平家物語 百二十句本(京都本)
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平家巻第一 目録
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
序
忠盛昇殿
忠盛・季仲・家成五節の舞
忠度の母の事
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛死去
清盛官途
清盛五十一出家
かぶろの沙汰
第三句 二代后 にだいきさき
宮中御艶書の事
二化の御宇の沙汰
きさき御入内
きさき障子の御歌の事
第四句 額打論 がくうちろん
二条の院皇子親王宣旨の事
二条の院崩御廿三
きさき御出家の事
清水炎上
第五句 義王 ぎわう
妹の義女が事
母のとぢの事
仏御前の事
白拍子の因縁
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
義女出家
とぢ出家
仏出家
四人後白河法皇の過去帳にある事
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第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
後白河院御法体の事
左衛門入道西光、近習騒口の事
主上高倉の院御即位、
資盛伊勢の国へ追っくださるる事
第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
主上高倉の院御元服
新大納言祈請
師経狼藉
白山みこし東坂本へ入御
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
仲胤法師後二条の関白殿呪咀
関白殿御病の事
関白殿平癒の事
関白殿御薨御の事
第十句 神輿振り みこしふり
渡辺の長七唱頼政の御使する事
平大納言時忠山門勅使の事
師高・師経御裁断
内裏そのほか京中焼失の事
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平家 巻第一
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊【*朱■】、唐の禄山、これらは皆旧主先王の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫をも思ひいれず、天下の乱れん事をもさとらずして、民間のうれふる所を知らざりしかば、久しからずして亡びし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平冶の信頼、これらは皆おごれる事も、たけき心も、皆とりどりにこそ有りしが、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申せし人の有様、伝へ聞くこそ心も詞も及ばれね。
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原の親王、九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男なり。かの親王の御子高見の王、無官無位にしてうせ給ひぬ。その御子高望
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の王のとき、始て平の姓を賜はりて、上総介になり給ひしよりこのかた、たちまちに王氏を出でて人臣につらなる。その子鎮守府の将軍良望、後には常陸大掾国香とあらたむ。国香より正盛まで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
然るに忠盛、いまだ備前守たりしとき、鳥羽の院の御願得長寿院を造進し、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を賜はるべきよし仰せ下されける。折節播磨の国のあきたりけるを賜はりける。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。
雲の上人これをそみねいきどほり、同じき年の十一月二十三日、五節の豊明の節会の夜、忠盛を闇討にせんとぞ擬せられける。忠盛このよしを伝へ聞きて、「われ右筆の身に有らず、武勇の家にむまれて、いま不慮の難に合はん事、身の為、家の為、心憂かるべし。詮ずる所「身を全うして君につかへよ」といふ本文有り」とて、かねて用意をいたす。
参内の始より、大きなる鞘巻を束帯の下にさし、灯のほのぐらきかたに向かひてこの刀をぬき出だし、鬢にひきあてけるが、よそよりは氷などのやうに見えたり。諸人目をぞすましける。其上忠盛の郎等、もとは一門たりし平の木工助貞光
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が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者有り。木賊色の狩衣の下に、萠黄威の腹巻を着て、弦袋つけたる太刀わきばさみ、殿上の小庭にかしこまつてぞ侍ひける。貫首以下あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴のつなの辺に、布衣の者の侍ふは何者ぞ。まかり出でよ。狼藉なり」と、六位をもつて言はせられたりければ、家貞かしこまつて、「相伝の主備前守殿の今夜闇討にせられ給ふべきよし、伝へ承つて、そのならんやうを見んとて、かくて侍ふ。えこそまかり出づまじう候へ」とて、かしこまつて侍ひければ、これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討はなかりけり。
忠盛又御前の召によて舞はれけるを、人々拍子をかへて、
伊勢へいじはすがめなりける
とぞはやされける。かけまくもかたじけなくも、この人は柏原の天皇の御すゑとは申しながら、中ごろは都のすまひもうとうとしく、地下にのみ振舞ひなつて、伊勢の国に住国ふかかりければ、その国のうつはものにことよせて、「伊勢へいじ」とぞはやされける。其上忠盛の、目のすがまれたりければ、かやうにははやされけるなり。
忠盛いかにすべきやうなくて、御前をまかり出でられけるが、紫宸殿のうしろにして、かたへの殿上人の見給ふ前にて、主殿司を召して、よこたへさされたりける刀を、あづけおきてぞ出でられける。家貞待ちうけて、「さていかが候ひけるやらん」と申しければ、忠盛、かくとも言はまほしくは思はれけれども、言ひいづるものなら
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ば、殿上までも斬りのぼらんずるもののつらたましひにて有る間、「べちの事なし」とぞ答へられける。五節には、
白うすやう こぜんじの紙 〔まきあげの筆〕 巴かきたる筆の軸
なんど、さまざまおもしろき事をのみうたひ舞はれしに、中比太宰権帥季仲卿といふ人有り。あまりに色のくろかりければ、見る人「くろ師」とぞ申しける。この人いまだ蔵人頭たりしとき、これも五節に舞はれけるに、人々拍子をかへて、
あな、くろ、くろ くろき頭かな いかなる人のうるし塗りけん
とぞはやされける。
又、花山の院のさきの太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申せしとき、父中納言忠家【*忠宗】の卿におくれ給ひて、みなしごにておはせしを、故中の御門藤中納言家成の卿、其時はいまだ播磨守たりしとき、婿にとりてはなやかにもてなし給ひければ、これも拍子をかへて、
播磨米は 木賊か、むくの葉か 人の綺羅をみがくは
とぞはやされける。「上古にはかやうの事共有りしかども、事いでこず。末代いかが有らんずらん、おぼつかなし」とぞ人々申し合はれける。
案にたがはず、五節はてにしかば、殿上人、一同に訴へ申されけるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜はりて宮中を出入するは、皆格式の礼をまぼる綸命よし有る先規なり。然るに忠盛、或は相伝の郎従と号して、布衣のつはものを殿上の小庭に召しおき、その身は腰の刀をよこたへさして、節会の座につらなる。両条希代いまだ
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きかざる狼藉也。事既に重畳せり、罪科尤のがれがたし。早く御札をけづりて、闕官、停任におこなはるべき」よし一同に訴へ申されけり。
上皇大きにおどろかせ給ひて、忠盛を召して御尋ね有り。陳じ申されけるは、「まづ郎従小庭に祗候の事、まつたく覚悟つかまらず。但、近日あひたくまるるよし、年来の家人伝へ承るによつて、その恥をたすけんが為に、忠盛に知らせずしてひそかに参候の条、力及ばぬ次第なり。つぎに刀の事は、主殿司にあづけ置きをはぬ。召し出だされて、刀の実否によて咎の左右有るべきか」と申す。「然るべき」とて、刀を召し出だし、法皇叡覧有るに、うへは鞘巻の黒く塗りたりけるに、中は木刀に銀薄をぞ押したりける。「当座の恥辱をのがれんが為に、刀を帯するよしあらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らん者のはかりごとは、尤かうこそ有らまほしけれ。かねて又、郎従小庭に司候の条、かつうは武士の郎従のならひなり。忠盛がとがに有らず。」とて、かへりて叡感にあづかりしうへは、あへて罪科の沙汰もなかりけり。
その子どもは諸衛の佐になりて昇殿しけるに、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
そのころ忠盛、備前の国よりのぼりたりけるに、鳥羽の院「明石の浦はいかに」と仰せければ、忠盛、
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有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか
と申したりければ、御感有りて、やがてこの歌をば金葉集にぞ入れられける。
又そのころ、忠盛、仙洞に最愛の女房有り。かよはけれけるが、あるとき、かの女房の局に、つまに月いだしたりける扇をとり忘れてぞ出でられける。かたへの女房たち「いづくよりの月影ぞや、出で所おぼつかなし」なんど、笑ひ合はれければ、かの女房
雲井より唯漏りきたる月なれば、おぼろけにてはいはじとぞおもふ
と詠みたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。似たるを友とかやの風情にて忠盛も歌に好いたりければ、この女房も優なりけり。
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛、刑部卿にいたつて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせ給ひぬ。清盛嫡男たるによて、そのあとを継ぐ。
保元元年七月に宇治の左大臣殿世を乱り給ひしに、安芸守とて御方にて勲功有りしかば、播磨守にうつりて、同じき三年に太宰大弐になり、つぎに平治元年十二月信頼の卿の謀叛のとき、又御方にて先を駆けたりければ、「勲功ひとつに有らず、恩賞
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これおもかるべき」とて、つぎの年正三位に叙せられ、うちつづき、宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言、大納言に経あがりて、左右を経ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将に有らねども、兵仗を賜はりて随身を召し具して、牛車、輦車に乗りながら宮中を出で入りぬ。偏に執政の臣の如し。
「太政大臣これ一人の師範として四海に儀形せり。国ををさめ、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人に有らずんば則ち闕けよ」といへり。されば、「則闕の官」とも名づけられたり。その人ならでは、けがすべき官ならねども、一天四海をたなごころににぎり給ふうへは、子細に及ばず。
そもそも、平家かやうに繁昌せられける事を、いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞ有りける。その故は、清盛いまだ安芸守にておはせしとき、伊勢の国安濃の津より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船に踊入りたりけるを、先達申しけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は踊入りて候へしか。これをば参るべし」と申されければ、さしもの精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家の子、朗等にも食はせられける故にや、子孫〔の〕官途も龍の雲にのぼるよりもなほすみやか也。九代のおんしう【*先蹤】超え給ふこそめでたけれ。かくて清盛、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病に冒され、たちまちに出家入道す。法名を「浄海」とこそ名のら
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れけれ。そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。人のしたがひつく事、吹く風の草木をなびかすが如し。世のあまねくあふげる事も、降る雨の国土をうるほすに同じ。「六波羅殿の御一家の公達」とだに言ひてんしかば、肩をならべ、おもてを向かふる者もなし。入道相国の小舅平大納言時忠卿宣ひけるは、「この一門に有らざらん者は人非人たるべし。」とぞ宣ひける。されば、「いかにもしてこの一門にむすぼふれん」とぞしける。衣文のかきやうより始て、烏帽子のためやうにいたるまで、「六波羅様」とだに言ひてんしかば、一天四海の人皆これをまなぶ。いかなる賢王賢主の御政、摂政関白の御成敗をも、世にあまされたるいたづら者などの、かたはらにてそしりかたぶけ申す事は、常のならひなれども、この禅門の世ざかりのほどは、いささかいるがせにも申す者なし。その故は、入道相国はかりごとに、十四五六ばかりの童部を三百人揃へて、髪を禿にきりまはし、赤き直垂を着せて、召し使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。おのづから、平家の御事をあしきさまに申す者有れば、一人聞き出ださるるほどこそ有れ、三百人に触れまはして、その家に乱れ入り、資材雑具を追捕して、その奴をからめて六波羅へ率てまゐる。されば、目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。「六波羅殿の禿」とだに言ひてければ、道をすぐる馬、車も、皆よけてぞとほしける。「禁門を出入
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すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏これが為に目をそばむ」と見えたり。わが身栄華をきはめ給ふのみならず、一門皆繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大将。次男宗盛、中納言右大将。三男知盛、三位の中将。四男重衡、蔵人頭。嫡孫維盛、四位の少将。すべて一門の公卿十六人。殿上人四十余人。そのほか諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には又人なきとぞ見えたりける。
昔、奈良の帝の御時、神亀五年近衛大将を始おかれてよりこのかた、兄弟左右にあひ並ぶ事、わづかに三四箇度なり。文徳天皇の御時、左に良房、右大臣の左大将。右に良相、大納言右大将。これは閑院の左大将冬嗣公の御子なり。朱雀院の御宇に、左に実頼小野の宮殿。右に師輔九条殿。貞信公の御子なり。後冷泉院の御時、左に教通大二条殿。右に頼宗堀河殿。御堂の関白の御子なり。二条院の御時、左に基房松殿。右に兼実月の輪殿。これは皆摂禄の臣の御子息なり。凡人にとりてはその例なし。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫にて、禁色雑袍をゆるされ、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になって、兄弟左右にあひ並ぶ事、末代といひながら不思議なりし事共なり。
そのほか入道相国の御娘八人おはしき。皆とりどり
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にさいはひし給ふ。一人は始は桜町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年、平治の乱れ以後ひきちがへられ、後には花山の院左大臣殿の御台所にならせ給ひて、公達数多ましましけり。
そもそもこの成範卿を「桜町の中納言」と申しける事は、すぐれて心すき給へる人にて、つねは吉野の山を恋ひつつ、町に桜をうゑ並べ、そのうちに家を建てて住み給ひければ、見る人「桜町」とぞ申しける。桜は咲きて七か日に散るを、名残を惜しみ、天照御神に祈り申されければにや、三七日まで名残有り。君も賢王にてましましければ、神も神徳をかがやかし、花も心有りければ、二十日のよはひをたもちけり。
一人はきさきに立たせ給ふ。皇子御誕生有りて皇太子に立ち、位につかせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。
一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。
一人は普賢寺殿の北の方にならせ給ふ。
一人は後白河の法皇に参り給ひて、女御のやうにてまします。これは安芸の厳島の内侍が腹の姫君なり。
一人は冷泉の大納言隆房の卿の北の方にならせ給ふ。
一人は七条の修理大夫信隆の卿にあひ具し給ふ。
そのほか九条の院の雑仕常盤が腹にも一人。これは花山の院殿に参らせ給ひて、上臈女房にて「臈の御方」とぞ申しける。
日本秋津島はわづかに六十六箇国。平家知行の国三十
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余箇国、すでに半国にこえたり。そのほか荘園田畠いくらといふ数を知らず。綺羅みちみちて堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもてあそび、おそらくは帝闕、仙洞も是には過ぎじとぞ見えし。
昔よりいまにいたるまで、源平両氏朝家に召し使はれて、王化にしたがはず朝憲をかろんずる者には、たがひにいましめをくはへしかば、世の乱れもなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども或は流され、或はうしなはれて、いまは平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出だす者なし。さればいかならん末の世までもなにごとか有らんとぞ見えし。
第三句 二代后 にだいきさき
鳥羽の院の御晏駕の後、兵革うちつづきて、死罪、流刑、解官、停任おこなはれて、海内もしづかならず。世間もいまだ落居せず。なかんづく永暦、応保のころより、院の近習者をば内より御いましめ有り、内の近習をば院よりいましめらるる間、上下おそれをののいて、やすき心もなし。唯深淵にのぞんで薄氷をふむが如し。
主上、上皇、父子
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の御間になにごとの御へだてか有るべきなれども、思ひのほかの事共有りけり。主上、院の仰せをつねは申しかへさせましましける中にも、人耳目をおどろかし、世もつて大きにかたぶけ申す事有りけり。
そのころ故近衛の院の后、太皇太后宮と申せしは、大炊の御門の右大臣公能の御娘なり。先帝におくれ奉らせ給ひて後は、近衛河原の御所にぞうつり住ませ給ひける。長寛のころは御年二十二三にもやならせましましけん。御さかりも過ぎさせ給ひたり。
されども天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色に染みたる御心して、ひそかに高力士にみことのりして、この大宮へひきもとめしむるに及んで、御艶書有り。大宮あへて聞こしめしもいれざりけり。されどもこの事ほにあらはれて、后御入内有るべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。この事天下においてことなる勝事なれば、公卿僉議あって、おのおの意見を申さる。
まづ、異朝の先蹤を尋ぬるに、則天皇后は唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後皇后尼になりて、盛興寺といふ寺にこもり給へり。高宗「ねがはくは宮室にかへり、政をたすけ給へ」とて、御使かさねて五たび来たるといへども、あへてしたがはず。帝、盛興寺に臨幸なつて、「朕まつたくわたくしの心ざしをとげんとには有らず。先帝太宗の世をながからしめ給へとなり」。皇后宣はく「われ太宗の菩提をとぶらは
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んが為に、すでに釈門に入りぬ。ふたたび塵屋にかへるべからず」とて、かく然としてひるがへさず。ここに高宗の近臣たち、よこしまにとり奉る如くにして、皇后を内裏へ入れ奉る。その後皇后と高宗と二人、政をめでたうし給ひしかば、「二化の御宇」とぞ申しける。かくて帝世ををさめ給ふ事三十三年。国富み、民ゆたかなり 高宗崩御の後、皇后女帝として世をうけとり、位をつぎ給へり 皇后世をあらためて、年号を神功元年と号す。この人は周王の孫なる故に大周則天太上皇帝とぞ聞こえし。その後中宗皇帝に世をゆづり給ふ。中宗世をあらためて年号を神龍元年と号す 在位七年 これはわが朝の文武天皇にあたり給へり。
