日本児童文庫
八犬伝物語
土田杏村訳
はしがき
『八犬伝(はつけんでん)』の本(ほん)の詳(くは)しい名前(なまへ)は、『南総里見(なんそうさとみ)八犬伝(はつけんでん)』と申(まを)します。徳川時代(とくがはじだい)の末頃(すゑごろ)に生(い)きてゐた滝沢馬琴(たきざはばきん)のかいた有名(ゆうめい)な小説(しようせつ)です。馬琴(ばきん)はその他(ほか)にも沢山(たくさん)の小説(しようせつ)を書(か)きましたが、この八犬伝(はつけんでん)がまづ最(もつと)も有名(ゆうめい)だといつてよろしいでせう。馬琴(ばきん)が四十八歳(しじゆうはつさい)の春(はる)にその第一冊目(だいゝつさつめ)を出(だ)し、それからずつと筆(ふで)をつゞけて七十五才(しちじゆうごさい)の時(とき)におしまひの本(ほん)を出(だ)しました。その間(あひだ)二十八年(にじゆうはちねん)かゝつてをりますが、これだけ長(なが)い年月(ねんげつ)の苦心(くしん)によつて出来上(できあが)つた小説(しようせつ)も珍(めづ)らしいでせう。だん/\おしまひに近(ちか)づく頃(ころ)馬琴(ばきん)の眼病(がんびよう)がひどくなり、つひには全(まつた)くの盲目(もうもく)になつて、自分(じぶん)で字(じ)をかくことも出来(でき)なくなりましたから、口(くち)でいひ息(むすこ)の嫁(よめ)に筆記(ひつき)させて、まだ小説(しようせつ)をつゞけてゐました。全体(ぜんたい)で百六冊(ひやくろくさつ)あり、大(たい)へんの大(おほ)きさです。おそらく私(わたし)のこの物語(ものがたり)の何十倍(なんじゆうばい)かあるでせう。その大(おほ)きな小説(しようせつ)の話(はなし)を、この一冊(いつさつ)に縮(ちゞ)めてかいてみました。
土田杏村
目次(もくじ)
八房(やつふさ)の手柄(てがら)………………………………………三
伏姫(ふせひめ)の死(し)……………………………………………一五
番作(ばんさく)と蟇六(ひきろく)…………………………………二二
村雨丸(むらさめまる)の銘刀(めいとう)…………………………二七
円塚山(まるづかやま)の寂寞道人(じやくまくどうじん)………三四
芳流閣上(ほうりゆうかくじよう)の捕(と)り物(もの)………………四六
胡那屋(こなや)の客人(きやくじん)………………………………五六
小文吾(こぶんご)の難儀(なんぎ)…………………………………六六
親兵衛(しんべえ)の神隠(かみかく)し……………………………八〇
庚申塚(こうしんづか)の四犬士(けんし)…………………………八八
刀(かたな)を売(う)る浪人(ろうにん)…………………………九九
犬山道節(いぬやまどうせつ)の復讐(ふくしゆう)……………一〇八
炉(ろ)を隔(へだ)てた敵(てき)………………………………一一三
音音(おとね)の茅屋(あばらや)…………………………………一二五
嵐山(あらしやま)の名笛(めいてき)……………………………一三七
馬加大記(まくはりだいき)…………………………………………一四六
対牛楼(たいぎゆうろう)の女田楽(をんなでんがく)…………一五三
庚申山(こうしんざん)にすむ魔物(まもの)……………………一六七
大角(だいかく)の山猫退治(やまねこたいじ)…………………一七九
指月院(しげついん)に籠(こも)る人々(ひと/゛\)………一九○
相模小僧(さがみこぞう)の勇戦(ゆうせん)……………………一九五
大樟樹(おほくすのき)の空洞(うろ)……………………………二〇六
伏姫(ふせひめ)に養(やしな)はれた神童(しんどう)………二一八
白川山(しらかはやま)の虎退治(とらたいじ)…………………二二七
里見家(さとみけ)の八犬士(はつけんし)………………………二四一
(扉)
八犬伝物語
(扉裏)
装 幀・恩地孝四郎
口絵挿絵・水島爾保布
八房(やつふさ)の手柄(てがら)
太平洋(たいへいよう)へ長(なが)く突(つ)き出(で)てゐる安房(あは)の国(くに)のとある海岸(かいがん)、そこへ落人(おちうど)をのせてよつて来(き)た一艘(いつそう)の小舟(こぶね)がある。
乗(の)つてゐる主従(しゆじゆう)三人(さんにん)。主人(しゆじん)の里見義実(さとみよしざね)はその頃(ころ)まだ又太郎(またたろう)御曹司(ごぞうし)とよばれてゐたが、父(ちゝ)の里見季基(さとみすゑもと)は、結城氏朝(ゆうきうぢとも)と共(とも)にその主(しゆ)鎌倉管領(かまくらかんりよう)足利持氏(あしかゞもちうぢ)の残(のこ)して置(お)いた子供(こども)、春王(はるおう)、安王(やすおう)を奉(ほう)じて結城城(ゆうきじよう)に立(た)て籠(こも)り、いさぎよいいくさをして、城(しろ)の落(お)ちる時(とき)に戦死(せんし)をしたのだ。又太郎義実(またたろうよしざね)は父(ちゝ)のかたいいひつけで、戦死(せんし)することをやめ、日頃(ひごろ)仕(つか)へて来(き)た老臣(ろうしん)の杉倉木曾介氏元(すぎくらきそのすけうぢもと)、堀内蔵人貞行(ほりうちくらんどさだゆき)だけを従(したが)へて、かこみを斬(き)りぬけ、舟(ふね)を見(み)つけ、こゝ安房(あは)の国(くに)へ遁(のが)れて来(き)たのだ。
その頃(ころ)安房(あは)の国(くに)には、三人(さんにん)ゐた領主(りようしゆ)の安西氏(あんさいうぢ)、麻呂氏(まろうぢ)、神余氏(じんようぢ)のうち、神余氏(じんようぢ)はその家来(けらい)のために打(う)ち滅(ほろぼ)されて、安西景連(あんさいかげつら)は館山(たてやま)の城(しろ)に、麻呂信時(まろのぶとき)は平館(ひらだて)の城(しろ)に領主(りようしゆ)となつてゐた。里見義実(さとみよしざね)は、ひとまづ安西景連(あんさいかげつら)を頼(たよ)つて行(ゆ)かうと思(おも)つた。景連(かげつら)は力(ちから)は強(つよ)いが、道理(どうり)のわからない領主(りようしゆ)である。欲張(よくば)り一方(いつぽう)の麻呂信時(まろのぶとき)と相談(さうだん)し、よい加減(かげん)に義実(よしざね)をあしらつて、
「この三日(みつか)の間(あひだ)に鯉(こひ)を釣(つ)つて来(く)るものならば、助(たす)けいくさをしよう」
などといふ。安房(あは)の国(くに)の川(かは)には、何故(なにゆゑ)か鯉(こひ)がすんでゐないのだ。
義実(よしざね)はそれでも釣(つ)りの道具(どうぐ)を持(も)つて、川(かは)のほとりで釣(つ)りをしてゐる。ふと見(み)ると、乞食(こじき)のようななりをした汚(きたな)い男(をとこ)が、唄(うた)をうたひながらふら/\とこちらへやつて来(き)た。唄(うた)をきけばどうやら自分(じぶん)のことをいつてゐるようだ。乞食(こじき)は義実(よしざね)の笠(かさ)を覗(のぞ)き込(こ)んで、
「殿(との)は何(なに)を釣(つ)らうと思(おぼ)し召(め)すか」
と問(と)ふ。
「や、鯉(こひ)をお釣(つ)りでござるか。鯉(こひ)は、安房(あは)の国(くに)の川(かは)にすむことが出来(でき)ぬと見(み)えますわい。いかに里見(さとみ)の御曹司(ごぞうし)でも、安房(あは)の国(くに)へまゐつては、身(み)を寄(よ)せる城(しろ)を持(も)たぬと同(おな)じことでございませうぞ」
と面白(おもしろ)そうに笑(わら)ふ。その言葉(ことば)に義実(よしざね)主従(しゆじゆう)は驚(おどろ)いて、油断(ゆだん)せず乞食(こじき)の方(ほう)を見(み)かへすと、乞食(こじき)は急(きゆう)にうしろへ下(さ)がり、土(つち)の上(うへ)に平伏(へいふく)して、
「然(しか)らばやはり里見(さとみ)の御曹司(ごぞうし)でございましたか。かく申(まを)す私(わたくし)は、神余光弘(じんよみつひろ)の家来(けらい)、金椀八郎孝吉(かなまりはちろうたかよし)と申(まを)すものでござります」
といふ。さて金椀(かなまり)ののべる話(はなし)は、次(つ)ぎのようなものであつた。
神余光弘(じんよみつひろ)は滝田(たきだ)の城(しろ)に住(す)み、安西(あんさい)、麻呂(まろ)と並(なら)んで安房(あは)の領主(りようしゆ)であつたが、わるい家来(けらい)の山下定包(やましたさだかね)を重(おも)く用(もち)ひた。定包(さだかね)は、主人(しゆじん)の光弘(みつひろ)のお側(そば)につかへてゐるわるい女(をんな)の玉梓(たまづさ)と相談(そうだん)をし、主人(しゆじん)を殺(ころ)し城(しろ)を奪(うば)はうとたくらんでゐた。その定包(さだかね)のわるいたくらみを知(し)り、定包(さだかね)を殺(ころ)さうと思(おも)つてゐる外(ほか)の家来(けらい)や百姓(ひやくしよう)もある。ある時(とき)定包(さだかね)は光弘(みつひろ)にすゝめて鷹狩(たかが)りに出(で)たが、途中(とちゆう)で自分(じぶん)の馬(うま)を主人(しゆじん)にすゝめる。馬(うま)をめあてに定包(さだかね)を殺(ころ)そうと思(おも)つてゐた忠義(ちゆうぎ)の百姓達(ひやくしようたち)は、間違(まちが)へて主人(しゆじん)の光弘(みつひろ)を殺(ころ)してしまつた。定包(さだかね)はそれをよいことにし、主人(しゆじん)の城(しろ)を奪(うば)ひ取(と)つて、自分(じぶん)が滝田(たきだ)の領主(りようしゆ)になり、玉梓(たまづさ)を奥方(おくがた)にしたのである。
金椀(かなまり)は、その殺(ころ)された神余(じんよ)の家来(けらい)である。金椀(かなまり)は義実(よしざね)にすゝめて定包(さだかね)を攻(せ)め、主人(しゆじん)の仇(あだ)をむくいたいと思(おも)ふのである。滝田(たきだ)の近(ちか)くには昔(むかし)の主人(しゆじん)の神余(じんよ)を慕(した)つてゐる百姓達(ひやくしようたち)もあるから、金椀(かなまり)はいろ/\と謀(はかりごと)を立(た)てゝ、その百姓達(ひやくしようたち)をあつめる。義実(よしざね)は大将(たいしよう)となつて、急(きゆう)に滝田(たきだ)の城(しろ)の分(わか)れである東条(とうじよう)の城(しろ)へ攻(せ)め寄(よ)せ、一晩(ひとばん)のうちに攻(せ)め取(と)つた。さて次(つ)ぎに定包(さだかね)の立(た)て籠(こも)つてゐる滝田(たきだ)の城(しろ)へ打(う)ち寄(よ)せ、これも相当(そうとう)に骨(ほね)を折(を)つて、攻(せ)め落(おと)してしまつた。
定包(さだかね)は自分(じぶん)の家来(けらい)に裏切(うらぎ)りせられ首(くび)を取(と)られたけれども、奥方(おくがた)の玉梓(たまづさ)は生(い)け捕(ど)りにせられた。玉梓(たまづさ)は金椀(かなまり)に頼(たの)んでいのち乞(ご)ひをした。
「もとより私(わたし)に罪(つみ)はございませうが、女(をんな)の私(わたし)を殺(ころ)して何(なん)のやくに立(た)ちませうぞ。許(ゆる)されさへすれば、私(わたし)は故郷(こきよう)へかへらうと思(おも)ひます」
と頼(たの)んだけれど、主人(しゆじん)の神余(じんよ)が滅(ほろ)ぼされたのも、もとはといへばこの女(をんな)の謀(はかりごと)からであつたとすれば、金椀(かなまり)は玉梓(たまづさ)を助(たす)ける気(き)になれない。義実(よしざね)に「ぜひぜひ」と申(まを)し上(あ)げて、玉梓(たまづさ)を殺(ころ)すことにした。玉梓(たまづさ)は、
「これほど頼(たの)んでもきかれないものならば、殺(ころ)しても見(み)よ。いづれ怨(うら)みは晴(は)らしませう」
と。ものすごい目(め)で義実(よしざね)や金椀(かなまり)をにらみながら、美(うつく)しい首(くび)を打(う)たれた。
義実(よしざね)は、今度(こんど)のいくさで手柄(てがら)のあつたものにそれ/゛\、褒美(ほうび)を取(と)らさうとする。なんとしても金椀(かなまり)の手柄(てがら)が第一(だいいち)である。その上(うへ)金椀(かなまり)は神余(じんよ)の家来(けらい)といふものゝ、もと/\神余(じんよ)の一族(いちぞく)でもある。この人(ひと)に誰(たれ)よりもあつい褒賞(ほうしよう)を与(あた)へようとすると、何(なに)を思(おも)つたか金椀(かなまり)はその褒賞(ほうしよう)を受(う)けようとしない。いや、それどころか、ふいに腰刀(こしがたな)をぬいて自分(じぶん)の腹(はら)へつき立(た)てた。
義実(よしざね)の家来(けらい)は驚(おどろ)いて金椀(かなまり)のまはりへかけつけ、切腹(せつぷく)をとゞめようとすると、
「いやこれには深(ふか)いわけがござる。定包(さだかね)を打(う)ち取(と)るつもりで、かへつて間違(まちが)つて主人(しゆじん)の神余(じんよ)を殺(ころ)したものは、この金椀(かなまり)の昔(むかし)の家来達(けらいたち)でござつた。その罪(つみ)を償(つぐな)ふためには、この金椀(かなまり)はこれで切腹(せつぷく)しなければなりませぬ」
といつて、刀(かたな)をなほも深(ふか)く突(つ)き立(た)てるのである。その時(とき)義実(よしざね)は、隣(とな)りの部屋(へや)から家来(けらい)に一人(ひとり)の子供(こども)をつれて来(こ)させた。
この子供(こども)は金椀(かなまり)の子(こ)であつた。金椀(かなまり)が自分(じぶん)の家(いへ)に仕(つか)へてゐた一作(いつさく)といふ仲間(ちゆうげん)の家(いへ)をたより、その一作(いつさく)の娘(むすめ)と夫婦(ふうふ)になつて住(す)んでゐた時(とき)に生(う)れたのが、この子供(こども)であつた。その後(ご)金椀(かなまり)は、主人(しゆじん)の讐(あだ)をむくいるために方々(ほう/゛\)をかけ廻(まは)つてゐたので、一作(いつさく)の家(いへ)へ帰(かへ)ることもない。今(いま)金椀(かなまり)が義実(よしざね)の助(たす)けで定包(さだかね)を攻(せ)め滅(ほろ)ぼしたことが一作(いつさく)の家(いへ)へも聞(きこ)えたので、その子(こ)をつれてたづねて来(き)たのだ。
義実(よしざね)は金椀(かなまり)に向(むか)ひ、
「金椀(かなまり)、そちの手柄(てがら)はそのまゝ子(こ)にゆづり、この子(こ)の大(おほ)きくなつた時(とき)に東条(とうじよう)の城(しろ)を譲(ゆづ)らうと思(おも)ふぞ。この子(こ)には金椀大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)といふ名(な)を義実(よしざね)がつけようと思(おも)ふ。そちは安心(あんしん)して死(し)ぬがよい」
といふ。金椀(かなまり)が息(いき)を引(ひ)き取(と)らうとする時(とき)、義実(よしざね)はさきに玉梓(たまづさ)の死(し)ぬときにいつた言葉(ことば)を思(おも)ひ合(あは)せてゐた。
滝田(たきだ)の城(しろ)が義実(よしざね)に攻(せ)め滅(ほろ)ぼされて間(ま)もなく、麻呂(まろ)の城(しろ)の平館(ひらだて)は安西(あんさい)に攻(せ)め滅(ほろ)ぼされ、今(いま)では安房(あは)には滝田(たきだ)の里見義実(さとみよしざね)と、館山(たてやま)の安西景連(あんさいかげつら)とだけが領主(りようしゆ)としてあるようになつた。
しばらく戦(いくさ)もなく、義実(よしざね)は上総椎津(かづさしひつ)の領主(りようしゆ)の息女(そくじよ)を奥方(おくがた)として迎(むか)へ、長女(ちようじよ)の伏姫(ふせひめ)を生(う)み、次(つ)ぎの年(とし)に男(をとこ)の子(こ)、二郎太郎(じろたろう)を生(う)んだ。二郎太郎(じろたろう)は、後(のち)に安房守義成(あはのかみよしなり)とよばれる人(ひと)である。
伏姫(ふせひめ)は生(うま)れて間(ま)もなく、夜(よる)も昼(ひる)も泣(な)いてゐてむづかしい子(こ)であつた。もう三歳(さんさい)になるけれど、ものをいはない。その頃(ころ)安房(あは)に州崎(すざき)の明神(みようじん)といふ社(やしろ)があつて、そのうしろに役(えん)の行者(ぎようじや)の石窟(いはや)があつた。義実(よしざね)の奥方(おくがた)はこの石窟(いはや)へ家来(けらい)を参詣(さんけい)にやつて、伏姫(ふせひめ)の立派(りつぱ)に成人(せいじん)することをお願(ねが)ひしてゐたが、ある日(ひ)伏姫(ふせひめ)は参詣(さんけい)の途中(とちゆう)で、八十(はちじゆう)ぐらゐの老人(ろうじん)に逢(あ)ひ、その老人(ろうじん)より水晶(すいしよう)の数珠(じゆず)を貰(もら)つた。
「この子(こ)は生(うま)れながらに不幸(ふこう)がつき纏(まと)つてゐるから、この数珠(じゆず)を取(と)らせよう。この子(こ)は不幸(ふこう)であるが、その後(ご)、この数珠(じゆず)の助(たす)けで、里見(さとみ)の家(いへ)にまた幸福(こうふく)が来(く)るであらう」
と老人(ろうじん)はいつて立(た)ち去(さ)る。役(えん)の行者(ぎようじや)が、この老人(ろうじん)の姿(すがた)を借(か)りて出現(しゆつげん)したのであらうか。数珠(じゆず)の八(や)つの大(おほ)きな玉(たま)には、一(ひと)つ一(ひと)つ仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)、忠(ちゆう)、信(しん)、孝(こう)、悌(てい)といふ立派(りつぱ)なわけのある言葉(ことば)の、一(ひと)つ一(ひと)つの文字(もんじ)が刻(きざ)まれてゐた。それより後(のち)伏姫(ふせひめ)は立派(りつぱ)に成人(せいじん)して、もう十一二歳(じゆういちにさい)になつた時(とき)には、日本(につぽん)や支那(しな)のむづかしい書物(しよもつ)などをさへ読(よ)むようになつた。
その頃(ころ)のことである。長狭郡(ながさごほり)の富山(とみやま)といふ山(やま)の麓(ふもと)に技平(わざへい)といふ百姓(ひやくしよう)がゐて、その家(いへ)の犬(いぬ)が牡(をす)の仔犬(こいぬ)を生(う)んだ。たゞ一匹(いつぴき)だけ生(うま)れた仔犬(こいぬ)であるから、からだも大(おほ)きく骨(ほね)もたくましい。七日(なぬか)ばかりたつた夜(よ)、狼(おほかみ)がはひつて来(き)て、その母犬(はゝいぬ)を喰(く)ひ殺(ころ)した。さて技平(わざへい)は野良(のら)の為事(しごと)に出(で)るので、食(た)べ物(もの)を与(あた)へることなども不便(ふべん)がちであるけれど、犬(いぬ)は餓(う)ゑた様子(ようす)もなくすく/\と大(おほ)きくなつて行(ゆ)く。これはたゞごとではないと、よく見(み)てゐると、夜(よる)滝田(たきだ)の方(ほう)から鬼火(おにび)のようなものが飛(と)んで来(き)て、さてそのあとで年(とし)のいつた狸(たぬき)が仔犬(こいぬ)のところへはひつて来(き)、仔犬(こいぬ)に乳(ちゝ)をやつてゐるのだ。仔犬(こいぬ)はこの狸(たぬき)を母(はゝ)にして、大(おほ)きく育(そだ)つて来(き)たのである。
