第十四 春の別れ

四月の末つ方より、法皇御悩み重くならせ給へば、天下の騒ぎ思ひ遣るべし。御門
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もいみじく思し歎く。御修法なども、いとこちたく、又々始め加へさせ給へど、験も無くて日々に重らせ給へば、夜昼と無く「如何に如何に」と訪ひ奉らせ給ふ。若き上達部などは、直衣に柏ばさみして、夜中暁と無く、遙けき嵯峨野を、寮の御馬にて馳せ歩き給ふめり。今はむげに頼み無き由聞こゆれば、大覚寺殿へ行幸、有りしこと思し出づ。万の事共聞こえさせ給ふ。上の一つ御腹の二品法親王性円と聞こゆるを、いと悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひて、此の大覚寺に、そこらの御庄・御牧などを寄せ置かる。法の主として御座しますべく思し掟てけり。然様の事など、見給へざらんあと、後ろめたからぬ様などぞ聞こえさせ給ひける。其の後、御孫の春宮行啓有り。世を知ろし召さむ時の御心遣少し、こまやかに聞こえ知らせ給ふ。宮は先帝〈 故二条院 〉の御代はりにも、如何で心の限り仕らんと、あらまし思されつるに、あかず口惜しうて、いたうしほたれさせ給ふ。御門の御なからひ、上はいとよけれど、まめやかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、只大方に付けて、世に有るべき事共、又此の頃少し世に恨みあるやうなる人々の、我が御心に〔は〕、哀れと思さるるなど数多有るをぞ、御心の儘なる世にもなりなん時は、必ず御用意有るべくなど、聞こえ給ひける。中御門の大納言経継・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞こえし人々の事にや有りけん。さて
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其の夜は止まり給へるも知ろし召さで、夜打ち更けて、少し驚かせ給ひて、「春宮はいつ返り給ひぬるぞ」と宣ふに、打ち声づくりて、近く参り給へれば、「未だ御座しましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色哀れ也。大方の気色、院(ゐん)の内のかいしめりたる有様など、万思しめぐらすに、いと悲しきこと多かれば、宮、打ち泣き給ひぬ。心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月二十五日、遂に隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。御門又御服奉る。あけくれ懇ろに孝じ奉り給ふ様、いと忝し。御娘の皇后宮と聞こえし、今は達智門院と申すも、まいて一所をのみ頼み聞こえさせ給へるに、心細ういみじと思し歎くこと限り無し。昔の内侍のかんの殿、近頃院号有りて万秋門院と聞こゆるも、故院(ゐん)の御影にてのみ過ぐし給へれば、拠り所無く哀れげ也。御四十九日は八月十日余りの程なれば、世の気色何と無く哀れ多かるに、女院・宮達の御心の中共、朝霧よりも晴れ間無し。十五夜の月さへかき曇れるに、故院(ゐん)の位の御時に、宰相の典侍とて候ひしは、雅有の宰相の娘也。其の世の古き友なれば、同じ心ならんと思し遣るも睦ましくて、万秋門院宣ひ遣はす。
仰ぎ見し月も隠るる秋なれば理知れと曇る空かな W
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いと哀れに悲しと見奉りて、御返し、宰相の典侍、
光無き世は理の秋の月涙添へてや猶曇るらむ W
