藤田豪之輔校註「大鏡」(昭和4年)
凡例
底本: 『大鏡』藤田豪之輔校註 東京大倉廣文堂 発行(昭和4年)
校定大鏡(萩野由之・松井簡治校訂)を含む11種の本を校合して、本文を立てたものです。
漢字の表記を変え、ひらがなを漢字にした箇所が有ります。
語句を他本により修正した箇所が有ります。
和歌の末尾に Wを付けました。
上・中・下の表記は有りませんが、便宜上、〔大鏡 上〕の様に記しました。
発言者がわかりにくい場合は、《 》に入れて記しました。
奥付
大鏡
昭和四年十二月五日印刷
昭和四年十二月十日発行
昭和六年四月十五日訂正再版
(印紙)
金一円十七銭
校註者 藤田豪之輔
発行者 大倉克次
印刷者 川崎佐一
発行所 大倉廣文堂
大鏡
〔大鏡 上〕
序
先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいこう)に詣(まう)でて侍(はべ)りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といき会(あ)ひて、同じ所に居(ゐ)ぬめり。「あはれに、同じ様(やう)なるもののさまかな」と見侍(はべ)りしに、これらうち笑ひ、見かはして言(い)ふやう、
《世継》『年頃(としごろ)、昔の人に対面(たいめ)して、いかで世の中の見聞(き)くことをも聞(き)こえあはせむ、このただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)をも申(まう)しあはせばやと思(おも)ふに、あはれにうれしくも会(あ)ひ申(まう)したるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみぢ)もまかるべき。おぼしきこと言(い)はぬは、げにぞ腹ふくるる心地(ここち)しける。かかればこそ、昔の人は物(もの)言(い)はまほしくなれば、穴を掘りては言(い)ひ入れ侍(はべ)りけめとおぼえ侍(はべ)り。かへすがへすうれしく対面(たいめ)したるかな。さてもいくつにかなり給(たま)ひぬる』と言(い)へば、いま一人(ひとり)の翁(おきな)、
《繁樹》『いくつといふこと、さらに覚(おぼ)え侍(はべ)らず。ただし、おのれは、故(こ)太政(だいじやう)のおとど貞信公(ていしんこう)、蔵人(くらうど)の少将(せうしやう)と申(まう)しし折の子舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮(みや)の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみやう)の大宅(おほやけの)世継(よつぎ)とぞ言(い)ひ侍(はべ)りしかな。されば、ぬしの御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさり給(たま)へらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男(をのこ)にてこそはいませしか。』と言(い)ふめれば、世継、
『しかしか、さ侍(はべ)りしことなり。さてもぬしの御名(みな)はいかにぞや』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)にて元服(げんぶく)つかまつりし時、「きむぢが姓(さう)はなにぞ」と仰(おほ)せられしかば、「夏山(なつやま)となむ申(まう)す」と申(まう)ししを、やがて、繁樹(しげき)となむつけさせ給(たま)へりし』など言(い)ふに、いとあさましうなりぬ。
たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄(ゐよ)りなどしけり。年三十ばかりなる侍(さぶらひ)めきたる者の、せちに近く寄りて、
《侍》『いで、いと興(きよう)あること言(い)ふ老者(らうざ)たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言(い)へば、翁(おきな)二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹(しげき)と名のるがかたざまに見やりて、
《侍》『「いくつといふこと覚(おぼ)えず」といふめり。この翁どもは覚(おぼ)え賜(た)ぶや』と問(と)へば、
《世継》『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年(ことし)はなり侍(はべ)りぬる。されば、繁樹(しげき)は百八十におよびてこそ候(さぶら)ふらめど、やさしく申(まう)すなり。おのれは水尾(みづのを)の帝(みかど)のおり御座(おは)します年の、正月の望(もち)の日(ひ)生まれて侍(はべ)れば、十三代に会(あ)ひ奉(たてまつ)りて侍(はべ)るなり。けしうは候(さぶら)はぬ年なりな。まことと人思(おぼ)さじ。されど、父が生学生(なまがくしやう)に使はれたいまつりて、「下臈(げらふ)なれども都ほとり」と言(い)ふことなれば、目を見給(たま)へて、産衣(うぶぎぬ)に書き置きて侍(はべ)りける、いまだ侍(はべ)り。丙申(ひのえさる)の年に侍(はべ)り』と言(い)ふも、げにと聞(き)こゆ。
いま一人(ひとり)に、
《侍》『なほ、わ翁(おきな)の年(とし)こそ聞(き)かまほしけれ。生まれけむ年は知(し)りたりや。それにていとやすく数(かず)へてむ。』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『これは誠(まこと)の親にも添(そ)ひ侍(はべ)らず、他人のもとに養はれて、十二三まで侍(はべ)りしかば、はかばかしくも申(まう)さず。ただ、
《養父》「我は子うむわきも知(し)らざりしに、主の御使(つかひ)に市(いち)へまかりしに、また、私(わたくし)にも銭十貫を持ちて侍(はべ)りけるに、
母が抱(いだ)きて、「この児(ちご)買はん人がな」とひとりごちしを聞(き)きて、見侍(はべ)りけるに、色白うてにくげも侍(はべ)らざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱(いだ)きとり侍(はべ)りけるに、うち笑みてかきつきて侍(はべ)りけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児(ちご)を放(はな)たむとは思(おも)はるるぞ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「まろも子を十人(とたり)まで・・・・・・」。
にくげもなき児を抱(いだ)きたる女の、「これ人に放(はな)たむとなむ思(おも)ふ。子を十人(とたり)までうみて、これは四十(よそ)たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言(い)ひ侍(はべ)りければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何(なに)とか言(い)ふ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「夏山」とは申(まう)しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿(おほとの)には参(まゐ)り侍(はべ)りし』など言(い)ひて、
《世継》『さても、うれしく対面(たいめ)したるかな。仏(ほとけ)の御しるしなめり。年頃(としごろ)、ここかしこの説経(せきやう)とののしれど、なにかはとて参(まゐ)らず侍(はべ)り。かしこく思(おも)ひたちて、参(まゐ)り侍(はべ)りにけるが、うれしきこと』とて、
《世継》『そこに御座(おは)するは、その折の女人にやみでますらむ』
と言(い)ふめれば、繁樹(しげき)がいらへ、『いで、さも侍(はべ)らず。それははや失(う)せ侍(はべ)りにしかば、これは、その後(のち)あひ添(そ)ひて侍(はべ)るわらべなり。さて閣下(かふか)はいかが』と言(い)ふめれば、世継がいらへ、『それは侍(はべ)りし時のなり。今日(けふ)もろともに参(まゐ)らむと出(い)でたち侍(はべ)りつれど、わらはやみをして、あたり日(び)に侍(はべ)りつれば、口惜(くちを)しくえ参(まゐ)り侍(はべ)らずなりぬる』と、あはれに言(い)ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
かくて講師(こうじ)待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁(おきな)どもの言(い)ふやう、
《世継》『いで、さうざうしきに、いざ給(たま)へ。昔物語(むかしものがたり)して、このおの御座(おは)さふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそ侍(はべ)りけれ」と、聞(き)かせ奉(たてまつ)らむ』と言(い)ふめれば、いま、一人(ひとり)、
《繁樹》『しかしか、いと興(きよう)あることなり。いで覚(おぼ)え給(たま)へ。時々、さるべきことのさしいらへ、繁樹(しげき)もうち覚(おぼ)え侍(はべ)らむかし』と言(い)ひて、言(い)はむ言(い)はむと思(おも)へる気色(けしき)ども、いつしか聞(き)かまほしく、おくゆかしき心地(ここち)するに、そこらの人多かりしかど、物(もの)はかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍(さぶらひ)ぞ、よく聞(き)かむと、あどうつめりし。世継が言(い)ふやう。
『世はいかに興(きよう)ある物(もの)ぞや。さりとも、翁(おきな)こそ、少々のことは覚(おぼ)え侍(はべ)らめ。昔さかしき帝(みかど)の御政(まつりごと)の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗(おうな)やある」と召(め)し尋ねて、いにしへの掟(おきて)の有様(ありさま)を問(と)はせ給(たま)ひてこそ、奏(そう)することを聞(き)こし召(め)しあはせて、世の政は行はせ給(たま)ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍(はべ)り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿(くろがへ)の骨九つあるに、黄(き)なる紙張りたる扇(あふぎ)をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
《世継》『まめやかに世継が申(まう)さむと思(おも)ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)の、世にすぐれて御座(おは)しますことを、道俗男女の御前(おまへ)にて申(まう)さむと思(おも)ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后(きさき)、また大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)の御上(うへ)をつづくべきなり。そのなかに、幸(さいは)ひ人(びと)に御座(おは)します、この御有様(ありさま)申(まう)さむと思(おも)ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。つてに承(うけたまは)れば、法華経(ほけきやう)一部を説き奉(たてまつ)らむとてこそ、まづ余教(よけう)をば説き給(たま)ひけれ。それを名づけて五時教(ごじけう)とは言(い)ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道(にふだう)殿(どの)の御栄えを申(まう)さむと思(おも)ふほどに、余教の説かるると言(い)ひつべし』など言(い)ふも、わざわざしく、ことごとしく聞(き)こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思(おも)ふに、いみじうこそ言(い)ひつづけ侍(はべ)りしか。
《世継》『世間の摂政(せつしやう)・関白(くわんばく)と申(まう)し、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)と聞(き)こゆる、古今(いにしへいま)の、皆、この入道(にふだう)殿(どの)の御有様(ありさま)のやうにこそは御座(おは)しますらめとぞ、今様(いまやう)の児(ちご)どもは思(おも)ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言(い)ひもていけば、同じ種一(ひと)つ筋(すぢ)にぞ御座(おは)しあれど、門(かど)別れぬれば、人々の御心用(こころもち)ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世始(はじ)まりて後(のち)、帝(みかど)はまづ神の世七代をおき奉(たてまつ)りて、神武(じんむ)天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、当代(たうだい)まで六十八代にぞならせ給(たま)ひにける。すべからくは、神武天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、次々の帝(みかど)の御次第(しだい)を覚(おぼ)え申(まう)すべきなり。しかりと言(い)へども、それはいと聞(き)き耳遠ければ、ただ近きほどより申(まう)さむと思(おも)ふに侍(はべ)り。文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)御座(おは)しましき。その帝(みかど)よりこなた、今の帝(みかど)まで十四代にぞならせ給(たま)ひにける。世をかぞへ侍(はべ)れば、その帝(みかど)、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)の年より、今年(ことし)までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申(まう)すは、かたじけなく候(さぶら)へども』とて、言(い)ひつづけ侍(はべ)りし。
一 五十五代 文徳(もんとく)天皇(てんわう) 道康(みちやす)
《世継》『文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)しける帝(みかど)は、仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)順子(じゆんし)と申(まう)しき。その后(きさき)、左大臣(さだいじん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天長(てんちやう)四年丁末(ひのとひつじ)八月に生まれ給(たま)ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和(じようわ)九年壬戌(みづのえいぬ)二月二十六日に御元服(げんぶく)。同八月四日、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年十六。
仁明(にんみやう)天皇(てんわう)もと御座(おは)する東宮(とうぐう)をとりて、この帝(みかど)を、承和(じようわ)九年八月四日、東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしなり。いかにやすからず思(おぼ)しけむとこそおぼえ侍(はべ)れ。
嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)三月二十一日、位(くらゐ)につき給(たま)ふ。御年二十四。さて世を保(たも)たせ給(たま)ふこと八年。
御母后(きさき)の御年十九にてぞ、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。嘉祥(かしやう)三年四月に后にたたせ給(たま)ふ。御年四十二。斎衡(さいかう)元年甲戌(きのえいぬ)の年、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)三年辛巳(かのとみ)二月二十九日癸酉(みづのととり)、御出家(すけ)して、潅頂(くわんぢやう)などせさせ給(たま)へり。同じき六年丙申(ひのえさる)正月七日、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。これを五条(ごでう)の后(きさい)と申(まう)す。伊勢物語(ものがたり)に、業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給(たま)ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候(さぶら)ふめる。いかなることにか、二条(にでう)の后(きさい)に通ひまされける間のことどもとぞ、承(うけたまは)りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍(はべ)るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給(たま)へれば、同じ所に御座(おは)しけるにや。
一 五十六代 清和(せいわ)天皇(てんわう) 惟仁(これひと)
次の帝(みかど)、清和(せいわ)天皇(てんわう)と申(まう)しけり。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の第四の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父(おほぢ)、おほきおとどの小一条の家にて、父帝(ちちみかど)の位につかせ給(たま)へる、五日といふ日、生まれ給(たま)へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍(はべ)れ。この帝(みかど)は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座(おは)しましける。惟喬(これたか)の親王の東宮(とうぐう)あらそひし給(たま)ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給(たま)ふ年の十一月二十五日戊戌(つちのえいぬ)、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)八月二十七日、御年九つにて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)六年正月一日戊子(つちのえね)、御元服(げんぶく)、御年十五なり。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院(そめどののゐん)にておりさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)三年五月八日、御出家(すけ)。水尾(みづのを)の帝(みかど)と申(まう)す。この御末(すゑ)ぞかし、今の世に源氏(げんじ)の武者(むさ)の族(ぞう)は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
御母、二十三にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)へり。貞観(ぢやうぐわん)六年正月七日、皇后宮(くわうごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。后(きさい)の位にて四十一年御座(おは)します。染殿(そめどの)の后と申(まう)す。その御時の護持僧(ごぢそう)は智証大師(ちしようだいし)に御座(おは)す。
さばかりの仏の護持僧にて御座(おは)しけむに、この后の御物(もの)の怪(け)のこはかりけるに、など、えやめ奉(たてまつ)り給(たま)はざりけむ。前(さき)の世(よ)のことにて御座(おは)しましけるにやとこそおぼえ侍(はべ)れ。
天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)にぞ唐より帰り給(たま)ふ。
一 五十七代 陽成院(やうぜいゐん) 貞明(さだあきら)
次の帝(みかど)、陽成(やうぜい)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、清和(せいわ)天皇(てんわう)の第一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)高子(たかいこ)と申(まう)しき。権中納言(ごんちゆうなごん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)十年戊子(つちのえね)十二月十六日、染殿院にて生まれ給(たま)へり。同じき十一月二月一日己丑(つちのとうし)、御年二つにて東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、同じき十八年丙申(ひのえさる)十一月二十九日、位につかせ給(たま)ふ。御年九歳。元慶(ぐわんぎやう)六年壬寅(みづのえとら)正月二日乙巳(きのとみ)〈 坎日也 〉、御元服(げんぶく)。御年十五。世をしらせ給(たま)ふこと八年。位おりさせ給(たま)ひて、二条院(にでうのゐん)にぞ御座(おは)しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給(たま)ふ。御法事(ほふじ)の願文(ぐわんもん)には、「釈迦如来(しやかによらい)の一年(ひととせ)の兄(このかみ)」とは作られたるなり。智恵(ちゑ)深く思(おも)ひよりけむほど、いと興(きよう)あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世(ごせ)の責(せ)めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
御母后、清和(せいわ)の帝(みかど)よりは九年の御姉なり。二十七と申(まう)しし年、陽成院(やうぜいゐん)をばうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふなり。元慶(ぐわんぎやう)元年正月に后(きさい)にたたせ給(たま)ふ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがり給(たま)ふ。御年四十一。この后(きさい)の宮(みや)の、宮仕(みやづか)ひしそめ給(たま)ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座(おは)しける時、在中将(ざいちゆうじやう)しのびて率(ゐ)てかくし奉(たてまつ)りたりけるを、御せうとの君達、基経(もとつね)の大臣・国経(くにつね)の大納言(だいなごん)などの、若く御座(おは)しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座(おは)したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給(たま)ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代(かみよ)のことも」とは申(まう)し出(い)で給(たま)ひけるぞかし。されば、世(よ)の常(つね)の御かしづきにては御覧(ごらん)じそめられ給(たま)はずや御座(おは)しましけむとぞ、おぼえ侍(はべ)る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮(そめどののみや)に参(まゐ)り通ひなどし給(たま)ひけむほどのことにやとぞ、推(お)しはかられ侍(はべ)る。およばぬ身に、斯様(かやう)のことをさへ申(まう)すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃(ごろ)、古今(こきん)・伊勢物語(ものがたり)など覚(おぼ)えさせ給(たま)はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申(まう)すことも、この御なからひのほどとこそは承(うけたまは)れ。末の世まで書き置き給(たま)ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(けしき)あることも、をかしきこともありける物(もの)』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
《世継》『二条(にでう)の后と申(まう)すは、この御ことなり。
一 五十八代 光孝(くわうかう)天皇(てんわう) 時康(ときやす)
