増鏡 尾張徳川家本

岩波文庫 増鏡 和田英松 校訂 岩波書店 
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増鏡 上巻 〔序〕
二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、彼の如来二伝の御形見の睦ましさに、嵯峨の清涼寺に詣でて、常在霊鷲山など心の内に唱へて、拝み奉る。傍らに、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼一人、鳩の杖に掛かりて参れり。とばかり有りて、「猛く思ひ立ちつれど、いと腰痛くて堪へ難し。今宵は、此の局に打ち休みなん。坊へ行きて御燈の事など言へ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば、返しぬめり。「釈迦牟尼仏」と度々申して、夕日の花やかに差し入りたるを打ち見遣りて、「あはれにも山の端近く傾きぬめる日影かな。我が身の上の心地こそすれ」とて、寄り居たる気色、何と無く艶めかしく、心有らんかしと見ゆれば、近く寄りて、「何処より詣で給へるぞ。有りつる人の帰り来ん程、御伽せんは如何」など言へば、「此の渡り近く侍れど、年の積もりにや、いと遙けき心地し侍る、あはれになん」と言ふ。「さても、幾つにか成り給ふらん」と問へば、「いさ。よくも我ながら思ひ給へ別れぬ程になん。百年にもこよなく余り侍りぬらん。来し方行く先、例も有り難かりし世の騒ぎにも、此の御寺ばかり、恙なく御座します。猶、止む事無き
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如来の御光なりかし」など言ふも、古代にみやびやかなり。年の程など聞くも、珍しき心地して、斯かる人こそ昔物語もすなれと、思ひ出でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしき儘に、年の積もりたらん人もがなと思ひ給ふるに、嬉しき業かな。少し宣はせよ。自づから古き歌など書き置きたる物の片端見るだに、其の世にあへる心地するぞかし」と言へば、〔打ち〕すげみたる口打ちほほゑみて、「いかでか聞こえん。若かりし世に見聞き侍りし事は、ここらの年頃に、むばたまの夢ばかりだに無くおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とは言ひながら、けしうは有らず、あへなんと思へる気色なれば、いよいよ言ひはやして、「彼の雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。又彼の世継が孫とか言ひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様の様なる人にこそ有りけめ。猶宣へ」など賺せば、さは心得べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、「其のかみは、げに人の齢も高く機も強かりければ、それに従ひて、魂も明らかにてや、しか聞こえ尽くしけむ。あさましき身は、徒らなる年のみ積もれるばかりにて、昨日今日と言ふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しき僻事共にこそは侍らめ。そも然様に御覧じ集めける古言共は、如何にぞ」と言ふ。「いさ。只おろおろ見及びし者共は、水鏡と言ふにや。神武天皇の御代より、
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いとあららかにしるせり。其の次には、大鏡、文徳の古より、後一条の御門まで侍りしにや。又世継とか、四十帖の草子にて、延喜より堀川の先帝まで、少し細やかなめる。又某の大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉院まで有りしなめり。誠や、いや世継は、隆信の朝臣の、後鳥羽院の位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。其の後の事なん、〔いと〕おぼつかなくなりにける。覚え給へらん所々までも宣へ。今宵誰も御伽せん。斯かる人に会ひ奉れるも、然るべき御契有らん物ぞ」など語らへば、「其のかみの事は、いみじうたどたどしけれど、誠に事の続きを聞こえざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そは差し直し給へ。いといと傍らいたき業にも侍るべきかな。彼の古言共に、なぞらへ給ふまじうなん」とて、おろかなる心や見えん増鏡古き姿に立ちは及ばでとわななかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、今宣はん事をも、又書きしるして、彼の昔の面影にひとしからんとこそは思すめれ」といらへて、今も又昔を書けば増鏡ふりぬる代々の跡に重ねん
第一 おどろのした
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御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申す御座しましき。御諱は尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆の主の娘也。高倉院位の御時、后の宮〈 建礼門院 〉の御方に、兵衛の督の君とて仕られし程に、忍びて御覧じ放たずや有りけん、治承四年七月十五日生まれさせ給ふ。其の年の春の頃、建礼門院后の宮と聞こえし御腹の第一の御子〈 安徳天皇 〉、三つに成り給ふに位を譲りて、御門は降り給ひにしかば、平家の一族のみいよいよ時の花をかざし添へて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。又の年養和元年正月十四日、院さへ隠れさせ給ひしかば、いよいよ位などの御望み有るべくも御座しまさざりしを、彼の新帝平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮達渡し聞こえて見奉り給ふ時、三の宮を次第の儘にて思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて、泣き給ひければ、「あなむつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮此処にいませ」と宣ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いと睦ましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫に御座しけれ。故院の児生ひにも、まみなど覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四つにて位につかせ給ひけり。内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫へ率て御座しにければ、こたみ初めて三種の神器無くて、
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珍しき例に成りぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰り上りにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈みたるこそ、いと口惜しけれ。かくて此の御門、元暦元年七月二十八日御即位、其の程の事、常の儘なるべし。平家の人々、未だ筑紫にただよひて、先帝と聞こゆるも御兄なれば、彼処に伝へ聞く人々の心地、上下さこそは有りけめ、思ひ遣られて、いと忝し。同年十月二十五日御禊、十一月十八日に大嘗会なり。主基方の御屏風の歌、兼光の中納言と言ふ人、丹波国長田村とかやを、
神世より今日の為とや八束穂に長田の稲のしなひ初めけむ
御門いとおよすげて賢く御座しませば、法皇もいみじう美しと思さる。文治二年十二月一日、御書始めせさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年、女御参り給ふ。月輪の関白殿兼実の御娘なり。后立有りき。後には宜秋門院と聞こえし御事なり。此の御腹に、春花門院と聞こえ〔給ひ〕し姫宮ばかり御座しましき。建久二年正月三日、十一にて御元服し給ふ。同じき三年三月十三日、法皇隠れさせ給ひにし後は、御門偏に世を知ろし召して、四方の海波静に、吹く風も枝をならさず、世治まり民安うして、あまねき御うつくしびの波、秋津島の外まで流れ、繁き御恵み、筑波山のかげよりも深し。万の道々に明らけく
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御座しませば、国に才有る人多く、昔に恥ぢぬ御世にぞ有りける。中にも、敷島の道なん、勝れさせ給ひける。御歌数知らず人の口に有る中にも、
奥山のおどろの下を踏み分けて道有る世ぞと人に知らせん
と侍るこそ、〔政大事と思されける程しるく聞こえて、〕いといみじう止む事無くは侍れ。建久九年正月、第一の御子四つになり給ふに、御位譲り申させ給ひて、降り居給ふ。位に御座しますこと十五年なり。今日明日、二十ばかりの御齢にて、いとまだしかるべき御事なれど、万所せき御有様よりは、中々安らかに、御幸など御心の儘ならんとにや。世を知ろし召す事は今も変はらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給ひて、常に渡り住ませ給へど、猶又水無瀬と言ふ所に、えも言はず面白き院づくりして、しばしば通ひ御座しましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心行く限り世を響かして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、遙々と川にのぞめる眺望、いと面白くなむ。元久の頃、詩に歌を合はせられしにも、取りわきてこそは、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕は秋と何思ひけむ
かやぶきの廊・渡殿など、遙々と艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝落とされて、石のたたずまひ、苔深き深山木に枝に差しかはしたる庭の小松も、げに千世を込めたる霞の洞なり。前栽つくろはせ給へる頃、人々数多召して、御遊びなど有りける後、定家の中納言、未だ
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下臈なりし時、奉られける。
有りへけむもとの千年にふりもせで我が君契る千世の若松
君が代にせき入るる庭を行く水の岩越す数は千世も見えけり
今の御門の御諱は為仁と申しき。御母は能円法印と言ふ人の娘、宰相の君とて仕られける程に、此の御門生まれさせ給ひて後には、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞こえき。彼の大臣の北の方の腹にて御座しければ、もとより後の親なるに、御幸ひさへ引き出で給ひしかば、誠の御娘に変はらず。此の御門もやがて彼の殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日御禊、十一月は例の大嘗会、元久二年正月三日御冠し給ひ、いと艶めかしく美しげにぞ御座します。御本性も、父の御門よりは、少しぬるく御座しましけれど、情け深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞ有りける。今の摂政は、院の御時の関白〈 普賢寺殿基通 〉の大臣。其の後は後京極殿良経と聞こえ給ひし、いと久しく御座しき。此の大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治の頃、千載集有りしかど、院未だきびはに御座しまししかばにや、御製も見えざめるを当代位の御程に、又集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君右衛門督通具と言ふ人を始めにて、有家の三位・定家の中将・
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家隆・雅経などに宣はせて、昔より今までの歌を、広く集めらる。各奉れる歌を、院の御前にて、自ら磨き整へさせ給ふ様、いと珍しく面白し。此の時も、先に聞こえつる摂政殿、取り持ちて行はせ給ふ。大方、古奈良の御門の御代に、はじめて、右大臣橘の朝臣勅を承りて、万葉集を撰びしより此の方、延喜の聖の御時の古今集、友則・貫之・躬恒・忠岑。天暦の賢かりし御代にも、一条の摂政殿謙徳公、未だ蔵人の少将など聞こえける頃、和歌所の別当とかやにて、梨壺の五人に仰せられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞きにや侍らん。其の後、拾遺抄は、花山の法皇の自ら撰ばせ給へるとぞ。白河院の位の御時は、後拾遺集は、通俊の治部卿承る。崇徳院の詞花集は、顕輔の三位撰ぶ。又、白河院降り居させ給ひて後、金葉集重ねて俊頼の朝臣に仰せて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁の親王の御名乗りを書きたる。悪しとて返され、又奉るにも、何事とかや有りて、三度奏して後こそ納まりにけれ。斯様の例も、自づからの事なり。押しなべては、撰者の儘にて侍るなれど、こたみは、院の上自ら、和歌の浦に降り立ちあさらせ給へば、誠に心異なるべし。此の撰集より先に、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、勝れたる限りを撰ばせ給ひて、其の道の聖達判じけるに、やがて院も加はらせ給ひながら、猶此のなみには立ち及び難しと卑下せさせ給ひて、
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判の言葉をばしるされず、御歌にて優り劣れる志ばかりをあらはし給へる、中々いと艶に侍りけり。上の其の道を得給へれば、下も自づから時を知る習ひにや、男も女も、此の御世にあたりて、良き歌よみ多く聞こえ侍りし中に、宮内卿の君と言ひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞こえし人の御末なれば、早うはあて人なれど、官浅くて打ち続き、四位ばかりにて失せにし人の子也。まだいと若き齢にて、そこひも無く深き心ばへをのみ詠みしこそ、いと有り難く侍りけれ。此の千五百番の歌合の時、院の上宣ふやう、「こたみは、皆世に許りたる古き道の者共なり。宮内はまだ然るべけれども、けしうは有らずと見ゆめればなん。構へてまろが面起こすばかり、良き歌仕れ」と仰せらるるに、面打ち赤めて、涙ぐみて候ひける気色、限り無き好きの程、あはれにぞ見えける。さて其の御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、
薄く濃く野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪の村消え
草の緑の濃き薄き色にて、去年の古雪遅く疾く消えける程を、推し量りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。此の人、年積もるまで有らましかば、げに如何ばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、此の度撰ばれたるをば、新古今と言ふなり。元久二年三月二十六日、竟宴と言ふ事、春日殿にて行は
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せ給ふ。いみじき世の響きなり。彼の延喜の昔思しよそへ〔られ〕て、院の御製、
石の上古きを今に並べこし昔の跡を又尋ねつつ
摂政殿良経の大臣、
敷島や大和言の葉海にして拾ひし玉は磨かれにけり
次々、順流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何と無く明け暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二の宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。此の御子を、院限り無く愛しき物に思ひ聞こえさせ給ひつれば、二無く清らを尽くし、いつくしうもてかしづき奉り給ふ事斜ならず。遂に同じ四年十一月に、御位に即き奉り給ふ。もとの御門、今年こそ十六にならせ給へば、未だ遙かなるべき御盛りに、斯かるを、いとあかずあはれに思されたり。永治の昔、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬに下ろし聞こえて、近衛院をすゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひて、其の夜になるまで、勅使を度々奉らせ給ひつつ、内侍所・剣璽などをも渡し兼ねさせ給へりしぞかし。さて其の御憤りの末にてこそ、保元の乱れも引き出で給へりしを、此の御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬには有らねども、気色にも漏し給はず。世にもいと敢へ無き事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて、
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いと胸痛く思されけり。其の年の十二月に、太上天皇の尊号有りて、新院と聞こゆれば、父の御門をば、今は本院と申す。猶、御政は変はらず。今の御門は十四になり給ふ。御諱守成と聞こえしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕られたりし資実の中納言に、此の度も悠紀方の御屏風の歌召さる。長楽山、
菅の根のながらの山の峰の松吹きくる風も万代の声
斯様の事は、皆人の知ろし召したらん。こと新しく聞こえなすこそ、老いの僻事ならめ。此の御世には、いと掲焉なる事多く、所々の行幸繁く、好ましき様なり。建保二年、春日社に行幸有りしこそ、有り難き程いどみ尽くし、面白うも侍りけれ。さて其の又の年、御百首歌よませ給ひけるに、去年の事思し出でて、内の御製、
春日山こぞのやよひの花の香に染めし心は神ぞ知るらん
御心ばへ、新院よりも少しかどめいて、あざやかにぞ御座しましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いと止む事無く物し給ふ。朝夕の御営みは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に、八雲など言ふ物作らせ給へるも、此の御門の御事なり。摂政殿の姫君参り給ひて、いと花やかにめでたし。此の御腹に、建保六年十月十日、一の御子生まれ給へり。いよいよ物合ひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王に
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成し奉り給ひて、同じ二十六日、坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こし召さぬに、いちはやき御もてなし、珍かなり。心もと無く思ほされければなるべし。今一入、世の中めでたく、定まり果てぬる様なり。新院は、いでやと思さるらんかし。かくて院の上も、ややもすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花紅葉の折々にふれて、万の遊び業をのみ尽くしつつ、御心行く様にて過ごさせ給ふ。誠に万世も尽きすまじき御世の栄え、次々今よりいと頼もしげにぞ見えさせ給ふ。御囲碁うたせ給ふついでに、若き殿上人共召して、此彼心のひきひきに、いどみ争はせさせ給へば、あるは小弓・双六など言ふ事まで、思ひ思ひに勝負をさうどきあへるも、いとをかしう御覧じて、様々の興ある賭物共取う出させ給ふとて、某の中将を御使ひにて、修明門院の御方へ、「何にても、男共に賜はせぬべからん賭物」と申されたるに、取り敢へず、小さき唐櫃の金物したるが、いと重らかなるを、参らせられたり。此の御使ひの上人、何ならんと、いといぶかしくて、片端ほのあけて見るに銭なり。いと心得ずなりて、さと面打ち赤みて、あさましと思へる気色しるきを、院御覧じおこせて、「朝臣こそ、むげに口惜しくは有りけれ。かばかりの事、知らぬ様やはある。古より、殿上の賭弓と言ふ事には、これをこそ賭物にせしか。然れば、今、賭物と聞こえたるに、これをしも出だされたるなむ、古
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の事知り給へるこそ、いたき業なれ」とほほゑみて宣ふに、「さは悪しく思ひけり」と、心地騒ぎて覚ゆべし。大方、此の院の上は、万の事に至り深く、御心も花やかに、物に詳しうなどぞ御座しましける。夏の頃、水無瀬殿の釣殿に出でさせ給ひて、氷水召して、水飯様の物など、若き上達部・殿上人共に賜はせて、大御酒参るついでにも、「あはれ、古の紫式部こそいみじくは有りけれ。彼の源氏の物語にも、「近き川の鮎、西川より奉れるいしぶし様の物、御前にて調じて」と書けるなむ、勝れてめでたきぞとよ。只今然様の料理仕りてんや」など宣ふを、秦の某とか言ふ御随身、勾欄のもと近く候ひけるが、承りて、池の汀なる篠を少し敷きて、白き米を水に洗ひて奉れり。「拾はば消えなん」とにや。これもけしかる業かな」とて、御衣ぬぎてかづけさせ給ふ。御土器度々聞こし召す。其の道にも、いとはしたなう物し給ふ。何事も愛敬づき、めでたく見えさせ給ふ御有様、千年経とも飽く世あるまじかめり。又、清撰の御歌合とて、限り無く磨かせ給ひしも、水無瀬殿にての事なりしにや。当座に衆議判なれば、人々の心地、いとど置き所無かりけむかし。建保二年七月の頃、勝れたる限りぬき出で給ふめりしかば、いづれかおろかならん。中にもいみじかりし事は、第七番に、左、院の御歌、
明石潟浦路晴れ行く朝なぎに霧に漕ぎ入る海士の釣舟
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と有りしに、北面の中に、藤原秀能とて、年頃も此の道に許りたるすき物なれば、召し加へらるる事常の事なれど、止む事無き人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過ぎざりしに、此の秀能九首まで召されて、しかも院の御かたてに参る。さて有りつる海士の釣舟の御歌の右に、
契りおきし山の木の葉の下紅葉染めし頃にも[B 「にも」に「もにイ」と傍書]秋風ぞ吹く
と詠めりしは、其の身の上に取りて、長き世の面目、何かは有らん、とぞ聞き侍りし。昔の躬恒が、御階のもとに召されて、「弓張としも言ふ事は」と奏して、御衣賜はりしをこそ、いみじき事には言ひ伝ふめれ。又、貫之が家に、枇杷の大臣、魚袋の歌の返し、訪ひに御座したりしをも、道の高名とこそ、日記には書きて侍れ。近き頃は、西行法師ぞ北面の者にて、世にいみじき歌の聖なめりしが、今の代の秀能、ほとほと古きにも立ち勝りてや侍らん。此の度の御歌合、大方、いづれと無く打ち見渡して、勝れたる限りを撰り出でさせ給ひしかば、各むらむらにぞ侍りける。吉水の僧正慈円と聞こえし、又類無き歌聖にていましき。それだに四首ぞ入り給ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。此の僧正、世にもいと重く、山の座主にて物し給ふ事も年久しかりし其の程に、止む事無き高名数知らず御座せしかば、崇められ給ふ様も、二無く物し給ひしかど、猶、飽かず思す事や有りけん。院に
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奉られける長歌、
さても如何に鷲のみ山の月の影鶴の林に入りしより経にける年を数ふれば二千年をも過ぎ果てて後の五つの百年になりにけるこそ悲しけれあはれ御法の水泡の消え行く頃になりぬればそれに心を澄ましてぞ我が山川に沈み行く心争ふ法の師は我も我もと青柳のいと所せく乱れきて花も紅葉も散り行けば梢跡無きみ山辺の道に惑ひて過ぎながら一人心をとどむるもかひもなぎさの志賀の浦跡垂れましし日吉のや神のめぐみを頼めども人の願ひをみつかはの流れも浅くなりぬべし峰の聖の住処さえ苔の下にぞ埋もれ行く打ち払ふべき人もがなあなうの花の世の中や春の夢路は空しくて秋の梢を思ふより冬の雪をも誰か問ふかくてや今はあと絶えむと思ふからにくれはとり怪しき夜の我が思ひ消えぬばかりを頼みきて猶さりともと花の香にしひて心を
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筑波山繁き歎きの根を尋ね沈む昔の魂を問ひ救ふ心は深くして勤め行くこそあはれなれ深山の鐘をつくづくと我が君が世を思ふにも峰の松風のどかにて千世に千年をそふる程法のむしろの花の色野にも山にも匂いてぞ人を渡さむはしとしてしばし心をやすむべき遂には如何飛鳥川あすより後や我が立ちし杣のたつきの響きより峰の朝霧晴れのきて曇らぬ空に立ち帰るべき
返歌
さりともと思ふ心ぞ猶深き絶えて絶え行く山川の水
定家の中将、折節御前に候ひければ、此の返しせよとて、さし給はするに、いと疾く書きて、御覧ぜさせけり。
久方の天地ともに限り無き天つ日つぎを誓ひてし神諸共にまもれとて我が立つ杣を祈りつつ昔の人のしめてける峰の杉むら色かへず幾年々を隔つとも八重の白雲ながめ遣る都の春をとなりにて御法の花も
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衰へず匂はん物と思ひおきし末葉の露も定め無きかやが下葉に乱れつつもとの心のそれならぬうきふし繁き呉竹になく音をたつる鴬のふるすは雪にあらしつつ跡絶えぬべき谷がくれこりつむ歎き椎柴のしひて昔にかへされぬ葛のうら葉は恨むとも君は三笠の山高み雲井の空にまじりつつ照日を世々に助けこし星の宿りを振り捨てて一人出でにし鷲の山よにも稀なるあととめて深き流れに結ぶてふ法の清水の底澄みて濁れる世にも濁り無し沼の葦間に影宿す秋の半ばの月なれば猶山の端を行きめぐり空吹く風を仰ぎても空しくなさぬ行く末をみつの川波立ち返り心のやみをはるくべき日吉の御影のどかにて君を祈らん万世に千代を重ねて松が枝を翼にならす鶴の子の譲る齢は和歌の浦や今は玉藻をかきつめて例もなみに磨きおく我が道までも絶えせずば言の葉ごとの色々に後見む人も恋ひざらめかも
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反歌
君を祈る心深くは頼むらん絶えては更に山川の水
新院も、のどかに御座します儘に、御歌をのみ詠ませ給へど、万の事、もて出でぬ御本性にて、人々など集めて、わざとある様をば好ませ給はず。建保の頃、内々百首の御歌詠み給へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、言ふ甲斐無き児の詠めるとて、遣はして見せられしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、
秋の色を送り迎へて雲の上になれにし月も物忘れすな
とある所に、定家の君驚き畏まりて、裏書に、「あさましく計られ奉りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思ふらめ古き涙も忘られぬ世に
と奏せられたり。院も縁有りて御覧ずべし。げに如何御心動かずしも御座しまさむとぞ、〔其の〕世の事忝くなむ。今も少し、世の中隔たれる様にてのみ御座しますこそ、いといとほしき御有様なめれとぞ。



