、東枕に打ち伏して上に打ち乗り居て、「さて従ふや否や」と仰せられければ、「是も前世の事にてこそ候ふらん。さらば従ひ参らせん」と申しければ、著たる腹巻を御曹司重ねて著給ひ、二振の太刀を取り、弁慶を先に立てて、其の夜の中に山科へ具しておはしまし、傷を癒して、其の後連れて京へおはして、弁慶と二人して平家を狙ひ給ひける。其の時見参に入り始めてより、志又二つ無く身に添ひ、影の如く、平家を三年に攻め落し給ひしにも度々の高名を極めぬ。奥州衣川の最後の合戦まで
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御供して、遂に討死してんげる武蔵坊弁慶是なり。斯くて都には九郎義経、武蔵坊と言ふ兵を語らひて、平家を狙ふと聞こえ有りけり。おはしける所は四条の上人が許におはする由、六波羅へこそ訴へたり。六波羅より大勢押し寄せて、上人を捕る。其の時御曹司おはしけれども、手にもたまらず失ひ給ひけり。御曹司「此の事洩れぬ程にてあれ、いざや奥へ下らん」とて、都を出で給ひ、東山道にかかりて木曾が許におはして、「都の住居適はぬ間、奥州へ下り候へ。斯くて御渡り候へば、万事は頼もしくこそ思ひ奉れ。東国北国の兵を催し給へ。義経も奥州より差し合はせて、疾く疾く本意を遂げ候はんとこそ思ひ候へ。是は伊豆国近く候へば常に兵衛佐殿の御方へも御訪れ候へ」とて木曾が許より送られて、上野の伊勢三郎が許までおはしけれ。是より義盛御供して、平泉へ下りけり。
頼朝謀反の事 S0307
治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給ひて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同十九日相模国小早川の合戦に打ち負けて、土肥の杉山に引き篭り給ふ。大庭三郎、
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股野五郎、土肥の杉山を攻むる。廿六日の曙に伊豆国真名鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押し出だす。折節風はげしくて、岬へ船を寄せ兼ねて、二十八日の夕暮に安房国州の崎と言ふ所に御舟を馳せ上げて、其の夜は、滝口の大明神に通夜有りて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと覚しくて、御宝殿の御戸を美しき御手にて押し開き、一首の歌をぞ遊ばしける。
源は同じ流れぞ石清水たれ堰き上げよ雲の上まで W002
兵衛佐殿夢打ち覚めて、明神を三度拝し奉りて、
源は同じ流れぞ石清水堰き上げて賜べ雲の上まで W003
と申して、明くれば州の崎を立ちて、坂東、坂西にかかり、真野の館を出で、
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小湊の渡して、那古の観音を拝して、雀島の大明神の御前にて形の如くの御神楽を参らせて、猟島に著き給ひぬ。加藤次申しけるは、「悲しきかなや。保元に為義切られ給ふ。平治に義朝討たれ給ひて後は、源氏の子孫皆絶え果てて弓馬の名を埋んで星霜を送り給ふ。偶々も源氏思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて、世を損じ給ふこそ悲しけれ」と申しければ、兵衛佐殿仰せられけるは、「斯く心弱くな思ひそ。八幡大菩薩如何でか思召し捨てさせ給ふべき」と諌め給ひけるこそ頼もしく覚ゆれ。さる程に三浦の和田小太郎、佐原十郎、久里浜の浦より小船に取り乗りて、宗徒の輩三百余人猟島へ参りて源氏に属く。安房国の住人丸太郎、安西の太夫、是等二人大将として五百余騎馳せ来たり源氏に属く。源氏八百余騎になり、いとど力付きて、鞭を上げて打つ程に、安房と上総の堺なる造海の渡をして、上総国讚岐の枝浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎を打ち通りて、篠部、いかひしりと言ふ所に著き給ふ。上総国の住人伊北、伊南、庁北、庁南、武射、山辺、畔隷、くはのかみの勢、都合一千余騎周淮川と言ふ所に馳せ来たつて、源氏に加はる。され共介の八郎は未だに見えず。私に広常申しけるは、「抑兵衛佐殿の安房、上総に渡りて二ケ国の軍兵を揃へ給ふなるに、未だ広常
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が許へ御使ひを賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜に押し向ひて、源氏を引き立て奉らん」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に黒革威の腹巻に黒津羽の矢負ひ、塗篭藤の弓持ちて、介の八郎の許にぞ来たりける。「上総介殿に見参」と申しければ、兵衛佐殿の御使ひと申せば、嬉しさに、急ぎ出で合ひて対面す。御教書賜はり、拝見す。家の子郎等も差し遣はせよと仰せられんとこそ思ひつるに、「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ」と書き給ひたるを打ち見て、「あはれ、殿の御書かな。斯くこそ有らまほしけれ」とて、則ち千葉介の許へ送る。葛西、豊田、うらのかみ、上総介の許へ馳せ寄りて、千葉、上総介を大将軍として、三千余騎開発の浜に馳せ来たり源氏につく。兵衛佐殿四万余騎になりて、上総の館に著き給ふ。斯くする程にこそ久しけれ。されども八ケ国は源氏に心有る国なりければ、我も我もと馳せ参る。常陸国には宍戸、行方、志田、東条、佐竹別当秀義、高市の平武者太郎、小野寺禅師道綱、上野国には大胡太郎、山上さゑよりの信高武蔵国には河越太郎重頼、小太郎重房同じき三郎重義、党には丹、横山、猪俣馳せ参る。畠山、稲毛は未だ参らず。秩父庄司に小山田別当は在京によりて参らず。相模国には本間、渋谷馳せ参る。大庭、股野、山内は参らず。治承四年九月十一日武蔵と下野の境なる松戸庄
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市河と言ふ所に著き給ふ。御勢八万九千とぞ聞こえける。此処に坂東に名を得たる大河一つ有り。此の河の水上は、上野国刀根庄、藤原と言ふ所より落ちて水上遠し。末に下りては在五中将の墨田河とぞ名付けたる。海より潮差し上げて、水上には雨降り、洪水岸を浸し流れたり。偏へに海を見る如く、水に堰かれて五日逗留し給ひ、墨田の渡両所に陣を取つて、櫓をかき、櫓の柱には馬を繋で、源氏を待ち懸けたり。兵衛佐殿は是を御覧じて、「彼奴首取れ」と宣へば、急ぎ櫓の柱を切り落して、筏にし、市河へ参り、葛西兵衛について、見参に入るべき由申したりけれども用ゐ給はず。重ねて申しければ、「如何様にも頼朝を猜むと思ふぞ。伊勢加藤次心許すな」と仰せられける。江戸太郎色を失ひける所に千葉介近所に有りながら如何有るべき。成胤申さんとて、御前に畏まつて、不便の事を申しければ、佐殿仰せられけるは、「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣ひける。江戸太郎承りて「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す
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所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著き給ひけり。
頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事 S0308
