平家物語 百二十句本(国会図書館本) 巻第六
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巻第六
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目 録
第五十一句 高倉の院崩御
南都の僧綱解官の事
初音の僧正の沙汰
上皇御悩
澄憲法印の歌
第五十二句 紅葉の巻
紅葉の山の沙汰
紅葉をもつて酒あたたむる事
女房の装束奪ひ取らるる事
新しき装束賜はる事
第五十三句 葵の女御
葵の前龍顔咫尺の事
葵の女御死去
小督の殿の事
入道内侍腹の姫宮法皇に奉らるる事
第五十四句 義仲謀叛
義仲幼少の事
城の太郎受領
石川城落去
宇佐の大宮司飛脚
第五十五句 入道死去
入道病ひの事
二位殿悪夢の事
酒狂の人からめ捕らるる事
兵庫の築島
第五十六句 祇園の女御
忠盛忍び御幸供奉の事
忠盛祇園の女御下さるる事
紀伊の国糸我山歌の事
若君子息に定まる事
慈心坊閻魔の庁■[*口+屈]請
流沙葱嶺の事
第五十七句 邦網死去
邦網四条の内裏焼亡の時輿舁かるる事
邦網人長の装束とり出ださるる事
如無僧都烏帽子とり出ださるる事
邦綱蒼梧の詩申さるる事
第五十八句 須俣川
法皇還御
大仏殿事始め
美濃の国目代都へ注進の事
源氏合戦に利を失ふ事
第五十九句 城の太郎頓死
大 赦
平家所願不成就の事
中宮建礼門院の院号
太白星の沙汰
第六十句 城の四郎官途
城の四郎信濃の国発向
井上の九郎武略の事
城の四郎戦に利を失ふ事
京中の平家油断の事
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平家物語 巻第六
第五十一句 高倉の院崩御
治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革、南都の火災によつて
主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。藤氏の公
卿一人も参られず。氏寺焼失によつてなり。二日、殿上の淵酔も
なし。吉野の国栖も参らず。男女うちむせびて、禁中いまいましく
ぞ見えける。仏法、王法ともに尽きぬることぞあさましき。法皇仰
せなりけるは、「四代の帝王、思へば子なり、孫なり。いかなれば
政務をとどめられて、年月をおくるらん」とぞ御嘆きありける。
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五日、南都の僧綱等解官せられ、公請停止、所職を没収せらる。
衆徒は、老いたるも、若きも、あるいは射殺され、あるいは切り殺
され、焔のうちを出でず、煙にむせび、おほく滅びしかば、わづか
に残るともがらは、山林にまじはつて、跡をとどむるは一人もな
し。
興福寺の別当花林院の僧正永縁は、仏像、経巻のけぶりとのぼる
を見給ひて、「あな、あさまし」と心をくだかれけるより、病ひつ
いて、うち臥し給ひしかば、いくほどなくして、つひに、はかなく
なり給ひぬ。この僧正は、優にやさしき人にておはしけり。あると
き、ほととぎすの鳴くを聞いて、
聞くたびにめづらしければほととぎす
いつも初音のここちこそすれ
といふ歌を詠み給ひて、「初音の僧正」とぞ言はれ給ひける。
ただし、「かたのごとくも御斎会あるべき」とて、僧名の沙汰あ
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りしに「南都の僧綱は解官せられぬ。北京の僧綱をもつておこなは
るべきか」と公卿僉議ありしかども、さればとて、南都を捨てはて
させ給ふべきならねば、三論宗の学生、成宝已講とて勧修寺にしの
びつつ、かくれゐたりけるを召し出だされて、御斎会かたのごとく
とりおこなはる。
上皇は、去々年法皇の鳥羽殿におし籠められさせ給ひし御こと、
高倉の宮の討たれさせ給ひし御ありさま、都遷しとてあさましかり
し天下の乱れ、か様の御ことども心ぐるしうおぼしめしけるより、
御悩つかせ給ひて、つねは御わづらはしく聞こえさせ給ひしが、東
大寺、興福寺の滅びぬるよし聞こしめしてよりは、御悩いよいよお
もらせ給ふ。
法皇なのめならず御嘆き給ひしほどに、同じき正月十四日、六波
羅の池殿にて、新院つひに崩御なりぬ。御宇十二年、徳政千万端、
詩書仁義のすたれぬる道をおこし、理世安楽の絶えぬる跡を継ぎ給
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ふ。三明六通の羅漢もまぬかれ給はず、幻術変化の権者ものがれぬ
道なれば、有為無常のならひなれば、ことわり過ぎてぞおぼえける。
やがてその夜、東山の清閑寺へうつしたてまつり、夕べの煙とた
ぐへて、春の霞とのぼらせ給ふ。
澄憲法印、「御葬送に参りあはん」とて、いそぎ山より下られけ
るが、はや、むなしき煙とならせ給ふを見たてまつりて、
つねに見し君が御幸を今日とへば
かへらぬ旅と聞くぞかなしき
またある女房、「君かくれさせ給ひぬ」と聞きて、かうぞ思ひつづ
けける。
雲の上に行くすゑとほく見し月の
ひかり消えぬと聞くぞかなしき
御年二十一、内には十戒をたもち、外には五常を乱らず、礼儀を
正しうせさせ給ひけり。末代の賢王にてましましければ、世の惜し
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みたてまつること、月日の光を失へるがごとし。か様に、人の願ひ
もかなはず、民の果報もつたなき、人間のさかひこそかなしけれ。
「優にやさしう、人の思ひつきたてまつること、おそらくは延喜、
天暦の帝と申すとも、いかでかまさらせ給ふべき」とぞ申しける。
第五十二句 紅葉の巻
おほかたは、賢王の名をあげ、仁徳をなほ施させましますことも、
君御成人ののち、清濁を分たせ給ひての上のことにこそあるに、こ
の君、無下に幼主の御時より、性を柔和にたもたせまします。
去んぬる承安のころほひ、御在位の初めつかた、御年未だ十歳ば
かりにもやならせましましけん、あまりに紅葉を愛せさせ給ひて、
北の陣に小山を築かせ、櫨や楓、色いつくしく紅葉したるを植ゑさ
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せて、「紅葉の山」と名づけて終日に叡覧あるに、なほあきたらせ
給はず。
しかるを、ある夜の嵐はげしう吹いて、紅葉みな吹き散らし、落
葉すこぶる狼藉なり。殿守のとものみやづこ「朝ぎよめす」とて、
これをことごとく掃き捨てけり。のこる枝、散れる木の葉をかき集
めて、風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にして酒あたためて
たべける薪にこそはしてんげれ。奉行の蔵人行幸より先にいそぎ行
きて見るに跡かたなし。「いかに」と問ふに、「しかじか」と答ふ。
「あな、あさまし。さしも君の執しおぼしめされつる紅葉を、か様
にしけることの心憂さよ。知らず、なんぢら、禁獄、流罪にもおよ
び、わが身もいかなる逆鱗にかあづからんずらん」など申しけると
ころに、主上いとどしく夜の御殿を出でさせ給ひもあへず、かしこ
に行幸なつて紅葉を叡覧あるに、なかりければ、「いかに」と御た
づねありき。業忠なにと奏すべきむねもなうして、ありのままに奏
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聞す。天気ことに御心よげにうち笑ませ給ひて、「『林間に酒をあた
ためて、紅葉を焼く』といふ詩の心をば、さればそれらには誰が教
へけるぞや。やさしうもつかまつりけるものかな」とて、かへつて
叡感にあづかるうへは、あへて勅勘なかりけり。
また去んぬる安元のころほひ、御方違の行幸のありしとき、さら
でだに鶏人あかつきをとなふる声、明王のねぶりをおどろかすほど
にもなりしかば、いつも御ねざめがちにて、つやつや御寝もならざ
りけり。いはんや冬の夜の雪降り冴えたるには、延喜の聖代、「国
土の民どもが、いかに寒かるらん」と、夜の御殿にして、御衣をぬ
がせ給ひける御ことまでも、おぼしめし出でて、わが帝徳のいたら
ぬことをぞ御嘆きありける。やや深更におよんで、ほどとほく人の
さけぶ声しけり。供奉の人々は聞きもつけられざりけれども、主上
は聞こしめして、「いまさけぶは何者ぞ。見てまゐれ」と仰せけれ
ば、上臥したる殿上人、上日の者に仰するに、その辺を走りめぐり
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てたづねぬれば、ある辻に、あやしの女童部の長持のふたさげて泣
くにてぞある。「いかに」と問ふに、「主の女房の、院の御所にさぶ
らはせ給ふが、このほどやうやうにして仕立てられたる御装束をも
ちて参るほどに、ただ今男二三人まうで来て、奪ひ取りてまかりぬ
るぞや。いまは装束がさぶらはばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。
また、はかばかしうたちやどらせ給ふべき親しい御方もさぶらはね
ば、これを案じつづくるに泣くなり」とぞ申しける。女童を具して
