発明発見物語

西村真次


はしがき

 今日(こんにち)、私達(わたしたち)が、物(もの)を食(た)べ、家(いへ)に住(す)み、着物(きもの)を着(き)て、その日(ひ)その日(ひ)を楽(たの)しく暮(く)らしてゆくことの出来(でき)るのは、私達(わたしたち)の先祖達(せんぞたち)が長(なが)い間(あひだ)かゝつて、衣食住(いしよくじゆう)の方法(ほうほう)を工夫(くふう)して置(お)いてくれたからであります。食物(しよくもつ)を料理(りようり)したり、家屋(かおく)を建築(けんちく)したり、衣服(いふく)を裁縫(さいほう)したりすることは、ある人(ひと)がある時(とき)に考(かんが)へついたことではなく、幾人(いくにん)もの人(ひと)が、幾千年(いくせんねん)もかゝつて、やつと出来(でき)あがつたことであります。
 衣(い)、食(しよく)、住(じゆう)を初(はじ)め、私達(わたしたち)の生活(せいかつ)の仕方(しかた)が、すなはち『文化(ぶんか)』でありますから、文化(ぶんか)といふものは決(けつ)して一朝一夕(いつちよういつせき)に出来(でき)たのではなくて、幾人(いくにん)もの発明(はつめい)、発見(はつけん)が重(かさな)つて完成(かんせい)されたのです。たとへば、夜(よる)になると私達(わたしたち)は電燈(でんとう)をつけますが、昔(むかし)はこんな明(あか)るい照明法(しようめいほう)はなく木切(きぎれ)を拾(ひろ)ひ集(あつ)めてそれを燃(も)やして明(あか)りを取(と)りました。大(おほ)きな河(かは)や湖(みづうみ)があつて、対岸(たいがん)へ渡(わた)らうとするには、大小(だいしよう)さま/゛\の船(ふね)がありますが、大昔(おほむかし)にはそんな便利(べんり)なものがあらう筈(はず)がございません。昔(むかし)の人(ひと)は、九太(まるた)に乗(の)つたり、竹片(たけぎれ)につかまつたりして、水(みづ)の上(うへ)を、辷(すべ)つて行(い)つたのです。篝火(かゞりび)から電燈(でんとう)へ、丸太(まるた)から船(ふね)へ、文化(ぶんか)が今日(こんにち)の程度(ていど)に進歩(しんぽ)したのは、みな先祖達(せんぞたち)の苦心(くしん)の賜(たまもの)であります。他(ほか)の言葉(ことば)で申(まを)せば、人間(にんげん)の永年(ながねん)の発明(はつめい)、発見(はつけん)の結果(けつか)であります。
 一(いち)がいに、発明発見(はつめいはつけん)と申(まを)しますが、発明(はつめい)と発見(はつけん)とはすこしちがつてゐます。『発明(はつめい)』といふのは、人間(にんげん)のためになることを、苦心(くしん)して新(あら)たにかんがへ出(だ)すことであり、『発見(はつけん)』といふのは、人間(にんげん)のためになるものを偶然(ぐうぜん)見(み)つけることで、二(ふた)つの間(あひだ)にはいくらかちがひがございます。しかし、いくら偶然(ぐうぜん)に見(み)つけるといつたところで、そこに、多少(たしよう)の苦心(くしん)が費(つひや)されてをらぬものはないから、発明(はつめい)と発見(はつけん)とは、まづ同(おな)じことゝかんがへて置(お)いてもよろしい。
 たとへて申(まを)せば、蜘蛛(くも)が木の葉(は)に乗(の)つて水(みづ)の上(うへ)を渡(わた)るのを見(み)て、丸太(まるた)が水(みづ)に浮(う)くことを知(し)つたのは、たしかに『発見(はつけん)』の一種(いつしゆ)でありますが、人(ひと)が丸太(まるた)に乗(の)つてそれを前(まへ)に進(すゝ)めるために足(あし)で水(みづ)を掻(か)いたとすれば、そのことはもはや『発明(はつめい)』であります。またコロムブスがアメリカを発見(はつけん)したのは、偶然(ぐうぜん)といへば偶然(ぐうぜん)ですが、実(じつ)は長(なが)い間(あひだ)いろ/\の理由(りゆう)で、西(にし)の方(ほう)に人間(にんげん)の住(す)んでゐる別(べつ)の世界(せかい)があるといふことを考(かんが)へてゐた結果(けつか)ですから、発明(はつめい)といはれないこともありません。
 まあ、さうした議論(ぎろん)はぬきにして、私(わたし)はこれから、人間(にんげん)の日常生活(にちじようせいかつ)に必要(ひつよう)ないろ/\の発明発見(はつめいはつけん)について、おひ/\詳(くは)しく述(の)べて見(み)たいと思(おも)ひます。しかし、多種多様(たしゆたよう)の複雑(ふくざつ)な文化(ぶんか)が、どうして工夫(くふう)せられたかを一々(いち/\)述(の)べるわけにはまゐりませんから、きはめて大切(たいせつ)でもあり、また面白(おもしろ)くもあるものを選(えら)んで、次(つ)ぎ/\にお話(はなし)しすることにします。わからぬところは挿(さ)し絵(え)と照(て)らし合(あ)はせて入念(にゆうねん)に見(み)て下(くだ)さい。
 わたしはこの書物(しよもつ)を、主(しゆ)としてフォーマンの『有益(ゆうえき)発明物語(ものがたり)』に依(よ)つて書(か)きましたが、外(ほか)にメースン、スタール、デニケルなどの名著(めいちよ)をも参考(さんこう)にいたしました。皆(みな)さんが大(おほ)きくなつて、自分(じぶん)でこれらの書物を読(よ)むようになられるのを、わたしは首(くび)を伸(の)ばして待(ま)つてをります。

                    西村真次

目次
一、まつち…………………………………………………………三
二、すとーぶ……………………………………………………一三
三、らんぷ………………………………………………………一八
四、鎔砿炉(ようこうろ)……………………………………三九
五、蒸気汽鑵(じようききかん)……………………………五一
六、食料(しよくりよう)……………………………………六四
七、犁(すき)…………………………………………………七一
八、鎌(かま)…………………………………………………八〇
九、臼(うす)…………………………………………………九四
一〇、衣服(いふく)………………………………………一〇六
一一、機織(はたお)り……………………………………一一二
一二、家屋(かおく)………………………………………一二二
一三、車(くるま)…………………………………………一四一
一四、船(ふね)……………………………………………一五九
一五、飛行機(ひこうき)…………………………………一八三
一六、時計(とけい)………………………………………一九三
一七、書物(しよもつ)……………………………………二一二
一八、通信(つうしん)……………………………………二三一



発明発見物語


装幀・恩地孝四郎
口絵・ウイルキンソン
挿絵・岡落葉


 一、まつち

 人間(にんげん)を他(た)の動物(どうぶつ)よりもえらいものにしたのは、火(ひ)を造(つく)ることの発明(はつめい)です。もしも人間(にんげん)が火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)しなかつたならば、私達(わたしたち)人間(にんげん)は猿(さる)や犬(いぬ)や猫(ねこ)とあまりちがはない生活(せいかつ)をしてゐなければならないでせう。それだから発火術(はつかじゆつ)──即(すなはち)、火(ひ)を造(つく)ることが人間(にんげん)の一番(いちばん)大切(たいせつ)な、基本的(きほんてき)な発明(はつめい)だといはれるのであります。
 試(こゝろ)みに火(ひ)のない世界(せかい)を想像(そうぞう)してごらんなさい。冬(ふゆ)の朝(あさ)には暖(だん)をとることが出来(でき)ず、寒(さむ)さにふるへてゐなくてはならないでせう。煮焚(にた)きが出来(でき)ないから、なまの米(こめ)をかじつたり、なまの魚肉(ぎよにく)や、なまの牛肉(ぎゆうにく)を食(た)べたりしなければならないでせう。汽車(きしや)は走(はし)らず、工場(こうじよう)の機械(きかい)は動(うご)かず、夜(よる)になれば四方(しほう)がまつくらで、何(なに)もかも手探(てさぐ)りに探(さが)しまはらなければならないでせう。
 天照大神(あまてらすおほみかみ)が天(あま)の岩屋戸(いはやど)へお隠(かく)れになつた時(とき)、高天原(たかまがはら)も葦原(あしはら)の中(なか)つ国(くに)も、まつくらがりになつて、悪(わる)い神々(かみ/゛\)、怪(あや)しい魔物(まもの)どもがのさばり歩(ある)いたので、八百万(やほよろづ)の神々が会議(かいぎ)を開(ひら)いて、あまてらすおほみかみに岩屋戸(いはやど)から出ていたゞくことをお願(ねが)ひしました。この神話(しんわ)は、火のけのない世界(せかい)が、どんなに恐(おそ)ろしく、さびしく、不自由(ふじゆう)なものであるかを物語(ものがた)つてゐるのです。
 しかるに、遠(とほ)い/\むかしに、私達(わたしたち)人間(にんげん)の祖先(そせん)が火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)してくれたので、私達(わたしたち)は自由(じゆう)にそれを使(つか)つて、一方(いつぽう)では熱用(ねつよう)に供(きよう)し、他方(たほう)では燈用(とうよう)に供(きよう)し、なんの不便(ふべん)もなく、くらすことが出来(でき)るのです。そこで、私は最初(さいしよ)にごくざつと、発火術(はつかじゆつ)を発明(はつめい)したお話(はなし)をいたしたいと思(おも)ひます。
 人間(にんげん)が火(ひ)を造(つく)り出(だ)す前(まへ)にも、火(ひ)はこの世界(せかい)にございました。自然(しぜん)の火(ひ)がとりも直(なほ)さずそれで、火山(かざん)の焔(ほのほ)が近所(きんじよ)の森(もり)を焼(や)いた時(とき)とか、雷(らい)が立(た)ち木(き)の上に落(お)ちた時(とき)とかには、火(ひ)が燃(も)えて昔(むかし)の人間(にんげん)をおどろかしたものです。ところが、人間(にんげん)がその自然(しぜん)の火(ひ)に、なにか物(もの)が焼(や)けたりしてゐるのを見(み)て、火(ひ)には焼(や)きこがす力(ちから)があることを知(し)り、それに近寄(ちかよ)つた時(とき)には熱(ねつ)のあること、それが夜(よる)の闇(やみ)を破(やぶ)つた時(とき)には光(ひかり)のあることを知(し)つて、自然(しぜん)の火(ひ)を熱用(ねつよう)、燈用(とうよう)の二(ふた)つに使(つか)ふことを発明(はつめい)したのです。しかし、初(はじ)めにはまだ火(ひ)を造(つく)ることは知(し)りませんでした。
 そこで噴火口(ふんかこう)や、山火事(やまかじ)をしてゐる森(もり)に行(い)つて、自分(じぶん)の持(も)つてゐる枯(か)れ木(き)の枝(えだ)などへ火(ひ)をうつし、それを大急(おほいそ)ぎで自分(じぶん)の小屋(こや)に持(も)ちかへつたものです(第一図)。かうした時代(じだい)には、火(ひ)は極(きは)めて大切(たいせつ)で、一度(いちど)消(き)えてしまふとそれを手(て)に入(い)れることが困難(こんなん)ですから、寝(ね)ず番(ばん)をつけて薪(まき)を加(くは)へ、火種(ひだね)を絶(た)やさないようにしたものです。火(ひ)が尊敬(そんけい)されて神(かみ)さんのように思(おも)はれ、しまひには神(かみ)さんとして祭(まつ)られるようになつたのは、今(いま)いつたようなわけがあるからです。
 発火術(はつかじゆつ)がいつ発明(はつめい)されたかは、はつきりとわかりませんけれども、次(つ)ぎに述(の)べるような順序(じゆんじよ)で、発明(はつめい)にみちびかれたことはたしかです。先(ま)づ第一(だいいち)に人間(にんげん)は、自分(じぶん)の両手(りようて)を揉(も)み合(あ)はして見(み)た時(とき)、掌(てのひら)が温(あたゝ)かくなることを知(し)りました。第二(だいに)には二(ふた)つの木片(もくへん)を摩(す)り合(あ)はしてきつく摩擦(まさつ)したら、火(ひ)が出(で)やしないかといふ疑(うたが)ひを起(おこ)しました。第三(だいさん)には木(き)を地上(ちじよう)に置(お)いて、それを棒(ぼう)で穴(あな)があくまでこすりますと、鋸屑(のこくづ)のような粉(こな)が穴(あな)の中(なか)にたまり、それがだん/\熱(ねつ)して来(き)て、とう/\しまひには火(ひ)を出(だ)しました。第四(だいし)には乾(かわ)いた草(くさ)をその火(ひ)の上(うへ)にのせて、ぷう/\と息(いき)を吹(ふ)きかけたら、焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)りました。かうして人間(にんげん)は火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)したので、それからはいろ/\の為事(しごと)に火(ひ)を使(つか)つて、遂(つひ)に他(た)の動物(どうぶつ)の出来(でき)ないことをするようになつたのです。だから、人間(にんげん)と動物(どうぶつ)とのちがひは、火(ひ)を造(つく)ることが出来(でき)るか、出来(でき)ないかといふことできまると、ある学者(がくしや)は申(まを)してをります。
 棒(ぼう)を木片(もくへん)へすりつける方法(ほうほう)はいろ/\あるが、初(はじ)めは手(て)を前後(ぜんご)に動(うご)かして縦(たて)にすりつけたでせう。(第二図)次(つ)ぎには両手(りようて)で揉(も)んで一箇所(いつかしよ)をこすつたでせう(第三図)。と、掌(てのひら)が熱(あつ)くてしかたがないので、棒(ぼう)のぐるりへ縄(なは)や布片(ぬのぎれ)をまきつけて、その両端(りようはし)を左右(さゆう)の手(て)で持(も)ち、棒(ぼう)の下端(したはし)は穴(あな)の中(なか)へ入(い)れ、上端(うははし)を口(くち)に銜(くは)へて、まいた縄(なは)をひつぱると棒(ぼう)がくる/\廻(まは)つて火(ひ)を出(だ)しました。(第四図)しかし、これでは歯(は)が痛(いた)いので、さらに別(べつ)の工夫(くふう)をめぐらし、縄(なは)をひつぱる人(ひと)と、棒(ぼう)を上(うへ)から石(いし)で押(おさ)へてゐる人(ひと)と、二人(ふたり)がゝりで火(ひ)を出(だ)すことにしたのです。今日(こんにち)でも、貝塚(かひづか)や昔(むかし)の人(ひと)の住居(すまゐ)の址(あと)から、凹(くぼ)み石(いし)といつて、孔(あな)のいくつもあいた石(いし)が見出(みいだ)されるのは、みな昔(むかし)かうした風(ふう)にして火(ひ)を出(だ)した証拠(しようこ)です。
 すべて、前述(ぜんじゆつ)のように、すりつけて火(ひ)を造(つく)るのを摩擦発火法(まさつはつかほう)と申(まを)します。しかるに、人間(にんげん)はつゞいて別(べつ)の発火法(はつかほう)をかんがへ出(だ)しました。それは鉄片(てつぺん)と石(いし)をかち合(あ)はす方法(ほうほう)(第五図)だから、撞撃発火法(どうげきはつかほう)と申(まを)します。
 わが国(くに)でも明治(めいじ)年代(ねんだい)の初(はじ)め、おそいところでは中頃(なかごろ)までも、みな燧石(ひうちいし)を用(もち)ひました。この燧石(ひうちいし)といふ堅(かた)い石(いし)にほくちを添(そ)へ、木(き)に嵌(は)めた鉄片(てつぺん)でかち/\と石(いし)をうつと、火花(ひばな)がぱつと散(ち)ります。その火花(ひばな)がほくちに移(うつ)つて赤(あか)くなる。そこで硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)といつて、薄(うす)く木(き)を削(そ)いだものゝ一端(いつたん)へ硫黄(いおう)をつけたのを持(も)つてゆくと、ぱつと焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)るといふ面倒(めんどう)くさい火(ひ)の造(つく)りかたをしたものでした。ところが、五月雨(さみだれ)でも降(ふ)つて空中(くうちゆう)に水分(すいぶん)が多(おほ)いと、ほくちがしめつて、たやすく火が移(うつ)りません。また硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)がなければ焔(ほのほ)が出(で)ません。その煩(わづら)わしさといつたら、お話(はなし)になりませんでした。
 しかし、この発火法(はつかほう)は、発明以来(いらい)、数千年間(すうせんねんかん)にわたつて各国(かくこく)の人々(ひと/゛\)に用(もち)ひられ、つい最近(さいきん)まで役立(やくだ)つてゐたのです。もつともそこに一(ひと)つ注意(ちゆうい)すべきことは、昔(むかし)のギリシヤ人(じん)は、拡大鏡(かくだいきよう)で太陽(たいよう)の光線(こうせん)を集(あつ)め、その下(した)へ乾(ほ)し草(くさ)を置(お)いて発火(はつか)させたといふことです。けれど、それとてもまつちの発明(はつめい)には関係(かんけい)がございません。
 三番目(さんばんめ)に工夫(くふう)せられたのが薬物発火法(やくぶつはつかほう)で、それの発明(はつめい)は今(いま)からざつと三百年(さんびやくねん)ぐらゐ前(まへ)のことです。即(すなはち)、十七世紀(じゆうしちせいき)のこと、ウイーンに考(かんが)へ深(ぶか)い人(ひと)が住(す)んでゐて、硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)を硫酸(りゆうさん)に浸(ひた)し、それにぽつたーす塩(えん)と砂糖(さとう)との混合物(こんごうぶつ)をつけて見(み)たら火(ひ)を出(だ)したので、息(いき)を吹(ふ)きかけて苦(く)もなく焔(ほのほ)を上(あ)げさせました。まつたく摩擦(まさつ)もせず、撞撃(どうげき)もせず、化学的(かがくてき)の作用(さよう)で火(ひ)を出(だ)す方法(ほうほう)であります。しかし、この方法(ほうほう)は金(かね)がかゝるのみならず、ともすると危険(きけん)が勃発(ぼつぱつ)したので、便利(べんり)ではあるが、物好(ものず)きな人(ひと)のほかはこれを用(もち)ひず、以前(いぜん)から用(もち)ひならした燧石(ひうちいし)を使(つか)つてゐました。
 ところが、十九世紀(じゆうくせいき)になつて、四番目(よばんめ)の火(ひ)の造(つく)り方(かた)が発明(つめい)されました。千八百二十七年(せんはつぴやくにじゆうしちねん)のこと、英国(えいこく)のさる町(まち)に住(す)んでゐた薬剤師(やくざいし)、名(な)をジオーン・ウオーカアといふ人(ひと)が、硫黄(いおう)、ぽつたーす塩(えん)、あんちもにー粉(ふん)の混和物(こんわぶつ)を木片(もくへん)につけ、それを鑢紙(やすりがみ)にこすりつけたら焔(ほのほ)を発(はつ)することを発見(はつけん)しました。この方法(ほうほう)は摩擦法(まさつほう)と薬物法(やくぶつほう)とを兼(か)ねてゐるので、摩擦薬物発火法(まさつやくぶつはつかほう)と申(まを)します。これが今日(こんにち)の安全(あんぜん)まつち(ヽヽヽ)の先駆(せんく)となつたのです。
 ところが、五六年(ごろくねん)の後(のち)に、あんちもにー粉(ふん)の代(かは)りに燐(りん)を用(もち)ひると、一(いつ)そう容易(ようい)に発火(はつか)することが知(し)られました。これが即(すなはち)、燐(りん)まつちといふもので、百四十四本(ひやくしじゆうしほん)を一束(ひとたば)にしたものが二十五(にじゆうご)せんとでしたから、決(けつ)して安(やす)い方(ほう)ではなかつた。のみならず、燐(りん)まつちはあまり発火(はつか)し易(やす)く、床(ゆか)の上(うへ)に一本(いつぽん)落(お)ちてゐるのを知(し)らずに踏(ふ)むか、或(あるひ)はその上(うへ)へ他(た)の物(もの)が落(お)ちたりすると、すぐ発火(はつか)して焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)りますから、うつかりしてゐると火事(かじ)になつて、家(いへ)も蔵(くら)も灰(はひ)にしてしまふといふ危険(きけん)がありました。たとへ人間(にんげん)が注意(ちゆうい)してゐても、家鼠(いへねずみ)がそれを噛(か)んで大事(だいじ)を起(おこ)したことがあります。ある都会(とかい)の如(ごと)きは、当時(とうじ)、燐(りん)まつちのために、一年間(いちねんかん)に三十回(さんじつかい)の火事(かじ)を出(だ)したといひ伝(つた)へられてゐます。
 この恐(おそ)ろしい損害(そんがい)を除(のぞ)くために発明(はつめい)せられたのが安全(あんぜん)まつちです。今日(こんにち)、皆(みな)さんのうちで使(つか)つてゐるのがそれで、初(はじ)めは燐(りん)まつちから区別(くべつ)するため、かならず安全(あんぜん)まつちといつたものですが、今(いま)ではまつちといへば安全(あんぜん)まつちと相場(そうば)がきまつてしまひました。
 安全(あんぜん)まつちは燐(りん)を軸(じく)(第六図)へぬらない代(かは)り、それを砂(すな)と膠(にかは)とに混(こん)じたものを、箱(はこ)の横側(よこがは)に塗(ぬ)り、そこへ軸(じく)をすりつけることにしたから、過(あや)まつて発火(はつか)するようなことはなく、至極(しごく)安全(あんぜん)であるといふので、すぐ燐(りん)まつちを駆逐(くちく)して、一挙(いつきよ)に世界中(せかいじゆう)へひろがつてゆきました。
 皆(みな)さんがなんの考(かんが)へもなく使(つか)つてゐるまつちにさへ、かうした長(なが)い間(あひだ)の人間(にんげん)の苦心(くしん)と努力(どりよく)とが宿(やど)つてゐたのです。しかも、その平気(へいき)で見(み)てゐる簡単(かんたん)なまつちは、電信(でんしん)や電話(でんわ)や電燈(でんとう)や蒸気汽缶(じようききかん)などよりも、後(あと)に発明(はつめい)せられたほや/\の新発明品(しんはつめいひん)であります。まつちがなかつたらどれだけ不便(ふべん)だかといふことを考(かんが)へて見(み)ると、まつちといふものがどれだけえらい発明(はつめい)であるかといふことが知(し)れます。

 二、すとーぶ

 火(ひ)の造(つく)り方(かた)については前(まへ)に詳(くは)しくお話(はなし)したから、こんどはその火(ひ)をどう利用(りよう)して来(き)たかをお話(はなし)しませう。
 噴火口(ふんかこう)の近(ちか)くへいつたり、山火事(やまかじ)の傍(そば)へいつたりすると、体(からだ)が温(あたゝ)かになることを知(し)つて、人間(にんげん)は火(ひ)が熱(ねつ)を出(だ)すことを発見(はつけん)しました。また山火事(やまかじ)に焼(や)け死(し)んだ鹿(しか)や猪(ゐのしゝ)の肉(にく)を食(た)べて見(み)ると、生(なま)で食(た)べるのよりもうまいことを知(し)つて、火(ひ)で焙(あぶ)れば食物(しよくもつ)の味(あぢ)がよくなることを発見(はつけん)しました。これら二(ふた)つの発見(はつけん)が、人間(にんげん)をすとーぶと竈(かまど)との発明(はつめい)にみちびいたのです。
 初(はじ)めは自然(しぜん)の火(ひ)を、枯(か)れ草(くさ)や枯(か)れ木(き)の枝(えだ)に移(うつ)して、自分達(じぶんたち)の小屋(こや)の中(なか)に運(はこ)んで来(き)て、それを地上(ちじよう)に置(お)いた薪(まき)に移(うつ)すと、火(ひ)がどん/\燃(も)えて、小屋(こや)の中(なか)には煙(けむり)が一(いつ)ぱいたてこめるけれど、温(あたゝ)まつて、よい気持(きも)ちになるし、また肉類(にくるい)を焙(あぶ)ることも出来(でき)るので、昔(むかし)の人々(ひと/゛\)は煙(けむ)たいのを我慢(がまん)してゐました。
 しかし、どうかして煙(けむり)を外(そと)に逐(お)ひ出(だ)す工夫(くふう)をしたら、一(いつ)そう好都合(こうつごう)であると考(かんが)へ、天幕(てんまく)や小屋(こや)の尾根(やね)へ孔(あな)をあけました(第七図)。これが最初(さいしよ)のすとーぶです。だから、最初(さいしよ)のすとーぶは今日(こんにち)のように持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)るわけでなく、家全体(いへぜんたい)がすとーぶになつてをり、屋根(やね)の孔(あな)が煙突(えんとつ)、床(ゆか)が焚(た)き口(ぐち)になつてゐたのでず。即(すなはち)、その頃(ころ)の人間(にんげん)はすとーぶの中(なか)に住(す)んでゐたといつても差(さ)し支(つか)へありません。
 料理用(りようりよう)の竈(かまど)は初(はじ)めは極(きは)めて簡単(かんたん)で、たゞ焙(あぶ)らうとするものを、ぢかに火(ひ)の上(うへ)にかざすだけのことでした(第八図)。即(すなはち)、火(ひ)の上(うへ)に串(くし)を水平(すいへい)に置(お)き、それに焙(あぶ)るものを引(ひつ)かけたが、串(くし)は生木(なまき)とか竹(たけ)とかで造(つく)られ、ぢきに焦(こ)げてしまふ嫌(きら)ひがあるので、後(のち)には銅(どう)とか鉄(てつ)とかで造(つく)ることにしました。さてこの方法(ほうほう)で、肉(にく)の片側(かたがは)がやけると、こんどは串(くし)を裏返(うらがへ)しにして、他(た)の片側(かたがは)をやくといふ風(ふう)にしたのが、今日(こんにち)の焙(あぶ)り器(き)や焼(や)き網(あみ)の基(もと)になったのです。
 食物(しよくもつ)を煮(に)ることは、焙(あぶ)つたり、焼(や)いたりすることよりも後(のち)に起(おこ)つたのです。昔(むかし)の煮方(にかた)はすこぶる不思議(ふしぎ)な、面倒(めんどう)な手続(てつゞ)きがいつたので、先(ま)づ地上(ちじよう)に穴(あな)を穿(うが)ち、それに水(みづ)を張(は)つて、其中(そのなか)へ予(あらかじ)め火(ひ)で焼(や)いた石(いし)を、いくつも/\引(ひ)き換(か)へ取(と)り換(か)へて、投(な)げ入(い)れると、水(みづ)はおのづと沸(わ)き立(た)つて湯(ゆ)になります。湯(ゆ)の中(なか)へ魚肉(ぎよにく)、鳥肉(とりにく)、獣肉(じゆうにく)を入(い)れると、ひとりでに煮(に)えます。なぜこんな面倒(めんどう)なことをしたかといふと、昔(むかし)は陶器(とうき)も金属器(きんぞくき)もないから、水(みづ)を火(ひ)で煮(に)ることが出来(でき)なかつたからです。土器(どき)の発明(はつめい)はずつと後(のち)のことです。今日(こんにち)でも樺太(からふと)のギリヤーク人(じん)は、白樺(しらかば)の皮(かは)で造(つく)つた鍋(なべ)の中(なか)に水(みづ)を入(い)れ、それへ焼(や)け石(いし)をはふりこんで湯(ゆ)を沸(わ)かしてゐます。
 かうした原始的(げんしてき)な暖房法(だんぼうほう)と料理法(りようりほう)とは、長(なが)い間(あひだ)──数千年(すうせんねん)の間(あひだ)に亘(わた)つて襲用(しゆうよう)され、旧石器時代(きゆうせつきじだい)、新石器時代(しんせつきじだい)から金属時代(きんぞくじだい)にはひつても、便利(べんり)なものが発明(はつめい)せられなかつたが、ギリシヤの家屋(かおく)には、必要(ひつよう)に応(おう)じていつでも暖(あたゝ)められる仕掛(しか)けをした部屋(へや)があつて、その部屋(へや)は焚(た)き火(び)の煙(けむり)と煤(すゝ)とで真黒(まつくろ)になつてゐたので、『黒部屋(くろべや)』といふ名(な)が出来(でき)ました。
 今(いま)から百年(ひやくねん)ぐらゐ前(まへ)までは、ヨーロツパでさへろくな暖炉(だんろ)がなく、不思議(ふしぎ)の方法(ほうほう)で人々(ひと/゛\)は暖(だん)を取(と)つてゐました。その頃(ころ)の旅行記(りよこうき)を見(み)ると、次(つ)ぎのような記事(きじ)が見出(みいだ)されます。
 「ノルマンヂイの寒(さむ)さは厳(きび)しく、おまけに燃料(ねんりよう)が高(たか)いので、あるれーすの職人(しよくにん)は、一方(いつぽう)体温(たいおん)を保(たも)ち、他方(たほう)薪代(まきだい)を節約(せつやく)するために、冬季(とうき)の三箇月間(さんかげつかん)は家畜(かちく)部屋(べや)で為事(しごと)をすることにきめて、沢山(たくさん)牝牛(めうし)を飼(か)つてゐる農民(のうみん)と約束(やくそく)して、その人(ひと)の牛小屋(うしごや)を借(か)りることにしました。何頭(なんとう)も/\の牝牛(めうし)が、長(なが)い列(れつ)を作(つく)つて繋(つな)がれてゐる部屋(へや)の隅(すみ)で、れーす編(あ)みの職人(しよくにん)は足(あし)を藁(わら)に包(つゝ)んで、地上(ちじよう)に坐(すわ)つて為事(しごと)をしました」
 これは家畜(かちく)の体(からだ)から発散(はつさん)する熱(ねつ)で、自分(じぶん)の体温(たいおん)を保(たも)つたのですから、家畜(かちく)をすとーぶの代(かは)りにしたわけですが、そんな原始的(げんしてき)なストーブが、百年(ひやくねん)ばかり前(まへ)にフランスの一部(いちぶ)で行(おこな)はれてゐたとは、驚(おどろ)くべきことではありませんか。
 一体(いつたい)、地中海沿岸(ちちゆうかいえんがん)は気候(きこう)が温和(おんわ)で、冬(ふゆ)でもさう寒(さむ)くありませんから、そこではすと一ぶなどが発明(はつめい)されそうにもないが、事実(じじつ)はそれに反(はん)して、文明(ぶんめい)の母(はゝ)といはれるギリシヤで、今日(こんにち)のすとーぶの基(もと)になつた火鉢(ひばち)が発明(はつめい)されました。火鉢(ひばち)は必要(ひつよう)に応(おう)じて、どの部屋(へや)へでも持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)るので、はなはだ便利(べんり)ではありますが、木炭(もくたん)から発散(はつさん)するがすが臭(くさ)くて、不快(ふかい)であるばかりでなく、有毒(ゆうどく)でもあるので、美(び)にあこがれるギリシヤ人(じん)は我慢(がまん)が出来(でき)ず、香(こう)をたいてわづかに悪臭(あくしゆう)を消(け)してゐました。この火鉢(ひばち)は今日(こんにち)でもまだ廃(すた)れず、イスパニヤや日本(につぽん)では、冬(ふゆ)になるとそここゝで用(もち)ひられてゐます。
 ギリシヤでは火鉢(ひばち)でも冬(ふゆ)が凌(しの)げたけれど、ローマでは不十分(ふじゆうぶん)だつたから、初(はじ)めは火鉢(ひばち)(第九図)も使(つか)ひましたけれど、後(のち)にはいろ/\と工夫(くふう)して暖房法(だんぼうほう)──即(すなはち)、部屋(へや)を暖(あたゝ)める方法(ほうほう)を考(かんが)へ出(だ)しました。それはおんどるの一種(いつしゆ)で、ある部屋(へや)に焚(た)き火場(びば)を造(つく)り円筒(えんとう)でその熱(ねつ)と煙(けむり)を外(ほか)の部屋(へや)に送(おく)つて、室内(しつない)を暖(あたゝ)める装置(そうち)でした。もちろん煙(けむ)いことは煙(けむ)いが、一度(いちど)、薪(まき)が燃(も)え切(き)つてしまふと、をきから発(はつ)せられる熱(ねつ)だけが送(おく)られるから、以前(いぜん)の暖房法(だんぼうほう)よりはずつと都合(つごう)がよくなりました(第十図)。あの有名(ゆうめい)なローマの公共浴場(こうきようよくじよう)なども、このおんどるで暖(あたゝ)められてゐたのです。今日(こんにち)でも朝鮮(ちようせん)や満州(まんしゆう)へまゐりますと、一種(いつしゆ)の改良(かいりよう)おんどる──床(ゆか)の下(した)から部屋(へや)を暖(あたゝ)めるものが用(もち)ひられて、厳寒(げんかん)の時(とき)でも室内(しつない)にをれば、寒(さむ)さを感(かん)ずることはありません。
 ローマ人(じん)は暖炉(だんろ)を改良(かいりよう)したのみならず、料理用(りようりよう)の竈(かまど)を改良(かいりよう)して、うまい食物(しよくもつ)を調理(ちようり)することが出来(でき)るようにしました。ローマ帝政時代(ていせいじだい)と申(まを)せば、ざつと今(いま)から二千年(にせんねん)ぐらゐ前(まへ)のことですが、その頃(ころ)はローマの全盛(ぜんせい)時代(じだい)で、富豪(ふごう)の邸宅(ていたく)には多(おほ)くの熟練(じゆくれん)な料理人(りようりにん)が雇(やと)はれてゐて、めい/\腕(うで)によりをかけて、主人(しゆじん)の気(き)に入(い)るような食物(しよくもつ)を料理(りようり)しました。
 本来(ほんらい)、ローマ人(じん)は質素(しつそ)、剛健(ごうけん)の民衆(みんしゆう)であつたが、文化(ぶんか)が進(すゝ)むにつれてだん/\と奢侈(しやし)、柔弱(にゆうじやく)となり、衣食住(いしよくじゆう)といふような物質上(ぶつしつじよう)の欲望(よくぼう)を満足(まんぞく)させることを、人間(にんげん)の第一義(だいいちぎ)と心得(こゝろえ)るほどに変(かは)りはてました。ことに食(く)ひ道楽(どうらく)はローマ人(じん)の特色(とくしよく)で、上流社会(じようりゆうしやかい)のある紳士(しんし)は、長(なが)い間(あひだ)、食物(しよくもつ)の美味(びみ)をたのしまうために、人間(にんげん)の頸(くび)が鶴(つる)のように長(なが)ければよいなどゝ申(まを)しました。
 かうした食(く)ひ道楽(どうらく)が発達(はつたつ)したので、自然(しぜん)と料理(りようり)も発達(はつたつ)して、天才的(てんさいてき)の料理人(りようりにん)が多数(たすう)にあらはれました。ある日(ひ)、国王(こくおう)が季節外(きせつはづ)れの魚(さかな)の料理(りようり)を命(めい)じたら、料理人(りようりにん)は当惑(とうわく)すると思(おも)ひの外(ほか)、黙(だま)つて引(ひ)き退(さが)つて、大蕪菁(おほかぶら)をその魚(さかな)の形(かたち)に切(き)り、それを油(あぶら)で揚(あ)げて一種(いつしゆ)特別(とくべつ)の味(あぢ)をもたせ、「これはすこぶる美味(びみ)の魚肉(ぎよにく)です」といつて、国王(こくおう)にその野菜料理(やさいりようり)を差(さ)し出(だ)したといふ話(はなし)があります。かうした高等(こうとう)な料理(りようり)は、原始的(げんしてき)な竈(かまど)では出来(でき)ないから、ローマ人(じん)はきつと立派(りつぱ)な料理用(りようりよう)の竈(かまど)を工夫(くふう)してゐたに相違(そうい)ありません。
 西暦(せいれき)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)に、立派(りつぱ)なローマの都(みやこ)は北方(ほつぽう)の蛮人(ばんじん)に攻(せ)め落(おと)されて、ローマ式(しき)の料理法(りようりほう)と料理用(りようりよう)の竈(かまど)とは、永久(えいきゆう)にこの世界(せかい)から失(うしな)はれることになりました。北国(ほつこく)の蛮人(ばんじん)には、美味(びみ)な料理(りようり)を味(あぢ)わひ、立派(りつぱ)な竈(かまど)を用(もち)ひるほどの余裕(よゆう)がありませんでした。これがために、ローマ滅亡(めつぼう)の後(のち)数百年間(すうひやくねんかん)、ヨーロツパでは、床(ゆか)で火(ひ)を焚(た)き、屋根(やね)の孔(あな)から煙(けむり)を排除(はいじよ)する旧式(きゆうしき)なすとーぶが用(もち)ひられてゐました。
 ところが十一世紀(じゆういつせいき)になつて、イギリスで暖炉(だんろ)に一大改良(いちだいかいりよう)が加(くわ)へられました。と、いふのは、一千六十六年(いつせんろくじゆうろくねん)の頃(ころ)、戦闘(せんとう)は多(おほ)く城砦(じようさい)の屋根(やね)の上(うへ)で交(まじ)へられたが、屋上(おくじよう)の中央(ちゆうおう)の孔(あな)から噴(ふ)き出(だ)す煙(けむり)が兵士(へいし)をくるしめることがわかつたので、焚(た)き火場(びば)を床(ゆか)の中央(ちゆうおう)から側壁(そくへき)に近(ちか)いところに移(うつ)し、火(ひ)の上(うへ)に孔(あな)の口(くち)を開(ひら)いて、煙(けむり)が悉(ことごと)くそこから抜(ぬ)けて出(で)るようの設備(せつび)をした。これが煙突(えんとつ)の基(もと)になつたのです。
 この排煙法(はいえんほう)は、火(ひ)の上(うへ)に笠(かさ)を設(まう)けて、煙(けむり)をいつたんそこに集(あつ)め、そこから更(さら)に排煙口(はいえんこう)へ導(みちび)いてゆくといふ意匠(いしよう)で、排煙口(はいえんこう)の長(なが)さは僅(わづか)に二三めーとるしかなかつたが、長(なが)ければ長(なが)いだけよいことがわかつたので、孔(あな)を斜(なゝめ)に壁(かべ)に穿(うが)つて壁(かべ)の外(そと)へ口(くち)を開(あ)けるようにしました(第十一図)。次(つ)ぎには、焚(た)き口(ぐち)を壁(かべ)の中(なか)に造(つく)り、そこからすぐ煙突(えんとつ)が屋外(おくがい)に通(つう)ずるようの意匠(いしよう)が施(ほどこ)され、十四世紀(じゆうしせいき)の中頃(なかごろ)からは一般(いつぱん)にこの法(ほう)を採用(さいよう)して、室内(しつない)は熱(ねつ)のみを受(う)けて、煙(けむり)に苦(くるし)められることがなくなりました。十五世紀(じゆうごせいき)の末(すゑ)には、ヨーロツパでは全部(ぜんぶ)この式(しき)の煙突(えんとつ)を造(つく)るようになつたが、日本(につぽん)などでは今日(こんにち)も尚(な)ほ昔(むかし)の通(とほ)り、屋根(やね)の上(うへ)に孔(あな)を穿(うが)つた天窓(てんまど)から煙(けむり)を吐(は)いてゐる家(いへ)が田舎(ゐなか)へゆくと度々(たび/\)見(み)られます。
 改良(かいりよう)すとーぶはなるほど結構(けつこう)には相違(そうい)ないが、位置(いち)が固定(こてい)してゐて動(うご)かないから、傍(そば)へ行(い)けば暖(あたゝ)かいが、遠方(えんぽう)にゐると一向(いつこう)暖(あたゝ)かくない。どうかして部屋中(へやじゆう)を同(おな)じ度合(どあひ)に暖(あたゝ)める法(ほう)はないものかと、いろ/\工夫(くふう)した末(すゑ)、十五世紀(じゆうごせいき)の終(をは)りに出来(でき)たのが、現在(げんざい)のすとーぶの前身(ぜんしん)であります。それは一種(いつしゆ)の焜炉(こんろ)(第十二図)で、昔(むかし)の火鉢(ひばち)と今日(こんにち)のすとーぶとの間(あひだ)に位(くらゐ)する中間物(ちゆうかんぶつ)で、空気(くうき)の流通(りゆうつう)をよくするため、底部(ていぶ)に数個(すうこ)の孔(あな)を穿(うが)ち、上部(じようぶ)に料理用(りようりよう)の器具(きぐ)を載(の)せる仕掛(しか)けになつてゐたが、排煙用(はいえんよう)の煙突(えんとつ)がないから衛生上(えいせいじよう)よくないとあつて、二百年(にひやくねん)ほど前(まへ)に、フランスのサヴオーといふ人(ひと)が改良(かいりよう)を加(くは)へて新形(しんがた)すとーぶを造(つく)りました。
 以上(いじよう)の話(はなし)で皆(みな)さんは、イギリス人(じん)が煙突(えんとつ)を発明(はつめい)し、フランス人(じん)がすとーぶを発明(はつめい)したことがおわかりになつたでせうが、フランス人(じん)はイギリス人(じん)の発明(はつめい)を取(と)り入(い)れて、鉄製(てつせい)の焜炉(こんろ)の底(そこ)に空気孔(くうきあな)を穿(うが)ち、それに鉄管製(てつかんせい)の煙突(えんとつ)を附(つ)け加(くは)へたものを造(つく)り出(だ)しました。これが即(すなはち)、現行(げんこう)のすとーぶの元祖(がんそ)で、部屋中(へやじゆう)どこへでも持(も)つてゆけるので、至極(しごく)便利(べんり)だといつて賞用(しようよう)されました。
 しかし、どんな発明(はつめい)でも初(はじ)めは欠点(けつてん)だらけです。このすとーぶの発明者(はつめいしや)は苦心(くしん)して改良(かいりよう)を施(ほどこ)し、暖房(だんぼう)料理(りようり)兼用(けんよう)の上等品(じようとうひん)を造(つく)り出(だ)さうと工夫(くふう)したが、十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)になつて現在(げんざい)のような完全(かんぜん)なすとーぶが発明(はつめい)されたのです。完全(かんぜん)は完全(かんぜん)でも、このすとーぶでは一室(いつしつ)しか暖(あたゝ)められないから、十二(じゆうに)の部屋(へや)をもつた家(いへ)では、十二(じゆうに)のすとーぶを備(そな)へつけなければならない。それでは不便(ふべん)だといふので、ざつと百年(ひやくねん)ほど前(まへ)に、一(ひと)つのすとーぶで数室(すうしつ)を暖(あたゝ)める装置(そうち)が発明(はつめい)されました。それが即(すなはち)、送熱暖炉(そうねつだんろ)であります。
 送熱暖炉(そうねつだんろ)(第十三図)は一室(いつしつ)に大(おほ)きなすとーぶを据(す)ゑつけ、それから円管(えんかん)で各室(かくしつ)へ熱(ねつ)を送(おく)るようにしたものですから、ローマのものと同(おな)じ理窟(りくつ)ではありますが、ローマのは、熱(ねつ)と煙(けむり)とを一所(いつしよ)に送(おく)り、これは熱(ねつ)だけを送(おく)つて煙(けむり)は別(べつ)に排除(はいじよ)する仕掛(しか)けですから、一段(いちだん)の進歩(しんぽ)と申(まを)さなければなりません。
 かうした風(ふう)に、初(はじ)めは熱風(ねつぷう)のみを送(おく)つてゐたのですが、今日(こんにち)では金属製(きんぞくせい)のちゆーぶ──即(すなはち)、管(くだ)を各室(かくしつ)に導(みちび)いて、それに蒸汽(じようき)或(ある)ひは熱湯(ねつとう)を送(おく)り、いくつ部屋(へや)があつても悉(ことごと)くそれを暖(あたゝ)めることが出来(でき)るようになりました。しかし、それは大袈裟(おほげさ)な仕掛(しか)けで、費用(ひよう)も沢山(たくさん)にいりますから、もつと軽便(けいべん)な工夫(くふう)が必要(ひつよう)だといふので、瓦斯(がす)すとーぶ、電気(でんき)すとーぶなどが用(もち)ひられることになり、日本(につぽん)でもひーたー(暖房装置(だんぼうそうち))といふ外国語(がいこくご)が取(と)り入(い)れられて一般(いつぱん)に用(もち)ひられてゐるまでに進歩(しんぽ)しました。今日(こんにち)ではまだ十分(じゆうぶん)広(ひろ)がつてゐないが、火(ひ)を焚(た)いたり、蒸汽(じようき)を造(つく)つたりする面倒(めんどう)のない電気(でんき)すとーぶが、おひ/\と一般(いつぱん)に用(もち)ひられることになるでせう。問題(もんだい)はどうしたら安価(あんか)に電気(でんき)が供給(きようきゆう)出来(でき)るかといふことだけです。

三、らんぷ

 暖房用(だんぼうよう)、料理用(りようりよう)に火(ひ)が利用(りよう)せられて、人間(にんげん)の生活(せいかつ)の向上(こうじよう)を助(たす)けたことは前(まへ)に述(の)べたが、こんどはそれが照明用(しようめいよう)、即(すなはち)、燈(ともしび)としてどう使用(しよう)されて来(き)たかを述(の)べてみたい。禽獣(きんじゆう)は大抵(たいてい)日(ひ)が暮(く)れると寝(ね)るが、人間(にんげん)は夜業(やぎよう)をしたり、旅行(りよこう)をしたり、娯楽(ごらく)に耽(ふけ)つたり、修養(しゆうよう)を励(はげ)んだりして、夜間(やかん)の一時(ひととき)をだにむだには過(す)ごすまいとします。この寝(ね)ることの早(はや)いと晩(おそ)いとが、獣類(じゆうるい)と人類(じんるい)とを区別(くべつ)する境界(きようかい)の一(ひと)つであることは、いふまでもありません。
 月(つき)も輝(かゞや)き、星(ほし)もひらめきますが、それではこまかいものは見(み)られません。北極圏(ほつきよくけん)へゆくとおーろらが夜(よる)の世界(せかい)を照(て)らしてゐますが、これもなんの役(やく)にも立(た)ちません。そこで人間(にんげん)は、色々(いろ/\)の手段(しゆだん)を講(こう)じて照明法(しようめいほう)──闇(やみ)を照(て)らす方法(ほうほう)を考(かんが)へました。
 昔(むかし)、支那(しな)に車胤(しやいん)といふ人(ひと)があつて、勉強(べんきよう)したくても、家(いへ)が貧(まづ)しくて燈油(とうゆ)が買(か)へないから、野川(のがは)から沢山(たくさん)の蛍(ほたる)を集(あつ)めて来(き)て、それの光(ひかり)で書物(しよもつ)を読(よ)んだと申(まを)します。また窓際(まどぎは)へどつさり雪(ゆき)を積(つ)んで、その照(て)り返(かへ)しで学問(がくもん)をしたといふ話(はなし)もあります。おそらく大昔(おほむかし)には、蛍(ほたる)の光(ひかり)を燈火(とうか)に代用(だいよう)したことがあつたでせう。さうした場合(ばあひ)には、こゝあの殻(から)とか、瓢箪(ひようたん)とかへ無数(むすう)の孔(あな)を穿(うが)ち、その中(なか)へ蛍(ほたる)を入(い)れて、孔(あな)から光(ひかり)が洩(も)れて来(く)るようにしたことゝ想像(そうぞう)されます。ある人(ひと)の旅行記(りよこうき)を見(み)ると、「チジユカ山脈(さんみやく)を越(こ)える時(とき)、普通(ふつう)のがらす製こつぷの中(なか)へ入れた蛍(ほたる)(第十四図)の光(ひかり)で、小(ちひ)さいスヰツツアランド製(せい)懐中時計(かいちゆうどけい)のせこんど針(はり)が見(み)え、それがために正確(せいかく)な夜(よる)の時間(じかん)を知(し)ることが出来(でき)た」と書(か)いてあります。しかし蛍(ほたる)の火(ひ)は夏(なつ)だけのもので、他(た)の季節(きせつ)にはどうすることも出来(でき)ません。
 多分(たぶん)、大昔(おほむかし)の人間(にんげん)は、その住(す)んでゐた洞穴(ほらあな)の中(なか)、或(あるひ)は小屋(こや)の中(なか)で、よく燃(も)える丸太(まるた)に火(ひ)をつけて、夜通(よどほ)し燃(も)やしつゞけたことでせう。それが松明(たいまつ)の初(はじ)めです。しかし、これは持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)ないから、脂肪(しぼう)の多(おほ)い材木(ざいもく)を長(なが)く、薄(うす)く割(さ)いて束(つか)ね、それの一端(いつたん)に点火(てんか)して他端(たたん)を手(て)で持(も)つことにしました。これならば必要(ひつよう)に応(おう)じて、どこへでも持(も)つてゆくことが出来(でき)ます(第十五図)。次(つ)ぎにはその脂肪質(しぼうしつ)の木(き)の薄片(はくへん)を葉(は)でくるむようにしたが、すると、時間(じかん)が長(なが)く保(たも)つて、剰(あまつさ)へ光明(こうみよう)が強(つよ)いので、すぐその方法(ほうほう)がひろがりました。これは燈心(とうしん)は外側(そとがは)にあり、燈心(とうしん)の燃焼(ねんしよう)を助(たす)ける蝋(ろう)が内側(うちがは)にある蝋燭(ろうそく)のようなものです。次(つ)ぎに木片(もくへん)其他(そのた)燃(も)える物(もの)の外部(がいぶ)に油(あぶら)を塗(ぬ)つた方(ほう)がよく燃(も)えることが発見(はつけん)せられたので、心(しん)を内側(うちがは)に入(い)れ、その燃焼(ねんしよう)を助(たす)けるものを外側(そとがは)に置(お)くことにしました。即(すなはち)、脂肪(しぼう)を塗(ぬ)つた縄(なは)または木片(もくへん)を束(つか)ねて松明(たいまつ)を造(つく)ることにいたしました。
 この原始的(げんしてき)な蝋燭(ろうそく)は、大昔(おほむかし)に発明(はつめい)されたまゝ少(すこ)しも進歩(しんぽ)せず、数千年(すうせんねん)の間(あひだ)世界(せかい)の各地(かくち)で用(もち)ひられてゐたのです。ところがヨーロツパの暗黒時代(あんこくじだい)──といつて、火(ひ)が悉(ことごと)く消(き)えたわけではなく、火(ひ)が消(き)えたように思想(しそう)、精神(せいしん)の暗(くら)かつた時代(じだい)に、松明(たいまつ)造(つく)りは真中(まんなか)の棒(ぼう)を亜麻(あま)または大麻(あさ)で包(つゝ)み、そのぐるりへ蝋(ろう)または油(あぶら)を厚(あつ)く塗(ぬ)りつけたので、前(まへ)よりは一(いつ)そう明(あか)るくなりました。然(しか)るに紀元(きげん)九百年(くひやくねん)の頃(ころ)、即(すなはち)、アルフレツド大王(だいおう)の時代(じだい)に、更(さら)に改良(かいりよう)を加(くは)へて、心(しん)になる棒(ぼう)の代(かは)りに木綿糸(もめんいと)を撚(よ)つたものを用(もち)ひ、それへぢかに蝋(ろう)か脂(あぶら)かを塗(ぬ)りつけたので、初(はじ)めの姿(すがた)は全(まつた)く失(うしな)はれて、いよ/\本物(ほんもの)の蝋燭(ろうそく)が現(あら)はれました(第十六図)。即(すなはち)、松明(たいまつ)は蝋燭(ろうそく)の先駆(せんく)となつたが、外(ほか)にまたらんぷの基(もと)となつたことも忘(わす)れてはなりません。
 動物(どうぶつ)の溶(と)けた脂肪(しぼう)がよく燃(も)えることは、大昔(おほむかし)の人間(にんげん)が早(はや)く発見(はつけん)したことですが、この発見(はつけん)が油燈(ゆとう)の起原(きげん)になつたのです。堅果(けんか)の殻(から)とか、石(いし)とか、巻(ま)き貝(がひ)とか動物(どうぶつ)の頭蓋骨(ずがいこつ)とか、凹(くぼ)みのあるものへ脂肪(しぼう)、油(あぶら)などの溶(と)かしたのを入(い)れ、その中(なか)に亜麻(あま)其他(そのた)の繊維質(せんいしつ)のものを燈心(とうしん)として浸(ひた)し、その一端(いつたん)を皿(さら)の外(そと)へ出(だ)して置(お)くと、毛細管作用(もうさいかんさよう)で油(あぶら)が燈心(とうしん)に浸(し)み込(こ)みますから、そこへ火(ひ)をつければ皿(さら)の中(なか)に油(あぶら)のある間(あひだ)は燃(も)え続(つゞ)きます(第十七図)。これがらんぷの基(もと)になつたので、人智(じんち)が発達(はつたつ)するにつれて、果殻(かこく)や石(いし)や頭蓋骨(ずがいこつ)をやめて、土製(どせい)の小皿(こざら)或(ある)ひは椀(わん)を用(もち)ひ、その縁(ふち)に小溝(こみぞ)もしくは口(くち)をつけて、そこに燈心(とうしん)を置(お)くことにしました。
 古代(こだい)ギリシヤやローマのらんぷは、中央(ちゆうおう)に貯油池(ちよゆうち)があつて、そこから周囲(しゆうい)のらんぷへ小孔(こあな)を経(へ)て油(あぶら)が流(なが)れ出(で)るように造(つく)られてゐました。らんぷの数(すう)によつて、その孔(あな)は多(おほ)いこともあり、少(すくな)いこともあり、一定(いつてい)してはゐませんが、孔(あな)が多(おほ)いほどらんぷの数(かず)が多(おほ)く、らんぷが多(おほ)いほど光(ひかり)の強(つよ)いことは申(まを)すまでもありません。イタリヤのコルトナ博物館(はくぶつかん)には、古代(こだい)のらんぷが所蔵(しよぞう)されてゐますが、それには十六箇(じゆうろつこ)の孔(あな)があけてあります。このらんぷは今(いま)から二千五百年前(にせんごひやくねんまへ)、エトルリヤの寺院(じいん)で使用(しよう)されてゐたものです(第十八図)。
 かうしたらんぷ(第十九図)は中世(ちゆうせい)を経(へ)て、近世(きんせい)まで用(もち)ひ続(つゞ)けられたが、値段(ねだん)も高(たか)く、光(ひかり)も薄(うす)く、おまけに一種(いつしゆ)不快(ふかい)の臭気(しゆうき)を発散(はつさん)して、壁(かべ)も家具(かぐ)も悉(ことごと)く煤(すゝ)で真黒(まつくろ)になつたから、蝋燭(ろうそく)の方(ほう)がましだといつて、小蝋燭(ころうそく)の発明(はつめい)された十三世紀(じゆうさんせいき)以後(いご)に於(お)いては、それを買(か)ふ余裕(よゆう)のある家(いへ)では、もはやらんぷを用(もち)ひないようになりました。
 然(しか)るに十八世紀(じゆうはつせいき)の末(すゑ)、即(すなはち)、千七百八十三年(せんしちひやくはちじゆうさんねん)に、ロンドンに住(す)んでゐたスヰツツアランドの医師(いし)アーガンドが、優等(ゆうとう)ならんぷ(第二十図)を発明(はつめい)しました。
 今日(こんにち)ではほとんど全(まつた)く廃(すた)れたが、ついこの間(あひだ)まであつた石油(せきゆ)らんぷを見(み)ると、風(かぜ)を防(ふせ)ぐためにほやがついてゐるが、このほやは他面(ためん)に於(お)いて空気(くうき)の流通(りゆうつう)をも助(たす)けるので、極(きは)めて大切(たいせつ)なものであります。アーガンドの発明(はつめい)したらんぷにはほやが附(つ)いてゐたのみならず、口金(くちがね)の下部(かぶ)には心(しん)へ空気(くうき)の通(かよ)ふように孔(あな)が明(あ)けてありました。アーガンド以前(いぜん)のらんぶでは、心(しん)に空気(くうき)が通(かよ)はなかつたので、十分(じゆうぶん)完全(かんぜん)に燃(も)えなかつたが、口金(くちがね)に孔(あな)を明(あ)けたり、ほやを立(た)てたりしたゝめに、心(しん)が完全(かんぜん)に燃(も)えて白熱光(はくねつこう)を発(はつ)するようになりました。らんぷの心(しん)が薄平(うすひら)たかつたり、円(えん)を描(えが)いたりしてゐるのは心(しん)に十分(じゆうぶん)空気(くうき)を通(かよ)はせるためで、もし心(しん)が厚(あつ)かつたら完全燃焼(かんぜんねんしよう)が出来(でき)ず、従(したが)つて油煙(ゆえん)が立(た)つに相違(そうい)ありません。
 アーガンドが新式(しんしき)らんぷを発明(はつめい)してからの進歩(しんぽ)は恐(おそ)ろしいもので、それ以前(いぜん)の二千年間(にせんねんかん)よりも、千七百八十三年(せんしちひやくはちじゆうさんねん)以後(いご)二十年間(にじゆうねんかん)の発達(はつたつ)の方(ほう)が著(いちじ)るしかつた。コロムブスの卵(たまご)のたとへの如(ごと)く、発明発見(はつめいはつけん)のむづかしいのは第一着手(だいいつちやくしゆ)で、誰(だれ)かちよつと手(て)を着(つ)ければ、われも/\と争(あらそ)うて心(こゝろ)をそれに向(む)けて、改良(かいりよう)を行(おこな)ふことが出来(でき)るのです。アーガンドの発見(はつけん)以後(いご)、新式(しんしき)の油壺(あぶらつぼ)、精良(せいりよう)の油(あぶら)、上等(じようとう)の心(しん)など、だんだんよいものが工夫(くふう)されたが、一(ひと)つとしてアーガンド式(しき)でないものはありませんでした。この点(てん)に於(お)いて、アーガンドはらんぷ発明者(はつめいしや)の名誉(めいよ)を担(にな)ふことが出来(でき)ます。
 スコツトランドの発明家(はつめいか)ヰリヤム・マードツクといふ人(ひと)が、別種(べつしゆ)の照明法(しようめいほう)を発見(はつけん)して、らんぷに代(かは)らしめたのは、近頃(ちかごろ)の一大貢献(いちだいこうけん)といつてよろしい。元来(がんらい)、油(あぶら)や炭(すみ)が熱(ねつ)せられると、明(あか)るい焔(ほのほ)を立(た)てゝ燃(も)えますが、それは油(あぶら)や炭(すみ)その物(もの)が燃(も)えるのではなくて、それから起(おこ)る蒸発体(じようはつたい)、即(すなはち)、がすが発生(はつせい)して燃(も)えるのだといふことが、久(ひさ)しい以前(いぜん)から注意深(ちゆういぶか)い人々(ひと/゛\)の間(あひだ)には知(し)れてゐました。らんぷでいへば、糸心(いとしん)が燃(も)えるのではなくて、糸心(いとしん)を伝(つた)はつて上(のぼ)つて来(く)る油(あぶら)が熱(ねつ)せられてがすを発生(はつせい)し、それが燃(も)えて焔(ほのほ)を上(あ)げてゐるのであります。
 一千七百九十七年(いつせんしちひやくくじゆうしちねん)、マードツクはこの原理(げんり)を応用(おうよう)して、大(おほ)きい釜(かま)の中(なか)で石炭(せきたん)をくすべ、それから発散(はつさん)するがすを円管(えんかん)の中(なか)に導(みちび)き、他(た)の家(いへ)の部屋々々(へや/゛\)に送(おく)つて、必要(ひつよう)があればその管(かん)の一端(いつたん)を開(ひら)いてがすを出(だ)し、それに点火(てんか)することを工夫(くふう)しました(第二十一図)。即(すなはち)、心(しん)なしのらんぷが出来(でき)たのです。マードツクはかうした方法(ほうほう)で、がす管(かん)を自分(じぶん)の工場(こうば)にも延長(えんちよう)し、そこにがす燈(とう)を点(てん)じて人々(ひと/゛\)をあつといはせました。
 おひ/\とがすを安価(あんか)に供給(きようきゆう)する手段(しゆだん)が講(こう)ぜられると、各家(かくか)では競(きそ)うてがす(ヽヽ)管(かん)を引(ひ)き、またゝく間(あひだ)に全市(ぜんし)はこの新燈明(しんとうみよう)で夜(よ)を飾(かざ)りました。ロンドン市(し)の大部分(だいぶゞん)ががす燈(とう)をつけたのは、千八百十五年(せんはつぴやくじゆうごねん)で、発明後(はつめいご)十八年(じゆうはちねん)です。米国(べいこく)では少(すこ)し後(おく)れて、千八百二十一年(せんはつぴやくにじゆういちねん)にがす燈(とう)が点(てん)ぜられ、蝶(ちよう)の翅(はね)のように美(うつく)しい光(ひかり)が闇(やみ)を焼(や)きました。
 かうした風(ふう)に、人々(ひと/゛\)が競(きそ)うてがす燈(とう)を用(もち)ひるようになると、長(なが)い間(あひだ)用(もち)ひられてゐた旧式(きゆうしき)の石油(せきゆ)らんぷが捨(す)てられました。
 然(しか)るに、千八百七十六年(せんはつぴやくしちじゆうろくねん)になつて、また照明界(しようめいかい)に一大革命(いちだいかくめい)が起(おこ)りました。革命(かくめい)といふのは電燈(でんとう)の発明(はつめい)です。最初(さいしよ)の電燈(でんとう)は、二本(にほん)のかーぼん線(せん)へ電流(でんりゆう)を通(つう)じた強力(きようりよく)のあーく・らいと(第二十二図)で、その光(ひかり)は百箇(ひやくこ)のがす燈(とう)、数百箇(すうひやくこ)の石油(せきゆ)らんぷに匹敵(ひつてき)したので、公園(こうえん)、街路(がいろ)など、広(ひろ)い場所(ばしよ)を照(てら)すのには極(きは)めて適当(てきとう)だが、強(つよ)い光線(こうせん)と瞬(またゝ)く焔(ほのほ)とは、屋内(おくない)を照(てら)すのには都合(つごう)がよくありませんでした。
 しかし、まもなく『発明王(はつめいおう)』といはれるエヂソンが屋内電燈(おくないでんとう)を発明(はつめい)し、到(いた)るところ、それをつけない家(いへ)がなくなりました。これが即(すなはち)、エヂソン式(しき)白熱燈(はくねつとう)です。
 以上(いじよう)説(と)いて来(き)たように、松明(たいまつ)、蝋燭(ろうそく)、らんぷ、がす燈(とう)、電燈(でんとう)といふ段階(だんかい)を経(へ)て、らんぷはおどろくべき発達(はつたつ)を見(み)ましたが、新発見毎(しんはつけんごと)に段々(だん/\)と安全(あんぜん)の度(ど)を加(くは)へ、光明(こうみよう)の度(ど)を増(ま)し、どんな煙(けむり)も煤(すゝ)も起(おこ)さないで、白昼(はくちゆう)を欺(あざむ)く照明(しようめい)を得(う)るようになつたのは、全(まつた)く進(すゝ)んで止(とゞ)まることを知(し)らない人間(にんげん)の知識(ちしき)のお陰(かげ)です。これから先(さ)きどんな発明(はつめい)が起(おこ)つて、電燈(でんとう)が何(なに)に変(かは)るかは今日(こんにち)ではわかりませんが、さうした日(ひ)の来(く)ることには疑(うたが)ひがありません。たゞ時日(じじつ)の問題(もんだい)だけであります。
 
