平家物語 高野本 凡例

【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033
東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本(市古貞次氏編集。1973)に拠りました。


章段名は、前に空白2文字分をあけ、『 』にくくり、その後に、S+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。例:
  『祇園精舎(ぎをんしやうじや)』S0101
それぞれの巻頭に目録を掲げていますが、(本文中のものと表記が異なるものが有ります)各巻の1,2ページに掲げ(1ページのみの場合有り)、本文は3ページからです。底本は、1行に二つずつですが、1行に一つずつ掲げました。
行ごとに改行し、ページ数を表示しました。
底本は、章段の始めで改行せず、冒頭に○を付し、そのまま続けていますが、その通りにしました。例:
  殿上(てんじやうの)闇討(やみうち)S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛(ただもり)(タダモリ)備

仮名に漢字を充てた場合や現代の表記は、【 】に入れました。
【*  】は、小学館の全集や、岩波の大系本で訂正してある表記(本来の正式の表記)です。
[*  ]は、注釈です。

振り仮名は、漢字の後に( )に入れました。
私が付したものは、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記しました。
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと同じ場合は、( )が一つで、ひらがなで表示してあります。*一部、カタカナでも表示してあります。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)
例: 境節(をりふし)(ヲリフシ) → 境節(をりふし)
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、( )が二つ並び、始めの()には、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記し、あとの( )には、底本の振り仮名をカタカナで残し、他は、ひらがなで表示しました。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)(底本振り仮名を含む)
例: 大二条殿(おほにでうどの)(ヲホにでうどの)
本文の仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、その後に( )に歴史的仮名遣いを表示しました。
   本文仮名(歴史的仮名遣い)【振り漢字】
例: まゑん(まえん)【魔縁】にてはなかりけり。 

句読点は、(主に)底本にある朱点を元に付けました。
会話や心中思惟の部分には、「 」を付けました。
反復記号、重ね字は、一字の漢字の「々」のみ使用し、他は全て、文字に置き換えました。
底本に表記されていない促音「つ」、発音「ん」等は、(ッ)(ン)と補入しました。
濁点は、適宜施しました。

ミセケチ(見せ消ち)は、[M ]または[M 「」とあり「」をミセケチ「」と傍書]と記しました。
傍書は、[B  ]または[B 「」とあり「」に「」と傍書]と記しました。

覚一本には、和歌が100首有りますので、最初から番号を振り和歌の後に W○○○ と表記しました。
今様の後に I と表記しました。


文責:荒山慶一・菊池真一


平家物語 高野本 巻一(振り仮名省略版)

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【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家一(表紙)

P01001
平家一之巻 目録
一 祇園精舍
二 殿上闇討

禿髪
吾身栄花
祗王
二代の后
額打論
清水寺炎上 付東宮立
殿下ののりあひ
ししの谷 俊寛僧都沙汰
鵜川いくさ
願立
御こしぶり
内裏炎上
P01002

P01003
平家物語巻第一
  祇園精舍S0101
 ○祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響
あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の
ことはりをあらはす。おごれる人も久しからず。
唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
はほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の
王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆、旧主
先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、
P01004
諫をもおもひいれず、天下のみだれむ事を
さとらずして、民間の愁る所をしらざし
かば、久しからずして、亡じにし者ども也。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶
の純友、康和の義親、平治の信頼、此等は
おごれる心もたけき事も、皆とりどりに
こそありしかども、まぢかくは六波羅の入道
前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の
ありさま、伝うけ給るこそ、心も詞も及
P01005
ばれね。其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第
五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の
後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の
嫡男なり。彼親王の御子、高視の王、無官
無位にしてうせ給ぬ。其御子、高望の王
の時、始て平の姓を給て、上総介になり
給しより、忽に王氏を出て人臣につら
なる。其子鎮守府将軍義茂、後には国香
とあらたむ。国香より正盛にいたる迄、六代は、
P01006
諸国の受領たりしかども、殿上の仙藉
  殿上闇討S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛備
前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院
を造進して、三十三間の御堂をたて、一千
一体の御仏をすへ奉る。供養は天承元
年三月十三日なり。勧賞には闕国を給
ふべき由仰下されける。境節但馬国の
あきたりけるを給にけり。上皇御感の
あまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十
P01007
六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、
同き年の十二月廿三日、五節豊明の
節会の夜、忠盛を闇打にせむとぞ擬せ
られける。忠盛是を伝聞て、「われ右筆の
身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮
の恥にあはむ事、家の為身の為こころ
うかるべし。せむずるところ、身を全して
君に仕といふ本文あり」とて、兼て用意
をいたす。参内のはじめより、大なる鞘巻を
P01008
用意して、束帯のしたにしどけなげに
さし、火のほのぐらき方にむかて、やはら
此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、
氷などの様にぞみえける。諸人目をすまし
けり。其上忠盛の郎等、もとは一門たりし、
木工助平貞光が孫、しんの三郎大夫家房が
子、左兵衛尉家貞といふ者ありけり。薄
青のかりぎぬのしたに萠黄威の腹巻
をき、弦袋つけたる太刀脇ばさむで、
P01009
殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下
あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴の
綱のへんに、布衣の者の候はなにものぞ。
狼籍なり。罷出よ」と六位をもていはせ
ければ、家貞申けるは、「相伝の主、備前守
殿、今夜闇打にせられ給べき由承候あひだ、
其ならむ様を見むとて、かくて候。えこそ
罷出まじけれ」とて、畏て候ければ、是等を
よしなしとやおもはれけん、其夜の闇うち
P01010
なかりけり。忠盛御前のめしにまはれければ、
人々拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめ
なりけり」とぞはやされける。此人々はかけ
まくもかたじけなく、柏原天皇の御末
とは申ながら、中比は都のすまゐもうと
うとしく、地下にのみ振舞なて、伊勢国
に住国ふかかりしかば、其国のうつは物に
事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ
忠盛目のすがまれたりければ、加様には
P01011
はやされけり。いかにすべき様もなくして、
御遊もいまだをはらざるに、偸に罷出
らるるとて、よこだへさされたりける刀をば、
紫震殿の御後にして、かたえの殿上人
のみられけるところにて、主殿司をめし
てあづけ置てぞ出られける。家貞待
うけたてまて、「さていかが候つる」と申
ければ、かくともいはまほしう思はれけれ
ども、いひつるものならば、殿上までも頓而
P01012
きりのぼらんずる者にてある間、別の
事なし」とぞ答られける。五節には、
「白薄様、こぜむじの紙、巻上の筆、鞆
絵かいたる筆の軸」なんど、さまざま面
白事事をのみこそうたひまはるるに、中比
太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。
あまりに色のくろかりければ、みる人
黒帥とぞ申ける。其人いまだ蔵人頭
なりし時、五節にまはれければ、それも
P01013
拍子をかへて、「あなくろぐろ、くろき
頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ」
とぞはやされける。又花山院前太政大臣
忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言
忠宗卿にをくれたてまて、みなし子にて
おはしけるを、故中御門藤中納言家成
卿、いまだ播磨守たりし時、聟に取て
声花にもてなされければ、それも
五節に、「播磨よねはとくさか、むくの
P01014
葉か、人のきらをみがくは」とぞはやされ
ける。「上古にはか様にありしかども事
いでこず、末代いかがあらんずらむ。おぼ
つかなし」とぞ人申ける。案のごとく、五
節はてにしかば、殿上人一同に申され
けるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、
兵杖を給て宮中を出入するは、みな
格式の礼をまもる。綸命よしある先
規なり。しかるを忠盛朝臣、或は相伝の
P01015
郎従と号して、布衣の兵を殿上
の小庭にめしをき、或は腰の刀を横へ
さいて、節会の座につらなる。両条希
代いまだきかざる狼籍也。事既に重
疊せり、罪科尤のがれがたし。早く
御札をけづて、闕官停任せらるべき」由、
おのおの訴へ申されければ、上皇大に驚
おぼしめし、忠盛をめして御尋あり。
陳じ申けるは、「まづ郎従小庭に祗候
P01016
の由、全く覚悟仕ず。但近日人々あひ
たくまるる旨子細ある歟の間、年来
の家人事をつたへきくかによて、其恥
をたすけむが為に、忠盛にしられずして
偸に参候の条、ちから及ばざる次第
なり。若なを其咎あるべくは、彼身を
めし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司
にあづけをきをはぬ。是をめし出され、
刀の実否について咎の左右有べき歟」
P01017
と申。しかるべしとて、其刀をめし出して
叡覧あれば、うへは鞘巻のくろく
ぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞ
おしたりける。「当座の恥辱をのがれんが
為に、刀を帯する由あらはすといへども
後日の訴訟を存知して、木刀を帯し
ける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭
に携らむ者のはかりことは、尤かうこそ
あらまほしけれ。兼又郎従小庭に祇候
P01018
の条、且は武士の郎等のならひなり。忠盛が
咎にあらず」とて、還而叡感にあづかし
うへは、敢て罪科の沙汰もなかりけり。
  鱸S0103
 ○其子どもは、諸衛の佐になる。昇殿せし
に、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比忠盛、備前国より都へのぼりたり
けるに、鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋
ありければ、
有明の月も明石のうら風に
P01019
浪ばかりこそよるとみえしか W001
と申たりければ、御感ありけり。此歌は
金葉集にぞ入られける。忠盛又仙洞に
最愛の女房をもてかよはれけるが、ある
時其女房のつぼねに、妻に月出したる
扇をわすれて出られたりければ、かたえの
女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや。
出どころおぼつかなし」などわらひあはれ
ければ、彼女房、
P01020
雲井よりただもりきたる月なれば
おぼろけにてはいはじとぞ思ふ W002
とよみたりければ、いとどあさからずぞ
おもはれける。薩摩守忠教の母是なり。
にるを友とかやの風情に、忠盛もすいたり
ければ、彼女房もゆうなりけり。かくて
忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十
五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男
たるによて、其跡をつぐ。保元元年七月
P01021
に宇治の左府代をみだり給し時、安芸
のかみとて御方にて勳功ありしかば、播
磨守にうつて、同三年太宰大弐になる。
次に平治元年十二月、信頼卿が謀叛の時、
御方にて賊徒をうちたいらげ、勳功一に
あらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年
正三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、
検非違使別当、中納言、大納言に経あがて、
剩へ烝相の位にいたり、さ右を経ずして
P01022
内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将
にあらねども、兵杖を給て隨身をめし
具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のり
ながら宮中を出入す。偏に執政の臣の
ごとし。「太政大臣は一人に師範として、四海に
儀けいせり。国をおさめ道を論じ、陰陽
をやはらげおさむ。其人にあらずは則かけよ」
といへり。されば即闕の官とも名付たり。
其人ならではけがすべき官ならねども、一天
P01023
四海を掌の内ににぎられしうへは、子細
に及ばず。平家かやうに繁昌せられける
も、熊野権現の御利生とぞきこえし。
其故は、古へ清盛公いまだ安芸守たりし
時、伊勢の海より船にて熊野へまいられ
けるに、おほきなる鱸の船におどり入
たりけるを、先達申けるは、「是は権現の
御利生なり。いそぎまいるべし」と申ければ、
清盛の給ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ
P01024
白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり」
とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎
の道なれども、調味して家子侍共にくはせ
られけり。其故にや、吉事のみうちつづいて、
太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途
も竜の雲に昇るよりは猶すみやか也。
  禿髪S0104
九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。 ○角
て清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一
にてやまひにをかされ、存命の為に忽に
P01025
出家入道す。法名は浄海とこそなのられけれ。
其しるしにや、宿病たちどころにいへて、
天命を全す。人のしたがひつく事、吹風
の草木をなびかすがごとし。世のあまねく
仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに
同じ。六波羅殿の御一家の君達といひてン
しかば、花族も栄耀も面をむかへ肩を
ならぶる人なし。されば入道相国のこじうと、
平大納言時忠卿ののたまひけるは、「此一門に
P01026
あらざらむ人は皆人非人なるべし」とぞのた
まひける。かかりしかば、いかなる人も相構て
其ゆかりにむすぼほれむとぞしける。衣文
のかきやう、鳥帽子のためやうよりはじめ
て、何事も六波羅様といひてげれば、一天
四海の人皆是をまなぶ。又いかなる賢王
賢主の御政も、摂政関白の御成敗も、世に
あまされたるいたづら者などの、人のきか
ぬ所にて、なにとなうそしり傾け申事は
P01027
つねの習なれども、此禅門世ざかりのほどは、
聊いるかせにも申者なし。其故は、入道相国
のはかりことに、十四五六の童部を三百人
そろへて、髪をかぶろにきりまはし、あかき
直垂をきせて、めしつかはれけるが、京中
にみちみちて往反しけり。をのづから平家
の事あしざまに申者あれば、一人きき出さ
ぬほどこそありけれ、余党に触廻して、
其家に乱入し、資財雑具を追捕し、
P01028
其奴を搦とて、六波羅へゐてまいる。されば
目に見、心にしるといへど、詞にあらはれて
申者なし。六波羅殿の禿といひてしかば、
道をすぐる馬車もよぎてぞとをり
ける。禁門を出入すといへども姓名を
尋らるるに及ばず京師の長吏これが
  吾身栄花S0105
為に目を側とみえたり。 ○吾身の栄花
を極るのみならず、一門共に繁昌して、
嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言
P01029
の右大将、三男具盛、三位中将、嫡孫維盛、四位
少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人卅余
人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人
なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神亀五年、朝家に
中衛の大将をはじめをかれ、大同四年に、
中衛を近衛と改られしよりこのかた、兄弟
左右に相並事纔に三四箇度なり。文
徳天皇の御時は、左に良房、右大臣の左大将、
P01030
右に良相、大納言の右大将、是は閑院の左
大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇
には、左に実頼、小野宮殿、右に師資、九条
殿、貞仁公の御子なり。後冷泉院の御時は、
左に教通、大二条殿、右に頼宗、堀河殿、
御堂の関白の御子なり。二条院の御宇
には、左に基房、松殿、右に兼実、月輪殿、
法性寺殿の御子なり。是皆摂禄の臣の
御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の
P01031
交をだにきらはれし人の子孫にて、禁色
雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、
大臣の大将になて兄弟左右に相並事、
末代とはいひながら不思議なりし事ども
なり。其外御娘八人おはしき。皆とりどりに、
幸給へり。一人は桜町の中納言重教卿の
北の方にておはすべかりしが、八歳の時約
束計にて、平治のみだれ以後ひきちがへられ、
花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給て、
P01032
君達あまたましましけり。抑此重教卿を、
桜町の中納言と申ける事は、すぐれて心
数奇給へる人にて、つねは吉野山を
こひ、町に桜をうへならべ、其内に屋を立
てすみ給ひしかば、来る年の春ごとに
みる人桜町とぞ申ける。桜はさいて七箇
日にちるを、余波を惜み、あまてる御神
に祈申されければ、三七日まで余波あり
けり。君も賢王にてましませば、神も神
P01033
徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢
をたもちけり。一人は后にたたせたまふ。
王子御誕生ありて皇太子にたち、位に
つかせ給しかば、院号かうぶらせ給ひて、
建礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なる
うへ、天下の国母にてましましければ、とかう
申に及ばず。一人は六条の摂政殿の北政所
にならせ給ふ。高倉院御在位の時、御母代
とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて
P01034
おもき人にてましましけり。一人は普賢寺
殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大
納言隆房卿の北方、一人は七条修理大夫信
隆卿に相具し給へり。又安芸国厳島の
内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へ
まいらせ給ひて、女御のやうにてぞましまし
ける。其外九条院の雑仕常葉が腹に
一人、是は花山院殿に上臈女房にて、廊の
御方とぞ申ける。日本秋津島は纔に六十
P01035
六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国
にこえたり。其外庄園田畠いくらといふ数
をしらず。綺羅充満して、堂上花の如し。
軒騎群集して、門前市をなす。楊州
の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七
珍万宝一として闕たる事なし。歌堂舞
閣の基、魚竜爵馬の翫もの、恐くは帝闕
も仙洞も是にはすぎじとぞみえし。
  祇王S0106
 ○入道相国、一天四海をたなごころのうちににぎり
P01036
給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人
の嘲をもかへり見ず、不思議の事をのみ
し給へり。たとへば、其比都に聞えたる白
拍子の上手、祇王祇女とておとといあり。とぢ
といふ白拍子がむすめなり。あねの祇王を入
道相国さいあひせられければ、是によつていもう
との祇女をも、よの人もてなす事なのめなら
ず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月
に百石百貫ををくられければ、けないふつき
P01037
してたのしい事なのめならず。抑我朝に、
しら拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院
の御宇に、しまのせんざい、わかのまひとて、これら
二人がまひいだしたりけるなり。はじめは
すいかんに、たて烏帽子、白ざやまきをさいて
まひければ、おとこまひとぞ申ける。しかる
を、中比より烏帽子刀をのけられて、すいかん
ばかりをもちいたり。扨こそ白拍子とは名付
けれ。京中の白拍子ども、祇王がさいはゐの
P01038
めでたいやうをきいて、うらやむものもあり、そね
む者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの
祇王御前の幸や。おなじあそび女とならば、
誰もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま
是は祇といふ文字を名について、かくはめで
たきやらむ。いざ我等もついて見む」とて、或は
祇一とつき、ぎにとつき、或はぎふく・ぎとく
などいふものもありけり。そねむものどもは、
「なんでう名により文字にはよるべき。さいはゐは
P01039
ただ前世の生れつきでこそあんなれ」とて、
つかぬものもおほかりけり。かくて三年と
申に、又都にきこえたるしら拍子の上手、
一人出来たり。加賀国のものなり。名をば
仏とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔
よりおほくの白拍子ありしが、かかるはまひは
いまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事
なのめならず。仏御前申けるは、「我天下に聞え
たれ共、当時さしもめでたうさかへさせ給ふ
P01040
平家太政の入道どのへ、めされぬ事こそほ
いなけれ。あそびもののならひ、なにかくるしかる
べき。推参して見む」とて、ある時西八条へぞ
まいりたる。人まいつて、「当時都にきこえ候仏
御前こそまいつて候へ」と申ければ、入道「なん
でう、さやうのあそびものは人のめしにしたがふ
てこそ参れ、さうなふすいさんするやうやある。
祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけとも
いへ、かなふまじきぞ。とふとふ罷出よ」とぞの給ひ
P01041
ける。ほとけ御ぜんはすげなふいはれたてまつ
つて、既にいでんとしけるを、祇王入道殿に
申けるは、「あそびもののすいさんはつねのならひ
でこそさぶらへ。其上年もいまだをさなふさぶ
らふなるが、適々思たつてまいりてさぶらふを、
すげなふ仰られてかへさせ給はん事こそ不便
なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶら
ふらむ。わがたてしみちなれば、人の上ともおぼ
えず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこし
P01042
めさずとも、御対面ばかりさぶらふてかへさせ
給ひたらば、ありがたき御情でこそさぶらはん
ずれ。唯理をまげて、めしかへして御対面さぶ
らへ」と申ければ、入道「いでいでわごぜがあまりに
いふ事なれば、見参してかへさむ」とて、つかひを
たててめされけり。ほとけごぜんはすげなふいはれ
たてまつつて、車にのつて既にいでんとしけるが、
めされて帰まいりたり。入道出あひたいめん
して、「けふの見参はあるまじかりつるを、
P01043
祇王がなにと思ふやらん、余に申すすむる
間、加様にげんざんしつ。見参するほどにては、
いかでか声をもきかであるべき。いまやう一つ
うたへかし」との給へば、仏御前「承さぶらふ」とて、
今やうひとつぞうたふたる。君をはじめて
みるおりは千代も経ぬべしひめこ松、
おまへの池なるかめをかに鶴こそむれゐ
てあそぶめれ Iと、おし返しおし返し三返うたひす
ましたりければ、けんもんの人々みな耳目
P01044
ををどろかす。入道もおもしろげにおもひ
給ひて、「わごぜは今やうは上手でありける
よ。このぢやうでは舞もさだめてよかるらむ。
一番見ばや。つづみうちめせ」とてめされけり。
うたせて一ばんまふたりけり。仏御前は、かみ
すがたよりはじめて、みめかたちうつくしく、
声よく節も上手でありければ、なじかは
まひもそんずべき。心もをよばずまひすま
したりければ、入道相国まひにめで給ひて、
P01045
仏に心をうつされけり。仏御前「こはされば
なに事さぶらふぞや。もとよりわらははすい
さんのものにて、いだされまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申しやうによつてこそ、めしかへさ
れてもさぶらふに、はやはやいとまをたふでいだ
させおはしませ」と申ければ、入道「すべてその儀
あるまじ。但祇王があるをはばかるか。その儀
ならばぎわうをこそいださめ」とぞの給ひ
ける。仏御前「それ又いかでかさる御事さぶらふ
P01046
べき。諸共にめしをかれんだにも、心うふさぶらふ
べきに、まして祇王ごぜんを出させ給ひて、
わらはを一人めしをかれなば、ぎわうごぜんの
心のうち、はづかしうさぶらふべし。をのづから
後迄わすれぬ御事ならば、めされて又は
まいるとも、けふは暇をたまはらむ」とぞ申ける。
入道「なんでう其儀あるまじ。祇王とうとう
罷出よ」と、お使かさねて三どまでこそたて
られけれ。祇王もとよりおもひまふけたる
P01047
道なれども、さすがに昨日けふとは思よらず。
いそぎ出べき由、しきりにのたまふあひだ、
はきのごひちりひろはせ、見ぐるしき物共
とりしたためて、出べきにこそさだまりけれ。
一樹のかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶ
だに、別はかなしきならひぞかし。まして此三
とせが間住なれし所なれば、名残もおしう
かなしくて、かひなきなみだぞこぼれける。扨
もあるべき事ならねば、祇王すでに、いまは
P01048
かうとて出けるが、なからん跡のわすれがたみに
もとやおもひけむ、しやうじになくなく一首
の歌をぞかきつけける。もえ出るもかるる
もおなじ野辺の草いづれか秋にあはで
はつべき、 W003 さて車に乗て宿所に帰り、障子
のうちにたをれふし、唯なくより外の事ぞ
なき。母やいもうと是をみて、「いかにやいかに」と
とひけれ共、とかうの返事にも及ばず。倶し
たる女に尋てぞ、去事ありともしりてん
P01049
げれ。さるほどに、毎月にをくられたりける、
百石百貫をも、いまはとどめられて、仏御前が
所縁の者共ぞ、始而楽み栄ける。京中の
上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はつて出
たんなれ。誘見参してあそばむ」とて、或は
文をつかはす人もあり、或は使をたつる者
もあり。祇王さればとて、今更人に対面して
あそびたはぶるべきにもあらねば、文をとり
いるる事もなく、まして使にあひしらふ迄も
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なかりけり。これにつけてもかなしくて、
いとど涙にのみぞしづみにける。かくてこと
しもくれぬ。あくる春の比、入道相国、祇王が
もとへししやをたてて、「いかに其後何事かある。
仏御前が余につれづれげに見ゆるに、まいつて
今やうをもうたひ、まひなどをもまふて仏なぐ
さめよ」とぞの給ひける。祇王とかふの御返事
にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。
まいるまじひか。参るまじくはそのやうをまふせ。
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浄海もはからふむねあり」とぞの給ひける。
母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなくけうくんしけるは、
「いかに祇王御前、ともかうも御返事を申せ
かし。左様にしかられまいらせんよりは」といへば、
祇王「まいらんとおもふ道ならばこそ、軈而参る
とも申さめ、まいらざらむ物故に、何と御返事
を申べしともおぼえず。此度めさんにまいら
ずは、はからふむねありと仰らるるは、都の外へ
P01052
出さるるか、さらずは命をめさるるか、是二には
よも過じ。縦都をいださるるとも、歎べき道
にあらず。たとひ命をめさるるとも、おしか
るべき又我身かは。一度うき物におもはれ
まいらせて、二たびおもてをむかふべきにもあら
ず」とて、なを御返事をも申さざりけるを、
母とぢ重而けうくんしけるは、「天が下にす
まん程は、ともかうも入道殿の仰をば背
まじき事にてあるぞとよ。男女のえん
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しゆくせ、今にはじめぬ事ぞかし。千年
万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。
白地とは思へども、存生果る事もあり。世に
定なきものは、おとこ女のならひなり。それに
わごぜは、此みとせまでおもはれまいらせたれ
ば、ありがたき御情でこそあれ、めさんに
まいらねばとて、命をうしなはるるまでは
よもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縦
都を出さるとも、わごぜたちは年若ければ、
P01054
いかならん岩木のはざまにてもすごさん事
やすかるべし。年老をとろへたる母、都の外
へぞ出されんずらむ。ならはぬひなのすまゐ
こそ、かねておもふもかなしけれ。唯われを都
のうちにて住果させよ。それぞ今生後生
のけうやうと思はむずる」といへば、祇王、うし
とおもひし道なれども、おやのめいをそむかじと、
なくなく又出立ける心のうちこそむざんなれ。
独参らむは余に物うしとて、いもうとの祇女
P01055
をもあひぐしけり。其外白拍子二人、そうじて
四人、ひとつ車にとりのつて、西八条へぞ参り
たる。さきざきめされける所へはいれられず、
遥にさがりたる所にざしきしつらふてをかれ
たり。祇王「こはさればなに事さぶらふぞや。わが
身にあやまつ事はなけれ共、すてられたてまつる
だにあるに、座敷をさへさげらるることの心う
さよ。いかにせむ」とおもふに、しらせじとおさふる
袖のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。
P01056
仏御前是をみて、あまりにあはれにおもひ
ければ、「あれはいかに、日比めされぬところ
でもさぶらはばこそ、是へめされさぶらへかし。さら
ずはわらはにいとまをたべ。出て見参せん」
と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ」と
のたまふ間、ちからをよばで出ざりけり。其
後入道、ぎわうが心のうちをばしり給はず、
「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりに
つれづれげに見ゆるに、いまやうひとつうたへかし」と
P01057
の給へば、祇王、まいる程では、ともかうも
入道殿の仰をば背まじとおもひければ、
おつるなみだをおさへて、今やうひとつぞ
うたふたる。仏もむかしはぼんぶなり我等も
終には仏なり、いづれも仏性具せる身を、
へだつるのみこそかなしけれ I と、なくなく二
返うたふたりければ、其座にいくらもなみ
ゐたまへる平家一門の公卿・殿上人・諸大夫・
侍に至るまで、皆感涙をぞながされける。
P01058
入道もおもしろげにおもひ給ひて、「時にとつ
ては神妙に申たり。さては舞も見たけれども、
けふはまぎるる事いできたり。此後はめさ
ずともつねにまいつて、今やうをもうたひ、まひ
などをもまふて、仏なぐさめよ」とぞの給ひ
ける。祇王とかうの御返事にも及ばず、涙
をおさへて出にけり。「親のめいをそむかじと、
つらきみちにおもむひて、二たびうきめを見
つることの心うさよ。かくて此世にあるならば、
P01059
又うきめをも見むずらん。いまはただ身をな
げんとおもふなり」といへば、いもうとの祇女も、
「あね身をなげば、われもともに身をなげん」と
いふ。母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなく又けうくんしけるは、
「まことにわごぜのうらむるもことはりなり。さやう
の事あるべしともしらずして、けうくんして
まいらせつる事の心うさよ。但わごぜ身を
なげば、いもうともともに身をなげんといふ。
P01060
二人のむすめ共にをくれなん後、年老をと
ろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、
我もともに身をなげむとおもふなり。いまだ
死期も来らぬおやに身をなげさせん事、
五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりのやどり
なり。はぢてもはぢでも何ならず。唯ながき
世のやみこそ心うけれ。今生でこそあらめ、
後生でだにあくだうへおもむかんずる事の
かなしさよ」と、さめざめとかきくどきければ、
P01061
祇王なみだをおさへて、「げにもさやうにさぶら
はば、五逆罪うたがひなし。さらば自害は
おもひとどまりさぶらひぬ。かくて宮古に
あるならば、又うきめをもみむずらん。いまは
ただ都の外へ出ん」とて、祇王廿一にて尼に
なり、嵯峨の奧なる山里に、柴の庵を
ひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。いもうと
のぎによも、「あね身をなげば、我もともに
身をなげんとこそ契しか。まして世をいと
P01062
はむに誰かはをとるべき」とて、十九にてさまを
かへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞ
あはれなる。母とぢ是を見て、「わかきむすめ
どもだにさまをかふる世中に、年老をとろへ
たる母、しらがをつけてもなににかはせむ」とて、
四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、
いつかうせんじゆに念仏して、ひとへに後世を
ぞねがひける。かくて春すぎ夏闌ぬ。秋
の初風吹ぬれば、星合の空をながめつつ、
P01063
あまのとわたるかぢの葉に、おもふ事かく
比なれや。夕日のかげの西の山のはにかくるる
を見ても、日の入給ふ所は西方浄土にてあん
なり、いつかわれらもかしこに生れて、物をおも
はですぐさむずらんと、かかるにつけても過
にしかたのうき事共おもひつづけて、唯つき
せぬ物は涙なり。たそかれ時も過ぬれば、竹
のあみ戸をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、
親子三人念仏してゐたる処に、竹のあみ戸を
P01064
ほとほととうちたたくもの出来たり。其時尼
どもきもをけし、「あはれ、是はいふかひなき
我等が、念仏して居たるを妨んとて、まゑん
の来たるにてぞあるらむ。昼だにも人もとひ
こぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて
誰かは尋ぬべき。わづかの竹のあみ戸なれば、
あけずともおしやぶらん事やすかるべし。中
々ただあけていれんとおもふなり。それに
情をかけずして、命をうしなふものならば、
P01065
年比頼たてまつる弥陀の本願をつよく
信じて、隙なく名号をとなへ奉るべし。
声を尋てむかへ給ふなる聖主の来迎
にてましませば、などかいんぜうなかるべき。相
かまへて念仏おこたり給ふな」と、たがひに
心をいましめて、竹のあみ戸をあけたれば、
まゑんにてはなかりけり。仏御前ぞ出来る。祇王
「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かや
うつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様
P01066
の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申
さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、
はじめよりして申なり。もとよりわらはは
推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申やうによつてこそめしかへされ
てもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心
にまかせずして、おしとどめられまいらせし事、
心ううこそさぶらひしか。いつぞや又めされまい
らせて、いまやううたひ給ひしにも、思しられて
P01067
こそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思
ひしかば、嬉しとはさらに思はず。障子に又
「いづれか秋にあはではつべき」と書置給ひし
筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其
後はざいしよを焉ともしりまいらせざりつる
に、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつ
てのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を
申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。
つくづく物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の
P01068
ゆめ、楽みさかえて何かせむ。人身は請がたく、
仏教にはあひがたし。比度ないりにしづみ
なば、たしやうくはうごうをばへだつとも、うかび
あがらん事かたし。年のわかきをたのむべき
にあらず、老少不定のさかいなり。出るいきの
いるをもまつべからず、かげろふいなづまより
なをはかなし。一旦の楽みにほこつて、後生を
しらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かく
なつてこそまいりたれ」とて、かづきたるきぬを
P01069
うちのけたるをみれば、あまになつてぞ出
来る。「かやうに様をかへてまいりたれば、日比の
科をばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共
に念仏して、ひとつはちすの身とならん。それに
なを心ゆかずは、是よりいづちへもまよひゆき、
いかならん苔のむしろ、松がねにもたほれふし、
命のあらんかぎり念仏して、往生のそくはい
をとげんとおもふなり」と小雨小雨とかきくどき
ければ、祇王なみだをおさへて、「誠にわごぜの
P01070
是ほどに思給けるとは夢にだにしらず。うき
世中のさがなれば、身のうきとこそおもふ
べきに、ともすればわごぜの事のみうらめし
くて、往生のそくはいをとげん事かなふべし
ともおぼえず。今生も後生も、なまじゐに
しそんじたる心ちにてありつるに、かやうに
さまをかへておはしたれば、日比のとがは露ちり
ほどものこらず。いまは往生うたがひなし。比度
そくはいをとげんこそ、何よりも又うれしけれ。
P01071
我等が尼になりしをこそ、世にためしなき
事のやうに人もいひ、我身にも又思しか、
さまをかふるもことはりなり。いまわごぜの
出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。
わごぜはうらみもなし、なげきもなし。ことしは
纔に十七にこそなる人の、かやうにゑどをいと
ひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、
まことの大だうしんとはおぼえたれ。うれしかり
けるぜんぢしきかな。いざもろともにねがはん」とて、
P01072
四人一所にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香
をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそ
ありけれ、四人のあまども皆往生のそくはいを
とげけるとぞ聞えし。されば後白河の法皇
のちやうがうだうのくはこちやうにも、祇王・祇女・
ほとけ・とぢらが尊霊と、四人一所に入られ
けり。あはれなりし事どもなり。
  二代后S0107
 ○昔より今に至るまで、源平両氏朝家に
召つかはれて、王化にしたがはず、をのづから朝
P01073
権をかろむずる者には、互にいましめを
くはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元
に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、
すゑずゑの源氏ども或は流され、或はうしなはれ、
今は平家の一類のみ繁昌して、かしらを
さし出すものなし。いかならん末の代までも
何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院
御晏駕の後は、兵革うちつづき、死罪・流
刑・闕官・停任つねにおこなはれて、海内も
P01074
しづかならず、世間もいまだ落居せず。就中に
永暦応保の比よりして、院の近習者をば
内より御いましめあり、内の近習者をば院より
いましめらるる間、上下おそれをののいてやすい
心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむ
に同じ。主上上皇、父子の御あひだには、なに
事の御へだてかあるべきなれども、思の外
の事どもありけり。是も世澆季に及で、
人梟悪をさきとする故也。主上、院の仰を
P01075
つねに申かへさせおはしましける中にも、人
耳目を驚かし、世もて大にかたぶけ申事
ありけり。故近衛院の后、太皇太后宮と申し
は、大炊御門の右大臣公能公の御娘也。先帝
にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の
外、近衛河原の御所にぞうつりすませ給
ける。さきのきさいの宮にて、幽なる御あり
さまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、
御年廿二三にもやならせ給けむ、御さかりも
P01076
すこし過させおはしますほどなり。しかれ
ども、天下第一の美人のきこえましまし
ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸
に行力使に詔じて、外宮にひき求めし
むるに及で、比大宮へ御艶書あり。大宮敢
てきこしめしもいれず。さればひたすら早
ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣
家に宣旨を下さる。此事天下にをいて
ことなる勝事なれば、公卿僉議あり。各
P01077
意見をいふ。「先異朝の先蹤をとぶらふに、
震旦の則天皇后は唐の太宗のきさき、高
宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗
の后にたち給へる事あり。是は異朝の先
規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝
には、神武天皇より以降人皇七十余代に及
まで、いまだ二代の后にたたせ給へる例を
きかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇も
しかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上
P01078
仰なりけるは、「天子に父母なし。吾十善の
戒功によて、万乗の宝位をたもつ。是
程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、
やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及
ばせ給はず。大宮かくときこしめされける
より、御涙にしづませおはします。先帝
にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、
おなじ野原の露ともきえ、家をもいで
世をものがれたりせば、今かかるうき耳をばきか
P01079
ざらましとぞ、御歎ありける。父のおとどこし
らへ申させ給けるは、「「世にしたがはざるを
もて狂人とす」とみえたり。既に詔命を下
さる。子細を申にところなし。ただすみやかに
まいらせ給べきなり。もし王子御誕生あり
て、君も国母といはれ、愚老も外祖とあふ
がるべき瑞相にてもや候らむ。是偏に愚老
をたすけさせおはします御孝行の御いたり
なるべし」と申させ給へども、御返事もなかり
P01080
けり。大宮其比なにとなき御手習の次に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の
世にためしなき名をやながさん W004
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀にやさ
しきためしにぞ、人々申あへりける。既に
御入内の日になりしかば、父のおとど、供奉
のかんだちめ、出車の儀式などこころことに
だしたてまいらせ給けり。大宮物うき御
いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに
P01081
夜もふけ、さ夜もなかばになて後、御車に
たすけのせられ給けり。御入内の後は麗景
殿にぞましましける。ひたすらあさまつりごと
をすすめ申させ給ふ御ありさま也。彼紫
震殿の皇居には、賢聖の障子をたてられ
たり。伊尹・鄭伍倫・虞世南、太公望・角里先
生・李勣・司馬、手なが足なが・馬形の障子、鬼
の間、季将軍がすがたをさながらうつせる障子
もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子
P01082
とかけるもことはりとぞみえし。彼清凉
殿の画図の御障子には、むかし金岡がかき
たりし遠山の在明の月もありとかや。
故院のいまだ幼主ましましけるそのかみ、なに
となき御手まさぐりの次に、かきくもらか
させ給しが、ありしながらにすこしもたが
はぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋
しくおぼしめされけむ、
おもひきやうき身ながらにめぐりきて
P01083
おなじ雲井の月を見むとは W005
其間の御なからへ、いひしらず哀にやさし
かりし御事なり。
  額打論S0108
 ○さる程に、永万元年の春の比より、主上
御不豫の御事と聞えさせ給しが、夏の
はじめになりしかば、事の外におもらせ
給ふ。是によて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の
腹に、今上一宮の二歳にならせ給ふがましまし
けるを、太子にたてまいらせ給ふべしと聞えし
P01084
ほどに、同六月廿五日、俄に親王の宣旨下
されて、やがて其夜受禅ありしかば、天
下なにとなうあはてたるさま也。其時の有
職の人々申あはれけるは、本朝に童体の
例を尋れば、清和天皇九歳にして文徳
天皇の御禅をうけさせ給ふ。是は彼周公
旦の成王にかはり、南面にして一日万機の
政をおさめ給しに准へて、外祖忠仁公幼主
を扶持し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。
P01085
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。
かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳
にならせ給ふ。先例なし。物さはがしともおろか
なり。さる程に、同七月廿七日、上皇つゐに
崩御なりぬ。御歳廿三、つぼめる花の
ちれるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、皆
御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜、香隆寺
のうしとら、蓮台野の奧、船岡山におさめ
奉る。御葬送の時、延暦・興福両寺の大衆、額
P01086
うち論と云事しいだして、互に狼籍に
及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし
奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごと
く供奉して、御墓所のめぐりにわが寺々
の額をうつ事あり。まづ聖武天皇の御
願、あらそふべき寺なければ、東大寺の額
をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の
額をうつ。北京には、興福寺にむかへて延
暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教
P01087
大和尚・智証大師の草創とて、園城寺の
額をうつ。しかるを、山門の大衆いかがおもひけん、
先例を背て、東大寺の次、興福寺のうへに、
延暦寺の額をうつあひだ、南都の大衆、とや
せまし、かうやせましと僉議するところに、
興福寺の西金堂衆、観音房・勢至房とて
きこえたる大悪僧二人ありけり。観音房
は黒糸威の腹巻に、しら柄の長刀くきみじ
かにとり、勢至房は萠黄威の腹巻に、黒漆
P01088
の大太刀もて、二人つと走出、延暦寺の額
をきておとし、散々にうちわり、「うれしや
水、なるは滝の水、日はてるともたえずと
うたへ」とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ
入にける。
  清水寺炎上S0109
 ○山門の大衆、狼籍をいたさば手むかへすべき処に、
心ふかうねらう方もやありけん、ひと詞も
いださず。御門かくれさせ給ては、心なき草
木までも愁たる色にてこそあるべきに、
P01089
此騷動のあさましさに、高も賎も、肝魂
をうしなて、四方へ皆退散す。同廿九日の
午剋ばかり、山門の大衆緩う下洛すと
聞えしかば、武士検非違使、西坂下に、馳向
て防けれ共、事ともせず、おしやぶて乱
入す。何者の申出したりけるやらむ、「一院
山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべ
し」ときこえしほどに、軍兵内裏に参じ
て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、
P01090
皆六波羅へ馳集る。一院もいそぎ六波羅
へ御幸なる。清盛公其比いまだ大納言にて
おはしけるが、大に恐れさはがれけり。小松殿
「なにによてか唯今さる事あるべき」としづ
められけれども、上下ののしりさはぐ事
緩し。山門の大衆、六波羅へはよせずして、すぞ
ろなる清水寺におしよせて、仏閣僧坊
一宇ものこさず焼はらふ。是はさんぬる御葬
送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし。
P01091
清水寺は興福寺の末寺なるによてなり。
清水寺やけたりける朝、「や、観音火坑変
成池はいかに」と札に書て、大門の前にたて
たりければ、次日又、「歴劫不思議力及ばず」と、
かへしの札をぞうたりける。衆徒かへりのぼり
にければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿
計ぞ御ともにはまいられける。父の卿は
まいられず。猶用心の為歟とぞ聞えし。重盛
の卿御送りよりかへられたりければ、父の
P01092
大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大に
恐れおぼゆれ。かねても思食より仰らるる
旨のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにも
うちとけ給まじ」とのたまへば、重盛卿申され
ける、「此事ゆめゆめ御けしきにも、御詞にも
出させ給べからず。人に心つけがほに、中々
あしき御事也。それにつけても、叡慮に
背給はで、人の為に御情をほどこさせまし
まさば、神明三宝加護あるべし。さらむに
P01093
とては、御身の恐れ候まじ」とてたたれければ、
「重盛卿はゆゆしく大様なるものかな」とぞ、
父の卿ものたまひける。一院還御の後、御前
にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、
「さても不思議の事を申出したるものかな。
露もおぼしめしよらぬものを」と仰ければ、
院中のきりものに西光法師といふもの
あり。境節御前ちかう候けるが、「天に口なし、
にんをもていはせよと申。平家以外に過分
P01094
に候あひだ、天の御ぱからひにや」とぞ申ける。
人々「此事よしなし。壁に耳あり。おそろし
  東宮立S0110
おそろし」とぞ、申あはれける。 ○さる程に、其年は
諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこな
はれず。同十二月廿四日、建春門院、其比はいまだ
東の御方と申ける、御腹に一院の宮まし
ましけるが、親王の宣旨下され給ふ。あくれば
改元あて仁安と号す。同年の十月八日、
去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東
P01095
三条にて春宮にたたせ給ふ。春宮は御
伯父六歳、主上は御甥三歳、詔目にあひ
かなはず。但寛和二年に一条院七歳にて
御即位、三条院十一歳にて春宮にたたせ
給ふ。先例なきにあらず。主上は二歳にて
御禅をうけさせ給ひ、纔に五歳と、申二
月十九日、東宮践祚ありしかば、位をすべらせ
給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服も
なくして、太上天皇の尊号あり。漢家本朝
P01096
是やはじめならむ。仁安三年三月廿日、新帝
大極殿にして御即位あり。此君の位につか
せ給ぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ
みえし。御母儀建春門院と申は、平家の一
門にてましますうへ、とりわき入道相国
の北方、二位殿の御妹也。又平大納言時忠卿と
申も女院の御せうとなれば、内の御外戚なり。
内外につけたる執権の臣とぞみえし。叙
位除目と申も偏に此時忠卿のまま也。楊貴妃が
P01097
幸し時、楊国忠がさかへしが如し。世のおぼえ、
時のきら、めでたかりき。入道相国天下の大
小事をのたまひあはせられければ、時の人、
  殿下乗合S0111
平関白とぞ申ける。 ○さる程に、嘉応元年
七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も
万機の政をきこしめされしあひだ、院内わく
方なし。院中にちかくめしつかはるる公卿
殿上人、上下の北面にいたるまで、官位捧禄
皆身にあまる計なり。されども人のこころの
P01098
ならひなれば、猶あきだらで、「あッぱれ、其人の
ほろびたらば其国はあきなむ。其人うせ
たらば其官にはなりなん」など、うとからぬ
どちはよりあひよりあひささやきあへり。法皇
も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵
をたいらぐる者おほしといへども、いまだ
加様の事なし。貞盛・秀里が将門をうち、
頼義が貞任・宗任をほろぼし、義家が武平・
家平をせめたりしも、勧賞おこなはれし
P01099
事、受領にはすぎざりき。清盛がかく心の
ままにふるまふこそしかるべからね。是も世
末になて王法のつきぬる故なり」と仰
なりけれども、つゐでなければ御いましめも
なし。平家も又別して、朝家を恨奉る事
もなかりしほどに、世のみだれそめける根本は、
去じ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新
三位中将資盛卿、其時はいまだ越前守とて
十三になられけるが、雪ははだれにふたりけり、
P01100
枯野のけしき誠に面白かりければ、わかき
侍ども卅騎ばかりめし具して、蓮台野や、
紫野、右近馬場にうち出て、鷹どもあまたすへ
させ、うづら雲雀をおたておたて、終日にかり
暮し、薄暮に及で六波羅へこそ帰られけれ。
其時の御摂禄は松殿にてましましけるが、中御
門東洞院の御所より御参内ありけり。郁芳
門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊
御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門
P01101
猪熊にて、殿下の御出にはなづきにまいり
あふ。御ともの人々「なに者ぞ、狼籍なり。御出
のなるに、のりものよりおり候へおり候へ」といらて
けれ共、余にほこりいさみ、世を世ともせざり
けるうへ、めし具したる侍ども、皆廿より内の
わか者どもなり。礼儀骨法弁へたる者一人
もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の
礼儀にも及ばず、かけやぶてとをらむと
するあひだ、くらさは闇し、つやつや入道の孫とも
P01102
しらず、又少々は知たれ共そらしらずして、
資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より
とて引おとし、頗る恥辱に及けり。資盛朝
臣はうはう六波羅へおはして、おほぢの相国
禅門に此由うたへ申されければ、入道大に
いかて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたり
をばはばかり給ふべきに、おさなきものに左右
なく恥辱をあたへられけるこそ遺恨の
次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむか
P01103
るるぞ。此事おもひしらせたてまつらでは、
えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや」
との給へば、重盛卿申されけるは、「是は少も
くるしう候まじ。頼政・光基など申源氏共に
あざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも
候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、
殿の御出にまいりあひて、のりものよりおり
候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時事にあふ
たる侍どもめしよせ、「自今以後も、汝等能々
P01104
心うべし。あやまて殿下へ無礼の由を申
さばやとこそおもへ」とて帰られけり。其後
入道相国、小松殿には仰られもあはせず、片
田舍の侍どもの、こはらかにて入道殿の仰より
外は、又おそろしき事なしと思ふ者ども、
難波・瀬尾をはじめとして、都合六十余人
召よせ、「来廿一日、主上御元服の御さだめの為
に、殿下御出あるべかむなり。いづくにても
待うけ奉り、前駆御隨身どもがもとどり
P01105
きて、資盛が恥すすげ」とぞのたまひける。殿下
是をば夢にもしろしめさず、主上明年
御元服、御加冠拝官の御さだめの為に、御
直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出
よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢
門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出
なる。猪熊堀河の返に、六波羅の兵ども、ひた
甲三百余騎待うけ奉り、殿下を中にとり
籠まいらせて、前後より一度に、時をどとぞ
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つくりける。前駆御隨身どもが、けふをはれと
しやうぞいたるを、あそこに追かけ爰に追つめ、
馬よりとて引おとし、散々に陵礫して、一々
にもとどりをきる。隨身十人がうち、右の府生
武基がもとどりもきられにけり。其中に、
藤蔵人大夫隆教がもとどりをきるとて、「是は
汝がもとどりとおもふべからず。主のもとどり
とおもふべし」といひふくめてきてげり。其後
は、御車の内へも弓のはずつきいれなどして、
P01107
すだれかなぐりおとし、御牛の鞦・胸懸きり
はなち、かく散々にしちらして、悦の時を
つくり、六波羅へこそまいりけれ。入道「神妙
なり」とぞのたまひける。御車ぞひには、
因幡のさい使、鳥羽の国久丸と云おのこ、下
臈なれどもなさけある者にて、泣々御車
つかまて、中御門の御所へ還御なし奉る。束
帯の御袖にて御涙をおさへつつ、還御の
儀式あさましさ、申も中々おろかなり。大織
P01108
冠・淡海公の御事はあげて申にをよばず、
忠仁公・昭宣公より以降、摂政関白のかかる御
目にあはせ給ふ事、いまだ承及ばず。これ
こそ平家の悪行のはじめなれ。小松殿
大にさはいで其時ゆきむかひたる侍ども皆
勘当せらる。「たとひ入道いかなる不思議を
下地し給ふとも、など重盛に夢をばみせ
ざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり。栴檀は
二葉よりかうばしとこそ見えたれ。既に十二三
P01109
にならむずる者が、今は礼儀を存知して
こそふるまうべきに、加様に尾籠を現じ
て、入道の悪名をたつ。不孝のいたり、汝独
にあり」とて、暫く伊勢国にをひ下さる。
されば此大将をば、君も臣も御感あり
  鹿谷S0112
けるとぞきこえし。 ○是によて、主上御元
服の御さだめ、其日はのびさせ給ぬ。同
廿五日、院の殿上にてぞ御元服のさだめは
ありける。摂政殿さてもわたらせ給べき
P01110
ならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、
十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同
十七日、慶申ありしかども、世中は猶にがにが
しうぞみえし。さるほどにことしも暮ぬ。
あくれば嘉応三年正月五日、主上御元服
あッて、同十三日、朝覲の行幸ありけり。法
皇・女院待うけまいらつさせ給て、叙爵の
御粧いかばかりらうたくおぼしめされけん。
入道相国の御娘、女御にまいらせ給ひけり。
P01111
御年十五歳、法皇御猶子の儀なり。其比、妙
音院の太政のおほいどの、其時は未内大臣の左
大将にてましましけるが、大将を辞し申させ
給ふことありけり。時に徳大寺の大納言実
定卿、其仁にあたり給ふ由きこゆ。又花山院
の中納言兼雅卿も所望あり。其外、故中
御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親
卿もひらに申されけり。院の御気色よかり
ければ、さまざまの祈をぞはじめられける。
P01112
八幡に百人の僧をこめて、信読の大般
若を七日よませられける最中に、甲良の
大明神の御まへなる橘の木に、男山の方
より山鳩三飛来て、くいあひてぞ死にける。
鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺に
かかる不思議なしとて、時の検校、匡清法印、
奏聞す。神祇官にして御占あり。天下の
さはきとうらなひ申。但、君の御つつしみに
あらず、臣下の御つつしみとぞ申ける。新大納言
P01113
是におそれをもいたさず、昼は人目のしげ
ければ、夜なよな歩行にて、中御門烏丸の
宿所より賀茂のかみの社へ、なな夜つづけ
てまいられけり。七夜に満ずる夜、宿所に
下向して、くるしさにうちふし、ちとまどろみ
給へる夢に、賀茂の上の社へまいりたると
おぼしくて、御宝殿の御戸おしひらき、ゆゆ
しくけだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ
P01114
ちるをばえこそとどめざりけれ W006
新大納言猶おそれをもいたさず、賀茂の上の
社に、ある聖をこめて、御宝殿の御うしろ
なる杉の洞に壇をたてて、拏吉尼の法を、
百日おこなはせられけるほどに、彼大椙に雷
おちかかり、雷火緩うもえあがて、宮中既に
あやうくみえけるを、宮人どもおほく走あつ
まて、是をうちけつ。さて彼外法おこなひ
ける聖を追出せむとしければ、「われ当社に
P01115
百日参籠の大願あり。けふは七十五日になる。
またくいづまじ」とてはたらかず。此由を社
家より内裏へ奏聞しければ、「唯法にまかせ
て追出せよ」と宣旨を下さる。其時神人
しら杖をもて、彼聖がうなじをしらげ、一条の
大路より南へをひたしてげり。神は非礼を
享給はずと申に、此大納言非分の大将を祈
申されければにや、かかる不思議もいできに
けり。其比の叙位除目と申は、院内の御ぱからひ
P01116
にもあらず、摂政関白の御成敗にも及ばず。
唯一向平家のままにてありしかば、徳大寺・
花山院もなり給はず。入道相国の嫡男小
松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左にうつ
りて、次男宗盛中納言にておはせしが、数
輩の上臈を超越して、右にくははられける
こそ、申計もなかりしか。中にも徳大寺殿は一の
大納言にて、花族栄耀、才学雄長、家嫡にて
ましましけるが、こえられ給けるこそ遺恨なれ。
P01117
「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、人々
内々は申あへりしかども、暫世のならむ様を
も見むとて、大納言を辞し申て、籠居とぞ
きこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、
「徳大寺・花山院に超られたらむはいかがせむ。平
家の次男に超らるるこそやすからね。是も
万おもふさまなるがいたす所也。いかにもして
平家をほろぼし、本望をとげむ」との給
けるこそおそろしけれ。父の卿は中納言迄
P01118
こそいたられしか、其末子にて位正二位、官大納
言にあがり、大国あまた給はて、子息所従朝恩
にほこれり。何の不足にかかる心つかれけん。
是偏に天魔の所為とぞみえし。平治に
も越後中将とて、信頼卿に同心のあひだ、既
誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申て頸を
つぎ給へり。しかるに其恩を忘れて、外人も
なき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひ
をき、其営みの外は他事なし。東山の麓
P01119
鹿の谷と云所は、うしろは三井寺につづいて、
ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都
の山庄あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家
ほろぼさむずるはかりことをぞ廻らしける。
或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が
子息、浄憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、
此由を浄憲法印に仰あはせられければ、「あな
あさまし。人あまた承候ぬ。唯今もれきこえて、
天下の大事に及候なんず」と、大にさはき
P01120
申ければ、新大納言けしきかはりて、さとたた
れけるが、御前に候ける瓶子を狩衣の袖
にかけて引たうされたりけるを、法皇「あれ
はいかに」と仰ければ、大納言立帰て、「平氏
たはれ候ぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼに
いらせおはしまして、「者どもまいて猿楽つか
まつれ」と仰ければ、平判官康頼まいりて、
「あら、あまりに平氏のおほう候に、もて醉て
候」と申。俊寛僧都「さてそれをばいかが仕らむ
P01121
ずる」と申されければ、西光法師「頸をとる
にしかじ」とて、瓶子のくびをとてぞ入にける。
浄憲法印あまりのあさましさに、つや
つや物を申されず。返々もおそろしかりし
事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将
入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、
山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判
官信房、新平判官資行、摂津国源氏多田蔵人
行綱を始として、北面の輩おほく与力したり
P01122
  俊寛沙汰
  鵜川軍S0113
けり。 ○此法勝寺の執行と申は、京極の源大納言
雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なり
けり。祖父大納言させる弓箭をとる家には
あらねども、余に腹あしき人にて、三条坊門
京極の宿所のまへをば、人をもやすくとを
さず、つねは中門にたたずみ、齒をくひし
ばり、いかてぞおはしける。かかる人の孫なれ
ばにや、此俊寛も僧なれども、心もたけく、
おごれる人にて、よしなき謀叛にもくみ
P01123
しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田蔵人
行綱をよふで、「御へんをば一方の大将に
憑なり。此事しおほせつるものならば、
国をも庄をも所望によるべし。先弓袋
の料に」とて、白布五十端送られたり。安元
三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ
給へるかはりに、大納言定房卿をこえて、
小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大将めでた
かりき。やがて大饗おこなはる。尊者には、
P01124
大炊御門右大臣経宗公とぞきこえし。
一のかみこそ先途なれども、父宇治の悪左
府の御例其軽あり。北面は上古にはなかり
けり。白河院の御時はじめをかれてより
以降、衛府どもあまた候けり。為俊・盛重
童より千手丸・今犬丸とて、是等は左右なき
きり物にてぞありける。鳥羽院の御時も、
季教・季頼父子ともに朝家にめしつか
はれ、伝奏するおりもありなどきこえし
P01125
かども、皆身のほどをばふるまふてこそ
ありしに、此御時の北面の輩は、以外に過分
にて、公卿殿上人をも者ともせず、礼儀
礼節もなし。下北面より上北面にあがり、
上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者
もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる
心どもも出きて、よしなき謀叛にもくみ
しけるにこそ。中にも故少納言信西がもとに
めしつかひける師光・成景といふ者あり。師
P01126
光は阿波国の在庁、成景は京のもの、熟根
いやしき下臈なり。こんでい童もしは
格勤者などにて召つかはれけるが、さかざか
しかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門
尉とて、二人一度に靭負尉になりぬ。信西
事にあひし時、二人ともに出家して、左衛門
入道西光・右衛門入道西敬とて、是等は出家の
後も院の御倉あづかりにてぞありける。彼
西光が子に師高と云者あり。是もきり者
P01127
にて、検非違使五位尉に経あがて、安元元年
十二月二十九日、追儺の除目に加賀守にぞな
されける。国務をおこなふ間、非法非例を
張行し、神社仏寺、権門勢家の庄領を没
倒し、散々の事どもにてぞありける。縦
せう公があとをへだつといふとも、穏便の政
をおこなふべかりしが、かく心のままにふる
まひしほどに、同二年夏の比、国司師高が
弟、近藤判官師経、加賀の目代に補せらる。
P01128
目代下着のはじめ、国府のへんに鵜河と云
山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかひて
あびけるを、乱入してをひあげ、わが身あび、
雑人どもおろし、馬あらはせなどしけり。
寺僧いかりをなして、「昔より、此所は国方の
者入部する事なし。すみやかに先例に
任て、入部の押妨をとどめよ」とぞ申ける。
「先々の目代は不覚でこそいやしまれ
たれ。当目代は、其儀あるまじ。唯法に任
P01129
よ」と云程こそありけれ、寺僧どもは国がたの
者を追出せむとす、国方の者どもは次を
もて乱入せんとす、うちあひはりあひし
けるほどに、目代師経が秘蔵しける馬の足
をぞうちおりける。其後は互に弓箭兵杖
を帯して、射あひきりあひ数剋たたかふ。
目代かなはじとやおもひけむ、夜に入て引退く。
其後当国の在庁ども催しあつめ、其勢
一千余騎、鵜川におしよせて、坊舍一宇も
P01130
残さず焼はらふ。鵜河と云は白山の末寺
なり。此事うたへんとてすすむ老僧誰々ぞ。
智釈・学明・宝台坊、正智・学音・土佐阿闍梨
ぞすすみける。白山三社八院の大衆ことごとく
起りあひ、都合其勢二千余人、同七月九日
の暮方に、目代師経が館ちかうこそおし
よせたれ。けふは日暮ぬ、あすのいくさと
さだめて、其日はよせでゆらへたり。露ふき
むすぶ秋風は、ゐむけの袖を翻し、雲ゐを
P01131
てらすいなづまは、甲の星をかかやかす。目代かな
はじとや思けん、夜にげにして京へのぼる。
あくる卯剋におしよせて、時をどとつくる。
城のうちにはをともせず。人をいれてみせければ、
「皆落て候」と申。大衆力及ばで引退く。さら
ば山門へうたへんとて、白山中宮の神輿を
賁り奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月
十二日の午刻計、白山の神輿既に比叡山
東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ、
P01132
北国の方より雷緩く鳴て、都をさして
なりのぼる。白雪くだりて地をうづみ、山
上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで
皆白妙になりにけり。
  願立S0114
 ○神輿をば客人の宮へいれたてまつる。客人
と申は白山妙利権現にておはします。
申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は
しらず、生前の御悦、只此事にあり。浦島が子
の七世の孫にあへりしにもすぎ、胎内の者の
P01133
霊山の父を見しにもこえたり。三千の衆徒
踵を継ぎ、七社の神人袖をつらね、時々剋々
の法施祈念、言語道断の事ども也。山門
の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、
目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由
奏聞す、御裁断なかりければ、さも然る
べき公卿殿上人は、「あはれとく御裁許ある
べきものを。昔より山門の訴訟は他に異也。
大蔵卿為房・太宰権帥季仲は、さしも朝家の
P01134
重臣なりしかども、山門の訴訟によて流
罪せられにき。况や師高などは事の数
にやはあるべきに、子細にや及べき」と申あ
はれけれ共、「大臣は禄を重じて諫めず、小臣は
罪に恐れて申さず」と云事なれば、をのをの
口をとぢ給へり。「賀茂河の水、双六の賽、
山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河
院も仰なりけるとかや。鳥羽院ノ御時、越前
の平泉寺を山門へつけられけるには、当山
P01135
を御帰依あさからざるによつて、「非をもて
理とす」とこそ宣下せられて、院宣をば
下されけれ。江帥匡房卿の申されし様に、
「神輿を陣頭へふり奉てうたへ申さん
には、君はいかが御ぱからひ候べき」と申され
ければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」
とぞ仰ける。去じ嘉保二年三月二日、美
濃守源義綱朝臣、当国新立の庄をたをす
あひだ、山の久住者円応を殺害す。是によて
P01136
日吉の社司、延暦寺の寺官、都合卅余人、申
文をささげて陣頭へ参じけるを、後二条
関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に仰て
ふせかせらる。頼春が郎等箭をはなつ。
やにはにゐころさるる者八人、疵を蒙る者
十余人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、
子細を奏聞の為に下洛すときこえし
かば、武士検非違使、西坂本に馳向て、皆を
かへす。山門には御裁断遅々のあひだ、七社の
P01137
神輿を根本中堂にふりあげ奉り、其御
前にて信読の大般若を七日よふで、関白殿
を呪咀し奉る。結願の導師には仲胤法印、
其比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に
のぼりかねうちならし、表白の詞にいはく、
「我等なたねの二葉よりおほしたて給ふ神たち、
後二条の関白殿に鏑箭一はなちあて給へ。
大八王子権現」と、たからかにぞ祈誓したり
ける。やがて其夜不思議の事あり。八王子の
P01138
御殿より鏑箭の声いでて、王城をさして、
なてゆくとぞ、人の夢にはみたりける。其
朝、関白殿の御所の御格子をあけけるに、唯
今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる
樒一枝、たたりけるこそおそろしけれ。やがて
山王の御とがめとて、後二条の関白殿、をもき
御病をうけさせ給しかば、母うへ、大殿の北
の政所、大になげかせ給つつ、御さまをやつし、
いやしき下臈のまねをして、日吉社に御
P01139
参籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。
あらはれての御祈には、百番の芝田楽、百番
のひとつ物、競馬・流鏑馬・相撲をのをの百番、
百座の仁王講、百座の薬師講、一■手半の
薬師百体、等身の薬師一体、並に釈迦阿
弥陀の像、をのをの造立供養せられけり。又
御心中に三の御立願あり。御心のうちの事
なれば、人いかでかしり奉るべき。それに不思
議なりし事は、七日に満ずる夜、八王子の御社に
P01140
いくらもありけるまいりうど共の中に、陸奧
よりはるばるとのぼりたりける童神子、
夜半計にはかにたえ入にけり。はるかにかき
出して祈ければ、程なくいきいでて、やがて立
てまひかなづ。人奇特のおもひをなして是
をみる。半時ばかり舞て後、山王おりさせ
給て、やうやうの御詫宣こそおそろしけれ。
「衆生等慥にうけ給はれ。大殿の北の政所、けふ
七日わが御前に籠らせ給たり。御立願三
P01141
あり。一には、今度殿下の寿命をたすけて
たべ。さも候はば、したどのに候もろもろのかたは人
にまじはて、一千日が間朝夕みやづかひ申さん
となり。大殿の北の政所にて、世を世とも
おぼしめさですごさせ給ふ御心に、子を
思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事もわす
られて、あさましげなるかたはうどにまじ
はて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと仰
らるるこそ、誠に哀におぼしめせ。二には、
P01142
大宮の波止土濃より八王子の御社まで、
廻廊つくてまいらせむとなり。三千人
の大衆、ふるにもてるにも、社参の時いたは
しうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかに
めでたからむ。三には、今度殿下の寿命をた
すけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問
答講毎日退転なくおこなはすべしとなり。
いづれもおろかならねども、かみ二はさなくとも
ありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほ
P01143
しうこそおぼしめせ。但、今度の訴訟は無下
にやすかりぬべき事にてありつるを、
御裁許なくして、神人・宮仕射ころされ、疵
を蒙り、泣々まいて訴申事の余に心うく
て、いかならむ世までも忘るべしともおぼえず。
其上かれらにあたる所の箭は、しかしながら和
光垂跡の御膚にたたるなり。まことそらごとは
是をみよ」とて、肩ぬいだるをみれば、左の脇の
した、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ
P01144
みえたりける。「是が余に心うければ、いかに申
とも始終の事はかなふまじ。法花問答講一
定あるべくは、三とせが命をのべてたて
まつらむ。それを不足におぼしめさば力及
ばず」とて、山王あがらせ給けり。母うへは御立願
の事人にもかたらせ給はねば、誰もらし
つらむと、すこしもうたがふ方もましまさず。
御心の内の事共をありのままに御詫宣有
ければ、心肝にそうて、ことにたとくおぼしめし、
P01145
泣々申させ給けるは、「縦ひと日かた時にて
さぶらふとも、ありがたふこそさぶらふべきに、
まして三とせが命をのべて給らむ事、し
かるべうさぶらふ」とて、泣々御下向あり。いそぎ
都へいらせ給て、殿下の御領紀伊国に田中
庄と云所を、八王子の御社へ寄進せらる。それ
よりして法花問答講、今の世にいたるまで、
毎日退転なしとぞ承る。かかりし程に、後二
条関白殿御病かろませ給て、もとのごとくに
P01146
ならせ給ふ。上下悦あはれしほどに、三とせの
すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月廿一日、又後二条関白殿、御ぐしのきはに悪
御瘡いでさせ給て、うちふさせ給ひしが、
同廿七日、御年卅八にて遂にかくれさせ給ぬ。
御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき
人にてましましけれ共、まめやかに事のきうに
なりしかば、御命を惜ませ給ける也。誠に
惜かるべし。四十にだにもみたせ給はで、大殿に
P01147
先立まいらせ給ふこそ悲しけれ。必しも
父を先立べしと云事はなけれ共、生死の
をきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、
十地究竟の大士たちも、力及び給はぬ事
どもなり。慈悲具足の山王、利物の方便にて
ましませば、御とがめなかるべしとも覚ず。
  御輿振S0115
 ○さる程に、山門の大衆、国司加賀守師高を流
罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄
せらるべき由、奏聞度々に及といへども、御
P01148
裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめて、
安元三年四月十三日辰の一点に、十禅師・客
人・八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へ
振奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の河原、糺・梅
ただ・柳原・東福院の辺に、しら大衆・神人・
宮仕・專当みちみちて、いくらと云数をしらず。
神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天に
かかやいて、日月地に落給ふかとおどろかる。是
によて、源平両家の大将軍、四方の陣頭を
P01149
かためて、大衆ふせくべき由仰下さる。平家
には、小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千
余騎にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の
門をかため給ふ。弟宗盛・具盛・重衡、伯父頼盛・教盛・
経盛などは、にし南の陣をかためられけり。
源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡辺の
はぶく・さづくをむねとして、其勢纔に三
百余騎、北の門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし
勢は少し、まばらにこそみえたりけれ。大衆
P01150
無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より神
輿をいれ奉らむとす。頼政卿さる人にて、
馬よりおり、甲をぬいで、神輿を拝し
奉る。兵ども皆かくのごとし。衆徒の中へ、
使者をたてて、申送る旨あり。其使は渡辺
の長七唱と云者なり。唱、其日はきちんの直
垂に、小桜を黄にかへいたる鎧きて、赤銅
づくりの太刀をはき、廿四さいたる白羽の箭
おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、
P01151
たかひもにかけ、神輿の御前に畏て申けるは、
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度
山門の御訴訟、理運の条勿論に候。御成敗
遅々こそ、よそにても遺恨に覚候へ。さては
神輿入奉らむ事、子細に及候はず。但頼政
無勢に候。其上あけて入奉る陣よりいらせ
給て候はば、山門の大衆は目だりがほしけり
など、京童部が申候はむ事、後日の難にや
候はんずらむ。神輿を入奉らば、宣旨を背
P01152
に似たり。又ふせき奉らば、年来医王山王に
首をかたぶけ奉て候身が、けふより後、
ながく弓箭の道にわかれ候なむず。かれと
いひ是といひ、かたがた難治の様に候。東の
陣は小松殿大勢でかためられて候。其陣
よりいらせ給べうもや候らむ」といひ送りたり
ければ、唱がかく申にふせかれて、神人・宮仕
しばらくゆらへたり。若大衆どもは、「何条
其儀あるべき。ただ此門より神輿を入奉れ」と
P01153
云族おほかりけれども、老僧のなかに三
塔一の僉議者ときこえし摂津竪者
豪運、すすみ出て申けるは、「尤もさいはれ
たり。神輿をさきだてまいらせて訴訟を
致さば、大勢の中をうち破てこそ後代の
きこえもあらむずれ。就中に此頼政卿は、
六孫王より以降、源氏嫡々の正棟、弓箭を
とていまだ其不覚をきかず。凡武芸にも
かぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御
P01154
在位の時、当座の御会ありしに、「深山花」と
いふ題を出されたりけるを、人々よみわづ
らひたりしに、此頼政卿、
深山木のその梢とも見えざりし
さくらは花にあらはれにけり W007
と云名歌仕て御感にあづかるほどの
やさ男に、時に臨で、いかがなさけなう恥
辱をばあたふべき。此神輿かきかへし奉や」
と僉議しければ、数千人の大衆先陣より
P01155
後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神
輿を先立まいらせて、東の陣頭、待賢門
より入奉らむとしければ、狼籍忽に出来
て、武士ども散々に射奉る。十禅師の御
輿にも箭どもあまた射たてたり。神人・宮
仕射ころされ、衆徒おほく疵を蒙る。おめき
さけぶ声梵天までもきこえ、堅牢地
神も驚らむとぞおぼえける。大衆神輿を
ば陣頭にふりすて奉り、泣々本山へ
P01156
かへりのぼる。
内裏炎上S0116
○蔵人左少弁兼光に仰て、殿上にて俄に
公卿僉議あり。保安四年七月に神輿入洛
の時は、座主に仰て赤山の社へいれ奉る。
又保延四年四月に神輿入洛の時は、祇園
別当に仰て祇園社へいれ奉る。今度は保
延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧
都澄兼に仰て、秉燭に及で祇園の社へ
入奉る。神輿にたつところの箭をば、神
P01157
人して是をぬかせらる。山門の大衆、日吉の
神輿を陣頭へ振奉る事、永久より以降、
治承までは六箇度なり。毎度に武士を召
てこそふせかるれども、神輿射奉る事是
はじめとぞうけ給。「霊神怒をなせば、災
害岐にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ人
々申あはれける。同十四日ノ夜半計、山門の
大衆又下洛すときこえしかば、夜中に
主上要輿にめして、院御所法住寺殿へ行幸
P01158
なる。中宮は御車にたてまつて行啓あり。
小松のおとど、直衣に箭おうて供奉せらる。
嫡子権亮少将維盛、束帯にひらやなぐひ
おふてまいられけり。関白殿をはじめ奉て、
太政大臣以下の公卿殿上人、我もわれもとはせ
まいる。凡京中の貴賎、禁中の上下、さはき
ののしる事緩し。山門には、神輿に箭たち、
神人宮仕射ころされ、衆徒おほく疵を
かうぶりしかば、大宮二宮以下、講堂中堂
P01159
すべて諸堂一宇ものこさず焼払て、
山野にまじはるべき由、三千一同に僉議
しけり。是によて大衆の申所、御ぱからひ
あるべしときこえしかば、山門の上綱等、子細
を衆徒にふれむとて登山しけるを、大
衆おこて西坂本より皆おかへす。平大納言
時忠卿、其時はいまだ左衛門督にておはし
けるが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔
会合して、上卿をとてひつぱり、「しや
P01160
冠うちおとせ。其身を搦て湖にしづめ
よ」などぞ僉議しける。既にかうとみえられ
けるに、時忠卿「暫しづまられ候へ。衆徒の御
中へ申べき事あり」とて、懷より小硯たた
うがみをとり出し、一筆かいて大衆の中へ
つかはす。是をひらいてみれば、「衆徒の
濫悪を致すは魔縁の所行也。明王の制
止を加るは善政の加護也」とこそかかれたれ。
是をみてひぱるに及ばず。大衆皆尤々と
P01161
同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙
一句をもて三塔三千の憤をやすめ、公私
の恥をのがれ給へる時忠卿こそゆゆし
けれ。人々も、山門の衆徒は發向のかまびすし
き計かと思たれば、ことはりも存知し
たりけりとぞ、感ぜられける。同廿日、花山
院権中納言忠親卿を上卿にて、国司加賀守
師高遂に闕官せられて、尾張の井戸田へ
ながされけり。目代近藤判官師経禁獄
P01162
せらる。又去る十三日、神輿射奉し武士
六人獄定せらる。左衛門尉藤原正純、右衛
門尉正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家国、
左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、是等
は皆小松殿の侍なり。同四月廿八日亥剋
ばかり、樋口富小路より火出来て、辰巳の風
はげしう吹ければ、京中おほく焼にけり。
大なる車輪の如くなるほむらが、三町五
町へだてて戌亥のかたへすぢかへに、とび
P01163
こえとびこえやけゆけば、おそろしなどもおろか
なり。或は具平親王の千種殿、或は北野の
天神の紅梅殿、橘逸成のはひ松殿、鬼殿・高
松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣のおとどの閑院殿、
昭宣公の堀河殿、是を始て、昔今の名所卅
余箇所、公卿の家だにも十六箇所まで
焼にけり。其外、殿上人諸大夫の家々は
しるすに及ばず。はては大内にふきつけ
て、朱雀門より始て、応田門・会昌門、大極殿・
P01164
豊楽院、諸司八省・朝所、一時がうちに炭
燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々
の文書、七珍万宝さながら麈炭となり
ぬ。其間の費へいか計ぞ。人のやけしぬる
事数百人、牛馬のたぐひは数をしらず。
是ただことにあらず、山王の御とがめとて、
比叡山より大なる猿どもが二三千おり
くだり、手々に松火をともひて京中を
やくとぞ、人の夢には見えたりける。大極
P01165
殿は清和天皇の御宇、貞観十八年に始而
やけたりければ、同十九年正月三日、陽成院
の御即位は豊楽院にてぞありける。元
慶元年四月九日、事始あて、同二年十月
八日にぞつくり出されたりける。後冷泉院の
御宇、天喜五年二月廿六日、又やけにけり。治
暦四年八月十四日、事始ありしかども、造り
出されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三
条院の御宇、延久四年四月十五日作り出して、
P01166
文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸
なし奉る。今は世末になて、国の力も衰へ
たれば、其後は遂につくられず。
P01167
平家物語巻第一

平家物語 高野本 巻第二

平家 二(表紙)
P02001
平家二之巻 目録
座主流     一行阿闍梨之沙汰
西光被斬    小教訓
少将乞請    教訓状
烽火之沙汰   新大納言流罪
阿古屋の松   成親死去
徳大寺厳島詣  山門滅亡
善光寺炎上   康頼祝
卒都婆流    蘇武
P02002