「されどもそれは異国の先規たるうへ、別段の事なり。本朝には神武天皇よりこのかた、人皇七十余代にいたるまで、いまだ二代の后に立ち給ふ事、その例を開かず」と諸卿一同に申させ給へども、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。われ十善の戒功によて万乗の宝位をたもつ。などかこれほどの事叡慮にまかせざるべき」とて、すでに御入内の日宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
大宮かくと聞こしめされけるより、御涙にむせばせおはします。先帝におくれまゐらせにし久寿の秋の始、同じ草葉の露とも消え、出家をもし、世をものがれたりせば、いまかかる憂き事は聞かざらまし」とぞ、御なげき有りける。父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、
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「『世にしたがはざるをもつて狂人とす』と見えたり。すでに詔命を下さるるうへは、子細を申すに所なし。唯すみやかに御入内し給へ もし皇子御誕生有らば、君も国母と言はれ、愚老も外祖とあふがるべき瑞相にてもや候ふらん。偏に愚老をたすけさせおはします、御孝行のいたりなるべし」とこしらへ申させ給へども、なほ御返事もなかりけり。大宮そのころなにとなき御手ならひのついでに、
うきしに沈みもやらで河竹の 世にためしなき名をやながさん
世にはなにとして漏れたりけん、やさしき御事にぞ申しける。すでに御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式なんど、心の如く仕立てまゐらせ給ひける。大宮もの憂き御出でたちなれば、とくも出で給はず、はるかに夜ふけ、小夜もなかばになつて後、御車にたすけ乗せられさせ給ひけり。ことに色ある御衣をば召されず、しろき御衣をぞ召されける。御入内の後は麗景殿にぞましましける。ひたそらあさまつりごとをすすめ申させ給ふ御さまなり。
彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹・第伍倫・虞世南、太公望・角里先生・李勣・思摩。手長、足長、馬形の障子。鬼の間、尾張守小野の道風が「七廻賢聖の障子」と書きたりしも理とぞ見えし。かの清涼殿の絵図の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山のありあけの月も有りとかや。故院のいまだ幼少にてましまし
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けるそのかみ、なにとなき御手ならひに、ありあけの月の出でたるを書きくもらかさせ給ひたりしが、有りしながらにすこしもたがはぬを御覧じ、先帝の昔もや御恋ひしくおぼしめされけん、
思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見んとは
世には又哀なる御事にぞ申しける。その間の御仲ゐ、言ひ知らず哀にやさしき事共なり。
第四句 額打論 がくうちろん
さるほどに、永万元年の春の始より主上御不予のよし聞こえさせ給ひしが、夏の始になりしかば、ことのほかにおもらせ給ふ。これによて、大蔵大輔壱岐の兼盛が娘の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給ふを、「太子に立てまつらせ給ふべし」と聞こえしほどに、同じき六月二十五日、にはかに親王の宣旨を下され給ふ。やがてその夜受禅有りしかば、天下なにとなうあわてたるやうなり。其時有識の人々申し合はれけるは、「本朝童帝の例を尋ぬるに清和天皇九歳にして文徳天皇の御ゆづりをうけさせ給ふ。これはかの周公旦の、成王にかはりて、南面にして一日万機の政ををさめ給ひしに准へて、外祖忠仁公幼主を扶持し給ふ。これぞ摂政の始なる。鳥羽の院五歳。近衛の院三歳。これをこそ『いつしかなり』
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と申せしに、これは二歳にならせ給ふ。先例なき。ものいそがはしともおろかなり。」
七月二十七日、上皇遂に崩御なりぬ。御年二十三、つぼめる花の散るが如し。玉のすだれ、錦の帳のうち、御涙にむせばせおはします。御位を去らせ給うて、はつかに三十余日ぞ有りける。やがてその夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る。少納言入道の子息澄憲、御葬送を見奉り給ひて、泣く泣くかうぞ申されける。
つねに見し君がみゆきをけふとへば かへらぬたびと聞くぞ悲しき
大宮、このたびもさまでの御さいはひもわたらせ給はず。この君にさへおくれ奉り給ひしかば、やがて御出家有りて、近衛河原の御所へうつしまゐらせ給ひける。
御葬送の夜、延暦寺、興福寺の大衆ども額打論といふ事をしいだして、たがひに狼藉に及ぶ。一天の君崩御なりて後、御墓所へわたし奉るときの作法、南北二京の大衆ことごとく供奉して、御墓所のまはりにわが寺々の額を打つ事有り。まづ聖武天皇の御願所、あらそふべき寺なければとて、「東大寺」の額を打つ。つぎに淡海公の御願とて、「興福寺」の額を打つ。北京には興福寺とむかひて「延暦寺」の額を打つ。つぎに天武天皇の御願、あらそふべきやうなし、智証大師の草創とて、「園城寺」の額を打つ。そのほか末寺末寺の額ども打ちならぶる。然るを、山門の大衆いかが
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思ひけん、先例をそむきて東大寺のつぎ、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、「とやせまし、かくやせまし」と僉議する所に、興福寺の西金堂の衆、観音房、勢至房とて大悪僧二人有り。観音房は黒糸威の腹巻に白柄の大長刀のさやはづし、勢至房は萠黄威の腹巻に、黒漆の大太刀もつて、二人づんと走り出て、延暦寺の額を切って落し、散々に打ち破り、
うれしや、鳴るは滝の水 日は照れどもたえず、とうたへや
とはやしつつ、南都の衆都の中へぞ入りにける。帝かくれさせ給ひて後は、心なき草木にいたるまでうれへたる色にてこそ有るべきに、この騒動のあさましさに、たかきもいやしきも、肝魂をうしなつて四方へ皆退散す。山門の大衆、狼藉をいたさば手むかひすべき所に、心ふかうねらふかたもや有りけん、一詞も出ださざりけり。
同じき二十九日の午剋ばかり、「山門の大衆おびたたしく下洛す」と聞こえしかば、武士、検非違使西坂本に行きむかつて防ぎけれども、事ともせず、押し破り乱入す。又、何者の申し出だしけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せ、平家を追討せらるべき」と聞こえしかば、「軍兵、内裏に参じて、四方の陣頭警固すべし」とて、一類、皆六波羅へ馳集る。小松殿、そのころは中納言右大将にてましましけるが、「当時、なにごとによてさる事有るべき」としづめられけれども、
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上下ののじりさわぐ事おびたたし。法皇もいそぎ六波羅へ御幸なる。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、そぞろなる清水寺へ押し寄せて、仏閣、僧房、一宇ものこさず皆焼きはらふ。これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥をきよめんが為とぞ聞こえける。清水寺は興福寺の末寺たるによてなり。
清水寺焼けたりけるあした、落書有り。「観音火坑変成池はいかに」と札を書きて、大門の前に立てたりければ、次の日又、「歴劫不思議力及ばず」とかへしの札をぞ立てたりける。
衆徒帰りのぼりければ、一院も六波羅より還御なる。重盛の卿ばかりこそ御おくりに参られけれ。父の卿は参られず。なほも用心の為とぞ聞こえし。重盛の卿御おくりより帰られたりければ、父の卿宣ひけるは、「さても一院の御幸こそ大きにおそれおぼゆれ。かけてもおぼしめしより仰せらるるむねの有ればこそ、かうは聞こゆらめ。それにもうちとけ給ふべからず。」と宣へば、小松殿「此事ゆめゆめ御詞にも出させ給ふべからず。なかなか人に心づけ顔に、あしき御事なり。それにつけても、叡慮にそむかせ給はで、いよいよ人に御なさけをほどこさせ給はば、神明三宝の加護有るべし。さあらんにとりては、御身のおそれ候ふまじ」とて起たれければ、「あはれ、重盛はゆゆしうもおほやうなる者かな」と、父の卿も宣ひける、
一院還御の後、御前にうとからぬ近習たち数多侍はれけるに、仰せられけるは、「さても不思議
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の事を申し出だしたるものかな。おぼしめしよらぬものを」と宣ひければ、院中のきり者に西光法師といふ者有り。「『天に口なし。人をもつて言はせよ』と申す事候。平家もつてのほかに過分に候へば、天の御告げにてもや候ふらん」とぞ申しける。人々、「この事よしなし。『壁に耳有り』おそろし、おそろし」とぞ申し合はれける。
さるほどにその年も天下諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこなはれず。建春門院そのころはいまだ「東の御方」と申しける、その御腹に一院の宮おはしけり。同じき十二月二十四日、にはかに親王の宣旨をかうぶらせ給ふ。
あくれば、改元有りて仁安と号す。「ことしは大嘗会有るべき」とて、そのいとなみ有り。
同じく十月八日、去年親王の宣旨をかうぶり給ひし皇子、東三条にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御叔父、六歳。主上は御甥、三歳。昭穆にあひかなはず。但寛和二年に、一条の院五歳、三条の院十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきに有らず。
主上わづかに二歳にて御ゆづりをうけさせ給ひて、五歳と申せし二月十九日、春宮践祚有りしかば、位をすべりて「新院」とぞ申しける。いまだ御元服もなくして「太上天皇」の尊号有り。漢家本朝これや始なるらん。
同じき二十日、新帝大極殿にして御即位有り。この君の位につかせ給ふは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。国母建春門院と申すも平家の一門にておはしけるうへ、とりわき入道相国の北の方八条
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の二位殿は、女院の御姉なり。平大納言時忠卿と申すも、女院の御弟【*御兄】にておはしければ、内外につけて執権の臣とぞ見えし。玄宗皇帝に楊貴妃がさいはひせしとき、楊国忠がさかえしが如し。世のおぼえ、時の聞こえ、めでたかりき。入道相国、天下の大小事を宣ひ合はせられければ、時の人、「平関白」とぞ申しける。
第五句 義王 ぎわう
入道相国かやうに天下をたなごころににぎり給ふ間、世のそしりをもはばかり給はず、不思議の事をのみし給へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王、義女とておととい有り。これはとぢといふ白拍子の娘なり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなす事かぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にして楽しき事かぎりなし。
そもそもわが朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳、若の前、これら二人が舞ひいだしけるなり。始は水干に立烏帽子、白鞘巻をさして舞ひければ、「男舞」とぞ申しける。然るを中ごろより烏帽子、刀をばのけられて、水干ばかりを用ひたり。さてこそ「白拍子」とは名づけけれ。
義王がさいはひのめでたき
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事を、京中の白拍子ども伝へ聞きて、うらやむ者も有り。「あなめでたの義王がさいはひや。同じ遊びの者とならば、たれもあのやうにこそ有りたけれ。あはれ、これは『義』といふ文字をついて、かやうにめでたきやらん。いざ、われらもついてみん」とて、或は「義一」とつき、或は「義二」とつき、「義福」「義徳」といふも有り。ねたむ者は、「なにとて文字にはよるべき。さいはひは先の世のむまれつきにこそ有るなれ」とて、つかぬ者もおほかりけり。
かくて三年と申すに、京中に又白拍子の上手一人出できたり。これは加賀の国の者なり。名を仏とぞ申しける。年十六とぞ聞こえし。「昔よりおほくの白拍子の有りしかども、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事なのめならず。
あるとき仏御前申しけるは、「われ天下に聞こえたれけども、当時さしもめでたうさかえさせ給ふ太政入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ。遊び者のならひ、なにかはくるしかるべき。推参して見ん」とて、あるとき西八条へぞ参じける。
人参りて、「当時都に聞こえ候ふ仏御前こそ参りて候へ」と申しければ、「なんでう、さやうの遊び者は人の召しにしたがひてこそ参れ、左右なう推参するやう有る。其上義王が有らん所へは、神といもいへ、仏ともいへ、かなふまじきぞ、とくとくまかり出でよ」とぞ宣ひける。
仏御前すげなう言はれ奉りて、すでに出でんとしけるを、義王、入道殿に申しけるは、「遊び者の推参はつねのならひにてこそさぶらへ。其上
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年もいまだをさなうさぶらふなるに、たまたま思ひたちて参りてさぶらふを、すげなう仰せられて返させ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしく、かたはらいたくさぶらふらん。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をこそ聞こしめさずとも、御対面ばかりはさぶらひて、返させ給はんは、ありがたき御なさけにてさぶらふべし」と申しければ、入道、「いでいで、さあらば、我御前があまりに言ふ事なれば、見参してかへさん」とて、御使をたてられたり。
仏御前すげなう言はれ奉りて、すでに車に乗りて出でけるが、召されて帰り参りたり。入道出であひ対面して、「けふの見参有るまじかりつるを、義王あまりに申しすすむる間、かやうに見ざんしつ。見参するほどにては、いかでか声をも聞かでは有るべき。今様一つうたへかし」。仏御前「承りさぶらふ」とて、今様一つぞうたうたる。
君を始て見るときは 千代も経ぬべしひめ小松 おまへの池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ
と、おし返しおし返し、三返うたひすましたりければ、一門の人々耳目をおどろかし、入道相国もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今様は上手なり。この定にては舞もさだめてよかるらん。一番見ばや。つづみうち召せ」とて召されけり。仏御前、つづみうたせて一番舞うたりけり。仏御前は髪すがたより始て、みめかたち世にすぐれ、声よく、節も上手なりければ、なじかは舞も損ずべき。心
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も及ばず舞ひすましたり。
君が代をももいろといふうぐひすの 声の響ぞ春めきにける
とうたひて踏みめぐりければ、入道相国、舞にめで給ひて、仏に心をうつされけり。
仏御前申しけるは、「こはさればなにごとさぶらふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひつるを、義王御前の申状にてこそ召し返されてさぶらふに、かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前の思ひ給はんずる心のうちこそはづかしうさぶらふへ。はやはやいとまを賜はりて出ださせ給へ」と申しけれども、入道「なんでう、その儀有るべし【*べき】。但義王が有るをはばかるか。その儀ならば義王をこそ出ださめ」と宣ふ。仏御前申しけるは、「それ又いかでかさる事さぶらふべき。もろともに召しおかれんだにもかたはらいたうさぶらふに、義王御前を出だされまゐらせて、わらは一人召し置かれ参らせなば、いとど心憂くさぶらふべし。おのづから後までもわすれぬ御事ならば、召されて又は参るとも、けふのいとまを賜はらん」とぞ申しける。入道「すべてその儀有るまじ。唯義王とくとくまかり出でよ」と御使かさねて三度までこそたてられけれ。
義王、もとより、思ひまうけたる道なれども、さすがきのふけふとは思ひよらざりしに、いそぎ出づべきよし、しきりに宣ひける間、掃き、のごひ、塵ひろはせ、出づべきにこそさだまりけれ。一樹のかげにやどりあひ、同じ流れをむすぶだに、わかれの道は悲しきならひなるに、いはんやこれは、この三年がほど住みなれし所なれば、名残
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も惜しく悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてしも有るべき事ならねば、「いまはかう」とて出でけるが、「なからんあとの形見にもや」と思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。
もえいずるも枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋に合はではつべき
さて、車に乗りて宿所に帰り、障子のうちにたふれ臥し、唯泣くよりほかの事ぞなき。母や妹これを見て、「いかにや、いかにや」と問ひけれども、とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてぞ、去事有りとも知りてけり。
さるほどに、毎月おくられける百石百貫も、はやとどめられて、いまは仏御前のゆかりの者ぞ始て楽しみさかえける。京中の上下、「義王こそ入道殿のいとま賜はりて出でたるなれ。いざや、見参してあそばん」とて、或は文をやり、或は使をたつる者も有り。義王さればとて、今更人に見参してあそびたはぶれべきに有らず」とて、文をとり入るる事もなし。まして使にあひしらふまでもなかりけり。これにつけても悲しくて、涙にのみぞ沈みける。かくてことしも暮れぬ。あくる春のころ、入道相国義王がもとへ使者をたてて、「いかに義王。その後なにごとか有る。さては仏御前のあまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、参りて今様をもうたひ、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて臥しにけり。入道かさねて使をたて、「義王、など
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返事をばせぬぞ。参るまじきか。参るまじくはそのやうを申せ。浄海がはからふむね有り」とぞ宣ひける。母のとぢ、これを聞きて、「いかにや、義王御前。ともかうも御返事を申せかし。かやうにしかられまゐらせんよりは」と言へば、義王涙をおさへて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて『参らん』とも申さめ。参らざらんもの故に、なにと御返事を申すべしともおぼえず。このたび『召さんに参らずは、はからふむね有り』と仰せらるるは、都のほかへ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、この二つにはよも過ぎじ。たとひ命を召さるるとも、惜しかるべきわが身かは。又都のほかへ出ださるるとも、なげくべきに有らず。ひとたび憂きものに思はれまゐらせ、ふたたびむかふべきに有らず」とて、なほ御返事を申さず。
母とぢかさねて教訓しけるは、「あめが下に住まん者は、ともかうも入道殿の仰せをばそむくまじき事に有るぞ。をとこをんなの縁、宿世、いまに始ぬ事ぞかし。千年、万年とちぎれども、やがてはなるる事も有り。あからさまとは思へども、ながらへはつる仲も有り。世にさだめなきは男女のならひなり。それに、我御前は、三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき事にこそ有れ。このたび召さんに参らねばとて、命を召さるるまではよも有らじ。都のほかへぞ出だされんずらん。たとへ都を出ださるるとも、我御前たちは年若ければ、いかならん岩木のはざまにても、すごさん事やすかるべし。但、わが身年老い、よはひおとろへて、都のほかへ出だされなば、ならはぬひなのすまひこそかねて思ふに悲しけれ。唯われを都のうちにて住みはてさせよ。それぞ今生、後生の孝養にて有ら
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んずる」と言へば、義王、憂しと思ひし道なれど、親の命をそむかじと、泣く泣く出でたちける心のうちこそ無慚なれ。涙のひまよりも、
露の身のわかれし秋にきえはてで 又ことの葉にかかるつらさよ
「ひとり参らんはあまりにもの憂し」とて、妹の義女をもあひ具しける。そのほか白拍子二人、総じて四人、ひとつ車に乗り具して、西八条へぞ参りける。日ごろ召されける所へは入れられずして、はるかにさがりたる所に、座敷をしつらうて置かれたり。義王「こはさればなにごとぞや。わが身にあやまる事はなけれども、捨てられ奉るだに有りし、いまさら座敷をさへさげらるる事のくちをしさよ。いかにせん」と思ふに、知らせじとする袖のしたよりも、あまりて涙ぞこぼれける。仏御前哀に思ひ、入道殿に申しけるは、「さきに召されぬ所にてもさぶらはず、これへ召されさぶらへかし。さらずは、わらはにいとま賜はりて、出でて見参せん」と申しけれども、入道「すべてその儀有るまじ」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。
