発明発見物語
西村真次
はしがき
今日(こんにち)、私達(わたしたち)が、物(もの)を食(た)べ、家(いへ)に住(す)み、着物(きもの)を着(き)て、その日(ひ)その日(ひ)を楽(たの)しく暮(く)らしてゆくことの出来(でき)るのは、私達(わたしたち)の先祖達(せんぞたち)が長(なが)い間(あひだ)かゝつて、衣食住(いしよくじゆう)の方法(ほうほう)を工夫(くふう)して置(お)いてくれたからであります。食物(しよくもつ)を料理(りようり)したり、家屋(かおく)を建築(けんちく)したり、衣服(いふく)を裁縫(さいほう)したりすることは、ある人(ひと)がある時(とき)に考(かんが)へついたことではなく、幾人(いくにん)もの人(ひと)が、幾千年(いくせんねん)もかゝつて、やつと出来(でき)あがつたことであります。
衣(い)、食(しよく)、住(じゆう)を初(はじ)め、私達(わたしたち)の生活(せいかつ)の仕方(しかた)が、すなはち『文化(ぶんか)』でありますから、文化(ぶんか)といふものは決(けつ)して一朝一夕(いつちよういつせき)に出来(でき)たのではなくて、幾人(いくにん)もの発明(はつめい)、発見(はつけん)が重(かさな)つて完成(かんせい)されたのです。たとへば、夜(よる)になると私達(わたしたち)は電燈(でんとう)をつけますが、昔(むかし)はこんな明(あか)るい照明法(しようめいほう)はなく木切(きぎれ)を拾(ひろ)ひ集(あつ)めてそれを燃(も)やして明(あか)りを取(と)りました。大(おほ)きな河(かは)や湖(みづうみ)があつて、対岸(たいがん)へ渡(わた)らうとするには、大小(だいしよう)さま/゛\の船(ふね)がありますが、大昔(おほむかし)にはそんな便利(べんり)なものがあらう筈(はず)がございません。昔(むかし)の人(ひと)は、九太(まるた)に乗(の)つたり、竹片(たけぎれ)につかまつたりして、水(みづ)の上(うへ)を、辷(すべ)つて行(い)つたのです。篝火(かゞりび)から電燈(でんとう)へ、丸太(まるた)から船(ふね)へ、文化(ぶんか)が今日(こんにち)の程度(ていど)に進歩(しんぽ)したのは、みな先祖達(せんぞたち)の苦心(くしん)の賜(たまもの)であります。他(ほか)の言葉(ことば)で申(まを)せば、人間(にんげん)の永年(ながねん)の発明(はつめい)、発見(はつけん)の結果(けつか)であります。
一(いち)がいに、発明発見(はつめいはつけん)と申(まを)しますが、発明(はつめい)と発見(はつけん)とはすこしちがつてゐます。『発明(はつめい)』といふのは、人間(にんげん)のためになることを、苦心(くしん)して新(あら)たにかんがへ出(だ)すことであり、『発見(はつけん)』といふのは、人間(にんげん)のためになるものを偶然(ぐうぜん)見(み)つけることで、二(ふた)つの間(あひだ)にはいくらかちがひがございます。しかし、いくら偶然(ぐうぜん)に見(み)つけるといつたところで、そこに、多少(たしよう)の苦心(くしん)が費(つひや)されてをらぬものはないから、発明(はつめい)と発見(はつけん)とは、まづ同(おな)じことゝかんがへて置(お)いてもよろしい。
たとへて申(まを)せば、蜘蛛(くも)が木の葉(は)に乗(の)つて水(みづ)の上(うへ)を渡(わた)るのを見(み)て、丸太(まるた)が水(みづ)に浮(う)くことを知(し)つたのは、たしかに『発見(はつけん)』の一種(いつしゆ)でありますが、人(ひと)が丸太(まるた)に乗(の)つてそれを前(まへ)に進(すゝ)めるために足(あし)で水(みづ)を掻(か)いたとすれば、そのことはもはや『発明(はつめい)』であります。またコロムブスがアメリカを発見(はつけん)したのは、偶然(ぐうぜん)といへば偶然(ぐうぜん)ですが、実(じつ)は長(なが)い間(あひだ)いろ/\の理由(りゆう)で、西(にし)の方(ほう)に人間(にんげん)の住(す)んでゐる別(べつ)の世界(せかい)があるといふことを考(かんが)へてゐた結果(けつか)ですから、発明(はつめい)といはれないこともありません。
まあ、さうした議論(ぎろん)はぬきにして、私(わたし)はこれから、人間(にんげん)の日常生活(にちじようせいかつ)に必要(ひつよう)ないろ/\の発明発見(はつめいはつけん)について、おひ/\詳(くは)しく述(の)べて見(み)たいと思(おも)ひます。しかし、多種多様(たしゆたよう)の複雑(ふくざつ)な文化(ぶんか)が、どうして工夫(くふう)せられたかを一々(いち/\)述(の)べるわけにはまゐりませんから、きはめて大切(たいせつ)でもあり、また面白(おもしろ)くもあるものを選(えら)んで、次(つ)ぎ/\にお話(はなし)しすることにします。わからぬところは挿(さ)し絵(え)と照(て)らし合(あ)はせて入念(にゆうねん)に見(み)て下(くだ)さい。
わたしはこの書物(しよもつ)を、主(しゆ)としてフォーマンの『有益(ゆうえき)発明物語(ものがたり)』に依(よ)つて書(か)きましたが、外(ほか)にメースン、スタール、デニケルなどの名著(めいちよ)をも参考(さんこう)にいたしました。皆(みな)さんが大(おほ)きくなつて、自分(じぶん)でこれらの書物を読(よ)むようになられるのを、わたしは首(くび)を伸(の)ばして待(ま)つてをります。
西村真次
目次
一、まつち…………………………………………………………三
二、すとーぶ……………………………………………………一三
三、らんぷ………………………………………………………一八
四、鎔砿炉(ようこうろ)……………………………………三九
五、蒸気汽鑵(じようききかん)……………………………五一
六、食料(しよくりよう)……………………………………六四
七、犁(すき)…………………………………………………七一
八、鎌(かま)…………………………………………………八〇
九、臼(うす)…………………………………………………九四
一〇、衣服(いふく)………………………………………一〇六
一一、機織(はたお)り……………………………………一一二
一二、家屋(かおく)………………………………………一二二
一三、車(くるま)…………………………………………一四一
一四、船(ふね)……………………………………………一五九
一五、飛行機(ひこうき)…………………………………一八三
一六、時計(とけい)………………………………………一九三
一七、書物(しよもつ)……………………………………二一二
一八、通信(つうしん)……………………………………二三一
発明発見物語
装幀・恩地孝四郎
口絵・ウイルキンソン
挿絵・岡落葉
一、まつち
人間(にんげん)を他(た)の動物(どうぶつ)よりもえらいものにしたのは、火(ひ)を造(つく)ることの発明(はつめい)です。もしも人間(にんげん)が火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)しなかつたならば、私達(わたしたち)人間(にんげん)は猿(さる)や犬(いぬ)や猫(ねこ)とあまりちがはない生活(せいかつ)をしてゐなければならないでせう。それだから発火術(はつかじゆつ)──即(すなはち)、火(ひ)を造(つく)ることが人間(にんげん)の一番(いちばん)大切(たいせつ)な、基本的(きほんてき)な発明(はつめい)だといはれるのであります。
試(こゝろ)みに火(ひ)のない世界(せかい)を想像(そうぞう)してごらんなさい。冬(ふゆ)の朝(あさ)には暖(だん)をとることが出来(でき)ず、寒(さむ)さにふるへてゐなくてはならないでせう。煮焚(にた)きが出来(でき)ないから、なまの米(こめ)をかじつたり、なまの魚肉(ぎよにく)や、なまの牛肉(ぎゆうにく)を食(た)べたりしなければならないでせう。汽車(きしや)は走(はし)らず、工場(こうじよう)の機械(きかい)は動(うご)かず、夜(よる)になれば四方(しほう)がまつくらで、何(なに)もかも手探(てさぐ)りに探(さが)しまはらなければならないでせう。
天照大神(あまてらすおほみかみ)が天(あま)の岩屋戸(いはやど)へお隠(かく)れになつた時(とき)、高天原(たかまがはら)も葦原(あしはら)の中(なか)つ国(くに)も、まつくらがりになつて、悪(わる)い神々(かみ/゛\)、怪(あや)しい魔物(まもの)どもがのさばり歩(ある)いたので、八百万(やほよろづ)の神々が会議(かいぎ)を開(ひら)いて、あまてらすおほみかみに岩屋戸(いはやど)から出ていたゞくことをお願(ねが)ひしました。この神話(しんわ)は、火のけのない世界(せかい)が、どんなに恐(おそ)ろしく、さびしく、不自由(ふじゆう)なものであるかを物語(ものがた)つてゐるのです。
しかるに、遠(とほ)い/\むかしに、私達(わたしたち)人間(にんげん)の祖先(そせん)が火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)してくれたので、私達(わたしたち)は自由(じゆう)にそれを使(つか)つて、一方(いつぽう)では熱用(ねつよう)に供(きよう)し、他方(たほう)では燈用(とうよう)に供(きよう)し、なんの不便(ふべん)もなく、くらすことが出来(でき)るのです。そこで、私は最初(さいしよ)にごくざつと、発火術(はつかじゆつ)を発明(はつめい)したお話(はなし)をいたしたいと思(おも)ひます。
人間(にんげん)が火(ひ)を造(つく)り出(だ)す前(まへ)にも、火(ひ)はこの世界(せかい)にございました。自然(しぜん)の火(ひ)がとりも直(なほ)さずそれで、火山(かざん)の焔(ほのほ)が近所(きんじよ)の森(もり)を焼(や)いた時(とき)とか、雷(らい)が立(た)ち木(き)の上に落(お)ちた時(とき)とかには、火(ひ)が燃(も)えて昔(むかし)の人間(にんげん)をおどろかしたものです。ところが、人間(にんげん)がその自然(しぜん)の火(ひ)に、なにか物(もの)が焼(や)けたりしてゐるのを見(み)て、火(ひ)には焼(や)きこがす力(ちから)があることを知(し)り、それに近寄(ちかよ)つた時(とき)には熱(ねつ)のあること、それが夜(よる)の闇(やみ)を破(やぶ)つた時(とき)には光(ひかり)のあることを知(し)つて、自然(しぜん)の火(ひ)を熱用(ねつよう)、燈用(とうよう)の二(ふた)つに使(つか)ふことを発明(はつめい)したのです。しかし、初(はじ)めにはまだ火(ひ)を造(つく)ることは知(し)りませんでした。
そこで噴火口(ふんかこう)や、山火事(やまかじ)をしてゐる森(もり)に行(い)つて、自分(じぶん)の持(も)つてゐる枯(か)れ木(き)の枝(えだ)などへ火(ひ)をうつし、それを大急(おほいそ)ぎで自分(じぶん)の小屋(こや)に持(も)ちかへつたものです(第一図)。かうした時代(じだい)には、火(ひ)は極(きは)めて大切(たいせつ)で、一度(いちど)消(き)えてしまふとそれを手(て)に入(い)れることが困難(こんなん)ですから、寝(ね)ず番(ばん)をつけて薪(まき)を加(くは)へ、火種(ひだね)を絶(た)やさないようにしたものです。火(ひ)が尊敬(そんけい)されて神(かみ)さんのように思(おも)はれ、しまひには神(かみ)さんとして祭(まつ)られるようになつたのは、今(いま)いつたようなわけがあるからです。
発火術(はつかじゆつ)がいつ発明(はつめい)されたかは、はつきりとわかりませんけれども、次(つ)ぎに述(の)べるような順序(じゆんじよ)で、発明(はつめい)にみちびかれたことはたしかです。先(ま)づ第一(だいいち)に人間(にんげん)は、自分(じぶん)の両手(りようて)を揉(も)み合(あ)はして見(み)た時(とき)、掌(てのひら)が温(あたゝ)かくなることを知(し)りました。第二(だいに)には二(ふた)つの木片(もくへん)を摩(す)り合(あ)はしてきつく摩擦(まさつ)したら、火(ひ)が出(で)やしないかといふ疑(うたが)ひを起(おこ)しました。第三(だいさん)には木(き)を地上(ちじよう)に置(お)いて、それを棒(ぼう)で穴(あな)があくまでこすりますと、鋸屑(のこくづ)のような粉(こな)が穴(あな)の中(なか)にたまり、それがだん/\熱(ねつ)して来(き)て、とう/\しまひには火(ひ)を出(だ)しました。第四(だいし)には乾(かわ)いた草(くさ)をその火(ひ)の上(うへ)にのせて、ぷう/\と息(いき)を吹(ふ)きかけたら、焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)りました。かうして人間(にんげん)は火(ひ)を造(つく)ることを発明(はつめい)したので、それからはいろ/\の為事(しごと)に火(ひ)を使(つか)つて、遂(つひ)に他(た)の動物(どうぶつ)の出来(でき)ないことをするようになつたのです。だから、人間(にんげん)と動物(どうぶつ)とのちがひは、火(ひ)を造(つく)ることが出来(でき)るか、出来(でき)ないかといふことできまると、ある学者(がくしや)は申(まを)してをります。
