増鏡 尾張徳川家本
岩波文庫 増鏡 和田英松 校訂 岩波書店
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増鏡(ますかがみ) 上巻 〔序〕
二月(きさらぎ)の中(なか)の五日は、鶴(つる)の林(はやし)に薪(たきぎ)尽(つ)きにし日なれば、彼(か)の如来二伝(にでん)の御形見(かたみ)の睦(むつ)ましさに、嵯峨の清涼寺(しやうりやうじ)に詣(まう)でて、常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)など心の内(うち)に唱(とな)へて、拝(をが)み奉(たてまつ)る。傍(かたは)らに、八十(やそぢ)にもや余(あま)りぬらんと見(み)ゆる尼(あま)一人(ひとり)、鳩(はと)の杖(つえ)に掛(か)かりて参(まゐ)れり。とばかり有(あ)りて、「猛(たけ)く思(おも)ひ立(た)ちつれど、いと腰(こし)痛(いた)くて堪(た)へ難(がた)し。今宵(こよひ)は、此(こ)の局(つぼね)に打(う)ち休(やす)みなん。坊へ行(ゆ)きて御燈(みあかし)の事(こと)など言(い)へ」とて、具(ぐ)したる若(わか)き女房の、つきづきしき程(ほど)なるをば、返(かへ)しぬめり。「釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)」と度々(たびたび)申して、夕日(ゆふひ)の花(はな)やかに差(さ)し入(い)りたるを打(う)ち見(み)遣(や)りて、「あはれにも山(やま)の端(は)近(ちか)く傾(かたぶ)きぬめる日影(かげ)かな。我(わ)が身の上(うへ)の心地(ここち)こそすれ」とて、寄り居(ゐ)たる気色、何(なに)と無(な)く艶(なま)めかしく、心有(あ)らんかしと見(み)ゆれば、近(ちか)く寄りて、「何処(いづく)より詣(まう)で給(たま)へるぞ。有(あ)りつる人の帰(かへ)り来(こ)ん程(ほど)、御伽(おんとぎ)せんは如何(いかが)」など言(い)へば、「此(こ)の渡(わた)り近(ちか)く侍れど、年の積(つ)もりにや、いと遙(はる)けき心地(ここち)し侍る、あはれになん」と言(い)ふ。「さても、幾(いく)つにか成(な)り給(たま)ふらん」と問(と)へば、「いさ。よくも我ながら思(おも)ひ給(たま)へ別(わか)れぬ程(ほど)になん。百年(ももとせ)にもこよなく余(あま)り侍(はべ)りぬらん。来(こ)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)、例(ためし)も有(あ)り難(がた)かりし世の騒(さわ)ぎにも、此(こ)の御寺ばかり、恙(つつが)なく御座(おは)します。猶(なほ)、止(や)む事(ごと)無(な)き
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如来の御光なりかし」など言(い)ふも、古代(こだい)にみやびやかなり。年(とし)の程(ほど)など聞(き)くも、珍(めづら)しき心地(ここち)して、斯(か)かる人こそ昔(むかし)物語(ものがたり)もすなれと、思(おも)ひ出(い)でられて、まめやかに語(かた)らひつつ、「昔(むかし)の事(こと)の聞(き)かまほしき儘(まま)に、年の積(つ)もりたらん人もがなと思(おも)ひ給(たま)ふるに、嬉(うれ)しき業(わざ)かな。少(すこ)し宣(のたま)はせよ。自(おの)づから古(ふる)き歌など書(か)き置きたる物の片端(かたはし)見るだに、其(そ)の世にあへる心地(ここち)するぞかし」と言(い)へば、〔打(う)ち〕すげみたる口(くち)打(う)ちほほゑみて、「いかでか聞(き)こえん。若(わか)かりし世に見(み)聞(き)き侍(はべ)りし事(こと)は、ここらの年頃(としごろ)に、むばたまの夢ばかりだに無(な)くおぼほれて、何(なに)のわきまへか侍らん」とは言(い)ひながら、けしうは有(あ)らず、あへなんと思(おも)へる気色なれば、いよいよ言(い)ひはやして、「彼(か)の雲林院(うんりんゐん)の菩提講(ぼだいかう)に参(まゐ)りあへりし翁(おきな)の言(こと)の葉をこそ、仮名(かんな)の日本紀にはすめれ。又彼(か)の世継(よつぎ)が孫(うまご)とか言(い)ひし、つくも髪(がみ)の物語(ものがたり)も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様(おんありさま)の様(やう)なる人にこそ有(あ)りけめ。猶(なほ)宣(のたま)へ」など賺(すか)せば、さは心得(う)べかめれど、いよいよ口(くち)すげみがちにて、「其(そ)のかみは、げに人の齢(よはひ)も高(たか)く機(き)も強(つよ)かりければ、それに従(したが)ひて、魂(たましひ)も明(あき)らかにてや、しか聞(き)こえ尽(つ)くしけむ。あさましき身は、徒(いたづ)らなる年(とし)のみ積(つ)もれるばかりにて、昨日(きのふ)今日(けふ)と言(い)ふばかりの事(こと)だに、目(め)も耳(みみ)もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪(あや)しき僻事(ひがこと)共(ども)にこそは侍らめ。そも然様(さやう)に御覧(ごらん)じ集(あつ)めける古言(ふること)共(ども)は、如何(いか)にぞ」と言(い)ふ。「いさ。只(ただ)おろおろ見(み)及(およ)びし者共(ども)は、水鏡(みづかがみ)と言(い)ふにや。神武天皇の御代より、
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いとあららかにしるせり。其(そ)の次(つぎ)には、大鏡(おほかがみ)、文徳の古(いにしへ)より、後一条の御門(みかど)まで侍(はべ)りしにや。又世継(よつぎ)とか、四十帖(でう)の草子(さうし)にて、延喜より堀川(ほりかは)の先帝(せんてい)まで、少(すこ)し細(こま)やかなめる。又某(なにがし)の大臣(おとど)の書(か)き給(たま)へると聞(き)き侍(はべ)りし今鏡(いまかがみ)に、後一条より高倉院(たかくらのゐん)まで有(あ)りしなめり。誠(まこと)や、いや世継(よつぎ)は、隆信(たかのぶ)の朝臣の、後鳥羽院(ごとばのゐん)の位の御程(ほど)までをしるしたりとぞ見(み)え侍(はべ)りし。其(そ)の後(のち)の事(こと)なん、〔いと〕おぼつかなくなりにける。覚(おぼ)え給(たま)へらん所々(ところどころ)までも宣(のたま)へ。今宵(こよひ)誰(たれ)も御伽(おんとぎ)せん。斯(か)かる人に会(あ)ひ奉(たてまつ)れるも、然(しか)るべき御契有(あ)らん物ぞ」など語(かた)らへば、「其(そ)のかみの事(こと)は、いみじうたどたどしけれど、誠(まこと)に事(こと)の続(つづ)きを聞(き)こえざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少(すこ)しなん。僻事(ひがこと)ぞ多(おほ)からんかし。そは差(さ)し直(なほ)し給(たま)へ。いといと傍(かたは)らいたき業(わざ)にも侍るべきかな。彼(か)の古言(ふること)共(ども)に、なぞらへ給(たま)ふまじうなん」とて、おろかなる心や見(み)えん増鏡(ますかがみ)古(ふる)き姿(すがた)に立ちは及(およ)ばでとわななかし出(い)でたるもにくからず、いと古代(こだい)なり。「さらば、今(いま)宣(のたま)はん事(こと)をも、又(また)書(か)きしるして、彼(か)の昔(むかし)の面影(おもかげ)にひとしからんとこそは思(おぼ)すめれ」といらへて、今(いま)も又(また)昔(むかし)を書(か)けば増鏡(ますかがみ)ふりぬる代々の跡に重(かさ)ねん
第一 おどろのした
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御門(みかど)始(はじ)まり給(たま)ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院(ごとばのゐん)と申(まう)す御座(おは)しましき。御諱(いみな)は尊成(たかなり)、これは高倉院(たかくらのゐん)第四の御子(みこ)、御母七条院と申しき。修理大夫信隆(のぶたか)の主(ぬし)の娘(むすめ)也。高倉院(たかくらのゐん)位の御時(とき)、后(きさい)の宮(みや)〈 建礼門院(けんれいもんゐん) 〉の御方に、兵衛(ひやうゑ)の督(かん)の君とて仕(つかうまつ)られし程(ほど)に、忍(しの)びて御覧(ごらん)じ放(はな)たずや有りけん、治承四年七月十五日(じふごにち)生(む)まれさせ給(たま)ふ。其(そ)の年(とし)の春の頃(ころ)、建礼門院(けんれいもんゐん)后(きさい)の宮(みや)と聞(き)こえし御腹(おんはら)の第一の御子(みこ)〈 安徳天皇 〉、三(み)つに成(な)り給(たま)ふに位を譲りて、御門(みかど)は降(お)り給(たま)ひにしかば、平家の一族(ひとぞう)のみいよいよ時(とき)の花をかざし添(そ)へて、花やかなりし世なれば、掲焉(けちえん)にももてなされ給(たま)はず。又の年(とし)養和元年正月十四日、院さへ隠(かく)れさせ給(たま)ひしかば、いよいよ位などの御望(のぞ)み有(あ)るべくも御座(おは)しまさざりしを、彼(か)の新帝平家の人々(ひとびと)にひかされて、遙(はる)かなる西(にし)の海にさすらへ給(たま)ひにし後(のち)、後白河法皇、御孫の宮達(たち)渡(わた)し聞(き)こえて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ時、三の宮を次第の儘(まま)にて思(おぼ)されけるに、法皇をいといたう嫌(きら)ひ奉(たてまつ)りて、泣(な)き給(たま)ひければ、「あなむつかし」とて、率(ゐ)て放(はな)ち給(たま)ひて、「四の宮此処(ここ)にいませ」と宣(のたま)ふに、やがて御膝(ひざ)の上に抱(いだ)かれ奉(たてまつ)りて、いと睦(むつ)ましげなる御気色なれば、「これこそ誠(まこと)の孫に御座(おは)しけれ。故(こ)院(ゐん)の児(ちご)生(お)ひにも、まみなど覚(おぼ)え給(たま)へり。いとらうたし」とて、寿永二年(にねん)八月二十日、御年四(よ)つにて位につかせ給(たま)ひけり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣は、譲位(じやうゐ)の時必(かなら)ず渡(わた)る事(こと)なれど、先帝筑紫(つくし)へ率(ゐ)て御座(おは)しにければ、こたみ初(はじ)めて三種(みつ)の神器(しんぎ)無(な)くて、
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珍(めづら)しき例(ためし)に成(な)りぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱(はこ)ばかり帰(かへ)り上(のぼ)りにけれど、宝剣は遂(つひ)に、先帝の海に入(い)り給(たま)ふ時(とき)、御身に添(そ)へて沈(しづ)みたるこそ、いと口惜(くちを)しけれ。かくて此(こ)の御門(みかど)、元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)七月二十八日御即位(そくゐ)、其(そ)の程(ほど)の事、常(つね)の儘(まま)なるべし。平家の人々(ひとびと)、未(いま)だ筑紫(つくし)にただよひて、先帝と聞(き)こゆるも御兄(このかみ)なれば、彼処(かしこ)に伝(つた)へ聞(き)く人々(ひとびと)の心地(ここち)、上下さこそは有(あ)りけめ、思(おも)ひ遣(や)られて、いと忝(かたじけな)し。同年(どうねん)十月二十五日御禊(ごけい)、十一月十八日に大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基方(すきがた)の御屏風の歌、兼光の中納言と言(い)ふ人、丹波国長田村とかやを、
神世より今日(けふ)の為(ため)とや八束穂(やつかほ)に長田(ながた)の稲(いね)のしなひ初(そ)めけむ
御門いとおよすげて賢(かしこ)く御座(おは)しませば、法皇もいみじう美(うつく)しと思(おぼ)さる。文治(ぶんぢ)二年(にねん)十二月一日、御書始(ふみはじ)めせさせ給(たま)ふ。御年七(なな)つなり。同(おな)じ六年、女御参(まゐ)り給(たま)ふ。月輪(つきのわ)の関白殿兼実の御娘(むすめ)なり。后立(きさきだち)有(あ)りき。後(のち)には宜秋門院(ぎしうもんゐん)と聞(き)こえし御事(こと)なり。此(こ)の御腹(おんはら)に、春花門院と聞(き)こえ〔給(たま)ひ〕し姫宮(ひめみや)ばかり御座(おは)しましき。建久二年(にねん)正月三日、十一にて御元服し給(たま)ふ。同(おな)じき三年三月十三日、法皇隠(かく)れさせ給(たま)ひにし後(のち)は、御門(みかど)偏(ひとへ)に世(よ)を知(し)ろし召(め)して、四方(よも)の海波(なみ)静(しづか)に、吹(ふ)く風(かぜ)も枝をならさず、世治(をさ)まり民安(やす)うして、あまねき御うつくしびの波(なみ)、秋津島(あきつしま)の外まで流(なが)れ、繁(しげ)き御恵(めぐ)み、筑波山(つくばやま)のかげよりも深(ふか)し。万(よろづ)の道々(みちみち)に明(あき)らけく
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御座(おは)しませば、国に才(ざえ)有(あ)る人多(おほ)く、昔(むかし)に恥(は)ぢぬ御世にぞ有りける。中(なか)にも、敷島(しきしま)の道(みち)なん、勝(すぐ)れさせ給(たま)ひける。御歌数(かず)知(し)らず人の口(くち)に有(あ)る中(なか)にも、
奥山(おくやま)のおどろの下(した)を踏(ふ)み分(わ)けて道有(あ)る世ぞと人に知(し)らせん
と侍るこそ、〔政(まつりごと)大事(だいじ)と思(おぼ)されける程(ほど)しるく聞(き)こえて、〕いといみじう止(や)む事(ごと)無(な)くは侍れ。建久九年正月、第一の御子(みこ)四(よ)つになり給(たま)ふに、御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ひて、降(お)り居(ゐ)給(たま)ふ。位に御座(おは)しますこと十五年なり。今日(けふ)明日(あす)、二十(はたち)ばかりの御齢(おんよはひ)にて、いとまだしかるべき御事(こと)なれど、万(よろづ)所せき御有様(おんありさま)よりは、中々安(やす)らかに、御幸(みゆき)など御心(おんこころ)の儘(まま)ならんとにや。世を知(し)ろし召(め)す事(こと)は今(いま)も変(か)はらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給(たま)ひて、常(つね)に渡(わた)り住(す)ませ給(たま)へど、猶(なほ)又水無瀬(みなせ)と言(い)ふ所に、えも言(い)はず面白(おもしろ)き院づくりして、しばしば通(かよ)ひ御座(おは)しましつつ、春秋の花紅葉(はなもみぢ)につけても、御心(おんこころ)行(ゆ)く限(かぎ)り世を響(ひび)かして、遊(あそ)びをのみぞし給(たま)ふ。所がらも、遙々(はるばる)と川にのぞめる眺望、いと面白(おもしろ)くなむ。元久の頃、詩に歌を合(あ)はせられしにも、取(と)りわきてこそは、
見(み)渡(わた)せば山もとかすむ水無瀬川(みなせがは)夕は秋と何(なに)思(おも)ひけむ
かやぶきの廊(らう)・渡殿(わたどの)など、遙々(はるばる)と艶(えん)にをかしうせさせ給(たま)へり。御前の山(やま)より滝(たき)落(お)とされて、石のたたずまひ、苔(こけ)深(ふか)き深山木(みやまぎ)に枝に差(さ)しかはしたる庭の小松も、げに千世を込(こ)めたる霞の洞(ほら)なり。前栽(せんざい)つくろはせ給(たま)へる頃、人々(ひとびと)数多(あまた)召(め)して、御遊(あそ)びなど有(あ)りける後、定家(ていか)の中納言、未(いま)だ
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下臈(げらふ)なりし時、奉(たてまつ)られける。
有(あ)りへけむもとの千年(ちとせ)にふりもせで我(わ)が君契(ちぎ)る千世(ちよ)の若松
君が代にせき入(い)るる庭を行く水の岩越(こ)す数は千世も見(み)えけり
今(いま)の御門の御諱(いみな)は為仁と申しき。御母は能円法印と言(い)ふ人の娘(むすめ)、宰相の君とて仕(つかうまつ)られける程(ほど)に、此(こ)の御門生(む)まれさせ給(たま)ひて後には、内大臣通親(みちちか)の御子になり給(たま)ひて、末(すゑ)には承明門院(しようめいもんゐん)と聞(き)こえき。彼(か)の大臣(おとど)の北(きた)の方(かた)の腹にて御座(おは)しければ、もとより後(のち)の親(おや)なるに、御幸(さいは)ひさへ引(ひ)き出(い)で給(たま)ひしかば、誠(まこと)の御娘(むすめ)に変(か)はらず。此(こ)の御門もやがて彼(か)の殿にぞ養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。かくて、建久九年三月三日御即位(そくゐ)、十月二十七日御禊、十一月は例(れい)の大嘗会(だいじやうゑ)、元久二年(にねん)正月三日御冠(かうぶり)し給(たま)ひ、いと艶(なま)めかしく美(うつく)しげにぞ御座(おは)します。御本性(ごほんじやう)も、父(ちち)の御門よりは、少(すこ)しぬるく御座(おは)しましけれど、情(なさ)け深(ふか)う、物のあはれなど聞(き)こし召(め)しすぐさずぞ有(あ)りける。今(いま)の摂政は、院の御時の関白〈 普賢寺殿基通 〉の大臣(おとど)。其(そ)の後(のち)は後京極(ごきやうごく)殿(どの)良経と聞(き)こえ給(たま)ひし、いと久(ひさ)しく御座(おは)しき。此(こ)の大臣(おとど)はいみじき歌の聖(ひじり)にて、院の上同(おな)じ御心(おんこころ)に、和歌の道(みち)をぞ申し行(おこな)はせ給(たま)ひける。文治の頃、千載集有(あ)りしかど、院未(いま)だきびはに御座(おは)しまししかばにや、御製(ぎよせい)も見(み)えざめるを当代(たうだい)位の御程(ほど)に、又集(あつ)めさせ給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の内の大臣(おとど)の二郎君右衛門督通具と言(い)ふ人を始(はじ)めにて、有家の三位・定家(ていか)の中将(ちゆうじやう)・
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家隆(いへたか)・雅経などに宣(のたま)はせて、昔(むかし)より今(いま)までの歌を、広(ひろ)く集(あつ)めらる。各(おのおの)奉(たてまつ)れる歌を、院の御前にて、自(みづか)ら磨(みが)き整(ととの)へさせ給(たま)ふ様(さま)、いと珍(めづら)しく面白(おもしろ)し。此(こ)の時も、先(さき)に聞(き)こえつる摂政殿、取(と)り持(も)ちて行(おこな)はせ給(たま)ふ。大方(おほかた)、古(いにしへ)奈良(なら)の御門の御代に、はじめて、右大臣橘の朝臣勅を承(うけたまは)りて、万葉集を撰(えら)びしより此(こ)の方(かた)、延喜の聖(ひじり)の御時の古今集、友則(とものり)・貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)・忠岑(ただみね)。天暦の賢(かしこ)かりし御代にも、一条の摂政殿謙徳公、未(いま)だ蔵人(くらうど)の少将など聞(き)こえける頃(ころ)、和歌所の別当とかやにて、梨壺(なしつぼ)の五人に仰(おほ)せられて、後撰集は集(あつ)められけるとぞ、ひが聞(ぎ)きにや侍らん。其(そ)の後(のち)、拾遺抄は、花山の法皇の自(みづか)ら撰(えら)ばせ給(たま)へるとぞ。白河院の位の御時は、後拾遺集は、通俊(みちとし)の治部卿承(うけたまは)る。崇徳院(しゆとくゐん)の詞花集は、顕輔(あきすけ)の三位撰(えら)ぶ。又、白河院降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ひて後(のち)、金葉集重(かさ)ねて俊頼の朝臣に仰(おほ)せて撰(えら)ばせ給(たま)ひしこそ、初(はじ)め奏(そう)したりけるに、輔仁(すけひと)の親王(しんわう)の御名乗(なの)りを書(か)きたる。悪(わろ)しとて返(かへ)され、又奉(たてまつ)るにも、何事(なにごと)とかや有(あ)りて、三度(みたび)奏(そう)して後(のち)こそ納(をさ)まりにけれ。斯様(かやう)の例(ためし)も、自(おの)づからの事(こと)なり。押(お)しなべては、撰者(せんじや)の儘(まま)にて侍(はべ)るなれど、こたみは、院の上自(みづか)ら、和歌の浦に降(お)り立(た)ちあさらせ給(たま)へば、誠(まこと)に心異(こと)なるべし。此(こ)の撰集より先(さき)に、千五百番の歌合(うたあはせ)せさせ給(たま)ひしにも、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(えら)ばせ給(たま)ひて、其(そ)の道(みち)の聖(ひじり)達(たち)判じけるに、やがて院も加(くは)はらせ給(たま)ひながら、猶(なほ)此(こ)のなみには立(た)ち及(およ)び難(がた)しと卑下(ひげ)せさせ給(たま)ひて、