P02003
平家物語巻第二
  『座主流』S0201
○治承元年五月五日[B ノヒ]、天台座主明雲大僧正、
公請を停止せらるるうへ、蔵人を御使にて、
如意輪の御本尊をめし【召し】かへひ【返い】て、御持僧を
改易せらる。則使庁の使をつけて、今度神
輿内裏へ振たてまつる【奉る】衆徒の張本をめさ
れける。加賀国に座主の御坊領あり【有り】。国司
師高是を停廃の間、その宿意によて大衆
をかたらひ、訴詔【*訴訟】をいたさる。すでに朝家の御
P02004
大事に及よし、西光法師父子が讒奏によて、法
皇大に逆鱗あり【有り】けり。ことに重科におこなは
るべしときこゆ。明雲は法皇の御気色あしかり【悪しかり】
ければ、印鑰をかへしたてま【奉つ】て、座主を辞し
申さる。同十一日、鳥羽院の七の宮、覚快法親
王天台座主にならせ給ふ。これは青連院の
大僧正行玄の御弟子也。おなじき【同じき】十二日、先座主所
職をとどめ【留め】らるるうへ、検非違使二人をつけて、
井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに
P02005
およぶ【及ぶ】。これによて、大衆なを【猶】参洛すべきよし【由】聞え
しかば、京中又さはぎ【騒ぎ】あへり。同十八日、太政大臣以
下の公卿十三人参内して、陣の座につき、先の
座主罪科の事儀定あり【有り】。八条中納言長方卿、
其時はいまだ左大弁宰相にて、末座に候はれ
けるが、申されけるは、「法家の勘状にまかせて、死
罪一等を減じて遠流せらるべしとみえ【見え】て候へ
共、前座主明雲大僧正は顕密兼学して、浄
行持律のうへ、大乗妙経を公家にさづけたて
P02006
まつり【奉り】、菩薩浄戒を法皇にたもた【保た】せ奉る。御経の
師、御戒の師、重科におこなはれん事、冥の照覧
はかりがたし。還俗遠流をなだめ【宥め】らるべきか」と、はば
かるところ【所】もなう申されければ、当座の公卿みな
長方の義に同ずと申あはれけれ共、法皇の
御いきどをり【憤り】ふかかり【深かり】しかば、猶遠流に定らる。太政
入道も此事申さんとて、院参せられたりけれ共、
法皇御風の気とて御前へもめされ給はねば、
ほいなげにて退出せらる。僧を罪する習とて、土
P02007
円をめし【召し】返し、還俗せさせたてまつり【奉り】、大納言大
輔藤井の松枝と俗名をぞつけられける。此明
雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より
六代の御すゑ【末】、久我大納言顕通卿の御子也。まこ
と【誠】に無双の磧徳、天下第一の高僧にておはし
ければ、君も臣もたとみ給ひて、天王寺・六勝寺
の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安陪【*安倍】
泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲となのり【名乗り】
たまふこそ心えね。うへに日月の光をならべて、した【下】に
P02008
雲あり【有り】」とぞ難じける。仁安元年弐月廿日、天台座
主にならせ給ふ。同三月十五日、御拝堂あり【有り】。中堂の
宝蔵をひらかれけるに、種々の重宝共の中に、ほ
う【方】一尺の箱あり【有り】。しろひ【白い】布でつつまれたり。一生
不犯の座主、彼箱をあけて見給ふに、黄紙にか
けるふみ一巻あり【有り】。伝教大師未来の座主の
名字を兼てしるしをか【置か】れたり。我名のある所ま
でみて、それより奥をば、見ず、もとのごとくにまき
返してをか【置か】るる習也。されば此僧正もさこそおは
P02009
しけめ。かかるたとき人なれ共、先世の宿業を
ばまぬかれ給はず。哀なりし事ども【共】也。同廿一日、
配所伊豆国と定らる。人々様々に申あはれけれ
共、西光法師父子が讒奏によて、かやうにおこな
はれけり。やがてけふ都のうち【内】をおひ【追ひ】出さるべし
とて、追立の官人白河の御房【*御坊】にむか【向つ】て、おひ【追ひ】
奉る。僧正なくなく【泣く泣く】御坊を出て、粟田口のほとり、
一切経の別所へいらせ給ふ。山門には、せんずる処
我等が敵は西光父子に過たる者なしとて、彼等親
P02010
子が名字をかひ【書い】て、根本中堂におはします十二神
将のうち、金毘羅大将の左の御足のした【下】にふま
せ奉り、「十二神将・七千夜叉、時刻をめぐらさず西光
父子が命をめし【召し】とり給へや」と、おめき【喚き】さけん【叫ん】で呪
咀しけるこそ聞もおそろしけれ【恐ろしけれ】。同廿三日、一切経の
別所より配所へおもむき【赴き】給ひけり。さばかんの法
務の大僧正程の人を、追立の鬱使がさき【先】に
けたて【蹴立て】させ、けふ【今日】をかぎりに都を出て、関の
東へおもむか【赴か】れけん心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀
P02011
也。大津の打出の浜にもなりしかば、文殊楼の軒端
のしろじろとして見えけるを、ふため【二目】とも見給はず、
袖をかほにおし【押し】あてて、涙にむせび給ひけり。山門
に、宿老磧徳をほし【多し】といへども、澄憲法印、其時は
いまだ僧都にておはしけるが、余に名残をおしみ【惜しみ】奉り、
粟津まで送りまいらせ【参らせ】、さてもあるべきならねば、
それよりいとま申てかへられけるに、僧正心ざしの
切なる事を感じて、年来狐心中[M 「御」を非とし「狐」と傍書]に秘せられた
りし一心三観の血脈相承をさづけらる。此法は釈
P02012
尊の附属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の竜
樹菩薩より次第に相伝しきたれるを、けふの
なさけにさづけらる。さすが我朝は粟散辺
地の境、濁世末代といひながら、澄憲これを附属
して、法衣の袂をしぼりつつ、宮こ【都】へ帰のぼられける
心のうちこそたとけれ。山門には大衆おこ[B ッ]て僉議
す。「[B 抑]義真和尚よりこのかた、天台座主はじめ【*はじま】て五
十五代に至るまで、いまだ流罪の例をきかず。倩
事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都
P02013
をたて、大師は当山によぢのぼ【上つ】て四明の教法を
此所にひろめ給ひしよりこのかた、五障の女人跡
たえ【絶え】て、三千の浄侶居[M を]しめたり。峰には一乗
読誦年ふりて、麓には七社の霊験日新なり。
彼月氏の霊山は王城の東北、大聖の幽崛也。この
日域の叡岳も帝都の鬼門に峙て、護国の霊地
也。代々の賢王智臣、此所に壇場をしむ。末代なら
んがらに、いかんが当山に瑕をばつくべき。心うし」とて、
おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】といふ程こそあり【有り】けれ、満山の大衆
P02014
  『一行阿闍梨之沙汰』S0202
みな東坂本へおり下る。 ○[B 十禅師権現の御前にて、大衆又僉議す。]「抑我等粟津に行むか【向つ】て、
貫首をうばひとどめ【留め】奉るべし。但追立の鬱使・両
送使【*令送使】あんなれば、事ゆへ【故】なくとりえ【取得】たてまつら【奉ら】ん
事ありがたし。山王大師の御力の外はたのむ【頼む】方
なし。誠に別の子細なく取え【得】奉るべくは、ここ【爰】にて
まづ瑞相をみせ【見せ】しめ給へ」と、老僧共肝胆をくだ
いて祈念しけり。ここに無動寺法師乗円律師
が童、鶴丸とて、生年十八歳になるが、身心をくるしめ【苦しめ】
五体に汗をながひ【流い】て、俄にくるひ出たり。「われ十禅
P02015
師権現のりゐさせ給へり。末代といふ共、争か我山の
貫首をば、他国へはうつさるべき。生々世々に心うし。
さらむにとては、われこのふもと【麓】に跡をとどめ【留め】て
もなににかはせん」とて、左右の袖をかほにおし【押し】
あてて、涙をはらはらとながす。大衆これをあやしみ
て、「誠に十禅じ【十禅師】権現の御詫宣にて在さば、我等しる
しをまいらせ【参らせ】ん。すこし【少し】もたがへ【違へ】ずもとのぬしに返した
べ」とて、老僧共四五百人、手々にも【持つ】たる数珠共を、十
禅師の大床のうへへぞなげ【投げ】あげたる。此物ぐるひはし
P02016
り【走り】まはてひろひ【拾ひ】あつめ【集め】、すこし【少し】もたがへ【違へ】ず一々にもと
のぬしにぞくばりける。大衆神明の霊験あら
たなる事のたとさに、みなたな心をあはせ【合はせ】て随
喜の感涙をぞもよほし[M 「もよをし」とあり「を」をミセケチ「ほ」と傍書]ける。「其儀ならば、ゆきむ
か【向つ】てうばひとどめ【留め】たてまつれ【奉れ】」といふ程こそあり【有り】
けれ、雲霞の如くに発向す。或は志賀辛崎の
浜路にあゆみ【歩み】つづける大衆もあり【有り】、或山田矢ばせの
湖上に舟おしいだす衆徒もあり【有り】。是をみ【見】て、さしもき
びしげなりつる追立の鬱使・両送使【*令送使】、四方へ皆逃
P02017
さりぬ。大衆国分寺へまいり【参り】むかふ【向ふ】。前座主大におどろ
ひて、「勅勘の者は月日の光にだにもあたらずとこ
そ申せ。何况や、いそぎ都のうちを追出さるべしと、
院宣・宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべから
ず。衆徒とうとう【疾う疾う】かへり【帰り】のぼり給へ」とて、はしちかうゐ出て
の給ひけるは、「三台槐門の家をいで【出で】て、四明幽渓の窓
に入しよりこのかた、ひろく円宗の教法を学して、顕
密両宗をまなびき。ただ吾山の興隆をのみおも
へ【思へ】り。又国家を祈奉る事おろそかならず。衆徒をは
P02018
ぐくむ心ざし【志】もふかかり【深かり】き。両所山王[B 「王」に「上イ」と傍書]定て照覧し給
ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によて遠流
の重科をかうぶれば、世をも人をも神をも仏をも
恨み奉ること【事】なし。これまでとぶらひ【訪ひ】来給ふ衆徒の
芳志こそ報つくしがたけれ」とて、香染の御衣の
袖しぼりもあへ給はねば、大衆もみな涙をぞながし
ける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候」と申ければ、
「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしか、いまはかかる流人
の身になて、いかんがやごとなき修学者、智恵ふか
P02019
き大衆達には、かきささげられてのぼるべき。縦の
ぼるべき[M 「縦のぼるべき縦のぼるべき」とあり、後の「縦のぼるべき」をミセケチ]なり共、わらんづなどいふ物し
ばりはき、おなじ様にあゆみ【歩み】つづい【続い】てこそのぼらめ」と
てのり給はず。ここに西塔の住侶、戒浄坊の阿闍
梨祐慶といふ悪僧あり【有り】。たけ七尺ばかりあり【有り】ける
が、黒革威の鎧の大荒目にかね【鉄】まぜたるを、草摺
なが【草摺長】にきなして、甲をばぬぎ、法師原にもたせつつ、
しら柄【白柄】の大長刀杖につき、「あけ【開け】られ候へ」とて、大衆
の中をおし分おし分、先座主のおはしける所へつとまいり【参り】
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たり。だい【大】の眼を見いからかし、しばしにらまへ奉り、「その御心
でこそかかる御目にもあはせ給へ。とうとうめさるべう候」
と申ければ、おそろしさ【恐ろしさ】にいそぎのり給。大衆とり
え【取得】奉るうれしさに、いやしき法師原にはあらで、やごと
なき修学者どもかきささげ奉り、おめき【喚き】さけ【叫ん】での
ぼりけるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、さきごし【前輿】かひ【舁い】
て、長刀の柄もこし【輿】の轅もくだけよととる【執る】ままに、
さしもさがしき東坂、平地を行が如く也。大講堂の
庭に輿かきすへ【据ゑ】て、僉議しけるは、「抑我等粟津に
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行向て、貫首をばうばい【奪ひ】とどめ【留め】奉りぬ。既に勅勘を
蒙て流罪せられ給ふ人を、とりとどめ【留め】奉て貫首
にもちひ【用ひ】申さん事、いかが有べからん」と僉議す。戒
浄房ノ阿闍梨、又先のごとくにすすみ出て僉議
しけるは、「夫当山は日本無双の霊地、鎮護国家
の道場、山王の御威光盛にして、仏法王法牛角也。
されば衆徒の意趣に至るまでならびなく、いや
しき法師原までも世もてかろしめず。况や智恵高
貴にして三千の貫首たり。今は徳行おもう【重う】して一山
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の和尚たり。罪なくしてつみをかうぶる、是山上洛中の
いきどほり【憤り】、興福・園城のあざけり【嘲】にあらずや。此時顕
密のあるじをうしな【失つ】て、数輩の学侶、蛍雪のつとめ
おこたらむこと【事】心うかるべし。せんずる【詮ずる】所、祐慶張本に
称ぜられて、禁獄[B 流]罪もせられ、か[B う]べをはね【刎ね】られ
ん事、今生の面目、冥途の思出なるべし」とて、双
眼より涙をはらはらとながす。大衆尤も尤もとぞ同
じける。それよりしてこそ、祐慶はいかめ房とはいは
れけれ。其弟子に恵慶【*慧恵】律師[M 「法師」とあり、「法」を非とし「律」と傍書]をば、時の人こいかめ
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房とぞ申ける。大衆、先座主をば東塔の南谷妙
光坊へ入奉る。時の横災は権化の人ものがれ給はざ
るやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の
御持僧【護持僧】にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名
をたち【立ち】給へり。昔もいまも、大国も小国も、人の口の
さがなさは、跡かたなき事なりしか共、其疑によて
果羅国へながされ給ふ。件の国へは三の道あり【有り】。
輪池道とて御幸道、幽地道とて雑人のかよふ
道、暗穴道とて重科の者をつかはす【遣す】道也。されば
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彼一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ
つかはし【遣し】ける。七日七夜が間、月日の光をみ【見】ずして行道
也。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、深々と
して山ふかし。只澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の
ぬれ衣ほしあへず。無実の罪によて遠流の重
科をかうむる[M 「かゝむる」とあり「ゝ」をミセケチ「う」と傍書]事を、天道あはれみ給ひて、九耀
のかたちを現じつつ、一行阿闍梨をまぼり【守り】給ふ。
時に一行右の指をくひきて、左のたもと【袂】に九耀
のかたちをうつさ【写さ】れけり。和漢両朝に真言の本
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  『西光被斬』S0203
尊たる九耀の曼陀羅是也。 ○[B 去程に山門の]大衆、先座主をとり【取り】とど
むるよし【由】、法皇きこしめし【聞し召し】て、いとどやすからずぞおぼし
めされける。西光法師申けるは、「山門の大衆みだり
がはしきうたへ【訴へ】仕事、今にはじめずと申ながら、今度
は以外に覚候。これ程の狼籍【*狼藉】いまだ承り及候はず。
よくよく御いましめ候へ」とぞ申ける。身のただいま【只今】ほろ
び【亡び】んずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもはば
からず、か様【斯様】に申て神禁をなやまし奉る。讒臣は
国をみだるといへり。実哉。叢蘭茂か覧とすれども、
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秋風これをやぶり、王者明かな覧とすれば、讒臣こ
れをくらう【暗う】す共、かやうの事をや申べき。此事、新
大納言成親卿以下近習の人々に仰あはせ【合はせ】られ
て、山せめ【攻め】らるべしと聞えしかば、山門の大衆、「さのみ
王地にはらまれて、詔命をそむくべきにあらず」と
て、内々院宣に随ひ奉る衆徒もあり【有り】など聞えし
かば、前座主明雲大僧正は妙光房におはしける
が、大衆ふた心あり【有り】ときい【聞い】て、「つゐに【遂に】いかなる目にか
あはむず覧」と、心ぼそげにぞの給ひける。され
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共流罪の沙汰はなかりけり。新大納言成親卿は、山門
の騒動によて、私の宿意をばしばらくおさへられ
けり。そも内義したく【支度】はさまざまなりしか共、義勢ばかり
では此謀反かなふ【適ふ】べうも見えざりしかば、さしもたのま【頼ま】
れたりける多田蔵人行綱、此事無益なりとお
もふ【思ふ】心つきにけり。弓袋のれう【料】におくら【送ら】れたりけ
る布共をば、直垂かたびらに裁ぬはせて、家子郎
等どもにきせつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、倩
平家の繁昌する有様をみる【見る】に、当時たやすく
P02028
かたぶけ【傾け】がたし。よし【由】なき事にくみしてげり。若此事
もれ【漏れ】ぬる物ならば、行綱まづうしなは【失は】れなんず。他人
の口よりもれ【漏れ】ぬ先にかへり忠【返り忠】して、命いか【生か】うどおもふ【思ふ】
心ぞつきにける。同五月廿九日のさ夜ふけがたに、多
田蔵人行綱、入道相国の西八条の亭に参て、「行
綱こそ申べき事候間、まい【参つ】て候へ」といはせければ、入
道「つねにもまいら【参ら】ぬ者が参じたるは何事ぞ。あれき
け」とて、主馬判官盛国をいださ【出ださ】れたり。「人伝には
申まじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから
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中門の廊へ出られたり。「夜ははるかにふけぬらむ。ただ
今【只今】いかに、何事ぞや」との給へ【宣へ】ば、「昼は人目のしげう候
間、夜にまぎれてまい【参つ】て候。此程院中の人々の兵
具をととのへ、軍兵をめされ候をば、何とかきこし
めさ【聞し召さ】れ候」。「それは山攻らるべしとこそきけ」と、いと事
もなげにぞの給ひける。行綱ちかう【近う】より、小声に
なて申けるは、「其儀では候はず。一向御一家の御上とこそ
承候へ」。「さてそれをば法皇もしろしめさ【知ろし召さ】れたるか」。「子細
にやおよび【及び】候。成親卿の軍兵めされ候も、院宣と
P02030
てこそめさ【召さ】れ候へ。俊寛がとふるまう【振舞】て、康頼がかう申
て、西光がと申て」などいふ事共、はじめ【始め】よりあり【有り】
のままにはさし過ていひ散し、「いとま申て」とて出に
けり。入道大に驚き、大声をもて侍共よびのの
しり給ふ[B 事]、聞もおびたたし【夥し】。行綱なまじひなる事
申出して、証人にやひかれんず覧とおそろしさ【恐ろしさ】
に、大野に火をはなたる心ち【心地】して、人もおは【追は】ぬに
とり袴して、いそぎ門外へぞにげ【逃げ】出ける。入道、ま
づ【先】貞能をめし【召し】て、「当家かたぶけ【傾け】うどする謀反
P02031
のともがら【輩】、京中にみちみちたん也。一門の人々にもふ
れ申せ。侍共もよをせ」との給へば、馳まはてもよをす。
右大将宗盛卿、三位中将知盛[M 「具盛」とあり「具」をミセケチ「知」と傍書]、頭中将重衡、左馬
頭行盛以下の人々、甲胃をよろひ、弓箭を帯し
馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ【集ふ】。其
夜のうちに西八条には、兵共六七千騎もあるら
むとこそ見えたりけれ。あくれば六月一日[B ノ]也。いま
だくらかり【暗かり】けるに、入道、検非違使安陪資成を
めし【召し】て、「きと院の御所へまいれ【参れ】。信成【*信業】をまねひ【招い】
P02032
て申さ[B ン]ずるやうはよな、「近習の人々、此一門をほろぼ
して天下をみだらんとするくわたて【企て】あり【有り】。一々にめし【召し】
とて尋ね沙汰仕るべし。それをば君もしろしめさ【知ろし召さ】る
まじう候」と申せ」とこその給ひけれ。資成いそぎ
御所へはせまいり【参り】、大膳大夫信成【*信業】よびいだひ【出だい】て此
由申に、色をうしなふ【失ふ】。御前へまい【参つ】て此由奏聞
しければ、法皇「あは、これらが内々はかりし事の
もれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさまし。さる
にても、「こは何事ぞ」とばかり仰られて、分明の御
P02033
返事もなかりけり。資成いそぎ馳帰て、入道相国に
此由申せば、「さればこそ。行綱はまことをいひけり。こ
の事行綱しらせずは、浄海安穏にある【有る】べしや」とて、
飛弾【*飛騨】守景家・筑後守貞能に仰て、謀反の輩
からめとるべき由下知せらる。仍二百余余騎、三百余き、
あそこここにおし【押し】よせおし【押し】よせからめとる。太政入道まづ雑
色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許
へ、「申あはす【合はす】べき事あり【有り】。きと立より給へ」との給ひ
つかはさ【遣さ】れたりければ、大納言我身のうへ【上】とは露
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しら【知ら】ず、「あはれ、是は法皇の山攻らるべきよし御結構あ
るを、申とどめられんずるにこそ。御いきどをり【憤り】ふか
げなり。いかにもかなう【叶ふ】まじき物を」とて、ないきよげ【萎清気】
なる布衣たをやかにきなし、あざやかなる車に
のり、侍三四人めし【召し】具して、雑色牛飼に至るまで、つ
ねよりもひき【引き】つくろは【繕は】れたり。そも最後とは後
にこそおもひ【思ひ】しられけれ。西八条ちかうなてみ【見】給
へば、四五町に軍兵みちみちたり。「あなおびたたし【夥し】。
何事やらん」と、むねうちさはぎ【騒ぎ】、車よりおり、門の
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うち【内】にさし入て見給へば、うち【内】にも兵共ひま【隙】はざま
もなうぞみちみちたる。中門の口におそろしげ【恐ろし気】なる
武士共あまた待うけて、大納言の左右の手をと
てひ【引つ】ぱり、「いましむべう候哉覧」と申。入道相国簾
中より見出して、「ある【有る】べうもなし」との給へば、武士共
十四五人、前後左右に立かこみ、ゑん【縁】のうへ【上】にひき
のぼせ【上せ】て、ひとまなる所におし【押し】こめてげり。大納言
夢の心地して、つやつや物もおぼえ【覚え】給はず。供なり
つる侍共おし【押し】へだてられて、ちりぢりになりぬ。雑色・
P02036
牛飼いろ【色】をうしなひ【失ひ】、牛・車をすてて逃さりぬ。さる
程に、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧
都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、
宗判官信房、新平判官資行もとらはれて
出来たり。西光法師此事きい【聞い】て、我身のうゑ【上】とや
思けん、鞭をあげ、院の御所法住寺殿へ馳ま
いる【参る】。平家の侍共道にて馳むかひ【向ひ】、「西八条へめさ
るるぞ。きとまいれ【参れ】」といひければ、「奏すべき事が
あて法住寺殿へまいる【参る】。やがてこそまいら【参ら】め」といひけ
P02037
れ共、「にくひ入道かな、何事をか奏すべかんなる。さな
いはせそ」とて、馬よりとてひきおとし【落し】、ちう【宙】にくく【括つ】て西
八条へさげてまいる【参る】。日のはじめより根元よりき【与力】の
者なりければ、殊につよう【強う】いましめて、坪の内にぞ
ひすへ【引つ据ゑ】たる。入道相国大床にたて、「入道かたぶけ【傾け】う
どするやつがなれるすがたよ。しやつここへひき【引き】よせ
よ」とて、ゑん【縁】のきはにひき【引き】よせさせ、物はき【履】なが
らしやつらをむずむずとぞふまれける。「本よりを[B の]
れら【己等】がやうなる下臈のはてを、君のめし【召し】つかは【使は】せ
P02038
給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子共に過分
のふるまひすると見しにあはせて、あやまたぬ天
台の座主流罪に申おこなひ、天下の大事ひき【引き】出い
て、剰此一門ほろぼす【亡ぼす】べき謀反にくみしてげるや
つなり。あり【有り】のままに申せ」とこその給ひけれ。西光
もとよりすぐれたる大剛の者なりければ、ちとも
色も変ぜず、わろびれたる気いき[B 「い」に「シ」と傍書]【景色】もなし。ゐ【居】なを
り【直り】あざわら【笑つ】て[* 「あざわれて」と有るのを他本により訂正]申けるは、「さもさうず。入道殿こそ
過分の事をばの給へ。他人の前はしら【知ら】ず、西光が
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きかんところ【所】にさやうの事をば、えこその給ふまじけれ。
院中にめしつかは【使は】るる身なれば、執事の別当成親
卿の院宣とてもよをさ【催さ】れし事に、くみせずとは
申べき様なし。それはくみしたり。但、耳にとどまる事
をもの給ふ物かな。御辺は故刑部卿忠盛の子で
おはせしかども、十四五までは出仕もし給はず。故中
御門藤中納言家成卿の辺にたち【立ち】入給しをば、京
童部は高平太とこそいひしか。保延の比、大将軍
承り、海賊の張本卅余人からめ進ぜられし[B 勧]賞
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に、四品して四位の兵衛佐と申ししをだに、過分と
こそ時の人々は申あはれしか。殿上のまじはりをだ
にきらわれし人の子で、太政大臣までなりあが【上がつ】た
るや過分なるらむ。侍品の者の受領検非違使
になる事、先例傍例なきにあらず。なじかは過分
なるべき」と、はばかる所もなう申ければ、入道あま
りにいかて物も[B の]給はず。しばしあて「しやつが頸さ
う【左右】なうきるな。よくよくいましめよ」とぞの給ひける。
松浦太郎重俊承て、足手をはさみ【鋏み】、さまざまに
P02041
いためとふ。もとよりあらがひ申さぬうゑ【上】、糾問はき
びしかりけり、残なうこそ申けれ。白状四五牧に記
せられ、やがて、「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五
条西朱雀にしてきられにけり。嫡子前加賀守
師高、尾張の井戸田へながされたりけるを、同国
の住人小胡麻郡司維季に仰てうた【討た】れぬ。次
男近藤判官師経禁獄せられたりけるを、獄
より引いださ【出ださ】れ、六条河原にて誅せらる。其弟左
衛門尉師平、郎等三人、同く首をはねられけり。
P02042
これら【是等】はいふかい【甲斐】なき物の秀て、いろう【綺ふ】まじき事に
いろひ【綺ひ】、あやまたぬ天台座主流罪に申おこなひ、
果報やつきにけん、山王大師の神罰冥罰を
  『小教訓』S0204
立どころにかうぶて、かかる目にあへりけり。○新大納
言は、ひと間【一間】なる所におし【押し】こめられ、あせ水になり
つつ、「あはれ、是は日比のあらまし事のもれ【漏れ】聞え
けるにこそ。誰もらし【洩らし】つらん。定て北面の者共
が中にこそある【有る】らむ」など、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】
つづけておはしけるに、うしろのかたより足をと【音】
P02043
のたからかにしければ、すはただ今【只今】わがいのち【命】をうし
なは【失は】んとて、物のふ【武士】共がまいる【参る】にこそと待給ふに、入
道みづからいたじき【板敷】たからか【高らか】にふみならし、大納言の
おはしけるうしろの障子をさとあけられたり。そ
けん【素絹】の衣のみじからかなるに、しろき【白き】大口ふみくくみ、
ひじりづかの刀おし【押し】くつろげてさすままに、以外に
いかれるけしき【気色】にて、大納言をしばしにらまへ、「抑御
辺は平治にもすでに誅せらるべかりしを、内府が
身にかへて申なだめ【宥め】、頸をつぎたてま【奉つ】しはいかに。何の
P02044
遺恨をもて、此一門ほろぼすべき由[B の][M 御]結構は候
けるやらん。恩をしるを人とはいふぞ。恩をしらぬ
をば畜生とこそいへ。しかれ共当家の運命つき
ぬによて、むかへ【向へ】たてま【奉つ】たり。日比のあらまし[M 「御結構」をミセケチ、左に「あらまし」と傍書]の次第、
直にうけ給ら【承ら】ん」とぞの給ひける。大納言「またくさ
る事候はず。人の讒言にてぞ候らむ。よくよく御
尋候へ」と申されければ、入道いはせもはてず、「人
やある、人やある」とめされければ、貞能まいり【参り】たり。「西光めが
白状まいらせよ【参らせよ】」と仰られければ、も【持つ】てまいり【参り】たり。是を
P02045
とて二三遍おし【押し】返しおし【押し】返し読きかせ、「あなにくや。此うへ【上】
をば何と陳ずべき」とて、大納言のかほにさとなげ【投げ】
かけ、障子をちやうどたててぞ出られける。入道、なを【猶】
腹をすゑ【据ゑ】かねて、「経遠・兼康」とめせば、瀬尾太郎・難
波次郎、まいり【参り】たり。「あの男とて庭へ引おとせ【落せ】」と
の給へば、これらはさう【左右】なくもしたてまつら【奉ら】ず。[M 畏て]、「小
松殿の御気色いかが候はんず覧」と申ければ、入道
相国大にいかて、「よしよし、を[B の]れら【己等】は内府が命をばおもう【重う】
して、入道が仰をばかろう【軽う】しけるごさんなれ。其上は
P02046
ちから【力】をよば【及ば】ず」との給へば、此事あしかり【悪しかり】なんとや思ひ
けん、二人の者共たち【立ち】あが【上がつ】て、大納言を庭へひき【引き】
おとし【落し】奉る。其時入道心地よげにて、「とてふせておめ
か【喚か】せよ」とぞの給ひける。二人の者共、大納言の左右
の耳に口をあてて、「いかさまにも御声のいづべう
候」とささやいてひきふせ奉れば、二声三声ぞ
おめか【喚か】れける。其体冥途にて、娑婆世界の罪人
を、或業のはかりにかけ、或浄頗梨の鏡にひき
むけて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵嘖
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すらんも、これには過じとぞ見えし。蕭樊とらは
れとらはれて、韓彭にらぎすされたり。兆錯[B 「兆措」とあり「措」に「錯」と傍書、「ソ」「サク」両様の振り仮名あり]【*■錯】戮をうけて、
周儀【*周魏】つみせらる。喩ば、蕭何・樊噌・韓信・彭越、是
等は高祖の忠臣なりしか共、小人の讒によて過
敗の恥をうく共、か様【斯様】の事をや申べき。新大納言は
我身のかくなるにつけても、子息丹波の少将成経
以下、おさなき【幼き】人々、いかなる目にかあふらむと、おもひ【思ひ】や
るにもおぼつかなし。さばかりあつき六月に、装束だに
もくつろげず、あつさ【暑さ】もたへ【堪へ】がたければ、むね【胸】せき
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あぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞながれ【流れ】ける。「さ
り共小松殿は思食はなたじ物を」と思はれけれども、誰
して申べし共おぼえ【覚え】給はず。小松のおとどは、其後遥
に程へて、嫡子権亮少将[B 維盛を]車のしりにのせ【乗せ】つつ、衛
府四五人、随身二三人めし【召し】ぐし【具し】て、兵一人もめし【召し】ぐせ【具せ】
られず、殊に大様げでおはしたり。入道をはじめ奉て、
人々皆おもは【思は】ずげにぞ見給ひける。車よりおり
給ふ処に、貞能つと参て、「など是程の御大事に、
軍兵共をばめし【召し】ぐせ【具せ】られ候はぬぞ」と申せば、「大事とは
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天下の大事をこそいへ。かやうの私事を大事と云
様やある」との給へば、兵杖を帯したる者共も、皆そ
ぞろいてぞ見えける。「そも大納言をばいづくにを
か【置か】れたるやらん」とて、ここかしこの障子引あけ引あけ見
給へば、ある障子のうへに、蛛手ゆう【結う】たる所あり【有り】。ここや
らんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙に
むせびうつぶして、目も見あはせ給はず。「いかにや」との
給へば、其時みつけ【見付け】奉り、うれしげにおもは【思は】れたるけし
き、地獄にて罪人共が地蔵菩薩を見奉るらんも、
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かくやとおぼえて哀也。「何事にて候やらん、かかる目に
あひ候。さてわたらせ給へば、さり共とこそたのみま
いらせ【参らせ】て候へ。平治にも既誅せらるべかりしを[M 「べきで候しが」とあり「きで候しが」をミセケチ「かりしを」と傍書]、御恩
をもて頸をつがれまいらせ【参らせ】、正二位の大納言にあがつ[M 「あり」とあり「り」をミセケチ「がつ」と傍書]【上がつ】
て、歳既四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報じ
つくしがたう候へ。今度も同はかひなき命をたす
け【助け】させおはしませ。命だにいき【生き】て候はば、出家入道
して高野粉河に閉籠り、一向後世菩提の
つとめをいとなみ候はん」と申されければ、[M さは候共、]
P02051
[B 大臣、「誠にさこそはおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。さ候へばとて、」御命うしなひ【失ひ】奉るまではよも候はじ。縦さは候共、重盛
かうて候へば、御命にもかはり奉るべし]とて出られけり。
父の禅門の御まへにおはして、「あの成親卿うしなは【失は】れん
事、よくよく御ぱからひ候べし。先祖修理大夫顕季、
白河院にめし【召し】つかは【使は】れてよりこのかた、家に其例なき
正二位の大納言にあが【上がつ】て、当時君無双の御いとをし
みなり。やがて首をはねられん事、いかが候べからん。
都の外へ出されたらんに事たり候なん。北野[B ノ]天神
は時平のおとどの讒奏にてうき名を西海の浪に
P02052
ながし、西宮の大臣は多田の満仲が讒言にて恨を
山陽の雲によす。おのおの【各々】無実なりしか共、流罪せ
られ給ひにき。これ皆延喜の聖代、安和の御門
の御ひが事【僻事】とぞ申伝たる。上古猶かくのごとし、況
哉末代にをいてをや。賢王猶御あやまりあり【有り】、況や
凡人にをいてをや。既めし【召し】をか【置か】れぬる上は、いそぎう
しなは【失は】れず共、なんのくるしみか候べき。「刑の疑はし
きをばかろんぜよ。功の疑はしきをばおもんぜよ【重んぜよ】」と
こそみえ【見え】て候へ。事あたらしく候へども、重盛彼大納言
P02053
が妹に相ぐして候。維盛又聟なり。か様【斯様】にしたしくな【成つ】
て候へば申とや、おぼしめさ【思し召さ】れ候らん。其儀では候はず。世
のため、君のため、家のための事をもて申候。一と
せ、故少納言入道信西が執権の時にあひ【相】あたて、
我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衛督藤原仲
成を誅せられてよりこのかた、保元までは君廿五代
の間行れざりし死罪をはじめてとり行ひ、宇治
の悪左府の死骸をほりおこいて実験【*実検】せられし
事などは、あまりなる御政とこそおぼえ【覚え】候しか。されば
P02054
いにしへの人々も、「死罪をおこなへば海内に謀反の輩
たえ【絶え】ず」とこそ申伝て候へ。此詞について、中二年あて、
平治に又信西がうづま【埋ま】れたりしをほり出し、首をは
ね【刎ね】て大路をわたされ候にき。保元に申行ひし事、
幾程もなく身の上にむかはり【向はり】にきとおもへ【思へ】ば、おそ
ろしう【恐ろしう】こそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。かたがた
おそれ【恐れ】ある【有る】べし。御栄花残る所なければ、おぼしめす【思し召す】
事ある【有る】まじけれ共、子々孫々までも繁昌こそあら
まほしう候へ。父祖の善悪は必子孫に及と見えて候。
P02055
積善の家に余慶あり【有り】、積悪の門に余殃とどまる
とこそ承はれ。いかさまにも今夜首をはね【刎ね】られんこ
と【事】、しかる【然る】べうも候はず」と申されければ、入道相国げに
もとやおもは【思は】れけん、死罪はおもひ【思ひ】とどまり給ひぬ。其
後おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「仰なれ
ばとて、大納言左右なう失ふ事ある【有る】べからず。入道
腹のたちのままに、もの【物】さはがしき【騒がしき】事し給ひては、
後に必くやしみ給ふべし。僻事してわれうらむ【恨む】
な」との給へば、兵共皆舌をふておそれ【恐れ】おののく。「さて
P02056
も経遠・兼康がけさ大納言に情なうあたりける
事、返々も奇怪也。重盛がかへり聞ん所をば、などかははば
からざるべき。片田舎の者共はかかるぞとよ」との給へ
ば、難波も瀬尾もともにおそれ【恐れ】入たりけり。おとどはか
様【斯様】にの給ひて、小松殿へぞ帰られける。さる程に、大
納言のとも【供】なりつる侍共、中御門烏丸の宿所へはし
り【走り】帰て、此由申せば、北方以下の女房達、声もおし
ま【惜しま】ずなき【泣き】さけぶ【叫ぶ】。「既武士のむかひ【向ひ】候。少将殿をはじ
め【始め】まいらせ【参らせ】て、君達も皆とられさせ給ふべしと
P02057
こそ聞え候へ。いそぎ【急ぎ】いづ方へもしのば【忍ば】せ給へ」と申けれ
ば、「今は是程の身にな【成つ】て、残りとどまる身とても、安
穏にて何にかはせん。ただ【只】同じ一夜の露ともきえん
事こそ本意なれ。さても今朝をかぎりとしら【知ら】ざ
りけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞなか【泣か】れけ
る。既武士共のちかづく【近付く】よし【由】聞えしかば、かくて又はぢ【恥】
がましく、うたてき目を見んもさすがなればとて、
十になり【成り】給ふ女子、八歳[B ノ]男子、車にとり【取り】のせ【乗せ】、いづ
くをさすともなくやり【遣り】出す。さてもある【有る】べきならねば、
P02058
大宮をのぼりに、北山の辺雲林院へぞおはしける。
其辺なる僧坊におろしをき奉て、をくり【送り】の者ど
も【共】も、身々の捨がたさにいとま申て帰けり。今はいと
けなきおさなき【幼き】人々ばかりのこり【残り】ゐて、又こと【事】とふ
人もなくしておはしけむ北方の心のうち、おしは
から【推し量ら】れて哀也。暮行陰[B 「陰」に「景」と傍書]を見給ふにつけては、大
納言の露の命、此夕をかぎりなりとおもひ【思ひ】やるに
も、きえぬべし。[B 宿所には]女房侍おほかり【多かり】けれ共、物をだにと
りしたためず、門をだにおし【押し】も立ず。馬どもは厩に
P02059
なみ【並み】たちたれ共、草かふ【飼ふ】者一人もなし。夜明れば、馬・車
門にたちなみ、賓客座につらなて、あそびたはぶれ、
舞おどり【踊り】、世を世とも思ひ給はず、ちかき【近き】あたりの
人は物をだにたかく【高く】いはず、おぢおそれ【恐れ】てこそ昨日
までもあり【有り】しに、夜の間にかはるありさま、盛者必
衰の理は目の前にこそ顕けれ。楽つきて悲来
るとかかれたる江相公の筆の跡、今こそ思しら
  『少将乞請』S0205
れけれ。○丹波少将成経は、其夜しも院の御所法
住寺殿にうへぶし【上臥し】して、いまだ出られざりけるに、
P02060
大納言の侍共、いそぎ御所へ馳まい【参つ】て、少将殿[B を]よび
出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より、今まで
しらせざるらん」との給ひも[B 「の給ひし」とあり「し」に「も」と傍書]はてねば、宰相殿より
とて使あり【有り】。此宰相と申は、入道相国の弟也。宿
所は六波羅の惣門の内なれば、門脇の宰相とぞ
申ける。丹波少将にはしうと【舅】也。「何事にて候やらん、
入道相国のきと西八条へ具し奉れと候」といは
せられたりければ、少将此事心得て、近習の女房
達よび出し奉り、「夜部何となう世の物さはがしう【騒がしう】
P02061
候しを、例の山法師の下るかなど、よそにおもひ【思ひ】て候へ
ば、はや成経が身の上にて候けり。大納言よさりき
らるべう候なれば、成経も同罪にてこそ候はんずら
め。今一度御前へまい【参つ】て、君をも見まいらせ【参らせ】たう候へ
共、既かかる身に罷な【成つ】て候へば、憚存候」とぞ申され
ける。女房達御前ヘまい【参つ】て、此由奏せられけれ
ば、法皇大におどろかせ給て、「さればこそ。けさの
入道相国が使にはや御心得あり【有り】。あは、これらが内々
はかりし事のもれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさ
P02062
まし。「さるにてもこれへ」と御気色あり【有り】ければ、まいら【参ら】
れたり。法皇も御涙をながさせ給ひて、仰下さる
る旨もなし。少将も涙に咽で、申あぐる旨もなし。
良有て、さてもある【有る】べきならねば、少将袖をかほに
おし【押し】あてて、泣なく罷出られけり。法皇はうしろを
遥に御覧じをくら【送ら】せ給ひて、「末代こそ心うけれ。
これかぎりで又御覧ぜぬ事もやあらんずらん」
とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。院中の
人々、少将の袖をひかへ、袂にすがて名残ををし
P02063
み【惜しみ】、涙をながさぬはなかりけり。しうとの宰相の許
へ出られたれば、北方はちかう産すべき人にておは
しけるが、今朝より此歎をうちそへては、既命も
たえ【絶え】入心地ぞせられける。少将御所を罷出づるより、
ながるる涙つきせぬに、北方のあり様【有様】を見給ひ
ては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将〔の〕
めのとに、六条と云女房あり。「御ち【乳】にまいり【参り】はじめ
さぶらひて、君をち【血】のなかよりいだきあげま
いらせ【参らせ】、月日の重にしたがひ【従ひ】て、我身の年のゆく
P02064
事をば歎ずして、君のおとなしうならせ給ふ事
をのみうれしうおもひ【思ひ】奉り、あからさまとはおもへ【思へ】共、
既廿一年はなれ【離れ】まいらせ【参らせ】ず。院内へまいら【参ら】せ給ひ
て、遅う出させ給ふだにも、おぼつかなう思ひまい
らする【参らする】に、いかなる御目にかあはせ給はんずらん」と
なく【泣く】。少将「いたうななげい【歎い】そ。宰相さておはす
れば、命ばかりはさり共こひ【乞ひ】うけ【請け】給はんずらん」と
なぐさめ給へども【共】、人目もしら【知ら】ずなきもだへ【悶え】けり。
西八条より使しきなみにあり【有り】ければ、宰相
P02065
「ゆきむかう【向う】てこそ、ともかうもならめ」とて出給へば、
少将も宰相の車のしりにのてぞ出られける。
保元平治よりこのかた、平家の人々楽み栄
へのみあて、愁へ歎はなかりしに、此宰相ばかりこ
そ、よしなき聟ゆへ【故】にかかる歎をばせられけれ。
西八条ちかうなて車をとどめ【留め】、まづ案内を申
入られければ、太政入道「丹波少将をば、此内へ
はいれ【入れ】らるべからず」との給ふ間、其辺ちかき【近き】侍の
家におろしをきつつ、宰相ばかりぞ門のうち【内】へは
P02066
入給ふ。少将をば、いつしか兵共うち【打ち】かこん【囲ん】で、守護
し奉る。たのま【頼ま】れたりつる宰相殿にははなれ【離れ】給
ひぬ。少将の心のうち、さこそは便なかりけめ。宰相
中門に居給ひたれば、入道対面もし給はず、源
大夫判官季貞をもて申入られけるは、「[B 教盛こそ、]よし【由】な
き者にしたしうな【成つ】て、返々くやしう候へども、かひも
候はず。あひ【相】ぐし【具し】させて候ものが、此程なやむ事の候
なるが、けさよりこの【此の】歎をうちそへては、既命もた
え【絶え】なんず。何かはくるしう【苦しう】候べき。少将をばしばら
P02067
く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじか
はひが事せさせ候べき」と申されければ、季貞
まい【参つ】て此由申。[B 入道、]「あはれ、例の宰相が、物に心えぬ」と
て、とみに返事もし給はず。ややあ【有つ】て、入道の
給ひけるは、「新大納言成親、此一門をほろぼして、
天下を乱らむとする企あり【有り】。この【此の】少将は既彼
大納言が嫡子也。うとうもあれしたしうもあれ、ゑ
こそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、
御へん【御辺】とてもおだしう【穏しう】やおはすべきと申せ」とこ
P02068
その給ひけれ。季貞かへりまい【参つ】て、此由宰相に申
ければ、誠ほい【本意】な【無】げ[B に]て、重て申されけるは、「保元
平治よりこのかた、度々の合戦にも、御命にかは
りまいらせ【参らせ】んとこそ存候へ。此後も荒き風をば
まづふせき【防き】まいら【参ら】せ候はんずるに、たとひ教盛こ
そ年老て候共、わかき子共あまた候へば、一方の御
固にはなどかなら【成ら】で候べき。それに成経しばらくあづ
からうど申を御ゆるされ【許され】なきは、教盛を一向ふた
心【二心】ある者とおぼしめす【思し召す】にこそ。是程うしろめ
P02069
たうおもは【思は】れまいらせ【参らせ】ては、世にあても何にかはし候べ
き。今はただ身のいとまを給て、出家入道し、片
山里にこもり居て、一すぢに後世菩提のつと
めを営み候はん。よし【由】なき浮世のまじはり也。世にあ
ればこそ望もあれ、望のかなは【叶は】ねばこそ恨もあれ。
しかじ、うき世をいとひ、実のみち【道】に入なんには」と
ぞの給ひける。季貞まい【参つ】て、「宰相殿ははやおぼ
しめし【思し召し】きて候。ともかうもよき様に御ぱからひ
候へ」と申ければ、其時入道大におどろゐ【驚い】て、「されば
P02070
とて出家入道まではあまりにけしからず。其儀
ならば、少将をばしばらく御辺に預奉ると云べし」
とこその給ひけれ。季貞帰まい【参つ】て、宰相[B 殿イ]に此
よし【由】申せば、「あはれ、人の子をば持まじかりける
もの【物】かな。我子の縁にむすぼほれざらむには、
是程心をばくだかじ物を」とて出られけり。少
将まち【待ち】うけ奉て、「さていかが候つる」と申されければ、
「入道あまりに腹をたてて、教盛には終に対面も
し給はず。かなふ【叶ふ】まじき由頻にの給ひつれ共、出
P02071
家入道まで申たればにやらん、しばらく宿所に
をき奉れとの給ひつれ共、始終よかるべしと
もおぼえず」。少将「さ候へばこそ、成経は御恩をもて
しばしの命ものび候はんずるにこそ。其につき候ては、
大納言が事をばいかがきこしめさ【聞し召さ】れ候」。「それまではお
もひ【思ひ】もよらず」との給へば、其時涙をはらはらとなが
い【流い】て、「誠に御恩をもてしばしの命もいき【生き】候はんず
る事は、しかる【然る】べう候へ共、命のおしう【惜しう】候も、ちち【父】を今
一度見ばやとおもふ【思ふ】ため【為】也。大納言がきられ候はん
P02072
にをいては、成経とてもかひなき命をいきて何に
かはし候べき。ただ一所でいかにもなる様に申てた
ばせ給ふべうや候らん」と申されければ、宰相よに
も心くるしげ【苦し気】にて、「いさとよ。御辺の事をこそと
かう申つれ。それまではおもひ【思ひ】もよらねども【共】、大
納言殿の御事をば、今朝内のおとどのやうやう
に申されければ、それもしばしは心安いやうにこ
そ承はれ」との給へば、少将泣々手を合てぞ
悦ばれける。子ならざらむ者は、誰かただ今【只今】我
P02073
身の上をさしをひ【置い】て、是ほどまでは悦べき。まこ
と【誠】の契はおや子【親子】のなか【中】にぞあり【有り】ける。子をば
人のもつべかりける物哉とぞ、やがて思ひ返され
ける。さて今朝のごとくに同車[* 「同」に清点、「車」に濁点あり。]して帰られけり。
宿所には女房達、しん【死ん】だる人のいきかへりたる
心して、さしつどひ【集ひ】て皆悦なき【悦泣】共せられけり。
  『教訓状』S0206
○太政入道は、か様【斯様】に人々あまた警をいても、なを【猶】
心ゆかずやおもは【思は】れけん、既赤地の錦の直垂
に、黒糸威の腹巻の白かな物うたるむな板せめ
P02074
て、先年安芸守たりし時、神拝の次に、霊夢
を蒙て、厳島の大明神よりうつつ【現】に給はられ
たりし銀のひるまき【蛭巻】したる小長刀、常の枕を
はなたず立られたりしを脇ばさみ【鋏み】、中門の廊
へぞ出られける。そのきそく【気色】大方ゆゆしうぞみ
え【見え】し。貞能をめす。筑後守貞能、木蘭地の直
垂にひおどしの鎧きて、御まへ【前】に畏て[B ぞ]候[B ける]。ややあて
入道の給ひけるは、「貞能、此事いかが思ふ。保元
に平〔右〕馬助をはじめとして、一門半過て新院
P02075
のみかた【御方】へ[B 「へ」に「に」と傍書]まいり【参り】にき。一宮の御事は、故刑部卿
殿の養君にてましまいしかば、かたがたみ【見】はなち【放ち】
まいらせ【参らせ】がたかしか共、故院の御遺誡に任て、み
かた【御方】にて先をかけ【駆け】たりき。是一の奉公也。次平
治元年十二月、信頼・義朝が院内をとり奉り、
大内にたてごもり、天下くらやみとな【成つ】たりしに、入
道身を捨て凶徒を追落し、経宗・惟方をめし【召し】
警しに至るまで、既君の御ため【為】に命をうしな
は【失は】んとする事、度々に及ぶ。縦人なんと申共、七代
P02076
までは此一門をば争か捨させ給ふべき。それに、成親
と云無用のいたづら者、西光と云下賎の不当人め
が申事につかせ給ひて、この【此の】一門亡すべき由、法皇
の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏
する者あらば、当家追討の院宣下されつと覚
るぞ。朝敵とな【成つ】てはいかにくゆとも【共】益ある【有る】まじ。世
をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉る
か、しから【然ら】ずは、是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふ
はいかに。其儀ならば、北面の輩、矢をも一い【射】てず[B ら]ん。
P02077
侍共に其用意せよと触べし。大方は入道、院がたの
奉公おもひ【思ひ】きたり。馬に鞍をか【置か】せよ。きせなが【着背長】とり【取り】
出せ」とぞの給ひける。主馬判官盛国、いそぎ小松
殿へ馳まい【参つ】て、「世は既かう候」と申ければ、おとど聞
もあへず、「あははや、成親卿が首をはね【刎ね】られたる
な」との給へば、「さは候はね共、入道殿きせながめさ【召さ】れ
候。侍共皆う【打つ】た【立つ】て、只今法住寺殿へよせんと出たち
候。法皇をば鳥羽殿へおし【押し】こめまいらせ【参らせ】うど候が、内々は
鎮西のかた【方】へながしまいらせ【参らせ】うど擬せられ候」と申
P02078
ければ、おとど争かさる事ある【有る】べきとおもへ【思へ】共、今朝の
禅門のきそく【気色】、さる物ぐるはしき事もある【有る】らむ
とて、車をとばして西八条へぞおはしたる。門前にて
車よりおり、門の内へさし入て見給へば、入道腹
巻をき給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、お
のおの【各々】色々の直垂に思ひ思ひの鎧きて、中門の
廊に二行に着座せられたり。其外諸国の受
領・衛府・諸司などは、縁に居こぼれ、庭にもひしと
なみ居たり。旗ざほ共ひきそばめひきそばめ、馬の腹帯
P02079
をかため、甲の緒をしめ、只今皆う【打つ】たた【立た】んずるけし
きども【気色共】なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指
貫そばとて、ざやめき入給へば、事の外にぞみえ【見え】
られける。入道ふし目【伏目】になて、あはれ、例の内府が
世をへうする様にふるまう【振舞ふ】、大に諫ばやとこそおも
は【思は】れけめども、さすが子ながらも、内には五戒をたもて
慈悲を先とし、外には五常をみだらず、礼義をただ
しうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻をきて向
はむ事、おもばゆう【面映う】はづかしうやおもは【思は】れけむ、障子
P02080
をすこし【少し】引たてて、素絹の衣を腹巻の上にあは
てぎ【慌着】にき【着】給ひたりけるが、むないたの金物のす
こし【少し】はづれて見えけるを、かくさ【隠さ】うど、頻に衣の
むねを引ちがへ引ちがへぞし給ひける。おとどは舎弟
宗盛卿の座上につき給ふ。入道もの給ひいだす【出だす】
旨もなし。おとども申いださ【出ださ】るる事もなし。良あて入
道の給ひけるは、「成親卿が謀反は事の数にもあら
ず。一向法皇の御結構にてあり【有り】けるぞや。世をし
づめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉るか、しから【然ら】
P02081
ずは是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふはいかに」と
の給へ【宣へ】ば、おとどきき【聞き】もあへずはらはらとぞなかれ
ける。入道「いかにいかに」とあきれ給ふ。おとど涙をおさへ【抑へ】
て申されけるは、「此仰承候に、御運ははや末になり【成り】ぬ
と覚候。人の運命の傾かんとては、必悪事をお
もひ【思ひ】たち【立ち】候也。又御ありさま、更うつつ共おぼえ【覚え】候は
ず。さすが我朝は辺地[B 「地」に「里イ」と傍書]粟散の境と申ながら、天
照大神の御子孫、国のあるじとして、天の児屋根
の尊の御すゑ【末】、朝の政をつかさどり給ひしより
P02082
このかた【以来】、太政大臣の官に至る人の甲冑をよろ
ふ事、礼義を背にあらずや。就中御出家の御
身なり。夫三世の諸仏、解脱幢相の法衣をぬ
ぎ捨て、忽に甲冑をよろひ、弓箭を帯し
ましまさむ事、内には既破戒無慙の罪をまね
くのみならず、外には又仁義礼智信の法にもそ
むき候なんず。かたがた【旁々】恐ある申事にて候へ共、心
の底に旨趣を残すべきにあらず。まづ世に四
恩候。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩
P02083
是也。其なか【中】に尤重きは朝恩也。普天のした【下】、王地
にあらずと云事なし。されば彼潁川の水に耳を
洗ひ、首陽山に薇をお【折つ】し賢人も、勅命そむき
がたき礼義をば存知すとこそ承はれ。何况哉先
祖にもいまだきか【聞か】ざし太政大臣をきはめさせ給ふ。
いはゆる重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐
門の位にいたる【至る】。しかのみならず、国郡半は過て一門の
所領となり、田園悉一家の進止たり。これ希代[M 「き代」とあり「き」をミセケチ「希」と傍書]の
朝恩にあらずや。今これらの莫太の御恩を[B 思召]忘て、
P02084
みだりがはしく法皇を傾け奉らせ給はん事、天照
