今鏡読本
凡例
使用テキスト: 今鏡読本 一名 続世継 上・中・下 関根正直校
流布の版本を元とし、校本・古写本により校定した物です。
明治二十九年十月五日印刷
明治二十九年十月八日発行
編纂者 関根正直
発行所 六合館書店
歌の頭に@を付し、末尾にW+新編国歌大観番号を付しました。
ページを記しました。P+巻数(上=1・中=2・下=3)+2桁
各章段の頭には( )内に、連番の番号が有りますが、(十九)が抜けています。
各章段の末尾に原本に無い番号を加えました。S+巻数(2桁)+章段(2桁)
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。漢字を仮名に改めたものも有ります。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。
校定 今鏡読本 上巻 目録
◎第一 すべらぎの上
(序)
雲井 子の日
はつ春 ほしあひ
もち月 きくの宴
こがねのみのり つかさめし
◎第二 すべらぎの中
たむけ みのりのし
もみぢの御かり つりせぬうら<
たまづさ ところ<”のみてら
白川の花の宴 鳥羽の御賀
春のしらべ やへのしほぢ
◎第三 すべらぎの下
をとこ山 むしのね
おほうちわたり 内宴
をとめのすがた ひなの別かれ
花ぞのゝにほひ ふた葉の松
P101
校定 今鏡読本 上
◎〔すべらぎの上〕第一
(序)
やよひの十日あまりのころ、おなじ心なるともたち、あまたいざなひて、はつせにまうで侍りしついでに、よきたよりに寺めぐりせんとて、やまとのかたに旅ありき日比するに、路とをくて日もあつければ、こかげにたちよりて、やすむとてむれゐる程に、みつわさしたる女のつえにかゝりたるが、めのわらはの花がたみにさわらび折りいれて、ひぢにかけたるひとり具して、そのこのもとにいたりぬ。とをきほどにはあらねど、くるしく成りて侍れば、おはしあへる所はゞからしけれど、都のかたよりものし給ふにや。むかしも恋しければ、しばしもなづさひたてまつらむといふけしきも、くちすげみわなゝくやうなれど、としよりたる程よりも、むかしおぼえてにくげもせず。この
わたりにおはするにやなど問へば、もとは都にもゝとせあまり侍りて、そのゝち、山しろのこまのわたりに、いそぢばかり侍りき。さてのちおもひもかけぬ草のゆかりに、かすがのわたりにすみ侍るなり。すみかのとなりかくなりし侍るも、あはれにといふに、としのつもりきく程に、みなおどろきてあさましくなりぬ。むかしだにさほどのよはひはありがたきに、いかなる人にかおはすらん。まことならば、ありがたき人みたてまつりつといへば、うちわらひて、つくもがみはまだおろし侍らねど、ほとけのいつゝのいむ事を、うけて侍れば、いかゞうきたる事は申さん。おほぢに侍りしものも、ふたもゝちにおよぶまで侍りき。おやに侍りしも、そればかりこそ侍らざりしかども、もゝとせにあまりてみまかりにき。おうなも、そのよはひをつたへ侍るにや。いま<とまち侍りしかど、いまはおもなれて、つねにかくてあらんずるやうに、念佛などもおこたりのみなるも、あはれになんといへば、さていかにおはしけるつゞきにか。あさましくも、ながくもおはしけるよはひどもかな。からのふみよむ人のかたりしは、みちよへたる人もありけり。もゝとせを七かへりすぐせるも有りければこの世にも、かゝる人のおはするかなと、このともたちの中にいふめれば、おほぢはむげにいやしきものに侍りき。きさいの宮になん
P102
つかへまつり侍りける。名は世繼と申しき。おのづからもきかせ給ふらん。くちにまかせて申しける物がたり、とゞまりて侍るめり。おやに侍りしは、なま学生にて大学に侍りき。この女をもわかくては、宮つかへなどせさせ侍りて、からのうた、やまとの哥などよくつくりよみ給ひしが、こしの国のつかさにおはせし御むすめに、式部の君と申しゝ人の、上東門院の后の宮とまうしゝとき、御母のたかつかさ殿にさぶらひ給ひしつぼねに、あやめとまうしてまうで侍りしを、五月にむまれたるかと問ひ給ひしかば、五日になんむまれ侍りける。母の志賀のかたにまかりけるに、ふねにてむまれ侍りけると申すに、さては五月五日、舟のうちなみのうへにこそあなれ。むまの時にやむまれたる。と侍りしかば、しかほどに侍りけるとぞおやは申し侍りし。など申せば、もゝたびねりたるあかゞねなゝりとて、いにしへをかゞみ、いまをかゞみるなどいふ事にてあるに、いにしへもあまりなり。いまかゞみとやいはまし。まだおさ<しげなるほどよりも、としもつもらずみめもさゝやかなるに、こかゞみとやつけましなどかたれば、世に人のみけうずる事、かたり出だされたる人の、むまごにこそおはすなれ。いとあはれに、はづかしくこそ侍れ。式部君たれが事にかと問へば、紫式部とぞ世には申すなるべしといふに、
それは名だかくおはする人ぞかし。源氏といふめでたき物がたり、つくり出だして、世にたぐひなき人におはすれば、いかばかりの事どもか、きゝもちたまへらむ。うれしきみちにも、あひ聞こえけるかな。むかしの風も吹きつたへ給ふらん。しかるべきことの葉をも、つたへ給へといへば、かた<”うけたまはることおほかりしかども、物がたりどもにみな侍らむといへば、そのゝちの事こそゆかしけれといふに、ちかき世の事も、おのづからつたへきゝ侍れば、おろ<としのつもりに申し侍らん。わかく侍りしむかしは、しかるべき人のこなど三四人うみて侍りしかど、この身のあやしさにや。みなほうしになしつゝ、あるはやまぶみしありきて、あともとゞめ侍らざりき。あるは山ごもりにて、おほかた見る世も侍らず。たゞやしなひて侍る、五節の命婦とて侍りし、うちわたりの事もかたり、世の事もくらからず申して、ことのつまならしなどして、きかせ侍るも、よはひのぶる心ちし侍りし、はやくかくれ侍りて、又とのもりのみやつこなる、をのこの侍るも、うひかうぶりせさせ侍りしまでやしなひたてゝ、このかすがのさとに、わすれずまうでくるが、あさぎよめ、みかきのうちに、つかうまつるにつけて、この世の事も聞き侍る。みなもとをしりぬれば、すゑのながれきくに心くまれ侍り。よつぎが申しおける萬壽二年より、ことしは嘉應二年
P103
かのえとらなれば、もゝとせあまりよそぢの春秋に、三とせばかりや過ぎ侍りぬらむ。世は十つぎあまり、三つぎにやならせ給ふらんとぞおぼえ侍る。その折万寿二年に、ことしなると申したれば、かの後一条のみかど世をたもたせ給ふ事、廿年おはしましゝかば、万寿二年のゝち、いまとかへりの春秋はのこり侍らん。神武天皇より六十八代にあたらせ給へり。その御世ゝり申し侍らむとて、
(一)雲居 S0101
後一条のみかどとは、前の一条院の第二の皇子におはします。御母上東門院、中宮彰子と申しき。入道前太政大臣道長のおとゞの第一の御むすめ也。このみかど、寛弘五年なが月のとをかあまり、ひとひの日むまれさせ給へり。同じ年の十月十六日にぞ親王の宣旨聞こえさせ給ひし。同じ八年六月十三日東宮に立たせ給ふ。御としよつにおはしましき。一条院位さらせ給ひて、御いとこの三条院東宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひしかば、その御かはりの東宮に立たせ給へりき。かの三条院位におはします事、五とせばかりすぐさせ給ひて、長和五年むつきの廿九日に、位をこのみかどにゆづり申させ給ひき。御とし九つにぞおはしましゝ。さて東宮には、
かの三条院の式部卿のみこをたて申させ給へりき。摂政は、やがて御おほぢの入道おとゞ、左大臣とてさきのみかどの関白におはしましゝ、ひきつゞかせ給ひて、つぎのとしの三月に、御子の宇治のおとゞ、右大将と聞こえさせ給ひしに、ゆづり申させ給ひにき。その日やがて、内大臣にもならせ給ふと、聞こえさせたまひき。その八月九日、東宮わが御心と、のかせ給ひき。三条院も、卯月に御ぐしおろさせ給ふ。五月にかくれさせたまひぬるにも、世の中さう<”しくおもほしめすにや。御やまひなど聞こえて、かくさらせ給ひぬれば、みかどの御おとうとの第三の親王を、このかはりにたて申させ給ふ。廿五日にぞ、さきの東宮に院号聞こえさせたまひて、小一条院と申す。としごとのつかさくらゐ、もとのごとく給はらせたまふ。御随身など聞こえ給ひき。ほりかはの女御の、みえしおもひのなどよみたまへる、ふるき物がたり侍るめればこまかにも申し侍らず。寛仁二年正月にはうへの御とし十にあまらせ給ひて、三日御元服せさせたまへれば、きびはにおはしますに、御かうぶりたてまつりて、おとなにならせ給へる御すがたも、うつくしう、いとめづらかなる雲井の春になむ侍りける。卯月の廿八日におほうち、やう<つくり出だして、わたらせ給ふ。しろがねの
P104
うてな玉のみはし、みがきたてられたるありさま、いときよらにて、あきらけき御世のくもりなきも、いとゞあらはれはべるなるべし。みかうしも、みすもあたらしく、かけわたされたるに、雲のうへ人の夏ごろもごたちの用意などいとゞすずしげになん侍りける。おほ宮もいらせ給ふ。春宮もわたらせ給ひて、むめつぼにぞおはします。入道おとゞの四の君は、威子の内侍のかみと聞こえたまひし、こよひ女御に参り給ひて、藤つぼにおはします。神無月の十日あまりのころ、きさきに立たせ給ふ。國母も、后もあねおとゝにおはしませば、いとたぐひなき御さかえなるべし。廿二日に上東門院にみゆきありて、かつらを折るこゝろみせさせたまふ。だい、霜をへて菊のせいをしる。又みどりの松、色をあらたむる事なし。などぞ聞こえし。おほきおとゞたてまつらせたまへるとなん。八月廿八日東宮御元服せさせ給ふ。御とし十一にぞおはしましゝ。九月廿九日に、入道おとゞ、東大寺にて御かいうけさせたまひき。同四年かのえさる、三月廿二日に、無量壽院つくり出ださせ給ひて、くやうせさせ給ふ。きさき、みところ、行啓せさせたまふ。御ありさまども、ふるき物がたりに、こまかにはべれは、さのみおなじ事をや申しかさね侍るべき。十月には入道のおとゞ、比叡にのぼり給ひて、恵心とかいひて、御かい
かさねて、うけさせたまふ。治安二年みづのえいぬの七月十四日法成寺に行幸せさせ給ひき。入道おとゞ金堂供養せさせ給ひしかば、東宮もきさきたちも、みな行啓せさせ給ひき。つみあるものどもみなゆるされ侍りにけり。三年正月に太皇太后宮に、朝観の行幸せさせ給ひき。春宮もおなじやうに、行啓せさせたまひける、ふたりの御子おはしませば、いとたぐひなき、宮のうちなるべし。十月十三日に、上東門院の御はゝ、たかつかさどの、六十の御賀せさせ給ふ。その御ありさま、むかしの物がたりに侍れば、この中にも、御らんぜさせたまへる人もおはしますらん。万寿元年九月十九日、関白殿の高陽院に行幸ありて、くらべむま御らんぜさせ給ふべきにて、大皇太后宮、まづ十四日にわたりゐさせたまひてぞ、まちたてまつらせ給ひける。かくて廿一日に、大宮は内へいらせ給ひき。高陽院の行幸には、かの家のつかさ、かゝゐなどし侍りけり。むらかみの中つかさの宮の御子、源氏の中将を、入道おとゞの御やしなひ子と聞こえ給ふ。このたび三位中将になりたまひき。二年八月三日春宮のみやす所〔嬉子〕、をとこ〔一〕宮うみたてまつり給ひて、五日にかくれさせ給ひき。入道おとゞの六の君におはする、御さいはひの中に、あさましく、かなしと申すもおろかに侍れど、後冷泉院を、うみおきたてまつり
P105
給へれば、いとやむごとなくおはします。その折のかなしさは、たぐひなく侍りしかども、いきてきさきにたちたまへる御あねたちよりも、おはしまさぬあとのめでたさは、こよなくこそはべるめれ。
(二)子の日 S0102
三とせの正月十九日、大皇太后宮、御さまかへさせたまひき。きさきの御名もとゞめさせ給ひて、上東門院と申しき。よそぢにだにまだみたせたまはぬに、いと心かしこく、世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも、聞こえさせ給ひき。大斎院と申ししは、選子内親王と聞こえさせ給ひし、この御事をきかせ給ひて、よみてたてまつらせ給へる御うた、
@ 君はしもまことのみちに入りぬなり独やながきやみにまどはん W001
この斎院は、むらかみの皇后宮の、うみおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三条殿の御いもうとなれば、この入道殿には、御をばにあたらせ給ふぞかし。なが月には中宮御さんと聞こえさせ給ひて、姫宮うみたてまつらせ給ふ。左衛門督かねたかと聞こえ給ひしが家をぞ、御うぶやにはせさせ給へりし。をとこ宮におはしまさぬは、くちをしけれ
ど、御うぶやしなひなど心ことにいとめでたく、ことはりと申しながら、聞こえ侍りき。この姫宮は、後冷泉院のきさき、二条院と申しし御事なり。東宮にはじめてまゐらせ給ひけるころ、出羽の弁みたてまつりて、
@ 春ごとの子の日はおほく過ぎぬれどかゝる二葉の松はみざりき W002
とぞよめりける。同四年正月には、上東門院にとしのはじめのみゆきありて、朝覲の御はいせさせたまひき。つねのところよりも、御すまゐありさま、いとはえ<”しく、からゑなどのやうに、山のいろ、水のみどり、こだちたて石などいとおもしろきに、くらゐにしたがへる色々の衣の袖、近衛司のひらやなぐひ、ひらをなど、めもあやなるに、きぬのいろまじはれるうちより、からのまひ、こまの舞人、左右かた<”に袖ふるほどなど所にはえておもしろしなども、こと葉もおよばずなん侍りける。しも月には入道おほきおとゞ御やまひ重らせ給ひて、千人の度者とかやいひて、法師になるべき人のかずの、ふみたまはらせ給ふと聞こえ侍りき。法成寺におはしませば、その御寺に行幸ありて、とぶらひたてまつらせ給ふ。御誦經御ふせなどさま<”聞こえ侍りき。東宮にも行啓せさせ給ふ。御むまご内東宮におはしませば、御やまひの折ふしにつけても、御さかえの
P106
めでたさ、むかしもかゝるたぐひやは侍りけん。しはすの四日に、入道殿かくれさせ給ひぬれば、としもかはりて、春のはじめのせちゑなどもとゞまりて、くらゐなどたまはすることも、ほど過ぎてぞ侍りける。長元二年きさらぎの二日、中宮、又ひめ宮うみたてまつらせ給へり。この姫宮は後三条院の、后におはします。二人のひめ宮たち、二代のみかどの后におはします、いとかひ<”しき御有様なり。六年しも月に、たかつかさ殿の七十の御賀せさせ給ふとて、女院中宮関白殿、うちのおほいどの、かた<”いとなませ給ひき。わらはまひなどいとうつくしくて、まだいはけなき御よはひどもに、から人の袖ふり給ふありさま、いとらうありて、いかばかりか侍りけん。又の日うちにめして、昨日のまひども御らんぜさせ給へり。まひ人雲のうへゆるさるゝ人々と聞こえ侍りき。舞の師もつかさ給はりて、このゑのまつりごと人など、くはへさせ給ひけりとなむ。かの御賀の屏風に、りんじきやくのところをあかぞめの衛門がよめる、
@ むらさきの袖をつらねてきたる哉春たつことは是ぞ嬉しき W003
又子の日かきたる所よめる哥も、いふに聞こえ侍りき。
@ よろづよのはじめに君がひかるれば子の日の松もうらやみやせん W004
おなじき九年、やよひの十日あまりのほどより、うへの御なやみと聞こえさせ給ひて、神々にみてぐらたてまつらせ給へるさま<”の御いのり、聞こえ侍りき。殿上人御つかひにて、左右の御むまなどひかれ侍りけり。御としみそぢにだに、いまひとつたらせ給はぬ、いとあたらし。されど廿年たもたせ給ふ、すゑの世にありがたく聞こえさせたまひき。まだおはしますありさまにて、御おとうとの東宮に、くらゐゆづり申させ給ふさまなりけり。のちの御事の、よそほしかるべきによりて、くらゐおりさせ給ふ心なるべし。をとこ御子のおはしまさぬぞくちをしき。いづれの秋にか侍りけん。菊の花ほしに似たりといふ題の御製、からの御ことのは聞こえ侍りき
@ 司天記取葩稀色、分野望看露冷光 W005
とか人のかたり侍りし。御ざえもかしこくおはしましけるにや。菩提樹院に、この御門の御ゑいおはしましけるを、出羽の弁がかよめりける。
@ いかにしてうつしとめけん雲井にてあかずかくれし月の光を W006
かの菩提樹院は、二条院の御だうなれば、御心ざしのあまりに、ちゝのみかどの御すがたをかきとゞめて、おきたてまつらせたまひけるなるべし。おもひやり参らするも、
P107
いとあはれにかなしくこそはべれ。
(三)初春 S0103
後朱雀院と申す、さきの一条院の第三の皇子、御母上東門院、せんだいとおなじ御はらからにおはします。このみかど寛弘六年つちのとの酉と申しし年のしも月の廿五日にむまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王と聞こえさせ給ふ。御とし九つと聞こえさせ給ひき。長元九年四月十二日位につかせ給ふ。御とし廿八、そのとし御そくゐ大嘗会など過ぎて、としもかはりぬれば、いつしか、む月の七日、関白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。みかどの御あにゝおはしましし、式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中つかさの宮の、御むすめの御はらにおはせしを、関白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一条院の皇后宮の、うみたてまつり給へりし、一の御子におはしませば、春宮にもたち給ふべかりしを、御うしろみおはしまさずとて、二のみこにて、せんだい三のみこにて、このみかどふたり、みだうのむまご、関白の御おひにおはしませば、うちつゞきつかせ給へるなり。彼の一条院の皇后宮は、御せうとのうちのおとゞの、つくしに
おはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御さまかへさせ給へりしのちに、式部卿の御子をうみたてまつらせたまへるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子うみ給ひけんやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、かのみかどかくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、さきのみかどのみこ位につき給ひて、かの寺におはしてみたまひけるに、御心やより給ひけん。さらに后にたてまつりけると、これはおなじ御世のもとのきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなるさまにて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく、かの皇后宮の女房、ひごのかみもとすけと申すがむすめ、清少納言とてことになさけある人に侍りしかばつねにまかりかよひなどして、かの宮の事もうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の御子の御むすめにおはしませば、みかどにはめいにあたらせ給へり。かくてやよひのついたちに、きさきに立たせ給ひぬ。御とし廿二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせ給ひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、参り給へりき。三条院の姫宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すは
P108
この御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院〔え〕見まゐらせぬ、くちをしとてさくり申させ給ひけんもおもひやられて、おなじきさきと申せども、やんごとなくおはします。ひさしくうちへ参らせ給はざりけるころうちより、
@ あやめ草かれしたもとのねをたえてさらに恋ぢにまどふ比哉 W007。
と侍りけん。御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所也。このきさきに、みだうの六の君まゐり給ひて、内侍のかみと聞こえ給ひし、後冷泉院のいまの東宮におはしましゝ、うみおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮はそのゝち参り給へるなり。こないしのかみの御もとに、かすみのうちにおもふ心をと、よませ給ひたる御うた、たまはり給ひけると聞こえ侍りし物を、長暦元年神無月の廿三日関白の殿〔の〕高陽院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司などかゝゐどもし給ひき。かくてとしもあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲のみゆきありて、いづくと申しながら、猶この院のけしきありさま〔の〕、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池のみづも、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさせ給へれども、かくうちつゞきておはします、二代の國母と申すもやんごとなし。
