葉 撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり ヴエルレエヌ 死なうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらつた。お年玉としてである。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられてゐた。これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思つた。 ノラもまた考へた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考へた。帰らうかしら。 私がわるいことをしないで帰つたら、妻は笑顔をもつて迎へた。 その日その日を引きずられて暮してゐるだけであつた。下宿屋で、たつた独りして酒を飲み、独りで酔ひ、さうしてこそこそ蒲団を延べて寝る夜はことにつらかつた。夢をさへ見なかつた。疲れ切つてゐた。何をするにも物憂かつた。「汲み取り便所は如何に改善すべきか?」といふ書物を買つて来て本気に研究したこともあつた。彼はその当時、従来の人糞の処置には可成まゐつてゐた。 新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊がのろのろ這つて歩いてゐるのを見たのだ。石が這つて歩いてゐるな。たださう思うてゐた。しかし、その石塊は彼のまへを歩いてゐる薄汚い子供が、糸で結んで引摺つてゐるのだといふことが直ぐに判つた。 子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄が淋しかつたのだ。 そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦ひ、さうして死んで行くといふことになるんだな、と思へばおのが身がいぢらしくもあつた。青い稲田が一時にぽつと霞んだ。泣いたのだ。彼は狼狽へだした。こんな安価な殉情的な事柄に涙を流したのが少し恥かしかつたのだ。 電車から降りるとき兄は笑うた。 「莫迦にしよげてるな。おい、元気を出せよ。」 さうして龍の小さな肩を扇子でポンと叩いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白つぽかつた。龍は頬のあからむほど嬉しくなつた。兄に肩をたたいて貰つたのが有難かつたのだ。いつもせめて、これぐらゐにでも打ち解けて呉れるといいが、と果敢なくも願ふのだつた。 訪ねる人は不在であつた。 兄はかう言つた。「小説を、くだらないとは思はぬ。おれには、ただ少しまだるつこいだけである。たつた一行の真実を言ひたいばかりに百頁の雰囲気をこしらへてゐる。」私は言ひ憎さうに、考へ考へしながら答へた。「ほんたうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば。」 また兄は、自殺をいい気なものとして嫌つた。けれども私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考へてゐた矢先であつたから、兄のこの言葉を意外に感じた。 白状し給へ。え? 誰の真似なの? 水到りて渠成る。 彼は十九歳の冬、「哀蚊」といふ短編を書いた。それは、よい作品であつた。同時に、それは彼の生涯の渾沌を解くだいじな鍵となつた。形式には、「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであつた。原文のまま。 をかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがつて間もなくのことでございますから、どうで幻燈のやうにとろんと霞んでゐるに違ひございませぬ。いいえ、でも、その青蚊帳に写した幻燈のやうな、ぼやけた思ひ出が奇妙にも私には年一年と愈々はつきりして参るやうな気がするのでございます。 なんでも姉様がお婿をとつて、あ、ちやうどその晩のことでございます。御祝言の晩のことでございました。芸者衆がたくさん私の家に来て居りまして、ひとりのお綺麗な半玉さんに紋附の綻びを縫つて貰つたりしましたのを覚えて居りますし、父様が離座敷の真暗な廊下で背のお高い芸者衆とお相撲をお取りになつていらつしやつたのもあの晩のことでございました。父様はその翌年お歿くなりになられ、今では私の家の客間の壁の大きな御写真のなかに、おはひりになつて居られるのでございますが、私はこの御写真を見るたびごとに、あの晩のお相撲のことを必ず思ひ出すのでございます。私の父様は、弱い人をいぢめるやうなことは決してなさらないお方でございましたから、あのお相撲も、きつと芸者衆が何かひどくいけないことをなしたので父様はそれをお懲しめになつていらつしやつたのでございませう。 それやこれやと思ひ合せて見ますと、確かにあれは御祝言の晩に違ひございませぬ。ほんたうに申し訳がございませぬけれど、なにもかも、まるで、青蚊帳の幻燈のやうな、そのやうな有様でございますから、どうで御満足の行かれますやうお話ができかねるのでございます。てもなく夢物語、いいえ、でも、あの晩に哀蚊の話を聞かせて下さつたときの婆様の御めめと、それから、幽霊、とだけは、あれだけは、どなたがなんと仰言つたとて決して決して夢ではございませぬ。夢だなぞとおろかなこと、もうこれ、こんなにまざまざ眼先に浮んで参つたではございませんか。あの婆様の御めめと、それから。 さやうでございます。私の婆様ほどお美しい婆様もそんなにあるものではございませぬ。昨年の夏お歿くなりになられましたけれど、その御死顔と言つたら、すごいほど美しいとはあれでございませう。白蝋の御両頬には、あの夏木立の影も映らむばかりでございま した。そんなにお美しくていらつしやるのに、縁遠くて、一生鉄漿をお附けせずにお暮しなさつたのでございます。 「わしといふ万年白歯を餌にして、この百万の身代ができたのぢやぞえ。」 富本でこなれた渋い声で御生前よくかう言ひ言ひして居られましたから、いづれこれには面白い因縁でもあるのでございませう。どんな因縁なのだらうなどと野暮なお探りはお止しなさいませ。婆様がお泣きなさるでございませう。と申しますのは、私の婆様は、それはそれは粋なお方で、つひに一度も縮緬の縫紋の御羽織をお離しになつたことがございませんでした。お師匠をお部屋へお呼びなされて富本のお稽古をお始めになられたのも、よほど昔からのことでございましたでせう。私なぞも物心地が附いてからは、日がな一日、婆様の老松やら浅間やらの咽び泣くやうな哀調のなかにうつとりしてゐるときがままございました程で、世間様から隠居芸者とはやされ、婆様御自身もそれをお耳にしては美しくお笑ひになつて居られたやうでございました。いかなることか、私は幼いときからこの婆様が大好きで、乳母から離れるとすぐ婆様の御懐に飛び込んでしまつたのでございます。もつとも私の母様は御病身でございました故、子供には余り構うて呉れなかつたのでございます。父様も母様も婆様のほんたうの御子ではございませぬから、婆様はあまり母様のはうへお遊びに参りませず四六時中、離座敷のお部屋にばかりいらつしやいますので、私も婆様のお傍にくつついて三日も四日も母様のお顔を見ないことは珍らしうございませんでした。それゆゑ婆様も、私の姉様なぞよりずつと私のはうを可愛がつて下さいまして、毎晩のやうに草双紙を読んで聞かせて下さつたのでございます。なかにも、あれあの八百屋お七の物語を聞いたときの感激は私は今でもしみじみ味ふことができるのでございます。そしてまた、婆様がおたはむれに私を「吉三」「吉三」とお呼びになつて下さつた折のその嬉しさ。らむぷの黄色い燈火の下でしよんぼり草双紙をお読みになつていらつしやる婆様のお美しい御姿、左様、私はことごとくよく覚えてゐるのでございます。 とりわけあの晩の哀蚊の御寝物語は、不思議と私には忘れることができないのでございます。さう言へばあれは確かに秋でございました。 「秋まで生き残されてゐる蚊を哀蚊と言ふのぢや。蚊燻しは焚かぬもの。不憫の故にな。」 ああ、一言一句そのまんま私は記憶して居ります。婆様は寝ながら滅入るやうな口調でさう語られ、さうさう、婆様は私を抱いてお寝になられるときには、きまつて私の両足を婆様のお脚のあひだに挟んで、温めて下さつたものでございます。或る寒い晩なぞ、婆様は私の寝巻をみんなお剥ぎとりになつておしまひになり、婆様御自身も輝くほどお綺麗な御素肌をおむきだし下さつて、私を抱いてお寝になりお温めなされてくれたこともございました。それほど婆様は私を大切にしていらつしやつたのでございます。 「なんの。哀蚊はわしぢやがな。はかない……」 仰言りながら私の顔をつくづくと見まもりましたけれど、あんなにお美しい御めめもないものでございます。母屋の御祝言の騒ぎも、もうひつそり静かになつてゐたやうでございましたし、なんでも真夜中ちかくでございましたでせう。秋風がさらさらと雨戸を撫でて、軒の風鈴がその度毎に弱弱しく鳴つて居りましたのも幽かに思ひだすことができるのでございます。ええ、幽霊を見たのはその夜のことでございます。ふつと眼をさましまして、おしつこ、と私は申しましたのでございます。婆様の御返事がございませんでしたので、寝ぼけながらあたりを見回しましたけれど、婆様はいらつしやらなかつたのでございます。心細く感じながらも、ひとりでそつと床から脱け出しまして、てらてら黒光りのする欅普請の長い廊下をこはごはお厠のはうへ、足の裏だけは、いやに冷や冷やして居りましたけれど、なにさま眠くつて、まるで深い霧のなかをゆらりゆらり泳いでゐるやうな気持ち、そのときです。幽霊を見たのでございます。長い長い廊下の片隅に、白くしよんぼり蹲くまつて、かなり遠くから見たのでございますから、ふゐるむのやうに小さく、けれども確かに、確かに、姉様と今晩の御婿様とがお寝になつて居られるお部屋を覗いてゐるのでございます。幽霊、いいえ、夢ではございませぬ。 芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。 花きちがひの大工がゐる。邪魔だ。 それから、まち子は眼を伏せてこんなことを囁いた。 「あの花の名を知つてゐる? 指をふれればぱちんとわれて、きたない汁をはじきだし、みるみる指を腐らせる、あの花の名が判つたらねえ。」 僕はせせら笑ひ、ズボンのポケツトヘ両手をつつ込んでから答へた。 「こんな樹の名を知つてゐる?その葉は散るまで青いのだ。葉の裏だけがぢりぢり枯れて虫に食はれてゐるのだが、それをこつそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さへ判つたらねえ。」 「死ぬ? 死ぬのか君は?」 ほんたうに死ぬかも知れないと小早川は思つた。去年の秋だつたかしら、なんでも青井の家に小作争議が起つたりしていろいろのごたごたが青井の一身上に振りかかつたらしいけれど、そのときも彼は薬品の自殺を企て三日も昏睡し続けたことさへあつたのだ。またついせんだつても、僕がこんなに放蕩をやめないのもつまりは僕の身体がまだ放蕩に堪へ得るからであらう。去勢されたやうな男にでもなれば僕は始めて一切の感覚的快楽をさけて、闘争への財政的扶助に専心できるのだ、と考へて、三日ばかり続けてP市の病院に通ひ、その伝染病舎の傍の泥溝の水を掬つて飲んだものださうだ。けれどもちよつと下痢をしただけで失敗さ、とそのことを後で青井が頬あからめて話すのを聞き、小早川は、そのインテリ臭い遊戯をこのうへなく不愉快に感じたが、しかし、それほどまでに思ひつめた青井の心が、少からず彼の胸を打つたのも事実であつた。 「死ねば一番いいのだ。いや、僕だけぢやない。少くとも社会の進歩にマイナスの働きをなしてゐる奴等は全部、死ねばいいのだ。それとも君、マイナスの者でもなんでも人はすべて死んではならぬといふ科学的な何か理由があるのかね。」 「ば、ばかな。」 小早川には青井の言ふことが急にばからしくなつて来た。 「笑つてはいけない。だつて君、さうぢやないか。祖先を祭るために生きてゐなければならないとか、人類の文化を完成させなければならないとか、そんなたいへんな倫理的な義務としてしか僕たちは今まで教へられてゐないのだ。なんの科学的な説明も与へられてゐないのだ。そんなら僕たちマイナスの人間は皆、死んだはうがいいのだ。死ぬとゼロだよ。」 「馬鹿! 何を言つてゐやがる。どだい、君、虫が好すぎるぞ。それは成る程、君も僕もぜんぜん生産にあづかつてゐない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はしてゐないと思ふのだ。君はいつたい、無産階級の解放を望んでゐるのか。無産階級の大勝利を信じてゐるのか。程度の差はあるけれども、僕たちはブルジヨアジイに寄生してゐる。それは確かだ。だがそれはブルジヨアジイを支持してゐるのとはぜんぜん意味が違ふのだ。一のプロレタリアアトヘの貢献と、九のブルジヨアジイヘの貢献と君は言つたが、何を指してブルジヨアジイヘの貢献と言ふのだろう。わざわざ資本家の懐を肥してやる点では、僕たちだつてプロレタリアアトだつて同じことなんだ。資本主義的経済社会に住んでゐることが裏切りなら、闘士にはどんな仙人がなるのだ。そんな言葉こそウルトラといふものだ。小児病といふものだ。一のプロレタリアアトヘの貢献、それで沢山。その一が尊いのだ。その一だけの為に僕たちは頑張つて生きてゐなければならないのだ。さうしてそれが立派にプラスの生活だ。死ぬなんて馬鹿だ。死ぬなんて馬鹿だ。」 生れてはじめて算術の教科書を手にした。小型の、まつくろい表紙。ああ、なかの数字の羅列がどんなに美しく眼にしみたことか。少年は、しばらくそれをいぢくつてゐたが、やがて、巻末のペエジにすべての解答が記されてゐるのを発見した。少年は眉をひそめて呟いたのである。「無礼だなあ。」 外はみぞれ、何を笑ふやレニン像。 叔母の言ふ。 「お前はきりやうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい。」 知つてゐながらその告白を強ひる。なんといふいんけんな刑罰であらう。 満月の宵。光つては崩れ、うねつては崩れ、逆巻き、のた打つ波のなかで互ひに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切つたとき女は忽ち波に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかつた。 われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ。 「よもやそんなことはあるまい、あるまいけれど、な、わしの銅像をたてるとき、右の足を半歩だけ前へだし、ゆつたりとそりみにして、左の手はチヨツキの中へ、右の手は書き損じの原稿をにぎりつぶし、さうして首をつけぬこと。いやいや、なんの意味もない。雀の糞を鼻のあたまに浴びるなど、わしはいやなのだ。さうして台石には、かう刻んでおくれ。ここに男がゐる。生れて、死んだ。一生を、書き損じの原稿を破ることに使つた。」 メフイストフエレスは雪のやうに降りしきる薔薇の花弁に胸を頬を掌を焼きこがされて往生したと書かれてある。 留置場で五六日を過して、或る日の真昼、俺はその留置場の窓から背のびして外を覗くと、中庭は小春の日ざしを一杯に受けて、窓ちかくの三本の梨の木はいづれもほつほつと花をひらき、そのしたで巡査が二三十人して教練をやらされてゐた。わかい巡査部長の号令に従つて、皆はいつせいに腰から捕縄を出したり、呼笛を吹きならしたりするのであつた。俺はその風景を眺め、巡査ひとりひとりの家について考へた。 私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゆうくつくつと笑つてゐた。宿の女中の髪のかたちが奇妙であるから笑ふのだと母は弁明した。嬉しかつたのであらう。無学の母は、私たちを炉ばたに呼びよせ、教訓した。お前は十六魂だから、と言ひかけて、自信を失つたのであらう、もつと無学の花嫁の顔を覗き、のう、さうでせんか、と同意を求めた。母の言葉は、あたつてゐたのに。 妻の教育に、まる三年を費やした。教育、成つたころより、彼は死なうと思ひはじめた。 病む妻や とどこほる雲 鬼すすき。 赤え赤え煙こあ、もくらもくらと蛇体みたいに天さのぼつての、ふくれた、ゆららと流れた、のつそらと大浪うつた、ぐるつぐるつと渦まえた、間もなくし、火の手あ、ののののと荒けなくなり、地ひびきたてたて山ばのぼり始めたずおん。山あ、てつぺらまで、まんどろに明るくなつたずおん。どうどうと燃えあがる千本万本の冬木立ば縫ひ、人を乗せたまつくろい馬こあ、風みたいに馳せてゐたずおん。(ふるさとの言葉で。) たつた一言知らせて呉れ! "Nevermore" 空の蒼く晴れた日ならば、ねこはどこからかやつて来て、庭の山茶花のしたで居眠りしてゐる。洋画をかいてゐる友人は、ペルシヤでないか、と私に聞いた。私は、すてねこだらう、と答へて置いた。ねこは誰にもなつかなかつた。ある日、私が朝食の鰯を焼いてゐたら、庭のねこがものうげに泣いた。私も縁側へでて、にやあ、と言つた。ねこは起きあがり、静かに私のはうへ歩いて来た。私は鰯を一尾なげてやつた。ねこは逃げ腰をつかひながらもたべたのだ。私の胸は波うつた。わが恋は容れられたり。ねこの白い毛を撫でたく思ひ、庭へおりた。背中の毛にふれるや、ねこは、私の小指の腹を骨までかりりと噛み裂いた。 役者になりたい。 むかしの日本橋は、長さが三十七間四尺五寸あつたのであるが、いまは二十七間しかない。それだけ川幅がせまくなつたものと思はねばいけない。このやうに昔は、川と言はず人間と言はず、いまよりはるかに大きかつたのである。 この橋は、おほむかしの慶長七年に始めて架けられて、そののち十たびばかり作り変へられ、今のは明治四十四年に落成したものである。大正十二年の震災のときは、橋のらんかんに飾られてある青銅の龍の翼が、焔に包まれてまつかに焼けた。 私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六では、ここが振りだしになつてゐて、幾人ものやつこのそれぞれ長い槍を持つてこの橋のうへを歩いてゐる画が、のどかにかかれてあつた。もとはこんなぐあひに繁華であつたのであらうが、いまは、たいへんさびれてしまつた。魚河岸が築地へうつつてからは、いつそう名前もすたれて、げんざいは、たいていの東京名所絵葉書から取除かれてゐる。 ことし、十二月下旬の或る霧のふかい夜に、この橋のたもとで異人の女の子がたくさんの乞食の群からひとり離れて佇んでゐた。花を売つてゐたのは此の女の子である。 三日ほどまへから、黄昏どきになると一束の花を持つてここへ電車でやつて来て、東京市の丸い紋章にじやれついてゐる青銅の唐獅子の下で、三四時間ぐらゐ黙つて立つてゐるのである。 日本のひとは、おちぶれた異人を見ると、きつと白系の露西亜人にきめてしまふ憎い習性を持つてゐる。いま、この濃霧のなかで手袋のやぶれを気にしながら花束を持つて立つてゐる小さい子供を見ても、おほかたの日本のひとは、ああロシヤがゐる、と楽な気持で呟くにちがひない。しかも、チエホフを読んだことのある青年ならば、父は退職の陸軍二等大尉、母は傲慢な貴族、とうつとりと独断しながら、すこし歩をゆるめるであらう。また、ドストエーフスキイを覗きはじめた学生ならば、おや、ネルリ! と声を出して叫んで、あわてて外套の襟を掻きたてるかも知れない。けれども、それだけのことであつて、そのうへ女の子に就いてのふかい探索をして見ようとは思はない。 しかし、誰かひとりが考へる。なぜ、日本橋をえらぶのか。こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうへで、花を売らうなどといふのは、よくないことなのに、――なぜ? その不審には、簡単ではあるが頗るロマンチツクな解答を与へ得るのである。それは、彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来してゐる。ニホンでいちばんにぎやかな良い橋はニホンバシにちがひない、といふ彼等のおだやかな判断に他ならぬ。 女の子の日本橋でのあきなひは非常に少なかつた。第一日目には、赤い花が一本売れた。お客は踊子である。踊子は、ゆるく開きかけてゐる赤い蕾を選んだ。 「咲くだらうね。」 と、乱暴な聞きかたをした。 女の子は、はつきり答へた。 「咲キマス。」 二日目には、酔ひどれの若い紳士が、一本買つた。このお客は酔つてゐながら、うれひ顔をしてゐた。 「どれでもいい。」 女の子は、きのふの売れのこりのその花束から、白い蕾をえらんでやつたのである。紳士は盗むやうに、こつそり受け取つた。 あきなひはそれだけであつた。三日目は、即ちけふである。つめたい霧のなかに永いこと立ちつづけてゐたが、誰もふりむいて呉れなかつた。 橋のむかふ側にゐる男の乞食が、松葉杖つきながら、電車みちをこえてこつちへ来た。女の子に縄張りのことで言ひがかりをつけたのだつた。女の子は三度もお辞儀をした。松葉杖の乞食は、まつくろい口髭を噛みしめながら思案したのである。 「けふ切りだぞ。」 とひくく言つて、また霧のなかへ吸ひこまれていつた。 