平家物語 百二十句本(京都本)巻第五
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平家巻第五 目 録
第四十一句 都遷し
法皇籠の御所にまします事
落書
都遷しの先蹤三十余度
平安城の沙汰
第四十二句 月見
新都の事始め
近衛河原の沙汰
待宵の小侍従の沙汰
物かはの蔵人
第四十三句 物怪の巻
蟇目射させらるる事
髑髏の多き事
馬の尾に鼠の巣食ふ事
源中納言雅頼のもとの青侍が悪夢
第四十四句 頼朝謀叛
大庭の三郎景親早馬
紀伊の国名草の郡高尾の村の蜘蛛の事
朝敵揃ひ二十余人の事
五位鷺
第四十五句 咸陽宮
燕丹帰国
亀浮び来つて燕丹渡す事
田光先生自害
花陽夫人の琴
第四十六句 文 覚
荒行
勧進帳
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流罪
院宣申し
第四十七句 平家東国下向
維盛大将軍になる事
忠度副将軍となる事
宮腹の女房の沙汰
大将軍三つの存知の沙汰
第四十八句 富士川
源氏浮島が原勢揃ひ二十万綺
平家鳥の羽音に驚く事
主馬の判官忠清を加担の事
将門追罰の時の勧賞の事
第四十九句 五節の沙汰
福原の京に主上御遷幸
新帝大嘗会の事
都帰りの事
平家近江の国へ発向
第五十句 奈良炎上
南都の大衆忠成・親雅の両使悪口
同じく平相国の首毯丁の玉と号する事
同じく瀬尾の勢、討取らるる事
重衡南都発向
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平家 巻第五
第四十一句 都遷し
治承四年六月三日、「福原へ行幸あるべし」とぞひしめきあへり。この日ごろ「都遷しあるべし」とは内々沙汰ありしかども、「今明のほどとは思はざりつるものを、こはいかに」とて、上下さわぎあへり。 三日にさだめられしが、あまつさへ今一日ひきあげて、二日になりにけり。 二日の卯の刻に行幸の御輿を寄せたりければ、主上は今年三歳、いまだ幼うましましければ、何心なう召されけり。主上のいとけなき御ときは、母后こそ同じ輿には召さるるに、今度はその儀なし。御乳母平大納言時忠の卿の北の方、帥の典侍殿ぞひとつ御輿には参られける。中宮、院、上皇も御幸なる。摂政殿をはじめたてまつり、太政大臣以下、公卿、殿上人、「われも、われも」と供奉せらる。 三日、福原へ着かせ給ふ。池の大納言頼盛の卿の宿所、皇居になる。頼盛の家の賞とて正二位になり給ふ。九条殿の御子、右大将良通の卿に越えられ給ひけり。摂禄の臣の公達、凡人の次男に加階越えられ給ふこと、これはじめとぞ聞こえし。 さるほどに、法皇をば入道相国やうやう思ひなほりて、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸の美福門院の御所へ御幸なしたてまつりしかども、また高倉の宮
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の御謀叛によりて、大きにいきどほり、福原へ御幸なしたてまつり、四面に端板して、口一つあけたるところに、三間の板屋をつくりて、おし籠めたてまつる。守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ひける。たやすく人の参りかよふこともなければ、童部、これを「籠の御所」とぞ申しける。聞くもいまいましく、あさましかりし事どもなり。「今は、万機のまつりごとを聞こしめさばやとは、つゆほどもおぼしめしよらず。あはれ、山々寺々修行して、御心のままになぐさまばや」とぞ仰せられける。「平家の悪行においては、きはまりぬ。去んぬる安元よりこのかた、おほくの卿相、雲客、あるいは流し、あるいは失ひ、関白を流したてまつり、わが婿を関白になし、法皇を城南の離宮にうつしたてまつり、第二の皇子高倉の宮を誅したてまつり、いま残るところ都遷しなれば、か様にし給ふにや」とぞ人申しける。 あはれ、旧都はめでたくありつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺々は上下に甍をならべ給ふ。百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり。されども今は、辻々を掘り切つては逆茂木をひきたりければ、車なんどのたやすう行き通ふこともなし。まれに行く人も小車に乗り、道を経てこそ通りけれ。軒をあらそひし人のすまひも、日を経つつ荒れぞゆく。家々は賀茂川、桂川にこぼち入れ、いかだに組み浮かべ、資財雑具は舟に積み、福原へとて運びくだす。ただなりに、花の都、田舎となるこそかなしけれ。
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いかなる者のしわざにやありけん。旧都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書きたりける。
百年を四かへりまでに過ぎにしを愛宕の里のあれやはてなん W
咲きいづる花の都をふり捨てて風ふく原のすゑぞあやふき W
都遷りはこれ先蹤なきにはあらず。神武天皇と申すは地神五代の帝、彦波瀲武■■羽葺不合尊(ひこなぎさたけうのはふきあはせずのみこと)の第四の皇子。御母は玉依姫、海神の姫なり。天神七代、地神五代、神の代十二代のあとをうけ、人皇百代の帝祖なり。 辛酉の年、日向の国宮崎の郡にして皇王の宝祚をついで、五十九年といひし己未の年十月東征して、豊葦原の中津国にとどまり、このごろは大和と名づけたり畝傍の山を点げて、帝都を建てて、橿原の地をきり払ひて、宮づくりし給ふ。これを「橿原の宮」とは申すなり。 しかつしよりこのかた、代々の帝王、都を他国他所へ遷さるること三十度にあまり、四十度におよべり。 神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和の国、郡々に都を建てて、他国へはつひに遷されず。 しかるを、成務天皇元年に、大和より近江の国に遷し、志賀の郡に都を建つ。 仲哀天皇二年に、近江の国より長門の国に遷して、豊浦の郡に都を建つ。かの都にて帝かくれさせ給ひしかば、后神功皇后御代を受け取らせ給ふ。女帝として、新羅、百済、
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高麗、契丹までも攻めしたがへさせ給ひけり。異国のいくさをしづめさせ給ひてのち、筑前の国御笠郡にして〔皇子〕御誕生、所を「宇美の宮」とぞ申しける。かけまくもかたじけなくも八幡大菩薩の御ことなり。位に即き給ひては、応神天皇これなり。 そののち神功皇后は、大和の国に帰りて、磐余稚桜の宮に住ませ給ふ。 応神天皇、同じき国軽島や明の宮に住み給ふ。 仁徳天皇元年に、摂津の国難波の浦に遷りて、高津の宮に住ませ給ふ。 履中天皇二年に、大和の国に遷りて、十市の郡に都を建て、 反正天皇元年に、河内の国に遷りて、柴籬の宮に住ませ給ふ。 允恭天皇四十二年に、なほ大和の国に遷りて、遠つ飛鳥の宮に住ませ給ふ。 雄略天皇二十一年に、同じく泊瀬朝倉に都を建つ。 継体天皇五年に山城の国綴喜に遷りて、十二年、そののち乙訓[* 「をとひこ」と有るのを他本により訂正]に住み給ふ。 宣化天皇元年、また大和の国に帰つて、檜隈や入野の宮に宮居し給ふ。それより、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極天皇まで大和に住み給ふ。 孝徳天皇大化元年、摂津の国長柄に遷りて、豊崎の宮にまします。 斉明天皇二年に、なほ大和の国に帰つて、岡本の宮に住ませ給ふ。 天智天皇六年に、近江の国に遷りて、大津の宮を造り給ふ。 天武天皇元年に、なほ大和に帰つて、岡本南の宮に住ませ給ふ。これを「浄御原の帝」と申しき。 持統、文武二代の聖朝は、同じき国藤原の宮に住ませ給ふ。
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元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良の都におはします。 しかるを桓武天皇、延暦三年十一月三日奈良の京春日の里より、山城の国長岡に遷りて、十年といひし正月、大納言藤原の小黒丸、参議左大弁紀の古佐美、大僧都賢■(げんけい)つかはして、当国葛野郡宇多の村を見せらるるに、両人ともに奏していはく、「この地の体、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武。四神相応の地。もつとも帝都を定むるに足れり」と申す。よつて、愛宕の郡にまします賀茂大明神に告げて申させ給ひて、同じく延暦十三年十月二十一日に、長岡の京よりこの京へ遷りてのちは、帝王は三十二代、星霜は三百八十余歳、春秋を送り迎ふ。「昔より代々の帝王、国々、所々、おほくの都を建てられしかども、かくのごとく勝れたる地はなし」とて、桓武天皇ことに執しおぼしめす。大臣、公卿、諸道の才人に仰せて、「長久なるべき様に」とて、土にて八尺の人形を作り、鉄の鎧、兜を着せ、同じく鉄の弓矢を持たせて、東山の峰に西向きに立ててうづめられけり。「末代この京を他国へ遷すことあらじ。守護神となるべし」とぞ御約束ありける。されば天下に大事出で来んとては、この塚かならず鳴り動ず。「将軍塚」とて今にあり。 桓武天皇と申すは、平家の曩祖にておはします。なかにもこの京をば、平安城と名づけて、「平らかに安き城」と書けり。もつとも平家のあがむべき都ぞかし。先祖の帝さしもに
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執しおぼしめされける都を、させるゆゑなきに、他国、他所へ遷されけるこそあさましけれ。 平城天皇、尚侍のすすめによつて、すでにこの京を他国へ遷さんとせさせ給ひしを、大臣、公卿、諸国の人民嘆き申せしかば、つひに遷されずして止みにき。一天の君、万乗の主だにも遷しえ給はぬ都を、入道相国人臣の身として遷されけるぞおそろしき。「これは、国の夷賊攻めのぼつて、平家都にあとをためず、山林にまじはるべき先表か」とぞ人申しける。
