義経記 国民文庫本

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義経記巻第八目録
継信(つぎのぶ)兄弟(きやうだい)御弔(とぶら)ひの事(こと)
秀衡(ひでひら)死去(しきよ)の事(こと)
秀衡(ひでひら)が子供(こども)判官(はうぐわん)殿(どの)に謀反(むほん)の事(こと)
鈴木(すずき)の三郎重家(しげいへ)高館(たかだち)へ参(まゐ)る事
衣河(ころもがは)合戦(かつせん)の事(こと)
判官(はうぐわん)御自害(ごじがい)の事(こと)
兼房(かねふさ)が最期(さいご)の事(こと)
秀衡(ひでひら)が子供(こども)御追討(ついたう)の事(こと)
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義経記巻第八
継信(つぎのぶ)兄弟(きやうだい)御弔(おんとぶらひ)の事(こと) S0801
さる程(ほど)に判官(はうぐわん)殿(どの)高館(たかだち)に移(うつ)らせ給(たま)ひて後、佐藤(さとう)庄司(しやうじ)が後家の許(もと)へも折々(をりをり)御使(おんつかひ)遣(つか)はされ、憐(あはれ)み給(たま)ふ。人々(ひとびと)奇異(きい)の思(おも)ひをなす。或(あ)る時武蔵(むさし)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、継信(つぎのぶ)忠信(ただのぶ)兄弟(きやうだい)が跡(あと)を弔(とぶら)はせ給(たま)ふべき由(よし)仰(おほ)せられける。「其(そ)の次(ついで)に四国西国(さいこく)にて討死(うちじに)したる者(もの)共(ども)、忠(ちゆう)の浅深(せんじん)にはよるべからず。死後なれば名張(みやうちやう)に入(い)れて弔(とぶら)へ」と仰(おほ)せくださるる。弁慶(べんけい)涙(なみだ)を流(なが)し、「尤(もつと)も忝(かたじけな)き御事(おんこと)候(さうら)ふ。上(かみ)として斯様(かやう)に思(おぼ)し召(め)さるる事、誠(まこと)に延喜(えんぎ)天暦(てんりやく)の帝(みかど)と申(まう)すとも、如何(いか)でか斯様(かやう)には渡(わた)らせ御座(おは)しまし候(さうら)はん。急(いそ)ぎ思(おぼ)し召(め)し立(た)ち給(たま)へ」と申(まう)しければ、さらば貴僧達(きそうたち)を請(しやう)じ、仏事(ぶつじ)執(と)り行(おこな)ふべき由(よし)仰(おほ)せ付(つ)けらる。武蔵(むさし)此(こ)の事(こと)秀衡(ひでひら)に申(まう)しければ、入道(にふだう)も且(かつう)は御志(おんこころざし)の程を感(かん)じ、且(かつう)は彼等(かれら)が事(こと)を今(いま)一入(ひとしほ)不便(ふびん)に思(おも)ひ、しきりに涙(なみだ)にぞ咽(むせ)びける。
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兄弟(きやうだい)の母(はは)尼公(にこう)の方(かた)へも御使(おんつかひ)有(あ)りけり。孫(まご)共(ども)後家(ごけ)共(ども)引(ひ)き具(ぐ)して参(まゐ)る。御志(おんこころざし)の余(あま)りに御自筆にも法華経(ほけきやう)遊(あそ)ばされ、弔(とぶら)はせ給(たま)ふ。有(あ)り難(がた)き例(ためし)には人々(ひとびと)申(まう)しあへり。尼公(にこう)申(まう)されけるは、「兄弟(きやうだい)の者(もの)の孝養(けうやう)、誠(まこと)に身においては有(あ)り難(がた)き御志(おんこころざし)、又は死後の名何事(なにごと)か是(これ)に越(こ)え申(まう)すべし。是(これ)程(ほど)の御志(おんこころざし)を、此(こ)の世に存命(ながら)へて候(さうら)はば、如何(いか)ばかりか忝(かたじけな)く思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はんといよいよ涙(なみだ)つくし難(がた)く候(さうら)ふ。然(さ)れども今(いま)は思(おも)ひ切(き)り参(まゐ)らせ候(さうら)ふ。幼(をさな)き者(もの)共(ども)を相(あひ)続(つづ)き君へ参(まゐ)らせ候(さうら)はん、未(いま)だ童名(わらはな)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)、「それは秀衡(ひでひら)が名をも付(つ)くべけれども、兄弟(きやうだい)の者(もの)共(ども)の名残(なごり)形見(かたみ)なれば、義経(よしつね)名を付(つ)けべし。さりながらも秀衡(ひでひら)に聞(き)かせよ」と仰(おほ)せられて、御使有(あ)りければ、入道(にふだう)承(うけたまは)り、「内々(ないない)申(まう)し上(あ)げたき折節(をりふし)候(さうら)ふ。恐(おそ)れ入(い)るばかりに候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「さらば秀衡(ひでひら)計(はか)らひて」と宣(のたま)へば、秀衡(ひでひら)、「承(うけたまは)る」と申(まう)して、髪(かみ)取(と)り上(あ)げ、烏帽子(えぼし)著(き)せ、御前に畏(かしこ)まる。判官(はうぐわん)御覧(ごらん)じて、継信(つぎのぶ)が若(わか)をば佐藤(さとう)三郎吉信(よしのぶ)、忠信(ただのぶ)が子をば佐藤(さとう)四郎義忠(よしただ)と付(つ)け給(たま)ふ。尼公(にこう)斜(なのめ)ならず悦(よろこ)び、「如何(いか)に和泉(いづみ)の三郎、予(かね)て申(まう)せし物、我(わ)が君(きみ)へ奉(たてまつ)れ」と申(まう)しければ、佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)はれる重代(ぢゆうだい)の太刀を進上(しんじやう)す。北(きた)の方(かた)へは唐綾(からあや)の御小袖(おんこそで)、巻絹(まきぎぬ)など取(と)り添(そ)へて奉(たてまつ)る。其(そ)の外(ほか)侍(さぶらひ)達(たち)にもそれぞれに参(まゐ)らせける。尼公(にこう)いとど涙(なみだ)に咽(むせ)び、「あはれ同(おな)じくは兄弟の者(もの)共(ども)
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御供(おんとも)して下(くだ)り、御前(おまへ)にて孫共(ども)に烏帽子(えぼし)を著(き)せなば、如何(いか)ばかり嬉(うれ)しからまし」と流涕(りうてい)焦(こが)れければ、二人(ふたり)の嫁(よめ)も亡(な)き人の事(こと)を一入(ひとしほ)思(おも)ひ出(い)だし、別(わか)れし時(とき)の様(やう)に、声(こゑ)も惜(を)しまず悲(かな)しみけり。君(きみ)も哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)し、御涙(おんなみだ)を流(なが)させ給(たま)ふ。御前(おまへ)なりし人々(ひとびと)、秀衡(ひでひら)は申(まう)すに及(およ)ばず、袂(たもと)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、各々(おのおの)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。判官(はうぐわん)盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ給(たま)ひ、吉信(よしのぶ)に下(くだ)さる。盃(さかづき)のけうはい、当座の会釈(ゑしやく)、誠(まこと)に大人(おとな)しく見(み)えければ、「さても継信(つぎのぶ)によくも似(に)たるものかな。汝(なんぢ)が父(ちち)屋嶋(やしま)にて義経(よしつね)が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人(しよじん)目を驚(おどろ)かし、類(たぐひ)有(あ)らじと言(い)ひしが、実(まこと)に我(わ)が朝(てう)の事(こと)は言(い)ふに及(およ)ばず、唐土天竺(てんぢく)にも主君(しゆくん)に志(こころざし)深(ふか)き者(もの)多(おほ)しと雖(いへど)も、かかる例(ためし)なしとて、三国(さんごく)一の剛(かう)の者(もの)と言(い)はれしぞかし。今日(けふ)よりしては、義経(よしつね)を父と思(おも)へ」と仰(おほ)せられて、御座(おんざ)近(ちか)く召(め)されて、後(おくれ)の髪(かみ)を撫(な)でさせ給(たま)ひ、御涙(おんなみだ)堰(せ)き敢(あ)へ給(たま)はず。其(そ)の時(とき)亀井(かめゐ)、片岡(かたをか)、伊勢(いせ)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましを)の十郎(じふらう)、権守(ごんのかみ)、荒(あら)き弁慶(べんけい)を始(はじ)めとして、声(こゑ)を立(た)ててぞ泣(な)きにける。暫(しばら)く有(あ)りて御涙を止(とど)め、義忠(よしただ)に御盃(さかづき)下(くだ)され、「汝(なんじ)が父(ちち)、吉野山(よしのやま)にて大衆(だいしゆ)追(お)つ掛(か)けたりしに、義経(よしつね)を庇(かば)ひ、一人峰(みね)に留(とど)まらんと言(い)ひしを、義経(よしつね)も留(とど)めん事を悲(かな)しみ、一所にと千度百度言(い)ひしに、侍(さぶらひ)の言葉(ことば)は綸言(りんげん)にも同(おな)じ。猶(なほ)し汗(あせ)の如(ごと)しとて、既(すで)に自害(じがい)せんとせし儘(まま)に、力(ちから)及(およ)ばず、一人峰(みね)に残(のこ)し置(お)きたりしに、