参りつつ、この様を奏聞す。主上は聞こしめし、「あな無慚や。何
者のしわざにてかあらん」とて、龍顔より御涙をながさせ給ふぞか
たじけなき。「尭の民は尭の心のすなほなるをもつて心とせり。か
るがゆゑにみなすなほなり。今の世の民は、朕が心をもつて心とす
るがゆゑに、かだましき者朝にあつて罪を犯す。これわが恥にあら
ずや」とぞ御嘆きありける。
「さて、取られつる衣は何色ぞ」と御尋ねありければ、「しかじか」
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と申す。建礼門院そのころ中宮にてましましけるとき、その御方へ、
「さ様の色したる御衣や候ふ」と御尋ねありければ、さきのより、
はるかにいつくしきが参りたりけるを、くだんの女童にぞ賜ばせけ
る。「いまだ夜深し。またもさるめにもやあはん」とて、上日の者
つけて、主の女房の局まで送らせ給ふぞかたじけなき。されば、あ
やしの賤の男、賤の女にいたるまで、ただこの君、千秋万歳の宝算
を祈りたてまつるに、わづかに二十一にて崩御なるこそ悲しけれ。
第五十三句 葵の女御
なかにもあはれなりし御ことは、中宮の御方に侍はれける女房の
召し使はれける女童、思ひのほかに龍顔に咫尺することあり。ただ
世のつねにあからさまなる御ことにてもなく、夜な夜なこれをぞ召
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されける。まめやかなりし御心ざしふかかりければ、主の女房も召
し使はず、かへつて主のごとくにぞかしづきける。そのかみ謡詠に
いへることなり。「女を生みても悲酸することなかれ。男子を生み
ても喜歓することなかれ。男は候にだにも封ぜられず。女は美たる
ゆゑに后を立てる」といへり。この人、女御、后、国母、仙院とも
あふがれなんず。めでたかりけるさいはひかな。その名を葵の前と
いひければ、人内々は「葵の女御」なんどぞ申しける。主上このよ
しを聞こしめして、そののちは召されざりけり。御心ざしの尽きた
るにはあらねども、世のそしりをはばからせ給ふによつてなり。主
上つねは御ながめがちにて、夜の御殿にのみぞ入らせ給ふ。
そのときの摂禄松殿、「されば心ぐるしきことにこそあらんなれ。
御なぐさめたてまつらん」とて、いそぎ御参内あつて、「さ様に叡
慮にかけさせましまさん御ことを、なんでう子細か候ふべき。くだ
んの女房とくとく召さるべしとおぼえ候。俗姓たづぬるにおよばず。
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基房やがて猶子にし候はん」と奏せさせ給へば、主上聞こしめして、
「いさとよ、そこに申すことはさることなれども、位を退いてのち
は、ままにさるためしもあんなり。まさしう在位のとき、さ様のこ
とは後代のそしりなるべし」とて、聞こしめしも入れざりけり。松
殿力および給はず、御涙を押さへて、御退出あり。
そののち主上なにとなく御手習のついでにおぼしめし出だされけ
るあひだ、緑の薄様の匂ひことにふかかりけるに、ふるき歌なれど
も、おぼしめし出だしてあそばしけり。
しのぶれど色に出でにけりわが恋は
ものや思ふと人のとふまで
この手習を、冷泉の少将隆房御心知りの人にて、これを取つて、
くだんの葵の前に賜はらせければ、顔うちあかめ、「例ならぬ心地
出できたり」とて里へ帰り、うち臥すこと五六日にして、つひには
かなくなりにけり。「君が一日の恩のために、妾が百年の身を滅ぼ
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す」とも、か様のことをや申すべき。
昔唐の太宗、鄭仁基がむすめを元和殿に入れんとし給ひしを、魏
徴、「かのむすめはすでに陸氏に約せり」といさめ申せしかば、殿
に入れらるることをやめらるるには、すこしもたがはせ給はず。
主上恋慕の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方より、なぐさめ
まゐらせんとて、「小督殿」と申す女房を参らせらる。桜町の中納
言成範の卿の御むすめ、冷泉の大納言隆房の卿のいまだ少将なりし
とき、見そめたりし女房なり。少将はじめは歌を詠み、文をつくし、
おほくの年月を恋ひかなしみたまひしかども、なびく気色もなかり
しが、さすがになさけによわる心にや、つひには、なびき給ひけり。
少将わりなく思はれけるが、いくほどなかりしに、今はまた君に
召されまゐらせて、せんかたなくかなしくて、あかぬ別れの涙には、
袖しほたれてほしあへず。
「よそながらも、小督殿をいま一度見たてまつることもや」と、そ
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のこととなう、つねに参内せられけり。あるとき、おはしける局の
辺、御簾のあたりをたたずみありき給へども、小督殿、「われ君へ
召されしうへは、少将いかに言ふとも、ことばをかはし、文をも見
るべきならず」とて、つらつらなさけをだにかけ給はず。少将せめ
ての思ひのあまりに一首の歌を書きて、この女房のおはしける御簾
のうちへぞ投げ入れたる。
思ひかね心はそらにみちのくの
ちかのしほがまちかきかひなし
女房も「歌の返りことせばや」とは思はれけるが、それも君の御
ため、御うしろめたうや思はれけん、手にだに取つて見給はず。
上童に取らせて、坪のうちへぞ投げ出だす。少将なさけなくうら
めしう思はれけれども、「人もこそ見れ」とそらおそろしさに、い
そぎ取つてふところに入れ、涙おさへて出でられけるが、なほ立ち
返り、
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たまづさをいまは手にだにとらじとや
さこそ心に思ひすつらん
今はこの世にてあひ見んこともかたければ、「生きてひまなくもの
を思はんより、ただ死なん」とのみぞ願はれける。
逢うてあはざる恨みもあり、逢はで思ひふかき恋もあり、逢はで
思ふ恋よりも、逢うてあはざる恨みこそ、せんかたなうは思はれけ
れ。
太政入道このよしを伝へ聞き給ひて、御姫は中宮にて、内裏へわ
たらせ給ふ、冷泉の少将の北の方も同じく御むすめなり。この小督
殿ひとかたならずか様にありしあひだ、太政入道、「いやいや、こ
の小督があらんほどは、この世の中あしかりなんず。小督を、禁中
を召し出ださばや」とぞのたまひける。小督殿、このよしを聞き給
ひて、「わが身のことはいかにもありなん。君の御ため心ぐるしか
るべき」と、内裏をひそかに逃げ出でて、いづくともなく失せ給ひ
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ぬ。主上御嘆きなのめならず、昼は夜の御殿にのみ入らせおはしま
して、御涙にむせびおはします。夜は南殿に出御なつて、月を御覧
じてぞなぐさませましましける。入道相国、このよしを伝へ聞き、
「君は小督がゆゑに思ひしづませ給ひたんなり。さらんにとつては」
とて、御介錯の女房たちをもつけたてまつらず。参内し給ふ臣下を
もそねみ給へば、入道の権威にはばかつて、参りかよふ人もなし。
禁中いまいましうぞなりにける。
さるほどに八月十日あまりにもなりにけり。主上、さしもくまな
き空なれど、御涙にくもりつつ月の光もさやかならず、夜ふけ、人
しづまりて、主上南殿へ出御なつて、「人やある。人やある」と仰
せられけれども、御いらへ申す人もなし。ややあつて、弾正大弼、
そのころ蔵人にて候ひけるが、その夜しも御宿直して、はるかにと
ほく侍ふが、「仲国」といらへ申したりければ、「ちかう参れ。仰せ
あはすべきことあり」。「なにごとやらん」と思ひて御前ちかう参り
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たれば、「なんぢはもし小督がゆくへや知りたる」と仰せければ、
仲国、「いかでか知りまゐらせ候ふべき」と申せば、主上、「まこと
やらん、『小督は嵯峨のほとり、片折戸とかやしたんなるうちにあ
り』と申す者のあるぞとよ。主が名をば知らずとも、たづねて参ら
せてんや」と仰せければ、仲国、「主が名を知り候はでは、いかで
かたづねまゐらせ候ふべき」と申しければ、主上、「げにも」とて、
龍顔より御涙をながさせ給ふ。
仲国つくづくものを案ずるに、「まことや、小督殿は琴ひき給ふ
人ぞかし。この月の明さに、君の御こと思ひ出でまゐらせ給ひて、
琴ひき給はぬことはよもあらじ。内裏にて琴ひき給ひしときは、仲
国笛の役に召されしかば、その琴の音は、いづくなりとも聞き知ら
んずものを。嵯峨の在家いくほどかあるべき。うちまはつてたづね
んに、などか聞き出ださざるべき」と思ひければ、「もしやとたづ
ねまゐらせて見候はん。ただし、たづね逢ひまゐらせて候ふとも、
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御書なんどを賜はらでは、うはの空とやおぼしめされ候はんずらん。
御書を賜はつて参り候はん」と申しければ、「げにも」とて、御書
をあそばして賜びにけり。「やがて寮の御馬に乗りて行け」とぞ仰