増鏡 尾張徳川家本

第二 新島守
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猛き武士の起こりを尋ぬれば、古の田村、利仁など言ひけん将軍共の事は、耳遠ければ差し置きぬ。其のかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折に従ひて、公の御守りとは成りにける。桓武天皇と聞こえし御門をば、柏原とも申しけり。其の御子に式部卿の親王と聞こえしより五代の末に、平将軍貞盛と言ふ人、維衡・維時とて、二人の子を持たりけり。間近く栄えし西八条の清盛の大臣は、彼の太郎維衡より六代の末なりき。其の一つ門亡びしかば、此の頃は、僅かにあるか無きかにぞ、さまよふめる。さて彼の維時が名残は、ひたすら民と成りて、平四郎時政と言ふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。又源氏武者と言ふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後共なり。二条院の御時、平治の乱れに、伊豆の国蛭が島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れ、六条の判官為義と言ひし者の孫なり。左馬頭義朝が三郎になむ有りける。西八条の入道大臣、漸う栄花衰へんとて、後白河院を悩まし奉りしかば、安からず思ほされて、彼の頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、然るべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散り果てて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、いよいよ頼朝権を施して、更に君の御後見を仕る。相模の国鎌倉の里と言ふ所に居りながら、世をば掌の中に思ひき。皆人知り給へる事なれば、今更に申すも中々なれど、院の上、位につか
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せ給ひし始めより、世の固めと成りて、文治元年四月、二の階を上りしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞こえき。建久の初めつ方、都に上る。其の勢ひのいかめしき事、言へば更なり。道すがら遊び者共参る。遠江の国橋本の宿に着きたるに、例の遊女、多くえも言はず装束きて参れり。頼朝打ちほほゑみて、
橋本の君に何をか渡すべき
と言へば、梶原平三影時と言ふ武士、取り敢へず、
只杣山のくれで有らばや W
いとあいだちなしや。馬鞍紺括り物など運び出でて引けば、喜び騒ぐ事限り無し。其の年十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日頃、喜び申しして、同じき四日、やがて官をば返し奉る。此の時ぞ、諸国の総追捕使と言ふ事承りて、地頭職に、我が家の兵共をなし集めける。此の日本国の衰ふる初めは、是よりなるべし。さて東に帰り下る頃、上下色々のぬさ多かりし中に、年頃も祈りなどし給ひし吉水の僧正、彼の長歌の座主、宣ひ遣はしける。
東路の方に勿来の関の名は君を都に住めとなりけり W
御返し、頼朝、
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都には君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ W
其の後も、又上りて、東大寺の供養にも詣でたりき。かくて新院御位の初めつ方、正治元年正月、東にて頭下ろして、同じ十三日に、年五十三にて隠れにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。北の方は、先に聞こえつる北条の四郎時政が娘なり。其の腹に男二人有り。太郎をば頼家と言ふ。弟をば実朝と聞こゆ。大将隠れて後、兄はやがて立ち継ぎて、建仁元年六月二十二日従二位、同じ日、将軍の宣旨を賜はる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、少し落ち居ぬ心ばへなど有りて、漸う兵も背き背きにぞ成りにける。時政は遠江守と言ひて、故大将の有りし時より私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよいよ身重く勢ひそふ事限り無くて、うけばりたる様なり。子二人有り。太郎は宗時と言ふ。二郎義時と言ふは、心も猛く魂勝れるが、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君に付き従ひて、思ひかまふる事なども有りけり。督は、日に添へて人にも背けられ行くに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭下ろす。世の中残り多く、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万と言ふにぞ、世をば譲りけれど、うけひく者無し。入道は、彼の病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へ出で湯あびに越えたりける
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程に、彼処の修善寺と言ふ所にて、遂に討たれぬ。一万もやがて失はれけり。是は、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。さて、今は偏に、実朝、故大将の跡をうけ継ぎて、官・位とどこほる事無く、万心の儘なり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏作れる賞とぞ聞き侍りし。同じ六年、権大納言に成りて、左大将を兼ねたり。左馬寮をさへぞ付けられける。其の年やがて内大臣に成りても、猶大将ももとの儘なり。父にもやや立ち勝りていみじかりき。此の大臣は、大方、心ばへうるはしく、猛くもやさしくも、万目安ければ、理にも過ぎて、武士の靡き従ふ様も代々に越えたり。如何なる時にか有りけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我が有らめやも W
とぞ詠みける。時政は建保三年隠れにしかば、義時は跡を継ぎけり。故左衛門督の子にて公暁と言ふ大徳有り。親の討たれにし事を、如何でか安き心有らん。如何ならむ時〔に〕かとのみ思ひ渡るに、此の大臣、又右大臣に上がりて、大饗など、珍しく東にて行ふ。京より尊者を始め上達部・殿上人多く訪ひいましけり。さて、鎌倉に移し奉れる八幡の御社に、神拝に詣づる、いといかめしき響きなれば、国々の武士は更にも言はず、都の人々も扈従し〔たり〕けり。立ち騒ぎ罵る者、見る人も多かる中に、彼の大徳、打ち紛れ
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て、女のまねをして、白き薄衣引き折り、大臣の車より降るる程を、差しのぞく様にぞ見えける。あやまたず首を打ち落としぬ。其の程のとよみいみじさ、思ひ遣りぬべし。かく言ふは、承久元年正月二十七日なり。そこら集ひ集まれる者共、只あきれたるより外の事無し。京にも聞こし召し驚く。世の中火を消ちたる様なり。扈従に西園寺の宰相の中将実氏も下り給ひき。さならぬ人々も、泣く泣く袖を絞りてぞ上りける。未だ子も無ければ、立ち継ぐべき人も無し。事鎮まりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿と言ふ人、二人の子をも失ひて、涙ほす間も無く、しをれ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみは如何にて、君達一所下し聞こえて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申し上せければ、あへなんと思す所に、九条の左大臣殿の上は、此の大臣の御娘なり。其の御腹の若君、二つに成り給ふを、下し聞こえんと、九条殿宣へば、御孫ならんも同じ事と思し定め給ひぬ。其の年の六月に、東に率て奉る。七月十九日に御座しまし着きぬ。むつきの内の御有様は、只形代などを祝ひたらん様にて、万の事、さながら右京権大夫義時の朝臣心の儘なれど、一の人の御子、将軍に成り給へるは、是ぞ初めなるべき。彼の平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後は、其の御太刀預かるべし」と、春日大明神仰せられけるは、此の今の若君の御事にこそ有りけめ。かくて世を靡かし、
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したため行ふ事も、ほとほと古きには越えたり。まめやかにめざましき事も多く成り行くに、院の上、忍びて思し立つ事あるべし。近く仕る上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面など言ふも、皆此の方にほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗の営みより外の事無し。剣などを御覧じ知る事さへ、如何で習はせ給へるにか、道の者にもやや立ち勝りて、賢く御座しませば、御前にて良きあしきなど定めさせ給ふ。斯様の紛れにて、承久も三年に成りぬ。四月二十日、御門降りさせ給ふ。春宮四つにならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃、皆此の御齢にて受禅有りつれば、是もめでたき御行く末ならんかし。同じ二十三日、院号の定め有りて、今降りさせ給へるを、新院と聞こゆれば、御兄の院をば中の院(ゐん)と申し、父御門をば本院とぞ聞こえさする。此の程は、家実の大臣関白にて御座しつれど、御譲位の時、左大臣道家の大臣、摂政に成り給ふ。彼の東の若君の御父なり。さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、漸う漏れ聞こえて、東様にも、其の心遣ひすべかんめり。東の代官にて伊賀の判官光季と言ふ者有り。かつがつ彼を御勘事の由仰せらるれば、御方に参る兵共押し寄せたるに、逃がるべきやう無くて、腹切りてけり。先づいとめでたしとぞ、院は思し召しける。東にも、いみじうあわて騒ぐ。「然るべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふ物から、
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「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にて屍をさらさじ、公と聞こゆとも、自らし給ふ事ならねば、かつは我が身の宿世をも見るばかり」と思ひ成りて、弟の時房と泰時と言ふ一男と、二人を頭として、雲霞の兵をたなびかせて、都に上す。泰時を前に据ゑて言ふやう、「己を此の度都に参らする事は、思ふ所多し。本意の如く清き死をすべし。人に後ろ見えなんには、親の顔、又見るべからず。今を限りと思へ。賎しけれども、義時、君の御為に後ろめたき心やはある。然れば、横さまの死をせん事はあるべからず。心を猛く思へ。己打ち勝つならば、二度此の足柄・箱根山は越えつべし」など、泣く泣く言ひ聞かす。「誠にしかなり。又親の顔拝まむ事もいと危ふし」と思ひて、泰時も鎧の袖を絞る。形見に今や限りと哀れに心細げなり。かくて打ち出でぬる又の日、思ひ掛けぬ程に、泰時只一人、鞭を上げて馳せ来たり。父、胸打ち騒ぎて、「如何に」と問ふに、「軍のあるべき様、大方の掟などは、仰せの如く其の心を得侍りぬ。もし道の辺にも、計らざるに、忝く鳳輦を先立てて、御旗を上げられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、其の時の進退は如何侍るべからん。此の一事を尋ね申さんとて、一人馳せ侍りき」と言ふ。義時、とばかり打ち案じて、「賢くも問へる男かな。其の事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引く事は、如何有らん。さばかりの時は、兜を脱ぎ弓の弦を切りて、偏に畏まりを
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申して、身を任せ奉るべし。さは有らで、君は都に御座しましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、言ひも果てぬに急ぎ立ちにけり。都にも思し設けつる事無ければ、武士共召しつどへ、宇治・勢多の橋ひかせて、敵を防くべき用意、心異なり。公経の大将一人のみなむ、御孫の事も然る事にて、北の方は、一条の中納言能保と言ふ人の娘なり。其の母北の方は、故大将のはらからなれば、一方ならず東を重く思して、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、危ながり給ふ。七条院の御縁の殿原、坊門の大納言忠信・尾張の中将清経・中御門の大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相の中将範茂など、次々数多聞こゆれど、さのみはしるし難し。軍に交じり立つ人々、此の外上達部にも殿上人にも、数多有りき。御修法共数知らず行はる。止む事無き顕密の高僧も、斯かる時こそ頼もしき業ならめ。各心を致して仕る。御自らもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心の内に、いかめしき願共を立てさせ給ふ。夜少し更け鎮まりて、御社すごく、燈籠の光かすかなる程に、幼き童の臥したりけるが、俄におびえ上がりて、院の御前に只参りに走り参りて、託宣しけり。「忝くもかく渡り御座して、愁へ給へば、聞き過ごし難く侍れど、一とせの輿振りの時、情け無く防がせ
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給ひしかば、衆徒己を恨みて、陣の辺に振り捨て侍りしかば、空しく馬牛の蹄に掛かりし事は、未だ恨めしく思ひ給ふるにより、此の度の御方人は、え仕り侍るまじ。七社の神殿を、黄金白銀に磨きなさんと承るも、もはら受け侍らぬなり」と罵りて、息も絶えぬる様にて臥しぬ。聞こし召す御心地、物に似ずあさましう思さるるに、只御涙のみぞ出で来る。過ぎにし方悔しう取り返さまほし。様々怠り畏まり申させ給ふ。山の御輿防き奉りけん事、必ずしも自ら思し寄るには有らざりけめど、「責め一人に」と言ふらん事にやと、あぢきなし。中の院(ゐん)は、あかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそ物し給はねど、世のいと心やましき儘に、斯様の御騒ぎにも、殊にまじらひ給はざめり。新院は、同じ御心にて、万軍の事なども掟仰せられけり。いつの年よりも五月雨晴れ間無くて、富士川・天龍など、えも言はずみなぎり騒ぎて、如何なる龍馬も打ち渡し難ければ、攻め上る武士共も、怪しく悩めり。かかれども、遂に都近づく由、聞こゆれば、君の御武者も出で立つ。其の勢ひ、六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かち遣はす。世の中響き罵る様、言の葉も及ばず学び難し。あるは、深き山へ逃げ籠り、遠き世界に落ち下り、すべて安げ無く騒ぎ満〔ち〕たり。「如何有らん」と君も御心乱れて思し惑ふ。予ては猛く見えし人々も、誠の際に成りぬれば、いと心あわただしく、色を失ひたる様共、頼もしげ無し。
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六月二十日余りにや、いくばくの戦ひだに無くて、遂に御方の軍敗れぬ。荒き磯に高潮などの差し来る様にて、泰時と時房と、乱れ入りぬれば、言はん方無くあきれて、上下只物にぞあたり惑ふ。東より言ひおこする儘に、彼の二人の大将軍計らひ掟てつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞こゆれば、女院・宮々、所々に思し惑ふ事更なり。本院は隠岐の国に御座しますべければ、先づ鳥羽殿へ、網代車の怪しげなるにて、七月六日入らせ給ふ。今日を限りの御歩き、あさましう哀れなり。「物にもがな」と思さるるも甲斐無し。其の日やがて御髪下ろす。御年四十に一二や余らせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して、御姿写しかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて、同じ十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる波路をしのぎ御座します御心地、此の世の同じ御身とも思されず。〔古、〕如何なりける代々の報ひにかと恨めしく、新院も佐渡国に移らせ給ふ。誠や七月九日、御門をも下ろし奉りき。此の卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢の様なる七十余日にて降り給へる例も、是や初めなるらん。唐土にぞ、四十五日とかや位に御座する例有りけると、唐の書読みし人の言ひし心地する。それも斯様の乱れや有りけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残り無く、此の事に触れにし類は、重く軽く罪にあたる様、いみじげなり。中の院(ゐん)
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は初めより知し召さぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都に有らん事、いと恐れ有りと思されて、御心もて、其の年閏十月十日、土佐国の幡多と言ふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや、若宮出で来給へり。承明門院の御兄に、通宗の宰相の中将とて、若くて失せ給ひにし人の娘の御腹なり。やがて、彼の宰相の弟に、通方と言ふ人の家に止め奉り給ひて、近く候ひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕りける。いと怪しき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かき暗し風吹き荒れ吹雪して、来し方行く先も見えず、いと堪へ難きに、御袖もいたく氷りて、わりなき事多かるに、
浮き世にはかかれとてこそ生まれけめ理知らぬ我が涙かな W
せめて近き程にも、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。さても、此の度世の有様、げにいとうたて口惜しき業なり。あるは、父の王を失ふ例だに、一万八千人まで有りけりとこそ、仏も説き給ひたんめれ。まして、世下りて後、唐土にも〔日の本にも、〕国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それも皆、一節二節の寄せは有りけむ。もしは、筋異なる大臣、さらでも、公ともなるべききざみの、少しの違ひ目に、世に隔たりて、其の恨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて、君の亡び給へる例、
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此の国には、いと数多も聞こえざめる。然れば、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれも皆猛かりけれども、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院の、御位にて打ち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川の同じ流れと申しながら、猶、時の国王を守り給はする事は、強きなめりとぞ、古き人々も聞こえし。又、信頼の衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、遂に、空しき屍をぞ、道の辺に捨てられける。かかれば、旧りにし事を思ふにも、猶さりとも、如何でか三皇今上数多御座します皇城の、徒らに亡ぶるやうは有らんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあや無き業の出で来ぬるは、此の世一つの事にも有らざめども、迷ひの愚かなる前には、猶いと怪し。四つにて位につき給ひて、十五年御座しましき。降り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶天の下は同じ事なりしかば、すべて二十八年か程、此の国の主として、万機の政を御心一つにをさめ、百の官を従へ給へりし其の程、吹く風の草木を靡かすよりも優れる御有様にて、遠きを哀れみ、近きを撫で給ふ御恵み、雨の脚よりも繁ければ、津の国のこやの隙無き政を聞こし召すにも、難波の葦の乱れざらん事を思しき。藐姑射の山の峰の松も、漸う枝を連ねて、千世に八千世を重ね、霞の洞の御すまひ、幾春をへても、空行く月日の限り知らずのどけく御座しましぬべかりつる世を、ありありて、
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由無き一節に、今はかく花の都をさへ立ち別れ、おのがちりぢりにさすらへ、磯の苫屋に軒を並べて、自づから言問ふ者とては、浦に釣する海士小舟、塩焼く煙の靡く方をも、我が故郷のしるべかとばかり、眺め過ごさせ給ふ御住居共は、それまでと月日を限りたらんだに、明日知らぬ世の後ろめたさに、いと心細かるべし。まして、いつを果てとか、めぐりあふべき限りだに無く、雲の波煙の波の幾重とも知らぬさかひに、代を尽くし給ふべき御様共、口惜しと言ふもおろか也。此の御座します所は、人離れ里遠き島の中〔なり。海づら〕よりは少し引き入りて、山陰にかた添へて、大きやかなる巌のそばだてるを便りにて、松の柱に葦葺ける廊など、気色ばかり事そぎたり。誠に、「柴の庵の只しばし」と、仮初に見えたる御宿りなれど、然る方に艶めかしく故づきてしなさせ給へり。水無瀬殿思し出づるも夢のやうになん。遙々と見遣らるる海の眺望、二千里の外も残り無き心地する、今更めきたり。潮風のいとこちたく吹き来るを聞こし召して、
我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き波風心して吹け W
同じ世に又すみの江の月や見ん今日こそ余所に隠岐の島守 W
年も返りぬ。所々浦々、哀れなる事をのみ思し歎く。佐渡院、明けくれ御行ひをのみし給ひつつ、猶、さりともと思さる。隠岐には、浦より遠の遙々と霞み渡れる空を眺め入り
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て、過ぎにし方、かき尽くし思ほし出づるに、行方無き御涙のみぞ止まらぬ。
羨まし長き日影の春にあひて潮汲む海士も袖やほすらん W
夏に成りて、茅葺きの軒端に、五月雨の滴いと所せきも、御覧じなれぬ御心地に、様変はりて珍しく思さる。
あやめ吹く茅が軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露 W
初秋風の立ちて、世の中いとど物悲しく露けさ勝るに、言はん方無く思し乱る。
故郷を別れ路に生ふる葛の葉の秋はくれども帰る世も無し W
たとしへ無く眺めしをれさせ給へる夕暮れに、沖の方に、いと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎ来るを、海士の釣舟と御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。墨染の御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒さに思ひ遣り聞こえさせ給ひて、七条院より参れる御文、引きあけさせ給ふより、いといみじく、御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましく、かくて月日経にける事。今日明日とも知らぬ命の中に、今一度、如何で見奉りてしがな。かくながらは、死出の山路も越え遣るべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔に押し当てて、
たらちねの消え遣らで待つ露の身を風より先に如何で問はまし W
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八百よろづ神も哀れもたらちねの我待ち得んと絶えぬ玉の緒 W
初雁の翼に付けつつ、此処彼処より哀れなる御消息のみ常は奉るを御覧ずるに〔付けても〕、あさましういみじき御涙の催しなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、大方、歌の道に付けて、睦まじく召し使ひし人なれば、夜昼恋ひ聞こゆる事限り無し。彼の伊勢より須磨に参りけんも、かくやと覚ほゆるまで、巻き重ねて書き連ね参らせたり。「和歌所の昔の面影、数々に忘れ難う」など申して、つらき命の今日まで侍る事の恨めしき由など、えも言はず哀れ多くて、
寝覚めして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯波の暁の声 W
とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたく絞らせ給ふ。
波間無き隠岐の小島の浜庇久しく成りぬ都隔てて W
木枯の隠岐のそま山吹きしをり荒くしをれて物思ふ頃 W
折々詠ませ給へる御歌共を書き集めて、修明門院へ奉らせ給ふ。其の中に、
水無瀬山我が故郷は荒れぬらむ籬は野らと人も通はで W
かざし折る人も有らばや言問はん隠岐の深山に杉は見ゆれど W
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限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒を並べて W
斯様の類、すべて多く聞こゆれど、さのみは年の積もりにえなん。今又思ひ出でば、ついで求めてとて。



