義経記(国民文庫本)

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義経記巻第一(だいいち)目録
義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事(こと)
常盤(ときは)都落(みやこおち)の事(こと)
牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事(こと)
聖門(しやうもん)坊(ばう)の事(こと)
牛若(うしわか)貴船詣(きふねまうで)の事(こと)
吉次(きちじ)が奥州物語(あうしうものがたり)の事(こと)
遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事(こと)
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義経記巻第一(だいいち)
義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事(こと) S0101
本朝(ほんてう)の昔(むかし)を尋(たづ)ぬれば、田村(たむら)、利仁(としひと)、将門(まさかど)、純友(すみとも)、保昌(ほうしやう)、頼光(らいくわう)、漢(かん)の樊■(はんくわい)、張良(ちやうりやう)は武勇(ぶよう)と雖(いへど)も名をのみ聞(き)きて目(め)には見(み)ず。目(ま)のあたりに芸(げい)を世にほどこし、万事の、目(め)を驚(おどろ)かし給(たま)ひしは、下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の末(すゑ)の子、九郎義経(よしつね)とて、我(わ)が朝(てう)にならびなき名将軍(めいしやうぐん)にておはしけり。父(ちち)義朝(よしとも)は平治(へいぢ)元年+十二月+二十七日に衛門督(ゑもんのかみ)藤原(ふぢはらの)信頼卿(のぶよりのきやう)に与(くみ)して、京の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けぬ。重代(ぢゆうだい)の郎等(らうどう)共(ども)皆(みな)討(う)たれしかば、其(そ)の勢(せい)二十余騎(よき)になりて、東国の方(かた)へぞ落(お)ち給(たま)ひける。成人(せいじん)の子供(こども)をば引(ひ)き具(ぐ)して、幼(をさな)ひ達(たち)をば都(みやこ)に棄(す)ててぞ落(お)ちられける。嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐうの)大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)十六、三男(さんなん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)十二になる。悪源太(あくげんだ)をば北国の勢を具せよとて越前(ゑちぜん)へ下(くだ)す。それも叶(かな)はざるにや、近江(あふみ)の石山寺(いしやまでら)に篭(こも)りけるを、平家(へいけ)聞(き)きつけ、妹尾(せのを)、難波(なんば)を差(さ)し遣(つか)はし
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て、都(みやこ)へ上(のぼ)り、六条河原(ろくでうかはら)にて斬(き)られけり。弟(おとと)の朝長(ともなが)も山賊(せんぞく)が射(い)ける矢に弓手(ゆんで)の膝口(ひざぐち)を射(い)られて、美濃国(みののくに)青墓(あふはか)と言(い)ふ宿(しゆく)にて死(し)にけり。其(そ)の外(ほか)子供(こども)方々(はうばう)に数多(あまた)有(あ)りけり。尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)の娘(むすめ)の腹(はら)にも一人有(あ)りけり。遠江国(とほたうみのくに)蒲(かば)と言(い)ふ所(ところ)にて成人(せいじん)し給(たま)ひて、蒲(かば)の御曹司(おんざうし)とぞ申(まう)しける。後(のち)には三河守(みかはのかみ)と名乗(なの)り給(たま)ふ。九条院(くでうのゐん)の常盤(ときは)が腹(はら)にも三人有(あ)り。今若(いまわか)七歳(しちさい)、乙若(おとわか)五歳(ごさい)、牛若(うしわか)当歳子(たうざいご)なり。清盛(きよもり)是(これ)を取(と)つて斬(き)るべき由(よし)をぞ申(まう)しける。
常盤(ときは)都落(みやこおち)の事(こと) S0102
永暦(えいりやく)元年+正月十七日の暁(あかつき)、常盤(ときは)三人の子供(こども)を引(ひ)き具(ぐ)して、大和国(やまとのくに)宇陀郡(うだのこほり)岸岡(きしのをか)と言(い)ふ所(ところ)に契約(けいやく)の親(した)しき者(もの)有(あ)り。是(これ)を頼(たの)みたづねて行(ゆ)きけれども、世間(せけん)の乱(みだ)るる折節(をりふし)なれば、頼(たの)まれず。其(そ)の国(くに)のたいとうじと言(い)ふ所(ところ)に隠(かく)れ居(ゐ)たりける。常盤(ときは)が母(はは)関屋(せきや)と申(まう)す者(もの)、楊梅町(やまももちやう)に有(あ)りけるを、六波羅(ろくはら)より取(と)り出(い)だし、糺問(きうもん)せらるる由(よし)聞(き)こえければ、常盤(ときは)是(これ)を悲(かな)しみ、母(はは)の命(いのち)を助(たす)けんとすれば、三人の子供(こども)を斬(き)らるべし。子供(こども)を助(たす)けんとすれば、老いたる親(おや)を失(うしな)ふべし。親(おや)には子をば如何(いかが)思(おも)ひかへ候(さうら)ふべき。親の孝養(けうやう)する者(もの)をば、
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堅牢地神(けんらうぢじん)も納受(なふじゆ)有(あ)るとなれば、子供(こども)の為(ため)にも有(あ)りなんと思(おも)ひ続(つづ)け、三人の子供(こども)引(ひ)き具(ぐ)して泣(な)く泣(な)く京(きやう)へぞ出(い)でにける。六条(ろくでう)への事(こと)聞(き)こえければ、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)景清(かげきよ)、堅物(けんもつ)太郎に仰(おほ)せつ、子供(こども)具(ぐ)し、六条(ろくでう)へぞ具足(ぐそく)す。清盛(きよもり)常盤(ときは)を見(み)給(たま)ひて、日頃(ひごろ)は火にも水(みづ)にもと思(おも)はれけるが、怒(いか)れる心(こころ)も和(やはら)ぎけり。常盤(ときは)と申(まう)すは日本一(につぽんいち)の美人(びぢん)なり。九条院(くでうのゐん)は事(こと)を好(この)ませ給(たま)ひければ、洛中(らくちゆう)より容顔(ようがん)美麗(びれい)なる女(をんな)を千人召(め)されて、其(そ)の中より百人、又(また)百人の中より十人、又(また)十人の中より一人撰(えら)び出(い)だされたる美女(びぢよ)なり。清盛(きよもり)我(われ)にだにも従(した)がはば、末(すゑ)の世には子孫(しそん)の如何(いか)なる敵(かたき)ともならばなれ。三人の子供(こども)をも助(たす)けばやと思(おも)はれける。頼方(よりかた)景清(かげきよ)に仰(おほ)せつけて、七条(しちでう)朱雀(しゆしやか)にぞ置(お)かれける。日番(ひばん)をも頼方(よりかた)はからひにして守護(しゆご)しける。清盛(きよもり)常(つね)は常盤(ときは)がもとへ文(ふみ)を遣(つか)はされけれども、
