平家物語 百二十句本(京都本)巻第八
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平家巻第八 目 録
第七十一句 四の宮即位
鞍馬より山門へ御幸の事
同じく還御の事
義仲行家官途の事
平家大宰府へ下着
第七十二句 宇佐詣で
名虎相撲の事
惟喬惟仁位争ひ
祈祷の事同じく競馬の事
時忠の卿還俗国王の沙汰
第七十三句 緒環
頼経脚力の事
緒方の三郎追立て使の事
筑後の国竹野城合戦
大宰府落ち
第七十四句 柳の浦
柳の浦内裏の事
四国わたりの事
屋島やかたの事
海上仮屋の事
第七十五句 頼朝院宣申
鶴が岡八幡参詣
神前盃進物の事
頼朝、使盛定対面
引出物の事
第七十六句 木曾猫間の対面
猫間の中将殿入御
食をすすむる事
返礼として出仕の事
車のうち振舞の事
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第七十七句 水島合戦
足利矢田の判官山陽道下向
水島陣
能登殿船軍下知
矢田判官船乗り沈むる事
第七十八句 瀬尾最後
倉光寝刺しの事
笹の畷城攻めの事
同じく板倉の城の事
室山合戦
第七十九句 法住寺合戦
鼓判官の沙汰
明雲僧正討死
首実検
信濃の次郎討死
第八十句 義経熱田の陣
公朝・秋成熱田下向
同じく鎌倉へ参着
鼓判官鎌倉参上
義仲大赦行はるる事
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平家巻第八
第七十一句 四の宮即位
寿永二年七月二十四日の夜半ばかりに、法皇は按察の大納言資朝の卿の子息右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬寺へ入らせ給ひけるが、「ここもなほ都近くてあしかりなん」とて、笹の峰、解脱が谷、寂場房、御所になる。大衆起つて、「東塔へこそ御幸なるべけん」とていきどほり申すあひだ、「さらば」とて、東塔の南谷、円融房、御所になる。かかるあひだ、武士も衆徒も円融房御所ちかく候ひて、君を守護したてまつる。院は天台山に、主上は平家にとられて西海へ、摂政は知足院に、女院の宮は八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、かたほとりについて逃げ隠れさせ給へり。平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入りかはらず。すでにこの京は主なき里とぞなりにける。開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。法皇は天台山へわたらせ給ふと聞こえしかば、馳せ参り給ふ人々、「入道殿」とは前の関白松殿。「当殿」とは近衛殿。太政大臣、大納言、中納言、宰相。三位、四位、五位の殿上人。官加階にのぞみをかけ、所帯、所職を帯する人の、一人も漏るるはなかりけり。あまりに人参り
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つづいて、堂上、堂下、門外、門内、ひますきもなく満ち満ちたり。山門の繁昌、門跡の面目とぞ見えし。同じき二十八日、法皇は都へ還御なる。木曾の冠者義仲、五万余騎にて守護したてまつる。近江源氏山本の冠者義高、白旗ささせて先陣つかまつる。この二十余年見ざりつる白旗の今日はじめて都へ入る。めづらしかりし事どもなり。十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治橋より京へ入る。陸奥の新判官義康が子矢田の判官代五千余騎にて丹波の国大江山を経て京へ入る。京中には源氏の勢みちみちたり。法皇、法住寺殿へ入らせ給ふ。検非違使別当左衛門督実家、勘解由小路の中納言経房、三人、院の殿上の簀子に候ひて、行家、義仲を召して、「前の内大臣宗盛以下の平家の一類追罰すべき」むね、仰せ下さる。両人かしこまつて承る。「おのおの宿所なき」よし申せば、十郎蔵人行家は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所を賜はりけり。木曾は、大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院を賜はる。主上は外戚の平家にとられて、西海の波のうへにただよはせ給ふ御ことを、法皇御嘆きあつて、「主上ともに三種の神器、ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せ下されけれども、平家もちひたてまつらねば、大臣殿以下参入して、「そもいづれの宮を位につけたてまつるべき」と僉議ありけるとかや。高倉の院の皇子、先帝のほか三ところわたらせ給ひけり。二の宮をば平家の「儲
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の君にしたてまつらん」とて、具しまゐらせて西国へ下向す。三、四はいまだ都にましましけるを、八月五日、法皇この宮たちを迎ひ寄せまゐらせ給ひて、まづ三の宮、五歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せられければ、法皇を見まゐらせ給ひて大きにむつがらせ給ふあひだ、「とうとう」とて、暇を出だしまゐらせさせ給ひぬ。そののち四の宮、四歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて御膝へ参らせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。法皇御涙をながさせ給ひて、「げにも、そぞろならん者は、か様の老法師を見ては、などか慣れ気には思ふべき。これぞまことのわが孫にはありける。故院の幼いにすこしも違はぬものかな。かかる忘れ形見のましましけるを、今まで見たてまつらざることよ」とて、御涙にむせびおはします。浄土寺の二位殿、そのころ「丹後殿」とて御所に候はれけるが、「さて、御譲りはこの宮にてわたらせ給はんや」と申されければ、法皇、「子細にや」とぞ仰せける。内々御占のありけるにも、「四の宮位につかせ給ひなば、天下おだやかなるべし」とぞ申しける。御母儀は七条修理大夫信隆の卿のむすめなり。中宮の御方に参りて宮仕ひしほどに、主上、夜な夜なこれを召されけり。うちつづき宮あまたいできさせ給ひけり。信隆の卿の御むすめあまたおはしけるなかに、「いかにもして一人后に立てばや」と思ふ心ざしおはしけり。この人、「白き鶏を千そろへて飼へば、かならずその家に后いできたるといふことあり」とて、
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白き鶏を千そろへて飼ひ給ひけるゆゑにや、御むすめ、皇子を生みたてまつり給ひけん。信隆の卿、内々はうれしう思はれけれども、中宮にも恐れをなしまゐらせ、平家にもはばかつて、もてなしたてまつることもましまさざりしを、太政入道の北の方、「くるしかるまじ。この宮たちをば育てまゐらせ、儲の君にもしたてまつれよ」とて、御乳母どもにつけてぞ育てまゐらせける。なかにも四の宮は、二位殿の舅法勝寺の執行能円ぞ養ひたてまつりける。能円、平家に連れて西国へ落ちしとき、あまりにあわてて、宮をも女房をも捨ておきたてまつり、西国へ落ちられたりけるが、能円途より人をのぼせて「女房、宮を具したてまつり、いそぎ下り給へ」とありければ、この女房、宮を具したてまつり、西京なる所まで出でられたりけるを、この女房の舅紀伊守範光これを聞き、いそぎ走り向かひて、「物について狂ひ給ふか。この宮の御運は、いま開かせ給はんずるものを」とて、とり留めまゐらせけり。次の日、法皇より御迎ひの御車は参りたりけり。何事もしかるべきこととはいひながら、紀伊守範光、四の宮の御ためには、奉公の人とぞ見えたりける。同じく十日、除目おこなはれて、木曾の冠者義仲、左馬頭になつて越後の国を賜はる。十郎蔵人は備後の国を賜はる。おのおの国をきらひ申す。木曾は越後の国をきらへば、伊予守になる。十郎蔵人は備後をきらへば、備前守になる。そのほか源氏十人受領す。検非違使、靱負尉、兵衛尉ども〔に〕なされけり。同じく十四日、前
