平家物語 百二十句本(国会図書館本)

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目録
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
序 
忠盛昇殿 
忠盛・季仲・家成五節の舞 
忠度の母の事 
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛死去 
清盛官途 
清盛五十一出家 
かぶろの沙汰 
第三句 二代后 にだいきさき
宮中御艶書の事 
二化の御宇の沙汰 
きさき御入内 
きさき障子の御歌の事 
第四句 額打論 がくうちろん
二条の院皇子親王宣旨の事 
二条の院崩御廿三 
きさき御出家の事 
清水炎上 
第五句 義王 ぎわう
妹の義女が事 
母のとぢの事 
仏御前の事 
白拍子の因縁 
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
義女出家 
とぢ出家 
仏出家 
四人後白河法皇の過去帳にある事 
第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
後白河院御法体の事 
左衛門入道西光、近習騒口の事 
主上高倉の院御即位 
資盛伊勢の国へ追つくださるる事 
第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
主上高倉の院御元服 
新大納言祈請 
師経狼藉 
白山みこし東坂本へ入御 
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
仲胤法師後二条の関白殿呪咀 
関白殿御病の事 
関白殿平癒の事 
関白殿御薨御の事 
第十句 神輿振り みこしふり
渡辺の長七唱頼政の御使する事 
平大納言時忠山門勅使の事 
師高・師経御裁断 
内裏そのほか京中焼失の事 
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平家物語 巻第一
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声(こゑ)、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)有(あ)り。沙羅双樹(しやらさうじゆ)の花の色、盛者必衰(せいじやひつすい)の理(ことわり)をあらはす。奢(おご)れる者も久(ひさ)しからず、唯(ただ)春の夜の夢の如(ごと)し。たけき者も遂(つひ)には亡(ほろ)びぬ、偏(ひとへ)に風の前(まへ)の塵(ちり)に同じ。遠(とほ)く異朝をとぶらへば、秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の朱■(しゆい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、これらは皆(みな)旧主先王(きうしゆせんわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽(たの)しみをきはめ、諫(いさめ)をも思ひいれず、天下(てんが)の乱れん事(こと)をもさとらずして、民間のうれふる所(ところ)を知らざりしかば、
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久(ひさ)しからずして亡(ほろ)びし者どもなり。近(ちか)く本朝をうかがふに、承平(じようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(よしちか)、平冶(へいぢ)の信頼(のぶより)、これらは皆(みな)おごれる事(こと)も、たけき心(こころ)も、皆(みな)とりどりにこそ有(あ)りしか、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道(にふだう)前(さき)の太政大臣(だいじやうだいじん)平(たひらの)朝臣(あそん)清盛公(きよもりこう)と申(まう)せし人の有様(ありさま)、伝(つた)へ聞くこそ心(こころ)も詞(ことば)も及(およ)ばれね。
その先祖を尋(たづ)ぬれば、桓武天皇(くわんむてんわう)第五(だいご)の皇子(わうじ)、一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原(かつらばら)の親王、九代(くだい)の後胤(こういん)讃岐守(さぬきのかみ)正盛が孫、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男なり。かの親王の御子(おんこ)高見の王、無官無位にしてうせ給(たま)ひぬ。その御子(おんこ)高望の王のとき、始(はじめ)て平の姓を賜はりて、上総介になり給(たま)ひしよりこのかた、たちまちに王氏を出(い)でて人臣につらなる。その子鎮守府の将軍良望、後(のち)には常陸大掾国香とあらたむ。国香より正盛まで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
然(しか)るに忠盛、いまだ備前守たりしとき、鳥羽の院の御願得長寿院
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を造進し、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉(たてまつ)る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国(けつこく)を賜はるべきよし仰(おほ)せ下(くだ)されける。折節(をりふし)播磨の国のあきたりけるを賜はりける。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始(はじめ)て昇殿す。
雲の上人これをそみねいきどほり、同じき年の十一月二十三日、五節の豊明の節会の夜、忠盛を闇討にせんとぞ擬せられける。忠盛このよしを伝(つた)へ聞きて、「われ右筆の身に有(あ)らず、武勇の家にむまれて、いま不慮の難に合(あ)はん事(こと)、身の為(ため)、家の為(ため)、心(こころ)憂かるべし。詮ずる所(ところ)「身を全うして君につかへよ」といふ本文有(あ)り」とて、かねて用意をいたす。
参内の始(はじめ)より、大きなる鞘巻を束帯の下にさし、灯のほのぐらきかたに向かつてこの刀をぬき出だし、鬢にひきあてけるが、よそよりは氷などのやうに見えたり。諸人目をぞすましける。其上(そのうへ)
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忠盛の郎等、もとは一門たりし平の木工助貞光が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者有(あ)り。木賊色の狩衣の下に、萠黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)を着て、弦袋つけたる太刀わきばさみ、殿上の小庭にかしこまつてぞ侍ひける。貫首以下あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴のつなの辺に、布衣の者の侍ふは何者ぞ。まかり出(い)でよ。狼藉なり」と、六位をもつて言はせられたりければ、家貞かしこまつて、「相伝の主備前守殿〔の〕今夜闇討にせられ給(たま)ふべきよし、伝(つた)へ承つて、そのならんやうを見んとて、かくて侍ふ。えこそまかり出(い)づまじう候へ」とて、かしこまつて侍ひければ、これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討はなかりけり。
忠盛又(また)御前の召によて舞はれけるを、人々拍子をかへて、
伊勢へいじはすがめなりけり
とぞはやされける。かけまくもかたじけなくも、この人は柏原の天皇
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の御すゑとは申(まう)しながら、中ごろは都のすまひもうとうとしく、地下にのみ振舞(ふるま)ひなつて、伊勢の国に住国ふかかりければ、その国のうつはものにことよせて、「伊勢へいじ」とぞはやされける。其上(そのうへ)忠盛の、目のすがまれたりければ、かやうにははやされけるなり。
忠盛いかにすべきやうなくて、御前をまかり出(い)でられけるが、紫宸殿(ししんでん)のうしろにして、かたへの殿上人の見給(たま)ふ前(まへ)にて、主殿司を召して、よこたへさされたりける刀を、あづけおきてぞ出(い)でられける。家貞待ちうけて、「さていかが候ひけるやらん」と申(まう)しければ、忠盛、かくとも言はまほしくは思はれけれども、言ひつるものならば、殿上までも斬りのぼらんずるもののつらたましひにて有(あ)る間(あひだ)、「べちの事(こと)なし」とぞ答へられける。五節には、
白うすやう 
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こぜんじの紙 
〔まきあげの筆〕 
巴かきたる筆の軸
なんど、さまざまおもしろき事(こと)をのみうたひ舞はれしに、中比(なかごろ)太宰権帥(ださいのごんのそつ)季仲卿(すゑなかのきやう)といふ人有(あ)り。あまりに色のくろかりければ、見る人「くろ師」とぞ申(まう)しける。この人いまだ蔵人頭たりしとき、これも五節に舞はれけるに、人々拍子をかへて、
あな、くろ、くろ 
くろき頭かな 
いかなる人のうるし塗りけん
とぞはやされける。
又(また)、花山の院のさきの太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅公、いまだ十歳と申(まう)せしとき、父中納言忠家【*忠宗】の卿におくれ給(たま)ひて、みなしごにておはせしを、故中の御門藤中納言家成の卿、其(その)時(とき)はいまだ播磨守たりしとき、
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婿にとりてはなやかにもてなし給(たま)ひければ、〔これも〕拍子をかへて、
播磨米は 
木賊か、むくの葉か 
人の綺羅をみがくは
とぞはやされける。「上古にはかやうの事(こと)も有(あ)りしかども、事(こと)いでこず。末代いかが有(あ)らんずらん、おぼつかなし」とぞ人々申(まう)し合(あ)はれける。
案にたがはず、五節はてにしかば、殿上人、一同に訴(うつた)へ申(まう)されけるは、「夫(それ)雄剣(ゆうけん)を帯(たい)して公宴(こうえん)に列(れつ)し、兵仗(ひやうぢやう)を賜はりて宮中を出入するは、皆(みな)格式の礼をまぼる綸命よし有(あ)る先規なり。然(しか)るに忠盛、或(あるい)は相伝の郎従と号して、布衣のつはものを殿上の小庭に召しおき、その身は腰の刀をよこたへさして、節会(せちゑ)の座(ざ)につらなる。両条(りやうでう)希代(きたい)いまだきかざる狼藉(らうぜき)也(なり)。事(こと)既(すで)に重畳(ちようでふ)せり、罪科(ざいくわ)尤(もつとも)のがれがたし。早(はや)く御札(おんふだ)をけづりて、解官(げくわん)、停任におこなは
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るべき」よし一同(いちどう)に訴(うつた)へ申(まう)されけり。
上皇大きにおどろかせ給(たま)ひて、忠盛を召して御尋(たづ)ね有(あ)り。陳じ申(まう)されけるは、「まづ郎従(らうじゆう)小庭(こには)に祗候(しこう)の事(こと)、まつたく覚悟つかまらず。但(ただし)、近日あひたくまるるよし、年来の家人伝(つた)へ承るによつて、その恥をたすけんが為(ため)に、忠盛に知らせずしてひそかに参候の条、力及(およ)ばぬ次第なり。つぎに刀の事(こと)は、主殿司にあづけ置きをはんぬ。召し出だされて、刀の実否によつて咎(とが)の左右有(あ)るべきか」と申(まう)す。「然(しか)るべき」とて、刀を召し出だし、法皇叡覧(えいらん)有(あ)るに、うへは鞘巻の黒く塗りたりけるに、中は木刀に銀薄をぞ押したりける。「当座の恥辱をのがれんが為(ため)に、刀を帯するよしあらはすといへども、後日(ごにち)の訴訟(そしよう)を存知(ぞんぢ)して、木刀(きがたな)を帯(たい)しける用意(ようい)のほどこそ神妙(しんべう)なれ。弓箭(きゆうせん)に携(たづさは)らん者のはかりごとは、尤(もつとも)かうこそ有(あ)らまほしけれ。かねて又(また)、郎従小庭に司候の条、かつうは武士の郎従のならひなり。忠盛がとがに有(あ)らず。」とて、
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かへりて叡感(えいかん)にあづかりしうへは、あへて罪科の沙汰もなかりけり。
その子どもは諸衛の佐になりて昇殿しけるに、殿上のまじはりを人きらふに及(およ)ばず。
そのころ忠盛、備前の国よりのぼりたりけるに、鳥羽の院「明石の浦はいかに」と仰(おほ)せければ、忠盛、
有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか
と申(まう)したりければ、御感有(あ)りて、やがてこの歌をば金葉集にぞ入れられける。
又(また)そのころ、忠盛、仙洞(せんとう)に最愛(さいあい)の女房(にようばう)有(あ)りてかよはけれけるが、あるとき、かの女房の局に、つまに月いだしたりける扇をとり忘れてぞ出(い)でられける。かたへの女房たち「いづくよりの月影ぞや、出(い)で所おぼつかなし」なんど、笑ひ合(あ)はれければ、かの女房
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雲井より唯(ただ)漏りきたる月なれば、おぼろけにてはいはじとぞおもふ
と詠みたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。似るを友とかやの風情にて忠盛も歌に好いたりければ、この女房も優なりけり。
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛、刑部卿にいたつて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせ給(たま)ひぬ。清盛嫡男たるによつて、そのあとを継ぐ。
保元元年七月に宇治の左大臣殿世を乱し給(たま)ひしに、安芸守とて御方にて勲功有(あ)りしかば、播磨守にうつりて、同じき三年に太宰大弐になり、つぎに平治元年十二月信頼の卿の謀叛のとき、又(また)御方にて
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先を駆けたりければ、「勲功ひとつに有(あ)らず、恩賞これおもかるべき」とて、つぎの年正三位に叙せられ、うちつづき、宰相、衛府督、検非違使(けんびゐし)の別当、中納言、大納言(だいなごん)に経あがつて、左右を経(へ)ずして内大臣(ないだいじん)より太政大臣(だいじやうだいじん)従一位(じゆいちゐ)にあがる。大将(だいしやう)に有(あ)らねども、兵仗(ひやうぢやう)を賜はりて随身を召し具して、牛車(ぎつしや)、輦車(れんじや)に乗りながら宮中を出(い)で入りぬ。偏(ひとへ)に執政の臣の如(ごと)し。
「太政大臣(だいじやうだいじん)これ一人(いちじん)の師範として四海に儀形せり。国ををさめ、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人に有(あ)らずんば則ち闕けよ」といへり。されば、「則闕の官」とも名づけられたり。その人ならでは、けがすべき官ならねども、一天四海をたなごころににぎり給(たま)ふうへは、子細に及(およ)ばず。
そもそも、平家(へいけ)かやうに繁昌せられける事(こと)を、いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞ有(あ)りける。その故(ゆゑ)は、清盛いまだ安芸守にておはせしとき、伊勢の国安濃の津より船にて熊野へ参られける
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に、大きなる鱸(すずき)の船(ふね)に踊入(をどりい)りたりけるを、先達(せんだち)申(まう)しけるは、「昔(むかし)、周の武王の船にこそ白魚は踊入(をどりい)りて候ひしか。これをば参るべし」と申(まう)されければ、さしもの精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家の子、朗等どもにも食はせられける故(ゆゑ)にや、子孫〔の〕官途も龍の雲にのぼるよりもなほすみやか也(なり)。九代(くだい)のおんしう【*先蹤(せんじよう)】超え給(たま)ふこそめでたけれ。かくて清盛、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病に冒され、たちまちに出家入道す。法名を「浄海(じやうかい)」とこそ名のられけれ。そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。人のしたがひつく事(こと)、吹く風の草木をなびかすが如(ごと)し。世のあまねくあふげる事(こと)も、降る雨の国土をうるほすに同じ。「六波羅殿(ろくはらどの)の御一家の公達」とだに言ひてんしかば、肩をならべ、おもてを向かふる者もなし。入道(にふだう)相国(しやうこく)の小舅平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)宣(のたま)ひけるは、「この一門に有(あ)らざらん者は人非人たるべし。」とぞ宣(のたま)ひける。されば、
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「いかにもしてこの一門にむすぼほれん」とぞしける。衣文のかきやうより始(はじめ)て、烏帽子のためやうにいたるまで、「六波羅様」とだに言ひてんしかば、一天四海の人皆(みな)これをまなぶ。
いかなる賢王賢主の御政(おんまつりごと)、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)の御成敗をも、世にあまされたるいたづら者などの、かたはらにてそしりかたぶけ申(まう)す事(こと)は、常のならひなれども、この禅門の世ざかりのほどは、いささかいるがせに〔も〕申(まう)す者なし。その故(ゆゑ)は、入道(にふだう)相国(しやうこく)はかりごとに、十四五六ばかりの童部(わらんべ)を三百人(さんびやくにん)揃(そろ)へて、髪(かみ)を禿(かぶろ)にきりまはし、赤き直垂を着せて、召し使(つか)はれけるが、京中にみちみちて往反(わうばん)しけり。おのづから、平家(へいけ)の御事(おんこと)をあしきさまに申(まう)す者有(あ)れば、一人(いちにん)聞き出ださるるほどこそ有(あ)れ、三百人に触れまはして、その家に乱れ入り、資材雑具を追捕して、その奴をからめて六波羅(ろくはら)に率てまゐる。されば、目に見、心(こころ)に知るといへども、言葉にあらはして申(まう)す者なし。「六波羅殿(ろくはらどの)の禿(かぶろ)」とだに言ひてければ、道をすぐる馬、車も、皆(みな)
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よけてぞとほしける。「禁門を出入すといへども、姓名を尋(たづ)ねらるるに及(およ)ばず。京師の長吏これが為(ため)に目をそばむ」と見えたり。わが身栄華をきはめ給(たま)ふのみならず、一門皆(みな)繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大将。次男宗盛、中納言右大将。三男知盛、三位の中将(ちゆうじやう)。四男重衡、蔵人頭。嫡孫維盛、四位の少将。すべて一門の公卿十六人。殿上人三十余人。そのほか諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には又(また)人なきとぞ見えたりける。
昔(むかし)、奈良の帝の御時、神亀五年近衛大将を始(はじめ)おかれてよりこのかた、兄弟左右にあひ並ぶ事(こと)、わづかに三四箇度なり。文徳天皇の御時、左に良房、右大臣の左大将。右に良相、大納言(だいなごん)右大将。これは閑院の左大将冬嗣公(ふゆつぐこう)の御子(おんこ)なり。朱雀院の御宇に、左に実頼小野の宮殿。右に師輔九条殿。貞信公の御子(おんこ)なり。後冷泉院の御時、左に教通大二条殿。右に頼宗堀河殿。御堂の関白(くわんばく)の御子(おんこ)なり。二条院(にでうのゐん)の御時、左に基房松殿。右に兼実月の輪殿。これは皆(みな)摂禄(せふろく)の
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臣(しん)の御子息(ごしそく)なり。凡人にとりてはその例なし。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫にて、禁色(きんじき)雑袍(ざつぱう)をゆるされ、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身にまとひ、大臣の大将になつて、兄弟左右にあひ並ぶ事(こと)、末代といひながら不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)なり。
そのほか入道(にふだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)八人おはしき。皆(みな)とりどりにさいはひし給(たま)ふ。一人(いちにん)は始(はじめ)は桜町の中納言成範卿(しげのりのきやう)の北(きた)の方(かた)にておはすべかりしが、八歳の年、平治の乱れ以後ひきちがへられ、後(のち)には花山の院左大臣殿の御台所にならせ給(たま)ひて、公達数多(あまた)ましましけり。
そもそもこの成範卿(しげのりのきやう)を「桜町の中納言」と申(まう)しける事(こと)は、すぐれて心(こころ)すき給(たま)へる人にて、つねは吉野の山を恋ひつつ、町に桜をうゑ並べ、そのうちに家を建てて住み給(たま)ひければ、見る人「桜町」とぞ申(まう)しける。桜は咲きて七か日に散るを、名残(なごり)を惜しみ、天照御神に祈(いの)り申(まう)されければにや、三七日まで名残(なごり)有(あ)り。君も賢王にて
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ましましければ、神も神徳をかがやかし、花も心(こころ)有(あ)りければ、二十日のよはひをたもちけり。