せける。仲国、寮の御馬腸はつて、明月に鞭をあげ、そことも知ら
ずぞあこがれ行く。
「小鹿なくこの山里」と詠じけん、嵯峨のあたりの秋のころ、さこ
そはあはれにも思ひけめ。片折戸したる家を見つけては、「このう
ちにもやおはすらん」と、ひかへ、ひかへ、聞きけれども、琴ひく
所もなかりけり。「御堂なんどへ参り給へることもや」と、釈迦堂
をはじめて、堂々を見まはれども、小督殿に似たる女房だにもなか
りけり。「内裏をばたのもしげに申して出でぬ、この女房にはいま
だたづねもあはず、むなしう帰り参りたらば、なかなか参らざらん
よりもあしかるべし。これよりいづちへも行かばや」とは思へども、
「いづくか王地ならざらん、身をかくすべき宿もなし、いかにせん
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ずる」と思ひけるが、「まことや、法輪寺はほど近き所なれば、も
し月の光にさそはれて、参り給へることもや」と、そなたへ向いて
ぞ歩ませゆく。
亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえ
ける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは
思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したるうちに、琴をぞ
ひきすさまれける。しばしひかへて聞きければ、まがふべうもなき
小督殿の爪音なり。「楽はなにぞ」と聞きければ、「夫を思ひて恋
ふ」とよむ「想夫恋」といふ楽なり。
「いとほしや、楽こそおほきなかに、君の御ことを思ひ出でまゐら
せ給ひて、この楽をひき給ふことよ」と思ひて、馬より飛んで降り、
門をほとほととたたきければ、琴ははやひきやみ、高声に、「これ
は内裏より仲国が御つかひに参りて候」とて、たたけども、とがむ
る人もなかりけり。ややあつて、内より人の出づる音しけり。「あ
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はや」とうれしう思ひて待つほどに、錠をはづし、門を細めにあけ、
いたいけしたる小女房の、顔ばかりさし出だし、「これは、さ様に
内裏より御つかひなんど賜はるべき所にてもさぶらはず。門たがひ
にてぞさぶらはん」と言ひければ、仲国、「なかなか返事をせば、
門たてられ、錠さされては、かなはじ」と思ひて、是非なく押し開
けてぞ入りにける。
妻戸のきはの縁にかしこまつて、「いかに、か様の所には御わた
り候ふやらん。君は御ゆゑにおぼしめししづませ給ひて、御命もす
でにあやふくこそ見えさせおはしまし候へ。か様に申すは、ただう
はの空とやおぼしめされ候ふらん。御書を賜はりて参りて候」とて、
取り出だして奉る。小女房取り次いで、小督殿にこそ参らせけれ。
これをあけて見給ふに、まことに君の御書なりけるあひだ、やがて
御返事書いて、ひき結び、女房の装束一かさねそへて出だされたり。
仲国、女房の装束をば肩にうちかけ、申しけるは、「余の御使なん
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どにて候はんには、御返事のうへはとかう申すべき様候はねども、
内裏にて御琴あそばされ候ひしときは、つねは笛の役に召されまゐ
らせし奉公、いかでか忘れさせ給ふべき。直の御返りごとうけたま
はらずして、帰り参らんこと、口惜しう候」と申しければ、小督殿、
「げにも」とや思はれけん、みづから返りごとをし給ひけり。「そこ
にも聞かせ給ひつらん。入道あまりにおそろしきことをのみ申すと
聞きしかば、あさましさに、ある暮れほどに、内裏をばひそかにま
ぎれ出でて、このほどは、か様の所に住みさぶらへば、琴なんどひ
くこともなかりつるに、さてしもあるべきことならねば、明日より
は大原の奥に思ひたつことのさぶらへば、主の女房、こよひばかり
の名残を惜しみて、『いまは夜もふけぬ、立ち聞く人もあらじ』な
んど、しきりにすすむるあひだ、さぞな、昔の名残もさすがゆかし
くて、手なれし琴をひくほどに、やすく聞き出だされけりな」とて、
涙せきあへ給はねば、仲国も袖をぞしぼりける。ややありて、仲国、
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涙をおさへ申しけるは、「『明日よりは大原の奥におぼしめし立つこ
と』と候ふは、御様なんど変へらるべきにこそ。ゆめゆめあるべう
も候はず。君の御嘆きをば、されば何とかしまゐらせ給ふべき。こ
ればし出だしまゐらすな」とて、供に具したりける馬部、吉上なん
どいふ者を留め置き、その夜は守護させ、わが身は寮の御馬にうち
乗り、内裏へ帰り参りたりければ、夜はほのぼのと明けにけり。
仲国、寮の御馬つながせ、女房の装束をば、馬形の障子にかけ、
「今は御寝もなりぬらん、たれしてか申し入るべき」と思ひて、南
殿の方へ参るほどに、主上はいまだゆふべの御座にぞましましける。
南に翔り北に向かひ、寒温はなほ秋の雁につけがたし。
東に出で西に流る、瞻望をただ暁の月に寄せあたふ。
と、心ぼそげにうちながめさせ給ふところに、仲国づんと参り、小
督殿の御返事とり出だして奉る。君なのめならず御感あつて、「な
んぢら、さらば、夕さりやがて具して参れ」とぞ仰せける。
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入道相国のかへり聞き給はんことはおそろしけれども、これまた
綸言なれば、力およばず、雑色、牛飼、牛、車をきよげに沙汰し、
嵯峨へ行き向かひ、「御迎ひに参りて候」と申しければ、小督、参
るまじきよししきりにのたまへども、とかくこしらへて、車にとり
乗せたてまつり、内裏へ帰り参りたりければ、かすかなる所にしの
ばせて、夜な夜な召されけるほどに、姫宮一人出できさせ給ひぬ。
坊門の女院の御ことなり。
入道相国、いかがしたりけん、このよしを伝へ聞き給ひて、「君、
小督を失ひ給ひたりといふことは、跡かたもなきそらごとにてあり
けり。その儀ならば」とつねはのたまひけるが、小督殿をたばかり
出だして、尼にぞなされける。出家は日ごろより思ひまうけたる道
なれども、心ならず尼になされて、年二十三にて、濃き墨染にやつ
れつつ、嵯峨の辺にぞ住まれける。
主上は、か様の事どもを御心ぐるしうおぼしめされけるより、御
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悩つかせ給ひて、つひに崩御なりぬ。
法皇、御嘆きのみうちつづき、御悲しみぞひまなかりける。去ん
ぬる永万には、第一の御子二条の院崩御なる。また安元二年七月に
は、御孫六条の院かくれさせたまひぬ。同じく八月七日、「天にす
まば比翼の鳥、地にすまば連理の枝とならん」と、銀河の星をさし
て、御契りあさからざりし建春門院も、秋の霧にをかされて、朝の
露と消えさせ給ひぬ。年月はかさなれども、昨日、今日の御別れの
様におぼしめして、御涙いまだ尽きせぬに、治承四年の五月には、
第二の御子高倉の宮討たれさせ給ひぬ。現世、後世たのみおぼしめ
しつるこの君さへ、先立たせ給ひぬれば、ただとにかくに尽きせぬ
は御涙なり。「悲しみの至つてかなしきは、老いて子におくれたる
より悲しみはなし。恨みのことにうらめしきは、若うして親に先立
ちしよりうらみなるはなし。老少不定を知るといへども、なほ前後
のあひちがふに迷ふ」と、かの朝綱の相公の、子息澄明におくれて
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書きたりし筆の跡、いまこそおぼしめし知られてあはれなれ。さる
ままに、かの一乗妙典の御読誦もおこたり給はず、三密の行法の御
薫修もつもらせ給ひけり。天下暗闇になりしかば、雲の上人、花の
袂もやつれにけり。
太政入道、日ごろいたう情なうふるまひおきし事ども、さすがお
そろしくや思はれけん、「法皇をなぐさめまゐらせん」とて、安芸
の厳島の内侍が腹の御むすめ、生年十八歳になり給ふ、優にはなや
かにましましけるを、法皇へ参らせらる。上臈女房たち、あまたえ
らばれ、公卿、殿上人おほく供奉して、ひとへに后御入内の儀式に
てぞありける。「上皇かくれさせ給ひてのち、わづか三七日だにも
過ぎざるに、いつしかかくある例、しかるべからず」とぞ人々はさ
さやきあはれける。
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第五十四句 義仲謀叛
そのころ信濃の国に、木曽の冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけ
り。これは故六条の判官為義が次男、帯刀先生義賢が子なり。義賢
は久寿二年八月十六日、武蔵の国大倉にして、甥の鎌倉悪源太義平
がために誅せられたり。そのとき義仲二歳になりけるを、母泣く泣
くいだいて、信濃の国に越えて、木曽の中三兼遠がもとへ行き、
「いかにもしてこれを育て、人になして見せ給へ」と言ひければ、
