義経記 国民文庫本
P241
義経記巻第六目録
忠信(ただのぶ)都(みやこ)へ忍(しの)び上(のぼ)る事
忠信(ただのぶ)最期(さいご)の事(こと)
忠信(ただのぶ)が首(くび)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事
判官(はうぐわん)南都(なんと)へ忍(しの)び御出(おい)である事
関東(くわんとう)より勧修坊(くわんじゆばう)を召(め)さるる事
静(しづか)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事
静(しづか)若宮(わかみや)八幡宮(はちまんぐう)へ参詣(さんけい)の事(こと)
P242
義経記巻第六
忠信(ただのぶ)都(みやこ)へ忍(しの)び上(のぼ)る事 S0601
さても佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)は、十二月二十三日に都(みやこ)へ帰(かへ)りて、昼(ひる)は片辺(かたほとり)に忍(しの)び、夜(よる)は洛中(らくちゆう)に入(い)り、判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)を尋(たづ)ねけり。然(さ)れども人まちまちに申(まう)しければ、一定(いちぢやう)を知(し)らず、或(ある)いは吉野河(よしのかは)に身を投(な)げ給(たま)ひけるとも聞(き)こゆる。或(ある)いは北国(ほつこく)へかかりて、陸奥(みちのく)へ下(くだ)り給(たま)ひける共(とも)申(まう)し、聞(き)きも定(さだ)めざりければ、都(みやこ)にて日を送(おく)る。兎角(とかう)する程(ほど)に、十二月二十九日になりにけり。一日(いちにち)片時(へんし)も心(こころ)安(やす)く暮(くら)すべき方(かた)も無(な)くて、年の内(うち)も今日(けふ)ばかりなり。明日にならば、新玉(あらたま)の年(とし)立(た)ち返(かへ)る春(はる)の初(はじ)めにて、元三(ぐわんざん)の儀式(ぎしき)ならば、事(こと)宜(よろ)しからず、何処(いづく)に一夜(いちや)をだにも明(あ)かすべき共(とも)覚(おぼ)えず、其(そ)の頃(ころ)忠信(ただのぶ)他事(たじ)無(な)く思(おも)ふ女(をんな)一人四条(しでう)室町(むろまち)に小柴(こしば)の入道(にふだう)と申(まう)す者(もの)の娘(むすめ)に、かやと申(まう)す女(をんな)なり。判官(はうぐわん)都(みやこ)に在(おは)せし時(とき)より見(み)始(はじ)めて浅(あさ)からぬ志(こころざし)にて有(あ)りければ、判官(はうぐわん)都(みやこ)を出(い)で給(たま)ひし時(とき)も、摂津国(つのくに)河尻(かはしり)まで慕(した)ひて、如何(いか)ならん船(ふね)の
P243
中浪(うちなみ)の上(うへ)までもと慕(した)ひしかども、判官(はうぐわん)の北(きた)の御方(おんかた)数多(あまた)一(ひと)つ船に乗(の)せ奉(たてまつ)り給(たま)ひたるも、あはれ詮(せん)無(な)き事(こと)かなと思(おも)ふに、我(われ)さへ女(をんな)を具足(ぐそく)せん事(こと)も如何(いかが)ぞやと思(おも)ひしかば、飽(あ)かぬ名残(なごり)を振(ふ)り捨(す)てて、独(ひと)り四国へ下(くだ)りしが、其(そ)の志(こころざし)未(いま)だ忘(わす)れざりければ、二十九日の夜打(う)ち更(ふ)けて、女(をんな)を尋(たづ)ね行(ゆ)きけり。女(をんな)出(い)で逢(あ)ひて、斜(なのめ)ならず悦(よろこ)びて我(わ)が方(かた)に隠(かく)し置(お)き、様々(やうやう)に労(いたは)り、父の入道(にふだう)に此(こ)の事(こと)知(し)らせたりければ、忠信(ただのぶ)を一間なる所(ところ)に呼(よ)びて申(まう)しけるは、「仮初(かりそめ)に出(い)でさせ給(たま)ひしより以来(このかた)は何処(いづく)にとも御行方(おんゆくへ)を承(うけたまは)らず候(さうら)ひつるに、物(もの)ならぬ入道(にふだう)を頼(たの)みて、是(これ)まで御座(おは)しましたる事こそ嬉(うれ)しく候(さうら)へ」とて、其処(そこ)にて年をぞ送(おく)らせけり。青陽(せいやう)の春(はる)も来(き)て、岳々(たけだけ)の雪(ゆき)むら消(き)え、裾野(すその)も青葉(あをば)交(まじ)りになりたらば、陸奥(みちのく)へ下(くだ)らんとぞ思(おも)ひける。斯(か)かりし程(ほど)に、「天(てん)に口(くち)なし、人を以(もつ)て言(い)はせよ」と、誰(た)が披露(ひろう)するとも無(な)けれども、忠信(ただのぶ)が都(みやこ)に在(あ)る由(よし)聞(き)こえければ、六波羅(ろくはら)より探(さが)すべき由(よし)披露(ひろう)す。忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、「我(われ)故(ゆゑ)に人に恥(はぢ)を見(み)せじ」とて、正月四日京(きやう)を出(い)でんとしけるが、今日(けふ)は日も忌(い)む事(こと)有(あ)りとて、立(た)たざりけり。五日は女に名残(なごり)を惜(を)しまれて立(た)たず、六日の暁(あかつき)は一定(いちぢやう)出(い)でんとぞしける。すべて男(をとこ)の頼むまじきは、女(をんな)也(なり)。昨日(きのふ)までは連理(れんり)の契(ちぎ)り、比翼(ひよく)の語(かた)らひ浅(あさ)からず、如何(いか)なる天魔(てんま)の勧(すすめ)にてや有(あ)りけん、
P244
夜の程(ほど)に女心(こころ)変(がは)りをぞしたりける。忠信(ただのぶ)京を出(い)でて後(のち)、東国の住人(ぢゆうにん)梶原(かぢはら)三郎と申(まう)す者(もの)在京(ざいきやう)したりけるに、始(はじ)めて見(み)え初(そ)めてんげり。今(いま)の男(をとこ)と申(まう)すは、世にある者(もの)なり。忠信(ただのぶ)は落人(おちうと)なり。世にある者(もの)と思(おも)ひ代(か)ゆべしと思(おも)ひ、此(こ)の事(こと)を梶原(かぢはら)に知(し)らせて、討(う)つか搦(から)むるかして鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れたらば、勲功(くんこう)疑(うたがひ)あるべからずなど思(おも)ひ知(し)らせんと思(おも)ひけり。斯(か)かりければ、五条(ごでう)西洞院(にしのとうゐん)に有(あ)りける梶原(かぢはら)が許(もと)へ使(つかひ)をぞやりける。急(いそ)ぎ梶原(かぢはら)女(をんな)の許(もと)へぞ行(ゆ)きける。忠信(ただのぶ)をば一間(ひとま)なる所(ところ)に隠(かく)し置(お)き、梶原(かぢはら)三郎をぞもてなしける。其(そ)の後耳(みみ)に口(くち)を当(あ)てて囁(ささや)きけるは、「呼(よ)び立(た)て申(まう)す事(こと)は、別(べち)の仔細(しさい)になし。判官(はうぐわん)殿(どの)の郎等(らうどう)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)と申(まう)す者有(あ)り。吉野(よしの)の軍(いくさ)に討(う)ち洩(も)らされて、過(す)ぎぬる廿九日の暮方(くれがた)より是(これ)に有(あ)り。明日(あす)は陸奥(みちのく)へ下(くだ)らんと出(い)で立(た)つ。下(くだ)りて後(のち)に知(し)らせ
P245
奉(たてまつ)らぬとて、恨(うら)み給(たま)ふな。我(われ)と手(て)を砕(くだ)かず共(とも)、足軽共(あしがるども)差(さ)し遣(つか)はし、討(う)つか、搦(から)むるかして、鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れて、勲功(くんこう)をも望(のぞ)み給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。梶原(かぢはら)三郎是(これ)を聞(き)きて、余(あま)りの事(こと)なれば、中々(なかなか)兎角(とかく)物(もの)も言(い)はず。唯(ただ)疎(うと)ましきものの哀(あは)れに理(わり)無(な)きを尋(たづ)ぬるに、稲妻(いなづま)陽炎(かげろふ)、水(みづ)の上に降(ふ)る雪(ゆき)、それよりも猶(なほ)あたなるは、女(をんな)の心(こころ)なりけるや。是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らずして是(これ)を頼(たのみ)て、身を徒(いたづ)らになす忠信(ただのぶ)こそ無慙(むざん)なれ。梶原(かぢはら)三郎申(まう)しけるは、「承(うけたまは)り候(さうら)ひぬ。景久(かげひさ)は一門(いちもん)の大事(だいじ)を身にあてて、三年(みとせ)在京(ざいきやう)仕(つかまつ)るべく候(さうら)ふが、今年は二年になり候(さうら)ふ。在京(ざいきやう)の者(もの)の両役(りやうやく)は叶(かな)はぬ事(こと)にて候(さうら)ふ。然(さ)ればとて忠信(ただのぶ)追討(ついたう)せよと言(い)ふ宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)もなし。欲(よく)に耽(ふけ)つて合戦(かつせん)に忠(ちゆう)を致(いた)したりとても、御諚(ごぢやう)ならねば、御恩(ごおん)もあるべからず。仕(し)損(そん)じては一門(いちもん)の瑕瑾(かきん)になるべく候(さうら)ふ間(あひだ)、景久(かげひさ)叶(かな)ふまじ。猶(なほ)も御志(おんこころざし)切(せつ)なからん人に仰(おほ)せられ候(さうら)へ」と言(い)ひ捨(す)て、急(いそ)ぎ宿(やど)へ帰(かへ)りつつ、色(いろ)をも香(か)をも知(し)らぬ無道(ぶたう)の女と思(おも)ひ知(し)り、遂(つひ)に是(これ)をば問(と)はざりけり。斯様(かやう)に梶原(かぢはら)に疎(うと)まれ、腹(はら)を据(す)ゑ兼(か)ねて、六波羅(ろくはら)へ申(まう)さんと思(おも)ひつつ、五日の夜に入(い)りて、半物(はしたもの)一人召(め)し具(ぐ)して、六波羅(ろくはら)へ参(まゐ)り、江馬(えま)の小四郎を呼(よ)び出(い)だして、此(こ)の由(よし)伝(つた)へければ、北条(ほうでう)にかくと申(まう)されたり。「時刻(じこく)を移(うつ)さず寄(よ)せて捕(と)れ」とて、二百騎(にひやつき)の勢(せい)にて四条(しでう)室町(むろまち)にぞ押(お)し寄(よ)せたり。昨日(きのふ)一日今宵(こよひ)終夜(よもすがら)、名残(なごり)の酒(さけ)とて強(し)ひたりければ、前後(ぜんご)も
P246
知(し)らず臥(ふ)したりけり。頼(たの)む女(をんな)は心(こころ)変(がは)りして失(う)せぬ。常(つね)に髪(かみ)梳(けづ)りなどしける半物(はしたもの)の有(あ)りけるが、忠信(ただのぶ)が臥(ふ)したる所(ところ)へ走(はし)り入(い)りて、荒(あら)らかに起(お)こして、「敵(かたき)寄(よ)せて候(さうら)ふぞ」と告(つ)げたりける。
忠信(ただのぶ)最期(さいご)の事(こと) S0602
忠信(ただのぶ)敵(てき)の声(こゑ)に驚(おどろ)き起(おき)上(あ)がり、太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、差(さ)し屈(くぐ)みて見(み)ければ、四方(しはう)に敵(てき)満(み)ち満(み)ちたり。遁(のが)れて出(い)づべき方(かた)もなし。内(うち)にて独言(ひとりごと)に言(い)ひけるは、「始(はじ)めある物は終(をはり)有(あ)り。生(しやう)ある者(もの)必(かなら)ず滅(めつ)す。其(そ)の期(ご)は力(ちから)及(およ)ばずや。屋嶋(やしま)、摂津国(つのくに)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)、吉野(よしの)の奥(おく)の合戦(かつせん)まで、随分(ずいぶん)身をば亡(な)き物(もの)とこそ思(おも)ひつれども、其(そ)の期(ご)ならねば今日(けふ)まで延(の)びぬ。然(しか)りとは雖(いへど)も、只今(ただいま)が最期(さいご)にて有(あ)りけるを、驚(おどろ)くこそ愚(おろか)なれ。然(さ)ればとて犬死(いぬじに)すべき様(やう)なし」とて、ひしひしとぞ出(い)で立(た)ちける。白(しろ)き小袖(こそで)に黄(き)なる大口(おほくち)、直垂(ひたたれ)の袖を結(むす)びて肩(かた)に打(う)ち越(こ)し、咋日(きのふ)乱(みだ)したる髪(かみ)を未(いま)だ梳(けづ)りもせず、取(と)り上(あ)げ、一所(ところ)に結(ゆ)ひ、烏帽子(えぼし)引(ひ)き立(た)て押(お)し揉(も)うで、盆(ぼん)の窪(くぼ)に引(ひ)き入(い)れ、烏帽子懸(えぼしがけ)を以(もつ)て額(ひたひ)にむずと結(ゆ)ひて、太刀(たち)を取(と)り差(さ)し、俯(うつぶ)きて見れば、未(いま)だ仄暗(ほのぐら)くて、物の具の色(いろ)は見(み)えず、敵(かたき)はむらむらに控(ひか)へたり。中々(なかなか)中(なか)を通(とほ)りて、紛(まぎ)れ行(ゆ)かばやと
P247
ぞ思(おも)ひける。され共(ども)敵(かたき)甲胃(かつちう)をよろひ、矢を矧(は)げて、駒(こま)に鞭(むち)を進(すす)めたり。追(お)ひ掛(か)けて散々(さんざん)に射(い)られんず。薄手(うすで)負(お)うて死(し)にもやらず、生(い)けながら六波羅(ろくはら)へ取(と)られなんず。判官(はうぐわん)の御座(おは)する所(ところ)知(し)らんずらんと問(と)はば、知(し)らずと申(まう)さば、さらば放逸(はういつ)に当(あ)たれとて糾問(きうもん)せられ、一旦(いつたん)知(し)らずと申(まう)すとも、次第(しだい)に性根(しやうね)乱(みだ)れなん後(のち)は有(あ)りの儘(まま)に白状(はくじやう)したらば、吉野(よしの)の奥(おく)に留(とど)まりて、君に命(いのち)を参(まゐ)らせたる志(こころざし)無(む)になりなん事こそ悲(かな)しけれ。如何(いか)にもして此処(ここ)を逃(のが)ればやとぞ思(おも)ひける。中門(ちゆうもん)の縁(えん)に差(さ)し入(い)りて見(み)ければ、上に古(ふ)りたる座敷(ざしき)有(あ)り。直(ひた)と上(のぼ)りて見(み)ければ、上薄(うす)く、京(きやう)の板屋(いたや)の癖(くせ)として、月は洩(も)り、星(ほし)は溜(たま)れど葺(ふ)きければ、所々(ところどころ)は疎(まばら)なり。健者(すくやかもの)にてある間(あひだ)、左右(さう)の腕(かひな)を挙(あ)げて、家(いへ)を引(ひ)き上(あ)げつと出(い)でて、梢(こずゑ)を鳥(とり)の飛(と)ぶが如(ごと)くに散(ち)り散(ち)つてぞ落(お)ちて行(ゆ)く。江馬(えま)の小四郎是(これ)を見(み)て、「すはや敵(てき)は落(お)つるぞ。只(ただ)射(い)殺(ころ)せ」とて精兵(せいびやう)共(ども)に散々(さんざん)に射(い)さす。手(て)にもたまらざりければ、矢比(やごろ)遠(とほ)くぞなりにける。また夜の曙(あけぼの)なれば、町里小路(まちさとこうぢ)に外(はづ)し置(お)きたる雑車(ざふぐるま)、駒(こま)の蹄(ひづめ)しどろにして、思(おも)ふ様(やう)にも駈(か)けざりければ、かくて忠信(ただのぶ)をぞ失(うしな)ひける。其(そ)の儘(まま)落(お)ち行(ゆ)かば、中々(なかなか)し果(おふ)すべかりつるに、我(わ)が行方(ゆくへ)を案(あん)じ思(おも)うて、片辺(かたほとり)は在京(ざいきやう)の者(もの)に下知(げち)して差(さ)し塞(ふさ)がれなん。洛中(らくちゆう)は北条(ほうでう)殿(どの)父子(ふし)の勢(せい)を以(もつ)て探(さが)されん。とても遁(のが)れぬもの故(ゆゑ)に、末々(すゑずゑ)の奴原(やつばら)の手(て)にかけて、射(い)殺(ころ)されんこそ悲(かな)しけれ。
P248
一両年(いちりやうねん)も判官(はうぐわん)の住(す)み給(たま)ひし六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)に参(まゐ)りて、君(きみ)を見(み)参(まゐ)らすると思(おも)ひて、其処(そこ)にてともかくもならばやと思(おも)ひて、六条(ろくでう)堀川(ほりかは)の方(かた)へぞ行(ゆ)きける。去年まで住(す)み馴(な)れ給(たま)ひし跡(あと)を帰(かへ)り来(き)て見(み)れば、今年は何時(いつ)しか引(ひ)きかへて、門押(お)し立(た)つる者(もの)も無(な)く、縁(えん)と等(ひと)しく塵(ちり)積(つも)り、蔀(しとみ)、遣戸(やりと)皆(みな)崩(くづ)れたり。御簾(みす)をば常(つね)に風(かぜ)ぞ捲(ま)く。一間(ひとま)の障子(しやうじ)の内(うち)に分(わ)け入(い)りて見れば、蜘蛛(ささがに)の糸(いと)を乱(みだ)したり。是(これ)を見(み)るに付(つ)けても、日頃(ひごろ)はかくは無(な)かりしものをと思(おも)ひければ、猛(たけ)き心(こころ)も前後(ぜんご)不覚(ふかく)にこそなりにけれ。見(み)たき所(ところ)を見(み)廻(めぐ)りて、扨(さて)出居(でい)に差(さ)し出(い)でて、簾(すだれ)所々(ところどころ)に切(き)りて落(おと)し、蔀(しとみ)上(あ)げて太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、衣(きぬ)の袖にて押(お)し拭(のご)ひ、「何にてもあれ」と独言(ひとりごと)言(い)ひて北条(ほうでう)の二百余騎(よき)を只(ただ)一人(ひとり)して待(ま)ちかけたり。あはれ敵(かたき)や、良(よ)き敵(かたき)かな。関東(くわんとう)にては鎌倉(かまくら)殿(どの)の御舅(しうと)、都(みやこ)にては六波羅(ろくはら)殿(どの)、我(わ)が身に取(と)りては過分(くわぶん)の敵(てき)ぞかし。あたら敵(かたき)に犬死(いぬじに)せんずるこそ悲(かな)しけれ。よからん鎧(よろひ)一両(いちりやう)、胡■(やなぐひ)一腰(こし)もがな、最後(さいご)の軍(いくさ)して腹(はら)切(き)りなんと思(おも)ひ居(ゐ)たりけるが、誠(まこと)に是(これ)は鎧(よろひ)一両(いちりやう)残(のこ)されし事(こと)の有(あ)りしぞかし。去年(きよねん)の十一月十三日に都(みやこ)を出(い)でて、四国の方(かた)へ下(くだ)り給(たま)ひし時、都(みやこ)の名残(なごり)を捨(す)て兼(か)ねて、其(そ)の夜は鳥羽(とば)の湊(みなと)に一夜(いちや)宿(しゆく)し給(たま)ひたりし時(とき)に、常陸坊(ひたちばう)を召(め)して「義経(よしつね)が住(す)みたる六条(ろくでう)堀河(ほりかは)には、如何(いか)なる者(もの)の住(す)まんずらん」と仰(おほ)せければ、常陸坊(ひたちばう)申(まう)しけるは、「誰(たれ)か住(す)み候(さうら)はん。自(おのづか)ら天魔(てんま)の
P249