校註 増鏡

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第三 藤衣
其の頃、いと数まへられ給はぬ古宮御座しけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子也。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へ御座しまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目まれなれば、年を経て荒れまさりつつ、草深く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細くながめ御座するに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる物あまた参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各用意して候はれよ」といふと見てければ、いと怪しう
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覚えて、宮に語り聞えけれど、「いかでかさ程の事あらん」と、思しもよらで、遂に御髪をさへおろし給ひて、此の世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、此の乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君も御座しまさぬにより、東よりのおきてにて、彼の入道の親王の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞ゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひ御座しける宮なり。
孫王にて位に即かせ給へる例、光仁天皇より後は絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし。其の十二月一日に御即位、明くる年貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞ御座します。御母、基家の中納言の女、北白河院と申しき。家実の大臣、又摂政になり返らせ給ひて、万おきて宣ふも、様々に引き返したる世なりかし。又の年五月の頃、法皇かくれさせ給ひぬれば、天下皆黒み渡りぬ。上
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も御服奉る。きびはなる御程に、いといみじうあはれなる御事なめり。
前の御門は、四にて廃せられ給ひて、尊号などの沙汰だに無し。御母后東一条院も、山里の御住居にて、いと心細くあはれなる世を、つきせず思し歎く。此の宮は故摂政殿後京極良経の姫君にて物し給へば、歌の道にもいと賢う渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給はず。御琴なども、限りなき音を引きとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、余りなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限りなき御志の中に、飽かずなん思ひ聞えさせ給ひける。彼の遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思しくだけつつ、いよいよ沈み臥して御座しますに、古く仕うまつりける女房の、里に篭り居たりけるもとより、あはれなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、
思ひ出づるころもはかなし我も人も見しにはあらずたどらるる世に
又、御手習ひのついでに、からうじて洩れけるにや、
消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契を
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さこそは、げに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いと忝なし。
はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なく変はりて、寛喜元年になりぬ。此の程は光明峰寺殿道家又関白にて御座す。此の御娘女御に参り給ふ。世の中めでたく花やかなり。これより先に、三条の太政大臣公房の姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしを、おしのけて、前の殿〔家実〕の御女、未だ幼くて御座する、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条の后の宮、浄土寺とかやに引き篭りて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿摂〓変はり給ひて、今の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返り給ひぬれば、又此の姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。珍しきが参り給へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土には、三千人なども候ひ給ひけるとこそ、伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後には各院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよく御座するに、引きこめ難しとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣に譲り聞え給ひて、我が御身は大殿とて、后の宮の御親なれば、思ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、例なき程なり。東の将軍、山の座主、三井寺の長吏、山階寺の別当、仁和寺の御室、皆此の殿の君達にて御座すれば、すべて、天下はさながらまじる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所などに、常はうちとけ候ひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世の政事など聞え給ふ。北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。
誠や、其の年十一月十一日、阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪おろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度、都をも御覧ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こしめし歎く。承明門院は、様々のうき事を見尽して、猶ながらふる命のうとましきに、又かく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、いはん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜しう思しこがるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召使ひける御調度、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人の参らせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息などを、一つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心地し給ふ。家隆の二位の女、小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人よりことに思ひ沈みて、御服など黒う染めけり。
うしと見しありし別は藤衣やがて着るべき門出なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家の中納言承りて、撰集の沙汰ありつるを、此の程御門降りさせ給ふべき由聞ゆればにや、いととく十月二日奏せられける。一年の内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞ゆ。「元久に新古今出で来て後、程なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。
さて同じき四日、降り居させ給ふ。御悩み重きによりて也けり。去年の二月、后の宮の御腹に、一の御子出で来給へりしかば、やがて太子に立たせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、彼の承久の廃帝の、生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。上は降りさせ給ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩み猶怠らず。大方、世も静かならず。此の三年ばかりは、天変しきり地震ふりなどして、さとししげく、御慎みおもきやうなれば、いかが御座しまさむと、御心ども騒ぐべし。今上は二歳にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善の主に定まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前の世ゆかしき御有様なり。昔、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬ例なり。閑院殿の清涼殿にて、まづ御袴奉る。十二月五日、御即位はことなく果てぬれば、めでたくて年も変はりぬ。
中宮も御物の怪に悩ませ給ひて、常はあつしう御座しますを、院はいとど晴れ間なく
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思し歎く。卯月の頃、年号改まる。天福といふなるべし。其の同じ頃、中宮も位去り給ひて、藻璧門院とぞ聞ゆなる。今年も又例ならず悩ませ給へば、めでたき御事の数そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭り祓へ、何くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程近くなりては、天の下やすき空なく、山々寺々社々、御祈りひびき騒げども、御物のけこはくて、いみじうあさまし。遂に、九月十八日に、かくれさせ給ひぬ。其の程のいみじさ、推し量りぬべし。今年二十五にならせ給ふ。若く清らに美しげにて、盛りなる花の御姿、時の間の露と消え果て給ひぬる、いはん方なし。殿・上思し惑ふ様、悲しともいへば更なり。院に候ふ民部卿の典侍と聞ゆるは、定家の中納言の娘なり。此の宮の御方にも、け近う仕うまつる人なりけり。限りなく思ひ沈みて、頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる御返事に、
悲しさはうき世のとがとそむけども只恋しさのなぐさめぞなき
当代の御母后にて御座しつれば、天下皆一つ墨染めにやつれぬ。此の御歎き
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に、いよいよ院は沈みまさらせ給ひて、うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて、月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残りなく勤めののしる。医師・陰陽師、祭り・祓へなど、天の下騒ぎ満ちたり。又年号変はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝、十七になり給へるも、五月二十日に失せ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐にも、うち続きあはれなる事どもを、聞こしめし歎くべし。佐渡には、まして心憂くあさましと思さる。此の御さしつぎの宮、猶御座しますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。
かくいひしろふ程に、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにて御座しますべき事の、かくあへなき御有様、口惜しなど聞ゆるもなのめなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美しうととのほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御程に、御才なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事につけても、いとあたらしう御座しませば、世の人の惜しみ聞ゆる様限り無し。只くれ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御果て
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だに過ぎず、又とり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人思ふべし。御契りの程のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。只ここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙にうき沈みてぞ過し給ひける。
うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変はりて、嘉禎元年といふ。誠や、三月の末つかたより、〔洞院の〕摂政殿〔教実〕重くわづらひ給ふ。故院の御位の程より、大殿の、御譲りにて、関白と聞えしが、御門幼く御座しませば、此の頃は摂政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたく御座しましつるに、いとあへなく失せ給ひぬれば、大殿の御歎きたとへん方無し。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞え給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへり成り給ひぬ。かくて三度政事ををさめ給ひぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、彼の殿と一つにて、世は弥御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会行はる。
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様々めでたくもあはれにも色々なる都の事どもを、ほのかに伝へ聞こしめして、隠岐にはあさましの年のつもりやと、御齢に添へても、尽きせぬ御歎きぐさのみしげりそふ慰めには、思しなれにし事とて、敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へも、たよりにつけつつ題を遣はし、歌を召せば、あはれに忘れがたく恋ひ聞ゆる昔の人々、我も我もと奉れるを、つれづれに思さるる余りに、自ら判じて御覧ぜられにけり。家隆の二位も、今まで生ける思ひ出でに、これをだにとあはれに忝なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集めて参らせける。昔の秀能は、ありし乱れの後、頭おろして深く篭り居たり。如願とぞいひける。それも此の度の御歌合に召せば、今更に、其のかみの事、さこそは思ひ出づらめ。例のかずかずはいかでか。只片端をだにとて、左、御製、
人心うつり果てぬる花の色に昔ながらの山の名もうし
右、家隆の二位、
なぞもかく思ひそめけん桜花山とし高く成りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島かけてしるべせよ遙かに通ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製、
軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆、
さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心地して
法皇御自ら判の言葉を書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏の御勤めなどに、まぎらはしてぞ御座します。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上に涙ばかりぞ面がはりせぬ。
故郷は入りぬる磯の草よ只夕潮満ちて見らく少なき
此の浦に住ませ給ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十にてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御志深かりしかど、遂に
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空しくてやみ給ひにし事、いと忝なく、あはれに情けなき世も、今更心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人少なに、心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば、能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。彼の法花堂には、修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はのきはまで持たせ給ひける桐の御数珠なども、かしこに未だ侍るこそ、あはれに忝なく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、御座しましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなむ。



増鏡 尾張徳川家本

第四 三神山
さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、おとなび給ふ儘に、御心ばへもいと警策に、御形もいとうるはしく、けだかく止む事無き御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞こえけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕る人も無く、心細げにて、何を待つとしも無く、かかづらひて御座しますも、人悪くあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相の中将通宗とて、若くて失せにし人の御娘なり。それさへ隠れ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、御座しける。
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二つにて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶此の世の中に御座すと思されしまでは、自づから相見奉るやうもやなど、人知れず幼き御心に掛かりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、隠れさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思しくんじつつ、いとまめだちてのみ御座しますを、承明門院は心苦しう悲しと見奉り給ふ。はかなく明け暮れて、仁治二年にも成りにけり。御門は今年は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱秀仁と聞こゆ。其の年の十二月に、洞院の故摂政殿教実の姫君、九つに成り給ふを、祖父の大殿、御伯父の殿原など居立ちて、いとよそほしく有らまほしき様に響きて、女御参り給へば、父の殿一人こそ物し給はねど、大方の儀式万飽かぬ事無くめでたし。上もきびはなる御程に、女御もまだかく小さう御座すれば、雛遊びのやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心の儘なれば、いとゆゆしくなん。土御門〔殿〕の宮〔は〕二十にも余り給ひぬれど、御冠の沙汰も無し。城興寺の宮僧正真性と聞こゆる、御弟子にと語らひ申し給ひければ、然様に〔もと〕思して、女院にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌め聞こえさせ給ふ。其の冬の頃、宮いたう忍びて、石清水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて、少し微睡ませ給へるに、神殿の内に、「椿葉の影二度改まる」と、いとあざやかにけだかき声にて、打ち誦じ
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給ふと聞きて、御覧じ上げたれば、明けがたの空澄み渡れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。如何に見えつる御夢ならんと怪しく思さるれど、人にも宣はず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。年も返りぬ。春の初めは、押しなべて、程々に付けたる家々の身の祝など、心行誇らしげなるに、正月の五日より、内の上例ならぬ事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思しあへるに、九日の暁、隠れさせ給ひぬとて、罵りあへる、いとあさましとも言ふばかり無し。皆人あきれ惑ひて、中々涙だに出でこず。女御も未だ童遊びの御様にて、何心無くむつれ聞こえさせ給へるに、いとうたていみじければ、打ちしめり屈じて居給へる、いと幼げにらうたし。大殿の御心の中、思ひ遣るべし。御兄の若君も殿上し給へる。只御門の同じ御程にて、騒がしきまでの御遊びのみにて明かし暮らさせ給ひけるに、かいひそみて群がり居つつ、鼻打ちかみ、打ち泣く人より外は無し。かくのみあさましき御事共の続きぬるは、如何にも、彼の遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし、御霊共にやとぞ、世の人もささめきける。御悩みの始めも、なべての筋には有らず、余りいはけたる御遊びより、損なはれ給ひにけるとぞ。未だ御次も御座しまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中如何に成りゆかんずるにかと、Xたどりあへる様なり。さてしもやはにて、東へぞ
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告げ遣りける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞こゆる。御後見は、承久に上り〔たり〕し泰時の朝臣なり。時房と一所にて、小弓射させ酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、「京よりの走り馬」と言へば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席よりやがて神事始めて、若宮の社にて、くじをぞ取りける。其の程、都には、いとうかびたる事共、心のひきひき言ひしろふ。「佐渡院の宮達にや」など聞こえければ、修明門院にも、心時めきして、内々其の御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使ひ、都に入る由聞こえける日は、両女院より白河に人を立てて、何方へか参ると、見せられけるぞ理に、げに今見ゆべき事なれども、物の心許無きは、Xさ覚ゆる業ぞかしと、例の口すげみてほほゑむ。日ぐらし待たれて、城介義景と言ふ者、三条河原に打ち出でて、「承明門院の御座しますなる院は何処ぞ」と、彼の院より立てられたる青侍の、いと怪しげなるにしも問ひければ、聞く心地、うつつとも覚えず。しかじかと申す儘に、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強く固め、扉もさびつき柱根くちて、開かざりけるを、郎等共にとかくせさせて、内に参りて見まはせば、庭は草深く青き苔のみむして、松風より外は、こたふるもの無く、人の通へる跡も無し。故通宗宰相の中将の御弟を子にし給へりし定通の大臣ばかりぞ、何と無く、
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自づからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子直衣にて候ひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は、切戸の脇に畏まりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と、申して出でぬ。院の中の人々、上下夢の心地して、物にぞあたり惑ひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心地、皆驚きあわてて、押し返し此方に参り集ふ馬車の響き騒ぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思し勝るべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに、左大臣良実参り給ふ。理髪、頭弁定嗣仕りけり。御諱邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉万里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式、いと珍し。其の後こそ、閑院殿には追号の定め、御業の事など定め有りけれ。二十五日に東山の泉湧寺とかや言ふ辺にをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺へ御庄など寄せて、今に御菩提を祈り申し侍るも、前の世の故有りけるにや。此の御門、未だ物などはかばかしく宣はぬ程の御齢なりける時、誰とかや、「前の世は如何なる人にてか御座しましけん」と、只何と無く聞こえたりけるに、彼の泉湧寺の開山の聖の名をぞ、確かに仰せられたりける。又、人の夢にも、此の御門隠れさせ給ひて後、彼の上人、「我すみやかに成仏すべかりしを、由無き妄念を起こして、今一度人界の生をうけ、帝王の位に至りて、帰りて我が寺を助けんと思ひしに、果たして
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かくなん」とぞ見えける。誠に、其の余執の通りけるしるしにや、御庄共も、寄りけむとぞ覚え侍る。さて仁治三年三月十八日〔過ぎて〕御即位、万あるべき限りめでたく過ぎもて行く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣兼経、摂政にていませしかば、其の儘に、今の御代の始めも関白と聞こえつれど、三月二十五日、左の大臣良実に渡りぬ。此の殿も、光明峰寺殿の御二郎君なり。神無月に成りぬれば、御禊とて世の中ひしめき立つも、思ひ寄りし事かはとめでたし。大嘗会の悠紀方の御屏風、三神山、菅宰相為長仕られける。
古に名をのみ聞きて求めけん三神の山は是ぞ其の山 W
主基方、風俗の歌、経光の中納言に召されたり。
末遠き千代の影こそ久しけれまだ二葉なる岩崎の松 W
当代かくめでたく御座しませば、通宗の宰相も左大臣従一位贈られ給ふ。御娘も后の位贈り申されし、いとめでたしや。誠や、此の頃、〔前の〕右大臣と聞こゆるは、実氏の大臣よ。其の御娘、十八に成り給ふを、女御に奉り給ふ。六月三日、入内の儀式有様、二無く清らを尽くさる。母北の方は、四条の大納言隆衡の娘なり。女御の君、いとささやかに、愛敬づきてめでたく物し給へば、御覚え、いとかひがひしく、万打ち合ひ、思ふ様なる世の気色、飽かぬ事無し。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。其の程の
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めでたさ、言へば更なり。源大納言の家に、無品親王にて、〔怪しう心細げなりし御程には、たはぶれにも〕思ひ寄り聞こえ給はざりけんと、めでたきに付けても、人の口安からず、さはとかく聞こゆべし。




