平家物語 百二十句本(国会図書館本) 巻第七

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巻第七
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     目  録
第六十一句 平家北国下向
     鳥羽の院朝覲の行幸
     頼朝義仲和融の事
     木曾と城の四郎と合戦の事
     経正竹生島参詣の事
第六十二句 火打合戦
     平泉寺の長吏心がはり

     火打が城落去
     平家砥波志保坂の陣
     木曾埴生の陣
第六十三句 木曾の願書
     覚明素生
     鳩の沙汰
     平家と木曾と合戦
     平家砥波志保坂落去
第六十四句 実  盛
     平家篠原落ち
     武蔵三郎左衛門有国討死
     首実検
     実盛錦の直垂の事
第六十五句 玄■の沙汰
     飛騨守景家思ひ死の事
     伊勢行幸
     大宰少弐広嗣観世音寺供養
     兵乱の祈祷の事
第六十六句 義仲牒状
     木曾越後の国府にて合戦の評議
     覚明願書の事
     山門衆徒の僉議
     返牒の事
第六十七句 平家の一門願書
     平家山門の衆徒計策の事
     願書したためつかはす事
     平家平生神慮を背く事
     衆徒平家を許容せざる事
第六十八句 法皇鞍馬落ち
     平家宇治瀬田の手退散の事
     春日大明神童子姿と現じ給ふ事
     薩摩守・俊成の卿対面の事
     千載集の沙汰
第六十九句 維盛都落ち
     経正御室へ参らるる事
     維盛北の方哀別の事
     若君姫君哀別の事
     斎藤五・斎藤六哀別の事
第七十句 平家一門都落ち
     平家一門家々放火の事
     池の大納言心かはりの事
     飛騨守貞能振舞の事
     福原旧都一宿の事
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平家物語巻第七

第六十一句 平家北国下向

寿永二年二月二十二日、主上は朝覲のために、法住寺殿へ行幸な
る。鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。
 同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。

 同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。これは兵乱のためなり。
 南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるま
で、一向平家をそむき、源氏に心を通じけり。四方へ宣旨をなしく
だし、諸国へ院宣をつかはすも、みな平家の下知とのみ心得て、し
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たがひつく者なかりけり。
そのころ、木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。兵衛佐、「木
曾を討たん」とて、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。木
曾これを聞き、乳人子の今井の四郎兼平をもつて、「なにによつて
か義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、十郎蔵人殿こそ、それを
恨むることあつて、これにおはしたるを、義仲さへ情なくもてなし
申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほ
か意趣あるべしともおぼえず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたて
まつり、合戦し、平家に笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりけ
れば、兵衛佐、「今こそかくはのたまへども、頼朝討たるべきよし
『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それによる
まじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、木曾、「真実に意
趣なき」よしをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生
年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、
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そのほかあまたつけて、兵衛佐のもとへつかはす。兵衛佐、「この
うえは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌倉へこそ帰られ
けれ。
木曾はやがて越後の国へうち越えて、城の四郎と合戦す。いかに
もして討ち取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行き
がた知らずぞ落ちにける。越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木
曾にしたがひつく。木曾は東山・北陸、両道をうちしたがへて、
「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。
平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」
と披露せられたりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞
のごとくに馳せのぼる。東海道にも、遠江の国より東こそ参らざれ、
相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の国の住人伊東の九郎祐澄、
武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家方にぞ侍ひける。東山
道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり。
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平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。すでに討手をつ
かはす。大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前
の三位通盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后
宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、三河守知度。侍大将には、
上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国、高
橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛盛嗣、武蔵の三郎
左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東の九郎祐澄、長井の斎藤別当実
盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四月
十七日の午の刻に都をたつて、北国へぞおもむきける。
平家は片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、道にもち
あふ権門勢家の正税、官物ともいはず、いちいちに奪ひ取る。まし
て志賀、唐崎、真野、高津、塩津、海津の辺を、いちいちに追捕し
て通りければ、人民多く逃散す。先陣はすすめども、後陣はいまだ
近江の国、海津の辺にひかへたり。
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なかにも皇后宮亮経正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、か
かる乱れのなかにも心をすまし、湖の水際にうち出でて、漫々たる
沖に小島の見えけるを、藤兵衛尉有範を召して、「あれはいかな
る島ぞ」と、問ひ給へば、「あれこそ聞こえ候ふ竹生島」と申す。
経正「げに、さることあり。いざや、さらば参らむ」とて、安左衛
門守教、藤兵衛尉有範なんど申す侍ども四五人召し具して、小船に
乗り、竹生島へぞ参られける。
ころは卯月中の八日のことなれば、緑に見ゆる木末には、春のな
さけを残すかとおぼえたり。谷々の舌声老いて、初音ゆかしきほ
ととぎす、折知り顔に告げわたる。松に藤波咲き乱れ、まことにお
もしろかりしことどもなり。経正、船よりあがり、この島のありさ
まを見給ふに、心もことばもおよばれず。
ある経のうちに、「南閻浮提に湖あり。海中に島あり。金輪際よ
り生ひ出でたる水精輪の山あり。つねに天女住む所」と言へり。す
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なはちこの島のことなり。かの秦皇、漢武、童男、丱女、あるいは
方士をもつて不死の薬をたづね給ひしに、「蓬莱見ずは、いざや帰
らじ」と言うて、いたづらに船中にて老い、天水茫々として見ゆる
ことを得ざりけん、蓬莱洞のありさまも、これには過ぎじとぞ見え
し。
経正、明神の御前に、ついひざまづいて、「それ大弁功徳天は、
往古の如来、法身の大士なり。弁才、妙音名は各別なりといへども、
本地一体にして衆生を済度し給ふ。参詣の輩は所願成就円満すと
うけたまはる。頼もしうこそ候へ」とて、法施参らせて、片時のほ
どと思はれけれども、日もはや暮れにけり。居待の月のさし出でて、
湖の上も照りわたり、社壇もいよいよかがやいて、まことに貴かり
けり。小夜もふけゆけば、常住の僧ども、琵琶をたづねてさし置い
たり。経正これを弾じ給ふに、かの上原石上の秘曲には宮もすみわ
たり、明神、感応にたへずして、経正の袖の上に白龍と現じて見え
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給ふ。経正これを見てうれしさのあまりに、しばらく撥をさしおき
目をふさぎ、
ちはやぶる神に祈りのかなへばや
しろくも色にあらはれにけり
されば「怨敵をまなこのまへに退け、凶徒をただいま落さんこと、
疑ひなし」と、よろこんで、また船に乗り、竹生島を出でられたり。