このことがあたりの評判(ひようばん)になつてゐた。里見(さとみ)の老臣(ろうしん)の堀内貞行(ほりうちさだゆき)は、東条(とうじよう)の城(しろ)を守(まも)つてゐて、滝田(たきだ)の城(しろ)へまゐる途中(とちゆう)この話(はなし)を聞(き)き、珍(めづ)らしいことだと思(おも)ひ、義実(よしざね)へ申(まを)し上(あ)げた。義実(よしざね)は、「さうした強(つよ)い犬(いぬ)ならば、伏姫(ふせひめ)の番(ばん)をさせるに何(なに)よりよからう」と、技平(わざへい)にその犬(いぬ)を献上(けんじよう)させて、八房(やつふさ)といふ名(な)をつけ、寵愛(ちようあい)した。牡丹(ぼたん)の花(はな)に似(に)た毛色(けいろ)が美(うつく)しかつた。伏姫(ふせひめ)も昼(ひる)となく夜(よる)となく、その八房(やつふさ)をそばに置(お)いて寵愛(ちようあい)し、八房(やつふさ)と友達(ともだち)になり遊(あそ)びながら大(おほ)きくなつて行(い)つたのである。
館山(たてやま)の城主(じようしゆ)安西景連(あんさいかげつら)の領地(りようち)では、ある年(とし)不作(ふさく)で百姓達(ひやくしようたち)が苦(くる)しんだ。里見義実(さとみよしざね)は情深(なさけぶか)い領主(りようしゆ)であつたから、安西(あんさい)の百姓達(ひやくしようたち)の苦(くる)しんでゐるのを気(き)の毒(どく)に思(おも)ひ、米(こめ)五千俵(ごせんびよう)を安西(あんさい)に貸(か)してやつた。ところが次(つ)ぎの年(とし)には、安西(あんさい)の領地(りようち)では豊作(ほうさく)であるけれども、里見(さとみ)の領地(りようち)では大(たい)へんの不作(ふさく)である。義実(よしざね)は別段(べつだん)貸(か)した米(こめ)を催促(さいそく)するつもりはないけれど、安西(あんさい)が今度(こんど)は多少(たしよう)米(こめ)を貸(か)してくれないものでもないと思(おも)ひ、まだ二十歳(にじつさい)になつたばかりの金椀孝徳(かなまりたかのり)を使者(ししや)として、安西(あんさい)の城(しろ)へやり、そのことを頼(たの)んで見(み)ると、安西(あんさい)はこのをりに里見(さとみ)を打(う)ち滅(ほろ)ぼし安房(あは)一国(いつこく)を領地(りようち)にしようといふ悪(わる)い考(かんが)へを立(た)てゝ、金椀孝徳(かなまりたかのり)をそのまゝ俘虜(とりこ)にし、二千余騎(にせんよき)の軍勢(ぐんぜい)を集(あつ)めてふいに滝田(たきだ)の城(しろ)へ攻(せ)め寄(よ)せた。
金椀(かなまり)は俘虜(とりこ)になるような男(をとこ)でもないから、安西(あんさい)の城(しろ)を破(やぶ)つて外(そと)へ遁(のが)れ出(で)た。一方(いつぽう)滝田(たきだ)の城(しろ)では、安西(あんさい)にふいに攻(せ)められて城(しろ)を防(ふせ)ぐ準備(じゆんび)もなく、第一(だいゝち)不作(ふさく)のために兵糧(ひようろう)の支度(したく)が出来(でき)てゐないから、城兵(じようへい)はたべるものが十分(じゆうぶん)でなくて、このまゝでは城(しろ)は攻(せ)め落(おと)されるより外(ほか)に致(いた)し方(かた)がない。里見義実(さとみよしざね)も、もうこの上(うへ)は安西(あんさい)の軍勢(ぐんぜい)の中(なか)へ打(う)つて出(で)て、打(う)ち死(じ)にしようと決心(けつしん)した。
鎧(よろひ)をつけた義実(よしざね)がもう斬(き)り死(じ)にと覚悟(かくご)をした目(め)でふと前(まへ)を見(み)ると、愛犬(あいけん)の八房(やつふさ)が、これも心配(しんぱい)そうにそこにうづくまつてゐる。
「この八房(やつふさ)が敵(てき)の首(くび)を取(と)り得(う)るものならば、一同(いちどう)どんなにか悦(よろこ)ばしく思(おも)はうに。犬(いぬ)ながらも、手柄(てがら)は第一(だいゝち)として、望(のぞ)みのものを与(あた)へようぞ」
と冗談(じようだん)ながらに犬(いぬ)の頭(あたま)をなでると、犬(いぬ)は元気(げんき)そうに頭(あたま)をあげ、今(いま)にも敵陣(てきじん)へかけ出(だ)しそうである。
「八房(やつふさ)はなにが望(のぞ)みであるぞ。魚肉(ぎよにく)か。領地(りようち)か。息女(そくじよ)の伏姫(ふせひめ)かな」
と冗談(じようだん)ながらに犬(いぬ)の頭(あたま)をなでると、伏姫(ふせひめ)といふ時(とき)犬(いぬ)は嬉(うれ)しそうに尾(を)を振(ふ)つてゐる。
「さうか。八房(やつふさ)も伏姫(ふせひめ)の婿(むこ)になりたいと申(まを)すか。敵将(てきしよう)景連(かげつら)の首(くび)を取(と)つて来(く)るものならば、八房(やつふさ)でも伏姫(ふせひめ)の婿(むこ)にしてつかはさう」
と義実(よしざね)がいへば、八房(やつふさ)は一層(いつそう)元気(げんき)そうに尾(を)を振(ふ)つてゐる。
その夜(よ)義実(よしざね)は、士卒(しそつ)をあつめ、今宵限(こよひかぎ)りの別(わか)れに、酒(さけ)もない水(みづ)だけの酒盛(さかも)りを開(ひら)いてゐると、ふいに物(もの)すごい息(いき)を立(た)てゝ飛(と)び込(こ)んで来(き)たものがある。
「や、や、殿(との)。八房(やつふさ)が景連(かげつら)の首(くび)を取(と)つて来(き)ましたぞ」
と、驚(おどろ)きながらあげた家来(けらい)の声(こゑ)に、義実(よしざね)も目(め)をこらして見(み)れば、いかにも八房(やつふさ)の口(くち)には血(ち)まみれになつた敵将(てきしよう)の首(くび)がくはへられてゐる。その時(とき)敵陣(てきじん)の方(ほう)でも急(きゆう)に騒々(そう/゛\)しくなつて、大将(たいしよう)を失(うしな)つた安西(あんさい)の軍(ぐん)のうろたへる声(こゑ)が聞(きこ)える。義実(よしざね)は軍勢(ぐんぜい)を率(ひき)ゐて打(う)つて出(い)で、大将(たいしよう)のない安西(あんさい)の軍(ぐん)を縦横(じゆうおう)に斬(き)り立(た)て、大勝利(だいしようり)を占(し)めた。
伏姫(ふせひめ)の死(し)
安西(あんさい)が滅(ほろ)んで見(み)れば、安房(あは)一国(いつこく)は里見(さとみ)のものである。里見(さとみ)の家(いへ)は、これから万々歳(ばん/\ざい)といつてもよい。ところがその里見(さとみ)の家(いへ)にも一(ひと)つの難儀(なんぎ)が起(おこ)つてゐる。今度(こんど)のいくさに第一(だいゝち)の手柄(てがら)を立(た)てたものは、なんといつても八房(やつふさ)であるが、義実(よしざね)は八房(やつふさ)にいつた約束(やくそく)をどうするであらうか。義実(よしざね)は、手柄(てがら)を立(た)てた犬(いぬ)を大事(だいじ)に思(おも)ひ、犬養(いぬかひ)の役人(やくにん)までつけて可愛(かあい)がるけれども、八房(やつふさ)はそれでは少(すこ)しも嬉(うれ)しそうな顔(かほ)をしない。日(ひ)に日(ひ)に機嫌(きげん)をわるくして、家来(けらい)たちの手(て)にをへないあばれ方(かた)をするようになつた。ある日(ひ)家来(けらい)たちが八房(やつふさ)を追(お)つ立(た)てゝゐると、八房(やつふさ)はおこつた勢(いきほ)ひで伏姫(ふせひめ)の部屋(へや)へ走(はし)り込(こ)み、姫(ひめ)の袂(たもと)に脚(あし)をからみつかせて、恐(おそ)ろしい唸(うな)り声(ごゑ)を立(た)てゝゐる。義実(よしざね)もたまりかねて槍(やり)を持(も)ち出(だ)し、犬(いぬ)を突(つ)き殺(ころ)さうとすると、姫(ひめ)はそれを押(お)しとゞめ、
「たとひ冗談(じようだん)にもせよ約束(やくそく)をした上(うへ)は、それを守(まも)らねば、この上(うへ)いくさの指(さ)し図(ず)をすることも出来(でき)ないでございませう。わたしはもうかうした不運(ふうん)に生(うま)れついたものと思(おも)ひあきらめ、犬(いぬ)と一(いつ)しよに山(やま)へ遁(のが)れませう。父上(ちゝうへ)母上(はゝうへ)も思(おも)ひあきらめて下(くだ)さるように」
と願(ねが)つた。義実(よしざね)はさすがに返(かへ)す言葉(ことば)もない。伏姫(ふせひめ)は人々(ひと/゛\)の悲(かな)しみの眼(め)をあとにして、八房(やつふさ)に随(したが)ひ、静(しづ)かに城(しろ)を立(た)ち出(い)でる。城(しろ)もうしろに見(み)えなくなると、八房(やつふさ)は自分(じぶん)の背(せ)に姫(ひめ)をのせ、飛(と)ぶ鳥(とり)よりも速(はや)く走(はし)つて、富山(とみやま)の奥深(おくふか)く駈(か)けていつた。
義実(よしざね)夫婦(ふうふ)の心(こゝろ)には、姫(ひめ)を失(うしな)つたこの悲(かな)しさがいつまでも生(い)きてゐる。富山(とみやま)の奥(おく)へは、樵(きこり)や猟師(りようし)にも立(た)ち入(い)ることを固(かた)く禁(きん)じてしまつた。その富山(とみやま)には、人(ひと)の渡(わた)ることの出来(でき)ないといふ山川(やまかは)があつて、その向(むか)うには、樵(きこり)や猟師(りようし)もこれまではひつたことのない秘密(ひみつ)の場所(ばしよ)がある。伏姫(ふせひめ)はそこの石窟(いはや)を住(す)む場所(ばしよ)と定(さだ)め、あけくれお経(きよう)をよんでゐた。たゞ大事(だいじ)に思(おも)ふは、頸(くび)にかけた水晶(すいしよう)の数珠(じゆず)である。八房(やつふさ)もそのお経(きよう)を聞(き)くものゝように、行儀(ぎようぎ)よく姫(ひめ)の側(そば)に坐(すわ)つてゐた。かうして一年(いちねん)の月日(つきひ)がたつた。姫(ひめ)は近頃(ちかごろ)病気(びようき)になつてゐた。この上(うへ)は親(おや)にも逢(あ)はず、八房(やつふさ)と共(とも)に身(み)を山川(やまかは)へ投(な)げて死(し)なうと決心(けつしん)してゐるのである。
義実(よしざね)の奥方(おくがた)も同(おな)じ頃(ころ)病気(びようき)になつてゐた。この上(うへ)は伏姫(ふせひめ)に一目(ひとめ)逢(あ)つて死(し)にたいものと悲(かな)しんでゐた。義実(よしざね)は夢(ゆめ)に伏姫(ふせひめ)のようすやそこへ通(かよ)ふ山路(やまじ)を見(み)た。同(おな)じ時(とき)に、東条(とうじよう)の城(しろ)にゐた堀内貞行(ほりうちさだゆき)も、殿(との)に随(したが)つて富山(とみやま)へ入(い)る夢(ゆめ)を見(み)た。義実(よしざね)も今(いま)はひそかに伏姫(ふせひめ)を訪(たづ)ねて行(ゆ)く心(こゝろ)になつた。富山(とみやま)の麓(ふもと)の大山寺(おほやまでら)を参詣(さんけい)するといふことにして、貞行(さだゆき)だけを随(したが)へ、ひそかに富山(とみやま)の奥(おく)へ分(わ)け入(い)つた。
話(はなし)は前(まへ)へかへる。館山(たてやま)の安西(あんさい)へ米(こめ)を借(か)りに行(い)つた金椀大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)は、敵城(てきじよう)から危(あや)ふく遁(のが)れ出(で)たものゝ、安西(あんさい)の陣(じん)を突(つ)き破(やぶ)つて里見(さとみ)の城(しろ)へ帰(かへ)ることもならず、日(ひ)を過(すご)してゐるうちに、安西(あんさい)は打(う)ち滅(ほろ)ぼされてしまつた。金椀(かなまり)はおめ/\と里見(さとみ)の城(しろ)へ帰(かへ)ることもならず、一作(いつさく)の親戚(しんせき)の百姓(ひやくしよう)を頼(たよ)つて、そこに隠(かく)れてゐた。城(しろ)へ帰(かへ)るについては、お土産(みやげ)に何(なに)か一(ひと)つ手柄(てがら)を立(た)てなければならない。その時(とき)聞(き)いたのが伏姫(ふせひめ)の話(はなし)である。大輔(だいすけ)は鉄砲(てつぽう)を手(て)にして、富山(とみやま)の奥深(おくふか)く忍(しの)び入(い)つた。人(ひと)の渡(わた)れないといふ山川(やまかは)も、思(おも)ひの外(ほか)にたやすく渡(わた)れた。見(み)るとそこには伏姫(ふせひめ)が何(なに)か物(もの)を書(か)いてゐて、側(そば)にさびしく犬(いぬ)の八房(やつふさ)がうづくまつてゐる。大輔(だいすけ)は鉄砲(てつぽう)のねらひを定(さだ)めた。
「どーん」
山(やま)の霧(きり)を動(うご)かして一発(いつぱつ)の鉄砲(てつぽう)の音(おと)がした。その煙(けむ)りの中(なか)から大輔(だいすけ)は飛鳥(ひちよう)のようにかけて出(で)て、なほも鉄砲(てつぽう)で五六十(ごろくじゆう)八房(やつふさ)を打(う)ちたゝいた。八房(やつふさ)は憐(あは)れにも脚下(あしもと)に死(し)んでゐた。さて伏姫(ふせひめ)はと見返(みかへ)つた時(とき)に、大輔(だいすけ)は思(おも)はず声(こゑ)を立(た)てなければならなかつた。伏姫(ふせひめ)までが、さきの弾丸(たま)の余(あま)りに打(う)たれて死(し)に絶(た)えてゐるのだ。大輔(だいすけ)はいろ/\と介抱(かいほう)して見(み)るけれど、生(い)きかへらない。この上(うへ)は自分(じぶん)も腹(はら)かききつて殿(との)へのお詫(わ)びをしようと、刀(かたな)を抜(ぬ)き脇腹(わきばら)へ突(つ)き立(た)てようとした時(とき)に、ふいに持(も)つ手(て)がしびれて刀(かたな)を取(と)り落(おと)した。何人(なにびと)かの射(い)た矢(や)が、刀(かたな)を持(も)つ手(て)の臂(ひぢ)を射(い)かすつたのだ。
「大輔(だいすけ)しばらく待(ま)て。すべては見(み)てゐた」
といつて木陰(こかげ)から出(で)て来(き)たのは、貞行(さだゆき)を随(したが)へた殿(との)の義実(よしざね)である。大輔(だいすけ)は思(おも)はずその前(まへ)に平伏(へいふく)した。
「大輔(だいすけ)、姫(ひめ)も死(し)ぬ覚悟(かくご)でゐたことは、こゝに書(か)いてあるものでわかるぞ。それにしても可愛(かわい)そうなのは姫(ひめ)だ」
とおつしやつて、水晶(すいしよう)の数珠(じゆず)を押(お)し戴(いたゞ)き、伏姫(ふせひめ)を介抱(かいほう)するに、伏姫(ふせひめ)は僅(わづか)に息(いき)を吹(ふ)き返(かへ)した。伏姫(ふせひめ)はその苦(くる)しい息(いき)の中(なか)から、死(し)の覚悟(かくご)をしたこと、死後(しご)はこのまゝ富山(とみやま)に埋(う)めて貰(もら)ひたいことなどを遺言(ゆいごん)して、護(まも)り刀(がたな)を引(ひ)き抜(ぬ)き、腹(はら)へぐざと突(つ)き立(た)てると、不思議(ふしぎ)にもその瘡口(きずぐち)から白(しろ)い煙(けむ)りのようなものが立(た)ちのぼつて、姫(ひめ)の首(くび)にかけてゐた数珠(じゆず)を取(と)りつゝみ空中(くうちゆう)へのぼつたと見(み)る間(ま)に、数珠(じゆず)の糸(いと)はきれ、小(ちひ)さな珠(たま)は地上(ちじよう)へ落(お)ちて来(き)たけれども、大(おほ)きな八(やつ)つの珠(たま)だけはそのまゝ星(ほし)のような光(ひか)りを放(はな)つて、いづこへか飛(と)び去(さ)つてしまつた。義実(よしざね)主従(しゆじゆう)はまことに不思議(ふしぎ)の心(こゝろ)で、それを見送(みおく)つてゐた。
姫(ひめ)の息(いき)が絶(た)えた時(とき)に、大輔(だいすけ)はまたも刀(かたな)を取(と)つて腹(はら)に突(つ)き立(た)てようとする。義実(よしざね)は、
「その死(し)はならぬ。この身(み)がそちの身(み)のきまりをつけよう」
と、刀(かたな)を取(と)りうしろへ廻(まは)つて、大輔(だいすけ)の首(くび)を打(う)つかと見(み)れば、地上(ちじよう)に落(お)ちたものは大輔(だいすけ)の髪(かみ)であつた。
義実(よしざね)ははじめ伏姫(ふせひめ)を大輔(だいすけ)の妻(つま)にする考(かんが)へであつた。今(いま)はその大輔(だいすけ)に伏姫(ふせひめ)のあとを弔(とむら)はせようといふのである。髪(かみ)をきつた大輔(だいすけ)は、殿(との)の慈愛(じあい)に感謝(かんしや)しつゝ、その名(な)を丶大法師(ちゆだいほうし)と改(あらた)めた。犬(いぬ)といふ字(じ)を二字(にじ)に分(わ)けた名(な)である。丶大法師(ちゆだいほうし)は、飛(と)び去(さ)つた八(やつ)つの玉(たま)をさがしに出(で)かけることゝなつた。
伏姫(ふせひめ)はその石窟(いはや)に葬(はうむ)られた。八房(やつふさ)もその近傍(きんぼう)に葬(はうむ)られた。義実(よしざね)が山(やま)を下(くだ)る途中(とちゆう)で、奥方(おくがた)もまた病(やまひ)の床(とこ)に死(し)んだといふことをしらせる、いそぎの使(つか)ひに出(で)あはなければならなかつた。
番作(ばんさく)と墓六(ひきろく)
結城(ゆうき)の城(しろ)が落(お)ちた時(とき)、鎌倉管領(かまくらかんりよう)足利持氏(あしかゞもちうぢ)の遺(のこ)して置(お)いた二人(ふたり)の子(こ)、春王(はるおう)、安王(やすおう)は捕(とら)へられて、京都(きようと)の将軍(しようぐん)へおくられた。
持氏(もちうぢ)の近習(きんじゆ)に、大塚匠作(おほつかしようさく)三戍(みつもり)といふ武士(ぶし)がゐた。結城(ゆうき)の城(しろ)の戦(たゝか)ひではもちろん勇(いさ)ましく敵(てき)を防(ふせ)いでゐたけれども、主人(しゆじん)として奉(ほう)ずる春王(はるおう)、安王(やすおう)が捕虜(とりこ)になつた今(いま)は、京都(きようと)へ送(おく)られる途中(とちゆう)でなんとかしてこの二人(ふたり)を奪(うば)ひ取(と)らうと考(かんが)へた。今年(ことし)十六(じゆうろく)になつた子(こ)の番作(ばんさく)一戍(かずもり)を呼(よ)びよせ、
「父(ちゝ)はもはや老年(ろうねん)であるから、いかなる危険(きけん)をも冒(をか)して若君達(わかぎみ)のあとを追(お)はうと思(おも)ふ。この刀(かたな)は村雨(むらさめ)といつて、足利家(あしかゞ)に伝(つた)はつた大事(だいじ)な刀(かたな)であるが、今(いま)自分(じぶん)の手(て)にあるからそちに預(あづ)ける。主君(しゆくん)のあとをさがし求(もと)めて、この刀(かたな)を奉(たてまつ)り、持氏卿(もちうぢきよう)のあとを立(た)てるように。そちの母(はゝ)と姉(あね)の亀篠(かめざさ)は、武蔵(むさし)の大塚(おほつか)の知(し)り合(あ)ひの家(いへ)にあづけて置(お)いたから心配(しんぱい)はない。この遺言(ゆいごん)を決(けつ)して忘(わす)れるな」
といつて春王(はるおう)たちのあとを追(お)つていつた。宿々(しゆく/\)で奪(うば)ひ取(と)らうと思(おも)ふけれども、番(ばん)をしてゐるものにもいさゝかのすきもない。そのうちに京都(きようと)の将軍家(しようぐんけ)から使者(ししや)が来(き)て、春王(はるおう)、安王(やすおう)は美濃(みの)の国(くに)で首(くび)を打(う)たれ、首(くび)だけ京都(きようと)へ送(おく)られることになつた。今(いま)は匠作(しようさく)の苦心(くしん)もむだとなつた。