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数百人の敵(かたき)を六七騎にて防(ふせ)ぎ、剰(あまつさ)へ鬼神の様(やう)に言(い)はれし横川(よかは)の覚範(かくはん)を討(う)ち取(と)り、都(みやこ)に上(のぼ)り、江馬(えま)の小四郎を引(ひ)き受(う)け、其(そ)の所をも切(き)り抜(ぬ)けしに、普通(ふつう)の者(もの)ならば、それより是(これ)へ下(くだ)るべきに、義経(よしつね)を慕(した)ひ、在所(ありどころ)を知(し)らずして、六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の古(ふる)き宿所に帰(かへ)り来(き)て、義経(よしつね)を見(み)ると思(おも)ひて、是(これ)にて腹(はら)を切(き)らんとて、自害(じがい)したりし志(こころざし)、何時(いつ)の世に忘(わす)るべき。例(ためし)無(な)き志(こころざし)、剛(かう)の者(もの)とて鎌倉(かまくら)殿(どの)も惜(を)しみ給(たま)ひ、孝養(けうやう)し給(たま)ふと聞(き)く。汝(なんぢ)も忠信(ただのぶ)に劣(おと)るまじき者(もの)かな」とて、又(また)御落涙(らくるい)有(あ)りけり。判官(はうぐわん)伊勢(いせ)の三郎を召(め)して、小桜威(こざくらをどし)、卯花威(うのはなをどし)の鎧(よろひ)を二人(ふたり)に下(くだ)されけり。尼公(にこう)涙(なみだ)を止(とど)めて、「あら有(あ)りがたの御諚(ごぢやう)や。侍(さぶらひ)程(ほど)剛(かう)にても剛(かう)なるべき者(もの)はなし。我(わ)が子ながらも剛(かう)ならずは、斯程(かほど)までは御諚(ごぢやう)もあるまじ。汝等(なんぢら)も成人(せいじん)仕(つかまつ)り、父共(ども)が如(ごと)く、君(きみ)の御用(よう)に立(た)ち、名を後代に上(あ)げよ。不忠(ふちゆう)を仕(つかまつ)ら
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ば、父に劣(おと)れる者(もの)とて傍輩(はうばい)達(たち)に笑(わら)はれんぞ。後指(うしろゆび)を指(さ)されば、家の傷(きず)なるべし。御前にて申(まう)すぞ。よく承(うけたまは)り止(とど)めよ」とぞ申(まう)しける。各々(おのおの)是(これ)を聞(き)きて、「兄弟(きやうだい)が剛(かう)なりしも道理(だうり)かな。只今(ただいま)尼公(にこう)の申(まう)す様(やう)、奇特(きどく)なり」とぞ感(かん)じける。
秀衡(ひでひら)死去(しきよ)の事(こと) S0802
文治(ぶんぢ)四年(しねん)十二月十日(とをか)頃(ごろ)より入道(にふだう)重病を受(う)けて、日数(ひかず)重(かさ)なりて弱(よわ)り行(ゆ)けば、耆婆(ぎば)、扁鵲(へんじやく)が術(じゆつ)だにも敢(あへ)て叶(かな)ふべきと見(み)えざれば、秀衡(ひでひら)娘(むすめ)子息(しそく)其(そ)の外(ほか)所従(しよじゆう)をあつめて、泣(な)く泣(な)く申(まう)されけるは、「限(かぎ)りある業病(ごふびやう)を受(う)け、命(いのち)を惜(を)しむなど聞(き)きし事、極(きは)めて人の上(うへ)にてだにも言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き事(こと)に思(おも)ひつるに、身の上(うへ)になりて思(おも)ひ知(し)られたるなり。其(そ)の故(ゆゑ)は入道(にふだう)此(こ)の度(たび)命(いのち)を惜(を)しく存(ぞん)ずる事(こと)は、判官(はうぐわん)殿(どの)入道(にふだう)を頼(たの)みに思(おぼ)し召(め)して、遙(はる)かの道(みち)を妻子(さいし)具(ぐ)して御座(おは)したるに、せめて十年心(こころ)安(やす)く振舞(ふるま)はせ奉(たてまつ)らで、今日(けふ)明日(あす)に入道(にふだう)死(し)しぬるならば、闇(やみ)の夜に燈火(ともしび)を消(け)したる如(ごと)くに、山野に迷(まよ)ひ給(たま)はん事こそ口惜(くちを)しく存(ぞん)ずれ。是(これ)ばかりこそ今生(こんじやう)に思(おも)ひ置(お)く事、冥途(めいど)の障(さはり)と覚(おぼ)ゆれ。然(さ)れども叶(かな)はぬ習(なら)ひなれば、力(ちから)なし。判官(はうぐわん)殿(どの)
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に参(まゐ)り、最期(さいご)の見参(げんざん)申(まう)したく存(ぞん)ずれども、余(あま)りに苦(くる)しく、合期(かふご)ならず。是(これ)へ申(まう)さんは恐(おそれ)有(あ)り。此(こ)の旨(むね)を御耳(おんみみ)に入(い)れよ。又(また)各々(おのおの)此(こ)の遺言(ゆいごん)を用(もち)ゆべきか。用(もち)ゆべきに有(あ)らば、言(い)ふべき事(こと)を静(しづ)かに聞(き)くべし」と宣(のたま)へば、各々(おのおの)「争(いかで)か背(そむ)き申(まう)すべき」と申(まう)されければ、苦(くる)しげなる声(こゑ)にて、「定(さだ)めて秀衡(ひでひら)死(し)したらば、鎌倉(かまくら)殿(どの)より判官(はうぐわん)殿(どの)討(う)ち奉(たてまつ)れと宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)下(くだ)るべし。勲功(くんこう)には常陸(ひたち)を賜(たま)はるべきと有(あ)らんずるぞ。相(あひ)構(かま)へてそれを用(もち)うべからず。入道(にふだう)が身には出羽(では)奥州(あうしう)は過分(くわぶん)の所(ところ)にてあるぞ。況(いは)んや親(おや)に勝(まさ)る子有(あ)らんや、各々(おのおの)が身を以(もつ)て他国を賜(たま)はらん事(こと)叶(かな)ふべからず。鎌倉(かまくら)よりの御使(おんつかひ)なり共(とも)首(くび)を斬(き)れ。両(りやう)三度に及(およ)びて御使(おんつかひ)を斬(き)るならば、其(そ)の後はよも下(くだ)されじ。仮令(たとひ)下(くだ)さるとも、大事(だいじ)にてぞ有(あ)らんずらん。其(そ)の用意(ようい)をせよ。念珠(ねんじゆ)、白河(しらかは)両関(りやうぜき)をば西木戸(にしきど)に防(ふせ)がせて、
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判官(はうぐわん)殿(どの)を愚(おろか)になし奉(たてまつ)るべからず。過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)あるべからず。此(こ)の遺言(ゆいごん)をだにも違(たが)へずは、末世(まつせ)と言(い)ふとも汝(なんじ)等(ら)が末(すゑ)の世は安穏(あんをん)なるべしと心(こころ)得(え)よ、生(しやう)を隔(へだ)つ共(とも)」と言(い)ひ置(お)きて、是(これ)を最期(さいご)の言葉(ことば)にて十二月廿一日の曙(あけぼの)に遂(つひ)にはかなくなりぬ。妻子(さいし)眷属(けんぞく)泣き悲(かな)しむと雖(いへど)も、甲斐(かひ)ぞ無(な)き。判官(はうぐわん)殿(どの)へ此(こ)の由(よし)申(まう)されければ、馬(うま)に鞭(むち)を打(う)ち御座(おは)したり。むなしき体(からだ)に向(むか)ひて歎(なげ)き給(たま)ひけるは、「境(さかひ)遙(はる)かの道(みち)を是(これ)まで下る事(こと)も、入道(にふだう)を頼(たの)み奉(たてまつ)りてこそ下(くだ)り候(さうら)へ。父義朝(よしとも)には二歳(にさい)にて別(わか)れ奉(たてまつ)りぬ。母(はは)は都(みやこ)に御座(おは)すれども、平家に渡(わた)らせ給(たま)へば、互(たが)ひに快(こころよ)からず。兄弟(きやうだい)有(あ)りと雖(いへども)、幼少(えうせう)より方々(はうばう)に有(あ)りて、寄(より)合(あ)ふ事(こと)も無(な)く、剰(あまつさ)へ頼朝(よりとも)には不和(ふわ)なり。如何(いか)なる親(おや)の歎(なげ)き、子の別(わか)れと言(い)ふとも、是(これ)には過(す)ぎじ」と悲(かな)しみ給(たま)ふ事(こと)限(かぎり)なし。只(ただ)義経(よしつね)が運(うん)の窮(きは)むる所(ところ)とて、さしも猛(たけ)き心(こころ)を引(ひ)きかへて歎(なげ)き給(たま)ひけり。亀割山(かめわりやま)にて産(むま)れ給(たま)へる若君(わかぎみ)も、判官(はうぐわん)殿(どの)と同(おな)じ様(やう)に白衣(しろぎぬ)を召(め)して、野辺(のべ)の送(おく)りをし給(たま)へり。見(み)奉(たてまつ)るにいとど哀(あは)れぞ勝(まさ)りける。同(おな)じ道(みち)にと悲(かな)しみ給(たま)へども、むなしき野辺(のべ)は只(ただ)独(ひと)り、送(おく)り捨(す)ててぞ帰(かへ)り給(たま)ひぬ。あはれなりし事共(ども)なり。