棒(ぼう)を木片(もくへん)へすりつける方法(ほうほう)はいろ/\あるが、初(はじ)めは手(て)を前後(ぜんご)に動(うご)かして縦(たて)にすりつけたでせう。(第二図)次(つ)ぎには両手(りようて)で揉(も)んで一箇所(いつかしよ)をこすつたでせう(第三図)。と、掌(てのひら)が熱(あつ)くてしかたがないので、棒(ぼう)のぐるりへ縄(なは)や布片(ぬのぎれ)をまきつけて、その両端(りようはし)を左右(さゆう)の手(て)で持(も)ち、棒(ぼう)の下端(したはし)は穴(あな)の中(なか)へ入(い)れ、上端(うははし)を口(くち)に銜(くは)へて、まいた縄(なは)をひつぱると棒(ぼう)がくる/\廻(まは)つて火(ひ)を出(だ)しました。(第四図)しかし、これでは歯(は)が痛(いた)いので、さらに別(べつ)の工夫(くふう)をめぐらし、縄(なは)をひつぱる人(ひと)と、棒(ぼう)を上(うへ)から石(いし)で押(おさ)へてゐる人(ひと)と、二人(ふたり)がゝりで火(ひ)を出(だ)すことにしたのです。今日(こんにち)でも、貝塚(かひづか)や昔(むかし)の人(ひと)の住居(すまゐ)の址(あと)から、凹(くぼ)み石(いし)といつて、孔(あな)のいくつもあいた石(いし)が見出(みいだ)されるのは、みな昔(むかし)かうした風(ふう)にして火(ひ)を出(だ)した証拠(しようこ)です。
すべて、前述(ぜんじゆつ)のように、すりつけて火(ひ)を造(つく)るのを摩擦発火法(まさつはつかほう)と申(まを)します。しかるに、人間(にんげん)はつゞいて別(べつ)の発火法(はつかほう)をかんがへ出(だ)しました。それは鉄片(てつぺん)と石(いし)をかち合(あ)はす方法(ほうほう)(第五図)だから、撞撃発火法(どうげきはつかほう)と申(まを)します。
わが国(くに)でも明治(めいじ)年代(ねんだい)の初(はじ)め、おそいところでは中頃(なかごろ)までも、みな燧石(ひうちいし)を用(もち)ひました。この燧石(ひうちいし)といふ堅(かた)い石(いし)にほくちを添(そ)へ、木(き)に嵌(は)めた鉄片(てつぺん)でかち/\と石(いし)をうつと、火花(ひばな)がぱつと散(ち)ります。その火花(ひばな)がほくちに移(うつ)つて赤(あか)くなる。そこで硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)といつて、薄(うす)く木(き)を削(そ)いだものゝ一端(いつたん)へ硫黄(いおう)をつけたのを持(も)つてゆくと、ぱつと焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)るといふ面倒(めんどう)くさい火(ひ)の造(つく)りかたをしたものでした。ところが、五月雨(さみだれ)でも降(ふ)つて空中(くうちゆう)に水分(すいぶん)が多(おほ)いと、ほくちがしめつて、たやすく火が移(うつ)りません。また硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)がなければ焔(ほのほ)が出(で)ません。その煩(わづら)わしさといつたら、お話(はなし)になりませんでした。
しかし、この発火法(はつかほう)は、発明以来(いらい)、数千年間(すうせんねんかん)にわたつて各国(かくこく)の人々(ひと/゛\)に用(もち)ひられ、つい最近(さいきん)まで役立(やくだ)つてゐたのです。もつともそこに一(ひと)つ注意(ちゆうい)すべきことは、昔(むかし)のギリシヤ人(じん)は、拡大鏡(かくだいきよう)で太陽(たいよう)の光線(こうせん)を集(あつ)め、その下(した)へ乾(ほ)し草(くさ)を置(お)いて発火(はつか)させたといふことです。けれど、それとてもまつちの発明(はつめい)には関係(かんけい)がございません。
三番目(さんばんめ)に工夫(くふう)せられたのが薬物発火法(やくぶつはつかほう)で、それの発明(はつめい)は今(いま)からざつと三百年(さんびやくねん)ぐらゐ前(まへ)のことです。即(すなはち)、十七世紀(じゆうしちせいき)のこと、ウイーンに考(かんが)へ深(ぶか)い人(ひと)が住(す)んでゐて、硫黄(いおう)附(つ)け木(ぎ)を硫酸(りゆうさん)に浸(ひた)し、それにぽつたーす塩(えん)と砂糖(さとう)との混合物(こんごうぶつ)をつけて見(み)たら火(ひ)を出(だ)したので、息(いき)を吹(ふ)きかけて苦(く)もなく焔(ほのほ)を上(あ)げさせました。まつたく摩擦(まさつ)もせず、撞撃(どうげき)もせず、化学的(かがくてき)の作用(さよう)で火(ひ)を出(だ)す方法(ほうほう)であります。しかし、この方法(ほうほう)は金(かね)がかゝるのみならず、ともすると危険(きけん)が勃発(ぼつぱつ)したので、便利(べんり)ではあるが、物好(ものず)きな人(ひと)のほかはこれを用(もち)ひず、以前(いぜん)から用(もち)ひならした燧石(ひうちいし)を使(つか)つてゐました。
ところが、十九世紀(じゆうくせいき)になつて、四番目(よばんめ)の火(ひ)の造(つく)り方(かた)が発明(つめい)されました。千八百二十七年(せんはつぴやくにじゆうしちねん)のこと、英国(えいこく)のさる町(まち)に住(す)んでゐた薬剤師(やくざいし)、名(な)をジオーン・ウオーカアといふ人(ひと)が、硫黄(いおう)、ぽつたーす塩(えん)、あんちもにー粉(ふん)の混和物(こんわぶつ)を木片(もくへん)につけ、それを鑢紙(やすりがみ)にこすりつけたら焔(ほのほ)を発(はつ)することを発見(はつけん)しました。この方法(ほうほう)は摩擦法(まさつほう)と薬物法(やくぶつほう)とを兼(か)ねてゐるので、摩擦薬物発火法(まさつやくぶつはつかほう)と申(まを)します。これが今日(こんにち)の安全(あんぜん)まつち(ヽヽヽ)の先駆(せんく)となつたのです。
ところが、五六年(ごろくねん)の後(のち)に、あんちもにー粉(ふん)の代(かは)りに燐(りん)を用(もち)ひると、一(いつ)そう容易(ようい)に発火(はつか)することが知(し)られました。これが即(すなはち)、燐(りん)まつちといふもので、百四十四本(ひやくしじゆうしほん)を一束(ひとたば)にしたものが二十五(にじゆうご)せんとでしたから、決(けつ)して安(やす)い方(ほう)ではなかつた。のみならず、燐(りん)まつちはあまり発火(はつか)し易(やす)く、床(ゆか)の上(うへ)に一本(いつぽん)落(お)ちてゐるのを知(し)らずに踏(ふ)むか、或(あるひ)はその上(うへ)へ他(た)の物(もの)が落(お)ちたりすると、すぐ発火(はつか)して焔(ほのほ)が燃(も)え上(あが)りますから、うつかりしてゐると火事(かじ)になつて、家(いへ)も蔵(くら)も灰(はひ)にしてしまふといふ危険(きけん)がありました。たとへ人間(にんげん)が注意(ちゆうい)してゐても、家鼠(いへねずみ)がそれを噛(か)んで大事(だいじ)を起(おこ)したことがあります。ある都会(とかい)の如(ごと)きは、当時(とうじ)、燐(りん)まつちのために、一年間(いちねんかん)に三十回(さんじつかい)の火事(かじ)を出(だ)したといひ伝(つた)へられてゐます。
この恐(おそ)ろしい損害(そんがい)を除(のぞ)くために発明(はつめい)せられたのが安全(あんぜん)まつちです。今日(こんにち)、皆(みな)さんのうちで使(つか)つてゐるのがそれで、初(はじ)めは燐(りん)まつちから区別(くべつ)するため、かならず安全(あんぜん)まつちといつたものですが、今(いま)ではまつちといへば安全(あんぜん)まつちと相場(そうば)がきまつてしまひました。
安全(あんぜん)まつちは燐(りん)を軸(じく)(第六図)へぬらない代(かは)り、それを砂(すな)と膠(にかは)とに混(こん)じたものを、箱(はこ)の横側(よこがは)に塗(ぬ)り、そこへ軸(じく)をすりつけることにしたから、過(あや)まつて発火(はつか)するようなことはなく、至極(しごく)安全(あんぜん)であるといふので、すぐ燐(りん)まつちを駆逐(くちく)して、一挙(いつきよ)に世界中(せかいじゆう)へひろがつてゆきました。
皆(みな)さんがなんの考(かんが)へもなく使(つか)つてゐるまつちにさへ、かうした長(なが)い間(あひだ)の人間(にんげん)の苦心(くしん)と努力(どりよく)とが宿(やど)つてゐたのです。しかも、その平気(へいき)で見(み)てゐる簡単(かんたん)なまつちは、電信(でんしん)や電話(でんわ)や電燈(でんとう)や蒸気汽缶(じようききかん)などよりも、後(あと)に発明(はつめい)せられたほや/\の新発明品(しんはつめいひん)であります。まつちがなかつたらどれだけ不便(ふべん)だかといふことを考(かんが)へて見(み)ると、まつちといふものがどれだけえらい発明(はつめい)であるかといふことが知(し)れます。
二、すとーぶ
火(ひ)の造(つく)り方(かた)については前(まへ)に詳(くは)しくお話(はなし)したから、こんどはその火(ひ)をどう利用(りよう)して来(き)たかをお話(はなし)しませう。
噴火口(ふんかこう)の近(ちか)くへいつたり、山火事(やまかじ)の傍(そば)へいつたりすると、体(からだ)が温(あたゝ)かになることを知(し)つて、人間(にんげん)は火(ひ)が熱(ねつ)を出(だ)すことを発見(はつけん)しました。また山火事(やまかじ)に焼(や)け死(し)んだ鹿(しか)や猪(ゐのしゝ)の肉(にく)を食(た)べて見(み)ると、生(なま)で食(た)べるのよりもうまいことを知(し)つて、火(ひ)で焙(あぶ)れば食物(しよくもつ)の味(あぢ)がよくなることを発見(はつけん)しました。これら二(ふた)つの発見(はつけん)が、人間(にんげん)をすとーぶと竈(かまど)との発明(はつめい)にみちびいたのです。
初(はじ)めは自然(しぜん)の火(ひ)を、枯(か)れ草(くさ)や枯(か)れ木(き)の枝(えだ)に移(うつ)して、自分達(じぶんたち)の小屋(こや)の中(なか)に運(はこ)んで来(き)て、それを地上(ちじよう)に置(お)いた薪(まき)に移(うつ)すと、火(ひ)がどん/\燃(も)えて、小屋(こや)の中(なか)には煙(けむり)が一(いつ)ぱいたてこめるけれど、温(あたゝ)まつて、よい気持(きも)ちになるし、また肉類(にくるい)を焙(あぶ)ることも出来(でき)るので、昔(むかし)の人々(ひと/゛\)は煙(けむ)たいのを我慢(がまん)してゐました。
しかし、どうかして煙(けむり)を外(そと)に逐(お)ひ出(だ)す工夫(くふう)をしたら、一(いつ)そう好都合(こうつごう)であると考(かんが)へ、天幕(てんまく)や小屋(こや)の尾根(やね)へ孔(あな)をあけました(第七図)。これが最初(さいしよ)のすとーぶです。だから、最初(さいしよ)のすとーぶは今日(こんにち)のように持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)るわけでなく、家全体(いへぜんたい)がすとーぶになつてをり、屋根(やね)の孔(あな)が煙突(えんとつ)、床(ゆか)が焚(た)き口(ぐち)になつてゐたのでず。即(すなはち)、その頃(ころ)の人間(にんげん)はすとーぶの中(なか)に住(す)んでゐたといつても差(さ)し支(つか)へありません。
料理用(りようりよう)の竈(かまど)は初(はじ)めは極(きは)めて簡単(かんたん)で、たゞ焙(あぶ)らうとするものを、ぢかに火(ひ)の上(うへ)にかざすだけのことでした(第八図)。即(すなはち)、火(ひ)の上(うへ)に串(くし)を水平(すいへい)に置(お)き、それに焙(あぶ)るものを引(ひつ)かけたが、串(くし)は生木(なまき)とか竹(たけ)とかで造(つく)られ、ぢきに焦(こ)げてしまふ嫌(きら)ひがあるので、後(のち)には銅(どう)とか鉄(てつ)とかで造(つく)ることにしました。さてこの方法(ほうほう)で、肉(にく)の片側(かたがは)がやけると、こんどは串(くし)を裏返(うらがへ)しにして、他(た)の片側(かたがは)をやくといふ風(ふう)にしたのが、今日(こんにち)の焙(あぶ)り器(き)や焼(や)き網(あみ)の基(もと)になったのです。
食物(しよくもつ)を煮(に)ることは、焙(あぶ)つたり、焼(や)いたりすることよりも後(のち)に起(おこ)つたのです。昔(むかし)の煮方(にかた)はすこぶる不思議(ふしぎ)な、面倒(めんどう)な手続(てつゞ)きがいつたので、先(ま)づ地上(ちじよう)に穴(あな)を穿(うが)ち、それに水(みづ)を張(は)つて、其中(そのなか)へ予(あらかじ)め火(ひ)で焼(や)いた石(いし)を、いくつも/\引(ひ)き換(か)へ取(と)り換(か)へて、投(な)げ入(い)れると、水(みづ)はおのづと沸(わ)き立(た)つて湯(ゆ)になります。湯(ゆ)の中(なか)へ魚肉(ぎよにく)、鳥肉(とりにく)、獣肉(じゆうにく)を入(い)れると、ひとりでに煮(に)えます。なぜこんな面倒(めんどう)なことをしたかといふと、昔(むかし)は陶器(とうき)も金属器(きんぞくき)もないから、水(みづ)を火(ひ)で煮(に)ることが出来(でき)なかつたからです。土器(どき)の発明(はつめい)はずつと後(のち)のことです。今日(こんにち)でも樺太(からふと)のギリヤーク人(じん)は、白樺(しらかば)の皮(かは)で造(つく)つた鍋(なべ)の中(なか)に水(みづ)を入(い)れ、それへ焼(や)け石(いし)をはふりこんで湯(ゆ)を沸(わ)かしてゐます。
かうした原始的(げんしてき)な暖房法(だんぼうほう)と料理法(りようりほう)とは、長(なが)い間(あひだ)──数千年(すうせんねん)の間(あひだ)に亘(わた)つて襲用(しゆうよう)され、旧石器時代(きゆうせつきじだい)、新石器時代(しんせつきじだい)から金属時代(きんぞくじだい)にはひつても、便利(べんり)なものが発明(はつめい)せられなかつたが、ギリシヤの家屋(かおく)には、必要(ひつよう)に応(おう)じていつでも暖(あたゝ)められる仕掛(しか)けをした部屋(へや)があつて、その部屋(へや)は焚(た)き火(び)の煙(けむり)と煤(すゝ)とで真黒(まつくろ)になつてゐたので、『黒部屋(くろべや)』といふ名(な)が出来(でき)ました。