第六十二句 火打合戦

木曾義仲は、わが身は信濃にありながら、越前の国火打が城をぞ
かまへける。大将軍には平泉寺の長吏斎明威儀師、稲津の新介、斎
藤太、林の六郎光明、富樫の入道仏誓、入善、宮崎、石黒を先とし
て、七千余騎ぞ籠りける。
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さるほどに、平家の先陣は越前の国木辺山をうち越えて、火打
が城へぞ寄せられける。この城のありさまを見るに、磐石そばたち
て四方の峰をつらねたり。山をうしろに、山をまへに当つ。城のま
へには、能見川、新道川とて二つの川流れたり。二つの川の落ちあ
ひに大木を立てて、しがらみをかき、せきあげたれば、水、東西の
山の根にさし満ちて、ひとへに大海に臨むがごとし。影南山をひた
して、青うして滉瀁たり。波西日を沈めて、紅にして〓淪たり。昆
明池のありさまも、これにはいかでかまさるべき。
平家は、むかへの山に宿し、むなしく日数をおくる。城のうちの
大将軍、平泉寺の長吏斎明威儀師、心がはりして、消息を書きて、
蟇目の中に籠めて、しのびやかに山の根をつたへて、平家の陣へぞ
射られたる。「この蟇目の鳴らぬこそあやしけれ」とて、取つてこ
れを見るに、中に文あり。ひらきて見れば、
かの川は往古の淵にあらず。一旦しがらみをかきあげたる水な
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り。いそぎ雑人どもつかはして、しがらみを切り破らせ給へ。
山川なれば、水はほどなく落ちんずらん。馬の足立よく候へば、
いそぎ渡させ給へ。うしろ矢は射てまゐらせん。
平泉寺の長吏斎明威儀師が申状
とぞ書いたりける。
大将軍、副将軍、大きによろこんで、やがて雑人どもをつかはし、
しがらみを切り破らせらる。案のごとく、山川なれば、水はほどな
く落ちにけり。そのとき、平家の大勢ざつと渡す。斎明威儀師は、
やがて平家と一つになつて忠をいたす。稲津の新介、斎藤太、入善、
宮崎、これらは、みなしばし戦ひ、城を落ちて、加賀の国へぞ引き
しりぞく。
平家やがて加賀の国へうち越えて、林、富樫が二箇所の城郭を追
ひ落す。さらに面を向くべしとも見えざりけり。都にはこれを聞き、
よろこぶことかぎりなし。
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同じく五月八日、平家は加賀の国篠原にて勢揃ひして、それより
軍兵を二手に分けて、大将軍には小松の三位の中将維盛。副将軍に
は越前の三位通盛。先陣は越中の前司盛俊。都合その勢七万余騎。
加賀と越中のさかひなる砥波山へぞ向かはれける。搦手の大将軍に
は左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて、能登と越中とのさかひ
なる志保坂へこそ駆けられける。
さるほどに木曾の冠者義仲、越後の国府より五万余騎にて馳せ向
かふ。先に十郎蔵人行家を大将軍にて、一万余騎を引き分けて、志
保坂の手へさし向けらる。残るところの四万余騎を手々に分かつ。
総じて七手に分かたれたり。木曾、わが身は一万余騎にて、小屋部
の渡りをして、砥波山の北の埴生に陣をぞ取つたりける。
木曾のたまひけるは、「平家は大勢にて下るなり、山うち越えて、
黒坂の裾の松坂の柳原、ぐみの木林の広みへ出づるものならば、走
り合ひの合戦にこそあらんずれ、馳せ合ひの合戦は、いかにも勢の
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多く少なきによることなり、大勢かさにかけられてはかなふまじ。
搦手をまはせや」とて、楯の六郎親忠、七千余騎にて北黒坂へまは
る。仁科、高梨、山田の次郎、七千余騎にて、南黒坂へ向かふ。わ
が身は大手より一万余騎。また一万余騎をば、松坂の柳原に引き隠
し、今井の四郎兼平六千余騎にて鷲の島をうち渡り、日宮林に陣を
とる。
木曾のたまひけるは、「この勢黒坂に向かはんことは、はるかの
ことぞ。さあらんほどに、平家の大勢、山よりこなたへ越えなんず。
勢は向かはずとも、旗を先に立つるものならば、『源氏の先陣向か
うたり』とて、山よりあなたへひかんずらん。旗を先に立てよ」と
て、勢は向かはねども、黒坂の上に、白旗三十流ばかりうち立てた
り。案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣すでに向
かひてんげり。ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手た
やすくはよもまはらじ。馬の草かひ、水かひ、ともによげなり。馬
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休めん」とて、大勢みな、山の中へぞおりゐたる。

第六十三句 木曾の願書

木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とつて、四方をきつと見まはせ
ば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづ
くりの社壇あり。木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これは
なにの社ぞ、いかなる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられけ
れば、「これは、八幡を遷しまゐらせて、当国には『新八幡』とこ
そ申し候へ」。木曾おほきによろこんで、手書に具せられたる、木
曾の大夫覚明を呼びて、「義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近
づきたてまつりて合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつ
うは後代のため、かつうは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて
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参らせばや』と思ふはいかに」。「もつともしかるべく候」とて、馬
より飛び下り、書かんとす。覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、
斑母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓を持ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。
箙より小硯、畳紙を取り出だし、木曾殿の御前にひざまづいてぞ書
いたりける。数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめた
りける。
この覚明と申すは、勧学院に蔵人道弘とて侍ひけるが、出家して
最乗坊信救とぞ名のりける。しばしは南都にありしが、高倉の宮、
三井寺にわたらせたまひしとき、南都へ牒状を送られたり。その返
牒をこの信救ぞ書いたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」
と書いたりしこと、太政入道おほきに怒つて、「信救法師が首をは
ねよ」とのたまふあひだ、南都をひそかにのがれ出で、北国へ落ち