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秀衡(ひでひら)が子供(こども)判官(はうぐわん)殿(どの)に謀反(むほん)の事(こと) S0803
かくて入道(にふだう)死(し)しけれども変(か)はる事(こと)も無(な)く、兄弟の子供(こども)打(う)ち替(か)へ打(う)ち替(か)へ、判官(はうぐわん)殿(どの)へ出仕(しゆつし)して、其(そ)の年も暮(く)れにけり。明(あ)くる二月の頃(ころ)、泰衡(やすひら)が郎等(らうどう)何事(なにごと)をか聞(き)きたりけん、夜更(ふ)け、人静(しづ)まりてひそかに来(き)たり、泰衡(やすひら)に言(い)ひけるは、「判官(はうぐわん)殿(どの)泉(いづみ)の御曹司(おんざうし)と一(ひと)つにならせ給(たま)ひ、御内(みうち)を討(う)ち奉(たてまつ)らんと用意(ようい)にて候(さうら)ふ。合戦(かつせん)の習(なら)ひ、人に先(さき)を取(と)られぬれば、悪(あ)しき御事(おんこと)にて候(さうら)ふなり。急(いそ)ぎ御用意(ようい)あるべし」と語(かた)りける程(ほど)に、泰衡(やすひら)安(やす)からぬ事(こと)に思(おも)ひ、「さらば用意(ようい)あるべし」とて、二月廿一日入道(にふだう)の孝養(けうやう)仏事(ぶつじ)を営(いとな)まんと用意(ようい)しけるが、仏事(ぶつじ)をば差(さ)し置(お)き、一腹の舎弟(しやてい)泉(いづみ)の冠者(くわんじや)を夜討(ようち)にしけるこそうたてけれ。それを見(み)て、兄の西木戸(にしきど)、比爪(ひづめ)の五郎、弟(おとと)のともとしの冠者(くわんじや)、此(こ)の事(こと)人の上ならずとて、各々(おのおの)心々(こころごころ)になりにけり。六親不和(ふわ)にして、三宝(さんぽう)の加護(かご)なしとは是(これ)なり。判官(はうぐわん)も、さては義経(よしつね)にも思(おも)ひかからんとて、武蔵(むさし)を召(め)して、廻文(めぐらしぶみ)を書(か)かせらる。九州には菊地(きくち)、原田(はらだ)、臼杵(うすき)、緒方(をかた)、急(いそ)ぎ参(まゐ)るべき由(よし)を仰(おほ)せ下(くだ)されて、雑色(ざふしき)駿河(するがの)次郎(じらう)に賜(た)びぬ。夜を日に継(つ)ぎて、京に上(のぼ)り、筑紫(つくし)へ下(くだ)らんとす。如何(いか)なる者(もの)か言(い)ひけん、此(こ)の由(よし)六波羅(ろくはら)に聞(き)きて、駿河(するが)を召(め)し捕(と)りて、下部(しもべ)廿四人差(さ)し添(そ)へて、関東(くわんとう)へ下(くだ)されけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)廻文(めぐらしぶみ)を
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御覧(ごらん)じて、大(おほ)きに怒(いか)り、「九郎は不思議(ふしぎ)の者(もの)かな。同(おな)じ兄弟(きやうだい)と言(い)ひながら、頼朝(よりとも)を度々(たびたび)思(おも)ひ替(か)へるこそ不思議(ふしぎ)なれ。秀衡(ひでひら)も他界(たかい)しつ。奥も傾(かたぶ)きぬ。攻(せ)めんに何程(なにほど)の事(こと)あるべき」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、梶原(かじはら)御前(おまへ)に候(さうら)ひけるが、仰(おほ)せにて候(さうら)へども、愚(おろか)の御計(はか)らひにて候(さうら)ふや。宣旨(せんじ)なりて秀衡(ひでひら)を召(め)されけるに、昔(むかし)将門(まさかど)八万余騎(よき)、今(いま)の秀衡(ひでひら)十万八千余騎(よき)にて、片道(かたみち)を賜(たま)はらば参(まゐ)るべき由(よし)申(まう)しけるに、さては叶(かな)はずとて止(とど)められ、遂(つひ)に京(きやう)を見(み)ずとこそ承(うけたまは)りて候(さうら)へ。秀衡(ひでひら)一人にても妨(さまた)げ候(さうら)はば、念珠(ねんじゆ)、白川(しらかは)両関(りやうぜき)をかため、判官(はうぐわん)殿(どの)の御下知(げち)に従(したが)ひて、軍(いくさ)を仕(つかまつ)り候(さうら)はば、日本国(につぽんごく)の勢(せい)を以(もつ)て、百年二百年戦(たたか)ひ候(さうら)ふとも、一天(いつてん)四海(しかい)民(たみ)の煩(わづらひ)とはなり候(さうら)ふとも、打(う)ち従(したが)へん事(こと)叶(かな)ひ候(さうら)ふまじ。只(ただ)泰衡(やすひら)を御賺(すか)し候(さうら)ひて、御曹司(おんざうし)を討(う)ち参(まゐ)らさせ給(たま)ひ、其(そ)の後御攻(せ)め候(さうら)はば、然(しか)るべく候(さうら)はんずる由(よし)を申(まう)しければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、頼朝「私(わたくし)の下知(げち)ばかりにて適(かな)ふまじ」とて、院宣(ゐんぜん)を申(まう)されけり。泰衡(やすひら)が義経(よしつね)を討(う)ちたらば、本領(ほんりやう)に常隆(ひたち)を添(そ)へて、子々(しし)孫々に至(いた)るまで賜(たま)はるべき由(よし)なり。鎌倉(かまくら)殿(どの)御下知(げち)を添(そ)へて遣(つか)はさる。泰衡(やすひら)何時(いつ)しか故(こ)入道(にふだう)の遺言(ゆいごん)を背(そむ)いて、領承(りやうじやう)申(まう)しぬ。但(ただ)し御宣旨(せんじ)を賜(たま)はりて討(う)ち奉(たてまつ)るべき由(よし)申(まう)しければ、さらばとて、安達(あだち)の四郎清忠(きよただ)を召(め)して、此(こ)の二三年知行(ちぎやう)をいくまみたるらん。検見(けんみ)に罷(まか)り下(くだ)るべき由(よし)仰(おほ)せ出(い)ださるる。承(うけたまは)り候(さうら)ひて、清忠(きよただ)奥(おく)へ
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ぞ下(くだ)りける。さる程(ほど)に泰衡(やすひら)俄に狩(かり)をぞ始(はじ)めける。判官(はうぐわん)も出(い)でて狩(かり)し給(たま)ふ。清忠(きよただ)粉(まぎ)れ歩(あり)きて見(み)奉(たてまつ)るに、疑(うたがひ)無(な)き判官(はうぐわん)殿(どの)にて御座(おは)します。軍(いくさ)は文治(ぶんぢ)五年四月廿九日巳(み)の時(とき)と定(さだ)めけり。此(こ)の事(こと)義経(よしつね)は夢(ゆめ)にも知(し)り給(たま)はず。斯(か)かりし所(ところ)に民部(みんぶ)の権少輔(ごんのぜう)基成(もとなり)と言(い)ふ人有(あ)り。平治(へいぢ)の合戦(かつせん)の時(とき)、失(う)せ給(たま)ひし悪衛門督(あくゑもんのかみ)信頼(のぶより)の兄(あに)にて御座(おは)します。謀反(むほん)の者(もの)の一門(いちもん)なればとて、東国に下(くだ)られたりけるを、故(こ)入道(にふだう)情(なさけ)をかけ給(たま)へり。其(そ)の上(うへ)秀衡(ひでひら)が基成(もとなり)の娘(むすめ)に具足(ぐそく)して、子供(こども)数多(あまた)有(あ)り。嫡子(ちやくし)二男泰衡(やすひら)、三男(さんなん)和泉(いづみ)の三郎忠致(ただむね)、是(これ)等(ら)三人が外祖父(おほぢ)なり。然(さ)れば人重(おも)くし奉(たてまつ)り、少輔(じよう)の御寮(れう)とぞ申(まう)す。此(こ)の子供(こども)より先(さき)に嫡子(ちやくし)西木戸(にしきど)太郎頼衡(よりひら)とて、極(きは)めて丈(たけ)高(たか)く、ゆゆしく芸能(げいのう)もすぐれ、大(だい)の男(をとこ)の剛(かう)の者(もの)、強弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)にて、謀(はかりこと)賢(かしこ)くあるを、嫡子(ちやくし)に立(た)てたりせばよかるべきに、男の十五
