義経記巻第三目録

熊野の別当(べつたう)乱行の事(こと)
弁慶(べんけい)生(う)まるる事
弁慶(べんけい)山門(さんもん)を出(い)づる事
書写(しよしや)炎上(えんじやう)の事(こと)
弁慶(べんけい)洛中(らくちゆう)において人の太刀を取(と)る事
義経(よしつね)弁慶(べんけい)君臣の契約(けいやく)の事(こと)
頼朝(よりとも)謀反(むほん)の事(こと)
義経(よしつね)謀反(むほん)の事(こと)

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義経記巻第三
熊野の別当(べつたう)乱行の事(こと) S0301
義経(よしつね)の御内に聞(き)こえたる一人当千(たうぜん)の剛(かう)の者(もの)有(あ)り。俗姓(ぞくしやう)を尋(たづ)ぬるに、天児屋根(あまつこやね)の御苗裔(ごべうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の後胤(こうゐん)、熊野(くまの)の別当(べつたう)弁(べん)せうが嫡子(ちやくし)、西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)とぞ申(まう)しける。彼(かれ)が出(い)で来(く)る由来(ゆらい)を尋(たづ)ぬるに、二位(にゐ)の大納言(だいなごん)と申(まう)す人は君達(きんだち)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ひたりけれども、親(おや)に先立(さきだ)ち、皆(みな)失(う)せ給(たま)ふ。年長(た)け、齢(よはひ)傾(かたぶ)きて、一人の姫君(ひめぎめ)を設(まう)け給(たま)ひたり。天下第一(だいいち)の美人にておはしければ、雲の上人(うへびと)我(われ)も我(われ)もと望(のぞ)みをかけ給(たま)ひけれども、更に用(もち)ゐ給(たま)はず。大臣(だいじん)師長(もろなが)懇(ねんご)ろに申(まう)し給(たま)ひければ、さるべき由(よし)申(まう)されけれども、今年(ことし)は忌(い)むべき事(こと)有(あ)り。東の方は叶(かな)はじ。明年の春(はる)の頃(ころ)と約束(やくそく)せられけり。御年(おんとし)十五と申(まう)す夏の頃(ころ)如何(いか)なる宿願(しゆくぐわん)にか、五条(ごでう)の天神に参(まゐ)り給(たま)ひて、御通夜(おんつや)し給(たま)ひたりけるに、辰巳(たつみ)の方より俄に風吹(ふ)き来(き)たりて、御身(おんみ)にあたると思(おも)ひ給(たま)ひければ、物(もの)狂(ぐる)はしく
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労(いたはり)ぞ出(い)で来給(たま)ひたる。大納言(だいなごん)、師長(もろなが)、熊野(くまの)を信じ参(まゐ)らせ給(たま)ひける程(ほど)に、「今度(こんど)の病たすけさせ給(たま)へ。明年の春の頃(ころ)は参詣(さんけい)を遂(と)げ、王子(わうじ)王子(わうじ)の御前にて宿願(しゆくぐわん)を解(ほど)き候(さうら)ふべし」と祈(いの)られければ、程(ほど)無(な)く平癒(へいゆ)し給(たま)ひぬ。斯(か)くて次の年の春、宿願(しゆくぐわん)を晴(は)らさせ給(たま)はん為(ため)に参詣(さんけい)有(あ)り。師長(もろなが)、大納言(だいなごん)殿(どの)よりして、百人道者(だうしや)付(つ)け奉(たてまつ)りて、三(みつ)の山(やま)の御参詣(ごさんけい)を事故(ことゆゑ)無(な)く遂(と)げ給(たま)ふ。本宮証誠殿(しようじやうどの)に御通夜(おんつや)有(あ)りけるに別当(べつたう)も入堂したりけり。遙(はる)かに夜更(ふ)けて、内陣にひそめきたり。何事(なにごと)なるらんと姫君(ひめぎみ)御覧(ごらん)ずる処に、「別当(べつたう)の参(まゐ)り給(たま)ひたる」とぞ申(まう)したり。別当(べつたう)幽(かすか)なる燈火(ともしび)の影(かげ)より此(こ)の姫君(ひめぎみ)を見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひて、さしも然(しか)るべき行人にておはしけるが、未(いま)だ懺法(せんぽふ)だにも過(す)ぎざるに、急(いそ)ぎ下向(げかう)して、大衆(だいしゆ)を呼(よ)びて、「如何(いか)なる人ぞ」と問(と)はれければ、「是(これ)は二位(にゐ)の大納言(だいなごん)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)、右大臣(うだいじん)殿(どの)の北(きた)の方(かた)」とぞ申(まう)しける。別当(べつたう)、「それは約束(やくそく)ばかりにてこそあんなれ。未(いま)だ近(ちか)づき給(たま)はず候(さうら)ふと聞(き)くぞ。先々(さきさき)大衆(だいしゆ)の、あはれ熊野に何事(なにごと)も出(い)で来(き)よかしと人の心(こころ)をも我(わ)が心をも見(み)んと言(い)ひしは今(いま)ぞかし。出(い)で立(た)ちてあしきの無(な)からん所(ところ)に、道者(だうしや)追(お)ひ散(ち)らして、此(こ)の人を取(と)つてくれよかし。別当(べつたう)が児(ちご)にせん」とぞ宣(のたま)ひける。大衆(だいしゆ)是(これ)を聞(き)きて、「さては仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)、王法(わうぼふ)の敵(てき)とやなり給(たま)はんずらん」と申(まう)しければ、「臆病(おくびやう)の致(いた)す所(ところ)にてこそあれ。斯(か)かる事(こと)を企(くわだ)つる習(なら)ひ、
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大納言(だいなごん)殿(どの)、師長(もろなが)、院(ゐん)の御所へ参(まゐ)り、訴訟(そしよう)申(まう)し給(たま)はば、大納言(だいなごん)を大将(たいしやう)として畿内(きない)の兵(つはもの)こそ向(むか)はんずらめ。それは思(おも)ひ設(まう)けたる事なれ。新宮(しんぐう)熊野の地へ敵(てき)に足(あし)を踏(ふ)ませばこそ」とぞ宣(のたま)ひける。先々(さきさき)の僻事(ひがこと)と申(まう)すは大衆(だいしゆ)の赴(おもむ)きを別当(べつたう)の鎮(しづ)め給(たま)ふだにも、ややもすれば衆徒(しゆと)逸(はや)りき。況(いは)んや、是(これ)は別当(べつたう)起(お)こし給(たま)ふ事なれば、衆徒(しゆと)も兵(つはもの)を進(すす)めけり。我(われ)も我(われ)もと甲冑(かつちう)をよろひ、先様(さきさま)に走(はし)り下(くだ)りて、道者(だうしや)を待(ま)つ所(ところ)に又(また)後(あと)より大勢(おほぜい)鬨(とき)を作りて追(お)つかけたり。恥(はぢ)を恥(は)づべき侍共(さぶらひども)皆(みな)逃(に)げける。衆徒(しゆと)輿(こし)を取(と)つて帰(かへ)り、別当(べつたう)に奉(たてまつ)る。我(わ)が許(もと)は上下の経所(きやうどころ)なりければ、若(も)し京方(きやうがた)の者(もの)有(あ)るやとて、政所(まんどころ)に置(お)き奉(たてまつ)り、諸共(もろとも)に明暮(あけくれ)引(ひ)き篭(こも)りてぞおはしける。若(も)し京より返(かへ)し合(あ)はする事(こと)もやと用心きびしくしたりけり。されども私(わたくし)の計(はか)らひにて有(あ)らざれば、急(いそ)ぎ都(みやこ)へ馳(は)せ上(のぼ)りて、此(こ)の由(よし)を
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申(まう)したりければ右大臣(うだいじん)殿(どの)大(おほ)きに憤(いきどほ)り給(たま)ひて、院(ゐん)の御所に参(まゐ)り給(たま)ひて訴(うつた)へ申(まう)されたりければ、やがて院宣(ゐんぜん)を下(くだ)して、和泉(いづみ)、河内、伊賀、伊勢(いせ)の住人(ぢゆうにん)共(ども)を催(もよほ)して、師長(もろなが)、大納言(だいなごん)殿(どの)を両大将(りやうだいしやう)として、七千余騎(よき)にて、「熊野(くまの)の別当(べつたう)を追(お)ひ出(い)だして、俗別当(ぞくべつたう)になせ」とて、熊野に押(お)し寄(よ)せ給(たま)ひて攻(せ)め給(たま)へば、衆徒(しゆと)身を捨(す)てて防(ふせ)ぐ。京方(きやうがた)叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、切目(きりべ)の王子(わうじ)に陣(ぢん)取(どつ)て、京都(きやうと)へ早馬(はやむま)を立(た)て申(まう)されければ、「合戦遅々(ちち)する仔細(しさい)有(あ)り。其(そ)の故(ゆゑ)は公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、平宰相(へいざいしやう)信業(のぶなり)の御娘(おんむすめ)、美人にておはしまししかば、内(うち)へ召(め)されさせ給(たま)ひしを、今(いま)此(こ)の事(こと)に依(よ)つて熊野山(くまのさん)滅亡(めつぼう)せられん事、本朝の大事(だいじ)なり。右大臣(うだいじん)には此(こ)の姫君(ひめぎみ)を内より返(かへ)し奉(たてまつ)り給(たま)はば、何(なに)の御憤(おんいきどほ)りか有(あ)るべき。又(また)二位(にゐ)の大納言(だいなごん)の御婿(おんむこ)、熊野の別当(べつたう)、何(なに)か苦(くる)しかるべきか。年長(た)けたるばかりにてこそあれ、天児屋根(あまつこやね)の御苗裔(ごべうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の御子孫なり。苦(くる)しかるまじ」とぞ僉議事(せんぎごと)畢(をは)りて、切目(きりべ)の王子(わうじ)に早馬(はやむま)を立(た)て、此(こ)の由(よし)を申(まう)されければ、右大臣(うだいじん)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)の上(うへ)は申(まう)すに及(およ)ばずとて、打(う)ち捨(す)てて帰(かへ)り上(のぼ)り給(たま)ふ。二位(にゐ)の大納言(だいなごん)は又(また)我(われ)一人(ひとり)して憤(いきどほ)るべきならずとて、打(う)ち連(つ)れ奉(たてまつ)りて上洛(しやうらく)有(あ)りければ、熊野(くまの)も都(みやこ)も静(しづか)なりと雖(いへど)も、ややもすれば兵(つはもの)共(ども)我(われ)等(ら)がする事(こと)は宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)にも従(したが)はばこそと自嘆(じたん)して、いよいよ代を世ともせざりけり。扨(さて)姫君(ひめぎみ)は別当(べつたう)に従(したが)ひて年月を経(へ)る程(ほど)に、別当(べつたう)は六十一、
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姫君(ひめぎみ)に馴(な)れて子を儲(まう)けんずるこそ嬉(うれ)しけれ。男ならば仏法(ぶつぽふ)の種(たね)を継(つ)がせて、熊野をも譲(ゆづ)るべしとて、斯(か)くして月日(つきひ)を待(ま)つ程(ほど)に、限(かぎ)り有(あ)る月に生(う)まれず、十八月にて生(う)まれける。
弁慶(べんけい)生(う)まるる事 S0302