又三日は東宮朝覲の行啓とて、内に参らせ給ふ。みかどのみゆきよりも、ことしげからぬ物から、はなやかにめづらしく、ゆげひのすけ一員などひきつくろひたるけしき、こゝろことなるべし。すべらぎの御よそひ、みこの宮の御ぞの色かはりてめづらしく、御拜のありさまなど袖ふりたまふたちゐの御よそひ、うつくしうて、よろこびの涙もおさへがたくなん有りける。つらなれるむらさきの袖も、ことにしたがへるあけもみどりも、花やかなるみかきのうちの春なりけるとなん聞こえ侍りし。
(四)ほしあひ S0104
中宮こぞよりいつしか、たゞならずならせたまひて、しも月の十三日に、左のおとゞのたかくら殿に出でさせ給へりしが、つぎのとし四月一日、女御子うみたてまつらせ給ひて、又うちつゞき、又のとしもおなじやうにまかり出でさせ給ひて、丹後守ゆきたふのぬしの家にて、長暦三年八月十九日に、猶女宮うみたてまつり給ひて、おなじき廿八日にうせ給ひにき。御とし廿四、あさましくあはれなる事かぎりなし。いとど秋のあはれそひて、ありあけの月のかげも、心をいたましむるいろ、ゆふべの露のしけきも、なみだをもよほすつまなるべし。かくて九月九日にうちより故中宮の御ために、七寺にみず経
P109
せさせ給ふ。みかど御ぶくたてまつりて、廢朝とて、清凉殿のみすおろしこめられ、日のおもの参るも、こゑたててそうしなどすることもせず。よろづしめりたるまゝにはゆふべのほたるをもあはれとながめさせ給ふ。秋のともし火、かゞけつくさせ給ひつゝぞ、心ぐるしき折ふしなりけるに、廿日ぞ解陣とかいひて、よろづれいざまにて、御殿のみすなどもまきあげられ、すこしはるゝけしきなりけれど、なほ御けしきは、つきせずぞみえさせ給ひける。神無月も過ぎぬれば、御いみすゑになりて、かのうせ給ひにし宮にて、御佛事あり。こずゑの色も風のけしきも、おもひしりがほなるさまなり。くれなゐはらはぬむかしのあとも、のりのにはとて、ことにきよめらるゝにつけても、折にふれて、あはれつきせざりけり。しも月の七日ぞ、内にははじめて、まつりごとせさせ給ふ。南殿にいでゐさせ給ひて、官奏などあるべし。後一条院の中宮に侍りける、いづものごといふが、この宮に侍りし伊賀少将がもとに、
@ いかばかり君なげくらんかずならぬみだにしぐれし秋の哀を W008
とよめりけり。秋の宮うちつゞき、秋うせさせ給へるに、いとらうありて、思ひよられけるもあはれにこそ聞こえ侍りしか。またのとしの七月七日、関白殿に、うちより
御せうそくありて、
@ こぞのけふ別れし星もあひぬなりなどたぐひなき我が身なるらん W009
とよませ給ひて侍りけんこそ、いとかたじけなく、なさけおほくおはしましける御事かなと、うけ給はりしか。揚貴妃のちぎりもおもひいでられて、ほしあひの空、いかにながめあかさせ給ひけんと、いとあはれに、たづねゆくまぼろしもがなゝどや、おぼしけんとおしはかられてこそ、つたへきゝ侍りしか。詩などをも、おかしくつくらせ給ひけるとこそ聞こえ侍りしか。秋のかげいづち〔か〕かへらんとす〔る〕。などいふことに、
@ 路非山水誰堪趁、跡任乾坤豈縁尋 W010
などつくらせ給ひけるとこそ、うけたまはりしか。乾坤といふはあめつちといふことにぞ侍りける。長久二年三月四日、花宴せさせ給ひて、哥のしたはうぐひすにしかずといふ題たまひて、かつらを折るこゝろみありと聞こえ侍りき。つぎのとしのやよひのころ、堀川右大臣その時春宮大夫と申ししに、女御たてまつり給ひき。そちの内のおとゞのむすめの御はらなり。おとゞたちにもおとりたまはず、いとめでたく侍りき。神無月の比、おほ二条殿内大臣と聞こえ給ひし、二の君内侍のかみになりてまゐりたまひて、
P110
かた<”はなやかにおはしき。十一月には二宮御ふみはじめとて、式部大輔〔たかちか〕と聞こえしはかせ、御注孝經といふ文をしへたてまつりき。蔵人さねまさ尚複とて、それも御師なるべし。おなじき四年の三月にも、佐国孝言時綱国綱などいふものども、試みさせたまひき。ゆば殿にてぞ、つくりてたてまつり給ひける。もとかつらを折りたるは、はかせをのぞみ、まだをらぬものは、ともし火のゝぞみなむありける。くごとにもろこしのはかせの名などおきければつゞりかなふる人かたくなんありける。寛徳元年八月におほすみのかみ長国、たぢまのすけになり、民部丞生行おなじくにのぞうになし給ひて、こまうどの、かの国につきたる、とぶらはせ給ひき。御なやみとて、あくるとし正月十六日に、くらゐさらせたまひ、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅七になんおはしましゝ。世をたもたせ給ふ事九年なりき。まだわかくおはしますさまを、惜しみたてまつらずといふ人はなし。先帝廿九にておはしましき。これはされど、みそぢあまりの春秋過ぎさせ給へり。母ぎさきのあまりながくおはしますに、かくのみおはしませば、御さいはひの中にも、御なげきに堪へざるべし。なほ御むまごの一の御子はみかど、二のみこは東宮におはしませば、いとやんごとなき御ありさまなるべし。
(五)望月 S0105
よつぎもみかどの御ついでに、国母の御事申し侍れば、このみかどの御母ぎさきの御事、このついでに申し侍るべし。御年廿三におはしましゝ時、後一条院、後朱雀院、うちつゞきうみたてまつらせ給へり。つちみかどどのにて、後一条院うみたてまつらせ給へりし七夜の御あそびに、みすのうちより、出だされ侍りける、さかづきにそへられ侍りしうたは、むかしの御つぼねのよみたまへりし、
@ めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世はめぐらめ W011
とぞおぼえ侍る。その女院は、十三より后におはしましき。一条院かくれさせ給ひて、後一条のみかど、をさなくおはしましけるに、なでしこの花をとらせ給ひければ、御母ぎさき、
@ 見るまゝに露ぞこぼるゝおくれにし心も知らぬなでしこの花 W012
五節のころ、むかしを思ひいでゝ、殿上人参りて侍りけるに伊勢大輔、
@ はやくみし山ゐの水のうすごほりうちとけざまはかはらざりけり W013
とぞよみて出だし侍りける。寛弘九年二月に、皇太后宮にあがらせ給ふ。御年廿五
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と聞こえさせ給ひき。後一条のみかど、位につかせ給ひて、寛仁二年正月に大皇太后宮にならせたまひき。万寿三年正月十九日に、御さまかへさせ給ふ。御とし卅九、御名は清浄覚と申しけり。きさきの御名とゞめさせ給ひて女院と聞こえさせ給ふ。としごとのつかさ位たまはらせ給ふ事は、おなじやうにかはり侍らざりけり。長暦三年五月七日、御ぐしおろさせ給ふ。あきもとの入道中納言、
@ 世をすてゝ宿を出でにし身なれども猶恋しきは昔なりけり W014
とよみて、この女院へたてまつり給へる御返事に、
@ つかのまも戀しきことのなぐさまば二たび世をもそむかざらまし W015
とよませ給へる、はじめは御ぐしそがせ給ひて、のちにみなおろさせ給ふ心なるべし。かの中納言は後一条院の御おぼえの人におはしけるに、御いみにおはして、宮のうちに御となぶらもたてまつらず侍りければ、いかにとたづね給ひけるに、女官どもいまの内に参りて、かきともしする人もなし。などきゝ給ふに、いとゞかなしくてみかどのかくれさせ給ひて、六日といふに、かしらおろして、山ふかくこもり給へりけり。年卅七になんおはしける。きく人なみだをながさずといふ事なくなむ侍りける。花山の僧正
の、ふかくさのみかどの御いみに、御ぐしおろしたまひけんにも、おくれぬ御心なるべし。なほつきせずおもほしけるにこそとかなしく、御かへしもいとあはれに、御母ぎさき、さこそはおもほしけめとおぼえて、かの東北院は、この院の御願にて、ちゝおとゞのみだう、法成寺のかたはらにつくらせたまへり。山のかたち、池のすがた〔に〕もなべてならず。松のかげ、花のこずゑも、ほかにはすぐれてなんみえ侍りける。九月十三夜よりもち月のかげまで、仏のみかほもひかりそへられたまへり。御念仏はじまりけるほどに、かんだちめ、殿上人参りあつまりたまへるに、宇治のおほきおとゞの、朗詠はべりなんと、すゝめさせ給ひければ齊信の民部卿、としたけたるかんだちめにて、極楽尊を念じたてまつる事、一夜とうち出だし給ひけん、折ふしいかにめでたく侍りけん。齊名といふはかせのつくりたるが、いけるよに、いかにいみじく侍りけん。この世ならば、いまの人のつくりたる事も出だしたまはざらまし。殿上人しをに色のさしぬき、この御念仏よりこそ着始め給ひしか。この堂つちみかどのすゑにあたれば、上東門院と申す也。このゝち代々の女院の院号、かどの名聞こえはべるめり。陽明門も、このゑにあたりたれは、このれいによりてつかせ給へり。郁芳門、待賢門などは、おほゐのみかど、中のみかどに御所おはしまさ
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ねど、なぞらへてつかせたまへるとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なぞらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけたてまつりけるにか。など聞こえければ、あきたかの中納言といひし人の、この御れうにのこして、おかれけるにこそはべるめれ。と申されけるとかや。さてぞつかせ給ひにけるとなん。みかどの御前などにては、つちみかどこのゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門のおほぢよりはそなたなどぞ奏すなる。されば一條二条など申すにもおなじ心なるべし。この上東門院の御としは、八十七までおはしましき。
(六)菊の宴 S0106
このつぎのみかどは、後冷泉院と申しき。後朱雀院の第一の皇子、御母、内侍のかみ、贈皇太后宮嬉子と聞こえき。入道おほきおとゞの第六の御むすめ也。上東門院のおなじ御はらからにおはします。このみかど万寿二年きのとのうしのとしの八月三日、むまれさせ給へり。長暦元年七月二日御元服、やがて三品の位たまはらせ給ふ。八月十七日に東宮に立たせ給ひて、寛徳二年正月十六日、くらゐにつかせたまふ。御とし廿一にぞおはしましゝ。永承元年やよひのころ、いつきたち、おの<さだめさせ
たまふ。七月十日中宮立たせたまひき。東宮の御時より、みやす所にておはしましゝ、後一条院のひめ宮なり。神無月も過ぎて、みかどことしぞとよのみそぎせさせ給ふ。正月十六日、御いみの月とて、たうかのせちゑもなし。十月に関白殿の御おとうとの右のおとゞ女御たてまつりたまふ。大二条殿と申しゝ御事なり。おなじき四年十一月に、殿上の哥合せさせたまひき。むらかみの御時、花山院などのゝち、めづらしく侍るに、いとやさしくおはしましゝにこそ、能因法師のいはねの松もきみがためと、一番の哥によみて侍る。このみちのすきもの、時にあひて侍りき。たつたの川のにしきなりけり。といふうたも、このたびよみて侍るぞかし。五年しはす関白殿の御むすめ、女御に参りたまふ。四条の宮と申しゝ御事なり。六年二月十日、きさきにたち給ふ。皇后宮と申しき。もとのきさきは、皇太后宮にあがりたまひき。さ月五日、殿上のあやめ、ねあはせゝさせ給ひき。そのうたども、哥合の中にはべるらん。きさきの宮、さとにおはしましけるとき、良暹法師、もみぢ葉のこがれてみゆる御ふねかなといふ連哥、殿上人のつけざりけるをもみかどの御はぢにおぼしめしたりけるも、いとなさけおほく、おはしましけるにこそ。九月九日菊のえんせさせたまひて、菊ひらけて水のきしかうばし、といふ題をつくら
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せ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。七年神無月のころ、つりどのにて御あそびあり。ふみつくらせ給ひけるとぞ、聞こえ侍りし。かやうの御あそび、つねの事なるべし。
(七)こがねのみのり S0107
いづれのとしにかはべりけん。九月十三夜、高陽院のだいりにおはしましけるに、たきの水音すずしくて、いはまの水に月やどして、御らんぜさせ給ひて、よませたまひける、
@ いはまよりながるゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき W016
とぞ聞こえ侍りし。治暦元年九月廿五日に、高陽院にてこがねのもじの御経、みかど御みづからかゝせ給ひて、御八講おこなはせたまひき。むらかみの御代のみづぐきのあとを、ながれくませ給ふなるべし。はじめの御導師は、勝範座主の、まだ僧都など聞こえし折ぞせらるゝと聞こえはべりし、いづれの問とかいひて、論義のことのよしなども、かのむらかみの御時のをぞ、ちりばかりひきかへたるやうなりけるとぞ、聽聞しける人などつたへかたり侍りし。五巻の日は宮々かんだちめ、殿上人、みなささげ物たてまつりて、たつとりのからふね、いけにうかびて、水のうへにこゑ<”しらべあひて、仏の御国うつし給へり。もみぢのにしき、水のあや、ところも折もかなへる、みのりのにはなるべし。三年十月十五日には
宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとゞ、二三年かれにのみおはしまししかば、わざとのみゆき侍りて、みたてまつらせ給ふとぞうけ給はりし。うぢはしのはるかなるに、舟よりがく人参りむかひて、宇治川にうかべて、こぎのぼり侍りけるほど、からくにもかくやとぞみえけると、〔人は〕かたり侍りし。みだうの有様、川のうへに、にしきのかりやつくりて、池のうへにも、からふねにふえのね、さま<”しらべて、御前のものなどは、こがね白がね、色々の玉どもをなんつらぬきかざられたりける。十六日にかへられ給ふべきに、あめにとゞまらせ給ひて、十七日にふみなどつくらせたまふ。そのたびのみかどの御製とてうけ給はり侍りしは、
@ 忽看烏瑟三明影暫駐鸞輿一日蹤 W017
とかや、つくらせたまへると、ほのかにおぼえ侍る。折にあひて、おぼしよらせ給ひけんほど、いとめでたき事と、しりたる人申しける。そのたびぞ准三宮の宣旨は、宇治殿かうぶらせ給ひけると、聞こえさせ給ひし。そのころにや侍りけむ。内裏にて、わらはまひ御らんぜさせ給ひき。かんだちめのわかぎみたち、おの<まひ給ひき。楽人は殿上人、さま<”のふき物、ひきものなどせさせたまふ。そのなかに、六条の右のおとゞの中納言と
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聞こえたまひし時、そのわかぎみ胡飲酒まひ給ふを、御前にめして、御ぞたまふに、おほぢの内大臣とておはせし、座をたちて拜し給ひけるは、つちみかどのおとゞとぞ聞こえ給ひし。舞ひたまひしは、太政のおとゞとや申しけん。かくてしはすの十二日、廿二社にみてぐらたてまつらせ給ひき。みかどの御なやみの事とてつぎのとし正月一日は日蝕なりしかば、廢朝とてみすもおろし、世のまつりごとも侍らざりき。さきのおほきおとゞも御なやみとて、きさらぎのころ、皇后宮もさとに出でさせたまひき。内には孔雀明王の法おこなはせ給ひて、大御室とておはしましゝ、仁和寺の宮御でし僧綱になり、我が御身も牛車などかうぶり給ひき。みかど御こゝちおこたらせ給ふなるべし。四月にはこがねしろがね、あやにしきなどのみてぐら、神がみのやしろにたてまつらせたまひき。かゝるほどなれど、左のおとゞの御むすめの女御、皇后宮にたちたまひき。ちゝおとゞも、関白になりたまひき。内にも御なやみおこたらせ給はず。おほきおとゞも、よろづのがれ給ひて、ゆづり申し給ふなるべし。みかど世をたもたせ給ふ事、廿三年なりき。御とし四そぢによとせばかりあまらせ給へりけるなるべし。をとこにても女にても、みこのおはしまさぬぞくちをしきや。御はゝないしのかみ、御とし十九にて、この御門
うみたてまつり給ひて、かくれさせたまひにき。寛徳二年八月十一日に、皇后宮おくりたてまつられき。国忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。むかしはきさきにたちたまはで、うせたまへれど、御門の御母なれば、のちには、やんごとなき御名とゞまりたまへり。
(八)司召し S0108
このつぎの御かど後三条院にぞおはしましゝ。まだ御子におはしましゝとき、ちゝの御門後朱雀院、さきのとしの冬よりわづらはせ給ひて、むつきの十日あまりのころ、位さらせ給ひて、みこの宮にゆづり申させたまふとばかりにて、東宮の立たせ給ふ事は、ともかくも聞こえざりけるを、能信大納言とて、宇治どのなどの御おとうとの、たかまつのはらにおはせしが、御前に参りて、二宮をいづれの僧にか付けたてまつり侍るべきと、聞こえさせ給ひけるに、坊にこそはたてめ。僧にはいかゞつけん。関白の春宮の事はしづかにといへば、のちにこそはとおほせられけるを、けふ立たせ給はずは、かなふまじきことに侍りと申したまひければ、さらばけふとてなん東宮は立たせ給ひける。やがて太夫には、その能信大納言なりたまへりき。君の御ため、たゆみなくすゝめ
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たてまつり給へりけん。いとありがたし。されば白河院はまことにや。太夫どのとぞおほせられけるとぞ人は申し侍りし。二宮とは後三条院の御事なり。このみかどは、後朱雀院の第二の皇子におはします。御母大皇太后宮、禎子の内親王と申。陽明門院この御事也。みかど寛徳二年正月十六日に、春宮に立たせ給ふ。御とし十二、治暦四年四月十九日位につかせ給ふ。御年卅五、大極殿もいまだつくられねば、太政官の廰にて、御即位侍りける。世を治めさせ給ふ事、昔かしこき御世にもはぢずおはしましき。御身のざえは、やむごとなきはかせどもにもまさらせ給へり。東宮におはしましける時、匡房中納言まだ下らうに侍りけるに、世をうらみて、山のなかに入りて、世にもまじらじなど申しければ、つねたふの中納言と申しし人の、われはやむ事なかるべき人なり。しかあらば世のため身のため、くちをしかるべしといさめければ、宇治のおほきおとゞ、心得ずおぼしたりけれど、春宮に参り侍りければ、宮もよろこばせ給ひて、やがて殿上して、人のよそひなど借りてぞ、ふだにもつきける。さてよるひる文のみちの御ともにてなん侍りける。位につかせたまふはじめに、つかさもなくて、五位の蔵人になりたりければ、蔵人の式部大夫とてなむ。あきたるにしたがひて、
中つかさの少輔にぞなり侍りける。大貮實政は、春宮の御時の学士にて侍りしを、時なくおはしませば、かまへて参りよらぬことになんとおもひけるに、さすがいたはしくて、かひのかみに侍りければかの国よりのぼりて、参るまじき心がまへしけるに、くだりけるに、餞せさせたまふとて、
@ 州民縦發甘棠詠莫忘多年風月遊 W018、
とつくらせたまへりけるになん。えわすれ参らせざりける。かんたうの詠とは、から国にくにのかみになりける人のやどれりける所に、やまなしの木のおひたりけるを、その人のみやこへかへりてのち、まつりごとうるはしく、しのばしかりければ、このなしの木きる事なかれ。かの人のやどれりしところなり。といふうたをうたひけるとなん。さてみかどくらゐにつかせ給ひてのち、左中弁にくはへさせ給へと申しければ、つゆばかりも、ことはりなきことをばすまじきに、いかでかゝることをば申すぞ。正左中弁にはじめてならむ事、あるまじきよしおほせられければ、蔵人の頭にて、資仲の中納言侍りけるが、かさねて申しけるは、さねまさ申す事なん侍る。木津のわたりの事を、一日にても思ひしり侍らんとそうしければ、その折おもほししづめさせたまひて、はからはせたまふ御けしきなり