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取(と)りてだにも見(み)ず。され共(ども)子供(こども)を助(たす)けんが為(ため)に遂(つひ)には従(したが)ひ給(たま)ひけり。さてこそ常盤(ときは)三人の子供(こども)をば所々(ところどころ)にて成人(せいじん)させ給(たま)ひけり。今若(いまわか)八歳(はつさい)と申(まう)す春(はる)の頃(ころ)より観音寺(くわんおんじ)に上(のぼ)せ学問(がくもん)させて、十八の年(とし)受戒(じゆかい)、禅師(ぜんじ)の君(きみ)とぞ申(まう)しける。後(のち)には駿河国(するがのくに)富士(ふじ)の裾(すそ)におはしけるが悪襌師殿(あくぜんじどの)と申(まう)しけり。八条(はちでう)におはしけるは、そしにておはしけれども、腹(はら)悪(あ)しく恐(おそ)ろしき人にて、賀茂(かも)、春日(かすが)、稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)の御祭(おんまつり)ごとに平家(へいけ)を狙(ねら)ふ。後(のち)には紀伊国(きいのくに)に有(あ)りける新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)世(よ)を乱(みだ)りし時、東海道(とうかいだう)の墨俣河(すのまたがは)にて討(う)たれけり。牛若(うしわか)は四つの年(とし)まで母(はは)のもとに有(あ)りけるが、世(よ)の幼(をさな)ひ者(もの)よりも心様(こころざま)振舞(ふるまひ)人に越(こ)えたりしかば、清盛(きよもり)常(つね)は心にかけて宣(のたま)ひけるは、「敵(かたき)の子を一所にて育(そだ)てては、遂(つひ)には如何(いかが)有(あ)るべき」と仰(おほ)せられければ、京より東(ひがし)、山科(やましな)と言(い)ふ所(ところ)に源氏(げんじ)相伝(さうでん)の、遁世(とんせい)して幽(かすか)なる住居(すまひ)にて有(あ)りける所に七歳(しちさい)まで置(お)きて育(そだ)て給(たま)ひけり。
牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事(こと) S0103
常盤(ときは)が子供(こども)成人(せいじん)するに従(したが)ひて、中々(なかなか)心(こころ)苦(ぐる)しく、初(はじ)めて人に従(したが)はせんも由(よし)なし。習(なら)はねば殿上(てんしやう)にも交(まじ)はるべくもなし。只(ただ)法師(ほふし)になして、跡(あと)をも弔(とぶら)ひ
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てなんど思(おも)ひて、鞍馬(くらま)の別当(べつたう)東光坊(とうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)は義朝(よしとも)の祈(いの)りの師(し)にておはしける程(ほど)に、御使(おんつかひ)を遣(つか)はして仰(おほ)せけるは、「義朝(よしとも)の御末(おんすゑ)の子牛若殿(うしわかどの)と申(まう)し候(さうら)ふを且(かつう)は知召(しろしめ)してこそ候(さうら)ふらめ。平家(へいけ)世ざかりにて候(さうら)ふに、女(をんな)の身として持(も)ちたるも心(こころ)苦(ぐる)しく候(さうら)へば、鞍馬(くらま)へ参(まゐ)らせ候(さうら)ふべし。猛(たけ)くともなだしき心(こころ)もつけ、書(ふみ)の一巻をも読(よ)ませ、経(きやう)の一字(いちじ)をも覚(おぼ)えさせて賜(たま)はり候(さうら)へ」と申(まう)されければ、東光坊(とうくわうばう)の御返事(ごへんじ)には、「故(こ)頭殿(かうのとの)の君達(きんだち)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふこそ殊(こと)に悦(よろこ)入(い)り候(さうら)へ」とて、山科(やましな)へ急(いそ)ぎ御迎(おんむか)ひに人をぞ参(まゐ)らせける。七歳(しちさい)と申(まう)す二月(きさらぎ)はじめに鞍馬(くらま)へとぞ上(のぼ)られける。其(そ)の後昼(ひる)は終日(ひめもす)に師の御坊(ごばう)の御前(おまへ)にて経(きやう)を誦(よ)み、書(ふみ)学(まな)びて、夕日(ゆふひ)西に傾(かたぶ)けば、夜の更(ふ)け行(ゆ)くに仏(ほとけ)の御燈(みあかし)の消(き)ゆるまではともに物(もの)を読(よ)み、五更(ごかう)の天(てん)にもなれ共(ども)あまも宵(よひ)もすぐまで、学問(がくもん)に心(こころ)
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をのみぞ尽(つく)しける。東光坊(とうくわうばう)も山(やま)三井寺(みゐでら)にも是程(ほど)の児(ちご)有(あ)るべしとも覚(おぼ)えず、学問(がくもん)の精(せい)と申(まう)し、心様(こころざま)眉目(みめ)形(かたち)類(るい)なくおはしければ、良智(れうち)坊(ばう)の阿闍梨(あじやり)、覚日坊(かくにちばう)の律師(りつし)も「かくて廿歳(はたち)ばかりまでも学問(がくもん)し給(たま)ひ候(さうら)はば、鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)より後(のち)も仏法(ぶつぽふ)の種(たね)をつぎ、多聞(たもん)の御宝(おんたから)にもなり給(たま)はんずる人」とぞ申(まう)されける。母(はは)も是(これ)を聞(き)き、「牛若(うしわか)学問(がくもん)の精(せい)よく候(さうら)ふとも、里(さと)に常(つね)に有(あ)りなんとし候(さうら)はば、心(こころ)も不用(ふよう)になり、学問(がくもん)をも怠(おこた)りなんず。恋(こひ)しく見(み)たけれと申(まう)し候(さうら)はば、人を賜(たま)はり候(さうらひ)て、母(はは)はそれまで参(まゐ)り、見(み)もし、人に見(み)えられて返(かへ)し候(さうら)はん」と申(まう)されける。「さなくとも児(ちご)を里(さと)へ下(くだ)す事(こと)おぼろげならぬにて候(さうら)ふ」とて、一年に一度、二年に一度も下(くだ)さず。かかる学問(がくもん)の精(せい)いみじき人の如何(いか)なる天魔(てんま)のすすめにや有(あ)りけん、十五と申(まう)す秋(あき)の頃(ころ)より学問(がくもん)の心(こころ)以(もつ)ての外(ほか)に変(かは)りけり。其(そ)の故(ゆゑ)は古(ふる)き郎等(らうどう)の謀反(むほん)をすすむるにてぞ有(あ)りける。
