平家物語 百二十句本(京都本)巻第十一

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平家巻第十一  目録
第百一句 屋島
渡辺・福島船ぞろへ
逆櫓の論
勝浦の陣
嗣信最後
第百二句 扇の的
与市二の矢の功名
水尾谷のいくさ
弓流し
牟礼・高松の陣
第百三句 讒言梶原
伊勢の三郎義盛教能を生捕る事
田辺の湛増源氏に参る事
住吉鏑の奏聞の事
蒲の冠者と九郎判官と一つになる事
第百四句 壇の浦
遠矢の沙汰
源氏の船の中に白旗きたる事
阿波の民部心がはり
晴延陰陽師ことわざの事
第百五句 早鞆
先帝・二位殿御最後
大臣殿生捕らるる事
飛騨の三郎左衛門の事
能登殿最後
第百六句 平家一門大路渡し
生捕の衆都入り
牛飼三郎丸の事
頼朝二位に叙せらるる事
平大納言の婿義経の事
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第百七句 剣の巻上
天地開闢
素戔鳴大蛇を斬らるる事
草薙の起り
熱田の起り
第百八句 剣の巻下
渡辺の源四郎綱鬼切る事
安倍の貞任・宗任成敗の事
友切の起り
曾我夜討の事
第百九句 鏡の沙汰
天の岩戸の事
紀伊の国日前像の起り
内侍所炎上のがれ給ふ事
神璽の沙汰
第百十句 副将
大臣殿副将見参の事
大臣殿関東下向
副将斬らるる事
乳母の女房身投ぐる事
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平家 巻第十一
第百一句 屋島
元暦二年正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもつて申されけるは、「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落さずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。今度義経においては、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申されける。院の御所を出で、国々の兵に向かつて、「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはつて、平家追討にまかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓X擢のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子をかなしまん人は、これより鎌倉へ下られべし」とぞのたまひける。屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草枯れては、秋の風におどろき、秋の風やんでは、春の草になれり。送り迎へて三年にもなりぬ。しかるを、「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえしかば、男女の公達さし集まつて泣くよりほかのことぞなき。同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。これは「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との御祈念のためとぞおぼえたる。 同じく十四日、三河守(みかはのかみ)
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範頼(のりより)、平家(へいけ)追討(ついたう)の為に七百余艘の船に乗つて、摂津の国神崎より山陽道を発向す。九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、同国渡辺より南海道へおもむく。同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。風枯木を折つて吹くあひだ、波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日はとどまる。渡辺に、大名、小名寄りあひて、「さて、船いくさの様は何とあるべき」と評定あり。梶原申しけるは、「船に逆櫓をたて候はばや」と申せば、判官、「逆櫓とはいかなるものにて候ふやらん」とのたまへば、梶原、「さん候。馬は、駆けんと思へば駆け、引かんと思へば弓手へも、馬手へも、まはしやすきものにて候。船は、きつと押しなほすことたやすからぬものにて候へば、X櫨にも、X舶にも、梶をたてて、左右に櫓をたて並べて、X櫨へも、X舶へも、押させばや」とぞ申しける。判官殿、「軍のならひは、一引きも引かじと約束したるだにも、あはひあしければ敵にうしろを見するならひあり。かねてより逃げ支度をしては、なじかはよかるべき。人の船には逆櫓もたてよ、かへさま櫓もたてよ。義経が船にはたてべからず」とぞのたまひける。梶原、「あまりに大将軍の、駆くべきところ、引くべきところを知らせ給はぬは、『猪のしし武者』と申して、わろきことにて候ふものを」と申せば、「よしよし義経は、猪のしし、鹿のししは知らず。敵をばただひた攻めに攻めて勝ちたぞ心地好うはおぼゆる」とのたまへば、梶原、「天性、この殿につきて軍
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せじ」とぞつぶやぎける。夜に入りて、判官、船ども少々あらため、「一酒ものせよや。若党」とて、いとなむ体にて、物具ども運ばせ、馬ども乗せて、「船出だせ」とのたまへば、梶取ども、「風はしづまりて候へども、沖はなほ強うぞ候ふらん。かなふまじき」よしを申す。判官怒つて、「勅宣を承り、鎌倉殿の御代官として、平家追討にまかり向かふ義経が下知をそむくおのれらこそ朝敵よ。野山の末、海川にて死するも、みな前業の所感なり。その儀ならば、奴ばらいちいちに射殺せ」とぞのたまひける。奥州の佐藤三郎兵衛、四郎兵衛、武蔵房弁慶なんど申す者ども、片手矢はげて、「御諚にてあるに、まことに船を出だすまじきか」とて向かひければ、「矢にあたつて死なん身も同じこと、風つよくは、はせ死に死ねや」とて、二百余艘の船のうちにただ五艘をぞ出だしける。五艘の船は、判官の船、田代の冠者信綱が船、後藤兵衛実基が船、奥州の佐藤三郎兵衛兄弟が船、淀の江内忠俊は船の奉行たり。のこりの船は、風に恐れて出でず。「この風には見えねども、夜のうちに四国の地に着かんとおぼゆるぞ。船どもかがりたきて、敵に船数見すな。義経が船を本船にしてかがりをまぼれ」とて、とり梶、おも梶にはせ並べてゆくほどに、あまりに強きときは大綱をおろして引かせけり。十六日の丑の刻に、渡辺、福島を出でて、押すには三日に渡るところを、ただ三時に、十七日の卯の刻に阿波の勝浦に着きにけり。夜のほのぼのと
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明けけるに、なぎさの方を見わたしければ、赤旗さしあげたり。判官のたまひけるは、「あはや、われらが設けはしてんげり。船ども平着けに着けて敵の的になして射さすな。なぎさ近うならば、馬ども海へ追ひ入れ、船ばたに引つつけ、引つつけ、泳がせて、馬の足たつほどにならば、うち乗り、駆けよ」とて、なぎさ三町ばかりになりければ、船ばた踏みかたぶけ「馬ども海へ追ひ入れ、引きつけ泳がせて、馬の足たつほどになりしかば、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめきさけびて駆く。敵も五十騎ばかりありけるが、これを見てざつと引くに、二町ばかりぞ逃げたりける。判官、しばしひかへて馬をやすめ、伊勢の三郎義盛を召して、「きやつばらは、けしかる者とこそ見れ。あのなかに、しかるべき者あらん。召してまゐれ」とのたまへば、義盛ただ一騎、五十騎ばかりひかへたる敵のなかに駆け入れて、なにとか会釈したりけん、齢四十ばかりの男の、黒革縅の鎧着、鹿毛なる馬に乗りたる武者一騎、兜をぬがせ、弓をはづさせて、乗つたる馬をば下人に引かせ、具して参る。判官、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「当国の住人、板西の近藤六親家と申す者にて候」。「何家にてもあれ、物具な脱がせそ。屋島の案内者に具してゆけ。目ばし離つな。逃げてゆかば射殺せ」とぞのたまひける。「この所は何といふぞ」とのたまへば、「これは『かつら』と申し候。『勝浦』と書いて候ふを、下臈(げらふ)どもが申しやすきままにこそ、『かつら』とは申し候へ」。判官、「これ聞き給へ、殿ばら。いくさしに来たる義経が、まづ勝浦に着くめでたさ
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よ。さていかに、屋島には勢はいかほどあるぞ」。「千騎ばかりは候ふらん」。「など少なきぞ」とのたまへば、「阿波の民部が嫡子田内左衛門教能、三千余騎にて河野を攻めに伊予の国へ渡つて候。それ、勢の向かはぬ浦々も候はず。五十騎、百騎づつさし向けられ候」。「さて、これに平家の方人しつべき者はなきか」。「さん候。成能[* 「のりよし」と有るのを他本により訂正]が弟桜間の能遠と申す者こそ候へ」。「さらば能遠討つて軍神にまつれや」とて、桜間が城へぞ押し寄せたりける。 桜間の介、しばし戦ひ、究竟の馬を持ちたりければ、そばの沼より落ちにけり。所の者ども二十余人が首を斬り、よろこびの鬨をつくり、軍神にぞまつられける。 判官、近藤六を召して、「これより屋島へはいかほどあるぞ」。「二日路候」。「さらば敵の知らぬさきに寄せよや」とて、駆け足になり、あゆませゆくほどに、その日は阿波の国板東、板西行き過ぎて、阿波と讃岐とのさかひなる大坂越といふ所にうち下つて、入野、白鳥、高松が里を、うち過ぎ、うち過ぎ寄せ給ふに、山中にて蓑笠背負うたる男一人ゆきつれたり。「どこの者ぞ」と問はせられければ、「京の者にて候」と申す。「どこへ行くぞ」。「屋島へ参り候」。「屋島へはどの御方へ参るぞ」。「女房の御つかひに都より大臣殿の御方へ参り候」。「これも阿波の御家人にてあるが、屋島へ召されて参るなり。この道は不知案内なるに、わ殿、案内者つかまつれ」。「これは案内は知りて候」と申す。「何事の御つかひぞ」と問へば、「下臈は御つかひつかまつるばかりにてこそ候へ。いかで
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か何事とは知り候ふべき」と申す。「げにも」とて、乾飯食はせなんどして、「さるにても何事の御つかひとか聞きし」。「別の子細や候ふべき。河尻に源氏どもおほく浮かんで候ふとかや申されしごさんなれ」。「さぞあらん。その文取れ」とて、うばひ取りて、「しやつ縛れ」とて、縛つて道のほとりなる木に結ひつけてぞ通られける。 判官、この文見給へば、まことにも女房の文とおぼしくて、「九郎は心すすどき男にて、大風大波たつともよもきらひ候はじ。勢を散らさでよくよく御用意候へ」とぞ書かれたる。「これは義経に天の与へ給へる文なり。鎌倉殿に見せたてまつらん」とて、深くをさめておき給ふ。 近藤六を召して、「さて屋島の城〔の様〕はいかに」とのたまへば、「さん候。知ろしめさねばこそ候へ、城は無下にあさまに候ふ。潮の干候ふときは馬の腹もつからず」と申す。 「さらば寄せよ」とて、源氏の勢、潮干の潟より寄せけるに、ころは二月十八日のことなれば、蹴上げたる潮のしぐらうたるうちより、うち群れて寄せければ、平家は運や尽きぬらん、大勢とこそ見てんげれ。 阿波の民部が嫡子田内左衛門、河野を攻めに伊予の国に越えたりけるが、河野は討ちもらし、家の子、郎等百余人が首を取り、わが身は伊予にありながら、さきだて、屋島へ奉りたりけるが、をりふし大臣殿の御宿所にて実検あり。兵ども、「こはいかに。焼亡」なんどと騒ぎけるが、よくよく見て、「さではなし。あはや。敵の寄せ候ふぞや」と申すほどこそあれ、白旗ざつとさし上げたり。 すでに、「源氏さだめて大勢にてぞ候ふらん。いそぎ御船に召さるべし」とて、なぎさに上げおきたる
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船ども、にはかに下ろしけり。御所の御船には、女院、北の政所、二位殿以下、女房たち召されけり。大臣殿父子は、一つ船にぞ乗り給ふ。平大納言、平中納言、修理大夫、新中納言以下の人々、みな船にとり乗つて、一町ばかりおし出だしたるところに、白じるしつけたる武者六騎、惣門のまへにあゆませて出で来る。 まつ先にすすんだるぞ大将とは見えたる。赤地の錦の直垂に、 紫裾濃の鎧着て、金作りの太刀帯き、切文の矢負ひ、塗籠籐の弓のまつ中取つて、黒の馬の太うたくましきに、金覆輪の鞍おいてぞ乗つたりける。鐙ふんばりつ立ちあがりて、「一院の御つかひ、大夫判官義経ぞや。われと思はん者は進み出でよ。見参せん」とぞ名のりける。「こはいかに。大将軍にてありけるぞ。射取れや、射取れ」とて、指矢に射る船もあり、遠矢に射るもあり。つづいて名のるは、田代の冠者信綱、金子の十郎家忠、同じき与市近範、伊勢の三郎義盛、後藤兵衛実基なり。 源氏は、五騎、三騎づつ、うち群れ、うち群れ、寄せけり。佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、渋谷の右馬允重助、これ三人はいくさをばせで、阿波の民部がこの三箇年があひだ、やうやうにして造りたる内裏や御所に火をかけて、片時の煙となしにけり。 大臣殿これを見給ひて、「源氏多くもなかりけるものを。内裏や御所を焼かせつるこそやすからね。能登殿はおはせぬか。一いくさし給へ」とありしかば、能登の前司、小船に乗つて寄せらる。兵二百余人、