今(いま)から百年(ひやくねん)ぐらゐ前(まへ)までは、ヨーロツパでさへろくな暖炉(だんろ)がなく、不思議(ふしぎ)の方法(ほうほう)で人々(ひと/゛\)は暖(だん)を取(と)つてゐました。その頃(ころ)の旅行記(りよこうき)を見(み)ると、次(つ)ぎのような記事(きじ)が見出(みいだ)されます。
「ノルマンヂイの寒(さむ)さは厳(きび)しく、おまけに燃料(ねんりよう)が高(たか)いので、あるれーすの職人(しよくにん)は、一方(いつぽう)体温(たいおん)を保(たも)ち、他方(たほう)薪代(まきだい)を節約(せつやく)するために、冬季(とうき)の三箇月間(さんかげつかん)は家畜(かちく)部屋(べや)で為事(しごと)をすることにきめて、沢山(たくさん)牝牛(めうし)を飼(か)つてゐる農民(のうみん)と約束(やくそく)して、その人(ひと)の牛小屋(うしごや)を借(か)りることにしました。何頭(なんとう)も/\の牝牛(めうし)が、長(なが)い列(れつ)を作(つく)つて繋(つな)がれてゐる部屋(へや)の隅(すみ)で、れーす編(あ)みの職人(しよくにん)は足(あし)を藁(わら)に包(つゝ)んで、地上(ちじよう)に坐(すわ)つて為事(しごと)をしました」
これは家畜(かちく)の体(からだ)から発散(はつさん)する熱(ねつ)で、自分(じぶん)の体温(たいおん)を保(たも)つたのですから、家畜(かちく)をすとーぶの代(かは)りにしたわけですが、そんな原始的(げんしてき)なストーブが、百年(ひやくねん)ばかり前(まへ)にフランスの一部(いちぶ)で行(おこな)はれてゐたとは、驚(おどろ)くべきことではありませんか。
一体(いつたい)、地中海沿岸(ちちゆうかいえんがん)は気候(きこう)が温和(おんわ)で、冬(ふゆ)でもさう寒(さむ)くありませんから、そこではすと一ぶなどが発明(はつめい)されそうにもないが、事実(じじつ)はそれに反(はん)して、文明(ぶんめい)の母(はゝ)といはれるギリシヤで、今日(こんにち)のすとーぶの基(もと)になつた火鉢(ひばち)が発明(はつめい)されました。火鉢(ひばち)は必要(ひつよう)に応(おう)じて、どの部屋(へや)へでも持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)るので、はなはだ便利(べんり)ではありますが、木炭(もくたん)から発散(はつさん)するがすが臭(くさ)くて、不快(ふかい)であるばかりでなく、有毒(ゆうどく)でもあるので、美(び)にあこがれるギリシヤ人(じん)は我慢(がまん)が出来(でき)ず、香(こう)をたいてわづかに悪臭(あくしゆう)を消(け)してゐました。この火鉢(ひばち)は今日(こんにち)でもまだ廃(すた)れず、イスパニヤや日本(につぽん)では、冬(ふゆ)になるとそここゝで用(もち)ひられてゐます。
ギリシヤでは火鉢(ひばち)でも冬(ふゆ)が凌(しの)げたけれど、ローマでは不十分(ふじゆうぶん)だつたから、初(はじ)めは火鉢(ひばち)(第九図)も使(つか)ひましたけれど、後(のち)にはいろ/\と工夫(くふう)して暖房法(だんぼうほう)──即(すなはち)、部屋(へや)を暖(あたゝ)める方法(ほうほう)を考(かんが)へ出(だ)しました。それはおんどるの一種(いつしゆ)で、ある部屋(へや)に焚(た)き火場(びば)を造(つく)り円筒(えんとう)でその熱(ねつ)と煙(けむり)を外(ほか)の部屋(へや)に送(おく)つて、室内(しつない)を暖(あたゝ)める装置(そうち)でした。もちろん煙(けむ)いことは煙(けむ)いが、一度(いちど)、薪(まき)が燃(も)え切(き)つてしまふと、をきから発(はつ)せられる熱(ねつ)だけが送(おく)られるから、以前(いぜん)の暖房法(だんぼうほう)よりはずつと都合(つごう)がよくなりました(第十図)。あの有名(ゆうめい)なローマの公共浴場(こうきようよくじよう)なども、このおんどるで暖(あたゝ)められてゐたのです。今日(こんにち)でも朝鮮(ちようせん)や満州(まんしゆう)へまゐりますと、一種(いつしゆ)の改良(かいりよう)おんどる──床(ゆか)の下(した)から部屋(へや)を暖(あたゝ)めるものが用(もち)ひられて、厳寒(げんかん)の時(とき)でも室内(しつない)にをれば、寒(さむ)さを感(かん)ずることはありません。
ローマ人(じん)は暖炉(だんろ)を改良(かいりよう)したのみならず、料理用(りようりよう)の竈(かまど)を改良(かいりよう)して、うまい食物(しよくもつ)を調理(ちようり)することが出来(でき)るようにしました。ローマ帝政時代(ていせいじだい)と申(まを)せば、ざつと今(いま)から二千年(にせんねん)ぐらゐ前(まへ)のことですが、その頃(ころ)はローマの全盛(ぜんせい)時代(じだい)で、富豪(ふごう)の邸宅(ていたく)には多(おほ)くの熟練(じゆくれん)な料理人(りようりにん)が雇(やと)はれてゐて、めい/\腕(うで)によりをかけて、主人(しゆじん)の気(き)に入(い)るような食物(しよくもつ)を料理(りようり)しました。
本来(ほんらい)、ローマ人(じん)は質素(しつそ)、剛健(ごうけん)の民衆(みんしゆう)であつたが、文化(ぶんか)が進(すゝ)むにつれてだん/\と奢侈(しやし)、柔弱(にゆうじやく)となり、衣食住(いしよくじゆう)といふような物質上(ぶつしつじよう)の欲望(よくぼう)を満足(まんぞく)させることを、人間(にんげん)の第一義(だいいちぎ)と心得(こゝろえ)るほどに変(かは)りはてました。ことに食(く)ひ道楽(どうらく)はローマ人(じん)の特色(とくしよく)で、上流社会(じようりゆうしやかい)のある紳士(しんし)は、長(なが)い間(あひだ)、食物(しよくもつ)の美味(びみ)をたのしまうために、人間(にんげん)の頸(くび)が鶴(つる)のように長(なが)ければよいなどゝ申(まを)しました。
かうした食(く)ひ道楽(どうらく)が発達(はつたつ)したので、自然(しぜん)と料理(りようり)も発達(はつたつ)して、天才的(てんさいてき)の料理人(りようりにん)が多数(たすう)にあらはれました。ある日(ひ)、国王(こくおう)が季節外(きせつはづ)れの魚(さかな)の料理(りようり)を命(めい)じたら、料理人(りようりにん)は当惑(とうわく)すると思(おも)ひの外(ほか)、黙(だま)つて引(ひ)き退(さが)つて、大蕪菁(おほかぶら)をその魚(さかな)の形(かたち)に切(き)り、それを油(あぶら)で揚(あ)げて一種(いつしゆ)特別(とくべつ)の味(あぢ)をもたせ、「これはすこぶる美味(びみ)の魚肉(ぎよにく)です」といつて、国王(こくおう)にその野菜料理(やさいりようり)を差(さ)し出(だ)したといふ話(はなし)があります。かうした高等(こうとう)な料理(りようり)は、原始的(げんしてき)な竈(かまど)では出来(でき)ないから、ローマ人(じん)はきつと立派(りつぱ)な料理用(りようりよう)の竈(かまど)を工夫(くふう)してゐたに相違(そうい)ありません。
西暦(せいれき)四百七十六年(しひやくしちじゆうろくねん)に、立派(りつぱ)なローマの都(みやこ)は北方(ほつぽう)の蛮人(ばんじん)に攻(せ)め落(おと)されて、ローマ式(しき)の料理法(りようりほう)と料理用(りようりよう)の竈(かまど)とは、永久(えいきゆう)にこの世界(せかい)から失(うしな)はれることになりました。北国(ほつこく)の蛮人(ばんじん)には、美味(びみ)な料理(りようり)を味(あぢ)わひ、立派(りつぱ)な竈(かまど)を用(もち)ひるほどの余裕(よゆう)がありませんでした。これがために、ローマ滅亡(めつぼう)の後(のち)数百年間(すうひやくねんかん)、ヨーロツパでは、床(ゆか)で火(ひ)を焚(た)き、屋根(やね)の孔(あな)から煙(けむり)を排除(はいじよ)する旧式(きゆうしき)なすとーぶが用(もち)ひられてゐました。
ところが十一世紀(じゆういつせいき)になつて、イギリスで暖炉(だんろ)に一大改良(いちだいかいりよう)が加(くわ)へられました。と、いふのは、一千六十六年(いつせんろくじゆうろくねん)の頃(ころ)、戦闘(せんとう)は多(おほ)く城砦(じようさい)の屋根(やね)の上(うへ)で交(まじ)へられたが、屋上(おくじよう)の中央(ちゆうおう)の孔(あな)から噴(ふ)き出(だ)す煙(けむり)が兵士(へいし)をくるしめることがわかつたので、焚(た)き火場(びば)を床(ゆか)の中央(ちゆうおう)から側壁(そくへき)に近(ちか)いところに移(うつ)し、火(ひ)の上(うへ)に孔(あな)の口(くち)を開(ひら)いて、煙(けむり)が悉(ことごと)くそこから抜(ぬ)けて出(で)るようの設備(せつび)をした。これが煙突(えんとつ)の基(もと)になつたのです。
この排煙法(はいえんほう)は、火(ひ)の上(うへ)に笠(かさ)を設(まう)けて、煙(けむり)をいつたんそこに集(あつ)め、そこから更(さら)に排煙口(はいえんこう)へ導(みちび)いてゆくといふ意匠(いしよう)で、排煙口(はいえんこう)の長(なが)さは僅(わづか)に二三めーとるしかなかつたが、長(なが)ければ長(なが)いだけよいことがわかつたので、孔(あな)を斜(なゝめ)に壁(かべ)に穿(うが)つて壁(かべ)の外(そと)へ口(くち)を開(あ)けるようにしました(第十一図)。次(つ)ぎには、焚(た)き口(ぐち)を壁(かべ)の中(なか)に造(つく)り、そこからすぐ煙突(えんとつ)が屋外(おくがい)に通(つう)ずるようの意匠(いしよう)が施(ほどこ)され、十四世紀(じゆうしせいき)の中頃(なかごろ)からは一般(いつぱん)にこの法(ほう)を採用(さいよう)して、室内(しつない)は熱(ねつ)のみを受(う)けて、煙(けむり)に苦(くるし)められることがなくなりました。十五世紀(じゆうごせいき)の末(すゑ)には、ヨーロツパでは全部(ぜんぶ)この式(しき)の煙突(えんとつ)を造(つく)るようになつたが、日本(につぽん)などでは今日(こんにち)も尚(な)ほ昔(むかし)の通(とほ)り、屋根(やね)の上(うへ)に孔(あな)を穿(うが)つた天窓(てんまど)から煙(けむり)を吐(は)いてゐる家(いへ)が田舎(ゐなか)へゆくと度々(たび/\)見(み)られます。
改良(かいりよう)すとーぶはなるほど結構(けつこう)には相違(そうい)ないが、位置(いち)が固定(こてい)してゐて動(うご)かないから、傍(そば)へ行(い)けば暖(あたゝ)かいが、遠方(えんぽう)にゐると一向(いつこう)暖(あたゝ)かくない。どうかして部屋中(へやじゆう)を同(おな)じ度合(どあひ)に暖(あたゝ)める法(ほう)はないものかと、いろ/\工夫(くふう)した末(すゑ)、十五世紀(じゆうごせいき)の終(をは)りに出来(でき)たのが、現在(げんざい)のすとーぶの前身(ぜんしん)であります。それは一種(いつしゆ)の焜炉(こんろ)(第十二図)で、昔(むかし)の火鉢(ひばち)と今日(こんにち)のすとーぶとの間(あひだ)に位(くらゐ)する中間物(ちゆうかんぶつ)で、空気(くうき)の流通(りゆうつう)をよくするため、底部(ていぶ)に数個(すうこ)の孔(あな)を穿(うが)ち、上部(じようぶ)に料理用(りようりよう)の器具(きぐ)を載(の)せる仕掛(しか)けになつてゐたが、排煙用(はいえんよう)の煙突(えんとつ)がないから衛生上(えいせいじよう)よくないとあつて、二百年(にひやくねん)ほど前(まへ)に、フランスのサヴオーといふ人(ひと)が改良(かいりよう)を加(くは)へて新形(しんがた)すとーぶを造(つく)りました。
以上(いじよう)の話(はなし)で皆(みな)さんは、イギリス人(じん)が煙突(えんとつ)を発明(はつめい)し、フランス人(じん)がすとーぶを発明(はつめい)したことがおわかりになつたでせうが、フランス人(じん)はイギリス人(じん)の発明(はつめい)を取(と)り入(い)れて、鉄製(てつせい)の焜炉(こんろ)の底(そこ)に空気孔(くうきあな)を穿(うが)ち、それに鉄管製(てつかんせい)の煙突(えんとつ)を附(つ)け加(くは)へたものを造(つく)り出(だ)しました。これが即(すなはち)、現行(げんこう)のすとーぶの元祖(がんそ)で、部屋中(へやじゆう)どこへでも持(も)つてゆけるので、至極(しごく)便利(べんり)だといつて賞用(しようよう)されました。
しかし、どんな発明(はつめい)でも初(はじ)めは欠点(けつてん)だらけです。このすとーぶの発明者(はつめいしや)は苦心(くしん)して改良(かいりよう)を施(ほどこ)し、暖房(だんぼう)料理(りようり)兼用(けんよう)の上等品(じようとうひん)を造(つく)り出(だ)さうと工夫(くふう)したが、十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)になつて現在(げんざい)のような完全(かんぜん)なすとーぶが発明(はつめい)されたのです。完全(かんぜん)は完全(かんぜん)でも、このすとーぶでは一室(いつしつ)しか暖(あたゝ)められないから、十二(じゆうに)の部屋(へや)をもつた家(いへ)では、十二(じゆうに)のすとーぶを備(そな)へつけなければならない。それでは不便(ふべん)だといふので、ざつと百年(ひやくねん)ほど前(まへ)に、一(ひと)つのすとーぶで数室(すうしつ)を暖(あたゝ)める装置(そうち)が発明(はつめい)されました。それが即(すなはち)、送熱暖炉(そうねつだんろ)であります。