大神・正八幡宮の神慮にも背候なんず。日本は是
神国なり。神は非礼を享給はず。しかれば君のおぼ
しめし【思し召し】立ところ【所】、道理なかばなきにあらず。なか【中】に
も此一門は、[B 代々ノ]朝敵を平げて四海の逆浪をし
づむる事は無双の忠なれども、其賞に誇る
事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七ケ条
の御憲法に、「人皆心あり【有り】。心おのおの【各々】執あり【有り】。彼を是
し我を非し、我を是し彼を非す、是非の理誰
P02085
かよくさだむ【定む】べき。相共に賢愚也。環のごとく【如く】して端
なし。ここをもて設人いかる【怒る】と云共、かへて【却つて】我とがを
おそれよ【恐れよ】」とこそみえ【見え】て候へ。しかれ共、御運つきぬ
によて、[B 御]謀反既あらはれ【現はれ】ぬ。其上仰合らるる成親
卿めし【召し】をか【置か】れぬる上は、設君いかなる不思議をおぼ
しめし【思し召し】たたせ給ふ共、なんのおそれ【恐れ】か候べき。所当
の罪科おこなはれん上は、退いて事の由を陳じ
申させ給ひて、君の御ためには弥奉公の忠勤
をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐
P02086
をいたさせ給はば、神明の加護にあづかり【預り】、仏陀の
冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応あらば、君も
おぼしめしなをす事、などか候はざるべき。君と臣
とならぶるに親疎わく【分く】かたなし。道理と僻事をな
  『烽火之沙汰』S0207
らべんに、争か道理につかざるべき」。○「是は君の御こと
はり【理】にて候へば、かなは【叶は】ざらむまでも、院の御所法住
寺殿を守護しまいらせ【参らせ】候べし。其故は、重盛叙爵
より今大臣の大将にいたるまで、併君の御恩なら
ずと[B 云]事なし。其恩の重き事をおもへ【思へ】ば、千顆万顆
P02087
の玉にもこえ、其恩の深き事[M 「事」をミセケチ「色イ」と傍書]を案ずれば、一
入再入の紅にも[B 猶]過たらん。しかれば、院中にま
いり【参り】こもり候べし。其儀にて候はば、重盛が身にか
はり、命にかはらんと契たる侍共少々候らん。こ
れらをめし【召し】ぐし【具し】て、院御所法住寺殿を守護
しまいらせ【参らせ】候はば、さすが以外の御大事でこそ候はん
ずらめ。悲哉、君の御ために奉公の忠をいたさん
とすれば、迷慮【*迷盧】八万の頂より猶たかき父の
恩、忽にわすれんとす。痛哉、不孝の罪をの
P02088
がれ【逃れ】んとおもへ【思へ】ば、君の御ために既不忠の逆臣と
なりぬべし。進退惟谷れり、是非いかにも弁
がたし。申うくるところ〔の〕詮は、ただ重盛が頸をめされ
候へ。[B さ候はば、]院中をも守護しまいらす【参らす】べからず、院参の
御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへにこ
えたるによて、官大相国に至り、剣を帯し沓を
はきながら殿上[* 「殿」に清点、「上」に濁点あり。]にのぼる事をゆるさ【許さ】れしか共、
叡慮にそむく事あれば、高祖おもう【重う】警てふ
かう【深う】罪せられにき。か様【斯様】の先蹤をおもふにも、富
P02089
貴といひ栄花といひ、朝恩といひ重職といひ、
旁きはめさせ給ひぬれば、御運のつきんこ
ともかたかるべきにあらず。富貴の家には
禄位重畳せり、ふたたび実なる木は其根必い
たむとみえ【見え】て候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつま
でか命いきて、みだれむ世をも見候べき。只末代
に生をうけて、かかるうき目にあひ候重盛が果
報の程こそ拙う候へ。ただ今侍一人に仰付て、御坪
のうちに引出されて、重盛が首のはねられん事
P02090
は、安い程の事でこそ候へ。是をおのおの聞給へ」とて、直
衣の袖もしぼる[B 「しぼり」とあり「り」に「る」と傍書]ばかりに涙をながしかきくどかれけ
れば、一門の人々、心あるも心なきも、皆[B よろひ【鎧】の]袖をぞぬ
らされける。太政入道も、たのみ【頼み】きたる内府はかや
うにの給ふ、力もなげにて、「いやいや、これまでは思も
よりさうず。悪党共が申事につかせ給ひて、
僻事などやいでこむずらんと思ふばかりでこそ
候へ」との給へ【宣へ】ば、[B 大臣、]「縦いかなるひが事【僻事】出き候とも、君をば
何とかしまいらせ【参らせ】給ふべき」とて、ついたて中門に
P02091
出て、侍共に仰られけるは、「只今重盛が申つる事共を
ば、汝等承はらずや。今朝よりこれに候うて、かやうの
事共申しづめむと存じつれ共、あまりにひたさ
はぎ【騒ぎ】に見えつる間、帰りたりつるなり。院参の
御供にをいては、重盛が頸のめさ【召さ】れむを見て仕
れ。さらば人まいれ【参れ】」とて、小松殿へぞ帰られける。主
馬判官盛国をめし【召し】て、「重盛こそ天下の大事
を別して聞出したれ。「我を我とおもは【思は】ん者共
は、皆物ぐ【具】して馳まいれ【参れ】」と披露せよ」との給へ【宣へ】ば、
P02092
此由ひろう【披露】す。おぼろけにてはさはが【騒が】せ給はぬ人の、
かかる披露のあるは別の子細のあるにこそとて、
皆物具して我も我もと馳まいる【参る】。淀・はづかし[B 「はづかし」に「羽束瀬」と傍書]【羽束師】・宇治・
岡の屋、日野・勧条寺【*勧修寺】・醍醐・小黒栖、梅津・桂・大
原・しづ原、せれう【芹生】の里に、あぶれゐたる兵共、或
よろい【鎧】きていまだ甲をきぬもあり【有り】、或は矢お
うていまだ弓をもたぬもあり【有り】。片鐙ふむやふ
まずにて、あはて【慌て】さはい【騒い】で馳まいる【参る】。小松殿に
さはぐ【騒ぐ】事あり【有り】と聞えしかば、西八条に数千騎あり【有り】
P02093
ける兵共、入道にかうとも申も入ず、ざざめき[M 「ざざめてき」とあり「て」をミセケチ]つ
れて、皆小松殿へぞ馳たりける。すこし【少し】も弓箭
に携る程の者、一人も残らず。其時入道大に
驚き、貞能をめし【召し】て、「内府は何とおもひ【思ひ】て、これ
らをばよび【呼び】とるやらん。是でいひつる様に、入道が
許へ討手などやむかへ【向へ】んずらん」との給へ【宣へ】ば、貞能
涙をはらはらとながい【流い】て、「人も人にこそよらせ給ひ
候へ。争かさる御事候べき。[B 今朝是にて]申させ給ひつる事
共も、みな御後悔ぞ候らん」と申ければ、入道内府
P02094
に中たがふ【違う】てはあしかり【悪しかり】なんとやおもは【思は】れけん、法
皇むかへ【向へ】まいらせ【参らせ】んずる事も、はや思とどまり、腹
巻ぬぎをき、素絹の衣にけさ【袈裟】うちかけて、い
と心にもおこらぬ念珠してこそおはしけれ。小松
殿には、盛国承て着到つけけり。馳参たる勢ど
も、一万余騎とぞしるいたる。着到披見の後、
おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「日来の
契約をたがへ【違へ】ず、まいり【参り】たるこそ神妙なれ。異
国にさるためし【例】あり【有り】。周幽王、褒■[女+以]と云最愛の
P02095
后をもち給へり。天下第一の美人也。されども幽
王の心にかなは【叶は】ざりける事は、褒■[女+以]咲をふくまず
とて、すべて此后わらう【笑ふ】事をし給はず。異国の習に
は、天下に兵革おこる時、所々に火をあげ、大鼓をう
て兵をめすはかり事あり【有り】。是を烽火と名づけ
たり。或時天下に兵乱おこて、烽火をあげたり
ければ、后これを見給ひて、「あなふしぎ【不思議】、火もあれ
程おほかり【多かり】けるな」とて、其時初てわらひ【笑ひ】給へり。
この后一たびゑめば百の媚あり【有り】けり。幽王うれし
P02096
き事にして、其事となうつねに烽火をあげ
給ふ。諸こう【侯】来るにあた【仇】なし。あた【仇】なければ則さん【去ん】
ぬ。かやうにする事度々に及べば、まいる【参る】者もなかり
けり。或時隣国より凶賊おこて、幽王の都をせ
め【攻め】けるに、烽火をあぐれども、例の后の火になら
て兵もまいら【参ら】ず。其時都かたむいて、幽王終に亡
にき。さてこの后は野干となてはしり【走り】うせける
ぞおそろしき【恐ろしき】。か様【斯様】の事がある時わ、自今以後も
これよりめさんには、かくのごとくまいる【参る】べし。重盛
P02097
不思議の事を聞出してめし【召し】つるなり。されども
其事聞なをし【直し】つ。僻事にてあり【有り】けり。とうとう帰
れ」とて皆帰されけり。実にはさせる事をも聞
出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞
にしたがひ【従ひ】、我身に勢のつくかつかぬかの程をも
しり、又父子軍[M 「戦」をミセケチ「軍」と傍書]をせんとにはあらね共、かうして入道
相国の謀反の心をもや、やはらげ給ふとの策也。
君君たらずと云とも、臣もて臣たらずばある【有る】べからず。
父父たらずと云共、子もて子たらずば有べからず。君
P02098
のためには忠あて、父のためには孝あり【有り】[B と]、文宣王の
の給ひけるにたがは【違は】ず。君も此よしきこしめし【聞し召し】て、
「今にはじめぬ事なれ共、内府が心のうちこそは
づかしけれ。怨をば恩をもて報ぜられたり」とぞ
仰ける。「果報こそめでたうて、大臣の大将にいた
ら【至ら】め、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世に
こえたるべしやは」とぞ、時の人々感じあはれける。
「国に諫る臣あれば其国必やすく、家に諫る
子あれば其家必ただし」といへり。上古にも末代
P02099
  『大納言流罪』S0208
にもありがたかりし大臣也。○同六月二日[B ノヒ]、新大納言
成親卿をば公卿の座へ出し奉り、御物まいらせ【参らせ】たり
けれども、むねせきふさがて御はしをだにもたて
られず。御車をよせて、とうとうと申せば、心なら
ずのり給ふ。軍兵共前後左右にうちかこみた
り。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見
え奉らばや」との給へ【宣へ】ども【共】、それもかなは【叶は】ず。「縦重
科を蒙て遠国へゆく者も、人一人身にそへぬ
者やある」と、車のうちにてかきくどか【口説か】れければ、
P02100
守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西
の朱雀を南へゆけば、大内山も今はよそにぞ
見給ける。としごろ【年比】見なれ奉[B り]し雑色牛飼
に至るまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけ
り。まして都に残とどまり給ふ北方、おさな
き【幼き】人々の心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。鳥
羽殿をすぎ給ふにも、此御所へ御幸なりし
には、一度も御供にははづれざりし物をとて
わが山庄すはま【州浜】殿とてあり【有り】しをも、よそに
P02101
みてこそとおら【通ら】れけれ。[B 肩に「鳥羽のイ」と傍書]南の門に出て、舟をそ
し【遅し】とぞいそがせける。「こはいづちへやらん。おな
じううしなは【失は】るべくは、都ちかき【近き】此辺にてもあれ
かし」との給ひけるぞせめての事なる。ちかう
そひたる武士を「た【誰】そ」ととひ給へば、「難波次
郎経遠」と申。「若此辺に我方さまのものや
ある。舟にのらぬ先にいひをく【置く】べき事あり【有り】。
尋てまいらせよ【参らせよ】」との給ひければ、其辺をはしり【走り】
まはて尋けれども【共】、我こそ大納言殿の方と云
P02102
者一人もなし。「我世なりし時は、したがひ【従ひ】ついたりし
者ども【共】、一二千人もあり【有り】つらん。いまはよそにて
だにも、此有さまを見をくる【送る】者のなかりける
かなしさよ」とてなか【泣か】れければ、たけき【猛き】もののふ
共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とては、
ただつきせぬ涙ばかり也。熊野まうで、天王寺
詣などには、ふたつがはら【二龍骨】の、三棟につくたる舟に
のり、次の舟二三十艘漕つづけてこそあり【有り】し
に、今はけしかる[B 「けしかり」とあり「り」に「る」と傍書]かきすゑ【舁き据え】屋形舟に大幕ひ
P02103
かせ、見もなれぬ兵共にぐせ【具せ】られて、けふをかぎ
りに都を出て、浪路はるかにおもむか【赴か】れけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。其日は摂津国
大もつ【大物】の浦に着給ふ。新大納言、既死罪
に行はるべかりし人の、流罪に宥られけるこ
とは、小松殿のやうやうに申されけるによて也。
此人いまだ中納言にておはしける時、美濃国
を知行し給ひしに、嘉応元年の冬、目代
右衛門尉正友がもとへ、山門の領、平野庄
P02104
の神人が葛を売てきたりけるに、目代酒に
飲酔て、くずに墨をぞ付たりける。神人悪
口に及ぶ間、さないは【言は】せそとてさむざむ【散々】にれう
りやく【陵轢、陵礫】す。さる程に神人共数百人、目代が許
へ乱入す。目代法にまかせ【任せ】て防ければ、神人等
十余人うちころさ【殺さ】る[M 「うちころされ」とあり「れ」をミセケチ「る」と傍書]。是によて同年の十一
月三日、山門の大衆飫しう蜂起して、国司成
親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友
を禁獄せらるべき由奏聞す。既成親卿
P02105
備中国へながさるべきにて、西の七条までいださ
れたりしを、君いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、中五日
あてめし【召し】かへさ【返さ】る。山門の大衆飫しう呪咀すと
聞えしか共、同二年正月五日、右衛門督を兼じ
て、検非違使の別当になり給ふ。其時資方【*資賢】・
兼雅卿こえられ給へり。資方【*資賢】卿はふるい【古い】人、おとな
にておはしき。兼雅卿は栄花の人也。家嫡にて
こえられ給ひけるこそ遺恨なれ。是は三条殿
造進の賞也。同三年四月十三日、正二位に叙せ
P02106
らる。其時は中御門[B ノ]中納言宗家卿こえられ給
へり。安元元年十月廿七日、前中納言より権大
納言にあがり【上がり】給ふ。人あざけ[B ッ]て、「山門の大衆に
は、のろはるべかりける物を」とぞ申ける。され
ども今はそのゆへ【故】にや、かかるうき目にあひ給
へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、とき【疾き】も
あり【有り】遅もあり【有り】、不同なる事共也。同三日、大もつ【大物】
の浦へ京より御使あり【有り】とてひしめきけり。新
大納言「是にて失へとにや」と聞給へば、さはな
P02107
くして、備前の児島へながすべしとの御使なり。
小松殿より御ふみ【文】あり【有り】。「いかにもして、都ちかき【近き】
片山里にをき奉らばやと、さしも申つれど
もかなは【叶は】ぬ事こそ、世にあるかひも候はね。さ
りながらも、御命ばかりは申うけて候」とて、難波
がもとへも「かまへてよくよく宮仕へ御心にたが
う【違ふ】な」と仰られつかはし【遣し】、旅のよそほい【粧】こまごま
と沙汰しをくら【送ら】れたり。新大納言はさしも
忝うおぼしめさ【思し召さ】れける君にもはなれま
P02108
いらせ【参らせ】、つかのまもさりがたうおもは【思は】れける北方
おさなき【幼き】人々にも別はてて、「こはいづちへとて行
やらん。二度こきやう【故郷】に帰て、さいし[M 「さひし」とあり「さひ」をミセケチ「さい」と傍書]【妻子】を相みん事
も有がたし。一とせ山門の訴詔【*訴訟】によてながさ
れしを、君おしま【惜しま】せ給ひて、西の七条よりめし【召し】
帰されぬ。これはされば君の御警にもあらず。
こはいかにしつる事ぞや」と、天にあふぎ地に
ふして、泣かなしめ共かひぞなき。明ぬれば既
舟おしいだいて下り給ふに、みちすがらもただ
P02109
涙に咽で、ながらふ【永らふ】べしとはおぼえねど、さすが
露の命はきえやらず、跡のしら浪【白浪】へだつれ
ば、都は次第に遠ざかり、日数やうやう重れば、
遠国は既近付けり。備前の児島に漕よせて、
民の家のあさましげなる柴の庵にをき
奉る。島のならひ【習ひ】、うしろは山、前はうみ、磯の
  『阿古屋之松』S0209
松風浪の音、いづれも哀はつきせず。○大納言
一人にもかぎらず、警を蒙る輩おほかり【多かり】けり。
近江中将入道蓮浄佐渡国、山城守基兼伯
P02110
耆国、式部大輔正綱播磨国、宗判官信房、阿
波国、新平判官資行は美作国とぞ聞えし。其
比入道相国、福原の別業におはしけるが、同廿日[B ノヒ]、摂
津左衛門盛澄を使者で、門脇の宰相の許へ、「存
る旨あり【有り】。丹波少将いそぎ是へたべ」との給ひつ
かはさ【遣さ】れたりければ、宰相「さらば、只あり【有り】し時、とも
かくもなりたりせばいかがせむ。今更物をお
もは【思は】せんこそかなしけれ」とて、福原へ下り給ふ
べきよし【由】の給へ【宣へ】ば、少将なくなく【泣く泣く】出[B 立]給ひけり。
P02111
女房達は、「かなは【叶は】ぬ物ゆへ【故】、なを【猶】もただ宰相の申
されよかし」とぞ歎れける。宰相「存る程の
事は申つ。世を捨るより外は、今は何事をか
申べき。され共、縦いづくの浦におはす共、我命
のあらんかぎりはとぶらひ【訪ひ】奉るべし」とぞの
給ひける。少将は今年三になり給ふおさな
き【幼き】人を持給へり。日ごろはわかき人にて、君達
などの事も、さしもこまやかにもおはせざりし
か共、今はの時になりしかば、さすが心にやかか
P02112
られけん、「此おさなき【幼き】者を今一度見ばや」と
こその給ひけれ。めのと【乳母】いだい【抱い】てまいり【参り】たり。少
将ひざのうへにをき、かみかきなで、涙をはら
はらとながい【流い】て、「あはれ、汝七歳にならば男にな
して、君へまいらせ【参らせ】んとこそおもひ【思ひ】つれ。され
共、今は云かひなし。若命いきておひたちた
らば、法師になり、我後の世とぶらへよ」との給
へ【宣へ】ば、いまだいとけなき心に何事をか聞わ
き給ふべきなれ共、うちうなづき給へば、少
P02113
将をはじめ奉て、母うへ【母上】めのとの女房、其座に
なみゐたる人々、心あるも心なきも、皆袖をぞ
ぬらしける。福原の御使、やがて今夜鳥羽まで出
させ給ふべきよし申ければ、「幾程ものびざら
む物ゆへ【故】に、こよひばかりは都のうちにてあかさ
ばや」との給へ【宣へ】共、頻に申せば、其夜鳥羽へ出ら
れける。宰相あまりにうらめしさ【恨めしさ】に、今度はのり
も具し給はず。おなじき廿二日、福原へ下りつ
き給ひたりければ、太政入道、瀬尾太郎兼
P02114
康に仰て、備中国へぞ下されける。兼康は宰
相のかへり聞給はん所をおそれ【恐れ】て、道すがらも
やうやうにいたはりなぐさめ奉る。され共少将なぐ
さみ給ふ事もなし。よる昼【夜昼】ただ仏の御名を
のみ唱て、父の事をぞ歎れける。新大納言
は備前の児島におはしけるを、あづかり【預り】の武士
難波次郎経遠「これは猶舟津近うてあしかり【悪しかり】
なん」とて地へわたし奉り、備前・備中両国の
堺、にはせ[B 「は」に「ワ」と傍書]【庭瀬】の郷有木の別所と云山寺にをき
P02115
奉る。備中の瀬尾と備前の有木の別所の
間は、纔五十町にたらぬ所なれば、丹波少将、そなた
の風もさすがなつかしう【懐しう】やおもは【思は】れけむ。或時
兼康をめし【召し】て、「是より大納言殿の御渡あんな
る備前の有木の別所へは、いか程の道ぞ」とと
ひ給へば、すぐにしらせ奉てはあしかり【悪しかり】なんとや
おもひ【思ひ】けむ、「かたみち十二三日で候」と申。其時少
将涙をはらはらとながい【流い】て、「日本は昔三十三ケ
国にてあり【有り】けるを、中比六十六ケ国に分られ
P02116
たんなり。さ云備前・備中・備後も、もとは一国に
てあり【有り】ける也。又あづまに聞ゆる出羽・陸奥両
国も、昔は六十六郡が一国にてあり【有り】けるを、其時
十二郡をさきわかて、出羽国とはたてられたり。
されば実方中将、奥州へながされたりける時、
此国の名所にあこ屋【阿古屋】の松と云所を見ばやとて、
国のうちを尋ありき【歩き】けるが、尋かねて帰りける
道に、老翁の一人逢たりければ、「やや、御辺は
ふるい【古い】人とこそ見奉れ。当国の名所にあこ
P02117
や【阿古屋】の松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国
のうちには候はず。出羽国にや候らん」。「さては
御辺しらざりけり。世はすゑになて、名所をも
はやよびうしなひ【失ひ】たるにこそ」とて、むなしく
過んとしければ、老翁、中将の袖をひかへ
て、「あはれ君はみちのくのあこ屋【阿古屋】の松に木
がくれていづべき月のいでもやらぬか W008といふ
歌の心をもて、当国の名所あこや【阿古屋】の松とは
仰られ候か、それは両国が一国なりし時読侍る
P02118
歌也。十二郡をさきわかて後は、出羽国にや候らん」
と申ければ、さらばとて、実方中将も出羽国に
こえてこそ、あこ屋【阿古屋】の松をば見たりけれ。筑
紫の太宰府より都へ■[魚+宣]の使ののぼるこ
そ、かた路十五日とはさだめたれ。既十二三日と云は、
これより殆鎮西へ下向ごさむなれ。遠しと云
とも、備前・備中の間、両三日にはよも過じ。近きを
とをう【遠う】申すは、大納言殿の御渡あんなる所を、成
経にしらせじとてこそ申らめ」とて、其後は恋
P02119
  『大納言死去』S0210
しけれ共とひ給はず。○さる程に、法勝寺の執
行俊寛僧都、平判官康頼、この少将相ぐし
て、三人薩摩潟鬼界が島へぞながされける。
彼島は、都を出てはるばると浪路をしのいで行
所也。おぼろけにては舟もかよはず。島にも人
まれなり。をのづから人はあれども、此土の人に
も似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛
おひつつ、云詞も聞しら【知ら】ず。男は鳥帽子もせず、
女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも
P02120
似ず。食する物もなければ、只殺生をのみ先と
す。しづが山田を返さねば、米穀のるいもなく、
園の桑をとらざれば、絹帛のたぐひもなかり
けり。島のなかにはたかき山あり【有り】。鎮に火もゆ。
硫黄[B 「ユ」に「イ」と傍書]と云物みちみてり。かるがゆへに硫黄が
島とも名付たり。いかづちつねになりあがり【上がり】、なり
くだり、麓には雨しげし。一日片時、人の命たえ【堪へ】
てあるべき様もなし。さる程に、新大納言はすこ
し【少し】くつろぐ【寛ぐ】事もやとおもは【思は】れけるに、子息
P02121
丹波少将成経も、はや鬼界が島へながされ給
ひぬときい【聞い】て、今はさのみつれなく何事をか
期すべきとて、出家の志の候よし、便に付て
小松殿へ申されければ、此由法皇へ伺申て
御免あり【有り】けり。やがて出家し給ひぬ。栄花
の袂を引かへて、浮世をよそに[M 「よその」とあり「の」をミセケチ「に」と傍書]すみぞめ
の袖にぞやつれ給ふ。大納言の北方は、都の
北山雲林院の辺にしのび【忍び】てぞおはしける。
さらぬだに住なれぬ所は物うきに、いとどしの
P02122
ば【忍ば】れければ、過行月日もあかしかね、くらしわづ
らふさまなりけり。女房侍おほかり【多かり】けれども、
或世をおそれ【恐れ】、或人目をつつむほど【程】に、とひと
ぶらふ者一人もなし。され共其中に、源左衛
門尉信俊と云侍一人、情ことにふかかり【深かり】ければ、
つねはとぶらひ【訪ひ】奉る。或時北方、信俊をめ
し【召し】て、「まことや、これには備前のこじまにと聞
えしが、此程きけば有木の別所とかやにおは
す也。いかにもして今一度、はかなき筆のあと【跡】
P02123
をも奉り、御をとづれをもきかばや」とこその
給ひけれ。信俊涙をおさへ【抑へ】申けるは、「幼少より
御憐を蒙て、かた時もはなれまいらせ【参らせ】候はず。
御下りの時も、何共して御供仕うど申候しか
共、六波羅よりゆるさ【許さ】れねば力及候はず。めされ
候[*「候」は「か」とも読める 「候」と傍書]し御声も耳にとどまり、諫られまいらせ【参らせ】し御
詞も肝に銘じて、かた時も忘まいらせ【参らせ】候はず。縦
此身はいかなる目にもあひ候へ、とうとう御ふみ【文】給
はてまいり【参り】候はん」とぞ申ける。北方なのめなら
P02124
ず悦で、やがてかい【書い】てぞたうだりける。おさなき【幼き】
人々も面々に御ふみ【文】あり【有り】。信俊これを給はて、
はるばると備前国有木の別所へ尋下る。[B 先]あ
づかり【預り】の武士難波次郎経遠に案内をいひけ
れば、心ざしの程を感じて、やがて見参にいれ【入れ】
たりけり。大納言入道殿は、只今も都の事
をの給ひ[B い]だし【出し】、歎きしづんでおはしける処に、
「京より信俊がまい【参つ】て候」と申入たりければ、「ゆ
めかや」とて、ききもあへずおきなをり、「是へ
P02125
是へ」とめされければ、信俊まい【参つ】て見奉るに、
まづ御すまひ【住ひ】の心うさもさる事にて、墨染
の御袂を見奉るにぞ、信俊目もくれ心もき
えて覚ける。北方の仰かうむ【蒙つ】し次第、こまごま
と申て、御ふみ【文】とりいだいて奉る。是をあけて
見給へば、水ぐきの跡は涙にかきくれて、そ
こはかとはみえ【見え】ねども、「おさなき【幼き】人々のあまり
に恋かなしみ給ふありさま、我身もつき
せぬもの思にたへ【堪へ】しのぶ【忍ぶ】べうもなし」などかか
P02126
れたれば、日来の恋しさは事の数ならずと
ぞかなしみ給ふ。かくて四五日過ければ、信俊
「これに候て、[B 御]最後の御有さま【有様】見まいらせ【参らせ】ん」と
申ければ、あづかり【預り】の武士難波次郎経遠、か
なう【叶ふ】まじきよし【由】頻に申せば、力及ばで、「さらば
上れ」とこその給ひけれ。「我は近ううしなは【失は】れん
ずらむ。此世になき者ときかば、相構て我後世
とぶらへ」とぞの給ひける。御返事かいてたう
だりければ、信俊これを給て、「又こそ参り候
P02127
はめ」とて、いとま申て出ければ、[B 大納言、]「汝が又こ【来】んたびを
待つくべしともおぼえぬぞ。あまりにしたはし
くおぼゆる【覚ゆる】に、しばししばし」との給ひて、たびたび
よびぞかへさ【返さ】れける。さてもあるべきならねば、
信俊涙をおさへ【抑へ】つつ、都へ帰のぼり【上り】けり。北
方に御ふみ【文】まいらせ【参らせ】たりければ、是をあけて
御覧ずるに、はや出家し給ひたるとおぼしく
て、御ぐし【髪】の一ふさ、ふみのおくにあり【有り】けるを、
ふた目とも見給はず。かたみこそ中々今は
P02128
あたなれとて、ふしまろびてぞなか【泣か】れける。お
さなき【幼き】人々も、声々になきかなしみ給ひけり。
さる程に、大納言入道殿をば、同八月十九日、
備前・備中両国の堺、にはせ[B 「は」に「ワ」と傍書]【庭瀬】の郷吉備の
中山と云所にて、つゐに【遂に】うしなひ【失ひ】奉る。其さひ
ご【最後】の有様、やうやうに聞えけり。酒に毒を入て
すすめたりけれ共、かなは【叶は】ざりければ、岸の二
丈ばかりあり【有り】ける下にひしをうへ【植ゑ】て、うへより
つきおとし【落し】奉れば、ひしにつらぬ【貫ぬ】かてうせ給ひ
P02129
ぬ。無下にうたてき事共也。ためし【例】すくなうぞおぼ
えける。大納言[B の]北方は、此世になき人と聞たま
ひて、「いかにもして今一度、かはらぬすがたを見も
し、見えんとてこそ、けふまでさまをもかへざり
つれ。今は何にかはせん」とて、菩提院と云寺に
おはし、さまをかへ、かたのごとく[B の]仏事をいとなみ、
後世をぞとぶらひ【弔ひ】給ひける。此北方と申は、
山城守敦方の娘なり。勝たる美人にて、後白河
法皇の御最愛ならびなき御おもひ【思ひ】人にてお
P02130
はしけるを、成親卿ありがたき寵愛の人にて、給
はられたりけるとぞ聞えし。おさなき【幼き】人々も
花を手折、閼伽の水を結んで、父の後世を
とぶらひ【弔ひ】給ふぞ哀なる。さる程に[B 「さる程」に「かくて」と傍書]時うつり
事さて、世のかはりゆくありさまは、ただ天人の五
  『徳大寺之沙汰』S0211
衰にことならず。○ここに徳大寺の大納言実
定卿は、平家の次男宗盛卿に大将をこえられ
て、しばらく寵居し給へり。出家せんとの給へ【宣へ】ば、
諸大夫侍共[M 「諸大夫侍共」をミセケチ、左に「御内の上下」と傍書]、いかがせんと歎あへり。其中に藤蔵
P02131
人[B 大夫]重兼と云諸大夫あり【有り】。諸事に心えたる者[M 「人」をミセケチ「者」と傍書]にて[B 有けるが]、
ある月の夜、実定卿南面の御格子あげさせ、
只ひとり月に嘯ておはしける処に、なぐさめ
まいらせ【参らせ】んとやおもひ【思ひ】けん、藤蔵人まいり【参り】
たり。「たそ」[B とのたまへ【宣へ】ば、]「重兼候」。「いかに何事ぞ」との給へ【宣へ】ば、
「今夜は殊に月さえ【冴え】て、よろづ心のすみ候まま
にまい【参つ】て候」とぞ申ける。大納言「神妙にま
い【参つ】たり。余に何とやらん心ぼそうて徒然なる
に」とぞ仰られける。其後何となひ【無い】事共申て
P02132
なぐさめ奉る。大納言の給ひけるは、「倩此世の
中のありさまを見るに、平家の世はいよいよ
さかん【盛】なり。入道相国の嫡子次男、左右の大将
にてあり【有り】。やがて三男知盛、嫡孫維盛もある【有る】ぞ
かし。かれも是も次第にならば、他家の人々、大将
に[M 「を」をミセケチ「に」と傍書]いつあたりつくべし共おぼえ【覚え】ず。さればつゐ
の事也。出家せん」とぞの給ひける。重兼涙
をはらはらとながひ【流い】て申けるは、「君の御出家候
なば、御内の上下皆まどひ者になり[B 候ひ]なんず。
P02133
重兼めづらしい事をこそ案じ出して候へ。喩ば安
芸の厳島をば、平家なのめならずあがめ敬れ
候に、何かはくるしう【苦しう】候べき、彼社へ御まいり【参り】あて、御
祈誓候へかし。七日ばかり御参籠候はば、彼社には
内侍とて、ゆう【優】なる舞姫共おほく【多く】[B 「く」に「う」と傍書]候。めづら
しう思ひまいらせ【参らせ】て、もてなしまいらせ【参らせ】候はん
ずらん。何事の御祈誓に御参籠候やらんと申
候はば、あり【有り】のままに仰候へ。さて御のぼりの時、御
名残おしみ【惜しみ】まいらせ【参らせ】候はんずらん。むねとの内侍共
P02134
をめし【召し】具して、都まで御のぼり候へ。都へのぼり候
なば、西八条へぞ参候はんずらん。徳大寺殿は
何事の御祈誓に厳島へはまいら【参ら】せ給ひたり
けるやらんと尋られ候はば、内侍共あり【有り】のままに
ぞ申候はむずらん。入道相国はことに物めで
し給ふ人にて、わが崇給ふ御神へまい【参つ】て、
祈申されけるこそうれしけれとて、よきやう
なるはからひもあんぬと覚候」と申ければ、
徳大寺殿「これこそおもひ【思ひ】もよらざりつれ。
P02135
ありがたき策かな。やがてまいら【参ら】む」とて、俄に精
進はじめつつ、厳島へぞまいら【参ら】れける。誠に彼
社には内侍とてゆう【優】なる女どもおほかり【多かり】けり。
七日参籠せられけるに、よるひる【夜昼】つきそひ奉
り、もてなす事かぎりなし。七日七夜の間に、舞
楽も三度まであり【有り】けり。琵琶琴ひき、神楽
うたひ【歌ひ】など遊ければ、実定卿も面白事におぼ
しめし【思し召し】、神明法楽のために、いまやう【今様】朗詠うたひ【歌ひ】、
風俗催馬楽など、ありがたき郢曲どもあり【有り】けり。
P02136
内侍共「当社へは平家の公達こそ御まいり【参り】さぶら
ふに、この御まいり【参り】こそめづらしうさぶらへ【候へ】。何事の
御祈誓に御参籠さぶらふ【候ふ】やらん」と申ければ、
「大将を人にこえられたる間、その祈のため也」と
ぞ仰られける。さて七日参籠おはて、大明神に
暇申て都へのぼらせ給ふに、名残ををしみ奉
り、むねとのわかき内侍十余人、舟をしたて【仕立て】て一
日路ををくり【送り】奉る。いとま申けれ共、さりとては
あまりに名ごりのおしき【惜しき】に、今一日路、今二日
P02137
路と仰られて、都までこそ具せられけれ。徳大
寺殿の亭へいれ【入れ】させ給ひて、やうやうにもてなし、
さまざまの御引出物共たうでかへさ【返さ】れけり。内侍
共「これまでのぼる程では、我等がしう【主】の太政入道
殿へ、いかでまいら【参ら】である【有る】べき」とて、西八条へぞ参じ
たる。入道相国いそぎ出あひ給ひて、「いかに内侍共は
何事の列参ぞ」。「徳大寺殿の御まいり【参り】さぶらふて、七
日こもらせ給ひて御のぼりさぶらふ【候ふ】を、一日路をく
り【送り】まいらせ【参らせ】てさぶらへ【候へ】ば、さりとてはあまりに名残の
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おしき【惜しき】に、今一日路二日路と仰られて、是までめし【召し】
ぐせ【具せ】られてさぶらふ【候ふ】」。「徳大寺は何事の祈誓
に厳島まではまいら【参ら】れたりけるやらん」との給
へば、「大将の御祈のためとこそ仰られさぶらひ
しか」。其時入道うちうなづいて、「あないとをし。王
城にさしもたとき霊仏霊社のいくらもまし
ますをさしをいて、我崇奉る御神へまい【参つ】て、
祈申されけるこそ有がたけれ。是ほど心ざし切
ならむ上は」とて、嫡子小松殿内大臣の左大将にて
P02139
ましましけるを辞せさせ奉り、次男宗盛大納
言の右大将にておはしけるをこえさせて、徳大寺
を左大将にぞなされける。あはれ、めでたかりけ
るはかりこと【策】かな。新大納言も、か様【斯様】に賢きはから
ひをばし給はで、よしなき謀反おこいて、我身も
亡、子息所従[*「従」は「徒」とも読める]に至るまで、かかるうき目をみせ【見せ】
  『山門滅亡堂衆合戦』S0212
給ふこそうたてけれ。○さる程に、法皇は三井
寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘
法を伝受せさせましましけるが、大日経・金剛
P02140
頂経・蘇悉地経、此三部の秘法[B 「法」に「経」と傍書]をうけさせ給
ひて、九月四日[B ノヒ]三井寺にて御灌頂あるべしと
ぞ聞えける。山門の大衆憤申、「昔より御灌頂
御受戒、みな当山にしてとげさせまします
事先規也。就中に山王の化導は受戒灌
頂のためなり。しかる【然る】を今三井寺にてとげ
させましまさば、寺を一向焼払ふべしとぞ」
申ける。[B 法皇、]「是無益なり」とて、御加行を結願して、
おぼしめし【思し召し】とどまら【留まら】せ給ひぬ。さりながらも猶
P02141
御本意なればとて、三井寺の公顕僧正をめ
し【召し】具して、天王寺へ御幸なて、五智光院を
たて、亀井の水を五瓶の智水として、仏
法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂はとげさせ
ましましける。山門の騒動をしづめられんが
ために、三井寺にて御灌頂はなかりしか共、山
上には、堂衆学生不快の事いできて、かつ
せん【合戦】度々に及。毎度に学侶うちおとされて、
山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。堂衆
P02142
と申は、学生の所従也ける童部が法師にな
たるや、若は中間法師原にてあり【有り】けるが、[B 一とせ]金剛
寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三
塔に結番して、夏衆と号して、仏に花ま
いらせ【参らせ】し者共也。近年行人とて、大衆をも事
共せざりしが、かく度々の軍[M 「戦」をミセケチ「軍」と傍書]にうちかちぬ。堂衆
等師主の命をそむいて合戦を企。すみやか
に誅罰せらるべきよし、大衆公家に奏聞
し、武家に触うたう【訴ふ】。これによて太政入道院
P02143
宣を承り、紀伊国の住人湯浅権守宗重以
下、畿内の兵二千余騎、大衆にさしそへて堂
衆を攻らる。堂衆日ごろは東陽坊にあり【有り】しが、
近江国三ケ【三箇】の庄に下向して、数多の勢を率
し、又登山して、さう井坂【早尾坂】に城[B 槨]を構[M 「し」をミセケチ「構」と傍書]てたて
ごもる[M 「たてごもり」とあり「り」を非とし「る」と傍書]。同九月廿日[B ノヒ]辰の一点に、大衆三千人、官
軍二千余騎、都合其勢五千余人、さう井坂【早尾坂】
におしよせたり。今度はさり共とおもひ【思ひ】けるに、
大衆は官軍をさきだてんとし、官軍は又大
P02144
衆をさきだて【先立て】んとあらそふ程に、心々にて
はかばかしうもたたかはず。城の内より石弓
はづし【外し】かけたりければ、大衆官軍かずをつく
いてうた【討た】れにけり。堂衆に語らふ悪党と云は、
諸国の窃盜・強盜・山賊・海賊等也。欲心熾盛
にして、死生不知の奴原なれば、我一人と思きて
たたかふ【戦ふ】程に、今度も又学生いくさ【軍】にまけにけ
  『山門滅亡』S0213
り。○其後は山門いよいよ荒はてて、十二禅衆の
ほかは、止住の僧侶も希也。谷々の講演磨滅
P02145
して、堂々の行法も退転す。修学の窓を閉、
坐禅の床をむなしう【空しう】せり。四教五時の春[B ノ]花
もにほはず、三諦即是の秋の月もくもれり。
三百余歳の法燈を挑る人もなく、六時不断の
香の煙もたえ【絶え】やしぬらん。堂舎高くそびへ【聳え】て、
三重の構を青漢の内に挿み、棟梁遥に
秀て、四面の椽を白霧の間にかけたりき。
され共、今は供仏を嶺の嵐にまかせ【任せ】、金容を
紅瀝にうるほす。夜の月灯をかかげて、簷
P02146
のひまよりもり、暁の露珠を垂て、蓮座
の粧をそふとかや。夫末代の俗に至ては、三国の
仏法も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡を
とぶらへば、昔仏の法を説給ひし竹林精舎・給
孤独園も、此比は狐狼野干の栖となて、礎のみ
や残らん。白鷺池には水たえ【絶え】て、草のみふかく
しげれり。退梵下乗の卒都婆も苔のみ
むして傾ぬ。震旦にも天台山・五台山【御台山】・白馬寺・
玉泉寺も、今は住侶なきさまに荒はてて、大小
P02147
乗の法門も箱の底にや朽ぬらん。我朝にも[M 「には」とあり「は」をミセケチ「も」と傍書]、
南都の七大寺荒はてて、八宗九宗も跡たえ【絶え】、
愛宕護・高雄も、昔は堂塔軒をならべたり
しか共、一夜のうちに荒にしかば、天狗の棲と
なりはてぬ。さればにや、さしもやごとなかりつる
天台の仏法も、治承の今に及で、亡はてぬる
にや。心ある人嘆かなしまずと云事なし。離山
しける僧の坊の柱に、歌をぞ一首かい【書い】たりける。
いのりこし我たつ杣のひき【引き】かへて
P02148
人なきみねとなりやはてなむ W009
これは、伝教大師当山草創の昔、阿耨多羅
三藐三菩提[*「藐」は底本は「」]の仏たちにいのり申されける
事をおもひ【思ひ】出て、読たりけるにや。いとやさしう
ぞ聞えし。八日は薬師の日なれ共、南無と唱るこゑ【声】
もせず、卯月は垂跡の月なれ共、幣帛を捧る
人もなし。あけの玉墻かみさびて、しめなは【注連縄】のみや
  『善光寺炎上』S0214
残らん。○其比善光寺炎上の由其聞あり【有り】。彼如
来と申は、昔中天竺舎衛国に五種の悪病
P02149
おこて人庶おほく【多く】亡しに、月蓋長者が致請によ
て、竜宮城より閻浮檀金をえて、釈尊、目蓮
長者、心をひとつ【一つ】にして鋳あらはし給へる一ちや
く手半の弥陀の三尊、閻浮提第一の霊像也。
仏滅度の後、天竺にとどまら【留まら】せ給事五百余歳、
仏法東漸の理にて、百済国にうつらせ給ひて、
一千歳の後、百済の御門斉明王【*聖明王】、吾朝の御門
欽明天皇の御宇に及で、彼国よりこの【此の】国へうつ
らせ給ひて、摂津国難波の浦にして星霜を
P02150
をくら【送ら】せ給ひけり。つねは金色の光をはなたせ
ましましければ、これによて年号を金光と号す。
同三年三月上旬に、信濃国の住人おうみ【麻績】の本
太善光と云者、都へのぼりたりけるが、彼如来に
逢奉りたりけるに、やがていざなひまいらせ【参らせ】て、ひ
るは善光、如来ををい【負ひ】奉り、夜は善光、如来
におはれたてま【奉つ】て、信濃国へ下り、みのち【水内】の郡[* 「都」と有るのを他本により訂正]
に安置したてま【奉つ】しよりこのかた、星霜既に
五百八十余歳、炎上の例はこれはじめとぞ承
P02151
る。「王法つきんとては仏法まづ亡ず」といへり。さ
ればにや、「さしもやごとなかりつる霊寺霊山の
おほく【多く】ほろびうせぬるは、平家[M 「平家」をミセケチ「王法」と傍書]の末になり
  『康頼祝言』S0215
ぬる先表やらん」とぞ申ける。○さるほど【程】に、
鬼界が島の流人共、露の命草葉のす
ゑにかかて、おしむ【惜しむ】べきとにはあらね共、丹波
少将のしうと平宰相の領、肥前国鹿瀬庄
より、衣食を常にをくら【送ら】れければ、それにて
ぞ俊寛僧都も康頼も、命をいきて過しける。
P02152
康頼はながされける時、周防室づみ【室積】にて出家
してげれば、法名は性照とこそついたりけれ。
出家はもとよりの望なりければ、
つゐに【遂に】かくそむきはてける世間を
とく捨ざりしことぞくやしき W010
丹波少将・康頼入道は、もとより熊野信じの
人々なれば、「いかにもして此島のうちに」熊野の
三所権現を勧請し奉て、帰洛の事を祈
申さばやと云に、俊寛僧都は天姓【*天性】不信第一
P02153
の人にて、是をもちい【用】ず。二人はおなじ心に、もし熊
野に似たる所やあると、島のうちを尋まはる
に、或林塘の妙なるあり【有り】、紅錦繍の粧しな
じなに、或雲嶺のあやしきあり【有り】、碧羅綾の色一
にあらず。山のけしき【景色】、木のこだちに至るまで、外
よりもなを【猶】勝たり。南を望めば、海漫々として、
雲の波煙の浪ふかく、北をかへり見れば、又山岳
の峨々たるより、百尺の滝水[M 「レウスイ」とあり「レ」をミセケチ「リ」と傍書]漲落たり。滝の
音ことにすさまじく、松風神さびたるすまひ【住ひ】、
P02154
飛滝権現のおはします那智のお山にさに【似】た
りけり。さてこそやがてそこをば、那智のお山と
は名づけけれ。此峯は本宮、かれは新宮、是は
そんぢやう其王子、彼王子など、王子王子の名を
申て、康頼入道先達にて、丹波少将相ぐしつ
つ、日ごとに熊野まうでのまねをして、帰洛の
事をぞ祈ける。「南無権現金剛童子、ねが
は【願は】くは憐みをたれさせおはしまして、古郷へ
かへし入させ給ひて[M 「給へ」とあり「へ」をミセケチ「ひて」と傍書]妻子[M 共]をも今一度みせ【見せ】給
P02155
へ」とぞ祈ける。日数つもり【積り】てたちかふ【裁替】べき浄
衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢
辺の水をこりにかいては、岩田河のきよき
流とおもひ【思ひ】やり、高き所にのぼ【上つ】[B 「のほ」に「上」と傍書]ては、発心
門とぞ観じける。まいる【参る】たびごとには、康頼
入道のと【祝言】を申に、御幣紙もなかれ【*なけれ】ば、花を
手折てささげつつ、
維あたれる歳次、治承元年丁酉、月のなら
び十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉日良
P02156
辰を択で、かけまくも忝く、日本第一大領験、熊
野三所権現、飛滝大薩■の教りやう【教令】、宇
豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原
成経、并に沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三
業相応の志を抽て、謹でもて敬白。夫証誠
大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚
王也。或東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除
の如来也。或南方補堕落能化の主、入重玄
門の大士。若王子は娑婆世界の本主、施無
P02157
畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願を
みて給へり。是によて、かみ【上】一人よりしも【下】万民
に至るまで、或現世安穏のため、或後生善
処のために、朝には浄水を結で煩悩のあか【垢】を
すすぎ、夕には深山に向て宝号を唱るに、感応
おこたる事なし。峨々たる嶺のたかきをば、神徳
のたかきに喩へ、嶮々たる谷のふかきをば、弘
誓のふかきに准へて、雲を分てのぼり、露をし
のいで下る。爰に利益の地をたのま【頼ま】ずむば、
P02158
いかんが歩を嶮難の路にはこばん。権現の徳をあ
ふがずんば、何必しも幽遠の境にましまさむ。仍
証誠大権現、飛滝大薩■、青蓮慈悲の眸を
相ならべ、さをしか【小牡鹿】の御耳をふりたてて、我等が無二の
丹城を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然
則、むすぶ【結】・はや玉【早玉】の両所権現、おのおの機に随
て、有縁の衆生をみちびき、無縁の群類を
すくはんがために、七宝荘厳のすみか【栖】をすてて、
八万四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ
P02159
給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿の
礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠を捧る事ひ
まなし。忍辱の衣を重、覚道の花を捧て、神
殿の床を動し、信心の水をすまして、利生の池を
湛たり。神明納受し給はば、所願なんぞ成就せざ
らん。仰願は、十二所権現、利生の翅を並て、遥
に苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、帰
洛の本懐をとげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼の
  『卒都婆流』S0216
と【祝詞】をば申ける。○丹波少将・康頼入道、つねは三所
P02160
権現の御前にまい【参つ】て、通夜するおり【折】もありけり。
或時二人通夜して、夜もすがらいまやう【今様】をぞ
うたひ【歌ひ】ける。暁がたに、康頼入道ちとまどろみ
たる夢に、おきより白い帆かけたる小船を一
艘こぎよせて、舟のうちより紅の袴きたる
女房達二三十人あがり【上がり】、皷をうち、こゑ【声】を調て、
よろづの仏の願よりも千手の誓ぞたのも
しき【頼もしき】枯たる草木【くさき】も忽に花さき実なるとこ
そきけ K013 I と、三べんうたひ【歌ひ】すまし【澄まし】て、かきけつ【消つ】
P02161
やうにぞうせにける。夢さめて後、奇異の思
をなし、康頼入道申けるは、「是は竜神の化現
とおぼえたり。三所権現のうちに、西の御前
と申は、本地千手観音にておはします。竜
神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて
御納受こそたのもしけれ【頼もしけれ】」。又或夜二人通夜
して、おなじうまどろみたりける夢に、おき
より吹くる風の、二人が袂に木の葉をふたつ【二つ】
ふきかけたりけるを、何となうと【取つ】て見ければ、
P02162
御熊野の南木の葉にてぞ有ける。彼二の南
木の葉に、一首の歌を虫くひにこそしたりけれ。
千はやふる神にいのりのしるけれ[M 「しげけれ」とあり「げけ」をミセケチ「るけ」と傍書]ば
などか都へ帰らざるべき W011
康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのはかりこと【策】
に、千本の卒都婆を作り、■字の梵字・年
号・月日、仮名実名、二首の歌をぞかいたりけり【*ける】。
さつまがたおきのこじまに我あり【有り】と
おやにはつげよやへ【八重】のしほかぜ W012
P02163
おもひ【思ひ】やれしばしとおもふ【思ふ】旅だにも
なを【猶】ふるさとはこひしきものを W013
是を浦にも[B ッ]て出て、「南無帰命頂礼、梵天帝
尺、四大天王、けんらふ【堅牢】地神、[B 王城ノ]鎮守諸大明神、殊
には熊野権現、厳島大明神、せめては一本成共
都へ伝てたべ」とて、奥津しら浪【白浪】のよせてはかへ
るたびごとに、卒都婆を海にぞ浮べける。卒
都婆を作り出すに随て、海に入ければ、日数つ
もれば卒都婆のかずもつもり【積り】、そのおもふ【思ふ】心や
P02164
便の風ともなりたりけむ、又神明仏陀もやを
くら【送ら】せ給ひけむ、千本の卒都婆のなかに一本、
安芸国厳島の大明神の御まへの渚にうち
あげたり。康頼がゆかりあり【有り】ける僧、しかる【然る】べ
き便もあらば、いかにもして彼島へわたて、[M 其]
其 行ゑ【行方】をきかむとて、西国修行に出たりけるが
[M が]、先厳島へぞまいり【参り】たりける。爰に宮人と
おぼしくて、狩衣装束なる俗一人いで【出で】きたり。
此僧何となき物語しけるに、「夫、和光同塵の
P02165
利生さまざまなりと申せども、いかなりける因縁
をもて、此御神は海漫の鱗に縁をむすばせ給
ふらん」ととひ奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑
竭羅竜王の第三の姫宮、胎蔵界の垂跡
也」。此島に御影向あり【有り】し初より、済度利生の
今に至るまで、甚深奇特の事共をぞかたり
ける。さればにや、八社の御殿甍をならべ、社はわ
だづみのほとりなれば、塩のみちひに月[M こ]
ぞ[M 「こそ」の「こ」をミセケチ]すむ。しほみちくれば、大鳥居あけ【朱】の玉
P02166
墻瑠璃の如し。塩引ぬれば、夏の夜なれど、御
まへのしら州に霜ぞをく【置く】。いよいよたとく【尊く】おぼえ【覚え】
て、法施まいらせ【参らせ】て居たりけるに、やうやう日く
れ、月さし出て、塩のみちけるが、そこはかと
なき藻くづ共のゆられよりけるなかに、卒
都婆のかたのみえ【見え】けるを、何となうとて見ければ、
奥のこじまに我あり【有り】と、かきながせることのは也。
文字をばゑり入きざみ付たりければ、浪に
もあらは【洗は】れず、あざあざとしてぞみえ【見え】たりける。「あ
P02167
なふしぎ【不思議】」とて、これを取て笈のかた【肩】にさし、都への
ぼり、康頼が老母の尼公妻子共が、一条の北、紫
野と云所に忍つつすみけるに、見せたり
ければ、「さらば、此卒都婆がもろこしのかたへもゆ
られゆかで、なにしにこれまでつたひ来て、今
更物をおもは【思は】すらん」とぞかなしみける。遥の
叡聞に及で、法皇これを御覧じて、「あなむざん
や。さればいままで此者共は、命のいきてあるに
こそ」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。小松の
P02168
おとどのもとへをくら【送ら】せ給ひたりければ、是
を父の入道相国に見せ奉り給ふ。柿本人
丸は島がくれゆく【島隠れ行く】船をおもひ【思ひ】、山辺の赤人は
あしべのたづをながめ給ふ。住吉の明神はかた
そぎの思をなし、三輪の明神は杉たてる門
をさす。昔素盞烏尊、三十一字のやまと
うたをはじめをき給ひしよりこのかた、もろもろ
の神明仏陀も、彼詠吟をもて百千万端の
思ひをのべ給ふ。入道も石木ならねば、さすが
P02169
  『蘇武』S0217
哀げにぞの給ひける。○入道相国のあはれみた
まふうへは、京中の上下、老たるもわかきも、鬼界
が[M 「かの」とあり「の」をミセケチ]島の流人の歌とて、口ずさまぬはなかり
けり。さても千本まで作りたりける卒都
婆なれば、さこそはちいさう【小さう】もあり【有り】けめ、薩摩潟
よりはるばると都までつたはりけるこそふし
ぎ【不思議】なれ。あまりにおもふ【思ふ】事はかくしるし【徴】あるにや。
いにしへ漢王胡国を攻られけるに、はじめは李少
卿を大将軍にて、三十万騎むけられたりけるが、
P02170
漢王のいくさ【軍】よはく【弱く】、胡国のたたかひ【戦ひ】こはくして、
官軍みなうちほろぼさる。剰大将軍李少卿、
胡王のためにいけどら【生捕ら】る。次に蘇武を大将軍に
て、五十万騎をむけらる。猶漢のいくさ【軍】よはく【弱く】、
えびすのたたかひ【戦ひ】こはくして、官軍皆亡にけり。
兵六千余人[M 「六十」の「十」を非とし「千」と傍書]いけどら【生捕ら】る。その【其の】なか【中】に、大将軍蘇
武をはじめとして、宗との兵六百三十余人すぐり
出して、一々にかた足をきてお【追つ】ぱなつ【放つ】。則死する
者もあり【有り】、程へて死ぬる者もあり【有り】。其なかにされ共
P02171
蘇武はしなざりけり。かた足なき身となて、山に
のぼ【上つ】ては木の実をひろひ、春は沢の根芹を
摘、秋は田づら【田面】のおち穂【落ち穂】ひろひ【拾ひ】などしてぞ、露
の命を過しける。田にいくらもあり【有り】ける鴈ども、
蘇武に見なれ【馴れ】ておそれ【恐れ】ざりければ、これはみな
我古郷へかよふものぞかしとなつかしさ【懐しさ】に、おもふ【思ふ】
事を一筆かいて、「相かまへて是漢王に奉れ」と
云ふくめ、鴈の翅にむすび付てぞはなち【放ち】け
る。かひがひしくもたのむ【田面】の鴈、秋は必こし地【越路】より
P02172
都へ来るものなれば、漢昭帝上林苑に御遊
あり【有り】しに、夕ざれの空薄ぐもり、何となう物
哀なりけるおりふし【折節】、一行の鴈とびわたる。その
中に鴈一とびさがて、をの【己】が翅に結付たる玉
章をくひきてぞおとし【落し】ける。官人是をとて、御
門に奉る。披て叡覧あれば、「昔は巌崛の洞に
こめられて、三春の愁歎ををくり【送り】、今は曠田の
畝に捨られて、胡敵の一足となれり。設かばね
は胡の地にちらす[B 「地ら」の左に「散」と傍書]と云共、魂は二たび【二度】君辺
P02173
につかへん」とぞかいたりける。それよりしてぞ、
ふみをば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。
「あなむざんや、蘇武がほまれの跡なりけり。いま
だ胡国にあるにこそ」とて、今度は李広と云
将軍に仰て、百万騎をさしつかはす【遣す】。今度は
漢の戦こはく[B 「はく」に「強」と傍書]して、胡国のいくさ【軍】破にけり。
御方たたかひ【戦ひ】かちぬと聞えしかば、蘇武は曠野の
なかよりはい【這ひ】出て、「是こそいにしへの蘇武よ」
とぞなのる【名乗る】。十九年の星霜を送て、かた足は
P02174
きられながら、輿にかかれて古郷へぞ帰りける。
蘇武は十六の歳、胡国へむけられけるに、御門
より給りたりける旗を、何としてかかくした
りけん、身をはなたずも【持つ】たりけり。今取出
して御門のげむざん【見参】にいれ【入れ】たりければ、き
みも臣も感嘆なのめならず。君のため大
功ならびなかりしかば、大国あまた給はり、其
上天俗国[B 「天俗」に「典属」と傍書]と云司を下されけるとぞ聞え
し。李少卿は胡国にとどま【留まつ】て終に帰らず。い
P02175
かにもして、漢朝へ帰らんとのみなげけども、胡
王ゆるさねばかなは【叶は】ず。漢王これをしり給
はず。君のため不忠のものなりとて、はか
なく【果敢く】なれる二親が死骸をほりおこい【起い】てうた【打た】
せらる。其外六親をみなつみせらる。李少卿
是を伝きい【聞い】て、恨ふかう【深う】ぞなりにける。さり
ながらも猶古郷を恋つつ、君に不忠なき様
を一巻の書に作てまいらせ【参らせ】たりければ、「さ
ては不便の事ごさんなれ」とて、父母がかばね
P02176
を堀【*掘】いだいてうたせられたる事をぞ、くやし
み給ひける。漢家の蘇武は書を鴈の
翅につけ【付け】て旧里へ送り、本朝の康頼は浪の
たよりに歌を故郷に伝ふ。かれは一筆のすさみ、
これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡国
鬼界が島、さかひをへだて、世々はかはれ共、風
情はおなじふぜい、ありがたかりし事ども也。

