藤田豪之輔校註「大鏡」(昭和4年)
凡例
底本: 『大鏡』藤田豪之輔校註 東京大倉廣文堂 発行(昭和4年)
校定大鏡(萩野由之・松井簡治校訂)を含む11種の本を校合して、本文を立てたものです。
漢字の表記を変え、ひらがなを漢字にした箇所が有ります。
語句を他本により修正した箇所が有ります。
和歌の末尾に Wを付けました。
上・中・下の表記は有りませんが、便宜上、〔大鏡 上〕の様に記しました。
発言者がわかりにくい場合は、《 》に入れて記しました。
奥付
大鏡
昭和四年十二月五日印刷
昭和四年十二月十日発行
昭和六年四月十五日訂正再版
(印紙)
金一円十七銭
校註者 藤田豪之輔
発行者 大倉克次
印刷者 川崎佐一
発行所 大倉廣文堂
大鏡
〔大鏡 上〕
序
先つ頃、雲林院の菩提講に詣でて侍りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗といき会ひて、同じ所に居ぬめり。「あはれに、同じ様なるもののさまかな」と見侍りしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう、
《世継》『年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人は物言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れ侍りけめとおぼえ侍り。かへすがへすうれしく対面したるかな。さてもいくつにかなり給ひぬる』と言へば、いま一人の翁、
《繁樹》『いくつといふこと、さらに覚え侍らず。ただし、おのれは、故太政のおとど貞信公、蔵人の少将と申しし折の子舎人童、大犬丸ぞかし。ぬしは、その御時の母后の宮の御方の召使、高名の大宅世継とぞ言ひ侍りしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさり給へらむかし。みづからが小童にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男にてこそはいませしか。』と言ふめれば、世継、
『しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや』と言ふめれば、
《繁樹》『太政大臣殿にて元服つかまつりし時、「きむぢが姓はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて、繁樹となむつけさせ給へりし』など言ふに、いとあさましうなりぬ。
たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄りなどしけり。年三十ばかりなる侍めきたる者の、せちに近く寄りて、
《侍》『いで、いと興あること言ふ老者たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言へば、翁二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹と名のるがかたざまに見やりて、
《侍》『「いくつといふこと覚えず」といふめり。この翁どもは覚え賜ぶや』と問へば、
《世継》『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年はなり侍りぬる。されば、繁樹は百八十におよびてこそ候ふらめど、やさしく申すなり。おのれは水尾の帝のおり御座します年の、正月の望の日生まれて侍れば、十三代に会ひ奉りて侍るなり。けしうは候はぬ年なりな。まことと人思さじ。されど、父が生学生に使はれたいまつりて、「下臈なれども都ほとり」と言ふことなれば、目を見給へて、産衣に書き置きて侍りける、いまだ侍り。丙申の年に侍り』と言ふも、げにと聞こゆ。
いま一人に、
《侍》『なほ、わ翁の年こそ聞かまほしけれ。生まれけむ年は知りたりや。それにていとやすく数へてむ。』と言ふめれば、
《繁樹》『これは誠の親にも添ひ侍らず、他人のもとに養はれて、十二三まで侍りしかば、はかばかしくも申さず。ただ、
《養父》「我は子うむわきも知らざりしに、主の御使に市へまかりしに、また、私にも銭十貫を持ちて侍りけるに、
母が抱きて、「この児買はん人がな」とひとりごちしを聞きて、見侍りけるに、色白うてにくげも侍らざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱きとり侍りけるに、うち笑みてかきつきて侍りけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児を放たむとは思はるるぞ」と問ひ侍りければ、「まろも子を十人まで・・・・・・」。
にくげもなき児を抱きたる女の、「これ人に放たむとなむ思ふ。子を十人までうみて、これは四十たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言ひ侍りければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何とか言ふ」と問ひ侍りければ、「夏山」とは申しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿には参り侍りし』など言ひて、
《世継》『さても、うれしく対面したるかな。仏の御しるしなめり。年頃、ここかしこの説経とののしれど、なにかはとて参らず侍り。かしこく思ひたちて、参り侍りにけるが、うれしきこと』とて、
《世継》『そこに御座するは、その折の女人にやみでますらむ』
と言ふめれば、繁樹がいらへ、『いで、さも侍らず。それははや失せ侍りにしかば、これは、その後あひ添ひて侍るわらべなり。さて閣下はいかが』と言ふめれば、世継がいらへ、『それは侍りし時のなり。今日もろともに参らむと出でたち侍りつれど、わらはやみをして、あたり日に侍りつれば、口惜しくえ参り侍らずなりぬる』と、あはれに言ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
かくて講師待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁どもの言ふやう、
《世継》『いで、さうざうしきに、いざ給へ。昔物語して、このおの御座さふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそ侍りけれ」と、聞かせ奉らむ』と言ふめれば、いま、一人、
《繁樹》『しかしか、いと興あることなり。いで覚え給へ。時々、さるべきことのさしいらへ、繁樹もうち覚え侍らむかし』と言ひて、言はむ言はむと思へる気色ども、いつしか聞かまほしく、おくゆかしき心地するに、そこらの人多かりしかど、物はかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍ぞ、よく聞かむと、あどうつめりし。世継が言ふやう。
『世はいかに興ある物ぞや。さりとも、翁こそ、少々のことは覚え侍らめ。昔さかしき帝の御政の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗やある」と召し尋ねて、いにしへの掟の有様を問はせ給ひてこそ、奏することを聞こし召しあはせて、世の政は行はせ給ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿の骨九つあるに、黄なる紙張りたる扇をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
《世継》『まめやかに世継が申さむと思ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道殿下の御有様の、世にすぐれて御座しますことを、道俗男女の御前にて申さむと思ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后、また大臣・公卿の御上をつづくべきなり。そのなかに、幸ひ人に御座します、この御有様申さむと思ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。つてに承れば、法華経一部を説き奉らむとてこそ、まづ余教をば説き給ひけれ。それを名づけて五時教とは言ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし』など言ふも、わざわざしく、ことごとしく聞こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思ふに、いみじうこそ言ひつづけ侍りしか。
《世継》『世間の摂政・関白と申し、大臣・公卿と聞こゆる、古今の、皆、この入道殿の御有様のやうにこそは御座しますらめとぞ、今様の児どもは思ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言ひもていけば、同じ種一つ筋にぞ御座しあれど、門別れぬれば、人々の御心用ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世始まりて後、帝はまづ神の世七代をおき奉りて、神武天皇を始め奉りて、当代まで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは、神武天皇を始め奉りて、次々の帝の御次第を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふに侍り。文徳天皇と申す帝御座しましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせ給ひにける。世をかぞへ侍れば、その帝、位につかせ給ふ嘉祥三年庚午の年より、今年までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなく候へども』とて、言ひつづけ侍りし。
一 五十五代 文徳天皇 道康
《世継》『文徳天皇と申しける帝は、仁明天皇の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮藤原順子と申しき。その后、左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとどの御女なり。この帝、天長四年丁末八月に生まれ給ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月二十六日に御元服。同八月四日、東宮にたち給ふ。御年十六。
仁明天皇もと御座する東宮をとりて、この帝を、承和九年八月四日、東宮にたて奉らせ給ひしなり。いかにやすからず思しけむとこそおぼえ侍れ。
嘉祥三年庚午三月二十一日、位につき給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふこと八年。
御母后の御年十九にてぞ、この帝をうみ奉り給ふ。嘉祥三年四月に后にたたせ給ふ。御年四十二。斎衡元年甲戌の年、皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞観三年辛巳二月二十九日癸酉、御出家して、潅頂などせさせ給へり。同じき六年丙申正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五条の后と申す。伊勢物語に、業平中将の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候ふめる。いかなることにか、二条の后に通ひまされける間のことどもとぞ、承りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給へれば、同じ所に御座しけるにや。
一 五十六代 清和天皇 惟仁
次の帝、清和天皇と申しけり。文徳天皇の第四の皇子なり。御母、皇太后宮明子と申しき。太政大臣良房のおとどの御女なり。この帝、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父、おほきおとどの小一条の家にて、父帝の位につかせ給へる、五日といふ日、生まれ給へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍れ。この帝は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座しましける。惟喬の親王の東宮あらそひし給ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給ふ年の十一月二十五日戊戌、東宮にたち給ひて、天安二年戊寅八月二十七日、御年九つにて位につかせ給ふ。貞観六年正月一日戊子、御元服、御年十五なり。世を保たせ給ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶三年五月八日、御出家。水尾の帝と申す。この御末ぞかし、今の世に源氏の武者の族は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
御母、二十三にて、この帝をうみ奉り給へり。貞観六年正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。后の位にて四十一年御座します。染殿の后と申す。その御時の護持僧は智証大師に御座す。
さばかりの仏の護持僧にて御座しけむに、この后の御物の怪のこはかりけるに、など、えやめ奉り給はざりけむ。前の世のことにて御座しましけるにやとこそおぼえ侍れ。
天安二年戊寅にぞ唐より帰り給ふ。
一 五十七代 陽成院 貞明
次の帝、陽成天皇と申しき。これ、清和天皇の第一の皇子なり。御母、皇太后宮高子と申しき。権中納言贈正一位太政大臣長良の御女なり。この帝、貞観十年戊子十二月十六日、染殿院にて生まれ給へり。同じき十一月二月一日己丑、御年二つにて東宮にたたせ給ひて、同じき十八年丙申十一月二十九日、位につかせ給ふ。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日乙巳〈 坎日也 〉、御元服。御年十五。世をしらせ給ふこと八年。位おりさせ給ひて、二条院にぞ御座しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給ふ。御法事の願文には、「釈迦如来の一年の兄」とは作られたるなり。智恵深く思ひよりけむほど、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世の責めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
御母后、清和の帝よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院をばうみ奉り給ふなり。元慶元年正月に后にたたせ給ふ、中宮と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮の、宮仕ひしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座しける時、在中将しのびて率てかくし奉りたりけるを、御せうとの君達、基経の大臣・国経の大納言などの、若く御座しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じそめられ給はずや御座しましけむとぞ、おぼえ侍る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮に参り通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推しはかられ侍る。およばぬ身に、斯様のことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひのほどとこそは承れ。末の世まで書き置き給ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色あることも、をかしきこともありける物』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
《世継》『二条の后と申すは、この御ことなり。
一 五十八代 光孝天皇 時康
次の帝、光孝天皇と申しき。仁明天皇の第三の皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子、贈太政大臣総継の御女なり。この帝、淳和天皇の御時の天長七年庚戌、東五条家にて生まれ給ふ。御親の深草の帝の御時の承和十三年丙辰正月七日、四品し給ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿になり給ふ。御年二十一。仁寿元年十一月二十一日、三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞観六年正月十六日、上野大守かけさせ給ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師にうつりならせ給ふ。同じ十二年二月七日、二品にのぼらせ給ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿にならせ給ふ。御年四十七。元慶六年正月七日、一品にのぼらせ給ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給ひて、二月四日、位につき給ふ。御年五十五。世をしらせ給ふこと四年。小松の帝と申す。この御時に、藤壷の上の御局の黒戸は開きたると聞き侍るは、誠にや。
一 五十九代 宇多天皇 定省
次の帝、亭子の帝と申しき。これ、小松の天皇の御第三の皇子。御母、皇太后宮班子女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野の親王の御女なり。この帝、貞観九年丁亥五月五日、生まれさせ給ふ。元慶八年四月十三日、源氏になり給ふ。御年十八。
王侍従など聞こえて、殿上人にて御座しましける時、殿上の御椅子の前にて、業平の中将と相撲とらせ給ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄折れにけり。その折目今に侍るなり。
仁和三年丁末八月二十六日に春宮にたたせ給ひて、やがて同じ日に位につかせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふこと十年。寛平元年己酉十一月二十一日己酉の日、賀茂の臨時祭始まること、この御時よりなり。使には右近中将時平なり。昌泰元年戊午四月十日、御出家せさせ給ふ。
この帝、いまだ位につかせ給はざりける時、十一月二十余日のほどに、賀茂の御社の辺に、鷹つかひ、遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひけるやう、「この辺に侍る翁どもなり。春は祭多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜はらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるるとおぼえさせ給ひて、「おのれは力および候はず。おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば、「力およばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたく軽々なるふるまひなさせ給ひそ。さ申すやうあり。近くなり侍り」とて、かい消つやうに失せ給ひぬ。いかなることにかと心得ず思し召すほどに、かく位につかせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して、「祭せさせ給へ」と申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、やがて霜月のはての酉の日、臨時の祭は侍るぞかし。東遊の歌は、敏之の朝臣のよみけるぞかし。
ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ代経とも色は変はらじ W
これは古今に入りて侍り。人皆知らせ給へることなれども、いみじくよみ給へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給へる御末、帝と申すともいとかくやは御座します。
位につかせ給ひて二年といふに始まれり。使、右近中将時平の朝臣こそはし給ひけれ。
寛平九年七月五日、おりさせ給ふ。昌泰二年己末十月十四日、出家せさせ給ふ。御名、金剛覚と申しき。承平元年七月十九日、失せさせ給ひぬ。御年六十五。
肥前掾橘良利、殿上に候ひける、入道して、修行の御供にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野にても、日根といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
この帝の、ただ人になり給ふほどなどおぼつかなし。よくも覚え侍らず。御母、洞院の后と申す。この帝の、源氏にならせ給ふこと、よく知らぬにや、「王侍従」とこそ申しけれ。陽成院の御時、殿上人にて、神社行幸には舞人などせさせ給ひたり。位につかせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代は家人にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせ給へる帝も、ありがたきことぞかし。
一 六十代 醍醐天皇 敦仁
次の帝、醍醐天皇と申しき。これ、亭子太上法皇の第一の皇子に御座します。御母、皇太后宮胤子と申しき。内大臣藤原高藤のおとどの御女なり。この帝、仁和元年乙巳正月十八日に生まれ給ふ。寛平五年四月十四日、東宮にたたせ給ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服。また同じ九年丁巳七月三日、位につかせ給ふ。御年十三。やがて今宵、夜の御殿より、にはかに御かぶり奉りて、さし出で御座しましたりける。「御手づからわざ」と人の申すは、誠にや。さて、世を保たせ給ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上か朱雀院かの生まれ御座しましたる御五十日の餅、殿上に出ださせ給へるに、伊衡中将の和歌つかうまつり給へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む W
とよむぞかし。御返し、帝のし御座しましけむかたじけなさよ。
