平家物語 高野本 凡例

【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033
東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本(市古貞次氏編集。1973)に拠りました。


章段名は、前に空白2文字分をあけ、『 』にくくり、その後に、S+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。例:
  『祇園精舎(ぎをんしやうじや)』S0101
それぞれの巻頭に目録を掲げていますが、(本文中のものと表記が異なるものが有ります)各巻の1,2ページに掲げ(1ページのみの場合有り)、本文は3ページからです。底本は、1行に二つずつですが、1行に一つずつ掲げました。
行ごとに改行し、ページ数を表示しました。
底本は、章段の始めで改行せず、冒頭に○を付し、そのまま続けていますが、その通りにしました。例:
  殿上(てんじやうの)闇討(やみうち)S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛(ただもり)(タダモリ)備

仮名に漢字を充てた場合や現代の表記は、【 】に入れました。
【*  】は、小学館の全集や、岩波の大系本で訂正してある表記(本来の正式の表記)です。
[*  ]は、注釈です。

振り仮名は、漢字の後に( )に入れました。
私が付したものは、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記しました。
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと同じ場合は、( )が一つで、ひらがなで表示してあります。*一部、カタカナでも表示してあります。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)
例: 境節(をりふし)(ヲリフシ) → 境節(をりふし)
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、( )が二つ並び、始めの()には、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記し、あとの( )には、底本の振り仮名をカタカナで残し、他は、ひらがなで表示しました。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)(底本振り仮名を含む)
例: 大二条殿(おほにでうどの)(ヲホにでうどの)
本文の仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、その後に( )に歴史的仮名遣いを表示しました。
   本文仮名(歴史的仮名遣い)【振り漢字】
例: まゑん(まえん)【魔縁】にてはなかりけり。 

句読点は、(主に)底本にある朱点を元に付けました。
会話や心中思惟の部分には、「 」を付けました。
反復記号、重ね字は、一字の漢字の「々」のみ使用し、他は全て、文字に置き換えました。
底本に表記されていない促音「つ」、発音「ん」等は、(ッ)(ン)と補入しました。
濁点は、適宜施しました。

ミセケチ(見せ消ち)は、[M ]または[M 「」とあり「」をミセケチ「」と傍書]と記しました。
傍書は、[B  ]または[B 「」とあり「」に「」と傍書]と記しました。

覚一本には、和歌が100首有りますので、最初から番号を振り和歌の後に W○○○ と表記しました。
今様の後に I と表記しました。


文責:荒山慶一・菊池真一


平家物語 高野本 巻一(振り仮名省略版)

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【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家一(表紙)