送熱暖炉(そうねつだんろ)(第十三図)は一室(いつしつ)に大(おほ)きなすとーぶを据(す)ゑつけ、それから円管(えんかん)で各室(かくしつ)へ熱(ねつ)を送(おく)るようにしたものですから、ローマのものと同(おな)じ理窟(りくつ)ではありますが、ローマのは、熱(ねつ)と煙(けむり)とを一所(いつしよ)に送(おく)り、これは熱(ねつ)だけを送(おく)つて煙(けむり)は別(べつ)に排除(はいじよ)する仕掛(しか)けですから、一段(いちだん)の進歩(しんぽ)と申(まを)さなければなりません。
かうした風(ふう)に、初(はじ)めは熱風(ねつぷう)のみを送(おく)つてゐたのですが、今日(こんにち)では金属製(きんぞくせい)のちゆーぶ──即(すなはち)、管(くだ)を各室(かくしつ)に導(みちび)いて、それに蒸汽(じようき)或(ある)ひは熱湯(ねつとう)を送(おく)り、いくつ部屋(へや)があつても悉(ことごと)くそれを暖(あたゝ)めることが出来(でき)るようになりました。しかし、それは大袈裟(おほげさ)な仕掛(しか)けで、費用(ひよう)も沢山(たくさん)にいりますから、もつと軽便(けいべん)な工夫(くふう)が必要(ひつよう)だといふので、瓦斯(がす)すとーぶ、電気(でんき)すとーぶなどが用(もち)ひられることになり、日本(につぽん)でもひーたー(暖房装置(だんぼうそうち))といふ外国語(がいこくご)が取(と)り入(い)れられて一般(いつぱん)に用(もち)ひられてゐるまでに進歩(しんぽ)しました。今日(こんにち)ではまだ十分(じゆうぶん)広(ひろ)がつてゐないが、火(ひ)を焚(た)いたり、蒸汽(じようき)を造(つく)つたりする面倒(めんどう)のない電気(でんき)すとーぶが、おひ/\と一般(いつぱん)に用(もち)ひられることになるでせう。問題(もんだい)はどうしたら安価(あんか)に電気(でんき)が供給(きようきゆう)出来(でき)るかといふことだけです。
三、らんぷ
暖房用(だんぼうよう)、料理用(りようりよう)に火(ひ)が利用(りよう)せられて、人間(にんげん)の生活(せいかつ)の向上(こうじよう)を助(たす)けたことは前(まへ)に述(の)べたが、こんどはそれが照明用(しようめいよう)、即(すなはち)、燈(ともしび)としてどう使用(しよう)されて来(き)たかを述(の)べてみたい。禽獣(きんじゆう)は大抵(たいてい)日(ひ)が暮(く)れると寝(ね)るが、人間(にんげん)は夜業(やぎよう)をしたり、旅行(りよこう)をしたり、娯楽(ごらく)に耽(ふけ)つたり、修養(しゆうよう)を励(はげ)んだりして、夜間(やかん)の一時(ひととき)をだにむだには過(す)ごすまいとします。この寝(ね)ることの早(はや)いと晩(おそ)いとが、獣類(じゆうるい)と人類(じんるい)とを区別(くべつ)する境界(きようかい)の一(ひと)つであることは、いふまでもありません。
月(つき)も輝(かゞや)き、星(ほし)もひらめきますが、それではこまかいものは見(み)られません。北極圏(ほつきよくけん)へゆくとおーろらが夜(よる)の世界(せかい)を照(て)らしてゐますが、これもなんの役(やく)にも立(た)ちません。そこで人間(にんげん)は、色々(いろ/\)の手段(しゆだん)を講(こう)じて照明法(しようめいほう)──闇(やみ)を照(て)らす方法(ほうほう)を考(かんが)へました。
昔(むかし)、支那(しな)に車胤(しやいん)といふ人(ひと)があつて、勉強(べんきよう)したくても、家(いへ)が貧(まづ)しくて燈油(とうゆ)が買(か)へないから、野川(のがは)から沢山(たくさん)の蛍(ほたる)を集(あつ)めて来(き)て、それの光(ひかり)で書物(しよもつ)を読(よ)んだと申(まを)します。また窓際(まどぎは)へどつさり雪(ゆき)を積(つ)んで、その照(て)り返(かへ)しで学問(がくもん)をしたといふ話(はなし)もあります。おそらく大昔(おほむかし)には、蛍(ほたる)の光(ひかり)を燈火(とうか)に代用(だいよう)したことがあつたでせう。さうした場合(ばあひ)には、こゝあの殻(から)とか、瓢箪(ひようたん)とかへ無数(むすう)の孔(あな)を穿(うが)ち、その中(なか)へ蛍(ほたる)を入(い)れて、孔(あな)から光(ひかり)が洩(も)れて来(く)るようにしたことゝ想像(そうぞう)されます。ある人(ひと)の旅行記(りよこうき)を見(み)ると、「チジユカ山脈(さんみやく)を越(こ)える時(とき)、普通(ふつう)のがらす製こつぷの中(なか)へ入れた蛍(ほたる)(第十四図)の光(ひかり)で、小(ちひ)さいスヰツツアランド製(せい)懐中時計(かいちゆうどけい)のせこんど針(はり)が見(み)え、それがために正確(せいかく)な夜(よる)の時間(じかん)を知(し)ることが出来(でき)た」と書(か)いてあります。しかし蛍(ほたる)の火(ひ)は夏(なつ)だけのもので、他(た)の季節(きせつ)にはどうすることも出来(でき)ません。
多分(たぶん)、大昔(おほむかし)の人間(にんげん)は、その住(す)んでゐた洞穴(ほらあな)の中(なか)、或(あるひ)は小屋(こや)の中(なか)で、よく燃(も)える丸太(まるた)に火(ひ)をつけて、夜通(よどほ)し燃(も)やしつゞけたことでせう。それが松明(たいまつ)の初(はじ)めです。しかし、これは持(も)ち運(はこ)びが出来(でき)ないから、脂肪(しぼう)の多(おほ)い材木(ざいもく)を長(なが)く、薄(うす)く割(さ)いて束(つか)ね、それの一端(いつたん)に点火(てんか)して他端(たたん)を手(て)で持(も)つことにしました。これならば必要(ひつよう)に応(おう)じて、どこへでも持(も)つてゆくことが出来(でき)ます(第十五図)。次(つ)ぎにはその脂肪質(しぼうしつ)の木(き)の薄片(はくへん)を葉(は)でくるむようにしたが、すると、時間(じかん)が長(なが)く保(たも)つて、剰(あまつさ)へ光明(こうみよう)が強(つよ)いので、すぐその方法(ほうほう)がひろがりました。これは燈心(とうしん)は外側(そとがは)にあり、燈心(とうしん)の燃焼(ねんしよう)を助(たす)ける蝋(ろう)が内側(うちがは)にある蝋燭(ろうそく)のようなものです。次(つ)ぎに木片(もくへん)其他(そのた)燃(も)える物(もの)の外部(がいぶ)に油(あぶら)を塗(ぬ)つた方(ほう)がよく燃(も)えることが発見(はつけん)せられたので、心(しん)を内側(うちがは)に入(い)れ、その燃焼(ねんしよう)を助(たす)けるものを外側(そとがは)に置(お)くことにしました。即(すなはち)、脂肪(しぼう)を塗(ぬ)つた縄(なは)または木片(もくへん)を束(つか)ねて松明(たいまつ)を造(つく)ることにいたしました。
この原始的(げんしてき)な蝋燭(ろうそく)は、大昔(おほむかし)に発明(はつめい)されたまゝ少(すこ)しも進歩(しんぽ)せず、数千年(すうせんねん)の間(あひだ)世界(せかい)の各地(かくち)で用(もち)ひられてゐたのです。ところがヨーロツパの暗黒時代(あんこくじだい)──といつて、火(ひ)が悉(ことごと)く消(き)えたわけではなく、火(ひ)が消(き)えたように思想(しそう)、精神(せいしん)の暗(くら)かつた時代(じだい)に、松明(たいまつ)造(つく)りは真中(まんなか)の棒(ぼう)を亜麻(あま)または大麻(あさ)で包(つゝ)み、そのぐるりへ蝋(ろう)または油(あぶら)を厚(あつ)く塗(ぬ)りつけたので、前(まへ)よりは一(いつ)そう明(あか)るくなりました。然(しか)るに紀元(きげん)九百年(くひやくねん)の頃(ころ)、即(すなはち)、アルフレツド大王(だいおう)の時代(じだい)に、更(さら)に改良(かいりよう)を加(くは)へて、心(しん)になる棒(ぼう)の代(かは)りに木綿糸(もめんいと)を撚(よ)つたものを用(もち)ひ、それへぢかに蝋(ろう)か脂(あぶら)かを塗(ぬ)りつけたので、初(はじ)めの姿(すがた)は全(まつた)く失(うしな)はれて、いよ/\本物(ほんもの)の蝋燭(ろうそく)が現(あら)はれました(第十六図)。即(すなはち)、松明(たいまつ)は蝋燭(ろうそく)の先駆(せんく)となつたが、外(ほか)にまたらんぷの基(もと)となつたことも忘(わす)れてはなりません。
動物(どうぶつ)の溶(と)けた脂肪(しぼう)がよく燃(も)えることは、大昔(おほむかし)の人間(にんげん)が早(はや)く発見(はつけん)したことですが、この発見(はつけん)が油燈(ゆとう)の起原(きげん)になつたのです。堅果(けんか)の殻(から)とか、石(いし)とか、巻(ま)き貝(がひ)とか動物(どうぶつ)の頭蓋骨(ずがいこつ)とか、凹(くぼ)みのあるものへ脂肪(しぼう)、油(あぶら)などの溶(と)かしたのを入(い)れ、その中(なか)に亜麻(あま)其他(そのた)の繊維質(せんいしつ)のものを燈心(とうしん)として浸(ひた)し、その一端(いつたん)を皿(さら)の外(そと)へ出(だ)して置(お)くと、毛細管作用(もうさいかんさよう)で油(あぶら)が燈心(とうしん)に浸(し)み込(こ)みますから、そこへ火(ひ)をつければ皿(さら)の中(なか)に油(あぶら)のある間(あひだ)は燃(も)え続(つゞ)きます(第十七図)。これがらんぷの基(もと)になつたので、人智(じんち)が発達(はつたつ)するにつれて、果殻(かこく)や石(いし)や頭蓋骨(ずがいこつ)をやめて、土製(どせい)の小皿(こざら)或(ある)ひは椀(わん)を用(もち)ひ、その縁(ふち)に小溝(こみぞ)もしくは口(くち)をつけて、そこに燈心(とうしん)を置(お)くことにしました。
古代(こだい)ギリシヤやローマのらんぷは、中央(ちゆうおう)に貯油池(ちよゆうち)があつて、そこから周囲(しゆうい)のらんぷへ小孔(こあな)を経(へ)て油(あぶら)が流(なが)れ出(で)るように造(つく)られてゐました。らんぷの数(すう)によつて、その孔(あな)は多(おほ)いこともあり、少(すくな)いこともあり、一定(いつてい)してはゐませんが、孔(あな)が多(おほ)いほどらんぷの数(かず)が多(おほ)く、らんぷが多(おほ)いほど光(ひかり)の強(つよ)いことは申(まを)すまでもありません。イタリヤのコルトナ博物館(はくぶつかん)には、古代(こだい)のらんぷが所蔵(しよぞう)されてゐますが、それには十六箇(じゆうろつこ)の孔(あな)があけてあります。このらんぷは今(いま)から二千五百年前(にせんごひやくねんまへ)、エトルリヤの寺院(じいん)で使用(しよう)されてゐたものです(第十八図)。
かうしたらんぷ(第十九図)は中世(ちゆうせい)を経(へ)て、近世(きんせい)まで用(もち)ひ続(つゞ)けられたが、値段(ねだん)も高(たか)く、光(ひかり)も薄(うす)く、おまけに一種(いつしゆ)不快(ふかい)の臭気(しゆうき)を発散(はつさん)して、壁(かべ)も家具(かぐ)も悉(ことごと)く煤(すゝ)で真黒(まつくろ)になつたから、蝋燭(ろうそく)の方(ほう)がましだといつて、小蝋燭(ころうそく)の発明(はつめい)された十三世紀(じゆうさんせいき)以後(いご)に於(お)いては、それを買(か)ふ余裕(よゆう)のある家(いへ)では、もはやらんぷを用(もち)ひないようになりました。
然(しか)るに十八世紀(じゆうはつせいき)の末(すゑ)、即(すなはち)、千七百八十三年(せんしちひやくはちじゆうさんねん)に、ロンドンに住(す)んでゐたスヰツツアランドの医師(いし)アーガンドが、優等(ゆうとう)ならんぷ(第二十図)を発明(はつめい)しました。
今日(こんにち)ではほとんど全(まつた)く廃(すた)れたが、ついこの間(あひだ)まであつた石油(せきゆ)らんぷを見(み)ると、風(かぜ)を防(ふせ)ぐためにほやがついてゐるが、このほやは他面(ためん)に於(お)いて空気(くうき)の流通(りゆうつう)をも助(たす)けるので、極(きは)めて大切(たいせつ)なものであります。アーガンドの発明(はつめい)したらんぷにはほやが附(つ)いてゐたのみならず、口金(くちがね)の下部(かぶ)には心(しん)へ空気(くうき)の通(かよ)ふように孔(あな)が明(あ)けてありました。アーガンド以前(いぜん)のらんぶでは、心(しん)に空気(くうき)が通(かよ)はなかつたので、十分(じゆうぶん)完全(かんぜん)に燃(も)えなかつたが、口金(くちがね)に孔(あな)を明(あ)けたり、ほやを立(た)てたりしたゝめに、心(しん)が完全(かんぜん)に燃(も)えて白熱光(はくねつこう)を発(はつ)するようになりました。らんぷの心(しん)が薄平(うすひら)たかつたり、円(えん)を描(えが)いたりしてゐるのは心(しん)に十分(じゆうぶん)空気(くうき)を通(かよ)はせるためで、もし心(しん)が厚(あつ)かつたら完全燃焼(かんぜんねんしよう)が出来(でき)ず、従(したが)つて油煙(ゆえん)が立(た)つに相違(そうい)ありません。