〔第四十二句 月見〕同じく六月八日、福原には、「新都の事始めあるべし」とて、上卿に徳大寺殿左大将実定の卿、土御門の宰相中将通親の卿、奉行には頭の弁光雅、蔵人左少弁行隆、官人どもあひ具して、和田の松原の西の野を点げて、九条の地を割られけるに、一条より下五条まではその所ありて、五条より下はなかりけり。行事、官人ども参りて、このよしを奏問しければ、「さらば播磨の印南野か、また摂津の国の昆陽野か」なんどと、公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。旧都をばすでに浮かれぬ。新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人みな浮雲の思ひをなす。もとこの所に住む者は、地をうしなひてうれへ、今遷る人々は土木のわづらひを嘆きあへり。総じて夢の様なる事どもなり。土御門の宰相の中将通親の卿申されけるは、「異国には『三条の広路を開いて、十二の通門を立つる』と見えたり。いはんや
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五条の都に、などか内裏建てざるべき。かつ里内裏を造らるべし」とて、五条の大納言邦綱の卿、臨時に周防の国を腸はつて、造進せらるべきよし、入道相国はからひ申されけり。この邦綱の卿は、ならびなき大福長者にておはしければ、造り出ださんことは左右におよばねども、いかでか国の費え、民のわづらひなかるべき。さしあたる大事の大嘗会なんどを行はるべきをさしおいて、かかる世の乱れに都を遷し、内裏を造らんことすこしも相応せず。いにしへ、賢き御代には、すなはち内裏に茅を葺き、軒をだにも切られず。煙のともしきを見給ふときには、かぎりある貢物をゆるしき。これすなはち民をめぐみ、国をただしうし給ふによつてなり。楚は章華の台を建てて、黎民をあらし、秦は阿房殿を建てて、天下乱るといへり。茅茨きらず、采椽けづらず、舟車かざらず、衣服文なかりし世もありけんものを、人、「おそろし、おそろし」とぞ申しける。「唐の太宗は驪山宮を造りて、民の費えをはばからせ給ひけん、つひに臨幸なうして、瓦に松おひ、垣に蔦しげりてやめられけるに相違かな」とぞ人申しける。
第四十二句 新都の事始め
六月七日、新都の事始めありて、八月十日棟上げ、十月七日御遷幸と定めらる。旧都は荒れゆく。今の都は繁昌す。あさましかりし夏も過ぎ、秋にもすでになり
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にけり。福原におはする人々の、秋もなかばになりぬれば、名所の月を見んとて、あるいは源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。あるいは白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂の尾上の月のあけぼのを、ながめて帰る人もあり。旧都にのこる人々は、伏見、広沢の月を見る。そのうちに、徳大寺の左大将実定の卿は、旧都の月をしたひて、入道相国の方へ案内をえて、八月十日あまりに、福原より都の方へのぼられけり。なにごとも昔にかはりはてて、残る家は、門前草深く庭上露しげし。浅茅生が原、蓬が杣、鳥の臥所と荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野べとぞなりにける。故京の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞおはしける。実定の卿、その御所へ参り、まづ随身をもつて惣門をたたかせぬれば、うちより女の声にて、「誰そや、この蓬生の露うち払ふ人もなきところに」ととがめければ、「福原より大将殿御参り」とぞ申しける。「惣門は錠のさしてさぶらふぞや。東面の小門より入らせ給へ」とありしかば、大将殿うちめぐりてぞ参られける。をりふし大宮は、昔もや御慕はしうおぼしめされけん、南殿の格子をあげさせ、御琵琶あそばしけるをりふし、大将つつと参られたり。「これは夢かや、うつつかや、これへ、これへ」とぞ召されける。源氏宇治の巻には、優婆塞の宮の御姫、秋の名残を惜しみつつ、琵琶を調べて夜もすがら心
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をすまし給ひしに、有明の月の出でけるを、なほ堪へずやおぼしけん、撥にて招き給ひしも、今こそおぼしめし知られけれ。小夜もやうやうふけゆけば、大宮は旧都の荒れゆくことどもを語らせおはしませば、大将は今の都の住みよきことをぞ申されける。待宵の小侍従と申す女房も、この御所にぞ候はれける。そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、大宮の御前にて「待つ宵と帰る朝とは、いづれかあはれはまされるぞ」と御たづねありければ、いくらも侍はれける女房たちのうちに、かの女房、待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけばあかぬ別れの鳥は物かはと申したりけるゆゑにこそ「待宵の侍従」とは召されけれ。背のちひさきによつてこそ「小侍従」とも召されけれ。大将この女房を呼び出だし、いにしへ今の物語どもし給ひけるが、あかつき方にもなりしかば、横笛の音取り、朗詠して、旧都の荒れゆくことどもを今様にこそうたはれけれ。
古き都をきてみれば浅茅が原とぞあれにける
月の光は隈なくて秋風のみぞ身にはしむ I
と、おし返し、おし返し、二三返歌ひすまされたりければ、大宮をはじめまゐらせて、御所中の女房たち、みな感涙をぞながしける。夜も明けければ、大将いとま申して出でられけるが、御供に侍ふ蔵人泰実を召して、「侍従があまりに名残惜しげに見えつるに、なんぢ行きてなにとも言ひて来よ」と仰せければ、蔵人走り帰りて、侍従が前
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にかしこまつて、「これは大将殿より申せと候」とて、
物かはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどか悲しかるらん W
侍従涙を押さへて、
待たばこそふけゆく鐘もつらからめあかぬ別れの鳥の音ぞうき W
蔵人走り帰つて、このよし申したりければ、大将「さればこそ、なんぢをばつかはしつれ」とて、大きに感ぜられけり。それよりしてぞ、「物かはの蔵人」とは召されける。
第四十三句 物怪の巻
そのころ福原には、人々夢見ども悪しう、常は心さわぎのみして、変化の物おほかりけり。あるとき入道の臥し給へるところに、一間にはばかるほどの物出で来つて、入道をのぞいて見たてまつる。入道少しもさわぎ給はず。はたとにらまへてましましければ、ただ消えに消え失せぬ。また岡の御所と申すは、新造なれば、しかるべき大木もなかりけるに、ある夜大木の倒るる音して、二三十人が声にてどつと笑ふことあり。これは天狗の所為といふ沙汰にて、蟇目の番を、夜百人、昼百人そろへて射させらるるに、天狗のある方へ向かひて射たるときは音もせず、なき方へ向かひて射たるときは、どつと笑ひなんどしけり。 ある朝、入道相国帳台より出で、妻戸押し開き、坪のうちを見給へば、曝れたる首どもいくらといふ数を知らず、みちみちて、
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上になり下になり、ころびあひ、ころびのき、中なるは端へころび出で、端なるは中へころび入り、おびたたしうからめきあひければ、入道相国、「人やある、人やある」と召されけれども、をりふし人も参らず。「こはいかに」と見給へば、多くの髑髏どもが一つにかたまりあひて、「高さ四五丈もやありけん」とおぼしくて、一つの大頭に千万の眼あらはれて、入道をにらまへて、まだたきもせず。入道少しもさわがず、にらまへてしばらく立たれたり。あまりに強うにらまれて、露霜なんどの日にあたりて消ゆる様に、跡かたもなくなりにけり。また入道相国の宿所ちかく、五葉の松の栄えたりけるが、夜の間に枯れたりけるぞ不思議なる。また、舎人あまたつけて、ひまなく撫で飼はれける馬の尾に、一夜がうちに鼠巣をくひ、子をぞ産みたりける。「これただごとにあらず」とて、七人の陰陽師に占はせられければ、「重き御つつしみ」と申す。この馬は、相模の国の住人大庭の三郎景親が、「東八箇国一の馬」とて、入道相国に参らせたり。黒き馬の額白かりければ、名を望月とぞつけられける。やがて陰陽頭泰親にぞ賜はりける。昔、天智天皇の御時、「寮の御馬の尾に鼠巣をくひ、子を産みたるには、異国の凶賊蜂起したりける」とぞ日本紀には記されたる。また、源中納言雅頼の卿のもとに侍ひつる青侍が見たりし夢もおそろしかりけり。たとへば、内裏の神祇官とおぼしき所に、束帯ただしき上臈たちのあまた並みゐて、議定の様なることのありけるに、末座なる人の、平家の方人するか
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とおぼしきを、その中より追つたてらる。かの青侍、夢のうちなれば、「いかなる上臈にてましますやらん」と、ある老翁に問ひたてまつれば、「厳島の大明神」と答へ給ふ。そののち、座上にけだかげなる老翁のおはしけるが、「この日ごろ平家にあづけつる節刀をば、今は伊豆の国の流人頼朝に賜ぶ」と仰せければ、また、かたはらに宿老のましましけるが、「そののちはわが孫にも賜び候へ」と仰せらるるといふ夢を見て、次第に問ひたてまつるに、「『節刀を頼朝に賜ぶ』と仰せられつるは八幡大菩薩、『そののちわが孫にも』と仰せられしは、春日大明神、かう申すは武内大明神」と答へらる。この夢を人に語るほどに、入道聞きつけ給ひて、摂津の判官盛澄をもつて雅頼の卿のもとへ、「夢見の青侍いそぎこれへ」とありければ、かの青侍、やがて逐電してげり。雅頼の卿いそぎ入道相国のところへ行きむかひ、さまざまになだめ申されければ、なにとなくうち紛れて、そののちは沙汰もなかりけり。日ごろは、平家天下の将軍にて、朝敵をしづめしかども、今は勅命にそむけばにや、節刀をも召し返されぬ。心細うぞ聞こえける。なかにも高野におはしける宰相入道成頼、この事どもを伝へ聞いて、「すはや、平家の世は末になるごさんなれ。厳島の大明神の、平家の方人をし給ひけるは、そのいはれあり。ただし沙竭羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそうけたまはれ、俗体にて見え給ふこそ心得ね」とのたまひければ、ある僧の申しけるは、「それ和光垂迹の
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方便まちまちなれば、三明六通の明神にて、あるときは俗体とも現じ給はんこと、かたかるべきにあらず」とぞ申されける。憂き世をいとひ、まことの道に入りぬれば、往生極楽のいとなみのほか他事やはあるべきなれども、善政を聞きては感じ、悪事を聞きては嘆く、これみな人間のならひなり。