四、鎔鉱炉(ようこうろ)

 火(ひ)を料理用(りようりよう)、照明用(しようめいよう)、暖房用(だんぼうよう)に供(きよう)した歴史(れきし)は既(すで)に話(はな)しましたから、こゝでは鎔鉱用(ようこうよう)にそれを使(つか)つたことをお話(はなし)しませう。
 初(はじ)め人間(にんげん)は金属(きんぞく)のあることを知(し)りませんでした。金属(きんぞく)が道具(どうぐ)に使(つか)はれ始(はじ)めたのは、ずつと後(のち)のことで、大昔(おほむかし)は木(き)の棒(ぼう)などを様々(さま/゛\)の用途(ようと)に使(つか)ひました。それ故(ゆゑ)に、その時代(じだい)を木器時代(もくきじだい)と申(まを)します。次(つ)ぎの時代(じだい)に来(き)て、人間(にんげん)は色々(いろ/\)の石(いし)で道具(どうぐ)を造(つく)つたから、それを石器時代(せつきじだい)と申(まを)しますが、石器(せつき)も初(はじ)めはたゞ石(いし)を打(う)ち欠(か)いたゞけであつたから打石器(だせつき)、或(ある)ひは旧石器時代(きゆうせつきじだい)と申(まを)し、次(つ)ぎに石(いし)を磨(みが)いた時代(じだい)を磨石器(ませつき)、或(ある)ひは新石器時代(しんせつきじだい)と申(まを)します。素焼(すや)きの土器(どき)の発明(はつめい)されたのは、新石器時代(しんせつきじだい)のことで、旧石器時代(きゆうせつきじだい)にはどんな土器(どき)も存在(そんざい)してゐなかつたのです。まして金属(きんぞく)で造(つく)つたものなどは、薬(くすり)にしたくても見(み)つかりませんでした。
 然(しか)るに新石器時代(しんせつきじだい)の末(すゑ)になつて、先(ま)づ黄金(おうごん)が発見(はつけん)されたが、これは純粋(じゆんすい)のもの、──即(すなはち)、砂金(さきん)が沙漠(さばく)の中(なか)などで拾(ひろ)ひ取(と)られ、質(しつ)が軟(やはらか)いからそのまゝ色々(いろ/\)の形(かたち)に造(つく)られて、装飾(そうしよく)などに用(もち)ひられました。次(つ)ぎには銅(どう)が発見(はつけん)され、鏃(やじり)、鉾(ほこ)、剣(つるぎ)、斧(おの)などに造(つく)られました。しかし銅(どう)は軟(やはらか)い金(かね)ですから、突(つ)いたり、切(き)つたりするのには適(てき)しません。やがて錫(すゞ)が発見(はつけん)せられて、それの少量(しようりよう)を銅(どう)に加(くは)へると、青銅(せいどう)といふ硬(かた)い合金(ごうきん)の出来(でき)ることを昔(むかし)の人(ひと)が発見(はつけん)して、しきりに銅錫合金(どうすゞごうきん)の道具(どうぐ)を造(つく)りました。銅(どう)も錫(すゞ)も自然(しぜん)の状態(じようたい)で発見(はつけん)され易(やす)かつたから、早(はや)く人間(にんげん)の注意(ちゆうい)を惹(ひ)いたのです。で、これらの時代(じだい)を順々(じゆん/\)に、銅時代(どうじだい)、青銅時代(せいどうじだい)と申(まを)します。
 鉄(てつ)の発見(はつけん)は遥(はる)か後(のち)のことで、青銅(せいどう)よりも二千年(にせんねん)ぐらゐ後(おく)れてゐます。それはなぜかといふと、鉄(てつ)は純粋(じゆんすい)なものが自然(しぜん)の状態(じようたい)で存在(そんざい)してゐないから容易(ようい)に古代人(こだいじん)の注意(ちゆうい)をひかなかつたのです。鉄鉱(てつこう)がなかつたといふわけではありません。今日(こんにち)、ちよつと私達(わたしたち)が山野(さんや)を跋渉(ばつしよう)して見(み)ても、到(いた)る処(ところ)に赤(あか)い粘土(ねんど)の土手(どて)、赤(あか)い煉瓦石(れんがいし)、赤(あか)く塗(ぬ)つた家(いへ)の壁(かべ)、さては少年(しようねん)の頬(ほゝ)の色(いろ)、婦人(ふじん)の頭(あたま)の赤(あか)いりぼん、すべて赤(あか)い物(もの)には鉄分(てつぶん)が存在(そんざい)してゐるのであつて、あの美(うつく)しい林檎(りんご)の赤色(せきしよく)さへ、それが鉄(てつ)を多量(たりよう)に包含(ほうがん)してゐることを示(しめ)してゐるのです。こんな風(ふう)に、鉄(てつ)はどこにもあるにはあつたが、大抵(たいてい)他(た)の物質(ぶつしつ)と混合(こんごう)してゐて、純粋(じゆんすい)な鉄(てつ)だけは発見(はつけん)されなかつたのです。
 自然鉄(しぜんてつ)は隕石(いんせき)に見(み)られるぐらゐのもので、それすら極(きは)めて少量(しようりよう)ですから、知識(ちしき)の乏(とぼ)しい古代(こだい)の人々(ひと/゛\)には、鉄(てつ)は容易(ようい)に見(み)つからなかつたが、山火事(やまかじ)で鉄鉱石(てつこうせき)がおのづと溶(と)けたり、小屋(こや)の失火(しつか)で鉄塊(てつかい)が出来(でき)たりした拍子(ひようし)に、鉄(てつ)の存在(そんざい)がふと知(し)られたと思(おも)はれます。一旦(いつたん)知(し)つて見(み)ると、鉄(てつ)の精錬(せいれん)はきはめてたやすいもので、たゞ鉱石(こうせき)を火(ひ)の中(なか)に投(な)げ入(い)れさへすれば火力(かりよく)が強(つよ)く、高温度(こうおんど)の熱(ねつ)が出(で)る場合(ばあひ)には、きつと火(ひ)の底(そこ)に鉄分(てつぶん)が小(ちひ)さい塊(かたまり)となつて滲(にじ)み出(で)て来(き)ます。初(はじ)めの製鉄(せいてつ)はかうして行(おこな)はれたのですが、その場所(ばしよ)や年代(ねんだい)ははつきりとわかりません。
 最初(さいしよ)の製鉄法(せいてつほう)は、たゞ木炭(もくたん)を堆(うづたか)く積(つ)み上(あ)げて、その上(うへ)へ鉄鉱石(てつこうせき)を載(の)せて鎔(と)かせたゞけのことゝ思(おも)はれます。木炭(もくたん)は鎔鉱(ようこう)には極(きは)めて都合(つごう)のよい燃料(ねんりよう)で、日本(につぽん)では出雲(いづも)あたりの砂鉄製煉(さてつせいれん)には、今日(こんにち)でも木炭(もくたん)を使(つか)つてゐます。しかし、この方法(ほうほう)で鎔鉱(ようこう)すると、燃料(ねんりよう)も沢山(たくさん)いり、時間(じかん)も長(なが)くかゝりますから、古代人(こだいじん)はいろ/\考(かんが)へた末(すゑ)、小山(こやま)の腹(はら)へ三(さん)めーとる乃至(ないし)四(し)めーとるの穴(あな)をあけ、その穴(あな)へ木炭(もくたん)をつめ込(こ)み、次(つ)いで鉄鉱石(てつこうせき)を投(な)げ入(い)れ、上(うへ)には一(ひと)つ口(くち)をあけ、底(そこ)には無数(むすう)の口(くち)をつけて、木炭(もくたん)に点火(てんか)しますると、鉱石(こうせき)が溶(と)けて下(した)の口(くち)から滲(にじ)み出(で)て塊鉄(かいてつ)といふ粗鉄(そてつ)が出来(でき)ます。この鎔鉱炉(ようこうろ)は風向(かざむ)き次第(しだい)で、ともすれば鉱石(こうせき)を溶解(ようかい)する力(ちから)を失(うしな)ひましたから、人工的(じんこうてき)に風(かぜ)を送(おく)つて火(ひ)を煽(あほ)ることが工夫(くふう)されました。その風(かぜ)を送(おく)る道具(どうぐ)が即(すなはち)、鞴(たゝら)(第二十三図)であります。
 鞴(たゝら)は普通(ふつう)野羊(のひつじ)の革(かは)を縫(ぬ)ひ合(あは)せて造(つく)つたもので、手(て)か足(あし)かを動力(どうりよく)としてゐた(第二十四図)が、ある場所(ばしよ)では穴(あな)の明(あ)けてある丸太(まるた)へ棒(ぼう)をさしこみ、それを上下(じようげ)させてぽんぷを動(うご)かすのもありました(第二十五図)。いづれにしても、この鞴(たゝら)が出来(でき)たために、風向(かざむ)きがどうあらうと、場所(ばしよ)がどこであらうと、そんなことはお構(かま)ひなく、いつでも鉄(てつ)を製煉(せいれん)することが出来(でき)るようになりました。これが製鉄型式(せいてつけいしき)の第一歩(だいいつぽ)であります。
 かうした風(ふう)に製鉄(せいてつ)が比較的(ひかくてき)容易(ようい)になると、青銅器時代(せいどうきじだい)が一躍(いちやく)して鉄器時代(てつきじだい)と変(かは)り、武具(ぶぐ)も日用道具(にちようどうぐ)もすべて鉄製(てつせい)になりました。青銅(せいどう)と鉄(てつ)とを比(くら)べますると、その鋭(するど)さは非常(ひじよう)な違(ちが)ひでありまして、たとへば一本(いつぽん)の木(き)を伐(き)るのにも、石斧(いしおの)ならば一箇月(いつかげつ)もかゝりますから、大(おほ)きな林(はやし)を開(ひら)くなどいふことは、夢(ゆめ)にも考(かんが)へつかれない空想(くうそう)でした。然(しか)るに鉄(てつ)が道具(どうぐ)に利用(りよう)せられ、小刀(こがたな)、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、斧(おの)などが思(おも)ふ通(とほ)りの形(かたち)に造(つく)られるようになると、木(き)はたやすくきり倒(たふ)すことが出来(でき)、またそれを細工(さいく)して、家(いへ)でも、道具(どうぐ)でも、武器(ぶき)でも、舟(ふね)でも、車(くるま)でも、自由(じゆう)に造(つく)ることが出来(でき)ました。
 段々(だん/\)人間(にんげん)の知識(ちしき)が進(すゝ)みますると、鉄(てつ)は金属(きんぞく)のうちでも最(もつとも)も大切(たいせつ)なものであることが知(し)られ、その需要(じゆよう)が甚(はなは)だしく多(おほ)くなつて来(き)ました。ところが原始的(げんしてき)な製鉄場(せいてつじよう)では一日(いちにち)の間(あひだ)鞴(たゝら)を動(うご)かしつゞけても、やつと十一(じゆういち)ぽんど乃至(ないし)十二(じゆうに)ぽんどの塊鉄(かいてつ)しか造(つく)ることが出来(でき)ません。そこで鉄(てつ)は益々(ます/\)尊重(そんちよう)せられて、ある国(くに)では金銀(きんぎん)同様(どうよう)に思(おも)はれてゐました。それだから、あちらでも、こちらでも製鉄場(せいてつじよう)が沢山(たくさん)建(た)てられたが、原料(げんりよう)の乏(とぼ)しいところでは発達(はつたつ)したくも出来(でき)るわけのものではありません。
 その原始的(げんしてき)な鎔鉱炉(ようこうろ)は、数世紀(すうせいき)の間(あひだ)どんな進歩(しんぽ)もしなかつたが、中世期(ちゆうせいき)の末頃(すゑごろ)になつていくらか改良(かいりよう)が施(ほどこ)されました。ちようど十六世紀(じゆうろくせいき)のなかばに、ドイツの製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)は非常(ひじよう)に大(おほ)きい、高(たか)さが六(ろく)めーとる乃至(ないし)九(く)めーとるもある鎔鉱炉(ようこうろ)を造(つく)り、鞴(たゝら)の動力(どうりよく)には水力(すいりよく)を用(もち)ひたが、場所(ばしよ)によつては太(ふと)い木製(もくせい)のぴすとんを有(ゆう)する木製鞴(もくせいたゝら)が、在来(ざいらい)の革製鞴(かはせいたゝら)の代(かは)りに用(もち)ひられました。これでさへも一大進歩(いちだいしんぽ)であるのに、十六世紀(じゆうろくせいき)の末(すゑ)には、ほとんど古代鞴(こだいたゝら)の面影(おもかげ)を止(とゞ)めぬほどの改良(かいりよう)が加(くは)へられて、鎔鉱炉(ようこうろ)は一大革命(いちだいかくめい)を見(み)ました。
 新発明(しんはつめい)の送風炉(そうふうろ)(第二十六図)で造(つく)られる鉄(てつ)は、粗鉄(そてつ)に比(ひ)して純精(じゆんせい)なもので、鋳鉄(ちゆうてつ)または銑鉄(せんてつ)といはれます。製産能力(せいさんのうりよく)から見(み)ますると、古代鞴(こだいたゝら)の一箇月(いつかげつ)の製産額(せいさんがく)が、新式送風炉(しんしきそうふうろ)では一日(いちにち)に造(つく)ることが出来(でき)るようになりました。発明早々(はつめいそう/\)の送風炉(そうふうろ)でさへ、一回(いつかい)に数千(すうせん)ぽんどの多量(たりよう)を鎔解(ようかい)し、一年間(いちねんかん)に百五十噸(ひやくごじつとん)を製鉄(せいてつ)したといふ記録(きろく)が残(のこ)つてゐます。
 しかし鉄(てつ)の需要(じゆよう)は日一日(ひいちにち)と増(ま)して、この炉(ろ)でさへ需要(じゆよう)を充(み)たすほどの供給(きようきゆう)をすることが出来(でき)ず、十七世紀(じゆうしちせいき)になつては常(つね)に鉄(てつ)の不足(ふそく)を訴(うつたへ)へてゐました。鉱石(こうせき)はかならずしも少(すくな)いわけではなかつたが、鎔(と)かす材料(ざいりよう)が不十分(ふじゆうぶん)であつたといはれます。
 その頃(ころ)でも燃料(ねんりよう)には木炭(もくたん)を用(もち)ひましたが、あまり消費量(しようひりよう)が多(おほ)いために、到(いた)るところの山林(さんりん)は濫伐(らんばつ)されて、どの山(やま)も/\みな禿山(はげやま)になつてしまひました。そこでイギリスの如(ごと)きは、十八世紀(じゆうはちせいき)の初(はじ)めに、国会(こつかい)で山林保護(さんりんほご)のために木材(もくざい)の伐採(ばつさい)を禁(きん)じたほどでした。木炭(もくたん)が得(え)られなければ、何(なに)か外(ほか)の新燃料(しんねんりよう)を探(さが)さなければなりません。千六百十九年(せんろつぴやくじゆうくねん)には、イギリスのウオーアヰツクで、ダツド・ダツドリイが軟石炭(なんせきたん)を使(つか)つて見(み)たが、これは不成功(ふせいこう)に帰(き)したので、其後(そのご)約一世紀(やくいつせいき)の間(あひだ)代用品(だいようひん)を物色(ぶつしよく)してゐましたが、干七百三十五年(せんしちひやくさんじゆうごねん)になつて、アブラハム・ダアビイといふ製鉄家(せいてつか)が、送風炉(そうふうろ)にこーくすを使用(しよう)して成功(せいこう)しました。
 かうして新燃料(しんねんりよう)が発見(はつけん)され、十八世紀(じゆうはちせいき)の末(すゑ)には、送風炉(そうふうろ)の燃料(ねんりよう)はこーくすに限(かぎ)るといふことになつたので、こんどは鎔鉱炉(ようこうろ)の改良(かいりよう)を企(くはだ)て、遂(つひ)に、ネイルソンといふイギリス人(じん)が熱風機(ねつぷうき)を発明(はつめい)しました。
 ネイルソン以前(いぜん)に使用(しよう)された送風機(そうふうき)の送(おく)る風(かぜ)は冷(つ)めたいものだつたから、それを暖(あたゝ)めるのにかなり沢山(たくさん)の熱(ねつ)が空費(くうひ)されましたが、かれはもしその空気(くうき)を予(あらかじ)め六百度(ろつぴやくど)に熱(ねつ)して置(お)いたならば、燃料(ねんりよう)を増(ま)さないでも二倍量(にばいりよう)の鉄(てつ)を造(つく)ることが出来(でき)るだらうと考(かんが)へ、その考(かんが)へに基(もと)づいて、千八百二十八年(せんはつぴやくにじゆうはちねん)に送風炉用(そうふうろ)の熱風機(ねつぷうき)(第二十七図)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。
 こーくすの使用(しよう)と、熱風機(ねつぷうき)の発明(はつめい)とで、以前(いぜん)に倍(ばい)する製産額(せいさんがく)を見(み)ましたけれど、鉄(てつ)の需要(じゆよう)はほとんど無制限(むせいげん)であるから、より以上(いじよう)有力(ゆうりよく)な鎔鉱炉(ようこうろ)が必要(ひつよう)となり、志(こゝろざし)ある人々(ひと/゛\)はそれの発明(はつめい)に苦心(くしん)してゐました。
 この熱風機(ねつぷうき)が発明(はつめい)せられてから、綱(つな)が鎖(くさり)になり、木鋤(きすき)が鉄鋤(てつすき)になり、木管(もくかん)は鉄管(てつかん)と変(かは)つて市中(しちゆう)の水道(すいどう)に用(もち)ひられ、鉄製(てつせい)れーるが敷設(ふせつ)されるといふ風(ふう)に、各方面(かくほうめん)で鉄(てつ)の需要(じゆよう)が増(ま)したので、製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)は目(め)の廻(まは)るほど忙(いそが)しい思(おも)ひをして、出来(でき)るだけ多(おほ)くの鉄(てつ)を造(つく)り出(だ)しても、尚(な)ほ且(か)つ不足(ふそく)を告(つ)げるといふ有様(ありさま)でした。
 然(しか)るに十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)になつて、サア・ヘンリイ・ベスマアが鋼鉄(こうてつ)を造(つく)る新方法(しんほうほう)を発明(はつめい)して、鉄(てつ)の需要者(じゆようしや)を喜(よろこ)ばせました。一(いつ)たい、鋼鉄(こうてつ)は少量(しようりよう)の炭素(たんそ)を鉄(てつ)に混和(こんわ)すれば出来(でき)るものですが、製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)はどうしたら製法(せいほう)が容易(ようい)になるか、また製品(せいひん)が良好(りようこう)になるかと、数千年間(すうせんねんかん)研究(けんきゆう)を続(つゞ)けて来(き)たのでした。その問題(もんだい)をベスマアが解決(かいけつ)して、鋼鉄(こうてつ)を容易(ようい)に且(か)つ多量(たいりよう)に製産(せいさん)することが出来(でき)るようにしたので、その価(あたひ)は非常(ひじよう)に安(やす)くなりました。
 ベスマアは製鋼研究中(せいこうけんきゆうちゆう)、いくたびも失敗(しつぱい)を重(かさ)ね、生命(せいめい)を危(あやふ)くしたことも度々(たび/\)ありましたが、勇気(ゆうき)と忍耐(にんたい)とはそれらに打(う)ちかつて、遂(つひ)に千八百五十八年(せんはつぴやくごじゆうはちねん)に、鎔鉱炉中(ようこうろちゆう)の数噸(すうとん)の鎔鉄(ようてつ)を、数秒間(すうびようかん)に立派(りつぱ)な鋼鉄(こうてつ)に変質(へんしつ)させる方法(ほうほう)を発明(はつめい)しました。
 かうして今日(こんにち)では、安価(あんか)に巨額(きよがく)の鋼鉄(こうてつ)が供給(きようきゆう)せられることになり、鉄道線路(てつどうせんろ)も、橋梁(きようりよう)も、軍艦(ぐんかん)も、商船(しようせん)も、軍用汽車(ぐんようきしや)も、旅客(りよかく)、貨物(かもつ)両汽車(りようきしや)も皆(みな)鋼鉄製(こうてつせい)となり、建築(けんちく)にも盛(さか)んに利用(りよう)せられて、鉄器時代(てつきじだい)から急激(きゆうげき)に鋼鉄時代(こうてつじだい)に移(うつ)りました。そして、さうした一大変化(いちだいへんか)は、実(じつ)にたゞ一人(ひとり)の発明家(はつめいか)サア・ヘンリイ・ベスマアの苦心(くしん)によつて作(つく)られたものであるとすれば、人(ひと)の力(ちから)の偉大(いだい)さが直(たゞ)ちにそれと理解(りかい)されるではありませんか。
 
五、蒸気汽缶(じようききかん)

 こんどは火(ひ)が人(ひと)の代(かは)りを勤(つと)めることをお話(はなし)しませう。実際(じつさい)、今日(こんにち)の世界(せかい)に於(お)いては、為事(しごと)の大半(たいはん)は火(ひ)の力(ちから)で行(おこな)はれてゐます。まあ考(かんが)へてごらんなさい、火(ひ)で蒸気(じようき)が作(つく)られ、蒸気(じようき)がいろんな機械(きかい)を動(うご)かして、数(かぞ)へきれないほどの為事(しごと)をしてゐるではありませんか。
 初(はじ)め人間(にんげん)は蒸気(じようき)が物(もの)を動(うご)かす力(ちから)のあることを発見(はつけん)しました。その発見(はつけん)はよほど古(ふる)いことゝ思(おも)はれます。火(ひ)で湯(ゆ)を沸(わ)かすと湯気(ゆげ)が出(で)て、湯気(ゆげ)が土瓶(どびん)や鉄瓶(てつびん)の蓋(ふた)を動(うご)かします(第二十八図)。もし湯気(ゆげ)が外(そと)に洩(も)れないようにして置(お)いたら、土瓶(どびん)でも鉄瓶(てつびん)でもすぐに破裂(はれつ)してしまひます。土瓶(どびん)に口(くち)のついてゐるのは、それから湯気(ゆげ)を外(そと)に逃(に)がさうといふ昔(むかし)の発明家(はつめいか)の考(かんが)へつきだつたのです。石器時代(せつきじだい)の遺物(いぶつ)にさへ土瓶(どびん)が見出(みいだ)されるから、湯気(ゆげ)が物(もの)を動(うご)かす力(ちから)をもつてゐることの知(し)られたのは、あながちワツトに初(はじ)まつたわけではありません。
 その湯気(ゆげ)を利用(りよう)した蒸気汽缶(じょうききかん)の発明(はつめい)は、紀元前(きげんぜん)百二十年(ひやくにじゆうねん)まで遡(さかのぼ)ることが出来(でき)ます。エジプトのアレキサンドリヤの哲学者(てつがくしや)に、ヘロといふ人(ひと)がありまして、蒸気力(じようきりよく)で空気(くうき)の抵抗(ていこう)を利用(りよう)して球(たま)を回転(かいてん)させる玩具(がんぐ)を発明(はつめい)しました(第二十九図)。発明(はつめい)はしたものゝ、誰(だれ)もその原理(げんり)を応用(おうよう)して、これを実用上(じつようじよう)の目的(もくてき)に使(つか)はうといふものもなく、かれこれ干七百年(せんしちひやくねん)の月日(つきひ)は過(す)ぎました。
 ちようど十五世紀(じゆうごせいき)の末頃(すゑごろ)から、ヨーロツパの発明界(はつめいかい)は活動(かつどう)を始(はじ)めて、十六世紀(じゆうろくせいき)の末(すゑ)には到(いた)るところでいろ/\の物(もの)の研究(けんきゆう)に取(と)りかゝりました。蒸気力(じようきりよく)の研究(けんきゆう)もその世紀(せいき)の中頃(なかごろ)から始(はじ)められて、十七世紀(じゆうしちせいき)の中頃(なかごろ)にはその性質(せいしつ)と力(ちから)とについて理解(りかい)をもちました。
 千六百二十九年(せんろつぴやくにじゆうくねん)、イタリヤのブランカといふ人(ひと)が、蒸気力(じようきりよく)で臼(うす)を搗(つ)かせることが出来(でき)るといふ記事(きじ)を書(か)いた書物(しよもつ)を出(だ)しましたが、世間(せけん)では一向(いつこう)それに注意(ちゆうい)せず、ブランカ自身(じしん)も果(はた)してどれだけそれに興味(きようみ)をもつてゐたかどうかはわかりません。この臼搗(うすつ)き機械(きかい)(第三十図)は、先(ま)づ人間(にんげん)の形(かたち)をした半身像(はんしんぞう)を造(つく)り、その中(なか)に水(みづ)を湛(たゝ)へて下(した)から熱(ねつ)すると、湯気(ゆげ)が人形(にんぎよう)の口(くち)から噴(ふ)き出(だ)して横(よこ)の歯車(はぐるま)を廻(まは)す、横(よこ)の歯車(はぐるま)が縦(たて)の歯車(はぐるま)を動(うご)かし、縦(たて)の歯車(はぐるま)につけてある円筒(えんとう)が一所(いつしよ)に動(うご)いて、円筒(えんとう)についてゐる杵(きね)が上(あが)り下(お)りして臼(うす)を搗(つ)く装置(そうち)になつてゐました。しかし、これはほんの思(おも)ひつきで、実際上(じつさいじよう)にはあまり役立(やくだ)ちませんでした。
 然(しか)るにまもなく、この暗示(あんじ)によつて、英国人(えいこくじん)が立派(りつぱ)な汽缶(きかん)を造(つく)りました。その人(ひと)はウースタアの侯爵(こうしやく)エドワード・ソマアセツトといつて、千六百六十三年(せんろつぴやくろくじゆうさんねん)に、四分間(しふんかん)に大桶四杯(おほをけしはい)の水(みづ)を高(たか)さ十一(じゆういち)めーとるのところへ汲(く)み上(あ)げる汽缶(きかん)(第三十一図)を造(つく)りました。この汽缶(きかん)には前人未発(ぜんじんみはつ)の重要機関部(じゆうようきかんぶ)、即(すなはち)、蒸気(じようき)を出(だ)させる蒸気発生器(じようきはつせいき)と、機械(きかい)を動(うご)かす力(ちから)を出(だ)す発動器(はつどうき)とが含(ふく)まれてゐました。
 ソマアセツト侯爵(こうしやく)は、この汽缶(きかん)の研究(けんきゆう)に没頭(ぼつとう)して資産(しさん)をなくしてしまひ、失意(しつい)不遇(ふぐう)のうちに命(いのち)を失(うしな)つて、その名(な)すら一般(いつぱん)の人々(ひと/゛\)には知(し)られませんでした。その頃(ころ)の英国(えいこく)の礦坑(こうこう)は、だん/\深(ふか)く地下(ちか)へ掘(ほ)り下(さ)げて行(い)つたから、坑中(こうちゆう)に水(みづ)が溜(たま)つて仕方(しかた)がない、その溜(たま)り水(みづ)を地上(ちじよう)に汲(く)み上(あ)げるのはむづかしいことで、ある場合(ばあひ)には数百頭(すうひやくとう)の馬(うま)を使(つか)つて、水桶(みづをけ)で汲(く)み上(あ)げさせました。ソマアセツト侯爵(こうしやく)はこの手数(てすう)を省(はぶ)かうとして、前記(ぜんき)の機械(きかい)を発明(はつめい)したのですが、理窟(りくつ)ばかり立派(りつぱ)で、実際(じつさい)には役立(やくだ)ちませんでした。
 その後(ご)まもなく、実際(じつさい)に適(てき)した礦坑用(こうこうよう)の水汲(みづく)み機(き)が出来(でき)たが、たび/\爆発(ばくはつ)を起(おこ)して危険(きけん)であつたから、その危険(きけん)を防(ふせ)ぐ目的(もくてき)で安全弁(あんぜんべん)が工夫(くふう)されました。時(とき)は干六百八十年頃(せんろつぴやくはちじゆうねんごろ)、処(ところ)はフランスのデニイ・バパンといふ人(ひと)が、必要以上(ひつよういじよう)の蒸気(じようき)が汽●(タケカンムリ+「甬」)中(きとうちゆう)にたまると、自動装置(じどうそうち)の開閉弁(かいへいべん)から外(そと)へ出(で)てゆくようにいたしました。それからまた十年(じゆうねん)ほど後(のち)に、再(ふたゝ)び一大改良(いちだいかいりよう)をこれに加(くは)へました。
 ソマアセツト式(しき)の汽缶(きかん)では、蒸気発生器(じようきはつせいき)の中(なか)にある蒸気(じようき)が、蒸気(じようき)を発生(はつせい)させる水面(すいめん)を圧(あつ)して無用(むよう)に消費(しようひ)されてゐるので、バパンはそれを改良(かいりよう)して、第三十二図(だいさんじゆうにず)のようなものを工夫(くふう)しました。即(すなはち)、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(イ)に少量(しようりよう)の水(みづ)を入(い)れ、普通(ふつう)ポンプに用ひてゐるぴすとん(ロ)を汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)に低下(ていか)し、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の底(そこ)を外(そと)から加熱(かねつ)すると、底部(ていぶ)にはすぐ熱(ねつ)するように薄(うす)い金属板(きんぞくばん)が張(は)つてありますから、汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)の水(みづ)はぢきに沸騰(ふつとう)して、蒸気(じようき)になつて(ロ)を押(お)し上(あ)げると、(ロ)についてゐるぴすとん棒(ぼう)(ハ)は、懸(か)け金(がね)(ニ)のために落下(らつか)を止(と)められますが、その間(あひだ)に汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)が冷却(れいきやく)して真空(しんくう)が出来(でき)るので、(ロ)は(ホ)を引(ひ)き上(あ)げながら降下(こうか)するのです、この働(はたら)きが礦坑内(こうこうない)の溜(たま)り水(みづ)汲(く)み上(あ)げに応用(おうよう)されて、バパンは汽缶中(きかんちゆう)のぴすとん発明者(はつめいしや)として、後世(こうせい)までも褒(ほ)め称(たゝ)へられるようになつたのです。
 こゝで話(はなし)は十八世紀(じゆうはつせいき)の初(はじ)めに移(うつ)りますが、その当時(とうじ)の礦坑(こうこう)は以前(いぜん)よりも、一層(いつそう)深(ふか)くなりまさり、従(したが)つて溜(たま)り水(みづ)の汲(く)み上(あ)げには非常(ひじよう)な困難(こんなん)を感(かん)じましたから、人々(ひと/゛\)は熱心(ねつしん)にバパンとソマアセツトの機械(きかい)を完全(かんぜん)にしようと苦心(くしん)しましたが、遂(つひ)にイギリスのダートマスで鍛冶屋(かじや)をしてゐたトマス・ニユーコメンといふ人(ひと)が良(よ)い機械(きかい)を造(つく)り出(だ)しました。
 第三十三図(だいさんじゆうさんず)の示(しめ)す通(とほ)り、大天秤(だいてんびん)(イイ)は軸(じく)(ロ)で上下動(じようげどう)しますが、その一端(いつたん)には鎖(くさり)がついてをり、鎖(くさり)からはぽんぷ綱(づな)(ハ)が吊(つ)り下(さが)つてゐます。今(いま)、蒸気(じようき)が汽缶(きかん)(ニ)に発生(はつせい)して、弁(べん)(ホ)を経(へ)て気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)に入(はひ)ると、ぴすとん(ト)を押(お)し上(あ)げますから、天秤(てんびん)(イイ)の一端(いつたん)についてゐるぴすとん綱(つな)(チ)が上(あが)り、従(したが)つて他端(たたん)のぽんぷ綱(つな)(ハ)が下(さが)ります。ぴすとん(ト)が気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の上部(じようぶ)に押(お)し上(あ)げられると、弁(べん)(ホ)が汽缶口(きかんこう)を閉(と)ぢ、他(た)の弁(べん)(リ)が廻(まは)つて、水槽(すいそう)(ヌ)から冷水(れいすい)が下降(かこう)して、気●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)へ噴(ふ)き出(だ)し、蒸気(じようき)が冷却(れいきやく)されて、水滴(すいてき)は排水管(はいすいかん)(ル)から外(そと)に逃(に)げ、気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)が真空(しんくう)になりますから、ぴすとん(ト)が下(さが)つてぽんぷ綱(つな)(ハ)が上(あが)り、礦坑内(こうこうない)の溜(たま)り水(みづ)が汲(く)み出(だ)されることになります。
 初(はじ)めこの機械(きかい)の二(ふた)つの弁(べん)(ホ、リ)の開閉(かいへい)は、ぴすとんの上下毎(じようげごと)に人手(ひとで)で行(おこな)つてゐましたが、千七百十三年(せんしちひやくじゆうさんねん)、その開閉(かいへい)を命(めい)ぜられてゐた少年(しようねん)ハムフレイ・ポタアが、遊(あそ)びたいの一心(いつしん)から天秤(てんびん)(イイ)へつけた綱(つな)と懸(か)け金(がね)との作用(さよう)で、人間(にんげん)が手伝(てつだ)はないでも弁(べん)がひとりでに開閉(かいへい)するようにしました結果(けつか)、一分間(いつぷんかん)に五六回(ごろつかい)しか上下(じようげ)しなかつたものが、十一回(じゆういつかい)乃至(ないし)十二回(じゆうにかい)も上下(じようげ)するようになりました(第三十四図)。怠(なま)けたさの子供心(こどもごゝろ)から、ふとかうした大発見(だいはつけん)をしたとは、実(じつ)に面白(おもしろ)い話(はなし)ではありませんか。
 この改良型(かいりようがた)ニユーコメン機(き)は広(ひろ)く採用(さいよう)せられて、礦坑(こうこう)は勿論(もちろん)、ロンドンなどでは富豪(ふごう)の邸宅(ていたく)で汲水用(きゆうすいよう)に使(つか)はれ、千七百五十二年(せんしちひやくごじゆうにねん)にはブリストル附近(ふきん)で水車(すいしや)に使用(しよう)せられ、オランダでは排水用(はいすいよう)の風車(かざぐるま)の動力(どうりよく)に使(つか)はれましたが、その後(ご)七十五年間(しちじゆうごねんかん)、少(すこ)しづゝ改良(かいりよう)せられて、世界(せかい)の各所(かくしよ)で用(もち)ひつゞけられました。
 ところが十九世紀(じゆうくせいき)の末(すゑ)になつて、ジエームス・ワツトの手(て)で大改良(だいかいりよう)が加(くは)へられ、今(いま)までにない立派(りつぱ)な蒸気汽缶(じようききかん)が出来上(できあが)りました。第三十五図(だいさんじゆうごず)をごらんなさい。ぴすとん(イ)は両端(りようたん)の密閉(みつぺい)せられた汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)内(ない)に動(うご)き、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)と並(なら)んで、管(くだ)(ハ)から蒸気(じようき)のはひつて来(く)る弁室(べんしつ)(ニ)があり、その上下端(じようげたん)に汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)に通(つう)ずる二箇(にこ)の入(い)り口(ぐち)が設(まう)けてあります。この弁室(べんしつ)(ニ)中(ちゆう)の弁(べん)は、天秤(てんびん)(ホ)の上下(じようげ)につれて働(はたら)く綱(つな)(へ)に動(うご)かされて口(くち)を開閉(かいへい)します。ぴすとんが汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の上部(じようぶ)に達(たつ)しますると、下(した)の孔口(こうこう)が弁(べん)で遮(さへぎ)られ、上(うへ)の孔口(こうこう)から蒸気(じようき)がはひつて押(お)し下(さ)げ、下降(かこう)すると上(うへ)の孔口(こうこう)が弁(べん)で閉(とざ)され、下(した)の孔口(こうこう)から蒸気(じようき)がはひつて押(お)し上(あ)げる仕掛(しか)けになつてゐます。これまでの機械(きかい)では、ぴすとんの上下(じようげ)は半分(はんぶん)は蒸気力(じようきりよく)、半分(はんぶん)は空気(くうき)の圧力(あつりよく)によつてゐましたが、この改良型(かいりようがた)のワツト式(しき)では、すべて蒸気(じようき)の力(ちから)で動(うご)かされ、初(はじ)めて遺憾(いかん)なく蒸気力(じようきりよく)を使用(しよう)することが出来(でき)たのです。
 ワツト式(しき)には今一(いまひと)つの特色(とくしよく)があります。ニユーコメン式(しき)ではぴすとんが冷却(れいきやく)されて、その回復(かいふく)に無駄(むだ)な蒸気(じようき)を使(つか)ひますが、ワツト式(しき)ではぢかに汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)へ冷水(れいすい)を注入(ちゆうにゆう)せず、管(くだ)(ハ)から●(タケカンムリ+「甬」)(とう)(ニ)を通(とほ)つて、筒(つゝ)(ト)を経(へ)て器中(きちゆう)(チ)へ導(みちび)かれると、天秤(てんびん)の上下動(じようげどう)につれて動(うご)くぽんぷ(リ)からの水(みづ)の注入(ちゆうにゆう)で冷却(れいきやく)されるから、直接(ちよくせつ)汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)内(ない)で冷却(れいきやく)されて、ぴすとんや汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)を冷却(れいきやく)させないですみます。この点(てん)で蒸気(じようき)を空費(くうひ)することが少(すくな)いから、ワツト式(しき)は運転(うんてん)の費用(ひよう)が安(やす)く上(あが)りました。
 一番初(いちばんはじ)めにお話(はなし)したヘロ式(しき)やブランカ式(しき)で、私達(わたしたち)は蒸気(じようき)が反動(はんどう)または衝動(しようどう)で働(はたら)くことを知(し)りましたが、ワツトの死後(しご)になつて、発明家(はつめいか)はこの点(てん)に考(かんが)へを費(つひや)し、蒸気(じようき)の直接(ちよくせつ)衝突(しようとつ)で運転(うんてん)するような機械(きかい)を作(つく)らうとして、約(やく)百年(ひやくねん)の間(あひだ)苦(にが)い経験(けいけん)を嘗(な)めましたが、遂(つひ)にたーびん機(き)が発明(はつめい)されました。この機関(きかん)の発明者(はつめいしや)は、チヤールズ・アルジヤーノン・パアソンズといふイギリス人(じん)で、千八百八十四年(せんはつぴやくはちじゆうよねん)に特許権(とつきよけん)を得(え)て、だん/\広(ひろ)く世界(せかい)に行(ゆ)き渡(わた)り、陸上(りくじよう)のみならず、舶用(はくよう)として汽船(きせん)、軍艦(ぐんかん)にも採用(さいよう)せられ、交通運輸(こうつううんゆ)の上(うへ)に大(おほ)きな利益(りえき)を与(あた)へつゝあることは人(ひと)の知(し)るところです。

六、食料(しよくりよう)