別当(べつたう)此(こ)の子の遅(おそ)く生(う)まるる事(こと)不思議(ふしぎ)に思(おも)はれければ、産所(さんじよ)に人を遣(つか)はして、「如何様(いかやう)なる者(もの)ぞ」と問(と)はれければ、生(う)まれ落(お)ちたる気色(けしき)は世(よ)の常(つね)の二三歳(にさんさい)ばかりにて、髪は肩(かた)の隠(かく)るる程(ほど)に生(お)ひて、奥歯(おくば)も向歯(むかば)も殊(こと)に大(おほ)きに生(お)ひてぞ生(う)まれけれ。別当(べつたう)に此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置(お)いては仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)となりなんず。水の底(そこ)に紫漬(ふしづけ)にもし、深山(しんざん)に磔(はつけ)にもせよ」とぞ宣(のたま)ひける。母(はは)是(これ)を聞(き)き、「それは然(さ)る事(こと)なれ共(ども)、親となり、子と成りし、此(こ)の世一(ひと)つならぬ事(こと)ぞと承(うけたまは)る。忽(たちま)ちに如何(いかが)失(うしな)はん」と嘆(なげ)き入(い)りてぞおはしける所(ところ)に、山の井の三位と言(い)ひける人の北(きた)の方(かた)は、別当(べつたう)の妹(いもうと)なり。別当(べつたう)におはして幼(をさな)き人の御不審(ふしん)を問(と)ひ給(たま)へば、「人の生(う)まるると申(まう)すは九月十月にてこそ極(きは)めて候(さうら)へ。彼奴(きやつ)は十八月に生(う)まれて候(さうら)へば、助(たす)け置(お)きても親(おや)の仇(あた)と
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もなるべく候(さうら)へば、助(たす)け置(お)く事(こと)候(さうら)ふまじ」と宣(のたま)ひける。叔母(をば)御前(ごぜん)聞(き)き給(たま)ひて、「腹(はら)の内(うち)にて久(ひさ)しくして生(う)まれたる者(もの)、親(おや)の為(ため)に悪(あ)しからんには、大唐(だいたう)の黄石が子は腹の内(うち)にて八十年の歯(よはひ)を送(おく)り、白髪(しらが)生(お)ひて生(う)まれける。年(とし)は二百八十歳(にひやくはちじつさい)、丈(たけ)低(ひき)く色(いろ)黒(くろ)くして、世の人には似(に)ず。されども八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の御使者(ししや)現人神(あらひとがみ)と斎(いは)はれ給(たま)ふ。理(り)をまげて、我(われ)等(ら)に賜(たま)はり候(さうら)へ。京へ具(ぐ)して上(のぼ)り、善(よ)くは男になして、三位殿(どの)へ奉(たてまつ)るべし。悪(わろ)くは法師(ほふし)になして、経(きやう)の一巻(くわん)も読(よ)ませたらば、僧党(そうたう)の身として罪作(つく)らんより勝(まさ)るべし」と申(まう)されければ、さらばとて叔母(をば)に取(と)らせける。産所(さんじよ)に行(ゆ)きて産湯(うぶゆ)を浴(あ)びせて、鬼若と名を付(つ)けて、五十一日過(す)ぎければ、具(ぐ)して京(きやう)へ上(のぼ)り、乳母(めのと)を付(つ)けてもてなし伝(かしづ)きける。鬼若五つにては、世(よ)の人十二三程(ほど)に見(み)えける。六歳(ろくさい)の時疱瘡(もがさ)と言(い)ふものをして、いとど色(いろ)も黒(くろ)く、髪(かみ)は生(う)まれたる儘(まま)なれば、肩(かた)より下へ生(お)ひ下(さが)り、髪(かみ)の風情(ふぜい)も男になして叶(かな)ふまじ、法師(ほふし)になさんとて、比叡(ひえ)の山(やま)の学頭(がくたう)西塔(さいたふ)桜本(さくらもと)の僧正の許(もと)に申(まう)されけるは、「三位殿(どの)の為(ため)には養子にて候(さうら)ふ。学問(がくもん)の為(ため)に奉(たてまつ)り候(さうら)ふ。眉目(みめ)容貌(かたち)は参(まゐ)らするに付(つ)けて恥(は)ぢ入(い)り候(さうら)へども、心(こころ)は賢々(さかさか)しく候(さうら)ふ。書(ふみ)の一巻も読(よ)ませて賜(た)び候(さうら)へ。心の不調(ふぢやう)に候(さうら)はんは直(なほ)させ給(たま)ひ候(さうら)ひて、如何様(いかやう)にも御計(はか)らひにまかせ候(さうら)ふぞ」とて上(のぼ)せけり。桜本(さくらもと)にて学問(がくもん)する程(ほど)に、精(せい)は月日(つきひ)の重(かさ)なる
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に随(したが)ひて、人に勝(すぐ)れてはかばかし。学問(がくもん)世に越(こ)えて器用(きよう)なり。されば衆徒(しゆと)も、「容貌(かたち)は如何(いか)にも悪(わろ)かれ。学問(がくもん)こそ大切(たいせつ)なり」と宣(のたま)ひぬ。学問(がくもん)に心をだにも入(い)れなば、さてよかるべきに、力(ちから)も強(つよ)く骨太(ほねぶと)なり。児(ちご)、法師(ほふし)原(ばら)を語(かた)らひて、人も行(ゆ)かぬ御堂の後(うし)ろ、山(やま)の奥(おく)などへ篭(こも)り居(ゐ)て、腕取(うでどり)、腕押(うでおし)、相撲(すまふ)などぞ好(この)みける。衆徒(しゆと)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、「我(わ)が身こそ、徒者(いたづらもの)にならめ、人の所(ところ)に学問(がくもん)する者(もの)をだに賺(すか)し出(い)だして、不調(ふでう)になす事(こと)不思議(ふしぎ)なり」とて、僧正の許(もと)に訴訟(そしよう)の絶(た)ゆる事(こと)なし。斯(か)く訴(うつた)へける者(もの)をば敵(かたき)の様(やう)に思(おも)ひて、其(そ)の人の方(かた)へ走(はし)り入(い)りて、蔀(しとみ)、妻戸(つまど)を散々(さんざん)に打(う)ち破(やぶ)りけれども、悪事(あくじ)も武用(ぶよう)も鎮(しづ)むべき様(やう)ぞ無(な)き。其(そ)の故(ゆゑ)は父(ちち)は熊野(くまの)の別当(べつたう)なり。養父は山の井殿(どの)、祖父(おほぢ)は二位(にゐ)の大納言(だいなごん)、師匠(ししやう)は三千(さんぜん)坊(ばう)の学頭(がくとう)の児(ちご)にて有(あ)る間(あひだ)、手(て)をも指(さ)して良(よ)き事(こと)有(あ)るまじとて、只(ただ)打(う)ち任(まか)せてぞ狂(くる)は
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せける。されば相手(あひて)は変(か)はれども鬼若(おにわか)は変(か)はらず、諍(いさかひ)の絶(た)ゆる事(こと)なし。拳(こぶし)を握(にぎ)り、人を締(し)めければ、人々(ひとびと)道(みち)をも直(すぐ)に行(き)得(え)ず。偶々(たまたま)逢(あ)ふ者(もの)も道を避(よ)けなどしければ、其(そ)の時(とき)は相違(さうゐ)無(な)く通(とほ)して後、会(あ)うたる時取(と)つて抑(おさ)へて、「さもあれ、過(す)ぎし頃(ころ)は行(ゆ)き逢(あ)ひ参(まゐ)らせて候(さうら)ふに、道(みち)を避(よ)けられしは、何の遺恨(いこん)にて候(さうら)ひけるぞ」と問(と)ひければ、恐(おそ)ろしさに膝(ひざ)ふるひなどする物を、肱(かひな)捩(ね)ぢ損(そん)じ、拳(こぶし)を以(もつ)てこは胸(むね)を押(お)し損(そん)じなどする間(あひだ)、逢(あ)ふ者(もの)の不祥(ふせう)にてぞ有(あ)りける。衆徒(しゆと)僉議(せんぎ)して、僧正の児(ちご)なり共(とも)、山(やま)の大事(だいじ)にて有(あ)るぞとて、大衆(だいしゆ)三百人院(ゐん)の御所へ参(まゐ)りて申(まう)しければ、「それ程(ほど)の僻事(ひがこと)の者(もの)をば急(いそ)ぎ追(お)ひ失(うしな)へ」と院宣(ゐんぜん)有(あ)りければ、大衆(だいしゆ)悦(よろこ)び、山上へ帰所(きしよ)に公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、古(ふる)き日記見(み)給(たま)へば、「六十一年に山上にかかる不思議(ふしぎ)の者(もの)出(い)で来(き)ければ、朝家の祇祷(きたう)になる事(こと)有(あ)り。院宣(ゐんぜん)にて是(これ)を鎮(しづ)めつれば、一日が中(うち)に天下無双(ぶさう)の願所五十四ケ所ぞと言(い)ふ事(こと)有(あ)り。今年(ことし)六十一年に相(あひ)当(あ)たる。只(ただ)棄(す)て置(お)け」とぞ仰(おほ)せける。衆徒(しゆと)憤(いきどほ)り申(まう)しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒(しゆと)と思召(おぼしめ)しかへられ候(さうら)ふこそ遺恨(いこん)なれ。さらば山王(さんわう)の御輿(こし)を振(ふ)り奉(たてまつ)らん」と申(まう)しければ、神には御料(れう)を参(まゐ)らせ給(たま)ひければ、衆徒(しゆと)此(こ)の上はとて鎮(しづ)まりけり。此(こ)の事(こと)鬼若に聞(き)かすなとて隠(かく)し置(お)きたりしを、如何(いか)なる痴(をこ)の者(もの)か知(し)らせけん、「是(これ)は遺恨(いこん)なり」とて、いとど散々(さんざん)に振舞(ふるま)ひける。僧正もて扱(あつか)ひ
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て、「有(あ)らば有(あ)ると見よ。無(な)くは無(な)しと見よ」とて、目(め)も見(み)せ給(たま)はざりけり。
弁慶(べんけい)山門を出(い)づる事 S0303
鬼若(おにわか)僧正(そうじやう)の憎(にく)み給(たま)へる由(よし)を聞(き)きて、頼(たの)みたる師(し)の御坊(ごばう)にも斯様(かやう)に思(おも)はれんに、山(やま)に有(あ)りても詮(せん)なし。目にも見(み)えざらん方(かた)へ行(ゆ)かんと思(おも)ひ立(た)つて出(い)でけるが、斯(か)くては何処(いづく)にても山門の鬼若とぞ言(い)はれんずらん。学問(がくもん)に不足(ふそく)なし。法師(ほふし)になりてこそ行(ゆ)かめと思(おも)ひて、髪(かみ)剃(そ)り、衣を取(と)り添(そ)へて、美作(みまさか)の治部卿(ぢぶきやう)と言(い)ふ者(もの)の湯殿(ゆどの)に走(はし)り入(い)りて、盥(たらひ)の水にて手づから髪(かみ)を洗(あら)ひ、所々(ところどころ)を自剃(じぞり)にしたりける。彼(か)の水に影(かげ)を写(うつ)して見(み)れば、頭(かしら)は円(まる)くぞ見(み)えける。斯(か)くては叶(かな)はじとて、戒名(かいみやう)をば何(なに)とか言(い)はましと思(おも)ひけるが、昔(むかし)此(こ)の山(やま)に悪(あく)を好(この)む者(もの)有(あ)り。西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)とぞ申(まう)しける。廿一にて悪(あく)をし初(そ)めて、六十一にて死にけるが、旦座(たんざ)合掌(がつしやう)して往生(わうじやう)を遂(と)げたると聞(き)く。我(われ)等(ら)も名を継(つ)いで呼(よ)ばれたらば、剛(かう)になる事(こと)も有(あ)らめ。西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)と言(い)ふべし。実名(じつみやう)は父の別当(べつたう)は弁(べん)せうと名乗(なの)り、其(そ)の師匠(ししやう)はくわん慶(けい)なれば、弁(べん)せうの弁(べん)とくわん慶(けい)の慶(けい)とを取(と)つて、弁慶(べんけい)とぞ
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名乗(なの)りける。昨日(きのふ)までは鬼若、今日(けふ)は何時(いつ)しか武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)とぞ申(まう)しける。山上を出(い)でて、小原の別所と申(まう)す所(ところ)に山法師(やまぼふし)の住(す)み荒(あ)らしたる坊(ばう)に誰(たれ)留(と)むると無(な)けれども、暫(しばら)くは尊(たつ)とげにてぞ居(ゐ)たりける。されども児(ちご)なりし時(とき)だにも眉目(みめ)悪(わろ)く、心(こころ)異相(いさう)なれば、人もてなさず、まして訪(と)ひ来(く)る人も無(な)ければ、是(これ)をも幾程(いくほど)無(な)くあくがれ出(い)でて、諸国修行(しゆぎやう)にとて又(また)出(い)でて、津(つ)の国(くに)河尻(かはしり)に下(くだ)り、難波潟(なにはかた)を眺(なが)めて、兵庫(ひやうご)の嶋など言(い)ふ所を通(とほ)りて、明石(あかし)の浦(うら)より船(ふね)に乗(の)つて、阿波(あは)の国に著(つ)きて、焼山(やけやま)、つるが峰(みね)を拝(おが)みて、讚岐(さぬき)の志度(しど)の道場、伊予(いよ)の菅生(すがう)に出(い)でて、土佐の幡多(はた)まで拝(おが)みけり。かくて正月(むつき)も末(すゑ)になりければ、又(また)阿波(あはの)国(くに)へ帰(かへ)りける。
