音なし草紙
(『日本文学大系』第19巻「お伽草子」〈大正14年〉による。振り仮名省略版。入力:菊池真一)
音なし草紙
近き程のこととて、世に疎忽なるをかしき事の由来をなむ、詳しく語り伝へけるは、西の洞院の河近き辺に住み馴れし人の侍るが、そのかみ見初めしより、互に浅からず思ひ、いかならむ岩の峡、水の底までもと思ひて、年月を過しつゝ、白地にも立出づることなき人の、俄に思はずも遥々と、習はぬたびの心筑紫に思ひ立ちぬれば、いと心細くも覚ゆるに、又跡にとゞまれる人の眺め入りたる様もことわりぞかしと、かたみに袖を絞りつゝ、末の松山浪越ゆべしとも思はずして、立帰るべきほどを遥かに打歎きつゝ、「わが行くかたは西なるに、都は東の空なれば、月の出で入る山をこそ、恋しき方のしるべには互に眺め侍らめ。」と、やう/\こしらへ立出づるに、早如月も半ば過ぎ、弥生も近き程なるに、都の花の梢ども見すてて行くは、鴈がねの帰る空には似たれども、それは越路の故郷に、急ぐ心もありあけの、我は尽きせず物憂くて、引きかへ辛き旅衣、立出でがたき心地して、名残は多く思へども、とゞまるべき道にあらずとて下りけるが、さきへはさらに行きやらで、跡にのみ心の残りければ、
たつよりも心つくしの旅衣露けき袖をいつかはらはむ
女かへし、
言の葉の露おきそへていともなほとまるうき身ぞ濡れはまされる
女も名残忍び難く、徒然の寂しさに、旅の空をのみ思ひやりつゝ、眺め暮し侍る折節、程も近くて常に見し人なるが、忍び入り来りて聞ゆるは、「思ひの色をかうとだにいはまほしくはありしかど、人目の関に洩らしわび、徒らにのみ蘆垣のま近きながらかひもなく、明し暮してすぎの門、さすがに忍びはてずして、名に立つとてもいかゞせむ、かゝれる道の惑ひには、品位にも依らざるにや、数ならぬ身に便りなくも、擬ふべきにはあらぬとも、光源氏は現なや、御継母の藤壷に、いとわりなくも如何して、忍び/\の御わざに、設けの君の御名をば、冷泉院とぞ申しける。それのみならず春の夜の、朧月夜のあやまちに、須磨の浦へぞ流れゆく、浮寝の床の浪枕、思ひ明石のうたゝ寝も、人憎からぬ住居とて、問はず語りの夢をこそ、又も結ばせ給ひけれ。さて在原の中将も、鬼一口の辛き目に、都の中に住みわびて、東の方に旅衣、遥々行きて宇都の山、思ひをいとゞ駿河なる、富士の煙とかこちつゝ、なほ行末は武蔵野の、はてしもあらぬ恋路ゆゑ、身は徒らに業平の、男に今の世の、我も何かはかはらまし、幾程あらぬ夢の世に、はかなく思ひ消えぬべき、あはれを知らせ給ひなば、露の情をかけ給へ。」と、いと口なれていひ寄れば、人の心の奥も見ず、はや花染の仇にしも、うつろひ易くなりにけむ、百夜千束の例より、いとあり難く侍らめ、篠の小笹の仮初を、偽りなれし人やらむと、思ひもあへずいつのまに、移り果てぬる心ぞと、頼み難なき世なれども、人の心はさま/゛\に、なべてあらねば変りける。妻に別れて海に入り、共に自害をするもあり、歎きわびつゝ程もなく、思ひ消ゆるもあるものを、命までこそあらずとも、などかは同じ世に、かはる心のうたてさよ、たゞ何事も一筋に、思ひ定めぬ世の中や、風もまだきに糸すゝき、はや乱れつゝ打靡き、夕暮ごとを松虫の、吹きくる笛をしるべにぞ、閨へも入らで元結に、霜置くまでも侍りければ、心安くも今ははや、其の関守もあらばこそ、夜な/\毎に通ひ来て、年頃なれし人よりも、猶睦ましく打解けて、思ひかはせる其の色を、深く包むと思へども、浮名は殊にもれ易き世のならひなるに、まして阿漕の浦に引く網の、度重なりて人目にも、余るばかりの其の気色を、いかでか人の知らざるべき、いとも愚かなる心にこそ。