女の子は、間もなく帰り仕度をはじめた。花束をゆすぶつて見た。花屋から屑花を払ひさげてもらつて、かうして売りに出てから、もう三日も経つてゐるのであるから花はいい加減にしをれてゐた。重さうにうなだれた花が、ゆすぶられる度毎に、みんなあたまを顫はせた。 それをそつと小わきにかかえ、ちかくの支那蕎麦の屋台へ、寒さうに肩をすぼめながらはひつて行つた。 三晩つづけてここで雲呑を食べるのである。そこのあるじは、支那のひとであつて、女の子を一人並の客として取扱つた。彼女にはそれが嬉しかつたのである。 あるじは、雲呑の皮を巻きながら尋ねた。 「売レマシタカ。」 眼をまるくして答へた。 「イイエ。……カエリマス。」 この言葉が、あるじの胸を打つた。帰国するのだ。きつとさうだ、と美しく禿げた頭を二三度かるく振つた。自分のふるさとを思ひつつ釜から雲呑の実を掬つてゐた。 「コレ、チガヒマス。」 あるじから受け取つた雲呑の黄色い鉢を覗いて、女の子が当惑さうに呟いた。 「カマヒマセン。チヤシユウワンタン。ワタシノゴチソウデス。」 あるじは固くなつて言つた。 雲呑は十銭であるが、叉焼雲呑は二十銭なのである。 女の子は暫くもじもじしてゐたが、やがて、雲呑の小鉢を下へ置き、肘のなかの花束からおほきい蕾のついた草花を一本引き抜いて、差しだした。くれてやるといふのである。 彼女がその屋台を出て、電車の停留場へ行く途中、しなびかかつた悪い花を三人のひとに手渡したことをちくちく後悔しだした。突然、道ばたにしやがみ込んだ。胸に十字を切つて、わけの判らぬ言葉でもつて烈しいお祈りをはじめたのである。 おしまひに日本語を二言囁いた。 「咲クヤウニ。咲クヤウニ。」 安楽なくらしをしてゐるときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてゐるときは、生のよろこびを書きつづる。 春ちかきや? どうせ死ぬのだ。ねむるやうなよいロマンスを一編だけ書いてみたい。男がさう祈願しはじめたのは、彼の生涯のうちでおそらくは一番うつたうしい時期に於いてであつた。男は、あれこれと思ひをめぐらし、つひにギリシヤの女詩人、サフオに黄金の矢を放つた。あはれ、そのかぐはしき才色を今に語り継がれてゐるサフオこそ、この男のもやもやした胸をときめかす唯一の女性であつたのである。 男は、サフオに就いての一二冊の書物をひらき、つぎのやうなことがらを知らされた。 けれどもサフオは美人でなかつた。色が黒く歯が出てゐた。フアオンと呼ぶ美しい青年に死ぬほど惚れた。フアオンには詩が判らなかつた。恋の身投をするならば、よし死にきれずとも、そのこがれた胸のおもひが消えうせるといふ迷信を信じ、リユウカデイアの岬から怒涛めがけて身ををどらせた。 生活。 よい仕事をしたあとで 一杯のお茶をすする お茶のあぶくに きれいな私の顔が いくつもいくつも うつつてゐるのさ どうにか、なる。 思ひ出 一章 黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにゐる。叔母は、てんしさまがお隠れになつたのだ、と私に教へて、生き神様、と言ひ添へた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたやうな気がする。それから、私は何か不敬なことを言つたらしい。叔母は、そんなことを言ふものでない、お隠れになつたと言へ、と私をたしなめた。どこへお隠れになつたのだらう、と私は知つてゐながら、わざとさう尋ねて叔母を笑はせたのを思ひ出す。 私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは数へどしの四つをすこし越えてゐた。多分おなじ頃の事であつたらうと思ふが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た滝を忘れない。滝は村にちかい山の中にあつた。青々と苔の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちてゐた。知らない男の人の肩車に乗つて私はそれを眺めた。何かの社が傍にあつて、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬を見せたが私は段々とさびしくなつて、がちや、がちや、と泣いた。私は叔母をがちやと呼んでゐたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騒いでゐたが、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上つた。そのとき毛氈が足にひつかかつたらしく、お辞儀でもするやうにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、酔つた、酔つたと叔母をはやしたてた。私は遥かはなれてこれを見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いつぱいにふさがつてゐた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたつてゐた。叔母は、お前がいやになつた、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、さうしないでけんせ、と願ひつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いてゐた。眼が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかつた。 叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思ひ出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だつた筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにゐたと言つてよい。広い裏庭に、むかし林檎の大木が五六本あつたやうで、どんよりと曇つた日、それらの木に女の子が多人数で昇つて行つた有様や、そのおなじ庭の一隅に菊畑があつて、雨の降つてゐたとき、私はやはり大勢の女の子らと傘さし合つて菊の花の咲きそろつてゐるのを眺めたことなど、幽かに覚えて居るけれど、あの女の子らが私の姉や従姉たちだつたかも知れない。 六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなればたけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のやうに立つてゐた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止つてじつと動かないならその回した人は極楽へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻るれば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、かならずひつそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれを廻して見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。 父母はその頃東京にすまつてゐたらしく、私は叔母に連れられて上京した。私は余程ながく東京に居たのださうであるが、あまり記憶に残つてゐない。その東京の別宅へ、ときどき訪れる婆のことを覚えてゐるだけである。私は此の婆がきらひで、婆の来る度毎に泣いた。婆は私に赤い郵便自動車の玩具をひとつ呉れたが、ちつとも面白くなかつたのである。 やがて私は故郷の小学校へ入つたが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。 同じ頃、叔母とも別れなければならぬ事情が起つた。それまでに叔母の次女は嫁ぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとつてゐた。叔母はその長女夫婦と末娘とを連れて、遠くのまちへ分家したのである。私もついて行つた。それは冬のことで、私は叔母と一緒に橇の隅へうづくまつてゐると、橇の動きだす前に私のすぐ上の兄が、婿、婿と私を罵つて橇の幌の外から私の尻を何辺もつついた。私は歯を食ひしばつて此の屈辱にこらへた。私は叔母に貰はれたのだと思つてゐたが、学校にはひるやうになつたら、また故郷へ返されたのである。 学校に入つてからの私は、もう子供でなかつた。裏の空屋敷には色んな雑草がのんのんと繁つてゐたが、夏の或る天気のいい日に私はその草原の上で弟の子守から息苦しいことを教へられた。私が八つぐらゐで、子守もそのころは十四五を越えてゐまいと思ふ。苜蓿を私の田舎では「ぼくさ」と呼んでゐるが、その子守は私と三つちがふ弟に、ぼくさの四つ葉を捜して来い、と言ひつけて追ひやり私を抱いてころころと転げ回つた。それからも私たちは蔵の中だの押入の中だのに隠れて遊んだ。弟がひどく邪魔であつた。押入のそとにひとり残された弟が、しくしく泣き出した為、私のすぐの兄に私たちのことを見つけられてしまつた時もある。兄が弟から聞いて、その押入の戸をあけたのだ。子守は、押入へ銭を落したのだ、と平気で言つてゐた。 嘘は私もしじゆう吐いてゐた。小学二年か三年の雛祭りのとき学校の先生に、うちの人が今日は雛さまを飾るのだから早く帰れと言つてゐる、と嘘を吐いて授業を一時間も受けずに帰宅し、家の人には、けふは桃の節句だから学校は休みです、と言つて雛を箱から出すのに要らぬ手伝ひをしたことがある。また私は小鳥の卵を愛した。雀の卵は蔵の屋根瓦をはぐと、いつでもたくさん手にいれられたが、さくらどりの卵やからすの卵などは私の屋根に転つてなかつたのだ。その燃えるやうな緑の卵や可笑しい斑点のある卵を、私は学校の生徒たちから貰つた。その代り私はその生徒たちに私の蔵書を五冊十冊とまとめて与へるのである。集めた卵は綿でくるんで机の引き出しに一杯しまつて置いた。すぐの兄は、私のその秘密の取引に感づいたらしく、ある晩、私に西洋の童話集ともう一冊なんの本だか忘れたが、その二つを貸して呉れと言つた。私は兄の意地悪さを憎んだ。私はその両方の本とも卵に投資して了つてないのであつた。兄は私がないと言へばその本の行先を追及するつもりなのだ。私は、きつとあつた筈だから捜して見る、と答へた。私は、私の部屋は勿論、家中いつぱいランプをさげて捜して歩いた。兄は私についてあるきながら、ないのだらう、と言つて笑つてゐた。私は、ある、と頑強に言ひ張つた。台所の戸棚の上によぢのぼつてまで捜した。兄はしまひに、もういい、と言つた。 学校で作る私の綴方も、ことごとく出鱈目であつたと言つてよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るやう努力した。さうすれば、いつも皆にかつさいされるのである。剽窃さへした。当時傑作として先生たちに言ひはやされた「弟の影絵」といふのは、なにか少年雑誌の一等当選作だつたのを私がそつくり盗んだものである。先生は私にそれを毛筆で清書させ、展覧会に出させた。あとで本好きのひとりの生徒にそれを発見され、私はその生徒の死ぬことを祈つた。やはりそのころ「秋の夜」といふのも皆の先生にほめられたが、それは、私が勉強して頭が痛くなつたから縁側へ出て庭を見渡した、月のいい夜で池には鯉や金魚がたくさん遊んでゐた、私はその庭の静かな景色を夢中で眺めてゐたが、隣部屋から母たちの笑ひ声がどつと起つたので、はつと気がついたら私の頭痛がなほつて居た、といふ小品文であつた。此の中には真実がひとつもないのだ。庭の描写は、たしか姉たちの作文帳から抜き取つたものであつたし、だいいち私は頭のいたくなるほど勉強した覚えなどさつぱりないのである。私は学校が嫌ひで、したがつて学校の本など勉強したことは一回もなかつた。娯楽本ばかり読んでゐたのである。うちの人は私が本さへ読んで居れば、それを勉強だと思つてゐた。 しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果が起つたのである。父母が私を愛して呉れないといふ不平を書き綴つたときには、受持訓導に教員室へ呼ばれて叱られた。「もし戦争が起つたなら。」といふ題を与へられて、地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起つたなら先づ山の中へでも逃げ込まう、逃げるついでに先生をも誘はう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであらう、と書いた。此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。どういふ気持で之を書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言つた。次席訓導は手帖へ、「好奇心」と書き込んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが人間といふものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。さう思ふ、と私はもじもじしながら答へた。私はいつたいに口が重い方であつた。それでは僕と此の校長先生とは同じ人間でありながら、どうして給料が違ふのだ、と彼に問はれて私は暫く考へた。そして、それは仕事がちがうからでないか、と答へた。鉄縁の眼鏡をかけ、顔の細い次席訓導は私のその言葉をすぐ手帖に書きとつた。私はかねてから此の先生に好意を持つてゐた。それから彼は私にこんな質問をした。君のお父さんと僕たちとは同じ人間か。私は困つて何とも答へなかつた。 私の父は非常に忙しい人で、うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても子供らと一緒には居らなかつた。私は此の父を恐れてゐた。父の万年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。私と弟とが米俵のぎつしり積まれたひろい米蔵に入つて面白く遊んでゐると、父が入口に立ちはだかつて、坊主、出ろ、出ろ、と叱つた。光を背から受けてゐるので父の大きい姿がまつくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟ふと今でもいやな気がする。 母に対しても私は親しめなかつた。乳母の乳で育つて叔母の懐で大きくなつた私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかつたのである。下男がふたりかかつて私にそれを教へたのだが、ある夜、傍に寝てゐた母が私の蒲団の動くのを不審がつて、なにをしてゐるのか、と私に尋ねた。私はひどく当惑して、腰が痛いからあんまやつてゐるのだ、と返事した。母は、そんなら揉んだらいい、たたいて許りゐたつて、と眠さうに言つた。私は黙つてしばらく腰を撫でさすつた。母への追憶はわびしいものが多い。私が蔵から兄の洋服を出し、それを着て裏庭の花壇の間をぶらぶら歩きながら、私の即興的に作曲する哀調のこもつた歌を口ずさんでは涙ぐんでゐた。私はその身装で帳場の書生と遊びたく思ひ、女中を呼びにやつたが、書生は仲々来なかつた。私は裏庭の竹垣を靴先でからからと撫でたりしながら彼を待つてゐたのであるが、たうとうしびれを切らして、ズボンのポケツトに両手をつつ込んだまま泣き出した。私の泣いてゐるのを見つけた母は、どうした訳か、その洋服をはぎ取つて了つて私の尻をぴしやぴしやとぶつたのである。私は身を切られるやうな恥辱を感じた。 私は早くから服装に関心を持つてゐたのである。シヤツの袖口にはボタンが附いてゐないと承知できなかつた。白いフランネルのシヤツを好んだ。襦袢の襟も白くなければいけなかつた。えりもとからその白襟を一分か二分のぞかせるやうに注意した。十五夜のときには、村の生徒たちはみんな晴衣を着て学校へ出て来るが、私も毎年きまつて茶色の太い縞のある本ネルの着物を着て行つて、学校の狭い廊下を女のやうになよなよと小走りにはしつて見たりするのであつた。私はそのやうなおしやれを、人に感附かれぬやうひそかにやつた。うちの人たちは私の容貌を兄弟中で一番わるいわるい、と言つてゐたし、そのやうな悪いをとこが、こんなおしやれをすると知られたら皆に笑はれるだろう、と考へたからである。私は、かへつて服装に無関心であるやうに振舞ひ、しかもそれは或る程度まで成功したやうに思ふ。誰の眼にも私は鈍重で野暮臭く見えたにちがひないのだ。私が兄弟たちとお膳のまへに座つてゐるときなど、祖母や母がよく私の顔のわるい事を真面目に言つたものだが、私にはやはりくやしかつた。私は自分をいいをとこだと信じてゐたので、女中部屋なんかへ行つて、兄弟中で誰が一番いいをとこだらう、とそれとなく聞くことがあつた。女中たちは、長兄が一番で、その次が治ちやだ、と大抵さう言つた。私は顔を赤くして、それでも少し不満だつた。長兄よりもいいをとこだと言つて欲しかつたのである。 私は容貌のことだけでなく、不器用だといふ点で祖母たちの気にいらなかつた。箸の持ちかたが下手で食事の度毎に祖母から注意されたし、私のおじぎは尻があがつて見苦しいとも言はれた。私は祖母の前にきちんと座らされ、何回も何回もおじぎをさせられたけれど、いくらやつて見ても祖母は上手だと言つて呉れないのである。 祖母も私にとつて苦手であつたのだ。村の芝居小屋の舞台開きに東京の雀三郎一座といふのがかかつたとき、私はその興業中いちにちも欠かさず見物に行つた。その小屋は私の父が建てたのだから、私はいつでもただでいい席に座れたのである。学校から帰るとすぐ、私は柔い着物と着換へ、端に小さい鉛筆をむすびつけた細い銀鎖を帯に吊りさげて芝居小屋へ走つた。生れて始めて歌舞伎といふものを知つたのであるし、私は興奮して、狂言を見てゐる間も幾度となく涙を流した。その興行が済んでから、私は弟や親類の子らを集めて一座を作り自分で芝居をやつて見た。私は前からこんな催物が好きで、下男や女中たちを集めては、昔話を聞かせたり、幻燈や活動写真を映して見せたりしたものである。そのときには、「山中鹿之助」と「鳩の家」と「かつぽれ」と三つの狂言を並べた。山中鹿之助が谷川の岸の或る茶店で、早川鮎之助といふ家来を得る条を或る少年雑誌から抜き取つて、それを私が脚色した。拙者は山中鹿之助と申すものであるが、――といふ長い言葉を歌舞伎の七五調に直すのに苦心をした。「鳩の家」は私がなんべん繰り返して読んでも必ず涙の出た長編小説で、その中でも殊に哀れな所を二幕に仕上げたものであつた。「かつぽれ」は雀三郎一座がおしまひの幕の時、いつも楽屋総出でそれを踊つたものだから、私もそれを踊ることにしたのである。五六にち稽古して愈々その日、文庫蔵のまへの広い廊下を舞台にして、小さい引幕などをこしらへた。昼のうちからそんな準備をしてゐたのだが、その引幕の針金に祖母が顎をひつかけて了つた。祖母は、此の針金でわたしを殺すつもりか、河原乞食の真似糞はやめろ、と言つて私たちをののしつた。それでもその晩はやはり下男や女中たちを十人ほど集めてその芝居をやつてみせたが、祖母の言葉を考へると私の胸は重くふさがつた。私は山中鹿之助や「鳩の家」の男の子の役をつとめ、かつぽれも踊つたけれど少しも気乗りがせずたまらなく淋しかつた。そののちも私はときどき「牛盗人」や「皿屋敷」や「俊徳丸」などの芝居をやつたが、祖母はその都度にがにがしげにしてゐた。 私は祖母を好いてはゐなかつたが、私の眠られない夜には祖母を有難く思ふことがあつた。私は小学三四年のころから不眠症にかかつて、夜の二時になつても三時になつても眠れないで、よく寝床のなかで泣いた。寝る前に砂糖をなめればいいとか、時計のかちかちを数へろとか、水で両足を冷せとか、ねむのきの葉を枕のしたに敷いて寝るといいとか、さまざまの眠る工夫をうちの人たちから教へられたが、あまり効目がなかつたやうである。私は苦労性であつて、いろんなことをほじくり返して気にするものだから、尚のこと眠れなかつたのであらう。父の鼻眼鏡をこつそりいぢくつて、ぽきつとその硝子を割つてしまつたときには、幾夜もつづけて寝苦しい思ひをした。一軒置いて隣りの小間物屋では書物類もわづか売つてゐて、ある日私は、そこで婦人雑誌の口絵などを見てゐたが、そのうちの一枚で黄色い人魚の水彩画が欲しくてならず、盗まうと考へて静かに雑誌から切り離してゐたら、そこの若主人に、治こ、治こ、と見とがめられ、その雑誌を音高く店の畳に投げつけて家まで飛んではしつて来たことがあつたけれど、さういふやりそこなひもまた私をひどく眠らせなかつた。私は又、寝床の中で火事の恐怖に理由なく苦しめられた。此の家が焼けたら、と思ふと眠るどころではなかつたのである。いつかの夜、私が寝しなに厠へ行つたら、その厠と廊下ひとつ隔てた真暗い帳場の部屋で、書生がひとりして活動写真をうつしてゐた。白熊の、氷の崖から海へ飛び込む有様が、部屋の襖ヘマツチ箱ほどの大きさでちらちら映つてゐたのである。