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兜の緒をしめて、同じくなぎさにあがる。越中の次郎兵衛すすみ出でて申しけるは、「今日の源氏の大将軍はいかなる人ぞよ」。伊勢の三郎申しけるは、「事もかたじけなや。清和天皇十代の御末、九郎大夫判官ぞかし」。盛嗣あざわらつて、「それは金商人が所従ごさんなれ。平治に父義朝は討たれぬ。母常盤が腹にいだかれて、大和、山城に迷ひありきしを、故太政入道殿たづね出ださせ給ひしが、『をさなければ不便なり』とて、捨ておかれ給ひしほどに、鞍馬の稚児して十四五までありけるが、商人の供して奥に下りし者にてこそ」と申しければ、伊勢の三郎、「なんぢは砥波山のいくさに、からき命を生きて乞食の身となり、京へのぼりしはいかに」と申す。盛嗣、「なんぢも鈴鹿山の山がつよ」と申しけり。金子の十郎、「雑言たがひに益なし。申さばいづれか劣るべき。去年の春、一の谷にて武蔵、相模の若殿ばらの手なみよく見たるらん」と申しもはてねば、弟の与市、よつぴいて射る。盛嗣が胸板、裏かくほどに射させて、そののちは言葉だたかひせざりけり。 源平みだれあひ、しばし戦ふ。能登殿のたまひけるは、「船いくさは様あるぞ」とて、わざと直垂は着給はず。巻染の小袖に黒糸縅の鎧着、大中黒の矢、首高に負ひなし、滋籐の弓まつ中取り、小船の舳に立つて、源氏の大将軍を射落さんとぞうかがひける。能登の前司は聞こふる精兵の、「矢先にかけたてまつらじ」と兵ども、判官の矢面にふさがつてぞ戦ひける。能登殿、「矢面のやつばら、
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そこのき候へ」とて、さしつめ、ひきつめ、散々に射給ふに、鎧武者五騎射落さる。判官、あらはになり給ふところに、いつのまにかすすみけん、佐藤三郎兵衛嗣信、黒革縅の鎧着て、判官の矢面にむずとへだたるところを、胸板うしろへ射出だされて、馬よりさかさまに落ちぬ。 能登殿の童、菊王丸とて生年十八歳になるが、萌黄縅の腹巻、兜の緒をしめ、白柄の長刀の鞘をはづし、船より飛んでおり、嗣信が首を取らんと寄るところを、弟の忠信よつぴいて射る。菊王が腹巻の引合せを射られて、犬居に倒れぬ。「敵に首を取らせじ」と、能登の前司、船より飛んでおり、菊王をひつさげて船に乗り給ふ。首をば敵に取られねども、痛手なれば死ににけり。さしも不便にし給ひし菊王を射させ、そののちはいくさもし給はず。船をば沖へおし出ださる。 判官も、手負うたる嗣信を陣のうしろへ舁かせ、手を取つて、「いかに、いかに」とのたまへば、息の下に、「今はかう」とぞ申しける。判官涙をながし給ひて、「この世に思ひおくことあらば、義経に言ひおけ」とのたまへば、世にも苦しげに申しけるは、「などか思ひおくことのなくては候ふべき。まづ奥州に候ふ老母のこと、さては、君の御世を見たてまつらず、先に立ちまゐらするこそ、冥途の障りにて候へ」と、これを最後のことばにて、二十八と申す二月十八日の酉の刻、讃岐の屋島が磯にてつひに死ににけり。 判官かなしみ給ひて、「この辺に僧やある」とのたまへば、僧一人たづね出だしたり。判官、この
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僧に向かつて、「ただ今果つるもののふがために、経を書き、とぶらひて賜び候へ」とて、秘蔵の馬をぞ引かれける。黒き馬の太くたくましきに、金覆輪の鞍おいたり。 この馬と申すは、一の谷鵯越を落され、あまり秘蔵におぼしめして、五位の尉にならせ給ふとき、「五位をこの馬にゆづるなり」とて、「大夫黒」と名づけらる。かかる馬を引かれし心ざしの切なるを見て、「この君の御ために命を捨てんこと、たれか惜しみたてまつるべき」と、感涙身に余り、兵どもみな鎧の袖をぞ濡らしける。第百二句 扇の的 阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷より馳せ来たつて加はる。源氏の勢ほどなく三百余騎にぞなりにける。「今日は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんとするところに、沖の方より尋常にかざりたる小船一艘、なぎさに寄す。「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まことに優なりけるが、船中より出でて、みな紅の扇の日出だしたるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向かひてぞ招きける。 判官、後藤兵衛を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとこそ候ふらめ。ただしはかりごとごさんなれ。大将軍さだめてすすみ出でて、傾城を御覧ぜんずらん。そのとき手だれをもつて射落さんと候ふか。扇をばいそぎ射させられべうや候ふらん」と申しければ、
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「射つべき者はなきか」。「さん候。下野の国、那須の太郎助孝が子に、与市助宗こそ小兵なれども手はきいて候へ」。「証拠はあるか」。「さん候。翔け鳥を三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。「さらば召せ」とて、召されたり。 与市そのころ十八九なり。褐に、赤地の錦をもつてはた袖いろへたる直垂に、萌黄にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、その日のいくさに射残したるに、薄切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬための鏑差し添へたり。二所籐の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこまる。判官、「いかに与市、傾城のたてたる扇のまつ中射て、人にも見物させよ」とのたまへば、与市、「これを射候はんことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方の長ききずにて候ふべし。自余の人にも仰せつけらるべうや候」と申せば、判官怒つて、「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむくべからず。それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるべし。そのうへ多くの中より一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかたつべき」とぞのたまひける。与市、「かさねて申してあしかりなん」と、御前をついたつて、月毛駮なる馬に黒鞍おき、うち乗り、なぎさの方へあゆませゆれば、兵ども追つ様にこれを見て、ふりかかりしづまりて、「一定この若者はつかまつらんとおぼえ候」と口々に申せば、判官もよにたのもしく思はれけり。 なぎさよりうちのぞんで見れば遠かりけり。遠干なれば馬
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の太腹ひたるほどにうち入るれば、いま七八段ばかりと見えたり。をりふし風吹いて、船、ゆりすゑ、ゆりあげ、扇、座敷にもさだまらずひらめきけり。沖には平家、一面に船を並べて見物す。うしろを見れば、みぎはに味方の源氏ども、轡を並べひかへたり。いづれも晴ならずといふことなし。なほ風しづまらざれば、扇、座敷にもさだまらず。与市、いかがすべき様もなくて、しばらく天に仰ぎ祈念申しけるは、「南無帰命頂礼、御方を守らせおはします正八幡大菩薩、別してわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまつ中射させて賜ばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り、海に沈み、大龍の眷属となつて長く武士の仇とならんずるなり。弓矢の名をあげ、いま一度本国へ迎へんとおぼしめされ候はば、扇のまつ中射させて賜はり候へ」と心のうちに祈念して、目をひらき見たりければ、風もすこししづまり、扇も射よげにぞなつたりける。小兵なれば十三束、鏑取つてつがひ、しばしたもちて放つ。弓はつよし、浦にひびくほどに鳴りわたりて、扇のかなめより上一寸ばかりおいて、ひやうふつと射切つたれば、扇こらへず三つに裂け、空へあがり、風に一もみもまれて、海へざつとぞ散りたりける。みな紅の扇の日出だしたるが、夕日にかがやいて、白波の上に、浮きぬ、沈みぬゆられければ、沖には平家船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。 あまりおもしろさに、感にたへざるに
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や、船のうちより齢五十ばかりの男の、黒革縅の鎧着て、白柄の長刀持ちたる武者一人出で来つて、しばし舞うたりけり。伊勢の三郎、与市がうしろへあゆませ寄つて、「御諚にてあるぞ。にくい、奴ばらが今の舞ひ様かな。つかまつれ」と言ひければ、中差取つてつがひ、よつぴいて射る。しや首の骨、ひやうふつと射通され、舞ひ倒れに倒れけり。源氏方いよいよ勝に乗つてぞどよみける。 平家の方には音もせず。「本意なし」とや思ひけん、小船一艘なぎさへ寄す。長刀持ちたる者一人、楯つき一人、弓持ち一人、船のうちよりみぎはに上がりて、「源氏方にわれと思はん兵寄せよや」とぞののじりける。判官見給ひて、「にくいやつかな。馬つよからん者、向かつて蹴ちらせ」とのたまへば、承つてすすむ者たれたれぞ。武蔵の国の住人水尾谷の四郎、同じき十郎、上野の国の住人丹生の四郎、信濃の国の住人木曾の中太をはじめとして、五騎つれてぞ駆けたりける。 まつ先にすすんだる水尾谷が馬の鞅づくしを、平家の楯のかげより筈のかくるるほどに射こまれて、馬は屏風を返すがごとし。主は右手の足を越し、馬の頭にゆらと乗り、やがて太刀をぞ抜いたりける。楯のかげより大長刀うち振つて出でたりける。「あれは長刀、われは小太刀。かなはじ」とや思ひけん、かい伏して逃げてゆく。追うて薙ぐかと見れば、いかがはしたりけん。長刀脇にかいはさみ、兜の鉢をつかまんとす。「つかまれじ」と逃げけるが、取りはづし、取りはづし、四度目にむずとつかみ、しばしたもつて見え
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けり。水尾谷もつよかりけるやらん、鉢つけの板ふつとひき切つて、味方のなかへ逃げ入り、しばらく息をぞやすめける。敵やがても追うても来ず。ひき切つたる錣をさしあげ、「平家の侍に、上総の悪七兵衛景清」と名のり捨ててぞ帰りける。 判官これを見給ひて、「悪七兵衛ならば、もらすな。射取れや」とて、をめいて駆け給へば、三百余騎つづいて駆く。平家方にもこれを見て、「悪七兵衛討たすな」とて、小船百艘ばかりなぎさへ寄す。楯の端を牝鶏羽につきむかへて、「源氏寄せよ」と招きかく。源氏三百余騎、馬のひづめをたて並べ、をめいて駆く。乱れあひてしばし戦ふ。平家の兵みなかちだつたり、楯ども散々に駆けちらされて引きしりぞくところを、源氏は馬の足のおよぶほど攻め戦ふ。 判官あまりに深入りし給ふほどに、船のうちより熊手を出だして、判官の兜にうちかけて、えい声を出だして引き落さんとす。味方の兵馳せ寄せて、熊手をうち払ひ、うち払ひ、戦ひけり。判官弓をかけ落されて、鞍爪ひたるほどにうち入れて、鞭の先にてかき寄せ、「取らん。取らん」とし給へば、しきりに熊手をうちかけけり。陸の者ども、「ただ捨ててしりぞかせ給へ」と、面々に申しけれども、判官つひに取り給ふ。兵ども、「たとひ千金万金の御だらしなりといふとも、御命には代へさせ給ふべきか」と口々に申しければ、判官、「まつたく弓を惜しむにあらず。叔父八郎為朝が弓なんどなりせば、わざとも浮かべて見すべけれども、〓弱たる弓を、平家に取つて、『これこそ源氏の大将
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の弓。強いぞ。弱いぞ』と、あざけられんが口惜しければ、命に代へて取つた〔る〕ぞかし」とのたまへば、みなこのことばをぞ感じける。 「今日は暮れぬ。明日のいくさ」と定めて、源氏引きしりぞき、当国牟礼、高松に陣を取る。源氏は三日があひだ寝(ね)ざりけり。渡辺より三日に渡るところを、ただ三時に渡りたれば、その夜は大波にゆられて寝ねず。明くれば勝浦のいくさして、夜もすがら中山越えて、今日も一日たたかひ暮らし、みなつかれはてて、あるいは兜を枕とし、あるいは鎧の袖を片敷き、前後も知らずうち臥したり。 そのなかに、判官と伊勢の三郎は寝ねざりけり。判官は高き所にあがりて遠見し給へば、義盛はくぼみに隠れて、「敵寄せば」とて、片手矢はげてぞ待ちかけたる。 そののち平家方より、「寄せて夜討にせん」と、能登殿大将にて、ひた兜五百余騎向かひけるが、越中の次郎兵衛盛嗣と、美作の住人江見の次郎盛方と先をあらそふあひだに、その夜むなしく明けにけり。夜討にだにもしたりせば、源氏はその夜滅ぶべかりしを、平家の運のきはまるところなり。平家も引きしりぞき、当国志度の道場にぞ籠られける。第百三句 讒言梶原 同じく十九日、判官、伊勢の三郎義盛を召して、「阿波の民部成能が嫡子田内左衛門教能、河野を攻めに伊予の国へ越えたんなるが、これにいくさありと聞き
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て、今日はさだめて馳せ向かふらん。大勢入れたててはかなふまじ。なんぢ行き向かひ、よき様にこしらへて召して参れ」とのたまへば、伊勢の三郎、「さ候はば、御旗を賜はつて向かひ候はん」と申す。「もつともさるべし」とて、白旗をこそ賜はりけれ。 その勢十六騎にて向かふが、みな白装束なり。兵どもこれを見て、「三千余騎が大将を、白装束十六騎にて向かひ、生捕にせんことありがたし」とぞ笑ひける。 案のごとく、田内左衛門、「屋島にいくさあり」と聞きて馳せまゐる。道にて、義盛行き逢うたり。白旗ざつとさしあげければ、「あはや、源氏よ」とて、これも赤旗さしあげたり。伊勢の三郎、田内左衛門にあゆみ寄つて申しけるは、「かつうは聞き給ひつらん。鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿、西国の討手の大将に向かはせ給ひたり。一昨日御辺の叔父、桜間の介討たれまゐらせぬ。昨日屋島に寄せて、内裏や御所ども焼きはらひ、一日合戦の候ひしに、平家の人々数をつくして討たれ給ひぬ。そのなかに新中納言、能登殿ばかりぞようはおはせし。大臣殿の父子も生捕りぬ。そのほか生捕どもあまたあり。御辺の父民部の大夫も降人に参られたるを、義盛が預かり申して候。今宵夜もすがら嘆きて、『あはれ、この教能がこの世のありさまを知らずして、明日参り、合戦し、討たれまゐらせ候ひなんず。か様に預かり給ふも、前世の宿縁にてこそ候ふらめ。しかるべく候はば、御辺行き向かつて、教能にこのことを知らせて、いま一度見せ給へ』と嘆かれ候ふあひだ、参りたり」と言へば、田内左衛門、