アーガンドが新式(しんしき)らんぷを発明(はつめい)してからの進歩(しんぽ)は恐(おそ)ろしいもので、それ以前(いぜん)の二千年間(にせんねんかん)よりも、千七百八十三年(せんしちひやくはちじゆうさんねん)以後(いご)二十年間(にじゆうねんかん)の発達(はつたつ)の方(ほう)が著(いちじ)るしかつた。コロムブスの卵(たまご)のたとへの如(ごと)く、発明発見(はつめいはつけん)のむづかしいのは第一着手(だいいつちやくしゆ)で、誰(だれ)かちよつと手(て)を着(つ)ければ、われも/\と争(あらそ)うて心(こゝろ)をそれに向(む)けて、改良(かいりよう)を行(おこな)ふことが出来(でき)るのです。アーガンドの発見(はつけん)以後(いご)、新式(しんしき)の油壺(あぶらつぼ)、精良(せいりよう)の油(あぶら)、上等(じようとう)の心(しん)など、だんだんよいものが工夫(くふう)されたが、一(ひと)つとしてアーガンド式(しき)でないものはありませんでした。この点(てん)に於(お)いて、アーガンドはらんぷ発明者(はつめいしや)の名誉(めいよ)を担(にな)ふことが出来(でき)ます。
スコツトランドの発明家(はつめいか)ヰリヤム・マードツクといふ人(ひと)が、別種(べつしゆ)の照明法(しようめいほう)を発見(はつけん)して、らんぷに代(かは)らしめたのは、近頃(ちかごろ)の一大貢献(いちだいこうけん)といつてよろしい。元来(がんらい)、油(あぶら)や炭(すみ)が熱(ねつ)せられると、明(あか)るい焔(ほのほ)を立(た)てゝ燃(も)えますが、それは油(あぶら)や炭(すみ)その物(もの)が燃(も)えるのではなくて、それから起(おこ)る蒸発体(じようはつたい)、即(すなはち)、がすが発生(はつせい)して燃(も)えるのだといふことが、久(ひさ)しい以前(いぜん)から注意深(ちゆういぶか)い人々(ひと/゛\)の間(あひだ)には知(し)れてゐました。らんぷでいへば、糸心(いとしん)が燃(も)えるのではなくて、糸心(いとしん)を伝(つた)はつて上(のぼ)つて来(く)る油(あぶら)が熱(ねつ)せられてがすを発生(はつせい)し、それが燃(も)えて焔(ほのほ)を上(あ)げてゐるのであります。
一千七百九十七年(いつせんしちひやくくじゆうしちねん)、マードツクはこの原理(げんり)を応用(おうよう)して、大(おほ)きい釜(かま)の中(なか)で石炭(せきたん)をくすべ、それから発散(はつさん)するがすを円管(えんかん)の中(なか)に導(みちび)き、他(た)の家(いへ)の部屋々々(へや/゛\)に送(おく)つて、必要(ひつよう)があればその管(かん)の一端(いつたん)を開(ひら)いてがすを出(だ)し、それに点火(てんか)することを工夫(くふう)しました(第二十一図)。即(すなはち)、心(しん)なしのらんぷが出来(でき)たのです。マードツクはかうした方法(ほうほう)で、がす管(かん)を自分(じぶん)の工場(こうば)にも延長(えんちよう)し、そこにがす燈(とう)を点(てん)じて人々(ひと/゛\)をあつといはせました。
おひ/\とがすを安価(あんか)に供給(きようきゆう)する手段(しゆだん)が講(こう)ぜられると、各家(かくか)では競(きそ)うてがす(ヽヽ)管(かん)を引(ひ)き、またゝく間(あひだ)に全市(ぜんし)はこの新燈明(しんとうみよう)で夜(よ)を飾(かざ)りました。ロンドン市(し)の大部分(だいぶゞん)ががす燈(とう)をつけたのは、千八百十五年(せんはつぴやくじゆうごねん)で、発明後(はつめいご)十八年(じゆうはちねん)です。米国(べいこく)では少(すこ)し後(おく)れて、千八百二十一年(せんはつぴやくにじゆういちねん)にがす燈(とう)が点(てん)ぜられ、蝶(ちよう)の翅(はね)のように美(うつく)しい光(ひかり)が闇(やみ)を焼(や)きました。
かうした風(ふう)に、人々(ひと/゛\)が競(きそ)うてがす燈(とう)を用(もち)ひるようになると、長(なが)い間(あひだ)用(もち)ひられてゐた旧式(きゆうしき)の石油(せきゆ)らんぷが捨(す)てられました。
然(しか)るに、千八百七十六年(せんはつぴやくしちじゆうろくねん)になつて、また照明界(しようめいかい)に一大革命(いちだいかくめい)が起(おこ)りました。革命(かくめい)といふのは電燈(でんとう)の発明(はつめい)です。最初(さいしよ)の電燈(でんとう)は、二本(にほん)のかーぼん線(せん)へ電流(でんりゆう)を通(つう)じた強力(きようりよく)のあーく・らいと(第二十二図)で、その光(ひかり)は百箇(ひやくこ)のがす燈(とう)、数百箇(すうひやくこ)の石油(せきゆ)らんぷに匹敵(ひつてき)したので、公園(こうえん)、街路(がいろ)など、広(ひろ)い場所(ばしよ)を照(てら)すのには極(きは)めて適当(てきとう)だが、強(つよ)い光線(こうせん)と瞬(またゝ)く焔(ほのほ)とは、屋内(おくない)を照(てら)すのには都合(つごう)がよくありませんでした。
しかし、まもなく『発明王(はつめいおう)』といはれるエヂソンが屋内電燈(おくないでんとう)を発明(はつめい)し、到(いた)るところ、それをつけない家(いへ)がなくなりました。これが即(すなはち)、エヂソン式(しき)白熱燈(はくねつとう)です。
以上(いじよう)説(と)いて来(き)たように、松明(たいまつ)、蝋燭(ろうそく)、らんぷ、がす燈(とう)、電燈(でんとう)といふ段階(だんかい)を経(へ)て、らんぷはおどろくべき発達(はつたつ)を見(み)ましたが、新発見毎(しんはつけんごと)に段々(だん/\)と安全(あんぜん)の度(ど)を加(くは)へ、光明(こうみよう)の度(ど)を増(ま)し、どんな煙(けむり)も煤(すゝ)も起(おこ)さないで、白昼(はくちゆう)を欺(あざむ)く照明(しようめい)を得(う)るようになつたのは、全(まつた)く進(すゝ)んで止(とゞ)まることを知(し)らない人間(にんげん)の知識(ちしき)のお陰(かげ)です。これから先(さ)きどんな発明(はつめい)が起(おこ)つて、電燈(でんとう)が何(なに)に変(かは)るかは今日(こんにち)ではわかりませんが、さうした日(ひ)の来(く)ることには疑(うたが)ひがありません。たゞ時日(じじつ)の問題(もんだい)だけであります。
四、鎔鉱炉(ようこうろ)
火(ひ)を料理用(りようりよう)、照明用(しようめいよう)、暖房用(だんぼうよう)に供(きよう)した歴史(れきし)は既(すで)に話(はな)しましたから、こゝでは鎔鉱用(ようこうよう)にそれを使(つか)つたことをお話(はなし)しませう。
初(はじ)め人間(にんげん)は金属(きんぞく)のあることを知(し)りませんでした。金属(きんぞく)が道具(どうぐ)に使(つか)はれ始(はじ)めたのは、ずつと後(のち)のことで、大昔(おほむかし)は木(き)の棒(ぼう)などを様々(さま/゛\)の用途(ようと)に使(つか)ひました。それ故(ゆゑ)に、その時代(じだい)を木器時代(もくきじだい)と申(まを)します。次(つ)ぎの時代(じだい)に来(き)て、人間(にんげん)は色々(いろ/\)の石(いし)で道具(どうぐ)を造(つく)つたから、それを石器時代(せつきじだい)と申(まを)しますが、石器(せつき)も初(はじ)めはたゞ石(いし)を打(う)ち欠(か)いたゞけであつたから打石器(だせつき)、或(ある)ひは旧石器時代(きゆうせつきじだい)と申(まを)し、次(つ)ぎに石(いし)を磨(みが)いた時代(じだい)を磨石器(ませつき)、或(ある)ひは新石器時代(しんせつきじだい)と申(まを)します。素焼(すや)きの土器(どき)の発明(はつめい)されたのは、新石器時代(しんせつきじだい)のことで、旧石器時代(きゆうせつきじだい)にはどんな土器(どき)も存在(そんざい)してゐなかつたのです。まして金属(きんぞく)で造(つく)つたものなどは、薬(くすり)にしたくても見(み)つかりませんでした。
然(しか)るに新石器時代(しんせつきじだい)の末(すゑ)になつて、先(ま)づ黄金(おうごん)が発見(はつけん)されたが、これは純粋(じゆんすい)のもの、──即(すなはち)、砂金(さきん)が沙漠(さばく)の中(なか)などで拾(ひろ)ひ取(と)られ、質(しつ)が軟(やはらか)いからそのまゝ色々(いろ/\)の形(かたち)に造(つく)られて、装飾(そうしよく)などに用(もち)ひられました。次(つ)ぎには銅(どう)が発見(はつけん)され、鏃(やじり)、鉾(ほこ)、剣(つるぎ)、斧(おの)などに造(つく)られました。しかし銅(どう)は軟(やはらか)い金(かね)ですから、突(つ)いたり、切(き)つたりするのには適(てき)しません。やがて錫(すゞ)が発見(はつけん)せられて、それの少量(しようりよう)を銅(どう)に加(くは)へると、青銅(せいどう)といふ硬(かた)い合金(ごうきん)の出来(でき)ることを昔(むかし)の人(ひと)が発見(はつけん)して、しきりに銅錫合金(どうすゞごうきん)の道具(どうぐ)を造(つく)りました。銅(どう)も錫(すゞ)も自然(しぜん)の状態(じようたい)で発見(はつけん)され易(やす)かつたから、早(はや)く人間(にんげん)の注意(ちゆうい)を惹(ひ)いたのです。で、これらの時代(じだい)を順々(じゆん/\)に、銅時代(どうじだい)、青銅時代(せいどうじだい)と申(まを)します。
鉄(てつ)の発見(はつけん)は遥(はる)か後(のち)のことで、青銅(せいどう)よりも二千年(にせんねん)ぐらゐ後(おく)れてゐます。それはなぜかといふと、鉄(てつ)は純粋(じゆんすい)なものが自然(しぜん)の状態(じようたい)で存在(そんざい)してゐないから容易(ようい)に古代人(こだいじん)の注意(ちゆうい)をひかなかつたのです。鉄鉱(てつこう)がなかつたといふわけではありません。今日(こんにち)、ちよつと私達(わたしたち)が山野(さんや)を跋渉(ばつしよう)して見(み)ても、到(いた)る処(ところ)に赤(あか)い粘土(ねんど)の土手(どて)、赤(あか)い煉瓦石(れんがいし)、赤(あか)く塗(ぬ)つた家(いへ)の壁(かべ)、さては少年(しようねん)の頬(ほゝ)の色(いろ)、婦人(ふじん)の頭(あたま)の赤(あか)いりぼん、すべて赤(あか)い物(もの)には鉄分(てつぶん)が存在(そんざい)してゐるのであつて、あの美(うつく)しい林檎(りんご)の赤色(せきしよく)さへ、それが鉄(てつ)を多量(たりよう)に包含(ほうがん)してゐることを示(しめ)してゐるのです。こんな風(ふう)に、鉄(てつ)はどこにもあるにはあつたが、大抵(たいてい)他(た)の物質(ぶつしつ)と混合(こんごう)してゐて、純粋(じゆんすい)な鉄(てつ)だけは発見(はつけん)されなかつたのです。
自然鉄(しぜんてつ)は隕石(いんせき)に見(み)られるぐらゐのもので、それすら極(きは)めて少量(しようりよう)ですから、知識(ちしき)の乏(とぼ)しい古代(こだい)の人々(ひと/゛\)には、鉄(てつ)は容易(ようい)に見(み)つからなかつたが、山火事(やまかじ)で鉄鉱石(てつこうせき)がおのづと溶(と)けたり、小屋(こや)の失火(しつか)で鉄塊(てつかい)が出来(でき)たりした拍子(ひようし)に、鉄(てつ)の存在(そんざい)がふと知(し)られたと思(おも)はれます。一旦(いつたん)知(し)つて見(み)ると、鉄(てつ)の精錬(せいれん)はきはめてたやすいもので、たゞ鉱石(こうせき)を火(ひ)の中(なか)に投(な)げ入(い)れさへすれば火力(かりよく)が強(つよ)く、高温度(こうおんど)の熱(ねつ)が出(で)る場合(ばあひ)には、きつと火(ひ)の底(そこ)に鉄分(てつぶん)が小(ちひ)さい塊(かたまり)となつて滲(にじ)み出(で)て来(き)ます。初(はじ)めの製鉄(せいてつ)はかうして行(おこな)はれたのですが、その場所(ばしよ)や年代(ねんだい)ははつきりとわかりません。
最初(さいしよ)の製鉄法(せいてつほう)は、たゞ木炭(もくたん)を堆(うづたか)く積(つ)み上(あ)げて、その上(うへ)へ鉄鉱石(てつこうせき)を載(の)せて鎔(と)かせたゞけのことゝ思(おも)はれます。木炭(もくたん)は鎔鉱(ようこう)には極(きは)めて都合(つごう)のよい燃料(ねんりよう)で、日本(につぽん)では出雲(いづも)あたりの砂鉄製煉(さてつせいれん)には、今日(こんにち)でも木炭(もくたん)を使(つか)つてゐます。しかし、この方法(ほうほう)で鎔鉱(ようこう)すると、燃料(ねんりよう)も沢山(たくさん)いり、時間(じかん)も長(なが)くかゝりますから、古代人(こだいじん)はいろ/\考(かんが)へた末(すゑ)、小山(こやま)の腹(はら)へ三(さん)めーとる乃至(ないし)四(し)めーとるの穴(あな)をあけ、その穴(あな)へ木炭(もくたん)をつめ込(こ)み、次(つ)いで鉄鉱石(てつこうせき)を投(な)げ入(い)れ、上(うへ)には一(ひと)つ口(くち)をあけ、底(そこ)には無数(むすう)の口(くち)をつけて、木炭(もくたん)に点火(てんか)しますると、鉱石(こうせき)が溶(と)けて下(した)の口(くち)から滲(にじ)み出(で)て塊鉄(かいてつ)といふ粗鉄(そてつ)が出来(でき)ます。この鎔鉱炉(ようこうろ)は風向(かざむ)き次第(しだい)で、ともすれば鉱石(こうせき)を溶解(ようかい)する力(ちから)を失(うしな)ひましたから、人工的(じんこうてき)に風(かぜ)を送(おく)つて火(ひ)を煽(あほ)ることが工夫(くふう)されました。その風(かぜ)を送(おく)る道具(どうぐ)が即(すなはち)、鞴(たゝら)(第二十三図)であります。