第五 内野の雪〔おほうち山とも〕

今后の御父は、先にも聞こえつる右大臣〈 実氏 〉の大臣、其の父殿〈 公経 〉の太政大臣、其のかみ夢見給へる事有りて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山の辺に、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺と言ふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝と言ふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更に打ち返しくづして、艶ある園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつ海をたたへ、峰より落つる滝の響きも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしうあらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にて御座す。池の辺に妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、差し歩みて御座したりき。其の簔笠、宝蔵に込めて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院と言ふは愛染王の座さまさぬ秘法取り行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にぞ侍るめる。
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又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木共、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひける。
山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと W
彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継も言ひためれど、是は猶山の気色さへ面白く、都離れて眺望そひたれば、言はん方無くめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心の儘に、飽かぬ事無くゆゆしくなん御座しける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世の重しにて、いと止む事無く御座するに、女御さへ御覚えめでたく、いつしか只ならず御座すると聞こゆる、奥床しき御程なるべし。〔仁治三年〕九月十二日、佐渡院隠れさせ給ひぬ。世の中移り変はりしきざみ、もしやなど思されしも空しくて、いよいよ隔たり果てぬる世を、心細く思し歎きける積もりにや、〔いと〕さしも取り立てたる御悩みなどは無くて、失せさせ給ふ〔に〕、〔折〕哀れなる御事共なり。四十六にぞならせ給ひける。明くる年は、寛元元年なり。六月十日頃に、中宮今出川の大殿にて、其の御気色あれば、殿の内立ち騒ぐ。白き御装ひに改めて、母屋に移らせ給ふ程、いと面白し。大臣・北の方・御兄の殿原達、添ひかしづき聞こえ奉る
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様、限り無くめでたし。御修法の壇共数知らず。医師・陰陽師・かんなぎ、各かしがましきまで響き合ひたり。いと暑き程なれば、只ある人だに汗に押しひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪共名乗り出でつつ、わりなく惑ひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふ様、哀れに悲し。斯様のきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やは有らん。なべて皆かうのみこそあれど、げに差しあたりたる世の気色を取り具して、類無く思さるらんかし。内よりも、如何に如何にと御使ひ、雨の脚よりも繁う走り違ふ。〔内の〕御乳母大納言二位殿、大人大人しき内侍の典侍など、さるべき限り参り給へり。今日も猶心許無くて暮れぬれば、いと恐ろしう思す。伊勢の御てぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽くして鞭をあぐる様、言はずとも推し量るべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬・宮の御衣など奉らる。内には更衣腹に若宮御座しませど、此の事を待ち聞こえ給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。仮令平らかにし給へりとも、女宮にて御座しまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに〔も〕、胸つぶれ口惜し。かつは、御身の宿世見ゆべき際ぞかしと思せば、いみじう念じ給ふに、既に事成りぬ。先づ何にかと心騒ぐに、御兄の大納言公相、「皇子御誕生ぞや」と、〔いと〕高らかに宣ふを、余りの事に皆あきれて、「誠か誠か」と大臣宣ふ儘に、
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喜びの御涙ぞ落ちぬる。哀れなる御気色、見る人も事忌み〔も〕しあへず。御修法の僧共を始め、道々の禄賜はる。したり顔に汗押し拭ひつつまかづる気色、今一際めでたく罵り立ちて、更に物も聞こえず。げに此の頃の響きに、女にて御座しまさましかば、如何にしほしほと口惜しからまし。きらきらしうもし出で給へるかし。然れば、大臣、年たけ給ふまでも、其の折の嬉しう忝かりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるるとぞ、後深草院をば常に申されける。御湯殿の儀式は更にも言はず、人々の禄、何くれと、例の作法に事を添へて、いみじう世の例にもなるばかりと尽くし給ふ。御はかし参る。心許無かりつる儘に、二十八日、親王の宣旨有りて、八月十日、すがやかに、太子に立ち給ひぬ。大臣御心落ち居て、すずしうめでたう思す事限り無し。かくて、又の年、東の大納言頼経の君、悩み給ふ由聞こえて、御子の六つに成り給ふに譲りて、都へ御返りあれば、若君に其の日やがて将軍の宣旨下され、少将に成り給ふ。頼嗣と名乗り給ふべし。泰時の朝臣、一昨年入道して、孫の時頼に世を譲りにしかば、此の頃は天の下の御後見、此の相模の守時頼の朝臣仕る。いと心賢くめでたき聞こえ有りて、兵も靡き従ひ、大方、世も静かに治まりすましたり。かくて寛元も四年に成りぬ。正月二十八日、春宮に御位譲り申させ給ふ。此の御門も〔又〕四つにぞならせ給ふ。めでたき御例共なれば、行く末も
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推し量られ給ふ。光明峰寺殿の御三郎君左大臣〔実経〕の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録し給へる例、古くは謙徳公・忠義公・東三条の大入道殿兼家、其の又御子共中の関白殿・粟田殿・法成寺の入道殿これ二度なり。近くは、法性寺殿の御子共六条殿基実・松殿基房・月輪殿兼実、是ぞやがて今の峰殿の御祖父よ。斯様の事、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨被り給へりしばかりにて、七日にて失せ給へりしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、一代にてやみ給ひにき。いづれも御末までは御座せざりしに、此の三所、流れ絶えず、久しき藤波にて立ち栄え給へるこそ、類無き止む事無さなめれ。末の世にも有り難くや侍らん。今の摂政をば、後には円明寺殿と〔ぞ〕聞こゆめりし。一条殿の御家の始めなり。かくて御即位・御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣と言ひし歌詠みの娘少将の内侍、大内の女工所に候ふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積もりたる暁、太政大臣実氏宣ひ遣はしける。
九重の大内山の如何ならん限りも知らず積もる雪かな W
御返し、少将の内侍〔信実の朝臣娘〕、
九重の内野の雪に跡付けて遙かに千代の道を見るかな W
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〔院の〕上は、いつしか所々に御幸繁う、御遊びなどめでたく、今めかしき様に好ませ給ふ。中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞こゆる。安らかに、常は一つ御車などにて、只人のやうに花やかなる事共のみ隙無く、万有らまほしき御有様なり。院の上、石清水の社に詣でさせ給へば、世の人残り無く仕る。然るべき事とは言ひながら、猶いみじ。御心にも一年の事思し出でられて、殊に畏まり聞こえさせ給ふべし。
石清水木がくれたりし古を思ひ出づればすむ心かな W
宝治の頃、神無月二十日余りなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部・殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊・紅葉の濃き薄き、縫物・織物・綾錦、すべて世に無き清らを尽くし騒ぐ、いみじき見物なり。殿上人の舟に楽器設けたり。橘の小島に御船差しとめて、物の音共吹き立てたる程、水の底も耳立てぬべく、そぞろ寒き程なるに、折知り顔に空さへ打ち時雨れて、真木の山風有らましきに、木の葉共の色々散りまがふ気色、言ひ知らず面白し。女房の船に、色々の袖口、わざとなくこぼれ出でたる、夕日に輝き合ひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に中一日渡らせ給ひて、様々の面白き事共数知らず。網代に氷魚の夜もさながら罵り明かして、帰らせ給ふ。鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちに埋もれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸
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成りし時、「池の辺の松」と言ふ事講ぜられしに、太政大臣、序書き給へりき。
祝ひ置く始めと今日を松が枝の千年の影に澄める池水 W
院の御製、
影映す松にも千代の色見えて今日すみそむる宿の池水 W
大納言の典侍と聞こえしは、為家の民部卿の娘なりしにや。
色かへぬ常盤の松の影添へて千代に八千代に澄める池水 W
順流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、反橋のもとに、龍頭鷁首寄せて、いと面白く吹き合はせたり。斯様の事、常の御遊び、いと繁かりき。又、太政大臣の津の国吹田の山荘にも、いとしばしば御座しまさせて、様々の御遊び数を尽くし、如何にせむと持てはやし申さる。河に臨める家なれば、秋深き月の盛りなどは、殊に艶有りて、門田の稲の風に靡く気色、妻どふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、取り集め、哀れそひたる所の様に、鵜飼など下ろさせて、篝火共ともしたる川の面、いと珍しうをかしと御覧ず。日頃御座しまして、人々に十首歌召されしついでに、院の御製、
川舟のさして何処か我がならむ旅とは言はじ宿と定めて W
と講じ上げたる程、主の大臣いみじう興じ給ふ。「此の家の面目今日に侍る」とぞ
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宣はする。げに然る事と、聞く人皆誇らしくなん。降り居給へる太上天皇など聞こゆるは、思ひ遣りこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、未だ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬づき、めでたく御座するに、時のおとなにて重々しかるべき太政大臣さへ、何業をせんと、御心に適ふべき事をのみ思ひまはしつつ、如何で珍しからんと、持て騒ぎ聞こえ給へば、いみじうはえばえしき頃なり。御門、まして幼く御座しませば、はかなき御遊び業より外の営み無し。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事共を、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、打ち解けにくく心遣ひすめり。節会・臨時の祭り、何くれの公事共を、女房に学ばせて御覧ずれば、太政大臣興じ〔申し〕給ひて、ことさら、小さき笏など作らせて数多奉らせ給へば、上も喜び思す。入道太政大臣の御娘大納言の三位殿と言ふを関白になさる。按察の典侍隆衡の娘・大納言の典侍・中納言の典侍・勾当の内侍・弁の内侍・少将の内侍、斯様の人々、皆男の官にあてて、其の役を勤む。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、如何にも適ふまじ」とて、曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉に書きて、彼の局に差し置かせける。
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津の国の葦の下根の如何なれば波にしをれて乱れ顔なる W
返し、
津の国の葦の下根の乱れわび心も波にうきてふるかな W
五月五日、所々より御兜の花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々此彼引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露置きたる蓬の中に、深きと言ふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶有りて見ゆるを、上も御目止めて、「何とまれ、言へかし」と宣ふを、人々も、およすげて見奉る。弁の内侍、
〔あやめ草底知ら沼の長き根に深きと言ふや蓬生の露 W
と、有りつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしつ。御返し、公親、〕
あやめ草底知ら沼の長き根を深き心に如何くらべん W
又其の頃、天王寺に院詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸有り。「神は嬉し」と、後三条院仰せられけん例、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出車共、色々の袖口共、春秋の花紅葉を、一度に並べて見る心地して、いと美しく、目も輝くばかりいどみ尽くされたり。上達部・若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、珍しき姿共を、心々に打ち混ぜたり。釣殿の簀子に、人々候ひて、数多聞こえしかど、さのみは如何でか。太政大臣実氏、
今日や又更に千年を契るらん昔にかへる住吉の松 W
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さても、院の第一の御子は、右中弁平の棟範の主の娘、四条院に兵衛の内侍とて候ひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、其の御腹に出で物し給へりしかど、当代生まれさせ給ひにし後は、押し消たれて御座しますに、又建長元年、后腹に二の宮さへ差し続き光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいと哀れと思ひ聞こえさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すも、猶飽かねば、只御子にて、東の主になし聞こえてんと思して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず。内蔵寮何くれ、清らを尽くし給ふ。やがて三品の加階賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊親王と申すめり。同じ二月十九日、都を出で給ふ。其の日将軍の宣旨被り給ふ。斯かる例は未だ侍らぬにや。上下、珍しく面白き事に言ひ騒ぐべし。御迎へに東の武士共数多上る。六波羅よりも名ある者十人、御送りに下る。上達部・殿上人・女房など、数多参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。彼処に候ふとも、限り有らん官冠などは、障りあるまじ」とぞ仰せられける。何事も、只人柄によると見えたり。きはことによそほしげなり。誠に公と成り給はずば、是より勝る事、何か有らんと、にぎははしく花やかさは並ぶ方無し。院の上も、忍びて、粟田口の辺に御車
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立てて御覧じ送りけるこそ、哀れに忝く侍れ。きびはに美しげにて、遙々と御座しますを、御母の内侍も、哀れに忝しと思ひ聞こゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位の中将は、其の四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今下り給へるを、持て崇め奉る様、言はん方無し。宮中のしつらひ、御設けの事など限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。斯様にて今年は暮れぬ。明くる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御諱久仁と申す。いとあてに御座しませど、余りささやかにて、又御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、猶いとあさましう御座しましけるを、閑院の内裏焼けける紛れより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内の焼けたるあさましさは何ならず、此の御腰の直りたる喜びをのみぞ、上下思しける。院の上、鳥羽殿に御座します頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にある限りの上達部・殿上人仕る。色々の菊紅葉をこき混ぜて、いみじう面白し。女院も御座しませば、拝し奉り給ふを、太政大臣見奉り給ふに、喜びの涙ぞ人悪き程なる。
例無き我が身よ如何に年たけて斯かる御幸に今日仕へぬる W
げに、大方の世に付けてだに、めでたく有らまほしき事共を、我が御末と見給ふ大臣の
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心地、如何ばかりなりけむ。来し方も例無きまで、高麗・唐土の錦綾を立ち重ねたり。太政大臣ばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたく艶めかし。池には、うるはしく唐の装ひしたる御船二艘漕ぎ寄せて、御遊び様々の事共めでたく罵りて、帰らせ給ふ響きのゆゆしきを、女院も御心行きて聞こし召す。其の頃ほひ、熊野の御幸侍りしにも、良き上達部数多仕らる。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心殊にいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかども、大宮院ばかり、それも出車は無くて、只一両にて見奉り給ひしこそ、止む事無さも面白く侍りけれ。弁の内侍、
折りかざすなぎの葉風の賢さに一人道ある小車の跡 W
御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川舟に奉りて差し渡す程、川の面所狭きまで続きたるも、御覧じなれぬ様なれば、院の上、
熊野川瀬切りに渡す杉舟の辺波に袖のぬれにけるかな W
其の後も、又程無く御幸有りしかば、女院も参り給ひけり。皆人知ろし召したらん〔事〕、中々にこそ。





