発明発見物語
西村真次
はしがき
今日、私達が、物を食べ、家に住み、着物を着て、その日その日を楽しく暮らしてゆくことの出来るのは、私達の先祖達が長い間かゝつて、衣食住の方法を工夫して置いてくれたからであります。食物を料理したり、家屋を建築したり、衣服を裁縫したりすることは、ある人がある時に考へついたことではなく、幾人もの人が、幾千年もかゝつて、やつと出来あがつたことであります。
衣、食、住を初め、私達の生活の仕方が、すなはち『文化』でありますから、文化といふものは決して一朝一夕に出来たのではなくて、幾人もの発明、発見が重つて完成されたのです。たとへば、夜になると私達は電燈をつけますが、昔はこんな明るい照明法はなく木切を拾ひ集めてそれを燃やして明りを取りました。大きな河や湖があつて、対岸へ渡らうとするには、大小さま/゛\の船がありますが、大昔にはそんな便利なものがあらう筈がございません。昔の人は、九太に乗つたり、竹片につかまつたりして、水の上を、辷つて行つたのです。篝火から電燈へ、丸太から船へ、文化が今日の程度に進歩したのは、みな先祖達の苦心の賜であります。他の言葉で申せば、人間の永年の発明、発見の結果であります。
一がいに、発明発見と申しますが、発明と発見とはすこしちがつてゐます。『発明』といふのは、人間のためになることを、苦心して新たにかんがへ出すことであり、『発見』といふのは、人間のためになるものを偶然見つけることで、二つの間にはいくらかちがひがございます。しかし、いくら偶然に見つけるといつたところで、そこに、多少の苦心が費されてをらぬものはないから、発明と発見とは、まづ同じことゝかんがへて置いてもよろしい。
たとへて申せば、蜘蛛が木の葉に乗つて水の上を渡るのを見て、丸太が水に浮くことを知つたのは、たしかに『発見』の一種でありますが、人が丸太に乗つてそれを前に進めるために足で水を掻いたとすれば、そのことはもはや『発明』であります。またコロムブスがアメリカを発見したのは、偶然といへば偶然ですが、実は長い間いろ/\の理由で、西の方に人間の住んでゐる別の世界があるといふことを考へてゐた結果ですから、発明といはれないこともありません。
まあ、さうした議論はぬきにして、私はこれから、人間の日常生活に必要ないろ/\の発明発見について、おひ/\詳しく述べて見たいと思ひます。しかし、多種多様の複雑な文化が、どうして工夫せられたかを一々述べるわけにはまゐりませんから、きはめて大切でもあり、また面白くもあるものを選んで、次ぎ/\にお話しすることにします。わからぬところは挿し絵と照らし合はせて入念に見て下さい。
わたしはこの書物を、主としてフォーマンの『有益発明物語』に依つて書きましたが、外にメースン、スタール、デニケルなどの名著をも参考にいたしました。皆さんが大きくなつて、自分でこれらの書物を読むようになられるのを、わたしは首を伸ばして待つてをります。
西村真次
目次
一、まつち…………………………………………………………三
二、すとーぶ……………………………………………………一三
三、らんぷ………………………………………………………一八
四、鎔砿炉……………………………………三九
五、蒸気汽鑵……………………………五一
六、食料……………………………………六四
七、犁…………………………………………………七一
八、鎌…………………………………………………八〇
九、臼…………………………………………………九四
一〇、衣服………………………………………一〇六
一一、機織り……………………………………一一二
一二、家屋………………………………………一二二
一三、車…………………………………………一四一
一四、船……………………………………………一五九
一五、飛行機…………………………………一八三
一六、時計………………………………………一九三
一七、書物……………………………………二一二
一八、通信……………………………………二三一
発明発見物語
装幀・恩地孝四郎
口絵・ウイルキンソン
挿絵・岡落葉
一、まつち
人間を他の動物よりもえらいものにしたのは、火を造ることの発明です。もしも人間が火を造ることを発明しなかつたならば、私達人間は猿や犬や猫とあまりちがはない生活をしてゐなければならないでせう。それだから発火術──即、火を造ることが人間の一番大切な、基本的な発明だといはれるのであります。
試みに火のない世界を想像してごらんなさい。冬の朝には暖をとることが出来ず、寒さにふるへてゐなくてはならないでせう。煮焚きが出来ないから、なまの米をかじつたり、なまの魚肉や、なまの牛肉を食べたりしなければならないでせう。汽車は走らず、工場の機械は動かず、夜になれば四方がまつくらで、何もかも手探りに探しまはらなければならないでせう。
天照大神が天の岩屋戸へお隠れになつた時、高天原も葦原の中つ国も、まつくらがりになつて、悪い神々、怪しい魔物どもがのさばり歩いたので、八百万の神々が会議を開いて、あまてらすおほみかみに岩屋戸から出ていたゞくことをお願ひしました。この神話は、火のけのない世界が、どんなに恐ろしく、さびしく、不自由なものであるかを物語つてゐるのです。
しかるに、遠い/\むかしに、私達人間の祖先が火を造ることを発明してくれたので、私達は自由にそれを使つて、一方では熱用に供し、他方では燈用に供し、なんの不便もなく、くらすことが出来るのです。そこで、私は最初にごくざつと、発火術を発明したお話をいたしたいと思ひます。
人間が火を造り出す前にも、火はこの世界にございました。自然の火がとりも直さずそれで、火山の焔が近所の森を焼いた時とか、雷が立ち木の上に落ちた時とかには、火が燃えて昔の人間をおどろかしたものです。ところが、人間がその自然の火に、なにか物が焼けたりしてゐるのを見て、火には焼きこがす力があることを知り、それに近寄つた時には熱のあること、それが夜の闇を破つた時には光のあることを知つて、自然の火を熱用、燈用の二つに使ふことを発明したのです。しかし、初めにはまだ火を造ることは知りませんでした。
そこで噴火口や、山火事をしてゐる森に行つて、自分の持つてゐる枯れ木の枝などへ火をうつし、それを大急ぎで自分の小屋に持ちかへつたものです。かうした時代には、火は極めて大切で、一度消えてしまふとそれを手に入れることが困難ですから、寝ず番をつけて薪を加へ、火種を絶やさないようにしたものです。火が尊敬されて神さんのように思はれ、しまひには神さんとして祭られるようになつたのは、今いつたようなわけがあるからです。
発火術がいつ発明されたかは、はつきりとわかりませんけれども、次ぎに述べるような順序で、発明にみちびかれたことはたしかです。先づ第一に人間は、自分の両手を揉み合はして見た時、掌が温かくなることを知りました。第二には二つの木片を摩り合はしてきつく摩擦したら、火が出やしないかといふ疑ひを起しました。第三には木を地上に置いて、それを棒で穴があくまでこすりますと、鋸屑のような粉が穴の中にたまり、それがだん/\熱して来て、とう/\しまひには火を出しました。第四には乾いた草をその火の上にのせて、ぷう/\と息を吹きかけたら、焔が燃え上りました。かうして人間は火を造ることを発明したので、それからはいろ/\の為事に火を使つて、遂に他の動物の出来ないことをするようになつたのです。だから、人間と動物とのちがひは、火を造ることが出来るか、出来ないかといふことできまると、ある学者は申してをります。
棒を木片へすりつける方法はいろ/\あるが、初めは手を前後に動かして縦にすりつけたでせう。次ぎには両手で揉んで一箇所をこすつたでせう。と、掌が熱くてしかたがないので、棒のぐるりへ縄や布片をまきつけて、その両端を左右の手で持ち、棒の下端は穴の中へ入れ、上端を口に銜へて、まいた縄をひつぱると棒がくる/\廻つて火を出しました。しかし、これでは歯が痛いので、さらに別の工夫をめぐらし、縄をひつぱる人と、棒を上から石で押へてゐる人と、二人がゝりで火を出すことにしたのです。今日でも、貝塚や昔の人の住居の址から、凹み石といつて、孔のいくつもあいた石が見出されるのは、みな昔かうした風にして火を出した証拠です。
すべて、前述のように、すりつけて火を造るのを摩擦発火法と申します。しかるに、人間はつゞいて別の発火法をかんがへ出しました。それは鉄片と石をかち合はす方法だから、撞撃発火法と申します。
わが国でも明治年代の初め、おそいところでは中頃までも、みな燧石を用ひました。この燧石といふ堅い石にほくちを添へ、木に嵌めた鉄片でかち/\と石をうつと、火花がぱつと散ります。その火花がほくちに移つて赤くなる。そこで硫黄附け木といつて、薄く木を削いだものゝ一端へ硫黄をつけたのを持つてゆくと、ぱつと焔が燃え上るといふ面倒くさい火の造りかたをしたものでした。ところが、五月雨でも降つて空中に水分が多いと、ほくちがしめつて、たやすく火が移りません。また硫黄附け木がなければ焔が出ません。その煩わしさといつたら、お話になりませんでした。
しかし、この発火法は、発明以来、数千年間にわたつて各国の人々に用ひられ、つい最近まで役立つてゐたのです。もつともそこに一つ注意すべきことは、昔のギリシヤ人は、拡大鏡で太陽の光線を集め、その下へ乾し草を置いて発火させたといふことです。けれど、それとてもまつちの発明には関係がございません。
三番目に工夫せられたのが薬物発火法で、それの発明は今からざつと三百年ぐらゐ前のことです。即、十七世紀のこと、ウイーンに考へ深い人が住んでゐて、硫黄附け木を硫酸に浸し、それにぽつたーす塩と砂糖との混合物をつけて見たら火を出したので、息を吹きかけて苦もなく焔を上げさせました。まつたく摩擦もせず、撞撃もせず、化学的の作用で火を出す方法であります。しかし、この方法は金がかゝるのみならず、ともすると危険が勃発したので、便利ではあるが、物好きな人のほかはこれを用ひず、以前から用ひならした燧石を使つてゐました。
ところが、十九世紀になつて、四番目の火の造り方が発明されました。千八百二十七年のこと、英国のさる町に住んでゐた薬剤師、名をジオーン・ウオーカアといふ人が、硫黄、ぽつたーす塩、あんちもにー粉の混和物を木片につけ、それを鑢紙にこすりつけたら焔を発することを発見しました。この方法は摩擦法と薬物法とを兼ねてゐるので、摩擦薬物発火法と申します。これが今日の安全まつちの先駆となつたのです。
ところが、五六年の後に、あんちもにー粉の代りに燐を用ひると、一そう容易に発火することが知られました。これが即、燐まつちといふもので、百四十四本を一束にしたものが二十五せんとでしたから、決して安い方ではなかつた。のみならず、燐まつちはあまり発火し易く、床の上に一本落ちてゐるのを知らずに踏むか、或はその上へ他の物が落ちたりすると、すぐ発火して焔が燃え上りますから、うつかりしてゐると火事になつて、家も蔵も灰にしてしまふといふ危険がありました。たとへ人間が注意してゐても、家鼠がそれを噛んで大事を起したことがあります。ある都会の如きは、当時、燐まつちのために、一年間に三十回の火事を出したといひ伝へられてゐます。
この恐ろしい損害を除くために発明せられたのが安全まつちです。今日、皆さんのうちで使つてゐるのがそれで、初めは燐まつちから区別するため、かならず安全まつちといつたものですが、今ではまつちといへば安全まつちと相場がきまつてしまひました。
安全まつちは燐を軸へぬらない代り、それを砂と膠とに混じたものを、箱の横側に塗り、そこへ軸をすりつけることにしたから、過まつて発火するようなことはなく、至極安全であるといふので、すぐ燐まつちを駆逐して、一挙に世界中へひろがつてゆきました。
皆さんがなんの考へもなく使つてゐるまつちにさへ、かうした長い間の人間の苦心と努力とが宿つてゐたのです。しかも、その平気で見てゐる簡単なまつちは、電信や電話や電燈や蒸気汽缶などよりも、後に発明せられたほや/\の新発明品であります。まつちがなかつたらどれだけ不便だかといふことを考へて見ると、まつちといふものがどれだけえらい発明であるかといふことが知れます。
二、すとーぶ
火の造り方については前に詳しくお話したから、こんどはその火をどう利用して来たかをお話しませう。
噴火口の近くへいつたり、山火事の傍へいつたりすると、体が温かになることを知つて、人間は火が熱を出すことを発見しました。また山火事に焼け死んだ鹿や猪の肉を食べて見ると、生で食べるのよりもうまいことを知つて、火で焙れば食物の味がよくなることを発見しました。これら二つの発見が、人間をすとーぶと竈との発明にみちびいたのです。
初めは自然の火を、枯れ草や枯れ木の枝に移して、自分達の小屋の中に運んで来て、それを地上に置いた薪に移すと、火がどん/\燃えて、小屋の中には煙が一ぱいたてこめるけれど、温まつて、よい気持ちになるし、また肉類を焙ることも出来るので、昔の人々は煙たいのを我慢してゐました。
しかし、どうかして煙を外に逐ひ出す工夫をしたら、一そう好都合であると考へ、天幕や小屋の尾根へ孔をあけました。これが最初のすとーぶです。だから、最初のすとーぶは今日のように持ち運びが出来るわけでなく、家全体がすとーぶになつてをり、屋根の孔が煙突、床が焚き口になつてゐたのでず。即、その頃の人間はすとーぶの中に住んでゐたといつても差し支へありません。
料理用の竈は初めは極めて簡単で、たゞ焙らうとするものを、ぢかに火の上にかざすだけのことでした。即、火の上に串を水平に置き、それに焙るものを引かけたが、串は生木とか竹とかで造られ、ぢきに焦げてしまふ嫌ひがあるので、後には銅とか鉄とかで造ることにしました。さてこの方法で、肉の片側がやけると、こんどは串を裏返しにして、他の片側をやくといふ風にしたのが、今日の焙り器や焼き網の基になったのです。
食物を煮ることは、焙つたり、焼いたりすることよりも後に起つたのです。昔の煮方はすこぶる不思議な、面倒な手続きがいつたので、先づ地上に穴を穿ち、それに水を張つて、其中へ予め火で焼いた石を、いくつも/\引き換へ取り換へて、投げ入れると、水はおのづと沸き立つて湯になります。湯の中へ魚肉、鳥肉、獣肉を入れると、ひとりでに煮えます。なぜこんな面倒なことをしたかといふと、昔は陶器も金属器もないから、水を火で煮ることが出来なかつたからです。土器の発明はずつと後のことです。今日でも樺太のギリヤーク人は、白樺の皮で造つた鍋の中に水を入れ、それへ焼け石をはふりこんで湯を沸かしてゐます。
かうした原始的な暖房法と料理法とは、長い間──数千年の間に亘つて襲用され、旧石器時代、新石器時代から金属時代にはひつても、便利なものが発明せられなかつたが、ギリシヤの家屋には、必要に応じていつでも暖められる仕掛けをした部屋があつて、その部屋は焚き火の煙と煤とで真黒になつてゐたので、『黒部屋』といふ名が出来ました。
今から百年ぐらゐ前までは、ヨーロツパでさへろくな暖炉がなく、不思議の方法で人々は暖を取つてゐました。その頃の旅行記を見ると、次ぎのような記事が見出されます。
「ノルマンヂイの寒さは厳しく、おまけに燃料が高いので、あるれーすの職人は、一方体温を保ち、他方薪代を節約するために、冬季の三箇月間は家畜部屋で為事をすることにきめて、沢山牝牛を飼つてゐる農民と約束して、その人の牛小屋を借りることにしました。何頭も/\の牝牛が、長い列を作つて繋がれてゐる部屋の隅で、れーす編みの職人は足を藁に包んで、地上に坐つて為事をしました」
これは家畜の体から発散する熱で、自分の体温を保つたのですから、家畜をすとーぶの代りにしたわけですが、そんな原始的なストーブが、百年ばかり前にフランスの一部で行はれてゐたとは、驚くべきことではありませんか。
一体、地中海沿岸は気候が温和で、冬でもさう寒くありませんから、そこではすと一ぶなどが発明されそうにもないが、事実はそれに反して、文明の母といはれるギリシヤで、今日のすとーぶの基になつた火鉢が発明されました。火鉢は必要に応じて、どの部屋へでも持ち運びが出来るので、はなはだ便利ではありますが、木炭から発散するがすが臭くて、不快であるばかりでなく、有毒でもあるので、美にあこがれるギリシヤ人は我慢が出来ず、香をたいてわづかに悪臭を消してゐました。この火鉢は今日でもまだ廃れず、イスパニヤや日本では、冬になるとそここゝで用ひられてゐます。
ギリシヤでは火鉢でも冬が凌げたけれど、ローマでは不十分だつたから、初めは火鉢も使ひましたけれど、後にはいろ/\と工夫して暖房法──即、部屋を暖める方法を考へ出しました。それはおんどるの一種で、ある部屋に焚き火場を造り円筒でその熱と煙を外の部屋に送つて、室内を暖める装置でした。もちろん煙いことは煙いが、一度、薪が燃え切つてしまふと、をきから発せられる熱だけが送られるから、以前の暖房法よりはずつと都合がよくなりました。あの有名なローマの公共浴場なども、このおんどるで暖められてゐたのです。今日でも朝鮮や満州へまゐりますと、一種の改良おんどる──床の下から部屋を暖めるものが用ひられて、厳寒の時でも室内にをれば、寒さを感ずることはありません。
ローマ人は暖炉を改良したのみならず、料理用の竈を改良して、うまい食物を調理することが出来るようにしました。ローマ帝政時代と申せば、ざつと今から二千年ぐらゐ前のことですが、その頃はローマの全盛時代で、富豪の邸宅には多くの熟練な料理人が雇はれてゐて、めい/\腕によりをかけて、主人の気に入るような食物を料理しました。
本来、ローマ人は質素、剛健の民衆であつたが、文化が進むにつれてだん/\と奢侈、柔弱となり、衣食住といふような物質上の欲望を満足させることを、人間の第一義と心得るほどに変りはてました。ことに食ひ道楽はローマ人の特色で、上流社会のある紳士は、長い間、食物の美味をたのしまうために、人間の頸が鶴のように長ければよいなどゝ申しました。
かうした食ひ道楽が発達したので、自然と料理も発達して、天才的の料理人が多数にあらはれました。ある日、国王が季節外れの魚の料理を命じたら、料理人は当惑すると思ひの外、黙つて引き退つて、大蕪菁をその魚の形に切り、それを油で揚げて一種特別の味をもたせ、「これはすこぶる美味の魚肉です」といつて、国王にその野菜料理を差し出したといふ話があります。かうした高等な料理は、原始的な竈では出来ないから、ローマ人はきつと立派な料理用の竈を工夫してゐたに相違ありません。
西暦四百七十六年に、立派なローマの都は北方の蛮人に攻め落されて、ローマ式の料理法と料理用の竈とは、永久にこの世界から失はれることになりました。北国の蛮人には、美味な料理を味わひ、立派な竈を用ひるほどの余裕がありませんでした。これがために、ローマ滅亡の後数百年間、ヨーロツパでは、床で火を焚き、屋根の孔から煙を排除する旧式なすとーぶが用ひられてゐました。