住処(すみか)とこそなり候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「義経(よしつね)が住(す)み馴(な)らしたる所(ところ)に天魔(てんま)の住処(すみか)とならん事(こと)憂(う)かるべし。主の為(ため)に重(おも)き甲冑(かつちう)を置(お)きつれば、守(まもり)となりて悪魔(あくま)を寄(よ)せぬ事(こと)のあるなるぞ」とて、小桜威(こざくらをどし)の鎧(よろひ)四方白(しはうじろ)の兜(かぶと)、山鳥(やまどり)の羽(は)の矢(や)十六差(さ)して、丸木(まるき)の弓一張(いつちやう)添(そ)へて置(お)かれたりしぞかし。未(いま)だ有(あ)りもやすらんと思(おも)ひて、天井(てんじやう)にひたひたと上(あ)がりて差(さ)し覗(のぞ)きて見れば、巳(み)の時(とき)許(ばか)りの事(こと)なれば、東の山(やま)より日の光(ひかり)射(さ)したる、隙間(すきま)より入(い)りて輝(かかや)きたるに、兜(かぶと)の星金物(ほしかなもの)ぎがとして見(み)えたり。取(と)り下(くだ)して草摺長(くさずりなが)に著(き)下(くだ)し、矢(や)掻(か)き負(お)ひ、弓(ゆみ)押(お)し張(は)り、素引打(すびきうち)して、北条(ほうでう)殿(どの)の二百余騎(よき)遅(おそ)しと待(ま)つ所(ところ)に、間(あひ)もすかさず押(お)し寄(よ)せたり。先陣(せんぢん)は大庭(おほには)に込(こ)み入(い)りて、後陣(ごぢん)は門外(もんぐわい)に控(ひか)へたり。江馬(えま)の小四郎(こしらう)義時(よしとき)鞠(まり)の懸(かかり)を小楯(こだて)に取(と)りて宣(のたま)ひけるは、「穢(きたな)し四郎兵衛(しらうびやうゑ)。とても逃(のが)るまじきぞ。顕(あらは)に出(い)で給(たま)へ。大将軍(だいしやうぐん)は北条(ほうでう)殿(どの)、斯(か)く申(まう)すは江間(えま)の小四郎(こしらう)義時(よしとき)と言(い)ふ者(もの)なり。はやはや出(い)で給(たま)へ」と言(い)へば、忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、縁(えん)の上(うへ)に立(た)ちたる蔀(しとみ)の下(もと)がはと突(つ)き落(おと)し、手矢(てや)取(と)りて差(さ)し矧(は)げ申(まう)しけるは、「江馬(えま)の小四郎に申(まう)すべき事(こと)有(あ)り。あはれ御辺(ごへん)達(たち)は法(ほふ)を知(し)り給(たま)はぬものかな。保元(ほうげん)平治(へいじ)の合戦(かつせん)と申(まう)すは、上(うへ)と上(うへ)との御事(おんこと)なれば、内裏(だいり)にも御所(ごしよ)にも恐(おそれ)をなし、思(おも)ふ様(さま)にこそ振舞(ふるま)ひしか。是(これ)はそれに似(に)るべくもなし。某(それがし)と御辺(ごへん)とは私軍(わたくしいくさ)にてこそあれ、鎌倉(かまくら)殿(どの)と左馬頭(さまのかみ)殿(どの)の御君達(ごきんだち)、
P250
我(われ)等(ら)が殿(との)も御兄弟(きやうだい)ぞかし。例(たと)へば人の讒言(ざんげん)によりて、御仲(おんなか)不和(ふわ)になり給(たま)ふとも、是(これ)ぞ讒言(ざんげん)寃(むしつ)なれば、思(おぼ)し召(め)し直(なほ)したらん時(とき)は、あはれ一(ひと)つの煩(わづら)ひかな」と言(い)ひも果(は)てず、縁(えん)より下(しも)へ飛(と)んで降(お)り、雨落(あまおち)に立(た)ちて、差(さし)詰(づ)め差(さし)詰(づ)め散々(さんざん)に射(い)る。江間(えま)の小四郎(こしらう)が真先(まつさき)かけたる郎等(らうどう)三騎(さんぎ)、同(おな)じ枕(まくら)に射(い)伏(ふ)せたり。二騎(き)に手(て)負(おほ)せければ、池(いけ)の東(ひがし)の端(はた)を門外(もんぐわい)へ向(む)けて嵐(あらし)に木(こ)の葉(は)の散(ち)る如(ごと)く、群(むら)めかしてぞ引(ひ)きにける。後陣(ごぢん)是(これ)を見(み)て、「穢(きたな)し江馬(えま)殿(どの)、敵(かたき)五騎(き)十騎(き)も有(あ)らばこそ、敵(てき)は一人也(なり)。返(かへ)し合(あ)はせ給(たま)へや」と言(い)はれて、馬(うま)の鼻(はな)を取(と)つて返(かへ)し、忠信(ただのぶ)を中に取(と)り込(こ)めて散々(さんざん)に攻(せ)むる。四郎兵衛(しらうびやうゑ)も十六差(さ)したる矢(や)なれば、程(ほど)無(な)く射(い)尽(つ)くして、箙(えびら)をかなぐり捨(す)てて、太刀(たち)を抜(ぬ)きて、大勢の中(なか)へ乱(みだ)れ入(い)りて、手(て)にもたまらず散々(さんざん)に斬(き)り廻(めぐ)る。馬(うま)人の嫌(きら)ひ無(な)く、大勢(おほぜい)其処(そこ)にて斬(き)られけり。さて鎧(よろひ)づきして身を的(まと)にかけて射(い)させけり。精兵(せいびやう)の射(い)る矢(や)は裏(うら)を掻(か)く。小兵(こひやう)の射(い)る矢(や)は筈(はず)を返(かへ)して立(た)たざりけり。然(さ)れども隙間(すきま)に立(た)つも多(おほ)ければ、夢(ゆめ)を見(み)る様(やう)にぞ有(あ)り。とてもかくても遁(のが)れぬもの故(ゆゑ)に、弱(よわ)りて後(のち)押(おさ)へて首(くび)を取(と)られんも詮(せん)なし。今(いま)は腹(はら)切(き)らばやと思(おも)ひて、太刀(たち)を打(う)ち振(ふ)りて縁(えん)につつと上(あ)がり、西向(にしむき)に立(た)ち、合掌(がつしやう)して申(まう)しけるは、「小四郎殿(どの)へ申(まう)し候(さうら)ふ。伊豆(いづ)、駿河の若党(わかたう)の、殊(こと)の外(ほか)の狼藉(らうぜき)に見(み)え候(さうら)ふを、万事を鎮(しづ)めて剛(かう)の者(もの)の腹(はら)切(き)る様(やう)を御覧(ごらん)ぜよや。東国の方(かた)へも主に
P251
志(こころざし)も有(あ)り、珍事(ちんじ)中夭(ちゆうえう)にも会(あ)ひ、又(また)敵(てき)に首(くび)を取(と)らせじとて自害(じがい)する者(もの)の為(ため)に、是(これ)こそ末代(まつだい)の手本(てほん)よ、鎌倉(かまくら)殿(どの)にも自害(じがい)の様(やう)をも、最期(さいご)の言葉(ことば)をも見参(げんざん)に入(い)れて賜(た)べ」と申(まう)しければ、「さらば静(しづか)に腹(はら)を切(き)らせて首(くび)を取(と)れ」とて、手綱(たづな)を打(う)ち捨(す)て是(これ)を見(み)る。心(こころ)安(やす)げに思(おも)ひて、念仏(ねんぶつ)高声(かうしやう)に三十遍(ぺん)ばかり申(まう)して、願以此功徳(ぐわんいしくどく)と廻向(ゑかう)して、大(だい)の刀(かたな)を抜(ぬ)きて、引合(ひきあはせ)をふつと切(き)つて、膝(ひざ)をつい立(た)て居丈高(ゐだけだか)になりて、刀を取(と)り直(なほ)し、左の脇(わき)の下(した)にがはと刺(さ)し貫(つらぬ)きて、右の肩(かた)の下(した)へするりと引(ひ)き廻(まは)し、心(こころ)先(さき)に貫(つらぬ)きて、臍(へそ)の下(もと)まで掻(か)き落(おと)し、刀(かたな)を押(お)し拭(のご)ひて打(う)ち見(み)て、「あはれ刀(かたな)や、舞房(まうふさ)に誂(あつら)へて、よくよく作(つく)ると言(い)ひたりし効(しるし)有(あ)り。腹(はら)を切(き)るに少(すこ)しも物の障(さは)る様(やう)にも無(な)きものかな。此(こ)の刀(かたな)を捨(す)てたらば、屍(かばね)に添(そ)へて東国まで取(と)られんず。若(わか)き者(もの)共(ども)に良(よ)き刀(かたな)、悪(あ)しき刀(かたな)など言(い)はれん事(こと)も由(よし)なし。
P252
黄泉(よみじ)まで持(も)つべき」とて、押(お)し拭(のご)ひて鞘(さや)にさして、膝(ひざ)の下(した)に押(お)しかいて、疵(きず)の口(くち)を掴(つか)みて引(ひ)き開(あ)け、拳(こぶし)を握(にぎ)りて腹(はら)の中に入(い)れて、腸(はらわた)縁(えん)の上(うへ)に散々(さんざん)に掴(つか)み出(い)だして、「黄泉(よみぢ)まで持(も)つ刀(かたな)をばかくするぞ」とて、柄(つか)を心(こころ)先(さき)へ、鞘(さや)は折骨(をりぼね)の下(した)へ突(つ)き入(い)れて、手(て)をむずと組(く)み、死(し)にげも無(な)くて息(いき)強(つよ)げに念仏(ねんぶつ)申(まう)して居(ゐ)たり。さても命(いのち)死(し)に兼(か)ねて、世間(せけん)の無常(むじやう)を観(くわん)じて申(まう)しけるは、「あはれなりける娑婆(しやば)世界(せかい)の習(なら)ひかな。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の境(さかひ)、げに定(さだめ)は無(な)かりけり。如何(いか)なる者(もの)の、矢(や)一(ひとつ)に死(しに)をして、後(あと)までも妻子(さいし)に憂(う)き目(め)を見(み)すらん。忠信(ただのぶ)如何(いか)なる身を持(も)ちて、身を殺(ころ)すに、死(し)に兼(か)ねたる業(ごふ)の程(ほど)こそ悲(かな)しけれ。是(これ)も只(ただ)余(あま)りに判官(はうぐわん)を恋(こひ)しと思(おも)ひ奉(たてまつ)る故に、是(これ)まで命(いのち)は長(なが)きかや。是(これ)ぞ判官(はうぐわん)の賜(た)びたりし御帯刀(おんばかせ)、是(これ)を御形見(おんかたみ)に見(み)て、黄泉(よみぢ)も心(こころ)安(やす)かれ」とて、抜(ぬ)いて、置(お)きたる太刀(たち)を取(と)りて、先(さき)を口(くち)に含(ふく)みて、膝(ひざ)を押(おさ)へて立(た)ち上(あ)がり、手(て)を放(はな)つて俯伏(うつぶし)に、がはと倒(たふ)れけり。鍔(つば)は口(くち)に止(とど)まり、切先(きつさき)は鬢(びん)の髪(かみ)を分(わ)けて、後(うし)ろにするりとぞ通(とほ)りける。惜(を)しかるべき命(いのち)かな。文治(ぶんぢ)二年正月六日の辰(たつ)の刻(こく)に、遂(つひ)に人手(ひとで)にかからず、生年(しやうねん)廿八にて失(う)せにけり。
忠信(ただのぶ)が首(くび)鎌倉(かまくら)へ下る事 S0603
P253
北条(ほうでう)殿(どの)の郎等(らうどう)、伊豆(いづ)の住人(ぢゆうにん)、みまの弥太郎(やたらう)と申(まう)す者(もの)、四郎兵衛(しらうびやうゑ)が死骸(しがい)のあたり立(た)ち寄(よ)りて、首(くび)を掻(か)き持(も)ちて、六波羅(ろくはら)へ行(ゆ)き、大路(おほぢ)を渡(わた)して、東国へ下(くだ)るべきとぞ聞(き)こえける。然(さ)れども朝敵(てうてき)の者(もの)の獄門(ごくもん)に懸(か)けらるべきこそ大路を渡せ、是(これ)は頼朝(よりとも)が敵(かたき)義経(よしつね)が郎等(らうどう)をや。別(べつし)て渡(わた)さるべき首(くび)ならずと、公卿(くぎやう)より仰(おほ)せられければ、北条(ほうでう)理(ことわり)とて渡さず。小四郎(こしらう)五十騎の勢(せい)を具(ぐ)して、首(くび)を持(も)たせて関東(くわんとう)へ下(くだ)る。正月廿日に下著(げちやく)し、二十一日に鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れて、「謀反(むほん)の者(もの)の首(くび)取(と)りて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「何処(いづく)の国(くに)の、誰がしと申(まう)す者(もの)ぞ」と御尋(おんたづ)ねある。「判官(はうぐわん)殿(どの)の郎等(らうどう)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)と申(まう)す者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「討手(うつて)は誰(たれ)」と仰(おほ)せければ、北条(ほうでう)とぞ申(まう)しける。始(はじ)めたる事(こと)にては無(な)けれ共(ども)、いしうし給(たま)ひつるとの御気色(ごきしよく)なり。自害(じがい)の体(てい)、最後(さいご)の時(とき)の
P254
言葉(ことば)、細々(こまごま)と申(まう)されければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)「あはれ剛(かう)の者(もの)かな。人毎(ごと)に此(こ)の心(こころ)を持(も)たばや。九郎につきたる若党(わかたう)一人として愚(おろ)かなる者(もの)無(な)けれ。秀衡(ひでひら)も見(み)る所(ところ)有(あ)りてこそ多(おほ)くの侍(さぶらひ)共(ども)の中に、是(これ)等(ら)兄弟(きやうだい)をば付(つ)けつらめ。如何(いか)なれば、東国に是(これ)程(ほど)の者無(な)かるらん。余(よ)の者(もの)百人を召(め)し使(つか)はんよりも九郎が志(こころざし)をふつと忘(わす)れて、頼朝(よりとも)に仕(つか)へば、大国(たいこく)小国(せうごく)は知(し)らず、八ケ国(はつかこく)に於(おい)ては何(いづ)れの国にても一国は」とぞ仰(おほ)せける。千葉(ちば)、葛西(かさい)是(これ)を承(うけたまは)り、「あはれ由(よし)無(な)き者(もの)の有様(ありさま)かな。生きてだにも候(さうら)ふ物(もの)ならば」とぞ申(まう)しける。畠山(はたけやま)申(まう)されけるは、「心(こころ)及(およ)ばず、よくこそ死(し)に候(さうら)へばこそ君(きみ)も御気色(ごきしよく)にて候(さうら)へ。生(い)きて取(と)り下(くだ)り参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるに、判官(はうぐわん)殿(どの)の御行衛(ゆくへ)知(し)らぬ事(こと)はよも有(あ)らじとて、糾問(きうもん)強(つよ)くせられ参(まゐ)らせなば、生(い)きたる甲斐(かひ)も候(さうら)ふまじ。遂(つひ)に死(し)ぬべき者(もの)の、余(よ)の侍(さぶらひ)共(ども)に顔(かほ)を守(まぼ)られんも心(こころ)憂(う)かるべし。忠信(ただのぶ)程(ほど)の剛(かう)の者(もの)の日本を賜(た)ぶとも、判官(はうぐわん)殿(どの)の御志(おんこころざし)を忘(わす)れ参(まゐ)らせて、君(きみ)に堅固(けんご)使(つか)はれ参(まゐ)らせ候(さうら)ふまじき物(もの)をや」と、残(のこ)る所(ところ)無(な)くぞ申(まう)されける。大井宇都宮(うつのみや)のは袖を引(ひ)き、膝(ひざ)をさして、「よくよく申(まう)し給(たま)へる物(もの)かな。初(はじ)めたる事(こと)にては無(な)けれども」とぞ囁(ささや)きける。「後代の例(ためし)に首(くび)をば懸(か)けよ」とて、堀(ほり)の弥太郎(やたらう)承(うけたまは)りて、座敷(ざしき)より立(た)ちて、由井(ゆゐ)の浜(はま)八幡(はちまん)の鳥居(とりゐ)の東(ひがし)にぞ懸(か)けける。三日過(す)ぎて御尋(おんたづ)ね有(あ)りければ、「未(いま)だ浜(はま)に候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、
P255
「不便(ふびん)なり。国(くに)遠(とほ)ければ、親(した)しき者(もの)知(し)らで取(と)らざるらめ。剛(かう)の者(もの)の首(くび)を久(ひさ)しく晒(さら)しては、所(ところ)の悪魔(あくま)となる事(こと)有(あ)り。首(くび)を召(め)し返(かへ)せ」とて、只(ただ)も捨(す)てられず、左馬頭殿(さまのかみどの)の御孝養(けうやう)に作られたる勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに埋(うづ)めらる。猶(なほ)も不便(ふびん)にや思(おぼ)し召(め)されけん、別当(べつたう)の方(かた)へ仰(おほ)せ有(あ)りて、一百三十六部の経(きやう)を書(か)きて供養(くやう)せられけり。昔(むかし)も今(いま)も是(これ)程(ほど)の弓取(ゆみとり)有(あ)らじとぞ申(まう)しける。
判官(はうぐわん)南都(なんと)へ忍(しの)び御出(おいで)ある事 S0604
さても判官(はうぐわん)は南都(なんと)勧修坊(くわんじゆばう)の許(もと)へ御座(おは)しましたりける程(ほど)に、勧修坊(くわんじゆばう)是(これ)を見(み)奉(たてまつ)りて、大(おほ)きに悦(よろこ)び、幼少(えうせう)の時(とき)より崇(あが)め奉(たてまつ)りける普賢(ふげん)、虚空蔵(こくうざう)の渡(わた)らせ給(たま)ひける仏殿(ぶつでん)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、様々(さまざま)に労(いたは)り奉(たてまつ)る。折々(をりをり)毎(ごと)に申(まう)されけるは、「御身(おんみ)は三年(みとせ)に平家(へいけ)を亡(ほろ)ぼし給(たま)ひ、多(おほ)くの人の命を失(うしな)ひ給(たま)ひしかば、其(そ)の罪(つみ)如何(いか)でか逃(のが)れ給(たま)ふべき。一心に御菩提心(ごぼだいしん)を起(お)こさせ給(たま)ひて、高野(かうや)粉河(こかは)に閉(と)ぢ籠(こも)り、仏(ほとけ)の御名を唱(とな)へさせ給(たま)ひて、今生(こんじやう)幾程(いくほど)ならぬ来世(らいせ)を助(たす)からんと思(おぼ)し召(め)されずや」と勧(すす)め奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、判官(はうぐわん)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「度々仰(おほ)せ蒙(かうぶ)り候(さうら)へども、今(いま)一両年(いちりやうねん)もつれなき髻(もとどり)付(つ)けてこそつらつら世の有様(ありさま)も見(み)ん」とこそ宣(のたま)ひけれ。然(さ)れども
P256
若(も)しや出家(しゆつけ)の心(こころ)も出(い)で来給(たま)ふと尊(たつと)き法文(ほふもん)などを常(つね)には説(と)き聞(き)かせ奉(たてまつ)り給(たま)ひけれども、出家(しゆつけ)の御(おん)心(こころ)は無(な)かりけり。夜は御徒然(おんつれづれ)なる儘(まま)に、勧修坊(くわんじゆばう)の門外(もんぐわい)に佇(たたず)み、笛(ふえ)を吹(ふ)き鳴(な)らし、慰(なぐさ)ませ給(たま)ひける程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)奈良(なら)法師(ほふし)の中に、但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。同宿(だうじゆく)に和泉(いづみ)、美作(みまさか)、弁君(べんのきみ)、是(これ)等(ら)六人与(くみ)して申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)南都(なんと)にて悪行(あくぎやう)無道(ぶたう)なる名を取(と)りたれども、別に為(し)出(い)だしたる事(こと)もなし。いざや、夜々佇(たたず)みて、人の持(も)ちたる太刀(たち)奪(うば)ひて、我(われ)等(ら)が重宝(ちようほう)にせん」とぞ言(い)ひける。「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、夜々(よるよる)人の太刀(たち)を奪(と)り歩(あり)く。樊■(はんくわい)が謀(はかりこと)をなすも斯(か)くやらん。但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)申(まう)しけるは、「日頃(ひごろ)は有(あ)りとも覚(おぼ)えぬ冠者(くわんじや)極(きは)めて色(いろ)白(しろ)く、背(せい)も小(ちひ)さきが、良(よ)き腹巻(はらまき)著(き)て、黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)の心(こころ)も及(およ)ばぬを帯(は)き、勧修坊(くわんじゆばう)の門外(もんぐわい)に夜(よ)な夜(よ)な佇(たたず)むが、己(おのれ)が太刀やらん、主(しゆう)の太刀(たち)やらん、主(ぬし)には過分(くわぶん)したる太刀(たち)なり。いざ寄(よ)りて奪(と)らん」とぞ申(まう)しける。美作(みまさか)申(まう)しけるは、「あはれ詮(せん)無(な)き事(こと)を宣(のたま)ふものかな。此(こ)の程(ほど)の九郎判官(はうぐわん)殿(どの)の吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)に攻(せ)められて、勧修坊(くわんじゆばう)を頼みて御座(おは)すると聞(き)く。只(ただ)置(お)かせ給(たま)へ」と申(まう)せば、「それは臆病(おくびやう)の至(いた)る所(ところ)ぞ。など奪(と)らざらん」と言(い)へば、「それはさる事(こと)にて便宜(びんぎ)悪(あ)しくては如何(いかが)あるべからん」と申(まう)しければ、「然(さ)ればこそ毛(け)を吹(ふ)いて疵(きず)を求(もと)むるにてあれ。人の横紙(よこがみ)を破(やぶ)るになれば、さこそあれ」とて勧修坊(くわんじゆばう)
