曾我物語 国民文庫本
凡例
底本:国民文庫「曾我物語」 明治44年

章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。P+ページ数(3桁)。
語句を他本を参照して改めた箇所があります。
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。

曾我物語
P049曾我物語巻第一
 〔神代の始まりの事〕S0101N001
 夫れ、日域秋津島は、是、国常立尊より事起こり、■土■・沙土■、男神・女神を始めとして、伊弉諾・伊弉冉尊まで、以上天神七代にて渡らせ給ひき。又、天照大神より、彦波瀲武■■草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜を送り給ふ。然るに、神武天皇と申し奉るは、葺不合の御子にて、一天の主、百皇にも始めとして、天下を治め給ひしより此の方、国土を傾け、万民の恐るる謀、文武の二道にしくは無し。好文の族を寵愛せられずは、誰か万機の政を助けむ。又は、勇敢の輩を抽賞せられずは、如何でか四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の大宗文皇帝は、瘡をすひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。然る間、本朝にも、中頃より、源平両氏を定め置かれしより此の方、武略を振るひ、朝家を守護し、互ひに名将P050の名を現し、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。是清和の後胤、又桓武の累代なり。然りと雖も、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃をかみ、鋒先を争ふ志、とりどり也。
 〔惟喬・惟仁の位争ひの事〕S0102N002
 抑、源氏と言つぱ、桓武天皇より四代の皇子を田村の御門と申しけり。皇子二人御座します。第一、惟喬の親王と申す。帝殊に御志思し召して、東宮にも立て、御位を譲り奉らばやと思し召されける。第二の御子をば、惟仁の親王と申しき。未だ幼く御座します。御母は染殿の関白忠仁公の御娘也ければ、一門の公卿、卿相雲客共まで愛し奉る。是も又、黙し難くぞ思し召されける。彼は継体あひふんの器量也。是は、万機ふいの臣相なり。是を背きて、宝祚を授くる物ならば、用捨私有りて、臣下唇を翻すに依りて、御位を譲り奉るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子達を引き具し奉り、右近の馬場へ行幸成る。月卿雲客、花の袂を重ね、玉の裙を連ね、右近の馬場、供奉せらる。此の事、希代の勝事、天下の不思議とぞ見えし。御子達P051も、東宮の浮沈、是に有りと見えし。然れば、様々の御祈り共有りける。惟喬の御祈りの師には、柿本の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、我が山の住侶に、恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人にてぞ渡らせ給ひける。西塔の平等坊にて、大威徳の法をぞ行ひける。既に競馬は、十番の際に定められしに、惟喬の御方に、続けて四番勝ち給ひけり。惟仁の御方へ心を寄せ奉る人々は、汗を握り、心を砕きて、祈念せられける。惟仁の御方へは、右近の馬場より、天台山平等坊の壇上へ、御使ひ馳せ重なる事、只櫛の歯を引くが如し。「既に御方こそ、四番続けて負けぬれ」と申しければ、恵亮、心憂く思はれて、絵像の大威徳を逆様に掛け奉り、三尺の土牛を取りて、北向きに立て、行はれけるに、土牛躍りて、西向きになれば、南に取りて押し向け、東向きになれば、西に取りて押し直し、肝胆を砕きて揉まれしが、猶居兼ねて、独鈷を以て、自ら脳をつき砕きて、脳を取り、罌粟に混ぜ、炉に打ちくべ、黒煙を立て、一揉み揉み給ひければ、土牛たけりて、声を上げ、絵像の大威徳、利剣を捧げて、振り給ひければ、所願成就してげりと、御心述べ給ふ所に、「御方こそ、六番続けて勝ち給ひ候へ」と、御使ひ走り付きければ、喜悦の眉を開き、急ぎ壇をぞ下りられける。有り難しP052瑞相なり。然れば、惟人の親王、御位に定まり、東宮に立たせ給ひけり。然るに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に即き、そんゑ剣を振り給へば、菅丞霊をたれ給ふ」とぞ申しける。是に依りて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひたる。御子も、都へ御帰り無くして、比叡山の麓小野と言ふ所に閉ぢ籠らせ給ひける。頃は神無月末つ方、雪げの空の嵐にさえ、しぐるる雲の絶間無く、都に行き交ふ人も稀なりけり。況や小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れ也。此処に、在五中将在原の業平、昔の御契り浅からざりし人也ければ、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く御跡を尋ね参りて、見参らすれば、孟冬移り来たりて、紅葉嵐に絶え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折に任せ、人目も草も枯れぬれば、山里いとど寂しきに、皆白妙の庭の面、跡踏み付くる人も無し。御子は、端近く出でさせ給ひて、南殿の御格子三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ、珍しげにや、「春は青く、夏は茂り、秋は染め、冬は落つる」と言ふ、昭明太子の、思し召し連ね、「香爐峰の雪をば、簾を掲げて見るらん」と、御口ずさみ給ひけり。中将、此の有様を見奉るに、只夢の心地せられける。近く参りて、昔今の事共申し承るに付けても、御衣の御袂、絞りも敢へさせ給はず、鳥飼の院の御遊幸、交野の雪の御鷹狩まで、思し召し出でP053られて、中将かくぞ申されける。忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは W001御子も取り敢へさせ給はで、返り、夢かとも何か思はん世の中を背かざりけん事ぞ悔しき W002かくて、貞観四年に、御出家渡らせ給ひしかば、小野宮とも申しけり。又は、四品宮内卿宮とも申しけり。文徳天皇、御年三十にて、崩御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて、御譲りを受け給ふ。清和天皇の御事、是なる。後には、丹波の国水尾の里に閉ぢ籠らせ給ひければ、水尾帝とぞ申しける。皇子数多御座します。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三をていけい親王、第四を貞保親王、此の皇子は、御琵琶の上手にて御座します。桂の新王とも申しけり。鏨を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む、此の御子の御事なり。今のしけのこの先祖なり。第五を貞平親王、第六を貞純親王とぞ申しける。六孫王、是なり。然れば、彼の親王の嫡子、多田の新発意満仲、其の子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田の法眼とて、山法師にて、三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、其の子伊予入道頼義、其の嫡子八幡太郎義家、其の子但馬守義親、次男河内の判官義忠、三男式部の太夫義国、四男六条の判官為義、其の子左馬の頭義朝、其の嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮の大夫進朝長、三男右近衛の大将頼朝P054の上越す源氏ぞ無かりける。此の六孫王より此の方、皇氏を出でて、始めて源の姓を賜はり、正体をさりて、長く人臣に連なり給ひて後、多田の満仲より、下野守義朝に至るまで七代は、皆諸国の竹符に名を掛け、芸を将軍の弓馬に施し、家にあらずして、四海を守りしに、白波猶越えたり。然れば、各々剣を争ふ故に、互ひに朝敵に成りて、源氏世を乱せば、平氏勅宣を以て、是を制して朝恩に誇り、平将国を傾くれば、源氏しよめいに任せて、是を罰して、勲功を極む。然れば、近頃、平氏長く退散して、源氏自づから世に誇り、四海の波瀾を治め、一天のはうきよ定めしより此の方、りらくりんゑたかいいて、吹く風の声穏やか也。然れば、叡慮を背くせいらうは、色を雄剣の秋の霜にをかされ、てこそをみたすはしは、音を上弦の月に澄ます。是、偏に羽林の威風、先代にも越えて、うんてうの故也。然るに、せいしをひそめて、せいとの乱れを制し。私曲の争ひを止めて、帰伏せらるるは無かりけり。