兼遠請とつて、かひがひしう二十四年養育す。
やうやう人となるままに、力も世にすぐれて強く、心も並ぶ者な
し。つねには「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや」なん
どぞ申しける。兼遠おほきによろこんで、「その料にこそ、君をば
この二十四年養育申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿の御末
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とぞおぼえさせ給へ」と申しければ、木曽、心いとどたけくなつて、
根の井の大弥太滋野の幸親をはじめとして、国中の兵をかたらふに、
一人もそむくはなかりけり。上野の国には、故帯刀先生義賢のよし
みによつて、那波の広澄をはじめとして、多胡の郡の者ども、みな
したがひつく。平家末になるをりを得て、源氏年来の素懐をとげ
ん」と欲す。
木曽といふ所は、信濃にとつても南の端、美濃の国の境なり。都
も無下にほど近ければ、平家の人々漏れ聞きて、「こはいかに」と
ぞさわがれける。入道相国のたまひけるは、「それ心にくからず。
思へば、信濃一国の兵こそしたがひつくといふとも、越後の国には、
余五将軍の末葉、城の太郎資長、同じく四郎資茂、これらは兄弟と
もに多勢の者なり。仰せ下したらんずるに、などか討ちてまゐらせ
ざるべき」とのたまへば、「いかがあらんずらん」と、内々はささ
やく者もおほかりけり。
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同じく二月一日、越後の国の住人城の太郎資長、越後守に任ず。
これは木曽を追罰すべきはかりごととぞ聞こえし。
同じく七日、都には、大臣以下家々にして、尊勝陀羅尼、不動明
王を書供養せらる。これは兵乱の祈りのためなり。
同じく九日、河内の国石川の郡に候ひける、武蔵権守入道義基
が子息石川の判官代義兼、兵衛佐頼朝に同心のよし聞こえしかば、
入道相国やがて討手をさし遣はす。討手の大将には源太夫判官季貞、
摂津の判官盛澄、三千余騎にて、河内の国へ発向す。城のうちにも
その勢百騎には過ぎざりけり。鬨つくり、矢合せして、入れかへ、
入れかへ、数刻たたかふ。城内の兵ども、手負ひ、戦ひ、討死する
者おほかりけり。武蔵権守入道義基討死す。子息石川の判官代義兼、
痛手負ひて、生捕にせらる。
同じく十日、義基法師が首、大路をわたさる。諒闇に賊首をわた
さるることは、堀河の天皇崩御のとき、前の対馬守源の義親が首
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をわたされし例とぞ聞こえし。
同じく十二日、鎮西より飛脚来たりけり。宇佐の大宮司公通が申
しけるは、「九州の者ども、緒方の三郎をはじめとして、臼杵、戸
次、菊池、原田、松浦党にいたるまで、ひたすら源氏に心を通じて、
太宰府の下知にもしたがはず」とぞ申しける。
東国、北国すでにそむき、南海道には、熊野の別当湛増以下みな
平家をそむいて、源氏に同心しけり。「四夷たちまちに乱れぬ。世
はただ今失せなんず」と心ある人かなしまずといふことなし。
前の右大将宗盛申されけるは、「討手は去年もつかはして候へど
も、しいだしたることもなし。今度は宗盛東国へまかり向かひ候は
ん」と申されければ、上下色代して、「もつともしかるべう候。さ
様にも候はば、たれも尻足をば踏み候はじ」
「武官にそなはり、弓矢にたづさはらん人々は、みな右大将殿を大
将として、東国へ発向すべき」よしをこそ宣下せられけれ。
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第五十五句 入道死去
同じき二十七日、「前の右大将宗盛、源氏追罰のために、東国へ
の門出」と聞こえしかば、「入道相国、例ならざること出でき給へ
り」とて、右大将、その日の門出とどまりぬ。
同じき二十八日より、「重き病うけ給へり」とて、京中、六波羅、
大地うちかへしたるごとくにさわぎあへり。たかきも、いやしきも、
これを聞いて、「あは、しつるは」とぞ申しける。入道、病ひつき
給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身のうちのあつ
きこと、火をたくがごとし。臥したまへる所、四五間がうちへ入る
者は、あつさ堪へがたし。ただのたまふこととては、「あつや、あ
つや」とばかりなり。比叡山より、千手院の水を汲み、石の舟にた
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たへ、それにおりて冷したまへば、水おびたたしく沸きあがり、ほ
どなく湯にぞなりにける。もしや助かり給ふと、筧の水をまかせた
れば、石や、くろがねなどの焼けたる様に、水ほどばしつて、寄り
つかず。おのづからあたる水は、ほのほとなつて燃えければ、黒煙
殿中にみちみちて、うづまいて上がりけり。これや昔、法蔵僧都と
いふ人、閻魔の請におもむいて、母の生まれ所をたづねしに、閻王
あはれみ給ひて、獄卒をあひそへ、焦熱地獄へつかはさる。くろが
ねの門のうちへさし入れば、流星なんどのごとくに、ほのほ空に立
ち上がり、多百由旬におよびけんも、今こそ思ひ知られけれ。
入道相国の北の方、二位殿の夢に見給ひけるこそおそろしけれ。
福原の岡の御所とおぼしくてある所に、猛火おびたたしく燃えたる
車を、門のうちへやり入れたり。車の前後に立ちたるものは、ある
いは牛の面の様なるものもあり、あるいは馬の面の様なるものもあ
り。車のまへには、「無」といふ文字ばかりぞ見えたる鉄の札を立
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てたりけり。二位殿夢の心に、「あれはいかに」と御だづねあり。
「閻魔より、平家太政入道殿の御迎へに参りて候」と申す。「さて、
その札はいかなる札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提、金銅十六丈
の盧遮那仏を、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間の底に落ち給ふ
べきよし、閻魔の庁に御さだめ候ふが、『無間』の『無』をば書か
れ、『間』の字をば書かれず候ふなり」とぞ申しける。二位殿夢さ
めてのち、汗水になり、これを人に語り給へば、聞く者、身の毛も
よだちけり。霊仏、霊社に金銀七宝をなげうち、馬、鞍、鎧、兜、
弓矢、太刀、刀にいたるまで、取り出だし運び出だし、祈られけれ
ども、しるしもなし。男女、公達さし集まつて、「いかにせん」と
泣き悲しみたまへども、かなふべしとも見えざりけり。
同じき閏二月二日、二位殿あつさ堪へがたけれども、枕がみにた
ち寄り、泣く泣くのたまひけるは、「御ありさま、日にそへてたの
みすくなうこそ見えさせ給へ。おぼしめすことあらば、ものおぼえ
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させ給ひしとき、仰せおかれよ」とぞのたまひける。入道相国、さ
しも日ごろはゆゆしくましませしかども、よにも苦しげにてのたま
ひけるは、「われ、保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひら
げ、かたじけなくも帝祖、太政大臣にいたつて、栄華子孫におよぶ。
ただし伊豆の国の流人、前の兵衛佐頼朝が首をつひに見ざりつるこ
そやすからね。われいかにもなりなんのちは、堂塔を建て、孝養を
もなすべからず。やがて討手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが
塚のまへにかけべし。それぞ孝養にてあらんずる」とのたまひける
ぞ罪ふかき。
同じき四日、病に責められ、せめてのことには、板に水をそそぎ、
それに臥しまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶■地して、
つひにあつけ死にぞ、死に給ひける。
馬、車の馳せちがふ音、天もひびき、大地もうごくほどなり。
「一天の君、万乗の主、いかなることおはすとも、これには過ぎじ」
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とぞ見えし。今年六十四にぞなり給ふ。老死といふべきにはあらね
ども、宿運たちまちに尽き給へば、大法、秘法のしるしもなく、神
明三宝の威光も消え、諸天も擁護し給はず。いはんや凡慮において
をや。身にかはらんと、忠を存ぜし数万の軍旅、堂上、堂下に並み
ゐたれども、これは、目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼
をば、暫時も防ぎかへさず。帰り来たらぬ死出の山、三途の川、黄
泉中有の旅、ただ一人こそおもむき給ひけめ。日ごろ作りおかれし
罪業なれば、あはれなりし事どもなり。
さてもあるべきならねば、同じき七日、愛宕にてけぶりとなした