P257
の辺(ほとり)を狙(ねら)ふ。「各々(おのおの)六人、築地(ついぢ)の蔭(かげ)の仄暗(ほのくら)き所(ところ)に立(た)ちて、太刀(たち)の鞘(さや)に腹巻(はらまき)の草摺(くさずり)を投(な)げかけて、「此処(ここ)なる男(をとこ)の人を打(う)つぞや」と言(い)はば、各々(おのおの)声(こゑ)に付(つ)きて走(はし)り出(い)で、「如何(いか)なる痴者(しれもの)ぞ。仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の所(ところ)に度々(たびたび)慮外(りよぐわい)して罪(つみ)作(つく)るこそ心得(こころえ)ね。命(いのち)な殺(ころ)しそ。侍(さぶらひ)ならば髻(もとどり)を切(き)つて寺中(じちゆう)を追(お)へ。凡下(ぼんげ)ならば耳(みみ)鼻(はな)を削(けづ)りて追(お)ひ出(い)だせ」とて、奪(と)らぬは不覚人(ふかくじん)共」とて、ひしひしと出(い)で立(た)ち進(すす)みけり。判官(はうぐわん)は何時(いつ)もの事(こと)なれば、心(こころ)を澄(す)まして、笛(ふえ)を吹(ふ)き給(たま)ひて御座(おは)しけり。興(きよう)がる風情(ふぜい)にて通(とほ)らんとする者(もの)有(あ)り。判官(はうぐわん)の太刀(たち)の尻鞘(しりざや)に腹巻(はらまき)の草摺(くさずり)をからりとあてて、「此処(ここ)なる男(をとこ)の人を打(う)つぞや」と言(い)ひければ、残りの法師(ほふし)共(ども)「さな言(い)はせそ」とて三方(さんぱう)より追(お)ひかかりたり。斯(か)かる難(なん)こそ無(な)けれと思(おぼ)し召(め)し、太刀(たち)抜(ぬ)いて、築地(ついぢ)を後(うし)ろに宛(あ)てて待(ま)ち懸(か)け給(たま)ふ所(ところ)に長刀(なぎなた)差(さ)し出(い)だせば、ふつと
P258
切(き)り、長刀(なぎなた)小刃刀(こぞりは)の間(あひだ)に四つ切(き)り落(おと)し給(たま)へり。斯様(かやう)に散々(さんざん)に切(き)り給(たま)へば、五人をば同(おな)じ枕(まくら)に切(き)り伏(ふ)せ給(たま)ふ。但馬(たじま)手(て)負(お)うて逃(に)げて行(ゆ)くを、切所(せつしよ)に追(お)つかけ、太刀(たち)の脊(むね)にて叩(たた)き伏(ふ)せ、生(い)けながら掴(つか)んで捕(と)り給(たま)ふ。「汝(おのれ)は南都(なんと)にては誰(たれ)と言(い)ふ者(もの)ぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)」と申(まう)しければ、「命は惜(を)しきか」と宣(のたま)へば、「生(しやう)を受(う)けたる者(もの)の、命惜(を)しからぬ者(もの)や御座(ござ)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「さては聞(き)くには似(に)ず、汝(おのれ)は不覚人(ふかくじん)なりけるや。首(かうべ)を切(き)つて捨(す)てばやと思(おも)へども、汝(おのれ)は法師(ほふし)なり。某(それがし)は俗(ぞく)なり。俗(ぞく)の身として僧(そう)を切(き)らん事(こと)仏(ほとけ)を害(がい)し奉(たてまつ)るに似(に)たれば、汝(おのれ)をば助(たす)くるなり。此(こ)の後斯様(かやう)の狼藉(らうぜき)すべからず。明日南都(なんと)にて披露(ひろう)すべき様(やう)は、「某(それがし)こそ源九郎と組(く)むだりつれ」と言(い)はば、さては剛(かう)の者(もの)と言(い)はれんずるぞ。印(しるし)は如何(いか)にと人問(と)はば、無(な)しと答(こた)へては、人用(もち)ゐべからず。是(これ)を印(しるし)にせよ」とて、大(だい)の法師(ほふし)を取(と)つて仰(あふの)け、胸(むね)を踏(ふ)まへ、刀(かたな)を抜(ぬ)きて、耳(みみ)と鼻(はな)を削(けづ)りて放(はな)されけり。中々(なかなか)死(し)したらばよかるべしと、歎(なげ)きけれども甲斐(かひ)ぞ無(な)き。其(そ)の夜南都(なんと)をば掻(か)き消(け)す様(やう)にぞ失(う)せにける。判官(はうぐわん)は此(こ)の中夭(ちゆうえう)に会(あ)はせ給(たま)ひて、勧修坊(くわんじゆばう)に帰(かへ)りて、持仏堂(ぢぶつだう)に得業(とくご)を呼(よ)び奉(たてまつ)りて、暇(いとま)申(まう)して、「是(これ)にて年を送(おく)りたく候(さうら)へども、存ずる旨(むね)候(さうら)ふ間(あひだ)、都(みやこ)へ罷(まか)り出(い)で候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)の御名残(おんなごり)尽(つ)くし難(がた)く候(さうら)ふ。若(も)し憂(う)き世にながらへ候(さうら)はば、申(まう)すに及(およ)ばず。
P259
又(また)死(し)して候(さうら)ふと聞召(きこしめ)し候(さうら)はば、後世(ごせ)を頼(たの)み奉(たてまつ)る。師弟(してい)は三世の契(ちぎ)りと申(まう)し候(さうら)へば、来世(らいせ)にて必(かなら)ず参会(さんくわい)し奉(たてまつ)り候(さうら)ふべし」とて、出(い)でんとし給(たま)へば、得業(とくご)は「如何(いか)なる事(こと)ぞや。暫(しばら)く是(これ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふべきかと存(ぞん)じ候(さうら)ひつるに、思(おも)ひの外(ほか)御出(おい)で候(さうら)はんずるこそ心(こころ)得(え)難(がた)く候(さうら)へ。如何様(いかさま)人の中言(ちゆうげん)について候(さうら)ふと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。たとひ如何(いか)なる事(こと)を人申(まう)し候(さうら)ふ共(とも)、身として用(もち)ゐべからず。暫(しば)し是(これ)に御座(おは)しまして、明年の春(はる)の頃(ころ)、何方(いづかた)へも渡(わた)らせ給(たま)へ。努々(ゆめゆめ)叶(かな)ひ候(さうら)ふまじ」と、御名残(おんなごり)惜(を)しき儘(まま)留(と)め奉(たてまつ)り給(たま)へば、判官(はうぐわん)申(まう)されけるは、「今宵(こよひ)こそ名残(なごり)惜(を)しく思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふとも、明日門外(もんぐわい)に候(さうら)ふ事(こと)御覧(ごらん)じ候(さうら)ひなば、義経(よしつね)が愛想(あいさう)も尽(つ)きて思(おぼ)し召(め)されんずる」と仰(おほ)せられければ、勧修坊(くわんじゆばう)是(これ)を聞(き)きて、「如何様(いかやう)にも今宵(こよひ)中夭(ちゆうえう)に会(あ)はせ給(たま)ふと覚(おぼ)えて候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)若(わか)大衆(だいしゆ)共(ども)朝恩(てうおん)の余(あま)りに夜(よ)な夜(よ)な人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る由(よし)承(うけたまは)りつるが、御帯刀(おんばかせ)世(よ)に超(こ)えたる御太刀(たち)なれば、取(と)り奉(たてまつ)らんとて、し奴(やつ)原(ばら)が切(き)られ参(まゐ)らせて候(さうら)ふらん。それに付(つ)けては何事(なにごと)の御大事(だいじ)か候(さうら)ふべき。聊爾(れうじ)に聞こえ候(さうら)はば、得業(とくご)が為(ため)に節々(ふしふし)なる様(やう)も候(さうら)ふらん。定(さだ)めて関東(くわんとう)へも訴(うつた)へ、都(みやこ)に北条(ほうでう)御座(おは)しまし候(さうら)へば、時政(ときまさ)私(わたくし)には適(かな)ふまじとて、関東(くわんとう)へ仔細(しさい)を申(まう)されんずらん。鎌倉(かまくら)殿(どの)も左右(さう)無(な)く宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)無(な)くては、南都(なんと)へ大勢(おほぜい)をばよも向(む)けられ候(さうら)はじ。其(そ)の程の儀にて候(さうら)はば、御身(おんみ)平家(へいけ)追討(ついたう)の後(のち)は都(みやこ)に御座(おは)しまして、一天(いつてん)の君(きみ)
P260
の御覚(おぼ)えもめでたく、院(ゐん)の御感(ぎよかん)にも入(い)り給(たま)ひしかば、宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)も申(まう)させ給(たま)はんに、誰(たれ)か劣(おと)るべき。御身(おんみ)は都(みやこ)に在京(ざいきやう)して、四国九国(くこく)の軍兵(ぐんびやう)を召(め)さんに、などか参(まゐ)らで候(さうら)ふべき。畿内(きない)中国の軍兵(ぐんびやう)も一(ひと)つになりて参(まゐ)るべし。鎮西(ちんぜい)の菊地(きくち)、原田(はらた)、松浦(まつら)、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)の者共(ども)召(め)されんずに参(まゐ)らずは、片岡(かたをか)、武蔵(むさし)などの荒者(あらもの)共(ども)を差(さ)し遣(つか)はし、少々追討(ついたう)し給(たま)へ。他所は乱(みだ)るる事(こと)も候(さうら)ひなん。半国(はんごく)一(ひと)つになり、荒乳(あらち)の中山(なかやま)、伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)を切(き)り塞(ふさ)ぎ、逢坂(あふさか)の関(せき)を一(ひと)つにして、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の代官(だいくわん)関(せき)より西(にし)へ入(い)れん事(こと)あるべからず。得業(とくご)も斯(か)くて候(さうら)へば、興福寺(こうぶくじ)、東大寺(とうだいじ)、山(やま)、三井寺(みゐでら)、吉野(よしの)、十津川(とづかは)、鞍馬(くらま)、清水(きよみづ)一(ひと)つにして参(まゐ)らせん事(こと)は安(やす)き事(こと)にてこそ候(さうら)へ。それも適(かな)ふまじく候(さうら)はば、得業(とくご)が一度の恩(おん)をも忘(わす)れじと思(おも)ふ者(もの)二三百人、彼等(かれら)を召(め)して城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、櫓(やぐら)をかき、御内(みうち)に候(さうら)ふ一人当千(たうぜん)の兵(つはもの)共(ども)を召(め)し具(ぐ)して、櫓(やぐら)へ上(あ)がりて弓(ゆみ)取(と)りて候(さうら)はば、心(こころ)剛(かう)なる者(もの)共(ども)に軍(いくさ)せさせて、余所(よそ)にて物(もの)を見(み)候(さうら)ふべし。自然(しぜん)味方(みかた)亡(ほろ)び候(さうら)はば、幼少(えうせう)の時(とき)より頼(たの)み奉(たてまつ)る本尊(ほんぞん)の御前にて、得業(とくご)持経(ぢきやう)せば、御身(おんみ)は念仏(ねんぶつ)申(まう)させ給(たま)ひて、腹(はら)を切(き)らせ給(たま)へ。得業(とくご)も剣(けん)を身(み)に立(た)てて、後生(ごしやう)まで連(つ)れ参(まゐ)らせん。今生(こんじやう)は御祈(いの)りの師、来世(らいせ)は善智識(ぜんちしき)にてこそ候(さうら)はんずれ」と世(よ)に頼(たの)もしげにぞ申(まう)されける。是(これ)に付(つ)けても暫(しばら)く有(あ)らまほしく思(おも)はれけれども、世の人の心(こころ)も知(し)り難(がた)く、我(わ)が朝(てう)には義経(よしつね)より外はと思(おも)ひつるに、此(こ)の
P261
得業(とくご)は世に超(こ)えたる人にて御座(おは)しけると思(おぼ)し召(め)されければ、やがて其(そ)の夜の内(うち)に南都(なんと)を出(い)でさせ給(たま)ひけり。争(いか)でか独(ひと)りは出(い)だし参(まゐ)らせんなれば、我(わ)が為(ため)心(こころ)安(やす)き御弟子六人を付(つ)け奉(たてまつ)り、京へぞ送(おく)り奉(たてまつ)りける。「六条(ろくでう)堀河(ほりかは)なる所(ところ)に暫(しばら)く待(ま)ち給(たま)へ」とて、行方(ゆきかた)知(し)らず失(う)せ給(たま)ひぬ。六人の人々(ひとびと)空(むな)しくぞ帰(かへ)りける。それより後(のち)は勧修坊(くわんじゆばう)も判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)をば知(し)り奉(たてまつ)らず。され共(ども)奈良(なら)には人多(おほ)く死(し)にぬ。但馬(たじま)や披露(ひろう)したりけん、判官(はうぐわん)殿(どの)勧修坊(くわんじゆばう)の許(もと)にて謀反(むほん)起(お)こして、語(かた)らふ所(ところ)の大衆(だいしゆ)従(したが)はぬをば、得業(とくご)判官(はうぐわん)に放(はな)ち合(あ)はせ奉(たてまつ)るとぞ風聞しける。
関東(くわんとう)より勧修坊(くわんじゆばう)を召(め)さるる事 S0605
南都(なんと)に判官(はうぐわん)殿(どの)在(おは)します由(よし)六波羅(ろくはら)に聞(き)こえければ、北条(ほうでう)大(おほ)きに驚(おどろ)き、急(いそ)ぎ鎌倉(かまくら)へ申(まう)されけり。頼朝(よりとも)梶原(かぢはら)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、「南都(なんと)の勧修坊(くわんじゆばう)と言(い)ふ者(もの)の、九郎に与(くみ)して世を乱(みだ)するなるが、奈良(なら)法師(ほふし)も大勢討(う)たれてあるなり。和泉(いづみ)、河内(かはち)の者(もの)共(ども)九郎に思(おも)ひつかぬ先(さき)に、これ計(はか)らへ」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「それこそゆゆしき御大事(だいじ)にて候(さうら)へ。僧徒(そうと)の身(み)として、然様(さやう)の事(こと)思(おぼ)し召(め)し立(た)ち候(さうら)はんこそ不思議(ふしぎ)に候(さうら)へ」と申(まう)す所(ところ)に、又(また)北条(ほうでう)より飛脚(ひきやく)到来(とうらい)し
P262
て、判官(はうぐわん)南都(なんと)には在(おは)せず、得業(とくご)の計(はか)らひにて隠(かく)し奉(たてまつ)る由(よし)申(まう)されければ、梶原(かじはら)申(まう)しけるは、「さらば宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)をも御申(まう)し候(さうら)ひて、勧修坊(くわんじゆばう)を是(これ)へ下(くだ)し奉(たてまつ)りて、判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)を御尋(おんたづ)ね候(さうら)へ。陳状(ちんじやう)に随(したが)ひて、死罪(しざい)流罪(るざい)にも」と申(まう)しければ、急ぎ堀(ほり)の藤次(とうじ)親家(ちかいへ)に仰(おほ)せ付(つ)けられ、五十余騎(よき)にて馳(は)せ上(のぼ)り、六波羅(ろくはら)に著(つ)きて、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、北条(ほうでう)殿(どの)親家(ちかいへ)を召(め)し具(ぐ)して、院(ゐん)の御所に参(さん)じて、仔細(しさい)を申(まう)されければ、院宣(ゐんぜん)には「まろが計(はか)らひにあるべからず。勧修坊(くわんじゆばう)と言(い)ふは、当帝(たうだい)の御祈(いの)りの師、仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の有験(うげん)、広大(くわうだい)慈悲(じひ)の智識(ちしき)なり。内裏(だいり)へ巨細(こさい)を申(まう)さでは叶(かな)ふまじ」とて、内裏(だいり)へ仰(おほ)せられければ、「仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の験(げん)たる人にても、然様(さやう)に僻事(ひがこと)などを企(くはだ)てんに於(おい)ては、朕(ちん)も叶(かな)はせ給(たま)ふべからず。頼朝(よりとも)が憤(いきどほ)る所(ところ)理(ことわり)ならずと言(い)ふ事(こと)なし。義経(よしつね)も本朝(ほんてう)の敵(てき)たる上(うへ)は、勧修坊(くわんじゆばう)を渡すべし」と宣旨(せんじ)下(くだ)りければ、時政(ときまさ)悦(よろこ)びをなして、三百余騎(よき)にて南都(なんと)に馳(は)せ下(くだ)りて、勧修坊(くわんじゆばう)にして宣旨(せんじ)の趣(おもむき)披露(ひろう)せられたり。得業(とくご)是(これ)を聞(き)きて、「世(よ)は末代(まつだい)と言(い)ひながら、王法(わうぼふ)の尽(つ)きぬるこそ悲(かな)しけれ。上古(しやうこ)は宣旨(せんじ)と申(まう)しければ、枯(か)れたる草木も花(はな)咲(さ)き実(み)を結(むす)び、空(そら)飛(と)ぶ翼(つばさ)も落(お)ちけるとこそ承(うけたまは)り伝(つた)へしに、然(さ)れば今(いま)は世(よ)も斯様(かやう)なれば、末(すゑ)の代(よ)も如何(いかが)有(あ)らんずらん」とて、涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。「仮令(たとひ)宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)なりとも、南都(なんと)にてこそ屍(かばね)を捨(す)つべけれども、それも僧徒(そうと)の身として穏便(おんびん)ならねば、
P263
東国(とうごく)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)は諸法も知(し)らぬ人にてあるなるに、次(ついで)もがな関東(くわんとう)へ下(くだ)りて兵衛佐(ひやうゑのすけ)を教化(けうけ)せばやと思(おも)ひつるに、下(くだ)れと仰(おほ)せらるるこそ嬉(うれ)しけれ」とて、やがて出(い)で立(た)ち給(たま)ひけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)の君達(きんだち)学問(がくもん)の志(こころざし)御座(おは)しましければ、師弟(してい)の別(わか)れを悲(かな)しみ、東国まで御供(おんとも)申(まう)すべき由(よし)を申(まう)し給(たま)へども、得業(とくご)仰(おほ)せられけるは、「努々(ゆめゆめ)あるべからず。身罪過(ざいくわ)の者(もの)にて召(め)し下(くだ)され候(さうら)ふ間(あひだ)、咎(とが)とて其(そ)の難(なん)をば争(いかで)か遁(のが)れさせ給(たま)ふべき」と諌(いさ)め給(たま)へば、泣(な)く泣(な)く後(あと)に止(とど)まり給(たま)ふ。「ともかくもなりぬと聞召(きこしめ)されば、跡(あと)を弔(とぶら)はせ給(たま)へ。若し存命(ながら)へて如何(いか)なる野の末(すゑ)、山(やま)の奥(おく)にも有(あ)りと聞(き)き給(たま)はば、訪(とぶら)ひ渡(わた)らせ給(たま)へ」と、泣(な)く泣(な)く思(おも)ひ切(き)りて出(い)で給(たま)ふ。此(こ)の別(わか)れを物(もの)に譬(たと)ふれば、釈尊(しやくそん)入滅(にふめつ)の時(とき)十六羅漢(らかん)、五百人の御弟子、五十二類(るい)に至(いた)るまで悲(かな)しみ奉(たてまつ)りしも、争(いかで)か是(これ)には勝(まさ)るべき。かくて得業(とくご)北条(ほうでう)に具せられて、平(たひら)の京へ入(い)り給(たま)ふ。六条(ろくでう)の持仏堂(ぢぶつだう)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、様々(やうやう)にぞ労(いたは)り奉(たてまつ)る。江馬(えま)の小四郎申(まう)されけるは、「何事(なにごと)をも思(おぼ)し召(め)し候(さうら)はば、承(うけたまは)り候(さうら)ひて、南都(なんと)へ申(まう)すべく候(さうら)ふ」と申(まう)されければ、何事(なにごと)をか申(まう)すべき。但(ただ)し此(こ)の辺(へん)に年来知(し)りたる方(かた)候(さうら)ふ。是(これ)へ参(まゐ)り候(さうら)ふを聞(き)きては尋(たづ)ぬべき人に候(さうら)ふが、来(き)たられ候(さうら)はぬは、如何様(いかさま)にも世に憚(はばか)りをなし候(さうら)ひてと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。苦(くる)しかるまじく候(さうら)はば、此(こ)の人に見参(げんざん)し下(くだ)らばや」と仰(おほ)せられければ、義時(よしとき)「御名をば何(なに)