 〔伊東を調伏する事〕S0103N006P055
 此処に、伊豆の国の住人、伊東の二郎祐親が孫、曾我の十郎祐成、同じく五郎時致と言ふ者有りて、将軍の陣内も憚らず、親の敵を打ち取り、芸を戦場に施し、名を後代に止めけり。由来を詳しく尋ぬれば、即ち一家の輩、工藤左衛門祐経なり。例へば、伊豆の国伊東・河津・宇佐美、此の三ケ所をふさねて、■美庄と号するの本主は、■美の入道寂心にてぞ有りける。在国の時は、工藤大夫祐隆と言ひけり。男子数多持ちたりしが、皆早世して、遺跡既に絶えんとす。然る間、継女の子を取り出だし、嫡子に立てて、伊東を譲り、武者所に参らせ、工藤武者祐継と号す。又、嫡孫有り、次男に立てて、河津を譲り、河津二郎と名乗らせ、然る間、寂心他界の後、祐親思ひけるは、我こそ、嫡々なれば、嫡子に、異姓他人の継女の子、此の家に入りて、相続するこそ、安からねと思ふ心付きにけり。是、誠に神慮にも背き、子孫も絶えぬべき悪事なるをや。仮令他人なりと言ふとも、親養じて譲る上は、違乱の義有るべからず。まして、是は、寂心、内々継女のもとに通ひて、設けたる子也。誠には兄なり。譲りたる上、争ふ事、無益の由、余所余所にも申し合ひけり。然れども、祐親止まらで、対決度々に及ぶと雖も、譲状を捧ぐる間、伊東が所領に成りて、河津は負けてぞ下りける。其の後、上に親しみながら、内々安からぬ事にぞ思ひける。然れども、P056我が力には適はで、年月を送り、或る時、祐親、箱根の別当を秘かに呼び下し奉り、種々にもてなし、酒宴過ぎしかば、近く居寄り、畏まりて申しけるは、「予てより知ろし召されて候ふ如く、伊東をば、嫡々にて、祐親が相継ぎ候ふべきを、思はずの継女の子来たりて、父の墓所、先祖の重代の所領を横領仕る事、余所にて見え候ふが、余りに口惜しく候ふ間、御心をも憚らず、申し出だし候ふ。然るべくは、伊東武者が二つ無き命を、立所に失ひ候ふ様に、調伏有りて見せ給へ」と申しければ、別当聞き給ひて、暫く物も宣はず、やや有りて、「此の事、よくよく聞き給へ。一腹一生にてこそ坐しまさね、兄弟なる事は眼前也。公方までも聞こし召し開かれ、既に御下知をなさるる上は、隔ての御恨みは、然る事にて候へども、忽ちに害心を起こし、親の掟を背き給はん事、然るべからず。神明は、正直の頭に宿り給ふ事なれば、定めて天の加護も有るべからず、冥の照覧も恐ろし。其の上、愚僧は、幼少より、父母の塵欲を離れ、師匠のかんしんに入りて、所説の教法を学し、円頓止観の門をのぞみ、一ねんまいに、稼穡の艱難を思ひ、一度切る時、紡績の辛苦を忍ぶ。三衣を墨に染め、鬢髪をまろめ、仏の遺願に任せ、五戒を保ちしより此の方、物の命を殺す事、仏殊に戒め給ふ。然れば、衆生の身の中には、三身仏性とて、P057三体の仏の坐します。然るに、人の命を奪はん事、三世の諸仏を失ひ奉るに同じ。諸々以て、思ひ寄らざる事なり」とて、箱根に上り給ひけり。河津は、なまじひなる事申し出だして、別当、承引無かりければ、其の後、消息を以て、重ね重ね申しけれども、猶用ひ給はず。如何せんとて、秘かに箱根に上り、別当に見参して、近く居寄りて、ささやきけるは、「物其の身にては候はねども、昔より師檀の契約浅からで、頼み頼まれ奉りぬ。祐親が身におきて、一生の大事、子々孫々までも、是にしくべからず候ふ。再往に、申し入れ候ふ条、誠に其の恐れ少なからず候へども、彼の方へ返り聞こえなば、重ねたる難儀、出で来たり候ふべし。然ればにや、浮沈に及び候ふ」と、くれぐれ申しければ、始めは、別当、大きに辞退有りけるが、誠に檀那の情もさり難くして、おろおろ領状有りければ、河津、里へぞ下りける。別当、そき無き事ながら、檀那の頼むと申しければ、壇を立て、荘厳して、伊東を調伏せられけるこそ、恐ろしけれ。始め三日の本尊には、来迎の阿弥陀の三尊、六道能化の地蔵菩薩、檀那河津次郎が所願成就の為、伊東武者が二つ無き命を取り、来世にては、観音・勢至、蓮台を傾け、安養の浄刹に引接し給へ、片時も、地獄に落とし給ふなと、他念無く祈られけり。後七日の本尊には、烏蒭沙摩金剛とかう童子、五大明王の威験殊勝なるを、P058四方に掛けて、紫の袈裟を帯し、種々に壇を飾り、肝胆を砕き、汗をものごはず、面をもふらず、余念無くこそ祈られけれ。昔より今に至るまで、仏法護持の御力、今に始めざる事なれば、七日に満ずる寅の半ばに、伊藤武者がさかんなる首を、明王の剣の先に貫き、壇上に落つると見/て、さては威験現れたりとて、別当、壇を下り給ふ、恐ろしかりし事共也。
 〔同じく伊東が死する事〕S0104N007
 伊東武者、是をば夢にも知らで、時ならぬ奥野の狩して遊ばんとて、射手を揃へ、勢子を催し、若党数相具して、伊豆の奥野へぞ入りにける。頃しも、夏の末つ方、峰に重なる木の間より、村々に靡くは、さぞと見えしより、思はざる風にをかされて、心地例ならずわづらひ、志す狩場をも見ずして、近き野辺より帰りけり。日数重なる程に、いよいよ重くぞなりにける。其の時、九つになりけるかないしを呼び寄せて、自ら手を取り、申しけるは、「如何に己、十歳にだにもならざるを、見捨てて死なん事こそ、悲しけれ。生死限り有り、逃るべからず。汝を、誰哀れみ、誰育みて育てん」と、さめざめと泣きP059けり。かないしは幼ければ、只泣くより外の事は無し。女房、近く居寄り、涙を抑へて言ひけるは、「適はぬ浮き世の習ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待ち給へかし。然ればとて、数多有る子にもあらず、又、かけこ有る中の身にても無し。如何はせん」と、歎きけるこそ、理なれ。此処に、弟の河津の次郎祐親が、訪ひ来たりけるが、此の有様を見/て、近く居寄り、申しけるは、「今を限りとこそ、見えさせ給ひて候へ。今生の執心を御止め候ひて、一筋に後生菩提を願ひ給へ。かないし殿においては、祐親かくて候へば、後見し奉るべし。努々疎略の義有るべからず。心安く思ひ給へ。然ればにや、史記の言葉にも、「昆弟の子は、なほし己が子の如し」と見えたり。如何でか愚かなるべき」と申しければ、祐継、是を聞き、内に害心有るをば知らで、大きに喜び、かき起こされ、人の肩にかかり、手を合はせ、祐親を拝み、やや有りて、苦しげなる息を付き、「如何に候ふ。只今の仰せこそ、生前に嬉しく覚え候へ。此の頃、何と無く下説について、心よからざる事にて坐しまさんと存ずる所に、斯様に宣ふこそ、返す返すも本意なれ。然らば、かないしをば、偏にわ殿に預け奉る。甥なりとも、実子と思ひ、娘数多持ち給ふ中にも、万刧御前に合はせて、十五にならば、男に成し、当庄のほんけん小松殿の見参に入れ、わ殿の娘P060とかないしに、此の所をさまたげ無く知行せさせよ」とて、伊東の地券文書取り出だし、かないしに見せ、「汝にぢきに取らすべけれども、未だ幼稚なり。いづれも親なれば、愚か有るべからず。母に預くるぞ。十五にならば、取らすべし。よくよく見置け。今より後は、河津殿を、叔父なりとも、誠の親と頼むべし。心おきて、にくまれ奉るな。祐継も、草の陰にて、立ち添ひ守るべし」とて、文書母が方へ渡し、今は心安しとて、打ち伏しぬ。かくて、日数の積もり行けば、いよいよ弱りはてて、七月十三日の寅の刻に、四十三にて失せにけり。哀れなりし例なり。弟の河津の次郎は、上には歎く由なりしかども、下には喜悦の眉を開き、箱根の別当の方をぞ拝みける。一旦猛悪は、勝利有りと雖も、遂には子孫にむくふ習ひにて、末如何とぞ覚えける。やがて、河津が、我が家を出で、伊東の館に入り代はり、内々存ずる旨有りければ、兄の為、忠有る由にて、後家にも子にも劣らず、孝養を致す。七日七日の外、百ケ日、一周忌、第三年に至るまで、諸善の忠節をつくす。人是を聞き、「神をまつる時は、神のます如くにせよ。使ふる時は、生に使ふる如くなれ」とは、論語の言葉なるをやと感じけるぞ、愚かなる。さて、かないしには、心安き乳母を付けてぞ、養じける。遺言違へず、十五にて元服させ、うすみの工藤祐経と号す。やがて、娘万刧に合はせ、P061其の秋、相具して、上洛し、即ち、小松殿の見参に入れ、祐経をば、京都に止めおき、我が身は、国へぞ下りける。其の後、かひがひしき侍の一人も付けず、おとなしき物も無し。所帯におきては、祐親一人して横領し、祐経には、屋敷の一所をも配分せざりけり。誠や、文選の言葉に、「徳をつみ、行をけぬる事、其の善を知らず、然れども時に用ひる事有り、義を捨て、理を背く事、其の悪を知らざれども、時に滅ぶる事有り。身の危ふきは、勢の過ぐる所と成り、禍の積もるは、寵のさかんなるを越えてなり」。然れども、祐経は、たれをしゆるとも無きに、公所を離れず、奉行所におきて、身を打たせ、沙汰になれける程に、善悪を分別して、理非を迷はず、諸事に心を渡し、手跡普通に過ぎ、和歌の道を心に懸け、酣暢の筵に推参して、其の衆に連なりしかば、伊東の優男とぞ召されける。十五歳より、武者所に侍つて、礼儀正しくして、男がら尋常なりければ、田舎侍とも無く、心にくしとて、二十一歳にして、武者の一郎をへて、工藤一郎とぞ召されける。