いはひつる言霊ならばももとせの後もつきせぬ月をこそ見め W
御集など見給ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方さへ御座しましける。
一 六十一代 朱雀院 寛明
次の帝、朱雀院天皇と申しき。これ、醍醐の帝第十一の皇子なり。御母、皇太后宮穏子と申しき。太政大臣基経のおとどの第四の女なり。この帝、延長元年癸未七月二十四日、生まれさせ給ふ。同じ三年十月二十一日、東宮にたたせ給ふ。御年三歳。同じ八年庚寅九月二十二日、位につかせ給ふ。御年八歳。承平七年正月四日、御元服。御年十五。世を保たせ給ふこと十六年なり。
八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝生まれさせ給ひては、御格子も参らず、夜昼灯をともして御帳の内にて三まで生し奉らせ給ひき。北野に怖ぢ申させ給ひてかくありしぞかし。この帝生まれ御座しまさずは、藤氏の栄えいとかうしも御座しまさざらまし。いみじき折節生まれさせ給へりしぞかし。位につかせ給ひて、将門が乱れ出できて、御願にてぞと聞こえ侍りし、この臨時の祭は。その東遊の歌、貫之のぬしの詠みたりし。
松も生ひまたも影さす石清水行末遠く仕へまつらむ W
一 六十二代 村上天皇 成明
次の帝、村上天皇と申す。これ、醍醐の帝の第十四の皇子なり。御母、朱雀院の同じ御腹に御座します。この帝、延長四年丙戌六月二日、桂芳坊にて生まれさせ給ふ。天慶三年二月十五日辛亥、御元服。御年十五。同じ七年甲辰四月二十二日、春宮にたたせ給ふ。御年十九。同じ九年丙午四月十三日、位につかせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふこと二十一年。
御母后、延喜三年癸亥、前坊をうみ奉らせ給ふ。御年十九。同じ二十年庚辰女御の宣旨下り給ふ。御年三十六。同じ二十三年癸末、朱雀院生まれさせ給ふ。閏四月二十五日、后の宣旨かぶらせ給ふ。御年三十九。やがて、帝うみ奉り給ふ同じ月に、后にもたたせ給ひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせ給へり。
后にたち給ふ日は、先坊の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子に大輔の君と言ひける女房の、かくよみて出だしける、
わびぬれば今はとものを思へども心に似ぬは涙なりけり W
また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそよまれたりけれ。
今はとてみ山を出づる郭公いづれの里に鳴かむとすらむ W
五月のことに侍りけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言ひおく人、優に侍りかしな。
前の東宮におくれ奉りて、かぎりなく嘆かせ給ふ同じ年、朱雀院生まれ給ひ、我、后にたたせ給ひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地つかうまつれ。世の、大后とこれを申す。
一 六十三代 冷泉院 憲平
次の帝、冷泉院天皇と申しき。これ、村上天皇の第二の皇子なり。御母、皇后宮安子と申す。右大臣師輔のおとどの第一の御女なり。この帝、天暦四年庚戌五月二十四日、在衡のおとどのいまだ従五位下にて、備前介と聞こえける折の五条の家にて、生まれさせ給へり。同じ年の七月二十三日、東宮にたたせ給ふ。応和三年二月二十八日、御元服。御年十四。康保四年五月二十五日、御年十八にて位につかせ給ふ。世を保たせ給ふこと二年。寛弘八年十月二十四日、御年六十二にて失せさせ御座しましけるを、三条院位につかせ給ふ年にて、大嘗会などの延びけるをぞ、「折節」と、世の人申しける。
一 六十四代 円融院 守平
次の帝、円融院天皇と申しき。これ村上の帝の第五の皇子なり。御母、冷泉院の同じ腹に御座します。この帝、天徳三年己未三月二日、生まれさせ給ふ。この帝の東宮にたたせ給ふほどは、いと聞きにくく、いみじきことどもこそ侍れな。これは皆人の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめ侍りなむ。安和二年己巳八月十三日にこそは位につかせ給ひけれ。御年十一にて。さて天禄三年正月三日、御元服、御年十四。世を保たせ給ふこと十五年。
母后の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝、冷泉院とうみ奉り給へる、いとやむごとなき御宿世なり。御母方の祖父は出雲守従五位下藤原経邦と言ひし人なり。末の世には、奏せさせ給ひてこそは、贈三位し給ふとこそは承りしか。いませぬ後なれど、この世の光はいと面目ありかし。中后と申す。この御ことなり。女十の宮うみ奉り給ふたび、かくれさせ給へりし御嘆きこそ、いとかなしく承りしか。村上の御日記御覧じたる人も御座しますらむ。ほのぼの伝へ承るにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなく候ふな。そのとどまり御座します女宮こそは、大斎院よ。
一 六十五代 花山院 師貞
次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一の御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせ給ふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会の御禊あり。同じ二年八月十三日、春宮にたち給ふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせ給はで、みそかに花山寺に御座しまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。御年十九。世を保たせ給ふこと二年。その後二十二年御座しましき。
あはれなることは、おり御座しましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣わたり給ひぬるには」と、粟田殿のさわがし申し給ひけるは、まだ、帝出でさせ御座しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、かへり入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身を放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入り御座しましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせ御座しましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きし給ひけるは。
さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前をわたらせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせ給ふと見ゆるは。
天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏に参れ」と申しければ、目には見えぬ物の、戸をおしあけて、御後をや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
花山寺に御座しまし着きて、御髪おろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならず参り侍らむ」と申し給ひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にて候はむ」と契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやし給ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
一 六十六代 一条院 懐仁
次の帝、一条院天皇と申しき。これ、円融院の第一の皇子なり。御母皇后詮子と申しき。これ、太政大臣兼家のおとどの第二の御女なり。この帝、天元三年庚辰六月一日、兼家のおとどの東三条の家にて生まれさせ給ふ。東宮にたち給ふこと、永観二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和二年六月二十三日、位につかせ給ふ。御年七歳。永祚二年庚寅正月五日、御元服。御年十一。世を保たせ給ふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝をうみ奉り給ふ。東三条の女院とこれを申す。この御母は、摂津守藤原中正の女なり。
一 六十七代 三条院 居貞
次の帝、三条院と申す。これ、冷泉院の第二の皇子なり。御母、贈皇后宮超子と申しき。太政大臣兼家のおとどの第一の御女なり。この帝、貞元元年丙子正月三日、生まれさせ給ふ。寛和二年七月十六日、東宮にたたせ給ふ。同じ日、御元服。御年十一。寛弘八年六月十三日、位につかせ給ふ。御年三十六。世を保たせ給ふこと五年。
院にならせ給ひて、御目を御覧ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人の見奉るには、いささか変はらせ給ふこと御座しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座しましける。御まなこなども、いと清らかに御座しましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉の編諸の見ゆる」なども仰せられて。一品宮ののぼらせ給ひけるに、弁の乳母の御供に候ふが、さし櫛を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉らせ給うて、御髪のいとをかしげに御座しますを、さぐり申させ給うて、「かくうつくしう御座する御髪を、え見ぬこそ、心憂く口惜しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給ひけるこそ、あはれに侍れ。わたらせ給ひたる度には、さるべきものを、かならず奉らせ給ふ。三条院の御券を持て帰りわたらせ給うけるを、入道殿、御覧じて、「かしこく御座しける宮かな。幼き御心に、古反古と思してうち捨てさせ給はで、持てわたらせ給へるよ」と興じ申させ給ひければ、「まさなくも申させ給ふかな」とて、御乳母たちは笑ひ申させ給ける。冷泉院も奉らせ給ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候ふ所の、いまさらに私の領になり侍らむは、便なきことなり。おほやけものにて候ふべきなり」とて、返し申させ給ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院の同じことに侍るべきにこそ。
この御目のためには、よろづにつくろひ御座しましけれど、その験あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風重く御座しますに、医師どもの、「大小寒の水を御頭に沃させ給へ」と申しければ、凍りふたがりたる水を多くかけさせ給けるに、いといみじくふるひわななかせ給て、御色もたがひ御座しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参らせけるとぞ承りし。御病により、金液丹といふ薬を召したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病む」など人は申ししかど、桓算供奉の御物の怪にあらはれて申しけるは、「御首に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍りけれ。御位去らせ給しことも、多くは中堂にのぼらせ給はむとなり。さりしかど、のぼらせ給ひて、さらにその験御座しまさざりしこそ、口惜しかりしか。やがておこたり御座しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗のし奉るとこそ、さまざまに聞こえ侍れ。太奏にも蘢らせ給へりき。さて仏の御前より東の廂に、組入はせられたるなり。
御鳥帽子せさせ給ひけるは、大入道殿にこそ似奉り給へりけれ。御心ばへいとなつかしう、おいらかに御座しまして、世の人いみじう恋ひ申すめり。「斎宮下らせ給ふ別れの御櫛ささせ給ては、かたみに見返らせ給はぬことを、思ひかけぬに、この院はむかせ給へりしに、あやしとは見奉りし物を」とこそ、入道殿は仰せらるなれ。
一 六十八代 後一条院 敦成
次の帝、当代。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道殿下の第一の御女なり。皇太后宮彰子と申す。ただ今、たれかはおぼつかなく思し思ふ人の侍らむ。されどまづすべらぎの御ことを申すさまにたがへ侍らぬなり。寛弘五年戊申九月十一日、土御門殿にて生まれさせ給ふ。同じ八年六月十三日、春宮にたたせ給ひき。御年四歳。長和五年正月二十九日、位につかせ給ひき。御年九歳。寛仁二年正月三日、御元服。御年十一。位につかせ給て十年にやならせ給ふらむ。今年、万寿二年乙丑とこそは申すめれ。同じ帝王と申せども、御後見多く頼もしく御座します。御祖父にてただ今の入道殿下、出家せさせ給へれど、世の親、一切衆生を子のごとくはぐくみ思し召す。第一の御舅、ただ今の関白左大臣、一天下をまつりごちて御座します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座します。次々の御舅と申すは、大納言春宮の大夫、中宮権大夫、中納言など、さまざまにて御座します。斯様に御座しませば、御後見多く御座します。昔も今も、帝かしこしと申せど、臣下のあまたして傾け奉る時は、傾き給ふ物なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩の折、仰せられけるは、「一の親王をなむ春宮とすべけれども、後見申すべき人のなきにより、思ひかけず。されば二宮をばたて奉るなり」と仰せられけるぞ、この当代の御ことよ。げにさることぞかし』
《世継》『帝王の御次第は申さでもありぬべけれど、入道殿下の御栄花もなにによりひらけ給ふぞと思へば、まづ帝・后の御有様を申すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木の実をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言へば、大犬丸をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけ給へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇に向ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地もするかな。また、翁が家の女どものもとなる櫛笥鏡の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給へりや。いで興ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日延びぬる心地し侍り』と、いたく遊戯するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物も言はで、皆聞きゐたり。
大犬丸をとこ、『いで、聞き給ふや。歌一首つくりて侍り』と言ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
世継『承らむ』と言へば、繁樹、いとやさしげにいひ出づ。
『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり W』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦して、うめきて、返し、
『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも W
今様の葵八花がたの鏡、螺鈿の筥に入れたるに向ひたる心地し給ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気つきて、をかしく、誠にめづらかになむ。
《世継》『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法は、菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗、
『げに説経・説法多く承れど、かく珍しきこと宣ふ人は、さらに御座せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。
《世継》『世継はいとおそろしき翁に侍り。真実の心御座せむ人は、などか恥づかしと思さざらむ。世の中を見知り、うかべたてて持ちて侍る翁なり。目にも見、耳にも聞き集めて侍るよろづのことの中に、ただ今の入道殿下の御有様、古を聞き今を見侍るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座します。たとへば一乗の法のごとし。御有様のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣・摂政・関白と申せど、始終めでたきことは、え御座しまさぬことなり。法文・聖教の中にもたとへるなるは、「魚の子多かれど、誠の魚となることかたし。菴羅といふ植木あれど、木の実を結ぶことかたし」とこそは説き給へなれ。天下の大臣・公卿の御中に、この宝の君のみこそ、世にめづらかに御座すめれ。今ゆく末も、たれの人かかばかりは御座せむ。いとありがたくこそ侍れや。たれも心をとなへて聞こし召せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞き残し侍らむ。この世継が申すことどもはしも、知り給はぬ人々多く御座すらむとなむ思ひ侍る』と言ふめれば、
人々『すべてすべて申すべきにも侍らず』とて聞きあへり。
《世継》『世始まりて後、大臣皆御座しけり。されど、左大臣・右大臣・内大臣・太政大臣と申す位、天下になりあつまり給へる、かぞへて皆覚え侍り。世始まりて後今にいたるまで、左大臣三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣はいにしへの帝の御代に、たはやすくおかせ給はざりけり。あるいは帝の御祖父、あるいは御舅ぞなり給ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見し給ふ大臣・納言数多く御座す。失せ給ひて後、贈太政大臣などになり給へるたぐひ、あまた御座すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座すらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、少なくぞ御座する。神武天皇より三十七代にあたり給ふ孝得天皇と申す帝の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始め給へらむ。左大臣には阿倍倉橋麿、右大臣には蘇我山田石川麿、これは、元明天皇の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇位につき給ての元年乙巳、大臣になり、五年己酉、東宮のために殺され給へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子の連なり。年号いまだあらざれば、月日申しにくし。また、三十九代にあたり給ふ帝、天智天皇こそは、始めて太政大臣をばなし給けれ。それは、やがてわが御弟の皇子に御座します大友皇子なり。正月に太政大臣になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給ふ。天武天皇と申しき。世をしらせ給ふこと十五年。神武天皇より四十一代にあたり給ふ持統天皇、また、太政大臣に高市皇子をなし給ふ。天武天皇の皇子なり。この二人の太政大臣はやがて帝となり給ふ、高市皇子は大臣ながら失せ給ひにき。その後、太政大臣いとひさしく絶え給へり。ただし、職員令に、「太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位には侍らぬにや。四十二代にあたり給ふ文武天皇の御時に、年号定りたり。大宝元年といふ。文徳天皇の末の年、斎衡四年丁丑二月十九日、帝の御舅、左大臣従一位藤原良房のおとど、太政大臣になり給ふ。御年五十四。このおとどこそは、始めて摂政もし給へれ。やがてこの殿よりして、今の閑院の大臣まで、太政大臣十一人つづき給へり。ただし、これよりさきの大友皇子・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣なり。太政大臣になり給ひぬる人は、失せ給ひて後、かならず諡号と申す物あり。しかれども、大友皇子やがて帝になり給ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給へる太政大臣、二所は出家し給へれば、諡号御座せず。この十一人の太政大臣たちの御次第・有様。始終申し侍らむと思ふなり。流れを汲みて、源を尋ねてこそは、よく侍るべきを、大織冠より始め奉りて申すべけれど、それはあまりあがりて、この聞かせ給はむ人々も、あなづりごとには侍れど、なにごととも思さざらむ物から、こと多くて講師御座しなば、こと醒め侍りなば、口惜し。されば、帝王の御ことも、文徳の御時より申して侍れば、その帝の御祖父の鎌足のおとどより第六にあたり給ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申すめれ、その冬嗣の大臣より申し侍らむ。その中に、思ふに、ただ今の入道殿、世にすぐれさせ給へり。
左大臣冬嗣
このおとどは、内麿のおとどの三郎。御母、正六位上飛鳥部奈止麿の女なり。公卿にて十六年、大臣の位にて六年。田邑の御祖父に御座します。かるがゆゑに、嘉祥三年庚午七月十七日、贈太政大臣になり給へり。閑院の大臣と申す。このおとどは、おほかた男子十一人御座したるなり。されど、くだくだしき女子たちなどのことは、くはしく知り侍らず。ただし、田邑の帝の御母后・贈太政大臣長良・太政大臣良房のおとど・右大臣良相のおとどは、一つ御腹なり。