第六 おりゐる雲

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春過ぎ夏たけて、年去り年来たれば、康元元年にも成りにけり。太政大臣の第二の御娘〈 東二条院公子 〉女御に参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、斯かる例は数多侍るべし。十二月十七日、豊の明かりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとど打ち添へて今めかしうめでたく、其の日御消息を聞こえ給ふ。
夕暮をまつぞ久しき千年まで変はらぬ色の今日の例を W
関白書かせ給ひけり。紅の匂ひの箔も無きに、X重ねたるを、結びて包まれたり。時成りぬとて人々まう上り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳七つ・濃き一重・蘇芳の表着・赤色の唐衣・〔濃き袴奉れり。准后添ひて参り給ふ。〕皆紅の八つ・萌黄の表着・赤色の唐衣着給ふ。出車十両、皆二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿大殿の娘、右に二条殿公俊の大納言の娘、二の左按察の君〈 □□の妹 〉、右に中納言の君実任の娘、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々くだくだしければ止めつ。御童・下仕へ・御はした・御雑仕・御ひすましなど言ふ物まで、形良きを択り整へられたる、いみじう見所あるべし。御兄の殿原、右大臣公相・内大臣公基参り給ふ。限り無くよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、いよいよいつかれ給ふ様、言はん方無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参り給へりし例にやとぞ、心当てには覚え侍りし。御門の一つ御腹の姫宮、此の頃皇后宮とて、其の御方の内侍ぞ、御使ひに参り、まう上り
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給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げ無き事に思いたれば、とみにえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御几帳按察殿、御火取り中納言持たれたりけり。上は十四に成り給ふに、女御は二十五にぞ御座しける。御門、きびはなる御程を、中々、あなづらはしき方に思ひなし聞こえ給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞こえ掛かり給ふを、准后は美しと見奉らせ給ふ。御衾は、紅のうち八四方なるに、上にはうはざしの組有り。糸の色など、清らにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程は候ひ給ふ。上達部に勧盃有り。二十三日、又御消息参る。御使ひ頭の中将通世、こたみも殿書かせ給ふめり。此の頃、殿と聞こゆる太政大臣兼平の大臣、岡の屋殿の御弟ぞかし。後には照念院殿と申しけり。御手勝れてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家の始めなるべし。
朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色も見えける W
御返し、太政大臣聞こえ給ふ。
朝日影あらはれそむる雲の上に行く末遠き契りをぞしる W
女の装束、細長添へてかづけ給ふ。今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供には関白殿・右大臣公相・内大臣公基・四条の大納言隆親・権大納言実雄良教通成・
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右大将基平など、押しなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭の中将隆顕仕る。太政大臣、夜の御殿より取り入れ給ふ。御心の中のいはひ、如何ばかりかはと推し量らる。人々の禄、紅梅の匂ひ・萌黄の表着・葡萄染めの唐衣・袿・細長・こしざしなど、しなじなに従ひて、けぢめあるべし。かくて今年は暮れぬ。正月、いつしか后に立ち給ふ。只人の御娘の、かく后・国母にて立ち続き候ひ給へる、例稀にや有らん。大臣の御栄えなめり。御子二人大臣にて御座す。公相・公基とて、大将にも左右に並びて御座せしぞかし。是も、例いと数多は聞こえぬ事なるべし。我が御身太政大臣にて、二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし御勢ひのめでたさは、珍かなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、誠に其の器物に足らぬと見え給へり。昔後鳥羽院に候ひし下野の君は、然る世の古人(ひと)にて、大臣に聞こえける。
藤波の影差し並ぶ三笠山人にこえたる梢とぞ見る W
返し、大臣、
思ひ遣れ三笠の山の藤の花咲き並べつつ見つる心は W
斯かる御世の栄えを、自らも止む事無しと思し続けて詠み給ひける。
春雨は四方の草木をわかねども繁き恵みは我が身也けり W
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正嘉元年の春の頃より、承明門院御悩み重らせ給へば、院もいみじう驚かせ給ひて、御修法何かと聞こえつれど、遂に七月五日、御年八十七にて隠れさせ給ひぬ。理の御年の程なれど、昔の御名残と哀れにいとほしう、いたづき奉らせ給へるに、敢へ無くて、御法事など懇ろにおきて宣はする、いとめでたき御身なりかし。明くる年八月七日、二の御子〈 亀山の院 〉坊にゐ給ひぬ。御年十なり。万定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。其の又の年、〔正嘉三年〕三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又来し方行く末も例有らじと見ゆるまで、世の営み、天の下の騒ぎには侍りしか。関白殿・前の右大臣・内大臣・左右の大将・検非違使の別当を始めて、残りは少なし。馬・鞍、随身・舎人・雑色・童の、髪・形・たけ・姿まで、かたほなる無く択り整へ、心を尽くしたる装ひ共、数々は筆にも及び難し。斯かる色も有りけりと、珍しく驚かるる程になん。銀・黄金を延べ、二重三重の織物・うち物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の木の紋・裾濃・浮線綾、色々様々の直衣・上の衣・狩衣、思ひ思ひの衣を出だせり。如何なる龍田姫の錦も、斯かる類は有り難くこそ見え侍りけれ。形見に語らふ人も有らざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。余りに珍しくて、某の中将とかや、紺村濃の指貫をさへ着たりける。それしも珍かにて、いやしくも見え
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侍らざりけるとかや。院の御様形、所がらはいとど光を添へて、めでたく見え給ふ。後土御門の内大臣定通の御子顕定の大納言、大将望み給ひしを、院もさりぬべく仰せられければ、除目の夜、殿の内の者共も心遣るを心許無く思ひあへるに、引き違へて、先に聞こえつる公基の大臣にて御座せしやらん、成り給へりしかば、恨みに堪えず、頭下ろして、此の高野に籠り居給へるを、いとほしく敢へ無しと思されければ、今日の御幸のついでに、彼の室を尋ねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣はしたるに、昨日まで御座しけるが、夜の間に、彼の庵をかき払ひ、跡も無くしなして、いと清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて、人も無し。我が身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。其の由奏すれば、「今更に見えじとなり、いとからい心かな」とぞ、宣はせける。かくのみ所々に御幸繁う、心行く事隙無くて、いささかも思し結ぼるる事無く、めでたき御有様なれば、仕る人々までも、思ふ事無き世なり。吉田の院にても、常は御歌合などし給ふ。鳥羽殿には、いと久しく御座します折のみ有り。春の頃、行幸有りしには、御門も御鞠に立たせ給へり。二条の関白良実上鞠し給ひき。内の女房など召して、池の船に乗せて、物の音共吹き合はせ、様々の風流の破子・引き物など、こちたき事共も繁かりき。又嵯峨の亀山の麓、大井川の北の岸にあたりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の
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梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、〔わざと〕つくろはぬ前栽も、自づから情けを加へたる所がら、いみじき絵師と言ふとも、筆及び難し。寝殿の並びに、乾にあたりて、西に薬草院、東に如来寿量院など言ふも有り。橘の大后の昔建てられたりし壇林寺と言ひし、今は破壊して礎ばかりに成りたれば、其の跡に浄金剛院と言ふ御堂を建てさせ給へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置かる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みて桟敷殿造らる。大多勝院と聞こゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。斯様の引き離れたる道は、廊・渡殿・反橋などを遙かにして、すべていかめしう三葉四葉に磨き立てられたる、いとめでたし。正元元年三月五日、西園寺の花盛りに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年頃は、思しおきてけるを、いたく知ろし召さぬに、女の御願にて、いと賢く、有り難き御事なれば、院も同じ御心に居立ち宣ふ。楽屋の者共、地下も殿上も、なべてならぬを択り整へらる。其の日に成りて行幸有り。春宮も同じく行啓なる。大臣・上達部、皆上の衣にて、左右に別ちて、御階の間の勾欄に着き給ふ。法会の儀式、いみじさめでたき事共、学び難し。又の日、御前に御遊び始まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶、春宮御笛、まだいと小さき御程に、みづら結ひて、御形まほに美しげにて、吹き立て給へる音の、雲井を響かして、余り恐ろしき
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程なれば、天つ乙女もかくやと覚えて、太政大臣実氏、事忌みもえし給はず、目押し拭ひつつためらひ兼ね給へるを、理に、老いしらへる大臣・上達部など、皆御袖共うるひ渡りぬ。女院の御心の内、まして置き所無く思さるらんかし。前の世も、如何ばかり功徳の御身にて、かく思す様にめでたき御栄えを見給ふらんと、思ひ遣り聞こゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。御遊び果てて後、文台召さる。院の御製、
色々に袖を連ねて咲きにけり花も我が世も今盛りかも W
あたりを払ひて、際無くめでたく聞こえけるに、主の大臣の歌さへぞ、掛け合ひて侍りしや。
色々に重ねて匂へ桜花我が君々の千代のかざしに W
末まで多かりしかど、例のさのみはにて、止めつ。いかめしう響きて帰らせ給ひぬる又の朝、無量光院の花のもとにて、大臣、昨日の名残思し出づるもいみじうて、
此の春ぞ心の色は開けぬる六十余りの花は見しかど W
其の年の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御諱恒仁と聞こゆ。世の中に様々ほのめき聞こゆる事あれば、御門、飽かず心細う思されて、夜居の間の静かなる御物語のついでに、内侍所の御拝の数を数へられければ、五千七十四日なりけるを承り
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て、弁の内侍、
千代と言へば五つ重ねて七十に余る日数を神は忘れじ W
かくて、十一月二十六日、降り居させ給ふに、〔夜、〕空の気色さへ哀れに、雨打ちそそぎて、物悲しく見えければ、伊勢の御が、「あひも思はぬももしきを」と言ひけん古言さへ、今の心地して、心細く覚ゆ。上も思し設け給へれど、剣璽の出でさせ給ふ程、常の御幸に御身を離れざりつる習ひ、十三年の御名残、引きわかるるは、猶いと哀れに、忍び難き御気色を、悲しと見奉りて、弁の内侍、
今はとて降り居る雲の時雨るれば心の内ぞかき暗しける W
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増鏡 中巻

第七 北野の雪
正元元年十一月二十六日、譲位〈 後深草院 〉の儀式常の如し。十二月二十八日御即位、〈 亀山院 〉万めでたく、あるべき限りにて、年も返りぬ。おりゐの御門は、十二月の二日、太上天皇の尊号有りて新院と聞こゆ。本院と常は一つに渡らせ給ひて、御遊び繁う心遣りて、中々いとのどやかに目安き御有様に、思し慰むやうなり。中宮も、院号の後は、東二条院と聞こゆ。二条富小路にぞ渡らせ給ふ。太政大臣も入道し給ひぬ。常盤井とて、大炊御門京極なる所にぞ、折々住み給ふ。此の入道殿の御弟に、其の頃、右大臣実雄と聞こゆる、姫君数多持ち給へる中に、勝れたるをらうたき物に思しかしづく。今上の女御代に出で給ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思しおきてたり。院にも御気色賜はり給ふ。入道殿の御孫の姫君も、参り給ふべき聞こえはあれど、さしもやはと、押し立ち給ふ。いと猛き御心なるべし。此の姫君の御兄数多物し給ふ中の兄にて、中納言公宗と聞こゆる、如何なる御心か有りけむ、下たく煙にくゆりわび給ふ
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ぞ、いとほしかりける。然るは、いとあるまじき事と思ひ放つにしも、従はぬ心の苦しさを、起き臥し葦の音泣きがちにて、御急ぎの近づくに付けても、我かの気色にてのみほれ過ぐし給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。初秋風の気色立ちて、艶ある夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、薄色に女郎花など引き重ねて、几帳に少しはづれてゐ給へる様形、常よりも言ふ由無く、あてに匂ひ満ちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらん様して、少し色なる方にぞ見え給へど、筋こまやかに、額より裾までまがふ筋無く美し。只人には、げに惜しかりぬべき人柄にぞ御座する。几帳押し遣りて、わざとなく拍子打ちならして、御箏弾かせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」と宣へば、打ち畏まりて、御簾の内に候ひ給ふ様形、此の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底ゆかしう、そぞろに心遣ひせらるるやうにて、こまやかに艶めかしう、澄みたる様して、あてに美しう、いとど持て鎮めて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。笛少し吹きなどし給へば、雲井に澄み上りて、いと面白し。御箏の音のほのかにらうたげなる、かき合はせの程、中々聞きもとめられず、涙浮きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれ懸かりて、少し傾き掛かり給へる傍目、まめやかに、
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光を放つとは、斯かるをやと見え給ふ。よろしきをだに、人の親は如何は見なす。ましてかく類無き御有様共なめれば、世に知らぬ心の闇に迷ひ給ふも、理なるべし。十月二十二日、参り給ふ儀式、是もいとめでたし。出車十両、一の車左大宮殿二位の中将基輔の娘、三位の中将実平の娘とぞ聞こえし。二の左春日の新大納言、此の新大納言は、為家の大納言の娘とかや聞きしにや。それよりも下、ましてくだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川と言ひし。此の貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出で物し給ひき。其の姫宮は、末に近衛の関白〈 家基 〉の北の政所に成り給ひにき。万の事よりも、女御の御様形、めでたく御座しませば、上も思ほし付きにたり。女御は十六にぞ成り給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人しくおよすげ給へれば、目安き御程なりけり。彼の下くゆる心地にも、いと嬉しき物から、心は心として、胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、遂に如何に成り給はんと、いとほしき。程無く后立ち有りしかば、大臣、心行きて思さるる事限り無し。西園寺の女御も、差し続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしも有らず。是も九つにぞ成り給ひける。冷泉の大臣公相の御娘なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞こえし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、いと聞きにくき事もあるべし。宮仕ひの習ひ、斯かるこそ昔の人は面白くはえある事にし給ひけれ
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ど、今の世の人の御心共も、余りすくよかにて、雅をかはす事の御座せぬなるべし。是も后に立ち給へば、もとの中宮は上がりて、皇后宮とぞ聞こえ給ふ。今后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御覚え劣り様に聞こゆるを、思はずなる事に、世の人も言ひ沙汰しける。父大臣も、心やましく思せど、さりともねび行き給はばと、只今は恨み所無く思しのどめ給ふ。かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色の、常より異なれば、行幸あるべく思しおきつ。関白二条殿良実、此の三年ばかり〔又〕返りなり給へば、御随身共花を折りて、行幸より先に参り設け給ふ。其の外の上達部は、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船共浮かべて、をかしき様なる童、四位の若きなど乗せて、花の木蔭より漕ぎ出でたる程、二無く面白し。舞楽様々曲など手を尽くされけり。御遊の後、人々歌奉る。「花に遐年を契る」と言ふ題なりしにや。内の上の御製、
尋ね来てあかぬ心に任せなば千年や花のかげに過ごさん W
斯様の方までも、いとめでたく御座しますとぞ、古き人々申すめりし。帰らせ給ふ日、御贈り物共、いと様々なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝に付けて、奉らせ給ふ
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とて、院〈 後嵯峨 〉の上、
梅が枝に代々の昔の春掛けて変はらず来居る鴬の声 W
御返事を忘れたるこそ、老いの積もり、うたて口惜しけれ。其の年にや、五月の頃、本院、亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。いと有り難くめでたき御事ならんかし。後白河院こそ斯かる御事はせさせ給ひけれ。それも御髪下ろして後の事なり〔けり〕。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。然るは、数多度侍りしぞかし。男は、花山院の中納言師継一人候ひ給ひける。止む事無き顕密の学士共を召しけり。昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせ御座しますとぞ承りし。十種供養果てて後は、浄金剛院へ御自ら納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供仕られけるも、様々珍しく面白くなん。其の年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせ給ふ。斯様の事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いと繁かりしかど、如何でかさのみはにて、皆もらしぬ。此の度は、心殊に磨かせ給ふ。右は関白殿にて歌共撰り整へらる。左は院の御前にて、歌御覧ぜられけり。此の程殿と申すは、円明寺殿の御事なり。新院の御位の初めつ方、摂政にていませしが、又此の二年ばかり、帰らせ給へり。前の関白殿は、院の御方に候はせ給ふ。其の外勝れたる限り、
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右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父左大臣殿よりも下、皆此の道の上手共なり。左は大殿よりかずだて作りて、風流の州浜、沈にて作れる上に、白金の舟二つに、色々の色紙を巻き重ねてつまれたり。数も沈にて作りて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りて読みあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、
外よりは時雨も如何染めざらん我が植ゑて見る山の紅葉葉 W
遂に、左御勝ちの数勝りぬ。披講果てて夜更け行く程、御遊び始まる。笛花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙公秋の中将にて御座せしにや。篳篥忠輔の中将、琵琶は太政大臣〈 公相 〉、具氏の中将も弾きけるとぞ。御簾の内にも御箏共かき合はせらる。東の御方と聞こえしは、新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君も弾かれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門の大納言通成など朗詠し給ふ。忠輔・公秋、声加へたる程面白く、川波も更け行く儘にすごう、月は氷を敷ける心地するに、嵐の山の紅葉、夜の錦とは誰か言ひけん、吹き下ろす松風に類ひて、御前の簀子にて、御酒参る土器の中などに散り掛かる、わざと艶ある事のつまにしつべし。若き人々は、身にしむばかり思へり。打ち乱れたる様に、各御土器共数多度下る。明け行く空も名残多かるべし。誠や、此の年頃、前の内大臣〈 基家 〉、為家の大納言入道・〔侍従の二位〕行家・光俊の弁の入道など、承りて、撰歌の沙汰有りつる、只今日明日広まるべしと
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聞こゆる、面白うめでたし。彼の元久の例とて、一院自ら磨かせ給へば、心殊に、光そひたる玉共にぞ侍るべき。年月に添へては、いよいよ、外様に分くる方無く、栄えのみ勝らせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、此の度は、彼の東の中務の宮の御名乗りぞ書かれ給はざりける、いと止む事無し。新古今の時有りしかばにや、竟宴と言ふ事行はせ給ふ、いと面白かりき。此の集をば、続古今と申すなり。又の年、文永三東に心よからぬ事出で来て、中務の御子宮、うへ上らせ給ふ。何と無く、あわたたしきやうなり。御後見は、猶時頼の朝臣なれば、例のいと心賢うしたためなほしてければ、聞こえし程の面白き事などは無ければ、宮は御子の惟康の親王に将軍を譲りて、文永三年七月八日、上らせ給ひぬ。御下りの折、六波羅に建てたりし桧皮屋一つ有り。そこにぞ初めは渡らせ給ふ。いとしめやかに、引きかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしく物心細う思されけるにや。
虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中 W
院にも、東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面も無く、いと心苦しく思ひ聞こえさせ給ひけり。経任の大納言、未だ下臈なりし程、御使ひに下されて、何事かと仰せられなどし
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て後ぞ、苦しからぬ事になりて、宮も土御門−殿承明門院の御跡へ入らせ給ひけり。院へも常に御参りなど有りて、人々も仕る。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝明けに、右近の馬場のかた御覧じに御座して、御心の内に、
猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡無き事に埋もるる身も W
世を乱らむなど思ひ寄りける武士の、此の御子の御歌勝れて詠ませ給ふに、夜々[B 昼か ]いと睦ましく仕りける程に、自づから同じ心なる物など多くなりて、宮の御気色あるやうに言ひなしけるとかや。然様の事共の響きにより、かく御座しますを、思し歎き給ふなるにこそ。日頃なる雨降りて、少し晴れ間見ゆる程、空の気色しめやかなるに、二条富の小路殿に、本院・新院一つに渡らせ給ふ頃、ことごとしからぬ程の御遊び有り。大宮院・東二条院も、御几帳ばかり隔てて御座します。御前に、太政大臣−公相、常盤井の入道殿−実氏、〔前の〕左の大臣−実雄、久我の大納言雅忠など、睦ましき限り候ひ給ひて、御酒参る。数多下り流れて、上下少し打ち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御杯賜はりて、持ちながら、とばかり休らひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮御座しませば、もし皇子降誕も有らば、家門の栄花いよいよ衰ふべからず。実兼もけしうは侍らぬ男なり。後ろめたくも思ひ侍らぬを、一つの憂へ心の底になん侍る」と申し給へば、人々、
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何事にかと覚束無く思ふ。左の大臣は、中宮の事、掛け給ふを、まだきよりもと耳止まりて、打ち思すにも、心の中安げ無し。一院は、「如何なる憂へにか」と宣ふに、「如何にも、入道相国に先立ちぬべき心地なんし侍る。「恨みの至りて恨めしきは、盛りにて親に先立つ恨み、悲しみの切に悲しきは、老いて子に後るる悲しみには過ぎず」などこそ、澄明に後れたる願文にも書きて侍りしか」など聞こえて、打ちしをれ給へば、皆いと哀れと思さる。入道殿はまいて、墨染めの御袖絞るばかりに見え給ふ。さて、其の後幾程無く悩み給ふ由聞こゆれど、さしもやはと覚えしに、いとあや無く失せ給ひぬ。冷泉の太政大臣と申し侍りし事也。入道殿の御心の中、さこそは御座しけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。皇后宮は日に添へて御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出でもし給ひしかど、やがて失せさせ給へるを、御門を始め奉りて、誰も誰も思し歎きつるに、今年、又其の御気色あれば、いとど思し騒ぎ、山々寺々に御祈りこちたく罵る。こたびだに、実に又打ちはづしては、いかさまにせんと、大臣・母北の方も、安き寝も寝給はず、思し惑ふ事限り無し。程近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移ろひ給ふ。世の中響きて、天下の人、高きも下れるも、官ある程のは、参りこみてひしめき立つに、殿の内の人々は、まして心も〔心ならず、〕あわたたし、大臣限り無き願共を立て、
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賀茂の社にも、彼の御調度共の中に、勝れて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿に込められけり。それには、「仮令御末までは無くとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠にや侍りけん。かく言ふは、文永四年十二月一日なり。例の御物の怪共あらはれて、叫びとよむ様、いと恐ろし。然れども、御祈りのしるしにや、えも言はずめでたき玉の男御子生まれ給ひぬ。其の程の式、言はずとも推し量るべし。上も、限り無き御志に添へて、いよいよ思す様に嬉しと聞こし召す。大臣も今ぞ御胸あきて心落ち居給ひける。新院の若宮〈 伏見院 〉も、此の殿の御孫ながら、其は東二条院の御心の中推し量られ、大方も又うけばり止む事無き方には有らねば、万聞こし召し消つ様なりつれど、此の今宮は、本院も大宮院も、きはことに持てはやしかしづき奉らせ給ふ。是も中宮の御為、いとほしからぬには有らねど、如何でかさのみは有らんと、西園寺様にぞ、一方ならず思し結ぼほれ、すさまじう聞き給ひける。