書写山(しよしやざん)炎上(えんじやう)の事(こと) S0304
弁慶(べんけい)阿波国(あはのくに)より播磨(はりまの)国(くに)に渡(わた)り、書写山(しよしやざん)に参(まゐ)り、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の御影(みえい)を拝(おが)み奉(たてまつ)り、既(すで)に下向(げかう)せんとしたるが、同(おな)じくは一夏(いちげ)篭(こも)らばやと思(おも)ひける。此(こ)の夏(け)と申(まう)すは諸国の修行者(しゆぎやうじや)充満(じゆうまん)して、余念(よねん)も無(な)く勤(つと)めける。大衆(だいしゆ)は学頭(がくたう)の坊(ばう)に集会(しゆゑ)し、修行者(しゆぎやうじや)経所(きやうどころ)に著く。夏僧は虚空蔵(こくうざう)の御堂にて、人に付(つ)いて夏中の様(やう)を聞(き)きて、
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学頭(がくたう)の坊(ばう)に入(い)りけるに、弁慶(べんけい)は推参(すいさん)して、長押(なげし)の上(うへ)に憎気(にくげ)なる風情(ふぜい)して、学頭(がくたう)の座敷(ざしき)を暫(しばら)く睨(にら)みて居(ゐ)たりけり。学頭(がくたう)共(ども)是(これ)を見(み)て、「一昨日(をととひ)昨日(きのふ)の座敷(ざしき)にも有(あ)り共(とも)覚(おぼ)えぬ法師(ほふし)の推参(すいさん)せられ候(さうら)ふは、何処(いづく)よりの修行者(しゆぎやうじや)ぞ」と問(と)ひければ、「比叡(ひえ)の山(やま)の者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「比叡(ひえ)の山(やま)はどれより」「桜本(さくらもと)より」と申(まう)す。「僧正の御弟子か」と申(まう)せば、「さん候(ざうらふ)」「御俗姓(ぞくしやう)は」と問(と)はれて、事(ことごと)しげなる声(こゑ)して、「天児屋根(あまつこやね)の苗裔(べうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の末(すゑ)、熊野の別当(べつたう)の子にて候(さうら)ふ」と申(まう)しけるが、一夏の間(あひだ)は如何(いか)にも心(こころ)に入(い)れて勤(つと)め、退転(たいてん)無(な)く行(おこな)ひて居(ゐ)たりける。衆徒(しゆと)も「初(はじ)めの景気(けいき)今(いま)の風情(ふぜい)相違(さうゐ)して見(み)えたり。されば人には馴(な)れて見(み)えたり。隠便(おんびん)の者(もの)にて有(あ)りけるや」とぞ褒(ほ)めける。弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、斯(か)くて一夏も過(す)ぎ、秋の初(はじ)めにもなりなば、又(また)国々に修行(しゆぎやう)せんとぞ思(おも)ひける。されども名残(なごり)を惜(を)しみて出(い)でもやらで居(ゐ)たり。さてしも有(あ)るべき事(こと)ならねば、七月下旬(げじゆん)に学頭(がくたう)に暇(いとま)乞(こ)はんとて行(ゆ)きたりければ、児(ちご)大衆(だいしゆ)酒盛(さかもり)してぞ有(あ)りける。弁慶(べんけい)参(さん)じては詮(せん)無(な)しと思(おも)ひて出(い)でけるが、新(あたら)しき障子(しやうじ)一間(けん)立(たて)たる所有(あ)り。此処(ここ)に昼寝(ひるね)せばやと思(おも)ひて、暫(しばら)く臥(ふ)しけるに、其(そ)の頃(ころ)書写(しよしや)に相手(あひて)嫌(きら)はぬ諍(いさかひ)好(この)む者有(あ)り。信濃坊(しなのばう)戒円(かいゑん)とぞ申(まう)しける。弁慶(べんけい)が寝(ね)たるを見(み)て、多(おほ)くの修行者(しゆぎやうじや)見(み)つれども、彼奴(きやつ)程(ほど)の広言(くわうげん)して憎気(にくげ)なる者(もの)こそ無(な)けれ。彼奴(きやつ)に恥(はぢ)をかか
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せて、寺中(じちゆう)を追(お)ひ出(い)ださんと思(おも)ひて、硯(すずり)の墨(すみ)摺(す)り流(なが)し、武蔵坊(むさしばう)が面(つら)に二行(ふたくだり)物(もの)を書(か)いたりけり。片面(かたつら)には「足駄(あしだ)」と書(か)き、片面(かたつら)には「書写(しよしや)法師(ほふし)の足駄(あしだ)に履(は)く」と書(か)きて、
弁慶(べんけい)は平足駄(ひらあしだ)とぞなりにけり面(つら)を踏(ふ)めども起(お)きも上(あ)がらず W001
と書(か)き付(つ)けて、小法師(こぼふし)原(ばら)を二三十人集(あつ)めて、板壁(いたかべ)を敲(たた)いて同音(どうおん)に笑(わら)はせける。武蔵坊(むさしばう)悪(あ)しき所に推参(すいさん)したりけるやと思(おも)ひて、衣の袂(たもと)引(ひ)き繕(つくろ)ひて衆徒(しゆと)の中(なか)へぞ出(い)でにける。衆徒(しゆと)是(これ)を見(み)て、目引(ひ)き鼻(はな)引(ひ)き笑(わら)ひけり。人は感(かん)に堪(た)へで笑(わら)へども、我(われ)は知(し)らねばをかしからず。人の笑(わら)ふに笑(わら)はずは、弁慶(べんけい)遍執(へんしゆ)に似(に)ると思(おも)ひ、共(とも)に笑(わら)ひの顔(かほ)してぞ笑(わら)ひける。されども座敷(ざしき)の体(てい)隠(かく)しげに見(み)えければ、弁慶(べんけい)我(わ)が身の上(うへ)と思(おも)ひて、拳(こぶし)を握(にぎ)り、膝(ひざ)を抑(おさ)へて、「何(なに)の可笑(をか)しきぞ」と叱(しか)りける。学頭(がくたう)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「あはや此(こ)の者座(ざ)こそ損(そん)じて見(み)え候(さうら)へ。如何様(いかさま)寺(てら)の大事(だいじ)となりなんず」と宣(のたま)ひて、「詮(せん)無(な)き事(こと)に候(さうら)ふ。御身(おんみ)の事(こと)にては候(さうら)はぬ。外処(よそ)の事(こと)を笑(わら)ひて候(さうら)ふ。何(なに)の詮(せん)かおはすべき」と宣(のたま)へば、座敷(ざしき)を立つて、但島(たじま)の阿闍梨(あじやり)と言(い)ふ者(もの)の坊、其(そ)の間(あひだ)一町ばかり有(あ)り、是(これ)も修行者(しゆぎやうじや)の寄合所(よりあひどころ)にて有(あ)りければ、何処(かしこ)へ行(ゆ)き会(あ)ふ人々(ひとびと)も弁慶(べんけい)を笑(わら)はぬ人はなし。怪(あや)しと思(おも)ひて、水に影(かげ)を写(うつ)して見(み)れば、面(つら)に物(もの)をぞ書(か)かれたる。さればこそ、是(これ)程(ほど)の恥(はぢ)に当(あ)たつて、
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一時なりとも有(あ)りて詮(せん)なし。何方(いづかた)へも行(ゆ)かんと思(おも)ひけるが、又(また)打(う)ち返(かへ)し思(おも)ひけるは、我(われ)一人が故(ゆゑ)に山(やま)の名をくたさん事(こと)こそ心(こころ)憂(う)けれ。諸人を散々(さんざん)に悪口(あつかう)して咎(とが)むる者(もの)をならはして、恥(はぢ)をすすぎて出(い)でばやと思(おも)ひて、人々(ひとびと)の坊(ばう)中へめぐり、散々(さんざん)に悪口(あつかう)す。学頭(がくたう)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、「何ともあれ。書写(しよしや)法師(ほふし)面(つら)を張(は)り伏(ふ)せられぬと覚(おぼ)ゆる。此(こ)の事(こと)僉議(せんぎ)して、此(こ)の中に僻事(ひがこと)の者(もの)有(あ)らば、それを取(と)つて修行者(しゆぎやうじや)に取(と)らせて、大事(だいじ)を止(や)めん」とて衆徒(しゆと)催(もよほ)して、講堂(かうだう)にして学頭(がくたう)僉議(せんぎ)す。されども弁慶(べんけい)は無(な)かりけり。学頭(がくたう)使者(ししや)を立(た)てけれども、老僧(らうそう)の使(つかひ)の有(あ)るにも出(い)でざりけり。重(かさ)ねて使(つか)ひ有(あ)るに、東坂(ひがしざか)の上に差(さ)し覗(のぞ)きて、後(うし)ろの方(かた)を見(み)たりければ、廿二三ばかりなる法師(ほふし)の、衣(ころも)の下に伏縄目(ふしなはめ)の鎧(よろひ)腹巻(はらまき)著(き)てぞ出(い)で来(き)たる。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、こは如何(いか)に、今日(けふ)は隠便(おんびん)の僉議(せんぎ)とこそ聞(き)きつるに、
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彼奴(きやつ)が風情(ふぜい)こそ怪(け)しからね、内々(ないない)聞(き)くに、衆徒(しゆと)僻事(ひがこと)をしたらば拷(かう)を乞(こ)へ、修行者(しゆぎやうじや)僻事(ひがこと)有(あ)らば小法師(こぼふし)原(ばら)に放(はな)ち合(あ)はせよと言(い)ふなるに、かくて出(い)で、大勢の中に取(と)り篭(こ)められ叶(かな)ふまじ。我(われ)もさらば行(ゆ)きて出(い)で立(た)たばやと思(おも)ひて、学頭(がくたう)の坊に走(はし)り入(い)りて「こは如何(いかが)」と人の問(と)ふ返事(へんじ)をもせず、人も許(ゆる)さざりけるに、何時(いつ)案内は知(し)らねども、納(おさめ)殿(どの)につと走(はし)り入(い)りて、唐櫃(からひつ)一合(いちがふ)取(と)つて出(い)で、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)著(き)て、九十日剃(そ)らぬ頭(かしら)に、揉烏帽子(もみえぼし)に鉢巻(はちまき)し、石■(いちゐ)の木を以(もつ)て削(けづ)りたる棒(ばう)の、八角(かく)に角(かど)を立(た)てて、本(もと)を一尺(いつしやく)ばかり丸(まろ)くしたるを引杖(ひきづゑ)にして、高足駄(あしだ)を履(は)いて、御堂の前にぞ出(い)で来(く)る。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、「此処(ここ)に出(い)で来(く)る者(もの)は何者(なにもの)ぞ」と言(い)ひければ、「是(これ)こそ聞(き)こゆる修行者(しゆぎやうじや)よ」「あら怪(け)しからぬ有様(ありさま)かな。此(こ)の方へ呼(よ)びてよかるべきか、捨(す)てて置(お)きてよかるべきか」「捨(す)て置(お)いても、呼(よ)びてもよかるまじ」「さらば目(め)な見(み)せそ」と申(まう)しける。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、如何(いか)にとも言(い)はんかと思(おも)ひつるに、衆徒(しゆと)の伏目(ふしめ)になりたるこそ心得(こころえ)ね。善悪(ぜんあく)を外処(よそ)にて聞(き)けば大事(だいじ)なり。近(ちか)づきて聞(き)かばやと思(おも)ひ、走(はし)り寄(よ)つて見(み)ければ、講堂(かうだう)には老僧(らうそう)児(ちご)共(ども)打(う)ち交(まじ)りて三百人ばかり居(ゐ)流(なが)れたり。縁(えん)の上(うへ)には中居(なかゐ)の者(もの)共(ども)、小法師(こぼふし)原(ばら)一人も残(のこ)らず催(もよほ)したり。残(のこ)る所(ところ)無(な)く寺中(じちゆう)上(うへ)を下(した)に返(かへ)して出(い)で来(く)る事(こと)なれば、千人ばかりぞ有(あ)りける。其(そ)の中(なか)に悪(あ)しく候(さうら)ふとも言(い)はず、