 私(わたし)はこれまで、大分(だいぶ)堅(かた)くるしい器具(きぐ)、機械(きかい)のお話(はなし)をして来(き)ましたから、少(すこ)し方面(ほうめん)を変(か)へて、人間(にんげん)に取(と)つて一番(いちばん)大切(たいせつ)な食物(しよくもつ)の発見(はつけん)発明(はつめい)について述(の)べませう。
 人間(にんげん)は昔(むかし)から今日(こんにち)のような食物(しよくもつ)を取(と)つてゐたわけではなく、食料(しよくりよう)も料理法(りようりほう)もだん/\と変(かは)つて来(き)たのです。昔(むかし)、昔(むかし)、大昔(おほむかし)、人間(にんげん)は恐(おそ)らく猿(さる)などのように、一日(いちにち)の中(うち)の大部分(だいぶぶん)を木(き)の上(うへ)で過(す)ごした時代(じだい)があつたと思(おも)ひます。さうした時(とき)には、堅果(けんか)では椎(しひ)の実(み)、栗(くり)の実(み)など、核果(かくか)では、梅(うめ)、桃(もゝ)、漿果(しようか)では柿(かき)、梨(なし)、林檎(りんご)のような木(き)の実(み)を、枝(えだ)から枝(えだ)へ、幹(みき)から幹(みき)へと、わたりあるいて漁(あさ)つたでせう。もちろん、それらは初(はじ)め生(なま)のまゝで食(た)べられたのです。今日(こんにち)子供(こども)が木(き)に攀(よ)ぢ上(のぼ)つて果実(かじつ)をあさり、それを生(なま)で食(た)べることを好(す)くのは、人間(にんげん)が野蛮(やばん)であつた時代(じだい)の名残(なごり)だといはれます。
 地上(ちじよう)へ下(お)りて来(き)ても、低(ひく)い木(き)の実(み)とか、大豆(だいづ)のような莢果(きようか)とか、ひさごやきうりのような瓠果(こか)、いちごや桑(くは)の実(み)のような複果(ふくか)などを食(た)べてゐました。
 これらはみな植物性(しよくぶつせい)の食料(しよくりよう)ですが、動物性(どうぶつせい)のものはどんな種類(しゆるい)を食(た)べたかといふと、おそらく蜂(はち)の子(こ)どもとか、じむしとか、蛙(かへる)、蛇(へび)、とかげ、かたつむりなど、小(ちひ)さい陸生動物(りくじようどうぶつ)を捕(と)つて食(た)べたでせう。これらを捕(とら)へるには、抜(ぬ)き足(あし)さし足(あし)で動物(どうぶつ)に近(ちか)づき、ふいに手(て)を伸(の)ばして生(い)け捕(ど)つたのですから、大(おほ)きな動物(どうぶつ)などは手(て)に入(い)れようがありません。
 動植物(どうしよくぶつ)の外(ほか)には、多少(たしよう)の鉱物性物質(こうぶつせいぶつしつ)をも食(た)べました。最(もつと)も喜(よろこ)ばれたのは粘土(ねんど)の一種(いつしゆ)で、わが国(くに)のアイヌは、今日(こんにち)でさへも尚(な)ほ黄色(きいろ)の粘土(ねんど)を食(た)べます。
 だん/\人間(にんげん)の知識(ちしき)が進(すゝ)んで、色々(いろ/\)の武器(ぶき)が発明(はつめい)せられるようになつてから、大(おほ)きな獣類(じゆうるい)に目(め)をつけ、鹿(しか)、猪(ゐのしゝ)、牛(うし)、馬(うま)などをも捕(とら)へて食(た)べるようになりました。また河(かは)や湖(みづうみ)や海(うみ)へ出(で)て、うなぎ、こひ、ふな、さめ、たひ、ひらめなどの魚類(ぎよるい)を捕(と)り、いろ/\の貝類(かひるい)をも好(この)んで食(た)べましたが、陸(りく)では鳥類(ちようるい)に目(め)をつけて、草(くさ)むらや蘆原(あしはら)などにゐるのを、棒(ぼう)でなぐつて捕(と)つたりしました。
 これらの動植物(どうしよくぶつ)は、初(はじ)めはみな生(なま)のまゝで食(た)べたが、いつしかそれを乾(かわ)かして食(た)べることを発明(はつめい)しました。生(なま)のまゝではぢきに腐(くさ)りますが、乾(かわ)かして置(お)くと腐(くさ)りませんから、余(あま)つた時(とき)にはそれを干(ほ)して置(お)くことにしました。これが食料(しよくりよう)の貯蔵(ちよぞう)の初(はじ)まりです。人間(にんげん)がいつ頃(ごろ)から貯蔵(ちよぞう)を始(はじ)めたかはわかりませんが、エスキモーなどは雪(ゆき)の中(なか)へ穴(あな)をほつて、そこへ鯨肉(くぢらにく)などを貯(たくは)へて置(お)き、必要(ひつよう)に応(おう)じてそれを取(と)り出(だ)しますから、かなり古(ふる)い時代(じだい)から貯蔵(ちよぞう)をしたに相違(そうい)ありません。もずといふ鳥(とり)は、雀(すゞめ)などを捕(と)つて食(く)ひ残(のこ)りを木(き)の枝(えだ)にかけて置(お)き、おなかがすいたらそれを食(た)べるつもりでよそへ飛(と)んでゆきますが、ぢきにその場所(ばしよ)を忘(わす)れてしまひますので、私達(わたしたち)は時々(とき/゛\)野中(のなか)で木(き)の枝(えだ)に食(く)ひあましの肉(にく)の引懸(ひつかゝ)つてゐるのを見(み)ます。それが即(すなはち)『百舌鳥(もづ)の贄(にへ)』といふものです。犬(いぬ)でも悧口(りこう)なのになると、食(く)ひあましの牛肉(ぎゆうにく)などを、地(じ)べたへ穴(あな)を掘(ほ)つて埋(うづ)めて置(お)き、思(おも)ひ出(だ)すとまた掘(ほ)り返(かへ)してそれを食(た)べます。だから人間(にんげん)に於(お)いては、人間(にんげん)になつた時(とき)から既(すで)に食料(しよくりよう)の貯蔵(ちよぞう)を知(し)つてゐたと見(み)てさしつかへありますまい。
 やがて火(ひ)の利用(りよう)を知(し)りますと、人間(にんげん)は食料(しよくりよう)を焼(や)いたり、焙(あぶ)つたり、煮(に)たりして食(く)ふことを考(かんが)へ出(だ)しました。かうして食(た)べると、味(あぢ)が一(いつ)そううまくなりますから、ある特別(とくべつ)の場合(ばあひ)を除(のぞ)くの外(ほか)は、すべて焼(や)いたり、焙(あぶ)つたり、煮(に)たりするようになりました。石器時代(せつきじだい)の人人(ひとびと)の住(す)んだ小屋址(こやあと)から、時々(とき/゛\)さうした竈(かまど)が見出(みいだ)されます。
 驚(おどろ)くべきことは、昔(むかし)の人間(にんげん)が人肉(じんにく)を食(く)つてゐたことです。今日(こんにち)でも飢饉(ききん)があると、『共食(ともぐ)ひ』をする野蛮人(やばんじん)がゐます。ウエンド族(ぞく)などは、仲間(なかま)のものが年(とし)をとつて来(く)ると、それを殺(ころ)して、料理(りようり)をして食(た)べます。文明人(ぶんめいじん)と誇(ほこ)つてゐたサキソン人(じん)でさへ、三十年(さんじゆうねん)戦争(せんそう)の終(をは)りには人肉(じんにく)を食(た)べたといひ伝(つた)へられます。今日(こんにち)でもメラネジヤの土人(どじん)、ことにフイジイ島(とう)やニユーカレドニヤの土人(どじん)は、必要(ひつよう)の場合(ばあひ)には人肉(じんにく)を食(た)べます。
 人間(にんげん)の肉(にく)を食(た)べる目的(もくてき)はいろ/\ありますが、腹(はら)のへつた時(とき)、食(た)べるのが普通(ふつう)で、中(なか)には敵(てき)の性質(せいしつ)を得(え)たいために、その肉(にく)を食(た)べることもあり、また先祖(せんぞ)と合体(がつたい)したいために、死(し)んだ父祖(ふそ)の肉(にく)を食(た)べることもあります。
 動物性(どうぶつせい)のものでも、植物性(しよくぶつせい)のものでも、自然(しぜん)のまゝでは手(て)に入(い)れることがむづかしかつたり、また数量(すうりよう)が少(すく)なかつたりしたので、いつのまにか動物(どうぶつ)を飼養(しよう)して家畜(かちく)とし、植物(しよくぶつ)を栽培(さいばい)して収穫(しゆうかく)することが工夫(くふう)されました。こゝに牧畜(ぼくちく)と農業(のうぎよう)との基(もと)が開(ひら)かれたのです。
 家畜(かちく)の起(おこ)りは、多分(たぶん)、地中(ちちゆう)に穴(あな)を掘(ほ)つてその中(なか)に尖(とが)つた木片(きぎれ)を立(た)て、上(うへ)に木(き)の枝(えだ)や草(くさ)を置(お)いて穴(あな)のあることをわからぬようにした陥(おと)し穽(あな)へ動物(どうぶつ)が落(お)ちた時(とき)、いろ/\の餌(ゑ)を持(も)つていつてくれて馴(な)らしたのが初(はじ)めだと思(おも)ひます。馬(うま)でも牛(うし)でも羊(ひつじ)でも豚(ぶた)でも、初(はじ)めはみな野生(やせい)だつたが、かうした方法(ほうほう)で馴(な)らして、家畜(かちく)にしてしまつたのです。家畜(かちく)の中(なか)で、人間(にんげん)から動物(どうぶつ)に近(ちか)づかないで、むかうから人間(にんげん)に近寄(ちかよ)つて来(き)たのは犬(いぬ)だけです。犬(いぬ)が外(ほか)の家畜(かちく)と違(ちが)つてよく人間(にんげん)に親(した)しみ、人間(にんげん)のために命(いのち)をも惜(をし)まずに働(はたら)くのは、さうした古(ふる)い歴史(れきし)があるからだといはれます。
 さてその次(つ)ぎは農作物(のうさくぶつ)ですが、麦(むぎ)でも米(こめ)でも粟(あは)でも黍(きび)でも、初(はじ)めはみな野生(やせい)であつたのです。人間(にんげん)が昔(むかし)それらの野生(やせい)してゐるのを見(み)つけて、その実(み)を取(と)つて食(た)べてゐた頃(ころ)、小鳥(ことり)が餌(ゑ)をさがしてあちらやこちらを廻(まは)り歩(ある)くように、人間(にんげん)もうろ/\と方々(ほう/゛\)を歩(ある)いて、適当(てきとう)な食物(しよくもつ)を探(さが)しました。さうしてゐる間(あひだ)に、以前(いぜん)に穀物(こくもつ)の種(たね)の落(お)ちてゐた処(ところ)で、それが根(ね)を下(お)ろして立派(りつぱ)に育(そだ)ち、また美(うつく)しい実(み)のなつてゐるのを見(み)て、種(たね)を蒔(ま)けば芽(め)をふき、芽(め)をふけば大(おほ)きくなつて、花(はな)が咲(さ)き、実(み)を結(むす)ぶといふことを発見(はつけん)し、その簡単(かんたん)な原理(げんり)を応用(おうよう)して、適当(てきとう)な場所(ばしよ)に種(たね)を蒔(ま)いて見(み)たのが農業(のうぎよう)の初(はじ)めであります。
 だから、食料(しよくもつ)を求(もと)める為(ため)に、人間(にんげん)は狩猟(しゆりよう)、漁撈(ぎよろう)、牧畜(ぼくちく)、農耕(のうこう)の四(よつ)つを発明(はつめい)して、いつでも幾(いく)らでも自由(じゆう)に食物(しよくもつ)を得(え)て、飢饉(ききん)に悩(なや)まされるようなことがなくなつたのであります。
 着物(きもの)はなくても、裸(はだか)でも暮(く)らせます。家(いへ)はなくても、岩(いは)の中(なか)、木(き)の下(した)にもぐりこめば雨風(あめかぜ)にさらされずに生活(せいかつ)が出来(でき)ます。しかし、食物(しよくもつ)がなければ死(し)ぬ外(ほか)はないから、昔(むかし)から人間(にんげん)はそれを一番(いちばん)大切(たいせつ)に思(おも)ひ、一番(いちばん)骨(ほね)を折(を)つてそれを手(て)に入(い)れることに苦心(くしん)したのです。発明(はつめい)のもとは大方(おほかた)食物(しよくもつ)を得(え)たいといふ欲望(よくぼう)にもとづいてゐます。農業(のうぎよう)が始(はじ)められ、家畜(かちく)が飼(か)ひ始(はじ)められ、土器(どき)が造(つく)り始(はじ)められ、金属(きんぞく)が発見(はつけん)せられたのが、みな新石器時代(しんせつきじだい)であることを思(おも)へば、これらの発明発見(はつめいはつけん)は個々(こゝ)独立(どくりつ)してゐたのではなく、互(たがひ)に関係(かんけい)があつたといふことに疑(うたが)ひはありません。
 動物(どうぶつ)の飼養(しよう)、農作物(のうさくぶつ)の栽培(さいばい)は、年毎(としごと)に段々(だん/\)上手(じようず)になり、肉類(にくるい)、穀類(こくるい)、野菜類(やさいるい)の料理(りようり)や保存(ほぞん)の方法(ほうほう)も、以前(いぜん)とは見違(みちが)へるほど巧妙(こうみよう)になりましたが、人口(じんこう)がおひ/\殖(ふ)えるに従(したが)つて、世界(せかい)の人々(ひと/゛\)は食料(しよくりよう)の欠乏(けつぼう)を感(かん)じ、今日(こんにち)ではそれら自然(しぜん)の物産(ぶつさん)の外(ほか)にいろ/\の人造品(じんぞうひん)を造(つく)つて、それによつて栄養(えいよう)を得(え)ようといふ計画(けいかく)をしてゐます。それが即(すなはち)、化学的(かがくてき)食料(しよくりよう)で、ちよつと食(た)べただけで、牛乳(ぎゆうにゆう)一升分(いつしようぶん)だけの滋養分(じようぶん)が取(と)れたり、鶏卵(けいらん)十個分(じゆつこぶん)だけの栄養価(えいようか)があつたりするものが、おひ/\に現(あら)はれて来(き)ようとしてゐます。ヴイターミンA(エイ)とかB(ビイ)とかいふものは、さうした化学的(かがくてき)食品(しよくひん)の先駆(せんく)であり、味(あぢ)の素(もと)などいふものは、人工(じんこう)によつて食品(しよくひん)に美味(びみ)を保(たも)たさうとする努力(どりよく)によつて、私達(わたしたち)の前(まへ)に提供(ていきよう)せられた人工品(じんこうひん)です。これから先(さ)きの食物(しよくもつ)は、少(すくな)く食(た)べて多(おほ)く栄養(えいよう)を得(う)るといふ経済的(けいざいてき)のものでなければなりません。

七、犁(すき)

 さて農業(のうぎよう)の始(はじ)められた頃(ころ)には、どんな農具(のうぐ)が用(もち)ひられたかといふ事(こと)が、第一(だいいち)の疑問(ぎもん)であります。初(はじ)め人間(にんげん)が漂泊(ひようはく)して食物(しよくもつ)をあさつてゐた頃(ころ)には木(き)の根(ね)を掘(ほ)つたり、木(き)の実(み)を叩(たゝ)き落(おと)したり、鳥(とり)をぶち落(おと)したり、ある場合(ばあひ)には敵(てき)の頭(あたま)をうち砕(くだ)いたりする目的(もくてき)で一本(いつぽん)の先(さき)の尖(とが)つた棒(ぼう)を持(も)つてゐましたがこれが先(ま)づ農業(のうぎよう)に用(もち)ひられたと思(おも)はれます。
 オーストラリヤの土人(どじん)は、今日(こんにち)でもかつたといふ木棒(もくぼう)(第三十六図)を使(つか)つてゐるし、南印度(みなみインド)のクルバル族(ぞく)は、穴掘(あなほ)りの目的(もくてき)に土掘(つちほ)り棒(ぼう)を用(もち)ひてゐます。男(をとこ)は狩(か)りなどに出(で)て、荒(あら)つぽい為事(しごと)をしてゐるから、女(をんな)が子供(こども)をおんぶしながら、土掘(つちほ)り棒(ぼう)でこつ/\と地(じ)を掘(ほ)つて小孔(こあな)をあけ、それに種(たね)を蒔(ま)いたりしたことが、アメリカ土人(どじん)の例(れい)などでそれとわかります。
 一本(いつぽん)の土掘(つちほ)り棒(ぼう)が進化(しんか)すると、二叉(ふたまた)の木(き)の枝(えだ)になります。一方(いつぽう)を手(て)で持(も)ち、他方(たほう)を尖(とが)らして、それで浅(あさ)く地(じ)を耕(たがや)したに相違(そうい)ありません(第三十七図)。かうした原始的(げんしてき)な犁(すき)にも、現代(げんだい)の犁(すき)がもつてゐる二要点(にえうてん)が含(ふく)まれてゐます。即(すなはち)、一(ひと)つは地中(ちちゆう)にはひる部分(ぶぶん)で、それが犁(すき)の刃(は)に相当(そうとう)し、一(ひと)つは地上(ちじよう)に出(で)てゐる部分(ぶぶん)で、それが刃(は)に適当(てきとう)の重(おも)さと釣(つ)り合(あ)ひとを与(あた)へる犁(すき)の轅(ながえ)に相当(そうとう)します。
 この二叉式犁(ふたまたしきすき)に改良(かいりよう)を加(くは)へたものが、シリヤの古(ふる)い記録(きろく)に見(み)えてゐます。それは第三十八図(だいさんじゆうはちず)の如(ごと)く全部(ぜんぶ)自然木(しぜんぼく)であつて、たゞ僅(わづ)かに刃(は)(ロ、ハ)と長柄(ながえ)(イ)とを丈夫(じようぶ)に結(むす)びつけるために、支柱(しちゆう)(ホ)が人工(じんこう)でつけられてゐるだけです。柄(え)(ニ)は初手(しよて)から刃(は)についてゐるものです。このシリヤ犁(すき)は、二人(ふたり)がゝりで使(つか)はれたもので、一人(ひとり)は長柄(ながえ)を持(も)ち、一人(ひとり)は刃(は)が地上(ちじよう)へ出(で)ないように、小(ちひ)さい柄(え)(ニ)を押(おさ)へつけたものです。
 エジプトの古(ふる)い画(え)を見(み)ると、人(ひと)が犁(すき)を引張(ひつぱ)つて耕作(こうさく)してゐる図(ず)があります。しかし、昔(むかし)から働(はたら)くことはあまりすかなかつたものと見(み)え、犁(すき)を牛馬(ぎゆうば)に牽(ひ)かせることがはやり出(だ)しました(第三十九図)。その時代(じだい)の犁(すき)はシリヤ式(しき)よりも一段(いちだん)進歩(しんぽ)したもので、刃(は)の幅(はゞ)がずつと広(ひろ)くなつてをります。刃(は)の幅(はゞ)が広(ひろ)ければ、畦(うね)も広(ひろ)く作(つく)られるわけであるし、柄(え)が二本(にほん)あつて両手(りようて)で握(にぎ)るから、為事(しごと)も楽(らく)に出来(でき)たことと思(おも)はれます。
 この式(しき)は大分(だいぶ)久(ひさ)しい間(あひだ)、最初(さいしよ)のまゝで用(もち)ひられてゐましたが、ローマ人(じん)がそれに改良(かいりよう)を加(くは)へました。プリニウスといふ人(ひと)の書(か)いた本(ほん)を見(み)ると、犁(すき)の掘(ほ)り返(かへ)す深(ふか)さを制限(せいげん)するために刃(は)の前方(ぜんぽう)に二個(にこ)の車輪(しやりん)をつけ、車輪(しやりん)と刃(は)との間(あひだ)に荒(あら)おこしの副(そ)へ刃(ば)がつけてあつたといふことです(第四十図)。 その後(ご)一千年(いつせんねん)ばかり経(た)つて、サキソンでは征服王(せいふくおう)ウイリヤムの治世(ちせい)には、古代(こだい)エジプトの犁(すき)に車輪(しやりん)と副(そ)へ刃(ば)とを取(と)りつけ、それを四頭(しとう)の馬(うま)に曳(ひ)かせました(第四十一図)。これ以後(いご)は取(と)るに足(た)るような改良(かいりよう)もなく、旧式(きゆうしき)の木製犁(もくせいすき)で満足(まんぞく)してゐましたが、十六七世紀(じゆうろくしちせいき)の間(あひだ)に多(おほ)くの改良(かいりよう)が加(くは)へられました。
 千六百五十二年(せんろつぴやくごじゆうにねん)に出版(しゆつぱん)せられた書物(しよもつ)に、二重犁(にじゆうすき)(第四十二図)といつて、一時(いちじ)に二畦(ふたうね)を耕(たがや)すことの出来(でき)るものゝ説明(せつめい)が出(で)てゐますが、それがどれだけ実用(じつよう)に役立(やくだ)つたかはわかりません。
 十八世紀(じゆうはつせいき)の初(はじ)めになつて、やうやく値(ね)うちのある改良(かいりよう)が加(くは)へられました。それは刃(は)の外(ほか)に土(つち)わけの板(いた)をつけたもので、オランダの犁(すき)造(づく)りが工夫(くふう)したのですが、すかれた土(つち)を高(たか)く盛(も)り上(あ)げると同時(どうじ)に、それを砕(くだ)き、雑草(ざつそう)を全(まつた)く土中(どちゆう)に埋(うづ)めてしまふので、大変(たいへん)農民(のうみん)に重宝(ちようほう)がられました(第四十三図)。
 この板附(いたつ)き犁(すき)は十八世紀(じゅうはつせいき)に、英国(えいこく)を初(はじ)め文明諸国(ぶんめいしよこく)で、摸倣(もほう)、採用(さいよう)されたが、尚(な)ほそここゝでは木製(もくせい)の不完全(ふかんぜん)なもの(第四+四図)が用(もち)ひられてゐました。千八百年頃(せんはつぴやくねんごろ)の書物(しよもつ)に、犁(すき)の製造方法(せいぞうほうほう)を述(の)べて、「土(つち)わけ板(いた)は長持(ながも)ちするように、柾目(まさめ)を削(けづ)つて作(つく)り、また磨滅(まめつ)を防(ふせ)ぐために、古(ふる)い草取(くさと)り機(き)の刃(は)か、薄(うす)い鉄片(てつぺん)か、或(ある)ひは古(ふる)い蹄鉄(ていてつ)かゞ釘附(くぎづ)けにされるが、全体(ぜんたい)は木製(もくせい)で、底(そこ)と脇(わき)とには薄(うす)い鉄板(てついた)が張(は)られるが、刃(は)は鋭(するど)い鋼鉄製(こうてつせい)であつた。副(そ)へ刃(ば)も鉄製(てつせい)で、真直(まつすぐ)な舵取(かぢと)り棒(ぼう)が、木製(もくせい)の柄(え)と直角(ちよつかく)になるように装置(そうち)される。労働者(ろうどうしや)はちよつとした手(て)かげんでこれを動(うご)かし、極(きは)めてのろくさい為事(しごと)をしてゐる」と、書(か)いてあるので当時(とうじ)の耕作(こうさく)の様子(ようす)がよくわかります。 十八世紀(じゆうはつせいき)は世界(せかい)の文明(ぶんめい)が一度(いちど)に進(すゝ)んだ時代(じだい)で、農具(のうぐ)もまた一大進歩(いちだいしんぽ)を見(み)ました。即(すなはち)、人口(じんこう)もだん/\と殖(ふ)え、昔(むかし)より広(ひろ)い面積(めんせき)の畑(はたけ)を耕(たがや)す必要(ひつよう)が起(おこ)り、便利(べんり)な、速(はや)く動(うご)く犁(すき)が求(もと)められましたが、米国(べいこく)の如(ごと)き未開墾(みかいこん)の処女地(しよじよち)の多(おほ)い場所(ばしよ)では、一(いつ)そうその必要(ひつよう)があつたのです。「必要(ひつよう)は発明(はつめい)の母(はゝ)だ」と申(まを)す通(とほ)り、この要求(ようきゆう)が遂(つひ)に進歩型(しんぽがた)の犁(すき)を発明(はつめい)させました。
 この発明(はつめい)に与(あづ)かつて力(ちから)のあつたのは、トマス・ジエフアーソンといふ政治家(せいじか)です。彼(かれ)は千七百八十八年(せんしちひやくはちじゆうはちねん)にフランスを旅行(りよこう)して、途上(とじよう)、農民(のうみん)が犁(すき)を使(つか)つてゐるのを見(み)て、そのぶかげんさに驚(おどろ)き、日記(につき)に「なんといふのろまさだ、一体(いつたい)なんのために犁(すき)を造(つく)つたのか、わけがわからぬほどだ」と記(しる)してゐます。彼(かれ)は心(こゝろ)のうちで、一体(いつたい)犁(すき)は深(ふか)く土壌(どじよう)を掘(ほ)り返(かへ)すために造(つく)られたものだから、この点(てん)に力(ちから)を注(そゝ)いで改良(かいりよう)を施(ほどこ)さなければならぬと考(かんが)へ、千七百九十三年(せんしちひやくくじゆうさんねん)に理想的(りそうてき)なものを造(つく)りました。それは理論(りろん)からわり出(だ)したもので、科学的(かがくてき)、数理的(すうりてき)ではありましたが、決(けつ)して実用的(じつようてき)なものではありませんでした。
 ジエフアーソンとほとんど同時代(どうじだい)に、二ユー・ジヤーシイ州(しゆう)にチヤールス・ニユーボルドといふ農民(のうみん)がありました。彼(かれ)は今(いま)までの犁(すき)の効力(こうりよく)がないのは、木(き)と鉄(てつ)とを混用(こんよう)してゐるからで、それは当然(とうぜん)全部(ぜんぶ)を鉄製(てつせい)にしなけれならぬと考(かんが)へ、干七百九十六年(せんしちひやくくじゆうろくねん)に、全部(ぜんぶ)を鋳鉄(ちゆうてつ)で造(つく)つた犁(すき)を工夫(くふう)しましたが、土地(とち)の農民達(のうみんたち)は、鉄気(てつき)は畑物(はたもの)に害(がい)を与(あた)へ、剰(あまつさ)へ雑草(ざつそう)を繁(しげ)らせるといつて、せつかく造(つく)つた鉄製犁(てつせいすき)を採用(さいよう)しませんでした。で、彼(かれ)は失望(しつぼう)して、その製造(せいぞう)を中止(ちゆうし)しました。
 然(しか)るに千八百十九年(せんはつぴやくじゆうくねん)に、ニユー・ヨーク州、シツピオのジエスロー・ウツドといふ人が、ジエフアーソン式(しき)とニユー・ボルド式(しき)との長所(ちようしよ)を組(く)み合(あ)はせて、一種(いつしゆ)特色(とくしよく)のある鋳鉄製(ちゆうてつせい)犁(すき)を発明(はつめい)し、すぐその特許権(とつきよけん)を得(え)ました。ウツド式(しき)は各部(かくぶ)が組(く)み合(あ)はせ式(しき)だから、壊(こは)れたら,その部分(ぶぶん)だけを修繕(しゆうぜん)すればよいので、便利(べんり)だといつて歓迎(かんげい)せられ、千八百二十五年(せんはつぴやくにじゆうごねん)には半鉄半木製(はんてつはんもくせい)の旧式犁(きゆうしきすき)は、全(まつた)く文明国(ぶんめいこく)から駆逐(くちく)されてしまひました。
 現在(げんざい)用(もち)ひられてゐる犁(すき)は、干八百十九年(せんはつぴやくじゆうくねん)以来(いらい)、度々(たび/\)改良(かいりよう)されたものであるが、形(かたち)に於(お)いてはウツド式(しき)を離(はな)れることが出来(でき)ません。そこでウイリヤム・エツチ・シウオードといふ人(ひと)は、「米国民(べいこくみん)に取(と)つては、ジエスロー・ウツドぐらゐ、大恩恵(だいおんけい)を与(あた)へてくれた偉人(いじん)はない」と、いつて、彼(かれ)の功労(こうろう)を讃美(さんび)しました。
 しかし、この優良型(ゆうりようがた)でさへ、刃(は)は僅(わづ)かに一本(いつぽん)であつたから、西部諸州(せいぶしよしゆう)の如(ごと)く未開地(みかいち)の多(おほ)いところでは、為事(しごと)がのろくて堪(た)へられなかつたから十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)にはがんぐ・ぷらうといふ複式犁(ふくしきすき)(第四十五図)が発明(はつめい)せられ、一時(いちじ)に四畦(ようね)或(あるひ)は五畦(いつうね)を耕(たがや)すことが出来(でき)るようになりました。その動力(どうりよく)は初(はじ)めは馬(うま)でしたが、今日(こんにち)では蒸気力(じようきりよく)を用(もち)ひ、最近(さいきん)ではがそりんを用(もち)ひてゐるのもあります。

八、鎌(かま)

 先(ま)づ犁(すき)を発明(はつめい)して土地(とち)を耕(たがや)し、それに種(たね)を播(ま)くようにした人間(にんげん)は、次(つ)ぎにはその収穫(しゆうかく)を集(あつ)める必要(ひつよう)が生(しよう)じたので、色々(いろ/\)と思案(しあん)して鎌(かま)を発明(はつめい)しました。
 初(はじ)め穀物(こくもつ)は粗末(そまつ)な、真直(まつすぐ)な小刀(こがたな)で刈(か)り取(と)られたに相違(そうい)ないが、経験上(けいけんじよう)、もしも刃物(はもの)が少(すこ)し曲(まが)つてゐたなら、一(いつ)そううまく刈(か)れるだらうといふ考(かんが)へを起(おこ)して、原始人(げんしじん)は遂(つひ)に『刈(か)り鈎(かぎ)』即(すなはち)、鎌(かま)を発明(はつめい)したのです(第四十六図)。鎌(かま)は半円形(はんえんけい)を呈(てい)して、内側(うちがは)に刃(は)のある小刀(こがたな)の一種(いつしゆ)で、刃(は)の一端(いつたん)は光(ひか)り、他端(たたん)は袋(ふくろ)になつて木(き)の柄(え)がつけられ、穀物(こくもつ)を刈(か)る場合(ばあひ)には、左手(ひだりて)で穀草(こくそう)の上部(じようぶ)を握(にぎ)り、右手(みぎて)に持(も)つた鎌(かま)でその下部(かぶ)を刈(か)り取(と)ります(第四十七図)。一体(いつたい)、この鎌(かま)はいつ頃(ごろ)から使(つか)はれたかわかりませんが、石器時代(せききじだい)の遺物中(いぶつちゆう)には珪石(けいせき)で造(つく)つた類似(るいじ)の道具(どうぐ)があるし、青銅器時代(せいどうきじだい)の遺物(いぶつ)にも原始的(げんしてき)な青銅製(せいどうせい)の鎌(かま)が見出(みい)だされます。従(したが)つて初(はじ)めて使(つか)はれた場所(ばしよ)もわからないが、エジプトか、バビロニヤあたりであらうと思(おも)はれます。テーベにある古(ふる)い建(た)て物(もの)の壁画(へきが)に、エジプト人(じん)が鎌(かま)を使(つか)つてゐる図(ず)がありますが、それでは二人(ふたり)の男(をとこ)が鎌(かま)で穀物(こくもつ)を刈(か)り、それを他(た)の一人(ひとり)の男(をとこ)が集(あつ)め、更(さら)に他(た)の一人(ひとり)の男(をとこ)が穂(ほ)をこく場所(ばしよ)に運(はこ)んでゆくと、牛(うし)がその鈍(のろ)い足(あし)でそれを踏(ふ)んでゐる光景(こうけい)があり/\とうかゞはれます。エジプトで古(ふる)くから鎌(かま)を使(つか)つてゐたことは疑(うたが)ひがございません。
 エジプトで鎌(かま)が用(もち)ひられたように、古代(こだい)の文明人(ぶんめいじん)、即(すなはち)、バビロニヤ人(じん)、ヘブライ人(じん)、ギリシヤ人(じん)、ローマ人(じん)も、それを使(つか)つてゐたと想像(そうぞう)されます。
 この鎌(かま)に第一(だいいち)の改良(かいりよう)を企(くはだ)てたのは、紀元(きげん)百年頃(ひやくねんごろ)で、それに手(て)をつけたのは、当時(とうじ)世界第一(せかいだいいち)といはれたローマの農民(のうみん)でした。ローマの大鎌(おほがま)(第四十八図)は、現今(げんこん)の冶樹刀(やじゆとう)に似(に)たもので、幅(はば)の広(ひろ)い、目方(めかた)の重(おも)い刀身(とうしん)が、長(なが)くて真直(まつすぐ)な柄(え)につけられ、二本(にほん)の手(て)で草(くさ)を刈(か)るために用(もち)ひられました。
 それから後(のち)、千年(せんねん)ばかりの間(あひだ)は、ヨーロツパでは全(まつた)く農業(のうぎよう)が顧(かへり)みられなかつたので、農具(のうぐ)の改良(かいりよう)といふものはほとんど見(み)られませんでした。が、中世紀(ちゆうせいき)の末(すゑ)になつて、ローマ式(しき)大鎌(おほがま)に多少(たしよう)の改良(かいりよう)が施(ほどこ)されました。
 即(すなはち)、フランドルの農民達(のうみんたち)が、ヘイノー大鎌(おほがま)(第四十九図)といはれた改良鎌(かいりようがま)を造(つく)りました。それは立派(りつぱ)な広刃(ひろば)と、曲(まが)つた柄(え)とから出来(でき)てゐて、使(つか)ふ場合(ばあひ)には、左手(ひだりて)に持(も)つた鈎(かぎ)で穀草(こくそう)の茎(くき)を一処(ひとところ)に集(あつ)め、右手(みぎて)に持(も)つた大鎌(おほがま)で穂(ほ)を刈(か)り取(と)ります。以前(いぜん)のものに比(くら)べれば、進歩(しんぽ)はしてゐますが、まだまだ十分(じゆうぶん)とはいへない無細工(ぶさいく)なものでした。
 この次(つ)ぎに、くれーどる大鎌(おほがま)(第五十図)といふのが出来(でき)ました。くれーどるといふのは、『刈(か)り草(くさ)配列機(はいれつき)』などと堅苦(かたくる)しい訳(やく)がついてゐますが、実(じつ)は刈(か)り穂(ほ)受(う)けのことで、刃(は)に沿(そ)うて横(よこ)に木製(もくせい)の指(ゆび)があり、それで刈(か)り取(と)つた穂(ほ)を一束分(ひとたばぶん)づゝかき集(あつ)めて、地上(ちじよう)に落(おと)してゆく働(はたら)きをいたします。初(はじ)めの刈(か)り穂(ほ)受(う)けは、指(ゆび)の数(かず)も少(すくな)く、長(なが)さも短(みじか)かつたが、アメリカでは植民時代(しよくみんじだい)にだん/\それを長(なが)くし、且(か)つ数(かず)をも殖(ふ)やしました。
 このアメリカで改良(かいりよう)せられた新型大鎌(しんがたおほがま)が、革命時代(かくめいじだい)にヨーロツパで歓迎(かんげい)せられ、十八世紀(じゆうはつせいき)の末(すゑ)には、外(ほか)の旧式鎌(きゆうしきかま)を全(まつた)く駆逐(くちく)してしまひました。
 ところがアメリカでは、この刈(か)り穂(ほ)受(う)け附(つ)き大鎌(おほがま)でさへも、農民(のうみん)を満足(まんぞく)させることが出来(でき)ませんでした。そのわけは十九世紀(じゆうくせいき)の初(はじ)めに、うんと効率(こうりつ)の多(おほ)い鋳鉄製(ちゆうてつせい)改良犁(かいりようすき)が造(つく)られて、以前(いぜん)に何倍(なんばい)する広大(こうだい)な畑(はたけ)が耕(たがや)され、従(したが)つて多量(たりよう)の小麦(こむぎ)が播種(ばんしゆ)されて、その穂(ほ)は十分熟(じゆうぶんじゆく)しても、とてもそれを刈(か)り入(い)れることが出来(でき)ません。一(いつ)たい小麦(こむぎ)の穂(ほ)は、ちようど熟(じゆく)し切(き)つた時(とき)に刈(か)らねばならぬが、そのとりいれ時(どき)は僅(わづ)かに三四日(さんよつか)で終(をは)ります。その短(みじか)い間(あひだ)にかたづけてしまふことは、従来(じゆうらい)の大鎌(おほがま)ではおぼつかないので、勢(いきほ)ひ一(いつ)そう改良(かいりよう)された鎌(かま)が発明(はつめい)されねばならぬことになり、その必要(ひつよう)に迫(せま)られて、人手(ひとで)以上(いじよう)に急速(きゆうそく)に刈(か)り取(と)れる鎌(かま)を造(つく)り出(だ)すものが現(あら)はれました(第五十一図)。
 千八百年頃(せんはつぴやくねんごろ)には、ヨーロツパやアメリカの発明家達(はつめいかたち)が、全然(ぜんぜん)新式(しんしき)の鎌(かま)を発明(はつめい)しようと、いづれも頭痛(づつう)鉢巻(はちま)きで工夫(くふう)を凝(こ)らしましたが、ふと二千年(にせんねん)も前(まへ)にゴール人(じん)の使(つか)つてゐた刈(か)り穂機(ほき)から新工夫(しんくふう)に到達(とうたつ)する暗示(あんじ)を得(え)ました。
 一体(いつたい)ゴール人(じん)の刈(か)り穂機(ほき)はどんなものであつたか。紀元(きげん)百年代(ひやくねんだい)のローマの歴史家(れきしか)プリニウスの書物(しよもつ)に、それについての記述(きじゆつ)があります。それは二輪車(にりんしや)の上(うへ)へ、大(おほ)きな空箱(からばこ)を載(の)せたもので、前(まへ)の方(ほう)には穂(ほ)を掴(つか)んで刈(か)り取(と)る刀歯(とうし)が植(う)ゑつけてあり、刈(か)り取(と)つた穂(ほ)は附(つ)き添(そ)ひ人(にん)の手(て)で箱(はこ)の中(なか)に入(い)れられ、牡牛(をうし)が後(あと)から車(くるま)を押(お)して、前(まへ)へ進(すゝ)んでゆく仕(し)かけになつてゐました(第五十二図)。かうした刈(か)り取(と)り機(き)は、しばらくヨーロツパで用(もち)ひられたに相違(そうい)ないが、都合(つごう)の悪(わる)いことがあつたと見(み)えて廃(すた)り、その後(ご)数世紀(すうせいき)の間(あひだ)には全(まつた)く忘(わす)れられてしまひました。
 それをイギリス人(じん)が思(おも)ひ出(だ)して、ゴール人(じん)の意匠(いしよう)を応用(おうよう)して、新式(しんしき)の刈(か)り取(と)り機械(きかい)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。中(なか)でも最(もつと)も注意(ちゆうい)すべきは、イギリスのレミングトン小学校長(しようがつこうちよう)、ヘンリイ・オーグルといふ人(ひと)の発明(はつめい)で、千八百二十二年(せんはつぴやくにじゆうにねん)に、彼(かれ)は従前(じゆうぜん)のものとは全(まつた)く異(ちが)つた、かへつて後世(こうせい)のものに似(に)てゐる刈(か)り取(と)り機械(きかい)の模型(もけい)を作(つく)りました。
 このオーグル式(しき)刈(か)り取(と)り機(き)(第五十三図)は、二輪車(にりんしや)の前(まへ)に馬(うま)をつけて曳(ひ)かせます。右側(みぎがは)に装置(そうち)された箱(はこ)の前部(ぜんぶ)には、刀歯(とうし)が列(れつ)を作(つく)つて植(う)ゑつけられた鉄棒(てつぼう)を取(と)りつけ、刀歯(とうし)の直(す)ぐ下(した)には、鎖(くさり)で自由(じゆう)に動(うご)いて、穂(ほ)が歯(は)の間(あひだ)に挟(はさ)まつた時(とき)、それを刈(か)り取(と)るように出来(でき)てゐる鋭(するど)い刃(は)が横(よこた)はつてゐて、車体(しやたい)が前進(ぜんしん)するにつれて、穀草(こくそう)を刃(は)の方(ほう)へ導(みちび)き、それを刈(か)り取(と)ると直(す)ぐ穂箱(ほばこ)に蔵(をさ)められるような装備(そうび)を持(も)つてゐました。
 オーグル式(しき)は、大体(だいたい)に於(お)いて現代式(げんだいしき)と似(に)てをり、鎌(かま)の発明史(はつめいし)から申(まを)しますと、極(きは)めて重要(じゆうよう)な位置(いち)を占(し)めるのですが、実用上(じつようじよう)ではどうしたものか、あまり歓迎(かんげい)せられなかつたようであります。
 イギリスの発明家達(はつめいかたち)も、かうした風(ふう)に改良鎌(かいりようがま)の製造(せいぞう)に苦心(くしん)しましたが、成功(せいこう)したのはアメリカの技術家(ぎじゆつか)でした。千八百三十一年(せんはつぴやくさんじゆういちねん)の夏(なつ)、ヴアージニヤ州(しゆう)のシエナンドアー渓谷(けいこく)に住(す)んでゐた青年鍛冶(せいねんかぢ)で、名(な)をサイラス・マツコーミツクといつたものが工夫(くふう)を凝(こ)らし、その意匠(いしよう)に基(もと)づいて父親(ちゝおや)の造(つく)り出(だ)した刈(か)り取(と)り機(き)は、どれほどオーグル機(き)を参考(さんこう)したかはわかりませんが、とにかく試運転(しうんてん)には成功(せいこう)して、立派(りつぱ)な結果(けつか)を収(をさ)めました。即(すなはち)、マツコーミツク機(き)は、二頭(にとう)の馬(うま)で曳(ひ)き、午後中(ごごじゆう)に二(に)えーかー、即(すなはち)、二千四百五十坪(にせんしひやくごじつつぼ)ほどの燕麦(からすむぎ)を首尾(しゆび)よく刈(か)り上(あげ)げたといふことです。
 マツコーミツクの伝記(でんき)を書(か)いたカツソンの記述(きじゆつ)によると、この機械(きかい)の働(はたら)きが、大鎌(おほがま)を使(つか)ふ六人(ろくにん)の農夫(のうふ)、もしくは小鎌(こがま)を使(つか)ふ二十四人(にじゆうよにん)の農夫(のうふ)に匹敵(ひつてき)するといふことを、当時(とうじ)の人々(ひと/゛\)は容易(ようい)に信用(しんよう)せず、ちようど人間(にんげん)が駄馬(だば)を背負(せお)つて町中(まちじゆう)を歩(ある)き廻(まは)つたといふ話(はなし)同様(どうよう)、嘘(うそ)だときめてしまつたそうです。
 この機械(きかい)をマツコーミツクの発明(はつめい)したのは、前述(ぜんじゆつ)の通(とほ)り千八百三十一年(せんはつぴやくさんじゆういちねん)でしたが、千八百三十三年(せんはつぴやくさんじゆうさんねん)に、彼(かれ)の機械(きかい)と同様(どうよう)の歓迎(かんげい)を博(はく)した刈(か)り取(と)り機(き)の発明者(はつめいしや)、バルチモアーの水夫(すいふ)オベツド・ハツセイが、特許権(とつきよけん)を先(さ)きに取(と)つてしまひました。そこで実験(じつけん)の始(はじ)めはマツコーミツクであり、特許(とつきよ)の初(はじ)めはハツセイであるといふことに人々(ひと/゛\)がきめてしまひました。
 これら二人(ふたり)の意匠(いしよう)はほとんど同(おな)じですが、ハツセイ式(しき)の特点(とくてん)は、三角形(さんかくけい)鋼鉄製薄板(こうてつせいうすいた)の鋭利(えいり)な刀(とう)が、平(ひら)たい棒(ぼう)に並(なら)べて植(う)ゑつけてあつて、従来(じゆうらい)のものより一(いつ)そう早(はや)く、鋭(するど)く、刈(か)り取(と)ることが出来(でき)るのでした(第五十四図)。それはともかく、これらの二人(ふたり)は、世界(せかい)が要求(ようきゆう)してゐる通(とほ)りの軽便(けいべん)な刈(か)り取(と)り機(き)を造(つく)つて、農業(のうぎよう)の進歩(しんぽ)に貢献(こうけん)したことは特筆(とくひつ)すべきで、共(とも)に近世(きんせい)発明家中(はつめいかちゆう)の偉人(いじん)といつてもよろしい人格(じんかく)であります。
 二人(ふたり)の刈(か)り取(と)り機(き)は、大仕掛(おほじか)けのアメリカ農場(のうじよう)では大歓迎(だいかんげい)を受(う)けましたが、特(とく)に西部諸州(せいぶしよしゆう)の農民(のうみん)にはあり難(がた)がられました。それについて面白(おもしろ)い一(ひと)つの逸話(いつわ)があります。千八百四十四年(せんはつぴやくしじゆうよねん)のこと、マツコーミツクは、オハイオ州(しゆう)、ミチガン州(しゆう)、イリノイス州(しゆう)、アイオア州(しゆう)を旅行(りよこう)したが、イリノイス州(しゆう)にさしかゝると、黄熟(こうじゆく)した大麦(おほむぎ)の畑(はたけ)が、さん/゛\に牛(うし)や豚(ぶた)に荒(あら)らされてをります。あまりのもつたいなさに、どういふわけかと人(ひと)に尋(たづ)ねますと、百姓(ひやくしよう)は昼夜兼行(ちゆうやけんこう)、家内総出(かないそうで)で働(はたら)いてゐますが、鎌(かま)の刈(か)り取(と)る力(ちから)には限(かぎ)りがあつて、全(まつた)く手(て)が廻(まは)りかねてゐるのですと答(こた)へました。「こゝだな!」と、舌打(したう)ちして、マツコーミツクは新発明(しんはつめい)の改良(かいりよう)刈(か)り取(と)り機(き)売(う)りひろめの決意(けつい)をなし、千八百四十七年(せんはつぴやくしじゆうしちねん)チカゴへ移住(いじゆう)して工場(こうじよう)を建(た)て、盛(さか)んに新型機械(しんがたきかい)の製造(せいぞう)に取(と)りかゝりました。
 と、一箇年(いつかねん)足(た)らずで五百台(ごひやくだい)の註文(ちゆうもん)があり、十箇年(じつかねん)の間(あひだ)に二万五千台(にまんごせんだい)を売(う)り上(あ)げましたから、ちようど一箇年(いつかねん)に三十(さんじゆう)まいるづゝのわり合(あひ)で、販路(はんろ)を西方(せいほう)に拡張(かくちよう)したわけになります。実(じつ)に盛(さか)んな勢(いきほ)ひでした。
 しかし、ハツセイやマツコーミツクの機械(きかい)とても、まだ/\完全無欠(かんぜんむけつ)とは申(まを)されません。第一(だいいち)、刈(か)り取(と)つた穀物(こくもつ)を台(だい)から移(うつ)すのに、附(つ)き添(そ)ひ人(にん)が一人(ひとり)ゐて熊手(くまで)で掻(か)き下(おろ)してゐましたが、それを改良(かいりよう)して人手(ひとで)を借(か)りないようにすれば一(いつ)そう便利(べんり)であります(第五十五図)。そこで千八百六十五年頃(せんはつぴやくろくじゆうごねんごろ)には、この点(てん)を改良(かいりよう)して、熊手(くまで)と把稈機(はかんき)とを結合(けつごう)したものが発明(はつめい)されました。把稈機(はかんき)は多数(たすう)の廻転(かいてん)する腕(うで)をもち、腕(うで)はそれ/゛\一(ひと)つづゝの熊手(くまで)をもつてゐて、腕(うで)が廻転(かいてん)するごとに穀草(こくそう)を刈(か)り取(と)り刀(かたな)の方(ほう)へ引(ひ)きつけるばかりではなく、刈(か)り取(と)られたものを掻(か)き集(あつ)めて、それを地(じ)べたに落(おと)す装置(そうち)をもつてゐました(第五十六図)。この自動把稈機(じどうはかんき)の発明(はつめい)は、たしかに一人(ひとり)の人手(ひとで)を省(はぶ)いたので、一時(いちじ)は刈(か)り取(と)り機(き)の最良品(さいりようひん)と目(もく)せられましたが、まもなく更(さら)に五六人(ごろくにん)の手(て)を減(げん)じ得(う)るような新式機(しんしきき)が発明(はつめい)せられて、マツコーミツクやハツセイの機械(きかい)は旧式(きゆうしきになりました。
 新式機(しんしきき)の特色(とくしよく)はどこにあるかといふと、自動束稈装置(じどうそくかんそうち)が完成(かんせい)せられて、立派(りつぱ)に自動的(じどうてき)に穀物(こくもつ)を束(たば)ねました。前(まへ)の機械(きかい)では、掻(か)き集(あつ)めて地上(ちじよう)に落(おと)した麦(むぎ)の穂(ほ)を、束(たば)にして一々(いち/\)縛(しば)るのには、少(すくな)くとも五六人(ごろくにん)の人手(ひとで)がかゝりますが、新式機(しんしきき)では全(まつた)くそれが省(はぶ)けます。この自動束稈機(じどうそくかんき)は、初(はじ)めには針金(はりがね)を用(もち)ひましたが、千八百八十年以後(せんはつぴやくはちじゆうねんいご)には、細縄(ほそなは)を用(もち)ひて麦束(むぎたば)を縛(しば)るように改良(かいりよう)せられました。
 刈(か)り取(と)り機(き)の進歩(しんぽ)は単(たん)にこれに止(とゞ)まらず、更(さら)に驚(おどろ)くべき力(ちから)をもつた完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)の発明(はつめい)を見(み)るに至(いた)りました。この機械(きかい)は畑(はたけ)の穀草(こくそう)を刈(か)り取(と)り、脱穂(だつすい)し、簸(ふる)ひ分(わ)けした上(うへ)に、ちやんと袋包(ふくろづつ)みにしてしまふといふ完全(かんぜん)なもので、一方(いつぽう)では四(し)めーとる乃至(ないし)七(しち)めーとるの刈(か)り取(と)り棒(ぼう)が、その鋭(するど)い刃(は)で小麦(こむぎ)を撫(な)で刈(が)りにしてゐると、他方(たほう)ではその穀類(こくるい)が迅速(じんそく)に袋(ふくろ)づめにされて、いつでも近所(きんじよ)の倉庫(そうこ)とかすてーしよんとかへ送(おく)られるようにされます。
 この完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)は、三四十頭(さんしじつとう)の馬(うま)に曳(ひ)かせるか、或(あるひ)は蒸汽車(じようきしや)で運転(うんてん)されるかするので、一日(いちにち)僅(わづ)かに五十(ごじつ)せんと足(た)らずの費用(ひよう)で、百(ひやく)えーかー(即(すなはち)わが十二万二千四百坪強(じゆうにまんにせんしひやくつぼきよう))の小麦畑(こむぎばたけ)を刈(か)り上(あ)げ、脱穂(だつすい)、簸(ふる)ひ分(わ)けの後(のち)、袋詰(ふくろづ)めにまでされるのであります。だから、マツコーミツク時代(じだい)以前(いぜん)に百人(ひやくにん)の人手(ひとで)を要(よう)した為事(しごと)が、この機械(きかい)では楽(らく)に一日(いちにち)でかたづけることが出来(でき)るわけです。なんと、恐(おそ)ろしい進歩(しんぽ)ではありませんか。人間(にんげん)の知識(ちしき)の限(かぎ)りない進歩(しんぽ)は、将来(しようらい)どんな刈(か)り取(と)り機(き)を工夫(くふう)するか、あらかじめそれを物語(ものがた)ることは出来(でき)ません。
 とにもかくにも、この完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)は、その名(な)の通(とほ)り、沢山(たくさん)な農具(のうぐ)のうちで、最(もつと)も巧妙(こうみよう)に造(つく)られたものだといふことが一般(いつぱん)に認(みと)められてゐて、完全(かんぜん)な機械(きかい)の例(れい)に屡々(しば/\)ひき出(だ)されてをります。

九、臼(うす)