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うちうなづいて、「かつ聞くことすこしも違はず」と言うて、やがて兜をぬぎ弓をはづし、降人にこそなりにけり。これを見て、三千余騎の兵ども、弓をはづして従ひけり。 義盛、白装束十六騎にて、三千余騎の軍兵を従へて具して参る。平家いくさには負けたれども、大臣殿父子も生捕にせられ給はず。また民部の大夫も降人にも参らず。判官、いくさに勝つて馬よりおり、坐つてやすみ給ふところに、おめおめと召されて参る。やがて鎧ぬがせて召しおかれ、人に預けらる。「さて、従ふところの軍兵どもはいかに」とのたまへば、「これは吹く風に草木のなびくがごとし。いづれにてもましませ、世の乱れをしづめ、国を知ろしめさん人を上とせん」とぞ申しける。「もつともさるべし」とて、みな勢にぞ具せられける。 熊野の別当湛増、この日ごろは平家に従ひたりけるが、源氏すでに強ると聞いて、五十余艘の船に乗り、紀伊の国田辺の浦よりおし出だし、四国の地に渡つて、源氏につきぬ。伊予の国の住人、河野の四郎通信、五百余騎にて馳せ来たり、これも一つになりにけり。 平家は、「田内左衛門、生捕にせられぬ」と聞こえしかば、讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、潮に引かれて、いづくともなくゆられ行くこそかなしけれ。 二十二日巳の刻に、渡辺にとまりたる二百余艘の船ども、梶原を先として、屋島の磯にぞ着きにける。人笑ひあへり。「六日の菖蒲、会にあはぬ花、〔祭〕ののちの葵か」なんどとぞ申しける。
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 そのころ、住吉の神主長盛の、院の御所へ参りて、「去んぬる十六日丑の刻に、当社第三の神殿より鏑の音出でて、西をさして行きぬ」と奏聞す。法皇御感のあまりに、色々の幣帛、種々の神宝を神主長盛に仰せて、大明神へ参らせ給ひけり。 昔神功皇后、新羅を攻めさせ給ひしに、伊勢大神宮、二神の荒御前をさしそへ給ひけり。船の艫舳に立つて、異国をたひらげまします。一神は信濃の国諏訪の郡にあがめられ給ふ大明神これなり。一神は摂津の国住吉の郡にとどまり給ふ住吉大明神これなり。「上古の征伐をおぼしめし忘れず、今また朝の怨敵を滅ぼし給ふべき」と、たのもしかりける事どもなり。 判官、周防の地におし渡つて、兄の三河守と一つになり、鎮西へ渡らんとす。「平家は長門の引島に着き給ふ。源氏は当国赤間が関に着く」とぞ聞こえける。源氏の船は三千余艘。平家の船は千余艘。平家の船のうちには唐船もありけるとかや。源氏の勢はかさなれども、平家の勢は落ちぞゆく。 三月二十四日卯の刻に、長門の国壇の浦、赤間の関にて、源平矢合せとぞ定めける。その日すでに判官と梶原といくさせんとすることあり。梶原、判官に申しけるは、「今日の先陣をば侍のうちに賜はり候へ」と申せば、判官、「義経がなからんにこそ」。「まさなや。君は大将軍にてまします」と申せば、「鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行を承つたれば、ただおのおのと同じことぞ」とのたまへば、梶原
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先陣を所望しかねて、「天性この殿は侍の主にはなりがたし」とぞつぶやきける。判官、「総じてなんぢは烏滸の者ぞ」とのたまへば、「こはいかに、鎌倉殿のほかは主持ちたてまつらぬものを」と申す。判官、「につくいやつかな」とて、太刀に手をかけ、立ちあがらんとし給へば、梶原も太刀に手をかけ、身づくろひするところに、三浦の介、土肥の次郎むずと中にへだたりたてまつる。三浦の介、判官に申しけるは、「大事を御目の前にあてさせ給ふ人の、か様に候はば、敵に力をそへさせ給ひなんず。なかんづく、鎌倉殿のかへり聞かせ給はんところも穏便ならず」と申せば、判官しづまり給ふうへは、梶原すすむにおよばず。これより梶原、判官をにくみはじめて、つひに讒言してうしなひけるとぞ聞こえける。第百四句 壇の浦 同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。上は梵天にも聞こえ、下は海龍神までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。門司、赤間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮なれば、源氏の船は潮に引かれて心ならず引き落さる。平家の船は潮に追うてぞ来たりける。沖は潮の早ければ、なぎさについて、梶原、敵の船の行きちがふ所を熊手うちかけて、乗りうつり、乗りうつり、散々に戦ふ。分捕あまたしたりければ、その日の功名の一にぞつきたりける。
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 新中納言知盛、船の舳に立つて、「いくさは今日をかぎりなる。おのおのすこしもしりぞく心あるべからず。天竺、震旦、わが朝にならびなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力およばず。さりながら東国のやつに弱気見すな。いつのために命をば惜しむべきか。これのみぞ知盛は思ふこと」とのたまへば、飛騨の三郎左衛門景経[* 「かねつね」と有るのを他本により訂正]、「仰せ承れや、侍ども」とぞ申しける。悪七兵衛景清が申しけるは、「中坂東のやつばらは、馬に乗りてこそ口はきき候ふとも、船のうちにはいつ調練し候ふべき。魚の木にのぼりたる様にこそ候はんずれ。されば、しやつばら、一々に取つて海につけ候はん」とぞ申しける。越中の次郎兵衛申しけるは、「九郎判官は色白き男の、たけ低く、向かふ歯二つさし出でて、ことにしるかんなる。心こそ猛くとも、何事のあるべき。目にかけて、ひつ組んで海に入れや、殿ばら」とぞ申しける。 新中納言、大臣殿の御前に参りて申されけるは、「今日は侍ども事よげに見え候。一定いくさこそつかまつらんとおぼえ候へ。そのなかに阿波の民部成能ばかりこそ、心変り候ふやらむ、気が変つて見え候へ。きやつが首を切り候はばや」と申されければ、大臣殿、「いかに、見えたることもなくて首をば切るべき。成能召せ」とて、召されけり。木蘭地の直垂に洗革の鎧着て、御前にかしこまる。「いかに、成能、日ごろの様に『侍ども、いくさようせよ』なんど掟をばせぬぞ。なんぢ心変りしたるか。臆したるか」とのたまへば、「ただいま何事にか臆し候ふべき」とて、事もなげに御前をまかり立つ。
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中納言、「あつぱれ、しやつが首を切らばや」と思はれけれども、大臣殿の許しなければ、切り給はず。 平家は千余艘の船を三手に分かつ。先陣は、山鹿の兵頭次秀遠五百余艘、二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。先陣にすすみたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけるに、鎧も、楯も、射通さる。源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。平家はこれを見、「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打つて、よろこびの鬨をつくる。 陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかへて戦ひけり。そのうちに相模の国の住人、三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、ひかへて戦ひけるが、三町がうちの者は射はづさず。三町余里沖に浮かびたる〔新〕中納言の船を射越して、自箆の大矢を一つ波の上にぞ射浮かべたる。和田の小太郎、扇をあげて、「その矢こなたへかへし賜ばん」とぞ招きける。新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆に鵠の羽にて矧いだる矢の、十三束三伏ありけるが、沓巻のうへ一束おきて、「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもつて書きたりけり。伊予の国の住人、新居の紀の四郎親家を召して、「この矢射かへせ」とのたまへば、親家異議も申さず、わが弓に取つてつがひ、射たりけり。沖より三町あまりをつと射わたし、和田が左手の肩を箆打ちにうつて、つれてひかへたる武蔵の国の住人、石迫の太郎が小がひなに、沓巻までこそ射込うだれ。和田の小太郎、「われに過ぎたる大矢なしと思ひ、射かへさせたり」
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と、一家の兵どもに笑はれて、腹を立てて馬よりおり、小船に乗つておし出ださせ、平家の船の中をおしめぐり、おしめぐり、さしつめ、ひきつめ射けるに、面を向くる者なし。 平家の方より、また判官の船に大矢を一つ射たてて、「その矢こなたへ賜ばん」とぞ招きける。召し寄せて見給へば、白箆に鶴の本白にて矧いだる矢の、十四束ありけるに、ただいま書きたるとおぼえて、「伊予の国の住人新居の紀四郎親家」とぞ書いたりける。後藤兵衛実基を召して、「この矢射かへしつべき者はなきか」とのたまへば、「などかは候はざるべき。甲斐源氏のなかに、浅利の与市殿こそおはすらめ」。「さらば」とて、召されけり。与市小船に乗りて出で来る。「いかに浅利殿。この矢射かへせ」とのたまへば、この矢賜はり、つまよつて見て、「この矢は矢束が短う、箆も弱く候。義成が矢にてつかまつらん」とて、大中黒にて矧いだる矢の十五束ありけるをつがひ、しばしたもちてひやうど射る。遠矢射て、思ふことなく大船の艫に立つたる新居の紀四郎が内兜、あなたへづんど射出だされて、船底へぞ倒れける。 さるほどに、源平みだれあひ数刻たたかふ。白雲一むら、源氏の船の陣の上にたなびいて見ゆるが、雲にてはなかりけり。主なき旗一流れ舞ひくだつて、源氏の船の舳先、棹付の緒つくるほどに見えて、また空へぞのぼりける。兵どもこれを見て、いそぎ手水うがひどもして拝みたてまつる。今日源氏の負けいくさと見えしところに、この瑞相を見て、「これほどに八幡大菩薩の守護せさせ給はんずるに、いかでかいくさに勝たざるべき」とぞいさみあひ
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ける。 いるかといふ魚一二千、平家の船に向かうてはみければ、大臣殿、都より召し具したる晴延といふ陰陽師を召されて、「きつと勘へ申せ」と仰せければ、晴延勘へて、「このいるか、はみ通り候はば、御方のいくさ危う候ふべし。はみかへり候はば、源氏滅び候ふべし」と申しもはてねば、いるか平家の船の下をはうでぞ通りける。 阿波の民部成能は、三が年のあひだ、平家に忠を尽くしてありけれども、嫡子田内左衛門を源氏の方へ生捕られて、恩愛の道のかなしさは、「いま一度見ん」と思ひければ、たちまちに心変りして、赤じるし切り捨て、源氏の方へぞつきにける。平家は唐船には次さまの者を乗す。「源氏さだめて唐船を攻めんずらん」とてなり。兵船にしかるべき人々を乗せて、「源氏を中にとり籠めて討たん」と支度したりけるところに、成能返り忠して、「唐船にはよき人乗り給はぬぞ。兵船射よ」と教へければ、さしあはせて散々に射る。さてこそ支度相違してんげれ。 ただ今まで従ひついたりけん四国、西国の兵、君に向かうて弓を引き、主に向かうて太刀を抜き、かの岸へ着けんとすれば、波高うしてかなはず、この浦に寄らんとすれば、敵待ちかけて討たんとす。源平の国あらそひ、今日をかぎりと見えたりけり。水手、梶取ども、うち殺され、斬りふせられ、船底に倒れふためき、叫ぶ声こそかなしけれ。
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第百五句 早鞆
 新中納言知盛、御所の御船に参り給ひて、「女房たち、見苦しきものどもみな海に沈め給へ」とのたまへば、女房たち、「この世の中は、いかに、いかに」とのたまふ。新中納言いとさわが[* 「さをが」と有るのを他本により訂正]ぬ体にて、「いくさはすでにかう候ふよ。今日よりのちは、めづらしき東男こそ御覧ぜんずらめ」とうち笑ひ給へば、「なんでふ、ただ今のたはぶれぞや」とぞをめき叫び給ひける。 二位殿、先帝をいだきたてまつり、帯にて二ところ結ひつけたてまつり、宝剣を腰にさし、神璽を脇にはさみ、練袴のそばを高くはさみ、鈍色の二衣うちかづき、すでに船ばたに寄り給ひ、「わが身は君の御供に参るなり。女なりとも敵の手にはかかるまじきぞ。御恵みに従はんと思はん人は、いそぎ御供に参り給へ」とのたまへば、国母をはじめたてまつり、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍以下の女房たちも、「おくれまゐらせじ」ともだえられけり。 先帝、今年は八歳。御年のほどよりもおとなしく、御髪ゆらゆらと御せな過ぎさせ給ひけり。あきれ給へる御様にて、「これはいづちへぞや」と仰せられければ、御ことばの末をはらざるに、二位殿、「これは西方浄土へ」とて、海にぞ沈み給ひける。 あはれなるかなや、無常の春の風、花の姿をさそひたてまつる。かなしきかなや、分段の荒波に龍顔を沈めたてまつる。殿を長生殿となぞらへ、