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足駄(あしだ)踏(ふ)みならし、肩(かた)をも膝(ひざ)をも踏(ふ)み付(つ)けて通(とほ)りけり。あともそとも言(い)はば、一定(いちぢやう)事(こと)も出(い)で来なんと思(おも)ふ。皆(みな)肩(かた)を踏(ふ)まれて通(とほ)しけり。階(きだはし)の許(もと)に行(ゆ)きて見れば、履物(はきもの)共(ども)ひしと脱(ぬ)ぎたり。我(われ)も脱(ぬ)ぎ置(お)かばやと思(おも)ひけるが、脱(ぬ)げば災(わざはひ)を除(のぞ)くに似(に)ると思(おも)ひ、履(は)きながらがらめかしてぞ上(のぼ)りけり。衆徒(しゆと)咎(とが)めんとすれば事(こと)乱(みだ)れぬべし。詮(せん)ずる所(ところ)、取(と)り合(あ)ひて詮(せん)なしとて、皆(みな)小門(こもん)の方(かた)へぞ隠(かく)れける。弁慶(べんけい)は長押(なげし)の際(きは)を足駄(あしだ)履(は)きながら彼方(かなた)此方(こなた)へぞ歩(あり)きける。学頭(がくたう)「見(み)苦(ぐる)しきものかな、さすが此(こ)の山(やま)と申(まう)すは、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の建立(こんりゆう)せられし寺なり。然(しか)るべき人おはする上(うへ)、幼(をさな)き人の腰(こし)もとを足駄(あしだ)履(は)いて通(とほ)る様(やう)こそ奇怪(きくわい)なれ」と咎(とが)められて弁慶(べんけい)つい退(しざ)つて申(まう)しけるは、「学頭(がくたう)の仰(おほ)せは勿論(もちろん)に候(さうら)ふ。然様(さやう)に縁(えん)の上(うへ)に足駄(あしだ)履(は)いて候(さうら)ふだにも狼藉(らうぜき)なりと咎(とが)め給(たま)ふ程(ほど)の衆徒(しゆと)の、何(なに)の緩怠(くわんたい)に修行者(しゆぎやうじや)の面(つら)をば足駄(あしだ)にしては履(は)かれけるぞ」と申(まう)しければ、道理(だうり)なれば衆徒(しゆと)音(おと)もせず。中々(なかなか)放(はな)ち合(あ)はせて置(お)きたらば、学頭(がくたう)の計(はか)らひに如何様(いかやう)にも賺(すか)して出(い)づべかりしを、禍(わざはひ)起(お)こりたりける。信濃(しなの)是(これ)を聞(き)きて、「興(きよう)なる修行(しゆぎやう)法師(ほふし)奴(め)が面(つら)や」と居丈高(ゐだけだか)になりて申(まう)しける。「余(あま)りに此(こ)の山(やま)の衆徒(しゆと)は驍傲(ぎやうがう)が過(す)ぎて、修行者奴(しゆうぎやうじやめ)等(ら)に目を見(み)せて、既(すで)に後悔(こうくわい)し給(たま)ふらんものを、いで習(なら)はさん」とて、つと立つ。あは、事(こと)出(い)で来(き)たりとて犇(ひし)めく。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、「面白(おもしろ)し、彼奴(きやつ)こそ
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相手(あひて)嫌(きら)はずのえせ者(もの)よ。己(おの)れが腕(かひな)の抜(ぬ)くるか、弁慶(べんけい)が脳(なづき)の砕(くだ)くるか。思(おも)へば弁慶(べんけい)が面(つら)に物を書(か)きたる奴(やつ)か、憎(にく)い奴(やつ)かな」とて、棒(ばう)を取(と)り直(なほ)し、待(ま)ち懸(か)けたり。戒円(かいゑん)が寺(てら)の法師(ほふし)原(ばら)五六人、座敷(ざしき)に有(あ)りけるが、是(これ)を見(み)て、「見(み)苦(ぐる)しく候(さうら)ふ。あれ程(ほど)の法師(ほふし)、縁(えん)より下(した)に掴(つか)み落(おと)して、首(くび)の骨(ほね)踏(ふ)み折(を)つて捨(す)てん」とて、衣の袖取(と)りて結(むす)び、肩(かた)にかけ、喚(おめ)き叫(さけ)んで懸(か)かるを見(み)て、弁慶(べんけい)えいやと立(た)ち上(あ)がり、棒(ばう)を取(と)つて直(なほ)し、薙打(なぎうち)に一度(いちど)に縁(えん)より下へ払(はら)ひ落(おと)しける。戒円(かいゑん)是(これ)を見(み)て走(はし)り立(た)ちて、あたりを見(み)れども打(う)つべき杖(つゑ)なし。末座(ばつざ)を見れば、檪(くのぎ)を打(う)ち切(き)り打(う)ち切(き)りくべたる燃(も)えさしを追(お)つ取(と)り、炭櫃(すびつ)押(お)しにじりて、「一定(いちぢやう)か和法師(わほふし)」とて走(はし)り懸(か)かる。弁慶(べんけい)しきりに腹(はら)を立(た)て、以(もつ)て開(ひら)いてちやうど打(う)つ。戒円(かいゑん)走(はし)り違(ちが)ひてむずと打(う)つ。弁慶(べんけい)、がしと合(あ)はせて、潛(くぐ)り入(い)りて、弓手(ゆんで)の腕(かひな)を差(さ)しのべ、かうを掴(つか)んでむずと引(ひ)き寄(よ)せ、右手(めて)の腕(かひな)を以(もつ)て戒円(かいゑん)が股(もも)を掴(つか)みそへて、目より高く引(ひ)つさげて、講堂(かうだう)の大庭(おほには)の方(かた)へ提(さ)げもて行(ゆ)く。衆徒(しゆと)是(これ)を見(み)て、「修行者(しゆぎやうじや)御免(ごめん)候(さうら)へ。それは地体(ぢたい)酒狂(さかぐる)ひするものにて候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)見(み)苦(ぐる)しく見(み)えさせ給(たま)ふものかな。日頃(ひごろ)の約束(やくそく)には修行者(しゆぎやうじや)の酒狂(さかぐる)ひは大衆(だいしゆ)鎮(しづ)め、衆徒(しゆと)の酒狂(さかぐる)ひをば修行者(しゆぎやうじや)鎮(しづ)めよとの御約束(ごやくそく)と承(うけたまは)りしかば、命(いのち)をば殺(ころ)すまじ」と言(い)うて、一振(ふり)振(ふ)つて「えいや」と言(い)ひて、講堂(かうだう)の軒(のき)の高(たか)さ一丈(いちぢやう)一尺(いつしやく)有(あ)り
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ける上に、投(な)げ上(あ)げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転(ころ)び落(お)ち、雨落(あまお)ちの石たたきにどうど落(お)つ。取(と)つて押(おさ)ヘて、骨(ほね)は砕(くだ)けよ、脛(すね)は拉(ひし)げよと踏(ふ)んだり。弓手(ゆんで)の小腕(こかひな)踏(ふ)み折(を)り、馬手(めて)の肋骨(あばらぼね)二枚損(そん)ず。中々(なかなか)言(い)ふに甲斐(かひ)なしとて、言(い)ふばかりもなし。戒円(かいゑん)が持(も)ちたる燃(も)えさしを、さらば捨(す)てもせで、持(も)ちながら投(な)げ上(あ)げられて、講堂(かうだう)の軒(のき)に打(う)ち挟(はさ)む。折節(をりふし)風は谷より吹(ふ)き上(あ)げたり。講堂(かうだう)の軒(のき)に吹(ふ)き付(つ)けて、焼(や)け上(あ)がりたり。九間の講堂(かうだう)七間の廊下(らうか)多宝(たほう)の塔(たふ)、文殊堂(もんじゆだう)、五重の塔(たふ)に吹(ふ)き付(つ)けて、一宇(いちう)も残(のこ)さず、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の御影堂(みえいだう)、是(これ)を始(はじ)めて、堂塔(だうたふ)社々(やしろやしろ)の数(かず)、五十四ケ所ぞ焼(や)けたりける。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、現在(げんざい)仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)となるべし、咎(とが)をだに犯(おか)しつる上(うへ)は、まして大衆(だいしゆ)の坊々(ばうばう)は助(たす)け置(お)きて、何にかせんと思(おも)ひて、西坂本(にしざかもと)に走(はし)り下(くだ)り、松明(たいまつ)に火を付(つ)けて、軒(のき)を並(なら)べたる
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坊々(ばうばう)に一々に火をぞ付(つ)けたりける。谷(たに)より峰(みね)へぞ焼(や)けて行く。山(やま)を切(き)りて懸造(かけつくり)にしたる坊(ばう)なれば、何(なに)かは一(ひと)つも残(のこ)らず、残(のこ)るものとては礎(いしずへ)のみ残(のこ)りつつ、廿一日の巳(み)の時(とき)ばかりに武蔵坊(むさしばう)は書写(しよしや)を出(い)でて、京(きやう)へぞ行(い)きける。其(そ)の日一日歩(あゆ)み、其(そ)の夜も歩(あゆ)みて、二十二日の朝に京へぞ着(つ)きにける。其(そ)の日は都大雨大風吹(ふ)きて、人の行来も無(な)かりけるに、弁慶(べんけい)装束(しやうぞく)をぞしたりける、長直垂(ながひたたれ)に袴(はかま)をば赤(あか)きをぞ著(き)たりける。如何(いか)にしてか上(のぼ)りけん、さ夜(よ)更(ふ)け、人静(しづ)まりて後(のち)、院(ゐん)の御所の築地(ついぢ)に上(のぼ)り、手(て)を拡(ひろ)げて火をともし、大(だい)の声(こゑ)にてわつと喚(おめ)きて、東(ひがし)の方(かた)へぞ走(はし)りける。又(また)取(と)つて返(かへ)し、門(もん)の上につい立(た)ちて、恐(おそ)ろしげなる声(こゑ)にて、「あらあさまし。如何(いか)なる不思議(ふしぎ)にてか候(さうら)ふやらん、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の手づから自(みづか)ら建(た)て給(たま)ひし書写(しよしや)の山、昨日(きのふ)の朝(あした)、大衆(だいしゆ)と修行者(しゆぎやうじや)との口論(こうろん)によつて、堂塔(だうたふ)五十四ヶ所(しよ)、三百坊(ばう)一時に煙(けぶり)となりぬ」と呼(よ)ばはつて、掻(か)き消(け)す様(やう)に失(う)せにけり。院(ゐん)の御所(ごしよ)には是(これ)を聞召(きこしめ)し、何故(なにゆゑ)、書写(しよしや)は焼(や)けたると、早馬(はやむま)を立てて御尋(おんたづ)ね有(あ)り。「誠(まこと)に焼(や)けたらば学頭(がくとう)を始(はじ)めとして衆徒(しゆと)を追(お)ひ出(い)だせ」との院宣(ゐんぜん)なり。寺中(じちゆう)の下部(しもべ)向(むか)ひて見(み)れば、一宇(いちう)も残(のこ)らず焼(や)けければ、全(まつた)く時(とき)を移(うつ)さず、参(まゐ)りて陳(ちん)じ申(まう)さんとて、馳(は)せ上(のぼ)り、院(ゐん)の御所(ごしよ)に参(さん)じて陳(ちん)じ申(まう)しければ、「さらば罪科(ざいくわ)の者(もの)を申(まう)せ」と仰(おほ)せ下(くだ)さる。「修行者(しゆぎやうじや)には武蔵坊(むさしばう)、衆徒(しゆと)には戒円(かいゑん)」と申(まう)す。