春王(はるおう)、安王(やすおう)の首(くび)が打(う)ち落(おと)されるのを見(み)た匠作(しようさく)は、大音(だいおん)をあげてその場(ば)へ斬(き)り込(こ)み、見(み)る間(ま)に首(くび)を打(う)つた男(をとこ)の首(くび)を打(う)ち落(おと)した。それを見(み)た敵(てき)の武士(ぶし)たちは、みな匠作(しようさく)を取(と)り囲(かこ)んで四方(しほう)より斬(き)りかけ、匠作(しようさく)も憐(あは)れにそこで打(う)ち死(じ)にしてしまつた。その時(とき)また見物(けんぶつ)の中(なか)から、大音(だいおん)をあげて斬(き)り込(こ)んで来(き)たものがある。それは匠作(しようさく)の子(こ)の番作(ばんさく)であつた。番作(ばんさく)は春王(はるおう)、安王(やすおう)の首(くび)の外(ほか)に父(ちゝ)匠作(しようさく)の首(くび)をも奪(うば)ひかへして、敵(てき)の激(はげ)しい刃(やいば)の下(した)を潜(くゞ)り、大勢(おほぜい)を斬(き)り伏(ふ)せ遁(のが)れて行(い)つた。
番作(ばんさく)は山寺(やまでら)に泊(とま)つて、そこで坊主(ぼうず)の姿(すがた)をした盗賊(とうぞく)を殺(ころ)し、盗賊(とうぞく)に捕(とら)へられてゐた女(をんな)を助(たす)けた。この女(をんな)の父(ちゝ)は、自分(じぶん)の父(ちゝ)の匠作(しようさく)とも親(した)しい友達(ともだち)であつた。番作(ばんさく)はその女(をんな)と結婚(けつこん)し、それから方々(ほう/゛\)を流浪(るろう)して歩(ある)いた。大塚(おほつか)と名乗(なの)つて敵(てき)に知(し)られることを恐(おそ)れ、大塚(おほつか)の大(おほ)の字(じ)に点(てん)を打(う)つて犬塚(いぬづか)と呼(よ)び、諸方(しよほう)に隠(かく)れ住(す)んでゐた。
管領(かんりよう)持氏(もちうぢ)には、春王(はるおう)、安王(やすおう)の外(ほか)になほ一人(ひとり)の子供(こども)が残(のこ)つてゐた。信濃(しなの)の国(くに)に遁(のが)れてゐたのを長尾判官昌賢(ながをはんがんまさかた)が聞(き)いて、諸将(しよしよう)と相談(そうだん)し、さがし出(だ)して鎌倉(かまくら)へ迎(むか)へ取(と)り、関東八州(かんとうはつしゆう)の主(あるじ)と仰(あふ)ぎ、成氏卿(しげうぢきよう)と申(まを)した。その後(ご)また鎌倉(かまくら)が乱(みだ)れて合戦(かつせん)が始(はじ)まり、成氏(しげうぢ)は下総(しもふさ)の滸我(こが)に遁(のが)れ滸我御所(こがごしよ)と申(まを)した。滸我御所(こがごしよ)は、昔(むかし)、父(ちゝ)の持氏(もちうぢ)についてゐた家来(けらい)たちを集(あつ)め寄(よ)せられてゐる。
大塚(おほつか)の地(ち)には、大塚匠作(おほつかしようさく)の子(こ)の亀篠(かめざさ)が匠作(しようさく)の妻(つま)と一(いつ)しよにかくれてゐた。亀篠(かめざさ)は番作(ばんさく)の姉(あね)である。けれども番作(ばんさく)とは違(ちが)ひ、心(こゝろ)の汚(きた)ない女(をんな)であつた。母(はゝ)が死(し)んだ後(のち)に、その近傍(きんぼう)にゐたごろつきのような男(をとこ)の蟇六(ひきろく)と結婚(けつこん)し、蟇六(ひきろく)は大塚(おほつか)の姓(せい)を名乗(なの)つて自分(じぶん)を大塚蟇六(おほつかひきろく)と呼(よ)んでゐた。滸我御所(こがごしよ)が昔(むかし)の家来(けらい)を探(さが)してゐることを聞(き)いて、訴(うつた)へて出(で)た。成氏(しげうぢ)はこんなごろつきを重(おも)く用(もち)ひるわけにはいかないが、父(ちゝ)匠作(しようさく)の手柄(てがら)を思(おも)ひ、村長(そんちよう)にして刀(かたな)をさすことを許(ゆる)し、広(ひろ)い土地(とち)を褒美(ほうび)に与(あた)へた。蟇六(ひきろく)は家(うち)を立派(りつぱ)にし人(ひと)をたくさんに使(つか)ひ、威張(いば)つてみたけれども、根(ね)が感心(かんしん)出来(でき)ない夫婦(ふうふ)であるから、誰(たれ)一人(ひとり)爪弾(つまはじ)きしないものはない。
諸方(しよほう)を流浪(るろう)してゐた忠臣(ちゆうしん)の番作(ばんさく)は、貧乏(びんぼう)の上(うへ)に病気(びようき)となり、大塚(おほつか)の地(ち)へ帰(かへ)つて来(き)た。見(み)れば姉(あね)の亀篠(かめざさ)が蟇六(ひきろく)などいふ男(をとこ)を婿(むこ)に迎(むか)へ大塚(おほつか)の姓(せい)を名乗(なの)つてゐる。けれども今更(いまさら)訴(うつた)へて出(で)て褒美(ほうび)を貰(もら)ふ考(かんが)へもない。あたりの人(ひと)は番作(ばんさく)を気(き)の毒(どく)がつて、蟇六(ひきろく)の向(むか)ひの家(いへ)が明(あ)いてゐるのを幸(さいは)ひ、そこに住(す)まはせてくれた。番作(ばんさく)はあたりの子供(こども)に手習(てなら)ひなど教(をし)へて、そこで月日(つきひ)を送(おく)つてゐた。
番作夫婦(ばんさくふうふ)は滝(たき)の川(かは)の弁才天(べんざいてん)にお参(まゐ)りをして、立派(りつぱ)な男(をとこ)の子(こ)を生(う)んだ。けれどもその前(まへ)に何人(なんにん)も男(をとこ)の子(こ)を死(し)なせた後(あと)であつたから、その子(こ)に女(をんな)の子(こ)の着物(きもの)を着(き)せ、名前(なまへ)も信乃(しの)とつけて、すべて女(をんな)の子(こ)のようにして育(そだ)て上(あ)げた。またこのお参(まゐ)りに行(ゆ)く途中(とちゆう)で、可愛(かわい)らしい狗(いぬ)の子(こ)が途(みち)に捨(す)てられてゐるのを拾(ひろ)つて帰(かへ)つたが、これも立派(りつぱ)な犬(いぬ)に育(そだ)つて行(ゆ)くから、それに与四郎(よしろう)といふ名前(なまへ)をつけ、信乃(しの)と一(いつ)しよに可愛(かあい)がつて育(そだ)てた。
蟇六(ひきろく)の家(うち)でも子供(こども)が生(うま)れない。仕方(しかた)がなく、綺麗(きれい)な女(をんな)の子(こ)を貰(もら)つて育(そだ)て上(あ)げた。犬(いぬ)を幾匹(いくひき)も飼(か)つて見(み)るけれど、みな与四郎(よしろう)に噛(か)みふせられ、殺(ころ)されたり片輪(かたわ)になつたりしたので、この上(うへ)は猫(ねこ)を育(そだ)てようと思(おも)ひ、牡猫(をねこ)を一匹(いつぴき)貰(もら)つて、これに紀二郎(きじろう)といふ名(な)をつけ可愛(かわい)がつて育(そだ)てた。番作(ばんさく)の子(こ)の信乃(しの)はやはり女(をんな)の着物(きもの)を着(き)、すべて女(をんな)の子(こ)のようにして育(そだ)てられた。けれどもすることがどこまでも勇(いさ)ましく、強(つよ)い犬(いぬ)の与四郎(よしろう)の背(せ)にまたがつて遊(あそ)んでいる。母親(はゝおや)は早(はや)く病気(びようき)で死(し)んで、父親(ちゝおや)と二人暮(ふたりぐ)らしになつてゐた。信乃(しの)は成人(せいじん)して、はや十一歳(じゆういつさい)になつた。
村雨丸(むらさめまる)の銘刀(めいとう)
番作(ばんさく)の近傍(きんぼう)に、糠助(ぬかすけ)といふ百姓(ひやくしよう)が住(す)んでゐる。ある日(ひ)蟇六(ひきろく)の家(いへ)の紀二郎猫(きじろうねこ)が、その糠助(ぬかすけ)の家(いへ)の屋根(やね)の上(うへ)で友猫(ともねこ)と喧嘩(けんか)をしてゐて、ころ/\と下(した)へ転(ころ)げ落(お)ちると、そこには与四郎犬(よしろういぬ)がゐて紀二郎猫(きじろうねこ)に飛(と)びつき、見(み)る間(ま)に紀二郎猫(きじろうねこ)を噛(か)みたふした。さあ大(たい)へんだ。日頃(ひごろ)から仲(なか)の悪(わる)い番作(ばんさく)と蟇六(ひきろく)の家(いへ)であるところへ、こんなことが起(おこ)つて見(み)れば、蟇六(ひきろく)が下男(げなん)たちをやつてやかましく番作(ばんさく)をせめ立(た)てるのはいふまでもない。糠助(ぬかすけ)も仲(なか)へ立(た)つていろ/\骨(ほね)を折(を)るがどうにもならない。信乃(しの)は糠助(ぬかすけ)と相談(そうだん)をして、与四郎犬(よしろういぬ)を蟇六(ひきろく)の家(いへ)の門(もん)のところヘつれて行(ゆ)き、懲(こら)しめに棒(ぼう)で打(う)ちたゝくと、与四郎犬(よしろういぬ)はにげ出(だ)して自分(じぶん)の家(うち)へも帰(かへ)らず、かへつて蟇六(ひきろく)の家(いへ)の方(ほう)へ走(はし)り込(こ)んだ。蟇六(ひきろく)の家(うち)の下男(げなん)たちは、「これ幸(さいは)ひ」と棒(ぼう)や槍(やり)を持(も)ち出(だ)し、さん/゛\に与四郎犬(よしろういぬ)を打(う)ちのめし衝(つ)きさした。与四郎犬(よしろういぬ)は血(ち)まみれになつて、よろよろと家(うち)へ帰(かへ)つて来(き)た。
すると蟇六(ひきろく)の家(いへ)から下男(げなん)が来(き)て、「与四郎犬(よしろういぬ)が蟇六(ひきろく)の家(いへ)の奥座敷(おくざしき)へ飛(と)び込(こ)み、大事(だいじ)なお役所(やくしよ)の書類(しよるい)を噛(か)みちらしたから、そのお詫(わ)びには村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を管領家(かんりようけ)へ献上(けんじよう)せよ」といふのである。番作(ばんさく)は、かうまで両家(りようけ)の仲(なか)が悪(わる)くなつては信乃(しの)の生長(せいちよう)の行(ゆ)く末(すゑ)も心配(しんぱい)になると思(おも)ひ、自分(じぶん)が犠牲(ぎせい)になる気(き)で、腹(はら)へ刀(かたな)をつき立(た)てた。信乃(しの)は驚(おどろ)いて父(ちゝ)に飛(と)びかゝり刀(かたな)をもぎ取(と)らうとすると、番作(ばんさく)は、
「この村雨丸(むらさめまる)の銘刀(めいとう)は、お前(まへ)が成人(せいじん)した後(のち)に滸我御所(こがごしよ)へ献上(けんじよう)せよ。この刀(かたな)を抜(ぬ)き放(はな)せば、切尖(きつさき)から露(つゆ)がしたゝり、敵(てき)を斬(き)れば斬(き)るほどその水(みづ)がほとばしつて拳(こぶし)の上(うへ)に散(ち)つて来(く)る。それゆゑ村雨(むらさめ)と名(な)がついたのだ。お前(まへ)はこれから犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)となのるがよい。父(ちゝ)が死(し)ねば叔父(をぢ)の蟇六(ひきろく)は村雨(むらさめ)が欲(ほ)しいし、かつまたお前(まへ)を養育(よういく)せねば村(むら)の人達(ひとたち)が承知(しようち)すまいから、蟇六(ひきろく)も仕方(しかた)なくお前(まへ)を養育(よういく)することだらう。そのことは心配(しんぱい)に及(およ)ぶまい」
といつて、勇士(ゆうし)の最期(さいご)の力(ちから)、村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を腹(はら)深(ふか)くつき立(た)て、息(いき)は絶(た)えた。信乃(しの)もそのあとを追(お)つて切腹(せつぷく)しようと思(おも)つたが、ふと下(した)を見(み)ると与四郎犬(よしろういぬ)が重傷(じゆうしよう)に死(し)に切(き)れず苦(くる)しい唸(うな)り声(ごゑ)を立(た)てゝゐる。
「お前(まへ)もお伴(とも)をさせてやるぞ」
といひながら、村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)で与四郎犬(よしろういぬ)の首(くび)を斬(き)り落(おと)せば、さつとほとばしる血潮(ちしほ)の中(なか)から何物(なにもの)か光(ひか)るものが飛(と)び出(だ)した。左手(ひだりて)で受(う)けとめて見(み)るに、『孝(こう)』といふ字(じ)をほりつけた、立派(りつぱ)な一(ひと)つの白玉(しらたま)である。信乃(しの)は、昔(むかし)母(はゝ)から聞(き)いた話(はなし)を思(おも)ひ出(だ)した。母(はゝ)が弁才天(べんざいてん)へ参詣(さんけい)する途中(とちゆう)でこの与四郎犬(よしろういぬ)を拾(ひろ)つたのだが、その帰(かへ)る途(みち)でうつゝに神女(しんじよ)から一(ひと)つの玉(たま)を授(さづ)けられると見(み)た。あやまつて取(と)りはづし、玉(たま)は犬(いぬ)のあたりへ転(ころ)び落(お)ちて、それを見失(みうしな)つてしまつたが、さてはその時(とき)この犬(いぬ)が玉(たま)を呑(の)み込(こ)んでゐたと見(み)える。「それにしても今(いま)はこの玉(たま)も不用(ふよう)だ」と、白玉(しらたま)を庭(には)へ投(な)げ棄(す)てると、玉(たま)はそのまゝはねかへつて自分(じぶん)の懐(ふところ)へはひつた。さて早(はや)く切腹(せつぷく)しようと肌(はだ)を脱(ぬ)ぎかけるに、左(ひだり)の腕(うで)にいつの間(ま)にか牡丹(ぼたん)の花(はな)の形(かたち)をした黒痣(くろあざ)が出来(でき)てゐたのは、不思議(ふしぎ)なことだ。
そこへどや/\と、蟇六夫婦(ひきろくふうふ)と糠助(ぬかすけ)がはひつて来(き)た。信乃(しの)は切腹(せつぷく)も出来(でき)ない。蟇六(ひきろく)は、甥(をひ)の信乃(しの)の面倒(めんどう)をこれから見(み)てやらなければならない。蟇六(ひきろく)は男(をとこ)の子(こ)を持(も)たないし、貰(もら)い子(こ)の娘(むすめ)の浜路(はまぢ)が大(おほ)きくなつたら信乃(しの)と夫婦(ふうふ)にし、家(いへ)と村長(そんちよう)の役(やく)を譲(ゆづ)らうなどとあたりの人(ひと)にはふれ出(だ)して、番作(ばんさく)の作(つく)つてゐた田(た)などを自分(じぶん)のものに取(と)り込(こ)んだ。蟇六(ひきろく)の家(いへ)に信乃(しの)より少(すこ)し年上(としうへ)の額蔵(がくぞう)といふ下男(げなん)がゐたのを信乃(しの)の家(いへ)へつけてやつて、信乃(しの)の面倒(めんどう)を見(み)、かたがた信乃(しの)のすることを探(さぐ)らせることにした。犬(いぬ)は庭(には)の隅(すみ)の梅(うめ)の木(き)の側(そば)へ葬(はうむ)られた。
額蔵(がくぞう)は正直(しようじき)な男(をとこ)である。信乃(しの)の探(さぐ)り役(やく)には選(えら)ばれたけれども、内心(ないしん)では信乃(しの)に同情(どうじよう)してゐるのだ。ある日(ひ)信乃(しの)にすゝめて行水(ぎようずい)をさせてゐると、信乃(しの)の左(ひだり)の腕(うで)にある黒痣(くろあざ)が見(み)つかつた。
「妙(みよう)なものですな。わたしにも同(おな)じ黒痣(くろあざ)がありますよ」
と背中(せなか)を向(む)けるのを見(み)ると、いかにも同(おな)じ牡丹(ぼたん)の花(はな)の形(かたち)をした黒痣(くろあざ)がある。さて着物(きもの)を着(き)ようとすれば、懐(ふところ)から白玉(しらたま)がころがり出(で)る。
「それも妙(みよう)なものですな。私(わたし)にも同(おな)じ玉(たま)があります」
と、額蔵(がくぞう)が懐(ふところ)から出(だ)す玉(たま)を見(み)るに、いかにも全(まつた)く同(おな)じ白玉(しらたま)であつて、それには『義(ぎ)』といふ一字(いちじ)がほりつけられてゐる。これは額蔵(がくぞう)の母(はゝ)が下男(げなん)にいひつけて、胞衣(えな)を埋(う)めようと閾(しきゐ)の下(した)を掘(ほ)つた時(とき)に見(み)つけた玉(たま)だといふ。
それから信乃(しの)と額蔵(がくぞう)とは大(だい)の仲(なか)よしになり、兄弟(きようだい)の約束(やくそく)をした。額蔵(がくぞう)の父(ちゝ)は犬川衛士則任(いぬかはゑじのりたふ)といひ、伊豆北条(いずほうじよう)の立派(りつぱ)な役人(やくにん)であつた。その君(きみ)をいさめて切腹(せつぷく)し、母(はゝ)は七歳(しちさい)になつた子供(こども)の荘之助(そうのすけ)をつれて、安房(あは)の里見(さとみ)の家中(かちゆう)に知(し)る人(ひと)があるのを頼(たよ)つて行(ゆ)く途中(とちゆう)、路銀(ろぎん)を取(と)られ風雪(ふうせつ)になやまされ、この村長(そんちよう)の家(いへ)に一夜(いちや)の宿(やど)を求(もと)めて許(ゆる)されず、母(はゝ)はそのまま死(し)んで行(い)つた。その時(とき)村長(そんちよう)の蟇六(ひきろく)が荘之助(そうのすけ)を一生(いつしよう)下男(げなん)にするつもりで引(ひ)き取(と)つて育(そだ)てたのが、この額蔵(がくぞう)であつたのだ。額蔵(がくぞう)は、信乃(しの)と兄弟(きようだい)になつた日(ひ)から、犬川荘助義任(いぬかはそうすけよしたふ)と名前(なまへ)を改(あらた)めた。
けれど表向(おもてむ)きは、やはり額蔵(がくぞう)と信乃(しの)と仲(なか)のわるい様子(ようす)をしてゐる。そのうち幾年(いくねん)かたつて、百姓(ひやくしよう)の糠助(ぬかすけ)が病気(びようき)になつた。信乃(しの)だけはいつも親切(しんせつ)に介抱(かいほう)をしてやつてゐる。糠助(ぬかすけ)は病気(びようき)がひどくなり、もう死(し)なうとする時(とき)に涙(なみだ)を浮(うか)べて、
「これはあなたにだけお願(ねが)ひする遺言(ゆゐごん)です」
といつて、次(つ)ぎのような話(はなし)をした。糠助(ぬかすけ)は以前(いぜん)安房(あは)の州崎(すざき)に住(す)んでゐた百姓(ひやくしよう)であるが、親一人(おやひとり)、子一人(こひとり)の貧乏世帯(びんぼうしよたい)、苦(くる)しさのあまり殺生(せつしよう)を禁(きん)ぜられてゐる浜(はま)に網(あみ)を打(う)つて捕(とら)へられ死罪(しざい)にきまつたところを大赦(たいしや)で罪(つみ)を減(げん)ぜられ、追放(ついほう)せられることになつた。子供(こども)を抱(だ)いて下総(しもふさ)の行徳(ぎようとく)まで来(き)たが、この上(うへ)歩(ある)いて途(みち)に餓死(がし)をするよりは川(かは)へ飛(と)び込(こ)んで死(し)なうと、橋(はし)の欄干(らんかん)に足(あし)をかけた時(とき)通行(つうこう)の人(ひと)にとめられた。その人(ひと)は成氏殿(しげうぢどの)に仕(つか)へてゐる小役人(こやくにん)であるが、子(こ)を持(も)たないからそのまゝ糠助(ぬかすけ)の子(こ)を貰(もら)つて行(ゆ)かうといふ。親(おや)と子(こ)とはかうして別(わか)れたのである。が、その後(のち)わが子(こ)は、どうして育(そだ)つてゐるであらうか。この子(こ)の目印(めじるし)は、右(みぎ)の頬先(ほゝさき)に牡丹(ぼたん)の花(はな)の形(かたち)をした黒痣(くろあざ)のあることだ。それにこの子(こ)の生(うま)れた後(のち)、祝(いは)ひに鯛(たひ)を料理(りようり)すると、魚(さかな)の腹(はら)から光(ひか)つた玉(たま)が出(で)て、それには『信(しん)』といふ字(じ)がほりつけられてあつたから、その玉(たま)を守(まも)り袋(ぶくろ)の中(なか)に収(をさ)めてある。この子(こ)を探(さが)し、父(ちゝ)糠助(ぬかすけ)のことをしらせて貰(もら)ひたいものだ。──