P01001
平家一之巻 目録
一 祇園精舍
二 殿上闇討

禿髪
吾身栄花
祗王
二代の后
額打論
清水寺炎上 付東宮立
殿下ののりあひ
ししの谷 俊寛僧都沙汰
鵜川いくさ
願立
御こしぶり
内裏炎上
P01002

P01003
平家物語巻第一
  祇園精舍S0101
 ○祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響
あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の
ことはりをあらはす。おごれる人も久しからず。
唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
はほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の
王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆、旧主
先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、
P01004
諫をもおもひいれず、天下のみだれむ事を
さとらずして、民間の愁る所をしらざし
かば、久しからずして、亡じにし者ども也。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶
の純友、康和の義親、平治の信頼、此等は
おごれる心もたけき事も、皆とりどりに
こそありしかども、まぢかくは六波羅の入道
前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の
ありさま、伝うけ給るこそ、心も詞も及
P01005
ばれね。其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第
五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の
後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の
嫡男なり。彼親王の御子、高視の王、無官
無位にしてうせ給ぬ。其御子、高望の王
の時、始て平の姓を給て、上総介になり
給しより、忽に王氏を出て人臣につら
なる。其子鎮守府将軍義茂、後には国香
とあらたむ。国香より正盛にいたる迄、六代は、
P01006
諸国の受領たりしかども、殿上の仙藉
  殿上闇討S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛備
前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院
を造進して、三十三間の御堂をたて、一千
一体の御仏をすへ奉る。供養は天承元
年三月十三日なり。勧賞には闕国を給
ふべき由仰下されける。境節但馬国の
あきたりけるを給にけり。上皇御感の
あまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十
P01007
六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、
同き年の十二月廿三日、五節豊明の
節会の夜、忠盛を闇打にせむとぞ擬せ
られける。忠盛是を伝聞て、「われ右筆の
身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮
の恥にあはむ事、家の為身の為こころ
うかるべし。せむずるところ、身を全して
君に仕といふ本文あり」とて、兼て用意
をいたす。参内のはじめより、大なる鞘巻を
P01008
用意して、束帯のしたにしどけなげに
さし、火のほのぐらき方にむかて、やはら
此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、
氷などの様にぞみえける。諸人目をすまし
けり。其上忠盛の郎等、もとは一門たりし、
木工助平貞光が孫、しんの三郎大夫家房が
子、左兵衛尉家貞といふ者ありけり。薄
青のかりぎぬのしたに萠黄威の腹巻
をき、弦袋つけたる太刀脇ばさむで、
P01009
殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下
あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴の
綱のへんに、布衣の者の候はなにものぞ。
狼籍なり。罷出よ」と六位をもていはせ
ければ、家貞申けるは、「相伝の主、備前守
殿、今夜闇打にせられ給べき由承候あひだ、
其ならむ様を見むとて、かくて候。えこそ
罷出まじけれ」とて、畏て候ければ、是等を
よしなしとやおもはれけん、其夜の闇うち
P01010
なかりけり。忠盛御前のめしにまはれければ、
人々拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめ
なりけり」とぞはやされける。此人々はかけ
まくもかたじけなく、柏原天皇の御末
とは申ながら、中比は都のすまゐもうと
うとしく、地下にのみ振舞なて、伊勢国
に住国ふかかりしかば、其国のうつは物に
事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ
忠盛目のすがまれたりければ、加様には
P01011
はやされけり。いかにすべき様もなくして、
御遊もいまだをはらざるに、偸に罷出
らるるとて、よこだへさされたりける刀をば、
紫震殿の御後にして、かたえの殿上人
のみられけるところにて、主殿司をめし
てあづけ置てぞ出られける。家貞待
うけたてまて、「さていかが候つる」と申
ければ、かくともいはまほしう思はれけれ
ども、いひつるものならば、殿上までも頓而
P01012
きりのぼらんずる者にてある間、別の
事なし」とぞ答られける。五節には、
「白薄様、こぜむじの紙、巻上の筆、鞆
絵かいたる筆の軸」なんど、さまざま面
白事事をのみこそうたひまはるるに、中比
太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。
あまりに色のくろかりければ、みる人
黒帥とぞ申ける。其人いまだ蔵人頭
なりし時、五節にまはれければ、それも
P01013
拍子をかへて、「あなくろぐろ、くろき
頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ」
とぞはやされける。又花山院前太政大臣
忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言
忠宗卿にをくれたてまて、みなし子にて
おはしけるを、故中御門藤中納言家成
卿、いまだ播磨守たりし時、聟に取て
声花にもてなされければ、それも
五節に、「播磨よねはとくさか、むくの
P01014
葉か、人のきらをみがくは」とぞはやされ
ける。「上古にはか様にありしかども事
いでこず、末代いかがあらんずらむ。おぼ
つかなし」とぞ人申ける。案のごとく、五
節はてにしかば、殿上人一同に申され
けるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、
兵杖を給て宮中を出入するは、みな
格式の礼をまもる。綸命よしある先
規なり。しかるを忠盛朝臣、或は相伝の
P01015
郎従と号して、布衣の兵を殿上
の小庭にめしをき、或は腰の刀を横へ
さいて、節会の座につらなる。両条希
代いまだきかざる狼籍也。事既に重
疊せり、罪科尤のがれがたし。早く
御札をけづて、闕官停任せらるべき」由、
おのおの訴へ申されければ、上皇大に驚
おぼしめし、忠盛をめして御尋あり。
陳じ申けるは、「まづ郎従小庭に祗候
P01016
の由、全く覚悟仕ず。但近日人々あひ
たくまるる旨子細ある歟の間、年来
の家人事をつたへきくかによて、其恥
をたすけむが為に、忠盛にしられずして
偸に参候の条、ちから及ばざる次第
なり。若なを其咎あるべくは、彼身を
めし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司
にあづけをきをはぬ。是をめし出され、
刀の実否について咎の左右有べき歟」
P01017
と申。しかるべしとて、其刀をめし出して
叡覧あれば、うへは鞘巻のくろく
ぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞ
おしたりける。「当座の恥辱をのがれんが
為に、刀を帯する由あらはすといへども
後日の訴訟を存知して、木刀を帯し
ける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭
に携らむ者のはかりことは、尤かうこそ
あらまほしけれ。兼又郎従小庭に祇候
P01018
の条、且は武士の郎等のならひなり。忠盛が
咎にあらず」とて、還而叡感にあづかし
うへは、敢て罪科の沙汰もなかりけり。
  鱸S0103
 ○其子どもは、諸衛の佐になる。昇殿せし
に、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比忠盛、備前国より都へのぼりたり
けるに、鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋
ありければ、
有明の月も明石のうら風に
P01019
浪ばかりこそよるとみえしか W001
と申たりければ、御感ありけり。此歌は
金葉集にぞ入られける。忠盛又仙洞に
最愛の女房をもてかよはれけるが、ある
時其女房のつぼねに、妻に月出したる
扇をわすれて出られたりければ、かたえの
女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや。
出どころおぼつかなし」などわらひあはれ
ければ、彼女房、
P01020
雲井よりただもりきたる月なれば
おぼろけにてはいはじとぞ思ふ W002
とよみたりければ、いとどあさからずぞ
おもはれける。薩摩守忠教の母是なり。
にるを友とかやの風情に、忠盛もすいたり
ければ、彼女房もゆうなりけり。かくて
忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十
五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男
たるによて、其跡をつぐ。保元元年七月
P01021
に宇治の左府代をみだり給し時、安芸
のかみとて御方にて勳功ありしかば、播
磨守にうつて、同三年太宰大弐になる。
次に平治元年十二月、信頼卿が謀叛の時、
御方にて賊徒をうちたいらげ、勳功一に
あらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年
正三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、
検非違使別当、中納言、大納言に経あがて、
剩へ烝相の位にいたり、さ右を経ずして
P01022
内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将
にあらねども、兵杖を給て隨身をめし
具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のり
ながら宮中を出入す。偏に執政の臣の
ごとし。「太政大臣は一人に師範として、四海に
儀けいせり。国をおさめ道を論じ、陰陽
をやはらげおさむ。其人にあらずは則かけよ」
といへり。されば即闕の官とも名付たり。
其人ならではけがすべき官ならねども、一天
P01023
四海を掌の内ににぎられしうへは、子細
に及ばず。平家かやうに繁昌せられける
も、熊野権現の御利生とぞきこえし。
其故は、古へ清盛公いまだ安芸守たりし
時、伊勢の海より船にて熊野へまいられ
けるに、おほきなる鱸の船におどり入
たりけるを、先達申けるは、「是は権現の
御利生なり。いそぎまいるべし」と申ければ、
清盛の給ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ
P01024
白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり」
とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎
の道なれども、調味して家子侍共にくはせ
られけり。其故にや、吉事のみうちつづいて、
太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途
も竜の雲に昇るよりは猶すみやか也。
  禿髪S0104
九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。 ○角
て清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一
にてやまひにをかされ、存命の為に忽に
P01025
出家入道す。法名は浄海とこそなのられけれ。
其しるしにや、宿病たちどころにいへて、
天命を全す。人のしたがひつく事、吹風
の草木をなびかすがごとし。世のあまねく
仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに
同じ。六波羅殿の御一家の君達といひてン
しかば、花族も栄耀も面をむかへ肩を
ならぶる人なし。されば入道相国のこじうと、
平大納言時忠卿ののたまひけるは、「此一門に
P01026
あらざらむ人は皆人非人なるべし」とぞのた
まひける。かかりしかば、いかなる人も相構て
其ゆかりにむすぼほれむとぞしける。衣文
のかきやう、鳥帽子のためやうよりはじめ
て、何事も六波羅様といひてげれば、一天
四海の人皆是をまなぶ。又いかなる賢王
賢主の御政も、摂政関白の御成敗も、世に
あまされたるいたづら者などの、人のきか
ぬ所にて、なにとなうそしり傾け申事は
P01027
つねの習なれども、此禅門世ざかりのほどは、
聊いるかせにも申者なし。其故は、入道相国
のはかりことに、十四五六の童部を三百人
そろへて、髪をかぶろにきりまはし、あかき
直垂をきせて、めしつかはれけるが、京中
にみちみちて往反しけり。をのづから平家
の事あしざまに申者あれば、一人きき出さ
ぬほどこそありけれ、余党に触廻して、
其家に乱入し、資財雑具を追捕し、
P01028
其奴を搦とて、六波羅へゐてまいる。されば
目に見、心にしるといへど、詞にあらはれて
申者なし。六波羅殿の禿といひてしかば、
道をすぐる馬車もよぎてぞとをり
ける。禁門を出入すといへども姓名を
尋らるるに及ばず京師の長吏これが
  吾身栄花S0105
為に目を側とみえたり。 ○吾身の栄花
を極るのみならず、一門共に繁昌して、
嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言
P01029
の右大将、三男具盛、三位中将、嫡孫維盛、四位
少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人卅余
人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人
なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神亀五年、朝家に
中衛の大将をはじめをかれ、大同四年に、
中衛を近衛と改られしよりこのかた、兄弟
左右に相並事纔に三四箇度なり。文
徳天皇の御時は、左に良房、右大臣の左大将、
P01030
右に良相、大納言の右大将、是は閑院の左
大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇
には、左に実頼、小野宮殿、右に師資、九条
殿、貞仁公の御子なり。後冷泉院の御時は、
左に教通、大二条殿、右に頼宗、堀河殿、
御堂の関白の御子なり。二条院の御宇
には、左に基房、松殿、右に兼実、月輪殿、
法性寺殿の御子なり。是皆摂禄の臣の
御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の
P01031
交をだにきらはれし人の子孫にて、禁色
雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、
大臣の大将になて兄弟左右に相並事、
末代とはいひながら不思議なりし事ども
なり。其外御娘八人おはしき。皆とりどりに、
幸給へり。一人は桜町の中納言重教卿の
北の方にておはすべかりしが、八歳の時約
束計にて、平治のみだれ以後ひきちがへられ、
花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給て、
P01032
君達あまたましましけり。抑此重教卿を、
桜町の中納言と申ける事は、すぐれて心
数奇給へる人にて、つねは吉野山を
こひ、町に桜をうへならべ、其内に屋を立
てすみ給ひしかば、来る年の春ごとに
みる人桜町とぞ申ける。桜はさいて七箇
日にちるを、余波を惜み、あまてる御神
に祈申されければ、三七日まで余波あり
けり。君も賢王にてましませば、神も神
P01033
徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢
をたもちけり。一人は后にたたせたまふ。
王子御誕生ありて皇太子にたち、位に
つかせ給しかば、院号かうぶらせ給ひて、
建礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なる
うへ、天下の国母にてましましければ、とかう
申に及ばず。一人は六条の摂政殿の北政所
にならせ給ふ。高倉院御在位の時、御母代
とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて
P01034
おもき人にてましましけり。一人は普賢寺
殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大
納言隆房卿の北方、一人は七条修理大夫信
隆卿に相具し給へり。又安芸国厳島の
内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へ
まいらせ給ひて、女御のやうにてぞましまし
ける。其外九条院の雑仕常葉が腹に
一人、是は花山院殿に上臈女房にて、廊の
御方とぞ申ける。日本秋津島は纔に六十
P01035
六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国
にこえたり。其外庄園田畠いくらといふ数
をしらず。綺羅充満して、堂上花の如し。
軒騎群集して、門前市をなす。楊州
の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七
珍万宝一として闕たる事なし。歌堂舞
閣の基、魚竜爵馬の翫もの、恐くは帝闕
も仙洞も是にはすぎじとぞみえし。
  祇王S0106
 ○入道相国、一天四海をたなごころのうちににぎり
P01036
給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人
の嘲をもかへり見ず、不思議の事をのみ
し給へり。たとへば、其比都に聞えたる白
拍子の上手、祇王祇女とておとといあり。とぢ
といふ白拍子がむすめなり。あねの祇王を入
道相国さいあひせられければ、是によつていもう
との祇女をも、よの人もてなす事なのめなら
ず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月
に百石百貫ををくられければ、けないふつき
P01037
してたのしい事なのめならず。抑我朝に、
しら拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院
の御宇に、しまのせんざい、わかのまひとて、これら
二人がまひいだしたりけるなり。はじめは
すいかんに、たて烏帽子、白ざやまきをさいて
まひければ、おとこまひとぞ申ける。しかる
を、中比より烏帽子刀をのけられて、すいかん
ばかりをもちいたり。扨こそ白拍子とは名付
けれ。京中の白拍子ども、祇王がさいはゐの
P01038
めでたいやうをきいて、うらやむものもあり、そね
む者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの
祇王御前の幸や。おなじあそび女とならば、
誰もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま
是は祇といふ文字を名について、かくはめで
たきやらむ。いざ我等もついて見む」とて、或は
祇一とつき、ぎにとつき、或はぎふく・ぎとく
などいふものもありけり。そねむものどもは、
「なんでう名により文字にはよるべき。さいはゐは
P01039
ただ前世の生れつきでこそあんなれ」とて、
つかぬものもおほかりけり。かくて三年と
申に、又都にきこえたるしら拍子の上手、
一人出来たり。加賀国のものなり。名をば
仏とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔
よりおほくの白拍子ありしが、かかるはまひは
いまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事
なのめならず。仏御前申けるは、「我天下に聞え
たれ共、当時さしもめでたうさかへさせ給ふ
P01040
平家太政の入道どのへ、めされぬ事こそほ
いなけれ。あそびもののならひ、なにかくるしかる
べき。推参して見む」とて、ある時西八条へぞ
まいりたる。人まいつて、「当時都にきこえ候仏
御前こそまいつて候へ」と申ければ、入道「なん
でう、さやうのあそびものは人のめしにしたがふ
てこそ参れ、さうなふすいさんするやうやある。
祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけとも
いへ、かなふまじきぞ。とふとふ罷出よ」とぞの給ひ
P01041
ける。ほとけ御ぜんはすげなふいはれたてまつ
つて、既にいでんとしけるを、祇王入道殿に
申けるは、「あそびもののすいさんはつねのならひ
でこそさぶらへ。其上年もいまだをさなふさぶ
らふなるが、適々思たつてまいりてさぶらふを、
すげなふ仰られてかへさせ給はん事こそ不便
なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶら
ふらむ。わがたてしみちなれば、人の上ともおぼ
えず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこし
P01042
めさずとも、御対面ばかりさぶらふてかへさせ
給ひたらば、ありがたき御情でこそさぶらはん
ずれ。唯理をまげて、めしかへして御対面さぶ
らへ」と申ければ、入道「いでいでわごぜがあまりに
いふ事なれば、見参してかへさむ」とて、つかひを
たててめされけり。ほとけごぜんはすげなふいはれ
たてまつつて、車にのつて既にいでんとしけるが、
めされて帰まいりたり。入道出あひたいめん
して、「けふの見参はあるまじかりつるを、