ところが十一世紀になつて、イギリスで暖炉に一大改良が加へられました。と、いふのは、一千六十六年の頃、戦闘は多く城砦の屋根の上で交へられたが、屋上の中央の孔から噴き出す煙が兵士をくるしめることがわかつたので、焚き火場を床の中央から側壁に近いところに移し、火の上に孔の口を開いて、煙が悉くそこから抜けて出るようの設備をした。これが煙突の基になつたのです。
この排煙法は、火の上に笠を設けて、煙をいつたんそこに集め、そこから更に排煙口へ導いてゆくといふ意匠で、排煙口の長さは僅に二三めーとるしかなかつたが、長ければ長いだけよいことがわかつたので、孔を斜に壁に穿つて壁の外へ口を開けるようにしました。次ぎには、焚き口を壁の中に造り、そこからすぐ煙突が屋外に通ずるようの意匠が施され、十四世紀の中頃からは一般にこの法を採用して、室内は熱のみを受けて、煙に苦められることがなくなりました。十五世紀の末には、ヨーロツパでは全部この式の煙突を造るようになつたが、日本などでは今日も尚ほ昔の通り、屋根の上に孔を穿つた天窓から煙を吐いてゐる家が田舎へゆくと度々見られます。
改良すとーぶはなるほど結構には相違ないが、位置が固定してゐて動かないから、傍へ行けば暖かいが、遠方にゐると一向暖かくない。どうかして部屋中を同じ度合に暖める法はないものかと、いろ/\工夫した末、十五世紀の終りに出来たのが、現在のすとーぶの前身であります。それは一種の焜炉で、昔の火鉢と今日のすとーぶとの間に位する中間物で、空気の流通をよくするため、底部に数個の孔を穿ち、上部に料理用の器具を載せる仕掛けになつてゐたが、排煙用の煙突がないから衛生上よくないとあつて、二百年ほど前に、フランスのサヴオーといふ人が改良を加へて新形すとーぶを造りました。
以上の話で皆さんは、イギリス人が煙突を発明し、フランス人がすとーぶを発明したことがおわかりになつたでせうが、フランス人はイギリス人の発明を取り入れて、鉄製の焜炉の底に空気孔を穿ち、それに鉄管製の煙突を附け加へたものを造り出しました。これが即、現行のすとーぶの元祖で、部屋中どこへでも持つてゆけるので、至極便利だといつて賞用されました。
しかし、どんな発明でも初めは欠点だらけです。このすとーぶの発明者は苦心して改良を施し、暖房料理兼用の上等品を造り出さうと工夫したが、十九世紀の中頃になつて現在のような完全なすとーぶが発明されたのです。完全は完全でも、このすとーぶでは一室しか暖められないから、十二の部屋をもつた家では、十二のすとーぶを備へつけなければならない。それでは不便だといふので、ざつと百年ほど前に、一つのすとーぶで数室を暖める装置が発明されました。それが即、送熱暖炉であります。
送熱暖炉は一室に大きなすとーぶを据ゑつけ、それから円管で各室へ熱を送るようにしたものですから、ローマのものと同じ理窟ではありますが、ローマのは、熱と煙とを一所に送り、これは熱だけを送つて煙は別に排除する仕掛けですから、一段の進歩と申さなければなりません。
かうした風に、初めは熱風のみを送つてゐたのですが、今日では金属製のちゆーぶ──即、管を各室に導いて、それに蒸汽或ひは熱湯を送り、いくつ部屋があつても悉くそれを暖めることが出来るようになりました。しかし、それは大袈裟な仕掛けで、費用も沢山にいりますから、もつと軽便な工夫が必要だといふので、瓦斯すとーぶ、電気すとーぶなどが用ひられることになり、日本でもひーたーといふ外国語が取り入れられて一般に用ひられてゐるまでに進歩しました。今日ではまだ十分広がつてゐないが、火を焚いたり、蒸汽を造つたりする面倒のない電気すとーぶが、おひ/\と一般に用ひられることになるでせう。問題はどうしたら安価に電気が供給出来るかといふことだけです。
三、らんぷ
暖房用、料理用に火が利用せられて、人間の生活の向上を助けたことは前に述べたが、こんどはそれが照明用、即、燈としてどう使用されて来たかを述べてみたい。禽獣は大抵日が暮れると寝るが、人間は夜業をしたり、旅行をしたり、娯楽に耽つたり、修養を励んだりして、夜間の一時をだにむだには過ごすまいとします。この寝ることの早いと晩いとが、獣類と人類とを区別する境界の一つであることは、いふまでもありません。
月も輝き、星もひらめきますが、それではこまかいものは見られません。北極圏へゆくとおーろらが夜の世界を照らしてゐますが、これもなんの役にも立ちません。そこで人間は、色々の手段を講じて照明法──闇を照らす方法を考へました。
昔、支那に車胤といふ人があつて、勉強したくても、家が貧しくて燈油が買へないから、野川から沢山の蛍を集めて来て、それの光で書物を読んだと申します。また窓際へどつさり雪を積んで、その照り返しで学問をしたといふ話もあります。おそらく大昔には、蛍の光を燈火に代用したことがあつたでせう。さうした場合には、こゝあの殻とか、瓢箪とかへ無数の孔を穿ち、その中へ蛍を入れて、孔から光が洩れて来るようにしたことゝ想像されます。ある人の旅行記を見ると、「チジユカ山脈を越える時、普通のがらす製こつぷの中へ入れた蛍の光で、小さいスヰツツアランド製懐中時計のせこんど針が見え、それがために正確な夜の時間を知ることが出来た」と書いてあります。しかし蛍の火は夏だけのもので、他の季節にはどうすることも出来ません。
多分、大昔の人間は、その住んでゐた洞穴の中、或は小屋の中で、よく燃える丸太に火をつけて、夜通し燃やしつゞけたことでせう。それが松明の初めです。しかし、これは持ち運びが出来ないから、脂肪の多い材木を長く、薄く割いて束ね、それの一端に点火して他端を手で持つことにしました。これならば必要に応じて、どこへでも持つてゆくことが出来ます。次ぎにはその脂肪質の木の薄片を葉でくるむようにしたが、すると、時間が長く保つて、剰へ光明が強いので、すぐその方法がひろがりました。これは燈心は外側にあり、燈心の燃焼を助ける蝋が内側にある蝋燭のようなものです。次ぎに木片其他燃える物の外部に油を塗つた方がよく燃えることが発見せられたので、心を内側に入れ、その燃焼を助けるものを外側に置くことにしました。即、脂肪を塗つた縄または木片を束ねて松明を造ることにいたしました。
この原始的な蝋燭は、大昔に発明されたまゝ少しも進歩せず、数千年の間世界の各地で用ひられてゐたのです。ところがヨーロツパの暗黒時代──といつて、火が悉く消えたわけではなく、火が消えたように思想、精神の暗かつた時代に、松明造りは真中の棒を亜麻または大麻で包み、そのぐるりへ蝋または油を厚く塗りつけたので、前よりは一そう明るくなりました。然るに紀元九百年の頃、即、アルフレツド大王の時代に、更に改良を加へて、心になる棒の代りに木綿糸を撚つたものを用ひ、それへぢかに蝋か脂かを塗りつけたので、初めの姿は全く失はれて、いよ/\本物の蝋燭が現はれました。即、松明は蝋燭の先駆となつたが、外にまたらんぷの基となつたことも忘れてはなりません。
動物の溶けた脂肪がよく燃えることは、大昔の人間が早く発見したことですが、この発見が油燈の起原になつたのです。堅果の殻とか、石とか、巻き貝とか動物の頭蓋骨とか、凹みのあるものへ脂肪、油などの溶かしたのを入れ、その中に亜麻其他の繊維質のものを燈心として浸し、その一端を皿の外へ出して置くと、毛細管作用で油が燈心に浸み込みますから、そこへ火をつければ皿の中に油のある間は燃え続きます。これがらんぷの基になつたので、人智が発達するにつれて、果殻や石や頭蓋骨をやめて、土製の小皿或ひは椀を用ひ、その縁に小溝もしくは口をつけて、そこに燈心を置くことにしました。
古代ギリシヤやローマのらんぷは、中央に貯油池があつて、そこから周囲のらんぷへ小孔を経て油が流れ出るように造られてゐました。らんぷの数によつて、その孔は多いこともあり、少いこともあり、一定してはゐませんが、孔が多いほどらんぷの数が多く、らんぷが多いほど光の強いことは申すまでもありません。イタリヤのコルトナ博物館には、古代のらんぷが所蔵されてゐますが、それには十六箇の孔があけてあります。このらんぷは今から二千五百年前、エトルリヤの寺院で使用されてゐたものです。
かうしたらんぷは中世を経て、近世まで用ひ続けられたが、値段も高く、光も薄く、おまけに一種不快の臭気を発散して、壁も家具も悉く煤で真黒になつたから、蝋燭の方がましだといつて、小蝋燭の発明された十三世紀以後に於いては、それを買ふ余裕のある家では、もはやらんぷを用ひないようになりました。
然るに十八世紀の末、即、千七百八十三年に、ロンドンに住んでゐたスヰツツアランドの医師アーガンドが、優等ならんぷを発明しました。
今日ではほとんど全く廃れたが、ついこの間まであつた石油らんぷを見ると、風を防ぐためにほやがついてゐるが、このほやは他面に於いて空気の流通をも助けるので、極めて大切なものであります。アーガンドの発明したらんぷにはほやが附いてゐたのみならず、口金の下部には心へ空気の通ふように孔が明けてありました。アーガンド以前のらんぶでは、心に空気が通はなかつたので、十分完全に燃えなかつたが、口金に孔を明けたり、ほやを立てたりしたゝめに、心が完全に燃えて白熱光を発するようになりました。らんぷの心が薄平たかつたり、円を描いたりしてゐるのは心に十分空気を通はせるためで、もし心が厚かつたら完全燃焼が出来ず、従つて油煙が立つに相違ありません。
アーガンドが新式らんぷを発明してからの進歩は恐ろしいもので、それ以前の二千年間よりも、千七百八十三年以後二十年間の発達の方が著るしかつた。コロムブスの卵のたとへの如く、発明発見のむづかしいのは第一着手で、誰かちよつと手を着ければ、われも/\と争うて心をそれに向けて、改良を行ふことが出来るのです。アーガンドの発見以後、新式の油壺、精良の油、上等の心など、だんだんよいものが工夫されたが、一つとしてアーガンド式でないものはありませんでした。この点に於いて、アーガンドはらんぷ発明者の名誉を担ふことが出来ます。
スコツトランドの発明家ヰリヤム・マードツクといふ人が、別種の照明法を発見して、らんぷに代らしめたのは、近頃の一大貢献といつてよろしい。元来、油や炭が熱せられると、明るい焔を立てゝ燃えますが、それは油や炭その物が燃えるのではなくて、それから起る蒸発体、即、がすが発生して燃えるのだといふことが、久しい以前から注意深い人々の間には知れてゐました。らんぷでいへば、糸心が燃えるのではなくて、糸心を伝はつて上つて来る油が熱せられてがすを発生し、それが燃えて焔を上げてゐるのであります。
一千七百九十七年、マードツクはこの原理を応用して、大きい釜の中で石炭をくすべ、それから発散するがすを円管の中に導き、他の家の部屋々々に送つて、必要があればその管の一端を開いてがすを出し、それに点火することを工夫しました。即、心なしのらんぷが出来たのです。マードツクはかうした方法で、がす管を自分の工場にも延長し、そこにがす燈を点じて人々をあつといはせました。
おひ/\とがすを安価に供給する手段が講ぜられると、各家では競うてがす管を引き、またゝく間に全市はこの新燈明で夜を飾りました。ロンドン市の大部分ががす燈をつけたのは、千八百十五年で、発明後十八年です。米国では少し後れて、千八百二十一年にがす燈が点ぜられ、蝶の翅のように美しい光が闇を焼きました。
かうした風に、人々が競うてがす燈を用ひるようになると、長い間用ひられてゐた旧式の石油らんぷが捨てられました。
然るに、千八百七十六年になつて、また照明界に一大革命が起りました。革命といふのは電燈の発明です。最初の電燈は、二本のかーぼん線へ電流を通じた強力のあーく・らいとで、その光は百箇のがす燈、数百箇の石油らんぷに匹敵したので、公園、街路など、広い場所を照すのには極めて適当だが、強い光線と瞬く焔とは、屋内を照すのには都合がよくありませんでした。
しかし、まもなく『発明王』といはれるエヂソンが屋内電燈を発明し、到るところ、それをつけない家がなくなりました。これが即、エヂソン式白熱燈です。
以上説いて来たように、松明、蝋燭、らんぷ、がす燈、電燈といふ段階を経て、らんぷはおどろくべき発達を見ましたが、新発見毎に段々と安全の度を加へ、光明の度を増し、どんな煙も煤も起さないで、白昼を欺く照明を得るようになつたのは、全く進んで止まることを知らない人間の知識のお陰です。これから先きどんな発明が起つて、電燈が何に変るかは今日ではわかりませんが、さうした日の来ることには疑ひがありません。たゞ時日の問題だけであります。
四、鎔鉱炉
火を料理用、照明用、暖房用に供した歴史は既に話しましたから、こゝでは鎔鉱用にそれを使つたことをお話しませう。
初め人間は金属のあることを知りませんでした。金属が道具に使はれ始めたのは、ずつと後のことで、大昔は木の棒などを様々の用途に使ひました。それ故に、その時代を木器時代と申します。次ぎの時代に来て、人間は色々の石で道具を造つたから、それを石器時代と申しますが、石器も初めはたゞ石を打ち欠いたゞけであつたから打石器、或ひは旧石器時代と申し、次ぎに石を磨いた時代を磨石器、或ひは新石器時代と申します。素焼きの土器の発明されたのは、新石器時代のことで、旧石器時代にはどんな土器も存在してゐなかつたのです。まして金属で造つたものなどは、薬にしたくても見つかりませんでした。
然るに新石器時代の末になつて、先づ黄金が発見されたが、これは純粋のもの、──即、砂金が沙漠の中などで拾ひ取られ、質が軟いからそのまゝ色々の形に造られて、装飾などに用ひられました。次ぎには銅が発見され、鏃、鉾、剣、斧などに造られました。しかし銅は軟い金ですから、突いたり、切つたりするのには適しません。やがて錫が発見せられて、それの少量を銅に加へると、青銅といふ硬い合金の出来ることを昔の人が発見して、しきりに銅錫合金の道具を造りました。銅も錫も自然の状態で発見され易かつたから、早く人間の注意を惹いたのです。で、これらの時代を順々に、銅時代、青銅時代と申します。
鉄の発見は遥か後のことで、青銅よりも二千年ぐらゐ後れてゐます。それはなぜかといふと、鉄は純粋なものが自然の状態で存在してゐないから容易に古代人の注意をひかなかつたのです。鉄鉱がなかつたといふわけではありません。今日、ちよつと私達が山野を跋渉して見ても、到る処に赤い粘土の土手、赤い煉瓦石、赤く塗つた家の壁、さては少年の頬の色、婦人の頭の赤いりぼん、すべて赤い物には鉄分が存在してゐるのであつて、あの美しい林檎の赤色さへ、それが鉄を多量に包含してゐることを示してゐるのです。こんな風に、鉄はどこにもあるにはあつたが、大抵他の物質と混合してゐて、純粋な鉄だけは発見されなかつたのです。
自然鉄は隕石に見られるぐらゐのもので、それすら極めて少量ですから、知識の乏しい古代の人々には、鉄は容易に見つからなかつたが、山火事で鉄鉱石がおのづと溶けたり、小屋の失火で鉄塊が出来たりした拍子に、鉄の存在がふと知られたと思はれます。一旦知つて見ると、鉄の精錬はきはめてたやすいもので、たゞ鉱石を火の中に投げ入れさへすれば火力が強く、高温度の熱が出る場合には、きつと火の底に鉄分が小さい塊となつて滲み出て来ます。初めの製鉄はかうして行はれたのですが、その場所や年代ははつきりとわかりません。
最初の製鉄法は、たゞ木炭を堆く積み上げて、その上へ鉄鉱石を載せて鎔かせたゞけのことゝ思はれます。木炭は鎔鉱には極めて都合のよい燃料で、日本では出雲あたりの砂鉄製煉には、今日でも木炭を使つてゐます。しかし、この方法で鎔鉱すると、燃料も沢山いり、時間も長くかゝりますから、古代人はいろ/\考へた末、小山の腹へ三めーとる乃至四めーとるの穴をあけ、その穴へ木炭をつめ込み、次いで鉄鉱石を投げ入れ、上には一つ口をあけ、底には無数の口をつけて、木炭に点火しますると、鉱石が溶けて下の口から滲み出て塊鉄といふ粗鉄が出来ます。この鎔鉱炉は風向き次第で、ともすれば鉱石を溶解する力を失ひましたから、人工的に風を送つて火を煽ることが工夫されました。その風を送る道具が即、鞴であります。
鞴は普通野羊の革を縫ひ合せて造つたもので、手か足かを動力としてゐたが、ある場所では穴の明けてある丸太へ棒をさしこみ、それを上下させてぽんぷを動かすのもありました。いづれにしても、この鞴が出来たために、風向きがどうあらうと、場所がどこであらうと、そんなことはお構ひなく、いつでも鉄を製煉することが出来るようになりました。これが製鉄型式の第一歩であります。
かうした風に製鉄が比較的容易になると、青銅器時代が一躍して鉄器時代と変り、武具も日用道具もすべて鉄製になりました。青銅と鉄とを比べますると、その鋭さは非常な違ひでありまして、たとへば一本の木を伐るのにも、石斧ならば一箇月もかゝりますから、大きな林を開くなどいふことは、夢にも考へつかれない空想でした。然るに鉄が道具に利用せられ、小刀、鋸、鑿、斧などが思ふ通りの形に造られるようになると、木はたやすくきり倒すことが出来、またそれを細工して、家でも、道具でも、武器でも、舟でも、車でも、自由に造ることが出来ました。
段々人間の知識が進みますると、鉄は金属のうちでも最も大切なものであることが知られ、その需要が甚だしく多くなつて来ました。ところが原始的な製鉄場では一日の間鞴を動かしつゞけても、やつと十一ぽんど乃至十二ぽんどの塊鉄しか造ることが出来ません。そこで鉄は益々尊重せられて、ある国では金銀同様に思はれてゐました。それだから、あちらでも、こちらでも製鉄場が沢山建てられたが、原料の乏しいところでは発達したくも出来るわけのものではありません。
その原始的な鎔鉱炉は、数世紀の間どんな進歩もしなかつたが、中世期の末頃になつていくらか改良が施されました。ちようど十六世紀のなかばに、ドイツの製鉄業者達は非常に大きい、高さが六めーとる乃至九めーとるもある鎔鉱炉を造り、鞴の動力には水力を用ひたが、場所によつては太い木製のぴすとんを有する木製鞴が、在来の革製鞴の代りに用ひられました。これでさへも一大進歩であるのに、十六世紀の末には、ほとんど古代鞴の面影を止めぬほどの改良が加へられて、鎔鉱炉は一大革命を見ました。
新発明の送風炉で造られる鉄は、粗鉄に比して純精なもので、鋳鉄または銑鉄といはれます。製産能力から見ますると、古代鞴の一箇月の製産額が、新式送風炉では一日に造ることが出来るようになりました。発明早々の送風炉でさへ、一回に数千ぽんどの多量を鎔解し、一年間に百五十噸を製鉄したといふ記録が残つてゐます。
しかし鉄の需要は日一日と増して、この炉でさへ需要を充たすほどの供給をすることが出来ず、十七世紀になつては常に鉄の不足を訴へてゐました。鉱石はかならずしも少いわけではなかつたが、鎔かす材料が不十分であつたといはれます。
その頃でも燃料には木炭を用ひましたが、あまり消費量が多いために、到るところの山林は濫伐されて、どの山も/\みな禿山になつてしまひました。そこでイギリスの如きは、十八世紀の初めに、国会で山林保護のために木材の伐採を禁じたほどでした。木炭が得られなければ、何か外の新燃料を探さなければなりません。千六百十九年には、イギリスのウオーアヰツクで、ダツド・ダツドリイが軟石炭を使つて見たが、これは不成功に帰したので、其後約一世紀の間代用品を物色してゐましたが、干七百三十五年になつて、アブラハム・ダアビイといふ製鉄家が、送風炉にこーくすを使用して成功しました。