聖門(しやうもん)坊(ばう)の事(こと) S0104
四条(しでう)室町(むろまち)に古(ふ)りたる郎等(らうどう)の有(あ)りける。すり法師(ほふし)なりけるが、是(これ)は恐(おそ)ろしき者(もの)の子孫(しそん)なり。左馬頭殿(さまのかうのとの)の御乳母子(おんめのとご)鎌田(かまだ)次郎(じらう)正清(まさきよ)が子なり。平治(へいぢ)の乱(らん)の時(とき)
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は十一歳(じふいつさい)になりけるを、長田(おさだ)の庄司(しやうじ)是(これ)を斬(き)るべき由(よし)聞(き)こえければ、外戚(げしやく)の親(した)しき者(もの)有(あ)りけるが、やうやうに隠(かく)し置(お)きて、十九にて男(をとこ)になして、鎌田(かまだの)三郎正近(まさちか)とぞ申(まう)しける。正近(まさちか)二十一の年(とし)思(おも)ひけるは保元(ほうげん)に為義(ためよし)討(う)たれ給(たま)ひぬ。平治(へいぢ)に義朝(よしとも)討(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、子孫(しそん)絶(た)え果(は)てて、弓馬(きゆうば)の名を埋(うづ)んで、星霜(せいざう)を送(おく)り給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)清盛(きよもり)に亡(ほろ)ぼされし者(もの)なれば、出家(しゆつけ)して諸国(しよこく)修業(しゆぎやう)して、主(しう)の御菩提(ごぼだい)をも弔(とぶら)ひ、親の後世(ごせ)をも弔(とぶら)ひ候(さうら)はばやと思(おも)ひければ、鎮西(ちんぜい)の方へぞ修行(しゆぎやう)しける。筑前国(ちくぜんのくに)御笠(みかさ)の郡(こほり)大宰府(ださいふ)の安楽寺(あんらくじ)と言(い)ふ所(ところ)に学問(がくもん)して有(あ)りけるが、故郷(ふるさと)の事(こと)思(おも)ひ出(い)だして、都(みやこ)に帰(かへ)りて、四条(しでう)の御堂(みだう)に行(おこな)ひ澄(す)ましてゐたりけり。法名(ほふみやう)をば聖門(しやうもん)坊(ばう)とぞ申(まう)しける。又(また)四条(しでう)の聖(ひじり)とも申(まう)しけり。勤行(つとめ)の隙(ひま)には平家(へいけ)の繁昌(はんじやう)しけるを見(み)て、めざましく思(おも)ひける。如何(いか)なれば平家(へいけ)の大政大臣(だいじやうだいじん)の官(くわん)に上(あが)り、末(すゑ)までも臣下(しんか)卿相(けいしやう)になり給(たま)ふらん。源氏(げんじ)は保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に皆(みな)滅(ほろ)ぼされて、大人(おとな)しきは斬(き)られ、幼(をさな)ひは此処(ここ)彼処(かしこ)に押(お)し篭(こ)められて、今までかたちをも差(さ)し出(い)だし給(たま)はず。果報(くわほう)も生(う)まれ変(かは)り、心(こころ)も剛(かう)にあらんずる源氏(げんじ)の、あはれ思召(おぼしめ)し立(た)ち給(たま)へかし。何方(いづかた)へなりとも御使(おんつかひ)して世を乱(みだ)し、本意(ほんい)を遂(と)げばやとぞ思(おも)ひける。勤行(つとめ)の隙々(ひまひま)には指(ゆび)を折(を)りて、国々の源氏(げんじ)をぞ数(かぞ)へける。紀伊国(きいのくに)には新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)、河内国(かはちのくに)には石川(いしかはの)判官(はうぐわん)義兼(よしかね)、
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津国(つのくに)には多田(ただの)蔵人行綱(ゆきつな)、都には源三位頼政卿(よりまさのきやう)、卿君(きやうのきみ)円(ゑん)しん、近江国(あふみのくに)には佐々木(ささきの)源三(げんざう)秀義(ひでよし)、尾張国(をはりのくに)には蒲(かば)の冠者(くわんじや)、駿河国(するがのくに)には阿野(あのの)禅師(ぜんじ)、伊豆国(いづのくに)には兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、常陸国(ひたちのくに)には志田(しだの)三郎先生(せんじやう)義教(よしのり)、佐竹(さたけの)別当(べつたう)昌義(まさよし)、上野国(かうづけのくに)には利根(とね)、吾妻(あがつま)、是(これ)は国(くに)を隔(へだ)てて遠(とほ)ければ、力(ちから)及(およ)ばず。都(みやこ)近(ちか)き所(ところ)には鞍馬(くらま)にこそ頭殿(かうのとの)の末(すゑ)の御子、牛若殿(うしわかどの)とておはする者(もの)を、参(まゐ)りて見(み)奉(たてまつ)り心(こころ)がらげにげにしくおはしまさば、文(ふみ)賜(たま)はりて、伊豆国(いづのくに)へ下(くだ)り、兵衛督殿(ひやうゑのすけどの)の御方(おんかた)に参(まゐ)り、国(くに)を催(もよ)ほして、世(よ)を乱(みだ)さばやと思(おも)ひければ、折節(をりふし)其(そ)の頃(ころ)四条(しでう)の御堂(みだう)も夏(げ)の時分にて有(あ)りけるを打(う)ち捨(す)てて、やがて鞍馬(くらま)へとぞ上りける。別当(べつたう)の縁(えん)にたたずみける程(ほど)に、「四条(しでう)の聖(ひじり)おはしたり」と申(まう)しければ、「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」と申(まう)されければ、さらばとて東光坊(とうくわうばう)のもとにぞ置(お)かれける。内々には悪心(あくしん)を差(さ)しはさみ、