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門を不老門とことよせしに、十歳にだにも満たせ給はで、雲上の龍下つて海底の魚とならせ給ふ。 国母もつづいて入らせ給ひけるを、渡辺の右馬允番といふ者、熊手をおろして御髪にかけ、取りあげたてまつる。女房たち生捕にせられておはしけるが、「あさましや、あれは女院にてわたらせ給ふぞ」とのたまへば、そのとき、番、鎧唐櫃より、新しき小袖一かさね取り出だし、しほたれたる御衣に召しかへさせたてまつる。北の政所、臈の御方、帥の典侍以下の女房たち、みなとらはれ給ひけり。 本三位の中将の北の方大納言の典侍、内侍所の御櫃を取りて海へ入れんとし給ふが、袴のすそを船に射つけられて蹴つまづき給ふところを、兵取りとどめたてまつり、御唐櫃の錠をねぢ切つて、御蓋あけんとしければ、たちまち目くれ、鼻血垂る。平大納言時忠の卿生捕られておはしけるが、これを見て、「あな、あさましや。あれ内侍所と申す、神にてわたらせ給ふものを。凡夫は見たてまつらぬことを」とのたまへば、九郎判官、「さることあらんずるぞ。そこのけよ」とて、平大納言に申して、もとのごとく納めたてまつる。末の世なれども、か様に霊験あらたなるこそめでたけれ。 門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟は、手を手に取りくみ、海にぞ沈み給ひける。小松の三位の中将資盛、同じく少将有盛、いとこ左馬頭行盛、入道の四男知盛、これも手を手に取りくみ沈み給ふ。 大臣殿は船ばたに立ち出でて、人々海に沈み
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給へども、その気色もなきを、侍どもあまりのにくさに、海へつき入れたてまつる。御子右衛門督、これを見てつづいて海へぞ入り給ふ。大臣殿は、「右衛門督沈まば、われも沈まん」と思はれけり。また右衛門督は、「大臣殿沈み給はば、ともに沈まん」と、二人の人々、ややひさしう波の上に浮かんでおはしけるを、伊勢の三郎、船を漕ぎよせ、熊手をおろして、右衛門督を取りあげたてまつる。大臣殿、いとど沈みもやり給はず、同じく生捕られ給ひけり。 大臣殿の御乳人、飛騨の三郎左衛門景経、「わが君取りあげたてまつるは何者ぞ」とて、太刀を抜ぎ、伊勢の三郎に打ちてかかる。義盛、あぶなく見ゆるところに、ならびの船に立ちたる堀の弥太郎、よつぴいて射る。飛騨の三郎左衛門が内兜射させてひるむところを、弓を捨てむずと組む。三郎左衛門手負うたれども、ちともおくれず、上になり下になりころびあふところに、堀が郎等、三郎左衛門が草摺ひきあげ、二刀刺す。内兜も痛手なり、景経つひに討たれにけり。大臣殿、「身にかはりても」と思はれける乳人子のなりゆくありさまを見給ひて、さこそかなしく思はれけん。 能登の前司教経は矢だね尽き、「今は最後」と思はれければ、赤地の錦の直垂に緋縅の鎧着て、源氏の船に乗りうつり、白柄の長刀茎短かに取つて薙ぎ給へば、兵おほく滅びにけり。新中納言見給ひて、使にて、「詮なきしわざかな。あまりに罪なつくり給ひそ。さればとてしかるべき者にてもなし」とのたまへば、「さては、このことば、『大将軍
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に組め』とごさんなれ」とて、そののちは、源氏の船に乗りうつり、乗りうつり、おし分け、おし分け、九郎判官をたづね給ふ。 思ひのままにたづね逢うて、よろこび、打つてかかる。判官、「かなはじ」とや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、一丈ばかりゆらと跳び、味方の船にのび給ふ。能登殿心は猛けれども、早業や劣られけん、つづいても越え給はず。判官殿まぼらへて、「これほど運尽きなんうへは」とて、長刀海へ投げ入れ、兜もぬいで海へ入れ、鎧の袖をかなぐり捨て、大童にて立ち、「われと思はん者、教経生捕り、鎌倉へ具して下れ。兵衛佐にもの言はん。寄れや。寄れや」とのたまへども、寄る者なかりけり。 ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官の御前にすすみ出でて申しけるは、「能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ幼き者不便にあづかるべし」と申せば、判官、「神妙に申したり。子孫においては疑ひあるまじき」とのたまへば、安芸の太郎主従三人、小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。能登の前司、先にすすみたる郎等を、「にくいやつかな」とて、海へざんぶと蹴入れらる。太郎をば左の脇へはさみ、次郎をば右の脇にはさみ、一しめ締めて、「いざうれ。さらば、おのれら死出の山の供せよ」とて、生年二十六にてつひに海へぞ入り給ふ。
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 新中納言これを見て、伊賀の平内左衛門家長を召して、「今は見るべきことは見はてつ。ありとてもなにかせん」とのたまへば、平内左衛門、「日ごろの約束ちがひたてまつるまじ」とて、寄つて、鎧二領着せたてまつりまゐらせ、わが身も二領着、手を取り組み、海にぞ入りにける。平生「一所に」とちぎりし侍ども二十余人、みな手を取り組み、海へぞ入りにける。 海上には赤旗、赤印、投げ捨て、かなぐり捨てたれば、龍田山のもみぢの嵐に散るがごとし。なぎさに寄する白波も薄紅にぞなりにける。むなしき船は風にまかせて、いづくともなくゆられ行く。 生捕の人々は、内大臣宗盛、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、兵部少輔尹明、僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円、侍には源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、藤内左衛門信康、橘内左衛門季康以下三十八人、女房たちには、国母建礼門院、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍、治部卿の御局以下およそ四十三人とぞ聞こえし。 元暦二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人海の底に沈み、百官波の上に浮かぶらん。国母、官女は、東夷、西戎の手に従ひ、臣下、卿相は数万の軍旅にとらはれて、旧里に帰り給ひしに、あるいは朱買臣が錦を着て故郷へ帰らざることを
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かなしみ、あるいは王昭君が胡国へ向かふ思ひもかくやとおぼえてあはれなり。
第百六句 平家一門大路渡し
 同じく四月三日、西国より早馬、院の御所へ参る。使は源八兵衛広綱とぞ聞こえし。「去んぬる三月二十四日の卯の刻、壇の浦、赤間関、田の浦、門司が関にて、平家つひに攻め落し、内侍所、神璽かへり入らせまします。大臣殿以下、生捕〔ど〕も数十人あひ具してまゐり候」と奏聞しければ、法皇御不審のあまりに、北面に候ふ藤判官信盛を召して西国へつかはす。 同じく十六日、判官、大臣殿以下の生捕あひ具して、明石の浦にぞ着き給ふ。その夜は、月おもしろくして秋の空にもおとらず。女房たち、尽きせぬ思ひのうちにも思ひ出あり。「昔は名のみ聞きし明石の月を、今見ることの不思議さよ」とて、歌を詠みなんどしてなぐさみあはれけり。そのなかに平大納言の北の方帥の典侍、古歌を思ひ出だし、
ながむれば濡るる袂にやどりけり月よ雲井のものがたりせよ W
と泣く泣く口ずさみ給へば、判官、東男なれども、優に艶なる心地してあはれにぞ思はれける。 同じく二十五日、内侍所、鳥羽殿に着かせ給ふ。御迎への公卿には、勘解由の小路の中納言経房、高倉の宰相泰通、殿上人には、権右中弁兼忠、榎並の中将公時、但馬の少将範能ぞ参ら
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れける。御供の武士には、石川判官代義兼、伊豆の蔵人の大夫頼兼、左衛門尉有綱とぞ聞こえし。 その夜、子の刻に、内侍所太政官の朝所へ入らせ給ふ。波の上に浮かびたる神璽は、片岡の太郎親経が取りあげて、判官に奉るとかや。神璽を「しるしの箱」とも申す。 宝剣は長く沈みて見え給はず。かつぎする海人に仰せて求めさせ、また水練長ぜる者を召して求めさせらるれども、見えざりけり。天神地祇幣帛をささげ、大法、秘法を修せられけれども験なし。龍宮に納めてんげるやらん、そののちはいまだ出で来ず。 二の宮、都へ入らせ給はず。都にだにもましませば、この宮こそ位にもつかせ給ふべきに、これも四の宮の御運のめでたくわたらせ給ふによつてなり。御心ならず平家にとられて、この三が年があひだ、西国の波の上にただよはせ給ひしかば、御母儀も、御乳人の持明院の宰相も、「いかなる御ありさまにか聞きなしまゐらせんずらん」とて、朝な、夕な、ただ泣くよりほかのことぞなき。されども、今別の御ことなく帰りのぼらせ給ひたれば、みなよろこびの涙をぞながしあはれける。法皇よりも迎ひに御車をぞ参らせらる。御迎ひには、七条の侍従信清、紀伊守範光とかや。七条の御母儀の御所へ入らせ給ひける。 同じく二十六日、平氏の生捕都へ入る。みな八葉の車に乗せたてまつる。前後の簾をあげ、左右の物見を開かれたり。大臣殿は浄衣を着給ふ。御子右衛門督白直垂着て、父の車の尻
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に乗り給ふ。平大納言時忠の車も同じくやり連れられたり。その子讃岐の中将時実、同車にてわたさるべかりしが、まことに所労にてわたされず。内蔵頭信基は傷をかうぶりたれば、間道よりぞ入りにける。兵前後にうちかこみたり。幾千万といふ数を知らず。 大臣殿は四方を見まはし、いたく思ひしづめる気色も見え給はず。右衛門督は直垂の袖を顔におしあて、目もあげ給はず。さしも優なりし人々の、三が年があひだ潮風にやせ黒み、「その人」とも見え給はぬぞいとほしき。「生捕の人見ん」とて、都のうちにもかぎらず、遠国、近国の貴賤、上下、山々、寺々より老少来り集まる。鳥羽の南の門より四塚まで満ちみちたり。人は顧みることをえず、車は轅をめぐらすことをえず。治承、養和の飢饉、東国、北国の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。 都を出で給ひても中一年、無下にま近きほどなれば、めでたかりしことどもを忘られず、親、祖父の代よりつたはりて召し使はれたる者ども、身の捨てがたさに、みな源氏につきたれども、昔のよしみを忘れねば、涙をながす人多かりけり。 その日、大臣殿の車をつかひける牛飼は、もと召し使はれし三郎丸といふ者なり。弥次郎丸、三郎丸とて兄弟ありつるが、平家都を落ちてのち、弥次郎は木曾に仕へぬるが、木曾討たれてのち出家してんげり。こればかり男にてありけるが、鳥羽にて判官の御前にすすみ出でて申しけるは、「舎人、
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牛飼と申すは下臈のはてにて、心あるべき身にては候はねども、年ごろのよしみ、いかでか忘れたてまつらん。しかるべくんば御許しをかうぶり、今日大臣殿の御車をつかまつらばや」と申せば、なさけ深き人にて、「さるべし」とぞ許されける。三郎丸はよろこび、泣く泣く御車をつかまつる。道すがら車のうちをのみ顧みて涙せきあへず。されば見る人袖をぞしぼりける。 大宮をのぼりに、六条を東にわたされ給ふ。法皇も、六条東の洞院に御車を立て、叡覧あり。公卿、殿上人の車も同じく立て並べられたり。人々これを見給ひて、「『あの人々に、目をも見かけられ、一ことばをも聞かばや』なんどとこそ思ひしに、かく見なすべしとは、はからざりしことを」とぞおのおののたまひあはれける。 ある人言はれけるは、「一年内大臣になりて、祝ひ申しのありしとき、公卿には花山の院の大納言、やがてこの平大納言もおはしき。殿上人、蔵人頭以下十六人前駆して、われおとらじと面々にきらめき給ひし儀式ありさま、優なりしことどもなり。参り給ふところごとに、御前に召されて、御引出物ども賜はられしこと、昔も今もためしすくなかりしに、今は月卿雲客一人もともなはず」。 西国にて同じ生捕にせられし源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、これ二人ぞ白直垂着、馬上にせめつけられてわたされけり。 六条を東へ、河原をわたされてのち、九郎判官の六条堀川の宿所に入れたてまつる。物まゐらせたれども、御覧じも入れられず、ひまなく涙をぞ
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ながさせ給ひける。夜になれども装束だにものけ給はず、袖を片敷き泣き臥し給へり。御子右衛門督そばに寝給ひたりしに、大臣殿、御衣の袖を着せ給へば、守護の武士これを見て、「恩愛とて何やらん。せめての心ざしのいたすところよ」とて、猛き兵もみな袖をぞ濡らしける。 同じく二十八日、前の兵衛佐頼朝、従二位に叙せらる。もとは正四位の下なりしが、越階とて三階【*二階】するぞありがたき朝恩なるに、これはすでに三階なり。三位こそし給ふべかりしが、平家のしたりしを忌まうてなり。それよりしてぞ「鎌倉源の二位殿」とは申しける。 その夜の子の刻に内侍所、温明殿へ入らせ給ふ。行幸なつて、三が夜、臨時の御神楽あり。長久元年九月、永暦元年四月の例とぞ聞こえし。 平大納言時忠の卿も、判官の宿所近くありけるが、なほ命やあしかり【*惜しかり】けん、子息讃岐の中将を呼うで、「散らすまじき文どもを義経に取られたるぞ。この文関東へ見えなば、人も損じなんず。わが身も生けらるまじ」とのたまへば、中将、「判官はなさけ探き男にて、女房なんどの訴へは、いかなる大事をもはなたずと承る。姫君数ましませば、なにか苦しかるべき。一人まみえさせ、親しくなりて、このよし仰せらるべうや候ふらん」と申されければ、「無慚や、われ世にありしときは、女御、后にもとこそ思ひつれ」とのたまへば、「今はそのことおぼしめし寄るべからず」とぞ申されける。当腹の十七になり給ふは、あまりに惜しみ給へば、さきの腹の姫君の二十三になり給ふをぞ