 〔伊東の二郎と祐経が争論の事〕S0105N008P062
 かくて、二十五まで、給仕怠らざりき。此処に、思はずに、田舎の母、一期つきて、形見に、父が預け置きし譲状を取り添へて、祐経がもとへぞ上せたりける。祐経、是を披見して、「こは如何に、伊豆の伊藤と言ふ所をば、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何に依つて、叔父河津の二郎、相続して、此の八か年が間、知行しける。いざや冠者原、四季の衣がへさせん」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右無く暇を賜はらざりけり。然らばとて、代官を下して、催促を致す。伊東、是を聞き、「祐親より外に、またく他の地頭無し」とて、冠者原を放逸に追放す。京より下る者は、田舎の子細をば知らで、急ぎ逃げ上り、一臈に此の由を訴ふ。「其の儀ならば、祐経下らん」とて、出で立ちけるが、案者第一の者にて、心をかへて思ひけるは、人の僻事すると言ふを聞きながら、我又下りて、劣らじ、負けじとせん程に、勝る狼藉引き出だし、両方得替の身となりぬべし、其の上、道理を持ちながら、親方に向かひ、意趣を込めん事、詮無し、祐経程の者が、理運の沙汰にまくべきにあらず、田舎より彼の仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめと思ひ、あたる所の道理、差し詰め差し詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て、伊東を京都に召し上せ、事のちきやうなる時こそ、田舎にて、横紙をも破り、ちやうちやく共P063言ひけれ、院宣を成し、重ねてからく召されければ、一門馳せ集まり、案者・口聞き寄り合ひ、伴ひ談すると雖も道理は一つも無かりけり。祐継存生の時より、執心深くして、如何にも此の所を、祐親が拝領にせんと、多年心に懸け、既に十余年知行の所なり。一期の大事と、金銀を調へ、秘かに奉行所へぞ上せける。誠や、文選の言葉に、「青蝿も、すひしやうを汚さず、邪論も、くの聖を惑はず」とは申せども、奉行のめづるも、理也。漢書を見るに、「水いたつて清ければ、底に魚住まず。人いたつてせんなれば、内に徒も無し」と見えたり。然ればにや、奉行、誠に宝重くして、祐経が申状、立たざる事こそ、無念なれ。月は明らかならんとすれども、浮雲是をおほひ、水はすまんとすれども、泥沙是を汚す。君賢なりと雖も、臣是を汚す理に依つて、本券、箱の底にくちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申状を奉行所に捧ぐ。其の状に曰く、伊豆の国の住人伊東工藤一郎平の祐経、重ねて言上、 早く、御裁許を蒙らんと欲する子細の事。右件の条、祖父■美の入道寂心他界の後、親父伊東武者祐継、舎弟祐親、兄弟の中、不和なるに依つて、対決度々に及ぶと雖も、祐継、当腹寵愛たるに依つて、安堵の御下し文を賜はつて、P064既に数ケ年をへ畢んぬ。此処に、祐継、一期限りの病の床にのぞむきざみ、河津の二郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来たる。其の時、祐経は、生年九歳也き。叔父河津の二郎に、地券文書、母共に預け置きて、八か年の春秋を送る。親方にあらずは、しこうのしんと申すべきや。所詮、世のけいに任せ、伊東の二郎に賜はるべきか、又祐経に賜はるべきか、相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて、誠惶誠恐、言上件の如く。仁安二年三月日平の祐経と書きてさうさう。ししよに、此の状を披見有りて、差しあたる道理にわづらひけるよと、人々寄り合ひ、内談す。誠に、祐経が申状、一つとして僻事無し。是は裁許せずは、憲法にそねまれなん。又、伊東宝を上せて、万事奉行を頼むと言ふ。然れども、祐経は、左右無く理運たる間、奉行所のはからひとして、よの安堵の状二書きて、大宮の令旨を添へ、りやうへ下さる。伊東は、半分也とも賜はる所、奉行の御恩と喜びて、本国へぞ下りける。書は言葉をつくさず、言葉は心をつくさずと雖も、一郎は、言葉を失ひ、十五より、本所に参り、日夜朝暮、給仕を致し、今年八年か九年かと覚ゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ、先祖所領を半分召さるる事そも何事ぞ、「源濁れる時は、清からんをのぞみ、P065形ゆがめる時は、影のどかならんを思ふ」と、かたに見えたり、父祐継が世には、斯様によも分けじ、今なんぞ半分の主たるべきや、是偏に親方ながら、伊東が致す所なり、我が身こそ、京都にすむとも、せんこは皆、弓矢取りの遺恨なり、如何でか、此の事恨みざるべきとて、秘かに都を出でて、駿河の国高橋と言ふ所に下り、きつかひ・船越・おきの・蒲原・入江の人々、外戚につきて、親しかりければ、二百四人寄り合ひて、祐親打ちて、領所を一人して進退せんと思ふ心、付きにけり。此の儀、神慮も量り難し。例へば、差しあたる道理は、顕然たりと雖も、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行をたくむ事、いとう昔をも思ひ、てんしゆか古も尋ぬべき。第一に叔父なり、第二に養父也、第三に舅なり、第四に烏帽子親なり、第五に一族中の老者なり、方々以て、愚かならず。斯様に思ひ立つぞ、恐ろしき。如何にも思慮有る人に候ふや。剰へ地領を奪はん事、不可思議なり。祐親、是を返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊藤九郎祐清、其の外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばす。是や、富貴にして、善を成し安く、貧賎にして、工を成し難しと、今こそ思ひ知られたり。其の後、伊東の二郎、此の事有りの儘に京都へ訴へ申して、長く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当におきては、芥子程も残らず、横領する間、祐経、身の置き所無くP066して、又、京都に帰り上り、秘かに住す。伊東に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、祐経が妻女取り返し、相模の国の住人土肥の二郎実平が嫡子弥太郎遠平に合はせけり。国には又、並ぶ者無くぞ見えたり。然れども、「功賞無き不義の富は、禍の媒」と、左伝に見えたり。然れば、行く末如何とぞ覚えし。工藤一郎は、なまじひの事を言ひ出だして、叔父に中を違はれ、夫妻の別れ、所帯は奪はれ、身を置き兼ねて、胆をやきける間、給仕も疎略になりにけり。然ればにや、御気色も悪しく、傍輩も、側目に懸けければ、積鬱たゑすかと思ひ焦がれて、秘かに本国に下り、大見庄に住して、年頃の郎等に、大見の小藤太、八幡の三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々、つぶさに聞け。相伝の所領を横領せらるるだにも、安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥の弥太郎に合はせらるる条、口惜しきとも、余り有り。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。現れては、せん事適ふまじ。我又、便宜を窺はば、人に見知られて、本意を遂げ難し。然ればとて、止まるべきにもあらず。如何せん、各々さりげなくして、狩すなどりの所にても、便を窺ひ、矢一つ射んにや、もし宿意を遂げんにおきては、重恩、生々世々にも、報じて余り有り。如何せん」とぞくどきけり。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「是までも、仰せらるべからず。弓矢を取り、P067世を渡ると申せども、万死一生は、一期一度とこそ承れ。然れば、古き言葉にも、「功は成し難くして、しかも破れ安き、時はあひ難くして、しかも失ひ安し」。此の仰せこそ、面目にて候へ。是非命におきては、君に参らする」とて、各々座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささか此の儀を知らざるこそ、悲しけれ。