太政大臣良房 忠仁公
このおとどは、左大臣冬嗣の二郎なり。天安元年二月十九日、太政大臣になり給ふ。同年四月十九日、従一位、御年五十四。水尾の帝は御孫に御座しませば、即位の年、摂政の詔あり、年官・年爵賜はり給ふ。貞観八年に関白にうつり給ふ。年六十三。失せ給ひて後、御諡号忠仁公と申す。また、白川の大臣・染殿の大臣とも申し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳天皇の御舅、太皇太后宮明子の御父、清和天皇の祖父にて、太政大臣・准三宮の位にのぼらせ給ふ。年官・年爵の宣旨下り、摂政・関白などし給ひて、十五年こそは御座しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座する。この殿ぞ、藤氏の始めて太政大臣・摂政し給ふ。めでたき御有様なり。
和歌もあそばしけるにこそ。古今にも、あまた侍るめるは。「前のおほいまうち君」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推しはからるるを、御女の染殿の后へるにこそ。
年経ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし W
后を、花にたとへ申させ給へるにこそ。
かくれ給ひて、白川にをさめ奉る日、素性ぎみのよみ給へりしは、
血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ W
皆人知ろしめしたらめど、物を申しはやりぬれば、さぞ侍る。かくいみじき幸ひ人の、子の御座しまさぬこそ口惜しけれ。御兄の長良の中納言、ことのほかに越えられ給ひけむ折、いかばかり辛う思され、また世の人もことのほかに申しけめども、その御末こそ、今に栄え御座しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給ひける物を。
一 右大臣良相
このおとどは、冬嗣のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位にて十一年、贈正一位。西三条の大臣と申す。浄蔵定額を御祈の師にて御座す。千手陀羅尼の験徳かぶり給ふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知らず。一人ぞ、水尾の御時の女御。男子は、大納言常行卿と聞こえし。御子二人御座せしも、五位にて典薬助・主殿頭など言ひて、いとあさくてやみ給ひにき。かくばかり末栄え給ひける中納言殿を、やへやへの御弟にて、越え奉り給ひける御あやまちにや、とこそおぼえ侍れ。
一 権中納言従二位左兵衛督長良
この中納言は、冬嗣のおとどの太郎。母、白川大臣・西三条大臣に同じ。公卿にて十三年。陽成院の御時に、御祖父に御座するがゆゑに、元慶元年正月に贈左大臣正一位、次に、贈太政大臣。枇杷の大臣と申す。この殿の御男子六人御座せし、その中に基経のおとどすぐれ給へり。
一 太政大臣基経 昭宣公
この大臣は、長良の中納言の三郎に御座す。このおとどの御女、醍醐の御時の后、朱雀院并に御座します。このおとどの御母、贈太政大臣総継の女、贈正一位大夫人乙春なり。陽成院位につかせ給ひて、摂政の宣旨かぶり給ふ。御年四十一。寛平の御時、仁和三年十一月二十一日、関白にならせ給ふ。御年五十六にて失せ給ひて、御諡号、昭宣公と申す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給ふこと十余年かとぞ覚え侍る。世の人、堀河の大臣と申す。
小松の帝の御母、この大臣の御母、はらからに御座します。さて、児より小松の帝をば親しく見奉らせ給ひけるに、
ことにふれ 迹に御座します。「あはれ君かな」と見奉らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給ふことにて、わたらせ給へるに、雉の足はかならず大饗に盛る物にて侍るを、いかがしけむ、尊者の御前にとり落してけり。陪膳の、皇子の御前のをとりて、まどひて尊者の御前に据うるを、いかが思し召しけむ、御前の大殿油を、やをらかい消たせ給ふ。このおとどは、その折は下臈にて、座の末にて見奉らせ給ふに、「いみじうもせさせ給ふかな」と、いよいよ見めで奉らせ給ひて、陽成院おりさせ給ふべき陣の定に候はせ給ふ。融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」と申し出で給へれ。さもあることなれと、このおとどの定めによりて、小松の帝は位につかせ給へるなり。帝の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見申し給ふ。さるべく契りおかせ給へる御仲にやとぞおぼえ侍る。
大臣失せ給ひて、深草の山にをさめ奉る夜、勝延僧都のよみ給ふ、
うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙だに立て W
また、上野峯雄と言ひし人のよみたる、
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け Wなどは、古今に侍ることどもぞかしな。御家は堀河院・閑院とに住ませ給ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料にせさせ給ふ。閑院をば、御物忌や、また、うとき人などは参らぬ所にて、さるべくむつましく思す人ばかり御供に候はせて、わたらせ給ふ折も御座しましける。堀河院は地形のいといみじきなり。大饗の折、殿ばらの御車の立ち様などよ。尊者の御車をば東に立て、牛は御橋の平葱柱につなぎ、こと上達部の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別に見ゆることは、こと所は見侍らぬ物をや」と見給ふるに、この高陽院殿にこそおされにて侍れ。方四町にて四面に大路ある京中の家は、冷泉院のみとこそ思ひ候ひつれ、世の末になるままに、まさることのみ出でまうで来るなり。この昭宣公のおとどは、陽成院の御舅にて、宇多の帝の御時に、准三宮の位にて年官・年爵をえ給ひ、朱雀院・村上の祖父にて御座します。「世覚えやむごとなし」と申せばおろかなりや。御男子四人御座しましき。太郎左大臣時平、二郎左大臣仲平、四郎太政大臣忠平』と言ふに、繁樹、気色ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁が宝の君貞信公に御座します』とて、扇うちつかふ顔もち、ことにをかし。
《世継》『三郎にあたり給ひしは、従三位して宮内卿兼平の君と申して失せ給ひにき。さるは、御母、忠良の式部卿の親王の御女にて、いとやむごとなく御座すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申しき。
一 左大臣時平
この大臣は、基経のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康の親王の御女なり。醍醐の帝の御時、このおとど、左大臣の位にて年いと若くて御座します。菅原のおとど、右大臣の位にて御座します。その折、帝御年いと若く御座します。左右の大臣に世の政を行ふべきよし宣旨下さしめ給へりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座しましけむ。ともに世の政をせしめ給ひし間、右大臣は才世にすぐれめでたく御座しまし、御心おきても、ことのほかにかしこく御座します。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣り給へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座しましたるに、左大臣やすからず思したるほどに、さるべきにや御座しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰四年正月二十五日、大宰権師になし奉りて、流され給ふ。
この大臣、子どもあまた御座せしに、女君達は婿とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位ども御座せしを、それも皆方々に流され給ひてかなしきに、幼く御座しける男君・女君達慕ひ泣きて御座しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給ひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくに御座しませば、この御子どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御覧じて、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな W
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
流れゆく我は水宵となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ W
なきことにより、かく罪せられ給ふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、
君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや W
また、播磨国に御座しましつきて、明石の駅といふ所に御宿りせしめ給ひて、駅の長のいみじく思へる気色を御覧じて、作らしめ給ふ詩、いとかなし。
駅長驚クコトナカレ、時ノ変改
一栄一落、是レ春秋
かくて筑紫に御座しつきて、物をあはれに心ぼそく思さるる夕、をちかたに所々煙立つを御覧じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ W
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼まれぬ W
さりともと、世を思し召されけるなるべし。
月のあかき夜、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ W
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日こそは照らし給はめとこそはあめれ』誠に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物のゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄りて外目せず、見聞く気色どもを見て、いよいよはえて物を繰り出だすやうに言ひつづくるほどぞ、誠に希有なるや。繁樹、涙をのごひつつ興じゐたり。
《世継》『筑紫に御座します所の御門かためて御座します。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめ給へる詩ぞかし、
都府楼ハ纔ニ瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集の、白居易の遺愛寺ノ鐘ハ欹テテ枕ヲ聴キ、香炉峯ノ雪ハ撥ゲテ簾ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給へりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座しましし時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給ひける詩を、帝かしこく感じ給ひて、御衣賜はり給へりしを、筑紫に持て下らしめ給へりければ、御覧ずるに、いとどその折思し召し出でて、作らしめ給ひける、
去年ノ今夜ハ清涼ニ侍リキ
秋思ノ詩篇ニ独リ腸ヲ断チキ
恩賜ノ御衣ハ今此ニ在リ
捧ゲ持チテ毎日余香ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給へりけるを、書きて一巻とせしめ給ひて、後集と名づけられたり。また折々の歌書きおかせ給へりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世継若う侍りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍りしかば、大学の衆どもの、なま不合にいましかりしを、訪ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋・破子やうの物調じて、うち具してまかりつつ、習ひとりて侍りしかど、老の気のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍りにけれ。これはただ頗る覚え侍るなり』と言へば、聞く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物し給ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給ひて、
あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣ひるよしもなき W
やがてかしこにて失せ給へる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生ほし給ひて、わたり住み給ふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、現人神に御座しますめれば、おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこくあがめ奉り給ふめり。筑紫の御座しまし所は安楽寺と言ひて、おほやけより別当・所司などなさせ給ひて、いとやむごとなし。内裏焼けて度々造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは W
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座しまして、延喜三年癸亥二月二十五日に失せ給ひしぞかし。御年五十九にて。
さて後七年ばかりありて、左大臣時平のおとど、延喜九年四月四日失せ給ふ。御年三十九。大臣の位にて十一年ぞ御座しける。本院の大臣と申す。この時平のおとどの御女の女御も失せ給ふ。御孫の春宮も、一男八条の大将保忠卿も失せ給ひにきかし。この大将、八条に住み給へば、内に参り給ふほどいと遥かなるに、いかが思されけむ、冬は餅のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副に投げとらせ給ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。この殿ぞかし、病づきて、さまざま祈りし給ひ、薬師経の読経、枕上にてせさせ給ふに、「所謂宮毘羅大将」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思しけり。臆病に、やがて絶え入り給へば、経の文といふ中にも、こはき物の怪にとりこめられ給へる人に、げにあやしくはうちあげて侍りかし。さるべきとはいひながら、物は折ふしの言霊も侍ることなり。
その御弟の敦忠の中納言も失せ給ひにき。和歌の上手、菅絃の道にもすぐれ給へりき。世にかくれ給ひて後、御遊びある折、博雅三位の、さはることありて参らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々召されて参るを見て、ふるき人々は、「世の末こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始め奉りて、世の大事に思ひ侍るべき物とこそ思はざりしか」とぞ宣ひける。
先坊に御息所参り給ふこと、本院のおとどの御女具して三四人なり。本院のは、失せ給ひにき。中将の御息所と聞こえし、後は重明の式部卿の親王の北の方にて、斎宮の女御の御母にて、そも失せ給ひにき。いとやさしく御座せし。先坊を恋ひかなしび奉り給ひ、大輔なむ、夢に見奉りたると聞きて、よみておくり給へる、
時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき W
御返りごと、大輔、
恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば W
いま一人の御息所は、玄上の宰相の女にや。その後朝の使、敦忠の中納言、少将にてし給ひける。宮失せ給ひて後、この中納言には会ひ給へるを、かぎりなく思ひながら、いかが見給ひけむ、文範の民部卿の、播磨守にて、殿の家司にて候はるるを、「我は命みじかき族なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会ひ給はむ」と宣ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。よにたがへ給はじ」など宣ひけるが、誠にさていまするぞかし。
ただ、この君たちの御中には、大納言源昇の卿の御女の腹の顕忠のおとどのみぞ、右大臣までなり給ふ。その位にて六年御座せしかど、少し思すところやありけむ、出でて歩き給ふにも、家内にも、大臣の作法をふるまひ給はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前つがひ給はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候ひし。車副四人つがはせ給はざりき。御先も時々ほのかにぞ参りし。盥して御手すますことなかりき。寝殿の日隠の間に棚をして、小桶に小杓して置かれたれば、仕丁、つとめてごとに、湯を持て参りて入れければ、人してもかけさせ給はず、我出で給ひて、御手づからぞすましける。御召物は、うるはしく御器などにも参り据ゑで、ただ御土器にて、台などもなく、折敷などにとり据ゑつつぞ参らせける。
倹約し給ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所とにぞ、大臣とは見え給ひし。かくもてなし給ひし故にや、このおとどのみぞ、御族の中に、六十余りまで御座せし。四分一の家にて大饗し給へる人なり。富小路の大臣と申す。
これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給はず。そのゆゑは、他のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とて御座せしが御子なり、今の三井寺の別当心誉僧都・山階寺の権別当扶公僧都なり。この君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言の御子あまた御座しける中に、兵衛佐なにがし君とかや申しし、その君出家して往生し給ひにき。その仏の御子なり、石蔵の文慶僧都は。敦忠の御女子は枇杷の大納言の北の方にて御座しきかし。あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。
延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、この殿、制を破りたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内に参り給ひて、殿上に候はせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御気色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしき頃、左のおとどの一の人といひながら、美麗ことのほかにて参れる、便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ」と仰せられければ、承る職事は、「いかなることにか」と怖れ思ひけれど、参りて、わななくわななく、「しかじか」と申しければ、いみじくおどろき、かしこまり承りて、御随身の御先参るも制し給ひて、急ぎまかり出で給へば、御前どもあやしと思ひけり。さて本院の御門一月ばかり鎖させて、御簾の外にも出で給はず、人などの参るにも、「勘当の重ければ」とて、会はせ給はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心あはせさせ給へりけるとぞ。
物のをかしさをぞえ念ぜさせ給はざりける。笑ひたたせ給ひぬれば、頗ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給ふ間、非道なることを仰せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給ふことをいかがはと思して、「このおとどのし給ふことなれば、不便なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給ひけるを、なにがしの史が、「ことにも侍らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍らむ」と申しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給ふに、この史、文刺に文挟みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉るとて、いと高やかに鳴らして侍りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術なし。右のおとどにまかせ申す」とだに言ひやり給はざりければ、それにこそ菅原のおとど、御心のままにまつりごち給ひけれ。
また、北野の、神にならせ給ひて、いとおそろしく神鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、「生きてもわが次にこそ物し給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我に所置き給ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣ひける。一度はしづまらせ給へりけりとぞ、世の人、申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじう御座するにはあらず、王威のかぎりなく御座しますによりて、理非を示させ給へるなり。
一 左大臣仲平
この大臣は、基経のおとどの次郎。御母は、本院の大臣に同じ。大臣の位にて十三年ぞ御座せし。枇杷の大臣と申す。御子持たせ給はず。伊勢集に、