次の帝(みかど)、光孝(くわうかう)天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の第三の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)沢子(たくし)、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、淳和(じゆんな)天皇(てんわう)の御時の天長(てんちやう)七年庚戌(かのえいぬ)、東五条家にて生まれ給(たま)ふ。御親の深草(ふかくさ)の帝(みかど)の御時の承和(じようわ)十三年丙辰(ひのえたつ)正月七日、四品(しほん)し給(たま)ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿(なかつかさきやう)になり給(たま)ふ。御年二十一。仁寿(にんじゆ)元年十一月二十一日、三品(さんぼん)にのぼり給(たま)ふ。御年二十二。貞観(ぢやうぐわん)六年正月十六日、上野大守(かうづけのかみ)かけさせ給(たま)ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師(だざいのごんのそち)にうつりならせ給(たま)ふ。同じ十二年二月七日、二品(にほん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿(しきぶきやう)にならせ給(たま)ふ。御年四十七。元慶(ぐわんぎやう)六年正月七日、一品(いつぽん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給(たま)ひて、二月四日、位につき給(たま)ふ。御年五十五。世をしらせ給(たま)ふこと四年。小松(こまつ)の帝(みかど)と申(まう)す。この御時に、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)の黒戸(くろど)は開(あ)きたると聞(き)き侍(はべ)るは、誠(まこと)にや。
一 五十九代 宇多(うだ)天皇(てんわう) 定省(さだみ)
次の帝(みかど)、亭子(ていじ)の帝(みかど)と申(まう)しき。これ、小松の天皇(てんわう)の御第三の皇子。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)班子(はんし)女王と申(まう)しき。二品式部卿(しきぶきやう)贈(ぞう)一品(いつぽん)太政大臣(だいじやうだいじん)仲野(なかの)の親王の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)九年丁亥(ひのとゐ)五月五日、生まれさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)八年四月十三日、源氏(げんじ)になり給(たま)ふ。御年十八。
王侍従(わうじじゆう)など聞(き)こえて、殿上人(てんじやうびと)にて御座(おは)しましける時、殿上の御椅子(ごいし)の前にて、業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)と相撲(すまひ)とらせ給(たま)ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄(かうらん)折れにけり。その折目(をれめ)今に侍(はべ)るなり。
仁和(にんな)三年丁末(ひのとひつじ)八月二十六日に春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、やがて同じ日に位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと十年。寛平(くわんぴやう)元年己酉(つちのととり)十一月二十一日己酉の日、賀茂(かも)の臨時祭(りんじのまつり)始(はじ)まること、この御時よりなり。使(つかひ)には右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)なり。昌泰(しやうたい)元年戊午(つちのえうま)四月十日、御出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。
この帝(みかど)、いまだ位(くらゐ)につかせ給(たま)はざりける時、十一月二十余(よ)日のほどに、賀茂(かも)の御社(みやしろ)の辺(へん)に、鷹(たか)つかひ、遊びありきけるに、賀茂(かも)の明神(みやうじん)託宣し給(たま)ひけるやう、「この辺に侍(はべ)る翁(おきな)どもなり。春は祭多く侍(はべ)り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜(たま)はらむ」と申(まう)し給(たま)へば、その時に賀茂(かも)の明神(みやうじん)の仰(おほ)せらるるとおぼえさせ給(たま)ひて、「おのれは力および候(さぶら)はず。おほやけに申(まう)させ給(たま)ふべきことにこそ候(さぶら)ふなれ」と申(まう)させ給(たま)へば、「力およばせ給(たま)ひぬべきなればこそ申(まう)せ。いたく軽々(きやうきやう)なるふるまひなさせ給(たま)ひそ。さ申(まう)すやうあり。近くなり侍(はべ)り」とて、かい消(け)つやうに失(う)せ給(たま)ひぬ。いかなることにかと心得ず思(おぼ)し召(め)すほどに、かく位につかせ給(たま)へりければ、臨時の祭せさせ給(たま)へるぞかし。賀茂(かも)の明神(みやうじん)の託宣して、「祭せさせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ日、酉(とり)の日(ひ)にて侍(はべ)りければ、やがて霜月(しもつき)のはての酉の日、臨時の祭は侍(はべ)るぞかし。東遊(あづまあそび)の歌は、敏之(としゆき)の朝臣(あそん)のよみけるぞかし。
ちはやぶる賀茂(かも)の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代(よ)経(ふ)とも色は変はらじ W
これは古今(こきん)に入りて侍(はべ)り。人(ひと)皆(みな)知(し)らせ給(たま)へることなれども、いみじくよみ給(たま)へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給(たま)へる御末(すゑ)、帝(みかど)と申(まう)すともいとかくやは御座(おは)します。
位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて二年といふに始(はじ)まれり。使(つかひ)、右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)の朝臣(あそん)こそはし給(たま)ひけれ。
寛平(くわんぴやう)九年七月五日、おりさせ給(たま)ふ。昌泰(しやうたい)二年己末(つちのとひつじ)十月十四日、出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。御名、金剛覚(こんがうかく)と申(まう)しき。承平(しやうへい)元年七月十九日、失(う)せさせ給(たま)ひぬ。御年六十五。
肥前掾(ひぜんのぞう)橘良利(たちばなのよしとし)、殿上(てんじやう)に候(さぶら)ひける、入道(にふだう)して、修行(すぎやう)の御供(とも)にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野(くまの)にても、日根(ひね)といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
この帝(みかど)の、ただ人になり給(たま)ふほどなどおぼつかなし。よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。御母、洞院(とうゐん)の后(きさき)と申(まう)す。この帝(みかど)の、源氏(げんじ)にならせ給(たま)ふこと、よく知(し)らぬにや、「王侍従(わうじじゆう)」とこそ申(まう)しけれ。陽成院(やうぜいゐん)の御時、殿上人(てんじやうびと)にて、神社行幸(ぎやうかう)には舞人(まひびと)などせさせ給(たま)ひたり。位につかせ給(たま)ひて後(のち)、陽成院(やうぜいゐん)を通りて行幸ありけるに、「当代(たうだい)は家人(けにん)にはあらずや」とぞ仰(おほ)せられける。さばかりの家人持たせ給(たま)へる帝(みかど)も、ありがたきことぞかし。
一 六十代 醍醐(だいご)天皇(てんわう) 敦仁(あつひと)
次の帝(みかど)、醍醐(だいご)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、亭子(ていじ)太上法皇(だいじやうほふわう)の第一の皇子に御座(おは)します。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)胤子(いんし)と申(まう)しき。内大臣藤原(ふぢはらの)高藤(たかふぢ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、仁和元年乙巳(きのとみ)正月十八日に生まれ給(たま)ふ。寛平(くわんぴやう)五年四月十四日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服(げんぶく)。また同じ九年丁巳(ひのとみ)七月三日、位につかせ給(たま)ふ。御年十三。やがて今宵(こよひ)、夜(よる)の御殿(おとど)より、にはかに御かぶり奉(たてまつ)りて、さし出(い)で御座(おは)しましたりける。「御手づからわざ」と人の申(まう)すは、誠(まこと)にや。さて、世を保(たも)たせ給(たま)ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上(むらかみ)か朱雀院(すざくゐん)かの生まれ御座(おは)しましたる御五十日(いか)の餅(もちひ)、殿上(てんじやう)に出(い)ださせ給(たま)へるに、伊衡(これひら)中将(ちゆうじやう)の和歌つかうまつり給(たま)へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵(こよひ)かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む W
とよむぞかし。御返し、帝(みかど)のし御座(おは)しましけむかたじけなさよ。
いはひつる言霊(ことだま)ならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め W
御集(ぎよしふ)など見給(たま)ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方(かた)さへ御座(おは)しましける。
一 六十一代 朱雀院(すざくゐん) 寛明(ひろあきら)
次の帝(みかど)、朱雀院(すざくゐん)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)第十一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)穏子(をんし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね)のおとどの第四の女なり。この帝(みかど)、延長(えんちやう)元年癸未(みづのとひつじ)七月二十四日、生まれさせ給(たま)ふ。同じ三年十月二十一日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年三歳。同じ八年庚寅(かのえとら)九月二十二日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年八歳。承平(しようへい)七年正月四日、御元服(げんぶく)。御年十五。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十六年なり。
八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝(みかど)生まれさせ給(たま)ひては、御格子(みかうし)も参(まゐ)らず、夜昼灯(ひ)をともして御帳の内にて三まで生(おほ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひき。北野に怖(お)ぢ申(まう)させ給(たま)ひてかくありしぞかし。この帝(みかど)生まれ御座(おは)しまさずは、藤氏の栄えいとかうしも御座(おは)しまさざらまし。いみじき折節生まれさせ給(たま)へりしぞかし。位につかせ給(たま)ひて、将門(まさかど)が乱れ出(い)できて、御願にてぞと聞(き)こえ侍(はべ)りし、この臨時の祭は。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしの詠みたりし。
松も生ひまたも影さす石清水(いはしみづ)行末遠く仕へまつらむ W
一 六十二代 村上(むらかみ)天皇(てんわう) 成明(なりあきら)
次の帝(みかど)、村上天皇(てんわう)と申(まう)す。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)の第十四の皇子なり。御母、朱雀院(すざくゐん)の同じ御腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、延長四年丙戌(ひのえいぬ)六月二日、桂芳坊(けいはうばう)にて生まれさせ給(たま)ふ。天慶(てんぎやう)三年二月十五日辛亥(かのとゐ)、御元服(げんぶく)。御年十五。同じ七年甲辰(きのえたつ)四月二十二日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年十九。同じ九年丙午(ひのえうま)四月十三日、位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと二十一年。
御母后、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)、前坊(せんばう)をうみ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御年十九。同じ二十年庚辰(かのえたつ)女御(にようご)の宣旨(せんじ)下り給(たま)ふ。御年三十六。同じ二十三年癸末(みづのとひつじ)、朱雀院(すざくゐん)生まれさせ給(たま)ふ。閏(うるふ)四月二十五日、后(きさき)の宣旨かぶらせ給(たま)ふ。御年三十九。やがて、帝(みかど)うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ同じ月に、后(きさき)にもたたせ給(たま)ひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせ給(たま)へり。
后にたち給(たま)ふ日は、先坊(せんばう)の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申(まう)し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子(めのとご)に大輔(たいふ)の君(きみ)と言(い)ひける女房(にようばう)の、かくよみて出(い)だしける、
わびぬれば今はとものを思(おも)へども心に似ぬは涙なりけり W
また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそよまれたりけれ。
今はとてみ山を出づる郭公(ほととぎす)いづれの里に鳴かむとすらむ W
五月のことに侍(はべ)りけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言(い)ひおく人、優(いう)に侍(はべ)りかしな。
前(さき)の東宮(とうぐう)におくれ奉(たてまつ)りて、かぎりなく嘆かせ給(たま)ふ同じ年、朱雀院(すざくゐん)生まれ給(たま)ひ、我(われ)、后にたたせ給(たま)ひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地(ここち)つかうまつれ。世の、大后(おほきさき)とこれを申(まう)す。
一 六十三代 冷泉院(れいぜいゐん) 憲平(のりひら)
次の帝(みかど)、冷泉院(れいぜいゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、村上天皇(てんわう)の第二の皇子なり。御母、皇后宮(くわうごうぐう)安子(あんし)と申(まう)す。右大臣師輔(もろすけ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、天暦(てんりやく)四年庚戌(かのえいぬ)五月二十四日、在衡(ありひら)のおとどのいまだ従五位下(じゆごゐげ)にて、備前介(びぜんのすけ)と聞(き)こえける折の五条の家にて、生まれさせ給(たま)へり。同じ年の七月二十三日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。応和(おうわ)三年二月二十八日、御元服(げんぶく)。御年十四。康保(かうほう)四年五月二十五日、御年十八にて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。寛弘(くわんこう)八年十月二十四日、御年六十二にて失(う)せさせ御座(おは)しましけるを、三条院(さんでうゐん)位につかせ給(たま)ふ年にて、大嘗会(だいじやうゑ)などの延びけるをぞ、「折節(をりふし)」と、世の人申(まう)しける。
一 六十四代 円融院(ゑんゆうゐん) 守平(もりひら)
次の帝(みかど)、円融院(ゑんゆうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ村上の帝(みかど)の第五の皇子なり。御母、冷泉院(れいぜいゐん)の同じ腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、天徳(てんとく)三年己未(つちのとひつじ)三月二日、生まれさせ給(たま)ふ。この帝(みかど)の東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふほどは、いと聞(き)きにくく、いみじきことどもこそ侍(はべ)れな。これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめ侍(はべ)りなむ。安和(あんな)二年己巳(つちのとみ)八月十三日にこそは位につかせ給(たま)ひけれ。御年十一にて。さて天禄三年正月三日、御元服(げんぶく)、御年十四。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十五年。
母后(ははきさき)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝(みかど)、冷泉院とうみ奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとやむごとなき御宿世(すくせ)なり。御母方の祖父(おほぢ)は出雲守(いづものかみ)従五位下(じゆごゐげ)藤原(ふぢはらの)経邦(つねくに)と言(い)ひし人なり。末(すゑ)の世(よ)には、奏(そう)せさせ給(たま)ひてこそは、贈(ぞう)三位(さんみ)し給(たま)ふとこそは承(うけたまは)りしか。いませぬ後(あと)なれど、この世の光はいと面目(めいぼく)ありかし。中后(なかきさき)と申(まう)す。この御ことなり。女十の宮うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふたび、かくれさせ給(たま)へりし御嘆きこそ、いとかなしく承(うけたまは)りしか。村上の御日記御覧(ごらん)じたる人も御座(おは)しますらむ。ほのぼの伝へ承(うけたまは)るにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなく候(さぶら)ふな。そのとどまり御座(おは)します女宮こそは、大斎院(おほさいゐん)よ。
一 六十五代 花山院(くわさんゐん) 師貞(もろさだ)
次の帝(みかど)、花山院(くわさんゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。冷泉院(れいぜいゐん)の第一の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)懐子(くわいし)と申(まう)す。太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ)のおとどの第一の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、安和元年戊辰(つちのえたつ)十月二十六日丙子(ひのえね)、母方の御祖父(おほぢ)の一条の家にて生まれさせ給(たま)ふとあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり。同じ二年八月十三日、春宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年二歳。天元(てんげん)五年二月十九日、御元服(げんぶく)。御年十五。永観(えいくわん)二年八月二十八日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年十七。寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜(よ)、あさましく候(さぶら)ひしことは、人にも知(し)らせ給(たま)はで、みそかに花山寺に御座(おは)しまして、御出家入道(にふだう)せさせ給(たま)へりしこそ。御年十九。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。その後(のち)二十二年御座(おは)しましき。
あはれなることは、おり御座(おは)しましける夜は、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(つぼね)の子戸(こど)より出(い)でさせ給(たま)ひけるに、有明(ありあけ)の月のいみじく明(あ)かかりければ、「顕証(けんしよう)にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「さりとて、とまらせ給(たま)ふべきやう侍(はべ)らず。神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたり給(たま)ひぬるには」と、粟田殿(あはたどの)のさわがし申(まう)し給(たま)ひけるは、まだ、帝(みかど)出(い)でさせ御座(おは)しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方にわたし奉(たてまつ)り給(たま)ひてければ、かへり入らせ給(たま)はむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申(まう)させ給(たま)ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思(おぼ)し召(め)しつるほどに、月のかほにむら雲(くも)のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家(すけ)は成就するなりけり」と仰(おほ)せられて、歩み出(い)でさせ給(たま)ふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃(ひごろ)破(や)り残して御身を放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、「しばし」とて、取りに入り御座(おは)しましけるほどぞかし、粟田殿(あはたどの)の、「いかにかくは思(おぼ)し召(め)しならせ御座(おは)しましぬるぞ。ただ今(いま)過ぎば、おのづから障(さは)りも出(い)でまうできなむ」と、そら泣きし給(たま)ひけるは。
さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だし参(まゐ)らせ給(たま)ふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせ給(たま)へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせ給(たま)ふと見ゆるは。