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公卿(くぎやう)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「さては山門なりし鬼若(おにわか)が事(こと)ごさんなれば、是(これ)が悪事(あくじ)は山上の大事(だいじ)にならぬ先(さき)に、鎮(しづ)めたらんこそ君(きみ)ならめ。戒円(かいゑん)が悪事(あくじ)是非(ぜひ)なし。詮(せん)ずる所(ところ)戒円(かいゑん)を召(め)せ。戒円(かいゑん)こそ仏法(ぶつぽふ)王法(わうぼふ)の怨敵(をんでき)なれ。しやつを取(と)りて、糾問(きうもん)せよ」とて、摂津国(つのくに)の住人(ぢゆうにん)昆陽野(こやのの)太郎承(うけたまは)つて、百騎(ひやつき)の勢(せい)にて馳(は)せ向(むか)ひ、戒円(かいゑん)を召(め)して、院(ゐん)の御所(ごしよ)に参(まゐ)る。御前に召(め)されて、「汝(なんじ)一人が計(はか)らひか、与(くみ)したる者(もの)の有(あ)りけるか」と尋(たづ)ねらる。糾問(きうもん)厳(きび)しかりければ、とても生(い)きて帰(かへ)らん事(こと)不定(ふぢやう)なれば、日頃(ひごろ)憎(にく)かりしものを入(い)ればやと思(おも)ひて、与(くみ)したる衆徒(しゆと)とては十一人までぞ白状(はくじやう)に入(い)れたりける。又(また)昆陽野(こんやのの)太郎馳(は)せ向(むか)ふ所(ところ)に、かねて聞(き)こえければ、先(き)立(だ)て十一人参(まゐ)り向(むか)ふ。されども白状(はくじやう)に載(の)せたりとて召(め)し置(お)かる。陳(ちん)ずるに及(およ)ばず、戒円(かいゑん)は遂(つひ)に責(せ)め殺(ころ)さる。死(し)しける時(とき)も「我(われ)一人(ひとり)の咎(とが)ならぬに、残りを失(うしな)はれずは、死(し)するとも悪霊(あくりやう)とならん」とぞ言(い)ひける。かく言(い)はざるだにも有(あ)るべし。さらば斬(き)れとて、十一人も皆(みな)斬(き)られにけり。武蔵坊(むさしばう)都(みやこ)に有(あ)りけるが、是(これ)を聞(き)きて、「かかる心地(ここち)良(よ)き事(こと)こそ無(な)けれ。居(ゐ)ながら敵(かたき)思(おも)ふ様(やう)にあたりたる事(こと)こそ無(な)けれ。弁慶(べんけい)が悪事(あくじ)は朝(てう)の御祈(いの)りになりけり」とて、いとど悪事(あくじ)をぞしたりける。
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弁慶(べんけい)洛中(らくちゆう)にて人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る事 S0305
弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、人の重宝(ちようほう)は千揃(そろ)へて持(も)つぞ。奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)は名馬千疋(せんびき)、鎧(よろひ)千領(せんりやう)、松浦(まつら)の太夫は胡■(やなぐい)千腰(せんこし)、弓(ゆみ)千張(せんちやう)、斯様(かやう)に重宝(ちようほう)を揃(そろ)へて持(も)つに、我々(われわれ)は代(か)はりの無(な)ければ、買(か)ひて持(も)つべき様(やう)なし。詮(せん)ずる所(ところ)、夜に入(い)りて、京(きやう)中(ぢゆう)に佇(たたず)みて、人の帯(は)きたる太刀(たち)千振(せんふり)取(と)りて、我(わ)が重宝(ちようほう)にせばやと思(おも)ひ、夜(よ)な夜(よ)な人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る。暫(しば)しこそ有(あ)りけれ、「当時(とうじ)洛中(らくちゆう)に丈(たけ)一丈(いちぢやう)ばかり有(あ)る天狗(てんぐ)法師(ほふし)の歩(あり)きて、人の太刀(たち)を取(と)る」とぞ申(まう)しける。かくて今年(ことし)も暮(く)れければ、次(つぎ)の年の五月(さつき)の末(すゑ)、六月(みなつき)の初(はじ)めまでに多(おほ)くの太刀(たち)を取(と)りたり。樋口(ひぐち)烏丸(からすま)の御堂(みだう)の天井(てんじやう)に置(お)く。数(かぞ)へ見(み)たりければ、九百九十九こそ取(と)りたりける。六月十七日五条(ごでう)の天神(てんじん)に参(まゐ)りて、夜(よ)と共(とも)に祈念(きねん)申(まう)しけるは、「今夜の御利生(ごりしやう)によからん太刀(たち)与(あた)へて賜(た)び給(たま)へ」と祈誓(きせい)し、夜更(ふ)くれば、天神(てんじん)の御前に出(い)で、南(みなみ)へ向(むか)ひて行(ゆ)きければ、人の家(いへ)の築地(ついぢ)の際(きは)に佇(たたず)みて、天神(てんじん)へ参(まゐ)る人の中(なか)に良(よ)き太刀(たち)持(も)ちたる人をぞ待(ま)ち懸(か)けたり。暁方(あかつきがた)になりて、堀河(ほりかは)を下(くだ)りに行(ゆ)きければ、面白(おもしろ)く笛(ふえ)の音こそ聞(き)こえけれ。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、面白(おもしろ)や、さ夜(よ)更(ふ)けて、天神(てんじん)へ参(まゐ)る人の吹(ふ)く笛(ふえ)か、法師(ほふし)やらん男(をとこ)やらん、よからん太刀(たち)を持(も)ち
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たらば、取(と)らんと思(おも)ひて、笛(ふえ)の音(ね)の近(ちか)づきければ、差(さ)し屈(くぐ)みて見れば、未(いま)だ若人のしろき直垂(ひたたれ)に胸板(むないた)を白(しろ)くしたる腹巻(はらまき)に、黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)の心(こころ)も及(およ)ばぬを帯(は)かれたり。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、あはれ太刀(たち)や、何(なに)ともあれ、取(と)らんずるものをと思(おも)ひて待(ま)つ所(ところ)に、後(のち)に聞(き)けば恐(おそ)ろしき人にてぞ有(あ)りける。弁慶(べんけい)は如何(いか)でか知(し)るべき。御曹司(おんざうし)は見(み)給(たま)ひて、四辺(あたり)に目(め)をも放(はな)たれず、むくの木の下を見(み)給(たま)ひければ、怪(け)しからぬ法師(ほふし)の太刀(たち)脇挟(わきばさ)みて立(た)ちたるを見(み)給(たま)へば、彼奴(きやつ)は只者(ただもの)ならず、此(こ)の頃(ごろ)都(みやこ)に人の太刀(たち)奪(うば)ひ取(と)る者(もの)は彼奴(きやつ)にて有(あ)るよと思(おも)はれて、少(すこ)しもひるまずかかり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)さしも雄猛(けなげ)なる人(ひと)の太刀(たち)をだにも奪(うば)ひ取(と)る、まして是(これ)等(ら)程(ほど)なる優男(やさおとこ)、寄(よ)りて乞(こ)はば、姿(すがた)にも声(こゑ)にも怖(お)ぢて出(い)ださんずらん。げに呉(く)れずは、突(つき)倒(たふ)し奪(うば)ひ取(と)らんと支度(したく)して、弁慶(べんけい)現(あらは)れ出(い)で、申(まう)しける
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は、「只今(ただいま)静(しづ)まりて敵(てき)を待(ま)つ所(ところ)に怪(け)しからぬ人の物具(もののぐ)して通(とほ)り給(たま)ふこそ怪(あや)しく在(ぞん)じ候(さうら)へ。左右(さう)無(な)くえこそ通(とほ)すまじけれ。然(しか)らずは其(そ)の太刀(たち)此方(こなた)へ賜(たま)はりて通(とほ)られ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「此(こ)の程(ほど)さる痴(をこ)の者(もの)有(あ)りとは聞(き)き及(およ)びたり。左右(さう)無(な)くえこそ取(と)らすまじけれ。欲(ほ)しくは寄(よ)りて取(と)れ」とぞ仰(おほ)せられける。「さては見参に参(まゐ)らん」とて、太刀(たち)を抜(ぬ)いで飛(と)んでかかる。御曹司(おんざうし)も小太刀を抜(ぬ)いで築地(ついぢ)の許(もと)に走(はし)り寄(よ)り給(たま)ふ。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、「鬼神とも言(い)へ、当時(たうじ)我(われ)を相手(あひて)にすべき者(もの)こそ覚(おぼ)えね」とて以(もつ)て開(ひら)いてちやうど打(う)つ。御曹司(おんざうし)「彼奴(きやつ)は雄猛者(けなげもの)かな」とて、稲夫(いなづま)の如(ごと)く弓手(ゆんで)の脇(わき)へづと入(い)り給(たま)へば、打(う)ち開(ひら)く太刀(たち)にて築地(ついぢ)の腹(はら)に切先(きつさき)打(う)ち立(た)てて、抜(ぬ)かんとしける暇(ひま)に、御曹司(おんざうし)走(はし)り寄(よ)りて、弓手(ゆんで)の足(あし)を差(さ)し出(い)だして、弁慶(べんけい)が胸(むね)をしたたかに踏(ふ)み給(たま)へば、持(も)ちたる太刀(たち)をからりと棄(す)てたるを取(と)つて、えいやと言(い)ふ声(こゑ)の内に九尺(きうしやく)ばかり有(あ)りける築地(ついぢ)にゆらりと飛(と)び上(あ)がり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)胸(むね)はいたく踏(ふ)まれぬ。鬼神に太刀(たち)取(と)られたる心地(ここち)して、あきれてぞ立(た)ちたりける。御曹司(おんざうし)「是(これ)より後(のち)にかかる狼藉(らうぜき)すな。さる痴(をこ)の者(もの)有(あ)りかとかねて聞きつるぞ。太刀(たち)も取(と)りてゆかんと思(おも)へども、欲(ほ)しさに取(と)りたりと思(おも)はんずる程(ほど)に取(と)らするぞ」とて築地(ついぢ)の覆(おほ)ひに押(お)し当(あ)てて、踏(ふ)みゆがめてぞ投(な)げかけ給(たま)ふ。太刀(たち)取(と)つて押(お)し直(なほ)し、御曹司(おんざうし)の方(かた)をつらげに
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見(み)遣(や)りて、「念(ねん)無(な)く御辺(ごへん)はせられて候(さうら)ふ物(もの)かな。常(つね)に此(こ)の辺(へん)におはする人と見(み)るぞ。今宵(こよひ)こそ仕(し)損(そん)ずるとも是(これ)より後(のち)においては心(こころ)許(ゆる)すまじき物(もの)を」とつぶやきつぶやきぞ行(ゆ)きける。御曹司(おんざうし)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、何(なに)ともあれ、彼奴(きやつ)は山法師(やまぼふし)にてぞ有(あ)るらんと思召(おぼしめ)しければ、「山法師(やまぼふし)人の器量(きりやう)に似(に)ざりけり」と宣(のたま)へども、返事(へんじ)もせず。何(なに)ともあれ、築地(ついぢ)より下(お)り給(たま)はん所(ところ)を切(き)らんずるものをと思(おも)ひて待(ま)ちかけたり。築地(ついぢ)よりゆらりと飛(と)び下(お)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)太刀(たち)打(う)ち振(ふ)りてづと寄(よ)る。九尺(きうしやく)の築地(ついぢ)より下(お)り給(たま)ひしが、下に三尺(さんじやく)ばかり落(お)ちつかで、又(また)取(と)つて返(かへ)し上(うへ)にゆらりと飛(と)び返(かへ)り給(たま)ふ。大国(たいこく)の穆王(ぼくわう)は六韜(りくたう)を読(よ)み、八尺(はつしやく)の壁(かべ)を踏(ふ)んで天に上(あ)がりしをこそ上古(しやうこ)の不思議(ふしぎ)と思(おも)ひしに、末代(まつだい)と雖(いへど)も、九郎御曹司(おんざうし)は六韜(りくたう)を読(よ)みて、九尺(きうしやく)の築地(ついぢ)を一飛(と)びの中(うち)に宙(ちう)より飛(と)び返(かへ)り給(たま)ふ。弁慶(べんけい)は今宵(こよひ)は空(むな)しく帰(かへ)りけり。
弁慶(べんけい)義経(よしつね)に君臣の契約(けいやく)申(まう)す事 S0306
頃(ころ)は六月十八日の事(こと)なるに、清水(きよみづ)の観音(くわんおん)に上下参篭(さんろう)す。弁慶(べんけい)も何(なに)ともあれ、昨夕(ゆふべ)の男(をとこ)清水(きよみづ)にこそ有(あ)るらんに、参(まゐ)りて見(み)ばやと思(おも)ひて参(まゐ)りける。白地(あからさま)に清水(きよみづ)