鞴(たゝら)は普通(ふつう)野羊(のひつじ)の革(かは)を縫(ぬ)ひ合(あは)せて造(つく)つたもので、手(て)か足(あし)かを動力(どうりよく)としてゐた(第二十四図)が、ある場所(ばしよ)では穴(あな)の明(あ)けてある丸太(まるた)へ棒(ぼう)をさしこみ、それを上下(じようげ)させてぽんぷを動(うご)かすのもありました(第二十五図)。いづれにしても、この鞴(たゝら)が出来(でき)たために、風向(かざむ)きがどうあらうと、場所(ばしよ)がどこであらうと、そんなことはお構(かま)ひなく、いつでも鉄(てつ)を製煉(せいれん)することが出来(でき)るようになりました。これが製鉄型式(せいてつけいしき)の第一歩(だいいつぽ)であります。
かうした風(ふう)に製鉄(せいてつ)が比較的(ひかくてき)容易(ようい)になると、青銅器時代(せいどうきじだい)が一躍(いちやく)して鉄器時代(てつきじだい)と変(かは)り、武具(ぶぐ)も日用道具(にちようどうぐ)もすべて鉄製(てつせい)になりました。青銅(せいどう)と鉄(てつ)とを比(くら)べますると、その鋭(するど)さは非常(ひじよう)な違(ちが)ひでありまして、たとへば一本(いつぽん)の木(き)を伐(き)るのにも、石斧(いしおの)ならば一箇月(いつかげつ)もかゝりますから、大(おほ)きな林(はやし)を開(ひら)くなどいふことは、夢(ゆめ)にも考(かんが)へつかれない空想(くうそう)でした。然(しか)るに鉄(てつ)が道具(どうぐ)に利用(りよう)せられ、小刀(こがたな)、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、斧(おの)などが思(おも)ふ通(とほ)りの形(かたち)に造(つく)られるようになると、木(き)はたやすくきり倒(たふ)すことが出来(でき)、またそれを細工(さいく)して、家(いへ)でも、道具(どうぐ)でも、武器(ぶき)でも、舟(ふね)でも、車(くるま)でも、自由(じゆう)に造(つく)ることが出来(でき)ました。
段々(だん/\)人間(にんげん)の知識(ちしき)が進(すゝ)みますると、鉄(てつ)は金属(きんぞく)のうちでも最(もつとも)も大切(たいせつ)なものであることが知(し)られ、その需要(じゆよう)が甚(はなは)だしく多(おほ)くなつて来(き)ました。ところが原始的(げんしてき)な製鉄場(せいてつじよう)では一日(いちにち)の間(あひだ)鞴(たゝら)を動(うご)かしつゞけても、やつと十一(じゆういち)ぽんど乃至(ないし)十二(じゆうに)ぽんどの塊鉄(かいてつ)しか造(つく)ることが出来(でき)ません。そこで鉄(てつ)は益々(ます/\)尊重(そんちよう)せられて、ある国(くに)では金銀(きんぎん)同様(どうよう)に思(おも)はれてゐました。それだから、あちらでも、こちらでも製鉄場(せいてつじよう)が沢山(たくさん)建(た)てられたが、原料(げんりよう)の乏(とぼ)しいところでは発達(はつたつ)したくも出来(でき)るわけのものではありません。
その原始的(げんしてき)な鎔鉱炉(ようこうろ)は、数世紀(すうせいき)の間(あひだ)どんな進歩(しんぽ)もしなかつたが、中世期(ちゆうせいき)の末頃(すゑごろ)になつていくらか改良(かいりよう)が施(ほどこ)されました。ちようど十六世紀(じゆうろくせいき)のなかばに、ドイツの製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)は非常(ひじよう)に大(おほ)きい、高(たか)さが六(ろく)めーとる乃至(ないし)九(く)めーとるもある鎔鉱炉(ようこうろ)を造(つく)り、鞴(たゝら)の動力(どうりよく)には水力(すいりよく)を用(もち)ひたが、場所(ばしよ)によつては太(ふと)い木製(もくせい)のぴすとんを有(ゆう)する木製鞴(もくせいたゝら)が、在来(ざいらい)の革製鞴(かはせいたゝら)の代(かは)りに用(もち)ひられました。これでさへも一大進歩(いちだいしんぽ)であるのに、十六世紀(じゆうろくせいき)の末(すゑ)には、ほとんど古代鞴(こだいたゝら)の面影(おもかげ)を止(とゞ)めぬほどの改良(かいりよう)が加(くは)へられて、鎔鉱炉(ようこうろ)は一大革命(いちだいかくめい)を見(み)ました。
新発明(しんはつめい)の送風炉(そうふうろ)(第二十六図)で造(つく)られる鉄(てつ)は、粗鉄(そてつ)に比(ひ)して純精(じゆんせい)なもので、鋳鉄(ちゆうてつ)または銑鉄(せんてつ)といはれます。製産能力(せいさんのうりよく)から見(み)ますると、古代鞴(こだいたゝら)の一箇月(いつかげつ)の製産額(せいさんがく)が、新式送風炉(しんしきそうふうろ)では一日(いちにち)に造(つく)ることが出来(でき)るようになりました。発明早々(はつめいそう/\)の送風炉(そうふうろ)でさへ、一回(いつかい)に数千(すうせん)ぽんどの多量(たりよう)を鎔解(ようかい)し、一年間(いちねんかん)に百五十噸(ひやくごじつとん)を製鉄(せいてつ)したといふ記録(きろく)が残(のこ)つてゐます。
しかし鉄(てつ)の需要(じゆよう)は日一日(ひいちにち)と増(ま)して、この炉(ろ)でさへ需要(じゆよう)を充(み)たすほどの供給(きようきゆう)をすることが出来(でき)ず、十七世紀(じゆうしちせいき)になつては常(つね)に鉄(てつ)の不足(ふそく)を訴(うつたへ)へてゐました。鉱石(こうせき)はかならずしも少(すくな)いわけではなかつたが、鎔(と)かす材料(ざいりよう)が不十分(ふじゆうぶん)であつたといはれます。
その頃(ころ)でも燃料(ねんりよう)には木炭(もくたん)を用(もち)ひましたが、あまり消費量(しようひりよう)が多(おほ)いために、到(いた)るところの山林(さんりん)は濫伐(らんばつ)されて、どの山(やま)も/\みな禿山(はげやま)になつてしまひました。そこでイギリスの如(ごと)きは、十八世紀(じゆうはちせいき)の初(はじ)めに、国会(こつかい)で山林保護(さんりんほご)のために木材(もくざい)の伐採(ばつさい)を禁(きん)じたほどでした。木炭(もくたん)が得(え)られなければ、何(なに)か外(ほか)の新燃料(しんねんりよう)を探(さが)さなければなりません。千六百十九年(せんろつぴやくじゆうくねん)には、イギリスのウオーアヰツクで、ダツド・ダツドリイが軟石炭(なんせきたん)を使(つか)つて見(み)たが、これは不成功(ふせいこう)に帰(き)したので、其後(そのご)約一世紀(やくいつせいき)の間(あひだ)代用品(だいようひん)を物色(ぶつしよく)してゐましたが、干七百三十五年(せんしちひやくさんじゆうごねん)になつて、アブラハム・ダアビイといふ製鉄家(せいてつか)が、送風炉(そうふうろ)にこーくすを使用(しよう)して成功(せいこう)しました。
かうして新燃料(しんねんりよう)が発見(はつけん)され、十八世紀(じゆうはちせいき)の末(すゑ)には、送風炉(そうふうろ)の燃料(ねんりよう)はこーくすに限(かぎ)るといふことになつたので、こんどは鎔鉱炉(ようこうろ)の改良(かいりよう)を企(くはだ)て、遂(つひ)に、ネイルソンといふイギリス人(じん)が熱風機(ねつぷうき)を発明(はつめい)しました。
ネイルソン以前(いぜん)に使用(しよう)された送風機(そうふうき)の送(おく)る風(かぜ)は冷(つ)めたいものだつたから、それを暖(あたゝ)めるのにかなり沢山(たくさん)の熱(ねつ)が空費(くうひ)されましたが、かれはもしその空気(くうき)を予(あらかじ)め六百度(ろつぴやくど)に熱(ねつ)して置(お)いたならば、燃料(ねんりよう)を増(ま)さないでも二倍量(にばいりよう)の鉄(てつ)を造(つく)ることが出来(でき)るだらうと考(かんが)へ、その考(かんが)へに基(もと)づいて、千八百二十八年(せんはつぴやくにじゆうはちねん)に送風炉用(そうふうろ)の熱風機(ねつぷうき)(第二十七図)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。
こーくすの使用(しよう)と、熱風機(ねつぷうき)の発明(はつめい)とで、以前(いぜん)に倍(ばい)する製産額(せいさんがく)を見(み)ましたけれど、鉄(てつ)の需要(じゆよう)はほとんど無制限(むせいげん)であるから、より以上(いじよう)有力(ゆうりよく)な鎔鉱炉(ようこうろ)が必要(ひつよう)となり、志(こゝろざし)ある人々(ひと/゛\)はそれの発明(はつめい)に苦心(くしん)してゐました。
この熱風機(ねつぷうき)が発明(はつめい)せられてから、綱(つな)が鎖(くさり)になり、木鋤(きすき)が鉄鋤(てつすき)になり、木管(もくかん)は鉄管(てつかん)と変(かは)つて市中(しちゆう)の水道(すいどう)に用(もち)ひられ、鉄製(てつせい)れーるが敷設(ふせつ)されるといふ風(ふう)に、各方面(かくほうめん)で鉄(てつ)の需要(じゆよう)が増(ま)したので、製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)は目(め)の廻(まは)るほど忙(いそが)しい思(おも)ひをして、出来(でき)るだけ多(おほ)くの鉄(てつ)を造(つく)り出(だ)しても、尚(な)ほ且(か)つ不足(ふそく)を告(つ)げるといふ有様(ありさま)でした。
然(しか)るに十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)になつて、サア・ヘンリイ・ベスマアが鋼鉄(こうてつ)を造(つく)る新方法(しんほうほう)を発明(はつめい)して、鉄(てつ)の需要者(じゆようしや)を喜(よろこ)ばせました。一(いつ)たい、鋼鉄(こうてつ)は少量(しようりよう)の炭素(たんそ)を鉄(てつ)に混和(こんわ)すれば出来(でき)るものですが、製鉄業者達(せいてつぎようしやたち)はどうしたら製法(せいほう)が容易(ようい)になるか、また製品(せいひん)が良好(りようこう)になるかと、数千年間(すうせんねんかん)研究(けんきゆう)を続(つゞ)けて来(き)たのでした。その問題(もんだい)をベスマアが解決(かいけつ)して、鋼鉄(こうてつ)を容易(ようい)に且(か)つ多量(たいりよう)に製産(せいさん)することが出来(でき)るようにしたので、その価(あたひ)は非常(ひじよう)に安(やす)くなりました。
ベスマアは製鋼研究中(せいこうけんきゆうちゆう)、いくたびも失敗(しつぱい)を重(かさ)ね、生命(せいめい)を危(あやふ)くしたことも度々(たび/\)ありましたが、勇気(ゆうき)と忍耐(にんたい)とはそれらに打(う)ちかつて、遂(つひ)に千八百五十八年(せんはつぴやくごじゆうはちねん)に、鎔鉱炉中(ようこうろちゆう)の数噸(すうとん)の鎔鉄(ようてつ)を、数秒間(すうびようかん)に立派(りつぱ)な鋼鉄(こうてつ)に変質(へんしつ)させる方法(ほうほう)を発明(はつめい)しました。
かうして今日(こんにち)では、安価(あんか)に巨額(きよがく)の鋼鉄(こうてつ)が供給(きようきゆう)せられることになり、鉄道線路(てつどうせんろ)も、橋梁(きようりよう)も、軍艦(ぐんかん)も、商船(しようせん)も、軍用汽車(ぐんようきしや)も、旅客(りよかく)、貨物(かもつ)両汽車(りようきしや)も皆(みな)鋼鉄製(こうてつせい)となり、建築(けんちく)にも盛(さか)んに利用(りよう)せられて、鉄器時代(てつきじだい)から急激(きゆうげき)に鋼鉄時代(こうてつじだい)に移(うつ)りました。そして、さうした一大変化(いちだいへんか)は、実(じつ)にたゞ一人(ひとり)の発明家(はつめいか)サア・ヘンリイ・ベスマアの苦心(くしん)によつて作(つく)られたものであるとすれば、人(ひと)の力(ちから)の偉大(いだい)さが直(たゞ)ちにそれと理解(りかい)されるではありませんか。
五、蒸気汽缶(じようききかん)
こんどは火(ひ)が人(ひと)の代(かは)りを勤(つと)めることをお話(はなし)しませう。実際(じつさい)、今日(こんにち)の世界(せかい)に於(お)いては、為事(しごと)の大半(たいはん)は火(ひ)の力(ちから)で行(おこな)はれてゐます。まあ考(かんが)へてごらんなさい、火(ひ)で蒸気(じようき)が作(つく)られ、蒸気(じようき)がいろんな機械(きかい)を動(うご)かして、数(かぞ)へきれないほどの為事(しごと)をしてゐるではありませんか。
初(はじ)め人間(にんげん)は蒸気(じようき)が物(もの)を動(うご)かす力(ちから)のあることを発見(はつけん)しました。その発見(はつけん)はよほど古(ふる)いことゝ思(おも)はれます。火(ひ)で湯(ゆ)を沸(わ)かすと湯気(ゆげ)が出(で)て、湯気(ゆげ)が土瓶(どびん)や鉄瓶(てつびん)の蓋(ふた)を動(うご)かします(第二十八図)。もし湯気(ゆげ)が外(そと)に洩(も)れないようにして置(お)いたら、土瓶(どびん)でも鉄瓶(てつびん)でもすぐに破裂(はれつ)してしまひます。土瓶(どびん)に口(くち)のついてゐるのは、それから湯気(ゆげ)を外(そと)に逃(に)がさうといふ昔(むかし)の発明家(はつめいか)の考(かんが)へつきだつたのです。石器時代(せつきじだい)の遺物(いぶつ)にさへ土瓶(どびん)が見出(みいだ)されるから、湯気(ゆげ)が物(もの)を動(うご)かす力(ちから)をもつてゐることの知(し)られたのは、あながちワツトに初(はじ)まつたわけではありません。