くだり、木曾にぞつきたりける。
かかる才人なれば、なじかは書きも損ずべき。書きあげてぞ読う
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だりける。
帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。
宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の金容をあら
はして、三所の権扉をおしひらく。ここに向年よりこのかた、
平相国といふ者あり。四海を管領し、万民を悩乱せしむ。これ
すでに仏法の怨、王法の敵なり。義仲いやしくも弓馬の家に生
まれ、わづかに箕裘の芸を継ぐ。彼の暴悪を見るに、思慮を顧
みるにあたはず。運を天道にまかせ、身を国家になげうち、試
みに義兵を起し、凶器を退けんと欲す。闘戦両家の陣を合はす
といへども、士卒いまだ一塵の勇を得ざるのあひだ、まちまち
心おそれをなすところに、いま一陣において旗を戦場に挙げて、
たちまち三所和光の社壇を拝し、機感純熟、すでにあきらか
なり。凶徒誅戮うたがひなし。歓喜の涙をおとし、渇仰胆に染
む。なかんづく曾祖父、前の陸奥守源の義家の朝臣、身を宗廟
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の氏族に帰付し、名を「八幡太郎」と号してよりこのかた、そ
の門葉として帰敬せざるといふ事なし。義仲、その後胤として、
首を傾くること年久し。いまこの大功を起して、たとへば、嬰
児の蠡をもつて巨海を測り、螳螂が斧をとつて、隆車に向かふ
がごとし。しかれども国のため、君のためにこれを起し、家の
ため、身のためにこれを起さず。心ざしの至り、神鑒暗からん
や。たのもしいかな、よろこばしいかな。伏して願はくは、冥
顕威を加へ、霊神力を合はせて、勝つことを一時に決し、怨を四
方に退け給へ。しかればすなはち、丹祈冥慮にかなひ、幽玄加
護をなすべくは、まづ一つの瑞相を見せしめたまへ。
寿永二年五月十一日 源の義仲敬白
と読みあげて、十三の上矢をそへて、御宝殿にぞ納めける。
たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、は
るかに照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たつて、源氏
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の白旗のうへに翩翻す。平家もこれを見て、みな身の毛もよだちた
り。
昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしに、霊鳩明天にあらはれ、軍に
勝つことを得給へり。しかるに、この人々の先祖八幡太郎義家、奥
州の貞任を追罰せしとき、厨川の館にて、王城の方にむかひ、はる
かに八幡を拝したてまつりて、「これは私の火にあらず、すなはち
神火なり」とて火をはなつ。霊鳩、炎のうちにあらはれ、旗の上に
飛びめぐる。か様の先蹤を思ひつづけて、木曾殿兜を脱ぎ、霊鳩を
拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。
源平陣を合はせて、たがひに盾を突き、向かうたり。そのあはひ
三町にはすぎじとぞ見えし。されども源氏もすすまず、平家もすす
まず。ややありて、源氏なにとや思ひけん、精兵をすぐり、十五騎を
出だして十五の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎出だし
て十五の鏑を射返す。源氏、また三十騎出だして、三十の鏑を射さ
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すれば、三十の鏑を射返しけり。五十騎を出だせば、五十騎を出だ
しあはせ、百騎を出だせば百騎を出だし、両方盾の面にすすんだる。
たがひに勝負を決せんとすすめども、源氏の方には、総じて制して
勝負をせず。源氏は、かくあひしらひて日を暮らし、「夜に入りて、
うしろの谷へ追ひ落し、滅ぼさん」とするをば知らず。平家も、と
もにあひしらひて、日を暮らすことこそはかなけれ。
次第に、暗うなりしかば、搦手の勢一万余騎、平家の陣のうしろ
なる倶利伽羅の堂の辺にて参りあひ、倶利伽羅の堂のまへにて一万
余騎、箙の方立を打ちたたき、天も響き、大地もうごくほどに、鬨
をどつとつくる。
木曾これを聞きて、大手より一万余騎にて鬨をどつと合はす。松坂
の柳原にひき隠したるが、一万余騎にて戦ふ。今井の四郎兼平、六
千余騎にて、日宮林より一度にをめいて寄せ向かふ。前後四万騎が
鬨の声、「山も川もただ一度に崩るるか」とぞおぼえける。
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平家は、「ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たや
すくよもまはらじ」とて、うちとけたるところに、思ひもかけぬ鬨
の声におどろきて、あわてさわぎ、「もしやたすかる」と、そばの
谷へぞ落しける。「きたなしや。返せ。返せ」と言ふやからも多か
りけれども、大勢のかたぶきたちぬれば、取つて返すことなし。さ
れば、「われ先に」とぞ落しける。親の落せば、子も落す。主の落
せば、郎等もつづく。兄が落せば、弟も落す。馬には人、人には馬、
落ち重なつて、さしも深き谷一つ、平家の勢七万余騎にてぞ埋みけ
る。巌泉血をながし、死骸丘をなす。
大将軍維盛ばかり、からき命生きて、加賀の国へ引きしりぞく。
上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国みな
この谷にてぞ死にける。その谷の辺には「矢の穴、刀のあと、今に
ある」とぞうけたまはる。
生捕にせられたる者おほかりけり。まづ火打が城にて心がはりし
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たりける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家の侍に聞こふる兵、備中の
国の住人瀬尾の太郎兼康、生捕にせられにけり。「斎明威儀師、生
捕にせられたり」と聞こえしかば、木曾殿、これを召し寄せ、まへ
に引き据ゑ、やがて首を刎ねられけり。
夜明けてのち、しかるべき者ども、三十余人首を切りかけて、木
曾殿のたまひけるは、「そもそも、十郎蔵人が志保の手こそおぼつ
かなけれ。いざ行きて見ん」とて四万騎が中より、馬、人、強きを
すぐつて二万騎、志保の手に馳せ向かふ。
越中の国、氷見の湊といふ所を渡さんとするをりふし、潮さし満
ちて、深さ、浅さを知らず。鞍置馬を追ひ入れて泳がす。鞍爪ひた
るほどにて、むかひの岸のはたへ渡り着く。「こはいかに。浅かり
けるを」とて、大勢うち入れて渡す。志保坂へ押し寄せ見給へば、
案のごとく、十郎蔵人は散々に射しらまされて引きしりぞき、駒の
足を休めてゐたるところに、木曾、「さればこそ」とて、二万騎入
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りかはつて、鬨をつくり、をめいて駆く。平家、しばらくこそ支へ
けれ、志保の手も追ひ落されて、加賀の国篠原へこそ引きしりぞき
けれ。