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の惣門(そうもん)に佇(たたず)みて待(ま)てども見(み)え給(たま)はず。今宵(こよひ)もかくて帰(かへ)らんとする所(ところ)に何時(いつ)もの癖(くせ)なれば、夜更(ふ)けて清水坂(きよみづざか)の辺に例(れい)の笛(ふえ)こそ聞(き)こえけれ。弁慶(べんけい)「あら面白(おもしろ)の笛(ふえ)の音(ね)や、あれをこそ待(ま)ちつれ。此(こ)の観音(くわんおん)と申(まう)すは、坂上(さかのうへの)田村丸(たむらまろ)の建立(こんりう)し奉(たてまつ)りし御仏なり。我(われ)三十三身(じん)に身を変(へん)じて衆生(しゆじやう)の願(ねが)ひを満(み)てずは、祇園精舎(ぎをんしやうじや)の雲(くも)に交(まじは)り、永(なが)く正覚(しやうがく)を取(と)らじと誓(ちか)ひ、我(われ)地に入(い)らん者(もの)には福徳(ふくとく)を授(さづ)けんと誓(ちか)ひ給(たま)ふ御仏なり。されども弁慶(べんけい)は福徳(ふくとく)も欲(ほ)しからず、只(ただ)此(こ)の男の持(も)ちたる太刀(たち)を取(と)らせて賜(た)べ」と祈誓(きせい)して、門前(もんぜん)にて待(ま)ちかけたり。御曹司(おんざうし)ともすればいぶせく思召(おぼしめ)しければ、坂(さか)の上(うへ)を見(み)上(あ)げ給(たま)ふに、彼(か)の法師(ほふし)こそ昨日(きのふ)に引(ひ)き替(か)へて、腹巻(はらまき)著(き)て、太刀(たち)脇挟(わきばさ)み、長刀(なぎなた)杖(つゑ)に突(つ)き待(ま)ちかけたり。御曹司(おんざうし)見(み)給(たま)ひて、曲者(くせもの)かな、又(また)今宵(こよひ)も是(これ)に有(あ)りけるやと思(おも)ひ給(たま)ひて、少(すこ)しも退(しりぞ)かで門を指(さ)して上(のぼ)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)「只今(ただいま)参(まゐ)り給(たま)ふ人は、昨日(きのふ)の夜天神(てんじん)にて見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ御方(おんかた)にや」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)「さる事(こと)もや」と宣(のたま)へば、「さて持(も)ち給(たま)へる太刀(たち)をば賜(た)び候(さうら)ふまじきか」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)「幾度(いくたび)も只は取(と)らすまじ。欲(ほ)しくは寄(よ)りて取(と)れ」と宣(のたま)へば、「何時(いつ)も強言(こはごと)は変(か)はらざり」とて、長刀(なぎなた)打(う)ち振(ふ)り、真下(まくだ)りに喚(おめ)いて懸(か)かる、御曹司(おんざうし)太刀(たち)抜(ぬ)き合(あ)はせて懸(か)かり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)が大長刀(おほなぎなた)を打(う)ち流(なが)して、手並(てなみ)の程(ほど)は見(み)しかば、あやと肝(きも)を消(け)す。さもあれ、手(て)にもたまらぬ人かな
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と思(おも)ひけり。御曹司(おんざうし)「終夜(よもすがら)、斯(か)くて遊(あそ)びたくあれども、観音(くわんおん)に宿願(しゆくぐわん)有(あ)り」とて打(う)ち行(ゆ)き給(たま)ひぬ。弁慶(べんけい)独言(ひとりごと)に、「手(て)に取(と)りたるものを失(うしな)ひたる心地(ここち)する」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)、何(なに)ともあれ、彼奴(きやつ)は雄猛(けなげ)なる者(もの)なり。あはれ、暁(あかつき)まであれかし。持(も)ちたる太刀(たち)長刀(なぎなた)打(う)ち落(おと)して、薄手(うすで)負(おほ)せて生捕(いけどり)にして、独(ひと)り歩(あり)くは徒然(つれづれ)なるに、相伝(さうでん)にして召(め)し使(つか)はばやとぞ思召(おぼしめ)しける。弁慶(べんけい)此(こ)の企(たくみ)を知(し)らず、太刀(たち)に目を懸(か)けて、跡(あと)につきてぞ参(まゐ)りける。清水(きよみづ)の正面(しやうめん)に参(まゐ)りて、御堂(みだう)の中(うち)を拝(おが)み奉(たてまつ)れば、人の勤(つとめ)の声(こゑ)はとりどりなりと申(まう)せば、殊(こと)に正面(しやうめん)の内の格子(かうし)の際(きは)に、法華経(ほけきやう)の一の巻(まき)の始(はじ)めを尊(たつと)く読(よ)み給(たま)ふ声(こゑ)を聞(き)きて、弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、あら不思議(ふしぎ)やな、此(こ)の経(きやう)読(よ)みたる声(こゑ)は有(あ)りつる男(をとこ)の「憎(にく)い奴(やつ)」と言(い)ひつる声(こゑ)に、さも似(に)たるものかなと、寄(よ)りて見(み)んと思(おも)ひて持(も)ちたる長刀(なぎなた)をば正面(しやうめん)の長押(なげし)の上(うへ)に差(さ)し上(あ)げて、帯(は)きたる太刀(たち)ばかり持(も)ちて、大勢(おほぜい)の居(ゐ)たる中に、「御堂(みだう)の役人(やくにん)にて候(さうら)ふ。通(とほ)させ給(たま)へ」とて人の肩(かた)をも嫌(きら)はず、押(おさ)へて通(とほ)りけり。御曹司(おんざうし)御経(おきやう)遊(あそ)ばして居(ゐ)給(たま)へる後(うし)ろに踏(ふ)みはたかりて立(た)ち上(あ)がりけり。御燈火(みあかし)の影(かげ)より人是(これ)を見(み)て、「あらいかめしの法師(ほふし)や、丈(たけ)の高(たか)さよ」とぞ申(まう)しける。何(なに)として知(し)りて是(これ)まで来(き)たるらんと、御曹司(おんざうし)は見(み)給(たま)へども、弁慶(べんけい)は見(み)付(つ)けず。只今(ただいま)までは男(をとこ)にておはしつるが、女の装束(しやうぞく)にて衣(きぬ)打(う)ち被(かづ)き居(ゐ)給(たま)ひたり。武蔵坊(むさしばう)思(おも)ひわづらひてぞ有(あ)り
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ける。中々(なかなか)是非(ぜひ)無(な)く推参(すいさん)せばやと思(おも)ひ、太刀(たち)の尻鞘(しんざや)にて、脇(わき)の下(した)をしたたかに突(つ)き動(うご)かして、「児(ちご)か女房(にようばう)か、是(これ)も参(まゐ)りにて候(さうら)ふぞ。彼方(あなた)へ寄(よ)らせ給(たま)へ」と申(まう)しけれども返事(へんじ)もし給(たま)はず。弁慶(ベんけい)さればこそ、只者(ただもの)にては有(あ)らず。有(あ)りつる人ぞと思(おも)ひ、又(また)したたかにこそ突(つ)いたりけれ。其(そ)の時(とき)御曹司(おんざうし)仰(おほ)せられけるは、「不思議(ふしぎ)の奴(やつ)かな。己(おの)れが様(やう)なる乞食(こつじき)は木のした、萱(かや)の下(もと)にて申(まう)す共(とも)、仏の方便(はうべん)にてましませば、聞召(きこしめ)し入(い)れられんぞ。方々(かたがた)おはします所にて狼籍(らうぜき)なり。其処(そこ)退(の)き候(さうら)へ」と仰(おほ)せられけれども、弁慶(べんけい)「情(なさけ)無(な)くも宣(のたま)ふものかな。昨日(きのふ)の夜より見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ甲斐(かひ)も無(な)く、其方(そなた)へ参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)しもはたさず、二畳(にでう)の畳(たたみ)を乗(の)り越(こ)え、御傍(おんそば)へ参(まゐ)る。人推参(すいさん)尾篭(びろう)なりと憎(にく)みける。斯(か)かりける所(ところ)に、御曹子(おんざうし)の持(も)ち給(たま)へる御経(おきやう)を追(お)つ取(と)つて、ざつと開(ひら)いて、「あはれ御経(おきやう)や、御辺(ごへん)の経(きやう)か、人の経(きやう)か」と申(まう)しける。されども返事(へんじ)もし給(たま)はず、「御辺(ごへん)も読(よ)み給(たま)へ。我(われ)も読(よ)み候(さうら)はん」と言(い)ひて読(よ)みけり。弁慶(べんけい)は西塔(さいたふ)に聞(き)こえたる持経者(ぢきやうざ)なり。御曹司(おんざうし)は鞍馬(くらま)の児(ちご)にて習(なら)ひ給(たま)ひたれば、弁慶(べんけい)が甲(かう)の声(こゑ)、御曹司(おんざうし)の乙(おつ)の声(こゑ)、入(い)り違(ちが)へて二の巻(まき)半巻(はんぐわん)ばかりぞ読(よ)まれたる。参(まゐ)り人(うと)のえいやづきもはたはたと鎮(しづ)まり、行人の鈴(すず)の声(こゑ)も止(と)めて、是(これ)を聴聞(ちやうもん)しけり。万々世間(せけん)澄(す)み渡(わた)りて尊(たつと)く心(こころ)及(およ)ばず、暫(しばら)く有(あ)りて、「知(し)る人の有(あ)るに立(た)ち寄(よ)り
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て、又こそ見参(げんざん)せめ」とて立(た)ち給(たま)ふ。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「現在(げんざい)目の前(まへ)におはする時(とき)だにもたまらぬ人の、何時(いつ)をか待(ま)ち奉(たてまつ)るべき。御出(おいで)候(さうら)へ」とて、御手(て)を取(と)りて引(ひ)き立(た)て、南面(おもて)の扉(とびら)の下(もと)に行(ゆ)きて申(まう)しけるは、「持(も)ち給(たま)へる太刀(たち)の真実(しんじつ)欲(ほ)しく候(さうら)ふに、それ賜(た)び候(さうら)へ」と申(まう)しければ「是(これ)は重代(ぢゆうだい)の太刀(たち)にて叶(かな)ふまじ」「さ候(さうら)はば、いざさせ給(たま)へ。武芸(ぶげい)に付(つ)けて、勝負(しようぶ)次第(しだい)に賜(たま)はり候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「それならば参(まゐ)りあふべし」と宣(のたま)へば、弁慶(べんけい)やがて太刀(たち)を抜(ぬ)く。御曹司(おんざうし)も抜(ぬ)き合(あ)はせ、散々(さんざん)に打(う)ち合(あ)ふ。人是(これ)を見(み)て、「こは如何(いか)に。御坊(ごばう)の、是(これ)程(ほど)分内(ぶんない)もせばき所(ところ)にて、しかも幼(をさな)き人と戯(たはぶ)れは何事(なにごと)ぞ。其(そ)の太刀(たち)差(さ)し給(たま)へ」と雖(いへど)も、聞(き)きも入(い)れず、御曹司(おんざうし)上(うへ)なる衣(きぬ)を脱(ぬ)ぎて捨(す)て給(たま)へば、下(した)は直垂腹巻(ひたたれはらまき)をぞ著(き)給(たま)へる。此(こ)の人も只人(ただひと)にはおはせざりけりとて、