永嘉門院・西花門院など、いづれも思し歎く人々多かり。春宮もいと恋しく哀れとのみ思ひ聞こえ給ふ儘に、御法事をぞまめやかに勤めさせ給ひける。大覚寺にては、性円法親王取り持ちて行はせ給ふ。御門・春宮の御法事は、亀山殿の大多勝院にて勤めらる。哀れ哀れと言ひつつも、過ぎやすき月日のみ移り変はりて、年も返りぬ。一昨年ばかりより、又重ねて撰集のこと仰せられしを、為世の大納言、二度になりぬればにや、為藤の中納言に譲りしを、幾程無く彼の中納言悩みて失せぬ。いといとほしう哀れなり。故為道の朝臣の失せにし、只年月ふれど、絶えぬ恨みなるに、又かく取り重ねたる歎き、大納言の心の中言はん方無し。春宮よりしばしば訪はせ給ふ御消息のついでに、
後れゐる鶴の心も如何ばかり先だつ和歌の恨みなるらん W
御返し、大納言為世、
思へ只和歌の浦には後れ居て老いたるたづの歎く心を W
世に歌詠むと思しき人の、哀れがり歎かぬは無し。「せめて勅撰の事撰び果つるまで、などかは」
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とぞ、一族の歎き、いとほしげ也。故為道の中将の二郎為定と言ふを、故中納言とりわき子にして、何事も言ひ付けしかば、撰歌の事もうけつぎて、沙汰すべきなどぞ聞こゆる。大納言は、末の子為冬少将と言ふをいたくらうたがりて、此の紛れに引きや越さましと思へる気色有りとて、為定も恨み歎きて、山伏姿に出で立ちて、修行に失せぬなど言ひ沙汰すれば、人々いとほしう哀れになど持てあつかへど、さすが求め出だして、もとのやうにおだしく定まりぬとなん。其の頃、長月ばかり、まだしののめの程に、世の中いみじく騒ぎ罵る。何事にかと聞けば、美濃の国の兵にて、土岐の十郎とかや、又多治見の蔵人など言ふ者共忍びて上りて、四条わたりに立ち宿りたる事有りて、人に隠れて居りけるを、早う又告げ知らする物有りければ、俄に其の所へ六波羅より〔押し〕寄せて、搦め捕る也けり。現れぬとや思ひけん、彼の物共は、やがて腹切りつ。又、別当資朝・蔵人の内記俊基、同じやうに武家へ捕られて、厳しく尋ね問ひ、守り騒ぐ。事の起こりは、御門世を乱り給はんとて、彼の武士共を召したる也とぞ、言ひあつかふめる。さて、其の宣旨なしたる人々とて、此の二人をも東へ下して、戒むべしとぞ聞こゆる。いかさまなる事の出で来べきにかと、いと恐ろしくむつかし。「故院御座しましし程は、世ものどかにめでたかりしを、いつしか、斯様の事も出で来ぬるよ」と、人の口安からざる
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べし。正応にも、浅原と言ひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東より引き違へし御恨みとこそは聞こえしか。今も其の御憤りの名残あるべし。過ぎにし頃、資朝も山伏のまねして、柿の衣にあやゐ笠と言ふ物着て、東の方へ忍びて下りしは、少しは怪しかりし事也。早う斯かる事共に付けて、あなたざまにも、宣旨を受くる者の有りけるなめり。俊基も紀伊国へ湯浴に下るなど言ひなして、田舎歩き繁かりしも、今ぞ皆人思ひ合はせける。然る儘には、言ひ知らず聞こゆる事共あれば、まだきに、いと口惜しう思されて、此の事を、事を、先づおだしく止めむと思せば、彼の正応に有りしやうなる誓ひの御消息を遣はす。宣房の中納言、御使ひにて東に下る。大方、古き御世より仕へきて、年もたけたる上、此の頃は、天の下にいさぎよくむべむべしき人に思はれたる頃なれば、此の事更に御門の知ろし召さぬ由など、けざやかに言ひなすに、荒き夷共の心にも、いと忝となごみて、無為なるべく奏しけり。此の御使ひの賞にや、宣房、大納言になされぬ。いといみじき幸ひ也。親は三位ばかりにて入道して、子共などさへいときよげにて、数多あめり。然れば、公は知ろし召さぬにても、彼の人々は逃るべき方無しとて、別当は佐渡の国へ流されぬ。俊基は、如何にして逃れぬるにか、都へ返りぬれど、有りしやうには出で仕へず、籠り居たる由なり。斯様にて、事無く静まりぬれば、いとめでたけれど、上の御心の中は、猶