第八 飛鳥川

隙行く駒の足に任せて、文永も五年に成りぬ。正月二十日、本院の御座します富の小路殿
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にて、今上の若宮、御五十日聞こし召す。いみじう清らを尽くさるべし。今年正月に閏有り。後の二十日余りの程に、冷泉院にて舞御覧有り。明けむ年、一院、五十に満たせ給ふべければ、御賀有るべしとて、今より世の急ぎに聞こゆ。楽所始めの儀式は、内裏にてぞ有りける。試楽、二十三日と聞こえしを、雨ふりて、明くるつとめて、人々参り集ふ。新院は予てより渡らせ給へり。寝殿の御階の間に、一院の御座設けたり。其の西に寄りて、新院の御座、東は大宮院・東二条院、皆白き御袴に、二つ御衣奉り、聖護院の法親王・円満院など参り給ふ。土御門の中務の宮も参り給ふ。上達部・殿上人、数多御供し給へり。仁和寺の御室・梶井の法親王なども、すべて残り無く集ひ給ふ。月花門院・花山院の准后などは、大宮院の御座します御座に御几帳押しのけて渡らせ給ふ。寝殿の第四の間に、袖口共心殊にて押し出ださる。大納言の二位殿・南の御方など、止む事無き上臈は、院の御座します御簾の中に、引きさがりて候ひ給ふ。いづれも、白き袴に二つ衣なり。東の隅の一間は、大宮院・月花門院の女房共参り集ふ。西の二間に、新准后候ひ給ふ。御前の簀子に、関白を始め右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言良教・源大納言通成・花山院の大納言師継・右大将通雅・権大納言基具・一条の中納言公藤・花山院の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮の権大夫隆顕・
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大炊御門の中納言信嗣・前の源宰相有資・衣笠宰相の中将経平・左大弁の宰相経俊・新宰相の中将具氏・別当公孝・堀川の三位の中将具守・富小路三位の中将公雄、皆御階の東に着き給ふ。西の第二の間より、又、〔前の〕左大臣実雄・二条の大納言経輔・前の源大納言雅家・中宮の大夫雅忠・藤大納言為氏・皇后宮の大夫定実・四条の大納言隆行・帥の中納言経任、此の外の上達部、西東の中門の廊、それより下様、透渡殿・打橋などまで着き余れり。皆、直衣に色々の衣重ね給へり。時なりて、舞人共参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて梅を織れり。赤地の錦の表着・紅の匂ひの三つ衣・同じ単・しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたりしも、あな清げと見えたり。大炊御門の中将冬輔と言ひしにや、装束先のに変はらず。狩衣はから織物なり。花山院の中将家長〈 右大将の御子 〉魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫ひ物にしたり。紅の打衣を輝くばかりだみ返して、萌黄の匂ひの三つ衣・紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫ひ物にしたり。珍しく美しく見ゆ。
花山院の少将忠季〈 師継の御子也 〉桜の結び狩衣、白き糸にて水を隙無く結びたる上に、桜柳を、それも結びて付けたる、艶めかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文を置く。紅の二つ衣・同じ単・紫の指貫、是も柳桜を縫ひ物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮の少将公重〈 実藤の大納言の子 〉唐織物の桜萌黄の狩衣・紅の打衣の紫の匂ひの三つ衣・紅の単、指貫例の紫に桜を白く縫ひたり。堀川の少将基俊
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〔基具の大納言の子、〕唐織物、裏山吹、三重の狩衣の、柳だすきを青く織れる中に桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみ付けにして、輪違へを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂ひつくしの三つ衣、紅の三重の単、是も箔散らす。二条の中将経俊〈 良教の大納言の御子也 〉是も唐織物の桜萌黄・紅の衣・同じ単なり。皇后宮の権亮中将実守、是も同じ色の樺桜の三つ衣・紅梅の〔匂ひの〕三重の単、右馬頭隆良〈 隆親の子にや 〉緑苔の赤色の狩衣の玉のくくりを入れたる、青き魚綾の表着・紅梅の三つ衣・同じ二重の単・薄色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣・紅の打衣・紫の二つ衣、是も色々の縫ひ物・置き物など、いとこまかに艶めかしくしなしたり。陵王の童に、四条の大納言の子、装束常の儘なれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意気色、いみじく持て付けて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙公顕・宗実、篳篥兼行、太鼓教藤、鞨鼓あきなり、三の鼓のりより、左万歳楽、右地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右落蹲、左春鴬囀、右古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も実冬舞ひ給ひしにや。暮れ掛かる程〔にて〕、何のあやめも見えずなりき。御方々宮達、あかれ給ひぬ。同じ二月十七日に、又、新院富の小路殿にて舞御覧。其の朝、大宮院先づ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は、日たけてなる。冷泉殿より只這ひ渡る程なれば、楽人・舞人、今日の装束にて、上達部など、
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皆歩み続く。庇の御車にて、御随身十二人、花を折り錦を立ち重ねて、声々、御先花やかに追ひ罵りて、近く候ひつる、二無く面白し。新院は、御烏帽子直衣・御袴際にて、中門にて待ち聞こえさせ給へる程、いと艶にめでたし。御車中門に寄せて、関白殿、御佩刀取りて、御匣殿に伝へ給ふ。二重織物の萌黄の御几帳のかたびらを出だされて、色々の平文の衣共、物の具は無くて押し出ださる。今日は正親町の院も御堂の隅の間より御覧ぜられる。大臣・上達部、有りしに変はらず。猶参り加はる人は多けれど、漏れたるは無し。実冬は、今日は、花田うら山吹の狩衣、二重うち萌黄裏など、思ひ思ひ心々に、前には皆引きかへて、様々尽くしたり。基俊の少将、此の度は、桜萌黄の五重の狩衣・紅の匂ひの五衣、打衣はやりつき、山吹の匂ひ、浮織物の三重単・紫の綾の指貫、中に勝れてけうらに見え給へり。此の度は、多く緑苔の衣を着たり。万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池の汀に桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲など有り。日暮らし面白く罵りて、帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて、院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は、実俊の中将と予ては聞こえしを、父大臣の事に止まりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞こゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、此の試楽より先なりしにや、内々白河殿にて
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試み有りしに、父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いと美しう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける。斯様に聞こゆる程に、蒙古の軍と言ふ事起こりて、御賀止まりぬ。人々口惜しく本意無しと思す事限り無し。何事も打ちさましたるやうにて、御修法や何やと、公家・武家、只此の騒ぎなり。然れども、程無く鎮まりて、いとめでたし。かくて、今上の若宮、六月二十六日親王の宣旨有りて、同じき八月二十五日、坊に居給ひぬ。かく花やかなるに付けても、入道殿はめざましく思さる。故大臣の先立ち給ひし歎きに沈みてのみ物し給へど、「斯かる世の気色を、賢く見給はぬよ」と思し慰む。中宮は、御服の後も参り給はず。万引き返し物恨めしげなる世の中なり。一院は、御本意遂げん事を漸う思す。其の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多く参り集ふ。御歌合有りしかば、内の女房共召されて、色々の引き物、源氏五十四帖の心、様々の風流にして、上達部・殿上人までも分かち賜はす。院の御製、
我のみや影も変はらん飛鳥川同じ淵瀬に月はすむとも W
予てより袖も時雨れて墨染めの夕べ色ます峰の紅葉葉 W
此の御歌にてぞ、御本意の事思し定めけり〔と〕、〔皆人、袖を絞りて、声も変はりけり。〕哀れにこそ。民部卿入道為家、判ぜさせられける
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にも、「身をせめ心を砕きて、かき遣る方も侍らず」とかや奏しけり。かくて神無月の五日、亀山殿へ御幸なる。今日を限りの御旅なれば、心殊に整へさせ給ふ。新院も例の御座します。大宮・東二条、一つ御車にて、同じく渡らせ給ふ。大宮女院は白菊の御衣、東二条院は青紅葉の八つ、菊の御小袿奉る。先づ、北野・平野の社へ御参りあれば、御随身共花を織り尽くし、今日を限りと、様あしきまで装束きあへる。両社にて、馬上げさせられけり。神も如何に名残多く見給ひけん。空さへ打ち時雨れて、木の葉誘(さそ)ふ嵐も折知り顔に物悲しう、涙争ふ心地し給ふ人々多かるべし。中務の御子、「今日の袂さぞ時雨るらん」と宣ひし御返し、中将、
袖濡らす今日をいつかと思ふにも時雨れてつらき神無月かな W
やがて其の夜御髪下ろす。御戒の師には、青蓮院の法親王参り給ふ。其の頃やがて、御逆修始めさせ給へば、其の程、女院色々の御捧持共奉らせ給へり。今は弥法の道をのみもてなさせ給ひつつ、或る時は止観の談義、或る時は真言の深き沙汰・浄土の宗旨などを尋ねさせ給ひつつ、万に通ひ暗からず物し給へば、何事も、前の世より賢く御座しましける程現れて、今行く末も、げに頼もしく、めでたき御有様なり。かくて今年も暮れぬ。又の年三月の一日、月花門院、俄に隠れさせ給ひぬ。法皇
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も女院も、限り無く思ひ聞こえさせ給ひつるに、いとあさまし。然るは誠にや有らん、又、人違へにや、とかく聞こゆる御事共ぞ、いと口惜しき。四辻の彦仁の中将、忍びて参り給ひけるを、基顕の中将、彼の〔御〕まねをして、又参り加はりける程に、あさましき御事さへ有りて、それ故隠れさせ給へるなど、ささめく人も侍りけり。猶さまでは有らじとぞ思ひ給ふれど、如何有りけん。法皇は、又文永七年神無月の頃、御手づから書かせ給へる法華経一部、供養〔せ〕させ給ふ。御八講、名高く才勝れて賢き僧共を召したり。世の中の人残り無く仕る。新院予てより渡り給へり。然るべき御事とは申しながら、何に付けても、御心ばへのうるはしくなつかしう御座しまして、院の思いたる筋の事は、必ず同じ御心に仕り、いささかも、いでやと打ち思さるる一節も無く物し給ふを、法皇もいと美しう忝しと思されけり。第二日の夜に入りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物共参り集ふ。様々学び尽くし難し。内の御捧物は、紙屋紙に黄金を包みて、柳箱に据ゑて、頭弁ぞ持ちたる。次に新院・女院達、宮々御方々、皆そなた様の宮司・殿上人など持て続きたり。関白・大臣などは座につき給ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自らの捧物を持ちて渡る。各心々にいどみ尽くして、様々をかしき中に、兵部卿隆親は、糸鞋をはきて、鳩の杖をつきて出でたり。此の杖をやがて捧物に
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となりけり。銀にてひた打ちにして、先は黄金なり。結願の日は、舞楽などいみじく面白くて過ぎぬ。又の年正月に、忍びて新院と御方分かちの事し給ふ。初めは法皇御負けなれば、御勝ちむかひに、上達部皆五節のまねをして、色々の衣あつづまにて、「思ひの津に船の寄れかし」とはやして参る。新院引き繕ひて渡り給ふ。御酒幾返りと無く聞こし召さる。一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。黄金の地盤に、銀の伏籠に、焚き物くゆらかして、「山は富士の嶺いつと無く」と、又、銀の船に麝香の臍にて、蓑着たる男作りて、「いざ言問はむ都鳥」など、様々いと艶めかしくをかしくせられけり。態とことごとしき様には有らざりけり。こたみは、新院よりこそねたみには、新院一年人のまねをして、「梵王は頸にのる。杯は花にのる」とかやはやして、法皇の御迎ひに参る。上達部の大人び給へるなどは、少し軽々にや見えけんと推し量らる。此の度は、源氏の物語の心にや有りけむ、唐めいたる箱に、金剛子の数珠入れて、五葉の枝に付けたり。又、斎院よりの黒方、梅の散り過ぎたる枝に付けなど、是もいとささやかなる事共になむ有りける。男・女房、乱りがはしく強ひ交はして、御琴共召して、拍子打ち鳴らしなどして明けぬ。斯様の事にのみ心遣りて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二条院、日頃只にも御座しまさざりつる、其の気色有りとて、世の中騒ぐ。
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院の内にてせさせ給へば、いよいよ人参り集ふ。大法・秘法、残り無く行はる。七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染など、すべて数知らず。御験者には、常住院の僧正参り給ふ。八月二十日宵の事なり。既にかと見えさせ給ひつつも、二日・三日になりぬれば、ある限りの物覚ゆる人も無し。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の、如法愛染の大阿闍梨にて候ひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍るは、如何なるべきにか」と、院も添ひ御座しまして、扱ひ聞こえ給ふ様、おろかならねば、哀れと見奉り給ひて、「さりとも、けしうは御座しまさじ。定業の亦能転は、菩薩の誓ひなり。今更妄語有らじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者の僧正も「一持秘密」とて、数珠押し揉みたる程、げに頼もしく聞こゆ。御誦経の物共、運び出で、女房の衣など、こちたきまで押し出だせば、奉行取りて、殿上人、北面の上下、あかれあかれに分かち遣はす。そこらの上達部は、階の間の左右に着きて、王子誕生を待つ気色なり。陰陽師・巫女立ちこみて、千度の御祓ひ勤む。御随身・北面の下臈などは、神馬をぞ引くめる。院拝し給ひて、二十一社に奉らせ給ふ。すべて上下・内外罵り満ちたるに、御気色只弱りに弱らせ給へば、今一入心惑ひして、さと時雨れ渡る袖の上とも、いとゆゆし。院もかき暗し悲しく思されて、御心の内には、石清水の方を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、候ふ限りの人、皆え心強から
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ず。いみじき願共〔を〕立てさせ給ふ験にや、七仏の阿闍梨参りて、「見者歓喜」と打ち上げたる程に、辛うじて生まれ給ひぬ。何と言ふ事も聞こえぬは、姫宮なりけりと、いと口惜しけれど、むげに無き人と見え給へるに、平らかに御座するを喜びにて、如何はせむと思し慰む。人々の禄など常の如し。法皇も、中々、いたはしく止む事無き事に思して、いみじく持てはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜しく思へる人々多かり。斯かるにしも、実雄の大臣の御宿世現れて、片つ方には、心落ち居給ふも、世の習ひなれば、理なるべし。五夜・七夜など、殊に花やかなる事共にて、過ぎもて行く。其の頃ほひより、法皇時々御悩み有り。世の大事なれば、御修法共いかめしく始まる。何くれと騒ぎ合ひたれど、怠らせ給はで、年も返りぬ。正月の始めも、院の内かいしめりて、いみじく物思ひ歎きあへり。十七日、亀山殿へ御幸なる。是や限りと、上下心細し。法皇も御輿なり。両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿候ひ給ふ。道にて参るべき御煎じ物を、胤成・師成と言ふ医師共、御前にてしたためて、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言承りて、北面の信友と言ふに持たせたりけるを、内野の程にて、参らせんとて召したるに、此の瓶に露程も無し。いと珍かなる業なり。さ程の大事の物を、悪しく持ちて、打ちこぼすやうは、如何でか有らん。法皇も、いとど御臆病そひて、
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心細く思されけり。新院は、大井川の方に御座しまして、隙無く、男・女房、上下と無く、「今の程如何に如何に」と聞こえさせ給ふ御使ひの、行き帰る程を、猶いぶせがらせ給ふに、正月も立ちぬ。いかさまに御座しますべきにかと、誰も誰も思し惑ふ事限り無し。予てより、斯様の為と思しおきてける寿量院へ、二月七日渡り給ふ。此処へは、おぼろけの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて、法の道ならでは宣ふ事も無し。六波羅北南、御訪ひに参れり。西園寺の大納言実兼、例の奏し給ふ。十一日、行幸有り。中一日渡らせ給へば、泣く泣く万の事を聞こえ置かせ給ふ。新院も御対面有り。御門は、御本上いと花やかに賢く、御才なども昔に恥ぢず、何事も整ほりてめでたく御座します。世を治めさせ給はん事も、後ろめたからず思せば、聞こえ給ふ筋異なるべし。十七日の朝より、御気色変はるとて、善智識召さる。経海僧正・往生院の聖など参りて、ゆゆしき事共聞こえ知らつべし。遂に、其の日の酉の時に、御年五十三にて隠れさせ給ひぬ。後嵯峨院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて、闇に迷ふ心地すべし。十八日に薬草院に送り奉り給ふ。仁和寺の御室・円満院・聖護院・菩堤院・梶青蓮院、皆御供仕らせ給ふ。内より頭の中将、御使ひに参る。三十年が程、世をしたためさせ給ひつるに、少しの誤り無く、思す儘に、新院・
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御門・春宮、動き無く、又外様に分かるべき事も無ければ、思し置くべき一節も無し。無き御跡まで、人の靡き仕れる様、来し方も例無き程なり。二十三日、御初七日に、大宮院御髪下ろす。其の程、いみじく悲しき事多かり。天の下、押しなべて黒み渡りぬ。万しめやかに哀れなる世の気色に、心有るも心無きも、涙催さぬは無し。院・内の御歎き〔は〕、然る事にて、朝夕睦ましく仕りし人々の、思ひ沈みあへる様、理にも過ぎたり。其の中に、経任の中納言は、人より殊に御覚え有りき。年も若からねば、定めて頭下ろしなんと、皆人思へるに、なよらかなる狩衣にて、御骨の御壺持ち参らせて参れるを、思ひの外にもと、見る人思へり。権中納言公雄と聞こゆる〔は〕、皇后宮の御兄なり。早うより、故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜昼御傍ら去らず候ひて、明け暮れ仕られ給ひしかば、限り有る道にも後らかし給へる事を、若き程に、遣る方無く悲しと思ひ入り給へり。西の対の前なる紅梅の、いと美しきを折りて、具氏の宰相の中将、彼の中納言に消息聞こゆ。
梅の花春は春にも有らぬ世をいつと知りてか咲き匂ふらん W
返し、
心有らばころも浮き世の梅の花折忘れずば匂はざらまし W
「夜さり、対面に、何事も聞こえん」と言へるを、此の中将も、故院の御いとほしみの人にて、同じ心
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なる友に覚えければ、いと哀れにて、悲しき事も語り合はせんと、日ぐらし待ち居たるに、遂に見えず。怪しと思ふに、はや其の夜頭下ろしてけり。齢も盛りに、今も皇后宮の御兄、春宮の御伯父なれば、世の覚え劣るべくも有らず。思ひなしも頼もしく、誇りかなるべき身にて、かく捨て果つる程、いみじく哀れなれば、皆人、いとほしく悲しき事に言ひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。父大臣も、院の御事を尽きせず歎き給ふに打ち添へて、いみじと思す。公宗の中納言も、甲斐無き物思ひの積もりにや、はかなくなり給ひぬ。又此の中納言さへかく物し給ひぬるを、様々に付けて心細く思すに、幾程無く皇后宮さへ又失せ給ひぬ。いよいよ臥し沈みてのみ御座する程に、いと弱う成り増さり給ふ。春宮の御代をもえ待ち出づまじきなめりと、哀れに心細う思し続けて、
はかなくもおふの浦なし君が代にならばと身をも頼みけるかな W
歎きにたへず、遂に失せ給ひにけり。物思ふには、げに命も尽くる業なりけり。哀れに悲しと言ひつつも、止まらぬ月日なれば、故院の御日数も程なう過ぎ給ひぬ。世の中〔は〕、新院かくて御座しませば、法皇の御代はりに引きうつして、さぞ有らんと世の人も思ひ聞こえけるに、当代〔の〕御一つ筋にて有るべき様の御掟なりけり。長講堂領、又播磨の国、尾張
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の熱田の社などをぞ、御処分有りける。いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡らせ給ひし頃、祇園の神輿互ひの行幸有りし時、御対面のやうを、故院へ尋ね申されたりしにも、「我とひとしかるべき御事なれば、朝覲になぞらへらるべし」と申されける。一つ腹の御兄にても御座します。方々理なるべき世を、思ひの外にもと、思ふ人々も多かるべし。「いでや位に御座しますにつきて、差しあたりの御政などは理なり。新院にも若宮御座しませば、行く末の一節は、などかは」など、言ひしろふ。かかれば、いつしか、院方・内方と、人の心々も引き別るるやうに、うちつけ事共出で来けり。人一人御座しまさぬあとは、いみじき物にぞ有りける。朝の御守りとて、田村の将軍より伝はり〔参り〕ける御佩刀などをも、彼の御気色のしか御座しましけるにや、御隠れの後、やがて内裏へ奉らせ給ひにしかば、それなどをぞ、女院〔の〕恨めしき御事には、院も思ひ聞こえさせ給ひける。さてしもやはなれば、此の由をも関の東へぞ宣ひ遣はしける。内には、花山院の太政大臣、後院の別当になされて、世の中も自らしたためさせ給ふ。もとよりいと花やかに、今めかしき所御座する君にて、万かどかどしうなん。皇后宮隠れさせ給ひにし後は、尽きせぬ御歎きさめ難うて、所狭き御有様もよだけう、如何で本意をも遂げてばやなどまで思されけり。故院の御果ても過ぎさせ給へば、世の中、色改まりて、花やかに、
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人々の御歎きの色も薄らぎ行くしも、哀れなる習ひなりかし。其の夏、春宮例にも御座しまさで日頃ふれば、内の上、御胸つぶれて、御修法や何やと騒がせ給ふ。和気・丹波の医師〈 氏成・春成、 〉共、夜昼候ひて、御薬の事、色々に仕れど、只同じ様にのみ御座す。如何なるべき御事にかと、いとあさましうて、上も、つと此の御方に渡らせ給ひて見奉らせ給ふに、御目の内、大方、御身の色なども、事の外に黄に見えければ、いと怪しうて、御大壺を召し寄せて御覧ぜらる。紙をひたして見せらるるに、いみじう濃く出でたる黄皮の色なり。いとあさましく、などかばかりの事を知り聞こえざらんとて、御気色あしければ、医師共、いたう畏まり、色を失ふ。かばかりになりては、御灸無くては、まがまがしき事出で来べきと、各驚き騒ぐ。未だ例無き事は、如何有るべきと、定め兼ねらる。位にては、只一度例有りけり。春宮にては、未だ然る例無かりけれど、如何はせむとて、思し定む。七つにならせ給へば、さらでだに心苦しき御程なるに、まめやかにいみじと思す。医師と大夫定実の君一人召し入れて、又、人も参らず。御門の御前にて、五所ぞせさせ奉らせ給ひける。御乳母共、いと悲しと思ひて、いぶかしうすれど、をさをさ許させ給はず。宮いと熱くむつかしう思せど、大夫につと抱かれ給ひて、上の御手をとらへ、万に慰め聞こえさせ給ふ御気色の、哀れに忝さを、幼き御心に思し知るにや、いとおとなしく念じ給ふ。
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かくて後、程無く怠らせ給ひぬれば、めでたく御心落ち居給ひぬ。大方、今年は地震繁くふり、世の中騒がしきやうなれば、つつしみ思されて、十月十五日より、円満院の二品親王、内〈 万里小路殿 〉に候ひ給ひて、尊星王の御修法勤め給ふに、二十日の宵、二の対より火出で来たり。あさましとも言はむ方無し。上下立ち騒ぎ罵る様、思ひ遣るべし。大宮院も内々御座しましける頃にて、急ぎ出でさせ給ふ。御車の棟木にも、既に火燃え尽きけるを、又差し寄せて、春宮奉りけり。其の夜しも、勾当の内侍里へ出でたりければ、御塗籠の鍵をさへ求め失ひて、いみじき大事なりけるを、上聞こし召して、荒らかに踏ませ給ひたりければ、さばかり強き戸の、まろびて開きたりけるぞ恐ろしき。さ無くば、いとゆゆしき事〔共〕ぞ有るべかりける。故院の御処分の入りたる御小唐櫃、何くれの御宝、事故無く取り出だされぬ。それだにも、余り騒ぎて、御勘文・御産衣などの入りたる物は焼けにけり。上は、腰輿にて、押小路殿へ行幸なりぬ。法親王は、「修法の強き故に、斯かる事は有るなり」とぞ宣はせける。此の四月に、御わたまし有りつるに、幾程なく斯かるは、げにいみじき業なれど、昔も、三条院、位の御時かとよ、大内造り立てられて、御わたましの夜こそ、やがて火出で来て焼けにし事もあれば、是より重き大事も有るべかりけるに、変はりたらんは如何はせん。かくて今年も暮れぬ。上は、いよいよ世の中の〔心〕あわたたしう思されて、降り居
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なんの御心遣ひすめり。位に御座しましては、十五年ばかりにやなりぬらん。未だ三十にも遙かに足らぬ程の御齢なれば、今ぞ盛りに、若う清らなる御程なめる。