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けり。昔さねまさは春宮のかすがのつかひにまかりくだりけり。隆方は弁にてまかりけるに、さねまさまづふねなどまうけてわたらんとしけるを、たかかたおしさまたげて、まちさいはひするもの、なにゝいそぐぞなど、ないがしろに申し侍りければからくおもひて、かくなんと申したりけるを、おもほし出だして、このことはりあまてる御神に申しうけんとて、左中弁にはくはへさせたまひてけり。たかゝたはかりなき心ばへにて、殿上につかさめしのふみ出だされたるを、かんだちめたち、かつ<見たまひて、なにゝなりけり。かれになりにたり。などのたまはせけるをたかかたつかうまつりて侍らんなどえたりがほに云ひけるを、さもあらぬものゝかみにくはゝりたるぞなど人々侍りければうちしめりて出でにけり。つぎのあしたの陪膳は隆方が番にて侍りけるを、よも参らじ。こと人をもよほせとおほせられけるほどに、むまのときよりさきに、たかゝた参り〔て〕侍りければ、みかどさすがにおもほしめして、日ごろは御ゆする召してうるはしく御びんかゝせ給ひて、たしかにつかせたまふ御心に、けふは待ちけれども、ほど過ぎて出でさせたまへりけるに、陪膳つかうまつりて、弁も辞し申して、こもり侍りにけりとなん。御代のはじめつかたのことにや侍りけん。だいり焼亡の侍りけるに、殿上人、かんだちめなども、さぶらひあひ
たまはぬほどにて、南殿に出でさせたまへりけるに、御らんじも知らぬもの、すくよかにはしりめぐりて、内侍どころ出だしたてまつり、右近陣に、みこしたづね出だして、御はしに寄せて、載せたてまつりなどしければ、おのれはたれぞと問はせ給ひけるに、右少弁正家と申しければ、弁官ならば、ちかくさぶらへとぞおほせられける。正家匡房とて、時にすぐれたるひとつがひのはかせなるに、匡房はあさゆふさぶらひけり。これは御らんじもしられまゐらせざりけるにこそ。つかさをさへ具して、なたいめん申しけむ、折ふしにつけて、いとかどあるこゝろばへなるべし。さてこそ、これかれの殿上人かんだちめ、そくたいなるも、又なほしかりぎぬなどなる人も、とりもあへずさま<”に、参りあつまりたりけれ。となむ聞こえはべりし。
今鏡読本 第二
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◎〔すべらぎの中〕第二
(九)たむけ S0201
このみかど、よをしらせ給ひてのち、世の中みなおさまりて、いまにいたるまで、そのなごりになん侍る。たけき御心におはしましながら、又なさけおほくぞおはしましける。石清水の放生會に、上卿宰相諸衛のすけなどたてさせ給ふ事も、この御時よりはじまり、佛の道もさま<”それよりぞまことしきみちは、おこれる事おほくはべるなる。円宗寺の二會の講師おかせ給ひて、山三井寺ざえたかき僧などくらゐたかくのぼり、ふかきみちもひろまり侍る也。又日吉の行幸はじめてせさせ給ひて、法花經おもくあがめさせ給ふ。かのみちひろまる所を、おもくせさせ給ふ事は、まことにみのりをもてなさせ給ふにこそはべるなれ。ひえの明神は、法花經まもり給ふ神におはします。ふかきみのりをまもり給ふ神におはすれば、うごきなくまもり給はんがために、世の中の人をもひろくめぐみ、しるしをもきはめ、ほどこしたまふなるべし。石清水の行幸、はじめてせさせ給ひけるに、物みぐるまどもの、かな物うちたるを御らんじて、みこしとゞめさせ給ひて、ぬかせ給ひ
ける、御めのとの車より、いかでか我が君のみゆきに、この車ばかりはゆるされ侍らざらむと、聞こえければこのよしをやそうしけむ。そればかりぞ、ぬかれ侍らざりけるとかや。賀茂のみゆきには、かなものぬきたるあとある車どもぞ、たちならびて侍りける。大極殿、さきのみかどの御とき、火事侍りしのち、十年すぐるまで侍りしに、くらゐにつかせ給ひて、いつしかつくりはじめさせ給ひて、よとせといふに、つくりたてさせ給ひにしかば、わたらせ給ひてよろこびの詩などつくられ侍りけり。よろづの事むかしにもはぢず、おこなはせ給ひて、山のあらし、枝もならさぬ御世なれば、雲ゐにてちとせをもすぐさせ給ふべかりしを、世の中さだまりて、心やすくやおぼしめしけん。又たかき雲のうへにて、世の事もおぼつかなく、ふかき宮の中は、よを治めさせ給ふも、わづらひおほく、いますこし、おりゐのみかどとて、御心のまゝにとやおぼしめしけむ。位におはします事、よとせありて、白河の御かど、春宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひき。御母女院御むすめの一品の宮など、具したてまつらせ給ひて、すみのえにまうでさせ給ふとて、
@ 住よしの神もうれしと思ふらんむなしき船をさしてきたれば W019、
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とよませ給へる、みかどの御うたとおぼえて、いとおもしろくも聞こえ侍る御製なるべし。おりゐのみかどにて、ひさしくもおはしまさば、いかばかりめでたくも侍るべかりしに、つぎのとしかくれさせ給ひにし、世にくちをしきとは申せども、くらゐの御時、よろづしたゝめおかせ給ひて、東宮にくらゐゆづり申させ給ひて、かくれさせ給ひぬれば、いまはかくてと、おぼしけるなるべし。ある人の夢に、こと国のそこなはれたるをなほさんとて、このくにをば、さらせ給ふとみたる事も侍りけり。又嵯峨に世をのがれて、こもりゐたる人の夢に、がくのこゑそらに聞こえて、むらさきの雲たなびきたりけるを、何事ぞとたづねければ、院の仏のみくにゝ、むまれさせ給ふとみたりけるに、院かくれさせ給ひぬと、世の中に聞こえけるにぞ、まさしきゆめと、たのみはべりけるとなむ。
(十)みのりのし S0202
むかしみこの宮におはしましゝ時より、のりのみちをもふかくしろしめされけり。勝範座主といふ人、参り給へりけるに、真言止観かねまなびたらん僧の、俗のふみも心得たらん、一人たてまつれ。さるべき僧のおのづからたのみたるがなきに、とおほせられければ、顯密かねたるは、つねの事にてあまた侍り。からの文の心しりたる物こそ
ありがたく侍れ。さるにても、たづねて申し侍らんとてかへりて薬智といふ僧をぞ奉られけるに、わざととりつくろひて、車などをもかされざりけるにや。かりばかまにのりたる僧の、座主のもとよりとて、まゐりたりければ、めしよせて、みすごしにたいめせさせ給ひけるに、まきゑの御すゞりのはこのふたに、止観の一のまきをおきて、さしいださせ給ひて、よませてとはせ給ひければ、あきらかにときゝかせまゐらせけり。眞言の事は、ふみはなくてたゞとはせ給ひければ、ことの有さま、又申しのべなどしけり。そのゝち、俗の文のことを、おほせられければ、法文にあはせつゝ、それもあへしらひ申しけり。すゑつかたに、極楽と兜率と、いづれをかねがふと、の給はせければ、いづれをものぞみかけ侍らず。たゞ日ごとに法花經一部兩界などおこなひ侍るを、おこたらでみろくの世までし侍らばやと思ひ給へて、大鬼王の、いのちながきにて、おこなひこの定にしつゝ侍らんとぞねがひ侍るとぞ申しける。須弥山のほとりに、しかある鬼のおこなひなどするありとみゆる經の侍るとぞ、のちにたれとかや申され侍りける。鬼は化生のものなれば、むまれて程なくおこなひなどしつきて、おこたるまじき心に申しけるとぞ。さて又おほせられけるは、御いのりなど、とりたててせんこともかなひがたければ、さしたることもおほせ
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られつけず。たゞ心にかけて、おこなひのついでにいのりて、おだやかにたもたん事を、心にかくべきなりとぞ、の給はせける。くらゐにつかせ給ひて、たづねさせ給ひければ、薬智は身まかりにけり。弟子なりける法師をぞ、僧綱になさせ給ひける。おほうへの法橋〈 顕耀 〉とかいひけるとなん。春宮におはしましける時、よのへだておほくおはしましければ、あやうくおぼしけるに、検非違使の別當にて、経成といひし人、なほしにかしわばさみにて、やなぐひおひて中門の廊にゐたりける日は、いかなることのいできぬるぞとて、宮のうちの女房よりはじめて、かくれさわぎけるとかや。おはしましける所は、二条東洞院なりければ、そのわたりを、いくさのうちめぐりて、つゝみたりければ、かゝる事こそ侍れなど申しあへりける程に、別當のまゐりたりければ、東宮も御なほしたてまつりなどして、御よういありけるに、別當検非違使めして、をかしの者はめしとりたりやと、とはれければ、すでにめして侍りと、いひければこそ、ともかくも申さで、まかりいでられけれ。おもくあやまちけるものおはしますちかきあたりにこもりゐたりければ、うちつゝみたりけるに、もし春宮ににげいる事もやあるとて、まゐりたりけり。かやうにのみあやぶまれ給ひて、東宮をもすてられやせさせ給はんずらんと
おもほしけるに、殿上人にて衛門権佐ゆきちかときこえし人の相よくする、おぼえありて、いかにもあめのしたしろしめすべきよし申しけるかひありて、かくならびなくぞおはしましゝ。このみかどの御母陽明門院と申すは、三条院の御むすめなり。後朱雀院、東宮の御時より御息所におはしまして、このみかどをば、廿二にてうみたてまつらせ給へり。長元十年二月三日、皇后宮にたち給ふ。御とし廿五、其の時江侍従たゝせ給ふべきときゝて、
@ むらさきの雲のよそなる身なれどもたつと聞くこそうれしかりけれ W020
となんよめりける。寛徳二年七月廿一日、御ぐしおろさせ給ふ。治暦二年二月、陽明門院ときこえさせ給ふ。御哥などこそ、いとやさしくみえ侍るめれ。後朱雀院にたてまつらせ給ふ、
@ いまはたゞ雲井の月をながめつゝめぐり逢ふべき程も知れず W021
などよませ給へる。むかしにはぢぬ御歌にこそはべるめれ。この女院の御母、皇太后宮妍子と申すは、御堂の入道殿の第二の御むすめなり。
(十一)紅葉のみかり S0203
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白河院は後三条院の一の御子におはしましき。その御母贈皇后宮茂子と申す。権大納言能信の御むすめとて、後三条院の春宮におはしましゝ、御息所にまゐり給へりき。まことには閑院の左兵衛督公成の中納言のむすめ也。この中納言の御いもうとは、能信の大納言の北の方なり。このみかど天喜元年みづのとのみ六月廿日むまれさせ給ひ、延久元年四月廿八日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十七、同四年十二月八日、位につかせ給ふ。御とし廿にやおはしましけん。くらゐゆづりたてまつらせ給ひて、つぎのとしの五月に後三条院かくれさせ給ひにしかば、國のまつりごと、廿一の御としより、みづからしらせ給ひて、位におはします事十四年なりしに、卅四にて位おりさせ給ひてのち、七十七までおはしまししかば、五十六年、くにのまつりごとをせさせ給へりき。延喜のみかどは卅三年たもたせたまへりしかども、位の御かぎり也。陽成院は八十一までおはしましゝかども、院ののちひさしくて、世をばしらせ給はざりき。この院はちゝの太上天皇世をしらせ給ひし事、いくばくもおはしまさず。さきの御なごりにて、一の人のわがまゝにおこなひ給ふもおはせねば、わかくよりよをしらせ給ひて、院のゝちは、堀河院、鳥羽院、さぬきの院、御こうまごひひご、うちつゞき三代の*
みかどのみよ、みな法皇の御まつりごとのまゝ也。かくひさしく世をしらせ給ふ事は、むかしもたぐひなき御ありさま也。後二条のおとゞこそ、おりゐのみかどのかどに、車たつるやうやはあるなどのたまはせける。それかくれ給ひてのちは、すこしもいきおとたつる人やは侍りし。このみかど、かん日にむまれさせ給ひたるとぞきこえ侍りし。又まことにやありけん。御めのとの二位も、かん日にまゐりそめられたりけるとかや。されどもすゑのさかえ給ふこと、このころまでいやまさりにおはすめり。あしき日まゐれりともきこえざりし。今ひとりの御めのとの、ともつなのぬしのみはゝにていますがりしは、日野三位のむすめにて、世おぼえも事の外にきこえ給ひしかども、みかどの五におはしましゝとし、かのめのと、かくれられにしかば、二位のみならびなくおはすめり。すぐせかしこければ、あしき日もさはりなかるべし。しかあらざらん人は、いかゞそのまねもせん。従二位親子のざうしあはせとて、人々よき哥どもよみて侍るも、いとやさしくこそきこえ侍りしか。このみかどは、御心ばへたけくも、やさしくもおはしましけるさまは後三条院にぞにたてまつらせ給へりける。さればゆゝしく事<しきさまにぞ、このませ給ひける。白河の御てらも、すぐれておほきに、やおもてこゝのこし
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の塔などたてさせ給ひ、百躰の御仏などつねは供養せさせ給ふ。百たいの御あかしを、一どにほどなくそなふる、ふりうおぼしめしよりて、前栽のあなたにものゝぐかくしおきて、あづかり百人めして、一度にたてまつらせ給ひけるに、事おこなひける人、心もえで少々まつともしなどしたりけるをも、むづからせ給ひて、さらに一どにともされなどせられけり。鳥羽などをもひろくこめて、さま<”いけ山などこちたくせさせ給へり。後三条院は、五壇御修法せさせ給ひても、くにやそこなはれぬらんなどおほせられ、円宗寺をも、こちたくつくらせ給はず。漢の文帝の露臺つくらんとし給ひて、國たへじなどいひてとゞめ給ひ、女御愼夫人には、すそもひかせず。御帳のかたびらにもあやなぎをせられける御心なるべし。おの<時にしたがふべきにやあらん。白河院は御ゆみなども上手にておはしましけるにや。池の鳥をいたりしかば、故院のむづからせ給ひしなど、おほせられけるとかや。まだ東宮のわか宮と申しける時より、和哥をもおもくせさせ給ひて、位にても後拾遺あつめさせ給ふ。院のゝちも金葉集えらばせ給へり。いづれにも、御製どもおほく侍るめり。承保三年十月廿四日、大井川にみゆきせさせ給ひて、嵯峨野にあそばせ給ひ、みかりなどせさせ給ふ。
そのたびの御哥、
@ 大井川ふるきながれを尋きてあらしの山の紅葉をぞみる W022
などよませ給へる。むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき。承暦二年四月廿八日、殿上の哥合せさせ給ふ。判者は六条右のおとゞ、皇后宮太夫と申しし時せさせ給ひき。哥人ども時にあひ、よき哥もおほく侍るなり。哥のよしあしはさる事にて、ことざまのぎしきなどえもいはぬ事にて、天徳哥合、承暦哥合をこそは、むねとある哥會には、よのすゑまで思ひて侍るなれ。又から國の哥をも、ゝてあそばせ給へり。朗詠集にいりたる詩のゝこりの句を、四韻ながらたづねぐせさせ給ふ事も、おぼしめしよりて、匡房中納言なん、あつめられ侍りける。その中にさ月のせみのこゑは、なにの秋をおくるとかやいふ詩の、ゝこりの句をえたづねいださゞりける程に、ある人これなんとて、たてまつりたりければ、江帥み給ひて、これこそこのゝこりとも、おぼえ侍らねとそうしけるのちに、仁和寺の宮なりける手本の中に、まことの詩、いできたりけるなどぞきこえ侍りし。又本朝秀句と申すなる文のゝちしつがせ給ふとては、法性寺入道おとゞにえらばせたてまつり給ふとぞうけ給はりし。さてそのふみの名は、
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續本朝秀句と申して、みまき、なさけおほくえらばせ給へるふみ也。五十の御賀こそめでたくは侍りけれ。康和四年三月十八日、堀川の御かど、鳥羽に行幸せさせ給ひて、ちゝの法皇の五十の御よはひを、よろこび給ふ也。舞人樂人などは、殿上人中少將さま<”左右のしらべし給ひき。童舞三人、胡飲酒、陵王、納蘇利なん侍りける。その中に胡飲酒は源氏のわかぎみなんまひ給ひし。袖ふり給ふさま、天童のくだりたるやうにて、このよの人のしわざともなく、めもあやになん侍りける。御ぞかつかり給へるをば、御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ、とりてはいし給ひける。そのわかぎみは、なかの院の大將と聞え給ひしなるべし。
(十二)釣りせぬうら< S0204
この御時ぞ、むかしのあとをおこさせ給ふ事はおほく侍りし。人のつかさなどなさせ給ふ事も、よしありて、たはやすくもなさせたまはざりけり。六条の修理太夫顯季といひし人、よおぼえありておはせしに、敦光といひしはかせの、など殿は宰相にはならせ給はぬぞ。宰相になるみちはなゝつ侍るなり。中に三位におはするめり。又いつくに、をさめたる人も、なるとこそはみえ侍れといひければ、あきすゑも、さおもひて、御氣色
とりたりしかば、それも物かくうへの事也と、おほせられしかば、申すにもおよばでやみにきとぞいはれ侍りける。又顯隆の中納言といひし人、よにはよるの關白などきこえしも、弁になさんと思ふに、詩つくらではいかゞならん。四韻詩つくるものこそ弁にはなれと、おほせられければ、おどろきてこのみなどせられけり。ことにあきらかにおはしまして、はかなき事をも、はえ<”しくかんぜさせ給ひ、やすき事をも、きびしくなんおはしましける。いづれの山とか。御いのりのしやうおこなはんとおぼされけるに、たゞ御ふせばかり給はんは、ねんごろにおぼしめすほいなかるべし。あざりなどよせおかんこそかひあるべきに、さすがさせる事なくて、さる事もたはやすかるべしと、おぼしわづらはせ給へるを、あきたかの中納言しか侍らは、たゞこのたび阿闍梨の宣旨をくださせ給ひて、ながくよらせらるゝ事は、なくて候へかしと、申されければ、まことにしかこそあるべかりけれ。おのれなからましかば、我いかゞせましとぞ、かひ<”しくかんぜさせ給ひける。そのこのあきよりといひし中納言をも、夢に手をひかれてゆくとみたりし物をなどおほせられて、ことの外におもほしめせりける人にて、ふみのはこなどひきさげなどする事をも、下らうなどめして、もたせさせ給ふなど、
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おもくおもほしめせりけるに、五位藏人にて、ぢもくの目録とかそうせられけるに、御らんじて、あらゝかにさかせ給ひて、かへしたびければ、なに事にかと、おそれ思ひて、まかりいでゝ、そのゝち父の中納言まゐりたりけるにぞ、大外記もろとをは、津の國の公文も、まだかむがへぬものをば、いかで目録にいれて、たてまつりけるぞと、おほせられなどして、さやうの事と、かくなんおはしましける。法文などをもまことしくならはせ給ひけるにこそ。良眞座主に、六十巻といひて、法花経の心とける文うけさせ給へりけるに、西京にこもりゐ給ひて、ひえの山の大衆のゆるさゞりければ、さてゐ給へりける所、とぶらはせ給ひけり。西院のほとけ、をがませ給ふついでとてぞ、御幸ありける。みのりのためも、人のためも、面目ありけるとなんきゝ侍りし。金泥の一切経かゝせ給へるももろこしにも、たぐひすくなくやときこえし。そのゝちこそ、このくにゝも、あまたきこえ侍れ。この院のしはじめさせ給へるなり。又いきとしいけるものゝいのちをすくはせ給ひて、かくれさせ給ふまでおはしましき。さ月のさやまに、ともしするしづのをもなく、秋の夕ぐれうらにつりするあまもたえにき。おのづからあみなどもちたるあまのとまやもあれば、とりいだしてたぐなはのゝこるもなくけぶりとなりぬ。もたる
ぬしはいひしらぬめどもみて、つみをかぶる事かずなし。神のみくりやばかりぞゆるされて、かたのやうにそなへて、そのほかは、殿上のだいばんなども六さいにかはる事なかりけり。位におはしましゝ時は、中宮の御事なげかせ給ひて、おほくのみだうどもつくらせ給ひき。院ののちは、その御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、かぎりなくなげかせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にや、おはしましけん。御なげきのあまりに、世をばのがれさせ給へりしかども、御受戒などはきこえさせ給はで、仏道の御名などもおはしまさゞりけるにや。教王房ときこえし山の座主、御いのりのさいもんに、御名の事申されけるに、いまだつかぬとおほせられければ、その心をえはべりてこそ、申しあげ侍らめと申されけるとかや。そのゝちひさしくよををさめさせ給ひしほどに、七月七日にはかに御心ちそこなはせ給ひて、御霍乱などきこえしほどに、月日もへさせ給はで、やがてかくれさせ給ひにしかば、そらのけしきも、つねにはかはりて、雨風のおともおどろ<しく、日をかさねてよのなげきもうちそへたる心ちして侍りき。あさましき心のうちにも、すき<”しかりし人にて、平氏の刑部卿忠盛ときこえし、そのをりなにのかみとか申しけん。そのうたとてつたへ聞侍りし、