一人(いちにん)はきさきに立たせ給(たま)ふ。皇子御誕生有(あ)りて皇太子に立ち、位につかせ給(たま)ひしかば、院号かうぶらせ給(たま)ひて、「建礼門院」とぞ申(まう)しける。
一人(いちにん)は六条の摂政殿(せつしやうどの)の北の政所にならせ給(たま)ふ。
一人(いちにん)は普賢寺殿の北(きた)の方(かた)にならせ給(たま)ふ。
一人(いちにん)は後白河の法皇に参り給(たま)ひて、女御のやうにてまします。これは安芸の厳島の内侍が腹の姫宮なり。
一人(いちにん)は冷泉の大納言(だいなごん)隆房の卿の北(きた)の方(かた)にならせ給(たま)ふ。
一人(いちにん)は七条の修理大夫信隆の卿にあひ具し給(たま)ふ。
そのほか九条の院の雑仕常盤が腹にも一人(いちにん)。これは花山の院殿に参らせ給(たま)ひて、上臈女房(じやうらふにようばう)にて「臈(らふ)の御方」とぞ申(まう)しける。
日本秋津島はわづかに六十六箇国。平家(へいけ)の知行の国三十余箇国、
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すでに半国にこえたり。そのほか荘園田畠いくらといふ数を知らず。綺羅みちみちて堂上(たうしやう)花(はな)の如(ごと)し。軒騎(けんき)群集(くんじゆ)して、門前(もんぜん)市(いち)をなす。楊州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、呉郡(ごぐん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、七珍万宝(しつちんまんぼう)一(ひとつ)として闕(かけ)たる事(こと)なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもてあそび、おそらくは帝闕(ていけつ)、仙洞(せんとう)も是(これ)には過(す)ぎじとぞ見えし。
昔(むかし)よりいまにいたるまで、源平両氏朝家に召し使(つか)はれて、王化にしたがはず朝憲をかろんずる者には、たがひにいましめをくはへしかば、世の乱れもなかりしに、保元に為義斬られ、平治(へいぢ)に義朝(よしとも)誅(ちゆう)せられて後(のち)は、末々の源氏ども或(あるい)は流され、或(あるい)はうしなはれて、いまは平家(へいけ)〔の〕一類のみ繁昌して、かしらをさし出だす者もなし。さればいかならん末の世までもなにごとか有(あ)らんとぞ見えし。
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第三句 二代后 にだいきさき
鳥羽の院の御晏駕(ごえんが)の後(のち)、兵革(ひやうがく)うちつづきて、死罪、流刑、解官、停任おこなはれて、海内もしづかならず。世間もいまだ落居せず。なかんづく永暦、応保のころより、院の近習者をば内より御いましめ有(あ)り、内の近習をば院よりいましめらるる間(あひだ)、上下おそれをののいて、やすき心(こころ)もなし。唯(ただ)深淵にのぞんで薄氷をふむが如(ごと)し。
主上、上皇、父子の御間(あひだ)になにごとの御へだてか有(あ)るべきなれども、思ひのほかの事共(ことども)有(あ)りけり。主上、院の仰(おほ)せをつねは申(まう)しかへさせましましける中にも、人耳目をおどろかし、世もつて大きにかたぶけ申(まう)す事(こと)有(あ)りけり。
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そのころ故近衛の院の后、太皇太后宮と申(まう)せしは、大炊の御門の右大臣公能の御娘(おんむすめ)なり。先帝におくれ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて後(のち)は、近衛河原の御所に〔ぞ〕うつり住ませ給(たま)ひける。長寛のころは御年二十二三にもやならせましましけん。御さかりも過(す)ぎさせ給(たま)ひたり。
されども天下(てんが)第一の美人の聞こえましましければ、主上色に染みたる御心して、ひそかに高力士にみことのりして、この大宮へひきもとめしむるに及(およ)んで、御艶書有(あ)り。大宮あへて聞こしめしもいれざりけり。されどもこの事(こと)ほにあらはれて、后御入内有(あ)るべきよし、右大臣家に宣旨を下(くだ)さる。この事(こと)天下(てんが)においてことなる勝事なれば、公卿僉議(せんぎ)あつて、おのおの意見を申(まう)さる。
まづ、異朝(いてう)の先蹤(せんじよう)を尋(たづ)ぬるに、則天皇后は唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後(のち)皇后尼になりて、盛興寺といふ寺にこもり給(たま)へり。高宗「ねがはくは宮室にかへり、政(まつりごと)をたすけ給(たま)へ」とて、御使(おんつかひ)かさねて五たび来たるといへども、あへて
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したがはず。帝、盛興寺に臨幸なつて、「朕まつたくわたくしの心(こころ)ざしをとげんとには有(あ)らず。先帝太宗の世をながからしめ給(たま)へとなり」。皇后宣(のたま)はく「われ太宗の菩提をとぶらはんが為(ため)に、すでに釈門に入りぬ。ふたたび塵屋にかへるべからず」とて、確然としてひるがへさず。ここに高宗の近臣たち、よこしまにとり奉(たてまつ)るが如(ごと)くにして、皇后を内裏へ入れ奉(たてまつ)る。その後(のち)皇后と高宗と二人、政(まつりごと)をめでたうし給(たま)ひしかば、「二化の御宇」とぞ申(まう)しける。かくて帝世ををさめ給(たま)ふ事(こと)三十三年。国富み、民ゆたかなり 高宗崩御の後(のち)、皇后女帝として世をうけとり、位をつぎ給(たま)へり 皇后世をあらためて、年号を神功元年と号す。この人は周王の孫なる故(ゆゑ)に大周則天太上皇帝とぞ聞こえし。その後(のち)中宗皇帝に世をゆづり給(たま)ふ。中宗世をあらためて年号を神龍元年と号す 在位七年 これはわが朝の文武天皇にあたり給(たま)へり。
「されどもそれは異国の先規たるうへ、別段の事(こと)なり。本朝には
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神武天皇よりこのかた、人皇七十余代にいたるまで、いまだ二代の后に立ち給(たま)ふ事(こと)、その例を開かず」と諸卿一同に申(まう)させ給(たま)へども、主上仰(おほ)せなりけるは、「天子に父母なし。われ十善の戒功によ(ッ)て万乗の宝位をたもつ。などかこれほどの事(こと)叡慮にまかせざるべき」とて、すでに御入内の日宣下せられけるうへは、力及(およ)ばせ給(たま)はず。
大宮かくと聞こしめされけるより、御涙(おんなみだ)にむせばせおはします。先帝におくれまゐらせにし久寿の秋の始(はじめ)、同じ草葉の露とも消え、出家をもし、世をものがれたりせば、いまかかる憂き事(こと)は聞かざらまし」とぞ、御なげき有(あ)りける。父の大臣こしらへ申(まう)させ給(たま)ひけるは、「『世にしたがはざるをもつて狂人とす』と見えたり。すでに詔命を下(くだ)さるるうへは、子細を申(まう)すに所(ところ)なし。唯(ただ)すみやかに御入内し給(たま)へ。もし皇子御誕生有(あ)らば、君も国母と言はれ、愚老も外祖とあふがるべき瑞相にてもや候ふらん。偏(ひとへ)に愚老を
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たすけさせおはします、御孝行のいたりなるべし」とこしらへ申(まう)させ給(たま)へども、なほ御かへしもなかりけり。大宮そのころなにとなき御手ならひのついでに、
うきしに沈(しづ)みもやらで河竹の 世にためしなき名をやながさん
世にはなにとして漏れたりけん、やさしき御事(おんこと)にぞ申(まう)しける。すでに御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式なんど、心(こころ)の如(ごと)く仕立てまゐらせ給(たま)ひける。大宮もの憂き御出(い)でたちなれば、とくも出(い)で給(たま)はず、はるかに夜ふけ、小夜もなかばになつて後(のち)、御車にたすけ乗せられさせ給(たま)ひけり。ことに色ある御衣をば召されず、しろき御衣をぞ召されける。御入内の後(のち)は麗景殿にぞましましける。ひたそらあさまつりごとをすすめ申(まう)させ給(たま)ふ御さまなり。
彼(かの)紫宸殿(ししんでん)の皇居(くわうきよ)には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹(いいん)・第伍倫(ていごりん)・
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虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうばう)・角里先生(ろくりせんせい)・李勣(りせき)・思摩。手長、足長、馬形の障子。鬼の間、尾張守小野の道風が「七廻賢聖の障子」と書きたりしも理(ことわり)とぞ見えし。かの清涼殿の絵図の御障子には、昔(むかし)金岡が書きたりし遠山のありあけの月も有(あ)りとかや。故院のいまだ幼少にてましましけるそのかみ、なにとなき御手ならひに、ありあけの月の出(い)でたるを書きくもらかさせ給(たま)ひたりしが、有(あ)りしながらにすこしもたがはぬを御覧じ、先帝の昔(むかし)もや御恋ひしくおぼしめされけん、
思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見んとは
世には又(また)哀(あはれ)なる御事(おんこと)にぞ申(まう)しける。その間(あひだ)の御仲は、言ひ知らず哀(あはれ)にやさしき事共(ことども)なり。
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第四句 額打論 がくうちろん
さるほどに、永万元年の春の始(はじめ)より主上御不予のよし聞こえさせ給(たま)ひしが、夏の始(はじめ)になりしかば、ことのほかにおもらせ給(たま)ふ。これによつて、大蔵大輔壱岐の兼盛が娘(むすめ)の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給(たま)ふを、「太子に立てまつらせ給(たま)ふべし」と聞こえしほどに、同じき六月二十五日、にはかに親王の宣旨を下(くだ)され給(たま)ふ。やがてその夜受禅有(あ)りしかば、天下(てんが)なにとなうあわてたるやうなり。其(その)時(とき)有識の人々申(まう)し合(あ)はれけるは、「本朝童帝の例を尋(たづ)ぬるに清和天皇九歳にして文徳天皇の御ゆづりをうけさせ給(たま)ふ。これはかの周公旦の、成王にかはりて、南面にして一日万機の政(まつりごと)ををさめ給(たま)ひしに准(なぞら)へて、外祖(ぐわいそ)忠仁公(ちゆうじんこう)幼主(えうしゆ)を扶持(ふち)し給(たま)ふ。
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これぞ摂政(せつしやう)の始(はじめ)なる。鳥羽の院五歳。近衛の院三歳。これをこそ『いつしかなり』と申(まう)せしに、これは二歳にならせ給(たま)ふ。先例なし。ものいそがはしともおろかなり。」
七月二十七日、上皇遂(つひ)に崩御なりぬ。御年二十三、つぼめる花の散るが如(ごと)し。玉のすだれ、錦の帳のうち、御涙(おんなみだ)にむせばせおはします。御位を去らせ給(たま)うて、はつかに三十余日にぞ有(あ)りける。やがてその夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉(たてまつ)る。少納言入道(にふだう)の子息澄憲、御葬送を見奉(たてまつ)り給(たま)ひて、泣く泣くかうぞ申(まう)されける。
つねに見し君がみゆきをけふとへば かへらぬ[* 「かへらん」と有るのを他本により訂正]たびと聞くぞ悲(かな)しき
大宮、このたびもさまでの御さいはひもわたらせ給(たま)はず。この君にさへおくれ奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、やがて御出家有(あ)りて、近衛河原の御所へうつしまゐらせ給(たま)ひける。
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御葬送の夜、延暦寺、興福寺の大衆(だいしゆ)ども額打論といふ事(こと)をしいだして、たがひに狼藉に及(およ)ぶ。一天の君崩御なりて後(のち)、御墓所へわたし奉(たてまつ)るときの作法、南北二京の大衆(だいしゆ)ことごとく供奉して、御墓所のまはりにわが寺々の額を打つ事(こと)有(あ)り。まづ聖武天皇の御願所、あらそふべき寺なければとて、「東大寺」の額を打つ。つぎに淡海公の御願とて、「興福寺」の額を打つ。北京には興福寺とむかひて「延暦寺」の額を打つ。つぎに天武天皇の御願、あらそふべきやうなし、智証大師(ちしようだいし)の草創(さうさう)とて、「園城寺」の額を打つ。そのほか末寺末寺の額ども打ちならぶる。然(しか)るを、山門の大衆(だいしゆ)いかが思ひけん、先例をそむきて東大寺のつぎ、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間(あひだ)、南都の大衆(だいしゆ)、「とやせまし、かくやせまし」と僉議(せんぎ)する所(ところ)に、興福寺の西金堂の衆、観音房、勢至房とて大悪僧二人有(あ)り。観音房は黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)に白柄の長刀(なぎなた)のさやはづし、勢至房(せいしばう)は萠黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)に、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)もつて、二人づんと走り出で、
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延暦寺の額を切つて落(おと)し、散々に打ち破り、
うれしや、鳴るは滝の水 日は照れどもたえず、とうたへや
とはやしつつ、南都の衆都の中へぞ入りにける。帝かくれさせ給(たま)ひて後(のち)は、心(こころ)なき草木にいたるまでうれへたる色にてこそ有(あ)るべきに、この騒動のあさましさに、たかきもいやしきも、肝魂をうしなつて四方へ皆(みな)退散す。山門の大衆(だいしゆ)、狼藉をいたさば手むかひすべき所(ところ)に、心(こころ)ふかうねらふかたもや有(あ)りけん、一詞(ひとことば)も出ださざりけり。
同じき二十九日(にじふくにち)の午剋(むまのこく)ばかりに、「山門の大衆(だいしゆ)おびたたしく下洛す」と聞こえしかば、武士、検非違使(けんびゐし)西坂本に行きむかつて防ぎけれども、事(こと)ともせず、押し破り乱入す。又(また)、何者の申(まう)し出だしけるやらん、「一院、山門の大衆(だいしゆ)に仰(おほ)せ、平家(へいけ)を追討せらるべき」と聞こえしかば、「軍兵、内裏に参じて、四方の陣頭警固すべし」とて、
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一類(いちるい)、皆(みな)六波羅(ろくはら)へ馳集(はせあつま)る。小松殿(こまつどの)、そのころは中納言右大将にてましましけるが、「当時、なにごとによつてさある事(こと)有(あ)るべき」としづめられけれども、上下ののじりさわぐ事(こと)おびたたし。法皇もいそぎ六波羅(ろくはら)へ御幸なる。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、六波羅(ろくはら)へは寄せずして、そぞろなる清水寺へ押し寄せて、仏閣、僧房、一宇ものこさず皆(みな)焼きはらふ。これは去んぬる葬送(さうそう)の夜の会稽の恥をきよめんが為(ため)とぞ聞こえける。清水寺は興福寺の末寺たるによ(ッ)てなり。
清水寺焼けたるあした、落書有(あ)り。「観音火坑変成池はいかに」と札を書きて、大門の前(まへ)に立てたりければ、次(つぎ)の日(ひ)又(また)、「歴劫(りやくこふ)不思議(ふしぎ)力(ちから)及(およ)ばず」とかへしの札をぞ立てたりける。
衆徒帰(かへ)りのぼりければ、一院も六波羅(ろくはら)より還御なる。重盛の卿ばかりこそ御おくりに参られけれ。父の卿は参られず。なほも用心の為(ため)とぞ聞こえし。重盛の卿御おくりより帰(かへ)られたりければ、父の卿宣(のたま)ひけるは、「さても一院の御幸こそ大きにおそれおぼゆれ。
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かけてもおぼしめしより仰(おほ)せらるるむねの有(あ)ればこそ、かうは聞こゆらめ。それにもうちとけ給(たま)ふべからず。」と宣(のたま)へば、小松殿(こまつどの)「此(この)事(こと)ゆめゆめ御詞(おんことば)にも出(いだ)させ給(たま)ふべからず。なかなか人に心(こころ)づけ顔に、あしき御事(おんこと)なり。それにつけても、叡慮にそむかせ給(たま)はで、いよいよ人に御なさけをほどこさせ給(たま)はば、神明三宝の加護有(あ)るべし。さあらんにとりては、御身のおそれ候ふまじ」とて起たれければ、「あはれ、重盛はゆゆしうもおほやうなる者かな」と、父の卿も宣(のたま)ひける。
一院還御の後(のち)、御前にうとからぬ近習たち数多(あまた)侍はれけるに、仰(おほ)せられけるは、「さても不思議(ふしぎ)の事(こと)を申(まう)し出だしたるものかな。おぼしめしよらぬものを」と宣(のたま)ひければ、院中のきり者に西光法師といふ者有(あ)り。「『天に口なし。人をもつて言はせよ』と申(まう)す事(こと)候。平家(へいけ)もつてのほかに過分に候へば、天の御告げにてもや候ふらん」とぞ申(まう)しける。人々、「この事(こと)よしなし。『壁に耳有(あ)り』おそろし、
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おそろし」とぞ申(まう)し合(あ)はれける。
さるほどにその年も天下(てんが)諒闇(りやうあん)なりければ、御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)もおこなはれず。建春門院そのころはいまだ「東の御方」と申(まう)しける、その御腹に一院の宮おはしけり。同じき十二月二十四日、にはかに親王の宣旨をかうぶらせ給(たま)ふ。
あくれば、改元有(あ)りて仁安と号す。「ことしは大嘗会(だいじやうゑ)有(あ)るべき」とて、そのいとなみ有(あ)り。
同じく十月(じふぐわつ)八日(やうかのひ)、去年(きよねん)親王(しんわう)の宣旨(せんじ)をかうぶり給(たま)ひし皇子、東三条にて春宮(とうぐう)に立たせ給(たま)ふ。春宮(とうぐう)は御叔父、六歳。主上は御甥、三歳。昭穆にあひかなはず。但(ただし)寛和二年に、一条の院五歳、三条の院十一歳にて春宮(とうぐう)に立たせ給(たま)ふ。先例なきに有(あ)らず。
主上わづかに二歳にて御ゆづりをうけさせ給(たま)ひて、五歳と申(まう)せし二月(にぐわつ)十九日(じふくにち)、春宮(とうぐう)践祚(せんそ)有(あ)りしかば、位をすべりて「新院」とぞ申(まう)しける。いまだ御元服もなくして「太上天皇」の尊号有(あ)り。漢家本朝
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これや始(はじめ)なるらん。
同じき二十日、新帝大極殿にして御即位有(あ)り。この君の位につかせ給(たま)ふは、いよいよ平家(へいけ)の栄華とぞ見えし。国母建春門院と申(まう)すも平家(へいけ)の一門にておはしけるうへ、とりわき入道(にふだう)相国(しやうこく)の北(きた)の方(かた)八条の二位殿は、女院(にようゐん)の御姉なり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)と申(まう)すも、女院(にようゐん)の御弟(おんおとと)【*御兄(おんせうと)】にておはしければ、内外につけて執権の臣とぞ見えし。玄宗皇帝に楊貴妃がさいはひせしとき、楊国忠がさかえしが如(ごと)し。世のおぼえ、時の聞こえ、めでたかりき。入道(にふだう)相国(しやうこく)、天下(てんが)の大小事を宣(のたま)ひ合(あ)はせられければ、時の人、「平関白」とぞ申(まう)しける。
第五句 義王 ぎわう
入道(にふだう)相国(しやうこく)かやうに天下(てんが)をたなごころににぎり給(たま)ふ間(あひだ)、世のそしり
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をもはばかり給(たま)はず、不思議(ふしぎ)の事(こと)をのみし給(たま)へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王(ぎわう)、義女とておととい有(あ)り。これはとぢといふ白拍子の娘(むすめ)なり。姉の義王(ぎわう)を入道(にふだう)最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなす事(こと)かぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にして楽(たの)しき事(こと)かぎりなし。
そもそもわが朝に白拍子のはじまりける事(こと)は、昔(むかし)鳥羽の院の御宇に、島の千歳、若の前(まへ)、これら二人が舞ひいだしけるなり。始(はじめ)は水干に立烏帽子、白鞘巻をさして舞ひければ、「男舞」とぞ申(まう)しける。然(しか)るを中ごろより烏帽子、刀をばのけられて、水干ばかりを用ひたり。さてこそ「白拍子」とは名づけけれ。
義王(ぎわう)がさいはひのめでたき事(こと)を、京中の白拍子ども伝(つた)へ聞きて、うらやむ者も有(あ)り。「あなめでたの義王(ぎわう)がさいはひや。同じ遊びの者とならば、たれもあのやうにこそ有(あ)りたけれ。
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あはれ、これは『義』といふ文字をついて、かやうにめでたきやらん。いざ、わらはもついてみん」とて、或(あるい)は「義一」とつき、或(あるい)は「義二」とつき、「義福」「義徳」といふも有(あ)り。ねたむ者は、「なにとて文字にはよるべき。さいはひは先の世のむまれつきにこそ有(あ)るなれ」とて、つかぬ者もおほかりけり。
かくて三年と申(まう)すに、京中に又(また)白拍子の上手一人(いちにん)出(い)できたり。これは加賀の国の者なり。名をば仏とぞ申(まう)しける。年十六とぞ聞こえし。「昔(むかし)よりおほくの白拍子の有(あ)りしかども、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事(こと)なのめならず。