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判の言葉(ことば)をばしるされず、御歌にて優(まさ)り劣(おと)れる志(こころざし)ばかりをあらはし給(たま)へる、中々いと艶(えん)に侍(はべ)りけり。上(かみ)の其(そ)の道を得(え)給(たま)へれば、下も自(おの)づから時(とき)を知(し)る習(なら)ひにや、男(をとこ)も女も、此(こ)の御世にあたりて、良(よ)き歌よみ多(おほ)く聞(き)こえ侍(はべ)りし中(なか)に、宮内卿の君と言(い)ひしは、村上の帝の御後(おんのち)に、俊房(としふさ)の左の大臣(おとど)と聞(き)こえし人の御末(すゑ)なれば、早(はや)うはあて人なれど、官(つかさ)浅(あさ)くて打(う)ち続(つづ)き、四位ばかりにて失(う)せにし人の子也。まだいと若(わか)き齢(よはひ)にて、そこひも無(な)く深(ふか)き心ばへをのみ詠(よ)みしこそ、いと有(あ)り難(がた)く侍(はべ)りけれ。此(こ)の千五百番の歌合(うたあはせ)の時、院の上(うへ)宣(のたま)ふやう、「こたみは、皆(みな)世に許(ゆ)りたる古(ふる)き道の者(もの)共(ども)なり。宮内はまだ然(しか)るべけれども、けしうは有(あ)らずと見(み)ゆめればなん。構(かま)へてまろが面(おもて)起(お)こすばかり、良(よ)き歌仕(つかうまつ)れ」と仰(おほ)せらるるに、面(おもて)打(う)ち赤(あか)めて、涙ぐみて候(さぶら)ひける気色(けしき)、限(かぎ)り無(な)き好(す)きの程(ほど)、あはれにぞ見(み)えける。さて其(そ)の御百首(ひやくしゆ)の歌(うた)、いづれもとりどりなる中(なか)に、
薄(うす)く濃(こ)く野辺の緑(みどり)の若草(わかくさ)に跡まで見(み)ゆる雪の村消(むらぎ)え
草の緑(みどり)の濃(こ)き薄(うす)き色にて、去年(こぞ)の古雪(ふるゆき)遅(おそ)く疾(と)く消(き)えける程(ほど)を、推(お)し量(はか)りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思(おも)ひ寄(よ)り難(がた)くや。此(こ)の人、年(とし)積(つ)もるまで有(あ)らましかば、げに如何(いか)ばかり、目(め)に見(み)えぬ鬼神(おにがみ)をも動(うご)かしなましに、若(わか)くて失(う)せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、此(こ)の度(たび)撰(えら)ばれたるをば、新古今(しんこきん)と言(い)ふなり。元久二年(にねん)三月二十六日、竟宴(きやうえん)と言(い)ふ事、春日殿にて行(おこな)は
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せ給(たま)ふ。いみじき世(よ)の響(ひび)きなり。彼(か)の延喜の昔(むかし)思(おぼ)しよそへ〔られ〕て、院(ゐん)の御製(ぎよせい)、
石(いそ)の上(かみ)古(ふる)きを今(いま)に並(なら)べこし昔(むかし)の跡を又尋(たづ)ねつつ
摂政殿良経の大臣(おとど)、
敷島(しきしま)や大和言(こと)の葉海にして拾(ひろ)ひし玉は磨(みが)かれにけり
次々(つぎつぎ)、順(ずん)流(なが)るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何(なに)と無(な)く明(あ)け暮(く)れて、承元二年(にねん)にもなりぬ。十二月二十五日、二(に)の宮(みや)御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。修明門院の御腹(おんはら)なり。此(こ)の御子を、院限(かぎ)り無(な)く愛(かな)しき物に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひつれば、二(に)無(な)く清(きよ)らを尽(つ)くし、いつくしうもてかしづき奉(たてまつ)り給(たま)ふ事斜(なのめ)ならず。遂(つひ)に同(おな)じ四年十一月に、御位に即(つ)き奉(たてまつ)り給(たま)ふ。もとの御門、今年(ことし)こそ十六にならせ給(たま)へば、未(いま)だ遙(はる)かなるべき御盛(さか)りに、斯(か)かるを、いとあかずあはれに思(おぼ)されたり。永治の昔(むかし)、鳥羽法皇、崇徳院の御心(おんこころ)もゆかぬに下(お)ろし聞(き)こえて、近衛院をすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひし時は、御門(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひて、其(そ)の夜になるまで、勅使を度々(たびたび)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつつ、内侍所・剣璽(けんじ)などをも渡(わた)し兼(か)ねさせ給(たま)へりしぞかし。さて其(そ)の御憤(いきどほ)りの末(すゑ)にてこそ、保元の乱(みだ)れも引(ひ)き出(い)で給(たま)へりしを、此(こ)の御門(みかど)は、いとあてにおほどかなる御本性(ごほんじやう)にて、思(おぼ)しむすぼほれぬには有(あ)らねども、気色にも漏(もら)し給(たま)はず。世にもいと敢(あ)へ無(な)き事(こと)に思(おも)ひ申(まう)しけり。承明門院(しようめいもんゐん)などは、まいて、
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いと胸(むね)痛(いた)く思(おぼ)されけり。其(そ)の年の十二月(しはす)に、太上天皇の尊号有(あ)りて、新院と聞(き)こゆれば、父(ちち)の御門(みかど)をば、今(いま)は本院と申(まう)す。猶(なほ)、御政(まつりごと)は変(か)はらず。今(いま)の御門は十四になり給(たま)ふ。御諱(いみな)守成と聞(き)こえしにや。建暦(けんりやく)二年(にねん)十一月十三日、大嘗会(だいじやうゑ)なり。新院の御時(とき)も仕(つかうまつ)られたりし資実(すけざね)の中納言に、此(こ)の度(たび)も悠紀方(ゆきがた)の御屏風の歌召(め)さる。長楽山(ながらやま)、
菅(すが)の根(ね)のながらの山(やま)の峰の松(まつ)吹(ふ)きくる風(かぜ)も万代の声
斯様(かやう)の事(こと)は、皆人の知(し)ろし召(め)したらん。こと新(あたら)しく聞(き)こえなすこそ、老(お)いの僻事(ひがこと)ならめ。此(こ)の御世には、いと掲焉(けちえん)なる事多(おほ)く、所々(ところどころ)の行幸繁(しげ)く、好(この)ましき様(さま)なり。建保(けんぽう)二年(にねん)、春日社に行幸有(あ)りしこそ、有(あ)り難(がた)き程(ほど)いどみ尽(つ)くし、面白(おもしろ)うも侍(はべ)りけれ。さて其(そ)の又の年(とし)、御百首歌(ひやくしゆうた)よませ給(たま)ひけるに、去年(こぞ)の事思(おぼ)し出(い)でて、内の御製(ぎよせい)、
春日山(かすがやま)こぞのやよひの花の香(か)に染(そ)めし心は神ぞ知(し)るらん
御心(おんこころ)ばへ、新院よりも少(すこ)しかどめいて、あざやかにぞ御座(おは)しましける。御才(ざえ)も、やまともろこし兼(か)ねて、いと止(や)む事(ごと)無(な)く物(もの)し給(たま)ふ。朝夕(あさゆふ)の御営(いとな)みは、和歌の道(みち)にてぞ侍(はべ)りける。末(すゑ)の世に、八雲など言(い)ふ物作(つく)らせ給(たま)へるも、此(こ)の御門の御事(こと)なり。摂政殿の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて、いと花やかにめでたし。此(こ)の御腹(おんはら)に、建保六年十月十日、一の御子(みこ)生(む)まれ給(たま)へり。いよいよ物合(あ)ひたる心地して、世の中(なか)ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王(みこ)に
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成(な)し奉(たてまつ)り給(たま)ひて、同(おな)じ二十六日、坊に居(ゐ)給(たま)ふ。未(いま)だ御五十日(いか)だに聞(き)こし召(め)さぬに、いちはやき御もてなし、珍(めづら)かなり。心もと無(な)く思(おぼ)ほされければなるべし。今(いま)一入(ひとしほ)、世の中(なか)めでたく、定(さだ)まり果(は)てぬる様(さま)なり。新院は、いでやと思(おぼ)さるらんかし。かくて院の上(うへ)も、ややもすれば水無瀬殿(みなせどの)にのみ渡(わた)らせ給(たま)ひて、琴笛(ことふえ)の音につけ、花紅葉(はなもみぢ)の折々(をりをり)にふれて、万(よろづ)の遊(あそ)び業(わざ)をのみ尽(つ)くしつつ、御心(おんこころ)行(ゆ)く様(さま)にて過(す)ごさせ給(たま)ふ。誠(まこと)に万世(よろづよ)も尽(つ)きすまじき御世(よ)の栄(さか)え、次々(つぎつぎ)今(いま)よりいと頼(たの)もしげにぞ見(み)えさせ給(たま)ふ。御囲碁うたせ給(たま)ふついでに、若(わか)き殿上人共(ども)召(め)して、此(これ)彼(かれ)心のひきひきに、いどみ争(あらそ)はせさせ給(たま)へば、あるは小弓・双六(すぐろく)など言(い)ふ事(こと)まで、思(おも)ひ思(おも)ひに勝負(かちまけ)をさうどきあへるも、いとをかしう御覧じて、様々(さまざま)の興(きよう)ある賭物(のりもの)共(ども)取(と)う出(で)させ給(たま)ふとて、某(なにがし)の中将(ちゆうじやう)を御使(つか)ひにて、修明門院の御方(かた)へ、「何(なに)にても、男(をのこ)共(ども)に賜(たま)はせぬべからん賭物(のりもの)」と申(まう)されたるに、取(と)り敢(あ)へず、小(ちひ)さき唐櫃(からびつ)の金物(かなもの)したるが、いと重(おも)らかなるを、参(まゐ)らせられたり。此(こ)の御使(つか)ひの上人(うへびと)、何(なに)ならんと、いといぶかしくて、片端(かたはし)ほのあけて見るに銭なり。いと心得(え)ずなりて、さと面(おもて)打(う)ち赤(あか)みて、あさましと思(おも)へる気色しるきを、院御覧(ごらん)じおこせて、「朝臣こそ、むげに口惜(くちを)しくは有りけれ。かばかりの事、知(し)らぬ様(やう)やはある。古(いにしへ)より、殿上の賭弓(のりゆみ)と言(い)ふ事(こと)には、これをこそ賭物(かけもの)にせしか。然(さ)れば、今(いま)、賭物(かけもの)と聞(き)こえたるに、これをしも出(い)だされたるなむ、古(いにしへ)
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の事知(し)り給(たま)へるこそ、いたき業(わざ)なれ」とほほゑみて宣(のたま)ふに、「さは悪(あ)しく思ひけり」と、心地(ここち)騒(さわ)ぎて覚(おぼ)ゆべし。大方(おほかた)、此(こ)の院の上(うへ)は、万(よろづ)の事(こと)に至(いた)り深(ふか)く、御心(おんこころ)も花やかに、物に詳(くは)しうなどぞ御座(おは)しましける。夏(なつ)の頃、水無瀬殿(みなせどの)の釣殿(つりどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、氷水(ひみづ)召(め)して、水飯(すいはん)様(やう)の物など、若(わか)き上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)共(ども)に賜(たま)はせて、大御酒(おほみき)参(まゐ)るついでにも、「あはれ、古(いにしへ)の紫式部(むらさきしきぶ)こそいみじくは有(あ)りけれ。彼(か)の源氏(げんじ)の物語(ものがたり)にも、「近(ちか)き川の鮎(あゆ)、西川(にしかは)より奉(たてまつ)れるいしぶし様(やう)の物、御前にて調(てう)じて」と書(か)けるなむ、勝(すぐ)れてめでたきぞとよ。只今(ただいま)然様(さやう)の料理(れうり)仕(つかうまつ)りてんや」など宣(のたま)ふを、秦(はた)の某(なにがし)とか言(い)ふ御随身(みずいじん)、勾欄(かうらん)のもと近(ちか)く候(さぶら)ひけるが、承(うけたまは)りて、池の汀(みぎは)なる篠(ささ)を少(すこ)し敷(し)きて、白(しろ)き米(よね)を水に洗(あら)ひて奉(たてまつ)れり。「拾(ひろ)はば消(き)えなん」とにや。これもけしかる業(わざ)かな」とて、御衣(ぞ)ぬぎてかづけさせ給(たま)ふ。御土器(かはらけ)度々(たびたび)聞(き)こし召(め)す。其(そ)の道(みち)にも、いとはしたなう物(もの)し給(たま)ふ。何事(なにごと)も愛敬(あいぎやう)づき、めでたく見(み)えさせ給(たま)ふ御有様(おんありさま)、千年(ちとせ)経(ふ)とも飽(あ)く世あるまじかめり。又(また)、清撰の御歌合(うたあはせ)とて、限(かぎ)り無(な)く磨(みが)かせ給(たま)ひしも、水無瀬殿(みなせどの)にての事(こと)なりしにや。当座に衆議判なれば、人々(ひとびと)の心地(ここち)、いとど置(お)き所無(な)かりけむかし。建保二年(にねん)七月(ながつき)の頃、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りぬき出(い)で給(たま)ふめりしかば、いづれかおろかならん。中(なか)にもいみじかりし事(こと)は、第七番に、左、院の御歌、
明石潟(あかしがた)浦路(うらぢ)晴(は)れ行(ゆ)く朝(あさ)なぎに霧に漕(こ)ぎ入(い)る海士(あま)の釣舟(つりぶね)
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と有(あ)りしに、北面(きたおもて)の中(なか)に、藤原秀能(ひでよし)とて、年頃も此(こ)の道に許(ゆ)りたるすき物なれば、召(め)し加(くは)へらるる事常(つね)の事(こと)なれど、止(や)む事(ごと)無(な)き人々(ひとびと)の歌だにも、あるは一首二首三首には過(す)ぎざりしに、此(こ)の秀能九首まで召(め)されて、しかも院の御かたてに参(まゐ)る。さて有(あ)りつる海士(あま)の釣舟(つりぶね)の御歌の右に、
契(ちぎ)りおきし山(やま)の木の葉の下紅葉(もみぢ)染(そ)めし頃(ころ)にも[B 「にも」に「もにイ」と傍書]秋風ぞ吹(ふ)く
と詠(よ)めりしは、其(そ)の身の上(うへ)に取(と)りて、長(なが)き世の面目(めいぼく)、何かは有(あ)らん、とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。昔(むかし)の躬恒(みつね)が、御階(はし)のもとに召(め)されて、「弓張(ゆみはり)としも言(い)ふ事(こと)は」と奏(そう)して、御衣(ぞ)賜(たま)はりしをこそ、いみじき事(こと)には言(い)ひ伝(つた)ふめれ。又、貫之(つらゆき)が家に、枇杷(びは)の大臣(おとど)、魚袋(ぎよたい)の歌の返(かへ)し、訪(とぶら)ひに御座(おは)したりしをも、道の高名(かうみやう)とこそ、日記には書(か)きて侍れ。近(ちか)き頃(ころ)は、西行法師(ほふし)ぞ北面(きたおもて)の者(もの)にて、世にいみじき歌の聖(ひじり)なめりしが、今(いま)の代の秀能(ひでよし)、ほとほと古(ふる)きにも立(た)ち勝(まさ)りてや侍らん。此(こ)の度(たび)の御歌合(うたあはせ)、大方(おほかた)、いづれと無(な)く打(う)ち見(み)渡(わた)して、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(え)り出(い)でさせ給(たま)ひしかば、各(おのおの)むらむらにぞ侍(はべ)りける。吉水(よしみづ)の僧正慈円と聞(き)こえし、又類(たぐひ)無(な)き歌聖(ひじり)にていましき。それだに四首ぞ入(い)り給(たま)ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。此(こ)の僧正、世(よ)にもいと重(おも)く、山(やま)の座主にて物(もの)し給(たま)ふ事(こと)も年(とし)久(ひさ)しかりし其(そ)の程(ほど)に、止(や)む事(ごと)無(な)き高名数(かず)知(し)らず御座(おは)せしかば、崇(あが)められ給(たま)ふ様(さま)も、二(に)無(な)く物(もの)し給(たま)ひしかど、猶(なほ)、飽(あ)かず思(おぼ)す事(こと)や有(あ)りけん。院に
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奉(たてまつ)られける長歌(ながうた)、
さても如何(いか)に鷲(わし)のみ山(やま)の月の影(かげ)鶴(つる)の林(はやし)に入(い)りしより経(へ)にける年を数(かぞ)ふれば二千年(ふたちとせ)をも過(す)ぎ果(は)てて後(のち)の五(いつ)つの百年(ももとせ)になりにけるこそ悲(かな)しけれあはれ御法(みのり)の水(みづ)泡(あは)の消(き)え行(ゆ)く頃(ころ)になりぬればそれに心を澄(す)ましてぞ我(わ)が山川に沈(しづ)み行(ゆ)く心争(あらそ)ふ法(のり)の師は我(われ)も我(われ)もと青柳(あをやぎ)のいと所(ところ)せく乱(みだ)れきて花も紅葉(もみぢ)も散(ち)り行(ゆ)けば梢(こずゑ)跡無(な)きみ山辺の道(みち)に惑(まど)ひて過(す)ぎながら一人(ひとり)心をとどむるもかひもなぎさの志賀(しが)の浦(うら)跡(あと)垂(た)れましし日吉(ひよし)のや神のめぐみを頼(たの)めども人の願(ねが)ひをみつかはの流(なが)れも浅(あさ)くなりぬべし峰(みね)の聖(ひじり)の住処(すみか)さえ苔(こけ)の下(した)にぞ埋(う)もれ行(ゆ)く打(う)ち払(はら)ふべき人もがなあなうの花の世の中(なか)や春の夢路(ゆめぢ)は空(むな)しくて秋の梢(こずゑ)を思(おも)ふより冬の雪をも誰(たれ)か問(と)ふかくてや今(いま)はあと絶(た)えむと思(おも)ふからにくれはとり怪(あや)しき夜(よる)の我(わ)が思(おも)ひ消(き)えぬばかりを頼(たの)みきて猶(なほ)さりともと花の香(か)にしひて心を
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筑波山(つくばやま)繁(しげ)き歎(なげ)きの根(ね)を尋(たづ)ね沈(しづ)む昔(むかし)の魂(たま)を問(と)ひ救(すく)ふ心(こころ)は深(ふか)くして勤(つと)め行(ゆ)くこそあはれなれ深山(みやま)の鐘(かね)をつくづくと我(わ)が君が世を思(おも)ふにも峰(みね)の松風(まつかぜ)のどかにて千世に千年(ちとせ)をそふる程(ほど)法(のり)のむしろの花の色(いろ)野にも山(やま)にも匂(にほ)いてぞ人を渡(わた)さむはしとしてしばし心をやすむべき遂(つひ)には如何(いかが)飛鳥川(あすかがは)あすより後や我(わ)が立(た)ちし杣(そま)のたつきの響(ひび)きより峰(みね)の朝霧(あさぎり)晴(は)れのきて曇(くも)らぬ空に立(た)ち帰(かへ)るべき
返歌(かへしうた)
さりともと思(おも)ふ心ぞ猶(なほ)深(ふか)き絶(た)えて絶(た)え行(ゆ)く山川の水
定家(ていか)の中将(ちゆうじやう)、折節(をりふし)御前に候(さぶら)ひければ、此(こ)の返(かへ)しせよとて、さし給(たま)はするに、いと疾(と)く書(か)きて、御覧(ごらん)ぜさせけり。
久方(ひさかた)の天地(あめつち)ともに限(かぎ)り無(な)き天(あま)つ日つぎを誓(ちか)ひてし神諸共(もろとも)にまもれとて我(わ)が立(た)つ杣(そま)を祈(いの)りつつ昔(むかし)の人のしめてける峰の杉むら色かへず幾(いく)年々(としどし)を隔(へだ)つとも八重の白雲(しらくも)ながめ遣(や)る都(みやこ)の春をとなりにて御法(のり)の花も
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衰(おとろ)へず匂(にほ)はん物と思(おも)ひおきし末葉(すゑば)の露も定(さだ)め無(な)きかやが下葉(したば)に乱(みだ)れつつもとの心のそれならぬうきふし繁(しげ)き呉竹(くれたけ)になく音をたつる鴬(うぐひす)のふるすは雪(ゆき)にあらしつつ跡絶(た)えぬべき谷(たに)がくれこりつむ歎(なげ)き椎柴(しひしば)のしひて昔(むかし)にかへされぬ葛(くず)のうら葉は恨(うら)むとも君は三笠(みかさ)の山高(たか)み雲井の空にまじりつつ照(てる)日(ひ)を世々(よよ)に助(たす)けこし星(ほし)の宿(やど)りを振(ふ)り捨(す)てて一人(ひとり)出(い)でにし鷲(わし)の山(やま)よにも稀(まれ)なるあととめて深(ふか)き流(なが)れに結(むす)ぶてふ法(のり)の清水(しみづ)の底(そこ)澄(す)みて濁(にご)れる世(よ)にも濁(にご)り無し沼(ぬま)の葦間(あしま)に影(かげ)宿(やど)す秋の半(なか)ばの月なれば猶(なほ)山(やま)の端(は)を行(ゆ)きめぐり空吹(ふ)く風(かぜ)を仰(あふ)ぎても空(むな)しくなさぬ行(ゆ)く末(すゑ)をみつの川波(かはなみ)立(た)ち返(かへ)り心のやみをはるくべき日吉(ひよし)の御影(かげ)のどかにて君を祈(いの)らん万世(よろづよ)に千代を重(かさ)ねて松が枝(え)を翼(つばさ)にならす鶴(つる)の子の譲(ゆづ)る齢(よはひ)は和歌(わか)の浦(うら)や今(いま)は玉藻(たまも)をかきつめて例(ためし)もなみに磨(みが)きおく我(わ)が道(みち)までも絶(た)えせずば言(こと)の葉ごとの色々(いろいろ)に後見(み)む人も恋(こ)ひざらめかも
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反歌(はんか)
君を祈(いの)る心深(ふか)くは頼(たの)むらん絶(た)えては更(さら)に山川の水
