増鏡 尾張徳川家本

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増鏡 下巻
第十一 さしぐし
正応元年三月十五日、官庁にて御即位有り。此の程は、香園院の師忠左の大臣関白にて御座しき。其の後、近衛殿家基、又九条の左大臣殿忠教、其の後、又近衛殿かへりなり給ひき。猶後に、歓喜園院など、いと繁う変はり給ふ。おりゐの御門を、今は新院と聞こゆれば、太上天皇三人世に御座します頃なり。いと珍しく侍るにや。御門の御母〈 玄輝門院 〉三位し給ふ。其の御はらからの姫君、御傍らに候ひ給ふを、上いと忍びたる御むつび有るべし。東二条院の御例にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座せざらむ。三位殿の御兄の公守の大納言の姫君も、幼くよりかしづきて候ひ給ふ。それも余所ならぬ御契りなるべし。此の君をぞ、父の殿も、いとうるはしき様にても、参らせまほしう覚えつれど、西園寺の大納言実兼の姫君、いつしか参り給へば、きしろふべきにも有らず。其の年六月二日入内有り。其の夜先づ御裳着し給ふ。前の御代にもあらましは聞こえしかど、如何なるにか、さも御座せざりしに、
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いつしかかうも有りけるは、猶、思す心有りけるなめりとぞ、打ち付けにひがひがしう言ひなす人も侍りける。此の姫君の母北の方は、三条坊門通成の内の大臣の娘なり。候ふ人々も、押しなべたらぬ限り択り整へ、いみじう清らなるにと思し急ぐ。万、人の心も昨日に今日は勝り行くめれば、いや珍に好ましうめでたし。大方大宮の院の御参りの例を思しなずらふべし。院の御子に是も又なり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐庇の御車に奉りて、上達部十人・殿上人十余人・本所の前駆二十人、つい松ともして、御車の左右に候ふ。出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相の中将の娘を、大納言の子にし給ふとぞ聞こえし。二の車の左に久我の大納言雅忠の娘、三条とつき給ふを、いとからい事に歎き給へど、皆人先立ちてつき給へれば、あきたる儘とぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の娘。三の左に大納言の君、室町の宰相の中将公重の娘、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの娘。四の左宰相の君、坊門の三位基輔の娘、右は治部卿兼倫の三位の娘也。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、何くれが娘共なるべし。童・下仕へ・御雑仕・端者に至るまで、髪形目安く親打ち具し、少しもかたほなる無く整へられたり。其の暮れつ方、頭の中将為兼の朝臣、御消息持て参れり。内の上、自ら遊ばし
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けり。
雲の上に千代をめぐらん初めとて今日の日影もかくや久しき W
紅の薄様に、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかや宣ひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ひければ、遣はして包ませられけるとぞ承りしと語るに、又此の具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教の中将とこそは語り給ひしか」と言ふ。女御の御装ひは、蘇芳のはり一重がさね・濃きうらのひへぎ・濃き蘇芳の御表着・赤色の御唐衣・濃き御袴・地摺の御裳奉る。女房の装ひ、押しなべて皆蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・濃き袴・蘇芳の表着・青朽葉の唐衣・薄色の裳・三重だすき、上下同じ様也。参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光承りて、手車の宣旨有り。殿上人参りて御車引き入れ、御兄の中納言公衡、別当兼ね給へり。上の御甥の左衛門督通重、御兄になずらうる由聞こゆれば、御屏風・御几帳立てらる。昼の御座へ御車寄せらる。御衾、二位殿参らせ給ふ。御台参りて、やがて夜の御殿へまう上り給ふ。此の御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞こえて、公守の大納言、沙汰し申されけるとかや承りしは、誠にや侍りけん。三夜の餅も、やがて彼の大納言沙汰し申さる。内の上の、夜の御殿へ召して入らせ給ひたる御草鞋をば、二位殿取りて出で給ひて、大納言殿と二人の御中