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より内(うち)に儲(まう)けたる子をば、嫡子(ちやくし)に立(た)てぬ事(こと)なりとて、当腹(たうばら)二男(じなん)を嫡子(ちやくし)に立(た)てける。入道(にふだう)思(おも)へば敢(あへ)無(な)かりけり。此(こ)の基成(もとなり)は判官(はうぐわん)殿(どの)に浅(あさ)からず申(まう)し承(うけたまは)り候(さうら)はれけり。此(こ)の事(こと)ほのかに聞(き)きて、あさましく思(おも)ひて、孫共(まごども)を制(せい)せばやと思(おも)はれけれ共(ども)、恥(は)づかしくも所領(しよりやう)を譲(ゆづ)りたる事(こと)もなし。我(われ)さへ彼等(かれら)に預(あづ)けられたる身ながら勅勘(ちよくかん)の身なり。院宣(ゐんぜん)下(くだ)る上(うへ)、何(なに)と制(せい)するとも適(かな)ふまじ。余(あま)り思(おも)へば悲(かな)しくて、判官(はうぐわん)殿(どの)へ消息(せうそく)を奉(たてまつ)る。「殿(との)を関東(くわんとう)より討(う)ち奉(たてまつ)れとて院宣(ゐんぜん)下(くだ)りぬ。此(こ)の間(あひだ)の狩(かり)をば栄耀(ええう)の狩(かり)と思(おぼ)し召(め)すや。命(いのち)こそ大切(たいせつ)に候(さうら)へ、一先(ひとま)づ落(お)ちさせ給(たま)ふべくもや候(さうら)ふらん。殿(との)の親父(しんぷ)義朝(よしとも)は、舎弟(しやてい)信頼(のぶより)に与(くみ)せられ、謀反(むほん)の為(ため)にひくはの死罪(しざい)に行(おこな)はれ給(たま)ひぬ。又(また)基成(もとなり)東国に遠流(をんる)の身となり、御辺(ごへん)も是(これ)に御渡(おんわた)り候(さうら)へば、ちしの縁(えん)深(ふか)かりけると思(おも)ひ知(し)られて候(さうら)ひつるに、又(また)後(おく)れ参(まゐ)らせて、歎(なげ)き候(さうら)はん事こそ口惜(くちを)しく候(さうら)へ。同道(どうだう)に御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)はんこそ本意にて候(さうら)ふべきに、年(とし)老(お)ひ、身(み)甲斐々々(かひがひ)しく候(さうら)はで、甲斐(かひ)無(な)き御孝養(けうやう)を申(まう)さん事(こと)行(ゆ)くも止(とま)るも同(おな)じ道(みち)」と掻(か)き口説(くど)き、泣(な)く泣(な)く遣(つか)はされけり。判官(はうぐわん)此(こ)の文(ふみ)御覧(ごらん)じて、御返事(ごへんじ)には、「文悦(よろこ)び入(い)り候(さうら)ふ。仰(おほ)せの如(ごと)く、何方(いづかた)へも落(お)ち行(ゆ)くべきにて候(さうら)へ共(ども)、勅勘(ちよくかん)の身として空(そら)を飛(と)び、地を潛(くぐ)るとも適(かな)ひ難(がた)し。此処(ここ)にて自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るべし。然(さ)ればとて錆矢(さびや)の一(ひと)つも放(はな)つべきにても候(さうら)はず。此(こ)の御恩(ごおん)今生(こんじやう)にて
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はむなしくなりぬ。来世(らいせ)にては必(かなら)ず一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)の縁(えん)となり奉(たてまつ)るべし。是(これ)は一期(いちご)の秘記(ひき)にて候(さうら)ふ。御身(おんみ)を放(はな)さず、御覧(ごらん)候(さうら)へ」と唐櫃(からひつ)一合(いちがふ)御返事(ごへんじ)にそへて遣(つか)はされけり。其(そ)の後(のち)も文有(あ)りけれども、自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るとて、御返事(ごへんじ)にも及(およ)ばず。然(さ)れば産(さん)して七日になり給(たま)ふ北(きた)の方(かた)を呼(よ)び出(い)だし参(まゐ)らせて、「義経(よしつね)は関東(くわんとう)より院宣(ゐんぜん)下(くだ)りて失(うしな)はるべく候(さうら)ふ。昔(むかし)より女の罪科(ざいくわ)と言(い)ふ事(こと)なし。他所へ渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)へ。義経(よしつね)は心(こころ)静(しづ)かに自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るべし」と宣(のたま)へば、北(きた)の方(かた)聞召(きこしめ)しもあへず、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、「幼(いとけな)きより片時(かたとき)も放(はな)れじと慕(した)ひし乳母(めのと)の名残(なごり)を振(ふ)り捨(す)てて付(つ)き奉(たてまつ)りて下(くだ)りけるは、斯様(かよう)に隔(へだ)て奉(たてまつ)らん為(ため)かや。女の習(なら)ひ片思(かたおも)ひこそ恥(は)づかしくも候(さうら)へども、人の手(て)に懸(か)けさせ給(たま)ふな」と御傍(おんそば)をはなれじとし給(たま)へば、判官(はうぐわん)も涙(なみだ)ながら持仏堂(ぢぶつだう)の東(ひがし)の正面(しやうめん)をしつらひて、入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。
鈴木(すずき)の三郎重家(しげいへ)高館(たかだち)へ参(まゐ)る事 S0804
重家(しげいへ)を御前(おまへ)に召(め)され、「抑(そもそも)和殿(わどの)は鎌倉(かまくら)殿(どの)より御恩(ごおん)賜(たま)はるに、世に無(な)き義経(よしつね)が許(もと)に来(き)たり、幾(いく)程無(な)く斯様(かよう)の事(こと)出(い)で来(き)たるこそ不便(ふびん)なれ」と宣(のたま)へば、鈴木(すずき)
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申(まう)しけるは、「さん候(ざうらふ)。鎌倉(かまくら)殿(どの)より甲斐(かひ)の国(くに)にて所領(しよりやう)一所賜(たま)はりて候(さうら)ひしが、寝(ね)ても寤(さ)めても君(きみ)の御事(おんこと)片時(かたとき)も忘(わす)れ参(まゐ)らせず。余(あま)りに御面影(おもかげ)身にしみて参(まゐ)りたく存(ぞん)じ候(さうら)ひし間(あひだ)、年来の妻子(さいし)など熊野(くまの)の者(もの)にて候(さうら)ひしを、送(おく)り遣(つか)はし候(さうら)ひて、今(いま)は今生(こんじやう)に思(おも)ひ置(お)く事(こと)いささかも候(さうら)はず。但(ただ)し心にかかる事(こと)候(さうら)ふは、一昨日(をととひ)著(つ)き申(まう)す道(みち)にて、馬(うま)の足(あし)を損(そん)ざし候(さうら)ひて傷(いた)み候(さうら)へ共(ども)、御内(みうち)の案内(あんない)如何(いかが)と存(ぞん)じ、申(まう)し入(い)れず候(さうら)ふ。今(いま)斯(か)く候(さうら)へば、然(しか)るべき、是(これ)こそ期(ご)したる弓矢(ゆみや)にて候(さうら)へ。仮令(たとひ)是(これ)に参(まゐ)り会(あ)ひ候(さうら)はずとも、遠(とほ)き近(ちか)きの差別(しやべつ)にてこそ候(さうら)はんずれ、君討(う)たれさせ給(たま)ひぬと承(うけたまは)り候(さうら)はば、何(なに)の為(ため)に命(いのち)をかばひ候(さうら)ふべき。所々(ところどころ)にて死(し)候(さうら)はば、死出(しで)の山路(やまぢ)も遙(はる)かに離(さか)り奉(たてまつ)るべきに、心(こころ)安(やす)く御供(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)はん」とて、世に心地(ここち)よげに申(まう)しければ、判官(はうぐわん)も御涙(おんなみだ)に咽(むせ)び、
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打(う)ち頷(うなづ)き給(たま)ひけり。さて鈴木(すずき)申(まう)し上(あ)げけるは、「下人(げにん)に腹巻(はらまき)ばかりこそ著(き)せて参(さん)じて候(さうら)へ。討死(うちじに)の上(うは)具足(ぐそく)の善悪(よしあし)は要(い)るまじく候(さうら)へども、後(のち)に聞(き)こえ候(さうら)はん事(こと)無下(むげ)に候(さうら)はんか」と申(まう)しければ、鎧(よろひ)は数多(あまた)させたるとて、敷目(しきめ)に巻(ま)きたる赤糸威(あかいとをどし)の究竟(くつきやう)の鎧(よろひ)を取(と)り出(い)だし、御馬(うま)に添(そ)へ下さる。腹巻(はらまき)は舎弟(しやてい)亀井(かめゐ)に取(と)らせけり。
衣河(ころもがは)合戦(かつせん)の事(こと) S0805
さる程(ほど)に、寄手(よせて)長崎(ながさき)の大夫(たいふ)のすけを初(はじ)めとして、二万余騎(よき)一手(いつて)になりて押(お)し寄(よ)せたり。「今日(けふ)の討手(うつて)は如何(いか)なる者(もの)ぞ」「秀衡(ひでひら)が家の子、長崎(ながさき)太郎大夫(たいふ)」と申(まう)す。せめて泰衡(やすひら)、西木戸(にしきど)などにても有(あ)らばこそ最期(さいご)の軍(いくさ)をも為(せ)め、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)が郎等(らうどう)に向(むか)ひて、弓(ゆみ)を引(ひ)き矢を放(はな)さん事(こと)あるべからずとて、「自害(じがい)せん」と宣(のたま)ひけり。此処(ここ)に北(きた)の方(かた)の乳母親(めのとおや)に十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、喜三太(きさんだ)二人(ふたり)は家の上(うへ)に上(のぼ)りて、遣戸(やりと)格子(かうし)を小楯(こだて)にして散々(さんざん)に射(い)る。大手(おほて)には武蔵坊(むさしばう)、片岡(かたをか)、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましを)、伊勢(いせ)の三郎、備前(びぜん)の平四郎、以上人々(ひとびと)八騎なり。常陸坊(ひたちばう)を初(はじ)めとして残り十一人の者(もの)共(ども)、今朝(けさ)より近(ちか)きあたりの山寺を拝(おが)みに出(い)でけるが、其(そ)の儘(まま)帰(かへ)らずして