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の内大臣宗盛以下の平家の一類百六十三人が官職を罷めて、殿上の御簡をけづられけり。見る人涙をながさずといふことなし。そのなかに平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、この三人はけづられず。これは「三種の神器ことゆゑなく返し入れたてまつれ」と、かの大納言のもとへ仰せ下さるるによつてなり。平家は、同じく十七日、筑前の国三笠の郡大宰府へこそ着き給へ。菊池の次郎隆直は都より付きたてまつり下りけるが、「大津山の関あけてまゐらせん」とて、いとま申す。肥後の国へ馳せ下り、わが城にひき籠り、召せども、召せども参らず。九国、二島の兵ども召されけれども、領状申しながらいまだ参らず。岩戸の少卿大蔵の種直ばかりぞ候ひける。平家は安楽寺へ参り、歌をよみ、連歌をして、手向けたてまつり給ひけり。そのなかに、本三位の中将重衡、
住みなれしふるき都の恋しさは神もむかしをわすれ給はじ W
と泣く泣く申されければ、みな人袖をぞ濡らされける。
第七十二句 宇佐詣で
八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて即位し給ふ。「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。摂政近衛殿は、平家の聟にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬ
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によつてなり。「天に二つの日なく、地に二人の王なし」と申せども、平家の悪行によつて、都鄙に二人の帝ましましけり。三の宮の御乳母は、泣きかなしみて、後悔すれどもかひぞなき。帝王、位につかせ給ふこと凡夫のとかく思ひよらざるに、ただ天照大神、正八幡宮の御ぱからひとぞおぼえける。
〔第七十二句 宇佐詣で〕むかし文徳天皇は、天安二年八月二十三日にかくれさせ給ふ。御子の宮たちあまた位に望みをかけておはしけるが、さまざまの御祈りどもありけり。一の宮惟喬の親王をば「大原の王子」とも申しき。王者の才量をも心にかけさせ給ふ。四海の安危はたなごころのうちに照らし、百王の理乱は心のうちにかけ給へり。されば、賢王、聖主の名をとらせおはすべき君なりと見えさせ給へり。二の宮惟仁の親王は、そのころ執柄忠仁公の御むすめ染殿の后の御腹なり。一門の公卿列してもてなしたてまつり給ひしかば、これもまたさしおきがたき御ことなり。かれは守文継体の器量たり。これは万機輔佐の臣相あり。かれもこれもいたはしくて、おぼしわづらはれけり。一の宮惟喬の親王の御祈りは、柿本の紀僧正真済とて、東寺の一の長吏、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の恵亮和尚ぞうけたまはられける。いづれもおとらぬ高僧たちなり。真済東寺に壇を立て、恵亮は大内の真言院に壇を立ててぞおこなはれける。「恵亮和尚、
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失せたり」と披露をなす。真済僧正、ここにたゆむ心やありけん。恵亮、「失せたり」といふ披露をなし、肝胆をくだいて祈られけり。帝かくれさせ給ひければ、公卿僉議のありさま、「臣等がおもんばかりをもつて選んで位につけたてまつらんこと、用捨私あるに似たり。万人唇をかへすことを知らず。競馬、相撲の折をもつて運を知り、雌雄によつて宝祚を授けたてまつるべし」と議定をはんぬ。「この儀、もつともしかるべし」とて、同じ年の九月二日、二人の宮たち右近の馬場へ行啓あり。日ごろ心を寄せたてまつりし卿相雲客、たがひに引き分け、手を握り、心をくだき給へり。御祈りの高僧たちいづれか疎略あらん。ここに王候卿相、玉の轡を並べ、花の袂をよそほひ、雲のごとくに重なり、星のごとくにつらなり給ひしかば、このこと希代の勝事、天下さかんなる見物なり。すでに「十番の競馬あるべし」とて、競べ馬十番ありけるに、はじめ四番は惟喬の親王勝たせ給ふ。のちの六番は惟仁の親王勝たせ給ふ。「すなはち相撲の節」と聞こえしかば、上下市をなし見物す。大原の皇子惟喬の御方よりは、「名虎の衛門督」とて、六十人が力あらはしたるといふ大力をぞ出だされける。惟仁の親王の御方よりは、「善男の少将」とて、勢ちひさう、妙にして、片手にもあふべしとも見えぬ人、「御夢想の告げあり」とて、申しうけてぞ出だされける。名虎寄せあはせて、ひしひしと取つてあふのけり。善男取つてさし上げ、二丈ばかりぞ投げたりける。されども、
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善男立ち直りて倒れず。善男つと寄り、えい声をあげて、名虎を伏せんとす。名虎もともに声を出だして、善男とつて伏せんとす。上下目をすます。されども名虎はかさにまはる。善男内手に入りて見えければ、惟仁の御母儀染殿の后より、「いかに」「いかに」と御使、櫛の歯をひくがごとくに走りつづけて申しければ、恵亮和尚は大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂きことかな」とて、独鈷をもつて頭を突き割つて、脳を砕いて芥子にまぜ、護摩にたき、黒煙をたてて一もみもまれたりければ、善男相撲に勝ちにけり。親王、位につかせ給ふ。「清和の帝」これなり。のちには「水の尾の天皇」とぞ申しける。さてこそ山門には、いささかのことにも、恵亮脳を砕きしかば、二帝位につき給ふ尊意智剣を振りしかば、菅相霊ををさめ給ふとも伝へたり。これ法力といひながら、「天照大神、正八幡宮の御ばからひ」とぞおぼえたる。平家は西国にてこれを聞き、「やすからず。三の宮をも取りたてまつりて下りまゐらすべきものを」と後悔せられければ、平大納言時忠の卿のたまひけるは、「さあらんには、木曾が主にしたてまつりたる高倉の宮の御子、これは御乳人讃岐守重季が御出家せさせたてまつり、具しまゐらせ北国へ落ち下りたりしこそ、位にもつかせ給はんずらめ」とありければ、ある人申しけるは、「それは、出家の宮をばいかが位につけたてまつるべき」。時忠の卿のたまひけるは、「さも候はず。還俗の国王、異朝にも先蹤あらん。わが朝には、まづ天武天皇、いまだ東宮
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の御時、大友の王子にはばからせ給ひて、鬢髪を剃り、吉野の奥に忍ばせ給ひたりしかども、大友の王子を滅ぼして、つひに位につかせ給ひぬ。また、孝謙天皇も大菩提心をおこして御飾りをおろさせ給ひぬ。御名を『法基尼』と申せしかども、ふたたび位につき給ひて、『称徳天皇』と申せしぞかし。まして木曾が主にしたてまつりたる還俗の宮、子細あるまじ」とぞのたまひける。
同じく九月二日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立てらる。勅使は参議脩範とぞ聞こえし。太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立てらるることは、朱雀、白河、鳥羽三代蹤跡ありといへども、みな御出家以前なり。以後の例、はじめとぞうけたまはる。
平家は筑前の国三笠の郡大宰府に都をたてて、「内裏つくらるべき」と公卿僉議ありしかども、いまだ都もさだまらず、主上、当時は岩戸の少卿大蔵の種直が宿所にぞましましける。人々の家々は、野中、田中なりければ、麻のころもは打たねども、「十市の里」とも言ひつべし。内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやありけん」と、なかなか優なるかたもありけり。まづ宇佐の宮へ行幸なる。大宮司公通が宿所、皇居になる。社頭は月卿雲客の居所になる。廻廊は五位、六位の官人、庭上には四国鎮西の兵ども、甲冑、弓箭を帯して雲霞のごとくに並みゐたり。古りにし朱の玉垣も、ふたたび
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飾るとぞ見えし。七日御参籠のあかつき、大臣殿御夢想の告げぞありける。御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしうけだかげなる御声にて、
世の中のうさには神もなきものをなに祈るらん心づくしに W
大臣殿夢さめてのち、胸うちさわぎ、あさましさに、
さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな W
といふ古歌を心ぼそげに口ずさみ給ひて、さて大宰府へ還幸なる。〔第七十三句 緒環〕さるほどに、九月十日あまりにぞなりにける。荻の葉わけの夕あらし、片敷く袖もしをれつつ、ふけゆく秋のあはれさは、「いつも」とはいひながら、旅の空こそしのびがたけれ。九月十三夜は名をえたる月なれども、その夜は都を思ひいづる涙に、われから曇りてさやかならず。九重の雲のうへ、ひさかたの月に思ひをのべしたぐひも、今の様におぼえて、薩摩守忠度、
月を見しこぞの今宵の友のみや都にわれを思ひ出づらん W
修理大夫経盛、
恋しとよこぞの今宵の夜もすがらちぎりし人の思ひでられて W
皇后宮亮経正、
わけて来し野辺の露ともきえもせで思はぬ方の月を見るかな W
あはれなりしことどもなり。
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第七十三句 緒環
豊後の国は刑部卿頼輔の国なりければ、子息頼経を豊後の国の代官に下されけり。刑部卿、頼経のもとに脚力を下し給ひて、「平家は宿報尽きて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるを、鎮西の者ども受け取り、もてなすこそ奇怪なれ。当国においてはしたがふべからず。一味同心して、平家を追ひ出だすべし。これ頼輔が下知にあらず。一院の勅諚なり」とぞのたまひける。頼経の朝臣、この様を当国の住人緒方の三郎維義に下知せられけり。かの維義はおそろしき者の子なり。豊後の国の片山里に、ある者の一人娘の、いまだ夫もなかりけるところに、男、夜な夜なかよひけり。月日をおくるほどに、身もただならずなりにけり。母これをあやしんで、「なんぢがもとへかよふ男はいかなる者ぞ」と問ひければ、「来るをば知れども、帰るをば知らず」と申す。母教へていはく、「さらば、あひかまへて、朝帰らん時を知つて、しるしをつけて、行かん方をつないでみよ」とぞ教へける。女、母の教へに従ひ、あかつき起きて帰る男を見れば、水色の狩衣をぞ着たりける。狩衣の頸のうへに針を刺しつつ、しづの緒環をつけて、経てゆく方をつないでみれば、豊後の国と日向の国とのさかひ、祖母岳といふ岳の腰に、大きなる岩屋のうちにぞ入りにける。うちを聞けば、大きなる声にて叫ぶ声しけり。女、岩屋の口にゐて、「わらはこそ
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これまで参りてさぶらへ。出でさせ給へ。対面したてまつらん」と言ひければ、岩屋のうちより大きなる声にて答へけるは、「われはこれ凡夫にあらず。なんぢわが姿を見つるものならば、肝魂も身にもそふまじきなり。いそぎそれより帰るべし。なんぢが孕めるところの子は男子なるべし。弓矢を取つて、九国、二島に並ぶ者あるまじきぞ。われは今宵、なんぢがもとに行きて傷をかうむれり」と申せば、女かさねていはく、「さこそ深く契りまゐらせしぞかし。たとひいかなる姿にてもおはせよ、なじかはくるしかるべき。対面したてまつらん」と申せば、岩屋のうちより、五丈ばかりなる大蛇にてぞ出でける。「狩衣の頸のうへに刺す」と思ひつる針は、大蛇の喉笛にぞ刺したりける。女、まことに肝魂も身にそはず。召し具したる所従ども、をめいて逃げ去りぬ。件の大蛇と申すは、日向の国に崇敬せられける高知尾の大明神これなり。女帰りて、いくほどなくて産してけり。とりあげ見れば、まことに男子なり。これを七歳まで育てたれば、並びなき大力にてぞありける。いまだ幼稚の者の、普通の男よりも勢も大きに、丈も高かりけり。十一歳と申すに、母方の祖父、元服せさせて、名をば「大太」とぞつけたりける。夏も、冬も、足手に大きなるあかがり、ひますきもなく切れて、絶えざりければ、人みな「あかがり大太」とぞ申しける。かの緒方の三郎はあかがり大太が五代の孫なり。かかる不思議なる者の末なりければ、「九国、二島をも、われ一人して討ち取らばや」なんどと、常は申しける。かの緒方の三郎は、国司
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の仰せを「院宣」と号し、「院宣にしたがはんともがらは、維義を先として、平家を追ひ出だしたてまつれ」と、九国、二島をあひもよほしければ、九国、二島にさもしかるべき者ども、みな維義にしたがひつく。平家は「内裏つくるべき所やある」とたづねられけるところに、この事どもを聞きて、「いかがすべき」とてさわがれけり。平大納言のたまひけるは、「緒方の三郎は小松殿の御家人なりければ、小松殿の公達一人むかはせ給ひて、こしらへて御覧ぜよ」とのたまへば、小松の新三位の中将、五百余騎にて、豊後の国へうち越えて、「参るべき」よしこしらへ給へども、維義さらにしたがひたてまつらず。「君をもやがて取り籠めたてまつるべう候へども、何ほどのことかわたらせ給ふべきなれば、ただ帰らせ給ひて、一所にていかにもならせ給へ」とて、追つ返したてまつる。そののち、子息野尻二郎維村をもつて、緒方の三郎、大宰府へ申しけるは、「まことに年ごろの主にてわたらせ給へば、重恩をかうむりて候ひき。されば兜をぬぎ、弓をもはづいて降人に参るべう候へども、一院の勅諚にて候ふうへは力およばず候。すみやかに九国のうちを出でさせ給へ」とぞ申したる。平大納言時忠の卿、維村にいで向かひ、のたまひけるは、「わが君は天孫四十九世の正統、人皇八十一代の帝にてわたらせ給ふ。天照大神、正八幡宮もいかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき。なかんづく、故大相国、保元、平治両度の朝敵をたひらげしよりこのかた、不次の賞を賜はり、天下をたなごころに握り給ひしときは、鎮西の者どもをば内ざまに
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こそ召されしか。それに、当国の者ども、頼朝、義仲にかたらはれて、『しおほせたらば、国を預けん』『庄をとらせん』なんどといふことを、まことと思ひて、その鼻豊後[* 「はなびんご」と有るのを他本により訂正]が、彼が下知にしたがはんこと、しかるべからず」とぞのたまひける。豊後の国司、刑部卿三位頼輔は、きはめて鼻の大きにおはしければ、かくのたまひけるなり。維村、豊後へ帰りて、父にこのよし申しければ、緒方の三郎、「こはいかに。昔は昔、今は今にてこそあれ。その儀ならば、すみやかに追ひ出だしたてまつらん」とて、大勢にて豊後をうちたつと聞こえしかば、平家の侍ども、「向後傍輩のために奇怪に候。召し取り候はん」とて、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄三千余騎にて、筑後の国竹野城に行きむかつて、三日たたかふ。されども緒方は多勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。平家は、「緒方三郎維義が、三万余騎にて、すでに寄する」と聞こえしかば、取るものも取りあへず、大宰府をこそ落ち給へ。駕輿丁もなければ玉の御輿をうち捨てて、主上手輿に召されけり。国母をはじめまゐらせて、やごとなき女房たち、袴のそばを取り、大臣殿以下の公卿殿上人、指貫のそばをはさみ、水城の戸をたち出でて、住吉の社を伏し拝み、徒歩はだしにて、「われ先に」「われ先に」と筥崎の津へこそ落ちゆきけれ。をりふし、降る雨車軸のごとく、吹く風砂をあぐるとかや。落つる涙、降る雨、われていづれも見えざりけり。筥崎、香椎、宗像伏し拝み、主上、垂水山、鶉浜なんど