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に抱きて寝給ふと聞こえし。さきざきも然る事にてこそは侍りけめな。八日、御所現しとて、上渡らせ給へば、袖口共心殊にて、わざとなく押し出ださる。今日は、各紅の一重がさね・青朽葉の表着・二藍の唐衣なり。大納言殿も候はせ給ふ。上も御台参る。二位殿御陪膳、女御のは一条殿仕り給ふ。女御の君は、蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・青朽葉の表着・赤色の唐衣二重織物・唐の薄物の御裳・濃き綾の御袴、御髪いとうるはしくて盛りにねび整ほり給へる、いと見所多くめでたし。御共に参り給へる人々、右大臣・内大臣・大納言の左大将・花山院の中納言・権大夫・殿上人共、数多此処彼処の打橋・渡殿などに、気色ばみつつ群れ居たるも、艶なる心地すべし。上達部の勧盃果てて後、内の御方の御乳母を始めて、内侍・女官共、かなへ殿まで禄賜はる。十日の夕つ方、下大所の御覧有り。台盤所の北の御壺へ参る。同じそばの間にて、内の御方御覧ぜらる。やがて東面より女御も御覧ず。二位殿・一条殿・二条殿を始めて、上臈だつ人々、数多候ひ給ふ。御簾の外にも、上達部数多候はる。いとはればれし。十四日、又内の上入らせ給ひて、此方にて初めて御酒聞こし召せば、南面へ出でさせ給ふ。女御、蘇芳の御一重がさね・萩の経青の御表着・朽葉の御小袿、皆二重織物・綾の織物、生絹の御袴、御紋竹立涌を織る。上
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は、御引直衣・生絹の御袴、櫑子参る。御陪膳は一条殿、今日よりは打ちとけたる心地にて、女房共色々の一重がさね・唐衣、様々珍しき色共を尽くして、生絹の袴に着かへたる、今少し見所そひて、なつかしき様也。得選、櫑子を持て参る。次第に取りつぎて参らす。金の御ごき・銀の片口の御銚子、一条殿御陪膳、其の後、女御殿も御銚子に手掛けさせ給ふ事侍りけり。今宵二位殿、今出川へまかで給ひて、車の宣旨許り給ふ。御送りに御子の公衡の中納言。御甥の通重の左衛門の督など、殿上人共数多也。縫殿の陣より出で給ふ気色、いとよそほし。誠や、御入内の夜の御使ひ、勾当の内侍参れりし禄に、表着・唐衣を賜はる。御消息に御使ひに参れりし上人も、女の装束かづきながら帰り参りて、殿上の口に落とし捨つ。主殿寮ぞ取る習ひなりけり。後朝の御使ひには、実連の中将なりし。公衡の中納言対面して、勧盃の後、是も女の装束かづけらる。かくて八月二十日、后に立ち給ふ。予てより今出川の御家へまかで給ひて、節会の儀式、引き移し待ち取り給ふ様、いとめでたく、今更ならぬ事なれど、父の殿も遂の御位はさこそなれど、只今差しあたりては、未だ浅く御座するに、すがやかに后妃の位に定まり給ふ事、限り無き御世覚えと、めでたく見ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆渡り御座しまして、見奉り給ふさへぞ止む事無き。今日は、紅のはり一重がさね・ひへぎ・女郎花の表着・二藍
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の唐衣・薄色の裳、すべて二十人、同じ色の装ひ也。此の外、威儀の女房八人、白きはり一重がさね、濃きひへぎ、同じ袴、女郎花の衣にて候ふ。いづれと無く、形共きよげに目安し。其の年の十一月八日ぞ、后の宮の御父、右大将になり給ひぬる。同じ二十五日、正二位し給ふ。此の程は、大嘗会・五節など罵る。前の御世には引きかへて、中宮〈 永福門院 〉、皇后〈 遊義門院 〉、宮、院達、あかれあかれ多く御座しませば、殿上人共推参の所多く、頭痛きまでめぐり歩く。其の年十二月に、御門の御母三位殿、院号有り。朝に准后の宣旨有りて、同じ日の夕べに玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。年返りて、正応も二年になりぬ。万めでたき事共多くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院は、予てより鳥羽殿に御座しまして、池の水草かき払ひ、いみじう磨かれて、例のことごとしき唐の御船浮かめられて、二十四日〔に〕舞楽有りき。六日にぞ返らせ給ひける。さても、去年の三月三日かとよ、経氏の宰相の娘〈 中そのの准后 〉の御腹に、若宮出で来させ給へりしを、太子〈 後伏見 〉に立て奉らせ給ふ。いと賢き御宿世也。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。同じうは、誠にて御座せしかばとぞ、大将殿など思しけんかし。おりゐの御門〈 後宇多 〉、御子数多御座しませば、坊になど思しけるを、引き避ぎぬる、いと本意無し。十月五日に、一院〈 後深草 〉の御所にて、真魚聞こし召す。いとめでたき事共、罵り過ぎもて行く。同じ
