第十二 浦千鳥
院の上は、御位に御座せし程は、中々然るべき女御・更衣も候ひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心の儘にいとよく紛れさせ給ふ程に、此の程は、いどみ顔なる御方々数そひ給ひぬれど、猶遊義門院の御志に立ち並び給ふ人はをさをさ無し。中務の宮の御娘も、押しなべたらぬ様にもてなし聞こえ給ふ。勝れたる御覚えには有らねど、姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号有りき。永嘉門院と申し侍りし御事也。又一条の摂政殿〈 実経公 〉の姫君も、当代堀川の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に、
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十六にて参り給ひて、はじめつ方は、基俊の大納言、うとからぬ御中にて御座せしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、事の外にめでたくて、内侍のかみになり給へり。昔覚えて面白し。加階し給へりし朝、院より
其のかみに頼めし事の変はらねばなべて昔の世にや帰らん W
御返し、内侍のかんの君。〓子とぞ聞こゆめりし。
契り置きし心の末は知らねども此の一言や変はらざるらむ W
露霜重なりて、程無く徳治二年にもなりぬ。遊義門院、そこはかとなく御悩みと聞こえしかば、院の思し騒ぐ事限り無く、万に御祈り・祭り・祓へと罵りしかど、甲斐無き御事にて、いとあさましく敢へ無し。院もそれ故御髪下ろして、ひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。其の程、様々の哀れ思ひ遣るべし。悲しき事共多かりしかど、皆見落しつ。明くる年の春、八幡の御幸の御帰るさより、東寺に三七日御座しまして、御潅頂の御加行とぞ聞こゆる。仁和寺の禅助僧正を御師範にて、彼の寛平の昔をや思すらん、密宗をぞ学せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。御髪下ろして後は、〔大方、〕女房は仕らず。男、番に下りて、御台なども参らせ、万に仕る。いつも御持斎にて御座します。いと有り難き善知識にてぞ、故女院は御座しける。嵯峨の今林殿にて、御仏事共、
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日々に怠らずせさせ給ふ。此の今林は、北山の准后貞子の御座せし跡なり。遊義門院の御髪にて、梵字縫はせ給へり。彼の御手のうらに、法華経一字三礼に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。大覚寺の僧正御導師なり。故女院の御骨も、今林に法華堂建てられて、置き奉らせ給へれば、月ごとに二十四日には必ず御幸有り。思し入りたる程は、いみじかりき。かくて八月の初めつ方より、内〈 後二条 〉の上例ならず御座しますとて、様々の御修法、五壇・薬師・愛染、色々の秘法共、諸社の奉幣神馬、何かと罵り騒ぎつれど、むげに不覚にならせ給ひて、二十三日御気色変はるとて、世の響き言はん方無く、馬・車走り違ひ、所も無きまで人々は参りこみたれど、いと甲斐無く、二十五日子の時ばかりに、果てさせ給ひぬ。火の消えぬる様にて、かき暗れたる雲の上の気色、言はずとも推し量られなん。誠や、中宮は、徳大寺の公孝の太政大臣の娘ぞかし。珍しく、あの御家に斯かる事のいたく無かりつるに、御覚えもめでたくて候ひ給へるに、あさましとも言はん方無し。二十八日にまかで給ふ。先帝も御業の沙汰有り。院号有りて後二条院とぞ聞こゆる。堀川の右大将具守、御車寄せらる。心の中如何ばかりか御座しけん。大将になり給へるも、此の御門の、西花門院睦ましうも仕り給へるに、いとほしき御事也。御素服を〔着〕給はざりしをぞ、思はずなる事に世の人も言ひ沙汰しける。内侍のかんの君も様変はり給ふ。中宮も院号有りて、