平家物語巻第二
P02177

平家物語 高野本 巻第三

【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家 三
P03001
平家三之巻 目録
赦文     足摺
御産     公卿揃
大塔建立   頼豪
少将都帰   有王 僧都死去
辻風     医師問答
無文     燈炉之沙汰
金渡     法印問答
大臣流罪   行隆沙汰
P03002
法皇被流   城南離宮
P03003
平家物語巻第三
『赦文』S0301
○治承二年正月一日[B ノヒ]、院御所には拝礼おこなは【行なは】
れて、四日[B ノヒ]朝覲の行幸有けり。O[BH 何事も]例にかはりたる
事はなけれ共、去年の夏新大納言成親卿以下、
近習の人々多くうしなは【失は】れし事、法皇御憤
いまだやまず、世の政も物うくおぼしめさ【思し召さ】れて、御
心よからぬことにてぞ有ける。太政入道も、多田蔵
人行綱が告しらせて後は、君をも御うしろめたき
事に思ひ奉て、うへには事なき様なれ共、下には
P03004
用心して、にがわらひ【苦笑ひ】てのみぞあり【有り】ける。同正月七日[B ノヒ]、
彗星東方にいづ。蚩尤気とも申。又赤気共
申。十八日光をます。去程に、入道相国の御むす
め建礼門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、
御悩とて、雲のうへ【上】天が下の歎きにてぞ有け
る。諸寺に御読経始まり、諸社へ官幣使を立らる。
医家薬をつくし、陰陽術をきはめ、大法秘
法一[B ツ]として残る処なう修せられけり。されども【共】、
御悩ただにもわたら【渡ら】せ給はず、御懐妊とぞ聞えし。
P03005
主上今年十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれ共、
いまだ皇子も姫宮も出きさせ給はず。もし皇
子にてわたらせ給はばいかに目出たからんとて、平家
の人々はただ今皇子御誕生のある様に、いさみ悦
びあはれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌おり【折】
をえたり。皇子御誕生疑なし」とぞ申あはれける。
御懐妊さだまら【定まら】せ給しかば、有験の高僧貴僧
に仰せて、大法秘法を修し、星宿仏菩薩につけ
て、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日[B ノヒ]、中宮
P03006
御着帯あり【有り】けり。仁和寺の御室守覚法親王、
御参内あて、孔雀経の法をもて御加持あり【有り】。天
台座主覚快法親王、おなじうまいら【参ら】せ給て、変
成男子の法を修せらる。かかりし程に、中宮は
月のかさなるに随て、御身をくるしう【苦しう】せさせ給ふ。
一たびゑめば百の媚あり【有り】けん漢の李夫人の、承
陽殿【*昭陽殿】の病のゆか【床】もかくやとおぼえ、唐の楊貴妃、
李花一枝春の雨ををび【帯び】、芙蓉の風にしほれ【萎れ】、女
郎花の露おもげなるよりも、猶いたはしき御さま
P03007
なり。かかる御悩の折節にあはせ【合はせ】て、こはき御物気共、
取いり奉る。よりまし明王の縛にかけて、霊あら
はれ【現はれ】たり。殊には讃岐院の御霊、宇治悪左府の
憶念、新大納言成親卿の死霊、西光法師が悪霊、
鬼界が島の流人共が生霊などぞ申ける。是に
よ[B ッ]て、太政入道生霊も死霊もなだめ【宥め】らるべしと
て、其比やがて讃岐院御追号あて、崇徳天皇と
号す。宇治悪左府、贈官贈位おこなは【行なは】れて、太政大
臣正一位ををくら【送ら】る。勅使は少内記維基とぞ
P03008
聞えし。件の墓所は大和国そうのかん[* 「そう」に「添」、「かん」に「上」と振り漢字]の郡、川上の
村、般若野の五三昧也。保元の秋ほり【掘り】おこし【起こし】て捨
られし後は、死骸路の辺の土となて、年々にただ
春の草のみ茂れり。今勅使尋来て宣命を
読けるに、亡魂いかにうれしとおぼしけん。怨霊は
昔もかくおそろしき【恐ろしき】こと也。されば早良廃太子
をば崇道天皇と号し、井上の内親王をば皇后
の職位にふくす。是みな怨霊を寛【*宥】められしはかり
こと也。冷泉院の御物ぐるはしうましまし、花山の
P03009
法皇の十禅万乗の帝位をすべらせ給しは、基方
民部卿が霊なり[M 「とかや」をミセケチ「なり」と傍書]。三条院の御目も御覧ぜざりしは、
観算供奉が霊とかや[M 「也」をミセケチ「とかや」と傍書]。門脇宰相か様【斯様】の事共伝へ
きい【聞い】て、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈さま
ざまに候也。なにと申候共、非常の赦に過たる
事あるべしともおぼえ候はず。中にも、鬼界が島
の流人共めし【召し】かへさ【返さ】れたらんほどの功徳善根、争か
候べき」と申されければ、小松殿父の禅門の御まへに
おはして、「あの丹波少将が事を、宰相のあながちに
P03010
歎申候が不便に候。中宮御悩の御こと、承及ごとくんば、殊更
成親卿が死霊など聞え候。大納言が死霊をなだ
め【宥め】んとおぼしめさ【思し召さ】んにつけても、生て候少将をこそ
めし【召し】かへさ【返さ】れ候はめ。人のおもひ【思ひ】をやめさせ給はば、おぼ
しめす【思し召す】事もかなひ【叶ひ】、人の願ひをかなへ【適へ】させ給はば、
御願もすなはち成就して、中宮やがて皇子御
誕生あ[B ッ]て、家門の栄花弥さかん【盛】に候べし」など
申されければ、入道相国、日ごろ【日比】にもに【似】ず事の外
にやはらひ【和らい】で、「さてさて、俊寛と康頼法師が事は
P03011
いかに」。「それもおなじうめし【召し】こそかへさ【返さ】れ候はめ。若一
人も留められんは、中々罪業たるべう候」と申さ
れければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊
寛は随分入道が口入をも[B ッ]て人となたる物ぞかし。そ
れに所しもこそ多けれ、わが山庄鹿の谷に城
郭をかまへて、事にふれて奇怪のふるまひ【振舞】共が
有けんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞの給
ける。小松殿かへ[B ッ]【帰つ】て、叔父の宰相殿よび奉り、「少将は
すでに赦免候はんずるぞ。御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ
P03012
候へ」とのたまへば、宰相手をあはせ【合はせ】てぞ悦れける。
「下りし時も、などか申うけ【請け】ざらんと思ひたりげにて、
教盛を見候度ごとには涙をながし候しが不便に候」
と申されければ、小松殿「まこと【誠】にさこそおぼしめさ【思し召さ】れ
候らめ。子は誰とてもかなしければ、能々申候はん」
とて入給ぬ。去程に、鬼界が島の流人共めし【召し】かへさ【返さ】る
べき事さだめ【定め】られて、入道相国ゆるし文【赦文】下されけ
り。御使すでに都をたつ。宰相あまりのうれし
さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。よるを
P03013
昼にしていそぎ下れとありしか共、心にまかせぬ海
路なれば、浪風をしのいで行程に、都をば七月下旬に
出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には着にける。
『足摺』S0302
○御使は丹左衛門尉基康といふ者也。舟よりあが【上がつ】て、
「是に都よりながされ給ひし丹波少将殿、[M 法勝
寺執行御房、]平判官入道殿やおはする」と、声々
にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野まうでして
なかりけり。俊寛僧都一人のこ【残つ】たりけるが、是を聞、
「あまりに思へば夢やらん。又天魔波旬の我心をた
P03014
ぶらかさんとていふやらん。うつつ共覚ぬ物かな」と
て、あはて【慌て】ふためき、はしる【走る】ともなく、たをるる【倒るる】共な
く、いそぎ御使のまへに走むかひ【向ひ】、「何事ぞ。是こそ
京よりながされたる俊寛よ」と名乗給へば、雑色が
頸にかけ【懸け】させたる文袋より、入道相国のゆるし文【赦文】
取出いて奉る。ひらいてみれ【見れ】ば、「重科は遠流に
めんず【免ず】。はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御
産の御祈によ[B ッ]て、非常の赦おこなは【行なは】る。然間鬼
界が島の流人、少将成経、康頼法師赦免」とばかり
P03015
かか【書か】れて、俊寛と云文字はなし。らいし【礼紙】にぞあるらん
とて、礼紙をみる【見る】にも見えず。奥よりはし【端】へよみ、
端より奥へ読けれ共、二人とばかりかか【書か】れて、三人
とはかかれず。さる程に、少将や判官入道も出きたり。
少将のと【取つ】てよむにも、康頼入道が読けるにも、二人
とばかりかか【書か】れて三人とはかかれざりけり。夢にこそ
かかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ
也。うつつかと思へば又夢のごとし【如し】。其うへ二人の人々
のもとへは、都よりことづけ文【言付文】共いくらもあり【有り】けれ
P03016
共、俊寛僧都のもとへは、事とふ文一もなし。されば
わがゆかりの物どもは、宮このうちにあとをとど
めず成にけりと、おもひやるにもしのびがたし。「抑
われら【我等】三人は罪もおなじ罪、配所も一所也。いかなれ
ば赦免の時、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れて、一人ここに残るべ
き。平家の思ひわすれかや、執筆のあやまりか。
こはいかにしつる事共ぞや」と、天にあふぎ地に臥
て、泣かなしめ共かひぞなき。少将の袂にすがて、
「俊寛がかく成といふも、御へんの父、故大納言殿
P03017
よしなき謀反ゆへ【故】也。さればよその事とおぼすべ
からず。ゆるされ【許され】なければ、都までこそかなは【叶は】ず[M と云]
共、此舟にのせ【乗せ】て、九国の地へつけO[BH て]給べ。をのをの【各々】の是
におはしつる程こそ、春はつばくらめ、秋は田のも[M 「田のむ」とあり「む」をミセケチ「も」と傍書]【田面】の
鴈の音づるる様に、をのづから古郷の事をも
伝へきい【聞い】つれ。今より後、何としてかは聞べき」と
て、もだえ【悶え】こがれ給ひけり。少将「まこと【誠】にさこそは
おぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。我等がめし【召し】かへさ【返さ】るるうれし
さは、さる事なれ共、御有様を見をき奉るに、
P03018
[B さらに]行べき空も覚ず。うちのせ【乗せ】たてま[B ッ]【奉つ】ても上り
たう候が、都の御使もかなふ【叶ふ】まじき由申うへ【上】、ゆる
されもないに、三人ながら島を出たりなど聞えば、
中々あしう【悪しう】候なん。成経まづ罷のぼ[B ッ]【上つ】て、人々にも
申あはせ【合はせ】、入道相国の気色をもうかがう【伺う】て、むかへに
人を奉らん。其間は、此日ごろ【日比】おはしつる様に
おもひ【思ひ】なして待給へ。何としても命は大切の事
なれば、今度こそもれ【漏れ】させ給ふ共、つゐに【遂に】はなどか
赦免なうて候べき」となぐさめたまへ共、人目もし
P03019
ら【知ら】ず泣もだえ【悶え】けり。既に船出すべしとてひしめき
あへば、僧都の[B ッ]【乗つ】てはおりつ、おり【降り】てはの【乗つ】つ、あらまし
事をぞし給ひける。少将の形見にはよるの衾、
康頼入道が形見には一部の法花経をぞとどめ【留め】
ける。ともづなとい【解い】てをし出せば、僧都綱に取つき、
腰になり、脇になり、たけの立まではひか【引か】れて
出、たけも及ばず成ければ、舟に取つき、「さていか
にをのをの【各々】、俊寛をば遂に捨はて給ふか。是程とこそ
おもはざりつれ。日比の情も今は何ならず。ただ理を
P03020
まげてのせ【乗せ】給へ。せめては九国の地まで」とくど
か【口説か】れけれ共、都の御使「いかにもかなひ【叶ひ】候まじ」とて、
取つき給へる手を引のけて、船をばつゐに【遂に】漕
出す。僧都せん方なさに、渚にあがりたふれ【倒れ】ふし、
おさなき【幼き】者のめのとや母などをしたふやうに、足
ずりをして、「是のせ【乗せ】てゆけ、具してゆけ」と、おめき【喚き】
さけべ【叫べ】共、漕行舟の習にて、跡はしら浪【白浪】ばかり也。
いまだ遠からぬ舟なれ共、涙に暮て見えざりけ
れば、僧都たかき【高き】所に走あがり【上がり】、澳の方をぞま
P03021
ねきける。彼松浦さよ姫【松浦佐用姫】がもろこし舟をしたひ
つつ、ひれ【領布】ふりけんも、是には過じとぞみえ【見え】し。舟も
漕かくれ、日も暮れ共、あやしのふしど【臥処】へも帰らず。
浪に足うちあらはせて、露にしほれ【萎れ】て、其夜は
そこにぞあかされける。さり共少将はなさけ【情】ふかき
人なれば、よき様に申す事もあらんずらん
と憑をかけ、その瀬に身をもなげざりける心の
程こそはかなけれ。昔壮里【*早離】・息里【*速離】が海岳山[B 「岳」に「巌」と傍書]へはな
『御産』S0303
たれけんかなしみも、今こそ思ひしられけれ。○去
P03022
程に、此人々は鬼界が島を出て、平宰相の領、肥
前国鹿瀬庄に着給ふ。宰相、京より人を下して、
「年の内は浪風はげしう、道の間もおぼつかなう
候に、それにて能々身いたは[B ッ]て、春にな[B ッ]て上り給へ」
とあり【有り】ければ、少将鹿瀬庄にて、年を暮す。さる
程に、同年の十一月十二日[B ノ]寅剋より、中宮御産
の気ましますとて、京中六波羅ひしめきあへ
り。御産所は六波羅池殿にて有けるに、法皇も
御幸なる。関白殿を始め奉て、太政大臣以下の
P03023
公卿殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階に
のぞみをかけ、所帯・所職を帯する程の人の、一
人ももるる【洩るる】はなかりけり。先例O[BH も]女御后御産の時に
のぞんで、大赦おこなは【行なは】るる事あり【有り】。大治二年九
月十一日、待賢門院御産の時、大赦あり【有り】き。其例
とて、今度も重科の輩おほく【多く】ゆるさ【許さ】れける中
に、俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
御産平安、王子御誕生ましまさば[M 「平安にあるならば」とあり「にあるならば」をミセケチ「王子御誕生ましまさば」と傍書]、八幡・平野・大原野などへ
行啓なるべしと、御立願有けり。仙源【*全玄】法印是を
P03024
敬白す。神社は太神宮を始奉て廿余ケ所、仏寺は
東大寺・興福寺以下十六ケ所に御誦経あり【有り】。御
誦経の御使は、宮の侍の中に有官の[M 侍]輩是を
つとむ。ひやうもん【平文】の狩衣に帯剣したる者共が、色
色の御誦経物、御剣御衣を持つづいて、東の台よ
り南庭をわた[B ッ]【渡つ】て、西の中門にいづ。目出たかりし
見物也。小松のおとど【大臣】は、例の善悪にさはが【騒が】ぬ人にて
おはしければ、其後遥に程へて、嫡子権亮少将
以下公達の車共みなやり【遣り】つづけさせ、色々の御衣
P03025
四十領、銀剣七[B ツ]、広ぶたにをか【置か】せ、御馬十二疋ひか【牽か】せ
てまいり【参り】給ふ。O[BH 是は]寛弘に上東門院御産の時、御堂殿
御馬をまいらせ【参らせ】られし其例とぞ聞えし。このお
とど【大臣】は、中宮の御せうと【兄】にておはしけるうへ【上】、父子の
御契なれば、御馬まいらせ【参らせ】給ふもことはり【理】也。五条
大納言国綱【*邦綱】卿、御馬二疋進ぜらる。「心ざしのいたりか、
徳のあまりか」とぞ人申ける。なを【猶】伊勢より始
て、安芸の厳島にいたるまで、七十余ケ所へ神馬を、
立らる。内裏[M 「大内」をミセケチ「内裏」と傍書]にも、竜【*寮】の御馬に四手つけて、数十疋
P03026
ひ【引つ】たて【立て】たり。仁和寺[B ノ]御室は孔雀経の法、天台座
主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円
慶【*円恵】法親王は金剛童子の法、其外五大虚空蔵・
六観音、一字金輪・O[BH 五壇の法、六字加輪・]八字文殊、普賢延命にいたる
まで、残る処なう修せられけり。護摩の煙御所
中にみち、鈴の音雲をひびかし、修法の声身
の毛よだて、いかなる御物の気なり共、面をむかふ【向ふ】
べしとも見えざりけり。猶仏所の法印に仰て、
御身等身の七仏薬師、并に五大尊の像を
P03027
つくり始めらる。かかりしか共、中宮はひまなく
しきらせ給ふばかりにて、御産もとみに成やら
ず。入道相国・二位殿、胸に手ををい【置い】て、「こはいかにせん、
いかにせん」とぞあきれ給ふ。人の物申けれ共、ただ「とも
かうも能様に、能様に」とぞの給ける。「さり共いくさ【軍】の陣
ならば、是程浄海は臆せじ物を」とぞ、後には仰られ[B 「仰られ」に「のたまひ」と傍書]
ける。御験者は、房覚・性雲【*昌雲】両僧正、春尭【*俊堯】法印、豪禅・
実専【*実全】両僧都、をのをの【各々】僧加【*僧伽】の句共あげ、本寺本山の
三宝、年来所持の本尊達、責ふせ【伏せ】責ふせ【伏せ】もま【揉ま】れ
P03028
けり。誠にさこそはと覚えてたとかりける中に、
法皇は折しも、新熊野へ御幸なるべきにて、御
精進の次でなりける間、錦帳ちかく【近く】御座あて、
千手経をうちあげ【上げ】うちあげ【上げ】あそばさ【遊ばさ】れけるにこそ、今
一きは事かは【変つ】て、さしも踊りくるふ御よりまし共
が縛も、しばらくうちしづめ【鎮め】けれ。法皇仰なりけるは、
「いかなる御物気なり共、この老法師がかくて候はん
には、争かちかづき【近付き】奉るべき。就中[M に]今あらはるる
処の怨霊共は、みなわが朝恩によ[B ]て人とな[B ]し物共
P03029
ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜず共、豈障碍[*底本 石ヘン無し]を
なすべきや。速にまかり【罷り】退き候へ」とて「女人生産し
がたからん時にのぞんで、邪魔遮生し、苦忍がた
からんにも、心をいたして大悲呪を称誦せば、鬼神
退散して、安楽に生ぜん」とあそばい【遊ばい】て、皆水精【水晶】の
御数珠をし【押し】もませ給へば、御産平安のみならず、
皇子にてこそましましけれ。頭中将重衡、其時は
いまだ中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと
出て、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と、たからかに
P03030
申されければ、法皇を始まいらせ【参らせ】て、関白殿以下の
大臣、公卿殿上人、をのをの【各々】の助修、数輩の御験者、陰
陽頭・典薬頭、すべて堂上堂下一同にあ[B ッ]と悦あへる
声、門外までどよみて、しばし【暫し】はしづまり【静まり】やらざりけり。
入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞなか【泣か】れ
ける。悦なき【悦び泣き】とは是をいふべきにや。小松殿、中宮
の御方にまいらせ【参らせ】給ひて、金銭九十九文、皇子の
御枕にをき、「天をもてO[BH は]父とし、地をもて[B は]母とさだ
め給へ。御命は方士東方朔が齢をたもち【保ち】、御心には
P03031
天照大神入かはらせ給へ」とて、桑の弓・蓬の矢にて、
『公卿揃』S0304
天地四方を射させらる。○御乳には、前右大将宗盛卿の
北方と定られたりしが、去七月に難産をしてうせ
給しかば、[M 御めのと]平大納言時忠[B ノ]卿の北方、O[BH 帥佐殿]御乳に
まいら【参ら】せ給ひけり。後には帥の典侍とぞ申ける。法
皇やがて還御[B ノ]御車を門前に立られたり。入道相国
うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千
両、法皇へ進上せらる。しかる【然る】べからずとぞ人々[M 内々]ささ
やきあはれける。今度の御産に勝事あまたあり【有り】。
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まづ法皇の御験者。次に后御産の時、御殿の棟より
甑をまろばかす事あり【有り】。皇子御誕生には南へお
とし【落し】、皇女誕生には北[B 「南」に「北」と傍書]へおとす【落す】を、是は北へ落したり
ければ、「こはいかに」とさはが【騒が】れて、取あげて落しなをし【直し】
たりけれ共、あしき御事に人々申あへり。おかしかり
しは入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松の
おとど【大臣】のふるまひ【振舞】。ほい【本意】なかりしはO[BH 前ノ]右大将宗盛卿の最
愛の北方にをくれ【遅れ】給[M 「奉」をミセケチ「給」と傍書]て、大納言[B ノ]大将両職を辞して
籠居せられたりし事。兄弟共に出仕あらば、いかに
P03033
目出たからん。次には、七人の陰陽師をめさ【召さ】れて、千度の
御祓仕るに、其中に掃部頭時晴といふ老者あり【有り】。
所従なども乏少なりけり。余に人まいり【参り】つどひ【集ひ】て、た
かんなをこみ、稲麻竹葦の如し。「役人ぞ。あけ【明け】られよ」とて、
をし【押し】分をし【押し】分まいる【参る】程に、右の沓をふみ【踏み】ぬか【抜か】れて、[M 「ぬ」をミセケチ「て」と傍書]そこに
てちと立やすらふが、冠をさへつきおとさ【落さ】れぬ。さばかり
の砌に、束帯ただしき老者が、もとどり【髻】はなてねり
出たりければ、わかき公卿殿上人こらへずして、一同に
ど[B ッ]とわらひ【笑ひ】あへり。陰陽師などいふは、反陪とて
P03034
足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不
思儀の有けるO[BH を]、其時はなにとも覚えざりしか共、
後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。御
産によて六波羅へまいら【参ら】せ給ふ人々、関白松殿、太
政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内
大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言
実房、五条大納言国綱【*邦綱】、藤大納言[M 「中納言」とあり「中」をミセケチ「大」と傍書]実国、按察使資
方【*資賢】、中[B ノ]御門[B ノ]中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中
納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池[B ノ]中納言
P03035
頼盛、左衛門[B ノ]督時忠、別当忠親、左の宰相中将実家、右
の宰相中将実宗。新宰相中将通親、平宰相教盛、
六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長方、右
大弁三位俊経、左兵衛督重教【*成範】、右兵衛督光能、皇太
后宮大夫朝方、左京[B ノ]大夫長教【*脩範】、太宰大弐親宣【*親信】、新三
位実清、已上三十三人、右大弁の外は直衣也。不参の人
人には、花山院[B ノ]前[B ノ]太政大臣忠雅公、大宮[B ノ]大納言隆季卿
以下十余人、後日に布衣着して、入道相国の西八条[B ノ]
『大塔建立』S0305
亭へむかは【向は】れけるとぞ聞えし。○御修法の結願に勧賞
P03036
共おこなは【行なは】る。仁和寺[B ノ]御室は東寺[B ノ]修造せらるべし、并に
後七日の御修法、大眼[B 「眼」の左に「元」と傍書]【*大元】の法、灌頂興行せらるべき由
仰下さる。御弟子覚誓[B 「誓」の左に「成」と傍書]【*覚成】僧都、法印に挙せらる。座
主宮は、二品并に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺[B ノ]
御室ささへ【支へ】申させ給ふによ[B ッ]て、法眼円良、法印にな
さる。其外の勧賞共毛挙にいとまあらずとぞ
きこえ【聞え】し。中宮は日数へ【経】にければ、六波羅より内裏へ
まいら【参ら】せ給ひけり。此御むすめ后にたた【立た】せ給しかば、
入道相国夫婦共に、「あはれ、いかにもして皇子御誕
P03037
生あれかし。位につけ奉り、外祖父、外祖母とあふが
れん」とぞねがは【願は】れける。わがあがめ奉る安芸の厳島
に申さんとて、月まうでを始て、祈り申されけれ
ば、中宮やがて御懐妊あて、思ひのごとく皇子
にてましましけるこそ目出たけれ。抑平家[M の]安芸
の厳島を信じ始られける事はいかにといふに、鳥羽
院の御宇に、清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸
国をもて、高野の大塔を修理せよとて、渡辺の遠
藤六郎頼方を雑掌に付られ、六年に修理をは[B ン]【終ん】
P03038
ぬ。修理をは[B ッ]て後、清盛高野へのぼり、大塔おがみ【拝み】、奥
院へまいら【参ら】れたりければ、いづくより来る共なき老
僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、かせ杖【鹿杖】の
ふたまたなるにすが[B ッ]ていでき【出来】給へり。良久しう
御物語せさせ給ふ。「昔よりいまにいたるまで、此山
は密宗をひかへて退転なし。天下に又も候はず。
大塔すでに修理おはり候たり。さては安芸の厳島、
越前の気比の宮は、両界の垂跡で候が、気比の
宮はさかへ【栄へ】たれ共、厳島はなきが如に荒はて【果て】て候。此
P03039
次に奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加
階は肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて立
れけり。此老僧の居給へる所、異香すなはち
薫じたり。人を付てみせ【見せ】給へば、三町ばかりはみ
え【見え】給[B ヒ]て、其後はかきけつ【消つ】やうに失給[B ヒ]ぬ。ただ人[*「人」に濁点 ]
にあらず、大師にてましましけりと、弥た[B ッ]とくおぼ
えて[M 「おぼしめし」とあり「しめし」をミセケチ「えて」と傍書]、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂
に曼陀羅をかか【書か】れけるが、西曼陀羅をば常明法
印といふ絵師に書せらる。東曼陀羅をば清盛
P03040
かかんとて、自筆にかか【書か】れけるが、何とかおもは【思は】れけん、
八葉の中尊の宝冠をばわが首の血をいだい【出い】て
かかれけるとぞ聞えし。さて都へのぼり、院参して
此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感
あ[B ッ]て、猶任をのべ【延べ】られ、厳島を修理せらる。鳥居を
立かへ、社々を作りかへ、百八十間の廻廊をぞ造ら
れける。修理をは[B ッ]て、清盛厳島へまいり【参り】、通夜せられ
たりける夢に、御宝殿の内より鬟ゆふ【結う】たる天
童の出て、「これは大明神の御使也。汝この剣をもて
P03041
一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし」とて、
銀のひるまき【蛭巻】したる小長刀を給はるといふ夢を
みて、覚て後見給へば、うつつに枕がみ【枕上】にぞた【立つ】たりける。
大明神御詫宣あて、「汝しれ【知れ】りや、忘れりや、ある
聖をもていはせし事は。但悪行あらば、子孫までは
かなふ【叶ふ】まじきぞ」とて、大明神あがら【上がら】せ給ぬ。目出た
『頼豪』S0306
かりし[M 御]事[B 共]也。○白河[B ノ]院御在位の御時、京極大殿
の御むすめ后にたたせ給て、兼子【*賢子】の中宮とて、御
最愛有けり。主上此御腹に皇子御誕生あら
P03042
まほしうおぼしめし【思し召し】、其比有験の僧と聞えし三
井寺の頼豪阿闍梨をめし【召し】て、「汝此后の腹に、皇
子御誕生祈申せ。御願成就せば、勧賞はこふ【乞ふ】に
よるべし」とぞ仰ける。「やすう候」とて三井寺にかへり、
百日肝胆を摧て祈申ければ、中宮やがて百日の
うちに御懐妊あて、承保元年十二月十六日、御
産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず
御感あて、三井寺の頼豪阿闍梨をめし【召し】て、「汝が所
望の事はいかに」と仰下されければ、三井寺に戒壇
P03043
建立の事を奏す。主上「これこそ存の外の所望
なれ。一階僧正などをも申べきかとこそおぼしめし【思し召し】
つれ。凡は皇子御誕生あて、祚をつが【継が】しめん事も、
海内無為を思ふため也。今汝が所望達せば、山門
いきどほ【憤つ】て世上しづかなるべからず。両門合戦して、
天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされ【許され】もな
かりけり。頼豪口おしい【惜しい】事也とて、三井寺にか
へ【帰つ】て、ひ死【干死】にせんとす。主上大におどろかせ給て、
江帥匡房卿、其比は未美作守と聞えしを召て、
P03044
「汝は頼豪と師檀の契あんなり。ゆい【行い】てこしらへ
て見よ」と仰ければ、美作守綸言を蒙て頼豪が
宿坊に行むかひ【向ひ】、勅定の趣を仰含めんとする
に、以[B ノ]外にふすぼたる持仏堂にたてごもて、おそろ
しげ【恐ろし気】なるこゑ【声】して、「天子には戯の詞なし、綸言汗
のごとし【如し】とこそ承れ。是程の所望かなは【叶は】ざらんに
をいては、わが祈りだし【出し】たる皇子なれば、取奉て
魔道へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざり
けり。美作守帰りまい【参つ】て、此由を奏聞す。頼豪は
P03045
やがてひ死【干死】に死にけり。君いかがせんずると、叡慮を
おどろかさせおはします。皇子やがて御悩つかせ給
て、さまざまの御祈共有しか共、かなふ【叶ふ】べしともみえ【見え】
させ給はず。白髪なりける老僧の、錫杖も【持つ】て皇
子の御枕にたたずむと[M 「たたずみ」とあり「み」をミセケチ「むと」と傍書]、人々の夢にも見え、まぼろし
にも立けり。おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。去程に、
承暦元年八月六日[B ノヒ]、皇子御年四歳にて遂に
かくれさせ給ぬ。敦文の親王是也。主上なのめな
らず御歎あり【有り】けり。山門に又西京の座主、良信【*良真】大
P03046
僧正、其比は円融房の僧都とて、有験の僧と
聞えしを、内裏へめし【召し】て、「こはいかがせんずる」と仰け
れば、「いつも我山の力にてこそか様【斯様】の御願は成就
する事で候へ。九条[B ノ]右丞相O[BH 師輔公も イ]、慈恵大僧正に契申
させ給しによてこそ、冷泉院の皇子御誕生は
候しか。やすい程の御事候」とて、比叡山にかへりの
ぼり、山王大師に百日肝胆を摧て祈申ければ、
中宮やがて百日の内に御懐妊あて、承暦三年
七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀河
P03047
天皇是也。怨霊は昔もおそろしき【恐ろしき】事也。今度
さしも目出たき御産に、O[BH 非常の イ]大赦はおこなは【行なは】れたりといへ
共、俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
同十二月八日、皇子東宮にたたせ給ふ。傅には、小松内
『少将都帰』S0307
大臣、大夫には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。○明
れば治承三年正月下旬に、丹羽少将成経、O[BH 平判官康頼、]肥前
国鹿瀬庄をた【発つ】て、都へといそがれけれ共、余寒猶
はげしく、海上もいたく荒ければ、浦づたひ【浦伝ひ】O[BH 島づたひ【島伝ひ】]して、
きさらぎ【二月】十日比にぞ備前児島に着給ふ。それ
P03048
より父大納言殿のすみ【住み】給ける所を尋いり【入り】て見
給ふに、竹の柱、ふりたる障子なんどにかき【書き】をか【置か】れ
たる筆のすさみを見給て、「人の形見には手跡に
過たる物ぞなき。書をき給はずは、いかでかこれを
みる【見る】べき」とて、康頼入道と二人、よう【読う】ではなき【泣き】、ないて
はよむ。「安元三年七月廿日[B ノヒ]出家、同廿六日信俊下
向」とかか【書か】れたり。さてこそ源左衛門尉信俊がまいり【参り】
たりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便
あり。九品往生無疑」ともかか【書か】れたり。此形見を見給
P03049
てこそ、さすが欣求浄土ののぞみもおはしけりと、限
なき歎の中にも、いささかたのもしげ【頼もし気】にはの給ひけれ。
其墓を尋て見給へば、松の一むらある中に、
かひがひしう壇をついたる事もなし。土のすこし【少し】高
き所に少将袖かきあはせ【合はせ】、いき【生き】たる人に物を申やう
に、泣々申されけるは、「遠き御まもり【守り】とならせおはし
まして候事をば、島にてかすか【幽】に伝へ承りしか
共、心にまかせ【任せ】ぬうき身なれば、いそぎまいる【参る】事も
候はず。成経彼島へながされてO[BH のちの便なさ、一日片時の有がたふこそ候ひしか。さすが]露の命消やらず
P03050
して、二とせ【年】ををく【送つ】てめし【召し】かへさるるうれしさは、さる
事にて候へ共、この世にわたらせ給ふをも見まいらせ【参らせ】
て候ばこそ、命のながき【長き】かひもあらめ。是まではいそ
がれつれ共、いまより後はいそぐべし共おぼえず」
と、かきくどゐてぞなか【泣か】れける。誠に存生の時なら
ば、大納言入道殿こそ、いかに共の給ふべきに、生を
へだてたる習ひ程うらめしかり【恨めしかり】ける物はなし。苔
の下には誰かこたふべき。ただ嵐にさはぐ【騒ぐ】松の響ば
かりなり。其夜はよ【夜】もすがら、康頼入道と二人、墓
P03051
のまはりを行道して念仏申、明ぬればあたらしう
壇つき、くぎぬき【釘貫】せさせ、まへに仮屋つくり、七日七夜
念仏申経書て、結願には大なる卒兜婆をたて、
「過去聖霊、出離生死、証大菩提」とかいて、年号月日
の下には、「孝子[* 孝の左にの振り仮名]成経」とかか【書か】れたれば、しづ山がつの心なき
も、子に過たる宝なしとて、泪をながし袖をしぼら
ぬはなかりけり。年去年来れ共、忘がたきは撫育
の昔の恩、夢のごとく【如く】幻のごとし。尽がたきは恋慕
のいまの涙也。三世十方の仏陀の聖衆もあはれみ
P03052
給ひ、亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけん。「今しばらく念仏の功をもつむ【積む】べう候へ共、都に待
人共も心もとなう候らん。又こそまいり【参り】候はめ」とて、
亡者にいとま申つつ、泣々そこをぞ立れける。草
の陰にても余波おしう【惜しう】やおもは【思は】れけん。O[BH 同]三月十
六日、少将鳥羽へあかう【明かう】ぞ付給ふ。故大納言の山
庄、すはま【州浜】殿とて[M 「にて」とあり「に」をミセケチ「ト」と傍書]鳥羽にあり【有り】。住あらして年
へ【経】にければ、築地はあれどもおほい【覆ひ】もなく、門はあ
れ共扉もなし。庭に立入見給へば、人跡たえ【絶え】て
P03053
苔ふかし。池の辺を見まはせば、秋の山の春風に白波し
きりにおり【織り】かけて、紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の
恋しさに、尽せぬ物は涙也。家はあれ共、らんもん【羅文】
破て、蔀やり戸もたえ【絶え】てなし。「爰には大納言O[BH 殿]のと
こそおはせしか、此妻戸をばかうこそ出入給しか。あの
木をば、みづからこそうへ【植ゑ】給しか」などいひて、ことの
葉につけて、ちち【父】の事を恋しげにこその給ひけ
れ。弥生なかの六日なれば、花はいまだ名残あり【有り】。楊
梅桃李の梢こそ、折しりがほ【折知顔】に色々なれ。昔の
P03054
あるじはなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少将花
のもとに立よ【寄つ】て、桃李不言春幾暮煙霞無跡
昔誰栖 K017ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむ
かし【昔】のことをとは【問は】まし W014この古き詩歌を口ずさみ
給へば、康頼入道も折節あはれ【哀】に覚えて、墨染の
袖をぞぬらしける。暮る程とは待れけれ共、あまり
に名残おしく【惜しく】て、夜ふくるまでこそおはしけれ。深
行ままには、荒たる宿のならひ【習ひ】とて、ふるき軒の板
間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠の山明なん
P03055
とすれ共、家路はさらにいそがれず。さても有べき
ならねば、むかへ【向へ】に乗物共つかはし【遣し】て待らんも心なし
とて、泣々すはま【州浜】殿を出つつ、都へかへり入[B レ]けん心の
中共、さこそはあはれ【哀】にもうれしう【嬉しう】も有けめ。康頼入
道がむかへ【向へ】にも乗物あり【有り】けれ共、それにはのら【乗ら】で、「今
さら名残の惜きに」とて、少将の車の尻にの【乗つ】て、七
条河原まではゆく【行く】。其より行別けるに、猶行もやら
ざりけり。花の下の半日の客、月[B ノ]前の一夜の友、旅
人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よ【寄つ】て、わかるる
P03056
余波もおしき【惜しき】ぞかし。况や是はうかり【憂かり】し島のす
まひ【住ひ】、船のうち、浪のうへ【上】、一業所感の身なれば、先
世の芳縁も浅からずや思ひしられけん。少将は
しうと【舅】平宰相の宿所へ立入給ふ。少将の母うへは
霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所におはし
てまた【待た】れけり。少将の立入給ふ姿を一目みて、「命あ
れば」とばかり[M ぞ]の給て、引かづいてぞ臥給ふ。宰相の
内の女房、侍共さしつどひ【集ひ】て、みな悦なき【悦び泣き】共しけり。
まして少将の北方、めのとの六条が心のうち、さこそは
P03057
うれしかりけめ。六条は尽せぬ物おもひ【思ひ】に、黒かりし髪
もみなしろく【白く】なり、北方さしも花やかにうつくしう
おはせしか共、いつしかやせ【痩せ】おとろへて、其人共みえ【見え】給は
ず。ながされ給し時、三歳にて別しおさなき【幼き】[B 「おさな」に「若君 イ」と傍書]人、お
となしうなて、髪ゆふ【結ふ】程也。又其[M 御]そばに、三ばかり
なるおさなき【幼き】人のおはしけるを、少将「あれはいかに」と
の給へ【宣へ】ば、六条「是こそ」とばかり申て、袖をかほ【顔】にをし【押し】
あてて涙をながしけるにこそ、さては下りし時、心く
るしげなる有さまを見をき【置き】しが、事ゆへ【故】なくそ
P03058
立【育ち】けるよと、思ひ出てもかなしかり【悲しかり】けり。少将はも
とのごとく院にめし【召し】つかは【使は】れて、宰相中将にあがり
給ふ。康頼入道は、東山双林寺にわが山庄のあり【有り】
ければ、それに落つい【着い】て、先おもひ【思ひ】つづけけり。
ふる里の軒のいたま【板間】に苔むして
おもひ【思ひ】しほどはもら【漏ら】ぬ月かな W015
やがてそこに籠居して、うかり【憂かり】し昔を思ひつづ
『有王』S0308
け、宝物集といふ物語を書けるとぞ聞えし。○去
程に、鬼界が島へ三人ながさ【流さ】れたりし流人、二人は
P03059
めし【召し】かへさ【返さ】れて都へのぼりぬ。俊寛僧都一人、うかり【憂かり】
しO[BH 島の] 島守に成にけるこそうたてけれ。僧都のおさなう【幼う】
より不便にして、めし【召し】つかは【使は】れける童あり【有り】。名をば
有王とぞ申ける。鬼界が島の流人、今日すでに
都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行むかふ【向う】て見けれ
共、わがしう【主】は見え給はず。いかにと問ば、「それは猶つみ【罪】
ふかしとて、島にのこされ給ぬ」ときい【聞い】て、心うし
などもをろか【愚】也。常は六波羅辺にたたずみありい【歩い】て
聞けれ共、O[BH いつ]赦免あるべし共聞いださ【出さ】ず。僧都の御
P03060
むすめのしのび【忍び】ておはしける所へまい【参つ】て、「このせ【瀬】にも
もれ【漏れ】させ給て、御のぼりも候はず。いかにもして
彼島へわた【渡つ】て、御行衛【行方】を尋まいらせ【参らせ】んとこそ思ひ
なて候へ。御ふみ【文】給はらん」と申ければ、泣々かいてたう【給う】
だりけり。いとまをこふ【乞ふ】共、よもゆるさ【許さ】じとて、父にも
母にもしらせず、もろこし船のともづなは、卯月さ月【五月】
にとく【解く】なれば、夏衣たつ【裁つ】を遅くや思けん、やよひ【弥生】
の末に都を出て、多くの浪路を凌ぎつつ、薩摩潟
へぞ下りける。薩摩より彼島へわたる船津にて、
P03061
人あやしみ、き【着】たる物をはぎ【剥ぎ】とりなどしけれ共、すこ
し【少し】も後悔せず。姫御前の御文ばかりぞ人に見せじ
とて、もとゆひ【元結】の中に隠したりける。さて商人船に
の【乗つ】て、件の島へわた【渡つ】てみる【見る】に、都にてかすか【幽】につたへ
聞しは事のかずにもあらず。田もなし、畠もなし。村
もなし、里もなし。をのづから人はあれ共、いふ詞も聞
しら【知ら】ず。有王島の者にゆきむかて[M 「もしか様【斯様】の者共の中に、わがしう【主】の行え【行方】や
しり【知り】たるものやあらんと」をミセケチ「有王島の者にゆきむかて」と傍書]、「物まうさう」どいへば、「何事」と
こたふ。「是に都よりながされ給し、法勝寺執行御房
P03062
と申人の御行ゑ【行方】やしり【知り】たる」と問に、法勝寺共、執
行共し【知つ】たらばこそ返事もせめ。頭をふて知ずといふ。
其中にある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は三人
是に有しが、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れて都へのぼりぬ。今一
人はのこされて、あそこ爰にまどひありけ【歩け】共、行ゑ【行方】
もしら【知ら】ず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はる
かに分入、峯によぢ、谷に下れ共、白雲跡を埋で、ゆき
来の道もさだかならず。青嵐夢を破て、その面影も
見えざりけり。山にては遂に尋もあはず。海の辺に
P03063
ついて尋るに、沙頭に印を刻む鴎、澳のしら州【白州】に
すだく浜千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり。ある
朝[B タ]、いその方よりかげろふ【蜻蛉】[* 「かげろふ」に「蜻蛉」と振り漢字]などのやうにやせ【痩せ】おとろへ
たる者一人よろぼひ出きたり。もとは法師にて有
けりと覚えて、髪は空さま【空様】へおひ【生ひ】あがり、よろづの
藻くづとりつい【付い】て、おどろ【棘】をいただいたるがごとし【如し】。つぎ
目【継ぎ目】[B 「つき」に「節」と傍書]あらはれ【現はれ】て皮ゆたひ、身にき【着】たる物は絹布のわ
き【別】も見えず。片手にはあらめを[M ひろい【拾ひ】]もち、片手
には[M 網うど【人】に]魚を[M もらふて]もち、歩むやうにはしけ
P03064
れ共、はかもゆかず、よろよろとして出きたり。「都に
て多くの乞丐人み【見】しか共、かかる者をばいまだみ
ず。「諸阿修羅等居在大海辺」とて、修羅の三悪四趣
は深山大海のほとりにありと、仏の解をき給ひた
れば、しら【知ら】ず、われ餓鬼道に迷[B 「尋」の左に「迷」と傍書]来るか」と思ふ程に、
かれも是も次第にあゆみ【歩み】ちかづく【近付く】。もしか様【斯様】のもの
も、わがしう【主】の御ゆくゑ【行方】知たる事やあらんと、「物まう
さう」どいへば、「何ごと」とこたふ。是に都よりながされ給
し、法勝寺執行御房と申人の、御行ゑ【行方】や知たる」と
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問に、童は見忘れたれ共、僧都は争[M 「何とてか」をミセケチ「争」と傍書]忘べきなれば、
「是こそそよ」といひもあへず、手にもて【持て】る物をなげ
捨て、いさご[M 「すなご」とあり「すな」をミセケチ「いさ」と傍書]【砂子】の上にたふれ【倒れ】ふす。さてこそわがしう【主】の
O[BH 御]行ゑ【行方】は[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]しり【知り】てげれ。O[BH 僧都]やがてきえ入給ふを、ひざの上
にかきのせ【掻き乗せ】奉り、「有王がまい【参つ】て候。多くの浪路を
しのいで、是まで尋まいり【参り】たるかひもなく、いかに
やがてうき目をば見せさせ給ふぞ」と泣々申けれ
ば、ややあて、すこし【少し】人心ち出き、たすけ【助け】おこされて、
「誠に汝が是まで尋来たる心ざしの程こそ神妙なれ。
P03066
明ても暮ても、都の事のみ思ひゐ【居】たれば、恋しき
者共が面影は、夢にみる【見る】おり【折】もあり【有り】、まぼろしに
たつ時もあり【有り】。身もいたくつかれ【疲れ】よは【弱つ】て後は、夢も
うつつもおもひ【思ひ】わかず。されば汝が来れるも、ただ夢と
のみこそおぼゆれ。もし此事の夢ならば、さめての後
はいかがせん」。有王「うつつにて候也。此御ありさまにて、
今まで御命ののび【延び】させ給て候こそ、不思儀には
覚え候へ」と申せば、「さればこそ。去年少将や判官入道
に捨られて後のたよりなさ、心の中をばただをし
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はかる【推し量る】べし。そのせ【瀬】に身をもなげんとせしを、よしなき
少将の「今一度都の音づれをもまて【待て】かし」など、なぐ
さめをき【置き】しを、をろか【愚】にもし【若し】やとたのみ【頼み】つつ、ながらへ【永らへ】ん
とはせしか共、此島には人のくい物【食ひ物】たへ【絶え】てなき所な
れば、身に力の有し程は、山にのぼ【上つ】て湯黄[B 「湯」に「硫」と傍書]と云物を
とり、九国よりかよふ商人にあひ、くい物【食ひ物】にかへなど
せしか共、日にそへてよはり【弱り】ゆけば、今はその態もせず。
かやうに日ののどかなる時は、磯に出て網人・釣人に、
手をすりひざをかがめて、魚をもらい、塩干の時は
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貝をひろひ【拾ひ】、あらめをとり、磯の苔に露の命を
かけてこそ、けふ【今日】までもながらへ【永らへ】たれ。さらでは浮世を
渡るよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん。爰
にて何事もいはばやとはおもへ【思へ】共、いざわが家へ」との
給へ【宣へ】ば、此御ありさまにても家をもち給へるふし
ぎさ【不思議さ】よと思て行程に、松の一村ある中により竹【寄竹】
を柱にして、葦をゆひ、けた【桁】はり【梁】にわたし、上にもした【下】
にも、松の葉をひしと取かけたり。雨風たまるべう
もなし。昔は、法勝寺の寺務職にて、八十余ケ所の
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庄務をつかさどられしかば、棟門平門の内に、四五百
人の所従眷属に囲饒せられてこそおはせしが、ま【目】
のあたりかかるうき目を見給ひけるこそふしぎ【不思議】なれ。
業にさまざまあり【有り】。順現・順生・順後業といへり。僧都
一期の間、身にもちゐる処、大伽藍の寺物仏物に
あらずと云事なし。さればかの信施無慙の罪によて、
『僧都死去』S0309
今生にはや感ぜられけりとぞ見えたりける。○僧都
うつつ【現】にてあり【有り】とおもひ【思ひ】定て、「抑去年少将や判
官入道がむかへ【向へ】にも、是等が文と云事もなし。今汝がた
P03070
よりにも音づれのなきは、かう共いはざりけるか」。有王
涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。やや
あ【有つ】ておきあがり、泪ををさへ【抑へ】て申けるは、「君の西八条
へ出させ給しかば、やがて追捕官人まい【参つ】て、御内の人々
搦取、御謀反の次第を尋て、うしなひ【失ひ】はて候ぬ。北
方はおさなき【幼き】人を隠しかねまいら【参ら】させ給ひて、鞍馬
の奥にしのば【忍ば】せ給て候しに、此童ばかりこそ時々まい【参つ】
て宮仕つかまつり候しか。いづれも御歎のをろか【愚】なる事
は候はざO[BH り]しか共、おさなき【幼き】人はあまりに恋まいら【参ら】させ
P03071
給て、まいり【参り】候たび毎に、「有王よ、鬼界が島とかやへわれ
ぐし【具し】てまいれ【参れ】」とむつからせ給候しが、過候し二月に、
もがさ[* 「もがさ」に「痘」と振り漢字]と申事に失させ給候ぬ。北方は其御歎と
申、是の御事と申、一かたならぬ御思にしづませ
給ひ、日にそへてよはら【弱ら】せ給候しが、同三月二日の
ひ、つゐに【遂に】はかなく【果敢く】ならせ給ぬ。いま姫御前ばかり、
奈良の姑御前の御もとに御わたり候。是に御文
給はてまい【参つ】て候」とて、取いだいて奉る。あけて見給へ
ば、有王が申にたがは【違は】ず書れたり。奥には、「などや、
P03072
三人ながされたる人の、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れてさぶらふ【候ふ】に、
今まで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ、高もいやしき
も、女の身ばかり心うかり【憂かり】ける物はなし。おのこ【男】[M 「おのこゝ【男子】」とあり「ゝ」をミセケチ]の身にて
さぶらはば、わたらせ給ふ島へも、などかまいら【参ら】でさぶ
らふ【候ふ】べき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」と
ぞかか【書か】れたる。O[BH 僧都此文をかほにをし【押し】あてて、しばしは物ものたまは【宣は】ず。良あつて、]「是見よ有王、この子が文の書やうのは
かなさよ。をのれ【己】を供にて、いそぎのぼれと書たる事
こそうらめしけれ【恨めしけれ】。心にまかせ【任せ】たる俊寛が身ならば、
何とてかO[BH 此島にて]三とせ【三年】の春秋をば送るべき。今年は十二
P03073
になるとこそ思ふに、是程はかなく【果敢く】ては、人にも見え、
宮仕をもして、身をもたすく【助く】べきか」とてなか【泣か】れける
にぞ、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道にま
よふ程もしら【知ら】れける。「此島へながされて後は、暦もな
ければ、月日のかはり行をもしら【知ら】ず。ただをのづから【自】花
のちり【散り】葉の落るを見て春秋をわきまへ、蝉の
声麦秋を送れば夏とおもひ【思ひ】、雪のつもるを冬と
しる。白月黒月のかはり行をみて、卅日をわきまへ、
指をお【折つ】てかぞふれば、今年は六になるとおもひ【思ひ】つるお
P03074
さなき【幼き】者も、はや先立けるごさんなれ。西八条へ出
し時、この子が、「我もゆかう」どしたひ【慕ひ】しを、やがて帰らふ
ずるぞとこしらへをき【置き】しが、今の様におぼゆる【覚ゆる】ぞや。
其を限りと思はましかば、今しばしもなどか見ざら
ん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、みな
此世ひとつ【一つ】にかぎらぬ契ぞかし。などさらば、それらが
さ様に先立けるを、今まで夢まぼろしにもしら【知ら】
ざりけるぞ。人目も恥ず、いかにもして命いか【生か】うど思し
も、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事計[M 「こ姫が事」をミセケチ「計」と傍書]
P03075
こそ心ぐるしけれ共、それは[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]いき身【生き身】なれば、
歎きながらもすごさ【過さ】んずらん。さのみながらへ【永らへ】て、を
のれ【己】にうき目を見せんも、我身ながらつれなかるべし」
とて、をのづからの食事を[M も]とどめ【留め】、偏に弥陀の名
号をとなへて、臨終正念をぞいのら【祈ら】れける。有王わ
た【渡つ】て廿三日と云に、其庵りのうちにて遂におはり
給ぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき【空しき】姿に取
つき、天に仰ぎ地に伏て、泣かなしめ共かひぞなき。
心の行程泣あき【飽き】て、「やがて後世の御供仕べう候へ共、
P03076
此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ、後世訪ひまいら
す【参らす】べき人も候はず。しばしながらへ【永らへ】て御菩提[M 「後世」をミセケチ「御菩提」と傍書]訪ひまいら
せ【参らせ】候はん」とて、ふしどをあらため【改め】ず、庵をきり【切り】かけ、
松のかれ枝【枯れ枝】、蘆の枯葉を取おほひ【覆ひ】、藻塩のけぶりと
なし奉り、荼■[田+比]事をへ[* 「を」に「終」と振り漢字]【終へ】にければ、白骨をひろひ【拾ひ】、
頸にかけ、又商人船のたよりに九国の地へぞ着にけ
る。O[BH それよりいそぎ都へのぼり、]僧都の御むすめのおはしける所にまい【参つ】て、有し様、
始よりこまごまと申。「中々御文を御覧じてこそ、
いとど御思ひはまさらせ給て候しか。O[BH 件の島には]硯も紙も候はね
P03077
ば、御返事にも及ばず。おぼしめさ【思し召さ】れ候し御心の内、
さながらむなしうてやみ候にき。今は生々世々を送、
他生曠劫をへだつ共、いかでか御声をもきき、御姿を
も見まいら【参ら】させ給ふべき」と申ければ、ふしまろび、こゑ
も惜ずなか【泣か】れけり。やがて十二の年尼になり、奈良
の法華寺に勤[* 左にの振り仮名]すまし【澄まし】て、父母の後世を訪ひ給ふぞ
哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高
野へのぼり、奥院に納めつつ、蓮花谷にて法師になり、
諸国七道修行して、しう【主】の後世をぞ訪ける。か様【斯様】に
P03078
人の思歎きのつもり【積り】ぬる平家の末こそおそろし
『飆』S0310
けれ【恐ろしけれ】。○同五月十二日午剋ばかり、京中には辻風おびたた
しう【夥しう】吹[* 「明」と有るのを他本により訂正]て、人屋おほく【多く】顛到す。風は中御門京極より
おこ【起こつ】て、末申の方へ吹[* 「明」と有るのを他本により訂正]て行に、棟門平門を吹ぬ
い[M 「ぬき」とあり「き」をミセケチ「い」と傍書]て、四五町十町吹もてゆき、けた【桁】・なげし【長押】・柱などは
虚空に散在す。桧皮ふき板【葺板】のたぐひ、冬の木葉の
風にみだるるが如し。おびたたしう【夥しう】なり【鳴り】どよむ音[M 「事」をミセケチ「音」と傍書]、
彼地獄の業風なり共、これには過じとぞみえ【見え】し。ただ
舎屋の破損するのみならず、命を失なふ人も多
P03079
し。牛馬のたぐひ数を尽して打ころさ【殺さ】る。是ただ
事にあらず、御占あるべしとて、神祇官にして
御占あり【有り】。「今百日のうちに、禄ををもんずる【重んずる】大臣の
慎み別しては天下の大事、並に仏法王法共に傾
て、兵革相続すべし」とぞ、神祇官陰陽寮共に
『医師問答』S0311
うらなひ申ける。○小松のおとど、か様【斯様】の事共を聞給
て、よろづ心ぼそうやおもは【思は】れけん、其比熊野参
詣の事有けり。本宮証誠殿の御前にて、夜も
すがら敬白せられけるは、「親父入道相国の体をみる【見る】に、
P03080
悪逆無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。
重盛長子として、頻に諫をいたすといへ共、身
不肖の間、かれもて服膺せず。そのふるまひ【振舞】をみる【見る】
に、一期の栄花猶あやうし。枝葉連続して、親を
顕し名を揚げん事かたし。此時に当て、重盛い
やしうも思へり。なまじいに列して世に浮沈せん
事、敢て良臣孝子の法にあらず。しかじ、名を逃れ
身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求
めんには。但凡夫薄地、是非にまどへるが故に、猶心ざし
P03081
を恣にせず。南無権現金剛童子、願くは子孫繁栄
たえ【絶え】ずして、仕て朝廷にまじはるべくは、入道の悪心
を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀又一期
をかぎ[B ッ]【限つ】て、後混恥に及べくは、重盛が運命をつづめて、
来世の苦輪を助け給へ。両ケの求願、ひとへに冥助
を仰ぐ」と肝胆を摧て祈念せられけるに、燈籠
の火のやうなる物の、おとどの御身より出て、ばと消
るがごとく【如く】して失にけり。人あまた見奉りけれ共、
恐れて是を申さず。又下向の時、岩田川を渡られ
P03082
けるに、嫡子権亮少将維盛以下の公達、浄衣のした【下】
に薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとな
う河の水に戯給ふ程に、浄衣のぬれて、きぬ【衣】に
うつ【移つ】たるが、偏に色のごとくに見えければ、筑後守貞
能これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣の
よにいまはしき【忌はしき】やうに見えさせおはしまし候。めし【召し】
かへらるべうや候らん」と申ければ、おとど、「わが所願既に
成就しにけり。其浄衣敢てあらたむべからず」とて、
別して岩田川より、熊野へ悦の奉幣をぞ
P03083
立られける。人あやしと思ひけれ共、其心をえず。
しかる【然る】に此公達、程なくまこと【誠】の色をき【着】給けるこそ
ふしぎ【不思議】なれ。下向の後、いくばくの日数を経ずして、
病付給ふ。権現すでに御納受あるにこそとて、療
治もし給はず、祈祷をもいたされず。其比宋朝より
すぐれたる名医わた[B ッ]【渡つ】て、本朝にやすらふことあり【有り】。境
節入道相国、福原の別業におはしけるが、越中守[B 「守」に「前司」と傍書]盛
俊を使者で、小松殿へ仰られけるは、「所労弥大事
なる由其聞えあり【有り】。兼又宋朝より勝たる名医
P03084
わたれり。折節悦とす。是をめし【召し】請じて医療
をくはへ【加へ】しめ給へ」と、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、小
松殿たすけ【助け】おこされ、盛俊を御前へめし【召し】て、「まづ
「医療の事、畏て承候ぬ」と申べし。但汝も承
れ。延喜御門はさばかの賢王にてましましけれ
共、異国の相人を都のうちへ入させ給たりけるをば、
末代までも賢王の御誤、本朝の恥とこそみえ【見え】けれ。
况や重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城へ
いれ【入れ】ん事、国の辱にあらずや。漢高祖は三尺の剣
P03085
を提て天下を治しかども、淮南[* の右にの振り仮名]の黥布を討し時、
流矢にあたて疵を蒙る。后呂太后、良医をむかへ【向へ】て
見せしむるに、医のいはく、「此疵治しつべし。但五十
斤[* 「十」に圏濁点]の金をあたへば治せん」といふ。高祖の給はく、「われ
まもり【守り】のつよか[B ッ]【強かつ】し程は、多くのたたかひ【戦ひ】にあひ[* 「あひ」に「逢」と振り漢字]て疵
を蒙りしか共、そのいたみなし。運すでに尽ぬ。命
はすなはち天にあり【有り】。縦偏鵲といふ共、なんの益か
あらん。しかれ[M 「しから」とあり「ら」をミセケチ「れ」と傍書]ば又かねを惜むに似たり」とて、五十こむ【斤】
の金を医師にあたへながら、つゐに【遂に】治せざりき。先
P03086
言耳にあり【有り】、今もて甘心す。重盛いやしくも九卿に
列して三台にのぼる。其運命をはかるに、もて天心に
あり【有り】。なんぞ天心を察ずして、をろか【愚】に医療をいた
はしうせむや。所労もし定業たらば、いれう【医療】をくはう【加ふ】
共ゑき【益】なからんか。又非業たらば、療治をくはへ【加へ】ず共たすかる事をうべし。彼耆婆が医術及ばずして、
大覚世尊、滅度を抜提河の辺に唱ふ。是則、定業
の病いやさ【癒さ】ざる事をしめさ【示さ】んが為也。定業猶医療
にかかはる【拘はる】べう候ば、豈尺尊【*釈尊】入滅あらんや。定業又[M 治]
P03087
治するに堪ざる旨あきらけし。治するは仏体也、療
するは耆婆也。しかれば重盛が身仏体にあらず、
名医又耆婆に及べからず。たとひ四部の書をかが
みて、百療に長ずといふ共、いかでか有待の穢身を救
療せん。たとひ五経の説を詳にして、衆病をいや
すと云共、豈先世の業病を治せんや。もしかの医術
によて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術
効験なくんば、面謁所詮なし。就中本朝鼎臣の外
相をも[B ッ]て、異朝富有の来客にまみえ【見え】ん事、
P03088
且は国の恥、且は道の陵遅也。たとひ重盛命は
亡ずといふ共、いかでか国の恥をおもふ【思ふ】心を存ぜざらん。
此由を申せ」とこその給ひけれ。盛俊福原に帰り
まい【参つ】て、此由泣々申ければ、入道相国「是程国の恥
を思ふ大臣、上古にもいまだきかず。まして末代に
あるべし共覚えず。日本に相応せぬ大臣なれば、
いかさまにも今度うせ【失せ】なんず」とて、なくなく【泣く泣く】急ぎ都
へ上られけり。同七月廿八日、小松殿出家し給ぬ。法名は
浄蓮とこそつき【付き】給へ。やがて八月一日[B ノヒ]、臨終正念に住
P03089
して遂に失給ぬ。御年四十三、世はさかりとみえ【見え】つるに、
哀なりし事共也。「入道相国のさしもよこ紙をやら【破ら】れ
つるも、此人のなをし【直し】なだめ【宥め】られつればこそ、世もお
だしかり【隠しかり】つれ。此後天下にいかなる事か出こ【来】んず
らむ」とて、京中の上下歎きあへり。前右大将宗盛
卿のかた様の人は、「世は只今大将殿へまいり【参り】なん
ず」とぞ悦ける。人の親の子を思ふならひはをろ
か【愚】なるが、先立だにもかなしき【悲しき】ぞかし。いはんや是は
当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛
P03090
の別、家の衰微、悲でも猶余あり【有り】。されば世には
良臣をうしなへ【失へ】る事を歎き、家には武略のすた
れ【廃れ】ぬる事をかなしむ。凡は此おとど【大臣】文章うるはし
うして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、詞に徳を兼
『無文』S0312
給へり。○天性このおとど【大臣】は不思議の人にて、未来の
事をもかねて【予て】さとり給けるにや。去四月七日の夢
に、見給けるこそふしぎ【不思議】なれ。たとへば、いづく共しらぬ
浜路を遥々とあゆみ【歩み】行給ふ程に、道の傍に大なる
鳥居の有けるを、「あれはいかなる鳥居やらん」と、問
P03091
給へば、「春日大明神の御鳥井也」と申。人多く群集
したり。其中に法師の頸を一さしあげ【差し上げ】たり。「さてあの
くびはいかに」と問給へば、「是は平家太政入道殿[M の御
頸を]、悪行超過し給へるによて、当社大明神のめし【召し】
とらせ給て候」と申と覚えて、夢うちさめ、当家は
保元平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげて、
勧賞身にあまり、かたじけなく一天の君の御外
戚として、一族の昇進六十余人。廿余年のこのかた
は、たのしみさかへ【栄え】、申はかりもなかりつるに、入道の悪行
P03092
超過せるによて、一門の運命すでにつき【尽き】んずる
にこそと、こし方行末の事共、おぼしめし【思し召し】つづけ
て、御涙にむせばせ給ふ。折節妻戸をほとほとと打
たたく。「た【誰】そ。あれきけ【聞け】」との給へ【宣へ】ば、「瀬尾太郎兼
康がまい【参つ】て候」と申。「いかに、何事ぞ」との給へ【宣へ】ば、「只
今不思議の事候て、夜の明候はんがをそう【遅う】覚え
候間、申さんが為にまい【参つ】て候。御まへの人をのけ【除け】ら
れ候へ」と申ければ、おとど【大臣】人を遥にのけて御対面
あり【有り】。さて兼康見たりける夢のやうを、始より終〔まで〕
P03093
くはしう【詳しう】語り申けるが、おとど【大臣】の御覧じたりける御
夢にすこし【少し】もたがは【違は】ず。さてこそ、瀬尾太郎兼
康をば、「神にも通じたる物にて有けり」と、おとど【大臣】
も感じ給ひけれ。其朝嫡子権亮少将維盛、院[B ノ]
御所へまいら【参ら】んとて出させ給たりけるを、おとど【大臣】よ
び奉て、「人の親の身としてか様【斯様】の事を申せば、
きはめておこがましけれ共、御辺は人の子共の中
には勝てみえ【見え】給ふ也。但此世の中の有様、いかがあ
らむずらんと、心ぼそうこそ覚れ。貞能はないか。
P03094
少将に酒すすめよ」との給へば、貞能御酌にまいり【参り】
たり。「この盃をば、先少将にこそとら【取ら】せたけれ共、
親より先にはよものみ【飲み】給はじなれば、重盛まづ取あ
げて、少将にささん」とて、三度うけ【受け】て、少将にぞさされ
ける。少将又三度うけ給ふ時、「いかに貞能、引出物せ
よ」との給へ【宣へ】ば、畏て承り、錦の袋にいれ【入れ】たる御太刀
を取出す。「あはれ、是は家に伝はれる小烏といふ太刀
やらん」など、よにうれしげに思ひて見給ふ処に、
さはなくして、大臣葬の時もちゐる無文の太刀に
P03095
てぞ有ける。其時少将けしき【気色】[M はと]かはて、よにいま
はしげ【忌はし気】にみ【見】給ければ、おとど【大臣】涙をはらはらとながい【流い】て、
「いかに少将、それは貞能がとが【咎】にもあらず。其故は
如何にといふに、此太刀は大臣葬の時もちゐる無文
の太刀也。入道いかにもおはせん時、重盛がはい【佩い】て供せん
とて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉らん
ずれば、御辺に奉るなり」とぞの給ひける。少将是
を聞給て、とかうの返事にも及ばず。涙にむせびう
つぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞふし
P03096
給ふ。其後おとど【大臣】熊野へまいり【参り】、下向して病つき、幾
程もなくして遂に失給ひけるにこそ、げにもと思ひ
『燈炉之沙汰』S0313
しられけれ。○すべて此大臣は、滅罪生善の御心ざしふ
かう【深う】おはしければ、当来の浮沈をなげいて、東山の麓
に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎をたて、
一間にひとつ【一つ】づつ、四十八間に四十八の燈籠をかけ【懸け】られ
たりければ、九品の台、目の前にかかやき【輝き】、光耀鸞
鏡をみがいて、浄土の砌にのぞめるがごとし。毎月十
四O[BH 日十]五O[BH 日]を点じて、当家他家の人々の御方より、みめ【眉目】
P03097
ようわかう【若う】さかむ【壮】なる女房達を多く請じ集め、
一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆にさだ
め、彼両日が間は一心O[BH 果報の]称名声絶ず。誠に来迎引摂
のO[BH 悲]願もこの所に影向をたれ、摂取不捨の光も此大臣
を照し給ふらんとぞみえ【見え】し。十五日の日中を結願と
して大念仏有しに、大臣みづから彼行道の中に
まじは[B ッ]て、西方にむかひ【向ひ】、「南無安養教主弥陀善逝、三
界六道の衆生を普く済度し給へ」と、廻向発願
せられければ、みる【見る】人慈悲をおこし、きく物感涙を
P03098
もよほしけり。かかりしかば、此大臣をば燈籠大臣と
『金渡』S0314
ぞ人申ける。○又おとど【大臣】、「我朝にはいかなる大善根をしを
い【置い】たり共、子孫あひついでとぶらはむ[M 「う」をミセケチ「む」と傍書]事有がたし。他
国にいかなる善根をもして、後世を訪はればや」とて、
安元の此ほひ、鎮西より妙典といふ船頭をめし【召し】の
ぼせ【上せ】、人を遥にのけ【除け】て御対面あり【有り】。金を三千五
百両めし【召し】よせて、「汝は大正直の者であんなれば、五百
両をば汝にたぶ。三千両を宋朝へ渡し、育王山へまい
らせ【参らせ】て、千両を僧にひき、二千両をば御門へまいら
P03099
せ【参らせ】、田代を育王山へ申よせて、我後世とぶらはせよ」
とぞの給ける。妙典是を給はて、万里の煙浪を凌
ぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の方丈仏照
禅師徳光にあひ奉り、此由申たりければ、随喜
感嘆して、千両を僧にひき、二千両をば御門へ
まいらせ【参らせ】、おとど【大臣】の申されける旨を具に奏聞せられ
たりければ、御門大に感じおぼしめし【思し召し】て、五百町
の田代を育王山へぞよせ【寄せ】られける。されば日本の大
臣平[B ノ]朝O[BH 臣]重盛公の後生善処と祈る事、いまに絶ず
P03100
『法印問答』S0315
とぞ承る。○入道相国、小松殿にをくれ【遅れ】給て、よろづ心
ぼそうや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ
おはしけれ。同十一月七日の夜戌剋ばかり、大地おびたた
しう動てやや久し。陰陽頭安陪【*安倍】泰親、いそぎ内裏
へ馳まい【参つ】て、「今度の地震、占文のさす所、其慎みかろ
から【軽から】ず。当道三経の中に、根器経の説を見候に、
「年をえ【得】ては年を出ず、月をえ【得】ては月を出ず、日を
え【得】ては日を出ず」とみえ【見え】て候。以外に火急候」とて、はら
はらとぞ泣ける。伝奏の人も色をうしなひ【失ひ】、君も
P03101
叡慮をおどろかさせおはします。わかき公卿殿上人は、
「けしからぬ泰親が今の泣やうや。何事の有べき」
とて、わらひ【笑ひ】あはれけり。され共、この【此の】泰親は晴明五代の
苗裔をうけて、天文は淵源をきはめ、推条掌をさす
が如し。一事もたがは【違は】ざりければ、さす【指】の神子とぞ
申ける。いかづち【雷】の落かかりたりしか共、雷火の為に
狩衣の袖は焼ながら、其身はつつが【恙】もなかりけり。上代
にも末代にも、有がたかりし泰親也。同十四日、相国
禅門、此日ごろ福原におはしけるが、何とかおもひ【思ひ】なられ
P03102
たりけむ、数千騎の軍兵をたなびいて、都へ入
給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる事は
なけれ共、上下恐れおののく。何ものの申出したり
けるやらん、「入道相国、朝家を恨み奉るべし」と披
露をなす。関白殿内々きこしめさ【聞し召さ】るる旨や有けん、
急ぎ御参内あて、「今度相国禅門入洛の事は、
ひとへに基房亡すべき結構にて候也。いかなる目に逢
べきにて候やらん」と奏せさせ給へば、主上大におどろ
かせ給て、「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただ
P03103
わがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙をながさ
せ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は、主上摂録の
御ぱからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。
天照大神・春日大明神の神慮の程も計がたし。同
十五日、入道相国朝家を恨み奉るべき事必定と
聞えしかば、法皇大におどろかせ給て、故少納言入道信
西の子息、静憲法印を御使にて、入道相国のもとへ
つかはさ【遣さ】る。「近年、朝廷しづかならずして、人の心も
ととのほら【整のほら】ず。世間もO[BH 未]落居せぬさまに成行事、
P03104
惣別につけて歎きおぼしめせ【思し召せ】共、さてそこにあれば、
万事はたのみ【頼み】おぼしめし【思し召し】てこそあるに、天下をしづむ
るまでこそなからめ、嗷々なる体にて、あま[B ッ]さへ【剰へ】朝家
を恨むべしなどきこしめす【聞し召す】は、何事ぞ」と仰つかはさ【遣さ】
る。静憲法印、御使に西八条の亭へむかふ【向ふ】。朝より夕
に及ぶまで待れけれ共、無音也ければ、さればこそ
と無益に覚えて、源大夫判官季貞をもて、勅定
の趣きいひ入させ、「いとま申て」とて出られければ、其時
入道「法印よべ」とて出られたり。喚かへい【返い】て、「やや法印御
P03105
房、浄海が申処は僻事か。まづ内府が身まかり【罷り】候
ぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲
涙ををさへ【抑へ】てこそ罷過候へ。御辺の心にも推察し
給へ。保元以後は、乱逆打つづいて、君やすい御心もわた
らせ給はざりしに、入道はただ大方を取おこなふ【行ふ】ばかりで
こそ候へ、内府こそ手をおろし、身を摧て、度々の逆
鱗をばやすめ【休め】まいらせ【参らせ】て候へ。其外臨時の御大事、
朝夕の政務、内府程の功臣有がたうこそ候らめ。爰
をもて古を思ふに、唐の太宗は魏徴にをくれ【遅れ】て、
P03106
かなしみのあまりに、「昔の殷宗は夢のうちに良
弼をえ、今の朕はさめ〔て〕の後賢臣を失ふ」といふ
碑の文をみづから書て、廟に立てだにこそかなし
み給ひけるなれ。我朝にも、ま近く見候し事ぞ
かし。顕頼民部卿が逝去したりしをば、故院殊に
御歎あ[B ッ]て、八幡行幸延引し、御遊なかりき。惣[* 左にの振り仮名]て臣下
の卒するをば、代々〔の〕御門みな御歎ある事でこそ
候へ。さればこそ、親よりもなつかしう【懐しう】、子よりもむつまし
きは、君と臣との中とは申事にて候らめ。され共、内
P03107
府が中陰に八幡の御幸あて御遊あり【有り】き。御歎の
色、一事も是をみず。たとひ入道がかなしみを御
あはれみなく共、などか内府が忠をおぼしめし【思し召し】忘れ
させ給ふべき。たとひ内府が忠をおぼしめし【思し召し】忘
れさせ給共、いかでか入道が歎を御あはれみなから
む。父子共に叡慮に背候ぬる事、今にをいて面
目を失ふ、是一。次に、越前[B ノ]国をば子々孫々まで御
変改あるまじき由、御約束あ[B ッ]てO[BH 下]給は[B ッ]て候しを、
内府にをくれ【遅れ】て後、やがてめO[BH しかへ]され候事は、なむ【何】の
P03108
過怠にて候やらむ、是一[B ツ]。次に、中納言闕の候し
時、二位[B ノ]中将の所望候しを、入道随分執申し
か共、遂に御承引なくして、関白の息をなさるる
事はいかに。たとひ入道非拠を申おこなふ【行ふ】共、一度
はなどかきこしめし【聞し召し】入ざるべき。申候はんや、家嫡
といひ、位階といひ、理運左右に及ばぬ事を引ち
がへさせ給ふは、ほい【本意】なき御ぱからひとこそ存候へ、是
一[B ツ]。次に、新大納言成親卿以下、鹿谷により【寄り】あひ
て、謀反の企候し事、ま[B ッ]たく私の計略にあらず。
P03109
併君御許容あるによて也。事新き[M 「いまめかしき」をミセケチ「事新き」と傍書]申事にて候へ共、七代までは此一門をば、いかでか捨させ給ふべき。それに入道七旬に及て、余命いくばくならぬ一期の内にだにも、ややもすれば、亡すべき由御ぱからひあり【有り】。申候はんや、子孫あひついで朝家にめしつかは【使は】れん事有がたし。凡老て子を失は、枯木の枝なきにことならず。今は程なき浮世に、心を費しても何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ思ひなて候へ」とて、且は腹立し、且は落涙し
P03110
給へば、法印おそろしう【恐ろしう】も又哀にも覚えて、汗水
になり給ぬ。此時はいかなる人も、一言の返事に及
がたき事ぞかし。其上我身も近習の仁也、鹿谷に
より【寄り】あひたりし事は、まさしう見きか【聞か】れしかば、其
人数とて、只今もめし【召し】や籠られむずらんと思ふ
に、竜の鬚をなで、虎の尾をふむ心ち【心地】はせられけ
れ共、法印もさるおそろしい【恐ろしい】人で、ちともさはが【騒が】ず。
申されけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。一旦
恨み申させまします旨、其謂候。但、官位といひ
P03111
俸禄といひ、御身にとては悉く満足す。しかれば
功の莫大なるを、君御感あるでこそ候へ。しかる【然る】を
近臣事をみだり、君御許容あり【有り】といふ事は、
謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふ
は、俗の常のへい【弊】也。少人の浮言を重うして、朝
恩の他にことなるに、君を背きまいら【参ら】させ給はん
事、冥顕につけて其恐すくなからず候。凡天心は
蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめて其儀
でぞ候らん。下として上にさかふる【逆ふる】事、豈人臣
P03112
の礼たらんや。能々御思惟候べし。詮ずるところ【所】、
此趣をこそ披露仕候はめ」とて出られければ、いく
らもなみゐ【居】たる人々、「あなおそろし【恐ろし】。入道のあれ程
いかり給へるに、ちとも恐れず、返事うちしてたた【立た】
るる事よ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。
『大臣流罪』S0316
法印御所へまい【参つ】て、此由奏聞せられ[M 「し」○を非とし「せられ」と改める]ければ、法皇も道
理至極して、仰下さるる方[B 「方」に「旨」と傍書]もなし。同十六日、入道
相国此日ごろ【日比】思立給へる事なれば、関白殿を始
め奉て、太政大臣已下の公卿殿上人、四十三人が
P03113
官職をとどめ【留め】て、追籠らる。関白殿をば大宰帥に
うつして、鎮西へながし奉る。「かからん世には、とてもかく
ても有なん」とて、鳥羽の辺ふる河【古河】といふ所にて
御出家あり【有り】。御年卅五。「礼儀よくしろしめし【知ろし召し】、く
もり【曇り】なき鏡にてわたらせ給ひつる物を」とて、
世の惜み奉る事なのめならず。遠流の人の道
にて出家しつるをば、約束の国へはつかはさぬ事で
ある間、始は日向国へと定られたりしか共、御出
家の間、備前国O[BH 府ノ]辺、井ばさまといふ所に留め奉る。
P03114
大臣流罪の例は、左大臣曾我のあかえ【赤兄】、右大臣豊
成、左大臣魚名、右大臣菅原、かけまくも忝く北野
の天神の御事也。左大臣高明公、内大臣藤原[B ノ]伊周公
に至るまで、既に六人。され共摂政関白流罪の例は
是始めとぞ承る。故中殿御子二位中将基通は、入
道の聟にておはしければ、大臣関白になし奉る。去
円融院の御宇、天禄三年十一月一日、一条摂政謙徳公
うせ【失せ】給しかば、御弟堀河関白仲義【*忠義】、其時は未従二位[B ノ]
中納言にてましましけり。其御弟ほご院【法興院】の大入道殿、
P03115
其比は大納言の右大将にておはしける間、仲義【*忠義】公は
御弟に越られ給ひしか共、今又越かへし奉り、内
大臣正二位にあが【上がつ】て、内覧宣旨蒙らせ給ひたり
しをこそ、人耳目をおどろかしたる御昇進とは申
しに、是はそれには猶超過せり。非参儀二位[B ノ]中将
より大中納言を経ずして、大臣関白になり給ふ
事、いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿
の宰相・大外記・大夫史にいたるまで、みなあきれたる
さまにぞみえ【見え】たりける。太政大臣師長は、つかさをとど
P03116
め【留め】て、あづまの方へながされ給ふ。去保元に父悪左[B ノ]
おほい【大臣】殿の縁座によて、兄弟四人流罪せられ給
しが、御兄[* 左にの振り仮名]右大将兼長、御弟左[M の]中将隆長、範長
禅師三人は帰洛[* 「帰路」と有るのを他本により訂正]を待ず、配所にてうせ【失せ】給ぬ。是は
土佐の畑にて九かへりの春秋を送りむかへ【向へ】、長寛二
年八月にめし【召し】かへさ【返さ】れて、本位に復す[M 「復し」とあり「し」をミセケチ「す」と傍書]。次の年正二位
して、仁安元年十月に前中納言より権大納言に
あがり給ふ。折節大納言あか【空か】ざりければ、員の外にぞ
くははら【加はら】れける。大納言六人になること是始也。又前
P03117
中納言より権大納言になる事も、後山階大臣躬守【*三守】
公、宇治[B ノ]大納言隆国卿[* 隆国の左にの振り仮名]の外は未承り及ばず。管絃の
道に達し、才芸勝れてましましければ、次第の昇進
とどこほらず、太政大臣まできはめさせ給て、又いか
なる罪の報にや、かさね【重ね】てながされ給ふらん。保元
の昔は南海土佐へうつされ、治承の今は東関[M 尾張]
尾張国とかや。もとよりつみ【罪】なくして配所の月を
みんといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、
おとど【大臣】あへて事共し給はず。彼唐太子[B ノ]賓客白楽
P03118
天、潯陽江の辺にやすらひ給けん其古を思遣、鳴
海潟、O[BH 塩]路遥に遠見して、常は朗月を望み、浦風に
嘯、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、なをざり【等閑】がてらに
月日を送らせ給ひけり。ある時、当国第三の宮
熱田明神に参詣あり【有り】。その夜神明法楽のため
に、琵琶引、朗詠し給ふに、所もとより無智の境
なれば、情をしれ【知れ】るものなし。邑老・村女・漁人・野叟、
首をうなたれ、耳を峙といへども【共】、更に清濁をわか
ち、呂律をしる事なし。され共、胡巴琴【*瓠巴琴】を弾ぜしかば、
P03119
魚鱗踊ほどばしる[B 「る」に「り」と傍書]。虞公歌を発せしかば、梁麈う
ごきうごく。物の妙を究る時には、自然に感を催す理
なれば、諸人身の毛よだて、満座奇異の思をなす。
やうやう深更に及で、ふがうでう【風香調】の内には、花芬馥の
気を含み、流泉の曲の間には、月清明の光をあら
そふ。「願くは今生世俗文字の業、狂言綺語誤をも
て」といふ朗詠をして、秘曲を引給へば、神明感応
に堪へずして、宝殿大に震動す。「平家の悪行
なかりせば、今此瑞相をいかでか拝むべき」とて、
20
おとど【大臣】感涙をぞながされける。按察大納言資方【*資賢】
卿[B ノ]子息右近衛少将兼讃岐守源[B ノ]資時、両の官を
留めらる。参議皇太后宮O[BH 左に「権」]大夫兼右兵衛[B ノ]督藤原[B ノ]
光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階康経【*泰経】、蔵
人左少弁兼中宮[B ノ]権大進藤原[B ノ]基親、三官共に
留らる。「按察大納言資方【*資賢】卿、子息右近衛[B ノ]少将、孫
の右少将雅方【*雅賢】、是三人をばやがて都の内を追出
さるべし」とて、上卿藤大納言実国、博士判官中原[B ノ]
範貞に仰て、やがて其日都のうちを追出さる。
P03121
大納言の給けるは、「三界広しといへ共、五尺の身をき
所【置き所】なし。一生程なしといへ共、一日暮しがたし」とて、
夜中に九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の
外へぞおもむか【赴か】れける。彼大江山や、いく野【生野】の道に
かかりつつ、丹波国村雲と云所にぞ、しばしはやすらひ
給ける。其より遂には尋出されて、信濃[B ノ]国とぞ
『行隆之沙汰』S0317
聞えし。○前[B ノ]関白松殿の侍に江[B ノ]大夫判官遠成といふ
ものあり【有り】。是も平家心よからざりければ、既に六波羅
より押寄て搦取らるべしと聞えし間、子息江
P03122
左衛門尉家成打具して、いづち共なく落行けるが、
稲荷山にうちあがり、馬より下て、親子いひ合せ
けるは、「東国の方へ落くだり、伊豆国の流人、前[B ノ]右兵
衛[B ノ]佐頼朝をたのま【頼ま】ばやとは思へ共、それも当時は
勅勘の人で、身ひとつ【一つ】だにもかなひ【叶ひ】がたうおはす
也。日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とても
のがれ【逃れ】ざらんもの【物】ゆへ【故】に、年来住なれたる所を人に
みせ【見せ】んも恥がましかるべし。ただ是よりかへて、六波
羅よりめし【召し】使あらば、腹かき切て死なんにはしかじ」
P03123
とて、川原坂の宿所へとて取て返す。あん【案】のごとく、
六波羅より源大夫判官季定【*季貞】、摂津判官盛澄、ひ
た甲三百余騎、河原坂の宿所へ押寄て、時をど
とぞつくりける。江大夫判官えん【縁】に立出て、「是御
覧ぜよ、をのをの【各々】。六波羅ではこの様申させ給へ」とて、
館に火かけ、父子共に腹かききり【切り】、ほのほ【炎】の中にて
焼死ぬ。抑か様【斯様】に上下多く亡損ずる事をいかにと
いふに、当時関白にならせ給へる二位[B ノ]中将殿と、前
の殿の御子三位[B ノ]中将殿と、中納言御相論の
P03124
故と申す。さらば関白殿御一所こそ、いかなる御目に
もあはせ【合はせ】給はめ、四十余人までの、人々の事に逢
べしやは。去年讃岐院の御追号、宇治の悪左
府の贈官贈位有しか共、世間は猶しづか【静か】ならず。
凡是にも限るまじかんなり。「入道相国の心に天
魔入かはて、腹をすへ【据ゑ】かね給へり」と聞えしかば、「又
天下いかなる事か出こ【来】んずらん」とて、京中上下
おそれ【恐れ】おののく。其比前[B ノ]左少弁行高【*行隆】と聞えしは、
故中山中納言顕時卿の長男也。二条院の御世には、
P03125
弁官にくははてゆゆしかりしか共、此十余年は
官を留められて、夏冬の衣がへ【衣更】にも及ばず、朝暮
の■も心にまかせ【任せ】ず。有かなきかの体にておはし
けるを、太政入道「申べき事あり【有り】。きと立より給へ」
との給つかはさ【遣さ】れたりければ、行高【*行隆】「此十余年は何
事にもまじはらざりつる物を。人の讒言したる
旨あるにこそ」とて、大におそれ【恐れ】さはが【騒が】れけり。北方公
達も「いかなる目にかあはんずらん」と泣かなしみ給ふ
に、西八条より使しきなみに有ければ、力及ばで、
P03126
人に車か【借つ】て西八条へ出られたり。思ふには似ず、入
道やがて出むかふ【向う】て対面あり【有り】。「御辺の父の卿は、
大小事申あはせ【合はせ】し人なれば、をろか【愚】に思ひ奉らず。
年来籠居の事も、いとおしうおもひ【思ひ】たてま【奉つ】し
か共、法皇御政務のうへ【上】は力及ばず。今は出仕し給へ。
官途の事も申沙汰仕るべし。さらばとう帰られ
よ」とて、入給ぬ。帰られたれば、宿所には女房達、しん【死ん】
だる人の生かへりたる心ち【心地】して、さしつどひ【集ひ】てみな
悦泣共せられけり。太政入道、源大夫判官季貞を
P03127
もて、知行し給べき庄園状共あまた遣はす。まづ
さこそ有らめとて、百疋百両に米をつむでぞ送
られける。出仕の料にとて、雑色・牛飼・牛・車まで
沙汰しつかはさ【遣さ】る。行高【*行隆】手の舞足の踏どころ【所】も
覚えず。「是はされば夢かや、夢か」とぞ驚かれける。
同十七日、五位の侍中に補せられて、左少弁になり
帰り給ふ。今年五十一、今更わかやぎ給ひけり。
『法皇被流』S0318
ただ片時の栄花とぞみえ【見え】し。○同廿日、院[B ノ]御所
法住寺殿には、軍兵四面を打かこむ。「平治に信頼が
P03128
したりし様に、火をかけて人をばみな焼殺さるべ
し」と聞えし間、上下の女房めのわらは、物をだに
うちかづかず、あはて【慌て】騒で走りいづ。法皇も大にお
どろかせおはします。前右大将宗盛卿御車を
よせて、「とうとうめさ【召さ】るべう候」と奏せられければ、法
皇「こはされば何事ぞや。御とがあるべし共おぼし
めさ【思し召さ】ず。成親・俊寛が様に、遠き国遥かの島へも
うつし【移し】やらんずるにこそ。主上さて渡せ給へば、政務
に口入する計也。それもさるべからずは、自今以後さらで
P03129
こそあらめ」と仰ければ、宗盛[B ノ]卿「其儀では候はず。
世をしづめん程、鳥羽殿へ御幸なしまいらせ【参らせ】んと、
父の入道申候」。「さらば宗盛やがて御供にまいれ【参れ】」と
仰けれ共、父の禅門の気色に恐れをなしてまいら【参ら】
れず。「あはれ、是につけても兄の内府には事[B ノ]外に
おとりたりける物かな。一年もかかる御目にあふべ
かりしを、内府が身にかへて制しとどめ【留め】てこそ、今
日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、か
やうにするにこそ。行末とてもたのもしから【頼もしから】ず」と
P03130
て、御涙をながさせ給ふぞ忝なき。さて御車にめさ【召さ】
れけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。ただ北
面の下臈、さては金行といふ御力者ばかりぞまいり【参り】
ける。御車の尻には、あまぜ【尼前】一人まいら【参ら】れたり。この
尼ぜ【尼前】と申は、やがて法皇の御乳の人、紀伊[B ノ]二位の
事也。七条を西へ、朱雀を南へ御幸なる。あやしの
しづのを【賎男】賎女にいたるまで、「あはや法皇のながさ【流さ】れ
させましますぞや」とて、泪をながし、袖をしぼらぬは
なかりけり。「去七日の夜の大地震も、かかるべかりける
P03131
先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、乾牢地神の[B 「の」に「も」と傍書]
驚きさはぎ【騒ぎ】給ひけんも理かな」とぞ、人申ける。さて
鳥羽殿へ入せ給たるに、大膳[B ノ]大夫信成【*信業】が、何として
まぎれ【紛れ】まいり【参り】たりけるやらむ、御前ちかう候けるを
めし【召し】て、「いかさまにも今夜うしなは【失なは】れなんずとおぼし
めす【思し召す】ぞ。O[BH 御行水をめさばやとおぼしめす【思し召す】は]いかがせんずる」と仰ければ、さらぬだに
信成【*信業】、けさより肝たましい【魂】も身にそはず、あきれ
たるさまにて有けるが、此仰承る忝なさに、狩衣
に玉だすきあげ、小柴墻壊、大床のつか柱わり
P03132
などして、水くみ【汲み】入、かたのごとく御湯しだい【仕出い】てまい
らせ【参らせ】たり。又静憲法印、入道相国の西八条の亭に
ゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なて候なるに、御前
に人一人も候はぬ由承るが、余にあさましう覚え
候。何かは苦しう候べき。静憲ばかりは御ゆるされ【許され】候
へかし。まいり【参り】候はん」と申されければ、「とうとう。御房は
事あやまつまじき人なれば」とてゆるさ【許さ】れけり。法
印鳥羽殿へまい【参つ】て、門前にて車よりおり、門の
内へさし入給へば、折しも法皇、御経をうちあげうちあげ
P03133
あそばさ【遊ばさ】れける。御声もことにすごう【凄う】〔ぞ〕聞えさせ給ける。
法印のつとまいら【参ら】れたれば、あそばさ【遊ばさ】れける御経に
御涙のはらはらとかからせ給ふを見まいらせ【参らせ】て、
法印あまりのかなしさに、旧苔【裘苔】の袖をかほ【顔】にをし【押し】
あてて、泣々御前へぞまいら【参ら】れける。御前にはあま
ぜ【尼前】ばかり候はれけり。「いかにや法印御房、君は昨日
のあした【旦】、法住寺にて供御きこしめさ【聞し召さ】れて後は、よべも今朝もきこしめし【聞し召し】も入ず。長夜すがら御
寝もならず。御命も既にあやうくこそ見え
P03134
させおはしませ」との給へ【宣へ】ば、法印涙ををさへ【抑へ】て申
されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平
家たのしみさかへ【栄え】て廿余年、され共悪行法に
過て、既に亡び候なんず。天照大神・正八幡宮いかで
か捨まいら【参ら】させ給ふべき。中にも君の御憑あ
る日吉山王七社、一乗守護の御ちかひあらたま【改ま】
らずは、彼法華八軸に立かけてこそ、君をばま
もり【守り】まいら【参ら】させ給ふらめ。しかれば政務は君の
御代となり、凶徒は水の泡ときえ【消え】うせ候べし」
P03135
など申されければ、此詞にすこし【少し】なぐさま【慰さま】せおはし
ます。主上は関白のながされ給ひ、臣下の多く
亡ぬる事をこそ御歎あり【有り】けるに、剰法皇鳥羽
殿にをし【押し】籠られさせ給ふときこしめさ【聞し召さ】れて後は、
つやつや供御もきこしめさ【聞し召さ】れず。御悩とて常は
よるのおとどにのみぞいら【入ら】せ給ける。きさいの宮【后の宮】
をはじめまいらせ【参らせ】て、御前の女房たち、いかなるべし
共覚え給はず。法皇鳥羽殿へ押籠られさせ
給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上
P03136
夜ごとに清凉殿の石灰壇にて、伊勢太神宮を
ぞ御拝あり【有り】ける。是はただ一向法皇の御祈也。二
条[B ノ]院は賢王にて渡らせ給しか共、天子に父母
なしとて、常は法皇の仰をも申かへさ【返さ】せましまし
ける故にや、継体の君にてもましまさず。されば
御譲をうけさせ給ひたりし六条院も、安元二
年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。あさ
『城南之離宮』S0319
ましかりし御事也。○「百行の中には孝行をもて
先とす。明王は孝をもて天下を治」といへり。されば
P03137
唐堯は老衰へたる母をた[B ッ]とび、虞舜はかたくなな
る父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主の先
規を追はせましましけむ叡慮の程こそ目出け
れ。其比、内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり【有り】。
「かからむ世には、雲井に跡をとどめ【留め】ても何かはし候べき。
寛平の昔をもとぶらひ【訪ひ】、花山の古をも尋て、
家を出、世をのがれ【逃れ】、山林流浪の行者共なりぬ
べうこそ候へ」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、法皇の御返事
には、「さなおぼしめさ【思し召さ】れ候そ。さて渡らせ給ふこそ、
P03138
ひとつ【一つ】のたのみ【頼み】にても候へ。跡なくおぼしめし【思し召し】なら
せ給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老
がともかうもなら【成ら】むやうをきこしめし【聞し召し】はて【果て】させ給
ふべし」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、主上此御返事
を竜顔にをし【押し】あてて、いとど御涙にしづませ給ふ。
君は舟、臣は水、水よく船をうかべ【浮べ】、水又船をくつがへ
す。臣よく君をたもち【保ち】、臣又君を覆す。保元平
治の比は、入道相国君をたもち【保ち】奉るといへ共、安
元治承のいまは又君をなみしたてまつる【奉る】。史
P03139
書の文にたがは【違は】ず。大宮[B ノ]大相国、三条[B ノ]内大臣、葉室
大納言、中山[B ノ]中納言も失られぬ。今はふるき人と
ては成頼・親範ばかり也。この人々も、「かからむ世には、
朝につかへ身をたて、大中納言を経ても何かはせ
ん」とて、いまださかむ【盛】なし人々の、家を出、よ【世】を
のがれ【逃れ】、民部卿入道親範は大原の霜にともな
ひ、宰相入道成頼は高野の霧にまじはり、一向
後世菩提のいとなみの外は他事なしとぞき
こえ【聞え】し。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を
P03140
すます【澄ます】人もあり【有り】ければ、これ豈博覧清潔に
して世を遁たるにあらずや。中にも高野にお
はしける宰相入道成頼、か様【斯様】の事共を伝へきい【聞い】
て、「あはれ、心どう【利う】も世をばのがれ【逃れ】たる物かな。かくて
聞も同事なれ共、まのあたり立まじはて見
ましかば、いかに心うからん。保元平治のみだれを
こそ浅ましと思しに、世すゑ【末】になればかかる事
も有けり。此後猶いか計の事か出こ【来】むずらむ。
雲を分てものぼり、山を隔ても入なばや」とぞの
P03141
給ける。げに心あらん程の人の、跡をとどむべき世
共みえ【見え】ず。同廿三日、天台座主覚快法親王、頻に御
辞退あるによて、前座主明雲大僧正還着せら
る。入道相国はかくさんざん【散々】にし散されたれ共、御女
中宮にてまします、関白殿と申も聟也。よろづ
心やすう【安う】や思はれけむ、「政務はただ一向主上の御
ぱからひたるべし」とて、福原へ下られけり。前[B ノ]右大
将宗盛卿、いそぎ参内して此由奏聞せられけ
れば、主上は「法皇のゆづりましましたる世ならば
P03142
こそ。ただとうとう執柄にいひ【言ひ】あはせ【合はせ】て、宗盛とも
かうもはからへ【計らへ】」とて、きこしめし【聞し召し】も入ざりけり。法皇
は城南の離宮にして、冬もなかばすごさ【過さ】せ給へ
ば、野山の嵐の音のみはげしく【烈しく】て、寒庭の月
のひかり【光り】ぞさやけき。庭には雪のみ降つもれ共、跡
ふみつくる人もなく、池にはつららとぢ【閉ぢ】かさね【重ね】て、
むれ【群れ】ゐし鳥もみえ【見え】ざりけり。おほ寺【大寺】の鐘の
声、遺愛寺のきき【聞き】を驚かし、西山の雪の色、
香炉峯[* 香の左にの振り仮名]の望をもよほす。よる【夜】霜に寒き砧の
P03143
ひびき、かすか【幽】に御枕につたひ、暁氷をきしる
車の跡、遥に門前によこ【横】たはれり。巷を過る
行人征馬のいそがはし【忙がはし】げなる気色、浮世を渡る有
様もおぼしめし【思し召し】しら【知ら】れて哀也。「宮門をまもる【守る】蛮
夷のよるひる警衛をつとむるも、先の世のいか
なる契にて今縁を結ぶらん」と仰なりけるぞ
忝なき。凡物にふれ事にしたがて、御心をいた
ま【痛ま】しめずといふ事なし。さるままにはかの折々
の御遊覧、ところどころ【所々】の御参詣、御賀のめで
P03144
たかりし事共、おぼしめし【思し召し】つづけて、懐旧の
御泪をさへ【抑へ】がたし。年さり年来て、治承も四年
になり【成り】にけり。

平家物語巻第三

平家物語 高野本 巻第四


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家 四
P04001
平家四之巻目録
厳島御幸付還幸   源氏揃
熊野合戦      鼬之沙汰
信連        競
山門牒状      南都牒状〈 同返牒 付永僉議 〉
大衆揃       橋合戦
宮乃御最期     若宮出家
■[* 空+鳥]  三井寺炎上
P04002