新院も、のどかに御座(おは)します儘(まま)に、御歌をのみ詠(よ)ませ給(たま)へど、万(よろづ)の事、もて出(い)でぬ御本性(ごほんじやう)にて、人々(ひとびと)など集(あつ)めて、わざとある様(さま)をば好(この)ませ給(たま)はず。建保の頃、内々(うちうち)百首(ひやくしゆ)の御歌詠(よ)み給(たま)へりしを、家隆(いへたか)の三位、又定家(ていか)の治部卿のもとなどへ、言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き児(ちご)の詠(よ)めるとて、遣(つか)はして見(み)せられしに、いづれもめでたく様々(さまざま)なる中(なか)に、懐旧の御歌に、
秋の色を送(おく)り迎(むか)へて雲の上になれにし月も物忘(わす)れすな
とある所に、定家(ていか)の君驚(おどろ)き畏(かしこ)まりて、裏書(うらがき)に、「あさましく計(はか)られ奉(たてまつ)りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思(おも)ふらめ古(ふる)き涙も忘(わす)られぬ世(よ)に
と奏(そう)せられたり。院も縁(えん)有(あ)りて御覧(ごらん)ずべし。げに如何(いかが)御心(おんこころ)動(うご)かずしも御座(おは)しまさむとぞ、〔其(そ)の〕世の事忝(かたじけな)くなむ。今(いま)も少(すこ)し、世の中(なか)隔(へだ)たれる様(さま)にてのみ御座(おは)しますこそ、いといとほしき御有様(おんありさま)なめれとぞ。
増鏡 尾張徳川家本
第二 新島守(にひしまもり)
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猛(たけ)き武士(もののふ)の起(お)こりを尋(たづ)ぬれば、古(いにしへ)の田村、利仁など言(い)ひけん将軍共(ども)の事(こと)は、耳遠(みみどほ)ければ差(さ)し置(お)きぬ。其(そ)のかみより今(いま)まで、源平(げんぺい)の二流(ふたなが)れぞ、時(とき)により折(をり)に従(したが)ひて、公(おほやけ)の御守(まも)りとは成(な)りにける。桓武天皇と聞(き)こえし御門(みかど)をば、柏原(かしはばら)とも申(まう)しけり。其(そ)の御子に式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)と聞(き)こえしより五代の末(すゑ)に、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)と言(い)ふ人、維衡(これひら)・維時(これとき)とて、二人(ふたり)の子を持(も)たりけり。間近(まぢか)く栄(さか)えし西八条の清盛の大臣(おとど)は、彼(か)の太郎維衡(これひら)より六代の末(すゑ)なりき。其(そ)の一(ひと)つ門(かど)亡(ほろ)びしかば、此(こ)の頃(ごろ)は、僅(わづ)かにあるか無(な)きかにぞ、さまよふめる。さて彼(か)の維時が名残(なごり)は、ひたすら民と成(な)りて、平四郎時政と言(い)ふ者(もの)のみぞ、伊豆(いづ)の国北条の郡(こほり)とかやにあ(ン)める。それも維時には六代の末(すゑ)なるべし。又(また)源氏武者と言(い)ふも、清和の御門(みかど)、あるは宇多院(うだのゐん)などの御後(おんのち)共(ども)なり。二条院の御時、平治の乱(みだ)れに、伊豆の国(くに)蛭(ひる)が島へ流(なが)されし兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、清和の御門(みかど)より八代の流(なが)れ、六条の判官(はうぐわん)為義(ためよし)と言(い)ひし者(もの)の孫なり。左馬頭(さまのかみ)義朝が三郎になむ有(あ)りける。西八条の入道大臣(おとど)、漸(やうや)う栄花衰(おとろ)へんとて、後白河院(ごしらかはのゐん)を悩(なや)まし奉(たてまつ)りしかば、安(やす)からず思(おも)ほされて、彼(か)の頼朝を召(め)し出(い)でて、軍(いくさ)を起(おこ)し給(たま)ひしに、然(しか)るべき時(とき)や至(いた)りけむ、平家の人々(ひとびと)は、寿永の秋の木枯(こがら)しに散(ち)り果(は)てて、遂(つひ)にわたつ海(うみ)の底(そこ)のもくづと沈(しづ)みにし後、いよいよ頼朝権(けん)を施(ほどこ)して、更(さら)に君の御後見(おんうしろみ)を仕(つかうまつ)る。相模(さがみ)の国鎌倉(かまくら)の里(さと)と言(い)ふ所に居(を)りながら、世(よ)をば掌(たなごころ)の中(なか)に思(おも)ひき。皆人(みなひと)知(し)り給(たま)へる事(こと)なれば、今更(いまさら)に申(まう)すも中々なれど、院の上(うへ)、位につか
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せ給(たま)ひし始(はじ)めより、世(よ)の固(かた)めと成(な)りて、文治元年(ぐわんねん)四月、二の階(はし)を上(のぼ)りしも、八島(やしま)の内の大臣(おとど)宗盛を生捕(いけど)りの賞と聞(き)こえき。建久の初(はじ)めつ方(かた)、都に上(のぼ)る。其(そ)の勢(いきほ)ひのいかめしき事(こと)、言(い)へば更(さら)なり。道すがら遊(あそ)び者(もの)共(ども)参(まゐ)る。遠江(とほたふみ)の国(くに)橋本(はしもと)の宿に着(つ)きたるに、例(れい)の遊女、多(おほ)くえも言(い)はず装束(さうぞ)きて参(まゐ)れり。頼朝打(う)ちほほゑみて、
橋本(はしもと)の君に何(なに)をか渡(わた)すべき
と言(い)へば、梶原(かぢはら)平三影時(かげとき)と言(い)ふ武士、取(と)り敢(あ)へず、
只(ただ)杣山(そまやま)のくれで有(あ)らばや W
いとあいだちなしや。馬(うま)鞍(くら)紺(こん)括(くく)り物(もの)など運(はこ)び出(い)でて引(ひ)けば、喜(よろこ)び騒(さわ)ぐ事限(かぎ)り無(な)し。其(そ)の年(とし)十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼(か)ねたり。十二月(しはす)の一日(ついたち)頃(ごろ)、喜(よろこ)び申(まう)しして、同(おな)じき四日、やがて官(つかさ)をば返(かへ)し奉(たてまつ)る。此(こ)の時(とき)ぞ、諸国の総追捕使(そうついぶくし)と言(い)ふ事承(うけたまは)りて、地頭職(ぢとうしき)に、我(わ)が家の兵(つはもの)共(ども)をなし集(あつ)めける。此(こ)の日本国の衰(おとろ)ふる初(はじ)めは、是(これ)よりなるべし。さて東(あづま)に帰(かへ)り下(くだ)る頃(ころ)、上下色々(いろいろ)のぬさ多(おほ)かりし中(なか)に、年頃も祈(いの)りなどし給(たま)ひし吉水(よしみづ)の僧正、彼(か)の長歌(ながうた)の座主、宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。
東路(あづまぢ)の方(かた)に勿来(なこそ)の関の名(な)は君を都に住(す)めとなりけり W
御返(かへ)し、頼朝、
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都(みやこ)には君に相坂(あふさか)近(ちか)ければ勿来(なこそ)の関は遠(とほ)きとを知(し)れ W
其(そ)の後(のち)も、又(また)上(のぼ)りて、東大寺の供養にも詣(まう)でたりき。かくて新院御位の初(はじ)めつ方(かた)、正治元年(ぐわんねん)正月、東(あづま)にて頭(かしら)下(お)ろして、同(おな)じ十三日に、年五十三にて隠(かく)れにけり。治承四年より天(あめ)の下(した)に用(もち)ゐられて、二十年(はたとせ)ばかりや過(す)ぎぬらん。北(きた)の方(かた)は、先(さき)に聞(き)こえつる北条の四郎時政が娘(むすめ)なり。其(そ)の腹(はら)に男(をのこ)二人(ふたり)有(あ)り。太郎をば頼家と言(い)ふ。弟(おとうと)をば実朝と聞(き)こゆ。大将隠(かく)れて後(のち)、兄(あに)はやがて立(た)ち継(つ)ぎて、建仁元年(ぐわんねん)六月二十二日従二位、同(おな)じ日、将軍の宣旨を賜(たま)はる。又(また)の年(とし)、左衛門督になさる。かかれども、少(すこ)し落(お)ち居(ゐ)ぬ心ばへなど有(あ)りて、漸(やうや)う兵(つはもの)も背(そむ)き背(そむ)きにぞ成(な)りにける。時政は遠江守(とほたふみのかみ)と言(い)ひて、故(こ)大将の有(あ)りし時(とき)より私(わたくし)の後見(うしろみ)なりしを、まいて今(いま)は孫の世(よ)なれば、いよいよ身重(おも)く勢(いきほ)ひそふ事限(かぎ)り無(な)くて、うけばりたる様(さま)なり。子二人(ふたり)有(あ)り。太郎は宗時と言(い)ふ。二郎(じらう)義時と言(い)ふは、心(こころ)も猛(たけ)く魂(たましひ)勝(まさ)れるが、左衛門督をばふさはしからず思(おも)ひて、弟(おとうと)の実朝の君に付(つ)き従(したが)ひて、思(おも)ひかまふる事(こと)なども有(あ)りけり。督(かみ)は、日に添(そ)へて人にも背(そむ)けられ行(ゆ)くに、いといみじき病(やまひ)をさへして、建仁三年九月十六日、年(とし)二十二にて頭(かしら)下(お)ろす。世(よ)の中(なか)残(のこ)り多(おほ)く、何事(なにごと)もあたらしかるべき程(ほど)なれば、さこそ口惜(くちを)しかりけめ。幼(をさな)き子の一万と言(い)ふにぞ、世(よ)をば譲(ゆづ)りけれど、うけひく者(もの)無(な)し。入道は、彼(か)の病(やまひ)つくろはんとて、鎌倉より伊豆(いづ)の国へ出(い)で湯(ゆ)あびに越(こ)えたりける
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程(ほど)に、彼処(かしこ)の修善寺と言(い)ふ所(ところ)にて、遂(つひ)に討(う)たれぬ。一万もやがて失(うしな)はれけり。是(これ)は、実朝と義時と、一(ひと)つ心(こころ)にてたばかりけるなるべし。さて、今(いま)は偏(ひとへ)に、実朝、故(こ)大将の跡(あと)をうけ継(つ)ぎて、官(つかさ)・位(くらゐ)とどこほる事無(な)く、万(よろづ)心(こころ)の儘(まま)なり。建保元年(ぐわんねん)二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏作(つく)れる賞とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。同(おな)じ六年、権大納言に成(な)りて、左大将を兼(か)ねたり。左馬寮をさへぞ付(つ)けられける。其(そ)の年(とし)やがて内大臣に成(な)りても、猶(なほ)大将ももとの儘(まま)なり。父(ちち)にもやや立(た)ち勝(まさ)りていみじかりき。此(こ)の大臣(おとど)は、大方(おほかた)、心ばへうるはしく、猛(たけ)くもやさしくも、万(よろづ)目(め)安(やす)ければ、理(ことわり)にも過(す)ぎて、武士(もののふ)の靡(なび)き従(したが)ふ様(さま)も代々に越(こ)えたり。如何(いか)なる時(とき)にか有(あ)りけむ、
山(やま)はさけ海はあせなん世(よ)なりとも君に二心我(わ)が有(あ)らめやも W
とぞ詠(よ)みける。時政は建保三年隠(かく)れにしかば、義時は跡(あと)を継(つ)ぎけり。故(こ)左衛門督の子にて公暁(くげう)と言(い)ふ大徳(だいとこ)有(あ)り。親(おや)の討(う)たれにし事(こと)を、如何(いか)でか安(やす)き心有(あ)らん。如何(いか)ならむ時(とき)〔に〕かとのみ思(おも)ひ渡(わた)るに、此(こ)の大臣、又(また)右大臣に上(あ)がりて、大饗(たいきやう)など、珍(めづら)しく東(あづま)にて行(おこな)ふ。京より尊者を始(はじ)め上達部(かんだちめ)・殿上人多(おほ)く訪(とぶら)ひいましけり。さて、鎌倉(かまくら)に移(うつ)し奉(たてまつ)れる八幡(はちまん)の御社(みやしろ)に、神拝に詣(まう)づる、いといかめしき響(ひび)きなれば、国々の武士(ぶし)は更(さら)にも言(い)はず、都(みやこ)の人々(ひとびと)も扈従(こせう)し〔たり〕けり。立(た)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る者(もの)、見(み)る人も多(おほ)かる中(なか)に、彼(か)の大徳(だいとこ)、打(う)ち紛(まぎ)れ
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て、女(をんな)のまねをして、白(しろ)き薄衣(うすぎぬ)引(ひ)き折(を)り、大臣(おとど)の車より降(お)るる程(ほど)を、差(さ)しのぞく様(やう)にぞ見(み)えける。あやまたず首(くび)を打(う)ち落(お)としぬ。其(そ)の程(ほど)のとよみいみじさ、思(おも)ひ遣(や)りぬべし。かく言(い)ふは、承久元年(ぐわんねん)正月二十七日なり。そこら集(つど)ひ集(あつ)まれる者(もの)共(ども)、只(ただ)あきれたるより外(ほか)の事無(な)し。京にも聞(き)こし召(め)し驚(おどろ)く。世(よ)の中(なか)火を消(け)ちたる様(さま)なり。扈従(こせう)に西園寺の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実氏も下(くだ)り給(たま)ひき。さならぬ人々(ひとびと)も、泣(な)く泣(な)く袖を絞(しぼ)りてぞ上(のぼ)りける。未(いま)だ子も無(な)ければ、立(た)ち継(つ)ぐべき人も無(な)し。事鎮(しづ)まりなん程(ほど)とて、故(こ)大臣(おとど)の母(はは)北(きた)の方(かた)二位殿と言(い)ふ人、二人(ふたり)の子をも失(うしな)ひて、涙(なみだ)ほす間(ま)も無(な)く、しをれ過(す)ぐすをぞ、将軍に用(もち)ゐける。かくてもさのみは如何(いかが)にて、君達(きんだち)一所(ひとところ)下(くだ)し聞(き)こえて、将軍になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と、公経の大臣(おとど)に申(まう)し上(のぼ)せければ、あへなんと思(おぼ)す所(ところ)に、九条の左大臣殿の上(うへ)は、此(こ)の大臣(おとど)の御娘(むすめ)なり。其(そ)の御腹(おんはら)の若君(わかぎみ)、二(ふた)つに成(な)り給(たま)ふを、下(くだ)し聞(き)こえんと、九条殿宣(のたま)へば、御孫ならんも同(おな)じ事(こと)と思(おぼ)し定(さだ)め給(たま)ひぬ。其(そ)の年(とし)の六月に、東(あづま)に率(ゐ)て奉(たてまつ)る。七月十九日に御座(おは)しまし着(つ)きぬ。むつきの内(うち)の御有様(おんありさま)は、只(ただ)形代(かたしろ)などを祝(いは)ひたらん様(やう)にて、万(よろづ)の事(こと)、さながら右京権大夫(ごんのだいぶ)義時の朝臣心(こころ)の儘(まま)なれど、一の人の御子、将軍に成(な)り給(たま)へるは、是(これ)ぞ初(はじ)めなるべき。彼(か)の平家の亡(ほろ)びがた近(ちか)く、人の夢に、「頼朝が後(のち)は、其(そ)の御太刀(たち)預(あづ)かるべし」と、春日(かすが)大明神仰(おほ)せられけるは、此(こ)の今(いま)の若君(わかぎみ)の御事(こと)にこそ有(あ)りけめ。かくて世(よ)を靡(なび)かし、
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したため行(おこな)ふ事(こと)も、ほとほと古(ふる)きには越(こ)えたり。まめやかにめざましき事(こと)も多(おほ)く成(な)り行(ゆ)くに、院の上(うへ)、忍(しの)びて思(おぼ)し立(た)つ事(こと)あるべし。近(ちか)く仕(つかうまつ)る上達部・殿上人、まいて北面の下臈(げらふ)・西面(にしおもて)など言(い)ふも、皆(みな)此(こ)の方(かた)にほのめきたるは、あけくれ弓矢(ゆみや)兵仗(ひやうぢやう)の営(いとな)みより外(ほか)の事無(な)し。剣(つるぎ)などを御覧じ知(し)る事(こと)さへ、如何(いか)で習(なら)はせ給(たま)へるにか、道の者にもやや立(た)ち勝(まさ)りて、賢(かしこ)く御座(おは)しませば、御前にて良(よ)きあしきなど定(さだ)めさせ給(たま)ふ。斯様(かやう)の紛(まぎ)れにて、承久も三年に成(な)りぬ。四月二十日、御門降(お)りさせ給(たま)ふ。春宮四(よ)つにならせ給(たま)ふに譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。近頃(ちかごろ)、皆(みな)此(こ)の御齢(おんよはひ)にて受禅有(あ)りつれば、是(これ)もめでたき御行(ゆ)く末(すゑ)ならんかし。同(おな)じ二十三日、院号の定(さだ)め有(あ)りて、今(いま)降(お)りさせ給(たま)へるを、新院と聞(き)こゆれば、御兄(あに)の院をば中(なか)の院(ゐん)と申(まう)し、父(ちち)御門をば本院とぞ聞(き)こえさする。此(こ)の程(ほど)は、家実の大臣(おとど)関白にて御座(おは)しつれど、御譲位の時(とき)、左大臣道家の大臣(おとど)、摂政に成(な)り給(たま)ふ。彼(か)の東(あづま)の若君(わかぎみ)の御父(ちち)なり。さても院の思(おぼ)し構(かま)ふる事(こと)、忍(しの)ぶとすれど、漸(やうや)う漏(も)れ聞(き)こえて、東(ひんがし)様(ざま)にも、其(そ)の心(こころ)遣(づか)ひすべかんめり。東(あづま)の代官にて伊賀(いが)の判官光季(みつすゑ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。かつがつ彼(かれ)を御勘事(かうじ)の由(よし)仰(おほ)せらるれば、御方(みかた)に参(まゐ)る兵(つはもの)共(ども)押(お)し寄(よ)せたるに、逃(の)がるべきやう無(な)くて、腹(はら)切(き)りてけり。先(ま)づいとめでたしとぞ、院は思(おぼ)し召(め)しける。東(あづま)にも、いみじうあわて騒(さわ)ぐ。「然(さ)るべくて身の失(う)すべき時(とき)にこそあんなれ」と思(おも)ふ物(もの)から、
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「討手(うつて)の攻(せ)め来(き)たりなん時(とき)に、はかなき様(さま)にて屍(かばね)をさらさじ、公(おほやけ)と聞(き)こゆとも、自(みづか)らし給(たま)ふ事(こと)ならねば、かつは我(わ)が身の宿世(しゆくせ)をも見(み)るばかり」と思(おも)ひ成(な)りて、弟(おとうと)の時房(ときふさ)と泰時と言(い)ふ一男と、二人(ふたり)を頭(かしら)として、雲霞の兵(つはもの)をたなびかせて、都(みやこ)に上(のぼ)す。泰時を前(まへ)に据(す)ゑて言(い)ふやう、「己(おのれ)を此(こ)の度(たび)都(みやこ)に参(まゐ)らする事(こと)は、思(おも)ふ所(ところ)多(おほ)し。本意の如(ごと)く清(きよ)き死をすべし。人に後(うし)ろ見(み)えなんには、親(おや)の顔(かほ)、又(また)見(み)るべからず。今(いま)を限(かぎ)りと思(おも)へ。賎(いや)しけれども、義時、君(きみ)の御為(ため)に後(うし)ろめたき心(こころ)やはある。然(さ)れば、横(よこ)さまの死をせん事(こと)はあるべからず。心(こころ)を猛(たけ)く思(おも)へ。己(おのれ)打(う)ち勝(か)つならば、二度(ふたたび)此(こ)の足柄(あしがら)・箱根山(はこねやま)は越(こ)えつべし」など、泣(な)く泣(な)く言(い)ひ聞(き)かす。「誠(まこと)にしかなり。又(また)親(おや)の顔(かほ)拝(をが)まむ事(こと)もいと危(あや)ふし」と思(おも)ひて、泰時も鎧(よろひ)の袖を絞(しぼ)る。形見(かたみ)に今(いま)や限(かぎ)りと哀(あは)れに心(こころ)細(ぼそ)げなり。かくて打(う)ち出(い)でぬる又(また)の日、思(おも)ひ掛(か)けぬ程(ほど)に、泰時只(ただ)一人(ひとり)、鞭(むち)を上(あ)げて馳(は)せ来(き)たり。父(ちち)、胸(むね)打(う)ち騒(さわ)ぎて、「如何(いか)に」と問(と)ふに、「軍(いくさ)のあるべき様(やう)、大方(おほかた)の掟(おきて)などは、仰(おほ)せの如(ごと)く其(そ)の心(こころ)を得(え)侍(はべ)りぬ。もし道の辺(ほとり)にも、計(はか)らざるに、忝(かたじけな)く鳳輦(ほうれん)を先(さき)立(だ)てて、御旗(はた)を上(あ)げられ、臨幸(りんかう)の厳重(げんぢゆう)なる事(こと)も侍らんに参(まゐ)りあへらば、其(そ)の時(とき)の進退(しんだい)は如何(いかが)侍(はべ)るべからん。此(こ)の一事(いちじ)を尋(たづ)ね申(まう)さんとて、一人(ひとり)馳(は)せ侍(はべ)りき」と言(い)ふ。義時、とばかり打(う)ち案(あん)じて、「賢(かしこ)くも問(と)へる男(をのこ)かな。其(そ)の事(こと)なり。まさに君の御輿(こし)に向(むか)ひて弓を引(ひ)く事(こと)は、如何(いかが)有(あ)らん。さばかりの時(とき)は、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ弓の弦(つる)を切(き)りて、偏(ひとへ)に畏(かしこ)まりを