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謀反(むほん)を起(おこ)して来(きた)れるとも知(し)らざりけり。ある夜の徒然(つれづれ)に、人静(しづ)まりて、牛若殿(うしわかどの)のおはする所へ参(まゐ)りて、御耳(おんみみ)に口(くち)をあてて申(まう)しけるは、「知召(しろしめ)されず候(さうら)ふや、今(いま)まで思召(おぼしめ)し立(た)ち候(さうら)はぬ。君(きみ)は清和天皇(せいわてんわう)十代の御末(おんすゑ)、左馬頭殿(さまのかうのとの)の御子、かく申(まう)すは頭殿(かうのとの)の御乳母子(おんめのとご)に鎌田(かまたの)次郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)が子にて候(さうら)ふ。御一門(いちもん)の源氏(げんじ)国々(くにぐに)に打(う)ち篭(こ)められておはするをば、心憂(こころう)しとは思召(おぼしめ)されず候(さうら)ふや」と申(まう)しければ、其(そ)の頃(ころ)平家(へいけ)の世を取(と)りて盛(さかり)なれば、たばかりてすかすやらんと打(う)ち解(と)け給(たま)はざりければ、源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)の事(こと)を委(くわ)しく申(まう)しける。身こそ知(し)り給(たま)はねども、かねて左様(さやう)の者(もの)有(あ)ると聞(き)きしかば、さては一所にてはかなふまじ。所々にはとて聖門(しやうもん)をば返(かへ)されけり。
牛若(うしわか)貴船詣(きぶねまうで)の事(こと) S0105
聖門(しやうもん)に逢(あ)ひて給(たま)ひて後(のち)は、学問(がくもん)の事(こと)は跡形(あとかた)なく忘(わす)れはてて、明暮(あけくれ)謀反(むほん)の事(こと)をのみぞ思召(おぼしめ)しける。謀反(むほん)起(おこ)す程(ほど)ならば、早業(はやわざ)をせでは叶(かな)ふまじ。まづ早業(はやわざ)を習(なら)はんとて、此(こ)の坊(ばう)は諸人(しよじん)の寄合所(よりあひどころ)なり。如何(いか)に叶(かな)ひ難(がた)きとて、鞍馬(くらま)の奥(おく)に僧正(そうじやう)が谷(たに)と言(い)ふ所(ところ)有(あ)り。昔(むかし)は如何(いか)なる人が崇(あが)め奉(たてまつ)りけん、貴船(きぶね)の明神
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とて霊験(れいげん)殊勝(しゆせう)に渡(わた)らせ給(たま)ひければ、智恵(ちゑ)有(あ)る上人(しやうにん)も行(おこな)ひ給(たま)ひけり。鈴(れい)の声(こゑ)も怠(おこた)らず。神主(かんぬし)も有(あ)りけるが、御神楽(みかぐら)の鼓(つづみ)の音(おと)も絶(た)えず、あらたに渡(わた)らせ給(たま)ひしかども、世末(すゑ)にならば、仏(ほとけ)の方便(ほうべん)も神(かみ)の験徳(けんとく)も劣(おと)らせ給(たま)ひて、人住(す)み荒(あら)し、偏(ひと)へに天狗(てんぐ)の住家(すみか)となりて、夕日(ゆふひ)西(にし)に傾(かたぶ)けば、物怪(もののけ)喚(おめ)き叫(さけ)ぶ。されば参(まゐ)りよる人をも取(と)り悩(なや)ます間(あひだ)、参篭(さんろう)する人もなかりけり。されども牛若(うしわか)かかる所(ところ)の有(あ)る由(よし)を聞(き)き給(たま)ひ、昼(ひる)は学問(がくもん)をし給(たま)ふ体(てい)にもてなし、夜(よる)は日頃(ひごろ)一所(いつしよ)にてともかくもなり参(まゐ)らせんと申(まう)しつる大衆(だいしゆ)にも知(し)らせずして、別当(べつたう)の御護(おんまぼ)りに参(まゐ)らせたる敷妙(しきたへ)と言(い)ふ腹巻(はらまき)に黄金作(こがねづく)りの太刀(たち)帯(は)きて、只(ただ)一人貴船(きぶね)の明神(みやうじん)に参(まゐ)り給(たま)ひ、念誦(ねんじゆ)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「南無(なむ)大慈(だいじ)大悲(だいひ)の明神(みやうじん)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)」と掌(たなごころ)を合(あは)せて、源氏(げんじ)を守(まぼ)らせ給(たま)へ。宿願(しゆくぐわん)誠(まこと)に成就(じやうじゆ)あらば、玉(たま)の御宝殿(ごほうでん)を造(つく)り、千町(せんちやう)の所領(しよりやう)を寄進(きしん)し奉(たてまつ)らん」と祈誓(きせい)して、正面(しやうめん)より未申(ひつじさる)にむかひて立(た)ち給(たま)ふ。四方(しはう)の草木(くさき)をば平家(へいけ)の一類(いちるい)と名づけ、大木二本有(あ)りけるを一本(いつぽん)をば清盛(きよもり)と名づけ、太刀(たち)を抜(ぬ)きて、散々(さんざん)に切(き)り、懐(ふところ)より毬杖(ぎつちやう)の玉(たま)の様(やう)なる物を取(と)り出(い)だし、木の枝(えだ)にかけて、一(ひと)つをば重盛(しげもり)が首(くび)と名づけ、一(ひと)つをば清盛(きよもり)が首とを懸(か)けられける。かくて暁(あかつき)にもなれば、我(わ)が方(かた)に帰(かへ)り、衣(きぬ)引(ひき)かづきて臥(ふ)し給(たま)ふ。人是(これ)を知(し)らず。和泉(いづみ)と申(まう)す法師(ほふし)の御介錯(ごかいしやく)しけるが、此(こ)の御有様(おんありさま)
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只事(ただごと)にはあらじと思(おも)ひて、目(め)を放(はな)さず、ある夜御跡(おんあと)を慕(した)ひて隠(かく)れて叢(くさむら)の蔭(かげ)に忍(しの)び居(ゐ)て見(み)ければ、斯様(かやう)に振舞(ふるま)ひ給(たま)ふ間(あひだ)、急(いそ)ぎ鞍馬(くらま)に帰(かへ)りて、東光坊(とうくわうばう)に此(こ)の由(よし)申(まう)しければ、阿闍梨(あじやり)大(おほ)きに驚(おどろ)き、良智(れうち)坊(ばう)の阿闍梨(あじやり)に告げ、寺(てら)に触(ふ)れて、「牛若殿(うしわかどの)の御髪(みぐし)剃(そ)り奉(たてまつ)れ」とぞ申(まう)されける。良智(れうち)坊(ばう)此(こ)の事(こと)を聞(き)き給(たま)ひて、「幼(をさな)き人も様(やう)にこそよれ。容顔(ようがん)世に越(こ)えておはすれば、今年(ことし)の受戒(じゆかい)いたはしくこそおはすれ。明年(みやうねん)の春(はる)の頃(ころ)剃(そ)り参(まゐ)らさせ給(たま)へ」と申(まう)しければ、「誰(たれ)も御名残(おんなごり)はさこそ思(おも)ひ候(さうら)へ共(ども)、斯様(かやう)に御心(おんこころ)不用(ふよう)になりて御わたり候(さうら)へば、我(わ)が為(ため)、御身(おんみ)の為(ため)然(しか)るべからず候(さうら)ふ。只(ただ)剃(そ)り奉(たてまつ)れ」と宣(のたま)ひければ、牛若殿(うしわかどの)何(なに)ともあれ、寄(よ)りて剃(そ)らんとする者(もの)をば、突(つ)かんずるものをと、刀(かたな)の柄(つか)に手を掛(か)けておはしましければ、左右(さう)なく寄(よ)りて剃(そ)るべし共(とも)見(み)えず。覚日坊(かくにちばう)