第四十四句 頼朝謀叛
同じき九月二日、相模の国の住人大庭の三郎景親、福原へ早馬をもつて申しけるは、「去んぬる八月十七日、伊豆の国の流人、前の右兵衛佐頼朝、舅北条の四郎をつかはして、伊豆の目代、和泉の判官兼隆を山木が館にて夜討にす。そののち土肥、土屋、岡崎をはじめとして、伊豆、相模の兵三百余騎、頼朝にかたらはれて、相模の国石橋山にたて籠つて候ふところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども三千余騎引率して、押し寄せ、攻め候ふほどに、兵衛佐七八騎に討ちなされ、大わらはに戦ひなつて、土肥の杉山へ逃げこもり候ひぬ。畠山庄司次郎五百騎にて御方をつかまつる。三浦の大介義明が子ども三百余騎、源氏方をして、田井、小坪の浦にて戦ふ。畠山いくさに負けて武蔵の国へ引きしりぞく。そののち畠山の一族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西、そのほか七党の兵ども三千余騎、三浦の衣笠の城に押し寄せて、一日一夜攻め
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候ふほどに、大介討たれ候ひぬ。子ども久里浜の浦より船に乗り、安房、上総に渡りぬ」とこそ申したれ。
平家の人々これを聞きて、都遷りもはや興さめぬ。若き公卿殿上人は、「さらば、とくして事の出でこよかし、討手に向かはん」なんどと言ふぞおろかなる。また、畠山の次郎、三浦のいくさしたりけることは、父の庄司重能、叔父小山田の別当が、をりふし在京したりけるをたすけんためとぞ後日には聞こえし。畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱、是等(これら)三人は大番役にて、をりふし在京したりけるを、太政入道怒つて、三人を召し寄せ、「源氏に同心せじといふ起請文を書きて参らせよ」とのたまへば、かしこまつてぞしたためまゐらせける。畠山庄司申しけるは、「ひが事にてぞ候ふらん。親しう候へば、北条なんどは、もし、さもや候ふ。そのほかはよも朝敵に同心はつかまつり候はじ。今聞こしめしなほさんずるものを」と申しけれども、「いやいや、大事におよびぬ」とささやぐ者もおほかりけり。入道相国怒られける様ななめならず。「頼朝をば死罪におこなふべかつしを、池殿のしひて嘆き給ひしあひだ、慈悲のあまりに流罪になだめしを、その恩を忘れて当家に向かつて弓を引く〔に〕こそあんなれ。神明三宝もいかでか許し給ふべき。た〔だ〕いま天の責めをかうぶらんずる兵衛佐なり」とぞのたまひける。それわが朝に朝敵のはじめをたづぬるに、日本磐余彦の御宇四年紀伊の国名草の郡
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高尾の村に、一つの蜘蛛あり。身短く、足長うして、力人にすぐれたり。人民おほく害ひしかば、官軍発向して宣旨を読みかけ、葛の網を結んで、つひにこれを覆ひ殺す。それよりこのかた、野心をさしはさんで朝威をほろぼさんとする者、大石の山丸、大山の王子、大津の真鳥、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、文屋の宮田[* 「くない」と有るのを他本により訂正]、橘の逸勢、氷上川継、伊予の親王、大宰少弐広嗣、恵美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原の仲成、平の将門、藤原の純友、左大臣長屋、右大臣豊成、安倍の貞任、宗任、対馬守源の義親、悪左府、悪衛門督にいたるまで、すべて二十余人なり。されども一人として素懐をとぐる者なし。みな屍を山野にさらし、首を獄門にかけらる。今の世こそ王位もむげに軽けれ、昔は宣旨を向かひて読みければ、枯れたる草木も花咲き実なり、空飛ぶ鳥までもしたがひ来たる。中ごろのことぞかし。延喜の帝神泉苑へ御幸なつて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位を召して、「あの鷺取つて参れ」と仰せければ、「いかでかこれを取るべきや」とは思ひけれども、綸言なれば歩みむかふ。鷺は羽つくろひして立たんとす。「宣旨ぞ、まかり立つな」と言ひければ、鷺ひらみて飛びさらず。これをいだいて参りたり。帝叡覧あつて、「なんぢが宣旨にしたがひて参りたるこそ神妙なれ」とて、やがて五位にぞなされける。「今日よりのち、鷺の中
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の王たるべし」と板をあそばして、頸にかけてぞ放たせおはします。これまつたく鷺の御用にはあらず。ただ王威のほどを知ろしめされんがためなり。
第四十五句 咸陽宮
異国に昔の先蹤をたづぬれば、燕の太子丹、秦の始皇に囚はれて、いましめをかうぶること十二年、燕丹涙をながして、「われ本国に老母あり。暫時のいとまを賜びてましかば、かれを見ん」とぞ申しける。始皇あざわらひて、「なんぢにいとま賜ばんことは、馬に角生ひ、烏の頭白うならん時を待つべし」とぞのたまひける。燕丹天に仰ぎ地に伏して、「願はくは孝行の心ざしをあはれみ給ひて、馬に角生ひ、烏の頭白うなつて、いま一度故郷にとどめおきし老母を見ん」とぞ祈りける。かの妙音菩薩は霊山浄土に詣でて、不孝のともがらをいましめ給ふ。老子、顔回は震旦に出でて、忠孝の道をはじめ給ふ。冥顕三宝孝行の心ざしをやあはれみおぼしめしけん、馬に角生ひ、宮中に来たり。烏の頭白うなつて庭前の木に至る。烏の頭、馬の角の変ずるにおどろいて、始皇帝綸言返〔ら〕ざることを信じて、燕丹をなだめて本国へこそ帰されけれ。始皇帝なほにくみ給ひて、秦と燕とのさかひに楚国といふてあり。大きなる川流る。かの川に渡せる橋をば、すなはち楚国橋といふ。帝
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官軍をつかはして、燕丹が渡らんとき、橋を踏まば落つる様にしつらうて、太子丹を渡されけり。なじかはよかるべき。川中にして落ち入りぬ。されども水にもおぼれず、平地を行くがごとくにして、向かひの岸にぞ着きにける。「こはいかに」とうしろを顧みければ、亀どもいくらといふ数を知らず、水の上に浮きて、甲を並べてぞ歩ませける。これは孝行の心ざしを冥顕あはれみ給ふによつてなり。されば、燕丹うらみをふくみて始皇帝にしたがはず。帝怒つて官軍をつかはして討たんとし給ふほどに、燕丹恐れをののきて、荊軻といふ兵をかたらふ。荊軻また大臣に田光先生といふ兵をかたらふ。かの田光が申しけるは、「君はこの身の若うさかんなつしときを知ろしめしてたのみおぼしめし候ふか。『麒麟も老いぬれば駑馬にもおとれり』今はいかにもかなふまじ。兵をかたらうて奉らん」とて出でけるに、荊軻、田光が袖をひかへて、「あなかしこ、この事人に披露すな」と言ひければ、「人に疑はれぬるに過ぎたる恥はよにあらじ。もしこの事漏れぬるものならば、われ疑はれなんもはづかしし」とて、荊軻がまへにて自害してこそ失せにけれ。また樊於期といふ兵あり。これは秦の国の者なりけるが、始皇帝のために親、伯父、兄弟をほろぼされて、燕の国に逃げこもりたり。始皇帝四海に宣旨をくだして、「燕の指図、ならびに樊於期が首をはねて参りたらん者には、五百斤の金を報ぜん」と披露せらる。荊軻、樊於期がもとに行きて、「われ聞く、なんぢ
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が首すでに五百斤に報ぜられたんなり。なんぢが首、われに貸せ。始皇帝に奉らん。よろこびて見給はんとき、剣を抜いで胸刺さんことやすかりなん」と言ふ。樊於期をどりあがり、大息ついて申しけるは、「われ始皇のために親、伯父、兄弟をほろぼされて、夜昼これを思ふに、骨髄に徹してしのびがたし。なんぢまことに始皇帝をほろぼすべくんば、首を与へんこと塵芥よりもなほ軽し」とて、みづから首を切つてぞ死にける。また秦舞陽といふ兵あり。これも秦の国の者なりけるが、十三の年かたきを討つて、燕の国に逃げこもりたり。ならびなき兵なり。笑つて向かふときは、嬰児までもいだかれ、怒つて向かふときは、大の男も絶え入りぬ。これを秦の都の案内者にかたらひて行く。ある片山のほとりに宿したりけるが、そのほとりに管絃するを聞いて、調子をもつて本意のことを占ふに、かたきの方は水なり、わが方は火なり。さるほどに天も明けぬ。蒼天ゆるし給はねば、白虹日を貫いて通らず。「われ本意をとげんことありがたし」とぞ申しける。「さりながら、これより帰るべきにもあらず」とて、始皇帝の咸陽宮にいたりぬ。樊於期が首、ならびに燕の指図を持ちて参りたるよしを奏聞す。臣下をして受け取らんとし給へば、「人づてには参らせまじ。直にこそ奉らめ」と申せば、「さらば」とて節会の儀をととのへて、燕の使を召されけり。咸陽宮と申すは、都のまはり一万里。内裏は地の上三里。高う築きあげて、長生殿あり、不老門あり。金をもつて
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日をつくり、銀をもつて月をつくれり。真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を敷きみてり。四方には高さ四十丈に鉄の築地を築き、殿上にも同じく鉄の網をぞ張りたりける。これは冥途の使を入れじとなり。秋は田の面の雁、〔春は〕越路へ帰るにも、飛行自在のさはりあれば、築地には雁門と名づけて鉄の門をあけてぞ通しける。そのうちに、阿房殿とて始皇つねに行幸なつて、政道をおこなはせ給ふ殿なり。高さは三十六丈。東西へ九町、南北へ五町。大床の下には五丈の幢を立てたるが、なほおよばぬほどなり。上は瑠璃の瓦をもつて葺き、下は金、銀にてみがけり。秦舞陽は樊於期が首を持ち、荊軻は燕の指図を入れたる箱を持つて、二人つれて玉の階を登りあがる。あまりに内裏のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなとふるひたりければ、臣下あやしんで、「舞陽は謀叛の心あり。刑人をば君のかたはらに置かず、君子は刑人に近づかず。近づくときんば、死[* 「しゆ」と有るのを他本により訂正]を軽んずる道」と言へり。荊軻たち帰りて、「舞陽まつたく謀叛の心なし。ただ田舎のいやしきにのみならひて、皇居にいまだ慣れざるゆゑに心迷惑す」と言へり。そのとき、臣下みなしづまりぬ。すでに帝に近づきたてまつりて、樊於期が首、燕の指図を奉る。これを披見あるところに、指図を入れたる箱の底に秘首といふ剣を納めて持ちたりけるが、氷なんどの様にして見えけるほどに、始皇帝これ