 犁(すき)で地(ち)を耕(たがや)し、鎌(かま)で刈(か)り入(い)れて、臼(うす)で搗(つ)けば、穀物(こくもつ)はもはや食物(しよくもつ)になります。で、こんどは臼(うす)のお話(はな)しをいたしませう。
 人間(にんげん)が初(はじ)めに使(つか)つた臼(うす)は、地(ち)から生(は)えぬきの大岩(おほいは)へ穴(あな)をあけ、其中(そのなか)へ穀物(こくもつ)を入(い)れて、手(て)で持(も)つた石(いし)でそれを圧(お)しつぶすようにしたものでした(第五十七図)。さう遠(とほ)い昔(むかし)のことではありません。アメリカ、ニユー・ジヤーシイ州(しゆう)のトレントンの大通(おほどほ)りに、かうした原始的(げんしてき)の臼(うす)が残(のこ)つてゐて、曾(かつ)ては世界中(せかいじゆう)到(いた)るところにこの種(しゆ)の臼(うす)の用(もち)ひられてゐたことを示(しめ)してゐました。しかし、岩(いは)のないところでは、造(つく)りつけの臼(うす)が出来(でき)ないから、外(ほか)から石(いし)を持(も)つて来(き)て、それにこつぷ型(がた)の凹(くぼ)みを作(つく)りました(第五十八図)。それが即(すなはち)、石臼(いしうす)の起(おこ)りであります。
 最初(さいしよ)の石臼(いしうす)は槌(つち)を伴(ともな)ひます。その槌(つち)は通例(つうれい)木製(もくせい)でした。こんな粗(あら)つぽい製粉器(せいふんき)が、今日(こんにち)でも尚(な)ほスコツトランドで用(もち)ひられて、大麦(おほむぎ)をたゝき潰(つぶ)してゐるのは奇観(きかん)です。
 これと似たもので、槌(つち)を使(つか)はずに杵(きね)を使(つか)ふ縦臼(たてうす)があります(第五十九図)。その杵(きね)の先(さ)きが溝(みぞ)のつけてある鉄片(てつぺん)で包(つゝ)まれてゐるものが、ちよい/\見受(みう)けられました。
 杵(きね)で搗(つ)いてゐるうちに、杵(きね)を廻(まは)して搗(つ)くと一(いつ)そう効果(こうか)の挙(あが)がることを自然(しぜん)に知(し)つて、古代人(こだいじん)は次第(しだい)に杵(きね)を廻(まは)しながら搗(つ)く習慣(しゆうかん)をつくるに至(いた)つたのですが、その廻(まは)して搗(つ)くといふ原理(げんり)を応用(おうよう)して、新(あら)たに工夫(くふう)されたものが、板石臼(いたいしうす)であります(第六十図)。
 板石臼(いたいしうす)は大小二枚(だいしようにまい)の板石(いたいし)からなつてゐて、その間(あひだ)に穀物(こくもつ)を入(い)れ、石(いし)の摩擦(まさつ)でそれを粉(こな)にする仕掛(しか)けであります。南(みなみ)アフリカ探検家(たんけんか)として有名(ゆうめい)なリヴイングストンは、この臼(うす)について次(つ)ぎのように書(か)いてをります。
「粉挽(こなひ)き男(をとこ)は膝(ひざ)をついてしやがみ、両手(りようて)で上石(うはいし)を掴(つか)んで、ちようどぱん屋(や)が粉(こな)でもねつてゐる時(とき)のような工合(ぐあひ)に、上石(うはいし)を下石(したいし)の凹(くぼ)みの上(うへ)に置(お)き、それをしきりもなく前後(ぜんご)に動(うご)かすので、石(いし)の重(おも)さへ人(ひと)の重(おも)さまで加(くは)はつて、穀物(こくもつ)は砕(くだ)きつぶされて、上石(うはいし)と下石(したいし)との間(あひだ)から地上(ちじよう)へこぼれる」
 このアフリカの挽(ひ)き臼(うす)は、やはり杵(きね)を廻(まは)して搗(つ)くと効果(こうか)が挙(あ)がるといふ原理(げんり)を応用(おうよう)したものではありますが、上石(うはいし)を特(とく)に廻(まは)るように造(つく)つたものでないから、もう一奮発(ひとふんぱつ)してそれをぐる/\廻(まは)るようにすれば、上石(うはいし)に柄(え)のついてゐる本当(ほんとう)の挽(ひ)き臼(うす)が出来(でき)るわけです。
 例(れい)によつて初(はじ)めの挽(ひ)き臼(うす)がどこで造(つく)られたかはわかりませんが、古(ふる)い文明国(ぶんめいこく)にはそれ/゛\形(かたち)の異(ちが)つた臼(うす)がございました。しかし、形(かたち)は異(ちが)つてゐても原理(げんり)は同(おな)じですから、どこかで初(はじ)め発明(はつめい)せられたものが、だん/\と他方(たほう)に拡(ひろ)がつていつたものでせう。先(ま)づ古代印度(こだいインド)で用(もち)ひられた臼(うす)の説明(せつめい)から始(はじ)めませう。
 古代印度(こだいインド)の挽(ひ)き石(うす)(ママ)は、上石(うはいし)と下石(したいし)とからなりたつてゐます。上石(うはいし)の底面(ていめん)の中央(ちゆうおう)には孔(あな)があいてゐて、それを下石(したいし)の上面(じようめん)の中央(ちゆうおう)に凸出(とつしゆつ)してゐる旋回軸(せんかいじく)へはめこみます。上石(うはいし)には把手(とつて)がついてゐて、それを廻(まは)せば上石(うはいし)がぐる/\廻(まは)つて、穀物(こくもつ)は上石(うはいし)の中央(ちゆうおう)の孔(あな)から下石(したいし)の上(うへ)に落(お)ち、上石(うはいし)と下石(したいし)との間(あひだ)に挟(はさ)まつて潰(つぶ)され、殻(から)も粉(こな)も一緒(いつしよ)に臼(うす)からこぼれ落(お)ちます。穀物(こくもつ)はいくらか自然(しぜん)に穴(あな)の中(なか)へ入(はひ)りますが、人(ひと)が常(つね)に手(て)を下(くだ)してそれを助(たす)けることにしてゐました。これが漏斗(じようご)のもとになつたのです。
 次(つ)ぎには昔(むかし)ユダヤ人(じん)の間(あひだ)で用(もち)ひられた臼(うす)の説明(せつめい)をしますが、それは下石(したいし)が上石(うはいし)よりも大(おほ)きく、上石(うはいし)の一端(いつたん)に挽(ひ)き木(ぎ)がつき、他端(たたん)に旋回軸(せんかいじく)があつて、二人(ふたり)の婦人(ふじん)がそれを挽(ひ)いたのであります(第六十一図)。『新約聖書(しんやくせいしよ)」中(ちゆう)の「馬太伝(マタイでん)」第二十四章(だいにじゆうししよう)第四十一節(だいしじゆういつせつ)に、『二人(ふたり)の女(をんな)、うすひきをらんに、一人(ひとり)は取(と)られ、一人(ひとり)は遺(のこ)されん』と、いふ句(く)がありますが、臼(うす)の形(かたち)を照(て)らし合(あ)はして見(み)ると興味(きようみ)がございます。
 古代(こだい)ローマの臼(うす)は、一(いつ)そう進歩(しんぽ)したもので、粉(こな)が下石(したいし)の横側(よこがは)の孔(あな)から出(で)るように造(つく)られてをり、現今(げんこん)、台所(だいどころ)で使(つか)はれてゐるこーひー臼(うす)と形(かたち)がよく似(に)てゐます(第六十二図)。
 スコツトランドの手臼(てうす)(第六十三図)は、大分(だいぶ)形(かたち)が異(ちが)つてゐますが、極(きは)めて手軽(てがる)で、今日(こんにち)でも尚(な)ほそれを使(つか)つてゐるところがあるそうです。
 紀元(きげん)七十九年(しちじゆうくねん)、ヴエスヴイオ火山(かざん)が噴火(ふんか)した時(とき)に、当時(とうじ)の大都会(だいとかい)であつたポムペイ市(し)は、灰(はひ)のために埋没(まいぼつ)されました。近年(きんねん)同市(どうし)の発掘作業(はつくつさぎよう)が行(おこな)はれ、昔(むかし)の物(もの)がいろ/\と見出(みいだ)されましたが、そのうちの珍(めづ)らしい一(ひと)つは臼(うす)(第六十四図)であります。その臼(うす)は日本(につぽん)の磨(す)り臼(うす)によく似(に)てをり、上臼(うはうす)は砂時計(すなどけい)の形(かたち)に作(つく)られ、上(うへ)の半分(はんぶん)は漏斗(じやうご)として用(もち)ひられ、下(した)の半分(はんぶん)が穀物(こくもつ)を砕(くだ)くのに用(もち)ひられる。第六十五図(だいろくじゆうごず)の如(ごと)く、下臼(したうす)は円錐形(えんすいけい)で、その上(うへ)に上臼(うはうす)の下半(かはん)がかぶさり、上臼(うはうす)が回転(かいてん)すると下臼(したうす)とすれて粒(つぶ)を磨(す)り砕(くだ)くのです。上臼(うはうす)の中(なか)ほどにくびれがあり、そこに二本(にほん)の把手(とつて)がついてゐて、それを人(ひと)が持(も)つか、馬(うま)、牛(うし)が曳(ひ)くかして、臼(うす)のぐるりを廻(まは)りますと、臼(うす)はおのづから廻転(かいてん)します。これで、紀元(きげん)一世紀(いつせいき)の頃(ころ)に、既(すで)に牛馬(ぎゆうば)の力(ちから)を借(か)りて臼(うす)を廻(まは)らせたことが明(あき)らかになります。
 これらの外(ほか)、いろ/\の改良(かいりよう)が施(ほどこ)されて、臼(うす)の種類(しゆるい)は多(おほ)くなりましたが、中(なか)でも目立(めだ)つのは紀元(きげん)五十年頃(ごじゆうねんごろ)、即(すなはち)、ケーザルの全盛時代(ぜんせいじだい)に、ローマで水力(すいりよく)を用(もち)ひて臼(うす)を廻(まは)す方法(ほうほう)が工夫(くふう)されました。それは水流(すいりゆう)が車輪(しやりん)を廻(まは)しますと、車輪(しやりん)の軸(じく)の上端(じようたん)にくつついてゐる上臼(うはうす)がおのづと廻(まは)る装置(そうち)になつてをり、漏斗(じやうご)は屋根(やね)から吊(つ)り下(さ)げられてゐました(第六十六図)。この水車臼(すいしやうす)の発明(はつめい)は、臼(うす)の歴史(れきし)に一大進歩(いちだいしんぽ)を斎(もた)らしました。
 当時(とうじ)の人々(ひと/゛\)が、どれほどこの水車臼(すいしやうす)を歓迎(かんげい)したかは、ローマの詩人(しじん)の詠(よ)んだ歌(うた)でそれと知(し)られます。
  まめにはたらく少女(しようじよ)らが、
  臼(うす)ひきやめてねむつてる、
  夜明(よあ)けほの/゛\朝鳥(あさどり)が、
  木々(きぎ)にさへづり出(だ)すまでも。
  長(なが)い苦労(くろう)をあはれんで、
  女神(めがみ)は水(みづ)の精(せい)たちを、
  呼(よ)んで少女(しようじよ)に代(かは)らせる。
  車(くるま)に水(みづ)が落(お)ちかゝり、
  軸(じく)をまはせば大臼(おほうす)が、
  ぐる/\廻(まは)つてぐるりから、
  小麦(こむぎ)の粉(こな)がこぼれ出(で)る。
 水車臼(すいしやうす)はもとより簡単(かんたん)なものですが、でも、新式製粉器(しんしきせいふんき)の出来(でき)るまで、数世紀(すうせいき)に亘(わた)つて用(もち)ひられました。
 次(つ)ぎに臼(うす)を上(あ)げたり下(さ)げたりして、望(のぞ)み通(とほ)りに粉(こな)を粗(あら)くも濃(こまか)くも搗(つ)けるような装置(そうち)が出来(でき)ましたが、更(さら)に水車臼(すいしやうす)に改良(かいりよう)が施(ほどこ)されて、殻(から)と粉(こな)とが別々(べつ/\)に篩(ふる)ひわけられるような方法(ほうほう)が発明(はつめい)されました。しかし、十九世紀(じゆうくせいき)までは、大(たい)した進歩(しんぽ)はございませんでした。
 ちようど千八百十年(せんはつぴやくじゆうねん)の頃(ころ)、オーストリヤのウイーンの粉挽(こなひ)き職人(しよくにん)が、二本(にほん)の並列(へいれつ)した廻転棒(かいてんぼう)の間(あひだ)へ穀粒(こくつぶ)を落(おと)して製粉(せいふん)し始(はじ)めました(第六十七図)。この廻転棒(かいてんぼう)には螺旋状(らせんじよう)の溝(みぞ)があつて、それ/゛\異(ちが)つた方向(ほうこう)に廻(まは)つてをり、いかにも柔(やはら)かく粉(こ)が挽(ひ)けたので、オーストリヤの粉(こ)とぱんとは評判(ひようばん)がよくなり、ぱんといへばオーストリヤ製(せい)のものが思(おも)ひ出(だ)させるほどでした。今日(こんにち)でもよく『ウイーンぱん』といひますが、それはウイーンで造(つく)られたぱんといふわけではなく、ただ原料(げんりよう)の粉(こな)がウイーン製(せい)だといふだけであります。
 ウイーン式(しき)製粉機(せいふんき)は、ぢきに世界中(せかいじゆう)に採用(さいよう)されましたが、多量(たりよう)の小麦(こむぎ)を生産(せいさん)するアメリカでは、それに改良(かいりよう)を加(くは)へることに熱中(ねつちゆう)し、遂(つひ)に完全(かんぜん)な廻転製粉機(かいてんせいふんき)(第六十八図)を発明(はつめい)しました。西部諸州(せいぶしよしゆう)に行(おこな)はれてゐる製粉機(せいふんき)は、いくつもの回転器(かいてんき)が取(と)りつけられ、その間(あひだ)を穀類(こくるい)が急速度(きゆうそくど)で通(とほ)ると、立派(りつぱ)に精製(せいせい)せられるように工夫(くふう)してあります。先(ま)づ第一(だいいち)の回転器(かいてんき)では穀物(こくもつ)が殻(から)と大粒(おほつぶ)に砕(くだ)かれた粉(こな)とに篩(ふる)ひわけられ、第二(だいに)の回転器(かいてんき)ではそれを細粉(さいふん)に砕(くだ)いて再度(さいど)の篩(ふる)ひにかけ、第三(だいさん)の回転器(かいてんき)では一(いつ)そう精密(せいみつ)に製粉(せいふん)せられます。
 以前(いぜん)の臼(うす)では殻(から)と粉(こな)とが分離(ぶんり)せず、粉(こな)に殻(から)が混(まじ)り、殻(から)には粉(こな)がついてゐるといふ風(ふう)であつたが、この廻転製粉機(かいてんせいふんき)では粉(こな)と殻(から)とが全然別(ぜんぜんべつ)になりますから、非常(ひじよう)に歓迎(かんげい)せられて、まもなく旧式(きゆうしき)な他(た)の臼(うす)を駆逐(くちく)してしまひました。私達(わたしたち)は今日(こんにち)でも尚(な)ほ田舎(ゐなか)へゆくと、上臼(うはうす)と下臼(したうす)とからなりたつてゐる挽(ひ)き臼(うす)を見受(みう)けることがありますが、さうした店(みせ)はきつと繁昌(はんじよう)してをりません。製粉業者(せいふんぎようしや)も他(た)の製造工業(せいぞうこうぎよう)と等(ひと)しく、最新(さいしん)の機械(きかい)を用(もち)ひなければ時代(じだい)の要求(ようきゆう)に応(おう)じて、経済的(いざいてき)に良(よ)い粉(こ)を造(つく)るわけにはまゐりません。
 ふり返(かへ)つて見(み)ると、岩(いは)へ穴(あな)を明(あ)けて、一掴(ひとつか)みづゝの穀物(こくもつ)を其中(そのなか)に入(い)れ、円(まる)いごろた石(いし)でそれを搗(つ)いてゐた昔(むかし)と、一日(いちにち)に数千袋(すうせんぶくろ)の麦粉(むぎこ)を造(つく)り得(う)る大工場(だいこうじよう)が、いくつも/\ある今日(こんにち)とは、月(つき)と鼈(すつぽん)とよりもひどい違(ちが)ひであります。かうした臼(うす)の進歩(しんぽ)は、同時(どうじ)に人間(にんげん)の食料(しよくりよう)の進歩(しんぽ)をも物語(ものがた)るのであります。

一〇、衣服(いふく)

 私(わたくし)はすでに、食物(しよくもつ)と、食物中(しよくもつちゆう)でも重要(じゆうよう)な穀物(こくもつ)を栽培(さいばい)、収獲(しゆうかく)、製粉(せいふん)する器具(きぐ)、機械(きかい)について語(かた)りましたから、こんどは少(すこ)し衣服(いふく)のことについて述(の)べて見(み)ませう。
 今日(こんにち)、私達(わたくしたち)は、特別(とくべつ)な場合(ばあひ)のほか、夏(なつ)でも冬(ふゆ)でも常(つね)に織(お)り物(もの)で造(つく)つた着物(きもの)を着(き)てゐますが、かうした着物(きもの)が現(あらは)れるまでには、いろ/\の変遷(へんせん)があつたのです。
 大昔(おほむかし)の人間(にんげん)は、いふまでもなくまる裸(はだか)であつたのです。何(なに)一(ひと)つ体(からだ)を蔽(おほ)ふものもありませんでした。しかし、顔(かほ)や胸(むね)や手(て)や足(あし)やを粘土(ねんど)や赤土(あかつち)で塗(ぬ)つたり、または切(き)り疵(きず)をこしらへて見(み)たりして、身体(からだ)を装飾(そうしよく)することはあつたと思(おも)はれます。
 次(つ)ぎに木(き)の葉(は)とか、粗末(そまつ)な編(あ)み物(もの)とかで、腰(こし)のあたりを蔽(おほ)ふ時代(じだい)が来(き)ました。今日(こんにち)でもアフリカのブシユマンといふ野蛮人(やばんじん)は、腰(こし)に何(なに)かちよつと物(もの)をあてゝゐるだけですが、南洋(なんよう)の土人(どじん)には下帯(したおび)(第六十九図イ、ロ)をつけてゐるものがあり、ニユーギニヤの土人(どじん)は腰蓑(こしみの)(第六十九図ハ)の一種(いつしゆ)をつけてをります。この腰衣(こしごろも)といふものは大方(おほかた)宗教上(しゆうきようじよう)の儀式(ぎしき)から起(おこ)つたのであつて、寒(さむ)さを防(ふせ)ぐためとか、暑(あつ)さを避(さ)けるためとか、さういふ目的(もくてき)で造(つく)られたものではありません。なぜならば、昔(むかし)の人々(ひと/゛\)や、今日(こんにち)でも野蛮(やばん)未開(みかい)の人々(ひと/゛\)は、寒(さむ)さ暑(あつ)さに対(たい)する抵抗力(ていこうりよく)が強(つよ)く、それを防(ふせ)ぐために着物(きもの)などを着(き)る必要(ひつよう)を感(かん)じないからであります。
 しかるに、人間(にんげん)の知識(ちしき)が進(すゝ)み、体(からだ)がだん/\弱(よわ)くなつてゆくと、少(すこ)しの寒(さむ)さにもふるへ、少(すこ)しの暑(あつ)さにも喘(あへ)ぐようになりまして、体(からだ)を保護(ほご)するために着物(きもの)を着(き)たり、冠(かぶ)り物(もの)をしたりしました。おそらく初(はじ)めは、寒(さむ)い時(とき)には毛皮(けがは)をひつかけたりしてゐたでせう。暑(あつ)い時(とき)には葉(は)の沢山(たくさん)ついた木枝(こえだ)を背中(せなか)に載(の)せたりしてゐたでせう。従(したが)つて特(とく)にきまつた形(かたち)といふようなものはなかつたが、だん/\と糸(いと)や針(はり)が発明(はつめい)せられて、着物(きもの)を縫(ぬ)ふようになつたのです。
 旧石器時代(きゆうせつきじだい)の絵(え)や彫刻(ちようこく)やを見(み)ると、男(をとこ)も女(をんな)もまる裸(はだか)でありますが、お祭(まつり)の踊(をどり)の図(ず)には、腋(わき)の下(した)には鰭(ひれ)のようなものがぶら下(さが)り、腰(こし)から下(した)はすかーとのようなものをつけた女(をんな)があらはしてあります(第七十図)。この着物(きもの)はどんな縫(ぬ)ひ方(かた)をしたかわかりませんが、エジプトの古画(こが)に現(あらは)れたアニの妻(つま)ツツの着(き)てゐるものと形(かたち)がよく似(に)てゐます。そのエジプト服(ふく)は紀元前(きげんぜん)千四百五十年頃(せんしひやくごじゆうねんごろ)行(おこな)はれたもので、上衣(じようい)と下衣(かい)と二(ふた)つに分(わか)れてゐるが、どこを縫(ぬ)ふといふことはなく、上衣(じようい)は広幅(ひろはゞ)のきれを後(うしろ)から前(まへ)に持(も)つて来(き)て、胸(むね)のあたりで両端(りようはし)を結(むす)び、其上(そのうへ)に涎掛(よだれか)けのようなものをかけました。また下衣(かい)も長(なが)い広幅(ひろはゞ)の巾(きれ)を両足(りようあし)にまきつけ、腰(こし)のあたりで結(むす)びました。アツシリヤの着物(きもの)もギリシヤやローマの着物(きもの)も大体(だいたい)これに似(に)てをり、印度(インド)の仏陀(ぶつだ)の服装(ふくそう)もこれと大差(たいさ)がございません。今日(こんにち)のような服装(ふくそう)は、どういふ順序(じゆんじよ)で発達(はつたつ)したか、はつきりとわかりませんが、アメリカ土人(どじん)の毛皮(けがは)の着物(きもの)(第七十二図)の製法(せいほう)を見(み)ると、どうやらその起(おこ)りが想像(そうぞう)されます。ポンチヨーといふ部族(ぶぞく)の着物(もの)は、山羊(やぎ)の革(かは)を三(みつ)つに切(き)つたもの(第七十三図イ、ロ、ハ)を二(ふた)つ寄(よ)せて作(つく)ります。即(すなはち)、始(はじ)め山羊(やぎ)を胴(どう)から横(よこ)に二(ふた)つに切(き)り、頭部(とうぶ)を縦(たて)に二(ふた)つに切(き)り、その各々(おの/\)を両袖(りようそで)として胴部(どうぶ)の左右(さゆう)につけると、それで着物(きもの)の片側(かたがは)が出来(でき)ます。これと同(おな)じ物(もの)を、も一(ひと)つ造(つく)つて前(まへ)のとあはせ、首(くび)を通(とほ)す孔(あな)だけを残(のこ)して上端(じようたん)の両側(りようがは)を縫(ぬ)ふと、ちやんと着物(きもの)が出来上(できあが)ります。この形(かたち)は腋(わき)の下(した)に鰭(ひれ)のさがつてゐる石器時代(せつきじだい)の衣服(いふく)と似(に)てゐますから、エジプトのも初(はじ)めは毛皮(けがは)であつたものが、後(のち)にうすものに変(かは)つたのだと思(おも)ひます。裁縫(さいほう)は、初(はじ)め、骨針(ほねばり)とか角針(つのばり)とかを用(もち)ひて、革(かは)を細長(ほそなが)く切(き)つたもの、或(あるひ)は植物(しよくぶつ)の蔓(つる)、繊維(せんい)などで縫(ぬ)つたが、金属(きんぞく)が発見(はつけん)せられてから縫(ぬ)ひ針(ばり)が出来(でき)、遂(つひ)に今日(こんにち)のみしんにまで進歩(しんぽ)したのであります。祭礼(さいれい)や儀式(ぎしき)には、今日(こんにち)でも尚(な)ほ古(ふる)い器物(きぶつ)や着物(きもの)が用(もち)ひられますが、荘厳(そうごん)な儀式(ぎしき)に礼服(れいふく)として使(つか)はれる燕尾服(えんびふく)には、いくらかポンチヨー族(ぞく)の山羊(やぎ)の革衣(かはごろも)の形式(けいしき)が残(のこ)り、尻尾(しつぽ)のようなものが後(うしろ)にぶら下(さが)つてゐるのは、極(きは)めて興味(きようみ)の深(ふか)いことであります。

一一、機織(はたお)り

 着物(きもの)のことを述(の)べた後(あと)に、織(お)り物(もの)についてのお話(はなし)をするのは正(たゞ)しい順序(じゆんじよ)です。今日(こんにち)、織(お)り物(もの)には、絹織(きぬお)り物(もの)、毛織(けお)り物(もの)、綿織(めんお)り物(もの)などあり、その織(お)り方(かた)にもいろ/\種類(しゆるい)がありますが、それらはごく簡単(かんたん)な編(あ)み物(もの)から進化(しんか)して来(き)たのです。今(いま)、その進化(しんか)の歴史(れきし)をざつと辿(たど)つて見(み)ませう。
 人間(にんげん)がどうして編(あ)み物(もの)、織(お)り物(もの)を発明(はつめい)したか、はつきりしたことはいはれないが、ことによつたら精巧(せいこう)な網(あみ)を造(つく)る蜘蛛類(くもるい)から暗示(あんじ)を得(え)たかも知(し)れません(第七十五図)。或(あるひ)はまた美(うつく)しい巣(す)を作(つく)る吊巣禽類(ちようそうきんるい)からその技術(ぎじゆつ)を習(なら)つたかも知(し)れません。少(すくな)くとも原始人(げんしじん)が蔓(つる)や小枝(こえだ)で獣類(じゆうるい)を入(い)れるために作(つく)つた檻(をり)や、魚類(ぎよるい)を捕(と)るために作(つく)つた簀立(すだて)(第七十六図)や、蜘蛛(くも)の網(あみ)や鳥(とり)の巣(す)を真似(まね)たものに相違(そうい)ありません。次(つ)ぎには婦人(ふじん)が細長(ほそなが)い木(き)の小枝(こえだ)、たとへば柳(やなぎ)の枝(えだ)のような軟(やはらか)いものを編(あ)んで、籠(かご)や揺籃(ようらん)や蓆(むしろ)やを造(つく)り初(はじ)めましたが、それが織(お)り物(もの)のもとゝなつたのです。
 一番(いちばん)原始的(げんしてき)な機(はた)は、三(さん)めーとるあまりの真直(まつすぐ)な棒(ぼう)へ、巾(きれ)の長(なが)さだけある糸(いと)を何本(なんぼん)も/\並(なら)べ、その一端(いつたん)を束(たば)ねて吊(つる)します。それが今(いま)いふ経(たていと)に当(あた)ります。経(たていと)の他(た)の一端(いつたん)は巾(きれ)の幅(はゞ)だけに一本(いつぽん)づゝ並(なら)べ、それらを上下交互(じようげこうご)に潜(くゞ)らせて、巧(たく)みな指先(ゆびさ)きの働(はたら)きで別(べつ)の糸(いと)を横(よこ)に通(とほ)します。それが即(すなはち)、今(いま)の緯(よこいと)に当(あた)ります。もつと詳(くは)しく説明(せつめい)しようならば、経(たていと)が仮(か)りに
百本(ひやつぽん)あるとすれば、百本(ひやつぽん)をづら/\と並(なら)べ、その第一本(だいいつぽん)の上から第二本(だいにほん)の下(した)へ、第二本(だいにほん)の下(した)から第三本(だいさんぼん)の上(うへ)へ、第三本(だいさんぼん)の上(うへ)から第四本(だいしほん)の下(した)へ、替(かは)り番(ばん)こに百本(ひやつぽん)の経(たていと)の上下(じようげ)を潜(くゞ)らせて、緯(よこいと)を一端(いつたん)から他端(たたん)へ貫(つらぬ)いてゆくのであります。
 プエブロ族(ぞく)の婦人(ふじん)の機(はた)は、これに一歩(いつぽ)を進(すゝ)めたもので、手(て)で緯(よこいと)を通(とほ)す代(かは)りに、櫛(くし)の歯(は)のような形(かたち)の框(わく)を造(つく)つて、それに経(たていと)を通(とほ)し、婦人(ふじん)がそれを右手(みぎて)に持(も)つて上(あ)げたり下(さ)げたりすると、経(たていと)の半分(はんぶん)は上(うへ)に上(あが)り、半分(はんぶん)は下(した)に下(お)りますから、その間(あひだ)に緯(よこいと)を通(とほ)せば、上(うへ)と下(した)と替(かは)り番(ばん)こに緯(よこいと)が通(とほ)る筈(はず)になります。この経(たていと)をさす框(わく)が懸(か)け糸(いと)に当(あた)り、緯(よこいと)を通(とほ)す道具(どうぐ)が杼(ひ)に当(あた)ります。懸(か)け糸(いと)の発明(はつめい)は機織(はたお)りの構造上(こうぞうじよう)大切(たいせつ)なもので、経(たていと)の半分(はんぶん)をそれの孔(あな)へ通(とほ)し、残(のこ)りの半分(はんぶん)を隙(す)き間(ま)へ通(とほ)し、糸(いと)の基端(きたん)を婦人(ふじん)の体(からだ)にくゝり、末端(まつたん)を棒(ぼう)にくゝりつけ、婦人(ふじん)が少(すこ)し後(うしろ)へ退(さが)ると糸(いと)が緊張(きんちよう)するようにして、さて婦人(ふじん)が右手(みぎて)で懸(か)け糸(いと)を上(あ)げると、仮(か)りに経(たていと)が百本(ひやつぽん)あるとして、孔(あな)に通(とほ)してある五十本(ごじつぽん)の経(たていと)は上(あが)るが、隙(すき)に通(とほ)してある五十本(ごじつぽん)の経(たていと)は元(もと)のまゝであるから、上(うへ)の五十本(ごじつぽん)と下(した)の五十本(ごじつぽん)との間(あひだ)には『杼路(ひみち)』といはれる隙(すき)が出来(でき)ます。この隙(すき)へ緯(よこいと)を通(とほ)して置(お)いてから、こんどは懸(か)け糸(いと)を下(さ)げると、また別(べつ)の隙(すき)が出来(でき)るから、前(まへ)とは反対(はんたい)の側(がは)から緯(よこいと)を通(とほ)して、だん/\と基(もと)から末(すゑ)に及(およ)ぼしてゆきます。そこで、旧式(きゆうしき)の機(はた)では、緯(よこいと)を通(とほ)すのに経(たていと)を一本(いつぽん)づゝ上下(じようげ)替(かは)り番(ばんこ)こにくゞらせるので、百本(ひやつぽん)あれば百回(ひやつかい)の手数(てすう)がかゝつたのに、新式(しんしき)の機(はた)ではたゞ一回(いつかい)の手数(てすう)で済(す)むようになり、非常(ひじように)に時間(じかん)と労力(ろうりよく)とが省(はぶ)けます。
 古(ふる)いアフリカの機(はた)(第七十七図)は、これに比(くら)べて一段(いちだん)の進歩(しんぽ)を示(しめ)してゐます。第一(だいいち)、プエブロ式(しき)の機(はた)では懸(か)け糸(いと)が一(ひと)つですが、これには二(ふた)つあつて、それらを足(あし)で動(うご)かしますから、両手(りようて)では他(た)の為事(しごと)が出来(でき)ます。第二(だいに)、プエブロ式(しき)にはない木框(きわく)が造(つく)られ、それを機織(はたお)り女(をんな)が右手(みぎて)で持(も)つて、経(たていと)を揃(そろ)へるかたはら、緯(よこいと)をしめてまゐります。この框(わく)は即(すなはち)、筬(をさ)です。第三(だいさん)、杼路(ひみち)をくゞつて右(みぎ)から左(ひだり)へ、左(ひだり)から右(みぎ)へ、緯(よこいと)を通(とほ)すのには、始(はじ)めは手(て)を用(もち)ひましたが、これでは立派(りつぱ)な杼(ひ)(第七十八図)が出来(でき)てゐます。
 アフリカ式(しき)は大分(だいぶ)進(すゝ)んだとはいひながら、これを今日(こんにち)のものに比(くら)べると、甚(はなは)だ不器用(ぶきよう)な、のろ臭(くさ)いものであります。しかし、此種(このしゆ)の不器用(ぶきよう)な、のろ臭(くさ)い機(はた)で、色様々(いろさま/゛\)の輝(かがや)かしい国王(こくおう)の服(ふく)や僧侶(そうりよ)の衣(ころも)やが織(お)られました。十六世紀(じゆうろくせいき)の機織(はたお)りの絵(え)(第七十九図)を見(み)ると、大(だい)たいに於(お)いてアフリカ式(しき)を脱(だつ)してゐません。そして機織(はたお)り女(をんな)は、足(あし)で懸(か)け糸(いと)を動(うご)かし、左(ひだり)の手(て)で杼(ひ)を投(な)げ、右(みぎ)の手(て)で筬(をさ)を働(はたら)かしてゐます。
 千七百三十三年(せんしちひやくさんじゆうさんねん)は、イギリスの機織業(きしよくぎよう)史上(しじよう)忘(わす)れることの出来(でき)ない年(とし)で、其年(そのとし)にジオーン・ケイといふランカシヤーの機織(はたお)りが、飛(と)び杼(ひ)といふものを工夫(くふう)しました。彼(かれ)の功績(こうせき)の大(おほ)きさを知らうとするには、今一度、従前(じゆうぜん)の杼(ひ)の使ひ方を述べなければなりません。従前(じゆうぜん)の杼(ひ)は人(ひと)の片手(かたて)で上下(じようげ)経(たていと)の隙(すき)に投(な)げ入(い)れられ、更(さら)に他(た)の片手(かたて)で反対(はんたい)の側(がは)へ送(おく)り返(かへ)され、或場合(あるばあひ)には附(つ)き添(そ)ひの子供(こども)にそれを操(あやつ)らせたりしたので、為事(しごと)が一向(いつこう)にはかどりませんでした。それに巾(きれ)の幅(はゞ)が、必要上(ひつようじよう)、おのづと約(やく)四分(しぶん)の一(いち)やーどに定(き)まつてをり、人(ひと)の腕(うで)はその全幅(ぜんぷく)に伸(の)ばしかねますから、杼(ひ)を通(とほ)すのはかなりにむづかしいことだつたのです。ケイはこの点(てん)に目(め)をつけて、杼(ひ)は必(かなら)ずしも人手(ひとで)から人手(ひとで)に渡(わた)らねばならぬことはないから、機械(きかい)の力(ちから)で一方(いつぽう)から他方(たほう)へ投(な)げれば、片手(かたて)だけは用(よう)がなくなるから、杼(ひ)の通(とほ)つた後(あと)で、筬(をさ)で緯(よこいと)をしめてゆくことが出来(でき)る工夫(くふう)をしました。
 第八十図(だいはちじゆうず)に示(しめ)した通(とほ)り、杼(ひ)の通(とほ)る路(みち)(イ)を横(よこ)ぎつて、緯(よこいと)が巾(きれ)の一端(いつたん)から他端(たたん)に走(はし)ります。走(はし)り終(をは)ると、杼(ひ)は左右(さゆう)の箱(はこ)(ロ、ロ)の一(ひと)つにはひります。箱(はこ)の中(なか)には杼(ひ)を押(お)し出(だ)す装置(そうち)(ハ、ハ)があつて、平滑(へいかつ)な竿(さを)(ニ、ニ)の上(うへ)を滑(すべ)るようになつてゐます。織(お)り手(て)が右(みぎ)の手(て)で把手(とつて)(ホ)を牽(ひ)くと、(ハ)が杼(ひ)を向(むこ)う側(がは)へ押(お)し出(だ)すから、左(ひだり)の手(て)で杼(ひ)を動(うご)かし、足(あし)で懸(か)け糸(いと)を動(うご)かすと、巾(きれ)がちやんと織(お)れます。実(じつ)に立派(りつぱ)な発明(はつめい)ですが、ケイはそれを他人(たにん)に盗(ぬす)まれ、あまつさへ自分(じぶん)の家(いへ)は一揆(いつき)のために破壊(はかい)せられ、自分(じぶん)は外国(がいこく)へ漂浪(ひようろう)しなければならなくなつた上(うへ)、旅(たび)の空(そら)で死(し)んでしまひました。
 ケイの最後(さいご)はこんなに悲惨(ひさん)でしたが、この世(よ)に遺(のこ)した功績(こうせき)は遂(つひ)に一般(いつぱん)の認(みと)めるところとなり、彼(かれ)は機織(はたお)り業者(ぎようしや)の恩人(おんじん)として崇(あが)められるのみならず、産業革命(さんぎようかくめい)の基(もと)を開(ひら)いた一人(いちにん)として、経済史上(けいざいしじよう)でもその名(な)が歌(うた)はれてゐます。
 ケイのこの発明(はつめい)は木綿(もめん)金巾(かなきん)を安価(あんか)に供給(きようきゆう)させ、従(したが)つて綿糸(めんし)の需要(じゆよう)を急激(きゆうげき)に増(ま)させたので、ハアグリーヴスとアークライトとが熱心(ねつしん)な研究(けんきゆう)を続(つゞ)けた結果(けつか)、遂(つひ)に紡績機械(ぼうせききかい)の発明(はつめい)を見(み)るに至(いた)りました。ハアグリーヴスの紡績機械(ぼうせききかい)は、千七百六十四年(せんしちひやくろくじゆうよねん)に工夫(くふう)せられ、その名称(めいしよう)をジエンニイ紡績機(ぼうせきき)と申(まを)しました。ジエンニイといふのは妻(つま)の名前(なまへ)ですが、それを機械(きかい)の名(な)に負(お)はしたわけは、妻(つま)のジエンニイが旧式(きゆうしき)な糸繰(いとく)り車(ぐるま)をぶう/\いはせながら糸(いと)を紡(つむ)いでゐるのを見(み)て、人間(にんげん)の手(て)の代(かは)りにある装置(そうち)をすれば、何倍(なんばい)もの糸(いと)を紡(つむ)ぐことが出来(でき)ると考(かんが)へたのが初(はじ)めで、遂(つひ)に同時(どうじ)に二十本(にじつぽん)乃至(ないし)三十本(さんじつぽん)の糸(いと)を紡(つむ)ぐ機械(きかい)を発明(はつめい)し、まもなく製糸業者(せいしぎようしや)の間(あひだ)にひろがりました。
 アークライトの紡績機(ぼうせきき)も、ほとんど同時(どうじ)に完成(かんせい)され、千七百六十九年(せんしちひやくろくじゆうくねん)に専売特許権(せんばいとつきよけん)を得(え)ましたが、ジエンニイ機(き)は綺麗(きれい)な糸(いと)が出来(でき)る点(てん)に於(お)いて優(まさ)つてをり、アークライト機(き)は製糸額(せいしがく)が多(おほ)い点(てん)に於(お)いて優(まさ)つてゐたので、クロムプトンといふ機織(はたお)りが両方(りようほう)の長所(ちようしよ)を併(あは)せて、千七百七十九年(せんしちひやくしちじゆうくねん)にミユール式紡績機(しきぼうせきき)を造(つく)り、これもまたゝく間(あひだ)に一般(いつぱん)に拡(ひろ)がりました。
 こんな風(ふう)に、一方(いつぽう)では続々(ぞく/\)と新式(しんしき)の紡績機械(ぼうせききかい)が発見(はつけん)せられ、他方(たほう)では優良(ゆうりよう)な機械(きかい)が工夫(くふう)せられまして、手織(てお)り機(き)はもはや時代後(じだいおく)れとなり、懸(か)け糸(いと)も、筬(をさ)も、杼(ひ)も、すべて人力(じんりよく)を用(もち)ひず、機械(きかい)で動(うご)かされるようになつたから、人(ひと)はたゞ杼(ひ)の糸(いと)さへ供給(きようきゆう)すればよいのでした。機械(きかい)の動力(どうりよく)は蒸気力(じようきりよく)を用(もち)ひ、水車時代(すいしやじだい)とは異(ちが)つて大仕掛(おほじか)けの工場(こうじよう)が出来(でき)ました。それまでは機屋(はたや)も糸屋(いとや)も、自分達(じぶんたち)の家(いへ)とか店(みせ)とかで、需要(じゆよう)のあるだけぼつ/\造(つく)つてゐましたが、大工場(だいこうじよう)が現(あらは)れてからは小資本(しようしほん)の独立経営(どくりつけいえい)は維持(いじ)されなくなりました。産業革命(さんぎようかくめい)といはれる経済史上(けいざいしじよう)の大事件(だいじけん)であります。
 さて機械(きかい)の発明後(はつめいご)、十九世紀(じゆうくせいき)の初(はじ)めに、フランス国(こく)リヨンのジヨセフ・ジヤツカールが、懸(か)け糸(いと)の代用品(だいようひん)を考(かんが)へ出(だ)して、どんな色彩(しきさい)図案(ずあん)でも望(のぞ)み通(どほ)りに布面(ふめん)へ織(お)りこむことが出来(でき)るようになりました。もちろん、従来(じゆうらい)の機(はた)でゞもそれは出来(でき)ないことはなかつたが、非常(ひじよう)に長(なが)い時間(じかん)と、煩(わづら)はしい手数(てすう)とを要(よう)し、従(したが)つて費用(ひよう)も多(おほ)く要(い)つたので、とても実用(じつよう)には適(てき)しませんでした。そこへ、ちようどジヤツカールの模様織(もようお)り込(こ)み機(き)が発明(はつめい)されたので、貧乏人(びんぼうにん)でも好(この)みの巾(きれ)を求(もと)めて、趣味(しゆみ)を満足(まんぞく)させることが出来(でき)、衣服(いふく)、ことに婦人服(ふじんふく)には一大変動(いちだいへんどう)が起(おこ)りました。
 その後(ご)、織(お)り物(もの)の改良(かいりよう)は年々(ねん/\)行(おこな)はれ、いろ/\の珍柄(ちんがら)、いろ/\の模様(もよう)があらはれましたけれど、機械機(きかいばた)の方(ほう)は大変動(だいへんどう)を見(み)ません。進(すゝ)められるだけ、改(あらた)められるだけは、すでに進(すゝ)め尽(つ)くされ、改(あらた)め尽(つ)くされたのかも知(し)れません。今後(こんご)が見物(みもの)です。

一二、家屋(かおく)

 栗鼠(りす)や海狸(びーばあ)や小鳥(ことり)の生活(せいかつ)を見(み)ると、それ/゛\の本能(ほんのう)に従(したが)つて、めい/\の巣(す)を造(つく)つてをりますが、それと同様(どうよう)、人間(にんげん)もやはり一種(いつしゆ)の建築家(けんちくか)であります。
 人間(にんげん)の家(いへ)は国々(くに/゛\)により、人種(じんしゆ)、部族(ぶぞく)によつてそれ/゛\異(ちが)つてゐますが、初(はじ)めからさうした風(ふう)に異(ちが)つたものが造(つく)られたのか、或(あるひ)は住(す)む土地(とち)の気候(きこう)、建築材料(けんちくざいりよう)の有無(うむ)、敵襲(てきしゆう)の工合(ぐあひ)など、周囲(しゆうい)の状態(じようたい)に従(したが)つて、一(ひと)つのものがだん/\異(ちが)つたものになつていつたのか、その点(てん)はまだ十分(じゆうぶん)はつきりしませんが、旧石器時代(きゆうせつきじだい)のような遠(とほ)い昔(むかし)には、突(つ)き出(で)た岩(いは)の下(した)などに群(むらが)り住(す)み、時(とき)には自然(しぜん)の洞穴(ほらあな)の中(なか)でも起(お)き臥(ふ)したりしたが、進(すゝ)んで山(やま)の腹(はら)に穴(あな)を掘(ほ)つたようなこともあつたでせう。さうした住居(すまゐ)を横穴住居(よこあなじゆうきよ)と申(まを)します。
 まただん/\と時代(じだい)が進(すゝ)むと、地(ち)を掘(ほ)つて縦(たて)に穴(あな)を穿(うが)ち、其上(そのうへ)へさしかけを造(つく)つて、梯子(はしご)で昇(のぼ)り降(お)りする工夫(くふう)を凝(こ)らしたのもあります。かうした住居(すまゐ)を縦穴住居(たてあなじゆうきよ)と申(まを)します。
 しかし、人間(にんげん)は初(はじ)めは木(き)の上(うへ)で寝(ね)たのではないかとも思(おも)はれます。現(げん)にニユーギニヤの土人(どじん)などは、今日(こんにち)でも尚(な)ほ高(たか)い木(き)の上(うへ)に小屋(こや)をさしかけ、敵(てき)が来(き)たり、野獣(やじゆう)が近(ちか)づいたり、恐(おそ)ろしいものが見(み)えたりすると、すぐその樹上家屋(じゆじようかおく)へ攀(よ)ぢ上(のぼ)ります。これなどは恐(おそ)らく、樹上生活(じゆじようせいかつ)を送(おく)つてゐた頃(ころ)のなごりでございませう。
 新石器時代(しんせつきじだい)には、土地(とち)の低(ひく)い湖水地方(こすいちほう)に住(す)んでゐたものは、泥(どろ)や水(みづ)を防(ふせ)ぐために水中(すいちゆう)へ杭(くひ)を打(う)ちこみ、その上(うへ)に家(いへ)を建(た)てゝ、陸地(りくち)とは橋(はし)で交通(こうつう)したり、刳(く)り舟(ぶね)で往(ゆ)き来(き)したりしてゐました(第八十一図)。かうした家(いへ)の床(ゆか)には、床下(ゆかした)、即(すなはち)、水中(すいちゆう)の魚類(ぎよるい)を捕(と)るための桶(をけ)を上(あ)げ下(お)ろしするだけの口(くち)を開(あ)けてあるのもありました。幼(をさな)い子達(こたち)は誤(あやま)つて水中(すいちゆう)に落(お)ちるかも知(し)れないから、足(あし)を縄(なは)で縛(しば)つて柱(はしら)へ括(くゝ)りつけたりしてゐたようです。今日(こんにち)でも南洋(なんよう)にゆきますと、かうした水上生活者(すいじようせいかつしや)がをり、シヤムの大(おほ)きな河々(かは/゛\)にも、たくさんな水上家屋(すいじようかおく)があります。ある学者(がくしや)の考(かんが)へでは、あの『水(みづ)の都(みやこ)』として有名(ゆうめい)なイタリヤのヴエネチヤ市(し)は、かうした水上生活(すいじようせいかつ)の痕跡(こんせき)であるが、たゞ見(み)る影(かげ)もない汚(きたな)い小屋(こや)が、煉瓦(れんが)や石(いし)で造(つく)つた美(うつく)しい建築(けんちく)に変(かは)り、粗末(そまつ)な丸木船(まるきぶね)がごんどらに変(かは)り、無細工(ぶさいく)な棒杭(ぼうぐひ)の橋(はし)が目(め)の覚(さ)めるようなリヤルト大橋(おほはし)に変(かは)つたゞけであるといひます。
 アメリカ土人(どじん)などは天幕生活(てんまくせいかつ)をしてゐますが、あれは森中(もりなか)の立(た)ち木(き)を幾本(いくほん)も梢(こずゑ)で絡(から)め、その枝(えだ)や葉(は)を壁代(かべがは)りにして、その中(なか)に住(す)むことにしてゐた時代(じだい)(第八十二図)のなごりであるといはれます。なるほど天幕(てんまく)にしても小屋(こや)にしても、形(かたち)はすべて円錘状(えんすいじよう)を呈(てい)してゐるから、このことは疑(うたが)ふ余地(よち)がございません。アメリカ土人(どじん)やシベリヤに住(す)んでゐるアジヤ諸種族(しよしゆぞく)の天幕(てんと)は皆円錐形(みなえんすいけい)であり、蒙古(もうこ)からロシヤ・トルキスタンヘかけて見受(みう)けるゆるたといふ小屋(こや)も円錐形(えんすいけい)で、それらが森中(もりなか)の天然天幕(てんねんてんまく)から系統(けいとう)を引(ひ)いてゐるといふことはうけ取(と)れるが、然(しか)らば木造家屋(もくぞうかおく)にしろ、石造家屋(せきぞうかおく)にしろ、大抵(たいてい)の家屋(かおく)が長方形(ちようほうけい)に出来(でき)てゐるのはどういふわけかと聞(き)かれると、ちよつとその答(こた)へに困(こま)りますが、実(じつ)は木材(もくざい)を組(く)み合(あ)はせて家(いへ)を造(つく)るようになつてから、円形(えんけい)にこしらへるのは不便(ふべん)だから、まづ八角形(はつかくけい)に造(つく)り、それが一(いつ)そう角(かく)を少(すくな)くして四角形(しかくけい)に造(つく)ることになつたのです。シベリヤには現(げん)に八角形(はちかくけい)のゆるたが残(のこ)つてゐます。
 これらいろ/\の古(ふる)い建(た)て物(もの)、或(あるひ)は古(ふる)い技術(ぎじゆつ)をそのまゝ伝(つた)へてゐると思(おも)はれる建(た)て物(もの)は一(いつ)たいどれが一番(いちばん)古(ふる)いか、どれが最(もつと)も初(はじ)めのものに近(ちか)いかといふことは、たやすく答(こた)へられない問題(もんだい)ですが、山(やま)には山(やま)に適当(てきとう)した住居(すまゐ)を造(つく)り、森(もり)には森(もり)の生活(せいかつ)に、沼沢(しようたく)では沼沢(しようたく)の生活(せいかつ)に、海岸(かいがん)では海岸(かいがん)の生活(せいかつ)に、それ/゛\ふさはしい住居(すまゐ)を造(つく)つたから、自然(しぜん)形(かたち)が異(ちが)ふようになつたのも事実(じじつ)であり、また材料(ざいりよう)に煩(わづら)はされた点(てん)もあると思(おも)ひます。また同(おな)じ種族(しゆぞく)であつても、冬(ふゆ)と夏(なつ)とでは家(いへ)を異(こと)にし、冬(ふゆ)は縦穴(たてあな)に住(す)み、夏(なつ)は地上(ちじよう)の小屋(こや)に住(す)んでゐるものもあり、建築(けんちく)の様式(ようしき)はかならず一種(いつしゆ)だといふことは出来(でき)ません。
 たゞし石造建築(せきぞうけんちく)を、岩窟住居(がんくつじゆうきよ)の進化(しんか)したものだと見(み)ることは間違(まちが)つてゐないでせう。一般(いつぱん)に石(いし)はどこにもあり、手近(てぢか)な処(ところ)で手(て)にはひります。極(きは)めて古(ふる)い時代(じだい)から石材(せきざい)で建築(けんちく)されたことは、世界(せかい)のそここゝに残(のこ)つてゐる証拠(しようこ)で明(あき)らかであります。新石器時代(しんせつきじだい)にはもはや立派(りつぱ)な石造建築(せきぞうけんちく)があり、それより一時代(いちじだい)古(ふる)い旧石器時代(きゆうせつきじだい)ですら、石(いし)を畳(たゝ)んで住居(すまゐ)らしいものを造(つく)つてゐたように見(み)えます。さうした古(ふる)い建築(けんちく)に用(もち)ひられた石(いし)は、全(まつた)く人工(じんこう)を加(くは)へない、天然(てんねん)そのまゝのもので、もちろん、セメントとか漆喰(しつく)ひとかいふものはないから、たゞ上(うへ)へ/\とだん/\積(つ)み上(あ)げていつたゞけです。しかし、中(なか)にはずいぶん精巧(せいこう)に出来(でき)てゐて、技術(ぎじゆつ)が相当(そうとう)に進(すゝ)んでゐたことを想像(そうぞう)させるものもあります。
 さて、こんどは歴史(れきし)をたどつて、古(ふる)いエジプトから、ギリシヤ、ローマを経(へ)て、近代(きんだい)に至(いた)る建築(けんちく)の進化(しんか)はどうした過程(かてい)を経(へ)て来(き)たかをたづねて見(み)ませう。
 最初(さいしよ)のエジプト建築(けんちく)は、極(きは)めて簡単(かんたん)なもので、先(ま)づ四側(しそく)の壁(かべ)を立(た)て、その上(うへ)に平(ひら)たい屋根(やね)を載(の)せました(第八十三図)。エジプトでは降雨(こうう)がほとんど全(まつた)くありませんから、屋根(やね)に勾配(こうばい)をつける必要(ひつよう)がなかつたのです。エジプトの建築(けんちく)は、構造上(こうぞうじよう)ではかように簡単(かんたん)ですけれど、技術上(ぎじゆつじよう)では立派(りつぱ)な見本(みほん)を後世(こうせい)にのこしました。そのピラミツド即(すなはち)、三角塔(さんかくとう)、記念碑(きねんひ)、スフインクス、即(すなはち)、人面獣身像(じんめんじゆうしんぞう)、宮殿(きゆうでん)は、今尚(いまな)ほ世界(せかい)の不思議(ふしぎ)なものゝ中(うち)に数(かぞ)へられてゐます。
 古代(こだい)エジプトの宮殿(きゆうでん)の内部(ないぶ)を見(み)ると、屋根(やね)の代(かは)りに日除(ひよ)けが張(は)つてあるばかりですが、それは強烈(きようれつ)な日(ひ)の光(ひかり)を遮(さへぎ)る目的(もくてき)で造(つく)られたもので、雨(あめ)を防(ふせ)ぐ目的(もくてき)ではありません。柱(はしら)の上部(じようぶ)と下部(かぶ)とには、エジプトの国花(こくか)といはれる睡蓮(すいれん)の装飾(そうしよく)がしてあります。特(とく)に目立(めだ)つのは上部(じようぶ)の装飾(そうしよく)で、それを建築家(けんちくか)は『柱冠(ちゆうかん)』と申(まを)します。柱冠(ちゆうかん)の彫刻(ちようこく)はよく調(しら)べて見(み)ると、睡蓮(すいれん)の外(ほか)に、ばぴるす(即(すなはち)、かみかやつり)、椰子(やし)などがあつて、いづれも円柱(えんちゆう)の上部(じようぶ)を装飾(そうしよく)する技術(ぎじゆつ)の模範(もはん)となりました(第八十四図)。
 エジプトの建築(けんちく)は、海(うみ)を越(こ)えてクレテ島(とう)に入(い)り、クレテ島(とう)からギリシヤにはひつてをります。クレテの建築(けんちく)も中々(なか/\)立派(りつぱ)で、クノツススのミノスの宮殿(きゆうでん)などは、実(じつ)に堂々(どう/\)たるものであります。ギリシヤはエジプトと異(ちが)つて、雨(あめ)が降(ふ)りますから、エジプトのように屋根(やね)を平(ひら)たくして置(お)くと、水(みづ)はけが悪(わる)くてこまりますから、屋根(やね)に勾配(こうばい)をつけて、雨水(あまみづ)がすぐ流(なが)れてゆくようにいたしました。勾配(こうばい)をつけるにしても、たゞ一方向(いちほうこう)に雨水(あまみづ)が流(なが)れるようにすれば、一方(いつぽう)は天井(てんじよう)が高(たか)いのに、他方(たほう)は低(ひく)くなる嫌(きら)ひがあり、また外観(がいかん)も不体裁(ふていさい)でありますからギリシヤ人(じん)は中央(ちゆうおう)の棟木(むなぎ)から、左右(さゆう)の二方向(にほうこう)へ走(はし)るような緩傾斜(かんけいしや)の屋根(やね)を工夫(くふう)しました(第八十五図)。ギリシヤには雪(ゆき)がないから、いくら勾配(こうばい)をゆるくしても差(さ)し支(つか)へありません。
 さて、かうした風(ふう)の屋根(やね)を造(つく)りますと、真直(まつすぐ)な天井(てんじよう)と、山形(やまがた)の屋根(やね)との間(あひだ)に、三角形(さんかくけい)の空隙(くうげき)が出来(でき)ます。それが即(すなはち)、『破風(はふう)』で、ギリシヤ人(じん)が発明(はつめい)した建築様式(けんちくようしき)であります。円柱(えんちゆう)はエジプトのものを模倣(もほう)したけれど、いろ/\の点(てん)に改良(かいりよう)を施(ほどこ)して、建築史上(けんちくしじよう)にギリシヤ式(しき)円柱(えんちゆう)といふ一(ひと)つの新(あた)らしい型(かた)を残(のこ)しました。
 ギリシヤ式(しき)円柱(えんちゆう)には三通(みとほ)りあります。第一(だいいち)はドーリヤ式(しき)(第八十六図イ)といつて、一番(いちばん)古(ふる)いものであり、ギリシヤの古(ふる)い住民(じゆうみん)であるドーリヤ人(じん)が造(つく)つたものです。それは柱頭(ちゆうとう)には何(なん)の装飾(そうしよく)もなく、たゞ皿斗(さらと)に似(に)たものが上(うへ)にのつてゐるだけであるが、柱(はしら)の全長(ぜんちよう)に亘(わた)つて溝彫(みぞほ)りが施(ほどこ)してあります。また柱(はしら)は下部(かぶ)から中部(ちゆうぶ)に至(いた)るに従(したが)つて段々(だん/\)と太(ふと)くなり、中部(ちゆうぶ)から上部(じようぶ)に至(いた)るに従(したが)つて段々(だん/\)と細(ほそ)くなつてをります。
 第二(だいに)はイオニヤ式(しき)(第八十六図ロ)といつて、イオニヤ人(じん)の工夫(くふう)したものです。ドーリヤ式(しき)に比(くら)べると一(いつ)そう複雑(ふくざつ)でもあり、また優美(ゆうび)でもあつて、柱冠(ちゆうかん)にはうづまき文様(もよう)が彫(ほ)られてゐるが、柱(はしら)の形(かたち)は下(した)から上(うへ)にゆくに従(したが)つてだん/\細(ほそ)くなり、その代(かは)り、溝(みぞ)が一(いつ)そうこまかく彫(ほ)られてゐます。
 第三(だいさん)はコリント式(しき)(第八十六図ハ)といつて、ギリシヤ最後(さいご)の円柱(えんちゆう)の形式(けいしき)です。この式(しき)では柱冠(ちゆうかん)が一(いつ)そう複雑(ふくざつ)になつて、うづまきの上(うへ)に葉(は)を加(くは)へたものがあり、また単(たん)に葉(は)だけの彫刻(ちようこく)を施(ほどこ)したのもあります。葉(は)は一重(ひとへ)のもの、二重(ふたへ)のもの、三重(みへ)のものもあり、あかんつす即(すなはち)、忍冬(にんどう)をあらはしたといはれてゐます。
 かようにギリシヤの建築(けんちく)はエジプトのそれを模倣(もほう)したけれど、エジプト以上(いじよう)のものを工夫(くふう)して、直線的(ちよくせんてき)な建築(けんちく)の模範(もはん)を世界(せかい)に垂(た)れました。ギリシヤの建築(けんちく)はひとりヨーロツパ建築(けんちく)の見本(みほん)になつたばかりではなく、印度(インド)に伝(つた)はつてガンダーラ式(しき)建築(けんちく)となり、ガンダーラ式(しき)建築(けんちく)は、中央(ちゆうおう)アジヤ、支那(しな)、朝鮮(ちようせん)を経(へ)て日本(につぽん)に入(い)り、法隆寺(ほうりゆうじ)の建築(けんちく)などには、たくさんの印度式(インドしき)、ギリシヤ式(しき)要素(ようそ)を含(ふく)んでをります。しかし、直系(ちよつけい)の伝統(でんとう)はどこへいつたかといふと、ギリシヤからイタリヤに流(なが)れ入(い)つて、ローマ式(しき)建築(けんちく)を創(はじ)めるに至(いた)つたのであります。
 紀元前(きげんぜん)百四十六年(ひやくしじゆうろくねん)に、ローマはギリシヤを政治的(せいじてき)に屈従(くつじゆう)せしめましたが、ギリシャの優秀(ゆうしゆう)な文化(ぶんか)──従(したが)つて建築術(けんちくじゆつ)は、それ以前(いぜん)から既(すで)にローマにはひつてゐました。ローマ人(じん)はギリシヤ式(しき)の美点(びてん)を悉(ことごと)く取(と)り入(い)れて、破風(はふう)造(づく)りの屋根(やね)、美(うつく)しい円柱(えんちゆう)などを用(もち)ひた外(ほか)、自分自身(じぶんじしん)で丈夫(じようぶ)なあーち式(しき)の新要素(しんようそ)を加(くは)へました。元来(がんらい)、ギリシヤ式(しき)建築(けんちく)はすべてが直線的(ちよくせんてき)で、入(い)り口(ぐち)や窓(まど)の上部(じようぶ)は、たゞ長(なが)い石材(せきざい)または木材(もくざい)を、縦(たて)に立(た)つた壁(かべ)、或(あるひ)は柱(はしら)の上(うへ)へ横(よこ)にかけわたしてゐましたが、ローマ人(じん)は湾曲(わんきよく)してゐる石材(せきざい)を曲線形(きよくせんけい)に積(つ)み上(あ)げて、『あーち式(しき)』といふ一様式(いちようしき)を創(はじ)めました(第八十七図)。大(おほ)きなどーむ、即(すなはち)、円室(えんしつ)は、ローマ建築(けんちく)の特色(とくしよく)です。ギリシヤ式(しき)でゆくと、せい/゛\二階(にかい)ぐらゐしか出来(でき)ませんが、ローマ式(しき)ではあーちの上にそれ自身(じしん)があーちである半球状(はんきゆうじよう)の屋根(やね)を重(かさ)ねて、二階(にかい)、三階(さんがい)と、いくらでも高(たか)い建(た)て物(もの)を造(つく)ることが出来(でき)ました。
 こんどはイタリヤから北(きた)ヨーロツパヘ、いろ/\の文化(ぶんか)と共(とも)に建築術(けんちくじゆつ)が輸入(ゆにゆう)せられて、周囲(しゆうい)の事情(じじよう)で種々(しゆ/゛\)の変化(へんか)を生(しよう)じました。ローマの滅(ほろ)んだのは西暦(せいれき)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)ですが、それより前(まへ)にローマの思想(しそう)はヨーロツパに輸入(ゆにゆう)せられ、建築(けんちく)に於(お)いては、円柱(えんちゆう)、あーち、円室(えんしつ)などが、フランス、ドイツ、イギリスなどで採用(さいよう)されました。しかし、これらの国々(くに/゛\)はローマとは大分(だいぶ)気候(きこう)が異(ちが)つてをり、北部(ほくぶ)の諸国(しよこく)では豪雨(ごうう)や降雪(こうせつ)の関係(かんけい)から、屋根(やね)の傾斜(けいしや)がゆるやかではならぬので、それを尖(とが)つた急勾配(きゆうこうばい)のものに変(か)へました。それが即(すなはち)、尖塔式(せんとうしき)、或(あるひ)はごしつく式(しき)(第八十八図)といはれる建築(けんちく)の一型(いつけい)で、十二世紀(じゆうにせいき)に創(はじ)められたのですが、十三世紀末(じゆうさんせいきまつ)には北(きた)ヨーロツパ全部(ぜんぶ)に拡(ひろ)がりました。
 この尖塔式建築(せんとうしきけんちく)では、あーち即(すなはち)、穹窿(きゆうりゆう)にも変化(へんか)が起(おこ)りました。元来(がんらい)、ローマ式(しき)あーちは半円形(はんえんけい)で、一(ひと)つの中心(ちゆうしん)しか持(も)つてゐなかつたが、ごしつく式(しき)では二(ふた)つの中心(ちゆうしん)を持(も)つてゐたから、半月形(はんげつけい)の頂端(ちようたん)が心持(こゝろも)ち尖(とが)つたのに、それが非常(ひじよう)に人々(ひと/゛\)の好(この)みに適(てき)したので、出来(でき)るだけ各部(かくぶ)を尖(とが)らし、果(は)ては円(まる)かるべき筈(はず)のどーむをさへ尖(とが)らし、窓(まど)でも、戸(と)でも装飾(そうしよく)でも、すべて尖(とが)つた形(かたち)をもつようになりました。
 紀元(きげん)四百七十六年(しひやくしちじゆう六年)から千四百五十三年(せんしひやくごじゆうさんねん)に至(いた)るヨーロツパは、歴史家(れきしか)が『暗黒時代(あんこくじだい)』と呼(よ)ぶ時代(じだい)を経過(けいか)するのでありますが、この間(あひだ)にギリシヤやローマの文化(ぶんか)は悉(ことごと)く亡(ほろ)んで、文学(ぶんがく)や芸術(げいじゆつ)は見(み)る影(かげ)もなく衰(おとろ)へ果(は)てましたが、十六世紀(じゆうろくせいき)にはひつて人々(ひと/゛\)は長(なが)い夜(よ)の夢(ゆめ)をさまし、束縛的(そくばくてき)な宗教生活(しゆうきようせいかつ)から開放(かいほう)されて、美(び)と自由(じゆう)とにあこがれたギリシヤ人(じん)やローマ人(じん)の精神生活(せいしんせいかつ)を復活(ふつかつ)しようとしました。これがいはゆるるねつさんす、即(すなはち)、『文芸復興時代(ぶんげいふつこうじだい)』で、他(た)の学芸(がくげい)と同様(どうよう)、建築(けんちく)もまた古代様式(こだいようしき)を復活(ふつかつ)しました。
 るねつさんす式(しき)建築(けんちく)(第八十九図)とは、ギリシヤ、ローマ、其他(そのた)色々(いろ/\)の様式(ようしき)の混合(こんごう)されたもので、一部分(いちぶぶん)はごしつく式(しき)であるが、他(た)の一部分(いちぶぶん)はローマ式(しき)であり、またいくらかギリシヤ式(しき)も加(くは)はつてゐるといふ風(ふう)でした。ロンドンのセント・ポーロ寺院(じいん)とローマのセント・ペテロ寺院(じいん)とは、るねつさんす式(しき)建築(けんちく)の代表(だいひよう)であるといはれます。
 かうした歴史(れきし)をもつたヨーロツパの建築(けんちく)が、南北(なんぼく)アメリカ両大陸(りようたいりく)の発見(はつけん)と共(とも)に、そこに流(なが)れ入(い)つたことはいふまでもないが、るねつさんす式(しき)がすぐ輸入(ゆにゆう)されたように考(かんが)へるのは間違(まちが)ひで、実際(じつさい)は気候(きこう)、材料(ざいりよう)、植民(しよくみん)の種類(しゆるい)などに従(したが)つて、種々雑多(しゆ/゛\ざつた)の建築(けんちく)がアメリカに現(あら)はれました。しかし、その雑多(ざつた)の形式(けいしき)の中(なか)にも、どことなく似通(にかよ)つた、どれにももたれてゐる一(ひと)つの型(かた)がありました。それがころにある・すたいる即(すなはち)、植民地式(しよくみんちしき)(第九十図)といはれます。
 十九世紀(じゆうくせいき)の終(をは)りから二十世紀(にじつせいき)の今日(こんにち)へかけて、アメリカ合衆国(がつしゆうこく)は恐(おそ)るべき発展(はつてん)をなし、建築(けんちく)に於(お)いては鋼鉄(こうてつ)を材料(ざいりよう)として高層建築(こうそうけんちく)を始(はじ)めましたが、最近(さいきん)こんくりーと即(すなはち)、混凝土(こんぎようど)の使用(しよう)によつて、建築術(けんちくじゆつ)は一層(いつそう)の進歩(しんぽ)と変化(へんか)とを見(み)ました。ニユー・ヨークなどの大都会(だいとかい)は地価(ちか)が非常(ひじよう)に高(たか)く、また土地(とち)に一(いつ)せんちめーとるの余裕(よゆう)もないので、横(よこ)に伸(の)びる代(かは)りに縦(たて)に伸(の)びる外(ほか)仕方(しかた)がなく、従(したが)つて建(た)て物(もの)はだん/\高(たか)さを増(ま)して、五階(ごかい)、六階(ろつかい)は普通(ふつう)のこと、二十階(にじつかい)も三十階(さんじつかい)もある大建築(だいけんちく)があらはれました。もう五階(ごかい)以上(いじよう)になりますと、一歩々々(いつぽ/\)階段(かいだん)を昇(のぼ)つてゐてはまにあひませんから、どうしてもえれべーたあ即(すなはち)、昇降機(しようこうき)を備(そな)へつけなければなりません。そこで、かうした建築術(けんちくじゆつ)を『えれべ一たあ建築術(けんちくじゆつ)』と呼(よ)び、かうした高層建築(こうそうけんちく)を『すかい・すくれーぱあ』即(すなはち)、訳(やく)すれば『摩天楼(まてんろう)』(第九十一図)と呼(よ)びます。
 東洋(とうよう)の古(ふる)い国(くに)であるわが日本(につぽん)は、アメリカとはたゞ海(うみ)一(ひと)つを隔(へだ)てただけでありますから、十九世紀(じゆうくせいき)の末(すゑ)からその文化(ぶんか)がどし/\とわが国(くに)に入(い)り来(きた)り、建築(けんちく)に於(お)いても此節(このせつ)は大分(だいぶ)すかい・すくれーぱあが見(み)られるようになりました。東京(とうきよう)丸之内(まるのうち)の如(ごと)きは、摩天楼(まてんろう)建築(けんちく)の小(ちひ)さな見本(みほん)であります。
 一(いつ)たい、これまで日本(につぽん)に石造建築(せきぞうけんちく)が発達(はつたつ)しなかつたのは、地震(じしん)が多(おほ)くて崩(くづ)れる恐(おそ)れがあつたからです。反対(はんたい)に木造建築(もくぞうけんちく)の進歩(しんぽ)したのは、気候(きこう)が温和(おんわ)で、降雨量(こううりよう)が多(おほ)く、いたるところによい木材(もくざい)が多(おほ)く得(え)られた結果(けつか)であります。これから先(さ)き、どんな工夫(くふう)が施(ほどこ)されて、日本建築(につぽんけんちく)がどんな新様式(しんようしき)を生(う)み出(だ)すかは興味(きようみ)の多(おほ)い問題(もんだい)であります。