入道出であひ対面し給ひて、「いかに義王、なにごとか有る。さては、仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、今様一つうたへかし」義王「参るほどではともかくも仰せをばそむくまじきものを」と思ひければ、落つる涙をおさへて、今様一つうたひける。
月もかたぶき夜もふけて、心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり、われらも
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遂には仏なり、いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、悲しけれ
と、泣く泣く二三返うたひたりければ、その座に並みゐ給へる一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍にいたるまで、皆感涙をぞ流されける。入道もおもしろげにて、「時にとりては神妙に申したり。この後は、召さずともつねに参りて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命をそむかじと、つらき道におもむき、ふたたび憂き目を見つるくちをしさよ」
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
「生きてこの世に有るならば、又憂き目をも見んずらん。いまは唯身を投げんと思ふなり」と言ひければ、妹の義女も、「姉の身を投げば、われもともに投げん」と言ふ。母とぢこれを聞き悲しみて、いかなるべしともおぼえず、泣く泣く又教訓しけるは、「誠に我御前がうらむるも理なり。かやうの事有るべしとも知らずして、教訓して参らせつる事のくちをしさよ。但二人の娘共におくれなば、年老い、よはひおとろひたる母、とどまりてもなにかせん。われもともに身を投げんなり。いまだ死期もきたらぬ親に身を投げさせん事、五逆罪にや有らんずらん。この世はわづかに仮の宿りなり。恥ぢてもなにならず。今生でこそ有らめ、後生でだにも悪道へおもむか
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ん事の悲しさよ」と袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王涙をおさへて、「一旦恥を見つる事のくちをしさにこそ申すなれ。誠にさやうにさぶらはば、五逆罪はうたがひなし。さらば自害は思ひとどまりぬ。かくて都に有るならば、又憂き目をも見んずらん。いまは都のうちを出でん」とて、義王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。
妹の義女も、「姉の身を投げば、ともに投げんとだにちぎりしに、まして世をいとはんには、たれかはおとるべき」とて、十九にて様をかへ、姉と一所にこもりゐて、後世をねがふぞ哀なる。母とぢこれを見て、「若き娘共だにも様をかゆる世の中に、年老い、よはひおとろへて、白髪つけてもなにかせん」とて、四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに一向専修に念仏して、偏に後世をねがふぞ哀なる。
かくて春過ぎ夏たけて、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天の戸わたるかぢの葉に思ふ事書くころなれや。夕日のかげの西の山の端にかくるるを見ては、「日の入り給ふ所は西方浄土にて有るなり。いつかわれらもかしこにむまれて、ものを思はですごさんずらん」と、かかるにつけても、唯つきせぬものは涙なり。
たそがれ時も過ぎければ、竹の網戸をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる所に、竹の網戸をほとほとと打ちたたく者出できたり。其時尼ども肝をけし、「あはれ、これはいふかひなきわれらが、念仏してゐたる
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をさまたげんとて、魔縁きたりてぞ有るらん。昼だにも人も訪ひこぬ山里の、柴のいほりのうちなれば、夜ふけてたれか尋ぬべき。わづかの竹の網戸なれば、あけずとも押し破らん事やすかるべし。なかなか唯あけて入れんと思ふなり。それになさけをかけずして、命をうしなふものならば、年ごろたのみ奉る弥陀の名号をとなへ奉るべし。声を尋ねてむかへ給ふなる聖衆の来迎にてましませば、などかは引摂なかるべき。あひかまへて念仏おこたり給ふな」と、たがひに心をいましめて、竹の網戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、仏御前ぞ出できたる。
義王「あれはいかに、仏御前と見奉るは、夢かや、うつつかや」と言ひければ、仏御前、涙をおさへて、「かやうの事申すは、なかなか事あたらしき事にてさぶらへども、申さずは又思ひ知らぬ身となりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひしを、義王御前の申状によりてこそ召し返されてさぶらひしに、をんなのかひなさは、わが身を心にまかせずして、おしとどめられまゐらせし事、心うくこそさぶらひしか。我御前の出だされ給ひしを見るにつけても、『いつかわが身の上とならん』と思ひしかば、うれしとはさらに思はず。障子に又『いづれか秋にあはではつべき』と書きおき給ひし筆のあと、『げにも』と思ひ知られてさぶらふぞや。いつぞや又召されまゐらせて、今様うたひ給ひしにも、思ひ知られてこそさぶらひしか。このほど御ゆくへをいづくにとも知らざりつるに、かやうに様を
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かへて一所にと承りて後は、あまりにうらやましくて、つねはいとまを申せしかども、入道殿さらに御もちひましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、楽しみさかえてもなにかせん。人身は受けがたく、仏教にはあひがたし。比度泥犁に沈みなば、多生曠劫を経るとも、浮かび難し。年の若きをたのむべきにも有らず。老少不定のさかひなり。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ、いなづまよりもなほはかなし。一旦の楽しみにほこりて、後生を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれ」とて、かづきたる衣をうちのけたるを見れば、尼になりて出できたる。
「かやうに様をかへて参りたれば、日ごろのとがをゆるし給へ。『ゆるさん』と仰せられば、もろともに念仏して、ひとつ蓮の身とならん。それもなほ心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひゆき、いかならん苔のむしろ、松が根にもたふれ臥し、命の有らんかぎりは念仏して、往生の素懐をとげん」と言ひて、袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王、涙をおさへて申しけるは、「誠に、それほどに我御前の思ひ給ひけるとは夢にも知らず、憂き世の中のさがなれば、身を憂しとこそ思ふべきに、ともすれば我御前をうらみて、往生をとげん事もかなふべしともおぼえず。今生も、後生も、なまじひにし損じたる心地して有りつるに、かやうに様をかへておはしたれば、日ごろのとがは露塵ほどものこらず。いまは往生うたがひ
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なし。このたび素懐をとげんこそ、なによりもつてうれしけれ。われらが尼になりしをこそ、世にありがたきやうに、人も言ひ、わが身も思ひしが、それは世をうらみ、身をうらみてなりしかば、様をかゆるも理なり。我御前の出家にくらぶれば、事の数にも有らざりけり。我御前はなげきもなし、うらみもなし。今年はわづかに十七にこそなる人の、かやうに穢土をいとひ、浄土をねがはんと思ひ入り給ふこそ、誠の大道心とはおぼえたれ。うれしかりける善知識かな。いざ、もろともにねがはん」とて、四人一所にこもりゐて、朝夕仏の前に花香をそなへ、余念もなくねがひければ、遅速こそ有りけめども、四人の尼ども皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。
されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「義王、義女、仏、とぢが尊霊」と四人一所に入れられけり。哀なりし事共なり。
第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
さるほどに、嘉応元年七月十六日、一院御出家有り。御出家の後も万機の政を聞こしめされければ、院、内分くかたなし。院に召し使はるる公卿、殿上人、上下の北面にいたるまで、官位俸禄身にあまるばかりなり。されども人の心のならひにて、なほあきたらず」「あはれ、その人が失せたらばその国はあきなんず」「その
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人が亡びたらばその官にはなりなん」などと、うとからぬどちは寄りあひ寄りあひささやきあへり。一院も内々仰せなりけるは、「昔より朝敵をたひらぐる者おほしといへども、いまだかやうの事なし。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡ぼし、義家が武衡、家衡を攻めたりしも、勧賞おこなはるる事、わづかに受領には過ぎざりき。清盛がかく心のままに振舞ふこそ然るべからね。これも世の末になりて、王法の尽きぬる故なり」とおぼしめせども、ついでなければ御いましめもなし。
又平家もあながちに朝家をうらみ奉る事もなかりしに、世の乱れそめぬる根本は、去んぬる嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新三位の中将資盛、其時はいまだ越前守とて、十三になられけるが、雪ははだれに降りたり、枯野のけしきも誠におもしろかりければ、若侍ども二三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近の馬場にうち出でて、鷹ども数多据ゑさせて、鶉、雲雀追つたて追つたて、ひめむすに狩りくらし、薄暮に及び六波羅へこそかへられけれ。
其時の御摂禄は松殿にてぞましましける。中の御門の東の洞院の御所より御参内有り。郁芳門より入御有るべきにて、中の御門東の洞院の大路を南へ、大炊の御門を西へ御出なる。資盛の朝臣大炊の御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に参りあふ。殿下の御供の人々、
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「何者ぞ、狼藉なり。御出の有るに、おり候へ」と言ひてけれども、あまりに勇み誇りて、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍ども、皆二十よりうちの若き者どもにて、礼儀骨法をわきまへたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀にも及ばず、駆け破りて通らんとする間、暗さはくらし、殿下の御供の人々、つやつや太政入道の孫とも知らず少々は又知りたりけれどもそら知らずして、資盛朝臣を始として、侍ども馬より取つて引き落し、頗る恥辱に及びけり。資盛朝臣はふはふ六波羅へおはして、祖父相国禅門へこのよし訴へ申されたり。入道、最愛の孫にてはおはします、おほきに怒つて、「たとえ殿下なりとも、浄海があたりをば一度はなどかはばかり給はざるべき。をさなき者に左右なう恥辱をあたへらるるこそ遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。この事思ひ知らせ奉らでは、えこそ有るまじけれ。殿下をうらみ奉らばやと思ふはいかに」と宣へば、小松殿申されけるは、「これはすこしもくるしく候ふまじ。頼政、時光なんどと申す源氏どもにあざむかれ候はんは、誠に一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子どもにて候はんずる者が、殿下の御出に参りあひ奉り、乗物よりおり候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時行きむかひたる侍ども皆召し出だし、「自今以後もなんぢらよく心得べし。あやまつて、重盛はこれより殿下へ、無礼のおそれを
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こそ申さんと思へ」と宣へば、その後は入道相国、小松殿にはかくとも宣ひも合はせられず、かた田舎の侍どもの、「入道の仰せよりほかはおそろしき事なし」と思ふ、難波、瀬尾を始として都合六十余人召し寄せ、「来る二十一日、主上御元服の御さだめに殿下参内有らんとき、いづくにても待ちうけ奉りて、前駆、随身どもがもとどり切つて、資盛が恥をそそげ」とぞ宣ひける。兵どもかしこまり承りてまかり出づ。
殿下これをば夢にも知ろしめされず、主上明日【*明年】御元服、御加冠、拝官御さだめの為に、御直盧にしばらく御座有るべきにて、つねの御出よりひきつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入御有るべきにて、中の御門を西へ御出なる。六波羅の兵ども、猪熊堀川の辺に、ひた兜三百騎ばかりにて待ちうけ奉り、殿下をうちにとりこめ、前後より鬨をどつとぞつくりける。前駆や随身どもが今日を晴れと装束したるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、馬よりとつて引き落し、散々に陵轢して、いちいちに皆もとどりを切る。随身十人がうち、右の府生武基がもとどりも切られてんげり。その中に藤蔵人大夫高範がもとどりを切るとて、「これはまつたくなんぢがもとどりと思ふべからず。主のもとどりと思ふべし」と言ひふくめてぞ切りてける。その後は御車のうちへも弓の筈つき入れなんどして、簾かなぐり落し、御牛のしりがい・むながい
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切りはなち、散々にしちらして、よろこびの鬨をつくり、六波羅へこそ参りけれ。入道「神妙なり」とぞ宣ひける。御車副には鳥羽の先使国久丸といふをのこ、下臈なれども心有る者にて、様々にしつらひ、御車つかまつりて、中の御門の御所へ還御なし奉り、束帯の御袖にて涙をおさへつつ、還御の儀式のあさましさ申すもなかなかおろかなり。大織冠、淡海公の御事はなかなか申すに及ばず、忠仁公、昭宣公よりこのかた、摂政関白のかかる御目に合はせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これぞ平家の悪行の始なる。
小松殿これを聞き、大きにおどろき、其時行きむかひたる侍ども、皆勘当せらる。「およそは資盛奇怪なり。『栴檀は二葉より香ばし』とこそ見えたれ。すでに十二三にならんずる者は、礼儀、骨法を存知してこそ振舞ふべきに、かく尾籠を現じて、入道の悪名をたて、不孝のいたり、なんぢひとりに有り」とてしばらく伊勢の国へ追ひ下さる。さればこの大将を、君も臣も御感有りけるとぞ聞こえし。
これによりて、主上御元服の御さだめ、その日は延べさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御さだめは有りける。摂政殿さてもわたらせ給ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨をかうぶらせ給ひて、十四日、太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同じく十七日、慶申し有りしかども、世の中なほもにがにがしうぞ見えし。さるほどに、今年も暮れ、嘉応も三年になりにけり。
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第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
同じき三年正日五日、主上御元服有りて、同じき十三日、朝覲の行幸有りけり。法皇、女院待ちうけさせ給ひて、初冠の御よそほひいかばかりらうたくおぼしめされけん。主上御年十三歳、入道相国の御娘、女御に参らせ給ふ。法皇御猶子の儀なり。
そのころ、妙音院の太政大臣、内大臣の左大将にておはしけるが、大将を辞し申させ給ひけるときに、徳大寺の大納言実定の卿も所望有り。そのほか、故中の御門の藤中納言家成の卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。これは院の御気色よかりければ、さまざまの祈りを始らる。八幡に百人の僧を籠めて真読の大般若を七日読ませられける間に、高良の大明神の御前なる橘の木に、男山のかたより山鳩二つ飛びきたりて、くひあうてぞ死ににける。「鳩は、これ八幡の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なし」とて、時の検校慶清法印このよし内裏へ奏聞せられたりければ、神祇官にして御占かた有り。「重き御つつしみ、但君の御つつしみには有らず。臣下のつつしみ」とぞうらなひ申しける。
新大納言それにおそれをもいたさず、昼は人目しげければ、夜な夜な歩行にて、中の御門烏丸の宿所より賀茂の上の杜へ七夜つづけて参ら
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れけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさにちとまどろみたる夢に、加賀の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸を押し開き、ゆゆしうけだかき御声にて、
さくら花賀茂の川風うらむなよ 散るをばえこそとどめざりけれ
新大納言、なほもそれにおそれをもいたさず、賀茂の上の社の御宝殿のうしろなる大杉のほらに壇をたてて、ある聖を籠めて、百日拏吉尼の法をおこなはせられけるに、いかづちおびたたしく鳴りて、かの杉に落ちかかり、雷火もえあがつて宮中もすでにあやふく見えしかば、神人はしり集まりて、これをうち消しつ。さて、かの外法をおこなひける聖を追ひ出ださんとしけるに、「われ百日参籠の大願有り。今日七十五日にあたる。まつたく出でまじ」とてはたらかず。社家よりこのよし内裏へ奏聞したりければ、「唯法にまかせよ」と仰せらるる間、其時、神人白杖をもつて、かの聖のうしろをしらげて、一条大路より南へ追ひ出だしてんげり。「神は非礼をうけ給はず」と申すに、この大納言非分の大将を祈り申されければにや、かかる不思議も出できたる。
そのころ叙位、除目と申すは、院、内の御はからひにも有らず、摂政、関白の御成敗にも及ばず。唯一向平家のままにて有りければ、徳大寺、花山の院もなり給はず。入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にてましましけるが、左にうつりて、次男宗盛、中納言にておはしける
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が、数輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ申すばかりもなかりしか。
中にも徳大寺殿は一の大納言にて、華族英雄、才学優長におはしけるが、越えられ給ひぬるこそ遺恨の次第なれ。「さだめて御出家なんどや有らずらん」と、人々ささやき合はれけれども、「しばらく世のならむやうを見ん」とて、籠居とぞ聞こえし。
新大納言宣ひけるは、「徳大寺、花山の院に越えられたらんはいかがせん、平家の次男宗盛の卿に超えられぬるこそ遺恨の次第なれ。これもよろづ思ふさまなるがいたす所なり。いかにもして平家を亡ぼし、本望をとげん」と宣ひけるこそおそろしけれ。平治にも越後の中将とて、信頼の卿に同心の間、すでに誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、頸をつぎ奉る。然るにその恩をわすれ、かかる心のつかれける、偏に天魔の所為とぞ見えし。外人なき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、そのいとなみのほかは他事なし。
東山のふもと鹿の谷といふ所は、うしろは三井寺につづきて、ゆゆしき城郭にてぞ有りける。これに俊寛僧都の山荘有り。つねはその所に寄りあひ寄りあひ、平家を亡ぼすべきはかりごとをぞめぐらしける。あるとき法皇も御幸なる。故少納言入道信西の子息静憲法印も御供申す。その夜の酒宴に、静憲法印にこの事仰せ合はせられたりければ、法印「あなおそろし。人の数多承り候ひぬ。唯今漏れ聞こえ
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て、天下の御大事に及び候はん」とあわてさわがれければ、大納言気色かはつて、御前をざつと起たれけるが、御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけてひき倒されたりければ、法皇「あれはいかに」と仰せければ、大納言たちかへりて、「へいじすでに倒れ候ひぬ」と申されければ、法皇、ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども、参りて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼つと出でて、「あまりにへいじのおほく候ふに、もち酔ひて候」と申す。俊寛僧都「それをばいかがつかまつり候ふべき」と申せば、西光法師「首をとるにはしかじ」とて、瓶子の首をとりてぞ入りにける。かへすがへすもおそろしかりし事共なり。静憲法印はあまりのあさましさに、つやつや物も申されず。