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を見て、やがて逃げんとし給ふに、荊軻袖をむずとひかへて、剣を胸にさしあてたり。数万の軍兵、庭上に袖をつらぬといへども、救はんとするに力なく、ただ、この君逆臣に犯され給はんことをのみぞかなしみあへる。始皇帝、「願はくは、われに暫時のいとまを得させよ。最愛の后の琴の音をいま一度聞かん」とのたまへば、荊軻片時のいとまを奉る。始皇帝は三千人の后あり。その中に花陽夫人とてすぐれたる琴の上手ましましき。およそこの后の琴を聞いては、もののふの猛く怒れるも、すなはちやはらぎ、草木もゆるぎ、飛ぶ鳥も落つるほどなり。いはんや、「今をかぎりの叡聞にそなへむ」とて、后泣く泣くひき給ひけり、さこそはおもしろかりけめ。荊軻も首をうなだれ、耳をそばだて、ほとんど謀臣の思ひはや忘れはてぬ。后かさねて一曲を奏せらる。七尺の屏風は高くとも躍らばなんぞ越えざらん羅綾のたもとは引かばなどか絶えざらんとひき給ふ。荊軻はこれを聞き知らず。帝これを聞き知りて、御袖をひき切り、七尺の屏風を躍り越えて、銅の柱のかげにぞ逃げかくれ給ひける。荊軻怒つて剣を投げかけたてまつる。をりふし番の医師の御前に候ひけるが、薬袋を剣にむずと投げかけあはせたり。剣は薬の袋をかけられながら、口六尺の銅の柱をなかばまでこそ切りたりけれ。荊軻、剣を二つと持たねば、続いても投げず。帝たち帰り、わが剣を召し寄せて、荊軻をば八つ裂きにこそせられけれ。秦舞陽も切られぬ。やがて官軍
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をつかはして燕丹も滅ぼさる。秦の始皇は逃れて、燕丹つひに滅びにけり。「されば今の頼朝もさこそあらんずらめ」と色代する人もおほかりけれ。
第四十六句 文覚
そもそも兵衛佐頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父左馬頭義朝の謀叛によつて、生年十四歳と申せし永暦元年三月二十日、伊豆の国蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り、年ごろ日ごろもこそありけれ、今年いかなる心にて謀叛をおこされけるといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。かの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なり。十九の年道心をおこし、出家して、修行に出でんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事やらん、ためしてみん」とて、六月の日の、草もうごかず照つたるに、片山の薮の中に這ひ入りて、あふのきに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂、蟻なんどいふ毒虫どもが身にひしと取りつきて、刺し、食ひなんどしけれども、ちとも身をばうごかさず。七日までは起きもあがらず、八日といふに起きあがりて、「修行といふはこれほどの大事か」と人に問へば、「それほどならんには、いかでか命も生くべき」と言ふあひだ、「さてはやすきことごさんなれ」とて、修行にぞ出でにける。熊野へ参り、那智籠りせんとしけるが、まづ行のこころみに、聞こゆる滝
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にしばらく打たれてみんとて、滝のもとへ参りければ、ころは十二月十日あまりのことなるに、雪降りつもり、つらら凍て、谷の小川も音もせず。峰の嵐吹き凍り、滝の白糸垂氷となりて、みな白妙におしなべて、四方の梢も見もわかず。しかるに文覚滝つぼへおりひたり、頸までつかりて、慈救の呪を満てけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければ、こらへずして文覚浮きあがりにけり。数千丈みなぎり落つる滝なれば、なじかはたまるべき。ざつとおし落されて、刃のごとくにさしもきびしき岩つぼの中を、浮きぬ沈みぬ五六町こそ流れたれ、ときにいつくしげなる童子一人来たりて、文覚が左右の手を取つて引きあげ給ふに、人奇特の思ひをなし、火をたき、あぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、ほどなく生き出でにけり。文覚すこし心つきて、大の眼を見いからかし、「われ、この滝に三七日打たれ、三洛叉を誦せんと思ふ大願あり。今日わづかに五日になる。七日にだにも過ぎざるに、何者がここへは取つて来たるぞ」と言ひければ、人、身の毛よだつてもの言はず。また滝つぼにたち返りて打たれけり。二七日といふに、八人の童子来たりて、文覚が左右の手をとらへて、引きあげんとし給へば、散々に組みあひてあがらず。三日といふに文覚つひにはかなくなりにけり。「滝つぼを穢さじ」とや、びんづら結うたる童子二人、滝の上よりくだつて、文覚が頂上より手足のつまさき、手のうらにいたるまで、よにあたたかに香しき御手をもつて撫でくだし給ふとおぼえければ、夢の心地して生き
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出で、「そもそも、いかなる人にてましませば、これほどにいつくしみ給ふらん」と問ひたてまつるに、「われはこれ大聖不動明王の御使に、矜羯羅、制■迦(せいたか)といふ二童子なり。『文覚無上の願をおこして勇猛の行をくはだつに、力をあはすべし』との明王の勅によつて来たるなり」と答へ給ふ。文覚声をいからかして、「明王はいづくにぞ」「兜率天に」と答へて、雲井はるかにのぼり給ひぬ。たなごころを合はせてこれを拝したてまつる。「さればわが行をば大聖不動明王までも知ろしめされたるにこそ」とたのもしうおぼえて、なほ滝つぼにたち返りて打たれけり。まことにめでたき瑞相どもあまたあり。吹き来る風も身に沁まず、落ち来る水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげければ、那智に千日籠り、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峯山、白山、立山、富士の岳、伊豆、箱根、信濃の戸隠、出羽の羽黒、総じて日本国残る所もなく行きまはり、さすがなほ旧里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、飛ぶ鳥も祈りおとす、「やいばの験者」とぞ聞こえし。のちには、高雄といふ山の奥に行ひすましてゐたりけり。かの高雄に神護寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御宇、和気の清麻呂が建てたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこもり、また秋は霧にまじはり、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれにさし入るものとては、月日の光ばかりなり。
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文覚「これをいかにも修造せん」といふ大願をおこして、勧進帳をささげて、十方檀那を勧めありきけるほどに、あるとき、院の御所法住寺殿へぞ参りける。「御奉加あるべき」よし奏聞しけれども、御遊びのをりふしにて聞こしめし入れず。文覚は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨ない様をも知らず、「ただ、人が申し入れぬぞ」と心得て、是非なく御坪のうちへみだれ入り、大音声をあげて、「大慈大悲の君にてまします、かほどのことなどか聞こしめし入れざるべき」とて、勧進帳を取り出だし、高らかにこそ読うだりけれ。
沙弥文覚敬白。殊に貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せん事を請ふ勧進の状。
夫れおもんみれば、真如広大なり。生仏の仮名を立つるといへども、法性随妄の雲あつく覆つて、十二因縁の峰にそびえしよりこのかた、本有心蓮の月の光幽かにして、いまだ三毒四慢の大虚にあらはれず。悲しいかなや、仏日はやく没して、生死流転のちまた冥々たり。いたづらに人をそしり、法をほしる。これあに閻魔獄卒の責めをまぬかれんや。ここに文覚たまたま俗塵うち払ひて、法衣を飾るといへども、悪業なほ心にたくましうして、日夜善苗を作るに、また耳に逆うて朝暮にすたる。いたましきかなや、ふたたび三途
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の火坑に帰り、ながく四生の苦輪をめぐらんことを。このゆゑに牟尼の教法、千万の軸々、仏種の因縁を明かして、至誠の法、一つとして菩提の彼岸に属せずといふことなし。かるがゆゑに、無常の観門に涙を落し、上下の真俗をもよほし、上品蓮台に縁を結び、等妙覚王の霊場を建てんとなり。それ高雄山は、山高うしてしかも鷲峰の梢をあらはし、谷深うして商山の洞の苔を敷けり。岩泉むせんで布を引き、嶺猿さけんで枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵なし。咫尺よしみなうして信心あり。地形もつとも勝れたり、仏殿を崇むべし。奉加少しなりとも、たれか助成せざらん。ほのかに聞く、『沙を聚めて仏塔とす、つひに成仏の果を感ず』いはんや一基与信の寄附においてをや。願はくは建立成就して、金闕の鳳力御願円満、乃至都鄙遠近の吏民親疎、堯舜無為の化をうたひ、椿葉再改の咲みを披かんことを。ことにまた聖霊幽儀、前後大小、一仏真門のうてなにいたらん。かならず三身万徳の月をもてあそばん。よつて勧進修行の趣、蓋しもつてかくのごとし。治承三年三月 日 僧 文覚
とこそ読みたりけれ。をりふし御前には、太政大臣妙音院、琵琶かき鳴らし、朗詠めでたくせさせ給ふ。按察の大納言資賢の卿、拍子を取つて、風俗、