P04003
平家物語巻第四
『厳島御幸』S0401
○治承四年正月一日のひ、鳥羽殿には相国もゆる
さ【許さ】ず、法皇もおそれ【恐れ】させ在ましければ、元日元三の
間、参入する人もなし。されども【共】故少納言入道信西
の子息、桜町の中納言重教【*成範】卿、其弟左京大夫
長教【*脩範】ばかりぞゆるさ【許さ】れてまいら【参ら】れける。同正月廿日
のひ、東宮御袴着ならびに御まなはじめ【真魚始め】とて、
めでたき事ども【共】あり【有り】しかども、法皇は鳥羽殿
にて御耳のよそにぞきこしめす【聞し召す】。二月廿一日、
P04004
主上ことなる御つつが【恙】もわたらせ給はぬを、をし【押し】
おろし【下し】たてまつり【奉り】、春宮践祚あり【有り】。これは入道
相国よろづおもふ【思ふ】さまなるが致すところ【所】なり。
時よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所・神璽・
宝剣わたしたてまつる【奉る】。上達部陣にあつま【集まつ】て、
ふるき事ども【共】先例にまかせ【任せ】ておこなひし
に、弁内侍御剣とてあゆみ【歩み】いづ。清涼殿の西おも
て【西面】にて、泰通の中将うけ【受け】とる。備中の内侍しるし【璽】の
御箱とりいづ。隆房の少将うけ【受け】とる【取る】。内侍所しるし【璽】の
P04005
御箱、こよひばかりや手をもかけんとおもひ【思ひ】あへり
けむ内侍の心のうちども【共】、さこそはとおぼえて
あはれ【哀】おほかり【多かり】けるなかに、しるし【璽】の御箱をば
少納言の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに
手をもかけては、ながくあたらしき内侍には
なるまじきよし、人の申けるをきい【聞い】て、其期に
辞し申てとりいで【出で】ざりけり。年すでにたけ
たり、二たび【二度】さかりを期すべきにもあらずとて、
人々にくみ【憎み】あへりしに、備中の内侍とて生年
P04006
十六歳、いまだいとけなき身ながら、その【其の】期にわざと
のぞみ申てとりいでける、やさしかりしためし【例】
なり。つたはれる御物ども【共】、しなじなつかさづかさうけ【受け】と【取つ】て、
新帝の皇居五条内裏へわたしたてまつる【奉る】。閑院殿
には、火の影もかすか【幽】に、鶏人の声もとどまり、
滝口の文爵もたえ【絶え】にければ、ふるき人々こころ【心】
ぼそくおぼえて、めでたきいわい【祝】のなかに涙を
ながし、心をいたま【痛ま】しむ。左大臣陣にいで【出で】て、御位ゆづり
の事ども仰せしをきい【聞い】て、心ある人々は涙を
P04007
ながし袖をうるほす。われと御位を儲の君にゆづり
たてまつり【奉り】、麻姑射の山のうちの閑になどおぼし
めす【思し召す】さきざきだにも、哀はおほき【多き】習ぞかし。況
やこれは、御心ならずをし【押し】おろさ【下さ】れさせ給ひけん
あはれ【哀】さ、申もなかなかおろかなり。新帝今年は
三歳、あはれ、いつしかなる譲位かなと、時の人々申
あはれけり。平大納言時忠卿は、内の御めのと【乳母】帥の
すけ【帥の典侍】の夫たるによて、「今度の譲位いつしかなりと、
誰かかたむけ申べき。異国には、周成王三歳、晋穆帝
P04008
二歳、我朝には、近衛院三歳、六条院二歳、これみな
襁褓のなかにつつま【包ま】れて、衣帯をただしう【正しう】せざし
かども【共】、或は摂政おふ【負う】て位につけ、或は母后いだい【抱い】
て朝にのぞむとみえ【見え】たり。後漢の高上【*孝殤】皇帝は、
むまれ【生れ】て百日といふに践祚あり【有り】。天子位をふむ先
蹤、和漢かくのごとし」と申されければ、其時の有識【*有職】の
人々、「あなおそろし【恐ろし】、物な申されそ。さればそれは
よき例どもかや」とぞつぶやきあはれける。春宮位に
つかせたまひ【給ひ】しかば、入道相国夫婦ともに外祖父外祖
P04009
母とて、准三后の宣旨をかうぶり、年元年爵を
たまは【賜つ】て、上日のものをめし【召し】つかふ【使ふ】。絵かき花つけたる
侍ども【共】いで入て、ひとへに院宮のごとくにてぞあり【有り】ける。
出家入道の後も栄雄はつきせずとぞみえ【見え】し。
出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は、保護院【*法興院】
のおほ【大】入道殿兼家公の御例也。同三月上旬に、上皇
安芸国厳島へ御幸なるべしときこえ【聞え】けり。帝王
位をすべらせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡・
賀茂・春日などへこそならせ給ふに、安芸国までの
P04010
御幸はいかにと、人不審をなす。或人の申けるは、
「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉社へ御幸
なる。既に知ぬ、叡慮にあり【有り】といふ事を。御心中に
ふかき御立願あり【有り】。其上此厳島をば平家なのめ
ならずあがめうやまひ給ふあひだ【間】、うへ【上】には平家
に御同心、したには法皇のいつとなう鳥羽殿にをし【押し】
こめられてわたらせ給ふ、入道相国の謀反の心をも
やはらげ給へとの御祈念のため」とぞきこえ【聞え】し。
山門[B ノ]大衆いきどをり【憤り】申。「石清水・賀茂・春日へならずは、
P04011
我山の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国への
御幸はいつのならひ【習ひ】ぞや。其儀ならば、神輿をふり
くだし奉て、御幸をとどめ【留め】たてまつれ【奉れ】」と僉議
しければ、これによてしばらく御延引あり【有り】けり。
太政入道やうやうになだめたまへ【給へ】ば、山門の大衆しづ
まりぬ。同十七日、厳島御幸の御門出とて、入道
相国の西八条の亭へいら【入ら】せ給ふ。其日の暮方に、
前右大将宗盛[B ノ]卿をめし【召し】て、「明日御幸の次に鳥羽殿
へまい【参つ】て、法皇の見参に入ばやとおぼしめす【思し召す】は
P04012
いかに。相国禅門にしら【知ら】せずしてはあしかりなんや」
と仰ければ、宗盛[B ノ]卿涙をはらはらとながひ【流い】て、
「何条事か候べき」と申されければ、「さらば宗盛、
其様をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし」とぞ
仰ける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へまい【参つ】
て、此よし奏聞せられければ、法皇はあまりに
おぼしめす【思し召す】御事にて、「夢やらん」とぞ仰ける。
同十九日、大宮[B ノ]大納言高季【*隆季】卿、いまだ夜ふかう【深う】まい【参つ】
て、御幸もよほされけり。此日ごろきこえ【聞え】させ
P04013
給ひつる厳島の御幸、西八条よりすでにとげ
させおはします。やよひ【弥生】もなかばすぎぬれど、
霞にくもる在明の月はなを【猶】おぼろなり。
こしぢ【越路】をさしてかへる鴈の、雲井におとづれ
ゆく【行く】も、折ふし【折節】あはれ【哀】にきこしめす。いまだ
夜のうちに鳥羽殿へ御幸なる。門前にて
御車よりおりさせたまひ【給ひ】、門のうちへさし
いらせ給ふに、人まれにして木ぐらく、物さび
しげなる御すまひ【住ひ】、まづあはれ【哀】にぞおぼし
P04014
めす【思し召す】。春すでにくれなんとす、夏木立にも
成にけり。梢の花色をとろえて、宮の鴬声
老たり。去年の正月六日のひ、朝覲のために
法住寺殿へ行幸あり【有り】しには、楽屋に乱声を
奏し、諸卿列に立て、諸衛陣をひき、院司の
公卿まいり【参り】むか【向つ】て、幔門をひらき、掃部寮縁
道をしき、ただしかり【正しかり】し儀式一事もなし。
けふはただ夢とのみぞおぼしめす【思し召す】。重教【*成範】の
中納言、御気色申されたりければ、法皇寝殿の
P04015
橋がくし【橋隠し】の間へ御幸なて、待まいら【参らつ】させたまひ【給ひ】
けり。上皇は今年O[BH 御年]廿、あけがたの月の光にはへ【映え】
させたまひ【給ひ】て、玉体もいとどうつくしうぞ
みえ【見え】させおはします。御母儀建春門院にいたく
に【似】まいら【参らつ】させたまひ【給ひ】たりければ、法皇まづ故
女院の御事おぼしめし【思し召し】いで【出で】て、御涙せきあへ
させ給はず。両院の御座ちかく【近く】しつらはれたり。
御問答は人うけ【受け】たまはる【賜る】に及ばず。御前には尼ぜ【尼前】ばか
りぞ候はれける。やや久しう御物語せさせ給ふ。
P04016
はるかに日たけて御暇申させ給ひ、鳥羽の
草津より御舟にめされけり。上皇は法皇の離
宮、故亭幽閑寂寞の御すまひ【住ひ】、御心ぐるしく
御覧じをか【置か】せたまへ【給へ】ば、法皇は又上皇の旅泊の
行宮の浪の上、舟の中の御ありさま、おぼつかな
くぞおぼしめす【思し召す】。まこと【誠】に宗廟・八わた【八幡】・賀茂など
をさしをいて、はるばると安芸国までの
御幸をば、神明もなどか御納受なかるべき。
『還御』S0402
御願成就うたがひなしとぞみえ【見え】たりける。○同廿六日、
P04017
厳島へ御参着、入道相国の最愛の内侍が宿所、
御所になる。なか二にち【二日】をん【御】逗留あて、経会舞
楽おこなはれけり。導師には三井寺の公兼【*公顕】僧正
とぞきこえ【聞え】し。高座にのぼり、鐘うちならし、表白の詞にいはく、「九え【九重】の宮こ【都】をいでて、八え【八重】の
塩路をわき【分き】もてまいら【参ら】せたまふ【給ふ】御心ざしの
かたじけなさ」と、たからかに申されたりければ、
君も臣も感涙をもよほさ【催さ】れけり。大宮・客人
をはじめまいらせ【参らせ】て、社々所々へみな御幸なる。
P04018
大宮より五町ばかり、山をまはて、滝の宮へまい
ら【参ら】せ給ふ。公兼【*公顕】僧正一首の歌よう【詠う】で、拝殿の柱に
書つけられたり。
雲井よりおち【落ち】くる滝のしらいと【白糸】に
ちぎり【契り】をむすぶことぞうれしき W016
神主佐伯の景広【*景弘】、加階従上の五位、国司藤原[B ノ]有綱【*菅原在経】、
しな【品】あげられて加階、従下の四品、院の殿上ゆるさ【許さ】る。
座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政[B ノ]入道
の心もはたらき【働き】ぬらんとぞみえ【見え】し。同廿九日、
P04019
上皇御舟かざて還御なる。風はげしかりければ、
御舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦【蟻の浦】にとど
まら【留まら】せたまふ【給ふ】。上皇「大明神の御名残おしみ【惜しみ】に、
歌つかまつれ」と仰ければ、隆房の少将
たちかへるなごりもありの浦【蟻の浦】なれば
神もめぐみをかくるしら浪【白浪】 W017
夜半ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、
御舟こぎいだし、其日は備後国しき名【敷名】の泊につかせ
たまふ【給ふ】。此ところ【所】はさんぬる応保のころほひ、一院
P04020
御幸の時、国司藤原の為成がつくたる御所のあり【有り】
けるを、入道相国、御まうけ【設け】にしつらはれたりしか
ども【共】、上皇それへはあがら【上がら】せたまは【給は】ず。「けふは卯月
一日、衣がへ【衣更】といふ事のあるぞかし」とて、おのおの
みやこ【都】の方をおもひ【思ひ】やりあそびたまふ【給ふ】に、岸
にいろ【色】ふかき藤の松にさき【咲き】かかりたりけるを、上皇
叡覧あて、隆季の大納言をめし【召し】て、「あの花おり【折り】
につかはせ【遣せ】」と仰ければ、左史生中原康定がはし
舟にの【乗つ】て、御前をこぎ【漕ぎ】とをり【通り】けるをめし【召し】て、
P04021
おり【折り】につかはす【遣す】。藤の花をたをり【手折り】、松の枝につけ
ながらもてまいり【参り】たり。「心ばせあり【有り】」など仰られて、
御感あり【有り】けり。「此花にて歌あるべし」と仰け
れば、隆季の大納言
千とせへん君がよはひに藤なみの
松のえだ【枝】にもかかりぬるかな W018
其後御前に人々あまた候はせたまひ【給ひ】て、御たは
ぶれごと【戯れ言】のあり【有り】しに、上皇しろき【白き】きぬ【衣】き【着】たる内侍が、
国綱【*邦綱】卿に心をかけたるな」とて、わらは【笑は】せおはしまし
P04022
ければ、大納言大にあらがい申さるるところ【所】に、ふみ【文】
も【持つ】たる便女がまい【参つ】て、「五条大納言どのへ」とて、
さしあげ【差し上げ】たり。「さればこそ」とて満座興ある事に
申あはれけり。大納言これをとてみ【見】たまへ【給へ】ば、
しらなみの衣の袖をしぼりつつ
きみ【君】ゆへ【故】にこそたち【立ち】もまはれね W019
上皇「やさしうこそおぼしめせ【思し召せ】。この返事はある
べきぞ」とて、やがて御硯をくださ【下さ】せ給ふ。大納言
返事には、
P04023
おもひ【思ひ】やれ君がおもかげ【面影】たつなみ【浪】の
よせくるたびにぬるるたもとを W020
それより備前国小島の泊につかせ給ふ。五日のひ、
天晴風しづかに、海上ものどけかりければ、御所
の御舟をはじめまいらせ【参らせ】て、人々の舟どもみな
いだし【出し】つつ、雲の浪煙の波をわけ【分け】すぎさせ給ひ
て、其日の酉剋に、播磨国やまとの浦につかせ
給ふ。それより御輿にめし【召し】て福原へいら【入ら】せおはし
ます。六日は供奉の人々、いま一日も宮こ【都】へとく【疾く】と
P04024
いそがれけれども【共】、新院御逗留あて、福原の
ところどころ【所々】歴覧あり【有り】けり。池の中納言頼盛卿
の山庄、あら田まで御らんぜらる。七日、福原を出
させ給ふに、隆季の大納言勅定をうけ給は【承つ】て、
入道相国の家の賞をこなは【行なは】る。入道の養子丹波
守清国【*清邦】、正下の五位、同入道の孫越前[B ノ]少将資盛、四位
の従上とぞきこえ【聞え】し。其日てら井【寺井】につかせ給ふ。
八日都へいらせ給ふに、御むかへ【向へ】の公卿殿上人、鳥羽の
草津へぞまいら【参ら】れける。還御の時は鳥羽殿へは
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御幸もならず、入道相国の西八条の亭へいらせ給ふ。
同四月廿二日、新帝の御即位あり【有り】。大極殿にて
あるべかりしかども【共】、一とせ炎上の後は、いまだつくり【造り】も
いだされず。太政官の庁にておこなはるべしと
さだめ【定め】られたりけるを、其時の九条殿申させ
給ひけるは、「太政官の庁は凡人家にとらば
公文所てい【体】のところ【所】なり也[* 「也」衍字]。大極殿なからん上は、
紫震殿【*紫宸殿】にてこそ御即位はあるべけれ」と申
させ給ひければ、紫震殿【*紫宸殿】にてぞ御即位は
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あり【有り】ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御
即位紫震殿【*紫宸殿】にてあり【有り】しは、主上御邪気に
よて、大極殿へ行幸かなは【叶は】ざりし故也。其例
いかがあるべからん。ただ後三条の院の延久佳例に
まかせ【任せ】、太政官の庁にておこなはるべき物を」と、人々
申あはれけれども【共】、九条殿の御ぱからひのうへ【上】は、
左右に及ばず。中宮弘徽殿より仁寿殿へうつ
らせ給ひて、たかみくら【高御座】へまいら【参ら】せ給ひける御有
さま【有様】めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられ
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けるなかに、小松殿の公達はこぞ【去年】おとど【大臣】うせ給ひ
『源氏揃』S0403
しあひだ、いろ【倚廬】にて籠居せられたり。○蔵人衛門[B ノ]
権佐定長、今度の御即位に違乱なくめで
たき様を厚紙十枚ばかりにこまごまとしるいて、
入道相国の北方八条の二位殿へまいらせ【参らせ】たりければ、
ゑみ【笑】をふくんでぞよろこば【喜ば】れける。かやうにはなやかに
めでたき事ども【共】あり【有り】しかども、世間は猶しづかなら
ず。其比一院第二の皇子茂仁【*以仁】の王と申しは、
御母加賀[B ノ]大納言季成卿の御娘なり。三条高倉に
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ましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去じ永万
元年十二月十六日、御年O[BH 十五]にて、忍つつ近衛河原の
大宮の御所にて御元服あり【有り】けり。御手跡うつくしう
あそばし【遊ばし】、御才学すぐれて在ましければ、位にも
つかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみ【嫉み】にて、おし
こめ【籠め】られさせたまひ【給ひ】つつ、花のもとの春の遊には、
紫毫をふるて手づから御作をかき、月の前の秋の
宴には、玉笛をふいてみづから雅音をあやつり給ふ。
かくしてあかしくらし給ふほど【程】に、治承四年には、
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御年卅にぞならせ在ましける。其比近衛河原に
候ける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御
所にまい【参つ】て、申けること【事】こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。「君は
天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代
にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつか【即か】せ給ふ
べきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、
心うしとはおぼしめさ【思し召さ】ずや。当世のてい【体】をみ【見】候に、
うへ【上】にはしたがひ【従ひ】たる様なれども、内々は平家をそね
まぬ物や候。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろ
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ぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられて
わたらせ給ふ御心をも、やすめ【休め】まいらせ【参らせ】、君も位につかせ
給ふべし。これ御孝行のいたりにてこそ候はん
ずれ。もしおぼしめし【思し召し】たたせ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなしてまいら【参ら】むずる源氏
どもこそおほう【多う】候へ」とて、申つづく。「まづ京都には、
出羽[B ノ]前司光信が子共、伊賀守光基、出羽[B ノ]判官光長、
出羽[B ノ]蔵人光重、出羽[B ノ]冠者光能、熊野には、故六条[B ノ]判官
為義が末子十郎義盛とてかくれ【隠れ】て候。摂津国には
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多田蔵人行綱こそ候へども【共】、新大納言成親卿の
謀反の時、同心しながらかへりちゆう【返り忠】したる不当人で
候へば、申に及ばず。さりながら、其弟多田[B ノ]二郎朝実【*知実】、
手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵[B ノ]
権[B ノ]守入道義基、子息石河[B ノ]判官代義兼、大和国には、
宇野七郎親治が子共、太郎有治・二郎清治、三郎
成治・四郎義治・近江国には、山本・柏木・錦古里、
美乃【*美濃】尾張には、山田[B ノ]次郎重広【*重弘】、河辺太郎重直、泉
太郎重光【*重満】、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其
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子[B ノ]太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、
矢島先生重高、其子[B ノ]太郎重行、甲斐[B ノ]国には、
逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、
加賀見二郎遠光・同小次郎長清、一条[B ノ]次郎忠頼、
板垣三郎兼信、逸見[B ノ]兵衛有義、武田五郎信光、安田
三郎義定、信乃【*信濃】国には、大内太郎維義【*惟義】、岡田冠者親義、
平賀冠者盛義、其子[B ノ]四郎義信、故[M 「小」をミセケチ「故」と傍書]帯刀先生
義方【*義賢】が次男木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛
佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義教【*義憲】、佐竹冠者
P04033
正義【*昌義】、其子[B ノ]太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、
五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子九郎
冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲
が後胤なり。朝敵をもたいらげ【平げ】、宿望をとげし
事は、源平いづれ勝劣なかりしかども【共】、今者雲
泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなを【猶】おとれ
り。国には国司にしたがひ、庄には領所【*預所】につかは【使は】れ、公事
雑事にかりたてられて、やすひ【安い】思ひも候はず。
いかばかり心うく候らん。君もしおぼしめし【思し召し】たたせ給て、
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令旨をたう【給う】づるもの【物】ならば、夜を日についで
馳のぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐら
すべからず。入道も年こそよ【寄つ】て候とも、子共ひき具
してまいり【参り】候べし」とぞ申たる。宮は此事いかがある
べからんとて、しばし【暫】は御承引もなかりけるが、阿古
丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言
維長【*伊長】と申し候〔は〕勝たる相人なりければ、時の人相少
納言とぞ申ける。其人が此宮をみ【見】まひらせ【参らせ】て、「位に
即せ給べき相在ます。天下の事思食はなた【放た】せ給ふ
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べからず」と申けるうへ、源三位入道もかやう【斯様】に申され
ければ、「さてはしかる【然る】べし。天照大神の御告やらん」
とて、ひしひしとおぼしめし【思し召し】たた【立た】せ給ひけり。熊野に
候十郎義盛をめし【召し】て、蔵人になさる。行家と改名
して、令旨の御使に東国へぞ下ける。同四月廿八日、
宮こ【都】をたて、近江国よりはじめて、美乃【*美濃】尾張の
源氏共に次第にふれてゆくほど【程】に、五月十日、伊豆の
北条にくだりつき、流人前[B ノ]兵衛[B ノ]佐殿に令旨たてまつ
り【奉り】、信太三郎先生義教【*義憲】は兄なればとら【取ら】せんとて、
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常陸国信太浮島へくだる。木曾冠者義仲は
甥なればたば【賜ば】んとて、O[BH 東]山道へぞおもむきける。
其比の熊野別当湛増は、平家に心ざしふかかり【深かり】けるが、
何としてかもれ【洩れ】きい【聞い】たりけん、「新宮十郎義盛こそ
高倉宮の令旨給はて、美乃【*美濃】尾張の源氏どもふれ
もよほし、既に謀反ををこす【起こす】なれ。那智新宮の
もの【者】共は、さだめて源氏の方うど【方人】をぞせんずらん。
湛増は平家の御恩を雨【*天】やま【山】とかうむ【蒙つ】たれば、
いかでか背たてまつる【奉る】べき。那智新宮の物共に
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矢一い【射】かけて、平家へ子細を申さん」とて、ひた甲
一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には鳥井の法眼・
高坊の法眼、侍には宇ゐ【宇井】・すずき【鈴木】・水屋・かめのこう【亀の甲】、
那知【*那智】には執行法眼以下、都合其勢二千余人なり。
時つくり、矢合して、源氏の方にはとこそゐれ【射れ】、平家
の方にはかうこそいれ【射れ】とて、矢さけび【叫び】の声の退転
もなく、かぶら【鏑】のなり【鳴り】やむひまもなく、三日がほどこそ
たたかふ【戦う】たれ。熊野別当湛増、家子郎等おほく【多く】
うた【討た】せ、我身手おひ、からき命をいき【生き】つつ、
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『鼬之沙汰』S0404
本宮へこそにげのぼりけれ。○さるほど【程】に、法皇は、
「とをき【遠き】国へもながされ、はるかの島へもうつされん
ずるにや」と仰せけれども、城南の離宮にして、
ことしは二年にならせ給ふ。同五月十二日午剋ばか
り、御所中にはゐたち[B 「ゐ」に「い」と傍書]【鼬】おびたたしう【夥しう】はしり【走り】さはぐ【騒ぐ】。
法皇大に驚きおぼしめし【思し召し】、御占形をあそばひ【遊ばい】て、
近江[B ノ]守仲兼、其比はいまだ鶴蔵人とめされける
をめし【召し】て、「この占形も【持つ】て、泰親がもとへゆき、きと
勘がへさせて、勘状をとてまいれ【参れ】」とぞ仰ける。
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仲兼これを給はて、陰陽頭安陪【*安倍】泰親がもとへ
ゆく【行く】。おりふし【折節】宿所にはなかりけり。「白河なるところ【所】へ」と
いひければ、それへたづね【尋ね】ゆき、泰親にあふて
勅定のおもむき【赴き】仰すれば、やがて勘状を
まいらせ【参らせ】けり。仲兼鳥羽殿にかへりまい【参つ】て、門
よりまいら【参ら】うどすれば、守護の武士ども【共】ゆるさ【許さ】ず。
案内はし【知つ】たり、築地をこへ、大床のしたをはう【這う】て、
きり板【切板】より泰親が勘状をこそまいらせ【参らせ】たれ。
法皇これをあけて御らんずれば、「いま三日が
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うち御悦、ならびに御なげき」とぞ申たる。
法皇「御よろこびはしかる【然る】べし。これほどの御身に
なて、又いかなる御難のあらんずるやらん」とぞ
仰ける。さるほど【程】に、前[B ノ]右大将宗盛卿、法皇の御事
をたりふし【垂伏】申されければ、入道相国やうやうおもひ【思ひ】
なを【直つ】て、同十三日鳥羽殿をいだしたてまつり【奉り】、
八条烏丸の美福門院[B ノ]御所へ御幸なしたて
まつる【奉る】。いま三日がうちの御悦とは、泰親これをぞ
申ける。かかりけるところ【所】に、熊野[B ノ]別当湛増飛
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脚をもて、高倉宮の御謀反のよし宮こ【都】へ申たり
ければ、前右大将宗盛卿大にさはい【騒い】で、入道相国折
ふし【折節】福原におはしけるに、此よし申されたりければ、
ききもあへず、やがて宮こ【都】へはせ【馳せ】のぼり、「是非に
及べからず。高倉宮からめとて、土佐の畑へながせ」と
こそのたまひけれ。上卿は三条大納言実房、識事は
頭弁光雅とぞきこえ【聞え】し。源大夫判官兼綱、出羽[B ノ]
判官光長うけ給は【承つ】て、宮の御所へぞむかひ【向ひ】ける。
この源大夫判官と申は、三位入道の次男也。しかる【然る】を
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この人数にいれ【入れ】られけるは、高倉の宮の御謀反
を三位入道すすめ申たりと、平家いまだしら【知ら】ざり
『信連』S0405
けるによてなり。○宮はさ月【五月】十五夜の雲間の月
をながめさせ給ひ、なんのゆくゑ【行方】もおぼしめし【思し召し】よら
ざりけるに、源三位入道の使者とて、ふみ【文】も【持つ】ていそ
がしげO[BH に]ていでき【出来】たり。宮の御めのと子【乳母子】、六条のすけ【亮】
の大夫宗信、これをとて御前へまいり【参り】、ひらい【開い】て
みる【見る】に、「君の御謀反すでにあらはれ【現はれ】させ給ひて、
土左【*土佐】の畑へながしまいらす【参らす】べしとて、官人共御むかへ【向へ】に
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まいり【参り】候。いそぎ御所をいでさせ給て、三井寺へ
いら【入ら】せをはしませ。入道もやがてまいり【参り】候べし」とぞ
かい【書い】たりける。「こはいかがせん」とて、さはが【騒が】せおはします
ところ【所】に、宮の侍長兵衛尉信連といふ物あり【有り】。
「ただ別の様候まじ。女房装束にていで【出で】させ給へ」
と申ければ、「しかる【然る】べし」とて、御ぐし【髪】をみだし【乱し】、かさね【重ね】
たるぎよ衣【御衣】に一女がさ【市女笠】をぞめさ【召さ】れける。六条の助[B ノ]大夫
宗信、唐笠も【持つ】て御ともつかまつる。鶴丸といふ童、
袋にもの【物】いれ【入れ】ていただい【戴い】たり。譬へば青侍の女を
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むかへ【向へ】てゆくやうにいでたた【出立た】せ給ひて、高倉を北へ
おち【落ち】させ給ふに、大なる溝のあり【有り】けるを、いともの【物】
がるう【軽う】こえさせ給へば、みちゆき人たちとどま【留まつ】て、
「はしたなの女房の溝のこえ【越え】やうや」とて、あやし
げにみ【見】まいらせ【参らせ】ければ、いとどあしばや【足速】にすぎさせ
給ふ。長兵衛尉信連は、御所の留守にぞをか【置か】れたる。
女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしの
ば【忍ば】せて、み【見】ぐるしき物あらばとりした【取認】ためむとてみる【見る】
ほど【程】に、宮のさしも御秘蔵あり【有り】ける小枝ときこえ【聞え】し
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御笛を、只今しもつねの御所の御枕にとり
わすれ【忘れ】させたまひ【給ひ】たりけるぞ、立かへ【帰つ】てもとら【取ら】ま
ほしうおぼしめす【思し召す】、信連これをみ【見】つけて、「あなあさ
まし。君のさしも御秘蔵ある御笛を」と申て、
五町がうちにお【追つ】ついてまいらせ【参らせ】たり。宮なのめ
ならず御感あて、「われしな【死な】ば、此笛をば御棺に
いれよ【入れよ】」とぞ仰ける。「やがて御ともに候へ」と仰ければ、
信連申けるは、「唯今御所へ官人共が御むかへ【迎へ】にまい
り【参り】候なるに、御前に人一人も候はざらんが、無下に
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うたてしう候。信連が此御所に候とは、上下みな
しら【知ら】れたる事にて候に、今夜候はざらんは、それも
其夜はにげ【逃げ】たりけりなどいはれん事、弓矢
とる身は、かりにも名こそおしう【惜しう】候へ。官人ども【共】
しばらくあいしらい候て、打破て、やがてまいり【参り】候
はん」とて、はしり【走り】かへる。長兵衛が其日[B ノ]装束には、
うすあを【薄青】の狩衣のしたに、萠黄威の腹巻をきて、
衛府の太刀をぞはいたりける。三条面の惣門をも、
高倉面の小門をも、ともにひらい【開い】て待かけたり。
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源大夫[B ノ]判官兼綱、出羽判官光長、都合其勢三百
余騎、十五日の夜の子の剋に、宮の御所へぞ押
寄たる。源大夫判官は、存ずる旨あり【有り】とおぼえ
て、はるかの門前にひかへたり。出羽判官光長は、馬に
乗ながら門のうちに打入り、庭にひかへて大音
声をあげて申けるは、「御謀反のきこえ【聞こえ】候によて、
官人共別当宣を承はり[* 「年はり」と有るのを他本により訂正]、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。いそ
ぎ御出候へ」と申ければ、長兵衛尉大床に立て、「是
は当時は御所でも候はず。御物まうでで候ぞ。何
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事ぞ、こと【事】の子細を申されよ」といひければ、「何条、
此御所ならではいづくへかわたらせ給べかんなる。さな
いは【言は】せそ。下部ども【共】まい【参つ】て、さがし【探し】たてまつれ」と
ぞ申ける。長兵衛尉これをきい【聞い】て、「物もおぼえぬ
官人ども【共】が申様かな。馬に乗ながら門のうちへまいる【参る】
だにも奇怪なるに、下部共まい【参つ】てさがしまいらせ
よ【参らせよ】とは、いかで申ぞ。左兵衛尉長谷部信連が候ぞ。
ちかう【近う】よ【寄つ】てあやまちすな」とぞ申ける。庁の下部
のなかに、金武といふ大ぢから【大力】のかう【剛】の物、長兵衛に
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目をかけて、大床のうゑゑとび【飛び】のぼる。これをみて、
どうれいども十四五人ぞつづい【続い】たる。長兵衛は狩衣の
帯紐ひ【引つ】きてすつる【捨つる】ままに、衛府の太刀なれども【共】、
身をば心えてつくら【造ら】せたるをぬき【抜き】あはせ【合はせ】て、さんざん【散々】
にこそき【斬つ】たりけれ。かたき【敵】は大太刀・大長刀でふる
まへども【共】、信連が衛府の太刀に切たてられて、嵐に
木のは【葉】のちるやうに、庭へさとぞおりたりける。
さ月【五月】十五夜の雲間の月のあらはれ【現はれ】いで【出で】て、あかか
り【明かかり】けるに、かたき【敵】は無案内なり、信連は案内者也。
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あそこの面らう[M 「面道」とあり「道」をミセケチ「らう」と傍書]にお【追つ】かけ【掛け】ては、はたときり【斬り】、ここの
つまりにお【追つ】つめては、ちやうどきる。「いかに宜旨の
御使をばかうはするぞ」といひければ、「宜旨とは
なんぞ」とて、太刀ゆがめばおどり【躍り】のき、おしなをし【直し】、
ふみ【踏み】なをし【直し】、たちどころによき物ども【共】十四五人こそ
きり【斬り】ふせたれ。太刀のさき三寸ばかりうちを【折つ】て、
腹をきらんと腰をさぐれ【探れ】ば、さやまき【鞘巻】おち【落ち】て
なかりけり。ちから【力】およば【及ば】ず、大手をひろげて、高倉
面の小門よりはしり【走り】いでんとするところ【所】に、大長刀
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も【持つ】たる男一人より【寄り】あひたり。信連長刀にのら【乗ら】んと
とんでかかるが、のりそんじ【損じ】てもも【股】をぬいさま【縫様】に
つらぬか【貫ぬか】れて、心はたけく【猛く】おもへ【思へ】ども、大勢の中
にとりこめ【籠め】られて、いけどり【生捕り】にこそせられけれ。
其後御所をさがせども、宮わたらせ給はず。信連
ばかりからめて、六波羅へい【率】てまいる【参る】。入道相国は簾
中にゐたまへ【給へ】り。前右大将宗盛卿大床にたて、信連
を大庭にひ【引つ】すゑ【据ゑ】させ、「まこと【誠】にわ男は、「宣旨とは
なん【何】ぞ」とてき【斬つ】たりけるか。おほく【多く】の庁の下部を
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刃傷殺害したん也。せむずるところ【所】、糾問してよく
よく事の子細をたづね【尋ね】とひ、其後河原にひき
いだいて、かうべ【首】をはね候へ」とぞのたまひける。
信連すこし【少し】もさはが【騒が】ず、あざわら【笑つ】て申けるは、「この
ほどよなよな【夜な夜な】あの御所を、物がうかがひ【伺ひ】候時に、なに
事のあるべきと存て、用心も仕候はぬところ【所】に、
よろう【鎧う】たる物共がうち入て候を、「なに物ぞ」ととひ
候へば、「宜旨の御使」となのり【名乗り】候。山賊・海賊・強盜など
申やつ原は、或は「公達のいら【入ら】せ給ふぞ」或は「宜旨の
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御使」などなのり【名乗り】候と、かねがねうけ給は【承つ】て候へば、
「宜旨とはなんぞ」とて、きたる候。凡は物の具
をもおもふ【思ふ】さまにつかまつり【仕り】、かね【鉄】よき太刀をも
も【持つ】て候ば、官人共をよも一人も安穏ではかへし【返し】
候はじ。又宮の御在所は、いづくにかわたらせ給ふ
らん、しり【知り】まいらせ【参らせ】候はず。たとひしり【知り】まいらせ【参らせ】て
候とも、さぶらひほん【侍品】の物の、申さじとおもひ【思ひ】きてん
事、糾問におよ【及ん】で申べしや」とて、其後は物も
申さず。いくらもなみ【並】ゐたりける平家のさぶらい
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ども【共】、「あぱれかう【剛】の物かな。あたらおのこ【男】をきられ
むずらんむざん【無慚】さよ」と申あへり。其なかにある人の
申けるは、「あれは先年ところ【所】にあり【有り】し時も、大番
衆がとどめ【留め】かねたりし強盜六人、只一人お【押つ】かか【懸つ】て、
四人きり【斬り】ふせ【伏せ】、二人いけどり【生捕り】にして、其時なされ
たる左兵衛尉ぞかし。これをこそ一人当千の
つは物【兵】ともいふべけれ」とて、口々におしみ【惜しみ】あへりければ、
入道相国いかがおもは【思は】れけん、伯耆のひ野【日野】へぞ
ながされける。源氏の世になて、東国へくだり、
P04055
梶原平三景時について、事の根元一々次第に
申ければ、鎌倉殿、神妙也と感じおぼしめし【思し召し】
て、能登国に御恩かうぶりけるとぞきこえ【聞え】し。
『競』S0406
○宮は高倉を北へ、近衛を東へ、賀茂河をわた
らせ給て、如意山へいらせおはします。昔清見原
の天皇のいまだ東宮の御時、賊徒におそは【襲は】れ
させ給ひて、吉野山へいらせ給ひけるにこそ、
をとめ【少女】のすがたをばからせ給ひけるなれ。いま此
君の御ありさまも、それにはたがは【違は】せ給はず。
P04056
しらぬ山路を夜もすがらわけ【分け】いら【入ら】せ給ふに、
いつならはし【習はし】の御事なれば、御あし【足】よりいづる【出づる】血は、
いさごをそめて紅の如し。夏草のしげみがなか
の露けさも、さこそはところせう【所狭う】おぼしめされ
けめ。かくして暁方に三井寺へいら【入ら】せおはし
ます。「かひなき命のおしさ【惜しさ】に、衆徒をたのん【頼ん】で
入御あり【有り】」と仰ければ、大衆畏悦で、法輪院に
御所をしつらひ、それにいれ【入れ】たてま【奉つ】て、かたの
ごとくの供御したて【仕立て】てまいらせ【参らせ】けり。あくれば十六
P04057
日、高倉の宮の御謀叛おこさせ給ひて、うせ【失せ】
させ給ぬと申ほどこそあり【有り】けれ、京中の騒動
なのめならず。法皇これをきこしめして、「鳥羽殿
を御いで【出で】あるは御悦なり。ならびに御歎と
泰親が勘状をまいらせ【参らせ】たるは、これを申けり」とぞ
仰ける。抑源三位入道、年ごろ日比もあれば
こそあり【有り】けめ、ことし【今年】いかなる心にて謀叛をば
おこし【起し】けるぞといふに、平家の次男前[B ノ]右大将宗盛卿、
すまじき事をしたまへ【給へ】り。されば、人の世にあれ
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ばとて、すぞろにすまじき事をもし、いふ
まじき事をもいふは、よくよく思慮あるべき物
也。たとへば、源三位入道の嫡子仲綱のもとに、
九重にきこえ【聞え】たる名馬あり【有り】。鹿毛なる馬のなら
びなき逸物、のり【乗り】はしり【走り】、心むき、又あるべしとも
覚えず。名をば木のした【下】とぞいはれける。前[B ノ]右大
将これをつたへきき、仲綱のもとへ使者たて、「き
こえ【聞え】候名馬をみ【見】候ばや」とのたまひつかはさ【遣さ】れたり
ければ、伊豆守の返事には、「さる馬はも【持つ】て候つれ
P04059
ども、此ほどあまりにのり損じて候つるあい
だ、しばらくいたはら【労ら】せ候はんとて、田舎へつかはし【遣し】
て候」。「さらんには、ちから【力】なし」とて、其後沙汰もなかり
しを、おほく【多く】なみ【並み】ゐ【居】たりける平家の侍共、「あぱれ、
其馬はおととひ【一昨日】までは候し物を。昨日も候ひ
し、けさも庭のりし候つる」など申ければ、
「さてはおしむ【惜しむ】ごさんなれ。にくし。こへ【乞へ】」とて、侍して
はせ【馳せ】させ、ふみ【文】などしても、一日がうちに五六度
七八度などこは【乞は】れければ、三位入道これをきき、
P04060
伊豆守よびよせ、「たとひこがね【黄金】をまろめたる
馬なりとも【共】、それほど【程】に人のこわ【乞は】う物をおし
む【惜しむ】べき様やある。すみやか【速やか】にその馬六波羅へつかは
せ【遣せ】」とこその給ひけれ。伊豆守力およば【及ば】で、一首の
歌をかき【書き】そへて六波羅へつかはす【遣す】。
こひしく【恋しく】はき【来】てもみよ【見よ】かし身にそへ【添へ】る
かげをばいかがはなち【放ち】やるべき W021
宗盛卿歌の返事をばし給はで、「あぱれ馬や。馬は
まこと【誠】によい馬でありけり。されどもあまりに
P04061
主がおしみ【惜しみ】つるがにくきに、やがて主が名のりを
かなやき【鉄焼】にせよ」とて、仲綱といふかなやきを
して、むまや【廐】にたて【立て】られけり。客人来て、「きこえ【聞え】
候名馬をみ候ばや」と申ければ、「その仲綱めに
鞍をい【置い】てひき【引き】だせ、仲綱めのれ、仲綱めうて【打て】、はれ」
などの給ひければ、伊豆守これをつたへ【伝へ】きき、「身に
かへ【代へ】ておもふ【思ふ】馬なれども、権威につゐ【付い】てとら【取ら】るる
だにもあるに、馬ゆへ【故】仲綱が天下のわらはれ
ぐさ【笑はれ草】とならんずるこそやすから【安から】ね」とて、大に
P04062
いきどをら【憤ら】れければ、三位入道これをきき、伊豆守
にむか【向つ】て、「何事のあるべきとおもひ【思ひ】あなづて、
平家の人ども【共】が、さやうのしれ事【痴事】をいふにこそあん
なれ。其儀ならば、いのち【命】いき【生き】てもなにかせん。
便宜をうかがふ【窺う】てこそあらめ」とて、わたくしには
おもひ【思ひ】もたたず、宮をすすめ【勧め】申たりけるとぞ、後には
きこえ【聞え】し。これにつけても、天下の人、小松のおとど【大臣】
の御事をぞしのび【忍び】申ける。或時、小松殿参内の
次に、中宮の御方へまいら【参ら】せ給ひたりけるに、八尺
P04063
ばかりあり【有り】けるくちなはが、おとど【大臣】のさしぬきの
左のりん【輪】をはひ【這ひ】まはりけるを、重盛さはが【騒が】ば、女
房達もさはぎ【騒ぎ】、中宮もおどろかせ給なんずと
おぼしめし【思し召し】、左の手でくちなはのを【尾】をおさへ【抑へ】、
右の手でかしら【頭】をとり、直衣の袖のうちにひき
いれ【引入れ】、ちともさはが【騒が】ず、つゐ立て、「六位や候六位や候」と
めされければ、伊豆守、其比はいまだ衛府蔵人
でおはしけるが、「仲綱」となの【名乗つ】てまいら【参ら】れたりけるに、
此くちなはをたぶ【賜ぶ】。給て弓場殿をへ【経】て、殿上の
P04064
小庭にいでつつ、御倉の小舎人をめし【召し】て、「これ給はれ」
といはれければ、大にかしら【頭】をふてにげさりぬ。
ちから【力】をよば【及ば】で、わが郎等競の滝口をめし【召し】て、これ
をたぶ【賜ぶ】。給はてすててげり。そのあした小松殿よい馬
に鞍をい【置い】て、伊豆守のもとへつかはす【遣す】とて、「さて
も昨日のふるまひ【振舞ひ】こそ、ゆう【優】に候しか。是はのり
一【乗り一】の馬で候。夜陰に及で、陣外より傾城のもとへ
かよは【通は】れむ時、もちゐ【用ゐ】らるべし」とてつかはさ【遣さ】る。
伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬かしこまて
P04065
給はり候ぬ。昨日のふるまひ【振舞ひ】は、還城楽にこそに【似】て
候ひしか」とぞ申されける。いかなれば、小松おとどは
かうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿はさこそ
なからめ、あまさへ【剰へ】人のおしむ【惜しむ】馬こひ【乞ひ】とて、天下の
大事に及ぬるこそうたてけれ。同十六日の夜に入て、
源三位入道頼政、嫡子伊豆[B ノ]守仲綱、次男源大夫[B ノ]
判官兼綱、六条[B ノ]蔵人仲家、其子[B ノ]蔵人太郎仲光
以下、都合其勢三百余騎館に火かけやき【焼き】あげ
て、三井寺へこそまいら【参ら】れけれ。三位入道の侍[B に]、渡辺
P04066
の源三滝口競といふ物あり【有り】。はせ【馳せ】をくれてとど
ま【留まつ】たりけるを、前右大将、競をめし【召し】て、「いかになんぢ
は三位入道のともをばせでとどまたるぞ」と
の給ければ、競畏て申けるは、「自然の事候
はば、まさきかけて命をたてまつら【奉ら】んとこそ、日
来は存て、候ひつれども、何とおもは【思は】れ候けるやら
む、かうともおほせ【仰せ】られ候はず」。「抑朝敵頼政法師
に同心せむとやおもふ【思ふ】。又これにも兼参の物ぞかし。
先途後栄を存じて、当家に奉公いたさんとや
P04067
思ふ。あり【有り】のままに申せ」とこそのたまひければ、
競涙をはらはらとながひ【流い】て、「相伝のよしみは
さる事にて候へども、いかが朝敵となれる人
に同心をばし候べき。殿中に奉公仕うずる候」と
申ければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん
恩には、ちともおとるまじきぞ」とて、入給ひぬ。
さぶらひに、「競はあるか」。「候」。「競はあるか」。「候」とて、あした
よりゆふべに及まで祗候す。やうやう日もくれけ
れば、大将いで【出で】られたり。競かしこまて申けるは、
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「三位入道殿三井寺にときこえ【聞え】候。さだめて
打手むけ【向け】られ候はんずらん。心にくうも候はず。三井
寺法師、さては渡辺のしたしい【親しい】やつ原こそ候
らめ[* 「候うめ」と有るのを他本により訂正]。ゑりうち【択討ち】などもし候べきに、の【乗つ】て事にあふ
べき馬の候つる〔を〕、したしい【親しい】やつめにぬすま【盜ま】れて候。
御馬一疋くだしあづかる【預る】べうや候らん」と申ければ、
大将「もともさるべし」とて、白葦毛なる馬の煖廷
とて秘蔵せられたりけるに、よい鞍をい【置い】てぞ
たう【賜う】だりける。競やかた【館】にかへ【帰つ】て、「はや【早】日のくれよかし。
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此馬に打乗て三井寺へはせまいり【参り】、三位入道殿の
まさき【真先】かけて打死せん」とぞ申ける。日もやうやう
くれければ、妻子ども【共】かしこここへ立しのば【忍ば】せて、三
井寺へ出立ける心の中こそむざん【無慚】なれ。ひやうもん【平文】
の狩衣の菊とぢ【菊綴】おほきらか【大きらか】にしたるに、重代のきせ
ながの、ひおどし【緋縅】のよろひに星じろ【星白】の甲の緒をしめ、
いか物づくりの大太刀はき、廿四さい【差い】たる大なかぐろ【中黒】の
矢おひ【負ひ】、滝口の骨法わすれ【忘れ】じとや、鷹の羽にて
はいだりける的矢一手ぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の
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弓も【持つ】て、煖廷にうちのり、のりかへ一騎うちぐ
し【具し】、とねり男にもたて【楯】わき【脇】ばさませ、屋形に火かけ
やき【焼き】あげて、三井寺へこそ馳たりけれ。六波羅
には、競が宿所より火いで【出で】きたりとて、ひしめき
けり。大将いそぎいで【出で】て、「競はあるか」とたづね【尋ね】給ふに、
「候はず」と申す。「すは、きやつを手のべ【手延べ】にして、たばから
れぬるは。お【追つ】かけ【掛け】てうて」とのたまへ【宣へ】ども、競はもとより
すぐれたるつよ弓【強弓】せい兵【精兵】、矢つぎばやの手きき【手利】、大ぢから【大力】
の剛[B 「甲」の左に「剛」と傍書]の物、「廿四さいたる矢でまづ廿四人は射ころさ【殺さ】れ
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なんず。おと【音】なせそ」とて、むかふ【向ふ】物こそなかりけれ。
三井寺には折ふし【折節】競が沙汰あり【有り】けり。渡辺党[* 「渡鳥党」と有るのを他本により訂正]
「競をばめし【召し】ぐす【具す】べう候つる物を。六波羅にのこり【残り】
とどま【留まつ】て、いかなるうき目にかあひ候らん」と申ければ、
三位入道心をし【知つ】て、「よもそのもの【物】、無台にとらへ
からめ【搦め】られはせじ。入道に心ざしふかい物也。いまみよ【見よ】、
只今まいら【参ら】うずるぞ」とのたまひもはてねば、競つと
いできたり。「さればこそ」とぞのたまひける。競かしこ
まて申けるは、「伊豆守殿の木の下がかはりに、六波
P04072
羅の煖廷こそとてまい【参つ】て候へ。まいらせ【参らせ】候はん」とて、
伊豆守にたてまつる【奉る】。伊豆守なのめならず
悦て、やがて尾髪をきり、かなやき【鉄焼】して、次の夜
六波羅へつかはし【遣し】、夜半ばかり門のうちへぞおひいれ【追入れ】
たる。馬やに入て馬どもにくひ【食ひ】あひければ、とねり【舎人】
おどろきあひ、「煖廷がまい【参つ】て候」と申す。大将いそ
ぎいで【出で】てみ【見】たまへ【給へ】ば、「昔は煖廷、今は平の宗盛入道」と
いふかなやき【鉄焼】をぞしたりける。大将「やすからぬ競めを、
手のび【手延び】にしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。
P04073
今度三井寺へよせ【寄せ】たらんには、いかにもしてまづ
競めをいけどり【生捕り】にせよ。のこぎり【鋸】で頸きらん」
とて、おどり【躍り】あがりおどり【躍り】あがりいから【怒ら】れけれども、南丁が
『山門牒状』S0407
尾かみ【尾髪】もおい【生ひ】ず、かなやき【鉄焼】も又うせざりけり。○三井寺
には貝鐘ならい【鳴らい】て、大衆僉議す。「近日世上の体
を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさ
に此時にあたれり。今度清盛入道が暴悪[* 「慕悪」と有るのを他本により訂正]を
いまし〔め〕ずは、何日をか期すべき。宮ここに入御の御
事、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあら
P04074
ずや。天衆地類も影向をたれ、仏力神力も
降伏をくはへまします事などかなかるべき。抑
北嶺は円宗一味の学地、南都は夏臈得度の
戒定也。牒奏のところ【所】に、などかくみ【与】せざるべき」と、
一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状を
こそを〔く〕り【送り】けれ。山門への状云、園城寺牒す、延暦寺
の衙殊に合力をいたして、当寺の破滅を助られ
むとおもふ【思ふ】状右入道浄海、ほしいままに王法をうし
なひ【失ひ】、仏法をほろぼさんとす。愁歎無極ところ【所】に、
P04075
去る十五日[B ノ]夜、一院第二の王子、ひそかに入寺
せしめ給ふ。爰院宣と号していだし【出し】たてまつる【奉る】
べきよし、せめ【責】あり【有り】といへども【共】、出したてまつるにあたはず。
仍て官軍をはなち【放ち】つかはす【遣す】べきむね、聞へあり【有り】。
当寺の破滅、まさに此時にあたれり。諸衆何ぞ
愁歎せざらんや。就中に延暦・園城両寺は、門跡
二に相分るといへども、学するところ【所】は是円頓一
味の教門におなじ。たとへば鳥の左右の翅のごとし【如し】。
又車の二O[BH の]輪に似たり。一方闕けんにおいては、いかでか
P04076
そのなげき【歎】なからんや。者ことに合力をいたして、
当寺の破滅を助られば、早く年来の遺恨
を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議かくの如し。
仍牒奏件の如し。治承四年五月十八日大衆等とぞ
『南都牒状』S0408
かい【書い】たりける。○山門の大衆此状を披見して、「こはいかに、
当山の末寺であり【有り】ながら、鳥の左右の翅の如し、又
車の二の輪に似たりと、おさへ【抑へ】て書でう【条】奇怪なり」
とて、返牒ををくら【送ら】ず。其上入道相国、天台座主明雲
大僧正に衆徒をしづめらるべきよしのたまひければ、
P04077
座主いそぎ登山して大衆をしづめ給ふ。かかりし
間、宮の御方へは不定のよしをぞ申ける。又入道相国、
近江米二万石、北国のおりのべぎぬ【織延絹】三千疋、往来に
よせ【寄せ】らる。これをたにだに【谷々】峰々にひかれけるに、俄の
事ではあり【有り】、一人してあまたをとる大衆もあり【有り】、
又手をむなしう【空しう】して一もとらぬ衆徒もあり【有り】。
なに物のしわざにや有けん、落書をぞしたりける。
山法師おりのべ衣【織延衣】うすくして
恥をばえこそかくさ【隠さ】ざりけれ W022
P04078
又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
おりのべ【織延】を一きれ【一切れ】もえぬわれら【我等】さへ
うすはぢ【薄恥】をかくかずに入かな W023
又南都への状に云、園城寺牒す、興福寺[B ノ]衙殊に
合力をいたして、当寺の破滅を助られんと乞状
右仏法の殊勝なる事は、王法をまぼらんがため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。爰に入道
前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに
国威をひそかにし、朝政をみだり、内につけ外につけ、
P04079
恨をなし歎をなす間、今月十五日[B ノ]夜、一院第二の
王子、不慮の難をのがれ【逃れ】んがために、にはかに入寺せし
め給ふ。ここに院宣と号して出したてまつる【奉る】べきむね、
せめあり【有り】といへども、衆徒一向これをおしみ【惜しみ】奉る。仍彼
禅門、武士を当寺にいれ【入れ】んとす。仏法と云王法[B と]云、
一時にまさに破滅せんとす。昔唐の恵正【*会昌】天子、軍
兵をもて仏法をほろぼさしめし時、清涼山の衆、合
戦をいたしてこれをふせく【防く】。王権猶かくの如し。
何況や謀叛八逆の輩においてをや。就中に
P04080
南京は例なくて罪なき長者を配流せらる。今
度にあらずは、何日か会稽をとげん。ねがは【願は】くは、
衆徒、内には仏法の破滅をたすけ【助け】、外には悪逆の
伴類を退けば、同心のいたり本懐に足ぬべし。
衆徒の僉議かくの如し。仍牒奏如件。治承四年
五月十八日大衆等とぞかい【書い】たりける。南都の大衆、此
状を披見して、やがて返牒ををくる【送る】。其返牒に云、
興福寺牒す、園城寺の衙来牒一紙に載られたり。
右入道浄海が為に、貴寺の仏法をほろぼさんと
P04081
するよしの事。牒す、玉泉玉花、両家の宗義を
立といへども、金章金句おなじく一代教文より
出たり。南京北京ともにもて如来の弟子たり。
自寺他寺互に調達が魔障を伏すべし。抑
清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父
正盛蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭を
とる。大蔵卿為房賀州刺史[* 「判史」と有るのを他本により訂正]のいにしへ、検非所に補し、
修理大夫顕季播磨[B ノ]大守たし昔、厩[B ノ]別当職に
任ず。しかる【然る】を親父忠盛昇殿をゆるさ【許さ】れし時、
P04082
都鄙の老少みな蓬戸瑕瑾をおしみ【惜しみ】、内外の
栄幸をのをの【各々】馬台の辰門に啼く。忠盛青雲
の翅を刷といへども、世の民なを【猶】白屋の種をかろん
ず。名ををしむ青侍、其家にのぞむ事なし。
しかるを去る平治元年十二月、太上天皇一戦の
功を感じて、不次の賞を授給ひしよりこの
かた、たかく相国にのぼり、兼て兵杖【*兵仗】を給はる。
男子或は台階をかたじけなうし、或は羽林に
つらなる。女子或は中宮職にそなはり、或は
P04083
准后の宣を蒙る。群弟庶子みな棘路に
あゆみ【歩み】、其孫彼甥ことごとく【悉く】竹符をさく。しかのみ
ならず、九州を統領し、百司を進退して、
奴婢みな僕従となす。一毛心にたがへ【違へ】ば、王侯と
いへどもこれをとらへ、片言耳にさかふれば、
公卿といへども【共】これをからむ。これによて或は一旦
の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂をのが
れ【逃れ】んとおもて万乗の聖主猶緬転の媚を
なし、重代の家君かへて【却つて】膝行の礼をいたす。
P04084
代々相伝の家領を奪ふといへども、じやうさい【上宰】も
おそれ【恐れ】て舌をまき、みやみや【宮々】相承の庄園をとる
といへども【共】、権威にはばかて物いふ事なし。勝に
のるあまり、去年の冬十一月、太上皇のすみかを
追補し、博陸公の身ををし【推し】ながす【流す】。反逆の甚し
い事、誠に古今に絶たり。其時我等、すべからく
賊衆にゆき向て其罪を問べしといへども【共】、或は
神慮にあひはばかり、或は綸言と称するによて、
鬱陶をおさへ【抑へ】光陰を送るあひだ、かさね【重ね】て
P04085
軍兵ををこし【起こし】て、一院第二の親王宮をうちかこ
むところ【所】に、八幡三所・春日の大明神、ひそかに
影向をたれ、仙蹕をささげたてまつり【奉り】、貴寺に
をくり【送り】つけて、新羅のとぼそ【扉】にあづけたて
まつる【奉る】。王法つく【尽く】[* 「つき」と有るのを他本により訂正]べからざるむねあきらけし。随て
又貴寺身命をすてて守護し奉る条、含識
のたぐひ、誰か随喜せざらん。我等遠域にあて、
そのなさけを感ずるところ【所】に、清盛入道尚胸
気ををこし【起こし】て、貴寺に入らんとするよし、ほのかに
P04086
承及をもて、兼て用意をいたす。十八日辰一点
に大衆をおこし【起こし】、諸寺に牒奏し、末寺に下知し、
軍士をゑ【得】て後、案内を達せんとするところ【所】に、
青鳥飛来てはうかん【芳翰】をなげ【投げ】たり。数日の鬱念
一時に解散す。彼唐家清涼一山の■蒭、猶ぶそう【武宗】
の官兵を帰へす。況や和国南北両門の衆徒、
なんぞ謀臣の邪類をはらはざらんや。よくりやうゑん【梁園】
左右の陣をかためて、よろしく我等が進発の
つげを待べし。状を察して疑貽【*疑殆】をなす事
P04087
なかれ。もて牒す。治承四年五月廿一日大衆等と
『永僉議』S0409
ぞかい【書い】たりける。○三井寺には又大衆おこて僉議
す。「山門は心がはりしつ。南都はいまだまいら【参ら】ず。
此事のび【延び】てはあしかり【悪しかり】なん。いざや六波羅にをし【押し】
よせて、夜打にせん。其儀ならば、老少二手にわか
て老僧どもは如意が峰より搦手にむかふ【向ふ】べし。
足がる【足軽】ども【共】四五百人さきだて【先立て】、白河の在家に火を
かけてやき【焼き】あげば、在京人六波羅の武士、「あはや
事いできたり」とて、はせ【馳せ】むかは【向は】んずらん。其時
P04088
岩坂・桜本にひ【引つ】かけ[B 「け」に「へ」と傍書]ひ【引つ】かけ、しばしささへ【支へ】てたたかは【戦かは】んまに、
大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧ども【共】六波羅に
をし【押し】よせ、風うへ【風上】に火かけ、一もみ【揉】もうでせO[BH め]【攻め】んに、などか
太政入道やき【焼き】だい【出い】てうた【討た】ざるべき」とぞ僉議しける。
其なかに、平家のいのり【祈り】しける一如房の阿闍梨
真海、弟子同宿数十人ひき具し、僉議の庭に
すすみ【進み】いで【出で】て申けるは、「かう申せば平家のかたうど【方人】
とやおぼしめさ【思し召さ】れ候らん。たとひさも候へ、いかが衆徒の
儀をもやぶり、我等の名をもおしま【惜しま】では候べき。
P04089
昔は源平左右にあらそひ【争そひ】て、朝家の御まぼり
たりしかども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家
世をとて廿余年、天下になびかぬ草木も候はず。
内々のたち【館】のありさまも、小勢にてはたやすう
せめ【攻め】おとし【落し】がたし。さればよくよく外にはかり事をめぐ
らして、勢をもよほし、後日によせ【寄せ】させ給ふべう
や候らん」と、程をのば【延ば】さんがために、ながながとぞ僉
議したる。ここに乗円房の阿闍梨慶秀といふ老
僧あり【有り】。衣のしたに腹巻をき【着】、大なるうちがたな【打刀】
P04090
まへだれ【前垂】にさし、ほうしがしら【法師頭】つつむで、白柄の大長刀
杖につき、僉議の庭にすすみいで【出で】て申けるは、「証拠を
外にひく【引く】べからず。我寺の本願天武天皇は、いまだ
東宮の御時、大友の皇子にはばからせ給ひて、よし野【吉野】
のおくをいで【出で】させ給ひ、大和国宇多郡をすぎ
させ給ひけるには、其勢はつかに十七騎、されども伊賀
伊勢にうちこへ【越え】、美乃【*美濃】尾張の勢をもて、大友の皇子
をほろぼして、つゐに【遂に】位につかせ給ひき。「窮鳥懐に
入、人倫これをあはれむ」といふ本文あり【有り】。自余は
P04091
しら【知ら】ず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅に
おしよせて、打死せよや」とぞ僉議しける。円満院
大輔源覚、すすみいで【出で】て申けるは、「僉議はし【端】おほし【多し】。
『大衆揃』S0410
夜のふくるに、いそげやすすめ」とぞ申ける。○搦手に
むかふ【向ふ】老僧ども、大将軍には、源三位入道頼政、乗円
房[B ノ]阿闍梨慶秀、律成房[B ノ]阿闍梨日胤、帥法印
禅智、禅智が弟子義宝・禅房をはじめとして、
都合其勢一千人、手々にたい松も【持つ】て如意が峰へ
ぞむかひ【向ひ】ける。大手の大将軍には嫡子伊豆守
P04092
仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、其子
蔵人太郎仲光、大衆には円満院の大輔源覚、成
喜院のあら土佐【荒土佐】、律成房[B ノ]伊賀[B ノ]公、法輪院の鬼佐渡、
これらはちから【力】のつよさ、うち物【打物】も【持つ】ては鬼にも神
にもあは【会は】ふどいふ、一人当千のつはもの【兵】也。平等院には
因幡堅者荒大夫、角[B ノ]六郎房、島の阿闍梨、つつ
井【筒井】法師に卿[B ノ]阿闍梨、悪少納言、北[B ノ]院には金光院の
六天狗、式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後等也。松井の
肥後、証南院の筑後、賀屋の筑前、大矢の俊長、五智
P04093
院の但馬、乗円房の阿闍梨慶秀が房人六十人の
内、加賀光乗、刑部春秀【俊秀】、法師原には一来法師に
しか【如か】ざりけり。堂衆にはつつ井【筒井】の浄妙明秀、小蔵[B ノ]尊
月、尊永・慈慶・楽住、かなこぶしの玄永、武士には
渡辺[B ノ]省、播磨[B ノ]次郎、授薩摩[B ノ]兵衛、長七唱、競[B ノ]
滝口、与[B ノ]右馬[B ノ]允、続源太、清・勧を先として、都合其
勢一千五百余人、三井寺をこそう【打つ】たち【立ち】けれ。宮いら【入ら】
せたまひ【給ひ】て後は、大関小関ほり【掘り】きて、堀ほり【掘り】さか
も木【逆茂木】ひい【引い】たれば、堀に橋わたし、さかも木【逆茂木】ひきのくる【引除くる】
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などしける程に、時剋をし【押し】うつ【移つ】て、関地のには鳥【鶏】
なき【鳴き】あへり。伊豆守の給ひけるは、「ここで鳥ない【鳴い】
ては、六波羅は白昼にこそよせ【寄せ】んずれ。いかがせん」と
のたまへ【宣へ】ば、円満院大輔源覚、又さき【先】のごとくすすみ【進み】
いで【出で】て僉議しけるは、「昔秦の昭王のとき、孟嘗君
めし【召し】いましめ【禁】られたりしに、きさきの御たすけ【助け】によて、
兵物三千人をひきぐし【具し】て、にげ【逃げ】まぬかれけるに、
凾谷関にいたれり。鶏なか【鳴か】ぬかぎりは関の戸をひらく
事なし。孟嘗君が三千の客のなかに、てんかつと
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いふ兵物あり【有り】。鶏のなくまねをありがたくしければ、
鶏鳴ともいはれけり。彼鶏鳴たかき【高き】所にはしり【走り】
あがり、にはとりのなく【鳴く】まねをしたりければ、関路
のにはとりきき【聞き】つたへてみななき【鳴き】ぬ。其時関もり【関守】
鳥のそらね【空音】にばかさ【化さ】れて、関の戸あけ【開け】てぞとを
し【通し】ける。これもかたきのはかり事にやなか【鳴か】すらん。
ただよせよ【寄せよ】」とぞ申ける。かかりしほど【程】に五月のみじか
夜、ほのぼのとこそあけ【明け】にけれ。伊豆守の給
ひけるは、「夜うち【夜討】にこそさりともとおもひ【思ひ】つれ共、
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ひるいくさ【昼軍】にはかなふ【叶ふ】まじ。あれよび【呼び】かへせや」とて、
搦手、如意が峰よりよびかへす【返す】。大手は松坂より
とてかへす【返す】。若大衆ども「これは一如房[B ノ]阿闍梨が
なが僉議にこそ夜はあけ【明け】たれ。をし【押し】よせて其坊
きれ【斬れ】」とて、坊をさんざん【散々】にきる。ふせく【防く】ところ【所】の弟子、
同宿数十人うた【討た】れぬ。一如坊阿闍梨、はうはう【這ふ這ふ】六波羅
にまい【参つ】て、老眼より涙をながい【流い】て此由うたへ【訴へ】申
けれ共、六波羅には軍兵数万騎馳あつま【集まつ】て、
さはぐ【騒ぐ】事もなかりけり。同廿三日の暁、宮は「此寺
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ばかりではかなう【適ふ】まじ。山門は心がはり【変り】しつ。南都は
いまだまいら【参ら】ず。後日になてはあしかり【悪しかり】なん」とて、
三井寺をいでさせ給ひて、南都へいら【入ら】せおはします。
此宮は蝉をれ【蝉折れ】・小枝ときこえ【聞え】し漢竹の笛を
ふたつ【二つ】もた【持た】せ給へり。かのせみをれ【蝉折れ】と申は、昔鳥羽
院の御時、こがねを千両宋朝の御門へをくら【送ら】せ
給ひたりければ、返報とおぼしくて、いき【生き】たる蝉
のごとくにふし【節】のついたる笛竹をひとよ【一節】をくら【送ら】せ
たまふ【給ふ】。「いかがこれ程の重宝をさう【左右】なうはゑら【彫ら】すべき」
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とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰て、壇上にたて、
七日加持してゑら【彫ら】せ給へる御笛也。或時、高松の中納
言実平【*実衡】卿まい【参つ】て、この御笛をふか【吹か】れけるが、よのつ
ねの笛のやうにおもひ【思ひ】わすれ【忘れ】て、ひざ【膝】よりしも【下】に
おかれたりければ、笛やとがめ【咎め】けん、其時蝉おれ【折れ】に
けり。さてこそ蝉おれ【蝉折れ】とはつけられたれ。笛の
おん【御】器量たるによて、この【此の】宮御相伝あり【有り】けり。
されども、いま【今】をかぎりとやおぼしめさ【思し召さ】れけん、金堂の
弥勒にまいら【参ら】させおはします。竜花の暁、値遇の御
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ためかとおぼえて、あはれ【哀】なし事共也。老僧ども
にはみないとま【暇】たう【賜う】で、とどめ【留め】させおはします。しかる【然る】
べき若大衆悪僧共はまいり【参り】けり。源三位入道の
一類ひきぐし【具し】て、其勢一千人とぞきこえ【聞え】し。乗
円房[B ノ]阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがて宮の御まへ
にまいり【参り】、老眼より涙をはらはらとながひ【流い】て申
けるは、「いづくまでも御とも仕べう候へども、齢
すでに八旬にたけて、行歩にかなひ【叶ひ】がたう候。
弟子で候刑部房俊秀をまいらせ【参らせ】候。これ【是】は一とせ
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平治の合戦の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、
六条河原で打死に仕候し相模国住人、山内須藤
刑部[B ノ]丞俊通が子で候。いささかゆかり候あひだ、跡ふと
ころ【跡懐】でおうし【生し】たて【立て】て、心のそこまでよくよくし【知つ】て候。
いづくまでもめし【召し】ぐせ【具せ】られ候べし」とて、涙をおさへ【抑へ】て
とどまりぬ。宮もあはれ【哀】におぼしめし、「いつ[B 「つ」に「ツ」と傍書]のよしみ【好】に
『橋合戦』S0411
かうは申らん」とて、御涙せきあへさせ給はず。○宮は
宇治と寺とのあひだにて、六度までをん【御】
落馬あり【有り】けり。これはさんぬる夜、御寝のならざりし
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ゆへ【故】なりとて、宇治橋三間ひきはづし【外し】、平等院にいれ【入れ】
たてま【奉つ】て、しばらく御休息あり【有り】けり。六波羅には、「すはや、
宮こそ南都へおち【落ち】させ給ふなれ。お【追つ】かけ【掛け】てうち【討ち】たて
まつれ【奉れ】」とて、大将軍には、左兵衛[B ノ]督知盛、頭中将重衡、
左馬[B ノ]頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、さぶらひ【侍】大将には、上総守
忠清、其子上総[B ノ]太郎判官忠綱、飛騨守景家、其
子飛騨[B ノ]太郎判官景高、高橋判官長綱、河内[B ノ]判官
秀国、武蔵[B ノ]三郎左衛門有国、越中[B ノ]次郎兵衛尉盛継、
上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、
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都合其勢二万八千余騎、木幡山うちこえ【越え】て、宇治
橋のつめにぞおしよせ【寄せ】たる。かたき【敵】平等院にとみ【見】てん
げれば、時をつくる事三ケ度、宮の御方にも時の
声をぞあはせ【合はせ】たる。先陣が、「橋をひい【引い】たぞ、あやまち
すな。橋をひいたぞ、あやまちすな」と、どよみけれども【共】、
後陣はこれをきき【聞き】つけず、われ【我】さき【先】にとすすむ【進む】ほど【程】に、
先陣二百余騎をし【押し】おとさ【落さ】れ、水におぼれ【溺れ】てながれけり。
橋の両方のつめにう【打つ】た【立つ】て矢合す。宮御方には、大矢の
俊長、五智院の但馬、渡辺の省・授・続の源太がい【射】ける
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矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらずとをり【通り】ける。源三位
入道は、長絹のよろひ直垂にしながはおどし【科革縅】の鎧也。
其日を最後とやおもは【思は】れけん、わざと甲はき【着】給はず。
嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の
鎧也。弓をつよう【強う】ひか【引か】んとて、これも甲はき【着】ざりけり。
ここに五智院の但馬、大長刀のさや【鞘】をはづい【外い】て、只一騎
橋の上にぞすすん【進ん】だる。平家の方にはこれをみて、「あれ
い【射】とれや物共」とて、究竟の弓の上手どもが矢さき【矢先】を
そろへて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。但馬すこし【少し】も
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さはが【騒が】ず、あがる【上る】矢をばついくぐり【潛り】、さがる【下る】矢をばおどり【躍り】
こへ【越え】、むか【向つ】てくるをば長刀でき【斬つ】ておとす【落す】。かたき【敵】もみかた【御方】
も見物す。それよりしてこそ、矢ぎり【矢斬り】の但馬とは
いはれけれ。堂衆のなかに、つつ井【筒井】の浄妙明秀は、かち【褐】
の直垂に黒皮威の鎧きて、五牧甲の緒をしめ、
黒漆の太刀をはき、廿四さい【差い】たるくろぼろ【黒母衣】の矢をひ【負ひ】、
ぬりごめどう【塗籠籐】の弓に、このむ白柄の大長刀とりそへて、
橋のうへ【上】にぞすすん【進ん】だる。大音声をあげて名のり
けるは、「日ごろはおと【音】にもき〔き〕つらむ、いまは目にもみ給へ。
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三井寺にはそのかくれ【隠れ】なし。堂衆のなかにつつ井【筒井】の浄妙
明秀といふ一人当千の兵物ぞや。われとおもはむ
人々はより【寄り】あへや。げざん【見参】せむ」とて、廿四さいたる矢をさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。やには【矢庭】に十二人い【射】ころし【殺し】て、
十一人に手おほせ【負せ】たれば、ゑびら【箙】に一ぞのこたる。弓をばから
となげ【投げ】すて、ゑびら【箙】もとひ【解い】てすててげり。つらぬき【貫き】ぬい【脱い】
ではだし【跣】になり、橋のゆきげた【行桁】をさらさらさらとはしり【走り】
り[* 「り」一字衍字]わたる。人はおそれ【恐れ】てわたら【渡ら】ねども、浄妙房が心地には、
一条二条の大路とこそふるまう【振舞う】たれ。長刀でむかふ【向ふ】
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かたき【敵】五人なぎ【薙ぎ】ふせ、六人にあたるかたき【敵】にあふ【逢う】て、
長刀なか【中】よりうちを【折つ】てすて【捨て】てげり。その後太刀を
ぬい【抜い】てたたかふ【戦ふ】に、かたき【敵】は大勢也、くもで【蜘蛛手】・かくなは【角縄】・十
文字、とばうがへり【蜻蛉返】・水車、八方すかさずき【斬つ】たりけり。
やには【矢庭】に八人きりふせ【伏せ】、九人にあたるかたき【敵】が甲の
鉢にあまりにつよう【強う】うち【打ち】あてて、めぬき【目貫】のもとより
ちやうどをれ【折れ】、くとぬけ【抜け】て、河へざぶと入にけり。たのむ【頼む】
ところ【所】は腰刀、ひとへに死なんとぞくるひ【狂ひ】ける。ここに
乗円房の阿闍梨慶秀がめし【召し】つかひ【使ひ】ける。一来法師と
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いふ大ぢから【大力】のはやわざ【早業】あり【有り】けり。つづいてうしろ【後】にたた
かふ【戦ふ】が、ゆきげた【行桁】はせばし【狭し】、そば【側】とをる【通る】べきやうはなし。
浄妙房が甲の手さき【先】に手ををい【置い】て、「[B あイ]しう【悪しう】候、浄妙
房」とて、肩をづんどおどり【躍り】こへ【越え】てぞたたかい【戦ひ】ける。
一来法師打死してんげり。浄妙房はうはう【這ふ這ふ】かへ【帰つ】て、
平等院の門のまへなる芝のうへ【上】に、物ぐ【具】ぬぎすて、
鎧にた【立つ】たる矢め【目】をかぞへたりければ六十三、うらかく
矢五所、されども大事の手ならねば、ところどころ【所々】に
灸治して、かしら【頭】からげ、浄衣き【着】て、弓うちきり【切り】杖に
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つき、ひらあしだ【平足駄】はき、阿弥陀仏申て、奈良の方へぞ
まかり【罷り】ける。浄妙房がわたるを手本にして、三井寺の
大衆・渡辺党、はしり【走り】つづきはしり【走り】つづき、われもわれもと
ゆきげた【行桁】をこそわたりけれ。或は分どり【分捕】して
かへる物もあり【有り】、或はいた手【痛手】おうて腹かききり【切り】、河へ
飛入物もあり【有り】。橋のうへ【上】のいくさ【軍】、火いづる【出づる】程ぞたたかい【戦ひ】
ける。これをみて平家の方の侍大将上総守忠清、
大将軍の御まへにまい【参つ】て、「あれ御らん候へ。橋のうへ【上】の
いくさ【軍】手いたう候。いまは河をわたす【渡す】べきで候が、
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おりふし【折節】五月雨のころで、水まさて候。わたさば
馬人おほく【多く】うせ【失せ】候なんず。淀・いもあらい【一口】へやむかひ【向ひ】候
べき。河内路へやまはり【廻り】候べき」と申ところ【所】に、下野国[B ノ]
住人足利[B ノ]又太郎忠綱、すすみ【進み】いでて申けるは、「淀・いも
あらひ【一口】・河内路をば、天竺、震旦の武士をめし【召し】てむけ【向け】ら
れ候はんずるか。それも我等こそむかひ【向ひ】候はんずれ。目に
かけたるかたき【敵】をうた【討た】ずして、南都へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】候
なば、吉野・とつかは【十津川】の勢ども馳集て、いよいよ
御大事でこそ候はんずらめ。武蔵と上野のさかひ【境】に
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とね河【利根河】と申候大河候。秩父・足利なか【仲】をたがひ【違ひ】、つね
は合戦をし候しに、大手は長井〔の〕わたり、搦手は故
我・杉のわたりよりよせ候ひしに、上野国の住人新田[B ノ]
入道、足利にかたらはれて、杉の渡よりよせ【寄せ】んとて
まうけ【設け】たる舟ども【共】を、秩父が方よりみなわら【破ら】れて
申候しは、「ただいま【今】ここをわたさずは、ながき弓矢の
疵なるべし。水におぼれてしな【死な】ばしね。いざわたさん」と
て、馬筏をつくてわたせ【渡せ】ばこそわたしけめ。坂東武者の
習として、かたき【敵】を目にかけ、河をへだつるいくさ【軍】に、
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淵瀬きらふ様やある。此河のふかさ【深さ】はやさ【早さ】、とね河【利根河】に
いくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原」
とて、まさき【真先】にこそうち【打ち】入れたれ。つづく人共、大胡・大室・
深須・山上、那波[B ノ]太郎、佐貫[B ノ]広綱四郎大夫、小野寺[B ノ]禅師
太郎、辺屋こ【辺屋子】の四郎、郎等には、宇夫方次郎、切生の
六郎、田中の宗太をはじめとして、三百余騎ぞつづき
ける。足利大音声をあげて、「つよき馬をばうは手【上手】に
たて【立て】よ、よはき【弱き】馬をばした手【下手】になせ。馬の足のおよ
ば【及ば】うほどは、手綱をくれてあゆま【歩ま】せよ。はづまば
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かいく【繰つ】ておよが【泳が】せよ。さがら【下ら】う物をば、弓のはず【筈】にとり
つか【付か】せよ。手をとりくみ【組み】、肩をならべてわたすべし。
鞍つぼ【壷】によくのり【乗り】さだま【定まつ】て、あぶみ【鐙】をつよう【強う】ふめ。馬
のかしら【頭】しづま【沈ま】ばひきあげよ。いたうひい【引い】てひ【引つ】かづく【被く】
な。水しとまば、さんづ【三頭】のうへ【上】にのり【乗り】かかれ。馬にはよはう【弱う】、
水にはつよう【強う】あたるべし。河なか【中】で弓ひくな。かたき【敵】いる【射る】
ともあひびき【相引】すな。つねにしころ【錣】をかたぶけよ【傾けよ】。いたう
かたむけ【傾け】て手へんいさすな。かねにわたい【渡い】ておしをと
さ【落さ】るな。水にしなうてわたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」とおきて【掟て】て、
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三百余騎、一騎もながさず、むかへ【向へ】の岸へざとわた
『宮御最期』S0412
す。○足利O[BH 其日の装束にはイ]は朽葉の綾の直垂に、赤皮威の鎧
きて、たか角【高角】うたる甲のを【緒】しめ、こがねづくりの太刀
をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげどう【滋籐】〔の〕弓も【持つ】て、連銭葦
毛なる馬に、柏木に耳づく【木菟】うたる黄覆輪の鞍を
い【置い】てぞの【乗つ】たりける。あぶみふばりたち【立ち】あがり、大音声
あげてなのり【名乗り】けるは、「とをく【遠く】は音にもきき、ちかく【近く】は
目にもみ【見】給へ。昔朝敵将門をほろぼし、勧賞
かうぶし俵藤太秀里【*秀郷】に十代、足利[B ノ]太郎俊綱が子、
P04114
又太郎忠綱、生年十七歳、かやう【斯様】に無官無位なる物
の、宮にむかひ【向ひ】まいらせ【参らせ】て、弓をひき矢を放事、
天のおそれ【恐れ】すくなからず候へども【共】、弓も矢も冥
が【冥加】のほども、平家の御身のうへ【上】にこそ候らめ。三位
入道殿の御かたに、われとおもは【思は】ん人々はより【寄り】あへや、
げざん【見参】せん」とて、平等院の門のうちへ、せめ【攻め】入せめ【攻め】入
たたかひ【戦ひ】けり。これをみて、大将軍左兵衛[B ノ]督知盛、
「わたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」と下知せられければ、二万八千余騎、
みなうちいれ【打ち入れ】てわたしけり。馬や人にせかれて、さば
P04115
かり早き宇治河の水は、かみ【上】にぞたたへ【湛へ】たる。おの
づからもはづるる水には、なにもたまらずながれ【流れ】けり。
雑人どもは馬のした手【下手】にとりつき【取り付き】わたり【渡り】ければ、
ひざ【膝】よりかみ【上】をばぬらさぬ物もおほかり【多かり】けり。いかが【如何】
したりけん、伊賀・伊勢両国の官兵、馬いかだ【筏】をし【押し】
やぶら【破ら】れ、水におぼれて六百余騎ぞながれける。
萌黄・火威・赤威、いろいろの鎧のうきぬしづみ【沈み】ぬ
ゆられけるは、神なび山【神南備山】の紅葉ばの、嶺の嵐に
さそはれて、竜田河の秋のくれ【暮】、いせきにかかて
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ながれ【流れ】もやらぬにことならず。其中にひおどし【緋縅】の
鎧き【着】たる武者が三人、あじろにながれ【流れ】かかてゆられ
けるを、伊豆守み【見】たまひ【給ひ】て、
伊勢武者はみなひおどし【緋縅】のよろひきて
宇治のあじろ【網代】にかかりぬるかな W024
これらは三人ながら伊勢国の住人也。黒田[B ノ]後平
四郎、日野[B ノ]十郎、乙部[B ノ]弥七といふ物あり。其なかに
日野の十郎はふる物にてあり【有り】ければ、弓のはず【弭】を
岩のはざまにねぢたて【立て】てかきあがり、二人の物共をも
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ひき【引き】あげて、たすけ【助け】たりけるとぞきこえ【聞え】し。おほ
ぜい【大勢】みなわたし【渡し】て、平等院の門のうちへいれかへ【入れ換へ】いれかへ【入れ換へ】
たたかい【戦ひ】けり。この【此の】まぎれに、宮をば南都へさきだて【先立て】
まいらせ【参らせ】、源三位入道の一類のこて、ふせき【防き】矢い【射】給ふ。
三位入道七十にあまていくさ【軍】して、弓手のひざ口【膝口】を
い【射】させ、いたで【痛手】なれば、心しづかに自害せんとて、平等院
の門の内へひき退て、かたき【敵】おそい【襲ひ】かかりければ、
次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、唐綾
威の鎧きて、白葦毛なる馬にのり、父をのばさんと、
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かへし【返し】あはせ【合はせ】かへし【返し】あはせ【合はせ】ふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。上総太郎判官がい【射】け
る矢に、兼綱うち甲【内甲】をい【射】させてひるむところ【所】に、上総
守が童次郎丸といふしたたか物、をし【押し】ならべてひ【引つ】
く【組ん】で、どうどおつ【落つ】。源大夫判官はうち甲【内甲】もいた手【痛手】
なれども【共】、きこゆる【聞ゆる】大ぢから【大力】なりければ、童をとておさへ【抑へ】
て頸をかき、立あがら【上ら】んとするところ【所】に、平家の兵物
ども十四五騎、ひしひしとおち【落ち】かさな【重なつ】て、ついに【遂に】兼綱を
ばう【討つ】てげり。伊豆守仲綱もいた手【痛手】あまたおひ、平等
院の釣殿にて自害す。その頸をば、しも河辺【下河辺】の
P04119
藤三郎清親と【取つ】て、大床のしたへぞなげ入ける。
六条[B ノ]蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光も、さんざん【散々】に
たたかひ、分どり【分捕】あまたして、遂に打死してげり。
この仲家と申は、小【*故】帯刀[B ノ]の先生義方【*義賢】が嫡子也。みな
し子にてあり【有り】しを、三位入道養子にして不便にし給
ひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死ににけるこそ
むざんなれ。三位入道は、渡辺[B ノ]長七唱をめし【召し】て、「わが頸
うて」とのたまひければ、主のいけくび【生首】うたん事の
かなしさに、涙をはらはらとながひ【流い】て、「仕ともおぼえ
P04120
候はず。御自害候て、其後こそ給はり候はめ」と申
ければ、「まこと【誠】にも」とて、西にむかひ【向ひ】、高声に十念
となへ、最後の詞ぞあはれ【哀】なる。
埋木のはな【花】さく事もなかりしに
身のなるはて【果】ぞかなしかり【悲しかり】ける W025
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、
うつぶさま【俯様】につらぬか【貫ぬかつ】てぞうせ【失せ】られける。其時に歌よむ
べうはなかりしかども、わかう【若う】よりあながちにすい【好い】たる
道なれば、最後の時もわすれ給はず。その頸をば
P04121
唱取て、なくなく【泣く泣く】石にくくり【括り】あはせ【合はせ】、かたき【敵】のなかを
まぎれいで【出で】て、宇治河のふかきところ【所】にしづめて
げり。競の滝口をば、平家の侍共、いかにもしていけ
どり【生捕り】にせんとうかがひ【伺ひ】けれども、競もさきに心え
て、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、大事の手おひ、腹かきき【切つ】て
ぞ死にける。円満院の大輔源覚、いまは宮もはる
かにのびさせ給ひぬらんとやおもひけん、大太刀
大長刀左右にも【持つ】て、敵のなかうちやぶり、宇治
河へとんでいり、物の具一もすてず、水の底をくぐて、
P04122
むかへ【向へ】の岸にわたりつき、たかきところ【所】にのぼり
あがり、大音声をあげて、「いかに平家の君達、これ
までは御大事かよう」とて、三井寺へこそかへ
り【帰り】けれ。飛騨守景家はふるO[BH 兵]物【古兵】にてあり【有り】ければ、
このまぎれに、宮は南都へやさきだたせ給ふらん
とて、いくさ【軍】をばせず、其勢五百余騎、鞭あぶみ
をあはせ【合はせ】てお【追つ】かけたてまつる【奉る】。案のごとく、宮は
卅騎ばかりで落させ給ひけるを、光明山の鳥
居のまへにてお【追つ】つきたてまつり【奉り】、雨のふるやう【様】に
P04123
い【射】まひらせ【参らせ】ければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮
の左の御そば腹に矢一すぢたちければ、御馬より
落させ給て、御頸とられさせ給ひけり。これを
みて御共に候ける鬼佐渡・あら土佐【荒土佐】・あら大夫【荒大夫】、理智
城房の伊賀公、刑部俊秀・金光院の六天狗、いつの
ために命をばおしむ【惜しむ】べきとて、おめき【喚き】さけん【叫ん】で
打死す。そのなか【中】に宮の御めのと子【乳母子】、六条[B ノ]大夫宗
信、かたき【敵】はつづく、馬はよはし【弱し】、に井野の池へ飛で
いり、うき草【浮草】かほ【顔】にとりおほひ【覆ひ】、ふるひ【震ひ】ゐ【居】たれば、
P04124
かたき【敵】はまへ【前】をうちすぎ【過ぎ】ぬ。しばしあて兵物ども【共】
の四五百騎、ざざめいてうちかへり【帰り】けるなか【中】に、浄衣
き【着】たる死人の頸もないを、しとみ【蔀】のもとにかいて
いで【出で】きたりけるを、たれ【誰】やらんとみ【見】たてまつれ【奉れ】ば、
宮にてぞ在ましける。「われしな【死な】ば、この笛をば御
棺にいれよ【入れよ】」と仰ける、小枝ときこえ【聞え】し御笛も、
いまだ御腰にささ【挿さ】れたり。はしり【走り】いで【出で】てとり【取り】もつき【付き】ま
いらせ【参らせ】ばやとおもへ【思へ】ども、おそろしけれ【恐ろしけれ】ばそれもかな
は【叶は】ず、かたき【敵】みな【皆】かへ【帰つ】て後、池よりあがり、ぬれ【濡れ】たる
P04125
物どもしぼりき【着】て、なくなく【泣く泣く】京へのぼりたれば、
にくま【憎ま】ぬ物こそなかりけれ。さるほど【程】に、南都の
大衆ひた甲七千余人、宮の御むかへ【向へ】にまいる【参る】。先陣
は粉津【*木津】にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南大
門にゆらへたり。宮ははや光明山の鳥居のまへに
てうた【討た】れさせ給ぬときこえ【聞え】しかば、大衆みな力
及ばず、涙ををさへてとどまりぬ。いま五十町
ばかりまち【待ち】つけ給はで、うた【討た】れさせ給けん宮の御
『若宮出家』S0413
運の程こそうたてけれ。○平家の人々は、宮并に
P04126
三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が
頸、太刀長刀のさきにつらぬき【貫き】、たかく【高く】さしあげ【差し上げ】、
夕に及て六波羅へかへり【帰り】いる。兵物共いさみののしる
事、おそろし【恐ろし】などもおろか也。其なかに源三位
入道の頸は、長七唱がと【取つ】て宇治河のふかきところ【所】に
しづめ【沈め】てげれば、それはみえ【見え】ざりけり。子共の頸
はあそこここよりみな尋いださ【出さ】れたり。なか【中】に宮
の御頸は、年来まいり【参り】よる人もなければ、み【見】しり
まいらせ【参らせ】たる人もなし。先年典薬頭定成こそ、
P04127
御療治のためにめさ【召さ】れたりしかば、それぞみ【見】し
り【知り】まいらせ【参らせ】たるらんとて、めさ【召さ】れけれども【共】、現所労
とてまいら【参ら】ず。宮のつねにめさ【召さ】れける女房とて、
六波羅へたづね【尋ね】いだされたり。さしもあさから【浅から】ず
おぼしめさ【思し召さ】れて、御子をうみまいらせ【参らせ】、最愛あり【有り】
しかば、いかでか[* 「いみてか」と有るのを他本により訂正]み【見】そんじ【損じ】たてまつる【奉る】べき。只一目み【見】ま
いらせ【参らせ】て、袖をかほ【顔】にをし【押し】あてて、涙をながされける
にこそ、宮の御頸とはしり【知り】てげれ。此宮ははうばう
に御子の宮たちあまたわたら【渡ら】せ給ひけり。
P04128
八条[B ノ]女院に、伊与【*伊予】守盛教がむすめ、三位[B ノ]局とて候
はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮
在ましけり。入道相国、おとと【弟】、池の中納言頼盛卿を
もて、八条[B ノ]女院へ申されけるは、「高倉の宮の御子
の宮達のあまたわたらせ給候なる、姫宮の御事は
申に及ばず、若宮をばとうとういだし【出し】まいら【参ら】させ給へ」と
申されたりければ、女院御返事には、「かかるきこえ【聞え】
のあり【有り】し暁、御ちの人などが心おさなう【幼う】ぐし【具し】たて
ま【奉つ】てうせ【失せ】にけるにや、またく此御所にはわたらせ給P04129
はず」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此よしを入道相
国に申されけり。「何条其御所ならでは、いづく【何処】へかわた
らせ給べかんなる。其儀ならば武士どもまい【参つ】てさがし
奉れ」とぞのたまひける。この中納言は、女院の御
めのと子【乳母子】宰相殿と申女房にあひ具して、つねに
まいり【参り】かよは【通は】れければ、日来はなつかしう【懐しう】こそお
ぼしめされけるに、此宮の御事申しにまいら【参ら】れたれ
ば、いまはあらぬ人のやう【様】にうとましう【疎ましう】〔ぞ〕おぼしめさ【思し召さ】れ
ける。若宮、女院に申させ給ひけるは、「これ程の御大事に
P04130
及候うへ【上】は、つゐに【遂に】のがれ【逃れ】候まじ。とうとういださ【出さ】せ
おはしませ」と申させ給ければ、女院御涙をはらはら
とながさ【流さ】せ給ひて、「人の七八は、何事をもいまだ
おもひ【思ひ】わか【分か】ぬ程ぞかし。それにわれゆへ【故】大事の
いできたる【出来る】事を、かたはらいたくおもひ【思ひ】て、かやうに
のたまふ【宣ふ】いとおしさよ。よしなかりける人を此六
七年手ならし【馴らし】て、かかるうき目をみる【見る】よ」とて、
御涙をせきあへさせ給はず。頼盛卿、宮いだし【出し】まひ
ら【参ら】させ給ふべきよし、かさね【重ね】て申されければ、
P04131
女院ちから【力】およば【及ば】せ給はで、つゐに【遂に】宮をいだし【出し】まひ
ら【参ら】させ給ひけり。御母三位の局、今をかぎりの別
なれば、さこそは御名残おしう【惜しう】おもは【思は】れけめ。
なくなく【泣く泣く】御衣きせ【着せ】奉り、御ぐし【髪】かきなで【撫で】、いだし【出し】まいら
せ【参らせ】給ふも、ただ夢とのみぞおもは【思は】れける。女院をはじ
め【始め】まいらせ【参らせ】て、局の女房、め【女】の童にいたるまで、涙を
ながし袖をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿宮うけ【受け】
とりまひらせ【参らせ】、御車にのせ【乗せ】奉て、六波羅へわたし
奉る。前[B ノ]右大将宗盛卿、此宮をみ【見】まいらせ【参らせ】て、父の
P04132
相国禅門の御まへにおはして、「なにと候やらん、此宮
をみ【見】たてまつる【奉る】があまり【余り】にいとおしう思ひまひ
らせ【参らせ】候。り【理】をまげて此宮の御命をば宗盛にたび【賜び】
候へ」と申されければ、入道「さらばとうとう出家をせさ
せ奉れ」とぞのたまひける。宗盛卿此よしを八条[B ノ]
女院に申されければ、女院「なにのやう【様】もあるべから
ず。ただ【只】とうとう」とて、法師になし奉り、尺子【*釈氏】にさだ
まら【定まら】せ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になしまいら【参ら】O[BH さ]せ
給ひけり。後には東寺の一の長者、安井の宮の僧
P04133
『通乗之沙汰』S0414
正道尊と申しは、此宮の御事也。○又奈良にも[B 御イ]一所
在ましけり。御めのと讃岐守重秀が御出家せさせ
奉り、ぐし【具し】まいらせ【参らせ】て北国へ落くだりたりしを、
木曾義仲上洛の時、主にしまひらせ【参らせ】んとてぐし【具し】
奉て宮こ【都】へのぼり、御元服せさせまいらせ【参らせ】たりしかば、
木曾の宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。
後には嵯峨のへん野依にわたらせ給しかば、
野依の宮とも申けり。昔通乗といふ相人あり【有り】。
宇治殿・二条殿をば、「君三代の関白、ともに御年
P04134
八十と申たりしもたがは【違は】ず。帥のうちのおとど【大臣】を
ば、「流罪の相まします」と申たりしもたがは【違は】ず。聖
徳太子の崇峻天皇[* 崇の左にの振り仮名]を「横死の相在ます」と申
させ給ひたりしが、馬子の大臣にころさ【殺さ】れ給ひ
にき。さもしかる【然る】べき人々は、必ず相人としもに
あらねども、かうこそめでたかりしか、これは相少納言
が不覚にはあらずや。中比兼明親王・具平親王
と申しは、前中書王・後中書王とて、ともに
賢王聖主の王子にてわたらせ給ひしかども、
P04135
位にもつか【即か】せ給はず。されどもいつしかは謀叛を
おこさ【起こさ】せ給ひし。又後三条院の第三の王子、資仁【*輔仁】の
親王も御才学すぐれてましましければ白河院
いまだ東宮にてましまいし時、「御位の後は、この
宮を位にはつけ【即け】まいら【参ら】させ給へ」と、後三条[B ノ]院御遺
詔あり【有り】しかども【共】、白河院いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、つゐに【遂に】
位にもつけまいら【参ら】させ給はず。せめての御事には、
資仁【*輔仁】親王の御子に源氏の姓をさづけ【授け】まいら【参らつ】させ
給ひて、無位より一度に三位に叙して、やがて
P04136
中将になしまいら【参ら】させ給ひけり。一世の源氏、無位
より三位する事、嵯峨の皇帝の御子、陽成
院の大納言定卿の外は、これはじめとぞうけ給はる【承る】。
花園左大臣有仁公の御事也。高倉の宮御謀叛
の間、調伏の法うけたまは【承つ】て修せられける高僧達
に、勧賞をこなはる。前右大将宗盛卿の子息侍従
清宗、三位して三位[B ノ]侍従とぞ申ける。今年纔に
十二歳。父の卿もこのよはひ【齢】では兵衛[B ノ]佐にてこそ
おはせしか。忽に上達め【上達部】にあがり給ふ事、一の人の
P04137
公達の外はいまに承及ばず。源[B ノ]茂仁【*以仁】・頼政法師
父子追討の賞とぞ除書にはあり【有り】ける。源[B ノ]茂仁【*以仁】
とは高倉宮を申けり。まさしゐ太政【*太上】法皇の王子
をうち【討ち】たてまつる【奉る】だにあるに、凡人にさへなしたて
『■[*空+鳥]』S0415
まつるぞあさましき。○抑源三位入道と申は、
摂津守頼光に五代、三川【*三河】守頼綱が孫、兵庫頭
仲正【*仲政】が子也。保元の合戦の時、御方にて先をかけ
たりしか共、させる賞にもあづから【与ら】ず。又平治の逆乱
にも、親類をすて【捨て】て参じたりしか共、恩賞これおろ
P04138
そか也。大内守護にて年ひさしう【久しう】あり【有り】しかども【共】、
昇殿をばゆるさ【許さ】れず。年たけよはひ【齢】傾て後、
述懐の和歌一首よう【詠う】でこそ、昇殿をばゆるさ【許さ】れけれ。
人しれず大内山のやまもり【山守】は
木がくれ【隠れ】てのみ月をみる【見る】かな W026
この歌によて昇殿ゆるさ【許さ】れ、正下[B ノ]四位にてしばらく
あり【有り】しが、三位を心にかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとに
しゐをひろい【拾ひ】て世をわたるかな W027
P04139
さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、
源三位入道とて、今年は七十五にぞなられける。
此人一期の高名とおぼえし事は、近衛院御
在位の時、仁平のころほひ、主上よなよな【夜な夜な】おびへ【怯え】
たまぎらせ給ふ事あり【有り】けり。有験の高僧貴
僧に仰て、大法秘法を修せられけれども、其しるし
なし。御悩は丑の剋ばかりであり【有り】けるに、東三条
の森の方より、黒雲一村たち【立ち】来て御殿の
上におほへ【覆へ】ば、かならず【必ず】おびへ【怯え】させ給ひけり。これに
P04140
よて公卿僉義あり【有り】。去る寛治の比ほひ、堀河天
皇御在位の時、しかのごとく主上よなよな【夜な夜な】おびへ【怯え】
させ給ふ事あり【有り】けり。其時の将軍義家朝臣、
南殿の大床に候はれけるが、御悩の剋限に及で、
鳴絃する事三度の後、高声に「前陸奥守
源[B ノ]義家」と名の【名乗つ】たりければ、人々皆身の毛よだ
て、御悩おこたらせ給ひけり。しかれ【然れ】ばすなはち
先例にまかせ【任せ】て、武士に仰せて警固あるべし
とて、源平両家の兵物共のなかを撰ぜられ
P04141
けるに、頼政をゑらび【選び】いだされたりけるとぞきこえ
し。其時はいまだ兵庫頭とぞ申ける。頼政申
けるは、「昔より朝家に武士ををか【置か】るる事は、
逆反の物をしりぞけ違勅の物をほろぼさんが
為也。目にもみえ【見え】ぬ変化のもの【物】つかまつれと仰
下さるる事、いまだ承及候はず」と申ながら、勅定
なればめし【召】に応じて参内す。頼政はたのみ【頼み】
きたる郎等遠江国[B ノ]住人井[B ノ]早太に、ほろのかざき
り【風切】はいだる矢おは【負は】せて、ただ一人ぞぐし【具し】たりける。
P04142
我身はふたへ【二重】の狩衣に、山鳥の尾をもてはいだる
とがり矢二すぢ【筋】、しげどう【滋籐】の弓にとりそへて、
南殿の大床に祗候[B す]。頼政矢をふたつ【二つ】たばさみ【手挟み】
ける事は、雅頼卿其時はいまだ左少弁にて
おはしけるが、「変化の物つかまつらんずる仁は頼政ぞ
候」とゑらび【選び】申されたるあひだ、一の矢に変化の物
をいそんずる【射損ずる】物ならば、二の矢には雅頼の弁の
しや頸の骨をい【射】んとなり。日ごろ人の申にたがは【違は】ず、
御悩の剋限に及で、東三条の森の方より、
P04143
黒雲一村たち【立ち】来て、御殿の上にたなびいたり。
頼政きとみあげ【見上げ】たれば、雲のなかにあやしき
物の姿あり【有り】。これをいそんずる【射損ずる】物ならば、世に
あるべしとはおもは【思は】ざりけり。さりながらも矢
と【取つ】てつがひ【番ひ】、南無八幡大菩薩と、心のうちに祈
念して、よぴい【引い】てひやうどいる【射る】。手ごたへして
はたとあたる。「ゑ【得】たりをう」と矢さけび【叫び】をこそ
したりけれ。井の早太つとより、おつる【落つる】ところ【所】を
と【取つ】ておさへ【抑へ】て、つづけさま【続け様】に九がたな【刀】ぞさい【刺い】たり
P04144
ける。其時上下手々に火をともい【点い】て、これを御
らんじみ【見】給ふに、かしら【頭】は猿、むくろは狸、尾はくち
なは、手足は虎の姿なり。なく声■[*空+鳥]にぞに【似】たり
ける。おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。主上御感のあま
りに、師子王といふ御剣をくださ【下さ】れけり。宇治の
左大臣殿是をたまはり【賜り】つい【継い】で、頼政にたばんとて、
御前〔の〕きざはし【階】をなから【半】ばかりおり【降り】させ給へるとこ
ろ【所】に、比は卯月十日あまりの事なれば、雲井
に郭公二声三こゑ音づれてぞとをり【通り】ける。
P04145
其時左大臣殿
ほととぎす名をも雲井にあぐる【上ぐる】かな
とおほせ【仰せ】られかけたりければ、頼政右の膝をつき、
左の袖をひろげ、月をすこしそばめ【側目】にかけつつ、
弓はり月【弓張り月】のいるにまかせ【任せ】て W028
と仕り、御剣を給てまかり【罷り】いづ【出づ】。「弓矢をとてならび【双び】
なきのみならず、歌道もすぐれたりけり」とぞ、
君も臣も御感あり【有り】ける。さてかの変化の物を
ば、うつほ舟【空舟】にいれ【入れ】てながさ【流さ】れけるとぞきこえ【聞え】し。
P04146
去る応保のころほひ、二条院御在位の時、■[*空+鳥]と
いふ化鳥禁中にない【鳴い】て、しばしば震襟【*宸襟】をなやます
事あり【有り】き。先例をもて頼政をめさ【召さ】れけり。比は
さ月【五月】廿日あまりの、まだよひ【宵】の事なるに、■[*空+鳥]ただ
一声をとづれて、二声ともなか【鳴か】ざりけり。目ざす
とも【共】しら【知ら】ぬやみではあり【有り】、すがた【姿】かたちもみえ【見え】
ざれば、矢つぼ【矢壷】をいづくともさだめがたし。頼政
はかりこと【策】に、まづおほかぶら【大鏑】をとてつがひ【番ひ】、■[*空+鳥]の
声しつる内裏のうへ【上】へぞいあげ【射上げ】たる。■[*空+鳥]かぶら【鏑】の
P04147
をと【音】におどろいて、虚空にしばしひらめい【*ひひめい】たり。
二の矢に小鏑とてつがひ、ひいふつとい【射】き【切つ】て、■[*空+鳥]と
かぶら【鏑】とならべ【並べ】て前にぞおとし【落し】たる。禁中ざざめき
あひ、御感なのめならず。御衣をかづけ【被け】させ給ひ
けるに、其時は大炊御門の右大臣公能公これを
給はりつゐで、頼政にかづけ給ふとて、「昔の養
由は雲の外の鴈をい【射】き。今の頼政は雨の中
に■[*空+鳥]をい【射】たり」とぞ感ぜられける。
五月やみ名をあらはせるこよひ【今宵】かな
P04148
と仰られかけたりければ、頼政
たそかれ時もすぎ【過ぎ】ぬとおもふ【思ふ】に W029
と仕り、御衣を肩にかけて退出す。其後伊豆
国給はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、
丹波の五ケ[B ノ]庄、若狭のとう宮河知行して、さて
おはすべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮
をもうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】、我身もほろびぬるこそ
『三井寺炎上』S0416
うたてけれ。○日ごろは山門の大衆こそ、みだり【猥り】がはしき
うたへ【訴へ】つかまつる【仕まつる】に、今度は穏便を存じてをと【音】も
P04149
せず。「南都・三井寺、或は宮うけ【請け】とり奉り、或は宮
の御むかへ【迎へ】にまいる【参る】、これもて朝敵なり。されば三井
寺をも南都をもせめ【攻め】らるべし」とて、同五月廿七
日、大将軍には入道の四男頭中将重衡、副将
軍には薩摩守忠度、都合其勢一万余騎
で、園城寺へ発向す。寺にも堀ほり、かいだて【掻楯】
かき、さかも木【逆茂木】ひい【引い】て待かけたり。卯剋に矢合
して、一日たたかひ【戦ひ】くらす【暮す】。ふせく【防く】ところ【所】大衆以下
の法師原、三百余人までうた【討た】れにけり。夜いくさ【軍】
P04150
になて、くらさ【暗さ】はくらし、官軍寺にせめ【攻め】入て、火を
はなつ【放つ】。やくる【焼くる】ところ【所】、本覚院、成喜院【*常喜院】・真如院・
花園院、普賢堂・大宝院・清滝院【青龍院】、教大【*教待】和尚[B ノ]
本坊ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘
楼・経蔵・灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の
御宝殿、惣て堂舎塔廟六百三十七宇、大津の
在家一千八百五十三宇、智証のわたし【渡し】給へる
一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙となる
こそかなしけれ。諸天五妙のたのしみも此時ながく
P04151
つき【尽き】、竜神三熱のくるしみ【苦しみ】もいよいよさかん【盛】なるらん
とぞみえ【見え】し。それ三井寺は、近江の義大領が
私の寺たりしを、天武天皇によせ【寄せ】奉て、御願と
なす。本仏もかの御門の御本尊、しかる【然る】を生身
弥勒ときこえ【聞え】給し教大【*教待】和尚百六十年おこな
ふて、大師に附属し給へり。都士多天上摩尼
宝殿よりあまくだり、はるかに竜花下生の
暁をまた【待た】せ給ふとこそきき【聞き】つるに、こはいかにし
つる事ども【共】ぞや。大師此ところ【所】を伝法灌頂の
P04152
霊跡として、ゐけすい【井花水】の三をむすび給しゆへ【故】に
こそ、三井寺とは名づけたれ。かかるめでたき
聖跡なれども【共】、今はなに【何】ならず。顕密須臾に
ほろびて、伽藍さらに跡もなし。三密道場も
なければ、鈴の声もきこえ【聞え】ず。一夏の花もなけ
れば、阿伽のをと【音】もせざりけり。宿老磧徳の名
師は行学におこたり、受法相承の弟子は又
経教にわかれんだり。寺の長吏円慶【*円恵】法親王、
天王寺の別当をとどめ【留め】らる。其外僧綱十三人
P04153
闕官ぜられて、みな検非違使にあづけらる。
悪僧はつつ井【筒井】の浄妙明秀にいたるまで卅余
人ながされけり。「かかる天下のみだれ、国土のさは
ぎ【騒ぎ】、ただ事ともおぼえず。平家の世末になり
ぬる先表やらん」とぞ、人申ける。