第九 草枕

文永十一年正月二十六日、春宮に位譲り申させ給ふ。二十五日の夜、先づ、内侍所・剣璽引き具して、押小路殿へ行幸なりて、又の日、ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政殿〈 忠家 〉参り給ひて、蔵人召して、禁色仰せらる。上は八つにならせ給へば、いと小さく美しげにて、びづらゆひて、御引直衣・打御衣・はり袴奉れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座するを、花山院の内大臣、扶持し申さるるを、故皇后の御兄公守の君などは、哀れに見給ひつつ、故大臣・宮などの御座せましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まりて、御膳参る。其の後上達部の拝有り。女房は朝餉より行末まで、内大臣公親の娘を始めにて、三十余人並み居たり。いづれと無くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝始められける。かくて新院、二月七日行幸始めせさせ給ふ。大宮院の御座します中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残り無く、上の衣にて仕る。同じ十日、やがて菊の網代庇
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の御車奉り始む。此の度は、御烏帽子・直衣、院へ参り給ふ。同二十日、布衣の御幸始め、北白河殿へ入らせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣・山吹の二つ御衣・紅の御単・薄色の織物の御指貫奉る。本院は、故院の御第三年の事思し入りて、正月の末つ方より、六条殿の長講堂にて、哀れに尊く行はせ給ふ。御指の血を出だして、御手づから法華経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて、懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも、思し知らぬには有らねど、それも然るべきにこそは有らめと、いよいよ御心を致して、懇ろに孝じ申させ給ふ様、いと哀れ也。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。三月二十六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月二十二日御禊なり。十九日より官の庁へ行幸有り。女御代、花山院より出ださる。糸毛の車、寝殿の階の間に、左大臣殿・大納言長雅寄せらる。みな紅のX五衣、同じ単、車の尻より出ださる。十一月十九日、又官の庁へ行幸、二十日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起こるとて止まりぬ。二十二日、大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽も無し。新院は、世を知ろし召す事変はらねば、万御心の儘に、日頃ゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸繁う、花やかにて過ぐさせ給ふ。いと有らまほしげなり。本院は、猶いと怪しかりける御身の宿世を、人の思ふらん事もすさまじう思し結ぼほれて、世を背かんの設けにて、
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尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をも止めて、御随身共召して、禄かけ、暇賜はる、いと心細しと思ひあへり。大方の有様、打ち思ひめぐらすもいと忍び難き事多くて、内外、人々、袖共うるひ渡る。院もいと哀れなる御気色にて、心強からず。今年三十三にて御座します。故院の、四十九にて御髪下ろし給ひしをだに、さこそは誰も誰も惜しみ聞こえしか。東の御方も、後れ聞こえじと御心遣ふ。さならぬ女房・上達部の中にも、とりわき睦ましう仕る人、三、四人ばかり、御供仕るべき用意すめれば、程々に付けて、私も物心細う思ひ歎く家々有るべし。斯かる事共、東にも驚き聞こえて、例の陣の定めなどやうに、此彼数多、東の武士共、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。此の頃は、有りし時頼の朝臣の子、時宗、X相模守と言ふぞ、世の中計らふ主なりける。故時頼の朝臣は、康元元年に頭下ろして後、忍びて諸国を修行し歩きけり。それも国々の有様、人の愁へなど、詳しくあなぐり見聞かんの謀にて有りける。怪しの宿りに立ち寄りては、其の家主が有様を問ひ聞き、理ある愁へなどの埋もれたるを聞き開きては、「我は怪しき身なれど、昔、よろしき主を、持ち奉りし、未だ世にや御座すると、消息奉らん。持て詣でて聞こえ給へ」など言へば、「なでう事無き修行者の、何ばかりかは」と思ひながら、言ひ合はせて、其の文を持ちて東へ行きて、しかじかと教へし儘に言ひて見れ
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ば、入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて、長く愁へ無きやうに、計らひつ。仏神〔など〕の現はれ給へるかとて、皆額をつきて喜びけり。斯様の事、すべて数知らず有りし程に、国々も心遣ひける。それが子なればにや、〔今の〕時宗の朝臣もいとめでたき者にて、「本院のかく世を思し捨てんずる、いと忝れなる御事なり。故院の御掟は、やうこそ有らめなれど、そこらの御兄にて、させる御誤も御座しまさざらん、如何でかは、忽ちに、名残無くは物し給ふべき。いと怠々しき業なり)とて、新院へも奏し、彼方此方宥め申して、東の御方の若宮〈 伏見院 〉を坊に奉りぬ。十月五日、節会行はれて、いとめでたし。かかれば、少し御心慰めて、此の際は、強ひて背かせ給ふべき御道心にも有らねば、思し止まりぬ。是ぞ有るべき事と、あいなう世の人も思ひ言ふべし。御門よりは、今二つばかりの御兄なり。儲けの君、御年勝れる例、遠き昔はさて置きぬ、近頃は三条院・小一条院・高倉院などや御座しましけん。高倉院の御末ぞ今もかく栄えさせ御座しませば、賢き例なめり。古の天智天皇と天武天皇とは、同じ御腹の御はらからなり。其の御末、しばしは、打ち変はり打ち変はり世を知ろし召しし例などをも、思ひや出でけむ。御二流れにて、位にも御座しまさなむと思ひ申しけり。新院は、御心行くとしも無くや有りけめど、大方の人目に
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は、御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、彼方此方参り仕れば、大宮院も目安く思さるべし。誠や、文永の初めつ方下り給ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にて降り給へれど、猶御暇許りざりければ、三年まで伊勢に御座しまししが、此の秋の末つ方御上りにて、仁和寺に衣笠と言ふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いと尊く思ひ聞こえ給へりし昔の御心掟を、哀れに思し出でて、大宮院、いと懇ろに訪ひ奉り給ふ。亀山殿に御座します。十月ばかり、斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をも入らせ給ふべき由御消息あれば、珍しくて御幸有り。其の夜は、女院の御前にて、昔今の物語など、のどやかに聞こえ給ふ。又の日夕づけて、衣笠殿へ御迎に、忍びたる様にて、殿上人一二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南面に、御褥共引き繕ひて、御対面有り。とばかりして、院の御方へ御消息聞こえ給へれば、やがて渡り給ふ。女房に、御佩刀持たせて、御簾の内に入り給ふ。女院は香の薄にほひの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに、葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく盛りにて二十に一、二つや余り給ふらんと見ゆ。花と言はば、霞の間の樺桜〔も〕、猶匂ひ劣りぬべく、言ひ知らずあてに美しう、あたりも薫る御様して、珍かに見えさせ給ふ。
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院は、われもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂ひ五つに、裳ばかり引き掛けて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語など良き程にて、故院の今はの頃の御事など、哀れに懐かしく聞こえ給へば、御いらへも慎ましげなる物から、〔いぶせからぬ程に、ほのかに物打ち宣へる御様なども、〕いとらうたげなり。をかしき様なる御酒・御果物・強飯などにて今宵は果てぬ。院も我が御方に帰りて、打ちやすませ給へれど、微睡まれ給はず。有りつる御面影、心に懸かりて覚え給ふぞいとわりなき。「差しはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。如何はせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月余所にて生ひ立ち給へれば、うとうとしく習ひ給へる儘に、慎ましき御思ひも薄くや有りけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。某の大納言の娘、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、然るべき縁有りて睦ましく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひ寄らず。只少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」と切にまめだちて宣へば、如何たばかりけむ、夢うつつとも無く近づき聞こえ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消え惑ひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、哀れなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、
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さすがに人の御名のいとほしければ、夜深く紛れいで給ひぬ。日たくる程に大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべは、只大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝も如何に」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
夢とだにさだかにも無きかり臥しの草の枕に露ぞこぼるる W
いとつれなき御気色の、聞こえん方なさに」こそあめれ。悩ましとて、御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかに持てかくしてを、おこたらせ給へ」など、聞こえしらすべし。さて御方々御台など参りて、昼つ方又御対面共有り。宮はいと恥づかしうわりなく思されて、「如何で見え奉らんとすらん」と思し休らへど、女院などの御気色のいとなつかしさに、聞こえかへ給ふべきやうも無ければ、只おほどかにて御座す。今日は、院の御経営にて、善勝寺の大納言隆顕、桧破子やうの物、色々にいと清らに調じて参らせたり。三めぐりばかりは、各別に参る。其の後「余りあいなう侍れば忝けれど、昔様に思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御気色とり給へば、女院の御土器を斎宮参る。其の後、院聞こし召す。御几帳ばかりを隔てて、長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行〔・資行〕など候ふ。数多度流れ下りて、人々そぼれがちなり。「故院の御事の後は、斯様の事もかき絶えて侍りつる
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に、今宵は珍しくなん。心とけて遊ばせ給へ」など、打ち乱れ聞こえ給へば、女房召して、御箏共かき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白し。こたみは、先づ斎宮の御前に、院自ら御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院「此の御土器の、いと心許無く見え侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなや有るべからん」と宣へば、「売炭翁は哀れなり。おのが衣は薄けれど」と言ふ今様をうたはせ給ふ。御声いと面白し。宮聞こし召して後、女院御杯を取り給ふとて、「天子には父母無しと申すなれど、十善の床を踏み給ふも、賎しき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」と宣へば、「さらなる御事なりや」と、人々目をくはせつつ忍びてつきじろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。〔善勝寺〕[* 底本 空白]「せれうの里」を出だす。人々声加へなどして、らうがはしき程になりぬ。かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。其の儘のおましながら、仮初なるやうにて寄り臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程無く寝入りぬ。明日は宮も御帰りと聞こゆれば、今夜ばかりの草枕、猶結ばまほしき御心の鎮め難くて、いとささやかに御座する人の、御衣など、然る心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐし
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つつ、忍びやかに振舞ひ給へば、驚く人も無し。何やかやと、なつかしう語らひ聞こえ給ふに、靡くとは無けれども、只いみじうおほどかに、やはらかなる御様して、思しほれたる御気色を、余所なりつる程の御心惑ひまでは無けれど、らうたくいとほしと思ひ聞こえ給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。其の後も、折々は聞こえ動かし給へど、差しはへて有るべき御事ならねば、いと間遠にのみなん。「負くる習ひ」までは有らずや御座しましけん。あさましとのみ尽きせず思し渡るに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人柄もきはめていと懇ろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、如何はせんにて、漸う頼みかはし給へば、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又必ず参りこん」と頼め聞こえ給へりければ、其の心して誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びて歩き給ふ道に、彼の大納言、扈従など数多して、いときらきらしげにて行き合ひ給ひけるに、〔むつかしと思して、此の斎宮の御門あきたりけるに、〕女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事も無しと思して、しばし、彼の大納言の車遣り過ごしてんに出でんよと思して、門の下に遣り寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよらかなるにて降り給ひぬ。内には、大納言の参り給へると思して、例は、忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまより降りて参り給ふに、門
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参り給ふに、門より降り給ひぬ。怪しうとは思ひながら、たそかれ時のたどたどしき程、何のあやめも見えわかで、妻戸はづして人の気色見ゆれば、何と無くいぶかしき心地し〔給ひ〕て、中門の廊に上り給へれば、例のなれたる事にて、をかしき程の童歩み出でて、気色ばかりを聞こゆるを、大臣は覚え無き物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮も〔待ち聞こえ給へと思して、御几帳にはづれて、〕何心無く打ち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこは如何にとは思せど、何くれとつきづきしう、日頃の志有りつる由聞こえなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。大納言は、此の宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず、男の車より降るる気色見えければ、あるやう有らんと思して、「御随身一人、其の渡りに、さりげなくてをあれ」とて、止めて帰り給ひにけり。男君は、いと思ひの外に心起こらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、有りつる大納言の車など思し合はせて、「如何にも此の宮にやう有るなめり」と心得給ふに、「いと好き好きしき業なり。由なし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。〔彼の〕残し置き給へりし随身、此の様よく見てければ、しかじかと聞こえけるに、いと心憂しと思して、「日頃も斯かるにこそは有りけめ」と、いとをこがましう、「彼の大臣の心の中も如何にぞや」と、数々思し乱れて、かき絶え久しく訪れ給はぬをも、此の宮には、かう残り無く見現されけんとも知ろし召さねば、怪しながら過ぎもて行く程に、
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只ならぬ御気色〔に〕さへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞こえ給ひけるぞわりなき。然れども、さすが思しわく事や有りけむ、其の程の事共も、いと懇ろに訪ひ聞こえさせ給ひけり。異御腹の姫宮をさへ、御子になどし給ふ。御処分も有りけるとぞ。幾程無くて、弘安七年二月十五日に、宮隠れさせ給ひにしをも、大納言殿、いみじう歎き給ひめるとや。〔誠や、〕新院には、一とせ、近衛〈 基平 〉の大殿の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞こえつるを、此の程院号有り、新陽明門院とぞ聞こゆめる。建治二年の冬の頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞こえて、御子もやがて親王の宣下など有りき。