かうして新燃料が発見され、十八世紀の末には、送風炉の燃料はこーくすに限るといふことになつたので、こんどは鎔鉱炉の改良を企て、遂に、ネイルソンといふイギリス人が熱風機を発明しました。
ネイルソン以前に使用された送風機の送る風は冷めたいものだつたから、それを暖めるのにかなり沢山の熱が空費されましたが、かれはもしその空気を予め六百度に熱して置いたならば、燃料を増さないでも二倍量の鉄を造ることが出来るだらうと考へ、その考へに基づいて、千八百二十八年に送風炉用の熱風機を発明するに至つたのです。
こーくすの使用と、熱風機の発明とで、以前に倍する製産額を見ましたけれど、鉄の需要はほとんど無制限であるから、より以上有力な鎔鉱炉が必要となり、志ある人々はそれの発明に苦心してゐました。
この熱風機が発明せられてから、綱が鎖になり、木鋤が鉄鋤になり、木管は鉄管と変つて市中の水道に用ひられ、鉄製れーるが敷設されるといふ風に、各方面で鉄の需要が増したので、製鉄業者達は目の廻るほど忙しい思ひをして、出来るだけ多くの鉄を造り出しても、尚ほ且つ不足を告げるといふ有様でした。
然るに十九世紀の中頃になつて、サア・ヘンリイ・ベスマアが鋼鉄を造る新方法を発明して、鉄の需要者を喜ばせました。一たい、鋼鉄は少量の炭素を鉄に混和すれば出来るものですが、製鉄業者達はどうしたら製法が容易になるか、また製品が良好になるかと、数千年間研究を続けて来たのでした。その問題をベスマアが解決して、鋼鉄を容易に且つ多量に製産することが出来るようにしたので、その価は非常に安くなりました。
ベスマアは製鋼研究中、いくたびも失敗を重ね、生命を危くしたことも度々ありましたが、勇気と忍耐とはそれらに打ちかつて、遂に千八百五十八年に、鎔鉱炉中の数噸の鎔鉄を、数秒間に立派な鋼鉄に変質させる方法を発明しました。
かうして今日では、安価に巨額の鋼鉄が供給せられることになり、鉄道線路も、橋梁も、軍艦も、商船も、軍用汽車も、旅客、貨物両汽車も皆鋼鉄製となり、建築にも盛んに利用せられて、鉄器時代から急激に鋼鉄時代に移りました。そして、さうした一大変化は、実にたゞ一人の発明家サア・ヘンリイ・ベスマアの苦心によつて作られたものであるとすれば、人の力の偉大さが直ちにそれと理解されるではありませんか。
五、蒸気汽缶
こんどは火が人の代りを勤めることをお話しませう。実際、今日の世界に於いては、為事の大半は火の力で行はれてゐます。まあ考へてごらんなさい、火で蒸気が作られ、蒸気がいろんな機械を動かして、数へきれないほどの為事をしてゐるではありませんか。
初め人間は蒸気が物を動かす力のあることを発見しました。その発見はよほど古いことゝ思はれます。火で湯を沸かすと湯気が出て、湯気が土瓶や鉄瓶の蓋を動かします。もし湯気が外に洩れないようにして置いたら、土瓶でも鉄瓶でもすぐに破裂してしまひます。土瓶に口のついてゐるのは、それから湯気を外に逃がさうといふ昔の発明家の考へつきだつたのです。石器時代の遺物にさへ土瓶が見出されるから、湯気が物を動かす力をもつてゐることの知られたのは、あながちワツトに初まつたわけではありません。
その湯気を利用した蒸気汽缶の発明は、紀元前百二十年まで遡ることが出来ます。エジプトのアレキサンドリヤの哲学者に、ヘロといふ人がありまして、蒸気力で空気の抵抗を利用して球を回転させる玩具を発明しました。発明はしたものゝ、誰もその原理を応用して、これを実用上の目的に使はうといふものもなく、かれこれ干七百年の月日は過ぎました。
ちようど十五世紀の末頃から、ヨーロツパの発明界は活動を始めて、十六世紀の末には到るところでいろ/\の物の研究に取りかゝりました。蒸気力の研究もその世紀の中頃から始められて、十七世紀の中頃にはその性質と力とについて理解をもちました。
千六百二十九年、イタリヤのブランカといふ人が、蒸気力で臼を搗かせることが出来るといふ記事を書いた書物を出しましたが、世間では一向それに注意せず、ブランカ自身も果してどれだけそれに興味をもつてゐたかどうかはわかりません。この臼搗き機械は、先づ人間の形をした半身像を造り、その中に水を湛へて下から熱すると、湯気が人形の口から噴き出して横の歯車を廻す、横の歯車が縦の歯車を動かし、縦の歯車につけてある円筒が一所に動いて、円筒についてゐる杵が上り下りして臼を搗く装置になつてゐました。しかし、これはほんの思ひつきで、実際上にはあまり役立ちませんでした。
然るにまもなく、この暗示によつて、英国人が立派な汽缶を造りました。その人はウースタアの侯爵エドワード・ソマアセツトといつて、千六百六十三年に、四分間に大桶四杯の水を高さ十一めーとるのところへ汲み上げる汽缶を造りました。この汽缶には前人未発の重要機関部、即、蒸気を出させる蒸気発生器と、機械を動かす力を出す発動器とが含まれてゐました。
ソマアセツト侯爵は、この汽缶の研究に没頭して資産をなくしてしまひ、失意不遇のうちに命を失つて、その名すら一般の人々には知られませんでした。その頃の英国の礦坑は、だん/\深く地下へ掘り下げて行つたから、坑中に水が溜つて仕方がない、その溜り水を地上に汲み上げるのはむづかしいことで、ある場合には数百頭の馬を使つて、水桶で汲み上げさせました。ソマアセツト侯爵はこの手数を省かうとして、前記の機械を発明したのですが、理窟ばかり立派で、実際には役立ちませんでした。
その後まもなく、実際に適した礦坑用の水汲み機が出来たが、たび/\爆発を起して危険であつたから、その危険を防ぐ目的で安全弁が工夫されました。時は干六百八十年頃、処はフランスのデニイ・バパンといふ人が、必要以上の蒸気が汽●中にたまると、自動装置の開閉弁から外へ出てゆくようにいたしました。それからまた十年ほど後に、再び一大改良をこれに加へました。
ソマアセツト式の汽缶では、蒸気発生器の中にある蒸気が、蒸気を発生させる水面を圧して無用に消費されてゐるので、バパンはそれを改良して、第三十二図のようなものを工夫しました。即、汽●に少量の水を入れ、普通ポンプに用ひてゐるぴすとんを汽●内に低下し、汽●の底を外から加熱すると、底部にはすぐ熱するように薄い金属板が張つてありますから、汽●内の水はぢきに沸騰して、蒸気になつてを押し上げると、についてゐるぴすとん棒は、懸け金のために落下を止められますが、その間に汽●内が冷却して真空が出来るので、はを引き上げながら降下するのです、この働きが礦坑内の溜り水汲み上げに応用されて、バパンは汽缶中のぴすとん発明者として、後世までも褒め称へられるようになつたのです。
こゝで話は十八世紀の初めに移りますが、その当時の礦坑は以前よりも、一層深くなりまさり、従つて溜り水の汲み上げには非常な困難を感じましたから、人々は熱心にバパンとソマアセツトの機械を完全にしようと苦心しましたが、遂にイギリスのダートマスで鍛冶屋をしてゐたトマス・ニユーコメンといふ人が良い機械を造り出しました。
第三十三図の示す通り、大天秤は軸で上下動しますが、その一端には鎖がついてをり、鎖からはぽんぷ綱が吊り下つてゐます。今、蒸気が汽缶に発生して、弁を経て気●に入ると、ぴすとんを押し上げますから、天秤の一端についてゐるぴすとん綱が上り、従つて他端のぽんぷ綱が下ります。ぴすとんが気●の上部に押し上げられると、弁が汽缶口を閉ぢ、他の弁が廻つて、水槽から冷水が下降して、気●内へ噴き出し、蒸気が冷却されて、水滴は排水管から外に逃げ、気●が真空になりますから、ぴすとんが下つてぽんぷ綱が上り、礦坑内の溜り水が汲み出されることになります。
初めこの機械の二つの弁の開閉は、ぴすとんの上下毎に人手で行つてゐましたが、千七百十三年、その開閉を命ぜられてゐた少年ハムフレイ・ポタアが、遊びたいの一心から天秤へつけた綱と懸け金との作用で、人間が手伝はないでも弁がひとりでに開閉するようにしました結果、一分間に五六回しか上下しなかつたものが、十一回乃至十二回も上下するようになりました。怠けたさの子供心から、ふとかうした大発見をしたとは、実に面白い話ではありませんか。
この改良型ニユーコメン機は広く採用せられて、礦坑は勿論、ロンドンなどでは富豪の邸宅で汲水用に使はれ、千七百五十二年にはブリストル附近で水車に使用せられ、オランダでは排水用の風車の動力に使はれましたが、その後七十五年間、少しづゝ改良せられて、世界の各所で用ひつゞけられました。
ところが十九世紀の末になつて、ジエームス・ワツトの手で大改良が加へられ、今までにない立派な蒸気汽缶が出来上りました。第三十五図をごらんなさい。ぴすとんは両端の密閉せられた汽●内に動き、汽●と並んで、管から蒸気のはひつて来る弁室があり、その上下端に汽●に通ずる二箇の入り口が設けてあります。この弁室中の弁は、天秤の上下につれて働く綱に動かされて口を開閉します。ぴすとんが汽●の上部に達しますると、下の孔口が弁で遮られ、上の孔口から蒸気がはひつて押し下げ、下降すると上の孔口が弁で閉され、下の孔口から蒸気がはひつて押し上げる仕掛けになつてゐます。これまでの機械では、ぴすとんの上下は半分は蒸気力、半分は空気の圧力によつてゐましたが、この改良型のワツト式では、すべて蒸気の力で動かされ、初めて遺憾なく蒸気力を使用することが出来たのです。
ワツト式には今一つの特色があります。ニユーコメン式ではぴすとんが冷却されて、その回復に無駄な蒸気を使ひますが、ワツト式ではぢかに汽●内へ冷水を注入せず、管から●を通つて、筒を経て器中へ導かれると、天秤の上下動につれて動くぽんぷからの水の注入で冷却されるから、直接汽●内で冷却されて、ぴすとんや汽●を冷却させないですみます。この点で蒸気を空費することが少いから、ワツト式は運転の費用が安く上りました。
一番初めにお話したヘロ式やブランカ式で、私達は蒸気が反動または衝動で働くことを知りましたが、ワツトの死後になつて、発明家はこの点に考へを費し、蒸気の直接衝突で運転するような機械を作らうとして、約百年の間苦い経験を嘗めましたが、遂にたーびん機が発明されました。この機関の発明者は、チヤールズ・アルジヤーノン・パアソンズといふイギリス人で、千八百八十四年に特許権を得て、だん/\広く世界に行き渡り、陸上のみならず、舶用として汽船、軍艦にも採用せられ、交通運輸の上に大きな利益を与へつゝあることは人の知るところです。
六、食料
私はこれまで、大分堅くるしい器具、機械のお話をして来ましたから、少し方面を変へて、人間に取つて一番大切な食物の発見発明について述べませう。
人間は昔から今日のような食物を取つてゐたわけではなく、食料も料理法もだん/\と変つて来たのです。昔、昔、大昔、人間は恐らく猿などのように、一日の中の大部分を木の上で過ごした時代があつたと思ひます。さうした時には、堅果では椎の実、栗の実など、核果では、梅、桃、漿果では柿、梨、林檎のような木の実を、枝から枝へ、幹から幹へと、わたりあるいて漁つたでせう。もちろん、それらは初め生のまゝで食べられたのです。今日子供が木に攀ぢ上つて果実をあさり、それを生で食べることを好くのは、人間が野蛮であつた時代の名残だといはれます。
地上へ下りて来ても、低い木の実とか、大豆のような莢果とか、ひさごやきうりのような瓠果、いちごや桑の実のような複果などを食べてゐました。
これらはみな植物性の食料ですが、動物性のものはどんな種類を食べたかといふと、おそらく蜂の子どもとか、じむしとか、蛙、蛇、とかげ、かたつむりなど、小さい陸生動物を捕つて食べたでせう。これらを捕へるには、抜き足さし足で動物に近づき、ふいに手を伸ばして生け捕つたのですから、大きな動物などは手に入れようがありません。
動植物の外には、多少の鉱物性物質をも食べました。最も喜ばれたのは粘土の一種で、わが国のアイヌは、今日でさへも尚ほ黄色の粘土を食べます。
だん/\人間の知識が進んで、色々の武器が発明せられるようになつてから、大きな獣類に目をつけ、鹿、猪、牛、馬などをも捕へて食べるようになりました。また河や湖や海へ出て、うなぎ、こひ、ふな、さめ、たひ、ひらめなどの魚類を捕り、いろ/\の貝類をも好んで食べましたが、陸では鳥類に目をつけて、草むらや蘆原などにゐるのを、棒でなぐつて捕つたりしました。
これらの動植物は、初めはみな生のまゝで食べたが、いつしかそれを乾かして食べることを発明しました。生のまゝではぢきに腐りますが、乾かして置くと腐りませんから、余つた時にはそれを干して置くことにしました。これが食料の貯蔵の初まりです。人間がいつ頃から貯蔵を始めたかはわかりませんが、エスキモーなどは雪の中へ穴をほつて、そこへ鯨肉などを貯へて置き、必要に応じてそれを取り出しますから、かなり古い時代から貯蔵をしたに相違ありません。もずといふ鳥は、雀などを捕つて食ひ残りを木の枝にかけて置き、おなかがすいたらそれを食べるつもりでよそへ飛んでゆきますが、ぢきにその場所を忘れてしまひますので、私達は時々野中で木の枝に食ひあましの肉の引懸つてゐるのを見ます。それが即『百舌鳥の贄』といふものです。犬でも悧口なのになると、食ひあましの牛肉などを、地べたへ穴を掘つて埋めて置き、思ひ出すとまた掘り返してそれを食べます。だから人間に於いては、人間になつた時から既に食料の貯蔵を知つてゐたと見てさしつかへありますまい。
やがて火の利用を知りますと、人間は食料を焼いたり、焙つたり、煮たりして食ふことを考へ出しました。かうして食べると、味が一そううまくなりますから、ある特別の場合を除くの外は、すべて焼いたり、焙つたり、煮たりするようになりました。石器時代の人人の住んだ小屋址から、時々さうした竈が見出されます。
驚くべきことは、昔の人間が人肉を食つてゐたことです。今日でも飢饉があると、『共食ひ』をする野蛮人がゐます。ウエンド族などは、仲間のものが年をとつて来ると、それを殺して、料理をして食べます。文明人と誇つてゐたサキソン人でさへ、三十年戦争の終りには人肉を食べたといひ伝へられます。今日でもメラネジヤの土人、ことにフイジイ島やニユーカレドニヤの土人は、必要の場合には人肉を食べます。
人間の肉を食べる目的はいろ/\ありますが、腹のへつた時、食べるのが普通で、中には敵の性質を得たいために、その肉を食べることもあり、また先祖と合体したいために、死んだ父祖の肉を食べることもあります。
動物性のものでも、植物性のものでも、自然のまゝでは手に入れることがむづかしかつたり、また数量が少なかつたりしたので、いつのまにか動物を飼養して家畜とし、植物を栽培して収穫することが工夫されました。こゝに牧畜と農業との基が開かれたのです。
家畜の起りは、多分、地中に穴を掘つてその中に尖つた木片を立て、上に木の枝や草を置いて穴のあることをわからぬようにした陥し穽へ動物が落ちた時、いろ/\の餌を持つていつてくれて馴らしたのが初めだと思ひます。馬でも牛でも羊でも豚でも、初めはみな野生だつたが、かうした方法で馴らして、家畜にしてしまつたのです。家畜の中で、人間から動物に近づかないで、むかうから人間に近寄つて来たのは犬だけです。犬が外の家畜と違つてよく人間に親しみ、人間のために命をも惜まずに働くのは、さうした古い歴史があるからだといはれます。
さてその次ぎは農作物ですが、麦でも米でも粟でも黍でも、初めはみな野生であつたのです。人間が昔それらの野生してゐるのを見つけて、その実を取つて食べてゐた頃、小鳥が餌をさがしてあちらやこちらを廻り歩くように、人間もうろ/\と方々を歩いて、適当な食物を探しました。さうしてゐる間に、以前に穀物の種の落ちてゐた処で、それが根を下ろして立派に育ち、また美しい実のなつてゐるのを見て、種を蒔けば芽をふき、芽をふけば大きくなつて、花が咲き、実を結ぶといふことを発見し、その簡単な原理を応用して、適当な場所に種を蒔いて見たのが農業の初めであります。
だから、食料を求める為に、人間は狩猟、漁撈、牧畜、農耕の四つを発明して、いつでも幾らでも自由に食物を得て、飢饉に悩まされるようなことがなくなつたのであります。
着物はなくても、裸でも暮らせます。家はなくても、岩の中、木の下にもぐりこめば雨風にさらされずに生活が出来ます。しかし、食物がなければ死ぬ外はないから、昔から人間はそれを一番大切に思ひ、一番骨を折つてそれを手に入れることに苦心したのです。発明のもとは大方食物を得たいといふ欲望にもとづいてゐます。農業が始められ、家畜が飼ひ始められ、土器が造り始められ、金属が発見せられたのが、みな新石器時代であることを思へば、これらの発明発見は個々独立してゐたのではなく、互に関係があつたといふことに疑ひはありません。
動物の飼養、農作物の栽培は、年毎に段々上手になり、肉類、穀類、野菜類の料理や保存の方法も、以前とは見違へるほど巧妙になりましたが、人口がおひ/\殖えるに従つて、世界の人々は食料の欠乏を感じ、今日ではそれら自然の物産の外にいろ/\の人造品を造つて、それによつて栄養を得ようといふ計画をしてゐます。それが即、化学的食料で、ちよつと食べただけで、牛乳一升分だけの滋養分が取れたり、鶏卵十個分だけの栄養価があつたりするものが、おひ/\に現はれて来ようとしてゐます。ヴイターミンAとかBとかいふものは、さうした化学的食品の先駆であり、味の素などいふものは、人工によつて食品に美味を保たさうとする努力によつて、私達の前に提供せられた人工品です。これから先きの食物は、少く食べて多く栄養を得るといふ経済的のものでなければなりません。
七、犁
さて農業の始められた頃には、どんな農具が用ひられたかといふ事が、第一の疑問であります。初め人間が漂泊して食物をあさつてゐた頃には木の根を掘つたり、木の実を叩き落したり、鳥をぶち落したり、ある場合には敵の頭をうち砕いたりする目的で一本の先の尖つた棒を持つてゐましたがこれが先づ農業に用ひられたと思はれます。
オーストラリヤの土人は、今日でもかつたといふ木棒を使つてゐるし、南印度のクルバル族は、穴掘りの目的に土掘り棒を用ひてゐます。男は狩りなどに出て、荒つぽい為事をしてゐるから、女が子供をおんぶしながら、土掘り棒でこつ/\と地を掘つて小孔をあけ、それに種を蒔いたりしたことが、アメリカ土人の例などでそれとわかります。
一本の土掘り棒が進化すると、二叉の木の枝になります。一方を手で持ち、他方を尖らして、それで浅く地を耕したに相違ありません。かうした原始的な犁にも、現代の犁がもつてゐる二要点が含まれてゐます。即、一つは地中にはひる部分で、それが犁の刃に相当し、一つは地上に出てゐる部分で、それが刃に適当の重さと釣り合ひとを与へる犁の轅に相当します。