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安からず、如何ならむ時とのみ思し渡るべし。月日程無く移り行きて、嘉暦元年になりぬ。三月の初めつ方より、春宮例ならず御座しまして、日々に重らせ給ふ。様々の御修法共始め、御祈り、何やかやと、伊勢にも御使ひ奉らせ給へど、甲斐無くて、三月二十日、遂にいとあさましくならせ給ひぬ。宮の内、火を消ちたる心地して、惑ひあへり。御乳母の対の君と言ふ人、夜昼御傍ら去らず候ひなれたるに、いみじき心惑ひ、誠にをさめがたげなり。限りと見え給ふ御顔に差し寄りて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、え御座しまし遣らじ。今一度、御声なりとも聞かせさせ給ひて、何方へも御供に率て御座しましてよ」と、声も惜しまず泣き入り給へる様、いと哀れ也。すべて、宮の内とよみ悲しむ様、言はん方無し。永嘉門院は御子も御座しまさねば、年月此の宮を故院聞こえ付けさせ給ひしかば、今も一つ院(ゐん)に御座します。御息所にも、やがて、故院(ゐん)の姫宮を女院の御傍らにかしづき聞こえ給ひしを、合はせ奉り給へれば、又なき様に思しかはして過ぐさせ給へるなど、いみじう沈み入り給へり。さて有るべきならねば、常の行啓の様にて、先帝の御座しましし北白河殿へぞ入れ奉らせ給ひぬる。土用の程にて、しばし彼処に御座しますさへいと悲し。院号などの沙汰も有るべくこそ。然れど、御座しましし時に、其の事は由無かるべく仰せられ置きしかば、内よりも聞こし召しすぐしけり。昼の御座の
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装ひ取り毀ち、火たき屋などかき払ふ程、猶うつつとも覚えず。堀川の女御の、「見えし思ひの」など宣ひけんは、此の世ながら御心との御あかれなれば、羨ましくさへ覚ゆ。差しあたりての哀れは差し置きて、先帝の位ながら失せ給ひにしだに有るを、又かく、半ばなるやうにて、あさましければ、世の人の思ふらん事も心憂く、一方ならぬ歎きに添へたる憂へ、言はん方無し。大方、我が身を限り果てぬると思ふ人のみ多かりき。有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふ様ならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの都に参らんと同じやうに上らんとて、未だ彼処にも乗せられつるに、かくあやなき事の出で来ぬれば、いみじとも更なり。三月三十日、やがて彼処にて頭下ろす。心のうちさこそはと悲し。
大方の春の別れの外に又我が世つきぬる今日のくれかな W
都にも、前の大納言経継・四条の三位隆久・山の井の少将敦季・五辻少将長俊・公風の少将・左衛門佐俊顕など、皆頭下ろしぬ。女房には、御息所の御方・対の君・帥君・兵衛督・内侍〔の君〕など、すべて男女、三十余人様変はりてけり。止む事無き君の御時も、かくばかりの事はいと有り難きを、仏などの現はれ給ひて、ことさらに迷ひ深き衆生を導き給ふかとまで見えたり。御本上のいとなごやかに御座しまししかば、近う仕る限りの人は、日頃の御名残
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を思ふも忍び難き上、大方の世にも差し放れて、身をえう無き物に思ひ捨つる類など、様々に付けて、厭ひ背くなるべし。若宮三所、姫宮なども御座しましけり。御息所の御腹には有らねど、いづれをも今は昔の御形見と哀れに見奉らせ給ふ。卯月の末つ方、夏木立心よげに茂り渡れるも、羨ましく眺めさせ給ふ。暁がた、ほととぎすの鳴き渡るも、「如何に知りてか」と、御涙の催しなり。
諸共に聞かまし物を郭公枕並べし昔なりせば W
誠や、例の先に聞こゆべき事を、時違へ侍りにけり。兵衛督為定、故中納言のあとを受けて撰びつる撰集の事、正中二年十二月の頃、先づ四季を奏する由聞こえし残り、此の程世に広まれる、〔いと〕面白し。御門、事の外にめでさせ給ひて、続後拾遺とぞ言ふなる。中宮の大夫師賢承りて、此の度の集のいみじき由、様々仰せ遣はしたる御返しに、為定、