私はそれを覗いて見て、書生のさういふ心持が堪らなく悲しく思はれた。床に就いてからも、その活動写真のことを考へると胸がどきどきしてならぬのだ。書生の身の上を思つたり、また、その映写機のフイルムから発火して大事になつたらどうしようとそのことが心配で心配で、その夜はあけがた近くになる迄まどろむ事が出来なかつたのである。祖母を有難く思ふのはこんな夜であつた。 まづ、晩の八時ごろ女中が私を寝かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寝ながら附いてゐなければならなかつたのだが、私は女中を気の毒に思ひ、床につくとすぐ眠つたふりをするのである。女中がこつそり私の床から脱け出るのを覚えつつ、私は睡眠できるやうひたすら念じるのである。十時頃まで床のなかで輾転してから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寝てしまつてゐて、祖母だけが起きてゐるのだ。祖母は夜番の爺と、台所の大きい囲炉裏を挟んで話をしてゐる。私はたんぜんを着たままその間にはひつて、むつつりしながら彼等の話を聞いてゐるのである。彼等はきまつて村の人々の噂話をしてゐた。或る秋の夜更に、私は彼等のぼそぼそと語り合う話に耳傾けてゐると、遠くから虫おくり祭の太鼓の音がどんどんと響いて来たが、それを聞いて、ああ、まだ起きてゐる人がたくさんあるのだ、とずゐぶん気強く思つたことだけは忘れずにゐる。 音に就いて思ひ出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にゐたが、暑中休暇になつて帰郷する度毎に、音楽や文学などのあたらしい趣味を田舎へひろめた。長兄は劇を勉強していた。或る郷土の雑誌に発表した「奪ひ合ひ」といふ一幕物は、村の若い人たちの間で評判だつた。それを仕上げたとき、長兄は数多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言つて聞いてゐたが、私には判つた。幕切の、くらい晩だなあ、といふ一言に含まれた詩をさへ理解できた。私はそれに「奪ひ合ひ」でなく「あざみ草」と言ふ題をつけるべきだと考へたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに気が附かなかつたのであらう、題名をかへることなくその儘発表して了つた。レコオドもかなり集めてゐた。私の父は、うちで何かの饗応があると必ず、遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな芸者たちに抱かれたりした記憶があつて、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覚えてゐるのである。さういふことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦楽の方に早くなじんだ。ある夜、私が寝てゐると、兄の部屋からいい音が漏れて来たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行つて手当り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてたうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だつた。 私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業学校を優等で出て、そのまま帰郷し、うちの銀行に勤めてゐたのである。次兄も亦うちの人たちに冷く取扱はれてゐ た。私は、母や祖母が、いちばん悪いをとこは私で、そのつぎに悪いのは次兄だ、と言つてゐるのを聞いた事があるので、次兄の不人気もその容貌がもとであらうと思つてゐた。なんにも要らない、をとこ振りばかりでもよく生れたかつた、なあ治、と半分は私をからかふやうに呟いた次兄の冗談口を私は記憶してゐる。しかし私は次兄の顔をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいい方だと信じてゐる。次兄は毎日のやうに酒を呑んで祖母と喧嘩した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。 末の兄と私とはお互ひに反目してゐた。私は色々な秘密を此の兄に握られてゐたので、いつもけむつたかつた。それに、末の兄と私の弟とは、顔のつくりが似て皆から美しいとほめられてゐたし、私は此のふたりに上下から圧迫されるやうな気がしてたまらなかつたのである。その兄が東京の中学に行つて、私はやうやくほつとした。弟は、末子で優しい顔をしてゐたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬してゐて、ときどきなぐつては母に叱られ、母をうらんだ。私が十か十一のころのことと思ふ。私のシヤツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いたやうにしらみがたかつた時など、弟がそれを鳥渡笑つたといふので、文字通り弟を殴り倒した。けれども私は矢張り心配になつて、弟の頭に出来たいくつかの瘤へ不可飲という薬をつけてやつた。 私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違ふまちの女学校へ行つてゐた。私の村には汽車がなかつたので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き来するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかつたのである。姉たちは橇に酔ふので、冬やすみの時も歩いて帰つた。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎へに出たのである。日がとつぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提燈がちらちら現れると、私は、おう、と大声あげて両手を振つた。 上の姉の学校は下の姉の学校よりも小さいまちにあつたので、お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだつた。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顔を赤くして言ひつつ線香花火を五束六束バスケツトから出して私に与へたが、私はそのとき胸をしめつけられる思ひがした。此の姉も亦きりやうがわるいとうちの人たちからいはれいはれしてゐたのである。 この姉は女学校へはひるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寝起してゐたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思つてゐたほどであつた。曾祖母は私が小学校を卒業する頃なくなつたが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心配した。 私は程なく小学校を卒業したが、からだが弱いからと言ふので、うちの人たちは私を高等小学校に一年間だけ通はせることにした。からだが丈夫になつたら中学へいれてやる、それも兄たちのやうに東京の学校では健康に悪いから、もつと田舎の中学へいれてやる、と父が言つてゐた。私は中学校へなどそれほど入りたくなかつたのだけれどそれでも、からだが弱くて残念に思ふ、と綴方へ書いて先生たちの同情を強ひたりしてゐた。 この時分には、私の村にも町制が敷かれてゐたが、その高等小学校は私の町と附近の五六ケ村と共同で出資して作られたものであつて、まちから半里も離れた松林の中に在つた。私は病気のためにしじゆう学校をやすんでゐたのだけれどその小学校の代表者だつたので、他村からの優等生がたくさん集る高等小学校でも一番になるやう努めなければいけなかつたのである。しかし私はそこでも相変らず勉強をしなかつた。いまに中学生になるのだ、といふ私の自矜が、その高等小学校を汚く不愉快に感じさせてゐたのだ。私は授業中おもに連続の漫画をかいた。休憩時間になると、声色をつかつてそれを生徒たちへ説明してやつた。そんな漫画をかいた手帖が四五冊もたまつた。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過すこともあつた。私は硝子窓の傍に座席をもつてゐたが、その窓の硝子板には蝿がいつぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでいて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはひつて来ると、私には雉か山鳩かのやうに思はれ、幾たびとなく驚かされたものであつた。私を愛してゐる五六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸辺に寝ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくつてそこにうつすり生えそめた毛を較べ合つたりして遊んだのである。 その学校は男と女の共学であつたが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかつた。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさへ、女にもたいへん臆病になつてゐ た。私はそれまで、二人三人の女の子から思はれたが、いつでも知らない振りをして来たのだつた。帝展の入選画帳を父の本棚から持ち出しては、その中にひそめられた白い画に頬をほてらせて眺めいつたり、私の飼つてゐたひとつがいの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の背中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらへてゐた。私は見え坊であつたから、あの、あんまをさへ誰にも打ちあけなかつた。その害を本で読んで、それをやめやうとさまざまな苦心をしたが、駄目であつた。そのうちに私はそんな遠い学校へ毎日あるいてかよつたお陰で、からだも太つて来た。額の辺にあわつぶのやうな小さい吹出物がでてきた。之も恥かしく思つた。私はそれへ宝丹膏といふ薬を真赤に塗つた。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行つたが、嫂は部屋の入口を背にして座つて髪を結はせてゐた。私は鏡に映つた花嫁のほのじろい笑顔をちらと見るなり、弟をひきずつて逃げ帰つた。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言つた。薬で赤い私の額のためによけい気もひけて、尚のことこんな反発をしたのであつた。 冬ちかくなつて、私も中学校への受験勉強を始めなければいけなくなつた。私は雑誌の広告を見て、東京へ色々の参考書を注文した。けれども、それを本箱に並べただけで、ちつとも読まなかつた。私の受験することになつてゐた中学校は、県でだいいちのまちに在つて、志願者も二三倍は必ずあつたのである。私はときどき落第の懸念に襲はれた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第の確信がついて来るのだ。勉強するとなると、夜十二時ちかくまで床につかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみといふ女中を傍に置いて、火をおこさせたり茶をわかさせたりした。たみは、どんなにおそくまで宵つぱりしても翌る朝は、四時になると必ず私を起しに来た。私が算術の鼠が子を産む応用問題などに困らされてゐる傍で、たみはおとなしく小説本を読んでゐた。あとになつて、たみの代りに年とつた肥えた女中が私へつくやうになつたが、それが母のさしがねである事を知つた私は、母のその底意を考へて顔をしかめた。 その翌春、雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗つて故郷へ帰つて来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の陰から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て来たのを眺めて私は美しいと思つた。 つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣声を聞き、さそはれて涙を流した。 私の家はそのひとつきもの間、火事のやうな騒ぎであつた。私はその混雑にまぎれて、受験勉強を全く怠つたのである。高等小学校の学年試験にも殆ど出鱈目な答案を作つて出した。私の成績は全体の三番かそれくらゐであつたが、これは明らかに受持訓導の私のうちに対する遠慮からであつた。私はそのころ既に記憶力の減退を感じてゐて、したしらべでもして行かないと試験には何も書けなかつたのである。私にとつてそんな経験は始めてであつた。 二章 いい成績ではなかつたが、私はその春、中学校へ受験して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずつと世話になることになつてゐたのである。 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持つてゐるが、入学当時は銭湯へ行くのにも学校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往来の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ軽く会釈をしたものである。 それなのに、学校はちつとも面白くなかつた。校舎は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だといふのであつた。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。 私と同じ町から来てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意気さうに見える、あんなに殴られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたいにひとり家路を急いだ。靴底を波になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ目の前をよろよろととほつて行つた。 私は散りかけてゐる花弁であつた。すこしの風にもふるへおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきつとえらくなるものと思つてゐたし、英雄としての名誉をまもつて、たとひ大人の侮りにでも容赦できなかつたのであるから、この落第といふ不名誉も、それだけ致命的であつたのである。その後の私は兢兢として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには目に見えぬ百人の敵がゐるのだと考へて、少しも油断をしなかつた。朝、学校へ出掛けしなには、私の机の上ヘトランプを並べて、その日いちにちの運命を占つた。ハアトは大吉であつた。ダイヤは半吉、クラブは半凶、スペエドは大凶であつた。そしてその頃は、来る日も来る日もスペエドばかり出たのである。 それから間もなく試験が来たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記して了ふやうに努めた。これは私のいちかばちかの潔癖から来てゐるのであらうが、この勉強法は私の為によくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈でならなかつたし、試験の際も、融通がきかなくて、殆ど完璧に近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまづいて、思索が乱れ、ただ意味もなしに答案用紙を汚してゐる場合もあつたのである。 しかし私の第一学期の成績はクラスの三番であつた。操行も甲であつた。落第の懸念に苦しまされてゐた私は、その通告簿を片手に握つて、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走つた。嬉しかつたのである。 一学期ををへて、はじめての帰郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中学生生活の短い経験を出来るだけ輝かしく説明したく思つて、私がその三四ケ月間身につけたすべてのもの、座蒲団のはてまで行李につめた。 馬車にゆられながら隣村の森を抜けると、幾里四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根が聳えてゐた。私はそれを眺めて十年も見ない気がした。 私はその休暇のひとつきほど得意な気持でゐたことがない。私は弟たちへ中学校のことを誇張して夢のやうに物語つた。その小都会の有様をも、つとめて幻妖に物語つたのである。 私は風景をスケツチしたり昆虫の採集をしたりして、野原や谷川をはしり回つた。水彩画を五枚ゑがくのと珍らしい昆虫の標本を十種あつめるのとが、教師に課された休暇中の宿題であつた。私は捕虫網を肩にかついで、弟にはピンセツトだの毒壼だののはひつた採集鞄を持たせ、もんしろ蝶やばつたを追ひながら一日を夏の野原で過した。夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして、飛んで来るたくさんの虫を網や箒で片つぱしからたたき落した。末の兄は美術学校の塑像科へ入つてゐたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいぢくつてゐた。もう女学校を卒へてゐた私のすぐの姉の胸像を作つてゐたのである。私も亦その傍で、姉の顔を幾枚もスケツチして、兄とお互ひの出来上り案配をけなし合つた。姉は真面目に私たちのモデルになつてゐたが、そんな場合おもに私の水彩画の方の肩を持つた。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言つて、私のあらゆる才能を莫迦にしてゐた。私の文章をさへ、小学生の綴方、と言つて嘲つてゐた。私もその当時は、兄の芸術的な力をあからさまに軽蔑してゐたのである。 ある晩、その兄が私の寝てゐるところへ来て、治、珍動物だよ、と声を低くして言ひながら、しやがんで蚊帳の下から鼻紙に軽く包んだものをそつと入れて寄こした。兄は、私が珍らしい昆虫を集めてゐるのを知つてゐたのだ。包の中では、かさかさと虫のもがく足音がしてゐた。私は、そのかすかな音に、肉親の情を知らされた。私が手暴くその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるやうにして言つた。見ると普通のくはがたむしであつた。私はその鞘翅類をも私の採集した珍昆虫十種のうちにいれて教師へ出した。 休暇が終りになると私は悲しくなつた。故郷をあとにし、その小都会へ来て、呉服商の二階で独りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであつた。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしてゐた。そのときも私は近くの本屋へ走つた。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買へない本が五六冊あつて、私はときどき、その前へ何気なささうに立ち止つては膝をふるはせながらその本の頁を盗み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな医学じみた記事を読むためばかりではなかつたのである。その当時私にとつて、どんな本でも休養と慰安であつたからである。 学校の勉強はいよいよ面白くなかつた。白地図に山脈や港湾や河川を水絵具で記入する宿題などは、なによりも呪はしかつた。私は物事に凝るはうであつたから、この地図の彩色には三四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要点を書き込めと言ひつけたが、教師の講義は教科書を読むやうなものであつたから、自然とそのノオトヘも教科書の文章をそのまま書き写すよりほかなかつたのである。私はそれでも成績にみれんがあつたので、そんな宿題を毎日せい出してやつたのである。秋になると、そのまちの中等学校どうしの色色なスポオツの試合が始つた。田舎から出て来た私は、野球の試合など見たことさへなかつた。小説本で、満塁とか、アタツクシヨオトとか、中堅とか、そんな用語を覚えてゐただけであつて、やがて其の試合の観方をおぼえたけれど余り熱狂できなかつた。