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三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思して御占有るに、「血流るべし」とかや申しければ、如何なる事の有るべき〔に〕かと、誰も誰も思し騒ぐに、其の九日の夜、衛門の陣より、恐ろしげなる武士三、四人、馬に乗りながら九重の中へ馳せ入りて、上に昇りて、女嬬が局の口に立ちて、「やや」と言ふ〔者〕を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなる面付にて、「御門は何処に御寝るぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「何処ぞ」と又問ふ。「南殿より東北の隅」と教ふれば、南様へ歩み行く間に、女嬬、内より参りて、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。上は、中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いと怪しき様を作りて、入らせ給ふ。内侍、剣璽を取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へ徒歩にて逃ぐ。其の程の心の中共言はん方無し。此の男をば、浅原の某とか言ひけり。からくして、夜の御殿へ尋ね参りたれども、大方人も無し。中宮の御方の侍の長景政と言ふ者、名乗り参りて、いみじく戦ひ防きければ、疵被りなどしてひしめく。斯かる程に、二条京極の篝屋備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りて時を作るに、合はする声、はつかに聞こえければ、心安くて内に参る。御殿共の格子
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引きかなぐりて乱れ入るに、適はじと思ひて、夜の御殿の御褥の上にて、浅原自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の八郎と言ひて十九になりけるは、大床子の足の下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、数多して搦めんとすれば、適はで自害するとて、腸をば皆繰り出だして、手にぞ持たりける。其の儘ながら、いづれをも六波羅へ舁き続けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ、又更に春日殿へなる。大方、雲の上汚れぬれば、如何にて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて、兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、又常盤井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすり騒ぐ様、言の葉も無し。此の事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相の中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふ事共出で来て、中の院(ゐん)〈 亀山、後宇多歟 〉も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄権大納言公衡、一院の御前にて、「此の事は、猶、禅林寺殿の御心合はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引き違へ、東よりかく当代をも据ゑ奉り、世を知ろし召さする事を、心よからず思すによりて、世を傾け給はんの御本意なり。さてなだらかにも御座しまさば、勝る事や出で詣でこ
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ん。院を先づ六波羅に移し奉らるべきにこそ」など、彼の承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「如何でか、さまでは有らん。実ならぬ事をも、人はよく言ひなす物也。故院の無き御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみて宣ふを、心弱く御座しますかなと、見奉り給ひて、猶内よりの仰せなど、厳しき事共聞こゆれば、中の院(ゐん)〈 亀山 〉も新院〈 後宇多 〉も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、如何はせんにて、知ろし召さぬ由誓ひたる御消息など、東へ遣はされて後ぞ、事鎮まりにける。〔さて〕九月の初めつ方、中の院(ゐん)は御髪下ろさせ給ふ。いと哀れなる事共多かるべし。禅林寺殿にて、やがて御如法経など書かせ給ふ。一院の世の中恨み思されし時、既にと聞こえしは、さも御座しまさで、かくすがやかにせさせ給ひぬる、いと定め無し。しばしは禅僧にならせ給ふとて、緑衫の御衣に掛絡と言ふ袈裟掛けさせ給へり。四十一にぞ物し給ひける。御法名金剛覚と申すなり。新陽明門院を始め奉りて、色々の御召人共、廊の御方・讚岐の二位殿など、寂しき院に残りて、或は様かへ、或は里へまかでなど、様々散り散りになる程、いと心細し。中務の宮の御娘は、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふ際とても、取りわきたる御名残も無かるべし。禅林寺の上の院の、人離れたる方に据ゑ聞こえさせ給へれば、殊に触れて、いと寂しく、