与力のともがらは誰々ぞ。近江の中将入道俗名成雅、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津の国の源氏多田の蔵人行綱を始とし、北面のともがら多く与力したりけり。
あるとき新大納言、多田の蔵人行綱を呼びて、「御辺をば一方の大将軍にたのむなり。この事しおほせつるほどならば、国をも、荘をも、所望は請ふによるべし。まづ弓袋の料に」とて、白布五十反おくられけり。
そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅の子なり。祖父大納言はさせる弓矢
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をとる家には有らねども、あまりに腹あしき人にて、三条坊門京極の家の前をば人をもやすく通さず、つねは中門にたたずみて、歯をくひしばり、いかつてのみぞおはしける。かかる人の孫なればにや、俊寛も憎なれども、心もたけく、よしなき謀叛にもくみしてけり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ給へるかはりに、小松殿、大納言定房の卿を越えて、内大臣にあがり給ふ。やがて大饗おこなはる。大臣の大将めでたかりき。尊者には、大炊の御門の右大臣経宗公とぞ聞こえし。一の上こそ先途なれども、父宇治の悪左府の御例そのはばかり有り。
上古には北面なかりき。白河の院の御時始て置かれてよりこのかた、衛府ども数多侍ひけり。為俊、盛重、童より今犬丸、千寿丸とて、これらは左右なききり者にてぞ有りける。鳥羽院の御時も、季範、季頼、父子ともに召し使はれて、つねは伝奏するをりも有りなんど聞こえしかども、皆身のほどを振舞ひてこそ有りしに、今の北面のともがらは、もつてのほかに過分にて、下北面より上北面にあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もおほかりけり。かくおこなはるる間おごれる心どももつきて、よしなき謀叛にもくみしてんげり。
故少納言入道信西の、もと召し使ひける師光、成景といふ者有り。師光は阿波の国の在庁、成景は京の者、熟根いやしき下臈なり。小舎人童、
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もしは格勤者なんどにて召し使はれけるが、さかさかしきによりて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉、二人一度に靭負尉になりぬ。信西事にあひしとき、二人ともに出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とて、これらは出家の後も院の御蔵ゐ[*この一字不要]預かりでぞ有りける。
かの西光が子に師高といふ者有り。これも左右なききり者にて検非違使五位の尉にまで経あがつて、安元元年十二月二十九日、追儺の除目に加賀守にぞなされける。国務をおこなふ間、非法非礼を張行し、神社、仏寺、権門勢家の荘園を没倒して、散々の事共にぞ有りける。たとへ召公のあとをつぐといふとも、穏便の政をおこなふべかりしが、かく心のままに振舞ふ間、同じき二年夏のころ、国司師高が弟、近藤判官師経、目代にて加賀の国へ下着の始、国府の辺に鵜川といふ山寺有り、折節寺僧ども湯をわかして浴びけるを、乱入して追ひあげ、わが身浴び、雑人ども馬の湯あらひなんどをしける。寺僧いかりをなして、「昔よりこの所に国方の者入部する事なし。先例にまかせてすみやかに入部、押妨をとどめよ」とぞ申しける。「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。当目代はすべてその儀有るまじ」とて、国方のついでをもつて乱入せんとす。寺僧どもは追ひ出ださんとす。たがひに打ちあひ、張りあひしけるほどに、目代師経が秘蔵
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しける馬の足をぞうち切りける。その後は、弓箭兵仗を帯して打ちあひ、切りあひ、数刻たたかふ。目代かなはじとや思ひけん、引きしりぞきて、当国の在庁官人、数千人もよほし、鵜川に押し寄せて坊舎一宇ものこさず焼きはらふ。
鵜川と申すは白山の末寺なり。「この事訴へよ」とてすすむ老僧誰々ぞ。智釈、学明、法台坊、性智、学音、土佐の阿闍梨ぞすすみける。白山の三社八院の大衆ことごとくおこりあひ、都合その勢二千余人、同じき七月九日、目代師経がもと近うぞ押し寄せたる。「今日は日暮れぬ。明日のいくさ」とさだめて、その夜は寄せでゆられたり。露ふきむすぶ秋風は射向の袖をひるがへし、雲井を照らすいなづまは兜の星をかがやかす。あくる卯の刻に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。城のうちには音もせず。人を入れて見せければ、「皆落ちたり」と申す。大衆力及ばで引きしりぞく。
「さらば山門へ訴へん」とて、白山の神輿をかざり奉りて、比叡山へ振りあげ奉る。
同じき八月十二日、午の刻ばかりに、「白山の神輿すでに比叡山東坂本につかせ給ふ」といふほどこそ有りけれ、北国のかたより雷おびたたしく鳴つて、都をさして鳴りのぼるに、白雪降りて地をうづみ、山上、洛中おしなべて、常盤の山のこずゑまで皆白妙になりにけり。
神輿を客人の宮へ入れ奉る。客人と申すは白山妙理権現にておはし[*この3字不要]おはします。
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思へば、父子の御仲なり。まづ沙汰の成否は知らず、生前の御よろこび、唯この事に有り。浦島が七世の孫にあひたりしにも過ぎ、胎内の者の霊山の父を見しにもこえたり。三千の大衆踵を継ぎ、七社の神人袖をつらね、時々刻々に法施祈念の声たえず。言語道断の事共なり。
山門の上綱等、奏状をささげて、「国司師高流罪に処せられ、目代師経を禁獄せらるべき」よし奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、さも然るべき公卿殿上人は、「あはれ、これはとくとく御裁許有るべきものを。山門の訴訟は他にことなり。大蔵卿為房、太宰権師季仲の卿と申せしは、さしも朝家の重臣なりしかども、山門の訴訟によて流罪せられにき。いはんや師高なんどは事の数にや有るべき」と申し合はれけれども、「大臣は禄を重んじて諫めず、小臣は罪をおそれて申さず」といふ事なれば、おのおの口を閉ぢ給へり。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなはぬ」と、白河の院も仰せなりけるとかや。鳥羽の院の御時、越前の平泉寺を山門につけられけるには、「当山の御帰依あさからざるによて、非をもつて理とす」と宣下せられてこそ、院宣を下されしか、されば、江の師の申されしやうに、「そもそも神輿を陣頭に振り奉りて、訴訟いたさんときには、君はいかが御はからひ候ふべき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」
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とぞ仰せける。
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
去んぬる嘉保二年三月二日、美濃守源の義綱の朝臣、当国新立の荘を賜ふ間、山の久住者円応を殺害す。これによて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人、申文をささげて陣頭へ参じける。関白殿、大和源氏中務丞頼治に仰せて、これをふせがせらる。頼治が郎等のはなつ矢に、矢庭に射殺さるる者八人、傷をかうぶる者十余人なり。社司、諸司四方へ散りぬ。これによて山門の衆徒子細を奏聞の為に下洛すと聞こえしかば、武士、検非違使、西坂本に行きむかつて追つかへす。
山門には大衆、七社の神輿を根本中堂に振りあげ奉りて、その御前にして真読の大般若を七日読うで、関白殿を呪咀して奉る。結願の導師には中胤法印、高座にのぼり、鉦打ち鳴らし啓白の詞にいはく、「われらが芥子の二葉よりおほし奉る神たち、後二条の関白殿に鏑矢一つはなちあて給へ。大八王子権現」と高らかに祈誓したりけれ。やがてその夜不思議の事有りけり。八王子の御殿より鏑矢の声いでて、王城をさして鳴り行くとぞ人の耳には聞こえける。
その朝関白
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殿の御所の御格子をあげらるるに、唯今山より取つてきたるやうに、露にぬれたる樒一枝御簾にたちけるこそ不思議なれ。その夜よりやがて関白殿、山王の御とがめとて重き御やまひをうけさせ給ひたりしかば、母上、大殿の北の政所大きに御なげきあつて、いやしき下臈のまねをして、日吉の社に七日七夜が間御参籠あつて、祈り申させおはします。まづあらはれての御祈りには、百番の芝田楽、百番のひとつもの、競馬、流鏑、相撲、おのおの百番、百座の仁王経、百座の薬師講、一ちやく手半の薬師百体、等身の薬師一体、ならびに釈迦、阿弥陀の像をおのおの造立し供養せられけり。又御心のうちに三つの御立願有り。御心のうちの事なりければ、人いかでこれを知り奉るべきに、それに不思議なる事には、八王子の御前にいくらも有りける参人の中に、陸奥の国よりはるばるとのぼりたる童巫女の、夜半ばかりに、にはかに絶え入りぬ。はるかにかき出だして祈りければ、やがて立ちて舞ひかなづ。人奇特の思ひをなしてこれを見るに、半時ばかりて舞うて後、山王おりゐさせ給ひて、御託宣こそおそろしけれ。「衆生ら、たしかに承れ。大殿の北の政所は、今日七日、わが御前にこもらせ給ふ。御立願三つ有り。まづ一つには、『今度殿下の寿命をたすけてたばせ給へ。さもさぶらはば、この下殿に侍ふもろもろのかたは人にまじはりて、一千日が間宮仕ひ申さん』となり。大殿の
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北の政所にて、世を世ともおぼしめさですごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事もわすれて、あさましげなるかたは人にまじはりて、『一千日が間朝夕宮仕へ申さん』と仰せらるるこそ、誠に哀におぼしめせ。二つには、『大宮の橋殿より八王子の御社まで、廻廊造りて参らせん』となり。三千の大衆降るにも照るにも、社参のとき、あまりにいたはしければ、廻廊造られたらんは、いかにめでたからん。三つには、『八王子の前にて、毎日退転なく法華問答講おこなはすべし』となり。この御願はいづれもおろかならねども、かみ二つはさなくとも有りなん。法華問答講こそ誠に有らましほしくおぼしめせ。但、今度の訴訟はやすかりぬべき事にて有りつるを、神人、宮仕、射殺され、切り殺されて、衆徒おほく傷をかうぶりて、泣く泣く参りて訴へ申すがあまりに心憂くて、いかならん世までもわするべしともおぼしめさず。其上、かれらがはなつ矢は、しかしながら和光垂迹の御はだへにたちたるなり。誠そらごとはこれを見よ」とて、肩ぬいだるを見れば、左のわきのしたに、大きなるかはらけの口ほど、うげのいてぞ見えたりける。「これがあまりに心憂くて、いかに申すとも、始終の事はかなふまじ。法華問答講一定有るべくは、三年が命を延べてたてまつらん。それに不足におぼしめさば、力及ばず」とて、山王はあがらせおはします。
母上御心のうちの御立願なれば、人に語らせ給はず。「誰漏らし
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ぬらん」とすこしもうたがふ方もましまさず。御心のうちの事共をありのままに御託宣有りければ、いよいよ心肝に染みて、ことに貴くおぼしめして、泣く泣く申させ給ひけるは、「たとひ一日片時にもさぶらふとも、然るべうこそさぶらふに、まして三年が命を延べて賜はらん事こそ、誠にありがたうさぶらへ」とて、泣く泣く御下向有りけり。やがて都へかへらせ給ひて、殿下の御領、紀伊の国に田中の荘といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せられけり。されば今の世にいたるまで、法華問答講毎日退転なしとぞ承る。
かかりしほどに、後二条の関白殿御やまひかろませ給ひて、もとの如くならせ給ふ。上下よろこび合はれしほどに、三年すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月二十一日、又後二条の関白殿、御髪のきはにあしき御瘡出できさせ給ひて、うち臥し給ひしが、同じき二十七日、御年三十八にて遂にかくれさせ給ふ。御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人にておはしけれども、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜しませ給ひけるなり。誠に惜しかるべし。四十にだにも満たせ給はで、大殿に先立参らせ給ふこそ悲しけれ。必父を先立べしといふ事はなけれども、生死のおきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士たちも、力及ばぬ事共なり。慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御とがめなかるべしともおぼえず。さるほどに、山門の大衆「国司師高流罪に処せ
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られ、目代師経を禁獄せらるべき」よし奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、十禅師の[*この一字不要]、客人、八王子三社の神輿をかざり奉りけるとぞ聞こえし。
第十句 神輿振り みこしふり
同じき四月十三日、日吉の祭礼をうちとどめて、陣頭へ振り奉る。下り松、柳原、賀茂河原、河合、梅忠、東北院の辺に、白大衆、神人、宮仕、専当みちみちて、いくらといふ数を知らず。神輿は一条を西へ入らせ給ふに、御神宝は天にかがやき、「日月地に落ち給ふか」とおどろかる。これによて源平両家の大将軍に、「四方の陣頭をかためて、大衆をふせぐべき」由仰せ下さる。平家には、小松の内大臣左大将重盛公、三千余騎にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の門をかため給ふ。舎弟宗盛・知盛・重衡、伯父頼盛・教盛・経盛なんどは、西、南の門をかため給ふ。
源氏には大内守護の源三位頼政さきとして、その勢わづかに三百余騎、北の縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし、勢はすくなし、まばらにこそ見えたりけれ。
山門の大衆、無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より神輿を入れ奉らんとす。頼政はさる人にて、いそぎ馬
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よりおり、兜をぬぎて、手水うがひをして、神輿を拝し奉る。兵どもも皆かくの如し。頼政、大衆の中に言ひ遣はす旨有り。その使には渡辺の長七唱とぞ聞こえし。唱、其日の装束には、麹麈の直垂、小桜を黄にかへしたる鎧着て、赤銅づくりの太刀をはき、二十四さしたる白羽の矢負ひ、滋籐の弓わきにはさみ、兜をぬぎて高紐にかけ、神輿の御前にかしこまり、「しばらくしづまられ候へ。大衆の御中へ源三位入道殿の申せと候。『今度山門の御訴訟、御理運の条、勿論に候。但御成敗遅々こそ、よそにても遺恨におぼえ候へ。されば神輿をこの門より入れ奉るべきにて候ふが、しかもひらきて通し奉る門より入らせ給ひて候ふものならば、山門の大衆は目だり顔しけりなんど、京童部の申さん事、後日の難にや候はんずらむ。又あけて入れ奉れば、宣旨をそむくに似たり。ふせぎ奉れば、医王山王に頭をかたぶけ奉る身が、ながく弓矢の道にわかれなんず。かれといひ、これといひ、かたがたもつて難治にこそ候へ。東の陣頭は小松殿大勢かため給ふ。それより入らせ給ふべうもや候ふらん』と申したりければ、唱がかく言ふにふせがれて、神人、宮仕しばらくここにひかへたり。若大衆、悪僧どもは、「なんでふその儀有るべき。唯この陣より入れ奉れ」と言ふやからもおほかりけれども、老僧どもの中に三塔一の僉議者と聞こえし摂津律師【*竪者】豪運、進み出でて、「尤
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この儀言はれたり。われら神輿を先だてまゐらせて訴訟を致さば、大勢の中を駆け破りてこそ後代の聞こえも有らんずれ。其上この頼政は源氏嫡々の正統、弓矢をとりてはいまだその不覚を聞かず。およそ武芸にもかぎらず、歌道にも又すぐれたり。近衛の院の御時、当座の御会有りしに、『深山の花』といふ題を出だされたりしに、人々皆詠みわづらひたりしに、この頼政、
深山木のそのこずゑとも見えざりし さくらは花にあらはれにけり
といふ名歌をつかまつり、御感にあづかるほどのやさ男に、いかが当座にのぞんで恥辱をあたふべき。この神輿をかきかへし奉れや」と僉議したりければ、数千人の大衆、先陣より後陣にいたるまで皆、「尤々」とぞ同じけり。
さて神輿をかきかへし奉り、東の陣頭、待賢門より入れ奉らんとするに、狼藉たちまちに出できたりて、武士ども散々に射奉り、十禅師の神輿にも、矢ども数多射たてたり。神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりて、をめきさけぶ声、上は梵天までも聞こえ、下は堅牢地神もおどろきさわがせ給ふらんとぞおぼえける。神輿をば陣頭に振り捨て奉りて、泣く泣く本山へこそ帰りのぼりけれ。
同じき二十五日、院の殿上にて公卿僉議有り。「去んぬる保延【*保安】四年四月【*七月】十三日、神輿入洛のとき、座主に仰せて赤山の社へ入れ奉る。又保安【*保延】四年七月【*四月】に、神輿
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入洛のときは、祇園の別当に仰せて祇園の社へ入れ奉り、今度は保安【*保延】の例たるべし」とて、祇園の別当に権大僧都澄憲に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振り奉る事、永久よりこのかた、治承までは六箇度なり。されども毎度武士を召してこそふせがせらるるに、かやうに神輿射奉る事は、これ始とぞ承る。「『霊神いかりをなせば、災害ちまたに満つ』といへり。おそろし、おそろし」とぞ、人々申し合はれける。
山門の大衆おびたたしく下落すと聞こえしかば、主上腰輿に召して、夜の間に院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に召して行啓有り。小松の大臣、直衣に矢負うて供奉らせる。嫡子権亮少将維盛、束帯にえびら【*平】やなぐひ負うて参られけり。京中の貴賎、禁中の上下さわぎののじる事おびたたし。されども山門には、神輿に矢たち、神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりしかば、「大宮、二の宮、講堂、中堂、一宇ものこさず焼きはらつて、山林にまじはるべき」よし、三千一同に僉議す。これによて、「大衆申す所御ばからひ有るべし」と聞こえしほどに、平大納言時忠卿、其時はいまだ左衛門督たりしが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔会合して、上卿をひき張らんとす。「しや冠うち落し、その身をからめとつて湖に沈めよ」なんど
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ぞ申しける。時忠卿さる人にて。いそぎふところより小硯、たたう紙を取り出でて、思ふ事一筆書きて、大衆の中へ遣はす。これをあけて見るに、「衆徒の濫悪を致すは魔縁の所行也。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり」とこそ書かれたれ。大衆これを見て、「尤、尤」と同じ、谷々へくだり、坊々へぞ入りにける。一紙一句をもつて、三塔三千のいきどほりをやすめ、公私の恥をのがれ給ひける時忠卿こそゆゆしけれ。
同じき二十日、花山の院の中納言兼雅の卿、上卿にて、国司師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を獄定せらる。又去んぬる十三日、神輿射奉りし武士六人禁獄せらる。これらは皆小松殿の侍なり。
同じき四月二十八日、樋口富の小路より火出できたりて、京中おほく焼けにけり。折節辰巳の風はげしく吹きければ、大きなる車輪の如くなる炎が、三町、五町をへだてて、飛びこえ、飛びこえ、焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘の逸成の蠅松殿、鬼殿・高松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀河殿、昔、いまの名所三十四箇所、公卿の家だに十六箇所まで焼けにけり。殿上人、諸大夫の家々は記すに及ばず。遂には内裏に吹きつけ、朱雀門より始て、応天門、会昌門、大極殿、
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豊楽門【*豊楽院】、諸司八省、朝所にいたるまで、一時が内に灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら麈灰とぞなりぬ。その間の費えいかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひ数を知らず。これただごとに有らず、「山王の御とがめ」とて、比叡山より大きなる猿ども二三千おり下りて、手々に松に火をともして、京中を焼くとぞ人の夢には見えたりける。