この二叉式犁に改良を加へたものが、シリヤの古い記録に見えてゐます。それは第三十八図の如く全部自然木であつて、たゞ僅かに刃と長柄とを丈夫に結びつけるために、支柱が人工でつけられてゐるだけです。柄は初手から刃についてゐるものです。このシリヤ犁は、二人がゝりで使はれたもので、一人は長柄を持ち、一人は刃が地上へ出ないように、小さい柄を押へつけたものです。
エジプトの古い画を見ると、人が犁を引張つて耕作してゐる図があります。しかし、昔から働くことはあまりすかなかつたものと見え、犁を牛馬に牽かせることがはやり出しました。その時代の犁はシリヤ式よりも一段進歩したもので、刃の幅がずつと広くなつてをります。刃の幅が広ければ、畦も広く作られるわけであるし、柄が二本あつて両手で握るから、為事も楽に出来たことと思はれます。
この式は大分久しい間、最初のまゝで用ひられてゐましたが、ローマ人がそれに改良を加へました。プリニウスといふ人の書いた本を見ると、犁の掘り返す深さを制限するために刃の前方に二個の車輪をつけ、車輪と刃との間に荒おこしの副へ刃がつけてあつたといふことです。 その後一千年ばかり経つて、サキソンでは征服王ウイリヤムの治世には、古代エジプトの犁に車輪と副へ刃とを取りつけ、それを四頭の馬に曳かせました。これ以後は取るに足るような改良もなく、旧式の木製犁で満足してゐましたが、十六七世紀の間に多くの改良が加へられました。
千六百五十二年に出版せられた書物に、二重犁といつて、一時に二畦を耕すことの出来るものゝ説明が出てゐますが、それがどれだけ実用に役立つたかはわかりません。
十八世紀の初めになつて、やうやく値うちのある改良が加へられました。それは刃の外に土わけの板をつけたもので、オランダの犁造りが工夫したのですが、すかれた土を高く盛り上げると同時に、それを砕き、雑草を全く土中に埋めてしまふので、大変農民に重宝がられました。
この板附き犁は十八世紀に、英国を初め文明諸国で、摸倣、採用されたが、尚ほそここゝでは木製の不完全なものが用ひられてゐました。千八百年頃の書物に、犁の製造方法を述べて、「土わけ板は長持ちするように、柾目を削つて作り、また磨滅を防ぐために、古い草取り機の刃か、薄い鉄片か、或ひは古い蹄鉄かゞ釘附けにされるが、全体は木製で、底と脇とには薄い鉄板が張られるが、刃は鋭い鋼鉄製であつた。副へ刃も鉄製で、真直な舵取り棒が、木製の柄と直角になるように装置される。労働者はちよつとした手かげんでこれを動かし、極めてのろくさい為事をしてゐる」と、書いてあるので当時の耕作の様子がよくわかります。 十八世紀は世界の文明が一度に進んだ時代で、農具もまた一大進歩を見ました。即、人口もだん/\と殖え、昔より広い面積の畑を耕す必要が起り、便利な、速く動く犁が求められましたが、米国の如き未開墾の処女地の多い場所では、一そうその必要があつたのです。「必要は発明の母だ」と申す通り、この要求が遂に進歩型の犁を発明させました。
この発明に与かつて力のあつたのは、トマス・ジエフアーソンといふ政治家です。彼は千七百八十八年にフランスを旅行して、途上、農民が犁を使つてゐるのを見て、そのぶかげんさに驚き、日記に「なんといふのろまさだ、一体なんのために犁を造つたのか、わけがわからぬほどだ」と記してゐます。彼は心のうちで、一体犁は深く土壌を掘り返すために造られたものだから、この点に力を注いで改良を施さなければならぬと考へ、千七百九十三年に理想的なものを造りました。それは理論からわり出したもので、科学的、数理的ではありましたが、決して実用的なものではありませんでした。
ジエフアーソンとほとんど同時代に、二ユー・ジヤーシイ州にチヤールス・ニユーボルドといふ農民がありました。彼は今までの犁の効力がないのは、木と鉄とを混用してゐるからで、それは当然全部を鉄製にしなけれならぬと考へ、干七百九十六年に、全部を鋳鉄で造つた犁を工夫しましたが、土地の農民達は、鉄気は畑物に害を与へ、剰へ雑草を繁らせるといつて、せつかく造つた鉄製犁を採用しませんでした。で、彼は失望して、その製造を中止しました。
然るに千八百十九年に、ニユー・ヨーク州、シツピオのジエスロー・ウツドといふ人が、ジエフアーソン式とニユー・ボルド式との長所を組み合はせて、一種特色のある鋳鉄製犁を発明し、すぐその特許権を得ました。ウツド式は各部が組み合はせ式だから、壊れたら,その部分だけを修繕すればよいので、便利だといつて歓迎せられ、千八百二十五年には半鉄半木製の旧式犁は、全く文明国から駆逐されてしまひました。
現在用ひられてゐる犁は、干八百十九年以来、度々改良されたものであるが、形に於いてはウツド式を離れることが出来ません。そこでウイリヤム・エツチ・シウオードといふ人は、「米国民に取つては、ジエスロー・ウツドぐらゐ、大恩恵を与へてくれた偉人はない」と、いつて、彼の功労を讃美しました。
しかし、この優良型でさへ、刃は僅かに一本であつたから、西部諸州の如く未開地の多いところでは、為事がのろくて堪へられなかつたから十九世紀の中頃にはがんぐ・ぷらうといふ複式犁が発明せられ、一時に四畦或は五畦を耕すことが出来るようになりました。その動力は初めは馬でしたが、今日では蒸気力を用ひ、最近ではがそりんを用ひてゐるのもあります。
八、鎌
先づ犁を発明して土地を耕し、それに種を播くようにした人間は、次ぎにはその収穫を集める必要が生じたので、色々と思案して鎌を発明しました。
初め穀物は粗末な、真直な小刀で刈り取られたに相違ないが、経験上、もしも刃物が少し曲つてゐたなら、一そううまく刈れるだらうといふ考へを起して、原始人は遂に『刈り鈎』即、鎌を発明したのです。鎌は半円形を呈して、内側に刃のある小刀の一種で、刃の一端は光り、他端は袋になつて木の柄がつけられ、穀物を刈る場合には、左手で穀草の上部を握り、右手に持つた鎌でその下部を刈り取ります。一体、この鎌はいつ頃から使はれたかわかりませんが、石器時代の遺物中には珪石で造つた類似の道具があるし、青銅器時代の遺物にも原始的な青銅製の鎌が見出だされます。従つて初めて使はれた場所もわからないが、エジプトか、バビロニヤあたりであらうと思はれます。テーベにある古い建て物の壁画に、エジプト人が鎌を使つてゐる図がありますが、それでは二人の男が鎌で穀物を刈り、それを他の一人の男が集め、更に他の一人の男が穂をこく場所に運んでゆくと、牛がその鈍い足でそれを踏んでゐる光景があり/\とうかゞはれます。エジプトで古くから鎌を使つてゐたことは疑ひがございません。
エジプトで鎌が用ひられたように、古代の文明人、即、バビロニヤ人、ヘブライ人、ギリシヤ人、ローマ人も、それを使つてゐたと想像されます。
この鎌に第一の改良を企てたのは、紀元百年頃で、それに手をつけたのは、当時世界第一といはれたローマの農民でした。ローマの大鎌は、現今の冶樹刀に似たもので、幅の広い、目方の重い刀身が、長くて真直な柄につけられ、二本の手で草を刈るために用ひられました。
それから後、千年ばかりの間は、ヨーロツパでは全く農業が顧みられなかつたので、農具の改良といふものはほとんど見られませんでした。が、中世紀の末になつて、ローマ式大鎌に多少の改良が施されました。
即、フランドルの農民達が、ヘイノー大鎌といはれた改良鎌を造りました。それは立派な広刃と、曲つた柄とから出来てゐて、使ふ場合には、左手に持つた鈎で穀草の茎を一処に集め、右手に持つた大鎌で穂を刈り取ります。以前のものに比べれば、進歩はしてゐますが、まだまだ十分とはいへない無細工なものでした。
この次ぎに、くれーどる大鎌といふのが出来ました。くれーどるといふのは、『刈り草配列機』などと堅苦しい訳がついてゐますが、実は刈り穂受けのことで、刃に沿うて横に木製の指があり、それで刈り取つた穂を一束分づゝかき集めて、地上に落してゆく働きをいたします。初めの刈り穂受けは、指の数も少く、長さも短かつたが、アメリカでは植民時代にだん/\それを長くし、且つ数をも殖やしました。
このアメリカで改良せられた新型大鎌が、革命時代にヨーロツパで歓迎せられ、十八世紀の末には、外の旧式鎌を全く駆逐してしまひました。
ところがアメリカでは、この刈り穂受け附き大鎌でさへも、農民を満足させることが出来ませんでした。そのわけは十九世紀の初めに、うんと効率の多い鋳鉄製改良犁が造られて、以前に何倍する広大な畑が耕され、従つて多量の小麦が播種されて、その穂は十分熟しても、とてもそれを刈り入れることが出来ません。一たい小麦の穂は、ちようど熟し切つた時に刈らねばならぬが、そのとりいれ時は僅かに三四日で終ります。その短い間にかたづけてしまふことは、従来の大鎌ではおぼつかないので、勢ひ一そう改良された鎌が発明されねばならぬことになり、その必要に迫られて、人手以上に急速に刈り取れる鎌を造り出すものが現はれました。
千八百年頃には、ヨーロツパやアメリカの発明家達が、全然新式の鎌を発明しようと、いづれも頭痛鉢巻きで工夫を凝らしましたが、ふと二千年も前にゴール人の使つてゐた刈り穂機から新工夫に到達する暗示を得ました。
一体ゴール人の刈り穂機はどんなものであつたか。紀元百年代のローマの歴史家プリニウスの書物に、それについての記述があります。それは二輪車の上へ、大きな空箱を載せたもので、前の方には穂を掴んで刈り取る刀歯が植ゑつけてあり、刈り取つた穂は附き添ひ人の手で箱の中に入れられ、牡牛が後から車を押して、前へ進んでゆく仕かけになつてゐました。かうした刈り取り機は、しばらくヨーロツパで用ひられたに相違ないが、都合の悪いことがあつたと見えて廃り、その後数世紀の間には全く忘れられてしまひました。
それをイギリス人が思ひ出して、ゴール人の意匠を応用して、新式の刈り取り機械を発明するに至つたのです。中でも最も注意すべきは、イギリスのレミングトン小学校長、ヘンリイ・オーグルといふ人の発明で、千八百二十二年に、彼は従前のものとは全く異つた、かへつて後世のものに似てゐる刈り取り機械の模型を作りました。
このオーグル式刈り取り機は、二輪車の前に馬をつけて曳かせます。右側に装置された箱の前部には、刀歯が列を作つて植ゑつけられた鉄棒を取りつけ、刀歯の直ぐ下には、鎖で自由に動いて、穂が歯の間に挟まつた時、それを刈り取るように出来てゐる鋭い刃が横はつてゐて、車体が前進するにつれて、穀草を刃の方へ導き、それを刈り取ると直ぐ穂箱に蔵められるような装備を持つてゐました。
オーグル式は、大体に於いて現代式と似てをり、鎌の発明史から申しますと、極めて重要な位置を占めるのですが、実用上ではどうしたものか、あまり歓迎せられなかつたようであります。
イギリスの発明家達も、かうした風に改良鎌の製造に苦心しましたが、成功したのはアメリカの技術家でした。千八百三十一年の夏、ヴアージニヤ州のシエナンドアー渓谷に住んでゐた青年鍛冶で、名をサイラス・マツコーミツクといつたものが工夫を凝らし、その意匠に基づいて父親の造り出した刈り取り機は、どれほどオーグル機を参考したかはわかりませんが、とにかく試運転には成功して、立派な結果を収めました。即、マツコーミツク機は、二頭の馬で曳き、午後中に二えーかー、即、二千四百五十坪ほどの燕麦を首尾よく刈り上げたといふことです。
マツコーミツクの伝記を書いたカツソンの記述によると、この機械の働きが、大鎌を使ふ六人の農夫、もしくは小鎌を使ふ二十四人の農夫に匹敵するといふことを、当時の人々は容易に信用せず、ちようど人間が駄馬を背負つて町中を歩き廻つたといふ話同様、嘘だときめてしまつたそうです。
この機械をマツコーミツクの発明したのは、前述の通り千八百三十一年でしたが、千八百三十三年に、彼の機械と同様の歓迎を博した刈り取り機の発明者、バルチモアーの水夫オベツド・ハツセイが、特許権を先きに取つてしまひました。そこで実験の始めはマツコーミツクであり、特許の初めはハツセイであるといふことに人々がきめてしまひました。
これら二人の意匠はほとんど同じですが、ハツセイ式の特点は、三角形鋼鉄製薄板の鋭利な刀が、平たい棒に並べて植ゑつけてあつて、従来のものより一そう早く、鋭く、刈り取ることが出来るのでした。それはともかく、これらの二人は、世界が要求してゐる通りの軽便な刈り取り機を造つて、農業の進歩に貢献したことは特筆すべきで、共に近世発明家中の偉人といつてもよろしい人格であります。
二人の刈り取り機は、大仕掛けのアメリカ農場では大歓迎を受けましたが、特に西部諸州の農民にはあり難がられました。それについて面白い一つの逸話があります。千八百四十四年のこと、マツコーミツクは、オハイオ州、ミチガン州、イリノイス州、アイオア州を旅行したが、イリノイス州にさしかゝると、黄熟した大麦の畑が、さん/゛\に牛や豚に荒らされてをります。あまりのもつたいなさに、どういふわけかと人に尋ねますと、百姓は昼夜兼行、家内総出で働いてゐますが、鎌の刈り取る力には限りがあつて、全く手が廻りかねてゐるのですと答へました。「こゝだな!」と、舌打ちして、マツコーミツクは新発明の改良刈り取り機売りひろめの決意をなし、千八百四十七年チカゴへ移住して工場を建て、盛んに新型機械の製造に取りかゝりました。
と、一箇年足らずで五百台の註文があり、十箇年の間に二万五千台を売り上げましたから、ちようど一箇年に三十まいるづゝのわり合で、販路を西方に拡張したわけになります。実に盛んな勢ひでした。
しかし、ハツセイやマツコーミツクの機械とても、まだ/\完全無欠とは申されません。第一、刈り取つた穀物を台から移すのに、附き添ひ人が一人ゐて熊手で掻き下してゐましたが、それを改良して人手を借りないようにすれば一そう便利であります。そこで千八百六十五年頃には、この点を改良して、熊手と把稈機とを結合したものが発明されました。把稈機は多数の廻転する腕をもち、腕はそれ/゛\一つづゝの熊手をもつてゐて、腕が廻転するごとに穀草を刈り取り刀の方へ引きつけるばかりではなく、刈り取られたものを掻き集めて、それを地べたに落す装置をもつてゐました。この自動把稈機の発明は、たしかに一人の人手を省いたので、一時は刈り取り機の最良品と目せられましたが、まもなく更に五六人の手を減じ得るような新式機が発明せられて、マツコーミツクやハツセイの機械は旧式(きゆうしきになりました。
新式機の特色はどこにあるかといふと、自動束稈装置が完成せられて、立派に自動的に穀物を束ねました。前の機械では、掻き集めて地上に落した麦の穂を、束にして一々縛るのには、少くとも五六人の人手がかゝりますが、新式機では全くそれが省けます。この自動束稈機は、初めには針金を用ひましたが、千八百八十年以後には、細縄を用ひて麦束を縛るように改良せられました。
刈り取り機の進歩は単にこれに止まらず、更に驚くべき力をもつた完全収穫機の発明を見るに至りました。この機械は畑の穀草を刈り取り、脱穂し、簸ひ分けした上に、ちやんと袋包みにしてしまふといふ完全なもので、一方では四めーとる乃至七めーとるの刈り取り棒が、その鋭い刃で小麦を撫で刈りにしてゐると、他方ではその穀類が迅速に袋づめにされて、いつでも近所の倉庫とかすてーしよんとかへ送られるようにされます。
この完全収穫機は、三四十頭の馬に曳かせるか、或は蒸汽車で運転されるかするので、一日僅かに五十せんと足らずの費用で、百えーかーわが十二万二千四百坪強の小麦畑を刈り上げ、脱穂、簸ひ分けの後、袋詰めにまでされるのであります。だから、マツコーミツク時代以前に百人の人手を要した為事が、この機械では楽に一日でかたづけることが出来るわけです。なんと、恐ろしい進歩ではありませんか。人間の知識の限りない進歩は、将来どんな刈り取り機を工夫するか、あらかじめそれを物語ることは出来ません。
とにもかくにも、この完全収穫機は、その名の通り、沢山な農具のうちで、最も巧妙に造られたものだといふことが一般に認められてゐて、完全な機械の例に屡々ひき出されてをります。
九、臼
犁で地を耕し、鎌で刈り入れて、臼で搗けば、穀物はもはや食物になります。で、こんどは臼のお話しをいたしませう。
人間が初めに使つた臼は、地から生えぬきの大岩へ穴をあけ、其中へ穀物を入れて、手で持つた石でそれを圧しつぶすようにしたものでした。さう遠い昔のことではありません。アメリカ、ニユー・ジヤーシイ州のトレントンの大通りに、かうした原始的の臼が残つてゐて、曾ては世界中到るところにこの種の臼の用ひられてゐたことを示してゐました。しかし、岩のないところでは、造りつけの臼が出来ないから、外から石を持つて来て、それにこつぷ型の凹みを作りました。それが即、石臼の起りであります。
最初の石臼は槌を伴ひます。その槌は通例木製でした。こんな粗つぽい製粉器が、今日でも尚ほスコツトランドで用ひられて、大麦をたゝき潰してゐるのは奇観です。
これと似たもので、槌を使はずに杵を使ふ縦臼があります。その杵の先きが溝のつけてある鉄片で包まれてゐるものが、ちよい/\見受けられました。
杵で搗いてゐるうちに、杵を廻して搗くと一そう効果の挙がることを自然に知つて、古代人は次第に杵を廻しながら搗く習慣をつくるに至つたのですが、その廻して搗くといふ原理を応用して、新たに工夫されたものが、板石臼であります。
板石臼は大小二枚の板石からなつてゐて、その間に穀物を入れ、石の摩擦でそれを粉にする仕掛けであります。南アフリカ探検家として有名なリヴイングストンは、この臼について次ぎのように書いてをります。
「粉挽き男は膝をついてしやがみ、両手で上石を掴んで、ちようどぱん屋が粉でもねつてゐる時のような工合に、上石を下石の凹みの上に置き、それをしきりもなく前後に動かすので、石の重さへ人の重さまで加はつて、穀物は砕きつぶされて、上石と下石との間から地上へこぼれる」
このアフリカの挽き臼は、やはり杵を廻して搗くと効果が挙がるといふ原理を応用したものではありますが、上石を特に廻るように造つたものでないから、もう一奮発してそれをぐる/\廻るようにすれば、上石に柄のついてゐる本当の挽き臼が出来るわけです。
例によつて初めの挽き臼がどこで造られたかはわかりませんが、古い文明国にはそれ/゛\形の異つた臼がございました。しかし、形は異つてゐても原理は同じですから、どこかで初め発明せられたものが、だん/\と他方に拡がつていつたものでせう。先づ古代印度で用ひられた臼の説明から始めませう。
古代印度の挽き石は、上石と下石とからなりたつてゐます。上石の底面の中央には孔があいてゐて、それを下石の上面の中央に凸出してゐる旋回軸へはめこみます。上石には把手がついてゐて、それを廻せば上石がぐる/\廻つて、穀物は上石の中央の孔から下石の上に落ち、上石と下石との間に挟まつて潰され、殻も粉も一緒に臼からこぼれ落ちます。穀物はいくらか自然に穴の中へ入りますが、人が常に手を下してそれを助けることにしてゐました。これが漏斗のもとになつたのです。
次ぎには昔ユダヤ人の間で用ひられた臼の説明をしますが、それは下石が上石よりも大きく、上石の一端に挽き木がつき、他端に旋回軸があつて、二人の婦人がそれを挽いたのであります。『新約聖書」中の「馬太伝」第二十四章第四十一節に、『二人の女、うすひきをらんに、一人は取られ、一人は遺されん』と、いふ句がありますが、臼の形を照らし合はして見ると興味がございます。