平家物語巻第四
P04154

平家物語 高野本 巻第五


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一



平家 五(表紙)
P05001
平家五之巻 目録
都遷 付新都之沙汰   月見
物怪之沙汰       大庭早馬
朝敵揃         感陽宮
文学荒行        勧進帳
文学被流        福原院宣
富士川合戦       五節之沙汰
帰洛          奈良炎上
P05002

P05003
平家物語巻第五
『都遷』S0501
○治承四年六月三日[B ノヒ]、福原へ行幸ある【有る】べし
とて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都うつり
あるべしときこえ【聞え】しかども、忽に今明の程とは
思はざりつるに、こはいかにとて上下さはぎ【騒ぎ】あへ
り。あまさへ【剰さへ】三日とさだめ【定め】られたりしが、いま一日
ひき【引き】あげて、二日になりにけり。二日の卯剋に、
すでに行幸の御輿をよせたりければ、主上
は今年三歳、いまだいとけなう【幼けなう】ましましければ、
P05004
なに心【何心】もなうめさ【召さ】れけり。主上おさなう【幼う】わたらせ
給時の御同輿には、母后こそまいら【参ら】せ給ふに、
是は其儀なし。御めのと【乳母】、平大納言時忠卿の
北の方帥のすけ【帥の典侍】殿ぞ、ひとつ【一つ】御輿にはまいら【参ら】れ
ける。中宮・一院上皇御幸なる。摂政殿をはじ
めたてま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我も
と供奉せらる。三日福原へいら【入ら】せ給ふ。池の中納言
頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日、頼盛家の
賞とて正二位し給ふ。九条殿の御子、右大将
P05005
能通【*良通】卿、こえられ給ひけり。摂禄の臣の御子息、
凡人の次男に加階こえられ給ふ事、これ【是】はじめ
とぞきこえ【聞え】し。さる程に、法皇を入道相国やう
やう思ひなを【直つ】て、鳥羽殿をいだし【出し】たてまつり、都
へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】られたりしが、高倉宮御謀反に
よて、又大にいきどをり【憤り】、福原へ御幸なしたて
まつり【奉り】、四面にはた板【端板】して、口ひとつ【一つ】あけたるうち
に、三間の板屋をつくてをし【押し】こめ【込め】まいらせ【参らせ】、守護
の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。た
P05006
やすう人のまいり【参り】かよふ事もなければ、童部は
籠の御所とぞ申ける。きく【聞く】もいまいましう【忌々しう】おそ
ろしかり【恐ろしかり】し事共也。法皇「今は世の政しろし
めさ【知し召さ】ばやとは、露もおぼしめし【思し召し】よらず。ただ山々
寺々修行して、御心のままになぐさま【慰さま】ばや」とぞおほせける。凡平家の悪行にをひては
悉くきはまりぬ。「去る安元よりこのかた、おほく【多く】
の卿相雲客、或はながし、或はうしなひ【失ひ】、関白
ながし奉り、わが聟を関白になし、法王を城南
P05007
の離宮にうつし奉り、第二の皇子高倉の宮を
うちたてまつり【奉り】、いまのこる【残る】ところ【所】の都うつり
なれば、かやう【斯様】にし給ふにや」とぞ人申ける。都
うつりは是先蹤なきにあらず。神武天皇と申
は地神五代の帝、彦波激武■■草不葺合
尊の第四の王子、御母は玉より姫【玉依姫】、海人のむすめ
なり。神の代十二代の跡をうけ、人代百王の帝
祖也。辛酉歳、日向国宮崎の郡にして皇王の
宝祚をつぎ、五十九年といし己未歳十月に
P05008
東征して、豊葦原中津国にとどまり、このごろ
大和国となづけ【名付け】たるうねび【畝傍】の山を点じて帝都を
たて、柏原【橿原】の地をきりはら【払つ】て宮室をつくり給へ
り。これをかし原【橿原】の宮と名づけ【名付け】たり。それより
このかた、代々の帝王、都を他国他所へうつさるる
事卅度にあまり、四十度に及べり。神武天皇
より景行天皇まで十二代は、大和国こほりごほり【郡々】
にみやこをたて、他国へはつゐに【遂に】うつされず。し
かる【然る】を、成務天皇元年に近江国にうつて、
P05009
志賀の郡に都をたつ。仲哀天皇二年に長門
国にうつて、豊良【*豊浦】郡に都をたつ。其国の彼みや
こにて、御門かくれさせ給しかば、きさき神宮【*神功】皇后
御世をうけ【受け】とら【取ら】せ給ひ、女体として、鬼界・高麗・
荊旦【*契丹】までせめ【攻め】したがへさせ給ひけり。異国のい
くさ【軍】をしづめさせ給ひて帰朝の後、筑前国三
笠[B ノ]郡にして皇子御誕生、其所をばうみの
宮【産の宮】とぞ申たる。かけまくもかたじけなく【忝く】やわた【八幡】
の御事これ也。位につかせ給ひては、応神天皇
P05010
とぞ申ける。其後、神宮[B 「宮」に「功イ」と傍書]皇后は大和国にうつ
て、岩根稚桜のみや【宮】におはします。応神天皇は
同国軽島明の宮にすませ給ふ。仁徳天皇元
年に津国難波にうつて、高津の宮におはします。
履中天皇二年に大和国にうつて、とうち【十市】の
郡にみやこをたつ。反正天皇元年に河内国
にうつて、柴垣の宮にすませ給ふ。允恭天皇四
十二年に又大和国にうつて、飛鳥のあすかの
宮【飛鳥の宮】におはします。雄略天皇廿一年に同国泊
P05011
瀬あさくら【朝倉】に宮ゐ【宮居】し給ふ。継体天皇五年
に山城国つづき【綴喜】にうつて十二年、其後乙訓に宮
ゐ【宮居】し給ふ。宣化天皇元年に又大和国にかへ【帰つ】て、
桧隈の入野の宮におはします。孝徳天皇大
化元年に摂津国長良【*長柄】にうつて、豊崎の宮に
すませ給ふ。斉明天皇二年、又大和国にかへ【帰つ】て、
岡本の宮におはします。天智天皇六年に近江
国にうつて、大津宮にすませ給ふ。天武天皇元
年に猶大和国にかへ【帰つ】て、岡本の南の宮にすま
P05012
せ給ふ。これを清見原の御門と申き。持統・文
武二代の聖朝は、同国藤原の宮におはします。
元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良
の都にすませ給ふ。しかる【然る】を桓武天皇延暦三
年十月二日、奈良の京春日の里より山城国長
岡にうつて、十年といし正月に、大納言藤原
小黒丸、参議左大弁紀のこさむみ【古佐美】、大僧都玄慶【*賢■王+景】
等をつかはし【遣し】て、当国賀殿【*葛野】郡宇多の村を見
せらるるに、両人共に奏して云、「此地の体をみる【見る】に、
P05013
左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の
地也。尤帝都をさだむるにたれり」と申。仍乙城
都におはします賀茂大明神に告申させ給ひ
て、延暦十三年十二月廿一日、長岡の京より此京へ
うつされて後、帝王卅二代、星霜は三百八十余
歳の春秋ををくり【送り】むかふ【向ふ】。「昔より代々の帝
王、国々ところどころ【所々】に多の都をたてられしか
ども、かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天
皇ことに執しおぼしめし【思し召し】、大臣公卿諸道の
P05014
才人等に仰あはせ【合はせ】、長久なるべき様とて、土
にて八尺の人形をつくり、くろがね【鉄】の鎧甲をきせ【着せ】、お
なじうくろがね【鉄】の弓矢をもたせて、東山[B ノ]嶺に、
西むきにたててうづま【埋ま】れけり。「末代に此都を
他国へうつす事あらば、守護神となるべし」と
ぞ、御約束あり【有り】ける。されば天下に事いでこ【出で来】んと
ては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今に
あり【有り】。桓武天皇と申は、平家の曩祖にておはし
ます。なかにもこの【此の】京をば平安城と名づけて、
P05015
たいらか【平か】にやすきみやことかけり。尤平家のあ
がむべきみやこなり。先祖の御門のさしも執し
おぼしめさ【思し召さ】れたる都を、させるゆへ【故】なく、他国他
所へうつさるるこそあさましけれ。嵯峨の皇
帝の御時、平城の先帝、内侍のかみのすすめ【勧め】
によて、世をみだり給ひし時、すでにこの京を
他国へうつさんとせさせ給ひしを、大臣公卿、諸
国の人民そむき申しかば、うつされずしてや
みにき。一天の君、万乗のあるじ【主】だにもうつし【遷し】
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え【得】給はぬ都を、入道相国、人臣[* 「人身」と有るのを他本により訂正]の身としてうつ
されけるぞおそろしき【恐ろしき】。旧都はあはれめでた
かりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方
に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に
甍をならべ給ひ、百姓万民わづらひ【煩ひ】なく、五畿
七道もたよりあり【有り】。されども、今は辻々をみな堀
きて、車などのたやすうゆき【行き】かふ事もなし。
たまさかにゆく人もこ【小】車にのり、路をへ【経】てこそ
とをり【通り】けれ。軒をあらそひし人のすまひ【住ひ】、
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日をへ【経】つつあれゆく。家々は賀茂河・桂河に
こぼちいれ【入れ】、筏にくみうかべ【浮べ】、資財雑具舟につみ、
福原へとてはこび下す。ただなりに花の都
ゐ中になるこそかなしけれ。なにもの【何者】のしわ
ざにやあり【有り】けん、ふるき都の内裏の柱に、二首の
歌をぞかい【書い】たりける。
ももとせを四かへり【返り】までにすぎき【過来】にし
乙城のさと【理】のあれ【荒れ】やはてなん W030
さき【咲き】いづる【出づる】花の都をふりすてて
P05018
風ふく原のすゑ【末】ぞあやうき【危ふき】 W031
同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、上卿
には徳大寺[B ノ]左大将実定の卿、土御門の宰相中将
通信【*通親】の卿、奉行の弁には蔵人[B ノ]左少弁行隆、官
人共めし【召し】具して、和[B 田]の松原の西の野を点じて、
九城の地をわら【割ら】れけるに、一条よりしも【下】五条ま
では其所あて、五条よりしも【下】はなかりけり。行事
官かへりまい【参つ】てこのよしを奏聞す。さらば播磨のい
なみ野【印南野】か、なを【猶】摂津国の児屋野かなどいふ公卿僉
P05019
議あり【有り】しかども、事ゆくべしとも見えざりけり。
旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事
ゆかず。あり【有り】としある人は、身をうき雲【浮雲】のおもひ【思ひ】を
なす。もとこのところ【所】にすむ物は、地をうしな【失つ】てう
れへ、いまうつる人々は土木のわづらひ【煩ひ】をなげき
あへり。すべてただ夢のやうなりし事どもなり。
土御門宰相中将通信【*通親】卿申されけるは、異国には、
三条の広路をひらい【開い】て十二の洞門をたつと
見えたり。いはんや五条まであらん都に、などか
P05020
内裏をたてざるべき。かつがつさと内裏[* 「さう内裏」と有るのを他本により訂正]【里内裏】つくるべき
よし議定あて、五条大納言国綱【*邦綱】卿、臨時に周防
国を給て、造進せられるべきよし、入道相国はからひ
申されけり。この国綱【*邦綱】卿は大福長者にておはすれ
ば、つくりいだされん事、左右に及ばねども、いかが
国の費へ、民のわづらひ【煩ひ】なかるべき。まこと【誠】にさしあ
たたる大事、大嘗会などのおこなはるべきをさし【差し】
をい【置い】て、かかる世のみだれに遷都造内裏、すこし【少し】も
相応せず。「いにしへのかしこき御代には、すなはち内
P05021
裏に茨をふき、軒をだにもととのへず。煙のとも
しき【乏しき】を見給ふ時は、かぎりある御つぎ物をもゆ
るさ【免さ】れき。これすなはち民をめぐみ【恵み】、国をたすけ【助け】
給ふによてなり。楚帝花【*章華】の台をたてて、黎民あ
らけ【索げ】、秦阿房の殿をおこし【起こし】て、天下みだるといへり。
茅茨きらず、采椽けづらず、周車かざらず、衣
服あや【文】なかりける世もあり【有り】けん物を。されば唐
の大宗は、離山宮【*驪山宮】をつくて、民の費をやはばから
せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ【生ひ】、墻に
P05022
蔦しげて止にけるには相違かな」とぞ人申ける。
『月見』S0502
○六月九日、新都の事はじめ、八月十日上棟、十一
月十三日遷幸とさだめ【定め】らる。ふるき都はあれ【荒れ】ゆ
けば、いまの都は繁昌す。あさましかりける夏
もすぎ、秋にも已になりにけり。やうやう秋もなか
ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、
名所の月をみんとて、或は源氏の大将の昔の
跡をしのび【忍び】つつ須ま【*須磨】より明石の浦づたひ【浦伝ひ】、淡路の
せとををし【押し】わたり、絵島が磯の月をみる【見る】。或は
P05023
しらら【白良】・吹上・和歌の浦、住吉・難波・高砂・尾上の月
のあけぼのをながめてかへる人もあり【有り】。旧都にの
こる人々は、伏見・広沢の月を見る。其なかにも
徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき都の月を
恋て、八月十日あまりに、福原よりぞのぼり【上り】給ふ。
何事も皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前
草ふかくして庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が
原、鳥のふしど【臥所】とあれ【荒れ】はてて、虫の声々うらみ【恨み】つつ、
黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける。故郷の
P05024
名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましまし
ける。大将その御所にまい【参つ】て、まづ随身に惣門を
たたかせらるるに、うちより女の声して、「た【誰】そや、
蓬生の露うちはらう人もなき所に」ととがむ
れば、「福原より大将殿の御まいり【参り】候」と申。「惣門は
じやう【錠】のさされてさぶらふぞ。東面の小門よりいら【入ら】
せ給へ」と申ければ、大将さらばとて、東の門より
まいら【参ら】れけり。大宮は御つれづれに、昔をやおぼし
めし【思召し】いで【出で】させ給ひけん。南面の御格子あげさせて、
P05025
御琵琶あそばさ【遊ばさ】れけるところに、大将まいら【参ら】れ
たりければ、「いかに、夢かやうつつ【現】か、これへこれへ」とぞ
仰ける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮
の御むすめ、秋のなごり【名残】をおしみ【惜しみ】、琵琶をしらべ【調べ】
て夜もすがら心をすまし【澄まし】給ひしに、在明の月
のいで【出で】けるを、猶たえ【堪へ】ずやおぼしけん、撥にてま
ねき給ひけんも、いまこそおもひ【思ひ】しられけれ。待
よひ【待宵】の小侍従といふ女房も、此御所にぞ候ける。
この女房を待よひと申ける事は、或時御所
P05026
にて「まつよひ、かへる【帰る】あした、いづれかあはれ【哀】はまさ
れる」と御尋あり【有り】ければ、
待よひのふけ【更け】ゆく鐘の声きけば
かへるあしたの鳥はものかは W032
とよみ【詠み】たりけるによてこそ待よひとはめさ【召さ】れけ
れ。大将かの女房よび【呼び】いだし、昔いまの物がたり【物語】
して、さ夜もやうやうふけ行ば、ふるきみやこの
あれ【荒れ】ゆくを、いまやう【今様】にこそうたはれけれ。ふる
き都をき【来】てみれ【見れ】ばあさぢ【浅茅】が原とぞあれ【荒れ】にける
P05027
月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ K037 Iと、三
反うたひ【歌ひ】すまされければ、大宮をはじめまいらせ【参らせ】て、
御所中の女房たち【達】、みな袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。去
程に夜もあけ【明け】ければ、大将いとま申て、福原へこそ
かへら【帰ら】れけれ。御ともに候蔵人をめし【召し】て、「侍従
があまりなごりおしげ【惜し気】におもひ【思ひ】たるに、なんぢかへ【帰つ】
てなにともいひ【言ひ】てこよ」と仰せければ、蔵人
はしり【走り】かへ【帰つ】て、「「畏り申せ」と候」とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの
P05028
けさ【今朝】しもなどかかなしかる【悲しかる】覧 W033
女房涙ををさへ【抑へ】て、
また【待た】ばこそふけゆく鐘も物ならめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W034
蔵人かへりまい【参つ】てこのよし申たりければ、「され
ばこそなんぢをばつかはし【遣し】つれ」とて、大将大
に感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵
『物怪之沙汰』S0503
人とはいはれけれ。○福原へ都をうつされて後、
平家の人々夢見もあしう【悪しう】、つねは心さはぎ【騒ぎ】
P05029
のみして、変化の物どもおほかり【多かり】けり。ある【或】夜入
道のふし【臥し】給へるところ【所】に、ひとま【一間】にはばかる程
の物の面いできて、のぞきたてまつる【奉る】。入道相国
ちともさはが【騒が】ず、ちやうどにらまへ【睨まへ】ておはし【在し】ければ、
ただぎえ【唯消え】にきえうせぬ。岡の御所と申はあ
たらしうつくら【造ら】れたれば、しかる【然る】べき大木もな
かりけるに、ある【或】夜おほ木のたふるる【倒るる】音して、
人ならば二三十人が声して、どとわらふ【笑ふ】こと
あり【有り】けり。これはいかさまにも天狗の所為といふ
P05030
沙汰にて、ひきめ【蟇目】の当番となづけ【名付け】て、よる百人
ひる五十人の番衆をそろへて、ひきめをゐ【射】
させらるるに、天狗のあるかた【方】へむい【向い】てゐ【射】たる時は
音もせず。ない方へむい【向い】てゐ【射】たるとおぼしき時は、
どつとわらひ【笑ひ】などしけり。又あるあした【朝】、入道相
国帳台よりいで【出で】て、つま戸【妻戸】ををし【押し】ひらき、坪の
うちを見給へば、死人のしやれかうべ【骸骨】どもが、いく
らといふかず【数】もしら【知ら】ず庭にみちみちて、うへ【上】になり
した【下】になり、ころびあひころびのき、はし【端】なるは
P05031
なか【中】へまろびいり中なるははし【端】へいづ。おびたたしう【夥しう】
からめきあひければ、入道相国「人やある、人や
ある」とめさ【召さ】れけれども、おりふし【折節】人もまいら【参ら】ず。
かくしておほくのどくろ【髑髏】どもがひとつ【一つ】にかた
まりあひ、つぼ【坪】のうちにはばかるほど【程】になて、たか
さは十四五丈もあるらんとおぼゆる【覚ゆる】山のごとくに
なりにけり。かのひとつ【一つ】の大がしら【頭】に、いき【生き】たる人
のまなこの様に大のまなこどもが千万いで
きて、入道相国をちやうどにらまへ【睨まへ】て、まだた
P05032
き【瞬き】もせず。入道すこし【少し】もさはが【騒が】ず、はたとにら
まへ【睨まへ】てしばらくたた【立た】れたり。かの大がしら余に
つよくにらまれたてまつり霜露などの日に
あたてきゆる【消ゆる】やうに、跡かた【跡形】もなくなりにけり。
其外に、一の厩にたててとねり【舎人】あまたつけられ、
あさゆふ【朝夕】ひまなくなで【撫で】かは【飼は】れける馬の尾に、
一夜のうちにねずみ【鼠】巣をくひ、子をぞうん【産ん】だ
りける。「これただ事にあらず」とて、七人の陰陽
師にうらなは【占は】せられければ、「おもき【重き】御つつしみ」と
P05033
ぞ申ける。この御馬は、相模[B ノ]国の住人大庭三郎
景親が、東八ケ国一の馬とて、入道相国にまいら
せ【参らせ】たり。くろき馬の額しろかり【白かり】けり。名をば望
月とぞつけられたる。陰陽頭安陪【*安倍】の泰親給はり
けり。昔天智天皇の御時、竜【*寮】の御馬の尾に
一夜の中に鼠す【巣】をくひ、子をうん【産ん】だりけるには、
異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本記には
みえ【見え】たる。又、源中納言雅頼卿のもとに候ける青
侍が見たりけるゆめ【夢】も、おそろしかり【恐ろしかり】けり。たとへば、
P05034
大内の神祇官とおぼしきところ【所】に、束帯ただ
しき上臈たちあまたおはして、儀定【*議定】の様なる
事のあり【有り】しに、末座なる人の、平家のかたう
ど【方人】するとおぼしきを、その中よりお【追つ】たて【立て】らる。
かの青侍夢の心に、「あれはいかなる上臈にて
ましますやらん」と、ある【或】老翁にとひ【問ひ】たてま
つれ【奉れ】ば、「厳島の大明神」とこたへ給ふ。其後座
上にけだかげなる宿老の在ましけるが、「この
日来平家のあづかり【預り】たりつる節斗をば、
P05035
今は伊豆国の流人頼朝にたば【賜ば】うずる也」と仰
られければ、其御そばに猶宿老の在ましける
が、「其後はわが孫にもたび【賜び】候へ」と仰らるるといふ
夢を見て、是を次第にとひたてまつる【奉る】。「節斗
を頼朝にたばうとおほせられつるは八幡大菩
薩、其後はわが孫にもたび候へと仰られつるは
春日大明神、かう申老翁は武内の大明神」と
仰らるるといふ夢を見て、これを人にかたる
程に、入道相国もれ【漏れ】きい【聞い】て、源大夫判官秀貞【*季貞】
P05036
をもて雅頼卿のもとへ、「夢O[BH 見]の青侍、いそぎ【急ぎ】是
へたべ」と、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、かの夢見
たる青侍やがて逐電してんげり。雅頼卿い
そぎ入道相国のもとへゆき【行き】むかて、「またくさる
こと候はず」と陳じ申されければ、其後さた【沙汰】もな
かりけり。それにふしぎなりし事には、清盛公
いまだ安芸守たりし時、じんばい【神拝】のつゐでに、れい
む【霊夢】をかうぶて、厳島の大明神よりうつつに
たまはれたりし、銀のひるまきしたる小長刀、
P05037
つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜
俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日ごろ
は朝家の御かためにて、天下を守護せしかども、
今は勅命にそむけば、節斗をもめし【召し】かへ
さ【返さ】るるにや、心ぼそうぞきこえ【聞え】し。なかにも高
野におはしける宰相入道成頼、か様【斯様】の事共
をつたへきい【聞い】て、「すは平家の代はやうやう末に
なりぬるは。いつくしまの大明神の平家のかた
うど【方人】をし給ひけるといふは、そのいはれあり【有り】。但
P05038
それは沙羯羅竜王の第三の姫宮なれば、女神
とこそうけ給はれ【承れ】。八幡大菩薩の、せつと【節斗】を頼朝
にたば【賜ば】うど仰られけるはことはり【理】也。春日大明神
の、其後はわが孫にもたび候へと仰られけるこそ
心えね。それも平家ほろび、源氏の世つきなん
後、大織冠の御末、執柄家の君達の天下の将
軍になり給ふべき歟」などぞの給ひける。又或
僧のおりふし【折節】来たりけるが申けるは、「夫神明は
和光垂跡の方便まちまちにましませば、或時は
P05039
俗体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠に
厳島の大明神は、女神とは申ながら、三明六通
の霊神にてましませば、俗体に現じ給はんも
かたかるべきにあらず」とぞ申ける。うき世をいとひ
実の道に入ぬれば、ひとへに後世菩提の外は
世のいとなみあるまじき事なれども、善政を
きい【聞い】ては感じ、愁をきい【聞い】てはなげく【歎く】、これみな人
『早馬』S0504
間の習なり。○同九月二日、相模国の住人大庭三
郎景親、福原へ早馬をもて申けるは、「去八月
P05040
十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝、しうと【舅】北条
四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉[B ノ]判官
兼高【*兼隆】をやまき【山木】が館で夜うち【夜討】にうち候ぬ。其後
土肥・土屋・岡崎をはじめとして三百余騎、石
橋山に立籠て候ところ【所】に、景親御方に心ざし
を存ずるものども一千余騎を引率して、
をし【押し】よせ【寄せ】せめ【攻め】候程に、兵衛佐七八騎にうちなさ
れ、おほ童にたたかひ【戦ひ】なて、土肥の椙山へにげこ
もり【逃籠り】候ぬ。其後畠山五百余騎で御方を
P05041
つかまつる。三浦[B ノ]大介義明が子共、三百余騎で
源氏方をして、湯井【*由井】・小坪の浦でたたかふ【戦ふ】に、
畠山いくさ【軍】にまけて武蔵国へひき【引き】しりぞく。
その後畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・笠井【*葛西】、
惣じて其外七党の兵ども三千余騎をあひ
ぐし【具し】て、三浦衣笠の城にをし【押し】よせてせめ【攻め】たた
かふ。大介義明うた【討た】れ候ぬ。子共は、くり浜【久里浜】の浦より
舟にのり、安房・上総へわたり候ぬ」とこそ申たれ。
[BH 是ヨリ朝敵揃ト云本モアリ]
平家の人々都うつりもはやけう【興】さめぬ。わかき
P05042
公卿殿上人は、「あはれ、とく【疾く】事のいでこよ【出来よ】かし。
打手にむかは【向は】う」などいふぞはかなき。畠山の庄司
重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝
綱、大番役にて、おりふし【折節】在京したりけり。畠山
申けるは、「僻事にてぞ候らん。したしう【親しう】なて候
なれば、北条はしり【知り】候はず、自余の輩は、よも
朝敵が方人をば仕候はじ。いまきこしめし【聞し召し】なを
さんずる物を」と申ければ、げにもといふ人もあり【有り】。
「いやいや只今天下の大事に及なんず」とささや
P05043
く物もおほかり【多かり】けり。入道相国、いから【怒ら】れける様なのめ
ならず。「頼朝をばすでに死罪におこなはるべかり
しを、故池殿のあながちになげきの給ひしあひ
だ【間】、流罪に申なだめ【宥め】たり。しかる【然る】に其恩わすれ【忘れ】
て、当家にむか【向つ】て弓をひくにこそあんなれ。神
明三宝もいかでかゆるさ【許さ】せ給ふべき。只今天のせ
め【責】かうむら【蒙ら】んずる頼朝なり」とぞの給ひける。
『朝敵揃』S0505
○夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといは
れみこと[* 「ひこと」と有るのを他本により訂正]【日本磐余命】の御宇四年、紀州なぐさ【名草】の郡高
P05044
雄村に一の蜘蛛あり【有り】。身みじかく、足手ながくて、
ちから【力】人にすぐれたり。人民をおほく【多く】損害せしかば、
官軍発向して、宣旨をよみかけ、葛の網を
むすん【結ん】で、終にこれをおほひ【覆ひ】ころす。それよりこ
のかた、野心をさしはさんで朝威をほろぼさ【滅さ】ん
とする輩、大石山丸、大山王子、守屋の大臣、山田
石河、曾我[B ノ]いるか【入鹿】、大友のまとり【真鳥】、文屋宮田、橘逸
成、ひかみ【氷上】の河次、伊与の親王、大宰【*太宰】少弐藤原広
嗣、ゑみ【恵美】の押勝、佐あら【早良】の太子、井上の広公、藤
P05045
原[B ノ]仲成、平[B ノ]将門、藤原[B ノ]純友、安陪【*安部】貞任・宗任、対馬
守源義親、悪左府・悪衛門[B ノ]督にいたるまで、すべて
廿余人、されども一人として素懐をとぐる物なし。
かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけらる。
この【此の】世にこそ王位も無下にかるけれ【軽けれ】、昔は宣旨を
むか【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、
とぶ鳥もしたがひ【従ひ】けり。中比の事ぞかし。延喜
御門神泉苑に行幸あて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位をめし【召し】て、「あの鷺とてま
P05046
いらせよ【参らせよ】」と仰ければ、いかで【争】かとら【取ら】んとおもひ【思ひ】けれ
ども、綸言なればあゆみ【歩み】むかふ【向ふ】。鷺はねづくろ
ひ【羽繕ひ】してたた【立た】んとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらん【平ん】
で飛さらず。これをと【取つ】てまいり【参り】たり。「なんぢが
宣旨にしたがてまいり【参り】たるこそ神妙なれ。や
がて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされ
ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ
札をあそばひ【遊ばい】て、頸にかけてはなたせ給。またく
鷺の御れう【料】にはあらず、只王威の程をしろし
P05047
『感陽宮【*咸陽宮】』S0506
めさ【知ろし召さ】んがためなり。○又先蹤を異国に尋に、燕の太
子丹といふもの、秦始皇にとらはれて、いまし
めをかうぶる事十二年、太子丹涙をながひ【流い】て
申けるは、「われ本国に老母あり。いとまを給はて
かれを見ん」と申せば、始皇帝あざわら【笑つ】て、「なん
ぢにいとまをたば【賜ば】ん事は、馬に角おひ【生ひ】、烏の
頭の白くならん時をまつ【待つ】べし」。燕丹天に
あふぎ地に臥て、「願は、馬に角をひ【生ひ】、烏の頭しろ
く【白く】なしたべ。故郷にかへ【帰つ】て今一度母をみん」とぞ
P05048
祈ける。かの妙音菩薩は霊山浄土に詣して、
不孝の輩をいましめ、孔子・顔回はしな【支那】震旦に
出て忠孝の道をはじめ給ふ。冥顕の三宝
孝行の心ざしをあはれみ給ふ事なれば、馬に
角をひ【生ひ】て宮中に来り、烏の頭白くなて庭
前の木にすめ【栖め】りけり。始皇帝、烏頭馬[M の]角
の変におどろき、綸言かへらざる事を信じて、
太子丹をなだめ【宥め】つつ、本国へこそかへさ【返さ】れけれ。
始皇なを【猶】くやしみ【悔しみ】て、秦の国と燕の国のさ
P05049
かひ【境】に楚国といふ国あり【有り】。大なる河ながれたり。
かの河にわたせ【渡せ】る橋をば楚国の橋といへり。
始皇官軍をつかはし【遣し】て、燕丹がわたらん時、河
なかの橋をふまばおつる【落つる】様にしたためて、燕丹
をわたらせけるに、なじかはおちいら【陥ら】ざるべき。河
なかへおち【落ち】入ぬ。されどもちとも水にもおぼれず、
平地を行ごとくして、むかへの岸へつき【付き】にけり。こは
いかにとおもひ【思ひ】てうしろをかへり見ければ、亀ども
がいくらといふかずもしら【知ら】ず、水の上にうかれ【浮かれ】来て、
P05050
こう【甲】をならべてぞあゆま【歩ま】せたりける。これも孝行
のこころざしを冥顕あはれみ給ふによてなり。太
子丹うらみ【恨み】をふくん【含ん】で又始皇帝にしたがはず。
始皇官軍をつかはし【遣し】て燕丹をうた【討た】んとし給ふ
に、燕丹おそれ【恐れ】をののき、荊訶【*荊軻】といふ兵をかたらふて
大臣になす。荊訶【*荊軻】又田光先生といふ兵をか
たらふ。かの先生申けるは、「君はこの身がわかう【若う】
さかん【壮】なし事をしろしめさ【知ろし召さ】れてたのみ【頼み】仰らるる
か。騏■は千里を飛ども、老ぬれば奴馬にも
P05051
おとれり。いまはいかにもかなひ【適ひ】候まじ。兵をこそ
かたらふてまいらせ【参らせ】め」とて、かへら【帰ら】んとするところ【所】に、
荊訶【*荊軻】「この事あなかしこ、人にひろふ【披露】すな」といふ。
先生申けるは、「人にうたがは【疑は】れぬるにすぎ【過ぎ】たる恥
こそなけれ。此事もれ【漏れ】ぬる物ならば、われうた
がはれなんず」とて、門前なる李の木にかしら【頭】を
つき【突き】あて、うちくだいてぞ死にける。又范予期【*樊於期】
といふ兵あり【有り】。これは、秦の国のものなり。始皇の
ためにおや【父】・おぢ【伯叔】・兄弟をほろぼされて、燕の国に
P05052
にげ【逃げ】こもれり。秦皇四海に宣旨をくだい【下い】て、「范
予期【*樊於期】がかうべはね【刎ね】てまいらせ【参らせ】たらん物には、五百
斤の金をあたへん」とひろう【披露】せらる。荊訶【*荊軻】これを
きき、范予期【*樊於期】がもとにゆい【行い】て、「われきく【聞く】。なんぢ
がかうべ五百斤の金にほうぜ【報ぜ】らる。なんぢが首
われにかせ【貸せ】。取て始皇帝にたてまつらん。よろ
こで叡覧をへ【経】られん時、つるぎ【剣】をぬき、胸を
ささんにやすかり【安かり】なん」といひければ、范予期【*樊於期】お
どり【躍り】あがり、大いき【息】ついて申けるは、「われおや・おぢ・
P05053
兄弟を始皇のためにほろぼされて、よるひる
これ【是】をおもふ【思ふ】に、骨髄にとを【徹つ】て忍がたし。げにも
始皇帝をほろぼすべくは、首をあたへんこと、
塵あくたよりも尚やすし」とて、手づから首
を切てぞ死にける。又秦巫陽【*秦舞陽】といふ兵あり【有り】。こ
れも秦の国の物なり。十三の歳かたき【敵】をう【打つ】て、
燕の国ににげこもれり。ならびなき兵なり。かれが
嗔てむかふ【向ふ】時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ
時は、みどり子もいだか【抱か】れけり。これを秦の都の
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案内者にかたらう【語らう】て、ぐし【具し】てゆく程に、ある片
山のほとりに宿したりける夜、其辺ちかき里
に管絃をするをきい【聞い】て、調子をもつて本意
の事をうらなふ【占ふ】に、かたき【敵】の方は水なり、我方は
火なり。さる程に天もあけ【明け】ぬ。白虹日をつらぬひ【貫い】
てとをら【通ら】ず。「我等が本意とげん事ありがたし」と
ぞ申ける。さりながら帰べきにもあらねば、始皇
の都咸陽宮にいたりぬ。燕の指図ならびに
范予期【*樊於期】が首も【持つ】てまいり【参り】たるよし奏しければ、
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臣下をもてうけ【受け】とら【取ら】んとし給ふ。「またく人しては
まいらせ【参らせ】じ。直にたてまつら【奉ら】ん」と奏する間、さらば
とて、節会の儀をととのへて、燕の使をめされ
けり。咸陽宮はみやこのめぐり一万八千三百八
十里につもれり。内裏をば地より三里たかく築
あげて、其上にたてたり。長生殿・不老門あり【有り】、
金をもて日をつくり、銀をもて月をつくれり。
真珠のいさご、瑠璃の砂、金の砂をしき【敷き】みてり。
四方にはたかさ四十丈の鉄の築地をつき、殿の
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上にも同く鉄の網をぞ張たりける。これは冥
途の使をいれ【入れ】じとなり。秋の田のも【面】の鴈、春は
こしぢ【越路】へ帰も、飛行自在のさはり【障】あれば、築地
には鴈門となづけ【名付け】て、鉄の門をあけてぞとをし【通し】
ける。そのなかにも阿房殿とて、始皇のつねは
行幸なて、政道おこなはせ給ふ殿あり【有り】。たかさは
卅六丈東西へ九町、南北へ五町、大床のしたは
五丈のはたほこをたてたるが、猶及ばぬ程也。上は
瑠璃の瓦をもてふき、したは金銀にてみがき
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けり。荊訶【*荊軻】は燕の指図をもち、秦巫陽【*秦舞陽】は范予
期【*樊於期】が首をも【持つ】て、珠のきざ橋【階】をのぼりあがる【上がる】。あま
りに内裏のおびたたしき【夥しき】を見て秦巫陽【*秦舞陽】わな
わなとふるひ【震ひ】ければ、臣下あやしみて、「巫陽【*舞陽】謀
反の心あり【有り】。刑人をば君のかたはら【側】にをか【置か】ず、君子
は刑人にちかづか【近付か】ず、刑人にちかづく【近付く】はすなはち死を
かろんずる道なり」といへり。荊訶【*荊軻】たち【立ち】帰て、「巫陽【*舞陽】
またく謀反の心なし。ただ田舎のいやしき【卑しき】にのみ
なら【習つ】て、皇居になれ【馴れ】ざるが故に心迷惑す」と申
P05058
ければ、臣下みなしづまりぬ。仍王にちかづき【近付き】たて
まつる【奉る】。燕の指図ならびに范予期【*樊於期】が首げざん【見参】に
いるる【入るる】ところ【所】に、指図の入たる櫃のそこ【底】に、氷の様なる
つるぎの見えければ、始皇帝これを見て、や
がてにげ【逃げ】んとしたまふ【給ふ】。荊訶【*荊軻】王の御袖をむずと
ひかへ【控へ】て、つるぎをむね【胸】にさしあてたり。いまは
かうとぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖をつ
らぬ【連ぬ】といへども、すくは【救は】んとするに力なし。ただ君
逆臣におかさ【犯さ】れ給はん事をのみかなしみあへり。
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始皇の給はく、「われに暫時のいとまをえ【得】させよ。
わが最愛の后の琴のね【音】を今一度きかん」との
給へ【宣へ】ば、荊訶【*荊軻】しばしをかし【犯し】たてまつらず。始皇は
三千人のきさきをもち給へり。其中に花陽
夫人とて、すぐれたる琴の上手おはしけり。凡此
后の琴のね【音】をきい【聞い】ては、武きもののふ【武士】のいかれ【怒れ】る
もやはらぎ、飛鳥もおち【落ち】、草木もゆるぐ【揺ぐ】程なり。況
やいまをかぎりの叡聞にそなへ【供へ】んと、なくなく【泣く泣く】ひき
給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊訶【*荊軻】も頭を
P05060
うなたれ、耳をそばだて、殆謀臣のおもひ【思ひ】もたゆみ【弛み】
にけり。きさき【后】はじめてさらに一曲を奏す。「七尺
屏風はたかく【高く】とも、おどら【躍ら】ばなどかこえ【越え】ざらん。一条
の羅こくはつよくとも、ひか【引か】ばなどかはたえ【絶え】ざらん」
とぞひき【弾き】給ふ。荊訶【*荊軻】はこれをきき【聞き】しら【知ら】ず、始皇
はきき【聞き】知て、御袖をひ【引つ】きり【切り】、七尺の屏風を飛こ
えて、あかがね【銅】の柱のかげににげ【逃げ】かくれ【隠れ】させ給ひぬ。荊
訶【*荊軻】いか【怒つ】て、つるぎ【剣】をなげ【投げ】かけたてまつる。おりふし【折節】
御前に番の医師の候けるが、薬の袋を荊訶【*荊軻】が
P05061
つるぎになげ【投げ】あはせ【合はせ】たり。つるぎ薬の袋をかけ【掛け】
られながら、口六尺の銅の柱をなから【半】までこそき【切つ】
たりけれ。荊訶【*荊軻】又剣ももたねばつづい【続い】てもなげ
ず。王たちかへ【立ち返つ】てわがつるぎ【剣】をめし【召し】よせて、荊訶【*荊軻】を
八ざき【八つ裂】にこそし給ひけれ。秦巫陽【*秦舞陽】もうた【討た】れにけり。
官軍をつかはし【遣はし】て、燕丹をほろぼさる。蒼天ゆ
るし給はねば、白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。
秦の始皇はのがれ【逃れ】て、燕丹つゐに【遂に】ほろびにき。
「されば今の頼朝もさこそはあらんずらめ」と、色代
P05062
『文学【*文覚】荒行』S0507
する人々もあり【有り】けるとかや。○抑かの頼朝と申は、
去る平治元年十二月、ちち【父】左馬頭義朝が謀反
によて、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、
伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋ををくり【送り】
むかふ【向ふ】。年ごろもあればこそあり【有り】けめ、ことしいか
なる心にて謀反をばおこさ【起さ】れけるぞといふに、高
雄の文覚上人の申すすめ【勧め】られたりけるとかや。彼
文覚と申は、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂
遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。
P05063
十九の歳道心をこし【起こし】出家して、修行にいで【出で】んとし
けるが、「修行といふはいかほど【程】の大事やらん、ためい【試い】て
み【見】ん」とて、六月の日の草もゆるが【揺が】ずて【照つ】たるに、片山
のやぶ【薮】のなかにはいり、あをのけ【仰ふのけ】にふし、あぶぞ、蚊ぞ、
蜂蟻などいふ毒虫どもが身にひしととり【取り】つい【付い】て、
さしくひ【刺食】などしけれども、ちとも身をもはたら
かさ【働かさ】ず。七日まではおき【起き】あがら【上がら】ず、八日といふにおき
あが【上がつ】て、「修行といふはこれ程の大事か」と人にとへ
ば、「それ程ならんには、いかでか命もいく【生く】べき」といふ
P05064
あひだ、「さてはあんべい【安平】ごさんなれ」とて、修行にぞ
いで【出で】にける。熊野へまいり【参り】、那智ごもり【籠り】せんとしける
が、行の心みに、きこゆる【聞ゆる】滝にしばらくうた【打た】れて
みんとて、滝もと【滝下】へぞまいり【参り】ける。比は十二月十日
あまりの事なれば、雪ふり【降り】つもり【積り】つららゐ【凍】て、
谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふき【吹き】こほり【凍り】、滝の
しら糸【白糸】垂氷となり、みな白妙にをし【押し】なべて、よも
の梢も見えわかず。しかる【然る】に、文覚滝つぼ【滝壺】におり【下り】
ひたり、頸ぎはつかて、慈救の呪をみて【満て】けるが、二三
P05065
日こそあり【有り】けれ、四五日にもなりければ、こらへ【耐へ】ずし
て文覚うき【浮き】あがりにけり。数千丈みなぎり【漲ぎり】おつる
滝なれば、なじかはたまるべき。ざとをし【押し】おとさ【落さ】れ
て、かたな【刀】のは【刃】のごとくに、さしもきびしき【厳しき】岩かどの
なかを、うき【浮き】ぬしづみぬ五六町こそながれ【流れ】たれ。時
にうつくしげなる童子一人来て、文覚が左右の
手をとてひき【引き】あげ【上げ】給ふ。人奇特のおもひ【思ひ】をなし、
火をたき【焚き】あぶりなどしければ、定業ならぬ命
ではあり【有り】、ほどなくいき【生き】いで【出で】にけり。文覚すこし【少し】人
P05066
心ち【人心地】いでき【出で来】て、大のまなこを見いからかし【怒らかし】、「われ此
滝に三七日うた【打た】れて、慈救の三洛叉をみて【満て】うど
おもふ【思ふ】大願あり【有り】。けふはわづかに五日になる。七日だ
にもすぎ【過ぎ】ざるに、なに物【何者】かここへはと【取つ】てきたるぞ」
といひければ、見る人身のけ【毛】よだてものいはず。
又滝つぼ【滝壺】にかへり【帰り】たてうた【打た】れけり。第二日といふに、
八人の童子来て、ひき【引き】あげんとし給へども、さん
ざん【散々】につかみ【掴み】あふ【合う】てあがら【上がら】ず。三日といふに、文覚つ
ゐに【遂に】はかなく【果敢く】なりにけり。滝つぼ【滝壺】をけがさ【汚さ】じとや、
P05067
みづらゆう【結う】たる天童二人、滝のうへ【上】よりおり【下り】く
だり【下り】、文覚が頂上より手足のつまさき【爪先】・たなうら【手裏】に
いたるまで、よにあたたか【暖たか】にかうばしき【香ばしき】御手をもて、
なで【撫で】くだし給ふとおぼえければ、夢の心ち【心地】して
いき【生き】いで【出で】ぬ。「抑いかなる人にてましませば、かうは
あはれみ給ふらん」ととひ【問ひ】たてまつる【奉る】。「われはこれ【是】大
聖不動明王の御使に、こんがら【矜迦羅】・せいたか【制■迦】といふ二童子
なり。「文覚無上の願をおこし【起こし】て、勇猛の行をくは
たつ【企つ】。ゆい【行い】てちから【力】をあはすべし」と明王の勅によて
P05068
来れる也」とこたへ給ふ。文覚声をいからかし【怒らかし】て、
「さて明王はいづくに在ますぞ」。「都率天に」と
こたへて、雲井はるかにあがり【上がり】給ひぬ。たな心を
あはせ【合はせ】てこれを拝したてまつる【奉る】。「されば、わが行
をば大聖不動明王までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるに
こそ」とたのもしう【頼もしう】おぼえて、猶滝つぼ【滝壺】にかへりた
てうた【打た】れけり。まこと【誠】にめでたき瑞相どもあり【有り】
ければ、吹くる風も身にしまず、落くる水も
湯のごとし。かくて三七日の大願つゐに【遂に】とげ【遂げ】にけれ
P05069
ば、那智に千日こもり、大峯三度、葛城二度、高
野・粉河・金峯山、白山・立山・富士の嵩、伊豆、箱
根、信乃【*信濃】戸隠、出羽[B ノ]羽黒、すべて日本国のこる【残る】所なく
おこなひまは【廻つ】て、さすが尚ふる里や恋しかりけん、
宮こ【都】へのぼりたりければ、凡とぶ鳥も祈おとす【落す】程
『勧進張』S0508
のやいば【刃】の験者とぞきこえ【聞え】し。○後には高雄と
いふ山の奥におこなひすまし【澄し】てぞゐたりける。彼
たかお【高雄】に神護寺といふ山寺あり【有り】。昔称徳天皇
の御時、和気の清丸がたてたりし伽藍也。久しく
P05070
修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は
霧にまじはり、扉は風にたふれ【倒れ】て落葉の
した【下】にくち【朽ち】、薨は雨露にをかされて、仏壇
さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれに
さし【差し】入物とては、月日の光ばかりなり。文覚是を
いかにもして修造せんといふ大願をおこし、勧進
帳をささげて、十方檀那をすすめ【勧め】ありき【歩き】ける程
に、或時院御所法住寺殿へぞまいり【参り】たりける。御奉
加あるべき由奏聞しけれども、御遊のおりふし【折節】で
P05071
きこしめし【聞し召し】も入られず、文覚は天性不敵第一の
あらひじり【荒聖】なり、御前の骨ない様をばしら【知ら】ず、
ただ申入ぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへ
やぶりいり【破り入り】、大音声をあげて申けるは、「大慈大
悲の君にておはします。などかきこしめし【聞し召し】入ざるべ
き」とて、勧進帳をひき【引き】ひろげ、たからか【高らか】にこそよ
う【読う】だりけれ。沙弥文覚敬白す。殊に貴賎道俗
助成を蒙て、高雄山の霊地に、一院を建立し、
二世安楽の大利を勤行せんと乞勧進状。夫以ば、
P05072
真如広大なり。生仏の仮名をたつといへども、
法性随妄の雲あつく覆て、十二因縁の峯に
たなびいしよりこのかた【以来】、本有心蓮の月の光かす
か【幽】にして、いまだ三毒四慢の大虚にあらはれ【現はれ】ず。悲
哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。
只色に耽り、酒にふける、誰か狂象重淵【*跳猿】の迷を
謝せん。いたづらに人を謗じ法を謗ず、あに閻羅
獄卒の責をまぬかれ【免かれ】んや。〔爰に文覚たまたま俗塵をうちはら【払つ】て〕法衣をかざるといへ共、
悪行猶心にたくましうして日夜に造り、善苗
P05073
又耳に逆て朝暮にすたる。痛哉、再度三途の
火坑にかへ【帰つ】て、ながく四生苦輪にめぐらん事を。
此故に無二の顕章千万軸、軸々に仏種の因を
あかす。随縁至誠の法一として菩提の彼岸にいた
らずといふ事なし。かるがゆへに、文覚無常の観
門に涙をおとし【落し】、上下の親俗をすすめて上品蓮台
にあゆみ【歩み】をはこび、等妙覚王の霊場をたてんと也。
抑高雄は、山うづたかくして鷲峯山の梢を、
表し、谷閑にして商山洞の苔をしけ【敷け】り。巌泉
P05074
咽で布をひき【引き】、嶺猿叫で枝にあそぶ。人里と
をう【遠う】して囂塵[* 「器塵」と有るのを他本により訂正]なし。咫尺好う【事無う】して信心のみ有。
地形すぐれたり、尤も仏天をあがむべし。奉加すこ
しきなり、誰か助成せざらん。風聞、聚沙為仏
塔功徳、忽に仏因を感ず。況哉一紙半銭の
宝財にをひてをや。願は建立成就して、金闕
鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近隣民親疎、尭
舜無為の化をうたひ【歌ひ】、椿業再会の咲をひらかん。
殊には、聖霊幽儀先後大小、すみやかに一仏真
P05075
門の台にいたり、必三身万徳の月をもてあそば【翫ば】ん。
仍勧進修行の趣、蓋以如斯治承三年三月日
『文学【*文覚】被流』S0509
文覚とこそよみ【読み】あげたれ。○おりふし【折節】、御前には太
政大臣妙音院、琵琶かき【掻き】ならし【鳴らし】朗詠めでたうせ
させ給ふ。按察大納言資方【*資賢】卿拍子とて、風俗催
馬楽うたはれけり。右馬頭資時・四位侍従盛定
和琴かき【掻き】ならし【鳴らし】、いま様【今様】とりどりにうたひ【歌ひ】、玉の簾、
錦の帳の中ざざめきあひ、まこと【誠】に面白かりけれ
ば、法皇もつけ歌【附け歌】せさせおはします。それに文覚
P05076
が大音声いでき【出で来】て、調子もたがひ【違ひ】、拍子もみな
みだれ【乱れ】にけり。「なに物【何者】ぞ。そくびつけ【突け】」と仰下さるる程
こそあり【有り】けれ、はやりを【逸男】の若物共、われもわれもと
すすみ【進み】けるなかに、資行判官といふものはしり【走り】
いで【出で】て、「何条事申ぞ。まかり【罷り】いでよ」といひければ、
「高雄の神護寺に庄一所よせ【寄せ】られざらん程は、
またく文覚いづ【出づ】まじ」とてはたらか【働か】ず。よてそ
くびをつか【突か】うどしければ、勧進帳をとりなをし【直し】、
資行判官が烏帽子をはたとう【打つ】てうちおとし【落し】、
P05077
こぶし【拳】をにぎてしやむね【胸】をつゐ【突い】て、のけ【仰】につきた
をす【倒す】。資行判官もとどり【髻】はな【放つ】て、おめおめと大
床のうへ【上】へにげ【逃げ】のぼる。其後文覚ふところ【懐】より
馬の尾でつか【柄】まい【巻い】たる刀の、こほり【氷】のやうなるを
ぬき【抜き】いだひ【出い】て、より【寄り】こん物をつか【突か】うどこそまち【待ち】
かけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいて
はしり【走り】まはるあひだ【間】、おもひ【思ひ】まうけぬにはか事【俄事】では
あり【有り】、左右の手に刀をも【持つ】たる様にぞ見えたり
ける。公卿殿上人も、「こはいかにこはいかに」とさはが【騒が】れければ、
P05078
御遊もはや荒にけり。院中のさうどう【騒動】なのめ
ならず。信乃【*信濃】国の住人安藤武者右宗、其比当職の
武者所で有けるが、「何事ぞ」とて、太刀をぬいてはし
り【走り】いでたり。文覚よろこ【喜こん】でかかる所を、き【斬つ】てはあし
かり【悪かり】なんとやおもひ【思ひ】けん、太刀のみね【峯】をとりなをし【直し】、
文覚がかたな【刀】も【持つ】たるかいな【腕】をしたたかにうつ。うた【打た】れ
てちとひるむところ【所】に、太刀をすてて、「え【得】たりをう」
とてくん【組ん】だりけり。くま【組ま】れながら文覚、安藤武
者が右のかいな【腕】をつく【突く】。つかれ【疲れ】ながらしめ【締め】たりけり。
P05079
互におとらぬ大ぢからなりければ、うへ【上】になりした【下】に
なり、ころび【転び】あふところ【所】に、かしこがほ【賢顔】に上下よ【寄つ】て、文
覚がはたらく【働く】ところ【所】のぢやうをがうし【拷し】てげり。され
どもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門外へ
ひき【引き】いだひ【出い】て、庁の下部にたぶ。給てひつぱる。ひ
ぱら【引つ張ら】れて、立ながら御所の方をにらまへ【睨まへ】、大音声を
あげて、「奉加をこそし給はざらめ、これ程文覚に
からい【辛い】目を見せ給ひつれば、おもひ【思ひ】しらせ申さんずる
物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、其難を
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のがる【逃る】べからず。十善の帝位にほこつ【誇つ】たうとも、黄
泉の旅にいでなん後は、牛頭・馬頭のせめ【責】をば
まぬかれ【免かれ】給はじ物を」と、おどり【躍り】あがり【上がり】おどり【躍り】あがり【上がり】
ぞ申ける。「此法師奇怪なり」とて、やがて獄定せ
られけり。資行判官は、烏帽子打おとさ【落さ】れて恥
がましさに、しばし【暫し】は出仕もせず。安藤武者、文覚
くん【組ん】だる勧賞に、当座に一廊【*一臈】をへ【経】ずして、右馬允
にぞなされける。さるほど【程】に、其比美福門院かくれ【隠れ】
させ給ひて、大赦あり【有り】しかば、文覚程なくゆるさ【許さ】れ
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けり。しばらくはどこ【何処】にもおこなふ【行なふ】べかりしが、さはな
くして、又勧進帳をささげてすすめ【勧め】けるが、さらば
ただもなくして、「あつぱれ、この世の中は只今みだれ【乱れ】、
君も臣もみな【皆】ほろび【滅び】うせんずる物を」など、おそろ
しき【恐ろしき】事をのみ申ありくあひだ【間】、「この法師都に
をひ【置い】てかなう【叶ふ】まじ。遠流せよ」とて、伊豆国へぞなが
されける。源三位入道の嫡子仲綱の、其比伊豆守
にておはしければ、その沙汰として、東海道より
舟にてくだす【下す】べしとて、伊勢国へゐ【率】てまかり【罷り】
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けるに、法便[* 「法使」と有るのを他本により訂正]両三人ぞつけ【付け】られたる。これらが申ける
は、「庁の下部のならひ【習ひ】、かやうの事につゐ【突い】てこそ、を
のづから依怙も候へ。いかに聖の御房、これ程の事
に逢て遠国へながされ給ふに、しりうと【知人】はもち
給はぬか。土産粮料ごときの物をもこひ【乞ひ】給へかし」と
いひければ、文覚は「さ様の要事いふべきとくゐ【得意】
ももたず。東山の辺にぞとくゐ【得意】はある。いでさらば
ふみ【文】をやらう」どいひければ、けしかる【怪しかる】紙をたづね【尋ね】て
え【得】させたり。「かやうの紙で物かく【書く】やうなし」とて、なげ
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かへす【返す】。さらばとて、厚紙をたづね【尋ね】てえ【得】させたり。文
覚わら【笑つ】て、「法師は物をえかか【書か】ぬぞ。さらばおれら【己等】か
け【書け】」とて、かか【書か】するやう、「文覚こそ高雄の神護寺
造立供養のこころざしあて、すすめ【勧め】候つる程に、
かかる君の代にしも逢て、所願をこそ成就せざらめ、
禁獄せられて、あまさへ【剰へ】伊豆国へ流罪せられ候へ。遠
路の間で候。土産粮料ごときの物も大切に候。此使に
たぶ【賜ぶ】べしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さて
たれどの【誰殿】へとかき【書き】候はうぞ」。「清水の観音房へとかけ」。
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「これは庁の下部をあざむく【欺く】にこそ」と申せば、「さり
とては、文覚は観音をこそふかう【深う】たのみ【頼み】たてまつ【奉つ】
たれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」とぞ申
ける。伊勢国阿野【*阿濃】[B 「阿濃」と傍書]の津より舟にの【乗つ】てくだり【下り】けるが、
遠江の天竜難多【天竜灘】にて、俄に大風ふき、大なみ【浪】たて、
すでに此舟をうちかへさ【返さ】んとす。水手【*水主】梶取ども、いか
にもしてたすから【助から】んとしけれども、波風いよいよあれ【荒】
ければ、或は観音の名号をとなへ、或は最後の十
念にをよぶ【及ぶ】。されども文覚これを事ともせず、たか
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いびき【高鼾】かいてふし【臥し】たりけるが、なに【何】とかおもひ【思ひ】けん、いま【今】
はかうとおぼえける時、かぱとおき、舟のへ【舳】にたて奥の
方をにらまへ【睨まへ】、大音声をあげて、「竜王やある、竜王
やある」とぞよう【呼う】だりける。「いかにこれほどの大願おこ
い【起い】たる聖がの【乗つ】たる舟をば、あやまた【過た】うどはするぞ。
ただいま天の責かうむら【蒙ら】んずる竜神どもかな」と
ぞ申ける。そのゆへ【故】にや、浪風ほどなくしづま【鎮まつ】て、
伊豆国へつき【着き】にけり。文覚京をいで【出で】ける日より、祈
誓する事あり【有り】。「われ都にかへ【帰つ】て、高雄の神護寺
P05086
造立供養すべくは、死ぬべからず。其願むなし
かるべくは、道にて死ぬべし」とて、京より伊豆へ
つきけるまで、折節順風なかりければ、浦づたひ【浦伝ひ】
島づたひ【島伝ひ】して、卅一日があひだ【間】は一向断食にてぞ
あり【有り】ける。され共気力すこしもおとら【劣ら】ず、おこなひ【行ひ】う
ちしてゐたり。まこと【誠】にただ人ともおぼえぬ事ども
『福原院宣』S0510
おほかり【多かり】けり。○近藤四郎国高といふものにあづけ【預け】ら
れて、伊豆国奈古屋がおくにぞすみ【住み】ける。さる程に、
兵衛佐殿へつねはまい【参つ】て、昔今の物がたりども申て
P05087
なぐさむ程に、或時文覚申けるは、「平家には小松の
おほいとの【大臣殿】こそ、心もがう【剛】に、はかり事もすぐれてお
はせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞ【去年】の
八月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わとの程
将軍の相も【持つ】たる人はなし。はやはや謀反おこして、
日本国したがへ給へ」。兵衛佐「おもひ【思ひ】もよらぬ事の
給ふ聖御房かな。われは故池の尼御前にかひ【甲斐】なき
命をたすけ【助け】られたてま【奉つ】て候へば、その後世をとぶら
は【弔は】んために、毎日に法花経一部転読する外は他事
P05088
なし」とこその給ひけれ。文覚かさね【重ね】て申けるは、「天
のあたふるをとら【取ら】ざれば、かへて【却つて】其とが【咎】をうく。時い
たておこなはざれば、かへて【却つて】其殃をうくといふ本文
あり【有り】。かう申せば、御辺の心をみんとて申など思ひ
給か。御辺に心ざしのふかい【深い】色を見給へかし」とて、
ふところ【懐】よりしろい【白い】ぬの【布】につつんだる髑■をひ
とつ【一つ】とりいだす【出だす】。兵衛佐「あれはいかに」との給へ【宣へ】ば、「これ
こそわとのの父、故左馬頭殿のかうべ【頭】よ。平治の後、獄
舎のまへなる苔のしたにうづもれ【埋もれ】て、後世とぶらふ
P05089
人もなかりしを、文覚存ずる旨あて、獄もり【獄守】にこふ【乞う】
て、この十余年頸にかけ、山々寺々おがみ【拝み】まはり、とぶ
らひ【弔ひ】たてまつれ【奉れ】ば、いまは一劫もたすかり給ぬらん。
されば、文覚は故守殿の御ためにも奉公のもので
こそ候へ」と申ければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、
父のかうべときく【聞く】なつかしさに、まづ涙をぞながされ
ける。其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝
勅勘をゆり【許り】ずしては、争か謀反をばおこすべき」
との給へ【宣へ】ば、「それやすい【安い】事、やがてのぼ【上つ】て申ゆるい
P05090
てたてまつら【奉ら】ん」。「さもさうず、御房も勅勘の身で
人を申ゆるさ【許さ】うどの給ふあてがいやう【宛行様】こそ、おほ
き【大き】にまことしからね」。「わが身の勅勘をゆりうど申
さばこそひが事【僻言】ならめ。わとのの事申さうは、なにか
くるしかる【苦しかる】べき。いまの都福原の新都へのぼら【上ら】うに、三
日にすぐ【過ぐ】まじ。院宣うかがは【伺は】うに一日がとうりう【逗留】ぞ
あらんずる。都合七日八日にはすぐ【過ぐ】べからず」とて、つきい
で【出で】ぬ。奈古屋にかへ【帰つ】て、弟子ども【共】には、伊豆の御山【*雄山】に人
にしのん【忍ん】で七日参籠の心ざしあり【有り】とて、いでにけり。
P05091
げにも三日といふに、福原の新都へのぼりつつ前右
兵衛[B ノ]督光能卿のもとに、いささかゆかりあり【有り】ければ、
それにゆい【行い】て、「伊豆国流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘
をゆるさ【許さ】れて院宣をだにも給はらば、八ケ国の家
人ども催しあつめ【集め】て、平家をほろぼし、天下をし
づめ【鎮め】んと申候へ」。兵衛[B ノ]督「いさとよ、わが身も当時は
三官ともにとどめ【留め】られて、心ぐるしいおりふし【折節】なり。
法皇もをし【押し】こめられてわたらせ給へば、いかがあらん
ずらん。さりながらもうかがう【伺う】てこそ見め」とて、此由ひ
P05092
そかに奏せられければ、法皇やがて院宣をこそくだ
さ【下さ】れけれ。聖これをくびにかけ、又三日といふに、伊豆国
へくだり【下り】つく。兵衛[B ノ]佐「あつぱれ、この聖御房は、なまじゐ
によしなき事申いだし【出し】て、頼朝又いかなるうき【憂き】目
にかあはんずらん」と、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】つづけ【続け】て
おはしけるところ【所】に、八日といふ午刻ばかりくだり【下り】つい
て、「すは院宣よ」とてたてまつる【奉る】。兵衛佐、院宣と
きくかたじけなさ【忝さ】に、手水うがひをして、あたらし
き烏帽子・浄衣きて、院宣を三度拝してひ
P05093
らかれたり。項年より以来、平氏王皇蔑如して、
政道にはばかる事なし。仏法を破滅して、朝威を
ほろぼさんとす。夫我朝は神国也。宗廟あひならん
で、神徳これ【是】あらたなり。故朝廷開基の後、数千余
歳のあひだ、帝猷をかたぶけ【傾け】、国家をあやぶめんと
する物、みなもて敗北せずといふ事なし。然則且は
神道の冥助にまかせ【任せ】、且は勅宣の旨趣をまも【守つ】て、
はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を
しりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継、累祖奉公の
P05094
忠勤を抽て、身をたて、家をおこすべし。ていれば【者】、
院宣かくのごとし。仍執達如件。治承四年七月十
四日前右兵衛[B ノ]督光能が奉はり謹上前[B ノ]右兵衛佐
殿へとぞかか【書か】れたる。此院宣をば錦の袋にいれ【入れ】て、
石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿頸にかけられたり
『富士川』S0511
けるとかや。○さる程に、福原には、勢のつかぬ先にいそぎ
打手をくだすべしと、公卿僉議あて、大将軍には小
松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠教【*忠度】、都合
其勢三万余騎、九月十八日に都をたて、十九日には
P05095
旧都につき、やがて廿日、東国へこそう【討つ】たた【立た】れけれ。大
将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀体拝絵に
かくとも筆も及がたし。重代の鎧唐皮といふきせ
なが【着背長】をば、唐櫃にいれ【入れ】てかか【舁か】せらる。路打うちには、赤地
の錦の直垂に、萠黄威のよろひ【鎧】きて、連銭葦
毛なる馬に、黄覆輪の鞍をい【置い】てのり給へり。副
将軍薩摩守忠教【*忠度】は、紺地の錦のひたたれに、
黒糸おどしの鎧きて、黒き馬のふとう【太う】たくましゐ【逞しい】
に、いかけ地【沃懸地】の鞍をい【置い】てのり給へり。馬・鞍・鎧・甲・弓矢・
P05096
太刀・刀にいたるまで、てり【照り】かかやく【輝く】程にいでたた【出で立た】れたり
しかば、めでたかりし見物なり。薩摩[B ノ]守忠教【*忠度】は、年
来ある宮腹の女房のもとへかよは【通は】れけるが、或時
おはしたりけるに、其女房のもとへ、やごとなき女房
まらうと【客人】にきたて、やや久しう物がたり【物語】し給ふ。さ
よ【小夜】もはるかにふけ【更け】ゆくまでに、まらうと【客人】かへり給は
ず。忠教【*忠度】軒ばにしばしやすらひて、扇をあらくつか
は【使は】れければ、宮腹の女房、「野もせ【野狭】にすだく虫のね【音】
よ」と、ゆふ【優】にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて
P05097
扇をつかひやみてかへら【帰ら】れけり。其後又おはしたり
けるに、宮腹の女房「さても一日、なに【何】とて扇をば
つかひ【使ひ】やみしぞや」ととは【問は】れければ、「いさ、かしかましなど
きこえ【聞え】候しかば、さてこそつかひ【使ひ】やみ候しか」とぞの
給ひける。かの女房のもとより忠教【*忠度】のもとへ、小袖を
一かさね【重ね】つかはす【遣はす】とて、ちさと【千里】のなごり【名残】のかなしさに、
一首の歌をぞをくら【送ら】れける。
あづまぢ【東路】の草葉をわけん袖よりも
たたぬたもとの露ぞこぼるる W035
P05098
薩摩守返事には
わかれ路をなにかなげかんこえてゆく【行く】
関もむかしの跡とおもへ【思へ】ば W036
「関も昔の跡」とよめる事は、平将軍貞盛、将門
追討のために、東国へ下向せし事をおもひ【思ひ】いで【出で】て
よみ【詠み】たりけるにや、いとやさしうぞきこえ【聞え】し。
昔は朝敵をたいらげ【平げ】に外土へむかふ【向ふ】将軍は、ま
づ参内して切刀を給はる。震儀【*宸儀】南殿に出御し、
近衛階下に陣をひき【引き】、内弁外弁の公卿参列
P05099
して、誅儀【*中儀】の節会おこなは【行なは】る。大将軍副将軍、お
のをの礼儀をただしうしてこれを給はる。承平天
慶の蹤跡も、年久しうなて准へがたしとて、今度
は讃岐守平の正盛が前対馬守源[B ノ]義親追討
のために出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり給て、
皮の袋にいれ【入れ】て、雑色が頸にかけさせてぞく
だら【下ら】れける。いにしへ、朝敵をほろぼさんとて都を
いづる【出づる】将軍は、三の存知あり【有り】。切刀を給はる日家
をわすれ、家をいづる【出づる】とて妻子をわすれ、戦場に
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して敵にたたかふ【戦ふ】時、身をわする【忘る】。されば、今の
平氏の大将維盛・忠教【*忠度】も、定てかやうの事をば
存知せられたりけん。あはれなりし事共也。同廿
二日新院又安芸国厳島へ御幸なる。去る三
月にも御幸あり【有り】き。そのゆへにや、なか一両月世
もめでたくおさま【治まつ】て、民のわづらひ【煩ひ】もなかりしが、
高倉宮の御謀反によて、又天下みだれて、世上
もしづかならず。これによて、且は〔天下静謐のため、且は〕聖代不予の御祈
念のためとぞきこえ【聞え】し。今度は福原よりの御幸
P05101
なれば、斗薮のわづらひ【煩ひ】もなかりけり。手づからみ
づから御願文をあそばい【遊ばい】て、清書をば摂政殿せ
させおはします。蓋聞。法性雲閑也、十四十五の
月高晴、権化智深し、一陰一陽の風旁扇ぐ。夫
厳島の社は称名あまねくきこゆる【聞ゆる】には、効験無
双の砌也。遥嶺の社壇をめぐる、をのづから大慈
の高く峙てるを彰し、巨海の詞宇【*祠宇】にをよぶ【及ぶ】、空
に弘誓の深広なる事を表す。夫以、初庸昧の身
をもて、忝皇王の位を践む。今賢猷を霊境の
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群に翫で、閑坊を射山の居にたのしむ。しかる【然る】に、
ひそかに一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣、瑞
籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して汗をながし、
宝宮のうちに霊託を垂。そのつげの心に銘ずる
あり【有り】。就中にことに怖畏謹慎の期をさすに、も
はら季夏初秋の候にあたる。病痾忽に侵し、
猶医術の験を施す[* 「絶す」と有るのを他本により訂正]事なし。平計頻に転ず、
弥神感の空しからざることを知ぬ。祈祷を求と
いへども、霧露散じがたし。しかじ、心符の心ざし【志】を
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抽でて、かさね【重ね】て斗薮の行をくはたて【企て】んとおもふ【思ふ】。
漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢をやぶり、
せいせい【凄々】たる微陽のまへ、遠路に臨で眼をきはむ。
遂に枌楡の砌について、敬て、清浄の蓆を展、書
写したてまつる色紙墨字の妙法蓮華経一部、
開結二経、阿弥陀・般若心等の経各一巻。手づから
自から書写したてまつる【奉る】金泥の提婆品一巻。時
に蒼松蒼栢の陰、共に善理の種をそへ、潮去[* 「湖去」と有るのを他本により訂正]潮来[* 「湖来」と有るのを他本により訂正]
響、空に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞し
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て八実【*八日】、涼燠のおほく【多く】廻る事なしといへども、西海
の浪を凌事二たび【二度】、深く機縁のあさから【浅から】ざる事
を知ぬ。朝に祈る客一にあらず、夕に賽【賽申】する
もの且千也。但し、尊貴の帰仰おほし【多し】といへども、
院宮の往詣いまだきかず。禅定法皇初て其
儀をのこい【残い】給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高
山の月の前には漢武いまだ和光のかげを拝せず。
蓬莱洞の雲の底にも、天仙むなしく垂跡の
塵をへだつ。仰願くは大明神、伏乞らくは一乗経、
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新に丹祈をてらして唯一の玄応を垂給へ。治承
四年九月廿八日太上天皇とぞあそばさ【遊ばさ】れたる。
さる程に、此人々は九重の都をたて、千里の東
海におもむか【赴か】れける。たいらか【平か】にかへり【帰り】のぼらん事も
まこと【誠】にあやうき【危ふき】有さまどもにて、或は野原の露
にやどをかり、或たかねの苔に旅ねをし、山をこえ
河をかさね【重ね】、日かず【数】ふれば、十月十六日には、するが【駿河】の
国清見が関にぞつき【着き】給ふ。都をば三万余騎で
いで【出で】しかど、路次の兵めし【召し】具して、七万余騎とぞ
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きこえ【聞え】し。先陣はかん原【蒲原】・富士河にすすみ、後陣は
いまだ手越・宇津のやにささへたり。大将軍権亮
少将維盛、侍大将上総守忠清をめし【召し】て、「ただ維
盛が存知には、足柄をうちこえて坂東にていくさ【軍】を
せん」とはやら【逸ら】れけるを、上総守申けるは、「福原をたた
せ給し時、入道殿の御定には、いくさ【軍】をば忠清に
まかせ【任せ】させ給へと仰候しぞかし。八ケ国の兵共みな
兵衛佐にしたがひ【従ひ】ついて候なれば、なん【何】十万騎か候
らん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々の
P05107
かり武者共【駆武者共】なり。馬も人もせめふせて候。伊豆・駿河
のせい【勢】のまいる【参る】べきだにもいまだみえ【見え】候はず。ただ富士
河をまへにあてて、みかた【御方】の御勢をまた【待た】せ給ふべうや
候らん」と申ければ、力及ばでゆらへたり。さる程に、兵
衛佐は足柄の山を打こえて、駿河国きせ河【黄瀬河】にこそ
つき給へ。甲斐・信濃の源氏ども馳来てひとつ【一つ】に
なる。浮島が原にて勢ぞろへあり【有り】。廿万騎とぞしる
いたる。常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使にふみ【文】も【持つ】
て京へのぼるを、平家の先陣上総守忠清これを
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とどめ【留め】て、も【持つ】たる文をばひ【奪ひ】とり、あけてみれ【見れ】ば、女房
のもとへの文なり。くるしかる【苦しかる】まじとて、とらせ[B て]げり。
「抑兵衛佐殿の勢、いかほどあるぞ」ととへば、「凡八日九
日の道にはたとつづいて、野も山も海も河も武
者で候。下臈は四五百千までこそ物の数をば知て
候へども、それよりうへ【上】はしら【知ら】ぬ候。おほい【多い】やらう、すく
ない【少い】やらうをばしり【知り】候はず。昨日きせ川【黄瀬川】で人の申
候つるは、源氏の御勢廿万騎とこそ申候つれ」。上
総守これをきい【聞い】て、「あつぱれ、大将軍の御心ののび【延び】
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させ給たる程口おしい【惜しい】事候はず。いま一日も先に
打手をくださ【下さ】せ給たらば、足柄の山こえて、八ケ国へ
御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などかまいら【参ら】で候べ
き。これらだにもまいり【参り】なば、坂東にはなびかぬ草
木も候まじ」と、後悔すれどもかひ【甲斐】ぞなき。又大将
軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井
の斎藤別当実盛をめし【召し】て、「やや実盛、なんぢ程の
つよ弓【強弓】勢兵、八ケ国にいかほど【程】あるぞ」ととひ【問ひ】給へば、
斎藤別当あざわら【笑つ】て申けるは、「さ候へば、君は実
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盛を大矢とおぼしめし【思し召し】候歟。わづかに十三束こそ仕
候へ。実盛程ゐ【射】候物は、八ケ国にいくらも候。大矢と
申ぢやう【定】の物の、十五束におとてひく【引く】は候はず。弓
のつよさもしたたかなる物五六人してはり【張り】候。
かかるせい兵【精兵】どもがゐ【射】候へば、鎧の二三両をもかさね
て、たやすうゐとをし【射通し】候也。大名一人と申は、せい【勢】の
すくない【少い】ぢやう【定】、五百騎におとるは候はず。馬にの【乗つ】つれ
ばおつる【落つる】道をしら【知ら】ず、悪所をはすれ【馳すれ】ども馬をた
をさ【倒さ】ず。いくさ【軍】は又おや【親】もうた【討た】れよ、子もうた【討た】れよ、
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死ぬればのり【乗り】こえ【越え】のり【乗り】こえ【越え】たたかふ【戦ふ】候。西国のいくさ【軍】と
申は、おや【親】うた【討た】れぬれば孝養し、いみ【忌】あけてよせ、
子うた【討た】れぬれば、そのおもひ【思ひ】なげき【歎き】によせ【寄せ】候はず。
兵粮米つきぬれば、春は田つくり、秋はかり【刈り】おさめ【収め】て
よせ、夏はあつし【暑し】といひ、冬はさむしときらひ【嫌ひ】候。
東国にはすべて其儀候はず。甲斐・信乃【*信濃】の源氏共、
案内はし【知つ】て候。富士のすそ【裾】より搦手にやまはり【廻り】
候らん。かう申せば君をおくせ【臆せ】させまいらせ【参らせ】んとて
申には候はず。いくさ【軍】はせい【勢】にはよらず、はかり事に
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よるとこそ申つたへて候へ。実盛今度のいくさ【軍】に、
命いき【生き】てふたたびみやこ【都】へまいる【参る】べしとも覚候は
ず」と申ければ、平家の兵共これをきい【聞い】て、みな
ふるい【震ひ】わななきあへり。さる程に、十月廿三日にも
なりぬ。あすは源平富士河にて矢合とさだめ【定め】
たりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を
見わたせ【渡せ】ば、伊豆・駿河〔の〕人民・百姓等がいくさ【軍】におそ
れ【恐れ】て、或は野にいり、山にかくれ、或は舟にとりの【乗つ】
て海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平
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家の兵ども、「あなおびたたしの源氏の陣のとを
火【遠火】のおほさよ。げにもまこと【誠】に野も山も海も河も
みなかたき【敵】であり【有り】けり。いかがせん」とぞあはて【慌て】ける。
其夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれ【群れ】
ゐたりける水鳥どもが、なに【何】にかおどろき【驚き】たりけん、
ただ一ど【度】にばと立ける羽音の、大風いかづち【雷】など
の様にきこえ【聞え】ければ、平家の兵ども【共】、「すはや源氏
の大ぜい【勢】のよする【寄する】は。斎藤別当が申つる様に、定て
搦手もまはるらん。とり【取り】こめ【込め】られてはかなふ【叶ふ】まじ。ここ
P05114
をばひい【引い】て尾張河州俣をふせけ【防け】や」とて、とる
物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける。あまり
にあはてさはい【騒い】で、弓とる物は矢をしら【知ら】ず、矢とる
もの【者】は弓をしら【知ら】ず、人の馬にはわれのり【乗り】、わが馬をば
人にのら【乗ら】る。或はつないだる馬にの【乗つ】てはすれ【馳すれ】ば、く
ゐ【杭】をめぐる事かぎりなし。ちかき【近き】宿々よりむかへ【迎へ】
とてあそびける遊君遊女ども、或はかしら【頭】け【蹴】わ
られ、腰ふみ【踏み】おら【折ら】れて、おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】物おほかり【多かり】けり。
あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、ふじ河に
P05115
をし【押し】よせて、天もひびき、大地もゆるぐ程に、時をぞ
『五節之沙汰』S0512
三ケ度つくりける。○平家の方には音もせず、人を
つかはし【遣し】て見せければ、「みな【皆】落て候」と申。或は敵の
わすれたる鎧とてまいり【参り】たる物もあり【有り】、或はかた
き【敵】のすて【捨て】たる大幕とてまいり【参り】たるものもあり【有り】。
「敵の陣には蝿だにもかけり【翔けり】候はず」と申。兵衛佐、
馬よりおり、甲をぬぎ、手水うがいをして、王城の
方をふし【伏し】おがみ【拝み】、「これはまたく頼朝がわたくしの
高名にあらず。八幡大菩薩の御ぱからひなり」
P05116
とぞの給ひける。やがてうとる【打つ取る】所なればとて、
駿河国をば一条次郎忠頼、遠江をば安田三
郎義定にあづけらる。平家をばつづゐ【続い】てもせ
む【攻む】べけれども、うしろ【後ろ】もさすがおぼつかなしとて、浮
島が原よりひき【引き】しりぞき【退ぞき】、相模国へぞかへら【帰ら】れける。
海道宿々の遊君遊女ども「あないまいまし【忌々し】。打
手の大将軍の矢ひとつ【一つ】だにもゐ【射】ずして、にげ【逃げ】
のぼり給ふうたてしさよ。いくさ【軍】には見にげ【見逃げ】といふ
事をだに、心うき事にこそするに、これ【是】はききにげ【聞き逃げ】し
P05117
給ひたり」とわらひ【笑ひ】あへり。落書どもおほかり【多かり】けり。
都の大将軍をば宗盛といひ、討手の大将をば
権亮といふ間、平家をひら屋によみ【読み】なして、
ひらやなる宗盛いかにさはぐ【騒ぐ】らん
はしら【柱】とたのむ【頼む】すけをおとして W037
富士河のせぜ【瀬々】の岩こす水よりも
はやくもおつる伊勢平氏かな W038
上総守が富士河に鎧をすて【捨て】たりけるをよめり。
富士河によろひはすてつ墨染の
P05118
衣ただきよ【着よ】後の世のため W039
ただきよはにげの馬にぞのり【乗り】にける
上総しりがいかけてかひなし W040
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原の新都へ
のぼりつく。入道相国大にいかて、「大将軍権亮少将
維盛をば、鬼界が島へながすべし。侍大将上総守
忠清をば、死罪におこなへ」とぞの給ひける。同九日、
平家の侍ども老少参会して、忠清が死罪
の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官
P05119
守国【*盛国】すすみいで【出で】て申けるは、「忠清は昔よりふかく
人【不覚人】とはうけ給【承り】及候はず。あれが十八の歳と覚候。鳥
羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党二人、にげ籠
て候しを、よ【寄つ】てからめうど申物も候はざりしに、
この忠清、白昼唯一人、築地をこえ【越え】はね入て、一
人をばうち【討ち】とり、一人をばいけど【生捕つ】て、後代に名を
あげたりし物にて候。今度の不覚はただこと【唯事】
ともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく兵乱
の御つつしみ候べし」とぞ申ける。同十日、大将軍
P05120
権亮少将維盛、右近衛中将になり給ふ。打手の
大将ときこえ【聞え】しかども、させるしいだし【出し】たる事も
おはせず、「これは何事の勧賞ぞや」と、人々ささ
やきあへり。昔将門追討のために、平将軍貞
盛、田原藤太秀里【*秀郷】うけ給【承つ】て、坂東へ発向し
たりしかども、将門たやすうほろび【亡び】がたかりし
かば、かさね【重ね】て打手をくだすべしと公卿僉議あ
て、宇治の民部卿忠文、清原重藤【*滋藤】、軍監といふ
官を給はてくだられけり。駿河国清見が関に
P05121
宿したりける夜、かの重藤【*滋藤】漫々たる海上を遠
見して、「漁舟火影寒焼浪、駅路鈴声夜過山」
といふから歌をたからか【高らか】に口ずさみ給へば、忠文
ゆふ【優】におぼえて感涙をぞながさ【流さ】れける。さる程に
将門をば、貞盛・秀里【*秀郷】つゐに【遂に】打とてげり。その【其の】かう
べ【頭】をもたせてのぼる程に、清見が関にてゆき【行き】あふ
たり。其より先後の大将軍うちつれて上洛
す。貞盛・秀里【*秀郷】に勧賞おこなはれける時、忠文・
重藤【*滋藤】にも勧賞あるべきかと公卿僉議あり【有り】。九
P05122
条右丞相師資【*師輔】公の申させ給ひけるは、「坂東へ打
手はむかふ【向う】たりといへども、将門たやすうほろび【亡び】がた
きところ【所】に、この人共仰をかうむ【蒙つ】て関の東へおも
むく時、朝敵すでにほろびたり。さればなどか勧
賞なかるべき」と申させ給へども、其時の執柄小野[B ノ]
宮殿、「「うたがはしき【疑はしき】をばなす事なかれ」と礼記の文に
候へば」とて、つゐに【遂に】なさせ給はず。忠文これを口おしき
事にして「小野[B ノ]宮殿の御末をばやつ子【奴】にみなさん。
九条殿の御末にはいづれの世までも守護神とならん」
P05123
とちかひ【誓ひ】つつひ〔じ〕に【干死】にこそし給ひけれ。されば九条殿の
御末はめでたうさかへ【栄え】させ給へども、小野[B ノ]宮殿の御末
にはしかる【然る】べき人もましまさず、いまはたえ【絶え】はて給ひ
けるにこそ。さる程に、入道相国の四男頭中将重衡、左
近衛中将になり給ふ。同十一月十三日、福原には内裏つ
くり【造り】いだし【出し】て、主上御遷幸あり【有り】。大嘗会あるべかり
しかども、大嘗会は十月のすゑ、東河に御ゆき
して御禊あり【有り】。大内の北の野に税庁所【*斎場所】をつくて、
神服神具をととのふ。大極殿のまへ、竜尾道の壇[B ノ]
P05124
下に廻竜殿【*廻立殿】をたてて、御湯をめす。同壇のならびに
太政宮をつくて、神膳をそなふ。震宴【*神宴】あり【有り】、御遊
あり【有り】、大極殿にて大礼あり【有り】、清暑堂にて御神楽あり【有り】、
豊楽院にて宴会あり【有り】。しかる【然る】を、この福原の新都
には大極殿もなければ、大礼おこなふ【行ふ】べきところ【所】も
なし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき様も
なし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今
年はただ新嘗会・五節ばかりあるべきよし公卿
僉議あて、なを【猶】新嘗のまつりをば、旧都の神
P05125
祇館【*神祇官】にしてとげられけり。五節はこれ清御原の
そのかみ、吉野の宮にして、月しろく【白く】嵐はげしかり
し夜、御心をすまし【澄まし】つつ、琴をひき給ひしに、神
女あまくだり【下り】、五たび袖をひるがへす。これぞ五節
『都帰』S0513
のはじめなる。○今度の都遷をば、君も臣も御
なげきあり【有り】。山・奈良をはじめて、諸寺諸社にいたる
まで、しかる【然る】べからざるよし【由】一同にうたへ【訴へ】申あひだ、
さしもよこ紙【横紙】をやら【破ら】るる太政入道も、「さらば都
がへりあるべし」とて、京中ひしめきあへり。同十
P05126
二月二日、にはかに都がへりあり【有り】けり。新都は北は
山にそひ【添ひ】てたかく、南は海ちかく【近く】してくだれり。
浪の音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。
されば、新院いつとなく御悩のみしげかり【滋かり】ければ、
いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿をはじめたて
ま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、われもわれもと
供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家一門
の公卿殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰か
心うかり【憂かり】つる新都に片とき【片時】ものこるべき。去六月
P05127
より屋ども【共】こぼちよせ、資材雑具はこび【運び】くだし、
形のごとくとりたて【取り立て】たりつるに、又物ぐるはしう
都がへりあり【有り】ければ、なんの沙汰にも及ばず、うち
すて【捨て】打すてのぼられけり。をのをのすみか【栖】もなくし
て、やわた【八幡】・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西山・東山のかたほと
りにつゐ【着い】て、御堂の廻廊、社の拝殿などにたち【立ち】や
ど【宿つ】てぞ、しかる【然かる】べき人々もましましける。今度の都
うつり【遷り】の本意をいかにといふに、旧都は南都・北嶺
ちかく【近く】して、いささかの事にも春日の神木、日吉の
P05128
神輿などいひて、みだりがはし。福原は山へだたり【隔たり】
江かさな【重なつ】て、程もさすがとをけれ【遠けれ】ば、さ様のことたや
すからじとて、入道相国のはからひいだされたりける
とかや。同十二月廿三日、近江源氏のそむきしを
せめ【攻め】んとて、大将軍には左兵衛[B ノ]督知盛、薩摩守忠
教【*忠度】、都合其勢二万余騎で近江国へ発向して、
山本・柏木・錦古里などいふあぶれ源氏ども【共】、一々に
『奈良炎上』S0514
みなせめ【攻め】おとし【落し】、やがて美乃【*美濃】・尾張へこえ【越え】給ふ。○都には
又「高倉宮園城寺へ入御時、南都の大衆同心して、
P05129
あまさへ【剰へ】御むかへにまいる【参る】条、これもて朝敵なり。されば
南都をも三井寺をもせめ【攻め】らるべし」といふ程こそ
あり【有り】けれ、奈良の大衆おびたたしく【夥しく】蜂起す。摂政殿
より「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそ及
ばめ」と仰下されけれども、一切もちゐ【用ゐ】たてまつら【奉ら】ず。
右官の別当忠成を御使にくださ【下さ】れたりければ、「しや
のり物【乗物】よりとてひき【引き】おとせ【落せ】。もとどり【髻】きれ」と騒動する
間、忠成色をうしな【失つ】てにげ【逃げ】のぼる。つぎに右衛門佐
親雅をくださ【下さ】る。これ【是】をも「もとどり【髻】きれ」と大衆
P05130
ひしめきければ、とる【取る】物もとりあへずにげのぼる。
其時は勧学院の雑色二人がもとどり【髻】きら【切ら】れに
けり。又南都には大なる球丁【*毬杖】の玉をつくて、これは
平相国のかうべ【頭】となづけ【名付け】て、「うて【打て】、ふめ【踏め】」などぞ申ける。
「詞のもらし【漏らし】やすきは、わざはひ【災】をまねく媒なり。詞
のつつしま【慎ま】ざるは、やぶれ【敗れ】をとる【取る】道なり」といへり。こ
の入道相国と申すは、かけまくもかたじけなく【忝く】当今
の外祖にておはします。それをかやうに申ける南
都の大衆、凡は天魔の所為とぞみえ【見え】たりける。入道
P05131
相国かやうの事どもつたへ【伝へ】きき給ひて、いかでかよ
しとおもは【思は】るべき。かつがつ南都の狼籍【*狼藉】をしづめん
とて、備中国住人瀬尾太郎兼康、大和国の検
非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ発向す。
「相構て、衆徒は狼籍【*狼藉】をいたすとも、汝等はいたすべ
からず。物の具なせそ。弓箭な帯しそ」とてむけ
られたりけるに、大衆かかる内儀をばしら【知ら】ず、兼康
がよせい【余勢】六十余人からめとて、一々にみな頸をきて、
猿沢の池のはたにぞかけ【懸け】ならべ【並べ】たる。入道相国大に
P05132
いかて、「さらば南都をせめ【攻め】よや」とて、大将軍には頭
中将重衡、副将軍には中宮[B ノ]亮通盛、都合其
勢四万余騎で、南都へ発向す。大衆も老少き
らはず、七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂・般若寺
二ケ所[B ノ]、路をほり【掘り】きて、堀ほり、かいだて【掻楯】かき、さかも木【逆茂木】
ひいて待かけたり。平家は四万余騎を二手に
わかて、奈良坂・般若寺二ケ所の城郭にをし【押し】よせ
て、時をどとつくる。大衆はみなかち立うち物【打物】也。官
軍は馬にてかけ【駆け】まはしかけまはし、あそこここにお【追つ】かけ【掛け】
P05133
お【追つ】かけ【掛け】、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】ければ、ふせく【防く】
ところ【所】の大衆、かずをつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。卯刻
に矢合して、一日たたかひくらす【暮す】。夜に入て奈良坂・
般若寺二ケ所の城郭ともにやぶれぬ。おち【落ち】ゆく
衆徒のなかに、坂四郎永覚といふ悪僧あり【有り】。打
物も【持つ】ても、弓矢をとても、力のつよさも、七大寺・十
五大寺にすぐれたり。もえぎ威の腹巻のうへ【上】に、
黒糸威の鎧をかさね【重ね】てぞき【着】たりける。帽子甲
に五牧甲の緒をしめて、左右の手には、茅の葉
P05134
のやうにそ【反つ】たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀もつ
ままに、同宿十余人、前後にたて【立て】、てがい【碾磑】の門より
う【打つ】ていでたり。これぞしばらく【暫く】ささへたる。おほく【多く】
の官兵、馬の足なが【薙が】れてうた【討た】れにけり。されども
官軍は大勢にて、いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】せめ【攻め】ければ、永覚が
前後左右にふせく【防く】ところ【所】の同宿みなうた【討た】れぬ。
永覚ただひとりたけけれ【猛けれ】ど、うしろ【後】あらはになり
ければ、南をさいておち【落ち】ぞゆく。夜いくさ【軍】になて、
くらさ【暗さ】はくらし、大将軍頭中将、般若寺の門の前に
P05135
う【打つ】た【立つ】て、「火をいだせ」との給ふ程こそあり【有り】けれ、平
家の勢のなかに、幡磨国【*播磨国】住人福井庄下司、二
郎大夫友方といふもの、たて【楯】をわり【破り】たい松にして、
在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なり
ければ、風ははげしし【烈しし】、ほもと【火元】はひとつ【一つ】なりけれども【共】、
吹まよふ風に、おほく【多く】の伽藍に吹かけたり。恥をも
おもひ【思ひ】、名をもおしむ【惜しむ】ほど【程】のものは、奈良坂にて
うちじに【討死】し、般若寺にしてうた【討た】れにけり。行歩にか
なへ【叶へ】る物は、吉野十津河の方へ落ゆく。あゆみ【歩み】も
P05136
えぬ老僧や、尋常なる修学者児ども【共】、をんな【女】
童部は、大仏殿の二階のうへ、やましな寺【山階寺】のうち
へ、われさきにとぞにげ【逃げ】ゆきける。大仏殿の二階
の上には千余人のぼりあがり【上がり】、かたき【敵】のつづく【続く】をの
ぼせ【上せ】じと、橋をばひい【引い】てげり。猛火はまさしうをし【押し】
かけ【掛け】たり。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、焦熱・大焦熱・無間阿
毘のほのを【炎】の底の罪人も、これにはすぎじとぞ
見えし。興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺也。
東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金
P05137
堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべ
し四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、九輪
そらにかかやき【輝き】し二基の塔、たちまちに煙と成
こそかなしけれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光
の生身の御仏とおぼしめし【思し召し】なずらへて、聖武皇
帝、手づからみづからみがき【磨き】たて給ひし金銅十
六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれ【現はれ】て半天
の雲にかくれ、白毫新におがま【拝ま】れ給ひし満月の
尊容も、御くし【髪】はやけ【焼け】おち【落ち】て大地にあり【有り】、御身は
P05138
わきあひ【鎔き合ひ】て山のごとし【如し】。八万四千の相好は、秋の月
はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜
の星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天に
みちみち、ほのを【炎】は虚空にひまもなし。まのあたりに
見たてまつる【奉る】物、さらにまなこ【眼】をあてず。はるかにつた
へきく人は、肝たましゐ【魂】をうしなへ【失へ】り。法相・三輪の
法門聖教、すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ず、
天竺震旦にもこれ【是】程の法滅あるべしともおぼえ
ず。うでん大王【優填大王】の紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤
P05139
栴檀をきざん【刻ん】じも、わづかに等身の御仏なり。況
哉これは南閻浮提のうちには唯一無双の御仏、
ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま
毒縁の塵にまじはて、ひさしく【久しく】かなしみをのこし
給へり。梵尺四王、竜神八部、冥官冥衆も驚き
さはぎ【騒ぎ】給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日の
大明神、いかなる事をかおぼしけん。されば春日野の
露も色かはり、三笠山の嵐の音うらむる【恨むる】さまに
ぞきこえ【聞え】ける。ほのを【炎】の中にてやけ【焼け】しぬる人
P05140
数をしるひ【記い】たりければ、大仏殿の二階の上には
一千七百余人、山階寺には八百余人、或御堂には
五百余人、或御堂には三百余人、つぶさにしるい
たりければ、三千五百余人なり。戦場にしてう
たるる大衆千余人、少々は般若寺の門の前に
きりかけ、少々はもたせて都へのぼり給ふ。廿九日、
頭中将、南都ほろぼして北京へ帰りいら【入ら】る。入道相
国ばかりぞ、いきどをり【憤り】はれ【晴れ】てよろこば【喜ば】れけれ。中宮・
一院・上皇・摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろ
P05141
ぼす【亡ぼす】とも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎あり【有り】
ける。衆徒の頸ども【共】、もとは大路をわたして獄
門の木に懸らるべしときこえ【聞え】しかども、東大寺・
興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰にも及
ず。あそこここの溝や堀にぞすて【捨て】をきける。聖
武皇帝震筆【*宸筆】の御記文には、「我寺興福せば、
天下も興福し、吾寺衰微せば、天下も衰微
すべし」とあそばさ【遊ばさ】れたり。されば天下の衰微せん
事も疑なしとぞ見えたりける。あさましかり
P05142
つる年もくれ、治承も五年になり【成り】にけり。