信乃(しの)は聞(き)いて驚(おどろ)いた。この糠助(ぬかすけ)の子(こ)もまた、自分達(じぶんたち)と同志(どうし)の人(ひと)に相違(そうい)ない。糠助(ぬかすけ)はくらい行燈(あんどん)の下(した)で息(いき)をひきとつた。
根本(ねもと)に犬(いぬ)を埋(う)めた梅(うめ)の木(き)は大(おほ)きくなつて、八房(やつふさ)の梅(うめ)を実(みの)らせた。蟇六(ひきろく)の娘(むすめ)の浜路(はまぢ)も大(おほ)きくなつた。浜路(はまぢ)の父(ちゝ)は練馬家(ねりまけ)に仕(つか)えてゐる立派(りつぱ)な武士(ぶし)であつたけれど、家庭(かてい)にこみ入(い)つたわけがあり、親(おや)の名(な)も知(し)らさず蟇六(ひきろく)の子(こ)にやつたのだ。その練馬家(ねりまけ)はこの頃(ころ)の戦争(せんそう)で滅亡(めつぼう)したので、浜路(はまぢ)は「多分(たぶん)まことの父(ちゝ)も戦死(せんし)したことであらう」と悲(かな)しんでゐる。信乃(しの)も立派(りつぱ)な青年(せいねん)になつたが、浜路(はまぢ)は養(やしな)ひ親(おや)のいふとほり、この人(ひと)を夫(をつと)と思(おも)ひ定(さだ)めてゐた。
円塚山(まるづかやま)の寂寞道人(じやくまくどうじん)
糠助(ぬかすけ)が死(し)んで空(あ)き家(や)となつたところへは、浪人(ろうにん)の網乾左母二郎(あぼしさもじろう)といふ男(をとこ)がはひつた。鎌倉殿(かまくらどの)の第一(だいいち)の近習(きんじゆ)であつたのが浪人(ろうにん)となつたので、まだ若(わか)く殿(との)の気(き)に入(い)りであつたから、この後(のち)また呼(よ)び出(だ)されて立身(りつしん)する人(ひと)である。子供(こども)たちに読(よ)み書(か)きを教(をし)へるのは表向(おもてむ)きで、それよりも唄(うた)をうたつたりくだらない話(はなし)に時(とき)を消(け)したりするのが好(す)きだから、直(ぢ)きに亀篠(かめざさ)に取(と)り入(い)つて、蟇六(ひきろく)の家(うち)へ出入(でい)りするようになつた。
左母二郎(さもじろう)は、浜路(はまぢ)をお嫁(よめ)に貰(もら)ひたいと思(おも)つてゐた。亀篠(かめざさ)も蟇六(ひきろく)も、さうなれば自分(じぶん)たちも立身(りつしん)が出来(でき)るので、その気(き)になつて左母二郎(さもじろう)をもてなした。ところがその頃(ころ)またこの地(ち)の役人(やくにん)が代(かは)り、簸上宮六(ひかみきゆうろく)といふ人(ひと)が来(き)て、この人(ひと)も蟇六(ひきろく)の家(いへ)へよばれたが、浜路(はまぢ)をお嫁(よめ)に貰(もら)ひたいと思(おも)つてゐた。左母二郎(さもじろう)はまだ浪人(ろうにん)だし、宮六(きゆうろく)は現(げん)にお役人(やくにん)で威張(いば)つてゐるのだから、今度(こんど)は蟇六夫婦(ひきろくふうふ)は宮六(きゆうろく)の方(ほう)へ浜路(はまぢ)を嫁(よめ)にやる気(き)になり、「これで立身(りつしん)の手蔓(てづる)が出来(でき)た」と喜(よろこ)んだ。宮六(きゆうろく)のところからは、軍木五倍二(ぬるでごばいじ)といふ家来(けらい)が来(き)て、権柄(けんぺい)を笠(かさ)に着(き)、「どうあつても娘(むすめ)を貰(もら)はなければならぬ」といふ。蟇六(ひきろく)は願(ねが)つたり叶(かな)つたりだが、なほ不承知(ふしようち)のような顔(かほ)をしてゐると、「もう今日(けふ)結納(ゆひのう)を受(う)け取(と)つて貰(もら)ふつもりだ」といふ。蟇六(ひきろく)は「やむを得(え)ない」といふような迷惑顔(めいわくがほ)で承知(しようち)して、さつそく貰(もら)つた結納(ゆひのう)は、土蔵(どぞう)へかくした。
さてこの結婚(けつこん)には、信乃(しの)を追(お)ひ出(だ)し、村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)をまき上(あ)げなければならぬが、これには左母二郎(さもじろう)を使(つか)はうと考(かんが)へた。ふいに左母二郎(さもじろう)をたづねた亀篠(かめざさ)は、
「浜路(はまぢ)を貰(もら)つて戴(いたゞ)くについては、かうして貰(もら)ひたい」
といつて相談(そうだん)するところは、明晩(みようばん)信乃(しの)を川狩(かはが)りに誘(さそ)ひ出(だ)し、蟇六(ひきろく)が川(かは)へ落(お)ちた様子(ようす)をすれば信乃(しの)も同(おな)じく川(かは)へ飛(と)び込(こ)むであらうから、そのひまに蟇六(ひきろく)の刀(かたな)と信乃(しの)の村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)とをすり換(か)へて置(お)いて貰(もら)ひたいといふのだ。
相談(そうだん)は出来(でき)た。蟇六(ひきろく)は信乃(しの)にすゝめて村雨丸(むらさめまる)を滸我御所(こがごしよ)へ献上(けんじよう)するために、旅立(たびだ)ちさせることになつた。その前(まへ)に蟇六(ひきろく)や信乃(しの)や左母二郎(さもじろう)で川狩(かはが)りをすることになつた。蟇六(ひきろく)は楫取(かこ)の土太郎(どたろう)などいふ悪(わる)い奴(やつ)を雇(やと)うて置(お)く。さて川(かは)の真中(まんなか)へ舟(ふね)が出(で)て、月(つき)ものぼらず、あたりは真暗(まつくら)になつてゐる時(とき)に、蟇六(ひきろく)は網(あみ)を打(う)つようなふりをして川(かは)へ落(お)ち込(こ)んだ。信乃(しの)と土太郎(どたろう)とが、それを救(すく)ひに同(おな)じく川(かは)へ飛(と)び込(こ)んだ。蟇六(ひきろく)と土太郎(どたろう)とは信乃(しの)を溺(おぼ)れさすつもりで、手(て)を取(と)り足(あし)を引(ひ)つぱり、淵(ふち)の方(ほう)へひきずり込(こ)まうとするけれど、大力(だいりき)で水練(すいれん)の信乃(しの)には、そんなことはなんでもない。土太郎(どたろう)を一町(いつちよう)ばかり下(しも)へ蹴流(けなが)し蟇六(ひきろく)を横(よこ)づかみにして、安々(やす/\)と岸(きし)へおよぎついた。
舟(ふね)に残(のこ)つた左母二郎(さもじろう)は、信乃(しの)の村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を抜(ぬ)いて見(み)たが、こんな銘刀(めいとう)を蟇六(ひきろく)にやるのは惜(を)しいので、自分(じぶん)の腰刀(こしがたな)にしてしまひ、蟇六(ひきろく)の刀(かたな)の鞘(さや)の中(なか)へは自分(じぶん)の刀(かたな)の中味(なかみ)を、信乃(しの)の刀(かたな)の鞘(さや)の中(なか)へは蟇六(ひきろく)の刀(かたな)の中味(なかみ)を入(い)れ、さも村雨(むらさめ)らしく、川(かは)の水(みづ)を少(すこ)しづつ振(ふ)りかけて置(お)いた。
信乃(しの)は、刀(かたな)の中味(なかみ)が換(か)へられてゐるとは気付(きづ)かない。蟇六(ひきろく)は、家(うち)へ帰(かへ)つて刀(かたな)を抜(ぬ)いて見(み)ると、水(みづ)の滴(しづく)がばら/\と散(ち)るので、いかにも村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)だと喜(よろこ)んでゐる。信乃(しの)は、朝早(あさはや)く立(た)つて、滸我御所(こがごしよ)へ向(む)かつた。蟇六(ひきろく)はそれに額蔵(がくぞう)をつけてやり、途中(とちゆう)でばつさり斬(き)り果(は)たすようにいひつけた。
あとでは、いよ/\浜路(はまぢ)と宮六(きゆうろく)との結婚(けつこん)の祝(いは)ひが始(はじ)まる。浜路(はまぢ)はその話(はなし)を親(おや)から聞(き)かされて、寝耳(ねみゝ)に水(みづ)と驚(おどろ)いたが、浜路(はまぢ)がどうしても承知(しようち)しないと、蟇六(ひきろく)はお役人(やくにん)の宮六(きゆうろく)に申(まを)し開(ひら)きが出来(でき)ないから切腹(せつぷく)するなどといつて騒(さわ)ぎ立(た)てる。浜路(はまぢ)は、今(いま)はもう死(し)ぬ覚悟(かくご)で、うはべだけ承知(しようち)した。蟇六(ひきろく)の家(うち)では、祝(いは)ひで大騒(おほさわ)ぎである。浜路(はまぢ)は、最後(さいご)のお化粧(けしよう)をしてゐる。
この話(はなし)を漏(も)れきいておこつたのは、左母二郎(さもじろう)である。「おのれ必(かなら)ず復讐(ふくしゆう)してやらう」と考(かんが)へはするものゝ、斬(き)り込(こ)んでみんなを殺(ころ)してしまふだけの勇気(ゆうき)も出(で)ない。
「いつそ、浜路(はまぢ)をぬすみ取(と)つてやらう」
と、その夜(よ)蟇六(ひきろく)の家(いへ)の垣(かき)のくづれから、左母二郎(さもじろう)はこつそりと庭(には)へ忍(しの)び込(こ)んだ。
築山(つきやま)のうしろに人影(ひとかげ)がある。それは死(し)ぬ覚悟(かくご)をした浜路(はまぢ)であつた。左母二郎(さもじろう)はうしろから、こつそりつかまへて浜路(はまぢ)がふせぐ手(て)をおさへ、庭(には)の松(まつ)から垣(かき)の上(うへ)へ乗(の)りうつつて、うまうまと浜路(はまぢ)をぬすみ出(だ)した。
これから祝(いは)ひが始(はじ)まらうといふ時(とき)になつて、浜路(はまぢ)のゐないことに気(き)づいた蟇六(ひきろく)の家(いへ)は、蜂(はち)の巣(す)を突(つ)きくづしたような騒(さわ)ぎになる。飛(と)び込(こ)んで来(き)た土太郎(どたろう)に頼(たの)んで、左母二郎(さもじろう)のあとをおつかけさせた。
「今(いま)こゝへ来(く)る途(みち)で、見知(みし)りの加太郎(かたろう)、井太郎(ゐたろう)が、駕籠賃(かごちん)のことで何(なに)かいつてゐたが、ぢやああれが左母二郎(さもじろう)とお嬢(じよう)さんだ。礫川(こいしかは)、本郷坂(ほんごうざか)へ行(ゆ)けば大丈夫(だいじようぶ)」
と、つぶてのように飛(と)んで行(い)つた。
話(はなし)変(かは)つて、こゝに寂寞道人(じやくまくどうじん)肩柳(けんりゆう)といふ不思議(ふしぎ)な術(じゆつ)をする行者(ぎようじや)がゐた。薪(まき)を積(つ)んで火(ひ)をつけ、その上(うへ)を渡(わた)るに、脚(あし)を焼(や)かない。人(ひと)のことを占(うらな)ひ、病気(びようき)の祈祷(きとう)をするが、そのきゝめがあるといふので愚民(ぐみん)の中(なか)に信(しん)じられてゐる。この人(ひと)左(ひだり)の肩(かた)さきに一塊(ひとかたま)りの瘤(こぶ)があるので、見(み)た様子(ようす)は、からだが斜(なゝめ)に曲(まが)つたようだ。今日(けふ)日没(にちぼつ)の時(とき)に、豊島(としま)本郷(ほんごう)のあたり円塚山(まるづかやま)の麓(ふもと)で火定(かじよう)に入(い)るとふれ出(だ)した。小屋(こや)を建(た)て、その下(した)に大(おほ)きな坑(あな)を掘(ほ)り、この中(なか)へ薪(まき)を積(つ)み火(ひ)をつけて、肩柳(けんりゆう)はそのまゝこの火(ひ)の坑(あな)へ飛(と)び込(こ)み命(いのち)を終(をは)らうといふのである。これを火定(かじよう)といつてゐる。肩柳(けんりゆう)を信(しん)じてゐる人達(ひとたち)が、雲(くも)のように円塚山(まるづかやま)へ集(あつ)まつて、肩柳(けんりゆう)にお賽銭(さいせん)をまいてゐる。肩柳(けんりゆう)はふれ出(だ)した通(とほ)りの行(ぎよう)をして、猛火(もうか)の坑(あな)の中(なか)へ飛(と)び込(こ)み、見(み)る間(ま)に姿(すがた)を消(け)して行(い)つた。人々(ひと/゛\)は肩柳(けんりゆう)の立派(りつぱ)な行(ぎよう)を驚(おどろ)き褒(ほ)めながら、それ/゛\家(うち)へ帰(かへ)つて行(ゆ)く。あとには火定(かじよう)の坑(あな)の残(のこ)り火(び)がちろり/\と燃(も)え、円塚山(まるづかやま)はさびしい夜(よる)になつた。
そこへ小提灯(こちようちん)が見(み)え旅駕籠(たびかご)が一(ひと)つ来(き)てとまつた。
「旦那(だんな)、御約束(おやくそく)の場所(ばしよ)ですよ。駕籠賃(かごちん)を戴(いちゞ)きませうか」
「ばかをいへ。板橋(いたばし)までの約束(やくそく)だらう」
とすぐに喧嘩(けんか)になつたのは、左母二郎(さもじろう)と駕籠(かご)かきの加太郎(かたろう)、井太郎(ゐたろう)とである。駕籠(かご)かきも性(しよう)のわるいごろつきではあるものゝ、さすがに浪人(ろうにん)の左母二郎(さもじろう)にあつては敵(かな)はない。その上(うへ)左母二郎(さもじろう)の手(て)に持(も)つは業物(わざもの)の村雨(むらさめ)だ。前後(ぜんご)からかゝつて来(く)る二人(ふたり)のものを斬(き)りまくつて、見(み)る間(ま)に首(くび)を打(う)ち落(おと)した。その時(とき)また後(うしろ)から抜(ぬ)き打(う)ちにかゝつて来(き)た男(をとこ)は、いふまでもなく土太郎(どたろう)だ。左母二郎(さもじろう)も最前(さいぜん)少(すこ)し薄傷(うすで)をおひ、疲(つか)れ気味(ぎみ)になつてゐるから、打(う)ち込(こ)まれそうになつて行(ゆ)くので、刀(かたな)を引(ひ)いて遁(に)げる様子(ようす)をし、土太郎(どたろう)のすきを見(み)て石(いし)をなげると、ぱつちり額(ひたひ)へ打(ぶ)つかつた。そのひるむひまにすさまじく斬(き)り込(こ)むと、土太郎(どたろう)は「あつ」といふまゝ仰(あふ)のけざまに斬(き)り倒(たふ)された。
駕籠(かご)の中(なか)の浜路(はまぢ)は、もう遁(に)げて行(ゆ)くこともならない。左母二郎(さもじろう)は、
「さあ、これから歩(ある)くのだ。この俺(おれ)が持(も)つてる刀(かたな)は、正真正銘(しようしんしようめい)の村雨(むらさめ)で、今(いま)人(ひと)を斬(き)つた業物(わざもの)だが、信乃(しの)が持(も)つて行(い)つたのは贋刀(にせがたな)だから、定(さだ)めし今頃(いまごろ)縛(しば)り首(くび)にでもなつてるだらう」
といひながら、浜路(はまぢ)を駕籠(かご)から出(だ)すと、浜路(はまぢ)はさすがに驚(おどろ)きながらも、「その村雨(むらさめ)とやらを見(み)せて貰(もら)ひたい」とたのむ。渡(わた)す刀(かたな)を右手(みぎて)に受(う)け取(と)り、打(う)ち返(かへ)して見(み)るような様子(ようす)をしながら、
「夫(をつと)のかたき」
と叫(さけ)んで、ふいに左母二郎(さもじろう)に斬(き)りかけた。左母二郎(さもじろう)は短刀(たんとう)を抜(ぬ)いて、それをふせぐ。いかに浜路(はまぢ)が力(ちから)を出(だ)しても、女(をんな)の悲(かな)しさ浪人(ろうにん)の力(ちから)に及(およ)ぶわけはない。忽(たちま)ち受(う)け太刀(だち)になつて乳(ちゝ)の下(した)深(ふか)く斬(き)り込(こ)まれた。左母二郎(さもじろう)は村雨(むらさめ)を取(と)り返(かへ)し、だん/\弱(よわ)つて行(ゆ)く浜路(はまぢ)をにく/\しそうにながめてゐる。浜路(はまぢ)は夫(をつと)の信乃(しの)がどうなつたかもわからず、悲(かな)しくそこに死(し)んで行(ゆ)く身(み)の運命(うんめい)を、苦(くる)しい息(いき)の下(した)から語(かた)つてゐる。
その時(とき)である。ふいに何処(どこ)からともなく手裏剣(しゆりけん)が飛(と)んで来(く)るのと、左母二郎(さもじろう)が枯(か)れ木(き)のようにたふれるのと一(いつ)しよであつた。火定(かじよう)の坑(あな)のあたりへ煙(けむ)りのようにして一人(ひとり)の男(をとこ)の姿(すがた)が現(あらは)れた。見(み)れば先(さき)ほど火定(かじよう)に入(い)つたはずの寂寞道人(じやくまくどうじん)だが、先(さき)ほどの行者(ぎようじや)の姿(すがた)とは打(う)つて変(かは)り、南蛮鉄(なんばんてつ)の鎖帷子(くさりかたびら)で身(み)を固(かた)め、上(うへ)には唐織(からお)りの着物(きもの)を着(き)朱鞘(しゆざや)の太刀(たち)を横(よこ)たへて、悠々(ゆう/\)と左母二郎(さもじろう)の方(ほう)へやつて来(く)る姿(すがた)は、善人(ぜんにん)か悪人(あくにん)か分(わか)らないが、一癖(ひとくせ)ありそうな面魂(つらだましひ)だ。
左母二郎(さもじろう)の手(て)から村雨(むらさめ)の刀(かたな)を奪(うば)ひ取(と)り、火定(かじよう)の火(ひ)に刃(やいば)を打(う)ち返(かへ)して眺(なが)めながら、
「聞(き)いたにもまさつた立派(りつぱ)な刀(かたな)だ。これが手(て)にはひつたからには、かたきを打(う)つもやがてのこと」
と感心(かんしん)してゐる。村雨(むらさめ)を腰(こし)に打(う)ち込(こ)み、さて浜路(はまぢ)の方(ほう)へ身(み)を寄(よ)せて、もう息(いき)も絶(た)えようとしてゐる浜路(はまぢ)を助(たす)け起(おこ)す。浜路(はまぢ)はぱつちり目(め)をあけて、肩柳(けんりゆう)の顔(かほ)を見(み)た。
「残(のこ)らず話(はなし)はそこで聞(き)いた。かくいふ自分(じぶん)は犬山入道道策(いぬやまにゆうどうどうさく)の一子(いつし)犬山道節忠与(いぬやまどうせつたゞとも)であるが、そちは父(ちゝ)の話(はなし)に聞(き)いてゐた母違(はゝちが)ひの妹(いもうと)である。家(うち)にこみ入(い)つたわけがあり、そちは人(ひと)の子(こ)にやられたが、父入道(ちゝにゆうどう)は池袋(いけぶくろ)の戦(たゝか)ひで練馬家(ねりまけ)の滅亡(めつぼう)とともに打(う)ち死(じ)にした。その父(ちゝ)の讐(かたき)を打(う)ち取(と)らうと、自分(じぶん)の家(うち)に伝(つた)はる火遁(かとん)の術(じゆつ)を用(もち)ひ、愚民(ぐみん)どもをあつめて火定(かじよう)に入(い)るとあざむき、賽銭(さいせん)を取(と)るも軍用金(ぐんようきん)にあてるため、またこの村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を得(え)た上(うへ)は、これをもつて敵(てき)を薙(な)ぎ立(た)て」
といふを聞(き)いて、浜路(はまぢ)は驚(おどろ)く。肩柳(けんりゆう)が火(ひ)に姿(すがた)をかくすのは、犬山(いぬやま)の家(いへ)に伝(つた)はつた火遁(かとん)の術(じゆつ)といふものであつたのだ。浜路(はまぢ)はこの死(し)に際(ぎは)に、まことの兄(あに)の道節(どうせつ)に逢(あ)つたのは不思議(ふしぎ)だが、信乃(しの)の難儀(なんぎ)を救(すく)ふには、兄(あに)に頼(たの)んでこの刀(かたな)を信乃(しの)に渡(わた)して貰(もら)ふより外(ほか)はない。
「兄上(あにうへ)。死(し)ぬ妹(いもうと)の最期(さいご)の頼(たの)みには、これより滸我(こが)へ行(ゆ)き、村雨丸(むらさめまる)を夫(をつと)信乃(しの)へ渡(わた)しては下(くだ)さらぬか」