古代ローマの臼は、一そう進歩したもので、粉が下石の横側の孔から出るように造られてをり、現今、台所で使はれてゐるこーひー臼と形がよく似てゐます。
スコツトランドの手臼は、大分形が異つてゐますが、極めて手軽で、今日でも尚ほそれを使つてゐるところがあるそうです。
紀元七十九年、ヴエスヴイオ火山が噴火した時に、当時の大都会であつたポムペイ市は、灰のために埋没されました。近年同市の発掘作業が行はれ、昔の物がいろ/\と見出されましたが、そのうちの珍らしい一つは臼であります。その臼は日本の磨り臼によく似てをり、上臼は砂時計の形に作られ、上の半分は漏斗として用ひられ、下の半分が穀物を砕くのに用ひられる。第六十五図の如く、下臼は円錐形で、その上に上臼の下半がかぶさり、上臼が回転すると下臼とすれて粒を磨り砕くのです。上臼の中ほどにくびれがあり、そこに二本の把手がついてゐて、それを人が持つか、馬、牛が曳くかして、臼のぐるりを廻りますと、臼はおのづから廻転します。これで、紀元一世紀の頃に、既に牛馬の力を借りて臼を廻らせたことが明らかになります。
これらの外、いろ/\の改良が施されて、臼の種類は多くなりましたが、中でも目立つのは紀元五十年頃、即、ケーザルの全盛時代に、ローマで水力を用ひて臼を廻す方法が工夫されました。それは水流が車輪を廻しますと、車輪の軸の上端にくつついてゐる上臼がおのづと廻る装置になつてをり、漏斗は屋根から吊り下げられてゐました。この水車臼の発明は、臼の歴史に一大進歩を斎らしました。
当時の人々が、どれほどこの水車臼を歓迎したかは、ローマの詩人の詠んだ歌でそれと知られます。
まめにはたらく少女らが、
臼ひきやめてねむつてる、
夜明けほの/゛\朝鳥が、
木々にさへづり出すまでも。
長い苦労をあはれんで、
女神は水の精たちを、
呼んで少女に代らせる。
車に水が落ちかゝり、
軸をまはせば大臼が、
ぐる/\廻つてぐるりから、
小麦の粉がこぼれ出る。
水車臼はもとより簡単なものですが、でも、新式製粉器の出来るまで、数世紀に亘つて用ひられました。
次ぎに臼を上げたり下げたりして、望み通りに粉を粗くも濃くも搗けるような装置が出来ましたが、更に水車臼に改良が施されて、殻と粉とが別々に篩ひわけられるような方法が発明されました。しかし、十九世紀までは、大した進歩はございませんでした。
ちようど千八百十年の頃、オーストリヤのウイーンの粉挽き職人が、二本の並列した廻転棒の間へ穀粒を落して製粉し始めました。この廻転棒には螺旋状の溝があつて、それ/゛\異つた方向に廻つてをり、いかにも柔かく粉が挽けたので、オーストリヤの粉とぱんとは評判がよくなり、ぱんといへばオーストリヤ製のものが思ひ出させるほどでした。今日でもよく『ウイーンぱん』といひますが、それはウイーンで造られたぱんといふわけではなく、ただ原料の粉がウイーン製だといふだけであります。
ウイーン式製粉機は、ぢきに世界中に採用されましたが、多量の小麦を生産するアメリカでは、それに改良を加へることに熱中し、遂に完全な廻転製粉機を発明しました。西部諸州に行はれてゐる製粉機は、いくつもの回転器が取りつけられ、その間を穀類が急速度で通ると、立派に精製せられるように工夫してあります。先づ第一の回転器では穀物が殻と大粒に砕かれた粉とに篩ひわけられ、第二の回転器ではそれを細粉に砕いて再度の篩ひにかけ、第三の回転器では一そう精密に製粉せられます。
以前の臼では殻と粉とが分離せず、粉に殻が混り、殻には粉がついてゐるといふ風であつたが、この廻転製粉機では粉と殻とが全然別になりますから、非常に歓迎せられて、まもなく旧式な他の臼を駆逐してしまひました。私達は今日でも尚ほ田舎へゆくと、上臼と下臼とからなりたつてゐる挽き臼を見受けることがありますが、さうした店はきつと繁昌してをりません。製粉業者も他の製造工業と等しく、最新の機械を用ひなければ時代の要求に応じて、経済的に良い粉を造るわけにはまゐりません。
ふり返つて見ると、岩へ穴を明けて、一掴みづゝの穀物を其中に入れ、円いごろた石でそれを搗いてゐた昔と、一日に数千袋の麦粉を造り得る大工場が、いくつも/\ある今日とは、月と鼈とよりもひどい違ひであります。かうした臼の進歩は、同時に人間の食料の進歩をも物語るのであります。
一〇、衣服
私はすでに、食物と、食物中でも重要な穀物を栽培、収獲、製粉する器具、機械について語りましたから、こんどは少し衣服のことについて述べて見ませう。
今日、私達は、特別な場合のほか、夏でも冬でも常に織り物で造つた着物を着てゐますが、かうした着物が現れるまでには、いろ/\の変遷があつたのです。
大昔の人間は、いふまでもなくまる裸であつたのです。何一つ体を蔽ふものもありませんでした。しかし、顔や胸や手や足やを粘土や赤土で塗つたり、または切り疵をこしらへて見たりして、身体を装飾することはあつたと思はれます。
次ぎに木の葉とか、粗末な編み物とかで、腰のあたりを蔽ふ時代が来ました。今日でもアフリカのブシユマンといふ野蛮人は、腰に何かちよつと物をあてゝゐるだけですが、南洋の土人には下帯をつけてゐるものがあり、ニユーギニヤの土人は腰蓑の一種をつけてをります。この腰衣といふものは大方宗教上の儀式から起つたのであつて、寒さを防ぐためとか、暑さを避けるためとか、さういふ目的で造られたものではありません。なぜならば、昔の人々や、今日でも野蛮未開の人々は、寒さ暑さに対する抵抗力が強く、それを防ぐために着物などを着る必要を感じないからであります。
しかるに、人間の知識が進み、体がだん/\弱くなつてゆくと、少しの寒さにもふるへ、少しの暑さにも喘ぐようになりまして、体を保護するために着物を着たり、冠り物をしたりしました。おそらく初めは、寒い時には毛皮をひつかけたりしてゐたでせう。暑い時には葉の沢山ついた木枝を背中に載せたりしてゐたでせう。従つて特にきまつた形といふようなものはなかつたが、だん/\と糸や針が発明せられて、着物を縫ふようになつたのです。
旧石器時代の絵や彫刻やを見ると、男も女もまる裸でありますが、お祭の踊の図には、腋の下には鰭のようなものがぶら下り、腰から下はすかーとのようなものをつけた女があらはしてあります。この着物はどんな縫ひ方をしたかわかりませんが、エジプトの古画に現れたアニの妻ツツの着てゐるものと形がよく似てゐます。そのエジプト服は紀元前千四百五十年頃行はれたもので、上衣と下衣と二つに分れてゐるが、どこを縫ふといふことはなく、上衣は広幅のきれを後から前に持つて来て、胸のあたりで両端を結び、其上に涎掛けのようなものをかけました。また下衣も長い広幅の巾を両足にまきつけ、腰のあたりで結びました。アツシリヤの着物もギリシヤやローマの着物も大体これに似てをり、印度の仏陀の服装もこれと大差がございません。今日のような服装は、どういふ順序で発達したか、はつきりとわかりませんが、アメリカ土人の毛皮の着物の製法を見ると、どうやらその起りが想像されます。ポンチヨーといふ部族の着物は、山羊の革を三つに切つたものを二つ寄せて作ります。即、始め山羊を胴から横に二つに切り、頭部を縦に二つに切り、その各々を両袖として胴部の左右につけると、それで着物の片側が出来ます。これと同じ物を、も一つ造つて前のとあはせ、首を通す孔だけを残して上端の両側を縫ふと、ちやんと着物が出来上ります。この形は腋の下に鰭のさがつてゐる石器時代の衣服と似てゐますから、エジプトのも初めは毛皮であつたものが、後にうすものに変つたのだと思ひます。裁縫は、初め、骨針とか角針とかを用ひて、革を細長く切つたもの、或は植物の蔓、繊維などで縫つたが、金属が発見せられてから縫ひ針が出来、遂に今日のみしんにまで進歩したのであります。祭礼や儀式には、今日でも尚ほ古い器物や着物が用ひられますが、荘厳な儀式に礼服として使はれる燕尾服には、いくらかポンチヨー族の山羊の革衣の形式が残り、尻尾のようなものが後にぶら下つてゐるのは、極めて興味の深いことであります。
一一、機織り
着物のことを述べた後に、織り物についてのお話をするのは正しい順序です。今日、織り物には、絹織り物、毛織り物、綿織り物などあり、その織り方にもいろ/\種類がありますが、それらはごく簡単な編み物から進化して来たのです。今、その進化の歴史をざつと辿つて見ませう。
人間がどうして編み物、織り物を発明したか、はつきりしたことはいはれないが、ことによつたら精巧な網を造る蜘蛛類から暗示を得たかも知れません。或はまた美しい巣を作る吊巣禽類からその技術を習つたかも知れません。少くとも原始人が蔓や小枝で獣類を入れるために作つた檻や、魚類を捕るために作つた簀立や、蜘蛛の網や鳥の巣を真似たものに相違ありません。次ぎには婦人が細長い木の小枝、たとへば柳の枝のような軟いものを編んで、籠や揺籃や蓆やを造り初めましたが、それが織り物のもとゝなつたのです。
一番原始的な機は、三めーとるあまりの真直な棒へ、巾の長さだけある糸を何本も/\並べ、その一端を束ねて吊します。それが今いふ経に当ります。経の他の一端は巾の幅だけに一本づゝ並べ、それらを上下交互に潜らせて、巧みな指先きの働きで別の糸を横に通します。それが即、今の緯に当ります。もつと詳しく説明しようならば、経が仮りに
百本あるとすれば、百本をづら/\と並べ、その第一本の上から第二本の下へ、第二本の下から第三本の上へ、第三本の上から第四本の下へ、替り番こに百本の経の上下を潜らせて、緯を一端から他端へ貫いてゆくのであります。
プエブロ族の婦人の機は、これに一歩を進めたもので、手で緯を通す代りに、櫛の歯のような形の框を造つて、それに経を通し、婦人がそれを右手に持つて上げたり下げたりすると、経の半分は上に上り、半分は下に下りますから、その間に緯を通せば、上と下と替り番こに緯が通る筈になります。この経をさす框が懸け糸に当り、緯を通す道具が杼に当ります。懸け糸の発明は機織りの構造上大切なもので、経の半分をそれの孔へ通し、残りの半分を隙き間へ通し、糸の基端を婦人の体にくゝり、末端を棒にくゝりつけ、婦人が少し後へ退ると糸が緊張するようにして、さて婦人が右手で懸け糸を上げると、仮りに経が百本あるとして、孔に通してある五十本の経は上るが、隙に通してある五十本の経は元のまゝであるから、上の五十本と下の五十本との間には『杼路』といはれる隙が出来ます。この隙へ緯を通して置いてから、こんどは懸け糸を下げると、また別の隙が出来るから、前とは反対の側から緯を通して、だん/\と基から末に及ぼしてゆきます。そこで、旧式の機では、緯を通すのに経を一本づゝ上下替り番こにくゞらせるので、百本あれば百回の手数がかゝつたのに、新式の機ではたゞ一回の手数で済むようになり、非常に時間と労力とが省けます。
古いアフリカの機は、これに比べて一段の進歩を示してゐます。第一、プエブロ式の機では懸け糸が一つですが、これには二つあつて、それらを足で動かしますから、両手では他の為事が出来ます。第二、プエブロ式にはない木框が造られ、それを機織り女が右手で持つて、経を揃へるかたはら、緯をしめてまゐります。この框は即、筬です。第三、杼路をくゞつて右から左へ、左から右へ、緯を通すのには、始めは手を用ひましたが、これでは立派な杼が出来てゐます。
アフリカ式は大分進んだとはいひながら、これを今日のものに比べると、甚だ不器用な、のろ臭いものであります。しかし、此種の不器用な、のろ臭い機で、色様々の輝かしい国王の服や僧侶の衣やが織られました。十六世紀の機織りの絵を見ると、大たいに於いてアフリカ式を脱してゐません。そして機織り女は、足で懸け糸を動かし、左の手で杼を投げ、右の手で筬を働かしてゐます。
千七百三十三年は、イギリスの機織業史上忘れることの出来ない年で、其年にジオーン・ケイといふランカシヤーの機織りが、飛び杼といふものを工夫しました。彼の功績の大きさを知らうとするには、今一度、従前の杼の使ひ方を述べなければなりません。従前の杼は人の片手で上下経の隙に投げ入れられ、更に他の片手で反対の側へ送り返され、或場合には附き添ひの子供にそれを操らせたりしたので、為事が一向にはかどりませんでした。それに巾の幅が、必要上、おのづと約四分の一やーどに定まつてをり、人の腕はその全幅に伸ばしかねますから、杼を通すのはかなりにむづかしいことだつたのです。ケイはこの点に目をつけて、杼は必ずしも人手から人手に渡らねばならぬことはないから、機械の力で一方から他方へ投げれば、片手だけは用がなくなるから、杼の通つた後で、筬で緯をしめてゆくことが出来る工夫をしました。
第八十図に示した通り、杼の通る路を横ぎつて、緯が巾の一端から他端に走ります。走り終ると、杼は左右の箱の一つにはひります。箱の中には杼を押し出す装置があつて、平滑な竿の上を滑るようになつてゐます。織り手が右の手で把手を牽くと、が杼を向う側へ押し出すから、左の手で杼を動かし、足で懸け糸を動かすと、巾がちやんと織れます。実に立派な発明ですが、ケイはそれを他人に盗まれ、あまつさへ自分の家は一揆のために破壊せられ、自分は外国へ漂浪しなければならなくなつた上、旅の空で死んでしまひました。
ケイの最後はこんなに悲惨でしたが、この世に遺した功績は遂に一般の認めるところとなり、彼は機織り業者の恩人として崇められるのみならず、産業革命の基を開いた一人として、経済史上でもその名が歌はれてゐます。
ケイのこの発明は木綿金巾を安価に供給させ、従つて綿糸の需要を急激に増させたので、ハアグリーヴスとアークライトとが熱心な研究を続けた結果、遂に紡績機械の発明を見るに至りました。ハアグリーヴスの紡績機械は、千七百六十四年に工夫せられ、その名称をジエンニイ紡績機と申しました。ジエンニイといふのは妻の名前ですが、それを機械の名に負はしたわけは、妻のジエンニイが旧式な糸繰り車をぶう/\いはせながら糸を紡いでゐるのを見て、人間の手の代りにある装置をすれば、何倍もの糸を紡ぐことが出来ると考へたのが初めで、遂に同時に二十本乃至三十本の糸を紡ぐ機械を発明し、まもなく製糸業者の間にひろがりました。
アークライトの紡績機も、ほとんど同時に完成され、千七百六十九年に専売特許権を得ましたが、ジエンニイ機は綺麗な糸が出来る点に於いて優つてをり、アークライト機は製糸額が多い点に於いて優つてゐたので、クロムプトンといふ機織りが両方の長所を併せて、千七百七十九年にミユール式紡績機を造り、これもまたゝく間に一般に拡がりました。
こんな風に、一方では続々と新式の紡績機械が発見せられ、他方では優良な機械が工夫せられまして、手織り機はもはや時代後れとなり、懸け糸も、筬も、杼も、すべて人力を用ひず、機械で動かされるようになつたから、人はたゞ杼の糸さへ供給すればよいのでした。機械の動力は蒸気力を用ひ、水車時代とは異つて大仕掛けの工場が出来ました。それまでは機屋も糸屋も、自分達の家とか店とかで、需要のあるだけぼつ/\造つてゐましたが、大工場が現れてからは小資本の独立経営は維持されなくなりました。産業革命といはれる経済史上の大事件であります。
さて機械の発明後、十九世紀の初めに、フランス国リヨンのジヨセフ・ジヤツカールが、懸け糸の代用品を考へ出して、どんな色彩図案でも望み通りに布面へ織りこむことが出来るようになりました。もちろん、従来の機でゞもそれは出来ないことはなかつたが、非常に長い時間と、煩はしい手数とを要し、従つて費用も多く要つたので、とても実用には適しませんでした。そこへ、ちようどジヤツカールの模様織り込み機が発明されたので、貧乏人でも好みの巾を求めて、趣味を満足させることが出来、衣服、ことに婦人服には一大変動が起りました。
その後、織り物の改良は年々行はれ、いろ/\の珍柄、いろ/\の模様があらはれましたけれど、機械機の方は大変動を見ません。進められるだけ、改められるだけは、すでに進め尽くされ、改め尽くされたのかも知れません。今後が見物です。
一二、家屋
栗鼠や海狸や小鳥の生活を見ると、それ/゛\の本能に従つて、めい/\の巣を造つてをりますが、それと同様、人間もやはり一種の建築家であります。
人間の家は国々により、人種、部族によつてそれ/゛\異つてゐますが、初めからさうした風に異つたものが造られたのか、或は住む土地の気候、建築材料の有無、敵襲の工合など、周囲の状態に従つて、一つのものがだん/\異つたものになつていつたのか、その点はまだ十分はつきりしませんが、旧石器時代のような遠い昔には、突き出た岩の下などに群り住み、時には自然の洞穴の中でも起き臥したりしたが、進んで山の腹に穴を掘つたようなこともあつたでせう。さうした住居を横穴住居と申します。
まただん/\と時代が進むと、地を掘つて縦に穴を穿ち、其上へさしかけを造つて、梯子で昇り降りする工夫を凝らしたのもあります。かうした住居を縦穴住居と申します。
しかし、人間は初めは木の上で寝たのではないかとも思はれます。現にニユーギニヤの土人などは、今日でも尚ほ高い木の上に小屋をさしかけ、敵が来たり、野獣が近づいたり、恐ろしいものが見えたりすると、すぐその樹上家屋へ攀ぢ上ります。これなどは恐らく、樹上生活を送つてゐた頃のなごりでございませう。
新石器時代には、土地の低い湖水地方に住んでゐたものは、泥や水を防ぐために水中へ杭を打ちこみ、その上に家を建てゝ、陸地とは橋で交通したり、刳り舟で往き来したりしてゐました。かうした家の床には、床下、即、水中の魚類を捕るための桶を上げ下ろしするだけの口を開けてあるのもありました。幼い子達は誤つて水中に落ちるかも知れないから、足を縄で縛つて柱へ括りつけたりしてゐたようです。今日でも南洋にゆきますと、かうした水上生活者がをり、シヤムの大きな河々にも、たくさんな水上家屋があります。ある学者の考へでは、あの『水の都』として有名なイタリヤのヴエネチヤ市は、かうした水上生活の痕跡であるが、たゞ見る影もない汚い小屋が、煉瓦や石で造つた美しい建築に変り、粗末な丸木船がごんどらに変り、無細工な棒杭の橋が目の覚めるようなリヤルト大橋に変つたゞけであるといひます。
アメリカ土人などは天幕生活をしてゐますが、あれは森中の立ち木を幾本も梢で絡め、その枝や葉を壁代りにして、その中に住むことにしてゐた時代のなごりであるといはれます。なるほど天幕にしても小屋にしても、形はすべて円錘状を呈してゐるから、このことは疑ふ余地がございません。アメリカ土人やシベリヤに住んでゐるアジヤ諸種族の天幕は皆円錐形であり、蒙古からロシヤ・トルキスタンヘかけて見受けるゆるたといふ小屋も円錐形で、それらが森中の天然天幕から系統を引いてゐるといふことはうけ取れるが、然らば木造家屋にしろ、石造家屋にしろ、大抵の家屋が長方形に出来てゐるのはどういふわけかと聞かれると、ちよつとその答へに困りますが、実は木材を組み合はせて家を造るようになつてから、円形にこしらへるのは不便だから、まづ八角形に造り、それが一そう角を少くして四角形に造ることになつたのです。シベリヤには現に八角形のゆるたが残つてゐます。