P264
と申(まう)すぞ。元(もと)は黒谷(くろだに)に居(ゐ)られ候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)は東山(ひがしやま)に法然房(ほうねんばう)」と仰(おほ)せられければ、「さては近(ちか)き所(ところ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふ上人(しやうにん)の御事(おんこと)候(ざふらふ)」とて、やがて御使(おんつかひ)を奉(たてまつ)る。上人(しやうにん)大(おほ)きに悦(よろこ)びて急(いそ)ぎ来(き)たり給(たま)ふ。二人(ふたり)の智識(ちしき)御目を見(み)合(あ)はせ、互(たが)ひに涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。勧修坊(くわんじゆばう)仰(おほ)せられけるは、「見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ事(こと)は悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へども、面目(めんぼく)無(な)き事(こと)の候(さうら)ふぞ。僧徒(そうと)の法(ほふ)として謀反(むほん)の人に与(くみ)したりとて、東国まで取(と)り下(くだ)され候(さうら)ふ。其(そ)の難(なん)を逃(のが)れて帰(かへ)らん事(こと)も不定(ふぢやう)なり。然(さ)れば往昔(いにしへ)より「先(さき)に立(た)ち参(まゐ)らせば、弔(とぶら)はれ参(まゐ)らせん。先(さき)に立(た)たせ給(たま)ひ候(さうら)はば、御菩提(ぼだい)を訪(とぶら)ひ参(まゐ)らせん」と契(ちぎ)り申(まう)して候(さうら)ひしに、先立(さきだ)ち参(まゐ)らせて訪(とぶら)はれ参(まゐ)らせんこそ悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へ。是(これ)を持仏堂(ぢぶつだう)の前(まへ)に置(お)かせ給(たま)ひ、御目(め)にかかり候(さうら)はん度毎(たびごと)に思(おも)ひ出(い)で、後世(ごせ)を訪(とぶら)ひて賜(たま)はり候(さうら)へ」とて、九条(くでう)の袈裟(けさ)を外(はず)して奉(たてまつ)り給(たま)へば、東山(ひがしやま)の上人(しやうにん)泣(な)く泣(な)く受(う)け取(と)り給(たま)ひけり。東山の上人(しやうにん)紺地(こんぢ)の錦(にしき)の経袋(きやうぶくろ)より一巻の法華経(ほけきやう)を取(と)り出(い)だし、勧修坊(くわんじゆばう)に参(まゐ)らせ給(たま)ふ。互(たが)ひに形見(かたみ)取(と)り違(ちが)へて、上人(しやうにん)帰(かへ)り給(たま)ひければ、得業(とくご)六条(ろくでう)に留(とど)まりて、いとど涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。此(こ)の勧修坊(くわんじゆばう)と申(まう)すは、本朝大会(だいゑ)の大伽藍(だいがらん)、東大寺(とうだいじ)の院主(ゐんじゆ)、当帝(たうだい)の御師となり、広大(くわうだい)慈悲(じひ)の智識(ちしき)なり。院参(ゐんざん)し給(たま)ふ時(とき)、腰輿(えうよ)牛車(ぎうしや)に召(め)されて、鮮(あざ)やかなる中童子(ちゆうどうじ)、大童子(だいどうじ)、然(しか)るべき大衆(だいしゆ)数多(あまた)御供(おんとも)して参(まゐ)られし時(とき)は、左右の大臣も各々(おのおの)渇仰(かつがう)し給(たま)ひ
P265
しぞかし。今(いま)は何時(いつ)しか引(ひ)き替(か)へて、日来(ひごろ)著給(たま)ひし素絹(そけん)の御衣(ころも)をば召(め)されず、麻(あさ)の衣(ころも)の賎(いや)しきに、剃(そ)らで久(ひさ)しき御髪(みぐし)、護摩(ごま)の煙(けぶり)にふすぶる御気色(みけしき)、中々(なかなか)尊(たつと)くぞ見(み)奉(たてまつ)る。六波羅(ろくはら)を出(い)だし奉(たてまつ)りて、見(み)馴(な)れぬ武士(ぶし)を御覧(ごらん)じけるだに悲(かな)しきに、浅(あさ)ましげなる伝馬(てんま)に乗(の)せ奉(たてまつ)る。所々(ところどころ)の落馬は目(め)も当(あ)てられず覚(おぼ)えたり。粟田口(あはたぐち)打(う)ち過(す)ぎて、松坂(まつざか)越(こ)えて、是(これ)や逢坂(あふさか)の蝉丸(せみまる)の住(す)み給(たま)ひし、四宮河原(しのみやかはら)を打(う)ち過(す)ぎて、逢坂(あふさか)の関(せき)越(こ)えければ、小野(をの)の小町(こまち)が住(す)み馴(な)れし関寺(せきでら)を伏(ふ)し拝(おが)み、園城寺(をんじやうじ)を弓手(ゆんで)になし、大津(おほつ)、打出(うちで)の浜(はま)過(す)ぎて、勢多(せた)の唐橋(からはし)踏(ふ)みならし、野路(のぢ)篠原(しのはら)も近(ちか)くなり忘(わす)れんとすれど忘(わす)れず、常(つね)に都(みやこ)の方(かた)を顧(かへり)みて行(ゆ)けば、様々(やうやう)都(みやこ)は遠(とほ)くなりにけり。音(おと)には聞(き)きて、目(め)には見(み)ぬ小野(をの)の摺針(すりばり)、霞(かすみ)に曇(くも)る鏡山(かがみやま)、伊吹(いぶき)の岳(だけ)も近(ちか)くなる。其(そ)の日は堀(ほり)の藤次(とうじ)鏡(かがみ)の宿(しゆく)に留(と)まり、次(つぎ)の日は痛(いた)はしくや思(おも)ひけん、長者(ちやうじや)
P266
に輿(こし)を借(か)りて乗(の)せ奉(たてまつ)る。「都(みやこ)を御出(おいで)の時、かくこそ召(め)させ参(まゐ)らすべく候(さうら)ひしかども、鎌倉(かまくら)の聞(き)こえ其(そ)の憚(はばか)りにて御馬(うま)を参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるにて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、得業(とくご)、「道(みち)の程(ほど)の御情(なさけ)こそ悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へ」と仰(おほ)せられけるこそ哀(あは)れなれ。夜を日に継(つ)ぎて下(くだ)りける程(ほど)に、十四日に鎌倉(かまくら)に著(つ)き給(たま)ふ。堀(ほり)の藤次(とうじ)の宿所(しゆくしよ)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、四五日は鎌倉(かまくら)殿(どの)にも申(まう)し入(い)れず。或(あ)る時(とき)得業(とくご)に申(まう)しけるは、「御(おん)痛(いた)はしく候(さうら)ひて、鎌倉(かまくら)殿(どの)にも申(まう)し入(い)れず候(さうら)ひつれども何時(いつ)まで申(まう)さでは候(さうら)ふべきなれば、只今(ただいま)出仕(しゆつし)仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。今日御見参(げんざん)あるべきとこそ覚(おぼ)え候(さうら)ひぬ」と申(まう)しければ、「思(おも)ふも中々(なかなか)心(こころ)苦(ぐる)し。疾(と)くして見参(げんざん)に入(い)り、御問状(おんとひじやう)をも承(うけたまは)り候(さうら)ひて、愚存(ぐぞん)の旨(むね)を申(まう)し度(たく)こそ候(さうら)へ」と仰(おほ)せられければ、藤次(とうじ)頼朝(よりとも)へ参り、此(こ)の由(よし)申(まう)し入(い)る。梶原(かぢはら)を召(め)して、「今日中に得業(とくご)に尋(たづ)ね聞(き)くべき事(こと)有(あ)り。侍(さぶらひ)共(ども)召(め)せ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)りて召(め)しける侍(さぶらひ)は誰々(たれたれ)ぞ。和田(わだ)の小太郎(こたらう)義盛(よしもり)、佐原(さはら)の十郎(じふらう)、千葉介(ちばのすけ)、葛西(かさい)の兵衛(ひやうゑ)、豊田(とよた)の太郎、宇都宮(うつのみや)の弥三郎、海上(うなかみ)の次郎(じらう)、小山(をやま)の四郎、長沼(ながぬま)の五郎、小野寺(をのでら)の前司(ぜんじ)太郎(たらう)、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)、同(おな)じく小次郎(こじらう)、畠山(はたけやま)の二郎(じらう)、稲毛(いなげの)三郎(さぶらう)、梶原(かぢはら)平三(へいざう)父子(ふし)ぞ召(め)されける。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「勧修坊(くわんじゆばう)に尋(たづ)ね問(と)はんずる座敷(ざしき)には、何処(いづく)の程(ほど)かよかるべき」。梶原(かじはら)申(まう)しけるは、「御中門(ちゆうもん)の
P267
下口(しもくち)辺(へん)こそよく候(さうら)はん」と申(まう)しければ畠山(はたけやま)御前(おまへ)に畏(かしこ)まり申(まう)されけるは、「勧修坊(くわんじゆばう)の御座敷(ざしき)の事(こと)承(うけたまは)り候(さうら)ふに、梶原(かぢはら)は中門(ちゆうもん)の下口(しもくち)と申(まう)し上(あ)げ候(さうら)ふ。是(これ)は判官(はうぐわん)殿(どの)に与(くみ)し奉(たてまつ)りたりと言(い)ふ、其(そ)の故(ゆゑ)と覚え候(さうら)ふ。さすがに勧修坊(くわんじゆばう)と申(まう)すは、御俗姓(ぞくしやう)と申(まう)し、天子の御師匠(ごししやう)申(まう)し、東大寺(とうだいじ)の院主(ゐんじゆ)にて御座(おは)しまし候(さうら)ふ。御気色(みけしき)渡(わた)らせ給(たま)ふによつてこそ、是(これ)までも申(まう)し下(くだ)し参(まゐ)らせ御座(おは)しまして候(さうら)へ。さこそ遠国(をんごく)にて候(さうら)ふとも、座敷(ざしき)しどろにては、外処(よそ)の聞(き)こえ悪(あ)しく存(ぞん)じ候(さうら)ふ。下口(しもくち)などにての御尋(おんたづ)ねには一言(ひとこと)も御返事(ごへんじ)は申(まう)され候(さうら)はじ。只(ただ)同座(どうざ)の御対面(ごたいめん)や候(さうら)ふべからん」と申(まう)されたりければ、「頼朝(よりとも)もかくこそ思(おも)ひつれ」とて、御簾(みす)を日頃(ひごろ)より高(たか)く捲(ま)かせて、御座敷(ざしき)には紫端(むらさきべり)の畳(たたみ)、水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)にて御見参(げんざん)有(あ)り。堀(ほり)の藤次(とうじ)勧修坊(くわんじゆばう)を入(い)れ奉(たてまつ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)思(おぼ)し召(め)しけるは、何(なに)ともあれ、僧徒(そうと)なれば、糾問(きうもん)は叶(かな)ふまじ。言葉(ことば)を以(もつ)て責(せ)め伏(ふ)せて問(と)はんずる物(もの)をと思(おぼ)し召(め)しけり。得業(とくご)御座敷(ざしき)に居(ゐ)直(なほ)り給(たま)ひけれども、兎角(とかく)仰(おほ)せ出(い)だされたる事(こと)は無(な)くて、笑(わら)ひて、大(だい)の御眼(まなこ)にてはたと睨(にら)ませてぞ御座(おは)しける。得業(とくご)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、あはれ、人の心(こころ)の中(うち)もさこそ有(あ)るらめと思(おも)はれければ、手(て)を握(にぎ)りて膝(ひざ)の上(うへ)に置(お)きて、鎌倉(かまくら)殿(どの)をつくづくと守(まぼ)りて、御問状(おんとひじやう)も陳状(ちんじやう)もさこそ有(あ)らんずらんと覚(おぼ)えて、人々(ひとびと)固唾(かたづ)を呑(の)みて居(ゐ)たりけり。頼朝(よりとも)堀(ほり)の藤次(とうじ)を召(め)して、「是(これ)が勧修坊(くわんじゆばう)か」
P268
と仰(おほ)せられければ、親家(ちかいへ)畏(かしこ)まつてぞ候(さうら)ひける。暫(しばら)く有(あ)りて、鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「抑(そもそも)僧徒(そうと)と申(まう)すは、釈尊(しやくそん)の教法(けうぼふ)を学(まな)んで、師匠(ししやう)の閑室(かんしつ)に入(い)つしより此(こ)の方(かた)、意楽(いぎやう)を正(ただ)しく、三衣(さんゑ)を墨(すみ)に染(そ)めて、仏法(ぶつぽふ)を興隆(こうりう)し経論(きやうろん)諸経の前に眼(まなこ)をさらし、無縁(むえん)の人を弔(とぶら)ひ、結縁(けちえん)の者(もの)を導(みちび)くこそ、僧徒(そうと)の法(ほふ)とはして候(さうら)へ。何ぞ謀反(むほん)の者(もの)に与(くみ)して、世を乱(みだ)さんとの謀(はかりこと)世に隠(かく)れなし。九郎天下の大事(だいじ)になり、国土の乱を赴(おもむ)く者(もの)を入(い)れ立(た)てて、剰(あまつさ)へ奈良(なら)法師(ほふし)を我(われ)に与(くみ)せよと宣(のたま)ふに、用(もちゐざる)者(もの)をば九郎に放(はな)ち合(あ)はせて切(き)らせ給(たま)ふ条(でう)、甚(はなは)だ隠(おだ)しからず、それを不思議(ふしぎ)と思(おも)ふ所(ところ)に、猶(なほ)以(もつ)て「四国西国(さいこく)の軍兵(ぐんびやう)を一(ひと)つになし、中国畿内(きない)の者(もの)共(ども)を召(め)して、召(め)されんに参(まゐ)らざる者(もの)をば、片岡(かたをか)、武蔵(むさし)など申(まう)す荒者(あらもの)共(ども)を差(さ)し遣(つか)はし、追討(ついたう)して御覧(ごらん)ぜよ。他所は知(し)らず、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)は得業(とくご)が計(はか)らひなれば、叶(かな)へざらん時(とき)は討死(うちじに)せよ」なんどと勧(すす)め給(たま)ひたる事(こと)以(もつ)ての外(ほか)に覚(おぼ)え候(さうら)ふに、人を付(つ)けて都(みやこ)まで送(おく)られ候(さうら)ひけるは、九郎が有所(ありどころ)に於(おい)ては、知(し)りたるらん。虚言(きよごん)を構(かま)へず、正直(しやうじき)に申(まう)され候(さうら)へ。其(そ)の旨(むね)無(な)くば、健(すくや)かならん小舎人(ことねり)奴(め)等(ら)に仰(おほ)せ付(つ)けて、糾問(きゆうもん)を以(もつ)て尋(たづ)ねん時、頼朝(よりとも)こそ全(まつた)く僻事(ひがこと)の者(もの)には有(あ)るまじけれ」と、強(したた)かに問(と)はれ、勧修坊(くわんじゆばう)兎角(とかく)の返事(へんじ)は無(な)くて、はらはらと涙(なみだ)を流(なが)し、手(て)を握(にぎ)りて膝(ひざ)の上(うへ)に置(お)き、「万事を静(しづ)めて人々(ひとびと)聞(き)き給(たま)へ。抑(そもそも)聞(き)きも習(なら)はぬ
P269
言葉(ことば)かな。和(わ)僧(そう)は如何(いか)に得業(とくご)と名字(みやうじ)を呼(よ)びたり共(とも)、不覚人(ふかくじん)にてはよも有(あ)らじ。和(わ)僧(そう)と宣(のたま)ひたればとて、高名(かうみやう)も有(あ)るまじ。都(みやこ)にて聞(き)きしには、国(くに)の将軍(しやうぐん)となりて、斯(か)かる果報(くわほう)にも生(む)まれけり、情(なさけ)も御座(おは)すると聞(き)きしに、果報(くわほう)は生(む)まれつきの物なり。殿(との)の為(ため)にもいやいやの弟、九郎判官(はうぐわん)には遙(はる)かに劣(おと)り給(たま)ひたる人にて有(あ)りけるや。申(まう)すに付(つ)けて詮(せん)無(な)き事(こと)にては候(さうら)へども、平治(へいぢ)に御辺(ごへん)の父(ちち)下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)、衛門督(ゑもんのかみ)に与(くみ)して、京(きやう)の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けて、東国の方(かた)へ落(お)ち給(たま)ひし時、義平(よしひら)も斬(き)られぬ、朝長(ともなが)も死(し)にぬ、明(あ)くる正月(むつき)の初(はじ)めには、父(ちち)も討(う)たれしに、御辺(ごへん)の命死(し)し兼(か)ねて、美濃国(みののくに)伊吹山(いぶきやま)の辺(へん)を迷(まよ)ひ歩(あり)き、麓(ふもと)の者(もの)共(ども)に生捕(いけど)られ、都(みやこ)まで引(ひ)き上(のぼ)せ、源氏(げんじ)の名を流(なが)し、既(すで)に誅(ちゆう)せられ給(たま)ふべかりしが、池殿(いけどの)の憐(あはれ)み深(ふか)くして、死罪(しざい)流罪(るざい)に申(まう)し行(おこな)ひて、弥平兵衛(やひやうびやうゑ)に預(あづ)け、永暦(えいりやく)の八月の頃(ころ)かとよ、伊豆の北条(ほうでう)奈古谷(なごや)の蛭(ひる)が島(しま)と言(い)ふ所(ところ)に流(なが)され、廿一年の星霜(せいざう)を経(へ)て、田舎人(いなかうど)となりて、さこそ頑(かたくな)はしくおはらすらめと思(おも)ひしに、少(すこ)しも違(たが)はざりけり。あら無慙(むざん)や、九郎判官(はうぐわん)と向背(きやうはい)し給(たま)ふ事(こと)理(ことわり)かな。判官(はうぐわん)と申(まう)すは情(なさけ)も有(あ)り、心(こころ)も剛(かう)なり。慈悲(じひ)も深(ふか)かりき。治承(ぢしよう)四年(しねん)の秋(あき)の頃(ころ)、奥州(あうしう)より馬(うま)の腹筋(はらすじ)馳(は)せ切(き)り、駿河(するが)の国浮島(うきしま)が原(はら)に下(お)り居(ゐ)て、一方(いつぱう)の大将軍(だいしやうぐん)請(う)け取(と)りて、一張(いつちやう)の弓(ゆみ)を脇(わき)に挟(はさ)み、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(は)きて、西海(さいかい)の波(なみ)に漂(ただよ)ひ、野山を家(いへ)とし、命(いのち)を捨(す)て、身を忘(わす)れ、
P270
