平家物語 百二十句本(国会図書館本) 巻第九
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巻第九
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目録
第八十一句 宇治川
今井の四郎瀬田を警固する事
仁科・高梨宇治川を警固する事
佐々木の四郎生〓賜はる事
大串の重親歩立ちの先陣の事
第八十二句 義経院参
義仲優女暇乞ひの事
越後の中太家光自害の事
義経禁廷言上
義経内裏を守護申さるる事
第八十三句 兼平
巴のいくさ
兼平最後
義仲最後
茅野の太郎光弘討死
第八十四句 六箇度のいくさ
備前の国下津井のいくさ
淡路福良のいくさ
安芸の国沼田の城のいくさ
和泉の国吹飯の浦のいくさ
第八十五句 三草山
蒲の御曹司大手の大将の事
義経搦手の大将の事
鵯越に向かはるる事
鷲の尾案内者の事
第八十六句 熊谷・平山一二の駆
熊谷名のる事
平山駆け入る事
熊谷駆け入る事
熊谷・平山同心合戦の事
第八十七句 梶原二度の駆
一の谷矢合せの事
河原兄弟討死
梶原平次景高が歌の沙汰
景時・景季同心の事
第八十八句 鵯越
大鹿二つ落つる事
鞍置馬二匹落とさるる事
義経落とし給ふ事
能登守逃れ給ふ事
第八十九句 一の谷
忠度・知章・師盛・清房・経俊・業盛・
敦盛以下討死
河越黒の沙汰
熊谷発心
第九十句 小宰相身投ぐる事
平家海上に浮かばるる事
首実検の事
御乳母の女房髪剃る事
通盛夫婦の歌の沙汰
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平家物語巻第九
第八十一句 宇治川
寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院
なりければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべき
にてあらねば、拝礼もなし。院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼も
おこなはず。
平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元
日、元三の儀こそ事よろしからね。先帝ましませば、主上と仰ぎた
てまつれども、四方の拝もなし。小朝拝もすたれぬ。氷のためしも
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奉らず。節会もおこなはれず。〓(はらか)も奏せず。吉野の国栖も参らず。
「世の乱れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはな
かりしものを」と、あはれなり。
青陽の春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになり
ゆけば、平家はただいつとなく氷に閉ぢられたる心地して、寒苦鳥
にことならず。東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅開落すで
に異にして、花の朝、月の夕べ、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、絵
合、草尽、虫尽、さまざま興ありしことどもを思ひ出でて、語り出
だし、永き日を暮らしかね給ふこそかなしけれ。
正月十七日、院の御所より木曾左馬頭義仲を召して、「平家追罰
のために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。木曾かしこまつ
て承り、まかりいづ。やがてその日、「西国への門出す」と聞こえ
しほどに、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、
木曾西国へは向かはずして、宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつか
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はす。木曾、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下り
て、わづかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国
長野の城に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎に
て今朝河内へ下りぬ。のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬
田へ向かふ。仁科、高梨、山田の次郎、五百余騎にて宇治橋へ向か
ふ。信太の三郎先生義教、三百余騎にて一口をぞふせぎける。
東国より攻めのぼる大手の大将軍蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍
は九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、「都合その勢五万余騎」
とぞ聞こえし。
そのころ、鎌倉殿に「生〓(いけずき)」「摺墨」とて聞こえたる名馬あり。
生〓(いけずき)を、蒲の御曹司以下の人々参りて所望申されけれどもかなはず。
梶原平三景時参りて、「生〓(いけずき)賜はつて、今度源太冠者に宇治川渡さ
せ候はばや」と申せば、鎌倉殿、「生〓(いけずき)は、自然の事のあらんずる
とき、頼朝物具して乗るべきなり。摺墨を」とてぞ賜はりける。
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そののち、佐々木の四郎高綱参りて、「上洛つかまつるべき」よ
し申す。鎌倉殿いであひ対面し給ひて、「わ殿の父秀義は、故左馬
頭殿に付きたてまつつて、保元・平治両度の合戦に忠をいたす。な
かにも平治の合戦のとき、六条河原にて命を惜しまずふるまひき。
その奉公を思へば、わ殿までもおろかに思はず。申す者どもありつ
れども賜はらぬぞ。これに乗りて、宇治川の先つかまつれ」とて、
生〓(いけずき)を佐々木にぞ賜はりける。佐々木の四郎、この御馬賜はつて、
御前をまかり立つとて、あまりのうれしさにうち涙ぐみて申しける
は、「『身は恩のために仕へ、命は義によつて軽し』と申すことの候。
この馬賜はりながら、宇治川の先を人にせられて候ふものならば、
いくさにもあひ候ふまじ。ふたたび鎌倉へ向かうて参るまじく候。
いくさには子細なくあひたりと聞こしめされ候はば、『宇治川の先
におきては、しつらんものを』とおぼしめされ候へ」と申して出で
ぬ。参りあはれたる大名、小名、これを聞いて、「荒涼の申し様か
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な」とささやぎあへり。
おのおの鎌倉を立つて都へ上る。駿河の国浮島が原にて、梶原源
太高き所にうちあがり、しばしひかへて多くの馬を見るほどに、幾
千万といふ数を知らず。思ひ思ひの鞍置き、色々の鞦かけて、ある
いは諸口に引かせ、あるいは乗口に引かせ、引き通し、引き通しし
けるなかにも、「景季が賜はつたる摺墨にまさる馬こそなかりけれ」
とうれしく思ひて静かに歩ませゆくところに、「生〓(いけずき)」とおぼしき
馬こそ出で来たり。
黄覆輪の鞍置き、小総の鞦かけ、白泡噛ませて、さばかり広き浮
島が原を狭しと躍らせ、引きてぞ出で来たる。「生〓(いけずき)やらん」と思
ひてうち寄りて見ければ、まことに生〓(いけずき)にてあるあひだ、舎人に会
うて、「それは誰が御馬ぞ」と問へば、「佐々木殿の御馬」と申す。
「佐々木殿は、三郎殿か、四郎殿か」。「四郎殿」と申す。「四郎殿は
通り給ひぬるか、さがつておはするか」。「さがらせ給ひて候」と答
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ふ。そのとき梶原、「口惜しくも鎌倉殿は、同じ様に召しつかはれ
し侍を、佐々木に景季をおぼしめしかへられけるものかな。日ごろ
は、『都へ上つて、木曾殿の御内に四天王と聞こゆる今井、樋口、
楯、根の井に組んで死ぬるか、しからずは西国へ向かつて、一人当
千と聞こゆる平家の侍といくさして死なん』と思ひつれども、それ
も詮なし。ここにて佐々木と組んで差しちがへ、よき侍二人死んで
鎌倉殿に損とらせたてまつらんずるものを」と思ひきり、つぶやい
で待つところに、佐々木の四郎、何心もなく歩ませて出で来たる。
「押し並べてや組まん。向かうざまにや当て落さん」と思ひけるが、
「まづことばをかけて組まん」と思ひ、「いかに、佐々木殿は生〓(いけずき)賜
はらせ給ひてげり」と言ひければ、佐々木、「まことや、この人も
所望つかまつりたるよし、内々聞きしものを」と、きつと思ひ出で
て、ちともさわがず、「さ候へばこそ、この御大事にまかり上るが、
宇治川渡すべき馬は持たず、『生〓(いけずき)を申さばや』と思ひつれども、
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『梶原殿の申されけるにも御許しなし』とうけたまはり候ふあひだ、
『まして高綱が申すとも、よも賜はらじ』と存じ、『後日の御勘当は
あらばあれ』と思ひ、暁たつとての夜、舎人に心をあはせ、さしも
御秘蔵候ふ生〓(いけずき)を盗みすまして上り候ふはいかに」と言ひければ、
梶原このことばに腹がゐて、「ねつたう、さらば景季も盗むべかり
けるものを」と、どつと笑つて退きにけり。
佐々木の四郎が賜はつたる御馬は黒栗毛なり。きはめてたくまし
きが、馬をも人をもあたりをはらつて食ひければ、「生〓(いけずき)」と付け
られたり。「八寸の馬」とぞ聞こえし。梶原に賜はつたる摺墨もお
ほきにたくましきが、まことに黒かりければ「摺墨」とぞ申しける。
いづれも劣らぬ名馬なり。
尾張の国より大手、搦手、軍兵二手に分かつ。搦手は伊勢の国へ
まはる。大手は美濃の国にかかる。大手の大将軍は蒲の御曹司範頼
に、あひしたがふ人々、武田の太郎、加賀見の次郎、その子小次郎、
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一条(いちでう)の次郎、板垣の三郎、逸見の四郎、山名、里見の人々。侍大
将には、土肥の次郎、稲毛の三郎、榛谷の四郎、小山の小四郎、長
沼の五郎、結城の七郎、岡部の六野太、猪俣の近平六、熊谷の次郎
を先として、都合その勢三万五千余騎。近江の国野路篠原にぞ着き
にける。
搦手の大将軍九郎御曹司に、したがふ人々、安田の三郎、大内の
太郎、田代の冠者、畠山の庄司次郎、同じく長野の三郎、梶原源太、
佐々木の四郎、糟谷の藤太、渋谷の右馬允、平山の武者所季重を先
として、都合その勢二万五千余騎。伊賀の国を経て田原路をうち越
え、宇治川のはた、産霊の明神の御前をうち過ぎ、山吹が瀬へぞ向
かひける。宇治も、瀬田も、ともに橋をひきたり。宇治川の向かう
の岸には掻楯かき、水の底には乱杭打つて、大綱張り、逆茂木つな
いで流しかけたり。
ころは正月二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、
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昔ながらの雪も消え、谷々の氷とけあひて、水かさ、はるかにまさ
りたり。白波おびたたしく、瀬枕おほきに滝鳴つて、逆巻く水も早
かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけども、川霧深くたちこめ
て、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。
ここに大将軍九郎御曹司、川ばたにうち出でて、水の面を見わた
し、「人々の心を見ん」とや思はれけん、「いかがせん。淀、一口へ
やまはるべき。水の落ち足をや待つべき」とのたまへば、武蔵の国
の住人畠山庄司次郎重忠、そのときはいまだ二十一になりけるが、
すすみ出でて申しけるは、「この川の御沙汰は、鎌倉殿の御前にて
よく候ひしぞかし。日ごろ知ろしめされぬ海川の、今にはかに出で
きても候はばこそ。この川は近江の湖のすゑなれば、待つとも、待
つとも、水干まじ。また、橋をば誰か渡してまゐらすべき。一年治
承の合戦に、足利の又太郎忠綱は十八歳にて渡しけるは、鬼神にて
はよもあらじ。重忠瀬ぶみつかまつらん」とて、「武蔵の殿ばら、
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続けや」とて、丹の党をはじめとして五百余騎、轡を並ぶるところ
に、平等院の艮、橘の小島より、武者こそ二騎、ひつかけ、ひつ
かけ、出で来たれ。梶原源太、佐々木の四郎なり。
人目には何とも見えねども、内々先をあらそふともがらなりけれ
ば、まつ先に二騎つれて出でにけり。佐々木に梶原は一段ばかり馳
せすすむ。佐々木は「川の先をせられじ」と、「や、殿。梶原殿。
この川は、上へも、下へも、早うして、馬の足ぎきすくなし。腹帯
の延びて見ゆるは。締め給へ」と言はれて、梶原「げにも」とや思
ひけん、つ?立ちあがりて、左右の鎧を踏みすかし、手綱を馬の小髪
に捨て、腹帯を解いて締むるあひだに、佐々木、つと馳せぬけて、
川へざつとうち入れたり。梶原これを見て「たばかられまじきもの
を」とて、同じくうち入れたり。「水の底には大綱張りたるらんぞ。
馬乗りかけ、おし流されて不覚すな。佐々木殿」とて渡しけるが、
川の中まではいづれも劣らざりけれども、いかがしたりけん、梶原
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が馬は篦撓形におし流さる。佐々木は川の案内者、そのうへ生〓(いけずき)と
いふ世一の馬には乗つたりけり、大綱どもの馬の足にかかりけるを
ば、帯いたる「面影」といふ太刀を抜き、ふつふつとうち切り、う
ち切り、宇治川早しといへども、一文字にざつと渡して、思ふ所に
うちあぐる。鎧踏んばり、つ立ちあがり、「宇多の天皇に八代の後
胤、佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣」
と名のつて、をめいてかく。梶原は、はるかの下よりうちあぐる。
畠山、五百余騎にてうち入りて渡す。向かひの岸より仁科、高梨、
山田の次郎、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。畠山、馬の額を篦