第六十四句 実盛

同じく二十三日、卯の刻に源氏篠原へ押し寄せて、午の刻まで戦
ひけり。暫時の合戦に、源氏の兵一千余騎討たれぬ。平家の方に
は高橋の判官長綱をはじめとして、二千余騎ぞ滅びける。平家篠原
を攻め落されて落ち行きけり。
その中に武蔵の三郎左衛門有国、長井の斎藤別当実盛は、大勢に
離れて、二騎つれて引き返し戦ひけり。三郎左衛門有国は敵に馬の
腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついて下り立つたり。
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敵のなかに取りこめられて散々に射る。矢種みな射尽くし、打物抜
いで戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられて、立死にこそ死にけれ。
三郎左衛門討たれてのち、長井の斎藤別当実盛、存ずるむねあり
ければ、ただ一騎残つてぞ戦ひける。信濃の国の住人手塚の太郎馳
せ寄つて、「味方はみな落ち行くに、ただ一騎残つていくさするこ
そ心にくけれ。誰そや、おぼつかなし。名のれ、聞かん」と言ひけ
れば、「かう言ふわ殿は誰そ。まづ名のれ」と言はれて、「かく言ふ
は、信濃の国の住人手塚の太郎光盛ぞかし」と名のる。斎藤別当、
「さる人ありとは聞きおきたり。ただし、わ殿を敵に嫌ふにはあら
ず、存ずるむねあれば、今は名のるまじ。寄れ。組まん。手塚」と
て押しならべて組まんとするところに、手塚が郎等、中にへだたつ
て、むずと組む。実盛は手塚が郎等を取つて、鞍の前輪に押しつけ
て、刀を抜き、首をかかんとす。手塚は、郎等が鞍の前輪に押しつ
けらるるを見て、弓手よりむずと寄せあはせて、実盛が草摺たたみ
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あげて、二刀刺すところを、えい声をあげて組んで落つ。実盛、心
は猛けれども、老武者なり、手は負うつ、二人の敵をあひしらふと
せしほどに、手塚が下になつて、つひに首を取らる。
手塚は、遅ればせに馳せ来たる郎等に、斎藤別当が物具はがせ、
首持たせ、木曾殿のまへに馳せ参り、申しけるは、「光盛こそ今日
奇異のくせ者と組んで討ち取つて候へ。なにと『名のれ』とせめ候
ひつれども、つひに名のり候はず。『侍か』と見れば、錦の直垂を
着て候。また、『大将か』と思へば、つづく勢も候はず。声は坂東
声にて候ひつる」と申せば、「あはれ、これは斎藤別当実盛にてや
あらん。ただし、それならば、義仲ひととせ幼な目に見しかば、す
でに白髪糠生なりしぞ。いまはさだめて白髪にこそあらんずるに、
鬢、鬚の黒きは、あらぬ者やらん。年来の得意なれば見知りたるら
んものを。樋口召せ」とて、召されたり。
樋口の次郎参り、実盛が首をひと目見て、やがて涙にぞむせびけ
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る。「いかに、いかに」とたづねられければ、「あな無慚や。実盛に
て候ひけり」と申す。「鬢、鬚の黒きはいかに」とのたまへば、樋
口の次郎涙を押しのごひて申しけるは、「さ候へばこそ、その様を
申さんとすれば、不覚の涙が先立つて、申し得ず候。弓矢取る身は、
あからさまの座席とは思ふとも、思ひ出でになることを申しおくべ
きにて候ひけるぞや。つねは兼光に会うて物語り申せしは、『実盛、
六十にあまつて軍の場に向かはんには、鬢、鬚を墨に染めて若やが
んと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大
人げなし。また、老武者とてあなどられんも口惜しかるべし』なん
ど、つねは申し候ひしが、今度を最後と存じて、まことに染めて候
ひける無慚さよ。洗はせて御覧候へ」と申しもあへず、また涙にぞ
むせびける。「さもあらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそ洗
ひなせ。
実盛、錦の直垂を今度着たりけることは、都を出でしとき、大臣
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殿に参り、申しけるは、「一年、東国のいくさにまかり下り候ひて、
駿河の蒲原より矢一つも射ずして逃げのぼりて候ひしこと、老後の
恥辱ただこのことに候ふなり。今度、北国へ向かふならば、年こそ
寄りて候ふとも、真先駆けて討死つかまつらんずるにて候。それに
とつては、実盛、もとは越前の者にて候ふが、近年所領につきて武
蔵の長井に居住せしめ候ひき。事のたとへの候ひしぞかし。『故郷
へは錦を着て帰る』と申すことの候。しかるべくは、実盛に錦の直
垂を御ゆるされ候へかし」と申しければ、大臣殿、「まことにさる
べし」とて、錦の直垂を許されけるとぞ聞こえし。
昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがへし、今の実盛はその名を
北国のちまたにあぐ。