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@ 又もこん秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ恋しき W023。
とかや。鳥羽院、はなぞのゝおとゞ、攝政殿などの、わかき御すがたに御ぞどもそめさせ給ひて、御いみのほど、仏の道のこと、ゝぶらひ申させ給ふ。いづれの程に、たれかよませ給ひけるとかや。
@ いかにしてきえにし秋のしら露をはちすの上の玉とみがゝん W024。
といふ御哥侍りけるとなん。鳥羽殿は、この法皇のつくらせ給へれば、さやうにや申さんと、おもへりしかども、白河にもかた<”御所ども侍りしかは、白河院とぞさだめまゐらせ侍りける。
このみかどの御母は、春宮のみやすどころとて、うせさせ給へれば、延久三年五月十八日、従二位おくりたてまつらせ給ふ。位につかせ給ひて、同五年五月六日、皇后宮おくりたてまつらせ給ふ。國忌みさゝきなどおかれて、おなじき日、よしのぶの大納言殿、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくらせ給ふ。御息所の御母、藤原祕子と申ししにも、おおきひとつの位をおくり給ふ、これはきびなかのつかさ、知光のぬしのむすめなり。
(十三)たまづさ S0205
堀川のみかどは、白河の法皇の第二の御子におはしましき。その御母、贈太皇太后宮賢子中宮なり。關白左大臣師實のおとゞの御むすめ、まことには、右大臣源顯房のおとゞの御むすめなり。このみかど、承暦三年つちのとのひつじ二月十日むまれさせ給へり。應徳三年十一月廿六日、位につかせ給ふ。御とし八、このみかど御心ばへあてにやさしくおはしましけり。そのなかに、ふえをすぐれてふかせ給ひて、あさゆふに御あそびあれば、たきぐちの、なだいめんなど申すも、てうしたかうとて、あかつきになるをりもありけり。その御時、笛ふき給ふ殿上人も、ふえのしなどみなかの御時給はりたるふみなりなどいひて、すゑの世までもちあはれ侍るなる。時元といふ笙のふえふき、御おぼえにて夏はみづし所にひめしてたまふ。おのづからなきをりありけるには、すずしき御あふぎなりとて、給はせなどせさせ給ひけり。宗輔のおほきおとゞ、このゑのすけにおはしけるほどなど、夜もすがら御ふえふかせ給ひてぞ、あかさせ給ひける。和哥をもたぐひなくよませ給ひて、さ月の頃、つれ<”におぼしめしけるにや。哥よむをとこ女、よみかはさせて御らんじける。大納言公實、中納言國信などよりはじめて、俊頼などいふ人々も、さま<”のうすやうに、かきてやり給ひけり。女は周防内侍、
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四条宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前齋宮のゆり花、皇后宮の肥後、つのきみなどいふ、ところ<”の女房、われも<とかへしあへり。又女のうらみたる哥よみて、男のがりやりなどしたる、堀川院の艶書合とて、すゑの世までとゞまりて、よき哥はおほく撰集などにいれるなるべし。ふたまにてぞ、かうじてきこしめしける。又時のうたよみ十四人に、百首哥おの<にたてまつらせ給ひけり。をとこ女僧など、哥人みな名あらはれたる人々なり。題は匡房の中納言ぞたてまつりける。このよの人、哥よむなかたてには、それなんせらるなる。尊勝寺つくられ侍りけるころ、殿上人に、花慢あてられ侍りけるに、俊頼哥人にておはしけるに、百首哥あんぜんとすれば、いつもじには花慢とのみおかるゝときかせ給ひて、ふびんの事かなとて、のぞかせ給ひけるとぞ、きこえ侍りし。いづれのころにかありけん。南殿か仁壽殿かにて、御らんじつかはしけるに、たれにか有りけん。殿上人のまゐりて、殿上にのぼりてゐたりければ、
@ 雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ。
とおほせられけるに、俊頼のきみ、
しもさぶらひにさぶらひもせで W025、
とつけられたりけるを、ことばとゞこほりたりときこゆれど、心ばせもあることゝきこゆめり。哥のふぜい、いたづらにうする事なりとて、連哥をば、おほかたせられざりけりときこえ侍りしに、金葉集にぞいとしもなき、おほくあつめられたる。いたづらにいできたるを、をしまれ侍るなるべし。基俊のきみが連哥は、つきくさのうつしのもとのくつわむし、などしたるをいふ也。又からかどやこのみかどともたゝくかな。ゝど侍りけり。木工頭俊頼も、高陽院の大殿のひめ君と聞え給ひし時、つくりたてまつり給へりとかきこゆるわかのよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連哥、伊勢大輔が、こはえもいはぬ花の色かな。とつけたる事などいというなることにこそ侍なれば、連哥をもうけぬことに、ひとへにし給ふともきこえず。おほかたは、みる事、きくことにつけて、かねてぞよみまうけられける。當座によむことはすくなく、疑作とかきてぞ侍つる。さて侍りけるにや。家集に、きゝときゝ給へりけると、おぼゆることをよみあつめられ侍るめり。これは連哥のついでに、うけたまはりしことを申し侍るになむ。さてこの御時に、みやす所は、これかれさだめられ給へりけれ
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ども、御をばの前齋院ぞ女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし。ことのほかの御よはひなれど、をさなくよりたぐひなくみとりたてまつらせ給ひて、たゞ四宮をとかや、おぼせりければにや侍りけん。まゐらせ給ひけるよも、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、あか月ちかくなるまでぞ、心もとなく侍りける。とばの御かどの御母の女御どのもまゐり給ひて、院もてなしきこえさせ給へば、はなやかにおはしましゝかども、中宮はつきせぬ御心ざしになん、きこえさせ給ひし。女御うせさせ給ひてのころ、
@ あづさ弓はるの山べのかすみこそ恋しき人のかたみ成りけれ W026。
とよませ給へりけるこそ、あはれに御なさけおほくきこえ侍りしか。すゑのよのみかど、廿一年までたもたせ給ふ、いとありがたき事なり。時の人をえさせ給へる、まことにさかりなりけり。一のかみにて堀河の左のおとゞ、物かく宰相にて通俊、匡房、藏人頭にて季仲あり。むかしにはぢぬ世也。などぞおほせられける。みち<のはかせも、すぐれたる人、おほかる世になむ侍りし。このみかど、みそぢにだにみたせ給はぬ、よのをしみたてまつる事、かぎりなかるべし。その御ありさま、ないしのすけさぬきとかきこえ
給ひし、こまかにかゝれたるふみ侍りとかや。人のよまれしを、ひとかへりはきゝ侍りし、このなかにも御らんじてやおはしますらん。
(十四)ところ<”の御寺 S0206
このみかどの御母、権中納言たかとしの御むすめのはらに、六条の右のおとゞの御むすめにおはしましゝ、大殿の御こにしたてまつりて、延久三年三月九日、御とし十五にて、白河院東宮におはしましゝ、御息所にまゐらせ給へり。同五年七月廿三日、女御ときこえ給ひて、四位の位給はり給ふ。承保元年六月廿日、きさきにたち給ふ。御とし十八におはしましき。十二月廿六日前坊うみたてまつらせ給ふ。三年四月五日、郁芳門院むまれさせ給ひて、そのゝち、二条の大ぎさきの宮、うみたてまつらせ給へり。御年廿三にて、このみかどはうみたてまつらせ給へり。應徳元年九月廿三日、三条の内裏にて、かくれさせ給ひにき。御とし廿八とぞきこえ給ひし。村上の御母、なしつぼにてうせ給ひてのち、内にてきさきかくれ給ふ事、これぞおはしましける。廿四日に備後守經成のぬしの四条高倉の家に、わたしたてまつりて、神な月の一日ぞ、とりべのにおくりたてまつり、けぶりとのぼり給ひにし。かなしさたとふべきかた
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なし。まだ卅にだにたらせ給はぬに、おほくの宮たちうみおきたてまつり給ひて、上の御おぼえたぐひもおはしまさぬに、はかなくかくれさせ給ひぬれば、世の中かきくらしたるやうなり。白河のみかどは位の御ときなれば、廢朝とて、三日はひの御ざのみすもおろされ、よのまつりごともなく、なげかせ給ふ事、からくにの李夫人楊貴妃などのたぐひになんきこえ侍りし。御なげきのあまりに、おほくの御堂御仏をぞつくりてとぶらひたてまつらせ給ひし。ひえの山のふもとに、円徳院ときこゆる御堂の御願文に、匡房中納言の、七夕のふかきちぎりによりて、驪山の雲に眺望する事なかれ。とこそかきて侍るなれ。いひむろには勝楽院とて御堂つくりて、又のとしのきさらぎに、くやうをせさせ給ひき。八月には法勝寺の内に、常行堂つくらせ給ひて、仁和寺入道宮して供養せさせ給ふ。同日醍醐にも円光院とてくやうせさせ給へり。九月十五日、白川の御寺にて御仏事せさせ給ふ。廿二日御正日に、同J御寺にておこなはせ給ふ。事にふれてかなしきこと、みたてまつる人まで、むねあかぬ時になんあるべき。あさなゆふなの御心ち、みかきのやなぎもいけのはちすも、むかしをこふるつまとぞなり侍りける。寛治元年しはすのころ、皇太后宮をおくりたてまつらせ給ふ。いにしへもいまも、
かゝるたぐひなんおはしましける。
(十五)白河の花の宴 S0207
鳥羽院は堀川の先帝の第一の皇子、御母贈皇太后宮苡子と申しき。實季大納言の御むすめなり。このみかど康和五年みづのとのひつじ、正月十六日むまれさせ給へり。八月十七日春宮にたち給ひて、嘉承二年七月十九日位につかせ給ふ。天永四年正月一日御元服せさせ給ひき。十六年位におはしまして、一の御子にゆづり申させ給ひき。白河の法皇のおはしまししかぎりは、世の中の御まつり事なかりしに、かの院うけさせ給ひてのちは、ひとへに世をしらせ給ひて、廿八年ぞおはしましゝ。白河院おはしましゝ程は、本院新院とて、ひとつ院に御かた<”にて、三条室町殿にぞおはしましゝ。待賢門院又女院の御かたとて、三院の御かた、いとはなやかにて、わか宮姫宮たち、みなひとつにおはしましき。本院新院、つねにはひとつ御車にて、みゆきせさせ給へば、法皇の御車なれど、さきに御随身ぐせさせ給へりき。保安五年にや侍りけむ。きさらぎにうるう月侍りし年、白河の花御らんぜさせ給ふとて、みゆきせさせ給ひしこそ、世にたぐひなきことには侍りしか。法皇も院も、ひとつ御車にたてまつりて、
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御随身に、にしきぬひもの、色々にたちかさねたるに、かんだちめ、殿上人、かりさうぞくにて、さま<”にいろをつくして、われも<とことばもおよばず。こがの太政のおとゞも御むまにて、それはなほしにかうぶりにてつかうまつり給へり。院の御車のゝちに、待賢門院ひきつゞきておはします。女房のいだしぐるまのうちいで、しろがねこがねにしかへされたり。女院の御車のしりには、みなくれなゐの十ばかりなるいだされて、くれなゐのうちぎぬ、さくらもえぎのうはぎ、あか色のからぎぬに、しろがねこがねをのべて、くわんのもんおかれて、地ずりの裳にも、かねをのべて、すはまつるかめをしたるに、裳のこしにもしろがねをのべて、うはざしは、玉をつらぬきてかざられ侍りける。よしだの齋宮の御はゝや、のり給へりけんとぞきこえ侍りし。又いだし車十兩なれば、四十人の女房おもひ<によそひども心をつくして、けふばかりはせいもやぶれてぞ侍りける。あるはいつゝにほひて、むらさき、くれなゐ、もえぎ、やまぶき、すわう、廿五かさねたるに、うちぎぬ、うはぎもからぎぬ、みなかねをのべて、もんにおかれ侍りけり。あるはやなぎさくらをまぜかさねて、うへはおり物、うらはうち物にして、ものこしには、にしきに玉をつらぬきて、玉にもぬける春の柳か。といふうた、柳さくらをこきまぜて、といふうたの心也。もはえびぞめをちにて
かいふをむすびて、月のやどりたるやうに、かゞみをしたにすかして、花のかゞみとなる水は、とせられたり。からぎぬには、日をいだして、たゞはるのひにまかせたらなん。といふうたの心也。あるはからぎぬににしきをして、桜の花をつけて、うすきわたを、あさきにそめてうへにひきて、野べのかすみはつつめども、といふ哥の心なり。はかまもうちばかまにて、はなをつけたりけり。このこぼれてにほふは、七の宮など申御母のよそひとぞきゝ侍りし。御車ぞひの、かりぎぬはかまなどいろ<のもんおしなどして、かゞやきあへるに、やりなはといふものも、あしつをなどにやよりあはせたる。色まじはれるみすのかけをなどのやうに、かな物ふさなどゆら<とかざりて、なに事もつねなくかゞやきあへり。攝政殿は御車にて、随身などきらめかし給へりしさま、申すもおろかなり。法勝寺にわたらせ給ひて、花御らんじめぐりて、白河殿にわたらせ給ひて、御あそびありて、かんだちめのざに、御かはらけたび<すゝめさせ給ひて、おの<哥たてまつられ侍りける。序は花ぞのゝおとゞぞかき給ひけるとなんうけ給はり侍りし。新院の御製など集にいりて侍るとかや。女房のうたなどさまざまに侍りけるとぞきゝ侍りし。
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@ よろづよのためしとみゆる花の色をうつしとゞめよ白河の水 W027
などぞよまれ侍りけるときゝ侍りし。みてらの花、雪のあしたなどのやうに、さきつらなりたるうへに、わざとかねてほかのをもちらして、庭にしかれたりけるにや、うしのつめもかくれ車のあともいるほどに花つもりたるに、こずゑの花も、雪のさかりにふるやうにぞ侍りけるとぞ、つたへうけ給はりしだに、おもひやられ侍りき。まいてみ給へりけん人こそおもひやられ侍れ。そのゝちいづれのとしにか侍りけん。雪の御幸せさせ給ひしに、たび<はれつゝ、けふ<ときこえけるほど、にはかに侍りけるに、西山ふなをかのかた、御らんじめぐりて、法皇も院もみやこのうちには、ひとつ御車にたてまつりて、新院御なほしに、くれなゐのうち御ぞいださせ給ひて、御むまにたてまつりけるこそ、いとめづらしくゑにもかゝまほしく侍りけれ。二条の大宮の女房、いだし車に、菊もみぢの色々なるきぬどもいだしたるに、うへしたに、しろきゝぬをかさねて、ぬいあはせたれば、ほころびはおほく、ぬひめはすくなくて、あつきぬのわたなどのやうにて、ごほれいでたるが、きくもみぢのうへに、雪のふりおけるやうにて、いつくるまたてつゞけ侍りけるこそいとみ所おほく侍りけれ。このみかど御心はいといたく
すかせ給ふ事はなくて、御心ばへうるはしく、御みめもきよらに、功徳の道たうしも御いのりをのみせさせ給ひき。御ふえをぞ、えならずふかせ給ひて、堀川院にも、おとらずやおはしましけん。樂などもつくしてしらせ給ふ。御ふえのねも、あいつかはしく、すずしきやうにぞおはしましける。きんのり、きんよしなど申しおほいどの、これざね、なりみちなど申す中納言などみな御弟子なりとぞきゝ侍りし。れいならぬ御心ち、ひさしくならせ給ひて、世など心ぼそくおぼしめしけるにや。徳大寺の左のおとゞにや。花をりて給はすとて、御哥侍りける、
@ 心あらばにほひをそへよ桜花のちのはるをばいつかみるべき W028
となんよませ給ひける。
(十六)鳥羽の御賀 S0208
この院世をしらせ給ひて、ひさしくおはしましゝに、よろづの御まつりごと、御心のまゝなるに、中院のおとゞの、大將になり給ひしたび、人々あらそひて、さぬきの院、位におはしましゝかば、しぶらせ給ひしにこそ。このゑのみかど、東宮にてまなめしける夜、にはかに内へ御幸とて、殿上人せう<かぶりして、よにいりて、きたの陣に御車たて
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させ給ひて、権大納言大將にまかりならん事、わざと申しうけに、まゐりたると申しいれさせ給へりしかば、さてこそやがてその夜なり給ひけれ。さねよしの大將、下臈なれども、もとよりなりゐ給へれば、かみにはくはへじと、おさへ申し給ふ。実ゆきの大納言、われこそ上臈なれば、ならめといひて、下臈ふたりにこえられんことゝ、内をふたりして、かた<”申し給へば、御おぢの事、さりがたくておさへさせ給ふなり。院にはさきに下臈をこして、なさせ給ひしかども、なほいとほしみいできて、なさんとおぼしめしかためけるに、うちのおさへさせ給へば、としごろはかゝることもなきに、いと心よからずおぼしめして、みゆきあるなりけり。とかく申させ給ひ、めしておほせをくだされなどする程に、御車にて、春の夜あけなんとす。といふ朗詠、又十方仏土の中には、などいふ文を詠ぜさせ給ひて、佛のみなたび<となへさせ給ひける、きく人みな、なみだぐましくぞ思あへりけるとなむきこえ侍りし。かくてつぎのとし御ぐしおろさせ給ひき。御とし四十にだにみたせ給はねども、としごろの御ほいも、又つゝしみのとしにて、年比は御随身なども、とゞめさせ給ひて、ぐせさせ給はねども、白河のおほゐのみかどどのゝむかひに、御堂つくらせ給ひて、くやうせさせ給ふに、兵仗
かへし給はらせ給ひて、めづらしく太上天皇の御ふるまひなり。うちつゞきやはたかもなど御幸ありて、三月十日ぞ鳥羽殿にて御ぐしおろさせ給ふ。すこしも御なやみもなくて、かくおもほしたつ事を、よの人なみだぐましくぞ思ひあへる。御名は空覚とぞきこえさせ給ひし。五十日御仏事とてせさせ給ふほど、おほぢにありくいぬや、きつみてありく車うしなどまでやしなはせ給ひ、御堂の池どものいをにも、庭のすゞめからすなどかはせ給ふ。山々寺々の僧にゆあむし、御ふせなどはいひしらず、たゞのをりも、かやうの御くどくは、つねの御いとなみなり。人のたてまつるもの、おほくは僧のふせになんなりける。おはしますあたり、あまたの御所どもには、いひしらぬ、あやにしき、からあや、からぎぬ、さま<”のたから物、ところもなきまでぞ、おきめでられ侍りけるを、御ふせにせさせ給へば、こむよの御功徳いかばかりか侍らん。白河院はおはしますところ、きら<とはきのごひて、たゞうちの見參とて、かみやかみにかきたる文の、ひごとにまゐらするばかりを、みづしにとりおかせ給ひて、さらぬ物は御あたりにみゆるものなかりけり。ましてたちぬはぬ物などは、御前にとりいださるゝことなくて、かたしはぶきうちせさせ給ひて、たゞひとゝころおはしまして、近習の上臈下臈などを、とり<”めしつかひ
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つゝおはしましける。おの<御ありさまかはらせ給ひてなんきこえ侍りし。仁平二年三月七日、このゑのみかど、鳥羽院にみゆきせさせ給ひて、法皇の五十の御賀せさせ給ひき。等身の御仏、壽命經もゝまき、たまのかたちをみがき、こがねのもじになむありける。僧はむそぢのかず、ひきつらなりて、仏をほめたてまつり、まひ人はちかきまぼりのつかさ、雲のうへ人あをいろのわきあけに、柳さくらのしたがさね、ひらやなぐひのすいしやうのはず、日のひかりにかゞやきあへり。つぎの日も、なほとゞまらせ給ひて、法皇をがみたてまつり給ふ。さま<”のそなへ共、庭もせにつらねて、たてまつらせたまふ。池のふね、はるのしらべとゝのへて、みぎはにこぎよせて、おの<おりて、左右のまひの袖ふりき。青海波、左のおとゞの御子、右大將のまごの中將の公達まひ給ふ。はてには、左大將の御子とて、胡飲酒、わらはまひし給ふ。ふるきあと、いへのことなれば、かづかり給ふ御ぞ、ちゝのおとゞとりて、袖ふり給ひて、庭におりて、よろこび申のやうに、さらにはいし給ふに。ゆふひのかげにくれなゐのいろかゞやきあへり。そのわかぎみは、まことには御わらは名、くま君とて、前中納言もろなかのこを大將殿の子にし給へるとぞ。このわかぎみのはゝは、鳥羽院の御子たち、うみたてまつられたる人とぞ、きゝたてまつりし。かやうにはなやかに侍りしほどに、
なかふたとせばかりやへだて侍りけん。近衛のみかど、かくれさせ給ひしかば、おぼしめしなげきて、鳥羽にこもりゐさせ給ひて、としのはじめにも、もんろうなどさして、人もまゐらざりき。御とし五十四までぞ、おはしましける。御母贈皇太后宮は、承徳二年十一月に内にまゐり給ひて、康和五年正月に、このみかどうみおきたてまつりて、かくれさせ給ひにしかば、きさきおくりたてまつりたまへり。
(十七)春のしらべ S0209