深に射させて、馬は川中より流れぬ。弓杖ついており立つたり。岩
波おびたたしく兜の手先におしかけけれども、事ともせず。向かひ
の岸に渡りついて、あがらんとするところに、うしろより物こそひ
かへたれ。ふりまはりて見ければ、鎧武者がとりついたり。畠山の
烏帽子子に、大串の次郎なり。「誰そ」と問へば、「重親」と名のる。
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「かかることこそ候へ。馬は弱る、おし流されて候へば、力およば
ずとりつきまゐらせ候」と申せば、「いつも、わ殿ばらは、重忠に
こそ助けられんずれ。あやまちすな」と言ふままに、さし越えてむ
ずとつかみ、岸の上にぞ投げあげたる。投げられながら起き直り、
「武蔵の国の住人、大串の次郎重親。宇治川徒歩わたりの先陣」と
ぞ名のりける。敵も味方もこれを聞き、一度にどつとぞ笑ひける。
九郎御曹司をはじめたてまつり、二万五千余騎、うち入れ、うち
入れ、渡しけり。馬、人にせかれて、さばかり早き宇治川の下は瀬
切れて浅かりければ、雑人ども、馬の下に、とりつき、とりつき、
渡りけり。佐々木の三郎、梶原平次、渋谷の右馬允、これ三人は馬
を捨てて芥々をはき、弓杖をつき、橋の行桁をこそ渡りけれ。
そののち畠山、乗替に乗りてうちあぐる。魚綾の直垂に緋縅の鎧
着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗つたる敵の、まつ先に
すすみ出でて、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」とこそ名の
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りけれ。畠山、「まづ軍神の血祭りせん」とて、かけ並べ、むずと
取つて引き落し、首ねぢ切りて、本田の次郎が鞍のしほでにつけさ
せけり。
これをはじめとして、木曾殿の方より宇治橋固めたる勢ども、し
ばしささへてふせげども、東国の大勢がみな渡して攻めければ、散
散に駆けなされ、木幡山、伏見をさしてぞ落ち行きける。
瀬田をば稲毛の三郎重成がはかりごとにて、田上の供御の瀬をこ
そ渡しけれ。
いくさ破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもつて合戦の次第を注進申
されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御たづね
ありければ、「宇治川のまつ先」と申す。日記をひらきて御覧ずれ
ば、「宇治川の先陣、佐々木の四郎。二陣、梶原源太」とこそ書か
れけれ。
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第八十二句 義経院参
さるほどに、木曾左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きし
かば、「最後の御いとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所六
条殿へ馳せ参る。「あはや、木曾が参り候ふぞや。いかなる悪行か
つかまつらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、
「東国の兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、
木曾門の前よりとつて返す。御所にはやがて門をさしけり。木曾は
「最愛の女に名残を惜しまん」とて、六条万里の小路なる所にうち
入りて、しばしは出でもやらざりけり。
新参したりける越後の中太家光といふ者あり。これを見て、「あ
れほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。い
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そぎ出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりけれ
ば、越後の中太、「世は、かうごさんなれ。さ候はば、家光は死出
の山にて待ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切つておしのけ、
腹切つてぞ死にけり。木曾殿これを見給ひて、「これはわれをすす
むる自害にこそ」とて、やがてうち出でられけれ。上野の国の住人、
那波の太郎広澄を先として、百五十騎には過ぎざりけり。
六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ば
かり出で来る。その中に二騎進んで見えにけり。一騎は塩屋の五郎
惟広、一騎は勅使河原の五三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後
陣の勢をや待つべき」。勅使河原申す様、「一陣破るれば、残党まつ
たからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。「われ先に」と
乱れ入る。あとより後陣続いたり。木曾殿これを見給ひて、いま最
後のことなれば、百四五十騎轡を並べて、大勢の中に駆け入る。
東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面々にはやりあへり。両方火
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出づるほどこそ戦ひけれ。
九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせて、「義経は院の御所のお
ぼつかなさに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひ
た兜五六騎、六条殿に馳せ参る。大膳大夫業忠、六条の東の築垣に
のぼつて、わななく、わななく、世間をうかがひ見るところに、東
の方より武者こそ五六騎、のけ兜に戦ひなつて、射向の袖を吹きな
びかせ、白旗ざつとさしあげ馳せ参る。「あはや、木曾が参り候ふ
ぞや。このたびぞ世は失せはてん」と申しければ、法皇をはじめま
ゐらせて、公卿、殿上人もことに騒がせ給ふ。業忠よくよく見て申
しけるは、「笠じるし変つて見え候。木曾にては候はず。今日うち
入りたる東国の兵とおぼえ候」と申しもはてねば、九郎義経、門の
前に馳せ寄つて、馬より飛んで下り、「『鎌倉前の右兵衛佐頼朝が舎
弟、九郎義経、参りて候』と奏せさせ給へ」と申されければ、大膳
大夫あまりのうれしさに、築垣よりいそぎ飛び下りけるほどに、落
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ちて腰をつき損じたりけれども、痛さはうれしさにまぎれておぼえ
ず。はふはふ参りて奏し申せば、やがて門をひらき入れられけり。
大将軍ともに武士は六人なり。九郎義経は赤地の錦の直垂に紫
裾濃の鎧着て、黄金づくりの太刀を帯き、切斑の矢負ひ、塗籠籐の
弓の鳥打を、紙の広さ一寸ばかりに切つて、左巻きにぞ巻いたりけ
る。これぞ今日の大将軍のしるしとは見えたりける。のこる五人は、
鎧は色々に見えたりけれども、つらたましひ、骨柄、いづれも劣ら
ざりけり。法皇、中門の連子より叡覧あつて、「ゆゆしげなる者ど
もかな。みな名のり申せ」と仰せければ、まづ大将軍、「九郎義
経」、次には、「畠山庄司次郎重能が子に、畠山庄司次郎平の重忠」、
「同じ氏、河越の太郎重頼が子に、河越の小太郎重房」、「渋谷の三
郎庄司重国が子に、渋谷の右馬允重助」、「佐々木の三郎秀義が四
男、佐々木の四郎高綱」、「梶原平三景時が嫡子、梶原源太景季」と
ぞ申しける。みな庭上にかしこまつてぞ侍ひける。
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大膳大夫業忠、大床に侍ひて、合戦の次第をたづねらる。義経申
されけるは、「木曾が悪行のこと、頼朝うけたまはりて大きにおど
ろき、範頼、義経二人の舎弟を参らせて候。兄にて候ふ範頼は瀬田
より参りて候ふが、いまだ見えず候。義経は宇治の手を追ひ落して、
まづこの御所のおぼつかなさに、馳せ参りて候。木曾は河原を上り
に落ちゆき候ふを、兵どもに追つかけさせ候ひつれば、いまはさだ
めて討ちとり候らん」と、いと事もなげにぞ申したる。
君なのめならず御感ありて、「木曾が悪党なんど、なほ参りて狼
藉つかまつり候ふべし。義経は侍ひて、この御所よくよく守護した
てまつれ」と仰せ下されければ、かしこまつて承り、門を固めて待
つところに、ほどもなく二三千騎馳せ参りて、六条殿四面にうちか
こみ、守護したてまつれば、人々も心静かに、君も御安堵の御心地
いできさせ給へり。
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第八十三句 兼平
さるほどに、木曾は「もしもの事あらば、院をとりたてまつり、
西国の方へ御幸なしたてまつり、平家とひとつにならん」とて、力
者二十余人用意しておいたりけれども、「院の御所には、義経の参
り給ひて守護したてまつる」と聞こえしかば、「力およばず」とて、
数万騎の大勢の中に駆け入り、討たれなんずること度々におよぶと
いへども、駆けやぶり、駆けやぶり、通りけり。「かくあるべしと
知りたりせば、今井を瀬田へはやらまじものを。幼少より『死なば
一所にて、いかにもならむ』とちぎりしに、所々にて死なんことこ
そ本意なけれ。今井が行くへを見ばや」とて、河原を上りに駆けけ
るに、大勢追つかくれば、とつて返し、とつて返し、六条河原と三
条河原の間、無勢にて多勢を五六度まで追つかへす。賀茂川ざつと
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うち渡し、粟田口、松坂にもかかりけり。去年信濃を出でしときは、
五万余騎と聞こえしかど、今日四の宮河原を過ぐるには、主従七騎
になりにけり。まして中有の旅の空、思ひやるこそあはれなれ。
木曾殿は、信濃より巴、款冬とて二人の美女を具せられたり。款
冬は労ることありて、都にとどまりぬ。巴は七騎がうちまでも討た
れざりけり。そのころ齢二十三なり。色白く髪長く、容顔まこと
に美麗なり。されども大力の強弓精兵、究竟の荒馬乗りの悪所おと
し。いくさといへば札よき鎧着て、大太刀に強弓持ち、一方の大将
にさし向けられけるに、度々の高名肩を並ぶる人ぞなき。
「木曾は長坂を経て、丹波路へおもむく」と言ふもあり、また「龍
華越にかかつて北国へ」とも聞こえけり。されども、今井が行方の
おぼつかなさに、瀬田の方へぞ落ち行きける。今井も主の行くへの
ゆかしさに、旗をひん巻き、五十騎ばかりにて都へとつて返すほど
に、大津の打出浜にて、木曾殿に逢ひたてまつる。一町ばかりより、
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たがひに「それ」と目をかけて、駒を早めて寄せ合はせたり。
木曾殿、今井が馬にうち並べ、兼平が手を取りて、「いかに今井
殿、義仲は、今日六条河原にていかにもなるべかりしかども、幼少
より『一所にていかにもならん』とちぎりしことが思はれて、かひ
なき命のがれ、これまで来れるなり」とのたまへば、「さん候。兼
平も、瀬田にていかにもなるべう候ひつるが、君の御行くへのおぼ
つかなさに、敵の中に取り籠められて候ひしを、うち破りてこれま
で参りて候」と申す。木曾殿、「ちぎりはいまだ朽ちせざりけり。
義仲が勢は敵におしへだてられ、山林に馳せ入りぬ。さだめてこの
辺にもあるらん。旗さし上げてみよ」とのたまへば、今井持たせた
る旗をざつとさし上げたれば、案のごとく、これを見て、京より落
つる勢ともなく、瀬田より落つる者ともなく、三百余騎ぞ馳せ集ま
る。
木曾殿大きによろこんで、「この勢あらば、などか最後のいくさ
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せざるべき。この先にしぐらうで見ゆるは、誰が手とか聞く」。「甲
斐の一条の次郎殿とこそうけたまはり候へ」。「勢はいかほどあるや
らん」。「六千余騎と聞こえて候」。「さらばよき敵ごさんなれ。同じ
くは、大勢の中にてこそ討死もせめ」とて、まつ先にこそ進まれけ
れ。
木曾は赤地の錦の直垂に、「薄金」とて唐綾縅の鎧着て、いかも
のづくりの太刀を帯き、石打の矢のその日のいくさに射のこしたる
を頭高に負ひなし、滋籐の弓のまん中取つて、聞こゆる木曾の鬼葦
毛に、沃懸地の鞍置いてぞ乗つたりける。大音あげて名のりけり。
「昔は聞きけんものを、木曾の冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊予
の前司朝日将軍源の義仲ぞや。一条の次郎とこそ聞け。討ちとり、
勧賞かうむれ。なんぢがためにはよき敵ぞ」とて、破って入る。
一条の次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。もらすな。討ちとれや」
とて大勢の中にひと揉み揉うで戦ふ。
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木曾三百余騎にて、縦ざま、横ざま、蜘蛛手、十文字に駆けやぶ
り、六千余騎があなたへざつと駆け出でたれば、百騎ばかりになり
にけり。土肥の次郎、一千余騎にてささへたり。そこを駆けやぶり
て出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。稲毛、榛谷五百余騎。
そこを過ぐれば、小山、細道、森、結城、小沢。ここかしこに二三
百騎ひかへたるを、駆けやぶり、駆けやぶり行くほどに、主従五騎
にぞなりにけり。五騎がうちまで、巴は討たれざりけり。
木曾のたまひけるは、「義仲は、ただいま討死せんずるにてある
ぞ。なんぢは女なれば、一所にて死なんことも悪しかりなん。『木
曾殿こそ、最後のいくさに女をつれて討死せさせたり』なんど言は
れんことも口惜しかるべし。これよりいづちへも落ちゆき、義仲が
後世をもとぶらひなんや」とのたまへども、落ちゆかず。あまりに
いさめ給へば、「あつぱれ、よからむ敵もがな。最後のいくさして
見せたてまつらん」とて見まはすところに、武蔵の国の住人に恩田
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の八郎師重、聞こふる大力の剛の者、三十騎ばかりにて出で来たり。
巴その中に駆け入り、恩田に押し並べて、むずと取つて引き落し、