さる程に佐殿の謀反奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、本吉冠者泰衡を召して秀衡に仰せけるは、「兵衛佐殿こそ謀反起こして、八ケ国を打ち従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心苦しく候へ。追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや」とぞ仰せられける。秀衡申しけるは、「今まで、君の思召し立たぬ御事こそ僻事にて候へ」とて、泉冠者を呼びて、「関東に事出で来、源氏打ち出で給ふなり。両国の兵共催せ」とぞ申しける。御曹司仰せられけるは、「千騎万騎も具足したく候へども、事延びては叶ふまじ」とて打ち出で給ふ。取り敢へざりければ、先づかつがつ三百余騎を奉りける。
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御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じく四郎忠信是等を先として三百余騎馬の腹筋馳せ切り、脛の砕くるをも知らず、揉みに揉うで馳せ上る。阿津賀志の中山馳せ越え、安達の大城戸打ち通り、行方の原、ししちを見給へば、「勢こそ疎になりたるぞ」と仰せられけるに、「或いは馬の爪欠かせ、或いは脛を馳せ砕きて、少々道に止まり、是までは百五十騎御座候ふ」と申しければ、「百騎が十騎にならんまでも、打てや者共、後を顧るべからず」とて、とどろ馳けにて歩ませける。きづかはを打ち過ぎて、下橋の宿に著いて、馬を休ませて、絹河の渡して、宇都宮の大明神伏し拝み参らせ、室の八嶋を外に見て、武蔵国足立郡、小川口に著き給ふ。御曹司の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋に馳せ著きて、「兵衛佐殿は」と問ひ給へば、「一昨日是を発たせ給ひて候ふ」と申す。武蔵の国府の六所の町に著いて、「佐殿は」と仰せければ、「一昨日通らせ給ひて候ふ。相模の平塚に」とぞ申しける。平塚に著いて聞き給へば、「早足柄を越え給ひぬ」とぞ聞こえける。いとど心許無くて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山を打ち越えて、伊豆の国府に著き給ふ。「佐殿は昨日此処を発ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に」と申しければ、さては程近しとて、駒を早め、
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急がれける。
義経記巻第三
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義経記 国民文庫本
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義経記巻第四目録
頼朝義経対面の事
義経平家の討手に上り給ふ事
腰越の状の事
土佐坊上洛の事
義経都落の事
大物合戦の事
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義経記巻第四
頼朝義経対面の事 S0401
九郎御曹司浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前三町ばかり引き退いて、陣をとり、暫く息をぞ休められける。佐殿是を御覧じて「此処に白旗白印にて清げなる武者五六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん、覚束なし。信濃の人々は木曾に随ひて止まりぬ。甲斐の殿原は二陣なり。如何なる人ぞ。本名実名を尋ねて参れ」とて堀弥太郎御使ひに遣はされ、家の子郎等数多引き具して参る。間を隔て弥太郎一騎進み出で申しけるは、「是に白印にておはしまし候ふは誰にて渡らせ給ひ候ふぞ。本名実名を確かに承り候へと鎌倉殿の仰せにて候ふ」と申しければ、其の中に廿四五ばかりなる男の色白く、尋常なるが、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧の裾金物打ちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打つて猪頚に著、大中黒の矢負ひ、重藤の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗り
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たるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候ふ。童が名牛若と申し候ひしが、近年奥州に下向仕り候ひて居候ひつるが、御謀反の様承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて候ふ。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀弥太郎、さては御兄弟にてましましけりと馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎を呼び出だして、色代有り。弥太郎一町ばかり馬を引かせけり。かくて佐殿の御前に参り、此の由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらば是へおはしまし候へ。見参せん」と宣へば、弥太郎やがて参り、御曹司に此の由を申す。御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎伊勢三郎是等三騎召し連れて参らるる。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、其の内は八ケ国の
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大名小名なみ−居たり。各々敷皮にてぞ有りける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれ共、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司は兜を脱ぎて童に著せ、弓取り直して、幕の際に畏まつてぞおはしける。其の時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司しばらく辞退して敷皮にぞ直られける。佐殿御曹司をつくづくと御覧じて先づ涙にぞ咽ばれける。御曹司も其の色は知らね共、共に涙に咽び給ふ。互に心の行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「扨も頭殿に後れ奉りて、其の後は御行方を承り候はず。幼少におはし候ふ時、見奉りしばかり也。頼朝池の尼の宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東、北条に守護せられ、心に任せぬ身にて候ひし程に奥州へ御下向の由はかすかに承つて候ひしかども、音信だにも申さず候ふ。兄弟有りと思召し忘れ候はで、取り敢へず御上り候ふ事、申し尽くし難く悦び入り候ふ。是御覧候へ。斯かる大功をこそ思ひ企てて候へ、八ケ国の人々を始めとして候へども、皆他人なれば身の一大事を申し合はする人もなし。皆平家に相従ひたる人々なれば、頼朝が弱げを守り給ふらんと思へば、夜も夜もすがら平家の事のみ思ひ、又ある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身進み候へば、東国覚束なし。代官上せんとすれば、心安き兄弟もなし。