 〔佐殿、伊東の館に坐します事〕S0106N010
 かくて、隙を窺ふ程に、其の頃、兵衛佐殿、伊東の館に坐しましけるに、相模の国の住人大庭の平太景信と言ふ者有り。一門寄り合ひ、酒もりしけるが、申しけるは、「我等は、昔は、源氏の郎等也しかども、今は、平家の御恩を以て、妻子を育むと雖も、古のこう、忘るべきにあらず。いざや、佐殿の、いつしか流人として、徒然に坐しますらん。一夜、宿直申して、慰め奉り、後日の奉公に申さん」「もつとも然るべし」とて、一門五十余人、出で立ちたり。人別筒一あてぞ持ちにける。是を聞き、三浦、鎌倉、土肥の二郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の人々、思ひ思ひに出で立ちにけり。然る程に、近国の侍、聞き伝へ、「我も如何でかP068逃るべき。いざや参らん」とて、相模の国には、大庭が舎弟三郎、俣野の五郎、さこしの十郎、山内滝口の太郎、同じく三郎、海老名の源八、荻野五郎、駿河の国には、竹下の孫八、合沢の弥五郎、吉川、船越、入江の人々、伊豆の国には、北条の四郎、同じく三郎、天野の藤内、狩野の工藤五を始めとして、むねとの人々五百人、伊豆の伊東へぞ移りける。伊東、大きに喜びて、内外の侍、一面に取り払ひ、猶狭かりなんとて、壼に仮屋を打ち出だし、大幕引き、上下二千四五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥の二郎、是を見/て、「雑掌は、百人二百人までは安し。既に二三千人の客人を一人に預くる事、無骨なり」と言ふ。伊東、是を聞き、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰に、我が劣りて振舞ひし。ましてや、■美庄をふさねて持ち候ふ間、予て承る物ならば、などや面々に引出物申さで有るべき。是程の事、何かは苦しかるべき」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名の源八の申しけるは、「斯かる寄り合ひに参るべしと存じて候はば、国より勢子の用意して、音に聞こゆる奧野に入り、物頭に馬相付け、鏑のとほなりさせざるが、無念なり」と言ひければ、伊東、是を聞き、「祐親を人と思ひてこそ、両三日国の人々打ち寄りて、遊び給ふらめ。左右無く、座敷にて、勢子の願ひやうこそ、心狭けれ。それそれ河津の三郎、勢子催して、鹿P069射させ申せ」と言ひけるぞ、伊東の運の極めなる。河津は、もとより穩便の者にて、心の内には、殺生を禁ずる人なりければ、如何にもして、此の度の狩を申し止めなば、よからましと思へども、多き侍の中にて、親の申す事なれば、力及ばで、座敷を立ち、我と勢子をぞ催しける。「幼き者は、馬に乗りて出でよ。大人は、弓矢をもて」とふれければ、■美庄ひろくして、老若に三千四五百人ぞ出でたりける。彼等を先として、三が国の人々、我も我もと打ち出でたり。伊東・河津が妻女、数の女房引きつれて、南の中門に立ち出でて、打ち出でける人々を見送りける。中にも、河津三郎は、余の人にもまがはず、器量骨柄すぐれたり。「此の内のたいしんと言ひたりとも、悪しからじ。子ながらも、優に見ゆる物かな。頼もし」と宣ひければ、河津が女房、是を聞き、「弓矢取りの物いでの姿、女見送る事、詮無し。内に入らせ給へ」と言ひければ、実にもとて、各々内にぞ入りにける。神無月十日余りに、伊豆の奥野へ入りにけり。
 〔大見・八幡が伊東狙ひし事〕S0107N011
 此処に、祐経が二人の郎等大見・八幡は、是を聞き、斯様の所こそ、よき便宜P070なれ、いざや、我等、便りを狙はんと、各々、柿の直垂に、鹿矢さけたる竹箙取りて付け、白木の弓のいよげなるを打ちかたげ、勢子にかきまぎれ、狙ふ所々は、一日は柏峠、熊倉、二日は荻窪、椎沢、三日は長倉が渡り、朽木沢、赤沢峰を始めとして、七日が間、つきめぐりてぞ狙ひける。然れども、伊藤、国一番の大名にて、家の子郎等多かりければ、たやすく討つべき様ぞ、無かりける。
 〔杵臼・程嬰が事〕S0108N012
 此の者共が、心をつくしける有様にて、昔を思ふに、大国に、かうめひ王と言ふ国王有り、国を争ひて、並びの国の王と軍し給ふ事、度々なり。然るに、かうめい王、戦ひ負けて、自害に及ばんとす。時に、杵臼・程嬰とて、二人の臣下有り。彼等を近付けて、「汝等は、定めて、我と共に自害せんとぞ思ふらん。是、誠にしゆんろ、逃るる所無し。さりながら、我、一人の太子に、屠岸賈と言ひて十一歳に成るを、故郷に止め置きぬ。我自害の後、雑兵の手にかかりて、命を空しくせん事、口惜しければ、汝等、如何にもして逃れ出でて、此の子を育み育てて、敵を滅ぼし、無念の散ぜよ」と宣ひけれP071ば、二人の臣下、異議に及ばずして、城の内を忍び出でにけり。国王、心安くして、自害し給ひけり。さて、二人の臣下、都に帰り、太子をいざあひ出だして、養じけるぞ、無慙なる。敵の大王、是を聞き伝へ、「末の世には、我が敵なり。彼の太子、同じく二人の臣下、共に、首を取りて来たらん者には、勲功は所望によるべし」と、国々に宣旨を下されけり。此の宣旨に従つて、彼の人々に心を懸け、如何にもとあやしみ思はぬ者は無し。然れども、一所の住まひ適はで、或いは、遠き里に交はり、深き山に籠りて、身を隠すと雖も、所無くして、二人寄り合ひ、如何せんとぞ歎きける。程嬰申しけるは、「我等が、君を養じ奉るに、敵こはくして、国中に隠れ難し。然れば、我等二人が内に、一人、敵の王に出で仕へん。然る物とて、使ふとも、心を許す事あらじ。我、きくわくと言ひて、十一歳に成る子を、一人持ちたり。幸ひ、是も、若君と同年也。是を大子と号して、二人が中、一人は山に籠り、一人は討手に来たり、主従二人を打ち、首を取り、敵の王に捧げなば、如何でか心許さざるべき。其の時、敵をやすやすと打ち取るべし」と言ひければ、杵臼申しけるは、「命ながらへて後に、事をなすべきこらへのせいは、遠くしてかたし。今、太子と同じく死せんは、近くして安し。然れば、杵臼は、こらへのせい、少なき者なり。安きP072に付き、我先づ死ぬべし。程嬰は、敵方に出でん事を急ぎ給へ」とぞ申しける。其の後、程嬰、我が子のきくわくを近付けて、「如何にや、汝、詳しく聞け。我等は、主君の大子を隠し奉る。既に我々、汝等までも、敵にとらはれて、犬死をせん事、疑ひ無し。然れば、汝を太子と偽り奉りて、首を取るべし。恨むる事無くして、御命に代はり奉りて、君をも安全ならしめよ。親なればとて、添ひはつべきにもあらず。来世にて生まれあふべし」と申しければ、きくわく、聞きも敢へず、涙を流して、しばしは返事せざりけり。父、此の色を見/て、「未練なり。汝、はや十歳に余るぞかし。弓矢取る者の子は、胎の内よりも、物の心は知るぞかし」といさめければ、きくわく、此の言葉に恥ぢて、言ひけるは、言葉こそ無慙なる、「辞退申すべきにあらず。誠に、某は、命一つにて、君と父との孝行に捧げ申さん事、惜しからざる物をや、歎きの中の喜び也」と言ひも敢へず、涙にむせびける。父、是を聞き、子ながらも、優に使ひたる言葉かな、未だ幼き者ぞかし、誠に我が子なり、成人の後、惜しと言ふも余り有り、弱き心の見えなば、もし未練にもやと思ひければ、流るる涙を押し止め、「弓矢の家に生まれて、君の為に命を捨つる事、汝一人にも限らず、最後未練にては、君の御為、P073父が為、中々見苦しとて、一命を損にすべき也」と言ひければ、きくわく、涙を抑へて、「か程には、深く思ひ定めて候へば、如何で愚かなるべき。