今ぞ知る集むる玉の数々に身を照らすべき光有りとは W
御返し、内の御製
数々に集むる玉の曇らねば是も我が世の光とぞなる W
此の大夫は、もとより中良きどちにて、常に消息など遣はすに、かく世にほめらるるを、
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いとよしと思ひて、兵衛督のもとへ言ひ遣る。
和歌の浦の波も昔に帰りぬと人より先に聞くぞ嬉しき W
返し、
和歌の浦や昔に返る波ぞとも通ふ心に先づぞ聞くらむ W
此の為定のはらから、中宮に宣旨にて候ふも、上、例の時めかし給ひて、若宮出で物し給へり。其の宮の御乳母は、師賢の大納言承りて、いみじうかしづき奉らる。又宮の内侍の御腹にも、次々、いと数多御座します。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせ給ふ。二の御子も、いときらきらしうて、源大納言親房の御預かりなり。かく様々に御座しますを、此の度如何で坊にと思しつれど、予てより、催し仰せられし事なれば、東より人参りて、本院の一の宮を定め申しつ。いとけやけく聞こし召せど、如何はせむにて、七月二十四日、皇太子の節会行はる。陣の座より引き渡して、持明院殿に人共参る。院(ゐん)の殿上にて禄など賜はる。常の事なれど、俄にいとめでたし。八月になりて、陽徳門院の土御門東の洞院殿へ行啓始め有り。先坊の宮は鷹司なれば、間近き程に、世のおとなひ聞こし召す入道の宮〈 先坊御息所 〉・女院などの御心の中、今更にいと悲し。
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本院・新院一つ御車に奉りて、先立ちて入らせ給ふ。行啓は東の洞院面の棟門に御車止めて、中門まで筵道を敷きて歩み入らせ給ふ。御びんづら結いて、いときびはに美しげ也。十四ばかりにや御座しますらん。宮司共、院(ゐん)の殿上人など多く仕れり。花開けたる心地〔共〕すべし。哀れなる世の習ひなりかし。かくて今年も暮れぬれば、嘉暦も二年に成りぬ。一の宮御冠し給ひて、中務の卿尊良の親王と聞こゆ。去年より内に御宿直所して渡らせ給ふ。正月の十六日の節会に珍しく出で給ふ。御門も、徳治の頃、帥にて、七日の節に出でさせ給へりし例、思し出づるにや。大方、古くは、皆さこそ有りけれど、近頃は、いたく斯様には無かりつるを、御子達、御冠の後は、いづれも昔覚えて、然るべき折々出で仕へさせ給ふめり。今日の節会は、常より殊に引き繕はるるなるべし。親王は蘇芳の上の衣奉れり。左大臣冬教・右大臣経忠・内大臣基嗣・右大将公賢・権大納言顕実・藤中納言実任・別当充経・三条の中納言実忠・左衛門督公泰・権中納言藤房、宰相惟継・親賢・為定・冬信・国資など参れり。二の宮は西園寺の宰相の中将実俊の娘の御腹也。帥の御子世良の親王と聞こゆ。照慶門院、とりわき養ひ奉らせ給ふ。此の宮は、御乳母源大納言親房也。それも内々、上の御衣にて、御門南殿へ出でさせ給へば、御供に候はせ給ふ。又常盤井の式部卿の宮は、亀山院
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の御子なれど、当代といと懇ろなる御中にて、此の御子達と同じやうに、常は打ちつれ御宿直などせさせ給ふ。今日も御参り有りて、御子達歩み続かせ給へる、いと面白し。若き女房など〔は〕、心遣ひ異なる頃ならんかし。二月になれば、漸う故宮の御一めぐりの事共、永嘉門院には営ませ給ふも、哀れ尽きせず。鷹司の大殿も失せ給ひぬ。此の頃の世には、いと重く止む事無く物し給へるに、いとあたらし。北の政所は中の院(ゐん)の内の大臣通重の御はらからなり。それも様変はり給ひぬ。近頃、良き人々多く失せ給ふ様こそ、いと口惜しけれ。