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催馬楽をうたはれけり。右馬頭資時、侍従盛定、和琴かき鳴らし、今様とりどりにうたひ、玉簾、錦帳ざざめいて、まことにおもしろかりければ、法皇も付けてうたはせおはしますところに、文覚が大音声に調子も違ひ、拍子もみな乱れにけり。「何者ぞや。しやつ、首突け」と仰せくださるるほどこそあれ、はやり男の者ども、われもわれもと進みける中に、資行の判官といふ者走り出で、「なんでうことを申すぞ。まかり出でよ」と言ひければ、「高雄の神護寺に荘を寄せられざらんほどは、まつたく文覚出でまじ」とてうごかず。よりて、そ首突かんとしければ、資行判官が烏帽子をはたと打つて打ち落し、こぶしをにぎり、しや胸を突いて、あふのけに突き倒す。資行判官おめおめともとどり放つて、大床の上に逃げのぼる。そののち文覚、ふところより馬の尾にて柄巻きたる刀の、氷の様なるを抜き出だして、寄り来ん者をば突かんとこそ待ちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀を抜いて走りまはるあひだ、思ひまうけぬにはか事にてはあり、左右の手に刀を持ちたる様にぞ見えたる。公卿、殿上人も、「この者いかに、いかに」とて、さわぎあはれければ、御遊びもはや荒れにけり。院の騒動ななめならず。安藤武者在宗、そのころ当職の武者所にてありけるが、「何事ぞ」とて、太刀を抜いて走り出でたり。文覚よろこんでかかるところに、「切りてはあしかりなん」とや思ひけん、太刀のみねを取りなほし、文覚が刀持ちたる小がひなをしたたかに〔打つ。〕打た
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れてちとひるむところに、太刀を捨て、「えいや、おう」と組みたりけり。組まれながら文覚、安藤武者が肘を突く。突かれながらしめたりけり。たがひに劣らぬ大力にてありければ、上になり下になり、ころびあふところに、かしこ顔に上下寄りて、文覚がはたらくところを、打ち、張りしてんげり。されどもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門の外へ引き出だして、庁の下部に賜ぶ。ひつ張られて、立ちながら御所の方をにらまへて、「奉加をこそ賜はらざらめ、これほど文覚にからい目を見せ給ひつれば、思ひ知らせ申さんずるものを。三界は火宅なり。王宮といふとも、その難のがるべからず。十善の帝位に誇らせ給ふとも、黄泉の旅に出でなんのちは、牛頭、馬頭の責めをばまぬかれ給はじ」と、をどりあがり、をどりあがりぞ申しける。「この法師奇怪なり」とて、やがて獄定せられけり。資行判官は烏帽子うち落されて恥ぢがましさに、しばらくは出仕もせず。安藤武者は、文覚組みたる勧賞に、当座一臈を経ずして、右馬允にぞなされける。さるほどにそのころ美福門院かくれさせ給ひて、大赦ありしかば、文覚ほどなくゆるされけり。しばらくは高雄のほとりに行ひてあるべかりしを、さはなくして、また勧進帳をささげ、勧めけるが、さらばただもなうして、「あはれこの世の中はただ今乱れて、君も臣もみなほろび失せんずるものを」なんどと申しありくあひだ、「この法師都においてはかなふまじ。遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流されける。源三位入道の嫡子仲綱、そのころ伊豆守
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にておはしければ、その沙汰として、「東海道より船にて下すべし」とて、伊勢の国へ送り
て行きけるが、放免両三人をぞつけられたる。是等(これら)申しけるは、「庁の下部のならひ、か様の事についてこそ依怙も候へ。いかに聖の御房、これほどの事にあひて遠国へ流され給ふに、知る人は持たせ給はぬか。土産、粮料のごとくの物を乞ひ給へかし」と言ひければ、「文覚はさ様の用の事言ふべき得意も持たず。東山の辺にこそ得意はあるが、さらば文をつかはさん」と言ふ。けしきある紙をたづねて得させたり。「か様の紙に物書く様なし」とて、投げかへす。さらばとて厚紙をたづねて得させたり。文覚怒つて、「法師は物をえ書かぬぞ。おのれら書け」とて書かする。「『文覚こそ高雄の神護寺供養の心ざしありて勧め候ひつるが、この君の世にしもあひて、所願をこそ成就せざらめ、禁獄せられて、あまつさへ伊豆の国へ流罪せらる。遠路のあひだにて候ふに、土産、粮料のごときの物ども大切に候。この使に賜はるべし』と書け」と言ひければ、言ふままに書いて、「さて、たれ殿へと書き候はんぞや」、「清水の観音房へと書け」、「これは庁の下部をあざけるにこそ」と申せば、「文覚は観音をこそ深くたのみたてまつつたれ。さらばたれにか用の事や言ふべきぞ」とのたまひける。伊勢の国安濃の津より船に乗せ、下りけるが、遠江天龍の灘にて、大風吹き、大波立ちて、すでにこの船うち返さんとす。水手、梶取いかにもして助からんとしけれども、波風いよいよ荒らければ、あるいは観音の名号をとなへ、あるいは
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最後の十念におよぶ。されども文覚これを事ともせず、高いびきかいて寝たりけるが、「すでにかう」とおぼえけるとき、かつぱと起き、船の舳板に立つて沖の方をにらまへて、大音声をあげ、「龍王やある、龍王やある」とぞ呼びたりける。「いかにこれほどに大願おこしたる聖が乗つたる船をば、あやまたうどはするぞ。ただ今天の責めをかうぶらんずる龍王どもかな」とぞ申しける。そのゆゑにや、波風ほどなくしづまりて、伊豆の国へぞ着きにける。文覚京を出でし日より祈誓することあり。「われ都に帰つて、高雄の神護寺造立供養すべくんば、死すべからず。その願、暗くなるべくんば、道にて死すべし」とて、京より伊豆へ着きにけり。をりふし順風なければ、浦づたひ、島づたひして、三十一日が間は、一向断食にてぞありける。されども気力すこしも劣らず、行ひうちしてゐたりけり。「まことにただ人にてはなかりけり」とおぼゆることどものみおほかりけり。近藤四郎国高といふ者にあづけられて、伊豆の国奈古屋の奥にぞ住まひける。さるほどに、兵衛佐へ常には参りて、昔今の物語ども申してなぐさむほどに、兵衛佐にあるとき文覚申しけるは、「平家には小松の大臣こそ心も剛に、はかりごともすぐれておはせしか、平家の運命すゑになりぬるやらん、去年の八月甍ぜられぬ。源平の中に、わどのほど将軍の相持ちたる人はなし。はやく謀叛起いて日本国をしたがへ給へ。頼朝、「この聖の御坊は思ひもよらぬことをのたまふものかな。われは故池の尼にかひなき命を助けられて候へ
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ば、その後世をとぶらはんために、毎日法華経一部読誦するよりほかは他事なし」とぞのたまひけれ。「『天の与ふるを取らざれば、かへつてそのわざはひを受く。時至つておこなはざれば、かへつてその咎を受く』といふ本文あり。かう申せば、『心を見んとて申すらん』と思ひ給はんか。御辺に心ざしの深かりしを見給ふべし」とて、白い布にてつつみたる髑髏を一つ取り出だす。兵衛佐「あれはいかに」とのたまへば、「これこそわどのの父左馬頭殿の頭よ。平治の合戦ののちは獄舎の苔のしたにうづもれて、後世とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨ありて、獄守に請ひて、この十余年頸にかけて、山々寺々拝みめぐり、とぶらひたてまつれば、いまは一劫も助かり給ひぬらん。されば文覚は故頭殿の御ためにも、奉公の者にてこそ候へ」と申しければ、兵衛佐、一定それとはおぼえねども、父の頭と聞くがなつかしさに、まづ涙をぞ流されける。そののちはうちとけて物語をぞし給ふ。「そもそも頼朝勅勘をゆるされずしては、いかでか謀叛をおこすべき」とのたまへば、「それやすきことなり。やがてまかりのぼり、申しひらいてまゐらせん」と言ひければ、「さ申す御坊も勅勘の身にて、人を『申しゆるさん』とのたまふあてがひこそ大きにまことしからね」。文覚、「『わが身の勅勘をゆるさう』と申さばこそひが事ならめ、わどののこと申さんはなにか苦しからん。いまの都福原へのぼらんは三日に過ぐまじ。院宣うかがはんに、一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日、八日には過ぐまじ」とて、つと出でぬ。奈古屋に帰つて、弟子
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どもには、「伊豆のお山に、しのんで七日参籠の心ざしあり」とて、出でぬ。げにも三日といふに福原の新都へのぼり着く。前の兵衛督光能の卿のもとに、いささかゆかりありければ、そこに行きて、「伊豆の国の流人前の兵衛佐頼朝こそ、『勅勘をゆるされて院宣をだに賜はらば、八箇国の家人どももよほし集め、平家をほろぼして天下をしづめん』と申し候へ」。光能の卿、「いざとよ、当時わが身も三官ともにとどめられて、心ぐるしきをりふしなり。法皇もおし籠められてわたらせ給へば、いかがあらん。さりながら、うかがひてこそみめ」とて、ひそかに奏聞せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。文覚これを頸にかけ、また三日といふに伊豆の国へくだり着く。右兵衛佐、「あはれ、この聖の御坊になまじひによしなきことを申し出だして、頼朝またいかなる目にかあはんずらん」と思はぬこともなく案じつづけておはしますところに、八日といふ午の刻ばかりに下り着きて、「こは院宣よ」とて奉る。兵衛佐これを見て、天にあふぎ、地に伏し、大きによろこびて、いそぎ手水うがひし、あたらしき浄衣を着、三度拝してひらかれたり。
何々下す状にいはく。右、頃年よりこのかた、平氏皇家を蔑如し、政道にはばかる事なく、仏法を破滅し、朝威をほろぼさんとす。それわが朝は神国なり。宗廟あひ並んで神徳これあらたなり。かるが故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝位を傾け〔んと欲し〕、国家を危うせんとする