花薄われこそしたに思ひしかほに出でて人にむすばれにけり W
などよみ給へるは、この人に御座す。貞信公よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給へりしを、つひになり給へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ W
やがてその花をかざして、御対面の日、よろこび給へる。
廂の大饗せさせ給ひけるにも、横さまに据ゑ参らせさせ給ひけるこそ、年頃少しかたはらいたく思されける御心とけて、いかにかたみに心ゆかせ給へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿の御心、誠にうるはしく御座しましける。皆人聞き知ろしめしたることなり、申さじ。
このおとどに伊勢の御息所の忘られてよむ歌なり。
人知れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はまし物を W
一 太政大臣忠平 貞信公
この大臣、これ、基経のおとどの四郎君。御母、本院の大臣・枇杷の大臣に同じ。このおとど、延長八年九月二十一日摂政、天慶四年十一月関白の宣旨かぶり給ふ。公卿にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給ふこと二十年。後の御諡号貞信公と名づけ奉る。子一条の太政大臣と申す。朱雀院并びに村上の御舅に御座します。この御子五人。その折は、御位太政大臣にて、御太郎、左大臣にて実頼のおとど、これ、小野宮と申しき。二郎、右大臣師輔のおとど、これを九条殿と申しき。四郎、師氏の大納言と聞こえき。五郎、また左大臣師尹のおとど、子一条殿と申しきかし。これ、四人君達、左右の大臣、納言などにて、さしつづき御座しましし、いみじかりし御栄花ぞかし。女君一所は、先坊の御息所にて御座しましき。
つねにこの三人の大臣たちの参らせ給ふ料に、小一条の南、勘解由小路には、石畳をぞせられたりしが、まだ侍るぞかし。宗像の明神の御座しませば、洞院・小代の辻子よりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞ承りし。凡その一町は、人まかり歩かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩き侍れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給ふれ。この翁どもは、今もおぼろけにては通り侍らず。今日も参り侍るが、腰のいたく侍りつれば、術なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥をふみこみて候ひつれば、きたなき物も、かくなりて侍るなり』とて、引き出でて見す。
《世継》『「先祖の御物は何もほしけれど、小一条のみなむ要に侍らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿は仰せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神、うつつに、物など申し給ひけり。「我よりは御位高くて居させ給へるなむ、くるしき」と申し給ひければ、いと不便なる御こととて、神の御位申しあげさせ給へるなり。
この殿、何の御時とは覚え侍らず、思ふに、延喜・朱雀院の御ほどにこそは侍りけめ、宣旨承らせ給ひて、おこなひに陣座ざまに御座します道に、南殿の御帳のうしろのほど通らせ給ふに、物のけはひして、御太刀の石突をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪ながくて刀の刃の様なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅宣承りて、定に参る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給へりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅の隅ざまにまかりにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。こと殿ばらの御ことよりも、この殿の御こと申すは、かたじけなくもあはれにも侍るかな』とて、音うちかはりて、鼻度々うちかむめり。
《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給へるとこそ、人申し伝へたれ。天暦三年八月十一日にぞ失せさせ給ひける。正一位に贈せられ給ふ。御年七十一。
太政大臣実頼 清慎公
このおとどは、忠平のおとどの一男に御座します。小野宮のおとどと申しき。御母、寛平法皇の御女なり。大臣の位にて二十七年、天下執行、摂政・関白し給ひて二十年ばかりや御座しましけむ。御諡号、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座しまして、後撰にもあまた入り給へり。おほかた、何事にも有識に、御心うるはしく御座しますことは、世の人の本にぞひかれさせ給ふ。小野宮の南面には、御髻放ちては出で給ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷の杉のあらはに見ゆれば、「明神、御覧ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」と宣はせて、いみじくつつしませ給ふに、おのづから思し召し忘れぬる折は、御袖をかづきてぞ驚きさわがせ給ひける。
この大臣の御女子、女御にて失せ給ひにき。村上の御時にや、よくも覚え侍らず。男君は、時平のおとどの御女の腹に、敦敏の少将と聞こえし、父大臣の御先にかくれ給ひにきかし。さていみじう思し嘆くに、東のかたより、失せ給へりとも知らで、馬を奉りたりければ、大臣、
まだ知らぬ人もありけり東路に我もゆきてぞ住むべかりける W
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
《世継》『大臣の御童名をば、うしかひと申しき。されば、その御族は、牛飼を「牛つき」と宣ふなり。
敦敏の少将の子なり、佐理の大弐、世の手書の上手。任はてて上られけるに、伊予国のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出でむとし給へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃過ぐれば、いとあやしく思して、物問ひ給へば、「神の御祟」とのみ言ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖れ給ひける夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男の御座して、「この日の荒れて、日頃ここに経給ふは、おのれがし侍ることなり。よろづの社に額のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろく侍れば、われに書かせ奉らむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉りたるなり」と宣ふに、「たれとか申す」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり」と宣ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すと思すに、おどろき給ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与へわたり給ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給ひぬ。湯度々浴み、いみじう潔斎して、清まはりて、昼の装束して、やがて神の御前にて書き給ふ。神司ども召し出だして打たせなど、よく法のごとくして帰り給ふに、つゆ怖るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上り給ひにき。わがすることを人間にほめ崇むるだに興あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思しけむこそ、いかに御心おごりし給ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給へりし。六波羅蜜寺の額も、この大弐の書き給へるなり。されば、かの三島の社の額と、この寺のとは同じ御手に侍り。
御心ばへぞ、懈怠者、少しは如泥人とも聞こえつべく御座せし。故中関白殿、東三条つくらせ給ひて、御障子に歌絵ども書かせ給ひし色紙形を、この大弐に書かせまし給ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白殿わたらせ給ひ、上達部・殿上人など、さるべき人々参りつどひて後に、日高く待たれ奉りて参り給ひければ、少し骨なく思し召さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給ふに、女の装束かづけさせ給ふを、さらでもありぬべく思さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ、なほ懈怠の失錯なりける。「のどかなる今朝、とくもうち参りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人も思ひ、みづからも思したりける。「むげの、その道、なべての下臈などにこそ、斯様なることはせさせ給はめ」と、殿をも謗り申す人々ありけり。
その大弐の御女、いとこの懐平の右衛門督の北の方にて御座せし、経任の君の母よ。大弐におとらず、女手書にて御座すめり。大弐の御妹は、法住寺のおとどの北の方にて御座す。その御腹の女君は、花山院の御時の弘徽殿の女御、また、入道中納言の御北の方。また、男子は、今の中宮の大夫斎信の卿とぞ申すめる。
小野宮の大臣の三郎、敦敏の少将の同じ腹の君、右衛門督までなり給へりし、斎敏とぞ聞こえしかし。その御男君、播磨守尹文の女の腹に三所御座せし。太郎は高遠の君、大弐にて失せ給ひにき。二郎は懐平とて、中納言・右衛門督までなり給へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通の君、また侍従宰相資平の君、今の皇太后宮権大夫にて御座すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父の小野宮のおとどの御子にし給ひて、実資とつけ奉り給ひて、いみじうかなしうし給ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才がりたりや。「童名は、大学丸とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮の右大臣と申して、いとやむごとなくて御座すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給ひて、わが御甥の資平の宰相を養ひ給ふめり。末に、宮仕人を思しける腹に出で御座したる男子は、法師にて、内供良円の君とて御座す。また、さぶらひける女房を召しつかひ給ひけるほどに、おのづから生まれ給へりける女君、かくや姫とぞ申しける。この母は頼忠の宰相の乳母子。北の方は、花山院の女御、為平の式部卿の御女。院そむかせ給ひて、道信の中将も懸想し申し給ふに、この殿参り給ひにけるを聞きて、中将の聞こえ給ひしぞかし、
うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ W
この女御、殿に候ひ給ひしなり
この女君、千日の講おこなひ給ふ。資家の中納言の上の腹なり。兼頼の中納言の北の方にて失せ給ひにき。おほかた、子かたく御座しましける族にや。これも、中宮の権大夫の上も、継子を養ひ給へる。
この女君を、小野宮の寝殿の東面に帳たてて、いみじうかしづき据ゑ奉り給ふめり。いかなる人か御婿となり給はむとすらむ。
かの殿は、いみじき隠り徳人にぞ御座します。故小野宮のそこばくの宝物・荘園は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対・寝殿・渡殿は例のことなり、辰巳の方に三間四面の御堂たてられて、廻廊は皆、供僧の房にせられたり。湯屋に大きなる鼎二つ塗り据ゑられて、煙立たぬ日なし。御堂には、金色の仏多く御座します。供米三十石を、定図におかれて絶ゆることなし。御堂へ参る道は、御前の池よりあなたをはるばると野につくらせ給ひて、時々の花・紅葉を植ゑ給へり。また舟に乗りて池より漕ぎても参る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進なり。さらずはあへてたひらかに参るべきならず。
住僧にはやむごとなき智者、あるいは持経者・真言師どもなり。これに夏冬の法服を賜び、供料をあて賜びて、わが滅罪生善の祈、また姫君の御息災を祈り給ふ。
この小野宮をあけくれつくらせ給ふこと、日に工の七八人絶ゆることなし。世の中に手斧の音する所は、東大寺とこの宮とこそは侍るなれ。祖父おほいどのの、とりわき給ひししるしは御座する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守資頼と聞こゆめるは、姫君の御一つ腹にあらず、いづれにかありけむ。
一 太政大臣頼忠 廉義公
このおとどは、小野宮実頼のおとどの二郎なり。御母、時平の大臣の御女、敦敏の少将の御同じ腹なり。大臣の位にて十九年、関白にて九年、この生きはめさせ給へる人ぞかし。三条よりは北、西洞院より東に住み給ひしかば、三条殿と申す。
この大臣、いみじきことどもしおき給へる人なり。賀茂詣に、検非違使、車のしりに具すること、また馬の上の随身、左右に四人つがはしむることも、この殿のしいで給へり。古は、物節のかぎり、一人づつありて、府生はなくて侍りしなり。一の人御座すなど見ゆること侍らざりけり。必ずかく侍るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給ひて、殿のうちに宵にともしたる油を、またのつとめて、侍に油瓶を持たせて、女房の局までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給ひけり。あまりにうたてあることなりや。
一条院位につかせ給ひしかば、よそ人にて、関白退かせ給ひにき。ただ、おほきおほいどのと申して、四条の宮にこそは、一つに住ませ給ひしか。それに、この前の師殿は、時の一の人の御孫にて、えもいはずはなやぎ給ひしに、六条殿の御婿にて御座せしかば、つねに西洞院のぼりに歩き給ふを、こと人ならばこと方よりよきても御座すべきを、大后・太政大臣の御座します前を、馬にてわたり給ふ。おほきおほいどのいとやすからず思せども、いかがはせさせ給はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思して、中門の北廊の連子よりのぞかせ給へば、いみじうはやる馬にて、御紐おしのけて、雑色二三十人ばかりに、先いと高く御座せて、うち見いれつつ、馬の手綱ひかへて、扇高くつかひて通り給ふを、あさましく思せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣はで、ただ、「なさけなげなる男にこそありけれ」とばかりぞ申し給ひける。非常のことなりや。さるは、師中納言殿の上の六条殿の姫君は、母は三条殿の御女に御座すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参りつかまつりだにこそし給ふべかりしか。この頼忠のおとど、一の人にて御座しまししかど、御直衣にて内に参り給ふこと侍らざりき。奏せさせ給ふべきことある折は、布袴にてぞ参り給ふ。さて、殿上に候はせ給ふ。年中行事の御障子のもとにて、さるべき職事蔵人などしてぞ、奏せさせ給ひ、承り給ひける。また、ある折は、鬼間に帝出でしめ給ひて、召しある折ぞ参り給ひし。関白し給へど、よその人に御座しましければにや。
故中務卿代明の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座しまして、大姫君は、円融院の御時の女御にて、天元五年三月十一日に后にたち給ひ、中宮と申しき。御年二十六。御子御座せず。四条の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者・有識にぞいはれ給ひし。功徳も御祈も如法に行はせ給ひし。毎年の季の御読経なども、つねのこととも思し召したらず、四日がほど、二十人の僧を、房のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給ひ、湯あむし、斎などかぎりなく如法に供養せさせ給ひ、御前よりも、とりわきさるべきものども出ださせ給ふ。御みづからも清き御衣奉り、かぎりなくきよまはらせ給ひて、僧に賜ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給ひて後につかはしける。恵心の僧都の頭陀行せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎を設けつつ参りしに、この宮には、うるはしくかねの御器ども失せ給へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食とどめ給ひてき。
いま一所の姫君、花山院の御時の女御にて、四条宮に尼にて御座しますめり。
やがて后・女御の一つ腹の男君、ただ今の按察大納言公任卿と申す。小野宮の御孫なればにや、和歌の道すぐれ給へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座す。その御女、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃多くの君達うみつづけ給へりつる、去年の正月に失せ給ひて、大納言よろづを知らず、思し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座する。左大弁定頼の君、若殿上人の中に、心あり、歌なども上手にて御座すめり。母北の方いとあてに御座すかし。村上の九の宮の御女、多武峯の入道の少将、まちをさ君の御女の腹なり。内大臣殿の上も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
この大納言殿、無心のこと一度ぞ宣へるや。御妹の四条の宮の、后にたち給ひて、初めて入内し給ふに、洞院のぼりに御座しませば、東三条の前をわたらせ給ふに、大入道殿も、故女院も胸痛く思し召しけるに、按察大納言は后の御せうとにて、御心地のよく思されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給ふらむ」と、うち見入れて宣へりけるを、殿を始め奉りて、その御族やすからず思しけれど、男宮御座しませば、たけくぞ。よその人々も、「益なくも宣ふかな」と聞き給ふ。一条院、位につき給へば、女御、后にたち給ひて入内し給ふに、大納言殿の、亮につかまつり給へるに、出車より扇をさし出だして、「やや、物申さむ」と、女房の聞こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給へるに、進の内侍、顔をさし出でて、「御妹の素腹の后は、いづくにか御座する」と聞こえかけたりけるに、「先年のことを思ひおかれたるなり。自らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給ひぬれば、ことにふれて捨てられ給はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに作文の船・管絃の船・和歌の船と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」と宣はすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」と宣ひて、よみ給へるぞかし、
をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき W
申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』と宣はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣ふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
大臣、永祚元年六月二十六日に、失せ給ひて、贈正一位になり給ふ。廉義公とぞ申しける。この大臣の末、かくなり。
一 左大臣師尹
この大臣、忠平のおとどの五郎、小一条の大臣と聞えさせ給ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣にうつり給ふこと、西宮殿、筑紫へ下り給ふ御替なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣のいひ出で給へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過さず失せ給ふことをこそ申すめりしか。それも誠にや。
御娘、村上の御時の宣耀殿の女御、かたちをかしげにうつくしう御座しけり。内へ参り給ふとて、御車に奉り給ひければ、わが御身は乗り給ひけれど、御ぐしのすそは、母屋の柱のもとにぞ御座しける。一筋をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申し伝へためる。御目のしりの少しさがり給へるが、いとどらうたく御座するを、帝、いとかしこくときめかさせ給ひて、かく仰せられけるとか、
生きての世死にてののちの後の世もはねをかはせる鳥となりなむ W
御返し、女御、
秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ W