あるとき仏御前(ほとけごぜん)申(まう)しけるは、「われ天下(てんが)に聞こえたれけども、当時さしもめでたうさかえさせ給(たま)ふ太政入道殿(だいじやうにふだうどの)へ召されぬ事(こと)こそ本意なけれ。遊び者のならひ、なにかはくるしかるべき。推参して見ん」とて、あるとき西八条へぞ参じける。
人参りて、「当時都に聞こえ候ふ仏御前(ほとけごぜん)こそ参りて候へ」と申(まう)し
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ければ、「なんでう、さやうの遊び者は人の召しにしたがひてこそ参れ、左右なう推参するやうや有(あ)る。其上(そのうへ)義王(ぎわう)が有(あ)らん所(ところ)へは、神といもいへ、仏ともいへ、かなふまじきぞ、とくとくまかり出(い)でよ」とぞ宣(のたま)ひける。
仏御前(ほとけごぜん)すげなう言はれ奉(たてまつ)りて、すでに出(い)でんとしけるを、義王(ぎわう)、入道殿(にふだうどの)に申(まう)しけるは、「遊び者の推参はつねのならひにてこそさぶらへ。其上(そのうへ)年もいまだをさなうさぶらふなるに、たまたま思ひたちて参りてさぶらふを、すげなう仰(おほ)せられて返させ給(たま)はん事(こと)こそ不便なれ。いかばかりはづかしく、かたはらいたくさぶらふらん。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をこそ聞こしめされずとも、御対面ばかりはさぶらひて、返させ給(たま)はんは、ありがたき御なさけにてさぶらふべし」と申(まう)しければ、入道(にふだう)、「いでいで、さあらば、我御前(わごぜ)があまりに言ふ事(こと)なれば、見参(げんざん)してかへさん」とて、御使(おんつかひ)をたてられたり。
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仏御前(ほとけごぜん)すげなう言はれ奉(たてまつ)り〔て〕、すでに車に乗りて出(い)でけるが、召されて帰(かへ)り参りたり。入道(にふだう)出(い)であひ対面して、「けふの見参(げんざん)有(あ)るまじかりつるを、義王(ぎわう)あまりに申(まう)しすすむる間(あひだ)、かやうに見ざんしつ。見参(げんざん)するほどにては、いかでか声をも聞かでは有(あ)るべき。今様一つうたへかし」。仏御前(ほとけごぜん)「承りさぶらふ」とて、今様一つぞうたうたる。
君を始(はじめ)て見るときは 千代も経ぬべしひめ小松 
おまへの池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ
と、おし返しおし返し、三返うたひすましたりければ、一門の人々耳目をおどろかし、入道(にふだう)相国(しやうこく)もおもしろげに思ひ給(たま)ひて、「我御前(わごぜ)は今様は上手なり。この定にては舞もさだめてよかるらん。一番見ばや。つづみうち召せ」とて召されけり。仏御前(ほとけごぜん)、つづみうたせて
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一番舞うたりけり。仏御前(ほとけごぜん)は髪すがたより始(はじめ)て、みめかたち世にすぐれ、声よく、節も上手なりければ、なじかは舞も損ずべき。心(こころ)も及(およ)ばず舞ひすましたり。
君が代をももいろといふうぐひすの 声の響(ひびき)ぞ春めきにける
とうたひて踏みめぐりければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)、舞にめで給(たま)ひて、仏に心(こころ)をうつされけり。
仏御前(ほとけごぜん)申(まう)しけるは、「こはさればなにごとさぶらふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひつるを、義王御前(ぎわうごぜん)の申(まう)し様にてこそ召し返されてさぶらふに、かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前(ぎわうごぜん)の思ひ給(たま)はんずる心(こころ)のうちこそはづかしうさぶらふへ。はやはやいとまを賜はりて出ださせ給(たま)へ」と申(まう)しけれども、入道(にふだう)「なんでう、その儀(ぎ)有(あ)るべし【*べき】。但(ただし)義王(ぎわう)が有(あ)るをはばかるか。その儀(ぎ)ならば義王(ぎわう)をこそ出ださめ」と宣(のたま)ふ。仏御前(ほとけごぜん)申(まう)し
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けるは、「それ又(また)いかでかさる事(こと)さぶらふべき。もろともに召しおかれんだにもかたはらいたうさぶらふに、義王御前(ぎわうごぜん)を出だされまゐらせて、わらは一人(いちにん)召し置かれ参らせなば、いとど心憂くさぶらふべし。おのづから後(のち)までもわすれぬ御事(おんこと)ならば、召されて又(また)は参るとも、けふのいとまを賜はらん」とぞ申(まう)しける。入道(にふだう)「すべてその儀有(あ)るまじ。唯(ただ)義王(ぎわう)とくとくまかり出(い)でよ」と御使(おんつかひ)かさねて三度までこそたてられけれ。
義王(ぎわう)、もとより、思ひまうけたる道なれども、さすがきのふけふとは思ひよらざりしに、いそぎ出(い)づべきよし、しきりに宣(のたま)ひける間(あひだ)、掃き、のごひ、塵(ちり)ひろはせ、出(い)づべきにこそさだまりけれ。一樹のかげにやどりあひ、同じ流れをむすぶだに、わかれの道(みち)は悲(かな)しきならひなるに、いはんやこれは、この三年がほど住みなれし所(ところ)なれば、名残(なごり)も惜しく悲(かな)しくて、かひなき涙(なみだ)ぞこぼれける。さてしも有(あ)るべき事(こと)ならねば、「いまはかう」とて出(い)でけるが、
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「なからんあとの形見にもや」と思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。
もえいずる〔も〕枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋に合(あ)はではつべき
さて、車に乗(の)りて宿所に帰(かへ)り、障子のうちにたふれ臥し、唯(ただ)泣くよりほかの事(こと)ぞなき。母や妹これを見て、「いかにや、いかにや」と問ひけれども、とかうの返事(へんじ)にも及(およ)ばず。具(ぐ)したる女(をんな)に尋(たづ)ねてぞ、去(さる)事(こと)有(あ)りとも知りてけり。
さるほどに、毎月おくられける百石百貫も、はやとどめられて、いまは仏御前(ほとけごぜん)のゆかりの者ぞ始(はじめ)て楽(たの)しみさかえける。京中の上下、「義王(ぎわう)こそ入道殿(にふだうどの)のいとま賜はりて出(い)でたるなれ。いざや、見参(げんざん)してあそばん」とて、或(あるい)は文(ふみ)をやり、或(あるい)は使(つかひ)をたつる者(もの)も有(あ)り。義王(ぎわう)さればとて、今更(いまさら)人(ひと)に見参(げんざん)してあそびたはぶれべきに有(あ)らず」とて、文をとり入るる事(こと)もなし。まして使(つかひ)
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にあひしらふまでもなかりけり。これにつけても悲(かな)しくて、涙(なみだ)にのみぞ沈(しづ)みける。
かくてことしも暮れぬ。あくる春のころ、入道(にふだう)相国(しやうこく)義王(ぎわう)がもとへ使者をたてて、「いかに義王(ぎわう)。その後(のち)なにごとか有(あ)る。さては仏御前(ほとけごぜん)のあまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、参りて今様をもうたひ、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。義王(ぎわう)かへりごとに及(およ)ばず、涙(なみだ)をおさへて臥しにけり。入道(にふだう)かさねて使(つかひ)をたて、「義王(ぎわう)、など返事(へんじ)をばせぬぞ。参るまじきか。参るまじくはそのやうを申(まう)せ。浄海がはからふむね有(あ)り」とぞ宣(のたま)ひける。
母のとぢ、これを聞きて、「いかにや、義王御前(ぎわうごぜん)。ともかうも御返事(おんぺんじ)を申(まう)せかし。かやうにしかられまゐらせんよりは」と言へば、義王(ぎわう)涙(なみだ)をおさへて申(まう)しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて『参らん』とも申(まう)さめ。参らざらんもの故(ゆゑ)に、なにと返事(へんじ)を申(まう)す
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べしともおぼえず。このたび『召さんに参らずは、はからふむね有(あ)り』と仰(おほ)せらるるは、都のほかへ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、この二つにはよも過(す)ぎじ。たとひ命を召さるるとも、惜しかるべきわが身かは。又(また)都のほかへ出ださるるとも、なげくべきに有(あ)らず。ひとたび憂きものに思はれまゐらせ、ふたたびむかふべきに有(あ)らず」とて、なほ返事(へんじ)を申(まう)さず。
母とぢかさねて教訓しけるは、「あめが下に住まん者は、ともかうも入道殿(にふだうどの)の仰(おほ)せをばそむくまじき事(こと)に有(あ)るぞ。をとこをんなの縁、宿世、いまに始(はじめ)ぬ事(こと)ぞかし。千年、万年とちぎれども、やがてはなるる事(こと)も有(あ)り。あからさまとは思へども、ながらへはつる仲も有(あ)り。世にさだめなきは男女のならひなり。それに、我御前(わごぜ)は、三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき事(こと)にこそ有(あ)れ。このたび召さんに参らねばとて、命を召さるるまではよも有(あ)らじ。都のほかへぞ出だされんずらん。たとへ都を出ださるるとも、我御前(わごぜ)
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たちは年若ければ、いかならん岩木のはざまにても、すごさん事(こと)やすかるべし。但(ただし)、わが身年老い、よはひおとろへて、都のほかへ出だされなば、ならはぬひなのすまひこそかねて思ふに悲(かな)しけれ。唯(ただ)われを都のうちにて住みはてさせよ。それぞ今生、後生の孝養にて有(あ)らんずる」と言へば、義王(ぎわう)、憂しと思ひし道なれど、親の命をそむかじと、泣く泣く出(い)でたちける心(こころ)のうちこそ無慚なれ。涙(なみだ)のひまよりも、
露の身のわかれし秋にきえはてで 又(また)ことの葉にかかるつらさよ
「ひとり参らんはあまりにもの憂し」とて、妹の義女をもあひ具しける。そのほか白拍子二人、総じて四人、ひとつ車に乗り具して、西八条へぞ参りける。日ごろ召されける所(ところ)へは入れられずして、はるかにさがりたる所(ところ)に、座敷をしつらうて置かれたり。義王(ぎわう)「こはさればなにごとぞや。わが身にあやまる事(こと)はなけれども、捨てられ
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奉(たてまつ)るだに有(あ)りし、いまさら座敷をさへさげらるる事(こと)のくちをしさよ。いかにせん」と思ふに、知らせじとする袖のしたよりも、あまりて涙(なみだ)ぞこぼれける。仏御前(ほとけごぜん)哀(あはれ)に思ひ、入道殿(にふだうどの)に申(まう)しけるは、「さきに召されぬ所(ところ)にてもさぶらはず、これへ召されさぶらへかし。さらずは、わらはにいとま賜はりて、出(い)でて見参(げんざん)せん」と申(まう)しけれども、入道(にふだう)「すべてその儀有(あ)るまじ」と宣(のたま)ふ間(あひだ)、力及(およ)ばで出(い)でざりけり。
入道(にふだう)出(い)であひ対面し給(たま)ひて、「いかに義王(ぎわう)、なにごとか有(あ)る。さては、仏御前(ほとけごぜん)があまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、今様一つうたへかし」義王(ぎわう)「参るほどではともかくも仰(おほ)せをばそむくまじきものを」と思ひければ、落つる涙(なみだ)をおさへて、今様一つうたひける。
月もかたぶき夜もふけて、心(こころ)のおくを尋(たづ)ぬれば、
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仏も昔(むかし)は凡夫なり、われらも遂(つひ)には仏なり、
いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、悲(かな)しけれ
と、泣く泣く二三返うたひたりければ、その座に並みゐ給(たま)へる一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍にいたるまで、皆(みな)感涙をぞ流されける。入道(にふだう)もおもしろげにて、「時にとりては神妙に申(まう)したり。この後(のち)は、召さずともつねに参りて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。義王(ぎわう)かへりごとに及(およ)ばず、涙(なみだ)をおさへて出(い)でにけり。「親の命をそむかじとて、つらき道におもむき、ふたたび憂き目を見つるくちをしさよ」
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
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「生きてこの世に有(あ)るならば、又(また)憂き目をも見んずらん。いまは唯(ただ)身を投げんと思ふなり」と言ひければ、妹の義女も、「姉の身を投げば、われもともに投げん」と言ふ。母とぢこれを聞き悲(かな)しみて、いかなるべしともおぼえず、泣く泣く又(また)教訓しけるは、「誠(まこと)に我御前(わごぜ)がうらむるも理(ことわり)なり。かやうの事(こと)有(あ)るべしとも知らずして、教訓して参らせつる事(こと)のくちをしさよ。但(ただし)二人の娘共(むすめども)におくれなば、年老い、よはひおとろひたる母、とどまりてもなにかせん。われもともに身を投げんなり。いまだ死期もきたらぬ親に身を投げさせん事(こと)、五逆罪にや有(あ)らんずらん。この世はわづかに仮の宿りなり。恥ぢてもなにならず。今生でこそ有(あ)らめ、後生でだにも悪道へおもむかん事(こと)の悲(かな)しさよ」と袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王(ぎわう)涙(なみだ)をおさへて、「一旦恥を見つる事(こと)のくちをしさにこそ申(まう)すなれ。誠(まこと)
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にさやうにさぶらはば、五逆罪はうたがひなし。さらば自害は思ひとどまりぬ。かくて都に有(あ)るならば、又(また)憂き目をも見んずらん。いまは都のうちを出(い)でん」とて、義王(ぎわう)二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。
妹の義女も、「姉の身を投げば、ともに投げんとだにちぎりしに、まして世をいとはんには、たれかはおとるべき」とて、十九にて様をかへ、姉と一所にこもりゐて、後世をねがふぞ哀(あはれ)なる。母とぢこれを見て、「若き娘共(むすめども)だにも様をかゆる世の中に、年老い、よはひおとろへて、白髪つけてもなにかせん」とて、四十五にて髪を剃り、二人の娘(むすめ)もろともに一向専修に念仏して、偏(ひとへ)に後世をねがふぞ哀(あはれ)なる。
かくて春過(す)ぎ夏たけて、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天の戸わたるかぢの葉に思ふ事(こと)書くころなれや。夕日のかげの西の山の端にかくるるを見ては、「日の入り給(たま)ふ所(ところ)は西方
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浄土にて有(あ)るなり。いつかわれらもかしこにむまれて、ものを思はですごさんずらん」と、かかるにつけても、唯(ただ)つきせぬものは涙(なみだ)なり。
たそがれ時も過(す)ぎければ、竹の編戸(あみど)をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる所(ところ)に、竹の編戸(あみど)をほとほとと打ちたたく者出(い)できたり。其(その)時(とき)尼ども肝をけし、「あはれ、これはいふかひなきわれらが、念仏してゐたるをさまたげんとて、魔縁きたりてぞ有(あ)るらん。昼だにも人も訪ひこぬ山里の、柴のいほりのうちなれば、夜ふけてたれか尋(たづ)ぬべき。わづかの竹の編戸(あみど)なれば、あけずとも押し破らん事(こと)やすかるべし。なかなか唯(ただ)あけて入れんと思ふなり。それになさけをかけずして、命をうしなふものならば、年ごろたのみ奉(たてまつ)る弥陀の名号をとなへ奉(たてまつ)るべし。声を尋(たづ)ねてむかへ給(たま)ふなる聖衆の来迎にてましませば、などかは引摂なかるべき。あひかまへて念仏おこたり給(たま)ふな」と、たがひに
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心(こころ)をいましめて、竹の編戸(あみど)をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、仏御前(ほとけごぜん)ぞ出(い)できたる。
義王(ぎわう)「あれはいかに、仏御前(ほとけごぜん)と見奉(たてまつ)るは、夢かや、うつつかや」と言ひければ、仏御前(ほとけごぜん)、涙(なみだ)をおさへて、「かやうの事(こと)申(まう)せば、なかなか事(こと)あたらしき事(こと)にてさぶらへども、申(まう)さずは又(また)思ひ知らぬ身となりぬべければ、始(はじめ)よりして申(まう)すなり。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひしを、義王御前(ぎわうごぜん)の申(まう)し様によりてこそ召し返されてさぶらひしに、をんなのかひなさは、わが身を心(こころ)にまかせずして、おしとどめられまゐらせし事(こと)、心(こころ)うくこそさぶらひしか。我御前(わごぜん)を出だされ給(たま)ひしを見るにつけても、『いつかわが身の上とならん』と思ひしかば、うれしとはさらに思はず。障子に又(また)『いづれか秋にあはではつべき』と書きおき給(たま)ひし筆のあと、『げにも』と思ひ知られてさぶらふぞや。いつぞや又(また)召されまゐらせて、今様うたひ給(たま)ひしにも、思ひ知られ
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てこそさぶらひしか。このほど御ゆくへをいづくにとも知らざりつるに、かやうに様をかへて一所(ひとつところ)にと承りて後(のち)は、あまりにうらやましくて、つねはいとまを申(まう)せしかども、入道殿(にふだうどの)さらに御もちひましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、楽(たの)しみさかえてもなにかせん。人身は受けがたく、仏教にはあひがたし。比(この)度(たび)泥犁(ないり)に沈(しづ)みなば、多生(たしやう)曠劫(くわうごふ)を経るとも、浮かび難し。年の若きをたのむべきにも有(あ)らず。老少不定のさかひなり。出(い)づる息の入るをも待つべからず。かげろふ、いなづまよりもなほはかなし。一旦の楽(たの)しみにほこりて、後生を知らざらん事(こと)の悲(かな)しさに、今朝まぎれ出(い)でて、かくなりてこそ参りたれ」とて、かづきたる衣をうちのけたるを見れば、尼になりて出(い)できたる。
「かやうに様をかへて参りたれば、日ごろのとがをゆるし給(たま)へ。『ゆるさん』と仰(おほ)せられば、もろともに念仏して、ひとつ蓮の身とならん。それもなほ心(こころ)ゆかずは、これよりいづちへも迷ひゆき、いか
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ならん苔のむしろ、松が根にもたふれ臥し、命の有(あ)らんかぎりは念仏して、往生の素懐をとげん」と言ひて、袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王(ぎわう)、涙(なみだ)をおさへて申(まう)しけるは、「誠(まこと)に、それほどに我御前(わごぜ)の思ひ給(たま)ひけるとは夢にも知らず、憂き世の中のさがなれば、身を憂しとこそ思ふべきに、ともすれば我御前(わごぜ)をうらみて、往生をとげん事(こと)もかなふべしともおぼえず。今生も、後生も、なまじひにし損じたる心地して有(あ)りつるに、かやうに様をかへておはしたれば、日ごろのとがは露塵ほどものこらず。いまは往生うたがひなし。このたび素懐をとげんこそ、なによりもつてうれしけれ。われらが尼になりしをこそ、世にありがたきやうに、人も言ひ、わが身も思ひしが、それは世をうらみ、身をうらみてなりしかば、様をかゆるも理(ことわり)なり。我御前(わごぜん)の出家にくらぶれば、事(こと)の数にも有(あ)らざりけり。我御前(わごぜ)はなげきもなし、うらみもなし。今年はわづかに十七にこそなる人の、かやうに穢土(ゑど)をいとひ、
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浄土をねがはんと思ひ入り給(たま)ふこそ、誠(まこと)の大道心とはおぼえたれ。うれしかりける善知識かな。いざ、もろともにねがはん」とて、四人一所にこもりゐて、朝夕仏の前(まへ)に花香をそなへ、余念もなくねがひければ、遅速こそ有(あ)りけれども、四人の尼ども皆(みな)往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。
されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「義王(ぎわう)、義女、仏、とぢが尊霊」と四人一所に入れられけり。哀(あはれ)なりし事共(ことども)なり。
第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