鞍の前輪に押しつけて、首ねぢ切つて捨ててけり。そのまま物具脱
ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。
手塚の別当自害しつ。手塚の太郎は討死す。今は、今井と主従二
騎にぞなりにける。
木曾のたまひけるは、「いかに今井。日ごろは何ともおぼえぬ鎧
が、今日は重うおぼゆるぞや」。兼平申しけるは、「別の様や候ふ。
それは君の無勢にならせましまして、臆させ給ふにこそ候へ。御馬
疲れ候はず。御身弱らせ給はず。日ごろ召されし御鎧、何によつて
ただいま重くはならせ給ふべき。兼平一人、余の者千騎とおぼしめ
され候ふべし。箙に矢七つ八つ射のこして候へば、この矢のあらん
かぎりは、ふせぎ矢つかまつらん。あれに見え候ふは『粟津の松
原』と申し候。三町には過ぎ候ふまじ。あれにて御自害候へ」とて、
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二騎うち並べて行くほどに、また瀬田の方より新手の武者、百騎ば
かり出で来たり。
今井申しけるは、「さ候はば、君はあの松原にてしづかに御自害
候へ。兼平はこの敵ふせぎ候はん」と申せば、木曾殿、「幼少より
『一所に』とちぎりしはここぞかし。死なば同じ枕にこそ」と、馬
の鼻を並べ、駆けんとし給へば、今井馬より飛んでおり、御馬の鼻
にむずと取りつき、「いかなる御言候ふ。弓矢取りは、日ごろ高名
をし候へども、最後に不覚しつれば永き瑕に候ふものを。いふかひ
なき冠者ばらに組み落され、討たれ給はば、『日本国に聞こえ給ふ
木曾殿をば、それがしが家の子、それがしが郎等こそ討ちとりたて
まつれ』なんどと申さんこと、あまりに口惜しうおぼえ候。ただ松
の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と申せば、木曾殿力およばず、松
原へぞ入り給ふ。
今井の四郎ただ一騎、大勢に駆け向かひ、大音声をあげて、「日
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ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。木曾殿の御乳人に今井の四郎
兼平。三十三にぞまかりなる。鎌倉殿までも『さる者あり』とは知
ろしめされたるらん。討ちとり、勧賞かうむれ」とて、残りたる八
すぢの矢を、さしつめ、引きつめ、散々に射る。死生は知らず、矢
庭に敵八騎射おとし、矢種尽きければ、弓をかしこに投げすて、打
物の鞘をはづし、斬つてまはるに、面を合はする者ぞなき。「ただ
射とれ。射とれ」とて、中にとり籠め、遠だてながら雨の降る様に
射けれども、鎧よければ裏かかず。隙間を射ねば手も負はず。
木曾殿は松原へ入り給ふ。ころは正月二十日の暮れがたなれば、
薄氷張りたりけるに、「深田あり」とも知らずしてうち入れ給へば、
聞こふる木曾殿の鬼葦毛も、一日馳せ合ひの合戦にやつかれけん、
あふれども、あふれども、打てども、打てども、はたらかず。「今
はかう」とや思はれけん、うしろへふり仰のき給ふところを、相模
の国の住人石田の次郎為久、追つかけてよつ引いて射る。内兜をあ
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なたへ通れと射通されて、痛手なれば兜の真向を馬のかしらにあて
て、うつぶしにぞ伏し給ふ。石田が郎等二人落ちあひて、つひに木
曾殿の首をぞ取つてけり。
太刀の先に刺しつらぬき、高くさしあげ、今井が言ひつるに違は
ず、「日本国に聞こえ給ふ木曾殿を、相模の国の住人三浦石田の次
郎為久、かうこそ討ちたてまつれ」とて高らかに名のりければ、今
井の四郎これを聞き、「今は誰をか囲はんとていくさをすべき。こ
れ見よや、剛の者の自害する様。手本にせよや、東国の殿ばら」と
て、太刀を抜き、口にくくみ、馬よりさかさまに落ちかかり、つら
ぬかれてぞ失せにける。今井討たれてそののちぞ、粟津のいくさは
果てにける。
今井が兄、樋口の次郎兼光は、「十郎蔵人を討たん」とて、河内
の国長野の城へ越えけるが、そこにては討ちもらし、「紀伊の国名
草にあり」と聞こえしかば、やがて追つかけ、越えたりけるが、
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「都にいくさあり」と聞きて馳せのぼるほどに、淀の大渡の橋にて
今井が下人に行き逢うたり。「君は、はや討たれさせ給ひ候ひぬ。
今井殿は御自害」と申せば、樋口涙をながし、「これ聞き給へ、殿
ばら。世はすでにかうごさんなれ。命惜しからん人々は、いづちへ
も落ち給へ。君に心ざしを思ひたてまつらんともがらは、兼光を先
として都へ入りて討死せよ」と申しければ、これを聞き、かしこに
ては「馬の腹帯かたむる」、ここにては「兜の緒をしむる」と言う
て、二三十騎、四五十騎、ひかへ、ひかへ、落ち行くほどに、樋口
が勢六百余騎が、いま二十騎ばかりにぞなりにける。
「樋口の次郎、今日すでに都に入る」と聞こえしかば、党も高家も
七条、朱雀、四塚へ「われも」「われも」と馳せむかふ。
信濃の国の住人に茅野の太郎光弘といふ者あり。これも樋口につ
れて河内へ下りけるが、同じく今日京へ入る。茅野の太郎、何とか
思ひけん、鳥羽より樋口の次郎が先に立つて馬の足をはやめ、四塚
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にて大勢にうち向かひ、「この中に一条の次郎殿の手の人やおはす
る」と呼ばはりけり。敵一度にどつと笑つて、「一条の次郎殿の手
にてばかり、いくさをばすることか」と言ひければ、茅野の太郎
「もつとも、さ言はれたり、殿ばら。かの手をたづぬることは、光
弘が弟茅野の七郎その手にあると聞く。信濃に光弘が子ども二人あ
り。彼らが『あつぱれ。わが父は、よくてや死したりけん、悪しう
てや死したりけん』なんど思はんところが不便なれば、弟の七郎が
見んまへにて討死して、彼らに語らせんと思ふぞかし。信濃の国諏
訪の上の宮の住人、茅野の大夫光家が子に茅野の太郎光弘。敵はき
らふまじ」とて、あれに駆けあはせ、これに駆けあはせ、戦ふ敵三
人討ちとりて、四人にあたる敵にひつ組んで落ち、たがひに刺しち
がへてぞ死ににける。これを見て、惜しまぬ人こそなかりけれ。
樋口の次郎兼光は児玉党の聟なりけるが、かの党申しけるは、
「弓取りの広き縁に入ることは、かやうのときのためぞかし。され
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ば、樋口がわが党にむすぼほりけんも、さこそ思ひけめ。いざ、今
度の勲功に、樋口を申して賜はらん」とて、樋口がもとへ飛脚をた
て、この様申しつかはしたりければ、樋口、聞こふる兵なれども、
命や惜しかりけん、児玉党がなかへ降人にこそなりにけれ。
うち連れて都へのぼり、このよし申しければ、九郎御曹司、院に
奏聞せられけり。「くるしかるまじ」とてなだめられけるを、御所
女房たち、「去年、木曾が法住寺殿に火をかけて攻めたてまつりし
ときは、今井、樋口、といふ者どもこそ、かしこにも、ここにも、
満ち満ちたる様に聞こえしが、これをなだめられば口惜しかるべ
し」なんど訴へ申されければ、樋口の次郎、また死罪にさだまりぬ。
同じく二十二日、新摂政殿、とどめられさせ給ひて、もとの摂政
殿還着し給へり。わづかに六十日のうちにとどめられさせ給ふ。
いまだ見はてぬ夢のごとし。昔、粟田の関白は拝賀ののち七か日だ
におはせしが、これは六十日のうちなれども、除目おこなはれ、節
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会もあり。思ひ出なきにはあらず。
同じき二十四日、木曾左馬頭の首、大路をわたさる。高梨の冠者、
今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太、長瀬の判官、総じて与党
五人が首、同じくわたされけり。樋口の次郎、「すでに斬らるべし」
と聞こえしかば、「木曾殿の御首の御供せん」と所望申すあひだ、
藍摺の水干、葛の袴、立烏帽子にてわたされけり。
同じき二十五日、樋口の次郎、六条河原にてつひに斬られぬ。
「『今井、樋口、楯、根の井とて、木曾が四天王のそのひとつなり。
これらをなだめられば、虎をやしなふに似たり』と御沙汰あつて、
つひに斬られける」とぞ聞こえし。
伝へ聞く、虎狼国おとろへ、諸侯蜂のごとくにおこり、沛公さき
に咸陽宮に入るといへども、項羽が来らんことを恐れて、最愛の美
人を犯さず、金銀珠玉を掠めず。ただいたづらに函谷の関をまぼつ
て、漸々に敵をほろぼして天下ををさむることを得たり。されば義
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仲さきに都へ入るといふとも、慎んで頼朝が下知を待ちしかば、沛
公がはかりごとには劣らざらまし。
第八十四句 六箇度のいくさ
さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難
波潟へぞ伝はり給ふ。東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は
一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、福原、兵庫、板宿、須磨
にこもるる勢、ひた兜八万余騎。これは備中の国水島、播磨の国室山、
二か度の合戦にうち勝つて、山陽道八か国、南海道六か国、都合十
四か国をうちなびかせて、したがふところの軍兵なり。
一の谷は、口は狭くて奥広く、北は山、南は海、岸高うして屏風
を立てたるがごとし。北の山ぎはより南の磯にいたるまで、大石を
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かさね、上に大木を切つて逆茂木にひきたり。大船をそばだてて掻
楯にかき、うしろには鞍置馬、十重二十重にひき立てたり。おもて
に櫓をかき、櫓のうへには、兵ども兜の緒をしめ、つねに大鼓を打
ちて乱声し、一張の弓のいきほひは半月胸のまへにかかり、三尺の
剣のひかりは秋の霜の腰の間によこたふ。高き所には赤旗ども、そ
の数を知らず立て並べたれば、春風に吹かれて天にひるがへれば、
ひとへに火炎の焼けのぼるにことならず。まことにおびたたしかり
けり。
阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで
平家にしたがうたる者が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家
に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、小船百艘にとり乗
つて、「門脇の平の中納言、平宰相教盛の子息、備前の国下津井に
おはしけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。
能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつ
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ばらが、今日ちぎりを変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人も
のこさずうち殺せ」とて、五百余騎にて駆け給へば、これらは、
「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけると
ころに、能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかた
に逃げのぼるが、淡路の福良に着きにけり。
この国に、六条の判官為義が末の子、賀茂の冠者末秀、淡路の冠
者為清とて源氏の大将二人あり。これを大将として城郭をかまへて
待つところに、能登の前司、二千余騎にて淡路の福良に寄せて攻め
給ふに、一日一夜戦ひ、賀茂の冠者討死す。淡路の冠者痛手負うて
自害しつ。これら百余人が首をとり、福原へ参らせ給ひけり。
門脇の平中納言、それより福原へのぼり給ふ。子息たちは、「伊
予の河野が源氏に心ざしあり」と聞きて、「それを討たん」とて伊
予の国へわたり給ふ。河野の四郎これを聞き、「かなはじ」とや思
ひけん、「安芸の国の住人沼田の次郎、源氏に心ざしあり」と聞い
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て、「それとひとつにならん」とて、安芸の国へぞわたしける。能
登の前司これを聞き、やがて追つかけ、安芸の国へわたり給ふ。そ
の日蓑島に着く。次の日、安芸の国沼田の城へぞ寄せたりける。河
野の四郎と沼田の次郎とひとつになつて、二千余騎にてたて籠る。
能登の前司三千余騎にて攻め給ふに、一日戦ひ暮らし、次の日、沼
田の次郎矢種みな射尽くして、「かなはじ」とや思ひけん、兜をぬ
ぎ弓をはづし、降人にこそなりにけれ。
河野の四郎も二百余騎にて越えたりしが、五十騎ばかりに討ちな
され、なほも降人にはならずして、「船に乗らん」と沼田畷にかか
り、浜をさして落ち行くほどに、能登殿の郎等に平八為貞といふ者、
二百余騎にて追つかくる。返しあはせて、しばし戦ふ。主従七騎に
討ちなされ、「助け船に乗らん」と江のかたへ落ち行くほどに、為
貞が家の子讃岐の七郎義範、究竟の弓の上手にて、追つかけて、七
騎を矢庭に五騎射落す。河野の四郎、主従二騎になりにけり。讃岐
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の七郎、河野が身にかへて思ひける郎等にひつ組んで落ち、取つて
押さへて首をかかんとせしところに、河野そのとき十八になりける
が、返しあはせて、郎等が上なる敵の首かき切つて、田の中へ投げ
入る。郎等をば取つて肩にひつかけ、そこを逃げのび、四国の地に
こそわたりけれ。
能登の前司、河野を討ちもらしたれども、沼田の次郎、降人たる
をあひ具して福原へこそのぼられけれ。
また、淡路の国の住人、阿万の六郎忠景といふ者あり。これも源
氏に心ざしありけるが、郎従百余人、大船二艘にとり乗つて、都へ
上る。能登の前司これを聞き、小船二十余艘にとり乗つて、攻め給
ふほどに、西の宮の沖にて追つかけたり。返しあはせ、しばし戦ふ。
阿万の六郎「かなはじ」とや思ひけん、河尻へは入らずして、紀伊
の地をさして落ち行くほどに、和泉の国吹飯の浦にぞ着きにける。