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といふ嶮難をしのがせ給ひて、眇々たる平地へぞおもむかれける。いつならはしの御ことなれば、御足より出づる血は、砂を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける。かの玄奘三蔵の流沙葱嶺をしのがれけんも、いかでかこれにはまさるべき。されどもそれは求法のためなれば、来世のたのみもありけん。これは怨敵のゆゑなれば、後世のくるしみ、かつ思ふこそかなしけれ。原田の大夫種直二千余騎にて、送りに馳せまゐる。山鹿の兵頭次秀遠数千騎の勢にて、平家の御迎ひに参るよし聞こえしかば、種直はもつてのほかに不和の事ありければ、「種直はあしかりなん」とて途よりひきかへす。芦屋の津といふ所をすぎ給ふにも、「いにしへ、われわれが都より福原へかよふとき見なれし里の名なれば」とて、いづれの里よりもなつかしう、あはれをぞもよほされける。「新羅、百済、高麗、契丹までも落ちゆかばや」とは思へども、波風むかうてかなはねば、兵頭次秀遠に具せられて、山鹿の城にぞ籠られける。山鹿へも敵寄すると聞こえしかば、海士の小舟にとり乗りて、夜もすがら豊前の国柳が浦へぞわたり給ふ。〔第七十四句 柳が浦落ち〕さるほどに、小松殿の三男左中将清経は、ある夜船の屋形にたち出でて、なにごとにも思ひ入り給へる人にて、心をすまし、横笛の音とり朗詠して、こしかたゆく末のことども、のたまひつづけて、「都をば源氏がために追ひ落され、鎮西をば維義がために攻め落され、網にかかれる魚のごとし。いづちへ行かばのがるべきかは。ながらへはつべき
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身にあらず」。しづかに経をよみ、念仏して、つぎに海にぞ入り給ふ。男女泣きかなしみけれどもかひぞなき。
第七十四句 柳の浦落ち
柳浦にも内裏つくるべき僉議ありしかども、分限なければつくられず。また長門より寄すると聞こえしかば、海士の小舟に乗り、海にぞ浮かび給ひける。長門の国は新中納言知盛の国なりけり。目代は紀伊の刑部大夫道資といふ者なり。「平家の、小船に乗り給へる」よしを聞いて、安芸、周防、長門三箇国の材木積みたる船ども百余艘、点じてたてまつる。これによりて、讃岐の屋島にうち渡り給ふ。阿波の民部成能が沙汰にて、四国のうちをもよほして、屋島の浦にかたのごとくの板屋の内裏や御所をぞ造られける。そのほどは、あやしの民の屋を皇居とし、船を御所とぞさだめける。大臣殿以下の人々、海士の苫屋に日を暮らし、しづがふしどに夜をかさね、龍頭鷁首を海中に浮かべ、波のうへの行宮はしづかなる時なし。月をひたせる潮のふかきうれひにしづみ、霜をおほへる葦の葉のもろき命をあやぶむ。洲崎にさわぐ千鳥の声は、あかつきのうれひを増し、そばひにかかる梶の音、夜半に心をいたましむ。白鷺のとほき浦に群れゐるを見ては、「源氏の旗をあぐるか」とうたがひ、夜の雁のはるかの空に鳴くを聞いては、「兵船
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を漕ぐか」とおどろく。晴嵐はだへををかし、翠黛紅顔の色やうやうにおとろへ、蒼波まなこをうがち、外土望郷の涙おさへがたし。翠帳紅閨〔に〕ことなる埴生の小屋のあらすだれ、薫炉のけぶりにかはれる葦火たく屋のいやしきにつけても、女房たち、つきせぬ物思ひに紅の涙せきあへ給はねば、翠黛みだれつつ、その人とも見えざりけり。
第七十五句 頼朝院宣申
鎌倉の兵衛佐頼朝は、「都に上らんこともたやすからじ」とて、ゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。御使には、左史生中原の康定とぞ聞こえし。康定は家の子二人、郎等十人具したりけり。寿永二年十月四日、康定鎌倉へ下着す。兵衛佐のたまひけるは、「頼朝は流人の身なりしかども、武勇の名誉長ぜるによつて、今はゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。いかでか私にては賜はるべき。鶴が岡の社にて賜はるべし」とて、若宮へこそ参られけれ。八幡は鶴が岡に立ち給へり。地形石清水にちがはず。廻廊あり、楼門あり。つくり道十余町見くだしたり。「そもそも院宣をば、誰してか賜はるべき」と評定あり。「三浦の介義澄して賜はるべし」と評定をはん〔ぬ〕。この義澄と申すは、三浦の平太郎為嗣が五代の孫、三浦の大介義明
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が子なり。父義明は君の御ために命をすてたる者なれば、これによつて義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞおぼえたる。義澄も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田の三郎宗実、比企の藤四郎能員[* 「よしさだ」と有るのを他本により訂正]なり。郎等十人は大名十人して、にはかに一人づつしてしたてけり。十二人みなひた兜なり。義澄は褐の直垂に黒糸縅の鎧着て、いかものづくりの太刀はき、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓わきばさみ、兜をぬぎ高紐にかけ、膝をかがめて院宣を受け取りたてまつる。「誰そ、名のれ」と康定申しければ、〔兵衛佐の「佐」の字にやおそれけん、〕「三浦の介」とは〔名のらで、本名を〕「三浦の荒次郎義澄」とこそ名のりけれ。兵衛佐、院宣を受け取りたてまつり、覧箱をひらき、院宣を拝したてまつる。箱に沙金百両入れてぞ返されける。やがて若宮の拝殿にて、康定に酒すすめらる。斎院の次官親能、勧盃す。そのとき、馬三匹ひかる。一匹は鞍置いたり。これは大宮侍たる工藤一郎祐経、これをひく。ふるき萱屋をこしらへて康定を入れられ、盃飯ゆたかにして美麗なり。厚綿の絹二領、小袖十かさね、長持に入れて置かれたり。そのほか紺の藍摺、白布千反をまへに積めり。次の日、康定、兵衛佐の館へ行きむかひ、見れば、内外に侍あり。ともに十六間なり。外侍には郎等ども肩をならべ、膝を組み、並みゐたり。内侍には一門の源氏どもをはじめとして、大名、小名
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どもゐながれたり。康定をこの上座に請ぜられ、ややあつて康定、兵衛佐の命にしたがひて、寝殿に向かひてけり。広廂に紫縁の畳を敷きて康定をゐせらる。わが身は高麗縁を敷き、御簾をなかばにあげて康定に対面あり。兵衛佐殿は顔大きに、勢ひきかりけり。容顔優にして、言語分明なり。兵衛佐のたまひけるは、「平家は、頼朝が威勢におそれて都を落つ。そのあとに木曾の冠者、十郎蔵人、わが高名がほに攻め入り、官をなし、加階をし、あまつさへ国をきらひ申し候ふこそ、かへすがへすも奇怪におぼえ候へ。されども当時までは、頼朝が書状には、『十郎蔵人』『木曾の冠者』と書いてこそ返事はして候へ。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹の四郎隆義[* 「かねよし」と有るのを他本により訂正]が常陸守になり候ひて、頼朝が命にしたがはず。これを追罰すべきむね、院宣を下されよ」とのたまへば、康定申しけるは、「これもやがて名簿をたてまつるべう候へども、今度は御使にて候へば、まかりのぼり候。弟にて候ふ史大夫も『かう申せ』とこそ申し候ひしか」と申しければ、兵衛佐おほきに笑ひて、「当時頼朝が身として、いかでかおのおのの名簿を賜ふべき。ただし、げにもさ様に候はば、向後はさこそ存ぜめ」とぞのたまひける。「やがて今日上洛つかまつるべき」よし申せば、「今日ばかりは逗留あるべし」とてとどめらる。次の日、また兵衛佐の館へむかひて出でられければ、白金物打つたる萌黄縅の腹巻、黄金づくりの太刀、滋籐の弓
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に、十二差いたる矢をそへてひかる。鞍置き馬十三匹、荷懸駄三十匹ぞひかれける。十二人の家の子、郎等に、馬、鞍、鎧、兜、弓、太刀、小袖、直垂、大口におよぶ。鎌倉出での宿より、近江の国鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつの米を置く。「沢山なるによつて、施行をひかれける」とぞ聞こえし。都へのぼり、院の御所へ参りて奏しければ、人々もゑつぼに入り、君も御感なのめならず。
第七十六句 木曾猫間対面