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他人を上せんとすれば、平家と一つに成りて、返つて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひ難し。今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿生き返らせ給ひたる様にこそ存じ候へ。我等が先祖八幡殿の後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、厨河のはたに下り下りて、幣帛を俸げて王城を伏し拝み、「南無八幡大菩薩御覚えを改めず、今度の寿命を助けて本意を遂げさせて給べ」と祈誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感応にや有りけん、都におはする御弟刑部丞内裏に候ひけるが、俄に内裏を紛れ出で、奥州の覚束無きとて、二百余騎にて下られける。路次にて勢打ち加はり、三千余騎にて厨河に馳せ来たつて、八幡殿と一つになりて遂に奥州を従へ給ひける。其の時の御心も、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、如何でか是に勝るべき。今日より後は魚と水との如くにして、先祖の恥をすすぎ、亡魂の憤りを休めんとは思召されずや。御同心も候はば、尤も然るべし」と宣ひも敢へず、涙を流し給ひけり。御曹司兎角の御返事も無くして、袂をぞ絞られける。是を見て大名小名互ひの心の中推量られて、皆袖をぞ濡らされける。暫く有りて、御曹司申されけるは、「仰せの如く、幼少の時御目にかかりて候ひけるやらん。配所へ御下り
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の後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六まで形の如く学問を仕り、さては都に候ひしが、内々平家方便を作る由承り候ひし間、奥州へ下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀反の由承りて、取り敢ず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候ふ心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ候ふ。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせでは候ふべき」と申しも敢へず、又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此の御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。
義経平家の討手に上り給ふ事 S0402
御曹司寿永+三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八嶋、壇浦、所々の忠を致し、先駆け身をくだき、遂に平家を攻め亡ぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生捕り、三十人具足して上洛し、院内の見参に入つて後、去ぬる元暦+元年に検非違使五位尉になり給ふ。大夫判官、宗盛親子具足して、腰越に著き給ひし時、梶原申しけるは、「判官殿こそ大臣殿父子具足して、腰越に著かせ給ひて候ふなれ。君は如何御計らひ候ふ。判官殿は身に野心を挟みたる御事にて
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候ふ。其の儀如何にと申すに一谷の合戦に庄三郎高家、本三位の中将生捕り奉り、三河殿の御手に渡りて候ふを、判官大きに怒り給ひて、三河殿は大方の事にてこそあれ、義経が手にこそ渡すべきものを、奇怪の者の振舞かな。寄て討たんと候ひしを、景時が計らひに土肥次郎が手に渡してこそ判官は静まり給ひしか。其の上「平家を打ち取りては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしと雖も、此の後は二人の将軍や有らんずらん」と仰せ候ひしぞかし。かくて武功の達者一度も慣れぬ船軍にも風波の難を恐れず、舟端を走り給ふ事鳥の如し。一谷の合戦にも城は無双の城なり。平家は十万余騎なり。味方は六万五千余騎なり。城は無勢にて寄手は多勢こそ、軍の勝負は決し候ふに、是は城は多勢、案内者寄手は無勢、
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不案内の者共なり。容易く落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひ難き巌石を無勢にて落し、平家を遂に追ひ落し給ふ事は凡夫の業ならず。今度八嶋の軍に大風にて浪おびたたしくて、船の通ふべき様も無かりしを、只船五艘にて馳せ渡し、僅に五十余騎にて、憚る所無く八嶋の城へ押し寄せて、平家数万騎を追ひ落し、壇浦の詰軍までも遂に弱げを見せ給はず。漢家本朝にも是程の大将軍如何であるべきとて、東国西国の兵共一同に仰ぎ奉る。野心を挿みたる人にておはすれば、人ごとに情をかけ、侍までも目をかけられし間、侍共「あはれ侍の主かな。此の殿に命を奉る事は塵よりも惜しからじ」と申して、心をかけ奉りて候ふ。それに左右無く鎌倉中へ入れ参らせ給ひて御座候はん事いぶせく候ふ。御一期の程は君の御果報なれば、さり共と存じ候ふ。御子孫の世には如何候はんずらん。又御一期と申しても何とか御座候はん」と申しければ、君此の由を聞召して、「梶原が申す事は偽などは有らじなれども、一方を聞きて相計らはん事は政道のけがるる所也。九郎が著きたるなれば、明日是にて梶原に問答せさせ候ふべし」とぞ仰せられける。大名小名是を聞きて、「今の御諚の如くにては、判官もとより誤り給はねば、若し助かり給ふ事も有りなん。されども景時が逆櫓立てんと
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の論の止まざる所に壇浦にて互に先駆け争ひて、矢筈を取り給ひし、其の遺恨に斯様に讒言申せば、遂には如何有らんずらん」と申しける。召し合はせんと仰せられ、言ふ時に梶原甘縄の宿所に帰りて、偽申さぬ由起請を書きて参らせければ、此の上はとて大臣殿をば腰越より鎌倉に受け取り、判官をば腰越に止めらるる。判官「先祖の恥を清め、亡魂の憤りを休め奉る事は本意なれども、随分二位殿の気色に相適ひ奉らんとてこそ身を砕きては振舞ひしか、恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は日頃の忠も益なし。あはれ、是は梶原奴が讒言ごさんなれ。西国にて切りて捨つべき奴を、哀憐を垂れ助け置きて、敵となしぬるよ」と後悔し給へども、甲斐ぞ無き。鎌倉には二位殿、河越太郎を召して、「九郎が院の気色良き儘に、世を乱さんと内々企むなり。西国の侍共付かぬ先に、腰越に馳せ向ひ候へ」と仰せられければ、河越申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はず候へ共、且は知召して候ふ様に女にて候ふ者を判官殿の召し置かれて候ふ間、身に取りては痛はしく候ふ。他人に仰せ付けられ候へ」と申し捨ててぞ立たれける。理なれば重ねても仰せ出だされず、又畠山を召して仰せられけるは、「河越に申し候へば、親しくなり候ふとて、叶はじと申す。
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さればとて世を乱さんと振舞ひ候ふ九郎を、其の儘置くべき様なし。御辺打ち向ひ給ひ候ふべし。吉例なり。さも候はば伊豆駿河両国を奉らん」と仰せられければ、畠山万に憚らぬ人にて申されけるは、「御諚背き難く候へ共、八幡大菩薩の御誓にも、人の国より我が国、他の人よりも我が人をこそ守らんとこそ承り候へ。他人と親きとを比ぶれば、譬ふる方なし。梶原と申すは一旦の便によりて召し使はるる者なり。彼が讒言により、年来の忠と申し、御兄弟の御仲と申し、たとひ御恨み候ふ共、九国にても参らさせ給ひて、見参とて、重忠に賜はり候はんずる伊豆駿河両国を勧賞の引手物に参らせ給ひて、京都の守護に置き参らせ給ひ候ひて、御後ろを守らさせ給ひて候はん程の御心安き事は何事か候ふべき」と憚る所無く申し捨てて立たれける。二位殿理と思召しけるにや、其の後は仰せ出ださるる事もなし。腰越には此の事を聞き給ひて、野心を挿まざる旨数通の起請文を書き進じられけれ共、猶御承引無かりければ重ねて申状をぞ参らせられける。