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心細き御有様なるを、自づから言問ひ聞こゆる人も無し。源氏の末の君に、中将ばかりなる人、院に親しく仕りなれて、家もやがて其の渡りにあれば、程近き儘に、折々此の宮の御宿直など心に掛けて仕るを、候ふ人々もいと有り難くもと思ふ。宮の御方は、此の頃いみじき御盛りの程にて、まほに美しう御座しますを、あたらしう見奉りはやす人の無き事と思ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴り騒ぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人も無ければ、上下いとあわたたしく、心細う思し惑ふ。法皇は、亀山殿に過ぎにし頃より御座しませば、近きあたりにだに人のけはひも聞こえず。哀れなる程の御有様にて、墨をすりたらむやうなる空の気色のうとましげなるを、眺めさせ給ふ程に、例の中将、そぼち参りて、侍めく者一、二人、弓をなど持たせて、「御宿直仕らせ侍るべし。某も、侍の方に侍らん」など申すにぞ、いささか頼もしくて、人々慰め給ふ。御座します母屋にあたれる廂の勾欄に押し掛かりて、香染めのなよらかなる狩衣に、薄色の指貫打ちふくだめたる気色にて、しめじめと物語しつつ、いたう更け行くまで、つくづくと候ひ給へば、御簾の中にも心遣こゆ。暁がたになりぬれば、御几帳引き寄せて、御殿ごもりぬる傍らに、いと馴れ顔に添ひふす男有り。夢かやと思して御覧じ上げたれば、「年月、思ひ聞こえ
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つる様、おほけなく有るまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、只少し、かくて胸をだに休め侍らんばかり」など、いみじげに聞こゆるは、早う有りつる中将なりけり。いとうたて、心憂の業やと思すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひ沈むべうも無ければ、いといとほしう、ゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうも有るかなと、前の世も恨めしう、言ふ甲斐無き事を思し続けて、よよと泣き給ふ様、いよいよらうたし。見るとしも無き夢のただぢを打ち驚かす鐘の声・鳥の音も、人遣りならぬ心づくしに、え出で遣らず。
起き別れ行く空も無き道芝の露より先に我や消なまし W
出でがてに休らひたる面影も、何の御目止まるふしも無し。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契りの程やと、思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心憂くも、様々思し乱るるに、御心地もまめやかに損なはれぬべし。按察の君と言ふ人、語らひとられけるなめり。忍びて御消息繁う聞こゆるをも、いとうたて、心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又哀れなる事さへ物し給ひけり。斯かるに付けても、此の世一つには有らざりける御契りの程、浅からず推し量らる。中将も世と共にあくがれ勝りて、夢の通ひ路、足も休めず成り行く。此の御気色も漸うしるき程になり給へ
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ば、空恐ろしと、忍びて御乳母だつ人の家など言ひなして、白河わたり、かごやかにをかしき所用意して、率て渡し奉りつつ、猶自らは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。此の中将、才賢くて、末の世には、事の外にもてなされて、先づ一品して、しばし御座せし頃、御百首の歌に、
位山上り果てても峰に生ふる松に心を猶残すかな W
さて遂に内大臣まで昇られき。さて元応の頃かとよ、百首歌奉りし中に、
集めこし窓の蛍の光もて思ひしよりも身をてらすかな W
と詠まれ侍りき。有房と聞こえしが、若くての世の異なるべし。新陽明門院も、禅林寺殿の下の放ち出でに、徒然として御座します程に、松殿宰相の中将兼嗣、如何したりけん、常に参り給ひし程に、果てには、其の宰相の中将の御子に、世を逃れたる人有りき。其の御房に思しうつりて、限り無く思したりし程に、御子をさへ生み給ふ。其の姫君は、始めは富の小路の中納言季雄の北の方にて御座せしが、後には歓喜園の摂政と聞こえ給ひし末の御子に、基教の三位の中将と聞こえし上になりて、失せ給ふまで御座しき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分など、いといと猛に有りき。「さのみ斯かる御事共をさへ聞こゆるこそ、物言ひさが無き罪去り所無けれど、よしや昔も然る事有りけりと、此の頃の人の御有様