兵衛佐は、かうこそめでたうゆゆしうおはしましけれ。〔第七十六句 木曾猫間の対面〕木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしたれば、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見参申すべきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、木曾これを聞き、「猫もされば人に見参することあるか、者ども」とのたまへば、「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて入れたてまつ〔り〕て対面す。木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ」とぞのたまひける。中納言、「ただいまあるべうも候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやある
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べき」。なにもあたらしきは無塩といふと心得て、「ここに無塩の平茸やある。とくとく」といそがせけり。根の井の小弥太といふ者の急ぎて陪膳す。田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひなし、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曾殿のまへにもすゑたりけり。木曾は箸をとり、これを召す。中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。木曾は同じ体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。中納言帰られてのち、木曾出仕せんとていでたちけり。木曾は、「官加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に、とり装束す。されども車につかみ乗りぬ。鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗つたるには似も似ずしてわろかりけり。牛、車も平家〔の〕牛、車。牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸といふ者なり。牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、なじかはよかるべき。つと出でけるに、木曾、車のうちにてあふのけに倒れぬ。蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。五六町こそ引かせたれ。今井の四郎、鞭鐙をあはせて追つついて、「いかでか御車をばかうはつかまつるぞ」と申しければ、「御牛の鼻のこはう候ひて」とぞのべたりける。牛飼
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「あしかりなん」とや思ひけん、「それに候ふ手形にとりつかせ給へ」と申せば、手形にむずととりつきて、「あつぱれ支度や。牛小舎人がはからひか。また殿様か」とぞ問うたりける。御所へ参り、車のうしろより降りんとすれば、京の者の雑色に使はれけるが、「車には、召され候ふときこそ、うしろよりは召され候へ、降りさせ給ふときはまへより降り候ふなり」と申しければ、「いやいや、車のうちならんからに、直通りをばすべきか」とて、うしろより降りたりけり。そのほかをかしき事どもありしかども、人おそれてこれを申さざりけり。
第七十七句 水島合戦
平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国を討ち取れり。木曾左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住人海野の弥平次郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道へ馳せくだる。平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。たがひに海を隔ててささへたり。閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣舟か」と見るほどに、平家の方より牒の使の舟なりけり。これを見て、源氏の船五百余艘、少々水島が
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磯まで上りたるを、にはかにをめき叫んでおろしけり。平家は新中納言知盛、能登の前司教経、都合その勢一万余騎、千余艘の船に乗り、押し寄せたり。能登殿のたまひけるは、「いかに、殿ばら、いくさをばゆるくはしけるぞ。北国のやつばらに生捕にせられんを心憂しとは思はずや。味方の船をば組めや」とて、千余艘の船のともづなを組みあはせ、なかに、もやひを入れ、あゆみの板をひきなほし、ひきなほし、渡いたれば、船のうへは平々たり。源平両方鬨をつくり、矢合せして、船ども押しあはせて攻め戦ふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀で斬り、熊手にかけて引くもあり、ひつ組んで海に入るもあり、刺しちがへて死する者もあり。首を掻くもあり、掻かるるもあり。思ひ思ひ、心々に勝負をしけり。源氏方の侍大将に海野の弥平四郎幸広討たれぬ。これを見て、大将軍足利の矢田判官代義清、「やすからぬことなり」とて、主従七人小船に乗り、平家の船の中へ攻め入り、をめき叫んで戦ひけるが、いかがしたりけん、船踏み沈めて、みな死にけり。平家は船に、鞍置き馬をたてければ、船さし寄せ、能登の前司を先として、馬どもひきおろし、ひきおろし、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめいて駆く。源氏の兵、大将軍は討たれぬ。「われ先に」と落ちゆき、散々にこそなりにけれ。〔第七十八句 瀬尾最後〕平家は備中の国水島の軍に勝つてこそ、会稽の恥をきよめけれ。
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第七十八句 瀬尾最後
木曾これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康といふ者あり。去んぬる五月に砥波山にて生捕にせられたりしを、「聞こふる剛の者なれば」とて、木曾惜しんで切られず。加賀の国の住人倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申しけるは、「木曾殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜はらせ給へかし。去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、いくさ候はば、まつさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉光の三郎この様を木曾左馬頭殿に申す。木曾殿これを聞き、「きやつは剛の者と聞くが、惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内者させよ」とぞのたまひける。蘇武が胡国に捕はれ、李陵が漢国に帰らざるがごとし。遠く異国のことについては、昔の人もかなしめるところなり。をしかはのたまき、かもの幕、もつて風雨を防ぎ、なまぐさき肉、酪のつくり水、もつて飢渇にあつ。夜は夜もすがら寝ねず、昼はひめむすに仕へ、木を樵り、草を刈らんばかりにしたがひけるも、「木曾殿を滅ぼし、平家の方へいま一度参らん」と思ふがためなり。木曾、倉光を召して、「さらばこの瀬尾をまづ具して下りて、御馬の草をかまへさせよ」とのたまへば、倉光、瀬尾の太郎あひ具して備中の国へ下る。瀬尾が嫡子