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判官に見せられける。優にやさしき人なれば、判官よろこび給ひて、もとの上、河越の小太郎重頼が娘もありしかども、別の御方に尋常にもてなされけり。あるとき、女房くだんの文のことをのたまひ出だされたりければ、「さること候」とて、あまつさへ封をも解かず、大納言へぞおくられける。時忠よろこびて、すなはち焼かれけるとかや。「いかなることかありつらん、おぼつかなし」とぞ人申しける。 建礼門院は、東山のふもと、吉田の辺にぞたち入り給ひける。中納言法印慶恵と申す奈良法師の坊なりけり。住み荒らして、庭には草ふかく、軒にはよもぎ茂り、簾絶え、閨あらはれて、雨風たまるべき様もなし。花は色々にほへども、主とたのむ人もなく、月は夜な夜なさし入れども、ながめて明かす友もなし。昔は、玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、明かし暮らさせ給ひしに、今は、ありとしありし人には別れはてて、あさましきすまひこそかなしけれ。女房たちもこれより散り散りになり、魚の陸にあがれるがごとく、鳥の巣をはなれたるさまなる。波の上いまさら恋しかりけり。 同じく五月一日、女院御髪おろさせ給ふ。御戒の師には、長楽寺の別当阿証房の上人印西なり。御布施には先帝の御直衣とかや。上人賜はりて、とかくのことばは出ださねども、墨染の袖をぞしぼられける。その期まで召されたれば、御香もいまだ尽きず。形見とてこれまで持たせ給ひしかども、「御菩提のためなれば」とて、泣く泣く取り出だし給ひけり。これを幡にぬひ、長楽寺の正面にかけられ
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けるとぞ承る。 女院、十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政をすすめ、夜は夜をもつぱらにし給ふ。二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立たせましまし、二十五にて院号かうぶらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。入道の御むすめなるうへ、天下の国母にてましませば、とかう申すにやおよぶ。今年二十九にぞならせ給ひける。桃李の粧ひ、なほ匂やかに、芙蓉の姿、いまだおとろへ給はねども、「翡翠のかんざしをつけても、今はなににかせん」と、泣く泣く御様を変へさせ給ふ。人々沈みしありさま、先帝の御面影、いつの世にか忘れ給ふべき。五月の短夜なれども、明かしかね給へば、昔を夢にも御覧ぜず。壁にそむきたる残んの燈火のかすかに、夜もすがら窓をうつ雨の音さびしかりけり。上陽人が上陽宮に閉ぢこめられけんかなしさも、これには過ぎじとぞ見えし。「昔をしのぶつまとなれ」とてやらん、もとの主が移し植ゑたるやらん、軒近く花橘のありけるが、風なつかしくかをりけるをりふし、山ほととぎすおとづれて過ぎければ、御硯の蓋に古歌をかうぞあそばしける。ほととぎす花たちばなの香をとめて鳴くは昔の人やこひしき女院、二位殿の様に水の底にも沈み給はず、武士どもに生捕られ、思ひもかけぬ岩のはざまにぞ明かし暮らさせ給ひける。すまひし宿は煙とあがり、むなしきあと
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のみ残りて茂みの野辺となりつつ、見なれし人の訪ひ来ることもなし。仙家より帰りて七世の孫にあひけんもかくやとおぼえてあはれなり。 本三位の中将重衡の北の方は、五条の大納言邦綱卿の御むすめ、先帝の御乳母、「大納言の典侍」とぞ申しける。「重衡生捕られ給ひぬ」と聞こえしかば、西海の旅の空まで嘆きかなしみ給ひしが、先帝におくれたてまつり、姉の大夫三位と同宿して、日野といふ所におはしけり。「中将、露の命いまだ消えやらぬ」と聞きしかば、「いま一度、見もし、見えばや」とたがひに思はれけれども、かなはねば、ただ泣くばかりにて明かし暮らし給ひけり。
第百七句 剣の巻 上
神代よりつたはれる二つの霊剣あり。「十握の剣」「叢雲の剣」これなり。十握の剣は、素戔烏尊大蛇を切り給ひてのち、「天〔の〕蝿切の剣」と名づけらる。大和の国石の上布留の社にこめられたり。叢雲の剣は、のちに「草薙の剣」と号す。内裏にあつて御守りたりしに、この度長く沈みて見えず。それ神代といつぱ、天神のはじめ、国常立尊は色はありて体なし。虚空にあること煙のごとし。ただ天地陰陽の儀なり。国狭立尊より体はありて面目なし。豊〓渟尊より面目はありて陰陽なし。第四より陰陽
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ありて和合なし。〓土〓尊、沙土〓尊、大戸之道尊、大戸間辺尊、面足尊、〓根尊等なり。第七代伊〓諾、伊〓〓より、天の浮橋のもとにしてはじめて和合のまじはりあり。下界なきことを思ひ、天の逆矛をもつて大海の底をさぐり給ふ。ひきあげまします矛のしただり島となる。「あは、地よ」とのたまへば、「淡路島」と申しけり。それより国々出で来り、山河草木生ひ長じ、また、「主なからんや」とて一女三男生み給ふ。日神、月神、蛭児、素戔烏これなり。日神はこれ天照大神、国を譲り給へり。月神は月読尊、山と岳を譲り給ふ。蛭児は五体不具なれば、天の浮船に乗せたてまつり、大海へ流されしが、摂津の国にかかつて、海を領ずる神となる。西の宮これなり。素戔烏は、「所分なし」とて遺恨あり。つひに出雲の国へ流され給ふ。その国霧が崎、簸の川上の山に、尾、頭八つの大蛇あり。背は苔むして眼は月日のごとし。年々に人を食す。親呑まれて子かなしみ、子呑まれて親嘆く。尊あはれみ〔見〕給へば、老人夫婦泣きゐたりけるがなかに、一人の美女あり。「いかに」と問ひ給ふに、「尉はこれ手摩乳、姥はこれ足摩乳、これなるが娘、『稲田姫』と申す。かの姫大蛇がために今宵餌食にあひあたりぬれば、泣きかなしめり」と申す。尊、あはれにおぼしめし、「姫を得させなば、大蛇を従へん」とのたまへば、「子細にやおよび候」。やがてはかりごとをぞなされける。八つの槽に酒を入れ、中に高く
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棚をかき、つよく八重垣をかまへ、火をとぼし、あかりに姫をよそほへば、八つの槽に影うつる。これを飲みしかば、大蛇、八岐ともに酔ひふしけり。このとき、十握の剣をもつて、段々に斬り給ふに、一つ斬れざる尾あり。あやしみ見給へば、中に一つの霊剣あり。大蛇の尾にありしときは、つねに八色の雲立ちければ、「天の叢雲」と号し、国を、「出雲」と申すなり。さてこそ尊の歌に、
八雲立つ出雲八重垣つまこめて八重垣つくるその八重垣を W
それよりしてこそ三十一字ははじまりけれ。大蛇は風水龍王天下りし、死してのち、近江と美濃とのさかひなる伊吹の明神これなり。姫をばやがて尊へ参らするに、かづらよそほひたる黄楊のつま櫛を、「かたみに」とて、うしろへ投げければ、夫婦これを取りてのち、ふたたびあはず。それより「別れの櫛」とは言ひつたへたり。尊は出雲の国へ宮居ましましき。今の大社これなり。
かの剣は、また天照大神に参らせられ、御仲なほらせ給ひけり。それより代々つたはりしを、第十代の帝、崇神天皇、「同じ殿にはおそれあり」とて、伊勢大神宮へうつしたてまつり給ひけり。十二代の帝、景行天皇四十年の六月、東夷そむけり。第二の皇子倭建尊、官軍を召し具して、同じき十月、都をたたせ給ひ、まづ伊勢大神宮へ参詣ある。御妹の斎の宮をもつて、「帝の御命に従つて東夷にまかり向かふ」よし申し給へば、「つつしんで、怖るることなかれ」とて、
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叢雲の剣を賜はりけり。これを帯いて下り給ふに、かの大蛇、なほいきどほりやまずして大路に伏しはびこる。「破りて通りがたし」とて、官軍みな帰りければ、「不破の関」とは申すなり。倭建尊、もとより剛にましませば、「君命そむきがたし」とて、一人踏み越え給ふ。御足ほとほりたへがたし。心に悲願をおこし、清水にひやし給へば、ほとほり醒めけり。「醒が井の水」これなり。駿河の国まで攻め下りましますに、その国の凶徒、「狩野の遊び」と申しこしらへ、浮島が原へ具足し申し、四方の野に火をつけ、「焼き殺したてまつらん」とせしとき、御剣にて三十余町の草を薙がれければ、すなはち燃え退きぬ。それよりしてぞ「草薙の剣」とは申したてまつる。かくて三年のうちに東を攻めしたがへ、同じき四十三年癸未に帰りのぼらせ給ふが、御下りのとき、尾張の国松が小島といふ所の源太夫が娘岩戸姫に一夜の契りあさからずして、また、たち寄らせ給ふ。御悩つかせましまして、生捕の夷どもを武彦の宮に仰せて、帝へ奉り、近江の国千本の松原といふ所に悩み臥し給ひしを、岩戸姫心もとなくおぼしてたづねゆかれければ、尊うれしさのあまりに、「あは、つま」とのたまへば、東を「あづま」と名づけられけり。尊はたち帰り、松が小島にてはて給へば、国を「尾張」と申すなり。白き鳥となりて、西をさして飛び去りぬ。「白鳥塚」これなり。剣を田作りの記太夫といふ者が田なかの杉原に暫時寄せかけ置かれたれば、剣の光燃えたちて、杉みな焼けにけり。今
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の熱田これなり。倭建尊は大明神と現じ給ふ。岩戸姫も、源太夫も、田作りの記太夫も同じく神とぞ斎はれける。幡納められし所をば、「幡屋」と号して今にあり。頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける。剣はそのまま熱田の宮にこめられしを、天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。なほ望みをかけしゆゑ、生不動といふ聖に七つの剣を持たせ、日本へ渡さる。尾張の国へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。七つの剣、御剣にくはへて宝殿に斎はれけり。今の「八剣〔の〕大明神」これなり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に内裏に納めたてまつり給ひ、「宝剣」と名づけらる。昔はかうこそありしに、今海底に沈みし末の世こそうたてけれ。つらつら事の心を案ずるに、大蛇の執着深かりければ、みな彼が化身にて、「剣をとらん」としてんげるにや。不破の関の大蛇も、沙門道行、生不動、みなこの化身なり。あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。
第百八句 剣の巻 下
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源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申(まう)しけり。人皇五十〔六〕代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申(まう)し奉(たてまつ)る。その御子経基六孫王、その嫡子(ちやくし)多田の満仲、上野介たりし時(とき)、源の姓を賜(たま)はつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。筑前の国御笠の郡出山といふ所(ところ)より鍛冶の上手を召されけり。彼もとより名作なる上(うへ)、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳(ゐとく)をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりもわが人なれば、氏子をまぼり給(たま)ふらめ、しからばかの太刀(たち)を剣となし、源氏(げんじ)の姓の弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御(おん)社を出でにけり。やがて都(みやこ)へのぼり、最上の鉄(くろがね)を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今(いま)一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。満仲の嫡子(ちやくし)、摂津守頼光につたはりける。かの時(とき)人多(おほ)くかき消す様に失せにければ、恐ろしかりしことどもなり。これを詳しく尋(たづ)ぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女、あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼(おに)となり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申(まう)しける。神は正直なれば、示現(じげん)あらたなり。やがて都(みやこ)に帰り、丈(たけ)なる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹
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をぬる。頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝(きも)を消し、やがて鬼(おに)とぞなりにける。「宇治の橋姫」とはこれなり。「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。京中、申(さる)の刻(こく)よりのちは門を閉ぢて音もせず。そのころ、頼光(よりみつ)の郎等(らうどう)に「渡辺(わたなべ)の源四郎(げんしらう)綱(つな)」といふ者(もの)有り。武蔵(むさし)の国(くに)箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]といふ所(ところ)にて生(む)まれければ、箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]の源四(げんし)と申(まう)しけり。頼光(よりみつ)の使として、一条(いちでう)大宮(おほみや)につかはしけるが、夜陰(やいん)におよび、馬(むま)に乗(の)り、おそろしき世(よ)の中(なか)なればとて、鬚切をはかせらる。一条(いちでう)堀川(ほりかは)の戻橋(もどりばし)にて、齢(よはひ)二十あまりの女房(にようばう)の、まことにきよげなるが、紅梅(こうばい)の薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱(つな)がうち過ぐるを見て、夜(よ)ふけおそろしきに、送り給(たま)ひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱(つな)馬(むま)より飛んでおり、子細にやおよび候(さうら)ふべきとて、いだいて馬(むま)に乗(の)せ、わが身も後輪(しづわ)にむずと乗(の)り、堀川(ほりかは)の東(ひがし)を南(みなみ)へ行きけるに、女房(にようばう)申す様(やう)、わが住む所(ところ)は都(みやこ)のほか。おくり給はんや」。「さん候(ざうらふ)」とこたへければ、「わが行く所(ところ)は愛宕山ぞ」とて、綱(つな)が髻(もとどり)ひつ掴(つか)んで、乾(いぬゐ)をさして飛んで行く。綱(つな)はちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼(おに)の手切る」と思(おも)へば、北野の社の回廊の上(うへ)にぞ落ちにける。髻(もとどり)につきたる手を取りてみれば、女房(にようばう)の姿(すがた)にては、雪の膚(はだへ)とおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮(こちぢ)みなり。これ
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を持参(ぢさん)しければ、頼光(よりみつ)おどろき給(たま)ひて、播磨(はりま)なる晴明(せいめい)を呼びて問はれければ、「綱(つな)は七日のいとま賜(たま)はつて、仁王経(にんわうぎやう)を購読(かうどく)すべし」とぞ申(まう)しける。第六日(だいむいか)になる夜(よ)、門(もん)をたたく者(もの)有り。「たれ」と問へば、「綱(つな)が養母、渡辺(わたなべ)よりのぼりたる」とこたふ。この養母と申(まう)すは、綱(つな)がためには伯母(をば)なり。「人してはあしかりなん」とて、綱(つな)たち寄りて言ひけるは、「七日の物忌(ものいみ)にて候(さうら)へば、いづくにも一夜(いちや)を宿(やど)を借り給(たま)ひて、明日(みやうにち)入らせ給(たま)ふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生(む)まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光(よりみつ)の御(おん)内に、『箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]源四(げんし)』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者(もの)なし。うれしきにつけても、恋しとのみ思(おも)へば、このごろはひとしほ夢見心(こころ)もとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝(ふけう)の咎なれば、神明(しんめい)もまぼり給はじ。七日の祈誓(きせい)よしなし。今(いま)よりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱(つな)は道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋(たづ)ねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。母、「聞きて、さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなるべし。さてその鬼(おに)の手といふなるもの、世の物語(ものがたり)に見ばや」とぞ望みける。綱(つな)は「見せじ」とは思(おも)へども、さきの恨みが肝(きも)に染み、深く封じたる鬼(おに)の手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼(おに)になり、破風蹴破り、出でにけり。それより渡辺党(わたなべたう)
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は家に破風をたてず。あづまやにつくるなり。鬚切、鬼(おに)を切りてより「鬼丸」と改名(かいみやう)しけり。また頼光(よりみつ)、そのころ瘧病(ぎやへい)わずらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)の者(もの)下(くだ)り、頼光(よりみつ)を綱(つな)にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思(おも)はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にて有り。鉄(くろがね)の串にさしてぞさらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申(まう)しける。頼光(よりみつ)よりのち、三河守(みかはのかみ)頼綱(よりつな)につたはる。天喜五年(ごねん)に頼光(よりみつ)の弟、河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)の嫡子(ちやくし)、伊予守(いよのかみ)頼義(よりよし)、奥州(あうしう)の住人(ぢゆうにん)、厨川(くりやがは)の次郎、安倍の貞任(さだたふ)兄弟(きやうだい)を攻めんとせし時(とき)、陸奥守に任ぜらる。宣旨(せんじ)にて鬼丸、蜘蛛切を頼綱(よりつな)が手より頼義(よりよし)に賜びにけり。かの太刀(たち)にて九年があひだに攻め従(したが)へ、貞任(さだたふ)を首を切り、宗任(むねたふ)をば生捕(いけどり)にし、上(のぼ)られけるが、丈(たけ)六尺四寸なり。殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷(えびす)を見ん」とて行かれけるに、一人梅(むめ)の花を手折(たを)りて、「やや宗任(むねたふ)。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、
わが国(くに)の梅(むめ)の花とは見たれども大宮人(おほみやびと)はいかがいふらん
と申(まう)しければ、殿上人しらけてぞ帰(かへ)られける。そののち筑紫(つくし)へ流され、今(いま)の「松浦党(まつらたう)」とぞ承(うけたまは)る。かくて頼義(よりよし)より嫡子(ちやくし)八幡太郎義家(よしいへ)につたはる。また奥州(あうしう)を賜(たま)はつて下(くだ)りしほどに、出羽の国千福(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)に家衡(いへひら)武衡(たけひら)とぢ籠(こも)りて、国を乱す。義家(よしいへ)向かつて、三年に攻め従(したが)へ、あはせて十二年の合戦(かつせん)に、
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朝敵(てうてき)ほろびぬ〔る〕こと、二つの剣の威光(ゐくわう)なり。義家(よしいへ)の嫡子(ちやくし)対馬守(つしまのかみ)、「出雲[* 「てわ(出羽)」と有るのを他本により訂正]の国に謀叛(むほん)の者(もの)有り」とて、因幡(いなば)の正盛(まさもり)を下(くだ)され、かの国(くに)にて討たれしかば、四男六条(ろくでう)の判官(はうぐわん)為義(ためよし)につたはる。十四にて叔父(をぢ)を討ち、左近将監(さこんのしやうげん)に任ぜらる。十八歳にて、南都(なんと)の衆徒(しゆと)の謀叛(むほん)をたひらげ、栗子山の峠(たうげ)より追つ返し、あまさへ物具(もののぐ)はぎなんどしけるも、剣の威徳(ゐとく)とぞおぼえし。その時(とき)山法師聞きてかくぞ詠みける。
奈良法師栗子山までしぶり来ていが物具(もののぐ)をむきぞとらるる
奈良法師やすからざることに思(おも)ひける所(ところ)に、山法師、阿波の上座(じやうざ)といふ者(もの)にたばかられて禁獄(きんごく)せられたれば、これを栗子山の返答(へんたふ)にかくなん。
ひえ法師(ほふし)あはの上座(じやうざ)にはかられてきびしく牢につかれおるかな
為義(ためよし)勧賞(くわんしやう)に右衛門尉(ゑもんのじよう)になる。三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義(よりよし)、義家(よしいへ)、数年(すねん)の戦(たたか)ひ有り。門出(かどで)あしければ他国(たこく)を賜(たま)はるべし」と仰せ下(くだ)さる。「先祖(せんぞ)の国(くに)賜(たま)はらずして、なにかせん」とて、つひに受領(じゆりやう)せざりけり。ある時(とき)、かの剣夜もすがら吠ゆる声(こゑ)有り。鬼丸は獅子の声(こゑ)なり。蜘蛛切は蛇の鳴く声(こゑ)なり。かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。為義(ためよし)、思(おも)ひ者(もの)あまた有りければ、男女(なんによ)四十六人の子なり。熊野(くまの)に有りけるは、「鶴原(たづはら)[* 「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の女房」とぞ申(まう)しける。その腹に娘(むすめ)有り。白河(しらかは)の院(ゐん)熊野(くまの)〔へ〕参詣(さんけい)
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有りし時(とき)、「別当(べつたう)は」と御(おん)尋(たづ)ね有りければ、「もとより候はず」と申す。「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠(こも)りたる山伏を、「院宣(ゐんぜん)なれば」とて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。教真(けうしん)別当(べつたう)これなり。「別当(べつたう)は重代(ぢゆうだい)すべき者(もの)なれば、子なくてはかなふまじ」とて、最愛(さいあい)を尋(たづ)ねしに、「為義(ためよし)が鶴原(たづはら)[* 「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の娘(むすめ)」とぞ聞こえし。為義(ためよし)つたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者(しゆぎやうじや)をおさへて合はせられしこと、口惜しき」ことにして、不孝(ふけう)の子のごとし。かかりける所(ところ)に、「源平(げんぺい)国(くに)をあらそふべき」よし、遠国(をんごく)までも披露(ひろう)有り。教真(けうしん)、「この時(とき)与力(よりき)して、不孝(ふけう)をも許さればや」と思(おも)ひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都(みやこ)にのぼりけり。為義(ためよし)聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋(たづ)ぬれば、実方(さねかた)中将(ちゆうじやう)の末葉(ばつえふ)、系図、目録あざやかなれば、対面(たいめん)におよんで、吠丸をこそ引きにけれ。教真(けうしん)別当(べつたう)これを賜(たま)はつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現(ごんげん)に籠め奉(たてまつ)る。昔(むかし)より二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、〔まさるほどにぞつくりける。目貫に烏をつくらせければ、〕「小烏(こがらす)」とぞ申(まう)しける。「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。ある時(とき)二つの剣を、柄、鞘を取り、障子(しやうじ)に寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏(こがらす)が中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。為義(ためよし)、二つの剣を