大極殿は貞観十八年に始て焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院にてぞ有りける。元慶元年四月九日、事始め有りて、同じき二年十月八日にぞ造り出だされける。天喜五年二月二十六日に、又焼けにけり。治承【*治暦】四年四月十五日に事始め有りしかども、いまだ造り出だされざるに、後冷泉院崩御なりぬ。後三条の院の御字、延久四年四月十五日に造り出だされて、遷幸なし奉り、文人詩を奉り、伶人楽を奏しけり。いまは世の末になつて国の力もおとろへたれば、その後は遂に造られず。P058
平家物語 百二十句本(京都本)巻第二
平家巻第二目録
第十一句明雲座主流罪
覚快法親王新座主の事
明雲俗名大納言の大夫藤井の松技
根本中堂に至つて西光呪咀の事
澄憲法印伝法
第十二句明雲帰山
大衆先座主奪ひ取るべき僉議
十禅師権現御託宣
一行阿闍梨の沙汰
九曜の曼陀羅
第十三句多田の蔵人返り忠
六波羅つはもの揃ひ
新大納言成親拷問
西光法師死去
師高師経誅戮
第十四句小教訓
小松殿成親を乞ひ請くる事
北野の天神の事
宇治の悪衛門実検の事
難波瀬尾折檻の事
第十五句平宰相成経を乞ひ請くる事
少将北の方烏丸宿所出でらるる事
少将西八条屈請の事
少将院の御所に御暇乞ひの事
少将乞ひ請け安堵の事
第十六句大教訓
太政入道法皇を恨み奉る事
小松殿西八条入御の事
小松殿つはもの揃ひ
褒似蜂火の事
第十七句成親流罪・少将流罪
新大納言配所に赴かるる事
丹波の少将遠流の事
有木の別所
阿古屋の松の沙汰
第十八句三人鬼界が島に卒都婆流し
康頼出家
熊野勧請
祝詞
蘇武
第十九句成親死去
成親出家
源左衛門の尉信俊有木の別所へ使
吉備津の中山において毒害の事
新大納言北の方出家
彗星の沙汰
第二十句徳大寺殿厳島参詣
藤の蔵人大夫意見の事
大将の祈誓
厳島の内侍実定の卿を送り奉る事
実定の卿大将成就の事
平家 巻第二
第十一句 明雲座主流罪
治承元年五月五日、天台座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、公請を停止せられけるうへ、蔵人をつかはして、如意輪の御本尊を召しかへし、護持僧を改易せらる。そのうへ、庁使をつけて、今度神輿を内裏へ振り奉(たてまつ)る衆徒の張本を召されける。「加賀の国に座主の御坊領あり。師高是(これ)を停廃のあひだ、門徒の大衆寄りて、訴訟をいたす。すでに朝家の御大事におよぶ」よし西光法師父子が無実の讒訴によつて、「ことに重科に処せらるべき」よし聞(き)こえけり。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう)の御気色あしかりければ、印鑰(いんやく)をかへし奉(たてまつ)りて、座主を辞し申さる。同じき十一日、鳥羽の院の七の宮、覚快法親王を天台座主になし奉(たてまつ)らせ給ふ。是(これ)は青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。同じき十二日、前の座主所職をとどめらる。検非違使二人に仰せて、火を消し、水にふたをして、水火の責におよぶ。是(これ)によつて、大衆参洛すと聞(き)こえしかば、京中またさわぎあへり。同じき十三日、太政大臣以下の公卿十三人参内して、陣の座につき、前の座主罪科の事議定あり。八条の中納言長方(ながかた)の卿(きやう)、そのときはいまだ左大弁の宰相にて、末座に侍はれけるが、「法家の勘状にまかせて、死罪一等を減じて、遠流せらるべきよし見えて候へども、先座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、顕密兼学して、浄戒持律(じやうかいぢりつ)のうへ、大乗妙経(だいじようめうきやう)を公家(くげ)にさづけ奉(たてまつ)り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう)に保たせ奉(たてまつ)る。かつうは御経の師なり、かつうは御戒の師なり。かたがたもつて重科におこなはれんこと、冥の照覧はかりがたし。されば、還俗遠流をなだめらるべきか」と申されたりければ、当座の公卿みな「長方(ながかた)の卿(きやう)の儀に同ず」と申しあはれけれども、法皇(ほふわう)御いきどほりふかかりければ、なほ遠流にさだめらる。太政入道も、「このこと申しなだめん」とて、院参せられたりけれども、法皇(ほふわう)をりふし御風の気とて、御前にも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪するならひとて、度縁を召しかへして還俗せさせ奉(たてまつ)り、「大納言の大夫藤井の松枝」といふ俗名をこそつけられけれ。この明雲(めいうん)と申すは、村上の天皇第七の皇子、〔具〕平親王より六代の御末、久我の大納言顕通の卿(きやう)の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣もたつとみ給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍の泰親が申しけるは、「さばかりの智者の『明雲(めいうん)』と名のり給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべて、下に雲あり」とぞ難じける。仁安元年二月二十日、天台座主にならせた[* 「た」衍字]給ふ。同じき三月十五日、御拝堂ありけり。中堂の宝殿を開かれけるに、方一尺の箱あり。白き布にてつつまれたり。一生不犯の座主、かの箱をあけて見給ふに、中に黄なる紙に書ける文一巻あり、伝教大師、未来の座主の御名をかねて記しおかれたり。わが名のある所(ところ)まで見て、それより奥をば見給はず、もとのごとくに巻きかへしておかるるならひなり。さればこの僧正もさこそ〔は〕おはしけめ。かかるたつとき人なれども、先世の宿業をばまぬかれ給はず。あはれなりし事どもなり。同じき二十二日、『配所伊豆の国』と定めらる。人々様々に申されけれども、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、か様にはおこなはれけるなり。「やがて今日都を出ださるべし」とて、追立の官人、白河の御坊へ行きむかひて追立てまつる。僧正泣く泣く御坊を出でさせ給ひて、粟田口のほとり、一切経の別所へ入らせおはします。山門には大衆起りて、僉議(せんぎ)しけるは、「所詮われらが敵は西光法師にすぎたる者なし」とて、かれらが親子の名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)りて、「十二神将、七千の夜叉(やしや)、時刻をめぐらさず西光父子が命を召しとり給へや」と、をめき叫びて呪詛しけるこそ聞くもおそろしけれ。同じき二十三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひける。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立武士がまへに蹴たてさせて、今日をかぎりに都を出でて関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられてあはれなり。大津の打出の浜にもなりければ、文殊楼の軒端のしろしろと〔して〕見えけるを、二目とも見給はず、袖を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。祇園の別当澄憲法印、そのときはいまだ権大僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉(たてまつ)りて、泣く泣く粟津まで送りまゐらせて、それよりいとま申してかへられけり。明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、心ざしの切なることを感じて、としごろ心中に秘せられける天台円宗の法門、一心三観の血脈相承の輪を、澄憲にさづけられけるとかや。〔この法は〕釈尊の付属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹(りゆうじゆ)菩薩(ぼさつ)より、次第に相伝し来たれるを、今日のなさけにさづけらる。わが朝は粟散辺地(そくさんへんぢ)の境、蜀世末代といひながら、澄憲に付属して、法衣のたもとをしぼりつつのぼられし心のうちこそたつとけれ。
〔第十二句 明雲(めいうん)帰山〕[* この句名なし]
山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義信和尚よりこのかた、天台座主はじまりて、五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年十月に、皇帝は帝都をたて、大師は当山によぢのぼり、四名の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)絶えて、三千の浄侶居を占めたり。峰には、一乗読誦(いちじようどくじゆ)年(とし)ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験(れいげん)日(ひ)新(あらた)なり。かの月氏の霊山(りやうぜん)は、王城(わうじやう)の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽窟なり。是(これ)日域の叡岳も、帝都の鬼門にそばだつて、護国の霊地なり。されば代々の賢王(けんわう)智臣(ぢじん)も、この所(ところ)にして壇場を占む。いはんや末代といふとも、いかでかわが山にきずをつくべき。心憂し」と申すほどこそあれ、満山の大衆のこりとどまる者なく、東坂本へおりくだり、十禅師(じふぜんじ)の御前(おんまへ)にて僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、粟津のほとりに行きむかつて、貫首をうばひとどむべきなり。ただし、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われらに一つの瑞相を見せしめ給へ」と、おのおの肝胆をくだき祈念しけり。ここに、無動寺の法師の中に、乗円律師が童に、鶴丸とて十八歳になりしが、身心くるしみ、五体に汗を流(なが)して、にはかに狂ひ出でたり。「われに十禅師権現乗りゐさせ給へり。末代といふとも、いかでかわが山の貫首を他国へは移さるべき。生々世々に心憂し。さらんにとつては、われこの麓(ふもと)に跡をとどめてもなにかせん」とて、双眼より涙をはらはらと流(なが)す。大衆大きにあやしみて、「まことに十禅師の御託宣にてましまさば、われらにしるしを見せ給ひて、もとの主へかへし給へ」とて、しかるべき老僧ども数百人、面々に持ちたる念珠(ねんじゆ)を、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)のうへへぞ投げあげける。かの物狂(ものぐる)ひ走りまはり、ひろめあつめて、すこしもたがはずいちいちにもとの主にぞくばりける。大衆、神明霊験のあらたなることのたつとさに、みな随喜の涙をぞ流(なが)しける。「その儀ならば、行きむかつて貫首をうばひ奉(たてまつ)れや」と言ふほどこそあれ、雲霞(うんか)の如(ごと)く発向(はつかう)す。或(あるい)は志賀(しが)、辛崎(からさき)の浜路に歩(あゆ)みつづきける大衆もあり、或(あるい)は山田、矢橋の湖上に船おし出だす衆徒(しゆと)もあり。おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使、座主をば国分寺に捨ておき奉(たてまつ)り、われ先にと逃げ去りぬ。大衆国分寺へ参りむかふ。〔先〕座主大きにおどろき給ひて、「『勅勘の者は月日の光だにもあたらず』とこそ承れ。いかにいはんや、『時刻をめぐらさず、いそぎ追ひ出だすべし』と、院宣のむねなるうへ、暫時もなずらふべからず。衆徒とくとくかへりのぼり給へ」とて、端近う出でてのたまひけるは、「三台槐門(さんだいくわいもん)の家(いへ)を出(い)でて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓(まど)に入(い)りしよりこのかた、ひろく円宗の教法を学し、顕密(けんみつ)の両宗(りやうしゆう)をつたへて、わが山の興隆〔を〕のみ思へり。また国家を祈り奉(たてまつ)ることもおろかならず。衆徒をはごくむ心ざしふかかりき。両所三聖、山王七社、さだめて照覧(せうらん)し給(たま)ふらん。身(み)にあやまることなし。無実の罪によ(ッ)て遠流の重科をかうぶる、先世の宿業なれば、世をも、人をも、神をも、仏をも恨み奉(たてまつ)ることなし。是(これ)までとぶらひきたり給ふ衆徒の芳志(はうじ)こそ、申しつくしがたけれ」とて、香染の袖をぞしぼられける。大衆もみな袖〔を〕ぞぬらしける。さて御輿をさし寄せて、「とくとく」と申せば、「昔こそ三千貫首たりしが、いまはかかる流人の身となりて、いかでかやんごとなき修学者たちにかきささげられてはのぼるべき。たとへのぼるべきにてありとも、藁沓(わらんず)なんどいふものを履いて、同じやうに歩(あゆ)みつづきてこそのぼらめ」とて乗り給はず。ここに西塔の法師、戒浄坊(かいじやうばう)〔の〕阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。長七尺ばかりありけるが、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の大荒目(おほあらめ)なるを草摺り長に着なし、兜をばぬぎて、白柄の長刀わきばさみ、「ひらかれ候へ」とて大衆の中をおしわけおしわけ、先座主(せんざす)の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あつぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主(せんざす)あまりのおそろしさにや、いそぎ乗り給ふ。大衆取り得奉(たてまつ)るうれしさに、いやしき法師、童にあらねども、修学者たち、をめき叫んでかきささげのぼりけるに、人はかはれども祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。大講堂の庭に輿かきすゑて、大衆僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、勅勘をかうぶりて流罪せられ給ふ人を取りかへし奉(たてまつ)り、わが山の貫首にもちひ申さんこと、いかがあるべし」と言ひければ、戒浄坊の阿闍梨(あじやり)さきのごとくにすすみ出でて、「夫(それ)当山(たうざん)は日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)なり。山王の御威光さかんにして、仏法、王法牛角なり。されば衆徒の意趣にいたるまでならびなし。いやしき法師ばらまでも、世もつてかろんぜず。いはんや知恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行おもくして一山の和尚たり。罪なくして罪をかうぶること、是(これ)山上(さんじやう)、洛中(らくちゆう)のいきどほり、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけり)にあらずや。このとき顕密のあるじを失つて、修学の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらんこと心憂かるべし。今度祐慶張本に称ぜられ、いかなる禁獄、流罪にもせられ、首をはねられんこと、今生の面目、冥途のおもひでたるべし」とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。大衆みな、「もつとも、もつとも」とぞ同じける。それよりしてこそ祐慶をば「いかめ坊」とは言はれけれ。先座主は、東塔の南谷妙光坊へおき奉(たてまつ)りけり。
[* ここに「一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)之(の)沙汰(さた) 底本 一ぎやうあじやりのさた」の句名有り]
時の横災は権下の人ものがれ給はざりけるにや。昔(むかし)大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、大国も、小国も、人の口のさがなさは、后楊貴妃に名をたて給ふ。あとかたなきことなれども、そのうたがひによ(ッ)て、果羅国へ流(なが)され給ふ。くだんの国には三つの道あり。「臨地道」とて御幸の道、「遊地道」とて雑人のかよふ道、「闇穴道」とて重科の者をつかはす道なり。この闇穴道と申すは、七日七夜、月日の光を見ずして行く所(ところ)なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、くだんの闇穴道へつかはさる。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、森々として、山深し、只(ただ)澗谷(かんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。無実の罪によつて遠流の重科をかうぶることを、天道あはれみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)をまぼり給ふ。ときに一行(いちぎやう)右の指をくひ切りて、左の袖に九曜のかたちをうつされけり。和漢両朝に真言の本尊たる「九曜の曼荼羅」是(これ)なり。
第十三句 多田の蔵人返り忠
先座主を大衆取りとどめ奉(たてまつ)るよし、法皇(ほふわう)聞(き)こしめして、やすからずぞおぼしめされける。西光法師申しけるは。「昔(むかし)より山門の大衆みだりがはしき訴へをつかまつることは、いまにはじめずと申せども、是(これ)ほどのことは承りおよばず。もつてのほかに過分に候(さうらふ)。是(これ)を御いましめなくは、世は世にては候ふまじ。よくよく御いましめ候へ」とぞ申しける。わが身のただいま亡びんずることをもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、「讒臣(ざんしん)国(くに)を乱す」とは、か様のことをや申すらん。大衆「王地に孕まれて、さのみ詔命(ぜうめい)を対かんせんもおそれなり」とて、内々院宣にしたがひ奉(たてまつ)る衆徒もありと聞(き)こえしかば、先座主妙光坊にましましけるが、「つひにいかなる目にやあはんずらん」と、心ぼそうぞおぼしめしける。されども流罪はなだめられ給ひけるとかや。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は、山門の騒動により、わたくし宿意をばおさへられけり。日ごろの内議支度はさまざまなりしかども、議勢ばかりにて、させる事しいだすべしともおぼえざりければ、むねとたのまれける多田の蔵人行綱、「このこと無益なり」と思ふ心ぞつきにける。成親(なりちか)の卿(きやう)のかたより「弓袋の料に」とておくられたる白布ども、家の子郎等が直垂、小袴に裁ち着せてゐたりけるが、「つらつら平家の繁昌を見るに、たやすくかたぶけがたし。よしなきことに与してんげり。もしこのこと漏れぬるものならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬさきに、返り忠して、命生きん」と思ふ心ぞつきにける。五月二十五日の夜ふけ人しづまつて、入道(にふだう)相国(しやうこく)の宿所西八条へ、多田の蔵人行きむかつて、「行綱こそ申し入るべきこと候うて参りて候へ」と申し入れたりければ、「なにごとぞ。聞け」とて、主馬の半官盛国を出だされたり。行綱「まつたく人してかなふまじきにこそ」と申すあひだ、入道(にふだう)中門の廊に出であひ対面あり。「こよひははるかにふけぬらんに、ただ今なにごとに参りたるぞ」とのたまへば、「さん候(ざうらふ)。昼は人目しげう候ふほどに、夜にまぎれて参り候(さうらふ)。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)、そのほか院中の人々このほど兵具をととのへ、軍兵をあつめられしこと、聞(き)こしめされ候ふや」。入道(にふだう)「いさ、それは山門の衆徒攻めらるべしとこそ聞け」と、こともなげにのたまへば、行綱近うゐよりて、「さは候はず。御一家を滅ぼし奉(たてまつ)らんずる結構とこそ承り候へ」と申せば、「さて、それは法皇(ほふわう)も知ろしめされたるか」。「子細にやおよび候ふ。大納言の軍兵をもよほされしことも、『院宣』とてこそもよほされ候ひしか」、「俊寛が、と申して」、「西光が、かう申して」〔と〕、ありのままにさし過ぎさし過ぎ、いちいちに申せば、入道(にふだう)大音をもつて侍ども呼びののじり給ふ。聞くもまことにおびたたし。行綱「よしなきこと申し出だして、ただ今証人にやひき出だされんずらん」と思ひければ、大野に火をはなちたる心地して、いそぎ門外へぞ逃げ出づる。入道(にふだう)、筑後守貞能を召して、「やや、貞能。京中に謀叛の者みちみちたり。一向当家の身のうへにてあんなるぞ。一門の人々呼びあつめよ。侍ども召せ」とのたまへば、馳せまはつて披露す。馳せあつまる人々には、右大将宗盛、三位の中将(ちゆうじやう)知盛、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓矢をたいして馳せあつまる。夜中に西八条には兵六七千騎もやあらんとぞ見えし。あくれば六月一日、いまだ暗かりけるに、入道(にふだう)、検非違使阿倍の資成を召して、「やや、資成。御所へ参りて、大膳大夫信業呼び出だして申さんずる様は、『このごろ、近う召しつかひ候ふ人々、あまりに朝恩にほこり、あまつさへ世をみださんとの結構どもにて候ふなるを、たづね沙汰つかまつり候はんことをば、君も知ろしめされまじう候(さうらふ)』と申せ」とのたまひければ、資成御所へ参りて、大膳大夫を呼び出だして、この様を申しけり。