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申(まう)して、身を任(まか)せ奉(たてまつ)るべし。さは有(あ)らで、君は都(みやこ)に御座(おは)しましながら、軍兵を賜(たま)はせば、命を捨(す)てて千人が一人になるまでも戦(たたか)ふべし」と、言(い)ひも果(は)てぬに急(いそ)ぎ立(た)ちにけり。都(みやこ)にも思(おぼ)し設(まう)けつる事無(な)ければ、武士(もののふ)共(ども)召(め)しつどへ、宇治・勢多の橋(はし)ひかせて、敵(かたき)を防(ふせ)くべき用意(ようい)、心(こころ)異(こと)なり。公経の大将一人(ひとり)のみなむ、御孫の事(こと)も然(さ)る事(こと)にて、北(きた)の方(かた)は、一条の中納言能保(よしやす)と言(い)ふ人の娘(むすめ)なり。其(そ)の母(はは)北(きた)の方(かた)は、故(こ)大将のはらからなれば、一方(ひとかた)ならず東(あづま)を重(おも)く思(おぼ)して、さしいらへもせず、院の御心(おんこころ)の軽(かろ)き事(こと)と、危(あぶ)ながり給(たま)ふ。七条院の御縁(ゆかり)の殿原、坊門(ばうもん)の大納言忠信・尾張(をはり)の中将(ちゆうじやう)清経(きよつね)・中御門(なかみかど)の大納言宗家、又(また)修明門院の御はらからの甲斐(かひ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)範茂など、次々(つぎつぎ)数多(あまた)聞(き)こゆれど、さのみはしるし難(がた)し。軍(いくさ)に交(ま)じり立(た)つ人々(ひとびと)、此(こ)の外(ほか)上達部にも殿上人にも、数多(あまた)有(あ)りき。御修法(みしゆほふ)共(ども)数(かず)知(し)らず行(おこな)はる。止(や)む事(ごと)無(な)き顕密の高僧も、斯(か)かる時(とき)こそ頼(たの)もしき業(わざ)ならめ。各(おのおの)心(こころ)を致(いた)して仕(つかうまつ)る。御自(みづか)らもいみじう念ぜさせ給(たま)ふ。日吉(ひよし)の社に忍(しの)びて詣(まう)でさせ給(たま)へり。大宮(おほみや)の御前に、夜もすがら御念誦(ねんず)し給(たま)ひて、御心(おんこころ)の内(うち)に、いかめしき願共(ども)を立(た)てさせ給(たま)ふ。夜少(すこ)し更(ふ)け鎮(しづ)まりて、御社(みやしろ)すごく、燈籠(とうろ)の光(ひかり)かすかなる程(ほど)に、幼(をさな)き童(わらは)の臥(ふ)したりけるが、俄(にはか)におびえ上(あ)がりて、院の御前に只(ただ)参(まゐ)りに走(はし)り参(まゐ)りて、託宣(たくせん)しけり。「忝(かたじけな)くもかく渡(わた)り御座(おは)して、愁(うれ)へ給(たま)へば、聞(き)き過(す)ごし難(がた)く侍れど、一とせの輿振(こしふ)りの時(とき)、情(なさ)け無(な)く防(ふせ)がせ
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給(たま)ひしかば、衆徒己(おのれ)を恨(うら)みて、陣の辺(ほとり)に振(ふ)り捨(す)て侍(はべ)りしかば、空(むな)しく馬牛の蹄(ひづめ)に掛(か)かりし事(こと)は、未(いま)だ恨(うら)めしく思(おも)ひ給(たま)ふるにより、此(こ)の度(たび)の御方人(かたうど)は、え仕(つかうまつ)り侍(はべ)るまじ。七社の神殿を、黄金(こがね)白銀(しろがね)に磨(みが)きなさんと承(うけたまは)るも、もはら受(う)け侍らぬなり」と罵(ののし)りて、息(いき)も絶(た)えぬる様(さま)にて臥(ふ)しぬ。聞(き)こし召(め)す御心地(ここち)、物(もの)に似(に)ずあさましう思(おぼ)さるるに、只(ただ)御涙(なみだ)のみぞ出(い)で来(く)る。過(す)ぎにし方(かた)悔(くや)しう取(と)り返(かへ)さまほし。様々(さまざま)怠(おこた)り畏(かしこ)まり申(まう)させ給(たま)ふ。山(やま)の御輿(こし)防(ふせ)き奉(たてまつ)りけん事(こと)、必(かなら)ずしも自(みづか)ら思(おぼ)し寄(よ)るには有(あ)らざりけめど、「責(せ)め一人に」と言(い)ふらん事(こと)にやと、あぢきなし。中(なか)の院(ゐん)は、あかで位をすべり給(たま)ひしより、言(こと)に出(い)でてこそ物(もの)し給(たま)はねど、世(よ)のいと心(こころ)やましき儘(まま)に、斯様(かやう)の御騒(さわ)ぎにも、殊(こと)にまじらひ給(たま)はざ(ン)めり。新院は、同(おな)じ御心(おんこころ)にて、万(よろづ)軍(いくさ)の事(こと)なども掟(おきて)仰(おほ)せられけり。いつの年(とし)よりも五月雨(さみだれ)晴(は)れ間(ま)無(な)くて、富士川(ふじがは)・天龍など、えも言(い)はずみなぎり騒(さわ)ぎて、如何(いか)なる龍馬(りゆうめ)も打(う)ち渡(わた)し難(がた)ければ、攻(せ)め上(のぼ)る武士(ぶし)共(ども)も、怪(あや)しく悩(なや)めり。かかれども、遂(つひ)に都近(ちか)づく由(よし)、聞(き)こゆれば、君の御武者も出(い)で立(た)つ。其(そ)の勢(いきほ)ひ、六万余騎とかや。宇治(うぢ)・勢多(せた)へ分(わ)かち遣(つか)はす。世(よ)の中(なか)響(ひび)き罵(ののし)る様(さま)、言(こと)の葉(は)も及(およ)ばず学(まね)び難(がた)し。あるは、深(ふか)き山(やま)へ逃(に)げ籠(こも)り、遠(とほ)き世界(せかい)に落(お)ち下(くだ)り、すべて安(やす)げ無(な)く騒(さわ)ぎ満(み)〔ち〕たり。「如何(いかが)有(あ)らん」と君も御心(おんこころ)乱(みだ)れて思(おぼ)し惑(まど)ふ。予(かね)ては猛(たけ)く見(み)えし人々(ひとびと)も、誠(まこと)の際(きは)に成(な)りぬれば、いと心(こころ)あわただしく、色を失(うしな)ひたる様(さま)共(ども)、頼(たの)もしげ無(な)し。
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六月二十日余(あま)りにや、いくばくの戦(たたか)ひだに無(な)くて、遂(つひ)に御方(みかた)の軍(いくさ)敗(やぶ)れぬ。荒(あら)き磯(いそ)に高潮(たかしほ)などの差(さ)し来(く)る様(やう)にて、泰時と時房(ときふさ)と、乱(みだ)れ入(い)りぬれば、言(い)はん方(かた)無(な)くあきれて、上下只(ただ)物(もの)にぞあたり惑(まど)ふ。東(あづま)より言(い)ひおこする儘(まま)に、彼(か)の二人(ふたり)の大将軍計(はか)らひ掟(おき)てつつ、保元の例(ためし)にや、院の上、都の外(ほか)に移(うつ)し奉(たてまつ)るべしと聞(き)こゆれば、女院・宮々、所々(ところどころ)に思(おぼ)し惑(まど)ふ事更(さら)なり。本院は隠岐(おき)の国に御座(おは)しますべければ、先(ま)づ鳥羽殿へ、網代車(あじろぐるま)の怪(あや)しげなるにて、七月六日入(い)らせ給(たま)ふ。今日(けふ)を限(かぎ)りの御歩(あり)き、あさましう哀(あは)れなり。「物(もの)にもがな」と思(おぼ)さるるも甲斐(かひ)無(な)し。其(そ)の日やがて御髪(みぐし)下(お)ろす。御年(おんとし)四十に一二や余(あま)らせ給(たま)ふらん。まだいとほしかるべき御程(ほど)なり。信実(のぶざね)の朝臣召(め)して、御姿(すがた)写(うつ)しかかせらる。七条院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)はんとなり。かくて、同(おな)じ十三日に御船(ふね)に奉(たてまつ)りて、給(たま)ふ。遙(はる)かなる波路をしのぎ御座(おは)します御心地(ここち)、此(こ)の世(よ)の同(おな)じ御身とも思(おぼ)されず。〔古(いにしへ)、〕如何(いか)なりける代々の報(むく)ひにかと恨(うら)めしく、新院も佐渡国に移(うつ)らせ給(たま)ふ。誠(まこと)や七月九日、御門(みかど)をも下(お)ろし奉(たてまつ)りき。此(こ)の卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢の様(やう)なる七十余日にて降(お)り給(たま)へる例(ためし)も、是(これ)や初(はじ)めなるらん。唐土(もろこし)にぞ、四十五日とかや位(くらゐ)に御座(おは)する例(れい)有(あ)りけると、唐(から)の書(ふみ)読(よ)みし人の言(い)ひし心地(ここち)する。それも斯様(かやう)の乱(みだ)れや有(あ)りけん。さて上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、それより下(しも)はた残(のこ)り無(な)く、此(こ)の事(こと)に触(ふ)れにし類(たぐひ)は、重(おも)く軽(かろ)く罪(つみ)にあたる様(さま)、いみじげなり。中(なか)の院(ゐん)
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は初(はじ)めより知(しろ)し召(め)さぬ事(こと)なれば、東(あづま)にもとがめ申(まう)さねど、父(ちち)の院、遙(はる)かに移(うつ)らせ給(たま)ひぬるに、のどかにて都に有(あ)らん事(こと)、いと恐(おそ)れ有(あ)りと思(おぼ)されて、御心(おんこころ)もて、其(そ)の年閏(うるふ)十月十日、土佐国の幡多(はた)と言(い)ふ所に渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。去年(こぞ)の二月(きさらぎ)ばかりにや、若宮(わかみや)出(い)で来(き)給(たま)へり。承明門院の御兄(せうと)に、通宗(みちむね)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)とて、若(わか)くて失(う)せ給(たま)ひにし人の娘(むすめ)の御腹(おんはら)なり。やがて、彼(か)の宰相の弟(おとうと)に、通方と言(い)ふ人の家に止(とど)め奉(たてまつ)り給(たま)ひて、近(ちか)く候(さぶら)ひける北面の下臈(げらふ)一人、召次(めしつぎ)などばかりぞ、御供(とも)仕(つかまつ)りける。いと怪(あや)しき御手輿(たごし)にて下(くだ)らせ給(たま)ふ。道(みち)すがら雪かき暗(くら)し風吹(ふ)き荒(あ)れ吹雪(ふぶき)して、来(こ)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)も見(み)えず、いと堪(た)へ難(がた)きに、御袖もいたく氷(こほ)りて、わりなき事多(おほ)かるに、
浮(う)き世(よ)にはかかれとてこそ生(う)まれけめ理(ことわり)知(し)らぬ我(わ)が涙かな W
せめて近(ちか)き程(ほど)にも、東(あづま)より奏(そう)したりければ、後には阿波(あは)の国に移(うつ)らせ給(たま)ひにき。さても、此(こ)の度(たび)世(よ)の有様(ありさま)、げにいとうたて口惜(くちを)しき業(わざ)なり。あるは、父の王を失(うしな)ふ例(ためし)だに、一万八千人まで有(あ)りけりとこそ、仏も説(と)き給(たま)ひたんめれ。まして、世下(くだ)りて後、唐土(もろこし)にも〔日の本(もと)にも、〕国を争(あらそ)ひて戦(たたか)ひをなす事(こと)、数(かぞ)へ尽(つ)くすべからず。それも皆(みな)、一節(ひとふし)二節(ふたふし)の寄(よ)せは有(あ)りけむ。もしは、筋(すぢ)異(こと)なる大臣、さらでも、公(おほやけ)ともなるべききざみの、少(すこ)しの違(たが)ひ目(め)に、世(よ)に隔(へだ)たりて、其(そ)の恨(うら)みの末(すゑ)などより、事起(お)こるなりけり。今(いま)のやうに、むげの民と争(あらそ)ひて、君の亡(ほろ)び給(たま)へる例(ためし)、
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此(こ)の国には、いと数多(あまた)も聞(き)こえざめる。然(さ)れば、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和の義親、いづれも皆(みな)猛(たけ)かりけれども、宣旨(せんじ)には勝(か)たざりき。保元に崇徳院の世(よ)を乱(みだ)り給(たま)ひしだに、故院の、御位にて打(う)ち勝(か)ち給(たま)ひしかば、天照大神(あまてるおほむかみ)も、御裳濯川(みもすそがは)の同(おな)じ流(なが)れと申(まう)しながら、猶(なほ)、時(とき)の国王を守(まも)り給(たま)はする事(こと)は、強(つよ)きなめりとぞ、古(ふる)き人々(ひとびと)も聞(き)こえし。又(また)、信頼の衛門督(ゑもんのかみ)、おほけなく二条院をおびやかし奉(たてまつ)りしも、遂(つひ)に、空(むな)しき屍(かばね)をぞ、道の辺(ほとり)に捨(す)てられける。かかれば、旧(ふ)りにし事(こと)を思(おも)ふにも、猶(なほ)さりとも、如何(いか)でか三皇今上数多(あまた)御座(おは)します皇城(わうじやう)の、徒(いたづ)らに亡(ほろ)ぶるやうは有(あ)らんと、頼(たの)もしくこそ覚(おぼ)えしに、かくいとあや無(な)き業(わざ)の出(い)で来(き)ぬるは、此(こ)の世一(ひと)つの事(こと)にも有(あ)らざめども、迷(まよ)ひの愚(おろ)かなる前(まへ)には、猶(なほ)いと怪(あや)し。四(よ)つにて位につき給(たま)ひて、十五年御座(おは)しましき。降(お)り給(たま)ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶(なほ)天(あめ)の下は同(おな)じ事(こと)なりしかば、すべて二十八年か程(ほど)、此(こ)の国の主(あるじ)として、万機の政(まつりごと)を御心(おんこころ)一(ひと)つにをさめ、百(もも)の官(つかさ)を従(したが)へ給(たま)へりし其(そ)の程(ほど)、吹(ふ)く風の草木を靡(なび)かすよりも優(まさ)れる御有様(おんありさま)にて、遠(とほ)きを哀(あは)れみ、近(ちか)きを撫(な)で給(たま)ふ御恵(めぐ)み、雨の脚(あし)よりも繁(しげ)ければ、津(つ)の国(くに)のこやの隙(ひま)無(な)き政(まつりごと)を聞(き)こし召(め)すにも、難波(なには)の葦(あし)の乱(みだ)れざらん事(こと)を思(おぼ)しき。藐姑射(はこや)の山(やま)の峰の松(まつ)も、漸(やうや)う枝を連(つら)ねて、千世(よ)に八千世(よ)を重(かさ)ね、霞(かすみ)の洞(ほら)の御すまひ、幾(いく)春をへても、空行(ゆ)く月日の限(かぎ)り知(し)らずのどけく御座(おは)しましぬべかりつる世(よ)を、ありありて、
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由(よし)無(な)き一節(ひとふし)に、今(いま)はかく花(はな)の都をさへ立(た)ち別(わか)れ、おのがちりぢりにさすらへ、磯(いそ)の苫屋(とまや)に軒(のき)を並(なら)べて、自(おの)づから言(こと)問(と)ふ者(もの)とては、浦(うら)に釣(つり)する海士小舟(あまをぶね)、塩(しほ)焼(や)く煙(けぶり)の靡(なび)く方(かた)をも、我(わ)が故郷(ふるさと)のしるべかとばかり、眺(なが)め過(す)ごさせ給(たま)ふ御住居(すまひ)共(ども)は、それまでと月日を限(かぎ)りたらんだに、明日(あす)知(し)らぬ世(よ)の後(うし)ろめたさに、いと心(こころ)細(ぼそ)かるべし。まして、いつを果(は)てとか、めぐりあふべき限(かぎ)りだに無(な)く、雲の波(なみ)煙(けぶり)の波の幾重(いくへ)とも知(し)らぬさかひに、代を尽(つ)くし給(たま)ふべき御様(さま)共(ども)、口惜(くちを)しと言(い)ふもおろか也(なり)。此(こ)の御座(おは)します所は、人離(はな)れ里遠(とほ)き島の中(なか)〔なり。海づら〕よりは少(すこ)し引(ひ)き入(い)りて、山陰(やまかげ)にかた添(そ)へて、大(おほ)きやかなる巌(いはほ)のそばだてるを便(たよ)りにて、松(まつ)の柱(はしら)に葦(あし)葺(ふ)ける廊(らう)など、気色(けしき)ばかり事そぎたり。誠(まこと)に、「柴(しば)の庵(いほり)の只(ただ)しばし」と、仮初(かりそめ)に見(み)えたる御宿(やど)りなれど、然(さ)る方(かた)に艶(なま)めかしく故(ゆゑ)づきてしなさせ給(たま)へり。水無瀬(みなせ)殿(どの)思(おぼ)し出(い)づるも夢のやうになん。遙々(はるばる)と見(み)遣(や)らるる海の眺望(てうばう)、二千里の外(ほか)も残(のこ)り無(な)き心地(ここち)する、今更(いまさら)めきたり。潮風(しほかぜ)のいとこちたく吹(ふ)き来(く)るを聞(き)こし召(め)して、
我(われ)こそは新島(にひじま)もりよ隠岐(おき)の海(うみ)の荒(あら)き波風(なみかぜ)心(こころ)して吹(ふ)け W
同(おな)じ世(よ)に又(また)すみの江の月や見(み)ん今日(けふ)こそ余所(よそ)に隠岐(おき)の島守(しまもり) W
年も返(かへ)りぬ。所々(ところどころ)浦(うら)々、哀(あは)れなる事(こと)をのみ思(おぼ)し歎(なげ)く。佐渡院、明(あ)けくれ御行(おこな)ひをのみし給(たま)ひつつ、猶(なほ)、さりともと思(おぼ)さる。隠岐(おき)には、浦より遠(をち)の遙々(はるばる)と霞(かす)み渡(わた)れる空を眺(なが)め入(い)り
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て、過(す)ぎにし方(かた)、かき尽(つ)くし思(おも)ほし出(い)づるに、行方(ゆくへ)無(な)き御涙(なみだ)のみぞ止(とど)まらぬ。
羨(うらや)まし長(なが)き日影の春にあひて潮(しほ)汲(く)む海士(あま)も袖やほすらん W
夏に成(な)りて、茅葺(かやぶ)きの軒端(のきば)に、五月雨の滴(しづく)いと所せきも、御覧(ごらん)じなれぬ御心地(ここち)に、様(さま)変(か)はりて珍(めづら)しく思(おぼ)さる。
あやめ吹(ふ)く茅(かや)が軒端(のきば)に風過(す)ぎてしどろに落(お)つる村雨の露 W
初秋風(はつあきかぜ)の立(た)ちて、世(よ)の中(なか)いとど物(もの)悲(がな)しく露けさ勝(まさ)るに、言(い)はん方(かた)無(な)く思(おぼ)し乱(みだ)る。
故郷(ふるさと)を別(わか)れ路(ぢ)に生(お)ふる葛(くず)の葉(は)の秋はくれども帰る世(よ)も無(な)し W
たとしへ無(な)く眺(なが)めしをれさせ給(たま)へる夕暮(ぐ)れに、沖(おき)の方(かた)に、いと小(ちひ)さき木の葉(は)の浮(う)かべると見(み)えて漕(こ)ぎ来(く)るを、海士(あま)の釣舟(つりぶね)と御覧(ごらん)ずる程(ほど)に、都(みやこ)よりの御消息(せうそこ)なりけり。墨染(すみぞめ)の御衣(おんぞ)、夜の御ふすまなど、都の夜寒(よさむ)さに思(おも)ひ遣(や)り聞(き)こえさせ給(たま)ひて、七条院より参(まゐ)れる御文(ふみ)、引(ひ)きあけさせ給(たま)ふより、いといみじく、御胸(むね)もせきあぐる心地(ここち)すれば、ややためらひて見給(たま)ふに、「あさましく、かくて月日経(へ)にける事。今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ命(いのち)の中(なか)に、今(いま)一度(ひとたび)、如何(いか)で見奉(たてまつ)りてしがな。かくながらは、死出(しで)の山路も越(こ)え遣(や)るべうも侍らでなん」など、いと多(おほ)く乱(みだ)れ書(か)き給(たま)へるを、御顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、
たらちねの消(き)え遣(や)らで待(ま)つ露の身を風より先(さき)に如何(いか)で問(と)はまし W
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八百(やほ)よろづ神も哀(あは)れもたらちねの我(われ)待(ま)ち得(え)んと絶(た)えぬ玉の緒(を) W
初雁(はつかり)の翼(つばさ)に付(つ)けつつ、此処(ここ)彼処(かしこ)より哀(あは)れなる御消息(せうそこ)のみ常(つね)は奉(たてまつ)るを御覧ずるに〔付(つ)けても〕、あさましういみじき御涙の催(もよほ)しなり。家隆の二位は、新古今(しんこきん)の撰者にも召(め)し加(くは)へられ、大方(おほかた)、歌の道に付(つ)けて、睦(むつ)まじく召(め)し使(つか)ひし人なれば、夜(よる)昼(ひる)恋(こ)ひ聞(き)こゆる事限(かぎ)り無(な)し。彼(か)の伊勢より須磨(すま)に参(まゐ)りけんも、かくやと覚(おぼ)ほゆるまで、巻(ま)き重(かさ)ねて書(か)き連(つら)ね参(まゐ)らせたり。「和歌所の昔(むかし)の面影(おもかげ)、数々(かずかず)に忘(わす)れ難(がた)う」など申(まう)して、つらき命(いのち)の今日(けふ)まで侍(はべ)る事(こと)の恨(うら)めしき由(よし)など、えも言(い)はず哀(あは)れ多(おほ)くて、
寝覚(ねざ)めして聞(き)かぬを聞(き)きてわびしきは荒磯波(あらいそなみ)の暁の声(こゑ) W
とあるを、法皇もいみじと思(おぼ)して、御袖いたく絞(しぼ)らせ給(たま)ふ。
波間無(な)き隠岐(おき)の小島の浜庇(はまびさし)久しく成(な)りぬ都隔(へだ)てて W
木枯(こがらし)の隠岐(おき)のそま山吹(ふ)きしをり荒(あら)くしをれて物(もの)思(おも)ふ頃(ころ) W
折々(をりをり)詠(よ)ませ給(たま)へる御歌共(ども)を書(か)き集(あつ)めて、修明門院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。其(そ)の中(なか)に、
水無瀬山(みなせやま)我(わ)が故郷(ふるさと)は荒(あ)れぬらむ籬(まがき)は野(の)らと人も通(かよ)はで W
かざし折(を)る人も有(あ)らばや言(こと)問(と)はん隠岐(おき)の深山(みやま)に杉(すぎ)は見(み)ゆれど W
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限(かぎ)りあればさても堪(た)へける身のうさよ民のわら屋に軒を並(なら)べて W
斯様(かやう)の類(たぐひ)、すべて多(おほ)く聞(き)こゆれど、さのみは年の積(つ)もりにえなん。今(いま)又(また)思(おも)ひ出(い)でば、ついで求(もと)めてとて。
校註 増鏡
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第三 藤衣(ふぢごろも)