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者、皆もつて敗北せずといふ事なし。しかる時んば、かつは神道の冥助にまかせ、かつは勅宣の旨趣をかうぶる。はやく平氏の一類をほろぼし、朝家の怨敵をしりぞけ、譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤をぬきんで、身を立て家を興すべし。者、院宣かくのごとし。よつて執達件のごとし。治承四年七月 日 光能 奉前兵衛佐殿へとぞ書かれたる。石橋山の合戦のときも、この院宣を錦の袋に入れて、旗の上につけられけるとぞ聞こえし。
第四十七句 平家東国下向
さるほどに、福原には、「頼朝に勢のつかぬさきに、いそぎ討手を下すべし」とて、公卿僉議ありて、大将軍には、入道の孫小松の権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢三万余騎、九月十八日福原の新都をたつ。十九日に旧都に着き、やがて二十日東国へぞうちたたれける。大将軍小松の権亮少将は、生年二十三、容儀帯佩絵にかくとも筆もおよびがたし。重代の鎧「唐皮」といふ着背長を、唐櫃に入れて舁かせらる。赤地の錦の直垂に、萌黄緘の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の
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錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、黒き馬のふとくたくましきに、沃懸地の鞍置いて乗り給へり。馬、鞍、鎧、太刀、刀にいたるまで、てりかがやくほど、いでたたれたりしかば、めでたき見物なり。忠度は、年ごろ宮腹の女房のもとへ通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、その女房のもとへやんごとなき女房、客に来たり、ややひさしう物語りし給ふ。小夜もはるかにふけぬれども、客帰り給はず。忠度軒ばにしばしはただよひて、扇をしたひ使ひければ、宮腹の女房、「野もせにすだく虫の音」と優にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて扇を使ひやめて帰られけり。そののちおはしたりけるに、「さても一日は、なにとて扇をば使ひやめられしぞや」と問はれければ、「いさ、『かしまし』などと聞こえ候ひしかば、さてこそ使ひやめて候へ」と申されけり。かの女房のもとより、忠度のもとへ小袖を一かさねつかはすとて、千里のなごりのかなしさに、一首の歌をぞおくられける。
東路の草葉をわけん袖よりもたたぬたもとに露ぞこぼるる W
薩摩守の返事に、
わかれ路をなにか嘆かん越えてゆく関もむかしのあとと思へば W
「関もむかしのあと」と詠みぬることは、この人の先祖平将軍貞盛、将門追討のために、あづまへ下向せしことを、思ひいでて詠まれたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえける。昔は、朝敵をたひらげに外土へ向かふ大将軍は、まづ参内して節刀
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を賜はる。宸儀南殿に出御なつて、近衛階下に陣をひかへ、内外の公卿参列して、中儀の節会をおこなはる。大将軍、副将軍、おのおの礼儀を正しうして節刀を賜はる。承平、天慶の蹤跡ありといへども、年久しうしてなぞらへがたし。今度は讃岐守平の正盛が、前の対馬守源の義親を追討のために出雲の国へ下向せし例とて、鈴ばかり賜はつて、皮の袋に入れて、雑色が首にかけさせてぞ下られける。宣旨を賜はつて戦場へ向かふ大将軍は、三つの存知あるべし。「まづ、参内して勅命をかうぶるとき、家を忘る。家を出づるとき、妻子を忘る。戦場にして敵に戦ふとき、身を忘る」されば、今の平氏の大将軍維盛、忠度も、さだめてか様のことをば存知せられたりけん、あはれなりし事どもなり。
九月二十二日、新院また厳島へ御幸なる。御供には前の右大将宗盛、五条の大納言邦綱、藤大納言実国、六角右兵衛督家通、殿上人には頭の中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在綱とぞ聞こえし。去んぬる三月にも御幸あつて、そのゆゑにや、半年ばかりは静かにして、法皇も鳥羽殿より還御なんどありしが、去んぬる五月、高倉の宮の御謀叛により、うちつづきしづまりやらず、逆乱の先表しきりにしげし。地妖つねにあつて、朝静かならざつしかば、ことに天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御祈祷のためなり。
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今度は色紙に墨字の法華経を書写し供養せらる。御願文の御自筆の草案あり。摂政殿清書ありけるとぞ承る。その願文にいはく、
蓋し聞く、法性の空には、十四、十五の月高く晴る。権化の地には、一陰、一陽の気深く扇ぐ。それ、かの厳島社は、称名普聞の庭、効験無双の砌なり。遙嶺社壇をめぐり、おのづから大慈の高くそばだてるをあらはし、巨海祠叢に返つて、暗に弘誓の深広なる事を表す。伏して惟みれば、不昧の身をもつて、かたじけなくも皇王の位を践み、今謙遊を■郷(れいきやう)の訓にもてあそぶ。閑放を射山の居にたのしむ。瑞籬のもとには明恩を仰ぎ、宝宮の中には霊託を垂る。その告げ胆に銘ずるあり。もつぱら当年夏の初め、秋の候、【*季夏初秋の候にあたる。】しかも病痾たちまたず侵して、いよいよ神感の空ならざる事を思ひ、祈祷を求むるといへども、霧露散じがたし。萍桂しきりに転ずるを、医術の験を施す事なく、心府の心ざしにしかず。かさねて斗藪の行をくはだたんとす。漠々たる寒嵐の底には、ちまたに臥して夢をやぶる。凄々たる微陽の前には、遠路にのぞんで眼をきはむ。つひに枌楡の砌について、清浄のむしろにことぶきす。色紙に書写したてまつる墨字の妙法蓮華経一部、開結の二経、阿弥陀経、般若心経等
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の明経、手づからみづから金泥の提婆品一巻を書写したてまつるの時、蒼松蒼柏の景、ともに善利をそへ、潮去り、潮来るひびき、暗に梵唄の声に和し、弟子北闕の雲を辞するの日、涼燠の多廻なしといへども、四海の波をしのぎ、二たび渡る。深く機縁の浅からざる事を知る。そもそも朝に祈る客一人にあらず。暮にかへりまうづる者かつ千計なり。ただし尊貴の帰敬多しといへども、院、宮の往詣いまだ聞かず。禅定法皇はじめてその儀を残さる。弟子眇身深くその心ざしをめぐらす。かの嵩高山の月の前には、漢武いまだ和光のかげを拝せず。蓬莱洞の雲の底には、天仙むなしく幽迹の塵をへだつ。当社のごときはかつて比類なし。仰ぎ願はくは、大明神、伏して乞ふ、一乗経、あらたに丹祈を照らし、たちまち玄応を垂れ給へ。敬白治承四年九月二十九日
太上天皇
とぞあそばされたる。
第四十八句 富士川
さるほどに、平家の人々は、九重の都をたちて、千里の東海におもむき給ふ。たひらかに帰りのぼらんこともあやふきありさまどもにて、あるいは野原の露に宿をかり、あるいは
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高嶺の苔に旅寝して、山を越え、川をかさね、日数を経れば、十月十六日には、平家駿河の国清見が関にぞ着き給ふ。都を三万余騎にて出でしかども、路次の兵ども召し具して、七万余騎とぞ聞こえし。先陣はすでに蒲原、富士川にすすめども、後陣はいまだ手越、宇津の谷にささへたり。なかにも皇后宮亮経正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かかる乱れのなかにも心をすまし、湖の水際にうち出でて、漫々たる沖に小島の見えけるを、藤兵衛尉有範を召して、「あれはいかなる島ぞ」と、問ひ給へば、「あれこそ聞こえ候ふ竹生島」と申す。経正「げに、さることあり。いざや、さらば参らむ」とて、安左衛門守教、藤兵衛尉有範なんど申す侍ども四五人召し具して、小船に乗り、竹生島へぞ参られける。ころは卯月中の八日のことなれば、緑に見ゆる木末には、春のなさけを残すかとおぼえたり。谷々の舌声老いて、初音ゆかしきほととぎす、折知り顔に告げわたる。松に藤波咲き乱れ、まことにおもしろかりしことどもなり。経正、船よりあがり、この島のありさまを見給ふに、心もことばもおよばれず。ある経のうちに、「南閻浮提に湖あり。海中に島あり。金輪際より生ひ出でたる水精輪の山あり。つねに天女住む所」と言へり。すなはちこの島のことなり。かの秦皇、漢武、童男、丱女、あるいは方士をもつて不死の薬をたづね給ひしに、「蓬莱見ずは、いざや帰らじ」と言うて、いたづらに船中にて老い、天水茫々と
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して見ゆることを得ざりけん、蓬莱洞のありさまも、これには過ぎじとぞ見えし。経正、明神の前に、ついひざまづいて、「それ大弁功徳天は、往古の如来、法身の大士なり。弁才、妙音名は各別なりといへども、本地一体にして衆生を済度し給ふ。参詣の輩は所願成就円満すとうけたまはる。頼もしうこそ候へ」とて、法施参らせて、片時のほどと思はれけれども、日もはや暮れにけり。居待の月さし出でて、湖の上も照りわたり、社壇もいよいよかがやいて、まことに貴かりけり。小夜もふけゆけば、常住の僧ども、琵琶をたづねてさし置いたり。経正これを弾じ給ふに、かの上原石上の秘曲には宮もすみわたり、明神、感応にたへずして、経正の袖の上に白龍と現じて見え給ふ。経正これを見てうれしさのあまりに、しばらく撥をさしおき目をふさぎ、
ちはやぶる神に祈りのかなへばやしろくも色にあらはれにけり W
されば「怨敵をまなこのまへに退け、凶徒をただいま落さんこと、疑ひなし」と、よろこんで、また船に乗り、竹生島を出でられたり。
大将小松の権亮小将、侍大将上総守忠清を召して、「維盛が存知には、足柄をうち越えて、坂東にていくさをせん」と言はれけれ〔ば〕、上総守申しけるは、「福原をたたせ給ひしとき、入道殿の御諚には、『いくさをば忠清にまかせさせ給へ』と候ひしぞかし。八箇国の兵どもみな兵衛佐殿にしたがひ