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小太郎宗康とてあり。父が下るよしを聞いて、年ごろの郎等三十余人あひ具して、父が迎ひにのぼるほどに、播磨の国府にてぞ行き逢ひぬ。それより連れて下るほどに、備中の国三石の宿にぞ着きにける。夜もすがら酒盛りして、倉光三郎前後も知らず酔ひたりけるを、刺し殺して首をとり、家の子、郎等二十余人ありけるを、一人も漏らさず討ち取り、やがて、備前、備中に脚力をつかはし、「兼康こそ木曾殿のてゆるされて、これまで下りて候へ。平家に心ざし思ひたてまつらんずる殿ばらは、兼康を先として、木曾殿の下り給ふに、行き向かつて矢一つ射よ」とぞ触れたりける。山陽道の兵ども、五人持ちたる子は三人は平家に奉る。三人持ちたる子は二人を奉る。馬、鞍、弓、矢にいたるまで平家に奉る。されば、郎等もなく、物具もなかりけれども、兼康にもよほされて、かり武者なれども、備前、備中に二千余人、備前の国福龍寺畷、笹の迫を掘り切りて、城郭にかまへて待ちかけたり。備前の国は十郎蔵人の国なりければ、国府に押し寄せて代官を討つてけり。代官が下人ども逃げて都へ上る。播磨と備前とのさかひなる船坂山といふ所にて、木曾殿に行き逢ひたてまつる。木曾これを聞き、「やすからぬものかな。切るべかりけるものを」とのたまへば、今井申しけるは、「さ候へばこそ、まなこの様、骨がら、気の者と見候ひしあひだ、さしもに『切らせ給へ』と申せしことは」と申せば、木曾、「剛の者と聞くが惜しさにこそ、いままで切らでおきたりつれ。思ふに、なにほどのことかあるべきぞ。
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なんぢ追つかけて討て」とぞのたまひける。今井の四郎うけたまはつて、船坂山より三千余騎にて馳せ下る。笹の迫へ押し寄せたり。城のうちの者ども、おし肌ぬいで、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。馬多く射殺されて、おもてを向くる者なし。今井の四郎、「かくてはかなはじ」とて、むかしより馬の足およばぬといふ、そばなる深田へ多勢ざつとうち入れ、馬のくさわき、むながいづくし、太腹に立つところを事ともせず、すぢかへにぶらめかいて渡しければ、城のうちの者、矢種少々射つくして、「われ先に」と落ちて、備中の国板倉川のはたに城郭をかまへて待ちかけたり。今井の四郎やがて追つかけて、板倉が城へぞ寄せたりける。備前、備中のかり武者ども、あるいは竹箙に、五すぢ、六すぢの矢差したる者もあり、あるいは山うつぼに素雁股三つ四つ差したる者もあり。または切れ腹巻なんど着たる者どもが、あるいは山へ追ひ入れられ、あるいは河に追つつめられ、残り少なく討たれけり。瀬尾の太郎、つひに主従三騎に討ちなされ、馬をも射させ、徒歩だちになりて落ちゆく。嫡子の小太郎は齢二十ばかりなる大男の、あまりにふとりて、一町もはたらきえざる者なり。鎧ぬぎすて行きけれど、かなはざりければ、瀬尾、うち捨てて、郎等と二人、十余町こそ逃げのびけれ。瀬尾立ちどまり、郎等に言ひけるは、「兼康は千万の敵に向かつていくさしつれども、四方晴れておぼえつるが、小太郎を捨てて行くゆゑやらん、一向さき暗うして見えぬぞ」と申せば、郎等、「さればこそ『ただ一所にていかにもならせ給へ』
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と申しつるは、これにて候。返させ給へ」とぞ申しける。瀬尾、郎等とつれてまた走り帰る。下部の一人ありけるを、「なんぢはいかにもして屋島に参りて、この様を申すべし」とてつかはして、走り帰りて見れば、小太郎はおほきに足腫れて伏しゐたり。瀬尾申しけるは、「なんぢを捨てて行くゆゑにや、さきの暗うして見えぬあひだ、『一所にていかにもならん』と思ひ返したるぞ」と言ひければ、そのとき、小太郎、起きなほり、「この身こそ不器量の者にて候へ。されば自害つかまつらうずるにて候ふに、宗康がゆゑに御命を失ひたてまつらんことは五逆罪にて候へば、ただ一あゆみも延びさせ給はで」と申しければ、「思ひきりたるうへは」とて、しばしやすらうて待つところに、今井の四郎押し寄せたり。瀬尾、郎等と立ち並んで、射残したる矢ども、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。おもてに向かふ者なし。されども矢種尽きければ、弓をなげ捨て、打物の鞘をはづし、斬つてまはる。走り寄つて、嫡子の小太郎がまづ首を討ちおとし、わが身も痛手負うたりければ、自害してこそ亡せにけれ。郎等ともに自害しつ。今井の四郎、是等(これら)三人が首を取り、当国鷺の森にぞかけたりける。木曾殿これを見給ひて、「あはれげの者かな。いま一度助けで」とぞのたまひける。木曾は、備中の国万寿が荘といふ所にて勢揃へして、すでに屋島へ渡さんとするほどに、都の留守に置きたる樋口の次郎兼光、脚力をたてて申しけるは、「十郎蔵人殿ましまさぬあひだに、院ちかき人にて、おことをさまざまに讒奏せられ候ふなり。急ぎのぼらせ給へ」と申したりければ、木曾
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これを聞き、いくさをばせず、うち捨てて、夜を日にして馳せ上る。「木曾殿すでに都へ入る」と聞こえしかば、十郎蔵人、「かなはじ」とや思ひけん、二千余騎にて都をたち、丹波路にかかりて播磨の国へ馳せ下る。木曾は摂津の国を経て京へ入る。さるほどに、平家は新中納言知盛一万余〔騎、千余〕艘の船に乗り、播磨の国へおし渡つて、室山に陣をとる。十郎蔵人これを聞き、「平家といくさして木曾に仲なほりせん」とや思ひけん、二千余騎にて室山に押し寄せ、一日たたかひ暮らす。されども平家は多勢なり、身方は無勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。播磨をば平家におそれ、都をば木曾におそれ、船に乗り和泉の国へおし渡り、河内の国長野の城にぞ籠りける。平家は室山のいくさに勝つてこそ、いよいよ大勢つきにけれ。
第七十九句 法住寺合戦
都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、はては人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち通る物をうばひとり、衣裳を剥ぎとる。平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方おそろしかりしばかりなり。衣裳を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏はおとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。院の御所より、壱岐守知親が子壱岐の判官知康、「京中の狼藉しづめ
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てまゐらせよ」とて、木曾がもとへつかはさる。この知康はならびなき鼓の上手にてありければ、人「鼓判官」とぞ申しける。木曾殿、知康にいで向かひ、まづ勅諚にはおよばで、「わ殿を人の『鼓判官』と言ふなるは、よろづの人に打たれ給うてか、張られ給うてか」とぞ問うたりける。知康この言葉がにがにがしさに、やがて御所へ帰りて、「まことに木曾はをこの者にて候ふなり。いかさま、追罰せさせ給はではあしう候ひなん」と申せば、法皇も、天性内々、さおぼしめされけるあひだ、「さあらば」とぞのたまひける。しかるべき武士を召して仰せあはせられずして、山の座主、寺の長吏に仰せあはせ、山、三井寺の悪僧どもをぞ召されける。院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、木曾にしたがひたる五畿内の兵ども、みな木曾をそむいて院方に参る。近江源氏をはじめて、美濃、尾張の源氏どもみな木曾をそむく。信濃源氏村上の三郎判官代基国[* 「よしくに」と有るのを他本により訂正]も木曾をそむけて、院方へこそ参りけれ。すでに院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郎兼平、木曾殿に申しけるは、「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人に参らせ給へかし」と申せば、木曾殿のたまひけるは、「われ信濃の国横田川の軍よりはじめて、北国、砥波、黒坂、志保坂、篠原、西国にいたるまで、度々のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは参るまじけれ。これは鼓判官