其の頃(ころ)、いと数(かず)まへられ給(たま)はぬ古宮(ふるみや)御座(おは)しけり。守貞(もりさだ)の親王(しんわう)とぞ聞(きこ)えける。高倉院(たかくらのゐん)第三の御子也。隠岐(おき)の法皇の御兄(このかみ)なれば、思(おも)へばやむごとなけれど、昔(むかし)、後白河(ごしらかは)の法皇、安徳院の筑紫へ御座(おは)しまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣(な)き給(たま)ひしによりて、位にも即(つ)かせ給(たま)はざりしかば、世(よ)の中(なか)物怨(うら)めしきやうにて過(す)ごし給(たま)ふ。さびしく人目(ひとめ)まれなれば、年を経(へ)て荒(あ)れまさりつつ、草深(ふか)く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心(こころ)細(ぼそ)くながめ御座(おは)するに、建保の頃、宮(みや)の内(うち)の女房の夢に、冠(かうぶり)したる物あまた参(まゐ)りて、「剣璽(けんじ)を入(い)れ奉(たてまつ)るべきに、各(おのおの)用意(ようい)して候(さぶら)はれよ」といふと見てければ、いと怪(あや)しう
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覚(おぼ)えて、宮に語(かた)り聞(きこ)えけれど、「いかでかさ程(ほど)の事あらん」と、思(おぼ)しもよらで、遂(つひ)に御髪(みぐし)をさへおろし給(たま)ひて、此(こ)の世の御望(のぞ)みは絶(た)ち果てぬる心地(ここち)して物し給(たま)へるに、此(こ)の乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、一院の御族(ぞう)は、皆(みな)様々(さまざま)にさすらへ給(たま)ひぬれば、おのづから小(ちひ)さきなど残(のこ)り給(たま)へるも、世にさし放(はな)たれて、さりぬべき君も御座(おは)しまさぬにより、東(あづま)よりのおきてにて、彼(か)の入道の親王(みこ)の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即(つ)け奉(たてまつ)る。父(ちち)の宮をば太上天皇になし奉(たてまつ)りて、法皇と聞(きこ)ゆ。いとめでたく、横(よこ)さまの御幸(さいは)ひ御座(おは)しける宮なり。
孫王(そんわう)にて位に即(つ)かせ給へる例(ためし)、光仁天皇より後は絶(た)えて久(ひさ)しかりつるに、珍(めづら)しくめでたし。其の十二月(しはす)一日に御即位(そくゐ)、明くる年(とし)貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱(いみな)茂仁(もちひと)と申(まう)す。御かたちもなまめかしくあてにぞ御座(おは)します。御母、基家の中納言の女、北白河院(きたしらかはのゐん)と申しき。家実(いへざね)の大臣(おとど)、又摂政になり返らせ給(たま)ひて、万(よろづ)おきて宣(のたま)ふも、様々(さまざま)に引き返(かへ)したる世なりかし。又の年(とし)五月の頃、法皇かくれさせ給(たま)ひぬれば、天下(てんか)皆(みな)黒(くろ)み渡(わた)りぬ。上(うへ)
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も御服(ぶく)奉(たてまつ)る。きびはなる御程(ほど)に、いといみじうあはれなる御事な(ン)めり。
前(さき)の御門(みかど)は、四にて廃(はい)せられ給(たま)ひて、尊号などの沙汰(さた)だに無し。御母后東一条院も、山里(やまざと)の御住居(すまひ)にて、いと心(こころ)細(ぼそ)くあはれなる世(よ)を、つきせず思(おぼ)し歎(なげ)く。此(こ)の宮は故摂政殿後京極(ごきやうごく)良経の姫君(ひめぎみ)にて物し給(たま)へば、歌の道(みち)にもいと賢(かしこ)う渡(わた)らせ給(たま)へど、大方(おほかた)奥(おく)深(ふか)うしめやかに重(おも)き御本性(ごほんじやう)にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給(たま)はず。御琴なども、限(かぎ)りなき音を引きとり給(たま)へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世(よ)もなく、余(あま)りなるまで埋(う)もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限(かぎ)りなき御志の中に、飽(あ)かずなん思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ひける。彼(か)の遠(とほ)き御別(わか)れの後は、いみじう物をのみ思(おぼ)しくだけつつ、いよいよ沈(しづ)み臥(ふ)して御座(おは)しますに、古(ふる)く仕(つか)うまつりける女房の、里に篭(こも)り居(ゐ)たりけるもとより、あはれなる御消息(せうそこ)を聞(きこ)えて、十月一日の頃(ころ)、御衣がへの御衣(ぞ)を奉(たてまつ)りたりける御返事(かへりごと)に、
思(おも)ひ出(い)づるころもはかなし我も人も見(み)しにはあらずたどらるる世(よ)に
又、御手習(なら)ひのついでに、からうじて洩(も)れけるにや、
消(き)えかぬる命ぞつらき同(おな)じ世にあるも頼(たの)みはかけぬ契(ちぎり)を
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さこそは、げに思(おぼ)し乱(みだ)れけめ。おろかなる契(ちぎ)りだに、かかる筋(すぢ)のあはれは浅(あさ)くやは侍(はべ)る。いかばかりの御心の中にて過し給(たま)ふらんと、いと忝(かたじけ)なし。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、貞応(ぢやうおう)もうち過(す)ぎ、元仁・嘉禄・安貞(あんてい)などいふ年も程(ほど)なく変(か)はりて、寛喜元年になりぬ。此(こ)の程(ほど)は光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)道家又関白にて御座(おは)す。此(こ)の御娘(むすめ)女御に参(まゐ)り給ふ。世の中めでたく花(はな)やかなり。これより先(さき)に、三条の太政大臣公房の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて后だちあり。いみじう時めき給(たま)ひしを、おしのけて、前の殿〔家実(いへざね)〕の御女、未(いま)だ幼(をさな)くて御座(おは)する、参(まゐ)り給(たま)ひにき。これはいたく御覚(おぼ)えもなくて、三条の后(きさい)の宮(みや)、浄土寺とかやに引き篭(こも)りて渡(わた)らせ給ふに、御消息(せうそこ)のみ日に千度(せんたび)といふばかり通(かよ)ひなどして、世(よ)の中(なか)すさまじく思(おぼ)されながら、さすがに后だちはありつるを、父(ちち)の殿摂〓(せうろく)変(か)はり給(たま)ひて、今(いま)の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返(かへ)り給(たま)ひぬれば、又此(こ)の姫君(ひめぎみ)入内ありて、もとの中宮はまか(ン)で給(たま)ひぬ。珍(めづら)しきが参(まゐ)り給(たま)へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土(もろこし)には、三千人なども候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ、伝(つた)へ聞(き)くにも、しなじなしからぬ心地(ここち)すれど、いかなるにかあらん。後には各(おのおの)院号(ゐんがう)ありて、三条殿(さんでうどの)の后は安喜門院、中の度(たび)参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞(きこ)えける。今(いま)の女御もやがて后だちあり。藤壺(ふぢつぼ)わたり今(いま)めかしく住(す)みなし給(たま)へり。御はらからの姫君(ひめぎみ)も、かたちよく御座(おは)するに、引きこめ難(がた)しとて、内侍のかみになし奉(たてまつ)り給ふ。
同(おな)じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣(おとど)に譲(ゆづ)り聞(きこ)え給(たま)ひて、我が御身は大殿(おほとの)とて、后(きさい)の宮(みや)の御親(おや)なれば、思(おも)ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄(さか)え給ふ様(さま)、例(ためし)なき程(ほど)なり。東(あづま)の将軍、山(やま)の座主、三井寺(みゐでら)の長吏、山階寺(やましなでら)の別当、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)、皆(みな)此(こ)の殿(との)の君達(きんだち)にて御座(おは)すれば、すべて、天下(てんか)はさながらまじる人少(すく)なう見えたり。いとよそほしく重々(おもおも)しげにて、内の御宿直所(とのゐどころ)などに、常(つね)はうちとけ候(さぶら)ひ給(たま)へば、関白殿、次々(つぎつぎ)の御子どもも大臣などにて、立(た)ち変(か)はり御前に絶(た)えず物し給(たま)ひて、世の政事(まつりごと)など聞(きこ)え給ふ。北の方(かた)は公経の大臣(おとど)の御女なれば、まして世の重(おも)く靡(なび)き奉(たてまつ)る様(さま)、いとやんごとなし。
誠(まこと)や、其の年十一月十一日、阿波(あは)の院かくれさせ給(たま)ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例(れい)ならず思(おぼ)されければ、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひにけり。ここら物をのみ思(おぼ)して、今年は三十七にぞならせ給(たま)ひける。今(いま)一度(ひとたび)、都(みやこ)をも御覧(ごらん)ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲(かな)しきを、隠岐(おき)の小島(こじま)にも聞(き)こしめし歎(なげ)く。承明門院(しようめいもんゐん)は、様々(さまざま)のうき事を見尽(つく)して、猶(なほ)ながらふる命(いのち)のうとましきに、又かく、同(おな)じ世をだに去(さ)り給(たま)ひぬる御歎(なげ)きの、いはん方(かた)なさに、「など先(さき)立(だ)たぬ」と、口惜(くちを)しう思(おぼ)しこがるる様(さま)、ことわりにも過(す)ぎたり。かしこにて召使(めしつか)ひける御調度(てうど)、何(なに)くれ、はかなき御手箱(てばこ)やうの物を、都(みやこ)へ人の参(まゐ)らせたりける中に、たまさかに通(かよ)ひける隠岐(おき)よりの御文、女院の御消息(せうそこ)などを、一(ひと)つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目(め)もきりふたがる心地(ここち)し給ふ。家隆(いへたか)の二位の女、小宰相と聞(きこ)えしは、おのづからけぢかく御覧(ごらん)じなれけるにや、人よりことに思(おも)ひ沈(しづ)みて、御服(ぶく)など黒(くろ)う染(そ)めけり。
うしと見(み)しありし別(わかれ)は藤衣やがて着(き)るべき門出(かどで)なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家(ていか)の中納言承(うけたまは)りて、撰集の沙汰(さた)ありつるを、此(こ)の程(ほど)御門(みかど)降(お)りさせ給ふべき由(よし)聞(きこ)ゆればにや、いととく十月二日奏(そう)せられける。一年(ひととせ)の内(うち)に奏(そう)せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞(きこ)ゆ。「元久に新古今出(い)で来(き)て後(のち)、程(ほど)なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続(つづ)きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍(はべ)りけるとかや。
さて同(おな)じき四日、降(お)り居(ゐ)させ給ふ。御悩(なや)み重(おも)きによりて也けり。去年(こぞ)の二月、后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)に、一の御子出(い)で来(き)給(たま)へりしかば、やがて太子に立(た)たせ給(たま)ひしぞかし。例(れい)の人の口(くち)さがなさは、彼(か)の承久の廃帝(はいたい)の、生(うま)れさせ給ふとひとしく坊に居(ゐ)給(たま)へりしは、いと不用(ふよう)なりしを」などいふめり。上(うへ)は降(お)りさせ給(たま)ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らず。大方、世(よ)も静(しづ)かならず。此(こ)の三年(みとせ)ばかりは、天変しきり地震(なゐ)ふりなどして、さとししげく、御慎(つつし)みおもきやうなれば、いかが御座(おは)しまさむと、御心ども騒(さわ)ぐべし。今上は二歳にぞならせ給(たま)ふ。あさましき程(ほど)の御いはけなさにて、いつくしき十善(じふぜん)の主(あるじ)に定(さだ)まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前(さき)の世ゆかしき御有様(ありさま)なり。昔(むかし)、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給(たま)へりし、いづれもいと心ゆかぬ例(ためし)なり。閑院殿の清涼殿(せいりやうでん)にて、まづ御袴(はかま)奉(たてまつ)る。十二月五日、御即位(そくゐ)はことなく果(は)てぬれば、めでたくて年も変(か)はりぬ。
中宮も御物(もの)の怪(け)に悩(なや)ませ給(たま)ひて、常(つね)はあつしう御座(おは)しますを、院はいとど晴(は)れ間(ま)なく
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思(おぼ)し歎(なげ)く。卯月の頃、年号改(あらた)まる。天福といふなるべし。其の同(おな)じ頃、中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、藻璧門院(さうへきもんゐん)とぞ聞(きこ)ゆなる。今年(ことし)も又例(れい)ならず悩(なや)ませ給(たま)へば、めでたき御事の数(かず)そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭(まつ)り祓(はら)へ、何(なに)くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程(ほど)近(ちか)くなりては、天(あめ)の下(した)やすき空なく、山々寺々社々、御祈(いの)りひびき騒(さわ)げども、御物(もの)のけこはくて、いみじうあさまし。遂(つひ)に、九月十八日に、かくれさせ給(たま)ひぬ。其の程(ほど)のいみじさ、推(お)し量(はか)りぬべし。今年(ことし)二十五にならせ給ふ。若(わか)く清(きよ)らに美(うつく)しげにて、盛(さか)りなる花の御姿(すがた)、時の間(ま)の露と消(き)え果て給(たま)ひぬる、いはん方(かた)なし。殿・上(うへ)思(おぼ)し惑(まど)ふ様(さま)、悲(かな)しともいへば更(さら)なり。院に候(さぶら)ふ民部卿の典侍(すけ)と聞(きこ)ゆるは、定家(ていか)の中納言の娘(むすめ)なり。此(こ)の宮の御方にも、け近(ぢか)う仕(つか)うまつる人なりけり。限(かぎ)りなく思(おも)ひ沈(しづ)みて、頭(かしら)おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問(と)へる御返事(かへりごと)に、
悲(かな)しさはうき世のとがとそむけども只(ただ)恋しさのなぐさめぞなき
当代(たうだい)の御母(はは)后にて御座(おは)しつれば、天下(てんか)皆(みな)一(ひと)つ墨染(すみぞ)めにやつれぬ。此(こ)の御歎(なげ)き
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に、いよいよ院は沈(しづ)みまさらせ給(たま)ひて、うち絶(た)えて御湯(ゆ)などをだに御覧(ごらん)じいるる事なくて、月日(つきひ)つもらせ給(たま)へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残(のこ)りなく勤(つと)めののしる。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)、祭(まつ)り・祓(はら)へなど、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ちたり。又年号変(か)はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝(はいたい)、十七になり給(たま)へるも、五月二十日に失(う)せ給(たま)ひぬ。いと若(わか)き御程(ほど)に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐(おき)にも、うち続(つづ)きあはれなる事どもを、聞(き)こしめし歎(なげ)くべし。佐渡には、まして心憂(う)くあさましと思(おぼ)さる。此(こ)の御さしつぎの宮、猶(なほ)御座(おは)しますは、修明門院養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給ふめり。
かくいひしろふ程(ほど)に、院の御悩(なや)み日々に重(おも)くならせ給(たま)ひて、八月六日、いとあさましうならせ給(たま)ひぬ。世のおもしにて御座(おは)しますべき事の、かくあへなき御有様(おんありさま)、口惜(くちを)しなど聞(きこ)ゆるもなのめなり。大方(おほかた)、御本性(ごほんじやう)も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美(うつく)しうととのほりて、二十(はたち)に三つばかりや余(あま)らせ給(たま)ふらん。若(わか)う盛(さか)りの御程(ほど)に、御才(ざえ)なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事(なにごと)につけても、いとあたらしう御座(おは)しませば、世の人の惜(を)しみ聞(きこ)ゆる様(さま)限(かぎ)り無し。只(ただ)くれ惑(まど)へる心地(ここち)どもなり。後堀川院とぞ申(まう)しける。故宮の御果て
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だに過(す)ぎず、又とり重(かさ)ねて、諒闇(りやうあん)の三年(みとせ)までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人(みなひと)思(おも)ふべし。御契(ちぎ)りの程(ほど)のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊(ごけい)・大嘗会(だいじやうゑ)なども、いとど延(の)びぬ。只(ただ)ここもかしこも、高(たか)きも下(くだ)れるも、都も遠(とほ)きも、島々(しまじま)も、涙(なみだ)にうき沈(しづ)みてぞ過し給(たま)ひける。
うち続(つづ)き、かくのみ世の中(なか)騒(さわ)がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変(か)はりて、嘉禎(かてい)元年といふ。誠(まこと)や、三月の末(すゑ)つかたより、〔洞院(とうゐん)の〕摂政殿〔教実〕重(おも)くわづらひ給ふ。故院の御位の程(ほど)より、大殿(おほとの)の、御譲(ゆづ)りにて、関白と聞(きこ)えしが、御門幼(をさな)く御座(おは)しませば、此(こ)の頃は摂政殿(どの)と申(まう)すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたく御座(おは)しましつるに、いとあへなく失(う)せ給(たま)ひぬれば、大殿(おほとの)の御歎(なげ)きたとへん方(かた)無し。二十六にぞなり給(たま)ひける。いと悲(かな)しくし給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)・若君(わかぎみ)など物し給ふをも、今(いま)は峰殿のみひとへにはぐくみ聞(きこ)え給(たま)ひけり。摂政にも、大殿(おほとの)立(た)ちかへり成(な)り給(たま)ひぬ。かくて三度(みたび)政事(まつりごと)ををさめ給(たま)ひぬるにや。北政所の御父(ちち)は、公経の大臣(おとど)なれば、彼(か)の殿と一(ひと)つにて、世(よ)は弥(いよいよ)御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改(あらた)まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会(だいじやうゑ)行(おこな)はる。