何時(いつ)しか、平家(へいけ)を討(う)ち落(おと)して、御身(おんみ)をせめて一両年(いちりやうねん)世(よ)に有(あ)らせ奉(たてまつ)らばやと骨髄(こつずい)を砕(くだ)き給(たま)ひしに、人の讒言(ざんげん)今(いま)に始(はじ)めたる事(こと)にては候(さうら)はね共(ども)、深(ふか)き志(こころざし)を忘(わす)れて、兄弟(きやうだい)の仲(なか)不和(ふわ)になり給(たま)ひし事(こと)のみこそ、甚(はなは)だ以(もつ)て愚(おろか)なれ。親(おや)は一世(いつせ)の契(ちぎ)り、主は三世(ぜ)の契(ちぎ)りと申(まう)せども、是(これ)が始(はじ)めやらん、中やらん、終(をはり)やらん、我(われ)も知(し)らず、兄弟(きやうだい)は後生(ごしやう)までの契(ちぎ)りとこそ承(うけたまは)り候(さうら)へ。其(そ)の仲(なか)を違(たが)ひ給(たま)ふとて、殿(との)をば人の数(かず)にては御座(おは)せぬ人と、世(よ)には申(まう)すげにこそ候(さうら)へ。去年十二月廿四日の夜打(う)ち更(ふ)けて、日来(ひごろ)は千騎万騎(ぎ)を引(ひ)き具(ぐ)してこそ御座(おは)しまし候(さうら)ひしが、侍(さぶらひ)一人をだにも具せず、腹巻(はらまき)ばかりに太刀(たち)帯(は)きて、編笠(あみがさ)と言(い)ふ物(もの)打(う)ち著(き)、万事頼(たの)むとて御座(おは)したりしかば、古(いにしへ)見(み)ず知(し)らぬ人なり共(とも)、争(いかで)か一度の慈悲(じひ)を垂(た)れざらん、一度は勲功(くんこう)を望(のぞ)み、如何(いか)なる時(とき)は祈(いの)りしぞ、如何(いか)なる時(とき)は討(う)ち奉(たてまつ)るべき。是(これ)を以(もつ)て校量(こうりやう)し給(たま)へ。有(あ)らぬ様(さま)に人申(まう)したりし事(こと)の漏(も)れ候(さうら)ふげにこそ。去年(きよねん)の冬の暮(くれ)に出家(しゆつけ)し給(たま)へと度々(たびたび)申(まう)ししかども、其(そ)の梶原(かぢはら)奴(め)が為(ため)に出家(しゆつけ)はしたくもなしと宣(のたま)ひ候(さうら)ひつる、其(そ)の頃(ころ)判官(はうぐわん)殿(どの)帯(は)き給(たま)ひし太刀(たち)を奮(うば)ひ取(と)り奉(たてまつ)らんとて、悪僧(あくそう)共(ども)切(き)られ参(まゐ)らせて候(さうら)ひしを、人の和讒(わざん)を構(かま)へて申(まう)し候(さうら)ひつらん。全(まつた)く奈良(なら)法師(ほふし)与(くみ)せよと申(まう)したる事(こと)なし。其(そ)の中夭(ちゆうえう)に南都(なんと)を落(お)ちられし間(あひだ)、心(こころ)の中(うち)如何(いか)ばかり遣(や)る方(かた)も無(な)く御座(おは)しますらんと存(ぞん)じ候(さうら)ひて、諌(いさ)めたる事(こと)候(さうら)ひし。「四国九国の
P271
者(もの)を召(め)し候(さうら)へ。東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)は得業(とくご)が計(はか)らひなり。君(きみ)は天下(てんが)に御覚(おぼ)えもいみじくて、院(ゐん)の御感(ぎよかん)にも入(い)らせて候(さうら)へば、在京(ざいきやう)して日本を半国(はんごく)づつ知行(ちぎやう)し給(たま)へ」と勧(すす)め申(まう)せしかども、得業(とくご)が心(こころ)を景迹(きやうしやく)して出(い)で給(たま)へば、中々(なかなか)恥(はづ)かしくこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうら)ひしか。君(きみ)にも知(し)られぬ宮仕(みやづかひ)にては候(さうら)へ共(ども)、殿(との)の御為(おんため)にも祈(いの)りの師ぞかし。平家(へいけ)追討(ついたう)の為(ため)に西国(さいこく)へ赴(おもむ)き給(たま)ひしに、渡辺(わたなべ)にて源氏(げんじ)の祈(いの)りしつべき者(もの)やあると尋(たづ)ねられ候(さうら)ひけるに、如何(いか)なる痴(をこ)の者(もの)か見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふらん、得業(とくご)を見参(けんざん)に入(い)れて候(さうら)ひければ、平家(へいけ)を呪咀(しゆそ)して源氏(げんじ)を祈(いの)れと仰(おほ)せられ候(さうら)ひしに、其(そ)の罪(つみ)遁(のが)れなんと度々(たびたび)辞退(じたい)申(まう)ししかば、「御坊(ごばう)も平家(へいけ)と一(ひと)つになるか」と、仰(おほ)せられ候(さうら)ひし恐(おそ)ろしさに、源氏(げんじ)を祈(いの)り奉(たてまつ)りし時(とき)も、「天(てん)に二つの日照(てら)し給(たま)はず、二人(ふたり)の国王(こくわう)なし」とこそ申(まう)し候(さうら)へども、我(わ)が朝(てう)を御兄弟(きやうだい)
P272
手(て)に握(にぎ)り給(たま)へとこそ祈(いの)り参(まゐ)らせしに、判官(はうぐわん)は生れつきふえの人なれば、遂(つひ)に世にも立(た)ち給(たま)はず、日本国(につぽんごく)残(のこ)る所(ところ)無(な)く、殿(との)一人して知行(ちぎやう)し給(たま)ふ事、是(これ)は得業(とくご)が祈(いの)りの感応(かんおう)する所(ところ)に有(あ)らずや。是(これ)により外は、如何(いか)に糾問(きうもん)せらるる共(とも)、申(まう)すべき事(こと)候(さうら)はず。形(かた)の如(ごと)くも智慧(ちゑ)ある者(もの)に、物を思(おも)はするは、何(なに)の益(えき)有(あ)るべき。如何(いか)なる人承(うけたまは)りにて候(さうら)ふぞ、疾(と)く疾(と)く首(くび)を刎(は)ねて、鎌倉(かまくら)殿(どの)の憤(いきどほり)を休(やす)め奉(ためまつ)り給(たま)へや」と残(のこ)る所(ところ)無(な)く宣(のたま)ひて、はらはらと泣(な)き給(たま)へば、心(こころ)ある侍(さぶらひ)共(ども)、袖を濡(ぬ)らさぬはなし。頼朝(よりとも)も御簾(みす)をざと打(う)ち下(おろ)し給(たま)ひて、万事御前(おまへ)静(しづ)まりぬ。やや有(あ)りて、「人や候(さうら)ふ」と仰(おほ)せられければ、佐原(さはら)の十郎(じふらう)、和田(わだ)の小太郎(こたらう)、畠山(はたけやま)三人御前に畏(かしこ)まつてぞ候(さうら)ひける。鎌倉(かまくら)殿(どの)、高(たか)らかに仰(おほ)せられけるは、「かかる事こそ無(な)けれ。六波羅(ろくはら)にて尋(たづ)ねきくべかりし事(こと)を、梶原(かじはら)申(まう)すに付(つ)けて、御坊(ごばう)を是(これ)まで呼(よ)び下(くだ)し奉(たてまつ)りて、散々(さんざん)に悪口(あくこう)せられ奉(たてまつ)りたるに、頼朝(よりとも)こそ返事(へんじ)に及(およ)ばず、身の置所(おきどころ)無(な)けれ。あはれ人の陳状(ちんじやう)や、尤(もつと)もかくこそ陳(ちん)じたくはあれ、誠(まこと)の上人(しやうにん)にて御座(おは)しましける人かな。理(ことわり)にてこそ日本第一(だいいち)の大伽藍(だいがらん)の院主(ゐんじゆ)ともなり給(たま)ひけれ、朝家(てうか)の御祈(いの)りにも召(め)されける、理(ことわり)」とぞ感(かん)ぜられける。「此(こ)の人をせめて鎌倉(かまくら)に三年留(とど)め奉(たてまつ)りて、此(こ)の所(ところ)を仏法(ぶつぽふ)の地(ぢ)となさばや」と仰(おほ)せければ、和田(わだ)の小太郎(こたらう)、
P273
佐原(さはら)の十郎(じふらう)承(うけたまは)り、勧修坊(くわんじゆばう)に申(まう)しけるは、「東大寺(とうだいじ)と申(まう)すは、星霜(せいざう)久(ひさ)しくなりて利益(りやく)候(さうら)ふ所(ところ)なり。今(いま)の鎌倉(かまくら)と申(まう)すは、治承(ぢしよう)四年(しねん)の冬の頃(ころ)始(はじ)めて建(た)てし所なり。十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)、破戒(はかい)無慙(むざん)の輩(ともがら)のみ多(おほ)く候(さうら)へば、是(これ)にせめて三年(みとせ)渡(わた)らせ御座(おは)しまして、御利益(りやく)候(さうら)へと申(まう)せと候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、得業(とくご)「仰(おほ)せはさる事(こと)にて候(さうら)へども、一両年(いちりやうねん)も鎌倉(かまくら)に在(あ)りたくも候(さうら)はず」とぞ仰(おほ)せられける。重(かさ)ねて仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の為(ため)にて候(さうら)ふと申(まう)されければ、「さらば三年(みとせ)は是(これ)にこそ候(さうら)はめ」と仰(おほ)せられけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)大(おほ)きに悦(よろこ)び給(たま)ひて、「何処(いづく)にか置(お)き奉(たてまつ)るべき」と仰(おほ)せられしかば、佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「あはれ、良(よ)き次(ついで)にて候(さうら)ふものかな。大御堂(みだう)の別当(べつたう)になし参(まゐ)らせ給(たま)へかし」と申(まう)されたりければ、「いしく申(まう)したり」とて、佐原(さはら)の十郎(じふらう)初(はじ)めて奉行(ぶぎやう)を承(うけたまは)りて、大御堂(みだう)の造営(ざうゑい)を仕(つかまつ)り、勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに桧皮(ひはだ)の御山荘(さんざう)を造(つく)りて入(い)れ奉(たてまつ)り、鎌倉(かまくら)殿(どの)も日々の御出仕(しゆつし)にてぞ有(あ)りける。門外(もんぐわい)に鞍置(くらお)き馬(うま)、立(た)ち止(や)む暇(ひま)なし。鎌倉(かまくら)は是(これ)ぞ仏法(ぶつぽふ)の始(はじ)めなり。折々(をりをり)毎(ごと)に「判官(はうぐわん)殿(どの)との御仲(おんなか)直(なほ)り給(たま)へ」と仰(おほ)せられければ、「易(やす)き事(こと)に候(さうら)ふ」とは申(まう)し給(たま)ひけれども、梶原(かじはら)平三(へいざう)八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)の所司(しよし)なりければ、景時(かげとき)父子(ふし)が命(めい)に従(したが)ふ者(もの)、風(かぜ)に草木の靡(なび)く風情(ふぜい)なれば、鎌倉(かまくら)殿(どの)も御(おん)心(こころ)に任(まか)せ給(たま)はず、斯(か)くて秀衡(ひでひら)存生(そんじやう)の程(ほど)はさて過(す)ぎぬ。他界(たかい)の後(のち)嫡子(ちやくし)本吉(もとよし)の冠者(くわんじや)が計(はか)らひと申(まう)して、文治(ぶんぢ)五年四月廿四日
P274
に判官(はうぐわん)討(う)たれ給(たま)ひぬと聞召(きこしめ)しければ、「誰(たれ)故(ゆゑ)に今(いま)まで鎌倉(かまくら)に存命(ながら)へけるぞ。斯程(かほど)憂(う)き鎌倉(かまくら)殿(どの)に暇乞(いとまご)ひも要(い)らず」とて、急(いそ)ぎ上洛(しやうらく)有(あ)り。院(ゐん)も猶(なほ)御尊(たつと)み深(ふか)くして、東大寺(とうだいじ)に帰(かへ)りて、此(こ)の程(ほど)廃(すた)れたる所(ところ)共(ども)造営(ざうゑい)し給(たま)ひ、人の訪(と)ひ来(く)るも物(もの)憂(う)しとて、閉門(へいもん)して御座(おは)しけるが、自筆に二百二十六部の経を書(か)き供養(くやう)じて、判官(はうぐわん)の御菩提(ごぼだい)を弔(とぶら)ひて、我(わ)が御身(おんみ)をば水食(すいじき)を止(と)めて、七十余にて往生(わうじやう)を遂(と)げられける。
静(しづか)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事 S0606
大夫判官(はうぐわん)四国へ赴(おもむ)き給(たま)ひし時、六人の女房(にようばう)達(たち)、白拍子(しらびようし)五人、総(そう)じて十一人の中に、殊(こと)に御志(おんこころざし)深(ふか)かりしは、北白川(きたしらかは)の静(しづか)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)、吉野(よしの)の奥(おく)まで具せられたりけり。都(みやこ)へ返(かへ)されて、母(はは)の禅師(ぜんじ)が許(もと)にぞ候(さうら)ひける。判官(はうぐわん)殿(どの)の御子を妊(にん)じて、近(ちか)き程(ほど)に産(さん)をすべきにて有(あ)りしを、六波羅(ろくはら)に此(こ)の事(こと)聞(き)こえて、北条(ほうでう)殿(どの)江間(えま)の小四郎(こしらう)を召(め)して仰(おほ)せ合(あ)はせられければ、「関東(くわんとう)へ申(まう)させ給(たま)はでは適(かな)ふまじ」とて、早馬(はやむま)を以(もつ)て申(まう)されければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)梶原(かぢはら)を召(め)して、「九郎が思(おも)ふ者(もの)に静(しづか)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)近(ちか)き程(ほど)に産(さん)すべき由(よし)なり。如何(いかが)あるべき」と仰(おほ)せられければ、景時(かげとき)申(まう)し
P275
けるは、「異朝(いてう)を訪(とぶら)ひ候(さうら)ふにも、敵(かたき)の子を妊(にん)じて候(さうら)ふ女をば頭(かうべ)を砕(くだ)き、骨(ほね)を拉(ひし)ぎ、髄(ずい)を抜(ぬ)かるる程の罪科(ざいくわ)にて候(さうら)ふなれば、若(も)し若君(わかぎみ)にて御座(おは)しまし候(さうら)はば、判官(はうぐわん)殿(どの)に似(に)参(まゐ)らせ候(さうら)ふとも、又(また)御一門(いちもん)に似(に)参(まゐ)らせ給(たま)ふとも、愚(おろか)なる人にてはよも御座(おは)しまし候(さうら)ふまじ。君(きみ)の御代の間(あひだ)は何事(なにごと)か候(さうら)ふべき。公達(きんだち)の御行方(おんゆくへ)こそ覚束(おぼつか)無(な)く思(おも)ひ参らせ候(さうら)へ。都(みやこ)にて宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)を御申(まう)し候(さうら)ひてこそ下(くだ)し給(たま)ひて、御座(おんざ)近(ちか)く置(お)き参(まゐ)らせさせ給(たま)ひ、御産(おさん)の体(てい)御覧(ごらん)じて、若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)はば、君の御計(はか)らひにて候(さうら)ふべし。姫君(ひめぎみ)にて候(さうら)はば、御前に参(まゐ)らせさせ給(たま)ふべし」と申(まう)したりければ、さらばとて堀(ほり)の藤次(とうじ)を御使(おんつかひ)にて都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。藤次(とうじ)北条(ほうでう)殿(どの)打(う)ち連(つ)れ、院(ゐん)の御所に参(まゐ)りて、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、院宣(ゐんぜん)には、「先(さき)の勧修坊(くわんじゆばう)の如(ごと)くにはあるべからず。時政(ときまさ)が計(はか)らひに尋(たづ)ね出(い)だし、関東(くわんとう)へ下(くだ)すべき」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、北白河(きたしらかは)にて尋(たづ)ねけれ共(ども)、遂(つひ)に遁(のが)るべきには有(あ)らねども、一旦(いつたん)の悲(かな)しさに法勝寺(ほつしやうじ)と言(い)ふ所に隠(かく)れ居(ゐ)たりしを尋(たづ)ね出(い)だして、母の禅師(ぜんじ)共(とも)に具足(ぐそく)して、六波羅(ろくはら)へ行(ゆ)き、堀(ほり)の藤次(とうじ)受(う)け取(と)りて下(くだ)らんとぞしける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)が心(こころ)の中(うち)こそ無慙(むざん)なれ。共(とも)に下らんとすれば、目前(まのあたり)憂(う)き目(め)を見(み)んずらんと悲(かな)しき、又(また)止(とど)まらんとすれば、只(ただ)一人(ひとり)差(さ)し放(はな)つて、遥々(はるばる)下(くだ)さん事(こと)も痛(いた)はしく、人の子五人十人持(も)ちたるも、一人欠(か)くれば歎(なげ)くぞかし。唯(ただ)一人(ひとり)持(も)ちたる子なれば、止(とど)まりて悶(もだ)えてあるべきとも
P276
覚(おぼ)えず、去(さ)りとても愚(おろか)なる子かや、姿(すがた)は王城(わうじやう)に聞(き)こえたり、能(のう)は天下第一(だいいち)の事(こと)なり。唯(ただ)一人下さん事(こと)の悲(かな)しさに、預(あづかり)の武士(ぶし)の命(めい)をも背(そむ)きて、徒跣(かちはだし)にてぞ下(くだ)りける。幼少(えうせう)より召(め)し使(つか)ひし催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)と申(まう)しける二人(ふたり)の美女(びぢよ)も主(しゆう)の名残(なごり)を惜(を)しみ、泣(な)く泣(な)く連(つ)れてぞ下(くだ)りける。親家(ちかいへ)も道(みち)すがら様々(さまざま)に労(いたは)りてぞ下(くだ)りける。兎角(とかく)して都(みやこ)を出(い)で、十四日に鎌倉(かまくら)に著(つ)きたり。此(こ)の由(よし)申(まう)し上(あ)げければ、静(しづか)を召(め)して尋(たづ)ぬべき事(こと)有(あ)りとて、大名(だいみやう)小名(せうみやう)をぞ召(め)されける。和田(わだ)、畠山(はたけやま)、宇都宮(うつのみや)、千葉(ちば)、葛西(かさい)、江戸(えど)、河越(かはごえ)を始(はじ)めとして、其(そ)の数を尽(つ)くして参(まゐ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)には門前(もんぜん)に市(いち)を為(な)して夥(おびたた)し。二位(にゐ)殿も静(しづか)を御覧(ごらん)ぜられんとて、幔幕(まんまく)を引(ひ)き、女房(にようばう)其(そ)の数(かず)参(まゐ)り集(あつま)り給(たま)ひけり。藤次(とうじ)ばかりこそ静(しづか)を具(ぐ)して参(まゐ)りたれ。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、優(いう)なりけり、現在(げんざい)弟(おとと)の九郎だにも愛(あい)せざりせばとぞ思(おぼ)し召(め)しける。禅師(ぜんじ)も二人(ふたり)の女も連(つ)れたりけれども、門前(もんぜん)に泣(な)き居(ゐ)たり。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を聞召(きこしめ)して、「門に女(をんな)の声(こゑ)として泣(な)くは、何者(なにもの)ぞ」と御尋(たづ)ね有(あ)りければ、藤次(とうじ)「静(しづか)が母(はは)と二人(ふたり)の下女にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)、「女は苦(くる)しかるまじ、召(め)せ」とて召(め)されけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「殿上人(てんじやうびと)には見(み)せ奉(たてまつ)らずして、何故(など)九郎には見(み)せけるぞ。其(そ)の上(うへ)天下(てんが)の敵(てき)になり参(まゐ)らせたる者(もの)にてあるに」と仰(おほ)せければ、禅師(ぜんじ)申(まう)しけるは、「静(しづか)十五の年までは、多(おほ)くの人仰(おほ)せられしかども、靡(なび)く
P277