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が凶害とおぼゆるぞ。あひかまへて〔その〕鼓判官、補へて試し打ち申せ」とぞのたまひける。「関々は閉ぢられて、たえて上る物なければ、冠者ばらが『かひなき命生きん』とて、をりをり、かたほとりにつきて入り取りせんは、なにかひが事ならん。また王城の守護とてあらんずる者が、馬一匹づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田を少々刈らせて、ときどき馬草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様はなきものを。鎌倉の兵衛佐がかへり聞かんところもあり。いくさようせよ、者ども。今度は最後のいくさにてあらんずるぞ」と言はれけり。木曾はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかに三千余騎ぞありける。「木曾がいくさの吉例」とて、勢はいくらもあれ、まづ七手に分けて、三手にも、二手にもなるはかりごとをしけり。今度も三千余騎を七手に分かつ。樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方へ搦手にまはる。「のこる六手は、おのおのがゐたらん条里小路より河原へ出でて、七条が末にて行き逢へ」とて、十一月十九日辰の刻に、院の御所法住寺殿へ押し寄せたり。院の御所には、山法師、寺法師、京中の向礫、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記されたる。御方の笠じるしには、松の葉をぞつけたりける。鼓判官知康は、いくさの行事をうけたまはる。いくさの行事知康は、赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ざりけり。兜ばかり着たりけるが、兜には四天王を書いてぞおしたりける。法住寺殿
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の西の築垣にあがりて、片手には金剛鈴を持ち、片手には鉾を持ち立つたりけるが、なにとか思ひけん、金剛鈴をうち振り、うち振り、ときどき舞ふをりもあり。公卿殿上人これを見て、「風情なし。知康に、はや天狗のついたり」とぞ笑はれける。知康、寄せ来る勢に向かひて、金剛鈴をうち振りて申しけるは、「むかしは、宣旨を、向かうて読みければ、枯れたる草木にも花さき、実なり、悪鬼、悪神までもしたがひたてまつりけるなり。末代ならんからにや、なんぢら夷の身として、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかで弓を引くべき。なんぢが放さん矢は、かへつて身にあたるべし。抜かん太刀は、なんぢが身を斬るべし」なんどぞ申しける。木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向かふ。やがて御所に火をかけたり。院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ちゆくに、あまりにあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足を〔突き〕ぬく者もあり、あるいは弓の筈を物にかけ、はづさで逃ぐる者もあり。倒るる者は、起き上がるひまもなくて、落つる者に踏み殺さるる者もおほかりけり。八条が末を山法師がかためたりけるが、恥ある者は討死し、つれなき者は落ちぞゆく。七条が末をば摂津の国源氏がかためたりける。これも七条を西へ落ちゆく。
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いくさ以前に、京の在地の者どもに、「明日、落人あらんずるをば、みな打ち殺せ」と院宣を下されたりけるあひだ、在地の者ども、家のうへに楯をつき、おそひの石ども拾いあつめて、摂津の国源氏の落ちゆくを、「あはや、落人よ」とて、石を拾いかけてぞ打ちたりける。「これは御方ぞ、あやまちすな」と言ひけれども、院宣にてあるあひだ、ただ「打ち殺せ」「打ち殺せ」とて打つあひだ、鎧ぬぎすて落ちゆく者もあり、あるいは馬を捨てて逃ぐる者もあり。散々のことどもなり。伯耆守光長が子息検非違使光経も討たれにけり。近江の中将為清、越前守信行も討たれぬ。主水正近業は、木賊色の狩衣に萌黄縅の腹巻着て白葦毛なる馬に乗り、河原をのぼりに落ちゆく。今井四郎追つかけて、首の骨を射て落す。これは清原の大外記頼業が子なり。「明経道の博士、甲冑をよろふこと、しかるべからず」と申しける。按察の大納言資賢[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]の孫、播磨の中将雅賢[* 「まさとも」と有るのを他本により訂正]生捕にせられ給ふ。天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあひだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首取られ給ふ。寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射られさせ給ひて、御首取つてげり。法皇も御輿に召されて出御なる。兵ども御輿を散々に射たてまつりければ、御輿を捨てまゐらせて、ちりぢりに逃げてげり。豊後の少将宗長の御供に侍はれけるが、「これは院のわたらせ給ふぞ
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や。あやまちすな」と高らかにのたまひけるほどに、そのとき、兵みな馬より降りてかしこまる。豊後の少将、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「信濃の国の住人、矢島の四郎行綱」と名のり申す。やがて御輿に手をかけまゐらせ、五条の内裏へおし籠めたてまつる。主上は、池なる御船に召されけり。御供には、七条の侍従信清、紀伊守範光ぞ候はれける。兵ども御船を射たてまつりければ、主上は四歳にならせおはします、なに心もわたらせ給はず、七条の侍従、船底にかき伏せまゐらせて、「これは内のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」とのたまひければ、そのとき兵ども、取りまゐらせて、閑院殿へ行幸なしたてまつる。行幸の儀式のありさま、あさましなんどもおろかなり。源の蔵人仲兼、河内守仲信兄弟、その勢百騎ばかりにて散々に戦ひけるが、七八騎に討ちなされ、ひかへたるところに、近江源氏山本の冠者義高、法住寺殿に防がれけるが、これを見て、「いまはおのおの、誰をかこはんとていくさをばし給ふぞや。行幸も、御幸も、はや他所へなりぬるものを」と申しければ、「さらば」とて、南をさして落ちぞゆく。源の蔵人が郎等、河内の国の住人日下の加賀坊といふ法師武者ありけり。白葦毛なる馬、太くたくましきが、きはめて口のこはきにぞ乗りたりける。「この馬あまりにいばひにて、乗りたりべしともおぼえず候」と申せば、蔵人、「いで、さらば仲兼が馬に乗りかへん」とて、栗毛なる馬の下尾の白きに乗りかへて、瓦坂に誰とは知らず北国
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武者の大勢にてひかへたるところを、八騎にてざつと駆け破りて通る。八騎が五騎はそこにて討たれぬ。三騎になりて落ちゆく。五騎がうちに、馬乗りかへたる加賀坊討たれけり。蔵人の家の子に、信濃の次郎頼経といふ者あり。御所のたたかひより敵にかけへだてられて、蔵人の行方を知らざれば、加賀坊が馬に乗りかへたることをも知らざりけり。栗毛なる馬の下尾の白きが、主は討たれて河原に走りまはりけるを見て、信濃の次郎、下人を呼んで、「ここなる馬は、蔵人殿の馬と見るはいかに」と問へば、「さん候。蔵人殿の御馬にて候」と申す。「あな無慚や。日ごろは『一所にていかにもならん』と契りたてまつりたるに、はや先立ち給ひけるにこそ。なんぢは帰つて、妻子どもにこの様を語るべし。頼経は討死して、蔵人殿の供せんと思ふぞ」とて、ただ一騎瓦坂の大勢にうち向かひ、名のりけるは、「日ごろはその者にては候はねば、名をもよも知り給はじ。今をはじめて聞き給へ。源の蔵人が家の子に、信濃の次郎頼経。かうこそかかれ」と言ひて、大勢の中に駆け入りて、をめき叫んで戦ひけるが、つひに討死してんげり。河内守仲信、稲荷山にうちあげて、醍醐の方へ落ちにけり。蔵人は宇治をさして落ちゆくほどに、摂政殿の、都をいくさにおそれ給ひて宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追つつきたてまつり、「誰そ。仲兼か。人もないに、ちかう侍へ」と仰せければ、「承り候」とて、宇治まで守護したてまつり、いとま申して、河内の方へ落ちゆきけり。豊後の国司刑部卿