てまつり、都の空に立ち上がる。骨をば円実法眼頸にかけ、摂津の
国へくだり、経の島にぞをさめてげる。されば、日本一州に名をあ
げ、威をふるひし人なれども、片時のけぶりとなり、屍は浜のいさ
ごにうづんで、むなしき土とぞなり給ふ。
葬送の夜、不思議の事どもあまたありき。玉をみがき、金銀をち
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りばめ造られし西八条殿、その夜、にはかに焼けにけり。人の家の
焼くるは、つねのならひなれども、いかなる者のしわざにやありけ
ん、「放火」とぞ聞こえし。
またその夜、六波羅の北にあたつて、人ならば二三十人が声にて、
うれしや、滝の水
鳴るは滝の水
日は照るともたえず
と拍子をいだし、舞ひ、をどり、どつと笑ふ声しけり。去んぬる正
月、上皇かくれさせ給ひて、天下暗闇になりぬ。わづかに一両月を
へだてて、入道相国葬せられぬ。あやしの賤の男、賤の女にいたる
まで、いかでかうれひざるべき。「これは、いかさまにも天狗の所
為」といふ沙汰あり。平家の侍どものなかに、はやりをの若者ども
百余人、笑ふ声についてたづね行きて見ければ、院の御所法住寺殿
に、この二三年は院わたらせ給はず、御所預りの備前前司基宗とい
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ふ者あり、基宗あひ知つたる者ども、二三十人、夜にまぎれて来た
り集まり、はじめは、「かかるをりふしに音なしそ」とて酒を飲み
けるが、しだいに飲み酔ひて、さまざま舞ひをどりけるとかや。押
し寄せ、酒に酔ひける者ども、一人ももらさず三十人ばかりからめ
捕つて、六波羅へ参り、前の右大将宗盛の卿のおはしけるまへの坪
の内にぞひつすゑたる。事の様をよくよくたづね聞き給ひて、「げ
にもさ様に酔ひたらん者は、切るべきにもあらず」とて、みなゆる
されけり。
人の失せぬるあとには、いかなるあやしの者も、朝夕に磬うち鳴
らし、例時、懺法読むことは、つねのならひなるに、入道相国は死
せられてのちとても、供仏、施僧のいとなみといふこともなし。た
だ明けても暮れても、いくさ合戦のはかりごとのほかは他事なし。
およそは、最後の所労のありさまこそうたてけれども、まことに
はただ人ともおぼえぬ事どもぞおほかりける。日吉の社へ参り給ひ
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しときも、当家、他家の公卿おほく供奉して、「禄臣の、春日の御参
籠、宇治入なんどといふとも、いかでかこれにはまさるべき」とぞ
人申しける。また、何事よりも、福原の経の島築いて、今の世にい
たるまで上下行き来の船にわづらひなきこそめでたけれ。かの島は、
去んぬる応保元年二月上旬、築きはじめられたりけるが、同じき八
月ににはかに大風吹き、大波たちて、揺り失ひてき。同じく三年三
月下旬に阿波の民部成能を奉行にて、築かせられけるが、「人柱
たつべし」なんど、公卿僉議ありしかども、「それは罪業なり」と
て、石の面に一切経を書きて築かれたりけるゆゑにこそ、「経の島」
とは名づけられけれ。
第五十六句 祇園の女御
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ふるき人の申されけるは、「清盛は、忠盛が子にはあらず。まこ
とは白河の院の御子なり。」そのゆゑは、去んぬる永久のころ、「祇
園の女御」と聞こえて、さいはひの人おはしき。くだんの女房の住
み給ひける所は、東山のふもと、祇園の辺にてぞありける。白河の
院、つねは御幸ありけり。あるとき殿上人一両人、北面少々召し具
して、しのびの御幸のありしに、ころは五月二十日あまりの夕空の
ことなりければ、目ざせども知らぬ闇にてあり、五月雨さへかきく
もり、まことに申すばかりなく暗かりけるに、この女房の宿所ちか
く御堂あり。この御堂のそばに、大きなる光りもの出で来たる。頭
には銀の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしき
をさし上げたるが、片手には槌の様なるものを持ち、片手には光る
ものをぞ持ちたりける。君も、臣も、「あな、おそろしや。まこと
の鬼とおぼゆるなり。持ちたるものは、聞こゆる打出の小槌なるべ
し。こはいかにせん」とさわがせましますところに、忠盛そのころ
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北面の下臈にて供奉したりけるを、召して、「このうちになんぢぞ
あらん。あの光りもの、行きむかひて、射も殺し、切りも殺しなん
や」と仰せければ、かしこまつて承り、行きむかふ。
内々思ひけるは、「このもの、さしもたけきものとは見えず。狐、
狸なんどにてぞあらん。これを射もとどめ、切りもとどめたらんは、
世に念なかるべし。生捕にせん」と思ひて、歩み寄る。とばかりあ
つてはざつとは光り、とばかりあつてはざつとは光り、二三度した
るを、忠盛走り寄りて、むずと組む。組まれてこのもの、「いかに」
とさわぐ。変化のものにてはなかりけり、はや、人にてぞありける。
そのとき上下手々に火をともし、御覧あるに、齢六十ばかりの法師
なり。たとへば御堂の承仕法師にてありけるが、「御あかし参らせ
ん」とて、手瓶といふものに油を入れて持ち、片手には土器に火を
入れてぞ持ちたりける。「雨は降る、濡れじ」と、頭には小麦のわ
らをひき結びかつぎたり。土器の火に、小麦わらがかがやきて銀
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の針の様には見えけるなり。事の体いちいちにあらはれぬ。
君御感なのめならず、「これを射も殺し、切りも殺したらんには、
いかに念なからんに、忠盛がふるまひこそ思慮ふかけれ。弓矢とる
身は、かへすがへすもやさしかりけり」とて、その勧賞に、さしも
御最愛と聞こえし祇園の女御を、忠盛にこそ賜はりけれ。
されば、この女房、院の御子をはらみたてまつりしかば、「生め
らん子、女子ならば朕が子にせん、もし男子ならば忠盛が子にして、
弓矢とる身にしたてよ」と仰せけるに、すなはち男子を生めり。忠
盛言にあらはしては披露せられざりけれども、内々はもてなしけり。
このこと奏聞せんと、うかがへども、しかるべき便宜もなかりけ
るが、あるときこの白河の院、熊野へ御幸ありけるに、紀伊の国糸
我山といふ所に御輿かきすゑさせて、しばらく御休息ありけるに、
藪に、ぬかごのいくらもありけるを、忠盛、袖にもり入れて、御前
に参り、
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いもが子ははふほどにこそなりにけれ
と申されたりければ、法皇やがて御心得ありて、
ただもりとりてやしなひにせよ
とぞ仰せ下されける。それよりしてこそわが子とはもてなしけれ。
この若君あまりに夜泣きをし給ひければ、院聞こしめして、一首
の歌をあそばいて下されけり。
夜泣きすとただもりたてよ末の代に
きよくさかふることもあるべし
さればこそ「清盛」とは名のらせけれ。
十二の年兵衛佐になる。十八歳にて四位にして、「四位の兵衛佐」
と申せしを、子細存知せぬ人は、「華族の人こそかくは」と申せば、
鳥羽の院も知ろしめされ、「清盛が華族は、人にはおとらじ」とぞ
仰せける。
むかしも天智天皇を生み給へる女御を、大織冠に賜はるとて、
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「この女御の生めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣
が子にせよ」と仰せけるに、すなはち男子を生み給へり。多武峰の
本願定恵和尚これなり。「上代にもかかるためしありければ、末代
にも、平大相国、まことに白河の院の御子にてましましければにや、
さばかんの天下の大事の都遷りなんども、たやすう思ひたたれける
にこそ。ことわりなり」とぞ人申しける。
この入道相国と申すは、「慈恵大僧正の化身なり」といへり。そ
のゆゑは、摂津の国に清澄寺といふ山寺あり。この寺の住僧に慈心
坊尊恵とて天下に聞こえたる持経者あり。もとは山門の住侶たりし
が、道心をおこし、離山して、この山に住しけるが、多年法華経を
たもつ者なり。
去んぬる嘉応二年二月二十二日の夜の夜半ばかりに、慈心坊が夢
に見る様は、浄衣着たる俗二人、童子三人、一通の状をささげて出
で来たる。慈心坊「これはいづくよりにて候ふぞ」と問へば、「閻
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魔大王宮より」と申す。そのとき、慈心坊この状を取り、ひらきて
見れば、
来る二十六日早旦より、閻魔大王宮の大極殿にて、十万部の法
華経を読み、供養せらる。しかるあひだ、十万国より十万の僧
を請ぜらる。その経衆一分に入り給へり。同じく来集せらるべ
し。宣旨によつて■請くだんのごとし。
とぞ書かれたる。慈心坊は夢のうちに御請けを申しをはんぬ。