紀伊の国の住人、園部の兵衛忠泰といふ者あり。これも源氏に心
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ざしありけるが、「阿万の六郎が平家に追はれて、和泉の国吹飯の
浦にあり」と聞こえしかば、「それとひとつにならん」とて、六十
騎にて馳せ越えて、阿万の六郎とひとつになる。能登の前司、二千
騎にて和泉の国吹飯の浦に押し寄せ、攻め給ふほどに、一日戦ひ暮
らし、夜に入りて、郎等どもにふせぎ矢射させて、阿万の六郎、園
部の兵衛は都へ逃げのぼる。能登殿、ふせぐところの者ども五十余
人が首をとつて、福原へこそ帰られけれ。
また、「豊後の国の住人、臼杵の次郎維高、緒方の三郎維義、伊
予の国の住人河野の四郎通信、三人ひとつになり、三千余騎、備前
の国まで攻めのぼり、今来の城に籠りたる」より告げたりければ、
能登の前司一万余騎馳せくだり、今来の城に押し寄せ、三日と申すに、
城のうちの者ども矢種射尽くし、打物の鞘をはづし、城の木戸をひ
らいて、うち出でて戦ふこと度々におよぶといへども、平家はいよ
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いよ大勢馳せかさなる。城のうちには、次第に落ちゆくほどに、
「かなはじ」とや思ひけん、緒方の三郎、河野の四郎、城を落ち、
河野は伊予の国へわたり、臼杵、緒方は豊後の国へぞわたりける。
能登の前司「いまは攻むべき者なし」とて、福原へこそのぼられけ
れ。大臣殿以下の平家の一門、能登の前司このほど所々の合戦に、
度々の巧名をぞ感じあはれける。
正月二十八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経
二人を召され、「わが朝には、神代よりつたはれる三つの宝あり。
神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆゑなく都へ返し入れたてまつ
れ」と仰せくだされければ、両人かしこまつて承り、まかり出づ。
同じく二月四日、福原には「故太政入道の忌日」とて、形のごと
くの仏事おこなはれけり。朝夕のいくさに、過ぎゆく月日も知らね
ども、かぎりある去年は今年にうつりきて、憂かりし春にもなりに
けり。世が世にてあらましかば、起立塔婆のくはだて、供仏、施僧
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のいとなみもあるべかりけれども、ただ男女の君達さしつどひ、泣
くよりほかのことぞなき。
このついでに、形のごとくの除目などおこなはれ、僧も俗もみな
官なりにけり。「門脇の平中納言教盛は、正二位して、大納言にな
り給ふべき」よし、大臣殿より御使ありけり。中納言、大臣殿へ御
返事に、
今日までもあればあるかのわが身かは
ゆめのうちにもゆめを見るかな W
とのたまひて、つひに大納言にはなり給はず。
大外記中原の師貞が子、周防介師澄が大外記になる。兵部少輔尹
明、五位の蔵人になりて、いつしか「蔵人の少輔」とぞ申しける。
むかし、将門が東八か国をうちなびかし、下総の国相馬の郡に都
をたて、わが身を「平親王」と称して百官をなしたりしには、暦の
博士ぞなかりける。それにはこれは似るべからず。故郷をこそ出で
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させ給へども、主上、三種の神器を帯して、万乗の位にそなはり給
へり。されば除目おこなはれけるも、ひが事にはあらざりけり。
「平氏すでに福原まで攻めのぼり、都へ入るべし」と聞こえしかば、
平家の方さまの人々みなよろこび合はれけり。二位の僧都全真は、
梶井の宮の年来の御同宿にてありけるが、西国より風のたよりには、
文して申されけり。梶井の宮よりも御返事ありけるに、「旅のそら
思ひやるこそ心ぐるしけれ。都もいまだしづかならず」なんどと、
こまごまとあそばされ、奥に一首の歌ぞありける。
人しれずそなたをしのぶ心をば
かたぶく月にたぐへてぞやる W
とあそばされければ、二位の僧都、これを顔に押しあてて、かなし
みの涙せきあへず。
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第八十五句 三草山
さるほどに、源氏は四日、一の谷へ寄すべかりしが、「故太政入
道の忌日」と聞いて、仏事をおこなはせんがためにその日は寄せず。
五日は西ふさがり。六日は道虚日。七日の卯の刻に摂津の国一の谷
にて、源平矢合せとぞ定めける。七日の卯の刻に、大手、搦手の軍
兵二手に分かつ。
大手の大将軍、蒲の冠者範頼にあひしたがふ人々、武田の太郎信
義、加賀見の次郎遠光、その子小次郎長清、板垣の三郎兼信、逸見
の四郎有義、胆沢の五郎信光、山名の次郎兼義、同じく三郎義行。
侍大将には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、畠山
の庄司次郎重忠、長野の三郎重清、稲毛の三郎重成、榛谷の四郎重
朝、森の五郎行重、小山の四郎朝政、長沼の五郎宗政、結城の七郎
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朝光、小野寺の禅師太郎道綱、佐貫の四郎大夫広綱。児玉党には、
庄の三郎忠家、同じく四郎高家、塩屋の五郎惟広、勅使河原の五三
郎有直、中村の五郎時綱、椎名の次郎有胤、曾我の太郎祐信、河原
の太郎高直、同じく次郎守直、久下の次郎重光、小代の八郎行平、
藤田の三郎大夫行康、江戸の四郎、玉の井の四郎を先として、都合
その勢五万余騎。四日の卯の刻に都をたつて、その日の申酉の刻に
は摂津の国昆陽野に陣をとる。
搦手の大将軍、九郎義経にあひしたがふ人々、大内の太郎維義、
安田の三郎義定、村上の判官代基国、田代の冠者信綱。侍大将には、
土肥の次郎実平、その子弥太郎遠平、和田の小太郎義盛、同じく次
郎義茂、佐原の十郎義連、天野の次郎直経、河越の小太郎重房、師
岡兵衛重綱、熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、小川の次郎助義、
大川戸の太郎弘行、岡部の六野太忠澄、猪俣の近平六則綱、金子の
十郎家忠、同じく与市近範、渡柳弥五郎清忠、別府の小太郎清重、
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多々良の五郎義春、その子太郎光義、片岡の太郎親経、同じく八郎
為治。御曹司の手の郎等には、鈴木の三郎重家、亀井の六郎重清、
源八広綱、熊井の太郎、江田の源三、奥州の佐藤三郎嗣信、同じく
四郎忠信、伊勢の三郎義盛、武蔵房弁慶を先として、都合その勢一
万余騎。同じ日、同じとき、都をたつて、丹波路にかかつて、二日
路を一日にうつて、その日播磨と丹波とのさかひなる三草山の東の
山口、小野原にこそ着き給へ。
御曹司、土肥の次郎を召して、「平家は、小松の新三位の中将、
同じく少将、丹後の侍従、備中守。侍には、平内兵衛、江見の次
郎。三千余騎にて、これより三里へだてて西の山口をかためたんな
り。今夜寄すべきか、明日の合戦か」とのたまへば、田代の冠者す
すみ出でて申されけるは、「平家は、さ様に三千騎にて候ふなり。
味方は一万余騎、はるかの利にて候ふものを。明日の合戦にのべら
れ候はんに、平家に勢つきなんず。夜討によからんとこそおぼえ候
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へ。これいかに、土肥殿」と申せば、土肥の次郎、「いしうも申さ
せ給ひたる田代殿かな。実平も、かうこそ申したう候ひつれ」とぞ
申したる。
この田代の冠者と申すは、伊豆の国さきの国司、中納言為綱の卿
の子なり。母は狩野の工藤の介茂光が娘なり。これを思ひまうけた
りしを、母方の祖父にあづけて、弓矢取りには、なされけり。先祖
をたづぬるに、後三条の院の第三の皇子、輔仁の親王五代の孫なり。
俗姓もよかりけるうへ、弓矢取つてもならびなし。
二日路を一日にうつて、馬、人みなつかれたれども、「さらば寄
せよ」とて、みなうち立ちけり。兵ども、「暗さはくらし、知らぬ
山路にかかつて、松明なうてはいかにすべき」と口々に申しければ、
御曹司、土肥の次郎を召して、「いつもの大松明はいかに」とのた
まへば、土肥の次郎「さること候」とて、小野原の在家に火をぞつ
けたりける。そのほか、野にも山にも、草にも木にも火をつけたれ
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ば、昼にはすこしもおとらず。
平家は三千余騎にて、西の山口をかためらる。先陣はおのづから
用心するもあり、後陣の者どもは、「さだめて明日の合戦にてぞあ
らん。いくさもねぶたいは、大事のものぞ。よく寝て、明日いくさ
せよ」とて、あるいは兜を枕にし、あるいは鎧の袖、箙なんどを枕
にして、前後もしらずぞ寝たりける。
思ひもかけぬ寅の刻ばかりに、源氏一万余騎、三里の山をうちこ
えて、西の山口へ押し寄せ、鬨をどつとぞつくりける。平家あわて
さわぎ、「弓よ」「矢よ」「太刀よ」「刀よ」と言ふほどに、源氏、な
かをざつと駆けやぶりて通る。「われ先に」と落ちゆくを、追つか
け、追つかけ、散々に射る。平家の勢、そこにて五百余人討たれけ
り。
小松の新三位の中将、同じく少将、丹後の侍従、面目なうや思は
れけん、播磨の高砂より船に乗つて、讃岐の屋島へ渡り給ふ。備中
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の前司、平内兵衛、江見の次郎を具して、これより一の谷へ参り
て、合戦の次第を申せば、大臣殿おほきにおどろき給ひて、一門の
人々のかたへ、「九郎義経が向かひて候ふ三草の手、すでに敗れて
候。人々向かはせ給へ」とありければ、「山の手は大事に候」とて、
みな辞退せられける。そののち能登殿のもとへ使者をたて給ひて、
「三草の手すでに敗れて候。『人々向かはせ給へ』と申せども、『山
の手は大事に候』とて、みな辞退せられ候ふなり。『盛俊向かへ』
と申せば、『大将軍一人ましまさではかなふまじき』よし申し候。
度々のことにて候へども、御辺向かはせ給ひなんや」とありければ、
能登殿の御返事に、「いくさと申すものは、人ごとに『われ一人が
大事』と思ひきつてこそよく候へ。さ様に、狩、すなどりのやうに、
『足だちのよからん方へは、われ向かはん。あしき方へは向かふま
じき』なんど候はんには、いつもいくさに勝つことは候ふまじ。何
が度にても、教経命のあらむかぎりは、いかに強う候ふとも、一方
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はうけたまはりて打ちやぶり候はん」とぞ申されける。大臣殿おほ
きによろこび給ひて、越中の前司盛俊を先として、能登殿に一万余
騎をぞつけられける。兄の越前の三位通盛とうちつれて、鵯越のふ
もとに陣をぞとり給ふ。
平家も四日に、大手、搦手二手に分けてつかはさる。大手の大将
軍には、新中納言知盛、本三位の中将重衡、その勢四万余騎にて、
大手生田の森にぞ向かはれける。搦手の大将軍は、左馬頭行盛、薩
摩守忠度、三万余騎にて一の谷の西の手へぞ向かはれける。
五日の夜に入りて、生田の方より雀の松原、御影の松、昆陽野の
方を見わたせば、源氏、手々に陣をとりて、かがりをたくこと、晴
れたる空の星のごとし。平家も「向かひ火をたけや」とて、生田の
森にもたいたりけり。ふけゆくままに見わたせば、沢辺のほたるに
ことならず。
越前の三位通盛は、弟の能登殿の屋形に女房を請じて臥し給へり。
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能登殿おほきに怒つて、「さらぬだに、この手をば大事の手とて、
教経を向けられて候。まことに強かるべし。ただいまにても候へ、
上の山より、敵ざつと落して候はんときは、弓は持ちたりとも、矢
をはげずはかなひがたし。矢ははげたりとも、おそく引かばなほも
悪しかるべきところなり。ましてさ様にうちとけさせ給ひては、何
の詮にかたたせ給ふべき」といさめられて、三位やがて物具して、
いそぎ女房をば返されけるとかや。この女房と申すは、つひに同じ
道におもむき給ひし女房なり。
源氏は、「七日の卯の刻矢合せ」と定めたりければ、かしこに陣
をとり、馬やすめ、ここに陣とり、馬を飼ひなんどしていそがず。
平家はこれを知らずして、「いまや寄す」「いまや寄す」とやすき心
もなかりけり。
六日のあけぼの、九郎義経一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎
を大将として、七千余騎をば一の谷の西の手へさし向けらる。わが
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身は三千余騎にて一の谷のうしろ、摂津の国と播磨のさかひなる
鵯越、搦手にこそ向かはれけれ。兵ども、「これは聞こゆる悪所に
てあり。敵に合うてこそ死にたけれ。悪所に落ちて死にたらんは無
下のことかな」、「あつぱれ、案内知りたる者やある」と口々に申す
ところに、平山の武者所季重すすみ出でて申しけるは、「この山の
案内は、季重こそ知つて候へ」と申す。御曹司、「さもあれ、坂東
そだちの人の、いまはじめて見る西国の山の案内はしかるべから
ず」とぞのたまひける。平山申しけるは、「御諚ともおぼえぬもの
かな。吉野、初瀬の花のころは歌人これを知る。敵の籠りたる城の
うしろの案内をば、剛の者が知り候」とぞ申しける。御曹司「これ
また傍若無人」とぞ笑はれける。
また、武蔵の国の住人別府の小太郎清重とて、生年十八歳になる
小冠者、御前にすすみ出でて申しけるは、「親にて候ふ入道の教へ
候ひしは、『敵にもとり籠められ、山越えの狩をもして深山にまよ
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ひたらんときは、老馬に手綱をむすんでうちかけ、さきに追つたて
て行け。かならずこの馬は道に出でんぞ』と教へ候ひしか」と申し
ければ、御曹司、「やさしうも申したるものかな。『雪は野原をうづ
めども、老いたる馬ぞ道は知る』といふ心なり。さらば」とて、白
葦毛なる馬に白覆輪の鞍おいて、手綱むすんでうちかけ、さきに追
つたてて、一度も知らぬ深山へこそ入り給へ。
ころはきさらぎはじめのことなりければ、峰の雪むら消えて、花
かと見ゆるところもあり。谷のうぐひすおとづれて、霞にまよふと
ころもあり。のぼれば白雲皓々として峰そびえ、くだれば青山峨々
として岸高し。松の雪だに消えやらで、苔のほそ道かすかなり。嵐