仁和寺の女院の御はらの一の御子は、位おりさせ給ひて、新院ときこえさせ給ひし。のちにさぬきにおはしましゝかば、さぬきのみかどとこそ聞えさせ給ふらめな。御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の女なり。鳥羽院の位におはしましゝとき、法皇の御むすめとて、まゐり給へりき。此みかど元永二年己亥五月十八日に、むまれさせ給へり。保安四年正月廿八日に、位につかせ給ふ。大治四年御元服せさせ給へり。御とし十一、法性寺のおほきおとゞの御むすめ、女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし、皇嘉門院と申御事也。時の攝政の御女、きさきの宮におはします。白河院、鳥羽院、おやおほぢとておはします。御母女院ならぶ人なくておはしまし
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ゝかば、御せうとの侍従中納言さねたか、左衛門督みちすゑ、右衛門督さねゆき、さ兵衛督さねよしなど申して、みかどの御をぢにて、なほしゆるされて、つねにまゐり給ふ。そのきんだち近衛のすけにて、あさゆふさぶらひ給ふ。みかどの御心ばへたえたる事をつぎ、ふるきあとをゝこさむとおもほしめせり。をさなくおはしましけるより哥をこのませ給ひて、あさゆふさぶらふ人々に、かくしだいよませ、しそくの哥、かなまりうちてひゞきのうちによめなどさへおほせられて、つねは和哥の會ぞせさせ給ひける。さのみうち<にはやとて、花の宴せさせ給ひけるに、松にはるかなるよはひをちぎる。といふ題にてかんだちめ束帯にて、殿よりはじめて、まゐり給ひけり。まづ御あそびありて、關白殿ことひき給ふ、はなぞのゝおとゞ、そのとき右大臣とてびはひき給ふ。中院の大納言さうのふえ、右衛門佐季兼にはかに殿上ゆるされて、ひちりきつかうまつりけり、拍子は中御門大納言宗忠、ふえは成通さねひらなどの程にやおはしけん。すゑなりの中將、わごんなどとぞきゝ侍りし。序は堀川の大納言師頼ぞかき給ひける。講師は左大弁さねみつ、御製のはたれにか侍りけん。つねの御哥どもは、あさゆふの事なりしに、つねの御製などきこえ侍りしに、めづらしくありがたき御哥ども、おほくきこえ侍りき。遠く山のはなをたづぬといふ事を、
@ たづねつる花のあたりに成りにけり匂ふにしるし春の山かぜ W029
などよませ給へりしは、よの末にありがたくとぞ人は申し侍りける。まだをさなくおはしましゝとき、
@ こゝをこそ雲のうへとは思ひつれ高くも月のすみのぼる哉 W030。
などよませ給へりしより、かやうの御哥のみぞおほく侍るなる。これらおのづからつたへきこえ侍るにこそあれ。天承二年三月にや侍りけむ。臨時客せさせ給ひき。りんじのまつりのしがくのさまになん侍りける。清凉殿のみすおろして、まごひさしに御倚子たてゝ、みかど御なほしにておはします。きたのらうのたてしとみどりのけて、みすかけて、きさいの宮の女房うちいでのきぬさま<”にいだされたり。ふたまには中宮おはします。左右のまひ人かさねのよそひして、月華門にあつまれり。がくの行事しげみち、すゑなりの中將ぞうけ給はりてせられける。はるのしらべ、まづはふきいだして、はるのにはといふがくをなんそうしてまゐりける。みかどいでさせ給ひて、關白殿右のおとゞよりはじめて、すのこにさぶらひ給ふ。宰相はれいの事なれば、なかはしにおはしけり。しかるべきまひども、ふえのしなど賞かぶりける中に、なりみちの宰相中將とておはしける、わざとはるかに北のかた
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にめぐりて、もとまさといふ笛の師かぶり給はれる、よろこびいひにおはしたりけるこそ、いとやさしく侍りけれ。百首哥など人々によませさせ給ひけり。又撰集などせさせ給ふときこえ侍りき。かばかりこのませ給ふに、哥合はべらざりけるこそ、くちをしく侍りしか。ふるき事どもおこさんの御心ざしはおはしましながら、よを心にもえまかせさせ給はで、院の御まゝなれば、やすき事もかなはせ給はずなんおはしましける。哥よませ給ふにつけて、あさゆふさぶらはれける修理権太夫ゆきむね、三位せさせんとて、徳大寺のおとゞにつけて院にみせまゐらせよとて、
@ 我宿に一本たてるおきな草哀といかゞ思はざるべき W031
とぞよませ給ひけるときこえ侍りし。
(十八)八重の潮路 S0210
もとの女院ふたところも、かた<”にかろからぬさまにおはしますに、いまの女院ときめかせ給ひて、このゑのみかどうみたてまつらせ給へる、東宮にたてまつりて、位ゆづりたてまつらせ給ふ。その日たつの時より、かんだちめ、さま<”のつかさ<まゐりあつまるに、内より院にたび<御つかひありて、蔵人の中務少輔とかいふ人、かはる<”まゐり、又
六位の蔵人、御書ささげつゝまゐる程に、日くれがたにぞ神璽寳剱など春宮の御所昭陽舎へ、かんだちめひきつゞきてわたり給ひける。みかどの御やしなひご、れいなきこととて、皇太弟とぞ宣命にはのせられ侍りける。その御さたに、けふのぶべしなど内より申させ給ひけれど、事はじまりて、いかでかとてなんその日侍りけるとぞきこえ侍りし。いまのうちには、職事殿上人などおほせくだされ、あるべきことゞもありて、新院は九日ぞ三条西洞門へわたらせ給ふ。太上天皇の御尊号たてまつらせ給ふ。かくてとしへさせ給ふほどに、このゑのみかどかくれさせ給ひぬれば、いまの一院の、いま宮とておはします、位につかせ給ひにき。さるほどに鳥羽院御心ちおもらせ給ひて、七月二日うせさせ給ひぬれば、みかどの御代にてさだまりぬるを、院のおはしましゝをりより、きこゆる事どもありて、みかきのうち、きびしくかためられけるに、さがのみかどの御とき、あにの院とあらそはせ給ひけるやうなる事いできて、新院御ぐしおろさせ給ひて、御おとゞの仁和寺の宮におはしましければ、しばしはさやうにきこえしほどに、やへのしほぢをわけて、とをくおはしまして、かんだちめ殿上人の、ひとりまゐるもなく、一宮の御はゝの兵衛佐ときこえ給ひし、さらぬ女房ひとりふたりばかりにて、男もなき御たびずみ
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も、いかに心ぼそくあさゆふにおぼしめしけん。したしくめしつかひし人どもみなうら<にみやこをわかれて、おのづからとゞまれるも、世のおそろしさに、あからさまにも、まゐる事だにもなかるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、しのびたる御とぶらひなどばかりやありけん。たとふるかたなき御すまひなり。あさましきひなのあたりに、九年ばかりおはしまして、うき世のあまりにや、御やまひもとしにそへてをもらせ給ひければ宮こへかへらせ給ふこともなくて、秋八月廿六日に、〔かの國にてうせさせ給ひにけりとなむ。しろみねのひじりといひて、〕かの國にながされたるあざりとて、むかしありけるが、この院にむまれさせ給へるとぞ、人の夢にみえたりける。そのはかのかたはらに、よきかたにあたりたりければとてぞおはしますなる。やへのしほぢをかき分て、はる<”とおはしましけん。いとかなしく、心ちよきだに、あはれなるべきみちを人もなくて、いかばかりの御心ちせさせ給ひけん。
このみかどの御母ぎさき、十九と申しし御とし此の帝をうみたてまつらせ給ひて皇子位につかせ給ひてのち、后の位廿三の御とし后の位をさらせ給ひて、待賢門院と申す。おなじ國母と申せど、白河院の御むすめとてやしなひ申させ給ひければ、ならびなくさかえさせ給ひき。まして院号のはじめなどは、いかばかりか、もてなしきこえたまひし。
おほくの御子うみたてまつらせ給ひ、今の一院の御母におはしませば、いとやんごとなくおはします。仁和寺に御堂つくらせ給ひ、こがねの一切經などかゝせ給ひて、康治二年御ぐしおろさせ給ふ。御名は眞如法とつかせ給ふとぞ。久安元年八月廿二日かくれさせ給ひにき。又のとしの正月に、かの院の女房の中より、たかくらのうちおとゞのもとへ、
@ みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消にし跡はとふ人もなし W032
あきなかの伯のむすめ、ほりかはのきみの哥とぞきこえ侍りし。この女院の御母は、但馬守たかゝたの弁の女なり。従二位光子とて、ならびなく、よにあひたまへりし人におはすめり。
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◎〔すべらぎの下〕第三
(廿)男山 S0301
とばのみかど位の御ときより、まゐりたまへりしきさきは、御子たちあまたうみたてまつりて、くらゐおりさせ給ひしかば、女院と申しておはしましき。法皇のやしなひたてまつりて、はたもてかしづき給ひしに、法皇おはしまさでのち、宇治のきさきまゐり給ひて、御かた<”いとましげなれども、院にはいづかたにも、うときやうにてのみ、おはしましゝに、しのびてまゐり給へる御かたおはしまして、やゝあさまつりごともおこたらせ給ふさまにて、夜がれさせ給ふ事なかるべし。いとやむ事なききはにはあらねど、中納言にて御おやはおはしけるに、母きたのかたは、源氏のほりかわのおとゞのむすめにおはしけるうへに、たぐひなくかしづきゝこえて、たゞ人にはえゆるさじと、もてあつかはれけるほどに、中納言かくれ侍りにけるのち、院にもとよりおぼしめしつゝやすぐし給ひけん。かのちゝの御いみなどすぎけるまゝに、しのびて御せうそこ有りて、かくれつゝまゐり給ひけるほどに、日にそへてたぐひなき御心ざしにて、ときめき給ふほどに、
たゞならぬ事さへおはしければ、御いのりおどろ<しきまでかた<”せさせ給ふほどに、女宮うみたてまつらせ給へれば、めづらしきをば、よろこびながら、男におはしまさぬをぞ、くちおしうおぼしめしたるに、又うみたてまつり給へるも、おなじさまなるは、まめやかにくちおしうおぼしめしたれど、さすがいかゞはせんにて、おはしますなるべし。あね宮をば、宇治のきさき、御子おはしまさぬにあはせて、おほきおとゞの御心とゞむとにや。このみやにむかへ申させたまひて、やしなひ申させ給ふ。のちにむまれさせ給へるをば、院にみづからやしなひたてまつり給ふ。御母ぎさき、しばしはあの御かたなど申して、おはしましし程に、三位のくらゐそへさせ給ひて、この御事をのみたぐひなき御もてなしなれば、よの人ならびなくみたてまつれるに、又たゞならぬ事おはしませば、このたびさへ、うちつゞかせ給はんも、くちをしきうへに、おぼしめしはからふ事やあらん。をとこ宮うみたてまつり給ふべき御いのり、いひしらずいとなませ給ふ。いはし水に般若會などいひて、山三井寺などの、やんごとなきちゑふかき僧どもまいりゐて、日ごろ法文のそこをきはめて、おこなはせ給ふ。帥中納言といふ人、御うしろみにて、みやこの事も大事なれど、かの宮に日ごろこもりて御かはりにや。日ごとに、
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そくたいにて御かうもよほし、おこなはれけるを、われも<とみのりときて、いのり申しけるなかに、忠春とかきこえしが、鼇海の西にはうみのみや、御産平安たのみあり。鳳城の南にはをとこ山、皇子誕生うたがひなし。と申したりけるとなんきゝ侍りし。ならの濟円といひし僧都、さきの日、この心をしたりけるに、めでたしなどきこえけるを、山に忠春巳講ときこえしが、のちの日、かやうにむすびなしていひける。とり<”にえもいはずなん、きこえ侍りける。はての日は、かんだちめひきつれまゐりて、御ふせとり、御かぐらなどせらる。かんだちめ歌もふえも、おの<心をつくして、清暑堂のやうなり。かやうにいひしらぬ御いのりども有りける程に、保延五年にや侍りけん。つちのとのひつじのとし五月十八日、よになくけうらなる玉のをのこ宮、うまれさせ給ひぬれば、院のうちさらなり。世の中もうごくまで、よろこびあへるさま、いはんかたなし。ひつじの時ばかりなれば、御いのりの僧、御前にまゐりゐたるに、おの<御むまひき、女房のよそひなどたまはす。仁和寺の法親王、山の座主など僧かう給はり、さま<”の賞ども有りて、まかで給ひぬ。御うぶやしなひ七夜など関白殿よりはじめてまゐり給ひて、御あそびどもあり。御ゆどのみなみおもてにしつらひて、つるうち五位六位しらがさねにたちならべる。
男宮におはしませば、文よみ式部大輔左中弁などいふはかせ、大外記とかいふもの、みやう經はかせとて、つるばみのころも、あけのころも、袖をつらねて、うちかはりつゝ、日ごとによむけしき、いはんかたなくめでたし。皇子の御いのりはじめてせさせ給ひ、なゝせの御はらへに、弁ゆげいのすけ、五位の蔵人など時にあへる七人、御ころもはことりてたつほど、おぼろげのかんだちめなども、あふべくもなかりけり。御めのとには、二条の関白の御子に、宰相中将といひし人のむすめ、くらのかみをとこにてあれば、えらばれてやしなひ奉るなるべし。日にそへて、めづらかなるちごの、御かたちなるにつけても、いかでかすがやかに、みこの宮にも、くらゐにもとおぼせども、きさきばらに、みこたちあまたおはしますを、さしこゆべきならねば、おもほしめしわづらふほどに、たうだいの御子になし奉り給ふ事いできて、みな月の廿六日、皇子内へいらせ給ふ。御ともにかんだちめ、殿上人えらびて、つねのみゆきにも心こと也。宮このうち、車もさりあへず、みるもの所もなき程になんはべりける。うちへいらせ給ふに、てぐるまの宣旨など、蔵人おほせつゝ、すでにまゐらせ給ひて、中宮を御母にて、まだ御子もうませ給はねば、めづらしくやしなひ申させたまふ。きさきのおやにては、関白殿おはしませば、
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皇子のおほぢにて、かた<”、みかどもきさきも、御子おはしまさぬに、院も御心ゆかせ給ひて、いと心よき事いできて、いつしか八月十七日、春宮にたゝせ給ふ。昭陽舎に御しつらひありて、わたらせ給ふ。大夫には堀川の大納言なり給ふ。御母のをぢにおはして、ことにえらばせ給へる也。御母女御のせんじかぶり給ふ。ねがひの御まゝなる。をのこ宮のうれしさも、いふばかりなきうへに、御みめも御心ばへも、いとうつくしう、この世のものにもあらず。さかしくおとなしくて、ひの御ざにことあるごとに、大夫のいだきまゐらせ給へるにも、なきなどし給はず。ゐさせ給ふほどには、御しとねのうへに、ひとりゐさせ給ひて、おとなのやうにおはしませば、かひ<”しくみたてまつる人も、よろこびの涙おさへがたかりけり。かくて同七年十二月七日、御とし三にて、位ゆづり申させ給ふ。ちかくは五などにてぞ、つかせ給へども、心もとなさにや。すがやかにゐさせ給ひぬ。御母女御殿、皇后宮にたゝせ給ふ。御とし廿五にや。御即位大嘗會など、心ことに世もなびきてなん。みえ侍りける。おとなにならせ給ふまゝに、御有さましかるべきさきのよの御ちぎりとみえ給へり。摂政殿の御おとゝの左のおとゞ、女御たてまつらせ給ひて、皇后宮にたち給ひぬ。なをたらずやおぼしめすらむ、院より
御さたせさせ給ひて、大宮の大納言のむすめ、関白殿の御子とて、きたの政所の、御せうとのむすめなれば、御子にし奉り給ふ。御かた<”はなはなと、いどみがほなるべし。とのゝあにおとうとの御なか、よくもおはしまさねば、宮もいとゞへだておほかるに、関白殿は、うちのひとつにて、ひとへに中宮のみのぼらせ給ひて、皇后宮の御かたをば、うとくおはしましける。かくてとしふるほどに御母ぎさき院号ありて、女院とておはしませば、院のきさきの女院、三人おはします。うちにはきさきふたりたち給ひて、いとかた<”、おほくおはすころなるべし。
(廿一)虫の音 S0302
此みかど御みめも、御心ばへもいとなつかしくおはしましけるに、すゑになりて、御めを御らんぜざりければ、かた<”御いのりも御くすりもしかるべきにやかひなくて、すゑざまには、としのはじめの行幸なども、せさせ給はずなりにけり。摂政殿たぐひなくおもひたてまつらせ給ふ。みかどもおろかならず、思ひかはさせ給ひて、殿の御おとうとにこめられさせ給ひて、藤氏の長者なども、のかせ給ひたるを、をさなき御心になげかせ給ふ。とのもみかどのれいならぬ御事を、なげかせ給ふほどに、十七にやおはしまし
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けん。はつ秋のすゑに、日ごろれいならぬ事おはしまして、かくれさせ給ひぬれば、世の中はやみにまどへる心ちしあへるなるべし。さりとてあるべきにあらねば、鳥羽院には、つぎのみかどさだめさせ給ふに、まことにや侍りけん。女院の御事のいたはしさにや。姫宮を女帝にやあるべきなどさへはからはせ給ふ。又仁和寺のわか宮をなどさだめさせ給ひけれど、ことわりなくて、ひとひは過て、世の中おぼしめしうらみたる御ありさまなるべし。たゞおはしまさんだにをしかるべきを、哥をもをさなくおはしますほどに、すぐれてよませ給ひ、法文のかたも、しかるべくてや、おはしましけむ。心にしめて、經などをもくんによませ給ひて、それにつけても、廿八品の御うたなどよませ給ふ。おなじ哥と申せども、このころのうちあからさまにもあらず、むかしの上手などのやうに、よませ給ひける、おほくよませ給ひけるなかに、よを心ぼそくや、おぼしめしけむ。
@ むしのねのよわるのみかは過る秋ををしむ我身ぞまづきえぬべき W033
などよませ給へりける、いとあはれにかなしく、又からはぎなどいふことを、かくしだいにて、
@ つらからばきしべの松のなみをいたみねにあらはれてなかんとぞおもふ W034
などおほくきゝ侍りしかども、おぼえ侍らず。位におはします事、十四年なりき。御わざの夜さねしげといひしが、むかし蔵人にて侍りける、おもひいでゝよめる。
@ おもひきやむしのねしげきあさぢふに君をみすてゝ帰るべしとは W035
殿の御子の、大僧正ときこえ給ふ、みかどのうゑさせ給へりけるきくを見給ひて、
@ よはひをば君にゆづらで白菊のひとりおくれてつゆけかるらん W036
とよまれ侍りけるこそ、あはれに聞え侍りしか。肥前のごとて侍りけるが、みかどおはしまさでのち、むかし思ひいでけるに、しのばしき事、おほくおぼえければほしあひのころ、ないし土佐が、かのみかどの御事のかなしみにたへで、かしらおろして、こもりゐ侍りけるもとに、いひつかはしける、
@ 天の川ほしあひの空はかはらねどなれし雲ゐの秋ぞ恋しき W037
とよめりけるこそ、いとなさけおほくきゝはべりしか。このみかどの御母は、贈左大臣長實中納言のむすめ也。得子皇后宮ときこえ給ふ。美福門院と申しき。この御ありさま、さきに申し侍りぬ。かつはちかき世の事なれば、たれもきかせ給ひけん。されどもことの
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つゞきに申し侍るになん。猶あさましくおはしましゝ、御すぐせぞかし。御おやもおはせずなりにしかば、いかゞなりたまはんずらむとみえたまひしに、しのびてまゐりはじめたまひて、御子たちうみたてまつり給ひ、女御きさき、みかどの御はゝにおはしますのみにあらず、ゆくすゑまでの御ありさま申すもおろかなり。はじめかやう院のやしなひ申させ給ひしは、叡子内親王ときこえ給ひしは、うせさせ給ひにき。そのつぎのひめ宮はワ子内親王八条院と申すなるべし。院にやがてやしなひ申させ給ひて、あさゆふの御なぐさめなるべし。をさなくて物などうつくしうおほせられて、わか宮は、春宮になりたり。われは春宮のあねに成りたりなど、おほせられければ、院はさるつかさやはあるべきなど、けうじ申させ給ひけるなどぞ、聞え侍りし。この宮、保延三年ひのとのみのとしにうまれさせ給ひて、保元二年六月御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿一とぞきこえさせ給ひし。應保元年十二月に、院号きこえさせ給ふ。二条のみかどの御母とて、后にもたゝせ給はねども、女院と申すなるべし。小一条院の春宮より院と申ししやうなるべし。このゑのみかどうまれさせ給ひてのち、永治元年十一月にや侍りけん。かのとのとりのとし、又ひめ宮、六条殿にてうみたてまつり給へりし、二条のみかど、
春宮ときこえさせ給ひし時、保元々年のころ、みやす所ときこえさせ給ひて、みかど位につかせ給ひしかば、平治元年十二月廿六日、中宮ときこえさせ給ひしに、永暦元年八月十九日、御なやみとて、御ぐしおろさせ給ふ。御とし廿とぞきこえさせ給ひし。いとたぐひなく侍りき。應保二年二月十三日、院号ありて、たか松の院と申す。この宮々の御母、國母にておはしましゝ程に、このゑのみかど、崩れさせ給ひて、なげかせ給ひしに、つぎのとし鳥羽院うせさせ給ひし時は、きたおもてに候ふと候ふ、下臈どもかきたてゝ、院のおはしまさざらんには、たしかに女院に候へとて、わたされ侍りけり。女院は法皇の御やまひのむしろに、御ぐしおろさせ給へりき。みたきのひじりとかきこえしは御戒の師ときこえ侍りし、よろづおもほしすてたる御有さまにやあらん。鳥羽などをも、よろづ女院の御まゝとのみ、さたしおかせ給へれど、のちの世の事を、おもほしおきてさせ給ふうへに、心かしこく何事にものがれさせ給へりき。姫宮たち、御母おはしましゝをり、みな御ぐしおろさせ給ひてしこそ、いとあはれにきこえ給ひしか。むかしの仏のやたりの王子、十六の沙弥などの御有さまなるべし。なかにも、たうじのきさきの宮にて、仏のみちにいらせ給ふ、よにたぐひなし。このよを