これらいろ/\の古い建て物、或は古い技術をそのまゝ伝へてゐると思はれる建て物は一たいどれが一番古いか、どれが最も初めのものに近いかといふことは、たやすく答へられない問題ですが、山には山に適当した住居を造り、森には森の生活に、沼沢では沼沢の生活に、海岸では海岸の生活に、それ/゛\ふさはしい住居を造つたから、自然形が異ふようになつたのも事実であり、また材料に煩はされた点もあると思ひます。また同じ種族であつても、冬と夏とでは家を異にし、冬は縦穴に住み、夏は地上の小屋に住んでゐるものもあり、建築の様式はかならず一種だといふことは出来ません。
たゞし石造建築を、岩窟住居の進化したものだと見ることは間違つてゐないでせう。一般に石はどこにもあり、手近な処で手にはひります。極めて古い時代から石材で建築されたことは、世界のそここゝに残つてゐる証拠で明らかであります。新石器時代にはもはや立派な石造建築があり、それより一時代古い旧石器時代ですら、石を畳んで住居らしいものを造つてゐたように見えます。さうした古い建築に用ひられた石は、全く人工を加へない、天然そのまゝのもので、もちろん、セメントとか漆喰ひとかいふものはないから、たゞ上へ/\とだん/\積み上げていつたゞけです。しかし、中にはずいぶん精巧に出来てゐて、技術が相当に進んでゐたことを想像させるものもあります。
さて、こんどは歴史をたどつて、古いエジプトから、ギリシヤ、ローマを経て、近代に至る建築の進化はどうした過程を経て来たかをたづねて見ませう。
最初のエジプト建築は、極めて簡単なもので、先づ四側の壁を立て、その上に平たい屋根を載せました。エジプトでは降雨がほとんど全くありませんから、屋根に勾配をつける必要がなかつたのです。エジプトの建築は、構造上ではかように簡単ですけれど、技術上では立派な見本を後世にのこしました。そのピラミツド即、三角塔、記念碑、スフインクス、即、人面獣身像、宮殿は、今尚ほ世界の不思議なものゝ中に数へられてゐます。
古代エジプトの宮殿の内部を見ると、屋根の代りに日除けが張つてあるばかりですが、それは強烈な日の光を遮る目的で造られたもので、雨を防ぐ目的ではありません。柱の上部と下部とには、エジプトの国花といはれる睡蓮の装飾がしてあります。特に目立つのは上部の装飾で、それを建築家は『柱冠』と申します。柱冠の彫刻はよく調べて見ると、睡蓮の外に、ばぴるす、かみかやつり、椰子などがあつて、いづれも円柱の上部を装飾する技術の模範となりました。
エジプトの建築は、海を越えてクレテ島に入り、クレテ島からギリシヤにはひつてをります。クレテの建築も中々立派で、クノツススのミノスの宮殿などは、実に堂々たるものであります。ギリシヤはエジプトと異つて、雨が降りますから、エジプトのように屋根を平たくして置くと、水はけが悪くてこまりますから、屋根に勾配をつけて、雨水がすぐ流れてゆくようにいたしました。勾配をつけるにしても、たゞ一方向に雨水が流れるようにすれば、一方は天井が高いのに、他方は低くなる嫌ひがあり、また外観も不体裁でありますからギリシヤ人は中央の棟木から、左右の二方向へ走るような緩傾斜の屋根を工夫しました。ギリシヤには雪がないから、いくら勾配をゆるくしても差し支へありません。
さて、かうした風の屋根を造りますと、真直な天井と、山形の屋根との間に、三角形の空隙が出来ます。それが即、『破風』で、ギリシヤ人が発明した建築様式であります。円柱はエジプトのものを模倣したけれど、いろ/\の点に改良を施して、建築史上にギリシヤ式円柱といふ一つの新らしい型を残しました。
ギリシヤ式円柱には三通りあります。第一はドーリヤ式といつて、一番古いものであり、ギリシヤの古い住民であるドーリヤ人が造つたものです。それは柱頭には何の装飾もなく、たゞ皿斗に似たものが上にのつてゐるだけであるが、柱の全長に亘つて溝彫りが施してあります。また柱は下部から中部に至るに従つて段々と太くなり、中部から上部に至るに従つて段々と細くなつてをります。
第二はイオニヤ式といつて、イオニヤ人の工夫したものです。ドーリヤ式に比べると一そう複雑でもあり、また優美でもあつて、柱冠にはうづまき文様が彫られてゐるが、柱の形は下から上にゆくに従つてだん/\細くなり、その代り、溝が一そうこまかく彫られてゐます。
第三はコリント式といつて、ギリシヤ最後の円柱の形式です。この式では柱冠が一そう複雑になつて、うづまきの上に葉を加へたものがあり、また単に葉だけの彫刻を施したのもあります。葉は一重のもの、二重のもの、三重のものもあり、あかんつす即、忍冬をあらはしたといはれてゐます。
かようにギリシヤの建築はエジプトのそれを模倣したけれど、エジプト以上のものを工夫して、直線的な建築の模範を世界に垂れました。ギリシヤの建築はひとりヨーロツパ建築の見本になつたばかりではなく、印度に伝はつてガンダーラ式建築となり、ガンダーラ式建築は、中央アジヤ、支那、朝鮮を経て日本に入り、法隆寺の建築などには、たくさんの印度式、ギリシヤ式要素を含んでをります。しかし、直系の伝統はどこへいつたかといふと、ギリシヤからイタリヤに流れ入つて、ローマ式建築を創めるに至つたのであります。
紀元前百四十六年に、ローマはギリシヤを政治的に屈従せしめましたが、ギリシャの優秀な文化──従つて建築術は、それ以前から既にローマにはひつてゐました。ローマ人はギリシヤ式の美点を悉く取り入れて、破風造りの屋根、美しい円柱などを用ひた外、自分自身で丈夫なあーち式の新要素を加へました。元来、ギリシヤ式建築はすべてが直線的で、入り口や窓の上部は、たゞ長い石材または木材を、縦に立つた壁、或は柱の上へ横にかけわたしてゐましたが、ローマ人は湾曲してゐる石材を曲線形に積み上げて、『あーち式』といふ一様式を創めました。大きなどーむ、即、円室は、ローマ建築の特色です。ギリシヤ式でゆくと、せい/゛\二階ぐらゐしか出来ませんが、ローマ式ではあーちの上にそれ自身があーちである半球状の屋根を重ねて、二階、三階と、いくらでも高い建て物を造ることが出来ました。
こんどはイタリヤから北ヨーロツパヘ、いろ/\の文化と共に建築術が輸入せられて、周囲の事情で種々の変化を生じました。ローマの滅んだのは西暦四百七十六年ですが、それより前にローマの思想はヨーロツパに輸入せられ、建築に於いては、円柱、あーち、円室などが、フランス、ドイツ、イギリスなどで採用されました。しかし、これらの国々はローマとは大分気候が異つてをり、北部の諸国では豪雨や降雪の関係から、屋根の傾斜がゆるやかではならぬので、それを尖つた急勾配のものに変へました。それが即、尖塔式、或はごしつく式といはれる建築の一型で、十二世紀に創められたのですが、十三世紀末には北ヨーロツパ全部に拡がりました。
この尖塔式建築では、あーち即、穹窿にも変化が起りました。元来、ローマ式あーちは半円形で、一つの中心しか持つてゐなかつたが、ごしつく式では二つの中心を持つてゐたから、半月形の頂端が心持ち尖つたのに、それが非常に人々の好みに適したので、出来るだけ各部を尖らし、果ては円かるべき筈のどーむをさへ尖らし、窓でも、戸でも装飾でも、すべて尖つた形をもつようになりました。
紀元四百七十六年から千四百五十三年に至るヨーロツパは、歴史家が『暗黒時代』と呼ぶ時代を経過するのでありますが、この間にギリシヤやローマの文化は悉く亡んで、文学や芸術は見る影もなく衰へ果てましたが、十六世紀にはひつて人々は長い夜の夢をさまし、束縛的な宗教生活から開放されて、美と自由とにあこがれたギリシヤ人やローマ人の精神生活を復活しようとしました。これがいはゆるるねつさんす、即、『文芸復興時代』で、他の学芸と同様、建築もまた古代様式を復活しました。
るねつさんす式建築とは、ギリシヤ、ローマ、其他色々の様式の混合されたもので、一部分はごしつく式であるが、他の一部分はローマ式であり、またいくらかギリシヤ式も加はつてゐるといふ風でした。ロンドンのセント・ポーロ寺院とローマのセント・ペテロ寺院とは、るねつさんす式建築の代表であるといはれます。
かうした歴史をもつたヨーロツパの建築が、南北アメリカ両大陸の発見と共に、そこに流れ入つたことはいふまでもないが、るねつさんす式がすぐ輸入されたように考へるのは間違ひで、実際は気候、材料、植民の種類などに従つて、種々雑多の建築がアメリカに現はれました。しかし、その雑多の形式の中にも、どことなく似通つた、どれにももたれてゐる一つの型がありました。それがころにある・すたいる即、植民地式といはれます。
十九世紀の終りから二十世紀の今日へかけて、アメリカ合衆国は恐るべき発展をなし、建築に於いては鋼鉄を材料として高層建築を始めましたが、最近こんくりーと即、混凝土の使用によつて、建築術は一層の進歩と変化とを見ました。ニユー・ヨークなどの大都会は地価が非常に高く、また土地に一せんちめーとるの余裕もないので、横に伸びる代りに縦に伸びる外仕方がなく、従つて建て物はだん/\高さを増して、五階、六階は普通のこと、二十階も三十階もある大建築があらはれました。もう五階以上になりますと、一歩々々階段を昇つてゐてはまにあひませんから、どうしてもえれべーたあ即、昇降機を備へつけなければなりません。そこで、かうした建築術を『えれべ一たあ建築術』と呼び、かうした高層建築を『すかい・すくれーぱあ』即、訳すれば『摩天楼』と呼びます。
東洋の古い国であるわが日本は、アメリカとはたゞ海一つを隔てただけでありますから、十九世紀の末からその文化がどし/\とわが国に入り来り、建築に於いても此節は大分すかい・すくれーぱあが見られるようになりました。東京丸之内の如きは、摩天楼建築の小さな見本であります。
一たい、これまで日本に石造建築が発達しなかつたのは、地震が多くて崩れる恐れがあつたからです。反対に木造建築の進歩したのは、気候が温和で、降雨量が多く、いたるところによい木材が多く得られた結果であります。これから先き、どんな工夫が施されて、日本建築がどんな新様式を生み出すかは興味の多い問題であります。
一三、車
以上、私は食ふこと、着ること、住むことの三つを主体としてお話しましたが、これからは旅行や運輸について述べることにいたします。
私達はみな心の中で、現代の運輸機関の整備してゐることを誇つてゐます。なるほど、千まいるも隔つた処にゐる親友へ、何か贈り物をしようと思へば、それを紙包みにして、宛名を書いて、いくらかの郵便切手をはれば、それで十分に目的が達せられます。また市場へ持ち出せば高く売れる果物があるとして、それを汽車便で送れば、わずかの運賃を出すだけで、鉄道従業員が安全にそれを運んでくれます。更に市内の知人を訪ねようとならば、電車がしきりもなく動いてゐて、銀貨一つでどこへでも楽々とつれてつてくれます。もし五六百まいるもある土地に住んでゐる友達を訪ねようとならば、一まいる五六銭の賃銭で汽車が運んでくれます。アメリカや南洋の見物にゆくとすれば、横浜なり、神戸なりから、乗り心地のよい大汽船が、私達を海の彼方に送り届けてくれます。たしかに今日の交通、運輸の機関は整備してゐるに相違ありませんが、これを細かに観察すると、一つは陸上の運輸機関、即、車であり、他は水上の運輸機関、即、船であり、も一つ外は空中の運輸機関、即、飛行機、飛行船であります。私は先づ車のことから説かねばなりません。
人間最初の運輸機関は、彼自身の身体でした。旅行しようと思ふと、二本の脚が彼を運んでゆきました。昔はそれを「膝栗毛にむちうつ」といひましたが、今日では「自動車でてくる」と申します。昔は馬が理想的の運輸機関であり、今日では自動車が理想的の運輸機関であるから、たとへの言葉がこんなに変つて来たのです。
かように、人間は初め自分達の筋肉を動かし、四肢や躯幹で物品を運んでゐました。第一には片手でぶら下げ、第二には両手で持ち、第三には肩へ担ぎ、第四には頭に載せ、第五には背中に背負つて、第六には腰のあたりに挟んで、身と一しよにどこへでも持つてゆきました。たくさんな物品でも、それを一ところに集めると、一時に持つてゆけるといふことを発見すると、すぐ背負ひ籠だの、畚だの、天秤棒だのを工夫しました。二人で運んでゆく担架のようなものも発明されました。一番簡単な方法は、袋へ物を入れて、それをかついでゆくことです。おほくにぬしの神が兄神達にいぢめられ、従者になつてかついでいつた袋の中には、たくさんな荷物がはひつてゐたことでせう。今日でも支那のくーりーは、旅する時には日用品や食糧を、浅黄木綿の大袋に入れてかつぎ、どんな遠方へでも徒歩でまゐります。ところで人間は、手近な野獣を一頭づゝ手なづけ、だん/\数多く馴らして家畜といふものが現はれると、自分の背の荷物をそれの背に移して運ばせるようになりました。馬や牛はどこでゞも見られますが、場所によつてそれが異ひ、南アメリカでは螺馬、印度では象、アラビヤでは駱駝を使ひます。
西アジヤ、エジプト、ヨーロツパなどでは、初めて馬に荷物を背負はしましたが、馬よりものろい動物を使つてゐる国民よりも、文化が早く進歩したと見られます。
「何が一番、動物の中で役に立つだらう」と、エジプトの神様の一人が、他の神様に尋ねたら、
「無論馬さ、馬ほど容易に人に捕まへられ、おまけに戦場では、人の代りに敵を蹴殺してくれるものがないからさ」と、他の神様が答へたといふ話は、馬がどれだけ重宝がられてゐたかを示すものです。
手から肩へ、背へ、頭へ、物品を運んでくれる部分は変つても、その重さは全部一人の体にかゝつて来るので、それを他の物に負担さしたら楽になるに相違ありません。そこで、最初の車が工夫されました。
最初の車は無輪車で、二本の細丸太の基の方を馬の両脇につけて連結し、末の方を斜に地上に落し、双方を結んで、そこに荷物を載せるようにしたもので、千八百六十四年のような新しい時代まで、此種の車がスコツトランドでは用ひられてゐました。
これに一歩を進めたものが、木の二叉枝へ横木を二三本とりつけた橇で、一本の枝に綱をつけてそれを曳きました。これが現代の完全な橇に発達したので、今日では冬季に雪の多いところでは、橇が盛んに用ひられ、シベリヤの奥ではそれを馴鹿に曳かせてゐます。わが北海道のアイヌは、犬に橇を曳かせてゐます。
然るに、物はひつぱるよりも廻転させた方が軽くもあり、また早くもあるといふ原則を発見して、人間は遂に有輪車を発明するに至つたのです。有輪車の初めは、丸太に木框をつけて、その木框を馬に曳かせたものだといふ説があります。とにかく、最初は一輪車であつたに相違ありません。
一輪車は支那で多く用ひられ、どんな細い小道でも進んでゆきます。日本にも猫車、或は山猫と呼ぶ一輪車があつて、中国あたりの山間では今日も尚ほ使はれてゐます。
これがどうした風にして二輪車に発達したかといふに、丸太の輪切りは目方が重くて曳くのによけいな力がいりますが、一部を削り取つても廻転するには差し支へがありませんから、車輪に当る両側だけを残して、真中の車軸に当る部分を削り去ることにしました。と、目方が軽くなつて、廻転には少しの違ひもありません。
この分銅式の一輪車が中央で二つに切られると、二輪車が出来ます。各々の車輪は厚みが減るだけ軽くなるから、出来るだけ丸太を薄い輪切りにして、その二つを小枝で連結するようにしたので、初めて車輪と車軸とが現はれたのです。伊勢の太廟で御木曳きの時に用ひられる車は丸太の輪切りを車輪にしてゐますから、余程古い形式のものと思はれます。
輪切り丸太の二輪車は、一輪車に比べれば大変な進歩ですが、まだ/\重くて不恰好で、減り方が部分によつて異ふために、傾いたりするので、第一には目方を減じ、第二には減り方を同じくする必要を生じ、昔の発明家はそれについて苦心した末、先づ重量を減ずるために、車輪の一部に孔を穿つことを工夫しました。孔の形はいろ/\ですが、初めは半円形で、それを二つ対ひ合はせました。かうすると、目方がへるのみならず、堅牢さが増すことが知れたので、更に車輪を四つの弓形の板から組み立てゝ環状を造り、それらを四本の輻で結合し、軸を輻の中央に固着することにしました。即、これで二つの孔が四つに殖えたわけです。次ぎには六本の輻で六箇の輪材を連結し、輪の外に木製の外輪を縛りつけました。この最初の六輻式の車輪は、エジプトの荷馬車に使はれてゐるもので、現今の車輪と大体に於いて同じことです。
古代の文明人の間では、軽快な競走用二輪車が用ひられてゐました。今から三千年も前のこと、繁昌の頂点にあつたニネヴエーの都では、競走用二輪車がしき石の敷いてある路上を、群集をも顧みず、夢中に疾駆さしたことが、古い歴史書に書いてあります。
二輪車はローマやギリシヤの人々には、単に競走用としてのみならす、軍事用としても採用せられました。メソポタミヤ、印度、支那などの古代戦車は、どれもこれも同一の構造をもつてをります。中世になると、ヨーロツパでは、二輪車はたゞ運搬用に供されただけであります。
年月のたつ中にだん/\軽く、だん/\丈夫に改善せられて、のろい旧式二輪車から医師用二輪車が製造されました。
二輪の馬車二台を後部で連結すると四輪車になります。四輪車はエジプトで造られ、神さんか王さんの外は、それに乗る権利がないと信ぜられ、約一世紀の間は神聖視されてゐました。ローマとてもその通りで、四輪車は凱旋の軍隊を迎へる時にのみ使用せられ、平生はそれを乗り廻すことが禁ぜられてゐました。
四輪車は道路の関係から、ヨーロツパ一般には用ひられなかつたが、ローマ人の造つて置いた公道──即、ローマ街道が年と共に荒れてからは、旅行は二輪車或は馬背によるよりほか仕方がなく、千五百五十年には、パリでさへ三台、ロンドンには一台しか四輪車がなかつたといはれます。四輪車は、中世には、国王か王妃の娯楽用具になつてしまつたのであります。
しかし、千五百六十四年、エリサベス女皇が乗用した四輪車は、車輪に軽快な八本の輻がはまつてをり、車体は楕円形のばねの上に乗つかつてゐたといふから、ほとんど現今のものと同じ構造だつたように思はれます。ばねの発明は千七百年代で、それが実用に供せられたのは、更に百年の後だといはれてゐるが、エリサベス女皇の時、既にそれが発明されてゐたことは疑ひがありません。
次ぎの十七世紀は、車の上に著しい進歩の認められた年代であります。千六百八十年、蒸気力の研究に熱中してゐたアイザツク・ニユートンは、蒸気車、即、私達が今日『機関車』と呼んでゐるものの実験を試みました。これはたしかに初めての実験で、不幸にして成功を収めなかつたけれど、発明上に大きな暗示を与へたことはいふまでもありません。