のさそふをりをりは、梅の花かともまたおぼえたり。山路に日暮れ
ければ、「今日はいかにもかなふまじ」とて、兵どもみな馬よりお
りて陣をとる。
武蔵房弁慶、ある老翁を一人具して、御曹司の御前に参りたり。
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「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「この山のふるき猟師にて候」と申
す。「さては案内は知りたるらん。これより平家の城へ落さんと思
ふはいかに」とのたまへば、「思ひもよらぬことに候。『三十丈の岩
崎、十五丈の岸』なんどと申し候へば、人のとほるべき様も候はず。
まして御馬は、いかでかかなひ候ふべき」と申せば、「鹿のかよふ
ことはなきか」と問ひ給へば、「鹿はおのづからかよひ候。世間だ
にあたたかになり候へば、草の深きに伏さんとて、丹波の鹿は播磨
の南野へかよひ候。ときどきこの谷をとほり候」と申す。「さて鹿
のかよはん所を、馬のかよはぬ様やあるべき。なんぢやがてしるべ
せよ」とのたまへば、「この身は年老い、かなふまじき」よしを申
す。「子はないか」。「候」とて、熊王丸と申して生年十六歳になる
を奉る。
やがて物具せさせ、馬に乗せて案内者に具せらる。父を鷲の尾の
庄司武久と申しければ、これを元服せさせて、義経の「義」をや賜
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びけん、「鷲の尾の十郎義久」とぞ名のりける。御曹司、鎌倉殿と
仲たがうて奥州にて討たれ給ひしとき、「鷲の尾の十郎義久」とて
討死しける者なり。
第八十六句 熊谷・平山一二の駆
熊谷の次郎直実は、そのときまでは搦手に侍ひけるが、その夜の
夜半ばかりに、嫡子の小次郎を呼うで申しけるは、「いかに小次郎。
思へばこの所は、悪所を落さんずるとき、うちごみのいくさにて、
すべて『誰さき』といふことあるまじきぞ。いざや、これより播磨
路に出でて、一の谷の先を駆けん」と言ふ。小次郎、「よく候はん。
向かはせ給へ」と申す。「まことや、平山もうちごみのいくさを好
まぬぞ。見てまゐれ」とて郎等をやりたれば、案のごとく、平山は、
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はや、物具して、誰に会うて言ふともなく、「今度のいくさに、人
は知らず、季重においては一足も引くまじきものを」と、ひとりご
とをぞ言ひける。下人が馬を飼ふとて、「憎い馬の長食ひかな」と
て打ちければ、平山、「さうなせそ。季重、明日は死なんぞ。その
馬のなごりも今夜ばかり」とぞ言ひける。郎等走りかへりて、「か
うかう」とぞ言ひける。熊谷「さればこそ」とて、うちたちけり。
熊谷は、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、紅の母衣かけて、「権田
栗毛」といふ馬に乗り、嫡子の小次郎は、沢瀉をひと摺り摺つた
る直垂に、伏繩目の鎧着て、黄瓦毛なる馬にぞ乗つたりける。旗差
は、麹塵の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧着て、「西楼」といふ
白月毛なる馬にぞ乗つたりける。主従三騎うちつれて、一の谷をば
弓手に見なし、馬手へあゆませ行くほどに、年来人もかよはぬ「田
井の畑」といふ古みちをとほりて、播磨路の波うちぎはへぞうち出
でたる。土肥の次郎実平は、「卯の刻の矢合せ」と定めたりければ、
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いまだ寄せず、七千余騎にて塩屋尻といふ所にひかへたり。熊谷は、
土肥の次郎が大勢にうちまぎれて、そこをづんどうち通りて一の谷
へぞ寄せたりける。
いまだ寅卯の刻ばかりのことなりければ、敵の方にも音もせず。
味方の勢一騎も見えず。静まりかへつてありしところに、熊谷言ひ
けるは、「剛の者はかならずわればかり、と思ふべからず。この辺
にひかへて、夜の明くるをや待つ人もあらんぞ。いざや、人の名の
らぬさきに名のらん。小次郎」とて、木戸のきはにあゆませ寄せて、
大音声をあげて名のりけるは、「つたへても聞くらん、武蔵の国の
住人熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、一の谷の先陣ぞや」とぞ
名のりける。敵の方にはこれを聞き、「音なせそ。ただ敵が馬の足
を疲らかさせよ。矢種を尽くさせよ」とて、音する者もなかりけり。
さるほどに、武者こそうしろにつづいたれ。「誰そ」と問へば、
「季重」と名のる。「平山殿か。直実これにあり」。「いかに、熊谷殿
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か。いつより候」と問へば、「直実は、宵より」とぞこたへける。
そのとき平山、うち寄せて申しけるは、「さればこそ、季重も、と
う寄すべかりつるが、成田の五郎にたばかられて、いままで遅々し
て候ぞ。『死なば平山殿と一所にて死なん』とちぎるあひだ、うち
連れたりつるが、成田がこよひ言ふ様は、『いたう、平山殿、先駆
け早く、なし給ひそ。いくさの先を駆くるは、味方の大勢をうしろ
におきて駆けたればこそ、高名、不覚のほどもあらはれておもしろ
けれ。味方の勢一騎も見えで、雲霞のごとくの大勢の中に駆け入つ
て討たれては、されば何の詮ぞ』と制するあひだ、『げにも』と思
ひ、連れてうつほどに、小坂のある所を、つつとうちのぼせ、馬を
くだりがしらになして、味方の勢を待つところに、成田も同じくう
ちのぼせて、『ものを言ひ合はせんずるか』と思うたれば、季重を
すげなげに見なして、そこをつとうち延びて、やがてただ延びに先
へ行くあひだ、『あつぱれ。きやつは季重をたばかつて、先を駆け
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んとするよ』と心得て、五六段先だつたりつるを、ひと揉み揉んで
追つついて、『季重ほどの者をば、どこをたばかるぞ、わ殿は』と
言うて、うちすぎて寄せつれば、季重が馬はるかにまさりたり、そ
の人には、うしろ影よも見えじ」とぞ申しける。
夜はすでにほのぼのと明けゆく。熊谷さきに名のりたれども、
「平山が名のらぬさきに、名を名のらばや」と思うて、また木戸の
きはにあゆませ寄せて、「武蔵の国の住人熊谷の次郎直実、嫡子小
次郎直家、一の谷の先陣ぞや。平家の侍のなかに、われと思はん殿
ばらは駆け出でよや。見参せん」とぞ申しける。平家の侍ども、こ
れを聞き、「よもすがらののじる熊谷親子、ひつさげて来ん」とて、
進む者ども誰々ぞ。越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、上
総の悪七兵衛景清を先として、究竟の者ども二十三騎、木戸をひら
いて駆け出でたり。
平山は熊谷がうしろにひかへたり。されば城のうちの者ども、
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熊谷よりほか、敵ありとも知らざりけるに、平山は敵の木戸をひ
らいて出づるを見て、滋目結の直垂に、緋縅の鎧着て、白母衣かけ
て、上総介が許より得たりける「目糟毛」といふ馬にぞ乗つたり
ける。旗差は、洗革の鎧に兜を猪首に着なして、銹月毛なる馬に乗
る。鐙ふんばり、つつ立ちあがり、「保元、平治両度の合戦に名を
あげたる、武蔵の国の住人平山の武者所季重」と名のつて、熊谷が
先を馳せすぎて、二十三騎が中へをめいて駆け入る。城のうちの者
ども、「熊谷ばかりと思うたれば、こはいかにして討ちとらん」と
ののじりけり。
熊谷これを見て、「平山を討たせじ」とつづいて駆く。平山駆く
れば熊谷つづく。熊谷駆くれば平山つづく。二十三騎の者どもを中
にとり籠めて、火の出づるほどぞ戦ひける。二十三騎の者どもは手
痛う駆けられて、城のうちへざつと引き、敵を外ざまになしてぞ戦
ひける。
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熊谷は馬の腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついてお
り立つたり。嫡子の小次郎は、掻楯のきはへ馬の鼻をつかするほど
攻め寄つて、「熊谷の小次郎直家、生年十六歳」と名のつて戦ひけ
るが、弓手のかひなを射させて引きしりぞき、馬よりおり、父と並
んでぞ立つたりける。熊谷これを見て、「なんぢは手負うたるか」
「さん候。弓手のかひなを射させて候。矢抜いてたべ」と申せば、
熊谷、「しばし待て。ひまもないぞ。つねに鎧づきせよ。裏かかす
な。つねに錣をかたぶけよ。内兜射さすな」と教へてぞ戦ひける。
熊谷、鎧に立つたる矢どもを折りかけて、城のうちをにらまへて
ののじりけるは、「去年の冬のころ、鎌倉を出でしより、命は兵衛
佐殿にたてまつり、かばねを戦場にさらさんと思ひきつたる直実ぞ
や。室山、水島二か度のいくさに高名したりと名のるなる、越中の
次郎兵衛はないか。上総の五郎兵衛はないか。悪七兵衛景清はない
か。能登殿はおはせぬか。高名も敵によつてこそすれ。人ごとに合
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うてはえせぬものを。直実に落ちあへや、人々」とぞののじりける。
越中の次郎兵衛はこれを聞き、紺村地の直垂に、緋縅の鎧着て、
白葦毛なる馬に乗り、「熊谷に組まん」とて、しづかにあゆませて
向かひけるが、熊谷これを見て、「中を割られじ」と親子間もすか
さず立ち並んで、肩を並べ、太刀をひたひにあて、うしろへは一引
きも引かず、いよいよ先へぞ進みける。盛嗣これを見て、「かなは
じ」とや思ひけん、とつて返す。熊谷、「越中の次郎兵衛とこそ見
れ。敵にうしろを見せぬものを。直実に落ちあへや」とことばをか
けけれども、「をこの者」と言うてひき返す。悪七兵衛これを見て、
「きたない殿ばらのふるまひかな」とて、すでに「落ちあうて組ま
ん」と出でけるを、「君の御大事、これにかぎるまじ。あるべうも
なし」とてとりとどめければ、力およばず出でざりけり。
そののち熊谷は、乗替に乗つて城のうちへ駆け入る。平山も熊谷
親子が戦ふまぎれに、馬の息を休めて、これもやがてつづいて駆け
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入る。城のうちの者ども、馬に乗るはすくなし。みな歩だちになり、
櫓の上の兵ども、矢先をそろへ散々に射る。されども味方はおほし、
敵はすくなし。矢にもあたらず駆けまはる。「ただ押し並べて組め
や。組めや」と、櫓の上より下知しけれども、平家の馬は、乗るこ
とは繁う、もの飼ふことはまれなり、船にはひさしく立つたり、み
な竦んでよりつきたる様なり。熊谷、平山が馬にひと当て当てては
蹴倒さるべければ、押し並べても組まざりけり。
平山は郎等を討たせて敵の中へ割つて入り、やがてその敵を討つ
てぞ出でたりける。熊谷も分取あまたしたりけり。熊谷先に寄せた
れども、木戸をひらかねば駆け入らず。平山のちに寄せたれども、
木戸をひらきたれば駆け入りぬ。さてこそ「熊谷、平山が一二の駆
け」とあらそひけれ。
さるほどに、成田の五郎も出で来る。土肥の次郎七千余騎にて押
し寄せ、鬨をどつとつくる。熊谷、平山は引きしりぞいて、駒の息
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をぞ休めける。
第八十七句 梶原二度の駆
大手生田の森には蒲の冠者範頼、その勢五万余騎。「卯の刻の矢
合せ」と定めければ、いまだ寄せず。その手に、武蔵の国の住人、
河原の太郎、河原の次郎とて兄弟あり。河原太郎、弟の次郎を呼
うで申しけるは、「いかに次郎殿。卯の刻の矢合せと定まつたれど
も、あまりに待つが心もとなうおぼゆるぞ。敵を目の前におきなが
ら、いつを期すべきぞや。弓矢取る法は、かうはなきものを。高直、
鎌倉殿の御前にて『討死つかまつらんずる』と申したることがある
ぞ。されば城のうちを入りて見ばやと思ふなり。わ殿生きて、証人
に立て」と言へば、次郎申しけるは、「口惜しきことをのたまふも
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のかな。ただ兄弟あらんずるものが、『兄を討たせて証拠に立たん』
と申さんずるに、弓矢取る法に『よし』と言ひ候ひなんや。守直と
ても討死せんずるに、同じくは一所にてこそいかにもならん」と言
ふあひだ、力およばで、河原太郎「さらば」とて、下人ども呼び寄
せ、故郷にとどめおく妻子のもとへこの様ども言ひつかはし、「馬
ども、なんぢらに取らする。生あるものなれば、命あらんほどは形
見とすべし」とて、馬にも乗らず、下人も具せずして、ただ二人芥
芥をはき、逆茂木乗り越えて、城のうちにぞ入りたりける。
いまだ暗かりければ、鎧の毛もさだかに見えわかず。河原太郎兄
弟、立ち並うで名のりけるは、「武蔵の国の住人、私の党、私市の
高直、同じく次郎守直。源氏の大手の先陣ぞや」とぞ名のりける。
平家の方にはこれを聞き、どつと笑うて申しけるは、「東国の者ど
もほど、すべて恐ろしかりけるものはなし。これほどの大勢の中に、
ただ二人入りたらば、何ほどのことかあるべきぞ。その者ども、し
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ばし置いて愛せよ」とぞ申しける。
河原兄弟、立ち並びて、さしつめ、引きつめ、散々に射る。究竟
の手だれなりければ、矢ごろにまはるほどの者は外るることなし。
「この者、愛しにくし。今は射とれや、若党」とて、備中の国の住
人、真鍋の四郎、真鍋の五郎とて、強弓の精兵兄弟あり。五郎は一
の谷に置かれたり。四郎は生田の森に侍ひしが、これを見て、よつ
引いて射る。河原太郎が左のわきを右のわきへ、づんど射通されて、
弓杖にすがつて立つところに、弟の次郎これを見て、「敵に首を取
らせじ」とや思ひけん、つと寄つて兄を肩に引つかけ、逆茂木乗り
越えけるを、真鍋の四郎、二の矢をつがうて放つ。河原の次郎が右
の膝口射させて、兄と同じ枕に倒れけり。真鍋が郎等二人、打物の
鞘をはづいて出で、河原兄弟が首を取つてぞ入りにける。
河原が下人ども、「河原殿は、はや城のうちへ入りて、討たれさ
せ給ひて候」と呼ばはりければ、梶原平三これを聞き、「あな、無
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慚や。これは、私の党の殿ばらが不覚にてこそ、河原兄弟は討たせ