さりながら、差しあたる父母の御別れ、如何でか惜しからでそろべき。心安く思し召せ。最後におきては、思ひ定めて候ふ」と申しければ、父も、心安くぞ思ひける。さて又、二人寄り合ひ、内談する様、「先づ今、君の御為に、打たるべき命は安く、残り止まりて、敵を打ち、太子世に立て申さん事、重きが上の大事なり。如何はせん。ながらへ、功をなす事、堪忍し難し。我、先づしなん」とて、杵臼は、十一歳のきくわくをつれて、山に籠り、討手を待ちける心の内、無慙と言ふも余り有り。其の後、程嬰、敵の王のあたりに行き、「召し使はれむ」と申す。敵王聞き、此の者、身を捨て、面をよごし、我に使ふべき臣下にあらず、さりながら、世変はり、時移れば、さもやと思ひ、かたはらに許し置くとは雖も、猶害心に恐れて、許す心無かりけり。言ひ合はせたる事なれば、「我、今、君王に仕へて、二心無し。疑ひ事わりなれども、世界を狭められ、恥辱にかへて、助かるなり。なほし、用ひ給はずは、主君の太子、臣下の杵臼諸共に、隠れ居たる所を、詳しく知れり。討手を賜はつて向かひ、彼等を打ち、首を取りて見せ参らせん」と言ふ。其の時、国王、和睦の心を成し、数千人P074の兵を差し添へ、彼等隠れ居たる山へ押し寄せ、四方をかこみ、閧の声をぞ上げたりける。杵臼は、思ひ設けたる事なれば、鎮まり返りて、音もせず。程嬰、すすみ出で申しけるは、「是は、かうめい王の太子屠岸賈や坐します。程嬰、討手に参りたり。雑兵の手にかかり給はんより、急ぎ自害し給へ。逃れ給ふべきにあらず」と申しければ、杵臼立ち出で、「若君の坐します事、隠し申すべきにあらず。待ち給へ。御自害有るべし。さりながら、今日の大将軍の程嬰は、昨日までは、まさしき相伝の臣下ぞかし。一旦の依怙に住すとも、遂には、天罰降り来たり、遠からざるに、失せなん果を見ばや」とぞ申しける。程嬰、是を聞き、「時世に従ふ習ひ、昔は、さもこそ有りつらめ、今又、変はる折節なり。然ればにや、君も、御運もつきはて、命もつづまり給ふぞかし。徒らごとにかかはりて、命失ひ給はんより、兜を脱ぎ、弓の弦をはづし、降参し給へ。古の情を以て、助くべし」とぞ言ひける。十一歳のきくわく、討手は父よと知りながら、予て定めし事なれば、父重代の剣をよこたへて、高き所に走り上がり、「如何に、人々、聞き給へ。かうめい王の太子として、臣下の手に掛かるべき事にもあらず。又、臣下心がはりも、恨むべきにもあらず。只前業つたなけれ。さりながら、其の家久しき郎等ぞかし。程嬰、出で給へ。日頃のよしみに、今一度見参せん」と言ひけれP075ば、程嬰、我が子の振舞ひを見/て、心安く思へども、忍びの涙ぞすすみける。兵あやしくや見るらんと、落つる涙を押し止め、「人々、是を聞き給へ。国王の太子とて、優に使ひたる言葉かな。かうこそ」と言ひけるが、さすが恩愛の別れ、包み兼ねたる涙の袖、絞りも敢へず、余所の哀れを催しつつ、相従ふ兵、差しあたりたる道理なれば、共に感ぜぬは無かりけり。其の後、太子、高声に曰く、「我は是、かうめい王の子、生年十一歳。父一所に向かへ給へ」と言ひもはてず、剣を抜き、貫かれてぞ、伏しぬ。杵臼、同じく立ち寄りて、「御けなげにも、御自害候ふ物かな。某も、追ひ付き奉らん」とて、腹十文字にかき破り、太子の死骸にまろびかかりて、伏しける有様、みるに言葉も及ばれず、無慙なりし例なり。さて、二人が首を取り、帝王に捧ぐ。叡覧有りて、喜悦の眉を開き給ふ。今は、疑ふ所無く、程嬰に心を許し、一の大臣にいはひたもふ、御運の極めとぞ覚えべし。さて、隙を窺ひ、敵王を討つ事、いと安し。すみやかに、主君の屠岸賈を取り立て、二度国を開く事、案の内なり。然ればにや、もとの如く、程嬰をさう臣に立てらるに依つて、杵臼、きくわくの為に、追善其の数を知らず。かくて、三年に、国ことごとく鎮まりをはりて後、程嬰、君に暇をこひて曰く、「我、杵臼に契約して、命を君に捨つる事、P076遅速を争ひしなり。御位、是までなり。今は、思ひ置く事無ければ、杵臼が草の陰にての心も恥づかし。自害仕らん」と申す。帝王、大きに歎きて、是を許す事無し。然れども、隙をはからひ、忍び出でて、杵臼が塚の前に行き、「君の御位、思ふ儘なり。如何にも嬉しく思ひ給ふらん。我又、かくの如し。古の契約忘れず」と言ひて、腹かき切り、失せにけり。哀れなりし例なり。大見・八幡が、主の為に、命をかろんじて、伊東を狙ひし志、是には過ぎじとぞ覚えたり。
 〔奥野の狩の事〕S0109N013
 さても、両三が国の人々は、各々奥野に入り、方々より勢子を入れて、野干をかりける程に、七日が内に、猪六百、鹿千頭、熊三十七、■鼠三百、其の外、雉、山鳥、猿、兎、貉、狐、狸、豺、大かめの類に至るまで、以上其の数二千七百余りぞ、止められける。今は、さのみ野干を滅ぼして、何にかせんとて、各々柏峠にぞ打ち上がり、此の程の雑掌は、伊東一人して、暇無かりければ、「持た/せたる酒、人々の見参に入れざるこそ、本意無けれ。いざや、山陣取りて、頼朝に、今P077一獻すすめ奉らん」「然るべし」とて、むねとの人々五百余人、峠に下り居て、用意す。N014土肥の二郎が申す、「今日の御酒もりは、予て座敷の御定め有るべし。若き方々の御違乱もや候ふべき」。大庭の平太、「是、芝居の座敷、誰を上下と定むべき。年寄の盃は、海老名殿より始め、若殿原は、滝口殿より始めよ。此の人は、いづかたにぞ」と申しければ、弟の三郎聞き、「兄にて候ふ者は、熊倉の北の脇に、鹿の候ひつるを、目に懸け、深入りして、未だ見えず候ふ。家俊こそ参りて候へ」。土屋が申しけるは、「三郎殿こそ、滝口殿よ。兄弟中に、誰をかわきて隔つべき。其の盃、三郎殿より始めよ」と言ふ。大庭聞き、「滝口殿は、年こそ若けれども、然る人ぞかし。今来たると言ふを、少しの間、待たぬか。左右無く肴あらすな」とて、奥野の山口方へ向かひ遣り、滝口遅しとまつ所に、滝口は、熊倉の北の脇を過ぐるに、埒の外に、熊の大王を見付けて、元山ヘ入れじと、平野に追ひ下す所に、滝口、大きなる伏木に馬を乗り掛け、真逆様に馳せ倒す。倒るる馬を顧みず、弓のもとを、左右の鐙に乗りかかり、草葉隠れに、矢ごろ少しのびたりけるを、三人ばりに、十三束の大の鏑矢つがひ、拳上に引き掛け、ひやうどはなつ。ひやうどとほなりして、右の折骨二つ三つ、はらりと射ければ、鏑はわれて、さつとちりければ、P078鏃は、岩にがしとあたる。熊は、手をおひ、滝口にたけりて掛かる。勢子の者共、是を見/て、四方へばつとぞ逃げたりける。滝口、此の矢をつがひ、絞り返して、月の輪をはすしろに、射を懸けて射ければ、熊は、少しも動かず、矢二つにて、止まりける。其の後、勢子の者共呼び寄せ、熊をかかせて、人々の下り居たる峠に打ち上り、急ぎ馬より下り、「御肴尋ね候ふとて、深入り仕り、遅参申すなり。御免候へ」と言ひ、笠をも脱がず、靫をもとかず、行縢ながら、弓杖付きて立ちたり。吉川の四郎、俣野にいくみて有りけるが、是を見/て、「滝口殿は、聞きしより、見まして覚ゆる物かな。哀れ、男かな」とほめければ、座敷に居わづらひたり。誠に気色顔にて、何事がな、力業して、猶ほめられんと思へ共、芝居の事なれば、適はで有りけるを、弟の滝口三郎と船越十郎が居たりける間に、あをめなる石の、高さ三尺ばかりなるをよりて、持た/せばやと思ひければ、するすると歩みけるを見/て、弟の家俊、立たんとす。膝を抑へて、はつたとにらみて、「弓矢の座敷をかたさるとは、我が居たる家を出でて、他所に居渡り、其の家に人をおくをこそ、座敷かたさるとはいへ。是、此処なる石の、二人が間に有りて、つまりやうのにくさにこそ」と言ひ、右の手を差し延べて、後ろ様へおしければ、大石がおされて、谷へどうど落ち行く。海老名の源八、是を見/て、東八か国の中に、男子持ちP079たらん人は、滝口殿を呼びて、ものあやかりにせよ、器量と言ひ、弓矢取りては、樊噌・張良なり。哀れ、侍や」とほめられ、いよいよ気色をまし、老の末座敷よりすすみ出で、申しけるは、「只今の盃も、然る事にて候へども、余りにもどかしく覚え候ふ。大きなる盃をもつて、一つづつ御まはし候へかし」と申しければ、「滝口殿の仰せこそ、面白けれ」とて、伊東の二郎貝と言ふ貝を取り出だし、此の貝は、日本一二番の貝とて、院へ参らせたりしを、公家には、貝を御用ひ無き事なれば、武家に下さる、太郎貝をば、秩父に下さる、提子五つぞ入りける、二郎貝をば、三郎に下さる、新介賜はりて、土肥の二郎に取らする、殿上を許されたる器物とて、秘蔵して持ちけるを、折節、河津の三郎、土肥の聟に成りて来たりしを、引出物にしたりけり。内は己なりに、外は梨子地にまきて、いそなりにめおさしたり、提子三つぞ入りける、是を取り出だし、滝口がもとより始めて、三度づつぞまはしける。五百余人の持ちたる酒なれば、酒の不足は無かりけり。後には、乱舞して、躍りはねてぞ、遊びける。海老名の源八、盃ひかへて、申しけるは、「是は、めでたき世の中を、夢現とも定め難く、昔がたりにならん事こそ、悲しけれ。老少不定と言ひながら、若きは、頼み有る者を、若殿原の様に、舞ひうたはんと思へども、膝振るひ、声も立たず、りうせきが、塚より出でて、はんらうが、茫然とせしP080様に、酒もれや、殿原。哀れ、きみかく有りし時は、是程の盃二三十のみしかども、座敷に伏す程の事はあらねども、老の極めやらん、腰膝の立たざるこそ、悲しけれ。白居易が昔、思ひ出でられたり。