腰越の申状の事 S0403
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源義経恐れ乍ら申し上げ候ふ意趣は、御代官の其の一つに撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞行はるべき所に、思ひの外に虎口の讒言に依つて莫大の勲功を黙止せらる。義経犯す事なうして、咎を蒙り、誤りなしと雖も、功有りて御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。讒者の実否を糾されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず。徒らに数日を送る。此の時に当たつて永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、将又先世の業因を感ずるか。悲しき哉、此の条、故亡父尊霊再誕し給はずむば、誰の人か愚意の悲嘆を申し披かん、何れの人か哀憐を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾の時節を経ずして、故頭殿御他界の間、孤子となつて、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無き命は存ずと雖も、京都の経廻難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ちに純熟して、平家の一族追討の為に上洛せしむる。先づ木曾義仲を誅戮の後平家を攻め傾けんが為に、或る時は峨々たる巌石に駿馬に策つて、敵の為に命を亡ぼさん事を顧みず。或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、
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屍を鯨鯢の腮に懸く。加之甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併ら亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は他事なし。剰へ義経五位尉に補任の条、当家の重職、何事か是に如かん。然りと雖も今の愁深く歎切なり。仏神の御助に非ずは、争か愁訴を達せん。是に因つて、諸寺諸社の牛王宝印の御裏を以て全く野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ、驚かし奉つて、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥免なし。夫我が国は神国なり。神は非礼を享け給ふべからず。憑む所他に有らず。偏へに貴殿広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤無き旨を宥ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へ、仍つて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず、併ら省略せ
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しめ候ひ畢んぬ。義経恐惶謹言。元暦+二年六月五日源義経進上因幡守殿へとぞ書かれたる。是を聞召して、二位殿を始め奉りて御前の女房達に至るまで、涙をぞ流されける。扨こそ暫く差し置かれけれ。判官は都に院の御気色よくて、京都の守護には義経に過ぎたる者有らじと言ふ御気色なり。万事仰ぎ奉る。かくて秋も暮れ、冬の初めにもなりしかば、梶原が憤安からずして、頻に讒言申しければ、二位殿さもとや思はれける。
土佐坊義経の討手に上る事 S0404
二階堂の土佐坊召せとて召されける。鎌倉殿四間所におはしまして、土佐坊召され参る。梶原「土佐坊参りて候ふ」と申しければ、鎌倉殿「是へ」と召す。御前に畏まる。源太を召して、「土佐に酒」とぞ仰せられける。梶原殊の外にもてなしけり。鎌倉殿仰せられけるは、「和田畠山に仰せけれども、敢て是を用ゐず。九郎が都に居て院の御気色良きにより、世を乱さんとする間、
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河越太郎に仰せけれども、縁あればとて用ゐず。土佐より外に頼むべき者なし。しかも都の案内者なり。上りて九郎打ちて参らせよ。其の勲功には安房上総賜ぶ」とぞ仰せられける。土佐申しけるは、「畏まり承り候ふ。御一門を亡ぼし奉れと仰せ蒙り候ふこそ嘆き入り存じ候ふ」と申しければ、鎌倉殿気色大きに変はり、悪しく見えさせ給へば、土佐謹んでこそ候ひける。重ねて仰せられけるは、「さては九郎に約束したる事にや」と仰せられければ、土佐思ひけるは、詮ずる所、親の首を斬るも君の命なり。上と上との合戦には侍の命を捨てずしては打つべきに有らずと思ひ、「さ候はば仰せに従ひ候はん。恐にて候へば、色代ばかり」と申す。鎌倉殿「さればこそ、土佐より外に誰か向ふべきと思ひつるに少しも違はず。源太是へ参り候へ」と仰せられければ畏まつてぞ居たりける。「有りつる物は如何に」と仰せ有りければ、納殿の方よりして、身は一尺+二寸有りける手鉾の蛭巻白くしたるを細貝を目貫にしたるを持つて参る。「土佐が膝の上に置け」とぞ宣ひける。「是は大和の千手院に作らせて秘蔵して持ちたれども、頼朝が敵討つには柄長きものを先とす。和泉判官を討ちし時に、容易く首を取つて参らせたりしなり。是を持ちて上り、九郎が首を刺し貫き参らせよ」と仰せられけるは、情無くぞ聞こえける。梶原を召し
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て、「安房、上総の者共、土佐が供せよ」とぞ仰せられける。承りて、詮無き多勢かな、させる寄合の楯つき軍はすまじい、狙ひ寄りて夜討にせんと思ひければ、「大勢は詮無く候ふ。土佐が手勢ばかりにて上り候はん」と申す。「手勢は如何程あるぞ」と宣へば、「百人ばかりは候ふらん」「さては不足なし」とぞ仰せられける。土佐思ひけるは、大勢を連れ上りなば、若し為果せたらん時、勲功を配分せざらんも悪し。為んとすれば安房、上総、畠多く田は少なし、徳分少なくて不足なりと、酒飲む片口に案じつつ、御引出物賜はりて、二階堂に帰り、家の子郎等呼びて申しけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜はつて候へ。急ぎ京上りして所知入せん。疾く下りて用意せよ」とぞ申しける。「それは常々の奉公か。又何によりての勲功候ぞ」と申せば、「判官殿の討ちて参らせよとの仰せ承りて候ふ」と言ひければ、物に心得たる者は、「安房、上総も命有りてこそ取らんずれ。生きて二度帰らばこそ」と申す者も有り。或いは「主の世におはせば、我等もなどか世にならざるらん」と勇む者も有り。されば人の心は様々なり。土佐はもとより賢き者なれば、打ち任せての京上りの体にては叶ふまじとて、白布を以て、皆浄衣を拵へて、烏帽子に四手を付けさせ、法師には頭巾に四手