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嫡子(ちやくし)下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)にゆづられけり。さるほどに、保元(ほうげん)の乱れ出で来る。為義(ためよし)は、父子七人、院(ゐん)の御所へ参(まゐ)らる。義朝(よしとも)一人内裏(だいり)へ召さる。保元(ほうげん)元年(ぐわんねん)七月十一日寅の刻(こく)より辰の刻(こく)まで三時(みとき)のいくさに、新院(しんゐん)負け給(たま)ふあひだ、為義(ためよし)東国(とうごく)へは単己無頼なれば下(くだ)らず。天台山(てんだいさん)にて出家(しゆつけ)して、「義法房(ぎほふばう)」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子(ちやくし)義朝(よしとも)を頼み行かれけり。朝敵(てうてき)なれば力(ちから)およはず、義朝(よしとも)承(うけたまは)つて斬られけるこそ口惜しけれ。同じく舎弟(しやてい)、為朝(ためとも)ばかり助かりて、五人は斬られぬ。腹々の子四人ともに殺さる。為朝(ためとも)は伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。今度(こんど)の勧賞(くわんしやう)に、義朝(よしとも)左馬頭(さまのかみ)になされしが、やがて悪右衛門督(あくゑもんのかみ)信頼(のぶより)にかたらはれて朝敵(てうてき)となり、都(みやこ)を落ちし時(とき)、西近江(にしあふみ)比良(ひら)といふ所(ところ)にて、八幡大菩薩を恨み奉(たてまつ)り、「祖父(そぶ)義家(よしいへ)は、大菩薩の御烏帽子子(えぼしご)として、八幡太郎と号(かう)せしよりこのかた、『弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)においては疑(うたが)ひなし』と思(おも)ひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議(ふしぎ)なれ。ことに剣の威徳(ゐとく)まで劣りはてぬるくやしさよ。今(いま)は放たせ給(たま)ふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現(じげん)有り。「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性(みやうせんじしやう)は、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔(むかし)にかへさば、末(すゑ)はたのもしからん」とて、夢(ゆめ)ははてにけり。義朝(よしとも)うちおどろき、すなはち
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昔(むかし)の名にぞかへされける。「産衣(うぶぎぬ)」といふ鎧(よろひ)に「鬚切」そへて、頼朝(よりとも)にこそゆづられけれ。十二歳。いくさの場よりして、かの太刀(たち)、鎧(よろひ)を着(ちやく)せしは、末代(まつだい)の将軍(しやうぐん)と見なし給(たま)ふぞ奇特なる。塩津(しほづ)の庄司(しやうじ)がもとに一宿し、東近江(ひがしあふみ)へ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。討手(うちて)下(くだ)る」と聞こえしかば、雪山(せつさん)に分け入りぬ。悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)は、飛騨の国(くに)へ落ち行きぬ。頼朝(よりとも)はいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとまる。義朝(よしとも)は朝長(ともなが)を召し具(ぐ)して、美濃の国(くに)青墓の長者(ちやうじや)が宿所へ行かれしが、朝長(ともなが)は痛手(いたで)なれば、自害(じがい)しつ。尾張(をはり)の国(くに)長田の庄司(しやうじ)忠致(ただむね)をたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉(たてまつ)り、御(おん)首に小烏(こがらす)あひそへて、平家の見参(げんざん)に入りしより、小烏(こがらす)は平家の剣となりにけり。頼朝(よりとも)は、雪山(せつさん)を出でて、東近江(ひがしあふみ)、草野の尉(じよう)にやしなはれ、御堂(みだう)の天井(てんじやう)に隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われはつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思(おも)ひ、草野の尉(じよう)を深く頼み、母方の祖父(おほぢ)なればとて、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)にあづけけり。清盛(きよもり)の舎弟(しやてい)三河守(みかはのかみ)頼盛(よりもり)、今度(こんど)の勧賞(くわんしやう)に尾張守(をはりのかみ)になり、弥平兵衛(やひやうびやうゑ)宗清(むねきよ)を下(くだ)さる。頼朝(よりとも)[* 「よしとも」と有るのを他本により訂正]をさがし取つてのぼりければ、やがて宗清(むねきよ)にあづけらる。頼盛(よりもり)の母の尼公(にこう)、死罪(しざい)を申(まう)しなだめ、伊豆の国北条(ほうでう)の蛭が小島へ流され、三十一と申す治承(ぢしよう)四年の夏、一院(いちゐん)の宣旨(せんじ)をかうぶりて、謀叛(むほん)をおこされし時(とき)、熱田(あつた)の宮より申(まう)し乞ひ、鬚切を帯(は)き、
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五畿(ごき)七道(しちだう)を従(したが)へ給(たま)ふ。牛若(うしわか)、その時(とき)当歳(たうざい)なり。九つの年より鞍馬(くらま)へのぼり、東光房(とうくわうばう)円忍(ゑんにん)の弟子(でし)、覚円房(かくゑんばう)に学問(がくもん)し、遮那王(しやなわう)と言ひけるが、十六と申す承安(じようあん)四年の春、五条(ごでう)の橋の辺なる末春(すゑはる)といふ商人(あきんど)と東(あづま)へ下(くだ)り、道にてみづから元服(げんぶく)して、源九郎義経(よしつね)と名のり、権太郎秀衡(ひでひら)を頼みしが、舎兄(しやきやう)の与力(よりき)としてのぼるほどに、合沢(あひざは)にて行き逢ひけり。木曾を誅戮(ちゆうりく)し、摂津(つ)の国(くに)一(いち)の谷(たに)へ向かはんとす。ここに熊野(くまの)の教真(けうしん)が子に、田辺(たなべ)の湛増(たんぞう)、「源氏は母方なれば」とて、為義(ためよし)の手より渡されし膝丸を引きて、見参(げんざん)にこそ入りにけれ。熊野(くまの)より春の山を出でたればとて、名をば「薄緑(うすみどり)」とあらためらる。山陽(さんやう)、山陰(さんいん)、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳(ゐとく)とぞおぼえし。義経(よしつね)、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)らんとせし時(とき)、梶原(かぢはら)が讒言(ざんげん)によつて、かへり上(のぼ)られけるに、剣を箱根(はこね)に籠められけり。建久(けんきう)四年五月二十八日の夜、曾我(そが)兄弟(きやうだい)が夜討(ようち)の時(とき)、箱根(はこね)の別当(べつたう)行実(ぎやうじつ)が手より兵庫鎖(ひやうごぐさり)の太刀(たち)を五郎に得しは、この薄緑(うすみどり)なり。されば名を後代にあげしとかや。その時(とき)鎌倉(かまくら)に召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。
第百九句 鏡の沙汰(さた)
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神代より三つの鏡有り。内侍所(ないしどころ)と申し奉(たてまつ)るは、その一つなり。昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)を閉ぢて、天下(てんが)暗闇となさせましませし時(とき)、よろづの神(かみ)達(たち)集(あつま)りて、こはいかがすべきとはかりごとを思(おも)ひまうけ、榊(さかき)の御四手をささげ、御神楽(みかぐら)を奏し給(たま)ひしかば、天照大神(てんせうだいじん)、岩戸(いはと)を細目に開(ひら)かせ給(たま)ひて、御覧(ごらん)ぜられし時(とき)、世の中少し明(あけ)になりて、集(あつま)らせ給(たま)ひける神々の御顔(おんかほ)白々として見えければ、岩戸(いはと)のうちより面(おも)白しと宣(のたま)ひける。おもしろと言ふ言葉それよりしてぞ始まりける。天照大神(てんせうだいじん)岩戸(いはと)より御目を少し出ださせ給(たま)ふを、集(あつ)まられける神(かみ)達(たち)の、あな目出たやといさまれければ、それよりこそ悦(よろこ)びの言葉を、めでたしとは申すなれ。その時(とき)手力雄命(たぢからをのみこと)と言ふ大力(だいぢから)の神有りしが、えい声(ごゑ)をあげて、岩戸(いはと)をひき開(ひら)き、扉をひきちぎつて、虚空へ遠く投げられける程(ほど)に、信濃国(しなののくに)に落ち着きぬ。戸隠の明神(みやうじん)是(これ)なり。それよりこのかた、日月星宿(しやうしゆく)照り給へば、天照大神(てんせうだいじん)と申し奉(たてまつ)る。岩戸(いはと)をひき破られて、大神(だいじん)あらはれ給へば、千岩破(ちはやぶ)る神と申すなり。その後(のち)よしあれば、又色々の文字書き替ゆるなり。かくて天照大神(てんせうだいじん)岩戸(いはと)に住ませましませし時(とき)、わが子孫(しそん)我(われ)を見まほしく思(おも)はん時(とき)は、此の鏡を見よとて、神(かみ)達(たち)に仰せて、天(あま)の香具山よりあらがねを取り、鋳給(たま)ひけれども、曇りてあしかりければ、末(すゑ)の世にはいかがとて、捨て給(たま)ひぬ。今(いま)紀伊国(きいのくに)日前像と申す所(ところ)なり。次(つぎ)に鋳給へるは、床(しやう)を一つにして御かたちをありありと鋳うつされければ、内侍所(ないしどころ)と名づけて、御子の
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正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさやわれかつかつはやひあまのおしほにのみこと)に譲(ゆづ)り給(たま)ひけり。神といつぱ鏡なり。神はにごれるをきらふ故(ゆゑ)に、「が」の字を中略して、「かがみ」を「かみ」とは申し奉(たてまつ)るなり。御子の尊(みこと)、恋しくおぼしめされし時(とき)は、大神(だいじん)の御形よとて見給へば、亡きあとのしるしを今(いま)、「形見(かたみ)」とは申すなり。それより次第に伝はつて人皇(にんわう)の御代に及(およ)び、九代(くだい)の御門(みかど)、開化天皇(かいくわてんわう)の御宇までは、御門(みかど)も内侍所(ないしどころ)も一宇の殿にましましけるが、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)、崇神天皇(すじんてんわう)の御時(おんとき)、霊威(れいゐ)に恐(おそ)れて、別殿(べちでん)に移し奉(たてまつ)らる。それよりしてこそ内侍所(ないしどころ)、温明殿(うんめいでん)へは移らせ給(たま)ひけれ。遷都(せんと)遷幸(せんがう)の後(のち)、百六十年(ひやくろくじふねん)有りて、村上天皇(むらかみのてんわう)の御時(おんとき)、天徳(てんとく)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿二日(にじふににち)の子刻(ねのこく)、内裏(だいり)の中の辺より火出で来る。火元は左衛門(さゑもん)が陣(ぢん)にて、内侍所(ないしどころ)のおはします温明殿(うんめいでん)近かりけり。静(しづか)なる夜半(やはん)の事なりければ、内侍(ないし)も女官(によくわん)も参(まゐ)り合はずして、内侍所(ないしどころ)を出だし奉(たてまつ)るべき人も無し。小野宮殿(をののみやどの)、急ぎ参(まゐ)り見給(たま)ふに、内侍所(ないしどころ)の渡らせ給(たま)ふなる温明殿(うんめいでん)既(すで)に焼けさせ給(たま)ひぬ。今(いま)は世はかうこそとて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給へば、内侍所(ないしどころ)は温明殿(うんめいでん)の唐櫃(からびつ)より飛び出でさせましまして、南殿(なんでん)の桜(さくら)の木にかからせ給(たま)ひけり。光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)として、朝日の山の端より出づるに異ならず。その時(とき)、小野宮殿(をののみやどの)、世は尽きざりけりとて、悦(よろこ)びの涙(なみだ)せきあへず、右の膝(ひざ)をつき、左の袖(そで)をひろげさせ給(たま)ひて、昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)百王を守(まぼ)り給はんとの御誓(おんちか)ひましますなり。その御
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誓(おんちか)ひいまだあらたまらずんば、神鏡(しんきやう)実頼(さねより)さねもりが袖(そで)に宿(やど)らせ給(たま)へと申(まう)させ給(たま)へば、その言葉の末(すゑ)いまだ果てざるに、内侍所(ないしどころ)は桜(さくら)の梢(こずゑ)より、御袖(おんそで)に飛び移らせ給(たま)ひけり。やがて御袖(おんそで)につつみ奉(たてまつ)り、主上(しゆしやう)のまします太政官(だいじやうくわん)の朝所(てうしよ)へ渡し奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。此の代(だい)にはうけ奉(たてまつ)るべき臣下(しんか)も誰(たれ)かおはすべき。内侍所(ないしどころ)も宿(やど)らせ給(たま)ふまじ。思(おも)へば上古(しやうこ)こそめでたけれ。さればにや長門の国壇の浦にて、夷(えびす)ども取り奉(たてまつ)らんと唐櫃(からうと)の錠(じやう)をねぢ切つて、御蓋(おんふた)開(ひら)かんとしければ、たちまち目くれ鼻血たる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、あなあさまし。それは内侍所(ないしどころ)と申(まう)して、神にて渡らせ給(たま)ふ。凡夫(ぼんぶ)はかからはぬことをと宣(のたま)へば、皆(みな)恐(おそ)れてぞのきにける。同(おな)じく元暦(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿五日(にじふごにち)鳥羽殿(とばどの)に着かせ給(たま)ふ。その夜の子刻(ねのこく)に太政官(だいじやうくわん)の朝所(てうしよ)へ入らせ給(たま)ふ。同(おな)じく廿八日の子刻(ねのこく)に温明殿(うんめいでん)に入らせ給(たま)ふ。行幸(ぎやうがう)なつて、三箇夜臨時の御神楽(みかぐら)有り。長久(ちやうきう)元年(ぐわんねん)、永暦(えいりやく)元年(ぐわんねん)四月(しぐわつ)の例とぞ聞こえし。左近将監(さこんのしやうげん)多(おほ)の好方(よしかた)、別勅(べつちよく)を承(うけたまは)り、家に伝はりたる弓立(ゆだち)の宮人(みやびと)神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)をつかまつり、優(いう)に珍重(ちんちゆう)にぞ聞こえし。此の歌は好方(よしかた)が祖父(そぶ)、八条(はつでうの)判官(はうぐわん)資忠(すけただ)がほかは知れる者無し。資忠(すけただ)あまりに秘して、子息(しそく)近方(ちかかた)にも伝(つた)へずして、堀河(ほりかは)の天皇(てんわう)御在位(おんざいゐ)の時(とき)、授(さづ)け奉(たてまつ)りて死してげり。さてこそ内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)の有りし時(とき)は、主上(しゆしやう)御簾(みす)のうちにましまして、拍子(ひやうし)を取らせ給(たま)ひつつ、近方(ちかかた)に教(をし)へ