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三位頼輔も御所に籠られたりけるが、敵はすでに攻め入る、侍一人もつきたてまつらず、ただ一人七条河原へ走り出で給ひたるところに、下部どもに衣裳を剥ぎとられて、立たれたるに、三位の小舅越前の法眼といふ者ありけり。その仲間法師が、「いくさ見ん」とて河原へ出でたりけるが、三位の立たれたるを見て、あまりのあさましさに、さらば小袖は脱ぎて着せたてまつらで、あわてで衣を脱ぎ、投げかけたてまつり、「法眼の宿所へ」と六条を西へましましけるに、大の男の、衣をうつほに着、頬かぶりて、白衣の法師を供に具しておはしける後姿こそをかしけれ。宰相脩範の卿は、「法皇の、五条の内裏へおし籠められ給ひたり」とうけたまはりて、いそぎ馳せ参られければ、兵ども入れたてまつらざれば、力およばず、走り帰りて、もとどりを切り、髪を剃りおろし、墨染の衣に袴着て参られければ、そのとき兵ども入れたてまつる。御前に参りて、この様を奏せられければ、法皇これを御覧じて、にはかに様をかへたる心ざしのほどの切なることをぞ、御感なる。今日のいくさの様を、次第次第に語り申す。さるほどに、「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ふ。また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれさせ給ひぬ」と申されければ、法皇、「明雲は非業の死したるものかな。今度はただ、われいかにもなるべかりける命に、代りたるにこそ」とて、御涙にむせばせおはします。
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木曾はいくさに勝ち、あくる卯の刻に、三千余騎、六条河原にうち入りて、馬の鼻を東へ向けて、天もひびき、大地も動くほどに、鬨を「どつ」とつくる。京中またさわぎあへり。これは、「いくさに勝ちたるよろこびの鬨をつくる」とも申しけり。いまはとても兵衛佐といくさせんこと決定なれば、今日吉日にてあるあひだ、「東国へむかひ、鏑を射はじめんとての鬨」とも申しけり。昨日討たるるところの首ども、六条河原へかけ並べて記したりければ、六百三十余人なり。そのなかに、寺の長吏八条の宮の御首もかからせ給へり。天台座主明雲大僧正御坊の御首もかかり給へり。見る人、涙をながさずといふことなし。
〔第八十句 義経熱田の陣〕木曾左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、義仲、十善の君に向かひたてまつり、いくさは勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふなれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞあさましき。院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしなつて、丹波の国を知行しけり。前の関白松殿の姫君をとりたてまつり、
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聟になる。同じき二十三日、三条の中納言以下、卿相雲客四十九人が官職をとどめ、追つ籠めたてまつる。平家のときは三十余人が官職をこそとどめたりしか。これは四十九人なれば、平家の悪行にはなほ超過せり。
第八十句 義経熱田の陣
北面に候ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ下る。これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐舎弟、蒲の冠者範頼、九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおはする」と聞きて、木曾が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし。そもそも、当時この人々はなにごとに都へ上るぞといふに、平家都におはせしほどは、「道の狼藉もあらば」とて、東八箇国の年貢を君に奉ることもなし。平家都を落ちてのち、兵衛佐、「王地にはらまれて、さのみ年貢を対捍せんもおそれなれば」とて、両三年の年貢の未進を沙汰して、一千人の兵士をそへ、都へ参らせられけるほどに、道にて、「いくさあり」と聞き、「左右なく上り、いくさしてあしかりなん。ひき退いて、鎌倉殿へ子細を申さん」とて、大宮司のもとにぞおはしける。宮内判官、藤内左衛門馳せ下つて、木曾が悪行のこといちいちに申す。九郎義経のたまひけるは、「宮内判官、いそぎ鎌倉へ下るべしとおぼえ候。そのゆゑは子細
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も知らぬ使は、かへして問はれんとき、申しかねば不審ののこるに」とのたまへば、宮内判官、夜を日にして鎌倉へ下る。兵衛佐対面し給ひて、事の様をたづねらる。「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ひぬ、また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれ給ひて候」と申せば、兵衛佐、「木曾が悪行あらば、頼朝にこそ仰せ下され追罰せらるべきに、いふかひなき鼓判官知康なんどが申すことにつかせ給ひて、御所をも焼かせ、高僧たちをも多く失はせ給へることこそ、かへすがへすもあさましく存じ候へ。こののち、知康召しつかはせ給ふべからず」と、脚力をたてて院に奏聞せられけり。知康このことを聞きて、「陳ぜん」と鎌倉へ下る。兵衛佐、「しやつに目な見せそ。会釈なせそ」とのたまへば、あひしらふ者もなかりけり。知康、面目失ひ、帰りのぼる。そののちいづくにかありけん、「行方も知らず」とぞ聞こえし。
そのころ「木曾追罰のために東国より討手上る」と聞こえしかば、木曾は西国へ早馬をたてて、「平家の人々、いそぎ都へ上り給へ。ひとつになつて東国を攻めん」とぞ申したる。平家の人々これを聞き、よろこびあはれけり。平大納言時忠、新中納言知盛申されけるは、「さればとて、いまさらに木曾にかたらはれ、都へ帰りのぼり給はんことしかるべしともおぼえず候。十善の帝王、かたじけなくも三種の神器を帯してわたらせ給へば、ただ兜をぬぎ、弓をもはづして降人に参り給へ」と申されければ、
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大臣殿、この様を都へのたまひのぼせたりけれども、それを木曾もちひたてまつらず。そのころ、松殿禅定殿、木曾を召して仰せられけるは、「清盛は悪行たりしかども、希代の善根をせしかば、世をもめでたく二十四年までも持ちたりしなり。悪行ばかりにて世を保つことはなきものを。追ひ籠められたる人々の官どもゆるされよかし」と仰せければ、ひたすらの荒夷の様なれども、したがひたてまつて、追ひ籠められたる人々の官ども、みな許したてまつる。松殿の御子師家の、中納言の中将にてましましけるを、内大臣の摂政になしたてまつる。をりふし大臣あかざりければ、徳大寺の内大臣にておはしけるを借りたてまつり、師家に殿の摂禄せさせたてまつる。いづれも人の口なれば、師家の殿を「かりの大臣」とこそ人申しけれ。同じき十二月五日、法皇は五条の内裏より大膳大夫業忠が宿所、六条の西洞院へ御幸なる。同じき十三日、歳末の御修法あり。やがて除目おこなはるる。木曾はかりごとにて、人々の官ども思ふ様になりにけり。前漢、後漢のあひだに王莽が世をとつて、十八年をさめたりしがごとし。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都にて張行し、諸国七道みな〔乱れて、〕おほやけの貢物をも奉らず、わたくしの年貢ものぼらねば、京中の人々は、ただ魚の水に離れたるに異ならず。あやふきながらも、今年もすでに暮れ、寿永も三年になりにけり。