 〔同じく相撲の事〕S0110N015
 秀貞がわかざかり、鷹狩、川狩の帰り足には、力業、相撲がけこそ、面白けれ。若き人々、相撲取り給へ。見/て遊ばん。見物には、上や有るべき」と言ひければ、伊豆の国の住人、三島の入道将監、ゐだけだかに成りて、「石ころばかしの滝口殿と合沢の弥五郎殿、出でて取り給へ。是こそ、あひごろの力と聞け。さもあらば、入道出でて、行司に立たん」と言ふ。滝口聞きて、「坂東八か国に、強き者は無きか。か程の小男に、相手に差さるるは、馬の上、かちだちなりとも、脇にはさみたたむに、働かさじ」と言ひければ、弥五郎聞きて、「伊豆、駿河、武藏、相模に、強き者は無きか。滝口がせいと力をうらやむは。下臈の所にこそ、器量に依りて、荷をばもて、侍は、せいちひさく、力は弱けれども、鎧一領にしかるる者無し。弓押しはり、矢かきおひ、よき馬に打ち乗りて、戦場に掛け出でて、思ふP081敵にひつ組みて、両馬が間に落ち重なり、胆勝りて、腰の刀を抜き、下に伏しながら、大の男をひつ掛け、草摺をたたみ上げ、急所を隙無く差して、はね返し、抑へて、首を取る時は、大の男も、物ならず」と、あざ笑ひてぞ申しける。滝口、たまらぬ男にて、「首を取るか、取らるるか、力は、外にもあらばこそ。いざや、老の御肴に、力くらべの腕相撲一番」と言ふ儘に、座敷を立ち、直垂を脱ぎ、「何程の事の候ふべき。しや肋骨二三枚、つかみ破りて、捨つべき物を」とて、つつと出でけり。弥五郎も、「心得たり。物々し。力拳のこらへん程は、命こそ限りよ」と言ひ、座敷を立つ。一座の人々、是を見/て、あはや、事こそ出で来ぬと見る程に、近くに有りける合沢、申す様、「余りはやし、滝口殿。相撲は、小童、冠者原に、先づとらせて、取り上げたるこそ、面白けれ。おとなげ無し、滝口殿。止まり給へ」と引き据ゑたり。吉川、是を見/て、「弥五郎殿も、先づ抑へよ。合沢が弟の弥七殿に、出でよ」と言ふ。少し辞退に及びしを、船越引き立てて、たづな取りかへ、出だしけり。年におきては、十五なり。姿を物にたとふれば、まだ声若き鴬の、谷より出づるもかくやらん。「誰をか相手にさすべき」と、座敷を見まはしければ、「滝口が弟の三郎、出でよ」と言ふ、言葉の下より、出でにけり。年におきて、十八なり。いづれも、相撲は上手なれば、各々差し寄りて、つまどりしP082たる有様は、春待ち兼ねてさく梅の、雪をふくめる如くなり。我人、力は知らねども、雲ふき立つる山風の、松と桜に音立てて、鳥も驚く梢かと、諸人、目をこそさましけれ。弥七は、力劣りなれども、手合はましてぞ見えにける。三郎は、力勝りけれ共、くまんとのみにて、差し詰め結べば、捨ててぬけ、なぐれば、掛けてまはりしは、桃華の節会の鶏の、心を砕き、羽をつがひ、勝負を争ふ鶏合はせも、是には過ぎじとぞ見えける。老若、座敷にこらへ兼ね、「哀れ、浮き世の見ごとや」と、上下暫くののめきて、東西更に鎮まらず。然れども、弥七は、地下がりへ押し掛けられ、とどろ走りて、そ首をつかれ、遂に弥七ぞ、負けたりける。兄の弥六、つつと出で、三郎をはたとけて、あふのき様に打ちにける。滝口、無念に思ひて、弟の三郎が、未だおきざる先に、躍り出で、大力なりければ、弥六は、手にもたまらず、負けにけり。兄の弥五郎、弟二人をまかして、安からずに思ひ、袴の腰、とくを遅しと引き切り、たづな二筋えり合はせ、強くをさめ、走り出で、近々と差し合ひて、力引きて見れば、大の男が、ふんばりて、少しも動かざれば、一定、我も負けぬべし、誠や、相撲は、力によらず、手だに勝れば、みぎわ勝りの相手を討つ物をと思ひ出だして、合沢、右の拳を握り固め、滝口、鬢のはづれ、きれてのけと、打ちければ、滝口、打たれP083て、左右の拳を打ち返す。其の後、負けじ、劣らじと、手をはなちて、はり合ひける。今は、相撲は取らで、偏に当座の口論とぞ見えける。両方、さへむとする所に、弥五郎、隙無く、つつと入り、滝口が小股をかいて、はなじろに押し据ゑたり。いきほひし滝口、敢へ無く負けしかば、暫く相撲ぞ無かりける。弥五郎は、広言しつる滝口に勝ちて、百千番の負けも物ならず、是に勝つこそ嬉しけれ、何者なりともと思ふ所に、葛山の又七出でて、手にもたまらず負けて後、究竟の相撲五番まで勝ちて、立ちたる有様は、勢余りてぞ見えける。此処に、相模の国の住人、柳下の小六郎出でて、合沢の弥五郎を始めとして、よき相撲六番勝つ。駿河の国の住人、竹下の孫八出でて、小六を始めとして、よき相撲九番打つて、入らんとする所に、大庭が舎弟の俣野の五郎出でて、孫八を始めとして、よき相撲十番打ちければ、「出でて取らん」と言ふ者無し。駿河の国高橋の忠六、「いざや取らん」と言ふ。側に有りける海老名の秀貞、「是こそ、俣野の五郎よ。道理にて、打ちけるぞや」。景久聞き候ひて、「相撲が、絶えて無からんにこそ」と言ひければ、土屋の平太、是を聞き、「俣野も、手一つ、我も、手一つ、臆してばし、負けけるか。彼体の相撲をば、十人ばかり一つかみにて、物を脱ぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、乗り越え、移れば、入れかへ、息をもつがせず、隙をもあらせず、攻め倒せ」「此の儀面白し」とて、P084十人ばかり並び居て、まくれば、つつと出で、移れば、はね越え、攻めけれども、究竟の上手の大力なれば、続けて、二十一番勝ちけり。其の時、土肥の二郎実平、座敷を立ち、つま紅に、日出だしたる扇を開きて、俣野をしばし仰ぎて、「よき御相撲かな。哀れ、実平が年十四五も若くは、出でて取らばや」と言ふ。俣野聞きて、「何かは苦しかるべき。出で給へ。一番取らん。相撲は、年に依り候はず」と言ひければ、土肥は、なまじひに、言葉を掛けて、各々と言はれて、取るより外に、言葉も無し。伊東は、三浦に親しく、河津は、土肥が聟なり、土肥が今日の恥辱は、此の一門に離れじと思へば、伊東の二郎が嫡子河津の三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三の遊びなれども、「出でて取れ」と言ふ人無し、老の末座に有りけるが、座敷を立ちて、舅の土肥の二郎にささやきけるは、「今日の御酒もりには、老若の嫌ひ無く候ふに、などや祐重一番とも承り候はず。空しく帰り候はば、若き者のおひすけしたるににて候ふ。御はからひ候へ。一番取り候はん」と言ひければ、実平聞きて、俣野が言葉、にがにがしさにぞ、取らんと言ふらん、さりながら、聟をまかしては、面目無しとや思ひけん、返事にも及ばで、赤面してぞ居たりける。父伊東、是を聞き、子ながらも、力は強き者を、とらせ見ばやと思ひけれども、ためらふ折節、此の言葉を聞き、「神妙に申したり。P085出でて取れ」と言ひければ、直垂脱ぎおき、白きたづな二筋寄り合はせ、かたくをさめて、出でんとす。伊東方の者出でて、「御相撲に参らん。俣野殿」と言ふ。景久きいて、腹を立て、「相撲は是に候ふぞ。出で合はせ候へと言ふは、常の事。総じて、相撲の座敷にて、左右無く相手の名字呼ぶ事無し。氏と言ひ器量と言ひ、河津にやまくべき。小腕押しをり捨つべき物を」と、笑ひて出づるを見れば、菩薩なりにして、色あさぐろく、丈は六尺二分、年は三十一にぞなりにける。俣野が姿は、さし肩にして、かを骨あれて、首太く、頭少し、裾ふくらに、後ろの折骨、臍の下へ差しこみ、力士なりにして、丈は五尺八分、年は三十二なり。差し寄り、つまどり、ひしひしとして、押し離れ、河津思ひけるは、俣野は聞きつるに似ず、さしたる力にては無かりけり、今日、人々の多く負けけるは、酒に酔ひけるか、臆しける故なり、今度は、手にもたつまじき物をと思ひけるが、心をかへて思ふ様、さすが俣野は、相撲の大番勤めに、都へ上り、三年の間、京にて相撲になれ、一度不覚を取らぬ者なり。其の故、院・内の御目にかかり、日本一番の名をえたる相撲なり。今ここもとにて、物手無くまかさん事は、返りて言ふ甲斐無しと思へば、二度目には差し寄り、左右の腕をつかむで、左手・右手に御座します、雑人の上に掛け、膝をつかせて、入りにけり。俣野は、只も入らずして、「此処なる木の根にけつまづきて、不覚P086の負けをぞしたりける。いざや、今一番取らん」と言ふ。大庭、是を聞き、走り寄り、「げにげに、是に木の根有り。まん中にて、勝負し給へ」と言ひければ、伊東申しけるは、「河津が膝、少し流れて見え候ふ。ねきりの相撲ならばこそ、意趣もあらめ。只一座の一興に負け申して、面白し。出で合ひ申せ」と言ひければ、河津は、やがてぞ出でにける。俣野も、出でんとしけるを、一族共、「如何に取るとも、勝つまじきぞ。只此の儘にて、入り給へ。論の相撲は、勝負無し。勝ちたるには、勝るぞかし。此の度負けなば、二度の負けなるべし」と言ひければ、俣野が言ふ様は、「河津は、力は強く覚ゆれども、相撲の故実は候はず、御覧ぜよ」と言ひ捨てて、猶も出でんとする所を、しばし止めて言ひけるは、「河津が手合をよく見れば、御分にみぎわ勝りの力なり。彼体の相撲をば、左右の手を上げ、爪先を立てて、上手に掛けて待ち給へ。敵も上手に目を懸けて、のさのさとよる所を、小臂を打ち上げ、違ひ様によついを取り、足を抜きてはねまはれ。大力も、はねられて、足の立てどのうく所を、捨てて足を取りて見よ。組みては適ふまじきぞ。もし又、くまで適はずは、うちがらみに、しはと掛けて、髻をおちをはかせ、一はねはねて、しとと打て。なんでふ七はなれ八はなれは、見苦しきぞ。侍相撲と申すは、よるかとすれば、勝負有り。余りにはやきも、見分けられず。又、斯様のP087ひね物をば、わづらひ無くのし寄りて、小首ぜめに攻めて、背をこごめて、まはる所を、大さか手に入れて、かいひねつて、け捨てて見よ。真逆様に負けぬべし」と、こまごまと教へければ、「心得たり」とて出で合ひけり。教への如く、爪先を立てて、腕を上げ、隙あらばと狙ひけり。河津は、前後相撲は、是が始めなれば、やうも無く、するすると歩み寄り、俣野が、ぬけんと相しらふ所を、右の腕をつつと延べ、又野が前ほろをつかんで差しのけ、あらくも働かば、たづなも腰もきれぬべし。暫く有て、むずと引き寄せ、目より高く差し上げ、半時ばかり有りて、横様に片手をはなちて、しとと打つ。又野は、やがておきなほり、「相撲にまくるは、常の習ひ、なんぞ御分が片手業」。河津言ひけるは、「以前も、勝ちたる相撲を、御論候ふ間、今度は、まつ中にて、片手を以て打ち申したり。未だ御不審や候ふべき。御覧じつるか、人々」と言ふ。大庭、是を見/て、童に持た/せたる太刀追つ取り、するりと抜きて、とんで掛かる。座敷、俄に騒ぎ、ばつと立つ。伊東方による者も有り、大庭が方による者も有り。両方さへんと下りふさがり、銚子・盃踏みわり、酒肴をこぼす。雑兵三千余人までも、軍せんとてひしめきけり。兵衛佐殿、此の由御覧じ、「如何に頼朝が情捨てて、仇を結び給ふか。大庭の人々」と仰せられければ、大庭の平太承り、「田舎住まひの物共、出仕なれP088候はで、斯かる狼藉を仕り候ふ。相撲は負けても、恥ならず、我が方人は言ふべからず、一々に記し申すべきぞ。後日に争ふな」と怒りければ、大庭の鎮め給ふ上はとて、鎮まりけり。伊東は、もとより意趣無しとて、やがて面々にこそ鎮まりけれ。是や、瓊瑶は少なきを以て奇也とし、磧礫は多きを以て賎しとす。人多しと雖も、景信が言葉一つにてぞ、鎮まりける。斯かる所に、祐経が郎等共、彼等に交はり、伺ひけるが、哀れ、事のあれかし、間近に攻め寄りて、打たんとする由にて、伊東殿をおつ様に射落とさむとて、ささやきける。七日が間、夜昼つきて伺へども、然るべき隙無くして、狩座既に過ぎければ、各々、空しく帰らんとす。小藤太、申しけるは、「さても、一郎殿の御心をつくして、今や今やと待ち給ふらん。徒らに帰らん事こそ、口惜しけれ。いざや、思ひ切り、とにもかくにもならん」と言ひければ、「八幡三郎申しけるは、「暫く功をつみて見給へ。如何でか空しからん。
 〔費長房が事〕S0111N016
 古きを思ふに、昔、大国に、費長房と言ふ者有り。仙術を習ひ得て、暗き所P089も無かりしが、天に上がる術を習はずして、未だ空しく凡夫に交はり歩きけり。或る時、所用の事有つて、長安の市に出でて、商人に伴ひしに、或る老人、腰に壺を付けて、此の者、市に交はりける。知音は、知る理にて、此の者、只人ならずと、目をはなさで見るに、此の老人、傍に行き、腰なる壺を下ろし、其の壺に出で入りにけり。然ればこそ、仙人なれとて、其の人の家につきて行きぬ。費長房、彼の仙人に仕へんとて、三年までぞ仕へける。或る時、老人言ひて曰く、「汝、如何なる志有りて、三年まで、一言葉も違へず、我等に仕へけるぞや」。費長房聞きて、「我、仙術を習ふと雖も、天に上がる事を知らず。老人の壺に出で入り給ふ事を教へ給へ」と言ひければ、「安き事なり。我が袖に取り付け」と言ふ。即ち、取り付きければ、二人共に、彼の壺の内へ飛び入りぬ。此の壺の内に、めでたき世界有り、月日の光は、空にやはらぎ、四方に四季の色を現し、百二十丈の宮殿楼閣有り、天にて聖衆舞ひ遊ぶ。鳧・雁・鴛鴦の声やはらかにして、池には弘誓の船を浮かべり。よくよく見めぐりて、「今は出でん」と言ふ。老人、竹の杖を与へて、「是を付きて出でよ」と言ふ。即ち、つくと思へば、時の間に、をしみつと言ふ所に至りぬ。此の杖を捨てければ、即ち竜と成りて、天に上がりぬ。費長房は、鶴に乗りて、天に上りけり。是も、功を積もる故なり。P090三年までこそ無くとも、待ちて見よ」とぞ申しける。
 〔河津が打たれし事〕S0112N017
 「然らば此の帰り足を狙ひて見ん」「然るべし」とて、道をかへて、先に立ち、奥野の口、赤沢山の麓、八幡山の境に有る切所を尋ねて、椎の木三本、小楯に取り、一の射翳には大見の小藤太、二の射翳には八幡の三郎、手だれなれば、余さじ物をとて、立ちたりけり。各々待ち掛けける所に、一番に通るは、波多野の右馬允、二番に通るは、大庭の三郎、三番に通るは、海老名の源八、四番は、土肥の二郎、後陣遙かに引き下がりて、流人兵衛佐殿ぞ通られける。敵ならねば、皆遣り過ごし、此の次に、伊東が嫡子河津の三郎ぞきたりける。面白くこそ出で立ちたれ。秋野のすりつくしたる間々に、引き柿したる直垂に、斑の行縢裾たぶやかにはき成し、鶴の本白にてはぎたる白こしらへの鹿矢、筈高に追ひ成し、千段籐の弓まん中取り、萌黄裏付けたる竹笠、木枯にふきそらせ、宿月毛の馬の五臓大きなるが、尾髪あくまでちぢみたるに、梨子地にまきたる白覆輪の鞍に、連著鞦の山吹色なるを掛け、銜轡、紺の手綱を入れてぞ乗りたりける。馬も聞こゆる名馬なり、主も究竟の馬乗りにて、P091伏木・悪所を嫌はず、差しくれてこそ歩ませけれ。折節、乗りがへ一騎もつかざれば、一の射翳の前を遣り過ごす。二の射翳の八幡三郎、もとより騒がぬ男なれば、「天の与へを取らざるは、返りて咎をうる」と言ふ、古き言葉を思ひ出で、すはい損ずべき。射翳の前を三段ばかり、左手の方へ遣り過ごして、大のとがり矢差しつがひ、よつぴき、しばし固めて、ひやうどはなす。思ひもよらで通りける河津、乗りたる鞍の後ろの山形をいけづり、行縢の着際を前へつつとぞ射通しける。河津もよかりけり。弓取り直し、矢取つてつがひ、馬の鼻をひつ返し、四方を見まはす。「知者は惑はず、仁者は愁へず、勇者は恐れず」と申せども、大事のいた手なれば、心は猛く思へ共、性根次第に乱れ、馬より真逆様に落ちにけり。後陣に有りける父伊東の二郎は、是をば夢にも知らずぞ下りける。頃は神無月十日余りの事なれば、山めぐりけるむら時雨、降りみふらずみ定め無く、たつより雲のたえだえに、ぬれじと駒を早めて、手綱かいくる所に、一の射翳に有りける大見の小藤太、待ち受けて居たりけれども、験無し。左の手の内の指二つ、前の■の根に射立てたり。伊東は、然るふる兵にて、敵に二つの矢を射させじと、大事の手にもてなし、右手の鐙に下り下がり、馬を小楯に取り、「山賊有りや。先陣は返せ、後陣はすすめ」と呼ばはりければ、先陣・後陣、我劣らじとすすめども、P092所しも悪所なれば、馬のさくりをたどる程に、二人の敵は逃げのびぬ。