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失(う)せにけり。言(い)ふばかり無(な)き事共(ども)なり。弁慶(べんけい)其(そ)の日の装束(しやうぞく)には黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の裾金物(すそかなもの)平(ひら)く打(う)ちたるに、黄(き)なる蝶(てう)を二つ三つ打(う)ちたりけるを著(き)て、大薙刀(おほなぎなた)の真中(まんなか)握(にぎ)り、打板(うちいた)の上(うへ)に立(た)ちけり。「囃(はや)せや殿原(とのばら)達(たち)、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)に物見(み)せん。若(わか)かりし時(とき)は叡山(えいざん)にて由(よし)ある方(かた)には、詩歌(しいか)管絃(くわんげん)の方(かた)にも許(ゆる)され、武勇(ぶゆう)の道(みち)には悪僧(あくそう)の名を取(と)りき。一手(いつて)舞(ま)うて東(あづま)の方(かた)の賎(いや)しき奴原(やつばら)に見(み)せん」とて、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)に囃(はや)させて、
嬉(うれ)しや滝(たき)の水(みづ)、鳴(な)るは滝(たき)の水、日は照(て)るとも絶(た)えずと二人(ふたり)、東(あづま)の奴原(やつばら)が鎧(よろひ)冑(かぶと)を首(くび)諸共(もろとも)に衣河(ころもがは)に斬(き)り付(つ)け流(なが)しつるかな W023
とぞ舞(ま)ふたりける。寄手(よせて)是(これ)を聞(き)きて、「判官(はうぐわん)殿(どの)の御内(みうち)の人々(ひとびと)程(ほど)剛(かう)なる事(こと)はなし。寄手(よせて)三万騎(さんまんぎ)に、城の内(うち)は僅(わづか)十騎(き)ばかりにて、何程(なにほど)の立合(たてあひ)せんとて舞(まひ)舞(ま)ふらん」とぞ申(まう)しける。寄手(よせて)の申(まう)しけるは、「如何(いか)に思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ふとも、三万(さんまん)余騎(よき)ぞかし。舞(まひ)も置(お)き給(たま)へ」と申(まう)せば、「三万(さんまん)も三万(さんまん)によるべし。十騎(き)も十騎(き)によるぞ。汝等(おのれら)が軍(いくさ)せんと企(くわだ)つる様(やう)の可笑(をか)しければ笑(わら)ふぞ。叡山(えいざん)、春日山(かすがやま)の麓(ふもと)にて、五月会(さつきゑ)に競馬(くらべうま)をするに、少(すこ)しも違(たが)はず。可笑(をか)しや鈴木(すずき)、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)に手並(てなみ)の程(ほど)を見(み)せてくれうぞ」とて、打物(うちもの)抜(ぬ)きて鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、弁慶(べんけい)轡(くつばみ)を並(なら)べて、錏(しころ)を傾(かた)ぶけて、太刀(たち)を兜(かぶと)の真向(まつかう)に当(あ)てて、どつと喚(おめ)きて駆(か)けたれば、秋風(あきかぜ)に木の葉(は)
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を散(ち)らすに異(こと)ならず。寄手(よせて)の者(もの)共(ども)元(もと)の陣(ぢん)へぞ引(ひ)き退(しりぞ)く。「口(くち)には似(に)ざる物や。勢(せい)にこそよれ。不覚人(ふかくじん)共(ども)かな、返(かへ)せや返(かへ)せや」と喚(おめ)きけれども、返(かへ)し合(あ)はする者(もの)もなし。斯(か)かりける所(ところ)に鈴木(すずき)の三郎、照井(てるゐ)の太郎と組(く)まんと、「和君(わぎみ)は誰(た)そ」「御内(みうち)の侍(さぶらひ)に照井(てるゐ)の太郎高治(たかはる)」「さて和君(わぎみ)が主こそ鎌倉(かまくら)殿(どの)の郎等(らうどう)よ。和君(わぎみ)が主(しゆう)の祖父(おほぢ)清衡(きよひら)後三年の戦(たたかひ)の時(とき)、郎等(らうどう)たりけるとこそ聞(き)け、其(そ)の子に武衡(たけひら)、其(そ)の子に秀衡(ひでひら)、其(そ)の子に泰衡(やすひら)、然(さ)れば我(われ)等(ら)が殿(との)には五代の相伝(さうでん)の郎等(らうどう)ぞかし。重家(しげいへ)は鎌倉(かまくら)殿(どの)には重代(ぢゆうだい)の侍(さぶらひ)なり。然(さ)れば重家(しげいへ)が為(ため)には合(あ)はぬ敵(かたき)なり。然(さ)れども弓矢(ゆみや)取(と)る身は逢(あ)ふを敵(かたき)、面白(おもしろ)し、泰衡(やすひら)が内(うち)に恥(はぢ)ある者(もの)とこそ聞(き)け。それが恥(はぢ)ある武士(ぶし)に後(うし)ろ見する事(こと)やある。穢(きたな)しや、止(とど)まれ止(とど)まれ」と言(い)はれて返(かへ)し合(あ)はせ、右の肩(かた)切(き)られて、引(ひ)きて退(の)く。鈴木(すずき)既(すで)に弓手(ゆんで)に二騎(き)、右手(めて)に三騎(さんぎ)切(き)り伏(ふ)せ、
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七八騎(き)に手(て)負(お)ほせて、我(わ)が身も痛手(いたで)負(お)ひ、「亀井(かめゐ)の六郎(ろくらう)犬死(いぬじに)すな。重家(しげいへ)は今(いま)は斯(か)うぞ」と是(これ)を最期(さいご)の言葉(ことば)にて、腹(はら)掻(か)き切(き)つて伏(ふ)しにけり。「紀伊国(きいのくに)鈴木(すずき)を出(い)でし日より、命(いのち)をば君に奉(たてまつ)る。今(いま)思(おも)はず一所にて死(し)し候(さうら)はんこそ嬉(うれ)しく候(さうら)へ。死出(しで)の山(やま)にては必(かなら)ず待(ま)ち給(たま)へ」とて、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)かなぐり捨(す)てて、「音(おと)にも聞(き)くらん、目にも見よ、鈴木(すずき)の三郎が弟に亀井(かめゐ)の六郎(ろくらう)生年(しやうねん)廿三、弓矢(ゆみや)の手並(てなみ)日頃(ひごろ)人に知(し)られたれども、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)は未(いま)だ知(し)らじ。初(はじ)めて物見(ものみ)せん」と言(い)ひも果(は)てず、大勢(おほぜい)の中へ割(わ)つて入(い)り、弓手(ゆんで)あひ付(つ)け、右手(めて)に攻(せ)め付(つ)け、切(き)りけるに、面(おもて)を向(むか)ふる者(もの)ぞ無(な)き。敵(かたき)三騎(さんぎ)打(う)ち取(と)り、六騎(ろつき)に手(て)を負(おほ)せて、我(わ)が身も大事(だいじ)の傷(きず)数多(あまた)負(お)ひければ、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)押(お)しくつろげ、腹(はら)掻(か)き切(き)つて、兄(あに)の伏(ふ)したる所(ところ)に同じ枕(まくら)に伏(ふ)しにけり。さても武蔵(むさし)は、彼(かれ)に打(う)ち合(あ)ひ、是(これ)に打(う)ち合(あひ)する程(ほど)に、喉笛(のどぶえ)打(う)ち裂(さ)かれ、血(ち)出(い)づる事は限(かぎ)りなし。世(よ)の常(つね)の人などは、血酔(ちゑい)などするぞかし。弁慶(べんけい)は血(ち)の出(い)づればいとど血(ち)そばへして、人をも人とも思(おも)はず、前へ流(なが)るる血(ち)は鎧(よろひ)の働(はたら)くに従(したが)ひて、朱血(あけち)になりて流(なが)れける程(ほど)に、敵(かたき)申(まう)しけるは、「此処(ここ)なる法師(ほふし)、余(あま)りのもの狂(くる)はしさに前(まへ)にも母衣(ほろ)かけたるぞ」と申(まう)しけり。「あれ程(ほど)のふて者(もの)に寄(より)合(あ)ふべからず」とて、手綱(たづな)を控(ひか)へて寄(よ)せず。弁慶(べんけい)度々の戦(いくさ)に慣(な)れたる事(こと)なれば、倒(たふ)るる