心(こころ)も候(さうら)はざりしかども、院(ゐん)の御幸(ぎよかう)に召(め)し具せられ参(まゐ)られて、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて雨(あめ)の祈(いの)りの舞(まひ)の時(とき)、判官(はうぐわん)殿(どの)に見(み)え初(そ)められ参らせて、堀川(ほりかは)の御所へ召(め)され参(まゐ)らせしかば、唯(ただ)仮初(かりそめ)の御遊(あそび)の為(ため)と思(おも)ひ候(さうら)ひしに、わりなき御志(おんこころざし)にて、人々(ひとびと)数多(あまた)渡(わた)らせ給(たま)ひしかども、所々(ところどころ)の御住居(おんすまひ)にてこそ渡(わた)らせ給(たま)ひしに、堀川(ほりかは)殿(どの)に取(と)り置(お)かれ参(まゐ)らせしかば、清和天皇(せいわてんわう)の御末(おんすゑ)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟(おとと)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、是(これ)こそ身に取(と)りては、面目(めんぼく)と思(おも)ひしに、今(いま)斯(か)かるべしと、予(かね)ては夢(ゆめ)にも争(いかで)か知(し)り候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)きて、「「勧学院(くわんがくゐん)の雀(すずめ)は蒙求(もうぎう)を囀(さへづ)る」といしう申(まう)したるものかな」とぞ讚(ほ)められける。「さて九郎が子を妊(にん)じたる事(こと)は如何(いか)に」「それは世に隠(かく)れ無(な)き事(こと)にて候(さうら)へば、陣(ちん)じ申(まう)すに及(およ)ばず、来月は産(さん)すべきにて候(さうら)ふ」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)梶原(かぢはら)を召(め)して、「あら恐(おそ)ろし、
P278
それ聞(き)け景時(かげとき)、既(すで)にえせ者(もの)の種(たね)を継(つ)がぬ先(さき)に、静(しずか)が胎内(たいない)を開(あ)けさせて、子を取(と)つて亡(うしな)へ」とぞ仰(おほ)せける。静(しづか)も母(はは)も是(これ)を聞(き)きて、手(て)に手(て)を取(と)り組(く)みて、顔(かほ)に顔(かほ)を合(あ)はせて、声(こゑ)も惜(を)しまず悲(かな)しみけり。二位(にゐ)殿も聞召(きこしめ)して、静(しづか)が心(こころ)の中、さこそと思(おも)ひ遣(や)られて、御涙(おんなみだ)に咽(むせ)び給(たま)ふ。幔膜(まんまく)の中に落涙の体(てい)夥(おびたた)し。忌々(いまいま)しくぞ聞(き)こえける。侍共(さぶらひども)承(うけたまは)りて「斯(か)かる情(なさけ)無(な)き事こそ無(な)けれ。さらぬだに関東(くわんとう)は遠国(をんごく)とて恐(おそ)ろしき事(こと)に言(い)はるるに、さしも静(しづか)を失(うしな)ひて、名を流(なが)し給(たま)はん事こそ浅(あさ)ましけれ」とぞ呟(つぶや)きける。此処(ここ)に梶原(かぢはら)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、つい立(た)ち御前に参(まゐ)り、畏(かしこ)まつてぞ居(ゐ)たりける。人々(ひとびと)是(これ)を見(み)て、「あな心(こころ)憂(う)や、又(また)如何(いか)なる事(こと)をか申(まう)さんずらん」と耳を欹(そばだ)ててぞ聞(き)きけるに、「静(しづか)の事(こと)承(うけたまは)り候(さうら)ふ。少人(せうじん)こそ限(かぎ)り候(さうら)はんずれ。母(はは)御前(ごぜん)をさへ亡(うしな)ひ参(まゐ)らせ給(たま)はん、其(そ)の御罪(つみ)争(いかで)か遁(のが)れさせ給(たま)ふべき。胎内(たいない)に宿(やど)る十月を待(ま)つこそ久(ひさ)しく候(さうら)へ。是(これ)は来月御産(おさん)あるべきにて候(さうら)へば、源太(げんだ)が宿所(しゆくしよ)を御産所(おさんじよ)と定(さだ)めて、若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)の左右(さう)を申(まう)し上(あぐ)べき」と申(まう)したりければ、御前(おまへ)なる人々(ひとびと)袖を引(ひ)き、膝(ひざ)を差(さ)し、「此(こ)の世の中は如何様(いかさま)、末代(まつだい)と言(い)ひながら徒事(ただごと)は有(あ)らじ、是(これ)程(ほど)に梶原(かぢはら)が人の為(ため)に良(よ)き事(こと)申(まう)したる事(こと)はなし」とぞ申(まう)しあへり。静(しづか)是(これ)を聞(き)き、「都(みやこ)を出(い)でし時(とき)よりして梶原(かぢはら)と言(い)ふ名を聞(き)くだにも心(こころ)憂(う)かりしに、まして景時(かげとき)が宿所に有(あ)りて、産(さん)の時(とき)自然(しぜん)の事(こと)あら
P279
ば、黄泉(よみぢ)の障(さはり)ともなるべし。あはれ同(おな)じくは堀殿(ほりどの)の承(うけたまは)りならば、如何(いか)に嬉(うれ)しかりなん」と、工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)して申(まう)したりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)に申(まう)し入(い)れければ、「理(ことわり)なれば易(やす)き事(こと)なり」と仰(おほ)せられて、堀(ほり)の藤次(とうじ)に返(かへ)し賜(た)ぶ。「時(とき)に取(と)つて親家(ちかいへ)が面目(めんぼく)」とぞ申(まう)しける。藤次(とうじ)は急(いそ)ぎ宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)りて、妻女(さいぢよ)に会(あ)ひて言(い)ひけるは、「梶原(かぢはら)既(すで)に申(まう)し賜(たま)はつて候(さうら)ひつるに、静(しづか)の訴訟(そしよう)にて親家(ちかいへ)に返(かへ)し預(あづ)かり参(まゐ)らせ候(さうら)ひぬ。判官(はうぐわん)殿(どの)聞召(きこしめ)さるる所(ところ)も有(あ)り。是(これ)によくよく労(いたは)り参(まゐ)らせよ」とて、我(われ)は傍(かたはら)に候(さうら)ひて、館(やかた)をば御産所(おさんじよ)と名付(なづ)けて、心(こころ)ある女房(にようばう)達(たち)十余人付(つ)け奉(たてまつ)りてぞもてなしける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)は都(みやこ)の神(かみ)仏(ほとけ)にぞ祈(いの)り申(まう)しける。「稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)、賀茂(かも)、春日(かすが)、日吉(ひよし)山王(さんわう)七社(しちしや)、八幡(やはた)大菩薩(だいぼさつ)、静(しづか)が胎内(たいない)にある子を、仮令(たとひ)男子なりとも女子になして給(た)べ」とぞ申(まう)しける。かくて月日(つきひ)重(かさ)なれば、其(そ)の月にもなりにけり。静(しづか)思(おも)ひの外(ほか)に堅牢地神(けんらうぢじん)も憐(あはれ)み給(たま)ひけるにや、痛(いた)む事(こと)も無(な)く、其(そ)の心(こころ)付(つ)くと聞(き)きて、藤次(とうじ)の妻女(さいぢよ)、禅師(ぜんじ)諸(もろ)共(とも)に扱(あつか)ひけり。殊(こと)に易(やす)くしたりけり。少人(せうじん)泣(な)き給(たま)ふ声(こゑ)を聞(き)きて、禅師(ぜんじ)余(あま)りの嬉(うれ)しさに、白(しろ)き絹(きぬ)に押(お)し巻(ま)きて見(み)れば、祈(いの)る祈(いの)りは空(むな)しくて、三身(さんじん)相応(さうおう)したる若君(わかぎみ)にてぞ御座(おは)しける。唯(ただ)一目(ひとめ)見(み)て「あな心(こころ)憂(う)や」とて打(う)ち臥(ふ)しけり。静(しづか)是(これ)を見(み)て、いとど心も消(き)えて思(おも)ひけり。「男子か、女子かや」と問(と)へども答(こた)へねば、禅師(ぜんじ)
P280
の抱(いだ)きたる子を見れば、男子(なんし)なり。一目(ひとめ)見(み)て、「あら心憂(こころう)や」とて衣(きぬ)を被(かづ)きて臥(ふ)しぬ。やや有(あ)りて、「如何(いか)なる十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)の者(もの)の、偶々(たまたま)人界(にんがい)に生(しやう)を受(う)けながら、月日(つきひ)の光(ひかり)をだにも定(さだ)かに見(み)奉(たてまつ)らずして、生(むま)れて一日一夜(いちや)をだにも過(すご)さで、やがて冥途(めいど)に帰(かへ)らんこそ無慙(むざん)なれ。前業(ぜんごふ)限(かぎ)りある事(こと)なれば、世をも人をも恨(うら)むべからずと思(おも)へども、今(いま)の名残(なご)り別(わか)れの悲(かな)しきぞや」とて、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)ててぞ泣(な)き居(ゐ)たり。藤次(とうじ)御産所(おさんじよ)に畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「御産(おさん)の左右(さう)を申(まう)せと仰(おほ)せ蒙(かうぶ)つて候(さうら)ふ間(あひだ)、只今(ただいま)参(まゐ)りて申(まう)し候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「とても逃(のが)るべきならねば、疾(と)く疾(と)く」とぞ言(い)ひける。親家(ちかいへ)参(まゐ)りて此(こ)の由(よし)を申(まう)したりければ、安達(あだち)の新三郎(しんざぶらう)を召(め)して、「藤次(とうじ)が宿所(しゆくしよ)に静(しづか)が産(さん)したり、頼朝(よりとも)が鹿毛(かげ)の馬(うま)に乗(の)りて行(ゆ)き、由井(ゆゐ)の浜(はま)にて亡(うしな)ふべき」と仰(おほ)せられければ、清経(きよつね)御馬(うま)賜(たま)はつて打(う)ち出(い)で、藤次(とうじ)の宿所(しゆくしよ)へ入(い)りて、禅師(ぜんじ)に向(むか)ひて、「鎌倉(かまくら)殿(どの)の御使(おんつかひ)に参(まゐ)りて候(さうら)ふ。少人(せうじん)若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ由(よし)聞召(きこしめ)して、抱(いだ)き初(そ)め参(まゐ)らせよと御諚(ごぢやう)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「あはれ、はかなき清経(きよつね)かな。賺(すか)さば実(まこと)と思(おも)ふべきかや。親(おや)をさへ失(うしな)へと仰(おほ)せられし敵(てき)の子、殊(こと)に男子(なんし)なれば疾(と)く失(うしな)へとこそ有(あ)るらめ。暫(しば)し最後(さいご)の出立(いでたち)せさせん」と申(まう)されければ、新三郎(しんざぶらう)岩木(いはき)ならねば、流石(さすが)哀(あは)れに、思(おも)ひけるが、心(こころ)弱(よわ)く待(ま)ちけるが、斯(か)くて心(こころ)弱(よわ)くて叶(かな)ふまじと思(おも)ひ、
P281
「事々(ことごと)しく候(さうら)ふ。御出立(いでたち)も要(い)り候(さうら)ふまじ」とて、禅師(ぜんじ)が抱(いだ)きたるを奪(うば)ひ取(と)り、脇(わき)に挟(はさ)み馬(うま)に打(う)ち乗(の)り、由井(ゆゐ)の浜(はま)に馳(は)せ出(い)でけり。禅師(ぜんじ)悲(かな)しみけるは、「存命(ながら)へて見(み)せ給(たま)へと申(まう)さばこそ僻事(ひがこと)ならめ、今(いま)一度幼(いとけな)き顔(かほ)を見(み)せ給(たま)へ」と悲(かな)しみければ、「御覧(ごらん)じては中々(なかなか)思(おも)ひ重(かさ)なり給(たま)ひなん」と情(なさけ)無(な)き気色(けしき)にもてなして、霞(かすみ)を隔(へだ)て遠(とほ)ざかる。禅師(ぜんじ)は裏無(うらなし)をだにも履(は)き敢(あ)へず、薄衣(うすぎぬ)も被(かづ)かず、其駒(そのこま)ばかり具(ぐ)して、浜(はま)の方(かた)へぞ下(くだ)りける。堀(ほり)の藤次(とうじ)も禅師(ぜんじ)を訪(とぶら)ひて、後(あと)に付(つ)きてぞ下(くだ)りける。静(しづか)も共(とも)に慕(した)ひけれ共(ども)、堀(ほり)が妻女(さいぢよ)申(まう)しけるは、「産(さん)の則なり」とて、様々(さまざま)に諌(いさ)め取(と)り止(とど)めければ、出(い)でつる妻戸(つまど)の口(くち)に倒(たふ)れ臥(ふ)してぞ悲(かな)しみける。禅師(ぜんじ)は浜(はま)に尋(たづ)ね、馬(うま)の跡(あと)を尋ぬれども、少人(せうじん)の死骸(しがい)もなし、今生(こんじやう)の契(ちぎ)りこそ少(すく)なからめ、空(むな)しき姿(すがた)を今(いま)一度(いちど)見(み)せ給(たま)へと悲(かな)しみつつ、渚(なぎさ)を西へ歩(あゆ)みける所(ところ)に、稲瀬河(いなせがは)の端(はた)に、浜砂(はまいさご)に戯(たはぶ)れて、子供(こども)数多(あまた)遊(あそ)びけるに逢(あ)うて、「馬(うま)に乗(の)つたる男(をとこ)の、くかと泣(な)きたる子や棄(す)てつる」と問(と)へば、「何(なに)も見(み)分(わ)け候(さうら)はねども、あの水際(みぎは)の材木(ざいもく)の上(うへ)にこそ投(な)げ入(い)れ候(さうら)ひつれ」と言(い)ひける。藤次(とうじ)が下人(げにん)下(お)りて見(み)ければ、只今(ただいま)までは蕾(つぼ)む花(はな)の様(やう)なりつる少人(せうじん)の、何時(いつ)しか今(いま)は引(ひ)きかへて、空(むな)しき姿(すがた)尋(たづ)ね出(い)だして、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)に見(み)せければ、押(お)し巻(ま)きたる衣(きぬ)の色(いろ)は変(か)はらねども、跡(あと)無(な)き姿(すがた)となり果(は)てけるこそ悲(かな)しけれ。「若(も)しや若(も)しやと浜(はま)の砂(いさご)の暖(あたた)かなる上に、
P282
衣(きぬ)の端(つま)を打(う)ち敷(し)きて置(お)きたりけれども、事(こと)切(き)れ果(は)てて見(み)えしかば、取(と)りて帰(かへ)りて、母(はは)に見(み)せて悲(かな)しませんも中々(なかなか)罪(つみ)深(ふか)しと思(おも)ひて、此処(ここ)に埋(うづ)まんとては、浜(はま)の砂(いさご)を手(て)にて掘(ほ)りたれども、此処(ここ)もあさましき牛馬(ぎうば)の蹄(ひづめ)の通(かよ)ふ所とて痛(いた)はしければ、さしも広(ひろ)き浜(はま)なれども、捨(す)て置(お)くべき所(ところ)もなし。唯(ただ)空(むな)しき姿(すがた)を抱(いだ)きて宿所(しゆくしよ)にぞ帰(かへ)りける。静(しづか)是(これ)を受(う)け取(と)り、生(しやう)を変(か)へたるものを、隔(へだ)て無(な)く身に添(そ)へて悲(かな)しみけり。「哀傷(あいしやう)とて、親の歎(なげ)きは殊(こと)に罪(つみ)深(ふか)き事(こと)にて候(さうら)ふなる物(もの)を」とて、藤次(とうじ)が計(はか)らひにて、少人(せうじん)の葬送(さうさう)、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の為(ため)に作(つく)られたりける勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに埋(うづ)みて帰(かへ)りけり。「かかる物(もの)憂(う)き鎌倉(かまくら)に一日にてもあるべき様(やう)なし」とて、急(いそ)ぎ都(みやこ)へ上らんとぞ出(い)で立(た)ちける。
静(しづか)若宮(わかみや)八幡宮(はちまんぐう)へ参詣(さんけい)の事(こと) S0607
磯(いそ)の禅師(ぜんじ)申(まう)しけるは、「少人(せうじん)の事(こと)は、思(おも)ひ設(まう)けたる事(こと)なればさて置(お)きぬ。御身(おんみ)安穏(あんをん)ならば若宮(わかみや)へ参(まゐ)らんと、予(かね)ての宿願(しゆくぐわん)なれば、争(いかで)か只(ただ)は上(のぼ)り給(たま)ふべき。八幡(はちまん)はあら血(ち)を五十一日忌(い)ませ給(たま)ふなれば、精進(しやうじん)潔斎(けつさい)してこそ参(まゐ)り給(たま)はめ。其(そ)の程(ほど)は是(これ)にて日数(ひかず)を待(ま)ち候(さうら)へ」とて、一日(いちにち)一日(いちにち)と逗留(とうりゆう)す。さる程(ほど)に鎌倉(かまくら)殿(どの)三島(みしま)
P283
の御社参(しやさん)とぞ聞(き)こえける。八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)共(ども)御供(おんとも)申(まう)しける。御社参(しやさん)の徒然(つれづれ)に、人々(ひとびと)様々(さまざま)の物語(ものがたり)をぞ申(まう)しける。其(そ)の中に河越(かはごえ)の太郎静(しづか)が事(こと)を申(まう)し出(い)だしたりければ、各々(おのおの)「斯様(かやう)の次(ついで)ならでは争(いかで)か下(くだ)り給(たま)ふべき。あはれ音に聞(き)こゆる舞(まひ)を一番(いちばん)御覧(ごらん)ぜられざらんは無念(むねん)に候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「静(しづか)は九郎に思(おも)はれて、身を華飾(くわしよく)にするなる上(うへ)、思(おも)ふ仲(なか)を妨(さまた)げられ、其(そ)の形見(かたみ)にも見(み)るべき子を亡(うしな)はれ、何(なに)のいみじさに頼朝が前(まへ)にて舞(ま)ふべき」と仰(おほ)せられければ、人々(ひとびと)「是(これ)は尤(もつと)も御諚(ごぢやう)なり。さりながら如何(いかが)して見(み)んずるぞ」と申(まう)しける。抑(そもそも)如何程(いかほど)の舞(まひ)なれば、斯程(かほど)に人々(ひとびと)念(ねん)を懸(か)けらるるぞ」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)「舞(まひ)に於(おい)ては日本一(につぽんいち)にて候(さうら)ふ」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)「事々(ことごと)しや、何処(いづく)にて舞(ま)うて、日本一(につぽんいち)とは申(まう)しけるぞ」、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「一年(ひととせ)百日の旱(ひでり)の候(さうら)ひけるに、賀茂河(かもがは)、桂川(かつらがは)皆(みな)瀬(せ)切(き)れて流(なが)れず、筒井(つつゐ)の水も絶(た)えて、国土(こくど)の悩(なや)みにて候(さうら)ひけるに、次第(しだい)久(ひさ)しき例文(れいもん)、「比叡(ひえ)の山、三井寺(みゐでら)、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)などの有験(うげん)の高僧(かうそう)貴僧(きそう)百人、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて仁王経(にんわうぎやう)を講(かう)じ奉(たてまつ)らば、八大龍王(はつだいりゆうわう)も知見(ちけん)納受(なふじゆ)垂(た)れ給(たま)ふべし」と申(まう)しければ、百人の高僧(かうそう)貴僧(きそう)仁王経(にんわうぎやう)を講(かう)ぜられしかども、其(そ)の験(しるし)も無(な)かりけり。又(また)或(あ)る人申(まう)しけるは、「容顔(ようがん)美麗(びれい)なる白拍子(しらびやうし)を百人召(め)して、院(ゐん)御幸(ぎよかう)なりて、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて舞(ま)はせられば、龍神(りゆうじん)納受(なふじゆ)し給(たま)はん」と言(い)へ