第六十五句 玄〓の沙汰
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平家は、去んぬる四月に北国に下りしときは、十万余騎と聞こえ
しが、今五月下旬に帰り上るには、わづかにその勢三万余騎。さし
も花やかにいでたちて都をたちし人々の、いたづらに名をのみ残し、
越路の末の塵となるこそかなしけれ。入道の末の子三河守知度も討
たれ給ひぬ。忠綱、景高もかへらず、季国、長綱も討たれぬ。「『流
を尽くしてすなどるときんば、多くの魚ありといへども、明年には
魚なし。林を焼いて狩するときは、多くの獣ありといへども、明年
には獣なし』と、のちを存じて少々は残さるべきものを」と申す人
もおほかりけり。
飛騨守景家は、「最愛の嫡子景高討たれぬ」と聞こえしかば、臥
ししづみて嘆きけるが、しきりにいとま申すあひだ、大臣殿ゆるさ
れけり。やがて出家して、うち臥すこと十余日ありて、つひに思ひ
死にこそ死にけれ。これをはじめとして、親は子を討たせ、子は親
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を討たせ、妻は夫におくれて、家々には、をめきさけぶ声おびたた
し。北国のいくさにうち負けて、都へ帰り上りにけり。
六月一日、蔵人の左衛門権佐定長、仰せをうけたまはつて、祭主
神祇権少副大中臣の親俊を殿上のおり口へ召され、「兵革をしづめ
んがために、大神宮へ行幸なるべき」よし仰せ下さる。
大臣宮と申すは、高天の原より降らせ給ひて、大和の国笠縫の里
にましましけるを、十一代の帝垂仁天皇二十五年丙辰三月に、伊
勢の国五十鈴の川上、下津石根に大宮柱を広う敷き立てて、祝ひそ
めたてまつりしよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の
神祇冥道のうちには無双なり。されども代々の帝の臨幸はいまだな
かりけり。
奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近
衛の少将兼大宰少弐広嗣といふ人あり。天平十五年十月に、肥前の
国松浦の郡にして、十万の凶賊をかたらひて、国家をあやぶめんと
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す。これによつて大野の東人、広嗣が討手に向かふ。その祈りのた
めに、帝はじめて伊勢へ行幸なるとかや。広嗣討たれてのち、その
亡霊荒れて、おそろしき事ども多かりけり。
同じき十八年六月に筑前の国観世音寺供養せらる。導師には玄〓
僧正請ぜらる。すでに高座にのぼり、表白の鉦打ち鳴らして候ふ
とき、にはかに鳴神おびたたしく鳴つて、玄〓のうへに落ちかかつ
て、その頭を取り、雲中へぞ入りにける。おそろしなんどもおろか
なり。これは玄〓僧正、広嗣を調伏したりけるによつてなり。これ
によつてかの霊をうやまひ、「松浦の鏡の宮」と号す。
この僧正は吉備の大臣入唐のとき、法相宗をわたされし人なり。
唐人、「玄〓」といふ名を難じて、「玄〓とは『還つて亡ぶ』といふ
声あり。いかさまにも帰朝ののち、事にあふべき人なり」と申した
りとかや。そののち、なか一年あつて、曝れたる頭に「玄〓」とい
ふ銘を書いて、興福寺に空より落し、どつと笑ふ声ありけり。おそ
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ろしき事どもなり。
嵯峨の天皇の御時、平城の先帝、尚侍のすすめによつて、世を乱
り給ひしその御祈りには、帝第三の姫宮を賀茂の斎院に立てまゐら
せ給ひけり。朱雀院の御時、将門、純友、兵乱の御祈りに、八幡の
臨時の祭礼はじめらる。か様の事どもを例として、さまざまの御祈
りどもはじめられけり。

第六十六句 義仲山門牒状

木曾は越前の国府に着いて合戦の評定あり。井上の九郎、高梨の
冠者、山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋
口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべ
き者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かつて、木曾のたまひ
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けるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経て
こそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあ
らんずらん。蹴破つて通らんことはやすけれども、平家こそ、当時
は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんず
る者が大衆にむかつて合戦をせんずること、すこしもちがはざる二
の舞なるべし。これこそ安大事のことなれ。いかにせん」とぞのた
まひける。木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆
徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思
ひにてこそ候はんずれ。まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒
に見え候はんずらん」。「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、
山門へこそ送られけれ。
義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、
長く人臣の礼を失ふ。しかりといへども、貴賤手をつかね、緇
素足をいただく。ほしいままに帝位を進退し、あくまで国郡を
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虜掠す。道理、非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪、無罪
をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取り、ことごと
く郎従に与へ、彼の荘園を没取し、みだれがはしく子孫に省く。
なかんづく、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮にう
つしたてまつり、博陸を絶域に流したてまつる。しかのみなら
ず、同じき四年五月に、二の宮の朱閣を囲みたてまつり、九重
の紅塵を驚かしむ。ここに帝子非分の害をのがれんがために、
園城寺に入御の時、義仲、先日に令旨を賜はるによつて、鞭を
あげんと欲するところに、怨敵巷に満ち、予参道を失ふ。近境
の源氏なほ参候せず、いはんや遠境においてをや。しかるに、
園城寺は分限なきによつて、南城におもむかしめ給ふのあひだ、
宇治橋において合戦す。大将三位入道の父子、命を軽んじ、義
を重んじ、一戦の功をはげますといへども、多勢の攻をまぬが
れず、かばねを龍門原上にうづみ、名を鳳凰城にほどこす。令
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旨の趣重きに銘じ、同類の悲しみ魂を消す。
これによつて、東国、北国の源氏等おのおの参洛をくはだて、
平家を滅ぼさんと欲す。その宿意を達せんがために、去年の秋、
旗をあげ、剣をとつて、信濃を出でし時、越後の国の住人城の
四郎長茂、数万の軍兵を召し具し発向せしむるのあひだ、当国
横田川において合戦す。義仲わづかに三千余騎をもつて、彼の
二万の兵を破りをはんぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万
の軍衆を北陸に発向す。越州、加州の砥波、黒坂、志保坂、篠
原以下の城郭において数箇度の合戦、はかりごとを帷幕のうち
にめぐらし、勝つことを咫尺のもとに得たり。しかれば、討て
ば必ず伏し、攻むれば必ず降す。たとへば秋の風の芭蕉を破
るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすにあひ同じ。これひとへ
に、神明、仏陀のたすけなり。さらに義仲が武略にあらず。平
氏敗北のうへは参洛をくはだたんとなり。今は叡岳の麓を過ぎ、
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洛陽のちまたに入るべし。
この時にあたつて、ひそかに疑殆あり。天台の衆徒は平家に同
心せんか。源氏に与力せんか。もし彼の悪徒を助けば、衆徒に
向かつて合戦すべし。もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡くびす
をめぐらすべからず。悲しきかなや、平氏宸襟を悩まし、仏法
を滅ぼすのあひだ、彼の悪行をしづめんがために義兵を起すの
ところに、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦いたさんこ
と。いたましきかなや、医王、山王に憚りたてまつつて、行程
に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣となつて、武略の瑕瑾のそしり
を残さん。みだれがはしく進退に迷ひて案内を啓するところな
り。乞ひ願はくは三千の衆徒おのおの思慮をめぐらし、神のた
め、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、凶徒を誅し、
洪化に浴せば、懇丹の至りに堪へず。義仲恐惶敬白。
寿永二年六月 日
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進上恵光律師御房
とぞ書いたりける。
山門には、これを披見し僉議まちまちなり。あるいは「平家に同
心」と言ふ衆徒もあり、あるいは「源氏につかん」と言ふ衆徒もあ
り。思ひ思ひの異議さまざまなり。老僧どもの申しけるは、「われ
らもつぱら金輪聖王、天長地久を祈りたてまつる。当代の、平家は
御外戚にてまします。されば、いまに至るまで、かの繁昌を祈誓す。
されども、悪行、法に過ぎ、万人これをそむけり。討手を国々へつ
かはすといへども、かへつて異賊のために滅ぼさる。源氏は、近年
より度々合戦にうち勝つて、運命のひらけなんとす。なんぞ、宿運
尽きぬる平家に同心して、運命をひらく源氏をそむかんや。平家値
遇の儀をひるがへして、源氏合力の心に服すべき」のよし、一味同
心に僉議して、やがて返牒を送る。そのことばに曰く、
六月十一日の牒状、同じき十六日到来。披閲のところに数日の
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鬱念一時に解散す。およそ平家の悪行累年に及んで、朝廷の騒
動止む時なし。事人口にあり、委悉するにあたはず。それ叡岳
に至つて、帝都東北の仁祠として国家静謐の祈誓をいたす。し
かるを一天ひさしく彼の夭〓にをかされて、四海とこしなへに
その安全を得ず。顕密の法輪なきがごとし。擁護の神威しばし
ばすたる。貴家たまたま累代武備の家に生まれて、幸ひに当時
精選の仁たり。あらかじめ規模をめぐらし、たちまちに義兵を
起す。万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。その労いまだ両年を
過ぎざるに、その名すでに七道にほどこす。わが山の衆徒かつ
がつ以て承悦す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略
を感ず。
かくのごとくなるときんば、山上精祈の空しからざることをよ
ろこび、海内衛護のおこたりなきことを知らん。自寺、他寺、
常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、さだめて教法の再び栄
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えんことをよろこび、崇敬の旧に復せんことを随喜し給はん。
衆徒等心中、ただ賢察をたれ給へ。しかればすなはち冥に、十
二神将、かたじけなくも、医王善逝の使者として、凶賊追罰の
勇士にあひ加はり、顕には、三千の衆徒、しばらく修学鑽仰の
勤節を止めて、悪侶治罰の官軍をたすけしむ。止観十乗の梵風
は奸侶を和朝の外にはらひ、瑜伽三密の法雨は時俗を旧年の昔
にかへす。衆議かくのごとし。つらつらこれを察せよ。
寿永二年六月 日 大衆等
とぞ書いたりける。