一三、車(くるま)

 以上(いじよう)、私(わたし)は食(く)ふこと、着(き)ること、住(す)むことの三(みつ)つを主体(しゆたい)としてお話(はなし)しましたが、これからは旅行(りよこう)や運輸(うんゆ)について述(の)べることにいたします。
 私達(わたしたち)はみな心(こゝろ)の中(うち)で、現代(げんだい)の運輸機関(うんゆきかん)の整備(せいび)してゐることを誇(ほこ)つてゐます。なるほど、千(せん)まいるも隔(へだた)つた処(ところ)にゐる親友(しんゆう)へ、何(なに)か贈(おく)り物(もの)をしようと思(おも)へば、それを紙包(かみづゝ)みにして、宛名(あてな)を書(か)いて、いくらかの郵便切手(ゆうびんきつて)をはれば、それで十分(じゆうぶん)に目的(もくてき)が達(たつ)せられます。また市場(いちば)へ持(も)ち出(だ)せば高(たか)く売(う)れる果物(くだもの)があるとして、それを汽車便(きしやびん)で送(おく)れば、わずかの運賃(うんちん)を出(だ)すだけで、鉄道従業員(てつどうじゆうぎよういん)が安全(あんぜん)にそれを運(はこ)んでくれます。更(さら)に市内(しない)の知人(ちじん)を訪(たづ)ねようとならば、電車(でんしや)がしきりもなく動(うご)いてゐて、銀貨(ぎんか)一(ひと)つでどこへでも楽々(らく/\)とつれてつてくれます。もし五六百(ごろつぴやく)まいるもある土地(とち)に住(す)んでゐる友達(ともだち)を訪(たづ)ねようとならば、一(いち)まいる五六銭(ごろくせん)の賃銭(ちんせん)で汽車(きしや)が運(はこ)んでくれます。アメリカや南洋(なんよう)の見物(けんぶつ)にゆくとすれば、横浜(よこはま)なり、神戸(こうべ)なりから、乗(の)り心地(ごこち)のよい大汽船(だいきせん)が、私達(わたしたち)を海(うみ)の彼方(かなた)に送(おく)り届(とゞ)けてくれます。たしかに今日(こんにち)の交通(こうつう)、運輸(うんゆ)の機関(きかん)は整備(せいび)してゐるに相違(そうい)ありませんが、これを細(こま)かに観察(かんさつ)すると、一(ひと)つは陸上(りくじよう)の運輸機関(うんゆきかん)、即(すなはち)、車(くるま)であり、他(た)は水上(すいじよう)の運輸機関(うんゆきかん)、即(すなはち)、船(ふね)であり、も一(ひと)つ外(ほか)は空中(くうちゆう)の運輸機関(うんゆきかん)、即(すなはち)、飛行機(ひこうき)、飛行船(ひこうせん)であります。私(わたし)は先(ま)づ車(くるま)のことから説(と)かねばなりません。
 人間(にんげん)最初(さいしよ)の運輸機関(うんゆきかん)は、彼自身(かれじしん)の身体(からだ)でした。旅行(りよこう)しようと思(おも)ふと、二本(にほん)の脚(あし)が彼(かれ)を運(はこ)んでゆきました。昔(むかし)はそれを「膝栗毛(ひざくりげ)にむちうつ」といひましたが、今日(こんにち)では「自動車(じどうしや)でてくる」と申(まを)します。昔(むかし)は馬(うま)が理想的(りそうてき)の運輸機関(うんゆきかん)であり、今日(こんにち)では自動車(じどうしや)が理想的(りそうてき)の運輸機関(うんゆきかん)であるから、たとへの言葉(ことば)がこんなに変(かは)つて来(き)たのです。
 かように、人間(にんげん)は初(はじ)め自分達(じぶんたち)の筋肉(きんにく)を動(うご)かし、四肢(しゝ)や躯幹(くかん)で物品(ぶつぴん)を運(はこ)んでゐました。第一(だいいち)には片手(かたて)でぶら下(さ)げ、第二(だいに)には両手(りようて)で持(も)ち、第三(だいさん)には肩(かた)へ担(かつ)ぎ、第四(だいし)には頭(あたま)に載(の)せ、第五(だいご)には背中(せなか)に背負(せお)つて、第六(だいろく)には腰(こし)のあたりに挟(はさ)んで、身(からだ)と一(いつ)しよにどこへでも持(も)つてゆきました。たくさんな物品(ぶつぴん)でも、それを一(ひと)ところに集(あつ)めると、一時(いちじ)に持(も)つてゆけるといふことを発見(はつけん)すると、すぐ背負(しよ)ひ籠(こ)だの、畚(ふご)だの、天秤棒(てんびんぼう)だのを工夫(くふう)しました。二人(ふたり)で運(はこ)んでゆく担架(たんか)のようなものも発明(はつめい)されました。一番簡単(いちばんかんたん)な方法(ほうほう)は、袋(ふくろ)へ物(もの)を入(い)れて、それをかついでゆくことです。おほくにぬしの神(かみ)が兄神達(あにがみたち)にいぢめられ、従者(じゆうしや)になつてかついでいつた袋(ふくろ)の中(なか)には、たくさんな荷物(にもつ)がはひつてゐたことでせう。今日(こんにち)でも支那(しな)のくーりーは、旅(たび)する時(とき)には日用品(にちようひん)や食糧(しよくりよう)を、浅黄木綿(あさぎもめん)の大袋(おほぶくろ)に入(い)れてかつぎ、どんな遠方(えんぽう)へでも徒歩(とほ)でまゐります。ところで人間(にんげん)は、手近(てぢか)な野獣(やじゆう)を一頭(いつとう)づゝ手(て)なづけ、だん/\数(かず)多(おほ)く馴(な)らして家畜(かちく)といふものが現(あら)はれると、自分(じぶん)の背(せ)の荷物(にもつ)をそれの背(せ)に移(うつ)して運(はこ)ばせるようになりました。馬(うま)や牛(うし)はどこでゞも見(み)られますが、場所(ばしよ)によつてそれが異(ちが)ひ、南(みなみ)アメリカでは螺馬(らば)、印度(インド)では象(ぞう)、アラビヤでは駱駝(らくだ)を使(つか)ひます。
 西(にし)アジヤ、エジプト、ヨーロツパなどでは、初(はじ)めて馬(うま)に荷物(にもつ)を背負(せお)はしましたが、馬(うま)よりものろい動物(どうぶつ)を使(つか)つてゐる国民(こくみん)よりも、文化(ぶんか)が早(はや)く進歩(しんぽ)したと見(み)られます。
「何(なに)が一番(いちばん)、動物(どうぶつ)の中(なか)で役(やく)に立(た)つだらう」と、エジプトの神様(かみさま)の一人(ひとり)が、他(ほか)の神様(かみさま)に尋(たづ)ねたら、
「無論(むろん)馬(うま)さ、馬(うま)ほど容易(ようい)に人(ひと)に捕(つか)まへられ、おまけに戦場(せんじよう)では、人(ひと)の代(かは)りに敵(てき)を蹴殺(けころ)してくれるものがないからさ」と、他(ほか)の神様(かみさま)が答(こた)へたといふ話(はなし)は、馬(うま)がどれだけ重宝(ちようほう)がられてゐたかを示(しめ)すものです。
 手(て)から肩(かた)へ、背(せ)へ、頭(あたま)へ、物品(ぶつぴん)を運(はこ)んでくれる部分(ぶぶん)は変(かは)つても、その重(おも)さは全部(ぜんぶ)一人(ひとり)の体(からだ)にかゝつて来(く)るので、それを他(た)の物(もの)に負担(ふたん)さしたら楽(らく)になるに相違(そうい)ありません。そこで、最初(さいしよ)の車(くるま)が工夫(くふう)されました。
 最初(さいしよ)の車(くるま)は無輪車(むりんしや)(第九十二図)で、二本(にほん)の細丸太(ほそまるた)の基(もと)の方(ほう)を馬(うま)の両脇(りようわき)につけて連結(れんけつ)し、末(すゑ)の方(ほう)を斜(なゝめ)に地上(ちじよう)に落(おと)し、双方(そうほう)を結(むす)んで、そこに荷物(にもつ)を載(の)せるようにしたもので、千八百六十四年(せんはつぴやくろくじゆうよねん)のような新(あたら)しい時代(じだい)まで、此種(このしゆ)の車(くるま)がスコツトランドでは用(もち)ひられてゐました。
 これに一歩(いつぽ)を進(すゝ)めたものが、木(き)の二叉枝(ふたまたえだ)へ横木(よこぎ)を二三本(にさんぼん)とりつけた橇(そり)(第九十三図)で、一本(いつぽん)の枝(えだ)に綱(つな)をつけてそれを曳(ひ)きました。これが現代(げんだい)の完全(かんぜん)な橇(そり)に発達(はつたつ)したので、今日(こんにち)では冬季(とうき)に雪(ゆき)の多(おほ)いところでは、橇(そり)が盛(さか)んに用(もち)ひられ、シベリヤの奥(おく)ではそれを馴鹿(となかひ)に曳(ひ)かせてゐます。わが北海道(ほつかいどう)のアイヌは、犬(いぬ)に橇(そり)を曳(ひ)かせてゐます。
 然(しか)るに、物(もの)はひつぱるよりも廻転(かいてん)させた方(ほう)が軽(かる)くもあり、また早(はや)くもあるといふ原則(げんそく)を発見(はつけん)して、人間(にんげん)は遂(つひ)に有輪車(ゆうりんしや)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。有輪車(ゆうりんしや)の初(はじ)めは、丸太(まるた)に木框(きわく)をつけて、その木框(きわく)を馬(うま)に曳(ひ)かせたものだといふ説(せつ)があります(第九十四図)。とにかく、最初(さいしよ)は一輪車(いちりんしや)であつたに相違(そうい)ありません。
 一輪車(いちりんしや)は支那(しな)で多(おほ)く用(もち)ひられ、どんな細(ほそ)い小道(こみち)でも進(すゝ)んでゆきます。日本(につぽん)にも猫車(ねこぐるま)、或(あるひ)は山猫(やまねこ)と呼(よ)ぶ一輪車(いちりんしや)があつて、中国(ちゆうごく)あたりの山間(さんかん)では今日(こんにち)も尚(な)ほ使(つか)はれてゐます。
 これがどうした風(ふう)にして二輪車(にりんしや)に発達(はつたつ)したかといふに、丸太(まるた)の輪切(わぎ)りは目方(めかた)が重(おも)くて曳(ひ)くのによけいな力(ちから)がいりますが、一部(いちぶ)を削(けづ)り取(と)つても廻転(かいてん)するには差(さ)し支(つか)へがありませんから、車輪(しやりん)に当(あた)る両側(りようがは)だけを残(のこ)して、真中(まんなか)の車軸(しやじく)に当(あた)る部分(ぶぶん)を削(けづ)り去(さ)ることにしました。と、目方(めかた)が軽(かる)くなつて、廻転(かいてん)には少(すこ)しの違(ちが)ひもありません。
 この分銅式(ふんどうしき)の一輪車(いちりんしや)が中央(ちゆうおう)で二(ふた)つに切(き)られると、二輪車(にりんしや)が出来(でき)ます。各々(おの/\)の車輪(しやりん)は厚(あつ)みが減(へ)るだけ軽(かる)くなるから、出来(でき)るだけ丸太(まるた)を薄(うす)い輪切(わぎ)りにして、その二(ふた)つを小枝(こえだ)で連結(れんけつ)するようにしたので、初(はじ)めて車輪(しやりん)と車軸(しやじく)とが現(あら)はれたのです。伊勢(いせ)の太廟(たいびよう)で御木曳(おきび)きの時(とき)に用(もち)ひられる車(くるま)は丸太(まるた)の輪切(わぎ)りを車輪(しやりん)にしてゐますから、余程(よほど)古(ふる)い形式(けいしき)のものと思(おも)はれます。
 輪切(わぎ)り丸太(まるた)の二輪車(にりんしや)は、一輪車(いちりんしや)に比(くら)べれば大変(たいへん)な進歩(しんぽ)ですが、まだ/\重(おも)くて不恰好(ぶかつこう)で、減(へ)り方(かた)が部分(ぶぶん)によつて異(ちが)ふために、傾(かたむ)いたりするので、第一(だいいち)には目方(めかた)を減(げん)じ、第二(だいに)には減(へ)り方(かた)を同(おな)じくする必要(ひつよう)を生(しよう)じ、昔(むかし)の発明家(はつめいか)はそれについて苦心(くしん)した末(すゑ)、先(ま)づ重量(じゆうりよう)を減(げん)ずるために、車輪(しやりん)の一部(いちぶ)に孔(あな)を穿(うが)つことを工夫(くふう)しました。孔(あな)の形(かたち)はいろ/\ですが、初(はじ)めは半円形(はんえんけい)で、それを二(ふた)つ対(むか)ひ合(あ)はせました(第九十五図)。かうすると、目方(めかた)がへるのみならず、堅牢(けんろう)さが増(ま)すことが知(し)れたので、更(さら)に車輪(しやりん)を四(よつ)つの弓形(きゆうけい)の板(いた)から組(く)み立(た)てゝ環状(かんじよう)を造(つく)り、それらを四本(しほん)の輻(や)で結合(けつごう)し、軸(じく)を輻(や)の中央(ちゆうおう)に固着(こちやく)することにしました(第九十六図)。即(すなはち)、これで二(ふた)つの孔(あな)が四(よつ)つに殖(ふ)えたわけです。次(つ)ぎには六本(ろつぽん)の輻(や)で六箇(ろくこ)の輪材(わざい)を連結(れんけつ)し、輪(わ)の外(ほか)に木製(もくせい)の外輪(がいりん)を縛(しば)りつけました(第九十七図)。この最初(さいしよ)の六輻式(ろつぷくしき)の車輪(しやりん)は、エジプトの荷馬車(にばしや)に使(つか)はれてゐるもので、現今(げんこん)の車輪(しやりん)と大体(だいたい)に於(お)いて同(おな)じことです。
 古代(こだい)の文明人(ぶんめいじん)の間(あひだ)では、軽快(けいかい)な競走用(きようそうよう)二輪車(にりんしや)が用(もち)ひられてゐました。今(いま)から三千年(さんぜんねん)も前(まへ)のこと、繁昌(はんじよう)の頂点(ちようてん)にあつたニネヴエーの都(みやこ)では、競走用(きようそうよう)二輪車(にりんしや)がしき石(いし)の敷(し)いてある路上(ろじよう)を、群集(ぐんしゆう)をも顧(かへり)みず、夢中(むちゆう)に疾駆(しつく)さしたことが、古(ふる)い歴史書(れきししよ)に書(か)いてあります。
 二輪車(にりんしや)はローマやギリシヤの人々(人々/゛\)には、単(たん)に競走用(きようそうよう)としてのみならす、軍事用(ぐんじよう)としても採用(さいよう)せられました。メソポタミヤ、印度(インド)、支那(しな)などの古代戦車(こだいせんしや)は、どれもこれも同一(どういつ)の構造(こうぞう)をもつてをります。中世(ちゆうせい)になると、ヨーロツパでは、二輪車(にりんしや)はたゞ運搬用(うんぱんよう)に供(きよう)されただけであります。
 年月(としつき)のたつ中(うち)にだん/\軽(かる)く、だん/\丈夫(じようぶ)に改善(かいぜん)せられて、のろい旧式(きゆうしき)二輪車(にりんしや)から医師用(いしよう)二輪車(にりんしや)が製造(せいぞう)されました。
 二輪(にりん)の馬車(ばしや)二台(にだい)を後部(こうぶ)で連結(れんけつ)すると四輪車(しりんしや)になります。四輪車(しりんしや)はエジプトで造(つく)られ、神(かみ)さんか王(おう)さんの外(ほか)は、それに乗(の)る権利(けんり)がないと信(しん)ぜられ、約(やく)一世紀(いつせいき)の間(あひだ)は神聖視(しんせいし)されてゐました。ローマとてもその通(とほ)りで、四輪車(しりんしや)(第九十八図)は凱旋(がいせん)の軍隊(ぐんたい)を迎(むか)へる時(とき)にのみ使用(しよう)せられ、平生(へいぜい)はそれを乗(の)り廻(まは)すことが禁(きん)ぜられてゐました。
 四輪車(しりんしや)は道路(どうろ)の関係(かんけい)から、ヨーロツパ一般(いつぱん)には用(もち)ひられなかつたが、ローマ人(じん)の造(つく)つて置(お)いた公道(こうどう)──即(すなはち)、ローマ街道(かいどう)が年(とし)と共(とも)に荒(あ)れてからは、旅行(りよこう)は二輪車(にりんしや)或(あるひ)は馬背(ばはい)によるよりほか仕方(しかた)がなく、千五百五十年(せんごひやくごじゆうねん)には、パリでさへ三台(さんだい)、ロンドンには一台(いちだい)しか四輪車(しりんしや)がなかつたといはれます。四輪車(しりんしや)は、中世(ちゆうせい)には、国王(こくおう)か王妃(おうひ)の娯楽用具(ごらくようぐ)になつてしまつたのであります。
 しかし、千五百六十四年(せんごひやくろくじゆうよねん)、エリサベス女皇(じよおう)が乗用(じようよう)した四輪車(しりんしや)(第九十九図)は、車輪(しやりん)に軽快(けいかい)な八本(はちほん)の輻(や)がはまつてをり、車体(しやたい)は楕円形(だえんけい)のばねの上(うへ)に乗(の)つかつてゐたといふから、ほとんど現今(げんこん)のものと同(おな)じ構造(こうぞう)だつたように思(おも)はれます。ばねの発明(はつめい)は千七百年代(せんしちひやくねんだい)で、それが実用(じつよう)に供(きよう)せられたのは、更(さら)に百年(ひやくねん)の後(あと)だといはれてゐるが、エリサベス女皇(じよおう)の時(とき)、既(すで)にそれが発明(はつめい)されてゐたことは疑(うたが)ひがありません。
 次(つ)ぎの十七世紀(じゆうしちせいき)は、車(くるま)の上(うへ)に著(いちじる)しい進歩(しんぽ)の認(みと)められた年代(ねんだい)であります。千六百八十年(せんろつぴやくはちじゆうねん)、蒸気力(じようきりよく)の研究(けんきゆう)に熱中(ねつちゆう)してゐたアイザツク・ニユートンは、蒸気車(じようきしや)、即(すなはち)、私達(わたしたち)が今日(こんにち)『機関車(きかんしや)』と呼(よ)んでゐるものの実験(じつけん)を試(こゝろ)みました(第百図)。これはたしかに初(はじ)めての実験(じつけん)で、不幸(ふこう)にして成功(せいこう)を収(をさ)めなかつたけれど、発明上(はつめいじよう)に大(おほ)きな暗示(あんじ)を与(あた)へたことはいふまでもありません。
 続(つゞ)いて千七百六十九年(せんしちひやくろくじゆうくねん)に、フランスの陸軍士官(りくぐんしかん)キユニヨーが、三輪(さんりん)の蒸気車(じようきしや)(第百一図)を工夫(くふう)したが、実質(じつしつ)は極(きは)めて貧弱(ひんじやく)なもので、速力(そくりよく)が遅(おそ)く、一時間(いちじかん)にたつた三(さん)、四(し)まいるしか走(はし)らないのみならず、十分間毎(じゆつぷんかんごと)に停車(ていしや)して蒸気(じようき)を補充(ほじゆう)しなければならなかつたから、とても大成功(だいせいこう)とは申(まを)されません。しかし、ともかくも車(くるま)に据(す)ゑつけられた蒸気汽缶(じようききかん)が、車輪(しやりん)を動(うご)かせる力(ちから)をもつてゐるといふ確信(かくしん)を一般(いつぱん)に与(あた)へた点(てん)に於(お)いて、キユニヨーは発明家(はつめいか)の列(れつ)に入(い)る名誉(めいよ)を荷(にな)つたのであります。これまでは、蒸気汽缶(じようききかん)はぽんぷを動(うご)かしたり、工場(こうじよう)の機械(きかい)を廻(まは)したりするものだと思(おも)はれてゐたが、それら以外(いがい)に運輸機関(うんゆきかん)にも応用(おうよう)することが出来(でき)るといふことを知(し)らしめました。
 十八世紀(じゆうはちせいき)の末(すゑ)には、莫大(ばくだい)な製造能力(せいぞうのうりよく)をもつた紡績工場(ぼうせきこうじよう)で造(つく)る製品(せいひん)を、容易(ようい)に、且(か)つ急速(きゆうそく)に市場(しじよう)へ運搬(うんぱん)することが出来(でき)たなら、産業上(さんぎようじよう)に大革命(だいかくめい)をひきおこし得(う)るであらうといふ期待(きたい)が、商工業家(しようこうぎようか)の間(あひだ)に一般(いつぱん)に懐(いだ)かれてをりました。そこで、どこの発明家(はつめいか)も、一様(いちよう)に蒸気牽引車(じようきけんいんしや)を発明(はつめい)して成功(せいこう)を収(をさ)めたいと、人(ひと)知(し)れず頭(あたま)を悩(なや)ましてゐたが、あの有名(ゆうめい)なワツトさへも、それの一種(いつしゆ)を試作(しさく)して実験(じつけん)に失敗(しつぱい)した結果(けつか)、蒸気汽缶(じようききかん)はまだ十分(じゆうぶん)研究(けんきゆう)の予地(よち)があるといふ結論(けつろん)に到着(とうちやく)しました。
 成功(せいこう)を夢(ゆめ)みて研究(けんきゆう)に熱中(ねつちゆう)してゐた人々(ひと/゛\)の中(なか)に、千七百七十一年(せんしちひやくじゆういちねん)生(うま)れの、コーニツシユの鉱夫(こうふ)で、名(な)をリチヤード・トレヴイシツクといふ男(をとこ)がございました。この男(をとこ)は天性(てんせい)鋭敏(えいびん)で、少年(しようねん)の時(とき)、学校(がつこう)で教師(きようし)が一問題(いちもんだい)を説明(せつめい)してゐる間(あひだ)に、楽々(らく/\)と六問題(ろくもんだい)の算術(さんじゆつ)を解(と)くことが出来(でき)たほど数学(すうがく)に長(ちよう)じると同時(どうじ)に、機械(きかい)の学問(がくもん)にも秀(ひい)でた天才(てんさい)でした。言(い)ひ伝(つた)へによると、彼(かれ)は子供(こども)の時代(じだい)に、既(すで)に机(つくゑ)の上(うへ)を走(はし)る汽車(きしや)を完成(かんせい)したといはれます。彼(かれ)の努力(どりよく)はさうした日(ひ)から続(つゞ)いて、千八百一年(せんはつぴやくいちねん)には遂(つひ)に汽車(きしや)を完成(かんせい)し、越(こ)えて三年(さんねん)、千八百四年(せんはつぴやくよねん)には、十噸(じゆつとん)の鉄(てつ)と七十名(しちじゆうめい)の人(ひと)と五輛(ごりよう)の貨車(かしや)とを牽引(けんいん)して、毎時(まいじ)五(ご)まいるの速力(そくりよく)で、九(く)まいる半(はん)進(すゝ)むことが出来(でき)た旨(むね)を発表(はつぴよう)しました。これが明(あき)らかに実用的(じつようてき)な汽関車(きかんしや)の初(はじ)めであります。だから、別(べつ)に私(わたし)が機関車(きかんしや)の創製者(そうせいしや)だと主張(しゆちよう)しないでも、その名誉(めいよ)は当然(とうぜん)彼(かれ)の双肩(そうけん)にかゝつて来(く)る筈(はず)だつたのに、彼(かれ)は一向(いつこう)そんなことには頓着(とんちやく)しなかつたので、ニユーカツスル附近(ふきん)のワイラムに住(す)んでゐた発明家(はつめいか)、ジオージ・ステフエンソンの頭上(ずじよう)に、その名誉(めいよ)の桂冠(けいかん)が与(あた)へられました。
 ステフエンソンの両親(りようしん)は貧乏(びんぼう)で、彼(かれ)は十分(じゅうぶん)の教育(きよういく)を授(さづ)けられなかつたけれど、八歳(はつさい)の時(とき)には夜学校(やがつこう)に通(かよ)つて、普通学(ふつうがく)を修(をさ)めました。彼(かれ)は少年時代(しようねんじだい)を蒸気汽缶(じようききかん)の中(なか)で過(す)ごし、初(はじ)めは炭礦(たんこう)の小僧(こぞう)をしてゐたが、まもなく抜擢(ばつてき)されて火夫(かふ)になりました。当時(とうじ)は僅少(きんしよう)の費用(ひよう)で多大(ただい)の働(はたら)きをする汽缶(きかん)がなく、トレヴイシツク式(しき)の汽缶(きかん)でさへ、価(あたひ)が高(たか)くて一般(いつぱん)の気受(きう)けが悪(わる)かつた。そこで、彼(かれ)はもつと安価(あんか)な、しかも良好(りようこう)な汽缶(きかん)を完成(かんせい)する必要(ひつよう)があると思(おも)ひ、それ以後(いご)、努力(どりよく)していくたびも実験(じつけん)をかさね、遂(つひ)に三十二歳(さんじゆうにさい)でそれを完成(かんせい)しました。
 ステフエンソンがこの新汽缶(しんきかん)を発明(はつめい)したのは、千八百十四年(せんはつぴやくじゆうよねん)で、それを用(もち)ひると、毎時(まいじ)十一(じゆういち)、二(に)まいるを走(はし)り、旅客(りよかく)も貨物(かもつ)も馬(うま)を使(つか)ふよりもずつと安値(あんか)で運(はこ)べるといふことを発表(はつぴよう)しました。その十一年後(じゆういちねんご)には、ストツクトンとダーリングトンとの間(あひだ)に鉄道(てつどう)が敷設(ふせつ)せられるまでになりました。しかし、その初(はじ)めの旅客車(りよかくしや)は、使(つか)ひふるしの四輪車(しりんしや)へ汽缶(きかん)を結(むす)びつけたものでした(第百二図)。
 かうした汽車(きしや)を四輪車(しりんしや)に比(くら)べますれば、実(じつ)に偉大(いだい)な成功(せいこう)でありまするが、世人(せじん)はなかなかそれでは満足(まんぞく)せず、もつと完全(かんぜん)な、もつと高速度(こうそくど)のものが発明(はつめい)せられねばならぬと考(かんが)へました。一(いち)を得(う)れば他(た)を望(のぞ)むのは人間(にんげん)の欲望(よくぼう)でありまして、この欲望(よくぼう)からはかない空想(くうそう)も生(うま)れる代(かは)り、たのもしい理想(りそう)も生(うま)れて来(き)て、それが実現(じつげん)される時(とき)に、人類(じんるい)一般(いつぱん)に幾多(いくた)の便益(べんえき)を与(あた)へるのであります。
 十九世紀末(じゆうくせいきまつ)になつて、世界(せかい)の大勢(たいせい)が都会(とかい)集中主義(しゆうちゆうしゆぎ)に傾(かたむ)き、大都会(だいとかい)の人口(じんこう)は増加(ぞうか)し、面積(めんせき)は拡大(かくだい)して、人々(ひと/゛\)は満足(まんぞく)に市中(しちゆう)を往復(おうふく)することが出来(でき)なくなりました。といつて馬車(ばしや)ではどうすることも出来(でき)ず、汽車(きしや)では尚更(なほさら)いろ/\の不便(ふべん)があつたので、遂(つひ)に電車(でんしや)の発明(はつめい)を見(み)るに至(いた)りました。電車(でんしや)は実(じつ)に、一時(いちじ)、群集(ぐんしゆう)で混雑(こんざつ)してゐる大都会内(だいとかいない)の交通機関(こうつうきかん)としては、最(もつと)も適切(てきせつ)なものであつたが、まもなくそれでは事(こと)が足(た)りなくなり、次(つ)いで自動車(じどうしや)が創(はじ)められて、その要求(ようきゆう)を充(み)たしました。
 ちようど、十六世紀(じゆうろくせいき)前後(ぜんご)、ドイツでは人力(じんりよく)による馬(うま)なし車(くるま)(第百三図)が出来(でき)てゐました。これでも自動車(じどうしや)の中(うち)には相違(そうい)ないが、真正(しんしよう)の自動車(じどうしや)は千八百一年(せんはつぴやくいちねん)に、最初(さいしよ)の機関車(きかんしや)発明者(はつめいしや)であるトレヴイシツクによつて造(つく)られました(第百四図)。トレヴイシツクはわざ/\悪道(あくどう)を選(えら)んで試運転(しうんてん)を行(おこな)つたために、思(おも)ふ存分(ぞんぶん)の効果(こうか)を収(をさ)めることが出来(でき)ませんでした。当時(とうじ)、彼以外(かれいがい)の発明家達(はつめいかたち)は、いづれも軌道自動車(きどうじどうしや)、即(すなはち)、汽車(きしや)の発明(はつめい)のみに没頭(ぼつとう)してゐたので、無軌自動車(むきどうじどうしや)、即(すなはち)、おーともびーる(もーたー・かあ)には余(あま)り注意(ちゆうい)を払(はら)ひませんでしたが、近年(きんねん)になつてその研究(けんきゆう)に熱中(ねつちゆう)し始(はじ)めた結果(けつか)、現代(げんだい)に於(お)いてはだん/\と新式(しんしき)のものが発明(はつめい)、発売(はつばい)されるに至(いた)りました。
「では最新式(さいしんしき)の自動車(じどうしや)は、どれほど普及(ふきゆう)されてるでせう」
「誰(だれ)もが馬(うま)の必要(ひつよう)をほとんど認(みと)めないまでに」
「馬(うま)ばかりでなく、汽車(きしや)も電車(でんしや)も必要(ひつよう)がなくなりはしないでせうか。鉄道線路(てつどうせんろ)を敷(し)く余地(よち)がなくなつて、旅客(りよかく)も荷物(にもつ)もみな自動車(じどうしや)による時代(じだい)──即(すなはち)、自動車(じどうしや)万能時代(ばんのうじだい)が近(ちか)づいてゐるんではないでせうか」
 これに対(たい)する答(こたへ)は、読者諸君(どくしやしよくん)の想像(そうぞう)に一任(いちにん)します。

一四 船(ふね)