続いて千七百六十九年に、フランスの陸軍士官キユニヨーが、三輪の蒸気車を工夫したが、実質は極めて貧弱なもので、速力が遅く、一時間にたつた三、四まいるしか走らないのみならず、十分間毎に停車して蒸気を補充しなければならなかつたから、とても大成功とは申されません。しかし、ともかくも車に据ゑつけられた蒸気汽缶が、車輪を動かせる力をもつてゐるといふ確信を一般に与へた点に於いて、キユニヨーは発明家の列に入る名誉を荷つたのであります。これまでは、蒸気汽缶はぽんぷを動かしたり、工場の機械を廻したりするものだと思はれてゐたが、それら以外に運輸機関にも応用することが出来るといふことを知らしめました。
十八世紀の末には、莫大な製造能力をもつた紡績工場で造る製品を、容易に、且つ急速に市場へ運搬することが出来たなら、産業上に大革命をひきおこし得るであらうといふ期待が、商工業家の間に一般に懐かれてをりました。そこで、どこの発明家も、一様に蒸気牽引車を発明して成功を収めたいと、人知れず頭を悩ましてゐたが、あの有名なワツトさへも、それの一種を試作して実験に失敗した結果、蒸気汽缶はまだ十分研究の予地があるといふ結論に到着しました。
成功を夢みて研究に熱中してゐた人々の中に、千七百七十一年生れの、コーニツシユの鉱夫で、名をリチヤード・トレヴイシツクといふ男がございました。この男は天性鋭敏で、少年の時、学校で教師が一問題を説明してゐる間に、楽々と六問題の算術を解くことが出来たほど数学に長じると同時に、機械の学問にも秀でた天才でした。言ひ伝へによると、彼は子供の時代に、既に机の上を走る汽車を完成したといはれます。彼の努力はさうした日から続いて、千八百一年には遂に汽車を完成し、越えて三年、千八百四年には、十噸の鉄と七十名の人と五輛の貨車とを牽引して、毎時五まいるの速力で、九まいる半進むことが出来た旨を発表しました。これが明らかに実用的な汽関車の初めであります。だから、別に私が機関車の創製者だと主張しないでも、その名誉は当然彼の双肩にかゝつて来る筈だつたのに、彼は一向そんなことには頓着しなかつたので、ニユーカツスル附近のワイラムに住んでゐた発明家、ジオージ・ステフエンソンの頭上に、その名誉の桂冠が与へられました。
ステフエンソンの両親は貧乏で、彼は十分の教育を授けられなかつたけれど、八歳の時には夜学校に通つて、普通学を修めました。彼は少年時代を蒸気汽缶の中で過ごし、初めは炭礦の小僧をしてゐたが、まもなく抜擢されて火夫になりました。当時は僅少の費用で多大の働きをする汽缶がなく、トレヴイシツク式の汽缶でさへ、価が高くて一般の気受けが悪かつた。そこで、彼はもつと安価な、しかも良好な汽缶を完成する必要があると思ひ、それ以後、努力していくたびも実験をかさね、遂に三十二歳でそれを完成しました。
ステフエンソンがこの新汽缶を発明したのは、千八百十四年で、それを用ひると、毎時十一、二まいるを走り、旅客も貨物も馬を使ふよりもずつと安値で運べるといふことを発表しました。その十一年後には、ストツクトンとダーリングトンとの間に鉄道が敷設せられるまでになりました。しかし、その初めの旅客車は、使ひふるしの四輪車へ汽缶を結びつけたものでした。
かうした汽車を四輪車に比べますれば、実に偉大な成功でありまするが、世人はなかなかそれでは満足せず、もつと完全な、もつと高速度のものが発明せられねばならぬと考へました。一を得れば他を望むのは人間の欲望でありまして、この欲望からはかない空想も生れる代り、たのもしい理想も生れて来て、それが実現される時に、人類一般に幾多の便益を与へるのであります。
十九世紀末になつて、世界の大勢が都会集中主義に傾き、大都会の人口は増加し、面積は拡大して、人々は満足に市中を往復することが出来なくなりました。といつて馬車ではどうすることも出来ず、汽車では尚更いろ/\の不便があつたので、遂に電車の発明を見るに至りました。電車は実に、一時、群集で混雑してゐる大都会内の交通機関としては、最も適切なものであつたが、まもなくそれでは事が足りなくなり、次いで自動車が創められて、その要求を充たしました。
ちようど、十六世紀前後、ドイツでは人力による馬なし車が出来てゐました。これでも自動車の中には相違ないが、真正の自動車は千八百一年に、最初の機関車発明者であるトレヴイシツクによつて造られました。トレヴイシツクはわざ/\悪道を選んで試運転を行つたために、思ふ存分の効果を収めることが出来ませんでした。当時、彼以外の発明家達は、いづれも軌道自動車、即、汽車の発明のみに没頭してゐたので、無軌自動車、即、おーともびーるには余り注意を払ひませんでしたが、近年になつてその研究に熱中し始めた結果、現代に於いてはだん/\と新式のものが発明、発売されるに至りました。
「では最新式の自動車は、どれほど普及されてるでせう」
「誰もが馬の必要をほとんど認めないまでに」
「馬ばかりでなく、汽車も電車も必要がなくなりはしないでせうか。鉄道線路を敷く余地がなくなつて、旅客も荷物もみな自動車による時代──即、自動車万能時代が近づいてゐるんではないでせうか」
これに対する答は、読者諸君の想像に一任します。
一四 船
昔の人が旅をするのに、一番困つたのは水です。河や湖や海や、小さいものは泳いでも越されるが、大きなものは越されません。そこで、昔の利口な人達は、木の葉や竹片が水の上に浮いてゐるのを見て、軽いものは水の上に浮くといふ第一の方則を発見しました。
次ぎに、木の葉や竹片の上に、蜘蛛や蟻の乗つてゐるのを見て、軽いものに他の物が乗つても水に沈まないといふ第二の方則を発見しました。
三番目に、昔の人達は、それら二つの方則に基づいて、水の上に浮くものへ人間が乗れば、越されない水を越すことが出来るだらうといふ想像をめぐらして、遂に『浮き』を発見しました。
初めには、椰子の実でも、瓢箪でも、丸太でも、竹片でも、水に浮くものはすべて浮きとして、それにぶら下つたり、それの上に跨つたりしたのです。南洋には椰子の実の浮きが今でもあり、それに人が乗つてゆきます。朝鮮では海女が瓢箪を腰につけて海の上を泳いでゐます。しかし、それらは小さくて、人間の体を載せることが出来ないから、次ぎにはもつと大きなものを選びます。そこで、選ばれたのが丸太でせうが、丸太に乗つたゞけでは前に進まないから、木の枝で水を掻くとそれが前へ進みます、右と左とを替り番こに掻けば丸太が真直に前進することも発見せられたであらうし、その一端を尖らせば進む度合が速いことも発見せられたでせう。
けれども、丸太はくる/\と廻つて、やゝもすれば人が水の中に落ちるから、それを何本も並べて大きな面積を作れば、人が沢山乗ることも出来、またくる/\廻ることもないことが発見せられ、三本、五本、七本といふ風に、奇数の丸太を並べて絡り合はしたり、笄ざしにしたりすることを工夫しました。それが即、筏です。
筏は丸太に比べると、航行が安全ですけれども、吃水が浅いから水に湿れるのみか、海では波にさらはれるから、両側に欄干を作つたり、中央に棚を造つたりして、荷物や人間が水に湿れたり波にさらはれたりするのを防ぐことを工夫しました。これが筏舟で、朝鮮では今日でも尚ほ用ひられてゐます。すさのをのみことが朝鮮と日本との間を往復せられた浮き宝といふのは、この種の筏舟であつたらうと思ひます。
支那には揚子江といふ大きな河がありますが、その上流の山岳地方には沢山森林があり、そこから材木を伐り出して大きな筏に造り、それをだん/\と河下に流しながら、方々の町に寄つて材木を売りますが、売り切れない時は上海までも来ます。上流から下流まで来るのに、長いときは三年もかゝるそうで、筏の上には何軒もの家があり、家の後には畑があつて食ふべき野菜をつくり、物干し場には洗濯物が干してあります。猫もをれば、犬もをり、鶏はくゝと啼いて餌をあさつてゐます。筏師の中には、筏で生れて筏で死ぬものもあるといふことです。すべての点が、陸上と少しも異つてゐません。
筏は木ばかりかと思つたら大間違ひで、昔から草でそれを造つてゐます。ぱぴるすといふ草や葦や竹で造つたものには、ずいぶん進歩したものがあります。
丸太が一方では筏に発達したに対し、他方ではその上部を削つて平たくし、更にそれに凹みをつけて人の乗る座席を造ることを工夫して、出来上つたのが丸木舟です。丸木舟は昔からいたるところで用ひられ、わが国の石器時代遺跡からも発見されます。それらを上から見ると、一つは長方形を呈し、一つは五角形を呈してゐるが、前者はたゞの輪切り丸太のなごりで、後者は尖り丸太のなごりであります。
普通には構造船──即、今日、私達のもつてゐるような船は、丸木舟が進化したものでなくて、筏から出て来たと考へられてゐます。筏は一層では吃水が浅くて水にぬれるから、縦に丸太を並べた上に、横に十字を描いて丸太を並べると、二層の筏が出来、その上へ更に縦に丸太を並べると、三層の筏が出来ます。日本にはこんな筏がないけれど、大陸諸国の筏には二層も三層もあるものがあつて、その第一層が船の底になり、第二層が舷側になり、第三層が甲板になつたのだと申します。それに相違はありませんが、私は丸木舟からも構造船が出て来てゐると考へます。
縫ひ合せ船といふのは、丸木船の両側に側板を縫いつけたもので、縫うのには藤蔓とか木の繊維とかを用ひましたが、今でも針金を使つて丸木舟の上へ側板を縫ひつけたものが、沖縄県へゆくと見られます。
さて、これらの丸木舟、縫ひ合せ船、筏などに乗つてゐる時、風が吹いて身に当ると、いつよりも早く舟や筏の進むことに気づいた人間は、風の力は舟を前進させるといふ原理を発見しまして、遂に帆を発明するに至つたのです。帆は初めは蓆か何かを用ひて、特にきまつた形もなく、また帆柱といふようなものもなかつたが、だん/\とそれらにきまつた形が出来て、どんな舟でもそれを備へるようになつたのです。エジプトの古い船の図を見ますと、帆は四角形を呈し、帆柱は梯子形を呈してゐます。また舵といふものはないが、船を漕ぐための擢とは異つて大きな、長い擢が艫についてゐて、それで針路を正したことが知れます。不思議なことにはアメリカのチチカカ湖に浮んでゐる葦船に、四角形の笹帆を梯子形の帆柱に張つたものがあり、またガヤキルの木筏にも同様の装備をもつてゐるものがあるので、それらは遠い/\昔に、エジプト式の航海法が、印度洋を経て、太平洋からアメリカ大陸へはひつたのだといふことが近頃知られてまゐりました。
原始人の舟にも大抵碇はありますが、ほとんどすべて石を縄で縛つたものを用ひてゐます。場所によつては砂袋を下げたのもあり、小石を竹籠に入れたのもあり、二股の木枝を沈めたのもあります。伝説によると、ギリシヤの七賢人の一人であつたアナカルシスが、二つの鈎をもつた碇を造つたのが、現今の碇の初めだと申します。
何をいつても昔の航海上手は、フエニキヤ人であります。エジプト人もいろ/\な舟を造りましたが、大抵はニル河を上下したゞけで、海上には出なかつたようです。しかるに、フエニキヤ人は、五千年も前に地中海を航行し、ジブラルタル海峡を越えて大西洋に出て、今のイギリスまでもいつて交易を行ひました。フエニキヤは地中海に臨んだ細長い海岸平地で、前は海、後は山、そして土地が痩せてゐるから、活動の天地を海のかなたに求めて、波の上に出かけたのです。後の山はあの旧約聖書で有名なレバノン山脈で、そこから杉材が沢山伐り出されたから、それで船を造つて盛んに航海したのです。
ギリシヤ人もかなり海上で活動して、その貿易船は当時知られてゐた世界各国の港々に出入しました。しかし、まもなくローマ人が勃興して海上の覇権を握り、フエニキヤ人はもちろん、ギリシヤ人も勢力を失つてしまひました。ローマ式がりいなどと訳されてゐる大船は、実に大ローマの威力を代表するものと見てよろしい。
がりいの構造は、当時に行はれた一般の船と同じく専ら漕手の力で走り、稀には順風に帆を揚げないこともないが、それはどちらかといへばあまり利用されませんでした。初めてのがりいには、櫂が一挺しかなかつたが、だん/\進歩してその数を増し、制海権を占めるようになつてからは、櫂の数を多くし、従つて漕手の数をも増しました。漕手には奴隷や捕虜を用ひたが、彼等は座席へ鎖で縛りつけられ、命のある限り、腕の力の続く限り、幾日も/\漕がねばならなかつた。疲れて眠りでもしようものなら、烈しく笞で打ちのめされ、血を吐いて死んだものもあつたでせう。実に残忍極まる話で、ローマのがりいの進歩の裏には、かうした悲しい、涙ぐましい挿話があるのです。
紀元第一世紀の頃には、がりいは十分に改良されて、船の全長は四百ふいーとあり、それには幅が五十ふいーともある甲板がつき、三段に並んでゐる櫂が五六百人の漕ぎ手で漕がれ、艫には片舷二本宛の大櫂が舵として用ひられ、また檣も二本立てられるようになりました。
かうした立派な船を造つたローマは、紀元四百七十六年に滅んだが、その文化は世界各国に拡まり、従つて造船術も多少は外国に知られてゐた筈ですが、中世に於いては一般に航海が振はなかつたようです。その中で只だ一つの例外ともいふべきは、千六十六年、ノルマンヂイ侯ウイリヤムが、ハロルドと戦ふために海峡を横断した船は、ローマ式がりいのように華麗ではなかつたが、それに比べると決して劣つたものではなく、漕力よりも寧ろ風力を頼み、舵は柄で自在に動かせるように装置されてゐました。
十四世紀になると、地中海のがりいは帆が三つになり、擢が一列に減じました。中世紀の船の新傾向は、擢の数をだん/\と減らし、反対に帆の数をだん/\と増してゆかうとすることで、それは風力の利用が古代よりもだん/\と巧妙になつたことを証明してゐます。十六世紀の軍艦になると、もはや擢は全然見出されません。
ちようど十三世紀の半頃から、ヨーロツパの各国では、船の甲板の上に小さな器具が据ゑつけられました。それは羅針盤で、航海史上極めて重要なことです。磁針の使用は、ヨーロツパ人より千年も早く支那人が知つてゐましたが、それをあまり実用の目的に利用しませんでした。
羅針盤の出来る前は、夜間は常に北極星をたよりに航海しましたから、闇夜には航海が出来ませんでした。しかるに、こんな便利なものが発明されたから、航海者は大胆にどこにでも出かけ、未知の大洋でも平気に航海する勇気を得ました。もしもこれの発明がなかつたならば、アメリカ大陸の発見などは思ひもよらなかつたことであります。で、言ひ換へて見ますると、アメリカ発見は羅針盤の力であつて、コロムブスはその助手であつたともいはれませう。
さてコロムブスがアメリカを発見すると、各国はその新植民地で利権を握らうと、それぞれ活躍をいたしましたが、結局は比較的堅牢な船をもつてゐたイギリスが勝利を占めてしまひました。即、アメリカの争覇戦に於けるイギリスの勝利は、船の力に依つたものであるといつても差し支へございません。
巻頭に掲げた図版は、さうしたイギリス船の代表といつてもよいもので、アメリカから南洋諸島を経てアフリカに至り、そこから本国に帰つたサー・フランシス・ドレークの率ゐる船隊をかいたもので、中央の大船がかれの乗つてゐた『ゴールデン・ヒンド』号です。諺に「絵のように美しい」と、いひますが、中世の船は絵よりも美しかつたことが、この絵によつて窺はれます。
さて太古以来、十六世紀までの船の進歩を回顧して見ると、浮き、筏、刳り舟、縫ひ合せ船、構造船といふ順序で、構造船はがりいから、帆船へと進みましたが、十七世紀になつて、驚ろくべき一大革命が起りました。
と、いふのは、此世紀の発明家達は、すべて蒸気の利用法研究に没頭し、一方に於いて蒸気車の完成に苦心したと同時に、他方に於いて蒸気船の工夫に熱中してゐましたが、車よりは船の方が早く発達してゐた関係上、先づ蒸気船が成功したのは無理のないことであります。テームス河に浮んだ軍艦「グレート・ハリイ」号を、驚嘆の眼で見たロンドン市民は、がたくり馬車をさへ沢山は見てゐませんでした。それと同様、汽船が大西洋を横断する前には、陸上で汽車が旅客を運輸するのを見ることが出来ませんでした。
フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの各国は、汽船の創製に先鞭をつけようと競争したが、遂にアメリカが勝利を占めました。もつとも千六百六十三年の昔、イギリス人は既に蒸気力で船が動かせると申してをりますが、それは発明家の想像に過ぎないものでした。その発明家といふのは、前にお話したウースタア侯エドワード・ソマアーセツトで彼は明瞭に汽船の性質を確言して、「それは干潮時に遡航してロンドン橋を通過し、漕ぎ、曳き船し、また乗ることも出来る」と、いつたが、理論だけで、どんな実験も伴はれてゐなかつたのです。
これとほとんど同時に、汽缶完成に与かつて力のあつたフランスのデニイ・バパンが、馬の力で廻される廻転擢を舟の舷側外に装置して見ましたが、これは既にローマ式のがりいで用ひられてゐたから、彼の発明と申すわけにはまゐりません。人によつては彼を蒸気力で推進器を回転させた第一人だといひますが、その名誉はバパンには負はされないのです。もしバパンにその名誉を負はすくらゐなら、フランス、リヨンの人ジユツフロイ侯爵にそれを負はせる方がよろしい。侯爵は千七百八十三年に、大勢の見物を前にして、新造の汽船をソーヌ河で試運転し、見事に成功したといひ伝へられてゐるからであります。しかし、フランス人もいつてゐる如く、試運転の後、船体を解いてしまひ、模型も残つてゐないのだから、どこまで信用してよいか、この話は当てになつたものではないのです。ジエツフロイと同時代に、フランスでは各地でソーヌ河と同様の実験が行はれたといふが、これも当てにはなりません。十八世紀の末には、蒸気で推進器を動かす船の観念は、莫然としてゐたように思はれます。けれども、当時のイギリス詩人は、大胆に次ぎのような予言をしてゐます。
強い蒸気よ、お前の腕は、やがて
のろい舟を曳き、速い車を駆り、
或は広い翼をひろげて、
雲の林に飛車を漂はせるだらう。
いづれも現在、私達の眼でみる現象であります。昔から詩人は空想するとよくいひます
が、かうした風に実現されて見ると、それは空想でなくて、理想であつたのです。だから、同時代の発明家達は、この詩の謳つてゐる内容を事実で掴まうとして、夜も寝ないほどの努力をしたのですが、さうした人々の中に、ヴアージニヤ州、シエツパアド・タウンのジエームズ・ラムセイといふ人がゐます。彼は千七百八十六年に、ポトマツク河で、一時間五まいるの速力で、蒸気力によつて船を推進させました。これが最初の汽船だといふことは確かです。では、ラムセイはどうした装置を彼の船に施したかといふと、蒸気汽缶の作用で、汽●中のぴすとんを上下させて、それが上る時には汽●へ水が入り、下る時には中の水を勢ひよく吐き出させるようにして、その反動で船が進むようになつてゐました。
この反動は以前から発明家の注意を牽き、それによつてヘロは珠を廻し、ニユートンは蒸気車を進行させたように、ラムセイは汽船を進行させたのであつて、昔からある考への復活に過ぎないといへばいへないこともありません。