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長楽門院と聞こゆ。万哀れなる事のみ、書き尽くし難し。春宮は正親町殿へ行啓なりて、剣璽渡さる。八月二十六日践祚なり。十二にぞならせ給ふ。夢の内の心地しつつも、程無く過ぎうつる御日数さへ果てぬれば、尽きせぬ哀れはさむる世無けれど、人々もおのが散り散りになる程、今一入堪えがたげ也。持明院殿には、いつしかめでたき事共のみぞ聞こゆる。大覚寺殿には、遊義門院の御事に打ち添へて、御涙のひる世無く思さるべし。中務の御子の御事を、東へ宣ひ遣はしたる、「相違無し」とて、九月十九日、立太子の節会有りて、坊にゐ給ひぬ。今はと世をとぢむる心地しつる人々、少し慰みぬべし。其の年十月、大なりつるを、保元の例とかやとて、十一月一日に宣下せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日さへ改まりにけり。十一月十二日御即位、摂政は、後照念院殿冬平、今日御悦申有りて、やがて行幸に参り給ふ。有るべき限りの事共、古きに変はらで、めでたく過ぎ行く。延慶二年十月二十一日御禊、同じ二十四日、大嘗会、応長元年正月三日、御年十五にて御冠し給ふ。御諱富仁と聞こゆ。引き入れ関白殿、理髪家平仕り給ふ。南殿の儀式果てて、御装ひ改めて、更に出でさせ給ふ。清涼殿にて御遊び始まる。摂政殿箏、ふしみと言ふ物、右大将公顕琵琶玄上、土御門の大納言通重笙きさぎえ、和琴大炊御門中納言冬氏、笛西園寺の中納言兼季、別当季衡も笙の笛吹き給ひけり。篳篥は公守の朝臣、拍子有時、めでたく様々面白くて明け
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ぬ。五日後宴とて、今少しなつかしう面白き事共有りき。此の御門をば、新院の御子になし奉らせ給ひてしかば、朝覲の行幸の御拝なども、此の御前にてぞ有りける。広義門院も、同じく国母の御心地にて、万めでたかりき。院(ゐん)の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじく御座しませば、如何ばかりかと思されしかども、正応に撰者共の事故に、わづらひ共有りて、撰集も無かりしかば、いとど口惜しう思されて、
我が世には集めぬ和歌の浦千鳥空しき名をやあとに残さむ W
など詠ませ御座しましたりしを、今だにと急ぎ立たせ給ひて、為兼の大納言承りて、万葉より此方の歌共集められき。正和元年三月二十八日奏せらる。玉葉集とぞ言ふなる。此の為兼の大納言は、為氏の大納言の弟に為教の兵衛督と言ひしが子也。限り無き院(ゐん)の御覚えの人にて、かく撰者にも定まりにけり。そねむ人々多かりしかど、さはらんやは。此の院(ゐん)の上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、前の藤大納言為世の心には、変はりてなん有りける。御手もいとめでたく、昔の行成の大納言にも勝り給へるなど、時の人申しけり。やさしうも強うも書かせ御座しましけるとかや。正和も二年になりぬ。今年御本意遂げなんと思さる。長月の暮れつ方、賀茂に忍びて御籠りの程、をかしき様の事共侍りけり。近く候ふ女房共も、打ちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色、いと物哀れなるに、御製、
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長月や木の葉も未だつれなきに時雨れぬ袖の色や変はらん W
又、
我が身こそ有らずなるとも秋の名残惜しむ心はいつも変はらじ W
人々も、さと時雨れ渡り、袖の上、今日を限りの秋の名残よりも忍び難し。大納言の三位為子、撰者のはらからなり。
一筋に暮れ行く秋を惜しまばや有らぬ名残を思ひ添へずて W
又誰にか、
如何にこひ如何に惜しまん年々の秋には勝る秋の名残を W
十月十五日、伏見殿へ御幸、限りの旅と思せば、えも言はず引き繕はる。庇の御車也。上達部・殿上人、数知らず仕り給ふ。世の政なども、新院に譲り奉らせ給ひにしかば、心静かにのみ思されて、伏見殿がちにのみぞ御座しましし程に、そこはかと御悩み月日へて、文保元年九月三日、隠れさせ給ひにき。伏見院と申しき。御母玄輝門院、永福門院などの御歎き思ひ遣るべし。御門は御軽服の儀なれば、天下も色変はらず。此の院、姫宮数多御座しまししかど、院号は章義門院・延命門院ばかりにて御座します。二条富小路の昔の院(ゐん)のあとに、東より造りて奉る内裏、此の頃御わたまし
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有りしなど、いといと面白かりき。近き事は、人皆御覧ぜしかば、中々にて止めつ。