信業色をうしなひ、御前へ参りてこのよし奏しければ、法皇(ほふわう)ははや御心得あつて、「あつぱれ、是(これ)が内々はかりしことの漏れけるよ」とぞおぼしめされける。「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。資成やや久しう待ちまゐらせけれども、そののちはさして仰せ出ださるるむねもなかりければ、資成走りかへりて、「かうかう」と申(まう)せば、入道(にふだう)相国(しやうこく)「さればこそ、君も知ろしめされたり。行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)安穏(あんをん)にあるべしや」とて、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、からめとるべき者を下知せられければ、二百騎、三百騎、押し寄せ、押し寄せ、からめとる。まづ雑色をもつて中の御門の新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)のもとへ、「きつと申しあはすべきことあり。立ち入り給へ」と言ひつかはしたりければ、大納言「あつぱれ、是(これ)は山門の衆徒攻めらるべきこと、申しゆるさんためにこそ。法皇(ほふわう)いきどほり深ければ、いかにもかなふまじきものを」とて、わが身の上とはつゆほども知らず、うちきよげなる布衣をたをやかに着なして、八葉の車のあざやかなるに乗り、侍四五人召し具し、雑色、舎人、牛飼ひにいたるまで、つねの出仕よりもひきつくろひてぞ出でられける。そもそも最後とは、のちにて思ひあはせける。西八条近うなつて、兵どもあまた町々にみちみちたり。「あなおびたたし。こはなにごとやらん」と、車よりおり、門をさし入り見給へば、内に兵どもひしと並みゐたり。中門の外に、おそろしげなる者どもが二人たちむかひ、大納言の左右の手をひつぱり、たぶさとつてひき臥せ奉(たてまつ)る。「いましむべうや候ふらん」と申しければ、入道(にふだう)「あるべうもなし」とのたまふ。とつてひき起こし奉(たてまつ)り、一間なる所(ところ)におし籠めて、兵是(これ)を守護したり。大納言夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供にありつる侍ども、散々になり、雑色、牛飼ひも、牛、車をすてて逃げうせぬ。さる程(ほど)に、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)、平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、捕へて出できたる。西光法師もこのことを聞いて、院の御所法住寺殿へ鞭をあげて馳せ参る。平家の侍ども道にて行きあひ、「西八条殿へきつと参らるべし。たづね聞(き)こしめすべきことあるぞ」と言ひければ、「是(これ)も法住寺殿へ奏すべきことありて参るなり」とて、通らんとしけるを、「にくい奴かな。さな言はせそ」とて、馬よりとつて引き落とし、宙にくくつて西八条に参り、坪のうちにひきすゑたり。入道(にふだう)いかつて、「しや、ここへひき寄せよ」とて縁のきはへひき寄せさせ、「天性おのれが様なる下臈(げらふ)のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなし、父子ともに過分のふるまひして、あやまたぬ天台座主を流罪に申しおこなふ。あま(ッ)さへ入道(にふだう)をかたぶけんとす。奴ばらがなれる姿よ。ありのままに申せ」とぞのたまひける。西光もとより剛の者なれば、ちとも色も変せず、わろびれたる気色もなく、居なほりて申しけるは、「さもさうずとよ。院中に召しつかはるる身なれば、執事別当新(しん)大納言(だいなごん)の『院宣』とてもよほされしことに、『与せず』とは申すまじ。それは与したり。ただし耳にとまることのたまふものかな。他人のことをば知らず、西光がまへにて過分のことをばえこそ言はれまじけれ。見ざりしことかとよ。御辺は刑部卿(きやう)の嫡子にてありしかども、十四五までは出仕もせず、故中の御門の家成の卿(きやう)の辺にたちよりしを、京童が『高平太』とこそ笑ひしか。そののち保延のころかとよ。忠盛の朝臣備前より上洛のとき、海賊の張本三十余人からめ参らせられし勲功の賞に、御辺は十八か九かにて、四位して兵衛佐と申せしをだに、過分とこそ時の人申しあはせられしか。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫の、太政大臣までなりあがりたるや過分なるらん。侍ほどの者の、受領、検非違使になること、先例、傍例なきにあらず。などあながちに過分なるべき」と、はばかる所(ところ)なく申しければ、入道(にふだう)あまりにいかつて、そののちは物ものたまはず。「しやつが首、左右なう切るべからず。よくよくいましめよ」とぞのたまひける。足手をはさみさまざまにいましめ問ふ。西光もとより陳じ申(まう)さぬうへ、糾問(きうもん)はきびしし、残りなうこそ申しけれ。白状四五枚に記させ、やがて口をぞ裂かれける。つひに五条西の朱雀にてぞ切られける。その子(こ)師高、尾張の井戸田へ流(なが)されたりけるを、討手をつかはして誅(ちゆう)せらる。弟近藤(こんどう)判官(はんぐわん)師経(もろつね)、獄定せられたりしを召し出だされ、首を刎ねられ、その弟(おとと)師平(もろひら)ともに切られ、郎等(らうどう)二人(ににん)、同(おなじ)く首(くび)を刎ねられけり。天台座主流罪に申しおこなひ、十日のうちに山王大師の神罰、冥罰をたちまちにかうぶつて、あとかたもなく滅びけるこそあさましけれ。新(しん)大納言(だいなごん)、一間なる所(ところ)におし籠められ、「是(これ)は日ごろのあらましごとの漏れ聞(き)こえたるにこそ。たれ漏らしけん。さだめて北面のうちに、あるらん」と、思はんことなう案じつづけておはしける所(ところ)に、内のかたより、足おとたからかに踏みならしつつ、大納言のうしろの障子をさつとあけられたり。入道(にふだう)相国(しやうこく)、もつてのほかにいかれる気色にて、素絹の衣のみじかやかなるに、白き大口踏みくくみ、聖柄の刀まへだれにさしはらし、しばらくにらまへて立たれたり。ややありて、「さても御辺をば、平治の乱れのとき、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府が様々に申して、御辺の首をば継ぎ奉(たてまつ)り候ひしぞかし。それになにの遺恨あれば、この一門ほろぼすべき御結構は候ひけるぞ。されども、当家の運尽きぬによりて、是(これ)まで迎へ奉(たてまつ)る。日ごろの結構の次第、ただ今直にうけたまはり候はん」とのたまへば、大納言「まつたくさること候はず。人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御たづねあるべう候(さうらふ)」とぞ申されける。入道(にふだう)、言はせもはてず、「人やある」と召されけり。筑後守参りたり。「西光が白状持つて参れ」とのたまへば、やがて持ちて参る。おし返し、おし返し、二三返読み聞かせて、「あらにくや。このうへは、されば、なにと陳ずるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をはたとたててぞ出でられける。入道(にふだう)なほも腹をすゑかね給ひて、「経遠。兼康」と召されければ、難波の次郎、瀬尾の太郎参りたり。「あの男、とつて庭へひきおろせ」とぞのたまひける。二人の者どもかしこまつて候ひけるが、「小松殿の御気色いかがあるべう候ひなん」と申しければ、「よしよし。さればなんぢらは内府が命をおもくして、入道(にふだう)が仰せをかろんずるござんなれ」とのたまへば、「あしかりなん」とや思ひけん、大納言のもとどりをとつて、庭へひきおろし奉(たてまつ)る。とつておさへて、「いかやうにも懲(こら)す[* 「ころす」と有るのを他本により訂正]べうや候ふ」と申せば、「ただ、をめかせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、耳に口をあて、「いかやうにも御声を出だすべう候(さうらふ)」とささやきて、もとどりをとつておし臥せ奉(たてまつ)る。二声三声ぞをめかれける。或(あるい)は業の秤にかけ、或(あるい)は浄頗梨(じやうはり)の鏡にひきむけ、娑婆世界の罪人を、罪の軽重によ(ッ)て、阿防、羅刹どもが呵責すらんもかくやとぞおぼえたる。たとへば、「蕭樊(せうはん)とらはれ、韓彭(かんはう)すしびしほにせらる。兆錯(てうそ)戮(りく)をうく。周魏(しうぎ)つみせらる。蕭何(せうか)・樊噌(はんくわい)・韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)、是等(これら)はみな漢の高祖の忠臣なりしかども、小人の讒言によ(ッ)て過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうく」と言へり。大納言「わが身のかくなるにつけても、子息丹波の少将以下いかなる目にかあはん」と、くやまれけるぞいとほしき。さしもあつき六月に、装束をだにもくつろげず、胸せきあぐる心地して、一間なる所(ところ)におし籠められ、汗もなみだもあらそひ流れつつましましけり。
第十四句 小教訓
さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあつて車に乗り、嫡子権亮少将、車のしり輪に乗せ奉(たてまつ)り、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやうげにてぞおはしける。車よりおり給ふ所(ところ)に、筑後守貞能つつと参り、「など、是(これ)ほどの御大事に、軍兵をば召し具せられ候はずや[* 「候はんや」と有るのを他本により訂正]」と申しければ、小松殿「『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうへに、蜘手(くもで)結(ゆ)うたる所(ところ)あり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄にて罪人が地蔵菩薩を見奉(たてまつ)るらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ遇ひ候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候(さうらふ)。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもつて首をつぎ、位正二位、官大納言にいたつて、すでに四十にあまり候(さうらふ)。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひ奉(たてまつ)るまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命には代り奉(たてまつ)るべし」とて出でられけり。大臣、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ぱからひいるべう候(さうらふ)。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白河(しらかは)の院(ゐん)に召しつかはれしよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたつて、当時(たうじ)君(きみ)の無双(ぶさう)の御(おん)いとほしみなり。左右なう首を刎ねられんことは、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんは、こと足り候ひなん。かくはまた聞(き)こしめすとも、もしそらごとにても候はば、いよいよ不便のことに候(さうらふ)」「北野の天神は、時平の大臣の讒奏(ざんそう)により憂き名を西海の波に流(なが)し、西の宮の大臣(おとど)は、多田の満仲が讒言によ(ッ)てその身を山陽の雲に寄す。是(これ)みな無実なりしかども、流罪せられ候ひき。延喜の聖代、安和の帝の御ひが事ぞ承る。上古なほかくのごとし。いはんや末代においてをや。賢王なほ御あやまりあり、いはんや凡人においてをや。すでに召し置かれ候ふうへは、いそぎ失はれずとも、なにのくるしきことの候ふべき。『罪のうたがひをば軽くせよ。功のうたがひをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。重盛かの大納言が妹にあひ連れて候(さうらふ)。維盛また大納言が聟(むこ)なり。『か様にしたしければ申す』とやおぼしめされん、まつたくその儀にて候はず。ただ世のため人のためを存じてかやうに申し候ふなり」「一年保元に故小納言入道(にふだう)信西が執権のときにあひ当つて、嵯峨の天皇の御宇、右兵衛尉藤原の仲成(なかなり)が誅(ちゆう)せられてよりこのかた、『死罪ほど心憂きことなし』とて、君二十五代のあひだ絶えておこなはれざる死罪を、信西はじめておこなひ、宇治の悪左府のしかばねを掘りおこし実検せしことどもをば、あまりなるまつりごととこそおぼえ候しか。されば、いにしへの人にも『死罪をおこなはるれば海内に謀叛のともがら絶えず』とこそ申しつたへて候へ。そのことばにつきて、なか二年ありて、平治に事いできて、信西が生きながら埋もれしを掘り出だし、首を刎ねられ、大路をわたされて、『保元に申しおこなひしことの、いく程もなうて身のうへに報ひ候ひにき』と思へば、おそろしうこそ候ひしか。是(これ)はさせる朝敵にもあらず。かたがたおほそれあるべし。御栄華残る所(ところ)なければ、おぼしめすことあるまじけれども、子々孫々の繁昌をこそあらまほしう候へ。『父祖の善悪は、必(かなら)ず子孫に報ふ』と見えて候(さうらふ)。『積善(しやくぜん)の家(いへ)には余慶(よけい)あり、積悪(しやくあく)の門(かど)には余殃(よあう)とどまる』とこそ承り候へ。かの大納言、今夜失はれ候はんこと、しかるべうも候はず」と申されたりければ、入道(にふだう)「げにも」とや思はれけん、死罪をば思ひとどまり給ひけり。大臣中門の廊におはして、侍どもにむかつて仰せけるとて、「なんぢら、あの大納言左右なう切ることあるべからず。入道(にふだう)腹の立ちのまま、ひが事しいだして、必(かなら)ず悔み給ふべし。ものさわがしきことしいだして、重盛うらむな」とのたまへば、武士ども舌を振りて、をののきあへり。「さても、今朝、経遠、兼康が大納言に情なうあたりけること、かへすがへすも奇怪なり。重盛がかへり聞かん所(ところ)を、などかはばからざらん。片田舎の者どもは、いつもかくあるぞ」とのたまへば、難波の次郎、瀬尾の太郎もふかく恐れ入りたりけり。大臣は、かく下知して小松殿へぞかへられける。
第十五句 平宰相、少将乞ひ請くる事
大納言の侍ども、中の御門烏丸の宿所へ走りかへり、このよしいちいちに申せば、北の方以下の女房たちも、をめきさけび給ひけり。「『少将殿をはじめまゐらせて、公達もとられさせ給ふべし』とこそ承り候へ。上をば『夕さり失ひまゐらすべし』と候(さうらふ)。是(これ)へも追捕(ついぶ)[* 「ついぶく」と有るのを他本により訂正]の武士どもが参りむかひ候ふなるに、いづちへもしのばせ給はでは」と申せば、「われ残りとどまる身として、安穏にてはなにかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えむこそ本意なれ。さても今朝をかぎりと思はざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。すでに追捕(ついぶ)[* 「ついぶく」と有るのを他本により訂正]の武士どもの近づくよしを申しければ、「さればとて、ここにてまた恥がましき目をみんもさすがなり」とて、十になり給ふ姫君、八つになり給ふ若君、車にとり乗り給ひて、いづくともなくやり出だす。中の御門を西へ、大宮をのぼりに北山のほとり雲林院へぞ入れまゐらせける。そのほとりなる僧坊におろし置き奉(たてまつ)り、御供の者どもも、身の捨てがたさに、たれに申しつけおき奉(たてまつ)るともなく、いとま申してちりぢりになりにけり。いまは幼き人々ばかり残りとどまつて、またこととふ人もなくてぞおはしける。北の方の心のうち、おしはかられてあはれなり。暮れゆくかげを見給ふにつけても、「大納言の露の命、この暮れをかぎり」と思ひやるにも消えぬべし。いくらもありつる女房、侍ども、世におそれ、かちはだしにてまどひ出づ。門をだにもおしたてず。馬どもは厩(むまや)にたて並びたれども、草飼ふ者も見えず。夜あくれば、馬、車、門にたて並べ、賓客座につらなり、あそびたはぶれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はずこそ昨日まではありしに、夜(よ)の間(ま)にかはるありさまは、「生者必滅」のことわりは目の前にこそあらはれけれ。「楽しみ尽きて、悲しみ来る」と江相公の筆のあと、思ひ知られてあはれなり。丹波の少将は、院の御所法住寺殿に上臥して、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、いそぎ法住寺殿へ参りて、少将を呼び出だし奉(たてまつ)り、「上は西八条に今朝すでにおし籠められさせ給ひぬ。公達もみなとらはれさせ給ふべしとこそ承り候へ」と申せば、少将「など、さらば、それほどのことをば宰相のもとよりは告げざるやらん」とのたまひもはてぬに、つかひあり。「なにごとにて候ふやらん、西八条より『きつと具し奉(たてまつ)れ』と候(さうらふ)。いそぎ出でさせ給へ」と申しければ、少将やがて心得て、院の近習の女房たち呼び出だし奉(たてまつ)り、「などやらん、世の中ゆふべよりものさわがしく候ひしを、『いつもの山法師のくだるか』なんどよそに思ひて候へば、はや成経(なりつね)が身(み)のうへにて候(さうら)ふなり。大納言(だいなごん)夕さり失はれ候(さうら)はんなれば、成経(なりつね)も同罪にてこそ候はんずらめ。八歳のときより御所へ参りはじめ、十二より朝夕龍顔(りゆうがん)に近づきまゐらせ、朝恩にのみあきみちてこそ候ひつるに、今いかなるめにあふべく候ふやらん。今、御所へも参り、君をも見まゐらせたう候へども、かかる身に罷(まか)りなりて候へば、はばかりを存ずるなり」とぞ申されける。女房たち、いそぎ御前へ参り、このよしを奏せらる。「さればこそ、今朝入道(にふだう)がつかひにはや心得つ。是等(これら)が内々はかりしことのあらはれぬるにこそ。さるにても、成経是(これ)へ」と御気色ありければ、世はおそろしけれども、参られたり。法皇(ほふわう)御覧じて、御涙にむせばせおはします。上より仰せ出でらるるむねもなし。少将涙にかきくれて、御前をまかり出づ。法皇(ほふわう)、うしろをはるかに御覧じおくらせ給ひて、「ただ末の世こそ心憂けれ」と、「是(これ)がかぎりにて、御覧ぜられぬこともやあらんずらむ」とて、御涙を流(なが)させ給ふぞかたじけなき。少将、御所をまかり出でられけるに、院中の人々、少将のたもとをひかへ、袖をひき、涙を流(なが)さぬはなかりけり。少将は舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方、近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこのなげきうちそへて、すでに命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられけるより、ながるる涙つきせぬに、この北の方のありさまを見給ひては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将の乳母に、六条といふ女房あり。少将の袖をとり、「御産屋のうちより参りはじめ、君をそだてまゐらせて、わが身の年ゆくをも知らず、去年より今年は大人しくならせ給ふことをのみ、うれしと思ひまゐらせて、すでに二十一年なり。あからさまにもはなれまゐらせず。院内へ参らせ給ひて、おそく出でさせ給ふだにも、心もとなふ思ひまゐらせつるに」とて泣きければ、少将「いたうな嘆きそ。宰相殿のさてもおはしければ、命ばかりはなどか申しうけられざらん」と、こしらへなぐさめ給へども、六条、人目も知らず泣きもだえけり。さるほどに、西八条より「少将おそし」といふ使しきなみのごとし。宰相「ともかくも行きむかうてこそ」とて出でられけり。少将をも同じ車に乗せてぞ出で給ふ。宿所には女房たち、亡き人なんどをとり出だす心地して、みな泣きふし給ひけり。保元、平治よりこのかた、たのしみさかえはありしかども、憂きなげきはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき聟(むこ)ゆゑに、かかるなげきはせられけれ。西八条近うなりければ、宰相車をとどめて、まづ案内を申し入れられければ、入道(にふだう)「少将はこの内へはかなふまじ」とのたまふあひだ、そのへん近き侍の宿所におろし奉(たてまつ)り、兵ども守護しけり。宰相には離れ給ひぬ、少将の心のうちこそかなしけれ。宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん)にましまして、入道(にふだう)相国(しやうこく)に見参に入らんとし給へども、入道(にふだう)相国(しやうこく)出でもあはれず。源(げん)大夫(だいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて申されけるは、「よしなき者にしたしうなり候ひて、かへすがへすも悔しく候へども、今はかひも候はず。そのうへあひ具して候ふ者、近う産すべきとやらん受け給ひしが、このほどまた悩むこと候ふなるに、このなげきを今朝よりうちそへて、身々ともならぬさきに、命も絶え候ひなんず。しかるべく候はば、成経を教盛にしばらくあづけさせおはしませ。なじかはひが事をばさせ候ふべき」と申されければ、季貞(すゑさだ)この様を、参りて申す。入道(にふだう)「あつぱれ、この例の宰相がものに心得ぬよ」とて、しばしは返事もなかりけり。宰相、中門にて「いかに、いかに」と待たれけり。ややありて、入道(にふだう)のたまひけるは、「行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)、安穏にえやはあるべき。当家また失せなんには、御辺とてもつつがなうはおはせじ。この少将といふは、新(しん)大納言(だいなごん)が嫡子なり。ものをなだむるも様にこそよれ。えこそはゆるすまじけれ」とのたまへば、季貞(すゑさだ)かへり参りて申せば、宰相世にも本意なげにて「仰せのむねおしかへし申すことは、そのおほそれすくなからず候へども、保元、平治よりこのかた、大小事に身をすてて、御命にもかはり奉(たてまつ)り、あらき風をもまづ防ぎまゐらせんとこそ存じ候ひしか。こののちもいかなる御大事も候へ、教盛こそ年老いて候ふとも、子どもあまた候へば、一方の御方にはなどかならでは候ふべき。それに、『成経しばらくあづからん』と申すを御ゆるされなきは、一向教盛を『二心ある者』とおぼしめさるるにこそ。このうへは、ただ身のいとまを賜はつて、出家入道をもし、片山里にこもりゐて、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん。よしなき憂き世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ。望みかなはねばこそ恨みもあれ。しかじ憂き世をいとひ、まことの道に入りなんには」とぞのたまひける。季貞(すゑさだ)「にがにがしきことかな」と思ひて、この様をまた参りて申す。「門脇殿はおぼしめしきりたるげに候ふものを」と申せば、入道(にふだう)おほきにおどろき給ひて、「出家入道こそけしからずおぼえ候へ。さらば成経をば御辺の宿所へしばらく置かれ候へ」と、しぶしぶにぞのたまひける。季貞(すゑさだ)この様をまた参りて申す。宰相よにもうれしげに、「あはれ、子をば人の持つまじきものかな。わが子の縁にむすぼふれずんば、是(これ)ほど教盛心をば砕かじ」とてぞ出でられける。少将待ちうけて、「さて、なにと候ふやらん」と申されければ、宰相「されば、入道(にふだう)かなふまじきよしのたまひつるを、出家入道まで申したれば、『しばらく宿所に置き奉(たてまつ)れ』とこそのたまひつれ、されども、始終はよかるべしともおぼえず」とのたまひければ、少将「されば、御恩をもつてしばしの命は延び候ひぬるにこそ。さても大納言のことはいかにと聞(き)こしめされ候ふやらん。もし夕さり失はれ候はんにおいては、成経も命生きてなにかせん。同じ御恩にて候はば、ただ一所にて、いかにもならん様を申させ給ふべき」と申されければ、そのとき宰相よにも心くるしげにて、「それも小松の内府の、とかう申されければ、しばらく延び給ふ様にこそ承り候へ。御心やすくおぼしめせ」とのたまへば、少将手をあはせてぞよろこばれける。「子ならざらん者は、誰かただ今わが身のうへをばさしおいて、是(これ)ほどによろこぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。されば、子をば人の持つべかりけるものかな」と、やがて思ひかへされける。今朝の様にまた同車してこそかへられけれ。宿所には女房たち、死したる人のただ今生きかへりたる心地して、みなよろこびの涙をぞ流(なが)しあはれける。この門脇の宰相と申すは、入道(にふだう)の宿所ちかく、門脇といふ所(ところ)にましましければ、「門脇殿」とぞ申しける。