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の律師(りつし)申(まう)されけるは、「是(これ)は諸人の寄合所(よりあひどころ)にて静(しづ)かならぬ間(あひだ)、学問(がくもん)も御心(おんこころ)に入(い)らず候(さうら)へば、それがしが所(ところ)は傍(かたはら)にて候(さうら)へば、御心(おんこころ)静(しづか)にも御学問(ごがくもん)候(さうら)へかし」と申(まう)されければ、東光坊(とうくわうばう)もさすがにいたはしく思(おも)はれけん、さらばとて覚日坊(かくにちばう)へ入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり、御名をば変(か)へられて遮那王殿(しやなわうどの)とぞ申(まう)しける。それより後(のち)には貴船(きぶね)の詣(まうで)も止(とど)まりぬ。日々に多聞(たもん)に入堂(にふだう)して、謀反(むほん)の事(こと)をぞ祈(いの)られける。
吉次(きちじ)が奥州物語(あうしうものがたり)の事(こと) S0106
かくて年(とし)も暮(く)れぬれば、御年十六にぞなり給(たま)ふ。正月(むつき)の末(すゑ)二月(きさらぎ)の初(はじ)めの事(こと)なるに、多聞(たもん)の御前(おまへ)に参(まゐ)りて所作(しよさ)しておはしける所(ところ)に、其(そ)の頃(ころ)三条(さんでう)に大福長者(だいふくちやうじや)有(あ)り。名をば吉次(きちじ)信高(のぶたか)とぞ申(まう)しける。毎年(まいねん)奥州(あうしう)に下(くだ)る金商人(こがねあきんど)なりけるが、鞍馬(くらま)を信(しん)じ奉(たてまつ)りける間(あひだ)、それも多聞(たもん)に参(まゐ)りて念誦(ねんじゆ)してゐたりけるが、此(こ)の幼(をさな)ひ人を見(み)奉(たてまつ)りて、あら美(うつく)しの御児(おんちご)や、如何(いか)なる人の君達(きんだち)やらん。然(しか)るべき人にてましまさば、大衆(だいしゆ)も数多(あまた)付(つ)き参(まゐ)らすべきに、度々(たびたび)見(み)申(まう)すに、只(ただ)一人おはしますこそ怪(あや)しけれ。此(こ)の山に左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)のおはする物(もの)を。「誠(まこと)やらん、
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秀衡(ひでひら)も「鞍馬(くらま)と申(まう)す山寺(やまでら)に左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)おはしますなれば、太宰(ださいの)大弐位(だいにゐ)清盛(きよもり)の、日本(につぽん)六十六ケ国を従(したが)へんと、常(つね)は宣(のたま)ふなるに、源氏(げんじ)の君達(きんだち)を一人下(くだ)し参(まゐ)らせ、磐井(いはゐの)郡(こほり)に京(きやう)を建(た)て、二人の子供(こども)両国(りやうごく)の受領(じゆりやう)させて、秀衡(ひでひら)生(い)きたらん程(ほど)は、大炊介(おほいのすけ)になりて、源氏(げんじ)を君(きみ)とかしづき奉(たてまつ)り、上(うえ)見(み)ぬ鷲(わし)のごとくにてあらばや」と宣(のたま)ひ候(さうら)ふものを」と言(い)ひ奉(たてまつ)り、拐(かどはか)し参(まゐ)らせ、御供(おんとも)して秀衡(ひでひら)の見参(げんざん)に入(い)れ、引出物(ひきでもの)取(と)りて徳(とく)付(つ)かばやと思(おも)ひ、御前(おまえ)に畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「君(きみ)は都(みやこ)には如何(いか)なる人の御君達(ごきんだち)にておはしますやらん、是(これ)は京の者(もの)にて候(さうら)ふが、金(こがね)を商(あきな)ひて毎年(まいねん)奥州(あうしう)へ下(くだ)る者(もの)にて候(さうら)ふが、奥方(おくがた)に知召(しろしめ)したる人や御入(おんいり)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「片(かた)ほとりの者(もの)なり」と仰(おほ)せられて、返事(へんじ)もし給(たま)はず。是(これ)ごさんなれ、聞(き)こゆる黄金商人(こがねあきんど)吉次(きちじ)と言(い)ふ者(もの)なり。奥州(あうしう)の案内者(あんないしや)やらん、彼(かれ)に問(と)はばやと思(おぼ)し召(め)して「陸奥(みちのく)と言(い)ふは、如何(いか)程(ほど)の広(ひろ)き国(くに)ぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「大過の国(くに)にて候(さうら)ふ。常陸国(ひたちのくに)と陸奥(みちのく)との堺(さかひ)、菊田(きくた)」の関(せき)と申(まう)して、出羽(では)と奥州(あうしう)との堺(さかひ)をば伊奈(いな)の関(せき)と申(まう)す。其(そ)の中五十四郡(ごじふしぐん)と申(まう)しければ、「其(そ)の中に源平(げんぺい)の乱(らん)来(き)たらん用(よう)に立(た)つべき者(もの)如何(いか)程(ほど)有(あ)るべき」と問(と)ひ給(たま)へば、国の案内(あんない)は知(し)りたり。吉次(きちじ)暗(くら)からずぞ申(まう)しける。「昔(むかし)両国(りやうごく)の大将軍(だいしやうぐん)をばおかの大夫(たいふ)とぞ申(まう)しける。彼等(かれら)が一人の子有(あ)り。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)とぞ申(まう)しける。