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道でも、なにか他校と試合のある度に私も応援団の一人として、選手たちに声援を与へなければならなかつたのであるが、そのことが尚さら中学生生活をいやなものにして了つた。応援団長といふのがあつて、わざと汚い恰好で日の丸の扇子などを持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼつて演説をすれば、生徒たちはその団長の姿を、むさい、むさい、と言つて喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあひまあひまに団長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アツプと叫んだ。私たちは立ち上つて、紫の小さい三角旗を一斉にゆらゆら振りながら、よい敵よい敵けなげなれども、といふ応援歌をうたふのである。そのことは私にとつて恥しかつた。私は、すきを見ては、その応援から逃げて家へ帰つた。 しかし、私にもスポオツの経験がない訳ではなかつたのである。私の顔が蒼黒くて、私はそれを例のあんまの故であると信じてゐたので、人から私の顔色を言はれると、私のその秘密を指摘されたやうにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思ひ、スポオツをはじめたのである。 私はよほど前からこの血色を苦にしてゐたものであつた。小学校四五年のころ、末の兄からデモクラシイといふ思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめつきり高くなつて作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしてゐるのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたへた。そして、夏は下男たちの庭の草刈に手つだひしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教へた。さうして、下男たちは私の手助けを余りよろこばなかつたのをやがて知つた。私の刈つた草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかつたらしいのである。私は下男たちを助ける名の陰で、私の顔色をよくする事をも計つてゐたのであつたが、それほど労働してさへ私の顔色はよくならなかつたのである。 中学校にはひるやうになつてから、私はスポオツに依つていい顔色を得ようと思ひたつて、暑いじぶんには、学校の帰りしなに必ず海へはひつて泳いだ。私は胸泳といつて雨蛙のように両脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から真直に出して泳ぐのだから、波の起伏のこまかい縞目も、岸の青葉も、流れる雲も、みんな泳ぎながらに眺められるのだ。私は亀のやうに頭をすつとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顔を太陽に近寄せて、早く日焼がしたいからであつた。 また、私のゐたうちの裏がひろい墓地だつたので、私はそこへ百米の直線コオスを作り、ひとりでまじめに走つた。その墓地はたかいポプラの繁みで囲まれてゐて、はしり疲れると私はそこの卒塔婆の文字などを読み読みしながらぶらついた。月穿潭底とか、三界唯一心とかの句をいまでも忘れずにゐる。ある日私は、銭苔のいつぱい生えてゐる黒くしめつた墓石に、寂性清寥居士といふ名前を見つけてかなり心を騒がせ、その墓のまへに新しく飾られてあつた紙の蓮華の白い葉に、おれはいま土のしたで蛆虫とあそんでゐる、と或る仏蘭西の詩人から暗示された言葉を、泥を含ませた私の人指ゆびでもつて、さも幽霊が記したかのやうにほそぼそとなすり書いて置いた。そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、先づきのふの墓標へお参りしたら、朝の驟雨で亡魂の文字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗ひさらわれて、蓮華の白い葉もところどころ破れてゐた。 私はそんな事をして遊んでゐたのであつたが、走る事も大変巧くなつたのである。両脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて来た。けれども顔色は、やつぱりよくならなかつたのだ。黒い表皮の底には、濁つた蒼い色が気持悪くよどんでゐた。 私は顔に興味を持つてゐたのである。読書にあきると手鏡をとり出し、微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず眺めた。私は必ずひとを笑はせることの出来る表情を会得した。目を細くして鼻を皺め、口を小さく尖らすと、児熊のやうで可愛かつたのである。私は不満なときや当惑したときにその顔をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの県立病院の内科へ入院してゐたが、私は姉を見舞ひに行つてその顔をして見せると、姉は腹をおさへて寝台の上をころげ回つた。姉はうちから連れて来た中年の女中とふたりきりで病院に暮してゐたものだから、ずゐぶん淋しがつて、病院の長い廊下をのしのし歩いて来る私の足音を聞くと、もうはしやいでゐた。私の足音は並はづれて高いのだ。私が若し一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使つて私を迎へによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがつて容態がよくない、とその女中が真顔で言つてゐた。 その頃はもう私も十五六になつてゐたし、手の甲には静脈の青い血管がうつすりと透いて見えて、からだも異様におもおもしく感じられてゐた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合つた。学校からの帰りにはきつと二人してならんで歩いた。お互ひの小指がすれあつてさへも、私たちは顔を赤くした。いつぞや、二人で学校の裏道の方を歩いて帰つたら、芹やはこべの青々と伸びてゐる田溝の中にゐもりがいつぴき浮いてゐるのをその生徒が見つけ、黙つてそれを掬つて私に呉れた。私は、ゐもりは嫌ひであつたけれど、嬉しさうにはしやぎながらそれを手巾へくるんだ。うちへ持つて帰つて、中庭の小さな池に放した。ゐもりは短い首をふりふり泳ぎ廻つてゐたが、次の朝みたら逃げて了つてゐなかつた。 私はたかい自矜の心を持つてゐたから、私の思ひを相手に打ち明けるなど考へもつかぬことであつた。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかつたし、また同じころ隣の家の痩せた女学生をも私は意識してゐたのだが、此の女学生とは道で会つても、ほとんどその人を莫迦にしてゐるやうにぐつと顔をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があつて、私も起きて外へ出て見たら、つい近くの社の陰あたりが火の粉をちらして燃えてゐた。社の杉林がその焔を囲ふやうにまつくろく立つて、そのうへを小鳥がたくさん落葉のやうに狂ひ飛んでゐた。私は、隣のうちの門口から白い寝巻の女の子が私の方を見てゐるのを、ちやんと知つてゐながら、横顔だけをそつちにむけてじつと火事を眺めた。焔の赤い光を浴びた私の横顔は、きつときらきら美しく見えるだらうと思つてゐたのである。こんな案配であつたから、私はまへの生徒とでも、また此の女学生とでも、もつと進んだ交渉を持つことができなかつた。けれどもひとりでゐるときには、私はもつと大胆だつた筈である。鏡の私の顔へ、片目をつぶつて笑ひかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗つてみたが、妙にどすぐろくなつていやな感じがして来たから、私は小刀ですつかり削りとつて了つた。 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる経験など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな気がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の仮面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中学校へはひつて、私とひとつ部屋に寝起してゐたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雑誌をつくつた。私の居るうちの筋向ひに大きい印刷所があつたから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雑誌を配つてやつた。私はそれへ毎月ひとつづつ創作を発表したのである。はじめは道徳に就いての哲学者めいた小説を書いた。一行か二行の断片的な随筆をも得意としてゐた。この雑誌はそれから一年ほど続けたが、私はそのことで長兄と気まづいことを起してしまつた。 長兄は私の文学に熱狂してゐるらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化学には方程式あり幾何には定理があつて、それを解する完全な鍵が与へられてゐるが、文学にはそれがないのです、ゆるされた年齢、環境に達しなければ文学を正当に掴むことが不可能と存じます、と物堅い調子で書いてあつた。私もさうだと思つた。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言ふことは本当だと思ふ、立派な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文学のために勉強を怠ることがない、その故にこそいつそう勉強してゐるほどである、と誇張した感情をさへところどころにまぜて長兄へ告げてやつたのである。 なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席になることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主将さへ私には従順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ声が壺に響いて異様な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。私が顔の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかつた程なのである。 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ数も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顔を撫でまはしてその有様をしらべた。いろいろな薬を買つてつけたが、ききめがないのである。私はそれを薬屋へ買ひに行くときには、紙きれへその薬の名を書いて、こんな薬がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして言はなければいけなかつたのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと薬をつけた。 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願つてゐ たほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で会つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。 これだけは弟にもかくしてゐた。私がそのとしの夏休みに故郷へ帰つたら、浴衣に赤い帯をしめたあたらしい小柄な小間使が、乱暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言つた。 私は寝しなに煙草を一本こつそりふかして、小説の書き出しなどを考へる癖があつたが、みよはいつの間にかそれを知つて了つて、ある晩私の床をのべてから枕元へ、きちんと煙草盆を置いたのである。私はその次の朝、部屋を掃除しに来たみよへ、煙草はかくれてのんでゐるのだから煙草盆なんか置いてはいけない、と言ひつけた。みよは、はあ、と言つてふくれたやうにしてゐた。同じ休暇中のことだつたが、まちに浪花節の興行物が来たとき、私のうちでは、使つてゐる人たち全部を芝居小屋へ聞きにやつた。私と弟も行けと言はれたが、私たちは田舎の興行物を莫迦にして、わざと蛍をとりに田圃へ出かけたのである。隣村の森ちかくまで行つたが、あんまり夜露がひどかつたので、二十そこそこを、籠にためただけでうちへ帰つた。浪花節へ行つてゐた人たちもそろそろ帰つて来た。みよに床をひかせ、蚊帳をつらせてから、私たちは電燈を消してその蛍を蚊帳のなかへ放した。蛍は蚊帳のあちこちをすつすつと飛んだ。みよも暫く蚊帳のそとに佇んで蛍を見てゐた。私は弟と並んで寝ころびながら、蛍の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけいに感じてゐた。浪花節は面白かつたらうか、と私はすこし固くなつて聞いた。私はそれまで、女中には用事以外の口を決してきかなかつたのである。みよは静かな口調で、いいえ、と言つた。私はふきだした。弟は、蚊帳の裾に吸ひついてゐる一匹の蛍を団扇でばさばさ追ひたてながら黙つてゐた。私はなにやら工合がわるかつた。 そのころから私はみよを意識しだした。赤い糸と言へば、みよのすがたが胸に浮んだ。 三章 四年生になつてから、私の部屋へは毎日のやうにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒と鯣をふるまつた。さうして彼等に多くの出鱈目を教へたのである。炭のおこしかたに就いて一冊の書物が出てゐるとか、「けだものの機械」といふ或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗つて置いて、かうして発売されてゐるのだが、珍らしい装幀でないかとか、「美貌の友」といふ翻訳本のところどころカツトされて、そのブランクになつてゐる箇所へ、私のこしらへたひどい文章を、知つてゐる印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらつて、これは奇書だとか、そんなことを言つて友人たちを驚かせたものであつた。 みよの思ひ出も次第にうすれてゐたし、そのうへに私は、ひとつうちに居る者どうしが思つたり思はれたりすることを変にうしろめたく感じてゐたし、ふだんから女の悪口ばかり言つて来てゐる手前もあつたし、みよに就いて譬へほのかにでも心を乱したのが腹立しく思はれるときさへあつたほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言はずに置いたのである。 ところが、そのあたり私は、ある露西亜の作家の名だかい長編小説を読んで、また考へ直して了つた。それは、ひとりの女囚人の経歴から書き出されてゐたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大学生に誘惑されたことからはじまつてゐた。私はその小説のもつと大きなあぢはいを忘れて、そのふたりが咲き乱れたライラツクの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのやうにして読むことができなかつたのである。私には、そのふたりがみよと私とに似てゐるやうな気分がしてならなかつた。私がいま少しすべてにあつかましかつたら、いよいよ此の貴族とそつくりになれるのだ、と思つた。さう思ふと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまつたのだと考へた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思はれたのである。 私は此のことをまづ弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛な態度で話すつもりであつたが、さう意識してこしらへた姿勢が逆に邪魔をして来て、結局うはついた。私は、頸筋をさすつたり両手をもみ合せたりして、気品のない話かたをした。さうしなければかなはぬ私の習性を私は悲しく思つた。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寝がへりもせず聞いてゐたが、けつこんするのか、と言ひにくさうにして尋ねた。私はなぜだかぎよつとした。できるかどうか、とわざとしをれて答へた。弟は、恐らくできないのではないかといふ意味のことを案外なおとなびた口調でまはりくどく言つた。それを聞いて、私は自分のほんたうの態度をはつきり見つけた。私はむつとして、たけりたけつたのである。蒲団から半身を出して、だからたたかふのだ、たたかふのだ、と声をひそめて強く言ひ張つた。弟は更紗染めの蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言はうとしてゐるらしかつたが、私の方を盗むやうにして見て、そつと微笑んだ。私も笑ひ出した。そして、門出だから、と言ひつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥しさうに蒲団から右手を出した。私は低く声を立てて笑ひながら、二三度弟の力ない指をゆすぶつた。 しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかつた。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしてゐるやうな恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果を添へようためのものでしかないのを、私は知つてゐた。じじつその通りだつたのである。 四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰つた。うはべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであつたが、みよを見せたい心も私にあつて、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないやうに祈つた。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだつたから、私の友のやうに金釦のふたつしかない上着などを着てはゐなかつたのである。 裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鶏舎が建てられてゐて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかば二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられてゐた。ひろい扉が東側と北側に二つもついてゐたし、南側にも洋ふうの開窓があつて、それを皆いつぱいに明け放すと風がどんどんはひつて来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでゐるのだ。まはりには雑草がむかしのままに生えしげつてゐて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでゐた。 私たち三人はひるめしどきを楽しみにしてゐた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であつたのである。みよでない女中が来れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした。みよが来ると、みんなしんとなつた。そして、みよが立ち去るといつせいに吹き出したものであつた。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしてゐたが、ひるになつて、けふは誰が来るだらう、といつものやうに皆で語り合つた。弟だけは話からはづれて、窓ぎはをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記してゐた。私たちは色んな冗談を言つて、書物を投げつけ合つたり足踏して床を鳴らしてゐたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎて了つた。