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つよくおぼしめしとりて、わが御身もひめ宮たちをもすゝめなし奉りて、つとめさせ給ふほどに、わづらはせおはします御事ありて、應保元年十一月廿三日に、かくれさせおはしましにき。むらさきの雲たちてゐながら、うせさせおはしにけるとぞ、うけ給はりし。かねて高野の御山にしのびて、御だうたてさせ給ひて、それにぞ御しやりをば、おくりまゐらせ給ひけるとなむ。かの御ともには、さもあるべき人々、おの<御さはりありて、贈左大臣の末の子ときみちの備後守とかきこえし、のちには法師になられたりけるに、年ごろもちぎりおかせ給へりけるとて、その人ばかりぞ、くびにかけまゐらせて、たゞ一人まゐられければ、わかさのかみにて、たかのぶと申して、むげにとしわかき人、をさなくより、なれつかうまつりて、御なごりのしのびがたさに、ことにのぞみて、したひまゐりけるに、御山へいらせ給ふ日、雪いたくふりければよみ侍りける、
@ たれか又けふのみゆきをおくりおかんわれさへかくて思ひきえなば W038
(廿二)大内わたり S0303
すぎたるかたの事はとをきもちかきも、みおよびきゝおよぶ程の事申しはべりぬるを、いまのよの事は、はゞかりおほかるうへに、たれかはおぼつかなくおぼされん。しかはあれども、
事のつゞきなれば、申し侍るになん。たうじの一院は、鳥羽院の第四のみこ、御はゝ待賢門院、大治二年ひのとのひつじの年、うみ奉り給へりしにや、おはしますらん。おほくの宮たちの御中に、あめのした、つたへたもたせ給ふ、いとやん事なき御さかえ也。保延三年十二月御ふみはじめに、式部大輔敦光といひしはかせ、御しとくにはまゐると、うけたまはりしに、かんだちめ殿上人まゐりて、詩などたてまつられける。ちかくはさる事もきこえ侍らぬに、この御文はじめにしも、しか侍りけん。よき例にこそ、せられ侍らんずらめ。同五年十二月廿日、御元服せさせ給ひしは、十三の御としにこそ、おはしましけめ。久寿二年七月廿五日、位につかせたまふ。御とし廿九におはしましき。院のおほせごとにて、内大臣とて、徳大寺のおとゞおはせし、ぐし奉りて、まづ高松殿にわたり給ふ。夜に入りて、かんだちめ引つれてまゐり給ひて、このゑのだいりへ、わたらせおはします。十月廿六日御即位ありて、春宮たゝせ給ふ。大嘗会など有りて、としもかはりぬれば、院の姫宮東宮の女御にまゐり給ふ。高松の院と申す御事也。前の斎院とていまの上西門院のおはしましゝを、御母にしたてまつらせ給ふと承し。はゝぎさき美福門院おはしませば、べちの御はゝなくても、おはしましぬべけれど、
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いますこし、ねんごろなる御心にや侍りけん。五月の末に故院の御なやみまさらせ給ひて、七月にうせさせ給ひしほとより、世の中にさま<”申す事どもいできて、物さはがしくきこえしほどに、まことに、いひしらぬいくさの事いできて、みかどの御かた、かたせ給ひしかば、賞どもおこなはせ給ひき。そのほどの事、申しつくすべくも侍らぬうへに、みな人しらせ給ひたらん。よををさめさせ給ふ事、むかしにはぢず、記録所とて後三条院の例にて、かみは左大将公教、弁三人、より人などいふもの、あまたおかれはべりて、世の中をしたゝめさせ給ふ。つぎのとしも、りやうあんにて、三月にぞつかさめしなどせさせ給ふ。十月におほうちつくり出だしてわたらせ給ふ。殿舎ども門々などのがくは、関白殿かゝせ給ふ。宮つくりたるくにのつかさなど七十二人とか、位給はりなどして、なかごろ、かばかりのまつりごとなきを、千世にひとたびすめる水なるべしとぞ、おもひあへる。うへは、清凉殿、ふぢつぼかけておはします。女房、弘徽殿、登華殿などにつぼねたび、皇后宮は、こうきでんにおはします。女房それも、とうくわてんのつゞきに、つぼねして候ふ。中宮は、承香殿におはします。その女房、麗景殿につぼねあり。うちのおとゞの奉り給へる女御は、むめつぼにおはす。その女房、襲芳舎につぼね給はりき。神なりのつぼ
なるべし。春宮はきりつぼにおはします。女房はその北舎につぼねしつゝ候ふ。とうぐのみやす所は、なしつぼなれば女房そのきたにつぼね給はり。関白殿は宣耀殿を御とのゐどころとせさせ給へり。ちかき世には、さとだいりにてのみ有りしかば、かやうの御すまひもなきに、いとなまめかしう、めづらかなるべし。ゆみやなどいふ物、あらはにもちたるものやは有りし。ものにいれかくしてぞ、おほぢをもありきける。宮このおほぢをも、かゞみのごとくみがきたてゝ、つゆきたなげなる所もなかりけり。よのすゑともなく、かくをさまれるよの中、いとめでたかるべし。
(廿三)内宴 S0304
かくてとしもかはりぬれば、てうきんの行幸、びふく門院にせさせ給ふ。まことの御子におはしまさねども、このゑのみかどおはしまさぬよにも、國母になぞらへられておはします。いとかしこき御さかえ也。又春宮ぎやうけいありて、姫宮の御母にて、はいし奉り給ふ。このひめ宮と申すは、八条院と申すなるべし。廿日ないえんおこなはせ給ふ。もゝとせあまりたえたる事を、おこなはせ給ふ。よにめでたし。題は春生聖化中とかやぞきゝ侍りし。関白殿など、かんだちめ七人、詩つくりてまゐり給へる。あをいろのころも、春の御あそびに
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あひて、めづらかなる色なるべし舞姫十人、れうき殿にて、袖ふるけしき、から女をみる心ちなり。ことしは、にはかにて、まことの女はかなはねば、わらはをぞ、仁和寺の法親王奉り給ひける。ふみをば仁寿殿にてぞかうぜられける。尺八といひて、吹たえたるふえ、このたびはじめてふきいだしたりと、うけ給はりしこそ、いとめづらしき事なれ。六月すまうのせちおこなはせ給ふ。これも久しくたえて、としごろおこなはれぬ事也。十七ばんなん有りける。ふるき事どもの、あらまほしきを、かくおこなはせ給ふ。ありがたき事也。かつはきみの御すぐせもかしこくおはしますうへに、少納言みちのりといひし人、のちは法師になりたりしが、鳥羽院にもあさゆふつかうまつり、この御時には、ひとへに世の中をとりおこなひて、ふるきあとをもおこし、あたらしきまつりごとをもすみやかにはからひおこなひけるとぞきゝ侍る。このみかど、御めのとはすりのかみもとたかのむすめ、大蔵卿もろたかのむすめなど、二三人とおはしけれど、あるはまかりいで、あるはかくれなどして、きのごとて、御ちの人ときこえしが、をとこにて、かの少納言みちのりのこあまたうみなどして、今は御めのとにて、やそしまのつかひなど、せられければ、ならぶ人もなきにこそ
@ すべらぎのちよのみかげにかくれずばけふ住吉の松をみましや W039
などよまれはべりけるときこえ侍りし。まことにかひ<”しき人におはすべし。かの少納言、からの文をもひろくまなび、やまと心もかしこかりけるにや。天文などいふ事をさへならひて、ざえある人になん侍りける。よはひさまでふるき人にてもはべらざりしに、今のよにも、いかにめでたくはべらまし。御めのとは、代々もなきにはあらぬを、このゑのすけなど、かりそめにもあらで、四位の少将中将なるに、さま<”のくにのつかさなどかけて、あまりに侍りけるにや。はねあるものはまへのあしなく、つのあるものは、かみのはなき事にて侍るを、またみちの人ならぬ、天文などのおそれある事にや。よろづめでたく侍りしに、をしくも侍るかな。かくて保元三年八月十六日、くらゐ東宮にゆづり申させ給ふ。位におはします事三年なりき。おりゐのみかどにて、御心のまゝによをまつりごたんと、おもほしめすなるべし。さき<”の御門くらゐにつかせ給ひゐんなど申せども、わがまゝにせさせ給ふ事は、ありがたきに、ならぶ人もおはしまさず。八まきのみのりをうかべさせ給ひて、さま<”つとめおこなはせ給ふなれば、むかしのちぎりにおはしますなるべし。せんたいの千手観音のみだうたてさせ給ひて、天竜八部衆など、いきてはたらかすといふばかりこそは侍るなれ。鳥羽院の千たいの観音
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だにこそ、ありがたく聞え侍りしに、千手のみだうこそ、おぼろげの事ともきこえ侍らね。くまのをさへうつして宮こに作らせ給へらんこそ、とをくまゐらぬ人のためも、いかにめづらしく侍らん。ひえなどをも、いはひすゑたてまつらせ給へらん、神仏の御事、かた<”おこしたてまつらせ給へる、かしこき御心ざしなるべし。御くまのまうで、年ごとにせさせ給ひ、ひえの山、かうやなどきこえ侍り。しかるべき御ちぎり成るべし。いまは御ぐしおろして、ほふわうと申すなれば、いかばかりたふとくおはしますらん。御子たちも、おの<みちにとりて、ざえおはします事、きこえさせ給へるこそ、たれもしらせ給へる事なれば、なにとかは、さのみ申し侍べきな。されども事のつゞきを、申し侍りつるなり。
(廿四)をとめの姿 S0305
二条のみかどと申すは、この院の一のみこにおはしましき。このをさなくおはします新院の御おやにおはします。その御はゝ左大臣有仁のおとゞの御むすめ、まことの御おやは、つねざねの大納言におはす。このみかど、東宮にたゝせ給ひて、保元三年八月十一日、位につかせ給ひき。御とし十六とぞ、うけ給はりし。十二月廿日御即位ありて、
としもかへりにしかば、正月三日、てうきんのみゆきとて、院へ行幸せさせたまふ。廿一日、ことしも内宴ありて、かんだちめ七人、四位五位十一人、ふみつくりてまゐるときこえ侍りき。序は永範の式部大輔ぞかゝると、うけたまはりし、題は花下哥舞をもよほすとかや。法性寺のおとゞ奉りたまへりとぞきこえ侍りし。舞姫ことしはうるはしき女まひにて、日ごろよりならはされけるとぞ、聞え侍りし。みちのりのだいとく、楽のみちをさへこのみしりて、さもありぬべき女どもならはしつゝ、かみのやしろなどにもまゐりてまひあへりときゝ侍りしに、ゆかしく見ばやと思ひはべりしかど、おいのくちをしき事は、心にもえまかせ侍らで、さるところどもにえまゐりあはで、みはべらざりき。この御なかには、さだめて御覧ぜさせ給ひけんかし。かの入道ことにあひ、よにあさましき事どもいでまうできてぞ内宴もたゞふたとせばかりにて、おこなはれぬ事になりて侍るにこそ。そのことのとがにやはべらん。猶もあらまほしき事なれどかつはしたつる人もかたく、久しくたえたる事をおこなはれて、世のさわぎもいできにしかば、時におはぬ事とてはべらぬにや。春のはじめに詩つくりて、かんだちめよりしもざま、たてまつる事、かしこき御時、もはらあるべき事也。さることもはべらば、なほいみじかる
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べし。二月廿四日、きさきたち給ひき。鳥羽院の姫宮にて、高松院、東宮の御時より女御におはしましゝ。中宮にたち給ひて、もとの中宮は院のきさき、公能右大臣の御むすめ、皇后宮にあがり給ふ。ことしぞ大嘗會ときこえ侍る。御かた<”さぶらひあはせ給へりしも、みなまかりいでさせ給ひにき。此の御時は、いまだ御かた<”も、おはしまさぬほどなれば、上は清凉殿ばかりに、つねのやうにおはしまして、藤つぼには、中宮ぞおはしましける。とのゝ御とのゐ所は、猶せんえうでんなり。いづくもひろらかにて、いとめでたくきこえ侍りしに、そのとしのしはすに、あさましきみだれ、宮このうちにいできにしかば、世もかはりたるやうにて、少納言の大とくもはかなくなり、めでたくきこえしかんだちめ、近衛のすけなどきこえし子ども、あるはながされ、あるは法しになりなどして、いとあさましきころ也。のぶよりのゑものかみと申ししは、かの大徳がなかあしくて、かゝるあさましきを、しいだせるなりけり。御おぼえの人にて、いかなるつかさもならんと思ふに、入道いさむるをいぶせく思て、いくさをおこしたりけるを、大とこさとりて、ゆくかたしらずなりにけるに、かのみかきもりも、そのむくひに、おもはぬかばねになむなりにける。いとあさましとも、ことばもおよばぬ事なるべし。
(廿五)ひなの別れ S0306
かのみちのりの大とこのゆかり、うら<にながされたる、みなめしかへして、世みなしづまりて、うちの御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御はゝかた、又御めのとなどいひて、大納言經宗、別當惟方などいふ人ふたり、世をなびかせりし程に、院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけん。ふたりながらうちに候ひける夜、あさましき事どもありて、おもひたゞしきさまにきこえけるを、法性寺のおほきおとゞの、せちに申やはらげ給ひて、おの<ながされにき。このころはめしかへされて、大臣の大将までなり給へるとこそ、うけたまはれ。さまであやまたずおはしけるにや。宰相はうきめみたりとて、かしらおろされにけり。それもかへりのぼりて、おはするとかや。鳥羽院うせさせ給ひしほどに、世のみだれいできてより、かた<”ながされ給ひし人、たび<にそのかずおはしき。はじめのたび、さぬきの院の御ゆかり、おほいどのがたなど、廿四五人ばかりやおはしけん。よとせばかりありて、かの衛門督とかやきこえし人のみだれに、少納言の大とこの子ども八九人ばかりうら<へときこえ侍りき。事なほりしかば、その人々はめしかへして、又のとしの春、もろなかの源中納言とかや、
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衛門督におなじ心なるとて、あづまのかたへおはすときゝ侍りき。しか有りし程に、そのころかの大納言宰相とふたり、阿波國ながとのかたなどにおはしき。そのとしの六月にやありけん。いづものかみ光保、その子光宗などいひし源氏のむさなりし人、つくしへつかはして、はてはいかになりにけるとかや。その人のむすめとかや、いもうとゝかやなる人の、鳥羽院にときめく人にて、いとほしみのあまりにや。二条院、東宮とておはしましゝ御めのとにて、くらゐにつかせ給ひにしかば、内侍のすけなどきこえき。そのゆかりにて、ときにあへりしに、内の御かた人どもの、かく事にあへりしかばにや、又源氏どもの、しかるべくうせんとてにやありけん。又さばかりの少納言うづまれたるもとめいでたるにやよりけん。かくぞなりにし。かやうにて、いまはなに事かはとおぼえしに、かくおはしますべかりけるを、そのをりも又いかゞうたがはせ給ひけん。皇子の御かた人とおぼしき人、つかさのきなどして、又ながさせ給へりき。おほかた六七年のほどに、三十余人ちり<”におはせし、あさましく侍りき。かろきにしたがひて、やう<めしかへされしに、惟方いつとなくおはせしかば、かしこより宮こへ、女房につけてときこえし、
@ このせにもしづむときけば涙川ながれしよりもぬるゝ袖哉 W040
とぞよまれ侍りける。このあにゝ、大納言光頼ときこえ給ひし、四十余にてかしらおろして、かつらのさとにこそこもりゐ給ふなれ。それはかやうの事に、かゝり給ふ事なく、何事もよき人ときゝたてまつりし、いとあはれにありがたき御心なるべし。又左兵衛督しげのりときこえし、きの二位のはらにて、そのをりは、はりまの中将、おとうとのみのゝ少将などきこえし、衛門督のみだれに、ちり<”におはせし時、中将しもつけへおはして、かしこにてよみ給ひける、
@ わがためにありける物を下つけやむろの八嶋にたえぬ思ひは W041
とかや。ひが事どもや侍らん。
(廿六)花園の匂ひ S0307
このみかどの御はゝ、うみおきたてまつり給ひて、うせ給ひにしより、鳥羽の女院やしなひたてまつり給ひて、をさなくおはしましゝほどに、仁和寺におはしまして、五の宮の御弟子にて、倶舎頌など、さとくよませ給ひて、ぢく<”よみつくさせ給ひて、その心ときあらはせるふみどもをさへ、つたへうけさせ給ひて、ちゑふかくおはしまし
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けり。院位につかせ給ひしかば、當今の一の宮にておはしますうへに、びふく門院の御やしなひごにて、このゑのみかどの御かはりともおぼしめして、この宮に位をもゆづらせ給ひつらんと、はからはせ給ひければ、宮こへかへり出させ給ひて、みこの宮、たからのくらゐなど、つたへさせ給へりき。すゑの世の賢王におはしますとこそ、うけ給はりしか。御心ばへもふかくおはしまし、うごかしがたくなんおはしましける。廿三におはしましゝ御とし、御やまひおもくて、わか宮にゆづり申させ給ひて、いくばくもおはしまさゞりき。よき人は、ときよにもおはせ給はで、久しくもおはしまさゞりけるにや。末の世、いとくちをしく、みかどの御くらゐは、かぎりある事なれど、あまりよをとくうけとりておはしましけるにや。又太上天皇てうにのぞませ給ふつねの事なるに、御心にもかなはせ給はず、よのみだれなほさせ給ふほどゝいひながら、あまりにはべりけるにや。よくおはしましゝみかどとて、よもをしみたてまつるときこえ侍り。二条院とぞ申すなる。ふるき后の御名なれど、をとこ女かはらせ給へれば、まがはせ給ふまじきなるべし。されどおなじ御名はふるくも侍らぬにや。このみかどの御母は大納言經實の御むすめ、その御はゝ、春宮大夫公実の御むすめなり。その大納言の中の君は、花ぞのゝ左のおとゞの
北のかたなれば、あねの姫君を子にして、院のいま宮とておはしましゝに、たてまつられたりし也。このみかど、うみおきたてまつりてうせ給ひにき。后の位おくられ給ひて、贈皇大后宮懿子と申すなるべし。御おやの按察大納言も、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくられ給へるとなむうけ給はる。さる事やあらんともしらで、うせ給ひにしかども、やんごとなき位そへられ給へり。御すゑのかざりなるべし。はかなくて、きえさせ給ひにし露の御いのちも、后おくられ給へば、いきてなり給へるもむかしがたりになりぬれば、のこり給ふ御名は、おなじ事なるべし。かのゆづられておはしましゝみかどは、新院と申して、まだをさなくて、太上天皇とておはします也。二条院の御子、ふたりおはしますなる御中に、第二のみこにおはしますなるべし。御母こと<”にきこえさせ給ひき。このみかどの御はゝ、徳大寺の左大臣の御むすめと申すめりしも、うるはしき女御などに、まゐり給へるにはあらで、忍びてはつかにまゐり給へるなるべし。さればたしかにもえうけ給はり侍らず。みかどたづねいで奉りてのち、中宮やしなひ奉り給ひて、母后におはしますなる。永万元年六月廿五日、位につかせ給ふ。御とし二、よをたもたせ給ふ事三年にやおはしますらむ。一院おぼしめしおきつる事にて、東宮に位をゆづり奉り
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給ひて、をさなくおはしますに、太上天皇と申すも、いとやんごとなし。御年二にて、位につかせ給ふ事、これやはじめておはしますらん。このゑのみかどは、三にてはじめてつかせ給ふと申ししも、はじめたる事とこそうけたまはりしか。おほくはいつゝなどにてぞつかせ給ふ。からくにゝは、一なる例もおはしましけりとかきこえき。このみかどの御母、いまの中宮育子と申して、法性寺の入道、前のおほきおとゞの御むすめにおはします。さきのかうづけのかみ源のあきとしのむすめの御はらとなん。みかどのまことの御母の事は、さきに申し侍りぬ。この中宮、二条のみかどおはしまさねども、いまのこくもとて、なほうちにおはしませば、むかしにかはれる事なくなむ、おはしましけん。りんじのまつりの四位の陪従に、きよすけときこゆる人、もよほしいだされて、まゐられたりけるに、せんだいの御ときはくものうへ人なりけれど、このよには、まだ殿上もせねば、たちやすらひて、北のぢんのかたにめぐりて、きさきのみやのおはします、ごたちのつぼねまちなどみるに、又殿上のかたざまへまゐりて、はるかに見わたしなどしけるにも、むかしにかはりたる事もなく、なれならひたりし人どものみえければ、きさきの御かたの人に、物など申しけるついでに、ひあふぎの、かたつまををりてかきつけて、ごたちの中に申しいれさせける、