古今うかべ給へりと聞かせ給ひて、帝、こころみに本をかくして、女御には見せさせ給はで、「やまとうたは」とあるを始めにて、まへの句のことばを仰せられつつ、問はせ給ひけるに、いひたがへ給ふこと、詞にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣は聞き給ひて、御装束して、手洗ひなどして、所々に誦経などし、念じ入りてぞ御座しける。帝、箏の琴をめでたくあそばしけるも、御心にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給ふに、冷泉院の御母后失せ給ひてこそ、なかなかこよなく覚え劣り給へりとは聞え給ひしか。「故宮のいみじうめざましく、やすらかぬ物に思したりしかば、思ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰せられける。
この女御の御腹に、八の宮とて男親王一人生れ給へり。御かたちなどは清げに御座しけれど、御心きはめたる白物とぞ、聞き奉りし。世の中のかしこき帝の御ためしに、もろこしには堯・舜の帝と申し、この国には延喜・天暦とこそは申すめれ。延喜とは醍醐の先帝、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝の御子、小一条の大臣の御孫にて、しかしれ給へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時の左大将と申しし、長徳元年己未四月二十三日失せ給ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞になどぞ御座せし。御妹の女御殿に、村上の、琴をしへさせ給ひける御前に候ひ給ひて、聞き給ふほどに、おのづから、われもその道の上手に、人にも思はれ給へりしを、おぼろけにて心よくならし給はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物一つばかりかきあはせなどし給ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給ひき。人の奉りたる贄などいふ物は、御前の庭にとりおかせ給ひて、夜は贄殿に納め、昼はまたもとのやうにとり出でつつ置かせなど、また人の奉りかふるまでは置かせ給ひて、とりうごかすことはせさせ給はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参るにも、かくなむと見せ給ふ料なめり。昔人はさることをよきにはしければ、そのままの有様をせさせ給ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思したりしほどよりは、よしなしごとし給へりとぞ、人にいはれ給ふめりし。御甥の八の宮に大饗せさせ奉り給ひて、上戸に御座すれば、人々酔はしてあそばむなど思して、「さるべき上達部たちとく出づる物ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給へ」と、よくをしへまうさせ給へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給へれど、やむごとなき親王の大事にし給ふことなれば、人々あまた参りたりしも古体なりかし。されど、公事さしあはせたる日なれば、いそぎ出で給ふに、まことさることありつ、と思し出でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給ふに、目をくはせ給へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出でさせ給はず、物も仰せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上の衣の片袂落ちぬばかり、とりかからせ給ふに、参りと参る上達部は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道殿などは、若殿上人にて御座しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出で給ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉りて、また、しか宣へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思すに、御色も青くなりてぞ御座しける。誠に、親王をば、もとよりさる人と知りまうしたれば、これをしも、謗りまうさず、この殿をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様を、あまた人に見せきこえ給へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚え御座せし人の、口惜しき辱号とり給へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷の大納言延光の御女ぞ御座する。女君二所・男君二人ぞ御座せし。女君は、三条院の東宮にて御座しましし折の女御にて、宣耀殿と申して、いと時に御座しましし。男親王四所・女宮二人、生れ給へりしほどに、東宮、位につかせ給ひてまたの年、長和元年四月二十八日、后にたち給ひて、皇后宮と申す。また、いま一所の女君は、父殿失せ給ひにし後、御心わざに、冷泉院の四の親王、師の宮と申す御上にて、二三年ばかり御座せしほどに、宮、和泉式部に思しうつりにしかば、本意なくて、小一条に帰らせ給ひにし後、この頃、聞けば、心えぬ有様の、ことのほかなるにてこそ御座すなれ。
この殿の御おもておこし給ふは、皇后宮に御座しましき。この宮の御腹の一の親王敦明の親王とて、式部卿と申ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給へば、この式部卿、東宮にたたせ給ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思し召しけむ、宮たちと申しし折、よろづに遊びならはせ給ひて、うるはしき御有様いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思しなられて、皇后宮に、「かくなむ思ひ侍る」と申させ給ふを、「いかでかは、げにさもとは思さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌めまうさせ給ふに、思しあまりて、入道殿に御消息ありければ、参らせ給へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思ひ侍る」と聞えさせ給ひければ、「さらにさらに承らじ。さは、三条院の御末はたえねと思し召し、おきてさせ給ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物の怪などの思はせ奉るなり。さ思し召すべきぞ」と啓し給ふに、「さらば、ただ本意ある出家にこそはあなれ」と宣はするに、「さまで思し召すことなれば、いかがはともかくも申さむ。内に奏し侍りてを」と申させ給ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給ひにける。
さて、殿、内に参り給ひて、大宮にも申させ給ひければ、いかがは聞かせ給ひけむな。このたびの東宮には式部卿の宮をとこそは思し召すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見なければ、東宮に当代を奉るなり」と仰せられしかば、これも同じことなりと思しさだめて、寛仁元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮にたたせ給ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切といふ太刀は、内より持て参りしか。当代位につかせ給ひしかば、すなはち東宮にも参るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃、内の納殿に候ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服せさせ給ひしか。前の東宮をば小一条院と申す。今の東宮の御有様、申すかぎりなし。つひのこととは思ひながら、ただいまかくとは思ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心と、かく退かせ給へることは、これを始めとす。世始まりて後、東宮の御位とり下げられ給へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師東宮御座しけるこそ、失せ給ひて後に、贈太上天皇と申して、六十余国にいはひすゑられ給へれ。公家にも知ろしめして、官物のはつをさき奉らせ給ふめり。この院のかく思したちぬること、かつは殿下の御報の早く御座しますにおされ給へるなるべし。また多くは元方の民部卿の霊のつかうまつるなり。」といへば、侍、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍れ。なにがしは、いとくはしく承ること侍る物を」といへば、世継、「さも侍るらむ。伝はりぬることは、いでいで承らばや。ならひにしことなれば、物のなほ聞かまほしく侍るぞ」といふ。興ありげに思ひたれば、
《侍》「ことの様体は、三条院の御座しましけるかぎりこそあれ、失せさせ給ひにける後は、世の常の東宮のやうにもなく、殿上人参りて、御遊びせさせ給ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思し召されけるままに、心やすかりし御有様のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給ひけれど、三条院御座しましつるかぎりは、院の殿上人も参りや、御使もしげく参り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給ふを、院失せ御座しましては、世の中の物おそろしく、大路の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司などだにも、参りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司の下部、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
まれまれ参りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座しますを、心ぐるしく殿も大宮も思ひまうさせ給ふに、『もし、内に男宮も出で御座しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮にたて奉らばや』となむ仰せらるなる。されば、おしてとられさせ給ふべかむなり」などのみ申すを、誠にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞かせ給ふ御心地は、いとどうきたるやうに思し召されて、ひたぶるにとられむよりは、我とや退きなまし、と思し召すに、また、「高松殿の御匣殿参らせ給ひ、殿、はなやかにもてなし奉らせ給ふべかなり」とも、例のことなれば、世の人のさまざま定め申すを、皇后宮、聞かせ給ひて、いみじう喜ばせ給ふを、東宮は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思されて、御母宮に、「しかじかなむ思ふ」と聞えまうさせ給へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給はめ。さらにさらに思しよるまじきことなり」と聞えさせ給ひて、御物の怪のするなりと、御祈どもせさせ給へど、さらに思しとどまらぬ御心のうちを、いかでか世の人も聞きけむ、「さてなむ、『御匣殿参らせ奉り給へ』とも聞えさせ給ふべかなる」などいふこと、殿の辺にも聞ゆれば、誠にさも思しゆるぎて宣はせば、いかがすべからむ、など思す。
さて東宮はつひに思し召したちぬ。後に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思しなしけむ、不覚のことなりや。
壺切などのこと、僻事に候ふめり。故三条院たびたび申させ給ひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞き侍りしか。されば、故院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申させて。
皇后宮にもかくとも申し給はず、ただ御心のままに、殿に御消息聞えむと思し召すに、むつましうさるべき人も物し給はねば、中宮権大夫殿の御座します四条の坊門と西洞院とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思し召しよりけむ、蔵人なにがしを御使にて、「あからさまに参らせ給へ」とあるを、思しもかけぬことなれば、おどろき給ひて、「なにしに召すぞ」と問ひ給へば、「申させ給ふべきことの候ふにこそ」と申すを、この聞ゆることどもにや、と思せど、退かせ給ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿の御ことならむ、と思す。いかにもわが心ひとつには、思ふべきことならねば、「おどろきながら参り候ふべきを、大臣に案内申してなむ候ふべき」と申し給ひて、まづ、殿に参り給へり。「東宮より、しかじかなむ仰せられたる」と申し給へば、殿もおどろき給ひて、「何事ならむ」と仰せられながら、大夫殿と同じやうにぞ思しよらせ給ひける。誠に御匣殿の御こと宣はせむを、いなびまうさむも便なし。参り給ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉るべきならず。また、さては世の人の申すなるやうに、東宮退かせ給はむの御思ひあるべきならずかし、とは思せど、「しかわざと召さむには、いかでか参らではあらむ。いかにも、宣はせむことを聞くべきなり」と申させ給へば、参らせ給ふほど、日も暮れぬ。
陣に左大臣殿の御車や、御前どものあるを、なまむつかしと思し召せど、帰らせ給ふべきならねば、殿上に上らせ給ひて、「参りたるよし啓せよ」と、蔵人に宣はすれば、「おほい殿の、御前に候はせ給へば、ただいまはえなむ申し候はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様も、東宮の御座しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出で給ひて、かくと啓すれば、朝餉の方に出でさせ給ひて、召しあれば、参り給へり。「いと近く、こち」と仰せられて、「物せらるることもなきに、案内するもはばかり多かれど、大臣に聞ゆべきことのあるを、伝へ物すべき人のなきに、間近きほどなれば、たよりにもと思ひて消息し聞えつる。その旨は、かくて侍るこそは本意あることと思ひ、故院のしおかせ給へることをたがへ奉らむも、かたがたにはばかり思はぬにあらねど、かくてあるなむ、思ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内の御ゆく末はいと遥かに物せさせ給ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知りがたし。この有様退きて、心に任せて行ひもし、物詣をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号給ひて、年に受領などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰せられければ、かしこまりてまかでさせ給ひぬ。
その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿に参らせ給へるに、内へ参らせ給はむとて、御装束のほどなれば、え申させ給はず。おほかたには御供に参るべき人々、さらぬも、出でさせ給はむに見参せむと、多く参り集りて、さわがしげなれば、御車に奉りに御座しまさむに申さむとて、そのほど、寝殿の隅の間の格子によりかかりてゐさせ給へるを、源民部卿寄り御座して、「などかくては御座します」と聞えさせ給へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候へば、え申さぬなり」と宣はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞かせ奉り給へ。内に参らせ給ひなば、いとど人がちにて、え申させ給はじ」とあれば、げにと思して、御座します方に参り給へれば、さならむと御心得させ給ひて、隅の間に出でさせ給ひて、「春宮に参りたりつるか」と問はせ給へば、よべの御消息くはしく申させ給ふに、さらなりや、おろかに思し召さむやは。おしておろし奉らむこと、はばかり思し召しつるに、かかることの出で来ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮の御宿世かな、と思し召す。
民部卿殿に申しあはせさせ給へば、「ただとくとくせさせ給ふべきなり。なにか吉日をも問はせ給ふ。少しも延びば、思しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給はむ」と申させ給へば、さることと思して、御暦御覧ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白殿も参り給へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給ふに、「まづいかにも大宮に申してこそは」とて、内に御座しますほどなれば、参らせ給ひて、「かくなむ」と聞かせ奉らせ給へば、まして女の御心はいかが思し召されけむ。それよりぞ、東宮に参らせ給ひて。
御子どもの殿ばら、また例も御供に参り給ふ上達部・殿上人引き具せさせ給へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座しますを、待ちつけ給へる宮の御心地は、さりとも、少しすずろはしく思し召されけむかし。
心も知らぬ人は、つゆ参りよる人だになきに、昨日、二位中将殿の参り給へりしだにあやしと思ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣などのやうに、御先の音もおどろおどろしうひびきて参らせ給へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿の御こと申させ給ふなめり」と思ふは、さも似つかはしや。むげに思ひやりなき際のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮だにえ知らせ給はざりけり。かくこの御方に物さわがしきを、いかなることぞとあやしう思して、案内しまうさせ給へど、例の女房の参る道を、かためさせ給ひてけり。
殿には、年頃思し召しつることなどこまかに聞えむと、心強く思し召しつれど、誠になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給ひぬ。向ひきこえさせ給ひては、かたがたに臆せられ給ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少なに仰せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思し召しよりぬるぞ」などやうに申させ給ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉らせ給ひて、少しおし拭はせ給ひて、「さらば、今日、吉日なり」とて、院になし奉らせ給ふ。やがてことども始めさせ給ひぬ。よろづのこと定め行はせ給ふ。判官代には、宮司ども・蔵人などかはるべきにあらず。別当には中宮権大夫をなし奉り給へれば、おりて拝しまうさせ給ふ。ことども定まりはてぬれば、出でさせ給ひぬ。
いとあはれに侍りけることは、殿のまだ候はせ給ひける時、母宮の御方より、いづかたの道より尋ね参りたるにか、あらはに御覧ずるも知らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給へるぞ」と、声もかはりて申しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰せられけれ。勅使こそ誰ともたしかにも聞き侍らね。禄など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
《世継》「殿こそはせさせ給ひけめ。さばかりのことになりて、逗留せさせ給はむやは」
《侍》「火焚屋・陣屋などとりやられけるほどにこそ、え堪へずしのび音泣く人々侍りけれ。まして皇后宮・堀河の女御殿など、さばかり心深く御座します御心どもに、いかばかり思し召しけむとおぼえ侍りし。世の中の人、「女御殿、
雲居まで立ちのぼるべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな W といふ歌よみ給へり」など申すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給ふやうもありけめど、人の聞き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
《世継》「げにそれはさることに侍れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
《侍》「さて、かくせめおろし奉り給ひては、また御婿にとり奉らせ給ふほど、もてかしづき奉らせ給ふ御有様、誠に御心もなぐさませ給ふばかりこそ聞え侍りしか。おもの参らする折は、台盤所に御座しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給ふ。なにをも召し試みつつなむ参らせ給ひける。御障子口までもて御座しまして、女房に給はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故式部卿の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍れ、御座します人の御こと申す、便なきことなりかし」
《世継》「さて、式部卿の宮と申すは、故一条院の一の皇子に御座します。その宮をば、年頃、帥の宮と申ししを、小一条院、式部卿にて御座しまししが、東宮にたち給ひて、あく所に、帥をば退かせ給ひて、式部卿とは申ししぞかし。その後の度の東宮にもはづれ給ひて、思し嘆きしほどに失せ給ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿とは申すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申す。次の四の宮師明の親王と申す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給ひにしを、上らせ給ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思し嘆きて、尼になし給ひて失せ給ひにき。いま一所の女宮まだ御座します。