私は弟をも仲間にいれたく思つて、お前はさつきから黙つてゐるが、さては、と唇を軽くかんで弟をにらんでやつたのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振つた。持つていた単語のカアドが二三枚ぱつと飛び散つた。私はびつくりして視線をかへた。そのとつさの間に私は気まづい断定を下した。みよの事はけふ限りよさうと思つた。それからすぐ、なにごともなかつたやうに笑ひ崩れた。 その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかつた。母屋へ通る豆畑のあひだの狭い道を、てんてんと一列につらなつて歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしやぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとつた。 犠牲などといふことは始めから考へてなかつた。ただいやだつたのだ。ライラツクの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にその悪戯者が肉親であるのがいつそういやであつた。 それからの二三日は、さまざまに思ひなやんだ。みよだつて庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にほとんど当惑した。要するに私はめでたいのではないだらうか。私にとつて、めでたいといふ事ほどひどい恥辱はなかつたのである。 おなじころ、よくないことが続いて起つた。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといつしよに食卓へ向つてゐたが、その傍でみよが、紅い猿の面の絵団扇でぱさぱさと私たちをあふぎながら給仕してゐた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこつそり計つてゐたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあふいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちつとフオクを置いた。 みんなして私をいぢめるのだ、と思ひ込んだ。友人たちだつてまへから知つてゐたに違ひない、と無闇に人を疑つた。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめてゐた。 また二三日たつて、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん箱にはひつて残つてゐるのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あとで気がついてうろたへて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかつたのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたらう、と叱るやうにして聞いた。みよは真面目な顔をして首を振つた。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつつこんだ。金色の二つの蝙蝠が飛んでゐる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。 私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まへからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思ふとやはり気がふさがつて、みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかへた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与へることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言ひつけた。そして、みよが私の部屋へはひつて来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばつた。その頃になつて私の顔の吹出物もどうやら直つてゐたが、それでも惰性で、私はなにかと顔をこしらへてゐた。私はその蓋のおもてに蔦のやうな長くくねつた蔓草がいつぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持つてゐた。それでもつて私のきめを時折うめてゐたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである。 これからはもう、みよの決心しだいであると思つた。しかし、機会はなかなか来なかつたのである。番小屋で勉強してゐる間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ帰つた。殆どあらつぽい程ばたんばたんとはき掃除してゐるみよの姿を、そつと眺めては唇をかんだ。 そのうちにたうとう夏やすみも終りになつて、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなつた。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くやうな何か鳥渡した思ひ出だけでも、みよの心に植ゑつけたいと念じたが、それも駄目であつた。 出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立つてゐた。みよは、私の方も弟の方も、見なかつた。はずした萌黄のたすきを珠数のやうに両手でつまぐりながら下ばかりを向いてゐた。いよいよ馬車が動き出してもさうしてゐた。私はおほきい心残りを感じて故郷を離れたのである。 秋になつて、私はその都会から汽車で三十分ぐらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追われてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた、日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたやうにしてゐた。私は友人たちと必ずピクニツクにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。 私はこの友人たちと一日でも会はなかつたら淋しいのだ。そのころの事であるが、或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが偶然にも私の仁侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒つた。その日の放課後、四年生全部が博物教室へ集つて、その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあつた。私は狼狽した。もし私一個人のためを思つてストライキをするのだつたら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでゐない、事件は簡単なのだ、簡単なのだ、と生徒たちに頼みまはつた。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言つた。私は息苦しくなつて、その教室から出て了つた。温泉場の家へ帰つて、私はすぐ湯にはひつた。野分にたたかれて破れつくした二三枚の芭蕉の葉が、その庭の隅から湯槽のなかへ青い影を落してゐた。私は湯槽のふちに腰かけながら生きた気もせず思ひに沈んだ。 恥しい思ひ出に襲はれるときにはそれを振りはらうために、ひとりして、さて、と呟く癖が私にあつた。簡単なのだ、簡単なのだ、と囁いて、あちこちをうろうろしてゐた自身の姿を想像して私は、湯を掌で掬つてはこぼし掬つてはこぼししながら、さて、さて、と何回も言つた。 あくる日、その教師が私たちにあやまつて、結局ストライキは起らなかつたし、友人たちともわけなく仲直り出来たけれど、この災難は私を暗くした。みよのことなどしきりに思ひ出された。つひには、みよと会はねば自分がこのまま堕落してしまひさうにも、考へられたのである。 ちやうど母も姉も湯治からかへることになつて、その出立の日が、あたかも土曜日であつたから、私は母たちを送つて行くといふ名目で、故郷へ戻ることが出来た。友人たちには秘密にしてこつそり出掛けたのである。弟にも帰郷のほんとのわけは言はずに置いた。言はなくても判つてゐるのだと思つてゐた。 みんなでその温泉場を引きあげ、私たちの世話になつてゐる呉服商へひとまず落ちつき、それから母と姉と三人で故郷へ向つた。列車がプラツトフオムを離れるとき、見送りに来てゐた弟が、列車の窓から青い富士額を覗かせて、がんばれ、とひとこと言つた。私はそれをうつかり素直に受けいれて、よしよし、と気嫌よくうなづいた。 馬車が隣村を過ぎて、次第にうちへ近づいて来ると、私はまつたく落ちつかなかつた。日が暮れて、空も山もまつくらだつた。稲田が秋風に吹かれてさらさらと動く声に、耳傾けては胸を轟かせた。絶えまなく窓のそとの闇に眼をくばつて、道ばたのすすきのむれが白くぽつかり鼻先に浮ぶと、のけぞるくらゐびつくりした。 玄関のほの暗い軒燈の下でうちの人たちがうようよ出迎へてゐた。馬車がとまつたとき、みよもばたばた走つて玄関から出て来た。寒さうに肩を丸くすぼめてゐた。 その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に淋しいことを考へた。凡俗といふ観念に苦しめられたのである。みよのことが起つてからは、私もたうとう莫迦になつて了つたのではないか。女を思ふなど、誰にでもできることである。しかし、私のはちがふ、ひとくちには言へぬがちがふ。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思ふほどの者は誰でもさう考へてゐるのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張つた。私の場合には思想がある! 私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思ひ、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡俗でない、やはり私はこの世のかなりな単位にちがひないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかつた。淋しさが、どこから来るのか判らなかつた。どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすつかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかつたのである。 朝、眼をさますと、秋空がたかく澄んでゐた。私は早くから起きて、むかひの畑へ葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて来させた。私はできるだけ気軽なふうでみよにさう言ひつけたのだから、誰にも怪しまれなかつたのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあつて、十坪ぐらゐの大きさにひろがつてゐた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと囲つた。私たちは片すみの小さい潜戸をあけて、かこひの中へはひつた。なかは、ほつかりと暖かつた。二三匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言つて飛んでゐた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、まわりのよしずを透して明るくさしてゐて、みよの姿もうすみどりいろに見えた。ここへ来る途中には、私もあれこれと計画して、悪党らしく口まげて微笑んだりしたのであつたが、かうしてたつた二人きりになつて見ると、あまりの気づまりから殆ど不気嫌になつて了つた。私はその板の潜戸をさへわざとあけたままにしてゐたものだ。 私は背が高かつたから、踏台なしに、ぱちんぱちんと植木鋏で葡萄のふさを摘んだ。そして、いちいちそれをみよへ手渡した。みよはその一房一房の朝露を白いエプロンで手早く拭きとつて、下の籠にいれた。私たちはひとことも語らなかつた。永い時間のやうに思はれた。そのうちに私はだんだん怒りつぽくなつた。葡萄がやつと籠いつぱいにならうとするころ、みよは、私の渡す一房へ差し伸べて寄こした片手を、ぴくつとひつこめた。私は、葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打した。 みよは、右手の附根を左手できゆつと握つていきんでゐた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしさうに眼を細めた。ばか、と私は叱つて了つた。みよは黙つて、笑つてゐた。これ以上私はそこにゐたたまらなかつた。くすりつけてやる、と言つてそのかこひから飛び出した。すぐ母屋へつれて帰つて、私はアンモニアの瓶を帳場の薬棚から捜してやつた。その紫の硝子瓶を、出来るだけ乱暴にみよへ手渡したきりで、自分で塗つてやらうとはしなかつた。 その日の午後に、私は、近ごろまちから新しく通ひ出した灰色の幌のかかつてあるそまつな乗合自動車にゆすぶられながら、故郷を去つた。うちの人たちは馬車で行け、と言つたのだが、定紋のついて黒くてかてか光つたうちの箱馬車は、殿様くさくて私にはいやだつたのである。私は、みよとふたりして摘みとつた一籠の葡萄を膝の上にのせて、落葉のしきつめた田舎道を意味ふかく眺めた。私は満足してゐた。あれだけの思ひ出でもみよに植ゑつけてやつたのは私として精いつぱいのことである、と思つた。みよはもう私のものにきまつた、と安心した。 そのとしの冬やすみは、中学生としての最後の休暇であつたのである。帰郷の日のちかくなるにつれて、私と弟とは幾分の気まづさをお互ひに感じてゐた。 いよいよ共にふるさとの家へ帰つて来て、私たちは先ず台所の石の炉ばたに向ひあつてあぐらをかいて、それからきよろきよろとうちの中を見わたしたのである。みよがいないのだ。私たちは二度も三度も不安な瞳をぶつつけ合つた。その日、夕飯をすませてから、私たちは次兄に誘はれて彼の部屋へ行き、三人して火燵にはひりながらトランプをして遊んだ。私にはトランプのどの札もただまつくろに見えてゐた。話の何かいいついでがあつたから、思ひ切つて次兄に尋ねた。女中がひとり足りなくなつたやうだが、と手に持つてゐる五六枚のトランプで顔を被ふやうにしつつ、余念なささうな口調で言つた。もし次兄が突つこんで来たら、さいはい弟も居合せてゐることだし、はつきり言つてしまはうと心をきめてゐた。 次兄は、自分の手の札を首かしげかしげしてあれこれと出し迷ひながら、みよか、みよは婆様と喧嘩して里さ戻つた、あれは意地つぱりだぜえ、と呟いて、ひらつと一枚捨てた。私も一枚投げた。弟も黙つて一枚捨てた。 それから四五日して、私は鶏舎の番小屋を訪れ、そこの番人である小説の好きな青年から、もつとくはしい話を聞いた。みよは、ある下男にたつたいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにゐたたまらなくなつたのだ。男は、他にもいろいろ悪いことをしたので、そのときは既に私のうちから出されてゐた。それにしても、青年はすこし言ひ過ぎた。みよは、やめせ、やめせ、とあとで囁いた、とその男の手柄話まで添へて。 正月がすぎて、冬やすみも終りに近づいた頃、私は弟とふたりで、文庫蔵へはひつてさまざまな蔵書や軸物を見てあそんでゐた。高いあかり窓から雪の降つてゐるのがちらちら見えた。父の代から長兄の代にうつると、うちの部屋部屋の飾りつけから、かういふ蔵書や軸物の類まで、ひたひたと変つて行くのを、私は帰郷の度毎に、興深く眺めてゐた。私は長兄がちかごろあたらしく求めたらしい一本の軸物をひろげて見てゐた。山吹が水に散つてゐる絵であつた。弟は私の傍へ、大きな写真箱を持ち出して来て、何百枚もの写真を、冷くなる指先へときどき白い息を吐きかけながら、せつせと見てゐた。しばらくして、弟は私の方へ、まだ台紙の新しい手札型の写真をいちまいのべて寄こした。見ると、みよが最近私の母の供をして、叔母の家へでも行つたらしく、そのとき、叔母と三人してうつした写真のやうであつた。母がひとり低いソフアに座つて、そのうしろに叔母とみよが同じ背たけぐらゐで並んで立つてゐた。背景は薔薇の咲き乱れた花園であつた。私たちは、お互ひの頭をよせつつ、なお鳥渡の間その写真に眼をそそいだ。私は、こころの中でとつくに弟と和解をしてゐたのだし、みよのあのことも、ぐづぐづして弟にはまだ知らせてなかつたし、わりにおちつきを装つてその写真を眺めることが出来たのである。みよは、動いたらしく顔から胸にかけての輪廓がぼつとしてゐた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしさうにしてゐた。私は、似てゐると思つた。 魚服記 一 本州の北端の山脈は、ぼんじゆ山脈といふのである。せいぜい三四百米ほどの丘陵が起伏してゐるのであるから、ふつうの地図には載つてゐない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であつたさうで、義経が家来たちを連れて北へ北へと亡命して行つて、はるか蝦夷の土地へ渡らうとここを船でとほつたといふことである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたつた跡がいまでも残つてゐる。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一畝歩ぐらゐの赤土の崖がそれなのであつた。 小山は馬禿山と呼ばれてゐる。ふもとの村から崖を眺めるとはしつてゐる馬の姿に似てゐるからと言ふのであるが、事実は老ひぼれた人の横顔に似てゐた。 馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いつそう此の地方で名高いのである。麓の村は戸数もわずか二三十でほんの寒村であるが、その村はづれを流れてゐる川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちてゐる。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎはふのであつた。滝の下には、ささやかな茶店さへ立つのである。 ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。故意に飛び込んだのではなくて、まつたくの過失からであつた。植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍らしい羊歯類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。 滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛みつつ流れ出てゐた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れてゐた。羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えてゐて、滝のとどろきにしじゆうぶるぶるとそよいでゐるのであつた。 学生はこの絶壁によぢのぼつた。ひるすぎのことであつたが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残つてゐた。学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしてゐた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。崖から剥ぎ取られたやうにすつと落ちた。途中で絶壁の老樹の枝にひつかかつた。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵へたたきこまれた。 滝の付近に居合せた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にゐる十五になる女の子が一番はつきりとそれを見た。 いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらつと上半身が水面から躍りあがつた。眼をつぶつて口を小さくあけてゐた。青色のシヤツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかつてゐた。 