夢さめ、夜あけて、慈心坊、この寺の院主光養坊に、このよしを
語り申せば、「さては名残惜しきことごさんなれ。閻魔の庁に参る
人のふたたび帰ることありがたし。こはいかにせん」とて、院主を
はじめとして、寺僧ども、一同に名残を惜しみてかなしみあへり。
やうやう二十六日の早旦におよぶ。その日になりしかば、慈心坊
いよいよ精進潔斎して、この寺の仏前に参り、念仏、読経してある
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ところに、睡眠しきりなりけるあひだ、「ちとまどろむ」と思ひた
りけるに、さきのごとくに浄衣着たる俗二人、童子三人、迎ひにと
て出で来たれり。慈心坊かれらに具せられて、須臾に閻魔王宮の大
極殿へぞ参りける。十万人の僧ども参り集まり、歴々として、おの
おの読経す。法会の儀式まことに心もことばもおよばず。
法会をはりしかば、諸僧ども、いとま賜はつて帰るもあり、とど
めらるる僧もあり。そのうちに慈心坊は、閻魔法王の御まへに召さ
れて参り、まづ庭上にかしこまつて侍ひければ、閻魔法王、「法華
経は五十展転の功徳あり。いかが持経者を庭上にはおくべき。これ
へ召せ」とて、御座ちかく召され、慈心坊、「後生の在所はいかな
る所にて候はんずるやらん」と申せば、閻魔王、「往生、不往生は、
ただ、人の信、不信による」とぞのたまひける。
閻魔王かさねてのたまはく、「わ僧が本国、大日本国に、平大相
国といふ人あり。今日わが十万僧会のごとくに、摂津の国和田の岬
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に、四面十余町の屋をたて、千人の持経者をあつめて、七日があひ
だ、念仏、読経、丁寧に勤行せんはいかに」と問ひ給へば、「さる
こと候」と申す。閻魔王、「その人は悪人と見えたり。されどもそ
の人は慈恵大僧正の化身なるによつて、われはその人を日々に三度
拝する文あり」とて、
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最勝将軍身 悪業衆生同利益
とのたまふと思うて、尊恵は夢さめにけん。慈心坊いくほどならぬ
夢のうちとこそ思ひけれども、七日があひだにてぞありける。
慈心坊、都へのぼり、西八条へ参り、このよしを語り申せば、入
道相国いそぎ出であひ、対面したまひて帰されけるとぞ聞こえし。
寛治二年正月十五日、臣下卿相、仙洞にて御遊宴のみぎり、種
種の僉議どもありけるなかに、ある人、「そもそも、当時天竺に如
来出世し給ひて、説法利生し給ふと聞きおよばんには、参りて聴聞
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すべしや」と一言出できたりけるに、大臣、公卿みな「参るべき」
とぞ申されける。その中に江の帥匡房、いまだ右大弁の三位にて末
座に侍はれけるが、申されけるは、「人々は御参り候ふとも、匡房
においては参るべしともおぼえ候はず」と申されければ、月卿雲客
疑ひの心をなし、「人々『参らん』と仰せらるるなかに、御辺一人
『参らじ』と申さるる子細、いか様なることぞや」。匡房かさねて申
されけるは、「さん候。本朝、大宋のあひだは世のつねの渡海なれ
ば、やすきかたも候ひなん。天竺、震旦のさかひは、流沙、葱嶺の
嶮難越えがたき道なり。まづ『葱嶺』と申す山は、西北は雪山につ
づき、東南は海隅に聳えたり。この山をさかふ西をば『天竺』とい
ひ、東をば『震旦』といふ。道の遠さ三万余里、草木も生ひず、水
もなし。銀漢に臨んで日を暮らし、白雲を踏んで天にのぼる。かく
のごとくの多く嶮難あるなかに、ことに高く聳えたる峰あり。『刹
波羅最難』と名づけたり。雲の表衣をぬぎさけて、苔の衣も着ぬ山
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の巌のかどをかかへつつ、十日にこそ越え給はめ。この峰にのぼり
ぬれば、三千世界の広さ、狭さは、まなこのまへにあきらかに、一
閻浮提の遠近は、足の下にあつめたり。また『流沙』といふ川あり。
この川を渡るに、水を渡つては川原を行き、川原を行きては水を渡
ること、八か日があひだに六百三十七度なり。昼は風吹きたて、砂
を飛ばすること雨のごとし。夜は化け物走り散つて、火をともすこ
と星に似たり。白波漲り来つて、岩石をうがつ。青淵水まいて、木
の葉をうづむ。たとへ深淵を渡るとも、妖鬼の害難のがれがたし。
たとひ鬼魅の怖畏をまぬがるといふとも、水波の漂難さけがたし。
さればかの玄奘三蔵も、六度までこのさかひにて命を失ひ給ふ。し
かれどもまた、次の受生のときこそ法をばわたし給ひけれ。しかる
を、天竺にあらず、震旦にあらず、本朝高野山に生身の大師入定
してまします。この霊地をいまだ踏まずして、いたづらに月日をお
くる身の、たちまちに十万余里の山海をしのぎ、嶮路をすぎて、霊
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鷲山まで参るべきともおぼえず。天竺の釈迦如来、わが朝の弘法大
師、ともに即身成仏の現証これあらたなり」とぞ申されける。
「むかし嵯峨の皇帝の御時、大師、勅命によつて、清涼殿にして四
箇の大乗宗をあつめ、顕密法門の論読をいたし給ふことあり。法相
宗には源仁、三論宗には道昌、華厳宗には道雄、天台宗には円澄、
おのおのわが宗のめでたき様を立て申す。まづ法相宗の源仁、『わ
が宗には、三時教を立て、一代の聖教を判ず。いはゆる有、空、中
これなり』。三論宗には道昌、『わが宗には、三蔵を立つ。三蔵とい
つぱ、声聞蔵、縁覚蔵、菩薩蔵これなり』。華厳宗の道雄、『わが宗
には、五教を立て、一代の聖教を教ふ。五教といつぱ、小乗教、始
教、終教、頓教、円教これなり』。天台宗の円澄、『わが宗には、四
教、五味を立て、一切の聖教を教ふ。四教とは蔵、通、別、円これ
なり。五味とは乳、酪、生、熟、醍醐これなり』。そのとき真言宗
の弘法、『わが宗には、しばらく事相、教相を教ふといへども、た
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だし即身成仏の義をたて、一代聖教ひろしといへども、いづれかこ
れに及ぶべきや』。ときに四人の碩徳、疑心をなし、真言の即身成
仏の義をうたがひ申されたり。まづ法相宗の源仁僧都、弘法を難じ
たてまつることばにいはく、『およそ一代三時の教文を見るに、み
な三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし。いづれの聖教の文
証によつて、即身成仏の義を立てらるるぞや。まことにその文あら
ば、つぶさにその文を出だされて、衆会の疑網をはらさるべし』と
言へり。弘法答へてのたまはく、『なんぢが聖教のなかには、みな
三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし』とて、文証を出だし
てのたまはく、
『修此三昧者、現証仏菩提』
『父母所生身、即証大覚位』
これをはじめて文証をひき給ふこと繁多なり。源仁かさねていはく、
『文証はすなはち出だされたり。この文のごとくに即身成仏のむね
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を得たるその人証、たれ人ぞや』。弘法答へてのたまはく、『その人
証は、遠くたづぬれば、大日、金剛薩■。近くたづぬればわが身す
なはちこれなり』とて、かたじけなくも龍顔にむかひたてまつり、
口に密言を誦し、手に密印むすび、心に観念をこらし、身に儀軌を
そなふ。生身の肉身、たちまちに現じて、紫磨黄金のはだへとなり
給ふ。かうべに五仏の宝冠を現じて、光明蒼天を照らし、日輪の
光をうばひ、朝廷は頗梨にかがやいて、浄土の荘厳をあらはす。そ
のとき皇帝、御座を去つて礼をなし給ふ。臣下身をつづめておどろ
き、地に伏す。百官かうべをかたぶけ、諸衆合掌す。まことに南都
の六宗、地にひざまづき、北嶺四明の客、庭に伏す。源仁、円澄も
舌をまき、道雄、道昌も口をとづ。つひに四宗帰伏して、門葉にま
じはり、はじめて一朝信仰して、その道流を受く。三密、五智の水、
四海に満ちて塵垢をそそぎ、六大無碍の月、一天の長夜を照らす。
されば御一期ののちも、生身不変にして慈尊の出世をまち、六情不
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退にして祈念の法音を聞こしめす。このゆゑに、現世の利生もたの
みあり。後生の引導もうたがひなし」とぞ申されける。
上皇聞こしめし、「まことにめでたきことなり。これを今までお
ぼしめし知らざりけるこそ、かへすがへすもおろかなれ。か様のこ
とは延引しぬれば、自然にさはりあることもありや」とて、「明日
の御幸」と仰せければ、匡房かさねて申されけるは、「明朝の御幸
はあまりに卒爾におぼえ候。むかし釈尊霊山説法の庭に、十六大
国の諸王たちの御幸したまひし儀式は、金銀をのべて宝輿をつく
り、珠玉をつらねて冠蓋を飾り給ひけり。これみな希有の思ひをな