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子供(こども)数多(あまた)有(あ)り。嫡子(ちやくし)厨川(くりやがはの)次郎(じらう)貞任(さだたふ)、二男(じなん)鳥海(とりのみの)三郎宗任(むねたふ)、家任(いへたう)、盛任(もりたう)、重任(しげたう)とて六人の末(すゑ)の子に境(さかひ)の冠者(くわんじや)良増(りやうぞう)とて、霧(きり)を残(のこ)し霞(かすみ)を立(た)て、敵(てき)起(おこ)る時(とき)は水(みづ)の底(そこ)海(うみ)の中にて日を送(おく)りなどする曲者(くせもの)なり。是(これ)等(ら)兄弟(きやうだい)丈(たけ)の高(たか)さ唐人にも越(こ)えたり。貞任(さだたふ)が丈(たけ)は九尺(きうしやく)五寸(ごすん)、宗任(むねたふ)が丈(たけ)は八尺(はつしやく)五寸(ごすん)、何(いづ)れも八尺(はつしやく)に劣(おと)るはなし。中にも境(さかひ)の冠者(くわんじや)は一丈(いちぢやう)+三寸(さんずん)候(さうらひ)ける。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)の世までは宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)にも畏(おそ)れて、毎年(まいねん)上洛(しやうらく)して逆鱗(げきりん)を休(やす)め奉(たてまつ)る。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)死去(しきよ)の後(のち)は宣旨(せんじ)を背(そむ)き、偶々(たまたま)院宣(ゐんぜん)なる時(とき)は、北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の片道(かたみち)を賜(たま)はりて上洛仕るべき由(よし)申(まう)され候(さうら)ひければ、片道(かたみち)賜(たま)はり候(さうら)ふべきとて下(くだ)さるべかりしを、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、「是(これ)天命(てんめい)を背(そむ)くにこそ候(さうら)へ。源平の大将(たいしやう)を下(くだ)し、追討(ついたう)せさせ給(たま)へ」と申(まう)されければ、源(みなもと)の頼義(よりよし)勅宣(ちよくせん)を承(うけたまは)つて、十六万騎の軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して、安倍(あべ)を追討(ついたう)の為(ため)に陸奥(みちのく)へ下(くだ)し給(たま)ふ。駿河国(するがのくに)の住人(ぢゆうにん)高橋(たかはし)大蔵(おほくら)大夫(たいふ)に先陣(せんぢん)をさせて、下野国(しもつけのくに)いもうと言(い)ふ所(ところ)に著(つ)く。貞任(さだたふ)是(これ)を聞(き)きて、厨川(くりやがは)の城(じやう)を去(さ)つて阿津賀志(あづかしゑ)の中山(なかやま)を後(うしろ)にあてて、安達(あだち)の郡(こほり)に木戸を立(た)て、行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せ向(むか)ひて、源氏(げんじ)を待(ま)つ。大蔵(おほくら)の大夫(たいふ)大将(たいしやう)として五百余騎(よき)白川関(しらかはのせき)打(う)ち越(こ)えて行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せつき、貞任(さだたふ)を攻(せ)む。其(そ)の日の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けて、浅香(あさか)の沼(ぬま)へ引(ひ)き退(しりぞ)く。伊達郡(だてのこほり)阿津賀志(あづかしゑ)の中山(なかやま)にたて篭(こも)り、源氏(げんじ)は信夫(しのぶ)の里(さと)摺上河(するかみがは)の端(はた)、はやしろと
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言(い)ふ所(ところ)に陣(ぢん)取(ど)つて、七年夜(よる)昼(ひる)戦(たたか)ひ暮(く)らすに、源氏(げんじ)の十一万騎(じふいちまんぎ)皆(みな)討(う)たれて、叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、頼義(よりよし)京(きやう)へ上(のぼ)りて、内裏(だいり)に参(まゐ)り、頼義(よりよし)叶(かな)ふまじき由(よし)を申(まう)されければ、「汝(なんじ)叶(かな)はずは、代官(だいくわん)を下(くだ)し、急(いそ)ぎ追討(ついたう)せよ」と重(かさ)ねて宣旨(せんじ)下(くだ)されければ、急(いそ)ぎ六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り、十三になる子息(しそく)を内裏(だいり)に参(まゐ)らせけり。「汝(なんじ)が名をば何(なに)と言(い)ふぞ」と御尋(おんたづ)ね有(あ)りけるに、「辰(たつ)の年(とし)の辰(たつ)の日の辰(たつ)の時に生(うま)れて候(さうら)ふ」とて、「名をば源太(ぐわんだ)と申(まう)し候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、無官(むくわん)の者(もの)に合戦(かつせん)の大将(たいしやう)さする例(れい)なしとて、元服(げんぷく)せさせよとて、後藤内(ごとうない)範明(のりあきら)を差(さ)し添(そ)へられて、八幡宮(はちまんぐう)に元服(げんぷく)させて、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)と号(かう)す。其(そ)の時(とき)御門より賜(たま)はりたる鎧(よろひ)をこそ源太(ぐわんだ)が産衣(うぶきぬ)と申(まう)しけり。秩父(ちちぶの)十郎(じふらう)重国(しげくに)先陣(せんぢん)を賜(たま)はりて、奥州(あうしう)へ下る。阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を攻(せ)めけるに、猶(なほ)も源氏(げんじ)打(う)ち負(ま)けて、事(こと)
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悪(あ)しかりなんとて、急(いそ)ぎ都へ早馬(はやむま)を立(た)て、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、年号(ねんがう)が悪(あ)しければとて、康平(かうへい)元年に改(あらた)められ、同(おなじ)き年四月二十一日阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を追(お)ひ落(おと)す。しからざるにかかりて伊奈(いな)の関(せき)を攻(せ)め越(こ)えて、最上郡(もがみのこほり)に篭(こも)る。源氏(げんじ)続(つづ)いて攻(せ)め給(たま)ひしかば、雄勝(をかち)の中山(なかやま)を打(う)ち越(こ)えて、仙北(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)に引(ひ)き篭(こも)り。