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も、自づから軽き事有らば、思ひ許さるる例にもなりてん物をぞと思へば、遠き人の御事は、今は何の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」と、打ち笑ふもはしたなし。「いづら。此の頃は、誰か悪しく御座する」と問へば、「いないなそれは空恐ろし」とて、頭をふるもさすがをかし。さても、石清水の流れを分けて、関の東にも、若宮と聞こゆる社御座しますに、八月十五日、都の放生会を学びて行ふ。其の有様、誠にめでたし。将軍も詣で、位ある兵・諸国の受領共など、色々の狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出で立ちたり。赤橋と言ふ所に、将軍御車止めて降り給ふ。上達部は、上の衣なるも有り。殿上人などいと多く仕る。此の将軍は、中務の宮の御子なり。此の頃権中納言にて、右大将兼ね給へれば、御随身共、花を折らせてさうぞきあへる様、都めきて面白し。法会の有様も、本社に変はらず。舞楽・田楽・獅子がしら・流鏑馬など、様々所にし付けたる事共面白し。十六日にも、猶斯様の事なり。桟敷共いかめしく造り並べて、色々の幔幕など引き続けて、将軍の御桟敷の前には、相模の守を初め、そこらの武士共並み居たる気色、様変はりて、好ましううけばりたる、心地よげに、所に付けては又無くは見えたり。其の後、幾程無く、鎌倉中騒がしき事出で来て、皆人肝をつぶし、つぶし、ささめくと言ふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞こゆる。珍しき言の葉なりかし。近く仕る
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男女、いと心細く思く。例へば、御位などの変はる気色に異ならず。さて上らせ給ふ有様、いと怪しげなる網代の御輿を逆様に寄せて、乗せ奉るも、げにいとまがまがしき事の様也。打ち任せては、都へ御上りこそ、いと面白くもめでたかるべき業なれど、かく怪しきは珍か也。御母御息所は、近衛殿の大殿と聞こえし御娘也。父御子の、将軍にて御座しましし時の御息所也。先に聞こえつる禅林寺殿の宮の御方も、同じ御腹なるべし。文永三年より今年まで二十四年、将軍にて、天下 の固めといつかれ給へれば、日の本の兵を従へてぞ御座しましつるに、今日は彼等にくつ返されて、かくいとあさましき御有様にて上り給ふ。いといとほしう哀れなり。道すがらも思し乱るるにや、御たたう紙の音繁う漏れ聞こゆるに、猛き武士も涙落としけり。さて、此の代はりには、一院の御子、三条の内大臣公親の御娘、御匣殿とて候ひ給ひし御腹也。当代の御はらからにて、今少し寄せ重く止む事無き御有様なれば、〔只〕受禅の心地ぞする。もとの将軍御座せし宮をば造り改めて、いみじう磨きなす。兵の勝れたる七人、御迎へに上る中に、飯沼の判官と言ふ者、前の将軍上り給ひし道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎて上るとぞ、余りなる事にや。御子は十月三日御元服し給ふ。久明の親王と聞こゆ。同じ十日、院よりやがて六波羅の北方、さきざきも宮の
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渡り給ひし所へ御座して、それよりぞ東に赴かせ給ふ。同じ二十五日、鎌倉へ着かせ給ふにも、御関迎へとて、ゆゆしき武士共打ちつれて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾上げて、御覧じならはぬ夷共の打ち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。しのぶを乱れ織りたる萌黄の御狩衣・紅の御衣・濃き紫の指貫奉りて、いと細やかに艶めかし。飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に、黄金物の鞍置きて、随兵いかめしく〔召し具〕して、御輿の際にうちたるも、都に例へば、行幸に然るべき大臣などの仕り給へるによそへぬべし。三日が程は、椀飯と言ふ事、又馬御覧、何くれといかめしき事共、鎌倉中の経営也。宮の中の飾り御調度などは更にも言はず、帝釈の宮殿もかくやと、七宝を集めて磨きたる様、目も輝く心地す。いと有らまほしき御有様なるべし。関の東を都の外とて、おとしむべくも有らざりけり。都に御座しますなま宮達の、拠り所無くただよはしげなるには、こよなく勝りて、めでたくにぎははしく見えたり。時宗の朝臣と言ひしも、又頭下ろして、円覚寺の入道とて、いと尊く行ひて、世をもいろはず、貞時と言ふ太郎、相模の守にぞ、万言ひ付けける。上り給ひにし前の大将殿は、嵯峨の辺に御髪下ろし、いとかすかに寂しくて御座す。かくて年変はりぬれば、又の年二月の頃、一院御髪下ろす。年月の御本意なれど、たゆたい過ぐし給ひけるに、禅林寺殿、去年の秋思し立ちにしに、
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いとど驚かされ給ひぬるにや有りけん。二月十一日、亀山殿にて、御いむ事受けさせ給ふ。四十八にぞならせ給ふ。御法名素実と申す也。正月一日、節会など果てて、夕つ方、内の上、皇后宮の御方へ渡らせ給へれば、宮は〔中〕濃き紅梅の〔十二の〕御衣に、同じ色の御単・紅のうちたる・萌黄の御表着・葡萄染めの御小袿・花山吹の御唐衣、唐の薄物の御裳気色ばかり引き掛けて、御髪ぞ少し薄らぎ給へれど、いとなよびかに美しげにて、常よりも殊に匂ひ加はりて見え給ふ。御前に御匣殿、花山院の内大臣師継の娘、二藍の七つに紅の単・紅梅の表着・赤色の唐衣・地摺の裳、髪うるはしく上げて候ひ給ふ。かんざし・やうだい、是もけしうは有らず見ゆ。