それきりまたぐつと水底へ引きずりこまれたのである。 二 春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇つてゐるのが、ずゐぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には精気が多くて炭をこさへるのに適してゐるから、炭を焼く人達も忙しいのである。 馬禿山には炭焼小屋が十いくつある。滝の傍にもひとつあつた。此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられてゐた。小屋の人がちがふ土地のものであつたからである。茶店の女の子はその小屋の娘であつて、スワといふ名前である。父親とふたりで年中そこへ寝起してゐるのであつた。 スワが十三の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらへた。ラムネと塩せんべいと水無飴とそのほか二三種の駄菓子をそこへ並べた。 夏近くなつて山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠へ入れて茶店迄はこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行つた。父親はすぐ炭小屋へ帰つてゆくが、スワは一人ゐのこつて店番するのであつた。遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がさう言へと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかへさすことさへ出来なかつた。一日五十銭と売りあげることがなかつたのである。 黄昏時になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎へに来た。 「なんぼ売れた。」 「なんも。」 「そだべ、そだべ。」 父親はなんでもなささうに呟きながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまひ込んで、炭小屋へひきあげる。 そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。 スワを茶店にひとり置いても心配はなかつた。山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはづしたり滝壺へ吸ひこまれたりする気づかひがないのであつた。天気が良いとスワは裸身になつて滝壺のすぐ近くまで泳いで行つた。泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちやけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。 雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶつて昼寝をした。茶店の上には樫の大木がしげつた枝をさしのべてゐていい雨よけになつた。 つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきつとなくなつて了ふにちがひない、と期待したり、滝の形はどうしてかういつも同じなのだらう、といぶかしがつたりしてゐたものであつた。 それがこのごろになつて、すこし思案ぶかくなつたのである。 滝の形はけつして同じでないといふことを見つけた。しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変つてゐるのがわかつた。果ては、滝は水でない、雲なのだ、といふことも知つた。滝口から落ちると白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思つたのである。 スワはその日もぼんやり滝壺のかたはらに佇んでゐた。曇つた日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしてゐるのだ。 むかしのことを思ひ出してゐたのである。いつか父親がスワを抱いて炭窯の番をしながら語つてくれたが、それは、三郎と八郎といふきこりの兄弟があつて、弟の八郎が或る日、谷川でやまべといふさかなを取つて家へ持つて来たが、兄の三郎がまだ山からかへらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。食つてみるとおいしかつた。二匹三匹とたべてもやめられないで、たうとうみんな食つてしまつた。さうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなつた。井戸の水をすつかりのんで了つて、村はずれの川端へ走つて行つて、又水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗が吹き出た。三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇になつて川を泳いでゐた。八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたへた。兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合つたけれど、どうする事も出来なかつたのである。 スワがこの物語を聞いた時には、あはれであはれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。 スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻きわけながら出て来た。 「スワ、なんぼ売れた。」 スワは答へなかつた。しぶきにぬれてきらきら光つてゐる鼻先を強くこすつた。父親はだまつて店を片づけた。 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。 「もう店しまふべえ。」 父親は手籠を右手から左手へ持ちかへた。ラムネの瓶がからから鳴つた。 「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ。」 日が暮れかけると山は風の音ばかりだつた。楢や樅の枯葉が折々みぞれのやうに二人のからだへ降りかかつた。 「お父。」 スワは父親のうしろから声をかけた。 「おめえ、なにしに生きでるば。」 父親は大きい肩をぎくつとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。 「判らねじや。」 スワは手にしてゐたすすきの葉を噛みさきながら言つた。 「くたばつた方あ、いいんだに。」 父親は平手をあげた。ぶちのめさうと思つたのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立つて来たのをとうから見抜いてゐたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになつたからだな、と考へてそのときは堪忍してやつたのであつた。 「そだべな、そだべな。」 スワは、さういふ父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべつべつと吐き出しつつ、 「阿呆、阿呆。」 と呶鳴つた。 三 ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。 父親はこのころから四五日置きに炭を背負つて村へ売りに出た。人をたのめばいいのだけれど、さうすると十五銭も二十銭も取られてたいしたつひえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであつた。 スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈をさがしに出かけるのである。父親のこさへる炭は一俵で五六銭も儲けがあればいい方だつたし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持つて行くことにしてゐた。 なめこといふぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかつた。それは羊歯類の密生してゐる腐木へかたまつてはえてゐるのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たつた一人のともだちのことを追想した。蕈のいつぱいつまつた籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持つて帰るのが好きであつた。 父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまつて酒くさいいきをしてかへつた。たまにはスワヘも鏡のついた紙の財布やなにかを買つて来て呉れた。 凩のために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられてゐた日であつた。父親は早暁から村へ下りて行つたのである。 スワは一日ぢゆう小屋へこもつてゐた。めづらしくけふは髪をゆつてみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚火をうんと燃やして父親の帰るのを待つた。木々のさわぐ音にまじつてけだものの叫び声が幾度もきこえた。 日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食つた。くろいめしに焼いた味噌をかてて食つた。 夜になると風がやんでしんしんと寒くなつた。こんな妙に静かな晩には山できつと不思議が起るのである。天狗の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあづきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人の笑ひ声がはつきり響いて来たりするのであつた。 父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまつた。うとうと眠つてゐるとときどきそつと入口のむしろをあけて覗き見するものがあるのだ。山人が覗いてゐるのだ、と思つて、じつと眠つたふりをしてゐた。 白いもののちらちら入口の土間へ舞ひこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。 疼痛。からだがしびれるほど重かつた。ついであのくさい呼吸を聞いた。 「阿呆。」 スワは短く叫んだ。 ものもわからず外へはしつて出た。 吹雪! それがどつと顔をぶつた。思はずめためた座つて了つた。みるみる髪も着物もまつしろになつた。 スワは起きあがつて肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉みくちやにされてゐた。どこまでも歩いた。 滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水洟を何度も拭つた。ほとんど足の真下で滝の音がした。 狂い唸る冬木立の、細いすきまから、 「おど!」 とひくく言つて飛び込んだ。 四 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟きが幽かに感じられた。ずつと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかつた。 ははあ水の底だな、とわかると、やたらむしようにすつきりした。さつぱりした。 ふと、両脚をのばしたら、すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやふく岸の岩角へぶつつからうとした。 大蛇! 大蛇になつてしまつたのだと思つた。うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、とひとりごとを言つて口ひげを大きくうごかした。 小さな鮒であつたのである。ただ口をぱくぱくとやつて鼻さきの疣をうごめかしただけのことであつたのに。 鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまはつた。胸鰭をぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思ふと、つと尾鰭をつよく振つて底深くもぐりこんだ。 水のなかの小えびを追つかけたり、岸辺の葦のしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすつたりして遊んでゐた。 それから鮒はじつとうごかなくなつた。時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考へてゐるらしかつた。しばらくさうしてゐた。 やがてからだをくねらせながらまつすぐに滝壺へむかつて行つた。たちまち、くるくると木の葉のやうに吸ひこまれた。 列車 一九二五年に梅鉢工場といふ所でこしらへられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌づつと、ほかに郵便やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に、ざつと二百名からの旅客と十万を越える通信とそれにまつはる幾多の胸痛む物語とを載せ、雨の日も風の日も午後の二時半になれば、ピストンをはためかせて上野から青森へ向けて走つた。時に依つて万歳の叫喚で送られたり、手巾で名残を惜まれたり、または嗚咽でもつて不吉な餞を受けるのである。列車番号は一〇三。 番号からして気持が悪い。一九二五年からいままで、八年も経つてゐるが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。げんに私が此の列車のため、ひどくからい目に遭はされた。 つい昨年の冬、汐田がテツさんを国元へ送りかへした時のことである。 テツさんと汐田とは同じ郷里で幼いときからの仲らしく、私も汐田と高等学校の寮でひとつ室に寝起してゐた関係から、折にふれてはこの恋愛を物語られた。テツさんは貧しい育ちの娘であるから、少々内福な汐田の家では二人の結婚は不承知であつて、それゆゑ汐田は彼の父親と、いくたびとなく烈しい口論をした。その最初の喧嘩の際、汐田は卒倒せん許りに興奮して、しまひに、滴々と鼻血を流したのであるが、そのやうな愚直な挿話さへ、年若い私の胸を異様に轟かせたものだ。 そのうちに私も汐田も高等学校を出て、一緒に東京の大学へはひつた。それから三年経つてゐる。この期間は、私にとつては困難なとしつきであつたけれども、汐田にはそんなことがなかつたらしく、毎日をのうのうと暮してゐたやうであつた。私の最初間借してゐた家が大学のぢき近くにあつたので、汐田は入学当時こそほんの二三回そこへ寄つて呉れたが、環境も思想も音を立てつつ離叛して行つてゐる二人には、以前のやうなわけへだて無い友情はとても望めなかつたのだ。私のひがみからかも知れないが、あのとき若し、テツさんの上京さへなかつたら、汐田はきつと永久に私から遠のいて了ふつもりであつたらしい。 汐田は私とむつまじい交渉を絶つてから三年目の冬に、突然、私の郊外の家を訪れてテツさんの上京を告げたのである。テツさんは汐田の卒業を待ち兼ねて、ひとりで東京へ逃げて来たのであつた。 そのころには私も或る無学な田舎女と結婚してゐたし、いまさら汐田のその出来事に胸をときめかすやうな、そんな若やいだ気持を次第にうしなひかけてゐた矢先であつたから、汐田のだしぬけな来訪に幾分まごつきはしたが、彼のその訪問の底意を見抜く事を忘れなかつた。そんな一少女の出奔を知己の間に言ひふらすことが、彼の自尊心をどんなに満足させたか。私は彼の有頂天を不愉快に感じ、彼のテツさんに対する真実を疑ひさへした。私のこの疑惑は無残にも的中してゐた。彼は私にひとしきり、狂喜し感激して見せた揚句、眉間に皺を寄せて、どうしたらいいだらう? といふ相談を小声で持ちかけたではないか。私は最早、そのやうなひまな遊戯には同情が持てなかつたので、君も利巧になつたね、君がテツさんに昔程の愛を感じられなかつたなら、別れるほかはあるまい、と汐田の思ふつぼを直截に言つてやつた。汐田は、口角にまざまざと微笑をふくめて、しかし、と考へ込んだ。 それから四五日して私は汐田から速達郵便を受け取つた。その葉書には、友人たちの忠告もあり、お互ひの将来のためにテツさんをくにへ返す、あすの二時半の汽車で帰る筈だ、といふ意味のことがらが簡単に認められてゐた。私は頼まれもせぬのに、テツさんを見送つてやらうと即座に覚悟をきめた。私にはそんな軽はずみなことをしがちな悲しい習性があつたのである。 あくる日は朝から雨が降つてゐた。 私はしぶる妻をせきたてて、一緒に上野駅へ出掛けた。 一〇三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待つてゐた。私たちは列車の窓をひとつひとつたんねんに捜して歩いた。テツさんは機関車のすぐ隣の三等客車に席をとつてゐた。三四年まへに汐田の紹介でいちど逢つたことがあるけれども、あれから見ると顔の色がたいへん白くなつて、頤のあたりもふつくりとふとつてゐるのであつた。テツさんも私の顔を忘れずにゐて呉れて、私が声をかけたら、すぐ列車の窓から半身乗り出して嬉しさうに挨拶をかへしたのである。私はテツさんに妻を引き合せてやつた。私がわざわざ妻を連れて来たのは妻も亦テツさんと同じやうに貧しい育ちの女であるから、テツさんを慰めるにしても、私などよりなにかきつと適切な態度や言葉をもつてするにちがひないと独断したからであつた。しかし、私はまんまと裏切られたのである。テツさんと妻は、お互に貴婦人のやうなお辞儀を無言で取り交しただけであつた。私は、まのわるい思ひがして、なんの符号であらうか客車の横腹へしろいペンキで小さく書かれてあるスハフ134273といふ文字のあたりをこつこつと洋傘の柄でたたいたものだ。 テツさんと妻は天候について二言三言話し合つた。その対話がすんで了ふと、みんなは愈々手持ぶさたになつた。テツさんは、窓縁につつましく並べて置いた丸い十本の指を矢鱈にかがめたり伸ばしたりしながら、ひとつ処をじつと見つめてゐるのであつた。私はそのやうな光景を見て居れなかつたので、テツさんのところからこつそり離れて、長いプラツトフオムをさまよひ歩いたのである。列車の下から吐き出されるスチイムが冷い湯気となつて、白々と私の足もとを這ひ廻つてゐた。 私は電気時計のあたりで立ちどまつて、列車を眺めた。列車は雨ですつかり濡れて、黝く光つてゐた。 三輌目の三等客車の窓から、思ひ切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへおろおろ会釈してゐる蒼黒い顔がひとつ見えた。その頃日本では他の或る国と戦争を始めてゐたが、それに動員された兵士であらう。私は見るべからざるものを見たやうな気がして、窒息しさうに胸苦しくなつた。 数年まえ私は或る思想団体にいささかでも関係を持つたことがあつて、のちまもなく見映えのせぬ申しわけを立ててその団体と別れてしまつたのであるが、いま、かうして兵士を目の前に凝視し、また、恥かしめられ汚されて帰郷して行くテツさんを眺めては、私のあんな申しわけが立つ立たぬどころでないと思つたのである。 私は頭の上の電気時計を振り仰いだ。発車まで未だ三分ほど間があつた。私は堪らない気持がした。誰だつてさうであらうが、見送人にとつて、この発車前の三分間ぐらい閉口なものはない。言ふべきことは、すつかり言ひつくしてあるし、ただむなしく顔を見合せてゐるばかりなのである。まして今のこの場合、私はその言ふべき言葉さへなにひとつ考へつかずにゐるではないか。妻がもつと才能のある女であつたならば、私はまだしも気楽なのであるが、見よ、妻はテツさんの傍にゐながら、むくれたやうな顔をして先刻から黙つて立ちつくしてゐるのである。私は思ひ切つてテツさんの窓の方へあるいて行つた。 発車が間近いのである。列車は四百五十哩の行程を前にしていきりたち、プラツトフオムは色めき渡つた。私の胸には、もはや他人の身の上まで思ひやるやうな、そんな余裕がなかつたので、テツさんを慰めるのに「災難」といふ無責任な言葉を使つたりした。しかし、のろまな妻は列車の横壁にかかつてある青い鉄札の、水玉が一杯ついた文字を此頃習ひたてのたどたどしい智識でもつて、FOR A-O-MO-RIとひくく読んでゐたのである。 地球図 ヨワン榎は伴天連ヨワン・バツテイスタ・シロオテの墓標である。切支丹屋敷の裏門をくぐつてすぐ右手にそれがあつた。いまから二百年ほどむかしに、シロオテはこの切支丹屋敷の牢のなかで死んだ。彼のしかばねは、屋敷の庭の片隅にうづめられ、ひとりの風流な奉行がそこに一本の榎を植ゑた。榎は根を張り枝をひろげた。としを経て大木になり、ヨワン榎とうたはれた。 