今は早忍ぶる事もやう/\まけぬれば、色に出でてぞあたりの人々は、此の事をのみ囁き合ひけるを、此にさる若き人の聞きつけて、我もいかさまいひよりて見ばやと思ひ侍るが、げに浮船の御方へ匂宮こそ薫の御真似し給ひつゝ、混れて入らせおはしませと、思ひ出して我も又、彼の男の気色をなむしつゝ、行きて見むとぞ思ひたち、月のしば/\遅き夜の更くるを待ちて彼の家の、軒端ま近く木がくれて、笛吹き鳴らし佇めば、女は夢にも知らずして、やう/\今に来なましと、待つ程なれば笛の音を、只其の人と思ひつゝ、姿さだかに見もわかず、袖を引きつゝ内に入り、杯肴取出し、「興ある事のめでたきは、昔も今も変らじや、三百杯も強ちに、辞すなと詩にも作りける。世のうき時も侘しきも、酔ひてぞしばし忘らるゝ。殊に不死の薬にて、心をのぶるものなれば、空しくする事勿れとは、げにもとおぼえ侍る。」と、いと馴れ顔にもてなして、かたみに強ひて飲むほどに、後の覚えもあらぬまで、共に酔ひてぞふし竹の、夜半すぐと思しきに、通ひ馴れたる人も来て、いつもの如く笛を吹き、声作りつゝ音なへど、鎖し固めつゝ寝ねければ、如何なる事の有るらむと、覚束なくは思へども、しばしが程は待つ宵の、更けのく鐘の声きくに、昔の人の言の葉も、思ひ知られて徒らに、帰らむ事の本意なきに、忍ぶ妻戸も忘れつゝ、叩けど音の聞えぬは、耳無山か怪しやな、いつの間にかは昨日に今日は替る瀬の、飛鳥の川とちかひつゝ、東路ならぬ此の宿に、今は勿来曾の関すゆる、人の心ぞいとつらきと、打恨みつゝ、
頼みなき人の心を果なくも後の世かけて何契りけむ
と云ひつゝ帰りにけれど、女は爰に臥したるを、有らぬ人とも知らずして、「あな煩はし戸叩きけるや、夜は甚くこそ更けぬるに、辺なる人も如何思ふらむ、此の主こそいとよくなむ、聞き知りて侍れ。」とて、其の名を定かに云ひ現はしつゝ、「あのわたりには、なまいたづらなる人の、あまた侍る中にも、とりわきて仇めきたる色添ひ、笈彼所の軒に立ちつゝ木隠れ居て、行き来の者を招き寄せ、人を弄ずる心ありて、かかる好からぬ事を為侍る。」と、悪くげに語りなしけるを、此の男つく/゛\と聞きて、まろが事よと思ひぬれば、いとをかしきを念じつゝ、名のりをしてや行かましと思ひしかども、さすが咎めを憚りて、「木の丸般にあらばこそ。」と独りごちつゝ詞少なに云混らはして、まだ夜深くも帰りつゝ、実にかしこくも為済しけるよと、いと嬉しさ限りなくて、
思はずも契りし事ぞ忘られぬ後のなさけは知らずながらも
女は此の人違へたる事は朧気にも知らずして、夜深く叩きける安からず思ひて、爰にさる者の侍るを語らひよせて、有りし花の様を聞えつゝ、「よし自らをこそ侮らせ給ふとも、辺も思ひ憚からで、夢驚かし給ひたる悪くさをかこちてたべ。」といひければ、「畏まり侍る。」とてぞ行きにける。
使ももとより、此の人違ひの事をば夢にも知らずして、過ぎし夜深く叩きける事をかこち顔に行きて、かの女のいひし儘に聞えければ、人して云はする程もなく、泊りし主出で来りて、「実に御咎めはさる事なれども、それは常々うとからず、通へる人のわざなれば、彼所へこそはかこちたまはめ、爰には更に知り侍らず、去りながら某も、過ぎにし宵は何と無くやすらひ出でて侍るに、招く気色の見えし儘、誰とも知らで立寄るに、袖を引かせ給へるは、いと思はずに覚ゆれど、さすが嬉しき道なれば、いかでか辞み申すべき、一夜参りて、御とのゐを申せし事も混れなし。扠、又殊に珍らしき、肴数々取出でて、酒の威徳の有ることを、様々語り給ひつゝ、御杯をたびければ、数をも知らず飲み酔ひて、現も更に無かりしが、斯くては人の御為も如何と思ひ憚りては帰りしながら、そなたの空のみ眺めしに、今更かかる御使の有るべしとは、かけても思ひよらざりし、ゆるし給はぬ御ことを押しても参りたらばこそ、身の僻事にも侍らめ、ゐなかにおはする殿にも此の故を、たとひ罪には沈むとも、いかさま歎き聞えむ。」と、ろうじつゝ云ひければ、いと道理におぼゆれば、言の葉も無くて、「しか/゛\の其の故をも知り侍らで、かかる御使を申し、面目を失ひたるこそ口惜しけれ。」とて帰りぬ。
使帰りて彼のもとに云ひし事を、有りの儘包まず語り聞ゆれば、人やりならぬわざながら、俄に胸の潰れてぞ、我にも有らぬ心地して、物も覚えず今更に、世の人聞きを思ふより、増りて猶も苦しきは、哀れに深く思ひおき、心つくしに住む人も、斯くと聞かれば如何せむと、いと悲しきに打添へて、傍は忍び来る人も洩り聞かなむも恥かしく、心つきなき事なれば、返らぬ事の悔しくて、取返すものにもがなやと、千度万度思へども、過言一度出でぬれば、駟も舌に及ばず、いふ言の葉は今更に前非を悔ゆるかひもなし、面目無さは限りなくこそ侍れ、と、「御身を深く初めより、頼み侍る事なれば、露いさゝかも此の事を、人に洩らさせ給ふなと、いとよく口を固めつゝ、数々の引出物を尽してぞ、彼の腹立てし心をもさるべき様に聞えなし、宥めてたべ。」と云ひけるに、かかるべしとは白雲の、跡はかなき事なるに、由なく人に頼まれて、又は何とか岩橋の、夜の契りも絶えはてて、明けてわびしく憂き事の、今有りとてもいかにして、有らぬ様には岩波の、云ひくだかむは難くのみ、思ひながらも様々の、ひきどもあまたたびけるに、辞み難くて、「聊かも、疎略は更に侍らじ。」と、軈て立ちてぞ行きにける。女は更に現とも夢ともわかぬ心地して、いと浅ましさの余りにぞ、