「いやそれはならぬ。この身(み)がかたきを打(う)つまでは、この銘刀(めいとう)を手放(てばな)すわけに行(ゆ)くまい。かたきを打(う)てば用(よう)のない刀(かたな)、犬塚信乃(いぬつかしの)とやらにめぐりあつた時(とき)、必(かなら)ずそれを手渡(てわた)すであらう」
妹(いもうと)の必死(ひつし)の願(ねが)ひも、さすがに今(いま)は聞(き)かれなかつた。浜路(はまぢ)は憐(あは)れに息(いき)たえた。
道節(どうせつ)は妹(いもうと)の死(し)を不便(ふびん)に思(おも)ひながらも、息(いき)たえた上(うへ)は致(いた)し方(かた)もなく、村雨(むらさめ)を腰(こし)に打(う)ち込(こ)んで、そこを立(た)ち去(さ)らうとすると、
「曲者(くせもの)待(ま)て!」
とうしろから呼(よ)んで木陰(こかげ)を出(で)て来(き)た人(ひと)がある。
芳流閣上(ほうりゆうかく)の捕(と)り物(もの)
信乃(しの)と額蔵(がくぞう)とは滸我(こが)へ向(むか)つた。額蔵(がくぞう)はみち/\蟇六(ひきろく)の悪(わる)い相談(そうだん)を信乃(しの)にはなし、自分(じぶん)を信乃(しの)の殺(ころ)し役(やく)につけてよこしたことや、浜路(はまぢ)の身(み)が危険(きけん)であることやを語(かた)つて、今後(こんご)の身(み)の相談(そうだん)をした。それにしても心配(しんぱい)なのは、蟇六(ひきろく)の家(いへ)に残(のこ)された浜路(はまぢ)の身(み)の上(うへ)であるゆゑ、額蔵(がくぞう)は途中(とちゆう)から家(いへ)へ引(ひ)きかへすことになつた。
額蔵(がくぞう)が円塚山(まるづかやま)の麓(ふもと)へかゝつた時(とき)は、夜(よる)ももう大分(だいぶん)更(ふ)けてゐた。向(むか)うに火影(ひかげ)が見(み)えてあたりには死骸(しがい)が幾(いく)つも転(ころ)がり、浜路(はまぢ)は血(ち)にまみれてたふれ、なほ村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を持(も)つて立(た)ち去(さ)らうとする浪人(ろうにん)がある。
道節(どうせつ)を呼(よ)んだのは、いふまでもなく額蔵(がくぞう)、即(すなは)ち犬川荘助義任(いぬかはそうすけよしたふ)であつたのだ。
額蔵(がくぞう)は道節(どうせつ)の刀(かたな)の鐺(こじり)をしつかり持(も)つて二三歩(にさんぽ)引(ひ)きもどすと、驚(おどろ)きながらに振(ふ)り返(かへ)つた道節(どうせつ)は、額蔵(がくぞう)の手(て)を払(はら)つて刀(かたな)を抜(ぬ)かうとする。そこへ横(よこ)ざまに組(く)みついて、えい/\声(こゑ)を出(だ)し取(と)り組(く)んだが、さすがは勇士(ゆうし)と勇士(ゆうし)の組(く)み打(う)ち、どちらの力(ちから)がまさつてゐるとも見(み)えない。どうしたことか額蔵(がくぞう)の大事(だいじ)にする護(まも)り袋(ぶくろ)の長紐(ながひも)が道節(どうせつ)の刀(かたな)の下緒(さげを)にからみつき、振(ふ)りほどかうとすればする程(ほど)まきついて、長紐(ながひも)は切(き)れ、護(まも)り袋(ぶくろ)は道節(どうせつ)の腰(こし)にぶら下(さ)がつた。手(て)のゆるんだすきに道節(どうせつ)が刀(かたな)を抜(ぬ)けば、
「心得(こゝろえ)た」
と額蔵(がくぞう)も同(おな)じく刀(かたな)を抜(ぬ)いて、互(たがひ)に打(う)ち合(あは)す太刀風(たちかぜ)はげしく、空(そら)には月(つき)が冴(さ)えて来(き)た。道節(どうせつ)が強(つよ)く打(う)ち込(こ)んで来(き)た刀(かたな)を左(ひだり)に受(う)け流(なが)し、
「やつ」
と一声(いつせい)、道節(どうせつ)の肩先(かたさき)へ斬(き)り込(こ)めば、鎖雌子(くさりかたびら)を通(とほ)して、刀(かたな)は道節(どうせつ)の肩(かた)の瘤(こぶ)の上(うへ)へ斬(き)りつけた。黒血(くろち)がさつとほとばしるのにまじつて、何(なに)ものか螽(いなご)のように飛(と)び出(だ)し、額蔵(がくぞう)の胸先(むなさき)へぶつかつて来(き)たのを、額蔵(がくぞう)はすばやく左(ひだり)の手(て)で握(にぎ)りとめ、なほもはげしく斬(き)り結(むす)んだ。
道節(どうせつ)は刀(かたな)を受(う)け流(なが)し受(う)け流(なが)ししながら、うしろへ退(しりぞ)き、声(こゑ)を立(た)て、
「やい、待(ま)て。いふことがある。そちの武芸(ぶげい)甚(はなは)だよい。自分(じぶん)には復讐(ふくしゆう)の大望(たいもう)あれば、こゝで小敵(しようてき)と死(し)を決(けつ)することは出来(でき)ない。しばらく引(ひ)け」
といふ。額蔵(がくぞう)は、目(め)をいからして、
「命(いのち)が惜(を)しくば、村雨(むらさめ)の宝刀(ほうとう)を手渡(てわた)せ。かくいふわれは、犬塚信乃(いぬつかしの)が無二(むに)の親友(しんゆう)、犬川荘助義任(いぬかはそうすけよしたふ)であるぞ。汝(なんぢ)の名(な)は聞(き)いた。犬山道節忠与(いぬやまどうせつたゞとも)。宝刀(ほうとう)を返(かへ)せ」
といへば、道節(どうせつ)は大声(おほごゑ)を出(だ)して笑(わら)ひ、
「死(し)ぬ妹(いもうと)の願(ねが)ひをさへ聞(き)かない犬山道節(いぬやまどうせつ)。かたきを打(う)つまでは、汝(なんぢ)に刀(かたな)を取(と)らすまいぞ」
「いや、すぐに手渡(てわた)せ」
と、額蔵(がくぞう)はなほも刀(かたな)を押(お)しつけて道節(どうせつ)にせまるを、道節(どうせつ)は右(みぎ)に避(さ)け左(ひだり)に払(はら)ひながら、次第(しだい)に火坑(かこう)のあたりへ近(ちか)づいて、ぱつと飛(と)んだと思(おも)へば、火坑(かこう)の中(なか)より煙(けむ)りがあがり、道節(どうせつ)の姿(すがた)は消(き)えてしまつた。
額蔵(がくぞう)は、思(おも)ひ出(だ)して見(み)れば自分(じぶん)の大事(だいじ)な『義(ぎ)』の字(じ)の玉(たま)を護(まも)り袋(ぶくろ)と一(いつ)しよに取(と)られてゐる。それにしても道節(どうせつ)の瘡口(きずぐち)より飛(と)び出(だ)したものはなんであらうかと、左(ひだり)の手(て)を開(ひら)き、月(つき)の光(ひかり)にすかして見(み)れば、やはり一(ひと)つの玉(たま)である。それには『忠(ちゆう)』の字(じ)がほられてゐる。
「さてはこれも後(のち)にわれ/\の同志(どうし)となる勇士(ゆうし)の一人(ひとり)であると見(み)える」
と額蔵(がくぞう)はつぶやきながら、その玉(たま)を懐(ふところ)へをさめ、浜路(はまぢ)を弔(とむら)ひ、大塚(おほつか)の家(いへ)をさして脚(あし)を早(はや)めた。
蟇六(ひきろく)の家(いへ)にも騒動(そうどう)があつた。浜路(はまぢ)が家出(いへで)をしたあと、宮六(きゆうろく)や五倍二(ごばいじ)は結婚(けつこん)の祝(いは)ひにやつて来(き)た。蟇六(ひきろく)はいろ/\と取(と)り繕(つくろ)ふが、うろたへてゐるからしくじりだらけだ。今(いま)は仕方(しかた)なくまことのことを白状(はくじよう)し、いつはりのない印(しるし)には、村雨丸(むらさめまる)の宝刀(ほうとう)をも献上(けんじよう)しようといふ。宮六(きゆうろく)は刀(かたな)を抜(ぬ)いて見(み)たが、川(かは)の水(みづ)は乾(かわ)いて水(みづ)の滴(しづく)などはもう出(で)ない。
「こんななまつくらが村雨丸(むらさめまる)か」
と刀(かたな)を振(ふ)り廻(まは)して、柱(はしら)にぶつけると、刀(かたな)は鍋蔓(なべつる)のようにへし曲(まが)つた。酒(さけ)には酔(よ)つてゐる。最前(さいぜん)から腹(はら)は立(た)ちどほしだ。宮六(きゆうろく)は刀(かたな)を抜(ぬ)いて蟇六(ひきろく)のうしろから斬(き)りつけると、亀篠(かめざさ)も誰(たれ)もかれもそれをとめようとして組(く)みついて来(く)る。宮六(きゆうろく)と五倍二(ごばいじ)とは、刀(かたな)にあたるものを無茶苦茶(むちやくちや)に斬(き)り倒(たふ)し、縁側(えんがは)の下(した)へ遁(に)げかくれた下男一人(げなんひとり)を残(のこ)して蟇六(ひきろく)の家(うち)すつかりの人(ひと)を斬(き)り倒(たふ)した。あたりは血(ち)の海(うみ)になつてゐる。
額蔵(がくぞう)はそこへ帰(かへ)つて来(き)た。宮六(きゆうろく)を呼(よ)びとめ、刀(かたな)を取(と)つて打(う)ち合(あは)せたが、宮六(きゆうろく)は見(み)る間(ま)に斬(き)り伏(ふ)せられた。五倍二(ごばいじ)は重傷(おもで)で遁(に)げて行(い)つた。次(つ)ぎの日(ひ)になつて役人(やくにん)たちが調(しら)べに来(き)たが、役人(やくにん)は宮六(きゆうろく)の相役(あひやく)たちであるから、額蔵(がくぞう)のいふところを聞(き)かうとしない。額蔵(がくぞう)が蟇六(ひきろく)の一家(いつか)を斬(き)り殺(ころ)し、それをとめようとした役人(やくにん)の宮六(きゆうろく)をまで斬(き)つたことに役人(やくにん)はきめた。額蔵(がくぞう)は縄(なは)を打(う)たれお役所(やくしよ)へ引(ひ)き立(た)てられて行(い)つた。間(ま)もなく打(う)ち首(くび)になることであらう。
話(はなし)は換(かは)つて、こちらは滸我(こが)へ行(い)つた信乃(しの)である。御所(ごしよ)の執権(しつけん)をしてゐる横堀史在村(よこぼりふびとありむら)の邸(やしき)へ伺(うかゞ)ひ、村雨献上(むらさめけんじよう)のことを申(まを)し上(あ)げると、すぐにお許(ゆる)しが出(で)た。さて間(ま)もなく、成氏卿(しげうぢきよう)がぢき/\にお目通(めどほ)りを許(ゆる)し、銘刀(めいとう)を受(う)け取(と)ろうといふ達(たつ)しである。
宿(やど)へ引(ひ)き下(さが)つてゐた信乃(しの)は、献上(けんじよう)する刀(かたな)の塵(ちり)を拭(ぬぐ)はうと、引(ひ)き抜(ぬ)いて見(み)るに滴(しづく)が垂(た)れない。これはと驚(おどろ)き刀(かたな)を見返(みかへ)せば、村雨(むらさめ)はいつの間(ま)にか真赤(まつか)な贋物(にせもの)と掏(す)りかへられてゐた。信乃(しの)は驚(おどろ)いて在村(ありむら)の邸(やしき)へ参(まゐ)り、そのことを申(まを)し上(あ)げようとする間(ま)もなく、もう使(つか)ひが参(まゐ)つてゐて、信乃(しの)を成氏(しげうぢ)の前(まへ)へ案内(あんない)するのだ。
成氏(しげうぢ)は上段(じようだん)の御簾(みす)の中(なか)に坐(すわ)り、執権(しつけん)の在村(ありむら)は一段(いちだん)ひくく坐(すわ)つて、家来(けらい)が左右(さゆう)に居流(ゐなが)れる。
在村(ありむら)は信乃(しの)に向(むか)ひ、
「結城(ゆうき)の城(しろ)にて打(う)ち死(じ)にの旧臣(きゆうしん)大塚匠作三戌(おほつかしようさくみつもり)が孫(まご)犬塚信乃(いぬつかしの)、亡父(ぼうふ)番作(ばんさく)の遺言(ゆゐごん)を守(まも)り、当家(とうけ)の宝刀(ほうとう)村雨(むらさめ)を献上(けんじよう)する段(だん)奇特(きとく)に思(おも)ふぞ」
と声(こゑ)をかける。信乃(しの)は頭(あたま)を上(あ)げ、
「いやその刀(かたな)の儀(ぎ)は」
といつて、贋(にせ)の刀(かたな)とすり換(か)へられてゐる話(はなし)を正直(しようじき)に申(まを)し上(あ)げると、在村(ありむら)は怒(いか)つて、
「村雨(むらさめ)の銘刀(めいとう)を失(うしな)つたといふはいつはりで、まことは汝(なんぢ)は敵(てき)の間諜(かんちよう)であらう。とく/\生(い)け捕(ど)れ」
と人々(ひと/゛\)に下知(げち)をする。声(こゑ)の下(した)から多(おほ)くの兵卒(へいそつ)は信乃(しの)を取(と)り囲(かこ)んで生(い)け捕(ど)りにしようとするが、信乃(しの)もこゝで命(いのち)を失(うしな)つてはならない身(み)だ。組(く)んで来(く)る人々(ひと/゛\)を、右(みぎ)に左(ひだり)になげ飛(と)ばし、飛鳥(ひちよう)のように飛(と)んで出(で)ると、白刃(しらは)がまはりから隙(す)き間(ま)もなくせまつて来(く)る。信乃(しの)は畳(たゝみ)をはね上(あ)げ、それを盾(たて)にして防(ふせ)いでゐたが、さきに進(すゝ)んだ一人(ひとり)の刀(かたな)を奪(うば)ひ取(と)つて身構(みがま)へた。三人(さんにん)斬(き)り五人(ごにん)たふし、一方(いつぽう)に途(みち)を開(ひら)いて、広庭(ひろには)に躍(をど)り出(い)で、なほも軒端(のきば)の松(まつ)を伝(つた)うて屋根(やね)の上(うへ)へ飛(と)び登(のぼ)ると、槍(やり)や刀(かたな)を持(も)つて人々(ひと/゛\)はうしろへせまつて来(く)る。信乃(しの)は前(まへ)に進(すゝ)む人々(ひと/゛\)をはげしく斬(き)り伏(ふ)せるに、ひと雪崩(なだれ)をつくつて屋根(やね)から転(ころ)び落(お)ちる。信乃(しの)一人(ひとり)に斬(き)りまくられ、死骸(しがい)はあちらにもこちらにもたふれてゐる。
信乃(しの)も浅傷(あさで)をおうたから、屋根(やね)より屋根(やね)に飛(と)びうつゝて、だん/\外(そと)へ遁(のが)れて行(ゆ)くと、そこに物見(ものみ)と思(おも)へる三階建(さんがいだ)ての大建(おほだ)て物(もの)がある。芳流閣(ほうりゆうかく)といふ額(がく)がかゝつてゐる。信乃(しの)はやつとその屋根(やね)の上(うへ)までよぢのぼり、遁(のが)れる途(みち)を探(さが)して見(み)るに、芳流閣(ほうりゆうかく)の真下(ました)には、たゞひろ/゛\とした大利根(おほとね)の川(かは)が流(なが)れてゐるだけだ。信乃(しの)ももう遁(のが)れて行(ゆ)く屋根(やね)を持(も)たない。下(した)では成氏(しげうぢ)が庭(には)におり、床几(しようぎ)を立(た)てさせ、信乃(しの)を仰(あふ)ぎ見(み)ながら、
「あれを射落(いおと)せ」
と下知(げち)をするけれど、雲(くも)をしのぐ芳流閣(ほうりゆうかく)の屋根(やね)までは強(つよ)い矢(や)も届(とゞ)かない。
この時(とき)在村(ありむら)はふつと犬飼見八(いぬかひけんぱち)のことを考(かんが)へた。犬飼見八信道(いぬかひけんぱちのぶみち)は、二階松(にかいまつ)山城守(やましろのかみ)の高弟(こうてい)であり、中(なか)にも捕(と)り物(もの)の柔道(じゆうどう)は得意(とくい)である。無双(むそう)の勇士(ゆうし)ではあるが在村(ありむら)ににくまれ、無実(むじつ)の罪(つみ)で入牢(にゆうろう)させられてゐる。在村(ありむら)は見八(けんぱち)を出(だ)して信乃(しの)を捕(とら)へさせることを考(かんが)へたのだ。信乃(しの)を捕(とら)へても、信乃(しの)に打(う)たれても、在村(ありむら)に取(と)つていづれも願(ねが)つてゐることである。
見八(けんぱち)は牢(ろう)から引(ひ)き出(だ)され、信乃(しの)取(と)り押(おさ)への下知(げち)を受(う)けた。目(め)ざす敵(てき)はと見(み)れば、芳流閣(ほうりゆうかく)の屋根(やね)高(たか)く、血刀(ちがたな)を取(と)つて立(た)つてゐる。見八(けんぱち)は鎖帷子(くさりかたびら)を着込(きこ)み、たゞ十手(じつて)を手(て)に取(と)つて、三層楼(さんそうろう)の屋根(やね)の上(うへ)高(たか)くよぢ上(のぼ)つた。すべる瓦(かはら)を足(あし)の下(した)にして、信乃(しの)と見八(けんぱち)、まことに無双(むそう)の勇士(ゆうし)と勇士(ゆうし)の、にらみあつた姿(すがた)は勇(いさ)ましい。
互(たがひ)にすきをうかゞひ、瓦(かはら)の上(うへ)をあちらこちらと踏(ふ)み廻(まは)つてゐたが、信乃(しの)はよい足場(あしば)をつくり、見八(けんぱち)目(め)がけて続(つゞ)けざまに打(う)ちおろす太刀(たち)のはげしさには、見八(けんぱち)も真(ま)つ二(ぷた)つになつたかと思(おも)はれる。見八(けんぱち)の眉間(みけん)をめがけて打(う)ちおろした刀(かたな)を、見八(けんぱち)はやく十手(じつて)で受(う)け止(とて)めれば、信乃(しの)の刀(かたな)は鍔際(つばぎは)から折(を)れて飛(と)び散(ち)つた。見八(けんぱち)はそのすきを見(み)て、得意(とくい)の柔道(じゆうどう)で組(く)みついて行(ゆ)く。信乃(しの)もその儘(まゝ)左手(ひだりて)で引(ひ)きつけ、しつかりと腕(うで)を取(と)つてはなさない。「えい/\」声(こゑ)を出(だ)して曳(ひ)き合(あ)つてゐるが、なんにせよ足場(あしば)は危(あやふ)い屋根(やね)の上(うへ)だ。いづれかゞ瓦(かはら)をふみすべらしたと見(み)る間(ま)に、ごろ/\と屋根(やね)の上(うへ)をころがつて、二人(ふたり)は引(ひ)つ組(く)んだまゝ、雲(くも)を突(つ)く三層楼(さんそうろう)の屋根(やね)から、石(いし)を落(おと)したように幾十丈(いくじゆうじよう)か下(した)の大刀根(おほとね)の上(うへ)へ落(お)ちて行(い)つた。
「あつ」
と成氏(しげうぢ)の兵卒(へいそつ)たちが驚(おどろ)いてゐる間(ま)に、信乃(しの)と見八(けんぱち)とは刀根川(とねがは)の水底(みづそこ)深(ふか)く落(お)ち込(こ)んだかと思(おも)へば、「どさり」と音(おと)がして、二人(ふたり)は下(した)につないであつた、一艘(いつそう)の小舟(こぶね)の上(うへ)へ落(お)ちて来(き)たのだ。
さつと水煙(みづけむ)りがあがり、舟(ふね)が揺(ゆ)れたと思(おも)ふ拍子(ひようし)に、つないである綱(つな)はほどけ、舟(ふね)は矢(や)を射(い)るような早河(はやかは)の真(まつ)たゞ中(なか)へ吐(は)き出(だ)された。兵卒(へいそつ)たちがあわて騒(さわ)いでゐる間(あひだ)に、小舟(こぶね)は見(み)る見(み)る流(なが)されて、川下(かはしも)遠(とほ)く姿(すがた)を消(け)した。
胡那屋(こなや)の客人(きやくじん)
下総(しもふさ)行徳(ぎようとく)の入江橋(いりえばし)の橋(はし)づめに、古那屋(こなや)といふ旅籠屋(はたごや)がある。主人(しゆじん)の文五兵衛(ぶんごべえ)、妻(つま)には一昨年(いつさくねん)死(し)なれ、子供(こども)は二人(ふたり)ある。長男(ちようなん)は小文五(こぶんご)といひ、今年(ことし)二十歳(はたち)であるが、身(み)のたけ五尺九寸(ごしやくきゆうすん)肉隆(にくたか)く骨逞(ほねたくま)しくて、武芸(ぶげい)を好(この)み、剣術(けんじゆつ)柔道(じゆうどう)相撲(すまふ)に得意(とくい)だ。妹(いもうと)は十九(じゆうく)、お沼藺(ぬゐ)といつて、市川(いちかは)の船頭(せんどう)山林房八郎(やまばやしふさはちろう)へとつぎ、大八(だいはち)といふ男(をとこ)の子(こ)を生(う)んでゐる。今年(ことし)もう四(よつ)つになつた。文五兵衛(ぶんごべえ)は、これといつて富(と)んでゐるわけでもないが、欲(よく)が少(すく)ないから、暇(ひま)のあるをりには入(い)り江(え)に立(た)つて釣(つ)りをするのが楽(たの)しみだ。