平家物語巻第五

平家物語 高野本 巻第六


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一



平家 六
P06001
平家六之巻 目録
新院崩御   紅葉
葵前     小督
廻文     飛脚到来
入道死去〈 付西八条炎上 并築島 〉 慈心房
祗園女御   州俣合戦 此内国綱沙汰在之
嗄声     横田河原合戦
P06002

P06003
平家物語巻第六
『新院崩御』S0601
○治承五年正月一日のひ、内裏には、東国の兵革、
南都の火災に−よて朝拝とどめられ、主上出御も
なし。物の音もふきならさず、舞楽も、奏せず、
吉野のくず【国栖】もまいら【参ら】ず、藤氏の公卿一人も参ぜら
れず。氏寺焼失に−よてなり。二日のひ、殿上の宴酔も
なし。男女うちひそめて、禁中いまいましう【忌々しう】ぞ見え
ける。仏法王法ともにつきぬる事ぞあさましき。
一院仰-なりけるは、「われ十善の余薫によて
P06004
万乗の-宝位をたもつ【保つ】。四代の帝王をおもへ【思へ】ば
子也、孫也。いかなれば万機の政務をとどめ【留め】られて、
年月ををくる【送る】らむ」とぞ御歎あり【有り】ける。同五日のひ、
南都の僧綱等闕官ぜられ、公請を停止し、所
職を没収せらる。衆徒は老たるもわかきも、或は
い【射】ころさ【殺さ】れきり【斬り】ころさ【殺さ】れ、或は煙の内をいでず、
炎にむせん【咽ん】でおほく【多く】ほろび【亡び】にしかば、わづかにのこる【残る】
輩は山林にまじはり、跡をとどむるもの一人もなし。
興福寺別当花林院僧正永円【*永縁】は、仏像経巻の
P06005
けぶり【煙】とのぼりけるをみ【見】て、あなあさましと
むね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、心をくだかれけるより病-ついて、
いくほどもなくつゐに【遂に】うせ給ぬ。此僧正はゆふ【優】に
なさけ【情】-ふかき人なり。或時郭公のなくをきひ【聞い】て、
きく【聞く】たびにめづらしければほととぎす
いつもはつ音のここち【心地】こそすれ W041
と−いふ歌をようで、初音の僧正とぞいはれ給
ける。ただし、かた【型】の−やうにても御斎会はあるべき
にて、僧名の沙汰有しに、南都の僧綱は闕官-
P06006
ぜられぬ。北京の僧綱を−もておこなはるべき歟と、
公卿僉議あり【有り】。さればとて、南都をも捨はてさせ
給ふべきならねば、三論宗の学匠成法【*成宝】已講が、
勧修寺に忍つつかくれ-ゐたりけるを、めし【召し】いだされて、
御斎会かたのごとくおこなはる。上皇は、おととし
法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、
去年高倉の宮のうた【討た】れさせ給ひし御あり様【有様】、
宮こ【都】うつり【遷り】とてあさましかりし天下のみだれ、
かやうの事ども御心ぐるしうおぼしめさ【思し召さ】れけるより、
P06007
御悩つかせ給ひて、つねはわづらはしう【煩はしう】きこ
え【聞え】させ給ひしが、東大寺・興福寺のほろびぬる
よしきこしめされて、御悩いよいよおもら【重ら】せ給ふ。
法皇なのめならず御歎有し程に、同正月十四
日、六波羅池殿にて、上皇遂に崩御なりぬ。
御宇十二年、徳政千万端詩書仁義の廃
たる道をおこし【起こし】、理世安楽の絶たる跡[B ヲ]継たまふ【給ふ】。
三明六通の羅漢もまぬかれ【免かれ】給はず、現術変
化の権者ものがれ【逃れ】ぬ道なれば、有為無常の
P06008
ならひ【習ひ】なれども、ことはり【理】過てぞおぼえける。
やがてその【其の】夜東山の麓、清閑寺へうつしたて
まつり【奉り】、ゆふべ【夕】のけぶり【煙】とたぐへ、春の霞とのぼら
せ給ひぬ。澄憲法印、御葬送にまいり【参り】あはんと、
いそぎ山よりくだられけるが、はやむなしき【空しき】けぶ
りとならせたまふ【給ふ】をみ【見】まいらせ【参らせ】て、
つねにみ【見】し君が御幸をけふ【今日】とへば
かへら【帰ら】ぬたび【旅】ときくぞかなしき【悲しき】 W042
又ある女房、君かくれさせ給ひぬと承はて、かうぞ
P06009
思ひ−つづけける。
雲の上に行末とをく【遠く】みし月の
ひかり【光】きえぬときくぞかなしき【悲しき】 W043
御年廿一、内には十戒をたもち【保ち】、外には五常
をみだらず、礼儀をただしう-せさせ給ひけり。
末代の賢王にて在ましければ、世のおしみ【惜しみ】たて
まつる【奉る】事、月日の光をうしなへ【失へ】るがごとし。
かやうに人のねがひもかなは【叶は】ず、民の果報も
『紅葉』S0602
つたなき人間のさかひこそかなしけれ。○ゆふ【優】にやさ
P06010
しう人のおもひつき【思ひ付き】まいらする【参らする】かたも、おそらくは
延喜・-天暦の-御門と申共、争か是にまさるべき
とぞ人申ける。大かたは賢王の名をあげ、仁徳の
孝をほどこさせ在ます事も、君御成人の後、
清濁をわかたせ給ひてのうへの事にてこそあるに、
此君は無下に幼主の時より性を柔和にうけ
させ給へり。去る承安の比ほひ、御在位のはじめ
つかた、御年十歳ばかりにもならせたまひ【給ひ】けん、
あまりに紅葉をあひせ【愛せ】させ給ひて、北の陣に
P06011
小山をつか【築か】せ、はじ・かへでのいろ【色】うつくしうもみぢ
たるをうへ【植ゑ】させて、紅葉の-山となづけ【名付け】て、終日に
叡覧あるに、なを【猶】あきだらせ給はず。しかる【然る】をある
夜、野分はしたなうふひ【吹い】て、紅葉みな吹−ちらし【散らし】、
落葉頗る狼籍【*狼藉】也。殿守のとものみやづこ【伴造】朝ぎ
よめすとて、是をことごとく【悉く】はき【掃き】すて【捨て】てげり。
のこれる枝、ちれる木葉をかき−あつめ【集め】て、風
すさまじかりけるあした【朝】なれば、縫殿の-陣
にて、酒あたためてたべ【食べ】ける薪にこそしてん
P06012
げれ。奉行の蔵人、行幸より先にといそぎ
ゆひてみる【見る】に、跡かた【跡形】−なし。いかにととへ【問へ】ばしかしかと
いふ。蔵人大におどろき、「あなあさまし。君のさし
も執し−おぼしめさ【思し召さ】れつる紅葉を、かやう【斯様】にしける
あさましさよ。しら【知ら】ず、なんぢ等只今禁獄流罪
にも及び、わが身もいかなる逆鱗にかあづから【関ら】ん
ずらん」となげく【歎く】ところ【所】に、主上いとどしくよるの
おとどを出させ給ひもあへず、かしこへ行幸なて
紅葉を叡覧なるに、なかりければ、「いかに」と御
P06013
たづね【尋ね】ある【有る】に、蔵人奏すべき方はなし。あり【有り】の
ままに奏聞す。天気ことに御心よげにうちゑま【笑ま】
せ給ひて、「「林間煖酒焼紅葉」と−いふ詩の心をば、
それらにはた【誰】がをしへ【教へ】けるぞや。やさしうも
仕ける物かな」とて、かへて【却つて】叡感[M 「御感」とあり「御」をミセケチ「叡」と傍書]に預し
うへ【上】は、あへて勅勘なかりけり。又安元のころ
ほひ、御方違の行幸あり【有り】しに、さらでだに
鶏人暁唱こゑ【声】、明王の眠をおどろかす程にも
なりしかば、いつも御ねざめがちにて、つやつや
P06014
御寝もならざりけり。況やさゆる【冴ゆる】霜夜の
はげしきに、延喜の聖代、国土の民ども
いかにさむかる【寒かる】らんとて、夜るのおとどにして
御衣をぬがせ給ける事などまでも、おぼし
めし【思し召し】−出して、わが帝徳のいたらぬ事をぞ
御歎有ける。やや深更に及で、程とをく【遠く】人の
さけぶ【叫ぶ】声しけり。供奉の人々はきき【聞き】−つけられ
ざりけれども、主上きこしめし【聞し召し】て、「今さけぶ【叫ぶ】
ものは何ものぞ。きとみ【見】てまいれ【参れ】」と仰ければ、
P06015
うへぶし【上臥し】−したる殿上人、上日のものに仰す。はしり【走り】−
ち【散つ】て尋ぬれば、ある辻にあやしのめのわらは【女童】の、
ながもちのふた【蓋】さげ【提げ】てなく【泣く】にてぞ有ける。
「いかに」ととへば、「しう【主】の女房の、院の御所にさぶら
は【候は】せ給ふが、此程やうやうにしてしたて【仕立て】られたる
御装束、も【持つ】てまいる【参る】ほど【程】に、只今男の二三人
まうで【詣で】-きて、うばひ【奪ひ】とてまかり【罷り】ぬるぞや。
今は御装束があらばこそ、御所にもさぶらはせ
給はめ。又はかばかしうたち【立ち】やどら【宿ら】せ給ふべき
P06016
したしい【親しい】御方もましまさず。此事おもひ【思ひ】−つづ
くるになく【泣く】也」とぞ申ける。さてかのめのわらは【女童】
をぐし【具し】てまいり【参り】、此よし奏聞しければ、主上
きこしめし【聞し召し】て、「あなむざん【無慚】。いかなるもののしわざ【仕業】
にてかあるらん。尭の代の民は、尭の心のすなほ
なるを−もて心とするがゆへ【故】に、みなすなほなり。
今の代の民は、朕が心を−もて心とするがゆへ【故】に、
かだましきもの朝にあて罪をおかす【犯す】。是わが
恥にあらずや」とぞ仰ける。「さてとら【取ら】れつらん
P06017
きぬは何いろ【色】ぞ」と御たづね【尋ね】あれば、しかしかの
いろと奏す。建礼門院のいまだ中宮にて在
ましける時なり。その【其の】御方へ、「さやうのいろ【色】したる
御衣や候」と仰ければ、さきのよりはるか【遥】にうつ
くしきがまいり【参り】たりけるを、くだんのめのわらは【女童】
にぞたまは【給は】せける。「いまだ夜ふかし。又さるめ【目】にもや
あふ」とて、上日のものをつけ【付け】て、しう【主】の女房の
つぼね【局】までをくら【送ら】せましましけるぞかたじけ
なき【忝き】。されば、あやしのしづのお【賎男】しづのめ【賎女】にいた
P06018
るまで、ただ此君千秋万歳の宝算をとぞ
『葵前』S0603
祈たてまつる【奉る】。○中にもあはれ【哀】なりし御事は、
中宮の御方に候はせ給ふ女房のめし【召し】−つかひ【使ひ】ける
上童、おもは【思は】ざる外、竜顔に咫尺する事あり【有り】
けり。ただよのつねのあからさまにてもなくして、
[M 主上つねはめさ【召さ】れけり。]まめやかに御心ざしふかか
り【深かり】ければ、しう【主】の女房もめし【召し】−つかは【使は】ず、かへて【却つて】主の如
くにぞいつき【傅き】−もてなしける。そのかみ、謡詠にいへる
事あり【有り】。「女をうん【産ん】でもひいさん【悲酸】する事なかれ。
P06019
男をうんでも喜歓-する事なかれ。男は功にだも
報ぜられず。女は妃たり」とて、后にたつといへり。
「この人、女御后とももてなされ、国母仙院とも
あふが【仰が】れなんず。めでたかりけるさひわゐ【幸】かな」
とて、其名をば葵のまへ【前】といひければ、内々は
葵女御などぞささやきける。主上是をきこし
めし【聞し召し】て、其後はめさ【召さ】[M れ]ざりけり。御心ざしのつき【尽き】ぬる
にはあらず。ただ世のそしり【謗】をはばから【憚から】せ給ふに−
よて也。されば御ながめ【眺】がちにて、よる【夜】のおとどに
P06020
のみぞいら【入ら】せ給ふ。其時の関白松殿、「御心ぐるし
き事にこそあむなれ。申なぐさめまいらせ【参らせ】ん」
とて、いそぎ御参内あて、「さやうに叡虜に
かからせましまさん事、何条事か候べき。件の
女房とくとくめさ【召さ】るべしと覚候。しなたづね【尋ね】らるる
に及ばず。基房やがて猶子に仕候はん」と奏せ
させ給へば、主上「いさとよ。そこに申事はさる−事
なれども、位を退て後はままさるためし【例】もあん
なり。まさしう在位の時、さやうの事は後代の
P06021
そしりなるべし」とて、きこしめし【聞し召し】もいれ【入れ】ざり
けり。関白殿ちから【力】およば【及ば】せたまは【給は】ず、御涙を
おさへて御退出あり【有り】。其後主上、緑の薄様の
ことに匂ふかかり【深かり】けるに、古き事なれ共おぼし
めし【思し召し】−いで【出で】て、あそばさ【遊ばさ】れける。
しのぶれ【忍ぶれ】どいろに出にけりわがこひ【恋】は
ものやおもふ【思ふ】と人のとふまで W044
此御手習を、冷泉少将隆房給はり-つゐ【継い】で、
件の葵のまへ【前】に給はせたれば、かほ【顔】うち−あかめ【赤め】、
P06022
「例ならぬ心ち【心地】いで【出で】-きたり」とて、里へ帰り、うち−
ふす【臥す】事五六日して、ついに【遂に】はかなく【果敢く】なりにけり。
「君が一日の恩のために、妾が百年の身をあやま
つ」ともかやうの事をや申べき。昔唐の太宗
の、貞仁機【*鄭仁基】が娘を元観殿にいれんとし給ひし
を、魏徴「かのむすめ已に陸士に約せり」といさめ申
しかば、殿にいるる【入るる】事をやめられけるには、すこし【少し】も
『小督』S0604
たがは【違は】せたまは【給は】ぬ御心ばせなり。○主上恋慕の
御おもひ【思ひ】にしづませをはします。申なぐさめ
P06023
まいらせ【参らせ】んとて、中宮の御かたより小督殿と
申女房をまいらせ【参らせ】らる。此女房は桜町の中納言
重範の卿の御むすめ、宮中一の美人、琴の上
手にてをはしける。冷泉大納言隆房卿、いまだ
少将なりし時、みそめたりし女房也。少将はじめは
歌をよみ、文をつくし【尽くし】、こひ【恋】-かなしみたまへ【給へ】ども【共】、
なびく気色もなかりしが、さすがなさけ【情】に
よはる【弱る】心にや、遂にはなびきたまひ【給ひ】けり。され共
今は君にめさ【召さ】れまいらせ【参らせ】て、せんかたもなく
P06024
かなしさ【悲しさ】に、あかぬ別の涙には、袖しほたれ【潮垂れ】て
ほし【乾し】-あへず。少将よそながらも小督殿み【見】たて
まつる【奉る】事もやと、つねは参内せられけり。おはし
ける局の辺、御簾のあたりを、あなたこなたへ
行-とをり【通り】、たたずみ−ありき【歩き】たまへ【給へ】ども、小督殿
「われ君にめさ【召さ】れんうへ【上】は、少将いかにいふとも【共】、詞
をもかはし、文をみる【見る】べきにもあらず」とて、つて
のなさけ【情】をだにもかけられず。少将もしやと
一首の歌をよう【詠う】で、小督殿のおはしける御簾の
P06025
内へなげ【投げ】いれ【入れ】たる。
おもひ【思ひ】−かねこころはそら【空】にみちのくの
ちか【千賀】のしほがま【塩釜】ちかき【近き】かひなし W045
小督殿やがて返事もせばやとおもは【思は】れけ
めども、君の御ため、御うしろ【後】めたうやおもは【思は】れ
けん、手にだにとてもみ【見】たまは【給は】ず。上童にとらせ
て、坪のうちへぞなげ【投げ】いだす【出す】。少将なさけ【情】なう
恨しけれども【共】、人も〔こそ〕みれ【見れ】とそら【空】-おそろしう【恐ろしう】
おもは【思は】れければ、いそぎ是をと【取つ】てふところ【懐】に
P06026
入てぞ出られける。なを【猶】たちかへ【立ち返つ】て、
たまづさ【玉章】を今は手にだにとら【取ら】じとや
さこそ心におもひ【思ひ】すつ【捨つ】とも W046
今は此世にてあひみ【見】ん事もかたければ、
いき【生き】てものをおもは【思は】んより、しな【死な】んとのみぞねが
は【願は】れける。入道相国これをきき、中宮と申も
御むすめ也、冷泉少将聟也。小督殿にふたりの
聟をとられて、「いやいや、小督があらんかぎりは
世中よかるまじ。めし【召し】−いだし【出し】てうしなは【失は】ん」とぞ
P06027
のたまひ【宣ひ】ける。小督殿もれ【漏れ】−きひ【聞い】て、「我身の事
はいかでもあり【有り】なん。君の御ため御心ぐるし」
とて、ある暮がたに内裏を出て、ゆくゑ【行方】も
しら【知ら】ずうせたまひ【給ひ】ぬ。主上御歎なのめならず。
ひる【昼】はよる【夜】のおとどにいら【入ら】せ給ひて、御涙にのみ
むせび、夜るは南殿に出御なて、月の光を
御覧じてぞなぐさま【慰さま】せ給ひける。入道相国
是をきき、「君は小督ゆへ【故】におぼしめし【思し召し】−しづま【沈ま】せ
たまひ【給ひ】たんなり。さらむにと【取つ】ては」とて、御かひ
P06028
しやく【介錯】の女房達をもまいらせ【参らせ】ず、参内し給ふ
臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはば
かて、かよふ人もなし。禁中いまいましう【忌々しう】ぞみえ【見え】
ける。かくて八月十日あまりになりにけり。
さしもくま【隈】なき空なれど、主上は御涙に
くもり【曇り】つつ、月の光もおぼろにぞ御覧ぜられ
ける。やや深更に及で、「人やある、人やある」とめさ【召さ】れ
けれども【共】、御いらへ【答へ】申ものもなし。弾正少弼[B 「少」に「大歟」と傍書]仲
国、其夜しも御宿直にまい【参つ】て、はるかにとをう【遠う】
P06029
候が、「仲国」と御いらへ【答へ】申たれば、「ちかう【近う】まいれ【参れ】。仰
下さるべき事あり【有り】」。何事やらんとて、御前
ちかう参じたれば、「なんぢもし小督がゆくゑ【行方】や
しり【知り】たる」。仲国「いかでかしり【知り】まいらせ【参らせ】候べき。ゆめゆめ
しり【知り】まいらせ【参らせ】ず候」。「まことやらん、小督は嵯峨の
へんに、かた折戸【片折戸】とかやしたる内にあり【有り】と申もの
のあるぞとよ。あるじ【主】が名をばしら【知ら】ずとも、
尋てまいらせ【参らせ】なんや」と仰ければ、「あるじ【主】が名を
しり【知り】候はでは、争かたづね【尋ね】まいらせ【参らせ】候べき」と申
P06030
せば、「まこと【誠】にも」とて、竜顔より御涙をながさせ
たまふ【給ふ】。仲国つくづくと物をあんずる【案ずる】に、まこと
にや、小督殿は琴ひき【弾き】たまひ【給ひ】しぞかし。
此月のあかさに、君の御事おもひいで【思ひ出で】まいら
せ【参らせ】て、琴ひきたまは【給は】ぬ事はよもあらじ。
御所にてひき【弾き】たまひ【給ひ】しには、仲国笛の役に
めさ【召さ】れしかば、其こと【琴】の音はいづくなりとも
きき【聞き】−しら【知ら】んずるものを。又嵯峨の在家いく程か
あるべき。うちまは【廻つ】てたづね【尋ね】んに、などか聞出
P06031
さざるべきとおもひ【思ひ】ければ、「さ候はば、あるじが名は
しら【知ら】ずとも【共】、もし【若】やとたづね【尋ね】まいらせ【参らせ】てみ【見】候はん。
ただし尋あひまいらせ【参らせ】て候とも【共】、御書を給
はらで申さんには、うは【上】の空にやおぼしめさ【思し召さ】れ
候はんずらん。御書を給はてむかひ【向かひ】候はん」と
申ければ、「まこと【誠】にも」とて、御書をあそばひ【遊ばい】
てたう【賜う】だりけり。「竜【*寮】の御馬にの【乗つ】てゆけ」とぞ
仰ける。仲国竜【*寮】の御馬給はて、名月にむち【鞭】を
あげ、そこともしら【知ら】ずあこがれゆく【行く】。をしか【牡鹿】鳴
P06032
此山里と詠じけん、さが【嵯峨】のあたりの秋のころ【比】、
さこそはあはれ【哀】にもおぼえけめ。片折戸−
したる屋をみつけ【見付け】ては、「此内にやおはすらん」と、
ひかへ【控へ】ひかへ【控へ】きき【聞き】けれども【共】、琴ひく所もなかりけり。
御堂などへまいり【参り】たまへ【給へ】る事もやと、釈迦
堂をはじめて、堂々み【見】-まはれども【共】小督殿に
似たる女房だにみえ【見え】たまは【給は】ず。「むなしう【空しう】帰り−
まいり【参り】たらんは、中々まいら【参ら】ざらんよりあしかる【悪しかる】
べし。是よりもいづち【何方】へもまよひ【迷ひ】ゆかばや」と
P06033
おもへ【思へ】ども、いづくか王地ならぬ、身をかくす【隠す】べき
宿もなし。いかがせんとおもひ【思ひ】−わづらう。「まことや、
法輪は程ちかけれ【近けれ】ば、月の光にさそは【誘は】れて、
まいり【参り】たまへ【給へ】る事もや」と、そなたにむかひ【向ひ】て
ぞあゆ〔ま〕【歩ま】せける。亀山のあたりちかく【近く】、松の一むら
あるかた【方】に、かすか【幽】に琴ぞきこえ【聞こえ】ける。峯の
嵐か、松風か、たづぬる【尋ぬる】人のことの音か、おぼつかなく
はおもへ【思へ】ども、駒をはやめてゆく【行く】ほど【程】に、片折戸−
したる内に、琴をぞひき【弾き】−すまされたる。ひかへ【控へ】て
P06034
是をききければ、すこし【少し】〔も〕まがふ【紛ふ】べうもなき小督
殿の爪音也。楽はなん【何】ぞとききければ、夫をおも
ふ【思う】てこふとよむ想夫恋と−いふ楽也。さればこそ、
君の御事おもひ【思ひ】出まいらせ【参らせ】て、楽こそおほ
けれ【多けれ】、此楽をひき給けるやさしさよ。ありがたふ
おぼえて、腰よりやうでう【横笛】ぬきいだし【出だし】、ちとならひ【鳴らい】て、
門をほとほととたたけば、やがてひき【弾き】−やみ給ひ
ぬ。高声に、「是は内裏より仲国が御使にまい【参つ】て候。
あけ【開け】させたまへ【給へ】」とて、たたけども【共】たたけども【共】とがむる
P06035
人もなかりけり。ややあて、内より人のいづる【出づる】
音のしければ、うれしう【嬉しう】おもひ【思ひ】て待ところ【所】に、
じやう【錠】をはづし【外し】、門をほそめ【細目】にあけ、いたひけ【幼気】
したる小女房、かほ【顔】ばかりさし−いだひ【出い】て、「門たがへ【違へ】
でぞさぶらふ【候ふ】らん。是には内裏より御使など
たまはる【賜る】べき所にてもさぶらは【候は】ず」と申せば、
中々返事-して、門たて【閉て】られ、じやう【錠】さされては
あしかり【悪しかり】なんとおもひ【思ひ】て、をし【押し】-あけ【開け】てぞ入に
ける。妻戸のきはのゑん【縁】に居て、「いかに、かやうの
P06036
所には御わたり【渡り】候やらん。君は御ゆへ【故】におぼし
めし【思し召し】−しづませ給ひて、御命もすでにあやうく【危ふく】
こそみえ【見え】させおはしまし候へ。ただうは【上】の空に申
とやおぼしめさ【思し召さ】れ候はん。御書を給てまい【参つ】て
候」とて、とりいだひ【取り出だい】てたてまつる【奉る】。ありつる女房
とりついで、小督殿にまいらせ【参らせ】たり。あけてみ【見】
たまへ【給へ】ば、まことに君の御書也けり。やがて御返
事かき、ひき【引き】-むすび【結び】、女房の装束一かさね【重ね】そへ
て出されたり。仲国、女房の装束をば肩にうち
P06037
かけ、申けるは、「余の御使で候はば、御返事のうへ【上】は、と
かう申にはおよび【及び】候はねども、日ごろ内裏にて
御琴あそばし【遊ばし】し時、仲国笛の役にめされ候し
奉公をば、いかでか御わすれ【忘れ】候べき。ぢき【直】の御返事
を承はらで帰まいら【参ら】ん事こそ、よに口おしう【惜しう】
候へ」と申ければ、小督殿げにもとやおもは【思は】れけん、
みづから返事し給ひけり。「それにもきか【聞か】せ
給ひつらん、入道相国のあまりにおそろしき【恐ろしき】
事をのみ申とききしかば、あさましさに、内裏
P06038
をばにげ【逃げ】−出て、此程はかかるすまゐ【住ひ】なれば、
琴などひく【弾く】事もなかりつれども【共】、さてもある
べきならねば、あすより大原のおく【奥】におもひ【思ひ】−たつ【立つ】
事のさぶらへ【候へ】ば、あるじの女房の、こよひばかりの
名残をおしう【惜しう】で、「今は夜もふけぬ。たち【立ち】きく【聞く】
人もあらじ」などすすむれ【勧むれ】ば、さぞなむかし【昔】の名残も
さすがゆかしくて、手なれし琴をひく【弾く】ほど【程】に、
やすうもきき【聞き】−出されけりな」とて、涙もせきあへ
たまは【給は】ねば、仲国も袖をぞぬらし【濡し】ける。ややあて、
P06039
仲国涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「あすより大原の奥
におぼしめし【思し召し】−たつ【立つ】事と候は、御さまなどをかへ【変へ】
させたまふ【給ふ】べきにこそ。ゆめゆめあるべうも候はず。
さて君の御歎をば、何とかしまいらせ【参らせ】給べき。
是ばしいだし【出だし】まいらす【参らす】な」とて、ともにめし【召し】−具し
たるめぶ【馬部】、きつじやう【吉上】などとどめ【留め】をき、其屋を守護-
せさせ、竜【*寮】の御馬にうち【打ち】-の【乗つ】て、内裏へかへり【帰り】−まい
り【参り】たれば、ほのぼのとあけ【明け】にけり。「今は入御も
なりぬらん、誰して申入べき」とて、竜【*寮】の御馬
P06040
つながせ、ありつる女房の装束をばはね馬【跳ね馬】の−
障子になげ【投げ】−かけ、南殿の方へまいれ【参れ】ば、主上は
いまだ夜部の御座にぞ在ましける。「南に翔
北に嚮、寒雲を秋の鴈に付難し。東に出西に
流、只瞻望を暁の月に寄す」と、うちながめ【詠め】
させ給ふ所に、仲国つとまいり【参り】たり。小督殿の
御返事をぞまいらせ【参らせ】たる。君なのめならず御
感なて、「なんぢ【汝】やがてよ【夜】さり具してまいれ【参れ】」と
仰ければ、入道相国のかへり【返り】きき給はんところ【所】は
P06041
おそろしけれ【恐ろしけれ】ども【共】、これ又倫言なれば、雑色・
牛飼・牛・車きよげ【清気】に沙汰-して、さが【嵯峨】へ行むかひ【向ひ】、
まいる【参る】まじきよしやうやう【様々】にのたまへ【宣へ】ども、さまざま
にこしらへて、車にとり−のせ【乗せ】たてまつり【奉り】、内裏
へまいり【参り】たりければ、幽なる所にしのば【忍ば】せて、
よなよな【夜な夜な】めさ【召さ】れける程に、姫宮一所出来させ
給ひけり。此姫宮と申は、坊門の女院の御事也。
入道相国、何としてかもれ【漏れ】−きき【聞き】たまひ【給ひ】けん、「小督
がうせ【失せ】たりと−いふ事、あとかた【跡形】−なき空事なり
P06042
けり」とて、小督殿をとらへ【捕へ】つつ、尼になして
ぞはな【放つ】たる。小督殿出家はもとよりののぞみ【望み】
なりけれども【共】、心ならず尼になされて、年廿三、
こき【濃き】墨染にやつれはてて、嵯峨のへん【辺】にぞすま【住ま】
れける。うたてかりし事ども【共】也。かやう【斯様】の事共に
御悩はつかせ給ひて、遂に御かくれあり【有り】ける
とぞきこえ【聞え】し。法皇はうちつづき御歎のみ
ぞしげかり【滋かり】ける。去る永万には、第一の御子二条院
崩御なりぬ。安元二年の七月には、御孫六条院
P06043
かくれさせ給ぬ。天にすま【住ま】ば比翼の鳥、地に
すまば連理の枝とならんと、漢河の星をさし
て、御契あさから【浅から】ざりし建春門院、秋の霧
におかさ【侵さ】れて、朝の露ときえさせ給ひぬ。年月
はかさなれ【重なれ】ども【共】、昨日今日の御別の−やうに
おぼしめし【思し召し】て、御涙もいまだつき【尽き】せぬに、治承
四年五月には第二の皇子高倉宮うた【討た】れさせ
給ひぬ。現世後生たのみ【頼み】−おぼしめさ【思し召さ】れつる新院さへ
さきだた【先立た】せ給ひぬれば、とにかくにかこつ方なき
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御涙のみぞすすみ【進み】ける。「悲の至て悲しきは、
老て後子にをくれ【後れ】たるよりも悲しきはなし。
恨の至て恨しきは、若して親に先立よりも
うらめしき【恨めしき】はなし」と、彼朝綱の相公の子息澄
明にをくれ【遅れ】て書たりけん筆のあと、今こそ
おぼしめし【思し召し】−知られけれ。さるままには、彼一乗妙
典の御読誦もおこたらせ給はず、三密行法
の御薫修もつもらせ給けり。天下諒闇に
成しかば、大宮人もおしなべて、花のたもとや
P06045
『廻文』S0605
やつれ【窶れ】けん。○入道相国かやうにいたくなさけ【情】なう
ふるまひ【振舞ひ】-をか【置か】れし事を、さすがおそろし【恐ろし】とや
おもは【思は】れけん、法皇なぐさめまいらせ【参らせ】んとて、安芸
の厳島の内侍が腹の御むすめ[M 「すすめ」とあり始めの「す」をミセケチ「む」と傍書]、生年十八に
成たまふ【給ふ】が、ゆう【優】に花やかにおはしけるを、法皇へ
まいらせ【参らせ】らる。上臈女房達あまたゑらば【選ば】れて
まいら【参ら】れけり。公卿殿上人おほく【多く】供奉-して、
ひとへに女御−まいり【参り】の如くにてぞあり【有り】ける。上皇
かくれ【隠れ】させ給ひて後、わづかに二七日だにも
P06046
へざるに、しかる【然る】べからずとぞ、人々内々はささやき
あはれける。さる程に、其比信濃国に、木曾冠
者義仲と−いふ源氏あり【有り】ときこえ【聞え】けり。故六条
判官為義が次男、故帯刀の先生義方【*義賢】が子也。
父義方【*義賢】は久寿二年八月十六日、鎌倉の悪源太
義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりし
を、母なくなく【泣く泣く】かかへて信乃【*信濃】へこえ、木曾中三兼遠
がもとにゆき、「是いかにも-してそだて【育て】て、人になし
てみせ【見せ】たまへ【給へ】」といひければ、兼遠うけ【受け】−と【取つ】て、かひ
P06047
がひしう廿余年養育す。やうやう長大するまま
に、ちから【力】も世にすぐれてつよく、心もならび
なく甲也けり。「ありがたきつよ弓【強弓】、勢兵、馬の上、
かちだち【徒立】、すべて上古の田村・利仁・与五【*余五】将軍、
知頼【*致頼】・保昌・先祖頼光、義家朝臣と−いふ共、争か
是にはまさるべき」とぞ、人申ける。或時めのとの
兼遠をめし【召し】てのたまひ【宣ひ】けるは、「兵衛佐頼朝
既に謀叛をおこし、東八ケ国をうちしたがへ【従へ】
て、東海道よりのぼり、平家をおひ【追ひ】-おとさ【落さ】んと
P06048
すなり。義仲も東山・北陸両道をしたがへて、
今一日も先に平家をせめ【攻め】おとし【落し】、たとへば、
日本国ふたり【二人】の将軍といは【言は】ればや」とほのめ
かしければ、中三兼遠大にかしこまり-悦で、
「其にこそ君をば今まで養育し奉れ。
かう仰らるるこそ、誠に八幡殿の御末ともおぼ
えさせ給へ」とて、やがて謀叛をくはたて【企て】けり。
兼遠にぐせ【具せ】られて、つねは都へのぼり、平家
の人々の振舞、ありさまをも見-うかがひ【窺ひ】けり。
P06049
十三で元服-しけるも、八幡へまいり【参り】八幡大菩薩の
御まへにて、「O[BH 我]四代の祖父義家朝臣は、此御神の
御子となて、名をば八幡太郎と号しき。
かつは其跡ををう【追ふ】べし」とて、八幡大菩薩の御宝前
にてもとどり【髻】とりあげ、木曾次郎義仲とこそ
つゐ【付い】たりけれ。兼遠「まづめぐらし文【廻らし文】候べし」とて、
信濃国には、禰の井【根井】の小野太、海野の行親を
かたらう【語らふ】に、そむく事なし。是をはじめて、信乃【*信濃】一
国の兵物ども【共】、なびかぬ草木もなかりけり。
P06050
上野国に故帯刀先生義方【*義賢】がよしみにて、
田子の郡の兵ども【共】、皆したがひ【従ひ】つきにけり。平家
末になる折をえ【得】て、源氏の年来の素懐を
『飛脚到来』S0606
とげんとす。○木曾と−いふ所は、信乃【*信濃】にとても南の
はし、美乃【*美濃】-ざかひなりければ、都も無下にほど【程】-
ちかし。平家の人々もれ【漏れ】−きひ【聞い】て、「東国のそむく【叛く】
だにあるに、北国さへこはいかに」とぞさはが【騒が】れける。
入道相国仰られけるは、「其もの心-にくからず。おも
へば信乃【*信濃】一国の兵共こそしたがひ【従ひ】−つくと−いふ共、越後
P06051
国には与五【*余五】将軍の末葉、城太郎助長、同四郎
助茂、これらは兄弟共に多勢のもの共なり。仰
くだしたらんずるに、やすう討てまいらせ【参らせ】てん
ず」とのたまひ【宣ひ】ければ、「いかがあらんずらむ」と、内々は
ささやくものもおほかり【多かり】けり。二月一日、越後国[B ノ]住
人城太郎助長、越後守に任ず。是は木曾追
討せられんずるはかり事とぞきこえ【聞え】し。同七日、
大臣以下、家々にて尊勝陀羅尼、不動明王かき【書】
供養-ぜらる。是は又兵乱-つつしみのため也。同九日、
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河内国石河郡に居住したりける武蔵[B ノ]権守入道
義基、子息石河[B ノ]判官代義兼、平家をそむひ
て兵衛佐頼朝に心をかよはかし【通はかし】、已東国へ落
行べきよしきこえ【聞こえ】しかば、入道相国やがて打手
をさし【差し】-つかはす【遣はす】。打手の大将には、源太夫判官季
定、摂津判官盛澄、都合其勢三千余騎で発
向す。城内には武蔵[B ノ]権[B ノ]守入道義基、子息判官
代義兼を先として、其勢百騎ばかりにはすぎ【過ぎ】
ざりけり。時つくり矢合-して、いれ−かへ【入れ替へ】いれ−かへ【入れ替へ】数剋
P06053
たたかふ【戦ふ】。城[B ノ]内の兵ども【共】、手のきは【際】たたかひ【戦ひ】打死
するものおほかり【多かり】けり。武蔵[B ノ]権[B ノ]守入道義基打死
す。子息石河判官代義兼はいた手負ていけ
どり【生捕り】にせらる。同十一日、義基法師が頸都へ入て、
大路をわたさ【渡さ】る。諒闇に賊首をわたさ【渡さ】るる事
は、堀河天皇崩御の時、前対馬守源[B ノ]義親が
首をわたされし例とぞきこえ【聞え】し。○同十二日、
鎮西より飛脚到来、宇佐大宮司公通が申
けるは、「九州のものども【共】、緒方三郎をはじめとして、
P06054
臼杵・戸次・松浦党にいたるまで、一向平家を
そむひて源氏に同心」のよし申たりければ、「東国
北国のそむくだにあるに、こはいかに」とて、手をう【打つ】て
あさみ-あへり。同十六日、伊与【*伊予】国より飛脚到来
す。去年冬比より、河野[B ノ]四郎道清【*通清】をはじ
めとして、四国のものども【者共】みな平家をそむひ
て、源氏に同心のあひだ、備後国住人、ぬか【額】の
入道西寂、平家に心ざしふかかり【深かり】ければ、伊与【*伊予】の
国へおし-わたり、道前・道後のさかひ、高直城に
P06055
て、河野[B ノ]四郎道清【*通清】をうち候ぬ。子息河野[B ノ]四郎
道信【*通信】は、父がうた【討た】れける時、安芸[B ノ]国住人奴田[B ノ]次郎
は母方の伯父なりければ、それ【其れ】へこえ【越え】てあり【有り】-
あはず。河野[B ノ]道信【*通信】ちちをうた【討た】せて、「やすから【安から】ぬ
ものなり。いかにしても西寂を打とらむ」とぞ
うかがひ【伺ひ】ける。額入道西寂、河野[B ノ]四郎道清【*通清】を
う【討つ】て後、四国の狼籍【*狼藉】をしづめ、今年正月十五日に
備後のとも【鞆】へおし-わたり、遊君遊女共めし【召し】−あつめ【集め】
て、あそび【遊び】−たはぶれ【戯れ】さかもり【酒盛】けるが、先後もしら【知ら】ず
P06056
酔−ふし【臥し】たる処に、河野[B ノ]四郎おもひ【思ひ】−き【切つ】たる
ものども【共】百余人あひ語て、ばとおし-よす【押寄す】。西寂
が方にも三百余人あり【有り】ける物共、にはかの事
なれば、おもひ【思ひ】もまうけ【設け】ずあはて【慌て】ふためき
けるを、たて【立て】−あふ【合ふ】ものをばい【射】ふせ【伏せ】、きり【斬り】ふせ【伏せ】、まづ
西寂を生どりにして、伊与【*伊予】国へおし-わたり【押渡り】、父が
うた【討た】れたる高直城へさげ【提げ】もてゆき、のこぎり【鋸】で
頸をき【斬つ】たりともきこえ【聞え】けり。又はつけ【磔】にしたり
『入道死去』S0607
ともきこえ【聞え】けり。○其後四国の兵共、みな河野[B ノ]四郎に
P06057
したがひ【従ひ】−つく。熊野[B ノ]別当湛増も、平家重恩の身
なりしが、それ【其れ】もそむひて、源氏に同心の由
聞えけり。凡東国北国ことごとく【悉く】そむきぬ。南
海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚かし、
逆乱の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は
只今うせなんずとて、必ず平家の一門ならね共、
心ある人々のなげき【歎き】かなしま【悲しま】ぬはなかりけり。
[B 入道死去イ]○同廿三日、公卿僉議あり【有り】。前[B ノ]右大将宗盛卿申されけるは、
坂東へ打手はむかう【向う】たりといへども【共】、させるしいだし【出し】
P06058
たる事も候はず。今度宗盛、大将軍を承はて
向べきよし申されければ、諸卿色代して、「ゆゆし
う候なん」と申されけり。公卿殿上人も武官に
備はり、弓箭に携らん人々は、宗盛[B ノ]卿を大将軍
にて、東国北国の凶徒等追討すべきよし仰下
さる。同廿七日、前[B ノ]右大将宗盛[B ノ]卿、源氏追討の為に、東
国へ既に門出ときこえ【聞え】しが、入道相国違例の
御心ちとてとどまり給ひぬ。明る廿八日より、重病
をうけ【受け】給へりとて、京中・六波羅「すは、しつる事を」
P06059
とぞささやきける。入道相国、やまひ【病ひ】つき給ひし日
よりして、水をだにのど【咽喉】へも入給はず。身の内の
あつき【熱き】事火をたくが如し。ふし【臥し】たまへ【給へ】る所四五間が
内へ入ものは、あつさ【熱さ】たへ【堪へ】がたし。ただのたまふ【宣ふ】事
とては、「あたあた」とばかり也。すこし【少し】もただ事とは
みえ【見え】ざりけり。比叡山より千手井の水をくみ
くだし、石の舟にたたへ【湛へ】て、それにおり【下り】てひへ【冷え】
たまへ【給へ】ば、水おびたたしく【夥しく】わき【沸き】−あが【上がつ】て、程なく
湯にぞなりにける。もしやたすかり【助かり】たまふ【給ふ】と、
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筧の水をまかせ【任せ】たれば、石やくろがね【鉄】などの
やけ【焼け】たるやうに、水ほどばし【迸ばしつ】てより【寄り】−つか【付か】ず。をのづか
らあたる水はほむらとなてもえ【燃え】ければ、くろ
けぶり殿中にみちみちて、炎うずまひて
あがり【上がり】けり。是や昔法蔵僧都といし人、閻王の
請におもむひ【赴むい】て、母の生所を尋しに、閻王あはれ
み給ひて、獄卒をあひ-そへ【添へ】て焦熱地獄へつか
はさ【遣さ】る。くろがね【鉄】の門の内へさし入ば、流星などの
如くに、ほのを【炎】空へたち【立ち】−あがり【上がり】、多百由旬に及けん
P06061
も、今こそおもひ【思ひ】−しら【知ら】れけれ。入道相国の北の
方、二位の夢にみ【見】給ひける事こそおそろし
けれ【恐ろしけれ】。猛火のおびたたしくもえ【燃え】たる車を、門の
内へやり入たり。前後に立たるものは、或は馬の
面の−やうなるものもあり【有り】、或は牛の面の−やう
なるものもあり【有り】。車のまへには、無と−いふ文字
ばかりぞみえ【見え】たる鉄の札をO[BH ぞ]立たりける。二位殿夢
の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづね【尋ね】あれば、
「閻魔の庁より、平家太政入道殿の御迎にまい【参つ】
P06062
て候」と申。「さて其札は何と−いふ札ぞ」ととは【問は】せ給
へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼ほろぼ
したまへ【給へ】る罪に−よて、無間の底に堕給ふべきよし、
閻魔の庁に御さだめ【定め】候が、無間の無をばかか【書か】れ
て、間の字をばいまだかかれぬ也」とぞ申ける。
二位殿うちおどろき、あせ水【汗水】になり、是を人々に
かたり給へば、きく【聞く】人みな身の毛よ立けり。霊仏
霊社に金銀七宝をなげ、馬・鞍・鎧甲・弓矢・太刀、
刀にいたるまで、とり【取り】いで【出で】はこび出しいのら【祈ら】れ
P06063
けれども【共】、其しるしもなかりけり。男女の君達
あと枕【後枕】にさし−つどひ【集ひ】て、いかにせんとなげき【歎き】かな
しみたまへ【給へ】ども、かなう【叶ふ】べしともみえ【見え】ざりけり。
同閏二月二日、二位殿あつう【熱う】たへ【堪へ】がたけれども【共】、御枕の
上によ【寄つ】て、泣々のたまひ【宣ひ】けるは、「御ありさま
み【見】たてまつる【奉る】に、日にそへてたのみ【頼み】−ずくなうこそ
みえ【見え】させ給へ。此世におぼしめし【思し召し】−をく【置く】事あらば、
すこし【少し】もののおぼえ【覚え】させ給ふ時、仰をけ【置け】」とぞ
のたまひ【宣ひ】ける。入道相国、さしも日来はゆゆしげに
P06064
おはせしかども、まこと【誠】にくるしげ【苦し気】にて、いき【息】の
下にのたまひ【宣ひ】けるは、「われ保元・平治よりこの【此の】-かた、
度々の朝敵をたいらげ【平げ】、勧賞身にあまり、
かたじけなく【忝く】も帝祖太政大臣にいたり、栄花子
孫に及ぶ。今生の望一事ものこる【残る】処なし。
ただしおもひ【思ひ】をく【置く】事とては、伊豆国の流人、
前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそやすから【安から】ね。
われいか【如何】にもなりなん後は、堂塔をもたて、孝養
をもすべからず。やがて打手をつかはし【遣し】、頼朝が首
P06065
をはねて、わがはか【墓】のまへにかく【懸く】べし。それぞ
孝養にてあらんずる」とのたまひ【宣ひ】けるこそ罪
ふかけれ。同四日、やまひ【病ひ】にせめられ、せめての事に
板に水をゐ【沃】て、それにふしまろび【伏し転び】たまへ【給へ】ども【共】、
たすかる【助かる】心ち【心地】もしたまは【給は】ず、悶絶■地-して、
遂にあつち死にぞしたまひ【給ひ】ける。馬車のはせ【馳せ】−
ちがう【違ふ】音、天もひびき大地もゆるぐ程也。一天の
君、万乗のあるじの、いかなる御事在ますとも【共】、
是には過じとぞみえ【見え】し。今年は六十四にぞ
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なりたまふ【給ふ】。老じに【老死に】と−いふべきにはあらねども、
宿運忽につきたまへ【給へ】ば、大法秘法の効験もなく、
神明三宝の威光もきえ、諸天も、擁護し
たまは【給は】ず。況や凡慮におひて【於いて】をや。命にかはり
身にかはらんと忠を存ぜし数万の軍旅は、
堂上堂下に次居たれども【共】、是は目にもみえ【見え】ず、
力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も
たたかひ【戦ひ】−かへさ【返さ】ず。又かへり【帰り】−こぬ四手の山、みつ瀬河【三瀬河】、
黄泉中有の旅の-空に、ただ一所こそおもむき【赴き】
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給ひけめ。日ごろつくり【作り】-をか【置か】れし罪業ばかりや
獄率となてむかへ【迎へ】に来りけん、あはれ【哀】なりし
事共也。さてもあるべきならねば、同七日、をたぎ【愛宕】
にて煙になしたてまつり【奉り】、骨をば円実法眼
頸にかけ、摂津国へくだり、経の島にぞおさめ【納め】
ける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるし
人なれども【共】、身はひとときの煙となて都の空
に立のぼり、かばね【屍】はしばしやすらひて、浜の
砂にたはぶれ【戯れ】つつ、むなしき【空しき】土とぞなりたまふ【給ふ】。
P06068
『築島』S0608
○やがて葬送の夜、ふしぎ【不思議】の事あまたあり【有り】。玉
をみがき金銀をちりばめて作られたりし
西八条殿、其夜にはかにやけ【焼け】ぬ。人の家のやくる【焼くる】は、
つね【常】のならひ【習ひ】なれども、あさましかりし事共
也。何もののしわざにや有けん、放火とぞ聞えし。
又其夜六波羅の南にあたて、人ならば二三十人
がこゑ【声】して、「うれしや水、なる【鳴る】は滝の水」と−いふ
拍子を出してまひ【舞ひ】おどり【踊り】、どとわらう【笑ふ】声しけり。
去る正月には上皇かくれ【隠れ】させ給ひて、天下諒闇
P06069
になりぬ。わづかに中一両月をへだてて、入道相国
薨ぜられぬ。あやしのしづのお【賎男】、しづのめ【賎女】にいたる
までも、いかがうれへ【愁へ】ざるべき。是はいかさまにも
天狗の所為と−いふさた【沙汰】にて、平家の侍のなかに、
はやりを【逸男】の若物【若者】ども【共】百余人、わらう【笑ふ】声について
たづね【尋ね】-ゆいてみれ【見れ】ば、院の御所法住寺殿に、この
二三年院もわたらせたまは【給は】ず、御所−あづかり【預り】
備前前司基宗と−いふものあり【有り】、彼基宗があひ
知たる物ども【共】二三十人、よ【夜】にまぎれて来り集り、
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酒をのみ【飲み】けるが、はじめはかかる折ふしにおと【音】な
せそとてのむ【飲む】程に、次第にのみ酔て、か様【斯様】に
舞-おどり【踊り】けるなり。ばとをし【押し】−よせ【寄せ】て、酒に酔
ども、一人ももらさ【漏らさ】ず卅人ばかりからめて、六波羅へ
い【率】てまいり【参り】、前右大将宗盛卿のをはしける坪の
内にぞひ【引つ】−すへ【据ゑ】たる。事の子細をよくよくたづね【尋ね】-きき
給ひて、「げにもそれほど【程】に酔たらんものをば、きる【斬る】
べきにもあらず」とて、みなゆるさ【赦さ】れけり。人のうせ【失せ】
ぬるあとには、あやしのものも朝夕にかね【鐘】うち
P06071
ならし【鳴らし】、例時懺法よむ事はつね【常】のならひ【習ひ】
なれども【共】、此禅門薨ぜられぬる後は、供仏施僧
のいとなみと−いふ事もなし。朝夕はただいくさ【軍】
合戦のはかり事より外は他事なし。凡は
さい後【最後】の所労のありさまこそうたてけれ共、まこと【誠】
にはただ【凡】人ともおぼえぬ事ども【共】おほかり【多かり】けり。
日吉社へまいり【参り】たまひ【給ひ】しにも、当家他家の公卿
おほく【多く】供奉-して、「摂禄の-臣の春日御参詣、宇
治-いり【入り】などいふとも、是には争かまさるべき」とぞ
P06072
人申ける。又何事よりも、福原の経の島つい【築い】て、
今の世にいたるまで、上下往来の船のわづらひ【煩ひ】
なきこそ目出けれ。彼島は去る応保元年二月
上旬に築はじめ【始め】られたりけるが、同年の八月に、
にはかに大風吹大なみ【浪】たて、みなゆり【淘り】-うしなひ【失なひ】てき。
又同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行
にてつか【築か】せられけるが、人柱たて【立て】らるべしなど、公卿
御僉議有しか共、それは罪業なりとて、石の面に一切
経をかひ【書い】てつか【築か】れたりけるゆへ【故】にこそ、経の島とは名づけ
P06073
『慈心房』S0609
たれ。○ふるひ【古い】人の申されけるは、清盛公は悪人と
こそおもへ【思へ】ども【共】、まことは慈恵僧正の再誕なり。
其故は、摂津国清澄寺と−いふ山寺あり【有り】。彼寺
の住僧慈心房尊恵と申けるは、本は叡山の
学侶多年法花の侍者【*持者】なり。しかる【然る】に、道心を
おこし【起こし】離山-して、此寺に年月ををくり【送り】ければ、
みな人是を帰依-しけり。去る承安二年十二月
廿二日の夜、脇息によりかかり、法花経よみ【読み】たて
まつり【奉り】けるに、丑剋ばかり、夢ともなくうつつ【現】とも【共】
P06074
なく、年五十ばかりなる男の、浄衣に立烏帽子
きて、わらづ【草鞋】はばき【脛巾】したるが、立文をも【持つ】て来れり。
尊恵「あれはいづくよりの人ぞ」ととひ【問ひ】ければ、
「閻魔王宮よりの御使也。宣旨候」とて、立文を
尊恵にわたす。尊恵是をひらい【披い】てみれ【見れ】ば、
■[*口+屈]請、閻浮提大日本国摂津国清澄寺の慈心
房尊恵、来廿六日閻魔羅城大極殿にして、
十万人の持経者を−もて、十万部の法花経を
転読せらるべき也。仍参懃【*参勤】せらるべし。閻王宣に−
P06075
よて、■[*口+屈]請如件[* この下に一、二字分の空白有り]。承安二年十二月廿二日閻魔
の庁とぞかか【書か】れたる。尊恵いなみ【辞み】申べき事なら
ねば、左右なう領状の請文をかひ【書い】てたてまつる【奉る】
とおぼえてさめ【覚め】にけり。ひとへに死去の思を
なして、院主の光影房に此事をかたる。みな【皆】
人寄特【*奇特】のおもひ【思ひ】をなす。尊恵口には弥陀の名
号をとなへ、心には引摂の悲願を念ず。やうやう
廿五日の夜陰に及で、常住の仏前にいたり、
例のごとく脇息によりかか【寄り掛つ】て念仏読経す。子[B ノ]
P06076
剋に及で眠切なるが故に、住房にかへ【帰つ】てうち−
ふす【臥す】。丑剋ばかりに、又先のごとくに浄衣装束
なる男二人来て、「はやはやまいら【参ら】るべし」とすすむる【勧むる】
あひだ、閻王宣を辞せんとすれば甚其恐あり【有り】、
参詣せんとすれば更に衣鉢なし。此おもひ【思ひ】を
なす時、法衣自然に身にまとて肩にかかり、
天より金の鉢くだる。二人の童子、二人の従僧、十人
の下僧、七宝の大車、寺坊の前に現ずる。尊恵
なのめならず悦て、即時に車にのる。従僧等
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西北の方にむか【向つ】て空をかけて、程なく閻魔王
宮にいたりぬ。王宮の体をみる【見る】に、外郭渺々
として、其内曠々たり。其内に七宝所成の
大極殿あり【有り】。高広金色にして、凡夫のほむる
ところ【所】にあらず。其日の法会をは【終つ】て後、請僧
みなかへる【帰る】時、尊恵南方の中門に立て、はるかに
大極殿を見わたせば、冥官冥衆みな閻魔法
王の御前にかしこまる。尊恵「ありがたき参詣也。
此次に後生の事尋申さん」とて、大極殿へ
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まいる【参る】。其間に二人の童子蓋をさし、二人の従
僧箱をもち、十人の下僧列をひいて、やうやう
あゆみ【歩み】ちかづく時、閻魔法王、冥官冥衆みなこと
ごとく【悉く】おり【降り】−むかふ【向ふ】。多聞・持国二人[B ノ]童子に現じ、薬王
菩薩・勇施菩薩二人の従僧に変ず。十羅刹女
十人の下僧に現じて、随逐[* 「随遂」と有るのを他本により訂正]給仕-し給へり。閻王問
てのたまは【宣は】-く、「余僧みな帰り-さん【去ん】ぬ。御房来事
いかん」。「後生の在所承はらん為也」。「ただし【但し】往生不往生は、
人の信不信にあり【有り】」と云々。閻王又冥官に勅て
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の給-く、「此御房の作善のふばこ【文箱】、南方の宝蔵に
あり【有り】。とり出して一生の行、化他の碑文みせ【見せ】奉れ」。
冥官承はて、南方の宝蔵にゆいて、一の文箱を
と【取つ】てまいり【参り】たり。良蓋をひらいて是をことごと
くよみ【読み】−きかす。尊恵悲歎啼泣−して、「ただ
願くは我を哀愍-して出離生死の方法を
をしへ【教へ】、証大菩提の直道をしめしたまへ【給へ】」。其時
閻王哀愍教化-して、種々の偈を誦す。冥
官筆を染て一々に是をかく。
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妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際 K052
閻王此偈を誦し-おはて、すなはち彼文を
尊恵に附属す。尊恵なのめならず悦て、「日本の
平大相国と申人、摂津国和多の御崎を点じて、
四面十余町に屋をつくり【作り】、けふの十万僧会の
ごとく、持経者をおほく【多く】■[*口+屈]請して、坊ごとに
一面に座につき説法読経丁寧に勤行を
いたされ候」と申ければ、閻王随喜感嘆-して、
P06081
「件の入道はただ人にあらず。慈恵僧正の化身
なり。天台の仏法護持のために日本に再誕す。
かるがゆへに、われ毎日に三度彼人を礼する
文あり【有り】。すなはち此文をも【持つ】て彼人にたて
まつる【奉る】べし」とて、
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最初将軍身 悪業衆生同利益 K053
尊恵是を給はて、大極殿の南方の中門を
いづる【出づる】時、官士等十人門外に立て車にのせ【乗せ】、
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前後にしたがふ。又空をかけて帰来る。夢の
心ち【心地】-していき【生き】出にけり。尊恵是をも【持つ】て西八
条へまいり【参り】、入道相国にまいらせ【参らせ】たりければ、なの
めならず悦てやうやう【様々】にもてなし、さまざまの
引出物共たう【賜う】で、その勧賞に律師になされ
けるとぞきこえ【聞え】し。さてこそ清盛公をば
『祇園女御』S0610
慈恵僧正の再誕也と、人しり【知り】てげれ。○又ある
人の申けるは、清盛は忠盛が子にはあらず、
まこと【誠】には白河院の皇子也。その【其の】故は、去る永久
P06083
の比ほひ、祇園女御と聞えしさいはひ人【幸人】
おはし【在し】ける。件の女房のすまひ所【住所】は、東山の麓、
祇園のほとりにてぞあり【有り】ける。白河院つねは
御幸なりけり。ある時殿上人一両人、北面少々
めし【召し】−具して、しのび【忍び】の御幸有しに、比はさ月【五月】
廿日-あまりのまだよひ【宵】の事なれば、目ざす
ともしらぬやみ【闇】ではあり【有り】、五月雨さへかきくらし、
まこと【誠】にいぶせかりけるに、件の女房の宿所
ちかく【近く】御堂あり【有り】。御堂のかたはら【傍】にひかりもの【光物】
P06084
いでき【出で来】たり。かしら【頭】はしろかね【銀】のはり【針】をみがき【磨き】
たてたる[* 「らる」と有るのを他本により訂正]やうにきらめき、左右の手とおぼし
きをさし-あげ【差し上げ】たるが、片手にはつち【槌】の−やうなる
ものをもち、片手にはひかる【光る】もの【物】をぞも【持つ】たり
ける。君も臣も「あなおそろし【恐ろし】。是はまこと【誠】の
鬼とおぼゆる【覚ゆる】。手にもて【持て】る物はきこゆる【聞ゆる】うちで【打出】
のこづち【小槌】なるべし。いかがせん」とさはが【騒が】せおはします
ところ【所】に、忠盛其比はいまだ北面の下臈で
供奉したりけるをめし【召し】て、「此中にはなんぢ【汝】ぞ
P06085
あるらん。あのものい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もとどめ【留め】なん
や」と仰ければ、忠盛かしこまり【畏まり】承はてゆき【行き】-
むかふ【向ふ】。内々おもひ【思ひ】けるは、「此もの、さしもたけき【猛き】
物とは見ず。きつね【狐】たぬき【狸】などにてぞある【有る】らん。
是をい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】たらんは、無下に
念なかるべし。いけどり【生捕り】にせん」とおも【思つ】てあゆみ【歩み】
よる。とばかりあてはさとひかり【光り】、とばかりあては
さとひかり、二三度しけるを、忠盛はしり【走り】−よ【寄つ】て、
むずとくむ【組む】。くま【組ま】れて、「こはいかに」とさはぐ【騒ぐ】。変
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化の−もの【物】にてはなかりけり。はや人にてぞあり【有り】
ける。其時上下手々に火をともひ【点い】て、是を
御らん【覧】じ−見給に、六十ばかりの法師也。たとへば、
御堂の承仕法師であり【有り】けるが、御あかし【燈】まいら
せ【参らせ】んとて、手瓶と−いふ物に油を入てもち、片手
にはかはらけ【土器】に火を入てぞも【持つ】たりける。雨は
ゐ【沃】にい【沃】てふる。ぬれ【濡れ】じとて、かしら【頭】にはこむぎ【小麦】の
わら【藁】を笠の−やうにひき【引き】−むすふ【結う】でかづひ【被い】たり。かはら
けの火にこむぎ【小麦】のわらかかやい【輝い】て、銀の針の−
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やうには見えけるなり。事の−体一々にあら
はれ【露はれ】ぬ。「これをい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】たらんは、
いかに念なからん。忠盛がふるまひ【振舞】-やうこそ思
慮ふかけれ。弓矢とる身はやさしかり」とて、
その勧賞にさしも御最愛ときこえ【聞え】し
祇園女御を、忠盛にこそたう【賜う】だりけれ。さてかの
女房、院の御子をはらみ【妊み】たてまつり【奉り】しかば、「うめ【産め】らん
子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が
子にして弓矢とる身にしたてよ【仕立てよ】」と仰けるに、
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すなはち男をうめり。此事奏聞せんとうかが
ひ【窺ひ】けれども【共】、しかる【然る】べき便宜もなかりけるに、
ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊
国いとが坂【糸鹿坂】と−いふ所に御輿かきすゑ【据ゑ】させ、しばらく
御休息有けり。やぶ【薮】にぬか子のいくらもあり【有り】
けるを、忠盛袖にもりいれ【入れ】て、御前へまいり【参り】、
いもが子ははう【這ふ】程にこそなりにけれ
と申たりければ、院やがて御心得あて、
ただもりとりてやしなひ【養ひ】にせよ W047
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とぞつけ【付け】させましましける。それよりしてこそ
我子とはもてなしけれ。此若君あまりに
夜なき【夜泣】をしたまひ【給ひ】ければ、院きこしめさ【聞し召さ】れて、
一首の御詠をあそばし【遊ばし】てくださ【下さ】れけり。
夜なき【夜泣】−すとただもりたてよ末の代に
きよく【清く】さかふる【盛ふる】こともこそあれ W048
さてこそ、清盛とはなのら【名乗ら】れけれ。十二の歳
兵衛[B ノ]佐になる。十八の歳四品-して四位の兵
衛佐と申しを、子細存知せぬ人は、「花族の人
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こそかふは」と申せば、鳥羽院しろしめさ【知ろし召さ】れて、
「清盛が花族は、人におとらじな」とぞ仰ける。昔も
天智天皇はらみたまへ【給へ】る女御を大織冠に
たまふとて、「此女御のうめ【産め】らん子、女子ならば
朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰
けるに、すなはち男をうみ給へり。多武峯の本願
定恵和尚是なり。上代にもかかるためし【例】あり【有り】
ければ、末代にも平大相国、まこと【誠】に白河院の御
子にておはしければにや、さばかりの天下の大事、
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都うつりなどいふたやすからぬ事-どもおもひ【思ひ】-
たた【立た】れけるにこそ。同閏[* 「潤」と有るのを他本により訂正]二月廿日、五条大納言国綱【*邦綱】
卿うせ【失せ】たまひ【給ひ】ぬ。平大相国とさしも契ふかう【深う】、心
ざしあさから【浅から】ざりし人なり。せめてのちぎり【契り】の
ふかさ【深さ】にや、同日に病-つい【付い】て、同月にぞうせ【失せ】られ
ける。此大納言と申は、兼資【*兼輔】の中納言より八代
の末葉、前[B ノ]右馬助守国【*盛国】が子也。蔵人にだになら【成ら】ず、
進士雑色とて候はれしが、近衛[B ノ]院御在位の
時、仁平の比ほひ、内裏に俄焼亡出きたり。
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主上南殿に出御有しかども【共】、近衛司一人も参ぜ
られず。あきれてたた【立た】せおはしましたるところ【所】に、
此国綱【*邦綱】腰輿をかか【舁か】せてまいり【参り】、「か様【斯様】の時は、かかる
御輿にこそめさ【召さ】れ候へ」と奏しければ、主上是に
めし【召し】て出御あり【有り】。「何ものぞ」と御尋有ければ、「進士の
雑色藤原国綱【*邦綱】」となのり【名乗り】申。「かかるさかざかしき
物こそあれ、めし【召し】−つかは【使は】るべし」と、其時の殿下、
法性寺殿へ仰合られければ、御領あまたたび【賜び】
などして、めし【召し】−つかは【使は】れける程に、おなじ御門の
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御代にやはた【八幡】へ行幸有しに、人丁が酒に酔
て水にたふれ【倒れ】−入、装束をぬらし、御神楽遅
々したりけるに、此国綱【*邦綱】「神妙にこそ候はねども【共】、
人丁が装束はもたせて候」とて、一くだりいだ
さ【出ださ】れたりければ、是をえ[B 「み」に「え」と傍書]て御神楽ととのへ【調へ】奏し
けり。程こそすこし【少し】おし【推し】-うつり【移り】たりけれども、
歌のこゑ【声】もすみのぼり【澄み上り】、舞の袖、拍子にあふ【合う】
ておもしろかりけり。物の身にしみて面白事は、
神も人もおなじ心也。むかし天の岩戸をおし【押し】-
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ひらか【開か】れけん神代のことわざまでも、今こそ
おぼしめし【思し召し】−しら【知ら】れけれ。やがて此国綱【*邦綱】の先祖に、
山陰中納言と−いふ人おはしき。其子に助務【*如無】僧
都とて、智恵才学身にあまり、浄行持律の
僧おはし【在し】けり。昌泰の比ほひ、寛平法皇大井河
へ御幸有しに、勧修寺の内大臣高藤公の御子、
泉の大将貞国、小蔵山【*小倉山】の嵐に烏帽子を河へ吹
入られ、袖にてもとどり【髻】をおさへ【抑へ】、せんかたなくて
た【立つ】たりけるに、此助務【*如無】僧都、三衣箱の中より
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烏帽子ひとつ【一つ】とり【取り】−出されたりけるとかや。かの僧
都は、父山陰[B ノ]中納言、太宰大弐になて鎮西へ
くだら【下ら】れ〔け〕る時、二歳なりしを、継母にくんで、あから
さまにいだく【抱く】やうにして海におとし【落し】入、ころさ【殺さ】んと
しけるを、しに【死に】にけるまこと【誠】の母、存生の時、かつら【桂】の
うかひ【鵜飼】が鵜の餌にせんとて、亀をと【取つ】てころ
さ【殺さ】んとしけるを、き【着】給へる小袖をぬぎ、亀にかへ【換へ】、
はなさ【放さ】れたりしが、其恩を報ぜんと、此きみ【君】おとし【落し】
入ける水のうへ【上】にうかれ【浮かれ】来て、甲にのせ【乗せ】てぞ
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たすけ【助け】たりける。それは上代の事なればいかが
有けん、末代に国綱【*邦綱】卿の高名ありがたかりし
事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺
殿かくれさせ給ひて後、入道相国存ずる旨あり【有り】
とて、此人にかたらひ【語らひ】より給へり。大福長者にて
おはしければ、何にてもかならず【必ず】毎日に一種を、
入道相国のもとへをくら【送ら】れけり。「現世のとくひ【得意】、
この人に過べからず」とて、子息一人養子にして、
清国となのら【名乗ら】せ、又入道相国の四男頭中将重衡は、
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かの大納言の聟になり、治承四年の五節は
福原にておこなはれけるに、殿上人、中宮の
御方へ推参あ[B ッ]【有つ】しが、或雲客の「竹湘浦に斑なり」
と−いふ朗詠をせられたりければ、此大納言立
聞-して、「あなあさまし、是は禁忌也とこそ
承はれ。かかる事きく【聞く】ともきかじ」とて、ぬきあし【抜足】-
してにげ【逃げ】−出られぬ。たとへば、此朗詠の心は、むかし【昔】
尭の-御門に二人の姫宮ましましき。姉をば
娥黄といひ、妹をば女英と−いふ。ともに舜の-御
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門の后也。舜の-御門かくれ給ひて、彼蒼梧の野
辺へをくり【送り】たてまつり【奉り】、煙となし奉る時、二人
のきさき【后】名残をおしみ【惜しみ】奉り、湘浦と−いふ所
までしたひ【慕ひ】つつなき【泣き】かなしみ給ひしに、その
涙岸の竹にかか【掛つ】て、まだら【斑】にぞそみ【染み】たりける。
其後もつねは彼所におはし【在し】て、瑟をひいてなぐ
さみ【慰さみ】たまへ【給へ】り。今かの所をみる【見る】なれば、岸の竹は
斑にてたて【立て】り。琴を調べし跡には雲たなびいて、
物あはれ【哀】なる心を、橘相公の賦に作れる也。此大納言は、
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させる文才詩歌うるはしうはおはせざりしか共、
かかるさかざかしき人にて、かやうO[BH の]事までも
聞とがめられけるにこそ。此人大納言まではおもひ【思ひ】
もよらざりしを、母うへ賀茂大明神に歩をは
こび、「ねがは【願は】くは我子の国綱【*邦綱】一日でもさぶらへ【候へ】、
蔵人頭へ【経】させ給へ」と、百日肝胆をくだひて
祈申されけるが、ある夜の夢に、びりやう【檳榔】の−
車をゐて来て、我家の車よせ【車寄せ】にたつ【立つ】と−
いふ夢をみ【見】て、是人にかたり給へば、「それは
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公卿の北方にならせ給べきにこそ」とあはせ【合はせ】たり
ければ、「我年すでに闌たり。今更さやうの
ふるまひ【振舞】あるべしとも【共】おぼえず」とのたまひ【宣ひ】けるが、
御子の国綱【*邦綱】、蔵人[B ノ]頭は事もよろし、正二位大
納言にあがり【上がり】給ふこそ目出けれ。同廿二日、法皇は
院の御所法住寺殿へ御幸なる。かの御所は去る
応保三年四月十五日につくり出されて、新比叡・
新熊野などもまぢかう勧請-し奉り、山水
木立にいたるまでおぼしめす【思し召す】ままなりしが、
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此二三年は平家の悪行によて御幸も
ならず。御所の破壊したるを修理-して、御幸
なし奉べきよし、前右大将宗盛卿奏せられたりければ、
「なん【何】のやう【様】もあるべからず。ただとうとう」とて
御幸なる。まづ故建春門院の御方を御らん【覧】ずれば、
岸の松、汀の柳、年へ【経】にけりとおぼえて、
木だかく【高く】なれるにつけても、太腋の芙蓉、
未央の柳、これにむかふ【向ふ】にいかん【如何】がなんだ【涙】すすま【進ま】
ざらん。彼南内西宮のむかしの跡、今こそおぼし
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めし【思し召し】−しられけれ。三月一日、南都の僧綱等
本官に覆して、末寺庄園もとの如く知行
すべきよし仰下さる。同三日、大仏殿作りはじめ
らる。事始の奉行には、蔵人左少弁行■【*行隆】とぞ
きこえ【聞え】し。此行■【*行隆】、先年やはた【八幡】へまいり【参り】、通夜
せられたりける夢に、御宝殿の内よりびんづら【鬢】
ゆうたる天童のいで【出で】て、「是は大菩薩の使なり。
大仏殿奉行の時は、是をもつべし」とて、
笏を給はると−いふ夢をみ【見】て、さめて後み【見】たま
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へ【給へ】ば、うつつ【現】にあり【有り】けり。「あなふしぎ【不思議】、当時何事あて
か大仏殿奉行にまいる【参る】べき」とて、懐中-して宿
所へ帰り、ふかう【深う】おさめ【収め】てをか【置か】れたりけるが、平家
の悪行に−よて南都炎上の間、此行■【*行隆】、弁の
なかにゑらば【選ば】れて、事始の奉行にまいら【参ら】れける
宿縁の程こそ目出けれ。同三月十日、美乃【*美濃】目代、
都へ早馬を−もて申けるは、東国源氏ども【共】
すでに尾張国までせめ【攻め】−のぼり【上り】、道をふさぎ、
人をとをさ【通さ】ぬよし申たりければ、やがて打手
P06104
をさし−つかはす【遣す】。大将軍には、左兵衛[B ノ]督知盛、左[B ノ]中
将清経、小松[B ノ]少将有盛、都合其勢三万余騎
で発向す。入道相国うせ【失せ】給て後、わづかに五旬を
だにも過ざるに、さこそみだれたる世といひながら、
あさましかりし事どもなり。源氏の方には、大将軍
十郎蔵人行家、兵衛[B ノ]佐のおとと【弟】卿公義円、都合
其勢六千余騎、尾張川をなかにへだてて、源平
両方に陣をとる。同十六日の夜半ばかり、源氏の
勢六千余騎河をわたひ【渡い】て、平家三万余騎が
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中へおめひ【喚い】てかけ入、明れば十七日、寅の剋
より矢合-して、夜の明までたたかう【戦ふ】に、平家
のかた【方】にはちともさはが【騒が】ず。「敵は川をわたひ【渡い】
たれば、馬もののぐ【物具】もみなぬれ【濡れ】たるぞ。それを
しるし【標】でうてや」とて、大勢のなかにとり【取り】こめ【籠め】
て、「あます【余す】な、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】たまへ【給へ】ば、源氏
の勢のこり【残り】−ずくなふ打-なされ、大将軍行家、
からき【辛き】命いき【生き】て、川よりひがし【東】へひき【引き】−しりぞく【退く】。
卿公義円はふか入【深入り】−してうた【討た】れにけり。平家やがて
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川をわたひ【渡い】て、源氏をお物射にい【射】てゆく。源氏
あそこここでかへし【返し】−あはせ【合はせ】かへし【返し】あはせ【合はせ】ふせき【防き】けれ共、
敵は大勢、みかた【御方】は無勢なり。かなふ【適ふ】べしとも
みえ【見え】ざりけり。「水駅をうしろにする事なかれ
とこそいふに、今度の源氏のはかりこと【策】おろか也」
とぞ人申ける。さる程に、大将軍十郎蔵人
行家、参河【*三河】国にうちこえ【越え】て、やはぎ河【矢作河】の橋
をひき【引き】、かいだて【掻楯】かひて待かけたり。平家やが
て押寄せめ【攻め】たまへ【給へ】ば、こらへ【耐へ】ずして、そこをも
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又せめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。平家やがてつづい【続い】てせめ【攻め】給はば、
三河・遠江の勢は随−つく【付く】べかりしに、大将軍左兵
衛督知盛いたはり【労はり】あて、参河【*三河】国より帰りのぼ
ら【上ら】る。今度もわづかに一陣を破るといへども【共】、
残党をせめ【攻め】ねば、しいだし【出し】たる事なきが如し。
平家は、去々年小松のおとど【大臣】薨ぜられぬ。今年又
入道相国うせ給ひぬ。運命の末になる事あら
はなりしかば、年来恩顧の輩の外は、随-つく
ものなかりけり。東国には草も木もみな源氏
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『嗄声』S0611
にぞなびき【靡き】ける。○さる程に、越後国の住人、城[B ノ]太郎
助長、越後守に任ずる朝恩のかたじけなさに、
木曾追討のために、都合[B 「都合」に「其勢イ」と傍書]三万余騎、同六月
十五日門出-して、あくる十六日の卯剋にすでに
う【打つ】−たた【立た】んとしけるに、夜半ばかり、俄に大風吹、大雨
くだり【下り】、雷おびたたしう【夥しう】なて、天霽て後、雲井に
大なる声のしはがれ【嗄れ】たるを−もて、「南閻浮提金銅
十六丈の盧遮那仏、やき【焼き】ほろぼし【亡ぼし】たてまつる【奉る】平家
のかたうど【方人】する物ここにあり【有り】。めし【召し】−とれ【捕れ】や」と、三声
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さけん【叫ん】でぞとをり【通り】ける。城太郎をはじめとして、
是をきくものみな身の毛よだちけり。郎等ども
「是程おそろしひ【恐ろしい】天の告の候に、ただ理をまげ
てとどまら【留まら】せ給へ」と申けれども【共】、「弓矢とる物の、
それによるべきやう【様】なし」とて、あくる十六日卯[B ノ]剋に
城をいで【出で】て、わづかに十余町ぞゆい【行い】たりける。黒雲
一むら【群】立来て、助長がうへ【上】におほふ【覆ふ】とこそみえ【見え】けれ、
俄に身すくみ【竦み】心ほれて落馬-してげり。輿に
かき−のせ【乗せ】、館へ帰り、うちふす事三時ばかりして
P06110
遂に死にけり。飛脚を−もて此由都へ申
たりければ、平家の人々大にさはが【騒が】れけり。
同七月十四日、改元あて養和と号す。其日
筑後守貞能、筑前・肥後両国を給はて、鎮西の
謀叛たいらげ【平げ】に西国へ発向す。其日又非常大
赦おこなはれて、去る治承三年にながされ給
ひし人々みなめし【召し】−かへさ【返さ】る。松殿[B ノ]入道殿下、備前国
より御上洛、太政大臣妙音院、尾張国よりのぼ
らせ給。按察大納言資方【*資賢】卿、信乃【*信濃】国より帰洛
P06111
とぞ聞えし。同廿八日、妙音院殿御院参。去る
長寛の帰洛には、御前の簀子にして、賀王〔恩〕・還
城楽をひか【弾か】せ給しに、養和の今の帰京には、
仙洞にして秋風楽をぞあそばし【遊ばし】ける。いづれも
いづれも風情おり【折】をおぼしめし【思し召し】よらせ給けん、御心の
程こそめでたけれ。按察大納言資方【*資賢】卿も其日
院参せらる。法王「いかにや、夢の−様にこそおぼし
めせ【思し召せ】。ならは【習は】ぬひな【鄙】のすまひ【住ひ】-して、詠曲なども
今はあとかた【跡形】あらじとおぼしめせ【思し召せ】ども【共】、今やう【今様】
P06112
一あらばや」と仰ければ、大納言拍子と【取つ】て、「信乃【*信濃】に
あん[* 「なん」と有るのを他本により訂正]なる木曾路川」と−いふ今やう【今様】を、是は見給ひ
たりしあひだ【間】、「信乃【*信濃】に有し木曾路川」とうたは【歌は】れ
『摸田河原合戦【*横田河原合戦】』S0612
けるぞ、時にと【取つ】ての高名なる。○八月七日、官の庁に
て大仁王会おこなはる。これは将門追討の例
とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、
くろがね【鉄】の鎧甲を伊勢大神宮へまいらせ【参らせ】らる。
勅使は祭主神祇の権大副大中臣定高【*定隆】、都を
たて近江国甲賀の駅よりやまひ【病ひ】つき、伊勢の-
P06113
離宮にして死にけり。謀反の輩調伏の為に、
五壇法承はておこなはれける降三世の大阿闍梨、
大行事の彼岸所にしてね死【寝死に】にし〔に〕【死に】ぬ。神明も
三宝も御納受なしと−いふ事いちしるし。又太
元【*大元帥】法承はて修せられける安祥寺の実玄阿闍
梨が御巻数を進たりけるを、披見せられければ、
平氏調伏のよし注進したりけるぞおそろしき【恐ろしき】。
「こはいかに」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。
当世の体をみ【見】候に、平家もぱら【専ら】朝敵とみえ【見え】
P06114
給へり。仍是を調伏す。何のとがや候べき」とぞ
申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か」と有しが、
大小事の怱劇にうちまぎれて、其後沙汰
もなかりけり。源氏の代となて後、鎌倉殿「神妙
也」と感じおぼしめし【思し召し】て、その勧賞に大僧正に
なされけるとぞ聞えし。同十二月廿四日、中宮院
号かうぶら【蒙ら】せ給ひて、建礼門院とぞ申ける。
主上いまだ幼主の御時、母后の院号是−はじめ
とぞうけたまはる【承る】。さる程に、養和も二年に成に
P06115
けり。二月廿一日、太白昴星ををかす。天文要録に
云、「太白昴星を侵せば、四夷おこる」といへり。又「将軍
勅命を蒙て、国のさかひ【境】をいづ【出づ】」とも【共】みえ【見え】たり。
三月十日、除目おこなはれて、平家の人々大略
官加階したまふ【給ふ】。四月十五日、前[B ノ]権少僧都顕真、
日吉[B ノ]社にして如法に法花経一万部転読する
事有けり。御結縁の為に法皇も御幸なる。
何ものの申出したりけるやらん、一院山門の大衆に
仰て、平家を追討せらるべしときこえ【聞え】し程に、
P06116
軍兵内裏へ参て四方の陣頭を警固す。
平氏の一類みな六波羅へ馳集る。本三位中将
重衡卿、法皇の御むかへに、其勢三千余騎で、日
吉の社へ参向す。山門に又聞えけるは、平家山
せめ【攻め】んとて、数百騎の勢を率して登山すと
聞えしかば、大衆みな東坂本におり下て、「こは
いかに」と僉議す。山上洛中の騒動なのめならず。
供奉の公卿殿上人色をうしなひ【失ひ】、北面のもの【者】のなかに
はあまりにあはて【慌て】さはひで、黄水つくものおほ
P06117
かり【多かり】けり。本三位中将重衡卿、穴太の辺にて
法皇むかへ【迎へ】-とり【取り】まいらせ【参らせ】て、還御なし奉り、「かく
のみあらんには、御物まうで【詣で】なども、今は御心にまか
す【委す】まじき事やらん」とぞ仰ける。まこと【誠】には、山門
大衆平家を追討せんと−いふ事もなし。平家山
せめ【攻め】んと−いふ事もなし。是跡形なき事共也。
「天魔のよくあれ【荒れ】たるにこそ」とぞ人申ける。同四月
廿日、臨時に廿二社に官幣あり【有り】。是は飢饉疾疫
に−よて也。五月廿四日、改元あて寿永と号す。
P06118
其日又越後国住人城の四郎助茂、越後守に
任ず。兄助長逝去の間、不吉也とて頻に辞し
申けれども【共】、勅命なればちから【力】不及。助茂を
長茂と改名す。同九月二日、城[B ノ]四郎長茂、木曾
追討の為に、越後・出羽、相津四郡の兵共を引
率-して、都合其勢四万余騎、木曾追討の為
に信濃国へ発向す。同九日、当国横田河原に
陣[* 「陳」と有るのを他本により訂正]をとる。木曾は依田城に有けるが、是をきひ【聞い】
て依田城をいで【出で】て、三千余騎で馳向。信乃【*信濃】源氏、
P06119
井上[B ノ]九郎光盛がはかり事【謀】に、にはかに赤旗を
七ながれ【流】つくり【作り】、三千余騎を七手にわかち、あそこ
の峯、ここの洞より、あかはた【赤旗】ども手々にさし-あげ【差し上げ】
てよせ【寄せ】ければ、城の四郎是をみ【見】て、「あはや、此国
にも平家のかたうど【方人】する人あり【有り】けりと、ちから【力】つき【付き】
ぬ」とて、いさみ【勇み】-ののしるところ【所】に、次第にちかう【近う】
成ければ、あひ図【合図】をさだめ【定め】て、七手がひとつ【一つ】に
なり、一度に時をどとぞ作ける。用意したる
白旗ざとさし-あげ【差し上げ】たり。越後の勢共是をみ【見】て、
P06120
「敵なん【何】十万騎有らん。いかがせん」といろ【色】をうしなひ【失ひ】、
あはて【慌て】ふためき、或は川にお【追つ】ぱめられ、或は悪所に
おひ−おとさ【落さ】れ、たすかるものはすくなう【少なう】、うた【討た】るるものぞ
おほかり【多かり】ける。城[B ノ]四郎がたのみ【頼み】−きたる越後の山の
太郎、相津の乗丹房などいふきこゆる【聞ゆる】兵共、そこ
にてみなうた【討た】れぬ。我身手おひ、からき【辛き】命いきつつ、
川につたうて越後国へ引−しりぞく【退く】。同十六日、都には
平家是をば事共したまは【給は】ず、前[B ノ]右大将宗盛卿、大納言
に還着-して、十月三日内大臣になり給ふ。同七日悦申
P06121
あり【有り】。当家の公卿十二人扈従せらる。蔵人[B ノ]頭以下の殿上
人十六人前駆-す。東国北国の源氏共蜂のごとくに
起あひ、ただ今【只今】都へせめ【攻め】のぼら【上ら】んとするに、かやう【斯様】に
浪のたつ【立つ】やらん、風の吹やらんもしら【知ら】ぬ体にて、花
やかなりし事共、中々いふ-かひ-なうぞみえ【見え】たり
ける。さる程に、寿永二年に成にけり。節会以下
常のごとし。内弁をば平家の内大臣宗盛公つとめ
らる。正月六日、主上朝覲の為に、院御所法住寺
殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲[B ノ]行幸、
P06122
其例とぞきこえ【聞え】し。二月廿二日、宗盛公従一位
し給ふ。やがて其日内大臣をば上表-せらる。兵乱-つつし
み【慎み】のゆへ【故】とぞきこえ【聞え】し。南都北嶺の大衆、熊野
金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に
いたるまで、一向平家をそむひて、源氏に心を
かよはし【通はし】ける。四方に宣旨をなしくだし、諸国に
院宣をつかはせ【遣せ】ども、院宣宣旨もみな平家の下
知とのみ心得て、したがひ【従ひ】つくものなかりけり。
P06123