今、試みに、アメリカ合衆国の地図をひろげて、世界各国に通じてゐる航路を見ますると、十八世紀以後のアメリカ人に取つて、航海術、並びに造船術の進歩が、どんなに必要であつたかゞすぐにわかります。陸上には路がなくて、ゆくことの出来ない土地が、広い面積と豊かな土壌とを以つて、人間が早く開拓してくれるのを待つてゐた時、海路をゆくことにすれば、少しは迂回をしても、距離は遠くなつても、安全に農具を持つてゆくことが出来ますから、何を置いても一番の急務は、適当な汽船を造つて、さうした場所に行くことが出来るようにすることでした。
その当時には、誰でもこの考へをもたぬものはなかつたが、中でも最も痛切に考へたのはジオーン・フイツチでした。フイツチは才人でもあり、また奇人でもあつて、アメリカの新しい運命を開拓しました。彼は戦争が終つた後、数年間はそここゝをさまよひあるいてゐましたが、千七百八十五年頃に、汽船の設計図をもつてフイラデルフイヤにゆき、そこで会社を起して、自分の設計を実行に移すだけの資金を得ました。彼の船は千七百八十七年八月に出来上り、それをフイラデルフイヤで試運転いたしました。ちようど、その時、国会が開かれてゐたので、議員達は新発明の船を見るために河へ行きました。試運転は成功しましたけれども、見物は一向に熱狂しませんでした。そのわけは、速力が僅かに一時間三、四まいるであり、進行の工合がいかにもぶまであつたからです。この船には二本の櫂が取りつけてあり、一本が水中にはひると、他の一本が水面に上つて、それで船を進行させたのでした。
フイツチはこの不評判に発憤して、千七百八十七年にまた別の蒸気漕船を造つたが、これも失敗に終つて、一顧の価値もないものだといふことが知れました。そこで彼は第三の設計を試みたが、不時の出来事で失敗に終り、彼は全く無一物になりました。元来が貧しかつた彼は、失敗を重ねた結果非常な苦境に陥り、遂に自分の命を自分の手で取るといふ悲劇を演じました。しかし、フイツチの失敗は、決して価値のないものではなく、それによつて得たところの経験は、多くの教訓を造船術に与へました。
かうした風に、アメリカではラムセイだの、フイツチだのが、しきりに汽船の研究をしてゐた間に、ヨーロツパの発明家達も、決してぽかんとしてゐたわけではなく、吾こそ創製者の名誉を荷はうと、あちらでもこちらでも活溌に研究を続けました。たとへば、イギリスのウイリヤム・シミングトンの如きは、これまで進水されたものゝ中では、一番実用的だといはれた汽船を創製しました。それは『シヤーロツト・ダンダス』といつて、千八百二年に、クライド河とフアース水道とで試運転が行はれました。この汽船には、フイツチ式の櫂がない代りに、水を掻く一つの車がついてゐました。その車は船尾にあつて、汽●桿に結びつけてある棒で廻転せられる鎖で曳かれるようになつてゐました。この意匠は既にワツトとその共同研究家とが、数年前に発表したもので、シミングトンはそれを実地に応用したのであります。
シミングトンが試運転で成功しますと、ブリツヂウオータア公が、運河で用ひる目的で、同型の船を八隻以上も註文したので、『シヤーロツト』の名は一そう有名になりました。かうなると、彼は一足飛びに船成金になれる筈でしたが、運河の持ち主がそれの使用を拒んだので、せつかくの話もお流れとなり、あまつさへ註文者である公爵も死んで、財政上の資源がなくなり、遂に『シヤーロツト』号は運河から他に移されて、解体せられねばならぬ運命を見ました。
せつかく、有望に見えた『シヤーロツト』号さへ、こんな不結果に陥つて、イギリスではあらゆる汽船が実用を見ないで終るといふ悲しい歴史を繰り返しました。
しかし、最も必要を感じ、最も熱心に実用を希望する国で、汽船は遂に創製に成功しました。その国は即、アメリカです。ラムセイ、フイツチ、シミングトンなどの成績に注目してゐた一アメリカ人は、既往の実験中から最も大切な部分を選んで、それらを結合して理想的な一汽船を造り出しました。その人はロバート・フルトンといつて、千八百七年八月に、新発明の汽船『クラアモント』をハドソン河で試運転し、ニユー・ヨークからアルバニーまで、百五十まいるの間を三十二時間で遡航し、三十時間で下航しました。
そこで、フルトンは直ちに旅客の運輸を開始する旨を広告したら、我も/\と乗客が集まつて来て、彼の船はすぐ満員になりました。その時の光景を見たイギリスの一記者は「新造汽船『クラアモント』号は、実際上の目的と、所有主へ報酬を払ふ目的とで、航走を開始し且つ継続した」と書いてゐます。即、『クラアモント』号に於いて、私達は初めて相当に収入のある商売的な船を見ることが出来たわけです。
ところがこの船の水掻き車は、船の中央の舷側にあつて、その半分は水上に頭を出し、他の半分は水中に没してゐましたが、フルトンの時代ですら、車輪は舷側に置くべきものでないといふことを知つてゐたほどですから、発明家達はこの点を改良しなければならぬと思ひました。水鳥を見ても、また美しい白鳥を見ても、泳いでゐる時には二本の脚を水中に没してをり、半分を水面に出し、半分を水中に沈めたりしてゐません。一般に泳ぐ動物は、すべて推進器たる脚を水中に没して、後の方でそれを動かします。だから船の水掻き車とても、それを全然水中に沈め、且つ船尾に装備するのが自然に適つてゐると、かう発明家達は考へました。
この意見に基づいて、ニユー・ジヤーシイ州、ホボークンの機関士ジオーン・スチーヴンスは、千八百五年に船尾の水線下へ螺旋形の車輪をつけた船を造つて、ハドソン河でその試運転を試みて成功しましたが、フルトンの大成功を収めた直後だから、その新式の小汽艇のことなどは、いくほどもなく忘れられてしまひました。しかし、スチーヴンスの発明した、螺状推進器の観念は、決して失はれたわけではありません。
まもなくスエーデンの機関士ジオーン・エリツソンがそれを採用して、千八百三十九年に、イギリスの造船所で、あるアメリカ人の船長のために、最初のすくるうをつけた汽船を造つて、大西洋を横断しました。この船は『ロバアト・エフ・ストツクトン』といひ、航洋汽船の元祖として、航海史上忘れることの出来ない名前です。
千八百三十九年以来、造船界には驚くべき進歩が現れましたが、それは新発明が起つたためといふよりも、エリツソンの意匠に改良を加へた結果と見る方が適当であります。今日は何万噸といふ巨大な航洋船が、海面狭しと浪の上に泛んでゐますが、すくるうをつけてゐない船はないから、船の発明史からいふと、まづエリツソンの推進器発明が最後だといつてもよろしいでせう。
これらの巨船は形も大きく、速力も速く、どんな沢山の人数でも荷物でも、これを一度に遠方まで早く運んでゆくことが出来ます。船の中の設備は至れり尽せりで、うちの中にゐるよりもかへつて便利であり、また愉快でもあります。「板子一枚下は地獄」と、いつて海上を恐れたのは、全く昔の夢となり、今日ではそれの代りに、「船の上こそこの世の極楽」と、いふ句を、置き換へなければならぬ有様です。
しかるに、世界大戦前後から、潜水艇が発明せられて、これまでは安全に水面に浮かばすことのみ考へてゐた造船家は、その後は船を水中に沈ませながら、安全に航行することが出来るように工夫しなければならぬ日を迎へました。潜水艇は今日軍事上の目的のみに用ひられてゐるが、将来は学問上とか漁撈上とかの目的で、海底を探るために用ひられることがあるでせう。本当に、発明家の為事ほど、恐ろしいものはありません。
一五、飛行機
車で陸地を旅行し、船で海洋を旅行することを発明した人間は、遂に飛行機、或は飛行船によつて空中を旅行することを工夫し成功しました。飛行船、飛行機といへば、私達はすぐ船を聯想しますが、機械学の方から見ますると、飛行機は地上の自動車の進化したもので、これを空中の自動車といつても差し支へないそうです。
さて、人は昔から、どうかして空を飛んで見たいといふ理想を懐いてゐましたが、ちよつとだつて飛ぶことが出来ませんから、空の鳥のふわ/\と軽げに飛んでゐるのを見て、羨ましげに眺める外はありませんでした。西洋ではえんぜる、東洋では天狗のように、翼をもつてゐる人間に似た姿のものが、自由に天界を飛翔してゐるといふ考へは、非常に古い昔からあつたが、それは人間のもつてゐた空中飛行についての欲望が、想像となり、偶意となつて、民間信仰、民間説話に現れたのであります。
我国の神話では、神々はみんな天から天降つたことになつてゐるので、その天降りの方法を古代人はいろ/\と考へて、あるものは梯子を昇り降りしたと説明し、他のものは天の磐船といふ一種の乗り物に乗つて上下したと説明しました。朝鮮にも南洋にも、畚か籠のようなものに乗つて、天へ昇り降りしたといふ神話があります。かうした国柄でありますから、我日本は他の発明、発見では貧弱いふに足らない歴史しかもつてゐないが、飛行機発明史の上からいふと、伝ふべき様々の伝説をもつてゐるのであります。
たとへば、石川五右衛門は、名古屋城の金の鯱を盗むために、大きな凧を造つてそれに乗らうとしたといひますが、それがたとへ嘘であつたにしても、当時人を載せるほどの大凧があり、また大凧は人を載せ得るといふ知識を人々がもつてゐたことを示してゐます。凧は平面板を傾けて風圧を受けしめれば上昇するといふ原理から割り出して造られたものであり、航空学上では繋留された飛行機の位置を占めてゐますが、それが遠い昔から我国にあり、それに乗つて遠隔の地に達したといふ話がそここゝに残つてゐるところがら見ますると、五右衛門の凧利用物語は、必ずしも純粋の仮作物語ではないでせう。五右衛門のこの計画は、紀元千六百十一年以前のことですから、空中飛行を実行しようとした最古のれこーどであるかも知れません。
もしも昔の人が空を飛ぶことを考へたとしたら、必ず鳥を聯想したでせうし、鳥を聯想したとすれば、人間も鳥の翼のようなものを作つて、それを身体につけたら飛べるだらうといふ推想に導かれたでせう。人間の手で人造の翼を動かして飛んだといふ記録は千六百七十九年にフランスのブルスニエーが作りました。彼は自分の足と手とで、肩につけてゐる翼を動かせて、二階の窓から小屋の屋根に飛んだゞけであります。
日本では千七百八十九年に、岡山の表具師で幸吉といつたものが、飛行機を造つて実際に飛んだといふことが菅茶山の『筆のすさび』に書いてあります。それに依ると、彼は一羽の鳩を捕へて、その身の軽重、翼の長短を計り、それらを自分の身の重さに比べてちようど身に合つた翼を造り、機関を胸前で操つて翼を動かしました。地上からはすぐに揚れないので、屋根の上から羽ばたきして出ることにしたが、ある日郊外を翔け廻つてゐると、野宴を開いてゐるのが見えたので、知つたものでもゐないかと近づいてゆくと、風力が衰へて地上へ落ちました。宴会中の男女は驚き怖れて逃げ出したが、後に酒肴が沢山残つてゐたから、それを飲み食ひして立ち去らうとしたところ、地上からは飛べないので、翼を畳んで歩いて帰りました。其事が奉行の耳にはひつて、人のせぬことをするのはたとひ娯楽とはいへ罪であるといつて、両翼を取り上げた上、住所から追放されたといふことです。
ちよつと考へると、幸吉は翼を鳥のようにばた/\動かしたように見えるけれど、地上からぢかに飛び上れないところから推すと、空中を滑翔したものと見なければなりません。人間の力は平均四分の一馬力しかないから、一分間に八千二百五十ぽんどの物を一ふいーと持ち揚げることが出来るだけですから、腕の上下運動だけでは、いくら機関を設けても鳥のようには飛べないと、学者はこまかい計算をして見た上で申してゐます。しかし、もし幸吉がいくらでも滑翔したとすれば、これが日本で出来たぐらいだあ即、滑翔機の初めだといふことは出来ます。
フランスで滑翔機の創製されたのは、十八世紀の初めだといひます。即、ル・プリイといふ一水夫が、航海中に、信天翁が翼をはゞたかずに、水面を掠めて滑走してゐるのを見て、風向きに逆つて翼に風圧を受ければ、人間も信天翁のように飛べるだらうと考へて、いろ/\工夫を凝らした末、遂に滑翔機を創り出したといはれます。
今からざつと二百年前といひますから、多分千七百三十年頃のことでせう。琉球の中頭郡護得久村に安里某といふものがあつて、弓を水平に支柱に取りつけ、弓の上に鳥の翼に似た翼を装置し、弓の弦を足に結んで、弾力によつて翼を上下して飛行する工夫を凝らし、それを造つてある日、泡瀬村附近の断崖上から風に向つて飛び上り、翼をはゞたいて飛び廻りました。そこで、彼の生家を土地の人は『飛び安里』と呼び、その家には今もなほ彼の描いた設計図が残つてゐるといはれます。安里式飛行機は、どうした組み立てをもつてゐたか、はつきりわかりませんが、人力で翼を動かしたのでありますから、お一にそぷたあ、即、鼓翼式飛行機の一つであつたことは申すまでもありません。鼓翼式飛行機にあつては、多く腕の力を利用しようとしたのに、安里機は動力としては脚を用ひ、腕の筋肉は単に弓の発条と翼の支持とに止めたのは、実に立派な意匠といつても褒め過ぎではありません。十四世紀の末に、あの有名なレオナルド・ダ・ヴインチは、人力鼓翼飛行に於いては、腕よりも強力な脚の筋肉の力を用ひなければ成功しないといつたとのことですが、安里某の発明がダ・ヴインチの言と符節を合してゐるのは、まことに興味の深いことです。
前述のル・ブリイの滑翔式飛行機は、幸吉のそれと共に、自然の飛行を模倣したものに過ぎませんが、それを物理的に研究して人工飛行に発達せしめたのは、航空力学を創始したドイツのオツトー・リリエンタールであります。彼は千八百八十一年頃から、滑翔機の実験飛行を始めましたが、千八百九十六年八月十一日に、ベルリン郊外で実験中、墜落して死にました。
これより前、千八百四十二年に、フイリツプスは蒸気力で動く廻転扇の助けを借りて空中に昇り、二つの野を横ぎつてかなりな遠距離に飛ぶことが出来たといひます。
またリリエンタールの死んだ年、即、千八百九十六年に、アメリカのラングレイ教授は、小さい蒸気機関で動かされる飛行機をつくつて、ワシントン附近で試運転を行ひ、ポトマツク河を越えて四分の三まいるを三回飛んだといはれます。これは実に最初の空中自動車であつて、これ以前にはこれほど長距離を自分自身のカで飛んだものはありません。しかし蒸気力ではうまく飛べる筈がない。なぜかといつて蒸気機関はあまりに重くて、空中の飛行には適しないからであります。
二十世紀になつて、がす爆発機関が飛行機にすゑつけられるに及んで、初めて飛行機は成功の域に達しました。前記ラングレイに続いて、カーチス、ライトなどの発明家が現はれて、それ/゛\の意匠で飛行機を造りましたが、ライト兄弟の力によつて物理学的飛行が実現しました。彼は空気より重い飛行機を機械の力で動かすことを工夫し、遂に千九百三年になつて、今日の飛行機と大差のないものを完成しました。
それ以後、飛行機はだん/\と改良されて、現代のそれの如く、平面板の上に浮力を生ぜしめて飛行するようになりましたが、さうするにはある角度をもつてある距離を滑走しなければなりません。今後の飛行機は、かうした水平牽引運動によつて浮力を生ぜしむる代りに、玩具の竹蜻蛉のようにすぐ垂直に上昇する装置をする必要があるといはれ、べスカラ式のへりゆぷたあ即、螺旋式航空機が発明されました。これは上方に直径大の螺旋機を取りつけ、それのもつてゐる垂直的牽引力によつて、すぐに上方へ飛翔せしめようといふのですが、まだ完全な発達を遂げないでをります。
以上はすべて、『空気より重い航空機』、即、英語でへう゛いやあ・ざん・えやあといはれるものですが、空気より軽い航空機、即、らいたあ・ざん・えやあはどうかといふと、千七百八十二年に、フランスのモンゴリフイエー兄弟が初めて軽気球を発明、完成し、仏独戦役にパリがドイツ軍に包囲された時、軽気球でパリを脱して、敵軍の外にゐる味方と通信したのがその実用の初めであります。
これらの気球は風に流される結果、飛行には適しないので、主として繋留して展望用に供されましたが、遂に舵を操つて飛行する自由気球が発明され、それが一そう発達した現代の如き飛行船となりました。世界大戦の際に於けるドイツのツエツペリン式飛行船は敵である聯合国側を驚かしましたが、その後フランスで用ひられたデイクスミユート型硬式大飛行船が、六日間の無着陸航続飛行に成功して、世界の人心に大波動を与へました。それは大戦中異常の働きをしたドイツの海軍硬式飛行船エル七十二号が、ヴエルサイユ平和条約の結果、フランスの航空巡邏船に編入されたものであります。この驚くべき飛行船は、百十八時四十一分間の航続飛行に成功した後一箇月、即、千九百二十三年十月の末に行方不明となつてしまひました。
飛行機が車の進化したものであるのに対して、飛行船は船の進化したものと見るのが適当ですが、同じく空中を飛ぶものでありますから、これを共に飛行機、即、英語でいふふらいいんぐ・めしんに属せしめることは無理ではありません。ともかくも両者とも、今日では旅客を載せて定期飛行をするまでに発達しましたから、これが汽車や汽船に乗るのと同じように、どんな危険の感じも伴はないものになるのは、もう間もない後のことであると思はれます。飛行機は今や各国の発明家達によつて、月々日々に改良せられ、昨日の新形はもはや今日の新形ではなく、今日の新型は明日の旧型である状態にあります。こゝ十年の間にそれがどんな進歩をするかは、誰にも予言が出来ることではありません。楽しいのは飛行機の将来の発達です。
一六、時計
ちくたくと、時の車は廻転します。それを私達は止めることが出来ないように、それ自身もまた止まることが出来ません。時の経過は生命の経過で、時の計算はとりも直さず生命それ自身の計算であります。
なぜこんなに精密、正確に、時を計る必要があるのか、ちよつと考へると馬鹿々々しいことのようにも思はれますが、歴史の私達に教へるところによると、十分の一秒だつておろそかには出来ないのであります。あの世界史に一大変動を惹き起した有名なウオータアルーの戦ひで、朝日の昇るような勢ひのナポレオンが脆い負け方をしたのは、天の利と人の利とを得なかつたからではなく、彼の部将の一人の時計が、ほんの僅かばかり違つてゐたゝめであるといはれてゐます。かように、時計は、人生の利害に深い関係をもつてゐるものです。私が時計の発明史を説かうとするのは、これがためであります。
昔から時間は、天体の運動で計ることになつてゐます。即、年と四季とは、太陽のぐるりを廻る地球の運動によつて知られ、月と週とは太陰の変化によつて知られ、日の明け暮れは太陽の出没によつてそれと悟られます。原始人はかうした年、季節、日を、天上の大時計で測りました。然らば日以下のこまかい時間は、どうしてそれを知つたでせうか。一時、一分、一秒などの刻みは、どうして注意せられたでせうか。卵をゆでるにしても、狩場から家路に就くにしても、適当な時間を何によつて計つたでせうか。手軽に分秒を計る方法は、昔から実際上の問題でした。この問題を解くために先づ試みられたのは、太陽によつて投げられる影を観察することでした。人体の影の変化が、疑ひもなく最初の時計でした。たとへば影が次第に短くなれば、午がだん/\近くなつて来たことを示し、頭の影がちようど