曾我物語 国民文庫本 巻第二
曾我之物語巻第二
@〔大見・八幡を討つ事〕S0201N021
三千世界は、眼の前に付き、十二因縁は、心の裏に空し。浮き世にすむも、捨つるも、安からぬ命、いつまでながらへて、あらましのみにくらさまし。伊東入道は、何に付けても、身の行方、あぢき無くして、子息の九郎祐清を呼び寄せ、「入道がいきての孝養と思ひ、大見・八幡が首を取りて見せよ」と言ひければ、「承りぬ。此の間も、内々案内者を以て、見せ候へば、他行の由、申し候ふ。もし帰り候はば、告げ知らすべき由、申す者の候ふに依つて、待ち候ふ。余し候ふまじ」とて、座敷を立ちぬ。幾程無くして、「来たりぬ」と告げければ、家の子郎等八十余人、直兜にて、狩野と言ふ所へ押し寄せたり。八幡の三郎、然る者にて、「思ひ設けたり。何処へか引くべき」とて、親しき者共十余人、込め置きたりしが、矢共打ち散らし、差し詰め引き詰め、とりどり散々に射ける。やにはに、敵数多射落とし、P100矢種つきしかば、差し集まりて、主の為に命捨つる事、露程も惜しからず。所詮、のぞみたりぬ」と言ひて、差し違へ差し違へ、残らず死にけり。八幡は、腹を十文字にかき破り、三十七にて失せにけり。即ち、大見の小藤太がもとへ押し寄せたり。此の者は、もとより、心下がりたる者にて、八幡が打たるるを聞きて、取るもの取り敢へず、落ちたりしを、狩野境に追ひ詰めて、搦め取りて、川の端にて、首をはねたり。九郎は、二人が首を取りて、父入道に見せければ、ゆゆしくも振舞ひたりとぞ感じける。曾我に有りける河津が妻女も、喜ぶ事限り無し。祐清は、入道が憤りを止め、兄が敵を打ちし孝行、一方ならぬ忠とぞ見えける。さても、八幡の三郎が母は、■美の入道寂心が乳母子なり。八旬に余りけるが、残り止まりて、思ひの余りにくどきけるは、「御主の為に、命を捨つる事は、本望なれ共、此の乱のおこりを尋ぬるに、過ぎにし親の譲りを背き給ひしに依つて也。然るに、寂心、世に坐しませし時、公達数多なみ据ゑて、酒宴半ばの折節、持ち給ひつる盃の中へ、空より大きなる鼬一つ入りて、御膝の上に飛び下りぬと見えしが、何処とも無く失せぬ。希代の不思議なりとて、やがて考へさするに、「大きなる表事、つつしみ給へ」と申したりしを、さしたる祈祷も無くて、過ぎ給ひぬ。幾程無くして、寂心は、隠れさせ給ひけり。然ればにや、白河の法王P101も、鳥羽の離宮に渡らせ給ひし時、大きなる鼬参りて、泣き騒ぎけり。博士に御尋ね有りければ、「三日の内に御喜び、又は御歎き」とぞ申しける。其れに合はせて申す如く、次の日、御子高倉宮、御謀叛現れ、奈良路にて打たれさせ給ひぬ」。
@〔泰山府君の事〕S0202N022
斯様の事を以て、昔を思ふに、大国に大王有り。楼閣をすき給ひて、明け暮れ、宮殿を作り給ふ。中にも、上かう殿と号して、梁は、金銀なり。軒に、珠玉・瓔珞をさげ、壁には、しやうれの華鬘を付け、内には、瑠璃の天蓋をさげ、四方に、瑪瑙の幡をつり、庭には、■瑚・琥珀をしきみて、吹く風、ふる雨の便りに、沈麝のにほひにたたゑゑり。山をつきては、亭を構へ、池をほりては、船を浮かべ、水に遊べる鴛鴦の声、偏に浄土の荘厳に同じ。人民こぞりて囲繞す。仏菩薩の影向も、是にはしかじとぞ見えし。然れば、大王、玉楼金殿に至り、常に遊覧す。或る時、大講堂の柱に、鼬二つ来たりて、泣き騒ぐ事、七日なり。大王、あやしみ給ひて、博士を召して、うらなはしむるに、考へて、奏聞す。「此の柱の内に、P102七尺の人形有り。大王の形をことごとく作り移して、調伏の壇を立て、幣帛・供具をそなへたり。わりて見給へば、とうい七百人有り。滅ぼすべし」と言ふ。即ち、大王上人に申して、めでたき聖を請じ奉り、彼の柱、わりて見給ふに、違はず、すさまじきと言ふも余り有り。やがて、壇を破り、勘文に任せて、色々のしよ人を集め、其の中に、あやしきを召し取り、拷問しければ、ことごと白状す。よつて、七百人の敵をことごとく召し取り、三百人の首を切り給ひぬ。残り四百人切らんとする時、天下暗闇に成りて、夜昼の境も無くして、色を失ふ。人民、道路に倒れ伏す。大王、驚きて曰く、「我、露程の私有りて、彼等の首を切る事無し。下として上をあざける下国上戒め、後の世を思ふ故なり。もし又、我に私あらば、天是を戒むべし。是をはからん」とて、三七日、飲食を止めて、高床に上り、足の指を爪立てて、「一命、此処にて消えなん。もし誤り無くは、諸天哀れみ給へ」と祈誓して、仁王経をかかせられけり。三七日に満ずる時、七星、眼前とあま下り見え給ふ。やや有りて、日月星宿、光をやはらげ給ふ。然ればこそ、まつる事に、横儀は無かりけれとて、残る四百人をも切り給ひぬ。此処に、博士、又参内して奏す。「大敵滅びはて、御位長久なるべき事、余儀無し。然れども、調伏の大行、其の効残りて、恐ろし。所詮に、P103あま下り給ふ七星をまつり、しやうかう殿に宝をつみ、一時にやき捨てて、災難の疑ひを止むべし」と申しければ、左右に及ばずとて、忽ちに上件のようしやくをくり、諸天を請じ奉りて、彼の殿共をやき捨てられにけり。さてこそ、今の世までも、鼬泣き騒げば、つつしみて水をそそくまじなひ、此の時に依りてなり。然れば、七百人の敵滅び、七星眼前に下り、光をやはらげ給ふ事、七難即滅、七福即生の明文に適ひぬるをや、今の泰山府君のまつり是なり。大王、彼の殿をやき、まつる事をし給ひて、御位長生殿にさかえ、春秋を忘れて、不老門に、日月の影、静かにめぐり、吹く風、枝をならさず、ふる雨、塊を動かさで、永久の御代にさかえ給ひけるとかや。めでたかりし例なり。
@〔頼朝、伊藤に御座せし事〕S0203N023
抑、兵衛佐殿、御代を取り給ひては、伊東・北条とて、左右の翼にて、いづれ勝劣有るべきに、北条の末はさかえ、伊東の末は絶えける、由来を詳しく尋ぬるに、頼朝十三の歳、伊豆の国に流されて御座しけるに、彼の両人を打ち頼み、年月を送り給ひけり。然るに、伊東の二郎に、娘四人有り。一は、相模の国の住人P104三浦介が妻なり。二には、工藤一郎祐経に相具したりしを取り返し、土肥の弥太郎に合はせけり。三四は、未だ伊東がもとにぞ有りける。中にも、三は、美人の聞こえ有り。佐殿聞こし召して、潮のひる間の徒然と、忍びて褄を重ね給ふ。頼朝、御志浅からで、年月を送り給ふ程に、若君一人出で来給ふ。
@〔若君の御事〕S0204N024
佐殿、喜び思し召して、御名をば、千鶴御前とぞ付け給ひける。つらつら往事思ふに、旧主が住まひし、古風のかうばしき国なれ共、勅勘をかうむりて、習はぬ鄙の住まひの心地ぞ有りつるに、此の物出で来たる嬉しさよ、十五にならば、秩父・足利の人々、三浦・鎌倉・小山・宇都宮相語らひ、平家に掛け合はせ、頼朝が果報の程をためさんと、もてなし思ひかしづき給ふ。かくて、年月をふる程に、若君三歳になり給ふ春の頃、伊東、京より下りしが、しばし知らざりけり。或る夕暮に、花園山を見て入りければ、折節、若君、乳母にいだかれ、前栽に遊び給ふ。祐親、是を見て、「彼は誰そ」と問ひけれども、返事にも及ばず、逃げにけり。あやしく思ひて、即ち、内に入り、妻女にあひ、「三つばかりの子のものゆゆしきP105をいだき、前栽にて遊びつるを、「誰そ」と問へば、返事もせで逃げつるは、誰にや」と問ふ。継母の事なりければ、折をえて、「其れこそ、御分の在京の後に、いつきかしづき給ふ姫君の、童が制するを聞かで、いつくしき殿して設け給へる公達よ。御為には、めでたき孫御前よ」と、をこがましく言ひ成しけるこそ、誠に末も絶え、所領にもはなるべき例なり。然れば、「讒臣は国を乱し、妬婦は家を破る」と言ふ言葉、思ひ知られて、あさましかりける。祐親、是を聞き、大きに腹を立て、「親の知らざる聟や有る。誰人ぞ。今まで知らぬ不思議さよ」と怒りければ、継母は、訴へすましぬるよと嬉しくて、「其れこそ、世に有りて、誠に頼り坐します流人、兵衛佐殿の若君よ」とて、嘲弄しければ、いよいよ腹を立て、「娘持ち余りて、置き所無くは、乞食非人などには取らするとも、今時、源氏の流人聟に取り、平家に咎められては、如何有るべき。「毒の虫をば、頭をひしぎて、脳を取り、敵の末をば、胸をさきて、胆を取れ」とこそ言ひ伝へたれ。詮無し」とて、郎等呼び寄せて、若君いざなひ出だし、伊豆の国松川の奥を尋ね、とときの淵に柴づけにし奉りけり。情無かりし例也。是や、文選の言葉に、「しやうにみちては、瑞を豊年に現し、丈に有りては、禍をはんとくに現す」。誠に余れる振舞ひは、行く末如何とぞ覚えける。剰へ、北の御方P106をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎に合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かたしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、わうきう・董賢ふん、三百たるにも、楊雄・仲舒ふんか、其の門につまびらかにせんにはしかずと見えたり。
@〔王昭君が事〕S0205N025
昔、漢の王昭君と申せし后を、胡国の夷に取られ、胡国へ越え給ひしに、名残の袖はき難くして、歎き悲しみけるに、王昭君が、歎き余りに、「自らがしきし褥に、我が姿を移し止めて、しき給へ。我、夢に来たりて、あふべし」と契りける。漢王悲しみて、彼の褥を枕にして、泣き伏し給ひしかば、夢とも無く、又現とも無く、来たりて、折々あひにけり。彼の昭君が、胡国への道すがら、涙にくるる四方の山共、里とも分け兼ねて、袖のひる間も無かりけり。思ひの余りに、旧栖を顧みて、「蒼波路遠くして、はかう山深し」と詠じつつ、漢宮万里の旅の空、今の思ひに知られたり。佐殿も、若君失はれさせ給ひしP107御心、くわらくの子を失ひ、かなわぬ別れの袖の涙、紅閨に連なりし限りなり。
@〔玄宗皇帝の事〕S0206N026
然れば、あかぬ北の御方の御名残は、玄宗皇帝、楊貴妃と申せし后、安禄山軍の為に、夷に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀の方士を遣はし給ふ。方士神通にて、一天三千世界を尋ねまはり、太真ゑんに至る。蓬莱宮是也。此処にきたつて、玉妃にあひぬ。此の所に至りて見れば、浮雲かさ也、人跡の通ふべき所ならねば、簪を抜きて、扉を叩く。双鬟童女二人出でて、「暫く是に待ち給へ。玉妃は、おとのごもれり。但し、何処より、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々として、洞天に日暮れなんとす。悄然として、まつ所に、玉妃出で給ふ。是、即ち楊貴妃なり。右左の女七八人。方士揖して、皇帝安寧を問ふ。方士、こまかに答ふ。言ひをはりて、玉妃、証とや、簪をわきて、方士にたぶ。其の時、方士、「是は、世の常に有る物也。支証に立たず。叡覧にそなへ奉らんに、如何なる密契か有りし」。玉妃、P108暫く案じて、「天宝十四年の秋七月七日の夜、天に有りて、願はくは比翼の鳥、地に有りて、願はくは連理の枝、天長地久にして、作る事無からんと、知らず、奏せんに、御疑ひ有るべからず」と言ひて、玉妃さりぬ。方士帰り参りて、皇帝に奏聞す。「然る事有り、方士誤り無し」とて、飛車に乗り、我が朝尾張の国にあま下り、八剣の明神と現れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ち此の所とぞ申す。兵衛佐殿は、若君、北の御方御行方、知らせ奉る者無かりしかば、慰み給ふ事も無かりけり。
@〔頼朝、伊東を出で給ふ事〕S0207N027
剰へ、佐殿をも、夜討にし奉らんとて、郎等を催しける。此処に、祐親が次男伊東の九郎祐清と言ふもの有り。秘かに佐殿へ参り、申しけるは、「親にて候ふ祐親こそ、物に狂ひ候ひて、君を打ち奉らんと仕り候へ。何処へも御忍び候へ」と申しければ、頼朝聞こし召し、ちやうさい王が、害にあひしも、偽る事は知らでなり、ゑみの内に刀をぬくは、習ひなり、人の心知り難ければ、君臣父子、いを以ておそるべし、況や、打たんとするは、親なり、P109告げ知らするは、子なり、方々、不審に覚えたり、いかさま、我をたばかるにこそとて、打ちとけ給ふ事も無し。「誠に思ひ掛けられなば、何処へ行きても逃るべきか。然れども、左右無く自害するに及ばず、人手にかからんよりは、汝、早く頼朝が首を取りて、父入道に見せよ」と仰せられければ、祐清承りて、「仰せの如く、語らひ難き人の心にて候ふ。蜂を取りて、衣の首に返して、親子の心に違ひしも、偽るたくみなり。君思し召すも、御理、誠の御志とは思し召さずして、いしやうのはう、もつとも御疑ひ、理なり。忝くも、不忠申し候はば、当国二所大明神の御罰を蒙り、弓矢の冥加長く付き、祐清が命、御前にてはて候ひなん」と申しければ、佐殿聞こし召し、大きに御喜び有りて、「斯様に告げ知らする志ならば、如何にもよき様に相はからひ候へ」と仰せければ、祐清承りて、「藤九郎盛長、弥三郎成綱をば、君御座の様にて、暫く是に置かれ候ふべし。君は、大鹿毛に召されて、鬼武ばかり召し具し、北条へ御忍び候へ」と申し置きて、「御討手もや参り候はん、事をのばし候はん」とて、急ぎ御前を立ちにけり。P110
@〔頼朝、北条へ出で給ふ事〕S0208N028
佐殿も、秘かにまぎれ出でさせ給ふ。頃は、八月下旬の事なるに、露ふき結ぶ風の音、我が身一つにもの寂しく、野辺にすだく虫の声、折から殊に哀れなり。有明の月だに未だ出でざるに、何処を其処とも知らねども、道をかへて、田面を伝ひ、草を分けつつ、道すがらの御祈誓には、「南無正八幡大菩薩の御記文に、我末世に、源氏の身と成りて、東国に住して、夷をたひらげんとこそ誓ひ坐しませ。然るに、人すたれ、氏滅びて、正統の残り、只頼朝ばかりなり。今度、栄華を開かずは、誰有て、家を起こさんや。世既に澆季にのぞみ、人後胤なし。早く頼朝が運を開かせて、東夷を従へしめ給へ。しからずは、当国の匹夫となし、長く本望を遂げしめ給へ」と、御祈誓、夜もすがらなり。感応にや、幾程無くして、御代につき給ひにけり。さても、北条の四郎時政がもとに御座せし也。一向彼を打ち頼み、年月を送り給ふ。
@〔時政が娘の事〕S0209N029P111
又、彼の時政に、娘三人有り。一人は、先腹にて、二十一なり。二三は、当腹にて、十九・十七にぞなりにける。中にも、先腹二十一は、美人の聞こえ有り。殊に父、不便に思ひければ、妹二人よりは、すぐれてぞ思ひけり。然る程に、其の頃、十九の君、不思議の夢をぞ見たりける。例へば、何処とも無く、高き峰に上り、月日を左右の袂にをさめ、橘の三つなりたる枝をかざすと見て、思ひけるは、男子の身なりとも、自らが、月日を取らん事有るまじ、ましてや、女の身として、思ひもよらず、誠に不思議の夢なり、姉御は知らせ給ふべし、問ひ奉らんとぞ、急ぎ朝日御前の方に移り、こまごまと語り給ふ。姉二十一の君、詳しく聞きて、「誠にめでたき夢なり。我等が先祖は、今に観音を崇め奉る故、月日を左右の袂にをさめたり。又、橘をかざす事は、本説めでたき由来有り」とて、景行天皇の御事をぞ思ひ出だしける。
@〔橘の事〕S0210N030
抑、橘と言ふ木実の始まりは、「仁王十一代の御門垂仁天皇の御時よりぞ出で来ける」と、日本紀は見え、然るに、此の橘は、常世の国より、三参らせたり。P112折節、后懐妊し、彼の橘を用ひ給ひて、懐胎の悩み絶えて、御心すずしかりけり。然れば、斯様の物も有りけるよと、朝夕願ひ給へ共、我が国に無き木実也ければ、力無し。此処に、間守と言ふ大臣有り、此の願ひを聞き、「安き事なり。異国に渡り、取りて参らせん」と言ひて、立ちければ、君、喜び思し召して、「さては、いつの頃に、帰朝すべき」と、宣旨有りければ、「五月には、必ず参るべし」と申して、渡りぬ。其の月をまてども、見えずして、六月になりて、「我は止まりて、人して橘を十参らせ、猶尋ねて参るべし」とて、止まりけれども、橘の参る事を、后、大きに喜び給ひ、用ひ給ふ。其の徳に依りて、皇子御誕生有り。御位を保ち給ふ事、百二十年なり。景行天皇の御事、是なり。其の大臣の袖の香に、橘の移り来たりけるを、猿丸大夫が歌に、五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする W003と詠みたりけり。我が朝に、たち花うゑ染めける事、此の時よりぞ始まりける。又、橘に、盧橘と言ふ名有り。去年の橘におほひしておけば、今年の夏まで有るなり。其の色、少しくろきなり。「盧」の字を「くろし」とよめばなり。さても、此の二十一の君、女性ながら、才覚人にすぐれしかば、斯様の事を思ひ出だしけるにや。実にも、景行帝、橘を願ひ、誕生有りし事、幾程無くて、若君出で来たり、頼朝P113の御後を継ぎ、四海を治め奉る。然れば、此の夢を言ひおどして、かひ取らばやと思ひければ、「此の夢、返す返す恐ろしき夢なり。よき夢を見ては、三年は語らず。悪しき夢を見ては、七日の内に語りぬれば、大きなるつつしみ有り。如何すべき」とぞおどしける。十九の君は、偽りとは思ひもよらで、「さては、如何せん。よきにはからひてたびてんや」と、大きに恐れけり。「然れば、斯様に、悪しき夢をば転じかへて、難を逃るるとこそ聞きて候へ」「転ずるとは、何とする事ぞや。自ら心得難し。はからひ給へ」と有りければ、「然らば、うりかふと言へば、逃るるなり。うり給へ」と言ふ。かふ者の有りてこそ、うられ候へ、目にも見えず、手にも取られぬ夢の跡、現に誰かかふべしと、思ひわづらふ色見えぬ。「然らば、此の夢をば、童かひ取りて、御身の難をのぞき奉らん」と言ふ。「自らがもとより主、悪しくとても、恨み無し。御為悪しくは、如何」と言ひければ、「然ればこそ、うりかふと言へば、転ずるにて、主も自らも、苦しかるまじ」と、誠しやかにこしらへければ、「然らば」と喜びて、うり渡しけるぞ、後に、悔しくは覚えける。此の言葉につきて、二十一の君、「何にてかかひ奉らん。もとより所望の物なれば」とて、北条の家に伝はる唐の鏡を取り出だし、唐綾の小袖一重ね添へ渡されけり。P114十九の君、なのめならずに喜びて、我が方に帰り、「日頃の所望適ひぬ。此の鏡の主になりぬ」と喜びけるぞ、愚かなる。此の二十一の君をば、父殊に不便に思ひければ、此の鏡を譲りけるとかや。然る程に、佐殿、時政に娘数多有る由聞こし召し、伊東にてもこり給はず、上の空なるもの思ひを、風の便りにおとづればやと思し召し、内々人に問ひ給へば、「当腹二人は、殊の外悪女なり。先腹二十一の方へ、御文ならば、賜はりて参らせん」と申しける。伊東にて物思ひしも、継母故なり。如何にわろくとも、当腹をと思し召し定められて、十九の方へ、御文をぞ遊ばしける。藤九郎盛長は、是を賜はりて、つくづく思ひけるは、当腹共は、事の外悪女の聞こえ有り、君思し召し遂げん事有るべからず、北条にさへ、御仲違はせ給ひては、いづかたに御入り有るべき、果報こそ、劣り奉るとも、手跡は、如何でか劣り奉るべきとて、御文を二十一の方へとぞかきかへける。さて、少将の局して、参らせたりけり。姫君御覧じて、思し召し合はする事有り、此の暁、白き鳩一つ飛び来たりて、口より金の箱に文を入れてふき出だし、童が膝の上におき、虚空に飛びさりぬ、開きて見れば、佐殿の御文なり、急ぎ箱にをさむると思へば、夢なり、今現に文見る事、不思議さよと思し召して、打ち置きぬ。其の後、文の数重なりければ、夜な夜なP115忍びて、褄をぞ重ね給ひける。かくて、年月送り給ふ程に、北条の四郎時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞き、ゆゆしき大事出で来たり、平家へ聞こえては如何ならんと、大きに騒ぎ思ひけり。さりながら、静かに物を案ずるに、時政が先祖上総守なほたかは、伊予殿の関東下向の時、聟に取り奉りて、八幡殿以下の子孫出で来たり、今に繁昌、年久し。
@〔兼隆聟に取る事〕S0211N031
斯様の昔を案ずるに、悪し様にはあらじと思ひけれども、平家の侍に、山木の判官兼隆と言ふ者を同道して下しけり。道にて、何と無き事のついでに、「御分を時政が聟に取らん」と言ひたりし言葉の違ひなば、「源氏の流人、聟に取りたり」と訴へられては、罪科逃れ難し、如何せんと思ひければ、伊豆の国府に着き、彼の目代兼隆に言ひ合はせ、知らず顔にて、娘取り返し、山木の判官にとらせけり。然れども、佐殿に契りや深かりけん、一夜をもあかさで、其の夜の内に、逃げ出でて、近く召し使ひける女房一人具して、深き叢を分け、足に任せて、あしびきの山路を越え、夜もすがら、伊豆の御山に分け入り給ひぬ。ちぎりくずちは、P116出雲路の神の誓ひは、妹背の中は変はらじとこそ、守り給ふなれ。頼む恵みのくちせずは、末の世掛けて、諸共に住みはつべしと、祈り給ひけるとかや。 抑、出雲路の神と申すは、昔、けいしやうと言ふ国に、男を伯陽、女を遊子とて、夫婦の物有りけるが、月に共なひて、夜もすがら、ぬる事無くして、道に立ち、夕には、東山の峰に心を澄まし、月の遅く出づる事を恨み、暁は、晴天の雲にうそぶき、くもり無き夜を喜び、雨雲の空を悲しみて、年月を送りしに、伯陽九十九の年、死門にのぞまむとせし時、遊子に向かひ申す様、「我、月に共なひて、めづる事、世の人に越えたり。一人なりとも、月を見る事、怠らざれ」と言ひければ、遊子、涙を流して、「汝、まさに死なば、我一人月を見る事有るべからず。諸共に死なん」と悲しめば、伯陽重ねて申す様、「偕老同穴の契り、百年にあたれり。月を形見に見よ」とて、遂にはかなくなりにけり。契りし如く、遊子は内に入る事も無くして、月に伴ひ歩きしが、是も限り有りければ、遂にはかなくなりにけり。然れども、夫婦諸共に月に心をとめし故に、天上の果を受け、二つの星なるとかや、牽牛織女是なり。又、さいの神とも申すなり。道祖神とも現れ、夫婦の中を守り給ふ御誓ひ、頼もしくぞ覚えける。P117又、伝へ聞く、漢の高祖、はうやう山と言ふ山に籠り給ひしに、こうろ大子諸共に、紫雲を知るべしとて、深き山路に分け入りし志、是には過ぎじとぞ見えし。さて、佐殿へ秘かに人を参らせ、かくと申させ給ひしかば、鞭を上げてぞ、上り給ひける。目代は尋ねけれども、猶山深く入り給ひければ、力及ばず、北条は、知らず顔にて、年月をぞ送りける。伊東が振舞ひには代はりたるにや、果報の致す所なり。
@〔盛長が夢見の事〕S0212N033
此処に、懐島の平権守景信と言ふ者有り。此の程、兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて坐します由伝へ聞き、「斯様の時こそ、奉公をば致さめ」とて、一夜宿直に参りけり。藤九郎盛長も、同じく宿直仕る。夜半ばかりに、打ち驚きて、申しけるは、「今夜、盛長こそ、君の御為に、めでたき御示現を蒙りて候へ。御耳をそばたて、御心を鎮め、確かに聞こし召せ。君は、矢倉岳に御腰を掛けられしに、一品房は、金の大瓶をいだき、実近は、御畳をしき、也つなは、銀の折敷に、金の御盃をすゑ、盛長は、銀の銚子に、御盃参らせつるに、君、三度聞こし召さP118れて後は、箱根御参詣有りしに、左の御足にては、外浜を踏み、右の御足にては、鬼界島を踏み給ふ。左右の御袂には、月日を宿し奉り、小松三本頭に頂き、南向きに歩ませ給ふと見奉りぬ」と申しければ、佐殿、聞こし召して、大きに喜び給ひて、「頼朝、此の暁、不思議の霊夢をかうむりつるぞや。虚空より山鳩三来たりて、頼朝が髻に巣をくひ、子をうむと見つるなり。是、しかしながら、八幡大菩薩の守らせ給ふと、頼もしく覚ゆる」と仰せられければ、
@〔景信が夢合はせ事〕S0213N034
景信申しけるは、「盛長が示現においては、景信合はせ候はん。先づ、君、矢倉岳に坐しましけるは、御先祖八満殿の御子孫、東八か国を御屋敷所にさせ給ふべきなり。御酒聞こし召しけるとみつるは、理なり。当時、君の御有様は、無明の酒によはせ給ふなり。然れば、酔ひは遂にさむる物にて、「三木」の三文字をかたどり、近くは三月、遠くは三年に、御酔ひさむべし。P119
@〔酒の事〕S0214N035
又、酒は、忘憂の徳有り。然るに依り、数の異名候ふ。中にも、「三木」と申す事は、昔、漢の明帝の時、三年旱魃しければ、水にうゑて、人民多く死す。御門、大きに歎き給ひて、天に祈り給へども、験無し。如何せんと悲しみ給ひける。其の国の傍に、せきそと言ふ賎しき民有り。彼が家の園に、桑の木三本有りけるに、水鳥、常に下り居て遊ぶ。主あやしみて、行きて見れば、彼の木のうろに、竹の葉おほへる物有り。取りのけて見るに、水なり。なめて見れば、美酒也。即ち、是を取りて、国王に捧ぐ。然れば、一度口につくれば、七日餓を忘るる徳有り。御門、感じ思し召して、水鳥の落とし置きたる羽を取りて、餓死の口にそそき給へば、死人ことごとくよみがへり、うゑたる物は、力をえ、めでたし共、言ふ計り無し。即ち、せきそを召して、一国の守に任ず。桑の木三本より出で来たればとて、「三木」と申すなり。さても、此の酒は、如何にして出で来るぞと尋ぬれば、せきそが子に、くわうりというもの有り。継母、殊にすぐれて、是をにくみ、毒を入れてくはせける。然れども、くわうり、継母の習ひと思ひなずらへて、更に恨むる心無くして、此の木のうろに入れおき、竹の葉おほひておきたりけるP120が、始め入れたる飯は、麹と成り、後に入れける飯は、天より下る雨露の恵みを受けて、くちて、美酒とぞなりける。「毒薬変じて、薬と成る」とは、此の時よりの言葉なり。又、酒をのみて、風の然る事三寸なれば、「三寸」とも書けり。是は、家隆卿の言ひけるなり。馬の寸を「き」と言へば、其の故有るにや。又、「風妨」とも言へり。風のさまたるく義なり。又、或る者の家に、杉三本有り。其の木のしただり、岩の上に落ちたまり、酒と成ると言ふ説有り。其の時は、「三木」とかくべきか。又、しん心ほうに曰く、「新酒百薬長たり」とも書けり。漢書には、「せきそ、みきをえて、天命を助く」と書けり。又、慈童と言ひし者は、七百歳をえて、彭祖と名を返し仙人、菊水とてもて遊びけるも、此の酒なり。是は、法華経普門品の二句の偈を聞きし故に、菊の下行く水、不死の薬と也けるを、此の仙人は用ひけるとかや。大やけにも、是を移して、重陽の宴とて、酒に菊を入れて用ひ給ふ。上より下る雨露の恵み、下に差し来る月日の光、あまねく、君の御恵みに漏れたる品は無きにこそ、高きも、賎しきも、酒はいはひにすぐれ、神も納受、仏も憐愍有るとかや。君も聞こし召されつる三きの如くに、過ぎにし憂きを忘れさせ給ふ。日本国を従へさせ給ひし。左右の御足にて、外浜と鬼界島を踏み給ひけるは、秋津洲残り無く、従へさせ給ふべきにや。左右の御袂に、月日を宿しP121給ひけるは、主上・上皇の御後見においては、疑ひ有るべからず候ふ。小松三本頭に頂き給へるは、八幡三所の擁護あらたにして、千秋万歳を保ち給ふべき御相なり。又、南向きに歩ませ給ひけるは、主上御在位の、大極殿の南面にして、天子の位を踏み給ふとこそ承り候へ。御運を開き給はむ事、是に同じ」と申しければ、佐殿喜び給ひて、「景信があはする如く、頼朝、世に出づる事あらば、夢合はせのへんとう有るべし」とぞ仰せられける。
@〔頼朝謀叛の事〕S0215N036
然る程に、誠に謀叛の事有り。例へば、さんぬる平治元年、右衛門督藤原の信頼卿、左馬頭源の義朝を語らひて、梟悪をくはたつ。然れば、清盛、是を追罰し、件の族を配流せしより此の方、源氏退散して、平家繁昌す。然れば、朝恩に誇りて、叡慮を悩まし奉る事、古今にたぐひ無し。剰へ、其の身、一人師範にあらずして、忝くも、太政大臣の位を汚す。かくの如く、近衛の大将、左右に兄弟相並ぶ事、凡人において、先例に無しと雖も、始めて此の義を破る。又、仏餉の田苑を止め、神明の国郡をくつ返し、我が朝六十余州P122の内、三十余国は、彼の一族領す。又、三公九卿の位、月卿雲客の官職、大略此の一門ふさぐ。斯様のおごりの余りにや、さしたる科も無きに、臣下卿相、多く罪科に行ひ、剰へ、法皇を鳥羽殿に押し込め奉り、天下を我が儘にする。つらつら、旧記を思へば、楊国忠が叡慮に背き、安禄山が朝章を乱りし悪行も、かくの如くの事は無し。人臣皇事を奪はざる外は、これ体の悪行、異国にも未だ先例を聞かず。況や、我が朝においてをや。かかりければ、後白河院の第二の皇子高倉宮を、源三位入道頼政、謀叛をすすめ奉る。治承四年四月二十四日の暁、諸国の源氏に院宣を下さる。御使ひは、十郎蔵人行家なり。同じき五月八日に、行家、伊豆の国に着き、兵衛佐殿に院宣を告げ奉る。院宣の案を書き、やがて常陸の国に下り、志太の三郎先生義憲に此の由をふれ、信濃の国に下り、木曾義仲にも見せけり。
@〔兼隆が打たるる事〕S0216N037
是に依つて、国々の源氏、謀叛をくはたて、思ひ思ひに案をめぐらす所に、頼朝早く、平家の侍に、和泉の判官兼隆、当国山木が館に有りけるを、同じく八月十七日P123の夜、時政父子を始めとして、佐々木の四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景信以下の郎従等を差し遣はして、打ち取り畢んぬ。是ぞ、合戦の始めなりける。此処に、相模の国の住人大庭の三郎景親、平家の重恩を報ぜん為に、当国石橋山に追ひ掛け、散々に戦ふ。是のみならず、武蔵・上野の兵共、我劣らじと馳せ向かひて、防ぎ戦ふ。其の中に、畠山の重忠は、父重能・叔父有重、折節、平家の勘当にて、京都に召し置かるる最中なれば、其の科をもはらし、国土の狼藉をも鎮めんと向かひけるが、三浦党、頼朝の謀叛に与力せんとて、馳せ向かひけるが、鎌倉の由比と言ふ所にて行き合ひ、散々に戦ひけるが、重忠打ち落とされて、希有の命いきて、武州に帰りけり。其の後、江戸・葛西を始めとして、武蔵の国の者共、一千余騎、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦ひければ、三浦打ち負けて、今は、大介一人になりにけり。年九十余になりけるが、子孫に向かひて申しけるは、「兵衛佐殿の浮沈、今に有り。己等一人も、死に残りたらば、見つぎ奉れ」と申しおいて、腹切り畢んぬ。さても、伊東の入道は、もとより佐殿に意趣深き者なりければ、一合戦と馳せ向かひけるが、頼みし畠山打ち落とされぬと聞きて、伊豆の御山より帰りにけり。佐殿、無勢たるに依つて、心は猛く思はれけれ共、此の合戦適ふべしとは見えP124ざりける。然れども、土肥の二郎、岡崎の悪四郎、佐々木の四郎、命を惜しまず、戦ひける其の隙に、佐殿逃れ給ひて、杉山に入り給ひぬ。北条の三郎宗時、佐那田の与一も打たれけり。佐殿、七騎に打ちなされ、大童に成りて、大木の中に隠れ、其の暁、山を忍び出で、安房の国りうさきへ渡り給ふとて、海上にて、三浦の人々、和田の小太郎義盛に行き合ひて、船共を漕ぎ寄せ、互ひに合戦の次第を語る。義盛は、衣笠の軍に、大介打たれし事共語りければ、土肥・岡崎は又、石橋山の合戦に、与一が打たれし事共を語り、互ひに鎧の袖をぞ濡らしける。さて、安房の国に渡り、其れより上総に越え、千葉介を相具して、次第に攻め上り給ひて、相模の国鎌倉の館にぞつき給ひける。是よりして、武士共、関東に帰伏せざるは無かりけり。然れば、平家驚き騒ぎ、度々討手を向かはすと雖も、或いは鳥の羽音を聞きて、退く者も有り、又は、戦場にこらへずして、鞭にて打ち落とさるるも有り。是、普通の儀にあらず、只天命の致す所也。昔、周の文王、いしんちうを打たんとせしに、東天に雲さえて、雪のふる事、一丈余也。五車馬に乗る人、門外に来たりて、其の事を示ししかば、文王、勝つ事をえたり。かるが故に、逆臣、程無くはいしやうして、天下、即ち穏やかなり。P125
@〔伊東が切らるる事〕S0217N039
さても、不忠を振舞ひし伊東の入道は、生捕られて、聟の三浦介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして、召し出だし、よろいすると言ふ所にて、首をはねられける。最後の十念にも及ばず、西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領、伊東・河津の方を見遣りて、執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。
@〔奈良の勤操僧正の事〕S0218N040
是や、延暦年中に、奈良の勤操僧正、大旱魃に、雨の祈りの為、大和の国布留社にて、薬草喩品を一七日講ぜられける。何処共無く、童一人来たりて、毎日、御経を聴聞しける。七日に満ずる時、「何物にや」と、御尋ね有りければ、「我は、此の山の小竜なり。七日の聴聞に依つて、安楽世界に生まれ候ひなん嬉しさよ」とて、随喜の涙を流しけり。其の時、僧正曰く、「竜は、雨を心に任する物なれば、雨をふらし候へ」と宣へば、「大龍の許し無くして、我がはからひにて、成り難く候へども、さりながら、後生菩提を御助け給ひ候はば、身は失せ候ふとも、P126雨をふらし候はん」と申す。「左右にや及ぶ。追善有るべし」と、御領状有りしかば、即ち雷と成りて、天に上がり、雨のふる事、二時ばかりなり。され共、此の竜、其の身砕けて、五所へぞ落ちにけり。僧正哀れみ給ひて、彼の竜の落ちける所にして、一日経を書写せられけり。其の後、彼の僧正の夢に、御訪ひに依り、即ち蛇身を転じて、仏道を成ずと見えたり。さて、彼の五所に、五つの寺をたてて、今に絶えせず、勤行とこしなへ也。彼の五所の寺号をば、竜門寺、竜せん寺、竜しよく寺、竜ほう寺、竜そん寺、是なり。紀伊の国・大和両国に有り。斯様の畜類だにも、後生をば願ふぞかし。伊東の入道は、最後の時にも、後生菩提を願はぬぞ、愚かなる。是を以て、過ぎにし事を案ずるに、親の譲りを背くのみならず、現在の兄を調伏し、もつまじき所領を横領せし故、天是を戒めけるとぞ覚えたり。然れば、悪は一旦の事なり、小利有りと雖も、遂には正に帰して、道理道を行くとかや。総じて、頼朝に敵したる者こそ多き中に、まのあたりに誅せられける、因果逃れざる理を思へば、昔、天竺に大王有り、尊き上人を帰依せんとて、国々を尋ねけるに、或る時、いみじき上人有りとて、向かひを遣はし給ふに、此の王、朝夕、碁を好み給ひて、人を集めて打ち給ふ。「上人参り給ひぬ」と申しければ、碁にきりて然るべき所有りけるを、「きれ」と宣ひけるに、此の上人P127の首をきれとの宣旨と聞き成して、即ち聖の首を打ち切りぬ。大王、夢にも知り給はで、碁打ちはてて、「其の上人、此方へと宣ふ。「宣旨に任せて、切りたり」と申す。大王、大きに悲しみ仏に歎き給ふ時、仏宣はく、「昔、国王は、蛙にて、土中に有りし也。上人、もとは、田を作る農人なり。然る間、田を返すとて、心ならず、唐鋤にて、蛙の首をすき切りぬ。其の因果逃れずして、切られけり。因果は、斯様なる物をや」と宣へば、国王、未来の因果を悲しみて、多くの志をつくして、彼の苦をまぬかれ給ひけるとかや。人は、只むくいを知るべきなり。
@〔祐清、京へ上る事〕S0219N041
伊東の九郎においては、奉公の者にて、死罪をなだめられ、召し使はるべき由、仰せ下されしを、「不忠の者の子、面目無し。其の上、石橋山の合戦に、まさしく君を打ち奉らんと向かひし身、命いきて候ふとも、人にひとしく頼まれ奉るべしとも存ぜず。さあらんにおいては、首を召されん事こそ、深き御恩たるべし」と、のぞみ申しけるも、やさしくぞ覚えける。此の心なればや、君をも落としP128奉りけると、今更思ひ知られたり。君聞こし召され、「申し上ぐる所の辞儀、余儀無し。然れども、忠の者を切りなば、天の照覧も如何」とて、切らるまじきにぞ定まりける。九郎、重ねて申しけるは、「御免候はば、忽ち平家へ参り、君の御敵と成り参らせ、後矢仕るべし」と、再三申しけれ共、御用ひ無く、「仮令敵と成ると言ふとも、頼朝が手にては、如何でか切るべき」と仰せ下されければ、力及ばず、京都に上り、平家に奉公致しける。北陸道の合戦の時、加賀の国篠原にて、斎藤別当一所に討死して、名を後代に止む。よき侍の振舞ひ、弓矢の義理、是にしかじと、惜しまぬ者は無かりけり。
@〔鎌倉の家の事〕S0220N042
さて、佐殿、北の御方取り奉りし江間の小四郎も打たれけり。跡を北条の四郎時政に賜はり、さてこそ、江間の小四郎とも申しけれ。此の外、打たるる侍共、相模の国には、波多野の右馬允、大庭の三郎、海老名の源八、荻野の五郎、上総の国には、上総介、みちの国には、秀衡が子供を始めとして、国々の侍五十余人ぞ打たれける。又、平家には、八島の大臣殿、右衛門督清宗、本三位の中将重衡を先とし、或いは、きらP129れ、自害する族、しるすに及ばず。源氏には、御舍弟三川守範頼、九郎判官義経、木曾義仲、甲斐の国には、一条の二郎忠頼、小田の入道、常陸の国には、志太の三郎先生を始めとして、以上二十八人、彼是打たるる者、百八十余人なり。「此の内に、冤貶の者は、わづか三人なり。一条の二郎、三川守、上総介なり。此の外は、皆自業自得果なり」とぞ宣ひける。さて、鎌倉に居所をしめて、郎従以下軒を並べ、貴賎袖を連ねけり。是や、政要の言葉に、「漢の文王は、千里の馬を辞し、晋の武王は、雉頭の裘をやく」とは、今の御代に知られたり。民の竃は、朝夕の煙豊かなり。賢王世にいづれば、鳳凰翼を延べ、賢臣国に来たれば、麒鱗蹄をとぐと言ふ事も、此の君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。
@〔八幡大菩薩の事〕S0221N043
抑、八幡大菩薩を、忝くも、鶴岡に崇め奉る。是を若宮と号す。蘋■の礼、社壇にしげく、奉幣、にんわうのせきしやうなり。其の垂迹三所に、仲哀・神功・応神三皇の玉体也。本地を思へば、弥陀三尊の聖容、行教和尚の三衣の袂を現し給へり。百皇鎮護の誓ひを起こして、一天静謐の恵みP130坐します。誠に是、本朝の宗廟として、源氏を守り給ふとかや。現世安穏の方便は、観音・勢至、神力を受け給ふ。後生善処の利益は、無量寿仏の誓ひを施し給ふ。仰ぎても信ずべきは、もつとも此の御神なり。父左馬頭の為に、勝長寿院を建立し給ふ。今の大御堂、是なり。其の外、堂舎・塔婆を造立し給ふ。仏像経巻を敬崇す。征罰の志、逸早にして、善根も又、莫大なり。寿永二年九月四日に、居ながら征夷将軍の院宣を蒙り、建久元年十一月七日に、上洛して、大納言に補し、同じき十二月五日に、右大将に任ず。然れば、籌策を帷帳の内にめぐらし、勝つ事を千里の外にえたり。実にや、遙かに伊豆の国に流罪せられ給ひし時、掛かるべしとは誰か思ひけん、一天四海を従へ、靡かぬ草木も無かりけり。誠や、史記の言葉に、「天下安寧なる時は、刑錯を用ひず」とは、今こそ思ひ知られたり。平家繁昌の折節、誰かは此の一門を滅ぼすべきとは思ひける。さても、伊豆の御山にて夢物語、同じく合はせ奉りし者、勧賞に預かり、藤九郎盛長、上野の総追捕使になさる。景信は、若宮の別当、神人総官を賜はる上に、大庭の御廚は、先祖には、代々数多にわかたれし、今度は、一円賜はりける。此の外、荘園五六ケ所給ひて、朝恩に誇りける。さても、先年、河津の三郎を打ちたりし工藤一郎祐経は、左衛門の尉に成りて、伊東を賜はる。其の外、所領数多P131拝領して、随分切り者にて、昼夜、君の御側さらで祗候す。され共、傷をかうむる鳥は、天に上がりて、翼を叩くと雖も、又、地に落つる思ひ有り。鉤をふくむ魚は、深き淵に入りて、尾をふると雖も、遂には陸に上がる愁へ有り。祐経も、斯様に果報いみじくて、公方・私、おどろを逆様に引くと雖も、敵有る身は、行く末逃れ難くして、遂に打たれにけるこそ、無慙なれ。