天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参(まゐ)りて奏(そう)せむ。車に装束(さうぞく)とうせよ」といふ声聞(き)かせ給(たま)ひけむ、さりともあはれには思(おぼ)し召(め)しけむかし。「且(かつがつ)、式神一人内裏(だいり)に参(まゐ)れ」と申(まう)しければ、目には見えぬ物(もの)の、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見参(まゐ)らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座(おは)しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。
花山寺に御座(おは)しまし着きて、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひて後(のち)にぞ、粟田殿(あはたどの)は、「まかり出(い)でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申(まう)して、かならず参(まゐ)り侍(はべ)らむ」と申(まう)し給(たま)ひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせ給(たま)ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃(ひごろ)、よく、「御弟子(でし)にて候(さぶら)はむ」と契りて、すかし申(まう)し給(たま)ひけむがおそろしさよ。東三条(とうさんでう)殿(どの)は、「もしさることやし給(たま)ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏(げんじ)の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出(い)で参(まゐ)りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉(たてまつ)る」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀(かたな)どもを抜きかけてぞまもり申(まう)しける。
一 六十六代 一条院(いちでうゐん) 懐仁
次の帝(みかど)、一条院(いちでうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、円融院の第一の皇子なり。御母皇后詮子(せんし)と申(まう)しき。これ、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第二の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天元(てんげん)三年庚辰(かのえたつ)六月一日、兼家のおとどの東三条(とうさんでう)の家にて生まれさせ給(たま)ふ。東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふこと、永観(えいくわん)二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和(くわんな)二年六月二十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年七歳。永祚(えいそ)二年庚寅(かのえとら)正月五日、御元服(げんぶく)。御年十一。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。東三条(とうさんでう)の女院(にようゐん)とこれを申(まう)す。この御母は、摂津守(つのかみ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)の女なり。
一 六十七代 三条院(さんでうゐん) 居貞(ゐさだ)
次の帝(みかど)、三条院と申(まう)す。これ、冷泉院(れいぜいゐん)の第二の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)超子(てうし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、貞元(ぢやうげん)元年丙子(ひのえね)正月三日、生まれさせ給(たま)ふ。寛和(くわんな)二年七月十六日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。同じ日、御元服(げんぶく)。御年十一。寛弘(くわんこう)八年六月十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年三十六。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと五年。
院にならせ給(たま)ひて、御目を御覧(ごらん)ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人(ひと)の見奉(たてまつ)るには、いささか変はらせ給(たま)ふこと御座(おは)しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座(おは)しましける。御まなこなども、いと清らかに御座(おは)しましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉(みす)の編諸(あみを)の見ゆる」なども仰(おほ)せられて。一品宮(いつぽんのみや)ののぼらせ給(たま)ひけるに、弁(べん)の乳母(めのと)の御供に候(さぶら)ふが、さし櫛(ぐし)を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰(おほ)せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉(たてまつ)らせ給(たま)うて、御髪(みぐし)のいとをかしげに御座(おは)しますを、さぐり申(まう)させ給(たま)うて、「かくうつくしう御座(おは)する御髪を、え見ぬこそ、心憂(こころう)く口惜(くちを)しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給(たま)ひけるこそ、あはれに侍(はべ)れ。わたらせ給(たま)ひたる度(たび)には、さるべきものを、かならず奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。三条院の御券(ごけん)を持(も)て帰りわたらせ給(たま)うけるを、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「かしこく御座(おは)しける宮かな。幼き御心に、古反古(ふるほぐ)と思(おぼ)してうち捨てさせ給(たま)はで、持てわたらせ給(たま)へるよ」と興(きよう)じ申(まう)させ給(たま)ひければ、「まさなくも申(まう)させ給(たま)ふかな」とて、御乳母(めのと)たちは笑ひ申(まう)させ給(たま)ける。冷泉院(れいぜいゐん)も奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候(さぶら)ふ所の、いまさらに私(わたくし)の領になり侍(はべ)らむは、便(びん)なきことなり。おほやけものにて候(さぶら)ふべきなり」とて、返し申(まう)させ給(たま)ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院(すざくゐん)の同じことに侍(はべ)るべきにこそ。
この御目のためには、よろづにつくろひ御座(おは)しましけれど、その験(しるし)あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風(かぜ)重く御座(おは)しますに、医師(くすし)どもの、「大小寒(だいせうかん)の水を御頭(みぐし)に沃(い)させ給(たま)へ」と申(まう)しければ、凍(こほ)りふたがりたる水を多くかけさせ給(たま)けるに、いといみじくふるひわななかせ給(たま)て、御色もたがひ御座(おは)しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参(まゐ)らせけるとぞ承(うけたまは)りし。御病(やまひ)により、金液丹(きんえきたん)といふ薬(くすり)を召(め)したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病(や)む」など人は申(ま)ししかど、桓算供奉(くわんざんぐぶ)の御物(もの)の怪(け)にあらはれて申(まう)しけるは、「御首(くび)に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申(まう)したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍(はべ)りけれ。御位(くらゐ)去らせ給(たま)しことも、多くは中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)はむとなり。さりしかど、のぼらせ給(たま)ひて、さらにその験(しるし)御座(おは)しまさざりしこそ、口惜(くちを)しかりしか。やがておこたり御座(おは)しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗(てんぐ)のし奉(たてまつ)るとこそ、さまざまに聞(き)こえ侍(はべ)れ。太奏(うづまさ)にも蘢(こも)らせ給(たま)へりき。さて仏の御前(おまへ)より東の廂(ひさし)に、組入(くみれ)はせられたるなり。
御鳥帽子(えぼうし)せさせ給(たま)ひけるは、大入道(おほにふだう)殿(どの)にこそ似奉(たてまつ)り給(たま)へりけれ。御心(こころ)ばへいとなつかしう、おいらかに御座(おは)しまして、世の人いみじう恋ひ申(まう)すめり。「斎宮(さいぐう)下らせ給(たま)ふ別れの御櫛(みぐし)ささせ給(たま)ては、かたみに見返らせ給(たま)はぬことを、思(おも)ひかけぬに、この院はむかせ給(たま)へりしに、あやしとは見奉(たてまつ)りし物(もの)を」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。
一 六十八代 後一条院(ごいちでうゐん) 敦成(あつひら)
次の帝(みかど)、当代(たうだい)。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道(にふだう)殿下(でんか)の第一の御女なり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)彰子(しやうし)と申(まう)す。ただ今、たれかはおぼつかなく思(おぼ)し思(おも)ふ人の侍(はべ)らむ。されどまづすべらぎの御ことを申(まう)すさまにたがへ侍(はべ)らぬなり。寛弘(くわんこう)五年戊申(つちのえさる)九月十一日、土御門殿(つちみかどどの)にて生まれさせ給(たま)ふ。同じ八年六月十三日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひき。御年四歳。長和(ちやうわ)五年正月二十九日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ひき。御年九歳。寛仁(くわんにん)二年正月三日、御元服(げんぶく)。御年十一。位につかせ給(たま)て十年にやならせ給(たま)ふらむ。今年、万寿(まんじゆ)二年乙丑(きのとうし)とこそは申(まう)すめれ。同じ帝王と申(まう)せども、御後見(うしろみ)多く頼(たの)もしく御座(おは)します。御祖父(おほぢ)にてただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)、出家せさせ給(たま)へれど、世の親、一切衆生(いつさいしゆじやう)を子のごとくはぐくみ思(おぼ)し召(め)す。第一の御舅(をぢ)、ただ今の関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)、一天下(いつてんが)をまつりごちて御座(おは)します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座(おは)します。次々の御舅と申(まう)すは、大納言(だいなごん)春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)、中納言など、さまざまにて御座(おは)します。斯様(かやう)に御座(おは)しませば、御後見多く御座(おは)します。昔も今も、帝(みかど)かしこしと申(まう)せど、臣下のあまたして傾(かたぶ)け奉(たてまつ)る時は、傾き給(たま)ふ物(もの)なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座(おは)しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩(なやみ)の折、仰(おほ)せられけるは、「一の親王をなむ春宮(とうぐう)とすべけれども、後見申(まう)すべき人のなきにより、思(おも)ひかけず。されば二宮をばたて奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられけるぞ、この当代(たうだい)の御ことよ。げにさることぞかし』
《世継》『帝王の御次第(しだい)は申(まう)さでもありぬべけれど、入道(にふだう)殿下(でんか)の御栄花(えいぐわ)もなにによりひらけ給(たま)ふぞと思(おも)へば、まづ帝(みかど)・后(きさき)の御有様(ありさま)を申(まう)すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木(こ)の実(み)をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚(おぼ)えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言(い)へば、大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様(ありさま)をだに鏡をかけ給(たま)へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇(としごろやみ)に向(むか)ひたるに、朝日のうららかにさし出(い)でたるにあへらむ心地(ここち)もするかな。また、翁(おきな)が家(いへ)の女(をんな)どものもとなる櫛笥鏡(くしげかがみ)の、影見えがたく、とぐわきも知(し)らず、うち挟(はさ)めて置きたるにならひて、あかく磨(みが)ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給(たま)へりや。いで興(きよう)ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日(けふ)延びぬる心地し侍(はべ)り』と、いたく遊戯(ゆげ)するを、見聞(き)く人々、をこがましくをかしけれども、言(い)ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物(もの)も言(い)はで、皆聞(き)きゐたり。
大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いで、聞(き)き給(たま)ふや。歌一首つくりて侍(はべ)り』と言(い)ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
世継『承(うけたまは)らむ』と言(い)へば、繁樹(しげき)、いとやさしげにいひ出づ。
『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり W』と言(い)ふめれば、世継いたく感じて、あまた度(たび)誦(ず)して、うめきて、返し、
『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも W
今様(いまやう)の葵八花(あふひやつはな)がたの鏡、螺鈿(らでん)の筥(はこ)に入れたるに向ひたる心地し給(たま)ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体(こたい)の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔(がほ)に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気(け)つきて、をかしく、誠(まこと)にめづらかになむ。
《世継》『よしなきことよりは、まめやかなることを申(まう)しはてむ。よくよく、たれもたれも聞(き)こし召(め)せ。今日の講師(こうじ)の説法(せつぽふ)は、菩提(ぼだい)のためと思(おぼ)し、翁(おきな)らが説くことをば、日本紀(にほんぎ)聞(き)くと思(おぼ)すばかりぞかし』と言(い)へば、僧俗(そうぞく)、
『げに説経・説法多く承(うけたまは)れど、かく珍しきこと宣(のたま)ふ人は、さらに御座(おは)せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額(ひたひ)に手をあてて、信をなしつつ聞(き)きゐたり。
《世継》『世継はいとおそろしき翁に侍(はべ)り。真実の心御座(おは)せむ人は、などか恥づかしと思(おぼ)さざらむ。世の中を見知(し)り、うかべたてて持ちて侍(はべ)る翁なり。目にも見、耳にも聞(き)き集めて侍(はべ)るよろづのことの中に、ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)、古(いにしへ)を聞(き)き今を見侍(はべ)るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座(おは)します。たとへば一乗(いちじよう)の法(ほふ)のごとし。御有様(ありさま)のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政・関白(くわんばく)と申(まう)せど、始終(始(はじ)めをはり)めでたきことは、え御座(おは)しまさぬことなり。法文(ほふもん)・聖教(しやうげう)の中にもたとへるなるは、「魚(うを)の子(こ)多かれど、誠(まこと)の魚となることかたし。菴羅(あんら)といふ植木あれど、木(こ)の実(み)を結ぶことかたし」とこそは説き給(たま)へなれ。天下の大臣・公卿(くぎやう)の御中に、この宝(たから)の君(きみ)のみこそ、世にめづらかに御座(おは)すめれ。今ゆく末(すゑ)も、たれの人かかばかりは御座(おは)せむ。いとありがたくこそ侍(はべ)れや。たれも心をとなへて聞(き)こし召(め)せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞(き)き残し侍(はべ)らむ。この世継が申(まう)すことどもはしも、知(し)り給(たま)はぬ人々多く御座(おは)すらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る』と言(い)ふめれば、
人々『すべてすべて申(まう)すべきにも侍(はべ)らず』とて聞(き)きあへり。
《世継》『世始(はじ)まりて後(のち)、大臣皆(みな)御座(おは)しけり。されど、左大臣(さだいじん)・右大臣・内大臣・太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す位(くらゐ)、天下になりあつまり給(たま)へる、かぞへて皆覚(おぼ)え侍(はべ)り。世始(はじ)まりて後今にいたるまで、左大臣(さだいじん)三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣(だいじやうだいじん)はいにしへの帝(みかど)の御代(みよ)に、たはやすくおかせ給(たま)はざりけり。あるいは帝(みかど)の御祖父(おほぢ)、あるいは御舅(をぢ)ぞなり給(たま)ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見(うしろみ)し給(たま)ふ大臣・納言(なごん)数多く御座(おは)す。失(う)せ給(たま)ひて後、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)などになり給(たま)へるたぐひ、あまた御座(おは)すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座(おは)すらむ。わざとの太政大臣(だいじやうだいじん)はなりがたく、少なくぞ御座(おは)する。神武(じんむ)天皇(てんわう)より三十七代にあたり給(たま)ふ孝得(かうとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始(はじ)め給(たま)へらむ。左大臣(さだいじん)には阿倍倉橋麿(あべのくらはしまろ)、右大臣には蘇我山田石川麿(そがのやまだのいしかはまろ)、これは、元明(げんめい)天皇(てんわう)の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇(てんわう)位につき給(たま)ての元年乙巳(きのとみ)、大臣になり、五年己酉(つちのととり)、東宮(とうぐう)のために殺され給(たま)へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)なり。年号いまだあらざれば、月日(つきひ)申(まう)しにくし。また、三十九代にあたり給(たま)ふ帝(みかど)、天智(てんぢ)天皇(てんわう)こそは、始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)をばなし給(たま)けれ。それは、やがてわが御弟(おとと)の皇子に御座(おは)します大友皇子(おほとものみこ)なり。正月に太政大臣(だいじやうだいじん)になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)と申(まう)しき。世をしらせ給(たま)ふこと十五年。神武天皇(てんわう)より四十一代にあたり給(たま)ふ持統(ぢとう)天皇(てんわう)、また、太政大臣(だいじやうだいじん)に高市皇子(たけちのみこ)をなし給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)の皇子なり。この二人の太政大臣(だいじやうだいじん)はやがて帝(みかど)となり給(たま)ふ、高市皇子(たけちのみこ)は大臣ながら失(う)せ給(たま)ひにき。その後(のち)、太政大臣(だいじやうだいじん)いとひさしく絶え給(たま)へり。ただし、職員令(しきゐんりやう)に、「太政大臣(だいじやうだいじん)にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位(くらゐ)には侍(はべ)らぬにや。四十二代にあたり給(たま)ふ文武(もんむ)天皇(てんわう)の御時に、年号定(さだま)りたり。大宝(たいほう)元年といふ。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の末(すゑ)の年、斎衡(さいかう)四年丁丑(ひのとうし)二月十九日、帝(みかど)の御舅(をぢ)、左大臣(さだいじん)従一位(じゆいちゐ)藤原(ふぢはらの)良房(よしふさ)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。御年五十四。このおとどこそは、始(はじ)めて摂政もし給(たま)へれ。やがてこの殿(との)よりして、今の閑院(かんゐん)の大臣まで、太政大臣(だいじやうだいじん)十一人つづき給(たま)へり。ただし、これよりさきの大友皇子(おほとものみこ)・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣(だいじやうだいじん)なり。太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ひぬる人は、失(う)せ給(たま)ひて後、かならず諡号(いみな)と申(まう)す物(もの)あり。しかれども、大友皇子やがて帝(みかど)になり給(たま)ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣(だいじやうだいじん)といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給(たま)へる太政大臣(だいじやうだいじん)、二所(ふたところ)は出家し給(たま)へれば、諡号御座(おは)せず。この十一人の太政大臣(だいじやうだいじん)たちの御次第(しだい)・有様(ありさま)。始終(始(はじ)めをはり)申(まう)し侍(はべ)らむと思(おも)ふなり。流れを汲(く)みて、源(みなもと)を尋ねてこそは、よく侍(はべ)るべきを、大織冠(たいしよくくわん)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて申(まう)すべけれど、それはあまりあがりて、この聞(き)かせ給(たま)はむ人々も、あなづりごとには侍(はべ)れど、なにごととも思(おぼ)さざらむ物(もの)から、こと多くて講師(こうじ)御座(おは)しなば、こと醒(さ)め侍(はべ)りなば、口惜(くちを)し。されば、帝王の御ことも、文徳(もんとく)の御時より申(まう)して侍(はべ)れば、その帝(みかど)の御祖父(おほぢ)の鎌足(かまたり)のおとどより第六にあたり給(たま)ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申(まう)すめれ、その冬嗣(ふゆつぎ)の大臣より申(まう)し侍(はべ)らむ。その中に、思(おも)ふに、ただ今の入道(にふだう)殿(どの)、世にすぐれさせ給(たま)へり。