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様々(さまざま)めでたくもあはれにも色々(いろいろ)なる都の事どもを、ほのかに伝(つた)へ聞(き)こしめして、隠岐(おき)にはあさましの年(とし)のつもりやと、御齢(おんよはひ)に添(そ)へても、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きぐさのみしげりそふ慰(なぐさ)めには、思(おぼ)しなれにし事とて、敷島(しきしま)の道(みち)にのみぞ御心をのべける。都(みやこ)へも、たよりにつけつつ題を遣(つか)はし、歌を召(め)せば、あはれに忘(わす)れがたく恋ひ聞(きこ)ゆる昔(むかし)の人々、我(われ)も我(われ)もと奉(たてまつ)れるを、つれづれに思(おぼ)さるる余(あま)りに、自(みづか)ら判じて御覧(ごらん)ぜられにけり。家隆(いへたか)の二位も、今(いま)まで生(い)ける思(おも)ひ出(い)でに、これをだにとあはれに忝(かたじけ)なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集(あつ)めて参(まゐ)らせける。昔(むかし)の秀能は、ありし乱(みだ)れの後(のち)、頭(かしら)おろして深(ふか)く篭(こも)り居(ゐ)たり。如願(によぐわん)とぞいひける。それも此(こ)の度(たび)の御歌合に召(め)せば、今更(いまさら)に、其のかみの事、さこそは思(おも)ひ出(い)づらめ。例(れい)のかずかずはいかでか。只(ただ)片端(かたはし)をだにとて、左、御製(ぎよせい)、
人心うつり果てぬる花の色(いろ)に昔(むかし)ながらの山の名もうし
右、家隆(いへたか)の二位、
なぞもかく思(おも)ひそめけん桜花山とし高(たか)く成(な)りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島(やそしま)かけてしるべせよ遙(はる)かに通(かよ)ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製(ぎよせい)、
軒端(のきば)あれて誰(たれ)か水無瀬(みなせ)の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆(いへたか)、
さびしさはまだ見(み)ぬ島の山里(やまざと)を思(おも)ひやるにもすむ心地(ここち)して
法皇御自(みづか)ら判の言葉(ことば)を書(か)かせ給(たま)へるに、「まだ見(み)ぬ島を思(おも)ひやらんよりは、年久(ひさ)しく住(す)みて思(おも)ひ出(い)でんは、今(いま)少(すこ)し志深(ふか)くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給(たま)へる、いとあはれにやさしき御事な(ン)めり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏(あみだぼとけ)の御勤(つと)めなどに、まぎらはしてぞ御座(おは)します。また、御手習のついでに、
我(われ)ながらうとみ果てぬる身の上(うへ)に涙ばかりぞ面(おも)がはりせぬ。
故郷(ふるさと)は入(い)りぬる磯(いそ)の草よ只(ただ)夕潮(ゆふしほ)満(み)ちて見らく少(すく)なき
此(こ)の浦に住(す)ませ給(たま)ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十(むそぢ)にてかくれさせ給(たま)ひぬ。今(いま)一度(ひとたび)都へ帰(かへ)らんの御志深(ふか)かりしかど、遂(つひ)に
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空(むな)しくてやみ給(たま)ひにし事、いと忝(かたじけ)なく、あはれに情(なさ)けなき世(よ)も、今更(いまさら)心うし。近(ちか)き山にて例(れい)の作法(さほふ)になし奉(たてまつ)るも、むげに人少(ずく)なに、心(こころ)細(ぼそ)き御有様(おんありさま)、いとあはれになん。御骨をば、能茂(よしもち)といひし北面の、入道して御供(とも)に候(さぶら)ひしぞ、首(くび)にかけ奉(たてまつ)りて都に上(のぼ)りける。さて大原の法花堂(ほつけだう)とて、今(いま)も、昔(むかし)の御庄(みさう)の所々(ところどころ)、三昧料(さんまいれう)に寄(よ)せられたるにて、勤(つと)め絶(た)えず。彼(か)の法花堂(ほつけだう)には、修明門院の御沙汰(さた)にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿(みなせどの)を渡(わた)されけり。今(いま)はのきはまで持(も)たせ給(たま)ひける桐(きり)の御数珠(ずず)なども、かしこに未(いま)だ侍るこそ、あはれに忝(かたじけ)なく、拝(をが)み奉(たてまつ)るついでのありしか。始(はじ)めは顕徳院と定(さだ)め申(まう)されたりけれど、御座(おは)しましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃(ころ)ぞ、後鳥羽院(ごとばのゐん)とは更(さら)に聞(き)こえ直(なほ)されけるとなむ。
増鏡 尾張徳川家本
第四 三神山
さても、源大納言(だいなごん)通方の預(あづ)かり奉(たてまつ)られし阿波(あは)の院の宮は、おとなび給(たま)ふ儘(まま)に、御心(おんこころ)ばへもいと警策(きやうざく)に、御形(かたち)もいとうるはしく、けだかく止(や)む事(ごと)無(な)き御有様(おんありさま)なれば、なべて世(よ)の人(ひと)もいとあたらしき事(こと)に思(おも)ひ聞(き)こえけり。大納言(だいなごん)さへ、暦仁(りやくにん)の頃失(う)せにしかば、いよいよ真心(まごころ)に仕(つかうまつ)る人も無(な)く、心(こころ)細(ぼそ)げにて、何(なに)を待(ま)つとしも無(な)く、かかづらひて御座(おは)しますも、人悪(わる)くあぢきなう思(おぼ)さるべし。御母(はは)は、土御門(つちみかど)の内大臣通親の御子に、宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)通宗とて、若(わか)くて失(う)せにし人の御娘(むすめ)なり。それさへ隠(かく)れ給(たま)ひにしかば、宰相のはらからの姫君(ひめぎみ)ぞ、御乳母(めのと)のやうにて、瞿曇弥(けうどんみ)の釈迦仏養(やしな)ひ奉(たてまつ)りけん心地(ここち)して、御座(おは)しける。
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二(ふた)つにて父(ちち)御門には別(わか)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、御面影(おもかげ)だに覚(おぼ)え給(たま)はねど、猶(なほ)此(こ)の世(よ)の中(なか)に御座(おは)すと思(おぼ)されしまでは、自(おの)づから相(あひ)見(み)奉(たてまつ)るやうもやなど、人知(し)れず幼(をさな)き御心(おんこころ)に掛(か)かりて思(おぼ)し渡(わた)りけるに、十二の御年(おんとし)かとよ、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬと伝(つた)へ聞(き)き給(たま)ひし後は、いよいよ世(よ)のうさを思(おぼ)しくんじつつ、いとまめだちてのみ御座(おは)しますを、承明門院(しようめいもんゐん)は心(こころ)苦(ぐる)しう悲(かな)しと見奉(たてまつ)り給(たま)ふ。はかなく明(あ)け暮(く)れて、仁治二年(にねん)にも成(な)りにけり。御門は今年(ことし)は十一にて、正月五日、御元服し給(たま)ふ。御諱(いみな)秀仁と聞(き)こゆ。其(そ)の年の十二月に、洞院(とうゐん)の故(こ)摂政殿教実の姫君(ひめぎみ)、九(ここの)つに成(な)り給(たま)ふを、祖父(おほぢ)の大殿(おほとの)、御伯父(をぢ)の殿原など居(ゐ)立(た)ちて、いとよそほしく有(あ)らまほしき様(さま)に響(ひび)きて、女御参(まゐ)り給(たま)へば、父(ちち)の殿(との)一人(ひとり)こそ物(もの)し給(たま)はねど、大方(おほかた)の儀式(ぎしき)万(よろづ)飽(あ)かぬ事(こと)無(な)くめでたし。上もきびはなる御程(ほど)に、女御もまだかく小(ちひ)さう御座(おは)すれば、雛遊(ひひなあそ)びのやうにぞ見(み)えさせ給ひける。天(あめ)の下はさながら大殿(おほとの)の御心(おんこころ)の儘(まま)なれば、いとゆゆしくなん。土御門(つちみかど)〔殿(どの)〕の宮(みや)〔は〕二十(はたち)にも余(あま)り給(たま)ひぬれど、御冠(かうぶり)の沙汰(さた)も無(な)し。城興寺(じやうこうじ)の宮僧正真性と聞(き)こゆる、御弟子にと語(かた)らひ申(まう)し給(たま)ひければ、然様(さやう)に〔もと〕思(おぼ)して、女院にもほのめかし申(まう)させ給(たま)ひけるを、いとあるまじき事(こと)とのみ諌(いさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふ。其(そ)の冬の頃、宮いたう忍(しの)びて、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給(たま)ひ、御念誦のどかにし給(たま)ひて、少(すこ)し微睡(まどろ)ませ給(たま)へるに、神殿の内(うち)に、「椿葉(ちんえふ)の影(かげ)二度(ふたたび)改(あらた)まる」と、いとあざやかにけだかき声(こゑ)にて、打(う)ち誦(ずん)じ
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給(たま)ふと聞(き)きて、御覧(ごらん)じ上(あ)げたれば、明(あ)けがたの空澄(す)み渡(わた)れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。如何(いか)に見(み)えつる御夢ならんと怪(あや)しく思(おぼ)さるれど、人にも宣(のたま)はず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問(がくもん)をぞせさせ給(たま)ふ。年も返(かへ)りぬ。春の初(はじ)めは、押(お)しなべて、程々(ほどほど)に付(つ)けたる家々(いへいへ)の身の祝など、心行(こころゆき)誇(ほこ)らしげなるに、正月の五日より、内の上(うへ)例(れい)ならぬ事(こと)にて、七日の節会にも、御帳(みちやう)にもつかせ給(たま)はねば、いとさうざうしく人々(ひとびと)思(おぼ)しあへるに、九日の暁、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬとて、罵(ののし)りあへる、いとあさましとも言(い)ふばかり無(な)し。皆人(みなひと)あきれ惑(まど)ひて、中々涙だに出(い)でこず。女御も未(いま)だ童遊(わらはあそ)びの御様(さま)にて、何心(なにごころ)無(な)くむつれ聞(き)こえさせ給(たま)へるに、いとうたていみじければ、打(う)ちしめり屈(くん)じて居(ゐ)給(たま)へる、いと幼(をさな)げにらうたし。大殿(おほとの)の御心(おんこころ)の中(うち)、思(おも)ひ遣(や)るべし。御兄(せうと)の若君(わかぎみ)も殿上し給(たま)へる。只(ただ)御門の同(おな)じ御程(ほど)にて、騒(さわ)がしきまでの御遊(あそ)びのみにて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ひけるに、かいひそみて群(むら)がり居(ゐ)つつ、鼻(はな)打(う)ちかみ、打(う)ち泣(な)く人より外(ほか)は無(な)し。かくのみあさましき御事(こと)共(ども)の続(つづ)きぬるは、如何(いか)にも、彼(か)の遠(とほ)き浦々にて沈(しづ)み果(は)てさせ給(たま)ひにし、御霊(りやう)共(ども)にやとぞ、世(よ)の人(ひと)もささめきける。御悩(なや)みの始(はじ)めも、なべての筋(すぢ)には有(あ)らず、余(あま)りいはけたる御遊(あそ)びより、損(そこ)なはれ給(たま)ひにけるとぞ。未(いま)だ御次(つぎ)も御座(おは)しまさず、又(また)御はらからの宮なども渡(わた)らせ給(たま)はねば、世(よ)の中(なか)如何(いか)に成(な)りゆかんずるにかと、Xたどりあへる様(さま)なり。さてしもやはにて、東(あづま)へぞ
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告(つ)げ遣(や)りける。将軍は大殿(おほとの)の御子(こ)、今(いま)は大納言(だいなごん)殿(どの)と聞(き)こゆる。御後見(おんうしろみ)は、承久に上(のぼ)り〔たり〕し泰時の朝臣なり。時房(ときふさ)と一所にて、小弓(こゆみ)射(い)させ酒(さか)もりなどして、心(こころ)とけたる程(ほど)なりけるに、「京よりの走(はし)り馬」と言(い)へば、何事(なにごと)ならんと驚(おどろ)きながら、使(つか)ひ召(め)し寄(よ)せて聞(き)くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其(そ)の席(むしろ)よりやがて神事始(はじ)めて、若宮(わかみや)の社にて、くじをぞ取(と)りける。其(そ)の程(ほど)、都には、いとうかびたる事(こと)共(ども)、心(こころ)のひきひき言(い)ひしろふ。「佐渡院の宮達(たち)にや」など聞(き)こえければ、修明門院にも、心(こころ)時(とき)めきして、内々(うちうち)其(そ)の御用意(ようい)などし給(たま)ふ。承明門院(しようめいもんゐん)も、もしやなど、様々(さまざま)御祈(いの)りし給(たま)ふ。東(あづま)の使(つか)ひ、都(みやこ)に入(い)る由(よし)聞(き)こえける日は、両女院より白河(しらかは)に人を立(た)てて、何方(いづかた)へか参(まゐ)ると、見(み)せられけるぞ理(ことわり)に、げに今(いま)見(み)ゆべき事(こと)なれども、物(もの)の心(こころ)許(もと)無(な)きは、Xさ覚(おぼ)ゆる業(わざ)ぞかしと、例(れい)の口(くち)すげみてほほゑむ。日(ひ)ぐらし待(ま)たれて、城介(じやうのすけ)義景(よしかげ)と言(い)ふ者(もの)、三条河原に打(う)ち出(い)でて、「承明門院(しようめいもんゐん)の御座(おは)しますなる院は何処(いづく)ぞ」と、彼(か)の院より立(た)てられたる青侍(あをざぶらひ)の、いと怪(あや)しげなるにしも問(と)ひければ、聞(き)く心地(ここち)、うつつとも覚(おぼ)えず。しかじかと申(まう)す儘(まま)に、土御門(つちみかど)殿(どの)へ参(まゐ)りたれど、門はむぐら強(つよ)く固(かた)め、扉(とびら)もさびつき柱根(はしらね)くちて、開(あ)かざりけるを、郎等(らうどう)共(ども)にとかくせさせて、内に参(まゐ)りて見(み)まはせば、庭は草深(ふか)く青き苔(こけ)のみむして、松風(まつかぜ)より外は、こたふるもの無(な)く、人の通(かよ)へる跡(あと)も無(な)し。故(こ)通宗宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の御弟(おとと)を子にし給(たま)へりし定通の大臣(おとど)ばかりぞ、何(なに)と無(な)く、
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自(おの)づからの事(こと)もやと思(おも)ひて、なえばめる烏帽子(えぼし)直衣(なほし)にて候(さぶら)ひ給(たま)ひけるが、中門に出(い)でて対面(たいめん)し給(たま)ふ。義景(よしかげ)は、切戸(きりど)の脇(わき)に畏(かしこ)まりてぞ侍(はべ)りける。「阿波(あは)の院の御子、御位に」と、申(まう)して出(い)でぬ。院の中(なか)の人々(ひとびと)、上下夢の心地(ここち)して、物(もの)にぞあたり惑(まど)ひける。仁治三年正月十九日の事(こと)なり。世(よ)の人(ひと)の心地(ここち)、皆(みな)驚(おどろ)きあわてて、押(お)し返(かへ)し此方(こなた)に参(まゐ)り集(つど)ふ馬(うま)車(くるま)の響(ひび)き騒(さわ)ぐ世(よ)のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物(もの)思(おぼ)し勝(まさ)るべし。又(また)の日、やがて御元服せさせ給(たま)ふ。ひき入(い)れに、左大臣良実参(まゐ)り給(たま)ふ。理髪、頭弁定嗣仕(つかうまつ)りけり。御諱(いみな)邦仁、御年(おんとし)二十三、其(そ)の夜やがて冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)へ移(うつ)らせ給(たま)ひて、閑院殿より剣璽(けんじ)など渡(わた)さる。践祚の儀式(ぎしき)、いと珍(めづら)し。其(そ)の後(のち)こそ、閑院殿には追号の定(さだ)め、御業(わざ)の事(こと)など定(さだ)め有(あ)りけれ。二十五日に東山の泉湧寺(せんゆうじ)とかや言(い)ふ辺(ほとり)にをさめ奉(たてまつ)る。四条院と申(まう)すなるべし。やがて彼(か)の寺へ御庄(みさう)など寄(よ)せて、今(いま)に御菩提(ぼだい)を祈(いの)り申(まう)し侍るも、前(さき)の世(よ)の故(ゆゑ)有(あ)りけるにや。此(こ)の御門、未(いま)だ物(もの)などはかばかしく宣(のたま)はぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なりける時(とき)、誰(たれ)とかや、「前(さき)の世(よ)は如何(いか)なる人にてか御座(おは)しましけん」と、只(ただ)何(なに)と無(な)く聞(き)こえたりけるに、彼(か)の泉湧寺の開山の聖(ひじり)の名(な)をぞ、確(たし)かに仰(おほ)せられたりける。又(また)、人の夢にも、此(こ)の御門隠(かく)れさせ給(たま)ひて後、彼(か)の上人(しやうにん)、「我(われ)すみやかに成仏すべかりしを、由(よし)無(な)き妄念(まうねん)を起(お)こして、今一度人界(にんがい)の生をうけ、帝王の位に至(いた)りて、帰(かへ)りて我(わ)が寺を助(たす)けんと思(おも)ひしに、果(は)たして
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かくなん」とぞ見(み)えける。誠(まこと)に、其(そ)の余執(よしう)の通(とほ)りけるしるしにや、御庄共(ども)も、寄(よ)りけむとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。さて仁治三年三月十八日〔過(す)ぎて〕御即位(そくゐ)、万(よろづ)あるべき限(かぎ)りめでたく過(す)ぎもて行(ゆ)く。嘉禎三年よりは、岡(をか)の屋(や)の大臣(おとど)兼経、摂政にていませしかば、其(そ)の儘(まま)に、今(いま)の御代の始(はじ)めも関白と聞(き)こえつれど、三月二十五日、左の大臣(おとど)良実に渡(わた)りぬ。此(こ)の殿も、光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御二郎君なり。神無月(かみなづき)に成(な)りぬれば、御禊とて世(よ)の中(なか)ひしめき立(た)つも、思(おも)ひ寄(よ)りし事(こと)かはとめでたし。大嘗会(だいじやうゑ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風、三神山(みかみやま)、菅(くわん)宰相(さいしやう)為長仕(つかうまつ)られける。
古(いにしへ)に名(な)をのみ聞(き)きて求(もと)めけん三神の山(やま)は是(これ)ぞ其(そ)の山(やま) W
主基方(すきがた)、風俗の歌、経光の中納言に召(め)されたり。
末(すゑ)遠(とほ)き千代の影(かげ)こそ久(ひさ)しけれまだ二葉なる岩崎(いはさき)の松(まつ) W
当代(たうだい)かくめでたく御座(おは)しませば、通宗の宰相も左大臣従一位贈(おく)られ給(たま)ふ。御娘(むすめ)も后の位贈(おく)り申(まう)されし、いとめでたしや。誠(まこと)や、此(こ)の頃、〔前(さき)の〕右大臣と聞(き)こゆるは、実氏の大臣(おとど)よ。其(そ)の御娘(むすめ)、十八に成(な)り給(たま)ふを、女御に奉(たてまつ)り給(たま)ふ。六月三日、入内の儀式(ぎしき)有様(ありさま)、二(に)無(な)く清(きよ)らを尽(つ)くさる。母(はは)北(きた)の方(かた)は、四条の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)なり。女御の君、いとささやかに、愛敬(あいぎやう)づきてめでたく物(もの)し給(たま)へば、御覚(おぼ)え、いとかひがひしく、万(よろづ)打(う)ち合(あ)ひ、思(おも)ふ様(さま)なる世(よ)の気色、飽かぬ事無(な)し。同(おな)じ年八月九日、后に立(た)ち給(たま)ふ。其(そ)の程(ほど)の
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めでたさ、言(い)へば更(さら)なり。源大納言(だいなごん)の家に、無品親王(むほんしんわう)にて、〔怪(あや)しう心(こころ)細(ぼそ)げなりし御程(ほど)には、たはぶれにも〕思(おも)ひ寄(よ)り聞(き)こえ給(たま)はざりけんと、めでたきに付(つ)けても、人の口(くち)安(やす)からず、さはとかく聞(き)こゆべし。
第五 内野(うちの)の雪(ゆき)〔おほうち山とも〕