@ むかしみし雲のかけはしかはらねど我身一のとだえ也けり W042
いとやさしく侍る事ときこえ侍りき。
(廿七)二葉の松 S0308
さて後一条院の御ときよりちかきやうに侍れど、十代にみよあまらせ給ひにけり。今は當今の御事、申すもはゞかりおほく侍れど、つゞきにおはしませば、事あたらしくはべれど、申すになむ。當代は一院の御子、御母は皇后宮滋子ときこえさせ給ふ。贈左大臣平時信のおとゞの御むすめ也。みかど應保元年かのとのみのとしむまれさせ給ひて、仁安元年十月十日春宮にたゝせ給ふ。御とし五、みかどよりも、二年あにゝておはします。あに春宮は三条院のれいなるべし。同三年二月十九日、位につかせ給ふ。御としやつにおはします。おなじみかど申せども、よの中へだてある事もなく、一院あめのしたしろしめし、御母ぎさき、さかりにおはしませば、いとめでたき御さかえなるべし。しかあれば、ふたばの松のちよのはじめ、いとめでたくつたへうけたまはり侍りき。御母ぎさきこのみかどうみ奉り給ひて、五六年ばかりにや。女御ときこえさせ給ひて、仁安三年と申ししやよひのころ、皇大后宮にたゝせ給へり。いまは女院と申すとぞ。
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いとめでたき御さかえにおはします。おほくの、女御きさきおはしますに、みかどうみ奉り給ふべかりける御すぐせ、申すもおろかなり。さきのみかどの御時も、この御世にも、御さんの御いのりとのみきこえて、まことにはあらぬ事のみきこえ給ひしに、いとありがたくきこえさせ給ふ。代々のみかどの御母、ふぢなみの御ながれにおはしますに、ほりかはの御門の御はゝぎさきも、関白の御むすめになりて、女御にまゐり給へれども、まことには源氏におはしませば、ひきかへたるやうにきこえさせ給ひしに、いま又たひらのうぢの國母、かくさかえさせ給ふうへに、おなじうぢの、かんだちめ、殿上人、このゑづかさなど、おほくきこえ給ふ。このうぢの、しかるべくさかえ給ふときのいたれるなるべし。たひらのうぢのはじめは、ひとつにおはしましけれど、にきの家と、よのかためにおはするすぢとは、久しくかはりて、かた<”きこえ給ふを、いづかたもおなじ御よに、みかどきさきおなじ氏にさかえさせ給ふめる。平野は、あまたのいへのうぢ神にておはすなれど、御名もとりわきて、この神かきのさかえ給ふときなるべし。このきさきの御はゝ、あきよりの民部卿の御むすめにおはしますなるべし。だいごのみかどの御はゝかたのいへにておはしますのみにあらず。きみにつかへ奉り給ふいへ、かた<”しかるべく、かさなり給へるなるべし。いまのよの事はゆかしくはべるを、
えうけたまはらで、おぼつかなき事おほくはべり。
校定 今鏡読本 上終
P201
校定 今鏡読本 中
◎〔ふぢなみの上〕第四
(廿八)藤波 S0401
よつぎは、入道おほきおとゞの御さかえ申さんとて、その御事こまかに申したれば、そのゝちより申すべけれど、みなかみあらはれぬはながれのおぼつかなければ、まづ入道おとゞの御ありさま、おろ<申し侍べき也。入道前太政大臣みちながのおとゞは、大入道殿の五郎、九条の右のおとゞの御まご也。一条院、三條院、後一條院、三代の關白におはします。五十四の御とし御ぐしおろさせ給ひて、万寿四年十二月四日、六十二にてかくれさせ給ふ。をのこ君、をんなぎみ、あまたおはしましき。をんなぎみ第一のは、上東門院と申して、後一条院、後朱雀院、二代のみかどの御はゝなり。つぎに第二の御むすめは、三条院の中宮妍子と申しき。陽明門院の御母也。第四は後一条院の中宮威子
と申す。二条院と、後三条院の皇后宮との御母なり。第六のきみは、後冷泉院の御母、内侍のかみ嬉子と申しき。これみなたかつかさどのゝ御はらからなり。をとこ君だち、太郎は宇治のおほきおとゞ、つぎは二条殿、またおなじ御はらからなり。堀川の右のおとゞ、閑院の東宮太夫、無動寺のむまのかみ、三條の民部卿、このよところは、たかまつの御はらの君だちなり。この御はらに、女君ふたところおはしき。ひとりは小一条院とて、東宮より院にならせ給へりし、女御にまゐり給へりき。いまひとりは、土御門の右のおとゞのきたのかた也。むかしもいまも、かゝる御さかえはありがたきなるべし。
上東門院は、一条院のきさき、二代のみかどの御母なり。御ありさまさきにこまかに申し侍りぬ。つぎに妍子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寛弘元年十一月、内侍のかみになり給ひて、やがて正四位下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三条院東宮と申しし女御にまゐり給ふ、くらゐにつかせ給ひて、寛弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかどくらゐさらせ給ひて、寛仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。万寿四年九月十四日、卅四にて御ぐしおろして、やがてその日
P202
かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、このみやより、あふぎたまはすとて、
@ すずしさはいきの松ばらまさるともそふるあふぎの風な忘そ W043
この宮の御はらに、三条院のひめみやおはします。そのみや禎子の内親王と申して、治安三年一品の宮と申す。万寿四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申ししとき、まゐらせ給ひき。御とし十五にぞおはしましゝ。みかどくらゐにつかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。のちにあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでにかつは申し侍りぬ。後三条院の御母、陽明門院と申、この御事也。この女院の御はらに女宮たちおはしましき。良子内親王とて、長元九年十一月廿八日、伊勢のいつきときこえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。つぎのひめ宮は、娟子の親王と申しき。長元九年しも月のころ、かものいつきときこえしほどに、まかりいで給ひけるのち、天喜五年などにやありけむ。なが月のころ、いづこともなくうせ給ひにければ、宮のうちの人、いかにすべしともなくて、あかしくらしける程に、三条わたりなるところにすみ給ふなりけり。はじめは人のあふぎに、ひともじををとこのかきたまへりけるを、女のかきそへさせ給へりければ、
をとこ又みて、ひとつそへ給ふに、たがひにそへたまひけるほどに、うたひとつに、かきはてたまひけるより心かよひて、ゆめかうつゝかなることもいできて、心やあはせ給へりけん。おひいだしたてまつりて、やがてさてすみ給ひけり。をとことがあるべしなんどきこえけれど、人からのしなも、身のざえなどもおはして、世もゆるしきこゆるばかりなりけるにや。もろともに心をあはせ給へればにやありけん。さてこそすみたまひけれ。をとこそのほどは、宰相中將など申しけるとかや。のちには左のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一条院の中宮威子と申しき。これもおなじ御はら、たかつかさ殿の御むすめなり。寛弘九年に、内侍のかみになりたまひて、後一条院くらゐの御時、女御にまゐり給ふ。寛仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせたまひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いとかなしかりし御ことぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍従まゐらざりけるを、人のなどまゐらざりしぞと申したりければ、
@ わが身にはかなしきことのつきせねば昨日をはてと思はざりけり W044
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とぞきこえける。このきさきのうみたてまつりたまへるひめみや、章子内親王と申し、二条院と申す。この御事也。後冷泉院東宮におはしましゝ時まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮にたゝせ給ふ。治暦四年四月に皇后宮にあがらせ給ひき。うちにまゐらせ給ひて、ふぢつぼにおはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、おもひいだして、出羽弁がなみだつゝみあへざりければ、大貮の三位、
@ しのびねのなみだなかけそかくばかりせばしと思ふころの袂に W045
とよまれ侍りければ、出羽弁、
@ 春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽はてなまし W046
とぞかへし侍りける。馨子の内親王と申すも、又おなじ御はらにおはします。長元四年に、かものいつきにて同九年にいでさせたまひて、永承六年十一月、後三条院東宮におはしましゝ女御にまゐらせたまひき。御とし廿三、承保元年六月廿二日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院御ぐしおろさせ給ひしおなじ日、やがておなじやうにならせ給ひし、いとあはれに、ちぎり申させ給ひける御すぐせなり。きさきの
くらゐはもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。
(廿九)梅の匂ひ S0402
関白前太政大臣よりみちのおとゞは、法成寺入道おほきおとゞの太郎におはします。御母みやたちにおなじ。従一位源倫子と申す。一條の左大臣まさのぶのおとゞの御むすめ也。たかつかさどのと申す。この宇治のおほきおとゞ、大臣の位にて五十一年までおはしましき。後一条院の御をぢにて、御とし廿六にて、寛仁元年三月十六日、攝政にならせ給ふ。その十九日牛車の宣旨かうぶらせ給ひて、やがてその廿二日、大臣三人のかみにつかせ給ふ、宣旨かうぶり給。みかどおとなにならせ給ひぬれば、関白と申しき。後朱雀院くらゐにつかせ給ふにも、猶御をぢにて長元九年四月廿九日さらに関白せさせ給ふ。そのゝち太政大臣にならせ給ふ。御とし七十一とぞきこえ給ひし。治暦三年七月七日、宇治の平等院に行幸有りて、准三后の宣旨かぶり給ふ。むかしの白河のおとゞのごとくに、うとねりなども御随身をたまはらせ給ひき。関白はゆづり給ひて、のかせ給へれど、内覧の職事まゐり、物申すことおなじことなりき。後三条院くらゐ
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につかせ給ひてぞ、としごろの御心よからぬことゞもにて、宇治にこもりゐさせ給ひて、延久四年正月廿九日御ぐしおろさせ給ひて、同六年二月二日八十三にてうせ給ひにき。このおとゞうたなどもよくよませ給ひしにこそ侍るめれ。そのなかに堀川の右のおとゞに、梅の花をりてたてまつり給ふとて、
@ をられけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど W047
とよませたまひたる、いとやさしくすゑの世まで、とゞまり侍るめり。このおとゞの御子、太郎にて右大将みちふさと申しし、十八にてうせ給ひにき、御母右兵衛督憲定のむすめなり。まうけの関白、一の人の太郎君にて、あへなくなり給ひにしかば、世もくれふたがりたるけしきなりしぞかし。としもまた廿にだにならせ給はぬに、和哥などをかしくよませ給ひけるさへ、いとあはれに思いでられさせ給ふ。ひとよばかりを七夕のなどよませ給ひたる、後拾遺にいりて侍るめり。
(三十)伏見の雪の朝 S0403
大將殿のほかの君だちは、おほとのゝひとつ御はらにおはしましき。おほ殿の御すゑこそは、一の人つがせ給ふめれ。その御ほうにおされて大將殿もとくかくれ給ひにける
にこそ。女君は後朱雀院の中宮に、たてまつり給へりしは、まことの御こにはおはしまさで、式部卿の宮の御こなりしに、まことの御むすめは、四条の宮と申しき。大将のひとつ御はらなり。ふしみのすりのかみ、としつなときこえし人も、ひとつ御はらにおはしき。その御母は贈二位讃岐守としとをと、あひぐし給へりければ、としつなのきみ、御こにておはしけれど、けざやかならぬほどなりければにや。なをとしとをのぬしのこの定にて、たちばなのとしつなとてぞおはせしのちになほ殿の御ことて、藤原になり給ひき。なほしなどきられけるをも、たちばなゝをしとぞ人は申しける。まめやかになりてのち、大殿、宇治大僧正、四条宮などは、おなじ御はらなれど、すりのかみは、げらうにてやみ給ひにしぞかし。かんだちめにだにえなられざりける、猶よのあがりたるにや。からくやおぼしけんとぞ、おぼえはべりし。されどもあふみのかみ有佐といひし人は、後三条院のまことには御こときこえしかど、さぬきのかみ顯綱のこにてこそ、やまれにしか。有佐といふ名も、みかどの御てにて、あふぎにかゝせ給ひて、母の侍従内侍にたまへりける。ほりかはの左のおとゞは、なかつかさのせふありすけがみちにあひて、おりてゐたりつるこそ、いとほしくおぼえつれ。院にたがはずにたてまつりたるさまなどありけるときこえしかば、それはさてこそやまれにしか。このすりのかみ
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は、たちばなをかへられしかば、猶関白の御こなるべし。このすりのかみの、むかしおはりのくにゝ俊綱といひけるひじりにておはしけるを、あつたのやしろのつかさの、ないがしろなることの有りければ、むまれかはりて、そのくにのかみになりて、かの国にくだるまゝに、あつたにまうでゝ、その大宮司とかをかなしくせためられなどしければ、あやまちなきものを、かくつかまつるよと、神に申しけるゆめに、むかしすんがうといひて有りしひじりの法施をとしごろえさせたりしかば、いかにもえとがむまじきとぞみたりける。しかならんために、くにの司のしなに、むまれたまひけるにこそ。さすがむかしのおこなひのちからに、関白の御こにてもおはするなるべし。われもむかし、その物をさめたりきなどいひて、かゞみとりいださせなどせられける、たゞ人にはおはせざるべし。大殿のふしみへおはしましたりけるも、すゞろなる所へはおはしますまじきに、雪のふりたりけるつとめて、としつながいたく伏みふけらかすに、ゝはかにゆきてみんとて、はりまのかみもろのぶといふ人ばかり御ともにて、にはかにわたらせ給ひたりければ、おもひもよらぬことにて、かどをたゝきけれど、むごにあけざりければ、人々いかにとおもひけり。かばかりの雪のあしたに、さらぬ人の家ならんにてだに、かやうのをりふしなどは、そのよういあるべきに、
いはんや殿のわたり給へるに、かた<”おもはずに思へるに、あけたるものに、おそくあけたるよし、かうづありければ雪をふみ侍らじとて、山をめぐり侍と申しければもとよりあけまうけ、又とりあへずいそぎあけたらむよりも、ねんにけふあるよし、人々いひけるとか。修理のかみさわぎいで、雪御らんじて、御ものがたりなどせさせ給ふほどに、もろのぶかくわたらせ給ひたるに、いでしかるべきあるじなどつかまつれと、もよをしければ、としつな、いまにべとのまゐり侍りなん。と申しければ人にもしられで、わたらせ給ひたれば、にへ殿まゐることあるまじ。日もやう<たけていかでか、御まうけなくてあらんといひければ、殿わらはせ給ひて、たゞせめよなどおほせられけるほどに、いへのつかさなるあきまさといひて光俊有重などいふ学生のおやなりしをのこ、けしきゝこえければ、修理のかみたちいでゝかへりまゐりてあるじして、きこしめさすべきやうはべらざる也。御だいなどのあたらしきも、かく御らんずる山のあなたのくらにおきこめて侍れば、びんなくとりいづべきやうはべらず。あらはにはべるは、みな人のもちひたるよし申しければ、なにのはゞかりかあらん。たゞとりいだせとおほせられければ、さばとてたちいでゝ、とりいだされけるに、色々のかりさうぞくしたり、伏みさぶらひ十人、いろ<のあこめ
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に、いひしらぬそめまぜしたる、かたびら、くゝりかけ、とぢなどしたるざうし、十人ひきつれて、くらのかぎもちたるをのこ、さきにたちてわたるほどに、ゆきにはえて、わざとかねてしたるやうなりけり。さきにあとふみつけたるを、しりにつゞきたるをとこをんなおなじあとをふみてゆきけり。かへさには御だいたかつき、しろがねのてうしなど、ひとつづゝさげてもちたるは、このたびはしりにたちてかへりぬ。かゝるほどに、かんだちめ殿上人、蔵人所の家司職事御随身など、さま<”にまゐりこみたりけるに、このさとかのさと、所々にいひしらぬそなへども、めもあやなりけり。もろのぶいかにかくはにはかにせられ侍ぞ。かねてゆめなどみ侍りけるか。など、たはぶれ申しければ、としつなのきみは、いかでかゝる山ざとに、かやうのこと侍らん。よういなくては侍べきなどぞ申されける。ふしみにては、ときのうたよみどもつどへて、和哥の会たゆるよなかりけり。ふしみの会とて、いくらともなくつもりてなんあなる。おとはの山のけさはかすめる。などよまれたる、いというに侍るかし。かやうにもてけうぜらるゝあまりに、ふけらかしまゐらせられけるにこそ。四条のみやの女房、あまたあそびてくれぬさきにかへり給ひければ、修理のかみ、
@ 都人くるればかへる今よりはふしみの里のなをもたのまじ W048
となむよみ給ひける。白河院、一におもしろき所は、いづこかあるとゝはせ給ひければ、一にはいしだこそ侍れ。つぎにはとおほせられければ、高陽院ぞ候ふらんと申すに、第三に鳥羽ありなんや。とおほせられければ、とば殿は君のかくしなさせ給ひたればこそ侍れ。地形眺望など、いとなき所也。第三には俊綱がふしみや候ふらんとぞ申されける。こと人ならばいと申しにくきことなりかし。高陽院にはあらで、平等院と申す人もあり。ふしみには山みちをつくりて、しかるべきをりふしには、たび人をしたてゝ、とほされければ、さるおもしろきことなかりけり。大僧正まだわかくおはしけるとき、御母贈二位の宇治殿に、僧都の御房の、まだわが房もゝたせ給はで、あひずみにておはしますなるに、房をさだして、たてまつらせ給へかしと申されければ、泰憲の民部卿、あふみのかみなりけるが、まゐりたりけるに、こゝなる小僧の、房をもたざなるに、草庵ひとつむすびて、とらせられなんやとおほせられければ、つくり侍らん。いとやすきことに侍り。やすのりがたちにつかうまつる、いしだと申すいへこそ、てらもちかくて、おはしまさんにも、つれ<”なぐさみぬべき所はさぶらへ。堂なども侍りてひんよき所なりと申しければ、殿はゆゝしきほうありける小僧かな。それはこよなきことにこそあらめとて、
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すゑたてまつり給へりけるとぞ。やすのりの民部卿は、おほとのゝ中将など申して、いはけなくおはしけるに、大将殿などまだよにおはしましけるほどは、とのも人もおもりかに思ひたてまつらるゝこともなかりけるをり、名簿をとりいだして、ゝうつしにたてまつりて、やすのりが名簿えさせ給へらんは、さりともよしあるべき事なり。思ふやうありて、たてまつるなりと申しければ、宇治にまゐらせ給ひて、かくこそつかうまつりたれと、申させ給ひけるにこそ、おぼえはつかせ給ひけれとぞきゝ侍りし。まことにやはべりけん。
(卅一)雲のかへし S0404
宇治のおほきおとゞの御むすめは、大殿の一御はらにて、四条の宮になんおはしましける。そのさきに、式部卿のみこの女君をこにしたてまつりて、後朱雀院の御時たてまつらせ給へりしは、こうきでんの中宮〓子と申しき。その御ことはさきに申し侍りぬ。いつしか、みや<うみたてまつりて、あへなくかくれさせ給ひにし、いとかなしく侍りしことぞかし。まことの御むすめならねども、いかにくちをしくおぼしめされけん。秋のあはれいかばかりかはかなしく侍りし。この中宮のうみたてまつり
給へるひめ宮は、祐子の内親王と申しき。長暦二年四月廿一日むまれ給ふ。長久元年裳きし給ひき。延久四年御ぐしおろし給ふ。のちに二品の宮と申しき。この宮の哥合に、宇治のおほきおとゞの御うた