P284
ば、さらばとて御幸(ぎよかう)有(あ)りて、百人の白拍子(しらびやうし)を召(め)して舞(ま)はせられしに、九十九人(くじふくにん)舞(ま)ひたりしに、其(そ)の験(しるし)も無(な)かりけり。「静(しづか)一人舞(ま)ひたりとても、龍神(りゆうじん)知見(ちけん)あるべきか。而(しか)も内侍所(ないしどころ)に召(め)されて、禄(ろく)重(おも)き者(もの)にて候(さうら)ふに」と申(まう)したりけれども、「とても人数(にんじゆ)なれば、唯(ただ)舞(ま)はせよ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、静(しづか)が舞(ま)ひたりけるに、しんむじやうの曲(きよく)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)を半(なか)らばかり舞(ま)ひたりしに、みこしの岳(たけ)、愛宕山(あたごさん)の方(かた)より黒雲(くろくも)俄に出(い)で来て、洛中(らくちゆう)にかかると見(み)えければ、八大龍王(はつだいりゆうわう)鳴(な)り渡(わた)りて、稲妻(いなづま)ひかめきしに、諸人目を驚(おどろ)かし、三日の洪水(こうずい)を出(い)だし、国土安穏(あんをん)なりしかば、さてこそ静(しづか)が舞(まひ)に知見(ちけん)有(あ)りけるとて、「日本一(につぽんいち)」と宣旨(せんじ)を賜(たま)はりけると承(うけたまは)りし」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を聞召(きこしめ)して、さては一番(いちばん)見(み)たしとぞ仰(おほ)せられける。誰(たれ)にか言(い)はせんずると仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「景時(かげとき)が計(はか)らひにて舞(ま)はせん」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)「如何(いかが)あるべき」とぞ仰(おほ)せられける。梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「我(わ)が朝(てう)に住(すまひ)せん程(ほど)の人の、君(きみ)の仰(おほ)せを争(いかで)か背(そむ)き参(まゐ)らせ候(さうら)ふべき。其(そ)の上(うへ)既(すで)に死罪(しざい)に定(さだ)まりて候(さうら)ひしを景時(かげとき)申(まう)してこそ宥(なだ)め奉(たてまつ)りて候(さうら)ひしか。善悪(ぜんあく)舞(ま)はせ参(まゐ)らせ候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「さらば行(ゆ)きて賺(すか)せ」と仰(おほ)せられけり。梶原(かぢはら)行(ゆ)きて、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)を呼(よ)び出(い)だして、「鎌倉(かまくら)殿(どの)の御酒気(さかけ)にこそ御渡(おんわた)り候(さうら)へ。斯(か)かる所(ところ)に川越(かはごえ)の太郎御事(おんこと)を申(まう)し出(い)だされ候(さうら)ひつるに、
P285
あはれ音に聞(き)こえ給(たま)ふ御舞(まひ)、一番(いちばん)見(み)参(まゐ)らせばやとの御気色(ごきしよく)にて候(さうら)ふ。何(なに)か苦(くる)しく候(さうら)ふべき。一番(いちばん)見(み)せ奉(たてまつ)り給(たま)へかし」と申(まう)したりければ、此(こ)の由(よし)を静(しづか)に語(かた)れば、「あら心(こころ)憂(う)や」とばかりにて、衣(きぬ)引(ひ)き被(かづ)きて臥(ふ)し給(たま)ひけるが、「すべて人の斯様(かやう)の道(みち)を立(た)てける程(ほど)の、口惜(くちを)しき事(こと)は無(な)かりけり。此(こ)の道(みち)ならざらんには、斯(か)かる一方(ひとかた)ならぬ嘆(なげ)きの絶(た)えぬ身に、さりとて憂(う)き人の前(まへ)にて、舞(ま)へなどと、容易(たやす)く言(い)はれつるこそ安(やす)からね。中々(なかなか)伝(つた)へ給(たま)ふ母(はは)の心(こころ)こそ恨(うら)めしけれ。然(さ)れば舞(ま)はば舞(ま)はせんと思(おぼ)し召(め)しけるか」とて、梶原(かぢはら)には返事(へんじ)にも及(およ)ばず。禅師(ぜんじ)梶原(かぢはら)に此(こ)の由(よし)を言(い)ひければ、相違(さうゐ)して帰(かへ)りけり。御所には今(いま)や今(いま)やと待(ま)ち給(たま)ひける所(ところ)に、景時(かげとき)参(まゐ)りたり。二位殿(どの)の御方(おんかた)より「如何(いか)に返事(へんじ)は」と御使有(あ)り。「御諚(ごぢやう)と申(まう)しつれども、返事(へんじ)をだにも申(まう)され候(さうら)はぬ」と申(まう)しければ、
P286
鎌倉(かまくら)殿(どの)も「もとより思(おも)ひつる事(こと)を。都(みやこ)に帰(かへ)りて有(あ)らん時、内裏(だいり)、院(ゐん)の御所にて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は舞(まひ)舞(ま)へとは言(い)はざりけるかと御尋(おんたづ)ね有(あ)らん時(とき)、梶原(かぢはら)を使(つかひ)にて舞(ま)へと申(まう)し候(さうら)ひしかども、何(なに)のいみじさに舞(ま)ひ候(さうら)ふべきとて、遂(つひ)に舞(ま)はずと申(まう)さば、頼朝(よりとも)が威(ゐ)の無(な)きに似(に)たり。如何(いかが)あるべき。誰(たれ)にてか言(い)はすべき」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)こそ都(みやこ)に候(さうら)ひし時(とき)も、判官(はうぐわん)殿(どの)常(つね)に御目に懸(か)けられし者(もの)にて候(さうら)へ。而(しか)も京童(きやうわらは)にて口利(くちきき)にて候(さうら)ふ。彼(かれ)に仰(おほ)せ付(つ)けらるべく候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「祐経(すけつね)召(め)せ」とて召(め)されけり。其(そ)の頃(ころ)左衛門(さゑもん)塔(たふ)の辻(つじ)に候(さうら)ひけるを、梶原(かぢはら)連(つ)れてぞ参(まゐ)りける。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「梶原(かぢはら)以(もつ)て言(い)はすれども、返事(へんじ)をだにもせず。御辺(ごへん)行(ゆ)きて賺(すか)して舞(ま)はせてんや」と仰(おほ)せられければ、斯(か)かるゆゆしき大事(だいじ)こそ無(な)けれ。御諚(ごぢやう)にてだにも従(したが)はぬ人を、賺(すか)せよとの御諚(ごぢやう)こそ大事(だいじ)なれと思(おも)ひて、思(おも)ひ煩(わづら)ひ、急(いそ)ぎ宿(やど)に帰(かへ)り、妻女(さいぢよ)に申(まう)しけるは、「鎌倉(かまくら)殿(どの)よりいみじき大事(だいじ)を承(うけたまは)りてこそ候(さうら)へ。梶原(かぢはら)を御使(おんつかひ)にて仰(おほ)せられつるにだに用(もち)ゐ給(たま)はぬ静(しづか)を賺(すか)して舞(ま)はせよと仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りたるこそ、祐経(すけつね)が為(ため)には大事(だいじ)に候(さうら)へ」と言(い)ひければ、女房(にようばう)、「それは梶原(かぢはら)にもよるべからず。左衛門(さゑもん)にもよるべからず。情(なさけ)は人の為(ため)にも有(あ)らばこそ。景時(かげとき)が田舎男(いなかをとこ)にて、骨(こつ)無(な)き様(さま)の風情(ふぜい)にて、舞(まひ)を舞(ま)ひ給(たま)へとこそ申(まう)しつらめ。御身(おんみ)とてもさこそ御座(おは)せんずらめ。
P287
只(ただ)様々(さまざま)の菓子(くわし)を用意(ようい)して、堀殿(ほりどの)の許(もと)へ行(ゆ)きて、訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)る様(やう)にて、内々(ないない)こしらへ賺(すか)し奉(たてまつ)らんに、などか叶(かな)はざるべき」と、世に易(やす)げに言(い)ひける。祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)と申(まう)すは、千葉介(ちばのすけ)が在京(ざいきやう)の時儲(まう)けたりける京童(きやうわらは)の娘(むすめ)、小松(こまつ)殿(どの)の御内(みうち)に冷泉(れいぜん)殿(どの)の御局(つぼね)とて、大人(おとな)しき人にてぞ有(あ)りける。叔父(おほぢ)伊東(いとう)の次郎(じらう)に仲(なか)を違(たが)ひて、本領(ほんりやう)を取(と)らるるのみならず、飽(あ)かぬ中を引(ひ)き分(わ)けられて、其(そ)の本意(ほんい)を遂(と)げんが為(ため)に、伊豆(いづ)へ下(くだ)らんとしけるを、小松(こまつ)殿(どの)祐経(すけつね)に名残(なご)りを惜(を)しませ給(たま)ひて、年こそ少(すこ)し大人(おとな)しけれども、是(これ)を見よとて祐経(すけつね)に見(み)え初(そ)めて、互(たが)ひの志(こころざし)深(ふか)かりけり。治承に小松殿(どの)薨(かく)れさせ給(たま)ひて後(のち)は、頼(たの)む方(かた)無(な)かりければ、祐経(すけつね)に具足(ぐそく)せられて、東国へ下(くだ)りけり。年(とし)久(ひさ)しくなりたれ共(ども)、流石(さすが)に狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の戯(たはぶ)れも未(いま)だ忘(わす)れざりければ、賺(すか)さん事(こと)も易(やす)しとや思(おも)ひけん、急(いそ)ぎ出(い)で立(た)ち、藤次(とうじ)が宿所(しゆくしよ)へ行(ゆ)きけり。祐経(すけつね)先(ま)づ先(さき)に行(ゆ)きて、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)に言(い)ひけるは、「此(こ)の程(ほど)何(なに)と無(な)く打(う)ち紛(まぎ)れ候(さうら)へば、疎(おろか)なりとぞ思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふらん。三島(みしま)の御参詣(ごさんけい)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ひつる程(ほど)に、是(これ)も召(め)し具(ぐ)せられ、日々の御社参(しやさん)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、精進(しやうじん)無(な)くては叶(かな)ひ難(がた)く候(さうら)ふ間(あひだ)、打(う)ち絶(た)え参(まゐ)り候(さうら)はねば、返(かへ)す返(がへ)す恐(おそれ)入(い)りて候(さうら)ふ。祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)も都(みやこ)の者(もの)にて候(さうら)ふ。堀殿(ほりどの)の宿所(しゆくしよ)まで参(まゐ)りて候(さうら)ふ。それそれ禅師(ぜんじ)、良(よ)き様(やう)に申(まう)させ給(たま)へ」と申(まう)して、我(わ)が身は帰(かへ)る体(てい)にもてなして、傍(かたは)らに隠(かく)れてぞ候(さうら)ひける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)静(しづか)に此(こ)の由(よし)
P288
を語(かた)れば、「左衛門(さゑもん)の常(つね)に訪(とぶら)ひ給(たま)ふだに有(あ)り難(がた)く思(おも)ひ参(まゐ)らせつるに、女房(にようばう)の御入(おいり)までは思(おも)ひも寄(よ)らざる嬉(うれ)しさにて候(さうら)ふ」とて、我(わ)が方(かた)をこしらへてぞ入(い)れける。藤次(とうじ)が妻女(さいぢよ)諸共(もろとも)に行(ゆ)きてぞもてなしける。人を賺(すか)さんとする事(こと)なれば、酒宴(しゆえん)始(はじ)めて幾(いく)程(ほど)も無(な)かりけるに、祐経(すけつね)が女房(にようばう)今様(いまやう)をぞ歌(うた)ひける。藤次(とうじ)が妻女(さいぢよ)も催馬楽(さいばら)をぞ歌(うた)ひける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)珍(めづら)しからぬ身(み)なれどもとて、貴賎(きせん)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)をぞ数(かぞ)へける。催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)も主に劣(おと)らぬ上手(じやうず)共(ども)なりければ、共(とも)に歌(うた)ひて遊(あそ)びけり。春(はる)の夜(よ)の朧(おぼろ)の空(そら)に雨降(ふ)りて、殊更(ことさら)世間(せけん)閑(しづか)也(なり)。壁(かべ)に立(た)ち添(そ)ふ人も聞(き)け、終日(しゆうじつ)の狂言(きやうげん)は千年(ちとせ)の命(いのち)延(の)ぶなれば、我(われ)も歌(うた)ひ遊(あそ)ばんとて、別(わかれ)の白拍子(しらびようし)をぞ数(かぞ)へける。音声(おんじやう)文字(もじ)うつり、心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばれず。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、藤次(とうじ)、壁(かべ)を隔(へだ)てて是(これ)を聞(き)きて、「あはれ打(う)ち任(まか)せの座敷(ざしき)ならば、などか推参(すいさん)せざるべき」とて、心(こころ)も空(そら)に憧(あこが)るるばかりなり。白拍子(しらびやうし)過(す)ぎければ、錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる琵琶(びは)一面(めん)、纐纈(かうけつ)の袋(ふくろ)に入(い)りたる琴(こと)一張(いつちやう)取(と)り出(い)だして、琵琶(びは)をば其駒(そのこま)袋(ふくろ)より取(と)り出(い)だして、緒(を)合(あ)はせて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)の女房(にようばう)の前(まへ)に置(お)く。琴(こと)をば催馬楽(さいばら)取(と)り出(い)だし琴柱(ことぢ)立(た)て、静(しづか)が前(まへ)にぞ置(お)きたりける。管絃(くわんげん)過(す)ぎければ、又(また)左衛門(さゑもん)の妻女(さいぢよ)心(こころ)ある様(さま)の物語(ものがたり)などせられつつ、今(いま)や言(い)はまし言(い)はましとぞ思(おも)ひける。「昔(むかし)の京をば難波(なんば)の京(きやう)とぞ申(まう)しけるに、愛宕郡(おたぎのこほり)に都(みやこ)を立(た)てられしより此(こ)の方(かた)、東海道を遙(はる)かにして、
P289
由比(ゆひ)の、足利(あしかが)より東、相模(さがみ)の国(くに)をさか上(のぼ)り、由比(ゆひ)の浦(うら)、ひつめの小林(こばやし)、鶴岡(つるがをか)の麓(ふもと)に今(いま)八幡(はちまん)を斎(いは)ひ奉(たてまつ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)にも氏神(うぢがみ)なれば、判官(はうぐわん)殿(どの)をなどか守(まも)り奉(たてまつ)り給(たま)はざらん、和光(わくわう)同塵(どうじん)は結縁(けちえん)の始(はじ)め、八相成道(はつさうじやうだう)は利物(りもつ)の終(をはり)、何事(なにごと)か御祈(いの)りの感応(かんおう)無(な)からんや、当国一(たうごくいち)の無双(ぶさう)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、夕(ゆふべ)は参籠(さんろう)の輩(ともがら)門前(もんぜん)市(いち)をなす。朝(あした)には参詣(さんけい)の輩(ともがら)肩(かた)を並(なら)べて踵(くびす)を継(つ)ぐ。然(しか)れば日中には適(かな)ひ候(さうら)ふまじ。堀(ほり)殿(どの)の妻女(さいぢよ)、若宮(わかみや)の案内者(あんないしや)にて御座(おは)します。妾(わらは)も此(こ)の所(ところ)巨細(こさい)の者(もの)にて候(さうら)へば、明日又(また)夜をこめて御参詣(ごさんけい)候(さうら)ひて思(おぼ)し召(め)す御宿願(しゆくぐわん)も遂(と)げさせ御座(おは)しまし、其(そ)の次(ついで)に御腕差(かひなざし)法楽(ほふらく)し参(まゐ)らさせ給(たま)ひ候(さうら)ひなば、鎌倉(かまくら)殿(どの)と判官(はうぐわん)殿(どの)と御仲(おんなか)も直(なほ)らせ御座(おは)しまし候(さうら)ひて思(おぼ)し召(め)す儘(まま)なるべし。奥州(あうしう)に渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ判官(はうぐわん)殿(どの)も聞召(きこしめ)し伝(つた)へさせ給(たま)はば、我(わ)が為(ため)に丹誠(たんぜい)を致(いた)し参(まゐ)らせ給(たま)ふと聞召(きこしめ)しては、如何(いか)ばかり嬉(うれ)しとこそ思(おぼ)し召(め)し候(さうら)はんずれ。偶々(たまたま)斯(か)かる次(ついで)ならでは、争(いか)でかさる事(こと)候(さうら)ふべき。理(り)を枉(ま)げて御参詣(ごさんけい)候(さうら)へ。余(あま)りに見(み)奉(たてまつ)りてよりいとど愚(おろ)かに思(おも)ひ参(まゐ)らせず候(さうら)へば、せめての事(こと)に申(まう)し候(さうら)ふなり。御参詣(ごさんけい)候(さうら)はば、御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)はん」とぞ賺(すか)しける。静(しづか)是(これ)を聞(き)きて、実(げ)にもとや思(おも)ひけん、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)を呼(よ)びて、「如何(いかが)あるべき」と言(い)ひければ、禅師(ぜんじ)もあはれさも有(あ)らまほしく思(おも)ひければ、「八幡(はちまん)の御託宣(ごたくせん)にてこそ候(さうら)へ。是(これ)程(ほど)深(ふか)く思(おぼ)しける嬉(うれ)しさよ、疾(と)く疾(と)く参(まゐ)らせ給(たま)へ」と言(い)ひければ、「さらば
P290