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様(やう)にては、起(おき)上(あ)がり起(おき)上(あ)がり、河原(かはら)を走(はし)り歩(ある)くに、面(おもて)を向(むか)ふる人ぞ無(な)き。さる程(ほど)に増尾(ましを)の十郎(じふらう)も討死(うちじに)す。備前(びぜん)の平四郎も敵(てき)数多(あまた)討(う)ち取(と)り、我(わ)が身も傷(きず)数多(あまた)負(お)ひければ、自害(じがい)して失(う)せぬ。片岡(かたをか)と鷲尾(わしのを)一(ひと)つになりて軍(いくさ)しけるが、鷲尾(わしのを)は敵(かたき)五騎(き)討(う)ち取(と)りて死(し)にぬ。片岡(かたをか)一方(いつぱう)隙(す)きければ、武蔵坊(むさしばう)伊勢(いせ)の三郎と一所にかかる。伊勢(いせ)の三郎敵(かたき)六騎(ろつき)討(う)ち取(と)り、三騎(さんぎ)に手(て)負(おほ)せて、思(おも)ふ様(やう)に軍(いくさ)して深手(ふかで)負(お)ひければ、暇乞(いとまごひ)して、「死出(しで)の山(やま)にて待(ま)つぞ」とて自害(じがい)してんげり。弁慶(べんけい)敵(てき)追(お)ひ払(はら)うて、御前(おまへ)に参(まゐ)りて、「弁慶(べんけい)こそ参(まゐ)りて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、君(きみ)は法華経(ほけきやう)の八(はち)の巻(まき)を遊(あそ)ばして御座(おは)しましけるが、「如何(いか)に」と宣(のたま)へば、「軍(いくさ)は限(かぎり)になりて候(さうら)ふ。備前(びぜん)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましほ)、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、伊勢(いせ)の三郎、各々(おのおの)軍(いくさ)思(おも)ひの儘(まま)に仕(つかまつ)り、討死(うちじに)仕(つかまつ)りて候(さうら)ふ。今(いま)は弁慶(べんけい)と片岡(かたをか)ばかりになりて候(さうら)ふ。限(かぎり)にて候(さうら)ふ程(ほど)に、君(きみ)の御目に今(いま)一度かかり候(さうら)はんずる為(ため)に参(まゐ)りて候(さうら)ふ。君(きみ)御先立(さきだ)ち候(さうら)はば、死出(しで)の山(やま)にて御待(ま)ち候(さうら)へ。弁慶(べんけい)先立(さきだ)ち参(まゐ)らせ候(さうら)はば、三途(さんづ)の川にて待(ま)ち参(まゐ)らせん」と申(まう)せば判官(はうぐわん)、「今(いま)一入(ひとしほ)名残(なごり)の惜(を)しきぞよ。死(し)なば一所とこそ契(ちぎ)りしに、我(われ)も諸共(もろとも)に打(う)ち出(い)でんとすれば、不足(ふそく)なる敵(てき)なり。弁慶(べんけい)を内に止(とど)めんとすれば、味方(みかた)の各々(おのおの)討死(うちじに)する。自害(じがい)の所(ところ)へ雑人(ざふにん)を入(い)れたらば、弓矢(ゆみや)の疵(きず)なるべし。今(いま)は力(ちから)及(およ)ばず、仮令(たとひ)我(われ)先立(さきだ)ちたりとも、死出(しで)の山(やま)にて待(ま)つべし。先立(さきだ)ちたらば実(まこと)
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に三途(さんづ)の河にて待(ま)ち候(さうら)へ。御経(おきやう)もいま少(すこ)しなり。読(よ)み果(は)つる程(ほど)は、死(し)したりとも、我(われ)を守護(しゆご)せよ」と仰(おほ)せられければ、「さん候(ざうらふ)」と申(まう)して、御簾(みす)を引(ひ)き上(あ)げ、君(きみ)をつくづくと見(み)参(まゐ)らせて、御名残(おんなごり)惜(を)しげに涙に咽(むせ)びけるが、敵(てき)の近(ちか)づく声(こゑ)を聞(き)き、御暇(おんいとま)申(まう)し立(た)ち出(い)づるとて、又(また)立(た)ち返(かへ)り、かくぞ申(まう)し上(あ)げける。
六道(だう)の道(みち)の衢(ちまた)に待(ま)てよ君(きみ)後(おく)れ先立(さきだ)つ習(なら)ひ有(あ)りとも W024
かく忙(いそが)はしき中(うち)にも、未来(みらい)をかけて申(まう)しければ、御返事(ごへんじ)に、
後(のち)の世も又(また)後(のち)の世も廻(めぐ)り会(あ)へ染(そ)む紫(むらさき)の雲(くも)の上(うへ)まで W025
と仰(おほ)せられければ、声(こゑ)を立(た)ててぞ泣(な)きにける。さて片岡(かたをか)と後合(うしろあはせ)に差(さ)し合(あ)はせ、一ちやう町(ちやう)を二手(て)に分(わ)けて駆(か)けたりければ、二人(ふたり)に駆(か)け立(た)てられて、寄手(よせて)の兵共(つはものども)むらめかして引(ひ)き退(しりぞ)く。片岡(かたをか)七騎が中に走(はし)り入(い)りて戦(たたか)ふ程(ほど)に、
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肩(かた)も腕(かひな)もこらへずして、疵(きず)多(おほ)く負(お)ひければ、叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、腹(はら)掻(か)き切(き)り亡(う)せにけり。弁慶(べんけい)今(いま)は一人なり。長刀(なぎなた)の柄(え)一尺(いつしやく)踏(ふみ)折(を)りてがはと捨(す)て、「あはれ中々(なかなか)良(よ)き物や、えせ片人(かたうど)の足手(あしで)にまぎれて、悪(わろ)かりつるに」とて、きつと踏張(ふんば)り立(た)つて、敵(かたき)入(い)れば寄(よ)せ合(あ)はせて、はたとは斬(き)り、ふつとは斬(き)り、馬(うま)の太腹(ふとはら)前膝(まへひざ)はらりはらりと切(き)り付(つ)け、馬(うま)より落(お)つる所(ところ)は長刀(なぎなた)の先(さき)にて首(くび)を刎(は)ね落(おと)し、脊(むね)にて叩(たた)きおろしなどして狂(くる)ふ程(ほど)に、一人に斬(き)り立(た)てられて、面(おもて)を向(む)くる者(もの)ぞ無(な)き。鎧(よろひ)に矢の立(た)つ事(こと)数を知(し)らず。折(を)り掛(か)け折(を)り掛(か)けしたりければ、簔(みの)を逆様(さかさま)に著(き)たる様にぞ有(あ)りける。黒羽(くろは)、白羽(しらは)、染羽(そめば)、色々(いろいろ)の矢(や)共(ども)風に吹(ふ)かれて見(み)えければ、武蔵野(むさしの)の尾花(をばな)の秋風(あきかぜ)に吹(ふ)きなびかるるに異(こと)ならず。八方(ぱう)を走(はし)り廻(まは)りて狂(くる)ひけるを、寄手(よせて)の者共(ども)申(まう)しけるは、「敵(てき)も味方(みかた)も討死(うちじに)すれども、弁慶(べんけい)ばかり如何(いか)に狂(くる)へ共(ども)、死(し)なぬは不思議(ふしぎ)なり。音(おと)に聞(き)こえしにも勝(まさ)りたり。我(われ)等(ら)が手(て)にこそかけずとも、鎮守(ちんじゆ)大明神(だいみやうじん)立(た)ち寄(よ)りて蹴(け)殺(ころ)し給(たま)へ」と呪(のろ)ひけるこそ痴(をこ)がましけれ。武蔵(むさし)は敵(かたき)を打(う)ち払(はら)ひて、長刀(なぎなた)を逆様(さかさま)に杖(つゑ)に突(つ)きて、二王立(にわうだち)に立(た)ちにけり。偏(ひとへ)に力士(りきしゆ)の如(ごと)くなり。一口(ひとくち)笑(わら)ひて立(た)ちたれば、「あれ見(み)給(たま)へあの法師(ほふし)、我(われ)等(ら)を討(う)たんとて此方(こなた)を守(まぼ)らへ、痴笑(しれわら)ひしてあるは只事(ただごと)ならず。近く寄(よ)りて討(う)たるな」とて近(ちか)づく者(もの)もなし。然(さ)る者(もの)申(まう)しけるは、「剛(かう)の者(もの)は立(た)ちながら死する
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事(こと)あると言(い)ふぞ。殿原(とのばら)あたりて見(み)給(たま)へ」と申(まう)しければ、「我(われ)あたらん」と言(い)ふ者(もの)もなし。或(あ)る武者(むしや)馬(うま)にて辺(あたり)を馳(は)せければ、疾(と)くより死(し)したる者(もの)なれば、馬(うま)にあたりて倒(たふ)れけり。長刀を握(にぎ)りすくみてあれば、倒(たふ)れ様(さま)に先(さき)へ打(う)ち越(こ)す様(やう)に見(み)えければ、「すはすは又(また)狂(くる)ふは」とて馳(は)せ退(の)き馳(は)せ退(の)き控(ひか)へたり。され共(ども)倒(たふ)れたる儘(まま)にて動(うご)かず。其(そ)の時(とき)我(われ)も我(われ)もと寄(よ)りけるこそ痴(をこ)がましく見(み)えたりけれ。立ちながらすくみたる事(こと)は、君(きみ)の御自害(ごじがい)の程(ほど)、人を寄(よ)せじとて守護(しゆご)の為(ため)かと覚(おぼ)えて、人々(ひとびと)いよいよ感(かん)じけり。
判官(はうぐわん)御自害(ごじがい)の事(こと) S0806