第十六句 大教訓
入道(にふだう)相国(しやうこく)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞をうらみ奉(たてまつ)らばや」とぞ申されける。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらつて、ゆゆしうぞ見えける。筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、御前にかしこまつてぞ候ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正をはじめて、一門なかばすぎて新院の御方へ参りにき。中にも一の宮の御ことは、故刑部卿(きやう)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがた身放ちまゐらせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせ奉(たてまつ)りて、御方にて先を駆けたりき。是(これ)一つの奉公なり。つぎに平治の乱れのとき、信頼、義朝、内裏にたてこもり、天下くらやみとなりしを、命をすて、追ひ落し、経宗、惟方を召しいましめしよりこのかた、君の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに、成親(なりちか)といふ無用のいたづら者(もの)、西光(さいくわう)と云(い)ふ下賎(げせん)の不当人(ふたうじん)が申(まう)す事(こと)につかせ給ひて、この一門滅ぼすべき由(よし)、法皇(ほふわう)御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。此(この)後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家(たうけ)追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば、世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を是(これ)へ御幸をなしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿へ遷し奉(たてまつ)らんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の者どもの中に、さだめて矢をも一つ射んずらん。侍どもに『その用意せよ』と触るるべし。大方は入道(にふだう)、院方の奉公においては、はや思ひ切つたり。馬に鞍おけ。着背長とり出だせ」とぞのたまひける。主馬の判官盛国、小松殿へ馳せ参じ、涙を流(なが)せば、大臣「いかにや。大納言斬られぬるか」とのたまへば、「さは候はず。『御院参あるべし』とて、上すでに着背長を召されて候(さうらふ)。侍共(さぶらひども)皆(みな)うち立つて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へとて、ただ今(いま)寄せられ候(さうらふ)。法皇(ほふわう)をも鳥羽の北殿へ御幸とは聞(き)こえ候へども、内々は『鎮西のかたへ移し奉(たてまつ)るべし』とこそ承り候へ」と申せば、小松殿「いかでかさる事あるべき」とは思はれけれども、「今朝の入道(にふだう)の気色は、さも物狂はしきこともやましますらん」とて、いそぎ車に乗り、西八条へぞおはしける。門のうちへさし入りて見給へば、入道(にふだう)すでに腹巻を着給へる上(うへ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数十人(すじふにん)、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司は縁に居こぼれ、庭にもひしと並み居たり。旗竿をひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、兜の緒をしめて、ただ今すでにみなうちたたれんずる気色どもなるに、小松殿は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しづかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道は遠くより見給ひて、「例の、内府(だいふ)が世を表(へう)する[* 「ひうする」と有るのを他本により訂正]様にふるまふものかな。陳ぜばや」とは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥かしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻の上に着給ひたりけるが、胸板の金物すこしはづれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。小松殿は弟の右大将宗盛の座上につき給ふ。相国ものたまふこともなく、大臣も申し出ださるる旨もなし。ややあつて、入道(にふだう)のたまひけるは、「やや、成親(なりちか)の謀叛は、事の数にもあらざりけり。是(これ)はただ一向法皇(ほふわう)の御結構にて候ひけるぞ。されば世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を鳥羽の北殿へ御幸なして奉(たてまつ)らばや。しからずは御幸を是(これ)へなりともなしまゐらせんと思ふはいかに」とのたまへば、小松殿聞きもあへ給はず、はらはらとぞ泣かれける。入道(にふだう)、「いかに、いかに」とあきれ給ふ。ややありて、大臣涙をおしのごひて申されけるは、「この仰せを承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候(さうらふ)。人の運命のかたぶかんとては、必(かなら)ず悪事を思ひたち候ふなり。かたがた御ありさまを見奉(たてまつ)るに、さらに現ともおぼえ候はず。さすが、わが朝は、粟散(そくさん)辺地(へんぢ)とは申しながら、天照大神の御子孫、国の主として、天つ児屋根の命の御末、朝の政をつかさどり給ひてよりこのかた、太政大臣の官にいたるほどの人(ひと)の甲冑(かつちう)をよろひましまさんこと、礼儀をそむくにあらずや。就中(なかんづく)出家(しゆつけ)の御身(おんみ)也(なり)。夫(それ)三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎすてて、たちまちに甲冑(かつちう)を着給はんこと、内には破戒無慚の罪をまねき、外にはまた仁義礼智信の法にもそむき候ひなんず。かたがたおそれある申しごとにて候へども、世にまづ四恩候(ざうらふ)。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩是(これ)なり。是(これ)を知れるをもつて人倫とす。されどもその中にもつとも重きは朝恩なり。『普天の下、王土にあらずといふことなし』。されば、潁川(えいせん)の水(みづ)に耳(みみ)をあらひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨を折りし賢人も、勅命をばそむかず、礼儀をば存ぢすとこそ承れ。いはんや先祖にもいまだ聞かざりし、太政大臣をきはめ給ふ。いはゆる重盛が無才愚暗(むさいぐあん)の身(み)をもつて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。しかのみならず、国郡(こくぐん)半(なかば)一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。是(これ)希代の朝恩にあらずや。今是等(これら)の莫大の御恩をおぼしめしわすれ給ひて、みだれがはしく君をかたぶけまゐらせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむきなんず」「日本は是(これ)神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君のおぼしめし立つ所(ところ)、道理なかばなきにあらずや。中にもこの一門は、代々朝敵をたひらげて、四海の逆浪をしづむることは、無双の忠なれども、その賞にほこること、傍若無人とも申しつべし。されば聖徳太子の十七か条の御憲法にも、『人みな心あり。心おのおのおもむきあり。彼を是とし、我を非とし、我を是とし、彼を非とす。是非(ぜひ)の理(ことわり)誰(たれ)かよく定(さだ)むべき。相共(あひとも)に賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)の端なきがごとし。是(これ)をもつて、たとひ人怒(いか)るといふとも、かへりて我とがをおそれよ』とこそ見えて候へ。しかれども、御運いまだ尽きせざるによ(ッ)て、この事すでにあらはれ候ひぬ。そのうへ大納言を召しおかれ候ふうへは、たとひ君いかなることをおぼしめしたつとも、なにのおそれか候ふべき。所当の罪科をおこなはれ候ふうへ[* 「その上しよたうのさいくわをおこなはれ候うへは」と有るのを斯道本により訂正]、今は退いて事のよしを申させ給はば、君の御ためにはいよいよ奉公の忠勤をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐をいたさしめ給はば、神明の加護にもあづかり、仏陀の冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応あらば、君もおぼしめしなほすことなどか候はざるべき。君と臣とをくらぶるに、君につき奉(たてまつ)るは忠臣の法なり。道理とひが事をならぶるに、いかでか道理につかざるべき。是(これ)は君の御理(ことわり)にて候へば、かなはざらんまでも、重盛は院中に参りて守護し奉(たてまつ)らばやとこそ存じ候へ。そのゆゑは重盛叙爵より、今大臣の大将にいたるまで、しかしながら朝恩にあらずといふことなし。その恩のおもきことを思へば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にもこえ、その徳のふかき色を案ずれば、一入再入の紅にもすぎたるらんとこそおぼえ候へ。しかれば院中へ参じて、法皇(ほふわう)を守護し奉(たてまつ)らんと存じ候(さうらふ)。命にかはらんとちぎりて候ふ侍ども、一二千人も候ふらん。かれらをあひ具して、防ぎ奉(たてまつ)らんには、もつてのほかの大事にてこそ候はんずらめ。かなしいかな、君(きみ)の御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)よりもなほ高き親の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退ここにきはまれり。是非いかにもわきまへがたし」「ここに老子の御詞こそ思ひ知られて候へ。『功なり名とげて、身しりぞけ位をさげざるときんば、その害にあふ』と言へり。かの蕭何(せうが)は大功(たいこう)かたいにこえたるによ(ッ)て、官大相国にいたり、剣を帯し沓をはきながら殿上へのぼることをゆるされしかども、叡慮にそむき、高祖ことにおもくいましめ給へり。か様の先蹤(せんじよう)を思ふにも、富貴といひ、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、御身にとつてはことごとくきはめ給ひぬれば、御運の尽きさせ給はんこと、いまは難かるべからず。『富貴(ふつき)の家(いへ)に禄位(ろくゐ)重畳(ぢゆうでふ)せり。ふたたび実(み)なる木(き)は其(その)根(ね)必(かなら)ずいたむ』と見えて、心細うこそ候へ。いつまでか命生きて乱らん世をも見候ふべき。ただ末の世に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそつたなう候へ。ただ今も侍一人に仰せつけて、御坪のうちへ召し出だされ、重盛が首を刎ねられんことは、やすき御ことにてこそ候はめ。そののちはともかくもおぼしめすままなるべし」とて、涙を流(なが)し給へば、直衣の袖もしぼるばかりなり。是(これ)を見て、その座に並みゐたる一門の卿相雲客よりはじめてみな袖をぞぬらされける。入道(にふだう)、「いやいや是(これ)までは思ひもよらず。『悪党どもが申すことにつかせ給ひて、ひが事なんどもや出で来んずらん』と思ふばかりにてこそ候へ」とのたまへば、大臣、「たとひひが事候ふとも、君をばなにとかしまゐらせ給ふべき」とて、つい起つて中門にぞ出でられける。侍どもにのたまひけるは、「今申しつることをば、なんぢら承らずや。今朝より是(これ)に候ひて、か様のことども申ししづめんと思ひつれども、ひたさわぎに見えつれば、かへりつるなり。院参の御供においては、重盛が首を召されんを見てつかまつるべし。さらば人参れ」とて、小松殿へぞかへられける。そののち主馬の判官盛国を召して、「『重盛こそ天下の大事を、別して聞き出だしたれ。われをわれと思はん者どもは、いそぎ物具して参るべし』このよし披露せよ」とのたまへば、主馬の判官承り、馳せ参りて披露す。「おぼろけにてはさわぎ給はぬ人の、かかる触れのあるは、別子細あるにこそ」とて、物具して、「われも」「われも」と馳せ参る。淀、羽束瀬(はつかせ)[* 「はづかし」と有るのを他本により訂正]、宇治(うぢ)・岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)・勧修寺(くわんじうじ)・醍醐(だいご)、小栗栖(おぐるす)、梅津(むめず)・桂(かつら)・大原(おほはら)、志津原、芹生の里にあふれゐたる兵ども、或(あるい)は鎧きて兜を着ぬもあり、或(あるい)は矢負うて弓を持たぬ者もあり、片鐙ふむやふまずに、あわてさわいで小松殿へ馳せ参る。西八条に数千騎ありつる兵ども、「小松殿にさわぎ事あり」と聞(き)こえければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)にかうとも申さず、ざざめきつれて、小松殿へぞ参りける。西八条には、青女房、筆取りなんどぞ侍ひける。弓矢にたづさはるほどの者、一人も漏るるはなかりけり。入道(にふだう)相国(しやうこく)、大きにおどろき給ひて、筑後守貞能を召して、「内府がなにと思うて是等(これら)を皆呼びとるやらん。是(これ)にて言ひつる様に、浄海がもとへ討手なんどもや向けんずらん」とのたまへば、「人も人にこそより候へ。いかでかさること候ふべき。のたまひつることも、いまはさだめて御後悔ぞ候ふらん」と申せば、入道(にふだう)「いやいや、内府に仲違うてはかなふまじ」とて、腹巻を脱ぎおき、素絹の衣に袈裟うちかけ、法皇(ほふわう)に向かひまゐらせんずることも、はや思ひとどまり、狂ひさめたる気色にて、いと心もおこらぬそら念誦してこそおはしけれ。小松殿には、主馬の判官承りて、着到つけけり。馳せ参りたる勢一万余騎とぞ注しける。着到披見ののち、侍どもに対面して、「このころなんぢらが、重盛に申しおきしことばの末ちがはずして、か様に参りたるこそ神妙なれ。異国にさることあり。周の幽王は、褒■[女+以](ほうじ)といふ最愛の后を持ち給へり。ただし幽王の心にかなはぬこととては、『褒■[女+以](ほうじ)笑みをふくまず』とて、幼少よりわらふことなかりき。幽王本意ないことにしておはしけるに、その国のならひに、天下に事出で来るとき、烽火とて、都よりはじめて、所々に火をあげ、太鼓をうちて、兵を召すはかりごとあり。そのころ兵革おこつて、天下に烽火をあぐ。后、是(これ)を見給ひて、『あな不思議や。されば火もあれほど高くあがりけるよ』と、そのときはじめて笑み給ふ。一たび笑めば、百の媚あり。幽王うれしきことにして、『この后烽火を愛し給へり』とて、そのこととなく、つねに烽火をあげ給ふ。諸侯来たるに、敵もなければ、すなはち去りぬ。か様にすること度々におよびければ、兵はや馳せ参らざるほどに、隣国より凶徒起つて、幽王を討たんとするに、烽火あげ給へども、例の后の火にならひて、参る者もなかりけり。そのとき、都かたぶいて、幽王敵にとらはれぬ。か様のことがあるぞとよ。是(これ)より召さんには、自今以後、ただ今のごとく参るべし。不思議の事を聞き出だしつるあひだ召したるなり。されども聞きなほしつれば、かへれ」とて、みなかへされけり。まことはさせることも聞き出だされざりけれども、いささか父をいさめ申されつることばにしたがひて、わが身に勢のつくかつかぬかをも知り給ひぬべきためなり。いかでか父といくさをし給ふべきにはあらねども、入道(にふだう)の心をも、やはらげ奉(たてまつ)らんとのはかりごととぞおぼえたる。大臣の存知のむね、君のためには忠あり、父のためには孝あり、文宣王のたまひけるにたがはず。法皇(ほふわう)も是(これ)を聞(き)こしめして、「今にはじめぬことなれども、内府が心のうちこそはづかしけれ。怨をば恩をもつて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報めでたうて、大臣の大将にこそ至(いた)らめ、容儀体佩(ようぎたいはい)人(ひと)に勝(すぐ)れ、才智(さいち)才覚(さいかく)さへ世(よ)に越えたる」とぞ、時の人感ぜられける。「国(くに)に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]臣(しん)あれば、その国必(かなら)ずやすし、家に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]子あれば、その家、必(かなら)ず正し」とも、か様のことをや申すべき。
第十七句 成親流罪・少将流罪