今日(けふ)は六月(ろくがつ)二十一日(にじゆういちにち)、牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(さいれい)である。家毎(いへごと)に酒宴(しゆえん)が始(はじ)まつて騒々(そう/゛\)しいけれど、文五兵衛(ぶんごべえ)はそれにも気(き)の向(む)く方(ほう)でない。旅籠屋(はたごや)のことだから昼(ひる)は別(べつ)して暇(ひま)であるし、夜(よる)の祭(まつ)りを昼寝(ひるね)して待(ま)つのも臆劫(おつくう)だ。しばらくでも釣(つ)りをして楽(たの)しまうと、入(い)り江(え)の岸(きし)に蘆(あし)を折(を)り敷(し)き、無心(むしん)に釣(つ)り竿(ざを)を垂(た)れてゐる。
その時(とき)である。一艘(いつそう)の小舟(こぶね)が潮(しほ)に引(ひ)かれ波(なみ)に揺(ゆ)られて、河上(かはかみ)から流(なが)れて来(き)た。次第(しだい)にこちらの岸(きし)へ流(なが)れ寄(よ)るのを見(み)れば、中(なか)には二人(ふたり)の武士(ぶし)が倒(たふ)れ死(し)んでゐる。「こんな舟(ふね)をこゝらに置(お)けば、土地(とち)の面倒(めんどう)にもなるだらう。障(さは)らぬ神(かみ)に祟(たゝ)りはない」と、竿(さを)を取(と)り直(なほ)し、そつと舟(ふね)をつき流(なが)さうとして、つく/゛\見(み)るに驚(おどろ)いた。
「やつ、犬飼見八(いぬかひけんぱち)さんぢやあねえか」
頬尖(ほゝさき)に黒痣(くろあざ)のあるのは、確(たしか)に犬飼見兵衛(いぬかひけんべえ)の一子(いつし)、見八信道(けんぱちのぶみち)である。この人(ひと)は助(たす)けなければならぬと、舟(ふね)を繋(つな)ぎとめ、その上(うへ)に乗(の)り移(うつ)つていろ/\介抱(かいほう)するが、生(い)きかへりそうもない。家(いへ)へかへり薬(くすり)を持(も)つて来(こ)ようと立(た)つ拍子(ひようし)に、思(おも)はずもう一人(ひとり)の武士(ぶし)につまづいて脇腹(わきばら)を蹴(け)ると、その武士(ぶし)は、
「うーん」
といつて生(い)き返(かへ)つた。
「こゝはどこの浦(うら)でござるか。してあなたは」
「頬尖(ほゝさき)に黒痣(くろあざ)のあるが目印(めじるし)で、かねて懇意(こんい)の犬飼見八(いぬかひけんぱち)さんを助(たす)けようとする間(あひだ)に、あなたが生(い)き返(かへ)りなさつたか」
「やつ、頬尖(ほゝさき)に黒痣(くろあざ)とは。さてはこの方(かた)が犬飼見八殿(いぬかひけんぱちどの)でござつたか。私(わたし)は大塚村(おほつかむら)の郷士(ごうし)犬塚信乃戌孝(いぬつかしのもりたか)と申(まを)すもの。滸河殿(こがどの)に仕(つか)へる武士(ぶし)の中(なか)に、黒痣(くろあざ)あるを目印(めじるし)に自分(じぶん)の子供(こども)をさがして貰(もら)ひたいと頼(たの)まれたは、犬飼(いぬかひ)どのゝまことの父親(ちゝおや)、糠助(ぬかすけ)どのでござつた」
「糠助(ぬかすけ)どのとやらは知(し)らないが、この見八(けんぱち)どのゝ父御(てゝご)見兵衛(けんべえ)どのはかねての見知(みし)りごし。思(おも)へばもう十八九年(じゆうはつくねん)の昔(むかし)にもならうか。見兵衛(けんべえ)どのは、あれあの向(むか)うの橋(はし)のほとりで、餓(う)ゑつかれた旅人(たびびと)の子供(こども)を貰(もら)ひ、私(わたし)の宿(やど)へあづけにござつた。ちようどわが子(こ)の小文五(こぶんご)が生(うま)れた次(つ)ぎの年(とし)、わが妻(つま)の乳(ちゝ)にすがり、見八(けんぱち)どのも小文吾(こぶんご)も一(いつ)しよに成人(せいじん)して、今(いま)は見八(けんぱち)どのは滸河(こが)どのに仕(つか)へる立派(りつぱ)な武士(ぶし)」
「それまで聞(き)けば、糠助(ぬかすけ)どのにも申(まを)しわけがござらぬ。見八(けんぱち)どのを殺(ころ)したからには、かうして言(い)ひわけ」
と、刀(かたな)をぬき腹(はら)へつきたてようとすると、
「犬塚氏(いぬづかうぢ)、はやまり給(たま)ふな」
といつて、身(み)を起(おこ)したのは見八(けんぱち)である。
「夢(ゆめ)うつつのように話(はなし)を聞(き)きながら、見八(けんぱち)も今(いま)かように生(い)き返(かへ)り申(まを)した。さては貴殿(きでん)はわがまことの父(ちゝ)の恩人(おんじん)でござつたか」
と、それから三人(さんにん)とも/゛\これまでのことを語(かた)り合(あ)つた。不思議(ふしぎ)な玉(たま)、黒痣(くろあざ)のことを話(はな)し合(あ)つた時(とき)に、文五兵衛(ぶんごべえ)も膝(ひざ)を打(う)つて、
「それならわが子(こ)の小文吾(こぶんご)も生(うま)れながら同志(どうし)の一人(ひとり)でござつたか」
と、いつて語(かた)るところを聞(き)くに、文五兵衛(ぶんごべえ)は昔(むかし)安房(あは)の国(くに)の領主(りようしゆ)神余光弘(じんよみつひろ)に仕(つか)へてゐた近習(きんじゆ)那古七郎(なこしちろう)の弟(おとうと)であつた。光弘(みつひろ)が金椀(かなまり)の昔(むかし)の家来(けらい)杣木朴平(そまきぼくへい)等(など)に打(う)たれた時(とき)、七郎(しちろう)は主君(しゆくん)のために戦(たゝか)ひ朴平(ぼくへい)に打(う)たれた。さて神余(じんよ)の家(いへ)も滅(ほろ)んだので、文五兵衛(ぶんごべえ)は行徳(ぎようとく)へ落(お)ちて来(き)て、那古(なこ)の姓(せい)を倒(さか)さにし、古那屋(こなや)といふ旅籠屋(はたごや)を開(ひら)いたのであつた。小文吾(こぶんご)は力(ちから)が強(つよ)く、その近傍(きんぼう)で評判(ひようばん)の悪者(わるもの)犬太(いぬた)といふを打(う)ち殺(ころ)したので、世間(せけん)では犬田小文吾(いぬたこぶんご)と呼(よ)んでゐた。小文吾(こぶんご)がまだ赤子(あかご)の頃(ころ)、食(く)ひ初(そ)めの祝(いは)ひの赤飯(せきはん)をたべようと椀(わん)の中(なか)へ箸(はし)を立(た)てた時(とき)に、何(なに)かころころと転(ころ)ぶものがあるので、取(と)り上(あ)げて見(み)ると『悌(てい)』の字(じ)のある美(うつく)しい玉(たま)であつた。小文吾悌順(こぶんごやすより)といふ名(な)はそこから来(き)てゐる。また十五(じゆうご)の時(とき)に相撲(すまふ)を取(と)つて、相手(あひて)を投(な)げ飛(と)ばし自分(じぶん)も臀餅(しりもち)をついた拍子(ひようし)に牡丹(ぼたん)の花(はな)のような黒痣(くろあざ)が出来(でき)た。
小文吾(こぶんご)の妹(いもうと)お沼藺(ぬゐ)のとついでゐる先(さき)の山林房八(やまばやしふさはち)と小文吾(こぶんご)との仲(なか)は、ふとしたことから悪(わる)くなつた。その頃(ころ)鎌倉(かまくら)に念玉坊(ねんぎよくぼう)、観得坊(かんとくぼう)といふ山伏(やまぶし)があつて、武芸(ぶげい)を好(この)み、我慢(がまん)が強(つよ)く、山伏(やまぶし)の頭(かしら)になることを争(あらそ)つて、はては相撲(すまふ)で事(こと)をきめることになつた。念玉坊(ねんぎよくぼう)は小文吾(こぶんご)を観得坊(かんとくぼう)は房八(ふさはち)を頼(たの)み、八幡(はちまん)の社(やしろ)で晴(は)れの勝負(しようぶ)をしたが、小文吾(こぶんご)は房八(ふさはち)を投(な)げ飛(と)ばし、念玉坊(ねんぎよくぼう)の勝(か)ちになつたので、それからどうも二人(ふたり)の仲(なか)が面白(おもしろ)くない。しかし父(ちゝ)の文吾兵衛(ぶんごべえ)は小文吾(こぶんご)に喧嘩(けんか)を誡(いまし)め、親孝行(おやこう/\)の小文吾(こぶんご)は指(ゆび)を紙縒(こより)で結(むす)んで親(おや)のいひつけどほり心(こゝろ)にかたく誓(ちか)つてゐる。
こゝに信乃(しの)、見八(けんぱち)、小文吾(こぶんご)は同(おな)じ玉(たま)を持(も)つた同志(どうし)であることがわかつた。見八(けんぱち)は、その名(な)に玉扁(たまへん)をつけて、今日(けふ)から現八(げんぱち)と改(あらた)めた。
蘆(あし)の葉(は)ががさ/\と揺(ゆ)れて、ぬつと姿(すがた)を現(あらは)したものがある。驚(おどろ)いて見返(みかへ)れば、小文吾(こぶんご)であつた。
「話(はなし)は最前(さいぜん)から残(のこ)らず聞(き)いたが、かうしたところで深(ふか)い話(はなし)はあぶない。御両所(ごりようしよ)はまづこの着換(きが)へと改(あらた)められるがよい。父上(ちゝうへ)はお客人(きやくじん)を案内(あんない)して、人(ひと)に見咎(みとが)められぬうち、一時(いつとき)も早(はや)くうちへお帰(かへ)り下(くだ)さい」
といつて、信乃(しの)現八(げんぱち)に、血(ち)のついた着物(きもの)をぬがせ新(あた)らしいのと着(き)かへさせる。小文吾(こぶんご)はそれを布呂敷(ふろしき)に包(つゝ)みかくした。父(ちゝ)は信乃等(しのら)を案内(あんない)して去(さ)る。あとは夕闇(ゆふやみ)だ。小文吾(こぶんご)はこつそり舟(ふね)をつき出(だ)して、川下(かはしも)へ流(なが)れて行(ゆ)くのを見送(みおく)りながら、蘆(あし)を分(わ)けて立(た)ち去(さ)らうとすると、同(おな)じく蘆(あし)の茂(しげ)みの陰(かげ)から姿(すがた)を現(あらは)して、小文吾(こぶんご)の腰(こし)をつかまへたものがある。互(たがひ)に無言(むごん)で押(お)し合(あ)つてゐたが、小文吾(こぶんご)は振(ふ)りほどいた拍子(ひようし)に駈(か)け出(だ)すと、布呂敷(ふろしき)から血染(ちぞ)めの着物(きもの)がぬけ出(で)て落(お)ちる。うしろの男(をとこ)はそれを足(あし)にからませ、拾(ひろ)ひ上(あ)げて懐(ふところ)にねぢ込(こ)んだ。闇(やみ)が二人(ふたり)の姿(すがた)を吸(す)うた。
古那屋(こなや)にはこの程(ほど)から念玉坊(ねんぎよくぼう)が逗留(とうりゆう)してゐたけれども、今日(けふ)は祭(まつ)りを見物(けんぶつ)に行(ゆ)き、夜(よる)も帰(かへ)らぬことになつてゐる。奥座敷(おくざしき)へは文五兵衛(ぶんごべえ)をはじめ、信乃(しの)、現八(げんぱち)、小文吾(こぶんご)があつまつて、親(した)しい話(はなし)に時(とき)の移(うつ)るのも知(し)らない。その時(とき)小文吾(こぶんご)の子分(こぶん)が来(き)て、小文吾(こぶんご)の子分(こぶん)と房八(ふさはち)の子分(こぶん)とがお祭(まつ)りで喧嘩(けんか)をしたとしらせに来(き)た。小文吾(こぶんご)はその始末(しまつ)をつけにいつた。
さて次(つ)ぎの日(ひ)である。信乃(しの)、現八(げんぱち)はいつになつても起(お)き出(で)て来(き)ない。文五兵衛(ぶんごべえ)が心配(しんぱい)になつて見(み)に行(ゆ)くと、信乃(しの)は昨日(きのふ)の疵口(きずぐち)がいたみ、ひどい熱(ねつ)が出(で)て頭(あたま)もあがらないといふ。現八(げんぱち)がいろ/\と介抱(かいほう)してゐる。これは疵口(きずぐち)が風(かぜ)に吹(ふ)かれたところから、破傷風(はしようふう)を起(おこ)したものに相違(そうい)ない。那古七郎(なこしちろう)の家(いへ)には昔(むかし)から破傷風(はしようふう)をなほす秘伝(ひでん)があつて、それは若(わか)い男(をとこ)と女(をんな)の血(ち)を同(おな)じ分量(ぶんりよう)づつ合(あは)せ、それで疵口(きずぐち)を洗(あら)へばよいといふのだが、今(いま)そんな血(ち)を取(と)るエ夫(くふう)もない。現八(げんぱち)は武蔵(むさし)の志婆浦(しばうら)に破傷風(はしようふう)のよい薬(くすり)のあるのを思(おも)ひ出(だ)したから、今夜(こんや)までに取(と)つて来(く)るといつて出(で)かけていつた。
小文吾(こぶんご)はまだ帰(かへ)つて来(こ)ない。文五兵衛(ぶんごべえ)ひとり奥座敷(おくざしき)で信乃(しの)の介抱(かいほう)をしてゐると、役所(やくしよ)から文五兵衛(ぶんごべえ)に用事(ようじ)だといつて来(き)た。信乃(しの)のことを調(しら)べられるのに相違(そうい)ないと思(おも)ふけれど、仕方(しかた)がないから信乃(しの)に気安(きやす)めをいつて出(で)ていつた。
小文吾(こぶんご)は前(まへ)の晩(ばん)いろ/\と喧嘩(けんか)の後始末(あとしまつ)をし、房八(ふさはち)の子分(こぶん)を手厚(てあつ)く介抱(かいほう)して送(おく)り帰(かへ)し、さて家(いへ)へ帰(かへ)らうとして途(みち)まで来(く)ると、あとから房八(ふさはち)が追(お)つかけて来(き)た。
房八(ふさはち)ははじめから喧嘩(けんか)を売(う)つて来(く)る。けれども小文吾(こぶんご)は父親(ちゝおや)に誓(ちか)つてゐるので、手出(てだ)しをしようとしない。房八(ふさはち)はさん/゛\悪口(あつこう)をいつた挙句(あげく)に土足(どそく)で小文吾(こぶんご)の肩(かた)を踏(ふ)みつけて、
「犬田(いぬだ)、これでもまだ済(す)まぬぞ。今夜(こんや)行(ゆ)くから待(ま)つてをれ」
といひながら、そこへ来合(きあは)せた観得坊(かんとくぼう)と一(いつ)しよに、小気味(こきみ)よげに立(た)ち去(さ)つた。
小文吾(こぶんご)は無念(むねん)に思(おも)ふものゝ、「よくも父(ちゝ)への誓(ちか)ひを破(やぶ)らなかつた」と、土(つち)をはらひながら立(た)ち上(あ)がりかけると、ばら/\と出(で)た人達(ひとたち)が、
「犬田(いぬだ)、御用(ごよう)だ」
といつて縄(なは)を打(う)ちにかゝつた。見(み)れば父親(ちゝおや)の文五兵衛(ぶんごべえ)も縄(なは)を打(う)たれてゐる。役人(やくにん)は小文吾(こぶんご)に向(むか)ひ、昨夜(さくや)古那屋(こなや)へとまつた二人(ふたり)の客人(きやくじん)は、信乃(しの)、見八(けんぱち)だといふ知(し)らせをしたものがあるから、これより家捜(やさが)しに行(ゆ)く途中(とちゆう)、そちも同罪(どうざい)により縄(なは)を打(う)つといふ。小文吾(こぶんご)はなんとかして誤魔化(ごまか)し、父(ちゝ)をも取(と)り返(かへ)す工夫(くふう)をしようと思(おも)ひ、
「何(なに)しろ客商売(きやくしようばい)のこと故(ゆゑ)、お客人(きやくじん)の身(み)の上(うへ)まで取(と)り調(しら)べることは出来(でき)ませんでしたが、さうした強(つよ)いお武家(ぶけ)ならば、これより取(と)り押(おさ)へに参(まゐ)つても、たゞ怪我人(けがにん)の出(で)るばかり、それよりはこの私(わたし)がその信乃(しの)とやらの寝首(ねくび)をかいて参(まゐ)りませう。この策略(さくりやく)はいかゞでござる」と話上手(はなしじようず)に説(と)きつけると、役人(やくにん)も感心(かんしん)して、
「それならば信乃(しの)の首(くび)はそちにまかせた。父(ちゝ)文五兵衛(ぶんごべえ)はその時(とき)までの人質(ひとじち)であるぞ」
といひながら、父(ちゝ)の縄(なは)を引(ひ)いて行(い)つた。
小文吾(こぶんご)の難儀(なんぎ)
小文吾(こぶんご)は家(いへ)へ帰(かへ)つたが、どうしてよいか途方(とほう)にくれた。そこへ念玉坊(ねんぎよくぼう)が帰(かへ)つて来(き)た。
「浜(はま)でこんな大(おほ)きな法螺貝(ほらがひ)を買(か)つて来(き)た」などといつて見(み)せながら、小文吾(こぶんご)の尺八(しやくはち)を借(か)り、
「今夜(こんや)はこれでも吹(ふ)いて夜(よる)をすごさうか」といつて、法螺貝(ほらがひ)もそこに忘(わす)れ、別(べつ)の座敷(ざしき)へはひつて行(い)つた。
小文吾(こぶんご)の子分(こぶん)三人(さんにん)が出(で)て来(く)る。「房八(ふさはち)に土足(どそく)にかけられても手出(てだ)しの出来(でき)ないような親分(おやぶん)は、もう親分(おやぶん)でも子分(こぶん)でもない」などといつて、小文吾(こぶんご)に悪口(あつこう)をいひながら拳(こぶし)で打(う)つてかかると、小文吾(こぶんご)はそれを投(な)げ飛(と)ばした。たゞ一人(ひとり)になつた小文吾(こぶんご)は、思案(しあん)にあまり溜(た)め息(いき)ばかりをついてゐる。
ふいに門(かど)の戸(と)があいて、送(おく)つて来(き)た駕籠(かご)の中(なか)から出(で)て来(き)たのは、房八(ふさはち)の母(はゝ)の妙真(みようしん)とお沼藺(ぬゐ)、大八(だいはち)の三人(さんにん)であつた。
妙真(みようしん)のいふところでは、房八(ふさはち)の機嫌(きげん)はどんなにしても直(なほ)らぬし、双方(そうほう)一層(いつそう)気(き)まづくなつたことだから、お沼藺(ぬゐ)をひとまづ引(ひ)き取(と)つて貰(もら)ひたいといふ。小文吾(こぶんご)は、「今日(けふ)は父親(ちゝおや)もゐないことだから」といつて頼(たの)むけれども、妙真(みようしん)は聞(き)き入(い)れない。
「それなら離縁状(りえんじよう)を出(だ)して貰(もら)ひませう」
「離縁状(りえんじよう)はとつくにこゝに」
といつて妙真(みようしん)のさし出(だ)す紙(かみ)を開(ひら)いて見(み)れば、信乃(しの)の姿絵(すがたえ)をかいたお役所(やくしよ)の布令書(ふれがき)である。
「いかにも離縁状(りえんじよう)はたしかに受(う)け取(と)つた。妹(いもうと)のお沼藺(ぬゐ)もたしかに」
「さあこの離縁状(りえんじよう)があるからには、房八(ふさはち)のすることにも道理(どうり)がございませう」
といつて、妙真(みようしん)は立(た)ち去(さ)つた。
お沼藺(ぬゐ)は、何(なに)やかやの心配(しんぱい)で病気(びようき)になつたような気(き)がする。父親(ちゝおや)の帰(かへ)つて来(く)るまで奥(おく)へはひつてやすんでゐようとすると、小文吾(こぶんご)はその前(まへ)に立(た)ちふさがつてどなりつける。奥(おく)には見(み)つけられてならない信乃(しの)が寝(ね)てゐるのだ。お沼藺(ぬゐ)は、わけを知(し)らず小文吾(こぶんご)の不人情(ふにんじよう)を怨(うら)んでゐる。
そこへまた表(おもて)の戸(と)ががらつとあいて、はひつて来(き)たのは房八(ふさはち)である。長脇(ながわき)ざしをぶち込(こ)み、部屋(へや)の真中(まんなか)へ高(たか)あぐらをかいて坐(すわ)つて、しばらくは小文吾(こぶんご)をにらまへてゐる。
「小文吾(こぶんご)、お前(まへ)も男(をとこ)なら、今日(けふ)土足(どそく)にかけられた恥(はぢ)をかへせ。お沼藺(ぬゐ)をかへすからには、俺(おれ)もかへすものは帰(かへ)さうと思(おも)ふ」
といつて投(な)げ出(だ)す布呂敷包(ふろしきづゝ)みの結(むす)びがほどけ、中(なか)から出(で)たのは前夜(ぜんや)落(おと)した血染(ちぞめ)の着物(きもの)だ。