@ 有明の月だにあれや時鳥たゞひとこゑのゆくかたもみん W049
とよみたまへるなり。大貳三位、
@ 秋ぎりの晴せぬみねにたつ鹿はこゑばかりこそ人にしらるれ W050
とぞよめりける。又〓子の内親王と申すこそは、この中宮うみおき給へる宮におはしませ。寛徳三年三月、かものいつきと申しき。天喜六年御なやみによりていで給ふ。みまさかのごが、ありしむかしのおなじこゑかとよめるは、この宮のいつきのころ侍りて、思いだして侍りけるになん。このみやいつきときこえけるころ、本院のあさがほをみ給ひて、
@ 神がきにかゝるとならばあさがほのゆふかくるまで匂はざらめや W051
と侍るもいとやさしく、宇治殿のまことの御むすめ、四条のみやにおはします。後冷泉院の中宮寛子と申す。永承元年うちへまゐり給ひて、同六年皇后宮にたち給ふ。御とし
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十六、治暦四年四月に、中宮と申す。同十二月に、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅二、天喜四年皇后宮にて、うたあはせせさせ給ふに、堀川の右のおとゞ、雲のかへしのあらしもぞふくなどよみ給此たびなり。また御身にもえさせ給へりけるみちにこそ侍るめれ。女房のまゐらむと申しけるほどに、身まかりけるをきかせ給ひて、
@ くやしくぞきゝならしけるなべてよの哀とばかりいはまし物を W052
とよませたまひけん。いとなさけおほくなん。宇治殿のかぎりにおはしましけるに、おほ殿のおぼしめさん事、おほせられおかせ給へと申させ給ひければ、宇治とみやとゝぞ、おほせられける。宇治とは平等院の御だうの事、宮とは四条宮の御事也。かくて候はんずれば、御堂の事、宮の御事は、おぼつかなくおぼしめすこと、つゆはべるまじきなりとぞよく申させ給ひけるとなん。
(卅二)白河のわたり S0405
たかつかさ殿の御はらの、第二の御こにては大二條殿とておはしましゝ、関白太政大臣教通のおとゞと申しき。御堂の君だちの御なかには、第五郎にやおはしけんかし。さはあれども、宇治殿のつぎに、関白もせさせ給ふ。第二の御こにてぞおはしましゝ。
大臣のくらゐにて五十五年おはしましき。治暦四年四月十七日、後冷泉院の御時、あにの宇治殿の御ゆづりによりて、関白にならせ給ひき。七十三の御としにやありけん。みかどほどなくかはりゐさせ給ひて、後三条院の代のはじめの関白、やがて同月の十九日に更にならせ給ひき。延久二年三月に、太政大臣にのぼらせ給ふ。承保二年九月廿五日にぞ、うせさせ給ひにし。御とし八十あにの宇治殿は申すべきならず。このおとゞも世おぼえなど、とり<”になむおはしましゝ。女御きさきなど、たび<たてまつらせ給ふ。家の賞かぶり給ふ事もたび<にて、御ひきいで物、御馬などたてまつり給ふ。きんだちなど、加階せさせ給ひて、もとより一の人にもをとらずなんおはしましゝ。御うしろみにてたぢまのかみ能通といふが、はか<”しきにてうしろみたてまつりければ、御家のうちも、いと心にくきことおほかりけり。いつのことに侍りけるとかや。おほみあそびに、冬のそくたいに半臂をきさせ給へりけるを、かたぬがせ給ふとき宇治殿よりはじめて、したがさねのみしろくみえけるに、このおとゞひとりは、半臂をき給へりければ、御日記にはべるなるは、予ひとり半臂の衣をきたり。衆人はぢたる色ありとぞ侍るなり。かやうなることもぞおほく侍りける、能通のぬし、宇治殿にまゐりて、
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おまへにめされて、まゐるとてしやくもちてまゐらんとて、蔵人所のみづしさぐりて、しやくもおかれぬみづしかな。衣冠にておまへにまゐるものは、とりてこそまゐることにてあるにと、つぶやきければ殿きかせ給ひて、かくつねにはぢしめらるゝなどぞおほせられける。しやくはそくたいにてぞもつ事にて侍を、とのゐさうぞくにも、ことにしたがひ人によるべきにや。けびゐしなどはつねにもち侍るめり。又たかみつとかきこえし人、たれにあひたてまつりたりけるとかや。車よりおりて、ふところがみをたかくたゝみなして、しやくになしてなんとれりけるとぞ、きゝ侍りし。そくたいにも、かんだちめはなちては、殿上にはもちてのぼり給はぬとかや。おほみやの右のおとゞつねすけの大納言、蔵人頭にていさかひ給ひける時、笏しでうち給ひたりけるより、とゞめられ侍とぞきゝ侍りし。御座のおほひかくなり。さほはとりはなちに侍りけるを鳥羽院の位の御ときにや。殿上人のいさかひ給ひて、そのさをゝぬきてうたんとし給ひけるより、うちつけられたるとなんきこえ侍る。もとなき事もかゝるためしにはじまれるなるべし。その御ざと申すは御倚子とて、殿上のおくのざのかみに、たてられ侍るなる。したんにてつくられて侍るなるを、むかしうだのみかど、まだ殿上人におはしまして、なりひらの中将とすまゐ
とらせ給ひて、かうらんうちをらせ給ひけるを、代々さてのみをれながらこそ侍るなるに、ちかきみよにつくしのひごの守になれりける、なにがしとかやいふ人の、蔵人なりける時、したんのきれとのに申して、そのかうらんのをれたる、つくろはんなどせられけるこそ、をこのことに侍りけれ。かの能通のぬしの、しかありけるすゑなればにや。みちのりといひし少納言の大とこも、ちかくはいみじくこそ、世の中したゝむめりしか。このおとゞ左衛門督など申しけるほどにや。白川に花見にわたり給ふとて、小式部内侍にかくとおほせられければ、
@ 春のこぬ所はなきをしらかはのわたりにのみや花はさくらん W053
と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりてみえ侍れ。和泉式部とかきたるものも侍れば、はゝのよみて侍るにや。
(卅三)はちすの露 S0406
四條の大納言のむすめの御はらに、御こどもおほくおはしましき。太郎にては、山井の大納言のぶいへのきみおはしましき。いとよき人におはしましき。宇治殿は山の井ばかりのこを、えもたぬとぞおほせられける。いかばかりおはしましけるにか。なにごとに
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か侍りけん宇治殿の御ともにおはしけるに、わざとすゑまさんとおぼして、みかへりて、ひさしくものし給ひけるにも、つひにゐたまはざりけるとかやぞきこえ侍りし。いとすゑおはせぬに、つちみかどの右のおとゞのひめぎみをぞやしなひごにて、大殿のきたのまんどころと申しし。二条殿のつぎの御こは、三位侍従信基とておはしましき。また九条の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはか<”しきすゑもおはせぬなるべし。こはたの僧正、ながたにの法印などいふ僧きんだちおはしましき。僧正は小式部の内侍のはらなればにや。うたよみにてこそおはすめりしか。あはずのゝすぐろのすゝきつのぐめば。などいふ哥、撰集にもみえ侍るめり。うせ給ひて後も、上東門院の御ゆめに御らんじける、僧正の御うた、
@ あだにしてきえぬるみとや思ふらんはちすの上の露ぞわがみは W054
とはべりける、浄土に往生し給ふにや。いとたふとき御うたなるべし。法印はあにたちのおなじはらにおはすべし。
(卅四)小野の御幸 S0407
大二条殿の女君は、後朱雀院の女御におはせし、院うせさせ給ひて、七八年ばかり
やありけむ。御ぐしおろし給ひて、十余年ばかりすぎて、うせ給ひにき。長久二年に哥合せさせ給へりしに、良暹法師の人にかはりて、
@ みがくれてすだくかはづのもろ聲にさわぎぞ渡るゐでのうき草 W055
とよめる、この哥合のうたなり。兼長の君は、おのがかげをやともとみるらん。とよみ、永成法師はいのちはことのかずならず。とよめる。かやうのよき哥どもおほく侍り。天喜元年御ぐしおろし給ひて、治暦四年にぞうせさせ給ひにし。こうきでんの女御と申しき。おなじ御時内侍のかみ真子と申ししも、よにひさしくおはしき。第二の御むすめにやおはしけん。三君は後冷泉院の女御にまゐりて、きさきにたち給ひて、皇后宮と申しき。のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、御ぐしおろし給ひてき。猶きさきの位にて、ひえの山のふもと、をのといふさとにこもりゐさせ給ひて、みやこのほかに、おこなひすまし給へりき。雪おもしろくつもりたるあしたに、白河院にみゆきなどもやあらんと思て、ある殿上人、馬ひかせてまゐり給へりけるに、院いとおもしろき雪かなとおほせられて、雪御覧ぜんとおもほしめしたりけるに、馬ぐしてまゐりたる、いみじくかんぜさせ給ひて、御随身のまゐりたりける、ひとり御ともにて、にはかに御幸有りける
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に、北山のかたざまに、わたらせ給ひければその御随身、ふと思よりて、もしをのゝきさきの、山ずみし給ふなどへや、わたらせ給はんずらんと思ひて、かの宮にまうでつかうまつるものにやはべりけん。にはかにしのびてみゆきのけさ侍る、そなたざまにわたらせ給ふ。もしその御わたりなどへや、侍らんずらんと、つげきこえければかの入道のみや、その御よういありて、法花堂に、三昧僧經しづやかによませさせ給ひて、庭のうへいさゝか人のあとふみなどもせず。うちいで十具ばかり有りけるを、なかよりきりてそで廿いださんよういありけるを、もしいりて御らんずることも侍らん。いとみぐるしくやと、女房申しけれど、きりていだし給ひけるに、すでにわたらせ給ひて、はしかくしのまに、御車たてさせ給ひてかくとやはべりけん。さやうに侍りけるほどに、かざみきたるわらは二人、ひとりはしろがねのてうしに、みきいれてもてまゐり、いま一人はしろがねのをしきに、こがねのさかづきすゑて、大かうし御さかなにて、いだし給へりければ御ともの殿上人、とりてまゐりて、いとめづらしき御よういにはべりけり。かへらせ給ひてのち、かしこくうちを御らんぜで、かへらせ給ひぬなど、ごたち申しければ雪見にわたり給ひて、いり給ふ人やはあるとぞのたまはせける。月と雪ともきこえ
はべり。さて院より御つかひありて、いとこゝろぐるしく、おもひやりたてまつるに、うちいでなどこそよういして、有がたくもたせ給へりけれとて、みのゝくにとかや御庄の券たてまつらせ給へりければまゐりつかうまつる、をとこをんな。これかれのぞみけれど、みゆきつげきこえける随身に、あづけたまひけるとぞきゝ侍りし。そのとねりの名はのぶさだとかや。殿上人はなにがしの弁とかや。たしかにもきゝ侍らざりき。そのをのゝてらなどは猶のこりて三昧おこなふ僧も、まだかすかにはべるなり。きさきまだおはしましけるをり、ゆふだちのそら物おそろしく、なる神おどろ<しかりけるに、御經よみて、ゐさせ給へりけるを、かみおちて、御經などもかみの所ばかりはやけて、もじはのこり、御身には露のこともおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましきことゝぞきゝ侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、浄土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二条殿の君だちかくなり。
(卅五)薄花桜 S0408
むかしは世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御のうなどはつぎのことにて、ちかき世の関白には、大殿とてをぢの大二条殿のつぎに、一の人
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におはしましゝぞ、御みめもよく、御心ばへもすゑさかえさせ給ふことも、すぐれておはしましゝか。その御名は、もろざねとぞきこえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈従二位藤原の祇子と申しき。四条の宮とひとつ御はら也。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、内覧の宣旨かぶり給ひて十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に関白にならせ給ひき。御とし三十四、白河院の御時なり。大将はのかせたまひて、御随身猶たまはらせ給ひて、手車の宣旨かぶらせ給ふ。承暦四年十月に、太政大臣のかみにつらなり給ふべき宣旨ありき。堀川院くらゐにつかせ給ひし日摂政にならせ給ふ。同四年うとねり随身たまはり給ふ。寛治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年摂政の御名はかはりて、関白と申ししかども、猶つかさめしなどのことは、おなじことなりき。嘉保元年三月関白のかせ給ひても、御随身はもとのやうにつかはせ給ひき。同三年正月なかのへのてぐるまの宣旨ありき。康和三年正月廿九日、御ぐしおろさせ給ふ。二月十三日、宇治にてうせさせ給ふ。御とし六十におはしましき。大殿と申し、又のちのうぢの入道殿とも、又京極殿とも申すなるべし。寛治八年、高陽院にて哥合せさせ給ひし時の哥よみども、
昔にもはぢぬ御あそびなるべし。ちくぜんのごのうすはなさくらの哥、まさふさの中納言の、白雲とみゆるにしるし、といふ哥にまけ侍りしを殿より、
@ しら雲はたちかくせどもくれなゐのうすはなざくら心にぞしむ W056
とおほせられたりしかば、ちくぜんのごの御かへしたてまつるに、
@ 白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば W057
と申したりし、いとやさしくこそ侍りしか。御心ばへなどのなつかしく、おはしましけるにこそ。御まり御らんぜさせ給ひけるに、もりながあはぢのかみといひしを、ことのほかにほめさせ給ひけるほどに、しなのゝかみゆきつなも、心にはをとらず思て、うらやましくねたくおもひけるに、御あしすまさせ給ひけるに、つみたてまつるやうにたび<しければいかにかくはとおほせられければ、まりもみしらぬはぎのといひつゝ、あらひまゐらするを、ゆきつなもよしとぞおほせられける。御かへりごとに、こそ<となでたてまつりける、もとのさるがうなれども、ものこちなきしうには、さもえまさじかしとおぼえて、またもりながのぬし、花ざかりにまりもたせて、うちへまかりけるに、ゆきつなさそひにやりたりければ御ものいみにこもりて、人もなければけふはえまゐらじと、返事しけるをきゝつけさせ
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給ひて、たゞいけとて、うすいろのさしぬきのはりたる、かうのそめぬのなど、をさめ殿よりとりいださせて、にはかにぬはせて、御まり花のえだにつけてみまやの御馬に、うつしおきて、いだしたてゝつかはしければけふこそこのついでに、女にみえめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、つちかたにあみたりけるを、女いへにいれて、あらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬はしりてみまやにたちにけり。あやしくきこしめしけるほどに、ゐかひおひつきてかくと申しければいかにあさましく、をかしくおぼしめしけん。さてしばしは、えさしいでもせざりけるとぞ、きこえ侍りし。
(卅六)波の上の杯 S0409
この大殿のすゑ、ひろくおはしますさまは、をのこ君だち、よにしらずおほくおはしまして、をとこ僧も、あまたおはしますに、御むすめぞおはしまさぬ。六条の右のおとゞの御むすめを、殿の御子とて、白河院の東宮と申しし時より、みやすどころにたてまつり給へりし、賢子の中宮とて、堀川院の御母なり。宮々おほくうみたてまつり給へりき。その
御ことはみかどの御ついでに申し侍りぬ。さて一の人つがせ給ふ。太郎におはしましゝ、のちの二条の関白おとゞの御ながれこそ、いまもつがせ給ふめれ。その御名は関白内大臣師通と申しき。御母は土御門の右のおとゞもろふさと申しし御むすめを、山井の大納言のぶいへと申ししが、こにしたてまつり給へりし御はらなり。永保三年正月廿六日内大臣になり給ふ。御とし廿一、嘉保元年三月九日関白にならせ給ふ。御とし卅三、その三年正月、従一位にのぼらせ給ふ。左大臣のかみにつらなるべき宣旨かうぶり給ふ。承徳三年六月廿八日、御とし卅八にて、うせさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十七年おはしましき。このおとゞ、御心ばへたけく、すがたも御のうも、すぐれてなんおはしましける。御即位などにや侍りけん。匡房の中納言、この殿の御ありさまをほめたてまつりて、あはれこれをもろこしの人にみせ侍らばや。一の人とてさしいだしたてまつりたらんに、いかにほめきこえんなどぞまのあたり申しける。玄上といふびはをひき給ひければ、おほきなるびはの、ちりばかりにぞみえ侍りける。てなどもよくかゝせ給ひけり。うまごの殿などばかりは、おはしまさずやあらん。てかきにおはしましきとぞ、さだのぶのきみは人にかたられける。三月三日曲水宴といふことは、六条殿
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にて、この殿せさせ給ふときこえ侍りき。から人のみぎはになみゐて、あうむのさかづきうかべて、もゝの花の宴とてすることを、東三条にて、御堂のおとゞせさせ給ひき。そのふるきあとを尋ねさせ給ふなるべし。このたびの詩の序は孝言といひしぞかきける。ときゝ侍りし。四十にだにたらせたまはぬを、しかるべき御よはひなり。かぎりある御いのちと申しながら、御にきみのほど、人の申し侍りしは、つねの事と申しながら、山の大衆のおどろ<しく申しけるもむづかしく、世の中心よからぬつもりにやありけんとも申し侍りき。
(卅七)宇治の川瀬 S0410
後の二条殿の御つぎには、ちかくふけ殿とておはしましゝ、入道おとゞおほぢの大殿、御こにしまさせ給ふときこえ給ひき。御母は大宮の右のおとゞの御むすめなり。このおとゞの御名はたゞざねとぞきこえ給ひし。康和元年閏九月廿八日、内覧の宣旨かぶり給ひき。御とし廿二、同二年七月十七日、右大臣にならせたまひき。大将も猶かけさせ給へりき。天永三年十二月十四日、太政大臣になり給ひき。はじめは宇治のかはせなみしづかにて、白河の水へだてなくおはしましゝかば、ふけ殿つくり
給ひて、院わたらせ給ひけるに、宇治川にあそびのふね、うたうたひて、なみにうかびなどして、いとおもしろくあそばせ給ひけり。盛定といひしをとこ、うたうたひ、その時こうたうなどいひしふねにのりぐして、うたつかうまつりけるとかや。そのたび人々に、哥よませさせ給はざりけるをぞ、くちをしくなど申す人もありける。かやうの所にわたらせ給ひて、なにとなき御あそびも、ふるきあとにもにぬ御心なるべし。かやうにてすぎさせ給ひしに、保安元年十一月十二日にやありけん。夜をこめて院よりとて堀川のおとゞにはかにまゐり給へと御つかひありて、おとゞ内覧とゞむべきよしを、おほせくだし給ひけり。白川院うせさせ給ひて、鳥羽院世しらせ給ひし時にぞふけよりいでさせ給ひし。待賢門院をさなくおはしましゝを、白川院やしなひたてまつり給ひて、鳥羽院くらゐにおはしましゝ、女御にたてまつり給ふほどに、入道おほきおとゞの御むすめ、女御にたてまつらんと、せさせ給ふときこゆるによりて、関白うちとめ申させ給ふとぞきこえ侍りし。白川院の御よに、きさきみやす所などかくれさせ給ひて、さるかた<”もおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば、やしなひたてまつりたまひて院も御むすめとて、もてなしきこえさせ給ひし也。その白川殿
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あさましき御すぐせおはしける人なるべし。宣旨などはくだされざりけれども、世の人はぎをんの女御とぞ申すめりし。もとよりかの院の、うちのつぼねわたりにおはしけるを、はつかに御らんじつけさせ給ひて三千の寵愛、ひとりのみなりけり。たゞ人にはおはせざるべし。かもの女御と世にはいひてうれしきいはひをとて、あねおとうとのちにつゞきて、きこえしかば、それはかのやしろのつかさ、重助かむすめどもにて、女房にまゐりたりしかば、御めちかゝりしを、これははつかに御らんじつけ