同じき六月二日、大納言をば公卿の座へ出だしたてまつて、御物したてて参らせたれども、御覧じもいれず。見まはし給へば、前後に兵みちみちたり。我が方様の者は一人も見えず。やがて車を寄せて、「とくとく」と申せば、大納言、心ならず乗り給ふ。ただ身にそふものとては、つきせぬ涙ばかりなり。朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。年ごろ見なれし者どもも、今このありさまを見て、涙を流(なが)し袖をしぼらぬはなし。まして都に残りとどまり給ふ北の方、公達の心のうち、おしはかられてあはれなり。「たとひ重科をかうぶつて、遠国へ行く者も、ひと一両人はそへぬ様やある」と、車のうちにてかきくどき、泣き給へば、近う侍ふ武士ども、みな鎧の袖をぞぬらしける。鳥羽殿を過ぎ給へば、「北の御所へ御幸なりし御供には一度もはづれざしりものを」とて、わが山荘(さんざう)の洲浜殿(すはまどの)とてありしも、よそに見てこそ通られけれ。南の門にもなりしかば、「舟おそし」とぞいそぎける。大納言「是(これ)はいづちやらん。同じくは、失はれば、都近きこの辺にてもあれかし」とのたまひけるぞいとほしき。「近う侍ふ武士(ぶし)は誰そ」と問ひ給へば、「難波の次郎経遠」と申す。「この辺に我が方様の者やある。舟に乗らぬさきに、あとに言ひおくべきことあり」とのたまへば、経遠走りまはりて「この方の人や候ふ」とたづねけれども、「われこそ」と名のる者もなし。「われ世にありし時(とき)は、したがひつく者一二千人もありけんものを、今はよそにてだにも、見送らぬことのかなしさよ」とのたまへば、武士どもみな鎧の袖をぞぬらしける。熊野詣、天王寺詣のありしには、二つ瓦の三つ棟づくりの舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎつづけさせ、さこそめでたうおはせしに、今はけしかるかきすゑ屋形の舟に、大幕ひきまはさせ、見も慣れぬ兵どもに乗り具して、今日をかぎりに都のうちを出で給ふ、心のうちこそかなしけれ。その日は摂津の国大物の浦にぞ着き給ふ。この人すでに死罪におこなはるべかりしを、流罪になだめられ給ふことは、小松殿のたりふし[* 「おりふし」と有るのを斯道本により訂正]申されけるによ(ッ)てなり。この大納言、いまだ中納言たりしとき、美濃の国を知行し給ふに、山門の領平野の荘の神人と、目代右衛門尉正朝と事ひき出だして、すでに狼藉におよぶ。神人二三人、矢庭に射殺さる。是(これ)によつて、嘉応元年十一月三日、山門の大衆、蜂起して、「国司成親(なりちか)流罪に処せられ、目代正朝禁獄せらるべき」よし奏聞す。君おほきにおどろかせ給ひて、成親(なりちか)を「備中の国へ流(なが)さるべし」とて、同じき十日、すでに西の七条まで出だされたりけるを、君いかがおぼしめされけるやらん、同じき十六日、西七条より召しかへさる。山門の大衆このことを承り、おびたたしく呪咀(じゆそ)すと聞(き)こえしかども、同じき二年正月五日、成親(なりちか)、右衛門督を兼ねて検非違使別当になり給ふ。承安二年七月二十一日、従二位に叙せらる。そのとき資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]、兼雅の卿(きやう)越えられ給ふ。資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)はふるき人、おとなにておはしき。兼雅の卿(きやう)は栄華の人なり、家嫡にて越えられ給ふぞ遺恨なる。同じき三年四月十三日、正二位に叙せらる。今度は中の御門中納言宗家[* 「かねいゑ」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)越えられ給ふ。安元元年十月二十七日、検非違使別当より権大納言[* 「こん日大なこん」と有るのを他本により訂正]にあがり給ふ。か様に時めき給ひしかば、人あざけつて、「山門の大衆には呪はるべかりしものを」とぞ申しける。およそ神の罰、人の呪ひ、疾き[* 「とをき」と有るのを他本により訂正]もあり、〔遅きもあり、〕同じからざることどもなり。同じく三日、大物の浦に「京より御使あり」とてひしめきけり。大納言、「ここにて失へとや」と聞き給へば、さはなくして、「備前の児島へ流(なが)さるべし」となり。小松殿よりも御文あり。「『都ちかき片山里にも置き奉(たてまつ)らばや』と申しつれども、かなはぬことこそ、世にあるかひも候はね。されども御命ばかりは申しうけて候(さうらふ)」とて、難波がもとへも「あひかまへてよくよく宮仕ひ申せ。御心にばし違ひ奉(たてまつ)るな」と仰せられ、旅の粧(よそほひ)までもこまごまと沙汰しおくられけり。大納言、さしもかたじけなうおぼしめされ〔し〕君にも離れまゐらせ、つかの間も離れがたう思はれし妻子にも別れつ。「いづちへとも行くらん。ふたたび故郷へかへりて、あひ見んこともありがたし。一年山門の訴訟によ(ッ)て、備中へ流(なが)さるべきにて、すでに西七条まで出でたりしかども、なか五日にしてやがて召しかへされぬ。是(これ)はさせる君の御いましめにてもなし。こはいかにしつることぞや」と、天に仰ぎ地(ち)に附して、かなしみ給ふぞあはれなる。すでに舟おし出だして下り給ふに、道すがら、ただ涙にのみしづみて、「ながらふべし」とはおぼえねども、さすがに露の命消えやらで、跡の白波へだたれば、都は次第に遠ざかり、日数やうやうかさなれば、遠国も近づきぬ。あさましげなる柴のいほりに入れ奉(たてまつ)る。島のならひにて、うしろは山、まへは海なれば、岸うつ波、松ふく風、いづれもあはれはつきもせず。大納言ひとりにもかぎらず、か様にいましめらるる輩おほかりけり。近江の中将(ちゆうじやう)入道(にふだう)、筑前の国。山城守基兼、出雲の国。式部大輔章綱、隠岐の国。宗判官信房、土佐の国。新平判官資行、美作の国。次第に配所をさだめらる。入道(にふだう)相国(しやうこく)福原の別業におはしけるが、都にまします弟の宰相のもとへ使者をたて、「少将いそぎ是(これ)へ下され候へ。存ずるむねあり」とのたまへば、宰相「さらば、ただ、ありし時、ともかくもなりたりせば、ふたたびものをば思はじ」とぞのたまひける。「さらば、とくとく出でたち下り給へ」とありければ、泣く泣く出でたたれけり。女房たち「あはれ、宰相のなほもよき様に申されよかし」とぞなげかれける。宰相「存ずるほどのことをば申しつ。今は世を捨つるよりほかは、なにごとをか申し候ふべき。たとひいづくの浦にもおはせよ、わが命のあらんかぎりは、いかにもとぶらひ申すべし」とぞのたまひける。少将、今年二歳になり給ふ若君ましましけり。このころは若き人にて君達などのことをもこまやかにのたまはざりけるが、いまはのときになりしかば、さすが心にやかかりけん、「幼き者を一目見候はばや」とのたまひければ、乳母の女房抱き奉(たてまつ)りて参りたり。少将、若君を膝のうへにおき、髪かきなでて、「無慚や、なんぢが七歳にならば男になし、内へ参らせんとこそ思ひつるに、今はかかる身になりぬれば、言ふにかひなし。もしなんぢ命生きて、ことゆゑなく生ひたちたらば、法師になり、我が後世をとぶらへよ」とのたまひもあへず泣き給へば、見る人、袖をぞしぼりける。福原の使ひは摂津の左衛門盛澄といふ者にてぞありける。「今夜やがて鳥羽まで出でさせ給ひて、あかつき舟に召さるべう候(さうらふ)」と申せば、少将「いく程ものびざらん[* 「のばざらん」と有るのを他本により訂正]命に、こよひばかりは都のうちにて明かさばや」とのたまへども、御使しきりにかなふまじきよし申しければ、少将、その夜鳥羽まで出で給ふ。六月二十二日、福原へ下りつき給ひければ、入道(にふだう)、瀬尾の太郎兼康に仰せて、少将は備中の瀬尾へ下されけり。兼康、宰相のかへり聞き給はん所(ところ)をおそれて、道の程様々いたはりなぐさめ奉(たてまつ)る。されども少将は一向仏の御名をとなへて、父のことをぞ祈られける。すでに備中の瀬尾に着き給ふ。さるほどに、大納言をば備前の児島に置き奉(たてまつ)りけるを、「是(これ)は舟着き近き所(ところ)にてあしかりなん」とて、難波がはからひにて地へわたし奉(たてまつ)り、備前と備中とのさかひに、庭瀬郷有木の別所といふ所(ところ)に置き奉(たてまつ)る。それより少将のおはする備中の瀬尾はわづかに一里あまりの道なり。少将、その方の風もなつかしうや思はれけん、瀬尾を近う召して、「やや、兼盛。当時是(これ)より大納言のおはす有木の別所とかやは、いかほどの道やらん」と問ひ給へば、瀬尾、「知らせまゐらせてはあしかりなん」とや思ひけん、「是(これ)より十二三日の道にて候(さうらふ)」とぞ申しける。少将、「是(これ)こそ大きに心得ね。日本国は昔(むかし)三十三箇国にてありけるを、六十六箇国には割られたんなり。東に聞(き)こふる出羽、陸奥両国、〔昔(むかし)は一国〕なりけるを、文武天皇の御時十二郡を分けて、出羽の国を〔出だされ〕立てられたり。一条の院の御宇、実方の中将(ちゆうじやう)奥州へ流(なが)されたりしに、当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)を見んとて、国のうちをたづねまゐるが、逢はで帰りけるに、道にて老翁一人ゆき逢うたり。中将(ちゆうじやう)、『やや、御辺はふるい人とこそ見ゆれ。当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)や知りたる。』と問ふに、『まつたく当国には候はず。出羽の国にてや候ふらん』と申しければ、中将(ちゆうじやう)、『さては御辺は知らざりけり。世の末になれば名所もはや呼びうしなひたるにこそ』とて過ぎけるに、老翁、中将(ちゆうじやう)の袖をひかへて、『君はよな、みちのくのあこやの松に木がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもつて、当国の名所とは候ふか。それは六十六箇郡[* 「六十六かこく」と有るのを他本により訂正]、両国が一国なりしとき、よめる歌なり。十二郡を割き分けてのちは、出羽の国にや候ふらん』と申しければ、そのとき、中将(ちゆうじやう)、『さもあるらん。やさしうも答へたるものかな』とて、出羽の国へ越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけり。備前、備中、備後も昔(むかし)は一国なりけるを、今こそ三箇国には分けられけれ。筑紫の大宰府より、都へ■[魚+宣](はらか)の使ののぼるこそ、歩路十五日とは定められたれ。すでに十二三日と申すは、ほとんど鎮西へ下向ござんなれ。備前、備中の境、遠しといふとも両三日にはよもすぎじ。近きを遠く言ひなすは、大納言殿のおはする所(ところ)を、成経に知らせじと申すにこそ」と思はれければ、そののちは恋しけれども問ひ給はず。
第十八句 三人鬼界が島へ流(なが)さるる事
さるほどに、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛平判官康頼(やすより)、備中の瀬尾におはする少将あひ具して三人薩摩方鬼界が島へぞ流(なが)されける。この島は、都を出でてはるばると海を渡りてゆく島なり。おぼろけにては舟も人もかよふことなし。島にも人まれなり。おのづからある者は此(この)地(ぢ)の人(ひと)にも似(に)ず。色(いろ)黒(くろ)うして牛(うし)なんどのごとし。身にはしきりに毛生ひ、言ふことばも聞き知らず。男は烏帽子も着ず、女は髪をもさげず。衣装なければ人にも似ず、食する物なければ、ただ殺生をのみ先とす。しづが山田をたがやさねば、米穀のたぐひもなし。園の桑をとらざれば、絹綿のたぐひもなかりけり。島のうちには高山あり。山のいただきには火燃えて、いかづち常に鳴りあがり、鳴りくだり、麓(ふもと)にはまた雨しげし。一日片時も人の命あるべしとも見えざりけり。硫黄といふものみちみてり。かるがゆゑに「硫黄が島」とぞ申しける。されども丹波の少将の舅、平宰相の所領、肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)より衣食をつねに送られければ、俊寛も康頼(やすより)も命生きてすごしけり。康頼(やすより)は流(なが)されけるとき、周防の室富といふ所(ところ)にて出家してんげれば、法名「性照」とぞ名のりける。出家はもとよりのぞみなりければ、康頼(やすより)泣く泣くかうぞ申しける。つひにかくそむきはてける世の中をとく捨てざりしことぞくやしきと書きて、都へ上せたりければ、とどめ置きし妻子ども、いかばかりのことをか思ひけん。されば、少将、判官入道(にふだう)は、もとより熊野信仰の人にて、「あはれ、いかにもして、この島のうちに熊野三所権現を勧請し奉(たてまつ)り、帰洛のことを祈らばや」といふに、俊寛是(これ)を用ひず。二人は同心にして、「もし熊野に似たる所(ところ)やある」と、島のうちをたづねまはるに、或(あるい)は林塘の妙なるもあり、紅錦繍の粧(よそほひ)品々に、或(あるい)は雲嶺のさがしきあり、碧羅綾(へきらりよう)の色(いろ)一(ひとつ)にあらず。山のけしき木のこだち、よそよりもなほすぐれたり。南をのぞめば、海漫々として、雲の波煙の波いとふかく、北をかへり見れば、また山岳の峨峨たるより、百尺の滝みなぎり落ちたり。滝のおとことにすさまじく、松風神さびたる住ひ、飛滝権現のおはします那智の御山にさも似たり。さてこそやがてそこをば、「那智の御山」とは名づけけれ。「この峰は本宮」、「かの峰は新宮」、「ここはこの王子」、「かしこはかの王子」なんどと、王子、王子の名を申して、康頼(やすより)入道(にふだう)先達にて、少将あひ具し、毎日熊野詣のまねをして、帰洛のことをぞ祈られける。「南無権現金剛童子、ねがはくはあはれみをたれさせおはしまし、われらをふたたび都へかへし入れて、恋しき者どもを今ひとたび見せ給へ」とぞ祈りける。あるとき、少将、判官入道(にふだう)二人、権現の御前に参り、通夜したりけるに、夢ともなく現ともなきに、沖より小船一艘よせたり。例の海人小舟、釣舟かと見るほどに、磯によりて、赤きはかま着、懸帯などしたる女房の五六人、御前に参りて、世にもおもしろき声にて、よろづの仏の願よりも千手の誓ぞたのもしき枯れたる木にもたちまちに花咲き実なるとは聞けと二三返歌ひすまして、かき消すやうに失せにけり。そのとき二人の人々、「うつつなりけり」と奇異の思ひをなす。「この権現の本地、千手観音にておはします。千手の二十八部衆のうちに、海龍神、その一つなり。されば龍女の化限にてもやあらん」とたのもしかりしことどもなり。されば、日数つもりて、裁ち替ふべき[* 「たちかへべき」と有るのを他本により訂正]浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、けがらはしき心あれば、沢辺の水を垢離にかき、岩田川の清き流れと思ひやり、高き所(ところ)にのぼりては、発心門とぞ観じける。御幣の紙にもなければ、花を手折りて捧げつつ、康頼(やすより)入道(にふだう)つねは、祝言ぞ申しける。維(これ)[* 「いひ」と有るのを祭文の例により訂正]、あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならびは十月二月、日の数は三百五十余箇日、そのうちに吉日良辰をえらび、かけまくもかたじけなく、日本第一大霊験、熊野三所大権現、ならびに飛滝(ひりよう)大薩■(だいさつた)教令、宇津の広前にして、信心の大施主、羽林藤原の成経、沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽(ぬきん)で、つつしみ敬白す。夫れ、証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王なり。両所権現、或は東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来なり。或は南方補陀落の能化の主、入重玄門の大士なり。若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士なり。頂上に仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是(これ)によ(ッ)て、上一人より下万民にいたるまで、或は現世安穏のため、或は後生善所のために、朝には浄水をむすび、煩悩の垢をすすぎ、夕には深山にむかひ、宝号をとなふ。感応おこたる事なし。峨峨たる嶺のたかきをば、神徳のたかきにたとふ。嶮々(けんけん)たる谷(たに)のふかきをば、弘誓のふかきにたとふ。雲をうがちてのぼり、露をしのぎてくだり、ここに利益の地をたのまずは、いかでか歩(あゆ)みを嶮難(けんなん)の路(みち)にはこばん。権現の徳をあふがずは、いかが幽遠の境にましまさんや。よ(ッ)て証誠大権現、飛滝大薩■(だいさつた)、相ともに青蓮慈悲(しやうれんじひ)の眸(まなじり)をならべ、早鹿の御耳(おんみみ)をふりたて、我等(われら)無二(むに)の丹誠(たんぜい)を知見(ちけん)し、一々(いちいち)の懇志(こんし)を納受(なふじゆ)せしめ給へ。然ればすなはち成経、性照、遠島配流の苦しみをしのぎ、旧城花洛の故郷につけせしめ給へ。まさに有無妄執をあらため、無為の真理をきよむべし。しかるときは、結、早玉の両所は随機し、或は有縁の衆生をみちびき、またみだりに無縁(むえん)の群類(ぐんるい)をすくはんがため、七宝荘厳のすみかを捨てて、八万四千(はちまんしせん)の光(ひかり)を和(やは)らげ、六道三有(ろくだうさんう)の塵(ちり)に同じうし給へり。かるがゆゑに定業もまたよく転じ[* 「うたた」と有るのを他本により訂正]、長寿を得る事をもとむ。礼拝して袖をつらね、幣帛を捧ぐる事ひまなし。忍辱(にんにく)の衣(ころも)を重(かさ)ね、覚道の花を捧げ、神殿の床を動かし、信心水を澄ましめ、利生(りしやう)の池(いけ)に湛(たと)ふ。神明納受し給はば、所願いかが成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現(じふにしよごんげん)、利生(りしやう)の翅(つばさ)を並(なら)べて、遥(はるか)の苦海(くかい)の空(そら)にかけり、左遷(させん)の愁(うれ)ひをやすめて、はやく帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝、再拝。とぞ申しける。あるとき、沖より吹きくる風の、少将、康頼(やすより)二人が袖に木の葉一つづつ吹きかけたり。是(これ)を取りて見れば、たのみをかくる御熊野の南木の葉にてぞありける。虫くひあり、是(これ)を一首の歌にぞよみなしたる。ちはやぶる神に祈りのしげければなどか都へかへさざるべきかへすがへすも、めでたかりける事どもなり。判官入道(にふだう)、あまりに都の恋しきままに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆(そとば)を作り、阿字の梵字を書きて、年号、月日、仮名、実名、さて二首の歌を〔ぞ〕書きたりける。さつまがたおきの小島にわれありと親にはつげよ八重のしほ風思ひやれしばしとおもふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを是(これ)を浦に持ちて出で、「南無帰命頂礼、梵天、帝釈、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、ことには熊野の権現、金剛童子、厳島大明神、願はくは、この卒都婆(そとば)を一本なりとも、都のうちへ伝へてたばせ給へ」とて、奥津白波の寄せてはかへるたびごとに、卒都婆(そとば)を海にぞ浮かべける。日数かさなれば、卒都婆(そとば)の数も積もりけり。その思ふ心やたよりの風ともなりたりけん、また神明仏陀もや送らせ給ひけん、千本の卒都婆(そとば)のうち一本は、安芸の厳島の大明神の御前のなぎさに、うちあげたり。この明神と申すは沙竭羅竜王(しやかつらりゆうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)、胎蔵界(たいざうかい)の垂跡(すいじやく)にてまします。崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇にこの島に御影向ありしよりこのかた、済度利生今にいたるまで甚深奇特の事どもなり。さればにや、八社の御殿甍をならべ、百八十間の廻廊あり。社は海をうけたれば、潮のみちて月ぞすむ。汐みちくれば、大鳥居のうちの廻廊、緋の玉垣、瑠璃のごとし。汐ひきぬれば、夏の夜なれども御前のなぎさに霜やおく。判官入道(にふだう)がゆかりありける僧の、西国修業してまよひありきけるが、厳島へぞ参りたる。この島は潮のみつときは海になり、潮のひくときは島となる所(ところ)なり。「それ和光同塵の利生、さまざまなりと申せども、この島の明神は、いかなる因縁をもつてか、海漫々の鱗(うろくづ)に縁をむすばせ給ふらん」と、本誓のたつとさに、ひめもす、法施まゐらせてゐたる所(ところ)に、沖よりみちくる汐にさそはれて、それかともなく打ちあげたる藻くづの中に、卒都婆(そとば)のかたちの見えければ、なにとなう是(これ)をとりて見(み)るに、「おきの小島にわれあり」と書きなしたる言の葉にてぞありける。文字を彫りいれ、きざみつけたれば、波にもあらはれず、あざやかにこそ見えたりけれ。「あな無慚や。是(これ)は康頼(やすより)入道(にふだう)がしわざ」と見なし、泣く泣く笈の肩にさし、都(みやこ)に上(のぼ)り、判官入道(にふだう)が老母(らうぼ)の尼公(にこう)、妻子(さいし)なんどが、一条(いちでう)の辺(へん)、紫野(むらさきの)に忍(しの)びつつ住みけるに、たづねて、此(この)卒都婆(そとば)を取らせければ、老母(らうぼ)の尼公(にこう)も、妻子(さいし)も是(これ)を見て、「されば、此(この)卒都婆(そとば)の唐土のかたへもゆられゆかずして、なにしに是(これ)まで伝へきて、ふたたび物を思はすらん」とぞかなしみける。はるかにあつて叡聞におよびて、法皇(ほふわう)、卒都婆(そとば)を叡覧あつて、「あな無慚や、是(これ)は鬼界が島とかやに、いまだながらへてありける」とあはれにおぼしめして、そののち小松の内府のもとへ、この卒都婆(そとば)を送らせ給ひけり。内府、この卒都婆(そとば)を入道(にふだう)に見せ奉(たてまつ)り給ひければ、相国も岩木ならねば、あはれげにぞのたまひける。柿本の人丸は、「島がくれゆく舟」を思ひ、山辺の赤人は、「あしべの鶴」をながめ給ふ。住吉の明神は、「かたそぎの思ひ」をなし、三輪の明神は、「杉たてる門」をとざす。素盞烏尊(そさのをのみこと)は、三十一字(さんじふいちじ)をはじめおき給ひしよりこのかた、もろもろの神明、仏陀も、この詠吟をもつて、百千万端の思ひを述べ給ふ。されば、たかきもいやしきも、「鬼界が島の流人の歌」とて、是(これ)を口ずさみぬはなかりけり。千本におよび作りたる卒都婆(そとば)なれば、さこそ小さうもありけめ、薩摩がたよりはるばると伝はりけるこそ不思議なれ。あまりに思ふ心のふかきしるしなりけるにや。昔(むかし)漢王、胡国を攻め給ふに、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢をもつてすといへども、胡国の軍こはくして、漢王の軍追つかへさる。そののち五十万騎(ごじふまんぎ)の勢をもつて攻めらる。なほも胡国の軍こはうして、李陵といふ大将軍をはじめとして千余人捕つて、胡国にとどめらる。その中に蘇武(そぶ)といふ将軍をはじめて、宗との者六十人すぐり出だして、巌窟におつ籠め、三年を経てとり出だし、片足を切つて追放