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を付け、引かせたる馬にも尾髪に四手付け、神馬と名づけ引きける。鎧腹巻唐櫃に入れ、粗薦に包み、注連引き熊野の初穂物と言ふ札を付けたり。鎌倉殿の吉日、判官殿の悪日を選びて、九十三騎にて鎌倉を立ち、其の日は酒匂の宿にぞ著きたりける。当国の一の宮と申すは、梶原が知行の所なり。嫡子の源太を下して、白栗毛なる馬白葦毛なる馬二疋に、白鞍置かせてぞ引きたる。是にも四手を付け、神馬と名づけたり。夜を日に継ぎて打つ程に、九日と申すに京へ著く。未だ日高しとて、四の宮河原などにて日を暮し、九十三騎三手に分けて、白地なる様にもてなし、五十六騎にて我が身は京へ入り、残りは引き下りてぞ入りにける。祇園大路を通りて、河原を打ち渡りて、東洞院を下りに打つ程に、判官殿の御内に信濃国の住人に江田源三と言ふ者有り。三条京極に女の許に通ひけるが、堀河殿を出でて行く程に、五条の東洞院にて鼻突にこそ行き会ひたれ。人の屋陰の仄暗き所にて見ければ、熊野詣と見なして、何処の道者やらんと、先陣を通して後陣を見れば、二階堂の土佐と見なして、土佐が此の頃大勢にて熊野詣すべしとこそ覚えねと思ひ案ずるに、我等が殿と鎌倉殿と下心よくもおはせざる間、寄りて問はばやと思ひけれども、有りの儘にはよも言はじ。中々
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知らぬ顔にて、夫奴を賺して問はばやと思ひて待つ所に、案の如く後れ馳せの者共、「六条の坊門油小路へは何方へ行くぞ」と問ひければ、云々に教へけり。江田追ひ著きて、「何の国に誰と申す人ぞ」と問ひければ、「相模国二階堂の土佐殿」とぞ申しける。後に来る奴原の佗びけるは、「さもあれ、只身の一期の見物は京とこそ言へ、何ぞ日中に京入はせで、道にて日の暮し様ぞ。我等共物は持ちたり、道は暗し」と呟きければ、今一人が言ひけるは、「心短き人の言ひ様かな。一日も有らば見んずらん」と言ひければ、今一人の夫が言ひけるは、「和殿原も今宵ばかりこそ静ならんずれ。明日は都は件の事にて大乱にて有らんずれ。されば我々までも如何有らんずらんと恐ろしきぞ」も申しければ、源三是を聞きて、是等が後に
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付きて物語をぞしたりけれ。「是も地体相模国の者にて候ふが、主に付きて在京して候ふが、我が国の人と聞けばいとどなつかしきぞや」なんどと賺されて、「同国の人と聞けば申し候ふぞ。げに鎌倉殿の御弟九郎判官殿を討ち参らせよとの討手の使ひを賜はつて上られ候ふ。披露は詮無く候ふ」と申しける。江田是を聞きて、我が宿所へ行くに及ばず、走り帰りて、堀河にて此の由を申す。判官少しも騒がず、「遂にしてはさこそ有らんずらん。さりながら御辺行き向ひて、土佐に言はんずる様は、「是より関東に下したる者は、京都の仔細を先に鎌倉殿へ申すべし。又関東より上らん者は、最前に義経が許に来たりて、事の仔細を申すべき所に、今まで遅く参る尾篭なり。急度参るべき」と、時刻を移さず召して参れ」と仰せられける。江田承りて、土佐が宿所、油小路に行きて見れば、皆馬共鞍下し、すそ洗ひなどしける。兵五六十人並居て、何とは知らず評定しける。土佐坊脇息にかかりてぞ居ける。江田行きて、仰せ含めらるる旨を言ひければ、土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の代官に熊野参詣仕り候ふ。さしたる事は候はねども、最前に参じ候はんと存じ候ふ所に、途より風の心地にて候ふ間、今夜少し労り、明日参じて御目にかかり候ふべき旨、只今子にて候ふ者を進じ候はんと仕り候ふ。折節御使
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畏まり入り候ふ由申させ給へ」と申しければ、江田帰りて此の由を申す。判官日頃は侍共に向ひては、荒言葉をも宣はざりしが、今は大きに怒つて、「事も事にこそ依れ、異議を言はする事は、御辺の臆めたるに依つてなり。あれ程の不覚人の弓矢取る奉公をするか。其処罷り立ち候へ。向後義経が目にかかるな」とぞ仰せられける。宿所に帰り候はんとしけるが、此の事を聞きながら帰りては、臆めたるべしと帰らざりけり。武蔵、御酒盛半に、宿所へ帰りけるが、御内に人も無くやあるらんと思ひて参りたり。判官御覧じて、「いしうおはしたり。只今かかる不思議こそあれ。源三と言ふのさ者を遺はしたれば、あれが返事に従ひて帰り来たれる間、鼻を突かせて行方を知らず、御辺向ひて、土佐を召して参れ」と仰せ有りければ、畏まつて、「承り候ふ。もとより弁慶に仰せ蒙り候はん事を」とて、やがて出で立つ。「侍共数多召し具すべきか」と仰せられければ、弁慶「人数多にては敵が心づけ候はん」と出仕直垂の上に黒革威の鎧、五枚兜の緒を締め、四尺+五寸の太刀帯いて、判官の秘蔵せられたりける大黒と言ふ馬に乗り、雑色一人ばかり召し具して、土佐が宿へぞ打ち入りける。壷の中縁の際まで打ち寄せて、縁にゆらりと下り、簾をざつと打ち上げて見れば、郎等共七八十人座敷
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に列りて、夜討の評定する所に、弁慶多くの兵共の中を色代に及ばず踏み越えて、土佐が居たる横座にむずと鎧の草摺を居懸けて、座敷の体を睨み廻し、其の後土佐をはたと睨み、「如何に御辺は如何なる御代官なりとも、先づ堀河殿へ参りて、関東の仔細を申さるべきに、今まで遅く参る、尾篭の致る所ぞ」と言ひければ、土佐仔細を述べんとする所に、弁慶言はせも果てず、「君の御酒けにてあるぞ。鼻突き給ふな。いざさせ給へ」と手を取つて引つ立つる。兵共色を失ひて、土佐思ひ切らば、打ち合はんずる体なれ共、土佐が色損じて返答に及ばず、「やがて参り候はん」と申しける上は、侍共力及ばず、「暫く。馬に鞍置かせん」と言ひけるを、「弁慶が馬の有る上、今まで乗りつる馬に鞍置きて何にせん。早乗り給へ」とて、土佐も大力なれ
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ども、弁慶に引き立てられて、縁の際まで出でにけり。弁慶が下部心得て、縁の際に馬引き寄せたり。弁慶土佐を掻き抱き、鞍壷にがはと投げ乗せ、我が身も馬の尻にむずと乗り、手綱土佐に取らせて叶はじと思ひ、後ろより取り、鞭に鐙を合はせて、六条堀川に馳せ著き、此の由申し上げたりければ、判官南向の広廂に出で向ひ給ひて、土佐を近く召して、事の仔細を尋ねらる。土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の御代官に熊野へ参り候ふ。明日払暁に参り候はんとて、今宵風の心地にて候ふ間、参ら/ず候ふ所に、御使重なり候ふ程に、恐れ存じ候ひて参りて候ふなり」。判官、「汝は義経追討の使とこそ聞く。争か争ふべき」。土佐、「努々存じ寄らざる事に候ふ。人の讒言にてぞ候ふらん。何れか君にて渡らせ給はぬ。権現定めて知見し坐し候はん」と申せば、「西国の合戦に疵を蒙り、未だ其の疵癒えぬ輩が、生疵持ちながら熊野参詣に苦しからぬか」と仰せられければ、「然様の人一人も召し具せず候ふ。熊野のみつの御山の間、山賊満ち満ちて候ふ間、若き奴原少々召し具して候ふ。それをぞ人の申し候はん。」判官、「汝が下部共の「明日京都は大戦にて有らんずるぞ」と言ひけるぞ。其はやは争ふ」と仰せられければ、土佐、「斯様に人の無実を申し付け候はんに於ては、私には陳じ開き難く候ふ。御免蒙り候ひて、起請を書き候はん」と申しければ、
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判官「神は非礼を享け給はずと言へば、よくよく起請を書け」とて、熊野の牛王に書かせ、「三枚は八幡宮に収め、一枚は熊野に収め、今三枚は土佐が六根に収めよ」とて焼いて飲ませ、此の上はとて許されぬ。土佐許されて出でざまに、「時刻移してこそ冥罰も神罰も蒙らめ。今宵をば過ぐすまじき物を」と思ひける。宿へ帰りて、「今宵寄せずは、叶ふまじきぞや」とて、各々犇めきける。判官の御宿には、武蔵を初めとして侍共申しけるは、「起請と申すは、小事にこそ書かすれ、是程の事に今宵は御用心あるべく候ふ」と申せば、判官、さらぬ体にて、「何事か有らん」と、事もなげにぞ仰せられける。「さりながら、今宵打ち解くる事候ふまじ」と申せば、判官、「今宵何事も有らば、只義経に任せよ。侍共皆々帰れ」と仰せられければ、各々宿所へぞ帰りける。判官は宵の酒盛に酔ひ給ひて、前後も知らず臥し給ふ。其の頃判官は静と言ふ遊女を置しき者にて、「是程の大事を聞きながら、斯様に打ち解け給ふも、只事ならぬ事ぞ」とて、端者を土佐が宿所へ遣はして、景気を見する。端者行きて見るに、只今兜の緒を締め、馬引つ立て、既に出でんとす。猶立ち入りて奥にて見すまして申さんとて、震ひ震ひ入る程に、土佐が下部是を見て、「此処なる女は只者ならず」と申しければ、「さもあるらん、召し捕れ」