左大臣(さだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)
このおとどは、内麿(うちまろ)のおとどの三郎。御母、正六位(しやうろくゐ)上(じやう)飛鳥部奈止麿(あすかべのなしまろ)の女(むすめ)なり。公卿(くぎやう)にて十六年、大臣(だいじん)の位(くらゐ)にて六年。田邑(たむら)の御祖父(おほぢ)に御座(おは)します。かるがゆゑに、嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)七月十七日、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)へり。閑院(かんゐん)の大臣と申(まう)す。このおとどは、おほかた男子(をのこご)十一人御座(おは)したるなり。されど、くだくだしき女子(をんなご)たちなどのことは、くはしく知(し)り侍(はべ)らず。ただし、田邑(たむら)の帝(みかど)の御母后(ははきさき)・贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)・太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとど・右大臣良相(よしみ)のおとどは、一つ御腹(はら)なり。
太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ) 忠仁公(ちゆうじんこう)
このおとどは、左大臣(さだいじん)冬嗣の二郎なり。天安(てんあん)元年二月十九日、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。同年四月十九日、従一位(じゆいちゐ)、御年五十四。水尾(みづのを)の帝(みかど)は御孫(まご)に御座(おは)しませば、即位の年、摂政の詔(みことのり)あり、年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)賜(たま)はり給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)八年に関白(くわんばく)にうつり給(たま)ふ。年六十三。失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、御諡号(いみな)忠仁公と申(まう)す。また、白川(しらかわ)の大臣・染殿(そめどの)の大臣とも申(まう)し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御舅(をぢ)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ)天皇(てんわう)の祖父(おほぢ)にて、太政大臣(だいじやうだいじん)・准三宮(じゆさんぐう)の位にのぼらせ給(たま)ふ。年官・年爵(ねんしやく)の宣旨(せんじ)下り、摂政・関白(くわんばく)などし給(たま)ひて、十五年こそは御座(おは)しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座(おは)する。この殿ぞ、藤氏の始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政し給(たま)ふ。めでたき御有様(ありさま)なり。
和歌もあそばしけるにこそ。古今(こきん)にも、あまた侍(はべ)るめるは。「前(さき)のおほいまうち君(ぎみ)」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推(お)しはからるるを、御女(むすめ)の染殿(そめどの)の后(きさき)の御前(おまへ)に、桜の花の瓶(かめ)にさされたるを御覧(ごらん)じて、かくよませ給(たま)へるにこそ。
年経(ふ)ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物(もの)思(おも)ひもなし W
后を、花にたとへ申(まう)させ給(たま)へるにこそ。
かくれ給(たま)ひて、白川(しらかは)にをさめ奉(たてまつ)る日、素性(そせい)ぎみのよみ給(たま)へりしは、
血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ W
皆人(みなひと)知ろしめしたらめど、物(もの)を申(まう)しはやりぬれば、さぞ侍(はべ)る。かくいみじき幸(さいは)ひ人(びと)の、子の御座(おは)しまさぬこそ口惜(くちを)しけれ。御兄(このかみ)の長良(ながら)の中納言、ことのほかに越えられ給(たま)ひけむ折、いかばかり辛(から)う思(おぼ)され、また世の人もことのほかに申(まう)しけめども、その御末(すゑ)こそ、今に栄え御座(おは)しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給(たま)ひける物(もの)を。
一 右大臣良相(うだいじんよしみ)
このおとどは、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十一年、贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)。西三条(さいさんでう)の大臣と申(まう)す。浄蔵定額(じやうざうぢやうがく)を御祈(いのり)の師にて御座(おは)す。千手陀羅尼(せんじゆだらに)の験徳(げんとく)かぶり給(たま)ふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知(し)らず。一人ぞ、水尾(みづのを)の御時の女御(にようご)。男子(をのこご)は、大納言(だいなごん)常行(ときつね)卿と聞(き)こえし。御子二人御座(おは)せしも、五位にて典薬助(てんやくのすけ)・主殿頭(とのものかみ)など言(い)ひて、いとあさくてやみ給(たま)ひにき。かくばかり末栄え給(たま)ひける中納言殿を、やへやへの御弟(おとと)にて、越え奉(たてまつ)り給(たま)ひける御あやまちにや、とこそおぼえ侍(はべ)れ。
一 権中納言(ごんちゆうなごん)従二位左兵衛督長良(じゆにゐさひやうゑのかみながら)
この中納言は、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの太郎。母、白川(しらかはの)大臣・西三条(さいさんでうの)大臣に同じ。公卿(くぎやう)にて十三年。陽成院(ようぜいゐん)の御時に、御祖父(おほぢ)に御座(おは)するがゆゑに、元慶(ぐわんぎやう)元年正月に贈(ぞう)左大臣(さだいじん)正一位(じやういちゐ)、次に、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。この殿(との)の御男子(をのこご)六人御座(おは)せし、その中に基経(もとつね)のおとどすぐれ給(たま)へり。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね) 昭宣公(せうせんこう)
この大臣(おとど)は、長良の中納言の三郎に御座(おは)す。このおとどの御女(むすめ)、醍醐(だいご)の御時の后(きさき)、朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上二代の御母后(ははきさき)に御座(おは)します。このおとどの御母、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の女、贈(ぞう)正一位大夫人乙春(たいふぢんおとはる)なり。陽成院(やうぜいゐん)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて、摂政(せつしやう)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。御年四十一。寛平(くわんぴやう)の御時、仁和(にんな)三年十一月二十一日、関白(くわんばく)にならせ給(たま)ふ。御年五十六にて失(う)せ給(たま)ひて、御諡号(いみな)、昭宣公と申(まう)す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給(たま)ふこと十余年かとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。世の人、堀河(ほりかは)の大臣と申(まう)す。
小松(こまつ)の帝(みかど)の御母、この大臣(おとど)の御母、はらからに御座(おは)します。さて、児(ちご)より小松の帝(みかど)をば親しく見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、
ことにふれ 迹(きやうじやく)に御座(おは)します。「あはれ君かな」と見奉(たてまつ)らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗(だいきやう)にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給(たま)ふことにて、わたらせ給(たま)へるに、雉(きじ)の足はかならず大饗に盛る物(もの)にて侍(はべ)るを、いかがしけむ、尊者(そんじや)の御前(おまへ)にとり落してけり。陪膳(はいぜん)の、皇子(みこ)の御前(おまへ)のをとりて、まどひて尊者(そんじや)の御前に据(す)うるを、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、御前の大殿油(おほとなぶら)を、やをらかい消(け)たせ給(たま)ふ。このおとどは、その折は下臈(げらふ)にて、座の末(すゑ)にて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「いみじうもせさせ給(たま)ふかな」と、いよいよ見めで奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、陽成院(やうぜいゐん)おりさせ給(たま)ふべき陣(ぢん)の定(さだめ)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。融(とほる)のおとど、左大臣(さだいじん)にてやむごとなくて、位(くらゐ)につかせ給(たま)はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤(くわういん)をたづねば、融らも侍(はべ)るは」と言(い)ひ出(い)で給(たま)へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓(しやう)賜(たま)はりて、ただ人(びと)にて仕へて、位につきたる例(ためし)やある」と申(まう)し出(い)で給(たま)へれ。さもあることなれと、このおとどの定(さだ)めによりて、小松(こまつ)の帝(みかど)は位につかせ給(たま)へるなり。帝(みかど)の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見(うしろみ)申(まう)し給(たま)ふ。さるべく契りおかせ給(たま)へる御仲にやとぞおぼえ侍(はべ)る。
大臣(おとど)失(う)せ給(たま)ひて、深草(ふかくさ)の山(やま)にをさめ奉(たてまつ)る夜(よ)、勝延僧都(しやうえんそうづ)のよみ給(たま)ふ、
うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶり)だに立て W
また、上野峯雄(かんつけのみねを)と言(い)ひし人のよみたる、
深草の野辺(のべ)の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲け Wなどは、古今(こきん)に侍(はべ)ることどもぞかしな。御家は堀河院(ほりかはゐん)・閑院(かんゐん)とに住ませ給(たま)ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料(れう)にせさせ給(たま)ふ。閑院をば、御物忌(ものいみ)や、また、うとき人などは参(まゐ)らぬ所にて、さるべくむつましく思(おぼ)す人ばかり御供(とも)に候(さぶら)はせて、わたらせ給(たま)ふ折も御座(おは)しましける。堀河院(ほりかはゐん)は地形(ぢぎやう)のいといみじきなり。大饗(だいきやう)の折、殿(との)ばらの御車の立ち様(やう)などよ。尊者(そんじや)の御車をば東に立て、牛は御橋(みはし)の平葱柱(ひらきはしら)につなぎ、こと上達部(かんだちめ)の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別(べち)に見ゆることは、こと所は見侍(はべ)らぬ物(もの)をや」と見給(たま)ふるに、この高陽院殿(かやのゐんどの)にこそおされにて侍(はべ)れ。方四町(ほうしちやう)にて四面に大路(おほぢ)ある京中の家は、冷泉院(れいぜいゐん)のみとこそ思(おも)ひ候(さぶら)ひつれ、世の末(すゑ)になるままに、まさることのみ出(い)でまうで来るなり。この昭宣公(せうせんこう)のおとどは、陽成院(やうぜいゐん)の御舅(をぢ)にて、宇多(うだ)の帝(みかど)の御時に、准三宮(じゆさんぐう)の位(くらゐ)にて年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)をえ給(たま)ひ、朱雀院(すざくゐん)・村上の祖父(おほぢ)にて御座(おは)します。「世覚(おぼ)えやむごとなし」と申(まう)せばおろかなりや。御男子(をのこご)四人御座(おは)しましき。太郎左大臣(さだいじん)時平(ときひら)、二郎左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)、四郎太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら)』と言(い)ふに、繁樹(しげき)、気色(けしき)ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁(おきな)が宝の君貞信公(ていしんこう)に御座(おは)します』とて、扇(あふぎ)うちつかふ顔もち、ことにをかし。
《世継》『三郎にあたり給(たま)ひしは、従三位(じゆさんみ)して宮内卿兼平(くないきやうかねひら)の君(きみ)と申(まう)して失(う)せ給(たま)ひにき。さるは、御母、忠良(ただよし)の式部卿(しきぶきやう)の親王の御女(むすめ)にて、いとやむごとなく御座(おは)すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申(まう)しき。
一 左大臣(さだいじん)時平(ときひら)
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)の親王の御女なり。醍醐(だいご)の帝(みかど)の御時、このおとど、左大臣(さだいじん)の位(くらゐ)にて年いと若くて御座(おは)します。菅原(すがはら)のおとど、右大臣の位にて御座(おは)します。その折、帝(みかど)御年いと若く御座(おは)します。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめ給(たま)へりしに、その折、左大臣(さだいじん)、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座(おは)しましけむ。ともに世の政をせしめ給(たま)ひし間(あひだ)、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたく御座(おは)しまし、御心(こころ)おきても、ことのほかにかしこく御座(おは)します。左大臣(さだいじん)は御年も若く、才もことのほかに劣り給(たま)へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座(おは)しましたるに、左大臣(さだいじん)やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにや御座(おは)しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出(い)できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になし奉(たてまつ)りて、流され給(たま)ふ。
この大臣(おとど)、子どもあまた御座(おは)せしに、女君(をんなぎみ)達は婿(むこ)とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位(くらゐ)ども御座(おは)せしを、それも皆方々(かたがた)に流され給(たま)ひてかなしきに、幼く御座(おは)しける男君・女君(をんなぎみ)達慕ひ泣きて御座(おは)しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給(たま)ひしぞかし。帝(みかど)の御おきて、きはめてあやにくに御座(おは)しませば、この御子どもを、同じ方(かた)につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思(おぼ)し召(め)して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、
東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな W
また、亭子(ていじ)の帝(みかど)に聞(き)こえさせ給(たま)ふ、
流れゆく我は水宵(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ W
なきことにより、かく罪せられ給(たま)ふを、かしこく思(おぼ)し嘆きて、やがて山崎(やまざき)にて出家(すけ)せしめ給(たま)ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思(おぼ)されて、
君が住む宿の梢(こずゑ)をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや W
また、播磨国(はりまのくに)に御座(おは)しましつきて、明石(あかし)の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめ給(たま)ひて、駅の長(をさ)のいみじく思(おも)へる気色(けしき)を御覧じて、作らしめ給(たま)ふ詩、いとかなし。
駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
一栄一落(いつえいいつらく)、是(こ)レ春秋(しゆんじう)
かくて筑紫(つくし)に御座(おは)しつきて、物(もの)をあはれに心ぼそく思(おぼ)さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧(ごらん)じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ W
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼(たの)まれぬ W
さりともと、世を思(おぼ)し召(め)されけるなるべし。
月のあかき夜(よ)、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ W
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らし給(たま)はめとこそはあめれ』誠(まこと)に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言(い)ひつづけまねぶに、見聞(き)く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物(もの)のゆゑ知(し)りたる人なども、むげに近く居寄(ゐよ)りて外目(ほかめ)せず、見聞(き)く気色(けしき)どもを見て、いよいよはえて物(もの)を繰(く)り出(い)だすやうに言(い)ひつづくるほどぞ、誠(まこと)に希有(けう)なるや。繁樹(しげき)、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。
《世継》『筑紫に御座(おは)します所の御門(みかど)かためて御座(おは)します。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの、心にもあらず御覧(ごらん)じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、鐘の声を聞(き)こし召(め)して、作らしめ給(たま)へる詩ぞかし、
都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)ニ瓦ノ色ヲ看(み)ル
観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴(き)ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易(はくきよい)の遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ欹(そばだ)テテ枕ヲ聴キ、香(かう)炉(ろ)峯(ほう)ノ雪ハ撥(かか)ゲテ簾(すだれ)ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給(たま)へりとこそ、昔の博士ども申(まう)しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座(おは)しましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏(だいり)にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給(たま)ひける詩を、帝(みかど)かしこく感じ給(たま)ひて、御衣(おんぞ)賜(たま)はり給(たま)へりしを、筑紫に持(も)て下らしめ給(たま)へりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、作らしめ給(たま)ひける、
去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)ニ侍(はべ)リキ
秋思(しうし)ノ詩篇(しへん)ニ独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)チキ
恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)ハ今此(ここ)ニ在(あ)リ
捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申(まう)されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給(たま)へりけるを、書きて一巻とせしめ給(たま)ひて、後集(こうしふ)と名づけられたり。また折々(をりをり)の歌(うた)書きおかせ給(たま)へりけるを、おのづから世に散り聞(き)こえしなり。世継若(わか)う侍(はべ)りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍(はべ)りしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうの物(もの)調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりて侍(はべ)りしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍(はべ)りにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚(おぼ)え侍(はべ)るなり』と言(い)へば、聞(き)く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物(もの)し給(たま)ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給(たま)ひて、
あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき W
やがてかしこにて失(う)せ給(たま)へる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほし給(たま)ひて、わたり住み給(たま)ふをこそは、ただ今の北野の宮と申(まう)して、現人神(あらひとがみ)に御座(おは)しますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめ給(たま)ふ。いとかしこくあがめ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。筑紫の御座(おは)しまし所は安楽寺(あんらくじ)と言(い)ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせ給(たま)ひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせ給(たま)ふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出(い)でつつ、またの朝(あした)に参(まゐ)りて見るに、昨日の裏板に物(もの)のすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは W
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申(まう)すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座(おは)しまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日に失(う)せ給(たま)ひしぞかし。御年五十九にて。
さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとど、延喜(えんぎ)九年四月四日失(う)せ給(たま)ふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞ御座(おは)しける。本院(ほんゐん)の大臣と申(まう)す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)も失(う)せ給(たま)ふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条(はちでう)の大将(だいしやう)保忠(やすただ)卿も失(う)せ給(たま)ひにきかし。この大将、八条に住み給(たま)へば、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給(たま)へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせ給(たま)ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思(おも)ひければこそ、かく言(い)ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りし給(たま)ひ、薬師経(やくしきやう)の読経(どきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせ給(たま)ふに、「所謂(いはゆる)宮毘羅大将(くびらだいしやう)」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思(おぼ)しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)り給(たま)へば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられ給(たま)へる人に、げにあやしくはうちあげて侍(はべ)りかし。さるべきとはいひながら、物(もの)は折ふしの言霊(ことだま)も侍(はべ)ることなり。
その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言も失(う)せ給(たま)ひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれ給(たま)へりき。世にかくれ給(たま)ひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありて参(まゐ)らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召(め)されて参(まゐ)るを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始(はじ)め奉(たてまつ)りて、世の大事に思(おも)ひ侍(はべ)るべき物(もの)とこそ思(おも)はざりしか」とぞ宣(のたま)ひける。
先坊(せんばう)に御息所(みやすどころ)参(まゐ)り給(たま)ふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、失(う)せ給(たま)ひにき。中将(ちゆうじやう)の御息所と聞(き)こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の親王の北の方にて、斎宮(さいぐう)の女御(にようご)の御母にて、そも失(う)せ給(たま)ひにき。いとやさしく御座(おは)せし。先坊を恋ひかなしび奉(たてまつ)り給(たま)ひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見奉(たてまつ)りたると聞(き)きて、よみておくり給(たま)へる、
時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき W
御返りごと、大輔、
恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば W
いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)の中納言、少将(せうしやう)にてし給(たま)ひける。宮失(う)せ給(たま)ひて後、この中納言には会(あ)ひ給(たま)へるを、かぎりなく思(おも)ひながら、いかが見給(たま)ひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にて候(さぶら)はるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会(あ)ひ給(たま)はむ」と宣(のたま)ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給(たま)ひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへ給(たま)はじ」など宣(のたま)ひけるが、誠(まこと)にさていまするぞかし。
ただ、この君たちの御中には、大納言(だいなごん)源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなり給(たま)ふ。その位(くらゐ)にて六年御座(おは)せしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出(い)でて歩(あり)き給(たま)ふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひ給(たま)はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひ給(たま)はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候(さぶら)ひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせ給(たま)はざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞ参(まゐ)りし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小杓(こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)て参(まゐ)りて入れければ、人してもかけさせ給(たま)はず、我(われ)出(い)で給(たま)ひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにも参(まゐ)り据(す)ゑで、ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)などにとり据ゑつつぞ参(まゐ)らせける。
倹約(けんやく)し給(たま)ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見え給(たま)ひし。かくもてなし給(たま)ひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余りまで御座(おは)せし。四分一の家にて大饗(だいきやう)し給(たま)へる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申(まう)す。
これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給(たま)はず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とて御座(おは)せしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそは物(もの)し給(たま)ふめれ。敦忠(あつただ)の中納言の御子あまた御座(おは)しける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)し給(たま)ひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びは)の大納言(だいなごん)の北の方にて御座(おは)しきかし。あさましき悪事(あくじ)を申(まう)し行ひ給(たま)へりし罪により、このおとどの御末(すゑ)は御座(おは)せぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじく御座(おは)しましたる物(もの)を。
延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせ給(たま)ひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせ給(たま)はざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせ給(たま)ひて、職事(しきじ)を召(め)して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにて参(まゐ)れる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰(おほ)せよ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)る職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思(おも)ひけれど、参(まゐ)りて、わななくわななく、「しかじか」と申(まう)しければ、いみじくおどろき、かしこまり承(うけたまは)りて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)参(まゐ)るも制し給(たま)ひて、急ぎまかり出(い)で給(たま)へば、御前(ごぜん)どもあやしと思(おも)ひけり。さて本院の御門(みかど)一月(ひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出(い)で給(たま)はず、人などの参(まゐ)るにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせ給(たま)はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承(うけたまは)りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝(みかど)と御心あはせさせ給(たま)へりけるとぞ。
物(もの)のをかしさをぞえ念ぜさせ給(たま)はざりける。笑ひたたせ給(たま)ひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給(たま)ふ間(あひだ)、非道(ひだう)なることを仰(おほ)せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給(たま)ふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのし給(たま)ふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給(たま)ひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにも侍(はべ)らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍(はべ)らむ」と申(まう)しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣(のたま)はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給(たま)ふに、この史、文刺(ふんさし)に文(ふみ)挟(はさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉(たてまつ)るとて、いと高やかに鳴らして侍(はべ)りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申(まう)す」とだに言(い)ひやり給(たま)はざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごち給(たま)ひけれ。
また、北野の、神にならせ給(たま)ひて、いとおそろしく神鳴(かみな)りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生(い)きてもわが次にこそ物(もの)し給(たま)ひしか。今日、神となり給(たま)へりとも、この世には、我に所置き給(たま)ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣(のたま)ひける。一度はしづまらせ給(たま)へりけりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申(まう)し侍(はべ)りし。されど、それは、かの大臣(おとど)のいみじう御座(おは)するにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなく御座(おは)しますによりて、理非(りひ)を示させ給(たま)へるなり。
一 左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)
この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの次郎。御母は、本院(ほんゐん)の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十三年ぞ御座(おは)せし。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。御子持たせ給(たま)はず。伊勢集(いせしふ)に、
花薄(はなすすき)われこそしたに思(おも)ひしかほに出(い)でて人にむすばれにけり W
などよみ給(たま)へるは、この人に御座(おは)す。貞信公(ていしんこう)よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給(たま)へりしを、つひになり給(たま)へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ W
やがてその花をかざして、御対面(たいめ)の日、よろこび給(たま)へる。
廂(ひさし)の大饗(だいきやう)せさせ給(たま)ひけるにも、横さまに据ゑ参(まゐ)らせさせ給(たま)ひけるこそ、年頃(としごろ)少しかたはらいたく思(おぼ)されける御心(こころ)とけて、いかにかたみに心ゆかせ給(たま)へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿(との)の御心、誠(まこと)にうるはしく御座(おは)しましける。皆人聞(き)き知ろしめしたることなり、申(まう)さじ。
このおとどに伊勢(いせ)の御息所(みやすどころ)の忘られてよむ歌なり。
人知(し)れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言(い)はまし物(もの)を W
一 太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら) 貞信公(ていしんこう)
この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
《世継》『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。
太政大臣(だいじやうだいじん)実頼(さねより) 清慎公(せいしんこう)
このおとどは、忠平のおとどの一男に御座(おは)します。小野宮(をののみや)のおとどと申(まう)しき。御母、寛平(くわんぴやう)法皇の御女(むすめ)なり。大臣の位(くらゐ)にて二十七年、天下執行(しふぎやう)、摂政・関白(くわんばく)し給(たま)ひて二十年ばかりや御座(おは)しましけむ。御諡号(いみな)、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座(おは)しまして、後撰(ごせん)にもあまた入り給(たま)へり。おほかた、何事にも有識(いうそく)に、御心うるはしく御座(おは)しますことは、世の人の本(ほん)にぞひかれさせ給(たま)ふ。小野宮(をののみや)の南面(みなみおもて)には、御髻(もとどり)放(はな)ちては出(い)で給(たま)ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷(いなり)の杉のあらはに見ゆれば、「明神(みやうじん)、御覧(ごらん)ずらむに、いかでかなめげにては出(い)でむ」と宣(のたま)はせて、いみじくつつしませ給(たま)ふに、おのづから思(おぼ)し召(め)し忘れぬる折は、御袖(そで)をかづきてぞ驚きさわがせ給(たま)ひける。
この大臣(おとど)の御女子(をんなご)、女御(にようご)にて失(う)せ給(たま)ひにき。村上の御時にや、よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。男君(をとこぎみ)は、時平のおとどの御女(むすめ)の腹に、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)と聞(き)こえし、父大臣(おとど)の御先にかくれ給(たま)ひにきかし。さていみじう思(おぼ)し嘆くに、東(あづま)のかたより、失(う)せ給(たま)へりとも知(し)らで、馬を奉(たてまつ)りたりければ、大臣(おとど)、
まだ知(し)らぬ人もありけり東路(あづまぢ)に我もゆきてぞ住むべかりける W
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
《世継》『大臣(おとど)の御童名(わらはな)をば、うしかひと申(まう)しき。されば、その御族(ぞう)は、牛飼(うしかひ)を「牛つき」と宣(のたま)ふなり。
敦敏の少将(せうしやう)の子なり、佐理(すけまさ)の大弐(だいに)、世の手書(てかき)の上手(じやうず)。任はてて上(のぼ)られけるに、伊予国(いよのくに)のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出(い)でむとし給(たま)へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃(ひごろ)過(す)ぐれば、いとあやしく思(おぼ)して、物(もの)問(と)ひ給(たま)へば、「神の御祟(たたり)」とのみ言(い)ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖(おそ)れ給(たま)ひける夢に見え給(たま)ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男(をとこ)の御座(おは)して、「この日の荒れて、日頃ここに経(へ)給(たま)ふは、おのれがし侍(はべ)ることなり。よろづの社(やしろ)に額(がく)のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思(おも)ふに、なべての手して書かせむがわろく侍(はべ)れば、われに書かせ奉(たてまつ)らむと思(おも)ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉(たてまつ)りたるなり」と宣(のたま)ふに、「たれとか申(まう)す」と問(と)ひ申(まう)し給(たま)へば、「この浦の三島(みしま)に侍(はべ)る翁(おきな)なり」と宣(のたま)ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申(まう)すと思(おぼ)すに、おどろき給(たま)ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与(いよ)へわたり給(たま)ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風(おひかぜ)吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給(たま)ひぬ。湯度々(たびたび)浴(あ)み、いみじう潔斎(けつさい)して、清(きよ)まはりて、昼(ひ)の装束(さうぞく)して、やがて神の御前(おまへ)にて書き給(たま)ふ。神司(かみづかさ)ども召(め)し出(い)だして打たせなど、よく法(はふ)のごとくして帰り給(たま)ふに、つゆ怖(おそ)るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上(のぼ)り給(たま)ひにき。わがすることを人間(にんげん)にほめ崇(あが)むるだに興(きよう)あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思(おぼ)しけむこそ、いかに御心おごりし給(たま)ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給(たま)へりし。六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の額も、この大弐(だいに)の書き給(たま)へるなり。されば、かの三島(みしま)の社(やしろ)の額と、この寺のとは同じ御手に侍(はべ)り。