あたらしき年の御喜びなど少し聞こえ給ひて、例の只ならぬ御事共打ちささめきがちにて、是より公守の大納言の娘の曹司差しのぞかせ給へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜のあはひおかしきに、山吹の表着、裳引き掛けて、寄り臥し給へる、あてにらうたし。こまやかに打ち語らひ聞こえ給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき聞こえ給ひし習ひにや、押しなべての上宮仕への様よりは、思ひ上がれる気色なり。今一所〈 顕親門院 〉の御曹司も近き程なれば、そなた様に歩み御座して、いと心静ならねど、此の君をば、押しなべての際ならず思すめり。此の御腹に、御子達数多御座しましき。かくめぐらせ給ふ程に、いたく更けてぞ、中宮上らせ給ふ。此の御代にも、いみじき行幸ども、
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ゆゆしき事多かりしかど、年の積もりに何事もさだかならず、月日などおぼろに侍れば、中々聞こえず。程無く明け暮れて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に位譲りて、降り給ひぬ。霜月になりて、五節の頃、去年を思し出でて、其の折に関白にて御座せし兼忠の大臣に、櫛遣はすとて、新院、
乙女子がさすや小櫛の其のかみに共に馴れこし時ぞ忘れぬ W
御返し、歓喜園の前の摂政殿、
いとど又こぞの今宵ぞ忍ばるるつげの小櫛を見るに付けても W
堀川の具守の大臣の娘の御腹に、前の新院の若宮〈 後二条 〉生まれ給へりし、六月二十七日に、御元服して、八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治と聞こゆ。是も、内より〔は〕御年三つ勝り給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁と聞こゆ。あてに艶めかしう御座します。中宮の御腹には、大方、宮も物し給はねば、此の御門をぞ、御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は、宮も降りさせ給ひて、永福門院と聞こゆめり。皇后宮も此の頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らに御座しましつるを、中の院(ゐん)〈 後宇多 〉、如何なる便りにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難く思されければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿に御座します。又無く思ひ聞こえさせ給へる事限り無し。
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正安二年正月三日、御門、御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば、御行く末遙かなる程也。又の年正月の頃、内侍所の御しめの下り給へるは、如何なるべき事にかなど、忍びてささめく程こそあれ、東より御使ひの上るとて、世の中騒ぎて、禅林寺殿見奉り給ふ世にとや、正月二十一日、春宮〈 後二条 〉位に即かせ給ひぬ。おりゐの御門十四にて、太上天皇の尊号有り。いときびはにいたはしき御事なるべし。僅かに三年にて降り居させ給へれば、何事のはえも無し。此の春は、春日の社に御幸など有るべしとて、世の中まだきより面白き事に言ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此の君を新院と申せば、父の院をば中の院(ゐん)と聞こゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇も此の頃は一つに御座しますなめり。一の院、世の政聞こし召せば、天下の人、又押し返し、一方に靡きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かなと、あぢきなし。土御門の前の内の大臣定実、六月に太政大臣になり給ふ、いとめでたし。故大納言入道顕定の、本意無かりし御面おこし給へる、いとどゆゆし。院の御覚えの人なる上、才も賢く御座すれば、世に用ゐられ給へり。御子の大納言雅房・中納言親定とて、いづれも才ある人にて御座しき。持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に籠り御座しますべく宣へれど、二の御子坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにて御座しますべし。