たれ。あたら者どもを」と言うて、木戸のわきに押し寄せ、足軽ども
寄せて逆茂木引きのけさせ、五百騎轡を並べ、をめいて駆け入る。
梶原が次男、平次景高、あまりに進んで駆けければ、大将軍、使
者をたて給ひて、「後陣のつづかぬに先駆けしたらん者は、勲功あ
るまじきぞ」とのたまへば、平次ひかへて、「御返事に、
もののふのとり伝へたる梓弓
ひいては人のかへるものかは W
と申させ給へ」と言ひすてて、をめいて駆け入る。これを見て、
「平次討たすな」とて、父の平三、兄の源太つづいて駆け入る。
新中納言これを見給ひて、「梶原は東国に聞こえたる兵ぞ。漏ら
すな、討ちとれ」とて、大勢の中におつとり籠め、ひと揉み揉んで
攻め給ふ。梶原も命も惜しまず、をめきさけんで戦ひけり。五百余
騎が五十騎ばかりに駆け散らされて、ざつと引いてぞ出でたりける。
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その中に景季は見えず。梶原、「景季は」と問へば、郎等ども、
「源太殿は敵の中にとり籠められて、はや討たれさせ給ひて候ふに
こそ。見えさせ給はず」と申す。梶原、「世にあらんと思ふも、子
どもを思ふがためなり。源太討たせて、景時世にありても何かせん。
さらば」と言ひて、とつて返す。鐙ふんばりつつ立ちあがり、大音
声をあげて、「昔、八幡殿の、三年の合戦に、出羽の国千福金沢の
城を攻め給ひけるに、十六歳にてまつ先駆け、左のまなこを鉢付の
板に射つけられながら、答の矢を射てその敵を射落し、名を後代に
あげし鎌倉の権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵とは
知らずや」とて、をめいて駆け入る。敵もこれを聞いて、中をざつ
とあけてぞ通しける。
「源太いづくにあるらん」と駆けまはつてたづぬれば、源太は馬を
射させてかちだちになり、兜をうち落され、大童になつて、二丈ば
かりの岸をうしろにあて、郎等二人左右に立て、敵五人にとり籠め
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られ、「ここを最後」と戦ひけり。「景季いまだ討たれざりけり」と、
うれしさに、急ぎ馬より飛んでおり、「景時これにあり。死ぬとも
敵にうしろばし見すな」と言ひて、つと寄り、五人の敵を三人討ち
とり、二人に手負うせて、「弓矢取る身は、駆くるも引くもをりに
よるぞ。いざうれ。源太」とて、かい具してこそ出でたりけれ。こ
れを「梶原が二度の駆け」とは申すなり。
そののち、秩父、足利、三浦、鎌倉。党には児玉、猪俣、野与、
山口、小沢、横山。あるいは五百騎、三百騎。あるいは百騎、二百
騎。色々の旗さしあげて、名のりかへ、名のりかへ、戦ひけり。源
平の兵乱れあひて、白旗、赤旗あひまじへ、両方をめきさけぶ声、
山をひびかし、馬の馳せちがふ音は雷のごとし。敵とひつ組んで落
ち、たがひに刺しちがへて死ぬるもあり。首を取るもあり、取らる
るもあり。薄手負うて戦ふもあり、手負ひ武者をば肩にかけて、敵
も味方もうしろへ引きのき、分取して出づるもあり。源平いづれも
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隙ありとも見えざりけり。
第八十八句 鵯越
源氏、大手ばかりにては勝負あるべしとも見えざりければ、七日
の卯の刻に、九郎義経、三千余騎にて一の谷のうしろ、鵯越にうち
あがつて、「ここを落さん」とし給ふに、この勢にや驚きたりけん、
大鹿二つ、一の谷の城のうちへぞ落ちたりける。「こはいかに。里
近からん鹿だにも、われらにおそれて山深くこそ入るべきに、ただ
いま鹿の落ち様こそあやしけれ」とて騒ぐところに、伊予の国の住
人、高市の武者清教、「何にてもあれ、敵の方より出で来んものを
あますべき様なし」とて、馬にうち乗り、弓手にあひつけて、先な
る大鹿のまん中射てぞとどめける。やがて二の矢を取つて、次なる
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鹿をも射とめたり。「思ひもよらぬ狩したり」とぞ申しける。越中
の前司、「詮ない、殿ばらのただ今の鹿の射様かな。罪つくりに。
矢だうないに。ただ今の矢一つにては、敵十人はふせがんずるもの
を」と制しける。
九郎義経、鞍置馬を二匹追ひ落されたりければ、一匹は足うち折
りてころび落つ。一匹は相違なく平家の城のうしろへ落ちつき、越
中の前司が屋形の前に、身ぶるひしてぞ立つたりける。鞍置馬二匹
まで落ちたりければ、「あはや、敵の向かふは」とて騒動す。
義経、「馬どもは、主々が乗つて心得て落さんずるには、損ずま
じきぞ。義経は、すは、落すぞ」とて、まつ先にこそ落されけれ。
白旗三十流ばかりさし上げて、三千騎ばかりつづいて落す。後陣に
落す人々の鐙の鼻、先陣に落す人の鎧、兜に当るほどなり。えいえ
い声を忍び忍びに力をつけ、小石まじりの真砂なれば、流れ落しに
二町ばかりざつと落ちて、壇なる所にひかへたり。
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それより下を見くだせば、大磐石苔むして、釣瓶だちに十四五丈
ぞ見くだしたる。兵ども、「今はこれより引き返すべき様もなし。
ここを最後」と言ふところに、三浦の佐原の十郎義連、「きたなし
や、殿々。三浦の方にては、鳥ひとつ立てても、朝夕かかる所をこ
そ馳せありきけれ。思へばこれは、三浦の方の馬場よ」と言うて、
まつ先にこそ落しけれ。これを見て、大勢やがてつづいて落す。あ
まりのいぶせさに、目をふさぎてぞ落しける。おほかた人のしわざ
とはおぼえず。ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。落しもあへず、
鬨をどつとつくる。三千余騎が声なれども、山びこ答へて、数万騎
とこそ聞こえけれ。
落しもあへず、信濃源氏村上の三郎判官代基国が手よりして、
平家の屋形に火をかけたれば、をりふし風はげしく吹いて、黒けぶ
り押しかけたり。兵ども煙にむせて、射落し引き落さねども、馬よ
り落ちふためき、あまりにあわてて、まへの海へ向いてぞ馳せ入り
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ける。
助け船多かりけれども、物具したる者どもが、船一艘に、四五百
人、五六百人、「われ先に」とこみ乗らんに、なじかはよかるべき。
なぎさより五六町押し出だすに、一人も助からず。大船三艘しづみ
にけり。そののちは、「しかるべき人々をば乗すとも、雑人どもを
ば乗すべからず」とて、さるべき人をば引き乗せ、雑人どもをば、
太刀、長刀にて船を薙がせけり。かかることとは知りながら、敵に
合うては死なずして、「乗せじ」とする船に取りつき、つかみつき、
腕うち切られ、あるいは肘うち落されて、なぎさに倒れ伏してをめ
きさけぶ声おびたたし。
能登守教経は一度も不覚せぬ人の、「今度はいかにもかなはじ」
とや思はれけん、「薄墨」といふ馬に乗つて、播磨の明石へ落ち給
ふ。
兄越前の三位通盛は、近江の国の住人、佐々木の木村の源三成綱
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といふ者に、七騎が中にとり籠められて、つひに討たれ給ひけり。
越中の前司盛俊は、木蘭地の直垂に、赤革縅の鎧着て、白月毛な
る馬に乗り、落ちゆくが、「いづちへ行かば遁るべきか」と思ひけ
れば、ひかへて敵を待つところに、猪俣の近平六則綱、「よき敵」
と目をかけて、鞭をあげ、馳せ寄せ、おし並べて組んで落つ。越中
の前司、平家の方には「七十人が力あらはしたり」といふ大力なり。
猪俣、東八か国に聞こえたる強者なれども、越中の前司が下になる。
あまりに強く押さへられて、もの言はんとすれども声も出でず、刀
を抜かんと、柄に手をかくれどもはたらき得ず。
「これほど則綱を手ごめにしつべき者こそおぼえね。あつぱれ、こ
れは平家の方に聞こふる越中の前司やらん」と思ひければ、力はお
とつたれども、剛の者にてあるあひだ、すこしもさわがざる体にて、
「そもそも御辺は、平家の方にてはさだめて名ある人にてぞおはす
らん。敵を討つといふは、われも人も名のつて聞かせ、敵にも名の
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らせて討ちつればこそおもしろけれ」。越中の前司、やすらかに、
「これは越中の前司盛俊なり。もとは平家の一門なりしが、今は侍
になりたり。わ君は誰そ。名のれ。聞かん」と言ひければ、「武蔵
の国の住人、猪俣の近平六則綱と申す者にて候。助けさせ給へ。平
家すでに負軍とこそ見えさせ給ひて候へ。もし源氏の世となりて候
はば、御辺の一家、したしき人々何十人もましませ、則綱が勲功の
賞に申しかへて、助けたてまつらん」と申しければ、「憎い君が申
し様かな。盛俊、身こそ不肖なれども、さすがに平家の一門なり。
いまさら源氏たのまんとは思はぬものを」と言ひて、やがてとつて
押さへ、首をかかんとするあひだ、猪俣「かなはじ」と思ひて、
「まさなしや。降人の首切る様や候ふ」と言はれて、「さらば」と
て引き起す。田の畔のある所に、腰うちかけてゐたり。うしろは山
田の泥深かりけり。まへは干あがつて畑の様なる所に足さしおろし、
二人物語りして息つぎゐたるところに、黒革縅の鎧着て、鹿毛なる
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馬に乗つたる武者一騎、歩ませて出で来たる。
越中の前司これを見て、「あれは誰そ」と問へば、「くるしうも候
ふまじ。則綱がしたしき者に、人見の四郎と申す者にて候。則綱を
たづねて来り候ふらん」と言へども、そばなる猪俣をうち捨てて、
今の敵をいぶせげに思ひて、目をはなさずまぼるところに、「あつ
ぱれ。あれが近うなるほどならば、則綱いま一度組まんずるものを。
組むほどならば、人見落ちあひて力合はせぬことはあらじ」と思ひ
て待つところに、人見が次第に近くなるあひだ、猪俣つつ立ちあが
り、力足を踏んで、こぶしを握つて盛俊が胸板をちやうど突く。思
ひもかけぬことなれば、うしろの水田へあふのけに突き入れられ、
起きあがらんとするところに、猪俣うへにむずと乗りかかり、やが
て敵が刀を抜いて、草摺引きあげ、「柄も、こぶしも、通れ。通れ」
と、三刀刺して首をとる。人見の四郎落ちあうたり。「論ずるとこ
ろもあらば」と思ひて、盛俊が首、太刀の先につらぬき、さし上げ
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て、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。武蔵の国の住人、猪
俣の近平六則綱、平家の方に聞こゆる越中の前司をば、かうこそ討
て」と高らかに名のつて、その日の巧名の一の筆にぞつきにける。
第八十九句 一の谷
一の谷の西の手をば、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にてふ
せがれけるが、「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、いとさわがで落
ち給ふ。猪俣党に岡部の六野太忠澄、薩摩の前司におし並べて組ん
で落つ。天性、忠度は大力のはやわざにてましましければ、岡部の
六野太を、馬の上にて二刀、落ちつくところにて一刀、三刀までこ
そ刺し給へ。されども鎧よければ裏かかず。上になり、下になり、
ころび合ふところに、岡部が郎等出で来たつて、薩摩守の右のかひ
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なをうち落す。薩摩の前司「今はかう」とや思はれけん、「しばし
のけ。十念となへて斬られん」とて、左の手にて六野太を弓杖ばか
りつきのけて、西に向かひ、高声に念仏となへ給ひて、「光明遍
照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とのたまひも果てざるに、六
野太うしろより首を討つ。
六野太、首を取りたれども、誰とも知らず。「これは平家の一門
にてぞおはすらん。名のらせて討つべかりつるものを」と思ひて見
けるに、高紐にひとつの文をつけられたり。これを解いて見れば、
「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌をぞ書かれたる。
行き暮れて木の下かげを宿とせば
花やこよひのあるじならまし W
と書いて、「薩摩守忠度」と書かれたるにぞ知りてんげる。そのと
き、「武蔵の国の住人、岡部の六野太。薩摩守忠度をば、かうこそ
討ちたてまつれ」と名のりければ、「いとほしや。平家の一門の中
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には、歌道にも武芸にも達者にてましましつるものを。さては、は
や討たれ給ひけるにこそ」とて、敵も味方も涙をながし、袖をしぼ
らぬはなし。
新中納言知盛は、生田の森を東に向かひてふせがれけり。「源平
の勝負あるべし」とも見えざりけるに、一の谷より乱れ入る勢の中
に、児玉党より、新中納言に使者を奉る。「一の谷の西の手も、山
の手も、すでに敗れて候。うしろは御覧候はぬか」と申したりけれ
ば、うしろをかへりみ給ふに、黒煙おしかけたり。そのとき、四万
余騎の大勢、あわて騒ぎて落ちぞ行く。ここに、中納言は、武蔵の
国司にておはせしかば、そのよしみによつて、児玉党、かうは申し
たりけるとかや。
本三位の中将重衡も、国々のかり武者なれば、一万余騎にておは
しけるが、みな落ちて、主従二騎にぞなり給ふ。に白糸にて群千
鳥ぬうたる直垂に、紫裾濃の鎧着て、大臣殿の秘蔵し給ひたる「童
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子鹿毛」といふ馬に乗り給へり。乳人の後藤兵衛盛長は、三つ目結
の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将の秘蔵せられたる「夜目無月
毛」にぞ乗つたりける。なぎさに船は浮かべたれども、うしろに敵
つづいたり、乗るべきひまなければ、西をさしてぞ落ち給ふ。
児玉党、庄の四郎高家、「よい敵」と目をかけて、鞭をあげ、追
つかけたてまつる。三位の中将、究竟の馬には乗り給へり、湊川、
苅藻川を馳せ渡り、駒の林を弓手にして、蓮の池をば馬手になし、
うち過ぎ、うち過ぎ行くほどに、須磨の関屋も近づきぬ。庄の四郎、