御心ばへぞ、懈怠者(けだいしや)、少しは如泥人(じよでいにん)とも聞(き)こえつべく御座(おは)せし。故(こ)中関白殿(なかのくわんばくどの)、東三条(とうさんでう)つくらせ給(たま)ひて、御障子(しやうじ)に歌絵(うたゑ)ども書かせ給(たま)ひし色紙形(しきしがた)を、この大弐に書かせまし給(たま)ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参(まゐ)りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白(くわんばく)殿わたらせ給(たま)ひ、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)など、さるべき人々参(まゐ)りつどひて後(のち)に、日高く待たれ奉(たてまつ)りて参(まゐ)り給(たま)ひければ、少し骨(こち)なく思(おぼ)し召(め)さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給(たま)ふに、女の装束かづけさせ給(たま)ふを、さらでもありぬべく思(おぼ)さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出(い)でられけるなむ、なほ懈怠の失錯(しつさく)なりける。「のどかなる今朝(けさ)、とくもうち参(まゐ)りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人(みなひと)も思(おも)ひ、みづからも思(おぼ)したりける。「むげの、その道、なべての下臈(げらふ)などにこそ、斯様(かやう)なることはせさせ給(たま)はめ」と、殿(との)をも謗(そし)り申(まう)す人々ありけり。
その大弐(だいに)の御女(むすめ)、いとこの懐平(やすひら)の右衛門督(うゑもんのかみ)の北の方にて御座(おは)せし、経任(つねたふ)の君の母よ。大弐におとらず、女手書(をんなてかき)にて御座(おは)すめり。大弐の御妹は、法住寺(ほふぢゆうじ)のおとどの北の方にて御座(おは)す。その御腹(はら)の女君(をんなぎみ)は、花山院(くわざんゐん)の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、また、入道(にふだう)中納言の御北の方。また、男子(をのこご)は、今の中宮(ちゆうぐう)の大夫斎信(だいぶただのぶ)の卿(きやう)とぞ申(まう)すめる。
小野宮(をののみや)の大臣(おとど)の三郎、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の同じ腹の君(ぎみ)、右衛門督までなり給(たま)へりし、斎敏(ただとし)とぞ聞(き)こえしかし。その御男君、播磨守(はりまのかみ)尹文(まさぶん)の女の腹に三所(みところ)御座(おは)せし。太郎は高遠(たかとほ)の君、大弐にて失(う)せ給(たま)ひにき。二郎は懐平(やすひら)とて、中納言・右衛門督までなり給(たま)へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通(うひやうゑのかみつねみち)の君、また侍従宰相資平(じじゆうのさいしやうすけひら)の君、今の皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいぶ)にて御座(おは)すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父(おほぢ)の小野宮(をののみや)のおとどの御子にし給(たま)ひて、実資(さねすけ)とつけ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじうかなしうし給(たま)ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才(ざえ)がりたりや。「童名(わらはな)は、大学丸(だいがくまろ)とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮(をののみや)の右大臣と申(まう)して、いとやむごとなくて御座(おは)すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給(たま)ひて、わが御甥(をひ)の資平の宰相を養ひ給(たま)ふめり。末に、宮仕人(みやづかへびと)を思(おぼ)しける腹に出(い)で御座(おは)したる男子は、法師にて、内供良円(ないぐりやうゑん)の君(きみ)とて御座(おは)す。また、さぶらひける女房(にようばう)を召(め)しつかひ給(たま)ひけるほどに、おのづから生まれ給(たま)へりける女君(をんなぎみ)、かくや姫(ひめ)とぞ申(まう)しける。この母は頼忠(よりただ)の宰相の乳母子(めのとご)。北の方は、花山院の女御、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の御女(むすめ)。院そむかせ給(たま)ひて、道信(みちのぶ)の中将(ちゆうじやう)も懸想(けさう)し申(まう)し給(たま)ふに、この殿参(まゐ)り給(たま)ひにけるを聞(き)きて、中将(ちゆうじやう)の聞(き)こえ給(たま)ひしぞかし、
うれしきはいかばかりかは思(おも)ふらむ憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ W
この女御、殿に候(さぶら)ひ給(たま)ひしなり
この女君(をんなぎみ)、千日(せんにち)の講(こう)おこなひ給(たま)ふ。資家(すけいへ)の中納言の上(うへ)の腹なり。兼頼(かねより)の中納言の北の方にて失(う)せ給(たま)ひにき。おほかた、子かたく御座(おは)しましける族(ぞう)にや。これも、中宮(ちゆうぐう)の権大夫(ごんのだいぶ)の上も、継子(ままこ)を養ひ給(たま)へる。
この女君(をんなぎみ)を、小野宮(をののみや)の寝殿(しんでん)の東面(ひんがしおもて)に帳(ちやう)たてて、いみじうかしづき据ゑ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。いかなる人か御婿(むこ)となり給(たま)はむとすらむ。
かの殿は、いみじき隠(こも)り徳人(とくにん)にぞ御座(おは)します。故(こ)小野宮(をののみや)のそこばくの宝物(たからもの)・荘園(しやうゑん)は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対(たい)・寝殿・渡殿(わたどの)は例のことなり、辰巳(たつみ)の方(はう)に三間四面の御堂(みだう)たてられて、廻廊は皆、供僧(ぐそう)の房(ばう)にせられたり。湯屋(ゆや)に大きなる鼎(かなへ)二つ塗(ぬ)り据(す)ゑられて、煙(けぶり)立たぬ日なし。御堂には、金色(こんじき)の仏多く御座(おは)します。供米(くまい)三十石(こく)を、定図(ぢやうづ)におかれて絶ゆることなし。御堂へ参(まゐ)る道は、御前(おまへ)の池よりあなたをはるばると野につくらせ給(たま)ひて、時々(ときどき)の花・紅葉(もみぢ)を植ゑ給(たま)へり。また舟に乗りて池より漕(こ)ぎても参(まゐ)る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進(かさうじ)なり。さらずはあへてたひらかに参(まゐ)るべきならず。
住僧(ぢゆうそう)にはやむごとなき智者(ちしや)、あるいは持経者(ぢきやうじや)・真言師(しんごんし)どもなり。これに夏冬の法服(ほふぶく)を賜(た)び、供料(くれう)をあて賜びて、わが滅罪生善(めつざいじやうぜん)の祈(いのり)、また姫君の御息災を祈り給(たま)ふ。
この小野宮(をののみや)をあけくれつくらせ給(たま)ふこと、日に工(たくみ)の七八人絶(た)ゆることなし。世の中に手斧(てをの)の音する所は、東大寺(とうだいじ)とこの宮とこそは侍(はべ)るなれ。祖父(おほぢ)おほいどのの、とりわき給(たま)ひししるしは御座(おは)する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守(ははきのかみ)資頼(すけより)と聞(き)こゆめるは、姫君の御一(ひと)つ腹(ばら)にあらず、いづれにかありけむ。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)頼忠(よりただ) 廉義公(れんぎこう)
このおとどは、小野宮(をののみや)実頼(さねより)のおとどの二郎なり。御母、時平(ときひら)の大臣の御女(むすめ)、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の御同(おな)じ腹(はら)なり。大臣の位(くらゐ)にて十九年、関白(くわんばく)にて九年、この生(しやう)きはめさせ給(たま)へる人ぞかし。三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)より東(ひんがし)に住み給(たま)ひしかば、三条殿と申(まう)す。
この大臣(おとど)、いみじきことどもしおき給(たま)へる人なり。賀茂詣(かもまうで)に、検非違使(けびゐし)、車のしりに具(ぐ)すること、また馬の上の随身(ずいじん)、左右(さう)に四人つがはしむることも、この殿(との)のしいで給(たま)へり。古(いにしへ)は、物節(もののふし)のかぎり、一人づつありて、府生(ふしやう)はなくて侍(はべ)りしなり。一(いち)の人(ひと)御座(おは)すなど見ゆること侍(はべ)らざりけり。必ずかく侍(はべ)るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給(たま)ひて、殿(との)のうちに宵(よひ)にともしたる油を、またのつとめて、侍(さぶらひ)に油瓶(あぶらがめ)を持たせて、女房(にようばう)の局(つぼね)までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給(たま)ひけり。あまりにうたてあることなりや。
一条院位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、よそ人(びと)にて、関白(くわんばく)退(の)かせ給(たま)ひにき。ただ、おほきおほいどのと申(まう)して、四条(しでう)の宮(みや)にこそは、一つに住ませ給(たま)ひしか。それに、この前(さき)の師殿(そちどの)は、時の一(いち)の人(ひと)の御孫(まご)にて、えもいはずはなやぎ給(たま)ひしに、六条殿(ろくでうどの)の御婿(むこ)にて御座(おは)せしかば、つねに西洞院(にしのとうゐん)のぼりに歩(あり)き給(たま)ふを、こと人(ひと)ならばこと方(かた)よりよきても御座(おは)すべきを、大后(おほきさき)・太政大臣(だいじやうだいじん)の御座(おは)します前を、馬にてわたり給(たま)ふ。おほきおほいどのいとやすからず思(おぼ)せども、いかがはせさせ給(たま)はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思(おぼ)して、中門(ちゆうもん)の北廊(きたのらう)の連子(れんじ)よりのぞかせ給(たま)へば、いみじうはやる馬にて、御紐(ひも)おしのけて、雑色(ざふしき)二三十人ばかりに、先(さき)いと高く御座(おは)せて、うち見いれつつ、馬の手綱(たづな)ひかへて、扇(あふぎ)高くつかひて通り給(たま)ふを、あさましく思(おぼ)せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣(のたま)はで、ただ、「なさけなげなる男(をのこ)にこそありけれ」とばかりぞ申(まう)し給(たま)ひける。非常(ひじやう)のことなりや。さるは、師中納言殿(そちのちゆうなごんどの)の上(うへ)の六条殿(ろくでうどの)の姫君は、母は三条殿の御女に御座(おは)すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参(まゐ)りつかまつりだにこそし給(たま)ふべかりしか。この頼忠(よりただ)のおとど、一(いち)の人(ひと)にて御座(おは)しまししかど、御直衣(なほし)にて内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふこと侍(はべ)らざりき。奏(そう)せさせ給(たま)ふべきことある折は、布袴(ほうこ)にてぞ参(まゐ)り給(たま)ふ。さて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。年中行事(ねんちゆうぎやうじ)の御障子(さうじ)のもとにて、さるべき職事蔵人(しきじくらうど)などしてぞ、奏せさせ給(たま)ひ、承(うけたまは)り給(たま)ひける。また、ある折は、鬼間(おにのま)に帝(みかど)出(い)でしめ給(たま)ひて、召(め)しある折ぞ参(まゐ)り給(たま)ひし。関白(くわんばく)し給(たま)へど、よその人に御座(おは)しましければにや。
故(こ)中務卿代明(なかつかさきやうよあきら)の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座(おは)しまして、大姫君(おほひめぎみ)は、円融院(ゑんゆうゐん)の御時の女御(にようご)にて、天元(てんげん)五年三月十一日に后(きさき)にたち給(たま)ひ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。御年二十六。御子(みこ)御座(おは)せず。四条(しでう)の宮とぞ申(まう)すめりし。いみじき有心者(うしんじや)・有識(いうぞく)にぞいはれ給(たま)ひし。功徳(くどく)も御祈(いのり)も如法(によほふ)に行はせ給(たま)ひし。毎年の季(き)の御読経(みどきやう)なども、つねのこととも思(おぼ)し召(め)したらず、四日がほど、二十人の僧を、房(ばう)のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給(たま)ひ、湯あむし、斎(とき)などかぎりなく如法に供養(くやう)せさせ給(たま)ひ、御前(おまへ)よりも、とりわきさるべきものども出(い)ださせ給(たま)ふ。御みづからも清き御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り、かぎりなくきよまはらせ給(たま)ひて、僧に賜(た)ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給(たま)ひて後(のち)につかはしける。恵心(ゑしん)の僧都(そうづ)の頭陀行(づだぎやう)せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎(とき)を設(まう)けつつ参(まゐ)りしに、この宮には、うるはしくかねの御器(ごき)ども失(う)せ給(たま)へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食(こつじき)とどめ給(たま)ひてき。
いま一所(ひとところ)の姫君(ひめぎみ)、花山院(くわさんゐん)の御時の女御(にようご)にて、四条宮に尼にて御座(おは)しますめり。
やがて后・女御の一(ひと)つ腹(ばら)の男君、ただ今の按察(あぜちの)大納言(だいなごん)公任(きんたふ)卿と申(まう)す。小野宮(をののみや)の御孫(むまご)なればにや、和歌の道すぐれ給(たま)へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座(おは)す。その御女(むすめ)、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃(としごろ)多くの君達うみつづけ給(たま)へりつる、去年(こぞ)の正月に失(う)せ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)よろづを知(し)らず、思(おぼ)し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座(おは)する。左大弁定頼(さだいべんさだより)の君、若殿上人(わかてんじやうびと)の中に、心あり、歌なども上手(じやうず)にて御座(おは)すめり。母北の方いとあてに御座(おは)すかし。村上の九の宮の御女(むすめ)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだう)の少将(せうしやう)、まちをさ君(ぎみ)の御女の腹(はら)なり。内大臣殿の上(うへ)も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
この大納言(だいなごん)殿、無心(むしん)のこと一度ぞ宣(のたま)へるや。御妹の四条(しでう)の宮(みや)の、后(きさき)にたち給(たま)ひて、初めて入内(じゆだい)し給(たま)ふに、洞院(とうゐん)のぼりに御座(おは)しませば、東三条(とうさんでう)の前をわたらせ給(たま)ふに、大入道(おほにふだう)殿(どの)も、故(こ)女院(にようゐん)も胸痛く思(おぼ)し召(め)しけるに、按察(あぜちの)大納言(だいなごん)は后の御せうとにて、御心地(ここち)のよく思(おぼ)されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給(たま)ふらむ」と、うち見入れて宣(のたま)へりけるを、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、その御族(ぞう)やすからず思(おぼ)しけれど、男宮(をのこみや)御座(おは)しませば、たけくぞ。よその人々も、「益(やく)なくも宣(のたま)ふかな」と聞(き)き給(たま)ふ。一条院(いちでうゐん)、位(くらゐ)につき給(たま)へば、女御、后にたち給(たま)ひて入内し給(たま)ふに、大納言(だいなごん)殿(どの)の、亮(すけ)につかまつり給(たま)へるに、出車(いだしぐるま)より扇をさし出(い)だして、「やや、物(もの)申(まう)さむ」と、女房(にようばう)の聞(き)こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給(たま)へるに、進(しん)の内侍(ないし)、顔をさし出(い)でて、「御妹の素腹(すばら)の后は、いづくにか御座(おは)する」と聞(き)こえかけたりけるに、「先年のことを思(おも)ひおかれたるなり。自(みづか)らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣(のたま)ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給(たま)ひぬれば、ことにふれて捨てられ給(たま)はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
ひととせ、入道(にふだう)殿(どの)の大井川(おほいがは)に逍遥(せうえう)せさせ給(たま)ひしに作文(さくもん)の船(ふね)・管絃(くわんげん)の船・和歌の船と分(わか)たせ給(たま)ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給(たま)ひしに、この大納言(だいなごん)の参(まゐ)り給(たま)へるを、入道(にふだう)殿(どの)、「かの大納言(だいなごん)、いづれの船にか乗らるべき」と宣(のたま)はすれば、「和歌の船に乗り侍(はべ)らむ」と宣(のたま)ひて、よみ給(たま)へるぞかし、
をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦(にしき)きぬ人ぞなき W
申(まう)しうけ給(たま)へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣(のたま)ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜(くちを)しかりけるわざかな。さても、殿(との)の、『いづれにかと思(おも)ふ』と宣(のたま)はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣(のたま)ふなる。一事(ひとこと)のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出(い)で給(たま)ひけむは、いにしへも侍(はべ)らぬことなり。
大臣(おとど)、永祚(えいそ)元年六月二十六日に、失(う)せ給(たま)ひて、贈(ぞう)正(じやう)一位になり給(たま)ふ。廉義公とぞ申(まう)しける。この大臣(おとど)の末、かくなり。
一 左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)
この大臣(おとど)、忠平のおとどの五郎、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)と聞えさせ給(たま)ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣(さだいじん)にうつり給(たま)ふこと、西宮殿(にしのみやどの)、筑紫へ下り給(たま)ふ御替(かはり)なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣(おとど)のいひ出(い)で給(たま)へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過(すぐ)さず失(う)せ給(たま)ふことをこそ申(まう)すめりしか。それも誠(まこと)にや。
御娘(むすめ)、村上の御時の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)、かたちをかしげにうつくしう御座(おは)しけり。内(うち)へ参(まゐ)り給(たま)ふとて、御車(みくるま)に奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、わが御身は乗り給(たま)ひけれど、御(み)ぐしのすそは、母屋(もや)の柱のもとにぞ御座(おは)しける。一筋(すぢ)をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申(まう)し伝へためる。御目のしりの少しさがり給(たま)へるが、いとどらうたく御座(おは)するを、帝(みかど)、いとかしこくときめかさせ給(たま)ひて、かく仰(おほ)せられけるとか、
生(い)きての世死にてののちの後(のち)の世もはねをかはせる鳥となりなむ W
御返し、女御(にようご)、
秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ W
古今うかべ給(たま)へりと聞(き)かせ給(たま)ひて、帝(みかど)、こころみに本(ほん)をかくして、女御には見せさせ給(たま)はで、「やまとうたは」とあるを始(はじ)めにて、まへの句のことばを仰(おほ)せられつつ、問(と)はせ給(たま)ひけるに、いひたがへ給(たま)ふこと、詞(ことば)にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣(おとど)は聞(き)き給(たま)ひて、御装束(しやうぞく)して、手洗(あら)ひなどして、所々(ところどころ)に誦経(ずきやう)などし、念じ入りてぞ御座(おは)しける。帝(みかど)、箏(しやう)の琴(こと)をめでたくあそばしけるも、御心(みこころ)にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給(たま)ふに、冷泉院の御母后(ははきさき)失(う)せ給(たま)ひてこそ、なかなかこよなく覚(おぼ)え劣り給(たま)へりとは聞え給(たま)ひしか。「故(こ)宮(みや)のいみじうめざましく、やすらかぬ物(もの)に思(おぼ)したりしかば、思(おも)ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。