第六十七句 平家の一門願書

平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きを
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りふしなり、かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不
忠を存ぜず。当家もまた山門のために怨をむすばず。山王大師に祈
誓して三千の衆徒かたらひとらん」とて、一門の公卿、同心の願書
を書いて山門に送る。
願書に曰く、
敬白
延暦寺をもつて、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもつて、尊
敬して氏社のごとくにす。一向天台の仏法を仰ぐべき事。
右、当家一族の輩まことに祈誓ありし意趣如何となれば、それ
叡山は桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法を
この所にひろむ。遮那の大戒をそのうちに伝へしよりこのかた、
もつぱら仏法繁昌の霊窟たり。久しく鎮護国家の道場にそなは
れり。まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源の頼朝、身の
咎を悔いせず、かへつて朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同
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心いたす源氏等、行家、義仲、以下党を結んで数あり。隣境、
遠境数国を抄領し、土宜、土貢、万物押領す。これによつて、
かつうは累代勲功の跡を追ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、
すみやかに賊徒を追罰し、凶徒を降伏すべきのよし、かたじけ
なくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ。ここに魚鱗鶴
翼の陣の、官軍利を得ず。星旄電戟の勢、逆類勝に乗るに似た
り。もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の凶乱を
しづめん。ここをもつて一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の
神慮を頼むらくのみ。
いかにいはんや、かたじけなくも、臣等の曩祖を思へば本願の
余裔と言つつべし。いよいよ崇重すべし、いよいよ恭敬すべし。
自今以後、山門に悦びあらば、一門の悦びとせん。社家に慎み
あらば、一家の慎みとせん。善につき、悪につき、悦びとなし、
憂ひとなさん。おのおの子孫に伝へて長く失堕せじ。藤氏は
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春日の社をもつて氏社とし、興福寺をもつて氏寺と号す。久し
く法相大乗の宗に帰す。平氏は日吉の社、延暦寺をもつて、氏
寺、氏社とせん。円実頓悟の教に値遇せんや。かれは昔の遺跡
なり、家のために栄幸を思ふ。これは今の精祈なり、民のため
に追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王大師、東西満山の護法の聖
衆、十二大願、日光、月光、医王善逝、十二神将、無二の丹誠
を照らし、唯一玄応を垂れ給へ。しかればすなはち邪謀逆心の
賊、手を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京都につたへん。
我等が苦請の仏神、あになんぞ捨てんや。当家の公卿等、異口
同音に礼をなし、祈誓くだんのごとし。
寿永二年七月 日
従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
正三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣維盛
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正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛
従二位権中納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
従一位内大臣平朝臣宗盛
敬白
とぞ書かれたる。
貫首、これを憐み給ひ、やがても披露せられず。十禅師の御殿に
籠めて、三日加持してのち披露せらる。はじめはありとも見えざり
つる一首の歌、願書の上巻に出で来たり。
平かに花さくやども年経れば
西へかたぶく月とこそなれ
「山王大師、憐みを垂れ給へ。三千の大衆、力をあはせよ」となり。
されども、年ごろ、日ごろのふるまひ、神慮をそむき、人ののぞみ
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にも違ひければ、祈れどもかなはず、かたらへどもなびかず。大衆
これを見て、「まことにさこそ」とは憐みけれども、すでに源氏に
同心の返牒を送るうへは、「その儀あらたむるに及ばず」と許容す
る大衆もなかりけり。

第六十八句 法皇鞍馬落ち

同じき二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、
松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。西国ばか
りは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづ
まらず。
同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへし
たるごとくに騒ぎあへり。馬に鞍おき、腹帯しめ、物の具東西に運
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び隠しあふ。明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門
尉重貞といふ者あり。これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいく
さに負けて落ちゆきけるを搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉にな
りたり。八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、去年平家をへつ
らひけるが、夜半ばかりに馳せ参つて、「木曾すでに近江の国に乱
れ入る。その勢五万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎
等に楯の六郎親忠、木曾の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、
総持院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と
申したりけるゆゑとかや。平家これを防がんがために、瀬田へは新
中納言知盛、三位の中将重衡、三千余騎にて向かはれけり。宇治へ
は越前の三位通盛、能登守教経、三千余騎くだられけり。さるほど
に、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より入る」といふ。「足利矢
田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経て京へ入る」とい
ふ。「摂津の国、河内の源氏は、同じく力をあはせて淀川尻より攻
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め入るべし」とぞののじりける。平家これを聞きて、「こはいかに
すべき。ただ一所にていかにもならん」とて、宇治・瀬田の手をも
みな呼びぞ返されける。
「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもか
くのごとし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入ら
なばや」とは思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。いづれの浦か
おだやかなるべき。「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の
妙文なれば、なじかは少しもちがふべき。
同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院
の六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「こ
の世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそ
おぼえて候へ。されば、『院をも、内をも、取りまゐらせて、西国
の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなし
て候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかり
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ごとにこそ」とぞ仰せける。大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、
泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙、ところ狭い
でぞ見えさせ給ひける。
法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」と
いふことを内々聞こしめしてやありけん。右馬頭資時ばかり御供に
て、ひそかに御所を出でさせ給ひて、鞍馬のかたへ御幸なる。人こ
れを知らざりけり。
平家の侍に橘内左衛門季康といふ男あり。さかさかしき者にて、
院にも召し使はれけるが、その夜しも法住寺殿へ御宿直して侍ふが、
つねに、御所の方、よにさわがしく、ささめきあひて、女房たちし
のび声に泣きなんどし給へば、「こはなにごとやらん」と思ひて聞
くほどに、「法皇のわたらせたまはぬは、いづかたへ御幸なりたる
やらん」と申しあはるる声に聞きなして、「あな、あさましや」と
思ひ、いそぎ六波羅へ馳せ参りて、このよしを申せば、大臣殿「い
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で、ひが事にてぞあるらん」とのたまひながら、やがて法住寺殿へ
馳せ参り、見給へば、げにもわたらせ給はず。二位殿丹波殿以下御
所に侍はせ給ふ女房たち、みなはたらき給はず。「いかにや、いか
にや」と申されけれども、「われこそ御ゆくへ知りまゐらせたり」
といふ女房一人もおはせず。
明くれば七月二十五日なり。「御所にもわたらせ給はず」と申す
ほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。いはんや平家の人々
のあわて騒がれけるありさま「家々に敵討ち入りたらんも、かぎり
あれば、これには過ぎじ」とぞ見えし。日ごろは、「院をも、内をも
取りまゐらせ、御幸をも、行幸をもなしたてまつらん」と計らはれ
たりけれども、か様に法皇の捨てさせましまししかば、たのむ木の
もとに雨のたまらぬ心地をぞせられける。「さては行幸ばかりなり
ともなしたてまつれ」と、二十五日の卯の刻ばかりに、御輿寄せま
ゐらせたりければ、主上、六歳にならせ給ふ、なに心もわたらせ給
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はず、やがて御輿に召されけり。国母建礼門院も同じ御輿にぞ召さ
れける。内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつり、そのほか「印鑰、
時の札、玄上、鈴鹿までも、取り具したてまつれ」と平大納言下知
せられけれども、あまりにあわてて取り落す物ども多かりけり。
摂政殿も供奉せさせ給ひたりけるが、東寺の門のほとりにびんづ
ら結うたる童子の御車のまへを馳せ過ぎて御歌あり。
いかにせん藤のうら葉の枯れゆくを
ただ春の日にまかせてやみん
御車のうちを見入れたるを、御覧ずれば、左の肩に「春日」といふ
文字ぞ見えさせ給ひける。「これは法相擁護の春日の権現、淡海公
の御末を守らせ給ふか」と、めでたかりし事どもなり。摂政殿、
「大明神の御告げなり」とおぼしめされければ、御供に侍ふ進藤右
衛門信高を召して、なにとか仰せられたりけん、御牛飼にきつと目
を見合はせられければ、御車を遣り返したてまつる。大宮をのぼり
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に、北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。これも人知りまゐらせず。
平大納言時忠、内蔵頭信基、これ二人ばかりぞ衣冠にて供奉せら
れたる。そのほか近衛司も甲冑をよろひ、弓矢を帯して供奉す。七
条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。漢天すでにひらけて、雲東西にそ
びえ、あかつき月さびしくして、鶏鳴またいそがはし。「一年、都
遷りとて、にはかにあわただしかりしは、かかるべかりける先表」
とも、今こそ思ひあはれけれ。
薩摩守忠度は、いづくよりか引き返されたりけん、侍五騎具し
て、五条の三位俊成の卿の宿所にうち寄りて見給へば、門戸を閉ぢ
て開かず。うちを聞けば、「落人帰り上りたり」とて、おびたたし
く騒動す。門をたたけども、あけぬあひだ、「これは薩摩守忠度と
申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候うて、道
より帰り上りて候ふなり。たとひ門をあけずとも、この際まで立ち
寄らせ給へ」とのたまへば、三位これを聞き、「その人ならば苦し
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かるまじ。入れ申せ」とて、門を開き、対面ある。
忠度は紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着給へり。薩摩守のたま
ひけるは、「年来、申し承つてのち、いささかもおろかに思ひたて
まつることは候はねども、この三四年は、京都のさわぎ、国々の乱
れ、しかしながら当家の身の上にて候へば、この事どもにつきて、
疎略を存ぜずといへども、つねに参り寄ることも候はず。されども、
撰集のあるべきよし、承り候ひしかば、『生涯の面目に、一首の御
恩をかうむり候はばや』と存じ候ふところに、やがて世の乱れ出で
来て、その沙汰もなく候ひしことども、一身のなげきと存じ候。君
すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するか
たなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そ
のうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、『うれし』と存じ
候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」とて鎧の引合よ
り巻物一つ取り出だし、俊成の卿に奉る。三位この巻物ちとひらい
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て見給ひて、「かかるわすれがたみを賜はりおくなれば、ゆめゆめ
疎略を存ずまじく候。勅撰のことは、人は知らず、愚身が承らんに
おいては、御疑ひあるべからず」とのたまへば、忠度、「今生の見
参こそ、ただ今をかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土
に参りあはん」とてぞ出でられける。
薩摩守、兜の緒をしめ、馬の腹帯をかため、うち乗つて、西をさ
して歩ませ行く。三位はるばると見送りて立たれたるところに、薩
摩守の声とおぼしくて、
前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲に馳す
と、たからかにうち詠じ給へば、三位これを聞いて、涙をおさへて
入り給ふ。
げにも、世しづまつて、勅撰あり。「千載集」これなり。その中
に忠度の歌一首入れられたり。「心ざしの切なりしかば、あまたも
入ればや」と思はれけれども、勅勘の人なれば、名字はあらはさず、
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「読人知らず」とぞ入れられける。「故郷の花」といふ題にて詠まれ
たる歌なり。
さざ波や志賀の都はあれにしを
昔ながらの山ざくらかな
その身すでに朝敵となりしうへは、子細に及ばずとはいひながら、
口惜しかりしことどもなり。