P01043
祇王がなにと思ふやらん、余に申すすむる
間、加様にげんざんしつ。見参するほどにては、
いかでか声をもきかであるべき。いまやう一つ
うたへかし」との給へば、仏御前「承さぶらふ」とて、
今やうひとつぞうたふたる。君をはじめて
みるおりは千代も経ぬべしひめこ松、
おまへの池なるかめをかに鶴こそむれゐ
てあそぶめれ Iと、おし返しおし返し三返うたひす
ましたりければ、けんもんの人々みな耳目
P01044
ををどろかす。入道もおもしろげにおもひ
給ひて、「わごぜは今やうは上手でありける
よ。このぢやうでは舞もさだめてよかるらむ。
一番見ばや。つづみうちめせ」とてめされけり。
うたせて一ばんまふたりけり。仏御前は、かみ
すがたよりはじめて、みめかたちうつくしく、
声よく節も上手でありければ、なじかは
まひもそんずべき。心もをよばずまひすま
したりければ、入道相国まひにめで給ひて、
P01045
仏に心をうつされけり。仏御前「こはされば
なに事さぶらふぞや。もとよりわらははすい
さんのものにて、いだされまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申しやうによつてこそ、めしかへさ
れてもさぶらふに、はやはやいとまをたふでいだ
させおはしませ」と申ければ、入道「すべてその儀
あるまじ。但祇王があるをはばかるか。その儀
ならばぎわうをこそいださめ」とぞの給ひ
ける。仏御前「それ又いかでかさる御事さぶらふ
P01046
べき。諸共にめしをかれんだにも、心うふさぶらふ
べきに、まして祇王ごぜんを出させ給ひて、
わらはを一人めしをかれなば、ぎわうごぜんの
心のうち、はづかしうさぶらふべし。をのづから
後迄わすれぬ御事ならば、めされて又は
まいるとも、けふは暇をたまはらむ」とぞ申ける。
入道「なんでう其儀あるまじ。祇王とうとう
罷出よ」と、お使かさねて三どまでこそたて
られけれ。祇王もとよりおもひまふけたる
P01047
道なれども、さすがに昨日けふとは思よらず。
いそぎ出べき由、しきりにのたまふあひだ、
はきのごひちりひろはせ、見ぐるしき物共
とりしたためて、出べきにこそさだまりけれ。
一樹のかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶ
だに、別はかなしきならひぞかし。まして此三
とせが間住なれし所なれば、名残もおしう
かなしくて、かひなきなみだぞこぼれける。扨
もあるべき事ならねば、祇王すでに、いまは
P01048
かうとて出けるが、なからん跡のわすれがたみに
もとやおもひけむ、しやうじになくなく一首
の歌をぞかきつけける。もえ出るもかるる
もおなじ野辺の草いづれか秋にあはで
はつべき、 W003 さて車に乗て宿所に帰り、障子
のうちにたをれふし、唯なくより外の事ぞ
なき。母やいもうと是をみて、「いかにやいかに」と
とひけれ共、とかうの返事にも及ばず。倶し
たる女に尋てぞ、去事ありともしりてん
P01049
げれ。さるほどに、毎月にをくられたりける、
百石百貫をも、いまはとどめられて、仏御前が
所縁の者共ぞ、始而楽み栄ける。京中の
上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はつて出
たんなれ。誘見参してあそばむ」とて、或は
文をつかはす人もあり、或は使をたつる者
もあり。祇王さればとて、今更人に対面して
あそびたはぶるべきにもあらねば、文をとり
いるる事もなく、まして使にあひしらふ迄も
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なかりけり。これにつけてもかなしくて、
いとど涙にのみぞしづみにける。かくてこと
しもくれぬ。あくる春の比、入道相国、祇王が
もとへししやをたてて、「いかに其後何事かある。
仏御前が余につれづれげに見ゆるに、まいつて
今やうをもうたひ、まひなどをもまふて仏なぐ
さめよ」とぞの給ひける。祇王とかふの御返事
にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。
まいるまじひか。参るまじくはそのやうをまふせ。
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浄海もはからふむねあり」とぞの給ひける。
母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなくけうくんしけるは、
「いかに祇王御前、ともかうも御返事を申せ
かし。左様にしかられまいらせんよりは」といへば、
祇王「まいらんとおもふ道ならばこそ、軈而参る
とも申さめ、まいらざらむ物故に、何と御返事
を申べしともおぼえず。此度めさんにまいら
ずは、はからふむねありと仰らるるは、都の外へ
P01052
出さるるか、さらずは命をめさるるか、是二には
よも過じ。縦都をいださるるとも、歎べき道
にあらず。たとひ命をめさるるとも、おしか
るべき又我身かは。一度うき物におもはれ
まいらせて、二たびおもてをむかふべきにもあら
ず」とて、なを御返事をも申さざりけるを、
母とぢ重而けうくんしけるは、「天が下にす
まん程は、ともかうも入道殿の仰をば背
まじき事にてあるぞとよ。男女のえん
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しゆくせ、今にはじめぬ事ぞかし。千年
万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。
白地とは思へども、存生果る事もあり。世に
定なきものは、おとこ女のならひなり。それに
わごぜは、此みとせまでおもはれまいらせたれ
ば、ありがたき御情でこそあれ、めさんに
まいらねばとて、命をうしなはるるまでは
よもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縦
都を出さるとも、わごぜたちは年若ければ、
P01054
いかならん岩木のはざまにてもすごさん事
やすかるべし。年老をとろへたる母、都の外
へぞ出されんずらむ。ならはぬひなのすまゐ
こそ、かねておもふもかなしけれ。唯われを都
のうちにて住果させよ。それぞ今生後生
のけうやうと思はむずる」といへば、祇王、うし
とおもひし道なれども、おやのめいをそむかじと、
なくなく又出立ける心のうちこそむざんなれ。
独参らむは余に物うしとて、いもうとの祇女
P01055
をもあひぐしけり。其外白拍子二人、そうじて
四人、ひとつ車にとりのつて、西八条へぞ参り
たる。さきざきめされける所へはいれられず、
遥にさがりたる所にざしきしつらふてをかれ
たり。祇王「こはさればなに事さぶらふぞや。わが
身にあやまつ事はなけれ共、すてられたてまつる
だにあるに、座敷をさへさげらるることの心う
さよ。いかにせむ」とおもふに、しらせじとおさふる
袖のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。
P01056
仏御前是をみて、あまりにあはれにおもひ
ければ、「あれはいかに、日比めされぬところ
でもさぶらはばこそ、是へめされさぶらへかし。さら
ずはわらはにいとまをたべ。出て見参せん」
と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ」と
のたまふ間、ちからをよばで出ざりけり。其
後入道、ぎわうが心のうちをばしり給はず、
「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりに
つれづれげに見ゆるに、いまやうひとつうたへかし」と
P01057
の給へば、祇王、まいる程では、ともかうも
入道殿の仰をば背まじとおもひければ、
おつるなみだをおさへて、今やうひとつぞ
うたふたる。仏もむかしはぼんぶなり我等も
終には仏なり、いづれも仏性具せる身を、
へだつるのみこそかなしけれ I と、なくなく二
返うたふたりければ、其座にいくらもなみ
ゐたまへる平家一門の公卿・殿上人・諸大夫・
侍に至るまで、皆感涙をぞながされける。
P01058
入道もおもしろげにおもひ給ひて、「時にとつ
ては神妙に申たり。さては舞も見たけれども、
けふはまぎるる事いできたり。此後はめさ
ずともつねにまいつて、今やうをもうたひ、まひ
などをもまふて、仏なぐさめよ」とぞの給ひ
ける。祇王とかうの御返事にも及ばず、涙
をおさへて出にけり。「親のめいをそむかじと、
つらきみちにおもむひて、二たびうきめを見
つることの心うさよ。かくて此世にあるならば、
P01059
又うきめをも見むずらん。いまはただ身をな
げんとおもふなり」といへば、いもうとの祇女も、
「あね身をなげば、われもともに身をなげん」と
いふ。母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなく又けうくんしけるは、
「まことにわごぜのうらむるもことはりなり。さやう
の事あるべしともしらずして、けうくんして
まいらせつる事の心うさよ。但わごぜ身を
なげば、いもうともともに身をなげんといふ。
P01060
二人のむすめ共にをくれなん後、年老をと
ろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、
我もともに身をなげむとおもふなり。いまだ
死期も来らぬおやに身をなげさせん事、
五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりのやどり
なり。はぢてもはぢでも何ならず。唯ながき
世のやみこそ心うけれ。今生でこそあらめ、
後生でだにあくだうへおもむかんずる事の
かなしさよ」と、さめざめとかきくどきければ、
P01061
祇王なみだをおさへて、「げにもさやうにさぶら
はば、五逆罪うたがひなし。さらば自害は
おもひとどまりさぶらひぬ。かくて宮古に
あるならば、又うきめをもみむずらん。いまは
ただ都の外へ出ん」とて、祇王廿一にて尼に
なり、嵯峨の奧なる山里に、柴の庵を
ひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。いもうと
のぎによも、「あね身をなげば、我もともに
身をなげんとこそ契しか。まして世をいと
P01062
はむに誰かはをとるべき」とて、十九にてさまを
かへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞ
あはれなる。母とぢ是を見て、「わかきむすめ
どもだにさまをかふる世中に、年老をとろへ
たる母、しらがをつけてもなににかはせむ」とて、
四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、
いつかうせんじゆに念仏して、ひとへに後世を
ぞねがひける。かくて春すぎ夏闌ぬ。秋
の初風吹ぬれば、星合の空をながめつつ、
P01063
あまのとわたるかぢの葉に、おもふ事かく
比なれや。夕日のかげの西の山のはにかくるる
を見ても、日の入給ふ所は西方浄土にてあん
なり、いつかわれらもかしこに生れて、物をおも
はですぐさむずらんと、かかるにつけても過
にしかたのうき事共おもひつづけて、唯つき
せぬ物は涙なり。たそかれ時も過ぬれば、竹
のあみ戸をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、
親子三人念仏してゐたる処に、竹のあみ戸を
P01064
ほとほととうちたたくもの出来たり。其時尼
どもきもをけし、「あはれ、是はいふかひなき
我等が、念仏して居たるを妨んとて、まゑん
の来たるにてぞあるらむ。昼だにも人もとひ
こぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて
誰かは尋ぬべき。わづかの竹のあみ戸なれば、
あけずともおしやぶらん事やすかるべし。中
々ただあけていれんとおもふなり。それに
情をかけずして、命をうしなふものならば、
P01065
年比頼たてまつる弥陀の本願をつよく
信じて、隙なく名号をとなへ奉るべし。
声を尋てむかへ給ふなる聖主の来迎
にてましませば、などかいんぜうなかるべき。相
かまへて念仏おこたり給ふな」と、たがひに
心をいましめて、竹のあみ戸をあけたれば、
まゑんにてはなかりけり。仏御前ぞ出来る。祇王
「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かや
うつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様
P01066
の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申
さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、
はじめよりして申なり。もとよりわらはは
推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申やうによつてこそめしかへされ
てもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心
にまかせずして、おしとどめられまいらせし事、
心ううこそさぶらひしか。いつぞや又めされまい
らせて、いまやううたひ給ひしにも、思しられて
P01067
こそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思
ひしかば、嬉しとはさらに思はず。障子に又
「いづれか秋にあはではつべき」と書置給ひし
筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其
後はざいしよを焉ともしりまいらせざりつる
に、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつ
てのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を
申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。
つくづく物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の
P01068
ゆめ、楽みさかえて何かせむ。人身は請がたく、
仏教にはあひがたし。比度ないりにしづみ
なば、たしやうくはうごうをばへだつとも、うかび
あがらん事かたし。年のわかきをたのむべき
にあらず、老少不定のさかいなり。出るいきの
いるをもまつべからず、かげろふいなづまより
なをはかなし。一旦の楽みにほこつて、後生を
しらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かく
なつてこそまいりたれ」とて、かづきたるきぬを
P01069
うちのけたるをみれば、あまになつてぞ出
来る。「かやうに様をかへてまいりたれば、日比の
科をばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共
に念仏して、ひとつはちすの身とならん。それに
なを心ゆかずは、是よりいづちへもまよひゆき、
いかならん苔のむしろ、松がねにもたほれふし、
命のあらんかぎり念仏して、往生のそくはい
をとげんとおもふなり」と小雨小雨とかきくどき
ければ、祇王なみだをおさへて、「誠にわごぜの
P01070
是ほどに思給けるとは夢にだにしらず。うき
世中のさがなれば、身のうきとこそおもふ
べきに、ともすればわごぜの事のみうらめし
くて、往生のそくはいをとげん事かなふべし
ともおぼえず。今生も後生も、なまじゐに
しそんじたる心ちにてありつるに、かやうに
さまをかへておはしたれば、日比のとがは露ちり
ほどものこらず。いまは往生うたがひなし。比度
そくはいをとげんこそ、何よりも又うれしけれ。
P01071
我等が尼になりしをこそ、世にためしなき
事のやうに人もいひ、我身にも又思しか、
さまをかふるもことはりなり。いまわごぜの
出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。
わごぜはうらみもなし、なげきもなし。ことしは
纔に十七にこそなる人の、かやうにゑどをいと
ひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、
まことの大だうしんとはおぼえたれ。うれしかり
けるぜんぢしきかな。いざもろともにねがはん」とて、
P01072
四人一所にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香
をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそ
ありけれ、四人のあまども皆往生のそくはいを
とげけるとぞ聞えし。されば後白河の法皇
のちやうがうだうのくはこちやうにも、祇王・祇女・
ほとけ・とぢらが尊霊と、四人一所に入られ
けり。あはれなりし事どもなり。
  二代后S0107
 ○昔より今に至るまで、源平両氏朝家に
召つかはれて、王化にしたがはず、をのづから朝
P01073
権をかろむずる者には、互にいましめを
くはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元
に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、
すゑずゑの源氏ども或は流され、或はうしなはれ、
今は平家の一類のみ繁昌して、かしらを
さし出すものなし。いかならん末の代までも
何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院
御晏駕の後は、兵革うちつづき、死罪・流
刑・闕官・停任つねにおこなはれて、海内も
P01074
しづかならず、世間もいまだ落居せず。就中に
永暦応保の比よりして、院の近習者をば
内より御いましめあり、内の近習者をば院より
いましめらるる間、上下おそれをののいてやすい
心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむ
に同じ。主上上皇、父子の御あひだには、なに
事の御へだてかあるべきなれども、思の外
の事どもありけり。是も世澆季に及で、
人梟悪をさきとする故也。主上、院の仰を
P01075
つねに申かへさせおはしましける中にも、人
耳目を驚かし、世もて大にかたぶけ申事
ありけり。故近衛院の后、太皇太后宮と申し
は、大炊御門の右大臣公能公の御娘也。先帝
にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の
外、近衛河原の御所にぞうつりすませ給
ける。さきのきさいの宮にて、幽なる御あり
さまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、
御年廿二三にもやならせ給けむ、御さかりも
P01076
すこし過させおはしますほどなり。しかれ
ども、天下第一の美人のきこえましまし
ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸
に行力使に詔じて、外宮にひき求めし
むるに及で、比大宮へ御艶書あり。大宮敢
てきこしめしもいれず。さればひたすら早
ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣
家に宣旨を下さる。此事天下にをいて
ことなる勝事なれば、公卿僉議あり。各
P01077
意見をいふ。「先異朝の先蹤をとぶらふに、
震旦の則天皇后は唐の太宗のきさき、高
宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗
の后にたち給へる事あり。是は異朝の先
規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝
には、神武天皇より以降人皇七十余代に及
まで、いまだ二代の后にたたせ給へる例を
きかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇も
しかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上
P01078
仰なりけるは、「天子に父母なし。吾十善の
戒功によて、万乗の宝位をたもつ。是
程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、
やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及
ばせ給はず。大宮かくときこしめされける
より、御涙にしづませおはします。先帝
にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、
おなじ野原の露ともきえ、家をもいで
世をものがれたりせば、今かかるうき耳をばきか
P01079
ざらましとぞ、御歎ありける。父のおとどこし
らへ申させ給けるは、「「世にしたがはざるを
もて狂人とす」とみえたり。既に詔命を下
さる。子細を申にところなし。ただすみやかに
まいらせ給べきなり。もし王子御誕生あり
て、君も国母といはれ、愚老も外祖とあふ
がるべき瑞相にてもや候らむ。是偏に愚老
をたすけさせおはします御孝行の御いたり
なるべし」と申させ給へども、御返事もなかり
P01080
けり。大宮其比なにとなき御手習の次に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の
世にためしなき名をやながさん W004
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀にやさ
しきためしにぞ、人々申あへりける。既に
御入内の日になりしかば、父のおとど、供奉
のかんだちめ、出車の儀式などこころことに
だしたてまいらせ給けり。大宮物うき御
いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに
P01081
夜もふけ、さ夜もなかばになて後、御車に
たすけのせられ給けり。御入内の後は麗景
殿にぞましましける。ひたすらあさまつりごと
をすすめ申させ給ふ御ありさま也。彼紫
震殿の皇居には、賢聖の障子をたてられ
たり。伊尹・鄭伍倫・虞世南、太公望・角里先
生・李勣・司馬、手なが足なが・馬形の障子、鬼
の間、季将軍がすがたをさながらうつせる障子
もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子
P01082
とかけるもことはりとぞみえし。彼清凉
殿の画図の御障子には、むかし金岡がかき
たりし遠山の在明の月もありとかや。
故院のいまだ幼主ましましけるそのかみ、なに
となき御手まさぐりの次に、かきくもらか
させ給しが、ありしながらにすこしもたが
はぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋
しくおぼしめされけむ、
おもひきやうき身ながらにめぐりきて
P01083