十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、喜三太(きさんだ)は、家の上(うへ)より飛(と)び下(お)りけるが、喜三太(きさんだ)は首(くび)の骨(ほね)を射(い)られて失(う)せにける。兼房(かねふさ)は楯(たて)を後(うし)ろにあてて、主殿(しゆでん)の垂木(たるき)に取(と)り付(つ)きて、持仏堂(ぢぶつだう)の広庇(ひろひさし)に飛(と)び入(い)る。此処(ここ)にしやさうと申(まう)す雑色(ざふしき)、故(こ)入道(にふだう)判官(はうぐわん)殿(どの)へ参(まゐ)らせたる下郎(げらう)なれども「彼奴(きやつ)原(ばら)は自然(しぜん)の御用(よう)に立(た)つべき者(もの)にて候(さうら)ふ。御(おん)召(め)し使(つか)ひ候(さうら)へ」と強(あがな)ちに申(まう)しければ、別の雑色(ざふしき)嫌(きら)ひけれども、馬(うま)の上を許(ゆる)され申(まう)したりけるが、此(こ)の度(たび)人々(ひとびと)多(おほ)く落(お)ち行(ゆ)けども、彼(かれ)ばかり留(とど)まりてんげり。兼房(かねふさ)に申(まう)しける
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は、「それ見参(げんざん)に入(い)れて給(たま)はるべきや。しやさうは御内にて防矢(ふせぎや)仕(つかまつ)り候(さうら)ふなり。故(こ)入道(にふだう)申(まう)されし旨(むね)の上(うへ)は、下郎(げらう)にて候(さうら)へども、死出(しで)の山(やま)の御伴(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし」とて散々(さんざん)に戦(たたか)ふ程(ほど)に、面(おもて)を向(む)かふる者(もの)なし。下郎(げらう)なれども彼(かれ)ばかりこそ、故(こ)入道(にふだう)申(まう)せし言葉(ことば)を違(たが)へずして留(とど)まりけるこそ不便(ふびん)なれ。「さて自害(じがい)の刻限(こくげん)になりたるやらん、又(また)自害(じがい)は如何様(いかやう)にしたるを良(よ)きと言(い)ふやらん」と宣(のたま)へば、「佐藤(さとう)兵衛(ひやうゑ)が京(きやう)にて仕(つかまつ)りたるをこそ、後(のち)まで人々(ひとびと)讚(ほ)め候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「仔細(しさい)なし。さては疵(きず)の口(くち)の広(ひろ)きこそよからめ」とて、三条(さんでう)小鍛治(こかぢ)が宿願(しゆくぐわん)有(あ)りて、鞍馬(くらま)へ打(う)ちて参(まゐ)らせたる刀(かたな)の六寸(ろくすん)五分有(あ)りけるを、別当(べつたう)申(まう)し下(おろ)して今(いま)の剣(つるぎ)と名付(なづ)けて秘蔵(ひさう)しけるを、判官(はうぐわん)幼(をさな)くて鞍馬(くらま)へ御出(おいで)の時(とき)、守刀(まぼりがたな)に奉(たてまつ)りしぞかし。義経(よしつね)幼少(えうせう)より秘蔵(ひさう)して身を放(はな)さずして、西国(さいこく)の合戦(かつせん)にも鎧(よろひ)の下(した)にさされける。彼(か)の刀(かたな)を以(もつ)て左の乳(ち)の下(した)より刀(かたな)を立(た)て、後(うし)ろへ透(とほ)れと掻(か)き切(き)つて、疵(きず)の口(くち)を三方(さんぱう)へ掻(か)き破(やぶ)り、腸(はらわた)を繰(く)り出(い)だし、刀(かたな)を衣(きぬ)の袖にて押(お)し拭(ぬぐ)ひ、衣(きぬ)引(ひ)き掛(か)け、脇息(けうそく)してぞ御座(おは)しましける。北(きた)の方(かた)を呼(よ)び出(い)だし奉(たてまつ)りて宣(のたま)ひけるは、「今(いま)は故(こ)入道(にふだう)の後家の方(かた)にても兄人(せうと)の方(かた)にても渡(わた)らせ給(たま)へ。皆(みな)都(みやこ)の者(もの)にて候(さうら)へば、情(なさけ)無(な)くはあたり申(まう)し候(さうら)はじ。故郷(こきやう)へも送(おく)り申(まう)すべし。今(いま)より後、さこそ便(たより)を失(うしな)ひ、御歎(なげ)き候(さうら)はんとこそ、後(のち)の世までも心(こころ)に
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かかり候(さうら)はんずれども、何事(なにごと)も前世(ぜんぜ)の事(こと)と思(おぼ)し召(め)して、強(あなが)ちに御歎(なげ)きあるべからず」と申(まう)させ給(たま)へば、北(きた)の方(かた)、「都(みやこ)を連(つ)れられ参(まゐ)らせて出(い)でしより、今(いま)まで存命(ながら)へてあるべしとも覚(おぼ)えず、道(みち)にてこそ自然(しぜん)の事(こと)も有(あ)らば先(ま)づ自(みづか)らを亡(うしな)はれんずらんと思(おも)ひしに、今更(いまさら)驚(おどろ)くに有(あ)らず。早々(はやはや)自(みづか)らをば御手(て)にかけさせ給(たま)へ」とて、取(と)り付(つ)き給(たま)へば、義経(よしつね)、「自害(じがい)より先(さき)にこそ申(まう)したく候(さうら)ひつれ共(ども)、余(あま)りの痛(いた)はしさに申(まう)し得(え)ず候(さうら)ふ。今(いま)は兼房(かねふさ)に仰(おほ)せ付(つ)けられ候(さうら)へ。兼房(かねふさ)近(ちか)く参(まゐ)れ」と有(あ)りけれども、何処(いづく)に刀(かたな)を立(た)て参(まゐ)らすべしとも覚(おぼ)えずして、ひれ伏(ふ)しければ、北(きた)の方(かた)仰(おほ)せられけるは、「人の親(おや)の御目程(ほど)賢(かしこ)かりけり。あれ程(ほど)の不覚人(ふかくじん)と御覧(ごらん)じ入(い)りて、多(おほ)くの者(もの)の中に女にてある自(みづか)らに付(つ)け給(たま)ひたれ。我(われ)に言(い)はるるまでもあるまじきぞ。言(い)はぬ先(さき)に失(うしな)ふべきに暫(しばら)くも生(い)けて置(お)き、
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恥(はぢ)を見(み)せんとするうたてさよ。さらば刀(かたな)を参(まゐ)らせよ」と有(あ)りしかば、兼房(かねふさ)申(まう)しけるは、「是(これ)ばかりこそ不覚(ふかく)なるが理(ことわり)にて候(さうら)へ。君(きみ)御産(おさん)ならせ給(たま)ひて三日と申(まう)すに、兼房(かねふさ)を召(め)されて、「此(こ)の君(きみ)をば汝(なんぢ)が計(はか)らひなり」と仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて候(さうら)ひしかば、やがて御産所(おさんじよ)に参(まゐ)り、抱(いだ)き初(そ)め参(まゐ)らせてより、其(そ)の後は出仕(しゆつし)の隙(ひま)だにも覚束(おぼつか)無(な)く思(おも)ひ参(まゐ)らせ、御成人(せいじん)候(さうら)へば、女御后(きさき)にもせばやとこそ存(ぞん)じて候(さうら)ひつるに、北(きた)の政所(まんどころ)打(う)ち続(つづ)きかくれさせ給(たま)へば、思(おも)ふに甲斐(かひ)無(な)き歎(なげ)きのみ、神や仏(ほとけ)に祈(いの)る祈(いの)りはむなしくて、斯様(かやう)に見(み)なし奉(たてまつ)らんとは、露(つゆ)思(おも)はざりしものを」とて、鎧(よろひ)の袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きければ、「よしや嘆(なげ)くとも、今(いま)は甲斐(かひ)有(あ)らじ。敵(てき)の近(ちか)づくに」と有(あ)りしかば、兼房(かねふさ)目(め)も昏(く)れ心(こころ)も消(き)えて覚えしかども、「かくては叶(かな)はじ」と、腰(こし)の刀を抜(ぬ)き出(い)だし、御肩(かた)を押(おさ)へ奉(たてまつ)り、右の御脇(わき)より左へつと刺(さ)し透(とほ)しければ、御息(おんいき)の下に念仏(ねんぶつ)して、やがてはかなくなり給(たま)ひぬ。御衣(きぬ)引(ひ)き披(かづ)け参(まゐ)らせて、君の御傍(おんそば)に置(お)き奉(たてまつ)りて、五つにならせ給(たま)ふ若君(わかぎみ)、御乳母(めのと)の抱(いだ)き参(まゐ)らせたる所(ところ)につと参(まゐ)り、「御館(たち)も上様(かみさま)も、死出(しで)の山(やま)と申(まう)す道(みち)越(こ)えさせ給(たま)ひて、黄泉(くわうせん)の遙(はる)かの界(さかひ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふなり。若君(わかぎみ)もやがて入(い)らせ給(たま)へ」と仰(おほ)せ候(さうら)ひつると申(まう)しければ、害(がい)し奉(たてまつ)るべき兼房(かねふさ)が首(くび)に抱(いだ)き付(つ)き給(たま)ひて、「死出(しで)の山(やま)とかやに早々(はやはや)参(まゐ)らん。兼房(かねふさ)急(いそ)ぎ連(つ)れて参(まゐ)れ」と責(せ)め給(たま)へば、いとど