「ぢやあ前夜(ぜんや)の男(をとこ)はお前(まへ)であつたか」
「さあ、その証拠(しようこ)がこつちの手(て)にはひつたからには、よもや隠(かく)し立(だ)ても出来(でき)まいが。これから踏(ふ)み込(こ)んで縄(なは)をかけようか」
と立(た)ち上(あが)つて、奥(おく)の間(ま)への襖(ふすま)に手(て)をかける。前(まへ)にゐたお沼蘭(ぬゐ)が真(ま)つ先(さき)によつて、夫(をつと)の手(て)を引(ひ)きもどさうとした。
小文吾(こぶんご)は、きり/\腹(はら)が立(た)つて今(いま)にも刀(かたな)を抜(ぬ)きたいが、まだ我慢(がまん)をしてゐると、
「お前(まへ)までが邪魔(じやま)をするか」
といつて、お沼藺(ぬゐ)を蹴(け)つた房八(ふさはち)の足(あし)はあやまつて子供(こども)の大八(だいはち)の脇腹(わきばら)にあたる。大八(だいはち)は「あつ」ともいはず息(いき)が絶(た)えた。お沼藺(ぬゐ)はその子(こ)を横抱(よこだ)きにしたまゝ、肩(かた)をふるはして泣(な)き入(い)つた。
房八(ふさはち)は邪魔(じやま)ものがなくなつたので、また奥(おく)の間(ま)への襖(ふすま)に手(て)をかける。小文吾(こぶんご)がそれを防(ふせ)ぐ。房八(ふさはち)が拳(こぶし)をあげて小文吾(こぶんご)を打(う)つと、小文吾(こぶんご)の防(ふせ)いだ手(て)に結(むす)んだ紙縒(こより)が切(き)れた。
「もう我慢(がまん)の紙縒(こより)も切(き)れた」
と、小文吾(こぶんご)は刀(かたな)を抜(ぬ)き、房八(ふさはち)も抜(ぬ)いて打(う)ち合(あは)せた。あたりはすつかり物(もの)すごい様子(ようす)になつた。小文吾(こぶんご)と房八(ふさはち)とはよい相手(あいて)であるから、勝負(しようぶ)は容易(ようい)にきまらない。お沼藺(ぬゐ)一人(ひとり)は、もう半狂乱(はんきようらん)だ。兄(あに)と夫(をつと)とどつちに怪我(けが)があつてもならないと、刀(かたな)の刃(は)をぎり/\結(むす)び合(あは)せてゐる下(した)へはひり、あつちこつちを取(と)りなだめようとしてゐるのが二人(ふたり)に邪魔(じやま)になる。
房八(ふさはち)は僅(わづか)のすきを見(み)て、ぱつと小文吾(こぶんご)に斬(き)りかけた。小文吾(こぶんご)がすかさず身(み)をかはした下(した)には、お沼藺(ぬゐ)のからだがあつた。お沼藺(ぬゐ)は乳(ちゝ)の下(した)をはげしい勢(いきほ)ひで斬(き)り下(さ)げられた。房八(ふさはち)がはつとして刀(かたな)を取(と)り直(なほ)すからだの乱(みだ)れに、小文吾(こぶんご)の刀(かたな)が打(う)ち込(こ)んで、房八(ふさはち)は右(みぎ)の肩先(かたさき)をばらりと斬(き)り下(さ)げられた。勝負(しようぶ)はついたのだ。
「犬田(いぬだ)、しばらく待(ま)て。いふことがある」
「今(いま)になつてなんのいふことだ。卑怯(ひきよう)な山林(やまばやし)」
「いや待(ま)て」
重傷(おもで)の苦(くる)しさに、房八(ふさはち)はあえぎあえぎ語(かた)る。
「犬田(いぬだ)、俺(おれ)はかうなるのが望(のぞ)みだつたのだ。俺(おれ)はお前(まへ)をおこらせて、お前(まへ)に殺(ころ)されに出(で)て来(き)たのだ」
房八(ふさはち)の語(かた)るところはかうであつた。房八(ふさはち)の祖父(そふ)はもと安房(あは)の神余(じんよ)の武士(ぶし)金椀(かなまり)に仕(つか)へてゐた杣木朴平(そまきぼくへい)である。杣木(そまき)は神余(じんよ)の家(いへ)を滅(ほろ)ぼすわるだくみをしてゐた定包(さだかね)を打(う)つつもりで、間違(まちが)つて主君(しゆくん)の神余(じんよ)や那古七郎(なこしちろう)を打(う)ち果(は)たした。朴平(ぼくへい)はそこで殺(ころ)されたが、朴平(ぼくへい)の子(こ)は遁(のが)れて市川(いちかは)へ来(き)、犬江屋(いぬえや)の養子(ようし)になり、房八(ふさはち)を生(う)んだ。犬江屋(いぬえや)は房八(ふさはち)の家(いへ)のほんとうの屋号(やごう)である。けれども房八(ふさはち)はその祖父(そふ)の杣木(そまき)といふ字(じ)をわざとこはして組(く)み合(あは)せ、山林(やまばやし)といふ名字(みようじ)にし、自分(じぶん)で名乗(なの)つてゐた。さて古那屋(こなや)の娘(むすめ)を妻(つま)に貰(もら)つたあとで、いろ/\古那屋(こなや)の素性(すじよう)を知(し)つて見(み)ると驚(おどろ)いた。古那屋(こなや)に取(と)つては、房八(ふさはち)の父(ちゝ)は兄(あに)の仇(かたき)なのだ。だから房八(ふさはち)の父(ちゝ)は妻(つま)の妙真(みようしん)や子(こ)の房八(ふさはち)に固(かた)く遺言(ゆゐごん)して、この後(のち)をりがあつたら古那屋(こなや)のために一命(いちめい)を捧(さゝ)げ、那古(なこ)を殺(ころ)したことの罪滅(つみほろぼ)しをしなければいけないといつて置(お)いた。念玉坊(ねんぎよくぼう)と観得坊(かんとくぼう)との争(あらそ)ひにも、房八(ふさはち)はもちろん勝(か)ちを小文吾(こぶんご)に譲(ゆづ)つた。
さて今度(こんど)の信乃(しの)現八(げんぱち)の事件(じけん)である。房八(ふさはち)も計(はか)らず川岸(かはぎし)で、信乃(しの)文五兵衛等(ぶんごべえなど)のはなすのを立(た)ち聞(ぎ)いたが、さて信乃(しの)らを遁(に)がしてやるには、古那屋(こなや)は旅籠屋(はたごや)だけに人(ひと)の出入(でい)りが多(おほ)くかへつてやりにくい。これは自分(じぶん)が一骨(ひとほね)折(を)らなければならぬと考(かんが)へた。そのうち信乃(しの)らは古那屋(こなや)へ引(ひ)き上(あ)げたし、誰(たれ)にも気取(けど)られぬようこつそり小文吾(こぶんご)に相談(そうだん)をしようと、うしろから小文吾(こぶんご)を引(ひ)つばつたのだが、小文吾(こぶんご)は曲者(くせもの)と思(おも)ひ、むりに振(ふ)りほどいて行(い)つてしまつた。あとに落(お)ちた血染(ちぞ)めの着物(きもの)、こんなものが残(のこ)つてゐてはわるいと、房八(ふさはち)はこつそり家(いへ)へ持(も)つて帰(かへ)つた。
さていろ/\と考(かんが)へて見(み)たが、よい分別(ぶんべつ)も出(で)て来(こ)ない。ふと思(おも)ひ出(だ)したのは、夕闇(ゆふやみ)ながらに見(み)た信乃(しの)の顔(かほ)である。それがどこやら自分(じぶん)の顔(かほ)に似(に)てゐる。滸我殿(こがどの)の手(て)のものも、信乃(しの)を詳(くは)しく見(み)たわけではないし、自分(じぶん)の首(くび)を持(も)つて行(ゆ)けば、このふれ出(だ)しの信乃(しの)の姿絵(すがたえ)にあたり、それで信乃(しの)は遁(のが)れることが出来(でき)よう。今(いま)こそ父(ちゝ)の遺言(ゆゐごん)の如(ごと)く、古那屋(こなや)のために一命(いちめい)を投(な)げ出(だ)す時(とき)が来(き)た。しかし今(いま)そんな話(はなし)を持(も)ち込(こ)んでも、小文吾(こぶんご)は房八(ふさはち)の首(くび)を斬(き)つてくれるものでもないから、母(はゝ)ともよく相談(そうだん)をし、昨日(きのふ)からわざ/\小文吾(こぶんご)に喧嘩(けんか)を売(う)つて、出来(でき)るだけ小文吾(こぶんご)をおこらせて置(お)き、自分(じぶん)に打(う)つてかゝらせるようにした。お沼藺(ぬゐ)をかへしたのも、そのために母(はゝ)と相談(そうだん)づくのことである。
「犬田(いぬだ)、この山林(やまばやし)の心(こゝろ)を汲(く)んでくれぬか。さあ一刻(いつこく)も早(はや)く山林(やまばやし)の首(くび)を打(う)つてくれ」
お沼藺(ぬゐ)は重傷(おもで)ながらも夫(をつと)の本心(ほんしん)を聞(き)いて、今更(いまさら)ながら喜(よろこ)ぶ。帰(かへ)つたはずの妙真(みようしん)も、様子(ようす)を見(み)て門(かど)の戸(と)を開(あ)けてはひり、誰(たれ)も彼(かれ)も苦(くる)しい心(こゝろ)を涙(なみだ)で噛(か)みしめた。
「山林(やまばやし)、犬死(いぬじ)ににはならないぞ。喜(よろこ)んでくれ。君(きみ)が死(し)んでくれても、犬塚殿(いぬつかどの)は昨日(きのふ)からの破傷風(はしようふう)で立(た)ちあがれない苦(くる)しい病気(びようき)、このまゝ死(し)なれたら君(きみ)のせつかくの心(こゝろ)も水(みづ)の泡(あわ)になるところだつたが、君(きみ)とお沼藺(ぬゐ)が流(なが)してくれたこの血潮(ちしほ)は、犬塚殿(いぬつかどの)の病気(びようき)をもなほしてくれる」と、小文吾(こぶんご)は那古(なこ)の家(いへ)に伝(つた)はつた秘伝(ひでん)の話(はなし)をし、そこに転(ころ)がつてゐた念玉坊(ねんぎよくぼう)の法螺貝(ほらがひ)を取(と)つて、房八(ふさはち)とお沼藺(ぬゐ)の血(ち)を取(と)り、奥(おく)へ行(ゆ)く襖(ふすま)をあけてかけ込(こ)まうとした。信乃(しの)は最前(さいぜん)からの騒(さわ)ぎを奥(おく)の間(ま)で聞(き)いてゐたが、寝(ね)てもゐられないのでゐざりゐざり、襖(ふすま)のそばまで出(で)て来(き)てゐた。これも房八(ふさはち)の深(ふか)い志(こゝろざし)に感謝(かんしや)の涙(なみだ)を噛(か)みしめてゐたのだ。襖(ふすま)をあけて駈(か)け込(こ)んだ小文吾(こぶんご)が信乃(しの)にぶつかつた拍子(ひようし)に、法螺貝(ほらがひ)を取(と)り落(おと)して、信乃(しの)の着物(きもの)がさつと血(ち)に染(そ)むと、信乃(しの)も張(は)りつめた元気(げんき)をなくしてばたりと倒(たふ)れてしまつたが、小文吾(こぶんご)が行燈(あんどん)を持(も)つて側(そば)へ寄(よ)り、信乃(しの)の様子(ようす)を伺(うかが)ふと、信乃(しの)は眠(ねむ)つたものゝ覚(さ)めたような工合(ぐあひ)で、身体(からだ)を持(も)ち起(おこ)しかけた。信乃(しの)の病気(びようき)は癒(い)えたのだ。
「この上(うへ)は一刻(いつこく)も早(はや)く首(くび)を打(う)て。おそくなれば追手(おつて)がかゝる」
といふので、犬田(いぬだ)はまはりの様子(ようす)を見(み)て廻(まは)り、房八(ふさはち)のうしろに刀(かたな)を取(と)つて立(た)つた。
その時(とき)である。間(あひだ)の襖(ふすま)をあけ、静(しづか)にそこへ出(で)て来(き)たのは念玉坊(ねんぎよくぼう)であつた。観得坊(かんとくぼう)もうしろにつゞいてゐる。念玉坊(ねんぎよくぼう)は黒染(くろぞ)めの麻(あさ)の衣(ころも)を腰短(こしみじか)に端折(はしを)り、脚絆(きやはん)をはき、左手(ひだりて)に笠(かさ)、右手(みぎて)に錫杖(しやくじよう)を突(つ)き立(た)てゝゐる。それに随(したが)ふ観得坊(かんとくぼう)は、朱鞘(しゆざや)の大小(だいしよう)をぶち込(こ)んだ侍姿(さむらひすがた)となり手(て)には何(なに)やら書(か)いたものを捧(さゝ)げてゐた。その様子(ようす)はいかにも立派(りつぱ)で、一座(いちざ)の人々(ひと/゛\)は驚(おどろ)いた。
「人々(ひと/゛\)しばらく待(ま)て。かくいふは里見義実朝臣(さとみよしざねあそん)の功臣(こうしん)金椀八郎孝吉(かなまりはちらうたかよし)が一子(いつし)、金椀大輔孝徳(かなまりたいすけたかのり)今(いま)は法師(ほうし)となつて丶大坊(ちゆだいぼう)と申(まを)す。またこれなるは同(おな)じく里見(さとみ)の功臣(こうしん)蜑崎十郎照武(あまざきじゆうろうてるたけ)が長男(ちようなん)蜑崎十一郎照文(あまざきじゆういちろうてるぶみ)である。この丶大(ちゆだい)は、伏姫君(ふせひめぎみ)のお首(くび)にかけられた数珠(じゆず)の玉(たま)の仁(じん)、義(ぎ)、礼(れい)、智(ち)、忠(ちゆう)、信(しん)、孝(こう)、悌(てい)の八(やつ)つが飛(と)び散(ち)つたを捜(さが)しに、六十余国(ろくじゆうよこく)を行脚(あんぎや)するけれども、まだその玉(たま)の一(ひと)つにも出(で)あはない。これなる照文(てるぶみ)は、われらが竹馬(ちくば)の友(とも)、君(きみ)義実公(よしざねこう)の仰(おほ)せをうけたまはり、武勇(ぶゆう)の人々(ひと/゛\)をあつめるため、関東八州(かんとうはつしう)を忍(しの)び歩(ある)くに、思(おも)はず鎌倉(かまくら)でめぐりあひ申(まを)した」
といつて、丶大法師(ちゆだいほうし)の語(かた)るところでは、行徳(ぎようとく)に小文吾(こぶんご)、市川(いちかは)に山林(やまばやし)といふ力(ちから)の強(つよ)い人(ひと)のあることを聞(き)き、その人々(ひと/゛\)の武勇(ぶゆう)の程(ほど)や心(こゝろ)だてを探(さぐ)り調(しら)べるため、山伏(やまぶし)に身(み)を拵(こしら)へて行徳(ぎようとく)へ参(まゐ)り、念玉坊(ねんぎよくぼう)、観得坊(かんとくぼう)と名乗(なの)つて、一人(ひとり)は小文吾(こぶんご)、一人(ひとり)は山林(やまばやし)の様子(ようす)を、内々(ない/\)探(さぐ)つてゐたのである。昨日(きのふ)浜(はま)より帰(かへ)り何気(なにげ)なく聞(き)いた奥座敷(おくざしき)の話(はなし)により、四(よつ)つの玉(たま)の行(ゆ)く方(へ)が知(し)れて。犬塚(いぬつか)、犬川(いぬかは)、犬飼(いぬかひ)、犬田(いぬだ)四人(よにん)の勇士(ゆうし)は、里見家(さとみけ)と深(ふか)い関係(かんけい)のあることを知(し)つた。それから十一郎(じゆういちろう)の宿(やど)へ行(い)つて万事(ばんじ)打(う)ち合(あは)せ、四人(よにん)の勇士(ゆうし)を里見家(さとみけ)へ召(め)し抱(かゝ)へる相談(そうだん)をした。然(しか)るに今夜(こんや)計(はか)らず丶大法師(ちゆだいほうし)が山林(やまばやし)やお沼藺(ぬゐ)を弔(とむら)はなければならぬことになつたのも、不思議(ふしぎ)なめぐり合(あは)せである。十一郎(じゆういちろう)が捧(さゝ)げて来(き)た書(か)き附(つ)けは、その里見公(さとみこう)の召(め)し抱(かゝ)へ状(じよう)であつた。
丶大法師(ちゆだいほうし)は妙真(みようしん)の側(そば)に伏(ふせ)させてある大八(だいはち)の死骸(しがい)を気(き)の毒(どく)がつて見(み)て、
「この子供(こども)、死(し)んで時(とき)たつたに拘(かゝは)らず血色(けつしよく)の変(かは)らないには、何(なに)かのわけもなければならない」
と、独(ひと)り言(ごと)をいひながら小膝(こひざ)を突(つ)き、死骸(しがい)を抱(だ)き上(あ)げ、脈(みやく)を見(み)ようとして左(ひだり)の手(て)を取(と)ると死(し)んでゐたはずの大八(だいはち)は「わつ」と声(こゑ)をあげて生(い)きかへり左(ひだり)の手(て)を開(ひら)いた拍子(ひようし)に、掌(てのひら)から美(うつく)しい玉(たま)がころがり出(で)た。驚(おどろ)いて取(と)り上(あ)げて見(み)れば、『仁(じん)』の字(じ)の刻(きざ)まれた美(うつく)しい玉(たま)である。なほ不思議(ふしぎ)なことには父(ちゝ)房八(ふさはち)に蹴(け)られた脇腹(わきばら)には、牡丹(ぼたん)の花(はな)の形(かたち)をした黒痣(くろあざ)が出(で)てゐたのである。この大八(だいはち)もまた信乃(しの)、小文吾等(こぶんごら)の同志(どうし)であつたのだ。一座(いちざ)は驚(おどろ)く。房八(ふさはち)、お沼藺(ぬゐ)は絶(た)え行(ゆ)く息(いき)の下(した)から、わが子(こ)がその勇士(ゆうし)の一人(ひとり)であることを喜(よろこ)んだ。
大八(だいはち)は生(う)まれながらに左(ひだり)の掌(てのひら)を握(にぎ)つてゐて放(はな)さない。親達(おやたち)はこの子(こ)を片輪者(かたわもの)と思(おも)つて、あきらめてゐた。昔(むかし)を思(おも)ひかへすと、文五兵衛(ぶんごべえ)が入江河(いりえがは)へ漁(りよう)をしに行(い)つたある晩(ばん)、水(みづ)の中(なか)に何(なに)か光(ひか)つたものが見(み)えてゐる。それを目(め)あてに網(あみ)を打(う)つけれども、物(もの)もかゝらなければ魚(さかな)もかゝらない。仕方(しかた)がないのでその夜(よ)はかへり、次(つ)ぎの日(ひ)網(あみ)を干(ほ)してゐると、網(あみ)の中(なか)に何(なに)か光(ひか)るものがあつて、ころ/\と転(ころ)がり落(お)ちた。その時(とき)まだ二(ふた)つであつたお沼藺(ぬゐ)は直(す)ぐに這(は)ひよつて、この落(お)ちて来(き)たものを口(くち)へ入(い)れた。泣(な)くのをむりに口(くち)をあけさせ、いろいろ調(しら)べたが何(なに)を呑(の)み下(くだ)したかわからない。それが今(いま)思(おも)ひ合(あは)せれば、この『仁(じん)』の字(じ)の玉(たま)であつたのだ。玉(たま)を持(も)つてゐる勇士(ゆうし)は八人(はちにん)なければならない。今(いま)大八(だいはち)がその玉(たま)を持(も)つてゐたので、八犬士(はちけんし)の中(うち)、犬塚(いぬつか)、犬川(いぬかは)、犬飼(いぬかひ)、犬田(いぬだ)、犬江(いぬえ)の五人(ごにん)が揃(そろ)つたのだ。大八(だいはち)には丶大法師(ちゆだいほうし)が名附(なづ)け親(おや)となり、名(な)をつけて犬江親兵衛仁(いぬえしんべえまさし)と呼(よ)ばせることになつた。
十一郎(じゆういちろう)は、かねてより山林(やまばやし)を里見家(さとみけ)へ召(め)し抱(かゝ)へる考(かんが)へであつたから、持(も)つてゐる召(め)し抱(かゝ)へ状(じよう)を房八(ふさはち)に戴(いたゞ)かせた。死(し)んで行(ゆ)く房八(ふさはち)には、それと仁(まさし)の召(め)し抱(かゝ)へとが何(なに)よりの勇気(ゆうき)づけになる。
「兄貴(あにき)兄貴(あにき)、介錯(かいしやく)たのむ」
と房八(ふさはち)は小文吾(こぶんご)に催促(さいそく)するので、小文吾(こぶんご)は腸(はらわた)のちぎれる心地(こゝち)がするが、心(こゝろ)を鬼(おに)にして房八(ふさはち)のうしろに廻(まは)り、「やつ」と一声(いつせい)最期(さいご)の首(くび)を打(う)ち落(おと)した。人々(ひと/゛\)はたゞ念仏(ねんぶつ)を唱(とな)へてゐる。
現八(げんぱち)は志婆浦(しばうら)から薬(くすり)を買(か)つて帰(かへ)つて来(き)た。門口(かどぐち)をあけてはひらうとする出合(であ)ひ頭(がしら)に、
「信乃(しの)のありかを見(み)つけた。これからお役所(やくしよ)へかけつけ、褒美(ほうび)は三人(さんにん)で山分(やまわ)け」