おなじ雲井の月を見むとは W005
其間の御なからへ、いひしらず哀にやさし
かりし御事なり。
  額打論S0108
 ○さる程に、永万元年の春の比より、主上
御不豫の御事と聞えさせ給しが、夏の
はじめになりしかば、事の外におもらせ
給ふ。是によて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の
腹に、今上一宮の二歳にならせ給ふがましまし
けるを、太子にたてまいらせ給ふべしと聞えし
P01084
ほどに、同六月廿五日、俄に親王の宣旨下
されて、やがて其夜受禅ありしかば、天
下なにとなうあはてたるさま也。其時の有
職の人々申あはれけるは、本朝に童体の
例を尋れば、清和天皇九歳にして文徳
天皇の御禅をうけさせ給ふ。是は彼周公
旦の成王にかはり、南面にして一日万機の
政をおさめ給しに准へて、外祖忠仁公幼主
を扶持し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。
P01085
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。
かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳
にならせ給ふ。先例なし。物さはがしともおろか
なり。さる程に、同七月廿七日、上皇つゐに
崩御なりぬ。御歳廿三、つぼめる花の
ちれるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、皆
御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜、香隆寺
のうしとら、蓮台野の奧、船岡山におさめ
奉る。御葬送の時、延暦・興福両寺の大衆、額
P01086
うち論と云事しいだして、互に狼籍に
及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし
奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごと
く供奉して、御墓所のめぐりにわが寺々
の額をうつ事あり。まづ聖武天皇の御
願、あらそふべき寺なければ、東大寺の額
をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の
額をうつ。北京には、興福寺にむかへて延
暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教
P01087
大和尚・智証大師の草創とて、園城寺の
額をうつ。しかるを、山門の大衆いかがおもひけん、
先例を背て、東大寺の次、興福寺のうへに、
延暦寺の額をうつあひだ、南都の大衆、とや
せまし、かうやせましと僉議するところに、
興福寺の西金堂衆、観音房・勢至房とて
きこえたる大悪僧二人ありけり。観音房
は黒糸威の腹巻に、しら柄の長刀くきみじ
かにとり、勢至房は萠黄威の腹巻に、黒漆
P01088
の大太刀もて、二人つと走出、延暦寺の額
をきておとし、散々にうちわり、「うれしや
水、なるは滝の水、日はてるともたえずと
うたへ」とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ
入にける。
  清水寺炎上S0109
 ○山門の大衆、狼籍をいたさば手むかへすべき処に、
心ふかうねらう方もやありけん、ひと詞も
いださず。御門かくれさせ給ては、心なき草
木までも愁たる色にてこそあるべきに、
P01089
此騷動のあさましさに、高も賎も、肝魂
をうしなて、四方へ皆退散す。同廿九日の
午剋ばかり、山門の大衆緩う下洛すと
聞えしかば、武士検非違使、西坂下に、馳向
て防けれ共、事ともせず、おしやぶて乱
入す。何者の申出したりけるやらむ、「一院
山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべ
し」ときこえしほどに、軍兵内裏に参じ
て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、
P01090
皆六波羅へ馳集る。一院もいそぎ六波羅
へ御幸なる。清盛公其比いまだ大納言にて
おはしけるが、大に恐れさはがれけり。小松殿
「なにによてか唯今さる事あるべき」としづ
められけれども、上下ののしりさはぐ事
緩し。山門の大衆、六波羅へはよせずして、すぞ
ろなる清水寺におしよせて、仏閣僧坊
一宇ものこさず焼はらふ。是はさんぬる御葬
送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし。
P01091
清水寺は興福寺の末寺なるによてなり。
清水寺やけたりける朝、「や、観音火坑変
成池はいかに」と札に書て、大門の前にたて
たりければ、次日又、「歴劫不思議力及ばず」と、
かへしの札をぞうたりける。衆徒かへりのぼり
にければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿
計ぞ御ともにはまいられける。父の卿は
まいられず。猶用心の為歟とぞ聞えし。重盛
の卿御送りよりかへられたりければ、父の
P01092
大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大に
恐れおぼゆれ。かねても思食より仰らるる
旨のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにも
うちとけ給まじ」とのたまへば、重盛卿申され
ける、「此事ゆめゆめ御けしきにも、御詞にも
出させ給べからず。人に心つけがほに、中々
あしき御事也。それにつけても、叡慮に
背給はで、人の為に御情をほどこさせまし
まさば、神明三宝加護あるべし。さらむに
P01093
とては、御身の恐れ候まじ」とてたたれければ、
「重盛卿はゆゆしく大様なるものかな」とぞ、
父の卿ものたまひける。一院還御の後、御前
にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、
「さても不思議の事を申出したるものかな。
露もおぼしめしよらぬものを」と仰ければ、
院中のきりものに西光法師といふもの
あり。境節御前ちかう候けるが、「天に口なし、
にんをもていはせよと申。平家以外に過分
P01094
に候あひだ、天の御ぱからひにや」とぞ申ける。
人々「此事よしなし。壁に耳あり。おそろし
  東宮立S0110
おそろし」とぞ、申あはれける。 ○さる程に、其年は
諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこな
はれず。同十二月廿四日、建春門院、其比はいまだ
東の御方と申ける、御腹に一院の宮まし
ましけるが、親王の宣旨下され給ふ。あくれば
改元あて仁安と号す。同年の十月八日、
去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東
P01095
三条にて春宮にたたせ給ふ。春宮は御
伯父六歳、主上は御甥三歳、詔目にあひ
かなはず。但寛和二年に一条院七歳にて
御即位、三条院十一歳にて春宮にたたせ
給ふ。先例なきにあらず。主上は二歳にて
御禅をうけさせ給ひ、纔に五歳と、申二
月十九日、東宮践祚ありしかば、位をすべらせ
給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服も
なくして、太上天皇の尊号あり。漢家本朝
P01096
是やはじめならむ。仁安三年三月廿日、新帝
大極殿にして御即位あり。此君の位につか
せ給ぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ
みえし。御母儀建春門院と申は、平家の一
門にてましますうへ、とりわき入道相国
の北方、二位殿の御妹也。又平大納言時忠卿と
申も女院の御せうとなれば、内の御外戚なり。
内外につけたる執権の臣とぞみえし。叙
位除目と申も偏に此時忠卿のまま也。楊貴妃が
P01097
幸し時、楊国忠がさかへしが如し。世のおぼえ、
時のきら、めでたかりき。入道相国天下の大
小事をのたまひあはせられければ、時の人、
  殿下乗合S0111
平関白とぞ申ける。 ○さる程に、嘉応元年
七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も
万機の政をきこしめされしあひだ、院内わく
方なし。院中にちかくめしつかはるる公卿
殿上人、上下の北面にいたるまで、官位捧禄
皆身にあまる計なり。されども人のこころの
P01098
ならひなれば、猶あきだらで、「あッぱれ、其人の
ほろびたらば其国はあきなむ。其人うせ
たらば其官にはなりなん」など、うとからぬ
どちはよりあひよりあひささやきあへり。法皇
も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵
をたいらぐる者おほしといへども、いまだ
加様の事なし。貞盛・秀里が将門をうち、
頼義が貞任・宗任をほろぼし、義家が武平・
家平をせめたりしも、勧賞おこなはれし
P01099
事、受領にはすぎざりき。清盛がかく心の
ままにふるまふこそしかるべからね。是も世
末になて王法のつきぬる故なり」と仰
なりけれども、つゐでなければ御いましめも
なし。平家も又別して、朝家を恨奉る事
もなかりしほどに、世のみだれそめける根本は、
去じ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新
三位中将資盛卿、其時はいまだ越前守とて
十三になられけるが、雪ははだれにふたりけり、
P01100
枯野のけしき誠に面白かりければ、わかき
侍ども卅騎ばかりめし具して、蓮台野や、
紫野、右近馬場にうち出て、鷹どもあまたすへ
させ、うづら雲雀をおたておたて、終日にかり
暮し、薄暮に及で六波羅へこそ帰られけれ。
其時の御摂禄は松殿にてましましけるが、中御
門東洞院の御所より御参内ありけり。郁芳
門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊
御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門
P01101
猪熊にて、殿下の御出にはなづきにまいり
あふ。御ともの人々「なに者ぞ、狼籍なり。御出
のなるに、のりものよりおり候へおり候へ」といらて
けれ共、余にほこりいさみ、世を世ともせざり
けるうへ、めし具したる侍ども、皆廿より内の
わか者どもなり。礼儀骨法弁へたる者一人
もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の
礼儀にも及ばず、かけやぶてとをらむと
するあひだ、くらさは闇し、つやつや入道の孫とも
P01102
しらず、又少々は知たれ共そらしらずして、
資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より
とて引おとし、頗る恥辱に及けり。資盛朝
臣はうはう六波羅へおはして、おほぢの相国
禅門に此由うたへ申されければ、入道大に
いかて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたり
をばはばかり給ふべきに、おさなきものに左右
なく恥辱をあたへられけるこそ遺恨の
次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむか
P01103
るるぞ。此事おもひしらせたてまつらでは、
えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや」
との給へば、重盛卿申されけるは、「是は少も
くるしう候まじ。頼政・光基など申源氏共に
あざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも
候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、
殿の御出にまいりあひて、のりものよりおり
候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時事にあふ
たる侍どもめしよせ、「自今以後も、汝等能々
P01104
心うべし。あやまて殿下へ無礼の由を申
さばやとこそおもへ」とて帰られけり。其後
入道相国、小松殿には仰られもあはせず、片
田舍の侍どもの、こはらかにて入道殿の仰より
外は、又おそろしき事なしと思ふ者ども、
難波・瀬尾をはじめとして、都合六十余人
召よせ、「来廿一日、主上御元服の御さだめの為
に、殿下御出あるべかむなり。いづくにても
待うけ奉り、前駆御隨身どもがもとどり
P01105
きて、資盛が恥すすげ」とぞのたまひける。殿下
是をば夢にもしろしめさず、主上明年
御元服、御加冠拝官の御さだめの為に、御
直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出
よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢
門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出
なる。猪熊堀河の返に、六波羅の兵ども、ひた
甲三百余騎待うけ奉り、殿下を中にとり
籠まいらせて、前後より一度に、時をどとぞ
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つくりける。前駆御隨身どもが、けふをはれと
しやうぞいたるを、あそこに追かけ爰に追つめ、
馬よりとて引おとし、散々に陵礫して、一々
にもとどりをきる。隨身十人がうち、右の府生
武基がもとどりもきられにけり。其中に、
藤蔵人大夫隆教がもとどりをきるとて、「是は
汝がもとどりとおもふべからず。主のもとどり
とおもふべし」といひふくめてきてげり。其後
は、御車の内へも弓のはずつきいれなどして、
P01107
すだれかなぐりおとし、御牛の鞦・胸懸きり
はなち、かく散々にしちらして、悦の時を
つくり、六波羅へこそまいりけれ。入道「神妙
なり」とぞのたまひける。御車ぞひには、
因幡のさい使、鳥羽の国久丸と云おのこ、下
臈なれどもなさけある者にて、泣々御車
つかまて、中御門の御所へ還御なし奉る。束
帯の御袖にて御涙をおさへつつ、還御の
儀式あさましさ、申も中々おろかなり。大織
P01108
冠・淡海公の御事はあげて申にをよばず、
忠仁公・昭宣公より以降、摂政関白のかかる御
目にあはせ給ふ事、いまだ承及ばず。これ
こそ平家の悪行のはじめなれ。小松殿
大にさはいで其時ゆきむかひたる侍ども皆
勘当せらる。「たとひ入道いかなる不思議を
下地し給ふとも、など重盛に夢をばみせ
ざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり。栴檀は
二葉よりかうばしとこそ見えたれ。既に十二三
P01109
にならむずる者が、今は礼儀を存知して
こそふるまうべきに、加様に尾籠を現じ
て、入道の悪名をたつ。不孝のいたり、汝独
にあり」とて、暫く伊勢国にをひ下さる。
されば此大将をば、君も臣も御感あり
  鹿谷S0112
けるとぞきこえし。 ○是によて、主上御元
服の御さだめ、其日はのびさせ給ぬ。同
廿五日、院の殿上にてぞ御元服のさだめは
ありける。摂政殿さてもわたらせ給べき
P01110
ならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、
十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同
十七日、慶申ありしかども、世中は猶にがにが
しうぞみえし。さるほどにことしも暮ぬ。
あくれば嘉応三年正月五日、主上御元服
あッて、同十三日、朝覲の行幸ありけり。法
皇・女院待うけまいらつさせ給て、叙爵の
御粧いかばかりらうたくおぼしめされけん。
入道相国の御娘、女御にまいらせ給ひけり。
P01111
御年十五歳、法皇御猶子の儀なり。其比、妙
音院の太政のおほいどの、其時は未内大臣の左
大将にてましましけるが、大将を辞し申させ
給ふことありけり。時に徳大寺の大納言実
定卿、其仁にあたり給ふ由きこゆ。又花山院
の中納言兼雅卿も所望あり。其外、故中
御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親
卿もひらに申されけり。院の御気色よかり
ければ、さまざまの祈をぞはじめられける。
P01112
八幡に百人の僧をこめて、信読の大般
若を七日よませられける最中に、甲良の
大明神の御まへなる橘の木に、男山の方
より山鳩三飛来て、くいあひてぞ死にける。
鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺に
かかる不思議なしとて、時の検校、匡清法印、
奏聞す。神祇官にして御占あり。天下の
さはきとうらなひ申。但、君の御つつしみに
あらず、臣下の御つつしみとぞ申ける。新大納言
P01113
是におそれをもいたさず、昼は人目のしげ
ければ、夜なよな歩行にて、中御門烏丸の
宿所より賀茂のかみの社へ、なな夜つづけ
てまいられけり。七夜に満ずる夜、宿所に
下向して、くるしさにうちふし、ちとまどろみ
給へる夢に、賀茂の上の社へまいりたると
おぼしくて、御宝殿の御戸おしひらき、ゆゆ
しくけだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ
P01114
ちるをばえこそとどめざりけれ W006
新大納言猶おそれをもいたさず、賀茂の上の
社に、ある聖をこめて、御宝殿の御うしろ
なる杉の洞に壇をたてて、拏吉尼の法を、
百日おこなはせられけるほどに、彼大椙に雷
おちかかり、雷火緩うもえあがて、宮中既に
あやうくみえけるを、宮人どもおほく走あつ
まて、是をうちけつ。さて彼外法おこなひ
ける聖を追出せむとしければ、「われ当社に
P01115
百日参籠の大願あり。けふは七十五日になる。
またくいづまじ」とてはたらかず。此由を社
家より内裏へ奏聞しければ、「唯法にまかせ
て追出せよ」と宣旨を下さる。其時神人
しら杖をもて、彼聖がうなじをしらげ、一条の
大路より南へをひたしてげり。神は非礼を
享給はずと申に、此大納言非分の大将を祈
申されければにや、かかる不思議もいできに
けり。其比の叙位除目と申は、院内の御ぱからひ
P01116
にもあらず、摂政関白の御成敗にも及ばず。
唯一向平家のままにてありしかば、徳大寺・
花山院もなり給はず。入道相国の嫡男小
松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左にうつ
りて、次男宗盛中納言にておはせしが、数
輩の上臈を超越して、右にくははられける
こそ、申計もなかりしか。中にも徳大寺殿は一の
大納言にて、花族栄耀、才学雄長、家嫡にて
ましましけるが、こえられ給けるこそ遺恨なれ。
P01117
「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、人々
内々は申あへりしかども、暫世のならむ様を
も見むとて、大納言を辞し申て、籠居とぞ
きこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、
「徳大寺・花山院に超られたらむはいかがせむ。平
家の次男に超らるるこそやすからね。是も
万おもふさまなるがいたす所也。いかにもして
平家をほろぼし、本望をとげむ」との給
けるこそおそろしけれ。父の卿は中納言迄
P01118
こそいたられしか、其末子にて位正二位、官大納
言にあがり、大国あまた給はて、子息所従朝恩
にほこれり。何の不足にかかる心つかれけん。
是偏に天魔の所為とぞみえし。平治に
も越後中将とて、信頼卿に同心のあひだ、既
誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申て頸を
つぎ給へり。しかるに其恩を忘れて、外人も
なき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひ
をき、其営みの外は他事なし。東山の麓
P01119
鹿の谷と云所は、うしろは三井寺につづいて、
ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都
の山庄あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家
ほろぼさむずるはかりことをぞ廻らしける。
或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が
子息、浄憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、
此由を浄憲法印に仰あはせられければ、「あな
あさまし。人あまた承候ぬ。唯今もれきこえて、
天下の大事に及候なんず」と、大にさはき
P01120
申ければ、新大納言けしきかはりて、さとたた
れけるが、御前に候ける瓶子を狩衣の袖
にかけて引たうされたりけるを、法皇「あれ
はいかに」と仰ければ、大納言立帰て、「平氏
たはれ候ぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼに
いらせおはしまして、「者どもまいて猿楽つか
まつれ」と仰ければ、平判官康頼まいりて、
「あら、あまりに平氏のおほう候に、もて醉て
候」と申。俊寛僧都「さてそれをばいかが仕らむ
P01121
ずる」と申されければ、西光法師「頸をとる
にしかじ」とて、瓶子のくびをとてぞ入にける。
浄憲法印あまりのあさましさに、つや
つや物を申されず。返々もおそろしかりし
事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将
入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、
山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判
官信房、新平判官資行、摂津国源氏多田蔵人
行綱を始として、北面の輩おほく与力したり
P01122
  俊寛沙汰
  鵜川軍S0113
けり。 ○此法勝寺の執行と申は、京極の源大納言
雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なり
けり。祖父大納言させる弓箭をとる家には
あらねども、余に腹あしき人にて、三条坊門
京極の宿所のまへをば、人をもやすくとを
さず、つねは中門にたたずみ、齒をくひし
ばり、いかてぞおはしける。かかる人の孫なれ
ばにや、此俊寛も僧なれども、心もたけく、
おごれる人にて、よしなき謀叛にもくみ
P01123
しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田蔵人
行綱をよふで、「御へんをば一方の大将に
憑なり。此事しおほせつるものならば、
国をも庄をも所望によるべし。先弓袋
の料に」とて、白布五十端送られたり。安元
三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ
給へるかはりに、大納言定房卿をこえて、
小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大将めでた
かりき。やがて大饗おこなはる。尊者には、
P01124
大炊御門右大臣経宗公とぞきこえし。
一のかみこそ先途なれども、父宇治の悪左
府の御例其軽あり。北面は上古にはなかり
けり。白河院の御時はじめをかれてより
以降、衛府どもあまた候けり。為俊・盛重
童より千手丸・今犬丸とて、是等は左右なき
きり物にてぞありける。鳥羽院の御時も、
季教・季頼父子ともに朝家にめしつか
はれ、伝奏するおりもありなどきこえし
P01125
かども、皆身のほどをばふるまふてこそ
ありしに、此御時の北面の輩は、以外に過分
にて、公卿殿上人をも者ともせず、礼儀
礼節もなし。下北面より上北面にあがり、
上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者
もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる
心どもも出きて、よしなき謀叛にもくみ
しけるにこそ。中にも故少納言信西がもとに
めしつかひける師光・成景といふ者あり。師
P01126
光は阿波国の在庁、成景は京のもの、熟根
いやしき下臈なり。こんでい童もしは
格勤者などにて召つかはれけるが、さかざか
しかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門
尉とて、二人一度に靭負尉になりぬ。信西
事にあひし時、二人ともに出家して、左衛門
入道西光・右衛門入道西敬とて、是等は出家の
後も院の御倉あづかりにてぞありける。彼
西光が子に師高と云者あり。是もきり者
P01127
にて、検非違使五位尉に経あがて、安元元年
十二月二十九日、追儺の除目に加賀守にぞな
されける。国務をおこなふ間、非法非例を
張行し、神社仏寺、権門勢家の庄領を没
倒し、散々の事どもにてぞありける。縦
せう公があとをへだつといふとも、穏便の政
をおこなふべかりしが、かく心のままにふる
まひしほどに、同二年夏の比、国司師高が
弟、近藤判官師経、加賀の目代に補せらる。
P01128
目代下着のはじめ、国府のへんに鵜河と云
山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかひて
あびけるを、乱入してをひあげ、わが身あび、
雑人どもおろし、馬あらはせなどしけり。
寺僧いかりをなして、「昔より、此所は国方の
者入部する事なし。すみやかに先例に
任て、入部の押妨をとどめよ」とぞ申ける。
「先々の目代は不覚でこそいやしまれ
たれ。当目代は、其儀あるまじ。唯法に任
P01129
よ」と云程こそありけれ、寺僧どもは国がたの
者を追出せむとす、国方の者どもは次を
もて乱入せんとす、うちあひはりあひし
けるほどに、目代師経が秘蔵しける馬の足
をぞうちおりける。其後は互に弓箭兵杖
を帯して、射あひきりあひ数剋たたかふ。
目代かなはじとやおもひけむ、夜に入て引退く。
其後当国の在庁ども催しあつめ、其勢
一千余騎、鵜川におしよせて、坊舍一宇も
P01130
残さず焼はらふ。鵜河と云は白山の末寺
なり。此事うたへんとてすすむ老僧誰々ぞ。
智釈・学明・宝台坊、正智・学音・土佐阿闍梨
ぞすすみける。白山三社八院の大衆ことごとく
起りあひ、都合其勢二千余人、同七月九日
の暮方に、目代師経が館ちかうこそおし
よせたれ。けふは日暮ぬ、あすのいくさと
さだめて、其日はよせでゆらへたり。露ふき
むすぶ秋風は、ゐむけの袖を翻し、雲ゐを
P01131
てらすいなづまは、甲の星をかかやかす。目代かな
はじとや思けん、夜にげにして京へのぼる。
あくる卯剋におしよせて、時をどとつくる。
城のうちにはをともせず。人をいれてみせければ、
「皆落て候」と申。大衆力及ばで引退く。さら
ば山門へうたへんとて、白山中宮の神輿を
賁り奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月
十二日の午刻計、白山の神輿既に比叡山
東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ、
P01132
北国の方より雷緩く鳴て、都をさして
なりのぼる。白雪くだりて地をうづみ、山
上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで
皆白妙になりにけり。
  願立S0114
 ○神輿をば客人の宮へいれたてまつる。客人
と申は白山妙利権現にておはします。
申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は
しらず、生前の御悦、只此事にあり。浦島が子
の七世の孫にあへりしにもすぎ、胎内の者の
P01133
霊山の父を見しにもこえたり。三千の衆徒
踵を継ぎ、七社の神人袖をつらね、時々剋々
の法施祈念、言語道断の事ども也。山門
の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、
目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由
奏聞す、御裁断なかりければ、さも然る
べき公卿殿上人は、「あはれとく御裁許ある
べきものを。昔より山門の訴訟は他に異也。
大蔵卿為房・太宰権帥季仲は、さしも朝家の
P01134
重臣なりしかども、山門の訴訟によて流
罪せられにき。况や師高などは事の数
にやはあるべきに、子細にや及べき」と申あ
はれけれ共、「大臣は禄を重じて諫めず、小臣は
罪に恐れて申さず」と云事なれば、をのをの
口をとぢ給へり。「賀茂河の水、双六の賽、
山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河
院も仰なりけるとかや。鳥羽院ノ御時、越前
の平泉寺を山門へつけられけるには、当山
P01135
を御帰依あさからざるによつて、「非をもて
理とす」とこそ宣下せられて、院宣をば
下されけれ。江帥匡房卿の申されし様に、
「神輿を陣頭へふり奉てうたへ申さん
には、君はいかが御ぱからひ候べき」と申され
ければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」
とぞ仰ける。去じ嘉保二年三月二日、美
濃守源義綱朝臣、当国新立の庄をたをす
あひだ、山の久住者円応を殺害す。是によて
P01136
日吉の社司、延暦寺の寺官、都合卅余人、申
文をささげて陣頭へ参じけるを、後二条
関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に仰て
ふせかせらる。頼春が郎等箭をはなつ。
やにはにゐころさるる者八人、疵を蒙る者
十余人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、
子細を奏聞の為に下洛すときこえし
かば、武士検非違使、西坂本に馳向て、皆を
かへす。山門には御裁断遅々のあひだ、七社の
P01137
神輿を根本中堂にふりあげ奉り、其御
前にて信読の大般若を七日よふで、関白殿
を呪咀し奉る。結願の導師には仲胤法印、
其比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に
のぼりかねうちならし、表白の詞にいはく、
「我等なたねの二葉よりおほしたて給ふ神たち、
後二条の関白殿に鏑箭一はなちあて給へ。
大八王子権現」と、たからかにぞ祈誓したり
ける。やがて其夜不思議の事あり。八王子の
P01138
御殿より鏑箭の声いでて、王城をさして、
なてゆくとぞ、人の夢にはみたりける。其
朝、関白殿の御所の御格子をあけけるに、唯
今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる
樒一枝、たたりけるこそおそろしけれ。やがて
山王の御とがめとて、後二条の関白殿、をもき
御病をうけさせ給しかば、母うへ、大殿の北
の政所、大になげかせ給つつ、御さまをやつし、
いやしき下臈のまねをして、日吉社に御
P01139
参籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。
あらはれての御祈には、百番の芝田楽、百番
のひとつ物、競馬・流鏑馬・相撲をのをの百番、
百座の仁王講、百座の薬師講、一■手半の
薬師百体、等身の薬師一体、並に釈迦阿
弥陀の像、をのをの造立供養せられけり。又
御心中に三の御立願あり。御心のうちの事
なれば、人いかでかしり奉るべき。それに不思
議なりし事は、七日に満ずる夜、八王子の御社に
P01140
いくらもありけるまいりうど共の中に、陸奧
よりはるばるとのぼりたりける童神子、
夜半計にはかにたえ入にけり。はるかにかき
出して祈ければ、程なくいきいでて、やがて立
てまひかなづ。人奇特のおもひをなして是
をみる。半時ばかり舞て後、山王おりさせ
給て、やうやうの御詫宣こそおそろしけれ。
「衆生等慥にうけ給はれ。大殿の北の政所、けふ
七日わが御前に籠らせ給たり。御立願三
P01141
あり。一には、今度殿下の寿命をたすけて
たべ。さも候はば、したどのに候もろもろのかたは人
にまじはて、一千日が間朝夕みやづかひ申さん
となり。大殿の北の政所にて、世を世とも
おぼしめさですごさせ給ふ御心に、子を
思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事もわす
られて、あさましげなるかたはうどにまじ
はて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと仰
らるるこそ、誠に哀におぼしめせ。二には、
P01142
大宮の波止土濃より八王子の御社まで、
廻廊つくてまいらせむとなり。三千人
の大衆、ふるにもてるにも、社参の時いたは
しうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかに
めでたからむ。三には、今度殿下の寿命をた
すけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問
答講毎日退転なくおこなはすべしとなり。
いづれもおろかならねども、かみ二はさなくとも
ありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほ
P01143
しうこそおぼしめせ。但、今度の訴訟は無下
にやすかりぬべき事にてありつるを、
御裁許なくして、神人・宮仕射ころされ、疵
を蒙り、泣々まいて訴申事の余に心うく
て、いかならむ世までも忘るべしともおぼえず。
其上かれらにあたる所の箭は、しかしながら和
光垂跡の御膚にたたるなり。まことそらごとは
是をみよ」とて、肩ぬいだるをみれば、左の脇の
した、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ
P01144
みえたりける。「是が余に心うければ、いかに申
とも始終の事はかなふまじ。法花問答講一
定あるべくは、三とせが命をのべてたて
まつらむ。それを不足におぼしめさば力及
ばず」とて、山王あがらせ給けり。母うへは御立願
の事人にもかたらせ給はねば、誰もらし
つらむと、すこしもうたがふ方もましまさず。
御心の内の事共をありのままに御詫宣有
ければ、心肝にそうて、ことにたとくおぼしめし、
P01145
泣々申させ給けるは、「縦ひと日かた時にて
さぶらふとも、ありがたふこそさぶらふべきに、
まして三とせが命をのべて給らむ事、し
かるべうさぶらふ」とて、泣々御下向あり。いそぎ
都へいらせ給て、殿下の御領紀伊国に田中
庄と云所を、八王子の御社へ寄進せらる。それ
よりして法花問答講、今の世にいたるまで、
毎日退転なしとぞ承る。かかりし程に、後二
条関白殿御病かろませ給て、もとのごとくに
P01146
ならせ給ふ。上下悦あはれしほどに、三とせの
すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月廿一日、又後二条関白殿、御ぐしのきはに悪
御瘡いでさせ給て、うちふさせ給ひしが、
同廿七日、御年卅八にて遂にかくれさせ給ぬ。
御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき
人にてましましけれ共、まめやかに事のきうに
なりしかば、御命を惜ませ給ける也。誠に
惜かるべし。四十にだにもみたせ給はで、大殿に
P01147
先立まいらせ給ふこそ悲しけれ。必しも
父を先立べしと云事はなけれ共、生死の
をきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、
十地究竟の大士たちも、力及び給はぬ事
どもなり。慈悲具足の山王、利物の方便にて
ましませば、御とがめなかるべしとも覚ず。
  御輿振S0115
 ○さる程に、山門の大衆、国司加賀守師高を流
罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄
せらるべき由、奏聞度々に及といへども、御
P01148
裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめて、
安元三年四月十三日辰の一点に、十禅師・客
人・八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へ
振奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の河原、糺・梅
ただ・柳原・東福院の辺に、しら大衆・神人・
宮仕・專当みちみちて、いくらと云数をしらず。
神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天に
かかやいて、日月地に落給ふかとおどろかる。是
によて、源平両家の大将軍、四方の陣頭を
P01149
かためて、大衆ふせくべき由仰下さる。平家
には、小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千
余騎にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の
門をかため給ふ。弟宗盛・具盛・重衡、伯父頼盛・教盛・
経盛などは、にし南の陣をかためられけり。
源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡辺の
はぶく・さづくをむねとして、其勢纔に三
百余騎、北の門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし
勢は少し、まばらにこそみえたりけれ。大衆
P01150
無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より神
輿をいれ奉らむとす。頼政卿さる人にて、
馬よりおり、甲をぬいで、神輿を拝し
奉る。兵ども皆かくのごとし。衆徒の中へ、
使者をたてて、申送る旨あり。其使は渡辺
の長七唱と云者なり。唱、其日はきちんの直
垂に、小桜を黄にかへいたる鎧きて、赤銅
づくりの太刀をはき、廿四さいたる白羽の箭
おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、
P01151
たかひもにかけ、神輿の御前に畏て申けるは、
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度
山門の御訴訟、理運の条勿論に候。御成敗
遅々こそ、よそにても遺恨に覚候へ。さては
神輿入奉らむ事、子細に及候はず。但頼政
無勢に候。其上あけて入奉る陣よりいらせ
給て候はば、山門の大衆は目だりがほしけり
など、京童部が申候はむ事、後日の難にや
候はんずらむ。神輿を入奉らば、宣旨を背
P01152
に似たり。又ふせき奉らば、年来医王山王に
首をかたぶけ奉て候身が、けふより後、
ながく弓箭の道にわかれ候なむず。かれと
いひ是といひ、かたがた難治の様に候。東の
陣は小松殿大勢でかためられて候。其陣
よりいらせ給べうもや候らむ」といひ送りたり
ければ、唱がかく申にふせかれて、神人・宮仕
しばらくゆらへたり。若大衆どもは、「何条
其儀あるべき。ただ此門より神輿を入奉れ」と
P01153
云族おほかりけれども、老僧のなかに三
塔一の僉議者ときこえし摂津竪者
豪運、すすみ出て申けるは、「尤もさいはれ
たり。神輿をさきだてまいらせて訴訟を
致さば、大勢の中をうち破てこそ後代の
きこえもあらむずれ。就中に此頼政卿は、
六孫王より以降、源氏嫡々の正棟、弓箭を
とていまだ其不覚をきかず。凡武芸にも
かぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御
P01154
在位の時、当座の御会ありしに、「深山花」と
いふ題を出されたりけるを、人々よみわづ
らひたりしに、此頼政卿、
深山木のその梢とも見えざりし
さくらは花にあらはれにけり W007
と云名歌仕て御感にあづかるほどの
やさ男に、時に臨で、いかがなさけなう恥
辱をばあたふべき。此神輿かきかへし奉や」
と僉議しければ、数千人の大衆先陣より
P01155
後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神
輿を先立まいらせて、東の陣頭、待賢門
より入奉らむとしければ、狼籍忽に出来
て、武士ども散々に射奉る。十禅師の御
輿にも箭どもあまた射たてたり。神人・宮
仕射ころされ、衆徒おほく疵を蒙る。おめき
さけぶ声梵天までもきこえ、堅牢地
神も驚らむとぞおぼえける。大衆神輿を
ば陣頭にふりすて奉り、泣々本山へ
P01156
かへりのぼる。
内裏炎上S0116
○蔵人左少弁兼光に仰て、殿上にて俄に
公卿僉議あり。保安四年七月に神輿入洛
の時は、座主に仰て赤山の社へいれ奉る。
又保延四年四月に神輿入洛の時は、祇園
別当に仰て祇園社へいれ奉る。今度は保
延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧
都澄兼に仰て、秉燭に及で祇園の社へ
入奉る。神輿にたつところの箭をば、神
P01157
人して是をぬかせらる。山門の大衆、日吉の
神輿を陣頭へ振奉る事、永久より以降、
治承までは六箇度なり。毎度に武士を召
てこそふせかるれども、神輿射奉る事是
はじめとぞうけ給。「霊神怒をなせば、災
害岐にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ人
々申あはれける。同十四日ノ夜半計、山門の
大衆又下洛すときこえしかば、夜中に
主上要輿にめして、院御所法住寺殿へ行幸
P01158
なる。中宮は御車にたてまつて行啓あり。
小松のおとど、直衣に箭おうて供奉せらる。
嫡子権亮少将維盛、束帯にひらやなぐひ
おふてまいられけり。関白殿をはじめ奉て、
太政大臣以下の公卿殿上人、我もわれもとはせ
まいる。凡京中の貴賎、禁中の上下、さはき
ののしる事緩し。山門には、神輿に箭たち、
神人宮仕射ころされ、衆徒おほく疵を
かうぶりしかば、大宮二宮以下、講堂中堂
P01159
すべて諸堂一宇ものこさず焼払て、
山野にまじはるべき由、三千一同に僉議
しけり。是によて大衆の申所、御ぱからひ
あるべしときこえしかば、山門の上綱等、子細
を衆徒にふれむとて登山しけるを、大
衆おこて西坂本より皆おかへす。平大納言
時忠卿、其時はいまだ左衛門督にておはし
けるが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔
会合して、上卿をとてひつぱり、「しや
P01160
冠うちおとせ。其身を搦て湖にしづめ
よ」などぞ僉議しける。既にかうとみえられ
けるに、時忠卿「暫しづまられ候へ。衆徒の御
中へ申べき事あり」とて、懷より小硯たた
うがみをとり出し、一筆かいて大衆の中へ
つかはす。是をひらいてみれば、「衆徒の
濫悪を致すは魔縁の所行也。明王の制
止を加るは善政の加護也」とこそかかれたれ。
是をみてひぱるに及ばず。大衆皆尤々と
P01161
同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙
一句をもて三塔三千の憤をやすめ、公私
の恥をのがれ給へる時忠卿こそゆゆし
けれ。人々も、山門の衆徒は發向のかまびすし
き計かと思たれば、ことはりも存知し
たりけりとぞ、感ぜられける。同廿日、花山
院権中納言忠親卿を上卿にて、国司加賀守
師高遂に闕官せられて、尾張の井戸田へ
ながされけり。目代近藤判官師経禁獄
P01162
せらる。又去る十三日、神輿射奉し武士
六人獄定せらる。左衛門尉藤原正純、右衛
門尉正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家国、
左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、是等
は皆小松殿の侍なり。同四月廿八日亥剋
ばかり、樋口富小路より火出来て、辰巳の風
はげしう吹ければ、京中おほく焼にけり。
大なる車輪の如くなるほむらが、三町五
町へだてて戌亥のかたへすぢかへに、とび
P01163
こえとびこえやけゆけば、おそろしなどもおろか
なり。或は具平親王の千種殿、或は北野の
天神の紅梅殿、橘逸成のはひ松殿、鬼殿・高
松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣のおとどの閑院殿、
昭宣公の堀河殿、是を始て、昔今の名所卅
余箇所、公卿の家だにも十六箇所まで
焼にけり。其外、殿上人諸大夫の家々は
しるすに及ばず。はては大内にふきつけ
て、朱雀門より始て、応田門・会昌門、大極殿・
P01164
豊楽院、諸司八省・朝所、一時がうちに炭
燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々
の文書、七珍万宝さながら麈炭となり
ぬ。其間の費へいか計ぞ。人のやけしぬる
事数百人、牛馬のたぐひは数をしらず。
是ただことにあらず、山王の御とがめとて、
比叡山より大なる猿どもが二三千おり
くだり、手々に松火をともひて京中を
やくとぞ、人の夢には見えたりける。大極
P01165
殿は清和天皇の御宇、貞観十八年に始而
やけたりければ、同十九年正月三日、陽成院
の御即位は豊楽院にてぞありける。元
慶元年四月九日、事始あて、同二年十月
八日にぞつくり出されたりける。後冷泉院の
御宇、天喜五年二月廿六日、又やけにけり。治
暦四年八月十四日、事始ありしかども、造り
出されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三
条院の御宇、延久四年四月十五日作り出して、
P01166
文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸
なし奉る。今は世末になて、国の力も衰へ
たれば、其後は遂につくられず。
P01167
平家物語巻第一

平家物語 高野本 巻第二

平家 二(表紙)
P02001
平家二之巻 目録
座主流     一行阿闍梨之沙汰
西光被斬    小教訓
少将乞請    教訓状
烽火之沙汰   新大納言流罪
阿古屋の松   成親死去
徳大寺厳島詣  山門滅亡
善光寺炎上   康頼祝
卒都婆流    蘇武
P02002

P02003
平家物語巻第二
  『座主流』S0201
○治承元年五月五日[B ノヒ]、天台座主明雲大僧正、
公請を停止せらるるうへ、蔵人を御使にて、
如意輪の御本尊をめし【召し】かへひ【返い】て、御持僧を
改易せらる。則使庁の使をつけて、今度神
輿内裏へ振たてまつる【奉る】衆徒の張本をめさ
れける。加賀国に座主の御坊領あり【有り】。国司
師高是を停廃の間、その宿意によて大衆
をかたらひ、訴詔【*訴訟】をいたさる。すでに朝家の御
P02004
大事に及よし、西光法師父子が讒奏によて、法
皇大に逆鱗あり【有り】けり。ことに重科におこなは
るべしときこゆ。明雲は法皇の御気色あしかり【悪しかり】
ければ、印鑰をかへしたてま【奉つ】て、座主を辞し
申さる。同十一日、鳥羽院の七の宮、覚快法親
王天台座主にならせ給ふ。これは青連院の
大僧正行玄の御弟子也。おなじき【同じき】十二日、先座主所
職をとどめ【留め】らるるうへ、検非違使二人をつけて、
井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに
P02005
およぶ【及ぶ】。これによて、大衆なを【猶】参洛すべきよし【由】聞え
しかば、京中又さはぎ【騒ぎ】あへり。同十八日、太政大臣以
下の公卿十三人参内して、陣の座につき、先の
座主罪科の事儀定あり【有り】。八条中納言長方卿、
其時はいまだ左大弁宰相にて、末座に候はれ
けるが、申されけるは、「法家の勘状にまかせて、死
罪一等を減じて遠流せらるべしとみえ【見え】て候へ
共、前座主明雲大僧正は顕密兼学して、浄
行持律のうへ、大乗妙経を公家にさづけたて
P02006
まつり【奉り】、菩薩浄戒を法皇にたもた【保た】せ奉る。御経の
師、御戒の師、重科におこなはれん事、冥の照覧
はかりがたし。還俗遠流をなだめ【宥め】らるべきか」と、はば
かるところ【所】もなう申されければ、当座の公卿みな
長方の義に同ずと申あはれけれ共、法皇の
御いきどをり【憤り】ふかかり【深かり】しかば、猶遠流に定らる。太政
入道も此事申さんとて、院参せられたりけれ共、
法皇御風の気とて御前へもめされ給はねば、
ほいなげにて退出せらる。僧を罪する習とて、土
P02007
円をめし【召し】返し、還俗せさせたてまつり【奉り】、大納言大
輔藤井の松枝と俗名をぞつけられける。此明
雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より
六代の御すゑ【末】、久我大納言顕通卿の御子也。まこ
と【誠】に無双の磧徳、天下第一の高僧にておはし
ければ、君も臣もたとみ給ひて、天王寺・六勝寺
の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安陪【*安倍】
泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲となのり【名乗り】
たまふこそ心えね。うへに日月の光をならべて、した【下】に
P02008
雲あり【有り】」とぞ難じける。仁安元年弐月廿日、天台座
主にならせ給ふ。同三月十五日、御拝堂あり【有り】。中堂の
宝蔵をひらかれけるに、種々の重宝共の中に、ほ
う【方】一尺の箱あり【有り】。しろひ【白い】布でつつまれたり。一生
不犯の座主、彼箱をあけて見給ふに、黄紙にか
けるふみ一巻あり【有り】。伝教大師未来の座主の
名字を兼てしるしをか【置か】れたり。我名のある所ま
でみて、それより奥をば、見ず、もとのごとくにまき
返してをか【置か】るる習也。されば此僧正もさこそおは
P02009
しけめ。かかるたとき人なれ共、先世の宿業を
ばまぬかれ給はず。哀なりし事ども【共】也。同廿一日、
配所伊豆国と定らる。人々様々に申あはれけれ
共、西光法師父子が讒奏によて、かやうにおこな
はれけり。やがてけふ都のうち【内】をおひ【追ひ】出さるべし
とて、追立の官人白河の御房【*御坊】にむか【向つ】て、おひ【追ひ】
奉る。僧正なくなく【泣く泣く】御坊を出て、粟田口のほとり、
一切経の別所へいらせ給ふ。山門には、せんずる処
我等が敵は西光父子に過たる者なしとて、彼等親
P02010
子が名字をかひ【書い】て、根本中堂におはします十二神
将のうち、金毘羅大将の左の御足のした【下】にふま
せ奉り、「十二神将・七千夜叉、時刻をめぐらさず西光
父子が命をめし【召し】とり給へや」と、おめき【喚き】さけん【叫ん】で呪
咀しけるこそ聞もおそろしけれ【恐ろしけれ】。同廿三日、一切経の
別所より配所へおもむき【赴き】給ひけり。さばかんの法
務の大僧正程の人を、追立の鬱使がさき【先】に
けたて【蹴立て】させ、けふ【今日】をかぎりに都を出て、関の
東へおもむか【赴か】れけん心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀
P02011
也。大津の打出の浜にもなりしかば、文殊楼の軒端
のしろじろとして見えけるを、ふため【二目】とも見給はず、
袖をかほにおし【押し】あてて、涙にむせび給ひけり。山門
に、宿老磧徳をほし【多し】といへども、澄憲法印、其時は
いまだ僧都にておはしけるが、余に名残をおしみ【惜しみ】奉り、
粟津まで送りまいらせ【参らせ】、さてもあるべきならねば、
それよりいとま申てかへられけるに、僧正心ざしの
切なる事を感じて、年来狐心中[M 「御」を非とし「狐」と傍書]に秘せられた
りし一心三観の血脈相承をさづけらる。此法は釈
P02012
尊の附属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の竜
樹菩薩より次第に相伝しきたれるを、けふの
なさけにさづけらる。さすが我朝は粟散辺
地の境、濁世末代といひながら、澄憲これを附属
して、法衣の袂をしぼりつつ、宮こ【都】へ帰のぼられける
心のうちこそたとけれ。山門には大衆おこ[B ッ]て僉議
す。「[B 抑]義真和尚よりこのかた、天台座主はじめ【*はじま】て五
十五代に至るまで、いまだ流罪の例をきかず。倩
事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都
P02013
をたて、大師は当山によぢのぼ【上つ】て四明の教法を
此所にひろめ給ひしよりこのかた、五障の女人跡
たえ【絶え】て、三千の浄侶居[M を]しめたり。峰には一乗
読誦年ふりて、麓には七社の霊験日新なり。
彼月氏の霊山は王城の東北、大聖の幽崛也。この
日域の叡岳も帝都の鬼門に峙て、護国の霊地
也。代々の賢王智臣、此所に壇場をしむ。末代なら
んがらに、いかんが当山に瑕をばつくべき。心うし」とて、
おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】といふ程こそあり【有り】けれ、満山の大衆
P02014
  『一行阿闍梨之沙汰』S0202
みな東坂本へおり下る。 ○[B 十禅師権現の御前にて、大衆又僉議す。]「抑我等粟津に行むか【向つ】て、
貫首をうばひとどめ【留め】奉るべし。但追立の鬱使・両
送使【*令送使】あんなれば、事ゆへ【故】なくとりえ【取得】たてまつら【奉ら】ん
事ありがたし。山王大師の御力の外はたのむ【頼む】方
なし。誠に別の子細なく取え【得】奉るべくは、ここ【爰】にて
まづ瑞相をみせ【見せ】しめ給へ」と、老僧共肝胆をくだ
いて祈念しけり。ここに無動寺法師乗円律師
が童、鶴丸とて、生年十八歳になるが、身心をくるしめ【苦しめ】
五体に汗をながひ【流い】て、俄にくるひ出たり。「われ十禅
P02015
師権現のりゐさせ給へり。末代といふ共、争か我山の
貫首をば、他国へはうつさるべき。生々世々に心うし。
さらむにとては、われこのふもと【麓】に跡をとどめ【留め】て
もなににかはせん」とて、左右の袖をかほにおし【押し】
あてて、涙をはらはらとながす。大衆これをあやしみ
て、「誠に十禅じ【十禅師】権現の御詫宣にて在さば、我等しる
しをまいらせ【参らせ】ん。すこし【少し】もたがへ【違へ】ずもとのぬしに返した
べ」とて、老僧共四五百人、手々にも【持つ】たる数珠共を、十
禅師の大床のうへへぞなげ【投げ】あげたる。此物ぐるひはし
P02016
り【走り】まはてひろひ【拾ひ】あつめ【集め】、すこし【少し】もたがへ【違へ】ず一々にもと
のぬしにぞくばりける。大衆神明の霊験あら
たなる事のたとさに、みなたな心をあはせ【合はせ】て随
喜の感涙をぞもよほし[M 「もよをし」とあり「を」をミセケチ「ほ」と傍書]ける。「其儀ならば、ゆきむ
か【向つ】てうばひとどめ【留め】たてまつれ【奉れ】」といふ程こそあり【有り】
けれ、雲霞の如くに発向す。或は志賀辛崎の
浜路にあゆみ【歩み】つづける大衆もあり【有り】、或山田矢ばせの
湖上に舟おしいだす衆徒もあり【有り】。是をみ【見】て、さしもき
びしげなりつる追立の鬱使・両送使【*令送使】、四方へ皆逃
P02017
さりぬ。大衆国分寺へまいり【参り】むかふ【向ふ】。前座主大におどろ
ひて、「勅勘の者は月日の光にだにもあたらずとこ
そ申せ。何况や、いそぎ都のうちを追出さるべしと、
院宣・宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべから
ず。衆徒とうとう【疾う疾う】かへり【帰り】のぼり給へ」とて、はしちかうゐ出て
の給ひけるは、「三台槐門の家をいで【出で】て、四明幽渓の窓
に入しよりこのかた、ひろく円宗の教法を学して、顕
密両宗をまなびき。ただ吾山の興隆をのみおも
へ【思へ】り。又国家を祈奉る事おろそかならず。衆徒をは
P02018
ぐくむ心ざし【志】もふかかり【深かり】き。両所山王[B 「王」に「上イ」と傍書]定て照覧し給
ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によて遠流
の重科をかうぶれば、世をも人をも神をも仏をも
恨み奉ること【事】なし。これまでとぶらひ【訪ひ】来給ふ衆徒の
芳志こそ報つくしがたけれ」とて、香染の御衣の
袖しぼりもあへ給はねば、大衆もみな涙をぞながし
ける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候」と申ければ、
「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしか、いまはかかる流人
の身になて、いかんがやごとなき修学者、智恵ふか
P02019
き大衆達には、かきささげられてのぼるべき。縦の
ぼるべき[M 「縦のぼるべき縦のぼるべき」とあり、後の「縦のぼるべき」をミセケチ]なり共、わらんづなどいふ物し
ばりはき、おなじ様にあゆみ【歩み】つづい【続い】てこそのぼらめ」と
てのり給はず。ここに西塔の住侶、戒浄坊の阿闍
梨祐慶といふ悪僧あり【有り】。たけ七尺ばかりあり【有り】ける
が、黒革威の鎧の大荒目にかね【鉄】まぜたるを、草摺
なが【草摺長】にきなして、甲をばぬぎ、法師原にもたせつつ、
しら柄【白柄】の大長刀杖につき、「あけ【開け】られ候へ」とて、大衆
の中をおし分おし分、先座主のおはしける所へつとまいり【参り】
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たり。だい【大】の眼を見いからかし、しばしにらまへ奉り、「その御心
でこそかかる御目にもあはせ給へ。とうとうめさるべう候」
と申ければ、おそろしさ【恐ろしさ】にいそぎのり給。大衆とり
え【取得】奉るうれしさに、いやしき法師原にはあらで、やごと
なき修学者どもかきささげ奉り、おめき【喚き】さけ【叫ん】での
ぼりけるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、さきごし【前輿】かひ【舁い】
て、長刀の柄もこし【輿】の轅もくだけよととる【執る】ままに、
さしもさがしき東坂、平地を行が如く也。大講堂の
庭に輿かきすへ【据ゑ】て、僉議しけるは、「抑我等粟津に
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行向て、貫首をばうばい【奪ひ】とどめ【留め】奉りぬ。既に勅勘を
蒙て流罪せられ給ふ人を、とりとどめ【留め】奉て貫首
にもちひ【用ひ】申さん事、いかが有べからん」と僉議す。戒
浄房ノ阿闍梨、又先のごとくにすすみ出て僉議
しけるは、「夫当山は日本無双の霊地、鎮護国家
の道場、山王の御威光盛にして、仏法王法牛角也。
されば衆徒の意趣に至るまでならびなく、いや
しき法師原までも世もてかろしめず。况や智恵高
貴にして三千の貫首たり。今は徳行おもう【重う】して一山
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の和尚たり。罪なくしてつみをかうぶる、是山上洛中の
いきどほり【憤り】、興福・園城のあざけり【嘲】にあらずや。此時顕
密のあるじをうしな【失つ】て、数輩の学侶、蛍雪のつとめ
おこたらむこと【事】心うかるべし。せんずる【詮ずる】所、祐慶張本に
称ぜられて、禁獄[B 流]罪もせられ、か[B う]べをはね【刎ね】られ
ん事、今生の面目、冥途の思出なるべし」とて、双
眼より涙をはらはらとながす。大衆尤も尤もとぞ同
じける。それよりしてこそ、祐慶はいかめ房とはいは
れけれ。其弟子に恵慶【*慧恵】律師[M 「法師」とあり、「法」を非とし「律」と傍書]をば、時の人こいかめ
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房とぞ申ける。大衆、先座主をば東塔の南谷妙
光坊へ入奉る。時の横災は権化の人ものがれ給はざ
るやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の
御持僧【護持僧】にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名
をたち【立ち】給へり。昔もいまも、大国も小国も、人の口の
さがなさは、跡かたなき事なりしか共、其疑によて
果羅国へながされ給ふ。件の国へは三の道あり【有り】。
輪池道とて御幸道、幽地道とて雑人のかよふ
道、暗穴道とて重科の者をつかはす【遣す】道也。されば
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彼一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ
つかはし【遣し】ける。七日七夜が間、月日の光をみ【見】ずして行道
也。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、深々と
して山ふかし。只澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の
ぬれ衣ほしあへず。無実の罪によて遠流の重
科をかうむる[M 「かゝむる」とあり「ゝ」をミセケチ「う」と傍書]事を、天道あはれみ給ひて、九耀
のかたちを現じつつ、一行阿闍梨をまぼり【守り】給ふ。
時に一行右の指をくひきて、左のたもと【袂】に九耀
のかたちをうつさ【写さ】れけり。和漢両朝に真言の本
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  『西光被斬』S0203
尊たる九耀の曼陀羅是也。 ○[B 去程に山門の]大衆、先座主をとり【取り】とど
むるよし【由】、法皇きこしめし【聞し召し】て、いとどやすからずぞおぼし
めされける。西光法師申けるは、「山門の大衆みだり
がはしきうたへ【訴へ】仕事、今にはじめずと申ながら、今度
は以外に覚候。これ程の狼籍【*狼藉】いまだ承り及候はず。
よくよく御いましめ候へ」とぞ申ける。身のただいま【只今】ほろ
び【亡び】んずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもはば
からず、か様【斯様】に申て神禁をなやまし奉る。讒臣は
国をみだるといへり。実哉。叢蘭茂か覧とすれども、
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秋風これをやぶり、王者明かな覧とすれば、讒臣こ
れをくらう【暗う】す共、かやうの事をや申べき。此事、新
大納言成親卿以下近習の人々に仰あはせ【合はせ】られ
て、山せめ【攻め】らるべしと聞えしかば、山門の大衆、「さのみ
王地にはらまれて、詔命をそむくべきにあらず」と
て、内々院宣に随ひ奉る衆徒もあり【有り】など聞えし
かば、前座主明雲大僧正は妙光房におはしける
が、大衆ふた心あり【有り】ときい【聞い】て、「つゐに【遂に】いかなる目にか
あはむず覧」と、心ぼそげにぞの給ひける。され
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共流罪の沙汰はなかりけり。新大納言成親卿は、山門
の騒動によて、私の宿意をばしばらくおさへられ
けり。そも内義したく【支度】はさまざまなりしか共、義勢ばかり
では此謀反かなふ【適ふ】べうも見えざりしかば、さしもたのま【頼ま】
れたりける多田蔵人行綱、此事無益なりとお
もふ【思ふ】心つきにけり。弓袋のれう【料】におくら【送ら】れたりけ
る布共をば、直垂かたびらに裁ぬはせて、家子郎
等どもにきせつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、倩
平家の繁昌する有様をみる【見る】に、当時たやすく
P02028
かたぶけ【傾け】がたし。よし【由】なき事にくみしてげり。若此事
もれ【漏れ】ぬる物ならば、行綱まづうしなは【失は】れなんず。他人
の口よりもれ【漏れ】ぬ先にかへり忠【返り忠】して、命いか【生か】うどおもふ【思ふ】
心ぞつきにける。同五月廿九日のさ夜ふけがたに、多
田蔵人行綱、入道相国の西八条の亭に参て、「行
綱こそ申べき事候間、まい【参つ】て候へ」といはせければ、入
道「つねにもまいら【参ら】ぬ者が参じたるは何事ぞ。あれき
け」とて、主馬判官盛国をいださ【出ださ】れたり。「人伝には
申まじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから
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中門の廊へ出られたり。「夜ははるかにふけぬらむ。ただ
今【只今】いかに、何事ぞや」との給へ【宣へ】ば、「昼は人目のしげう候
間、夜にまぎれてまい【参つ】て候。此程院中の人々の兵
具をととのへ、軍兵をめされ候をば、何とかきこし
めさ【聞し召さ】れ候」。「それは山攻らるべしとこそきけ」と、いと事
もなげにぞの給ひける。行綱ちかう【近う】より、小声に
なて申けるは、「其儀では候はず。一向御一家の御上とこそ
承候へ」。「さてそれをば法皇もしろしめさ【知ろし召さ】れたるか」。「子細
にやおよび【及び】候。成親卿の軍兵めされ候も、院宣と
P02030
てこそめさ【召さ】れ候へ。俊寛がとふるまう【振舞】て、康頼がかう申
て、西光がと申て」などいふ事共、はじめ【始め】よりあり【有り】
のままにはさし過ていひ散し、「いとま申て」とて出に
けり。入道大に驚き、大声をもて侍共よびのの
しり給ふ[B 事]、聞もおびたたし【夥し】。行綱なまじひなる事
申出して、証人にやひかれんず覧とおそろしさ【恐ろしさ】
に、大野に火をはなたる心ち【心地】して、人もおは【追は】ぬに
とり袴して、いそぎ門外へぞにげ【逃げ】出ける。入道、ま
づ【先】貞能をめし【召し】て、「当家かたぶけ【傾け】うどする謀反
P02031
のともがら【輩】、京中にみちみちたん也。一門の人々にもふ
れ申せ。侍共もよをせ」との給へば、馳まはてもよをす。
右大将宗盛卿、三位中将知盛[M 「具盛」とあり「具」をミセケチ「知」と傍書]、頭中将重衡、左馬
頭行盛以下の人々、甲胃をよろひ、弓箭を帯し
馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ【集ふ】。其
夜のうちに西八条には、兵共六七千騎もあるら
むとこそ見えたりけれ。あくれば六月一日[B ノ]也。いま
だくらかり【暗かり】けるに、入道、検非違使安陪資成を
めし【召し】て、「きと院の御所へまいれ【参れ】。信成【*信業】をまねひ【招い】
P02032
て申さ[B ン]ずるやうはよな、「近習の人々、此一門をほろぼ
して天下をみだらんとするくわたて【企て】あり【有り】。一々にめし【召し】
とて尋ね沙汰仕るべし。それをば君もしろしめさ【知ろし召さ】る
まじう候」と申せ」とこその給ひけれ。資成いそぎ
御所へはせまいり【参り】、大膳大夫信成【*信業】よびいだひ【出だい】て此
由申に、色をうしなふ【失ふ】。御前へまい【参つ】て此由奏聞
しければ、法皇「あは、これらが内々はかりし事の
もれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさまし。さる
にても、「こは何事ぞ」とばかり仰られて、分明の御
P02033
返事もなかりけり。資成いそぎ馳帰て、入道相国に
此由申せば、「さればこそ。行綱はまことをいひけり。こ
の事行綱しらせずは、浄海安穏にある【有る】べしや」とて、
飛弾【*飛騨】守景家・筑後守貞能に仰て、謀反の輩
からめとるべき由下知せらる。仍二百余余騎、三百余き、
あそこここにおし【押し】よせおし【押し】よせからめとる。太政入道まづ雑
色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許
へ、「申あはす【合はす】べき事あり【有り】。きと立より給へ」との給ひ
つかはさ【遣さ】れたりければ、大納言我身のうへ【上】とは露
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しら【知ら】ず、「あはれ、是は法皇の山攻らるべきよし御結構あ
るを、申とどめられんずるにこそ。御いきどをり【憤り】ふか
げなり。いかにもかなう【叶ふ】まじき物を」とて、ないきよげ【萎清気】
なる布衣たをやかにきなし、あざやかなる車に
のり、侍三四人めし【召し】具して、雑色牛飼に至るまで、つ
ねよりもひき【引き】つくろは【繕は】れたり。そも最後とは後
にこそおもひ【思ひ】しられけれ。西八条ちかうなてみ【見】給
へば、四五町に軍兵みちみちたり。「あなおびたたし【夥し】。
何事やらん」と、むねうちさはぎ【騒ぎ】、車よりおり、門の
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うち【内】にさし入て見給へば、うち【内】にも兵共ひま【隙】はざま
もなうぞみちみちたる。中門の口におそろしげ【恐ろし気】なる
武士共あまた待うけて、大納言の左右の手をと
てひ【引つ】ぱり、「いましむべう候哉覧」と申。入道相国簾
中より見出して、「ある【有る】べうもなし」との給へば、武士共
十四五人、前後左右に立かこみ、ゑん【縁】のうへ【上】にひき
のぼせ【上せ】て、ひとまなる所におし【押し】こめてげり。大納言
夢の心地して、つやつや物もおぼえ【覚え】給はず。供なり
つる侍共おし【押し】へだてられて、ちりぢりになりぬ。雑色・
P02036
牛飼いろ【色】をうしなひ【失ひ】、牛・車をすてて逃さりぬ。さる
程に、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧
都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、
宗判官信房、新平判官資行もとらはれて
出来たり。西光法師此事きい【聞い】て、我身のうゑ【上】とや
思けん、鞭をあげ、院の御所法住寺殿へ馳ま
いる【参る】。平家の侍共道にて馳むかひ【向ひ】、「西八条へめさ
るるぞ。きとまいれ【参れ】」といひければ、「奏すべき事が
あて法住寺殿へまいる【参る】。やがてこそまいら【参ら】め」といひけ
P02037
れ共、「にくひ入道かな、何事をか奏すべかんなる。さな
いはせそ」とて、馬よりとてひきおとし【落し】、ちう【宙】にくく【括つ】て西
八条へさげてまいる【参る】。日のはじめより根元よりき【与力】の
者なりければ、殊につよう【強う】いましめて、坪の内にぞ
ひすへ【引つ据ゑ】たる。入道相国大床にたて、「入道かたぶけ【傾け】う
どするやつがなれるすがたよ。しやつここへひき【引き】よせ
よ」とて、ゑん【縁】のきはにひき【引き】よせさせ、物はき【履】なが
らしやつらをむずむずとぞふまれける。「本よりを[B の]
れら【己等】がやうなる下臈のはてを、君のめし【召し】つかは【使は】せ
P02038
給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子共に過分
のふるまひすると見しにあはせて、あやまたぬ天
台の座主流罪に申おこなひ、天下の大事ひき【引き】出い
て、剰此一門ほろぼす【亡ぼす】べき謀反にくみしてげるや
つなり。あり【有り】のままに申せ」とこその給ひけれ。西光
もとよりすぐれたる大剛の者なりければ、ちとも
色も変ぜず、わろびれたる気いき[B 「い」に「シ」と傍書]【景色】もなし。ゐ【居】なを
り【直り】あざわら【笑つ】て[* 「あざわれて」と有るのを他本により訂正]申けるは、「さもさうず。入道殿こそ
過分の事をばの給へ。他人の前はしら【知ら】ず、西光が
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きかんところ【所】にさやうの事をば、えこその給ふまじけれ。
院中にめしつかは【使は】るる身なれば、執事の別当成親
卿の院宣とてもよをさ【催さ】れし事に、くみせずとは
申べき様なし。それはくみしたり。但、耳にとどまる事
をもの給ふ物かな。御辺は故刑部卿忠盛の子で
おはせしかども、十四五までは出仕もし給はず。故中
御門藤中納言家成卿の辺にたち【立ち】入給しをば、京
童部は高平太とこそいひしか。保延の比、大将軍
承り、海賊の張本卅余人からめ進ぜられし[B 勧]賞
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に、四品して四位の兵衛佐と申ししをだに、過分と
こそ時の人々は申あはれしか。殿上のまじはりをだ
にきらわれし人の子で、太政大臣までなりあが【上がつ】た
るや過分なるらむ。侍品の者の受領検非違使
になる事、先例傍例なきにあらず。なじかは過分
なるべき」と、はばかる所もなう申ければ、入道あま
りにいかて物も[B の]給はず。しばしあて「しやつが頸さ
う【左右】なうきるな。よくよくいましめよ」とぞの給ひける。
松浦太郎重俊承て、足手をはさみ【鋏み】、さまざまに
P02041
いためとふ。もとよりあらがひ申さぬうゑ【上】、糾問はき
びしかりけり、残なうこそ申けれ。白状四五牧に記
せられ、やがて、「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五
条西朱雀にしてきられにけり。嫡子前加賀守
師高、尾張の井戸田へながされたりけるを、同国
の住人小胡麻郡司維季に仰てうた【討た】れぬ。次
男近藤判官師経禁獄せられたりけるを、獄
より引いださ【出ださ】れ、六条河原にて誅せらる。其弟左
衛門尉師平、郎等三人、同く首をはねられけり。
P02042
これら【是等】はいふかい【甲斐】なき物の秀て、いろう【綺ふ】まじき事に
いろひ【綺ひ】、あやまたぬ天台座主流罪に申おこなひ、
果報やつきにけん、山王大師の神罰冥罰を
  『小教訓』S0204
立どころにかうぶて、かかる目にあへりけり。○新大納
言は、ひと間【一間】なる所におし【押し】こめられ、あせ水になり
つつ、「あはれ、是は日比のあらまし事のもれ【漏れ】聞え
けるにこそ。誰もらし【洩らし】つらん。定て北面の者共
が中にこそある【有る】らむ」など、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】
つづけておはしけるに、うしろのかたより足をと【音】
P02043
のたからかにしければ、すはただ今【只今】わがいのち【命】をうし
なは【失は】んとて、物のふ【武士】共がまいる【参る】にこそと待給ふに、入
道みづからいたじき【板敷】たからか【高らか】にふみならし、大納言の
おはしけるうしろの障子をさとあけられたり。そ
けん【素絹】の衣のみじからかなるに、しろき【白き】大口ふみくくみ、
ひじりづかの刀おし【押し】くつろげてさすままに、以外に
いかれるけしき【気色】にて、大納言をしばしにらまへ、「抑御
辺は平治にもすでに誅せらるべかりしを、内府が
身にかへて申なだめ【宥め】、頸をつぎたてま【奉つ】しはいかに。何の
P02044
遺恨をもて、此一門ほろぼすべき由[B の][M 御]結構は候
けるやらん。恩をしるを人とはいふぞ。恩をしらぬ
をば畜生とこそいへ。しかれ共当家の運命つき
ぬによて、むかへ【向へ】たてま【奉つ】たり。日比のあらまし[M 「御結構」をミセケチ、左に「あらまし」と傍書]の次第、
直にうけ給ら【承ら】ん」とぞの給ひける。大納言「またくさ
る事候はず。人の讒言にてぞ候らむ。よくよく御
尋候へ」と申されければ、入道いはせもはてず、「人
やある、人やある」とめされければ、貞能まいり【参り】たり。「西光めが
白状まいらせよ【参らせよ】」と仰られければ、も【持つ】てまいり【参り】たり。是を
P02045
とて二三遍おし【押し】返しおし【押し】返し読きかせ、「あなにくや。此うへ【上】
をば何と陳ずべき」とて、大納言のかほにさとなげ【投げ】
かけ、障子をちやうどたててぞ出られける。入道、なを【猶】
腹をすゑ【据ゑ】かねて、「経遠・兼康」とめせば、瀬尾太郎・難
波次郎、まいり【参り】たり。「あの男とて庭へ引おとせ【落せ】」と
の給へば、これらはさう【左右】なくもしたてまつら【奉ら】ず。[M 畏て]、「小
松殿の御気色いかが候はんず覧」と申ければ、入道
相国大にいかて、「よしよし、を[B の]れら【己等】は内府が命をばおもう【重う】
して、入道が仰をばかろう【軽う】しけるごさんなれ。其上は
P02046
ちから【力】をよば【及ば】ず」との給へば、此事あしかり【悪しかり】なんとや思ひ
けん、二人の者共たち【立ち】あが【上がつ】て、大納言を庭へひき【引き】
おとし【落し】奉る。其時入道心地よげにて、「とてふせておめ
か【喚か】せよ」とぞの給ひける。二人の者共、大納言の左右
の耳に口をあてて、「いかさまにも御声のいづべう
候」とささやいてひきふせ奉れば、二声三声ぞ
おめか【喚か】れける。其体冥途にて、娑婆世界の罪人
を、或業のはかりにかけ、或浄頗梨の鏡にひき
むけて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵嘖
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すらんも、これには過じとぞ見えし。蕭樊とらは
れとらはれて、韓彭にらぎすされたり。兆錯[B 「兆措」とあり「措」に「錯」と傍書、「ソ」「サク」両様の振り仮名あり]【*■錯】戮をうけて、
周儀【*周魏】つみせらる。喩ば、蕭何・樊噌・韓信・彭越、是
等は高祖の忠臣なりしか共、小人の讒によて過
敗の恥をうく共、か様【斯様】の事をや申べき。新大納言は
我身のかくなるにつけても、子息丹波の少将成経
以下、おさなき【幼き】人々、いかなる目にかあふらむと、おもひ【思ひ】や
るにもおぼつかなし。さばかりあつき六月に、装束だに
もくつろげず、あつさ【暑さ】もたへ【堪へ】がたければ、むね【胸】せき
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あぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞながれ【流れ】ける。「さ
り共小松殿は思食はなたじ物を」と思はれけれども、誰
して申べし共おぼえ【覚え】給はず。小松のおとどは、其後遥
に程へて、嫡子権亮少将[B 維盛を]車のしりにのせ【乗せ】つつ、衛
府四五人、随身二三人めし【召し】ぐし【具し】て、兵一人もめし【召し】ぐせ【具せ】
られず、殊に大様げでおはしたり。入道をはじめ奉て、
人々皆おもは【思は】ずげにぞ見給ひける。車よりおり
給ふ処に、貞能つと参て、「など是程の御大事に、
軍兵共をばめし【召し】ぐせ【具せ】られ候はぬぞ」と申せば、「大事とは
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天下の大事をこそいへ。かやうの私事を大事と云
様やある」との給へば、兵杖を帯したる者共も、皆そ
ぞろいてぞ見えける。「そも大納言をばいづくにを
か【置か】れたるやらん」とて、ここかしこの障子引あけ引あけ見
給へば、ある障子のうへに、蛛手ゆう【結う】たる所あり【有り】。ここや
らんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙に
むせびうつぶして、目も見あはせ給はず。「いかにや」との
給へば、其時みつけ【見付け】奉り、うれしげにおもは【思は】れたるけし
き、地獄にて罪人共が地蔵菩薩を見奉るらんも、
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かくやとおぼえて哀也。「何事にて候やらん、かかる目に
あひ候。さてわたらせ給へば、さり共とこそたのみま
いらせ【参らせ】て候へ。平治にも既誅せらるべかりしを[M 「べきで候しが」とあり「きで候しが」をミセケチ「かりしを」と傍書]、御恩
をもて頸をつがれまいらせ【参らせ】、正二位の大納言にあがつ[M 「あり」とあり「り」をミセケチ「がつ」と傍書]【上がつ】
て、歳既四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報じ
つくしがたう候へ。今度も同はかひなき命をたす
け【助け】させおはしませ。命だにいき【生き】て候はば、出家入道
して高野粉河に閉籠り、一向後世菩提の
つとめをいとなみ候はん」と申されければ、[M さは候共、]
P02051
[B 大臣、「誠にさこそはおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。さ候へばとて、」御命うしなひ【失ひ】奉るまではよも候はじ。縦さは候共、重盛
かうて候へば、御命にもかはり奉るべし]とて出られけり。
父の禅門の御まへにおはして、「あの成親卿うしなは【失は】れん
事、よくよく御ぱからひ候べし。先祖修理大夫顕季、
白河院にめし【召し】つかは【使は】れてよりこのかた、家に其例なき
正二位の大納言にあが【上がつ】て、当時君無双の御いとをし
みなり。やがて首をはねられん事、いかが候べからん。
都の外へ出されたらんに事たり候なん。北野[B ノ]天神
は時平のおとどの讒奏にてうき名を西海の浪に
P02052
ながし、西宮の大臣は多田の満仲が讒言にて恨を
山陽の雲によす。おのおの【各々】無実なりしか共、流罪せ
られ給ひにき。これ皆延喜の聖代、安和の御門
の御ひが事【僻事】とぞ申伝たる。上古猶かくのごとし、況
哉末代にをいてをや。賢王猶御あやまりあり【有り】、況や
凡人にをいてをや。既めし【召し】をか【置か】れぬる上は、いそぎう
しなは【失は】れず共、なんのくるしみか候べき。「刑の疑はし
きをばかろんぜよ。功の疑はしきをばおもんぜよ【重んぜよ】」と
こそみえ【見え】て候へ。事あたらしく候へども、重盛彼大納言
P02053
が妹に相ぐして候。維盛又聟なり。か様【斯様】にしたしくな【成つ】
て候へば申とや、おぼしめさ【思し召さ】れ候らん。其儀では候はず。世
のため、君のため、家のための事をもて申候。一と
せ、故少納言入道信西が執権の時にあひ【相】あたて、
我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衛督藤原仲
成を誅せられてよりこのかた、保元までは君廿五代
の間行れざりし死罪をはじめてとり行ひ、宇治
の悪左府の死骸をほりおこいて実験【*実検】せられし
事などは、あまりなる御政とこそおぼえ【覚え】候しか。されば
P02054
いにしへの人々も、「死罪をおこなへば海内に謀反の輩
たえ【絶え】ず」とこそ申伝て候へ。此詞について、中二年あて、
平治に又信西がうづま【埋ま】れたりしをほり出し、首をは
ね【刎ね】て大路をわたされ候にき。保元に申行ひし事、
幾程もなく身の上にむかはり【向はり】にきとおもへ【思へ】ば、おそ
ろしう【恐ろしう】こそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。かたがた
おそれ【恐れ】ある【有る】べし。御栄花残る所なければ、おぼしめす【思し召す】
事ある【有る】まじけれ共、子々孫々までも繁昌こそあら
まほしう候へ。父祖の善悪は必子孫に及と見えて候。
P02055
積善の家に余慶あり【有り】、積悪の門に余殃とどまる
とこそ承はれ。いかさまにも今夜首をはね【刎ね】られんこ
と【事】、しかる【然る】べうも候はず」と申されければ、入道相国げに
もとやおもは【思は】れけん、死罪はおもひ【思ひ】とどまり給ひぬ。其
後おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「仰なれ
ばとて、大納言左右なう失ふ事ある【有る】べからず。入道
腹のたちのままに、もの【物】さはがしき【騒がしき】事し給ひては、
後に必くやしみ給ふべし。僻事してわれうらむ【恨む】
な」との給へば、兵共皆舌をふておそれ【恐れ】おののく。「さて
P02056
も経遠・兼康がけさ大納言に情なうあたりける
事、返々も奇怪也。重盛がかへり聞ん所をば、などかははば
からざるべき。片田舎の者共はかかるぞとよ」との給へ
ば、難波も瀬尾もともにおそれ【恐れ】入たりけり。おとどはか
様【斯様】にの給ひて、小松殿へぞ帰られける。さる程に、大
納言のとも【供】なりつる侍共、中御門烏丸の宿所へはし
り【走り】帰て、此由申せば、北方以下の女房達、声もおし
ま【惜しま】ずなき【泣き】さけぶ【叫ぶ】。「既武士のむかひ【向ひ】候。少将殿をはじ
め【始め】まいらせ【参らせ】て、君達も皆とられさせ給ふべしと
P02057
こそ聞え候へ。いそぎ【急ぎ】いづ方へもしのば【忍ば】せ給へ」と申けれ
ば、「今は是程の身にな【成つ】て、残りとどまる身とても、安
穏にて何にかはせん。ただ【只】同じ一夜の露ともきえん
事こそ本意なれ。さても今朝をかぎりとしら【知ら】ざ
りけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞなか【泣か】れけ
る。既武士共のちかづく【近付く】よし【由】聞えしかば、かくて又はぢ【恥】
がましく、うたてき目を見んもさすがなればとて、
十になり【成り】給ふ女子、八歳[B ノ]男子、車にとり【取り】のせ【乗せ】、いづ
くをさすともなくやり【遣り】出す。さてもある【有る】べきならねば、
P02058
大宮をのぼりに、北山の辺雲林院へぞおはしける。
其辺なる僧坊におろしをき奉て、をくり【送り】の者ど
も【共】も、身々の捨がたさにいとま申て帰けり。今はいと
けなきおさなき【幼き】人々ばかりのこり【残り】ゐて、又こと【事】とふ
人もなくしておはしけむ北方の心のうち、おしは
から【推し量ら】れて哀也。暮行陰[B 「陰」に「景」と傍書]を見給ふにつけては、大
納言の露の命、此夕をかぎりなりとおもひ【思ひ】やるに
も、きえぬべし。[B 宿所には]女房侍おほかり【多かり】けれ共、物をだにと
りしたためず、門をだにおし【押し】も立ず。馬どもは厩に
P02059
なみ【並み】たちたれ共、草かふ【飼ふ】者一人もなし。夜明れば、馬・車
門にたちなみ、賓客座につらなて、あそびたはぶれ、
舞おどり【踊り】、世を世とも思ひ給はず、ちかき【近き】あたりの
人は物をだにたかく【高く】いはず、おぢおそれ【恐れ】てこそ昨日
までもあり【有り】しに、夜の間にかはるありさま、盛者必
衰の理は目の前にこそ顕けれ。楽つきて悲来
るとかかれたる江相公の筆の跡、今こそ思しら
  『少将乞請』S0205
れけれ。○丹波少将成経は、其夜しも院の御所法
住寺殿にうへぶし【上臥し】して、いまだ出られざりけるに、
P02060
大納言の侍共、いそぎ御所へ馳まい【参つ】て、少将殿[B を]よび
出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より、今まで
しらせざるらん」との給ひも[B 「の給ひし」とあり「し」に「も」と傍書]はてねば、宰相殿より
とて使あり【有り】。此宰相と申は、入道相国の弟也。宿
所は六波羅の惣門の内なれば、門脇の宰相とぞ
申ける。丹波少将にはしうと【舅】也。「何事にて候やらん、
入道相国のきと西八条へ具し奉れと候」といは
せられたりければ、少将此事心得て、近習の女房
達よび出し奉り、「夜部何となう世の物さはがしう【騒がしう】
P02061
候しを、例の山法師の下るかなど、よそにおもひ【思ひ】て候へ
ば、はや成経が身の上にて候けり。大納言よさりき
らるべう候なれば、成経も同罪にてこそ候はんずら
め。今一度御前へまい【参つ】て、君をも見まいらせ【参らせ】たう候へ
共、既かかる身に罷な【成つ】て候へば、憚存候」とぞ申され
ける。女房達御前ヘまい【参つ】て、此由奏せられけれ
ば、法皇大におどろかせ給て、「さればこそ。けさの
入道相国が使にはや御心得あり【有り】。あは、これらが内々
はかりし事のもれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさ
P02062
まし。「さるにてもこれへ」と御気色あり【有り】ければ、まいら【参ら】
れたり。法皇も御涙をながさせ給ひて、仰下さる
る旨もなし。少将も涙に咽で、申あぐる旨もなし。
良有て、さてもある【有る】べきならねば、少将袖をかほに
おし【押し】あてて、泣なく罷出られけり。法皇はうしろを
遥に御覧じをくら【送ら】せ給ひて、「末代こそ心うけれ。
これかぎりで又御覧ぜぬ事もやあらんずらん」
とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。院中の
人々、少将の袖をひかへ、袂にすがて名残ををし
P02063
み【惜しみ】、涙をながさぬはなかりけり。しうとの宰相の許
へ出られたれば、北方はちかう産すべき人にておは
しけるが、今朝より此歎をうちそへては、既命も
たえ【絶え】入心地ぞせられける。少将御所を罷出づるより、
ながるる涙つきせぬに、北方のあり様【有様】を見給ひ
ては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将〔の〕
めのとに、六条と云女房あり。「御ち【乳】にまいり【参り】はじめ
さぶらひて、君をち【血】のなかよりいだきあげま
いらせ【参らせ】、月日の重にしたがひ【従ひ】て、我身の年のゆく
P02064
事をば歎ずして、君のおとなしうならせ給ふ事
をのみうれしうおもひ【思ひ】奉り、あからさまとはおもへ【思へ】共、
既廿一年はなれ【離れ】まいらせ【参らせ】ず。院内へまいら【参ら】せ給ひ
て、遅う出させ給ふだにも、おぼつかなう思ひまい
らする【参らする】に、いかなる御目にかあはせ給はんずらん」と
なく【泣く】。少将「いたうななげい【歎い】そ。宰相さておはす
れば、命ばかりはさり共こひ【乞ひ】うけ【請け】給はんずらん」と
なぐさめ給へども【共】、人目もしら【知ら】ずなきもだへ【悶え】けり。
西八条より使しきなみにあり【有り】ければ、宰相
P02065
「ゆきむかう【向う】てこそ、ともかうもならめ」とて出給へば、
少将も宰相の車のしりにのてぞ出られける。
保元平治よりこのかた、平家の人々楽み栄
へのみあて、愁へ歎はなかりしに、此宰相ばかりこ
そ、よしなき聟ゆへ【故】にかかる歎をばせられけれ。
西八条ちかうなて車をとどめ【留め】、まづ案内を申
入られければ、太政入道「丹波少将をば、此内へ
はいれ【入れ】らるべからず」との給ふ間、其辺ちかき【近き】侍の
家におろしをきつつ、宰相ばかりぞ門のうち【内】へは
P02066
入給ふ。少将をば、いつしか兵共うち【打ち】かこん【囲ん】で、守護
し奉る。たのま【頼ま】れたりつる宰相殿にははなれ【離れ】給
ひぬ。少将の心のうち、さこそは便なかりけめ。宰相
中門に居給ひたれば、入道対面もし給はず、源
大夫判官季貞をもて申入られけるは、「[B 教盛こそ、]よし【由】な
き者にしたしうな【成つ】て、返々くやしう候へども、かひも
候はず。あひ【相】ぐし【具し】させて候ものが、此程なやむ事の候
なるが、けさよりこの【此の】歎をうちそへては、既命もた
え【絶え】なんず。何かはくるしう【苦しう】候べき。少将をばしばら
P02067
く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじか
はひが事せさせ候べき」と申されければ、季貞
まい【参つ】て此由申。[B 入道、]「あはれ、例の宰相が、物に心えぬ」と
て、とみに返事もし給はず。ややあ【有つ】て、入道の
給ひけるは、「新大納言成親、此一門をほろぼして、
天下を乱らむとする企あり【有り】。この【此の】少将は既彼
大納言が嫡子也。うとうもあれしたしうもあれ、ゑ
こそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、
御へん【御辺】とてもおだしう【穏しう】やおはすべきと申せ」とこ
P02068
その給ひけれ。季貞かへりまい【参つ】て、此由宰相に申
ければ、誠ほい【本意】な【無】げ[B に]て、重て申されけるは、「保元
平治よりこのかた、度々の合戦にも、御命にかは
りまいらせ【参らせ】んとこそ存候へ。此後も荒き風をば
まづふせき【防き】まいら【参ら】せ候はんずるに、たとひ教盛こ
そ年老て候共、わかき子共あまた候へば、一方の御
固にはなどかなら【成ら】で候べき。それに成経しばらくあづ
からうど申を御ゆるされ【許され】なきは、教盛を一向ふた
心【二心】ある者とおぼしめす【思し召す】にこそ。是程うしろめ
P02069
たうおもは【思は】れまいらせ【参らせ】ては、世にあても何にかはし候べ
き。今はただ身のいとまを給て、出家入道し、片
山里にこもり居て、一すぢに後世菩提のつと
めを営み候はん。よし【由】なき浮世のまじはり也。世にあ
ればこそ望もあれ、望のかなは【叶は】ねばこそ恨もあれ。
しかじ、うき世をいとひ、実のみち【道】に入なんには」と
ぞの給ひける。季貞まい【参つ】て、「宰相殿ははやおぼ
しめし【思し召し】きて候。ともかうもよき様に御ぱからひ
候へ」と申ければ、其時入道大におどろゐ【驚い】て、「されば
P02070
とて出家入道まではあまりにけしからず。其儀
ならば、少将をばしばらく御辺に預奉ると云べし」
とこその給ひけれ。季貞帰まい【参つ】て、宰相[B 殿イ]に此
よし【由】申せば、「あはれ、人の子をば持まじかりける
もの【物】かな。我子の縁にむすぼほれざらむには、
是程心をばくだかじ物を」とて出られけり。少
将まち【待ち】うけ奉て、「さていかが候つる」と申されければ、
「入道あまりに腹をたてて、教盛には終に対面も
し給はず。かなふ【叶ふ】まじき由頻にの給ひつれ共、出
P02071
家入道まで申たればにやらん、しばらく宿所に
をき奉れとの給ひつれ共、始終よかるべしと
もおぼえず」。少将「さ候へばこそ、成経は御恩をもて
しばしの命ものび候はんずるにこそ。其につき候ては、
大納言が事をばいかがきこしめさ【聞し召さ】れ候」。「それまではお
もひ【思ひ】もよらず」との給へば、其時涙をはらはらとなが
い【流い】て、「誠に御恩をもてしばしの命もいき【生き】候はんず
る事は、しかる【然る】べう候へ共、命のおしう【惜しう】候も、ちち【父】を今
一度見ばやとおもふ【思ふ】ため【為】也。大納言がきられ候はん
P02072
にをいては、成経とてもかひなき命をいきて何に
かはし候べき。ただ一所でいかにもなる様に申てた
ばせ給ふべうや候らん」と申されければ、宰相よに
も心くるしげ【苦し気】にて、「いさとよ。御辺の事をこそと
かう申つれ。それまではおもひ【思ひ】もよらねども【共】、大
納言殿の御事をば、今朝内のおとどのやうやう
に申されければ、それもしばしは心安いやうにこ
そ承はれ」との給へば、少将泣々手を合てぞ
悦ばれける。子ならざらむ者は、誰かただ今【只今】我
P02073
身の上をさしをひ【置い】て、是ほどまでは悦べき。まこ
と【誠】の契はおや子【親子】のなか【中】にぞあり【有り】ける。子をば
人のもつべかりける物哉とぞ、やがて思ひ返され
ける。さて今朝のごとくに同車[* 「同」に清点、「車」に濁点あり。]して帰られけり。
宿所には女房達、しん【死ん】だる人のいきかへりたる
心して、さしつどひ【集ひ】て皆悦なき【悦泣】共せられけり。
  『教訓状』S0206
○太政入道は、か様【斯様】に人々あまた警をいても、なを【猶】
心ゆかずやおもは【思は】れけん、既赤地の錦の直垂
に、黒糸威の腹巻の白かな物うたるむな板せめ
P02074
て、先年安芸守たりし時、神拝の次に、霊夢
を蒙て、厳島の大明神よりうつつ【現】に給はられ
たりし銀のひるまき【蛭巻】したる小長刀、常の枕を
はなたず立られたりしを脇ばさみ【鋏み】、中門の廊
へぞ出られける。そのきそく【気色】大方ゆゆしうぞみ
え【見え】し。貞能をめす。筑後守貞能、木蘭地の直
垂にひおどしの鎧きて、御まへ【前】に畏て[B ぞ]候[B ける]。ややあて
入道の給ひけるは、「貞能、此事いかが思ふ。保元
に平〔右〕馬助をはじめとして、一門半過て新院
P02075
のみかた【御方】へ[B 「へ」に「に」と傍書]まいり【参り】にき。一宮の御事は、故刑部卿
殿の養君にてましまいしかば、かたがたみ【見】はなち【放ち】
まいらせ【参らせ】がたかしか共、故院の御遺誡に任て、み
かた【御方】にて先をかけ【駆け】たりき。是一の奉公也。次平
治元年十二月、信頼・義朝が院内をとり奉り、
大内にたてごもり、天下くらやみとな【成つ】たりしに、入
道身を捨て凶徒を追落し、経宗・惟方をめし【召し】
警しに至るまで、既君の御ため【為】に命をうしな
は【失は】んとする事、度々に及ぶ。縦人なんと申共、七代
P02076
までは此一門をば争か捨させ給ふべき。それに、成親
と云無用のいたづら者、西光と云下賎の不当人め
が申事につかせ給ひて、この【此の】一門亡すべき由、法皇
の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏
する者あらば、当家追討の院宣下されつと覚
るぞ。朝敵とな【成つ】てはいかにくゆとも【共】益ある【有る】まじ。世
をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉る
か、しから【然ら】ずは、是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふ
はいかに。其儀ならば、北面の輩、矢をも一い【射】てず[B ら]ん。
P02077
侍共に其用意せよと触べし。大方は入道、院がたの
奉公おもひ【思ひ】きたり。馬に鞍をか【置か】せよ。きせなが【着背長】とり【取り】
出せ」とぞの給ひける。主馬判官盛国、いそぎ小松
殿へ馳まい【参つ】て、「世は既かう候」と申ければ、おとど聞
もあへず、「あははや、成親卿が首をはね【刎ね】られたる
な」との給へば、「さは候はね共、入道殿きせながめさ【召さ】れ
候。侍共皆う【打つ】た【立つ】て、只今法住寺殿へよせんと出たち
候。法皇をば鳥羽殿へおし【押し】こめまいらせ【参らせ】うど候が、内々は
鎮西のかた【方】へながしまいらせ【参らせ】うど擬せられ候」と申
P02078
ければ、おとど争かさる事ある【有る】べきとおもへ【思へ】共、今朝の
禅門のきそく【気色】、さる物ぐるはしき事もある【有る】らむ
とて、車をとばして西八条へぞおはしたる。門前にて
車よりおり、門の内へさし入て見給へば、入道腹
巻をき給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、お
のおの【各々】色々の直垂に思ひ思ひの鎧きて、中門の
廊に二行に着座せられたり。其外諸国の受
領・衛府・諸司などは、縁に居こぼれ、庭にもひしと
なみ居たり。旗ざほ共ひきそばめひきそばめ、馬の腹帯
P02079
をかため、甲の緒をしめ、只今皆う【打つ】たた【立た】んずるけし
きども【気色共】なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指
貫そばとて、ざやめき入給へば、事の外にぞみえ【見え】
られける。入道ふし目【伏目】になて、あはれ、例の内府が
世をへうする様にふるまう【振舞ふ】、大に諫ばやとこそおも
は【思は】れけめども、さすが子ながらも、内には五戒をたもて
慈悲を先とし、外には五常をみだらず、礼義をただ
しうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻をきて向
はむ事、おもばゆう【面映う】はづかしうやおもは【思は】れけむ、障子
P02080
をすこし【少し】引たてて、素絹の衣を腹巻の上にあは
てぎ【慌着】にき【着】給ひたりけるが、むないたの金物のす
こし【少し】はづれて見えけるを、かくさ【隠さ】うど、頻に衣の
むねを引ちがへ引ちがへぞし給ひける。おとどは舎弟
宗盛卿の座上につき給ふ。入道もの給ひいだす【出だす】
旨もなし。おとども申いださ【出ださ】るる事もなし。良あて入
道の給ひけるは、「成親卿が謀反は事の数にもあら
ず。一向法皇の御結構にてあり【有り】けるぞや。世をし
づめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉るか、しから【然ら】
P02081
ずは是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふはいかに」と
の給へ【宣へ】ば、おとどきき【聞き】もあへずはらはらとぞなかれ
ける。入道「いかにいかに」とあきれ給ふ。おとど涙をおさへ【抑へ】
て申されけるは、「此仰承候に、御運ははや末になり【成り】ぬ
と覚候。人の運命の傾かんとては、必悪事をお
もひ【思ひ】たち【立ち】候也。又御ありさま、更うつつ共おぼえ【覚え】候は
ず。さすが我朝は辺地[B 「地」に「里イ」と傍書]粟散の境と申ながら、天
照大神の御子孫、国のあるじとして、天の児屋根
の尊の御すゑ【末】、朝の政をつかさどり給ひしより
P02082
このかた【以来】、太政大臣の官に至る人の甲冑をよろ
ふ事、礼義を背にあらずや。就中御出家の御
身なり。夫三世の諸仏、解脱幢相の法衣をぬ
ぎ捨て、忽に甲冑をよろひ、弓箭を帯し
ましまさむ事、内には既破戒無慙の罪をまね
くのみならず、外には又仁義礼智信の法にもそ
むき候なんず。かたがた【旁々】恐ある申事にて候へ共、心
の底に旨趣を残すべきにあらず。まづ世に四
恩候。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩
P02083
是也。其なか【中】に尤重きは朝恩也。普天のした【下】、王地
にあらずと云事なし。されば彼潁川の水に耳を
洗ひ、首陽山に薇をお【折つ】し賢人も、勅命そむき
がたき礼義をば存知すとこそ承はれ。何况哉先
祖にもいまだきか【聞か】ざし太政大臣をきはめさせ給ふ。
いはゆる重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐
門の位にいたる【至る】。しかのみならず、国郡半は過て一門の
所領となり、田園悉一家の進止たり。これ希代[M 「き代」とあり「き」をミセケチ「希」と傍書]の
朝恩にあらずや。今これらの莫太の御恩を[B 思召]忘て、
P02084
みだりがはしく法皇を傾け奉らせ給はん事、天照
大神・正八幡宮の神慮にも背候なんず。日本は是
神国なり。神は非礼を享給はず。しかれば君のおぼ
しめし【思し召し】立ところ【所】、道理なかばなきにあらず。なか【中】に
も此一門は、[B 代々ノ]朝敵を平げて四海の逆浪をし
づむる事は無双の忠なれども、其賞に誇る
事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七ケ条
の御憲法に、「人皆心あり【有り】。心おのおの【各々】執あり【有り】。彼を是
し我を非し、我を是し彼を非す、是非の理誰
P02085
かよくさだむ【定む】べき。相共に賢愚也。環のごとく【如く】して端
なし。ここをもて設人いかる【怒る】と云共、かへて【却つて】我とがを
おそれよ【恐れよ】」とこそみえ【見え】て候へ。しかれ共、御運つきぬ
によて、[B 御]謀反既あらはれ【現はれ】ぬ。其上仰合らるる成親
卿めし【召し】をか【置か】れぬる上は、設君いかなる不思議をおぼ
しめし【思し召し】たたせ給ふ共、なんのおそれ【恐れ】か候べき。所当
の罪科おこなはれん上は、退いて事の由を陳じ
申させ給ひて、君の御ためには弥奉公の忠勤
をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐
P02086
をいたさせ給はば、神明の加護にあづかり【預り】、仏陀の
冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応あらば、君も
おぼしめしなをす事、などか候はざるべき。君と臣
とならぶるに親疎わく【分く】かたなし。道理と僻事をな
  『烽火之沙汰』S0207
らべんに、争か道理につかざるべき」。○「是は君の御こと
はり【理】にて候へば、かなは【叶は】ざらむまでも、院の御所法住
寺殿を守護しまいらせ【参らせ】候べし。其故は、重盛叙爵
より今大臣の大将にいたるまで、併君の御恩なら
ずと[B 云]事なし。其恩の重き事をおもへ【思へ】ば、千顆万顆
P02087
の玉にもこえ、其恩の深き事[M 「事」をミセケチ「色イ」と傍書]を案ずれば、一
入再入の紅にも[B 猶]過たらん。しかれば、院中にま
いり【参り】こもり候べし。其儀にて候はば、重盛が身にか
はり、命にかはらんと契たる侍共少々候らん。こ
れらをめし【召し】ぐし【具し】て、院御所法住寺殿を守護
しまいらせ【参らせ】候はば、さすが以外の御大事でこそ候はん
ずらめ。悲哉、君の御ために奉公の忠をいたさん
とすれば、迷慮【*迷盧】八万の頂より猶たかき父の
恩、忽にわすれんとす。痛哉、不孝の罪をの
P02088
がれ【逃れ】んとおもへ【思へ】ば、君の御ために既不忠の逆臣と
なりぬべし。進退惟谷れり、是非いかにも弁
がたし。申うくるところ〔の〕詮は、ただ重盛が頸をめされ
候へ。[B さ候はば、]院中をも守護しまいらす【参らす】べからず、院参の
御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへにこ
えたるによて、官大相国に至り、剣を帯し沓を
はきながら殿上[* 「殿」に清点、「上」に濁点あり。]にのぼる事をゆるさ【許さ】れしか共、
叡慮にそむく事あれば、高祖おもう【重う】警てふ
かう【深う】罪せられにき。か様【斯様】の先蹤をおもふにも、富
P02089
貴といひ栄花といひ、朝恩といひ重職といひ、
旁きはめさせ給ひぬれば、御運のつきんこ
ともかたかるべきにあらず。富貴の家には
禄位重畳せり、ふたたび実なる木は其根必い
たむとみえ【見え】て候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつま
でか命いきて、みだれむ世をも見候べき。只末代
に生をうけて、かかるうき目にあひ候重盛が果
報の程こそ拙う候へ。ただ今侍一人に仰付て、御坪
のうちに引出されて、重盛が首のはねられん事
P02090
は、安い程の事でこそ候へ。是をおのおの聞給へ」とて、直
衣の袖もしぼる[B 「しぼり」とあり「り」に「る」と傍書]ばかりに涙をながしかきくどかれけ
れば、一門の人々、心あるも心なきも、皆[B よろひ【鎧】の]袖をぞぬ
らされける。太政入道も、たのみ【頼み】きたる内府はかや
うにの給ふ、力もなげにて、「いやいや、これまでは思も
よりさうず。悪党共が申事につかせ給ひて、
僻事などやいでこむずらんと思ふばかりでこそ
候へ」との給へ【宣へ】ば、[B 大臣、]「縦いかなるひが事【僻事】出き候とも、君をば
何とかしまいらせ【参らせ】給ふべき」とて、ついたて中門に
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出て、侍共に仰られけるは、「只今重盛が申つる事共を
ば、汝等承はらずや。今朝よりこれに候うて、かやうの
事共申しづめむと存じつれ共、あまりにひたさ
はぎ【騒ぎ】に見えつる間、帰りたりつるなり。院参の
御供にをいては、重盛が頸のめさ【召さ】れむを見て仕
れ。さらば人まいれ【参れ】」とて、小松殿へぞ帰られける。主
馬判官盛国をめし【召し】て、「重盛こそ天下の大事
を別して聞出したれ。「我を我とおもは【思は】ん者共
は、皆物ぐ【具】して馳まいれ【参れ】」と披露せよ」との給へ【宣へ】ば、
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此由ひろう【披露】す。おぼろけにてはさはが【騒が】せ給はぬ人の、
かかる披露のあるは別の子細のあるにこそとて、
皆物具して我も我もと馳まいる【参る】。淀・はづかし[B 「はづかし」に「羽束瀬」と傍書]【羽束師】・宇治・
岡の屋、日野・勧条寺【*勧修寺】・醍醐・小黒栖、梅津・桂・大
原・しづ原、せれう【芹生】の里に、あぶれゐたる兵共、或
よろい【鎧】きていまだ甲をきぬもあり【有り】、或は矢お
うていまだ弓をもたぬもあり【有り】。片鐙ふむやふ
まずにて、あはて【慌て】さはい【騒い】で馳まいる【参る】。小松殿に
さはぐ【騒ぐ】事あり【有り】と聞えしかば、西八条に数千騎あり【有り】
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ける兵共、入道にかうとも申も入ず、ざざめき[M 「ざざめてき」とあり「て」をミセケチ]つ
れて、皆小松殿へぞ馳たりける。すこし【少し】も弓箭
に携る程の者、一人も残らず。其時入道大に
驚き、貞能をめし【召し】て、「内府は何とおもひ【思ひ】て、これ
らをばよび【呼び】とるやらん。是でいひつる様に、入道が
許へ討手などやむかへ【向へ】んずらん」との給へ【宣へ】ば、貞能
涙をはらはらとながい【流い】て、「人も人にこそよらせ給ひ
候へ。争かさる御事候べき。[B 今朝是にて]申させ給ひつる事
共も、みな御後悔ぞ候らん」と申ければ、入道内府
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に中たがふ【違う】てはあしかり【悪しかり】なんとやおもは【思は】れけん、法
皇むかへ【向へ】まいらせ【参らせ】んずる事も、はや思とどまり、腹
巻ぬぎをき、素絹の衣にけさ【袈裟】うちかけて、い
と心にもおこらぬ念珠してこそおはしけれ。小松
殿には、盛国承て着到つけけり。馳参たる勢ど
も、一万余騎とぞしるいたる。着到披見の後、
おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「日来の
契約をたがへ【違へ】ず、まいり【参り】たるこそ神妙なれ。異
国にさるためし【例】あり【有り】。周幽王、褒■[女+以]と云最愛の
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后をもち給へり。天下第一の美人也。されども幽
王の心にかなは【叶は】ざりける事は、褒■[女+以]咲をふくまず
とて、すべて此后わらう【笑ふ】事をし給はず。異国の習に
は、天下に兵革おこる時、所々に火をあげ、大鼓をう
て兵をめすはかり事あり【有り】。是を烽火と名づけ
たり。或時天下に兵乱おこて、烽火をあげたり
ければ、后これを見給ひて、「あなふしぎ【不思議】、火もあれ
程おほかり【多かり】けるな」とて、其時初てわらひ【笑ひ】給へり。
この后一たびゑめば百の媚あり【有り】けり。幽王うれし
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き事にして、其事となうつねに烽火をあげ
給ふ。諸こう【侯】来るにあた【仇】なし。あた【仇】なければ則さん【去ん】
ぬ。かやうにする事度々に及べば、まいる【参る】者もなかり
けり。或時隣国より凶賊おこて、幽王の都をせ
め【攻め】けるに、烽火をあぐれども、例の后の火になら
て兵もまいら【参ら】ず。其時都かたむいて、幽王終に亡
にき。さてこの后は野干となてはしり【走り】うせける
ぞおそろしき【恐ろしき】。か様【斯様】の事がある時わ、自今以後も
これよりめさんには、かくのごとくまいる【参る】べし。重盛
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不思議の事を聞出してめし【召し】つるなり。されども
其事聞なをし【直し】つ。僻事にてあり【有り】けり。とうとう帰
れ」とて皆帰されけり。実にはさせる事をも聞
出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞
にしたがひ【従ひ】、我身に勢のつくかつかぬかの程をも
しり、又父子軍[M 「戦」をミセケチ「軍」と傍書]をせんとにはあらね共、かうして入道
相国の謀反の心をもや、やはらげ給ふとの策也。
君君たらずと云とも、臣もて臣たらずばある【有る】べからず。
父父たらずと云共、子もて子たらずば有べからず。君
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のためには忠あて、父のためには孝あり【有り】[B と]、文宣王の
の給ひけるにたがは【違は】ず。君も此よしきこしめし【聞し召し】て、
「今にはじめぬ事なれ共、内府が心のうちこそは
づかしけれ。怨をば恩をもて報ぜられたり」とぞ
仰ける。「果報こそめでたうて、大臣の大将にいた
ら【至ら】め、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世に
こえたるべしやは」とぞ、時の人々感じあはれける。
「国に諫る臣あれば其国必やすく、家に諫る
子あれば其家必ただし」といへり。上古にも末代
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  『大納言流罪』S0208
にもありがたかりし大臣也。○同六月二日[B ノヒ]、新大納言
成親卿をば公卿の座へ出し奉り、御物まいらせ【参らせ】たり
けれども、むねせきふさがて御はしをだにもたて
られず。御車をよせて、とうとうと申せば、心なら
ずのり給ふ。軍兵共前後左右にうちかこみた
り。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見
え奉らばや」との給へ【宣へ】ども【共】、それもかなは【叶は】ず。「縦重
科を蒙て遠国へゆく者も、人一人身にそへぬ
者やある」と、車のうちにてかきくどか【口説か】れければ、
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守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西
の朱雀を南へゆけば、大内山も今はよそにぞ
見給ける。としごろ【年比】見なれ奉[B り]し雑色牛飼
に至るまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけ
り。まして都に残とどまり給ふ北方、おさな
き【幼き】人々の心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。鳥
羽殿をすぎ給ふにも、此御所へ御幸なりし
には、一度も御供にははづれざりし物をとて
わが山庄すはま【州浜】殿とてあり【有り】しをも、よそに
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みてこそとおら【通ら】れけれ。[B 肩に「鳥羽のイ」と傍書]南の門に出て、舟をそ
し【遅し】とぞいそがせける。「こはいづちへやらん。おな
じううしなは【失は】るべくは、都ちかき【近き】此辺にてもあれ
かし」との給ひけるぞせめての事なる。ちかう
そひたる武士を「た【誰】そ」ととひ給へば、「難波次
郎経遠」と申。「若此辺に我方さまのものや
ある。舟にのらぬ先にいひをく【置く】べき事あり【有り】。
尋てまいらせよ【参らせよ】」との給ひければ、其辺をはしり【走り】
まはて尋けれども【共】、我こそ大納言殿の方と云
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者一人もなし。「我世なりし時は、したがひ【従ひ】ついたりし
者ども【共】、一二千人もあり【有り】つらん。いまはよそにて
だにも、此有さまを見をくる【送る】者のなかりける
かなしさよ」とてなか【泣か】れければ、たけき【猛き】もののふ
共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とては、
ただつきせぬ涙ばかり也。熊野まうで、天王寺
詣などには、ふたつがはら【二龍骨】の、三棟につくたる舟に
のり、次の舟二三十艘漕つづけてこそあり【有り】し
に、今はけしかる[B 「けしかり」とあり「り」に「る」と傍書]かきすゑ【舁き据え】屋形舟に大幕ひ
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かせ、見もなれぬ兵共にぐせ【具せ】られて、けふをかぎ
りに都を出て、浪路はるかにおもむか【赴か】れけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。其日は摂津国
大もつ【大物】の浦に着給ふ。新大納言、既死罪
に行はるべかりし人の、流罪に宥られけるこ
とは、小松殿のやうやうに申されけるによて也。
此人いまだ中納言にておはしける時、美濃国
を知行し給ひしに、嘉応元年の冬、目代
右衛門尉正友がもとへ、山門の領、平野庄
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の神人が葛を売てきたりけるに、目代酒に
飲酔て、くずに墨をぞ付たりける。神人悪
口に及ぶ間、さないは【言は】せそとてさむざむ【散々】にれう
りやく【陵轢、陵礫】す。さる程に神人共数百人、目代が許
へ乱入す。目代法にまかせ【任せ】て防ければ、神人等
十余人うちころさ【殺さ】る[M 「うちころされ」とあり「れ」をミセケチ「る」と傍書]。是によて同年の十一
月三日、山門の大衆飫しう蜂起して、国司成
親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友
を禁獄せらるべき由奏聞す。既成親卿
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備中国へながさるべきにて、西の七条までいださ
れたりしを、君いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、中五日
あてめし【召し】かへさ【返さ】る。山門の大衆飫しう呪咀すと
聞えしか共、同二年正月五日、右衛門督を兼じ
て、検非違使の別当になり給ふ。其時資方【*資賢】・
兼雅卿こえられ給へり。資方【*資賢】卿はふるい【古い】人、おとな
にておはしき。兼雅卿は栄花の人也。家嫡にて
こえられ給ひけるこそ遺恨なれ。是は三条殿
造進の賞也。同三年四月十三日、正二位に叙せ
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らる。其時は中御門[B ノ]中納言宗家卿こえられ給
へり。安元元年十月廿七日、前中納言より権大
納言にあがり【上がり】給ふ。人あざけ[B ッ]て、「山門の大衆に
は、のろはるべかりける物を」とぞ申ける。され
ども今はそのゆへ【故】にや、かかるうき目にあひ給
へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、とき【疾き】も
あり【有り】遅もあり【有り】、不同なる事共也。同三日、大もつ【大物】
の浦へ京より御使あり【有り】とてひしめきけり。新
大納言「是にて失へとにや」と聞給へば、さはな
P02107
くして、備前の児島へながすべしとの御使なり。
小松殿より御ふみ【文】あり【有り】。「いかにもして、都ちかき【近き】
片山里にをき奉らばやと、さしも申つれど
もかなは【叶は】ぬ事こそ、世にあるかひも候はね。さ
りながらも、御命ばかりは申うけて候」とて、難波
がもとへも「かまへてよくよく宮仕へ御心にたが
う【違ふ】な」と仰られつかはし【遣し】、旅のよそほい【粧】こまごま
と沙汰しをくら【送ら】れたり。新大納言はさしも
忝うおぼしめさ【思し召さ】れける君にもはなれま
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いらせ【参らせ】、つかのまもさりがたうおもは【思は】れける北方
おさなき【幼き】人々にも別はてて、「こはいづちへとて行
やらん。二度こきやう【故郷】に帰て、さいし[M 「さひし」とあり「さひ」をミセケチ「さい」と傍書]【妻子】を相みん事
も有がたし。一とせ山門の訴詔【*訴訟】によてながさ
れしを、君おしま【惜しま】せ給ひて、西の七条よりめし【