第六十九句 維盛都落ち

修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少にては、仁和寺の
御室の御所に侍ひしかば、かくある怱劇のなかにも、御名残をきつ
と思ひ出だして、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門
前にて馬よりおり、申し入れられけるは、「一門、運尽きて、今日
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すでに帝都をまかり出で候。うき世に思ひのこすこととては、ただ
君の御名残ばかりなり。八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて
元服つかまつり候ひしまでは、あひいたはることの候ひしよりほか
は、御前をたち去ることも候はざりしに、今日よりのち、いづれの
日、いづれの時、帰り参るべしとも覚えざることこそ、口惜しう候
へ。いま一度、御前に参りて、君をも見まゐらせたう候へども、甲
冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へ
ば、はばかり存じ候」とぞ申されける。御室あはれにおぼしめし、
「ただ、その体をあらためずして参れ」とこそ仰せけれ。
経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太
刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓をわきばさみ、兜を脱いで高紐
にかけ、御坪の白洲にかしこまる。御室やがて御出であつて、御簾
高く巻かせ、「これへ、これへ」と召されければ、大床へこそ参ら
れたれ。御琵琶持ちて参りたり。経正これを取り次ぎ、御前にさし
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置き、申されけるは、「先年下しあづかりて候ふ青山、持ちて参り
て候。あまりに名残は惜しう候へども、さしも我が朝の名物を、
田舎の塵になさんこと口惜しう候。もし不思議に運命開いて、また
都へたち帰ること候はば、その時こそ、なほ下しあづかり候はめ」
と泣く泣く申しければ、御室、あはれにおぼしめし、一首の御詠歌
をあそばいて、下されけり。
あかずしてわかるる君が名残をば
のちのかたみにつつみてぞおく
経正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはるとも
なほすみあかぬ宮のうちかな
さて、いとま申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、
寺僧にいたるまで、経正の袂にすがり、袖をひかへ、名残を惜しみ、
涙を流さぬはなかりけり。幼少のとき、小師にましませし大納言の
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法印行尊と申すは、葉室の大納言光頼の卿の御子なり。あまりに名
残を惜しみて、桂川のはたまでうち送り、さてあるべきならねば、
それよりいとま乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひつらね
ける。
あはれなり老木若木も山桜
おくれ先だち花はのこらじ
経正返歌に、
旅衣よなよな袖をかた敷きて
思へばわれは遠くゆきなん
さて、巻いて持たせられける赤旗ざつとさし上げたりければ、か
しこ、ここに、控へ待ちたてまつる侍ども、「あはや」と馳せ集ま
り、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、駒をはやめて、ほどなう行幸に
追ひつきたてまつらせ給ひけり。
経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに、そのとき青山
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賜はりて、宇佐へ参り、御殿に向かひたてまつり、秘曲を弾じ給ひ
しかば、いつのとき聞き知りなれたることはなけれども、かたはら
の宮人、おしなべて緑の袖を濡らしける。知らぬ奴までも、村雨と
はまぎれで聞きけり。めでたかりしことどもなり。
この「青山」と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇に、嘉祥三年の
春、掃部頭貞敏、渡唐のとき、大唐の琵琶の博士廉承武に会うて、
かの三曲を伝へて帰朝せしに、そのとき、玄上、獅子丸、青山、三
面の琵琶を相伝してわたされけり。龍神や惜しみ給ひけん、波風は
げしかりければ、獅子丸をば海底に沈む。いま二面の琵琶をわたし
て、わが朝の帝の御宝となす。
村上の聖代、応和のころ、三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々
たりし夜半に、帝、清涼殿にて玄上をあそばされけるときに、影の
ごとくなるもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたくつか
まつる。帝、御琵琶をしばらくさし置かせ給ひて、「そもそも、な
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んぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と御たづねあれば、
「これは昔の貞敏に三曲を伝へさせ候ひし、大唐の琵琶の博士廉承
武と申す者にて候ふが、三曲のうち秘曲を一曲残せる罪によつて、
魔道に沈淪つかまつりて候。いま御琵琶の撥音、妙に聞こえはんべ
るあひだ、参入つかまつるところなり。願はくは、この曲を君に授
けたてまつり、仏果菩提を証すべき」よし申して、御前に立てられ
たる青山を取つて、転手をひねりて、この曲を授けたてまつる。三
曲のうちに、上原石上これなり。そののちは、君も臣もおそれさ
せ給ひて、この琵琶をあそばしはんべることもなかりけり。御室へ
参らせられたりけるを、仁和寺の守覚法親王、経正の幼少のとき、
御最愛の童形たるによつて、下しあづけられけるとかや。夏山の峰
の緑の木の間より、有明の月の出でたるを、撥面に描かれたりける
ゆゑにこそ「青山」とはつけられけれ。玄上にあひ劣らぬ希代の名
物なり。
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そのなかに、小松の三位の中将維盛は、日ごろより思ひまうけた
りしことなれども、さしあたつて悲しかりけり。この北の方と申す
は、故中の御門新大納言成親の卿の御むすめなり。この腹に六代御
前とて十歳にならせ給ふ若君まします。夜叉御前とて八つにならせ
給ふ姫君まします。この人々「おくれじ」と面々に出でたち給へば、
三位の中将、北の方にのたまひけるは、「日ごろ申せし様に、維盛は
一門の人々につらなつて、西国へ落ち行き候ふなり。『具したてま
つらん』と思へども、道にも源氏どもあひ待つなれば、平らかに通
らんことも難かるべし。もし、いづくの浦にも心安く落ちつきたら
んとき、いそぎ迎ひに人を奉らん。またいかならん人にもまみえ給
へかし。情をかけたてまつらん人、都のうちになどかなかるべき」
とのたまへば、北の方はとかくの返事もし給はず、やがてひきかつ
ぎてぞ伏し給ふ。
三位の中将、鎧着て、馬引き寄せ、出でんとし給へば、北の方泣
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く泣く起きあがり、袖にとりつきて、「都には、父も、母もなし。
捨てられまゐらせてのち、また誰にかは、まみゆべき。『いかなる
人にもまみえよかし』なんどとのたまふことの恨めしさよ。日ごろ
は御心ざし浅からずおはせしかば、人知れずこそ、深く、たのもし
く思ひしに、いつの間に変りける心ぞや。『同じ野原の露とも消え、
同じ底の水屑ともならばや』なんどとこそ契りしに、今は寝覚めの
睦言も、みないつはりになりにけり。せめてわが身ひとつならば、
捨てられたてまつる身のほどを思ひ知りてもとどまりなん。幼き者
どもを、誰にゆづり、いかにせよと思ひ給ふ。うらめしうも、とど
め給ふものかな」とて、かつうは慕ひ、かつうは恨みて、泣き給ふ
にぞ、三位の中将せんかたなうぞ思はれける。
「まことに、人は十三、維盛十五と申せしより、たがひに見初め、
見え初めて、今年はすでに十二年。『火の中、水の底までも、共に
入り、共に沈み、限りある別れ路にも、おくれ、先立たじ』とこそ
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契りしかども、心憂きいくさの場におもむきければ、知らぬ旅の空
にて憂き目を見せたてまつらんも心苦しかるべし。そのうへ、今度
は用意も候はねば、迎へを待ち給へ」とこしらへおかんとし給へば、
若君、姫君、御簾の外へ走り出でて、鎧の袖、草摺に取りつきて、
「されば、こはいづくへとてわたらせ給ふぞや。われも行かん」「わ
れも参らん」と慕ひつつ泣き給ふにぞ、三位の中将、「憂き世のき
づな」とは今こそ思ひ知られけれ。
さるほどに、舎弟新三位の中将、左中将、小松の少将、丹後の侍
従、備中守、兄弟五人門の内へうち入り、「行幸ははるかに延び
させ給ひて候ふものを、いかにや、今まで」と面々に申しあはれ、
すすめられければ、すでに馬にうち乗り、出で給ひけるが、また大
床のきはにうち寄せ、弓の筈にて御簾をざつとかき上げて、「これ
御覧ぜよ。幼き者どもがあまりに慕ひ申すを、今朝より、とかうこ
しらへおかんとつかまつるほどに、存じのほかに遅参つかまつり
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ぬ」と、のたまひもあへず泣き給へば、五人の人々も、みな鎧の袖
ぞ濡らされける。
斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。兄は十九、弟は十七になる侍あり。
これは、去んぬる五月、篠原にて討たれし、長井の斎藤別当実盛が
子どもなり。これらは三位の中将の馬のみづつきに取りつきて、
「いづくまでも御供つかまつるべき」よしを申す。三位の中将、こ
れらにいたく慕はれて、のたまひけるは、「多くの者どものなかに、
なんぢらをとどむるは、思ふ様がありてとどむるぞ。『末までも六
代が頼りとは、なんぢらこそなるべき者よ』とてとどむるなり。と
どまりたらんは、具したらんよりも、われはなほうれしく思はんず
るぞ」なんど、こまごまとのたまへば、力およばず涙をおさへてと
どまらんとす。
北の方、「日ごろは、これほどに情なかるべき人とは思はざりし
が」とて、伏しまろびてぞ泣き給ふ。若君も大床にころび出で、声
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ばかりにをめき叫び給ふ。その声、門の外まで聞こえければ、三位
の中将、馬をもすすめやり給はず、ひかへ、ひかへぞ泣かれける。
まことに人は「今日別れては、いづれの日、いづれの時は、かなら
ずめぐりあふべき」と契るだにも、その期を待つは久しきに、これ
は今日を限りの別れなれば、その期を知らぬこそ悲しけれ。この声
声の耳の底にとどまつて、西海の旅の空までも、吹く風の声、立つ
波の声についても、ただ今聞く様にこそ思はれけれ。