し、随喜渇仰の心ざしをつくし給ふ作法なり。君の御幸、それに劣
らせ給ふべからず。高野山をば霊鷲山とおぼしめし、生身の大師を
釈迦如来と観ぜさせ給ひて、日数を延べて、御幸の儀式をひきつく
ろはせ給ふべうや候ふらん」と申されければ、「げにも」とて、こ
の日を延べて、綾羅錦繍をあつめて衣装をととのへて、金銀七宝を
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ちりばめ、馬、鞍をよそほひ給ひけり。これ高野御幸のはじめなり。
白河の院、か様に高野を執しおぼしめされたりしかば、その御子に
て清盛も、高野の大塔を修理せられけるにや。不思議なりし事ども
なり。
第五十七句 邦綱死去
同じく閏二月二十日、五条の大納言邦綱の卿も失せ給ひぬ。平大
相国とさしもちぎり深く、心ざし浅からざりし人なり。せめてのち
ぎりの深きにや、同じ日に病ひづきて、同月にぞ失せられける。
この大納言と申すは、中納言兼輔の卿の八代の末葉、前の右馬助
盛邦の子なり。進士の雑色にて侍はれしが、近衛の院御在位の時は、
公家に伺候せられけり。仁平のころ、四条の内裏にはかに焼亡出で
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きたり。南殿に出御なりしかども、近衛司一人も参らず、あきれさ
せ給ふところに、かの邦綱手輿を舁いて参りたり。「か様のときは、
かかる御輿にこそ召され候へ」と奏しければ、主上これに召して出
御なる。「何者ぞ」と御たづねありければ、「進士の雑色、藤原の邦
綱」と名のり申す。主上御感あつて、「かかるさかさかしき者こそ
あれ」とて召し出だされ、そのときの殿下、法性寺殿に仰せければ、
御領あまた賜びなんどして、召し使はれけるほどに、同じ帝の御時、
八幡へ行幸ありけるに、人長の、酒に酔ひて水にたふれ入り、装束
を濡らし、御神楽遅々したりけるに、この邦綱、殿下の御供に侍
はれけるが、「邦綱こそ人長の装束は持たせて候」とて、一具取り
出だされければ、これを着て御神楽ととのへ奏したり。ほどこそす
こしおし移りたりけれども、歌の声もすみのぼり、拍子にあうて、
おもしろかりけり。身にしみておもしろきことは、神も人も同じ心
なり。むかし天の岩戸をおしひらきける神代のことわざまでも、い
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まこそ思ひ知られけれ。
やがて、この邦綱の先祖、山蔭の中納言のその子に、如無僧都と
て智恵才覚身にあまり、浄行持律の僧おはしき。昌泰のころ、寛平
の法皇、大井川へ御幸ありしに、勧修寺の内大臣高藤公の子息、泉
の大将定国、小倉山のあらしに烏帽子を川へ吹き入れられ、袖にて
たぶさをおさへ、せんかたなく立たれたるところに、如無僧都、三
衣箱のうちより、烏帽子を一つ取り出だされ、大将に奉る。
この僧都は、父山蔭の中納言、太宰大弐にして鎮西へ下されける
とき、二歳なりしを、継母憎んで、あからさまに抱く様にして水に
おとし入れ、殺さんとしけるを、亀ども浮かれきて、甲にのせてぞ
助けける。これはまことの母、存日に、桂の鵜飼が、亀をとりて鵜
の餌にせんとしけるを、小袖をぬぎて、亀にかへ、放たれし、その
恩を報ぜしとかや。それは上代のことなれば、いかがありけん、末
代にこの邦綱の卿の高名、ありがたきことどもなり。
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法性寺殿の御代に、中納言にぞなられける。法性寺殿かくれさせ
給ひてのち、入道相国、「存ずるむねあり」とて、この人はかたら
ひ、寄りあひ給へり。大福長者でおはしければ、何にてもかならず
毎日一種、入道のもとへおくられけり。「現世の得意、この人に過
ぐべからず」とて、子息一人養子にして、清邦と名のらせ、侍従に
なす。入道の四男、頭の中将重衡はかの大納言の婿になす。
治承四年の五節は、福原にておこなはれけるに、中宮の御方へ、
殿上人あまた推参ありし中に、ある人、
雲は鼓瑟のあとをこらし
竹は湘浦の岸にまだらなり
といふ朗詠をせられたりければ、かの大納言立ち聞きし給ひて、
「あなあさましや。これは禁忌とこそ承れ。か様のことは聞くとも
聞かじ」とて、いそぎまかり出でられぬ。
この詩の心は、むかし尭の帝、二人の姫宮ましましき。姉をば蛾
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皇といひ、妹をば女英といふ。ともに舜王の后なり。舜かくれさせ
給ひしかば、蒼梧といふ野にをさめたてまつる。后、帝の別れをか
なしみ給ひて、湘浦の岸にいたり、泣き給ひける。涙の竹にかかり
て、まだらにぞ染みたりける。そののち、つねにかの所におはして、
琴をひいてなぐさみ給ふ。いまかの所を見れば、岸の竹はまだらに
て立てり。琴をしらべし跡は、雲そびえて、ものあはれなる心を、
橘の相公いまの詩に作らるなり。
かの大納言は、させる文才のことは、詩歌、うるはしくはましま
さざりけれども、さかさかしき人にて、か様のことをも聞きとどめ
られけるにこそ。
この大納言、されば思ひもよらざりしを、母上賀茂の大明神に心
ざしをいたし、歩みをはこび、「こひねがはくは、わが子邦綱、一
日にてもさぶらへ、蔵人の頭を経させ給へ」と、百日肝胆をくだき
て祈り申されければ、ある夜の夢に、「檳榔の車を持ちきたりて、
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わが家の車寄せにたつる」と夢を見て、人に語り給へば、「それは
公卿の北の方にこそならせ給はんずらめ」とあはせたりけるを、
「われ、年すでにたけたり。いまさらさ様のふるまひあるべしとも
おぼえず」とのたまひけるが、御子邦綱、蔵人の頭は事もよろし、
正二位大納言にあがられけるこそめでたけれ。
第五十八句 須俣川
同じく二十二日、法皇、院の御所法住寺殿へ御幸なる。この御所
は、去んぬる応保三年四月十五日に造出されて、新比叡、新熊野を
左右に勧請したてまつり、山水の木立にいたるまで、おぼしめす様
なりしかば、この二三年は平家の悪行によつて御幸もならず、「御
所の破壊したるを修理して御幸なしたてまつるべき」よし、右大将
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宗盛の卿奏せられけれども、法皇、「なにの沙汰にもおよぶべから
ず。ただとくとく」とて御幸なる。まづ故建春門院の御方を御覧ず
れば、岸の柳、みぎはの松、「年経にけり」とおぼえて、木だかく
なれるについても、御涙ぞすすみける。
同じく三月一日、南都の僧綱等本位に復して、「末寺、荘園、も
とのごとく知行すべき」よし仰せ下さる。
同じく三日、大仏殿つくりはじめらる。事はじめの奉行には、蔵
人左少弁行隆参られける。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられ
たりける夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、
「これは大菩薩の御使なり。東大寺の奉行のときは、これを持すべ
し」とて、笏をくだし給ふと夢に見て、さめてのち見給へば、うつ
つにありけり。「あな不思議、当時なにごとによつてか、行隆、大
仏殿の奉行には参るべき」とて、懐中して宿所に帰りて、深うをさ
めておかれたりけるが、平家の悪行によつて、南都炎上のあひだ、
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行隆、弁のうちにえらばれて、事はじめの奉行に参られける宿縁の
ほどこそめでたけれ。
同じく三月十日、美濃の国の目代、都へ早馬をもつて申しけるは、
「東国の源氏ども、すでに尾張の国まで乱入して、道をふさぎ、人
を通さざる」よし申したりければ、やがて討手をつかはす。討手の
大将軍には左兵衛督知盛、左少将清経、同じく少将有盛、その勢三
万余騎にて、尾張の国へ発向す。入道相国失せ給ひて、わづかに五
旬だにも過ぎざるに、乱れたる世とはいひながら、あさましかりし
事どもなり。源氏の方には、十郎蔵人行家大将軍にて、兵衛佐の舎
弟卿の公円成、都合その勢六千余騎、尾張の国須俣川の東に陣をと
る。平家は三万余騎、川より西に陣したり。
同じき十六日の夜に入りて、源氏六千余騎、川を渡して、平家三
万余騎が中へをめいて駆け入り、あくれば十七日の寅の刻に矢合せ
して、夜の明くるまで戦ふに、平家はちともさわがず、「敵は川を
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渡したれば、馬、物の具みな濡れたるぞ。それをしるしに討てや」
とて、大勢の中にとりこめて、「あますな、もらすな」とて攻めけ
れば、源氏の勢のこりすくなう討ちなされ、大将軍十郎蔵人行家か
らき命生きて、川より東へ引きしりぞく。卿の公円成深入りして討
たれにけり。平家やがて川を渡いて、勝にのり、追つかくる。かし
こ、ここに、返しあはせ、返しあはせ、防ぎ戦へども、無勢なり。