平家物語巻第六

平家物語 高野本 巻第七

平家 七(表紙)
P07001
平家七之巻 目録
清水冠者  北国下向
竹生島詣  火打合戦
木曾願書  倶梨迦羅落
篠原合戦  真盛
玄房    木曾山門牒状
同返牒   平家山門連署
主上都落  維盛都落付聖主臨幸
忠度都落  経正都落付青山
P07002
一門都落  福原落
P07003
平家物語巻第七
『清水冠者』S0701
○寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者
義仲不快の事あり【有り】けり。兵衛佐木曾追
討の為に、其勢十万余騎で信濃国へ発
向す。木曾は依田の城にあり【有り】けるが、是をきい【聞い】
て依田の城を出て、信濃と越後の境、熊坂
山に陣をとる。兵衛佐は同き国善光寺に
着給ふ。木曾乳母子の今井四郎兼平を使
者で、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。「いかなる子細のあれば、
P07004
義仲うた【討た】むとはの給ふなるぞ。御辺は
東八ケ国をうちしたがへて、東海道より攻
のぼり、平家を追おとさ【落さ】むとし給ふなり。義
仲も東山・北陸両道をしたがへて、今一日も
さきに、平家を攻おとさ【落さ】むとする事でこそ
あれ。なんのゆへ【故】に御辺と義仲と中をたがふ【違う】
て、平家にわらは【笑は】れんとはおもふ【思ふ】べき。但十郎
蔵人殿こそ御辺をうらむる【恨むる】事ありとて、
義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげ
P07005
なうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、うち
つれ申たれ。またく義仲にをいては、御辺
に意趣おもひ【思ひ】奉らず」といひつかはす。兵衛佐
の返事には、「今こそさやうにはの給へ【宣へ】共、慥に
頼朝討べきよし、謀反のくはたて【企て】ありと
申者あり【有り】。それにはよるべからず」とて、土肥・梶原
をさきとして、既に討手をさしむけらるる
由聞えしかば、木曾真実意趣なき由を
あらはさむがために、嫡子清水冠者義重
P07006
とて、生年十一歳になる小冠者に、海野・
望月・諏方【*諏訪】・藤沢などいふ、聞ゆる兵共
をつけて、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。兵衛佐
「此上はまこと【誠】に意趣なかりけり。頼朝いまだ
成人の子をもたず。よしよし、さらば子にし申
さむ」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ
『北国下向』S0702
帰られけれ。○さる程に、木曾、東山・北陸両道を
したがへて、五万余騎の勢にて、既に京へ
せめ【攻め】のぼるよし聞えしかば、平家はこぞ【去年】より
P07007
して、「明年は馬の草がひ【草飼】について、いくさ【軍】
あるべし」と披露せられたりければ、山陰・
山陽・南海・西海の兵共、雲霞のごとくに
馳まいる【参る】。東山道は近江・美濃・飛弾の兵共
はまいり【参り】たれ共、東海道は遠江より東は
まいら【参ら】ず、西は皆まいり【参り】たり。北陸道は若狭
より北の兵共一人もまいら【参ら】ず。まづ木曾冠
者義仲を追討して、其後兵衛佐を討ん
とて、北陸道へ討手をつかはす。大将軍には
P07008
小松三位中将維盛・越前三位通盛・但馬守経
正・薩摩守忠教【*忠度】・三河守知教【*知度】・淡路守清房、
侍大将には越中前司盛俊・上総大夫判官忠綱・
飛弾大夫判官景高・高橋判官長綱・河内判官
秀国・武蔵三郎左衛門有国・越中次郎兵衛盛嗣・
上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清をさき【先】と
して、以上大将軍六人、しかる【然る】べき侍三百四十余
人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日
辰一点に都を立て、北国へこそおもむき【赴き】けれ。
P07009
かた道を給はてげれば、逢坂の関よりはじめ
て、路子にもてあふ権門勢家の正税、官物を
もおそれ【恐れ】ず、一々にみなうばひ【奪ひ】とり、志賀・辛崎・
三[B ツ]河尻[B 「九」に「尻」と傍書]・真野・高島・塩津・貝津の道のほとりを
次第に追補【*追捕】してとをり【通り】ければ、人民こらへ
『竹生島詣』S0703
ずして、山野にみな逃散す。○大将軍維盛・通
盛はすすみ給へ共、副将軍経正・忠度・知教【*知度】・清房
などは、いまだ近江国塩津・貝津にひかへたり。其
中にも、経正は詩歌管絃に長じ給へる人
P07010
なれば、かかるみだれの中にも心をすまし【澄まし】、湖の
はた【端】に打出て、遥に奥なる島を見わたし、供
に具せられたる藤兵衛有教をめし【召し】て、「あれ
をばいづくといふぞ」ととは【問は】れければ、「あれ
こそ聞え候竹生島にて候へ」と申。「げにさる
事あり【有り】。いざやまいら【参ら】ん」とて、藤兵衛有教、安
衛門守教以下、侍五六人めし【召し】具して、小舟に
のり、竹生島へぞわたられける。比は卯月
中の八日の事なれば、緑にみゆる梢には
P07011
春のなさけをのこすかとおぼえ、澗谷の鴬舌
声老て、初音ゆかしき郭公、おりしりがほ【折知顔】
につげわたる。松に藤なみさきかかつて
まことにおもしろかりければ、いそぎ舟よりおり、
岸にあが【上がつ】て、此島の景気を見給ふに、心も
詞もをよば【及ば】れず。彼秦皇、漢武、〔或〕童男丱女
をつかはし【遣し】、或方士をして不死の薬を尋ね
給ひしに、「蓬莱をみずは、いなや帰らじ」と
いて、徒に舟のうちにて老、天水茫々として
P07012
求事をえざりけん蓬莱洞の有様も、
かくやあり【有り】けむとぞみえ【見え】し。或経の中に、
「閻浮提のうちに湖あり、其中に金輪際より
おひ出たる水精輪の山あり【有り】。天女すむ所」と
いへり。則此島の事也。経正明神の御まへに
ついゐ給ひつつ、「夫大弁功徳天は往古の如
来、法身の大士也。弁才妙音二天の名は各別
なりといへ共、本地一体にして衆生を済度し
給ふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと
P07013
承はる。たのもしう【頼もしう】こそ候へ」とて、しばらく
法施まいらせ【参らせ】給ふに、やうやう日暮、ゐ待【居待】
の月さし出て、海上も照わたり、社壇も弥かか
やき【輝き】て、まこと【誠】に面白かりければ、常住の
僧共「きこゆる御事なり」とて、御琵琶を
まいらせ【参らせ】たりければ、経正是をひき【引き】給ふに、
上玄石上の秘曲には、宮のうちもすみわたり、
明神感応にたへ【堪へ】ずして、経正の袖のうへ【上】に
白竜現じてみえ【見え】給へり。忝くうれしさの
P07014
あまりに、なくなく【泣く泣く】かうぞ思ひつづけ給ふ。
千はやふる神にいのりのかなへ【適へ】ばや
しるくも色のあらはれ【現はれ】にける W049
されば怨敵を目前にたいらげ【平げ】、凶徒を只今
せめ【攻め】おとさ【落さ】む事の、疑なしと悦で、又舟に
『火打合戦』S0704
とりの【乗つ】て、竹生島をぞ出られける。○木曾
義仲身がらは信濃にありながら、越前国火
打が城をぞかまへける。彼城郭にこもる勢、
平泉寺長吏斎明威儀師・稲津新介・斎
P07015
藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓・土田・武部・
宮崎・石黒・入善・佐美を初として、六千余騎
こそこもりけれ。もとより究竟の城郭也。
盤石峙ちめぐて四方に峰をつらねたり。
山をうしろにし、山をまへにあつ。城郭の
前には能美河・新道河とて流たり。二の川
の落あひにおほ木【大木】をきてさかもぎ【逆茂木】にひき【引き】、
しがらみををびたたしう【夥しう】かきあげたれば、東
西の山の根に水さしこうで、水海にむかへ【向へ】るが
P07016
如し。影南山を浸して青して晃漾たり。
浪西日をしづめて紅にして隠淪たり。
彼無熱池の底には金銀の砂をしき、混明
池【*昆明池】の渚にはとくせい【徳政】の舟を浮べたり。此火
打が城のつき池【築池】には、堤をつき、水をにごし【濁し】
て、人の心をたぶらかす。舟なくしては輙
うわたすべき様なかりければ、平家の大勢
むかへ【向へ】の山に宿して、徒に日数ををくる【送る】。城
の内にあり【有り】ける平泉寺の長吏斎明威儀
P07017
師、平家に志ふかかり【深かり】ければ、山の根をまは
て、消息をかき【書き】、ひき目【蟇目】のなかに入て、忍や
かに平家の陣へぞ射入たる。「彼水うみは
往古の淵にあらず。一旦山河をせきあげて候。
夜に入足がろ【足軽】共をつかはし【遣し】て、しがらみをきり
おとさ【落さ】せ給へ。水は程なくおつべし。馬の
足きき【利き】よい所で候へば、いそぎわたさせ給へ。うし
ろ矢は射てまいらせ【参らせ】む。是は平泉寺の長吏
斎明威儀師が申状」とぞかい【書い】たりける。大将軍
P07018
大に悦、やがて足がる【足軽】共をつかはし【遣し】て柵を
きりおとす【落す】。緩うみえ【見え】つれども、げにも
山川なれば水は程なく落にけり。平家の
大勢、しばしの遅々にも及ばず、ざとわたす。
城の内の兵共、しばしささへてふせき【防き】けれ共、
敵は大勢也、みかた【味方】は無勢也ければ、かなう【叶ふ】
べしともみえ【見え】ざりけり。平泉寺長吏
斎明威儀師、平家について忠をいたす。
稲津新介・斎藤太・林六郎光明・富樫入道
P07019
仏誓、ここをば落て、猶平家をそむき、加賀
の国へ引退き、白山河内にひ【引つ】こもる。平家
やがて加賀に打越て、林・富樫が城郭二
ケ所焼はらふ。なに面をむかふ【向ふ】べしとも見え
ざりけり。ちかき【近き】宿々より飛脚をたてて、
此由都へ申たりければ、大臣殿以下残とど
まり給ふ一門の人々いさみ悦事なのめなら
ず。同五月八日、加賀国しの原【篠原】にて勢ぞろへ
あり【有り】。軍兵十万余騎を二手にわかて、大手
P07020
搦手へむかは【向は】れけり。大手の大将軍は小松三
位中将維盛・越前三位通盛、侍大将には越中
前司盛俊をはじめとして、都合其勢七万
余騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ
むかは【向は】れける。搦手の大将軍は薩摩守忠教【*忠度】・
参河【*三河】守知教【*知度】、侍大将には武蔵三郎左衛門
を先として、都合其勢三万余騎、能登越中
の境なるしほ【志保】の山へぞかかられける。木曾
は越後の国府にあり【有り】けるが、是をきいて
P07021
五万余騎で馳向ふ。わがいくさ【軍】の吉例なれば
とて七手に作る。まづ伯父の十郎蔵人
行家、一万騎でしほの手へぞ向ける。仁科・
高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手
にさしつかはす【遣す】。樋口次郎兼光・落合五郎
兼行、七千余騎で南黒坂へつかはし【遣し】けり。一
万[B 余]騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の
柳原、ぐみの木林にひきかくす【隠す】。今井四郎
兼平六千余騎で鷲の瀬を打わたし、ひの
P07022
宮林【日埜宮林】に陣をとる。木曾我身は一万余騎で
おやべ【小矢部】のわたりをして、砥浪山の北のはづ
『願書』S0705
れはにう【羽丹生】に陣をぞとたりける。○木曾の給ひ
けるは、「平家は定て大勢なれば、砥浪山
打越てひろみへ出て、かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】にて
ぞあらんずらむ。但かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】は勢の
多少による事也。大勢かさ【嵩】にかけてはあし
かり【悪しかり】なむ。まづ旗さし【旗差し】を先だてて白旗を
さしあげたらば、平家是をみ【見】て、「あはや
P07023
源氏の先陣はむかふ【向う】たるは。定て大勢
にてぞあるらん。左右なう広みへうち出
て、敵は案内者、我等は無案内也、とりこめ
られては叶まじ。此山は四方巖石であん
なれば、搦手O[BH へは]よもまはらじ。しばしおりゐて
馬やすめ【休め】ん」とて、山中にぞおりゐんず
らむ。其時義仲しばしあひしらふやうに
もてなして、日をまち【待ち】くらし、平家の大
勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ追おとさ【落さ】ふど思ふなり」
P07024
とて、まづ白旗三十ながれ先だてて、黒
坂のうへ【上】にぞうたて【打つ立て】たる。案のごとく、
平家是をみて、「あはや、源氏の先陣は
むかふ【向う】たるは。定て大勢なるらん。左右なふ
広みへ打出なば、敵は案内者、我等は無
案内なり、とりこめられてはあしかり【悪しかり】なん。
此山は四方巖石であんなり。搦手O[BH へは]よも
まはらじ。馬の草がひ【草飼】水便共によげ
なり。しばしおりゐて馬やすめ【休め】ん」とて、砥浪
P07025
山の山中、猿の馬場といふ所にぞおり
ゐたる。木曾は羽丹生に陣とて、四方を
きと見まはせば、夏山の嶺のみどりの
木の間より、あけ【朱】の玉墻ほのみえ【見え】て、かた
そぎ【片削】作りの社あり【有り】。前に鳥居ぞたたり
ける。木曾殿国の案内者をめし【召し】て、「あれは
いづれの宮と申ぞ。いかなる神を崇奉
ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の
御領で候」と申。木曾大に悦て、手書に
P07026
具せられたる大夫房覚明をめし【召し】て、「義
仲こそ幸に新やはた【新八幡】の御宝殿に近付
奉て、合戦をとげむとすれ。いかさまにも
今度のいくさ【軍】には相違なく勝ぬとおぼ
ゆる【覚ゆる】ぞ。さらんにとては、且は後代のため、且は
当時の祈祷にも、願書を一筆かいてま
いらせ【参らせ】ばやとおもふ【思ふ】はいかに」。覚明「尤然るべ
う候」とて、馬よりおりてかかんとす。覚明が
体たらく、かち【褐】の直垂に黒革威の鎧
P07027
きて、黒漆の太刀をはき、廿四さいたるくろ
ぼろ【黒母衣】の矢おひ【負ひ】、ぬりごめ藤【塗籠籐】の弓、脇には
さみ【鋏み】、甲をばぬぎ、たかひもにかけ、えびら
より小硯たたふ紙【畳紙】とり出し、木曾殿の
御前に畏て願書をかく。あぱれ文武二
道の達者かなとぞみえ【見え】たりける。此覚明
はもと儒家[* 「出家」と有るのを他本により訂正]の者也。蔵人道広とて、勧学
院にあり【有り】けるが、出家して最乗房信救と
ぞ名のりける。つねは南都へも通ひけり。
P07028
一とせ高倉宮の園城寺にいら【入ら】せ給ひし
時、牒状を山・奈良へつかはし【遣し】たりけるに、
南都の大衆返牒をば此信救にぞかかせ
たりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵
芥」とかいたりしを、太政入道大にいかて、「何条
其信救法師め【奴】が、浄海を平氏のぬかかす、
武家のちりあくたとかくべき様はいかに。
其法師めからめとて死罪におこなへ」との
給ふ間、南都をば逃て、北国へ落くだり【下り】、木曾
P07029
殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のりける。
其願書に云、帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝
廷の本主、累世明君の曩祖也。宝祚を守らん
がため、蒼生を利せむがために、三身の金容をあらはし、三所の権扉をおしひらき給へり。
爰に頃の年よりこのかた、平相国といふ者
あり【有り】。四海を管領して万民を悩乱せし
む。是既仏法の怨、王法の敵[* 左にの振り仮名]也。義仲いや
しくも弓馬の家に生れて、纔に箕裘の
P07030
塵をつぐ【継ぐ】。彼暴悪を案ずるに、思慮
を顧にあたはず。運を天道にまかせ【任せ】て、身を
国家になぐ。試に義兵をおこして、凶
器[* 「器」の左にの振り仮名]を退んとす。しかる【然る】を闘戦両家の陣を
あはすといへども、士卒いまだ一致の勇を
えざる間、区の心おそれ【恐れ】たる処に、今一陣旗
をあぐる戦場にして、忽に三所和光の
社壇を拝す。機感の純熟明かなり。凶徒
誅戮疑なし。歓喜[B ノ]涙こぼれて、渇仰
P07031
肝にそむ。就中に、曾祖父前陸奥守義
家[B ノ]朝臣、身を宗廟の氏族に帰附して、
名を八幡太郎と号せしよりこのかた、
其門葉たるもの【者】の、帰敬せずといふ事
なし。義仲其後胤として首を傾て
年久し。今此大功を発す事、たとへば
嬰児の貝をもて巨海を量り、蟷螂
が斧をいからかし【怒らかし】て隆車に向がごとし【如し】。
然ども国の為、君のためにしてこれを
P07032
発[* 「発」の左にの振り仮名]す。家のため、身のためにしてこれを
おこさ【起こさ】ず。心ざしの至、神感そらにあり【有り】。
憑哉、悦哉。伏願くは、冥顕威をくはへ、
霊神力をあはせ【合はせ】て、勝事を一時に決し、
怨を四方に退給へ。然則、丹祈冥慮に
かなひ【叶ひ】、見鑒【見鑑】加護をなすべくば、先一の
瑞相を見せしめ給へ。寿永二年五月
十一日源義仲敬白とかいて、我身を始
て十三人が、うは矢【上矢】[B ノ]かぶらをぬき、願書に
P07033
とりぐし【具し】て、大菩薩の御宝殿にぞ
おさめ【納め】ける。たのもしき【頼もしき】かな、大菩薩
真実の志ふたつ【二つ】なきをや遥に照覧
し給ひけん。雲のなかより山鳩三飛
来て、源氏の白旗の上に翩翻す。昔
神宮【*神功】皇后新羅を攻させ給ひしに、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】、異国のいくさ【軍】こ
はくして、既にかうとみえ【見え】し時、皇后
天に御祈誓ありしかば、霊鳩三飛
P07034
来て楯の面にあらはれ【現はれ】て、異国の
いくさ【軍】破にけり。又此人々の先祖、頼
義[* 左にの振り仮名]朝臣、貞任・宗任を攻給ひしにも、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】して、凶徒のいくさ【軍】
こはかりしかば、頼義朝臣敵の陣に
むか【向つ】て、「是はまたく私の火にはあらず、
神火なり」とて、火を放つ。風忽に
異賊の方へ吹おほひ【覆ひ】、貞任が館栗
屋川の城焼きぬ。其後いくさ【軍】破て、
P07035
貞任・宗任ほろびにき。木曾殿か様【斯様】の先蹤
を忘れ給はず、馬よりおり、甲をぬぎ、手水
うがいをして、いま霊鳩を拝し給ひけん
『倶利迦羅【*倶梨迦羅】落』S0706
心のうちこそたのもしけれ。○さるほど【程】に、源平
両方陣をあはす。陣のあはひわづかに三町
ばかりによせ【寄せ】あはせたり。源氏もすすまず、
平家もすすまず。勢兵十五騎、楯の面に
すすませて、十五騎がうは矢【上矢】の鏑を平
家の陣へぞ射入たる。平家又はかり事【謀】
P07036
とも【共】しら【知ら】ず、十五騎を出いて、十五の鏑を
射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、
平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす【返す】。五十
騎を出せば五十騎を出しあはせ【合はせ】、百騎を
出せば百騎を出しあはせ【合はせ】、両方百騎づつ
陣の面にすすんだり。互に勝負をせん
とはやり【逸り】けれ共、源氏の方よりせいし【制し】て
勝負をせさせず。源氏はか様【斯様】にして日
をくらし、平家の大勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ
P07037
追おとさ【落さ】ふどたばかりけるを、すこしも
さとらずして、ともにあひしらひ日をくら
す【暮す】こそはかなけれ。次第にくらふ【暗う】なりければ、
北南よりまはつる搦手の勢一万余騎、
くりから【倶利伽羅】の堂の辺にまはりあひ、えびらの
ほうだて【方立て】打たたき、時をどとぞつくり
ける。平家うしろをかへり見ければ、白旗
雲のごとくさしあげ【差し上げ】たり。「此山は四方巖
石であんなれば、搦手よもまはらじと
P07038
思つるに、こはいかに」とてさはぎ【騒ぎ】あへり。去
程に、木曾殿大手より時の声をぞ
あはせ【合はせ】給ふ。松長の柳原、ぐみの木林に
一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が
六千余騎でひの宮林【日埜宮林】にあり【有り】けるも、同
く時をぞつくりける。前後四万騎が
おめく【喚く】声、山も川もただ一度にくづるる
とこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第に
くらふ【暗う】はなる、前後より敵はせめ【攻め】来る、「きた
P07039
なしや、かへせかへせ」といふやからおほかり【多かり】
けれ共、大勢の傾たちぬるは、左右なふ
とてかへす【返す】事かたければ、倶梨迦羅が谷
へわれ先にとぞおとし【落し】ける。まさきにすす
む【進む】だる者がみえ【見え】ねば、「此谷の底に道のある
にこそ」とて、親おとせ【落せ】ば子もおとし【落し】、兄
おとせ【落せ】ば弟もつづく。主おとせ【落せ】ば家子郎
等おとし【落し】けり。馬には人、ひと【人】には馬、落かさ
なり落かさなり、さばかり深き谷一つを平家の
P07040
勢七万余騎でぞうめたりける。巖泉
血をながし、死骸岳をなせり。されば其
谷[B ノ]ほとりには、矢の穴刀の疵残て今に
ありとぞ承はる。平家の方にはむねと
たのま【頼ま】れたりける上総大夫判官忠綱・飛
弾大夫判官景高・河内判官秀国も此谷
にうづもれ【埋もれ】てうせにけり。備中国住人瀬尾
太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて
加賀国住人蔵光次郎成澄が手にかかて、いけ
P07041
どり【生捕り】にせらる。越前国火打が城にてかへり
忠【返り忠】したりける平泉寺の長吏斎明威儀
師もとらはれぬ。木曾殿、「あまりにくきに、
其法師をばまづきれ」とてきられにけり。
平氏[B ノ]大将維盛・通盛、けう[B 「けう」に「希有」と傍書]の命生て加賀
の国へ引退く。七万余騎がなかよりわづかに
二千余騎ぞのがれ【逃れ】たりける。明る十二日、奥の
秀衡がもとより木曾殿へ竜蹄二疋奉る。
一疋はくろ月毛、一疋はれんぜんあしげなり。
P07042
やがて是に鏡鞍をい【置い】て、白山の社へ神馬
にたてられけり。木曾殿の給ひけるは、
「今はおもふ【思ふ】事なし。但十郎蔵人殿の志保
のいくさ【軍】こそおぼつかなけれ。いざゆい【行い】て
見む」とて、四万余騎〔が中より〕馬や人をすぐて、二万
余騎で馳むかふ【向ふ】。ひび[B みイ]の湊をわたさんとする
に、折節塩みちて、ふかさ【深さ】あささをしら【知ら】ざり
ければ、鞍をき馬【鞍置き馬】十疋ばかりをひ【追ひ】入たり。
鞍爪ひたる【浸る】程に、相違なくむかひ【向ひ】の岸へ
P07043
着にけり。「浅かりけるぞや、わたせ【渡せ】や」とて、二
万余騎の大勢皆打入てわたしけり。案
のごとく十郎蔵人行家、散々にかけなされ、
ひき【引き】退いて馬の息休る処に、木曾殿「され
ばこそ」とて、荒手二万余騎入かへて、平
家三万余騎が中へおめい【喚い】てかけ入、もみに
もふで火出るほど【程】にぞ攻たりける。平家の
兵共しばしささへて防きけれ共、こらへずし
てそこをも遂に攻おとさ【落さ】る。平家の方には、
P07044
大将軍三河守知教【*知度】うた【討た】れ給ひぬ。是は入
道相国の末子也。侍共おほく【多く】ほろびにけり。
木曾殿は志保の山打こえて、能登の
『篠原合戦』S0707
小田中、新王の塚の前に陣をとる。○そこ
にて諸社へ神領をよせられけり。白山へは
横江・宮丸、すがう【菅生】の社へはのみ【能美】の庄、多田の
八幡へはてう屋【蝶屋】の庄、気比の社へははん原【飯原】
の庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷
をよせられけり。一とせ石橋の合戦の時、
P07045
兵衛佐殿射たてま【奉つ】し者ども【共】都へにげのぼ【上つ】
て、平家の方にぞ候ける。むねとの者には
俣野五郎景久・長井斎藤別当実守【*実盛】・
伊藤【*伊東】九郎助氏【*祐氏】・浮巣三郎重親・ましも【真下】の四郎
重直、是等はしばらくいくさ【軍】のあらんまでやす
まんとて、日ごとによりあひよりあひ、巡酒をして
ぞなぐさみ【慰さみ】ける。まづ実守【*実盛】が許によりあひ
たりける時、斎藤別当申けるは、「倩此世中の
有様をみる【見る】に、源氏の御方はつよく、平家
P07046
の御方はまけ色【負色】にみえ【見え】させ給ひけり。いざ
をのをの【各々】木曾殿へまいら【参ら】ふ」ど申ければ、みな
「さなう」と同じけり。次日又浮巣三郎が許
によりあひたりける時、斎藤別当「さても
昨日申し事はいかに、をのをの【各々】」。そのなかに俣野
五郎すすみ出て申けるは、「我等はさすが東
国では皆、人にしられて名ある者でこそ
あれ、吉についてあなたへまいり【参り】、こなたへ
まいら【参ら】ふ事もみ【見】ぐるしかる【苦しかる】べし。人をば
P07047
しり【知り】まいらせ【参らせ】ず、景久にをいては平家の
御方にていかにもならふ」ど申ければ、斎藤
別当あざわら【笑つ】て、「まこと【誠】には、をのをの【各々】の
御心どもをかなびき奉らんとてこそ申
たれ。其上さねもり【実盛】は今度のいくさ【軍】に討死
せふど思きて候ぞ。二たび【二度】都へまいる【参る】まじ
き由人々にも申をい【置い】たり。大臣殿へも此
やうを申上て候ぞ」といひければ、みな人
此儀にぞ同じける。さればその約束をたが
P07048
へ【違へ】じとや、当座にありしものども【者共】、一人も残
らず北国にて皆死にけるこそむざん
なれ。さる程に、平家は人馬のいきをやす
め【休め】て、加賀国しの原【篠原】に陣をとる。同五月
廿一日の辰の一点に、木曾しの原【篠原】におし【押し】
よせ【寄せ】て時をどとつくる。平家の方には
畠山庄司重能・小山田の別当有重、去る治
承より今までめし【召し】こめられたりしを、
「汝等はふるい【古い】者共也。いくさ【軍】の様をもをき
P07049
てよ【掟てよ】」とて、北国へむけられたり。是等兄弟
三百余騎で陣のおもてにすすんだり。
源氏の方より今井四郎兼平三百余騎
でうちむかふ【向ふ】。畠山、今井四郎、はじめは互に
五騎十騎づつ出しあはせ【合はせ】て勝負をせさ
せ、後には両方乱あふ【逢う】てぞたたかひ【戦ひ】ける。
五月廿一日の午剋、草もゆるがず照す日に、
我をとらじとたたかへば、遍身より汗
出て水をながすに異ならず。今井が方にも
P07050
兵おほく【多く】ほろびにけり。畠山、家子郎等
残ずくなに討なされ、力をよば【及ば】でひき【引き】
しりぞく【退く】。次平家のかた【方】より高橋判官
長綱、五百余騎ですすむ【進む】だり。木曾殿の
方より樋口次郎兼光・おちあひの五郎兼
行、三百余騎で馳向ふ。しばしささへて
たたかひ【戦ひ】けるが、高橋が勢は国々のかり武者【駆武者】
なれば、一騎もおち【落ち】あはず、われさき【先】にとこそ
おちゆき【落ち行き】けれ。高橋心はたけくおもへ【思へ】共、うしろ
P07051
あばらになりければ、力及ばで引退く。
ただ一騎落て行ところ【所】に、越中国の
住人入善の小太郎行重、よい敵と目をかけ、
鞭あぶみをあはせ【合はせ】て馳来り、おしならべて
むずとくむ。高橋、入善をつかうで、鞍の前
輪におしつけ、「わ君はなにもの【何者】ぞ、名のれ
きかふ」どいひければ、「越中国の住人、入善小太
郎行重、生年十八歳」となのる【名乗る】。「あなむざん、
去年をくれ【遅れ】し長綱が子も、ことしはあらば
P07052
十八歳ぞかし。わ君ねぢきてすつべけれ共、
たすけ【助け】ん」とてゆるしけり。わが身も馬
よりおり、「しばらくみかた【味方】の勢またん」とて
やすみゐたり。入善「われをばたすけ【助け】たれ共、
あぱれ敵や、いかにもしてうたばや」と思ひ
居たる処に、高橋うちとけて物語しけり。
入善すぐれ【勝れ】たるはやわざのおのこ【男】で、刀を
ぬき、とんでかかり、高橋がうちかぶとを二
刀さす。さる程に、入善が郎等三騎、をくれ【遅れ】
P07053
ばせ【馳】に来ておち【落ち】あふたり。高橋心はたけくおもへ【思へ】ども、運やつきにけん、敵はあまたあり、
いた手【痛手】はおふ【負う】つ、そこにて遂にうた【討た】れにけり。
又平家のかたより武蔵三郎左衛門有国、三
百騎ばかりでおめい【喚い】てかく。源氏の方より
仁科・高梨・山田次郎、五百余騎で馳むかふ【向ふ】。
しばしささへてたたかひ【戦ひ】けるが、有国が方の
勢おほく【多く】うた【討た】れぬ。有国ふか入【深入り】してたたかふ【戦ふ】
ほど【程】に、矢だね皆い【射】つくして、馬をもい【射】させ、
P07054
かちだちになり、うち物【打物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵あまたうちとり、矢七つ八い【射】たてられて、
立じににこそ死にけれ。大将か様【斯様】になり【成り】し
『真盛【*実盛】』S0708
かば、其勢みな【皆】落行ぬ。○又武蔵国の住人
長井斎藤別当実守【*実盛】、みかた【御方】は皆おち【落ち】ゆけ
共、ただ一騎かへしあはせ【合はせ】返しあはせ【合はせ】防
たたかふ【戦ふ】。存るむねあり【有り】ければ、赤地の錦
の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがた
うたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、
P07055
きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、滋藤の弓もて、連銭葦
毛なる馬にきぶくりん【黄覆輪】の鞍をい【置い】てぞ
の【乗つ】たりける。木曾殿の方より手塚の太郎
光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いか
なる人にて在せば、み方の御勢は皆落候
に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆう【優】
なれ。なのら【名乗ら】せ給へ」と詞をかけければ、「かういふ
わとのはた【誰】そ」。「信濃国の住人手塚太郎金
刺光盛」とこそなの【名乗つ】たれ。「さてはたがひによい敵
P07056
ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねが
あれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」とて
おしならぶる処に、手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に
はせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、
斎藤別当にむずとくむ。「あぱれ、をのれ【己】は
日本一の剛の者とぐんでうず【組んでうず】な、うれ」とて、とて
引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて
捨てげり。手塚太郎、郎等がうたるるをみて、
弓手にまはりあひ、鎧の草摺ひき【引き】あげて
P07057
二刀さし、よはる【弱る】処にくんでおつ。斎藤別当
こころ【心】はたけくおもへ【思へ】ども、いくさ【軍】にはしつかれ【疲れ】ぬ、
其上老武者ではあり、手塚が下になりに
けり。又手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に出できたるに
頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まい【参つ】て、「光盛
こそ奇異のくせ者【曲者】くんでう【打つ】て候へ。侍かと見
候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ
候つれども、終になのり【名乗り】候はず。声は坂東
P07058
声で候つる」と申せば、木曾殿「あぱれ、是は
斎藤別当であるごさんめれ。それならば
義仲が上野へこえたりし時、おさな目【幼目】に
み【見】しかば、しらがのかすを【糟尾】なりしぞ。いまは定而
白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろい
こそあやしけれ。樋口次郎はなれ【馴れ】あそでみ【見】
したるらん。樋口めせ」とてめされけり。樋口次郎
ただ一目みて、「あなむざんや、斎藤別当で
候けり」。木曾殿「それならば今は七十にも
P07059
あまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげ
のくろいはいかに」との給へ【宣へ】ば、樋口次郎涙を
はらはらとながひ【流い】て、「さ候へばそのやうを申あ
げうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ
候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの
詞をば、かねてつかひをく【置く】べきで候ける物
かな。斎藤別当、兼光にあふ【逢う】て、つねは物語に
仕候し。「六十にあまていくさ【軍】の陣へむかは【向は】ん
時は、びんぴげをくろう【黒う】染てわかやがふどおもふ【思ふ】
P07060
なり。其故は、わか殿原【若殿原】にあらそひてさき
をかけんもおとなげなし、又老武者とて
人のあなどらんも口惜かるべし」と申候しが、
まこと【誠】に染て候けるぞや。あらは【洗は】せて御らん
候へ」と申ければ、「さもあるらん」とて、あらはせ
て見給へば、白髪にこそ成にけれ。錦の
直垂をきたりける事は、斎藤別当、最後
のいとま申に大臣殿へまい【参つ】て申けるは、「さね
もり【実盛】が身ひとつ【一つ】の事では候はねども、一年東
P07061
国へむかひ【向ひ】候し時、水鳥の羽音におどろいて、
矢ひとつ【一つ】だにも射ずして、駿河のかん原【蒲原】より
にげのぼ【上つ】て候し事、老後の恥辱ただ此
事候。今度北国へむかひ【向ひ】ては、討死仕候べし。さ
らんにとては、実守【*実盛】もと越前国の者で候し
かども、近年御領につい【付い】て武蔵の長井に
居住せしめ候き。事の喩候ぞかし。古郷へ
は錦をきて帰れといふ事の候。錦の直
垂御ゆるし候へ」と申ければ、大臣殿「やさしう
P07062
申たる物かな」とて、錦の直垂を御免あり【有り】
けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は錦の
袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は其
名を北国の巷にあぐとかや。朽もせぬむな
しき【空しき】名のみとどめ【留め】をきて、かばねは越路
の末の塵となるこそかなしけれ。去四月十
七日、十万余騎にて都を立し事がらは、なに
面をむかふ【向ふ】べしともみえざりしに、今五月下
旬に帰りのぼるには、其勢わづかに二万余騎、
P07063
「流をつくしてすなどる時は、おほく【多く】のうを【魚】を
う【得】といへども、明年に魚なし。林をやいて
かる【狩る】時は、おほく【多く】のけだもの【獣】をう【得】といへども、
明年に獣なし。後を存じて少々はのこ
さるべかりける物を」と申人々もあり【有り】けると
『還亡』S0709
かや。○上総督忠清、飛弾督景家は、おととし入道
相国薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、
今度北国にて子ども皆亡びぬときいて
其おもひのつもりにや、つゐに【遂に】なげき死にぞ
P07064
しににける。是をはじめておやは子にをくれ、
婦は夫にわかれ、凡遠国近国もさこそあり
けめ、京中には家々に門戸を閉て、声々
に念仏申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事おびたたし【夥し】。六月
一日、蔵人右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣
親俊を殿上の下口へめし【召し】て、兵革しづまらば、
大神宮へ行幸なるべきよし仰下さる。大神
宮は高間[B ノ]原より天くだらせ給ひしを、崇神
天皇の御宇廿五年三月に、大和国笠縫の里
P07065
より伊勢国わたらひ【度会】の郡五十鈴の河上、
したつ石根【下津石根】に大宮柱をふとしきたて【太敷立て】、
祝そめたてま【奉つ】てよりこのかた、日本六十
余州、三千七百五十余社の、大小の神祇
冥道のなかには無双也。され共代々の御
門臨幸はなかりしに、奈良御門の御時、
左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合
の子、右近衛[B ノ]権少将兼太宰少弐藤原広
嗣といふ人あり【有り】けり。天平十五年十月、
P07066
肥前国松浦郡にして、数万の凶賊を
かたらて国家を既にあやぶめんとす。是
によて大野のあづま人を大将軍にて、
広嗣追討せられし時、はじめて大神宮
へ行幸なりけるとかや。其例とぞ聞えし。
彼広嗣は肥前の松浦より都へ一日におり
のぼる馬を持たりけり。追討せられし
時も、みかた【御方】の凶賊おち【落ち】ゆき、皆亡て後、
件の馬にうちの【乗つ】て、海中へ馳入けるとぞ
P07067
聞えし。その亡霊あれ【荒れ】て、おそろしき【恐ろしき】事
ども【共】おほかり【多かり】けるなかに、天平十六年
六月十八日、筑前国みかさ【見笠】の郡太宰府
の観世音寺、供養ぜられける導師には、
玄房僧正とぞきこえ【聞え】し。高座にのぼり、
敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、
雷ちおびたたしう【夥しう】鳴て、玄房の上に
おち【落ち】かかり、その首をとて雲のなかへぞ
入にける。広嗣調伏したりけるゆへ【故】とぞ
P07068
聞えし。彼僧正は、吉備大臣入唐の時あひ【相】
ともなて、法相宗わたしたりし人也。
唐人が玄房といふ名をわら【笑つ】て、「玄房とは
〔かへ【還つ】て〕ほろぶ【亡ぶ】といふ音あり【有り】。いか様にも帰朝の後
事にあふべき人なり」と相したりける
とかや。同天平十九年六月十八日、しやれかう
べ【髑髏】に玄房といふ銘をかいて、興福寺の庭
におとし【落し】、虚空に人ならば千人[B 「千」に「二三百イ」と傍書]ばかりが声
で、どとわらふ【笑ふ】事あり【有り】けり。興福寺は
P07069
法相宗の寺たるによて也。彼僧正の弟
子共是をとてつか【塚】をつき、其首をおさ
め【納め】て頭墓と名付て今にあり【有り】。是則
広嗣が霊のいたす【致す】ところ【所】なり。是によて
彼亡霊を崇られて、今松浦の鏡の宮と
号す。嵯峨皇帝の御時は、平城の先帝、
内侍のかみのすすめによて世をみだり給ひ
し時、その御祈の為に、御門第三皇女ゆう
ち【有智】内親王を賀茂の斎院にたてまいらせ【立て参らせ】
P07070
給ひけり。是斎院のはじめ也。朱雀院の
御宇には、将門・純友が兵乱によて、八幡の
臨時の祭をはじめらる。今度もかやう【斯様】の
例をもてさまざまの御祈共はじめられけり。
『木曾山門牒状』S0710
○木曾、越前の国府について、家子郎等めし【召し】
あつめ【集め】て評定す。「抑義仲近江国をへ
てこそ都へはいらむずるに、例の山僧共は
防事もやあらんずらん。かけ【駆け】破てとをら【通ら】ん
事はやすけれ共、平家こそ当時は仏法とも【共】
P07071
いはず、寺をほろぼし、僧をうしなひ【失ひ】、悪行を
ばいたせ、それを守護の為に上洛せんものが、
平家とひとつ【一つ】なればとて、山門の大衆にむ
か【向つ】ていくさ【軍】せん事、すこし【少し】もたがは【違は】ぬ二の
舞なるべし。是こそさすがやす大事【安大事】よ。いかが
せん」との給へ【宣へ】ば、手書に具せられたる大夫房
覚明申けるは、「山門の衆徒は三千人候。必ず
一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。
或は源氏につかんといふ衆徒も候らん、或は又
P07072
平家に同心せんといふ大衆も候らん。牒状を
つかはし【遣し】て御覧候へ。事のやう【様】返牒にみえ【見え】候
はんずらむ」と申ければ、「此儀尤しかる【然る】べし。
さらばかけ【書け】」とて、覚明に牒状かかせて、山門へ
をくる【送る】。其状に云、義仲倩平家の悪逆を
見るに、保元平治よりこのかた、ながく人臣の
礼をうしなふ【失ふ】。雖然、貴賎手をつかね、緇素
足をいただく。恣に帝位を進退し、あく【飽く】
まで国郡をりよ領【虜領】す。道理非理を論ぜず、
P07073
権門勢家を追補【*追捕】し、有財無財をいはず、
卿相侍臣を損亡す。其資財を奪取て
悉郎従にあたへ、彼庄園を没取して、
みだり
がはしく子孫にはぶく。就中に去治承三年
十一月、法皇を城南の離宮に移し奉る。
博陸を海城の絶域に流し奉る。衆庶物
いはず、道路目をもてす。しかのみならず、同四年
五月、二の宮の朱閣をかこみ奉り、九重の垢
塵をおどろかさしむ。爰に帝子非分の害
P07074
をのがれ【逃れ】んがために、ひそかに園城寺へ入御
の時、義仲先日に令旨を給るによて、鞭を
あげんとほする処に、怨敵巷にみちて予
参道をうしなふ。近境の源氏猶参候せず、況
や遠境においてをや。しかる【然る】を園城は分限
なきによて南都へおもむか【赴むか】しめ給ふ間、宇治
橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命を
かろんじ、義をおもんじて、一戦の功をはげま
すといへども、多勢のせめ【攻め】をまぬかれ【免かれ】ず、形骸
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を古岸の苔にさらし、性命を長河の浪に
ながす。令旨の趣肝に銘じ、同類のかなしみ
魂をけつ。是によて東国北国の源氏等をの
をの【各々】参洛を企て、平家をほろぼさんとほす。
義仲去じ年の秋、宿意を達せんが為に、
旗をあげ剣をとて信州を出し日、越後
の国の住人城四郎ながもち【長茂】、数万の軍兵
を率して発向せしむる間、当国横田川原
にして合戦す。義仲わづかに三千余騎を
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もて、彼数万の兵を破りおはぬ。風聞ひろ
きに及で、平氏の大将十万の軍士を率
して北陸に発向す。越州・賀州・砥浪・黒坂・塩
坂・篠原以下の城郭にして数ケ度合戦す。
策を惟幕の内にめぐらして、勝事を咫
尺のもとにえたり。しかる【然る】をうてば必ず伏し、
せむれば必ずくだる。秋の風の芭蕉を破に
異ならず、冬の霜の群葉をからす【枯らす】に同じ。
是ひとへに神明仏陀のたすけ【助け】也。更に義仲が
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武略にあらず。平氏敗北のうへ【上】は参洛を企る
者也。今叡岳の麓を過て洛陽の衢に
いる【入る】べし。此時にあたてひそかに疑貽【*疑殆】あり【有り】。抑天
台衆徒平家に同心歟、源氏に与力歟。若彼
悪徒をたすけ【助け】らるべくは、衆徒にむか【向つ】て合
戦すべし。若合戦をいたさば叡岳の滅亡踵
をめぐらすべからず。悲哉、平氏震襟【*宸襟】を悩し、
仏法をほろぼす間、悪逆をしづめんがために
義兵を発す処に、忽に三千の衆徒に向て
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不慮の合戦を致ん事を。痛哉、医王山王に
憚奉て、行程に遅留せしめば、朝廷緩
怠の臣として武略瑕瑾のそしりをのこ
さん事を。みだりがはしく進退に迷て案内
を啓する所也。乞願は三千の衆徒、神のため、〔仏のため、〕
国のため、君の為に、源氏に同心して凶徒を
誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪ず。義仲
恐惶謹言。寿永二年六月十日源義仲進上
『返牒』S0711
恵光坊律師御房とぞかい【書い】たりける。○案のごとく、
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山門の大衆此状を披見して、僉議まちまち
なり。或は源氏につかんといふ衆徒もあり、或は
又平家に同心せんといふ大衆もあり【有り】。おもひおもひ【思ひ思ひ】
異儀まちまち也。老僧共の僉議しけるは、「詮る
所、我等もぱら【専ら】金輪聖主天長地久と祈奉る。平
家は当代の御外戚、山門にをいて帰敬をいたさる。
されば今に至るまで彼繁昌を祈誓す。し
かりといへども、悪行法に過て万人是を背
く。討手を国々へつかはす【遣す】といへ共、かへて【却つて】異賊
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のためにほろぼさる。源氏は近年より
このかた、度々のいくさ【軍】に討勝て運命ひら
けんとす。なんぞ当山ひとり宿運つき
ぬる平家に同心して、運命ひらくる源
氏をそむかんや。すべからく平家値遇の儀
を翻して、源氏合力の心に住すべき」よし、一
味同心に僉議して、返牒ををくる【送る】。木曾殿
又家子郎等めし【召し】あつめ【集め】て、覚明に此返牒
をひらかせらる。六月十日の牒状、同十六日到
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来、披閲のところ【所】に数日の鬱念一時に
解散す。凡平家の悪逆累年に及で、
朝廷の騒動やむ時なし。事人口にあり、
異失するにあたはず。夫叡岳にいたては、
帝都東北の仁祠として、国家静謐の精
祈をいたす。しかる【然る】を一天久しく彼夭逆に
をかされて、四海鎮に其安全をえず。顕密
の法輪なきが如く、擁護の神威しばしば
すたる。爰貴下適累代武備の家に生て、
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幸に当時政善【*精撰】の仁たり。予奇謀をめぐ
らして忽に義兵をおこす。万死の命を
忘て一戦の功をたつ。其労いまだ両年を
すぎざるに其名既に四海にながる。我
山の衆徒、かつがつ以承悦す。国家のため、累家
のため、武功を感じ、武略を感ず。かくのごと
く【如く】ならば則山上の精祈むなしからざる事
を悦び、海内の恵護おこたりなき事をしん【知ん】
ぬ。自寺他寺、常住の仏法、本社末社、祭奠
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の神明、定て教法の二たび【二度】さかへ【栄え】ん事を悦び、
崇敬のふるきに服せん事を隨喜し給ふ
らむ。衆徒等が心中、只賢察をたれよ【垂れよ】。然則、
冥には十二神将、忝く医王善逝の使者と
して凶賊追討の勇士にあひくははり【加はり】、顕に
は三千の衆徒しばらく修学讃仰の勤
節を止て、悪侶治罰の官軍をたすけし
めん。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外に
払ひ、瑜伽三蜜【三密】の法雨は時俗を尭年の
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昔にかへさ【返さ】ん。衆儀かくの如し。倩是を察よ。
寿永二年七月二日大衆等とぞかいたりける。
『平家山門連署』S0712
○平家はこれをしら【知ら】ずして、「興福園城両寺は
鬱憤をふくめる折節なれば、かたらふとも【共】
よもなびかじ。当家はいまだ山門のためにあた
をむすばず、山門又当家のために不忠を存
ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を
かたらはばや」とて、一門の公卿十人、同心連署
の願書をかいて山門へ送る。其状に云、敬白、
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延暦寺をもて氏寺に准じ、日吉の社を
もて氏社として、一向天台の仏法を仰べ
き事。右当家一族の輩、殊に祈誓する事
あり【有り】。旨趣如何者、叡山は是桓武天皇の
御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教
法を此所にひろめ、遮那の大戒を其内に
伝てよりこのかた、専仏法繁昌の霊崛と
して、鎮護国家の道場にそなふ。方に今、
伊豆国の流人源頼朝、其身の咎を悔ず、
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かへて【却つて】朝憲を嘲る。しかのみならず奸謀
にくみして同心をいたす源氏等、義仲行家
以下党を結て数あり。隣境遠境数国を
掠領し、土宜土貢万物を押領す。これに
よて或は累代勲功の跡をおひ、或当時
弓馬の芸にまかせ【任せ】て、速に賊徒を追
討し、凶党を降伏すべき由、いやしくも勅
命をふくん【含ん】で、頻に征罰を企つ。爰に
魚鱗鶴翼の陣、官軍利をえず、聖謀
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先戟【*電戟】の威、逆類勝に乗に似たり。若神明仏
陀の加備にあらずは、争か反逆の凶乱をしづ
めん〔是を以て、一向天台之仏法に帰し、不退日吉の神恩を憑み奉る〕耳。何況や、忝く臣等が曩祖をおもへ【思へ】ば、
本願の余裔といつべし。弥崇重すべし、弥
恭敬すべし。自今以後山門に悦あらば一門
の悦とし、社家に憤あらば一家の憤とし
て、をのをの【各々】子孫に伝てながく失堕せじ。
藤氏は春日社興福寺をもて氏社氏寺
として、久しく法相大乗の宗を帰す。平氏は
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日吉社延暦寺をもて氏社氏寺として、まのあた
り円実頓悟の教に値遇せん。かれはむかし
のゆい跡【遺跡】[M 「ゆく跡」とあり「ゆく」をミセケチ「ユイ」と傍書]也、家のため、栄幸をおもふ【思ふ】。これは
今の精祈也、君のため、追罰をこふ【乞ふ】。仰願は、
山王七社王子眷属、東西満山護法聖衆、十二
上願日光月光、医王善逝、無二の丹誠を照
して唯一の玄応を垂給へ。然則じやぼう【邪謀】逆臣
の賊、手を君門につかね、暴逆残害の輩、
首を京土に伝ん。仍当家の公卿等、異口同音に
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雷をなして祈誓如件。従三位ぎやう【行】けん【兼】越
前守平朝臣通盛従三位行兼右近衛中将
平朝臣資盛正三位行左近衛権中将兼伊与【*伊予】
守平朝臣維盛正三位行左近衛中将兼播磨[* 「幡摩」と有るのを他本により訂正]守
平朝臣重衡正三位行右衛門督兼近江遠江守
平朝臣清宗参議正三位皇大后宮大夫兼修
理大夫加賀越中守平朝臣経盛従二位行中
納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛従
二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛正弐位
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行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛
従一位平朝臣宗盛寿永二年七月五日敬白と
ぞかかれたる。貫首是を憐み給ひて、左右
なふも披露せられず、十禅師の御殿にこめ
て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。はじ
めはありともみえ【見え】ざりし一首の歌、願書の
うは巻【上巻】にできたり。
たいらか【平か】に花さくやど【宿】も年ふれば
西へかたぶく月とこそなれ W050
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山王大師あはれみをたれ給ひ、三千の衆徒力
を合せよと也。されども年ごろ日比のふる
まひ【振舞】、神慮にもたがひ【違ひ】、人望にもそむきに
ければ、いのれどもかなは【叶は】ず、かたらへ共なびかざり
けり。大衆まこと【誠】に事の体をば憐みけれ共、
「既に源氏に同心の返牒ををくる【送る】。今又かろ
がろしく其儀をあらたむるにあたはず」とて、
『主上都落』S0713
是を許容する衆徒もなし。○同七月十四日、
肥後守貞能、鎮西の謀反たいらげ【平げ】て、菊池・原
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田・松浦党以下三千余騎をめし【召し】ぐし【具し】て上洛
す。鎮西は纔にたいらげ【平げ】ども、東国北国のいくさ【軍】
いかにもしづまらず。同廿二日の夜半ばかり、六
波羅の辺おびたたしう【夥しう】騒動す。馬に鞍をき【置き】
腹帯しめ、物共東西南北へはこびかくす。ただ
今敵のうち入さまなり。あけて後聞えしは、
美濃源氏佐渡衛門尉重貞といふ者あり、一とせ
保元の合戦の時、鎮西の八郎為朝がかた【方】の
いくさ【軍】にまけて、おちうとになたりしを、から
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めていだしたりし勧賞に、もとは兵衛尉
たりしが右衛門尉になりぬ。是によて一門
にはあたま【仇ま】れて平家にへつらひけるが、其
夜の夜半ばかり、六波羅に馳まい【参つ】て申ける
は、「木曾既に北国より五万余騎でせめ【攻め】の
ぼり、比叡山東坂本にみちみちて候。郎等に
楯の六郎親忠、手書に大夫房覚明、六千余
騎で天台山にきをひ【競ひ】のぼり、三千の衆徒皆
同心して唯今都へ攻入」よし申たりける故也。
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平家の人々大にさはい【騒い】で、方々へ討手をむ
けられけり。大将軍には、新中納言知盛卿、
本三位中将重衡卿、都合其勢三千余騎、
都を立てまづ山階に宿せらる。越前三位
通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋をかた
めらる。左馬頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、一千余騎
で淀路を守護せられけり。源氏の方には
十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入とも
聞えけり。陸奥新判官義康が子、矢田判官
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代義清、大江山をへて上洛すとも申あへり。
摂津国河内の源氏等、雲霞のごとく【如く】に同
都へみだれ入よし聞えしかば、平家の人々
「此上はただ一所でいかにもなり給へ」とて、
方々へむけられたる討手共、都へ皆よびかへ
さ【返さ】れけり。帝都名利地、鶏鳴て安き事なし。
おさまれ【納まれ】る世だにもかくのごとし【如し】。況や乱たる
世にをいてをや。吉野山の奥のおくへも
入なばやとはおぼしけれども、諸国