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とて、彼の「女を捕へ、上げつ下しつ拷問す。暫くは落ちざりけれども、余りに強く攻められて、有りの儘に落ちにける。斯様の者を許しては悪しかるべしとて、斬りにけり。土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻許りに六条堀河に押し寄せたり。判官の御宿所には、今宵は夜も更け、何事もあるまじきと各々宿へ帰る。武蔵坊、片岡六条なる宿へ行きてなし。佐藤四郎、伊勢三郎室町なる女の許へ行きてなし。根尾、鷲尾堀川の宿へ行きてなし。其の夜は下部に喜三太ばかりぞ候ひける。判官も其の夜は更くるまで酒盛して、東西をも知らず臥し給ひける。斯かる所に押し寄せ、鬨をつくる。され共御内には人音もせず。静敵の鯨波の声に驚き、判官殿を引き動かし奉り、「敵の寄せたる」と申せども、前後も知り給はず。唐櫃の蓋を開けて、著長引き出だし、御上に投げ掛けたりければ、がはと起き、「何事ぞ」と宣へば、「敵寄せて候ふ」ぞと申せば、「あはれ女の心程けしからぬ物はなし。思ふに土佐こそ寄せたるらめ。人は無きか、あれ斬れ」とぞ仰せられける。「侍一人もなし。宵に暇賜はつて、皆々宿へ帰り候ひぬ」と申せば、「さる事有らん。さるにても男は無きか」と仰せられければ、女房達走り廻りて、下部に喜三太ばかりなり。喜三太参れと召されければ、南面の沓脱に畏まつてぞ候ひ
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ける。「近ふ参れ」と召しけれ共、日頃参らぬ所なれば、左右無く参り得ず。「彼奴は時も時にこそよれ」と仰せられければ、蔀の際まで参りたり。「義経が風の心地にて、惘然とあるに、鎧著て馬に乗りて出でん程、出で向ひて、義経を待ち付けよ」と仰せられける。「承り候ふ」とて、喜三太走り向ひ、大引両の直垂に、逆沢瀉の腹巻著て、長刀ばかりをおつ取り、縁より下へ飛んで下りけるが、「あはれ御出居の方に、人の張替の弓や候ふらん」と申せば、「入りて見よ」と仰せける。走り入りて見ければ、白箆に鵠の羽を以て矧ぎたる、沓巻の上十四束に拵へて、白木の弓の握太なるを添へてぞ置きたる。あはれ、物やと思ひて、出居の柱に押し当て、えいやと張り、鐘を撞く様に、弦打ちやうちやうどして、大庭にぞ走り出でけり。下も無き下郎なりけれども、純友、将門にも劣らず、弓矢を取る事、養由を欺く程の上手なり。四人張りに十四束をぞ射ける。我が為にはよしと悦びて、門外に向ひ出でて、閂/の−木を外し、扉の片方押し開き、見ければ、星月夜のきらめきたるに、兜の星もきらきらとして、内冑透きて射よげにぞ見えたりける。片膝付いて、矢継早に指し詰め引き詰め散々に射る。土佐が真先駆けたる郎等五六騎射落し、矢場に二人失せにけり。土佐叶はじとや思ひけん、ざつと引きにけり。「土佐穢し。かくて
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鎌倉殿の御代官はするか」とて、扉の蔭に歩ませ寄て申しけるは、「今宵の大将軍は誰がしが承りたるぞ。名告り給へ。闇討ち無益なり。かく申すは鈴木党に、土佐坊昌俊なり。鎌倉殿の御代官」と名告りけれども、敵の嫌ふ事も有りと思ひ、音もせず。判官大黒と言ふ馬に金覆輪の鞍置かせて、赤地の錦の直垂に、緋威の鎧、鍬形打つたる白星の兜の緒を締め、金作りの太刀帯いて、切斑の征矢負ひて、滋籐の弓の真中握り、馬引き寄せ、召して、大庭に駆け出で、鞠の懸にて、「喜三太と召しければ、喜三太申しけるは、「下無き下郎、心剛なるによつて、今夜の先駆承つて候ふ。喜三太と申す者なり。生年廿三、我と思はん者は寄りて組め」とぞ申しける。土佐是を聞きて、安からず思ひければ扉の隙より狙ひ寄りて、十三束よつ引い
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てひやうど射る。喜三太が弓手の太刀打を羽ぶくらせめてつと射通す。かいかなぐりて捨て、喜三太弓をがはと投げ棄て、大長刀の真中取つて、扉左右へ押し開き、敷居を蹈まへて待つ所に敵轡を並べて喚いて駆け入る。以て開いて散々に斬る。馬の平首、胸板、前の膝を散々に斬られて、馬倒れければ、主は倒まに落つる所を長刀にて刺し殺し、薙ぎ殺す。斯かりければ、それにて多く討たれたり。されども大勢にて攻めければ、走り帰つて御馬の口に縋る。差し覗き、御覧ずれば、胸板より下は血にぞなりたる。「汝は手を負うたるか」「さん候」と申す。「大事の手ならば退け」と仰せられければ、「合戦の場に出でて死ぬるは法」と申せば、「彼奴は雄猛者」とぞ宣ひける。「何ともあれ、汝と義経とだに有らば」とぞ仰せられける。され共判官も駆け出で給はず。土佐も左右無く駆けも入らず。両方軍はしらけたる所に武蔵坊六条の宿所に臥したりけるが、今宵は何とやらん、夜が寝られぬぞや。さても土佐が京にあるぞかし。殿の方覚束なし。廻りて帰らばやと思ひければ、草摺のしどろなる、兵土鎧の札良きに大太刀帯き、棒打ち突きて、高足駄履きて、殿の方へからりからりとしてぞ参りける。大門は閂/の−木を鎖されたるらんと思ひて、小門より差し入り、御馬屋の後ろにて聞きければ、
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大庭に馬の足音六種震動の如し。あら心憂や、早敵の寄せたりける物をと思ひて、御馬屋に差し入りて見れば、大黒はなし。今宵の軍に召されけると思へば、東の中門につと上りて見れば、判官喜三太ばかり御馬副にて、只一騎控へ給へり。弁慶是を見て、「あら心安や、さりながら憎さも憎し。さしも人の申しつるを聞き給はで、胆潰し給ひ候はん」と呟き言して、縁の板踏みならし、西へ向きてどうどうと行きける。判官あはやと思召して、差し覗き見給へば、大の法師の鎧著たるにてぞ有りける。土佐奴が後ろより入りけるかとて、矢差し矧げて馬打ち寄せ、「あれに通る法師は誰か。名告れ。名告らで誤ちせられ候ふな」と仰せられけれ共、札良き鎧なりければ、左右無く裏は掻かじなどと思ひて、音もせず。射損ずる事も有りと思召し、矢をば箙に差し、太刀の柄に手を掛け、すはと抜いで、「誰ぞ、名告らで斬らるな」とてやがて近づき給へば、「此の殿は打物取りては樊■、張良にも劣らぬ人ぞ」と思ひて、「遠くは音にも聞き給へ。今は近し、目にも見給へ。天児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官と御内に一人当千の者にて候ふ」とぞ申しける。判官「興ある法師の戯かな、時にこそよれ」とぞ仰せられける。「さは候へども、仰せ蒙り候へば、此処にて名告り申すべき」と猶も
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戯をぞ申しける。判官、「されば土佐奴に寄せられたるぞ」。弁慶、「さしも申しつる事を聞召し入れ候はで、御用心なども候はで、左右無く彼奴原を門外まで、馬の蹄を向けさせぬるこそ安からず候へ」と申しければ、「如何にもして彼奴を生捕つて見んずる」と仰せられければ、「只置かせ給へ。しやつが有らん方に弁慶向ひて、掴んで見参に入れ候はん」と申しければ、「人を見て、人を見るにも弁慶が様なる人こそ無けれ。喜三太奴に軍せさせたる事は無けれども、軍には誰にも劣らじ。大将軍は御辺に奉るぞ。軍は喜三太奴にせさせよ」と仰せられける。喜三太櫓に上がりて、大音上げて申しけるは、「六条殿に夜討ち入りたり。御内の人々は無きか。在京の人は無きか。今夜参らぬ輩は、明日は謀反の与党たるべし」と呼ばはり