第十 老いのなみ

建治三年正月三日、内の上御冠し給ふ。十一にぞならせ給ふらんかし。御諱、世仁と聞こゆ。引き入れの関白太政大臣〔照念院〕殿兼平、理髪頭の中将基顕、御総角大炊御門大納言信嗣の君仕られけり。御遊び始まる。琵琶玄象今出川の大納言実兼、和琴鈴鹿信嗣大納言、箏の琴殿の大納言兼忠の君にて御座せしなんめり。屯食・禄などの事、常の如し。二十二日、朝覲の行幸、亀山殿へなりしかば、上達部・殿上人、例の色々のえり、下襲・織物・打物、めでたくゆゆしかり
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き。御前の大井河に、龍頭鷁首浮かめらる。夜に入りて、鵜飼共召して、篝火ともして乗せらる。御前の御遊び・地下の舞など、様々の面白き事共、例の事なれば、うるさくて、さのみもえ書かず。同じ三月二十六日、石清水の社へ行幸、四月十九日、賀茂の社へ行幸、いづれもめでたかりき。人々定めて記しおき給ひつらんと、譲りてとめ侍りぬ。春宮〈 伏見院 〉の御元服、八月と聞こえしを、奈良の興福寺の火のXX事により、延びて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日に、先づ内裏行啓なる。清涼殿の東の廂の倚子立てらる。御門も倚子につかせ給ふ。引き入れの左大臣師忠、理髪春宮の権大夫具守勤めらる。御諱煕仁と申しき。持明院殿より、女房、二無く清らにし立てて、十二人参り、東の御方〈 玄輝門院御事 〉も院の御車にて、殿上人・北面・召次など、いと美々しうて参り給へり。御門・春宮、いづれもいと美しき御上げ勝り也。新院は、尽きせず、皇后宮の御座しまさましかばとのみ、しほたれがちに、思し忘るる世無き御心や慰むと、此彼参らすれど、をさをさなずらへなるも無く、新陽明門院も、初めは御覚えあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて、御一人寝がちなり。故皇后宮の御はらからの中の君も、御面影や通ひたらんと、なつかしさに、忍びて懇ろに宣ひしかば、参らせ奉り給へれども、いとしも無くて、姫宮一所ばかり取り出で給へりし儘にてやみにき。姫宮をば、
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大宮院の御傍らにぞ、かしづき聞こえ給ふ。かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり、又二条内裏に火出で来て、いみじうあさまし。万里小路殿は、有りし火の後又造られて、今年の八月に御わたましにて、新院住ませ給へれど、内裏焼けぬれば、此の院又内裏に成りぬ。打ち続き火の繁さいと恐ろし。其の頃、大宮院いと久しく悩ませ給ひつつ、本院も新院も常に渡り給ひて、夜なども御座しませば、異御腹の法親王、姫宮達なども、絶えず御訪ひに詣でさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当の内侍と言ひしが腹に出で物し給へりし姫宮、後には五条院と聞こえし、未だ宮の御程なりしにや、いと盛りに美しげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心に掛けて、うかがひ聞こえ給ふ程に、此の御悩みの頃、如何有りけん、いみじう思ひの外にあさましと思し歎く。彼の草枕よりは誠しう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出で来させ給ひにき。限り無く人目を包む事なれば、怪しう、誰が御腹と言ふ事も無くて、院の御乳母の按察の二位の里に渡し奉り給へり。幼き御心にも、如何心得給ひけん、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひ聞こゆれば、「言はぬ事」とのみぞ、いらへさせ給ひける。御心のあくがるる儘に、御覧じ過ぐす人無く、乱りがはしきまで、たはぶれさせ給ふ程に、腹々の宮達、数知らず出で来給ふ。大方、十三の御年より、宮は出で来初めさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまで
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ぞ有るべき。故皇后宮の御雑仕にて、貫川と言ひし、御霊とかや聞こゆる社の御子にてぞ有りける。先にも聞こえしやうに、位の御程に度々召されて、姫宮生まれ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里に、彼の五条院の御腹のと二所、同じ御かしづき草にて御座せし程に、近衛殿入らせ給ひぬれば、殿はもと御座せし北の政所をもすさめ給ひて、此の宮を類無く思ひ聞こえさせ給ふ程に、かひがひしく若君〈 左大臣経平 〉出で来給へるをも、いみじうかしづきいたはり給ひて、前の北の政所の御腹の太郎君、中将ばかりにて物し給ふをも、よくせずは、押しのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、いといとほしき事なり。是は未だ稚児なり。もと大人しうなり給へるをば、如何でか引き違へるやうは有らん」と宣はせて、其の弟は、遂に御家も保たせ給へりしなり。又、北白河殿の女院に、大納言の君とて候ひし人の曹司に、下野と言ひし者は、田楽とかや言ふ事する怪しの法師の、名をば玄駒と言ふが娘なりき。彼の女院は、新院の御母代にて、常に御幸もなりしかば、自づから御覧じ初めけるにや、事の外に時めき出でて、此の院に召し渡されて、花山院の太政大臣の御子になされ、廊の御方とぞ付けさせ給ふ。其の御腹にも宮生まれ給ひぬ。大宮の女院に讚岐とて候ひし、西園寺の御家の者景房と言ひしが娘なり。いみじう思いて、是も召し取りて、西園寺の大臣の御子になし
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て、二品の加階賜はる。若宮生まれ給ひにき。帥の中納言為経の娘の帥の典侍殿と言ひしが御腹にも、数多生まれ給ふ。九条殿の北の政所、又梨本・青蓮院の法親王などは、大納言の典侍の御腹、昭慶門院中納言の典侍、十楽院の慈道法親王は帥の典侍殿の腹、斯様にすべて多く物し給ふ。昔の嵯峨天皇こそ、八十余人まで御子持給へりけると、承り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。内には中々女御・更衣も候ひ給はず。いとさうざうしき雲の上なり。西園寺女御参り給ふべしと聞こえながら、如何なるにか、すがすがとも思し立たぬは、思ふ心御座するなめりとぞ、世の人もささめきける。新院の御位の時参り給へりし西園寺の中宮は、院号有りて、今出川の院と聞こゆなり。彼の御覚えなどのいと口惜しかりしより、此の院の御方様をつらく思ひ聞こえ給ふなめりなどぞ、言ひなす人も侍りけるとぞ。三月の末つ方、持明院殿の花盛りに、X新院渡り給ふ。鞠の掛かり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、外の桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけ難う見ゆ。上達部・殿上人、いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきて候ひあへり。態とならぬ袖口共押し出だされて、心殊に引き繕はる。寝殿の母屋に、御座対座に設けられたるを、新院入らせ給ひて、「故院の御時、定め置かれし上は、今更にやは」とて、長押の下
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へ引き下げさせ給ふ程に、本院〔は〕出で給ひて、「朱雀院の行幸には、主の座をこそ直され侍りけるに、今日の御幸には、御座下ろさるる、いと異様に侍り」など聞こえ給ふ程、いと面白し。うべうべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。御土器など良き程の後、春宮〈 伏見院 〉御座しまして、掛かりの下に皆立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、客人の院上り給ひて、御襪など直さるる程に、女房別当の君、又上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ・紅のうち衣・山吹の表着・赤色の唐衣・すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱に据ゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなど宣ふ。暮れ掛かる程、風少し打ち吹きて、花も乱りがはしく散りまがふに、御鞠数多く上がる。人々の心地いと艶有り。故有る木蔭に立ち休らひ給へる院の御形、いと清らにめでたし。春宮も若う美しげにて、濃き紫の浮き織物の御指貫、なよびかに、気色ばかり引き上げ給へれば、花のいと白く散り掛かりて、文のやうに見えたるもをかし。御覧じ上げて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえ共なり。其の後も、御酒など、らうがはしきまで、聞こし召しさうどきつつ、夜更けて帰らせ給ふ。六条殿の長講堂も、焼けにしを造られて、其の頃、御わたましし給ふ。卯月の初めつ方より、院の上、庇の御車にて、上達部・殿上人・御随身、え
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も言はず清らなり。女院の御車に、姫宮も奉る。出車数多、皆白きあはせの五衣・濃き袴・同じ単にて、三日過ぎてぞ、色々の衣共、藤・躑躅・撫子など着かへられける。しばし此の院に渡らせ給へば、人々絶えず参り集ふ。西園寺の殿原なども、日ごとに参り給ふ。御壺分かたせ給ひて、前栽合はせ有りしにも、をかしう珍しき事共多かりき。某の朝臣の、槙の島の気色を造りて侍りけるを、平大納言経親、未だ下臈にて、兵衛佐など言ひける程にや、其の宇治川の橋を盗みて、我が繕ひたる方に渡して侍りける、いと恐ろしく心賢くぞ侍りける。例の五月の供花、やがて打ち続きければ、女院達宮々など、夜の御時に閼伽奉らせ給へば、御堂のかをり、名香の香も、外には多く勝りて、いとしみ深う艶めかしう面白し。大方、いづれも年に二度は昔よりの事にて、いみじう経営し給へば、世の人の靡き仕る様限り無し。日に二度院の出で居させ給ふに、関白・大臣ばかり、止む事無き人々絶えず候ひ給ふ。大中納言・二位三位・非参議・四位五位などは、まして数知らず。すべて前の司の人の、道なども参る事なれば、時ならず院の御前とも無く、いみじう花やかに面白う尊し。昔の後二条の関白師通と聞こえしは、「おりゐの御門の門に、車の立つべき事なし」と、そしり給ひけるに、今の世を見給はばと思ひ出でらる。九月の供花には、新院さへ渡り物し
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給へば、いよいよ女房の袖口心殊に用意加へ給ふ。御花果つれば、両院一つ御車にて、伏見殿へ御幸なる。秋山の気色御覧ぜさせんとなりけり。上達部・殿上人、彼方此方押し合はせて、色々の狩衣姿、菊紅葉こき混ぜて打ち群れたる、見所多かるべし。野山の気色色づき渡るに、伏見山、田の面に続く宇治の川波、遙々と見渡されたる程、いと艶有るを、若き人々などは、身にしむばかり思へり。鷹司殿の大殿も参り給ふべしと聞こえけるを、御物忌みとて止まり給ひければ、五葉の枝に付けて奏せられける。
伏見山幾万代も枝添へて栄へん松の末ぞ久しき W
御返し、
栄ふべき程ぞ久しき伏見山おひそふ松の枝を連ねて W
又の日は、伏見津に出でさせ給ひて、鵜舟御覧じ、白拍子御船に召し入れて、歌うたはせなどせさせ給ふ。二、三日御座しませば、両院の家司共、我劣らじといかめしき事共調じて参らせあへる中に、楊桃の二位兼行、桧破子共の、心ばせ有りて仕れるに、雲雀と言ふ小鳥を荻の枝に付けたり。源氏の松風の巻を思へるにや有りけん。為兼の朝臣を召して、本院「彼は如何と見る」と仰せらるれば、「いと心得侍らず」とぞ申しける。誠に、定家の中納言入道が書きて侍る源氏の本には、荻とは見え侍らぬとぞ承りし。斯様に御仲いとよくて、
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はかなき御遊び業など〔も〕、いどましき様に聞こえかはし給ふを、目安き事に、なべて世の人も思しけり。或る時は、御小弓射させ給ひて、「御負け業には、院の内に候ふ限りの女房を見せさせ給へ」と、新院宣ひければ、童の鞠蹴たる由を作りなして、女房共に水干〔を〕着せて出だされたる事も侍りけり。新院の御賭物には、亀山殿にて、五節のまねに、舞姫・童・下仕へまでぞなされけり。上達部、直衣に衣出だして、露台の乱舞・御前の召し・北の陣・推参まで尽くされ侍り〔ける〕とぞ承りし。此の御代にも、又勅撰の沙汰、一昨年ばかりより侍りし、為氏の大納言撰ばれつる、此の十二月にぞ奏せられける。続拾遺集と聞こゆ。「たましひある様にはいたく侍らざめれど、艶には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今の引きうつし、おぼろけの事は、立ち並び難くぞ侍るべき。かくて年月変はりぬ。其の頃、新陽明門院、又只ならず御座しますと聞こえし、五月ばかり、御気色あれば、珍しう思す。内々、殿にてせさせ給ふに、天下の人々参り集ふ。前の度、生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意無しと思されけるに、又かく物し給へば、めでたう思ふ様なる御事も有らばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限り無く思さる。八月、御子の御歩きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代にて添ひ奉り給ふ。
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又、三条の内大臣公親の御娘、内の上の御乳母なりしも、めでたき御肖物とて、御車に二人乗り給ふ。女院は、院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車に遣り続けて、よそほしくめでたき御事なり。其の頃、倹約行はるとかや聞こえし程にて、下簾短くなされ、小金物抜かれける。物見る車共のも、召次寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、斯かるめでたき御事の折節」など、つぶやく人も有りけるとかや。此の宮も親王の宣旨有りて、いとめでたく聞こえし程に、明くる年九月、又隠れ〔させ〕給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。弘安も四年になりぬ。夏の頃、後嵯峨〔院〕の姫宮、隠れさせ給ひぬ。後の堀川〔院〕の御娘にて神仙門院と聞こえし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひ