曾我物語 国民文庫本
凡例
底本:国民文庫「曾我物語」 明治44年
章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。P+ページ数(3桁)。
語句を他本を参照して改めた箇所があります。
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。
曾我物語
P049曾我物語巻第一
〔神代の始まりの事〕S0101N001
夫れ、日域秋津島は、是、国常立尊より事起こり、■土■・沙土■、男神・女神を始めとして、伊弉諾・伊弉冉尊まで、以上天神七代にて渡らせ給ひき。又、天照大神より、彦波瀲武■■草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜を送り給ふ。然るに、神武天皇と申し奉るは、葺不合の御子にて、一天の主、百皇にも始めとして、天下を治め給ひしより此の方、国土を傾け、万民の恐るる謀、文武の二道にしくは無し。好文の族を寵愛せられずは、誰か万機の政を助けむ。又は、勇敢の輩を抽賞せられずは、如何でか四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の大宗文皇帝は、瘡をすひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。然る間、本朝にも、中頃より、源平両氏を定め置かれしより此の方、武略を振るひ、朝家を守護し、互ひに名将P050の名を現し、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。是清和の後胤、又桓武の累代なり。然りと雖も、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃をかみ、鋒先を争ふ志、とりどり也。
〔惟喬・惟仁の位争ひの事〕S0102N002
抑、源氏と言つぱ、桓武天皇より四代の皇子を田村の御門と申しけり。皇子二人御座します。第一、惟喬の親王と申す。帝殊に御志思し召して、東宮にも立て、御位を譲り奉らばやと思し召されける。第二の御子をば、惟仁の親王と申しき。未だ幼く御座します。御母は染殿の関白忠仁公の御娘也ければ、一門の公卿、卿相雲客共まで愛し奉る。是も又、黙し難くぞ思し召されける。彼は継体あひふんの器量也。是は、万機ふいの臣相なり。是を背きて、宝祚を授くる物ならば、用捨私有りて、臣下唇を翻すに依りて、御位を譲り奉るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子達を引き具し奉り、右近の馬場へ行幸成る。月卿雲客、花の袂を重ね、玉の裙を連ね、右近の馬場、供奉せらる。此の事、希代の勝事、天下の不思議とぞ見えし。御子達P051も、東宮の浮沈、是に有りと見えし。然れば、様々の御祈り共有りける。惟喬の御祈りの師には、柿本の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、我が山の住侶に、恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人にてぞ渡らせ給ひける。西塔の平等坊にて、大威徳の法をぞ行ひける。既に競馬は、十番の際に定められしに、惟喬の御方に、続けて四番勝ち給ひけり。惟仁の御方へ心を寄せ奉る人々は、汗を握り、心を砕きて、祈念せられける。惟仁の御方へは、右近の馬場より、天台山平等坊の壇上へ、御使ひ馳せ重なる事、只櫛の歯を引くが如し。「既に御方こそ、四番続けて負けぬれ」と申しければ、恵亮、心憂く思はれて、絵像の大威徳を逆様に掛け奉り、三尺の土牛を取りて、北向きに立て、行はれけるに、土牛躍りて、西向きになれば、南に取りて押し向け、東向きになれば、西に取りて押し直し、肝胆を砕きて揉まれしが、猶居兼ねて、独鈷を以て、自ら脳をつき砕きて、脳を取り、罌粟に混ぜ、炉に打ちくべ、黒煙を立て、一揉み揉み給ひければ、土牛たけりて、声を上げ、絵像の大威徳、利剣を捧げて、振り給ひければ、所願成就してげりと、御心述べ給ふ所に、「御方こそ、六番続けて勝ち給ひ候へ」と、御使ひ走り付きければ、喜悦の眉を開き、急ぎ壇をぞ下りられける。有り難しP052瑞相なり。然れば、惟人の親王、御位に定まり、東宮に立たせ給ひけり。然るに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に即き、そんゑ剣を振り給へば、菅丞霊をたれ給ふ」とぞ申しける。是に依りて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひたる。御子も、都へ御帰り無くして、比叡山の麓小野と言ふ所に閉ぢ籠らせ給ひける。頃は神無月末つ方、雪げの空の嵐にさえ、しぐるる雲の絶間無く、都に行き交ふ人も稀なりけり。況や小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れ也。此処に、在五中将在原の業平、昔の御契り浅からざりし人也ければ、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く御跡を尋ね参りて、見参らすれば、孟冬移り来たりて、紅葉嵐に絶え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折に任せ、人目も草も枯れぬれば、山里いとど寂しきに、皆白妙の庭の面、跡踏み付くる人も無し。御子は、端近く出でさせ給ひて、南殿の御格子三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ、珍しげにや、「春は青く、夏は茂り、秋は染め、冬は落つる」と言ふ、昭明太子の、思し召し連ね、「香爐峰の雪をば、簾を掲げて見るらん」と、御口ずさみ給ひけり。中将、此の有様を見奉るに、只夢の心地せられける。近く参りて、昔今の事共申し承るに付けても、御衣の御袂、絞りも敢へさせ給はず、鳥飼の院の御遊幸、交野の雪の御鷹狩まで、思し召し出でP053られて、中将かくぞ申されける。忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは W001御子も取り敢へさせ給はで、返り、夢かとも何か思はん世の中を背かざりけん事ぞ悔しき W002かくて、貞観四年に、御出家渡らせ給ひしかば、小野宮とも申しけり。又は、四品宮内卿宮とも申しけり。文徳天皇、御年三十にて、崩御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて、御譲りを受け給ふ。清和天皇の御事、是なる。後には、丹波の国水尾の里に閉ぢ籠らせ給ひければ、水尾帝とぞ申しける。皇子数多御座します。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三をていけい親王、第四を貞保親王、此の皇子は、御琵琶の上手にて御座します。桂の新王とも申しけり。鏨を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む、此の御子の御事なり。今のしけのこの先祖なり。第五を貞平親王、第六を貞純親王とぞ申しける。六孫王、是なり。然れば、彼の親王の嫡子、多田の新発意満仲、其の子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田の法眼とて、山法師にて、三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、其の子伊予入道頼義、其の嫡子八幡太郎義家、其の子但馬守義親、次男河内の判官義忠、三男式部の太夫義国、四男六条の判官為義、其の子左馬の頭義朝、其の嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮の大夫進朝長、三男右近衛の大将頼朝P054の上越す源氏ぞ無かりける。此の六孫王より此の方、皇氏を出でて、始めて源の姓を賜はり、正体をさりて、長く人臣に連なり給ひて後、多田の満仲より、下野守義朝に至るまで七代は、皆諸国の竹符に名を掛け、芸を将軍の弓馬に施し、家にあらずして、四海を守りしに、白波猶越えたり。然れば、各々剣を争ふ故に、互ひに朝敵に成りて、源氏世を乱せば、平氏勅宣を以て、是を制して朝恩に誇り、平将国を傾くれば、源氏しよめいに任せて、是を罰して、勲功を極む。然れば、近頃、平氏長く退散して、源氏自づから世に誇り、四海の波瀾を治め、一天のはうきよ定めしより此の方、りらくりんゑたかいいて、吹く風の声穏やか也。然れば、叡慮を背くせいらうは、色を雄剣の秋の霜にをかされ、てこそをみたすはしは、音を上弦の月に澄ます。是、偏に羽林の威風、先代にも越えて、うんてうの故也。然るに、せいしをひそめて、せいとの乱れを制し。私曲の争ひを止めて、帰伏せらるるは無かりけり。
〔伊東を調伏する事〕S0103N006P055
此処に、伊豆の国の住人、伊東の二郎祐親が孫、曾我の十郎祐成、同じく五郎時致と言ふ者有りて、将軍の陣内も憚らず、親の敵を打ち取り、芸を戦場に施し、名を後代に止めけり。由来を詳しく尋ぬれば、即ち一家の輩、工藤左衛門祐経なり。例へば、伊豆の国伊東・河津・宇佐美、此の三ケ所をふさねて、■美庄と号するの本主は、■美の入道寂心にてぞ有りける。在国の時は、工藤大夫祐隆と言ひけり。男子数多持ちたりしが、皆早世して、遺跡既に絶えんとす。然る間、継女の子を取り出だし、嫡子に立てて、伊東を譲り、武者所に参らせ、工藤武者祐継と号す。又、嫡孫有り、次男に立てて、河津を譲り、河津二郎と名乗らせ、然る間、寂心他界の後、祐親思ひけるは、我こそ、嫡々なれば、嫡子に、異姓他人の継女の子、此の家に入りて、相続するこそ、安からねと思ふ心付きにけり。是、誠に神慮にも背き、子孫も絶えぬべき悪事なるをや。仮令他人なりと言ふとも、親養じて譲る上は、違乱の義有るべからず。まして、是は、寂心、内々継女のもとに通ひて、設けたる子也。誠には兄なり。譲りたる上、争ふ事、無益の由、余所余所にも申し合ひけり。然れども、祐親止まらで、対決度々に及ぶと雖も、譲状を捧ぐる間、伊東が所領に成りて、河津は負けてぞ下りける。其の後、上に親しみながら、内々安からぬ事にぞ思ひける。然れども、P056我が力には適はで、年月を送り、或る時、祐親、箱根の別当を秘かに呼び下し奉り、種々にもてなし、酒宴過ぎしかば、近く居寄り、畏まりて申しけるは、「予てより知ろし召されて候ふ如く、伊東をば、嫡々にて、祐親が相継ぎ候ふべきを、思はずの継女の子来たりて、父の墓所、先祖の重代の所領を横領仕る事、余所にて見え候ふが、余りに口惜しく候ふ間、御心をも憚らず、申し出だし候ふ。然るべくは、伊東武者が二つ無き命を、立所に失ひ候ふ様に、調伏有りて見せ給へ」と申しければ、別当聞き給ひて、暫く物も宣はず、やや有りて、「此の事、よくよく聞き給へ。一腹一生にてこそ坐しまさね、兄弟なる事は眼前也。公方までも聞こし召し開かれ、既に御下知をなさるる上は、隔ての御恨みは、然る事にて候へども、忽ちに害心を起こし、親の掟を背き給はん事、然るべからず。神明は、正直の頭に宿り給ふ事なれば、定めて天の加護も有るべからず、冥の照覧も恐ろし。其の上、愚僧は、幼少より、父母の塵欲を離れ、師匠のかんしんに入りて、所説の教法を学し、円頓止観の門をのぞみ、一ねんまいに、稼穡の艱難を思ひ、一度切る時、紡績の辛苦を忍ぶ。三衣を墨に染め、鬢髪をまろめ、仏の遺願に任せ、五戒を保ちしより此の方、物の命を殺す事、仏殊に戒め給ふ。然れば、衆生の身の中には、三身仏性とて、P057三体の仏の坐します。然るに、人の命を奪はん事、三世の諸仏を失ひ奉るに同じ。諸々以て、思ひ寄らざる事なり」とて、箱根に上り給ひけり。河津は、なまじひなる事申し出だして、別当、承引無かりければ、其の後、消息を以て、重ね重ね申しけれども、猶用ひ給はず。如何せんとて、秘かに箱根に上り、別当に見参して、近く居寄りて、ささやきけるは、「物其の身にては候はねども、昔より師檀の契約浅からで、頼み頼まれ奉りぬ。祐親が身におきて、一生の大事、子々孫々までも、是にしくべからず候ふ。再往に、申し入れ候ふ条、誠に其の恐れ少なからず候へども、彼の方へ返り聞こえなば、重ねたる難儀、出で来たり候ふべし。然ればにや、浮沈に及び候ふ」と、くれぐれ申しければ、始めは、別当、大きに辞退有りけるが、誠に檀那の情もさり難くして、おろおろ領状有りければ、河津、里へぞ下りける。別当、そき無き事ながら、檀那の頼むと申しければ、壇を立て、荘厳して、伊東を調伏せられけるこそ、恐ろしけれ。始め三日の本尊には、来迎の阿弥陀の三尊、六道能化の地蔵菩薩、檀那河津次郎が所願成就の為、伊東武者が二つ無き命を取り、来世にては、観音・勢至、蓮台を傾け、安養の浄刹に引接し給へ、片時も、地獄に落とし給ふなと、他念無く祈られけり。後七日の本尊には、烏蒭沙摩金剛とかう童子、五大明王の威験殊勝なるを、P058四方に掛けて、紫の袈裟を帯し、種々に壇を飾り、肝胆を砕き、汗をものごはず、面をもふらず、余念無くこそ祈られけれ。昔より今に至るまで、仏法護持の御力、今に始めざる事なれば、七日に満ずる寅の半ばに、伊藤武者がさかんなる首を、明王の剣の先に貫き、壇上に落つると見/て、さては威験現れたりとて、別当、壇を下り給ふ、恐ろしかりし事共也。
〔同じく伊東が死する事〕S0104N007
伊東武者、是をば夢にも知らで、時ならぬ奥野の狩して遊ばんとて、射手を揃へ、勢子を催し、若党数相具して、伊豆の奥野へぞ入りにける。頃しも、夏の末つ方、峰に重なる木の間より、村々に靡くは、さぞと見えしより、思はざる風にをかされて、心地例ならずわづらひ、志す狩場をも見ずして、近き野辺より帰りけり。日数重なる程に、いよいよ重くぞなりにける。其の時、九つになりけるかないしを呼び寄せて、自ら手を取り、申しけるは、「如何に己、十歳にだにもならざるを、見捨てて死なん事こそ、悲しけれ。生死限り有り、逃るべからず。汝を、誰哀れみ、誰育みて育てん」と、さめざめと泣きP059けり。かないしは幼ければ、只泣くより外の事は無し。女房、近く居寄り、涙を抑へて言ひけるは、「適はぬ浮き世の習ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待ち給へかし。然ればとて、数多有る子にもあらず、又、かけこ有る中の身にても無し。如何はせん」と、歎きけるこそ、理なれ。此処に、弟の河津の次郎祐親が、訪ひ来たりけるが、此の有様を見/て、近く居寄り、申しけるは、「今を限りとこそ、見えさせ給ひて候へ。今生の執心を御止め候ひて、一筋に後生菩提を願ひ給へ。かないし殿においては、祐親かくて候へば、後見し奉るべし。努々疎略の義有るべからず。心安く思ひ給へ。然ればにや、史記の言葉にも、「昆弟の子は、なほし己が子の如し」と見えたり。如何でか愚かなるべき」と申しければ、祐継、是を聞き、内に害心有るをば知らで、大きに喜び、かき起こされ、人の肩にかかり、手を合はせ、祐親を拝み、やや有りて、苦しげなる息を付き、「如何に候ふ。只今の仰せこそ、生前に嬉しく覚え候へ。此の頃、何と無く下説について、心よからざる事にて坐しまさんと存ずる所に、斯様に宣ふこそ、返す返すも本意なれ。然らば、かないしをば、偏にわ殿に預け奉る。甥なりとも、実子と思ひ、娘数多持ち給ふ中にも、万刧御前に合はせて、十五にならば、男に成し、当庄のほんけん小松殿の見参に入れ、わ殿の娘P060とかないしに、此の所をさまたげ無く知行せさせよ」とて、伊東の地券文書取り出だし、かないしに見せ、「汝にぢきに取らすべけれども、未だ幼稚なり。いづれも親なれば、愚か有るべからず。母に預くるぞ。十五にならば、取らすべし。よくよく見置け。今より後は、河津殿を、叔父なりとも、誠の親と頼むべし。心おきて、にくまれ奉るな。祐継も、草の陰にて、立ち添ひ守るべし」とて、文書母が方へ渡し、今は心安しとて、打ち伏しぬ。かくて、日数の積もり行けば、いよいよ弱りはてて、七月十三日の寅の刻に、四十三にて失せにけり。哀れなりし例なり。弟の河津の次郎は、上には歎く由なりしかども、下には喜悦の眉を開き、箱根の別当の方をぞ拝みける。一旦猛悪は、勝利有りと雖も、遂には子孫にむくふ習ひにて、末如何とぞ覚えける。やがて、河津が、我が家を出で、伊東の館に入り代はり、内々存ずる旨有りければ、兄の為、忠有る由にて、後家にも子にも劣らず、孝養を致す。七日七日の外、百ケ日、一周忌、第三年に至るまで、諸善の忠節をつくす。人是を聞き、「神をまつる時は、神のます如くにせよ。使ふる時は、生に使ふる如くなれ」とは、論語の言葉なるをやと感じけるぞ、愚かなる。さて、かないしには、心安き乳母を付けてぞ、養じける。遺言違へず、十五にて元服させ、うすみの工藤祐経と号す。やがて、娘万刧に合はせ、P061其の秋、相具して、上洛し、即ち、小松殿の見参に入れ、祐経をば、京都に止めおき、我が身は、国へぞ下りける。其の後、かひがひしき侍の一人も付けず、おとなしき物も無し。所帯におきては、祐親一人して横領し、祐経には、屋敷の一所をも配分せざりけり。誠や、文選の言葉に、「徳をつみ、行をけぬる事、其の善を知らず、然れども時に用ひる事有り、義を捨て、理を背く事、其の悪を知らざれども、時に滅ぶる事有り。身の危ふきは、勢の過ぐる所と成り、禍の積もるは、寵のさかんなるを越えてなり」。然れども、祐経は、たれをしゆるとも無きに、公所を離れず、奉行所におきて、身を打たせ、沙汰になれける程に、善悪を分別して、理非を迷はず、諸事に心を渡し、手跡普通に過ぎ、和歌の道を心に懸け、酣暢の筵に推参して、其の衆に連なりしかば、伊東の優男とぞ召されける。十五歳より、武者所に侍つて、礼儀正しくして、男がら尋常なりければ、田舎侍とも無く、心にくしとて、二十一歳にして、武者の一郎をへて、工藤一郎とぞ召されける。
〔伊東の二郎と祐経が争論の事〕S0105N008P062
かくて、二十五まで、給仕怠らざりき。此処に、思はずに、田舎の母、一期つきて、形見に、父が預け置きし譲状を取り添へて、祐経がもとへぞ上せたりける。祐経、是を披見して、「こは如何に、伊豆の伊藤と言ふ所をば、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何に依つて、叔父河津の二郎、相続して、此の八か年が間、知行しける。いざや冠者原、四季の衣がへさせん」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右無く暇を賜はらざりけり。然らばとて、代官を下して、催促を致す。伊東、是を聞き、「祐親より外に、またく他の地頭無し」とて、冠者原を放逸に追放す。京より下る者は、田舎の子細をば知らで、急ぎ逃げ上り、一臈に此の由を訴ふ。「其の儀ならば、祐経下らん」とて、出で立ちけるが、案者第一の者にて、心をかへて思ひけるは、人の僻事すると言ふを聞きながら、我又下りて、劣らじ、負けじとせん程に、勝る狼藉引き出だし、両方得替の身となりぬべし、其の上、道理を持ちながら、親方に向かひ、意趣を込めん事、詮無し、祐経程の者が、理運の沙汰にまくべきにあらず、田舎より彼の仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめと思ひ、あたる所の道理、差し詰め差し詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て、伊東を京都に召し上せ、事のちきやうなる時こそ、田舎にて、横紙をも破り、ちやうちやく共P063言ひけれ、院宣を成し、重ねてからく召されければ、一門馳せ集まり、案者・口聞き寄り合ひ、伴ひ談すると雖も道理は一つも無かりけり。祐継存生の時より、執心深くして、如何にも此の所を、祐親が拝領にせんと、多年心に懸け、既に十余年知行の所なり。一期の大事と、金銀を調へ、秘かに奉行所へぞ上せける。誠や、文選の言葉に、「青蝿も、すひしやうを汚さず、邪論も、くの聖を惑はず」とは申せども、奉行のめづるも、理也。漢書を見るに、「水いたつて清ければ、底に魚住まず。人いたつてせんなれば、内に徒も無し」と見えたり。然ればにや、奉行、誠に宝重くして、祐経が申状、立たざる事こそ、無念なれ。月は明らかならんとすれども、浮雲是をおほひ、水はすまんとすれども、泥沙是を汚す。君賢なりと雖も、臣是を汚す理に依つて、本券、箱の底にくちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申状を奉行所に捧ぐ。其の状に曰く、伊豆の国の住人伊東工藤一郎平の祐経、重ねて言上、 早く、御裁許を蒙らんと欲する子細の事。右件の条、祖父■美の入道寂心他界の後、親父伊東武者祐継、舎弟祐親、兄弟の中、不和なるに依つて、対決度々に及ぶと雖も、祐継、当腹寵愛たるに依つて、安堵の御下し文を賜はつて、P064既に数ケ年をへ畢んぬ。此処に、祐継、一期限りの病の床にのぞむきざみ、河津の二郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来たる。其の時、祐経は、生年九歳也き。叔父河津の二郎に、地券文書、母共に預け置きて、八か年の春秋を送る。親方にあらずは、しこうのしんと申すべきや。所詮、世のけいに任せ、伊東の二郎に賜はるべきか、又祐経に賜はるべきか、相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて、誠惶誠恐、言上件の如く。仁安二年三月日平の祐経と書きてさうさう。ししよに、此の状を披見有りて、差しあたる道理にわづらひけるよと、人々寄り合ひ、内談す。誠に、祐経が申状、一つとして僻事無し。是は裁許せずは、憲法にそねまれなん。又、伊東宝を上せて、万事奉行を頼むと言ふ。然れども、祐経は、左右無く理運たる間、奉行所のはからひとして、よの安堵の状二書きて、大宮の令旨を添へ、りやうへ下さる。伊東は、半分也とも賜はる所、奉行の御恩と喜びて、本国へぞ下りける。書は言葉をつくさず、言葉は心をつくさずと雖も、一郎は、言葉を失ひ、十五より、本所に参り、日夜朝暮、給仕を致し、今年八年か九年かと覚ゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ、先祖所領を半分召さるる事そも何事ぞ、「源濁れる時は、清からんをのぞみ、P065形ゆがめる時は、影のどかならんを思ふ」と、かたに見えたり、父祐継が世には、斯様によも分けじ、今なんぞ半分の主たるべきや、是偏に親方ながら、伊東が致す所なり、我が身こそ、京都にすむとも、せんこは皆、弓矢取りの遺恨なり、如何でか、此の事恨みざるべきとて、秘かに都を出でて、駿河の国高橋と言ふ所に下り、きつかひ・船越・おきの・蒲原・入江の人々、外戚につきて、親しかりければ、二百四人寄り合ひて、祐親打ちて、領所を一人して進退せんと思ふ心、付きにけり。此の儀、神慮も量り難し。例へば、差しあたる道理は、顕然たりと雖も、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行をたくむ事、いとう昔をも思ひ、てんしゆか古も尋ぬべき。第一に叔父なり、第二に養父也、第三に舅なり、第四に烏帽子親なり、第五に一族中の老者なり、方々以て、愚かならず。斯様に思ひ立つぞ、恐ろしき。如何にも思慮有る人に候ふや。剰へ地領を奪はん事、不可思議なり。祐親、是を返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊藤九郎祐清、其の外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばす。是や、富貴にして、善を成し安く、貧賎にして、工を成し難しと、今こそ思ひ知られたり。其の後、伊東の二郎、此の事有りの儘に京都へ訴へ申して、長く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当におきては、芥子程も残らず、横領する間、祐経、身の置き所無くP066して、又、京都に帰り上り、秘かに住す。伊東に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、祐経が妻女取り返し、相模の国の住人土肥の二郎実平が嫡子弥太郎遠平に合はせけり。国には又、並ぶ者無くぞ見えたり。然れども、「功賞無き不義の富は、禍の媒」と、左伝に見えたり。然れば、行く末如何とぞ覚えし。工藤一郎は、なまじひの事を言ひ出だして、叔父に中を違はれ、夫妻の別れ、所帯は奪はれ、身を置き兼ねて、胆をやきける間、給仕も疎略になりにけり。然ればにや、御気色も悪しく、傍輩も、側目に懸けければ、積鬱たゑすかと思ひ焦がれて、秘かに本国に下り、大見庄に住して、年頃の郎等に、大見の小藤太、八幡の三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々、つぶさに聞け。相伝の所領を横領せらるるだにも、安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥の弥太郎に合はせらるる条、口惜しきとも、余り有り。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。現れては、せん事適ふまじ。我又、便宜を窺はば、人に見知られて、本意を遂げ難し。然ればとて、止まるべきにもあらず。如何せん、各々さりげなくして、狩すなどりの所にても、便を窺ひ、矢一つ射んにや、もし宿意を遂げんにおきては、重恩、生々世々にも、報じて余り有り。如何せん」とぞくどきけり。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「是までも、仰せらるべからず。弓矢を取り、P067世を渡ると申せども、万死一生は、一期一度とこそ承れ。然れば、古き言葉にも、「功は成し難くして、しかも破れ安き、時はあひ難くして、しかも失ひ安し」。此の仰せこそ、面目にて候へ。是非命におきては、君に参らする」とて、各々座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささか此の儀を知らざるこそ、悲しけれ。
〔佐殿、伊東の館に坐します事〕S0106N010
かくて、隙を窺ふ程に、其の頃、兵衛佐殿、伊東の館に坐しましけるに、相模の国の住人大庭の平太景信と言ふ者有り。一門寄り合ひ、酒もりしけるが、申しけるは、「我等は、昔は、源氏の郎等也しかども、今は、平家の御恩を以て、妻子を育むと雖も、古のこう、忘るべきにあらず。いざや、佐殿の、いつしか流人として、徒然に坐しますらん。一夜、宿直申して、慰め奉り、後日の奉公に申さん」「もつとも然るべし」とて、一門五十余人、出で立ちたり。人別筒一あてぞ持ちにける。是を聞き、三浦、鎌倉、土肥の二郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の人々、思ひ思ひに出で立ちにけり。然る程に、近国の侍、聞き伝へ、「我も如何でかP068逃るべき。いざや参らん」とて、相模の国には、大庭が舎弟三郎、俣野の五郎、さこしの十郎、山内滝口の太郎、同じく三郎、海老名の源八、荻野五郎、駿河の国には、竹下の孫八、合沢の弥五郎、吉川、船越、入江の人々、伊豆の国には、北条の四郎、同じく三郎、天野の藤内、狩野の工藤五を始めとして、むねとの人々五百人、伊豆の伊東へぞ移りける。伊東、大きに喜びて、内外の侍、一面に取り払ひ、猶狭かりなんとて、壼に仮屋を打ち出だし、大幕引き、上下二千四五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥の二郎、是を見/て、「雑掌は、百人二百人までは安し。既に二三千人の客人を一人に預くる事、無骨なり」と言ふ。伊東、是を聞き、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰に、我が劣りて振舞ひし。ましてや、■美庄をふさねて持ち候ふ間、予て承る物ならば、などや面々に引出物申さで有るべき。是程の事、何かは苦しかるべき」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名の源八の申しけるは、「斯かる寄り合ひに参るべしと存じて候はば、国より勢子の用意して、音に聞こゆる奧野に入り、物頭に馬相付け、鏑のとほなりさせざるが、無念なり」と言ひければ、伊東、是を聞き、「祐親を人と思ひてこそ、両三日国の人々打ち寄りて、遊び給ふらめ。左右無く、座敷にて、勢子の願ひやうこそ、心狭けれ。それそれ河津の三郎、勢子催して、鹿P069射させ申せ」と言ひけるぞ、伊東の運の極めなる。河津は、もとより穩便の者にて、心の内には、殺生を禁ずる人なりければ、如何にもして、此の度の狩を申し止めなば、よからましと思へども、多き侍の中にて、親の申す事なれば、力及ばで、座敷を立ち、我と勢子をぞ催しける。「幼き者は、馬に乗りて出でよ。大人は、弓矢をもて」とふれければ、■美庄ひろくして、老若に三千四五百人ぞ出でたりける。彼等を先として、三が国の人々、我も我もと打ち出でたり。伊東・河津が妻女、数の女房引きつれて、南の中門に立ち出でて、打ち出でける人々を見送りける。中にも、河津三郎は、余の人にもまがはず、器量骨柄すぐれたり。「此の内のたいしんと言ひたりとも、悪しからじ。子ながらも、優に見ゆる物かな。頼もし」と宣ひければ、河津が女房、是を聞き、「弓矢取りの物いでの姿、女見送る事、詮無し。内に入らせ給へ」と言ひければ、実にもとて、各々内にぞ入りにける。神無月十日余りに、伊豆の奥野へ入りにけり。
〔大見・八幡が伊東狙ひし事〕S0107N011
此処に、祐経が二人の郎等大見・八幡は、是を聞き、斯様の所こそ、よき便宜P070なれ、いざや、我等、便りを狙はんと、各々、柿の直垂に、鹿矢さけたる竹箙取りて付け、白木の弓のいよげなるを打ちかたげ、勢子にかきまぎれ、狙ふ所々は、一日は柏峠、熊倉、二日は荻窪、椎沢、三日は長倉が渡り、朽木沢、赤沢峰を始めとして、七日が間、つきめぐりてぞ狙ひける。然れども、伊藤、国一番の大名にて、家の子郎等多かりければ、たやすく討つべき様ぞ、無かりける。
〔杵臼・程嬰が事〕S0108N012
此の者共が、心をつくしける有様にて、昔を思ふに、大国に、かうめひ王と言ふ国王有り、国を争ひて、並びの国の王と軍し給ふ事、度々なり。然るに、かうめい王、戦ひ負けて、自害に及ばんとす。時に、杵臼・程嬰とて、二人の臣下有り。彼等を近付けて、「汝等は、定めて、我と共に自害せんとぞ思ふらん。是、誠にしゆんろ、逃るる所無し。さりながら、我、一人の太子に、屠岸賈と言ひて十一歳に成るを、故郷に止め置きぬ。我自害の後、雑兵の手にかかりて、命を空しくせん事、口惜しければ、汝等、如何にもして逃れ出でて、此の子を育み育てて、敵を滅ぼし、無念の散ぜよ」と宣ひけれP071ば、二人の臣下、異議に及ばずして、城の内を忍び出でにけり。国王、心安くして、自害し給ひけり。さて、二人の臣下、都に帰り、太子をいざあひ出だして、養じけるぞ、無慙なる。敵の大王、是を聞き伝へ、「末の世には、我が敵なり。彼の太子、同じく二人の臣下、共に、首を取りて来たらん者には、勲功は所望によるべし」と、国々に宣旨を下されけり。此の宣旨に従つて、彼の人々に心を懸け、如何にもとあやしみ思はぬ者は無し。然れども、一所の住まひ適はで、或いは、遠き里に交はり、深き山に籠りて、身を隠すと雖も、所無くして、二人寄り合ひ、如何せんとぞ歎きける。程嬰申しけるは、「我等が、君を養じ奉るに、敵こはくして、国中に隠れ難し。然れば、我等二人が内に、一人、敵の王に出で仕へん。然る物とて、使ふとも、心を許す事あらじ。我、きくわくと言ひて、十一歳に成る子を、一人持ちたり。幸ひ、是も、若君と同年也。是を大子と号して、二人が中、一人は山に籠り、一人は討手に来たり、主従二人を打ち、首を取り、敵の王に捧げなば、如何でか心許さざるべき。其の時、敵をやすやすと打ち取るべし」と言ひければ、杵臼申しけるは、「命ながらへて後に、事をなすべきこらへのせいは、遠くしてかたし。今、太子と同じく死せんは、近くして安し。然れば、杵臼は、こらへのせい、少なき者なり。安きP072に付き、我先づ死ぬべし。程嬰は、敵方に出でん事を急ぎ給へ」とぞ申しける。其の後、程嬰、我が子のきくわくを近付けて、「如何にや、汝、詳しく聞け。我等は、主君の大子を隠し奉る。既に我々、汝等までも、敵にとらはれて、犬死をせん事、疑ひ無し。然れば、汝を太子と偽り奉りて、首を取るべし。恨むる事無くして、御命に代はり奉りて、君をも安全ならしめよ。親なればとて、添ひはつべきにもあらず。来世にて生まれあふべし」と申しければ、きくわく、聞きも敢へず、涙を流して、しばしは返事せざりけり。父、此の色を見/て、「未練なり。汝、はや十歳に余るぞかし。弓矢取る者の子は、胎の内よりも、物の心は知るぞかし」といさめければ、きくわく、此の言葉に恥ぢて、言ひけるは、言葉こそ無慙なる、「辞退申すべきにあらず。誠に、某は、命一つにて、君と父との孝行に捧げ申さん事、惜しからざる物をや、歎きの中の喜び也」と言ひも敢へず、涙にむせびける。父、是を聞き、子ながらも、優に使ひたる言葉かな、未だ幼き者ぞかし、誠に我が子なり、成人の後、惜しと言ふも余り有り、弱き心の見えなば、もし未練にもやと思ひければ、流るる涙を押し止め、「弓矢の家に生まれて、君の為に命を捨つる事、汝一人にも限らず、最後未練にては、君の御為、P073父が為、中々見苦しとて、一命を損にすべき也」と言ひければ、きくわく、涙を抑へて、「か程には、深く思ひ定めて候へば、如何で愚かなるべき。さりながら、差しあたる父母の御別れ、如何でか惜しからでそろべき。心安く思し召せ。最後におきては、思ひ定めて候ふ」と申しければ、父も、心安くぞ思ひける。さて又、二人寄り合ひ、内談する様、「先づ今、君の御為に、打たるべき命は安く、残り止まりて、敵を打ち、太子世に立て申さん事、重きが上の大事なり。如何はせん。ながらへ、功をなす事、堪忍し難し。我、先づしなん」とて、杵臼は、十一歳のきくわくをつれて、山に籠り、討手を待ちける心の内、無慙と言ふも余り有り。其の後、程嬰、敵の王のあたりに行き、「召し使はれむ」と申す。敵王聞き、此の者、身を捨て、面をよごし、我に使ふべき臣下にあらず、さりながら、世変はり、時移れば、さもやと思ひ、かたはらに許し置くとは雖も、猶害心に恐れて、許す心無かりけり。言ひ合はせたる事なれば、「我、今、君王に仕へて、二心無し。疑ひ事わりなれども、世界を狭められ、恥辱にかへて、助かるなり。なほし、用ひ給はずは、主君の太子、臣下の杵臼諸共に、隠れ居たる所を、詳しく知れり。討手を賜はつて向かひ、彼等を打ち、首を取りて見せ参らせん」と言ふ。其の時、国王、和睦の心を成し、数千人P074の兵を差し添へ、彼等隠れ居たる山へ押し寄せ、四方をかこみ、閧の声をぞ上げたりける。杵臼は、思ひ設けたる事なれば、鎮まり返りて、音もせず。程嬰、すすみ出で申しけるは、「是は、かうめい王の太子屠岸賈や坐します。程嬰、討手に参りたり。雑兵の手にかかり給はんより、急ぎ自害し給へ。逃れ給ふべきにあらず」と申しければ、杵臼立ち出で、「若君の坐します事、隠し申すべきにあらず。待ち給へ。御自害有るべし。さりながら、今日の大将軍の程嬰は、昨日までは、まさしき相伝の臣下ぞかし。一旦の依怙に住すとも、遂には、天罰降り来たり、遠からざるに、失せなん果を見ばや」とぞ申しける。程嬰、是を聞き、「時世に従ふ習ひ、昔は、さもこそ有りつらめ、今又、変はる折節なり。然ればにや、君も、御運もつきはて、命もつづまり給ふぞかし。徒らごとにかかはりて、命失ひ給はんより、兜を脱ぎ、弓の弦をはづし、降参し給へ。古の情を以て、助くべし」とぞ言ひける。十一歳のきくわく、討手は父よと知りながら、予て定めし事なれば、父重代の剣をよこたへて、高き所に走り上がり、「如何に、人々、聞き給へ。かうめい王の太子として、臣下の手に掛かるべき事にもあらず。又、臣下心がはりも、恨むべきにもあらず。只前業つたなけれ。さりながら、其の家久しき郎等ぞかし。程嬰、出で給へ。日頃のよしみに、今一度見参せん」と言ひけれP075ば、程嬰、我が子の振舞ひを見/て、心安く思へども、忍びの涙ぞすすみける。兵あやしくや見るらんと、落つる涙を押し止め、「人々、是を聞き給へ。国王の太子とて、優に使ひたる言葉かな。かうこそ」と言ひけるが、さすが恩愛の別れ、包み兼ねたる涙の袖、絞りも敢へず、余所の哀れを催しつつ、相従ふ兵、差しあたりたる道理なれば、共に感ぜぬは無かりけり。其の後、太子、高声に曰く、「我は是、かうめい王の子、生年十一歳。父一所に向かへ給へ」と言ひもはてず、剣を抜き、貫かれてぞ、伏しぬ。杵臼、同じく立ち寄りて、「御けなげにも、御自害候ふ物かな。某も、追ひ付き奉らん」とて、腹十文字にかき破り、太子の死骸にまろびかかりて、伏しける有様、みるに言葉も及ばれず、無慙なりし例なり。さて、二人が首を取り、帝王に捧ぐ。叡覧有りて、喜悦の眉を開き給ふ。今は、疑ふ所無く、程嬰に心を許し、一の大臣にいはひたもふ、御運の極めとぞ覚えべし。さて、隙を窺ひ、敵王を討つ事、いと安し。すみやかに、主君の屠岸賈を取り立て、二度国を開く事、案の内なり。然ればにや、もとの如く、程嬰をさう臣に立てらるに依つて、杵臼、きくわくの為に、追善其の数を知らず。かくて、三年に、国ことごとく鎮まりをはりて後、程嬰、君に暇をこひて曰く、「我、杵臼に契約して、命を君に捨つる事、P076遅速を争ひしなり。御位、是までなり。今は、思ひ置く事無ければ、杵臼が草の陰にての心も恥づかし。自害仕らん」と申す。帝王、大きに歎きて、是を許す事無し。然れども、隙をはからひ、忍び出でて、杵臼が塚の前に行き、「君の御位、思ふ儘なり。如何にも嬉しく思ひ給ふらん。我又、かくの如し。古の契約忘れず」と言ひて、腹かき切り、失せにけり。哀れなりし例なり。大見・八幡が、主の為に、命をかろんじて、伊東を狙ひし志、是には過ぎじとぞ覚えたり。
〔奥野の狩の事〕S0109N013
さても、両三が国の人々は、各々奥野に入り、方々より勢子を入れて、野干をかりける程に、七日が内に、猪六百、鹿千頭、熊三十七、■鼠三百、其の外、雉、山鳥、猿、兎、貉、狐、狸、豺、大かめの類に至るまで、以上其の数二千七百余りぞ、止められける。今は、さのみ野干を滅ぼして、何にかせんとて、各々柏峠にぞ打ち上がり、此の程の雑掌は、伊東一人して、暇無かりければ、「持た/せたる酒、人々の見参に入れざるこそ、本意無けれ。いざや、山陣取りて、頼朝に、今P077一獻すすめ奉らん」「然るべし」とて、むねとの人々五百余人、峠に下り居て、用意す。N014土肥の二郎が申す、「今日の御酒もりは、予て座敷の御定め有るべし。若き方々の御違乱もや候ふべき」。大庭の平太、「是、芝居の座敷、誰を上下と定むべき。年寄の盃は、海老名殿より始め、若殿原は、滝口殿より始めよ。此の人は、いづかたにぞ」と申しければ、弟の三郎聞き、「兄にて候ふ者は、熊倉の北の脇に、鹿の候ひつるを、目に懸け、深入りして、未だ見えず候ふ。家俊こそ参りて候へ」。土屋が申しけるは、「三郎殿こそ、滝口殿よ。兄弟中に、誰をかわきて隔つべき。其の盃、三郎殿より始めよ」と言ふ。大庭聞き、「滝口殿は、年こそ若けれども、然る人ぞかし。今来たると言ふを、少しの間、待たぬか。左右無く肴あらすな」とて、奥野の山口方へ向かひ遣り、滝口遅しとまつ所に、滝口は、熊倉の北の脇を過ぐるに、埒の外に、熊の大王を見付けて、元山ヘ入れじと、平野に追ひ下す所に、滝口、大きなる伏木に馬を乗り掛け、真逆様に馳せ倒す。倒るる馬を顧みず、弓のもとを、左右の鐙に乗りかかり、草葉隠れに、矢ごろ少しのびたりけるを、三人ばりに、十三束の大の鏑矢つがひ、拳上に引き掛け、ひやうどはなつ。ひやうどとほなりして、右の折骨二つ三つ、はらりと射ければ、鏑はわれて、さつとちりければ、P078鏃は、岩にがしとあたる。熊は、手をおひ、滝口にたけりて掛かる。勢子の者共、是を見/て、四方へばつとぞ逃げたりける。滝口、此の矢をつがひ、絞り返して、月の輪をはすしろに、射を懸けて射ければ、熊は、少しも動かず、矢二つにて、止まりける。其の後、勢子の者共呼び寄せ、熊をかかせて、人々の下り居たる峠に打ち上り、急ぎ馬より下り、「御肴尋ね候ふとて、深入り仕り、遅参申すなり。御免候へ」と言ひ、笠をも脱がず、靫をもとかず、行縢ながら、弓杖付きて立ちたり。吉川の四郎、俣野にいくみて有りけるが、是を見/て、「滝口殿は、聞きしより、見まして覚ゆる物かな。哀れ、男かな」とほめければ、座敷に居わづらひたり。誠に気色顔にて、何事がな、力業して、猶ほめられんと思へ共、芝居の事なれば、適はで有りけるを、弟の滝口三郎と船越十郎が居たりける間に、あをめなる石の、高さ三尺ばかりなるをよりて、持た/せばやと思ひければ、するすると歩みけるを見/て、弟の家俊、立たんとす。膝を抑へて、はつたとにらみて、「弓矢の座敷をかたさるとは、我が居たる家を出でて、他所に居渡り、其の家に人をおくをこそ、座敷かたさるとはいへ。是、此処なる石の、二人が間に有りて、つまりやうのにくさにこそ」と言ひ、右の手を差し延べて、後ろ様へおしければ、大石がおされて、谷へどうど落ち行く。海老名の源八、是を見/て、東八か国の中に、男子持ちP079たらん人は、滝口殿を呼びて、ものあやかりにせよ、器量と言ひ、弓矢取りては、樊噌・張良なり。哀れ、侍や」とほめられ、いよいよ気色をまし、老の末座敷よりすすみ出で、申しけるは、「只今の盃も、然る事にて候へども、余りにもどかしく覚え候ふ。大きなる盃をもつて、一つづつ御まはし候へかし」と申しければ、「滝口殿の仰せこそ、面白けれ」とて、伊東の二郎貝と言ふ貝を取り出だし、此の貝は、日本一二番の貝とて、院へ参らせたりしを、公家には、貝を御用ひ無き事なれば、武家に下さる、太郎貝をば、秩父に下さる、提子五つぞ入りける、二郎貝をば、三郎に下さる、新介賜はりて、土肥の二郎に取らする、殿上を許されたる器物とて、秘蔵して持ちけるを、折節、河津の三郎、土肥の聟に成りて来たりしを、引出物にしたりけり。内は己なりに、外は梨子地にまきて、いそなりにめおさしたり、提子三つぞ入りける、是を取り出だし、滝口がもとより始めて、三度づつぞまはしける。五百余人の持ちたる酒なれば、酒の不足は無かりけり。後には、乱舞して、躍りはねてぞ、遊びける。海老名の源八、盃ひかへて、申しけるは、「是は、めでたき世の中を、夢現とも定め難く、昔がたりにならん事こそ、悲しけれ。老少不定と言ひながら、若きは、頼み有る者を、若殿原の様に、舞ひうたはんと思へども、膝振るひ、声も立たず、りうせきが、塚より出でて、はんらうが、茫然とせしP080様に、酒もれや、殿原。哀れ、きみかく有りし時は、是程の盃二三十のみしかども、座敷に伏す程の事はあらねども、老の極めやらん、腰膝の立たざるこそ、悲しけれ。白居易が昔、思ひ出でられたり。
〔同じく相撲の事〕S0110N015
秀貞がわかざかり、鷹狩、川狩の帰り足には、力業、相撲がけこそ、面白けれ。若き人々、相撲取り給へ。見/て遊ばん。見物には、上や有るべき」と言ひければ、伊豆の国の住人、三島の入道将監、ゐだけだかに成りて、「石ころばかしの滝口殿と合沢の弥五郎殿、出でて取り給へ。是こそ、あひごろの力と聞け。さもあらば、入道出でて、行司に立たん」と言ふ。滝口聞きて、「坂東八か国に、強き者は無きか。か程の小男に、相手に差さるるは、馬の上、かちだちなりとも、脇にはさみたたむに、働かさじ」と言ひければ、弥五郎聞きて、「伊豆、駿河、武藏、相模に、強き者は無きか。滝口がせいと力をうらやむは。下臈の所にこそ、器量に依りて、荷をばもて、侍は、せいちひさく、力は弱けれども、鎧一領にしかるる者無し。弓押しはり、矢かきおひ、よき馬に打ち乗りて、戦場に掛け出でて、思ふP081敵にひつ組みて、両馬が間に落ち重なり、胆勝りて、腰の刀を抜き、下に伏しながら、大の男をひつ掛け、草摺をたたみ上げ、急所を隙無く差して、はね返し、抑へて、首を取る時は、大の男も、物ならず」と、あざ笑ひてぞ申しける。滝口、たまらぬ男にて、「首を取るか、取らるるか、力は、外にもあらばこそ。いざや、老の御肴に、力くらべの腕相撲一番」と言ふ儘に、座敷を立ち、直垂を脱ぎ、「何程の事の候ふべき。しや肋骨二三枚、つかみ破りて、捨つべき物を」とて、つつと出でけり。弥五郎も、「心得たり。物々し。力拳のこらへん程は、命こそ限りよ」と言ひ、座敷を立つ。一座の人々、是を見/て、あはや、事こそ出で来ぬと見る程に、近くに有りける合沢、申す様、「余りはやし、滝口殿。相撲は、小童、冠者原に、先づとらせて、取り上げたるこそ、面白けれ。おとなげ無し、滝口殿。止まり給へ」と引き据ゑたり。吉川、是を見/て、「弥五郎殿も、先づ抑へよ。合沢が弟の弥七殿に、出でよ」と言ふ。少し辞退に及びしを、船越引き立てて、たづな取りかへ、出だしけり。年におきては、十五なり。姿を物にたとふれば、まだ声若き鴬の、谷より出づるもかくやらん。「誰をか相手にさすべき」と、座敷を見まはしければ、「滝口が弟の三郎、出でよ」と言ふ、言葉の下より、出でにけり。年におきて、十八なり。いづれも、相撲は上手なれば、各々差し寄りて、つまどりしP082たる有様は、春待ち兼ねてさく梅の、雪をふくめる如くなり。我人、力は知らねども、雲ふき立つる山風の、松と桜に音立てて、鳥も驚く梢かと、諸人、目をこそさましけれ。弥七は、力劣りなれども、手合はましてぞ見えにける。三郎は、力勝りけれ共、くまんとのみにて、差し詰め結べば、捨ててぬけ、なぐれば、掛けてまはりしは、桃華の節会の鶏の、心を砕き、羽をつがひ、勝負を争ふ鶏合はせも、是には過ぎじとぞ見えける。老若、座敷にこらへ兼ね、「哀れ、浮き世の見ごとや」と、上下暫くののめきて、東西更に鎮まらず。然れども、弥七は、地下がりへ押し掛けられ、とどろ走りて、そ首をつかれ、遂に弥七ぞ、負けたりける。兄の弥六、つつと出で、三郎をはたとけて、あふのき様に打ちにける。滝口、無念に思ひて、弟の三郎が、未だおきざる先に、躍り出で、大力なりければ、弥六は、手にもたまらず、負けにけり。兄の弥五郎、弟二人をまかして、安からずに思ひ、袴の腰、とくを遅しと引き切り、たづな二筋えり合はせ、強くをさめ、走り出で、近々と差し合ひて、力引きて見れば、大の男が、ふんばりて、少しも動かざれば、一定、我も負けぬべし、誠や、相撲は、力によらず、手だに勝れば、みぎわ勝りの相手を討つ物をと思ひ出だして、合沢、右の拳を握り固め、滝口、鬢のはづれ、きれてのけと、打ちければ、滝口、打たれP083て、左右の拳を打ち返す。其の後、負けじ、劣らじと、手をはなちて、はり合ひける。今は、相撲は取らで、偏に当座の口論とぞ見えける。両方、さへむとする所に、弥五郎、隙無く、つつと入り、滝口が小股をかいて、はなじろに押し据ゑたり。いきほひし滝口、敢へ無く負けしかば、暫く相撲ぞ無かりける。弥五郎は、広言しつる滝口に勝ちて、百千番の負けも物ならず、是に勝つこそ嬉しけれ、何者なりともと思ふ所に、葛山の又七出でて、手にもたまらず負けて後、究竟の相撲五番まで勝ちて、立ちたる有様は、勢余りてぞ見えける。此処に、相模の国の住人、柳下の小六郎出でて、合沢の弥五郎を始めとして、よき相撲六番勝つ。駿河の国の住人、竹下の孫八出でて、小六を始めとして、よき相撲九番打つて、入らんとする所に、大庭が舎弟の俣野の五郎出でて、孫八を始めとして、よき相撲十番打ちければ、「出でて取らん」と言ふ者無し。駿河の国高橋の忠六、「いざや取らん」と言ふ。側に有りける海老名の秀貞、「是こそ、俣野の五郎よ。道理にて、打ちけるぞや」。景久聞き候ひて、「相撲が、絶えて無からんにこそ」と言ひければ、土屋の平太、是を聞き、「俣野も、手一つ、我も、手一つ、臆してばし、負けけるか。彼体の相撲をば、十人ばかり一つかみにて、物を脱ぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、乗り越え、移れば、入れかへ、息をもつがせず、隙をもあらせず、攻め倒せ」「此の儀面白し」とて、P084十人ばかり並び居て、まくれば、つつと出で、移れば、はね越え、攻めけれども、究竟の上手の大力なれば、続けて、二十一番勝ちけり。其の時、土肥の二郎実平、座敷を立ち、つま紅に、日出だしたる扇を開きて、俣野をしばし仰ぎて、「よき御相撲かな。哀れ、実平が年十四五も若くは、出でて取らばや」と言ふ。俣野聞きて、「何かは苦しかるべき。出で給へ。一番取らん。相撲は、年に依り候はず」と言ひければ、土肥は、なまじひに、言葉を掛けて、各々と言はれて、取るより外に、言葉も無し。伊東は、三浦に親しく、河津は、土肥が聟なり、土肥が今日の恥辱は、此の一門に離れじと思へば、伊東の二郎が嫡子河津の三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三の遊びなれども、「出でて取れ」と言ふ人無し、老の末座に有りけるが、座敷を立ちて、舅の土肥の二郎にささやきけるは、「今日の御酒もりには、老若の嫌ひ無く候ふに、などや祐重一番とも承り候はず。空しく帰り候はば、若き者のおひすけしたるににて候ふ。御はからひ候へ。一番取り候はん」と言ひければ、実平聞きて、俣野が言葉、にがにがしさにぞ、取らんと言ふらん、さりながら、聟をまかしては、面目無しとや思ひけん、返事にも及ばで、赤面してぞ居たりける。父伊東、是を聞き、子ながらも、力は強き者を、とらせ見ばやと思ひけれども、ためらふ折節、此の言葉を聞き、「神妙に申したり。P085出でて取れ」と言ひければ、直垂脱ぎおき、白きたづな二筋寄り合はせ、かたくをさめて、出でんとす。伊東方の者出でて、「御相撲に参らん。俣野殿」と言ふ。景久きいて、腹を立て、「相撲は是に候ふぞ。出で合はせ候へと言ふは、常の事。総じて、相撲の座敷にて、左右無く相手の名字呼ぶ事無し。氏と言ひ器量と言ひ、河津にやまくべき。小腕押しをり捨つべき物を」と、笑ひて出づるを見れば、菩薩なりにして、色あさぐろく、丈は六尺二分、年は三十一にぞなりにける。俣野が姿は、さし肩にして、かを骨あれて、首太く、頭少し、裾ふくらに、後ろの折骨、臍の下へ差しこみ、力士なりにして、丈は五尺八分、年は三十二なり。差し寄り、つまどり、ひしひしとして、押し離れ、河津思ひけるは、俣野は聞きつるに似ず、さしたる力にては無かりけり、今日、人々の多く負けけるは、酒に酔ひけるか、臆しける故なり、今度は、手にもたつまじき物をと思ひけるが、心をかへて思ふ様、さすが俣野は、相撲の大番勤めに、都へ上り、三年の間、京にて相撲になれ、一度不覚を取らぬ者なり。其の故、院・内の御目にかかり、日本一番の名をえたる相撲なり。今ここもとにて、物手無くまかさん事は、返りて言ふ甲斐無しと思へば、二度目には差し寄り、左右の腕をつかむで、左手・右手に御座します、雑人の上に掛け、膝をつかせて、入りにけり。俣野は、只も入らずして、「此処なる木の根にけつまづきて、不覚P086の負けをぞしたりける。いざや、今一番取らん」と言ふ。大庭、是を聞き、走り寄り、「げにげに、是に木の根有り。まん中にて、勝負し給へ」と言ひければ、伊東申しけるは、「河津が膝、少し流れて見え候ふ。ねきりの相撲ならばこそ、意趣もあらめ。只一座の一興に負け申して、面白し。出で合ひ申せ」と言ひければ、河津は、やがてぞ出でにける。俣野も、出でんとしけるを、一族共、「如何に取るとも、勝つまじきぞ。只此の儘にて、入り給へ。論の相撲は、勝負無し。勝ちたるには、勝るぞかし。此の度負けなば、二度の負けなるべし」と言ひければ、俣野が言ふ様は、「河津は、力は強く覚ゆれども、相撲の故実は候はず、御覧ぜよ」と言ひ捨てて、猶も出でんとする所を、しばし止めて言ひけるは、「河津が手合をよく見れば、御分にみぎわ勝りの力なり。彼体の相撲をば、左右の手を上げ、爪先を立てて、上手に掛けて待ち給へ。敵も上手に目を懸けて、のさのさとよる所を、小臂を打ち上げ、違ひ様によついを取り、足を抜きてはねまはれ。大力も、はねられて、足の立てどのうく所を、捨てて足を取りて見よ。組みては適ふまじきぞ。もし又、くまで適はずは、うちがらみに、しはと掛けて、髻をおちをはかせ、一はねはねて、しとと打て。なんでふ七はなれ八はなれは、見苦しきぞ。侍相撲と申すは、よるかとすれば、勝負有り。余りにはやきも、見分けられず。又、斯様のP087ひね物をば、わづらひ無くのし寄りて、小首ぜめに攻めて、背をこごめて、まはる所を、大さか手に入れて、かいひねつて、け捨てて見よ。真逆様に負けぬべし」と、こまごまと教へければ、「心得たり」とて出で合ひけり。教への如く、爪先を立てて、腕を上げ、隙あらばと狙ひけり。河津は、前後相撲は、是が始めなれば、やうも無く、するすると歩み寄り、俣野が、ぬけんと相しらふ所を、右の腕をつつと延べ、又野が前ほろをつかんで差しのけ、あらくも働かば、たづなも腰もきれぬべし。暫く有て、むずと引き寄せ、目より高く差し上げ、半時ばかり有りて、横様に片手をはなちて、しとと打つ。又野は、やがておきなほり、「相撲にまくるは、常の習ひ、なんぞ御分が片手業」。河津言ひけるは、「以前も、勝ちたる相撲を、御論候ふ間、今度は、まつ中にて、片手を以て打ち申したり。未だ御不審や候ふべき。御覧じつるか、人々」と言ふ。大庭、是を見/て、童に持た/せたる太刀追つ取り、するりと抜きて、とんで掛かる。座敷、俄に騒ぎ、ばつと立つ。伊東方による者も有り、大庭が方による者も有り。両方さへんと下りふさがり、銚子・盃踏みわり、酒肴をこぼす。雑兵三千余人までも、軍せんとてひしめきけり。兵衛佐殿、此の由御覧じ、「如何に頼朝が情捨てて、仇を結び給ふか。大庭の人々」と仰せられければ、大庭の平太承り、「田舎住まひの物共、出仕なれP088候はで、斯かる狼藉を仕り候ふ。相撲は負けても、恥ならず、我が方人は言ふべからず、一々に記し申すべきぞ。後日に争ふな」と怒りければ、大庭の鎮め給ふ上はとて、鎮まりけり。伊東は、もとより意趣無しとて、やがて面々にこそ鎮まりけれ。是や、瓊瑶は少なきを以て奇也とし、磧礫は多きを以て賎しとす。人多しと雖も、景信が言葉一つにてぞ、鎮まりける。斯かる所に、祐経が郎等共、彼等に交はり、伺ひけるが、哀れ、事のあれかし、間近に攻め寄りて、打たんとする由にて、伊東殿をおつ様に射落とさむとて、ささやきける。七日が間、夜昼つきて伺へども、然るべき隙無くして、狩座既に過ぎければ、各々、空しく帰らんとす。小藤太、申しけるは、「さても、一郎殿の御心をつくして、今や今やと待ち給ふらん。徒らに帰らん事こそ、口惜しけれ。いざや、思ひ切り、とにもかくにもならん」と言ひければ、「八幡三郎申しけるは、「暫く功をつみて見給へ。如何でか空しからん。
〔費長房が事〕S0111N016
古きを思ふに、昔、大国に、費長房と言ふ者有り。仙術を習ひ得て、暗き所P089も無かりしが、天に上がる術を習はずして、未だ空しく凡夫に交はり歩きけり。或る時、所用の事有つて、長安の市に出でて、商人に伴ひしに、或る老人、腰に壺を付けて、此の者、市に交はりける。知音は、知る理にて、此の者、只人ならずと、目をはなさで見るに、此の老人、傍に行き、腰なる壺を下ろし、其の壺に出で入りにけり。然ればこそ、仙人なれとて、其の人の家につきて行きぬ。費長房、彼の仙人に仕へんとて、三年までぞ仕へける。或る時、老人言ひて曰く、「汝、如何なる志有りて、三年まで、一言葉も違へず、我等に仕へけるぞや」。費長房聞きて、「我、仙術を習ふと雖も、天に上がる事を知らず。老人の壺に出で入り給ふ事を教へ給へ」と言ひければ、「安き事なり。我が袖に取り付け」と言ふ。即ち、取り付きければ、二人共に、彼の壺の内へ飛び入りぬ。此の壺の内に、めでたき世界有り、月日の光は、空にやはらぎ、四方に四季の色を現し、百二十丈の宮殿楼閣有り、天にて聖衆舞ひ遊ぶ。鳧・雁・鴛鴦の声やはらかにして、池には弘誓の船を浮かべり。よくよく見めぐりて、「今は出でん」と言ふ。老人、竹の杖を与へて、「是を付きて出でよ」と言ふ。即ち、つくと思へば、時の間に、をしみつと言ふ所に至りぬ。此の杖を捨てければ、即ち竜と成りて、天に上がりぬ。費長房は、鶴に乗りて、天に上りけり。是も、功を積もる故なり。P090三年までこそ無くとも、待ちて見よ」とぞ申しける。
〔河津が打たれし事〕S0112N017
「然らば此の帰り足を狙ひて見ん」「然るべし」とて、道をかへて、先に立ち、奥野の口、赤沢山の麓、八幡山の境に有る切所を尋ねて、椎の木三本、小楯に取り、一の射翳には大見の小藤太、二の射翳には八幡の三郎、手だれなれば、余さじ物をとて、立ちたりけり。各々待ち掛けける所に、一番に通るは、波多野の右馬允、二番に通るは、大庭の三郎、三番に通るは、海老名の源八、四番は、土肥の二郎、後陣遙かに引き下がりて、流人兵衛佐殿ぞ通られける。敵ならねば、皆遣り過ごし、此の次に、伊東が嫡子河津の三郎ぞきたりける。面白くこそ出で立ちたれ。秋野のすりつくしたる間々に、引き柿したる直垂に、斑の行縢裾たぶやかにはき成し、鶴の本白にてはぎたる白こしらへの鹿矢、筈高に追ひ成し、千段籐の弓まん中取り、萌黄裏付けたる竹笠、木枯にふきそらせ、宿月毛の馬の五臓大きなるが、尾髪あくまでちぢみたるに、梨子地にまきたる白覆輪の鞍に、連著鞦の山吹色なるを掛け、銜轡、紺の手綱を入れてぞ乗りたりける。馬も聞こゆる名馬なり、主も究竟の馬乗りにて、P091伏木・悪所を嫌はず、差しくれてこそ歩ませけれ。折節、乗りがへ一騎もつかざれば、一の射翳の前を遣り過ごす。二の射翳の八幡三郎、もとより騒がぬ男なれば、「天の与へを取らざるは、返りて咎をうる」と言ふ、古き言葉を思ひ出で、すはい損ずべき。射翳の前を三段ばかり、左手の方へ遣り過ごして、大のとがり矢差しつがひ、よつぴき、しばし固めて、ひやうどはなす。思ひもよらで通りける河津、乗りたる鞍の後ろの山形をいけづり、行縢の着際を前へつつとぞ射通しける。河津もよかりけり。弓取り直し、矢取つてつがひ、馬の鼻をひつ返し、四方を見まはす。「知者は惑はず、仁者は愁へず、勇者は恐れず」と申せども、大事のいた手なれば、心は猛く思へ共、性根次第に乱れ、馬より真逆様に落ちにけり。後陣に有りける父伊東の二郎は、是をば夢にも知らずぞ下りける。頃は神無月十日余りの事なれば、山めぐりけるむら時雨、降りみふらずみ定め無く、たつより雲のたえだえに、ぬれじと駒を早めて、手綱かいくる所に、一の射翳に有りける大見の小藤太、待ち受けて居たりけれども、験無し。左の手の内の指二つ、前の■の根に射立てたり。伊東は、然るふる兵にて、敵に二つの矢を射させじと、大事の手にもてなし、右手の鐙に下り下がり、馬を小楯に取り、「山賊有りや。先陣は返せ、後陣はすすめ」と呼ばはりければ、先陣・後陣、我劣らじとすすめども、P092所しも悪所なれば、馬のさくりをたどる程に、二人の敵は逃げのびぬ。隈も無く待ちけれども、案内者にて、思はぬしげみ、道をかへ、大見庄にぞ入りにける。危ふかりし命也。伊東は、河津の三郎が伏したる所に立ち寄りて、「手は大事なるか」と問ひけれども、音もせず。押し動かして、矢をあらく抜きければ、いよいよ前後も知らざりけり。河津が首を、父伊東が膝にかき乗せ、涙を抑へて申しけるは、「こは何と成り行く事ぞや。同じあたる矢ならば、など祐親には立たざりけるぞ。齢傾き、今日明日をも知らざる憂き身なれども、わ殿を持ちてこそ、公方私心安く、後の世掛けても、頼もしく思ひつるに、敢へ無く先立つ事の悲しさよ。今より後、誰を頼みて有るべきぞ。汝を止めおき、祐親先立つ物ならば、思ひ置く事よもあらじ。老少不定の別れこそ悲しけれ」とて、河津が手を取り、懐に引き入れ、くどきけるは、「如何に定業なり共、矢一つにて、物も言はで、死ぬる者や有る」と言ひて、押し動かしければ、其の時、祐重、苦しげなる声にて、「かくは度々仰せらるれども、誰とも知り奉らず候ふ」と言ふ。土肥の二郎申しけるは、「御分の枕にし給ふは、父伊東の膝よ。かく宣ふも、伊東殿。今又斯様に申すは、土肥の二郎実平なり。敵や覚え給ふ」と問ひければ、やや有つて、目を見開き、「祐親を見参らせんとすれ共、今、其れも適はず。誰々も、近く御入りP093候ふか。御名残こそ惜しく候へ」とて、父が手に取り付きにけり。伊藤、涙を抑へて申しけるは、「未練也。汝、敵は覚えずや」と言ふ。「工藤一郎こそ、意趣有る者にて候へ。其れに、只今、大見と八幡こそ見え候ひつれ。あやしく覚え候ふ。従ひ候ひては、祐経在京して、公方の御意さかりに候ふなる。然れば、殿の御行方如何と、黄泉の障り共なりぬべし。面々頼み奉る。幼い者までも」と言ひも敢へず、奥野の露と消えにけり。無慙なりける有様かな、申す量りぞ無かりける。伊東は、余りの悲しさに、しばしば、膝を下ろさずして、顔に顔を差し当て、くどきけるこそ哀れなれ。「や、殿、聞け、河津。頼む方無き祐親を捨てて、何処へ行き給ふぞ。祐親をもつれて行き候へ。母や子供をば、誰に預けて行き給ふ。情なの有様や」と歎きければ、土肥の二郎も、河津が手を取り、「実平も、子とては遠平ばかりなり。御身を持ちてこそ、月日の如く頼もしかりつるに、斯様に成り行き給ふ事よ」と、泣き悲しむ事限り無し。国々の人々も同じく一所に集まり居て、袖をぞ濡らしけり。さて有るべきにあらざれば、空しきかたちをかかせて、家に帰りければ、女房を始めとして、あやしのしづの男、しづの女に至るまで、歎きの声、せんかたも無し。さても、彼の河津の三郎祐重に、男子二人有り。兄は、一万とて、五つなり、弟は、箱王とて、三つにぞなりにける。母、思ひP094の余りに、二人の子供を左右の膝にすゑ置きて、髪かきなで、泣く泣く申しけるは、「胎の内の子だにも、母の言ふ事をば聞き知る者を、まして汝等、五つや三つに成るぞかし。十五、十三にならば、親の敵を打ち、童に見せよ」と泣きければ、弟は、聞き知らず、手ずさみして、遊び居たるばかりなり。兄は、死したる父が顔をつくづくと守りて、わつと泣きしが、涙を抑へて、「いつかおとなしく成りて、父の敵の首切りて、人々に見せ参らせん」と、泣きしかば、知るも知らぬも押しなべて、袖を絞らぬ人は無し。猶も、名残をしたひ兼ね、三日までぞおきたりける。黄泉幽冥の道は、一度さりて、二度と帰らぬ習ひなれば、力及ばず、泣く泣く送り出だし、夕の煙と成しにけり。女房、一つ煙とならんと、悲しみけり。伊東の二郎申しけるは、「恩愛の別れ、夫妻の歎き、いづれか劣るべきにはあらねども、浮き世の習ひ、力及ばず候ふ。親におくれ、夫妻に別るる度ごとに、命を失ふ物ならば、生老病死も有るべからず。別れは人ごとの事なれども、思ひ過ぐれば、自づから、忘るる心の有るぞとよ。憂きに付けても、身をまたくして、後生菩提を弔ひ給へ」と、様々に慰めければ、「誠に理なれども、差しあたりたる悲しさなれば」とて、悶え焦がれけり。「夫の別れは、昔も今も、重き所なり。別れの涙、袂に止まりて、かはく間も無し。後先をも知らぬ、P095幼き者共に打ち添へて、身さへ只ならず。様をかへんと思へ共、尼の身にて、産所の体も、見苦し。又、淵川へ沈まんと思ふにも、此の身にて死しては、罪深かるべしと聞けば、とにもかくにも、女の身程、心憂き者は無し」とくどき立てて、おきふしに、泣くより外の事ぞ無き。一日片時も、只忍ぶべき身にて無かりしが、明けぬ暮れぬとする程に、五七日にもなりにけり。N018父伊東の二郎、逆様事なれども、彼の菩提を弔はんが為に、出家して、六道にあてて、三十六本の率塔婆を造立供養し奉る日、聴聞の貴賎男女、数をつくして、来会する所に、五つに成りける一万が、父の蟇目に鞭を取り添へて、「是は父の物」とて、ひつさげければ、母呼び寄せて、「なき人の物をば、持た/ぬ事ぞ。皆々捨てよ。行く末遙かの者ぞかし。汝が父は、仏になり給ひて、極楽浄土に坐しますぞ。童も、遂には参るべし」と言ひければ、一万喜びて、「仏とは、何ぞ。極楽とは、何処に有るぞや。急ぎ坐しませ。我も行かん」と攻めければ、母は、言ひ遣る方無くして、率塔婆の方に指を差し、「彼こそ、其れよ」と言ひければ、一万、弟の箱王が手を引き、「いざや、父のもとに参らん」と、急ぎけれども、箱王は、三つになりければ、歩むにはかも行かず、急ぐ心に、弟を捨て、率塔婆の中を走りめぐり、空しく帰りて、母の膝の上に倒れ伏して、「仏の中P096にも、我が父は坐しまさず」とて泣きければ、乳母も、共に泣き居たり。其の日の説法のみぎりより、一万が振舞ひにこそ、貴賎袂を濡らしけれ。四十九日には、八塔を供養す。
〔御房が生まるる事〕S0113N019
其の次の日、女房、産をぞしたりける。此の程の歎きに、産は如何と思ひしに、つつが無く男子にてぞ有りける。母申しけるは、「己は、果報少なき者かな。今少しとく生まれて、などや父をも見ざりける。蜉蝣と言ふ虫こそ、朝に生まれ、夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。童も、尼に成り、山々=寺々の麓に閉ぢ籠り、花をつみ水をくみ、仏にそなへ奉り、汝が父の孝養にせんと思へば、身には添へざるぞ。努々恨むべからず」とて、やがて捨てむとせし所に、河津の三郎が弟、伊東九郎祐清と言ふ者有り。一人も子を持た/ざりければ、此の事を聞き、女房急ぎ来たりて、「誠や、今の幼い人を捨てんと仰せらるる、如何でか然る事有るべきぞ。なき人の形見にも、罪深かるべし。又、善悪の事も、其れを節と思へば、折々に思ひ出だすに成る物を。しかも、男子にて坐しませば、P097童にたび給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん」と言ひければ、「此の身の有様にて、身に添ふる事、思ひもよらず候ふ。然様に思し召さば」とて、とらせけり。やがて、心安き乳母を付けて、養育す。名をば、御房とぞ言ひける。
〔女房、曾我へ移る事〕S0114N020
然る程に、忌は八十日、産は三十日にも成りにけり。百か日にあたらん時、必ず尼になりぬべしとて、袈裟衣を用意しけるを、伊東入道伝へ聞きて、人して申しけるは、「誠や、姿をかへんとし給ふなり。子供をば、誰に育めとて、然様には思ひ給ふぞ。おい衰へたる祖父・祖母を頼み給ふかや。其れ、更に適ふべからず。三郎無ければとて、幼き者共数多あれば、露程も愚かならず、偏に祐重が形見とこそ思ひ奉れ。如何なる有様にても、身をやつさずして、幼き者共を。然れば、今更に、うとき方へ坐しまさば、我も人も、見奉る事も適ふまじ。相模の国曾我の太郎と申すは、入道にも所縁有る者にて候ふ。折節、此の程、年頃の妻女におくれて、歎き未だはれ遣らず候ふと承り候ふ。其れへ遣り奉るべし。自ら、心をも慰み給へ。入道があたりP098なれば、隔ての心はあらず」と、こまごまに言ひて、やがて、人を付け、厳しく守りければ、尼に成るべき隙も無し。即ち、入道、曾我の太郎がもとへ、此の由を詳しく文に書きて、遣はしければ、祐信、文を披見して、大きに喜び、やがて、使ひと打ちつれ、伊東へこして、子供諸共に向かへ取りて、帰りけり。いつしか、斯かる振舞ひは、返す返すも口惜しけれども、心ならざる事なれば、恨みながらも、月日をぞ送りける。是を以て、昔を思ふに、せいぢよは、夫の為に、禁獄にとめられ、はくゑいは、夫におくれ、夷の住み処になれしも、心ならざる恨めしさ、今更、思ひ知られたり。P099
曾我物語 国民文庫本 巻第二
曾我之物語巻第二
@〔大見・八幡を討つ事〕S0201N021
三千世界は、眼の前に付き、十二因縁は、心の裏に空し。浮き世にすむも、捨つるも、安からぬ命、いつまでながらへて、あらましのみにくらさまし。伊東入道は、何に付けても、身の行方、あぢき無くして、子息の九郎祐清を呼び寄せ、「入道がいきての孝養と思ひ、大見・八幡が首を取りて見せよ」と言ひければ、「承りぬ。此の間も、内々案内者を以て、見せ候へば、他行の由、申し候ふ。もし帰り候はば、告げ知らすべき由、申す者の候ふに依つて、待ち候ふ。余し候ふまじ」とて、座敷を立ちぬ。幾程無くして、「来たりぬ」と告げければ、家の子郎等八十余人、直兜にて、狩野と言ふ所へ押し寄せたり。八幡の三郎、然る者にて、「思ひ設けたり。何処へか引くべき」とて、親しき者共十余人、込め置きたりしが、矢共打ち散らし、差し詰め引き詰め、とりどり散々に射ける。やにはに、敵数多射落とし、P100矢種つきしかば、差し集まりて、主の為に命捨つる事、露程も惜しからず。所詮、のぞみたりぬ」と言ひて、差し違へ差し違へ、残らず死にけり。八幡は、腹を十文字にかき破り、三十七にて失せにけり。即ち、大見の小藤太がもとへ押し寄せたり。此の者は、もとより、心下がりたる者にて、八幡が打たるるを聞きて、取るもの取り敢へず、落ちたりしを、狩野境に追ひ詰めて、搦め取りて、川の端にて、首をはねたり。九郎は、二人が首を取りて、父入道に見せければ、ゆゆしくも振舞ひたりとぞ感じける。曾我に有りける河津が妻女も、喜ぶ事限り無し。祐清は、入道が憤りを止め、兄が敵を打ちし孝行、一方ならぬ忠とぞ見えける。さても、八幡の三郎が母は、■美の入道寂心が乳母子なり。八旬に余りけるが、残り止まりて、思ひの余りにくどきけるは、「御主の為に、命を捨つる事は、本望なれ共、此の乱のおこりを尋ぬるに、過ぎにし親の譲りを背き給ひしに依つて也。然るに、寂心、世に坐しませし時、公達数多なみ据ゑて、酒宴半ばの折節、持ち給ひつる盃の中へ、空より大きなる鼬一つ入りて、御膝の上に飛び下りぬと見えしが、何処とも無く失せぬ。希代の不思議なりとて、やがて考へさするに、「大きなる表事、つつしみ給へ」と申したりしを、さしたる祈祷も無くて、過ぎ給ひぬ。幾程無くして、寂心は、隠れさせ給ひけり。然ればにや、白河の法王P101も、鳥羽の離宮に渡らせ給ひし時、大きなる鼬参りて、泣き騒ぎけり。博士に御尋ね有りければ、「三日の内に御喜び、又は御歎き」とぞ申しける。其れに合はせて申す如く、次の日、御子高倉宮、御謀叛現れ、奈良路にて打たれさせ給ひぬ」。
@〔泰山府君の事〕S0202N022
斯様の事を以て、昔を思ふに、大国に大王有り。楼閣をすき給ひて、明け暮れ、宮殿を作り給ふ。中にも、上かう殿と号して、梁は、金銀なり。軒に、珠玉・瓔珞をさげ、壁には、しやうれの華鬘を付け、内には、瑠璃の天蓋をさげ、四方に、瑪瑙の幡をつり、庭には、■瑚・琥珀をしきみて、吹く風、ふる雨の便りに、沈麝のにほひにたたゑゑり。山をつきては、亭を構へ、池をほりては、船を浮かべ、水に遊べる鴛鴦の声、偏に浄土の荘厳に同じ。人民こぞりて囲繞す。仏菩薩の影向も、是にはしかじとぞ見えし。然れば、大王、玉楼金殿に至り、常に遊覧す。或る時、大講堂の柱に、鼬二つ来たりて、泣き騒ぐ事、七日なり。大王、あやしみ給ひて、博士を召して、うらなはしむるに、考へて、奏聞す。「此の柱の内に、P102七尺の人形有り。大王の形をことごとく作り移して、調伏の壇を立て、幣帛・供具をそなへたり。わりて見給へば、とうい七百人有り。滅ぼすべし」と言ふ。即ち、大王上人に申して、めでたき聖を請じ奉り、彼の柱、わりて見給ふに、違はず、すさまじきと言ふも余り有り。やがて、壇を破り、勘文に任せて、色々のしよ人を集め、其の中に、あやしきを召し取り、拷問しければ、ことごと白状す。よつて、七百人の敵をことごとく召し取り、三百人の首を切り給ひぬ。残り四百人切らんとする時、天下暗闇に成りて、夜昼の境も無くして、色を失ふ。人民、道路に倒れ伏す。大王、驚きて曰く、「我、露程の私有りて、彼等の首を切る事無し。下として上をあざける下国上戒め、後の世を思ふ故なり。もし又、我に私あらば、天是を戒むべし。是をはからん」とて、三七日、飲食を止めて、高床に上り、足の指を爪立てて、「一命、此処にて消えなん。もし誤り無くは、諸天哀れみ給へ」と祈誓して、仁王経をかかせられけり。三七日に満ずる時、七星、眼前とあま下り見え給ふ。やや有りて、日月星宿、光をやはらげ給ふ。然ればこそ、まつる事に、横儀は無かりけれとて、残る四百人をも切り給ひぬ。此処に、博士、又参内して奏す。「大敵滅びはて、御位長久なるべき事、余儀無し。然れども、調伏の大行、其の効残りて、恐ろし。所詮に、P103あま下り給ふ七星をまつり、しやうかう殿に宝をつみ、一時にやき捨てて、災難の疑ひを止むべし」と申しければ、左右に及ばずとて、忽ちに上件のようしやくをくり、諸天を請じ奉りて、彼の殿共をやき捨てられにけり。さてこそ、今の世までも、鼬泣き騒げば、つつしみて水をそそくまじなひ、此の時に依りてなり。然れば、七百人の敵滅び、七星眼前に下り、光をやはらげ給ふ事、七難即滅、七福即生の明文に適ひぬるをや、今の泰山府君のまつり是なり。大王、彼の殿をやき、まつる事をし給ひて、御位長生殿にさかえ、春秋を忘れて、不老門に、日月の影、静かにめぐり、吹く風、枝をならさず、ふる雨、塊を動かさで、永久の御代にさかえ給ひけるとかや。めでたかりし例なり。
@〔頼朝、伊藤に御座せし事〕S0203N023
抑、兵衛佐殿、御代を取り給ひては、伊東・北条とて、左右の翼にて、いづれ勝劣有るべきに、北条の末はさかえ、伊東の末は絶えける、由来を詳しく尋ぬるに、頼朝十三の歳、伊豆の国に流されて御座しけるに、彼の両人を打ち頼み、年月を送り給ひけり。然るに、伊東の二郎に、娘四人有り。一は、相模の国の住人P104三浦介が妻なり。二には、工藤一郎祐経に相具したりしを取り返し、土肥の弥太郎に合はせけり。三四は、未だ伊東がもとにぞ有りける。中にも、三は、美人の聞こえ有り。佐殿聞こし召して、潮のひる間の徒然と、忍びて褄を重ね給ふ。頼朝、御志浅からで、年月を送り給ふ程に、若君一人出で来給ふ。
@〔若君の御事〕S0204N024
佐殿、喜び思し召して、御名をば、千鶴御前とぞ付け給ひける。つらつら往事思ふに、旧主が住まひし、古風のかうばしき国なれ共、勅勘をかうむりて、習はぬ鄙の住まひの心地ぞ有りつるに、此の物出で来たる嬉しさよ、十五にならば、秩父・足利の人々、三浦・鎌倉・小山・宇都宮相語らひ、平家に掛け合はせ、頼朝が果報の程をためさんと、もてなし思ひかしづき給ふ。かくて、年月をふる程に、若君三歳になり給ふ春の頃、伊東、京より下りしが、しばし知らざりけり。或る夕暮に、花園山を見て入りければ、折節、若君、乳母にいだかれ、前栽に遊び給ふ。祐親、是を見て、「彼は誰そ」と問ひけれども、返事にも及ばず、逃げにけり。あやしく思ひて、即ち、内に入り、妻女にあひ、「三つばかりの子のものゆゆしきP105をいだき、前栽にて遊びつるを、「誰そ」と問へば、返事もせで逃げつるは、誰にや」と問ふ。継母の事なりければ、折をえて、「其れこそ、御分の在京の後に、いつきかしづき給ふ姫君の、童が制するを聞かで、いつくしき殿して設け給へる公達よ。御為には、めでたき孫御前よ」と、をこがましく言ひ成しけるこそ、誠に末も絶え、所領にもはなるべき例なり。然れば、「讒臣は国を乱し、妬婦は家を破る」と言ふ言葉、思ひ知られて、あさましかりける。祐親、是を聞き、大きに腹を立て、「親の知らざる聟や有る。誰人ぞ。今まで知らぬ不思議さよ」と怒りければ、継母は、訴へすましぬるよと嬉しくて、「其れこそ、世に有りて、誠に頼り坐します流人、兵衛佐殿の若君よ」とて、嘲弄しければ、いよいよ腹を立て、「娘持ち余りて、置き所無くは、乞食非人などには取らするとも、今時、源氏の流人聟に取り、平家に咎められては、如何有るべき。「毒の虫をば、頭をひしぎて、脳を取り、敵の末をば、胸をさきて、胆を取れ」とこそ言ひ伝へたれ。詮無し」とて、郎等呼び寄せて、若君いざなひ出だし、伊豆の国松川の奥を尋ね、とときの淵に柴づけにし奉りけり。情無かりし例也。是や、文選の言葉に、「しやうにみちては、瑞を豊年に現し、丈に有りては、禍をはんとくに現す」。誠に余れる振舞ひは、行く末如何とぞ覚えける。剰へ、北の御方P106をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎に合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かたしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、わうきう・董賢ふん、三百たるにも、楊雄・仲舒ふんか、其の門につまびらかにせんにはしかずと見えたり。
@〔王昭君が事〕S0205N025
昔、漢の王昭君と申せし后を、胡国の夷に取られ、胡国へ越え給ひしに、名残の袖はき難くして、歎き悲しみけるに、王昭君が、歎き余りに、「自らがしきし褥に、我が姿を移し止めて、しき給へ。我、夢に来たりて、あふべし」と契りける。漢王悲しみて、彼の褥を枕にして、泣き伏し給ひしかば、夢とも無く、又現とも無く、来たりて、折々あひにけり。彼の昭君が、胡国への道すがら、涙にくるる四方の山共、里とも分け兼ねて、袖のひる間も無かりけり。思ひの余りに、旧栖を顧みて、「蒼波路遠くして、はかう山深し」と詠じつつ、漢宮万里の旅の空、今の思ひに知られたり。佐殿も、若君失はれさせ給ひしP107御心、くわらくの子を失ひ、かなわぬ別れの袖の涙、紅閨に連なりし限りなり。
@〔玄宗皇帝の事〕S0206N026
然れば、あかぬ北の御方の御名残は、玄宗皇帝、楊貴妃と申せし后、安禄山軍の為に、夷に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀の方士を遣はし給ふ。方士神通にて、一天三千世界を尋ねまはり、太真ゑんに至る。蓬莱宮是也。此処にきたつて、玉妃にあひぬ。此の所に至りて見れば、浮雲かさ也、人跡の通ふべき所ならねば、簪を抜きて、扉を叩く。双鬟童女二人出でて、「暫く是に待ち給へ。玉妃は、おとのごもれり。但し、何処より、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々として、洞天に日暮れなんとす。悄然として、まつ所に、玉妃出で給ふ。是、即ち楊貴妃なり。右左の女七八人。方士揖して、皇帝安寧を問ふ。方士、こまかに答ふ。言ひをはりて、玉妃、証とや、簪をわきて、方士にたぶ。其の時、方士、「是は、世の常に有る物也。支証に立たず。叡覧にそなへ奉らんに、如何なる密契か有りし」。玉妃、P108暫く案じて、「天宝十四年の秋七月七日の夜、天に有りて、願はくは比翼の鳥、地に有りて、願はくは連理の枝、天長地久にして、作る事無からんと、知らず、奏せんに、御疑ひ有るべからず」と言ひて、玉妃さりぬ。方士帰り参りて、皇帝に奏聞す。「然る事有り、方士誤り無し」とて、飛車に乗り、我が朝尾張の国にあま下り、八剣の明神と現れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ち此の所とぞ申す。兵衛佐殿は、若君、北の御方御行方、知らせ奉る者無かりしかば、慰み給ふ事も無かりけり。
@〔頼朝、伊東を出で給ふ事〕S0207N027
剰へ、佐殿をも、夜討にし奉らんとて、郎等を催しける。此処に、祐親が次男伊東の九郎祐清と言ふもの有り。秘かに佐殿へ参り、申しけるは、「親にて候ふ祐親こそ、物に狂ひ候ひて、君を打ち奉らんと仕り候へ。何処へも御忍び候へ」と申しければ、頼朝聞こし召し、ちやうさい王が、害にあひしも、偽る事は知らでなり、ゑみの内に刀をぬくは、習ひなり、人の心知り難ければ、君臣父子、いを以ておそるべし、況や、打たんとするは、親なり、P109告げ知らするは、子なり、方々、不審に覚えたり、いかさま、我をたばかるにこそとて、打ちとけ給ふ事も無し。「誠に思ひ掛けられなば、何処へ行きても逃るべきか。然れども、左右無く自害するに及ばず、人手にかからんよりは、汝、早く頼朝が首を取りて、父入道に見せよ」と仰せられければ、祐清承りて、「仰せの如く、語らひ難き人の心にて候ふ。蜂を取りて、衣の首に返して、親子の心に違ひしも、偽るたくみなり。君思し召すも、御理、誠の御志とは思し召さずして、いしやうのはう、もつとも御疑ひ、理なり。忝くも、不忠申し候はば、当国二所大明神の御罰を蒙り、弓矢の冥加長く付き、祐清が命、御前にてはて候ひなん」と申しければ、佐殿聞こし召し、大きに御喜び有りて、「斯様に告げ知らする志ならば、如何にもよき様に相はからひ候へ」と仰せければ、祐清承りて、「藤九郎盛長、弥三郎成綱をば、君御座の様にて、暫く是に置かれ候ふべし。君は、大鹿毛に召されて、鬼武ばかり召し具し、北条へ御忍び候へ」と申し置きて、「御討手もや参り候はん、事をのばし候はん」とて、急ぎ御前を立ちにけり。P110
@〔頼朝、北条へ出で給ふ事〕S0208N028
佐殿も、秘かにまぎれ出でさせ給ふ。頃は、八月下旬の事なるに、露ふき結ぶ風の音、我が身一つにもの寂しく、野辺にすだく虫の声、折から殊に哀れなり。有明の月だに未だ出でざるに、何処を其処とも知らねども、道をかへて、田面を伝ひ、草を分けつつ、道すがらの御祈誓には、「南無正八幡大菩薩の御記文に、我末世に、源氏の身と成りて、東国に住して、夷をたひらげんとこそ誓ひ坐しませ。然るに、人すたれ、氏滅びて、正統の残り、只頼朝ばかりなり。今度、栄華を開かずは、誰有て、家を起こさんや。世既に澆季にのぞみ、人後胤なし。早く頼朝が運を開かせて、東夷を従へしめ給へ。しからずは、当国の匹夫となし、長く本望を遂げしめ給へ」と、御祈誓、夜もすがらなり。感応にや、幾程無くして、御代につき給ひにけり。さても、北条の四郎時政がもとに御座せし也。一向彼を打ち頼み、年月を送り給ふ。
@〔時政が娘の事〕S0209N029P111
又、彼の時政に、娘三人有り。一人は、先腹にて、二十一なり。二三は、当腹にて、十九・十七にぞなりにける。中にも、先腹二十一は、美人の聞こえ有り。殊に父、不便に思ひければ、妹二人よりは、すぐれてぞ思ひけり。然る程に、其の頃、十九の君、不思議の夢をぞ見たりける。例へば、何処とも無く、高き峰に上り、月日を左右の袂にをさめ、橘の三つなりたる枝をかざすと見て、思ひけるは、男子の身なりとも、自らが、月日を取らん事有るまじ、ましてや、女の身として、思ひもよらず、誠に不思議の夢なり、姉御は知らせ給ふべし、問ひ奉らんとぞ、急ぎ朝日御前の方に移り、こまごまと語り給ふ。姉二十一の君、詳しく聞きて、「誠にめでたき夢なり。我等が先祖は、今に観音を崇め奉る故、月日を左右の袂にをさめたり。又、橘をかざす事は、本説めでたき由来有り」とて、景行天皇の御事をぞ思ひ出だしける。
@〔橘の事〕S0210N030
抑、橘と言ふ木実の始まりは、「仁王十一代の御門垂仁天皇の御時よりぞ出で来ける」と、日本紀は見え、然るに、此の橘は、常世の国より、三参らせたり。P112折節、后懐妊し、彼の橘を用ひ給ひて、懐胎の悩み絶えて、御心すずしかりけり。然れば、斯様の物も有りけるよと、朝夕願ひ給へ共、我が国に無き木実也ければ、力無し。此処に、間守と言ふ大臣有り、此の願ひを聞き、「安き事なり。異国に渡り、取りて参らせん」と言ひて、立ちければ、君、喜び思し召して、「さては、いつの頃に、帰朝すべき」と、宣旨有りければ、「五月には、必ず参るべし」と申して、渡りぬ。其の月をまてども、見えずして、六月になりて、「我は止まりて、人して橘を十参らせ、猶尋ねて参るべし」とて、止まりけれども、橘の参る事を、后、大きに喜び給ひ、用ひ給ふ。其の徳に依りて、皇子御誕生有り。御位を保ち給ふ事、百二十年なり。景行天皇の御事、是なり。其の大臣の袖の香に、橘の移り来たりけるを、猿丸大夫が歌に、五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする W003と詠みたりけり。我が朝に、たち花うゑ染めける事、此の時よりぞ始まりける。又、橘に、盧橘と言ふ名有り。去年の橘におほひしておけば、今年の夏まで有るなり。其の色、少しくろきなり。「盧」の字を「くろし」とよめばなり。さても、此の二十一の君、女性ながら、才覚人にすぐれしかば、斯様の事を思ひ出だしけるにや。実にも、景行帝、橘を願ひ、誕生有りし事、幾程無くて、若君出で来たり、頼朝P113の御後を継ぎ、四海を治め奉る。然れば、此の夢を言ひおどして、かひ取らばやと思ひければ、「此の夢、返す返す恐ろしき夢なり。よき夢を見ては、三年は語らず。悪しき夢を見ては、七日の内に語りぬれば、大きなるつつしみ有り。如何すべき」とぞおどしける。十九の君は、偽りとは思ひもよらで、「さては、如何せん。よきにはからひてたびてんや」と、大きに恐れけり。「然れば、斯様に、悪しき夢をば転じかへて、難を逃るるとこそ聞きて候へ」「転ずるとは、何とする事ぞや。自ら心得難し。はからひ給へ」と有りければ、「然らば、うりかふと言へば、逃るるなり。うり給へ」と言ふ。かふ者の有りてこそ、うられ候へ、目にも見えず、手にも取られぬ夢の跡、現に誰かかふべしと、思ひわづらふ色見えぬ。「然らば、此の夢をば、童かひ取りて、御身の難をのぞき奉らん」と言ふ。「自らがもとより主、悪しくとても、恨み無し。御為悪しくは、如何」と言ひければ、「然ればこそ、うりかふと言へば、転ずるにて、主も自らも、苦しかるまじ」と、誠しやかにこしらへければ、「然らば」と喜びて、うり渡しけるぞ、後に、悔しくは覚えける。此の言葉につきて、二十一の君、「何にてかかひ奉らん。もとより所望の物なれば」とて、北条の家に伝はる唐の鏡を取り出だし、唐綾の小袖一重ね添へ渡されけり。P114十九の君、なのめならずに喜びて、我が方に帰り、「日頃の所望適ひぬ。此の鏡の主になりぬ」と喜びけるぞ、愚かなる。此の二十一の君をば、父殊に不便に思ひければ、此の鏡を譲りけるとかや。然る程に、佐殿、時政に娘数多有る由聞こし召し、伊東にてもこり給はず、上の空なるもの思ひを、風の便りにおとづればやと思し召し、内々人に問ひ給へば、「当腹二人は、殊の外悪女なり。先腹二十一の方へ、御文ならば、賜はりて参らせん」と申しける。伊東にて物思ひしも、継母故なり。如何にわろくとも、当腹をと思し召し定められて、十九の方へ、御文をぞ遊ばしける。藤九郎盛長は、是を賜はりて、つくづく思ひけるは、当腹共は、事の外悪女の聞こえ有り、君思し召し遂げん事有るべからず、北条にさへ、御仲違はせ給ひては、いづかたに御入り有るべき、果報こそ、劣り奉るとも、手跡は、如何でか劣り奉るべきとて、御文を二十一の方へとぞかきかへける。さて、少将の局して、参らせたりけり。姫君御覧じて、思し召し合はする事有り、此の暁、白き鳩一つ飛び来たりて、口より金の箱に文を入れてふき出だし、童が膝の上におき、虚空に飛びさりぬ、開きて見れば、佐殿の御文なり、急ぎ箱にをさむると思へば、夢なり、今現に文見る事、不思議さよと思し召して、打ち置きぬ。其の後、文の数重なりければ、夜な夜なP115忍びて、褄をぞ重ね給ひける。かくて、年月送り給ふ程に、北条の四郎時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞き、ゆゆしき大事出で来たり、平家へ聞こえては如何ならんと、大きに騒ぎ思ひけり。さりながら、静かに物を案ずるに、時政が先祖上総守なほたかは、伊予殿の関東下向の時、聟に取り奉りて、八幡殿以下の子孫出で来たり、今に繁昌、年久し。
@〔兼隆聟に取る事〕S0211N031
斯様の昔を案ずるに、悪し様にはあらじと思ひけれども、平家の侍に、山木の判官兼隆と言ふ者を同道して下しけり。道にて、何と無き事のついでに、「御分を時政が聟に取らん」と言ひたりし言葉の違ひなば、「源氏の流人、聟に取りたり」と訴へられては、罪科逃れ難し、如何せんと思ひければ、伊豆の国府に着き、彼の目代兼隆に言ひ合はせ、知らず顔にて、娘取り返し、山木の判官にとらせけり。然れども、佐殿に契りや深かりけん、一夜をもあかさで、其の夜の内に、逃げ出でて、近く召し使ひける女房一人具して、深き叢を分け、足に任せて、あしびきの山路を越え、夜もすがら、伊豆の御山に分け入り給ひぬ。ちぎりくずちは、P116出雲路の神の誓ひは、妹背の中は変はらじとこそ、守り給ふなれ。頼む恵みのくちせずは、末の世掛けて、諸共に住みはつべしと、祈り給ひけるとかや。 抑、出雲路の神と申すは、昔、けいしやうと言ふ国に、男を伯陽、女を遊子とて、夫婦の物有りけるが、月に共なひて、夜もすがら、ぬる事無くして、道に立ち、夕には、東山の峰に心を澄まし、月の遅く出づる事を恨み、暁は、晴天の雲にうそぶき、くもり無き夜を喜び、雨雲の空を悲しみて、年月を送りしに、伯陽九十九の年、死門にのぞまむとせし時、遊子に向かひ申す様、「我、月に共なひて、めづる事、世の人に越えたり。一人なりとも、月を見る事、怠らざれ」と言ひければ、遊子、涙を流して、「汝、まさに死なば、我一人月を見る事有るべからず。諸共に死なん」と悲しめば、伯陽重ねて申す様、「偕老同穴の契り、百年にあたれり。月を形見に見よ」とて、遂にはかなくなりにけり。契りし如く、遊子は内に入る事も無くして、月に伴ひ歩きしが、是も限り有りければ、遂にはかなくなりにけり。然れども、夫婦諸共に月に心をとめし故に、天上の果を受け、二つの星なるとかや、牽牛織女是なり。又、さいの神とも申すなり。道祖神とも現れ、夫婦の中を守り給ふ御誓ひ、頼もしくぞ覚えける。P117又、伝へ聞く、漢の高祖、はうやう山と言ふ山に籠り給ひしに、こうろ大子諸共に、紫雲を知るべしとて、深き山路に分け入りし志、是には過ぎじとぞ見えし。さて、佐殿へ秘かに人を参らせ、かくと申させ給ひしかば、鞭を上げてぞ、上り給ひける。目代は尋ねけれども、猶山深く入り給ひければ、力及ばず、北条は、知らず顔にて、年月をぞ送りける。伊東が振舞ひには代はりたるにや、果報の致す所なり。
@〔盛長が夢見の事〕S0212N033
此処に、懐島の平権守景信と言ふ者有り。此の程、兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて坐します由伝へ聞き、「斯様の時こそ、奉公をば致さめ」とて、一夜宿直に参りけり。藤九郎盛長も、同じく宿直仕る。夜半ばかりに、打ち驚きて、申しけるは、「今夜、盛長こそ、君の御為に、めでたき御示現を蒙りて候へ。御耳をそばたて、御心を鎮め、確かに聞こし召せ。君は、矢倉岳に御腰を掛けられしに、一品房は、金の大瓶をいだき、実近は、御畳をしき、也つなは、銀の折敷に、金の御盃をすゑ、盛長は、銀の銚子に、御盃参らせつるに、君、三度聞こし召さP118れて後は、箱根御参詣有りしに、左の御足にては、外浜を踏み、右の御足にては、鬼界島を踏み給ふ。左右の御袂には、月日を宿し奉り、小松三本頭に頂き、南向きに歩ませ給ふと見奉りぬ」と申しければ、佐殿、聞こし召して、大きに喜び給ひて、「頼朝、此の暁、不思議の霊夢をかうむりつるぞや。虚空より山鳩三来たりて、頼朝が髻に巣をくひ、子をうむと見つるなり。是、しかしながら、八幡大菩薩の守らせ給ふと、頼もしく覚ゆる」と仰せられければ、
@〔景信が夢合はせ事〕S0213N034
景信申しけるは、「盛長が示現においては、景信合はせ候はん。先づ、君、矢倉岳に坐しましけるは、御先祖八満殿の御子孫、東八か国を御屋敷所にさせ給ふべきなり。御酒聞こし召しけるとみつるは、理なり。当時、君の御有様は、無明の酒によはせ給ふなり。然れば、酔ひは遂にさむる物にて、「三木」の三文字をかたどり、近くは三月、遠くは三年に、御酔ひさむべし。P119
@〔酒の事〕S0214N035
又、酒は、忘憂の徳有り。然るに依り、数の異名候ふ。中にも、「三木」と申す事は、昔、漢の明帝の時、三年旱魃しければ、水にうゑて、人民多く死す。御門、大きに歎き給ひて、天に祈り給へども、験無し。如何せんと悲しみ給ひける。其の国の傍に、せきそと言ふ賎しき民有り。彼が家の園に、桑の木三本有りけるに、水鳥、常に下り居て遊ぶ。主あやしみて、行きて見れば、彼の木のうろに、竹の葉おほへる物有り。取りのけて見るに、水なり。なめて見れば、美酒也。即ち、是を取りて、国王に捧ぐ。然れば、一度口につくれば、七日餓を忘るる徳有り。御門、感じ思し召して、水鳥の落とし置きたる羽を取りて、餓死の口にそそき給へば、死人ことごとくよみがへり、うゑたる物は、力をえ、めでたし共、言ふ計り無し。即ち、せきそを召して、一国の守に任ず。桑の木三本より出で来たればとて、「三木」と申すなり。さても、此の酒は、如何にして出で来るぞと尋ぬれば、せきそが子に、くわうりというもの有り。継母、殊にすぐれて、是をにくみ、毒を入れてくはせける。然れども、くわうり、継母の習ひと思ひなずらへて、更に恨むる心無くして、此の木のうろに入れおき、竹の葉おほひておきたりけるP120が、始め入れたる飯は、麹と成り、後に入れける飯は、天より下る雨露の恵みを受けて、くちて、美酒とぞなりける。「毒薬変じて、薬と成る」とは、此の時よりの言葉なり。又、酒をのみて、風の然る事三寸なれば、「三寸」とも書けり。是は、家隆卿の言ひけるなり。馬の寸を「き」と言へば、其の故有るにや。又、「風妨」とも言へり。風のさまたるく義なり。又、或る者の家に、杉三本有り。其の木のしただり、岩の上に落ちたまり、酒と成ると言ふ説有り。其の時は、「三木」とかくべきか。又、しん心ほうに曰く、「新酒百薬長たり」とも書けり。漢書には、「せきそ、みきをえて、天命を助く」と書けり。又、慈童と言ひし者は、七百歳をえて、彭祖と名を返し仙人、菊水とてもて遊びけるも、此の酒なり。是は、法華経普門品の二句の偈を聞きし故に、菊の下行く水、不死の薬と也けるを、此の仙人は用ひけるとかや。大やけにも、是を移して、重陽の宴とて、酒に菊を入れて用ひ給ふ。上より下る雨露の恵み、下に差し来る月日の光、あまねく、君の御恵みに漏れたる品は無きにこそ、高きも、賎しきも、酒はいはひにすぐれ、神も納受、仏も憐愍有るとかや。君も聞こし召されつる三きの如くに、過ぎにし憂きを忘れさせ給ふ。日本国を従へさせ給ひし。左右の御足にて、外浜と鬼界島を踏み給ひけるは、秋津洲残り無く、従へさせ給ふべきにや。左右の御袂に、月日を宿しP121給ひけるは、主上・上皇の御後見においては、疑ひ有るべからず候ふ。小松三本頭に頂き給へるは、八幡三所の擁護あらたにして、千秋万歳を保ち給ふべき御相なり。又、南向きに歩ませ給ひけるは、主上御在位の、大極殿の南面にして、天子の位を踏み給ふとこそ承り候へ。御運を開き給はむ事、是に同じ」と申しければ、佐殿喜び給ひて、「景信があはする如く、頼朝、世に出づる事あらば、夢合はせのへんとう有るべし」とぞ仰せられける。
@〔頼朝謀叛の事〕S0215N036
然る程に、誠に謀叛の事有り。例へば、さんぬる平治元年、右衛門督藤原の信頼卿、左馬頭源の義朝を語らひて、梟悪をくはたつ。然れば、清盛、是を追罰し、件の族を配流せしより此の方、源氏退散して、平家繁昌す。然れば、朝恩に誇りて、叡慮を悩まし奉る事、古今にたぐひ無し。剰へ、其の身、一人師範にあらずして、忝くも、太政大臣の位を汚す。かくの如く、近衛の大将、左右に兄弟相並ぶ事、凡人において、先例に無しと雖も、始めて此の義を破る。又、仏餉の田苑を止め、神明の国郡をくつ返し、我が朝六十余州P122の内、三十余国は、彼の一族領す。又、三公九卿の位、月卿雲客の官職、大略此の一門ふさぐ。斯様のおごりの余りにや、さしたる科も無きに、臣下卿相、多く罪科に行ひ、剰へ、法皇を鳥羽殿に押し込め奉り、天下を我が儘にする。つらつら、旧記を思へば、楊国忠が叡慮に背き、安禄山が朝章を乱りし悪行も、かくの如くの事は無し。人臣皇事を奪はざる外は、これ体の悪行、異国にも未だ先例を聞かず。況や、我が朝においてをや。かかりければ、後白河院の第二の皇子高倉宮を、源三位入道頼政、謀叛をすすめ奉る。治承四年四月二十四日の暁、諸国の源氏に院宣を下さる。御使ひは、十郎蔵人行家なり。同じき五月八日に、行家、伊豆の国に着き、兵衛佐殿に院宣を告げ奉る。院宣の案を書き、やがて常陸の国に下り、志太の三郎先生義憲に此の由をふれ、信濃の国に下り、木曾義仲にも見せけり。
@〔兼隆が打たるる事〕S0216N037
是に依つて、国々の源氏、謀叛をくはたて、思ひ思ひに案をめぐらす所に、頼朝早く、平家の侍に、和泉の判官兼隆、当国山木が館に有りけるを、同じく八月十七日P123の夜、時政父子を始めとして、佐々木の四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景信以下の郎従等を差し遣はして、打ち取り畢んぬ。是ぞ、合戦の始めなりける。此処に、相模の国の住人大庭の三郎景親、平家の重恩を報ぜん為に、当国石橋山に追ひ掛け、散々に戦ふ。是のみならず、武蔵・上野の兵共、我劣らじと馳せ向かひて、防ぎ戦ふ。其の中に、畠山の重忠は、父重能・叔父有重、折節、平家の勘当にて、京都に召し置かるる最中なれば、其の科をもはらし、国土の狼藉をも鎮めんと向かひけるが、三浦党、頼朝の謀叛に与力せんとて、馳せ向かひけるが、鎌倉の由比と言ふ所にて行き合ひ、散々に戦ひけるが、重忠打ち落とされて、希有の命いきて、武州に帰りけり。其の後、江戸・葛西を始めとして、武蔵の国の者共、一千余騎、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦ひければ、三浦打ち負けて、今は、大介一人になりにけり。年九十余になりけるが、子孫に向かひて申しけるは、「兵衛佐殿の浮沈、今に有り。己等一人も、死に残りたらば、見つぎ奉れ」と申しおいて、腹切り畢んぬ。さても、伊東の入道は、もとより佐殿に意趣深き者なりければ、一合戦と馳せ向かひけるが、頼みし畠山打ち落とされぬと聞きて、伊豆の御山より帰りにけり。佐殿、無勢たるに依つて、心は猛く思はれけれ共、此の合戦適ふべしとは見えP124ざりける。然れども、土肥の二郎、岡崎の悪四郎、佐々木の四郎、命を惜しまず、戦ひける其の隙に、佐殿逃れ給ひて、杉山に入り給ひぬ。北条の三郎宗時、佐那田の与一も打たれけり。佐殿、七騎に打ちなされ、大童に成りて、大木の中に隠れ、其の暁、山を忍び出で、安房の国りうさきへ渡り給ふとて、海上にて、三浦の人々、和田の小太郎義盛に行き合ひて、船共を漕ぎ寄せ、互ひに合戦の次第を語る。義盛は、衣笠の軍に、大介打たれし事共語りければ、土肥・岡崎は又、石橋山の合戦に、与一が打たれし事共を語り、互ひに鎧の袖をぞ濡らしける。さて、安房の国に渡り、其れより上総に越え、千葉介を相具して、次第に攻め上り給ひて、相模の国鎌倉の館にぞつき給ひける。是よりして、武士共、関東に帰伏せざるは無かりけり。然れば、平家驚き騒ぎ、度々討手を向かはすと雖も、或いは鳥の羽音を聞きて、退く者も有り、又は、戦場にこらへずして、鞭にて打ち落とさるるも有り。是、普通の儀にあらず、只天命の致す所也。昔、周の文王、いしんちうを打たんとせしに、東天に雲さえて、雪のふる事、一丈余也。五車馬に乗る人、門外に来たりて、其の事を示ししかば、文王、勝つ事をえたり。かるが故に、逆臣、程無くはいしやうして、天下、即ち穏やかなり。P125
@〔伊東が切らるる事〕S0217N039
さても、不忠を振舞ひし伊東の入道は、生捕られて、聟の三浦介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして、召し出だし、よろいすると言ふ所にて、首をはねられける。最後の十念にも及ばず、西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領、伊東・河津の方を見遣りて、執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。
@〔奈良の勤操僧正の事〕S0218N040
是や、延暦年中に、奈良の勤操僧正、大旱魃に、雨の祈りの為、大和の国布留社にて、薬草喩品を一七日講ぜられける。何処共無く、童一人来たりて、毎日、御経を聴聞しける。七日に満ずる時、「何物にや」と、御尋ね有りければ、「我は、此の山の小竜なり。七日の聴聞に依つて、安楽世界に生まれ候ひなん嬉しさよ」とて、随喜の涙を流しけり。其の時、僧正曰く、「竜は、雨を心に任する物なれば、雨をふらし候へ」と宣へば、「大龍の許し無くして、我がはからひにて、成り難く候へども、さりながら、後生菩提を御助け給ひ候はば、身は失せ候ふとも、P126雨をふらし候はん」と申す。「左右にや及ぶ。追善有るべし」と、御領状有りしかば、即ち雷と成りて、天に上がり、雨のふる事、二時ばかりなり。され共、此の竜、其の身砕けて、五所へぞ落ちにけり。僧正哀れみ給ひて、彼の竜の落ちける所にして、一日経を書写せられけり。其の後、彼の僧正の夢に、御訪ひに依り、即ち蛇身を転じて、仏道を成ずと見えたり。さて、彼の五所に、五つの寺をたてて、今に絶えせず、勤行とこしなへ也。彼の五所の寺号をば、竜門寺、竜せん寺、竜しよく寺、竜ほう寺、竜そん寺、是なり。紀伊の国・大和両国に有り。斯様の畜類だにも、後生をば願ふぞかし。伊東の入道は、最後の時にも、後生菩提を願はぬぞ、愚かなる。是を以て、過ぎにし事を案ずるに、親の譲りを背くのみならず、現在の兄を調伏し、もつまじき所領を横領せし故、天是を戒めけるとぞ覚えたり。然れば、悪は一旦の事なり、小利有りと雖も、遂には正に帰して、道理道を行くとかや。総じて、頼朝に敵したる者こそ多き中に、まのあたりに誅せられける、因果逃れざる理を思へば、昔、天竺に大王有り、尊き上人を帰依せんとて、国々を尋ねけるに、或る時、いみじき上人有りとて、向かひを遣はし給ふに、此の王、朝夕、碁を好み給ひて、人を集めて打ち給ふ。「上人参り給ひぬ」と申しければ、碁にきりて然るべき所有りけるを、「きれ」と宣ひけるに、此の上人P127の首をきれとの宣旨と聞き成して、即ち聖の首を打ち切りぬ。大王、夢にも知り給はで、碁打ちはてて、「其の上人、此方へと宣ふ。「宣旨に任せて、切りたり」と申す。大王、大きに悲しみ仏に歎き給ふ時、仏宣はく、「昔、国王は、蛙にて、土中に有りし也。上人、もとは、田を作る農人なり。然る間、田を返すとて、心ならず、唐鋤にて、蛙の首をすき切りぬ。其の因果逃れずして、切られけり。因果は、斯様なる物をや」と宣へば、国王、未来の因果を悲しみて、多くの志をつくして、彼の苦をまぬかれ給ひけるとかや。人は、只むくいを知るべきなり。
@〔祐清、京へ上る事〕S0219N041
伊東の九郎においては、奉公の者にて、死罪をなだめられ、召し使はるべき由、仰せ下されしを、「不忠の者の子、面目無し。其の上、石橋山の合戦に、まさしく君を打ち奉らんと向かひし身、命いきて候ふとも、人にひとしく頼まれ奉るべしとも存ぜず。さあらんにおいては、首を召されん事こそ、深き御恩たるべし」と、のぞみ申しけるも、やさしくぞ覚えける。此の心なればや、君をも落としP128奉りけると、今更思ひ知られたり。君聞こし召され、「申し上ぐる所の辞儀、余儀無し。然れども、忠の者を切りなば、天の照覧も如何」とて、切らるまじきにぞ定まりける。九郎、重ねて申しけるは、「御免候はば、忽ち平家へ参り、君の御敵と成り参らせ、後矢仕るべし」と、再三申しけれ共、御用ひ無く、「仮令敵と成ると言ふとも、頼朝が手にては、如何でか切るべき」と仰せ下されければ、力及ばず、京都に上り、平家に奉公致しける。北陸道の合戦の時、加賀の国篠原にて、斎藤別当一所に討死して、名を後代に止む。よき侍の振舞ひ、弓矢の義理、是にしかじと、惜しまぬ者は無かりけり。
@〔鎌倉の家の事〕S0220N042
さて、佐殿、北の御方取り奉りし江間の小四郎も打たれけり。跡を北条の四郎時政に賜はり、さてこそ、江間の小四郎とも申しけれ。此の外、打たるる侍共、相模の国には、波多野の右馬允、大庭の三郎、海老名の源八、荻野の五郎、上総の国には、上総介、みちの国には、秀衡が子供を始めとして、国々の侍五十余人ぞ打たれける。又、平家には、八島の大臣殿、右衛門督清宗、本三位の中将重衡を先とし、或いは、きらP129れ、自害する族、しるすに及ばず。源氏には、御舍弟三川守範頼、九郎判官義経、木曾義仲、甲斐の国には、一条の二郎忠頼、小田の入道、常陸の国には、志太の三郎先生を始めとして、以上二十八人、彼是打たるる者、百八十余人なり。「此の内に、冤貶の者は、わづか三人なり。一条の二郎、三川守、上総介なり。此の外は、皆自業自得果なり」とぞ宣ひける。さて、鎌倉に居所をしめて、郎従以下軒を並べ、貴賎袖を連ねけり。是や、政要の言葉に、「漢の文王は、千里の馬を辞し、晋の武王は、雉頭の裘をやく」とは、今の御代に知られたり。民の竃は、朝夕の煙豊かなり。賢王世にいづれば、鳳凰翼を延べ、賢臣国に来たれば、麒鱗蹄をとぐと言ふ事も、此の君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。
@〔八幡大菩薩の事〕S0221N043
抑、八幡大菩薩を、忝くも、鶴岡に崇め奉る。是を若宮と号す。蘋■の礼、社壇にしげく、奉幣、にんわうのせきしやうなり。其の垂迹三所に、仲哀・神功・応神三皇の玉体也。本地を思へば、弥陀三尊の聖容、行教和尚の三衣の袂を現し給へり。百皇鎮護の誓ひを起こして、一天静謐の恵みP130坐します。誠に是、本朝の宗廟として、源氏を守り給ふとかや。現世安穏の方便は、観音・勢至、神力を受け給ふ。後生善処の利益は、無量寿仏の誓ひを施し給ふ。仰ぎても信ずべきは、もつとも此の御神なり。父左馬頭の為に、勝長寿院を建立し給ふ。今の大御堂、是なり。其の外、堂舎・塔婆を造立し給ふ。仏像経巻を敬崇す。征罰の志、逸早にして、善根も又、莫大なり。寿永二年九月四日に、居ながら征夷将軍の院宣を蒙り、建久元年十一月七日に、上洛して、大納言に補し、同じき十二月五日に、右大将に任ず。然れば、籌策を帷帳の内にめぐらし、勝つ事を千里の外にえたり。実にや、遙かに伊豆の国に流罪せられ給ひし時、掛かるべしとは誰か思ひけん、一天四海を従へ、靡かぬ草木も無かりけり。誠や、史記の言葉に、「天下安寧なる時は、刑錯を用ひず」とは、今こそ思ひ知られたり。平家繁昌の折節、誰かは此の一門を滅ぼすべきとは思ひける。さても、伊豆の御山にて夢物語、同じく合はせ奉りし者、勧賞に預かり、藤九郎盛長、上野の総追捕使になさる。景信は、若宮の別当、神人総官を賜はる上に、大庭の御廚は、先祖には、代々数多にわかたれし、今度は、一円賜はりける。此の外、荘園五六ケ所給ひて、朝恩に誇りける。さても、先年、河津の三郎を打ちたりし工藤一郎祐経は、左衛門の尉に成りて、伊東を賜はる。其の外、所領数多P131拝領して、随分切り者にて、昼夜、君の御側さらで祗候す。され共、傷をかうむる鳥は、天に上がりて、翼を叩くと雖も、又、地に落つる思ひ有り。鉤をふくむ魚は、深き淵に入りて、尾をふると雖も、遂には陸に上がる愁へ有り。祐経も、斯様に果報いみじくて、公方・私、おどろを逆様に引くと雖も、敵有る身は、行く末逃れ難くして、遂に打たれにけるこそ、無慙なれ。
P132曾我之物語巻第三
@〔九月名月に出でて、一万・箱王、父の事歎く事〕S0301N045
抑、伊豆の国赤沢山の麓にて、工藤左衛門の尉祐経に打たれし、河津の三郎が子二人有り。兄をば、一万と言ひて、五つに成り、弟は、箱王と言ひて、三つにぞ成りにける。父におくれて後、いづれも母に付き、継父曾我の太郎がもとに育ちける。やうやう成人する程に、父が事を忘れずして、歎きけるこそ、無慙なれ。人の語れば、兄も知り、弟も知り、恋しさのみに明け暮れて、積もるは涙ばかりなり。心のつくに従ひて、いよいよ忘るる暇も無し。我等二十に成り、父を打ちけん左衛門の尉とやらんを打ち取りて、母の御心をも慰め、父の孝養にも報ぜんと、忙はしきは月日なり。数ならぬ身にも、日数の積もれば、はや憂き事共にながらへて、九つ・七つにぞなりにける。折節、九月十三夜の、誠に名有る月ながら、隈無き影に、兄弟、庭に出でて遊びけるが、五つつれたる雁がねの、西に飛びけるを、一万が見P133て、「あれ御覧ぜよ、箱王殿。雲居の雁の、何処を差してか飛び行くらん。一つらも離れぬ中の羨ましさよ」。弟聞きて、「何かはさ程うらやむべき。我等が伴ふ物共も、遊べば、共に打ちつれ、帰れば、つれて帰るなり」。兄聞きて、「さにはあらず。いづれも同じ鳥ならば、鴨をも鷺をもつれよかし。空とべども、己がともばかりなる事ぞとよ。五つ有るは、一つは父、一つは母、三つは子供にてぞ有るらん。わ殿は弟、我は兄、母は誠の母なれども、曾我殿、誠の父ならで、恋しと思ふ其の人の、行方も敵のわざぞかし。哀れや」「親の敵とやらんが首の骨は、石よりもかたき物かや」と問へば、兄が聞きて、袖にて弟が口を抑へ、「かしかまし、人や聞くらん、声高し、隠す事ぞ」と言へば、箱王聞きて、「射殺すとも、首を切るとも、かくして適ふべきか」「さは無きぞとよ、其れまでも忍ぶ習ひ、心にのみ思ひて、上は物を習へとよ。能は稽古によるなるぞ。我等が父は、弓の上手にて、鹿をも鳥をも射給ひけるなるぞ。哀れ、父だに坐しまさば、馬をも鞍をも用意してたびなまし。さあらば、を犬・笠懸をも射習ひなん。我等より幼き者も、世にあれば、馬に乗り、もの射る、見るも羨まし」とくどきければ、箱王聞きてぞ、「父だに坐しまさば、自らが弓の弦くひ切りたる鼠の首は、射させ参らすべき物を、はらだちや」と言へば、兄、「其れP134よりもにくき物こそあれ」「誰なるらん、ままが子、自らが乗りつる竹馬打ち候ひつる事か」「其の事にては無きぞ、父を打ちける者のにくさに、月日の遅き」と言へば、「習はずとても、弓矢取る身が、弓射ぬ事や候ふべき」。兄が聞きて、打ち笑ひ、「わ殿、然様に言ふ共、てなれずしては、如何候ふべき。見よ」とて、竹の小弓に、篦は薄なる笹矧の矢差しつがひ、兄、障子を彼方此方に射通し、「いつかは、我等十五・十三に成り、父の敵に行き合ひ、斯様に心の儘に射通さん」。箱王聞きて、「然る事にては候へ共、大事の敵、弓にては、遠く覚えたるに、斯様に首を切らん」とて、障子の紙を引き切り、たかだかと差し上げ、側なる木太刀を取り直し、二つ三つに打ち切りて、捨てて立ちたる眼ざし、人に代はりてぞ見えたりける。
@〔兄弟を母の制せし事〕S0302N046
乳母、是を忍び見て、恐ろしき人々のくはたてかな、後は如何にと思ひければ、急ぎ母上にぞ語りける。母上、大きに驚き、彼等を一間所に呼びければ、箱王、居なほらざるに、障子の破れたるをしかり給ふべきと心得て、「障子P135をば損じ候はず、余所の童が破りて候ふを、乳母がことことしく申して」と言ひければ、母、涙を流し、「障子の事にては無きぞとよ。汝等、確かに聞け、わ殿原が祖父伊東と言ひし人は、君の若君を殺し奉るのみならず、無叛の同意たりしに依つて、切られ奉りし上は、汝等も、其の孫なればとて、首をも足をももがれて奉るべし。平家の公達をば、胎の内なるをだにも、求め失はるるぞかし。今より後、努々思ひもより、言ひも出だすべからず。あさましき事也。未だ上も知ろし召されぬに、御許し有りて、知らず顔にて、御尋ねも無きと覚ゆるなり。構へて、遊ぶとも、門より外へ出づべからず。汝等打ちつれ遊ぶを、物の隙より忍び見るに、いさみおごる時は、自らが心も共にいさましく、打ちしをるる物を。親にも添はぬみなし子の、育つ行方の無慙さよ。後ろに立ち添ひ見るぞとよ。乳母は、かくとも知らせぬぞ。近くより候へ」とて、二人が袖を取り、引き寄せ、小声に言ふ様、「誠や、さしも恐ろしき世の中に、悪事思ひ立つとな。然様の事、人々聞かれなば、よかるべきか。上様の御耳に入りなば、召し取られ、禁獄、死罪にも行はれなん、恐ろしさよ」とぞ制しける。一万は、顔打ちあかめ、打ち傾きて居たり。箱王は、打ち笑ひ、「乳母が申し成しと覚えたり。更に後先も知らぬ事なり」と申しければ、母聞きて、「今よりP136後、思ひもよらざれ。構へて構へて」と言ひて立ちぬ。其の後は、余所目を忍びて、おとといは語りけれども、人には更に知らせざりけり。或る日の徒然に、友の童も無く、軒の松風、耳に止まり、暮れ遣らぬ日は、一万門に出でて、人目を忍び、さめざめと泣きけり。箱王も同じく出でけるが、兄が顔をつくづくと見て、「何を思ひ給へば、兄子は、向かひの山を見て、さのみ泣かせ給ふぞや」と言ふ。兄が聞きて、「然ればこそとよ、何とやらん、殊の外に、父の面影思ひ出でられて、恋しく覚ゆるぞ」と言ひければ、「愚かに渡らせ給ふ物かな、思ひ給ふとも、父の帰り給ふまじ。帰り給へ。童共の、又参り候ふに、囃子物して遊び候はん」とて、打ちつれて帰る時も有り。又、或る夕暮に、夜に近き、軒端の雨のもの哀れなる折節に、箱王、門に立ち出でて、涙にむせぶ時は、一万、袖をひかへつつ、「何を思ひ給へば、四方の梢に目を懸けて、さのみ泣かせ給ふぞや」「覚えぬ父ごとやらんの恋しきは、斯様に心のすごきやらん。兄ごは、何とか御座する」とて、さめざめとこそ泣き居たれ。一万、弟が手を取りて、「覚えず、知らぬ父を恋しと言はんより、いとほしとのみ仰せらるる母に、いざや参らん」とて、袖を引きてぞ入りにける。是も、人目を忍ばんとて、互ひにいさめいさめられて、心ばかりと思へども、さすが幼き心にて、忍ぶ余所目P137の隙々の、もるるを見聞く人ごとに、舌を振り、哀れを催さぬは無かりけり。良竹は、おひいづればすぐなり、栴檀は、二葉よりかうばしとは、斯様の事に知られたり。然れば、遂に敵を思ふ儘に打ち、名を万天の雲居に上げ、威勢一天に余れり。哀れにも、いみじきにも、申し伝へたるは、此の人々の事なり。
@〔源太、兄弟召しの御使ひに行きし事〕S0303N048
かくて、三年の春秋の過ぐる程も無かりけり。早くも、一万十一、箱王九にぞなりにける。其の頃、彼等が身の上に、思はぬ不思議ぞ出で来たる。故を如何にと尋ぬるに、鎌倉殿、侍共に仰せられけるは、「保元の合戦に、為義、義朝に切られ、平治の乱れに、義朝、長田に打たれしより此の方、おごりし平家をことごとく滅ぼし、天下を心の儘にする事、我等が先祖におきては、頼朝に勝る果報者あらじ」と仰せ下されければ、御前祗候の侍共、一同に、「さん候」と申し上げければ、伊豆の国の住人工藤左衛門祐経、畏まつて申しけるは、「仰せの如く、四海鎮まり、きうたう狼煙立たざる所に、間近き御膝の下に置きて、幼く候へ共、末の御敵と成るべき者こそ、一二人候へ」と申しければ、御前に有りける侍共、P138知るも知らざるも、誰が身の上やらんと、目を合はせ、拳を握らざるは無かりけり。君聞こし召されて、御気色変はり、「頼朝こそ知らね、何物ぞ」と、御尋ね有りければ、祐経承りて、「先年切られ参らせ候ひし伊東の入道が孫、五つや三つにて、父河津におくれ、継父曾我の太郎がもとに養じ置きぬ。成人の後、御敵とやなり候ふべき。身にも又、野心有る者にて候ふ」と申し上げたりければ、君聞こし召し、「不思議なり。祐信は、随分心安き物に思ひつるに、末の敵を養ひ置くらん不思議さよ。急ぎ梶原召せ」とて召さるる。源太景季、御前に畏まりければ、「急ぎ曾我に下り、伊東の入道が孫共を隠し置く由聞こゆ。急ぎ具足して参るべし。もし異議に及ばば、其れにて首をはねよ」とぞ仰せ下されける。景季承り、御前を罷り立ち、急ぎ曾我へぞ下りける。祐信が屋形近くなりしかば、使者をたてて、「曾我殿や坐します。君の御使ひに、景季参りたり」と言はせければ、祐信、何事なるらんと、「思ひ寄らざる御入り珍し」と言ひければ、景季も、暫く辞退して、「さん候、上よりの御使ひ」とばかり言ひて、面目無き事なれば、左右無く言ひも出ださず。やや有りて「御為ゆゆしき事ならぬ仰せを蒙りて候ふ。其の故は、故伊東殿の孫養育の由、君聞こし召して、「頼朝が末の敵なり。急ぎ具して参るべし」との御使ひを蒙り、参りP139て候ふ」と申しければ、祐信、とかくの返事にも及ばず、やや有りて、「世間に歎き深き者を尋ぬるに、祐信にすぐべからず。幼き者二人候ひし、五つ・三つにて失ひ候ふ。其の思ひ未だはれざるに、彼等が母におくれ候ひぬ。一方ならぬ思ひの浅からざりしに、彼等が母も、夫におくれ、子を持ちたる由聞き候らひ、しかも、親しく候ふ上、失ひし子供、同じ年にて候ふ。然れば、人の歎きをも、我等が思ひをも、語り慰まんと思ひ、抑へ取り、今年は、此の者共、十一・九に罷り成り候ふ。殊の外けなげに候ふ間、実子の如く養じたてて、此の頃、斯様の仰せを蒙り候ふべしとこそ存じ候はね。子に縁無き者は、人の子をも養ずまじき事にて候ひける」とて、袖を顔に押し当てけり。景季も、誠に理とぞ思ひける。
@〔母歎きし事〕S0304N049
やや有りて、「つれて参るべし。さりながら」とて内に入り、彼等が母に申しけるは、「故伊東殿、君に御敵とて失せ給ひし、其の孫とて、二人の幼き者共を参らせよとの御使ひに、梶原殿の来たれり」と言ひければ、母は聞きも敢へず、P140「心憂や、是は何と成り行く世の中ぞや、夢とも現とも覚えず。実に夢ならば、さむる現も有りなまし。憂き身の上の悲しきも、彼等二人を持ちてこそ、万うさも慰みつれ。身の衰ふるをば知らで、いつか成人して、おとなしくもなりなんと、月日の如く頼もしく、後の世掛けて思ひしに、切られ参らせて、其の後、憂き身は何とながらへん。只諸共に具足して、とにもかくにもなし給へ」と泣き悲しむ、其の声は、門の辺まで聞こえける。実にや園生にうゑし紅の、焦がるる色の現れて、余所に見えしぞ、哀れなる。たへぬ思ひの余りにや、母は、二人の子供を左右の膝にすゑおき、髪かきなでてくどきけるは、「祖父伊東殿、君に情無くあたり奉りし故に、其の孫とて、汝等を召さるるぞや。如何なる罪のむくいにて、人こそ多けれ、御敵となりぬらん心憂さよ。さりながら、汝等が先祖、東国において、誰にかは劣るべき、知らぬ人有るべからず。君の御前なりとも、恐るる事無く。最期の所にて、言ふ甲斐無くして適ふまじ。さしもいさみし親祖父の、世に有りし故にこそ、御敵ともなり給ひしか。幼くとも、思ひ切りて、臆する色有るべからず、けなげに」と申せども、涙にこそむせびけれ。「実にや適はぬ事なれども、汝等を止めおき、其の代はりに、童出でて、如何にもなりなば、心安かりなん」と泣きP141ければ、二人の子供は、聞き分けたる事は無けれども、只泣くより外の事ぞ無き。賎しき賎に至るまで、泣き悲しむ事、叫喚・大叫喚の悲しみも、是には過ぎじとぞ覚えし。時移りければ、景季、使ひを以て、母の方へ申しけるは、「御名残、理と存じ候へ共、御思ひはつくべきにあらず、とくとく」と攻めければ、祐信、「承り候ふ」とて、嬉しからざる出立を急ぎける。母も、今を限りの事なれば、介錯するぞ、哀れなる。一万が装束には、精好の大口、顕紋紗の直垂をぞ着たりける。箱王には、紅葉に鹿書きたる紅梅の小袖に、大口ばかり着せたりける。斯様に介錯せん事も、今を限りにてもやと、後ろにめぐり、前に立ち、つくづくと是を見るに、一万が着たる小袖の紋、心得ぬ物かな。さても、あだなる朝顔の花の上露、時の間も、残る例は無き物を。さて、箱王が小袖の色、ぬれてや、鹿のひとり鳴くらんも、憂き身の上の心地して、いよいよ袖こそぬれまされ。古は何とも見ざりし衣裳の紋、今は目に立ちて、思ひ残せる事も無し。やがて帰るべき道だにも、差しあたりたる別れは悲しきに、帰らん事は不定なり。見みえん事も、今ばかりぞと覚えば、肝魂も身に添はず。一万おとなしやかに、「余り御歎き候ひそ。御思ひを見奉れば、道安かるべしとも覚えず。もし切られ参らせば、前世の事と思し召せ」と言ひければ、箱王、「兄の仰せP142らるる如く、御歎きを御止め候へ。同じ御歎きながら、敵を致したる事も候はず。其の上、未だ幼く候へば、御許しも候ふべし。仏にも御申し候へ」。誠にげにげにしく申すに付けても、いよいよ名残ぞ惜しかりける。さりともとは思へども、まさしき御敵なり。帰らん事は、不定也。止まり居て、物思はん事も、悲しければ、一所にて、如何にもならんと、出で立ちけるぞ、哀れなる。祐信、是を見、大きに制しける。「さりとも、切らるるまでは有るまじ。誰々も、よき様に申し成し給はば、いかさま、遠き国に流し置かれぬと覚えたり。然様なりとも、命だにあらば」と慰め置きて、二人の子共をいざなひ出でける、心の中こそ哀れなれ。母は、梶原が見るをも憚らず。事のなのめの時こそ、恥も人目も包まるれ、誠の別れになりぬれば、かちはだしにて、乳母諸共に、庭上に迷ひ出でて、「暫く、や、殿、一万。止まれや、箱王。我が身は何と成るべき」と、声を惜しまず泣き悲しみければ、上下男女諸共に、「今暫く」と泣き悲しむ有様、たとふべき方も無し。或いは、馬の口に取り付き、或いは、直垂の袖をひかへければ、景季も、猛き武士とは申せ共、涙にせき敢へず、「由無き御使ひ承りて、斯かる哀れを見る悲しさよ」とて、直衣の袖を顔に押し当てて泣きけり。母は、猶も止まり兼ねて、門の外まで惑ひ出でP143て、彼等が後姿を見送り、泣くより外の事ぞ無き。子供も、後ろのみ見返りしかば、駒をも急がず、後に心は止まりけり。互ひの思ひ、さこそと推し量られて、哀れなり。母は、子供の後ろも見えず、とほざかり行きければ、即ち倒れ伏しにけり。女房達、急ぎ引きたて、やうやう介錯して、泣く泣く内にぞ入りにける。持仏堂に参り、くどきけるは、「大慈大悲の誓願、枯れたる草木にも、花さき実成るとこそ聞け。などや、彼等が命をも助け給はざらん。是、幼少の古より、深く頼みを懸け奉る。毎日に三巻普門品怠らざる証に、彼等が命を助け給へ」と、悶え焦がれけるぞ、無慙なる。せめての事にや、仏に向かひてくどきけるは、「実にや、彼等が父の打たれし時、如何なる淵瀬にも入りなんと、思ひ焦がれしに、彼等を世にたてんと思ひて、つれなく命ながらへ、あかぬ住まひの心憂かりつるも、偏に子供の為ぞかし。切られ参らせての後、一日片時の程も、身は、誰が為に惜しかるべき。願はくは、我等が命も取り給ひて、彼等一所に向かへ取り給へ」と、声も惜しまず泣き居たり。誠や、身に思ひの有る時は、科も坐しまさぬ神仏を恨み奉り、泣きてはくどき、恨みては泣き、伏し沈みけるこそ、せめての事とは覚えける。P144
@〔祐信、兄弟つれて、鎌倉へ行きし事〕S0305N050
さて、祐信は、梶原諸共に打ちつれて、駒を早むるとは無けれども、夜に入りて、鎌倉へこそつきにけれ。今夜は、遙かにふけぬらんとて、景季が屋形に止め置きたり。祐信は、二人の子供近く居て、こよひばかりと思ふにも、残り多くぞ思はれける。名残の夜はも明け安き、隈無き軒をもる月も、思ひの涙にかきくもり、鶏と同じく泣きあかす、心の内こそ無慙なれ。早天に、源太左衛門、御所へ参りければ、祐信、遙かに門送りして、「彼等が事は、一向に頼み奉る。如何にもよき様に申しなされ、郎等二人有りと思し召し候へ」と、誠に思ひ入りたる有様、哀れにて、源太も、不便に覚えて、「実にや、子ならずは、何事にか、是程宣ふべき。人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、実に理と覚えて、景季も、子供数多持ちたる身、さらさら人の上共存じ候はず」とて、忍びの涙を流しけり。「心の及ぶ所は、等閑有るべからず候ふ。心安く思ひ給へ」とて出でければ、頼もしくぞ思ひける。 其の後、景季、御前に畏まりければ、君御覧じて、「咋日は、参らざりけるP145ぞ。祐信は、異議にや及びける」「如何でか、惜しみ申すべき。ゆふべ、景季がもとまで具足して、候ひつるを、夜ふけ候ふ間、明くるを待ち申して候ふ。従ひ候ひては、母や曾我の太郎が歎き、申すに及ばず。かはゆき有様を見てこそ候へ。同じ仰せにて、戦場にして、一命を捨て候はん事は、物の数とも存じ候ふまじ。斯様に難儀の事こそ候はざりしか」と申しければ、君聞こし召されて、「さぞ母も惜しみつらん。同じ科とは言ひながら、未だ幼き者共なり。歎きつるか」と仰せられければ、此の御言葉に取り付き、畏まつて申しけるは、「斯様に申す事、恐れ多く候へども、母が思ひ、余りに不便なる次第に候ふ。未だ幼き者共に候へば、成人の程、景季に預けさせ給ひ候へかし」と申しければ、君聞こし召されて、「汝が申す所、理と思へ共、伊東の入道に、情無くあたられし事を、聞きも及びぬらん。三歳の若を失はれ、剰へ女房さへ取り返されて、歎きの上に、恥を見、其の上、由比の小坪にて、頼朝を打たんとせし恨み、条々、例へて遣る方無し。せめて、伊豆の国一国の主にもならばやと、明け暮れ思ひ祈りしは、只伊東にあたり返さんと願ひしぞかし。然れば、彼の者の末と言はんをば、乞食非人なりとも、掛けて見んとは思はざりき。況や、彼等は現在の孫なり。しかも、嫡孫なり。急ぎ誅して、若が孝養に報ずべし。頼朝恨むべからず」と仰せ下さP146れければ、重ねて申すに及ばで、御前を罷り立ちにけり。「時を移さず、由比の浜にて害せよ」と承りて、宿所に帰り、祐信、遅しと待ち受けて、「彼等が命如何に」と問ふ。「然ればこそとよ、再三申しつれども、故伊東殿の不忠、始めよりをはりに至るまで、御物語有りて、若君の草の陰にて思し召す所も有り、此の人々を切りて、御追善に報ぜんと、御意の上、力及ばず」と言ひければ、祐信、頼みし力つきはてて、「今は、適ふまじきにや」とて、二人の子供を近付けて、装束引きつくろひ、鬢の麈打ち払ひ、「汝、如何なるむくいにて、乳の内にして、父におくれ、重代の所領に離れ、命だにも、十五・十三にもならず、切らるるのみにあらず、母にも又、思ひを授くる事の不思議さよ。祐信も、汝等におくれて後、千年をふるべきか。髻切り、後世懇ろに問ひて取らすべし。今生こそ、宿縁うすくとも、来世には、必ず一蓮に生まれあふべし」と、涙にむせびけり。子供聞き、「祖父子の御事に依り、我等幼けれ共、許されず、切られん事、力に及ばず。さりながら、殿の御恩こそ、有り難く思ひ奉り候へ。御遁世、努々有るまじき事なり。母御の御思ひ、いよいよ重かるべし。其れを慰めて賜はり候へ。其れならでは」とばかりにて、泣くより外の事ぞ無き。景季が妻女も、女房達引きつれ、中門に出で、ものごしに彼等がP147言葉を立ち聞きて、「実にや、然る者の子供とは聞こえたり。優におとなしやかに言ひつる言葉かな。余所にて聞くだにも、哀れに無慙なるに、如何に今まで取り育てぬる母や乳母の思ふらん。かたはなる子をさへ、親は悲しむ習ひぞかし。弓取りの子の七つにて、親の敵を打ちけると申し伝へたる事も、彼等がおとなしやかなるにて思ひ知られたり。弓取りの子なり」とて、涙にむせびければ、及ぶも及ばざるも、皆袂をぞ絞りける。
@〔由比のみぎはへ引き出だされし事〕S0306N052
やや有りて、景季来たり、「時こそ移り候へ」と言ひければ、祐信、彼等を出で立たせ、由比の浜へぞ出でける。今に始めぬ鎌倉中のことことしさは、彼等が切らるる見んとて、門前市をなす。源太が屋形も、浜のおもて程遠からで、行く程に、羊の歩み猶近く、命も際になりにけり。既に敷皮打ちしきて、二人の者共なほりにけり。今朝までは、さり共、源太や申し助けんと、頼みし心もつきはて、彼等に向かひ申しけるは、「母が方に、思ひ置く事や有る」と問ふ。「只何事も、御心得候ひて、仰せられ候へ。但し、最期は、御教へ候ひし如く、思ひ切りP148て、未練にも候はざりしとばかり、御語り候へ」「箱王は如何に」と問へば、「同じ御心なり。今一度見奉て」と言ひも敢へず、涙にむせび、深く歎く色見えけり。一万是を見て、「仰せられしをや。祖父の孫ぞと思ひ出だして、思ひ切るべし。構へて、母や乳母が事、思ひ出だすべからず。然様なれば、未練の心出で来るぞ。「只一筋に思ひきれ」と教へ給ひし事、忘れ給ふかや。人もこそ見れ」といさめければ、箱王、此の言葉にや恥ぢけん、顔押しのごひ、あざ笑ひ、涙を人に見せざりけり。貴賎、惜しまぬ者は無かりけり。曾我の太郎も、此の色を見て、今は心安くて、敷皮に居かかり、鬢の麈打ち払ひ、心しずかに介錯し、「如何に汝等、よくよく聞け。始めたる事にあらね共、弓矢の家に生まるる者は、命よりも名をば惜しむ者ぞとよ。「竜門原上の骨をばうづめども、名をば雲井に残せ」と言ふ言葉、予て聞き置きぬらん。最期見苦しくは見えねども、心を乱さで、目をふさぎ、掌を合はせ、「弥陀如来、我等を助け給へ」と祈念せよ」。一万聞きて、「如何に祈り候ふとも、助かる命にても候はぬ物を」と言ひければ、「其の助けにては無し。別の助けぞとよ。御分の父、一所に向かへ取り給ふべき誓願の助けぞとよ。頼み候へ」と言ひければ、「申すにや及ぶ。故郷を出でしより、思ひ定むる事なれば、何に心を残すべき。P149父にあひ奉らん頼みこそ、嬉しく候へ」とて、西に向かひ、各々ちひさき手を捧げて、「南無」とたからかに聞こえければ、堀の弥太郎、太刀抜き、引きそばめ、二人が後ろに近付きて、兄を先づ切らんは、順次なり、然れども、弟見て、驚きなんも、無慙なり、弟を切るは、逆なりと、思ひわづらひ、立ちたりしを、祐信、思ひに絶え兼ねて、走り寄り、取り付き、「然るべくは、打物を某に預けられ候へ。我等が手に掛けて、後生を弔はむ」と申しければ、「御はからひ」とて、太刀をとらせけり。祐信取りて、先づ一万を切らむとて、太刀差し上げ見れば、折節、朝日かかやきて、白く清げなる首の骨に、太刀影の移りて見えければ、左右無く切るべき所も見えざりけり。祐信、猛き武士と申せども、打物を捨てて、くどきけるは、「中々思ひ切りて、曾我に止まるべかりし物を、是まで来たりて、憂きめを見る事の口惜しさよ。然るべくは、先づ某を切りて後に、彼等を害し給へ」と歎きければ、見物の貴賎、「理かな。幼少より育てて、哀れみ給へば、さぞ不便なるらん」と、訪はぬ者は無かりけり。P150
@〔人々、君へ参りて、こひ申さるる事〕S0307N054
此処に梶原平三景時、近くよりて、祐信に申しけるは、「御歎きを見奉るに、推し量られて覚ゆるなり。暫く待ち給へ。一はし申して見ん」と言ひければ、弥太郎、大きに喜びて、暫く時を移しける。誠に景時、差し切りて申されんには、適ひつべしと、人々頼もしくぞ思ひける。景時、御前に畏まりければ、君御覧ぜられて、「梶原こそ、例ならず訴訟顔なれ」「さん候。曾我の太郎が養子の子供、只今、浜にて誅せられ候ふ。哀れ、某に、御預けもや候へかし。景時が申状、聞こし召し入れらるべきと、あまねく思ひ候ふ物をや」と、申しければ、君聞こし召て、「今朝より、源太申しつれ共、預けず。汝、恨むべからず」と仰せ下されければ、力及ばず、御前を罷り立ちけり。次に、和田の左衛門義盛、御前に畏まり、「景時が親子、申して適はざる所を、義盛、重ねて申し上ぐる条、かつうは、其のおほそれ少なからず候へども、人を助くる習ひ、さのみこそ候へ。義盛、御大事に罷り立ちて、度々なりと雖も、わきては、衣笠城にて、御命に代はり奉り、御世に出でさせ給ひ候ひぬ。其の忠節に申しかへて、曾我の子供を預かりおき候はば、生前の御恩と存じ候ふべし」と申さP151れければ、君聞こし召されて、「彼の者共の事は、切らで適ふべからず」と仰せ下されければ、義盛、重ねて申されける、「もとより、罪軽くして、追罰せらるべきを、申し預かりては、御恩と申し難し。重罪の者を賜はりてこそ、掟を背く御恩にては候へ。義盛が一期の大事、何事か是にしかん」と、差し切りて申されたりしかば、君も、誠に難儀に思し召しけるが、しばし、御思案に及び、「御分の所望、何をか背き奉るべき。然れども、此の事においては、頼朝に差しおき給へ。伊東が情無かりし振舞ひ、只今報ぜん」と仰せられければ、義盛、力に及ばずして、御前を罷り立たれけり。其の次に、宇都宮の弥三郎朝綱、思ひけるは、面々申し適へられずして、罷り立たれぬ、さりながら、数多の力、もしもやと存じ、御前に祗候す。君御覧ぜられて、「今日の訴訟人は、適ふべからず、別に、思ふ子細有り」とて、御気色悪しかりければ、申し出だすに及ばず、退出せられにけり。又、千葉介常胤、座敷に居代はりて、畏まつて、「人々の申されて適はざる所を申し上ぐる条、誠てうたうのあとを尋ね、れいきのををひにて候へ共、竜の鬚をなで、虎の尾を踏むも、事による事にて候へば、今日の人々の訴訟御聞き入れ候はば、畏まり存ずべき由、方々申すげに候ふ」と申し上げければ、君聞こし召し、「御分の事、身にかへても余り有り。其れを如何にP152と言ふに、頼朝、石橋山の合戦に打ち負けて、只七騎に成りて、杉山を出でて、ゆきの浦に着き、既に自害に及びし時、数千騎にて、合力せられ奉り、今は世を取る事、偏に御分の恩ぞかし。其の故、忘るべきにあらず。然れども、伊豆の伊東が恨めしさは、知り給ひぬらん」と仰せ有りて、其の後は、御返事も無し。常胤、重ねて申されけるは、「恐れ存じ候ふ事なれども、某に限らず、今日の訴訟人、時に取りての御大事、誰か身命を惜しみ、不忠を思ひ奉る者の候ふべき。其の御心ざしに、御免渡らせ御座しまして、彼等を御助け候ふべし」「さても、彼等が祖父は、不忠の者にはあらざるをや」「さてこそ、御慈悲にて、御助け候へとは申せ」「奈落に沈む極重の罪人をば、慈悲の仏だにも、すくひ給はずとこそ聞け」。常胤承りて、「地蔵薩■の第一の誓願には、無仏世界の衆生をすくはんとこそ、誓ひの深く坐しますなれ」。君聞こし召し、「然れば、地蔵は、未だ正覚なり給はずとこそ聞け」「斯様の悪人をすくひつくして、正覚有るべしと承る。其れは、慈悲にて坐しまさずや」。君聞こし召し、「誠に其れは、仏の御法の言葉、如来にあひて、問ひ給へ。彼等は、世上の政道也。切らでは適ふべからず」とて、御気色悪しく見えければ、其の後は、物をも申さず。御前に祗候の人々も、力を落とし、如何せんとぞ思はれける。P153
@〔畠山の重忠こひ許さるる事〕S0308N055
此処に、武蔵の国の住人、畠山の庄司二郎重忠、在鎌倉して、筋違橋に有りけるが、此の事を聞き、取る物も取り敢へず、急ぎ御前に参られける。君御覧ぜられて、「重忠珍し」と仰せ下されければ、「さん候」とて、深く畏まり、やや有りて、申されけるは、「伊東が孫共を、浜にて切られ候ふなる。未だ幼く候へば、成人の程、重忠に御預け候へかし」。君聞こし召し、「存知の如く、伊東が振舞ひ、条々の旨、忘るべきにあらず。彼等が子孫におきては、如何に賎しき者なりとも、助け置かんとは覚えず。是等はまさしき孫ながら、嫡孫ぞかし。頼朝が末の敵と成るべし。然れば、誅してもたらざる物を。頼朝恨み給ふべからず」と仰せられければ、「適はじとの御諚、重ねて申し上ぐる条、恐れにて候へども、成人の後、如何なる振舞ひ候ふとも、重忠かかり申すべし。其の上、一期に一度の大事をこそと存じ候ひて、つねには訴訟を申さず候へ。是ばかりをば、御免渡らせ給へ」と申されければ、君の仰せには、「彼等が先祖の不忠、皆々存知の事、何とてか程に宣ふ。此の事適へぬ怠りに、武蔵の国二十四郡P154を奉らん」と仰せ下されしぞ、誠に忝くは覚えける。重忠承り、「御諚の趣、畏まり存ずれども、国を賜はり、彼等を誅せられては、世の聞こえ、重忠が恥辱にて候ふべし。某がもと参りて候ふ所領を参らせ上げ、彼等を助け候ひてこそ、人の思はくも候へ」と申されければ、君御返り事にも及ばざりけり。重忠、ゐだけだかに成りて、「恐れ多き申事にて候へ共、平治の乱に、義朝打たれ給ひき。其の御子として、清盛に取り込められ、既に御命あやしく渡らせ給ひしに、池殿申されしに依つて、助かり坐しましぬ。其の御喜びを思し召し寄り、彼等を御助け候へかし」。君御顔色変はり、事悪しく見えければ、暫く物も申されず。悪し様也、申し過ごしぬると存じて、只つつしんで有りける。やや暫く有りて、君如何思し召しけん、御扇をさつと開き、「げにげに重忠宣ふ如く、平家の一門、頼朝に情を懸け、助け置きて、頼朝に退治をせられぬ。其の如く、彼等を助け置きて、末代に頼朝滅ぼされぬと覚ゆる。然れば、彼等をば、一々に切りて、由比の浜にかくべし」と、あららかにこそ仰せけれ。重忠も、申しかかりたる事なれば、言葉も違はず、のび上がり、「さん候。滅びし平家の悪行、如何ばかりとか思し召す。仏法に恐れず、王法にも従はず、官を止め、職を奪ひ、子孫に伝はるP155と雖も、よこしまなる沙汰、天是を許さざるに依つて、自滅す。政道順義にして、政専ならば、末代までも、如何でか絶え候ふべき。只神慮に背かで、よこ様なる事さへ候はずは、位は転輪聖王とひとしかるべし」と申されければ、御寮聞こし召して、「忠を高く感じ、科を深く戒むる事、よこしまなるべきにや」「其の儀にては候はず、只御慈悲渡らせ給へとこそ候へ。御敵の末、不忠の至り、陳じ申すには及ばず。さりながら、幼く候へば、成人の程、御預け候へかし。忝くも、君の御恩に誇り、栄華にそなふる事、世の人にすぐれたり。然れば、重忠が訴訟、何事も適ふべしと、人々存ずる所に、御許され無くは、命いきても、無益也。御前にて、首を召され候へ。其れ適はずは、浅間菩薩も、御照覧候へ。重忠自害仕り候ふべし。もの其の身にては候はずとも、某御前にて失せぬと聞き候はば、自害とは申し候はじ。一門馳せ集まり、御不審の歎きを申し上げ候ふべし。しからば、今日の訴訟人、定めて同意有りぬべし。さあらんに取りては、諸国のわづらひとこそ存じ候へ」。君聞こし召し、「然様の儀に至りては、頼朝騒ぐべきにあらず、只天の照覧に身を任せ候ふべし」とて、御返事も無かりけり。P156
@〔臣下ちやうしが事〕S0309N056
重忠畏まつて、「恐れ存ずる次第にて候へども、昔、大国に太王有り、武勇の臣下を集めて、千人愛し、玉の冠、金の沓を与へて、召し使ふ。其の中の臣下に、ちやうしと言ふ賢人有り。大王是を召し、「此の仰せを保つて、七珍万宝、一つとして不足なる事無し。然るに、並びの国の市に、宝の数をうるなり。汝、彼の市に行きて、我が倉の内に、無からん宝をかひて来たるべし」とて、多くの宝を与へぬ。ちやうし、是を受け取り、彼の市に行きて見るに、王宮の宝に、一つとして漏れたる物無し。然れども、王宮、善根長く絶えて無かりけり。是をかひ取らんと思ひて、保つ所の財宝を、彼の国のひ人共を集めて、ことごとく施し、手を空しくして帰りぬ。大王問ひて曰く、「かひ取る所の珍宝如何に、見ん」と宣ふ。其の時、ちやうし答へて曰く、「王宮の宝蔵を見るに、金銀珠玉を始めとして、不足なる事無し。然れども、善根の無かりしかば、かひ取りぬ」と答ふ。大王、歓喜して、「其の善根見む」と宣ふ。ちやうしが曰く、「彼の国の貧者を集め、もつ所の宝をとらせぬ」と答ふ。大王、P157不思議に思ひしかども、賢人のはからふ事なりしかば、さてのみ過ごし給ふ。其の頃、国の兵起こりて、大王を傾く。合戦に打ち負けて、並びの国に移りぬ。其の時、千人の臣下、さしも愛せし恩を捨てて、一度に逃げ失せにけり。王一人に成りて、既に自害に及びける時、ちやうしが、暫く抑へて曰く、「待ち給へ。此の国の市にてかひ置きし善根、尋ねて見ん」とて行く。其の宝をえたりし貧人の中に、しはうと言ふ武勇の達者也。深き志を感じ、多くの兵を語らひ、此の王の為に、城郭をこしらへ、暫く引き籠りぬ。時有つて、運を開き、二度国に帰り給ふ。これ偏に、ちやうしがかひ置きし善根の故と、国王感じ給ふ。一人当千と言ふ事、此の時より始まりける。其の時、もと逃げ失せし千人の臣下、又出でて、「仕へん」と言ふ。大王聞き給ひて、「又事あらば、逃げぬべし。あたらしき臣下を召し使ふべし」と宣ふ。ちやうしいさめて、「始めたる臣下を、心知り難し。只もと逃げ失せし臣下を、召し使ひ給へ。人心有りて、二度の恩を忘れんや」と言ふ。大王、理を案じて、逃げ失せし臣下を、ことごとく尋ね出だして、召し使ふ。時に又、国大きに起こりて、王の都を傾く。帰り来たる所の臣下、二度の忘恩を恥ぢて、身を捨て、命を惜しまず、防ぎ戦ふ。然れば、勝つ事を千里の外にえ、位を永久に保ち給ふと申し伝へP158て候ふ。彼等も、然る者の子にて候へば、御恩を忘れ奉るべきにあらず。遂には、御用にこそたち申し候はんずれ」。君聞こし召し、「其れも、臣下尊きにあらず。ちやうしが賢に依つて也」「然らば、某をちやうしと思し召し、彼等を臣下になずらへて、御助け候はば、後の御せんどにもや、たち候ひなん。君君たる時は、臣礼を以てし、臣臣たる時は、君哀れみを残すとこそ、見えて候へ」。頼朝、「彼等、何の礼か有りし」。重忠承つて、「御助け候はば、如何でか、其の礼無かるべき。君御許し無くは、我々までも、果におごるべきにあらず。さあらんに取りては、あはざる訴訟なりとも、一度は、などや御免無からん」「理を破る法はあれども、法を破る理は無し。罪科と言ひ、法と言ひ、如何でか、彼等逃るべき」。重忠も、申しかかりたる事なれば、身をも命をも惜しまず、高声に成りて、申しけるは、「国を滅ぼすてんけんも、さんせは聞かずとこそ、承りて候へ。釈迦如来の昔、善恵仙人と申せし時、道を作り給ふ中間に、燃燈仏を通り給ふ。道悪しくして、わづらひ給ふ時に、仙人、泥の上に伏し給ひて、御髪をしき、仏を通し奉る。さつたい王子は、うゑたる虎に、身を与へ、尸毘大王は、鳩の量りに、身をかくる。是等皆、末代の衆生を思し召す、御慈悲の故ぞかし。就中、諸国を治め給ふ事、理非を正し、情を旨とし、哀れみP159を本とし給ふべきに、是程面々の申す、彼等を御助け無くては、人頼み少なく思ひ奉るべし。重忠が一期の大事と思し召し、助け置かれ候へかし」と、誠思ひ切りたる気色で、仏法世法、唐土天竺の事まで、引き掛け引き掛け、申されければ、君御思案有りて、「誠此の人は、内には五戒を守り、外には仁義を本とす、賢人ぞかし。此の重忠を失ひなば、神の恵みに背き、天下も穏やかなるまじ」と思し召しければ、「然らば、此の者共助け候へ。但し、御分一人には預けぬぞ。今日の訴訟人共に、ことごとく許す」と仰せ下されけり。御前祗候の侍共、思はずに、あつとぞ感じける。実にや、重忠、身にかへて申さるる一人には、御許しも無くて、「今日の訴訟人共に」と、仰せ下さるる有り難さよ。然れば、天下の主ともなり給ふと、重忠、感じ申されけるとかや。
@〔曾我へつれて帰り、喜びし事〕S0310N057
其の後、畠山の重忠、成清を呼び、「幼き人々の事、やうやうに申し預かり候ひぬ。はやはや御帰り候へ。曾我に、心許無く思ひ給ふべし。見参に入れたく候へ共、御前に候ふ間」と言ひ送りければ、曾我の太郎、是非をわきまへ兼ねて、只、P160「畏まり存ずる」とばかりぞ申しける。さて、二人の子供の馬を先にたて、曾我へ帰りける心の内、例へんかた無し。母が宿所には、是をば知らで、只泣くばかりなる所へ、人々、「帰り給ふ」と告げければ、母を始めて、喜ぶ事限り無し。一万が乳母、月さへと言ふ女房、庭上に走り向かひ、馬の口を取り、「君達の御帰り」と言はんとて、余りにあわてて、「馬達の帰り給ふぞや」と呼ばはりけり。兄弟の人々、「馬より下り、母が方に行きければ、一門馳せ集まり、喜びの見参、隙も無し。然れば、頼朝御憤り深く、御哀れみのあまねき事は、「めいてんの君は、時に蔽壅の累をなし、しゆんゑんの臣は、しばしばしんしの悲しみをいだく」とは、文選の言葉なるをや、今更思ひ知られたり。
P161曾我物語巻第四
@〔十郎元服の事〕S0401N058
光陰惜しむべし、時人を待たざる理、隙行く駒、つながぬ月日重なりて、一万は十三歳になりにける。身の不祥なるに、又、公方を憚る事なれば、秘かに元服して、継父の名を取り、曾我の十郎祐成と名乗りける。
@〔箱王、箱根へ上る事〕S0402N059
母、弟の箱王を呼び寄せて宣ひけるは、「わ殿は、箱根の別当のもとへ行き、法師に成り、学問して、親の後世弔へ。努々、男羨ましく思ふべからず。世を逃るる身なれば、綾羅錦繍の袖も、衣に同じ。十善帝王も、身を捨て、人に対するに、所無し。憂きもつらきも、世の中は、夢ぞと思ひ定むべし。伝へ聞くP162大目連せしは、母の教へ給ひし御言葉を、耳の底に保ち給ひてこそ、五百大阿羅漢には越え給ひし。構へて法師と成りて、父の跡をも、童が後生をも助け給へ」と申されければ、箱王、身に思ふ事有ると思ひけれども、「承り候ふ」とぞ言ひける。母喜びて、生年十一歳より、箱根に上せ、年月を送りける程に、箱王、十三にぞ成りにける。十二月下旬の頃、彼の坊の稚児・同宿、二十余人有りける者共の末まで、親・親しき方より、面々に音信共有りけるに、「下れ」と書きたる文も有り、或いは元三の装束に、師の御坊への贈り物添へたる文も有り、或いは父の文、母の文、伯父・伯母の文などとて、二つ三つよむ稚児も有り、五つ六つよむ稚児も有りける中に、箱王は、只母の文ばかりに、からがら装束添へて送りける。万羨ましくて、文袂に入れ、傍に行き、泣きしをれて、或る稚児にあひて言ひけるは、「人は皆、父母の文、親しき方の御文とて、読み給ふに、我は只、母の御文ばかりにて、父とやらんの御文は知らず。何とかかれたる物ぞや。見せ給へ。十郎殿と二宮殿は、何とやらん、此の程は、かき絶え問ひ給はず。曾我殿は坐しませども、一度のことづてにも預からず、一月に一度也とも、父の御文とて、「学問よくせよ、不用するな」なんどと言はれ奉らば、如何ばかりか、嬉しく恐ろしくも有りなまし。いつよりも恨めしきは、年の暮れ、P163恋しく見たき物は、父の御文なり」とて、さめざめとぞ泣きける、心無き稚児も、理とや思ひけん、共に涙を流しけり。然れば、箱王は、あらたま年の祝言をも忘れ、あたらしき春の朝拝をも、物ならず思ひ焦がれて、昼夜は、権現に参り、「南無帰命頂礼、願はくは、父の敵を打たしめ給へ」と、歩みを運びけるぞ、無慙なる。
@〔鎌倉殿、箱根御参詣の事〕S0403N060
御感応にや、同じき正月十五日に、鎌倉殿、二所御参詣とぞ聞こえける。箱王、是を聞き、年来の祈りの功積もり、神慮の御哀れみにしかじとぞ、喜びける。実にや、「九層の台は、累土より起こり、千里の行は、一歩より始まる」と言ふ老子の教へも、功は積もりて、遂に事をなす物をと、頼もしくぞ思ひける。工藤祐経は、切り者にて有るなれば、定めて御供には参り候はんを、見知らん事よと喜び、其の日を待ちし心の内、只千年を送るばかりなり。伝へ聞く、北洲の命も、千年の限りを保つなり。其れも限りあればにや、つながぬ日数重なりて、其の折節にもなりにけり。御供の人々には、和田、畠山、川越、高坂、江戸、P164豊島玉井、小山、宇都宮、山名、里見の人々を始めとして、以下三百五十余騎、花ををり、紅葉を重ね、装束共、綺羅天をかかやかし、陣頭に雲をおほひ、水干、浄衣、白直垂、布衣、権勢あたりを払ひ、行粧目を驚かす。凡そ、中間・雑色に至るまで、気色に色をつくす。後陣の警固の武士、甲冑をよろひ、弓箭を帯する隨兵、上下につがひ、左右の帯刀、二行に並び、御調度懸の人、左手、右手に相並ぶ。御向かへの伶人は、伎楽を調へ、羅綾の袂を翻す。御前の舞人は、■婁を打つて、舞行の踵をそばだつ。君の召さるる御船は、大船数多組み合はせ、幔幕を引き、沈のにほひ、四方にみつ。是や、諸仏の弘誓の船も、かくやと思ひ知られたり。侍共の乗りける船数、百艘に及べり。いづれも、屋形を打ちたりける。無双の武具を立て並べ、鎮まり返り、漕ぎつれたり。上代は知らず、末代斯かる見物あらじと、貴賎群集をぞなしける。大衆、稚児達を引きつれ、船付きまで、御向かひに参る。船より社頭までは、四方輿にぞ召されける。神前には、禰宜・神主、幣帛を大床に捧げ、別当・社僧は、経の紐を玉の甍にとき、神楽男は、銅拍子を合はせて、拝殿に祗候す。しかのみならず、臨時の陪従、当座の神楽、朝倉がへしのうたひものは、拍子の甲乙をしらべて、れいはんしよさいの儀を返りまうす。神感の起こるを厳重にして、掲焉も莫大なり。耳目の及ぶ所、こくちんP165にいとまあらず。高察仰ぐのみにぞ覚えける。
@〔箱王、祐経にあひし事〕S0404N061
箱王は、御奉幣の時までも、人一人もつれず、介錯の僧一人相具し、御座所の後ろに隠れ居て、御供の人々を、「彼は誰そ、是は如何に」と、詳しく問ひければ、此の僧、鎌倉の案内者にて、大名・小名のこさい知りたれば、教へけり。され共、未だ祐経をばあかさず。哀れ、問はばやと思へども、あやしく思はれじとて、残りの人を問ひまはす。「君の左の一座は誰そ」「彼こそ、秩父の重忠よ」「右の一座は如何に」「是ぞ、三浦の義盛よ」「さて、其の次は誰人ぞ」「里見の源太と言ふ人よ」「さて、其の次は」「豊島の冠者と言ふ人なれ」「只今、もの仰せらるるは、誰やらん」「是こそ、当時聞こゆる梶原平三景時とて、侍共の、鬼うらめに思ふ者よ」「又、右手の方に、少し引きのきて、半装束の数珠持ちて、香の直垂きたるは、如何なる人にて有るやらん」「彼こそ、御分達の一門、今伊東の主、工藤左衛門祐経よ。御分の父河津殿とは、従兄弟也。御前然らぬ切り者」とぞ教へける。さては、其れにて有りけるよ。此の事思ひ寄りて、言ふやらん、知りぬれP166ども、何事かあらんと、思ひこなして、言ふやらんと、いつしか胸打ち騒ぎ、思ひ寄らざる様にて、「此の者は、よき男にて有りけるや。三十二三にぞ成るらん。自らが父にや似たる」と問ふ。「少しもに給はず。まさしき兄弟さへ、似たるは少なし。まして、従兄弟に似たる者は無し。年こそ、河津殿の打たれ給ひし程なれ、其の坐しまさば、四十余りの人なるべし。是より遙かに丈高く、骨太くして、前より見れば、胸そり、後ろより見れば、うつぶき、側より見れば、四角なる大男にて坐しませしが、馬の上、かちだち、並ぶ人無し。殊に鹿の上手にて、力の強き事、四五か国には、並ぶ人無き大力なり。然れば、相模の国の住人大庭の三郎が弟、又野の五郎景久とて、相撲に負けざる大力を、伊豆の奥野の狩場にて、片手をはなちて、相撲に三番勝ちてこそ、いとど名を上げ給ひしか。其れを最後にて、帰り様に、敢へ無く打たれ給ひき。大力と申せ共、死の道には、力及ばず」とぞ語りける。箱王は、父が昔をつくづくと聞きて、今更なる心地して、忍びの涙にむせびけり。やや有りて、我、此の間祈りし願ひの、適ふにこそ有るべし。窺ひ寄りて、便宜よくは、一刀差し、如何にもならんと思ひ定めて、「御坊は、是に坐しませ。法師こそよらね、童は近くよりても、苦しからず。山寺にすめばとて、人を見知らぬはむげ也。近くよりて、見知らん」とて、赤地のP167錦にて、柄鞘まきたる守り刀を、脇に差し隠し、大衆の中をぬけ出でて、祐経が後ろ近くぞ、狙ひ寄りける。祐経も、しばしの冥加や有りけん、梶原三郎兵衛を隔てて、箱王を見付けて、是なる童の眼ざし、河津の三郎に似たる者かな、誠や、此の御山に、伊東が孫の有りと聞けば、もし是にてもや有るらんと、目をはなさず、守りければ、左右無くよらざりけり。祐経、猶よくよく見れば、眼の見返し、顔魂、少しも違ふ所無し。祐経は、念誦はてて後、大衆の中へ立ち入りて、「伊東の入道が孫、此の御山に候ふと聞く。何処の坊に候ふぞや。名をば何と申すぞ」と問ひければ、或る僧申す様、「御名をば、箱王殿と申して、別当の坊に坐しまし候ふ」「此の頃は、里に候ふか、是に候ふか」と問ひければ、「是にこそ」とて、東西を見めぐらし、「長絹の直垂に、松に藤をぬひて、萌黄の糸にて、菊綴して、此方向きにたち給ふこそ」と教へければ、然ればこそと思ひ、本座に帰り、箱王を招きければ、願ふ所と喜びて、祐経が膝近く添ひ寄りける。左の手にて、箱王が肩を抑へ、右の手にては、髪をかきなでて、「あつぱれ、父にに給ふ物かな。今まで見奉らざる事の本意無さよ。わ殿は河津殿の子息と聞くは、誠か。兄は男になり給ふか。曾我の太郎は、いとほしくあたり奉るか。知らざる者の、なれなれしく、斯様に申すとばし思ひ給ふな。御分の父河津殿とは、従兄弟子なり。P168殿原にも、親しき者とては、祐経ばかり也。見奉れば、昔の思ひ出でられて、今更哀れに存ずるぞ。急ぎ法師に成り、別当に継ぎ給へ。弟子多しと言ふとも、祐経程の方人持ちたる人あらじ。便宜を以て、上様へも、よき様に申し、寺門の訴訟あらば、申し達すべし。今より後は、如何なる大事なり共、心を置かず、仰せられよ。適へ奉るべし。わ殿の兄にも、斯様に申すと伝へ給へ。父にも添はで、如何に頼り無く坐しますらん。行縢、乗馬などの用の時は、承るべし。身貧にして、他人に交はらんより、親しければ、つねに問ひ給へ。誠や、古き言葉に、「尊きは賎しきがそねみ、智者をば愚人がにくむ。さいちよは千歳に絶えず、むくわひは千劫絶えず」と申し伝へたり。さても、見参の始めに、折節、引出物こそ無けれ、又空しからんも、無念なり。是を」とて、懐より赤木の柄に胴金入れたる刀一腰取り出だし、箱王にこそとらせけれ。何と無く受け取れ共、箱王は、涙にむせびけり。便宜よくは、一刀差さんと思へども、目をはなさず、其の上、大の男、つねに刀に手を置きければ、なましひなる事をし出だし、小腕取られて、人に笑はれじと、思ひ止まりぬ。只言ふ事とては、「さん候」とばかり也。「卒爾の見参こそ、所存の外なれ。さりながら、喜び入りて存じ候ふ。里下りのついでには、わ殿の兄十郎殿と打ちつれて、来たり候へ、P169返す返す」と言ひて、立ちにけり。箱王、力に及ばず、止まりぬ。日暮れければ、もしやと便宜を窺ひけれども、宵の程は、御前に祗候しをれば、夜ふけて、罷り出づる所を伺ひけれども、庭上に、兵いらかをなす。火は天の眼の様なれば、返りて、我が身を隠さんと立ち忍ぶ声、人までの事は、思ひもよらず。左衛門の尉が宿坊と御前との間なる石橋の辺に、徘徊し待ちけれども、鰭板の陰に、郎等共立ちかこみ、前後左右に有りければ、其れも適はで、暁に及ぶまで、心をつくし狙へども、少しの隙無ければ、徒らに夜をあかす、心の内ぞ、無慙なる。次の日は、君の御下向の船に召され、滄海を渡り給ふ。箱王は、船出まで、人目がくれに交はりて、敵の後ろを見送れば、侍共、思ひ思ひの屋形船にて、御共申す。箱王は、左衛門が船の内のみ見送りて、泣くより外の事ぞ無き。彼の松浦佐用姫が、雲井の船を見送りて、石となりけん昔、思ひ遣られて、空しく坊に帰りけり。其の後、いよいよ此の事のみ心にかかりて、一字も忘れじと思ふ経文をも打ち捨てて、昼夜権現に参り、「今度こそ、空しく候ふとも、遂には、我が手に掛け給へ」と、祈り申すぞ、哀れなる。P170
@〔眉間尺が事〕S0405N062
此の心にて、古きを思へば、昔、大国に、楚しやう大王有り。后数多持ち給ふ中に、とうやう夫人と申す后、御身つねづね劣りければ、鉄の柱にむつれつつ、御身をひやしけるが、程無く、懐妊し給ひける。大王聞き給へて、位をゆずるべき王子も無かりつるに、誕生成り給はん事よと、喜び給ひけれども、三年まで、生まれ給はず。大王、不思議に思し召し、博士を召し、御尋ね有りければ、「誠に、君の御宝をうみ給ふべし。さりながら、人にては有るべからず」と申す。「何物なるべき」と、覚束無くて待ち給ふ所に、博士の申す如く、人にてはあらで、鉄のまるかせをうみ給ひけり。大王是を取り、莫邪を召し、剣に作らせ給ひければ、光世に越え、験あらたなる名剣にて有りける。大王賞玩し、昼夜身をはなし給ふ事無し。然るに、此の剣、つねに汗をぞかきける。不思議なりとて、又博士を召し、うらなはせ給ふ。勘文にて、申し上げけるは、「過ぎにし金は、雌剣・雄剣とて、剣二つ作り、是夫婦なり。雄剣ばかり参らせて、雌剣を隠す故に、妻をこひて、汗をかき候ふ。是を召し、添へて置かるべし」と奏聞申しければ、即ち、其の鍛冶を召されける。鍛冶、家を出づるとて、妻女にあひて申しけるP171は、「我隠し置きたる剣、尋ね給ふべきにぞ、召さるらん。取り出だすまじければ、定めて攻め殺されなんず。彼の剣は、南山の其処許にうづみ置きたる。我が三歳の男、成人の後、ほり出だしてとらせよ」と言ひ置きて、王宮へ参りぬ。陳じ申しければ、拷問の後、遂に攻め殺されにけり。さて、鍛冶が子、二十一歳にして、母の教へに従ひ、彼の剣ほり出だして持ちけり。然れども、王威を恐れて、里へは出でず、山に隠れ居たりける。或る時、君王の夢に、眉の間一尺有る者来たり、我を殺すべし、其の名を眉間尺と言ふと見えたり。王、此の夢に恐れて、「斯様の者あらば、搦めても参らせよ」と、国々に宣旨を下さる。「勲功は、こふによるべし」とぞ聞こえし。此処に、伯仲と言ふ者、眉間尺がもとに行き、「汝が首、多くの功に仰せられたり。然るに、汝が為に、君王は、まさしき親の敵ぞかし。さぞ、打ちたくぞ思ふらん。我が為にも、又重き敵なり。己が首を切りて、我にかせ。件の剣、共に持ちて行き、大王に近付き、打たん事安かるべし。然れば、御分が首をかりて、本意をとぐるにおきては、我とても、遅速の命、王の為に失ひなん」と言ひければ、眉間尺聞きて、「父の敵、打たんにおきては、我が命、何か惜しかるべき。構へて」と言ひて、自ら首をかき落として、出だしけり。然れども、件の剣の先をくひ切りて、口にふくみP172て、持ちたりけり。伯仲は、剣に取り添へ、王宮に捧ぐ。大臣に見せられければ、夢に違はず、眉の間一尺有る首。又、剣も、我が持ちたる剣に、露も違はず」とて、君王喜び給ふ事限り無し。然れども、此の首の勢、未だつきず、眼を見開きたり。大王、いよいよ恐れ給ひて、「然らば、釜に湯を沸かしてによ」とて、大きなる釜に此の首を入れて、三七日ぞ、にたりける。然れ共、猶眼をふさがず、あざ笑ひて有りければ、其の時、伯仲申す様、「是は大王の御敵なれば、王を見奉らんとの執情に依り、勢残り覚え候ふ。何かは苦しく候ふべき。一目見えさせ給ひて、彼が念をもはらさせ給へかし」と申したりければ、君王聞こし召し、「然らば」とて、端近く出でさせ給ひて、釜の辺に近付き給ふ。其の時、眉間尺が首を見せ申す時に、彼の首、口にふくみ置きし剣の先を、王にふき掛けければ、即ち、大王に飛び付き、首を打ち落とす。伯仲走り寄り、大王の首を取り、眉間尺がにらるる釜の中へ打ち入れたり。王の首も、勢劣らで、眉間尺が首とくひ合ひけり。其の時、伯仲、山にて約束せし事なれば、「我も、大王に野心深し。此の為ぞかし」と言ひもはてず、我が首をかき切り、釜の中へ投げ入れたり。此の三つの首、釜の中にて、一日一夜ぞ、くひ合ひける。遂には、王の首、負けにけり。其の後、二つの首も、威勢衰へにけり。執心の程ぞ、恐ろしき。さて、P173此の三つの首を、三つの塚につき込めて、三王塚とて、今に有りとぞ伝へける。今の箱王も、未だ幼き者なれども、親の敵に心を染め、昼夜忘れぬ志、是にも劣らじとぞ見えける。是や、文選の言葉に、「流れ長じては、即ちつき難く、願ひ深くしては、即ちくち難し」と見えたり。然れば、此の人々の成長の末、おにとほめざるは無かりけり。
@〔箱王、曾我へ下りし事〕S0406N063
然る程に、年月過ぎ行きければ、十七にぞなりける。或る時、別当、箱王を近付けて、「御分は、はや十七になり給へば、上洛し、受戒をし給ふべしなれば、垂髪にて上り給はば、ものくきよらで適ふまじ。其れ又、大事なり。是にて、髪を下ろして、上るべし」と宣ひければ、身に思ひの有る物をと思ひながら、「御はからひ」とぞ申されける。「然らば」とて、大衆にふれ、出家の用意有り。母の方へも、言ひ下しけり。既に明旦とぞ定まりける。箱王、つくづくと思ひけるは、我法師になりたりとも、折節に付けて、此の事思ひ思はば、罪深かるべし、一向に思ひ切り、男に成りて、本意をとぐべし、其のみぎりに成りては、後悔すとも、P174適ふまじ、此の事を、十郎殿と言ひ合はせて、とにもかくにも定めんと案じ、人にも知らせずして、只一人夜にまぎれて、曾我の里へぞ下りける。「山月東に、前途を差して、しかも思ひを労ず、辺雲秋すずしくして、こうくわを同じくして、しかも魂をけす」と言ふ、藤原の篤茂が餞別の詩、今更思ひ出でられて、曾我の里にぞつきにける。十郎が乳母の家に立ち入りて、十郎を呼び出だし、対面しければ、「如何にして坐しますぞや。明日は、一定出家の由、聞きつる間、上りて見奉らんと存ずる所に、下り給ふ嬉しさよ」と言ひければ、箱王聞きて、「のびのびの御心なるべしと思ひつるに、少しも違はず。斯様の事、きはきはと、予てより御定め候へか