昼(ひる)は適(かな)ふまじ。寅(とら)の時(とき)に参(まゐ)りて、辰(たつ)の時(とき)に形(かた)の如(ごと)く舞(ま)ひて帰(かへ)らばや」とぞ申(まう)しける。左衛門(さゑもん)の女房(にようばう)、祐経(すけつね)にはや聞(き)かせたくて、かくと言(い)はせければ、祐経(すけつね)壁(かべ)を隔(へだ)てて聞(き)く事(こと)なれば、使(つかひ)の出(い)でぬ間(ま)に、馬(うま)に打(う)ち乗(の)り、急(いそ)ぎ鎌倉(かまくら)殿(どの)へ参りて、侍(さぶらひ)につと入(い)れば、君を初(はじ)め参(まゐ)らせて、侍(さぶらひ)共(ども)「如何(いか)にや如何(いか)にや」と問(と)ひ給(たま)へば、「寅(とら)の時(とき)の参詣(さんけい)、辰(たつ)の時(とき)の御腕差(かひなざし)」と高(たか)らかに申(まう)したりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)やがて御参詣(ごさんけい)有(あ)りけり。静(しづか)舞(ま)ひぬると聞(き)きて、若宮(わかみや)には門前(もんぜん)市(いち)をなす。「拝殿(はいでん)廻廊(くわいらう)の前(まへ)、雑人(ざふにん)奴(め)等(ら)がえいやづきをして、物(もの)の差別(しやべつ)も聞(き)こえ候(さうら)はず」と申(まう)しければ、小舎人(ことねり)を召(め)して、「放逸(はういつ)に当(あ)たり、追(お)ひ出(い)だせ」と仰(おほ)せける。源太(げんだ)承(うけたまは)りて、「御諚(ごぢやう)ぞ」と言(い)ひけれども用(もち)ゐず。小舎人(ことねり)原(ばら)放逸(はういつ)に散々(さんざん)に打(う)つ。男(をとこ)は烏帽子(えぼし)を打(う)ち落(おと)し、法師(ほふし)は笠(かさ)を打(う)ち落(おと)さる。疵(きづ)をつく者(もの)其(そ)の数(かず)有(あ)りけれども、「是(これ)程(ほど)の物見(ものみ)を一期(いちご)に一度の大事(だいじ)ぞ。傷(きず)はつくとも入(い)らんず」とて身(み)の成(な)り行(ゆ)く末代(まつだい)知(し)らずして、潛(くぐ)り入(い)る間(あひだ)、中々(なかなか)騒動(さうどう)する事(こと)夥(おびたた)し。佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「あはれ予(かね)て知(し)り候(さうら)はば、廻廊(くわいらう)の真中(まんなか)に舞台(ぶたい)を張(は)りて参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り候(さうら)はんずるものを」と申(まう)しけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)聞召(きこしめ)して、「あはれ是(これ)は誰(たれ)が申(まう)しつるぞ」と御尋(おんたづね)有(あ)りければ、「佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)して候(さうら)ふ」と申(まう)す。「佐原(さはら)故実(こしつ)の者(もの)なり。尤(もつと)もさるべし。やがて支度(したく)して参(まゐ)らせよ」と仰(おほ)せられけり。十郎(じふらう)承(うけたまは)りて、急(いそ)ぎの事(こと)
P291
なりければ、若宮(わかみや)修理(しゆり)の為(ため)に積(つ)み置(お)かれたる材木(ざいもく)を一時に運(はこ)ばせて、高(たか)さ三尺(さんじやく)に舞台(ぶたい)を張(は)りて、唐綾(からあや)、絞紗(もんじや)を以(もつ)てぞ包(つつ)みたる。鎌倉(かまくら)殿(どの)御感(ぎよかん)有(あ)りける。静(しづか)を待(ま)つに、日(ひ)は既(すで)に巳(み)の時(とき)ばかりになるまで参詣(さんけい)なし。「如何(いか)なる静(しづか)なれば、是(これ)程(ほど)に人の心(こころ)を尽(つ)くすらん」などぞ申(まう)しける。遙(はる)かに日闌(た)けて、輿(こし)を舁(か)きてぞ出(い)で来(き)たる。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、藤次(とうじ)が女房(にようばう)諸共(もろとも)に打(う)ち連(つ)れて廻廊(くわいらう)にぞ詣(まう)でたりける。禅師(ぜんじ)、催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)其(そ)の日の役人(やくにん)也(なり)ければ、静(しづか)と連(つ)れて廻廊(くわいらう)の舞台(ぶたい)へ直(なほ)る。左衛門(さゑもん)の女房(にようばう)は同(おな)じ姿(すがた)なる女房(にようばう)達(たち)三十余人引(ひ)き具(ぐ)して、桟敷(さじき)に入(い)りける。静(しづか)は神前(しんぜん)に向(むか)ひて念誦(ねんじゆ)してぞ居(ゐ)たりける。先(ま)づ磯(いそ)の禅師(ぜんじ)、珍(めづら)しからねども、法楽(ほふらく)の為(ため)なれば、催馬楽(さいばら)に鼓(つづみ)打(う)たせて、すきもののせうしやと言(い)ふ白拍子(しらびやうし)を数(かぞ)へてぞ舞(ま)ひたりける。心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばれず。「さしも聞(き)こえぬ
P292
禅師(ぜんじ)が舞(まひ)だにも、是(これ)程(ほど)に面白(おもしろ)きに、まして静(しづか)が舞(ま)はん時(とき)、如何(いか)に面白(おもしろ)からん」とぞ申(まう)し合(あ)ひける。静(しづか)、人の振舞(ふるまひ)、幕(まく)の引様(ひきやう)、如何様(いかさま)にも鎌倉(かまくら)殿(どの)の御参詣(ごさんけい)と覚(おぼ)えたり。祐経(すけつね)が女房(にようばう)賺(すか)して、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御前(おまえ)にて舞(ま)はすると覚(おぼ)ゆる。あはれ何(なに)ともして、今日(けふ)の舞(まひ)を舞(ま)はで帰(かへ)らばやとぞ千種(ちくさ)に案(あん)じ居(ゐ)たりける。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、「今日は鎌倉(かまくら)殿(どの)の御参詣(ごさんけい)と覚(おぼ)え候(さうら)ふ。都(みやこ)にて内侍所(ないしどころ)に召(め)されし時(とき)は、内蔵頭(くらのかみ)信光(のぶみつ)に囃(はや)されて舞(ま)ひたりしぞかし。神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)の雨乞(あまこひ)の時(とき)は、四条(しでう)のきすはらに囃(はや)されてこそ舞(ま)ひて候(さうら)ひしか。此(こ)の度(たび)は御不審(ふしん)の身にて召(め)し下(くだ)され候(さうら)ひしかば、鼓打(つづみう)ちなどをも連(つ)れても下(くだ)り候(さうら)はず。母(はは)にて候(さうら)ふ人の形(かた)の如(ごと)くの腕差(かひなざし)を法楽(ほふらく)せられ候(さうら)はば、我々(われわれ)は都(みやこ)へ上(のぼ)り、又こそ鼓打(つづみうち)用意(ようい)して、わざと下(くだ)りて法楽(ほふらく)に舞(ま)ひ候(さうら)はめ」とて、やがて立(た)つ気色(けしき)に見(み)えければ、大名(だいみやう)小名(せうみやう)是(これ)を見(み)て、興(きよう)醒(ざ)めてぞ有(あ)りける。鎌倉(かまくら)殿(どの)も聞召(きこしめ)して、「世間(せけん)狭(せば)き事(こと)かな。鎌倉(かまくら)にて舞(ま)はせんとしけるに、鼓打(つづみう)ちが無(な)くて、遂(つひ)に舞(ま)はざりけりと聞(き)こえん事こそ恥(はづ)かしけれ。梶原(かぢはら)、侍(さぶらひ)共(ども)の中に鼓(つづみ)打(う)つべき者(もの)やある。尋(たづ)ねて打(う)たせよ」と仰(おほ)せられければ、景時(かげとき)申(まう)しけるは、「左衛門(さゑもん)の尉(じよう)こそ小松(こまつ)殿(どの)の御時(とき)、内裏(うち)の御神楽(みかぐら)に召(め)されて候(さうら)ひけるに、殿上(てんしやう)に名を得(え)たる小鼓(こつづみ)の上手(じやうず)にて候(さうら)ふなれと申(まう)したりければ、さらば祐経(すけつね)打(う)ちて舞(ま)はせよ」と仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて申(まう)しけるは、
P293
「余(あま)りに久(ひさ)しく仕(つかまつ)らで鼓(つづみ)の手色(ていろ)などこそ思(おも)ふ程(ほど)に候(さうら)ふまじけれども、御諚(ごぢやう)にて候(さうら)へば仕(つかまつ)りてこそ見(み)候(さうら)はめ。但(ただ)し鼓(つづみ)一ちやうにては叶(かな)ふまじ、鉦(かね)の役(やく)を召(め)され候(さうら)へ」と申(まう)したり。鉦(かね)は誰(たれ)かあるべきと仰(おほ)せられける。「長沼(ながぬま)の五郎こそ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「尋(たづ)ね打(う)たせよ」と仰(おほ)せければ、「眼病(がんびよう)に身を損(そん)じて、出仕(しゆつし)仕(つかまつ)らず」と申(まう)しければ、「さ候(さうら)はば、景時(かげとき)仕(つかまつ)りて見(み)候(さうら)はばや」と申(まう)せば、「なんぼうの、梶原(かぢはら)は銅拍子(とびやうし)ぞ」と左衛門(さゑもん)に御尋(おんたづ)ね有(あ)り。「長沼(ながぬま)に次(つ)いでは梶原(かぢはら)こそ」と申(まう)したりければ、「さては苦(くる)しかるまじ」とて、鉦(かね)の役(やく)とぞ聞(き)こえける。佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「時(とき)の調子(てうし)は大事(だいじ)の物(もの)にて候(さうら)ふに、誰(たれ)にか音取(ねとり)を吹(ふ)かせばや」と申(まう)せば、鎌倉(かまくら)殿(どの)「誰(たれ)か笛(ふえ)吹(ふ)きぬべき者(もの)やある」と仰(おほ)せられければ、和田(わだ)の小太郎(こたらう)申(まう)しけるは、「畠山(はたけやま)こそ院(ゐん)の御感(ぎよかん)に入(い)りたりし笛(ふえ)にて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「如何(いか)でか畠山(はたけやま)の賢人(けんじん)第一(だいいち)の、異様(いやう)の楽党(がくたう)にならんは、仮初(かりそめ)なりともよも言(い)はじ」と仰(おほ)せられければ、「御諚(ごぢやう)と申(まう)して見(み)候(さうら)はん」とて、畠山(はたけやま)の桟敷(さじき)へ行(ゆ)きけり。畠山(はたけやま)に此(こ)の仔細(しさい)を「御諚(ごぢやう)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、畠山(はたけやま)、「君(きみ)の御内(みうち)きりせめたる工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)鼓(つづみ)打(う)ちて、八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)の所司(しよし)梶原(かぢはら)が銅拍子(とびやうし)合(あ)はせて、重忠(しげただ)が笛(ふえ)吹(ふ)きたらんずるは、俗姓(ぞくしやう)正(ただ)しき楽党(がくたう)にてぞ有(あ)らんずらむ」と打(う)ち笑(わら)ひ、仰(おほ)せに従(したが)ひ参(まゐ)らすべき由(よし)を申(まう)し給(たま)ひつつ、二人(ふたり)の楽党(がくたう)は所々(ところどころ)
P294
より思(おも)ひ思(おも)ひに出(い)で立(た)ち出(い)でられけり。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)は、紺葛(こんくず)の袴(はかま)に、木賊色(とくさいろ)の水干(すいかん)に、立烏帽子(たてえぼし)、紫檀(したん)の胴(どう)に羊(ひつじ)の皮(かわ)にて張(は)りたる鼓(つづみ)の、六(むつ)の緒(を)の調(しら)を掻(か)き合(あ)はせて、左の脇(わき)にかい挟(はさ)みて、袴(はかま)の稜(そば)高(たか)らかに差(さ)し挟(はさ)み、上(うへ)の松山(まつやま)廻廊(くわいらう)の天井(てんじやう)に響(ひび)かせ、手色(ていろ)打(う)ち鳴(な)らして、残(のこり)の楽党(がくたう)を待(ま)ちかけたり。梶原(かぢはら)は紺葛(こんくず)の袴(はかま)に山鳩色(やまばといろ)の水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし)、南鐐(なんりやう)を以(もつ)て作(つく)りたる金(こがね)の菊形(きくがた)打(う)ちたる銅拍子(とびやうし)に、啄木(たんぼく)の緒(を)を入(い)れて、祐経(すけつね)が右の座敷(ざしき)に直(なほ)りて、鼓(つづみ)の手色(ていろ)に従(したが)ひて、鈴虫(すずむし)などの鳴(な)く様(やう)に合(あ)はせて、畠山(はたけやま)を待(ま)ちけり。畠山(はたけやま)は幕(まく)の綻(ほころび)より座敷(ざしき)の体(てい)を差(さ)し覗(のぞ)きて、別して色々(いろいろ)しくも出(い)で立(た)たず、白(しろ)き大口(おほくち)に、白き直垂(ひたたれ)に紫革(むらさきかは)の紐(ひも)付(つ)けて、折烏帽子(をりえぼし)の片々(かたかた)をきつと引(ひ)き立(た)てて、松風(まつかぜ)と名づけたる漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)を持(も)ち、袴(はかま)の稜(そば)高(たか)らかに引(ひ)き上(あ)げて、幕(まく)ざと引(ひ)き上(あ)げ、づと出(い)でたれば、大(だい)の男(をとこ)の重(おも)らかに歩(あゆ)みなして舞台(ぶたい)に上(のぼ)り、祐経(すけつね)が左の方にぞ居(ゐ)直(なほ)りける。名を得(え)たる美男(びなん)なりければ、あはれやとぞ見(み)えける。其(そ)の年(とし)廿三にぞなりける。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、御簾(みす)の内(うち)より「あはれ楽党(がくたう)や」とぞ讚(ほ)めさせ給(たま)ひける。時(とき)に取(と)りては、おくゆかしくぞ見(み)えける。静(しづか)是(これ)を見(み)て、よくぞ辞退(じたい)したりける。同(おな)じくは舞(ま)ふ共(とも)、斯(か)かる楽党(がくたう)にてこそ舞(ま)ふべけれ、心(こころ)軽(かる)くも舞(ま)ひたりせば、如何(いか)に軽々(かるがる)しく有(あ)らんとぞ思(おも)ひける。禅師(ぜんじ)を呼(よ)びて、舞(まひ)の装束(しやうぞく)をぞしたりける。松(まつ)に懸(か)かれる藤(ふじ)の花、池(いけ)の
P295
汀(みぎは)に咲(さ)き乱(みだ)れ、空(そら)吹(ふ)く風は山霞(やまがすみ)、初音(はつね)ゆかしき時鳥(ほととぎす)の声(こゑ)も、折知(をりし)り顔(かほ)にぞ覚(おぼ)えける。静(しづか)が其(そ)の日の装束(しやうぞく)には、白(しろ)き小袖(こそで)一襲(ひとかさね)、唐綾(からあや)を上(うへ)に引(ひ)き重(かさ)ねて、白(しろ)き袴(はかま)踏(ふ)みしだき、割菱(わりひし)縫(ぬ)ひたる水干(すいかん)に、丈(たけ)なる髪(かみ)高(たか)らかに結(ゆ)ひなして、此(こ)の程(ほど)の歎(なげ)きに面(おも)瘠(や)せて、薄化粧(うすげしやう)眉(まゆ)ほそやかに作(つく)りなし、皆紅(みなぐれなゐ)の扇(あふぎ)を開(ひら)き、宝殿(ほうでん)に向(むか)ひて立(た)ちたりける。さすが鎌倉(かまくら)殿(どの)の御前にての舞(まひ)なれば、面映(おもは)ゆくや思(おも)ひけん、舞(ま)ひ兼(か)ねてぞ躊躇(やすら)ひける。二位(にゐ)殿は是(これ)を御覧(ごらん)じて、「去年の冬、四国の波(なみ)の上(うへ)にて揺(ゆ)られ、吉野(よしの)の雪(ゆき)に迷(まよ)ひ、今年(ことし)は海道(かいだう)の長旅(ながたび)にて、瘠(や)せ衰(おとろ)へ見(み)えたれども、静(しづか)を見(み)るに、我(わ)が朝(てう)に女有(あ)り共(とも)知(し)られたり」とぞ仰(おほ)せられける。静(しづか)其(そ)の日は、白拍子(しらびようし)多(おほ)く知(し)りたれども、殊(こと)に心(こころ)に染(そ)むものなれば、しんむじやうの曲(きよく)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)の上手(じやうず)なれば、心(こころ)も及(およ)ばぬ声色(こはいろ)にて、はたと上(あ)げて
P296
ぞ歌(うた)ひける。上下あと感(かん)ずる声(こゑ)雲にも響(ひび)くばかりなり。近(ちか)きは聞(き)きて感(かん)じけり。声(こゑ)も聞(き)こえぬもさこそあるらめとてぞ感(かん)じける。しんむしやうの曲(きよく)半(なから)ばかり数(かぞ)へたりける所に祐経(すけつね)心(こころ)なしとや思(おも)ひけん、水干(すいかん)の袖(そで)を外(はづ)して、せめをぞ打(う)ちたりける。静(しづか)「君(きみ)が代の」と上(あ)げたりければ、人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)きて、「情(なさけ)無(な)き祐経(すけつね)かな、今(いま)一折舞(ま)はせよかし」とぞ申(まう)しける。詮(せん)ずる所(ところ)敵(てき)の前(まへ)の舞(まひ)ぞかし。思(おも)ふ事(こと)を歌(うた)はばやと思(おも)ひて、
しづやしづ賎(しづ)のをだまき繰(く)り返(かへ)し昔(むかし)を今(いま)になすよしもがな W009
吉野山(よしのやま)嶺(みね)の白雪踏(ふ)み分(わ)けて入(い)りにし人の跡(あと)ぞ恋(こひ)しき W010
と歌(うた)ひたりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)御簾(みす)をざと下(おろ)し給(たま)ひけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)、「白拍子(しらびやうし)は興(きよう)醒(さ)めたるものにて有(あ)りけるや。今(いま)の舞(ま)ひ様(やう)、歌(うた)の歌(うた)ひ様(やう)、怪(け)しからず。頼朝(よりとも)田舎人(ゐなかうど)なれば、聞(き)き知(し)らじとて歌(うた)ひける。賎(しづ)のをだまき繰(く)り返(かへ)し」とは、頼朝(よりとも)が世尽(つ)きて九郎が世になれとや。あはれおほけなく覚(おぼ)えし人の跡(あと)絶(た)えにけりと歌(うた)ひたりければ、御簾(みす)を高(たか)らかに上(あ)げさせ給(たま)ひて、軽々(かるがる)しくも讚(ほ)めさせ給(たま)ふものかな。二位(にゐ)殿(どの)より御引出物(おんひきいでもの)色々(いろいろ)賜(たま)はりしを、判官(はうぐわん)殿(どの)御祈(いの)りの為(ため)に若宮(わかみや)の別当(べつたう)に参(まゐ)りて、堀(ほり)の藤次(とうじ)が女房(にようばう)諸共(もろとも)に打(う)ち連(つ)れてぞ帰(かへ)りける。明(あ)くれば都(みやこ)にとて上(のぼ)り、北白川(きたしらかは)の宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)りてあれども、物(もの)をもはかばかしく
P297
見(み)入(い)れず、憂(う)かりし事(こと)の忘(わす)れ難(がた)ければ、問(と)ひくる人も物(もの)憂(う)しとて、只(ただ)思(おも)ひ入(い)りてぞ有(あ)りける。母(はは)の禅師(ぜんじ)も慰(なぐさ)め兼(か)ねて、いとど思(おも)ひ深(ふか)かりけり。明暮(あけくれ)持仏堂(ぢぶつだう)に引(ひ)き籠(こも)り、経(きやう)を読(よ)み、仏(ほとけ)の御名を唱(とな)へて有(あ)りけるが、かかる憂世(うきよ)にながらへても何(なに)かせんとや思(おも)ひけん、母(はは)にも知(し)らせず、髪(かみ)を切(き)りて、剃(そ)りこぼし、天龍寺(てんりゆうじ)の麓(ふもと)に草(くさ)の庵(いほり)を結(むす)び、禅師(ぜんじ)諸共(もろとも)に行(おこな)ひ澄(す)ましてぞ有(あ)りける。姿(すがた)心(こころ)、人に勝(すぐ)れたり、惜(を)しかるべき年ぞかし、十九にて様(さま)を変(か)へ、次(つぎ)の年の秋(あき)の暮(くれ)には思(おも)ひや胸(むね)に積(つも)りけん、念仏(ねんぶつ)申(まう)し、往生(わうじやう)をぞ遂(と)げにける。聞(き)く人貞女(ていじよ)の志(こころざし)を感(かん)じけるとぞ聞(き)こえける。
義経記巻第六