ヨワン・バツテイイスタ・シロオテは、ロオマンの人であつて、もともと名門の出であつた。幼いときからして天主の法をうけ、学に従ふこと二十二年、そのあひだ十六人もの先生についた。三十六歳のとき、本師キレイメンス十二世からヤアパンニアに伝道するやう言ひつけられた。西暦一千七百年のことである。 シロオテは、まず日本の風俗と言葉とを勉強した。この勉強に三年かかつたのである。ヒイタサントオルムといふ日本の風俗を記した小冊子と、デキシヨナアリヨムといふ日本の単語をいちいちロオマンの単語でもつて翻訳してある書物と、この二冊で勉強したのであつた。ヒイタサントオルムのところどころには、絵をゑがきいれた頁がさしはさまれてゐた。 三年研究して自信のついたころ、やはりおなじ師命をうけてペツケンにおもむくトオマス・テトルノンといふ人と、めいめいカレイ一隻づつに乗りつれ、東へ進んだ。ヤネワを経て、カナアリヤに至り、ここでまたフランスヤの海舶一隻づつに乗りかへ、たうとうロクソンに着いた。ロクソンの海岸に船をつなぎ、ふたりは上陸した。トオマス・テトルノンは、すぐシロオテと別れてペツケンヘむかつたが、シロオテはひとりゐのこつて、くさぐさの準備をととのへた。ヤアパンニアは近いのである。 ロクソンには日本人の子孫が三千人もゐたので、シロオテにとつて何かと便利であつた。シロオテは所持の貨幣を黄金に換へた。ヤアパンニアでは黄金を重宝にするといふ噂話を聞いたからであつた。日本の衣服をこしらへた。碁盤のすぢのやうな模様がついた浅黄いろの木綿着物であつた。刀も買つた。刃わたり二尺四寸余の長さであつた。 やがてシロオテはロクソンより日本へ向つた。海上たちまちに風逆し、波あらく、航海は困難であつた。船が三たびも覆りかけたのである。ロオマンをあとにして三年目のことであつた。 宝永五年の夏のをはりごろ、大隅の国の屋久島から三里ばかり距てた海の上に、見なれぬ船の大きいのが一隻うかんでゐるのを、漁夫たちが見つけた。また、その日の黄昏時、おなじ島の南にあたる尾野間といふ村の沖に、たくさんの帆をつけた船が、小舟を一隻引きながら、東さしてはしつて行くのを、村の人たちが発見し、海岸へ集つて罵りさわいだが、漸く沖合ひのうすぐらくなるにつれ、帆影は闇の中へ消えた。そのあくる朝、尾野間から二里ほど西の湯泊といふ村の沖のかなたに、きのふの船らしいものが見えたが、強い北風をいつぱい帆にはらみつつ、南をさしてみるみる疾航し去つた。 その日のことである。屋久島の恋泊村の藤兵衛といふ人が、松下といふところで炭を焼くための木を伐つてゐると、うしろの方で人の声がした。ふりむくと、刀をさしたさむらひが、夏木立の青い日影を浴びて立つてゐた。シロオテである。髪を剃つてさかやきをこしらへてゐた。あの浅黄色の着物を着て、刀を帯び、かなしい眼をして立つてゐた。 シロオテは片手あげておいでおいでをしつつ、デキシヨナアリヨムで覚えた日本の言葉を二つ三つ歌つた。しかし、それは不思議な言葉であつた。デキシヨナアリヨムが不完全だつたのである。藤兵衛は幾度となく首を振つて考へた。言葉より動作が役に立つた。シロオテは両手で水を掬つて呑む真似を、烈しく繰り返した。藤兵衛は持ち合せの器に水を汲んで、草原の上にさし置き、いそいで後ずさりした。シロオテはその水を一息に呑んでしまつて、またおいでおいでをした。藤兵衛はシロオテの刀をおそれて近よらなかつた。シロオテは藤兵衛の心をさとつたと見えて、やがて刀を鞘ながら抜いて差し出し、また、あやしい言葉を叫ぶのであつた。藤兵衛は身をひるがへして逃げた。きのふの大船のものにちがひない、と気附いたのである。磯辺に出て、かなたこなたを見廻したが、あの帆掛船の影も見えず、また、他に人のゐるけはひもなかつた。引返して村へ駈けこんで、安兵衛といふ人にたのみ、奇態なものを見つけたゆゑ、参り呉れるやう、村中へ触れさせた。 かうしてシロオテは、ヤアパンニアの土を踏むか踏まぬかのうちに、その変装を見破られ、島の役人に捕へられた。ロオマンで三年のとしつき日本の風俗と言葉とを勉強したことが、なんのたしにもならなかつたのである。 シロオテは、長崎へ護送された。伴天連らしきものとして長崎の獄舎に置かれたのである。しかし、長崎の奉行たちは、シロオテを持てあましてしまつた。阿蘭陀の通事たちに、シロオテの日本へ渡つて来たわけを調べさせたけれど、シロオテの言葉が日本語のやうではありながら発音やアクセントの違ふせゐか、エド、ナンガサキ、キリシタン、などの言葉しか聞きわけることができなかつたのである。阿蘭陀人を背教者の故をもつてか、ずゐぶん憎がつてゐるやうな素振りも見えるので、阿蘭陀人をして直接シロオテと対談させることもならず、奉行たちはたいへん困つた。ひとりの奉行は、一策として、法廷のうしろの障子の陰にふとつた阿蘭陀人をひそませて置いて、シロオテを訊問してみた。ほかの奉行たちも、これをいい思ひつきであるとして期待した。さて、奉行とシロオテとは、わけの判らぬ問答をはじめた。シロオテは、いかにもしてその思ふところを言ひあらはし自分の使命を了解させたいとむなしい苦悶をしてゐるやうであつた。よい加減のところで訊問を切りあげてから、奉行たちは障子のかげの阿蘭陀人に、どうだ、と尋ねた。阿蘭陀人は、とんとわからぬ、と答へた。だいいち阿蘭陀人には、ロオマンの言葉がわからぬうへに、まして、その言ふところは半ば日本の言葉もまじつてゐるのであるから、猶々、聞きわけることがむづかしかつたのであらう。 長崎では、たうとう訊問に絶望して、このことを江戸へ上訴した。江戸でこの取調べに当つたのは、新井白石である。 長崎の奉行たちがシロオテを糺問して失敗したのは宝永五年の冬のことであるが、そのうちに年も暮れて、あくる寛永六年の正月に将軍が死に、あたらしい将軍が代つてなつた。さういふ大きなさわぎのためにシロオテは忘れられてゐた。やうやうその年の十一月のはじめになつて、シロオテは江戸へ召喚された。シロオテは長崎から江戸までの長途を駕籠にゆられながらやつて来た。旅のあひだは、来る日も来る日も、焼栗四つ、蜜柑二つ、干柿五つ、丸柿二つ、パン一つを役人から与へられて、わびしげに食べてゐた。 新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしてゐた。白石は言葉について心配をした。とりわけ、地名や人名または切支丹の教法上の術語などには、きつとなやまされるであらうと考へた。白石は、江戸小日向にある切支丹屋敷から蛮語に関する文献を取り寄せて、下調べをした。 シロオテは、程なく江戸に到着して切支丹屋敷にはひつた。十一月二十二日をもつて訊問を開始するやうにきめた。ときの切支丹奉行は横田備中守と柳沢八郎右衛門のふたりであつた。白石は、まへもつてこの人たちと打ち合せをして置いて、当日は朝はやくから切支丹屋敷に出掛けて行き、奉行たちと共に、シロオテの携へて来た法衣や貨幣や刀やその他の品物を検査し、また、長崎からシロオテに付き添ふて来た通事たちを招き寄せて、たとへばいま、長崎のひとをして陸奥の方言を聞かせたとしても、十に七八は通じるであらう、ましてイタリヤと阿蘭陀とは、私が万国の図を見てしらべたところに依ると、長崎陸奥のあひだよりは相さること近いのであるから、阿蘭陀の言葉でもつてイタリヤの言葉を押しはかることもさほどむづかしいとは思はれぬ、私もその心して聞かう故、かたがたもめいめいの心に推しはかり、思ふところを私に申して呉れ、たとへかたがたの推量にひがごとがあつても、それは咎むべきでない、奉行の人たちも通事の誤訳を罪せぬやう、と諭した。人々は、承知した、と答へて審問の席に臨んだ。そのときの大通事は今村源右衛門。稽古通事は品川兵次郎、嘉福喜蔵。 その日のひるすぎ、白石はシロオテと会見した。場所は切支丹屋敷内であつて、その法廷の南面に板縁があり、その縁ちかくに奉行の人たちが着席し、それより少し奥の方に白石が座つた。大通事は板縁の上、西に跪き、稽古通事ふたりは板縁の上、東に跪いた。縁から三尺ばかり離れた土間に榻を置いてシロオテの席となした。やがて、シロオテは獄中から輿ではこばれて来た。長い道中のために両脚が萎えてかたはになつてゐたのである。歩卒ふたり左右からさしはさみ助けて、榻につかせた。 シロオテのさかやきは伸びてゐた。薩州の国守からもらつた茶色の綿入れ着物を着てゐたけれど、寒さうであつた。座につくと、静かに右手で十字を切つた。 白石は通事に言ひつけて、シロオテの故郷のことなど問はせ、自分はシロオテの答へる言葉に耳傾けてゐた。その語る言葉は、日本語にちがいなく、畿内、山陰、西南海道の方言がまじつてゐて聞きとりがたいところもあつたけれど、かねて思ひはかつてゐたよりは了解がやさしいのであつた。ヤアパンニアの牢のなかで一年をすごしたシロオテは、日本の言葉がすこし上手になつてゐたのである。通事との問答を一時間ほど聞いてから、白石みづから問ひもし答へもしてみて、その会話にやや自信を得た。白石は、万国の図を取り出して、シロオテのふるさとをたづね問うた。シロオテは板縁にひろげられたその地図を首筋のばして覗いてゐたがやがて、これは明人のつくつたもので意味のないものである、と言つて声たてて笑つた。地図の中央に薔薇の花のかたちをした大きい国があつて、それには「大明」と記入されてゐるのであつた。 この日は、それだけの訊問で打ち切つた。シロオテは、わづかの機会をもとらへて切支丹の教法を説かうと思つてか、ひどくあせつてゐるふうであつたが、白石はなぜか聞えぬふりをするのである。 あくる日の夜、白石は通事たちを自分のうちに招いて、シロオテの言うたことに就き、みんなに復習させた。白石は万国の図がはづかしめられたのを気にかけてゐた。切支丹屋敷にヲヲランド鏤版の古い図があるといふことを奉行たちから聞き、このつぎの訊問のときにはひとつそれをシロオテに見せてやるやう、言ひつけて散会した。 一日おいて二十五日に、白石は早朝から吟味所へつめかけた。午前十時ごろ、奉行の人たちもみんな出そろつて着席した。やがてシロオテも輿ではこばれてやつて来た。 けふは、だいいちばんに、あのヲヲランド鏤版の地図を板縁いつぱいにひろげて、かの地方のことを問ひただしたのである。地図のここかしこは破れて、虫に食はれた孔がそちこちにちらばつてゐた。シロオテはその図を暫く眺めてから、これは七十余年まへに作られたものであつて、いまでは、むかふの国でも得がたい好地図である、とほめた。ロオマンはどこであるか、と白石も膝をすすめて尋ねた。シロオテは、チルチヌスがあるか、と言つた。通事たちは、ない、と答へた。なにごとか、と白石は通事たちに聞いた。阿蘭陀語ではパツスルと申し、イタリヤ語ではコンパスと申すもののことである、と通事のひとりが教へた。白石は、コンパスといふものかどうか知らぬが、地図に用ありげな機械であるから、私がこの屋敷で見つけていま持つて来てある、と言ひつつ懐中から古びたコンパスを出して見せた。シロオテはそれを受けとり鳥渡の間いぢくりまはしてゐたが、これはコンパスにちがひないが、ねぢがゆるんで用に立たぬ、しかし、ないよりはましかも知れぬ、といふ意味のことを述べ、その地図のうちに計るべきところをこまかく図してあるところを見て、筆を求め、その字を写しとつてから、コンパスを持ち直してその分数をはかりとり、榻に座つたまま板縁の地図へずつと手をさしのばして、そのこまかく図してあるところより蜘蛛の網のやうに画かれた線路をたづねながら、かなたこなたヘコンパスを歩かせてゐるうちに、手のやつと届くやうなところへいつて、ここであらう、見給へ、と言ひコンパスをさし立てた。みんな頭を寄せて見ると、針の孔のやうな小さいまるにコンパスのさきが止つてゐた。通事のひとりは、そのまるのかたはらの蕃字をロオマンと読んだ。それから、阿蘭陀や日本の国々のあるところを問ふに、また、まへの法のやうにして、ひとところもさし損ねることがなかつた。日本は思ひのほかにせまくるしく、エドは虫に食はれて、その所在をたしかめることさへできなかつた。 シロオテは、コンパスをあちらこちらと歩かせつつ、万国のめずらしい話を語つて聞かせた。黄金の産する国。たんばこの実る国。海鯨の住む大洋。木に棲み穴にゐて生れながらに色の黒いくろんぼうの国。長人国。小人国。昼のない国。夜のない国。さては、百万の大軍がいま戦争さいちゆうの曠野。戦船百八十隻がたがひに砲火をまじへてゐる海峡。シロオテは、日の没するまで語りつづけたのである。 日が暮れて、訊問もをはつてから、白石はシロオテをその獄舎に訪れた。ひろい獄舎を厚い板で三つに区切つてあつて、その西の一間にシロオテがゐた。赤い紙を剪つて十字を作り、それを西の壁に貼りつけてあるのが、くらがりを通して、おぼろげに見えた。シロオテはそれにむかつて、なにやら経文を、ひくく読みあげてゐた。 白石は家へ帰つて、忘れぬうちにもと、けふシロオテから教はつた知識を手帖に書いた。 ――大地、海水と相合うて、その形まどかなること手毬の如くにして、天、円のうちに居る。たとへば、鶏子の黄なる、青きうちにあるが如し。その地球の周囲、九万里にして、上下四旁、皆、人ありて居れり。凡、その地をわかちて、五大州となす。云々。 それから十日ほど経つて十二月の四日に、白石はまたシロオテを召し出し、日本に渡つて来たことの由をも問ひ、いかなる法を日本にひろめようと思ふのか、とたづねたのである。その日は朝から雪が降つてゐた。シロオテは降りしきる雪の中で、悦びに堪へぬ貌をして、私が六年さきにヤアパンニアに使するやう本師より言ひつけられ、承つて万里の風浪をしのぎ来て、つひに国都へついた、しかるに、けふしも本国にあつては新年の初めの日として、人、皆、相賀するのである、このよき日にわが法をかたがたに説くとは、なんといふ仕合せなことであらう、と身をふるはせてそのよろこびを述べ、めんめんと宗門の大意を説きつくしたのであつた。 デウスがハライソを作つて無量無数のアンゼルスを置いたことから、アダン、エワの出生と堕落について。ノエの箱船のことや、モイセスの十誡のこと。さうしてエイズス・キリストスの降誕、受難、復活のてんまつ。シロオテの物語は、尽きるところなかつた。 白石は、ときどき傍見をしてゐた。はじめから興味がなかつたのである。すべて仏教の焼き直しであると独断してゐた。 白石のシロオテ訊問は、その日を以ておしまひにした。白石はシロオテの裁断について将軍へ意見を言上した。このたびの異人は万里のそとから来た外国人であるし、また、この者と同時に唐へ赴いたものもある由なれば、唐でも裁断をすることであらうし、わが国の裁断をも慎重にしなければならぬ、と言つて三つの策を建言した。 第一にかれを本国へ返さるる事は上策也(此事難きに似て易き歟) 第二にかれを囚となしてたすけ置るる事は中策也(此事易きに似て尤難し) 第三にかれを誅せらるる事は下策也(此事易くして易かるべし) 将軍は中策を採つて、シロオテをそののち永く切支丹屋敷の獄舎につないで置いた。しかし、やがてシロオテは屋敷の奴婢、長助はる夫婦に法を授けたといふわけで、たいへんいぢめられた。シロオテは折檻されながらも、日夜、長助はるの名を呼び、その信を固くして死ぬるとも志を変へるでない、と大きな声で叫んでゐた。 それから間もなく牢死した。下策をもちゐたもおなじことであつた。 猿ケ島 はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思ひ給へ。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠つてゐた。私は眼をしばたたいて、島の全貌を見すかさうと努めたのである。裸の大きい岩が急な勾配を作つていくつもいくつも積みかさなり、ところどころに洞屈のくろい口のあいてゐるのがおぼろに見えた。これは山であらうか。一本の青草もない。 私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であらうか。熊であらうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかへつて大胆になつてゐた。私はかういふ咆哮をさへ気にかけず島をめぐり歩いたのである。 私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であつて、すぐ左手には粗い胡麻石が殆ど垂直にそそり立つてゐるのだ。そのあひだに、いま私の歩いてゐる此の道が、六尺ほどの幅で、坦々とつづいてゐる。 道のつきるところまで歩かう。言ふすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得てゐたのである。 ものの半里も歩いたらうか。私は、再びもとの出発点に立つてゐた。私は道が岩山をぐるつとめぐつてついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐつたにちがひない。私は島が思ひのほかに小さいのを知つた。 霧は次第にうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額のうへにのしかかつて見えだした。峯が三つ。まんなかの円い峯は、高さが三四丈もあるであらうか、様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがつた峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けはしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起つて、ひろい丘になつてゐる。断崖と丘の硲から、細い滝がひとすぢ流れ出てゐた。滝の付近の岩は勿論、島全体が濃い霧のために黝く濡れてゐるのである。木が二本見える。滝口に、一本。樫に似たのが。丘の上にも、一本。えたいの知れぬふとい木が。さうして、いづれも枯れてゐる。 私はこの荒涼の風景を眺めて、暫くぼんやりしてゐた。霧はいよいようすらいで、日の光がまんなかの峯にさし始めた。霧にぬれた峯は、かがやいた。朝日だ。それが朝日であるか、夕日であるか、私にはその香気でもつて識別することができるのだ。それでは、いまは夜明けなのか。 私は、いくぶんすがすがしい気持になつて、山をよぢ登つたのである。見た眼には、けはしさうでもあるが、かうして登つてみると、きちんきちんと足だまりができてゐて、さほど難渋でない。たうとう滝口にまで這ひのぼつた。 ここには朝日がまつすぐに当り、なごやかな風さへ頬に感ぜられるのだ。私は樫に似た木の傍へ行つて、腰をおろした。これは、ほんとうに樫であらうか、それとも楢か樅であらうか。私は梢までずつと見あげたのである。枯れた細い枝が五六本、空にむかひ、手ぢかなところにある枝は、たいていぶざまにへし折られてゐた。のぼつてみようか。 ふぶきのこゑ われをよぶ 風の音であらう。私はするするのぼり始めた。 とらはれの われをよぶ 気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二三度ばさばさゆすぶつてみた。 いのちともしき われをよぶ 足だまりにしてゐた枯枝がぽきつと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたひに滑り落ちた。 「折つたな。」 その声を、つい頭の上で、はつきり聞いた。私は幹にすがつて立ちあがり、うつろな眼で声のありかを捜したのである。ああ。戦慄が私の背を走る。朝日を受けて金色にかがやく断崖を一匹の猿がのそのそと降りて来るのだ。私のからだの中でそれまで眠らされてゐたものが、いちどにきらつと光り出した。 「降りて来い。枝を折つたのはおれだ。」 「それは、おれの木だ。」 崖を降りつくした彼は、さう答へて滝口のはうへ歩いて来た。私は身構へた。彼はまぶしさうに額へたくさんの皺をよせて、私の姿をじろじろ眺め、やがて、まつ白い歯をむきだして笑つた。笑ひは私をいらだたせた。 「をかしいか。」 「をかしい。」彼は言つた。「海を渡つて来たらう。」 「うん。」私は滝口からもくもく湧いて出る波の模様を眺めながらうなづいた。せま苦しい箱の中で過したながい旅路を回想したのである。 「なんだか知らぬが、おほきい海を。」 「うん。」また、うなづいてやつた。 「やつぱり、おれと同じだ。」 彼はさう呟き、滝口の水を掬つて飲んだ。いつの間にか、私たちは並んで座つてゐたのである。 「ふるさとが同じなのさ。一目、見ると判る。おれたちの国のものは、みんな耳が光つてゐるのだよ。」 彼は私の耳を強くつまみあげた。私は怒つて、彼のそのいたづらした右手をひつ掻いてやつた。それから私たちは顔を見合せて笑つた。私は、なにやらくつろいだ気分になつてゐたのだ。 けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起つた。おどろいて振りむくと、ひとむれの尾の太い毛むくじやらな猿が、丘のてつぺんに陣どつて私たちへ吠えかけてゐるのである。私は立ちあがつた。 「よせ、よせ。こつちへ手むかつてゐるのぢやないよ。ほえざるといふ奴さ。毎朝あんなにして太陽に向つて吠えたてるのだ。」 私は呆然と立ちつくした。どの山の峯にも、猿がいつぱいにむらがり、背をまるくして朝日を浴びてゐるのである。 「これは、みんな猿か。」 私は夢みるやうであつた。 「さうだよ、しかし、おれたちとちがふ猿だ。