 昔(むかし)の人(ひと)が旅(たび)をするのに、一番(いちばん)困(こま)つたのは水(みづ)です。河(かは)や湖(みづうみ)や海(うみ)や、小(ちひ)さいものは泳(およ)いでも越(こ)されるが、大(おほ)きなものは越(こ)されません。そこで、昔(むかし)の利口(りこう)な人達(ひとたち)は、木(き)の葉(は)や竹片(たけぎれ)が水(みづ)の上(うへ)に浮(う)いてゐるのを見(み)て、軽(かる)いものは水(みづ)の上(うへ)に浮(う)くといふ第一(だいいち)の方則(ほうそく)を発見(はつけん)しました。
 次(つ)ぎに、木(き)の葉(は)や竹片(たけぎれ)の上(うへ)に、蜘蛛(くも)や蟻(あり)の乗(の)つてゐるのを見(み)て、軽(かる)いものに他(た)の物(もの)が乗(の)つても水(みづ)に沈(しづ)まないといふ第二(だいに)の方則(ほうそく)を発見(はつけん)しました。
 三番目(さんばんめ)に、昔(むかし)の人達(ひとたち)は、それら二(ふた)つの方則(ほうそく)に基(もと)づいて、水(みづ)の上(うへ)に浮(う)くものへ人間(にんげん)が乗(の)れば、越(こ)されない水(みづ)を越(こ)すことが出来(でき)るだらうといふ想像(そうぞう)をめぐらして、遂(つひ)に『浮(う)き』を発見(はつけん)しました。
 初(はじ)めには、椰子(やし)の実(み)でも、瓢箪(ひようたん)でも、丸太(まるた)でも、竹片(たけぎれ)でも、水(みづ)に浮(う)くものはすべて浮(う)きとして、それにぶら下(さが)つたり、それの上(うへ)に跨(またが)つたりしたのです。南洋(なんよう)には椰子(やし)の実(み)の浮(う)きが今(いま)でもあり、それに人(ひと)が乗(の)つてゆきます。朝鮮(ちようせん)では海女(あま)が瓢箪(ひようたん)を腰(こし)につけて海(うみ)の上(うへ)を泳(およ)いでゐます。しかし、それらは小(ちひ)さくて、人間(にんげん)の体(からだ)を載(の)せることが出来(でき)ないから、次(つ)ぎにはもつと大(おほ)きなものを選(えら)びます。そこで、選(えら)ばれたのが丸太(まるた)でせうが、丸太(まるた)に乗(の)つたゞけでは前(まへ)に進(すゝ)まないから、木(き)の枝(えだ)で水(みづ)を掻(か)くとそれが前(まへ)へ進(すゝ)みます(第百五図)、右(みぎ)と左(ひだり)とを替(かは)り番(ばん)こに掻(か)けば丸太(まるた)が真直(まつすぐ)に前進(ぜんしん)することも発見(はつけん)せられたであらうし、その一端(いつたん)を尖(とが)らせば進(すゝ)む度合(どあひ)が速(はや)いことも発見(はつけん)せられたでせう(第百六図)。
 けれども、丸太(まるた)はくる/\と廻(まは)つて、やゝもすれば人(ひと)が水(みづ)の中(なか)に落(お)ちるから、それを何本(なんぼん)も並(なら)べて大(おほ)きな面積(めんせき)を作(つく)れば、人(ひと)が沢山(たくさん)乗(の)ることも出来(でき)、またくる/\廻(まは)ることもないことが発見(はつけん)せられ、三本(さんぼん)、五本(ごほん)、七本(しちほん)といふ風(ふう)に、奇数(きすう)の丸太(まるた)を並(なら)べて絡(かゞ)り合(あ)はしたり、笄(かうがい)ざし(第百七図)にしたりすることを工夫(くふう)しました。それが即(すなはち)、筏(いかだ)です。
 筏(いかだ)は丸太(まるた)に比(くら)べると、航行(こうこう)が安全(あんぜん)ですけれども、吃水(きつすい)が浅(あさ)いから水(みづ)に湿(ぬ)れるのみか、海(うみ)では波(なみ)にさらはれるから、両側(りようがは)に欄干(らんかん)を作(つく)つたり、中央(ちゆうおう)に棚(たな)を造(つく)つたりして、荷物(にもつ)や人間(にんげん)が水(みづ)に湿(ぬ)れたり波(なみ)にさらはれたりするのを防(ふせ)ぐことを工夫(くふう)しました。これが筏舟(いかだぶね)で、朝鮮(ちようせん)では今日(こんにち)でも尚(な)ほ用(もち)ひられてゐます。すさのをのみことが朝鮮(ちようせん)と日本(にほん)との間(あひだ)を往復(おうふく)せられた浮(う)き宝(たから)といふのは、この種(しゆ)の筏舟(いかだぶね)であつたらうと思(おも)ひます。
 支那(しな)には揚子江(ようすこう)といふ大(おほ)きな河(かは)がありますが、その上流(じようりゆう)の山岳地方(さんがくちほう)には沢山(たくさん)森林(しんりん)があり、そこから材木(ざいもく)を伐(き)り出(だ)して大(おほ)きな筏(いかだ)に造(つく)り、それをだん/\と河下(かはしも)に流(なが)しながら、方々(ほうぼう)の町(まち)に寄(よ)つて材木(ざいもく)を売(う)りますが、売(う)り切(き)れない時(とき)は上海(シヤンハイ)までも来(き)ます。上流(じようりゆう)から下流(かりゆう)まで来(く)るのに、長(なが)いときは三年(さんねん)もかゝるそうで、筏(いかだ)の上(うへ)には何軒(なんけん)もの家(いへ)があり、家(いへ)の後(うしろ)には畑(はたけ)があつて食(く)ふべき野菜(やさい)をつくり、物干(ものほ)し場(ば)には洗濯物(せんたくもの)が干(ほ)してあります。猫(ねこ)もをれば、犬(いぬ)もをり、鶏(にはとり)はくゝと啼(な)いて餌(ゑ)をあさつてゐます。筏師(いかだし)の中(なか)には、筏(いかだ)で生(うま)れて筏(いかだ)で死(し)ぬものもあるといふことです。すべての点(てん)が、陸上(りくじよう)と少(すこ)しも異(ちが)つてゐません。
 筏(いかだ)は木(き)ばかりかと思(おも)つたら大間違(おほまちが)ひで、昔(むかし)から草(くさ)でそれを造(つく)つてゐます。ぱぴるすといふ草(くさ)や葦(あし)や竹(たけ)で造(つく)つたものには、ずいぶん進歩(しんぽ)したものがあります。
 丸太(まるた)が一方(いつぽう)では筏(いかだ)に発達(はつたつ)したに対(たい)し、他方(たほう)ではその上部(じようぶ)を削(けづ)つて平(ひら)たくし、更(さら)にそれに凹(くぼ)みをつけて人(ひと)の乗(の)る座席(ざせき)を造(つく)ることを工夫(くふう)して、出来上(できあが)つたのが丸木舟(まるきぶね)です。丸木舟(まるきぶね)は昔(むかし)からいたるところで用(もち)ひられ、わが国(くに)の石器時代(せつきじだい)遺跡(いせき)からも発見(はつけん)されます。それらを上(うへ)から見(み)ると、一(ひと)つは長方形(ちようほうけい)を呈(てい)し、一(ひと)つは五角形(ごかくけい)を呈(てい)してゐるが、前者(ぜんしや)はたゞの輪切(わぎ)り丸太(まるた)のなごりで、後者(こうしや)は尖(とが)り丸太(まるた)のなごりであります。
 普通(ふつう)には構造船(こうぞうせん)──即(すなはち)、今日(こんにち)、私達(わたしたち)のもつてゐるような船(ふね)は、丸木舟(まるきぶね)が進化(しんか)したものでなくて、筏(いかだ)から出(で)て来(き)たと考(かんが)へられてゐます。筏(いかだ)は一層(いつそう)では吃水(きつすい)が浅(あさ)くて水(みづ)にぬれるから、縦(たて)に丸太(まるた)を並(なら)べた上(うへ)に、横(よこ)に十字(じゆうじ)を描(えが)いて丸太(まるた)を並(なら)べると、二層(にそう)の筏(いかだ)が出来(でき)、その上(うへ)へ更(さら)に縦(たて)に丸太(まるた)を並(なら)べると、三層(さんそう)の筏(いかだ)が出来(でき)ます。日本(につぽん)にはこんな筏(いかだ)がないけれど、大陸諸国(たいりくしよこく)の筏(いかだ)には二層(にそう)も三層(さんそう)もあるものがあつて、その第一層(だいいつそう)が船(ふね)の底(そこ)になり、第二層(だいにそう)が舷側(ふなべり)になり、第三層(だいさんそう)が甲板(かんぱん)になつたのだと申(まを)します。それに相違(そうい)はありませんが、私(わたし)は丸木舟(まるきぶね)からも構造船(こうぞうせん)が出(で)て来(き)てゐると考(かんが)へます。
 縫(ぬ)ひ合(あは)せ船(ぶね)といふのは、丸木船(まるきぶね)の両側(りようがは)に側板(わきいた)を縫(ぬ)いつけたもので、縫(ぬ)うのには藤蔓(ふぢづる)とか木(き)の繊維(せんい)とかを用(もち)ひましたが、今(いま)でも針金(はりがね)を使(つか)つて丸木舟(まるきぶね)の上(うへ)へ側板(わきいた)を縫(ぬ)ひつけたものが、沖縄県(おきなはけん)へゆくと見(み)られます。
 さて、これらの丸木舟(まるきぶね)、縫(ぬ)ひ合(あは)せ船(ぶね)、筏(いかだ)などに乗(の)つてゐる時(とき)、風(かぜ)が吹(ふ)いて身(み)に当(あた)ると、いつよりも早(はや)く舟(ふね)や筏(いかだ)の進(すゝ)むことに気(き)づいた人間(にんげん)は、風(かぜ)の力(ちから)は舟(ふね)を前進(ぜんしん)させるといふ原理(げんり)を発見(はつけん)しまして、遂(つひ)に帆(ほ)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。帆(ほ)は初(はじ)めは蓆(むしろ)か何(なに)かを用(もち)ひて、特(とく)にきまつた形(かたち)もなく、また帆柱(ほばしら)といふようなものもなかつたが、だん/\とそれらにきまつた形(かたち)が出来(でき)て、どんな舟(ふね)でもそれを備(そな)へるようになつたのです。エジプトの古(ふる)い船(ふね)の図(ず)を見(み)ますと、帆(ほ)は四角形(しかくけい)を呈(てい)し、帆柱(ほばしら)は梯子形(はしごがた)を呈(てい)してゐます。また舵(かぢ)といふものはないが、船(ふね)を漕(こ)ぐための擢(かい)とは異(ちが)つて大(おほ)きな、長(なが)い擢(かい)が艫(ろ)についてゐて、それで針路(しんろ)を正(たゞ)したことが知(し)れます。不思議(ふしぎ)なことにはアメリカのチチカカ湖(こ)に浮(うか)んでゐる葦船(あしぶね)に、四角形(しかくけい)の笹帆(さゝほ)を梯子形(はしごがた)の帆柱(ほばしら)に張(は)つたものがあり、またガヤキルの木筏(きいかだ)(第百八図)にも同様(どうよう)の装備(そうび)をもつてゐるものがあるので、それらは遠(とほ)い/\昔(むかし)に、エジプト式(しき)の航海法(こうかいほう)が、印度洋(インドよう)を経(へ)て、太平洋(たいへいよう)からアメリカ大陸(たいりく)へはひつたのだといふことが近頃(ちかごろ)知(し)られてまゐりました。
 原始人(げんしじん)の舟(ふね)にも大抵(たいてい)碇(いかり)はありますが、ほとんどすべて石(いし)を縄(なは)で縛(しば)つたものを用(もち)ひてゐます。場所(ばしよ)によつては砂袋(すなぶくろ)を下(さ)げたのもあり、小石(こいし)を竹籠(たけかご)に入(い)れたのもあり、二股(ふたまた)の木枝(きえだ)を沈(しづ)めたのもあります。伝説(でんせつ)によると、ギリシヤの七賢人(しちけんじん)の一人(ひとり)であつたアナカルシスが、二(ふた)つの鈎(かぎ)をもつた碇(いかり)を造(つく)つたのが、現今(げんこん)の碇(いかり)の初(はじ)めだと申(まを)します。
 何(なに)をいつても昔(むかし)の航海上手(こうかいじようず)は、フエニキヤ人(じん)であります。エジプト人(じん)もいろ/\な舟(ふね)を造(つく)りましたが、大抵(たいてい)はニル河(がは)を上下(じようげ)したゞけで、海上(かいじよう)には出(で)なかつたようです。しかるに、フエニキヤ人(じん)は、五千年(ごせんねん)も前(まへ)に地中海(ちちゆうかい)を航行(こうこう)し、ジブラルタル海峡(かいきよう)を越(こ)えて大西洋(たいせいよう)に出(で)て、今(いま)のイギリスまでもいつて交易(こうえき)を行(おこな)ひました。フエニキヤは地中海(ちちゆうかい)に臨(のぞ)んだ細長(ほそなが)い海岸平地(かいがんへいち)で、前(まへ)は海(うみ)、後(うしろ)は山(やま)、そして土地(とち)が痩(や)せてゐるから、活動(かつどう)の天地(てんち)を海(うみ)のかなたに求(もと)めて、波(なみ)の上(うへ)に出(で)かけたのです。後(うしろ)の山(やま)はあの旧約聖書(きうやくせいしよ)で有名(ゆうめい)なレバノン山脈(さんみやく)で、そこから杉材(すぎざい)が沢山(たくさん)伐(き)り出(だ)されたから、それで船(ふね)を造(つく)つて盛(さか)んに航海(こうかい)したのです。
 ギリシヤ人(じん)もかなり海上(かいじよう)で活動(かつどう)して、その貿易船(ぼうえきせん)は当時(とうじ)知(し)られてゐた世界各国(せかいかくこく)の港々(みなと/\)に出入(しゆつにゆう)しました。しかし、まもなくローマ人(じん)が勃興(ぼつこう)して海上(かいじよう)の覇権(はけん)を握(にぎ)り、フエニキヤ人(じん)はもちろん、ギリシヤ人(じん)も勢力(せいりよく)を失(うしな)つてしまひました。ローマ式(しき)がりい(撓船(とうせん)などと訳(やく)されてゐる大船(おほぶね))は、実(じつ)に大(だい)ローマの威力(いりよく)を代表(だいひよう)するものと見(み)てよろしい(第百九図)。
 がりいの構造(こうぞう)は、当時(とうじ)に行(おこな)はれた一般(いつぱん)の船(ふね)と同(おな)じく専(もつぱ)ら漕手(こぎて)の力(ちから)で走(はし)り、稀(まれ)には順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を揚(あ)げないこともないが、それはどちらかといへばあまり利用(りよう)されませんでした。初(はじ)めてのがりいには、櫂(かい)が一挺(いつちよう)しかなかつたが、だん/\進歩(しんぽ)してその数(かず)を増(ま)し、制海権(せいかいけん)を占(し)めるようになつてからは、櫂(かい)の数(かず)を多(おほ)くし、従(したが)つて漕手(こぎて)の数(かず)をも増(ま)しました。漕手(こぎて)には奴隷(どれい)や捕虜(ほりよ)を用(もち)ひたが、彼等(かれら)は座席(ざせき)へ鎖(くさり)で縛(しば)りつけられ、命(いのち)のある限(かぎ)り、腕(うで)の力(ちから)の続(つゞ)く限(かぎ)り、幾日(いくにち)も/\漕(こ)がねばならなかつた。疲(つか)れて眠(ねむ)りでもしようものなら、烈(はげ)しく笞(むち)で打(う)ちのめされ、血(ち)を吐(は)いて死(し)んだものもあつたでせう。実(じつ)に残忍(ざんにん)極(きは)まる話(はなし)で、ローマのがりいの進歩(しんぽ)の裏(うら)には、かうした悲(かな)しい、涙(なみだ)ぐましい挿話(そうわ)があるのです。
 紀元(きげん)第一世紀(だいいつせいき)の頃(ころ)には、がりいは十分(じゆうぶん)に改良(かいりよう)されて、船(ふね)の全長(ぜんちよう)は四百(しひやく)ふいーとあり、それには幅(はゞ)が五十(ごじゆう)ふいーともある甲板(かんぱん)がつき、三段(さんだん)に並(なら)んでゐる櫂(かい)が五六百人(ごろつぴやくにん)の漕(こ)ぎ手(て)で漕(こ)がれ、艫(とも)には片舷(へんげん)二本宛(にほんづゝ)の大櫂(おほかい)が舵(かぢ)として用(もち)ひられ、また檣(ほばしら)も二本立(にほんた)てられるようになりました(第百十図)。
 かうした立派(りつぱ)な船(ふね)を造(つく)つたローマは、紀元(きげん)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)に滅(ほろ)んだが、その文化(ぶんか)は世界各国(せかいかくこく)に拡(ひろ)まり、従(したが)つて造船術(ぞうせんじゆつ)も多少(たしよう)は外国(がいこく)に知(し)られてゐた筈(はず)ですが、中世(ちゆうせい)に於(お)いては一般(いつぱん)に航海(こうかい)が振(ふる)はなかつたようです。その中(なか)で只(た)だ一(ひと)つの例外(れいがい)ともいふべきは、千六十六年(せんろくじゆうろくねん)、ノルマンヂイ侯(こう)ウイリヤムが、ハロルドと戦(たゝか)ふために海峡(かいきよう)を横断(おうだん)した船(ふね)(第百十一図)は、ローマ式(しき)がりいのように華麗(かれい)ではなかつたが、それに比(くら)べると決(けつ)して劣(おと)つたものではなく、漕力(そうりよく)よりも寧(むし)ろ風力(ふうりよく)を頼(たの)み、舵(かぢ)は柄(え)で自在(じざい)に動(うご)かせるように装置(そうち)されてゐました。
 十四世紀(じゆうしせいき)になると、地中海(ちちゆうかい)のがりいは帆(ほ)が三(みつ)つになり、擢(かい)が一列(いちれつ)に減(げん)じました。中世紀(ちゆうせいき)の船(ふね)の新傾向(しんけいこう)は、擢(かい)の数(かず)をだん/\と減(へ)らし、反対(はんたい)に帆(ほ)の数(かず)をだん/\と増(ま)してゆかうとすることで、それは風力(ふうりよく)の利用(りよう)が古代(こだい)よりもだん/\と巧妙(こうみよう)になつたことを証明(しようめい)してゐます。十六世紀(じゆうろくせいき)の軍艦(ぐんかん)になると、もはや擢(かい)は全然(ぜんぜん)見出(みだ)されません。
 ちようど十三世紀(じゆうさんせいき)の半頃(なかごろ)から、ヨーロツパの各国(かつこく)では、船(ふね)の甲板(かんぱん)の上(うへ)に小(ちひ)さな器具(きぐ)が据(す)ゑつけられました。それは羅針盤(らしんばん)で、航海史上(こうかいしじよう)極(きは)めて重要(じゆうよう)なことです。磁針(じしん)の使用(しよう)は、ヨーロツパ人(じん)より千年(せんねん)も早(はや)く支那人(しなじん)が知(し)つてゐましたが、それをあまり実用(じつよう)の目的(もくてき)に利用(りよう)しませんでした。
 羅針盤(らしんばん)の出来(でき)る前(まへ)は、夜間(やかん)は常(つね)に北極星(ほつきよくせい)をたよりに航海(こうかい)しましたから、闇夜(やみよ)には航海(こうかい)が出来(でき)ませんでした。しかるに、こんな便利(べんり)なものが発明(はつめい)されたから、航海者(こうかいしや)は大胆(だいたん)にどこにでも出(で)かけ、未知(みち)の大洋(たいよう)でも平気(へいき)に航海(こうかい)する勇気(ゆうき)を得(え)ました。もしもこれの発明(はつめい)がなかつたならば、アメリカ大陸(たいりく)の発見(はつけん)などは思(おも)ひもよらなかつたことであります。で、言(い)ひ換(か)へて見(み)ますると、アメリカ発見(はつけん)は羅針盤(らしんばん)の力(ちから)であつて、コロムブスはその助手(じよしゆ)であつたともいはれませう。
 さてコロムブスがアメリカを発見(はつけん)すると、各国(かつこく)はその新植民地(しんしよくみんち)で利権(りけん)を握(にぎ)らうと、それぞれ活躍(かつやく)をいたしましたが、結局(けつきよく)は比較的(ひかくてき)堅牢(けんろう)な船(ふね)をもつてゐたイギリスが勝利(しようり)を占(し)めてしまひました。即(すなはち)、アメリカの争覇戦(そうはせん)に於(お)けるイギリスの勝利(しようり)は、船(ふね)の力(ちから)に依(よ)つたものであるといつても差(さ)し支(つか)へございません。
 巻頭(かんとう)に掲(かゝ)げた図版(ずはん)は、さうしたイギリス船(せん)の代表(だいひよう)といつてもよいもので、アメリカから南洋諸島(なんようしよとう)を経(へ)てアフリカに至(いた)り、そこから本国(ほんごく)に帰(かへ)つたサー・フランシス・ドレークの率(ひき)ゐる船隊(せんたい)をかいたもので、中央(ちゆうおう)の大船(たいせん)がかれの乗(の)つてゐた『ゴールデン・ヒンド』号(ごう)です。諺(ことわざ)に「絵(え)のように美(うつく)しい」と、いひますが、中世(ちゅうせい)の船(ふね)は絵(え)よりも美(うつく)しかつたことが、この絵(え)によつて窺(うかゞ)はれます。
 さて太古以来(たいこいらい)、十六世紀(じゆうろくせいき)までの船(ふね)の進歩(しんぽ)を回顧(かいこ)して見(み)ると、浮(う)き、筏(いかだ)、刳(く)り舟(ぶね)、縫(ぬ)ひ合(あは)せ船(ぶね)、構造船(こうぞうせん)といふ順序(じゆんじよ)で、構造船(こうぞうせん)はがりいから、帆船(ほぶね)へと進(すゝ)みましたが、十七世紀(じゆうしちせいき)になつて、驚(おど)ろくべき一大(いちだい)革命(かくめい)が起(おこ)りました。
 と、いふのは、此世紀(このせいき)の発明家達(はつめいかたち)は、すべて蒸気(じようき)の利用法(りようほう)研究(けんきゆう)に没頭(ぼつとう)し、一方(いつぽう)に於(お)いて蒸気車(じようきしや)の完成(かんせい)に苦心(くしん)したと同時(どうじ)に、他方(たほう)に於(お)いて蒸気船(じようきせん)の工夫(くふう)に熱中(ねつちゆう)してゐましたが、車(くるま)よりは船(ふね)の方(ほう)が早(はや)く発達(はつたつ)してゐた関係上(かんけいじよう)、先(ま)づ蒸気船(じようきせん)が成功(せいこう)したのは無理(むり)のないことであります。テームス河(がは)に浮(うか)んだ軍艦(ぐんかん)「グレート・ハリイ」号(ごう)を、驚嘆(きようたん)の眼(め)で見(み)たロンドン市民(しみん)は、がたくり馬車(ばしや)をさへ沢山(たくさん)は見(み)てゐませんでした。それと同様(どうよう)、汽船(きせん)が大西洋(たいせいよう)を横断(おうだん)する前(まへ)には、陸上(りくじよう)で汽車(きしや)が旅客(りよかく)を運輸(うんゆ)するのを見(み)ることが出来(でき)ませんでした。
 フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの各国(かつこく)は、汽船(きせん)の創製(そうせい)に先鞭(せんべん)をつけようと競争(きようそう)したが、遂(つひ)にアメリカが勝利(しようり)を占(し)めました。もつとも千六百六十三年(せんろつぴやくろくじゆうさんねん)の昔(むかし)、イギリス人(じん)は既(すで)に蒸気力(じようきりよく)で船(ふね)が動(うご)かせると申(まを)してをりますが、それは発明家(はつめいか)の想像(そうぞう)に過(す)ぎないものでした。その発明家(はつめいか)といふのは、前(まへ)にお話(はなし)したウースタア侯(こう)エドワード・ソマアーセツトで彼(かれ)は明瞭(めいりよう)に汽船(きせん)の性質(せいしつ)を確言(かくげん)して、「それは干潮時(かんちよう)に遡航(そこう)してロンドン橋(きよう)を通過(つうか)し、漕(こ)ぎ、曳(ひ)き船(ふね)し、また乗(の)ることも出来(でき)る」と、いつたが、理論(りろん)だけで、どんな実験(じつけん)も伴(ともな)はれてゐなかつたのです。
 これとほとんど同時(どうじ)に、汽缶完成(きかんかんせい)に与(あづ)かつて力(ちから)のあつたフランスのデニイ・バパンが、馬(うま)の力(ちから)で廻(まは)される廻転擢(かいてんかい)を舟(ふね)の舷側外(げんそくがい)に装置(そうち)して見(み)ましたが、これは既(すで)にローマ式(しき)のがりいで用(もち)ひられてゐたから、彼(かれ)の発明(はつめい)と申(まを)すわけにはまゐりません。人(ひと)によつては彼(かれ)を蒸気力(じようきりよく)で推進器(すいしんき)を回転(かいてん)させた第一人(だいいちにん)だといひますが、その名誉(めいよ)はバパンには負(お)はされないのです。もしバパンにその名誉(めいよ)を負(お)はすくらゐなら、フランス、リヨンの人(ひと)ジユツフロイ侯爵(こうしやく)にそれを負(お)はせる方(ほう)がよろしい。侯爵(こうしやく)は千七百八十三年(せんしちひやくはちじゆうさんねん)に、大勢(おほぜい)の見物(けんぶつ)を前(まへ)にして、新造(しんぞう)の汽船(きせん)をソーヌ河(がは)で試運転(しうんてん)し、見事(みごと)に成功(せいこう)したといひ伝(つた)へられてゐるからであります。しかし、フランス人(じん)もいつてゐる如(ごと)く、試運転(しうんてん)の後(のち)、船体(せんたい)を解(と)いてしまひ、模型(もけい)も残(のこ)つてゐないのだから、どこまで信用(しんよう)してよいか、この話(はなし)は当(あ)てになつたものではないのです。ジエツフロイと同時代(どうじだい)に、フランスでは各地(かくち)でソーヌ河(がは)と同様(どうよう)の実験(じつけん)が行(おこな)はれたといふが、これも当(あ)てにはなりません。十八世紀(じゆうはつせいき)の末(すゑ)には、蒸気(じようき)で推進器(すいしんき)を動(うご)かす船(ふね)の観念(かんねん)は、莫然(ばくぜん)としてゐたように思(おも)はれます。けれども、当時(とうじ)のイギリス詩人(しじん)は、大胆(だいたん)に次(つ)ぎのような予言(よげん)をしてゐます。
  強(つよ)い蒸気(じようき)よ、お前(まへ)の腕(うで)は、やがて
  のろい舟(ふね)を曳(ひ)き、速(はや)い車(くるま)を駆(か)り、
  或(あるひ)は広(ひろ)い翼(つばさ)をひろげて、
  雲(くも)の林(はやし)に飛車(ひしや)を漂(たゞよ)はせるだらう。
 いづれも現在(げんざい)、私達(わたしたち)の眼(め)でみる現象(げんしよう)であります。昔(むかし)から詩人(しじん)は空想(くうそう)するとよくいひます
が、かうした風(ふう)に実現(じつげん)されて見(み)ると、それは空想(くうそう)でなくて、理想(りそう)であつたのです。だから、同時代(どうじだい)の発明家達(はつめいかたち)は、この詩(し)の謳(うた)つてゐる内容(ないよう)を事実(じじつ)で掴(つか)まうとして、夜(よる)も寝(ね)ないほどの努力(どりよく)をしたのですが、さうした人々(ひと/゛\)の中(なか)に、ヴアージニヤ州(しゆう)、シエツパアド・タウンのジエームズ・ラムセイといふ人(ひと)がゐます。彼(かれ)は千七百八十六年(せんしちひやくはちじゆうろくねん)に、ポトマツク河(がは)で、一時間(いちじかん)五(ご)まいるの速力(そくりよく)で、蒸気力(じようきりよく)によつて船(ふね)を推進(すいしん)させました。これが最初(さいしよ)の汽船(きせん)だといふことは確(たし)かです。では、ラムセイはどうした装置(そうち)を彼(かれ)の船(ふね)に施(ほどこ)したかといふと、蒸気汽缶(じようききかん)の作用(さよう)で、汽●(たけかんむり+「甬」)(きとう)中(ちゆう)のぴすとんを上下(じようげ)させて、それが上(あが)る時(とき)には汽●(たけかんむり+「甬」)(きとう)へ水(みづ)が入(い)り、下(くだ)る時(とき)には中(なか)の水(みづ)を勢(いきほ)ひよく吐(は)き出(だ)させるようにして、その反動(はんどう)で船(ふね)が進(すゝ)むようになつてゐました。
 この反動(はんどう)は以前(いぜん)から発明家(はつめいか)の注意(ちゆうい)を牽(ひ)き、それによつてヘロは珠(たま)を廻(まは)し、ニユートンは蒸気車(じようきしや)を進行(しんこう)させたように、ラムセイは汽船(きせん)を進行(しんこう)させたのであつて、昔(むかし)からある考(かんが)への復活(ふつかつ)に過(す)ぎないといへばいへないこともありません。
 今(いま)、試(こゝろ)みに、アメリカ合衆国(がつしゆうこく)の地図(ちず)をひろげて、世界各国(せかいかつこく)に通(つう)じてゐる航路(こうろ)を見(み)ますると、十八世紀(じゆうはつせいき)以後(いご)のアメリカ人(じん)に取(と)つて、航海術(こうかいじゆつ)、並(なら)びに造船術(ぞうせんじゆつ)の進歩(しんぽ)が、どんなに必要(ひつよう)であつたかゞすぐにわかります。陸上(りくじよう)には路(みち)がなくて、ゆくことの出来(でき)ない土地(とち)が、広(ひろ)い面積(めんせき)と豊(ゆた)かな土壌(どじよう)とを以(も)つて、人間(にんげん)が早(はや)く開拓(かいたく)してくれるのを待(ま)つてゐた時(とき)、海路(かいろ)をゆくことにすれば、少(すこ)しは迂回(うかい)をしても、距離(きより)は遠(とほ)くなつても、安全(あんぜん)に農具(のうぐ)を持(も)つてゆくことが出来(でき)ますから、何(なに)を置(お)いても一番(いちばん)の急務(きゆうむ)は、適当(てきとう)な汽船(きせん)を造(つく)つて、さうした場所(ばしよ)に行(ゆ)くことが出来(でき)るようにすることでした。
 その当時(とうじ)には、誰(だれ)でもこの考(かんが)へをもたぬものはなかつたが、中(なか)でも最(もつと)も痛切(つうせつ)に考(かんが)へたのはジオーン・フイツチでした。フイツチは才人(さいじん)でもあり、また奇人(きじん)でもあつて、アメリカの新(あたら)しい運命(うんめい)を開拓(かいたく)しました。彼(かれ)は戦争(せんそう)が終(をは)つた後(のち)、数年間(すうねんかん)はそここゝをさまよひあるいてゐましたが、千七百八十五年頃(せんしちひやくはちじゆうごねんごろ)に、汽船(きせん)の設計図(せつけいず)をもつてフイラデルフイヤにゆき、そこで会社(かいしや)を起(おこ)して、自分(じぶん)の設計(せつけい)を実行(じつこう)に移(うつ)すだけの資金(しきん)を得(え)ました。彼(かれ)の船(ふね)は千七百八十七年(せんしちひやくはちじゆうしちねん)八月(はちがつ)に出来上(できあが)り、それをフイラデルフイヤで試運転(しうんてん)いたしました。ちようど、その時(とき)、国会(こつかい)が開(ひら)かれてゐたので、議員達(ぎいんたち)は新発明(しんはつめい)の船(ふね)を見(み)るために河(かは)へ行(ゆ)きました。試運転(しうんてん)は成功(せいこう)しましたけれども、見物(けんぶつ)は一向(いつこう)に熱狂(ねつきよう)しませんでした。そのわけは、速力(そくりよく)が僅(わづ)かに一時間(いちじかん)三(さん)、四(し)まいるであり、進行(しんこう)の工合(ぐあひ)がいかにもぶまであつたからです。この船(ふね)には二本(にほん)の櫂(かい)が取(と)りつけてあり、一本(いつぽん)が水中(すいちゆう)にはひると、他(ほか)の一本(いつぽん)が水面(すいめん)に上(あが)つて、それで船(ふね)を進行(しんこう)させたのでした。
 フイツチはこの不評判(ふひようばん)に発憤(はつぷん)して、千七百八十七年(せんしちひやくはちじゆうしちねん)にまた別(べつ)の蒸気漕船(じようきそうせん)を造(つく)つたが、これも失敗(しつぱい)に終(をは)つて、一顧(いつこ)の価値(かち)もないものだといふことが知(し)れました。そこで彼(かれ)は第三(だいさん)の設計(せつけい)を試(こゝろ)みたが、不時(ふじ)の出来事(できごと)で失敗(しつぱい)に終(をは)り、彼(かれ)は全(まつた)く無一物(むいちもん)になりました。元来(がんらい)が貧(まづ)しかつた彼(かれ)は、失敗(しつぱい)を重(かさ)ねた結果(けつか)非常(ひじよう)な苦境(くきよう)に陥(おちいり)り、遂(つひ)に自分(じぶん)の命(いのち)を自分(じぶん)の手(て)で取(と)るといふ悲劇(ひげき)を演(えん)じました。しかし、フイツチの失敗(しつぱい)は、決(けつ)して価値(かち)のないものではなく、それによつて得(え)たところの経験(けいけん)は、多(おほ)くの教訓(きようくん)を造船術(ぞうせんじゆつ)に与(あた)へました。
 かうした風(ふう)に、アメリカではラムセイだの、フイツチだのが、しきりに汽船(きせん)の研究(けんきゆう)をしてゐた間(あひだ)に、ヨーロツパの発明家達(はつめいかたち)も、決(けつ)してぽかんとしてゐたわけではなく、吾(われ)こそ創製者(そうせいしや)の名誉(めいよ)を荷(にな)はうと、あちらでもこちらでも活溌(かつぱつ)に研究(けんきゆう)を続(つゞ)けました。たとへば、イギリスのウイリヤム・シミングトンの如(ごと)きは、これまで進水(しんすい)されたものゝ中(うち)では、一番(いちばん)実用的(じつようてき)だといはれた汽船(きせん)を創製(そうせい)しました。それは『シヤーロツト・ダンダス』といつて、千八百二年(せんはつぴやくにねん)に、クライド河(がは)とフアース水道(すいどう)とで試運転(しうんてん)が行(おこな)はれました(第百十二図)。この汽船(きせん)には、フイツチ式(しき)の櫂(かい)がない代(かは)りに、水(みづ)を掻(か)く一(ひと)つの車(くるま)がついてゐました。その車(くるま)は船尾(せんび)にあつて、汽●(たけかんむり+「甬」)桿(きとうかん)に結(むす)びつけてある棒(ぼう)で廻転(かいてん)せられる鎖(くさり)で曳(ひ)かれるようになつてゐました。この意匠(いしよう)は既(すで)にワツトとその共同研究家(きようどうけんきゆうか)とが、数年前(すうねんぜん)に発表(はつぴよう)したもので、シミングトンはそれを実地(じつち)に応用(おうよう)したのであります。
 シミングトンが試運転(しうんてん)で成功(せいこう)しますと、ブリツヂウオータア公(こう)が、運河(うんが)で用(もち)ひる目的(もくてき)で、同型(どうけい)の船(ふね)を八隻(はつせき)以上(いじよう)も註文(ちゆうもん)したので、『シヤーロツト』の名(な)は一(いつ)そう有名(ゆうめい)になりました。かうなると、彼(かれ)は一足飛(いつそくと)びに船成金(ふななりきん)になれる筈(はず)でしたが、運河(うんが)の持(も)ち主(ぬし)がそれの使用(しよう)を拒(こば)んだので、せつかくの話(はなし)もお流(なが)れとなり、あまつさへ註文者(ちゆうもんしや)である公爵(こうしやく)も死(し)んで、財政上(ざいせいじよう)の資源(しげん)がなくなり、遂(つひ)に『シヤーロツト』号(ごう)は運河(うんが)から他(ほか)に移(うつ)されて、解体(かいたい)せられねばならぬ運命(うんめい)を見(み)ました。
 せつかく、有望(ゆうぼう)に見(み)えた『シヤーロツト』号(ごう)さへ、こんな不結果(ふけつか)に陥(おちい)つて、イギリスではあらゆる汽船(きせん)が実用(じつよう)を見(み)ないで終(をは)るといふ悲(かな)しい歴史(れきし)を繰(く)り返(かへ)しました。
 しかし、最(もつと)も必要(ひつよう)を感(かん)じ、最(もつと)も熱心(ねつしん)に実用(じつよう)を希望(きぼう)する国(くに)で、汽船(きせん)は遂(つひ)に創製(そうせい)に成功(せいこう)しました。その国(くに)は即(すなはち)、アメリカです。ラムセイ、フイツチ、シミングトンなどの成績(せいせき)に注目(ちゆうもく)してゐた一(いち)アメリカ人(じん)は、既往(きおう)の実験中(じつんちゆう)から最(もつと)も大切(たいせつ)な部分(ぶぶん)を選(えら)んで、それらを結合(けつごう)して理想的(りそうてき)な一汽船(いちきせん)を造(つく)り出(だ)しました。その人(ひと)はロバート・フルトンといつて、千八百七年(せんはつぴやくしちねん)八月(はちがつ)に、新発明(しんはつめい)の汽船(きせん)『クラアモント』をハドソン河(がは)で試運転(しうんてん)し、ニユー・ヨークからアルバニーまで、百五十(ひやくごじゆう)まいるの間(あひだ)を三十二(さんじゆうに)時間(じかん)で遡航(そこう)し、三十(さんじゆう)時間(じかん)で下航(かこう)しました(第百十三図)。
 そこで、フルトンは直(たゞ)ちに旅客(りよかく)の運輸(うんゆ)を開始(かいし)する旨(むね)を広告(こうこく)したら、我(われ)も/\と乗客(じようきやく)が集(あつ)まつて来(き)て、彼(かれ)の船(ふね)はすぐ満員(まんいん)になりました。その時(とき)の光景(こうけい)を見(み)たイギリスの一記者(いちきしや)は「新造汽船(しんぞうきせん)『クラアモント』号(ごう)は、実際上(じつさいじよう)の目的(もくてき)と、所有主(しよゆうぬし)へ報酬(ほうしゆう)を払(はら)ふ目的(もくてき)とで、航走(こうそう)を開始(かいし)し且(か)つ継続(けいぞく)した」と書(か)いてゐます。即(すなはち)、『クラアモント』号(ごう)に於(お)いて、私達(わたしたち)は初(はじ)めて相当(そうとう)に収入(しゆうにゆう)のある商売的(しようばいてき)な船(ふね)を見(み)ることが出来(でき)たわけです。
 ところがこの船(ふね)の水掻(みづか)き車(ぐるま)は、船(ふね)の中央(ちゆうおう)の舷側(ふなべり)にあつて、その半分(はんぶん)は水上(すいじよう)に頭(あたま)を出(だ)し、他(ほか)の半分(はんぶん)は水中(すいちゆう)に没(ぼつ)してゐましたが、フルトンの時代(じだい)ですら、車輪(すいしや)は舷側(ふなべり)に置(お)くべきものでないといふことを知(し)つてゐたほどですから、発明家達(はつめいかたち)はこの点(てん)を改良(かいりよう)しなければならぬと思(おも)ひました。水鳥(みづとり)を見(み)ても、また美(うつく)しい白鳥(はくちよう)を見(み)ても、泳(およ)いでゐる時(とき)には二本(にほん)の脚(あし)を水中(すいちゆう)に没(ぼつ)してをり、半分(はんぶん)を水面(すいめん)に出(だ)し、半分(はんぶん)を水中(すいちゆう)に沈(しづ)めたりしてゐません。一般(いつぱん)に泳(およ)ぐ動物(どうぶつ)は、すべて推進器(すいしんき)たる脚(あし)を水中(すいちゆう)に没(ぼつ)して、後(うしろ)の方(ほう)でそれを動(うご)かします。だから船(ふね)の水掻(みづか)き車(ぐるま)とても、それを全然(ぜんぜん)水中(すいちゆう)に沈(しづ)め、且(か)つ船尾(せんび)に装備(そうび)するのが自然(しぜん)に適(かな)つてゐると、かう発明家達(はつめいかたち)は考(かんが)へました。
 この意見(いけん)に基(もと)づいて、ニユー・ジヤーシイ州(しゆう)、ホボークンの機関士(きかんし)ジオーン・スチーヴンスは、千八百五年(せんはつぴやくごねん)に船尾(せんび)の水線下(すいせんか)へ螺旋形(らせんけい)の車輪(しやりん)をつけた船(ふね)(第百十四図)を造(つく)つて、ハドソン河(がは)でその試運転(しうんてん)を試(こゝろ)みて成功(せいこう)しましたが、フルトンの大成功(だいせいこう)を収(をさ)めた直後(ちよくご)だから、その新式(しんしき)の小汽艇(しようきてい)のことなどは、いくほどもなく忘(わす)れられてしまひました。しかし、スチーヴンスの発明(はつめい)した、螺状推進器(らじようすいしんき)の観念(かんねん)は、決(けつ)して失(うしな)はれたわけではありません。
 まもなくスエーデンの機関士(きかんし)ジオーン・エリツソンがそれを採用(さいよう)して、千八百三十九年(せんはつぴやくさんじゆうくねん)に、イギリスの造船所(ぞうせんじよ)で、あるアメリカ人(じん)の船長(せんちよう)のために、最初(さいしよ)のすくるう(螺状推進器(らじようすいしんき))をつけた汽船(きせん)を造(つく)つて、大西洋(たいせいよう)を横断(おうだん)しました。この船(ふね)は『ロバアト・エフ・ストツクトン』といひ、航洋汽船(こうようきせん)の元祖(がんそ)として、航海史上(こうかいしじよう)忘(わす)れることの出来(でき)ない名前(なまへ)です。
 千八百三十九年(せんはつぴやくさんじゆうくねん)以来(いらい)、造船界(ぞうせんかい)には驚(おどろ)くべき進歩(しんぽ)が現(あらは)れましたが、それは新発明(しんはつめい)が起(おこ)つたためといふよりも、エリツソンの意匠(いしよう)に改良(かいりよう)を加(くは)へた結果(けつか)と見(み)る方(ほう)が適当(てきとう)であります。今日(こんにち)は何万噸(なんまんとん)といふ巨大(きよだい)な航洋船(こうようせん)が、海面(かいめん)狭(せま)しと浪(なみ)の上(うへ)に泛(うか)んでゐますが、すくるうをつけてゐない船(ふね)はないから、船(ふね)の発明史(はつめいし)からいふと、まづエリツソンの推進器(すいしんき)発明(はつめい)が最後(さいご)だといつてもよろしいでせう。
 これらの巨船(きよせん)は形(かたち)も大(おほ)きく、速力(そくりよく)も速(はや)く、どんな沢山(たくさん)の人数(にんず)でも荷物(にもつ)でも、これを一度(いちど)に遠方(えんぽう)まで早(はや)く運(はこ)んでゆくことが出来(でき)ます。船(ふね)の中(なか)の設備(せつび)は至(いた)れり尽(つく)せりで、うちの中(なか)にゐるよりもかへつて便利(べんり)であり、また愉快(ゆかい)でもあります。「板子(いたご)一枚下(いちまいした)は地獄(じごく)」と、いつて海上(かいじよう)を恐(おそ)れたのは、全(まつた)く昔(むかし)の夢(ゆめ)となり、今日(こんにち)ではそれの代(かは)りに、「船(ふね)の上(うへ)こそこの世(よ)の極楽(ごくらく)」と、いふ句(く)を、置(お)き換(か)へなければならぬ有様(ありさま)です。
しかるに、世界大戦(せかいたいせん)前後(ぜんご)から、潜水艇(せんすいてい)が発明(はつめい)せられて、これまでは安全(あんぜん)に水面(すいめん)に浮(う)かばすことのみ考(かんが)へてゐた造船家(ぞうせんか)は、その後(ご)は船(ふね)を水中(すいちゆう)に沈(しず)ませながら、安全(あんぜん)に航行(こうこう)することが出来(でき)るように工夫(くふう)しなければならぬ日(ひ)を迎(むか)へました。潜水艇(せんすいてい)は今日(こんにち)軍事上(ぐんじじよう)の目的(もくてき)のみに用(もち)ひられてゐるが、将来(しようらい)は学問上(がくもんじよう)とか漁撈上(ぎよろうじよう)とかの目的(もくてき)で、海底(かいてい)を探(さぐ)るために用(もち)ひられることがあるでせう。本当(ほんとう)に、発明家(はつめいか)の為事(しごと)ほど、恐(おそ)ろしいものはありません。

一五、飛行機(ひこうき)

 車(くるま)で陸地(りくち)を旅行(りよこう)し、船(ふね)で海洋(かいよう)を旅行(りよこう)することを発明(はつめい)した人間(にんげん)は、遂(つひ)に飛行機(ひこうき)、或(あるひ)は飛行船(ひこうせん)によつて空中(くうちゆう)を旅行(りよこう)することを工夫(くふう)し成功(せいこう)しました。飛行船(ひこうせん)、飛行機(ひこうき)といへば、私達(わたしたち)はすぐ船(ふね)を聯想(れんそう)しますが、機械学(きかいがく)の方(ほう)から見(み)ますると、飛行機(ひこうき)は地上(ちじよう)の自動車(じどうしや)の進化(しんか)したもので、これを空中(くうちゆう)の自動車(じどうしや)といつても差(さ)し支(つか)へないそうです。
 さて、人(ひと)は昔(むかし)から、どうかして空(そら)を飛(と)んで見(み)たいといふ理想(りそう)を懐(いだ)いてゐましたが、ちよつとだつて飛(と)ぶことが出来(でき)ませんから、空(そら)の鳥(とり)のふわ/\と軽(かる)げに飛(と)んでゐるのを見(み)て、羨(うらや)ましげに眺(なが)める外(ほか)はありませんでした。西洋(せいよう)ではえんぜる、東洋(とうよう)では天狗(てんぐ)のように、翼(つばさ)をもつてゐる人間(にんげん)に似(に)た姿(すがた)のものが、自由(じゆう)に天界(てんかい)を飛翔(ひしよう)してゐるといふ考(かんが)へは、非常(ひじよう)に古(ふる)い昔(むかし)からあつたが、それは人間(にんげん)のもつてゐた空中飛行(くうちゆうひこう)についての欲望(よくぼう)が、想像(そうぞう)となり、偶意(ぐうい)となつて、民間信仰(みんかんしんこう)、民間説話(みんかんせつわ)に現(あらは)れたのであります。
 我国(わがくに)の神話(しんわ)では、神々(かみ/゛\)はみんな天(てん)から天降(あまくだ)つたことになつてゐるので、その天降(あまくだ)りの方法(ほうほう)を古代人(こだいじん)はいろ/\と考(かんが)へて、あるものは梯子(はしご)を昇(のぼ)り降(お)りしたと説明(せつめい)し、他(た)のものは天(あま)の磐船(いはふね)といふ一種(いつしゆ)の乗(の)り物(もの)に乗(の)つて上下(じようげ)したと説明(せつめい)しました。朝鮮(ちようせん)にも南洋(なんよう)にも、畚(ふご)か籠(かご)のようなものに乗(の)つて、天(てん)へ昇(のぼ)り降(お)りしたといふ神話(しんわ)があります。かうした国柄(くにがら)でありますから、我日本(わがにほん)は他(た)の発明(はつめい)、発見(はつけん)では貧弱(ひんじやく)いふに足(た)らない歴史(れきし)しかもつてゐないが、飛行機(ひこうき)発明史(はつめいし)の上(うへ)からいふと、伝(つた)ふべき様々(さま/゛\)の伝説(でんせつ)をもつてゐるのであります。
 たとへば、石川五右衛門(いしかはごえもん)は、名古屋城(なごやじよう)の金(きん)の鯱(しやちほこ)を盗(ぬす)むために、大(おほ)きな凧(たこ)を造(つく)つてそれに乗(の)らうとしたといひますが、それがたとへ嘘(うそ)であつたにしても、当時(とうじ)人(ひと)を載(の)せるほどの大凧(おほだこ)があり、また大凧(おほだこ)は人(ひと)を載(の)せ得(う)るといふ知識(ちしき)を人々(ひと/゛\)がもつてゐたことを示(しめ)してゐます。凧(たこ)は平面板(へいめんばん)を傾(かたむ)けて風圧(ふうあつ)を受(う)けしめれば上昇(じようしよう)するといふ原理(げんり)から割(わ)り出(だ)して造(つく)られたものであり、航空学上(こうくうがくじよう)では繋留(けいりゆう)された飛行機(ひこうき)の位置(いち)を占(し)めてゐますが、それが遠(とほ)い昔(むかし)から我国(わがくに)にあり、それに乗(の)つて遠隔(えんかく)の地(ち)に達(たつ)したといふ話(はなし)がそここゝに残(のこ)つてゐるところがら見(み)ますると、五右衛門(ごえもん)の凧(たこ)利用(りよう)物語(ものがたり)は、必(かなら)ずしも純粋(じゆんすい)の仮作物語(かさくものがたり)ではないでせう。五右衛門(ごえもん)のこの計画(けいかく)は、紀元(きげん)千六百十一年(せんろつぴやくじゆういちねん)以前(いぜん)のことですから、空中飛行(くうちゆうひこう)を実行(じつこう)しようとした最古(さいこ)のれこーどであるかも知(し)れません。
 もしも昔(むかし)の人(ひと)が空(そら)を飛(と)ぶことを考(かんが)へたとしたら、必(かなら)ず鳥(とり)を聯想(れんそう)したでせうし、鳥(とり)を聯想(れんそう)したとすれば、人間(にんげん)も鳥(とり)の翼(つばさ)のようなものを作(つく)つて、それを身体(しんたい)につけたら飛(と)べるだらうといふ推想(すいそう)に導(みちび)かれたでせう。人間(にんげん)の手(て)で人造(じんぞう)の翼(つばさ)を動(うご)かして飛(と)んだといふ記録(きろく)は千六百七十九年(せんろつぴやくしちじゆうくねん)にフランスのブルスニエーが作(つく)りました。彼(かれ)は自分(じぶん)の足(あし)と手(て)とで、肩(かた)につけてゐる翼(つばさ)を動(うご)かせて、二階(にかい)の窓(まど)から小屋(こや)の屋根(やね)に飛(と)んだゞけであります(第百十五図)。
 日本(にほん)では千七百八十九年(せんしちひやくはちじゆうくねん)に、岡山(をかやま)の表具師(ひようぐし)で幸吉(こうきち)といつたものが、飛行機(ひこうき)を造(つく)つて実際(じつさい)に飛(と)んだといふことが菅茶山(かんさざん)の『筆(ふで)のすさび』に書(か)いてあります。それに依(よ)ると、彼(かれ)は一羽(いちは)の鳩(はと)を捕(とら)へて、その身(み)の軽重(けいじゆう)、翼(つばさ)の長短(ちようたん)を計(はか)り、それらを自分(じぶん)の身(み)の重(おも)さに比(くら)べてちようど身(み)に合(あ)つた翼(つばさ)を造(つく)り、機関(からくり)を胸前(むなさき)で操(あやつ)つて翼(つばさ)を動(うご)かしました。地上(ちじよう)からはすぐに揚(あが)れないので、屋根(やね)の上(うへ)から羽(は)ばたきして出(で)ることにしたが、ある日(ひ)郊外(こうがい)を翔(か)け廻(まは)つてゐると、野宴(やえん)を開(ひら)いてゐるのが見(み)えたので、知(し)つたものでもゐないかと近(ちか)づいてゆくと、風力(ふうりよく)が衰(おとろ)へて地上(ちじよう)へ落(お)ちました。宴会中(えんかいちゆう)の男女(だんじよ)は驚(おどろ)き怖(おそ)れて逃(に)げ出(だ)したが、後(あと)に酒肴(さけさかな)が沢山(たくさん)残(のこ)つてゐたから、それを飲(の)み食(く)ひして立(た)ち去(さ)らうとしたところ、地上(ちじよう)からは飛(と)べないので、翼(つばさ)を畳(たゝ)んで歩(ある)いて帰(かへ)りました。其事(そのこと)が奉行(ぶぎよう)の耳(みゝ)にはひつて、人(ひと)のせぬことをするのはたとひ娯楽(ごらく)とはいへ罪(つみ)であるといつて、両翼(りようよく)を取(と)り上(あ)げた上(うへ)、住所(じゆうしよ)から追放(ついほう)されたといふことです。
 ちよつと考(かんが)へると、幸吉(こうきち)は翼(つばさ)を鳥(とり)のようにばた/\動(うご)かしたように見(み)えるけれど、地上(ちじよう)からぢかに飛(と)び上(あが)れないところから推(お)すと、空中(空中)を滑翔(かつしよう)したものと見(み)なければなりません。人間(にんげん)の力(ちから)は平均(へいきん)四分(しぶん)の一馬力(いちばりき)しかないから、一分間(いつぷんかん)に八千二百五十(はつせんにひやくごじゆう)ぽんどの物(もの)を一(いち)ふいーと持(も)ち揚(あ)げることが出来(でき)るだけですから、腕(うで)の上下運動(じようげうんどう)だけでは、いくら機関(きかん)を設(まう)けても鳥(とり)のようには飛(と)べないと、学者(がくしや)はこまかい計算(けいさん)をして見(み)た上(うへ)で申(まを)してゐます。しかし、もし幸吉(こうきち)がいくらでも滑翔(かつしよう)したとすれば、これが日本(につぽん)で出来(でき)たぐらいだあ即(すなはち)、滑翔機(かつしようき)の初(はじ)めだといふことは出来(でき)ます。
 フランスで滑翔機(かつしようき)の創製(そうせい)されたのは、十八世紀(じゆうはつせいき)の初(はじ)めだといひます。即(すなはち)、ル・プリイといふ一水夫(いちすいふ)が、航海中(こうかいちゆう)に、信天翁(あほうどり)が翼(つばさ)をはゞたかずに、水面(すいめん)を掠(かす)めて滑走(かつそう)してゐるのを見(み)て、風向(かざむ)きに逆(さから)つて翼(つばさ)に風圧(ふうあつ)を受(う)ければ、人間(にんげん)も信天翁(あほうどり)のように飛(と)べるだらうと考(かんが)へて、いろ/\工夫(くふう)を凝(こ)らした末(すゑ)、遂(つひ)に滑翔機(かつしようき)を創(つく)り出(だ)したといはれます。
 今(いま)からざつと二百年前(にひやくねんぜん)といひますから、多分(たぶん)千七百三十年頃(せんしちひやくさんじゆうねんごろ)のことでせう。琉球(りゆうきゆう)の中頭郡護得久村(なかがみぐんごえくむら)に安里某(あざとなにがし)といふものがあつて、弓(ゆみ)を水平(すいへい)に支柱(しちゆう)に取(と)りつけ、弓(ゆみ)の上(うへ)に鳥(とり)の翼(つばさ)に似(に)た翼(つばさ)を装置(そうち)し、弓(ゆみ)の弦(つる)を足(あし)に結(むす)んで、弾力(だんりよく)によつて翼(つばさ)を上下(じようげ)して飛行(ひこう)する工夫(くふう)を凝(こ)らし、それを造(つく)つてある日(ひ)、泡瀬村(あはせむら)附近(ふきん)の断崖上(だんがいじよう)から風(かぜ)に向(むか)つて飛(と)び上(あが)り、翼(つばさ)をはゞたいて飛(と)び廻(まは)りました。そこで、彼(かれ)の生家(せいか)を土地(とち)の人(ひと)は『飛(と)び安里(あざと)』と呼(よ)び、その家(いへ)には今(いま)もなほ彼(かれ)の描(か)いた設計図(せつけいづ)が残(のこ)つてゐるといはれます。安里式(あざとしき)飛行機(ひこうき)は、どうした組(く)み立(た)てをもつてゐたか、はつきりわかりませんが、人力(じんりき)で翼(つばさ)を動(うご)かしたのでありますから、お一にそぷたあ、即(すなはち)、鼓翼式(こよくしき)飛行機(ひこうき)の一(ひと)つであつたことは申(まを)すまでもありません。鼓翼式(こよくしき)飛行機(ひこうき)にあつては、多(おほ)く腕(うで)の力(ちから)を利用(りよう)しようとしたのに、安里機(あざとき)は動力(どうりよく)としては脚(あし)を用(もち)ひ、腕(うで)の筋肉(きんにく)は単(たん)に弓(ゆみ)の発条(はつじよう)と翼(つばさ)の支持(しじ)とに止(とゞ)めたのは、実(じつ)に立派(りつぱ)な意匠(いしよう)といつても褒(ほ)め過(す)ぎではありません。十四世紀(じゆうしせいき)の末(すゑ)に、あの有名(ゆうめい)なレオナルド・ダ・ヴインチは、人力(じんりよく)鼓翼飛行(こよくひこう)に於(お)いては、腕(うで)よりも強力(きようりよく)な脚(あし)の筋肉(きんにく)の力(ちから)を用(もち)ひなければ成功(せいこう)しないといつたとのことですが、安里某(あざとなにがし)の発明(はつめい)がダ・ヴインチの言(ことば)と符節(ふせつ)を合(あは)してゐるのは、まことに興味(きようみ)の深(ふか)いことです。
 前述(ぜんじゆつ)のル・ブリイの滑翔式(かつしようしき)飛行機(ひこうき)は、幸吉(こうきち)のそれと共(とも)に、自然(しぜん)の飛行(ひこう)を模倣(もほう)したものに過(す)ぎませんが、それを物理的(ぶつりてき)に研究(けんきゆう)して人工飛行(じんこうひこう)に発達(はつたつ)せしめたのは、航空力学(こうくうりきがく)を創始(そうし)したドイツのオツトー・リリエンタールであります。彼(かれ)は千八百八十一年頃(せんはつぴやくはちじゆういちねん)から、滑翔機(かつしようき)の実験飛行(じつけんひこう)を始(はじ)めましたが、千八百九十六年(せんはつぴやくくじゆうろくねん)八月十一日(はちがつじゆういちにち)に、ベルリン郊外(こうがい)で実験中(じつけんちゆう)、墜落(ついらく)して死(し)にました。
 これより前(まへ)、千八百四十二年(せんはつぴやくしじゆうにねん)に、フイリツプスは蒸気力(じようきりよく)で動(うご)く廻転扇(かいてんあふぎ)の助(たす)けを借(か)りて空中(くうちゆう)に昇(のぼ)り、二(ふた)つの野(の)を横(よこ)ぎつてかなりな遠距離(えんきより)に飛(と)ぶことが出来(でき)たといひます。
 またリリエンタールの死(し)んだ年(とし)、即(すなはち)、千八百九十六年(せんはつぴやくくじゆうろくねん)に、アメリカのラングレイ教授(きようじゆ)は、小(ちひ)さい蒸気機関(じようききかん)で動(うご)かされる飛行機(ひこうき)をつくつて、ワシントン附近(ふきん)で試運転(しうんてん)を行(おこな)ひ、ポトマツク河(がは)を越(こ)えて四分(しぶん)の三(さん)まいるを三回(さんかい)飛(と)んだといはれます。これは実(じつ)に最初(さいしよ)の空中自動車(くうちゆうじどうしや)であつて、これ以前(いぜん)にはこれほど長距離(ちようきより)を自分自身(じぶんじしん)のカ(ちから)で飛(と)んだものはありません。しかし蒸気力(じようきりよく)ではうまく飛(と)べる筈(はず)がない。なぜかといつて蒸気機関(じようききかん)はあまりに重(おも)くて、空中(くうちゆう)の飛行(ひこう)には適(てき)しないからであります。
 二十世紀(にじつせいき)になつて、がす爆発機関(ばくはつきかん)が飛行機(ひこうき)にすゑつけられるに及(およ)んで、初(はじ)めて飛行機(ひこうき)は成功(せいこう)の域(いき)に達(たつ)しました。前記(ぜんき)ラングレイに続(つゞ)いて、カーチス、ライトなどの発明家(はつめいか)が現(あら)はれて、それ/゛\の意匠(いしよう)で飛行機(ひこうき)を造(つく)りましたが、ライト兄弟(きようだい)の力(ちから)によつて物理学的(ぶつりがくてき)飛行(ひこう)が実現(じつげん)しました。彼(かれ)は空気(くうき)より重(おも)い飛行機(ひこうき)を機械(きかい)の力(ちから)で動(うご)かすことを工夫(くふう)し、遂(つひ)に千九百三年(せんくひやくさんねん)になつて、今日(こんにち)の飛行機(ひこうき)と大差(たいさ)のないものを完成(かんせい)しました。
 それ以後(いご)、飛行機(ひこうき)はだん/\と改良(かいりよう)されて、現代(げんだい)のそれの如(ごと)く、平面板(へいめんばん)の上(うへ)に浮力(ふりよく)を生(しよう)ぜしめて飛行(ひこう)するようになりましたが、さうするにはある角度(かくど)をもつてある距離(きより)を滑走(かつそう)しなければなりません。今後(こんご)の飛行機(ひこうき)は、かうした水平牽引運動(すいへいけんいんうんどう)によつて浮力(ふりよく)を生(しよう)ぜしむる代(かは)りに、玩具(がんぐ)の竹蜻蛉(たけとんぼ)のようにすぐ垂直(すいちよく)に上昇(じようしよう)する装置(そうち)をする必要(ひつよう)があるといはれ、べスカラ式(しき)のへりゆぷたあ即(すなはち)、螺旋式航空機(らせんしきこうくうき)が発明(はつめい)されました。これは上方(じようほう)に直径大(ちよくけいだい)の螺旋機(らせんき)を取(と)りつけ、それのもつてゐる垂直的(すいちよくてき)牽引力(けんいんりよく)によつて、すぐに上方(じようほう)へ飛翔(ひしよう)せしめようといふのですが、まだ完全(かんぜん)な発達(はつたつ)を遂(と)げないでをります。
 以上はすべて、『空気(くうき)より重(おも)い航空機(こうくうき)』、即(すなはち)、英語(えいご)でへう゛いやあ・ざん・えやあといはれるものですが、空気(くうき)より軽(かる)い航空機(こうくうき)、即(すなはち)、らいたあ・ざん・えやあはどうかといふと、千七百八十二年(せんしちひやくはちじゆうにねん)に、フランスのモンゴリフイエー兄弟(きようだい)が初(はじ)めて軽気球(けいききゆう)を発明(はつめい)、完成(かんせい)し、仏独戦役(ふつどくせんえき)にパリがドイツ軍(ぐん)に包囲(ほうい)された時(とき)、軽気球(けいききゆう)でパリを脱(だつ)して、敵軍(てきぐん)の外(そと)にゐる味方(みかた)と通信(つうしん)したのがその実用(じつよう)の初(はじ)めであります。
 これらの気球(ききゆう)は風(かぜ)に流(なが)される結果(けつか)、飛行(ひこう)には適(てき)しないので、主(しゆ)として繋留(けいりゆう)して展望用(てんぼうよう)に供(きよう)されましたが、遂(つひ)に舵(かぢ)を操(あやつ)つて飛行(ひこう)する自由気球(じゆうききゆう)が発明(はつめい)され、それが一(いつ)そう発達(はつたつ)した現代(げんだい)の如(ごと)き飛行船(ひこうせん)となりました。世界大戦(せかいたいせん)の際(さい)に於(お)けるドイツのツエツペリン式(しき)飛行船(ひこうせん)は敵(てき)である聯合国側(れんごうこくがは)を驚(おどろ)かしましたが、その後(ご)フランスで用(もち)ひられたデイクスミユート型(がた)硬式(こうしき)大飛行船(だいひこうせん)が、六日間(むいかかん)の無着陸(むちやくりく)航続飛行(こうぞくひこう)に成功(せいこう)して、世界(せかい)の人心(じんしん)に大波動(だいはどう)を与(あた)へました。それは大戦中(たいせんちゆう)異常(いじよう)の働(はたら)きをしたドイツの海軍(かいぐん)硬式(こうしき)飛行船(ひこうせん)エル七十二(しちじゆうに)号(ごう)が、ヴエルサイユ平和条約(へいわじようやく)の結果(けつか)、フランスの航空(こうくう)巡邏船(じゆんらせん)に編入(へんにゆう)されたものであります。この驚(おどろ)くべき飛行船(ひこうせん)は、百十八時(ひやくじゆうはちじ)四十一分間(しじゆういつぷんかん)の航続飛行(こうぞくひこう)に成功(せいこう)した後(のち)一箇月(いつかげつ)、即(すなはち)、千九百二十三年(せんくひやくにじゆうさんねん)十月(じゆうがつ)の末(すゑ)に行方不明(ゆくへふめい)となつてしまひました。
 飛行機(ひこうき)が車(くるま)の進化(しんか)したものであるのに対(たい)して、飛行船(ひこうせん)は船(ふね)の進化(しんか)したものと見(み)るのが適当(てきとう)ですが、同(おな)じく空中(くうちゆう)を飛(と)ぶものでありますから、これを共(とも)に飛行機(ひこうき)、即(すなはち)、英語(えいご)でいふふらいいんぐ・めしんに属(ぞく)せしめることは無理(むり)ではありません。ともかくも両者(りようしや)とも、今日(こんにち)では旅客(りよかく)を載(の)せて定期飛行(ていきひこう)をするまでに発達(はつたつ)しましたから、これが汽車(きしや)や汽船(きせん)に乗(の)るのと同(おな)じように、どんな危険(きけん)の感(かん)じも伴(ともな)はないものになるのは、もう間(ま)もない後(のち)のことであると思(おも)はれます。飛行機(ひこうき)は今(いま)や各国(かくこく)の発明家達(はつめいかたち)によつて、月々(つき/゛\)日々(ひゞ)に改良(かいりよう)せられ、昨日(きのふ)の新形(しんがた)はもはや今日(こんにち)の新形(しんがた)ではなく、今日(こんにち)の新型(しんがた)は明日(あす)の旧型(きゆうがた)である状態(じようたい)にあります。こゝ十年(じゆうねん)の間(あひだ)にそれがどんな進歩(しんぽ)をするかは、誰(だれ)にも予言(よげん)が出来(でき)ることではありません。楽(たの)しいのは飛行機(ひこうき)の将来(しようらい)の発達(はつたつ)です。

一六、時計(とけい)