小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮と申しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉らむと思しける。こちよりては、大納言の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言を贈太政大臣になしてこそは、后にたてさせ給ひてしか。されば皇后宮いとめでたく御座しますめり。御せうと、一人は侍従の入道、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座すめれ。
また、伊予の入道もそれぞかし。
いま一所の女君こそは、いとはなはだしく心憂き御有様にて御座すめれ。父大将のとらせ給へりける処分の領所、近江にありけるを、人にとられければ、すべき様なくて、かばかりになりぬれば、物のはづかしさも知られずや思はれけむ、夜、かちより御堂に参りて、うれへ申し給ひしはとよ。
殿の御前は、阿弥陀堂の仏の御前に念誦して御座しますに、夜いたくふけにければ、御脇息によりかかりて、少し眠らせ給へるに、犬防のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思し召しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物申し候はむ」と申すを、御僻耳かと思し召すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思し召して、いとあやしくはあれど、「誰そ、あれは」と問はせ給ふに、「しかじかの人の、申すべきこと候ひて、参りたるなり」と申しければ、いといとあさましくは思し召せど、あらく仰せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事ぞ」と問はせ給ひければ、「知ろしめしたることに候ふらむ」とて、ことの有様こまかに申し給ふに、いとあはれに思し召して、「さらなり、みな聞きたることなり。いと不便なることにこそ侍るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給はめ。とく帰られね」と仰せられければ、「さこそはかへすがへす思ひ給へ候ひつれど、申しつぐべき人のさらに候はねば、さりともあはれとは仰せ言候ひなむ、と思ひ給へて、参り候ひながらも、いみじうつつましう候ひつるに、かく仰せらるる、申しやるかたなくうれしく候ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思し召されて、殿も泣かせ給ひにけり。
出で給ふ途に、南大門に人々ゐたる中を御座しければ、なにがしぬしの引き留められけるこそ、いと無愛のことなりや。後に、殿も聞かせ給ひければ、いみじうむつからせ給ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領にてあるべきよし、仰せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物の恥しらでありなむ。かしこく申し給へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍りしか。大門にてとらへたりし人は、式部大夫源政成が父なり。
〔大鏡 中〕
一 右大臣師輔
《世継》「この大臣は、忠平の大臣の二郎君、御母、右大臣源能有の御女、いはゆる、九条殿に御座します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座しましし。御孫にて、東宮、また、四・五の宮を見おき奉りてかくれ給ひけむは、きはめて口惜しき御ことぞや。御年まだ六十にもたらせ給はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物から、手を打ちてあふぐ。
《世継》「その殿の御公達十一人、女五六人ぞ、御座しましし。第一の御女、村上の先帝の御時の女御、多くの女御、御息所のなかに、すぐれてめでたく御座しましき。帝も、この女御殿にはいみじう怖ぢまうさせ給ひ、ありがたきことをも奏せさせ給ふことをば、いなびさせ給ふべくもあらざりけり。いはむや自余のことをば申すべきならず。少し御心さがなく、御物怨みなどせさせ給ふやうにぞ、世の人にいはれ御座しましし。帝をもつねにふすべまうさせ給ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座しましたりけるを、御格子を叩かせ給ひけれど、あけさせ給はざりければ、叩きわづらはせ給ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問へ」と、なにがしのぬしの、童殿上したるが御供なるに仰せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参りて、ありつるやうを奏しければ、帝もうち笑はせ給ひて、「例のことななり」と仰せられてぞ、帰りわたらせ御座しましける。この童は、伊賀前司資国が祖父なり。
藤壷・弘徽殿との上の御局は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条の女御、弘徽殿にはこの后の上りて御座しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座しましけむ、中隔の壁に穴をあけて、のぞかせ給ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴よりとほるばかりの土器のわれして、打たせ給へりければ、帝御座しますほどにて、こればかりはえたへさせ給はずむつかり御座しまして、「かうやうのことは、女房はせじ。伊尹・兼通・兼家などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰せられて、皆、殿上に候はせ給ふほどなりければ、三所ながら、かしこまらせ給へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立たせ給ひて、「わたらせ給へ」と申させ給へば、思ふにこのことならむ、と思し召して、わたらせ給はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思し召して、御座しましけるに、「いかでかかることはせさせ給ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思しゆるすべきなり。いはむや、まろが方ざまにてかくせさせ給ふは、いとあさましう心憂きことなり。ただいま召し返せ」と申させ給ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給ふを、「御座しましなば、ただいまもゆるさせ給はじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣をとらへ奉りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむと思し召して、この御方へ職事召してぞ、参るべきよしの宣旨下させ給ひける。これのみにもあらず、斯様なることども多く聞え侍りしかは。
おほかたの御心はいとひろく、人のためなどにも思ひやり御座しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給はず、御かへりみあり。かたへの女御たちの御ためも、かつは情あり、御みやびをかはさせ給ふに、心よりほかにあまらせ給ひぬる時の御物妬みのかたにや、いかが思し召しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様のことまでは申さじ、いとかたじけなし。
おほかた、殿上人・女房、さるまじき女官までも、さるべき折のとぶらひせさせ給ひ、いかなる折も、かならず見過し聞き放たせ給はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄をば親のやうに頼みまうさせ給ひ、御弟をば子のごとくにはぐくみ給ひし御心おきてぞや。されば、失せ御座しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界まで聞きつぎ奉りて、惜しみ悲しびまうししか。帝、よろづの政をば聞えさせ合せてせさせ給ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直させ給ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申させ給ひ、おのづからおほやけ聞し召してあしかりぬべきことなど人の申すをば、御口より出させ給はず。斯様なる御心おもむけのありがたく御座しませば、御祈ともなりて、ながく栄え御座しますにこそあべかめれ。
冷泉院・円融院・為平の式部卿の宮と、女宮四人との御母后にて、またならびなく御座しましき。帝・春宮と申し、代代の関白・摂政と申すも、多くは、ただこの九条殿の御一筋なり。男宮たちの御有様は、代々の帝の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申し侍らむ。
この后の御腹には、式部卿の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮にもたち給ふべきに、西宮殿の御婿に御座しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給へるほどなどのことども、いといみじく侍る。そのゆゑは、式部卿の宮、帝にゐさせ給ひなば、西宮殿の族に世の中うつりて、源氏の御栄えになりぬべければ、御舅たちの魂深く、非道に御弟をば引き越しまうさせ奉らせ給へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿ばらの思しかまへけるをば、いかでかは知らむ。次第のままにこそはと、式部卿の宮の御ことをば思ひまうしたりしに、にはかに、「若宮の御ぐしかいけづり給へ」など、御乳母たちに仰せられて、大入道殿、御車にうち乗せ奉りて、北の陣よりなむ御座しましけるなどこそ、伝へ承りしか。されば、道理あるべき御方人たちは、いかがは思されけむ。その頃、宮たちあまた御座せしかど、ことしもあれ、威儀の親王をさへせさせ給へりしよ。見奉りける人も、あはれなることにこそ申しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地よな、いかが思しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出できにしは。斯様に申すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中にて、下臈の申すにいとかたじけなし、とどめ候ひなむ。されどなほ、われながら無愛のものにて、おぼえ候ふにや。
式部卿の宮、わが御身の口惜しく本意なきを、思しくづほれても御座しまさで、なほ末の世に、花山院の帝は、冷泉院の皇子に御座しませば、御甥ぞかし、その御時に、御女奉り給ひて、御みづからもつねに参りなどし給ひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗りまうしけり。さりとても、御継などの御座しまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝、出家し給ひなどせさせ給ひて後、また今の小野宮の右大臣殿の北の方にならせ給へりしよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿には、道信の中将の君も御消息聞え給ひけるに、それはさもなくて、かの大臣に具し給ひければ、中将の申し給ふぞかし、「憂きは身にしむ心地こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌にて侍めり。
まこと、この式部卿の宮は、世にあはせ給へるかひある折一度御座しましたるは、御子の日ぞかし。御弟の皇子たちもまだ幼く御座しまして、かの宮おとなに御座しますほどなれば、世覚え・帝の御もてなしもことに思ひまうさせ給ふあまりに、その日こそは、御供の上達部・殿上人などの狩装束・馬鞍まで内裏のうちに召し入れて御覧ずるは、またなきこととこそは承れ。滝口をはなちて、布衣のもの、内に参ることは、かしこき君の御時も、かかることの侍りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車、大宮のぼりに所やは侍りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえ候はね。
殿ばらの、宣ひけるは、大路わたることは常なり。藤壷の上の御局につぶとえもいはぬ打出ども、わざとなくこぼれ出でて、后の宮・内の御前などさしならび、御簾のうちに御座しまして御覧ぜし御前通りしなむ、たふれぬべき心地せし」とこそ宣ひけれ。またそれのみかは、大路にも宮の出車十ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、滝口・侍の御前どもに選りととのへさせ給へりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色どもなど、よそ人、誠にいみじうこそ見侍りしか」とて、車の衣の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。
《世継》「さて、この御腹に御座しましし、女宮一所こそ、いとはかなく、失せ給ひにしか。」いま一所、入道一品の宮とて三条に御座しましき。失せ給ひて十余年にやならせ給ひぬらむ。うみおき奉らせ給ひしたびの宮こそは、今の斎院に御座しませ。いつきの宮、世に多く御座しませど、これはことにうごきなく、世にひさしくたもち御座します。ただこの御一筋のかく栄え給ふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませ給ひけれど、この宮には仏法をさへあがめ給ひて、朝ごとの御念誦かかせ給はず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせ給ふめれ。いととうより神人にならせ給ひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼえ候ふは。賀茂の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせ給ひけむこそ、なほあさましく侍れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせ給はぬか。御禊より始め三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじく御座しましたるぞ。
今の関白殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせ給へりしに、いと幼く御座しませば、例は本院に帰らせ給ひて、人々に禄など給はするを、これは川原より出でさせ給ひしかば、思ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面などせさせ給ひて、奉り給へりける小袿をぞ、かづけ奉らせ給へりける。入道殿、聞かせ給ひて、「いとをかしくもし給へるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやり給はむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給ふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」とぞ申させ給ひける。
この当代や東宮などの、まだ宮たちにて御座しましし時、祭見せ奉らせ給ひし御桟敷の前過ぎさせ給ふほど、殿の御膝に、二所ながらすゑ奉らせ給ひて、「この宮たち見奉らせ給へ」と申させ給へば、御輿の帷より赤色の御扇のつまをさし出で給へりけり。殿を始め奉りて、「なほ心ばせめでたく御座する院なりや。かかるしるしを見せ給はずは、いかでか、見奉り給ふらむとも知らまし」とこそは、感じ奉らせ給ひけれ。院より大宮に聞えさせ給ひける、
ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積みけるもうれしかりけり W
御返し、
もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ W
げに賀茂の明神などのうけ奉り給へればこそ、二代までうちつづき栄えさせ給ふらめな。このこと、「いとをかし失せさせ給へり」と、世の人申ししに、前帥のみぞ、「追従ぶかき老ぎつねかな。あな、愛敬な」と申し給ひける。
まこと、この后の宮の御おととの中の君は、重明の式部卿の宮の北の方にて御座しまししぞかし。その親王は、村上の御はらからに御座します。この宮の上、さるべきことの折は、物見せ奉りにとて、后の迎へ奉り給へば、忍びつつ参り給ふに、帝ほの御覧じて、いとうつくしう御座しましけるを、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思ふ」とあながちにせめ申させ給へば、一二度、知らず顔にて、ゆるしまうさせ給ひけり。さて後、御心は通はせ給ひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思し召しけむ、后、さらぬことだに、この方ざまは、なだらかにもえつくりあへさせ給はざめる中に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思し召すべけれど、御あたりをひろうかへりみ給ふ御心深さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出でず、過させ給ひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后の宮失せさせ御座しまして後に、召しとりて、いみじうときめかさせ給ひて、貞観殿の尚侍とぞ、申ししかし。世になく覚え御座して、こと女御・御息所そねみ給ひしかども、かひなかりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申し」ける。
また三の君は、西宮殿の北の方にて御座せしを、御子うみて、失せ給ひにしかば、よその人は、君達の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせ給ふ愛宮と申ししにうつらせ給ひにき。四の君はとく失せ給ひにき。六の君、冷泉院の東宮に御座しまししに、参らせ給ひなど、女君たちは、皆かく御座しまさふ。
男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣にならせ給へり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君、また北野の三位遠度、大蔵卿遠量、多武峯の入道少将なり。また法師にては、飯室の権僧正、今の禅林寺の僧正などにこそ御座しますめれ。法師といへども、世の中の一の験者にて、仏のごとくに公私、頼みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子は、尋空律師・朝源律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿の北の方、今の左衛門督の母上。この御族、斯様にぞ御座しますなかにも、多武峯の少将、出家し給へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍りしかは。なかにも、帝の御消息つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れ給ひけむと、かたじけなく承りしか。
みやこより雲のうへまで山の井の横川の水はすみよかるらむ W
御返し、
九重のうちのみつねにこひしくて雲の八重たつ山はすみ憂し W
始めは、横川に御座して、後に多武峯には住ませ給ひしぞかし。いといみじう侍りしことぞかし。されども、それは九条殿・后の宮など失せさせ御座しまして後のことなり。
この馬頭殿の御出家こそ、親たちの栄えさせ給ふことの始めをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心まうけは思しよらせ給ひにけるにや、御はらからの君たちに具し奉りて、正月二七夜のほどに、中堂に登らせ給へりけるに、さらに御行ひもせで、大殿篭りたりければ、殿ばら、暁に、「など、かくては臥し給へる。起きて、念誦もせさせ給へかし」と申させ給ひければ、「いま一度に」と宣ひしを、その折は、思ひもとがめられざりき。「斯様の御有様を思しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思し出でて申し給ひけれ。さりとて、うち屈しやいかにぞやなどある御けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地よげなる人柄にてぞ御座しましける。