平家は多勢なりければ、かなふべしとも見えざりけり。「こんどは
源氏のはかりごと、はかなくなる」とぞ人申しける。
大将軍十郎蔵人行家、三河の国八橋川の橋を引き、防がんと待ち
かけたり。平家やがて押し寄せ攻めければ、こらへずしてそこをも
攻めおとされぬ。平家つづいて攻められば、三河、遠江の勢つくべ
かつしを、大将軍左兵衛督知盛、所労とて、三河の国より帰りのぼ
らる。こんどもわづかに一陣ばかり破るるといへども、残党を攻め
ねば、しいだしたることもなきがごとし。
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平家は、去々年小松殿薨ぜられぬ。今年また入道相国失せ給ふ。
運命の末になることあらはなりしかば、年来恩顧のともがらのほか
は、したがひつく者なかりけり。「東国には、草も木もみな源氏に
なびく」とぞ聞こえし。
第五十九句 城の太郎頓死
さるほどに、越後の国の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる
重恩のかたじけなさに、木曾追討のために、その勢三万余騎、六月
十五日門出して、あくる十六日の卯の刻にうちたたんとしける夜半
ばかりに、にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみおびたたしく鳴
つて、空はれてのち、雲居に大きなる声のしはがれたるをもつて、
「南閻浮提第一の金銅十六丈の盧遮那仏、焼きほろぼしたてまつる
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平家の方人する城の太郎、これにあり。召し取れや」と三声さけび
てぞとほりける。資長をさきとして、これを聞く者みな身の毛もよ
だちけり。郎等ども、「これほどおそろしき天の告げ候ふには、た
だ、ことわりをまげ、とどまらせ給へ」と申しけれども、「弓矢取
る者、それによるべからず」とて、あくる卯の刻に城を出でて、十
余町を行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来つて、資長がうへにお
ほふ」と見えければ、うち臥すこと三時ばかりして、つひに死にに
けり。このよし飛脚をたてて都へ申しければ、平家の人々大きにさ
わがれけり。
同じく七月十四日改元ありて、「養和」と号す。築後守貞能、築
前、肥後両国を賜はつて、鎮西の謀叛たひらげんために、西国へ発
向す。その日また非常の大赦おこなはる。去んぬる治承三年に流さ
れ給ひし人々、みな召し返さる。松殿の入道殿下、備前の国よりの
ぼらせ給ふ。太政大臣妙音院、尾張の国より帰洛とぞ聞こえし。
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按察の大納言資賢、信濃の国より御上洛。
同じく二十八日、妙音院御院参。去んぬる長寛のむかしの帰洛に
は、御前の簀子にして、賀王恩、還城落をひかせさせ給ひしに、養
和のいまの帰洛には、仙洞にして、秋風楽をぞあそばしける。いづ
れもその風情折を得て、おぼしめしより給ひけん御心のうちこそめ
でたけれ。按察の大納言資賢の卿もその日院参せらる。法皇、「い
かにや。夢の様にこそおぼしめせ。ならはぬ鄙のすまひして、郢曲
なんどもいまは跡かたもあらじとおぼしめせども、今様一つあらば
や」と仰せければ、大納言拍子をとつて、
信濃にあんなる木曾路川
といふ今様を、これはわが見給ひたりしあひだ、
信濃なる木曾路川
とうたはれけるぞ、ときにとつて高名なる。
同じく八月七日、官の庁にして、大仁王会おこなはる。これは
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「将門追罰の例」とぞ聞こえし。
同じく九月一日、「純友追罰の例」とて、くろがねの鎧、兜を大
神宮へ参らせらる。勅使は祭主神祇権大副大中臣の定隆、都をたつ
て伊勢へ参りけるが、近江の国甲賀の駅にして所労ついて、伊勢の
離宮にして死にけり。
また謀叛のともがら調伏のために、山門にて五壇の法を三七日お
こなはれけるに、初五日にあたつて、降三世の壇の大阿闍梨覚算法
印、大行事の彼岸所にて寝死にこそ死にけれ。神明、三宝も御納受
なしといふこといちじろし。
また大元帥の法うけたまはつて修せられける安祥寺の実厳阿闍梨
が御巻数を参らせたるを、披見せられければ、「平家調伏」のよし
を記したりけるぞおそろしき。「この法師、死罪にやおこなふべき、
また流罪にか」と沙汰ありしかども、大きに事の怱劇にうちまぎれ
て、沙汰もなかりけり。世しづまつてのち、鎌倉殿、「神妙なり」
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と感じおぼしめし、その賞に大僧正になされしとぞ聞こえし。
同じく十二月二十四日、中宮、院号かうむらせ給ひて、「建礼門
院」とぞ申しける。「いまだ幼少の御とき、母后の院号これはじめ
なり」とぞ申しける。
さるほどに養和も二年になりにけり。
同じきその年二月二十三日、太白昴星を犯す。天文要録には、
「太白昴星を犯すときに、将軍、都のほかに出づ」と言へり。また、
「将軍勅命をかうむつて、国のさかひを出でて、たちまち四夷起る」
とも見えたり。
同じく三月十日、除目おこなはれて、平家の人々大略官加階し
給ふ。
四月十四日、前の権少僧都顕真、日吉の社にして法華経一万部転
読することあり。御結縁のために、法皇も御幸なる。いかなる者の
申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せて、平家を
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追罰せらるべし」と聞こえしほどに、軍兵内裏へ参りて、四方の陣
頭を警固す。平家の一類みな六波羅へ馳せあつまる。本三位の中将
重衡の卿、その勢三千余騎にて、法皇の御迎へに、日吉の社へ参り
むかはる。山門に聞こえけるは、「平家、山を攻めんとて、数万騎
の軍兵を率して登山する」と聞こえしかば、大衆みな東坂本へ下り
て、「こはいかに」と僉議す。山上、洛中の騒動なのめならず。供
奉の公卿、殿上人も色をうしなふ。北面のともがらのなかには、あ
まりにさわいで、黄水を吐く者おほかりけり。本三位の中将重衡、
穴太の辺にて法皇を迎ひとりまゐらせ、還御なしたてまつる。「か
くあらんには、御物詣でも、御心にまかすまじきやらん」とぞ仰せ
ける。
まことには山門の大衆、「平家を追罰せん」といふこともなし。
平家、また「山を攻めん」といふこともなかりけり。これ跡かたも
なきことどもなり、「ひとへに天魔の狂はし」とぞ申しける。
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第六十句 城の四郎官途
五月二十四日、改元あつて、「寿永」と号す。
その日越後の国の住人、城の四郎資茂、越後守に任ず。「兄資長
逝去のあひだ、不吉なり」とて、しきりに辞し申しけれども、勅命
なれば、力およばずして、「資茂」を「長茂」と改名す。
同じく九月二日、城の四郎長茂、越後、出羽、会津四郡の兵ども
引率して、都合その勢四万余騎、木曾追罰のために、信濃の国へ発
向す。
九月十一日、横田川原に陣をとる。
木曾はこれを聞き、三千余騎にて、依田の城を出でて馳せ向かふ。
信濃源氏に井上の九郎光盛がはかりごとにて、にはかに赤旗を七な
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がれつくり、三千余騎を七手につくり、かしこの峰、ここの洞より、
案内者なりければ、赤旗どもを手々にさしあげ、さしあげ、寄りけ
れば、城の四郎これを見て、「何者か、この国にも平家の方人する
人がありけるが、着きぬよ」とて、いさみののじるところに、次第
に近うなりければ、合図をさだめて七手が一つになる。三千余騎一
所に、鬨をどつとぞつくりける。用意したる白旗ざつとさしあげた
り。
越後勢ども、「敵は何の十万騎といふことかあらん。いかにもか
なふまじ」とて、色をうしなふ。にはかにふためき、あるいは川に
追ひ入れ、あるいは悪所に追ひ落され、たすかる者はすくなう、討
たるる者ぞおほかりける。城の四郎、頼みきつたる越後の山野の太
郎、会津の乗湛房なんどいひける兵ども、そこにてみな討たれぬ。
わが身もからき命生きて、川をつたつて越後の国へ引きしりぞく。
同じく十六日、都にはこれを事ともし給はず。前の右大将宗盛の
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卿、大納言に還着して、十月三日、内大臣になり給ふ。
同じく七日に、祝ひ申しけり。当家、他家の公卿十二人扈従せら
る。蔵人頭以下、殿上人十六人前駆す。
東国、北国に源氏ども、蜂のごとくに起こりあひ、ただいま都へ攻
めのぼらんとするところに、波のたつやらん、風の吹くやらん、知
らざる体にて、か様に花やかなりし事ども、なかなか言ふがひなく
ぞ見えたる。
さるほどに寿永も二年になりにけり。