 ちくたくと、時(とき)の車(くるま)は廻転(かいてん)します。それを私達(わたしたち)は止(と)めることが出来(でき)ないように、それ自身(じしん)もまた止(と)まることが出来(でき)ません。時(とき)の経過(けいか)は生命(せいめい)の経過(けいか)で、時(とき)の計算(けいさん)はとりも直(なほ)さず生命(せいめい)それ自身(じしん)の計算(けいさん)であります。
 なぜこんなに精密(せいみつ)、正確(せいかく)に、時(とき)を計(はか)る必要(ひつよう)があるのか、ちよつと考(かんが)へると馬鹿々々(ばか/\)しいことのようにも思(おも)はれますが、歴史(れきし)の私達(わたしたち)に教(おし)へるところによると、十分(じゆうぶん)の一秒(いちびよう)だつておろそかには出来(でき)ないのであります。あの世界史(せかいし)に一大変動(いちだいへんどう)を惹(ひ)き起(おこ)した有名(ゆうめい)なウオータアルーの戦(たゝか)ひで、朝日(あさひ)の昇(のぼ)るような勢(いきほ)ひのナポレオンが脆(もろ)い負(ま)け方(かた)をしたのは、天(てん)の利(り)と人(ひと)の利(り)とを得(え)なかつたからではなく、彼(かれ)の部将(ぶしよう)の一人(ひとり)の時計(とけい)が、ほんの僅(わづ)かばかり違(ちが)つてゐたゝめであるといはれてゐます。かように、時計(とけい)は、人生(じんせい)の利害(りがい)に深(ふか)い関係(かんけい)をもつてゐるものです。私(わたし)が時計(とけい)の発明史(はつめいし)を説(と)かうとするのは、これがためであります。
 昔(むかし)から時間(じかん)は、天体(てんたい)の運動(うんどう)で計(はか)ることになつてゐます。即(すなはち)、年(とし)と四季(しき)とは、太陽(たいよう)のぐるりを廻(まは)る地球(ちきゆう)の運動(うんどう)によつて知(し)られ、月(つき)と週(しゆう)とは太陰(たいいん)の変化(へんか)によつて知(し)られ、日(ひ)の明(あ)け暮(く)れは太陽(たいよう)の出没(しゆつぼつ)によつてそれと悟(さと)られます。原始人(げんしじん)はかうした年(とし)、季節(きせつ)、日(ひ)を、天上(てんじよう)の大時計(おほどけい)で測(はか)りました。然(しか)らば日以下(ひいか)のこまかい時間(じかん)は、どうしてそれを知(し)つたでせうか。一時(いちじ)、一分(いつぷん)、一秒(いちびよう)などの刻(きざ)みは、どうして注意(ちゆうい)せられたでせうか。卵(たまご)をゆでるにしても、狩場(かりば)から家路(いへじ)に就(つ)くにしても、適当(てきとう)な時間(じかん)を何(なに)によつて計(はか)つたでせうか。手軽(てがる)に分秒(ふんびよう)を計(はか)る方法(ほうほう)は、昔(むかし)から実際上(じつさいじよう)の問題(もんだい)でした。この問題(もんだい)を解(と)くために先(ま)づ試(こゝろ)みられたのは、太陽(たいよう)によつて投(な)げられる影(かげ)を観察(かんさつ)することでした。人体(じんたい)の影(かげ)の変化(へんか)が、疑(うたが)ひもなく最初(さいしよ)の時計(とけい)でした。たとへば影(かげ)が次第(しだい)に短(みじか)くなれば、午(ひる)がだん/\近(ちか)くなつて来(き)たことを示(しめ)し、頭(あたま)の影(かげ)がちようど足(あし)もとに落(お)ちれば、それは正午(しようご)であり、再(ふたゝ)び影(かげ)が伸(の)び始(はじ)めてだん/\長(なが)くなれば、次第(しだい)に日没(にちぼつ)が近(ちか)づいたといふことを知(し)つたのが、影時計(かげどけい)、即(すなはち)、日時計(ひどけい)の基(もと)になつたのです。
 一日中(いちにちじゆう)、太陽(たいよう)の光線(こうせん)のあたつてゐる所(ところ)へ、平(ひら)たい一枚(いちまい)の板(いた)を置(お)き、その中央(ちゆうおう)に一(いち)めーとる足(た)らずの棒(ぼう)を立(た)てゝ、その棒(ぼう)の影(かげ)が板(いた)の上(うへ)にうつるのを、終日(しゆうじつ)注意(ちゆうい)して記(しる)しつけさへすれば、手軽(てがる)な日時計(ひどけい)は出来(でき)ます(第百十六図)。
 日時計(ひどけい)は今日(こんにち)でもなほある場所(ばしよ)には用(もち)ひられてゐますが、実際(じつさい)に時間(じかん)を計(はか)るためではなく、むしろ好奇心(こうきしん)を満足(まんぞく)させるために保存(ほぞん)されてゐる傾(かたむ)きがあります。日時計(ひどけい)には三(みつ)つの大(おほ)きな欠点(けつてん)があつて、実用的(じつようてき)の価値(かち)は甚(はなは)だ少(すくな)いものです。
 即(すなはち)、第一(だいいち)に夜間(やかん)は役(やく)に立(た)ちません。第二(だいに)に雨天(うてん)或(あるひ)は太陽(たいよう)の直射(ちよくしや)せぬ場所(ばしよ)では、日中(につちゆう)でも役(やく)に立(た)ちません。第三(だいさん)には家(いへ)の中(なか)では時(とき)が計(はか)れません。かうしたわけで、日時計(ひどけい)はとうの昔(むかし)にその生命(せいめい)が終(をは)つてゐるのみならず、それは発明(はつめい)の中(なか)には計(かぞ)へられない一種(いつしゆ)の観測器(かんそくき)で、これを時計(とけい)の起原(きげん)だといふのにはためらはされます。
 時(とき)を測(はか)る方法(ほうほう)の起(おこ)りとしては、日時計(ひどけい)よりも火時計(ひどけい)を挙(あ)げる方(ほう)がよろしい。それは棒(ぼう)や蝋燭(ろうそく)の燃焼(ねんしよう)で時間(じかん)を計(はか)るので、現(げん)に今日(こんにち)でも太平洋(たいへいよう)諸島(しよとう)の土人(どじん)は、きやんどる・なつと、即(すなはち)、燭果樹(しよくかじゆ)の実(み)を燃(も)やして、時(じ)、分(ふん)、秒(びよう)などを定(さだ)めてゐますが、これならば昼夜(ちゆうや)の別(べつ)もなく、また戸(と)の内外(ないがい)の別(べつ)もなく、いつでも、どこでも計(はか)られるから便利(べんり)です。またちよつと耳(みゝ)にした話(はなし)で、どれほどの程度(ていど)まで正確(せいかく)なかは知(し)らないが、支那(しな)の飛脚(ひきやく)はちよつと仮寝(うたゝね)をする時(とき)に、足(あし)の指(ゆび)の間(あひだ)へ火(ひ)のついた線香(せんこう)を挟(はさ)んでおくそうですが、かうして置(お)けば時間(じかん)の計算(けいさん)と覚醒(かくせい)の警戒(けいかい)とが同時(どうじ)に出来(でき)て、まるで今日(こんにち)の目覚(めざ)まし時計(どけい)のような役(やく)を勤(つと)めます。
 いろ/\の火時計(ひどけい)は、地球上(ちきゆうじよう)到(いた)るところで造(つく)られて、未開人達(みかいじんたち)に使用(しよう)されてゐたが、文明時代(ぶんめいじだい)にはひつても尚(な)ほしばらくの間(あひだ)は廃(すた)らないでゐました。
 紀元(きげん)九世紀(くせいき)の頃(ころ)、アルフレツド大王(だいおう)は、七十ニ(しちじゆうに)ペんにい・うえーとの目方(めかた)ある蝋(ろう)で、六本(ろつぽん)の蝋燭(ろうそく)を作(つく)り、一本(いつぽん)の長(なが)さを十二(じゆうに)いんちと定(さだ)めて、それに十二(じゆうに)の刻(きざ)み目(め)をつけ、次(つ)ぎ/\に点火(てんか)してゆくと、一本(いつぽん)が燃(も)えつくすのに規則(きそく)正(たゞ)しく四時間(よじかん)を要(よう)するから、一(いち)いんち燃(も)えるには二十分間(にじつぷんかん)かゝるわけです。と、六本(ろつぽん)の蝋燭(ろうそく)が燃(も)え切(き)ると、ちようど二十四時間(にじゆうよじかん)経(た)つたことがわかります。
 昔(むかし)のニユー・ヨークで、アーヴイングが、時間(じかん)を計算(けいさん)した方法(ほうほう)が面白(おもしろ)うございます。最初(さいしよ)の移民(いみん)は正確(せいかく)に時間(じかん)など計(はか)らず、ある時期(じき)が来(く)るとほとんど規則的(きそくてき)に喫煙(きつえん)したから、それで大体(だいたい)の時間(じかん)を知(し)つたといふのです。今日(こんにち)でさへ朝鮮人(ちようせんじん)は、煙草(たばこ)をのんだ度数(どすう)で、時間(じかん)を測(はか)つてゐます。これらは正確(せいかく)なものではないが、ともかくも火時計(ひどけい)の一種(いつしゆ)と見(み)られないことはありません。
 もし私達(わたしたち)がマライ土人(どじん)の刳(く)り舟(ふね)へ乗(の)つたなら、水桶(みづをけ)にこゝあの殻(から)が浮(う)いてゐるのを見(み)るでせう。その殻(から)の底(そこ)にはちひさな孔(あな)があいてゐて、そこから水(みづ)が少(すこ)しづゝはひつて来(き)て、一(いつ)ぱいになるのには一時間(いちじかん)かゝります。そして、それが水中(すいちゆう)に沈(しづ)むと、番人(ばんにん)は時間(じかん)を告(つ)げた上(うへ)、また殻(から)を水桶(みづをけ)の水(みづ)の上(うへ)に浮(うか)べます。これが水時計(みづどけい)の初(はじ)めです。これと同様(どうよう)の方法(ほうほう)は北印度(きたインド)でも採用(さいよう)され、こゝあの殻(から)の代(かは)りに銅椀(どうわん)を用(もち)ひ、水(みづ)が一(いつ)ぱいになるたびに見張(みは)り人(にん)がそれを叩(たゝ)いて時間(じかん)を知(し)らせます。
 水時計(みづどけい)の第二段(だいにだん)の進歩(しんぽ)は、支那(しな)の漏刻(ろうこく)、即(すなはち)、漏斗時計(じやうごどけい)で見(み)られます。漏斗時計(じやうごどけい)は数千年前(すうせんねんまへ)に創製(そうせい)せられたもので、初(はじ)めには上下(じようげ)二(ふた)つの桶(をけ)があり、上(うへ)の桶(をけ)の底(そこ)から緩(ゆる)く水(みづ)が流(なが)れ出(だ)して下(した)の桶(をけ)にはひると、下(した)の桶(をけ)には浮(う)き木(ぎ)が入(い)れてあつて、それが桶(をけ)の中(なか)の水嵩(みづかさ)の高(たか)まるに従(したが)つて上(うへ)に昇(のぼ)り、時刻(じこく)を指(さ)し示(しめ)す仕掛(しか)けになつてゐました。しかしこれでは水圧(すいあつ)の関係(かんけい)から、時刻(じこく)を指(さ)し示(しめ)す浮(う)き木(ぎ)の昇騰(しようとう)に遅速(ちそく)があつて、一定(いつてい)の速度(そくど)を保(たも)たないことが約(やく)一世紀間(いつせいきかん)の経験(けいけん)で知(し)れたので、その欠点(けつてん)を補(おぎな)ふために、更(さら)に一(ひと)つの水桶(みづをけ)を上桶(うはをけ)の上(うへ)に置(お)き、中央(ちゅうおう)の桶(をけ)は常(つね)に一定(いつてい)の水深(すいしん)を保(たも)つてをり、従(したが)つて下(した)の桶(をけ)への水(みづ)の注入速度(ちゆうにゆうそくど)が以前(いぜん)に比(くら)べれば規則的(きそくてき)になり、時刻(じこく)の正確(せいかく)が保(たも)たれることになりました。けれども、これでもなほ不完全(ふかんぜん)だといふので、最後(さいご)に第四(だいし)の桶(をけ)が加(くは)へられ、千三百二十一年(せんさんびやくにじゆういちねん)以後(いご)は、毎日(まいにち)午後五時(ごごごじ)に最下層(さいかそう)の桶(をけ)の水(みづ)が、最上層(さいじようそう)の桶(をけ)に移(うつ)されて、時間(じかん)の指示(しじ)を続(つゞ)けさせてゆくようにしました(第百十八図)。
 日本(につぽん)でも昔(むかし)は支那式(しなしき)の漏斗時計(じようごどけい)を用(もち)ひて、時間(じかん)の移(うつ)つてゆくのを計算(けいさん)してゐました。もちろん支那(しな)から輸入(ゆにゆう)されたもので、それ以前(いぜん)には霞(かすみ)や風(かぜ)で季節(きせつ)を知(し)り、月(つき)や霜(しも)で時刻(じごく)を知(し)つたりしてゐました。
 こんどは少(すこ)し方角(ほうがく)をかへて、西洋(せいよう)の時計(とけい)のお話(はなし)をしませう。古代(こだい)ギリシヤでは、初(はじ)め時(とき)の計算(けいさん)には日時計(ひどけい)以上(いじよう)のものがなかつたようであります。しかるに、紀元前(きげんぜん)五世紀(ごせいき)の中頃(なかごろ)、アテネで是非(ぜひ)とも正確(せいかく)な時計(とけい)がほしいといふ考(かんが)へが起(おこ)りました。それまでは時計(とけい)がないため、演説家(えんぜつか)はのべつ幕(まく)なしにしやべり続(つゞ)けるし、弁護人(べんごにん)は法廷(ほうてい)で一弁護(いちべんご)に数時間(すうじかん)の長広舌(ちようこうぜつ)を振(ふる)ふといふ有様(ありさま)でした。そこで時間(じかん)の浪費(ろうひ)を防(ふせ)ぐために、いくら日光(につこう)の直射(ちよくしや)するギリシヤだとて、いつまでも日時計(ひどけい)ばかりを便(たよ)つてゐるでもあるまいと、水時計(みづどけい)の工夫(くふう)に発明家(はつめいか)の心(こゝろ)が向(むか)ひました。
 ギリシヤの水時計(みづどけい)(第百十九図)は、耳(みゝ)のついてゐる瓶(かめ)の底(そこ)に、極(きは)めて緩(ゆるや)かに水(みづ)の漏(も)れ出(だ)す孔(あな)のあるもので、その瓶(かめ)が空(から)になるのを合図(あひず)に、演説(えんぜつ)なり、弁護(べんご)なりを中止(ちゆうし)させる定(さだ)めにいたしました。で、当時(とうじ)の演説家達(えんぜつかたち)は、ちようど近代(きんだい)の弁士(べんし)が時計(とけい)を気(き)にしながら演説(えんぜつ)をしてゐるように、水瓶(みづがめ)の水(みづ)に注目(ちゆうもく)しながら演説(えんぜつ)を続(つゞ)けました。もし妨害者(ぼうがいしや)があつたりすると、弁士(べんし)は聴衆(ちようしゆう)に向(むか)つて、「どうか、その水(みづ)を止(と)めて置(お)いてもらひたい」といつたり、また妨害者(ぼうがいしや)に向(むか)つては、「あなたは私(わたし)の水(みづ)を奪(うば)つてゐることを記憶(きおく)しなさい」などといひました。ある場合(ばあひ)には弁士(べんし)が立(た)ち往生(おうじよう)して、水(みづ)ばつかり飲(の)んでゐたりしますと、彼(かれ)の咽喉(のど)のように乾(かわ)き切(き)つたうるほひのない、駄弁(だべん)に厭(あ)きはてた聴衆(ちようしゆう)は、「さつさと水瓶(みづがめ)を飲(の)み干(ほ)し給(たま)へ。さうすれば、君(きみ)は、君自身(きみじしん)と君(きみ)の聴衆(ちようしゆう)とを同時(どうじ)に喜(よろこ)ばせる」などと叫(さけ)ぶものもありました。
 ギリシヤ人(じん)は、初(はじ)めのうちは、このような至極(しごく)簡単(かんたん)な水時計(みづどけい)を使(つか)つてゐたがプラトンさへもその改良(かいりよう)には、心(こゝろ)を苦(くる)しめたといはれるほど、人々(ひと/゛\)は時計(とけい)の改善(かいぜん)に没頭(ぼつとう)しましたので、紀元前(きげんぜん)三百年(さんびやくねん)の頃(ころ)には、第百二十図(だいひやくにじゆうず)のように精巧(せいこう)な水時計(みづどけい)が工夫(くふう)されました。
 改良水時計(かいりようみづどけい)(第百二十図)は、水滴(すいてき)が円●(ツチヘン+「壽」)(えんとう)(イ)へはひると、浮(う)き木(ぎ)(ロ)が昇(のぼ)つて時針(とけい)を動(うご)かす車輪(しやりん)(ハ)が廻(まは)る。漏斗(じやうご)(ニ)のうちには棒(ぼう)(ホ)で上下(じようげ)する円錐(えんすい)(へ)があり、第一管(だいいつかん)(ト)を通(とほ)つてはひつて来(く)る過剰(かじよう)の水(みづ)は、第二管(だいにかん)(チ)から漏(も)れ出(だ)してしまふから、漏斗(じやうご)(ニ)内(ない)の水深(すいしん)はいつも不変(ふへん)で、その水圧(すいあつ)もまた一定(いつてい)してをり、従(したが)つて第三管(だいさんかん)(リ)から流(なが)れ出(で)る水(みづ)の速度(そくど)に遅速(ちそく)がなく、時針(とけい)は正確(せいかく)に、規則的(きそくてき)に、時(とき)を刻(きざ)むといふ仕掛(しか)けでした。
 この改良水時計(かいりようみづどけい)で注意(ちゆうい)すべきことは、文字盤(もじばん)の文字(もじ)が十二(じゆうに)まで二回(にかい)記(しる)してあることで、現在(げんざい)でもイタリヤとカナダ鉄道沿線(てつどうえんせん)では、この形式(けいしき)を実行(じつこう)してゐますが、いかにも便利(べんり)なものであります。
 ギリシヤの次(つ)ぎにはローマを一瞥(いちべつ)して見(み)る必要(ひつよう)があります。ローマ人(じん)は実際的(じつさいてき)性質(せいしつ)をもつてゐたが、文化(ぶんか)の程度(ていど)が後(おく)れてゐたから、時計(とけい)に注意(ちゆうい)し出(だ)したのもはるか後(あと)で、プラウツスの詩(し)でもわかる通(とほ)り、紀元前(きげんぜん)二百年頃(にひやくねんごろ)に、やつと公設(こうせつ)日時計(ひどけい)が造(つく)られたような始末(しまつ)です。
  責(せ)めよ、初(はじ)めて時(とき)を刻(きざ)むことを
  工夫(くふう)したるものを。また責(せ)めよ、
  こゝに日時計(ひどけい)を備(そな)へつけて、
  我(わ)が生活(せいかつ)を意地(いじ)ぎたなくも、
  寸断(すんだん)せんとするものを。幼(をさな)かりし時(とき)、
  我(わ)が胃嚢(いぶくろ)は我(わ)が日時計(ひどけい)、
  日時計(ひどけい)よりも正確(せいかく)なる時計なりき。
  その時計(とけい)こそは、食事(しよくじ)すべき
  午時(ひるどき)を我(われ)に告(つ)げ教(をし)へたれ。
 やがてローマに水時計(みづどけい)が輸入(ゆにゆう)されたが、その時(とき)には既(すで)にいくらか改良(かいりよう)されてゐました。それをローマ人(じん)の手(て)で、どれだけ改善(かいぜん)したかは疑問(ぎもん)です。中世紀(ちゆうせいき)の初期(しよき)には、面目(めんもく)が全(まつた)く一新(いつしん)されてゐますけれど、それはローマ人(じん)の手(て)によつたものではなく、恐(おそ)らく外(ほか)の国民(こくみん)の手(て)によつたらうと思(おも)はれます。紀元(きげん)九世紀(くせいき)にシヤーレマニユ帝(てい)がペルシヤ国王(こくおう)から贈(おく)り物(もの)として受(う)け取(と)つた水時計(みづどけい)は精巧(せいこう)を極(きは)めたものでした。その時計(とけい)には十二(じゆうに)の小(ちひ)さい戸(と)があつて、それ/゛\の時間(じかん)を表(あらは)しました。各々(おの/\)の戸(と)は示(しめ)すべき時間(じかん)が来(く)るとおのづと開(あ)いて、それから同数(どうすう)の小(ちひ)さい球(きゆう)が出(で)て来(き)て、真鍮(しんちゆう)の太鼓(たいこ)の上(うへ)に落(お)ちます。即(すなはち)、開(あ)いた戸(と)で眼(め)が時間(じかん)を読(よ)むのみならず、落(お)ちた球(きゆう)の音(おと)で耳(みゝ)が時間(じかん)を聞(き)くことも出来(でき)ました。十二時(じゆうにじ)になると、十二(じゆうに)の小騎士(しようきし)が駆(か)け出(だ)して、時計(とけい)のぐるりを一周(いつしゆう)して、すべての戸(と)を閉(し)めてゆく仕掛(しか)けになつてゐたといはれます。
 シヤーレマニユ帝(てい)の時計(とけい)ほど珍(めづ)らしくはないが、それよりもつと、実用的(じつようてき)なのは中世(ちゆうせい)の水時計(みづどけい)(第百二十一図)で、外観(がいかん)は今日(こんにち)のものとよく似(に)てゐますが、内部(ないぶ)は異(ことな)つてゐて、錘(おもり)と車(くるま)とがあり、浮(う)き(イ)が水(みづ)の力(ちから)で昇(のぼ)ると、錘(おもり)(ハ)が降(お)りて、錘軸(おもりじく)(ロ)が旋(まは)る。錘軸(おもりじく)の端(はし)には時間(じかん)を指(さ)す針(はり)がついてゐました。よく気(き)をつけて見(み)ると、この時計(とけい)は半分(はんぶん)は水時計(みづどけい)で、半分(はんぶん)は分銅時計(ふんどうどけい)であります。下(さが)る錘(おもり)は軸(じく)を廻(まは)し、水(みづ)は錘(おもり)の下(さが)るわり合(あひ)を規則正(きそくたゞ)しくいたします。
 かうした水時計(みづどけい)は、容易(ようい)に分銅時計(ふんどうどけい)に進化(しんか)すべき性質(せいしつ)を帯(お)んでゐます。中世紀(ちゆうせいき)の時計師(とけいし)は、何世紀(なんせいき)も分銅(ふんどう)で時間(じかん)を刻(きざ)ます工夫(くふう)をして、多少(たしよう)の成功(せいこう)を収(をさ)めました。千三百七十年(せんさんびやくしちじゆうねん)に、ドイツのヘンリイ・デ・ヴイツクがその問題(もんだい)を解決(かいけつ)し、パリへ往(い)つて王宮(おうきゆう)の塔(とう)の時計(とけい)を造(つく)りました。それは有名(ゆうめい)なもので、其後(そのご)いくらか形(かたち)が変(かは)つたが、大体(だいたい)元(もと)のまゝでパリのパレイス・ド・ジユスチースに保存(ほぞん)されてゐます。第百二十二図(だいひやくにじゆうにず)に示(しめ)した通(とほ)り、この時計(とけい)は時計部(とけいぶ)と時鐘部(じしようぶ)との二部(にぶ)から出来(でき)てゐるが、ここではこの時計部(とけいぶ)の説明(せつめい)をしませう。錘(おもり)(イ)は五百(ごひやく)ぽんどの目方(めかた)があり、柄(え)(ロ)で捲(ま)き上(あ)げられます。(ハ)は時針(じしん)ですが、錘(おもり)の重(おも)みで全車輪(ぜんしやりん)が動(うご)き、時針(じしん)の廻(まは)る工合(ぐあひ)は、図(ず)を見(み)れば容易(ようい)にわかるでせう。しかし、錘(おもり)の落下(らつか)を調整(ちようせい)しないと、加速度(かそくど)のために時針(じしん)が不正確(ふせいかく)になりますから、ちようど水時計(みづどけい)で水(みづ)の注入(ちゆうにゆう)に注意(ちゆうい)したように、デ・ヴイツクは鋸歯状車輪(のこぎりばじようしやりん)(ニ、ニ)と軸(じく)(へ、ほ)で動(うご)く棒(ぼう)(ホ)とを作(つく)りました。棒(ぼう)(ホ)の上端(じようたん)は天秤(てんびん)(へ、へ)で、双端(そうたん)に小(ちひ)さな錘(おもり)(と、と)が下(さ)げてあります。
 今(いま)、鋸歯状車輪(のこぎりばじようしやりん)(ニ、ニ)が廻(まは)ると(に)を噛(か)んで、棒(ぼう)(ホ)が動(うご)き、車止(くるまど)め(ち)のために逆転(ぎやくてん)が防(ふせ)がれます。即(すなはち)、(ニ、ニ)の運動(うんどう)は、不断(ふだん)に(へ、へ)を動(うご)かすので、(ニ、ニ)は錘(おもり)(イ)の落下(らつか)を適宜(てきぎ)に調節(ちようせつ)します。この発明(はつめい)は時計史上(とけいしじよう)、重要(じゆうよう)なもので、フランス王(おう)はこれを嘉賞(かしよう)し、一日(いちにち)三(さん)しるりんぐの報酬(ほうしゆう)を与(あた)へ、時計塔内(とけいとうない)に自由(じゆう)に起臥(きが)することを許(ゆる)しました。しかし、これが今日(こんにち)私達(わたしたち)の持(も)つてゐる時計(とけい)の先駆(せんく)をした発明(はつめい)に対(たい)する報酬(ほうしゆう)として見(み)ると、はなはだけち臭(くさ)いのを感(かん)ぜざるを得(え)ません。
 分銅時計(ふんどうどけい)の発明(はつめい)と共(とも)に、水時計(みづどけい)は廃物(はいぶつ)になりまして、あらゆる時計職(とけいしよく)は、錘(おもり)、車輪(しやりん)、操縦機(そうじゆうき)、権衡棒(けんこうぼう)などの改良(かいりよう)に全力(ぜんりよく)を傾注(けいちゆう)し初(はじ)め、約(やく)一世紀間(いつせいきかん)の研究(けんきゆう)の後(のち)、やう/\錘(おもり)なしの時計(とけい)(第百二十三図)を造(つく)りあげました。これが現今(げんこん)の時計(とけい)の初(はじ)めであることは容易(ようい)に知(し)られます。俗(ぞく)に『ひげぜんまい』といはれる、いつでも忙(いそ)がしそうに動(うご)いてゐるあの精緻(せいち)な権衡車輪(けんこうしやりん)は、実(じつ)にデ・ヴイツク式(しき)の不細工(ぶさいく)な権衡車輪(けんこうしやりん)の改良(かいりよう)されたものであります。
 このぜんまい式時計(しきとけい)なら、任意(にんい)にどんな時計(とけい)へでも据(す)ゑつけられ、且(か)つどこへでも携帯(けいたい)される便宜(べんぎ)があるので、時計(とけい)の目的(もくてき)にいさゝか適(かな)ひかけたわけです。そこで各国(かくこく)は競(きそ)つて、この創製者(そうせいしや)たる名誉(めいよ)を自国(じこく)の手(て)に収(をさ)めようとしてゐますが、ニユーレンブルグ市(し)の千四百七十年(せんしひやくしちじゆうねん)に造(つく)られた時計(とけい)が、その名誉(めいよ)を荷(にな)ふであらうと一般(いつぱん)に認(みと)められてゐます。
 ぜんまい式(しき)を応用(おうよう)した懐中時計(かいちゆうどけい)は、初(はじ)め小(ちひ)さい置(お)き時計(どけい)ほどの大(おほ)きさをもつた不細工(ぶさいく)なものでしたが、十六世紀(じゆうろくせいき)の末(すゑ)になると、小(ちひ)さい金銀側(きんぎんがは)のものが造(つく)り出(だ)されました。
 柱時計(はしらどけい)に於(お)ける最近(さいきん)の重要(じゆうよう)な出来事(できごと)は、振(ふ)り子(こ)の発明(はつめい)であります。振(ふ)り子(こ)の発明(はつめい)といふと、すぐガリレオが聯想(れんそう)されます。この大天文学者(だいてんもんがくしや)が、ある日(ひ)ピサの殿堂(でんどう)で礼拝(らいはい)してゐると、天井(てんじよう)からぶら下(さが)つてゐるらんぷが動(うご)いてゐるのに気(き)がつきました。そこで、自分(じぶん)の脈拍(みやくはく)で時間(じかん)を計(はか)つて見(み)ますと、振幅(しんぷく)に大小(だいしよう)はあるが、らんぷも吊(つ)り鎖(ぐさり)も同(おな)じ時間(じかん)に振動(しんどう)してゐることがわかりました。この観察(かんさつ)を基(もと)にしてガリレオは種々(しゆ/゛\)の長(なが)さのもので振動(しんどう)の実験(じつけん)を試(こゝろ)み、いろ/\の重要(じゆうよう)なことどもを知(し)りましたが、そのうちで一番(いちばん)大切(たいせつ)な発見(はつけん)は、三十九(さんじゆうく)いんちの長(なが)さの振(ふ)り子(こ)は、ちようど一秒間(いちびようかん)に一振動(いちしんどう)するといふことでした(第百二十四図)。で、もし振り子が、その振動(しんどう)を不断(ふだん)に続(つゞ)けてゆくことが出来(でき)るならば、それは時計(とけい)の役目(やくめ)をするに相違(そうい)ありません。ガリレオはこの点(てん)に注意(ちゆうい)して、不断(ふだん)に振(ふ)り子(こ)を動(うご)かさせる器械(きかい)を発明(はつめい)しましたが、まだ時計(とけい)には応用(おうよう)しませんでした。
 ところが、誰(だれ)の手(て)でかはわからないが、十七世紀(じゆうしちせいき)の中頃(なかごろ)に、それが首尾(しゆび)よく時計(とけい)に応用(おうよう)されました。それを創製(そうせい)した名誉(めいよ)を我(わ)が手(て)に収(をさ)めようと、こゝでもイギリス人(じん)、オランダ人(じん)、フランス人(じん)は争(あらそ)つてをります。
 ガリレオが振(ふ)り子(こ)を発明(はつめい)してからヨーロツパ中(じゆう)の時計職(とけいしよく)は競(きそ)つてそれを時計(とけい)に応用(おうよう)しようと努力(どりよく)し、殆(ほとん)ど同時(どうじ)に数人(すうにん)がそれに成功(せいこう)したものと思(おも)はれます。それら成功者(せいこうしや)の中(なか)には、オランダの天文学者(てんもんがくしや)クリスチヤン・フイゲンスも数(かぞ)へられます。彼(かれ)は千六百五十六年(せんろくぴやくごじゆうろくねん)に、振(ふ)り子(こ)の振動(しんどう)で動力(どうりよく)を調整(ちようせい)される柱懸(はしらか)け時計(とけい)を創製(そうせい)しました(第百二十五図)。この時計(とけい)は、錘(おもり)を滑車(かつしや)に巻(ま)きつけた縄(なは)へ結(むす)びつけて、デ・ヴイツク式(しき)と同(おな)じく、全車輪(ぜんしやりん)に動力(どうりよく)を与(あた)へ、且(か)つ操縦機(そうじゆうき)の車(くるま)は二(ふた)つの滑車(かつしや)で動(うご)かされ、権衡器(けんこうき)の代(かは)りに振(ふ)り子(こ)が活動(かつどう)してゐるのが特色(とくしよく)でした。
 時計上(とけいじよう)の発明(はつめい)は、フイゲンズを打(う)ち止(と)めといたしまして、その後(ご)、どんな大改良(だいかいりよう)も加(くは)へられたことは聞(き)きません。「して見(み)ると、時計界(とけいかい)にはどんな変化(へんか)もないのか」と、聞(き)かれるならば、しかし、私(わたし)は次(つ)ぎのように答(こた)へようと思(おも)ひます、「二百年前(にひやくねんぜん)と比(くら)べると、合金(ごうきん)、細工(さいく)などの工合(ぐあひ)がはるかに精巧(せいこう)になつており、且(か)つ大量生産(たいりようせいさん)のために価格(かかく)が非常(ひじよう)に安(やす)くなり、どんな貧乏人(びんぼうにん)でも時計(とけい)の一(ひと)つぐらゐは持(も)てるようになつたのが現今(げんこん)の状態(じようたい)です」

一七、書物(しよもつ)

 私達(わたしたち)は日頃(ひごろ)『書物(しよもつ)』といふ言葉(ことば)を使(つか)ひ慣(な)らしてゐるので、「書物(しよもつ)つて、どんなものです」と、聞(き)かれると、却(かへ)つてをかしいぐらゐに感(かん)じますが、この問(とひ)に対(たい)して正常(せいじよう)に答(こた)へることはかなりむづかしいのです。書物(しよもつ)は、思(おも)ふこと、即(すなはち)、思想(しそう)を記(しる)して、どこへでも持(も)つてゆき、且(か)つ後(のち)の世(よ)に残(のこ)さうとする発明(はつめい)であります。だから、人間(にんげん)に思想(しそう)が出来(でき)た時(とき)、早(はや)くも書物(しよもつ)を作(つく)らうと考(かんが)へ初(はじ)めましたが、その後(のち)も思想(しそう)を持(も)ちつゞけましたから、書物(しよもつ)を作(つく)らうといふ考(かんが)へもつゞいてゐたのです。書物(しよもつ)の歴史(れきし)は、それ故(ゆゑ)に、人類進化(じんるいしんか)の初(はじ)めから今日(こんにち)まで引(ひ)きつゞいてゐるものと見(み)てよろしい。
 思想(しそう)は初(はじ)め人間(にんげん)の頭脳(ずのう)に組(く)み立(た)てられ、それを舌(した)で表現(ひようげん)したところの『伝説(でんせつ)』即(すなはち)、無形(むけい)の書物(しよもつ)で保存(ほぞん)せられました。たとへば国民的事蹟(こくみんてきじせき)、法律(ほうりつ)、宗教上(しゆうきようじよう)の教訓(きようくん)などは、特(とく)にそれらを暗誦(あんしよう)するように訓練(くんれん)せられたものゝ記憶(きおく)に印刻(いんこく)せられて、口語(こうご)で子孫(しそん)に語(かた)り継(つ)がれました。さうした人(ひと)は多(おほ)くは僧侶(そうりよ)で、語(かた)りつぐべきことを暗誦(あんしよう)するために、長(なが)い間(あひだ)毎日(まいにち)毎時(まいどき)その練習(れんしゆう)をしたのであります。たとへば印度(インド)の聖典(せいてん)『う゛えだ』の如(ごと)きは、数世紀(すうせいき)の間(あひだ)語(かた)り伝(つた)へられたもので、その全部(ぜんぶ)を記憶(きおく)するのに四十年(しじゆうねん)かゝるといはれ、書物(しよもつ)にすればちようど『ばいぶる』ほどの量(りよう)がありますが、それがほとんど散逸(さんいつ)せずに語(かた)り伝(つた)へられたことは、思(おも)へば本当(ほんとう)に不思議(ふしぎ)であります。
 しかし、原始時代(げんしじだい)の人々(ひと/゛\)は、伝説(でんせつ)の形式(けいしき)による外(ほか)、滅(ほろぼ)してはならぬと思(おも)ふ思想(しそう)を記録(きろく)、保存(ほぞん)する方法(ほうほう)がありませんから、なんでも後世(こうせい)に伝(つた)へようと思(おも)ふことは、みなこれを語(かた)り継(つ)がせました。昔(むかし)の書物(しよもつ)は、それだから、記憶(きおく)といふ机上(きじよう)で書(か)かれ、口舌(こうぜつ)といふ活字(かつじ)で刷(す)られた伝説(でんせつ)であるといふことが出来(でき)るのであります。
 書物発達史(しよもつはつたつし)の第一(だいいち)ぺいじは、ちようど私達(わたしたち)が何(なに)か記憶(きおく)しなければならぬ時(とき)、ちよつとはんけちに結(むす)び目(め)を作(つく)つて置(お)くような具合(ぐあひ)に、備忘(びぼう)のための結(むす)び目(め)を作(つく)つたことから繰(く)りひろげられました。最初(さいしよ)の有形(ゆうけい)の書物(しよもつ)は、古代(こだい)ペルウ人(じん)のくいぷ(第百二十六図)で代表(だいひよう)せられるような結(むす)び目(め)の連続(れんぞく)であつたに相違(そうい)ありません。この珍(めづ)らしい書物(しよもつ)は、結(むす)び役(やく)といはれる人(ひと)が作(つく)つたので、意味(いみ)ははつきりとわからないけれども、ペルウ軍(ぐん)の強(つよ)いことを述(の)べたものです。この種(しゆ)の結(むす)び目(め)の書物(しよもつ)は、南(みなみ)アメリカのほとんど全部(ぜんぶ)と、アジヤとの原始人(げんしじん)によつて作(つく)られました。今日(こんにち)では支那(しな)の雲南省(うんなんしよう)やラオスやではそれが用(もち)ひられ、我国(わがくに)ではつい此間(このあひだ)まで、沖縄県(おきなはけん)にそれが残(のこ)つてゐました。私達(わたしたち)、東洋人(とうようじん)の間(あひだ)では、それを『結縄(けつじよう)』と申(まを)します。
 結縄(けつじよう)に似(に)たものに『刻杖(こくじよう)』(第百二十七図)といふのがあります。オーストラリヤの土人(どじん)の間(あひだ)では、使者(ししや)が口上(こうじよう)の記憶(きおく)を助(たす)けるため、心覚(こゝろおぼ)えに杖(つゑ)へ切(き)り傷(きず)をつけてゆくことが今(いま)でも行(おこな)はれてゐます。しかし、これは決(けつ)して蛮人(ばんじん)だけのものではなく、文明人(ぶんめいじん)の間(あひだ)にすらぼつぼつ存在(そんざい)してゐます。ぱん屋(や)が配達(はいたつ)したぱんの数(数)を記憶(きおく)したり、牛乳配達(ぎゆうにゆうはいたつ)が配達戸数(はいたつこすう)を記憶(きおく)したりするために、杖(つゑ)に切(き)り傷(きず)をつけることはをり/\見受(みう)けられます。
 この記憶力保持(きおくりよくほじ)の方法(ほうほう)についで、ある事柄(ことがら)を絵(え)にかいて覚(おぼ)えて置(お)く方法(ほうほう)があります。絵(え)で思想(しそう)を伝(つた)へようとする企(くはだ)ては、野蛮人(やばんじん)にも文明人(ぶんめいじん)にも共通(きようつう)のことです。地球上(ちきゆうじよう)到(いた)るところで私達(わたしたち)は古代(こだい)の絵画文字(かいがもんじ)を発見(はつけん)します。それらは曾長(しゆうちよう)の死(し)とか、戦争(せんそう)とか、其他(そのた)の大事件(だいじけん)とかを、石(いし)や獣皮(じゆうひ)にかいて後(あと)に残(のこ)すものです。その絵(え)は極(きは)めて簡単(かんたん)であつても、主要(しゆよう)な意味(いみ)がわかりさへすればよいので、悲哀(ひあい)の意(い)を示(しめ)すためには、悲(かな)しげな様子(ようす)を苦心(くしん)して絵(え)にかゝずとも、目(め)から涙(なみだ)の出(で)てゐるところを●〈註、「泣く」を示す象形文字〉のように描(か)き、林(はやし)は●〈註、「林」を示す象形文字〉のように、渇(かつ)は●〈註、「動物」と「水」を示す象形文字〉のようにかけばよろしい。で、この種(しゆ)の簡単(かんたん)な絵(え)は、ある考(かんが)えを表(あら)はす通俗(つうぞく)な符号(ふごう)となつて、一般(いつぱん)に理解(りかい)されるようになりました。
 絵画符号(かいがふごう)、即(すなはち)、音(おん)に拘(かゝ)はりなく、意味(いみ)を表(あら)はすことを主(しゆ)としたものが、絵画文字(かいがもんじ)の次(つ)ぎに現(あら)はれました。絵画符号(かいがふごう)の出来(でき)た国々(くに/゛\)では、その民衆(みんしゆう)が必(かなら)ず進取的(しんしゆてき)でありました。支那(しな)では既(すで)に数千年前(すうせんねんぜん)から絵画符号(かいがふごう)で書物(しよもつ)を書(か)きましたが、今日(こんにち)でも尚(な)ほその面倒(めんどう)くさい方法(ほうほう)によつて書物(しよもつ)を著(あら)はしてゐます。非常(ひじよう)に文明(ぶんめい)の進(すゝ)んだ国々(くに/゛\)でさへ、絵画符号(かいがふごう)は全然(ぜんぜん)棄(す)てられてゐるわけではありません。日々(ひゞ)の新聞広告欄(しんぶんこうこくらん)を見(み)ても、街頭(がいとう)の看板(かんばん)を見(み)ても、同様(どうよう)の方法(ほうほう)で描(か)かれ、同様(どうよう)の意味(いみ)を現(あら)はしてゐる絵画符号(かいがふごう)を見(み)つけるでせう。
 古代(こだい)の大国民(だいこくみん)の間(あひだ)には、それ/゛\独特(どくとく)な文字(もんじ)組織(そしき)がありましたが、その中(うち)最(もつと)も興味(きようみ)の深(ふか)いのは、あるふあべつとの基(もと)、紙製本(かみせいほん)の創(はじ)めとなつたエジプトの古代文字(こだいもんじ)であります。エジプトの書物(しよもつ)は、伝説(でんせつ)、記憶文字(きおくもんじ)、絵画文字(かいがもんじ)、及(およ)び絵画符号(かいがふごう)(即(すなはち)、表意文字(ひよういもんじ))の諸段階(しよだんかい)を経(へ)て、あるふあべつとの段階(だんかい)にまで進(すゝ)みました。あるふあべつとはたしかに総(すべ)ての発明中(はつめいちゆう)最(もつと)も不思議(ふしぎ)な、また最(もつと)も有用(ゆうよう)なものであり、そしてそれはエジプト人(じん)の発明(はつめい)でありますから、エジプトの絵画符号(かいがふごう)──即(すなはち)、象形文字(しようけいもんじ)が、どうした筋道(すじみち)で文字(もんじ)になつたかを知(し)ることは無駄(むだ)でありません。
 エジプトの絵画符号(かいがふごう)の組織(そしき)は、数千(すうせん)の絵画(かいが)、即(すなはち)、鳥類(ちようるい)、爬虫類(はちゆうるい)、昆虫類(こんちゆうるい)、樹木(じゆもく)、花卉(かき)、その外(ほか)あらゆる物(もの)の絵(え)からなりたつてゐます。たとへばえむ(梟(ふくろ))は●〈註、梟の象形文字〉と描(か)いたが、それは象形文字(しようけいもんじ)で、本来(ほんらい)は梟(ふくろ)をあらはしたものですし、また、えぬ(水(みづ))は●〈註、「水」の象形文字〉と描(か)いて、水(みづ)を表(あら)はした象形(しようけい)でありましたが、●〈註、「せん」の絵画符号〉とかいてせんと読(よ)めば、えぬは単(たん)にんの符号(ふごう)となつてゐるに過(す)ぎず、また●〈註、三個の絵画符号〉とかいてえむ・くーとと読(よ)めばえむには梟(ふくろ)の意味(いみ)がなく、「水平(すいへい)(くーと)から(えむ)」といふ意味(いみ)の符号(ふごう)に過(す)ぎないのであります。第一(だいいち)の二例(にれい)は絵画文字(かいがもんじ)に近(ちか)い表意文字(ひよういもんじ)の性質(せいしつ)を示(しめ)し、第二(だいに)の二例(にれい)は絵画符号(かいがふごう)に近(ちか)い音標文字(おんぴようもんじ)の性質(せいしつ)を表(あら)はしてゐます。●〈註、梟の絵画文字〉から頭(あたま)の天辺(てつぺん)だけを取(と)るとMが出来(でき)ます。また●〈註、水の絵画文字〉から一部(いちぶ)をひきぬくとNが出来(でき)ます、前者(ぜんしや)はあるふあべつとのえむであり、後者(こうしや)はえぬであつて、共(とも)に梟(ふくろ)や水(みづ)の表意(ひようい)はなく、たゞ音標(おんぴよう)に過(す)ぎないのであります。
 漢字(かんじ)と日本仮名(にほんかな)との関係(かんけい)もこれによく似(に)てゐます。たとへば『日(ひ)』は太陽(たいよう)を描(か)いた●〈註、「丸の中に点」、「日」の象形文字〉から発達(はつたつ)したものであり、『木(き)』は木(き)を描(か)いた●〈註、「木」の象形文字〉から発達(はつたつ)したものであつて、本来(ほんらい)は太陽(たてよう)や樹木(じゆもく)を表現(ひようげん)する有意(ゆうい)の象形(しようけい)でしたが、日本(につぽん)ではそれを『木日(きび)』と綴(つゞ)つてきびと読(よ)ませる場合(ばあひ)があります。この場合(ばあひ)には樹木(じゆもく)や太陽(たいよう)の意義(いぎ)はなく、たゞき、び(ヽ)といふ音(おん)を標(あらは)してゐるに過(す)ぎません。これが即(すなはち)、万葉仮名(まんにようかな)の一種(いつしゆ)で、それから一歩(いつぽ)を進(すゝ)めると、「伊(い)」の「尹(いん)」を略(りやく)していとし、「呂(ろ)」を略(りやく)してろとするなど、まるで本来(ほんらい)の意義(いぎ)をもたない音符文字(おんぷもんじ)となつてしまひました。日本(につぽん)の片仮名(かたかな)、平仮名(ひらがな)はあるふあべつとによく似(に)た性質(せいしつ)をもつてゐます。
 尚(な)ほ一(いつ)そうわかり易(やす)くするために、別(べつ)の例(れい)を引(ひ)いて申(まを)しますと、エジプト人(じん)は、戸(と)(ぺー)を●〈註、「日」の形をした象形文字〉の象形(しようけい)で、鷲(わし)(あー)を●〈註、「左向きの鳥」の形の象形文字〉の象形(しようけい)で、手(て)(でー)を●〈註、「掌」の形の象形文字〉の象形(しようけい)であらはしましたが、それらは後(のち)に戸(と)や鷲(わし)や手(て)の意味(いみ)とは関係(かんけい)なく、たゞぺー、あー、でーの音(おん)を標(あらは)すための符号(ふごう)として用(もち)ひられるようになりました。これがローマ式(しき)あるふあべつとに変化(へんか)した順序(じゆんじよ)は、大体(だいたい)次(つ)ぎのようであらうといはれます。
一、エジプト象形文字(しようけいもんじ) ● ● ●〈註、戸、鷲、手の象形文字〉
二、同略字(どうりやくじ)        ● ● ●〈註、相当する略字〉
三、フエニキヤ文字(もんじ)       ● ● ●〈註、音標文字〉
四、古代(こだい)ギリシヤ文字(もんじ) ● ● ●〈註、音標文字〉
五、後代(こうだい)ギリシヤ文字(もんじ)● ● ●〈註、音標文字〉
六、ヘブライ文字(もんじ)        ● ● ●〈註、音標文字〉
七、アラビヤ文字(もんじ)        ● ● ●〈註、音標文字〉
八、ローマ文字(もんじ)         P A D
 即(すなはち)、一(いち)は二(に)と変化(へんか)し、三(さん)はフエニキヤ人(じん)がエジプト文字(もんじ)を模(も)して使(つか)つたもの、四(し)はフエニキヤ人(じん)の使用(しよう)してゐるものを斟酌(しんしやく)してギリシヤ人(じん)が創(つく)つたもの、五(ご)は四(し)の形(かたち)の整(とゝの)へられたもの、八(はち)は四(し)、五(ご)の変化(へんか)したもの、六(ろく)と七(しち)とはへブライ人(じん)とアラビヤ人(じん)とによつて、それぞれ変化(へんか)せしめられたもので、みな同(おな)じ系統(けいとう)を引(ひ)いてゐます。
 さて文字(もんじ)のお話(はなし)はこれぐらゐで止(と)めて、愈々(いよ/\)書物(しよもつ)の起原(きげん)について申(まを)しますと、エジプト古代(こだい)の記録(きろく)は、ピラミツドや寺院(じいん)の壁上(へきじよう)などに彫(ほ)りつけられてゐますが、石面(せきめん)へこつ/\と彫(ほ)るのは容易(ようい)のことではありませんから、もつと楽(らく)なものへ書(か)かうといふ欲望(よくぼう)が起(おこ)りまして、それに適当(てきとう)な材料(ざいりよう)を探(さが)しました結果(けつか)、ニル河(がは)に沢山(たくさん)生(は)えてゐるぱぴるすといふ植物(しよくぶつ)の皮(かは)を剥(は)いで、その内皮(ないひ)を薄(うす)く削(は)ぎ、二枚(にまい)合(あは)せて表面(ひようめん)が滑(なめら)かになるように圧(お)しつけたものをつくつて一枚(いちまい)とし、それを何枚(なんまい)も/\、つなぎ合(あは)して棒(ぼう)にまきつけたものを一巻(ひとま)きとしました(第百二十八図)。幅(はゞ)は大抵(たいてい)八(はち)いんちから十(じゆう)いんちまで、長(なが)さは百(ひやく)ふいーとぐらゐで、それに蘆(あし)の茎(くき)の先端(せんたん)を割(わ)つたぺんで、煤(すゝ)とごむとを混和(こんわ)して造(つく)つたいんきを用(もち)ひて記(しる)しつけました。このぱぴるすが英語(えいご)の紙(かみ)を意味(いみ)するぺーぱあの語原(ごげん)となつたように、また紙製書物(しせいしよもつ)の起原(きげん)ともなつたのであります。
 アツシリヤや中央(ちゆうおう)アジヤでは、昔(むかし)、円●(ツチヘン+「壽」)面(えんとうめん)に文字(もんじ)を彫刻(ちようこく)したものを、柔(やはらか)い粘土板面(ねんどばんめん)に移(うつ)して凸字版(とつじばん)を造(つく)りましたが、アツシリヤの滅亡(めつぼう)と共(とも)にその貴重(きちよう)な瓦札書(がさつしよ)は、馬車道(ばしやみち)の鋪(し)き石(いし)にされたりして、悲(かな)しむべき結果(けつか)を見(み)るには見(み)ましたが、この円●(ツチヘン+「壽」)は印刷術(いんさつじゆつ)の鼻祖(びそ)で、文化史上(ぶんかしじよう)極(きは)めて重大(じゆうだい)な出来事(できごと)であります。
 ギリシヤやローマでは、事務用(じむよう)、学校用(がつこうよう)として、木札(きふだ)の上(うへ)へ薄(うす)く蝋(ろう)をひいたものゝ表面(ひようめん)に、鉄製(てつせい)または骨製(こつせい)のすちるすといふ尖筆(せんぴつ)で文字(もんじ)を書(か)きました。しかし、かうした硬質(こうしつ)のものは量(りよう)が多(おほ)くなつて取(と)り扱(あつか)ひに不便(ふべん)ですから、勢(いきほ)ひ他(た)の物質(ぶつしつ)にその代(かは)はりを求(もと)めて、羊皮紙(ようひし)、犢皮紙(とくひし)、山羊皮紙(やぎひし)などの発明(はつめい)を見(み)るに至(いた)つたのであります。
 羊皮紙(ようひし)の発明(はつめい)については面白(おもしろ)い話(はなし)が語(かた)り伝(つた)へられてゐます。紀元前(きげんぜん)三世紀(さんせいき)の頃(ころ)、ペルガモン王(おう)は世界第一(せかいだいいち)の図書館(としよかん)をつくるつもりで、書籍(しよせき)の原料(げんりよう)たるぱぴるすを沢山(たくさん)に仕入(しい)れました。と、やはり同(おな)じ目的(もくてき)をもつてゐたエジプト王(おう)は、ばぴるすの輸出(ゆしゆつ)を禁(きん)じてペルガモン王(おう)の計画(けいかく)を水泡(すいほう)に帰(き)せしめようとしました。エジプトの外(ほか)にはぱぴるすを供給(きようきゆう)するところがないから、ペルガモン王(おう)は困(こま)り切(き)つたすゑ、それの代(かは)りに羊(ひつじ)の皮(かは)を用(もち)ひて見(み)ましたが、なか/\成績(せいせき)がよかつたので、王(おう)の庫(くら)にはいつでも筆(ふで)の下(くだ)せる羊皮紙(ようひし)が充満(じゆうまん)してゐるようになりました。この羊皮紙(ようひし)をぺるがめなといつたのが基(もと)で、ぱるちめんと(羊皮紙(ようひし))といふ語(ご)が出来(でき)たのだそうです。
 しかし、それは仮作物語(かさくもがたり)で、ペルガモン王(おう)以前(いぜん)に、金泥(こんでい)で獣皮(じゆうひ)へ書(か)かれた『旧約聖書(きゆうやくせいしよ)』が存在(そんざい)してゐますから、羊皮(ようひ)其他(そのた)の獣皮(じゆうひ)を紙(かみ)にしたのは、絵画符号(かいがふごう)時代(じだい)前後(ぜんご)からのことゝ思(おも)はれます。けれどもペルガモン王(おう)が、文化政策(ぶんかせいさく)を採(と)つて大(おほ)いに文芸(ぶんげい)を奨励(しようれい)し、その都(みやこ)はエジプトのアレキサンドリヤに次(つ)ぐ学問町(がくもんまち)であつたことを思(おも)へば、この物語(ものがたり)も全然(ぜんぜん)信憑(しんぴよう)されないほどのものではないかも知(し)れません。
 かうした風(ふう)に、だん/\文字(もんじ)が簡単(かんたん)になり、用紙(ようし)が豊富(ほうふ)になつた結果(けつか)、書物(しよもつ)の数(すう)が激増(げきぞう)いたしまして、エジプトなどでは学者(がくしや)でも読(よ)み切(き)れないほどあつたと思(おも)ひます。近年(きんねん)古代(こだい)の遺蹟(いせき)から掘(ほ)り出(だ)される鰐(わに)のみいらの腹(はら)の中(なか)からさへ、沢山(たくさん)のぱぴるす文字(もんじ)が出(で)て来(き)たのを見(み)ても、その盛(さか)んであつた有様(ありさま)が窺(うかゞ)はれます。
 ギリシヤでは、大昔(おほむかし)は書物(しよもつ)を作(つく)るほど開(ひら)けてゐなかつたが、紀元前(きげんぜん)八百年頃(はつぴやくねんごろ)、フエニキヤ人(じん)からあるふあべつとを習(なら)ふと間(ま)もなく、書物(しよもつ)の出版(しゆつぱん)が盛(さか)んに行(おこな)はれて、紀元前(きげんぜん)六百年(ろつぴやくねん)には、アテネに公立図書館(こうりつとしよかん)が建(た)てられ、それから二百年後(にひやくねんご)には、他国(たこく)に劣(おと)らない立派(りつぱ)な書物(しよもつ)がどし/\と著(あらは)されてゐました。
 しかし出版(しゆつぱん)の一番(いちばん)盛(さか)んであつたのは、指(ゆび)を第一(だいいち)にローマに屈(くつ)しなければなりません。紀元前(きげんぜん)五十年頃(ごじゆうねんごろ)、ちようどキケロの時代(じだい)には、沢山(たくさん)な出版業者(しゆつぱんぎようしや)があつて、いづれも繁昌(はんじよう)してゐました。キケロの親友(しんゆう)アツチクスの如(ごと)きも書物(しよもつ)の版元(はんもと)でしたが、活字(かつじ)も印刷機械(いんさつきかい)もない時代(じだい)に、どうして多数(たすう)の出版(しゆつぱん)が出来(でき)たかといふ疑(うたが)ひが起(おこ)ります。その頃(ころ)の書物(しよもつ)は、もちろんすべて筆写(ひつしや)されたもので、場合(ばあひ)によつては、上手(じようず)に且(か)つ迅速(じんそく)に文字(もじ)が書(か)けるように訓練(くんれん)された奴隷(どれい)が、専門的(せんもんてき)にその筆写(ひつしや)に従事(じゆうじ)いたしました。私達(わたしたち)は五十人(ごじゆうにん)乃至(ないし)百人(ひやくにん)の奴隷(どれい)が、一部屋(ひとへや)の机(つくゑ)によつて口授者(くじゆしや)の口授(くじゆ)を書(か)き取(と)つてゐる姿(すがた)を想像(そうぞう)することが出来(でき)ます。今(いま)、もしアツチクスが十人(じゆうにん)の口授者(くじゆしや)をかゝへてをり、その一人(ひとり)づゝが百人(ひやくにん)の奴隷(どれい)に口授(くじゆ)したとすると、かれの親友(しんゆう)キケロの著述(ちよじゆつ)が、二三日(にさんにち)の中(うち)に一千巻(いつせんかん)ぐらゐは出版(しゆつぱん)された筈(はず)です。尤(もつと)も多数(たすう)の筆耕(ひつこう)の中(なか)には、聞(き)き違(ちが)つたり、思(おも)ひ誤(あやま)りをしたりして、間違(まちが)ひのまゝを書(か)くものもあつたでせうが、その間違(まちが)ひはその筆耕(ひつこう)の書(か)いた一巻(いつかん)だけで済(す)み、他(た)の巻々(まき/\)には累(るい)を及(およ)ぼしません。ところが現代(げんだい)では、一部(いちぶ)の誤(あやま)りは、全部(ぜんぶ)の誤(あやま)りであり、従(したが)つて全部(ぜんぶ)を訂正(ていせい)しなければなりません。そこに面白(おもしろ)い一例(いちれい)があります。それはある近代(きんだい)英国詩人(えいこくしじん)の詩集中(ししゆうちゆう)に『ろーぜず』(薔薇(ばら))とあるべきが、『のーぜず』(鼻(はな))と誤植(ごしよく)されたので、花(はな)と鼻(はな)とがこんがらがつて、せつかくの名詩(めいし)がぽんち式(しき)の駄句(だく)と見(み)られるのを恐(おそ)れて、初版(しよはん)数千部(すうせんぶ)を棄(す)てゝしまつたといふ話(はなし)であります。
 かように、昔(むかし)の書物(しよもつ)は多数(たすう)の人(ひと)の手(て)を要(よう)したけれど、当時(とうじ)、奴隷(どれい)の価(あたひ)は低廉(ていれん)であり、且(か)つ供給(きようきゆう)も多(おほ)かつたから、書物(しよもつ)の出版費(しゆつぱんひ)はさう高(たか)くかゝらないで済(す)みました。紀元一世紀(きげんいつせいき)ネロの時代(じだい)に、上製(じようせい)の厚(あつ)い本(ほん)が二(に)しりんぐの定価(ていか)で売(う)られてゐたが、それは当時(とうじ)にあつても安過(やすす)ぎるくらゐで、現代(げんだい)と殆(ほとん)ど同様(どうよう)だつたといふことが窺(うかゞ)はれます。ローマ人(じん)は書物(しよもつ)の洪水(こうずい)に圧倒(あつとう)されて、もう読(よ)み物(もの)には飽(あ)き果(は)てゝゐました。詩人(しじん)マルチアリスの如(ごと)きは、「みんなが私(わたくし)をぽけつとに入(い)れたり、手(て)に持(も)つたりしてゐる」と、いつたほど、書物(しよもつ)は普及(ふきゆう)してゐました。そこで、書物(しよもつ)は、市場(しじよう)では売(う)れず、たゞ雑貨商(ざつかしよう)の手(て)に饅頭(まんじゆう)や香料(こうりよう)を包(つゝ)む料(しろ)に売(う)れるばかりでした。
 しかし、書物(しよもつ)が、いつ/\までもさう安(やす)く、沢山(たくさん)ある日(ひ)は続(つゞ)きませんでした。紀元(きげん)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)、ローマが亡(ほろ)んで、その文化(ぶんか)は爾後(じご)一千年間(いつせんねんかん)回復(かいふく)の出来(でき)ない大打撃(だいだげき)を蒙(かうむ)りました。野蛮(やばん)な南(みなみ)ヨーロツパの侵入者(しんにゆうしや)は、見(み)つけ次第(しだい)に書物(しよもつ)を壊(こは)し、その筆耕(ひつこう)を寺院内(じいんない)に押(お)し籠(こ)めました。中世紀(ちゆうせいき)に於(お)いては、ヨーロツパの殆(ほとん)どすべての著述(ちよじゆつ)は、僧院内(そういんない)でなされ、従(したが)つて殆(ほとん)どすべての書物(しよもつ)は、宗教的(しゆうきようてき)性質(せいしつ)を帯(お)びてをりました。僧侶達(そうりよたち)は自分(じぶん)の原稿(げんこう)に多大(ただい)の注意(ちゆうい)と忍耐(にんたい)とを払(はら)ひ、硬皮紙(こうひし)(犢(こうし)の皮(かは))に書(か)いて、各(かく)ぺいじを美(うつく)しい色(いろ)や図(ず)で装飾(そうしよく)しました。暗黒時代(あんこくじだい)の写本(しやほん)は、甚(はなは)だ美麗(びれい)、荘厳(そうごん)であつたが、その値段(ねだん)もまた甚(はなは)だ高(たか)くて、非常(ひじよう)な富人(ふじん)でなければ買(か)ふことが出来(でき)ませんでした。一冊(いつさつ)の聖書(せいしよ)が、千(せん)どるもしたことがあります。十四世紀(じゆうしせいき)から十五世紀(じゆうごせいき)へかけて、全(ぜん)ヨーロツパは知識(ちしき)に渇(かつ)し始(はじ)めて、安価(あんか)な書物(しよもつ)を要求(ようきゆう)しました。しかし、もうぺんをとつて強圧的(きようあつてき)に書(か)かしめられる奴隷(どれい)の群(む)れはをりません。奴隷(どれい)の働(はたら)きがなければ、書物(しよもつ)は決(けつ)して安(やす)くは売(う)られません。何(なに)かこれに代(かは)る発明(はつめい)が起(おこ)らなければならぬ破目(はめ)に陥(おちい)りました。
 先(ま)づ第一(だいいち)、製紙術(せいしじゆつ)の発明(はつめい)が、書物(しよもつ)の価(あたひ)を低下(ていか)させました。昔(むかし)から黄蜂(きばち)が巣(す)をつくつて見(み)せて、人間(にんげん)に製紙術(せいしじゆつ)の暗示(あんじ)を与(あた)へてはゐたけれど、人間(にんげん)は容易(ようい)にそれを見(み)つける機会(きかい)に出会(であ)ひませんでした。もつとも、支那人(しなじん)は既(すで)に二十世紀(にじつせいき)も前(まへ)から、樹皮(じゆひ)で紙(かみ)を造(つく)る方法(ほうほう)を知(し)り、それを実行(じつこう)してゐましたけれど、ヨーロツパでは十三世紀(じゆうさんせいき)の中頃(なかごろ)になつて、やう/\襤褸(ぼろ)や麻布(あさぬの)や草(くさ)や木綿(もめん)から紙(かみ)を造(つく)り始(はじ)めました。
 第二(だいに)は印刷術(いんさつじゆつ)の発明(はつめい)です。先(ま)づ透明(とうめい)な紙面(しめん)に文字(もじ)を書(か)き、それを裏返(うらがへ)しに版木(はんぎ)にあてると、左文字(ひだりもじ)が出来(でき)ます。鋭(するど)い彫刀(ちようとう)でそのぐるりを彫(ほ)り取(と)ると、左文字(ひだりもじ)が凸版(とつぱん)となつて残(のこ)るから、それにいんきをつけて紙(かみ)へ印刷(いんさつ)すると、正(たゞ)しい右書(みぎか)きの文字(もじ)が現(あらは)れます。これが木版印刷(もくはんいんさつ)の初(はじ)めです。この木版(もくはん)を応用(おうよう)して、十三世紀(じゆうさんせいき)には、絹布(けんぷ)や麻布(あさぬの)に凝(こ)つた木版印刷(もくはんいんさつ)が行(おこな)はれ、十四世紀(じゆうしせいき)には骨牌(かるた)や書物(しよもつ)が木版(もくはん)で刷(す)られました。木版本(もくはんほん)は印刷術(いんさつじゆつ)最初(さいしよ)の段階(だんかい)であります。
 木版印刷(もくはんいんさつ)は書物(しよもつ)の元価(げんか)を減(げん)じました。なぜなれば、たゞ一(いつ)ぺいじだけ彫(ほ)つて、いくらでも要(い)るだけの数(かず)を刷(す)ることが出来(でき)たからでありますが、それでもまだ時代(じだい)の要求(ようきゆう)を満(み)たすことが出来(でき)ませんでした。十五世紀(じゆうごせいき)の中頃(なかごろ)には、読書欲(どくしよよく)が高(たか)まつて狂気(きようき)の如(ごと)く、少(すこ)しぐらゐの書物(しよもつ)が出(だ)されても、それは恰(あたか)も渇(かつ)した沙漠(さばく)の旅人(たびゞと)が、一気(いつき)に呑(の)み干(ほ)す泉(いづみ)を望(のぞ)んでゐるところへ、わづか二三滴(にさんてき)の露(つゆ)がこぼれたような塩梅(あんばい)でした。この熱狂的要求(ねつきようてきようきゆう)に刺戟(しげき)されて、出版元(しゆつぱんもと)は印刷術(いんさつじゆつ)の改良(かいりよう)に努(つと)め、同世紀(どうせいき)のすゑには私達(わたしたち)が今日(こんにち)見(み)るような書物(しよもつ)が、ヨーロツパ中(ちゆう)到(いた)るところで作(つく)られました。
 しからば、印刷術改良(いんさつじゆつかいりよう)の要点(ようてん)はどこにあるかといふと、十五世紀(じゆうごせいき)初(はじ)めの出版業者(しゆつぱんぎようしや)は、自分(じぶん)で紙(かみ)を取(と)り、いんきをつけ、一(いつ)ぺいじ大(だい)の版木(はんぎ)を彫(ほ)り、それで不完全(ふかんぜん)な印刷(いんさつ)をしたが、この点(てん)が改善(かいぜん)されました。一面(いつめん)一(いつ)ぺいじの大木版(だいもくはん)を彫(ほ)る代(かは)りに、一本(いつぽん)一文字(いちじ)の小木版(しようはんぎ)をつくり、一語(いちご)でも一行(いちぎよう)でも一(いつ)ぺいじでも、望(のぞ)みのまゝにそれを組(く)み合(あは)せることにしました。これが即(すなはち)、活字(かつじ)であります。活字(かつじ)の長所(ちようしよ)は説明(せつめい)するまでもなく、自由(じゆう)に文字(もじ)が植(う)ゑられることで、一面(いちめん)一(いつ)ぺいじの大木版(だいもくはん)ならば「こころよし」と彫(ほ)つてあれば、いくら工夫(くふう)してもその通(とほ)りしか印刷(いんさつ)出来(でき)ないが、一本(いつぽん)一字(いちじ)の活字(かつじ)だといふと、それらを「しろよ、ここ」とも「ころよし、こ」とも、なんとでも組(く)み合(あ)はせが出来(でき)ます。この活字(かつじ)は無論(むろん)初(はじ)めは木製(もくせい)でしたが、後(のち)に金属製(きんぞくせい)になつて、耐久力(たいきゆうりよく)が一(いつ)そう強(つよ)くなりました。
 活字印刷(かつじいんさつ)の初(はじ)めはいつか正確(せいかく)にわかりませんが、千四百五十年(せんしひやくごじゆうねん)と千四百六十年(せんしひやくろくじゆうねん)との間(あひだ)といふことだけは確(たし)かです。同様(どうよう)、発明者(はつめいしや)もはつきりしないが、オランダ人(じん)にいはせると、千四百三十年(せんしひやくさんじゆうねん)に早(はや)くもハルレムのローレンス・コスタアが一種(いつしゆ)の活字(かつじ)を造(つく)つたけれど、雇(やと)ひ人(にん)のジオーン・フアウストがそれを拐帯(かいたい)して、ドイツのマインツに逃(に)げ、そこでジオーン・グツテンベルグが活字印刷(かつじいんさつ)の秘訣(ひけつ)を習(なら)つたので、ドイツ人(じん)は実際(じつさい)の活字発明者(かつじはつめいしや)はグツテンベルグだと主張(しゆちよう)してゐるのだそうです。いづれにしても、私達(わたくしたち)は千四百五十五年(せんしひやくごじゆうごねん)にジオーン・グツテンベルグの手(て)で印刷(いんさつ)せられた『ばいぶる』が、完全(かんぜん)な活字印刷(かつじいんさつ)の最古(さいこ)の書物(しよもつ)であるといふことを認(みと)めなければなりません。
 千四百五十年以後(せんしひやくごじゆうねんいご)には、書物(しよもつ)の性質(せいしつ)を変化(へんか)させるような大発明(だいはつめい)はなかつたが、活字(かつじ)の鋳造(ちゆうぞう)及(およ)び植字(しよくじ)の技術(ぎじゆつ)は驚(おどろ)くべき進歩(しんぽ)を示(しめ)し、印刷(いんさつ)(第百二十九図)はまた機械力(きかいりよく)を以(もつ)て行(おこな)ふことになつたが、大体(だいたい)に於(お)いて今日(こんにち)の書物(しよもつ)は四百年以前(しひやくねんいぜん)のものと大差(たいさ)がございません。しかし、最近(さいきん)に於(お)ける印刷術(いんさつじゆつ)及(およ)び植字法(しよくじほう)の進歩(しんぽ)は、近(ちか)き将来(しようらい)に於(お)ける一大変化(いつだいへんか)を予言(よげん)してゐるように私(わたくし)には思(おも)はれます。