この九条殿は、百鬼夜行にあはせ給へるは。いづれの月といふことは、え承らず、いみじう夜ふけて、内より出で給ふに、大宮より南ざまへ御座しますに、あははの辻のほどにて、御車の簾うち垂れさせ給ひて、「御車牛もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰せられければ、あやしと思へど、かきおろしつ。御随身・御前どもも、いかなることの御座しますぞと、御車のもとに近く参りたれば、御下簾うるはしくひき垂れて、御笏とりて、うつぶさせ給へるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせ給へるさまにて御座します。「御車は榻にかくな。ただ随身どもは、轅の左右の軛のもとにいと近く候ひて、先を高く追へ。雑色どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰せられて、尊勝陀羅尼をいみじう読み奉らせ給ふ。牛をば御車の隠れの方にひき立てさせ給へり。さて、時中ばかりありてぞ、御簾あげさせ給ひて、「今は、牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供の人は心えざりけり。後々に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍びて語り申させ給ひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散り侍りけるにこそは。
元方の民部卿の御孫、儲の君にて御座する頃、帝の御庚申せさせ給ふに、この民部卿参り給へり、さらなり。九条殿、候はせ給ひて、人々あまた候ひ給ひて、攤打たせ給ふついでに、冷泉院の孕まれ御座しましたるほどにて、さらぬだに世の人いかがと思ひまうしたるに、九条殿、「いで、今宵の攤つかうまつらむ」と仰せらるるままに、この孕まれ給へる御子、男に御座しますべくは、調六出で来」とて、打たせ給へりけるに、ただ一度に出でくる物か。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやし給ひ、御みづからもいみじと思したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後に、霊に出でまして、「その夜やがて、胸に釘はうちてき」とこそ宣ひけれ。
おほかた、この九条殿、いとただ人には御座しまさぬにや、思しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞ御座しましける。口惜しかりけることは、まだいと若く御座しましける時、「夢に、朱雀門の前に、左右の足を西東の大宮にさしやりて、北向きにて内裏を抱きて立てりとなむ見えつる」と仰せられけるを、御前になまさかしき女房の候ひけるが、「いかに御股痛く御座しましつらむ」と申したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせ給へど、摂政・関白えし御座しまさずなりにしなり。また御末に思はずなることのうちまじり、帥殿の御ことなども、かれがたがひたる故に侍るめり。「いみじき吉相の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申し伝へて侍ることなり。荒涼して、心知らざらむ人の前に、夢語りな、この聞かせ給ふ人々、し御座しまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせ給はめ。
いとをかしきことは、かくやむごとなく御座します殿の、貫之のぬしが家に御座しましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえ侍りしか。正月一日つけさせ給ふべき魚袋のそこなはれたりければ、つくろはせ給ふほど、まづ貞信公の御もとに参らせ給ひて、「かうかうのことの侍れば、内に遅く参る」のよしを申させ給ひければ、おほきおとど驚かせ給ひて、年頃持たせ給へりける、取り出でさせ給ひて、やがて、「あえものにも」とて奉らせ給ふを、ことうるはしく松の枝につけさせ給へり。その御かしこまりのよろこびは、御心のおよばぬにしも御座しまさざらめど、なほ貫之に召さむ、と思し召して、わたり御座しましたるを、待ちうけましけむ面目、いかがおろかなるべきな。
吹く風にこほりとけたる池の魚千代まで松のかげにかくれむ W
集に書き入れたる、ことわりなりかし。
いにしへより今にかぎりもなく御座します殿の、ただ冷泉院の御有様のみぞ、いと心憂く口惜しきことにては御座します」といへば、侍、
「されど、ことの例には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、
《世継》「それは、いかでかはさらでは侍らむ。その帝の出で御座しましたればこそ、この藤氏の殿ばら、今に栄え御座しませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫ばかりになり出でて、ところどころの御前・雑役につられ歩きなまし」とこそ、入道殿は仰せられければ、源民部卿は、「さるかたちしたるまうちぎみだちの候はましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申させ給ふなる。かかれば、公私、その御時のことをためしとせさせ給ふ、ことわりなり。御物の怪こはくて、いかがと思し召ししに、大嘗会の御禊にこそ、いとうるはしくて、わたらせ給ひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後を抱き奉りて、御輿のうちに候はせ給ひける」とぞ、人申しし。げに現にても、いとただ人とは見えさせ給はざりしかば、まして御座しまさぬ後には、さやうに御守にても添ひまうさせ給ひつらむ」
《侍》「さらば、元方卿・桓算供奉をぞ、逐ひのけさせ給ふべきな」。
《世継》「それはまた、しかるべき前の世の御報にこそ御座しましけめ。さるは、御心いとうるはしくて、世の政かしこくせさせ給ひつべかりしかば、世間にいみじうあたらしきことにぞ申すめりし。
さてまた、今は故九条殿の御子どもの数、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿の尚侍、一条摂政、堀河殿、大入道殿、忠君の兵衛督と六人は、武蔵守従五位上経邦の女の腹に御座しまさふ。世の人「女子」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君たち五人は太政大臣、三人は摂政し給へり。
一 太政大臣伊尹 謙徳公
この大臣は、一条摂政と申しき。これ、九条殿の一男に御座します。いみじき御集つくりて、豊景と名のらせ給へり。大臣になり栄え給ひて三年。いと若くて失せ御座しましたることは、九条殿の御遺言をたがへさせ御座しましつる故とぞ人申しける。されどいかでかは、さらでも御座しまさむ。御葬送の沙汰を、むげに略定に書きおかせ給へりければ、「いかでか、いとさは」とて、例の作法に行せ給ふとぞ。それはことわりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才、何事もあまりすぐれさせ給へれば、御命のえととのはせ給はざりけるにこそ。
折々の御和歌などこそめでたく侍れな。春日の使に御座しまして、帰るさに、女のもとに遺はしける、
暮ればとくゆきて語らむ逢ふことはとをちの里の住み憂かりしも W
御返し、
逢ふことはとをちの里にほど経しも吉野の山と思ふなりけむ W
助信の少将の、宇佐の使にたたれしに、殿にて、餞に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませ給へる、
さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽かぬ心を W
帝の御舅・東宮の御祖父にて摂政せさせ給へば、世の中はわが御心にかなはぬことなく、過差ことのほかに好ませ給ひて、大饗せさせ給ふに、寝殿の裏板の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧じつけて、陸奥紙をつぶと押させ給へりけるがなかなか白く清げに侍りける。思ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺ぞかし。御族の氏寺にておかれたるを、斯様のついでには、立ち入りて見給ふれば、まだその紙の押されて侍るこそ、昔にあへる心地してあはれに見給ふれ。斯様の御栄えを御覧じおきて、御年五十にだなたらで失せさせ給へるあたらしさは、父大臣にもおとらせ給はずこそ、世の人惜しみ奉りしか。
その御男・女君たちあまた御座しましき。女君一人は、冷泉院の御寺の女御にて、花山院の御母、贈皇后宮にならせ給ひにき。次々の女君二人は、法住寺の大臣の北の方にて、うちつづき失せさせ給ひにき。九の君は、冷泉院の御皇子の弾上の宮と申す御上にて御座せしを、その宮失せ給ひて後、尼にていみじう行ひつとめて御座すめり。また、忠君の兵衛督の北の方にて御座せしが、後には、六条の左大臣殿の御子の右大弁の上にて御座しけるは、四の君とこそは。
また、花山院の御妹の女一の宮は失せ給ひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮にたたせ給ひて、円融院の御時の女御に参り給へりしほどもなく、内の焼けにしかば、火の宮と世の人つけ奉りき。さて二三度参り給ひて後、ほどもなく失せ給ひにき。この宮に御覧ぜさせむとて、三宝絵はつくれるなり。
男君たちは、代明の親王の御女の腹に、前少将挙賢・後少将義孝とて、花を折り給ひし君たちの、殿失せ給ひて、三年ばかりありて、天延二年甲戌の年、皰瘡おこりたるに、煩ひ給ひて、前少将は、朝に失せ、後少将は、夕にかくれ給ひにしぞかし。一日がうちに、二人の子をうしなひ給へりし、母北の方の御心地いかなりけむ、いとこそ悲しく承りしか。
かの後少将は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座し、年頃きはめたる道心者にぞ御座しける。病重くなるままに、生くべくもおぼえ給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、「おのれ死に侍りぬとも、とかく例のやうにせさせ給ふな。しばし法華経誦じ奉らむの本意侍れば、かならず帰りまうで来べし」と宣ひて、方便品を読み奉り給ひてぞ、失せ給ひける。その遺言を、母北の方忘れ給ふべきにはあらねども、物も覚えで御座しければ、思ふに人のし奉りてけるにや、枕がへしなにやと、例の様なる有様どもにしてければ、え帰り給はずなりにけり。後に、母北の方の御夢に見え給へる、
しかばかり契りし物を渡り川かへるほどには忘るべしやは W
とぞよみ給ひける、いかにくやしく思しけむな。
さて後、ほど経て、賀縁阿闍梨と申す僧の夢に、この君たち二人御座しけるが、兄、前少将いたう物思へるさまにて、この後少将は、いと心地よげなるさまにて御座しければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにて御座する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給ふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
しぐれとは蓮の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ W
など、うちよみ給ひける。さて後に、小野宮の実資の大臣の御夢に、おもしろき花のかげに御座しけるを、うつつにも語らひ給ひし御中にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申し給ひければ、その御いらへに、
昔ハ契リキ、蓬莱宮ノ裏ノ月ニ
今ハ遊ブ、極楽界ノ中ノ風ニ
昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風
とぞ宣ひける。極楽に生れ給へるにぞあなる。斯様にも夢など示い給はずとも、この人の御往生疑ひまうすべきならず。
世の常の君達などのやうに、内わたりなどにて、おのづから女房と語らひ、はかなきことをだに宣はせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿に立ち寄り給へれば、例ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思ふほどに、立ち退き給ふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけ奉りて見せければ、北の陣出で給ふほどより、法華経をいみじう尊く誦じ給ふ。大宮のぼりに御座して、世尊寺へ御座しましつきぬ。なほ見ければ、東の対の端なる紅梅のいみじく盛りに咲きたる下に立たせ給ひて、「滅罪生善、往生極楽」といふ、額を西に向きて、あまたたびつかせ給ひけり。帰りて御有様語りければ、いといとあはれに聞き奉らぬ人なし。
この翁もその頃大宮なる所に宿りて侍りしかば、御声にこそおどろきていといみじう承りしか。起き出でて見奉りしかば、空は霞みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣のいと白きに、濃き指貫に、よいほどに御くくりあげて、何色にか、色ある御衣どもの、ゆたちより多くこぼれ出でて侍りし御様体などよ。御顔の色、月影に映えて、いと白く見えさせ給ひしに、鬢茎の掲焉にめでたくこそ、誠に御座しまししか。やがて見つぎ見つぎに御供に参りて、御額つかせ給ひしも見奉り侍りにき。いとかなしうあはれにこそ侍りしか。御供には童一人ぞ候ふめりし。
また、殿上の逍遥侍りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束めでたうせられたりけるに、この殿はいたう待たれ給ひて、白き御衣どもに、香染の御狩衣、薄色の御指貫、いとはなやかならぬあはひにて、さし出で給へりけるこそ、なかなかに心を尽くしたる人よりはいみじう御座しましけれ。常の御ことなれば、法華経、御口につぶやきて、紫檀の数珠の、水精の装束したる、ひき隠して持ち給ひける御用意などの、優にこそ御座しましけれ。おほかた、一生精進を始め給へる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえ侍れど、いみじう見給へ聞きおきつることは、申さまほしう。
この殿は、御かたちのありがたく、末の世にもさる人や出で御座しましがたからむとまでこそ見給へしか。雪のいみじう降りたりし日、一条の左大臣殿に参らせ給ひて、御前の梅の木に雪のいたう積りたるを折りて、うち振らせ給へりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣の裏の花なりければ、かへりていと斑になりて侍りしに、もてはやされさせ給へりし御かたちこそ、いとめでたく御座しまししか。御兄の少将も、いとよく御座しましき。この弟殿はかくあまりにうるはしく御座せしをもどきて、すこし勇幹にあしき人にてぞ御座せし。
その義孝の少将、桃園の源中納言保光卿の女の御腹にうませ給へりし君ぞかし、今の侍従大納言行成卿、世の手書きとののしり給ふは。この殿の御男子、ただいまの但馬守実経の君・尾張守良経の君二人は、泰清の三位の女の腹なり。嫡腹の少将行経の君なり。女君は、入道殿の御子の、高松腹の権中納言殿の北の方にて御座せし、失せ給ひにきかし。また、今の丹波守経頼の君の北の方にて御座す。また、大姫君御座しますとか。
この侍従大納言殿こそ、備後介とてまだ地下に御座せし時、蔵人頭になり給へる、例いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿は、職事にて御座しますに、上達部になり給ふべければ、一条院、「この次にはまた誰かなるべき」と問はせ給ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候ふ」と奏せさせ給ひけるを、「地下の者はいかがあるべからむ」と宣はせければ、「いとやむごとなき者に候ふ。地下など思し召し憚らせ給ふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。斯様なる人を御覧じ分かぬは、世のためあしきことに侍り。善悪をわきまへ御座しませばこそ、人も心遣ひはつかうまつれ。このきはになさせ給はざらむは、いと口惜しきことにこそ候はめ」と申させ給ひければ、道理のこととはいひながら、なり給ひにしぞかし。
おほかた昔は、前頭の挙によりて、後の頭はなることにて侍りしなり。されば、殿上に、われなるべしなど、思ひ給へりける人は、今宵と聞きて参り給へるに、いづこもととかにさし会ひ給へりけるを、「誰ぞ」と問ひ給ひければ、御名のりし給ひて、「頭になしたびたれば、参りて侍るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給ひたりけれ。げに思ひがけぬことなれば、道理なりや。
この源民部卿かく申しなし給へることを思し知りて、従二位の折かとよ、越えまうし給ひしかど、さらに上に居給はざりき。かの殿出で給ふ日は、われ、病まうし、またともに出で給ふ日は、むかへ座などにぞ居給ひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈になり給ひしか。
おほかた、この御族の頭争ひに、敵をつき給へば、これもいかが御座すべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人にて、品のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才・人覚え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にて御座しけるを、この朝成の君申し給ひけるやう、「殿はならせ給はずとも、人わろく思ひ申すべきにあらず。後々にも御心にまかせさせ給へり。
おのれは、このたびまかりはづれなば、いみじう辛かるべきことにてなむ侍るべきを、このたび、申させ給はで侍りなむや」と申し給ひければ、「ここにもさ思ふことなり。さらば申さじ」と宣ふを、いとうれしと思はれけるに、いかに思しなりにけることにか、やがて問ひごともなく、なり給ひにければ、かく謀り給ふべしやはと、いみじう心やましと思ひまうされけるに、御中よからぬやうにて過ぎ給ふほどに、この一条院殿のつかまつり人とかやのために、なめきことしたうびたりけるを、「本意なしなどばかりは思ふとも、いかに、ことにふれてわれなどをば、かくなめげにもてなしぞ」と、むつかり給ふと聞きて、「あやまたぬよしも申さむ」とて、参られたりけるに、はやうの人は、われより高き所にまうでては、「こなたへ」となきかぎりは、上にものぼらで、下に立てることになむありけるを、これは六七月のいと暑くたへがたき頃、かくと申させて、今や今やと、中門に立ちて待つほどに、西日もさしかかりて暑くたへがたしとはおろかなり、心地もそこなはれぬべきに、「はやう、この殿は、われをあぶり殺さむと思すにこそありけれ。益なくも参りにけるかな」と思ふに、すべて悪心おこるとは、おろかなり。夜になるほどに、さてあるべきならねば、笏をおさへて立ちければ、はたらと折れけるは。いかばかりの心をおこされにけるにか。さて家に帰りて、「この族ながく絶たむ。もし男子も女子もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも恨みむ」など誓ひて、失せ給ひにければ、代々の御悪霊とこそはなり給ひたれ。されば、まして、この殿近く御座しませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿の御後、かならず人の参るに通る所よな、そこに人の立ちたるを、誰ぞと見れど、顔は戸の上に隠れたれば、よくも見えず。あやしくて、「誰そ誰そ」と、あまたたび問はれて、「朝成に侍り」といらふるに、夢のうちにもいとおそろしけれど、念じて、「などかくては立ち給ひたるぞ」と問ひ給ひければ、「頭弁の参らるるを待ち侍るなり」といふと見給ひて、おどろきて、「今日は公事ある日なれば、とく参らるらむ。不便なるわざかな」とて、「夢に見え給へることあり。今日は御病まうしなどもして、物忌かたくして、なにか参り給ふ。こまかにはみづから」と書きて急ぎ奉り給へど、ちがひていととく参り給ひにけり。まもりのこはくや御座しけむ、例のやうにはあらで、北の陣より藤壺・後涼殿のはさまより通りて、殿上に参り給へるに、「こはいかに。御消息奉りつるは、御覧ぜざりつるか。かかる夢をなむ見侍りつるは」。手をはたと打ちて、いかにぞと、こまかにも問ひ申させ給はず、また二つ物も宣はで出で給ひにけり。さて御祈などして、しばしは内へも参り給はざりけり。この物の怪の家は、三条よりは北、西洞院よりは西なり。今に一条殿の御族あからさまにも入らぬところなり。
この大納言殿、よろづにととのひ給へるに、和歌の方や少しおくれ給へりけむ。殿上に歌論義といふこと出できて、その道の人々、いかが問答すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言殿は、物も宣はざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿の、「難波津に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせ給ひければ、とばかり物も宣はで、いみじう思し案ずるさまにもてなして、「え知らず」と答へさせ給へりけるに、人々笑ひて、こと醒め
侍りにけり。
すこしいたらぬことにも、御魂の深く御座して、らうらうじうしなし給ひける御根性にて、帝幼く御座しまして、人々に、「遊び物ども参らせよ」と仰せられければ、さまざま、金・銀など心を尽くして、いかなることをがなと、風流をし出でて、持て参り会ひたるに、この殿は、こまつぶりにむらごの緒つけて奉り給へりければ、「あやしの物のさまや。こはなにぞ」と問はせ給ひければ、「しかじかの物になむ」と申す、「まはして御覧じ御座しませ。興ある物になむ」と申されければ、南殿に出でさせ御座しまして、まはさせ給ふに、いと広き殿のうちに、のこらずくるべき歩けば、いみじう興ぜさせ給ひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせ給へば、こと物どもは籠められにけり。
また、殿上人、扇どもして参らするに、こと人々は、骨に蒔絵をし、あるは、金・銀・沈・紫壇の骨になむ筋を入れ、彫物をし、えもいはぬ紙どもに、人のなべて知らぬ歌や詩や、また六十余国の歌枕に名あがりたる所々などを書きつつ、人人参らするに、例のこの殿は、骨の漆ばかりをかしげに塗りて、黄なる唐紙の下絵ほのかにをかしきほどなるに、表の方には楽府をうるはしく真に書き、裏には御筆とどめて草にめでたく書きて奉り給へりければ、うち返しうち返し御覧じて、御手箱に入れさせ給ひて、いみじき御宝と思し召したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興ずるばかりにてやみにけり。いずれもいずれも、帝王の御感侍るにますことやはあるべきよな。