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詮方(せんかた)無(な)く、前後(ぜんご)覚(おぼ)えずになりて、落涙に堰(せ)き敢(あ)へず、「あはれ前(さき)の世の罪業(ざいごふ)こそ無念(むねん)なれ。若君(わかぎみ)様(さま)御館(たち)の御子と産(むま)れさせ給(たま)ふも、かくあるべき契(ちぎ)りかや。「亀割山(かめわりやま)にて巣守(すもり)になせ」と宣(のたま)ひし御言葉(おんことば)の末(すゑ)、実(まこと)に今(いま)まで耳(みみ)にある様(やう)に覚(おぼ)ゆるぞ」とて、又(また)さめざめと泣(な)きけるが、敵(てき)はしきりに近(ちか)づく。かくては叶(かな)はじと思(おも)ひ、二刀(ふたかたな)刺(さ)し貫(つらぬ)き、わつとばかり宣(のたま)ひて、御息(おんいき)止(と)まりければ、判官(はうぐわん)殿(どの)の衣(きぬ)の下(した)に押(お)し入(い)れ奉(たてまつ)る。さて生(う)まれて七日にならせ給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)同(おな)じく刺(さ)し殺(ころ)し奉(たてまつ)り、北(きた)の方(かた)の衣(きぬ)の下(した)に押(お)し入(い)れ奉(たてまつ)り、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と申(まう)して我(わ)が身を抱(いだ)きて立(た)ちたりけり。判官(はうぐわん)殿(どの)未(いま)だ御息(おんいき)通(かよ)ひけるにや、御目を御覧(ごらん)じ開(あ)けさせ給(たま)ひて、「北(きた)の方(かた)は如何(いか)に」と宣(のたま)へば、「早(はや)御自害(ごじがい)有(あ)りて御側(おんそば)に御入(おい)り候(さうら)ふ」と申(まう)せば、御側(おんそば)を探(さぐ)らせ給(たま)ひて、「是(これ)は誰(たれ)、若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ふか」と御手(て)を差(さ)し渡(わた)させ給(たま)ひて、北(きた)の方(かた)に取(と)り付(つ)き給(たま)ひぬ。兼房(かねふさ)いとど哀(あは)れぞ勝(まさ)りける。「早々(はやはや)宿所(しゆくしよ)に火をかけよ」とばかり最期(さいご)の御言葉(おんことば)にて、こと切(き)れ果(は)てさせ給(たま)ひけり。
兼房(かねふさ)が最期(さいご)の事(こと) S0807
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十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、「今(いま)は中々(なかなか)心(こころ)に懸(か)かる事なし」と独言(ひとりごと)し、予(かね)てこしらへたる事(こと)なれば、走(はし)りまはりて火をかけたり。折節(をりふし)西の風吹(ふ)き、猛火(みやうくわ)は程(ほど)無(な)く御殿(てん)につきけり。御死骸(ごしがい)の御上には遣戸(やりと)格子(かうし)を外(はづ)し置(お)き、御跡(おんあと)の見(み)えぬ様(やう)にぞこしらへける。兼房(かねふさ)は焔(ほのほ)に咽(むせ)び、東西(とうざい)昏(く)れて有(あ)りけるが、君(きみ)を守護(しゆご)し申(まう)さんとて、最期(さいご)の軍(いくさ)少(すく)なくしたりとや思(おも)ひけん、鎧(よろひ)を脱(ぬ)ぎ捨(す)て、腹巻(はらまき)の上帯(うはおび)締(し)め固(かた)め、妻戸(つまど)よりづと出(い)で見(み)れば、其(そ)の日の大将(たいしやう)長崎(ながさき)太郎兄弟、壷(つぼ)の内(うち)に控(ひか)へたり。敵(てき)自害(じがい)の上(うへ)は何事(なにごと)かあるべきとてゐたりけるを、兼房(かねふさ)言(い)ひけるは、「唐土天竺(てんぢく)は知(し)らず、我(わ)が朝(てう)に於(おい)て、御内(みうち)の御座所(どころ)に馬(うま)に乗(の)りながら控(ひか)ゆべきものこそ覚(おぼ)えね。かく言(い)ふ者(もの)をば誰(たれ)かと思(おも)ふ、清和天皇(せいわてんわう)十代の御末(おんすゑ)、八幡(はちまん)殿(どの)には四代(だい)の孫(まご)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御舎弟(しやてい)九郎大夫判官(はうぐわん)殿(どの)の御内に、十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)兼房(かねふさ)、もとは久我(こが)の大臣殿(おほいどの)の侍(さぶらひ)なり。今(いま)は源氏(げんじ)の郎等(らうどう)なり。樊■(はんくわい)を欺(あざむ)く程(ほど)の剛(かう)の者、いざや手並(てなみ)を見(み)せてくれん。法(ほふ)も知(し)らぬ奴原(やつばら)かな」と言(い)ふこそ久(ひさ)しけれ。長崎(ながさき)太郎が右手(めて)の鎧(よろひ)の草摺(くさずり)半枚(はんまい)かけて、膝(ひざ)の口(くち)、鎧(あぶみ)の鐙靼金(みつをかね)、馬(うま)の折骨(をりぼね)五枚(まい)かけて斬(き)り付(つ)けたり。主も馬(うま)も足(あし)を立(た)て返(かへ)さず倒(たふ)れけり。押(お)し懸(か)かり首(くび)をかかんとせし処に、兄(あに)を討(う)たせじと弟(おとと)の次郎(じらう)兼房(かねふさ)に打(う)つてかかる。兼房(かねふさ)走(はし)り違(ちが)ふ様(やう)にして、馬(うま)より引(ひ)き落(おと)し、左の脇(わき)に掻(か)い挟(ばさ)みて、「独(ひと)り越(こ)ゆべき死出(しで)の山、供(とも)して越(こ)えよや」とて、
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炎(ほのほ)の中に飛(と)び入(い)りけり。兼房(かねふさ)思(おも)へば恐(おそ)ろしや、偏(ひとへ)に鬼神の振舞(ふるまひ)なり。是(これ)は元(もと)より期(ご)したる事(こと)なり。長崎(ながさき)二郎(じらう)は勧賞(けんじやう)に与(あづか)り、御恩(ごおん)蒙(かうぶ)り、朝恩(てうおん)に驕(おご)るべきと思(おも)ひしに、心ならず捕(とら)はれて、焼(や)け死(じに)するこそ無慙(むざん)なれ。
秀衡(ひでひら)が子供(こども)御追討(ごついたう)の事(こと) S0808
かくて泰衡(やすひら)は判官(はうぐわん)殿(どの)の御首(くび)持(も)たせ、鎌倉(かまくら)へ奉(たてまつ)る。頼朝(よりとも)仰(おほ)せけるは、「抑(そもそも)是(これ)等(ら)は不思議(ふしぎ)の者(もの)共(ども)かな。頼(たの)みて下(くだ)りつる義経(よしつね)を討(う)つのみならず、是(これ)は現在(げんざい)頼朝(よりとも)が兄弟(きやうだい)と知(し)りながら、院宣(ゐんぜん)なればとて、左右(さう)無(な)く討(う)ちぬるこそ奇怪(きくわい)なれ」とて、泰衡(やすひら)が添(そ)へて参(まゐ)らせたる宗徒(むねと)の侍(さぶらひ)二人(ふたり)、其(そ)の外(ほか)雑色(ざふしき)、下部(しもべ)に至(いた)るまで、一人も残(のこ)さず首(くび)を斬(き)りてぞ懸(か)けられける。やがて軍兵(ぐんびやう)差(さ)し遣(つか)はし、泰衡(やすひら)討(う)たるべき僉議(せんぎ)有(あ)りければ、先陣(せんぢん)望(のぞ)み申(まう)す人々(ひとびと)、千葉介(ちばのすけ)、三浦介(みうらのすけ)、左馬介(さまのすけ)、大学頭(がくのかみ)、大炊介(おほいのすけ)、梶原(かぢはら)を初(はじ)めとして望(のぞ)み申(まう)しけれども、「善悪(ぜんあく)頼朝(よりとも)私(わたくし)には計(はか)らひ難(がた)し」とて、若宮(わかみや)に参詣(さんけい)有(あ)りけるに、畠山(はたけやま)夢想(むさう)の事(こと)有(あ)りとて、重忠(しげただ)を初(はじ)めとして、都合其(そ)の勢(せい)七万余騎(よき)奥州(あうしう)へ発向(はつかう)す。昔(むかし)は十二年まで戦(たたか)ひける所(ところ)ぞかし、今度(こんど)は僅(わづか)に九十日の内(うち)に攻(せ)め落されけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。錦戸(にしきど)、比爪(ひづめ)
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泰衡(やすひら)、大将(たいしやう)以下三百人が首(くび)を、畠山(はたけやま)が手(て)に取(と)られける。残(のこ)る所(ところ)、雑人(ざふにん)等(ら)に至(いた)るまで、皆(みな)首(くび)を取(と)りければ数(かず)を知(し)らざる所(ところ)なり。故(こ)入道(にふだう)が遺言(ゆいごん)の如(ごと)く、錦戸(にしきど)、比爪(ひづめ)両人(りやうにん)両関(りやうぜき)をふさぎ、泰衡(やすひら)、泉(いづみ)、判官(はうぐわん)殿(どの)の御下知(げち)に従(したが)ひて軍(いくさ)をしたりせば、争(いかで)か斯様(かやう)になり果(は)つべき。親(おや)の遺言(ゆいごん)と言(い)ひ、君(きみ)に不忠(ふちゆう)と言(い)ひ、悪逆(あくぎやく)無道(ぶたう)を存(ぞん)じ立(た)ちて、命(いのち)も滅(ほろ)び、子孫絶(た)えて、代々の所領(しよりやう)他人(たにん)の宝(たから)となるこそ悲(かな)しけれ。侍(さぶらひ)たらん者(もの)は、忠孝(ちゆうかう)を専(もつぱら)とせずんばあるべからず。口惜(くちを)しかりしものなり。
義経記巻第八