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人目(め)をさます。女や尼童(あまわらべ)共(ども)、周章(あはて)狼狽(ふため)き、縁(えん)より落(お)つるものも有(あ)り、御堂(みだう)の戸(と)を立(た)て、入(い)れじとするものも有(あ)り。されども二人(ふたり)の者(もの)はやがて舞台(ぶたい)へ引(ひ)いて、下(お)り合(あ)うて、戦(たたか)ひける。引(ひ)いつ進(すす)んづ討(う)ち合(あ)ひける間(あひだ)、始(はじ)めは人も懼(お)ぢて寄(よ)らざりけるが、後(のち)には面白(おもしろ)さに行道(ぎやうだう)をする様(やう)に付(つ)きてめぐり、是(これ)を見(み)る。他人(よそひと)言(い)ひけるは、「抑(そもそも)児(ちご)が勝(まさ)るか、法師(ほふし)が勝(まさ)るか」「いや児(ちご)こそ勝(まさ)るよ。法師(ほふし)は物(もの)にても無(な)きぞ。早(はや)弱(よわ)りて見ゆるぞ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「さては早(はや)我(われ)は下(した)になるごさんなれ」とて、心細(ぼそ)く思(おも)ひける。御曹司(おんざうし)も思(おも)ひきり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)も思(おも)ひきつてぞ討(う)ち合(あ)ひける。弁慶(べんけい)少(すこ)し討(う)ちはづす所(ところ)を御曹司(おんざうし)走(はし)りかかつて切(き)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)が弓手(ゆんで)の脇(わき)の下(した)に切先(きつさき)を打(う)ち込(こ)まれて、ひるむ所(ところ)を太刀(たち)の脊(むね)にて、散々(さんざん)に討(う)ちひしぎ、東枕(まくら)に打(う)ち伏(ふ)して上(うえ)に打(う)ち乗(の)り居(ゐ)て、「さて従(したが)ふや否(いな)や」と仰(おほ)せられければ、「是(これ)も前世の事(こと)にてこそ候(さうら)ふらん。さらば従(したが)ひ参(まゐ)らせん」と申(まう)しければ、著(き)たる腹巻(はらまき)を御曹司(おんざうし)重(かさ)ねて著(き)給(たま)ひ、二振(ふり)の太刀を取(と)り、弁慶(べんけい)を先(さき)に立(た)てて、其(そ)の夜(よ)の中(うち)に山科(やましな)へ具(ぐ)しておはしまし、傷(きず)を癒(いや)して、其(そ)の後連(つ)れて京へおはして、弁慶(べんけい)と二人(ふたり)して平家(へいけ)を狙(ねら)ひ給(たま)ひける。其(そ)の時(とき)見参(げんざん)に入(い)り始(はじ)めてより、志(こころざし)又(また)二つ無(な)く身に添(そ)ひ、影(かげ)の如(ごと)く、平家(へいけ)を三年に攻(せ)め落(おと)し給(たま)ひしにも度々の高名(かうみやう)を極(きは)めぬ。奥州(あうしう)衣川(ころもがは)の最後(さいご)の合戦(かつせん)まで
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御供(おんとも)して、遂(つひ)に討死(うちじに)してんげる武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)是(これ)なり。斯(か)くて都(みやこ)には九郎義経(よしつね)、武蔵坊(むさしばう)と言(い)ふ兵(つはもの)を語(かた)らひて、平家(へいけ)を狙(ねら)ふと聞(き)こえ有(あ)りけり。おはしける所(ところ)は四条(しでう)の上人(しやうにん)が許(もと)におはする由(よし)、六波羅(ろくはら)へこそ訴(うつた)へたり。六波羅(ろくはら)より大勢(おほぜい)押(お)し寄(よ)せて、上人(しやうにん)を捕(と)る。其(そ)の時(とき)御曹司(おんざうし)おはしけれども、手(て)にもたまらず失(うしな)ひ給(たま)ひけり。御曹司(おんざうし)「此(こ)の事(こと)洩(も)れぬ程(ほど)にてあれ、いざや奥(おく)へ下(くだ)らん」とて、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ひ、東山道(とうせんだう)にかかりて木曾(きそ)が許(もと)におはして、「都(みやこ)の住居(すまひ)適(かな)はぬ間(あひだ)、奥州(あうしう)へ下(くだ)り候(さうら)へ。斯(か)くて御渡(おんわた)り候(さうら)へば、万事は頼もしくこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。東国(とうごく)北国(ほつこく)の兵(つはもの)を催(もよほ)し給(たま)へ。義経(よしつね)も奥州(あうしう)より差(さ)し合(あ)はせて、疾(と)く疾(と)く本意(ほんい)を遂(と)げ候(さうら)はんとこそ思(おも)ひ候(さうら)へ。是(これ)は伊豆国(いづのくに)近(ちか)く候(さうら)へば常(つね)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の御方(おんかた)へも御(おん)訪(おとづ)れ候(さうら)へ」とて木曾(きそ)が許(もと)より送(おく)られて、上野の伊勢(いせの)三郎が許(もと)までおはしけれ。是(これ)より義盛(よしもり)御供(おんとも)して、平泉(ひらいづみ)へ下(くだ)りけり。
頼朝(よりとも)謀反(むほん)の事(こと) S0307
治承(ぢしよう)四年(しねん)八月十七日に頼朝(よりとも)謀反(むほん)起(お)こし給(たま)ひて、和泉(いづみ)の判官(はうぐわん)兼隆(かねたか)を夜討(よう)ちにして、同十九日相模(さがみの)国(くに)小早川(こばやがは)の合戦(かつせん)に打(う)ち負(ま)けて、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)に引(ひ)き篭(こも)り給(たま)ふ。大庭(おほばの)三郎、
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股野(またのの)五郎、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)を攻(せ)むる。廿六日の曙(あけぼの)に伊豆国(いづのくに)真名鶴崎(まなづるがさき)より舟(ふね)に乗(の)りて、三浦(みうら)を志(こころざ)して押(お)し出(い)だす。折節(をりふし)風(かぜ)はげしくて、岬(みさき)へ船を寄(よ)せ兼(か)ねて、二十八日の夕暮(ゆふぐれ)に安房国(あはのくに)州(す)の崎(さき)と言(い)ふ所(ところ)に御舟(ふね)を馳(は)せ上(あ)げて、其(そ)の夜は、滝口(たきのぐち)の大明神(だいみやうじん)に通夜(つや)有(あ)りて、夜(よ)と共(とも)に祈誓(きせい)をぞ申(まう)されけるに、明神(みやうじん)の示(しめ)し給(たま)ふぞと覚(おぼ)しくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸を美(いつく)しき御手(て)にて押(お)し開(ひら)き、一首(しゆ)の歌をぞ遊(あそ)ばしける。
源(みなもと)は同(おな)じ流(なが)れぞ石清水(いはしみづ)たれ堰(せ)き上(あ)げよ雲(くも)の上(うえ)まで W002
兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)夢(ゆめ)打(う)ち覚(さ)めて、明神(みやうじん)を三度拝(はい)し奉(たてまつ)りて、
源(みなもと)は同(おな)じ流(なが)れぞ石清水(いはしみづ)堰(せ)き上(あ)げて賜(た)べ雲の上(うえ)まで W003
と申(まう)して、明(あ)くれば州(す)の崎(さき)を立(た)ちて、坂東(ばんどう)、坂西(ばんざい)にかかり、真野(まの)の館(たち)を出(い)で、
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小湊(こみなと)の渡(わたり)して、那古(なこ)の観音(くわんおん)を拝(はい)して、雀島(すずめしま)の大明神(だいみやうじん)の御前にて形(かた)の如(ごと)くの御神楽(みかぐら)を参(まゐ)らせて、猟島(りやうしま)に著(つ)き給(たま)ひぬ。加藤次申(まう)しけるは、「悲(かな)しきかなや。保元(ほうげん)に為義(ためよし)切(き)られ給(たま)ふ。平治(へいぢ)に義朝(よしとも)討(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、源氏(げんじ)の子孫(しそん)皆(みな)絶(た)え果(は)てて弓馬(きゆうば)の名(な)を埋(うづ)んで星霜(せいざう)を送(おく)り給(たま)ふ。偶々(たまたま)も源氏(げんじ)思(おも)ひ立(た)ち給(たま)へば、不運(ふうん)の宮(みや)に与(くみ)し参(まゐ)らせて、世を損(そん)じ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ」と申(まう)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「斯(か)く心(こころ)弱(よわ)くな思(おも)ひそ。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)如何(いか)でか思召(おぼしめ)し捨(す)てさせ給(たま)ふべき」と諌(いさ)め給(たま)ひけるこそ頼(たの)もしく覚(おぼ)ゆれ。さる程(ほど)に三浦(みうら)の和田(わだの)小太郎(こたらう)、佐原(さはらの)十郎(じふらう)、久里浜(くりはま)の浦(うら)より小船に取(と)り乗(の)りて、宗徒(むねと)の輩(ともがら)三百余人猟島(りやうしま)へ参(まゐ)りて源氏(げんじ)に属(つ)く。安房(あはの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)丸(まろの)太郎、安西(あんざい)の太夫、是(これ)等(ら)二人(ふたり)大将(たいしやう)として五百余騎(よき)馳(は)せ来(き)たり源氏(げんじ)に属(つ)く。源氏(げんじ)八百余騎(よき)になり、いとど力(ちから)付(つ)きて、鞭(むち)を上(あ)げて打(う)つ程(ほど)に、安房(あは)と上総(かづさ)の堺(さかひ)なる造海(つくりうみ)の渡(わたり)をして、上総(かづさの)国(くに)讚岐(さぬき)の枝浜(えだはま)を馳(は)せ急(いそ)がせ給(たま)ひて、磯(いそ)が崎(さき)を打(う)ち通(とほ)りて、篠部(しのべ)、いかひしりと言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。上総(かづさの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊北(いほう)、伊南(いなん)、庁北(ちやうほく)、庁南(ちやうなん)、武射(むさ)、山辺(やまのべ)、畔隷(あひる)、くはのかみの勢(せい)、都合(つがう)一千余騎(よき)周淮川(すへかは)と言(い)ふ所(ところ)に馳(は)せ来(き)たつて、源氏(げんじ)に加(くは)はる。され共(ども)介(すけ)の八郎は未(いま)だに見(み)えず。私(わたくし)に広常(ひろつね)申(まう)しけるは、「抑(そもそも)兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の安房(あは)、上総(かづさ)に渡(わた)りて二ケ国の軍兵(ぐんびやう)を揃(そろ)へ給(たま)ふなるに、未(いま)だ広常(ひろつね)