いみじき秀句宣へる人なり。この高陽院殿にて競馬ある日、鼓は、讃岐前司明理ぞ打ち給ひし。一番にはなにがし、二番にはかがしなどいひしかど、その名こそ覚えね。勝つべき方の鼓をあしう打ちさげて、負になりにければ、その随身の、やがて馬の上にて、ない腹を立ちて、見返るままに、「あなわざはひや。かばかりのことをだにしそこなひ給ふよ。かかれば、『明理・行成』と一双にいはれ給ひしかども、一の大納言にて、いとやむごとなくて候はせ給ふに、くさりたる讃岐前司古受領の、鼓打ちそこなひて、立ち給ひたるぞかし」と放言したいまつりけるを、大納言殿聞かせ給ひて、「明理の濫行に、行成が醜名呼ぶべきにあらず。いと辛いことなり」とて、笑はせ給ひければ、人々、「いみじう宣はせたり」とて、興じ奉りて、その頃のいひごとにこそし侍りしか。
また、一条摂政殿の御男子、花山院の御時、帝の御舅にて、義懐の中納言と聞えし、少将たちの同じ腹よ。その御時は、いみじうはなやぎ給ひしに、帝の出家せさせ給ひてしかば、やがて、われも、遅れ奉らじとて、花山まで尋ね参りて、一日をはさめて、法師になり給ひにき。飯室といふ所に、いと尊く行ひてぞかくれ給ひにし。その中納言、文盲にこそ御座せしかど、御心魂いとかしこく、有識に御座しまして、花山院の御時の政は、ただこの殿と惟成の弁として行ひ給ひければ、いといみじかりしぞかし。
その帝をば、「内劣りの外めでた」とぞ、世の人、申しし。「冬の臨時の祭の、日の暮るる、あしきことなり。辰の時に人々参れ」と、宣旨下させ給ふを、さぞ仰せらるとも、巳・午の時にぞ始まらむなど思ひ給へりけるに、舞人の君達装束賜はりに参り御座さうじたりければ、帝は御装束奉りて、立たせ御座しましたりけるに、この入道殿も舞人にて御座しましければ、この頃、語らせ給ふなるを、伝へて承るなり。あかく大路などわたるがよかるべきにやと思ふに、帝、馬をいみじう興ぜさせ給ひければ、舞人の馬を後涼殿の北の馬道より通させ給ひて、朝餉の壺にひきおろさせ給ひて、殿上人どもを乗せて御覧ずるをだに、あさましう人々思ふに、はては乗らむとさへせさせ給ふに、すべき方もなくて候ひ会ひ給へるほどに、さるべきにや侍りけむ、入道中納言さし出で給へりけるに、帝、御おもていと赤くならせ給ひて、術なげに思し召したり。中納言もいとあさましう見奉り給へど、人々の見るに、制しまうさむも、なかなか見ぐるしければ、もてはやし興じまうし給ふにもてなしつつ、みづから下襲のしりはさみて乗り給ひぬ。さばかりせばき壺に折りまはし、おもしろくあげ給へば、御けしきなほりて、あしきことにはなかりけり、と思し召して、いみじう興ぜさせ給ひけるを、中納言あさましうもあはれにも思さるる御けしきは、同じ御心によからぬことを囃しまうし給ふとは見えず、誰もさぞかしとは見知りきこえさする人もありければこそは、かくも申し伝へたれな。また、「みづから乗り給ふまではあまりなり」といふ人もありけり。
これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性のけしからぬさまに見えさせ給へば、いと大事にぞ。されば源民部卿は、「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なき物なれ」と申し給ひければ、入道殿は、「いと不便なることをも申さるるかな」と仰せられながら、いといみじう笑はせ給ひけり。
この義懐の中納言の御出家、惟成の弁の勧めきこえられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「いまさらに、よそ人にてまじらひ給はむ見ぐるしかりなむ」と聞えさせければ、げにさもと、いとど思して、なり給ひにしを、もとよりおこし給はぬ道心なれば、いかがと人思ひきこえしかど、落ち居給へる御心の本性なれば、懈怠なく行ひ給ひて、失せ給ひにしぞかし。
その御子は、ただいまの飯室の僧都、また、絵阿闍梨の君、入道中将成房の君なり。この三人、備中守為雅の女の腹なり。その中将の女は、定経のぬしの妻にてこそは御座すめれ。一条殿の御族は、いかなることにか、御命短くぞ御座しますめる。
花山院の、御出家の本意あり、いみじう行はせ給ひ、修行せさせ給はぬところなし。されば、熊野の道に千里の浜といふところにて、御心地そこなはせ給へれば、浜づらに石のあるを御枕にて、大殿籠りたるに、いと近く海人の塩焼く煙の立ちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれに思されけむな。
旅の空夜半のけぶりとのぼりなば海人の藻塩火焚くかとや見む W
かかるほどに、御験いみじうつかせ給ひて、中堂にのぼらせ給へる夜、験競べしけるを、試むと思し召して、御心のうちに念じ御座しましければ、護法つきたる法師、御座します御屏風のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせ給ふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見奉る。それ、さることに侍り。験も品によることなれば、いみじき行ひ人なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生の御戒力に、また、国王の位をすて給へる出家の御功徳、かぎりなき御ことにこそ御座しますらめ。ゆく末までも、さばかりならせ給ひなむ御心には、懈怠せさせ給ふべきことかはな。それに、いとあやしくならせ給ひにし御心あやまちも、ただ御物の怪のし奉りぬるにこそ侍めりしか。
なかにも、冷泉院の、南院に御座しましし時、焼亡ありし夜、御とぶらひに参らせ給へりし有様こそ不思議に候ひしか。御親の院は御車にて二条町尻の辻に立たせ給へり。この院は御馬にて、頂に鏡いれたる笠、頭光に奉りて、「いづくにか御座します、いづくにか御座します」と、御手づから人ごとに尋ね申させ給へば、「そこそこになむ」と聞かせ給ひて、御座しましどころへ近く降りさせ給ひぬ。御馬の鞭腕に入れて、御車の前に御袖うち合せて、いみじうつきづきしう居させ給へりしは、さることやは侍りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌をうたはせ給ひしは、さまざま興あることをも見聞くかなと、おぼえ候ひし。明順のぬしの、「庭火、いと猛なりや」と宣へりけるにこそ、万人えたへず笑ひ給ひにけれ。
あてまた、花山院の、ひととせ、祭のかへさ御覧ぜし御有様は、誰も見奉り給ひけむな。前の日、こと出させ給へりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩きなどなくてもあるべきに、いみじき一のものども、高帽頼勢を始めとして、御車のしりに多くうちむれ参りしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠のいと興ありしなり。小さき柑子をおほかたの玉には貫かせ給ひて、達磨には大柑子をしたる御数珠、いと長く御指貫に具して出させ給へりしは、さる見物やは候ひしな。紫野にて、人人、御車に目をつけ奉りたりしに、検非違使参りて、昨日、こと出したりし童べ捕ふべし、といふこと出できにける物か。このごろの権大納言殿、まだその折は若く御座しまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのこと候ふ。とく帰らせ給ひね」と申させ給へりしかば、そこら候ひつるものども、蜘蛛の子を風の吹き払ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副のかぎりにてやらせて、物見車のうしろの方より御座しまししこそ、さすがにいとほしく、かたじけなくおぼえ御座しまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛う責められ給ひて、太上天皇の御名は下させ給ひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言はげにとおぼゆれ。
さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優にこそ承れな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様に思し召しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそ候へ。あてまた冷泉院に笋奉らせ給へる折は、
世の中にふるかひもなきたけのこはわが経む年を奉るなり W
御返し、
年経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思ふ W
「かたじけなく仰せられたり」と、御集に侍るこそあはれに候へ。誠に、さる御心にも、祝ひ申さむと思し召しけるかなしさよ。
この花山院は、風流者にさへ御座しましけるこそ。御所つくらせ給へりしさまなどよ。
寝殿・対・渡殿などは、つくり会ひ、檜皮葺きあはすることも、この院のし出でさせ給へるなり。昔は別々にて、あはひに樋かけてぞ侍りし。内裏は今にさてこそは侍るめれ。
御車やどりには、板敷を奥には高く、端はさがりて、大きなる妻戸をせさせ給へる、ゆゑは、御車の装束をさながら立てさせ給ひて、おのづからとみのことの折に、とりあへず戸押し開かば、からからと、人も手もふれぬさきに、さし出さむが料と、おもしろく思し召しよりたることぞかし。御調度どもなどの清らさこそ、えもいはず侍りけれ。六の宮の絶えいり給へりし御誦経にせられたりし御硯の箱見給へき。海賦に蓬莱山・手長・足長、金して蒔かせ給へりし、かばかりの箱の漆つき、蒔絵のさま、くちをかれたりし様などのいとめでたかりしなり。
また、木立つくらせ給へりし折は、「桜の花は優なるに枝ざしのこはごはしく、幹の様などもにくし。梢ばかりを見るなむをかしき」とて中門より外に植ゑさせ給へる、なによりもいみじく思し寄りたりと、人は感じまうしき。また、撫子の種を築地の上にまかせ給へりければ、思ひがけぬ四方に、色々の唐錦をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給へしは、いかにめでたく侍りしかは。
入道殿、競馬せさせ給ひし日、迎へまうさせ給ひけるに、わたり御座します日の御装は、さらなり、おろかなるべきにあらねど、それにつけても、誠に、御車のさまこそ、世にたぐひなく候ひしか。御沓にいたるまで、ただ、人の見物になるばかりこそ、後には持て歩くと承りしか。
あて、御絵あそばしたりし、興あり。さは、走り車の輪には、薄墨に塗らせ給ひて、大きさのほど、輻などのしるしには墨をにほはさせ給へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりに走る車は、いつかは黒さのほどやは見え侍る。
また、笋の皮を、男の指ごとに入れて、目かかうして、児をおどせば、顔を赤めてゆゆしう怖ぢたるかた、また、徳人・たよりなしの家のうちの作法などかかせ給へりしが、いづれもいづれも、さぞありけむとのみ、あさましうこそ候ひしか。この中に、御覧じたる人もや御座しますらむ。
一 太政大臣兼通忠義公
この大臣、これ、九条殿の次郎君、堀河の関白と聞えさせき。関白し給ふこと、六年。
安和二年正月七日、宰相にならせ給ふ。閏五月二十一日、宮内卿とこそは申ししか。天禄二年閏二月二十九日、中納言にならせ給ひて、大納言をば経で、十一月二十七日、内大臣にならせ給ふ。いとめでたかりしことなり。
弟の東三条殿の中納言に御座しまししに、まだこの殿は宰相にていと辛きことに思したりしに、かくならせ給ひしめでたかりしことなりかし。天延二年正月七日、従二位せさせ給ふ。二月二十八日に太政大臣にならせ給ふ。やがて正二位せさせ給ひ、輦車ゆるさせ給ひて、三月二十六日、関白にならせ給ひにしぞかし。宰相にならせ給ひし年より六年といふにかくならせ給ひにき。天延三年正月七日、一位せさせ給ひてき。貞元二年十一月八日失せさせ給ひにき、御年五十三.同じ二十日、贈正一位の宣旨あり。後の御いみな、忠義公と申しき。この殿、かくめでたく御座しますほどよりは、ひまなくて大将にえなり給はざりしぞ、口惜しかりしや。それ斯様ならんためにこそあれ。さてもありぬべきことなり。ただ思し召せかしな。
御母のことのなきは、一条殿の同じきにや。大入道殿、納言にて御座しますほど、御兄なれど、宰相にて年頃経させ給ひけるを、天禄三年二月に中納言になり給ひて、宮中のこと内覧すべき宣旨承らせ給ひにけり。同じ年十一月に、内大臣にて関白の宣旨かぶらせ給ひてぞ、多くの人越え給ひける。
円融院の御母后、この大臣の妹に御座しますぞかし。この后、村上の御時、康保元年四月二十九日に失せ給ひにしぞかし。この后のいまだ御座しましし時に、この大臣いかが思しけむ、「関白は、次第のままにせさせ給へ」と書かせ奉りて、取り給ひたりける御文を、守のやうに首にかけて、年頃、持ちたりけり。御弟の東三条殿は、冷泉院の御時の蔵人頭にて、この殿よりも先に三位して、中納言にもなり給ひにしに、この殿は、はつかに宰相ばかりにて御座せしかば、世の中すさまじがりて、内にもつねに参り給はねば、帝も、うとく思し召したり。
その時に、兄の一条の摂政、天禄三年十月に失せ給ひぬるに、この御文を内に持て参り給ひて、御覧ぜさせむと思すほどに、上、鬼の間に御座しますほどなりけり。折よしと思し召すに、御舅たちの中に、うとく御座します人なれば、うち御覧じて入らせ給ひき。さし寄りて、「奏すべきこと」と申し給へば、立ち帰らせ給へるに、この文を引き出でて参らせ給へれば、取りて御覧ずれば、紫の薄様一重に、故宮の御手にて、「関白をば、次第のままにせさせ給へ。ゆめゆめたがへさせ給ふな」と書かせ給へる、御覧ずるままに、いとあはれげに思し召したる御けしきにて、「故宮の御手よな」と仰せられ、御文をば取りて入らせ給ひにけりとこそは。さてかく出で給へるとこそは聞え侍りしか。いと心かしこく思しけることにて、さるべき御宿世とは申しながら、円融院孝養の心深く御座しまして、母宮の御遺言たがへじとて、なし奉らせ給へりける、いとあはれなることなり。
その時、頼忠の大臣、右大臣にて御座しまししかば、道理のままならば、この大臣のし給ふべきにてありしに、この文にてかくありけるとこそは聞え侍りしか。東三条殿も、この堀河殿よりは上臈にて御座しまししかば、いみじう思し召しよりたることぞかし。
この殿の御着袴に、貞信公の御もとに参り給へる、贈物に添へさせ給ふとて、貫之のぬしに召したりしかば、奉れたりし歌、
ことに出でで心のうちに知らるるは神のすぢなはぬけるなりけり W
引出物に、琴をせさせ給へるにや。
御かたちいと清げに、きららかになどぞ御座しましし。堀河院に住ませ給ひしころ、臨時客の日、寝殿の隅の紅梅盛りに咲きたるを、ことはてて内へ参らせ給ひざまに、花の下に立ち寄らせ給ひて、一枝をおし折りて、御挿頭にさして、けしきばかりうち奏でさせ給へりし日などは、いとこそめでたく見えさせ給ひしか。
この殿には、御夜に召す卯酒の御肴には、ただいま殺したる〓[矢+鳥]をぞ参らせける。持て参りあふべきならねば、宵よりぞまうけておかれける。業遠のぬしのまだ六位にて、始めて参れる夜、御沓櫃のもとに居られたりければ、櫃のうちに、物のほとほとしけるがあやしさに、暗まぎれなれば、やをら細めにあけて見給ひければ、〓[矢+鳥]の雄鳥かがまりをる物か。人のいふことはまことなりけりと、あさましうて、人の寝にける折に、やをら取り出して、懐にさし入れて、冷泉院の山に放ちたりしかば、ほろほろと飛びてこそ去にしか。「し得たりし心地は、いみじかりし物かな。それにぞ、われは幸ひ人なりけりとはおぼえしか」となむ、語られける。殺生は殿ばらの皆せさせ給ふことなれど、これはむげの無益のことなり。
この殿の御女、式部卿の宮元平の親王の御女の御腹の姫君、円融院の御時に参り給ひて、堀河の中宮と申しき。幼く御座しまししほど、いかなりけるにか、例の御親のやうにつねに見奉りなどもし給はざりければ、御心いとかしこう、また御後見などこそは申しすすめけめ、物詣・祈をいみじうせさせ給ひけるとか。稲荷の坂にても、この女ども見奉りけり。いと苦しげにて、御〓[巾+皮]おしやりて、あふがれさせ給ひける御姿つき、指貫の腰ぎはなども、さはいへど、多くの人よりは気高く、なべてならずぞ御座しける。斯様につとめさせ給へるつもりにや、やうやうおとなび給ふままに、これよりおとななる御女も御座しまさねば、さりとて后にたて奉らであるべきならねば、かく参らせ奉らせ給ひて、いとやむごとなく候はせ給ひしぞかし。いま一所の姫君は、尚侍にならせ給へりし、今に御座します。六条の左大臣殿の御子の讃岐守の上にて御座するとかや。
また、太郎君、長徳二年七月二十一日、右大臣にならせ給ひにき。御年七十八にてや失せ御座しましけむ。失せ給ひて、この五年ばかりにやなりぬらむ。悪霊の左大臣殿と申し伝へたる、いと心憂き御名なりかし。そのゆゑどもみな侍るべし。この御北の方には、村上の先帝の女五の宮、広幡の御息所の御腹ぞかし。その御腹に、男子一人・女二人御座しまししを、男君は重家の少将とて、心ばへ有識に、世覚え重くてまじらひ給ひしほどに、ひさしく御座しますまじかりければにや、出家して失せ給ひにき。女君一所は、一条院の御時の承香殿の女御とて御座せしが、末には、為平の式部卿の宮の御子、源宰相頼定の君の北の方にて、あまたの君達御座すめり。そのほどの御ことどもは、皆人知ろしめしたらむ。その宰相失せ給ひにしかば、尼になりて御座します。いま一所は、今の小一条院の、まだ式部卿の宮と申しし折、婿にとり奉らせ給へりしほどに、春宮にたたせ給へりしをうれしきことに思ししかど、院にならせ給ひにし後は、高松殿の御匣殿にわたらせ給ひて、御心ばかりは通はし給ひながら、通はせ給ふこと絶えにしかば、女御も父大臣も、いみじう思し嘆きしほどに、御病にもなりにけるにや、失せ給ひにき。
いみじきものになりて、父大臣具してこそ、し歩き給ふなれ。院の女御には、つねにつきわづらはせ給ふなり。
その腹に、宮たちあまた所御座します。
また、堀河の関白殿の御二郎、兵部卿有明の親王の御女の腹の君、中宮の御一つ腹には御座せず。これはまた、閑院の大将朝光とぞ申しし。兄の大臣、宰相にて御座しけるほどは、この殿は中納言にてぞ御座しける。ひき越され給ひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚えにて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめき給ひき。胡〓[竹+禄]の水精の筈も、この殿の思ひ寄りし出で給へるなり。何事の行幸にぞや仕まつり給へりしに、この胡〓[竹+禄]負ひ給へりしは、朝日の光に輝き会ひて、さるめでたきことやは侍りし。今は目馴れにたれば、めづらしからず人も思ひて侍るぞ。何事につけても、はなやかにもて出でさせ給へりし殿の、父殿失せ給ひにしかば、世の中おとろへなどして、御病も重くて、大将も辞し給ひてこそ、口惜しかりしか。さて、ただ按察大納言とぞ聞えさせし。和歌などこそ、いとをかしくあそばししか。四十五にて失せ給ひにき。
北の方には、貞観殿の尚侍の御腹の、重明の式部卿の宮の御中姫君ぞ御座せしかし。その御腹に、男君三人、女君のかかやくごとくなる御座せし、花山院の御時参らせ給ひて、一月ばかりいみじうときめかせ給ひしを、いかにしけることにかありけむ、まう上り給ふこともとどまり、帝もわたらせ給ふこと絶えて、御文だに見えきこえずなりにしかば、一二月候ひわびてこそは、出でさせ給ひにしか。また、さあさましかりしことやはありし。御かたちなどの、世の常ならずをかしげにて、思し嘆くも、見奉り給ふ大納言・御せうとの君たち、いかがは思しけむ。その御一つ腹の男君三所、太郎君は、今の藤中納言朝経の卿に御座すめり。人に重く思はれ給へるめり。次郎・三郎君は、馬頭・少将などにて、みな出家しつつ失せ給ひにき。この馬の入道の御男子なり、今の右京大夫。
この閑院の大将殿は、後にはこの君達の母をばさりて、枇杷の大納言延光の卿の失せ給ひにし後、その上の、年老いて、かたちなどわろく御座しけるにや、ことなること聞え給はざりしをぞ住み給ひし。徳につき給へるとぞ世の人申しし。さて、世覚えもおとり給ひにしぞかし。もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなく御座しまししかど、不合に御座すとて、かかる今北の方をまうけて、さり給ひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房三十人ばかり、裳・唐衣着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様より始めて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩きて帰り給ふ折は、冬は火おほらかに埋みて、薫物多きにつくりて、伏籠うち置きて、褻に着給ふ御衣をば、暖かにてぞ着せ奉り給ふ。炭櫃に銀の提子二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べて参り給ふ。また、寝給ふ畳の上筵に、綿入れてぞ敷かせ奉らせ給ふ。寝給ふ時には、大きなる熨斗持ちたる女房三四人ばかり出で来て、かの
大殿籠る筵をば、暖かにのしなでてぞ寝させ奉り給ふ。あまりなる御用意なりしかは。
おほかたのしつらひ・有様、女房の装束などはめでたけれども、この北の方は、練色の衣の綿厚き二つばかりに、白袴うち着てぞ御座しける。年四十余ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞ御座しける。色黒くて、額に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞ御座しける。御かたちのほどを思ひ知りて、さまに会ひたる装束と思しけるにや、誠にその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明の式部卿の宮の姫君、貞観殿の尚侍の御腹、やむごとなき人と申しながら、かたち・有様めでたく御座しけるに、かかる人に思しうつりて、さり奉らせ給ひけむほど思ひ侍るに、ただ徳のありて、かくもてかしづききこゆるに、思ひの御座しけるにや。
やむごとなき人だにこそかくは御座しけれ。あはれ、翁らが心にだに、いみじき宝を降らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃の女どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなく御座します人は、不合に御座すといふとも、翁らが宿りのやうに侍らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽く思はれ、世覚えもおとり給ひにし、いと口惜しきことに侍りや。さばかりのこと思しわかぬやう侍るべしや。あやしの翁らが心におとらせ給はむやは、と思ひ給ふれど、口惜しく思ひ給ふるこ