隈も無く待ちけれども、案内者にて、思はぬしげみ、道をかへ、大見庄にぞ入りにける。危ふかりし命也。伊東は、河津の三郎が伏したる所に立ち寄りて、「手は大事なるか」と問ひけれども、音もせず。押し動かして、矢をあらく抜きければ、いよいよ前後も知らざりけり。河津が首を、父伊東が膝にかき乗せ、涙を抑へて申しけるは、「こは何と成り行く事ぞや。同じあたる矢ならば、など祐親には立たざりけるぞ。齢傾き、今日明日をも知らざる憂き身なれども、わ殿を持ちてこそ、公方私心安く、後の世掛けても、頼もしく思ひつるに、敢へ無く先立つ事の悲しさよ。今より後、誰を頼みて有るべきぞ。汝を止めおき、祐親先立つ物ならば、思ひ置く事よもあらじ。老少不定の別れこそ悲しけれ」とて、河津が手を取り、懐に引き入れ、くどきけるは、「如何に定業なり共、矢一つにて、物も言はで、死ぬる者や有る」と言ひて、押し動かしければ、其の時、祐重、苦しげなる声にて、「かくは度々仰せらるれども、誰とも知り奉らず候ふ」と言ふ。土肥の二郎申しけるは、「御分の枕にし給ふは、父伊東の膝よ。かく宣ふも、伊東殿。今又斯様に申すは、土肥の二郎実平なり。敵や覚え給ふ」と問ひければ、やや有つて、目を見開き、「祐親を見参らせんとすれ共、今、其れも適はず。誰々も、近く御入りP093候ふか。御名残こそ惜しく候へ」とて、父が手に取り付きにけり。伊藤、涙を抑へて申しけるは、「未練也。汝、敵は覚えずや」と言ふ。「工藤一郎こそ、意趣有る者にて候へ。其れに、只今、大見と八幡こそ見え候ひつれ。あやしく覚え候ふ。従ひ候ひては、祐経在京して、公方の御意さかりに候ふなる。然れば、殿の御行方如何と、黄泉の障り共なりぬべし。面々頼み奉る。幼い者までも」と言ひも敢へず、奥野の露と消えにけり。無慙なりける有様かな、申す量りぞ無かりける。伊東は、余りの悲しさに、しばしば、膝を下ろさずして、顔に顔を差し当て、くどきけるこそ哀れなれ。「や、殿、聞け、河津。頼む方無き祐親を捨てて、何処へ行き給ふぞ。祐親をもつれて行き候へ。母や子供をば、誰に預けて行き給ふ。情なの有様や」と歎きければ、土肥の二郎も、河津が手を取り、「実平も、子とては遠平ばかりなり。御身を持ちてこそ、月日の如く頼もしかりつるに、斯様に成り行き給ふ事よ」と、泣き悲しむ事限り無し。国々の人々も同じく一所に集まり居て、袖をぞ濡らしけり。さて有るべきにあらざれば、空しきかたちをかかせて、家に帰りければ、女房を始めとして、あやしのしづの男、しづの女に至るまで、歎きの声、せんかたも無し。さても、彼の河津の三郎祐重に、男子二人有り。兄は、一万とて、五つなり、弟は、箱王とて、三つにぞなりにける。母、思ひP094の余りに、二人の子供を左右の膝にすゑ置きて、髪かきなで、泣く泣く申しけるは、「胎の内の子だにも、母の言ふ事をば聞き知る者を、まして汝等、五つや三つに成るぞかし。十五、十三にならば、親の敵を打ち、童に見せよ」と泣きければ、弟は、聞き知らず、手ずさみして、遊び居たるばかりなり。兄は、死したる父が顔をつくづくと守りて、わつと泣きしが、涙を抑へて、「いつかおとなしく成りて、父の敵の首切りて、人々に見せ参らせん」と、泣きしかば、知るも知らぬも押しなべて、袖を絞らぬ人は無し。猶も、名残をしたひ兼ね、三日までぞおきたりける。黄泉幽冥の道は、一度さりて、二度と帰らぬ習ひなれば、力及ばず、泣く泣く送り出だし、夕の煙と成しにけり。女房、一つ煙とならんと、悲しみけり。伊東の二郎申しけるは、「恩愛の別れ、夫妻の歎き、いづれか劣るべきにはあらねども、浮き世の習ひ、力及ばず候ふ。親におくれ、夫妻に別るる度ごとに、命を失ふ物ならば、生老病死も有るべからず。別れは人ごとの事なれども、思ひ過ぐれば、自づから、忘るる心の有るぞとよ。憂きに付けても、身をまたくして、後生菩提を弔ひ給へ」と、様々に慰めければ、「誠に理なれども、差しあたりたる悲しさなれば」とて、悶え焦がれけり。「夫の別れは、昔も今も、重き所なり。別れの涙、袂に止まりて、かはく間も無し。後先をも知らぬ、P095幼き者共に打ち添へて、身さへ只ならず。様をかへんと思へ共、尼の身にて、産所の体も、見苦し。又、淵川へ沈まんと思ふにも、此の身にて死しては、罪深かるべしと聞けば、とにもかくにも、女の身程、心憂き者は無し」とくどき立てて、おきふしに、泣くより外の事ぞ無き。一日片時も、只忍ぶべき身にて無かりしが、明けぬ暮れぬとする程に、五七日にもなりにけり。N018父伊東の二郎、逆様事なれども、彼の菩提を弔はんが為に、出家して、六道にあてて、三十六本の率塔婆を造立供養し奉る日、聴聞の貴賎男女、数をつくして、来会する所に、五つに成りける一万が、父の蟇目に鞭を取り添へて、「是は父の物」とて、ひつさげければ、母呼び寄せて、「なき人の物をば、持た/ぬ事ぞ。皆々捨てよ。行く末遙かの者ぞかし。汝が父は、仏になり給ひて、極楽浄土に坐しますぞ。童も、遂には参るべし」と言ひければ、一万喜びて、「仏とは、何ぞ。極楽とは、何処に有るぞや。急ぎ坐しませ。我も行かん」と攻めければ、母は、言ひ遣る方無くして、率塔婆の方に指を差し、「彼こそ、其れよ」と言ひければ、一万、弟の箱王が手を引き、「いざや、父のもとに参らん」と、急ぎけれども、箱王は、三つになりければ、歩むにはかも行かず、急ぐ心に、弟を捨て、率塔婆の中を走りめぐり、空しく帰りて、母の膝の上に倒れ伏して、「仏の中P096にも、我が父は坐しまさず」とて泣きければ、乳母も、共に泣き居たり。其の日の説法のみぎりより、一万が振舞ひにこそ、貴賎袂を濡らしけれ。四十九日には、八塔を供養す。
 〔御房が生まるる事〕S0113N019
 其の次の日、女房、産をぞしたりける。此の程の歎きに、産は如何と思ひしに、つつが無く男子にてぞ有りける。母申しけるは、「己は、果報少なき者かな。今少しとく生まれて、などや父をも見ざりける。蜉蝣と言ふ虫こそ、朝に生まれ、夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。童も、尼に成り、山々=寺々の麓に閉ぢ籠り、花をつみ水をくみ、仏にそなへ奉り、汝が父の孝養にせんと思へば、身には添へざるぞ。努々恨むべからず」とて、やがて捨てむとせし所に、河津の三郎が弟、伊東九郎祐清と言ふ者有り。一人も子を持た/ざりければ、此の事を聞き、女房急ぎ来たりて、「誠や、今の幼い人を捨てんと仰せらるる、如何でか然る事有るべきぞ。なき人の形見にも、罪深かるべし。又、善悪の事も、其れを節と思へば、折々に思ひ出だすに成る物を。しかも、男子にて坐しませば、P097童にたび給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん」と言ひければ、「此の身の有様にて、身に添ふる事、思ひもよらず候ふ。然様に思し召さば」とて、とらせけり。やがて、心安き乳母を付けて、養育す。名をば、御房とぞ言ひける。
 〔女房、曾我へ移る事〕S0114N020
 然る程に、忌は八十日、産は三十日にも成りにけり。百か日にあたらん時、必ず尼になりぬべしとて、袈裟衣を用意しけるを、伊東入道伝へ聞きて、人して申しけるは、「誠や、姿をかへんとし給ふなり。子供をば、誰に育めとて、然様には思ひ給ふぞ。おい衰へたる祖父・祖母を頼み給ふかや。其れ、更に適ふべからず。三郎無ければとて、幼き者共数多あれば、露程も愚かならず、偏に祐重が形見とこそ思ひ奉れ。如何なる有様にても、身をやつさずして、幼き者共を。然れば、今更に、うとき方へ坐しまさば、我も人も、見奉る事も適ふまじ。相模の国曾我の太郎と申すは、入道にも所縁有る者にて候ふ。折節、此の程、年頃の妻女におくれて、歎き未だはれ遣らず候ふと承り候ふ。其れへ遣り奉るべし。自ら、心をも慰み給へ。入道があたりP098なれば、隔ての心はあらず」と、こまごまに言ひて、やがて、人を付け、厳しく守りければ、尼に成るべき隙も無し。即ち、入道、曾我の太郎がもとへ、此の由を詳しく文に書きて、遣はしければ、祐信、文を披見して、大きに喜び、やがて、使ひと打ちつれ、伊東へこして、子供諸共に向かへ取りて、帰りけり。いつしか、斯かる振舞ひは、返す返すも口惜しけれども、心ならざる事なれば、恨みながらも、月日をぞ送りける。是を以て、昔を思ふに、せいぢよは、夫の為に、禁獄にとめられ、はくゑいは、夫におくれ、夷の住み処になれしも、心ならざる恨めしさ、今更、思ひ知られたり。P099