今朝こそは有らぬ人ともしら露のむすぶ契りを夢になさばや
いなみ難さのまゝにこそ、如才あらじと聞えつれ、行きては何といふべきと、詞ぞ更に無かりける。人の頼むに身を捨てて、頼まれぬるも事に依る、笑はれぐさに成りはてば、我さへ共に名取川、流しはてむも口惜しく、譬へば漢の古に帝尭と申し奉る帝より、許由と云へる賢人の、箕山に住むと聞召し、御位を賜ふべしと、御敕諚の有りけるに、其の返事をば申さで、剰へかかる事を聞きて、耳が穢れぬとて、潁川の水にて耳を洗ひしところへ、同じ山に住む巣父も此の川に来り合ひしが、左様に穢れたる耳を洗ひし水をば、牛にはいかで飼ふべきとて、牛をひきて帰りしとこそ聞け、昔の賢人はかやうに心清かりしぞかし、いかなる我なれば傍痛き事に頼まれけむ、かく穢れぬる心をば、大海にてすゝぐとも、いかでか清からむと、古き例も恥かしく、悔しさ限りなけれども、今更異議に及ばずして、又彼処に行きつゝ、「さても不思議なる卒爾をも知らで、申出づるこそ返す/゛\も口惜しく候へば、御詫言に参りて候。よし/\人は知らざれば、たゞともかくも御心得にてこそあらむずれ、哀れ此の事を音無しに深くも頼み侍る。」と、俄に引きかへ詫びけるも、いと可笑くて、「某を世に徒らなる好き者と宣ひしさへ、御恨みは深く侍るに、ましてや故も無きことをかこち給ふは心得ず、いと珍らかなる事かな。」と、ろうじつゝいひければ、「御道理にては候へども、かゝる過の侍ればこそ、かやうに御詫言をば申し候なれ、実に亦昨日今日までも鎬を削り戦へる敵なれども、降を乞ひぬれば御許しを給ふも習ひぞかし、是れは誠にいはけなき女心地のはかなくて、乱れしすきに引かれつゝ、由なき事を聞えしは咎にあれども、さりとては浮節ながら、なよ竹の一夜をこめし御情も、此の世ならざる契りぞと思召し赦させ給へかし。」と打笑ひつゝいひければ、さすが打ほゝゑみて、少し和らぐ言の葉のいと嬉しくて、「御僻事は無しとても、聞え顕はし給はむも、いはぬに劣る習ひあり。悪き者とて今更に辛き目を見せ亡はせ給ひなば、よしなき罪に侍るぞ、只さるべくは此の事を思ひ止まらせ給へかし。」と、詞をつくして様々にわびければ、悪きながらもさすが又、いと可笑きにすかされて、やう/\のことになむ聞入りて侍るとぞ。
されば余りにけしからず、我が身の程をふさやかにいひなさむとて、斯かるうたてしき事をなむ取り出でて、人笑はれになるぞ心憂き、たとひ斯かる事ありと、知らず顔にて忍びなば、かく憂き事はよもあらじ、死ぬるに増る恥ぞとは、げにかやうなる事をこそと、聞くも憂ければ、とにかくに見やう形はおくれても、心は下の品ならず、只何事もつゝましく、忍びすぐしてさすが又、世の浮節も哀れをも、情ありつゝ知る人の、只仮初に云ひ捨つる、言の葉ごとの末までも、露違へじと思ふには、心悪くも頼もしけれ。其の人柄はやごとなく、片帆にあらぬ様ながら、心の様はさしもなく、偽り勝にさがなくて、面はゆげなき風情には、花の姿も何ならず、心の程にやつしつゝ、色香も消ゆる心地して、難波の事も深からず、思ひなさで浅くのみ、見劣りするぞ憂き。されば高きも下れるも、おのが心のゆく儘に、人の誹りを知らざれば、遂に怪しき事出で来、世の言種となるぞ憂き。又さりとても見聞く世に、露きずなくて万にも、満てる人はあらばこそ、唯何事も耳立たで斜なるぞ目安きや。余りに下しう何処までも取る方なきは口惜しく、人も落しめはべれば、其の品あるも品なきも、只程々に従ひつゝ、心つかひなむいとよくたしなみ侍るべきことにこそ。
(奥付)
大正十四年九月二十日印刷
大正十四年九月二十三日発行
(非売品)
日本文学大系
第十九巻
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