今(いま)后の御父(ちち)は、先(さき)にも聞(き)こえつる右大臣〈 実氏 〉の大臣(おとど)、其(そ)の父(ちち)殿〈 公経 〉の太政大臣(おほきおとど)、其(そ)のかみ夢見給(たま)へる事有(あ)りて、源氏(げんじ)の中将(ちゆうじやう)わらはやみまじなひ給(たま)ひし北山の辺(ほとり)に、世(よ)に知(し)らずゆゆしき御堂(みだう)を建(た)てて、名(な)をば西園寺(さいをんじ)と言(い)ふめり。此(こ)の所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲の領なりしを、尾張国松枝と言(い)ふ庄にかへ給(たま)ひてけり。もとは、田(た)畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、更(さら)に打(う)ち返(かへ)しくづして、艶(えん)ある園(その)に造(つく)りなし、山(やま)のたたずまひ木深(こぶか)く、池の心ゆたかに、わたつ海(うみ)をたたへ、峰より落(お)つる滝(たき)の響(ひび)きも、げに涙(なみだ)催(もよほ)しぬべく、心ばせ深(ふか)き所(ところ)の様(さま)なり。本堂は西園寺(さいをんじ)、本尊の如来誠(まこと)に妙(たへ)なる御姿(すがた)、生身(しやうじん)もかくやと、いつくしうあらはされ給(たま)へり。又(また)、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にて御座(おは)す。池の辺(ほとり)に妙音堂、滝(たき)のもとには不動尊。此(こ)の不動(ふどう)は、津(つ)の国(くに)より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉(たてまつ)りて、差(さ)し歩(あゆ)みて御座(おは)したりき。其(そ)の簔笠(みのかさ)、宝蔵(ほうざう)に込(こ)めて、三十三年に一度出(い)ださるとぞ承(うけたまは)る。石橋(いしばし)の上には五大堂。成就心院と言(い)ふは愛染王(あいぜんわう)の座さまさぬ秘法(ひほふ)取(と)り行(おこな)はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟(けさ)数珠(ずず)の糸まで、同(おな)じ色にぞ侍(はべ)るめる。
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又(また)、法水院(ほすゐん)・化水院(けすゐん)、無量光院とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空(こくう)に現じ給(たま)へる御姿(すがた)も侍(はべ)るめり。北の寝殿(しんでん)にぞ大臣(おとど)は住(す)み給(たま)ふ。めぐれる山(やま)の常盤木(ときはぎ)共(ども)、いと旧(ふ)りたるに、なつかしき程(ほど)の若木(わかき)の桜(さくら)など植(う)ゑ渡(わた)すとて、大臣(おとど)うそぶき給(たま)ひける。
山桜(やまざくら)峰にも尾にも植(う)ゑ置(お)かん見(み)ぬ世(よ)の春を人や忍(しの)ぶと W
彼(か)の法成寺(ほふじやうじ)をのみこそ、いみじき例(ためし)に世継(よつぎ)も言(い)ひためれど、是(これ)は猶(なほ)山(やま)の気色さへ面白(おもしろ)く、都(みやこ)離(はな)れて眺望そひたれば、言(い)はん方(かた)無(な)くめでたし。峰殿の御舅(しうと)、東(あづま)の将軍の御祖父(おほぢ)にて、万(よろづ)世(よ)の中(なか)御心(おんこころ)の儘(まま)に、飽(あ)かぬ事無(な)くゆゆしくなん御座(おは)しける。今(いま)の右(みぎ)の大臣(おとど)、をさをさ劣(おと)り給(たま)はず、世(よ)の重(おも)しにて、いと止(や)む事(ごと)無(な)く御座(おは)するに、女御さへ御覚(おぼ)えめでたく、いつしか只(ただ)ならず御座(おは)すると聞(き)こゆる、奥(おく)床(ゆか)しき御程(ほど)なるべし。〔仁治三年〕九月十二日、佐渡院隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。世(よ)の中(なか)移(うつ)り変(か)はりしきざみ、もしやなど思(おぼ)されしも空(むな)しくて、いよいよ隔(へだ)たり果(は)てぬる世(よ)を、心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)し歎(なげ)きける積(つ)もりにや、〔いと〕さしも取(と)り立(た)てたる御悩(なや)みなどは無(な)くて、失(う)せさせ給(たま)ふ〔に〕、〔折(をり)〕哀(あは)れなる御事(こと)共(ども)なり。四十六にぞならせ給(たま)ひける。明(あ)くる年は、寛元元年(ぐわんねん)なり。六月十日頃に、中宮今出川(いまでがは)の大殿(おとど)にて、其(そ)の御気色あれば、殿の内(うち)立(た)ち騒(さわ)ぐ。白(しろ)き御装(よそ)ひに改(あらた)めて、母屋(もや)に移(うつ)らせ給(たま)ふ程(ほど)、いと面白(おもしろ)し。大臣(おとど)・北(きた)の方(かた)・御兄(せうと)の殿(との)原(ばら)達(たち)、添(そ)ひかしづき聞(き)こえ奉(たてまつ)る
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様(さま)、限(かぎ)り無(な)くめでたし。御修法(みしゆほふ)の壇共(ども)数(かず)知(し)らず。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)・かんなぎ、各(おのおの)かしがましきまで響(ひび)き合(あ)ひたり。いと暑(あつ)き程(ほど)なれば、只(ただ)ある人だに汗(あせ)に押(お)しひたしたるに、后(きさい)の宮(みや)いと苦(くる)しげにし給(たま)ひて、色々(いろいろ)の御物(もの)の怪(け)共(ども)名乗(なの)り出(い)でつつ、わりなく惑(まど)ひ給(たま)へば、大臣(おとど)・北の方(かた)、いかさまにせんと御心(おんこころ)を惑(まど)はし給(たま)ふ様(さま)、哀(あは)れに悲(かな)し。斯様(かやう)のきざみ、高(たか)きも下(くだ)れるも、おろかに思(おも)ふ人やは有(あ)らん。なべて皆(みな)かうのみこそあれど、げに差(さ)しあたりたる世(よ)の気色(けしき)を取(と)り具(ぐ)して、類(たぐひ)無(な)く思(おぼ)さるらんかし。内よりも、如何(いか)に如何(いか)にと御(おん)使(つか)ひ、雨の脚(あし)よりも繁(しげ)う走(はし)り違(ちが)ふ。〔内の〕御乳母(めのと)大納言(だいなごん)二位殿、大人(おとな)大人(おとな)しき内侍(ないし)の典侍(すけ)など、さるべき限(かぎ)り参(まゐ)り給(たま)へり。今日(けふ)も猶(なほ)心(こころ)許(もと)無(な)くて暮(く)れぬれば、いと恐(おそ)ろしう思(おぼ)す。伊勢(いせ)の御(み)てぐら使(つか)ひなど立(た)てらる。諸社の神馬(じんめ)、所々(ところどころ)の御誦経(ずきやう)の使(つか)ひ、四位五位数(かず)を尽(つ)くして鞭(ぶち)をあぐる様(さま)、言(い)はずとも推(お)し量(はか)るべし。大臣(おとど)とりわき春日(かすが)の社(やしろ)へ拝して、御馬・宮の御衣(おんぞ)など奉(たてまつ)らる。内には更衣腹(かういばら)に若宮(わかみや)御座(おは)しませど、此(こ)の事(こと)を待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ふとて、坊定(さだ)まり給(たま)はぬ程(ほど)なり。仮令(たとひ)平(たひ)らかにし給(たま)へりとも、女宮(をんなみや)にて御座(おは)しまさばと、まがまがしきあらましを思(おも)ふだに〔も〕、胸(むね)つぶれ口惜(くちを)し。かつは、御身の宿世(しゆくせ)見(み)ゆべき際(きは)ぞかしと思(おぼ)せば、いみじう念じ給(たま)ふに、既(すで)に事(こと)成(な)りぬ。先(ま)づ何(なに)にかと心(こころ)騒(さわ)ぐに、御兄(せうと)の大納言(だいなごん)公相、「皇子御誕生(たんじやう)ぞや」と、〔いと〕高(たか)らかに宣(のたま)ふを、余(あま)りの事(こと)に皆(みな)あきれて、「誠(まこと)か誠(まこと)か」と大臣(おとど)宣(のたま)ふ儘(まま)に、
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喜(よろこ)びの御涙(なみだ)ぞ落(お)ちぬる。哀(あは)れなる御気色、見(み)る人も事忌(ことい)み〔も〕しあへず。御修法(みしゆほふ)の僧共(ども)を始(はじ)め、道々(みちみち)の禄(ろく)賜(たま)はる。したり顔(がほ)に汗(あせ)押(お)し拭(のご)ひつつまかづる気色、今(いま)一際(きは)めでたく罵(ののし)り立(た)ちて、更(さら)に物(もの)も聞(き)こえず。げに此(こ)の頃の響(ひび)きに、女(をんな)にて御座(おは)しまさましかば、如何(いか)にしほしほと口惜(くちを)しからまし。きらきらしうもし出(い)で給(たま)へるかし。然(さ)れば、大臣(おとど)、年たけ給(たま)ふまでも、其(そ)の折(をり)の嬉(うれ)しう忝(かたじけな)かりしを思(おも)ひ出(い)づれば、見(み)奉(たてまつ)るごとに涙ぐまるるとぞ、後深草院をば常(つね)に申(まう)されける。御湯殿(おゆどの)の儀式(ぎしき)は更(さら)にも言(い)はず、人々(ひとびと)の禄(ろく)、何(なに)くれと、例(れい)の作法(さほふ)に事(こと)を添(そ)へて、いみじう世(よ)の例(ためし)にもなるばかりと尽(つ)くし給(たま)ふ。御はかし参(まゐ)る。心(こころ)許(もと)無(な)かりつる儘(まま)に、二十八日、親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、八月十日、すがやかに、太子に立(た)ち給(たま)ひぬ。大臣(おとど)御心(おんこころ)落(お)ち居(ゐ)て、すずしうめでたう思(おぼ)す事限(かぎ)り無(な)し。かくて、又(また)の年、東(あづま)の大納言(だいなごん)頼経の君、悩(なや)み給(たま)ふ由(よし)聞(き)こえて、御子の六(む)つに成(な)り給(たま)ふに譲(ゆづ)りて、都(みやこ)へ御返(かへ)りあれば、若君(わかぎみ)に其(そ)の日やがて将軍の宣旨(せんじ)下(くだ)され、少将(せうしやう)に成(な)り給(たま)ふ。頼嗣と名乗(なの)り給(たま)ふべし。泰時の朝臣、一昨年(をととし)入道して、孫(うまご)の時頼に世(よ)を譲(ゆづ)りにしかば、此(こ)の頃は天(あめ)の下の御後見(おんうしろみ)、此(こ)の相模(さがみ)の守(かみ)時頼の朝臣仕(つかうまつ)る。いと心(こころ)賢(かしこ)くめでたき聞(き)こえ有(あ)りて、兵(つはもの)も靡(なび)き従(したが)ひ、大方、世(よ)も静(しづ)かに治(をさ)まりすましたり。かくて寛元も四年に成(な)りぬ。正月二十八日、春宮に御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。此(こ)の御門も〔又(また)〕四(よ)つにぞならせ給(たま)ふ。めでたき御例(ためし)共(ども)なれば、行(ゆ)く末(すゑ)も
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推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御三郎君左大臣〔実経〕の大臣(おとど)、御年(おんとし)二十四にて摂政し給(たま)ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録(せうろく)し給(たま)へる例(ためし)、古(ふる)くは謙徳公・忠義公・東三条(とうさんでう)の大入道殿兼家、其(そ)の又(また)御子共(ども)中(なか)の関白殿・粟田殿・法成寺(ほふじやうじ)の入道殿これ二度(ふたたび)なり。近(ちか)くは、法性寺殿の御子共(ども)六条殿基実・松殿(まつどの)基房・月輪殿(つきのわどの)兼実、是(これ)ぞやがて今(いま)の峰殿(みねどの)の御祖父(おほぢ)よ。斯様(かやう)の事(こと)、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨(せんじ)被(かうぶ)り給(たま)へりしばかりにて、七日にて失(う)せ給(たま)へりしかば、天下(てんか)執行し給(たま)ふに及(およ)ばず。松殿の御子師家の大臣(おとど)、一代にてやみ給(たま)ひにき。いづれも御末(すゑ)までは御座(おは)せざりしに、此(こ)の三所、流(なが)れ絶(た)えず、久(ひさ)しき藤波(ふぢなみ)にて立(た)ち栄(さか)え給(たま)へるこそ、類(たぐひ)無(な)き止(や)む事(ごと)無(な)さなめれ。末(すゑ)の世(よ)にも有(あ)り難(がた)くや侍らん。今(いま)の摂政をば、後には円明寺殿と〔ぞ〕聞(き)こゆめりし。一条殿の御家の始(はじ)めなり。かくて御即位(そくゐ)・御禊(ごけい)も過(す)ぎぬ。大嘗会(だいじやうゑ)の頃、信実の朝臣と言(い)ひし歌(うた)詠(よ)みの娘(むすめ)少将(せうしやう)の内侍(ないし)、大内の女工所(によくどころ)に候(さぶら)ふに、雪(ゆき)いみじう日頃(ひごろ)降(ふ)りて、いかめしう積(つ)もりたる暁(あかつき)、太政(おほき)大臣(おとど)実氏宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。
九重(ここのへ)の大内山の如何(いか)ならん限(かぎ)りも知(し)らず積(つ)もる雪(ゆき)かな W
御返(かへ)し、少将(せうしやう)の内侍(ないし)〔信実の朝臣娘(むすめ)〕、
九重(ここのへ)の内野(うちの)の雪(ゆき)に跡(あと)付(つ)けて遙(はる)かに千代の道を見(み)るかな W
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〔院の〕上(うへ)は、いつしか所々(ところどころ)に御幸(みゆき)繁(しげ)う、御遊(あそ)びなどめでたく、今(いま)めかしき様(さま)に好(この)ませ給(たま)ふ。中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、大宮(おほみや)女院とぞ聞(き)こゆる。安(やす)らかに、常(つね)は一(ひと)つ御車などにて、只人(ただひと)のやうに花(はな)やかなる事(こと)共(ども)のみ隙(ひま)無(な)く、万(よろづ)有(あ)らまほしき御有様(おんありさま)なり。院の上、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給(たま)へば、世(よ)の人(ひと)残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)る。然(さ)るべき事(こと)とは言(い)ひながら、猶(なほ)いみじ。御心(おんこころ)にも一年(ひととせ)の事思(おぼ)し出(い)でられて、殊(こと)に畏(かしこ)まり聞(き)こえさせ給(たま)ふべし。
石清水(いはしみづ)木(こ)がくれたりし古(いにしへ)を思(おも)ひ出(い)づればすむ心(こころ)かな W
宝治の頃(ころ)、神無月(かみなづき)二十日余(あま)りなりしにや、紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)じに、宇治に御幸(みゆき)し給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人、思(おも)ひ思(おも)ひ色々(いろいろ)の狩衣(かりぎぬ)、菊・紅葉(もみぢ)の濃(こ)き薄(うす)き、縫物(ぬひもの)・織物(おりもの)・綾錦(あやにしき)、すべて世(よ)に無(な)き清(きよ)らを尽(つ)くし騒(さわ)ぐ、いみじき見物(みもの)なり。殿上人の舟に楽器(がき)設(まう)けたり。橘(たちばな)の小島(こじま)に御船(みふね)差(さ)しとめて、物(もの)の音(ね)共(ども)吹(ふ)き立(た)てたる程(ほど)、水(みづ)の底(そこ)も耳(みみ)立(た)てぬべく、そぞろ寒(さむ)き程(ほど)なるに、折知(をりし)り顔(がほ)に空さへ打(う)ち時雨(しぐ)れて、真木(まき)の山風(やまかぜ)有(あ)らましきに、木の葉(は)共(ども)の色々(いろいろ)散(ち)りまがふ気色、言(い)ひ知(し)らず面白(おもしろ)し。女房の船(ふね)に、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)、わざとなくこぼれ出(い)でたる、夕日に輝(かかや)き合(あ)ひて、錦(にしき)を洗(あら)ふ九の江かと見(み)えたり。平等院に中(なか)一日渡(わた)らせ給(たま)ひて、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事(こと)共(ども)数(かず)知(し)らず。網代(あじろ)に氷魚(ひを)の夜(よる)もさながら罵(ののし)り明(あ)かして、帰(かへ)らせ給(たま)ふ。鳥羽殿も近頃(ちかごろ)はいたう荒(あ)れて、池も水草(みくさ)がちに埋(う)もれたりつるを、いみじう修理し磨(みが)かせ給(たま)ひて、はじめて御幸(みゆき)
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成(な)りし時(とき)、「池の辺(ほとり)の松」と言(い)ふ事講ぜられしに、太政大臣(おほきおとど)、序書(か)き給(たま)へりき。
祝(いは)ひ置(お)く始(はじ)めと今日(けふ)を松(まつ)が枝の千年(ちとせ)の影(かげ)に澄(す)める池水(いけみづ) W
院の御製(ぎよせい)、
影(かげ)映(うつ)す松(まつ)にも千代の色見(み)えて今日(けふ)すみそむる宿(やど)の池水(いけみづ) W
大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(き)こえしは、為家(ためいへ)の民部卿の娘(むすめ)なりしにや。
色かへぬ常盤(ときは)の松(まつ)の影(かげ)添(そ)へて千代に八千代(やちよ)に澄(す)める池水(いけみづ) W
順(ずん)流(なが)るめりしかど、例(れい)のうるさければなん。御前の御遊(あそ)び始(はじ)まる程(ほど)、反橋(そりはし)のもとに、龍頭鷁首(りようとうげきす)寄(よ)せて、いと面白(おもしろ)く吹(ふ)き合(あ)はせたり。斯様(かやう)の事(こと)、常(つね)の御遊(あそ)び、いと繁(しげ)かりき。又(また)、太政(おほき)大臣(おとど)の津(つ)の国(くに)吹田(すいた)の山荘にも、いとしばしば御座(おは)しまさせて、様々(さまざま)の御遊(あそ)び数(かず)を尽(つ)くし、如何(いか)にせむと持(も)てはやし申(まう)さる。河に臨(のぞ)める家なれば、秋深(ふか)き月の盛(さか)りなどは、殊(こと)に艶(えん)有(あ)りて、門田(かどだ)の稲(いね)の風(かぜ)に靡(なび)く気色、妻(つま)どふ鹿(しか)の声(こゑ)、衣うつ砧(きぬた)の音、峰の秋風(あきかぜ)、野辺の松虫、取(と)り集(あつ)め、哀(あは)れそひたる所(ところ)の様(さま)に、鵜飼(うかひ)など下(お)ろさせて、篝火(かがりび)共(ども)ともしたる川の面(おもて)、いと珍(めづら)しうをかしと御覧(ごらん)ず。日頃(ひごろ)御座(おは)しまして、人々(ひとびと)に十首歌召(め)されしついでに、院の御製(ぎよせい)、
川舟(かはふね)のさして何処(いづく)か我(わ)がならむ旅とは言(い)はじ宿(やど)と定(さだ)めて W
と講(かう)じ上(あ)げたる程(ほど)、主(あるじ)の大臣(おとど)いみじう興(きよう)じ給(たま)ふ。「此(こ)の家の面目(めいぼく)今日(けふ)に侍(はべ)る」とぞ
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宣(のたま)はする。げに然(さ)る事(こと)と、聞(き)く人皆(みな)誇(ほこ)らしくなん。降(お)り居(ゐ)給(たま)へる太上天皇など聞(き)こゆるは、思(おも)ひ遣(や)りこそ、大人(おとな)びさだ過(す)ぎ給(たま)へる心地(ここち)すれど、未(いま)だ三十(みそぢ)にだに満(み)たせ給(たま)はねば、万(よろづ)若(わか)う愛敬(あいぎやう)づき、めでたく御座(おは)するに、時(とき)のおとなにて重々(おもおも)しかるべき太政大臣(おほきおとど)さへ、何業(なにわざ)をせんと、御心(おんこころ)に適(かな)ふべき事(こと)をのみ思(おも)ひまはしつつ、如何(いか)で珍(めづら)しからんと、持(も)て騒(さわ)ぎ聞(き)こえ給(たま)へば、いみじうはえばえしき頃(ころ)なり。御門、まして幼(をさな)く御座(おは)しませば、はかなき御遊(あそ)び業(わざ)より外(ほか)の営(いとな)み無(な)し。摂政殿さへ若(わか)く物(もの)し給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひ給(たま)ひて、女房の中(なか)にまじりつつ、乱碁(らんご)・貝(かい)おほひ・手(て)まり・へんつきなどやうの事(こと)共(ども)を、思(おも)ひ思(おも)ひにしつつ、日を暮(く)らし給(たま)へば、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、打(う)ち解(と)けにくく心(こころ)遣(づか)ひすめり。節会(せちゑ)・臨時(りんじ)の祭(まつ)り、何(なに)くれの公事(くじ)共(ども)を、女房に学(まね)ばせて御覧(ごらん)ずれば、太政大臣(おほきおとど)興(きよう)じ〔申(まう)し〕給(たま)ひて、ことさら、小(ちひ)さき笏(しやく)など作(つく)らせて数多(あまた)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、上も喜(よろこ)び思(おぼ)す。入道太政大臣(おほきおとど)の御娘(むすめ)大納言(だいなごん)の三位殿と言(い)ふを関白になさる。按察(あぜち)の典侍(すけ)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)・大納言(だいなごん)の典侍(すけ)・中納言(ちゆうなごん)の典侍(すけ)・勾当(こうたう)の内侍(ないし)・弁(べん)の内侍(ないし)・少将(せうしやう)の内侍(ないし)、斯様(かやう)の人々(ひとびと)、皆(みな)男(をとこ)の官(つかさ)にあてて、其(そ)の役(やく)を勤(つと)む。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍(すけ)を権大納言(だいなごん)実雄の君になさるるに、「したうづはく事(こと)、如何(いか)にも適(かな)ふまじ」とて、曹司(ざうし)に下(お)るるに、上もいみじう笑(わら)はせ給(たま)ふ。弁の内侍(ないし)、葦(あし)の葉(は)に書(か)きて、彼(か)の局(つぼね)に差(さ)し置(お)かせける。