さるほどに、嘉応元年七月十六日、一院御出家有(あ)り。御出家の後(のち)も万機の政(まつりごと)を聞こしめされければ、院、内分くかたなし。
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院に召し使(つか)はるる公卿、殿上人、上下の北面にいたるまで、官位俸禄身にあまるばかりなり。されども人の心(こころ)のならひにて、なほあきたらず」「あはれ、その人が失せたらばその国はあきなんず」「その人が亡(ほろ)びたらばその官にはなりなん」などと、うとからぬどしは寄りあひ寄りあひささやきあへり。一院も内々仰(おほ)せなりけるは、「昔(むかし)より朝敵をたひらぐる者おほしといへども、いまだかやうの事(こと)なし。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡(ほろ)ぼし、義家が武衡、家衡を攻めたりしも、勧賞おこなはるる事(こと)、わづかに受領には過(す)ぎざりき。清盛がかく心(こころ)のままに振舞(ふるま)ふこそ然(しか)るべからね。これも世の末になりて、王法の尽きぬる故(ゆゑ)なり」とおぼしめせど〔も〕、ついでなければ御いましめもなし。
又(また)平家(へいけ)もあながちに朝家をうらみ奉(たてまつ)る事(こと)もなかりしに、世の乱れそめぬる根本は、去んぬる嘉応二年十月十六日、小松殿(こまつどの)の次男新三位の中将(ちゆうじやう)資盛、其(その)時(とき)はいまだ越前守とて、十三になら
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れけるが、雪ははだれに降りたり、枯野のけしきも誠(まこと)におもしろかりければ、若侍ども二三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近の馬場にうち出(い)でて、鷹ども数多(あまた)据ゑさせて、鶉、雲雀追つたて追つたて、ひめむすに狩りくらし、薄暮に及(およ)び六波羅(ろくはら)へこそかへられけれ。
其(その)時(とき)の御摂禄(ごせふろく)は松殿にてぞましましける。中の御門の東の洞院の御所より御参内有(あ)り。郁芳門より入御有(あ)るべきにて、中の御門東の洞院の大路を南へ、大炊の御門を西へ御出なる。資盛の朝臣大炊の御門猪熊にて、殿下の御出(ぎよしゆつ)に鼻突(はなづき)に参りあふ。殿下(てんが)の御供(おんとも)の人々(ひとびと)、「何者(なにもの)ぞ、狼藉(らうぜき)なり。御出(ぎよしゆつ)の有(あ)るに、おり候へ」と言ひてけれども、あまりに勇み誇りて、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍ども、皆(みな)二十よりうちの若き者どもにて、礼儀骨法をわきまへたる者一人(いちにん)もなし。殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)ともいはず、一切(いつせつ)下馬(げば)の礼儀(れいぎ)にも及(およ)ばず、駆け破りて通らんとする間(あひだ)、暗さはくらし、殿下
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の御供の人々、つやつや太政入道(だいじやうにふだう)殿の孫とも知らず少々は又知りたりけれどもそら知らずして、資盛朝臣(すけもりのあそん)を始(はじめ)として、侍(さぶらひ)ども馬(むま)より取つて引(ひ)き落(おと)し、頗(すこぶ)る恥辱(ちじよく)に及(およ)びけり。資盛朝臣(すけもりのあそん)はふはふ六波羅(ろくはら)へおはして、祖父相国禅門へこのよし訴(うつた)へ申(まう)されたり。入道(にふだう)、最愛の孫にてはおはします、おほきに怒つて、「たとえ殿下なりとも、浄海があたりをば一度はなどかはばかり給(たま)はざるべき。をさなき者に左右なう恥辱をあたへらるるこそ遺恨の次第なれ。かかる事(こと)よりして、人にはあざむかるるぞ。この事(こと)思ひ知らせ奉(たてまつ)らでは、えこそ有(あ)るまじけれ。殿下をうらみ奉(たてまつ)らばやと思ふはいかに」と宣(のたま)へば、小松殿(こまつどの)申(まう)されけるは、「これはすこしもくるしく候ふまじ。頼政、時光なんどと申(まう)す源氏どもにあざむかれ候はんには、誠(まこと)に一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子どもにて候はんずる者が、殿下の御出に参りあひ奉(たてまつ)り、乗物よりおり候はぬこそ尾籠(びろう)に候へ」とて、その
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とき行きむかひたる侍ども皆(みな)召し出だし、「自今以後もなんぢらよく心得べし。重盛はこれより殿下へ、あやまつて無礼の[* 「あやまつて、重盛はこれより殿下へ、無礼の」と有るのを訂正]おそれをこそ申(まう)さんと思へ」と宣(のたま)へば、その後(のち)は入道(にふだう)相国(しやうこく)、小松殿(こまつどの)にはかくとも宣(のたま)ひも合(あ)はせられず、かた田舎の侍どもの、「入道(にふだう)の仰(おほ)せよりほかはおそろしき事(こと)なし」と思ふ、難波、瀬尾を始(はじめ)として都合六十余人召し寄せ、「来る二十一日、主上御元服の御さだめに殿下参内有(あ)らんとき、いづくにても待ちうけ奉(たてまつ)りて、前駆、随身どもがもとどり切つて、資盛が恥をそそげ」とぞ宣(のたま)ひける。兵どもかしこまり承りてまかり出(い)づ。
殿下これをば夢にも知ろしめされず、主上明日【*明年】御元服、御加冠、拝官御さだめの為(ため)に、御直盧(ごちよくろ)にしばらく御座有(あ)るべきにて、つねの御出よりひきつくろはせ給(たま)ひて、今度は待賢門より入御有(あ)るべきにて、中の御門を西へ御出なる。六波羅(ろくはら)の兵ども、猪熊堀川の辺に、ひた兜三百騎ばかりにて待ちうけ奉(たてまつ)り、殿下をうち
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にとりこめ、前後より鬨をどつとぞつくりける。前駆や随身どもが今日を晴れと装束したるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、馬よりとつて引き落し、散々に陵轢(りようりやく)して、いちいちに皆(みな)もとどりを切る。随身十人がうち、右の府生武基がもとどりも切られてんげり。その中に藤蔵人大夫高範がもとどりを切るとて、「これはまつたくなんぢがもとどりと思ふべからず。主のもとどりと思ふべし」と言ひふくめてぞ切りてける。その後(のち)は御車のうちへも弓の筈つき入れなんどして、簾かなぐり落(おと)し、御牛のしりがい・むながい切りはなち、散々にしちらして、よろこびの鬨をつくり、六波羅(ろくはら)へこそ参りけれ。入道(にふだう)「神妙なり」とぞ宣(のたま)ひける。御車副には鳥羽の先使国久丸といふをのこ、下臈(げらふ)なれども心(こころ)有(あ)る者にて、様々にしつらひ、御車つかまつりて、中の御門の御所へ還御なし奉(たてまつ)り、束帯の御袖にて涙(なみだ)をおさへつつ、還御の儀式のあさましさ申(まう)すもなかなかおろかなり。大織冠、淡海公の御事(おんこと)
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はなかなか申(まう)すに及(およ)ばず、忠仁公、昭宣公よりこのかた、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)のかかる御目に合(あ)はせ給(たま)ふ事(こと)、いまだ承り及(およ)ばず。これぞ平家(へいけ)の悪行の始(はじめ)なる。
小松殿(こまつどの)これを聞き、大きにおどろき、其(その)時(とき)行きむかひたる侍ども、皆(みな)勘当せらる。「およそは資盛奇怪なり。『栴檀は二葉より香ばし』とこそ見えたれ。すでに十二三にならんずる者は、礼儀、骨法を存知してこそ振舞(ふるま)ふべきに、かく尾籠(びろう)を現じて、入道(にふだう)の悪名をたて、不孝のいたり、なんぢひとりに有(あ)り」とてしばらく伊勢の国へ追ひ下(くだ)さる。さればこの大将を、君も臣も御感有(あ)りけるとぞ聞こえし。
これによりて、主上御元服の御さだめ、その日は延べさせ給(たま)ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御さだめは有(あ)りける。摂政殿(せつしやうどの)さてもわたらせ給(たま)ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨(かねせんじ)[* 「かのせんし」と有るのを他本により訂正]〔を〕かうぶらせ給(たま)ひて、十四日、太政大臣(だいじやうだいじん)にあがらせ給(たま)ふ。やがて同じく
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十七日、慶申(よろこびまう)し有(あ)りしかども、世の中なほもにがにがしうぞ見えし。さるほどに、今年も暮れ、嘉応も三年になりにけり。
第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
同じき三年正日五日、主上御元服有(あ)りて、同じき十三日、朝覲(てうぎん)の行幸有(あ)りけり。法皇、女院(にようゐん)待ちうけさせ給(たま)ひて、初冠の御よそほひいかばかりらうたくおぼしめされけん。主上御年十三歳、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)、女御に参らせ給(たま)ふ。法皇御猶子の儀なり。
そのころ、妙音院の太政大臣(だいじやうだいじん)、内大臣の左大将にておはしけるが、大将を辞し申(まう)させ給(たま)ひけるときに、徳大寺の大納言(だいなごん)実定の卿も所望有(あ)り。そのほか、故中の御門の藤中納言家成の卿の三男、新大納言(しんだいなごん)
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成親卿(なりちかのきやう)もひらに申(まう)されけり。これは院の御気色よかりければ、さまざまの祈(いの)りを始(はじめ)らる。八幡に百人の僧を籠めて真読の大般若を七日読ませられける間(あひだ)に、高良の大明神の御前なる橘の木に、男山のかたより山鳩二つ飛びきたりて、くひあうてぞ死ににける。「鳩は、これ八幡の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議(ふしぎ)なし」とて、時の検校慶清法印このよし内裏へ奏聞せられたりければ、神祇官にして御占かた有(あ)り。「重き御つつしみ、但(ただし)君の御つつしみには有(あ)らず。臣下の御つつしみ」とぞうらなひ申(まう)しける。
新大納言(しんだいなごん)それにおそれをもいたさず、昼は人目しげければ、夜な夜な歩行にて、中の御門烏丸の宿所より賀茂の上の杜へ七夜つづけて参られけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさにちとまどろみたる夢に、加賀の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸を押し開き、ゆゆしうけだかき御声にて、
さくら花賀茂の川風うらむなよ 
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散るをばえこそとどめざりけれ
新大納言(しんだいなごん)、なほもそれにおそれをもいたさず、賀茂の上の社の御宝殿のうしろなる大杉のほらに壇をたてて、ある聖を籠めて、百日拏吉尼(だぎに)の法をおこなはせられけるに、いかづちおびたたしく鳴りて、かの杉に落ちかかり、雷火もえあがつて宮中もすでにあやふく見えしかば、神人はしり集まりて、これをうち消しつ。さて、かの外法をおこなひける聖を追ひ出ださんとしけるに、「われ百日参籠の大願有(あ)り。今日七十五日にあたる。まつたく出(い)でまじ」とてはたらかず。社家よりこのよし内裏へ奏聞したりければ、「唯(ただ)法にまかせよ」と仰(おほ)せらるる間(あひだ)、其(その)時(とき)、神人白杖をもつて、〔かの〕聖のうしろをしらげて、一条大路より南へ追ひ出だしてんげり。「神は非礼をうけ給(たま)はず」と申(まう)すに、この大納言(だいなごん)非分の大将を祈(いの)り申(まう)されければにや、かかる不思議(ふしぎ)も出(い)できたる。
そのころ叙位、除目と申(まう)すは、院、内の御はからひにも有(あ)らず、
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摂政(せつしやう)、関白(くわんばく)の御成敗にも及(およ)ばず。唯(ただ)一向平家(へいけ)のままにて有(あ)りければ、徳大寺、花山の院もなり給(たま)はず。入道(にふだう)相国(しやうこく)の嫡男小松殿(こまつどの)、大納言(だいなごん)の右大将にてましましけるが、左にうつりて、次男宗盛、中納言にておはしけるが、数輩の上臈(じやうらふ)を超越して、右に加はられけるこそ申(まう)すばかりもなかりしか。
中にも徳大寺殿は一の大納言(だいなごん)にて、華族英雄、才学優長におはしけるが、越えられ給(たま)ひぬるこそ遺恨の次第なれ。「さだめて御出家なんどや有(あ)らずらん」と、人々ささやき合(あ)はれけれども、「しばらく世のならんやうを見ん」とて、籠居とぞ聞こえし。
新大納言(しんだいなごん)宣(のたま)ひけるは、「徳大寺、花山の院に越えられたらんはいかがせん、平家(へいけ)の次男宗盛の卿に超えられぬるこそ遺恨の次第なれ。これもよろづ思ふさまなるがいたす所(ところ)なり。いかにもして平家(へいけ)を亡(ほろ)ぼし、本望をとげん」と宣(のたま)ひけるこそおそろしけれ。平治にも越後の中将(ちゆうじやう)とて、信頼の卿に同心の間(あひだ)、すでに誅(ちゆう)
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せらるべかりしを、小松殿(こまつどの)やうやうに申(まう)して、頸(くび)をつぎ奉(たてまつ)る。然(しか)るにその恩をわすれ、かかる心(こころ)のつかれける、偏(ひとへ)に天魔の所為とぞ見えし。外人なき所(ところ)に兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、そのいとなみのほかは他事なし。
東山のふもと鹿の谷といふ所(ところ)は、うしろは三井寺につづきて、ゆゆしき城郭にてぞ有(あ)りける。これに俊寛僧都の山荘有(あ)り。つねはその所(ところ)に寄りあひ寄りあひ、平家(へいけ)を亡(ほろ)ぼすべきはかりごとをぞめぐらしける。あるとき法皇も御幸なる。故少納言入道(にふだう)信西の子息静憲法印も御供申(まう)す。その夜の酒宴に、静憲法印にこの事(こと)仰(おほ)せ合(あ)はせられたりければ、法印「あなおそろし。人の数多(あまた)承り候ひぬ。唯今(ただいま)漏れ聞こえて、天下(てんが)の御大事に及(およ)び候はん」とあわてさわぎければ、大納言(だいなごん)気色かはつて、御前をざつと起たれけるが、御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけてひき倒されたりければ、法皇「あれはいかに」と仰(おほ)せければ、大納言(だいなごん)たちかへりて、「へいじすでに
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倒れ候ひぬ」と申(まう)されければ、法皇、ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども、参りて猿楽つかまつれ」と仰(おほ)せければ、平判官康頼つと出(い)でて、「あまりにへいじのおほく候ふに、もち酔ひて候」と申(まう)す。俊寛僧都「それをばいかがつかまつり候ふべき」と申(まう)せば、西光法師「首(くび)をとるにはしかじ」とて、瓶子の首(くび)をとりてぞ入りにける。かへすがへすもおそろしかりし事共(ことども)なり。静憲法印はあまりのあさましさに、つやつや物も申(まう)されず。
与力のともがらは誰々ぞ。近江の中将(ちゆうじやう)入道(にふだう)俗名成雅、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津の国の源氏多田の蔵人行綱を始(はじめ)として、北面のともがら多く与力したりけり。
あるとき新大納言(しんだいなごん)、多田の蔵人行綱を呼びて、「御辺をば一方の大将軍にたのむなり。この事(こと)しおほせつるほどならば、国をも、荘をも、所望は請ふによるべし。まづ弓袋の料に」とて、白布五十反
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おくられけり。
そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都と申(まう)すは、京極の源大納言(だいなごん)雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅の子なり。祖父大納言(だいなごん)はさせる弓矢をとる家には有(あ)らねども、あまりに腹あしき人にて、三条坊門京極の家の前(まへ)をば人をもやすく通さず、つねは中門にたたずみて、歯をくひしばり、いかつてのみぞおはしける。かかる人の孫なればにや、俊寛も憎なれども、心(こころ)もたけく、よしなき謀叛にもくみしてけり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣(だいじやうだいじん)に転じ給(たま)へるかはりに、小松殿(こまつどの)、大納言(だいなごん)定房の卿を越えて、内大臣にあがり給(たま)ふ。やがて大饗おこなはる。大臣の大将めでたかりき。尊者には、大炊の御門の右大臣経宗公とぞ聞こえし。一の上こそ先途なれども、父宇治の悪左府の御例そのはばかり有(あ)り。
上古には北面なかりき。白河の院の御時始(はじめ)て置かれてよりこのかた、衛府ども数多(あまた)侍ひけり。為俊、盛重、童より今犬丸、千寿丸
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とて、これらは左右なききり者にてぞ有(あ)りける。鳥羽院(とばのゐん)の御時も、季範、季頼、父子ともに召し使(つか)はれて、つねは伝奏するをりも有(あ)りなんど聞こえしかども、皆(みな)身のほどを振舞(ふるま)ひてこそ有(あ)りしに、今の北面のともがらは、もつてのほかに過分にて、下北面より上北面にあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もおほかりけり。かくおこなはるる間(あひだ)おごれる心(こころ)どももつきて、よしなき謀叛にもくみしてんげり。
故少納言入道(にふだう)信西の、もと召し使(つか)ひける師光、成景といふ者有(あ)り。師光は阿波の国の在庁、成景は京の者、熟根いやしき下臈(げらふ)なり。小舎人童、もしは格勤者(かくごしや)なんどにて召し使(つか)はれけるが、さかさかしきによりて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉、二人一度に靭負尉(ゆぎへのじよう)になりぬ。信西事(こと)にあひしとき、二人ともに出家して、左衛門入道(にふだう)は西光、右衛門入道(にふだう)は西景とて、これらは出家の後(のち)も院の御蔵(みくら)預(あづか)り[* 「御くらひあつかり」と有るのを他本により訂正]でぞ有(あ)りける。
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かの西光が子に師高といふ者有(あ)り。これも左右なききり者にて検非違使(けんびゐし)五位の尉にまで経あがつて、安元元年十二月二十九日、追儺(ついな)の除目に加賀守にぞなされける。国務をおこなふ間、非法非礼を張行し、神社、仏寺、権門勢家の荘園を没倒して、散々の事共(ことども)にてぞ有(あ)りける。たとへ召公のあとをつぐといふとも、穏便の政(まつりごと)をおこなふべかりしが、かく心(こころ)のままに振舞(ふるま)ふ間(あひだ)、同じき二年夏のころ、国司師高が弟、近藤判官師経、目代にて加賀の国へ下着の始(はじめ)、国府の辺に鵜川といふ山寺有(あ)り、折節(をりふし)寺僧ども湯をわかして浴びけるを、乱入して追ひあげ、わが身浴び、雑人ども馬の湯あらひなんどをしける。寺僧いかりをなして、「昔(むかし)よりこの所(ところ)に国方の者入部する事(こと)なし。先例にまかせてすみやかに入部、押妨をとどめよ」とぞ申(まう)しける。「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。当目代はすべてその儀有(あ)るまじ」とて、国方のついでをもつて乱入せんとす。寺僧どもは追ひ出ださんとす。たがひ
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に打ちあひ、張りあひしけるほどに、目代師経が秘蔵しける馬の足をぞうち折りける。その後(のち)は、弓箭兵仗(ひやうぢやう)を帯して打ちあひ、切りあひ、数刻たたかふ。目代かなはじとや思ひけん、引きしりぞきて、当国の在庁官人、数千人もよほし、鵜川に押し寄せて坊舎一宇ものこさず焼きはらふ。
鵜川と申(まう)すは白山の末寺なり。「この事(こと)訴(うつた)へよ」とてすすむ老僧誰々ぞ。智釈、学明、法台坊、性智、学音、土佐の阿闍梨(あじやり)ぞすすみける。白山の三社八院の大衆(だいしゆ)ことごとくおこりあひ、都合その勢二千余人、同じき七月九日、目代師経がもと近うぞ押し寄せたる。「今日は日暮れぬ。明日のいくさ」とさだめて、その夜は寄せでゆられたり。露ふきむすぶ秋風は射向の袖をひるがへし、雲井を照らすいなづまは兜の星をかがやかす。あくる卯の刻に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。城のうちには音もせず。人を入れて見〔せ〕ければ、「皆(みな)落ちたり」と申(まう)す。大衆(だいしゆ)力及(およ)ばで引きしりぞく。
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「さらば山門へ訴(うつた)へん」とて、白山の神輿(しんよ)をかざり奉(たてまつ)りて、比叡山へ振りあげ奉(たてまつ)る。
同じき八月十二日、午の刻ばかりに、「白山の神輿(しんよ)すでに比叡山東坂本につかせ給(たま)ふ」といふほどこそ有(あ)りけれ、北国のかたより雷おびたたしく鳴つて、都をさして鳴りのぼるに、白雪降りて地をうづみ、山上、洛中おしなべて、常盤の山のこずゑまで皆(みな)白妙になりにけり。
神輿(しんよ)を客人(まれうど)の宮へ入れ奉(たてまつ)る。客人(まれうど)と申(まう)すは白山妙理権現にておはします。思へば、父子の御仲なり。まづ沙汰の成否は知らず、生前の御よろこび、唯(ただ)この事(こと)に有(あ)り。浦島が七世の孫にあひたりしにも過(す)ぎ、胎内(たいない)の者(もの)の霊山(りやうぜん)の父(ちち)を見(み)しにもこえたり。三千(さんぜん)の大衆(だいしゆ)踵(くびす)を継(つ)ぎ、七社(しちしや)の神人袖をつらね、時々刻々に法施祈念の声たえず。言語道断の事共(ことども)なり。
山門の上綱等、奏状をささげて、「国司師高流罪に処せられ、目代
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師経を禁獄(きんごく)せらるべき」よし奏聞度々に及(およ)ぶといへども、御裁許(ごさいきよ)なかりければ、さも然(しか)るべき公卿殿上人は、「あはれ、これはとくとく御裁許(ごさいきよ)有(あ)るべきものを。山門の訴訟(そしよう)は他にことなり。大蔵卿為房、太宰権師季仲の卿と申(まう)せしは、さしも朝家の重臣なりしかども、山門の訴訟(そしよう)によ(ッ)て流罪せられにき。いはんや師高なんどは事(こと)の数にや有(あ)るべき」と申(まう)し合(あ)はれけれども、「大臣は禄を重んじて諫(いさ)めず、小臣は罪をおそれて申(まう)さず」といふ事(こと)なれば、おのおの口を閉ぢ給(たま)へり。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心(こころ)にかなはぬ」と、白河の院も仰(おほ)せなりけるとかや。鳥羽の院の御時、越前の平泉寺を山門につけられけるには、「当山の御帰依あさからざるによつて、非をもつて理とす」と宣下せられてこそ、院宣を下(くだ)されしか、されば、江の師の申(まう)されしやうに、「そもそも神輿(しんよ)を陣頭に振り奉(たてまつ)りて、訴訟(そしよう)いたさんときには、君はいかが御はからひ候ふべき」と
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申(まう)されければ、「げにも山門の訴訟(そしよう)はもだしがたし」とぞ仰(おほ)せける。
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
去んぬる嘉保二年三月二日、美濃守源の義綱の朝臣、当国新立の荘を賜ふ間(あひだ)、山の久住者円応を殺害す。これによ(ッ)て日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人、申文をささげて陣頭へ参じける。関白殿(くわんばくどの)、大和源氏中務丞頼治に仰(おほ)せて、これをふせがせらる。頼治が郎等のはなつ矢に、矢庭に射殺さるる者八人、傷をかうぶる者十余人なり。社司、諸司四方へ散りぬ。これによ(ッ)て山門の衆徒子細を奏聞の為(ため)に下洛すと聞こえしかば、武士、検非違使(けんびゐし)、西坂本へ行きむかつて追つかへす。
山門には大衆(だいしゆ)、七社の神輿(しんよ)を根本中堂に振りあげ奉(たてまつ)りて、
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その御前にして真読の大般若を七日読うで、関白殿(くわんばくどの)を呪咀(しゆそ)して奉(たてまつ)る。結願の導師には中胤法印、高座にのぼり、鉦打ち鳴らし啓白(けいびやく)の詞(ことば)にいはく、「われらが芥子の二葉よりおほし奉(たてまつ)る神たち、後二条の関白殿(くわんばくどの)に鏑矢一つはなちあて給(たま)へ。大八王子権現」と高らかに祈誓したりけり。やがてその夜不思議(ふしぎ)の事(こと)有(あ)りけり。八王子の御殿より鏑矢の声いでて、王城をさして鳴り行くとぞ人の耳には聞こえける。
その朝関白殿(くわんばくどの)の御所の御格子をあげらるるに、唯今(ただいま)山より取つてきたるやうに、露にぬれたる樒(しきみ)一枝御簾にたちけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。その夜よりやがて関白殿(くわんばくどの)、山王の御とがめとて重き御やまひをうけさせ給(たま)ひたりしかば、母上、大殿の北の政所大きに御なげきあつて、いやしき下臈(げらふ)のまねをして、日吉の社に七日七夜が間御参籠あつて、祈(いの)り申(まう)させおはします。まづあらはれての御祈(おんいの)りには、百番(ひやくばん)の芝田楽(しばでんがく)、百番(ひやくばん)のひとつもの、競馬、流鏑、相撲、おのおの百
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番、百座の仁王経、百座の薬師講、一ちやく手半の薬師百体、等身の薬師一体、ならびに釈迦、阿弥陀の像をおのおの造立し供養せられけり。
又(また)御心のうちに三つの御立願有(あ)り。御心のうちの事(こと)なりければ、人いかでこれを知り奉(たてまつ)るべきに、それに不思議(ふしぎ)なる事(こと)には、八王子の御前にいくらも有(あ)りける参人の中に、陸奥の国よりはるばるとのぼりたる童巫女の、夜半ばかりに、にはかに絶え入りぬ。はるかにかき出だして祈(いの)りければ、やがて立ちて舞ひかなづ。人奇特の思ひをなしてこれを見るに、半時ばかりて舞うて後(のち)、山王おりゐさせ給(たま)ひて、御託宣こそおそろしけれ。「衆生ら、たしかに承れ。大殿の北の政所は、今日七日、わが御前にこもらせ給(たま)ふ。御立願三つ有(あ)り。まづ一つには、『今度殿下の寿命をたすけてたばせ給(たま)へ。さもさぶらはば、この下殿に侍ふもろもろのかたは人にまじはりて、一千日が間(あひだ)宮仕ひ申(まう)さん』となり。大殿の北の政所
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にて、世を世ともおぼしめさですごさせ給(たま)ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事(こと)もわすれて、あさましげなるかたは人にまじはりて、『一千日が間(あひだ)朝夕宮仕へ申(まう)さん』と仰(おほ)せらるるこそ、誠(まこと)に哀(あはれ)にはおぼしめせ。二つには、『大宮の橋殿より八王子の御社まで、廻廊造りて参らせん』となり。三千の大衆(だいしゆ)降るにも照るにも、社参のとき、あまりにいたはしければ、廻廊造られたらんは、いかに[* 「いかて」と有るのを他本により訂正]めでたからん。三つには、『八王子の前(まへ)にて、毎日退転なく法華問答講おこなはすべし』となり。この御願はいづれもおろかならねども、かみ二つはさなくとも有(あ)りなん。法華問答講こそ誠(まこと)に有(あ)らましほしくおぼしめせ。但(ただし)、今度の訴訟(そしよう)はやすかりぬべき事(こと)にて有(あ)りつるを、神人、宮仕、射殺され、切り殺されて、衆徒おほく傷をかうぶりて、泣く泣く参りて訴(うつた)へ申(まう)すがあまりに心憂くて、いかならん世までもわするべしともおぼしめさず。其上(そのうへ)、かれらがはなつ矢は、しかしながら和光垂迹の御
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はだへにたちたるなり。誠(まこと)そらごとはこれを見よ」とて、肩ぬいだるを見れば、左のわきのしたに、大きなるかはらけの口ほど、うげのいてぞ見えたりける。「これがあまりに心憂くて、いかに申(まう)すとも、始終の事(こと)はかなふまじ。法華問答講(ほつけもんだふかう)一定(いちぢやう)有(あ)るべくは、三年(みとせ)が命(いのち)を延(の)べてたてまつらん。それに不足(ふそく)におぼしめさば、力及(およ)ばず」とて、山王はあがらせおはします。
母上御心のうちの御立願なれば、人に語らせ給(たま)はず。「誰漏らしぬらん」とすこしもうたがふ方もましまさず。御心のうちの事共(ことども)をありのままに御託宣有(あ)りければ、いよいよ心肝(しんかん)に染みて、ことに貴くおぼしめして、泣く泣く申(まう)させ給(たま)ひけるは、「たとひ一日片時にてさぶらふとも、然(しか)るべうこそさぶらふに、まして三年が命を延べて賜はらん事(こと)こそ、誠(まこと)にありがたうさぶらへ」とて、泣く泣く御下向有(あ)りけり。やがて都へかへらせ給(たま)ひて、殿下の御領、紀伊の国に田中の荘といふ所(ところ)を、八王子の御社へ永代寄進せられけり。
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されば今の世にいたるまで、法華問答講毎日退転なしとぞ承る。
かかりしほどに、〔後〕二条の関白殿(くわんばくどの)御やまひかろませ給(たま)ひて、もとの如(ごと)くならせ給(たま)ふ。上下よろこび合(あ)はれしほどに、三年すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月二十一日、又(また)後二条の関白殿(くわんばくどの)、御髪のきはにあしき御瘡(おんかさ)出(い)できさせ給(たま)ひて、うち臥し給(たま)ひしが、同じき二十七日、御年三十八にて遂(つひ)にかくれさせ給(たま)ふ。御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人にておはしけれども、まめやかに事(こと)の急になりしかば、御命を惜しませ給(たま)ひけるなり。誠(まこと)に惜しかるべき四十にだにも満たせ給(たま)はで、大殿に先立(さきだち)参(まゐ)らせ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。必(かならず)父(ちち)を先立(さきだつ)べしといふ事(こと)はなけれども、生死のおきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、十地究竟(じふぢくきやう)の大士(だいじ)たちも、力(ちから)及(およ)ばぬ事共(ことども)なり。慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御とがめなかるべしともおぼえず。
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さるほどに、山門の大衆(だいしゆ)「国司師高流罪に処せられ、目代師経を禁獄(きんごく)せらるべき」よし奏聞度々に及(およ)ぶといへども、御裁許(ごさいきよ)なかりければ、十禅師(じふぜんじ)の[*この一字不要]、客人(まれうど)、八王子三社の神輿(しんよ)をかざり奉(たてまつ)りけるとぞ聞こえし。
第十句 神輿振り みこしふり
同じき四月(しぐわつ)十三日、日吉の祭礼をうちとどめて、陣頭へ振り奉(たてまつ)る。下り松、柳原、賀茂河原、河合、梅忠、東北院の辺に、白大衆(だいしゆ)、神人、宮仕、専当(せんだう)みちみちて、いくらといふ数を知らず。神輿(しんよ)は一条を西へ入らせ給(たま)ふに、御神宝は天にかがやき、「日月地に落ち給(たま)ふか」とおどろかる。これによ(ッ)て源平両家の大将軍に、「四方の陣頭をかためて、大衆(だいしゆ)をふせぐべき」由(よし)仰(おほ)せ下(くだ)さる。平家(へいけ)に
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は、小松(こまつ)の内大臣(ないだいじん)左大将(さだいしやう)重盛公、三千余騎(さんぜんよき)にて大宮面(おほみやおもて)の陽明(やうめい)・待賢(たいけん)・郁芳(いうはう)三(みつ)の門(もん)をかため給(たま)ふ。舎弟宗盛・知盛(とももり)・重衡(しげひら)、伯父(をぢ)頼盛(よりもり)・教盛(のりもり)・経盛(つねもり)なんどは、西、南の門をかため給(たま)ふ。
源氏には大内守護の源三位頼政さきとして、その勢わづかに三百余騎、北の縫殿の陣をかため給(たま)ふ。所(ところ)はひろし、勢はすくなし、まばらにこそ見えたりけれ。
山門〔の〕大衆(だいしゆ)、無勢たるによつて、北の門、縫殿の陣より神輿(しんよ)を入れ奉(たてまつ)らんとす。頼政はさる人にて、いそぎ馬よりおり、兜をぬぎて、手水うがひをして、神輿(しんよ)を拝し奉(たてまつ)る。兵どもも皆(みな)かくの如(ごと)し。頼政、大衆(だいしゆ)の中に言ひ遣(つか)はす旨有(あ)り。その使には渡辺の長七唱とぞ聞こえし。唱、其(その)日(ひ)の装束には、麹麈の直垂、小桜を黄にかへしたる鎧着て、赤銅づくりの太刀をはき、二十四さしたる白羽の矢負ひ、滋籐の弓わきにはさみ、兜をぬぎて高紐にかけ、神輿(しんよ)の御前にかしこまり、「しばらくしづまられ候へ。大衆(だいしゆ)の御中
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へ源三位入道殿(にふだうどの)の申(まう)せと候。『今度山門の御訴訟(ごそしよう)、御理運の条、勿論に候。但(ただし)御成敗遅々こそ、よそでも遺恨におぼえ候へ。されば神輿(しんよ)をこの門より入れ奉(たてまつ)るべきにて候ふが、しかもひらきて通し奉(たてまつ)る門より入らせ給(たま)ひて候ふものならば、山門の大衆(だいしゆ)は目だり顔しけりなんど、京童部(きやうわらんべ)の申(まう)さん事(こと)、後日の難にや候はんずらん。又(また)あけて入れ奉(たてまつ)れば、宣旨をそむくに似たり。ふせぎ奉(たてまつ)れば、医王山王に頭をかたぶけ奉(たてまつ)る身が、ながく弓矢の道にわかれなんず。かれといひ、これといひ、かたがたもつて難儀(なんぎ)にこそ候へ。東の陣頭は小松殿(こまつどの)大勢かため給(たま)ふ。それより入らせ給(たま)ふべうも〔や〕候ふらん』と申(まう)したりければ、唱がかく言ふにふせがれて、神人、宮仕しばらくここにひかへたり。若大衆(わかだいしゆ)、悪僧どもは、「なんでふその儀有(あ)るべき。唯(ただ)この陣より入れ奉(たてまつ)れ」と言ふやからもおほかりけれども、老僧どもの中に三塔一の僉議者(せんぎしや)と聞こえし摂津(つの)律師(りつし)【*竪者(りつしや)】豪運(がううん)、進(すす)み出(い)でて、
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「尤(もつとも)この儀言はれたり。われら神輿(しんよ)を先だてまゐらせて訴訟(そしよう)を致(いた)さば、大勢(おほぜい)の中(なか)を駆け破りてこそ後代の聞こえも有(あ)らんずれ。其上(そのうへ)この頼政は源氏嫡々の正統、弓矢をとりてはいまだその不覚を聞かず。およそ武芸にもかぎらず、歌道にも又(また)すぐれたり。近衛の院の御時、当座の御会有(あ)りしに、『深山の花』といふ題を出だされたりしに、人々皆(みな)詠みわづらひたりしに、この頼政、
深山木のそのこずゑとも見えざりし さくらは花にあらはれにけり
といふ名歌をつかまつり、御感にあづかるほどのやさ男に、いかが当座にのぞんで恥辱をあたふべき。この神輿(しんよ)をかきかへし奉(たてまつ)れや」と僉議(せんぎ)したりければ、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)、先陣(せんぢん)より後陣(ごぢん)にいたるまで皆(みな)、「尤(もつとも)、尤(もつとも)」と〔ぞ〕同じけり。
さて神輿(しんよ)をかきかへし奉(たてまつ)り、東の陣頭、待賢門より入れ奉(たてまつ)らんとするに、狼藉たちまちに出(い)できたりて、武士ども散々
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に射(い)奉(たてまつ)り、十禅〔師〕(じふぜんじ)の神輿(みこし)にも、矢ども数多(あまた)射(い)たてたり。神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりて、をめきさけぶ声、上は梵天までも聞こえ、下は堅牢地神もおどろきさわがせ給(たま)ふらんとぞおぼえける。神輿(しんよ)をば陣頭に振り捨て奉(たてまつ)りて、泣く泣く本山へこそ帰(かへ)りのぼりけれ。
同じき二十五日、院の殿上にて公卿僉議(くぎやうせんぎ)有(あ)り。「去んぬる保延【*保安】四年(しねん)四月(しぐわつ)【*七月】十三日、神輿(しんよ)入洛のとき、座主に仰(おほ)せて赤山の社へ入れ奉(たてまつ)る。又(また)保安【*保延】四年(しねん)七月【*四月(しぐわつ)】に、神輿(しんよ)入洛のときは、祇園の別当に仰(おほ)せて祇園の社へ入れ奉(たてまつ)る。今度は保安【*保延】の例たるべし」とて、祇園の別当に権大僧都(ごんだいそうづ)澄憲(ちようけん)に仰(おほ)せて、祇園の社へ入れ奉(たてまつ)る。山門の大衆(だいしゆ)、日吉の神輿(しんよ)を陣頭へ振り奉(たてまつ)る事(こと)、永久よりこのかた、治承までは六箇度なり。されども毎度武士を召してこそふせがせらるるに、かやうに神輿(しんよ)射(い)奉(たてまつ)る事(こと)は、これ始(はじめ)とぞ承る。「『霊神いかりをなせば、災害ちまたに満つ』といへり。おそろし、
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おそろし」とぞ、人々申(まう)し合(あ)はれけり。
山門の大衆(だいしゆ)おびたたしく下落すと聞こえしかば、主上腰輿に召して、夜の間に院の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。中宮(ちゆうぐう)は御車(おんくるま)に召して行啓有(あ)り。小松の大臣、直衣(なほし)[* 「なをい」と有るのを他本により訂正]に矢負うて供奉らせる。嫡子権亮少将維盛、束帯にえびら【*平(ひら)】やなぐひ負うて参られけり。京中の貴賎、禁中の上下さわぎののじる事(こと)おびたたし。されども山門には、神輿(しんよ)に矢たち、神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりしかば、「大宮、二の宮、講堂、中堂、一宇ものこさず焼きはらつて、山林にまじはるべき」よし、三千一同に僉議(せんぎ)す。
これによ(ッ)て、「大衆(だいしゆ)申(まう)す所(ところ)御ばからひ有(あ)るべし」と聞こえしほどに、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、其(その)時(とき)はいまだ左衛門督(さゑもんのかみ)たりしが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔会合して、上卿をひき張らんとす。「しや冠うち落(おと)し、その身をからめとつて湖に沈(しづ)めよ」なんどぞ申(まう)しける。時忠卿(ときただのきやう)さる人にて。いそぎふところより小硯、たたう紙
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を取り出(い)でて、思ふ事(こと)一筆書きて、大衆(だいしゆ)の中へ遣(つか)はす。これをあけて見るに、「衆徒(しゆと)の濫悪(らんあく)を致(いた)すは魔縁(まえん)の所行(しよぎやう)也(なり)。明王(みやうわう)の制止(せいし)を加(くは)ふるは、善逝の加護なり」とこそ書かれたれ。大衆(だいしゆ)これを見て、「尤(もつとも)、尤(もつとも)」と同じ、谷々へくだり、坊々へぞ入りにける。一紙一句をもつて、三塔三千のいきどほりをやすめ、公私の恥をのがれ給(たま)ひける時忠卿(ときただのきやう)こそゆゆしけれ。
同じき二十日、花山の院の中納言兼雅の卿、上卿にて、国司師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を獄定せらる。又(また)去んぬる十三日、神輿(しんよ)射(い)奉(たてまつ)りし武士六人禁獄(きんごく)せらる。これらは皆(みな)小松殿(こまつどの)の侍なり。
同じき四月(しぐわつ)二十八日、樋口富の小路より火出(い)できたりて、京中おほく焼けにけり。折節(をりふし)辰巳の風はげしく吹きければ、大きなる車輪の如(ごと)くなる炎が、三町、五町をへだてて、飛びこえ、飛びこえ、焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或(あるい)は具平親王
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の千種殿、或(あるい)は北野の天神の紅梅殿、橘の逸成の蠅松殿(はひまつどの)、鬼殿(おにどの)・高松殿(たかまつどの)・鴨居殿(かもゐどの)・東三条(とうさんでう)、冬嗣(ふゆつぎ)の大臣の閑院殿(かんゐんどの)、昭宣公(せうぜんこう)の堀河殿(ほりかはどの)、昔(むかし)、いまの名所三十四箇所、公卿の家だに十六箇所まで焼けにけり。殿上人、諸大夫の家々は記すに及(およ)ばず。遂(つひ)には内裏に吹きつけ、朱雀門より始(はじめ)て、応天門、会昌門、大極殿、豊楽門(ぶらくもん)【*豊楽院(ぶらくゐん)】、諸司八省、朝所にいたるまで、一時(ひととき)が内(うち)に灰燼(くわいじん)[* 「はいじん」と有るのを他本により訂正]の地(ち)とぞなりにける。家々(いへいへ)の日記(につき)、代々(だいだい)の文書(もんじよ)、七珍万宝(しつちんまんぼう)さながら麈灰(ちりはい)とぞなりぬ。その間(あひだ)の費えいかばかりぞ。人の焼け死ぬる事(こと)数百人、牛馬のたぐひ数を知らず。これただごとに有(あ)らず、「山王の御とがめ」とて、比叡山より大きなる猿ども二三千おり下りて、手々に松に火をともして、京中を焼くとぞ人の夢には見えたりける。
大極殿は貞観十八年に始(はじめ)て焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院(ぶらくゐん)にてぞ有(あ)りける。元慶元年四月(しぐわつ)九日、事(こと)始め有(あ)りて、同じき二年十月八日にぞ造り出だされける。
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天喜五年二月二十六日に、又(また)焼けにけり。治承(ぢしよう)【*治暦(ぢりやく)】四年(しねん)四月(しぐわつ)十五日に事(こと)始め有(あ)りしかども、いまだ造り出だされざるに、後冷泉院崩御なりぬ。後三条の院の御字、延久四年(しねん)四月(しぐわつ)十五日に造り出だされて、遷幸(せんかう)なし奉(たてまつ)り、文人詩を奉(たてまつ)り、伶人楽を奏しけり。いまは世の末になつて国の力もおとろへたれば、その後(のち)は遂(つひ)に造られず。


平家物語 百二十句本(国会図書館本)巻第二
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目録
第十一句 明雲座主流罪
 覚快法親王座主の事
 明雲俗名大納言の大夫藤井の松技
 根本中堂に至つて西光呪咀の事
 澄憲法印伝法
第十二句 明雲帰山
 大衆先座主奪ひ取るべき僉議
 十禅師権現御託宣
一行阿闍梨の沙汰
 九曜の曼陀羅
第十三句 多田の蔵人返り忠
 六波羅つはもの揃ひ
 新大納言成親拷問
 西光法師死去
 師高師経誅戮
第十四句 小教訓
 小松殿成親を乞ひ請くる事
 北野の天神の事
 宇治の悪左府実検の事
 難波瀬尾折檻の事
第十五句 平宰相少将乞ひ請くる事
 少将北の方烏丸宿所出でらるる事
 少将西八条屈請の事
 少将院の御所に御暇乞ひの事
 少将乞ひ請け安堵の事
第十六句 大教訓
 太政入道法皇を恨み奉る事
 小松殿西八条入御の事
 小松殿つはもの揃ひ
 褒似蜂火の事
第十七句 成親流罪・少将流罪
 新大納言配所に赴かるる事
 丹波の少将遠流の事
 有木の別所
 阿古屋の松の沙汰
第十八句 三人鬼界が島に流さるる事
 康頼出家
 熊野勧請
 祝 詞
 蘇 武
第十九句 成親死去
 成親出家
 源左衛門の尉信俊有木の別所へ使の事
 吉備津の中山において毒害の事
 新大納言北の方出家
 彗星の沙汰
第二十句 徳大寺殿厳島参詣
 藤の蔵人大夫意見の事
 大将の祈誓
 厳島の内侍実定の卿を送り奉る事
 実定の卿大将成就の事
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平家物語 巻第二
第十一句 明雲座主流罪
治承元年五月五日、天台座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、公請を停止せられけるうへ、蔵人をつかはして、如意輪の御本尊を召しかへし、護持僧を改易せらる。そのうへ、庁使をつけて、今度神輿を内裏へ振り奉(たてまつ)る衆徒の張本を召されける。「加賀の国に座主の御坊領あり。師高是(これ)を停廃のあひだ、門徒の大衆寄りて、訴訟をいたす。すでに朝家の御大事におよぶ」よし西光法師父子が無実の讒訴によつて、「ことに重科に処せらるべき」よし聞(き)こえけり。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう)の御気色あしかり
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ければ、印鑰(いんやく)をかへし奉(たてまつ)りて、座主を辞し申さる。
同じき、十一日、鳥羽の院の七の宮、覚快法親王を天台座主になし奉(たてまつ)らせ給ふ。是(これ)は青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。
同じき十二日、前の座主所職をとどめ/らる。検非違使二人に仰せて、火を消し、水にふたをして、水火の責におよぶ。是(これ)によつて、大衆参洛すと聞(き)こえしかば、京中またさわぎあへり。
同じき十三日、太政大臣以下の公卿十三人参内して、陣の座につき、前の座主罪科のこと議定あり。八条の中納言長方[* 「なりかた」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)、そのときはいまだ左大弁の宰相にて、末座に侍はれけるが、「法家の勘状にまかせて、死罪一等を減じて、遠流せらるべきよし見えて候へども、先座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、顕密兼学して、淨戒持律(じやうかいぢりつ)のうへ、大乗妙経(だいじようめうきやう)を公家(くげ)にさづけ奉(たてまつ)り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう)に保たせ奉(たてまつ)る。かつうは御経の師なり、かつうは御戒の師なり。かたがたもつて重科におこなはれんこと、冥の照覧はかりがたし。されば、還俗
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遠流をばなだめらるべきか」と申されたりければ、当座の公卿みな「長方[* 「なりかた」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)の儀に同ず」と申しあはれけれども、法皇(ほふわう)御いきどほりふかかりければ、なほ遠流にさだめらる。太政入道も、「このこと申しなだめん」とて、院参せられたりけれども、法皇(ほふわう)をりふし御風の気とて、御前にも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。
僧を罪するならひとて、度縁を召しかへして還俗せさせ奉(たてまつ)り、「大納言の大夫藤井の松枝」といふ俗名をこそつけられけれ。
この明雲(めいうん)と申すは、村上の天皇第七の皇子、〔具〕平親王より六代の御末、久我の大納言顕通の卿(きやう)の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣もたつとみ給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍の泰親が申しけるは、「さばかりの智者の『明雲(めいうん)』と名のり給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべ、下に雲あり」とぞ難じける。仁安元年二月二十日、
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天台座主にならせ給ふ。同じき三月十五日、御拝堂ありけり。中堂の宝殿を開かれけるに、方一尺の箱あり。白き布にてつつまれたり。一生不犯の座主、かの箱をあけて見給ふに、中に黄なる紙に書ける文一巻あり、伝教大師、未来の座主の御名をかねて記しおかれたり。わが名のある所(ところ)まで見て、それより奥をば見給はず、もとのごとくに巻きかへしておかるるならひなり。さればこの僧正もさこそはおはしけめ。かかるたつとき人なれども、先世の宿業をばまぬかれ給はず。あはれなりし事どもなり。
同じき二十二日、『配所伊豆の国』と定めらる。人々様々に申されけれども、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、か様にはおこなはれけるなり。「やがて今日都を出ださるべし」とて、追立の官人、白河の御坊へ行きむかひて追立てまつる。僧正泣く泣く御坊を出でさせ給ひて、粟田口のほとり、一切経の別所へ入らせおはします。
山門には大衆起りて、僉議(せんぎ)しけるは、「所詮われらが敵は西光法師
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にすぎたる者なし」とて、かれらが親子の名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)りて、「十二神将、七千の夜叉(やしや)、時刻をめぐらさず西光父子が命を召しとり給へや」と、をめき叫びて呪詛しけるこそ聞くもおそろしけれ。
同じき二十三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひける。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立武士がまへに蹴たてさせて、今日をかぎりに都を出でて関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられてあはれなり。大津の打出の浜にもなりければ、文殊楼の軒端のしろしろとして見えけるを、二目とも見給はず、袖を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。
祇園の別当澄憲法印、そのときはいまだ権大僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉(たてまつ)りて、泣く泣く粟津まで送りまゐらせて、それよりいとま申してかへられけり。明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、心ざし
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の切なることを感じて、としごろ心中に秘せられける天台円宗の法門、一心三観の血脈相承の輪を、澄憲にさづけられけるとかや。
この法は釈尊の付属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹(りゆうじゆ)菩薩(ぼさつ)より、次第に相伝し来たれるを、今日のなさけにさづけらる。わが朝は粟散辺地(そくさんへんぢ)の域、蜀世末代といひながら、澄憲に付属して、法衣のたもとをしぼりつつのぼられし心のうちこそたつとけれ。
〔第十二句 明雲(めいうん)帰山〕[* この句名なし]
山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義信和尚よりこのかた、天台座主はじまりて、五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年十月に、皇帝は帝都をたて、大師
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は当山によぢのぼり、四名の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)絶えて、三千の淨侶居を占めたり。峰には、一乗読誦(いちじようどくじゆ)年(とし)ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊驗(れいげん)日(ひ)新(あらた)なり。かの月氏の霊山(りやうぜん)は、王城(わうじやう)の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽窟なり。是(これ)日域の叡岳も、帝都の鬼門にそばだつて、護国の霊地なり。されば代々の賢王(けんわう)智臣(ぢじん)も、この所(ところ)にして壇場を占む。いはんや末代といふとも、いかでかわが山にきずをつくべき。心憂し」と申すほどこそあれ、満山の大衆のこりとどまる者なく、東坂本へおりくだり、十禅師(じふぜんじ)の御前(おんまへ)にて僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、粟津のほとりに行きむかつて、貫首をうばひとどむべきなり。ただし、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われらに一つの瑞相を見せしめ給へ」と、おのおの肝胆をくだき祈念しけり。
ここに、無動寺の法師の中に、乗円律師が童に、鶴丸とて十八歳
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になりしが、身心くるしみ、五体に汗を流(なが)して、にはかに狂ひ出でたり。「われに十禅師権現乗りゐさせ給へり。末代といふとも、いかでかわが山の貫首を他国へは移さるべき。生々世々に心憂し。さらんにとつては、われこの麓(ふもと)に跡をとどめてもなにかせん」とて、双眼より涙をはらはらと流(なが)す。大衆大きにあやしみて、「まことに十禅師の御託宣にてましまさば、われらにしるしを見せ給ひて、もとの主へかへし給へ」とて、しかるべき老僧ども数百人、面々に持ちたる念珠(ねんじゆ)を、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)のうへへぞ投げあげける。かの物狂(ものぐる)ひ走りまはり、ひろめあつめて、すこしもたがはずいちいちにもとの主にぞくばりける。大衆、神明霊験のあらたなることのたつとさに、みな随喜の涙をぞ流(なが)しける。
「その儀ならば、行きむかつて貫首をうばひ奉(たてまつ)れや」と言ふほどこそあれ、雲霞(うんか)の如(ごと)く発向(はつかう)す。或(あるい)は志賀(しが)、辛崎(からさき)の浜路に歩(あゆ)みつづきける大衆もあり、或(あるい)は山田、矢橋の湖上に船おし出だす
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衆徒(しゆと)もあり。おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使、座主をば国分寺に捨ておき奉(たてまつ)り、われ先にと逃げ去りぬ。
大衆国分寺へ参りむかふ。先座主大きにおどろき給ひて、「『勅勘の者は月日の光だにもあたらず』とこそ承れ。いかにいはんや、『時刻をめぐらさず、いそぎ追ひ出だすべし』と、院宣のむねなるうへ、暫時もなずらふべからず。衆徒とくとくかへりのぼり給へ」とて、端近う出でてのたまひけるは、「三台槐門(さんだいくわいもん)の家(いへ)を出(い)でて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓(まど)に入(い)りしよりこのかた、ひろく円宗の教法を学し、顕密(けんみつ)の両宗(りやうしゆう)をつたへて、わが山の興隆をのみ思へり。また国家を祈り奉(たてまつ)ることもおろかならず。衆徒をはごくむ心ざしふかかりき。両所三聖、山王七社、さだめて照覧(せうらん)し給(たま)ふらん。身(み)にあやまることなし。無実の罪によ(ッ)て遠流の重科をかうぶる、先世の宿業なれば、世をも、人をも、神をも、仏をも恨み奉(たてまつ)ることなし。是(これ)まで
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とぶらひきたり給ふ衆徒の芳志(はうじ)こそ、申しつくしがたけれ」とて、香染の袖をぞしぼられける。大衆もみな袖をぞぬらしける。
さて御輿をさし寄せて、「とくとく」と申せば、「昔こそ三千貫首たりしか、いまはかかる流人の身となりて、いかでかやんごとなき修学者たちにかきささげられてはのぼるべき。たとへのぼるべきにてありとも、藁沓(わらんず)なんどいふものを履いて、同じやうに歩(あゆ)みつづきてこそのぼらめ」とて乗り給はず。
ここに西塔の法師、戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。長七尺ばかりありけるが、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の大荒目(おほあらめ)なるを草摺り長に着なし、兜をばぬぎて、白柄の長刀わきばさみ、「ひらかれ候へ」とて大衆の中をおしわけおしわけ、先座主(せんざす)の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あつぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主(せんざす)あまりのおそろしさにや、いそぎ乗り給ふ。
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大衆取り得奉(たてまつ)るうれしさに、いやしき法師、童にあらねども、修学者たち、をめき叫んでかきささげのぼりけるに、人はかはれども祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。
大講堂の庭に輿かきすゑて、大衆僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、勅勘をかうぶりて流罪せられ給ふ人を取りかへし奉(たてまつ)り、わが山の貫首にもちひ申さんこと、いかがあるべき」と言ひければ、戒淨坊の阿闍梨(あじやり)さきのごとくにすすみ出でて、「夫(それ)当山(たうざん)は日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)なり。山王の御威光さかんにして、仏法、王法牛角なり。されば衆徒の意趣にいたるまでならびなし。いやしき法師ばらまでも、世もつてかろんぜず。いはんや知恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行おもくして一山の和尚たり。罪なくして罪を
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かうぶること、是(これ)山上(さんじやう)、洛中(らくちゆう)のいきどほり、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけり)にあらずや。このとき顕密のあるじを失つて、修学の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらんこと心憂かるべし。今度祐慶張本に称ぜられ、いかなる禁獄、流罪にもせられ、首をはねられんこと、今生の面目、冥途のおもひでたるべし」とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。大衆みな、「もつとも、もつとも」とぞ同じける。それよりしてこそ祐慶をば「いかめ坊」とは言はれけれ。
先座主は、東塔の南谷妙光坊へおき奉(たてまつ)りけり。
[* ここに「一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)之(の)沙汰(さた) 底本 一きやうあしやりのさた」の句名有り]
時の横災は権下の人ものがれ給はざりけるにや。昔(むかし)大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、大国も、小国も、人の口のさがなさは、后楊貴妃に名をたて給ふ。あとかたなきことなれども、そのうたがひによ(ッ)て、果羅国へ流(なが)され給ふ。くだんの国には三つの道あり。「臨地道」とて御幸の道、「遊地道」とて雑人のかよふ道、「闇穴道」とて重科の者をつかはす道なり。
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この闇穴道と申すは、七日七夜、月日の光を見ずして行く所(ところ)なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、くだんの闇穴道へつかはさる。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、森々として、山深し、只(ただ)澗谷(かんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。
無実の罪によつて遠流の重科をかうぶることを、天道あはれみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)をまぼり給ふ。ときに一行(いちぎやう)右の指をくひ切りて、左の袖に九曜のかたちをうつされけり。和漢両朝に真言の本尊たる「九曜の曼荼羅」是(これ)なり。
第十三句 多田の蔵人返り忠
先座主を大衆取りとどめ奉(たてまつ)るよし、法皇(ほふわう)聞(き)こしめして、やすからずぞおぼしめされける。西光法師申しけるは。「昔(むかし)より
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山門の大衆みだりがはしき訴へをつかまつることは、いまにはじめずと申せども、是(これ)ほどのことは承りおよばず。もつてのほかに過分に候(さうらふ)。是(これ)を御いましめなくは、世は世にては候ふまじ。よくよくいましめ候ふべし」とぞ申しける。わが身のただいま亡びんずることをもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、「讒臣(ざんしん)国(くに)を乱す」とは、か様のことをや申すらん。
大衆「王地に孕まれて、さのみ詔命(ぜうめい)を対かんせんもおそれなり」とて、内々院宣にしたがひ奉(たてまつ)る衆徒もありと聞(き)こえしかば、先座主妙光坊にましましけるが、「つひにいかなる目にやあはんずらん」と、心ぼそうぞおぼしめしける。されども流罪はなだめられけるとかや。
新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は、山門の騒動により、わたくし宿意をばおさへられけり。日ごろの内議支度はさまざまなりしかども、議勢ばかりにて、させる事しいだすべしともおぼえざりければ、むねとたのま
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れける多田の蔵人行綱、「このこと無益なり」と思ふ心ぞつきにける。成親(なりちか)の卿(きやう)のかたより「弓袋の料に」とておくられたる白布ども、家の子郎等が直垂、小袴に裁ち着せてゐたりけるが、「つらつら平家の繁昌を見るに、たやすくかたぶけがたし。よしなきことに与してんげり。もしこのこと漏れぬるものならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬさきに、返り忠して、命生きん」と思ふ心ぞつきにける。
五月二十五日の夜ふけ人しづまつて、入道(にふだう)相国(しやうこく)の宿所西八条へ、多田の蔵人行きむかつて、「行綱こそ申し入るべきこと候うて参りて候へ」と申し入れたりければ、「なにごとぞ。聞け」とて、主馬の半官盛国を出だされたり。行綱「まつたく人してかなふまじきにこそ」と申すあひだ、入道(にふだう)中門の廊に出であひ対面あり。「こよひははるかにふけぬらんに、ただ今なにごとに参りたるぞ」とのたまへば、「さん候(ざうらふ)。昼は人目しげう候ふほどに、夜にまぎれて参り
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候(さうらふ)。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)、そのほか院中の人々このほど兵具をととのへ、軍兵をあつめられしこと、聞(き)こしめされ候ふや」。入道(にふだう)「いさ、それは山門の衆徒攻めらるべしとこそ聞け」と、こともなげにのたまへば、行綱近うゐよりて、「さは候はず。御一家を滅ぼし奉(たてまつ)らんずる結構とこそ承り候へ」と申せば、「さて、それは法皇(ほふわう)も知ろしめされたるか」。「子細にやおよび候ふ。大納言の軍兵をもよほされしことも、『院宣』とてこそもよほされ候ひしか」、「俊寛が、と申して」、「西光が、かう申して」と、ありのままにさし過ぎさし過ぎ、いちいちに申せば、入道(にふだう)大音をもつて侍ども呼びののじり給ふ。聞くもまことにおびたたし。行綱「よしなきこと申し出だして、ただ今証人にやひき出だされんずらん」と思ひければ、大野に火をはなちたる心地して、いそぎ門外へぞ逃げ出づる。
入道(にふだう)、筑後守貞能を召して、「やや、貞能。京中に謀叛の者みちみちたり。一向当家の身のうへにてあんなるぞ。一門の人々呼びあつめよ。
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侍ども召せ」とのたまへば、馳せまはつて披露す。馳せあつまる人々には、右大将宗盛、三位の中将(ちゆうじやう)知盛、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓矢をたいして馳せあつまる。夜中に西八条に兵六七千騎もやあらんとぞ見えし。
あくれば六月一日、いまだ暗かりけるに、入道(にふだう)、検非違使阿倍の資成を召して、「やや、資成。御所へ参りて、大膳大夫信業呼び出だして申さんずる様は、『このごろ、近う召しつかひ候ふ人々、あまりに朝恩にほこり、あまつさへ世をみださんとの結構どもにて候ふなるを、たづね沙汰つかまつり候はんことをば、君は知ろしめされまじう候(さうらふ)』と申せ」とのたまひければ、資成御所へ参りて、大膳大夫を呼び出だして、この様を申しけり。信業色をうしなひ、御前へ参りてこのよし奏しければ、法皇(ほふわう)ははや御心得あつて、「あつぱれ、是(これ)が内々はかりしことの漏れけるよ」とぞおぼしめされける。「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の
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御返事もなかりけり。資成やや久しう待ちまゐらせけれども、そののちはさして仰せ出ださるむねもなかりければ、資成走りかへりて、「かうかう」と申(まう)せば、入道(にふだう)相国(しやうこく)「さればこそ、君も知ろしめされたり。行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)安穏(あんをん)にあるべしや」とて、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、からめとるべき者を下知せられければ、二百騎、三百騎、押し寄せ、押し寄せ、からめとる。
まづ雑色をもつて中の御門の新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)のもとへ、「きつと申しあはすべきことあり。立ち入り給へ」と言ひつかはしたりければ、大納言「あつぱれ、是(これ)は山門の衆徒攻めらるべきこと、申しゆるさんためにこそ。法皇(ほふわう)いきどほり深ければ、いかにもかなふまじきものを」とて、わが身の上とはつゆほども知らず、うちきよげなる布衣をたをやかに着なして、八葉の車のあざやかなるに乗り、侍四五人召し具し、雑色、舎人、牛飼ひにいたるまで、つねの出仕
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よりもひきつくろひてぞ出でられける。そもそも最後とは、のちにて思ひあはせける。西八条近うなつて、兵どもあまた町々にみちみちたり。「あなおびたたし。こはなにごとやらん」と、車よりおり、門をさし入り見給へば、内に兵どもひしと並みゐたり。
中門の外に、おそろしげなる者ども二人たちむかひ、大納言の左右の手をひつぱり、たぶさとつてひき臥せ奉(たてまつ)る。「いましむべう候ふやらん」と申しければ、入道(にふだう)「あるべうもなし」とのたまふ。とつてひき起こし奉(たてまつ)り、一間なる所(ところ)におし籠めて、兵是(これ)を守護したり。大納言夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供にありつる侍ども、散々になり、雑色、牛飼ひも、牛、車をすてて逃げうせぬ。
さる程(ほど)に、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)、平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、捕へて出できたる。西光法師もこのことを聞いて、院の御所法住寺殿へ鞭をあげて馳せ参る。平家の侍ども道にて行きあひ、「西八条殿へきつと参ら
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るべし。たづね聞(き)こしめすべきことあるぞ」と言ひければ、「是(これ)も法住寺殿へ奏すべきことありて参るなり」とて、通らんとしけるを、「にくい奴かな。さな言はせそ」とて、馬よりとつて引き落とし、宙にくくつて西八条に参り、坪のうちにひきすゑたり。
入道(にふだう)いかつて、「しやつ、ここへひき寄せよ」とて縁のきはへひき寄せさせ、「天性おのれが様なる下臈(げらふ)のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなし、父子ともに過分のふるまひして、あやまたぬ天台座主を流罪に申しおこなふ。あま(ッ)さへ入道(にふだう)をかたぶけんとす。奴ばらがなれる姿よ。ありのままに申せ」とぞのたまひける。
西光もとより剛の者なれば、ちとも色も変せず、わろびれたる気色もなく、居なほりて申しけるは、「さもさうずとよ。院中に召しつかはるる身なれば、執事別当新(しん)大納言(だいなごん)の『院宣』とてもよほされしことに、『与せず』とは申すまじ。それは与したり。ただし耳に
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とまることのたまふものかな。他人のことをば知らず、西光がまへにて過分のことをばえこそ言はれまじけれ。見ざりしことかとよ。御辺は刑部卿(きやう)の嫡子にてありしかども、十四五までは出仕もせず、故中の御門の家成の卿(きやう)の辺にたちよりしを、京童が『高平太』とこそ笑ひしか。そののち保延のころかとよ。忠盛の朝臣備前より上洛のとき、海賊の張本三十余人[* 「三十四人」と有るのを他本により訂正]からめ参られし勲功の賞に、御辺は十八か九にて、四位して兵衛佐と申せしをだに、過分とこそ時の人申しあはせられしか。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫の、太政大臣までなりあがりたるや過分なるらん。侍ほどの者の、受領、検非違使になること、先例、傍例なきにあらず。などあながちに過分なるべき」と、はばかる所(ところ)なく申しければ、入道(にふだう)あまりにいかつて、そののちは物をものたまはず。「しやつが首、左右なう切るべからず。よくよくいましめよ」とぞのたまひける。足手をはさみさまざまに痛め問ふ。西光もとより陳じ申(まう)さぬうへ、糾問(きうもん)はきびしく、
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残りなうこそ申しけれ。白状四五枚に記させ、やがて口をぞ裂かれける。つひに五条西の朱雀にてぞ切られける。
その〔子(こ)〕師高、尾張の井戸田へ流(なが)されたりけるを、討手をつかはして誅(ちゆう)せらる。弟近藤(こんどう)判官(はんぐわん)師経(もろつね)、獄定せられたりしを召し出だされ、首を刎ねられ、その弟(おとと)師平(もろひら)ともに切られ、郎等(らうどう)二人(ににん)、同(おなじ)く首(くび)を刎ねられけり。天台座主流罪に申しおこなひ、十日のうちに山王大師の神罰、冥罰をたちまちにかうぶつて、あとかたもなく滅びけるこそあさましけれ。
新(しん)大納言(だいなごん)、一間なる所(ところ)におし籠められ、「是(これ)は日ごろのあらましごとの漏れ聞(き)こえたるにこそ。たれ漏らしけん。さだめて北面のうちにぞあるらん」と、思はぬことなう案じつづけておはしける所(ところ)に、内のかたより、足おとたからかに踏みならしつつ、大納言のうしろの障子をざつとあけられたり。
入道(にふだう)相国(しやうこく)、もつてのほかにいかれる気色にて、素絹の衣のみじかやか
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なるに、白き大口踏みくくみ、聖柄の刀まへだれにさしはらし、しばらくにらまへて立たれたり。ややありて、「さても御辺をば、平治の乱れのとき、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府が様々に申して、御辺の首をば継ぎ奉(たてまつ)り候ひしぞかし。それになにの遺恨あれば、この一門ほろぼすべき御結構は候ひけるぞ。されども、当家の運尽きぬによりて、是(これ)まで迎へ奉(たてまつ)る。日ごろの結構の次第、ただ今直にうけたまはり候はん」とのたまへば、大納言「まつたくさること候はず。人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御たづねあるべう候(さうらふ)」とぞ申されける。入道(にふだう)、言はせもはてず、「人やある」と召されけり。筑後守参りたり。「西光が白状持つて参れ」とのたまへば、やがて持つて参る。おし返し、おし返し、二三返読み聞かせ、「あらにくや。このうへは、されば、なにと陳ずるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をはたとたててぞ出でられける。
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入道(にふだう)なほも腹をすゑかね給ひて、「経遠。兼康」と召されければ、難波の次郎、瀬尾の太郎参りたり。「あの男、とつて庭へひきおろせ」とぞのたまひける。二人の者どもかしこまつて侍ひけるが、「小松殿の御気色いかがあるべう候ひなん」と申しければ、「よしよし。さればなんぢらは内府が命をおもくして、入道(にふだう)が仰せをかろんずるござんなれ」とのたまへば、「あしかりなん」とや思ひけん、大納言のもとどりをとつて、庭へひきおろし奉(たてまつ)る。とつておさへて、「いかやうにも懲(こら)す[* 「ころす」と有るのを他本により訂正]べうや候ふ」と申せば、「ただ、をめかせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、耳に口をあて、「いかやうにも御声を出だすべう候(さうらふ)」とささやきて、もとどりをとつておし臥せ奉(たてまつ)る。二声三声ぞをめかれける。或(あるい)は業の秤にかけ、或(あるい)は浄頗梨(じやうはり)の鏡にひきむけ、娑婆世界の罪人を、罪の軽重によ(ッ)て、阿防、羅刹どもが呵責すらんもかくやとぞおぼえたる。たとへば、「蕭樊(せうはん)とらはれ、韓彭(かんはう)すしびしほにせらる。兆錯(てうそ)戮(りく)をうく。
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周魏(しうぎ)つみせらる。蕭何(せうか)・樊噌(はんくわい)・韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)、是等(これら)はみな漢の高祖の忠臣なりしかども、小人の讒言によ(ッ)て過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうく」と言へり。大納言「わが身のかくなるにつけても、子息丹波の少将以下いかなる目にかあはん」と、くやまれけるぞいとほしき。さしもあつき六月に、装束をだにもくつろげず、胸せきあぐる心地して、一間なる所(ところ)におし籠められて、汗もなみだもあらそひ流れつつましましけり。
第十四句 小教訓
さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあつて車に乗り、嫡子権亮少将、車のしり輪に乗せ奉(たてまつ)り、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやう
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げにてぞおはしける。車よりおり給ふ所(ところ)に、筑後守貞能つつと参り、「など、是(これ)ほどの御大事に、軍兵をば召し具せられ候はずや[* 「候はんや」と有るのを他本により訂正]」と申しければ、小松殿「『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうへに、蜘手(くもで)結(ゆ)うたる所(ところ)あり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄にて罪人が地蔵菩薩を見奉(たてまつ)るらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。
大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ 遇ひ候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候(さうらふ)。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもつて首をつぎ、位正二位、官大納言
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にいたつて、すでに四十にあまり候(さうらふ)。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひ奉(たてまつ)るまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命は代り奉(たてまつ)るべし」とて出でられけり。
大臣、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ばからひいるべう候(さうらふ)。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白河(しらかは)の院(ゐん)に召しつかはれてよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたつて、当時(たうじ)君(きみ)の無双(ぶさう)の\御(おん)いとほしみなり。左右なう首を刎ねられんこと、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんには、こと足り候ひなん。かくはまた聞(き)こしめすとも、もしそらごとにても候はば、いよいよ不便のことに
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候(さうらふ)」
「北野の天神は、時平の大臣の讒奏(ざんそう)により憂き名を西海の波に流(なが)し、西の宮の大臣(おとど)は、多田の満仲が讒言によ(ッ)て恨みを山陽の雲に寄す。是(これ)みな無実なりしかども、流罪せられ候ひき。延喜の聖代、安和の帝の御ひが事ぞ承る。上古なほかくのごとし。いはんや末代においてをや。賢王なほ御あやまりあり、いはんや凡人においてをや。すでに召し置かれ候ふうへは、いそぎ失はれずとも、なにのくるしきことの候ふべき。『罪のうたがひをば軽くせよ。功のうたがひをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。重盛かの大納言が妹にあひ連れて候(さうらふ)。維盛また大納言の聟(むこ)なり。『か様にしたしければ申す』とやおぼしめされん、まつたくその儀にて候はず。ただ世のため人のためを存じてかやうに申し候ふなり」
「一年保元に故小納言入道(にふだう)信西が執権のときにあひ当つて、嵯峨の天皇の御宇、右兵衛尉藤原の仲成(なかなり)が誅(ちゆう)せられてよりこのかた、
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『死罪ほど心憂きことなし』とて、君二十五代のあひだ絶えておこなはれざる死罪を、信西はじめておこなひ、宇治の悪左府のしかばねを堀りおこし実検せしことどもをば、あまりなるまつりごととこそおぼえ候しか。されば、いにしへの人にも『死罪をおこなはるれば海内に謀叛のともがら絶えず』とこそ申しつたへて候へ。そのことばにつきて、なか二年ありて、平治に事いできて、信西が生きながら埋もれしを掘り出だし、首を刎ねられ、大路をわたされて、『保元に申しおこなひしことの、いく程もなうて身のうへに報ひ候ひにき』と思へば、おそろしうこそ候ひしか。是(これ)はさせる朝敵にもあらず。かたがたおほそれあるべし。御栄華残る所(ところ)なければ、おぼしめすことあるまじけれども、子々孫々の繁昌をこそあらまほしう候へ。『父祖の善悪は、必(かなら)ず子孫に報ふ』と見えて候(さうらふ)。『積善(しやくぜん)の家(いへ)には余慶(よけい)あり、積悪(しやくあく)の門(かど)には余殃(よあう)とどまる』とこそ承り候へ。かの大納言、今夜失はれ候はんこと、しかるべうも候はず」と申さ
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れたりければ、入道(にふだう)「げにも」とや思はれけん、死罪をば思ひとどまり給ひけり。
大臣中門の廊におはして、侍どもにむかつて仰せけるとて、「なんぢら、あの大納言左右なう切ることあるべからず。入道(にふだう)腹の立ちのまま、ひが事しいだして、必(かなら)ず悔み給ふべし。ものさわがしきことしいだして、重盛うらむな」とのたまへば、武士ども舌を振りて、をののきあへり。
「さても、今朝、経遠、兼康が大納言に情なうあたりけること、かへすがへすも奇怪なり。重盛がかへり聞かん所(ところ)を、などかはばからざらん。片田舎の者どもは、いつもかくあるぞ」とのたまへば、難波の次郎、瀬尾の太郎もふかく恐れ入りたりけり。大臣は、かく下知して小松殿へぞかへられける。
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第十五句 平宰相、少将乞ひ請くる事
大納言の侍ども、中の御門烏丸の宿所へ走りかへり、このよしいちいちに申せば、北の方以下の女房たちも、をめきさけび給ひけり。「『少将殿をはじめまゐらせて、公達もとられさせ給ふべし』とこそ承り候へ。上をば『夕さり失ひまゐらすべし』と候(さうらふ)。是(これ)へも追捕(ついぶ)[* 「ついふく」と有るのを他本により訂正]の武士どもが参りむかひ候ふなるに、いづちへもしのばせ給はでは」と申せば、「われ残りとどまる身として、安穏にてはなにかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えんこそ本意なれ。さても今朝をかぎりと思はざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。すでに追捕(ついぶ)[* 「ついふく」と有るのを他本により訂正]の武士どもの近づくよしを申しければ、「さればとて、ここにてまた恥がましき目をみんもさすがなり」とて、十になり給ふ姫君、八つになり給ふ若君、車にとり乗り給ひて、いづくともなく
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やり出だす。中の御門を西へ、大宮をのぼりに北山のほとり雲林院へぞ入れまゐらせける。そのほとりなる僧坊におろし置き奉(たてまつ)り、御供の者どもも、身の捨てがたさに、たれに申しつけおき奉(たてまつ)るともなく、いとま申してちりぢりになりにけり。いまは幼き人々ばかり残りとどまつて、またこととふ人もなくてぞおはしける。
北の方の心のうち、おしはかられてあはれなり。暮れゆくかげを見給ふにつけても、「大納言の露の命、この暮れをかぎり」と思ひやるにも消えぬべし。いくらもありつる女房、侍ども、世におそれ、かちはだしにてまどひ出づ。門をだにもおしたてず。馬どもは厩(むまや)にたて並びたれども、草飼ふ者も見えず。夜あくれば、馬、車、門にたて並べ、賓客座につらなり、あそびたはぶれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はずこそ昨日まではありしに、夜(よ)の間(ま)にかはるありさまは、「生者必滅」のことわりは目の前にこそあらはれけれ。「楽しみ
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尽きて、悲しみ来る」と江相公の筆のあと、思ひ知られてあはれなり。
丹波の少将は、院の御所法住寺殿に上臥して、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、いそぎ法住寺殿へ参りて、少将を呼び出だし奉(たてまつ)り、「上は西八条に今朝すでにおし籠められさせ給ひぬ。公達もみなとらはれさせ給ふべしとこそ承り候へ」と申せば、少将「など、さらば、それほどのことをば宰相のもとよりは告げざるやらん」とのたまひもはてぬに、つかひあり。「なにごとにて候ふやらん、西八条より『きつと具し奉(たてまつ)れ』と候(さうらふ)。いそぎ出でさせ給へ」と申しければ、少将やがて心得て、院の近習の女房たち呼び出だし奉(たてまつ)り、「などやらん、世の中ゆふべよりものさわがしく候ひしを、『いつもの山法師のくだるか』なんどよそに思ひて候へば、はや成経(なりつね)が身(み)のうへにて\候(さうら)ふなり。大納言(だいなごん)夕さり失はれ候(さうら)はんなれば、成経(なりつね)も同罪にてこそ候はんずらめ。八歳のとき
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より御所へ参りはじめ、十二より朝夕龍顔(りゆうがん)に近づきまゐらせ、朝恩にのみあきみちてこそ候ひつるに、今いかなるめにあふべく候ふやらん。今、御所へも参り、君をも見まゐらせたう候へども、かかる身に罷(まか)りなりて候へば、はばかりを存ずるなり」とぞ申されける。
女房たち、いそぎ御所へ参り、このよしを奏せらる。「さればこそ、今朝入道(にふだう)がつかひにはや心得つ。是等(これら)が内々はかりしことのあらはれぬるにこそ。さるにても、成経是(これ)へ」と御気色ありければ、世はおそろしけれども、参られたり。法皇(ほふわう)御覧じて、御涙にむせばせおはします。上より仰せ出でらるるむねもなし。少将も涙にかきくれて、御前をまかり出づ。法皇(ほふわう)、うしろをはるかに御覧じおくらせ給ひて、「ただ末の世こそ心憂けれ」と、「是(これ)がかぎりにて、御覧ぜられぬこともやあらんずらん」とて、御涙を流(なが)させ給ふぞかたじけなき。少将、御所をまかり出でられけるに、院中の
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人々、少将のたもとをひかへ、袖をひき、涙を流(なが)さぬはなかりけり。
少将は舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方、近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこのなげきうちそへて、すでに命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられけるより、ながるる涙つきせぬに、この北の方のありさまを見給ひては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将の乳母に、六条といふ女房あり。少将の袖をとり、「御産屋のうちより参りはじめ、君をそだてまゐらせて、わが身の年ゆくをも知らず、去年より今年は大人しくならせ給ふことのみ、うれしと思ひまゐらせて、すでに二十一年なり。あからさまにもはなれまゐらせず。院内へ参らせ給ひて、おそく出でさせ給ふだにも、心もとなく思ひまゐらせつるに」とて泣きければ、少将「いたうな嘆きそ。宰相殿のさてもおはしければ、命ばかりはなどか申しうけられざらん」と、こしらへなぐさめ給へ
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ども、六条、人目も知らず泣きもだえけり。
さるほどに、西八条より「少将おそし」といふ使しきなみのごとし。宰相「ともかくも行きむかうてこそ」とて出でられけり。少将をも同じ車に乗せてぞ出で給ふ。宿所には女房たち、亡き人なんどをとり出だす心地して、みな泣きふし給ひけり。保元、平治よりこのかた、たのしみさかえはありしかども、憂きなげきはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき聟(むこ)ゆゑに、かかるなげきはせられけれ。西八条近うなりければ、宰相車をとめて、まづ案内を申し入れられければ、入道(にふだう)「少将はこの内へはかなふまじ」とのたまふあひだ、そのへん近き侍の宿所におろし奉(たてまつ)り、兵ども守護しけり。宰相には離れ給ひぬ、少将の心のうちこそかなしけれ。
宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん)にましまして、入道(にふだう)相国(しやうこく)に見参に入らんとし給へども、入道(にふだう)相国(しやうこく)出でもあはれず。源(げん)大夫(だいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて申されけるは、「よしなき者にしたしうなり候ひて、かへすがへすも悔しく候へども、
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今はかひも候はず。そのうへあひ具して候ふ者、近う産すべきとやらん承り候ふが、このほどまた悩むこと候ふなるに、このなげきを今朝よりうちそへて、身々ともならぬさきに、命も絶え候ひなんず。しかるべく候はば、成経を教盛にしばらくあづけさせおはしませ。なじかはひが事をばさせ候ふべき」と申されければ、季貞(すゑさだ)この様を、参りて申すに、入道(にふだう)「あつぱれ、この例の宰相がものに心得ぬよ」とて、しばしは返事もなかりけり。宰相、中門にて「いかに、いかに」と待たれけり。
ややありて、入道(にふだう)のたまひけるは、「行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)、安穏にえやはあるべき。当家また失せなんには、御辺とてもつつがなうはおはせじ。この少将といふは、新(しん)大納言(だいなごん)の嫡子なり。ものをなだむるにも様にこそよれ。えこそはゆるすまじけれ」とのたまへば、季貞(すゑさだ)かへり参りて申せば、宰相世にも本意なげにて「仰せのむねおしかへし申すことは、そのおほそれすくなからず候へ
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ども、保元、平治よりこのかた、大小事に身をすてて、御命にもかはり奉(たてまつ)り、あらき風をもまづ防ぎまゐらせんとこそ存じ候ひしか。こののちもいかなる御大事も候へ、教盛こそ年老いて候ふとも、子どもあまた候へば、一方の御方にはなどかならでは候ふべき。それに、『成経しばらくあづからん』と申すを御ゆるされなきは、一向教盛を『二心ある者』とおぼしめさるるにこそ。このうへは、ただ身のいとまを賜はつて、出家入道をもし、片山里にこもりゐて、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん。よしなき憂き世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ。望みかなはねばこそ恨みもあれ。しかじ憂き世をいとひ、まことの道に入りなんには」とぞのたまひける。
季貞(すゑさだ)「にがにがしきことかな」と思ひて、この様をまた参りて申す。「門脇殿はおぼしめしきりたるげに候ふものを」と申せば、入道(にふだう)おほきにおどろき給ひて、「出家入道こそけしからずおぼえ候へ。
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さらば成経をば御辺の宿所へしばらく置かれ候へ」と、しぶしぶにぞのたまひける。季貞(すゑさだ)この様をまた参りて申す。宰相よにもうれしげに、「あはれ、子をば人の持つまじきものかな。わが子の縁にむすぼほれずんば、是(これ)ほど教盛心をば砕かじ」とてぞ出でられける。
少将待ちうけて、「さて、なにと候ふやらん」と申されければ、宰相「されば、入道(にふだう)かなふまじきよしのたまひつるを、出家入道まで申したれば、『しばらく宿所に置き奉(たてまつ)れ』とこそのたまひつれ、されども、始終はよかるべしともおぼえず」とのたまひければ、少将「されば、御恩をもつてしばしの命は延び候ひぬるにこそ。さても大納言のことはいかにと聞(き)こしめされ候ふやらん。もし夕さり失はれ候はんにおいては、成経も命生きてなにかせん。同じ御恩にて候はば、ただ一所にて、いかにもならん様を申させ給ふべし[* 「へし」と有るのを他本により訂正]」と申されければ、そのとき宰相よにも心くるしげにて、「それも小松
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の内府の、とかう申されければ、しばらく延び給ふ様にこそ承り候へ。御心やすくおぼしめせ」とのたまへば、少将手をあはせてぞよろこばれける。「子ならざらん者は、誰かただ今わが身のうへをばさしおいて、是(これ)ほどによろこぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。されば、子をば人の持つべかりけるものかな」と、やがて思ひかへされける。
今朝の様にまた同車してこそかへられけれ。宿所には女房たち、死したる人のただ今生きかへりたる心地して、みなよろこびの涙をぞ流(なが)しあはれける。この門脇の宰相と申すは、入道(にふだう)の宿所ちかく、門脇といふ所(ところ)にましましければ、「門脇殿」とぞ申しける。
第十六句 大教訓
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入道(にふだう)相国(しやうこく)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞をうらみ奉(たてまつ)らばや」とぞ申されける。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらつて、ゆゆしうぞ見えける。筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、御前にかしこまつてぞ侍ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正をはじめて、一門なかばすぎて新院の御方へ参りにき。中にも一の宮の御ことは、故刑部卿(きやう)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがたに身放ちまゐらせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせ奉(たてまつ)りて、御方にて先を駆けたりき。是(これ)一つの奉公なり。つぎに平治の乱れのとき、信頼、
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義朝、内裏にたてこもり、天下くらやみとなりしを、命をすて、追ひ落し、経宗、惟方を召しいましめしよりこのかた、君の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに、成親(なりちか)といふ無用のいたづら者(もの)、西光(さいくわう)と云(い)ふ下賎(げせん)の不当人(ふたうじん)が\申(まう)す\事(こと)につかせ給ひて、この一門滅ぼすべき由(よし)、法皇(ほふわう)御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。\此(この)\後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家(たうけ)追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば、世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を是(これ)へ御幸をなしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿へ遷し奉(たてまつ)らんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の者どもの中に、さだめて矢をも一つ射んずらん。侍どもに『その用意せよ』と触るるべし。大方は入道(にふだう)、院方の奉公においては、はや思ひ切つたり。馬に鞍おけ。着背長とり出だせ」とのたまひける。
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主馬の判官盛国、小松殿へ馳せ参じ、涙を流(なが)せば、大臣「いかにや。大納言斬られぬるか」とのたまへば、「さは候はず。『御院参あるべし』とて、上すでに着背長を召されて候(さうらふ)。侍共(さぶらひども)\皆(みな)うち立つて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へとて、ただ今(いま)寄せられ候(さうらふ)。法皇(ほふわう)をも鳥羽の北殿へ御幸とは聞(き)こえ候へども、内々は『鎮西のかたへ移し奉(たてまつ)るべし』とこそ承り候へ」と申せば、小松殿「いかでかさる事あるべき」とは思はれけれども、「今朝の入道(にふだう)の気色は、さも物狂はしきこともやましますらん」とて、いそぎ車に乗り、西八条へぞおはしける。
門のうちへさし入りて見給へば、入道(にふだう)すでに腹巻を着給へる上(うへ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数十人(すじふにん)、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司は縁に居こぼれ、庭にもひしと並み居たり。旗竿をひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、兜の緒をしめて、ただ今すでにみなうち
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たたれんずる気色どもなるに、小松殿は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しづかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道は遠くより見給ひて、「例の、内府[* 「大夫」と有るのを他本により訂正]が世を表(へう)する[* 「ひうする」と有るのを他本により訂正]様にふるまふものかな。陳ぜばや」とは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥かしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻の上に着給ひたりけるが、胸板の金物すこしはづれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。
小松殿は弟の右大将宗盛の座上につき給ふ。相国ものたまふことなく、大臣も申し出ださるる旨もなし。ややあつて、入道(にふだう)のたまひけるは、「やや、成親(なりちか)の謀叛は、事の数にもあらざりけり。是(これ)はただ一向法皇(ほふわう)の御結構にて候ひけるぞ。されば世をしづめんほど、
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法皇(ほふわう)を鳥羽の北殿へ御幸なして奉(たてまつ)らばや。しからずは御幸是(これ)へなりともなしまゐらせんと思ふはいかに」とのたまへば、小松殿聞きもあへ給はず、はらはらとぞ泣かれける。入道(にふだう)、「いかに、いかに」とあきれ給ふ。
ややありて、大臣涙をおしのごひて申されけるは、「この仰せを承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候(さうらふ)。人の運命のかたぶかんとては、必(かなら)ず悪事を思ひたち候ふなり。かたがた御ありさまを見奉(たてまつ)るに、さらに現ともおぼえ候はず。さすが、わが朝は、粟散(そくさん)辺地(へんぢ)とは申しながら、天照大神の御子孫、国の主として、天の児屋根の命の御末、朝の政をつかさどり給ひてよりこのかた、太政大臣の官にいたるほどの人(ひと)の甲冑(かつちう)をよろひましまさんこと、礼儀をそむくにあらずや。就中(なかんづく)出家(しゆつけ)の御身(おんみ)也(なり)。夫(それ)三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎすてて、たちまちに甲冑(かつちう)を着給はんこと、内には破戒無慚の罪をまねき、外にはまた仁義礼智信の法にもそむき
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候ひなんず。かたがたおそれある申しごとにて候へども、世にまづ四恩候(ざうらふ)。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩是(これ)なり。是(これ)を知れるをもつて人倫とす。されどもその中にもつとも重きは朝恩なり。『普天の下、王土にあらずといふことなし』。されば、潁川(えいせん)の水(みづ)に耳(みみ)をあらひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨を折りし賢人も、勅命をばそむかず、礼儀をば存ずとこそ承れ。いはんや先祖にもいまだ聞かざりし、太政大臣をきはめ給ふ。いはゆる重盛が無才愚暗(むさいぐあん)の身(み)をもつて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。しかのみならず、国郡(こくぐん)半(なかば)一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。是(これ)希代の朝恩にあらずや。今是等(これら)の莫大の御恩をおぼしめしわすれ給ひて、みだれがはしく君をかたぶけまゐらせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむきなんず」
「日本は是(これ)神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君のおぼしめし立つ所(ところ)、道理なかばなきにあらずや。中にもこの一門は、
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代々朝敵をたひらげて、四海の逆浪をしづむることは、無双の忠なれども、その賞にほこること、傍若無人とも申しつべし。されば聖徳太子の十七条の御憲法にも、『人みな心あり。心おのおのおもむきあり。彼を是とし、我を非とし、我を是とし、彼を非とす。是非(ぜひ)の理(ことわり)誰(たれ)かよく定(さだ)むべき。相共(あひとも)に賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)の端なきがごとし。是(これ)をもつて、たとひ人怒(いか)るといふとも、かへりて我とがをおそれよ』とこそ見えて候へ。しかれども、御運いまだ尽きせざるによ(ッ)て、この事すでにあらはれ候ひぬ。そのうへ大納言召しおかれ候ふうへは、たとひ君いかなることをおぼしめしたつとも、なにのおそれか候ふべき。所当の罪科をおこなはれ候ふうへ[* 「その上しよたうのさいくわをおこなはれ候うへは」と有るのを斯道本により訂正]、今は退いて事のよし申させ給はば、君の御ためにはいよいよ奉公の忠勤をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐をいたさしめ給はば、神明の加護にもあづかり、仏陀の冥慮にそむくべからず。神明仏陀の感応あらば、君もおぼしめしなほすことなどか候はざるべき。君と臣とをくらぶる
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に、君につき奉(たてまつ)るは忠臣の法なり。道理とひが事をならぶるに、いかでか道理につかざるべき。是(これ)は君の御理(ことわり)にて候へば、かなはざらんまでも、重盛は院中に参りて守護し奉(たてまつ)らばやとこそ存じ候へ。そのゆゑは重盛叙爵より、今大臣の大将にいたるまで、しかしながら朝恩にあらずといふことなし。その恩の[* 「を」と有るのを他本により訂正]おもきことを思へば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にもこえ、その徳のふかき色を案ずれば、一入再入の紅にもすぎたるらんとこそおぼえ候へ。しかれば院中へ参じて、法皇(ほふわう)を守護し奉(たてまつ)らんと存じ候(さうらふ)。命にかはらんとちぎりて候ふ侍ども、一二千人も候ふらん。かれらをあひ具して、防ぎ奉(たてまつ)らんには、もつてのほかの大事にてこそ候はんずらめ。かなしいかな、君(きみ)の\御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)よりもなほ高き親の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退すでにきはまれり。是非いかにもわきまへがたし」
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「ここに老子の御詞こそ思ひ知られて候へ。『功なり名とげて、身しりぞけ位をさげざるときんば、その害にあふ』と言へり。かの蕭何(せうが)は大功(たいこう)かたへ[* 「かたい〈夏台と傍書〉」と有るのを他本により訂正]にこえたるによつて、官大相国にいたり、剣を帯し沓をはきながら殿上へのぼることをゆるされしかども、叡慮にそむき、高祖ことにおもくいましめ給へり。か様の先蹤(せんじよう)を思ふにも、富貴といひ、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、御身にとつてはことごとくきはめ給ひぬれば、御運の尽きさせ給はんこと、いまは難かるべからず。『富貴(ふつき)の家(いへ)に禄位(ろくゐ)重畳(ぢゆうでふ)せり。ふたたび実(み)なる木(き)は其(その)\根(ね)必(かなら)ずいたむ』と見えて、心細うこそ候へ。いつまでか命生きて乱らん世を見候ふべき。ただ末の世に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそつたなう候へ。ただ今も侍一人に仰せつけて、御坪のうちへ召し出だされ、重盛が首を刎ねられんことは、やすき御ことにてこそ候はめ。そののちはともかく
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もおぼしめすままなるべし」とて、涙を流(なが)し給へば、直衣の袖もしぼるばかりなり。是(これ)を見て、その座に並みゐたる一門の卿相雲客よりはじめてみな袖をぞぬらされける。
入道(にふだう)、「いやいや是(これ)までは思ひもよらず。『悪党どもが申すことにつかせ給ひて、ひが事なんどもや出で来んずらん』と思ふばかりにてこそ候へ」とのたまへば、大臣、「たとひひが事候ふとも、君をばなにとかしまゐらせ給ふべき」とて、つい起つて中門にぞ出でられける。侍どもにのたまひけるは、「今申しつることをば、なんぢら承らずや。今朝より是(これ)に侍ひて、か様のことども申ししづめんと思ひつれども、ひたさわぎに見えつれば、かへりつるなり。院参の御供においては、重盛が首を召されんを見てつかまつるべし。さらば人参れ」とて、小松殿へぞかへられける。
そののち主馬の判官盛国を召して、「『重盛こそ天下の大事を、別して聞き出だしたれ。われをわれと思はん者どもは、いそぎ物具し
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て参るべし』このよし披露せよ」とのたまへば、主馬の判官承り、馳せ参りて披露す。「おぼろけにてはさわぎ給はぬ人の、かかる触れのあるは、別の子細あるにこそ」とて、物具して、「われも」「われも」と馳せ参る。淀、羽束瀬(はつかせ)[* 「はつせ」と有るのを他本により訂正]、宇治(うぢ)・岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)・勧修寺(くわんじうじ)・醍醐(だいご)、小栗栖(おぐるす)、梅津(むめず)・桂(かつら)・大原(おほはら)、志津原、芹生の里にあふれゐたる兵ども、或(あるい)は鎧きて兜を着ぬもあり、或(あるい)は矢負うて弓を持たぬ者もあり、片鐙ふむやふまずに、あわてさわいで小松殿へ馳せ参る。
西八条に数千騎ありつる兵ども、「小松殿にさわぎ事あり」と聞(き)こえければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)にかうとも申さず、ざざめきつれて、小松殿へぞ参りける。西八条には、青女房、筆取りなんどぞ侍ひける。弓矢