一八、通信(つうしん)

 人間(にんげん)は、もちろん初(はじ)めから群(む)れを作(つく)つて生活(せいかつ)してゐたでせうが、遠隔(えんかく)の地(ち)に散在(さんざい)してゐる同胞(どうほう)や知人(ちじん)と音信(おんしん)する必要(ひつよう)などはありませんでした。しかるに、人口(じんこう)がだん/\殖(ふ)えて来(き)て、通信(つうしん)の必要(ひつよう)が起(おこ)りました。
 ある蛮人(ばんじん)の間(あひだ)では、棒(ぼう)へ刻(きざ)み目(め)をつけたものが手紙(てがみ)代(がは)りに用(もち)ひられ、ペルウ人(じん)の間(あひだ)では、くいぷといふものが、口上(こうじよう)を覚(おぼ)えるために使者(ししや)によつて用(もち)ひられます。これらの二(ふた)つについては既(すで)に話(はな)しましたから、御記憶(ごきおく)のことゝ思(おも)ひます。
 文化段階(ぶんかだんかい)がずつと進(すゝ)みましてから、文字(もんじ)を書(か)く材料(ざいりよう)としてぱぴるすが用(もち)ひられるようになり、それ以前(いぜん)に発明(はつめい)されてゐたあるふあべつとと相(あひ)まつて、通信(つうしん)は初(はじ)めて文書(ぶんしよ)といふ形(かたち)を備(そな)へて今日(こんにち)に至(いた)りましたが、今日(こんにち)ではもはや文書(ぶんしよ)以外(いがい)の通信法(つうしんほう)が出(で)てまゐりました。
 文書(ぶんしよ)を使(つか)ひ初(はじ)めたのはエジプト人(じん)でせうが、ヘブライ人(じん)もかなり古(ふる)くから文書通信(ぶんしよつうしん)を行(おこな)つたと見(み)えて、『旧約聖書(きゆうやくせいしよ)』の中(なか)にも、イスラエルの王(おう)や王子達(おうじたち)の命令書(めいれいしよ)を、使者(ししや)が国中(くにじゆう)へ持(も)ち廻(まは)つたことが記(しる)されてゐます。聖書(せいしよ)には『ぽすと』といふ語(ご)が散見(さんけん)してゐるが、それは普通(ふつう)には郵便(ゆうびん)と訳(やく)されるけれど、こゝでは飛脚(ひきやく)の意味(いみ)で、手紙(てがみ)を配達(はいたつ)したり、急使(きゆうし)に立(た)つたりすることを特(とく)に訓練(くんれん)された人(ひと)のことです。しかしさうした文書(ぶんしよ)を差(さ)し出(だ)したり、受(う)け取(と)つたりするのは、当時(とうじ)にあつては、王(おう)とか王子(おうじ)とか高位高官(こういこうかん)の人(ひと)とかに限(かぎ)られてゐて、一般(いつぱん)の人々(ひと/゛\)はその利益(りえき)を被(かうむ)らなかつたのです。
 大抵(たいてい)の文明国(ぶんめいこく)には、昔(むかし)から郵便制度(ゆうびんせいど)があり、多(おほ)くは政府(せいふ)の手(て)で取(と)り扱(あつか)つてゐました。エジプトでは王(おう)の文書(ぶんしよ)を出来(でき)るだけ速(はや)く送(おく)り届(とゞ)ける目的(もくてき)で、特(とく)に軽快(けいかい)な郵便車(ゆうびんしや)が造(つく)つてありました。ユダヤではある飛脚(ひきやく)が年(とし)とつてから、「もう私(わたくし)の生涯(しようがい)も終(をは)りだ、それは飛脚(ひきやく)よりも早(はや)く過(す)ぎ去(さ)つた」と、歎(なげ)いたといひますから、飛脚(ひきやく)はそれらの日(ひ)には最(もつと)も早(はや)いものゝ一(ひと)つに数(かぞ)へられてゐたに相違(そうい)ありません。ギリシヤの歴史家(れきしか)ヘロドツスは、古代(こだい)ペルシヤの郵便制度(ゆうびんせいど)について、「ペルシヤの飛脚(ひきやく)のように速(はや)いと、とても人間業(にんげんわざ)とは思(おも)はれません。その完備(かんび)した制度(せいど)はペルシヤの創見(そうけん)で、世界(せかい)の前(まへ)に範(はん)を垂(た)れてゐます。全郵便線(ぜんゆうびんせん)には中繋所(ちゆうけいじよ)があり、そこには馬(うま)を用意(ようい)した飛脚(ひきやく)が駐在(ちゆうざい)してゐるが、中繋所間(ちゆうけいじよかん)の距離(きより)はほゞ同一(どういつ)で、一日毎(いちにちごと)に人(ひと)と馬(うま)とが新手(あらて)に交替(こうたい)され、雨(あめ)でも、雪(ゆき)でも、日盛(ひざか)りの暑(あつ)さでも、夜中(よなか)の暗(くら)さでも、そんなことにはお構(かま)ひなく、定(さだ)められた距離(きより)を大速力(だいそくりよく)で突破(とつぱ)します。即(すなはち)、第一駅(だいいちえき)から第一(だいいち)の人(ひと)と馬(うま)とが、第二駅(だいにえき)まで文書(ぶんしよ)を持(も)つてゆきますと、第二駅(だいにえき)から第二(だいに)の人(ひと)と馬(うま)とが、第三駅(だいさんえき)までその文書(ぶんしよ)を逓送(ていそう)するといふ風(ふう)に、次(つ)ぎから次(つ)ぎへ大急(おほいそ)ぎで郵便物(ゆうびんぶつ)が送(おく)られてゆきます。ギリシヤでは人(ひと)の肩(かた)で郵便(ゆうびん)が運(はこ)ばれてゐるが、これをぺルシヤの馬(うま)の背(せ)に比(くら)べると、まるでお話(はなし)になりません」と、いふ意味(いみ)を述(の)べて、ペルシヤの郵便制度(ゆうびんせいど)を激賞(げきしよう)してゐます。
 ギリシヤの壮丁(そうてい)は、飛脚(ひきやく)の任務(にんむ)を果(はた)すために、特(とく)に疾走(しつそう)することを稽古(けいこ)しました(第百三十図)。ギリシヤの歴史(れきし)を見(み)ると、これらの飛脚(ひきやく)が驚(おどろ)くべき軽捷(けいしよう)さと、忍耐(にんたい)さとを以(もつ)て、郵便物運搬(ゆうびんぶつうんぱん)の任(にん)に当(あた)つたことが書(か)かれてゐます。紀元前(きげんぜん)四百九十年(しひやくくじゆうねん)、マラトンの野(の)でギリシヤ軍(ぐん)がペルシヤ軍(ぐん)と戦(たゝか)つて勝(か)つた時(とき)、その捷報(しようほう)をアテネに齎(もた)らした飛脚(ひきやく)は、途中(とちゆう)一休(ひとやす)みもせずに走(はし)り続(つゞ)けたので、目的地(もくてきち)に達(たつ)すると「万歳(ばんざい)」と、叫(さけ)んだまゝ倒(たふ)れてしまつたといふことです。またフイリツピデスといふ男(をとこ)は、ペルシヤ戦役中(せんえきちゆう)、援軍(えんぐん)をスパルタに求(もと)めるためにアテネから急派(きゆうは)されましたが、アテネ、スパルタ間(かん)百四十(ひやくしじゆう)まいるを、二日(ふつか)もかゝらずに走(はし)り終(をほ)せたと記(しる)されてゐます。
 しかし、これらの国々(くに/゛\)よりも、もつと完備(かんび)した制度(せいど)をもつてゐたのはローマ帝国(ていこく)であります。ローマの属国(ぞつこく)が拡大(かくだい)されるに従(したが)つて、それらと本国(ほんごく)とが密接(みつせつ)な関係(かんけい)を維持(いじ)しなければならないので、ローマ政府(せいふ)では必要上(ひつようじよう)から郵便制度(ゆうびんせいど)の完成(かんせい)に努力(どりよく)しました。その結果(けつか)、紀元(きげん)十四年(じゆうよねん)、アウグスツス帝(てい)の治世(ちせい)に、十分(じゆうぶん)行届(ゆきとゞ)いた制度(せいど)が設(まう)けられて、ローマを起点(きてん)とする立派(りつぱ)な郵便道路(ゆうびんどうろ)には、五(ご)、六(ろく)まいるおきに、必要(ひつよう)があればいつでも出発(しゆつぱつ)の出来(でき)る準備(じゆんび)をしてゐる人(ひと)と馬(うま)とがつめてゐる駐在所(ちゆうざいしよ)、即(すなはち)、郵便局(ゆうびんきよく)が建(た)てゝあつて、その人馬(じんば)は度々交替(たび/\こうたい)して新鋭(しんえい)の気(き)を養(やしな)ひましたから、通信(つうしん)は想像以上(そうぞういじよう)に早(はや)く逓伝(ていでん)されました(第百三十一図)。「一日(いちにち)百(ひやく)まいるの速度(そくど)は、駅伝(えきでん)の力(ちから)で楽(らく)に出(で)た」と、『ローマ衰亡史(すいぼうし)』を書(か)いたギボンは述(の)べてゐます。
 紀元(きげん)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)、ローマが蛮人(ばんじん)に攻(せ)め陥(おと)されると同時(どうじ)に、この完備(かんび)した郵便制度(ゆうびんせいど)は崩(くづ)れて、それ以後数世紀の間は復興されませんでした。もつともフランクのシヤーレマニユ大帝(たいてい)は、紀元(きげん)八百年(はつぴやくねん)に自国内(じこくない)でその制度(せいど)を復活(ふつかつ)させましたけれど、不幸(ふこう)にして早世(そうせい)したために元(もと)のように頽廃(たいはい)しました。
 十三世紀(じゆうさんせいき)の頃(ころ)、北(きた)ドイツのハンザ市(し)の商人達(しようにんたち)は、共同(きようどう)してやゝ規則的(きそくてき)な通信(つうしん)の受授(じゆじゆ)を始(はじ)めましたが、一般市民(いつぱんしみん)はもちろんその便益(べんえき)を受(う)けませんでした。
 中世紀(ちゆうせいき)には、政府専用(せいふせんよう)の公設郵便(こうせつゆうびん)が設(まう)けられましたが、私信(ししん)は私費(しひ)を以(もつ)て私設飛脚(しせつひきやく)の手(て)で発送(はつそう)、受信(じゆしん)せられました。ところが十六世紀(じゆうろくせいき)の中頃(なかごろ)、ヘンリイ八世(はつせい)の末頃(すゑごろ)に、イギリスで人民専用(じんみんせんよう)の郵便線路(ゆうびんせんろ)が制定(せいてい)せられて、市民(しみん)も官吏(かんり)同様(どうよう)、郵便(ゆうびん)の利益(りえき)を受(う)け得(う)るようになりました。千六百三十五年(せんろつぴやくさんじゆうごねん)、チヤールス一世(いつせい)の時代(じだい)に、ロンドン、エヂンバラ間(かん)には昼夜(ちゆうや)とも通信(つうしん)が行(おこな)はれ、両市(りようし)とその附近(ふきん)の住民(じゆうみん)の各種(かくしゆ)の消息(しようそく)を集配人(しゆうはいにん)が集配(しゆうはい)することになつたが、郵税(ゆうぜい)は六十(ろくじゆう)まいる以内(いない)は二(に)ぺんす、六十(ろくじゆう)まいる以上(いじよう)百四十(ひやくしじゆう)まいるまでは四(し)ぺんす、それ以上(いじよう)と、口ンドン、スコツトランド間(かん)は、六(ろく)ぺんすといふ定(さだ)めでした。消(け)し印(いん)はイギリスでは千八百四十年(せんはつぴやくしじゆうねん)までおさず、アメリカでは千八百四十七年(せんはつぴやくしじゆうしちねん)までおしませんでした。かうして、初(はじ)めは、予(あらか)じめ定(さだ)められた集配(しゆうはい)区域内(くいきない)の通信(つうしん)が出来(でき)るだけでしたが、だん/\特別(とくべつ)に郵税(ゆうぜい)を支払(しはら)へば、任意(にんい)の地(ち)へも発信(はつしん)することが出来(でき)るようになりました。この公衆郵便(こうしゆうゆうびん)の制度(せいど)がイギリスに実施(じつし)されると、他(た)の国々(くに/゛\)でも次第(しだい)にそれを模倣(もほう)し、百年前(ひやくねんぜん)からは大抵(たいてい)の文明国(ぶんめいこく)には郵便制度(ゆうびんせいど)が設(まう)けられてゐます。
 最初(さいしよ)の郵便(ゆうびん)はのろいもので、一日(いちにち)百(ひやく)まいるぐらゐの速度(そくど)しかなく、そのくせ郵税(ゆうぜい)だけは極(きは)めて高(たか)く、長(なが)い間(あひだ)、人民(じんみん)は非常(ひじよう)な不便(ふべん)を感(かん)じていましたが、十九世紀末(じゆうくせいきまつ)には一日(いちにち)一千(いつせん)まいるの速度(そくど)で汽車(きしや)が郵便物(ゆうびんぶつ)を運(はこ)ぶことになり、かつ郵税(ゆうぜい)もうんと低下(ていか)して、イギリス国内(こくない)は二(に)せんとと、世界各国(せかいかくこく)どこでもにつける貨(か)一個(いつこ)で通信(つうしん)が出来(でき)るようになりました。
 以上(いじよう)で大体(だいたい)、文書(ぶんしよ)の体裁(ていさい)を備(そな)へた郵便物(ゆうびんぶつ)が、人(ひと)の労力(ろうりよく)で山(やま)を越(こ)え、水(みづ)を渡(わた)つて、こちらの国(くに)からあちらの国(くに)へ、送(おく)り届(とゞ)けられる歴史(れきし)を述(の)べ終(をは)りましたが、それは「通信(つうしん)」の一種(いつしゆ)に過(す)ぎないのであつて、その外(ほか)にまだ人手(ひとで)を煩(わづら)はさす、水陸(すいりく)を跋渉(ばつしよう)せず、空間(くうかん)を突進(とつしん)して即座(そくざ)に届(とゞ)けられる『通信(つうしん)』があります。電信(でんしん)、電話(でんわ)などの空間通信(くうかんつうしん)が即(すなはち)それです。
 空間通信(くうかんつうしん)は昔(むかし)から、火光(かこう)を合図(あひず)として行(おこな)はれて来(き)ました。紀元前(きげんぜん)千百年(せんひやくねん)、トロヤ市(し)がギリシヤ人(じん)に掠奪(りやくだつ)された時(とき)、市民(しみん)はある山頂(さんちよう)で狼煙(のろし)を揚(あ)げて、遠隔(えんかく)の地点(ちてん)にある自国(じこく)の市々(まち/\)に警報(けいほう)を発(はつ)したことが歴史(れきし)に書(か)いてあります。元来(がんらい)ギリシヤ人(じん)は、火光(かこう)通信法(つうしんほう)には非常(ひじよう)の注意(ちゆうい)を払(はら)つて、それについての技術(ぎじゆつ)がよほど進(すゝ)んでゐました。
 空間通信術(くうかんつうしんじゆつ)の中(うち)で、紀元前(きげんぜん)百五十年(ひやくごじゆうねん)の頃(ころ)にギリシヤの歴史家(れきしか)ポリビウスの発明(はつめい)したものなどは、頗(すこぶ)る興味(きようみ)の深(ふか)いものでした。簡単(かんたん)にそれを説明(せつめい)すると、五本(ごほん)づゝ並(なら)べて立(た)てた松火(たいまつ)の柵(さく)を左右(さゆう)各々(おの/\)一組(ひとくみ)つくり、先方(せんぽう)でも同様(どうよう)の設備(せつび)をなさしめた上(うへ)、あるふあべつと五字(ごじ)づゝを一群(いちぐん)としたものを五群(ごぐん)並(なら)べ、松明(たいまつ)の右組(みぎぐみ)ではあるふあべつとの属(ぞく)する行(ぎよう)を示(しめ)し、左組(ひだりぐみ)では列(れつ)を示(しめ)すことに定(さだ)め、それ/゛\点火(てんか)して先方(せんぽう)にこちらの観念(かんねん)を通(つう)じました。たとへばα(あるふあ)の字(じ)が第一行(だいいちぎよう)の第一列(だいいちれつ)だとすると、右組(みぎぐみ)の第一(だいいち)と、左組(ひだりぐみ)の第一(だいいち)とに点火(てんか)するのであつて、極(きは)めて正確(せいかく)に先方(せんぽう)にも認(みと)められるが、松火(たいまつ)の数(かず)が多(おほ)く要(い)り、一夜(いちや)かゝつても少(すこ)しゝか通信(つうしん)が出来(でき)ないので、理論上(りろんじよう)では立派(りつぱ)だつたけれど、実際上(じつさいじよう)ではあまり歓迎(かんげい)されませんでした。
 引(ひ)き続(つゞ)き約(やく)一世紀間(いつせいきかん)は、火光通信(かこうつうしん)がいろ/\な方法(ほうほう)で実用(じつよう)に供(きよう)されてゐたが、千六百六十三年(せんろつぴやくろくじゆうさんねん)には、かねてからいろ/\な発明(はつめい)に熱中(ねつちゆう)してゐたイギリス人(じん)エドワード・ソマアセツト──其人(そのひと)が同(おな)じ年(とし)に蒸気汽缶(じようききかん)を造(つく)り、また蒸気船(じようきせん)をも造(つく)つたことは前(まへ)にも述(の)べたが──その熱心(ねつしん)な発明家(はつめいか)が、黒白(こくびやく)が肉眼(にくがん)で判別(はんべつ)される距離内(きよりない)ならば、自由(じゆう)に通信(つうしん)することの出来(でき)る方法(ほうほう)を公表(こうひよう)しました。それは昼夜(ちゆうや)の別(わか)ちなく話(はなし)の通(つう)じる仕(し)かけだつたけれど、空論(くうろん)に近(ちか)いもので、実用(じつよう)には供(きよう)されませんでした。千六百八十四年(せんろつぴやくはちじゆうよねん)、イギリスのロバアト・フツク博士(はくし)は、三(さん)、四十(しじゆう)まいるの距離(きより)に可能(かのう)な空中通信(くうちゆうつうしん)の新方法(しんほうほう)を発見(はつけん)しましたが、その新方法(しんほうほう)といふのは、丘(をか)の上(うへ)に長(なが)い竿(さを)を組(く)み立(た)てゝ、●〈註、物干しのような形〉形(がた)にし、それへ滑車(かつしや)であるふあべつとを懸(か)け、望遠鏡(ぼうえんきよう)で遠方(えんぽう)から読(よ)み取(と)らせるのでした(第百三十二図)。
 中(なか)でも一番(いちばん)進歩(しんぽ)してゐるのは、パリの住人(じゆうにん)クリユード.シヤツプが、フランスの革命最中(かくめいさいちゆう)に完成(かんせい)したものです。千七百九十三年(せんしちひやくくじゆうさんねん)、かれはルーヴル宮殿(きゆうでん)の屋根(やね)の上(うへ)に、中央(ちゆうおう)の軸(じく)で上下(じようげ)に動(うご)く丁字形(ていじけい)の棒(ぼう)を立(た)て、その横木(よこぎ)の両端(りようはし)へは、それ/゛\自由(じゆう)に動(うご)ける装置(そうち)の小木片(しようもくへん)をつけ、綱(つな)を引(ひ)つ張(ぱ)つて、水平(すいへい)にも、また斜(なゝめ)にも、自在(じざい)に動(うご)かすことが出来(でき)るようにし、その運動(うんどう)を一々(いち/\)あるふあべつとに当(あ)てはめました(第百三十三図)。この機械(きかい)が九(く)まいる乃至(ないし)十二(じゆうに)まいるを距(へだ)てた高塔(こうとう)の上(うへ)に取(と)りつけられると、パリとリールとの間(あひだ)、百三十(ひやくさんじゆう)まいるを電光的(でんこうてき)速度(そくど)で連絡(れんらく)して、毎時間(まいじかん)百語(ひやくご)の通信(つうしん)が出来(でき)ることが明(あきら)らかになりました。のみならず、この機械(きかい)は、両腕(りよううで)へあーがんど・らんぷをつけさへすれば、昼夜(ちゆうや)の別(べつ)なく送信(そうしん)出来(でき)るので、通信上(つうしんじよう)に一新時期(いちしんじき)を劃(かく)しました。で、イギリス初(はじ)め諸国(しよこく)ではこの新方法(しんほうほう)を採用(さいよう)し、まもなくそれがヨーロツパに拡(ひろ)がりました。イギリスの一記者(いちきしや)は、次(つ)ぎのような文句(もんく)でこの器械(きかい)をほめちぎつてゐます。──「空中通信(くうちゆうつうしん)が完成(かんせい)されて、通信(つうしん)が迅速(じんそく)且(か)つ正確(せいかく)に発受(はつじゆ)されるようになつたが、建設(けんせつ)は極(きは)めて簡単(かんたん)であり、費用(ひよう)もまた軽少(けいしよう)で、それから受(う)ける利益(りえき)は莫大(ばくだい)であります。戦時(せんじ)に際(さい)しては、報告(ほうこく)にしろ命令(めいれい)にしろ即時(そくじ)に発受(はつじゆ)され、ふいの敵襲(てきしゆう)があつても十分(じゆうぶん)準備(じゆんび)をする余裕(よゆう)が王国内(おうこくない)では出来(でき)ました」
 しかし、人間(にんげん)は改良(かいりよう)を求(もと)めてやみません。発明家(はつめいか)の上(うへ)に発明家(はつめいか)があつて、この至便至利(しべんしり)と思(おも)はれた通信器械(つうしんきかい)は、『電気通信(でんきつうしん)』の発明(はつめい)と共(とも)にその光(ひかり)を奪(うば)はれました。電気通信(でんきつうしん)の研究(けんきゆう)はシヤツプ以前(いぜん)から試(こゝろ)みられてをり、千七百二十八年(せんしちひやくにじゆうはちねん)、イギリスのグレーは六百(ろつぴやく)ふいーと以上(いじよう)も隔(へだゝ)つた土地(とち)の輝(かゞや)いてゐる物体(ぶつたい)に、動力(どうりよく)を生(しよう)ぜしめるための電流(でんりゆう)を通(つう)じて成功(せいこう)し、千七百四十八年(せんしちひやくしじゆうはちねん)には、電気学界(でんきがくかい)の偉人(いじん)ベンジヤミン・フランクリンが、シユイルキル河(がは)を横断(おうだん)して電線(でんせん)を敷設(ふせつ)し、その末端(まつたん)に装備(そうび)してあつたあるこーるに電流(でんりゆう)を通(つう)じて燃焼(ねんしよう)させ、信号用(しんごうよう)火焔(かえん)が成功(せいこう)する見(み)こみあることを実験(じつけん)によつて証示(しようじ)しました。
 千八百十九年(せんはつぴやくじゆうくねん)、コペンハーゲンのエルステツド教授(きようじゆ)は、電体(でんたい)に対(たい)して磁針(じしん)が直角(ちよつかく)の位置(いち)を取(と)るといふ実験(じつけん)をなし、千八百二十五年(せんはつぴやくにじゆうごねん)にはイギリス人(じん)ウイリヤム・スタージヨンは軟鉄棒(なんてつぼう)へ銅線(どうせん)を捲(ま)きつけて電流(でんりゆう)を通(つう)ずると一時的(いちじてき)磁石(じせき)が出来(でき)るといふことを証明(しようめい)しました。これら二人(ふたり)の発明(はつめい)が、後来(こうらい)、電磁石(でんじせき)(第百三十四図)として知(し)られて来(く)るものゝ科学的基礎(かがくてききそ)となり、やがてその助(たす)けで、電流(でんりゆう)の通(つう)ぜらるゝ範囲内(はんいない)ならば、どこにでも信号(しんごう)が出来(でき)るといふ電信機(でんしんき)発明(はつめい)の基礎(きそ)となつたのであります。千八百三十一年(せんはつぴやくさんじゆういちねん)、アメリカの科学者(かがくしや)ジヨセフ・ヘンリイ教授(きようじゆ)は、遠距離(えんきより)に張(は)り渡(わた)された電線(でんせん)に電流(でんりゆう)を通(つう)ずる方式(ほうしき)を発明(はつめい)し、次(つ)ぎの年(とし)に電信機(でんしんき)の基(もと)になる機械(きかい)を作(つく)りました。「アルバニイ大学(だいがく)の階上(かいじよう)の一室(いつしつ)へ、一(いち)まいる以上(いじよう)の電線(でんせん)を張(は)り渡(わた)し、電流(でんりゆう)の作用(さよう)でべるを鳴(な)らせることが出来(でき)ます。この目的(もくてき)を達(たつ)するための機械的(きかいてき)準備(じゆんび)としては、たゞ蹄磁石(ていじせき)の二本(にほん)の腕(うで)の間(あひだ)へ、軸上(じくじよう)に立(た)ててある磁針(じしん)の北極(ほつきよく)を置(お)いて、絶(た)えず電流(でんりゆう)を送(おく)つて置(お)きさへすればよいのです。かうすれば磁針(じしん)は蹄磁石(ていじせき)の一方(いつぽう)の腕(うで)に引(ひ)きつけられ、同時(どうじ)に他方(たほう)の腕(うで)に跳(は)ねつけられ、その水平衡動(すいへいこうどう)で適当(てきとう)に装置(そうち)せられてゐるべるを叩(たゝ)きます」とは、ヘンリイ教授(きようじゆ)が、その当時(とうじ)、確信(かくしん)を以(もつ)て断言(だんげん)したところであります。千八百三十二年(せんはつぴやくさんじゆうにねん)には、教授(きようじゆ)のこの器械(きかい)は、やゝ具体的(ぐたいてき)の成功(せいこう)を見(み)ましたが、所詮(しよせん)『玩具(おもちや)』に過(す)ぎないものでした(第百三十五図)。しかし、どうかしてそれを実用的(じつようてき)なものにしたいと、発明家達(はつめいかたち)はその方式(ほうしき)の完成(かんせい)に努力(どりよく)し、千八百三十七年(せんはつぴやくさんじゆうしちねん)には、イギリスのパツヂングトンとドラグトンとの間(あひだ)十三(じゆうさん)まいるに電線(でんせん)を敷設(ふせつ)して送信(そうしん)を実験(じつけん)して見(み)ましたが、満足(まんぞく)な功果(こうか)を挙(あ)げることが出来(でき)ませんでした。
 最後(さいご)の名誉(めいよ)は遂(つひ)にニユー・ヨーク大学(だいがく)の文学教授(ぶんがくきようじゆ)であり、画家(がか)でもあつたモースの頭上(ずじよう)に落(お)ちました。彼(かれ)は千八百三十二年(せんはつぴやくさんじゆうにねん)、電流(でんりゆう)によつて送(おく)られる信号(しんごう)の新記録(しんきろく)を作(つく)らうと計画(けいかく)し、千八百三十七年(せんはつぴやくさんじゆうしちねん)には電磁石(でんじせき)動力(どうりよく)の器械(きかい)で送信(そうしん)する意匠(いしよう)を殆(ほとん)ど完成(かんせい)しました。ところが、家(うち)が貧乏(びんぼう)で、研究費(けんきゆうひ)が続(つゞ)かないから、そのまゝにしてゐたところ、知己(ちき)の間(あひだ)であるアルフレツド・ヴエールが助力(じよりよく)してくれたので、どうやらこうやら研究(けんきゆう)を持続(じぞく)することが出来(でき)ました。その結果(けつか)、千八百四十三年(せんはつぴやくしじゆうさんねん)には、遂(つひ)に目的(もくてき)を達(たつ)することが出来(でき)ました。
 完成(かんせい)されたモース式(しき)電信機(でんしんき)(第百三十六図)の特点(とくてん)は、線(せん)と点(てん)との組(く)み合(あ)はせを、あるふあべつとの代(かは)りとして送信(そうしん)することでありました。この符号(ふごう)は鍵(かぎ)とかぼたんとかで、電流(でんりゆう)を断(た)つたり通(つう)じたりして随意(ずいい)に作(つく)られるもので、点(てん)の場合(ばあひ)には単(たん)にかつちといふ音(おと)、線(せん)の場合(ばあひ)には、音(おん)の間(あひだ)にいくらか隔(へだ)たりを置(お)けばよいのです。即(すなはち)、送信者(そうしんしや)が鍵(かぎ)を押(お)さへてすぐ離(はな)せば、電線(でんせん)の末端(まつたん)で鋭短音(えいたんおん)が出(で)ます。それが『点(てん)』で、これを約束(やくそく)された文字(もじ)と対象(たいしよう)すればF(エフ)の字(じ)と知(し)れます。また同様(どうよう)に鍵(かぎ)を押(お)してしばらくそのまゝにしてゐるとやゝ長(なが)い音(おん)が出(で)ます、それが『線(せん)』で、T(テイ)の字(じ)だと知(し)れます。かうした点(てん)と線(せん)との組(く)み合(あ)はせで、あるふあべつとを現(あら)はすから、どんな文句(もんく)でも迅速(じんそく)に送信(そうしん)することが出来(でき)るのです。
 この成功(せいこう)に勇(いさ)み立(た)つた二人(ふたり)は、国会(こつかい)に完成(かんせい)の援助(えんじよ)を請願(せいがん)して許(ゆる)され、千八百四十三年(せんはつぴやくしじゆうさんねん)に、ワシントン・バルチモア間(かん)電線(でんせん)敷設費(ふせつひ)として三万(さんまん)どるの補助金(ほじよきん)を得(え)たから、翌年(よくねん)にはそれを完成(かんせい)して実験(じつけん)に着手(ちやくしゆ)しました。その器械(きかい)(第百三十七図)は、いかにも無器用(ぶきよう)なもので、大(だい)の男(をとこ)が二人(ふたり)もかゝつて、やつと持(も)ち運(はこ)ばれるほど重(おも)く、大(おほ)きく、総目方(そうめかた)が百八十(ひやくはちじゆう)ぽんどからあつたといふことです。これを今日(こんにち)の最新式品(さいしんしき)──目方(めかた)が僅(わづ)かに四(し)おんすしかなく、大(おほ)きさもぽけつとへ入(い)れられるほどしかないのに比(くら)べると、雲泥(うんでい)の差(さ)も啻(たゞ)ならぬのであります。
 しかし、外観(がいかん)はいくら無細工(ぶさいく)であつても、能力(のうりよく)の発揮(はつき)には少(すこ)しの支障(ししよう)もなく、モース達(たち)の電信機(でんしんき)は確実(かくじつ)な成功(せいこう)を掴(つか)みました。即(すなはち)、千八百四十四年(せんはつぴやくしじゆうよねん)五月(ごがつ)二十四日(にじゆうよつか)、モースの手(て)でワシントンから送(おく)つた記録的(きろくてき)通信(つうしん)が、四十(しじゆう)まいるを隔(へだ)てたバルチモアで、ヴエールの手(て)で受(う)け取(と)られました。その文句(もんく)は上(うへ)に図示(ずし)した通(とほ)り四語(しご)十八字(じゆうはちじ)で、訳(やく)すれば『何事(なにごと)を、神(かみ)はなしたまひたるか』の意(い)であります。この成功(せいこう)で、モースの電信機(でんしんき)は実用価値(じつようかち)のあることがわかつたので、だん/\広(ひろ)く世界(せかい)に採用(さいよう)されるようになりました。世界中(せかいじゆう)アメリカは一番(いちばん)早(はや)く電線(でんせん)の架設(かせつ)につとめ、千八百六十年(せんはつぴやくろくじゆうねん)には主要(しゆよう)な都市(とし)の総(すべ)ては電線(でんせん)で連絡(れんらく)され、翌年(よくねん)には米大陸(べいたいりく)を横断(おうだん)して、ニユー・ヨーク、サンフランシスコ間(かん)を連絡(れんらく)し、五年(ごねん)の後(のち)にはニユー・ヨークのサイラス・ダブリユー・フイレツドの精力(せいりよく)と忍耐(にんたい)とによつて、アイルランド、ニユー・ヨーク間(かん)の海底電線(かいていでんせん)が敷設(ふせつ)されたので、新旧(しんきゆう)両大陸(りようたいりく)は完全(かんぜん)に連絡(れんらく)を見(み)るに至(いた)りました。
 かうして全世界(ぜんせかい)には電線網(でんせんもう)が張(は)られて、『通信(つうしん)』はもはや最高理想(さいこうりそう)を実現(じつげん)したように思(おも)はれましたが、それもほんの一時(いちじ)、発明家(はつめいか)は直(す)ぐ不満(ふまん)を感(かん)じて、音響(おんきよう)、中(なか)でも人間(にんげん)の声(こゑ)を遠隔(えんかく)の地(ち)に送(おく)る器械(きかい)、即(すなはち)、電話機(でんわき)の発明(はつめい)に取(と)りかゝりました。
 千八百五十五年(せんはつぴやくごじゆうごねん)、イギリスのホイートストン教授(きようじゆ)は、一家屋内(いつかおくない)の部屋々々(へや/\)を通(とほ)つて、一室(いつしつ)から他室(たしつ)へ架設(かせつ)せられた電線(でんせん)を伝(つた)はつて、楽音(がくおん)が送(おく)られる装置(そうち)をして実験(じつけん)に成功(せいこう)しましたが、殆(ほとん)ど同時(どうじ)に、グールセウルといふフランス人(じん)が、電流(でんりゆう)の助(たす)けで人(ひと)の声(こゑ)を誘(さそ)ひ入(い)れると、近(ちか)くにある平円板(へいえんばん)と、遠距離(えんきより)に装置(そうち)されてゐる別(べつ)の平円板(へいえんばん)とに、同一(どういつ)の震動(しんどう)が起(おこ)るといふ事実(じじつ)を試験(しけん)しました。千八百七十四年(せんはつぴやくしちじゆうよねん)には、ボストンのアレキサンダア・グラハム・ベル教授(きようじゆ)もまた同様(どうよう)の実験(じつけん)をして、その平円板(へいえんばん)が鼓膜類似(こまくるいじ)の働(はたら)きをすることを知(し)つて、次(つ)ぎのような想定(そうてい)を下(くだ)しました。「相隔(あひへだゝ)つて装置(そうち)されてゐる二(ふた)つの鋼鉄板(こうてつばん)、即(すなはち)、鼓膜(こまく)が、電線(でんせん)で連結(れんけつ)せられ、電流(でんりゆう)が通(つう)ぜられてゐる場合(ばあひ)には、一方(いつぽう)が音響(おんきよう)で震動(しんどう)すれば、他方(たほう)も同一(どういつ)の震動(しんどう)を繰(く)り返(かへ)すべき筈(はず)だ」と。そこで、ベルは人声(ひとごゑ)を確実(かくじつ)に捉(とら)へ、それを遠距離(えんきより)で同様(どうよう)に反覆(はんぷく)し得(う)るような器械(きかい)の発明(はつめい)に従事(じゆうじ)しました。
 ベルとてもモース同様(どうよう)貧(まづ)しかつたけれど、友人達(ゆうじんたち)が研究費(けんきゆうひ)を貢(みつ)いでくれたから、千八百七十六年(せんはつぴやくしちじゆうろくねん)には遂(つひ)にその目的(もくたき)を達(たつ)しました。しかし最初(さいしよ)のものは玩具(がんぐ)同様(どうよう)で、近距離(きんきより)にしか役立(やくだ)ちませんでしたが、改善(かいぜん)に改善(かいぜん)を加(くは)へた結果(けつか)、ボストンの話(はなし)がデンヴアーで聞(き)き取(と)れ、ニユー・ヨークの話(はなし)がロンドンで聞(き)き取(と)れるようになつたから、『通信(つうしん)』としては電信(でんしん)よりも一(いつ)そう適切(てきせつ)だといふことが認(みと)められ、瞬(またゝ)く間(ま)に電信(でんしん)を凌駕(りようが)して、たつた一箇年(いつかねん)の間(あひだ)に全世界(ぜんせかい)の通話(つうわ)は一億語(いちおくご)を算(さん)するに至(いた)りました。
 発明(はつめい)の不思議(ふしぎ)は頂点(ちようてん)のないことです。次(つ)ぎから次(つ)ぎへと新(あたら)しいものが出来(でき)て、古(ふる)いものを圧倒(あつとう)してゆきます。こゝに人間世界(にんげんせかい)の特点(とくてん)、他(た)の動物(どうぶつ)の世界(せかい)にない特点(とくてん)が横(よこた)はつてゐるのです。この特点(とくてん)を最(もつと)も明(あき)らかに理解(りかい)してゐるのは発明家(はつめいか)で、電信(でんしん)といひ電話(でんわ)といひ、便利(べんり)は便利(べんり)でも、一々(いち/\)針金(はりがね)の力(ちから)を借(か)りなければならないが、もし針金(はりがね)の力(ちから)を借(か)りなくてもよいことになれば、通信(つうしん)は一(いつ)そう便利(べんり)になり、費用(ひよう)が甚(はなは)だしく減(げん)ずるので、彼等(かれら)の頭脳(ずのう)は遂(つひ)に彼等(かれら)に無線(むせん)電気送信(でんきそうしん)の研究(けんきゆう)を思(おも)ひ立(た)たせました。
 千八百八十九年(せんはつぴやくはちじゆうくねん)、ドイツの科学者(かがくしや)ハインリツヒ・ヘルツは、電波(でんぱ)は光波(こうは)と同(おな)じく、一点(いつてん)から各方面(かくほうめん)へ拡(ひろ)がつてゆくものだといふことを証明(しようめい)しましたが、それに続(つゞ)いて千八百九十六年(せんはつぴやくくじゆうろくねん)には、イタリヤの電気学者(でんきがくしや)ウイリヤム・マルコニイがヘルツの学説(がくせつ)を実地(じつち)に応用(おうよう)して、三百(さんびやく)ふい一とを距(へだ)つる両地間(りようちかん)の無線電信(むせんでんしん)に成功(せいこう)しました。これが無線電信(むせんでんしん)の新記録(しんきろく)であります。マルコニイはこれに力(ちから)を得(え)て、研究(けんきゆう)の歩(ほ)を進(すゝ)め、次第(しだい)に距離(きより)を遠(とほ)くして往(い)つた結果(けつか)、千九百二年(せんくひやくにねん)には大西洋(たいせいよう)を横断(おうだん)して送信(そうしん)することに成功(せいこう)しました。その後(ご)、無線(むせん)電信機(でんしんき)は年一年(ねんいちねん)と進歩(しんぽ)普及(ふきゆう)して、今日(こんにち)は小(ちひ)さな漁船(ぎよせん)でさへこれを備(そな)へつけ、海上(かいじよう)と陸上(りくじよう)との連絡(れんらく)を取(と)つてをります。
 無線電信(むせんでんしん)と同一(どういつ)の学理(がくり)の上(うへ)に立(た)つて、無線電話(むせんでんわ)の研究(けんきゆう)が過去(かこ)二十年間(にじゆうねんかん)に著(いちじる)しく進(すゝ)み、今日(こんにち)では殆(ほとん)ど全(まつた)く成功(せいこう)して、世界中(せかいじゆう)どこにでも送話(そうわ)出来(でき)るようになつてゐます。ラジオの完成(かんせい)は、単(たん)に実用上(じつようじよう)の通話(つうわ)のみならず、娯楽用(ごらくよう)の音楽(おんがく)、教訓用(きようくんよう)の講話(こうわ)をまで放送(ほうそう)して、芸術(げいじゆつ)や学問(がくもん)の民衆化(みんしゆうか)に偉大(いだい)な貢献(こうけん)をしてをります。
 人間(にんげん)の発明(はつめい)の目的(もくてき)は、珍(めづら)らしい、便利(べんり)な、有益(ゆうえき)なものを作(つく)つて、専売特許権(せんばいとつきよけん)を得(え)て金持(かねも)ちになるといふことではなく、人類一般(じんるいいつぱん)の生活(せいかつ)を安易(あんい)と快楽(かいらく)とに導(みちび)いて、それを向上(こうじよう)させようとするところにあります。今(いま)まで話(はな)して来(き)た色々(いろ/\)の発明(はつめい)、発見(はつけん)は、結局(けつきよく)、人間世界(にんげんせかい)に幸福(こうふく)を齎(もたら)して、その生活(せいかつ)を向上(こうじよう)さした点(てん)に於(お)いて、大政治家(だいせいじか)、大戦術家(だいせんじゆつか)などに決(けつ)してひけを取(と)るべき筈(はず)のものでありません。私(わたくし)は最後(さいご)の行(ぎよう)をこれら偉大(いだい)な功績(こうせき)のある発明家(はつめいか)の讃美(さんび)のために割(さ)いて、此(こ)の書(しよ)を書(か)きつゝある筆(ふで)を擱(お)きます。(終)


日本児童文庫
昭和二年九月一日印刷 発明発見物語
昭和二年九月三日発行 〔非売品〕
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著作者    西村真次
編集兼発行者 東京市小石川区表町一〇九
       北原鉄雄
印刷者    東京市小石川区久堅町一〇八
       君島 潔
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復刻版日本児童文庫
昭和五十七年四月十日印刷
昭和五十七年四月二十日発行
発明発見物語 No.41
著作者    西村真次
発行者    小関貴久
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