「長追ひして、追つつくべしともおぼえず。ただ、延ばしに延ばし
たてまつるよ」と、思ひければ、馳せ引きによつ引いて、遠矢に「も
しや」と、ひやうど射る。三位の中将の馬の、三頭に射つけたり。
後藤兵衛、主の馬に矢の立つを見て、「わが馬を召されてん」と
や思ひけん、鎧につきたる旗を引つかなぐつて捨つるままに、鞭を
あげてぞ逃げたりける。三位の中将、これを見て、「いかに盛長、
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われを捨て、いづくへ行くぞ。さは契らぬものを。あな、うらめし
の者や」とのたまへども、耳にも聞きいれず、ただ、逃げにぞ逃げ
たりける。
三位の中将、馬はよわる、せんかたなさに、馬より飛んでおり、
「自害せん」とや思はれけん、刀を抜き、鎧の上帯切つてのけ、高
紐解いて脱ぎ捨て給ふところに、庄の四郎、馬より飛んでおり、つ
と寄りて、「君のわたらせ給ふと見まゐらせて候」と申して、むず
と抱きたてまつり、刀をうばひ取り、わが馬にかき乗せたてまつる。
手綱をときて鞍にしめつけ、わが身は乗替に乗つて、具したてまつ
りてぞ帰りける。三位の中将、生捕にせられ給ふぞいとほしき。
後藤兵衛盛長は、究竟の馬には乗つたり、そこをつつと馳せのび
て、かひなき命はたすかりぬ。のちには、熊野法師の法橋といふ者
の後家のもとに、後見してぞ侍ひける。この尼公、訴訟のために都
へのぼりたりければ、盛長も供したり。上下に見知られたりければ、
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「あな無慚や。三位の中将殿の、さしも不便にし給ひしに、一所に
てはいかにもならずして、思ひもよらぬ尼公の供したるうたてさ
よ」と、憎まぬ者ぞなかりける。
小松殿の末の子、備中守師盛とて、生年十七歳になり給ふが、
小船に乗り、侍五六人召し具して、なぎさ近う漕ぎ寄せ、いくさ
のなりゆくはてを見給ふところに、新中納言の侍に、清右衛門とい
ふ者、敵に追つかけられて、海へうち入れたりけるが、備中の前司
の乗り給へる船をまねき、「御船に参り候はん」と申せば、「乗せ
よ」とて、船さし寄せ給へば、さらば静かにも乗らで、大男の大鎧
着て、大太刀肩にうちかけ、鐙つよう踏んで、小船に、がばと飛び
乗らんずるに、なじかはよかるべき。船踏みまはして、あわてふた
めくところに、畠山の郎等に、本田次郎馳せ来り、そこにて備中の
前司をば討ちたてまつる。
修理大夫経盛の嫡子、但馬守経正は、河越の小太郎重房が手にか
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かつて、討たれ給ひぬ。
その弟、若狭守経俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つらなつて
敵の中へ駆け入り、散々に戦ひ、敵あまた討ちとり、ともに討死せ
られけり。
門脇の中納言教盛の末の子、蔵人の大夫業盛は、常陸の国の住人、
土屋の五郎に組まれて、業盛は大力にておはすれば、土屋をとつて
押さへ、首をかかんとし給ひしところに、兄の土屋の四郎落ちあう
たり。業盛、心は猛く思はれけれども、二人の敵に、つひに討たれ
給ひけり。
新中納言知盛は、嫡子武蔵の前司知章、侍に監物太郎頼方あひ
具して、主従三騎にて落ち給ふ。児玉党とおぼえて、団扇の旗さし
あげ、十騎ばかりをめいて追つかけたてまつる。監物太郎、返しあ
はせて、究竟の手だれなりければ、よつ引いて、まつ先にかかつた
る旗差が首の骨射て落す。大将とおぼしき者、監物太郎には目をか
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けずして、中納言に目をかけて、「組みたてまつらん」とおし並ぶ
るところに、嫡子武蔵守、中にへだたり、ひつ組んで落ち、敵が首
を掻いて、さしあげんとし給ふところに、敵が童落ちあひて、武蔵
の前司の首を掻く。監物太郎落ちかさなつて、童が首をも取りてげ
り。頼方、右の膝口を射させて、立ちもあがらず、ゐながら討死し
てけり。
その間に、中納言は、「井上黒」といふ逸物には乗り給へり、海
のおもて七八段ばかり泳がせ、大臣殿の船にぞ乗り給ふ。「馬の立
つべき所があるか」と見給へども、船には人おほく混み乗つて、馬
の立つべき様なかりければ、手綱むすんでうちかけ、馬をばなぎさ
へ向けて、追つかへさる。阿波の民部、これを見て、「御馬、敵の
物になり候ひなんず。射殺し候はん」とて、矢取つてつがひけれ
ば、中納言、「何の物にもならばなれ。命をたすけたる馬なり。あ
るべうもなし」とのたまひければ、成能、矢さしはづいて射ざりけ
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り。
この馬、しばしは船をしたひつつ、離れもやらざりけれども、乗
する者なければ、なぎさをさして泳ぎ帰り、なほも沖の方をなご
り惜しげにまぼらへて、高いななきして、足掻きしてぞ立つたり
ける。なぎさに走りまはりけるを、河越の小太郎取つて、九郎御
曹司に奉る。それより院へ参らせければ、「河越黒」とて、一の御
廐へ立てられたり。
もとも「井上」とて、院の御秘蔵の御馬なりしを、宗盛の内大臣
になりて、祝申のありしとき、院より御引出物に賜はられたりしを、
中納言あまりに秘蔵して、「この馬の祈祷」とて、毎月に泰山府君
をぞ祀られける。そのゆゑにや、馬もたすかり、御命もいまのび給
ふこそ不思議なれ。この馬は、信濃の国井上だちにてありければ、
「井上黒」とこそ申しける。
中納言、大臣殿の御前に参りて、「武蔵守にも後れ候ひぬ。頼方
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も討たれ候。心細うこそなりて候へ。ただひとり持ちたる子が、わ
れを助けんとて、敵と組むを見ながら、引き返さざりつるこそ『よ
く命は惜しきものを』と、われながらも肝づれなうこそ候へ。人の
うへならば、いかばかりか知盛もどかしうも候ひなん」と、さめざ
めとぞ泣かれける。大臣殿、「まことに、さこそ思はれ候ふらめ。
武蔵守は今年十六。手もきき、心も剛なり。よき大将にてありつる
ものを。惜しや、あたらもの。今年は、あれと同年ぞかし」とて、
御子右衛門督清宗とて、生年十六になり給ふが、そばにましまし
けるを、つくづくと見給ひて泣き給へば、船のうちの人々、みな袖
をぞ濡らされける。
熊谷の次郎直実は、「よからん敵がな、一人」と思ひて待つとこ
ろに、練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬
に乗つたる武者一騎、沖なる船に目をかけて、五段ばかり泳がせて
出で来たる。熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ。返せ」とまねき
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けり。とつて返し、なぎさへうちあぐるところを、熊谷、願ふとこ
ろなれば、駒の頭を直しもあへず、おし並べて組んで落つ。左右の
膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへ、「首を掻かん」と兜を取つてお
しのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげ
なるが、薄化粧して鉄〓つけたり。熊谷、「これは平家の公達にて
ぞましますらん。侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこ
そ、この人の父も思ひ給はめ。いとほしや。助けたてまつらん」と
思ふ心ぞつきにける。刀をしばしひかへて、「いかなる人の公達に
ておはするぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申せば、「なん
ぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。「その者にては候はねども、武蔵
の国の住人、熊谷の次郎直実と申す者にて候」と申せば、「なんぢ
がためには、よい敵ごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。
ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。首実検のあ
らんとき、やすく知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」とぞのたまひけ
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る。「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、源氏勝つべき
いくさに負くべからず。討ちたればとても、それによるまじ」と思
ひければ、「助けたてまつらばや」と、うしろをかへりみるところ
に、味方の勢五十騎ばかり出で来たる。「直実が助けたりとも、つ
ひにこの人のがれ給はじ。後の御孝養をこそつかまつらめ」と申し
て、御首掻いてんげり。のちに聞けば、「修理大夫経盛の末の子に、
大夫敦盛」とて、生年十七歳にぞなられける。
御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛
を、引合せに差されたり。これは、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の
院より賜はられたりけるを、経盛相伝せられたりけるを、名をば
「小枝」とぞ申しける。熊谷これを見て、「いとほしや。今朝、城の
うちに管絃し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。当時、味
方に、東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめども、合戦の場に
笛持ちたる人、よもあらじ。何としても、上臈は優にやさしかりけ
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るものを」とて、これを九郎御曹司の見参に入れたりければ、見る
人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。それよりしてぞ、熊谷が
発心の思ひはすすみける。「狂言綺語のことわり」といひながら、
つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。
さても熊谷は、夜もすがら敦盛のこと嘆きかなしびけるが、つら
つら、ものを案ずるに、「いとほしや。この君と申すは、桓武天皇
第五の皇子、一品式部卿、葛原の親王に九代の後胤、讃岐守正盛の
子、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男清盛の御舎弟、修理大夫の末の子なり。
いまだ無官の人にて、大夫敦盛、生年十七歳になり給ふ。討ちたて
まつるときのありさま、いつの世にかは忘れたてまつるべき。直実
が嫡子の小次郎直家、武蔵よりはるばる連れのぼり、都にて、去ん
ぬる正月二十日、木曾殿討たれ給ひしときの合戦に、味方あまた討
たれしかども、相違なかりしに、小次郎生年十六歳になりつるを、
今朝一の谷の大手にて、敵の矢先にかかりつる死骸をまたも見ぬ思
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ひ、修理大夫殿の御嘆き、直実がかなしび、いづれかおとりまさる
べき」。あまり思ひのかなしさに、「敦盛の御形見、沖なる御船に
たてまつらばや」とて、最後のとき召されたる衣裳、鎧以下の兵具
ども、ひとつも残さず、御笛までもとりそへて、牒状を書きそへ、
使ひに受け取らせて、小船一艘したてて、御船、修理大夫殿へ奉り
けり。
その牒状にいはく、
直実謹んで申す。不慮にこの君に参会したてまつり、呉王、勾
践がたたかひを得、秦王、燕丹が怒りをさしはさみ、直に勝負
を決せんと欲するきざみ、にはかに怨敵の思ひを忘れ、すみや
かに武威の勇みをなげうち、かへつて守護を加へたてまつるの
ところに、雲霞の大勢襲ひ来りて、落花の過ぐるときをなす。
たとひ直実、源氏をそむき、初めて平家に参ずといふとも、彼
は大勢、これは無勢なり。樊〓かへつて養由が芸をつつしむ。
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ここに直実たまたま生を弓馬の家に受け、はかりごとを洛西に
めぐらし、怨敵旗をなびかし、天下無双の名を得たりといへど
も、蚊虻むらがつて雷をなし、蟷螂あつまつて隆車くつがへす
がごとし。なまじひに弓をひき、矢を放ち、剣を抜き、楯をつ
き、命を同朋の軍士にうばはれ、名を西海の波に流すこと、自
他、家の面目にあらず。なかんづく、この君の御素意を仰ぎた
てまつるのところに、「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御
菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあ
ひだ、はからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひをはん。
うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結び
たてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うし
て、怨敵の害をなしたてまつる。しかりといへども、これ逆縁
にあらずや。なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の
身とならざらんや。かへつて順縁に至らんや。しかるときんば、
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閑居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきも
のなり。直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。
この旨をもつて、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。
誠惶誠恐謹言。
寿永三年二月八日 丹治直実
進上伊賀の平内左衛門尉殿
返牒にいはく、
今月七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物、
たしかに送り賜はり候ひをはん。そもそも花洛の故郷を出で、
西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思
ふに、はじめておどろくべきにあらず。また戦場に臨むうへ、
なんぞふたたび帰らんことを思はんや。生者必滅は穢土のなら
ひ、老少不定は人間のつねのことなり。しかりといへども、親
となり、子となることは、前世の契り浅からず。釈尊すでに御
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子羅〓羅尊者をかなしび給ふ。応身の権化、なほもつてかくの
ごとし。いはんや底下薄地の凡夫においてをや。しかるときん
ば、去んぬる七日、うち立ちし朝より、今日の夕べに至るまで、
その面影いまだ身を離れず。燕来たりてさへづれども、その声
を聞くことなし。雁飛んで帰れども、音信を通ぜず。必定討た
るるよし、承るといへども、いまだ実否を聞かざるのあひだ、
いかなる風の便りにも、その音信を聞くやと、天にあふぎ、地
に伏し、仏神に祈りたてまつる。感応をあひ待つところに、七
か日のうちにかの死骸を見ることを得たり。これ、しかしなが
ら仏天の与ふるところなり。しかれば、内には信心いよいよ肝
に銘じ、外には感涙ますます心をくだき袖をひたす。よつてふ
たたび帰り来たるがごとし。またこれ甦るにあひ同じ。そもそ
も貴辺の芳恩にあらずんば、いかでかこれを見ることを得んや。
古今いまだそのためしを聞かず。貴恩の高きこと、須弥山すこ
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ぶる低し。芳志の深きこと、滄溟海かへつて浅し。進んでむく
はんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永
永たり。万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。しかしなが
らこれを察せよ。恐々、謹言。
寿永三年二月十四日 修理大夫経盛
熊谷の次郎殿 返報
第九十句 小宰相身投ぐる事
平家はいくさ敗れければ、先帝をはじめたてまつり、人々船にと
り乗つて、海にぞ浮かび給ひける。あるいは芦屋の沖に漕ぎ出でて、
波にただよふ船もあり、あるいは淡路の瀬戸をおし渡り、島がくれ
ゆく船もあり。いまだ一の谷の沖にただよふ船もあり。浦々、島々
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おほければ、たがひに生き死にを知りがたし。平家、国をなびかす
ことも十四か国、勢のしたがふことも十万余騎、都へ近づくことも、
思へばわづかに一日の道なり。今度「さりとも」と思はれつる一の
谷をも落されて、心細うぞなり給ふ。海に沈み死するは知らず、陸
にかかりたる首の数、「二千余人」とぞ記されたる。一の谷の小笹
原、緑の色もひきかへて、薄紅にぞなりにける。
このたびの合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守経正、
薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、
尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、以上十人のしるし、都へ入
る。越中の前司盛俊が首も都へ入る。
本三位の中将重衡は、生捕にせられて、わたされ給へり。母二位
殿、これを聞き給ひて、「弓矢取りの討死することは、つねのなら
ひなり。重衡は、今度生捕にせられて、いかばかりのことを思ふら
ん」とて泣き給へば、北の方大納言の典侍も「さまを変へん」との
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たまひけるを、「内の乳母にてまします、さればとて、いかでか君
をば捨てまゐらせ給ふべき」とて、二位殿制し給ひければ、力にお
よばず、明かし暮らし給ふなり。
越前の三位通盛の侍に、郡太滝口時員といふ者あり。北の方へ参
りて、泣く泣く申しけるは、「殿は、はや、敵七騎がうちにとりこ
められて、つひに討死せさせましまし候ひぬ。敵は、近江の国の住
人、木村の源三とこそうけたまはり候ひつれ。時員も、やがてそこ
にて御供に討死をもつかまつるべう候ひつるが、かねがね御ことを
のみ仰せ候。『われはひまなくいくさの庭に向かふ。われいかにも
ならん所にて、後世の御供つかまつらんと、あひかまへて思ふべか
らず。ただ命生きて、御行くへを見つぎまゐらせよ』と、さしも仰
せの候ひしあひだ、かひなく命生きて、これまで参りて候」と申し
もあへず泣きにけり。北の方、聞こしめしもあへず、思ひ入り給へ
る気色にて、伏ししづみてぞ嘆かれける。
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「一定、討たれさせ給ひぬ」とは聞きながら、「もしや生きて帰り給
ふ。ひが事にてもや」と、二三日は、ただかりそめに出でたる人を
待つ様に、待たれけるこそかなしけれ。むなしき日数も過ぎゆけば、
「もしや」のたのみもかき絶えて、心細うぞ思ひ給ふ。乳母の女房
ただ一人ありけるも、同じ枕に伏ししづみてぞかなしびける。
二月十三日の夜もふけゆくほどに、北の方、乳母の女房にかきく
どきのたまひけるは、「あはれや、明日うち出でんとての夜、さし
もいくさの庭に、わらはを呼びて、『さても、通盛がはかなき情に、
都のうちをさそはれ出でて、ならはぬ旅の空にただようて、すでに
二とせ送られしに、いささかも思ひこめたる色の、つひにおはせざ
りつるこそ、いつの世にも忘れがたけれ。われはひまなくいくさの
庭に向かへば、われいかにもなりてのち、いかなる有様にてかおは
せんずらん。思へばそれも心苦し』なんどのたまひしがあはれさに、
日ごろは隠して言はざりけれども、『心強う思はれじ』と、『われも、
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ただならずなりたる』ことを言ひ出だしければ、なのめならずに喜
びて、『通盛すでに三十になるまで、子といふことのなかりつるに、
うれしきものかな。憂き世のわすれ形見はあらんずるにこそ。ただ
しいつとなき波のうへ、船のうちの住まひなれば、身々とならんも
心苦し』なんど言ひおきしも、はかなかりける兼言や。ありし六日
のあかつきを限りとだに思はましかば、など『後の世』と契らざり
けん。ひらに思ひ過ぎたりとも、幼き者を育てて、うち見んをりを
りには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数はまさるとも、慰むことは
よもあらじ。ながらへたらば、また思はぬふしもあらんぞかし。も
しも思はぬふしあらば、草の陰にて見んもうたてかるべし。今はな
かなか、見初め、見え初めし、その夜の契りさへ恨めしければ、
『生きてゐて、ひまなく物を思はんよりは、ただ火の中へも、水の
底へも入らなん』と思ひさだめてあるぞとよ。さても、さても、そ
れにつけても、これまでくだり給へる心ざしこそありがたけれ。書
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きおきたる文どもは都へ奉り給へ。これは後の世のことを申しおき
たり」なんど、来し方、行くすゑの事ども語りつづけて、さめざめ
と泣かれたりければ、乳母の女房、「日ごろはいかなる事あれども、
泣き給ふばかりにて、はかばかしう物ものたまはざる人の、例なら
ずか様にのたまふことの怪しさよ。まことに千尋の底にも沈み給ふ
べきにか」とあさましくおぼえて、「今度討たれさせ給へる人々の
北の方の、いづれかおろそかなる御ことのさぶらふ。かならず御身
一人のことならず。身々とならせ給ひて、幼き人をも育てまゐらせ
て、亡き人の御形見にも見まゐらせさせ給へかし。それに御心のゆ
かざらんときこそ、御様をも変へさせ給ひて、後の世をも弔ひまゐ
らせさせ給はめ。『かならず同じ道』とはおぼしめすとも、六道四
生のならひにてさぶらふなれば、どの道へかおもむかせ給はんずら
ん。されば『水の底に沈ませ給へば』とて、亡き人を見まゐらせ給
はんこと難かるべし。げにもさ様にさぶらはば、わらはをもいづく
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までも召しこそ具せられさぶらはめ」と申しければ、北の方、「思
ひのあまりにこそ言ひつれ。いかに思ふとも、水の底に沈むべしと
もおぼえず。今宵ははるかにふけゆくらん。いざや寝なん」とて、
より臥し給へば、乳母の女房、たのもしうおぼえて、ちとうち臥し
つつ、すこし寝入りたりけるに、北の方起きて、ふなばたへこそ出
で給へ。
漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの
山の端を、「その方やらん」と伏し拝み、しづかに念仏し給へば、
沖の白洲に鳴く千鳥、友まよひするかとおぼゆるに、天の戸わたる
梶の声、かすかに聞こゆるえいや声、いとどあはれやまさりけん、
「南無、西方極楽世界の阿弥陀如来、あかで別れし妹背の仲、ふた
たびかならず同じ蓮に迎へ給へ」とかきくどき、「南無」ととなふ
る声とともに、海にぞ沈み給ひける。
屋島へ漕ぎわたる夜半のことなれば、人これを知らず。梶取が一
P3124
人寝ざりけるが、これを見て、「あな、あさましや。女房の海へ入
らせ給ひぬるぞや」と申しければ、そのとき乳母の女房、この声に
おどろき、側をさぐれども、手にもさはらず、人もなし。あきれた
る声にて、ふなばたに取りつき、とかく言ひやる方はなくして、
「あれ、あれ」とのみぞ申しける。そのとき人あまた下りて、「取
りあげたてまつらん」としけれども、春の夜のならひに、霞むもの
なれば、四方のむら雲うかれきて、潜けども、潜けども、月おぼろ
にて見えざりけり。
ややありて潜きあげたれども、はやこの世になき人とならせ給ひ
ぬ。白袴に練貫の二衣ひきまとひて入り給へり。髪も袴もしほたれ
て、取りあげたれどもかひぞなき。乳母の女房、御手にとりつきた
てまつり、「うらめしや。老いたる親にも別れ、幼き嬰児をもふり
すて、これまで付きまゐらせて下りたるかひもなく、いかにかく憂
き目を見せさせ給ふぞや」と泣きくどきけれども、はや、通ひつる
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息も絶えて、いまはこときれはて給ひぬ。「いづくをさして落ち行
くべし」ともおぼえねば、いつまでかくては置きたてまつるべき。
三位の鎧の一領残りたるにひきまとひ、また海に沈めたてまつる。
乳母の女房、「このたび後れたてまつるまじ」とて、つづいて海
へ入らんとするを、とりとどめければ、船底に倒れふし、をめきさ
けぶことなのめならず。あまりのせん方なさに、手づから髪をはさ
みおろし、越前の三位の弟、中納言律師忠快、泣く泣く髪を剃りて、
戒をぞさづけ給ひける。
昔より夫に後るるたぐひ多しといへども、様を変ゆるはつねのな
らひなり。まのあたりに身を投ぐることは、ありがたかりける例な
り。されば、「忠臣二君につかへず、貞女両夫にまみえず」とも思
ひ知られてあはれなり。
この北の方と申すは、故藤刑部卿憲方のむすめなり。上西門院
に、小宰相殿とて、美人の聞こえありし女房なり。越前の三位、い
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まだ中宮亮にておはせしとき、この女房十六と申せしを、ただ一
目見給ひて、歌を詠み、文をつくし給へども、取り入れ給ふことも
なし。すでに三年に満ちけるに、今はかぎりの文を書きて、取りつ
たへける女房のもとへつかはさる。この女房、小宰相殿の、をりふ
しわが宿所より女院へ参られけるに、道にて行き逢ひたてまつり、
むなしく帰らんことが本意なさに、つと走りすぐる様にて、小宰相
殿の乗り給へる車の簾のうちに、通盛の文をぞ投げ入れたる。供の
者にたづぬれども、「知り候はず」と申す。あけて見給へば、日ご
ろ申されける通盛の文なるあひだ、大路に捨てんも、車に置かんも
さすがにて、袴の腰にはさみつつ、御所へぞ参り給ひける。
さて宮仕ひし給ひしほどに、思ひわすれて、文をぞ御前に落され
ける。女院、文をいそぎ御衣の袂にひき隠させおはしまして、女房
たちを召し集めて、「めづらしき物もとめたり。この主は誰やらん」
と御たづねありければ、女房たち、よろづの神、仏にかけて「知ら
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ず」とのみぞ申し合はせける。そのなかに、小宰相殿、顔うちあか
めて、しばしものを申させ給はず。「通盛の申す」とは、女院もか
ねて知ろしめされたりければ、この文を御覧ずるに、匂ひ殊にあり
がたし。筆の立てども世のつねならず、いつくしう一首の歌ぞ書か
れたる。
わが恋はほそ谷川の丸木橋
ふみかへされて濡るる袖かな W
とありければ、「これは、ただ逢はぬを恨みたる文にこそ。あまり
に人の心づよきも、なかなかあたとなるものを。この世には、青き
鬼となりて、身をいたづらになす者おほし。これみな、人の思ひの
つもりとこそ聞け。なかごろ小野の小町とて、みめ姿いつくしう、
なさけの道世にすぐれたり。されども心づよき名をや取りたりけん、
つひには人の思ひのつもりとて、風をふせぐたよりもなく、雨をも
らさぬはてもなし。宿にくもらぬ月星を涙にうかべ、沢の根芹、野
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辺の若菜を摘みてこそ、露の命をかかへけれ。この返事はあるべき
ものぞ」とて、女院、御硯を召し寄せ、かたじけなくも、御みづか
ら返事をぞあそばされける。
ただたのめほそ谷川の丸木橋
ふみかへしては落ちざらめやは
通盛、女院よりこの女房を賜はつて、いと重んぜられける。みめ
は幸ひの花なれば、浅からずちぎりて、憂かりし波の上、船のうち
までもひき具して、つひに同じ道におもむかれけるこそあはれなれ。
門脇の中納言教盛の卿は、嫡子越前の三位、末の子業盛にも後れ
給ひぬ。今たのむ人とては、能登守教経、僧には、中納言律師忠快
ばかりなり。三位の形見ともこの女房をこそ御覧ずべきに、これさ
へか様になり給へば、いとど心細くぞなられける。