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が許(もと)へ御使(おんつか)ひを賜(たま)はらぬこそ心得(こころえ)ね。今日(けふ)待(ま)ち奉(たてまつ)りて仰(おほ)せ蒙(かうぶ)らずは、千葉(ちば)、葛西(かさい)を催(もよほ)して、きさうとの浜(はま)に押(お)し向(むか)ひて、源氏(げんじ)を引き立(た)て奉(たてまつ)らん」と議(ぎ)する処に、藤九郎盛長(もりなが)、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)に黒津羽(くろつば)の矢負(お)ひ、塗篭藤(ぬりごめどう)の弓(ゆみ)持(も)ちて、介(すけ)の八郎の許(もと)にぞ来(き)たりける。「上総介(かづさのすけ)殿(どの)に見参(げんざん)」と申(まう)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の御使(おんつか)ひと申(まう)せば、嬉(うれ)しさに、急(いそ)ぎ出(い)で合(あ)ひて対面(たいめん)す。御教書(げうしよ)賜(たま)はり、拝見(はいけん)す。家(いへ)の子郎等(らうどう)も差(さ)し遣(つか)はせよと仰(おほ)せられんとこそ思(おも)ひつるに、「今(いま)まで広常(ひろつね)が遅(おそ)く参(まゐ)るこそ奇怪(きくわい)なれ」と書(か)き給(たま)ひたるを打(う)ち見(み)て、「あはれ、殿(との)の御書(しよ)かな。斯(か)くこそ有(あ)らまほしけれ」とて、則(すなは)ち千葉介(ちばのすけ)の許(もと)へ送(おく)る。葛西(かさい)、豊田(とよた)、うらのかみ、上総介(かづさのすけ)の許(もと)へ馳(は)せ寄(よ)りて、千葉(ちば)、上総介(かづさのすけ)を大将軍(だいしやうぐん)として、三千(さんぜん)余騎(よき)開発(かいほつ)の浜(はま)に馳(は)せ来(き)たり源氏(げんじ)につく。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)四万余騎(よき)になりて、上総(かづさ)の館(やかた)に著(つ)き給(たま)ふ。斯(か)くする程(ほど)にこそ久(ひさ)しけれ。されども八ケ国(はつかこく)は源氏(げんじ)に心(こころ)有(あ)る国なりければ、我(われ)も我(われ)もと馳(は)せ参(まゐ)る。常陸国(ひたちのくに)には宍戸(しらと)、行方(なめかた)、志田(しだ)、東条(とうでう)、佐竹(さたけの)別当(べつたう)秀義(ひでよし)、高市(たけち)の平武者(へいむしやの)太郎、小野寺(をのでらの)禅師(ぜんじ)道綱(みちつな)、上野(かうづけの)国(くに)には大胡(おほごの)太郎、山上(やまかみ)さゑよりの信高(のぶたか)武蔵国には河越(かはごえの)太郎重頼、小太郎(こたらう)重房(しげふさ)同(おな)じき三郎重義(しげよし)、党(たう)には丹(たん)、横山(よこやま)、猪俣(いのまた)馳(は)せ参(まゐ)る。畠山(はたけやま)、稲毛(いなげ)は未だ参(まゐ)らず。秩父(ちちぶの)庄司(しやうじ)に小山田(をやまだの)別当(べつたう)は在京(ざいきやう)によりて参(まゐ)らず。相模(さがみの)国(くに)には本間(ほんま)、渋谷(しぶや)馳(は)せ参(まゐ)る。大庭(おほば)、股野(またの)、山内は参(まゐ)らず。治承(ぢしよう)四年(しねん)九月十一日武蔵(むさし)と下野(しもつけ)の境(さかひ)なる松戸(まつどの)庄(しやう)
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市河(いちかは)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。御勢(ぜい)八万九千とぞ聞(き)こえける。此処(ここ)に坂東(ばんどう)に名を得(え)たる大河一(ひと)つ有(あ)り。此(こ)の河(かは)の水上(みなかみ)は、上野(かうづけの)国(くに)刀根庄(とねのしやう)、藤原(ふぢはら)と言(い)ふ所(ところ)より落(お)ちて水上(みなかみ)遠(とほ)し。末(すゑ)に下(くだ)りては在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)の墨田河(すみだがは)とぞ名付けたる。海(うみ)より潮(しほ)差(さ)し上(あ)げて、水上(みなかみ)には雨降(ふ)り、洪水(こうずい)岸(きし)を浸(ひた)し流(なが)れたり。偏(ひと)へに海(うみ)を見(み)る如(ごと)く、水(みづ)に堰(せ)かれて五日逗留(とうりう)し給(たま)ひ、墨田(すむだ)の渡(わたり)両所(りやうしよ)に陣(ぢん)を取(と)つて、櫓(やぐら)をかき、櫓(やぐら)の柱(はしら)には馬(うま)を繋(つない)で、源氏(げんじ)を待(ま)ち懸(か)けたり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は是(これ)を御覧(ごらん)じて、「彼奴(きやつ)首(くび)取(と)れ」と宣(のたま)へば、急(いそ)ぎ櫓(やぐら)の柱(はしら)を切(き)り落(おと)して、筏(いかだ)にし、市河(いちかは)へ参(まゐ)り、葛西(かさいの)兵衛(ひやうゑ)について、見参(げんざん)に入(い)るべき由(よし)申(まう)したりけれども用(もち)ゐ給(たま)はず。重(かさ)ねて申(まう)しければ、「如何様(いかさま)にも頼朝(よりとも)を猜(そね)むと思(おも)ふぞ。伊勢(いせの)加藤次(かとうじ)心(こころ)許(ゆる)すな」と仰(おほ)せられける。江戸(えどの)太郎色(いろ)を失(うしな)ひける所(ところ)に千葉介(ちばのすけ)近所に有(あ)りながら如何(いかが)有(あ)るべき。成胤(なりたね)申(まう)さんとて、御前に畏(かしこ)まつて、不便(ふびん)の事(こと)を申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「江戸(えどの)太郎八ケ国(はつかこく)の大福長者(だいふくちやうじや)と聞(き)くに、頼朝(よりとも)が多勢(たせい)此(こ)の二三日水に堰(せ)かれて渡(わた)し兼(か)ねたるに、水(みづ)の渡(わたり)に浮橋(うきはし)を組(く)んで、頼朝が勢武蔵国(むさしのくに)王子(わうじ)板橋(いたはし)に付(つ)けよ」とぞ宣(のたま)ひける。江戸(えどの)太郎承(うけたまは)りて「首(くび)を召(め)さるるとも如何(いか)でか渡すべき」と申(まう)す所(ところ)に千葉介(ちばのすけ)葛西(かさいの)兵衛(ひやうゑ)を招(まね)きて申(まう)しけるは、「いざや江戸(えどの)太郎助(たす)けん」とて、両人(りやうにん)が知行所(ちぎやうしよ)、今井(いまひ)、栗川(くりかは)、亀無(かめなし)、牛島(うしじま)と申(まう)す
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所より、海人(あま)の釣舟(つりぶね)を数千艘(すせんさう)上(のぼ)せて、石浜(いしはま)と申(まう)す所(ところ)は江戸(えどの)太郎が知行所(ちぎやうしよ)なり。折節(をりふし)西国船(さいこくぶね)の著(つ)きたるを数千艘(すせんさう)取(と)り寄(よ)せ、三日がうちに浮橋(うきはし)を組(く)んで、江戸(えどの)太郎に合力(かうりよく)す。佐(すけ)殿(どの)神妙(しんべう)なる由(よし)仰(おほ)せられ、さてこそ太日(ふとひ)、墨田(すんだ)打(う)ち越(こ)えて、板橋(いたはし)に著(つ)き給(たま)ひけり。
頼朝謀反(むほん)により義経(よしつね)奥州(あうしう)より出(い)で給(たま)ふ事 S0308
さる程(ほど)に佐(すけ)殿(どの)の謀反(むほん)奥州(あうしう)に聞(き)こえければ、御弟(おとと)九郎義経(よしつね)、本吉(もとよしの)冠者(くわんじや)泰衡(やすひら)を召(め)して秀衡(ひでひら)に仰(おほ)せけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)こそ謀反(むほん)起(お)こして、八ケ国(はつかこく)を打(う)ち従(したが)へて、平家(へいけ)を攻(せ)めんとて都(みやこ)へ上(のぼ)り給(たま)ふと承(うけたまは)りて候(さうら)へ。義経(よしつね)かくて候(さうら)ふこそ心(こころ)苦(ぐる)しく候(さうら)へ。追(お)ひ付(つ)き奉(たてまつ)りて、一方(いつぱう)の大将軍(だいしやうぐん)をも望(のぞ)まばや」とぞ仰(おほ)せられける。秀衡(ひでひら)申(まう)しけるは、「今(いま)まで、君(きみ)の思召(おぼしめ)し立(た)たぬ御事(おんこと)こそ僻事(ひがこと)にて候(さうら)へ」とて、泉(いづみの)冠者(くわんじや)を呼(よ)びて、「関東(くわんとう)に事(こと)出(い)で来(き)、源氏(げんじ)打(う)ち出(い)で給(たま)ふなり。両国(りやうごく)の兵(つはもの)共(ども)催(もよほ)せ」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)仰(おほ)せられけるは、「千騎万騎(ぎ)も具足(ぐそく)したく候(さうら)へども、事(こと)延(の)びては叶(かな)ふまじ」とて打(う)ち出(い)で給(たま)ふ。取(と)り敢(あ)へざりければ、先(ま)づかつがつ三百余騎(よき)を奉(たてまつ)りける。
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御曹司(おんざうし)の郎等(らうどう)には西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)、又(また)園城寺(をんじやうじ)法師(ほふし)の、尋(たづ)ねて参(まゐ)りたる常陸房(ひたちばう)、伊勢(いせの)三郎、佐藤(さとう)三郎継信(つぎのぶ)、同(おな)じく四郎忠信(ただのぶ)是(これ)等(ら)を先(さき)として三百余騎(よき)馬(うま)の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切(き)り、脛(すね)の砕(くだ)くるをも知(し)らず、揉(も)みに揉(も)うで馳(は)せ上(のぼ)る。阿津賀志(あづかし)の中山(なかやま)馳(は)せ越(こ)え、安達(あだち)の大城戸(おほきど)打(う)ち通(とほ)り、行方(ゆきがた)の原(はら)、ししちを見(み)給(たま)へば、「勢(せい)こそ疎(まばら)になりたるぞ」と仰(おほ)せられけるに、「或(ある)いは馬(うま)の爪(つめ)欠(か)かせ、或(ある)いは脛(すね)を馳(は)せ砕(くだ)きて、少々(せうせう)道(みち)に止(とど)まり、是(これ)までは百五十騎(き)御座(ござ)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「百騎(ひやつき)が十騎(き)にならんまでも、打(う)てや者(もの)共(ども)、後(あと)を顧(かへりみ)るべからず」とて、とどろ馳(か)けにて歩(あゆ)ませける。きづかはを打(う)ち過(す)ぎて、下橋(さげはし)の宿(しゆく)に著(つ)いて、馬(うま)を休(やす)ませて、絹河(きぬがは)の渡(わたり)して、宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)伏(ふ)し拝(おが)み参(まゐ)らせ、室(むろ)の八嶋(やしま)を外(よそ)に見(み)て、武蔵(むさしの)国(くに)足立郡(あだちのこほり)、小川口(こかはぐち)に著(つ)き給(たま)ふ。御曹司(おんざうし)の御勢(ぜい)八十五騎(き)にぞなりにける。板橋(いたはし)に馳(は)せ著(つ)きて、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は」と問(と)ひ給(たま)へば、「一昨日(をととひ)是(これ)を発(た)たせ給(たま)ひて候(さうら)ふ」と申(まう)す。武蔵(むさし)の国府(こふ)の六所の町(まち)に著(つ)いて、「佐(すけ)殿(どの)は」と仰(おほ)せければ、「一昨日(をととひ)通(とほ)らせ給(たま)ひて候(さうら)ふ。相模(さがみ)の平塚(ひらづか)に」とぞ申(まう)しける。平塚(ひらづか)に著(つ)いて聞(き)き給(たま)へば、「早(はや)足柄(あしがら)を越(こ)え給(たま)ひぬ」とぞ聞(き)こえける。いとど心(こころ)許(もと)無(な)くて、駒(こま)を早(はや)めて打(う)ち給(たま)ひける程(ほど)に、足柄山(あしがらやま)を打(う)ち越(こ)えて、伊豆(いづ)の国府(こくふ)に著(つ)き給(たま)ふ。「佐(すけ)殿(どの)は昨日(きのふ)此処(ここ)を発(た)ち給(たま)ひて、駿河(するがの)国千本(せんぼん)の松原(まつばら)、浮島(うきしま)が原(はら)に」と申(まう)しければ、さては程(ほど)近(ちか)しとて、駒(こま)を早(はや)め、
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急(いそ)がれける。
義経記巻第三
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