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ついて候ふなれば、何十万騎か候はん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり武者どもなり。馬も人もみなつかれふして候。伊豆、駿河の勢参るべきだにもいまだ見えず候。ただ富士川をまへにあて、御方の御勢を待たせ給ふべうや候ふらん」と申しければ、力及ばずひかへたり。かかつしほどに、兵衛佐、足柄山をうち越えて、駿河の国木瀬川にこそ着き給へ。信濃の源氏ども馳せ来りて一つになる。浮島が原にて勢ぞろひあり。二十万騎とぞ注されたる。常陸源氏佐竹の太郎が雑色、主の使に文持ちて京へのぼるを、先陣上総守忠清、これをとどめて、持ちたる文をうばひ取り、ひらいてみれば、女房のもとへの文なり。「くるしかるまじ」と取らせてげり。「そもそも、兵衛佐殿の勢いかほどとか聞く」と問へば、「およそ、八日、九日の道には、はたと続いて、野も、山も、海も、川も武者で候。下臈は四五百千までこそ物の数を知りて候へ、それより上は知らず候。木瀬川にて一昨日人の申しつるは、『源氏の御勢二十万騎』とこそ申しつれ」。上総守これを聞き、「あはれ、大将軍の御心ののびさせ給ひたるほどの口惜しきことは候はず。今一日もさきに討手を下させ給ひたらば、足柄山をうち越えて八箇国に御出で候はば、畠山の一族、大庭が兄弟、などか参らで候ふべき。是等(これら)だにも参りなば、坂東にはなびかぬ草木も候まじ」と、後悔すれどもかひぞなき。大将軍小松の権亮少将、東国の案内者とて、長井の斎藤別当を召し、「やや、実盛。なんぢほどの強弓
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精兵、坂東にはいかほどあるぞ」とのたまへば、実盛あざ笑ひて申しけるは、「さては、それがしを大矢とおぼしめし候ふか。わづかに十三束こそつかまつり候へ。実盛ほど射候ふ者は、坂東にはいくらも候。大矢と申す定の者、十五束に劣つて引くは候はず。弓の強さも、したたかなる者五六人して張り候。かかる精兵どもが射候へば、鎧二三領もかさねて、やすう射とほし候ふなり。大名一人には、勢の少なき定、五百騎には劣り候はず。馬に乗りつれば、落つる道を知らず。悪所を馳すれども、馬を倒さず。いくさはまた、親も討たれよ、子も討たれよ。死すれば、乗りこえ、乗りこえ戦ひ候。西国のいくさと申すは、親討たれぬれば、孝養し、忌はれて寄せ、子討たれぬれば、その思ひ嘆きに寄せず候。兵糧米尽きぬれば、その田をつくり、刈り収めて寄せ、夏は暑しといとひ、冬は寒しときらひ候。東国にはすべてその儀候はず。甲斐、信濃の源氏ども案内は知つて候、富士の腰より搦手にやまゐり候ふらん。かう申せばとて、君を臆〔せ〕させまゐらせんとて申すにはあらず。いくさは勢にはよらず、はかりごとによるとこそ申しつたへて候へ。実盛、今度のいくさに、命生きてふたたび都へ参るべしともおぼえ候はず」と申しければ、兵どもこれを聞いて、みなふるひわななきあへり。さるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日源平富士川にて矢合せとぞ定めける。夜に入つて平家方より源氏の陣を見わたせば、伊豆、駿河の人民どもが、いくさにおそれて、あるいは野に入り、あるいは山にかくれ、あるいは船に乗り、海川に浮かび、
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いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あな、おびたたしの源氏の陣のかがり火や。げに、野も、山も、海も、川も敵にてありけり。いかにせん」とぞさわぎける。その夜の夜半ばかりに、富士の沼にいくらも群れゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一度にばつと立ちたる羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえけるを、「すはや、源氏の大勢、実盛が申しつるにたがはず、さだめて搦手にもやまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張の須俣をふせげや」とて、取る物も取りあへず、「われさきに」とぞ落ちゆきける。あまりにあわてさわぎ、弓取る者は矢を知らず、人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗られ、あるいはつなぎたる馬に乗りて馳すれども、くひぜをめぐることかぎりなし。宿々より迎へとりて遊びける遊君、遊女ども、あるいは頭をふみ割られ、あるいは腰をふみ折られて、さけびをめく者もあり。二十四日の卯の刻に、源氏の大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天もひびき大地もうごくほど、鬨を三度つくりけれども、平家の方には音もせず。人を入れて見せければ、「みな落ちて候」と申す。あるいは敵の忘れたる鎧取りて参る者もあり、あるいは大幕取つて参る者もあり。「敵の陣には蠅だにもかけり候はず」と申す。兵衛佐殿馬よりおり、兜をぬぎ、手水うがひして、王城の方をふし拝み、「これはまつたく頼朝が高名にあらず。ひとへに八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞのたまひける。「やがてうち取りなれば」とて、駿河の国をば、一条の四郎【*次郎】忠頼、遠江の国をば安田の
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三郎義定にあづけらる。平家をばつづいて攻むべけれども、「さすが、うしろもおぼつかなし」とて、浮島が原より鎌倉へこそ帰られけれ。海道、宿々の遊君、遊女ども、「あら、いまいまし。討手の大将軍の、矢の一つだにも射ずして、逃げのぼり給ふうたてさよ。いくさには見逃げといふことをだに心憂きことにこそありけるに、これは聞き逃げし給ひたり」と笑ひあへり。落書どもおほかりけり。都の大将軍をば「宗盛」といふ、討手の大将をば「権亮」といふあひだ、「平家」をば「ひらや」と詠みなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん柱とたのむすけをおとして W
富士川の瀬々の岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏かな W
上総守、富士川に鎧すてたりけるを詠めり。
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣ただきよ後の世のため W
忠清はにげの馬にや乗りにける上総しりがひかけてかひなし W
さるほどに、同じき十一月八日、大将軍小松の権亮少将は、福原へ帰りのぼらるる。入道大きに怒つて、「維盛をば鬼界が島へ流すべし。侍大将上総守忠清をば死罪におこなへ」とぞのたまひける。平家の侍、老少参会して、「忠清が死罪のこといかがあるべし」と評定す。そのなかに、主馬の判官すすみ出でて申されけるは、「忠清は昔より不覚人とはうけたまはり及び候はず。あの主十八の年とおぼえ候。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の悪党二人逃げこもり
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て候ひしを、『寄せてからめん』と申す者一人も候はざつしに、この忠清白昼にただ一人、築地をはねこえ、入りて、一人をば討ちとり、一人をば生捕つて、後代に名をあげたりし者に候。今度の不覚は、ただごとともおぼえ候はず。それにつけてもよくよく兵乱の御つつしみ候ふべし」とぞ申しける。同じき十日、除目おこなはれて、大将軍小松の権亮少将維盛、右近衛中将になり給ふ。「討手の大将軍と聞こえしかども、させるしいだしたることもましまさず。これはされば何事の勧賞にや」と、人々ささやぎあへり。昔、将門追罰のために、大将軍には平将軍貞盛、副将軍には俵藤太秀郷の卿うけたまはつて、坂東へ発向したりしかども、将門たやすう滅びがたかりしかば、「かさねて討手を下すべし」と、公卿僉議あつて、大将軍には宇治の民部卿忠文、清原の滋藤軍監といふ官を賜はつて、下られけり。駿河の国清見が関に宿したりし夜、かの滋藤、漫々たる海上を遠見して、漁舟の火の影寒うして波を焼く駅路の鈴の声夜山を過ぐるといふ漢詩を、高らかに詠み給へる。忠文ゆゆしくおぼえて、感涙をぞ流されける。さるほどに、将門をば貞盛、秀郷つひに討ちとつてげり。その首を持たせてのぼるほどに、駿河の国清見が関にて行きあうたり。それより前後の大将軍あひつれて上洛す。貞盛、秀郷勧賞おこなはれけるとき、「忠文、滋藤にも勧賞あるべきか」と、公卿僉議あり。九条の
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右丞相師輔公申させ給ひけるは、「坂東へ討手に向かうたりといへども、将門たやすく滅びがたきところに、この人どもみことのりをかうぶつて関の東へおもむくときに、朝敵すでに滅びたり。さてはなどか勧賞なかるべし」と申させ給へども、その時の執柄、小野の宮殿、「『疑はしきをなすことなかれ』と、礼記の文に候へば」とて、つひにおこなはせ給はず。忠文これを口惜しきことにして、「小野の宮殿の御末をば僕に見なさん。九条殿の御末をば、いつの世までも守護神とならん」と誓ひつつ、飢死にぞ死し給ひけれ。されば九条殿の御末はめでたく栄えさせ給へども、小野の宮殿の御末はしかるべき人もましまさず、今は絶え給ひけるにこそ。
第四十九句 五節の沙汰
同じく、福原に、十一月十三日、内裏造り出だして、御遷幸あり。この京は北は山そびえて高く、南は海近うして低ければ、波の音つねにかまびすしく、潮風はげしき所なり。ただし内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやらん」とおぼえて、なかなか優なる方もありけり。人々の家々は、野の中、田の中なりければ、麻の衣はうたねども、「十市の里」とも言ひつべし。都には、「大嘗会おこなはるべし」とて、御禊の行幸なる。大嘗会と申すは、十月の末、東川に行幸なつて御禊