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津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の如何(いか)なれば波にしをれて乱(みだ)れ顔(がほ)なる W
返(かへ)し、
津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の乱(みだ)れわび心(こころ)も波にうきてふるかな W
五月五日、所々(ところどころ)より御兜(かぶと)の花・薬玉(くすだま)など、色々(いろいろ)に多(おほ)く参(まゐ)れり。朝餉(あさがれひ)にて、人々(ひとびと)此(これ)彼(かれ)引(ひ)きまさぐりなどするに、三条の大納言(だいなごん)公親の奉(たてまつ)れる、根(ね)に露置(お)きたる蓬(よもぎ)の中(なか)に、深(ふか)きと言(い)ふ文字(もじ)を結(むす)びたる、糸(いと)の様(さま)もなよびかに、いと艶(えん)有(あ)りて見(み)ゆるを、上も御目(め)止(とど)めて、「何(なに)とまれ、言(い)へかし」と宣(のたま)ふを、人々(ひとびと)も、およすげて見奉(たてまつ)る。弁の内侍(ないし)、
〔あやめ草底(そこ)知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)に深(ふか)きと言(い)ふや蓬生(よもぎふ)の露 W
と、有(あ)りつる使(つか)ひ、はや帰(かへ)りにければ、蔵人を召(め)して、殿上より遣(つか)はしつ。御返(かへ)し、公親、〕
あやめ草底知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)を深き心(こころ)に如何(いかが)くらべん W
又(また)其(そ)の頃(ころ)、天王寺に院詣(まう)でさせ給(たま)ふついでに、住吉(すみよし)へも御幸(みゆき)有(あ)り。「神は嬉(うれ)し」と、後三条院仰(おほ)せられけん例(ためし)、思(おも)ひ出(い)でられ侍(はべ)りき。大宮院も御参(まゐ)りなれば、出車(いだしぐるま)共(ども)、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)共(ども)、春秋の花紅葉(はなもみぢ)を、一度(ひとたび)に並(なら)べて見(み)る心地(ここち)して、いと美(うつく)しく、目(め)も輝(かかや)くばかりいどみ尽(つ)くされたり。上達部・若(わか)き殿上人などは、例(れい)の狩襖(かりあを)、裾濃(すそご)の袴(はかま)など、珍(めづら)しき姿(すがた)共(ども)を、心々(こころごころ)に打(う)ち混(ま)ぜたり。釣殿(つりどの)の簀子(すのこ)に、人々(ひとびと)候(さぶら)ひて、数多(あまた)聞(き)こえしかど、さのみは如何(いか)でか。太政大臣実氏、
今日(けふ)や又(また)更(さら)に千年(ちとせ)を契(ちぎ)るらん昔(むかし)にかへる住吉の松 W
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さても、院の第一の御子(みこ)は、右中弁(うちゆうべん)平(たひら)の棟範(むねのり)の主(ぬし)の娘(むすめ)、四条院に兵衛の内侍(ないし)とて候(さぶら)ひしが、剣璽(けんじ)につきて渡(わた)り参(まゐ)れりしを、忍(しの)び忍(しの)び御覧(ごらん)じける程(ほど)に、其(そ)の御腹(おんはら)に出(い)で物(もの)し給(たま)へりしかど、当代(たうだい)生(う)まれさせ給(たま)ひにし後(のち)は、押(お)し消(け)たれて御座(おは)しますに、又(また)建長元年(ぐわんねん)、后腹(きさきばら)に二(に)の宮(みや)さへ差(さ)し続(つづ)き光(ひか)り出(い)で給(たま)へれば、いよいよ今(いま)は思(おも)ひ絶(た)えぬる御契(ちぎ)りの程(ほど)を、私物(わたくしもの)にいと哀(あは)れと思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。源氏(げんじ)にやなし奉(たてまつ)らましなど思(おぼ)すも、猶(なほ)飽(あ)かねば、只(ただ)御子(みこ)にて、東(あづま)の主(あるじ)になし聞(き)こえてんと思(おぼ)して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御門の御元服にもほとほと劣(おと)らず。内蔵寮(くらづかさ)何(なに)くれ、清(きよ)らを尽(つ)くし給(たま)ふ。やがて三品の加階(かかい)賜(たま)はり給(たま)ふ。御年(おんとし)十一なるべし。中務(なかづかさ)の卿(かみ)宗尊親王(しんわう)と申(まう)すめり。同(おな)じ二月十九日、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ふ。其(そ)の日将軍の宣旨(せんじ)被(かうぶ)り給(たま)ふ。斯(か)かる例(ためし)は未(いま)だ侍らぬにや。上下、珍(めづら)しく面白(おもしろ)き事(こと)に言(い)ひ騒(さわ)ぐべし。御迎(むか)へに東(あづま)の武士共(ども)数多(あまた)上(のぼ)る。六波羅(ろくはら)よりも名(な)ある者(もの)十人、御送(おく)りに下(くだ)る。上達部・殿上人・女房など、数多(あまた)参(まゐ)るも、「院中の奉公にひとしかるべし。彼処(かしこ)に候(さぶら)ふとも、限(かぎ)り有(あ)らん官(つかさ)冠(かうぶり)などは、障(さは)りあるまじ」とぞ仰(おほ)せられける。何事(なにごと)も、只(ただ)人柄(ひとがら)によると見(み)えたり。きはことによそほしげなり。誠(まこと)に公(おほやけ)と成(な)り給(たま)はずば、是(これ)より勝(まさ)る事(こと)、何(なに)か有(あ)らんと、にぎははしく花やかさは並(なら)ぶ方(かた)無(な)し。院の上も、忍(しの)びて、粟田口の辺(ほとり)に御車
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立(た)てて御覧じ送(おく)りけるこそ、哀(あは)れに忝(かたじけな)く侍れ。きびはに美(うつく)しげにて、遙々(はるばる)と御座(おは)しますを、御母の内侍(ないし)も、哀(あは)れに忝(かたじけな)しと思(おも)ひ聞(き)こゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)は、其(そ)の四月に都へ上(のぼ)り給(たま)ひぬ。いとほしげにぞ見(み)え給(たま)ひける。さて、今(いま)下(くだ)り給(たま)へるを、持(も)て崇(あが)め奉(たてまつ)る様(さま)、言(い)はん方(かた)無(な)し。宮中(きゆうちゆう)のしつらひ、御設(まう)けの事(こと)など限(かぎ)りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。斯様(かやう)にて今年(ことし)は暮(く)れぬ。明(あ)くる年は建長五年なり。正月三日御門御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御年(おんとし)十一、御諱(いみな)久仁と申(まう)す。いとあてに御座(おは)しませど、余(あま)りささやかにて、又(また)御腰(こし)などの怪(あや)しく渡(わた)らせ給(たま)ふぞ、口惜(くちを)しかりける。いはけなかりし御程(ほど)は、猶(なほ)いとあさましう御座(おは)しましけるを、閑院の内裏焼(や)けける紛(まぎ)れより、うるはしく立(た)たせ給(たま)ひたりければ、内の焼(や)けたるあさましさは何(なに)ならず、此(こ)の御腰(こし)の直(なほ)りたる喜(よろこ)びをのみぞ、上下思(おぼ)しける。院の上、鳥羽殿に御座(おは)します頃、神無月(かみなづき)の十日頃、朝覲(てうきん)の行幸し給(たま)ふ。世(よ)にある限(かぎ)りの上達部(かんだちめ)・殿上人仕(つかうまつ)る。色々(いろいろ)の菊紅葉(もみぢ)をこき混(ま)ぜて、いみじう面白(おもしろ)し。女院も御座(おは)しませば、拝し奉(たてまつ)り給(たま)ふを、太政大臣(おほきおとど)見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふに、喜(よろこ)びの涙ぞ人悪(わろ)き程(ほど)なる。
例(ためし)無(な)き我(わ)が身よ如何(いか)に年たけて斯(か)かる御幸(みゆき)に今日(けふ)仕(つか)へぬる W
げに、大方の世(よ)に付(つ)けてだに、めでたく有(あ)らまほしき事(こと)共(ども)を、我(わ)が御末(すゑ)と見給(たま)ふ大臣(おとど)の
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心地(ここち)、如何(いか)ばかりなりけむ。来(こ)し方(かた)も例(ためし)無(な)きまで、高麗(こま)・唐土(もろこし)の錦綾(にしきあや)を立(た)ち重(かさ)ねたり。太政(おほき)大臣(おとど)ばかりぞねび給(たま)へれば、裏表(うらおもて)白(しろ)き綾(あや)の下襲(したがさね)を着(き)給(たま)へるしも、いとめでたく艶(なま)めかし。池には、うるはしく唐(から)の装(よそ)ひしたる御船(みふね)二艘(にさう)漕(こ)ぎ寄(よ)せて、御遊(あそ)び様々(さまざま)の事(こと)共(ども)めでたく罵(ののし)りて、帰(かへ)らせ給(たま)ふ響(ひび)きのゆゆしきを、女院も御心(おんこころ)行(ゆ)きて聞(き)こし召(め)す。其(そ)の頃(ころ)ほひ、熊野の御幸(みゆき)侍(はべ)りしにも、良(よ)き上達部数多(あまた)仕(つかうまつ)らる。都出(い)でさせ給(たま)ふ日、例(れい)の桟敷(さじき)など、心(こころ)殊(こと)にいどみかはすべし。車は立(た)てぬ事(こと)なりしかども、大宮院ばかり、それも出車は無(な)くて、只(ただ)一両にて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひしこそ、止(や)む事(ごと)無(な)さも面白(おもしろ)く侍(はべ)りけれ。弁(べん)の内侍(ないし)、
折(を)りかざすなぎの葉風の賢(かしこ)さに一人(ひとり)道ある小車の跡 W
御幸(みゆき)、熊野の本宮につかせ給(たま)ひて、それより新宮の川舟(かはふね)に奉(たてまつ)りて差(さ)し渡(わた)す程(ほど)、川の面(おもて)所(ところ)狭(せ)きまで続(つづ)きたるも、御覧(ごらん)じなれぬ様(さま)なれば、院(ゐん)の上、
熊野川(くまのがは)瀬切(せぎ)りに渡(わた)す杉舟の辺波(へなみ)に袖のぬれにけるかな W
其(そ)の後(のち)も、又(また)程(ほど)無(な)く御幸(みゆき)有(あ)りしかば、女院も参(まゐ)り給(たま)ひけり。皆人(みなひと)知(し)ろし召(め)したらん〔事(こと)〕、中々にこそ。
第六 おりゐる雲
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春過(す)ぎ夏たけて、年去(さ)り年(とし)来(き)たれば、康元元年(ぐわんねん)にも成(な)りにけり。太政大臣(おほきおとど)の第二の御娘(むすめ)〈 東二条院公子 〉女御に参(まゐ)り給(たま)ふ。女院の御はらからなれば、過(す)ぐし給(たま)へる程(ほど)なれど、斯(か)かる例(ためし)は数多(あまた)侍(はべ)るべし。十二月十七日、豊の明(あ)かりの頃(ころ)なれば、内わたり花やかなるに、いとど打(う)ち添(そ)へて今(いま)めかしうめでたく、其(そ)の日御消息(せうそこ)を聞(き)こえ給(たま)ふ。
夕暮をまつぞ久(ひさ)しき千年(ちとせ)まで変(か)はらぬ色の今日(けふ)の例(ためし)を W
関白書(か)かせ給(たま)ひけり。紅(くれなゐ)の匂(にほ)ひの箔(はく)も無(な)きに、X重(かさ)ねたるを、結(むす)びて包(つつ)まれたり。時成(な)りぬとて人々(ひとびと)まう上(のぼ)り集(あつ)まる。女御の君、裏(うら)濃(こ)き蘇芳(すはう)七(なな)つ・濃(こ)き一重(ひとへ)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・〔濃(こ)き袴(はかま)奉(たてまつ)れり。准后添(そ)ひて参(まゐ)り給(たま)ふ。〕皆(みな)紅(くれなゐ)の八(や)つ・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)着(き)給(たま)ふ。出車十両、皆(みな)二人(ふたり)づつ乗(の)るべし。一の車、左に一条殿大殿(おほとの)の娘(むすめ)、右(みぎ)に二条殿公俊(きんとし)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、二の左按察(あぜち)の君(きみ)〈 □□の妹(いもうと) 〉、右(みぎ)に中納言の君実任(さねたふ)の娘(むすめ)、三(さん)の左に民部卿殿、右別当殿、其(そ)の次々(つぎつぎ)くだくだしければ止(とど)めつ。御童(わらは)・下仕(しもづか)へ・御はした・御雑仕(ざふし)・御ひすましなど言(い)ふ物(もの)まで、形(かたち)良(よ)きを択(え)り整(ととの)へられたる、いみじう見所(みどころ)あるべし。御兄(せうと)の殿原、右大臣公相・内大臣公基参(まゐ)り給(たま)ふ。限(かぎ)り無(な)くよそほしげなり。院の御子にさへし奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、いよいよいつかれ給(たま)ふ様(さま)、言(い)はん方(かた)無(な)し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参(まゐ)り給(たま)へりし例(ためし)にやとぞ、心(こころ)当(あ)てには覚(おぼ)え侍(はべ)りし。御門の一(ひと)つ御腹(おんはら)の姫宮(ひめみや)、此(こ)の頃(ごろ)皇后宮とて、其(そ)の御方(かた)の内侍(ないし)ぞ、御(おん)使(つか)ひに参(まゐ)り、まう上(のぼ)り
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給(たま)ふ程(ほど)も、女御はいとはづかしく、似(に)げ無(な)き事(こと)に思(おぼ)いたれば、とみにえ動(うご)かれ給(たま)はぬを、人々(ひとびと)そそのかし申(まう)し給(たま)ふ。御太刀(たち)一条殿、御几帳(きちやう)按察殿、御火(ひ)取(と)り中納言持(も)たれたりけり。上(うへ)は十四に成(な)り給(たま)ふに、女御は二十五にぞ御座(おは)しける。御門、きびはなる御程(ほど)を、中々、あなづらはしき方(かた)に思(おも)ひなし聞(き)こえ給(たま)ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞(き)こえ掛(か)かり給(たま)ふを、准后は美(うつく)しと見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御衾(ふすま)は、紅(くれなゐ)のうち八四方(やつよはう)なるに、上(かみ)にはうはざしの組(くみ)有(あ)り。糸(いと)の色など、清(きよ)らにめでたし。例(れい)の事(こと)なれば、准后奉(たてまつ)り給(たま)ふ。太政(おほき)大臣(おとど)も、三日が程(ほど)は候(さぶら)ひ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)に勧盃(けんぱい)有(あ)り。二十三日、又(また)御消息(せうそこ)参(まゐ)る。御(おん)使(つか)ひ頭(とう)の中将(ちゆうじやう)通世、こたみも殿書(か)かせ給(たま)ふめり。此(こ)の頃、殿(との)と聞(き)こゆる太政大臣兼平の大臣(おとど)、岡(をか)の屋(や)殿(どの)の御弟(おとうと)ぞかし。後(のち)には照念院殿と申(まう)しけり。御手勝(すぐ)れてめでたく書(か)かせ給(たま)ひしよ。鷹司殿(たかつかさどの)の御家の始(はじ)めなるべし。
朝日(あさひ)影(かげ)今日(けふ)よりしるき雲の上(うへ)の空にぞ千代の色も見(み)えける W
御返(かへ)し、太政大臣(おほきおとど)聞(き)こえ給(たま)ふ。
朝日(あさひ)影(かげ)あらはれそむる雲の上(うへ)に行(ゆ)く末(すゑ)遠(とほ)き契(ちぎ)りをぞしる W
女(をんな)の装束(しやうぞく)、細長(ほそなが)添(そ)へてかづけ給(たま)ふ。今日(けふ)はじめて、内(うち)の上(うへ)、女御の御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。御供(とも)には関白殿・右大臣公相・内大臣公基・四条の大納言(だいなごん)隆親・権大納言(だいなごん)実雄良教通成・
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右大将基平など、押(お)しなべたらぬ人々(ひとびと)参(まゐ)り給(たま)ふ。餅(もちひ)の使(つか)ひ、頭(とう)の中将(ちゆうじやう)隆顕仕(つかうまつ)る。太政大臣(おほきおとど)、夜(よる)の御殿(おとど)より取(と)り入(い)れ給(たま)ふ。御心(おんこころ)の中(なか)のいはひ、如何(いか)ばかりかはと推(お)し量(はか)らる。人々(ひとびと)の禄(ろく)、紅梅(こうばい)の匂(にほ)ひ・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・葡萄染(えびぞ)めの唐衣(からぎぬ)・袿(うちき)・細長(ほそなが)・こしざしなど、しなじなに従(したが)ひて、けぢめあるべし。かくて今年(ことし)は暮れぬ。正月、いつしか后に立(た)ち給(たま)ふ。只人(ただひと)の御娘(むすめ)の、かく后・国母にて立(た)ち続(つづ)き候(さぶら)ひ給(たま)へる、例(ためし)稀(まれ)にや有(あ)らん。大臣(おとど)の御栄(さか)えなめり。御子二人(ふたり)大臣にて御座(おは)す。公相・公基とて、大将にも左右(さう)に並(なら)びて御座(おは)せしぞかし。是(これ)も、例(ためし)いと数多(あまた)は聞(き)こえぬ事(こと)なるべし。我(わ)が御身太政大臣にて、二人(ふたり)の大将を引(ひ)き具(ぐ)して、最勝講なりしかとよ、参(まゐ)り給(たま)へりし御勢(いきほ)ひのめでたさは、珍(めづら)かなる程(ほど)にぞ侍(はべ)りし。后・国母の御親(おや)、御門の御祖父(おほぢ)にて、誠(まこと)に其(そ)の器物(うつはもの)に足(た)らぬと見(み)え給(たま)へり。昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのゐん)に候(さぶら)ひし下野(しもつけ)の君は、然(さ)る世(よ)の古(ふる)人(ひと)にて、大臣(おとど)に聞(き)こえける。
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)差(さ)し並(なら)ぶ三笠山(みかさやま)人にこえたる梢とぞ見(み)る W
返(かへ)し、大臣(おとど)、
思(おも)ひ遣(や)れ三笠(みかさ)の山(やま)の藤の花咲(さ)き並(なら)べつつ見(み)つる心(こころ)は W
斯(か)かる御世の栄(さか)えを、自(みづか)らも止(や)む事(ごと)無(な)しと思(おぼ)し続(つづ)けて詠(よ)み給(たま)ひける。
春雨は四方の草木をわかねども繁(しげ)き恵(めぐ)みは我(わ)が身也(なり)けり W
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正嘉元年(ぐわんねん)の春の頃より、承明門院(しようめいもんゐん)御悩(なや)み重(おも)らせ給(たま)へば、院もいみじう驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、御修法(みしゆほふ)何(なに)かと聞(き)こえつれど、遂(つひ)に七月五日、御年(おんとし)八十七にて隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。理(ことわり)の御年(おんとし)の程(ほど)なれど、昔(むかし)の御名