その湯気(ゆげ)を利用(りよう)した蒸気汽缶(じょうききかん)の発明(はつめい)は、紀元前(きげんぜん)百二十年(ひやくにじゆうねん)まで遡(さかのぼ)ることが出来(でき)ます。エジプトのアレキサンドリヤの哲学者(てつがくしや)に、ヘロといふ人(ひと)がありまして、蒸気力(じようきりよく)で空気(くうき)の抵抗(ていこう)を利用(りよう)して球(たま)を回転(かいてん)させる玩具(がんぐ)を発明(はつめい)しました(第二十九図)。発明(はつめい)はしたものゝ、誰(だれ)もその原理(げんり)を応用(おうよう)して、これを実用上(じつようじよう)の目的(もくてき)に使(つか)はうといふものもなく、かれこれ干七百年(せんしちひやくねん)の月日(つきひ)は過(す)ぎました。
ちようど十五世紀(じゆうごせいき)の末頃(すゑごろ)から、ヨーロツパの発明界(はつめいかい)は活動(かつどう)を始(はじ)めて、十六世紀(じゆうろくせいき)の末(すゑ)には到(いた)るところでいろ/\の物(もの)の研究(けんきゆう)に取(と)りかゝりました。蒸気力(じようきりよく)の研究(けんきゆう)もその世紀(せいき)の中頃(なかごろ)から始(はじ)められて、十七世紀(じゆうしちせいき)の中頃(なかごろ)にはその性質(せいしつ)と力(ちから)とについて理解(りかい)をもちました。
千六百二十九年(せんろつぴやくにじゆうくねん)、イタリヤのブランカといふ人(ひと)が、蒸気力(じようきりよく)で臼(うす)を搗(つ)かせることが出来(でき)るといふ記事(きじ)を書(か)いた書物(しよもつ)を出(だ)しましたが、世間(せけん)では一向(いつこう)それに注意(ちゆうい)せず、ブランカ自身(じしん)も果(はた)してどれだけそれに興味(きようみ)をもつてゐたかどうかはわかりません。この臼搗(うすつ)き機械(きかい)(第三十図)は、先(ま)づ人間(にんげん)の形(かたち)をした半身像(はんしんぞう)を造(つく)り、その中(なか)に水(みづ)を湛(たゝ)へて下(した)から熱(ねつ)すると、湯気(ゆげ)が人形(にんぎよう)の口(くち)から噴(ふ)き出(だ)して横(よこ)の歯車(はぐるま)を廻(まは)す、横(よこ)の歯車(はぐるま)が縦(たて)の歯車(はぐるま)を動(うご)かし、縦(たて)の歯車(はぐるま)につけてある円筒(えんとう)が一所(いつしよ)に動(うご)いて、円筒(えんとう)についてゐる杵(きね)が上(あが)り下(お)りして臼(うす)を搗(つ)く装置(そうち)になつてゐました。しかし、これはほんの思(おも)ひつきで、実際上(じつさいじよう)にはあまり役立(やくだ)ちませんでした。
然(しか)るにまもなく、この暗示(あんじ)によつて、英国人(えいこくじん)が立派(りつぱ)な汽缶(きかん)を造(つく)りました。その人(ひと)はウースタアの侯爵(こうしやく)エドワード・ソマアセツトといつて、千六百六十三年(せんろつぴやくろくじゆうさんねん)に、四分間(しふんかん)に大桶四杯(おほをけしはい)の水(みづ)を高(たか)さ十一(じゆういち)めーとるのところへ汲(く)み上(あ)げる汽缶(きかん)(第三十一図)を造(つく)りました。この汽缶(きかん)には前人未発(ぜんじんみはつ)の重要機関部(じゆうようきかんぶ)、即(すなはち)、蒸気(じようき)を出(だ)させる蒸気発生器(じようきはつせいき)と、機械(きかい)を動(うご)かす力(ちから)を出(だ)す発動器(はつどうき)とが含(ふく)まれてゐました。
ソマアセツト侯爵(こうしやく)は、この汽缶(きかん)の研究(けんきゆう)に没頭(ぼつとう)して資産(しさん)をなくしてしまひ、失意(しつい)不遇(ふぐう)のうちに命(いのち)を失(うしな)つて、その名(な)すら一般(いつぱん)の人々(ひと/゛\)には知(し)られませんでした。その頃(ころ)の英国(えいこく)の礦坑(こうこう)は、だん/\深(ふか)く地下(ちか)へ掘(ほ)り下(さ)げて行(い)つたから、坑中(こうちゆう)に水(みづ)が溜(たま)つて仕方(しかた)がない、その溜(たま)り水(みづ)を地上(ちじよう)に汲(く)み上(あ)げるのはむづかしいことで、ある場合(ばあひ)には数百頭(すうひやくとう)の馬(うま)を使(つか)つて、水桶(みづをけ)で汲(く)み上(あ)げさせました。ソマアセツト侯爵(こうしやく)はこの手数(てすう)を省(はぶ)かうとして、前記(ぜんき)の機械(きかい)を発明(はつめい)したのですが、理窟(りくつ)ばかり立派(りつぱ)で、実際(じつさい)には役立(やくだ)ちませんでした。
その後(ご)まもなく、実際(じつさい)に適(てき)した礦坑用(こうこうよう)の水汲(みづく)み機(き)が出来(でき)たが、たび/\爆発(ばくはつ)を起(おこ)して危険(きけん)であつたから、その危険(きけん)を防(ふせ)ぐ目的(もくてき)で安全弁(あんぜんべん)が工夫(くふう)されました。時(とき)は干六百八十年頃(せんろつぴやくはちじゆうねんごろ)、処(ところ)はフランスのデニイ・バパンといふ人(ひと)が、必要以上(ひつよういじよう)の蒸気(じようき)が汽●(タケカンムリ+「甬」)中(きとうちゆう)にたまると、自動装置(じどうそうち)の開閉弁(かいへいべん)から外(そと)へ出(で)てゆくようにいたしました。それからまた十年(じゆうねん)ほど後(のち)に、再(ふたゝ)び一大改良(いちだいかいりよう)をこれに加(くは)へました。
ソマアセツト式(しき)の汽缶(きかん)では、蒸気発生器(じようきはつせいき)の中(なか)にある蒸気(じようき)が、蒸気(じようき)を発生(はつせい)させる水面(すいめん)を圧(あつ)して無用(むよう)に消費(しようひ)されてゐるので、バパンはそれを改良(かいりよう)して、第三十二図(だいさんじゆうにず)のようなものを工夫(くふう)しました。即(すなはち)、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(イ)に少量(しようりよう)の水(みづ)を入(い)れ、普通(ふつう)ポンプに用ひてゐるぴすとん(ロ)を汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)に低下(ていか)し、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の底(そこ)を外(そと)から加熱(かねつ)すると、底部(ていぶ)にはすぐ熱(ねつ)するように薄(うす)い金属板(きんぞくばん)が張(は)つてありますから、汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)の水(みづ)はぢきに沸騰(ふつとう)して、蒸気(じようき)になつて(ロ)を押(お)し上(あ)げると、(ロ)についてゐるぴすとん棒(ぼう)(ハ)は、懸(か)け金(がね)(ニ)のために落下(らつか)を止(と)められますが、その間(あひだ)に汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)が冷却(れいきやく)して真空(しんくう)が出来(でき)るので、(ロ)は(ホ)を引(ひ)き上(あ)げながら降下(こうか)するのです、この働(はたら)きが礦坑内(こうこうない)の溜(たま)り水(みづ)汲(く)み上(あ)げに応用(おうよう)されて、バパンは汽缶中(きかんちゆう)のぴすとん発明者(はつめいしや)として、後世(こうせい)までも褒(ほ)め称(たゝ)へられるようになつたのです。
こゝで話(はなし)は十八世紀(じゆうはつせいき)の初(はじ)めに移(うつ)りますが、その当時(とうじ)の礦坑(こうこう)は以前(いぜん)よりも、一層(いつそう)深(ふか)くなりまさり、従(したが)つて溜(たま)り水(みづ)の汲(く)み上(あ)げには非常(ひじよう)な困難(こんなん)を感(かん)じましたから、人々(ひと/゛\)は熱心(ねつしん)にバパンとソマアセツトの機械(きかい)を完全(かんぜん)にしようと苦心(くしん)しましたが、遂(つひ)にイギリスのダートマスで鍛冶屋(かじや)をしてゐたトマス・ニユーコメンといふ人(ひと)が良(よ)い機械(きかい)を造(つく)り出(だ)しました。
第三十三図(だいさんじゆうさんず)の示(しめ)す通(とほ)り、大天秤(だいてんびん)(イイ)は軸(じく)(ロ)で上下動(じようげどう)しますが、その一端(いつたん)には鎖(くさり)がついてをり、鎖(くさり)からはぽんぷ綱(づな)(ハ)が吊(つ)り下(さが)つてゐます。今(いま)、蒸気(じようき)が汽缶(きかん)(ニ)に発生(はつせい)して、弁(べん)(ホ)を経(へ)て気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)に入(はひ)ると、ぴすとん(ト)を押(お)し上(あ)げますから、天秤(てんびん)(イイ)の一端(いつたん)についてゐるぴすとん綱(つな)(チ)が上(あが)り、従(したが)つて他端(たたん)のぽんぷ綱(つな)(ハ)が下(さが)ります。ぴすとん(ト)が気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の上部(じようぶ)に押(お)し上(あ)げられると、弁(べん)(ホ)が汽缶口(きかんこう)を閉(と)ぢ、他(た)の弁(べん)(リ)が廻(まは)つて、水槽(すいそう)(ヌ)から冷水(れいすい)が下降(かこう)して、気●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)へ噴(ふ)き出(だ)し、蒸気(じようき)が冷却(れいきやく)されて、水滴(すいてき)は排水管(はいすいかん)(ル)から外(そと)に逃(に)げ、気●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)が真空(しんくう)になりますから、ぴすとん(ト)が下(さが)つてぽんぷ綱(つな)(ハ)が上(あが)り、礦坑内(こうこうない)の溜(たま)り水(みづ)が汲(く)み出(だ)されることになります。
初(はじ)めこの機械(きかい)の二(ふた)つの弁(べん)(ホ、リ)の開閉(かいへい)は、ぴすとんの上下毎(じようげごと)に人手(ひとで)で行(おこな)つてゐましたが、千七百十三年(せんしちひやくじゆうさんねん)、その開閉(かいへい)を命(めい)ぜられてゐた少年(しようねん)ハムフレイ・ポタアが、遊(あそ)びたいの一心(いつしん)から天秤(てんびん)(イイ)へつけた綱(つな)と懸(か)け金(がね)との作用(さよう)で、人間(にんげん)が手伝(てつだ)はないでも弁(べん)がひとりでに開閉(かいへい)するようにしました結果(けつか)、一分間(いつぷんかん)に五六回(ごろつかい)しか上下(じようげ)しなかつたものが、十一回(じゆういつかい)乃至(ないし)十二回(じゆうにかい)も上下(じようげ)するようになりました(第三十四図)。怠(なま)けたさの子供心(こどもごゝろ)から、ふとかうした大発見(だいはつけん)をしたとは、実(じつ)に面白(おもしろ)い話(はなし)ではありませんか。
この改良型(かいりようがた)ニユーコメン機(き)は広(ひろ)く採用(さいよう)せられて、礦坑(こうこう)は勿論(もちろん)、ロンドンなどでは富豪(ふごう)の邸宅(ていたく)で汲水用(きゆうすいよう)に使(つか)はれ、千七百五十二年(せんしちひやくごじゆうにねん)にはブリストル附近(ふきん)で水車(すいしや)に使用(しよう)せられ、オランダでは排水用(はいすいよう)の風車(かざぐるま)の動力(どうりよく)に使(つか)はれましたが、その後(ご)七十五年間(しちじゆうごねんかん)、少(すこ)しづゝ改良(かいりよう)せられて、世界(せかい)の各所(かくしよ)で用(もち)ひつゞけられました。
ところが十九世紀(じゆうくせいき)の末(すゑ)になつて、ジエームス・ワツトの手(て)で大改良(だいかいりよう)が加(くは)へられ、今(いま)までにない立派(りつぱ)な蒸気汽缶(じようききかん)が出来上(できあが)りました。第三十五図(だいさんじゆうごず)をごらんなさい。ぴすとん(イ)は両端(りようたん)の密閉(みつぺい)せられた汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)内(ない)に動(うご)き、汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)と並(なら)んで、管(くだ)(ハ)から蒸気(じようき)のはひつて来(く)る弁室(べんしつ)(ニ)があり、その上下端(じようげたん)に汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)に通(つう)ずる二箇(にこ)の入(い)り口(ぐち)が設(まう)けてあります。この弁室(べんしつ)(ニ)中(ちゆう)の弁(べん)は、天秤(てんびん)(ホ)の上下(じようげ)につれて働(はたら)く綱(つな)(へ)に動(うご)かされて口(くち)を開閉(かいへい)します。ぴすとんが汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)の上部(じようぶ)に達(たつ)しますると、下(した)の孔口(こうこう)が弁(べん)で遮(さへぎ)られ、上(うへ)の孔口(こうこう)から蒸気(じようき)がはひつて押(お)し下(さ)げ、下降(かこう)すると上(うへ)の孔口(こうこう)が弁(べん)で閉(とざ)され、下(した)の孔口(こうこう)から蒸気(じようき)がはひつて押(お)し上(あ)げる仕掛(しか)けになつてゐます。これまでの機械(きかい)では、ぴすとんの上下(じようげ)は半分(はんぶん)は蒸気力(じようきりよく)、半分(はんぶん)は空気(くうき)の圧力(あつりよく)によつてゐましたが、この改良型(かいりようがた)のワツト式(しき)では、すべて蒸気(じようき)の力(ちから)で動(うご)かされ、初(はじ)めて遺憾(いかん)なく蒸気力(じようきりよく)を使用(しよう)することが出来(でき)たのです。