この女御の御腹に、八の宮とて男親王(をとこみこ)一人生れ給(たま)へり。御かたちなどは清げに御座(おは)しけれど、御心きはめたる白物(しれもの)とぞ、聞(き)き奉(たてまつ)りし。世の中のかしこき帝(みかど)の御ためしに、もろこしには堯(げう)・舜(しゆん)の帝(みかど)と申(まう)し、この国には延喜(えんぎ)・天暦(てんりやく)とこそは申(まう)すめれ。延喜(えんぎ)とは醍醐(だいご)の先帝(せんだい)、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝(みかど)の御子(みこ)、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)の御孫(まご)にて、しかしれ給(たま)へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時(なりとき)の左大将と申(ま)しし、長徳(ちやうとく)元年己未(つちのとひつじ)四月二十三日失(う)せ給(たま)ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心(こころ)ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞(みやうもん)になどぞ御座(おは)せし。御妹の女御(にようご)殿(どの)に、村上の、琴をしへさせ給(たま)ひける御前(おまへ)に候(さぶら)ひ給(たま)ひて、聞(き)き給(たま)ふほどに、おのづから、われもその道の上手(じやうず)に、人にも思(おも)はれ給(たま)へりしを、おぼろけにて心よくならし給(たま)はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物(もの)一つばかりかきあはせなどし給(たま)ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給(たま)ひき。人の奉(たてまつ)りたる贄(にへ)などいふ物(もの)は、御前(おまへ)の庭にとりおかせ給(たま)ひて、夜(よる)は贄殿(にへどの)に納(をさ)め、昼はまたもとのやうにとり出(い)でつつ置かせなど、また人の奉(たてまつ)りかふるまでは置かせ給(たま)ひて、とりうごかすことはせさせ給(たま)はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参(まゐ)るにも、かくなむと見せ給(たま)ふ料(れう)なめり。昔人(むかしびと)はさることをよきにはしければ、そのままの有様(ありさま)をせさせ給(たま)ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思(おぼ)したりしほどよりは、よしなしごとし給(たま)へりとぞ、人にいはれ給(たま)ふめりし。御甥(をひ)の八の宮に大饗(たいきやう)せさせ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、上戸(じやうご)に御座(おは)すれば、人々酔(ゑ)はしてあそばむなど思(おぼ)して、「さるべき上達部(かんだちめ)たちとく出づる物(もの)ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給(たま)へ」と、よくをしへまうさせ給(たま)へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給(たま)へれど、やむごとなき親王(みこ)の大事(だいじ)にし給(たま)ふことなれば、人々あまた参(まゐ)りたりしも古体(こたい)なりかし。されど、公事(おほやけごと)さしあはせたる日なれば、いそぎ出(い)で給(たま)ふに、まことさることありつ、と思(おぼ)し出(い)でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給(たま)ふに、目をくはせ給(たま)へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出(い)でさせ給(たま)はず、物(もの)も仰(おほ)せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上(うへ)の衣(きぬ)の片袂(かたたもと)落ちぬばかり、とりかからせ給(たま)ふに、参(まゐ)りと参(まゐ)る上達部(かんだちめ)は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道(にふだう)殿(どの)などは、若殿上人(わかてんじやうびと)にて御座(おは)しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧(ごらん)ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出(い)で給(たま)ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給(たま)ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉(たてまつ)りて、また、しか宣(のたま)へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思(おぼ)すに、御色も青くなりてぞ御座(おは)しける。誠(まこと)に、親王(みこ)をば、もとよりさる人と知(し)りまうしたれば、これをしも、謗(そし)りまうさず、この殿(との)をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様(ありさま)を、あまた人に見せきこえ給(たま)へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚(おぼ)え御座(おは)せし人の、口惜(くちを)しき辱号(ぞくがう)とり給(たま)へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷(びわ)の大納言(だいなごん)延光(のぶみつ)の御女(むすめ)ぞ御座(おは)する。女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)・男君二人ぞ御座(おは)せし。女君(をんなぎみ)は、三条院の東宮(とうぐう)にて御座(おは)しましし折の女御(にようご)にて、宣耀殿と申(まう)して、いと時に御座(おは)しましし。男親王(をとこみこ)四所(よところ)・女宮二人、生れ給(たま)へりしほどに、東宮(とうぐう)、位につかせ給(たま)ひてまたの年、長和(ちやうわ)元年四月二十八日、后(きさき)にたち給(たま)ひて、皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)す。また、いま一所の女君(をんなぎみ)は、父殿(ちちとの)失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、御心(こころ)わざに、冷泉院の四(し)の親王(みこ)、師(そち)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて、二三年ばかり御座(おは)せしほどに、宮、和泉式部(いづみしきぶ)に思(おぼ)しうつりにしかば、本意(ほい)なくて、小一条に帰らせ給(たま)ひにし後(のち)、この頃、聞(き)けば、心えぬ有様(ありさま)の、ことのほかなるにてこそ御座(おは)すなれ。
この殿の御おもておこし給(たま)ふは、皇后宮(くわうごうぐう)に御座(おは)しましき。この宮の御腹の一の親王(みこ)敦明(あつあきら)の親王とて、式部卿(しきぶきやう)と申(まう)ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給(たま)へば、この式部卿(しきぶきやう)、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思(おも)ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、宮たちと申(まう)しし折、よろづに遊びならはせ給(たま)ひて、うるはしき御有様(ありさま)いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思(おぼ)しなられて、皇后宮(くわうごうぐう)に、「かくなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と申(まう)させ給(たま)ふを、「いかでかは、げにさもとは思(おぼ)さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌(いさ)めまうさせ給(たま)ふに、思(おぼ)しあまりて、入道(にふだう)殿(どの)に御消息(せうそこ)ありければ、参(まゐ)らせ給(たま)へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と聞えさせ給(たま)ひければ、「さらにさらに承(うけたまは)らじ。さは、三条院の御末はたえねと思(おぼ)し召(め)し、おきてさせ給(たま)ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給(たま)ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物(もの)の怪(け)などの思(おも)はせ奉(たてまつ)るなり。さ思(おぼ)し召(め)すべきぞ」と啓(けい)し給(たま)ふに、「さらば、ただ本意(ほい)ある出家(すけ)にこそはあなれ」と宣(のたま)はするに、「さまで思(おぼ)し召(め)すことなれば、いかがはともかくも申(まう)さむ。内(うち)に奏し侍(はべ)りてを」と申(まう)させ給(たま)ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給(たま)ひにける。
さて、殿(との)、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、大宮(おほみや)にも申(まう)させ給(たま)ひければ、いかがは聞(き)かせ給(たま)ひけむな。このたびの東宮(とうぐう)には式部卿(しきぶきやう)の宮をとこそは思(おぼ)し召(め)すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見(うしろみ)なければ、東宮(とうぐう)に当代(たうだい)を奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられしかば、これも同じことなりと思(おぼ)しさだめて、寛仁(くわんにん)元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切(つぼきり)といふ太刀(たち)は、内より持(も)て参(まゐ)りしか。当代位につかせ給(たま)ひしかば、すなはち東宮(とうぐう)にも参(まゐ)るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃(としごろ)、内(うち)の納殿(をさめどの)に候(さぶら)ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服(げんぶく)せさせ給(たま)ひしか。前(まへ)の東宮(とうぐう)をば小一条院(こいちでうゐん)と申(まう)す。今の東宮(とうぐう)の御有様(ありさま)、申(まう)すかぎりなし。つひのこととは思(おも)ひながら、ただいまかくとは思(おも)ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心(みこころ)と、かく退(の)かせ給(たま)へることは、これを始(はじ)めとす。世始(はじ)まりて後(のち)、東宮(とうぐう)の御位とり下(さ)げられ給(たま)へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師(ほふし)東宮(とうぐう)御座(おは)しけるこそ、失(う)せ給(たま)ひて後(のち)に、贈(ぞう)太上(ぞうだいじやう)天皇(てんわう)と申(まう)して、六十余国にいはひすゑられ給(たま)へれ。公家(おほやけ)にも知ろしめして、官物(くわんもつ)のはつをさき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふめり。この院のかく思(おぼ)したちぬること、かつは殿下(でんか)の御報(ごはう)の早く御座(おは)しますにおされ給(たま)へるなるべし。また多くは元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の霊(りやう)のつかうまつるなり。」といへば、侍(さぶらひ)、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍(はべ)れ。なにがしは、いとくはしく承(うけたまは)ること侍(はべ)る物(もの)を」といへば、世継、「さも侍(はべ)るらむ。伝はりぬることは、いでいで承(うけたまは)らばや。ならひにしことなれば、物(もの)のなほ聞(き)かまほしく侍(はべ)るぞ」といふ。興(きよう)ありげに思(おも)ひたれば、
《侍》「ことの様体(やうだい)は、三条院の御座(おは)しましけるかぎりこそあれ、失(う)せさせ給(たま)ひにける後(のち)は、世(よ)の常(つね)の東宮(とうぐう)のやうにもなく、殿上人(てんじやうびと)参(まゐ)りて、御遊びせさせ給(たま)ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思(おぼ)し召(め)されけるままに、心やすかりし御有様(ありさま)のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給(たま)ひけれど、三条院御座(おは)しましつるかぎりは、院(ゐん)の殿上人(てんじやうびと)も参(まゐ)りや、御使もしげく参(まゐ)り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給(たま)ふを、院失(う)せ御座(おは)しましては、世の中の物(もの)おそろしく、大路(おほち)の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司(みやづかさ)などだにも、参(まゐ)りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司(とのもりづかさ)の下部(しもべ)、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
まれまれ参(まゐ)りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座(おは)しますを、心ぐるしく殿(との)も大宮(おほみや)も思(おも)ひまうさせ給(たま)ふに、『もし、内(うち)に男宮(をとこみや)も出(い)で御座(おは)しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らばや』となむ仰(おほ)せらるなる。されば、おしてとられさせ給(たま)ふべかむなり」などのみ申(まう)すを、誠(まこと)にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞(き)かせ給(たま)ふ御心地(ここち)は、いとどうきたるやうに思(おぼ)し召(め)されて、ひたぶるにとられむよりは、我(われ)とや退(の)きなまし、と思(おぼ)し召(め)すに、また、「高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ給(たま)ひ、殿(との)、はなやかにもてなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふべかなり」とも、例のことなれば、世(よ)の人(ひと)のさまざま定め申(まう)すを、皇后宮(くわうごうぐう)、聞(き)かせ給(たま)ひて、いみじう喜ばせ給(たま)ふを、東宮(とうぐう)は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思(おも)ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思(おぼ)されて、御母宮に、「しかじかなむ思(おも)ふ」と聞えまうさせ給(たま)へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給(たま)はめ。さらにさらに思(おぼ)しよるまじきことなり」と聞えさせ給(たま)ひて、御物(もの)の怪(け)のするなりと、御祈(いのり)どもせさせ給(たま)へど、さらに思(おぼ)しとどまらぬ御心(みこころ)のうちを、いかでか世の人も聞(き)きけむ、「さてなむ、『御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へ』とも聞えさせ給(たま)ふべかなる」などいふこと、殿(との)の辺(へん)にも聞ゆれば、誠(まこと)にさも思(おぼ)しゆるぎて宣(のたま)はせば、いかがすべからむ、など思(おぼ)す。
さて東宮(とうぐう)はつひに思(おぼ)し召(め)したちぬ。後(のち)に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思(おぼ)しなしけむ、不覚(ふかく)のことなりや。
壺切(つぼきり)などのこと、僻事(ひがごと)に候(さぶら)ふめり。故(こ)三条院たびたび申(まう)させ給(たま)ひしかども、とかく申(まう)しやりて奉(たてまつ)らせざりしとこそ聞(き)き侍(はべ)りしか。されば、故(こ)院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座(おは)しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申(まう)させて。
皇后宮(くわうごうぐう)にもかくとも申(まう)し給(たま)はず、ただ御心のままに、殿(との)に御消息(せうそこ)聞えむと思(おぼ)し召(め)すに、むつましうさるべき人も物(もの)し給(たま)はねば、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(ちゆうぐうごんのだいぶどの)の御座(おは)します四条の坊門(ばうもん)と西洞院(にしのとうゐん)とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思(おぼ)し召(め)しよりけむ、蔵人(くらうど)なにがしを御使にて、「あからさまに参(まゐ)らせ給(たま)へ」とあるを、思(おぼ)しもかけぬことなれば、おどろき給(たま)ひて、「なにしに召(め)すぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「申(まう)させ給(たま)ふべきことの候(さぶら)ふにこそ」と申(まう)すを、この聞ゆることどもにや、と思(おぼ)せど、退(の)かせ給(たま)ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿(みくしげどの)の御ことならむ、と思(おぼ)す。いかにもわが心ひとつには、思(おも)ふべきことならねば、「おどろきながら参(まゐ)り候(さぶら)ふべきを、大臣(おとど)に案内(あない)申(まう)してなむ候(さぶら)ふべき」と申(まう)し給(たま)ひて、まづ、殿(との)に参(まゐ)り給(たま)へり。「東宮(とうぐう)より、しかじかなむ仰(おほ)せられたる」と申(まう)し給(たま)へば、殿もおどろき給(たま)ひて、「何事ならむ」と仰(おほ)せられながら、大夫殿(だいぶどの)と同じやうにぞ思(おぼ)しよらせ給(たま)ひける。誠(まこと)に御匣殿(みくしげどの)の御こと宣(のたま)はせむを、いなびまうさむも便(びん)なし。参(まゐ)り給(たま)ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉(たてまつ)るべきならず。また、さては世の人の申(まう)すなるやうに、東宮(とうぐう)退(の)かせ給(たま)はむの御思(おも)ひあるべきならずかし、とは思(おぼ)せど、「しかわざと召(め)さむには、いかでか参(まゐ)らではあらむ。いかにも、宣(のたま)はせむことを聞(き)くべきなり」と申(まう)させ給(たま)へば、参(まゐ)らせ給(たま)ふほど、日も暮れぬ。
陣(ぢん)に左大臣(さだいじん)殿(どの)の御車(みくるま)や、御前(ごぜん)どものあるを、なまむつかしと思(おぼ)し召(め)せど、帰らせ給(たま)ふべきならねば、殿上(てんじやう)に上(のぼ)らせ給(たま)ひて、「参(まゐ)りたるよし啓(けい)せよ」と、蔵人(くらうど)に宣(のたま)はすれば、「おほい殿の、御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)へば、ただいまはえなむ申(まう)し候(さぶら)はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給(たま)ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様(ありさま)も、東宮(とうぐう)の御座(おは)しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出(い)で給(たま)ひて、かくと啓すれば、朝餉(あさがれひ)の方に出(い)でさせ給(たま)ひて、召(め)しあれば、参(まゐ)り給(たま)へり。「いと近く、こち」と仰(おほ)せられて、「物(もの)せらるることもなきに、案内(あない)するもはばかり多かれど、大臣(おとど)に聞ゆべきことのあるを、伝へ物(もの)すべき人のなきに、間近(まぢか)きほどなれば、たよりにもと思(おも)ひて消息(せうそこ)し聞えつる。その旨(むね)は、かくて侍(はべ)るこそは本意(ほい)あることと思(おも)ひ、故(こ)院のしおかせ給(たま)へることをたがへ奉(たてまつ)らむも、かたがたにはばかり思(おも)はぬにあらねど、かくてあるなむ、思(おも)ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内(うち)の御ゆく末はいと遥かに物(もの)せさせ給(たま)ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知(し)りがたし。この有様(ありさま)退きて、心に任(まか)せて行ひもし、物詣(ものまうで)をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮(さきのとうぐう)にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号(ゐんがう)給(たま)ひて、年(とし)に受領(ずりやう)などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰(おほ)せられければ、かしこまりてまかでさせ給(たま)ひぬ。
その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿(との)に参(まゐ)らせ給(たま)へるに、内へ参(まゐ)らせ給(たま)はむとて、御装束(さうぞく)のほどなれば、え申(まう)させ給(たま)はず。おほかたには御供(とも)に参(まゐ)るべき人々、さらぬも、出(い)でさせ給(たま)はむに見参(げざん)せむと、多く参(まゐ)り集りて、さわがしげなれば、御車(みくるま)に奉(たてまつ)りに御座(おは)しまさむに申(まう)さむとて、そのほど、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の間(ま)の格子(かうし)によりかかりてゐさせ給(たま)へるを、源民部卿(げんみんぶきやう)寄り御座(おは)して、「などかくては御座(おは)します」と聞えさせ給(たま)へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候(さぶら)へば、え申(まう)さぬなり」と宣(のたま)はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給(たま)ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞(き)かせ奉(たてまつ)り給(たま)へ。内に参(まゐ)らせ給(たま)ひなば、いとど人がちにて、え申(まう)させ給(たま)はじ」とあれば、げにと思(おぼ)して、御座(おは)します方に参(まゐ)り給(たま)へれば、さならむと御心得(こころえ)させ給(たま)ひて、隅の間に出(い)でさせ給(たま)ひて、「春宮(とうぐう)に参(まゐ)りたりつるか」と問(と)はせ給(たま)へば、よべの御消息(せうそこ)くはしく申(まう)させ給(たま)ふに、さらなりや、おろかに思(おぼ)し召(め)さむやは。おしておろし奉(たてまつ)らむこと、はばかり思(おぼ)し召(め)しつるに、かかることの出(い)で来(き)ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮(おほみや)の御宿世(すくせ)かな、と思(おぼ)し召(め)す。
民部卿殿に申(まう)しあはせさせ給(たま)へば、「ただとくとくせさせ給(たま)ふべきなり。なにか吉日(よきひ)をも問(と)はせ給(たま)ふ。少しも延びば、思(おぼ)しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給(たま)はむ」と申(まう)させ給(たま)へば、さることと思(おぼ)して、御暦(こよみ)御覧(ごらん)ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白(くわんばく)殿も参(まゐ)り給(たま)へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給(たま)ふに、「まづいかにも大宮に申(まう)してこそは」とて、内(うち)に御座(おは)しますほどなれば、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、「かくなむ」と聞(き)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、まして女の御心はいかが思(おぼ)し召(め)されけむ。それよりぞ、東宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて。