それにて一両年(いちりやうねん)を送(おく)り戦(たたか)ひつれども、鎌倉(かまくらの)権五郎(ごんごらう)景政(かげまさ)、三浦(みうらの)平大夫(へいだいふ)為継(ためつぎ)、大蔵(おほくらの)大夫(たいふ)光任(みつたふ)、是(これ)等(ら)が命(いのち)を捨(す)てて攻(せ)めける程(ほど)に、金沢(かなざは)の城(じやう)をも落(おと)されて、白木山(しろきやま)にかかりて、衣川(ころもがは)の城(じやう)に篭(こも)る。為継(ためつぎ)、景政(かげまさ)重(かさ)ねて攻(せ)めかかる。康平(かうへい)+三年(さんねん)六月二十一日に貞任(さだたふ)大事(だいじ)の手(て)負(お)ひて梔子色(くちなしいろ)の衣(きぬ)を着(き)て、磐手(いはで)の野辺にぞ伏(ふ)しにける。弟(おとと)の宗任(むねたふ)は降人(かうじん)となる。境(さかひ)の冠者(くわんじや)、後藤内(ごとうない)生捕(いけどり)にしてやがて斬(き)られぬ。義家(よしいへ)都(みやこ)に馳(は)せ上(のぼ)り。内裏(うち)の見参(げんざん)に入(い)れて、末代(まつだい)までの名をあげ給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)、奥州(あうしう)へ御伴(おんとも)申(まう)し候(さうら)ひし三つうの少将(せうしやう)に十一代の末(すゑ)淡海(たんかい)の後胤(こうゐん)、藤原(ふぢはらの)清衡(きよひら)と申(まう)す者(もの)国(くに)の警護(けいご)に留(と)められて候(さうら)ひけるが、亘理(わたり)の郡(こほり)に有(あ)りければ、亘理(わたり)の清衡(きよひら)と申(まう)し候(さうら)ひし、両国(りやうごく)を手に握(にぎ)つて候(さうら)ひし、十四道の弓取(ゆみとり)五十万騎、秀衡(ひでひら)が伺候(しこう)の郎等(らうどう)十八万騎(じふはちまんぎ)もちて候(さうら)ふ。是(これ)こそ源平(げんぺい)の乱(らん)出(い)で来(きた)らば、御方人(おんかたうど)ともなりぬべき者(もの)にて候(さうら)へ」と申(まう)しける。
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遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事(こと) S0107
遮那王殿(しやなわうどの)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、かねて聞(き)きしに少(すこ)しも違(たが)はず、世に有(あ)る者(もの)ごさんなれ。あはれ下(くだ)らばや。左右(さう)なく頼(たの)まれたらば、十八万騎(じふはちまんぎ)の勢(せい)を十万騎(じふまんぎ)をば国にとどめ、八万騎(はちまんぎ)をば率(そつ)して、坂東(ばんどう)に打(う)ち出(い)で、八ケ国(はつかこく)は源氏(げんじ)に志(こころざし)有(あ)る国なり。下野殿(しもつけどの)の国なり。是(これ)をはじめとして十二万騎(じふにまんぎ)を催(もよほ)して二十万騎(にじふまんぎ)になつて、十万騎(じふまんぎ)をば伊豆(いづ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)に奉(たてまつ)り、十万騎(じふまんぎ)をば木曾殿(どの)につけて、我(わ)が身は越後国(ゑちごのくに)に打(う)ち越(こ)え、鵜川(うかは)、佐橋(さはし)、金津(かなづ)、奥山(おくやま)の勢(せい)を催(もよほ)して、越中(ゑつちゆう)、能登(のと)、加賀(かが)、越前(ゑちぜん)の軍兵(ぐんびやう)を靡(なび)けて、十万騎(じふまんぎ)になりて、荒乳(あらち)の中山(なかやま)を馳(は)せ越(こ)えて、西近江(にしあふみ)にかかりて、大津(おほつ)の浦(うら)に著(つ)きて、坂東(ばんどう)の二十万騎(にじふまんぎ)を待(まち)得(え)て、逢坂(あふさか)の関(せき)を打(う)ち越(こ)えて、都(みやこ)に攻(せ)め上り、十万騎(じふまんぎ)をば天下の御所に参(まゐ)らせて、源氏(げんじ)すごさん由(よし)を申(まう)さんに平家(へいけ)猶(なほ)も都に繁昌(はんじやう)して空(むな)しかるべくば、名をば後(のち)の世にとどめ、屍(かばね)をば都(みやこ)に曝(さら)さん事(こと)身に取(と)りては何(なに)の不足(ふそく)か有(あ)るべきと思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふも十六の盛(さかり)には恐(おそ)ろしくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の男奴(をとこめ)に知(し)らせばやと思(おぼ)し召(め)して仰(おほ)せられけるは、「汝(なんぢ)なれば知(し)らするぞ。人に披露(ひろう)有(あ)るべからず。我(われ)こそ
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左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が子にてあれ、秀衡(ひでひら)がもとへ文(ふみ)一(ひと)つ言伝(ことづて)ばや。何時(いつ)の頃(ころ)返事(へんじ)を取(と)りてくれんずるぞと仰(おほ)せられければ、吉次(きちじ)座敷(ざしき)をすべりおり、烏帽子(えぼし)の先(さき)を地につけて申(まう)しけるは、「御事(おんこと)をば秀衡(ひでひら)以前(いぜん)に申(まう)され候(さうら)ふ。御文よりも只(ただ)御下(おんくだ)り候(さうら)へ、道(みち)の程(ほど)御宿直(おんとのゐ)仕(つか)まつり候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、文の返(かへ)り事(ごと)待(ま)たんも心(こころ)もとなし。さらば連(つ)れて下(くだ)らばやと思召(おぼしめ)しける。「何時(いつ)+ごろ下(くだ)り候(さうら)はんずるぞ」と宣(のたま)へば、「明日吉日にて候(さうら)ふ間(あひだ)、形(かた)の如(ごと)くの門出(かどいで)仕(つか)まつり候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「さらば粟田口(あはたぐち)十禅師(じふぜんじ)の御前(おまえ)にて待(ま)たんずるぞ」と宣(のたま)ひければ、吉次(きちじ)は「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とて下向(げかう)してんげり。遮那王殿(しやなわうどの)別当(べつたう)の坊(ばう)に帰(かへ)りて心(こころ)の中(うち)ばかりに出(い)で立(た)ち給(たま)ふ。