第七十句 平家一門都落ち

平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、西八条に火をかけ
たれば、黒煙天に満ちて、日の光も見えざりけり。
あるいは聖主臨幸の地なり、鳳闕空しくいしずゑをのこし、鑾輿
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ただあとをとどむ。あるいは后妃遊宴のみぎりなり、椒房の嵐の音
かなしむ、掖庭の露の色うれふ。藻〓黼帳の基なり、弋林釣渚の館、
塊棘の座、〓鸞のすまひ、多日の経営を辞して、片時の灰燼とな
れり。いはんや郎従の蓬〓においてをや。いはんや雑人の屋舎にお
いてをや。余炎のおよぶところ、在々所々数十町なり。「強呉たち
まちに滅びて、姑蘇台の露荊棘に移れり。暴秦衰へて虎狼なし、咸
陽宮の煙、睥睨を隠しけんも、かくや」とおぼえてあはれなる。
日ごろは函谷、二〓のけはしきをかたうせしかども、北狄のために
これを破られ、洪河、〓渭の深きをたのみしかども、東夷のために
これを渡らる。あにはからんや、たちまちに礼儀の都を攻め出ださ
れ、泣く泣く無知のさかひに身をよせ、昨日は雲上に雨を降らす飛
龍たりといへども、今日は轍中に水を失ふ〓魚のごとし。昔は保元
の春の花と栄え、今は寿永の秋の紅葉と落ちはてぬ。
池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか
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思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の
北の門より都へ引きぞ返されける。越中の前司盛俊これを見て、
大臣殿に申しけるは、「池殿のとどまらせ給ふに、侍どもあまたつ
きたてまつつてとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに
矢一つ射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくと
もありなん。年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬ奴ばら、
とかう言ふに及ばず」とぞのたまひける。
「さて三位の中将はいかに」と、問ひ給へば、「小松殿の君達はい
まだ一所も見えさせ給はず」と申す。「さこそあらめ」とて、いよ
いよ心細げに思はれけり。新中納言のたまひけるは、「都を出でて
いまだ一日だにも経ぬに、はや人の心も変りはてぬ。まして、行
く末こそおしはからるれ」と「ただ都のうちにていかにもなるべか
りつるものを」とて、大臣殿の方を見やりて、よにもうらめしげに
思はれたり。まことに、ことわりとおぼえてあはれなり。
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池の大納言は、八条の女院の仁和寺の常盤殿にわたらせ給ひける
にぞ、参り籠らせ給ひける。およそ、兵衛佐、「大納言殿をば、故
池の尼御前のわたらせ給ふとこそ思ひまゐらせ候へ。頼朝において
は、意趣は思ひたてまつらず。八幡大菩薩も御照覧候へ」と度々誓
言をもつて申されけり。討手の使のぼるにも、「あひかまへて池殿
の侍どもに弓を引きなんどすな」とのたまひけり。か様のことども
を頼みて、とどまり給ひけるとかや。なまじひに一門には離れぬ、
波にも磯にも着かぬ心地ぞせられける。
畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これ三
人は去んぬる治承三年より、召し籠められてありしを、大臣殿ばか
り「これらが首を刎ねらるべし」とのたまひけるを、平大納言と、
新中納言と申されけるは、「これら百人千人を切らせ給ひて候ふと
も、御運尽きさせ給はんのちは世を取らせ給はんことかたかるべし。
国に候ふなるかれらが妻子ども、さこそは嘆き候ふらめ。『今や、今
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や』と待ち候ふらんところに、『斬られたり』と聞こえしかば、い
かばかり嘆き候はんずらん。これらを東国へ返しつかはさるべしと
おぼえ候」とひらに申されければ、大臣殿「げにも」とて、これら
三人を召し寄せてのたまひけるは、「いとまを賜ぶ。急ぎ下れ」と
のたまへば、三人の者ども、かしこまつて申しけるは、「いづくま
でも、行幸の御供つかまつるべき」よしを申す。大臣殿、「なんぢ
らが色代はさることなれども、魂はみな東国にこそあらんに、ぬけ
がらばかり西国へ召し具すべき様なし。とくとく下るべし」と、仰
せ再三におよびければ、力およばず、涙をおさへて下らんとす。こ
れらも、さすが二十余年の主なれば、別れの涙おさへがたし。
小松殿の君達は、兄弟その勢六七百騎ばかりにて、淀の辺にて行
幸に追つつきたてまつり給ひけり。大臣殿、この人々を見つけ給ひ
て、ちと力つき、よにもうれしげにて、「いかにや、今まで」との
たまへば、三位の中将、「さ候へばこそ、幼き者どもが今朝よりあ
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まりに慕ひ候ひつるを、とかうこしらへおかんとつかまつり候ひつ
るほどに、遅参つかまつりぬ」と申されければ、大臣殿、「などや
具したてまつり給はぬぞ、いかに心苦しくおはすらん」とのたまへ
ば、三位の中将、「行く末とても頼もしうも候はず」とて、問ふに
つらさの涙を流されけるぞ、あはれなり。
落ちゆく平家は誰々ぞ。前の内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納
言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位の
中将重衡、小松の三位の中将維盛、越前三位通盛、新三位の中将資
盛。殿上人には内蔵頭信基、讃岐の中将時実、左中将清経、左馬頭
行盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、皇后宮亮経正、薩摩守
忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭
守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛。僧には法勝寺の執
行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐
円。侍には、受領、検非違使、衛府、諸司、むねとの者ども百六十
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余人。都合その勢七千余騎。これは、東国、北国、この三四年所々
の合戦に討ち漏らされて、残るところなり。
山崎の関戸の院に玉の御輿をかきすゑて、男山を伏し拝み、平大
納言時忠、「南無帰命頂礼、正八幡大菩薩、しかるべくんば君をは
じめまゐらせて、われらをいま一度都へ返し入れさせ給へ」と泣く
泣く申されけるこそ悲しけれ。
肥後守貞能は、「川尻に源氏どもがむかうたり」と聞いて、「蹴散
らさん」とて、五百余騎発向したりけるが、ひが事なれば帰り上る
ほどに、道にて行幸に参りあひたてまつり、大臣殿の御前にて、馬
よりおり、弓わきばさみ、かしこまつて申しけるは、「これは、い
づくへ御わたり候ふやらん。西国へ落ちさせ給ひたらば、助からせ
おはすべきか。落人とて、かしこ、ここにて討ちとめられさせ給は
んことこそ、口惜しくおぼえ候へ。ただ都にてともかくもならせ給
はで」と申せば、大臣殿、「貞能はいまだ知らぬか。『源氏すでに天
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台山に攻め登つて、総持院を城郭として、山法師みな与力して、今
都に入る』といふに、せめて、おのおの身ばかりならばいかにもせ
ん。女院、二位殿に憂き目を見せたてまつらんも、心苦しければ、
『ひとまどもや』と思ふぞかし」とのたまへば、肥後守、「さらば、
貞能、いとま賜び候へ」とて、手勢三百余騎、引き分かつて、都へ
帰り入り、西八条の焼けあとに大幕ひかせ、一夜宿したりけれども、
返し入り給ふ平家一人もましまさざりければ、さすが心細くや思ひ
けん。「源氏の馬のひづめにかけじ」とて、小松殿の墓掘りおこし、
あたりの土賀茂川に流させ、骨をば高野へ送り、「世の中たのもし
からず」と思ひければ、思ひきりて、勢をば小松の三位の中将殿の
御方へ奉り、われは乗替一騎具して、宇都宮左衛門朝綱にうち連れ
て、平家と後あはせに東国へこそ落ち行きけれ。
平家は小松の三位中将維盛のほかは、大臣殿以下みな妻子を具
し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。夜が
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れをだにも嘆きしに、後会その期を知らず、妻子を捨ててぞ落ち行
きける。相伝譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれ
ば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに先
へはすすまざりけり。おのおのうしろをかへり見て、都の方はかす
める空の心地して、煙のみ心細くぞ立ちのぼる。そのなかに修理大
夫経盛、都をかへり見給ひて、泣く泣くかうぞのたまひける。
ふるさとを焼け野の原とかへり見て
末もけぶりの波路をぞゆく
薩摩守忠度、
はかなしや主は雲井にわかるれば
あとはけぶりと立ちのぼるかな
まことに、故郷をば一片の煙塵にへだて、前途万里の雲路におも
むき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。ならはぬ磯辺の波枕、
八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂のしづく、落つる涙にあ
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らそひて、袂もさらに乾しあへず。駒に鞭うつ人もあり、あるいは
船に棹さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。
福原の旧都に着いて、大臣殿、しかるべき侍ども三百余人召し集
めてのたまひけるは、「積善の余慶、家に尽き、積悪の余殃、身に
及ぶ。かるがゆゑに、宿報尽きて、神明にも放たれたてまつり、君
にも捨てられまゐらせて、波の上に浮かぶ落人となれり。すでに旅
泊に漂ふうへは、行く末とても楽しみあるべうもなけれども、一樹
のかげに宿るも前世の契り浅からず。一河の流れを汲むも他生の縁
なほ深し。いはんや、なんぢらは一旦したがひつく門客にあらず。
累祖相伝の家人なり。あるいは近臣のよしみ他に異なることもあり、
あるいは重代の芳恩これ深きもあり。家門繁昌のいにしへは、恩波
によつて私を顧み、たのしみ尽き、かなしみ来る。なんぞ思慮を
めぐらし、重恩をむくはんや。十善帝王、かたじけなくも、三種の
神器を帯しわたらせ給へば、いかならん野の末、山の奥までも、行
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幸の御供つかまつらんとは思はずや」とのたまへば、老少涙をなが
し、「あやしの鳥、獣も、恩を報じ徳をむくふ心みな候ふとこそ承
れ。中にも、弓箭、馬上にたづさはる習ひ、二心あるをもつて恥
とす。この二十余年があひだ、妻子をはごくみ、所従をたくはゆる
こと、しかしながら君の御恩にあらずといふことなし。しかれば、
すなはち、日本の外、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、行幸の御供
つかまつるべき」よし一味同音に申しければ、人々すこし色をなほ
し、たのもしくこそ思はれけれ。
平家、福原の旧里に一夜をぞ明かされける。をりふし秋の月は下
の弓張なり。深更の空夜静かにして、旅寝の床の草枕、涙も露もあ
らそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ帰るべきともおぼえねば、
故入道相国の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜
の御所、雪の御所、萱の御所とて見られけり。馬場殿、二階の桟敷
殿、人々の家々、五条の大納言邦綱の卿の造りまゐらせられし里内
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裏、いつしか三年に荒れはてて、旧苔道をふさぎ、秋草門を閉ぢ、
瓦に松生ひ、蔦しげり、台かたぶいて苔むせり。松風のみや通ふら
ん。簾絶えて、閨あらはなり。月かげばかりやさし入りけん。
明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々御船に召されけり。都
を立ちしばかりはなけれども、これも名残は惜しかりけり。海士の
たく藻の夕煙、尾上の鹿のあかつきの声、渚々に寄る波の音、袖
に宿借る月の影、千草にすだくきりぎりす、すべて目に見え、耳に
ふるること、一つとして、あはれをもよほし、心をいたましめずと
いふことなし。昨日は東山の関のふもとに轡を並べ、今日は西海の
波の上に纜をとく。雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。孤島
に霧へだたつて、月海上に浮かぶ。極浦の波を分けて、潮に引かれ
て行く船は、なか空の雲にさかのぼる。
修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、行幸に供奉すとて、泣く泣
くかうぞのたまひける。
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行幸する末も都とおもへども
なほなぐさまぬ波のうへかな
平家は、日数を経れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなり
にける。「はるばる来ぬる」と思ふにも、ただ尽きせぬものは涙な
り。波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、
隅田川にて言問ひし、名もむつまじき都鳥かな」とあはれなり。
寿永二年七月二十五日、平家は都を落ちはてぬ。