御子(みこ)どもの殿(との)ばら、また例(れい)も御供(とも)に参(まゐ)り給(たま)ふ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)引き具(ぐ)せさせ給(たま)へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座(おは)しますを、待ちつけ給(たま)へる宮の御心地(ここち)は、さりとも、少しすずろはしく思(おぼ)し召(め)されけむかし。
心も知(し)らぬ人は、つゆ参(まゐ)りよる人だになきに、昨日(きのふ)、二位(にゐの)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の参(まゐ)り給(たま)へりしだにあやしと思(おも)ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣(かもまうで)などのやうに、御先(みさき)の音もおどろおどろしうひびきて参(まゐ)らせ給(たま)へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿(みくしげどの)の御こと申(ま)させ給(たま)ふなめり」と思(おも)ふは、さも似つかはしや。むげに思(おも)ひやりなき際(きは)のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座(おは)しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮(ははみや)だにえ知(し)らせ給(たま)はざりけり。かくこの御方に物(もの)さわがしきを、いかなることぞとあやしう思(おぼ)して、案内(あない)しまうさせ給(たま)へど、例(れい)の女房(にようばう)の参(まゐ)る道を、かためさせ給(たま)ひてけり。
殿(との)には、年頃(としごろ)思(おぼ)し召(め)しつることなどこまかに聞えむと、心強く思(おぼ)し召(め)しつれど、誠(まこと)になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給(たま)ひぬ。向(むか)ひきこえさせ給(たま)ひては、かたがたに臆(おく)せられ給(たま)ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少(ことずく)なに仰(おほ)せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思(おぼ)し召(め)しよりぬるぞ」などやうに申(まう)させ給(たま)ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、少しおし拭(のご)はせ給(たま)ひて、「さらば、今日、吉日(よきひ)なり」とて、院(ゐん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。やがてことども始めさせ給(たま)ひぬ。よろづのこと定め行はせ給(たま)ふ。判官代(はうぐわんだい)には、宮司(みやづかさ)ども・蔵人(くらうど)などかはるべきにあらず。別当(べたう)には中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)をなし奉(たてまつ)り給(たま)へれば、おりて拝(はい)しまうさせ給(たま)ふ。ことども定まりはてぬれば、出(い)でさせ給(たま)ひぬ。
いとあはれに侍(はべ)りけることは、殿のまだ候(さぶら)はせ給(たま)ひける時、母宮(ははみや)の御方より、いづかたの道より尋ね参(まゐ)りたるにか、あらはに御覧(ごらん)ずるも知(し)らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房(にようばう)の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給(たま)へるぞ」と、声もかはりて申(まう)しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰(おほ)せられけれ。勅使(ちよくし)こそ誰(たれ)ともたしかにも聞(き)き侍(はべ)らね。禄(ろく)など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
《世継》「殿こそはせさせ給(たま)ひけめ。さばかりのことになりて、逗留(とうりう)せさせ給(たま)はむやは」
《侍》「火焚屋(ひたきや)・陣屋(ぢんや)などとりやられけるほどにこそ、え堪(た)へずしのび音(ね)泣く人々侍(はべ)りけれ。まして皇后宮(くわうごうぐう)・堀河(ほりかは)の女御殿(にようごどの)など、さばかり心深(こころぶか)く御座(おは)します御心どもに、いかばかり思(おぼ)し召(め)しけむとおぼえ侍(はべ)りし。世の中の人、「女御殿、
雲居(くもゐ)まで立ちのぼるべき煙(けぶり)かと見えし思(おも)ひのほかにもあるかな W といふ歌よみ給(たま)へり」など申(まう)すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思(おぼ)しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給(たま)ふやうもありけめど、人の聞(き)き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
《世継》「げにそれはさることに侍(はべ)れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍(はべ)りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
《侍》「さて、かくせめおろし奉(たてまつ)り給(たま)ひては、また御婿にとり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふほど、もてかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ御有様(ありさま)、誠(まこと)に御心もなぐさませ給(たま)ふばかりこそ聞え侍(はべ)りしか。おもの参(まゐ)らする折は、台盤所に御座(おは)しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給(たま)ふ。なにをも召(め)し試みつつなむ参(まゐ)らせ給(たま)ひける。御障子口までもて御座(おは)しまして、女房に給(たま)はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故(こ)式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍(はべ)れ、御座(おは)します人の御こと申(まう)す、便なきことなりかし」
《世継》「さて、式部卿(しきぶきやう)の宮と申(まう)すは、故(こ)一条院の一の皇子に御座(おは)します。その宮をば、年頃、帥の宮と申(まう)ししを、小一条院、式部卿(しきぶきやう)にて御座(おは)しまししが、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、あく所に、帥をば退かせ給(たま)ひて、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)ししぞかし。その後の度の東宮(とうぐう)にもはづれ給(たま)ひて、思(おぼ)し嘆きしほどに失(う)せ給(たま)ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申(まう)す。次の四の宮師明の親王と申(まう)す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座(おは)しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給(たま)ひにしを、上らせ給(たま)ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給(たま)ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思(おぼ)し嘆きて、尼になし給(たま)ひて失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所の女宮まだ御座(おは)します。
小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉(たてまつ)らむと思(おぼ)しける。こちよりては、大納言(だいなごん)の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言(だいなごん)を贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になしてこそは、后にたてさせ給(たま)ひてしか。されば皇后宮(くわうごうぐう)いとめでたく御座(おは)しますめり。御せうと、一人は侍従の入道(にふだう)、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座(おは)すめれ。
また、伊予の入道(にふだう)もそれぞかし。
いま一所の女君(をんなぎみ)こそは、いとはなはだしく心憂(こころう)き御有様(ありさま)にて御座(おは)すめれ。父大将のとらせ給(たま)へりける処分(そうぶん)の領所(らうしよ)、近江(あふみ)にありけるを、人にとられければ、すべき様(やう)なくて、かばかりになりぬれば、物(もの)のはづかしさも知(し)られずや思(おも)はれけむ、夜(よる)、かちより御堂(みだう)に参(まゐ)りて、うれへ申(まう)し給(たま)ひしはとよ。
殿の御前(おまへ)は、阿弥陀堂(あみだだう)の仏の御前(おまへ)に念誦(ねんず)して御座(おは)しますに、夜いたくふけにければ、御脇息(けふそく)によりかかりて、少し眠(ねぶ)らせ給(たま)へるに、犬防(いぬふせぎ)のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思(おぼ)し召(め)しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物(もの)申(まう)し候(さぶら)はむ」と申(まう)すを、御僻耳(ひがみみ)かと思(おぼ)し召(め)すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いとあやしくはあれど、「誰(た)そ、あれは」と問(と)はせ給(たま)ふに、「しかじかの人の、申(まう)すべきこと候(さぶら)ひて、参(まゐ)りたるなり」と申(まう)しければ、いといとあさましくは思(おぼ)し召(め)せど、あらく仰(おほ)せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「知ろしめしたることに候(さぶら)ふらむ」とて、ことの有様(ありさま)こまかに申(まう)し給(たま)ふに、いとあはれに思(おぼ)し召(め)して、「さらなり、みな聞(き)きたることなり。いと不便(ふびん)なることにこそ侍(はべ)るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給(たま)はめ。とく帰られね」と仰(おほ)せられければ、「さこそはかへすがへす思(おも)ひ給(たま)へ候(さぶら)ひつれど、申(まう)しつぐべき人のさらに候(さぶら)はねば、さりともあはれとは仰(おほ)せ言(ごと)候(さぶら)ひなむ、と思(おも)ひ給(たま)へて、参(まゐ)り候(さぶら)ひながらも、いみじうつつましう候(さぶら)ひつるに、かく仰(おほ)せらるる、申(まう)しやるかたなくうれしく候(さぶら)ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思(おぼ)し召(め)されて、殿(との)も泣かせ給(たま)ひにけり。
出(い)で給(たま)ふ途(みち)に、南大門(なんだいもん)に人々ゐたる中を御座(おは)しければ、なにがしぬしの引(ひ)き留(とど)められけるこそ、いと無愛(ぶあい)のことなりや。後(のち)に、殿も聞(き)かせ給(たま)ひければ、いみじうむつからせ給(たま)ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領(らう)にてあるべきよし、仰(おほ)せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給(たま)ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物(もの)の恥(はぢ)しらでありなむ。かしこく申(まう)し給(たま)へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍(はべ)りしか。大門にてとらへたりし人は、式部(しきぶの)大夫(たいふ)源(みなもとの)政成(まさなり)が父なり。
〔大鏡 中〕
一 右大臣師輔(もろすけ)
《世継》「この大臣(おとど)は、忠平(ただひら)の大臣(おとど)の二郎君、御母、右大臣源能有(みなもとのよしあり)の御女(むすめ)、いはゆる、九条殿(くでうどの)に御座(おは)します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座(おは)しましし。御孫(まご)にて、東宮(とうぐう)、また、四・五の宮を見おき奉(たてまつ)りてかくれ給(たま)ひけむは、きはめて口惜(くちを)しき御ことぞや。御年まだ六十(むそじ)にもたらせ給(たま)はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物(もの)から、手を打ちてあふぐ。
《世継》「その殿(との)の御公達(きんだち)十一人、女五六人ぞ、御座(おは)しましし。第一の御女、村上の先帝(せんだい)の御時の女御(にようご)、多くの女御、御息所(みやすどころ)のなかに、すぐれてめでたく御座(おは)しましき。帝(みかど)も、この女御殿にはいみじう怖(お)ぢまうさせ給(たま)ひ、ありがたきことをも奏(そう)せさせ給(たま)ふことをば、いなびさせ給(たま)ふべくもあらざりけり。いはむや自余(じよ)のことをば申(まう)すべきならず。少し御心(みこころ)さがなく、御物(もの)怨(うら)みなどせさせ給(たま)ふやうにぞ、世の人にいはれ御座(おは)しましし。帝(みかど)をもつねにふすべまうさせ給(たま)ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座(おは)しましたりけるを、御格子(みかうし)を叩(たた)かせ給(たま)ひけれど、あけさせ給(たま)はざりければ、叩きわづらはせ給(たま)ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問(と)へ」と、なにがしのぬしの、童殿上(わらはてんじやう)したるが御供(とも)なるに仰(おほ)せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿(ほそどの)の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参(まゐ)りて、ありつるやうを奏しければ、帝(みかど)もうち笑はせ給(たま)ひて、「例(れい)のことななり」と仰(おほ)せられてぞ、帰りわたらせ御座(おは)しましける。この童は、伊賀前司資国(いがのぜんじすけくに)が祖父(おほじ)なり。
藤壷(ふぢつぼ)・弘徽殿(こきでん)との上(うへ)の御局(みつぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条(いちでう)の女御、弘徽殿にはこの后(きさき)の上(のぼ)りて御座(おは)しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座(おは)しましけむ、中隔(なかへだて)の壁に穴をあけて、のぞかせ給(たま)ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座(おは)しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせ給(たま)ひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)のわれして、打たせ給(たま)へりければ、帝(みかど)御座(おは)しますほどにて、こればかりはえたへさせ給(たま)はずむつかり御座(おは)しまして、「かうやうのことは、女房(にようばう)はせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせ給(たま)へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立(はらだ)たせ給(たま)ひて、「わたらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、思(おも)ふにこのことならむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたらせ給(たま)はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息(しようそく)ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思(おぼ)し召(め)して、御座(おは)しましけるに、「いかでかかることはせさせ給(たま)ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思(おぼ)しゆるすべきなり。いはむや、まろが方(かた)ざまにてかくせさせ給(たま)ふは、いとあさましう心憂(こころう)きことなり。ただいま召(め)し返せ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞(おとぎ)き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給(たま)ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給(たま)ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給(たま)ふを、「御座(おは)しましなば、ただいまもゆるさせ給(たま)はじ。ただこなたにてを召(め)せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへ奉(たてまつ)りて、立て奉(たてまつ)らせ給(たま)はざりければ、いかがはせむと思(おぼ)し召(め)して、この御方へ職事(しきじ)召(め)してぞ、参(まゐ)るべきよしの宣旨(せんじ)下させ給(たま)ひける。これのみにもあらず、斯様(かやう)なることども多く聞え侍(はべ)りしかは。
おほかたの御心(みこころ)はいとひろく、人のためなどにも思(おも)ひやり御座(おは)しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給(たま)はず、御かへりみあり。かたへの女御(にようご)たちの御ためも、かつは情(なさけ)あり、御みやびをかはさせ給(たま)ふに、心よりほかにあまらせ給(たま)ひぬる時の御物(もの)妬(ねた)みのかたにや、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座(おは)すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出(い)でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様(かやう)のことまでは申(まう)さじ、いとかたじけなし。
おほかた、殿上人(てんじやうびと)・女房(にようばう)、さるまじき女官(にようくわん)までも、さるべき折のとぶらひせさせ給(たま)ひ、いかなる折も、かならず見過(みすぐ)し聞(き)き放(はな)たせ給(たま)はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給(たま)ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄(あに)をば親のやうに頼(たの)みまうさせ給(たま)ひ、御弟(おとと)をば子のごとくにはぐくみ給(たま)ひし御心(こころ)おきてぞや。されば、失(う)せ御座(おは)しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界(ゐなかせかい)まで聞(き)きつぎ奉(たてまつ)りて、惜しみ悲しびまうししか。帝(みかど)、よろづの政(まつりごと)をば聞(きこ)えさせ合(あは)せてせさせ給(たま)ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直(なほ)させ給(たま)ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申(まう)させ給(たま)ひ、おのづからおほやけ聞し召(め)してあしかりぬべきことなど人の申(まう)すをば、御口(くち)より出(いだ)させ給(たま)はず。斯様(かやう)なる御心おもむけのありがたく御座(おは)しませば、御祈(いのり)ともなりて、ながく栄え御座(おは)しますにこそあべかめれ。
冷泉院・円融院・為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)と、女宮(をんなみや)四人との御母后(ははきさき)にて、またならびなく御座(おは)しましき。帝(みかど)・春宮(とうぐう)と申(まう)し、代代(よよ)の関白(くわんばく)・摂政と申(まう)すも、多くは、ただこの九条殿(くでうどの)の御一筋(ひとすぢ)なり。男宮(をとこみや)たちの御有様(ありさま)は、代々の帝(みかど)の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申(ま)し侍(はべ)らむ。
この后の御腹には、式部卿(しきぶきやう)の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮(とうぐう)にもたち給(たま)ふべきに、西宮殿(にしみやどの)の御婿(むこ)に御座(おは)しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給(たま)へるほどなどのことども、いといみじく侍(はべ)る。そのゆゑは、式部卿(しきぶきやう)の宮、帝(みかど)にゐさせ給(たま)ひなば、西宮殿の族(ぞう)に世の中うつりて、源氏(げんじ)の御栄えになりぬべければ、御舅(をぢ)たちの魂(たましひ)深く、非道(ひだう)に御弟をば引き越しまうさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿(との)ばらの思(おぼ)しかまへけるをば、いかでかは知(し)らむ。次第のままにこそはと、式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことをば思(おも)ひまうしたりしに、にはかに、「若宮(わかみや)の御(み)ぐしかいけづり給(たま)へ」など、御乳母(めのと)たちに仰(おほ)せられて、大入道(おほにふだう)殿(どの)、御車(みくるま)にうち乗せ奉(たてまつ)りて、北(きた)の陣(ぢん)よりなむ御座(おは)しましけるなどこそ、伝へ承(うけたまは)りしか。されば、道理あるべき御方人(かたうど)たちは、いかがは思(おぼ)されけむ。その頃、宮たちあまた御座(おは)せしかど、ことしもあれ、威儀(ゐぎ)の親王(みこ)をさへせさせ給(たま)へりしよ。見奉(たてまつ)りける人も、あはれなることにこそ申(まう)しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地(ここち)よな、いかが思(おぼ)しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出(い)できにしは。斯様(かやう)に申(まう)