といつて、蝦蟇(がま)のような形(かたち)で庇(ひさし)のあはひから這(は)ひ出(で)た三人(さんにん)の男(をとこ)がある。先(さき)ほど小文吾(こぶんご)に投(な)げ飛(と)ばされた、心(こゝろ)の悪(わる)い子分達(こぶんたち)だ。現八(げんぱち)はさつそく柔道(じゆうどう)の手(て)を出(だ)して、三人(さんにん)の衿上(えりがみ)をつかみ、土(つち)の上(うへ)に投(な)げ飛(と)ばすと、打(う)ち所(どころ)が悪(わる)かつたと見(み)え、そのまゝ起(お)きも上(あが)らない。
現八(げんぱち)は門(かど)をあけてはひつた。そこには信乃(しの)、小文吾等(こぶんごら)が、たゞ現八(げんぱち)の帰(かへ)つて来(く)るのを待(ま)つてゐた。
親兵衛(しんべえ)の神隠(かみかく)し
小文吾(こぶんご)らは、死(し)んだものゝ始末(しまつ)をつけなければならない。小文吾(こぶんご)は、房八(ふさはち)の首(くび)を持(も)つてお役所(やくしよ)へかけていつた。首(くび)と父(ちゝ)の文五兵衛(ぶんごべえ)とを交換(こうかん)して来(く)るのだ。三人(さんにん)の悪者(わるもの)の死骸(しがい)は、河原(かはら)へ持(も)つて出(で)て、錘(おもり)をつけ水底(みづそこ)深(ふか)く沈(しづ)め、山林夫婦(やまばやしふうふ)の死骸(しがい)は、二(ふた)つの葛籠(つゞら)の中(なか)へしまつてその上(うへ)を筵(むしろ)でつゝみ、船荷(ふなに)のような形(かたち)にした。入江橋(いりえばし)のあたりへ行(い)つて見(み)ると、幸(さいは)ひ人影(ひとかげ)も見(み)えないから、今(いま)のうちに船(ふね)を出(だ)さうと、荷物(にもつ)を積(つ)み、人(ひと)が乗(の)つて纜(ともづな)をといた。妙真(みようしん)は親兵衛(しんべえ)を抱(だ)くし、信乃(しの)、現八(げんぱち)は船(ふね)の底(そこ)深(ふか)く身(み)を忍(しの)ばせて、蓑笠(みのかさ)に姿(すがた)をやつした蜑崎照文(あまざきてるぶみ)が船(ふね)を漕(こ)いだ。市川(いちかは)の山林(やまばやし)の家(うち)へ行(ゆ)くのである。
小文吾(こぶんご)は父(ちゝ)を取(と)りかへした後(のち)、丶大法師(ちゆだいほうし)と一(いつ)しよになつてあとから来(き)た。山林夫婦(やまばやしふうふ)の死骸(しがい)は、人知(ひとし)れず犬江屋(いぬえや)の墓所(ぼしよ)へ葬(ほうむ)つた。さて近所(きんじよ)に聞(きこ)えてはわるいから、房八(ふさはち)は用事(ようじ)で鎌倉(かまくら)へ行(い)つたし、お沼藺(ぬゐ)は暫(しばら)く行徳(ぎようとく)の実家(さと)へ行(い)つてゐるといふことにして、あとを誤魔化(ごまか)した。その間(あひだ)に小文吾(こぶんご)、信乃(しの)、現八(げんぱち)の三人(さんにん)は、大塚(おほつか)の額蔵(がくぞう)が心配(しんぱい)だからといふので、身支度(みじたく)をしてその方(ほう)へ出(で)かけた。丶大法師(ちゆだいほうし)は山林夫婦(やまばやしふうふ)を弔(とむら)ふために、当分(とうぶん)は犬江屋(いぬえや)に逗留(とうりゆう)してゐる。大塚(おほつか)へたつた三人(さんにん)は、あたりまへなら三四日(さんよつか)もして帰(かへ)つて来(く)るところを、幾日(いくにち)たつても姿(すがた)を見(み)せない。丶大法師(ちゆだいほうし)はそろ/\心配(しんぱい)になつて、
「これにはなんぞわけがあるに相違(そうい)ない。自分(じぶん)もいつてたづねて来(こ)よう」
といつて、たゞ一人(ひとり)で出(で)かけて行(い)つた。それがまた幾日(いくにち)たつても帰(かへ)つて来(こ)ない。
犬江屋(いぬえや)では、妙真(みようしん)が孫(まご)の仁(まさし)を抱(だ)いてこの幾日(いくにち)かの出来事(できごと)を思(おも)ひ返(かへ)してゐる。照文(てるぶみ)も出(で)ていつた四人(よにん)のことが心配(しんぱい)になつた。
「ことによつたら行徳(ぎようとく)へ帰(かへ)つてゐるかも知(し)れない。その方(ほう)へ行(い)つて探(さぐ)つて来(こ)よう」
と、照文(てるぶみ)もまた出(で)かけていつた。あとは妙真(みようしん)と仁(まさし)だけになつた。
槐(ゑんじゆ)の木(き)に秋蝉(あきぜみ)が泣(な)いて、油汗(あぶらあせ)の出(で)る暑(あつ)い日(ひ)であつた。
「お袋(ふくろ)。おうちかい」
といつてはひつて来(き)たのは、年(とし)の頃(ころ)五十位(ごじゆうぐらゐ)、眼(め)は円(まる)く鼻(はな)は大(おほ)きく、秋茄子(あきなす)のような顔(かほ)をした暴風(あかしま)の舵九郎(かぢくろう)である。勝手(かつて)に高(たか)あぐらをかき、側(そば)の団扇(うちわ)をわがものゝような顔(かほ)をして取(と)り上(あ)げ、胸(むね)を開(ひら)いて風(かぜ)を入(い)れると、熊(くま)のようなはだが見(み)える。
「お袋(ふくろ)、房八(ふさはち)どんはどうしたかの」
と何(なに)か、わけのありそうな物(もの)のいひようだ。
「お沼藺(ぬゐ)さんも姿(すがた)を見(み)せないし、それに引(ひ)き換(か)へ近頃(ちかごろ)は、幾人(いくにん)かお客人(きやくじん)が見(み)えたぢやないか」
と、そろ/\厭味(いやみ)をいひ出(だ)した。
舵九郎(かぢくろう)は、犬江屋(いぬえや)の墓所(ぼしよ)に何(なに)か埋(うづ)めたらしい様子(ようす)のあることまでを知(し)つてゐた。根掘(ねほ)り葉掘(はほ)りきく舵九郎(かぢくろう)を、よいかげんにいひくるめようとする妙真(みようしん)の言葉(ことば)は、とかく乱(みだ)れがちだ。
「いづれお役所(やくしよ)へいつて話(はな)せばわかることだ。信乃(しの)とやらの首(くび)だといつて小文吾(こぶんご)の持(も)つていつた首(くび)は、こちらの山林(やまばやし)に似(に)てゐるといふ噂(うわさ)もあるからの」
といつて立(た)ち上(あが)りかける。妙真(みようしん)はこのまゝ舵九郎(かぢくろう)をやつては大(たい)へんだと、力限(ちからかぎ)り舵九郎(かぢくろう)の着物(きもの)を掴(つか)まへてゐるけれども、女(をんな)の力(ちから)の悲(かな)しさ、次第(しだい)に弱(よわ)つて行(ゆ)くばかりだ。
そこへ照文(てるぶみ)が、行徳(ぎようとく)の文五兵衛(ぶんごべえ)をつれて帰(かへ)つて来(き)た。わけは何(なに)かわからぬが、妙真(みようしん)に手向(てむか)ひする荒男(あらをとこ)であるからには、何(いづ)れ悪者(わるもの)に相違(そうい)ないと、舵九郎(かぢくろう)の腕(うで)を取(と)り、柔道(じゆうどう)の手(て)で投(な)げ飛(と)ばすと、縁側(えんがは)から庭(には)の真中(まんなか)まで飛(と)んで行(い)つた。そばの羅漢杉(こうやまき)に取(と)りすがつて、やつと立(た)ち上(あが)つた舵九郎(かぢくろう)は、
「おのれ、見(み)てをれ。あとで返報(へんぽう)をするぞ」
といつて遁(に)げていつた。
妙真(みようしん)にわけを聞(き)くと大(たい)へんである。「さういふことなら投(な)げ飛(と)ばさずに引捕(ひつとら)へて置(お)くのだつたが」と思(おも)つてももうおそい。信乃(しの)の事件(じけん)をかぎつけられたからには、こゝに忍(しの)んでゐてもお役所(やくしよ)の兵卒(へいそつ)が間(ま)もなく襲(おそ)うて来(く)るに相違(そうい)ないから、文五兵衛(ぶんごべえ)も妙真(みようしん)も、一時(いつとき)も早(はや)くこゝを立(た)ち退(の)き、文五兵衛(ぶんごべえ)は古那屋(こなや)の跡始末(あとしまつ)をして大塚(おほつか)へ行(い)つた四人(よにん)のあとを追(お)うし、照文(てるぶみ)は妙真(みようしん)、仁(まさし)をつれてひとまづ安全(あんぜん)な安房(あは)へ身(み)を避(さ)けることにきめた。妙真(みようしん)は大(おほ)いそぎで身(み)ごしらへをした。そこへ三人(さんにん)を舟(ふね)で送(おく)つて江戸(えど)までいつた下男(げなん)の依助(よりすけ)が帰(かへ)つて来(き)た。荷物(にもつ)は依助(よりすけ)が負(お)ひ、あとは留守居(るすゐ)の婆(ばあ)さん一人(ひとり)を残(のこ)して、みんなは大(おほ)いそぎで犬江屋(いぬえや)の門(かど)を出(で)た。
市川(いちかは)の町(まち)を離(はな)れ、田舎路(ゐなかみち)を松並木(まつなみき)のところまでかけて来(く)ると、向(むか)うの松陰(まつかげ)からぬつと出(で)て来(き)たのは舵九郎(かぢくろう)である。手(て)には八九尺(はつくしやく)もある長擢(ながかい)を持(も)ち、すつかり喧嘩(けんか)のこしらへだ。
「わーつ」といつて、あつちからもこつちからも姿(すがた)を現(あらは)すのは、舵九郎(かぢくろう)の子分(こぶん)たちだ。
「かうもあらうかと思(おも)つて待(ま)つてゐた。この俺(おれ)ににらまれては、網(あみ)にかゝつた旅烏(たびがらす)も同然(どうぜん)だ」
といつて、どつとかゝつて来(く)る。
照文(てるぶみ)は刀(かたな)を抜(ぬ)いて一(いつ)しよう懸命(けんめい)で防(ふせ)いだ。文五兵衛(ぶんごべえ)は孫(まご)の仁(まさし)を背負(せお)うてゐたけれども、女子供(をんなこども)はあぶないから仁(まさし)をおろして妙真(みようしん)に渡(わた)し、少(すこ)しうしろへ引(ひ)かせ、これも刀(かたな)を抜(ぬ)いて斬(き)り込(こ)んでいつた。依助(よりすけ)も及(およ)ばずながら、防(ふせ)いでゐる。あつちでもこつちでも激(はげ)しい斬(き)り合(あ)ひが始(はじ)まつた。依助(よりすけ)は眉間(みけん)をもので打(う)たれて、打(ぶ)つたふれた。
身方(みかた)は小勢(こぜい)、敵(てき)は大勢(おほぜい)であるから、照文(てるぶみ)、文五兵衛(ぶんごべえ)が斬(き)り廻(まは)つてゐる間(あひだ)に、仁(まさし)を抱(だ)いた妙真(みようしん)だけがひとりになつた。そこへこつそり、後(うしろ)から忍(しの)んで来(き)たのは舵九郎(かぢくろう)である。親兵衛(しんべえ)諸共(もろとも)妙真(みようしん)をしつかり取(と)つ掴(つか)まへてはなさない。振(ふ)りほどかうにも力(ちから)が足(た)らない。やにはに釵子(かんざし)をぬいて舵九郎(かぢくろう)の手(て)に、骨(ほね)もとほれとつき立(た)てると、舵九郎(かぢくろう)はさすがに腕(うで)の痛(いた)さに妙真(みようしん)を手(て)ばなした。妙真(みようしん)はそのひまに遁(に)げかけたが、舵九郎(かぢくろう)は追(お)つかけて来(き)て、仁(まさし)の肩先(かたさき)をつかみ、枝(えだ)の木(き)の実(み)を取(と)るようにして取(と)り上(あ)げた。仁(まさし)は、もう舵九郎(かぢくろう)の脇(わき)にかゝへられてゐる。
照文(てるぶみ)と文五兵衛(ぶんごべえ)とは、妙真(みようしん)が心配(しんぱい)なので敵(てき)を防(ふせ)ぎ防(ふせ)ぎ帰(かへ)つて来(き)た。舵九郎(かぢくろう)は、恐(おそ)ろしい勢(いきほ)ひで身構(みがま)へてゐる。
「貴様(きさま)たち二人(ふたり)まだ死(し)なないか。一足(ひとあし)でもそばへよつて来(き)たら、この石(いし)で餓鬼(がき)を打(う)ち殺(ころ)すぞ」
といつて、寄(よ)せつけない。二人(ふたり)もこれには弱(よわ)り果(は)てた。すきをうかゞひ、じり/\と側(そば)へよつて、一時(ひととき)に打(う)ちかゝらうとした時(とき)に、舵九郎(かぢくろう)もまた持(も)つた石(いし)を閃(ひらめ)かし、仁(まさし)の胸(むね)をめがけ打(う)ちつけようとすると、その手(て)は狂(くる)うて地上(ちじよう)を打(う)つた。また石(いし)を振(ふ)り上(あ)げて打(う)ちおろさうとすると、今度(こんど)は急(きゆう)に手(て)が強(つよ)くしびれた。不思議(ふしぎ)にもその時(とき)空(そら)より黒雲(くろくも)がおりて来(き)て、稲光(いなびか)りがし、風(かぜ)がさつと起(おこ)り、石(いし)を巻(ま)き砂(すな)を飛(と)ばしてあたりは物(もの)すごい様子(ようす)になつた。その雲(くも)が舵九郎(かぢくろう)の姿(すがた)をつゝんだと見(み)る間(ま)に、仁(まさし)の体(からだ)はその雲(くも)に包(つゝ)まれ、宙天(ちゆうてん)高(たか)くあがつてしまつた。舵九郎(かぢくろう)はなほも手(て)をのばしてそれを取(と)り押(おさ)へようとすると、何物(なにもの)ともなく舵九郎(かぢくろう)の体(からだ)を引(ひ)き裂(さ)き、全身(ぜんしん)朱(あけ)に染(そ)まつて打(う)ち倒(たふ)れた。
照文(てるぶみ)も文五兵衛(ぶんごべえ)もしばらくは茫然(ぼうぜん)として見(み)てゐたが、なほ残(のこ)つた子分達(こぶんたち)が刀(かたな)をふるつて来(く)るので、それを追(お)つ散(ち)らし、元(もと)の場所(ばしよ)へかへつて来(く)れば、風(かぜ)はもうをさまつて月影(つきかげ)が空(そら)に残(のこ)つてゐる。妙真(みようしん)が仁(まさし)を失(うしな)ひ、気(き)が遠(とほ)くなつて草(くさ)に倒(たふ)れてゐるのを助(たす)け起(おこ)した。仁(まさし)は、『仁(じん)』の玉(たま)を持(も)つてゐるから舵九郎(かぢくろう)のように殺(ころ)されたのではあるまい。これは神隠(かみかく)しといふものに相違(そうい)ない。さう慰(なぐさ)められて、妙真(みようしん)も少(すこ)し元気(げんき)を取(と)り直(なほ)した。倒(たふ)れてゐた依助(よりすけ)も運(うん)よく助(たす)かり、起(お)きて来(き)た。妙真(みようしん)は依助(よりすけ)に助(たす)けられて初(はじ)めきめてゐた如(ごと)く安房(あは)へ落(お)ちて行(ゆ)くし、文五兵衛(ぶんごべえ)はひとまづ行徳(ぎようとく)へかへつて、そこから三犬士(さんけんし)をさがしに大塚(おほつか)へ行(ゆ)くことになつた。
庚申塚(こうしんづか)の四犬士(しけんし)
こゝは武蔵(むさし)の国(くに)豊島(としま)の神宮河原(かにはがはら)である。信乃(しの)が蟇六(ひきろく)らに欺(あざむ)かれ、川狩(かはが)りをして水(みづ)に沈(しづ)められようとしたところだ。千住河(せんじゆうがは)を遡(さかのぼ)つて今(いま)着(つ)いた船(ふね)の中(なか)からおりて来(き)た三人(さんにん)の武士風(さむらひふう)の男(をとこ)がある。
岸(きし)には一人(ひとり)の漁師(りようし)が立(た)つてゐた。その武士風(さむらひふう)のもの、一人(ひとり)をいち早(はや)く見(み)つけて、
「あなたは大塚(おほつか)の庄屋(しようや)さんの甥御(をひご)ではございませんか」
と声(こゑ)をかける。呼(よ)ばれたのは、犬塚信乃(いぬつかしの)である。信乃(しの)は、油断(ゆだん)のならない場所(ばしよ)であるが、見(み)たところ悪者(わるもの)らしくもない男(をとこ)だから、
「さうだ。私(わたし)は蟇六(ひきろく)の親戚(しんせき)のものでござるが、さう問(と)はれるあなたはどなたでござるか」
と問(と)ひ返(かへ)すと、
「もうお忘(わす)れでございましたか。この間(あひだ)の川狩(かはが)りに船(ふね)をお貸(か)ししました船主(ふなぬし)の●(「矛」+「昔」)平(やすへい)でございますよ。それにしてもあなたは今頃(いまごろ)どこへ行(い)つてござらつしやつたか。大塚(おほつか)の騒動(そうどう)は、あなたまあ大(たい)へんでございますなあ」
といふ、信乃(しの)は、一(いつ)しよに来(き)た現八(げんぱち)、小文吾(こぶんご)とも顔(かほ)を見合(みあは)せ、自分(じぶん)が下総(しもふさ)へ行(い)つてゐて留守(るす)であつたことを語(かた)り、大塚(おほつか)の騒動(そうどう)とはなんであつたかと●(「矛」+「昔」)平(やすへい)にたづねる。●(「矛」+「昔」)平(やすへい)は蟇六(ひきろく)一家(いつか)が殺(ころ)され、役人(やくにん)も殺(ころ)されて、下男(げなん)の額蔵(がくぞう)が今(いま)捕(とら)へられ、昨今(さつこん)のうちに死刑(しけい)になるといふ噂(うはさ)のあることなどを、残(のこ)らず詳(くは)しく話(はな)してきかせた。感心(かんしん)の出来(でき)なかつた蟇六夫婦(ひきろくふうふ)のことではあるが、自分(じぶん)の叔父(をぢ)叔母(をば)であるから信乃(しの)もさすがに気(き)の毒(どく)の思(おも)ひをしたが、それよりも心配(しんぱい)なのは同志(どうし)の額蔵(がくぞう)即(すなは)ち犬川荘助(いぬかはそうすけ)の身(み)の上(うへ)である。さては一刻(いつこく)もかうしてはゐられない。
「そんなことでございますから、旦那方(だんながた)は大塚(おほつか)へ寄(よ)るのはおあぶなうございますよ。私(わたし)も昔(むかし)はさるお武家(ぶけ)に御奉公(ごほうこう)をいたし、姨雪世四郎(おばゆきよしろう)と申(まを)したものでございますが、身(み)をあやまつてかうして漁師(りようし)をやつてをります。私(わたし)の知(し)つてゐる女(をんな)が上野(かうづけ)の荒芽山(あらめやま)の麓(ふもと)に住(す)んでゐますから、旦那方(だんながた)はそちらへ身(み)を忍(しの)ばせてはいかゞでございますか」
と●(「矛」+「昔」)平(やすへい)はどこまでも親切(しんせつ)だ。しかし信乃(しの)らは額蔵(がくぞう)をそのまゝに捨(す)て置(お)いて、身(み)を忍(しの)ばすことは出来(でき)るものでない。三人(さんにん)は相談(そうだん)をして、とにかくこれから大塚(おほつか)の様子(ようす)を探(さぐ)りに行(ゆ)くことにした。●(「矛」+「昔」)平(やすへい)には、「いづれまた帰(かへ)りには厄介(やつかい)になるから」といつて、いくらかの金(かね)を包(つゝ)んでやり、身支度(みじたく)をして立(た)ち去(さ)つた。
信乃(しの)らは、すぐには大塚(おほつか)へ近附(ちかづ)くわけにいかない。思(おも)ひ出(だ)したのは滝(たき)の川(がは)の弁才天(べんざいてん)である。三人(さんにん)はそこの寺(てら)へいつて住持(じゆうじ)に会(あ)ひ、「ある宿願(しゆくがん)があり遠方(えんぽう)からまゐつたものであるから、七日間(なぬかかん)のお籠(こも)りを許(ゆる)して貰(もら)ひたい」と願(ねが)ふと、住持(じゆうじ)も心安(こゝろやす)く許(ゆる)してくれた。そこでまづ落(お)ち付(つ)き場所(ばしよ)を、この弁才天(べんざいてん)の岩窟堂(いはやどう)ときめて、それからは毎夜(まいよ)代(かは)る代(がは)るに大塚(おほつか)の様子(ようす)を探(さぐ)りに出(で)かけた。
大塚(おほつか)へは二十町(にじつちよう)ほど離(はな)れている。小文吾(こぶんご)は、そこへ行(ゆ)く途中(とちゆう)の百姓家(ひやくしようや)に、王子権現(おうじごんげん)へ献上(けんじよう)する竹槍(たけやり)と弓矢(ゆみや)を売(う)つてゐるのを見(み)つけて、それを買(か)つて帰(かへ)つた。幾晩(いくばん)かの探偵(たんてい)によつて、大塚(おほつか)の蟇六(ひきろく)の家(うち)の様子(ようす)や役所(やくしよ