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ける。此処に聞き付け、彼処に聞き付け京白川一つになりて騒動す。判官殿の侍共を始めとして、此処彼処より馳せ来たる。土佐が勢を中に取り篭めて散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中に駆け入りて、首二つ、生捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生捕り二人、首三つ取りて参らする。亀井六郎、備前平四郎二人討ちて参る。彼等を始めとして、生捕り分捕思ひ思ひにぞしける。其の中にも軍の哀れなりしは、江田源三にて止めたり。宵には御不審にて京極に有りけるが、堀河殿に軍有りと聞きて、馳せ参り、敵二人が首取りて、「武蔵坊、明日見参に入れて賜び候へ」と言ひて、又軍の陣に出でけるが、土佐が射ける矢に首の骨箆中責めてぞ射られける。矧げたる矢を打ち上げて、引かん引かんとしけるが、只弱りにぞ弱りける。太刀を抜き、杖に突き、はうはう参り、縁へ上がらんとしけれども、上がり兼ねて、「誰か御渡り候ふ」と申しければ、御前なる女房立ち出でて、「何事ぞ」と答へければ、「江田源三にて候ふ。大事の手負うて、今を限りと存じ候ふ。見参に入れて賜び候へ」と申しければ、判官是を聞き給ひて、浅ましげに思召して、火を点し差し上げて御覧ずれば、黒津羽の矢の夥しかりけるを、射立てられてぞ伏したりける。判官、「如何に人々」と仰せられければ、息の下にて申す様、「御不審蒙りて候へ共、
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今は最後にて候ふ。御赦免を蒙り、黄泉を心安く参り候はばや」と申しければ、「もとより汝久しく勘当すべきや。只一旦の事をこそ言ひつるに」と仰せられて、御涙に咽び給へば、源三世に嬉しげに打ち頷きたり。鷲尾七郎近く有りけるが、「如何に源三、弓矢取る者の矢一つにて死するは無下なる事ぞ。故郷へ何事も申し遺はさぬぞ」と言ひけれども、返事もせず。「和殿の枕にし給ふは君の御膝ぞ」、源三「御膝の上にて死に候へば、何事をか思ひ置き候ふべきなれども、過ぎにし春の頃親にて候ふ者の、信濃へ下りしに、「構へて暇申して、冬の頃は下れ」と申しし間、「承る」と申して候ひしに、下人が空しき死骸を持ちて下り、母に見せて候はば、悲しみ候はんずる事こそ、罪深く覚えて候へ。君都におはしまさん程は、常の仰せを蒙りたく候へ」と申せば、「それは心安く思へ。常々問はするぞ」と仰せられければ、世に嬉しげにて涙を流しける。限りと見えしかば、鷲尾寄りて念仏を進めければ、高声に申し、御膝の上にして、二十五にて亡せにけり。判官、弁慶、喜三太を召して「軍は如何様にしなしたるぞ」と仰せられければ、「土佐が勢は二三十騎ばかりこそ」と申せば、「江田を討たせたるが安からぬに、土佐奴が一類一人も漏らさず、命な殺しそ。生捕りて参らせよ」と仰せ
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られける。喜三太申しけるは、「敵射殺すこそ安けれ。生きながら取れと仰せ蒙り候ふこそ、以ての外の大事なれ。さりながらも」とて、大長刀持つて走り出でければ、弁慶「あはや、彼奴に先せられて叶はじ」と鉞引提げて飛んで出で、喜三太は卯の花垣の先をつい通りて、泉殿の縁の際を西を指してぞ出でける。此処に黄■毛なる馬に乗りたる者、馬に息つがせて、弓杖にすがりて控へたり。喜三太走り寄つて、「此処に控へたるは誰そ」と問ひければ、「土佐が嫡子、土佐太郎生年十九」と名乗つて歩ませ向ふ。「是こそ喜三太よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、馬の鼻を返して落ちけるを、余すまじとて追つ掛けたり。早打の長馳したる馬の、終夜軍には責めたりけり。揉め共揉め共一所にて躍る様なり。大長刀を以て開いてちやうど斬り、左右の烏頭づと斬る。馬倒まに転びければ、主は馬より下にぞ敷かれける。取つて押へて、鎧の上帯解きて、疵一つも付けず、搦めて参りけり。下部に仰せ付け、御馬屋の柱に立ちながら、結ひ付けさせられける。弁慶喜三太に先をせられて、安からず思ひて、走り廻る所に、南の御門に節縄目の鎧著たる者一騎控へたり。弁慶走り寄つて、「誰そ」と問ふ。「土佐が従兄弟、伊北五郎盛直」とぞ申しける。「是こそ弁慶よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、鞭を当てて
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ぞ落ちける。「穢し、余すまじ」とて追つ掛けて、大鉞を以て開いてむずと打つ。馬の三頭に猪の目の隠るる程打ち貫き、えいと言うてぞ引きたりける。馬こらへずしてどうど伏す。主を取つて押へて、上帯にて搦めて参りける。土佐太郎と一所に繋ぎ置く。昌俊は味方の討たれ、或いは落ち行くを見て、我は太郎、五郎を捕られて、生きて何かせんとや思ひけん、其の勢十七騎にて思ひ切つて戦ひけるが、叶はじとや思ひけん、徒武者駆け散らして、六条河原まで打つて出で、十七騎が十騎は落ちて、七騎になる。賀茂河を上りに鞍馬を指して落ち行く。別当は判官殿の御師匠、衆徒は契深くおはしければ、後は知らず、判官の思召す所もあれとて、鞍馬百坊起こつて、追手と一つになりて尋ねけり。判官「無下なる者共かな。土佐奴程の者を逃しける無念さよ。しやつ逃すな」と仰せられければ、堀河殿をば在京の者共に預けて判官の侍一人も残らず追つ掛けける。土佐は鞍馬をも追ひ出だされて、僧正が谷にぞ篭りける。大勢続いて攻めければ、鎧をば貴船の大明神に脱ぎて参らせ、或る大木の空洞にぞ逃げ入りける。弁慶片岡は土佐を失ひて、「何ともあれ、是を逃しては良き仰せはあるまじ」とて、此処、彼処尋ね歩く程に、喜三太向ひなる伏木に上りて立ちたり。「鷲尾殿の立ち給へる後ろの木の空洞に、物の働く様なる事こそ怪しけれ」
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と申せば、太刀打ち振りてづと寄りて見れば、土佐叶はじとや思ひけん、木の空洞よりづと出でて、真下りに下る。弁慶喜びて、大手を拡げて、「憎い奴が何処まで」とて追つ掛く。聞こゆる足早なりければ、弁慶より三段ばかり先立つ。遥かなる谷の底にて、片岡「此処に待つぞ。只遺こせよ」とぞ申しける。此の声を聞きて、叶はじとや思ひけん、岨をかい廻りて上りけるを、忠信が大雁股を差し矧げて、余すまじとて、下り矢先に小引に引きて差し当てたる。土佐は腹をも切らで、武蔵坊にのさのさと捕られける。さて鞍馬へ具して行き、東光坊より大衆五十人付けてぞ送られける。「土佐具して参りて候ふ」と申しければ、大庭に据ゑさせ、縁に出でさせ給ひて、「如何に昌俊、起請は書くよりして験あるものを、何しに書きたるぞ。生きて帰りたくは返さ
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んずる、如何」と仰せられければ、頭を地に付けて、「猩々は血を惜しむ。犀は角を惜しむ。日本の武士は名を惜しむ」と申す事の候ふ。生きて帰りて侍共に面を見えて何にかし候ふべき。只御恩には疾く疾く首を召され候へ」とぞ申しける。判官聞召して、「土佐は剛の者にて有りけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の召人を切るべきやらん、斬るまじきやらん、それ武蔵計らへ」と仰せられければ、「大力を獄屋に篭めて、獄屋踏み破られて詮なし。やがて斬れ」とて、喜三太に尻綱取らせて、六条河原に引き出だし、駿河次郎が斬手にて斬らせけり。相模八郎、同太郎は十九、伊北五郎は三十三にて斬られけり。討ち漏らされたる者共、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕損じて、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ」と申せば、「頼朝が代官に参らせたる者を、押へて斬る事こそ遺恨なれ」と仰せられければ、侍共「斬り給ふこそ理よ、現在の討手なれば」とぞ申しける。