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させ給(たま)ひけり。誠(まこと)に父(ちち)に習(なら)ひたらんは世のつねなり。いやしき身として、かかる面目をほどこしけるこそめでたけれ。道(みち)を絶やさじとおぼしめされたる君の御心ざしのかたじけなさに、皆人(みなひと)感涙(かんるい)をぞ流しける。今(いま)一つの鏡と申すは、素戔烏(そさのを)の尊(みこと)の稲田姫(いなたひめ)の所(ところ)より得て、村雲(むらくも)の剣(つるぎ)と一つに天照大神(てんせうだいじん)へ参(まゐ)らせ給(たま)ふ。今(いま)は紀伊国(きいのくに)二見(ふたみ)の浦(うら)にあるとかや。ことに岩(いは)の奥に石に添うて有りければ、満潮(みちしほ)には見え給はず。潮干(しほひ)の時(とき)はあらはれ給(たま)ふ。されば海上(かいしやう)おだやかなる時(とき)は、押し渡り、先達(せんだち)をまうけて拝し奉(たてまつ)るとぞ承(うけたまは)る。鏡をば岩(いは)の間(あひだ)に納めたればこそ、蓋身(ふたみ)の浦(うら)とは申しけれ。又神璽(しんし)と申すは、第六天(だいろくてん)の魔王(まわう)の押手(おして)の判(はん)なり。いかなる子細(しさい)にて、天皇K帝王の御宝(おんたから)とはなるぞと申すに、第六天(だいろくてん)とは他化自在天(たけじざいてん)なり。魔王(まわう)すなはち六欲天(ろくよくてん)の主(ぬし)なり。日本はじめて出で来しかば、わが欲界(よくかい)と定(さだ)めし所(ところ)を、天照大神(てんせうだいじん)領(りやう)じ給(たま)ふ。神と言ひ仏(ほとけ)と言ひ、一致の体用(たいよう)、遂(つひ)には仏法(ぶつぽふ)流布すべし。許すべからずとて、三十一万五歳まで、魔界(まかい)と同(おな)じ。しかるを天照大神(てんせうだいじん)方便(はうべん)をもつて宣(のたま)ひけるは、此の国を譲(ゆづ)り給はば、我(われ)と魔王(まわう)の眷属(けんぞく)なりとて、手印(てしるし)を出だし給(たま)ふに、三宝(さんぼう)を見べからずとぞ誓(ちか)ひある。さては疑(うたが)ひ無しとて、押手(おして)の判(はん)を奉(たてまつ)る。此の判(はん)あらんかぎりは、神前(しんぜん)において、魔縁(まえん)の障碍(しやうげ)あるまじと、かたく誓(ちか)ひ渡し奉(たてまつ)る。されば今(いま)にいたるまで、神明(しんめい)の加護(かご)つよければ、悪魔(あくま)も恐(おそ)れけるとかや。神は正直なれば、御約束を違
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ひ給はず、かれが鑑(かが)みる所(ところ)なればとて、殿前(でんぜん)に出家(しゆつけ)を辞退(じたい)し給へり。平家滅びて後(のち)、国々(くにぐに)もしづまりて、人の通(かよ)ひもわづらひ無し。されば九郎(くらう)判官(はうぐわん)程(ほど)の人こそなかりけれ。鎌倉(かまくら)源二位殿(げんにゐどの)は何事(なにごと)もし出だし給はず。高名(かうみやう)あるはただ判官(はうぐわん)の世にてあるべしと、内々(ないない)申すと聞こえしかば、鎌倉殿(かまくらどの)、是(これ)を聞き伝(つた)へ給(たま)ひて、こはいかに頼朝(よりとも)がゐながらはかりごとをめぐらせばこそ、平家は滅びぬれ。九郎(くらう)ばかりしてはいかでかよをおさむべき。人の言ふはおごりて、いつしか世をばわがままにしたるにこそ。さばかんの朝敵(てうてき)、平大納言(だいなごん)が婿(むこ)になる事しかるべからず。又世にもはばからず大納言(だいなごん)が婿(むこ)に取るも心得ず。定(さだ)めて今度(こんど)下(くだ)りては、九郎(くらう)は過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)をぞせんずらんと、心よからず思(おも)はれける。
第百十句 副将(ふくしやう)
そのころ九郎(くらう)判官(はうぐわん)大臣殿(おほいとの)の父子(ふし)を具(ぐ)して、関東(くわんとう)へ下(くだ)らるると聞こえしかば、大臣殿(おほいとの)、判官(はうぐわん)のもとへ宣(のたま)ひつかはされけるば、この程(ほど)誠(まこと)や東(あづま)へ下(くだ)るべしと承(うけたまは)る。さては生捕(いけどり)のうちに、八歳(はつさい)の童(わらは)と記したるはいまだ此の世に候ふやらん。関東(くわんとう)へ下らぬさきに一度(いちど)見候はばやと宣(のたま)へば、やすき御事に候とぞいはれける。二人の女房(にようばう)、若君(わかぎみ)を中に置き奉(たてまつ)り、いかなる御有様(おんありさま)にか見なし参(まゐ)らせんずらんとて、朝な夕(ゆふ)な泣くよりほかの事ぞ無き。判官(はうぐわん)河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)がもとへ
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言ひやられければ、河越(かはごえ)人の牛車(うしくるま)を借つて、若君(わかぎみ)女房(にようばう)ともに乗せ奉(たてまつ)り、大臣殿(おほいとの)の御方(おんかた)へ入れ参(まゐ)らする。若君(わかぎみ)遥(はるか)に父(ちち)を見奉(たてまつ)り給はで、よにも心よげにおはしけり。大臣殿(おほいとの)、いかに副将(ふくしやう)。是(これ)へと宣(のたま)へば、やがて御そばに寄り給(たま)ふ。若君(わかぎみ)を膝(ひざ)にかきのせ、髪かきなで、守護(しゆご)の武士共(ぶしども)に向かつて宣(のたま)ひけるは、是(これ)見給へ、殿原(とのばら)、是(これ)が母(はは)は、是(これ)を産むとて、難産(なんざん)をして死にぬ。産はたひらかにしたりしかども、うち臥してなやみしかば、我(われ)は今度(こんど)はかなくなりぬとおぼゆるなり。いかなる人の腹に若君(わかぎみ)まうけ給(たま)ふとも、是(これ)を育てて童(わらは)が形見(かたみ)に御覧(ごらん)ぜよ。乳母(めのと)なんどのもとへさし放ちやり給(たま)ふべからずと、あまりに言ひしが無惨(むざん)さに、天下(てんが)に事出で来ん時(とき)は、あの清宗(きよむね)は大将軍(たいしやうぐん)にて、是(これ)は副将軍(ふくしやうぐん)をせさせんずればとて、是(これ)が名をばやがて副将(ふくしやう)と言はんと言ひしかば、なのめならず悦(よろこ)んで、名を呼びなんどして愛せしが、七日と言ふに遂(つひ)にはかなくなりしぞとよ。見るたびにその事が忘られでとて泣き給へば、守護(しゆご)の武士(ぶし)も涙(なみだ)を流す。右衛門督(ゑもんのかみ)も泣かれけり。二人の女房(にようばう)共(ども)も袖(そで)をぞしぼりける。既(すで)に日もやうやう暮れゆけば、大臣殿(おほいとの)、さらば副将(ふくしやう)嬉しく見つ、とくとく帰(かへ)れと宣(のたま)へば、大臣殿(おほいとの)にひしひしと取りついて、いざや帰(かへ)らじとぞ泣かれける。右衛門督(ゑもんのかみ)立ちて、今宵(こよひ)は是(これ)に見苦(みぐる)しき事のあらんずるぞ。とくとく帰(かへ)りて又明日(みやうにち)参(まゐ)るべしと宣(のたま)へ共、なほも立ち給はず。二人の女房(にようばう)共(ども)よりて、すすめいだき奉(たてまつ)り、車(くるま)にぞ乗せ参(まゐ)らする。大臣殿(おほいとの)、
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若君(わかぎみ)のうしろを遥(はるか)に見送り給(たま)ひて、日来(ひごろ)の思(おも)ひ嘆きは事の数ならずとぞ泣かれける。母御前(ははごぜん)の遺言(ゆいごん)のいとほしければとて、遂(つひ)にさし放ちて乳母(めのと)のもとへもつかはさず、わが御前(おんまへ)にて育て奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。三歳(さんざい)の年、冠(かぶり)賜はり、初冠(うひかぶり)して、名のりを能宗(よしむね)とぞ生ひたち給(たま)ふまま、見めかたちいつくしくして、心ざまさへ優におはせしかば、大臣殿(おほいとの)なのめならずいとほしき事にし給(たま)ひて、西海(さいかい)の旅の空(そら)まで、遂(つひ)に片時(かたとき)もはなれ給はぬ所(ところ)に、軍(いくさ)やぶれて後(のち)、四十余日になりぬるに、今日(けふ)ぞはじめて見給(たま)ひける。五月七日の卯の刻に、判官(はうぐわん)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)り、既(すで)に関東(くわんとう)へぞ下(くだ)り給(たま)ふ。六日の夜、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)判官(はうぐわん)に参(まゐ)りて申しけるは、さてあの若君(わかぎみ)をば何とし奉(たてまつ)り候ふべき。判官(はうぐわん)、当時(たうじ)暑き中に幼(をさな)き者ひき具(ぐ)して、関東(くわんとう)まで下(くだ)るに及(およ)ばず、是(これ)にてよき様(やう)にはからへと宣(のたま)へば、さては失(うしな)ふべき人よと心得て、若君(わかぎみ)は乳母(めのと)の女房(にようばう)と寝(い)ね給へり。その夜、深更(しんかう)に及(およ)んで、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)、女房(にようばう)共(ども)に申しけるは、大臣殿(おほいとの)既(すで)に関東(くわんとう)へ御下(くだ)り候ふ。重房(しげふさ)も判官(はうぐわん)の御供(おんとも)に下(くだ)り候へば、若君(わかぎみ)を、緒方(をかたの)三郎がもとへ入れ参(まゐ)らすべきにて候ふ。御車(おんくるま)寄せて、とくとくと申せば、女房(にようばう)共(ども)、誠(まこと)ぞと心得て、寝入り給へる若君(わかぎみ)を驚(おどろ)かし奉(たてまつ)り、いざさせ給へ、御迎ひに車(くるま)の候ふと申せば、若君(わかぎみ)驚(おどろ)かされて、昨日(きのふ)の様(やう)に大臣殿(おほいとの)の御方(おんかた)へ又参(まゐ)らんずるかと悦(よろこ)び給(たま)ふぞいとほしき。若君(わかぎみ)乗せ奉(たてまつ)りて、六条(ろくでう)
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を東(ひがし)へやる。河原(かはら)に車(くるま)をやりとどめ、敷皮(しきがは)しきて、若君(わかぎみ)をおろし奉(たてまつ)る。二人の女房(にようばう)達(たち)、日来(ひごろ)より思(おも)ひまうけたる事なれども、さしあたつては悲(かな)しかりけり。人の聞くをもはばからず、声(こゑ)も惜しまずをめき叫びけり。若君(わかぎみ)はあきれ給(たま)へる様(やう)にて、二人の女房(にようばう)共(ども)の泣くを見て、大臣殿(おほいとの)はいづくに渡らせ給(たま)ふぞと宣(のたま)へば、武士(ぶし)共(ども)寄りて、只今(ただいま)是(これ)へいらせ給はんずるに、おりて待ち参(まゐ)らせ給へとて、敷皮(しきがは)の上(うへ)にいだきおろし奉(たてまつ)る。河越(かはごえ)が郎等(らうどう)太刀(たち)を抜き、寄りければ、太刀かげを見給(たま)ひて、泣くをおどすとや思(おも)はれけん、いなや泣かじとて、乳母(めのと)が懐(ふところ)へ顔(かほ)さし入れて泣かれけり。河越(かはごえ)遅しと目を見あはせければ、太刀(たち)にてかなはじとて、刀(かたな)を抜き、乳母(めのと)が懐(ふところ)に顔(かほ)さし入れ給へる若君(わかぎみ)を、ひきはなち奉(たてまつ)り、遂(つひ)に御首取つてげり。首をば判官(はうぐわん)に見せ奉(たてまつ)らんとて持ちてゆく。むくろはむなしく河原(かはら)へ捨てにけり。二人の女房(にようばう)共(ども)、かちはだしにて、判官(はうぐわん)の御前(おんまへ)に行きて、なにか苦しう候ふべき。あの若君(わかぎみ)の御首賜(たま)はつて、後世(ごせ)とぶらひ奉(たてまつ)らばやと申せば、判官(はうぐわん)、もつともさるべしとてぞ許されける。二人の女房(にようばう)達(たち)、若君(わかぎみ)の御首を得て、乳母(めのと)の女房(にようばう)の懐(ふところ)に入れ、二人連れて、泣々(なくなく)帰(かへ)るとぞ見えし。その後(のち)五六日有りて、女房(にようばう)二人、桂川(かつらがは)に身を投げたる事有り。一人の女房(にようばう)は幼(をさな)き者の首を懐(ふところ)に入れて、沈みたりしは、若君(わかぎみ)の乳母(めのと)なりけり。乳母(めのと)が投げしは理(ことわり)なり。介錯(かいしやく)の女房(にようばう)さへ身を投げけるこそ有りがたけれ。
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