ふるさとがちがふのさ。」 私は彼等を一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿に乳を飲ませてゐる者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌つてゐる者。縞の美事な尾を振りながら日光のなかでつるんでゐる者。しかめつらをして、せはしげにあちこちと散歩してゐる者。 私は彼に囁いた。 「ここは、どこだらう。」 彼は慈悲ぶかげな眼ざしで答へた。 「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないやうだ。」 「さうか。」私は溜息をついた。「でも、この木は木曾樫のやうだが。」 彼は振りかへつて枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずつと梢を見あげたのである。 「さうでないよ。枝の生えかたがちがふし、それに、木肌の日の反射のしかただつて鈍いぢやないか。もつとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」 私は立つたまま、枯木へ寄りかかつて彼に尋ねた。 「どうして芽が出ないのだ。」 「春から枯れてゐるのさ。おれがここへ来たときにも枯れてゐた。あれから、四月、五月、六月、と三つきも経つてゐるが、しなびて行くだけぢやないか。これは、ことに依つたら挿木でないかな。根がないのだよ、きつと。あつちの木は、もつとひどいよ。奴等のくそだらけだ。」 さう言つて彼は、ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もう啼きやんでゐて、島は割合に平静であつた。 「座らないか。話をしよう。」 私は彼にぴつたりくつついて座つた。 「ここは、いいところだらう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」彼は脚下の小さい滝を満足げに見おろしたのである。「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が幽かにどぶんどぶんと聞えたよ。波の音つて、いいものだな。なんだかじわじわ胸をそそるよ。」 私もふるさとのことを語りたくなつた。 「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香はいいぞ。」 「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがつてゐるよ。だから、この島にゐる奴は誰にしたつて、一本でも木のあるところに座りたいのだよ。」言ひながら彼は股の毛をわけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」 私は、この場所から立ち去らうと思つた。「おれは、知らなかつたものだから。」 「いいのだよ、構はないのだよ。おれは、ひとりぼつちなのだ。いまから、ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないやうにしろよ。」 霧はまつたく晴れ渡つて、私たちのすぐ眼のまへに、異様な風景が現出したのである。青葉。それがまづ私の眼にしみた。私には、いまの季節がはつきり判つた。ふるさとでは、椎の若葉が美しい頃なのだ。私は首をふりふりこの並木の青葉を眺めた。しかし、さういふ陶酔も瞬時に破れた。私はふたたび驚愕の眼を見はつたのである。青葉の下には、水を打つた砂利道が凉しげに敷かれてゐて、白いよそほいをした瞳の青い人間たちが、流れるやうにぞろぞろ歩いてゐる。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もゐた。蛇の皮のふとい杖をゆるやかに振つて右左に微笑を送る男もゐた。 彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早に囁いた。 「おどろくなよ。毎日かうなのだ。」 「どうなるのだ。みんなおれたちを狙つてゐる。」山で捕はれ、この島につくまでの私のむざんな経歴が思ひ出され、私は下唇を噛みしめた。 「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。だまつて見てゐろ。面白いこともあるよ。」 彼はせはしげにさう教へて、片手ではなほも私のからだを抱きかかへ、もう一方の手であちこちの人間を指さしつつ、ひそひそ物語つて聞かせたのである。あれは人妻と言つて、亭主のおもちやになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の臍といふものが、あんな形であるかも知れぬ。あれは学者と言つて、死んだ天才にめいわくな注釈をつけ、生れる天才をたしなめながらめしを食つてゐるをかしな奴だが、おれはあれを見るたびに、なんとも知れず眠たくなるのだ。あれは女優と言つて、舞台にゐるときよりも素面でゐるときのはうが芝居の上手な婆で、おおお、またおれの奥の虫歯がいたんで来た。あれは地主と言つて、自分もまた労働してゐるとしじゆう弁明ばかりしてゐる小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたひに虱が這つて歩いてゐるやうなもどかしさを覚える。また、あそこのベンチに腰かけてゐる白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、見ろ、あいつがここへ現はれたら、もはや中天に、臭く黄色い糞の龍巻が現はれてゐるぢやないか。 私は彼の饒舌をうつつに聞いてゐた。私は別なものを見つめてゐたのである。燃えるやうな四つの眼を。青く澄んだ人間の子供の眼を。先刻よりこの二人の子供は、島の外廓に築かれた胡麻石の塀からやつと顔だけを覗きこませ、むさぼるやうに島を眺めまはしてゐるのだ。二人ながら男の子であらう。短い金髪が、朝風にぱさぱさ踊つてゐる。ひとりは、そばかすで鼻がまつくろである。もうひとりの子は、桃の花のやうな頬をしてゐる。 やがて二人は、同時に首をかしげて思案した。それから鼻のくろい子供が唇をむつと尖らせ、烈しい口調で相手に何か耳うちした。私は彼のからだを両手でゆすぶつて叫んだ。 「何を言つてゐるのだ。教へて呉れ。あの子供たちは何を言つてゐるのだ。」 彼はぎよつとしたらしく、ふつとおしやべりを止し、私の顔と向ふの子供たちとを見較べた。さうして、口をもぐもぐ動かしつつ暫く思ひに沈んだのだ。私は彼のさういふ困却にただならぬ気配を見てとつたのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろつて石塀の上から影を消してしまつてからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしつたりしながら、ひどく躊躇をしてゐたが、やがて、口角に意地わるげな笑ひをさへ含めてのろのろと言ひだした。 「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ。」 変らない。私には一切がわかつた。私の疑惑が、まんまと的中してゐたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。 「さうか。すると、君は嘘をついてゐたのだね。」ぶち殺さうと思つた。 彼は私のからだに巻きつけてゐた片手へぎゆつと力こめて答へた。 「ふびんだつたから。」 私は彼の幅のひろい胸にむしやぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無知に対する羞恥の念がたまらなかつた。 「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられてゐるだらう? おれたちには裏の薄汚く赤ちやけた木目だけを見せてゐるが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本の猿だ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もつとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。」 私は聞きたくもなかつた。彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行つた。のぼつた。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日はすでに高く上つて、島のここかしこから白い靄がほやほやと立つてゐた。百匹もの猿は、青空の下でのどかに日向ぼつこして遊んでゐた。私は、滝口の傍でじつとうづくまつてゐる彼に声をかけた。 「みんな知らないのか。」 彼は私の顔を見ずに下から答へてよこした。 「知るものか。知つてゐるのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」 「なぜ逃げないのだ。」 「君は逃げるつもりか。」 「逃げる。」 青葉。砂利道。人の流れ。 「こはくないか。」 私はぐつと眼をつぶつた。言つていけない言葉を彼は言つたのだ。 はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじつて、低い歌声が響いて来た。彼が歌つてゐるのであらうか。眼が熱い。さつき私を木から落したのは、この歌だ。私は眼をつぶつたまま耳傾けたのである。 「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。」 彼のさう呼ぶ声を遠くからのやうに聞いた。それからひくい笑ひ声も。 ああ。この誘惑は真実に似てゐる。あるひは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育つた私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。 ――否! 一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の遁走が報ぜられた。行方が知れぬのである。しかも、一匹でなかつた。二匹である。 雀こ 井伏鱒二へ。津軽の言葉で。 長え長え昔噺、知らへがな。 山の中に橡の木いつぽんあつたずおん。 そのてつぺんさ、からす一羽来てとまつたずおん。 からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 ………………………… ひとかたまりの童児、広い野はらに火三昧して遊びふけつてゐたずおん。春になればし、雪こ溶け、ふろいふろい雪の原のあちこちゆ、ふろ野の黄はだの色の芝生こさ青い新芽の萌えいで来るはで、おらの国のわらは、黄はだの色の古し芝生こさ火をつけ、そればさ野火と申して遊ぶのだずおん。そした案配こ、おたがひ野火をし距て、わらは、ふた組にわかれてゐたずおん。かたかたの五六人、声をしそろへて歌つたずおん。 ――雀、雀、雀こ、欲うし。 ほかの方図のわらは、それさ応へ、 ――どの雀、欲うし? て歌つたとせえ。 そこでもつてし、雀こ欲うして歌つた方図のわらは、打ち寄り、もめたずおん。 ――誰をし貰ればええべがな? ――はにやすのヒサこと貰れば、どうだべ? ――鼻たれて、きたなきも。 ――タキだば、ええねし。 ――女くされ、をかしぢやよ。 ――タキは、ええべせえ。 ――さうだべがな。 そした案配こ、たうとうタキこと貰るやうにきまつたずおん。 ――右りのはずれの雀こ欲うし。 て、歌つたもんだずおん。 タキの方図では、心根つこわるくかかつたとせえ。 ――羽こ、ねえはで呉れらえね。 ――羽こ呉れるはで飛んで来い。 こちで歌つたどもし、向うの方図で調子ばあはれに、また歌つたずおん。 ――杉の木、火事で行かえない。 したどもし、こちの方図では、やたら欲しくて歌つたとせえ。 ――その火事よけて飛んで来い。 向うの方図では、雀こ一羽はなしてよこしたずおん。タキは雀こ、ふたかたの腕こと翼みんたに拡げ、ぱお、ぱお、ぱお、て羽ばたきの音をし口でしやべりしやべりて、野火の焔よけて飛んで来たとせえ。 これ、おらの国の、わらはの遊びごとだずおん。かうして一羽一羽と雀こ貰るんだどもし、おしめに一羽のこれば、その雀こ、こんど歌はねばなんねのだずおん。 ――雀、雀、雀こ欲うし。 とつくと分別しねでもわかることだどもし、これや、うたて遊びごとだまさね。一ばん先に欲しがられた雀こ、大幅こけるどもし、おしめの一羽は泣いても泣いても足えへんでば。 いつでもタキは、一ばん先に欲しがられるのだずおん。いつでもマロサマは、おしめにのこされるのだずおん。 タキ、よろづよやの一人あねこで、うつて勢よく育つたのだずおん。誰にかても負けたことねんだとせえ。冬、どした恐ろしない雪の日でも、くるめんば被らねで、千成の林檎こよりも赤え頬ぺたこ吹きさらし、どこさでも行けたのだずおん。マロサマ、たかまどのお寺の坊主こで、からだつきこ細くてかそぺないはでし、みんなみんな、やしめてゐたのだずおん。 さきほどよりし、マロサマ、着物ばはだけて、歌つてゐたずおん。 ――雀、雀、雀こ欲うし。雀、雀、雀こ欲うし。 不憫げらに、これで二度も、売えのこりになつてゐたのだずおん。 ――どの雀、欲うし? ――なかの雀こ欲うし。 タキこと欲しがるのだずおん。なかの雀このタキ、野火の黄色え黄色え焔ごしに、悪だまなくこでマロサマば睨めたずおん。 マロサマ、おつとらとした声こで、また歌つたずおん。 ――なかの雀こ欲うし。 タキは、わらはさ、なにやらし、こちよこちよと言うつけたずおん。わらは、それ聞き、にくらにくらて笑ひ笑ひ、歌つたのだずおん。 ――羽こ、ねえはで呉れらえね。 ――羽こ呉れるはで飛んで来い。 ――杉の木、火事で行かえない。 ――その火事よけて飛んで来い。 マロサマは、タキのぱおぱおて飛んで来るのば、とつけらとして待つてゐたずおん。したどもし、向うの方図で、ゆつたらと歌るのだずおん。 ――川こ大水で、行かえない。 マロサマ、首こかしげて、分別したずおん。なんて歌つたらええべがな、て打つて分別して分別して、 ――橋こ架けて飛んで来い。 タキは人魂みんた眼こおかなく燃やし、独りして歌つたずおん。 ――橋こ流えて行かえない。 マロサマは、また首こかしげて分別したのだずおん。なかなか分別は出て来ねずおん。そのうちにし、声たてて泣いたのだずおん。泣き泣きしやべつたとせえ。 ――あみださまや。 わらは、みんなみんな、笑つたずおん。 ――ぼんずの念仏、雨、降つた。 ――もくらもつけの泣けべつちよ。 ――西くもて、雨ふつた。雨ふつて、雪とけた。 そのときにし、よろづよやのタキは、きづきづと叫びあげたとせえ。 ――マロサマの愛ごこや。わのこころこ知らずて、お念仏。あはれ、ばかくさいぢやよ。  さうしてし、雪だまにぎて、マロサマさぶつけたずおん。雪だま、マロサマの右りの肩さ当り、ぱららて白く砕けたずおん。マロサマ、どつてんして、泣くのばやめてし、雪こ溶けかけた黄はだの色のふろ野ば、どんどん逃げていつたとせえ。 そろそろと晩げになつたずおん。野はら、暗くなり、寒くなつたずおん。わらは、めいめいの家さかへり、めいめい婆さまのこたつこさもぐり込んだずおん。いつもの晩げのごと、おなじ昔噺をし、聞くのだずおん。 長え長え昔噺、知らへがな。 山の中に橡の木いつぽんあつたずおん。 そのてつぺんさ、からす一羽来てとまつたずおん。 からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 また、からすあ、があて啼けば、橡の実あ、一つぼたんて落づるずおん。 ………………………… 猿面冠者 どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまつたかのやうに、鼻で笑つて巻を閉じる傲岸不遜の男がゐた。ここに露西亜の詩人の言葉がある。「そもさん何者。されば、わづかにまねごと師。気にするがものもない幽霊か。ハロルドのマント羽織つた莫斯科ツ子。他人の癖の翻案か。はやり言葉の辞書なのか。いやさて、もぢり言葉の詩とでもいつたところぢやないかよ。」いづれそんなところかも知れぬ。この男は、自分では、すこし詩やら小説やらを読みすぎたと思つて悔いてゐる。この男は、思案するときにでも言葉をえらんで考へるのださうである。心のなかで自分のことを、彼、と呼んでゐる。酒に酔ひしれて、ほとんど我をうしなつてゐるやうに見えるときでも、もし誰かに殴られたなら、落ちついて呟く。「あなた、後悔しないやうに。」ムイシユキン公爵の言葉である。恋を失つたときには、どう言ふであらう。そのときには、口に出しては言はぬ。胸のなかを駈けめぐる言葉。「だまつて居れば名を呼ぶし、近寄つて行けば逃げ去るのだ。」これはメリメのつつましい述懐ではなかつたか。夜、寝床にもぐつてから眠るまで、彼は、まだ書かぬ彼の傑作の妄想にさいなまれる。そのときには、ひくくかう叫ぶ。「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフイテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしてゐるときには、どうであらう。口をついて出るといふのである、"Nevermore"といふ独白が。 そのやうな文学の糞から生れたやうな男が、もし小説を書いたとしたなら、いつたいどんなものができるだらう。だいいちに考へられることは、その男は、きつと小説を書けないだらうと言ふことである。一行書いては消し、いや、その一行も書けぬだらう。彼には、いけない癖があつて、筆をとるまへに、もうその小説に謂はばおしまひの磨きまでかけてしまふらしいのである。たいてい彼は、夜、蒲団のなかにもぐつてから、眼をぱちぱちさせたり、にやにや笑つたり、せきをしたり、ぶつぶつわけのわからぬことを呟いたりして、夜明けちかくまでかかつてひとつの短編をまとめる。傑作だと思ふ。それからまた彼は、書きだしの文章を置きかへてみたり、むすびの文字を再吟味してみたりして、その胸のなかの傑作をゆつくりゆつくり撫でまはしてみるのである。そのへんで眠れたらいいのであるが、いままでの経験からしてそんなに工合ひがよくいつたことはいちどもなかつたといふ。そのつぎに彼は、その短編についての批評をこころみるのである。誰々は、このやうな言葉でもつてほめて呉れる。誰々は、判らぬながらも、この辺の一箇所をぽつんと突いて、おのれの慧眼を誇る。けれども、おれならば、かう言ふ。男は、自分の作品についてのおそらくはいちばん適確な評論を組みたてはじめる。この作品の唯一の汚点は、などと心のなかで呟くやうになると、もう彼の傑作はあとかたもなく消えうせてゐる。男は、なほも眼をぱちぱちさせながら、雨戸のすきまから漏れて来る明るい光線を眺めて、すこし間抜けづらになる。そのうちにうつらうつらまどろむのである。 けれども、これは問題に対してただしく答へてゐない。問題は、もし書いたとしたなら、といふのである。ここにあります、と言つて、ぽんと胸をたたいて見せるのは、なにやら水際だつていいやうであるが、聞く相手にしては、たちのわるい冗談としか受けとれまい。まして、この男の胸は、扁平胸といつて生れながらに醜くおしつぶされた形なのであるから、傑作は胸のうちにありますといふ彼のそのせいいつぱいの言葉も、いよいよ芸がないことになる。こんなことからしても、彼が一行も書けぬだらうといふ解答のどんなに安易であるかが判るのである。もし書いたとしたなら、といふのである。問題をもつと考へよくするために、彼のどうしても小説を書かねばならぬ具体的な環境を簡単にこしらへあげてみてもよい。たとへばこの男は、しばしば学校を落第し、いまは彼のふるさとのひとたちに、たからもの、といふ陰口をきかれてゐる身分であつて、ことし一年で学校を卒業しなければ、彼の家のはうでも親戚のものたちへの手前、月々の送金を停止するといふあんばいになつてゐたとする。また仮にその男が、ことし一年で卒業できさうもないばかりか、どだい卒業しようとする腹がなかつたとしたなら、どうであらう。問題をさらに考へよくするために、この男がいま独身でないといふことにしよう。四五年もまへからの妻帯者である。しかも彼のその妻といふのは、とにかく育ちのいやしい女で、彼はこの結婚によつて、叔母ひとりを除いたほかのすべての肉親に捨てられたといふ、月並みのロマンスを匂はせて置いてもよい。さて、このやうな境遇の男が、やがて来る自鬻の生活のために、どうしても小説を書かねばいけなくなつたとする。しかし、これも唐突である。乱暴でさへある。生活のためには、必ずしも小説を書かねばいけないときまつて居らぬ。牛乳配達にでもなればいいぢやないか。しかし、それは簡単に反駁され得る。乗りかかつた船、といふ一言でもつて充分であらう。 いま日本では、文芸復興とかいふ訳のわからぬ言葉が声高く叫ばれてゐて、いちまい五十銭の稿料でもつて新作家を捜してゐるさうである。この男もまた、この機を逃さず、とばかりに原稿用紙に向つた、とたんに彼は書けなくなつてゐたといふ。ああ、もう三日、早かつたならば。或ひは彼も