義経都落の事 S0405
とにもかくにも討手を上せよとて、北条四郎時政大将にて都へ上る。畠山は
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辞退申したりけれ共、重ねて仰せられければ、武蔵−七党相具して、尾張国熱田宮に馳せ向ふ。後陣は山田四郎朝政、一千余騎にて関東を門出すると聞こえけり。十一月一日大夫判官、三位を以て院へ奏聞せられけるは、「義経命を捨てて朝敵を平げ候ひしは、先祖の恥を清めんずる事にては候へども、逆鱗を止め奉らんが為なり。然れば朝恩として別賞をも行はるべき所に、鎌倉の源二位、義経に野心を存するに依つて、追討の為に官軍を放ち遣はす由承り候ふ。所詮逢坂関より西を賜はるべき由をこそ存じ候へども、四国九国ばかりを賜はつて罷り下り候はばや」とぞ申されける。是に依つて理なる朝旨なるべき間、公卿僉議有り。各々申されけるは、「義経が申す処も不便なれども、是に宣旨を下されば、源二位の憤深かるべし。又宣旨を下されずは、木曾が都にて振舞し如く、義経が振舞はば、世は世にても候ふべからず。所詮とても源二位討手を上せ候ふなる上は、義経に宣旨を賜び下して、近国の源氏共に仰せ付けて、大物にて討たせらるべく候ふや」と各々申されければ、宣旨を下されけり。斯かりければ、判官は西国へ下らんとて出で立ち給ふ。折節西国の兵共、其の数多く上りたりける中にも、緒方三郎維義が上りけるを召して「九国を
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賜はりて下るぞ、汝頼まれてや」と仰せられければ、維義申しけるは、「菊池次郎が折節上洛仕りて候ふなれば、定めて召され候はんずらん。菊池を誅せられば、仰せに従ひ候ふべき由申す。判官/は弁慶、伊勢三郎を召して、「菊池と緒方と何れにてあるらん」と仰せられければ、「とりどりにこそ候へども、菊池こそ猶も頼もしき者にて候へ。但し猛勢なる事は、緒方勝りて候ふらん」と申しければ、「菊池頼まれよ」と仰せられければ、菊池次郎申しけるは、「尤も仰せに従ひ参らせたく候へども、子にて候ふものを関東へ参らせて候ふ間、父子両方へ参り候はん事如何候ふべきや」と申したりければ、「さらば討て」とて、武蔵坊、伊勢三郎を大将軍にて、菊池が宿へ向けられける。菊池矢種ある程射尽くして、家に火をかけて自害してんげり。さてこそ緒方三郎参りけり。判官は叔父備前守を伴ひて、十一月三日に都を出で給ふ。「義経が国入の初めなれば、引き繕へ」とて、尋常にぞ出で立たれける。其の頃世にもてなしける磯の禅師が娘、静と言ふ白拍子を狩装束せさせてぞ召し具せられける。我が身は赤地の錦の直垂に小具足ばかりにて、黒き馬の太く逞しきが、尾髪飽くまで足らひたるに、白覆輪の鞍置いてぞ乗り給ふ。黒糸威の鎧著て、黒き馬に
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白覆輪の鞍置きて乗りたる者五十騎、萌黄威の鎧に鹿毛なる馬に乗りたる者五十騎、毛つるべに其の数打たせて、其の後は打込みに百騎、二百騎打ちける。以上其の勢一万五千余騎なり。西国に聞こえたる月丸と言ふ大船に、五百人の勢を取り乗せて、財宝を積み、二五疋の馬共立てて、四国路を志す。船の中、波の上の住こそ悲しけれ。伊勢をの海士の濡衣、乾す隙も無き便かな。入江入江の葦の葉に、繋ぎ置きたる藻苅舟、荒磯かけて漕ぐ時は、渚々に島千鳥、折知り顔にぞ聞こえける。霞隔てて漕ぐ時は沖に鴎の鳴く声も敵の鬨かと思ひける。風に任せ、潮に従ひて行く程に、伏し拝み奉れば、住吉、右手を見れば、西宮蘆屋の浦、生田の森を外処になし、和田の岬を漕ぎ過ぎて、淡路の瀬戸も近くなる。絵島が磯を右手になして漕ぎ行く程に、時雨の隙より見給へば、高き山のかすかに見えければ、船の中にて是を見て、「此の山はどの国の何処の山ぞ」と申しければ、「そんぢやう、其の国の山」と申せども、何処を見分けたる人もなし。武蔵坊は船端を枕にして臥したりけるが、がはと起きて、せがいの平板につい立ちて申しけるは、「遠くも無かりけるものを、遠き様に見なし給ひたりける。播磨国書写の岳の見ゆるや」とぞ申しける。「山は書写の山なれども、義経心にかかる事あるは、此の山の西の方より、黒雲
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の俄かに禅定へ切れて、かかる日だにも西へ傾けば、定めて大風と覚ゆるぞ。自然に風落ち来たらば、如何なる島蔭荒磯にも船を馳せ上げて、人の命を助けよや」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「此の雲の景気を見て候ふに、よも風雲にては候はじ。君は何時の程に思召し忘れ給ひて候ふぞ。平家を攻めさせ給ひし時、平家の君達多く波の底に屍を沈め、苔の下に骨を埋み給ひし時仰せられ候ひし事は、今の様にこそ候へ。「源氏は八幡の護り給へば、事に重ねて日に添へ、安穏ならん」と仰せられ候ひし。如何様にても候へ、是は君の御為悪風とこそ覚え候へ。あの雲砕けて御船にかからば、君も渡らせ給ふまじ、我等も二度故郷へ帰らん事不定なり」とぞ申しける。判官是を聞召して、「何かさる事有らん」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「君は度々弁慶が申す事を御用ゐ候はでこそ、御後悔は候へ。さ候はば、見参に入り候はん」とて、揉烏帽子引つこうで太刀長刀は持たざりけり。白箆に鵠の羽にて矧ぎたる矢に白木の弓取り添へ、舳につつ立ちて、人に向ひて物を言ふ様に、掻き口説きて申す様、「天神七代地神五代は神の御代、神武天皇より四十一代の帝以来、保元、平治とて両度の合戦に如かず。是等両度にも鎮西八郎御曹司こそ五人張に十五束を射給ひ、名を揚げ給ひし。それより後は絶えて久しくなりたり。さては
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源氏の郎等等の中に、弁慶こそ形の如くも、弓矢取つて人数に言はれたれ。風雲の方へ支へて射んずる程に、風雲ならば射るとも消え失せじ。天の待つ如くにてある間、平家の死霊ならばよもたまらじ。それに験無くは、神を崇め奉り、仏を尊み参らせて、祈り祭もよも有らじ。源氏の郎等ながら、俗姓正しき侍ぞかし。天津児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが子、西塔の武蔵坊弁慶」と名告つて、矢継早に散々に射たりければ、冬の空の夕日明りの事なれば、潮も輝きて、中差何処に落ち著くとは見えねども、死霊なりければ、掻き消す様に失せにけり。船の中には是を見て、「あら恐ろしや武蔵坊だに無かりせば、大事出で来てまし」とぞ申し合ひける。「押せや、者共」とて漕ぐ程に、淡路国水島の東を幽に見て行く程に、先の山の北の腰に、又黒雲の車輪の様なるが出で来たる。判官「あれは如何に」と仰せられければ、弁慶「是こそ風雲よ」と申しも果てねば、大風落ち来たる。頃は十一月上旬の事なれば、霰交りて降りければ、東西の磯も見え分かず。麓には、風烈しく、摂津国武庫山颪、日の暮るるに随ひて、いとど烈しくなりにけり。判官■取水手に仰せられけるは、「風の強きに帆を気長に引けよ」と仰せられければ、帆を下さんとすれ共、雨に濡れて蝉本
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つまりて下らず。弁慶片岡に申しけるは、「西国の合戦の時度々大風に会ひしぞかし。綱手を下げて引かせよ。苫を捲きて付けよ」と下知しければ、綱を下げ、苫を付けけれども、少しも効なし。河尻を出でし時、西国船の石多く取り入れたりければ、葛を以て中を結ひ、投げ入れたりけれど