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あり。内裏の北野に斎場所をつくりて、神服、神具をととのふ。大極殿のまへ、龍尾道の壇の下に、廻立殿を立てて、御湯を召す。同じき壇のならびに、大嘗宮をつくりて神膳をそなへ、神宴あり。御遊あり。大極殿にて大礼あり。清暑堂にして御神楽あり。豊楽院にて宴会あり。しかるを福原には、大極殿もなければ、大礼おこなはるべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。清暑堂もなければ、御神楽奏すべきやうもなし。「今年は新嘗会、五節会ばかりにてあるべき」よし、公卿僉議あり。されども新嘗会の祭は、旧都の神祇官にてあり。五節会はこれ浄御原の天皇、大友の王子におそはれさせ給ひて、吉野の宮にてましまししとき、月白く嵐はげしかりし夜、御心をすましつつ、琴を弾じ給ひしに、神女天降り、五度袖をひるがへす。これぞ五節〔会〕のはじめなる。今度の都遷りは、君も臣も御嘆きあり。山門、南都をはじめて、諸寺、諸山にいたるまで、しかるべからざるよし一同にうつたへ申す。さしも横紙をやぶられし太政入道も、「げにも」とや思はれけん、同じき十二月二日、にはかに都がへりありけり。いそぎ福原を出でさせ給ふ。両院六波羅に入り給ふ。中宮も行啓なる。摂政殿をはじめたてまつり、太政大臣以下公卿殿上人、「われも、われも」と供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家の一門公卿殿上人、「われさきに」とぞのぼられける。たれか
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心憂かりつる新都に片時ものこるべき。去んぬる六月より、家どもこぼちくだし、資財、雑具を運び寄せ、形のごとく取り建てたりつるに、またもの狂はしき都がへりありければ、なにの沙汰にもおよばず、うち捨て、うち捨て、のぼられけり。おのおのすみかもなくて、八幡、賀茂、春日、嵯峨、太秦、西山、東山のかたほとりについて、御堂の廻廊、社の拝殿なんどにたち留まつてぞ、しかるべき人々もおはしける。そもそも今度の都遷りの本意をいかにといふに、「旧都は、北、東、嶺近くして、いささか事にも、春日の神木、日吉の神輿なんどいふもみだれがはし。福原は山かさなり、江へだたり、程もさすが遠ければ、さ様のことたやすからじ」とて、入道相国のはからひ出だされたりけるとかや。同じき二十三日、近江源氏のそむきしを攻めんとて、大将軍には入道の三男左兵衛督知盛、副将軍には薩摩守忠度、その勢二万余騎、近江の国へ発向す。山本、柏木、錦織なんどいふ源氏ども、一々にみな攻め落し、やがて美濃、尾張へ越え給ひけり。
第五十句 奈良炎上
都には、「高倉の宮、園城寺へ入御のとき、南都の大衆同心して、あまつさへ御迎へに参る条、これもつて朝敵なり。さらば奈良をも攻むべし」といふほどこそあれ、南都の大衆おびたたしく蜂起す。摂政殿より、「存知の旨あら
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ば、いくたびも奏聞にこそおよばめ」と仰せけれども、ひたすら用ゐたてまつらず。有官の別当忠成を御
使にして下されければ、「しや乗物より取つてひき落せ。もとどり切れ」と騒動するあひだ、忠成色をうしなひて逃げのぼる。つぎに右衛門佐親雅を下さる。これも、「もとどり切れ」と大衆ひしめきければ、取る物も取りあへず。そのときは勧学院の雑色二人がもとどり切られにけり。また南都には、大きなる毬打の玉をつくりて、これは平相国の頭と名づけて、「打て」「踏め」なんどぞ申しける。「言のもれやすきは、禍を招くなかだちなり。事つつしまざるは、敗れをとる道なり」といへり。この入道相国と申すは、かけまくもかたじけなくも、当今の外祖にてまします。しかるをか様に申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたりける。太政入道か様の事どもを伝へ聞きて、いかでかよしと思はるべき。「かつうは南都の狼藉をしづめん」とて、備中の国の住人、瀬尾の太郎兼康を大和の国の検非違使に補せられ、兼康五百余騎にて大和の国へ発向したりしを、大衆起つて、兼康がその勢散々に打ち散らし、家の子、郎等二十余人が首を取つて、猿沢の池のはたにぞ懸けならべたる。入道相国大きに怒つて、「さらば南都を攻めよ」とて、やがて討手をさし向けらる。大将軍には入道の四男、頭の中将重衡、副将軍には中宮亮通盛、その勢四万余騎にて南都へ発向す。南都の大衆も、老少きらはず、七千余人、兜の緒をしめ、奈良坂本、
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般若寺二箇所の城郭、二つの道を切りふさぎ、在々所々に逆茂木をひき、掻楯かいて待ちかけたり。平家は四万余騎を二手にわけて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。大衆はみな徒歩立ちになつて、打物にてたたかふ。官軍は馬にて駆けむかひ、駆けむかひ、あそこ、ここに、追つかけ、追つかけ、さしつめ、ひきつめ、散々に射れば、おほくの者ども討たれにけり。卯の刻に矢合せして、一日戦ひ暮らしぬ。夜に入りて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭ともに破れぬ。落ちゆく大衆のなかに、坂の四郎栄覚といふ悪僧あり。打物取つても、弓矢を取つても、力の強さも、七大寺、十五大寺にすぐれたり。萌黄縅の腹巻に、黒糸縅の鎧をかさねてぞ着たりける。帽子に五枚兜の緒をしめ、左右の手には、茅萱の葉の様に反つたる白柄の大長刀、黒漆の太刀を持つままに、同宿十余人前後に立て、転害の門よりうち出でたり。これぞしばらく支へたる。おほくの軍兵、馬の足薙がれて討たれにけり。されども官軍大勢にて、入れかへ、入れかへ攻めければ、栄覚が前後左右にふせぐところの同宿みな討たれぬ。栄覚ひとり猛けれども、うしろまばらになりければ、力およばずひき退く。夜いくさになりて、暗さはくらし、大将軍頭の中将、般若寺の門の外にうち立ちて、「同士討ちしてはあしかりなん。火を出だせ」と下知せられけるほどこそあれ、平家の勢のなかに、播磨の国の住人、福井の庄司二郎大夫
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友方といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞつけたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風ははげしし、火元は一つなりけれども、吹きまよふ風におほくの伽藍に吹きつけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂、般若寺にて討たれにけり。行歩にかなへる者は、吉野、十津川の方へ落ちゆく。歩みもえぬ老僧や、尋常なる修学者、児ども、女童部は、大仏殿、山階寺のうちへ「われさきに」とぞ逃げゆきける。大仏殿の二階の上には、千余人逃げのぼる。「敵のつづくをのぼせじ」と階をば引いてげり。猛火はまさしくおしかけたり。をめきさけぶ声、「焦熱、大焦熱、無間、阿鼻の焔の底の罪人も、これには過ぎじ」とぞおぼえたる。興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然湧出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、朱丹をまじへし二階の廊、九輪空にかがやきし二基の塔も、たちまちに煙となるこそかなしけれ。東大寺は、常住不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなぞらひて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたて給ひし金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高くあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫あらたに拝せられ給ひし満月の尊容も、御くしは焼け落ちて大地にあり、御身は湧きあうて山のごとく、八万四千の相好は、秋の月、はやく五重の雲におぼろなり。四十一の瓔珞は、夜
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の星、むなしく十悪の風にただよへり。煙は半天にみちみちて、焔は虚空にひまもなし。まのあたりに見たてまつる者は、さらにまなこをあてず。はるかに伝へて聞く人は、肝魂をうしなへり。法相、三論の法門聖教すべて一巻ものこらず。わが朝はいふにおよばず、天竺、震旦にもこれほどの法滅はあるべしともおぼえず。優填大王の紫磨金色をみがき、毘首羯磨が赤栴檀も、わづかに等身の霊像なり。いはんやこれは、南閻浮提の中には、唯一無双の御仏、ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま毒煙の塵にまじはつて、久しくかなしみをのこし給へり。梵釈四王、龍神八部の冥衆もおどろきさわぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなることをかおぼしめされけん、神慮のほどもはかりがたし。春日野の露も色かはり、三笠山の嵐の音まで、うらむるさまにぞ聞こえける。焔の中にて焼け死ぬる人々、数を注したりければ、「大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人」、ある御堂には「五百余人」、ある御堂には「三百余人」、つぶさに注したりければ、三千五百余人なり。戦場にて討たるる大衆千余人。少々は般若寺の門の前に切りかけ、少々は首を持たせて都にのぼり給ふ。二十九日、頭の中将南都をほろぼして北京へ帰る。入道相国ばかりぞ憤りはれてよろこばれける。中宮、一院、上皇、摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろぼすとも、伽藍破滅すべし
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や」とぞ御嘆きある。衆徒の首ども、もとは、「大路をわたして、獄門の木にかけらるべし」と聞こえしかども、東大寺、興福寺滅するあさましさに、沙汰にもおよばず、あそこ、ここの溝や堀にぞ捨ておきける。聖武天皇宸筆の御記文にも、「朕が寺衰微せば、天下の衰微なり。朕が寺興複せば、天下も興複すべし」とあそばされたり。されば天下衰微せんこと、うたがひなしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。