七歳(しちさい)の春の頃(ころ)より十六の今(いま)に至(いた)るまで、朝(あした)にはけうくんの霧(きり)を払(はら)ひ、夕(ゆうべ)には三光(さんくわう)の星(ほし)をいただき、日夜朝暮(てうぼ)なれし馴染(なじみ)の師匠(ししやう)の御名残(おんなごり)も今(いま)ばかりと思(おも)はれければ、しきりに忍(しの)ぶとし給(たま)へ共(ども)、涙(なみだ)にむせび給(たま)ひけり。されども心(こころ)弱(よわ)くては叶(かな)ふべきにあらざれば、承安(じようあん)+四年(しねん)二月二日の曙(あけぼの)に鞍馬(くらま)をぞ出(い)で給(たま)ふ。白(しろ)き小袖(こそで)一かさねに唐綾(からあや)を着(き)かさね、播磨浅葱(はりまあさぎ)の帷子(かたびら)をうへに召(め)し、白(しろ)き大口(おほくち)に唐織物(からおりもの)の直垂(ひたたれ)めし、敷妙(しきたへ)と言(い)ふ腹巻(はらまき)着篭(きご)めにして、紺地(こんぢ)の錦(にしき)にて柄鞘(つかさや)包(つつ)みたる守刀(まぼりがたな)、黄金作(こがねづくり)の太刀(たち)帯(は)いて、薄化粧(うすげしやう)に眉(まゆ)細(ほそ)くつくりて、髪(かみ)高(たか)く結(ゆ)ひあげ、心(こころ)細(ぼそ)げにて壁(かべ)を
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隔(へだ)てて出(い)で立(た)ち給(たま)ふが、我(われ)ならぬ人の訪(おとづ)れて通(とほ)らん度(たび)にさる者(もの)是(これ)に有(あ)りしぞと思(おも)ひ出(い)でて、あとをも弔(とぶら)へかしと思(おも)はれければ、漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)取(と)り出(い)だし、半時(はんじ)ばかり吹(ふ)きて、音(ね)をだにあとの形見(かたみ)とて、泣(な)く泣(な)く鞍馬(くらま)を出(い)で給(たま)ひ、其(そ)の夜は四条(しでう)の聖門(しやうもん)坊(ばう)の宿(やど)へ出(い)でさせ給(たま)ひて、奥州(あうしう)へ下(くだ)る由(よし)仰(おほ)せられければ、善悪(ぜんあく)御伴(おんとも)申(まう)し候(さうら)はんと出(い)で立(た)ちけり。遮那王殿(しやなわうどの)宣(のたま)ひけるは、「御辺(ごへん)は都(みやこ)にとどまりて、平家(へいけ)のなり行(ゆ)く様(さま)を見(み)て知(し)らせよ」とて、京(きやう)にぞとどめられける。さて遮那王殿(しやなわうどの)粟田口(あはたぐち)まで出(い)で給(たま)ふ。聖門(しやうもん)坊(ばう)もそれまで送(おく)り奉(たてまつ)り、十禅師(じふぜんじ)の御前(おまへ)にて、吉次(きちじ)を待(ま)ち給(たま)へば、吉次(きちじ)未(いま)だ夜深(よぶか)に京(きやう)を出(い)で、粟田口(あはたぐち)に出(い)で来(きた)る。種々(しゆじゆ)の宝(たから)を二十余疋(よひき)の馬(うま)に負(おほ)せて先(さき)に立(た)て、我(わ)が身は京(きやう)を尋常(じんじやう)にぞ出(い)で立(た)ちける。間々(あひあひ)引柿(ひきがき)したる摺尽(すりづく)しの直垂(ひたたれ)に秋毛(あきげ)
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の行縢(むかばき)はいて、黒栗毛(くろくりげ)なる馬(うま)に角覆輪(つのぶくりん)の鞍(くら)置(お)いてぞ乗(の)りたりける。児(ちご)乗(の)せ奉(たてまつ)らんとて、月毛(つきげ)なる馬(うま)に沃懸地(いかけぢ)の鞍(くら)置(お)きて、大斑(おほまだら)の行縢(むかばき)、鞍覆(くらおほひ)にしてぞ出(い)で来(きた)る。遮那王殿(しやなわうどの)「如何(いか)に、約束(やくそく)せばや」と宣(のたま)へば、馬(うま)より急(いそ)ぎ飛(と)んで下(お)り、馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せ乗(の)せ奉(たてまつ)り、かかる縁(えん)に会(あ)ひけるよと世に嬉(うれ)しくぞ思(おも)ひける。吉次(きちじ)を招(まね)きて宣(のたま)ひけるは、「や、殿(との)、馬(うま)の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切(き)つて、雑人(ざふにん)奴(め)等(ら)が追(お)ひ着(つ)かん。かへりみるに駆足(かけあし)になりて下(くだ)らんと覚(おぼ)ゆるなり。鞍馬(くらま)になしと言(い)はば、都に尋(たづ)ぬべし。都(みやこ)になしと言(い)はば、大衆(だいしゆ)共(ども)定(さだ)めて東海道(とうかいだう)へぞ下(くだ)らんずらんとて、摺針山(すりばりやま)よりこなたにて追(おつ)掛(か)けられて、帰(かへ)れと言(い)はんずる者(もの)なり。帰(かへ)らざらんは仁(じん)義(ぎ)礼(れい)智(ち)にもはづれなん。都(みやこ)は敵(てき)の辺(へん)也(なり)。足柄山(あしがらやま)を越(こ)えんまでこそ大事(だいじ)なれ。坂東(ばんどう)と言(い)ふは源氏(げんじ)に志(こころざし)の有(あ)る国(くに)なり、言葉(ことば)の末(すゑ)を以(もつ)て、宿々(しゆくじゆく)の馬(うま)取(と)りて下(くだ)るべし、白川(しらかは)の関(せき)をだにも越(こ)えば、秀衡(ひでひら)が知行(ちぎやう)の所(ところ)なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知(し)るまじきぞ」と宣(のたま)へば吉次(きちじ)是(これ)を聞(き)きてかかる恐(おそ)ろしき事(こと)あらじ。毛(け)のなだらかならん馬(うま)一匹(いつぴき)をだにも乗(の)り給(たま)はずして、恥(はぢ)有(あ)る郎等の一騎をだにも具(ぐ)し給(たま)はで、現在(げんざい)の敵(かたき)の知行(ちぎやう)する国の馬(うま)を取(と)りて下(くだ)らんと宣(のたま)ふこそ恐(おそ)ろしけれとぞ思(おも)ひける。されども命(めい)に従(したが)ひ、駒(こま)を早(はや)めて下(くだ)る程(ほど)に松坂(まつざか)をも越(こ)えて、四(し)の宮(みや)河原(かはら)を見(み)て過(す)ぎ、逢坂(あふさか)の関(せき)打(う)ち越(こ)えて大津(おほつ)の浜(はま)
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をも通(とほ)りつつ瀬田(せた)の唐橋(からはし)打(う)ち渡(わた)り、鏡(かがみ)の宿(しゆく)に著(つ)き給(たま)ふ。長者(ちやうじや)は吉次(きちじ)が年(とし)頃(ごろ)の知る人なりければ、女房(にようばう)数多(あまた)出(い)だしつつ色々(いろいろ)にこそもてなしけれ。
義経記巻第一(だいいち)
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