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先に聞こえつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞こえし御腹也。八月十五日、先づ親王になし奉らせ給ひて、同二十四日に春宮〈 花園院 〉に立ち給ひぬ。かくて新帝〈 後二条 〉は十七になり給へば、いと盛りに美しう、御心ばへもあてにけだかう澄みたる様して、しめやかに御座します。三月二十四日御即位、此の行幸の時、花山院の三位の中将家定、御剣の役を勤め給ふとて、逆様に内侍に渡されけるを、今出川の大臣御覧じとがめて、出仕止めらるべき由申されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰がましくてあしかりなん。只音無くてこそ」と申し止め給へりしこそ、情け深く侍りしか。後に思へば、げにあさましき事の験にや侍りけん。十月二十八日御禊、此の度の女御代にも、堀川の大臣の姫君いで給へり。今の上も、源氏の御腹にて物し給ふ。いと珍しく止む事無し。然れど、うけばりたる様には御座せぬぞ、心許無かめる。又の年は乾元元年、六月十六日亀山院へ行幸有り。法皇〈 亀山院 〉、いと珍しく美しと見奉らせ給ふ。暁帰らせ給ひぬる後、法皇より内に聞こえさせ給ふ。
したはるる名残に堪えず月を見れば雲の上にぞ影はなりぬる W
御返し、内の上、
君はよし千年の齢保てれば相見ん事の数も知られず W
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一院は、忠継の宰相の娘の中納言の典侍殿と言ふ腹にも、男女御子達数多物し給ふ中に、勝れ給へる内親王を、いと悲しき物にかしづき聞こえさせ給ふ。此の御世にも、又、為世の大納言承りて撰集有り。新後撰集と聞こゆ。嘉元元年披露せらる。かくて、又の年春の頃より、東二条院、御悩み日々におもり給ひて、今はと見えさせ給へば、伏見殿へ出でさせ給ひて、遂に失せさせ給ひぬ。七十に余らせ給へば、理の御事なり。法皇〈 後深草 〉も其の御歎きの後、をさをさ物聞こし召さずなど有りしを始めにて、打ち続き心よからず、御わらはやみなど聞こゆる程に、七月十六日、二条富の小路殿にて、隠れさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いと哀れに悲しき事共、言へば更也。御孫の春宮も一つに御座しましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇共こぼこぼと毀ちて、くづれ出づる法師原の気色まで、今を限りと、とぢめ果つる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に、六波羅の貞顕・憲時二人、御訪ひに参れり。京極表の門の前に、床子に尻掛けて候ふ。従ふ者共左右に並み居たる様、いとよそほしげ也。又の日、夜に入りて、深草殿へ率て渡し奉る。御車差し寄せて、御棺に乗せ奉る程、内外とよみ合ひたる、いと理に、心をさむる人も無し。院〈 伏見殿 〉の御前・宮達など、藁履とかや言ふ物奉りて、門まで御送り仕らせ給ひて、とみにえ上らせ給はず、御直衣の袖を押し当てて、遙かに程経
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てぞ、御車に奉りて、伏見殿への御送りもせさせ給ひける。院の中ゆゆしきまで泣きあへり。後深草院とぞ聞こゆめる。御日数の程は、伏見殿に宮達・遊義門院など御座します。秋さへ深く成り行く儘に、夜とともの御涙、干る間無く思し惑ふ。遊義門院、
物をのみ思ひ寝覚めにつくづくと見るも悲しき燈し火の色 W
春きてし霞の衣ほさぬまに心もくるる秋霧の空 W
年返りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路殿の法皇、又御悩みとて、亀山殿へぞ移らせ給ふ。色々に、御修法や何くれ御祈り共、こちたくせさせ給へるも験無くて、九月十五日の曙に遂に隠れさせ給ひぬ。去年・今年の世のさがなさ、打ち続きたる人々の御歎き共、言はん方無し。世を背かせ給ひにし初めつ方は、いと際だけう聖だちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後には有りしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御差次の姫君、はや御盛りも過ぐる程なりしを、此の法皇に参らせ奉らせ給へりしが、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号有りしかば、昭訓門院と聞こえつる、其の御腹に、一昨年ばかり、若宮生まれ給へるを、限り無く悲しき物に思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう
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思されけり。さてしも有らぬ習ひなれば、同じ十七日に、御業の事せさせ給ふ。理と言ひながら、いといかめしう人々仕り給ふ。網代庇の御車、前の右大臣殿寄せさせ給ふ。烏帽子直衣袴際にて参り給ふ。院の上も庭に下りさせ給ふ。法親王達三人、山の座主・聖護院、十楽院の法親王などは、わらうづをぞ奉る。上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には、前の右の大臣公衡・西園寺の大納言公顕・万里小路大納言師重・源中納言有房・三条の前の中納言実躬・宗氏の二位・重経の二位・為雅の宰相・経守・為行・親氏など也。殿上人は頼俊の朝臣・忠氏・為藤・国房・経世・泰忠・光忠、皆、狩衣の袖を絞り絞り参る気色さへ、哀れを添へたり。院も御供にひきさがりて参り給ふ。花山院の権大納言・西園寺の中納言・土御門の大納言、御子親実の少将、御太刀持ちて御供せられたり。よそほしかりつる御有様も、いと程無く、只時の間の煙にて上り給ひぬれば、誰も誰も夢の心地して、ほのぼのと明け行く程に、各まかで給ふ。三条の大納言入道公実・万里小路大納言師重などは、とりわき御志深くて、御荼毘の果つるまで、墨染めの袖を顔に押し当てつつ候ひ給ふ。予てより山道作られて、木草切り払ひなどせられつれど、露けさぞ分けん方無き。涙の雨の添ふなるべし。内よりの御使ひに、始め長親の朝臣、雅行・有忠の朝臣など、三度参る。古き例なるべし。同じき二十六日、院の上、御素服奉る。御座します
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殿には、黒き草にて編みたる簾を掛けける。浅黄縁の御座に、上の御衣黒き、上の御袴、裏は柑子色、御下襲も黒し。同じひへぎ、浅黄の御桧扇、御台参る〔も〕、皆黒き御調度共なり。此の御ついでに、御方々も御素服奉る人数、昭訓門院、昭慶門院は御娘、近衛殿の北の政所、関白殿〈 九条殿 〉の北の政所、良助法親王、覚雲・順助・慈道・性恵・行仁・性融の法親王達、上達部も、御山の御供し給ふ人々皆漏れず。院の二の御子の御母も、近頃は法皇召し取りて、いと時めきて、准后など聞こえつるも、思ひ歎き給ふべし。昭訓門院、やがて御髪下ろす。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨も、此の院に法華堂を建てさせ給へば、亀山の院とぞ申すべかめる。禅林寺殿をば、御座しましし時より禅院になされき。南禅院と言ふは是なめり。院の二の御子、忠継の宰相の娘、今は准后の御腹に御座します。此の頃帥宮と聞こゆるを、法皇とりわき御傍ら去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より殊に思し歎くべし。頃さへ時雨がちなる空の気色に、山の木の葉も涙争ふ心地して、いと悲し。所がらしもいとど哀れを添へたり。川波の響き、戸無瀬の滝の音までも、取り集めたる御心の中共なり。御日数の程は、帥の宮一つ御腹の内親王なども、此の院に御座します程、徒然なる儘に、はかなし事など聞こえかはして、花紅葉に付けて
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も、睦ましく馴れ聞こえ給ふべし。帥の御子は、大多勝院に、西の廂に渡らせ給ふ。御前の松の木に這ひかかれる蔦の、紅葉にいたう染めこがしたるを取りて、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉らせ給ふ。
あすよりの時雨も待たで染めてけり袖の涙や蔦の紅葉葉 W
木の葉よりももろき御涙は、ましていとどせき兼ね給へり。御返し、
四方は皆涙の色に染めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉 W
哀れに見奉らせ給ひつつ、名残もいみじく眺められて、勾欄に押し掛かり給へる夕ばえの御形、いとめでたし。有りつる紅葉を、西園寺の大納言公顕の宿直所へ遣はす。
雨と降る涙の色や是ならん袖より外に染むる紅葉葉 W
女院の御兄なれば、しめやかなる御山ずみの心苦しさに、候ひ給ふなりけり。御返し、
いくしほか涙の色に染めつらん今日を限りの秋の紅葉葉 W
時雨はしたなく、風あららかに吹きて暮れぬれば、宮、内に入り給ひて、御殿油近く召して、昼御覧じさしたる御経など読み給ふ程に、若殿上人共打ち連れて、此方の御宿直に参れり。昼の蔦の葉の散りぼひたるを、人々見るに、宮、「それに各歌書きて」と

宣へば、中将為藤の朝臣、
紅葉葉になく音絶えずば空蝉のからくれなゐも涙とや見ん W
清忠の朝臣、
山姫の涙の色も此の頃はわきてや染むる蔦の紅葉葉 W
光忠の朝臣、
世の中の歎きの色を知らねばや去年に変はらぬ蔦の紅葉葉 W
此等を取り集めて、北殿の内親王の御方へ奉らせ給へれば、
さすが猶色は木の葉に残りける形見も悲し秋の別れ路 W
雨打ちそそきて、けはひ哀れなる夜、いたう更けて、帥の宮、例の北殿へ参り給へれば、姫君も御殿ごもりぬ。候ふ人々も皆静まりぬるにや、格子などたたかせ給へど、開くる人も無ければ、空しく帰らせ給ふとて、書きて挿ませ給ふ。
自づから眺めやすらむとばかりにあくがれ来つる有明の月 W
御返し、又の日、
徒らに待つ宵すぎし村雨は思ひぞ絶えし有明の月 W
月日程無く移り過ぎぬれば、院も宮々も、各ちりぢりにあかれ給ふ程、今少し、
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物悲しさ勝る御心のうち共は尽きせねど、世の習ひなれば、さのみしもは如何。昭慶門院は、数多の宮達の御中に、勝れて悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひしかば、御処分などもいとこちたし。大井川に向かいて、離れたる院の有るをぞ奉らせ給へれば、そこに御座しましし程に、川端殿の女院など、人は申し侍りし。彼の所は臨川寺と言ふ。都にも土御門室町に有りし院、いづれも此の頃は寺に成りて侍るめりとぞ。めでたくも哀れなる。