ワツト式(しき)には今一(いまひと)つの特色(とくしよく)があります。ニユーコメン式(しき)ではぴすとんが冷却(れいきやく)されて、その回復(かいふく)に無駄(むだ)な蒸気(じようき)を使(つか)ひますが、ワツト式(しき)ではぢかに汽●(タケカンムリ+「甬」)内(きとうない)へ冷水(れいすい)を注入(ちゆうにゆう)せず、管(くだ)(ハ)から●(タケカンムリ+「甬」)(とう)(ニ)を通(とほ)つて、筒(つゝ)(ト)を経(へ)て器中(きちゆう)(チ)へ導(みちび)かれると、天秤(てんびん)の上下動(じようげどう)につれて動(うご)くぽんぷ(リ)からの水(みづ)の注入(ちゆうにゆう)で冷却(れいきやく)されるから、直接(ちよくせつ)汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)(ロ)内(ない)で冷却(れいきやく)されて、ぴすとんや汽●(タケカンムリ+「甬」)(きとう)を冷却(れいきやく)させないですみます。この点(てん)で蒸気(じようき)を空費(くうひ)することが少(すくな)いから、ワツト式(しき)は運転(うんてん)の費用(ひよう)が安(やす)く上(あが)りました。
一番初(いちばんはじ)めにお話(はなし)したヘロ式(しき)やブランカ式(しき)で、私達(わたしたち)は蒸気(じようき)が反動(はんどう)または衝動(しようどう)で働(はたら)くことを知(し)りましたが、ワツトの死後(しご)になつて、発明家(はつめいか)はこの点(てん)に考(かんが)へを費(つひや)し、蒸気(じようき)の直接(ちよくせつ)衝突(しようとつ)で運転(うんてん)するような機械(きかい)を作(つく)らうとして、約(やく)百年(ひやくねん)の間(あひだ)苦(にが)い経験(けいけん)を嘗(な)めましたが、遂(つひ)にたーびん機(き)が発明(はつめい)されました。この機関(きかん)の発明者(はつめいしや)は、チヤールズ・アルジヤーノン・パアソンズといふイギリス人(じん)で、千八百八十四年(せんはつぴやくはちじゆうよねん)に特許権(とつきよけん)を得(え)て、だん/\広(ひろ)く世界(せかい)に行(ゆ)き渡(わた)り、陸上(りくじよう)のみならず、舶用(はくよう)として汽船(きせん)、軍艦(ぐんかん)にも採用(さいよう)せられ、交通運輸(こうつううんゆ)の上(うへ)に大(おほ)きな利益(りえき)を与(あた)へつゝあることは人(ひと)の知(し)るところです。
六、食料(しよくりよう)
私(わたし)はこれまで、大分(だいぶ)堅(かた)くるしい器具(きぐ)、機械(きかい)のお話(はなし)をして来(き)ましたから、少(すこ)し方面(ほうめん)を変(か)へて、人間(にんげん)に取(と)つて一番(いちばん)大切(たいせつ)な食物(しよくもつ)の発見(はつけん)発明(はつめい)について述(の)べませう。
人間(にんげん)は昔(むかし)から今日(こんにち)のような食物(しよくもつ)を取(と)つてゐたわけではなく、食料(しよくりよう)も料理法(りようりほう)もだん/\と変(かは)つて来(き)たのです。昔(むかし)、昔(むかし)、大昔(おほむかし)、人間(にんげん)は恐(おそ)らく猿(さる)などのように、一日(いちにち)の中(うち)の大部分(だいぶぶん)を木(き)の上(うへ)で過(す)ごした時代(じだい)があつたと思(おも)ひます。さうした時(とき)には、堅果(けんか)では椎(しひ)の実(み)、栗(くり)の実(み)など、核果(かくか)では、梅(うめ)、桃(もゝ)、漿果(しようか)では柿(かき)、梨(なし)、林檎(りんご)のような木(き)の実(み)を、枝(えだ)から枝(えだ)へ、幹(みき)から幹(みき)へと、わたりあるいて漁(あさ)つたでせう。もちろん、それらは初(はじ)め生(なま)のまゝで食(た)べられたのです。今日(こんにち)子供(こども)が木(き)に攀(よ)ぢ上(のぼ)つて果実(かじつ)をあさり、それを生(なま)で食(た)べることを好(す)くのは、人間(にんげん)が野蛮(やばん)であつた時代(じだい)の名残(なごり)だといはれます。
地上(ちじよう)へ下(お)りて来(き)ても、低(ひく)い木(き)の実(み)とか、大豆(だいづ)のような莢果(きようか)とか、ひさごやきうりのような瓠果(こか)、いちごや桑(くは)の実(み)のような複果(ふくか)などを食(た)べてゐました。
これらはみな植物性(しよくぶつせい)の食料(しよくりよう)ですが、動物性(どうぶつせい)のものはどんな種類(しゆるい)を食(た)べたかといふと、おそらく蜂(はち)の子(こ)どもとか、じむしとか、蛙(かへる)、蛇(へび)、とかげ、かたつむりなど、小(ちひ)さい陸生動物(りくじようどうぶつ)を捕(と)つて食(た)べたでせう。これらを捕(とら)へるには、抜(ぬ)き足(あし)さし足(あし)で動物(どうぶつ)に近(ちか)づき、ふいに手(て)を伸(の)ばして生(い)け捕(ど)つたのですから、大(おほ)きな動物(どうぶつ)などは手(て)に入(い)れようがありません。
動植物(どうしよくぶつ)の外(ほか)には、多少(たしよう)の鉱物性物質(こうぶつせいぶつしつ)をも食(た)べました。最(もつと)も喜(よろこ)ばれたのは粘土(ねんど)の一種(いつしゆ)で、わが国(くに)のアイヌは、今日(こんにち)でさへも尚(な)ほ黄色(きいろ)の粘土(ねんど)を食(た)べます。
だん/\人間(にんげん)の知識(ちしき)が進(すゝ)んで、色々(いろ/\)の武器(ぶき)が発明(はつめい)せられるようになつてから、大(おほ)きな獣類(じゆうるい)に目(め)をつけ、鹿(しか)、猪(ゐのしゝ)、牛(うし)、馬(うま)などをも捕(とら)へて食(た)べるようになりました。また河(かは)や湖(みづうみ)や海(うみ)へ出(で)て、うなぎ、こひ、ふな、さめ、たひ、ひらめなどの魚類(ぎよるい)を捕(と)り、いろ/\の貝類(かひるい)をも好(この)んで食(た)べましたが、陸(りく)では鳥類(ちようるい)に目(め)をつけて、草(くさ)むらや蘆原(あしはら)などにゐるのを、棒(ぼう)でなぐつて捕(と)つたりしました。
これらの動植物(どうしよくぶつ)は、初(はじ)めはみな生(なま)のまゝで食(た)べたが、いつしかそれを乾(かわ)かして食(た)べることを発明(はつめい)しました。生(なま)のまゝではぢきに腐(くさ)りますが、乾(かわ)かして置(お)くと腐(くさ)りませんから、余(あま)つた時(とき)にはそれを干(ほ)して置(お)くことにしました。これが食料(しよくりよう)の貯蔵(ちよぞう)の初(はじ)まりです。人間(にんげん)がいつ頃(ごろ)から貯蔵(ちよぞう)を始(はじ)めたかはわかりませんが、エスキモーなどは雪(ゆき)の中(なか)へ穴(あな)をほつて、そこへ鯨肉(くぢらにく)などを貯(たくは)へて置(お)き、必要(ひつよう)に応(おう)じてそれを取(と)り出(だ)しますから、かなり古(ふる)い時代(じだい)から貯蔵(ちよぞう)をしたに相違(そうい)ありません。もずといふ鳥(とり)は、雀(すゞめ)などを捕(と)つて食(く)ひ残(のこ)りを木(き)の枝(えだ)にかけて置(お)き、おなかがすいたらそれを食(た)べるつもりでよそへ飛(と)んでゆきますが、ぢきにその場所(ばしよ)を忘(わす)れてしまひますので、私達(わたしたち)は時々(とき/゛\)野中(のなか)で木(き)の枝(えだ)に食(く)ひあましの肉(にく)の引懸(ひつかゝ)つてゐるのを見(み)ます。それが即(すなはち)『百舌鳥(もづ)の贄(にへ)』といふものです。犬(いぬ)でも悧口(りこう)なのになると、食(く)ひあましの牛肉(ぎゆうにく)などを、地(じ)べたへ穴(あな)を掘(ほ)つて埋(うづ)めて置(お)き、思(おも)ひ出(だ)すとまた掘(ほ)り返(かへ)してそれを食(た)べます。だから人間(にんげん)に於(お)いては、人間(にんげん)になつた時(とき)から既(すで)に食料(しよくりよう)の貯蔵(ちよぞう)を知(し)つてゐたと見(み)てさしつかへありますまい。
やがて火(ひ)の利用(りよう)を知(し)りますと、人間(にんげん)は食料(しよくりよう)を焼(や)いたり、焙(あぶ)つたり、煮(に)たりして食(く)ふことを考(かんが)へ出(だ)しました。かうして食(た)べると、味(あぢ)が一(いつ)そううまくなりますから、ある特別(とくべつ)の場合(ばあひ)を除(のぞ)くの外(ほか)は、すべて焼(や)いたり、焙(あぶ)つたり、煮(に)たりするようになりました。石器時代(せつきじだい)の人人(ひとびと)の住(す)んだ小屋址(こやあと)から、時々(とき/゛\)さうした竈(かまど)が見出(みいだ)されます。
驚(おどろ)くべきことは、昔(むかし)の人間(にんげん)が人肉(じんにく)を食(く)つてゐたことです。今日(こんにち)でも飢饉(ききん)があると、『共食(ともぐ)ひ』をする野蛮人(やばんじん)がゐます。ウエンド族(ぞく)などは、仲間(なかま)のものが年(とし)をとつて来(く)ると、それを殺(ころ)して、料理(りようり)をして食(た)べます。文明人(ぶんめいじん)と誇(ほこ)つてゐたサキソン人(じん)でさへ、三十年(さんじゆうねん)戦争(せんそう)の終(をは)りには人肉(じんにく)を食(た)べたといひ伝(つた)へられます。今日(こんにち)でもメラネジヤの土人(どじん)、ことにフイジイ島(とう)やニユーカレドニヤの土人(どじん)は、必要(ひつよう)の場合(ばあひ)には人肉(じんにく)を食(た)べます。
人間(にんげん)の肉(にく)を食(た)べる目的(もくてき)はいろ/\ありますが、腹(はら)のへつた時(とき)、食(た)べるのが普通(ふつう)で、中(なか)には敵(てき)の性質(せいしつ)を得(え)たいために、その肉(にく)を食(た)べることもあり、また先祖(せんぞ)と合体(がつたい)したいために、死(し)んだ父祖(ふそ)の肉(にく)を食(た)べることもあります。
動物性(どうぶつせい)のものでも、植物性(しよくぶつせい)のものでも、自然(しぜん)のまゝでは手(て)に入(い)れることがむづかしかつたり、また数量(すうりよう)が少(すく)なかつたりしたので、いつのまにか動物(どうぶつ)を飼養(しよう)して家畜(かちく)とし、植物(しよくぶつ)を栽培(さいばい)して収穫(しゆうかく)することが工夫(くふう)されました。こゝに牧畜(ぼくちく)と農業(のうぎよう)との基(もと)が開(ひら)かれたのです。
家畜(かちく)の起(おこ)りは、多分(たぶん)、地中(ちちゆう)に穴(あな)を掘(ほ)つてその中(なか)に尖(とが)つた木片(きぎれ)を立(た)て、上(うへ)に木(き)の枝(えだ)や草(くさ)を置(お)いて穴(あな)のあることをわからぬようにした陥(おと)し穽(あな)へ動物(どうぶつ)が落(お)ちた時(とき)、いろ/\の餌(ゑ)を持(も)つていつてくれて馴(な)らしたのが初(はじ)めだと思(おも)ひます。馬(うま)でも牛(うし)でも羊(ひつじ)でも豚(ぶた)でも、初(はじ)めはみな野生(やせい)だつたが、かうした方法(ほうほう)で馴(な)らして、家畜(かちく)にしてしまつたのです。家畜(かちく)の中(なか)で、人間(にんげん)から動物(どうぶつ)に近(ちか)づかないで、むかうから人間(にんげん)に近寄(ちかよ)つて来(き)たのは犬(いぬ)だけです。犬(いぬ)が外(ほか)の家畜(かちく)と違(ちが)つてよく人間(にんげん)に親(した)しみ、人間(にんげん)のために命(いのち)をも惜(をし)まずに働(はたら)くのは、さうした古(ふる)い歴史(れきし)があるからだといはれます。
さてその次(つ)ぎは農作物(のうさくぶつ)ですが、麦(むぎ)でも米(こめ)でも粟(あは)でも黍(きび)でも、初(はじ)めはみな野生(やせい)であつたのです。人間(にんげん)が昔(むかし)それらの野生(やせい)してゐるのを見(み)つけて、その実(み)を取(と)つて食(た)べてゐた頃(ころ)、小鳥(ことり)が餌(ゑ)をさがしてあちらやこちらを廻(まは)り歩(ある)くように、人間(にんげん)もうろ/\と方々(ほう/゛\)を歩(ある)いて、適当(てきとう)な食物(しよくもつ)を探(さが)しました。さうしてゐる間(あひだ)に、以前(いぜん)に穀物(こくもつ)の種(たね)の落(お)ちてゐた処(ところ)で、それが根(ね)を下(お)ろして立派(りつぱ)に育(そだ)ち、また美(うつく)しい実(み)のなつてゐるのを見(み)て、種(たね)を蒔(ま)けば芽(め)をふき、芽(め)をふけば大(おほ)きくなつて、花(はな)が咲(さ)き、実(み)を結(むす)ぶといふことを発見(はつけん)し、その簡単(かんたん)な原理(げんり)を応用(おうよう)して、適当(てきとう)な場所(ばしよ)に種(たね)を蒔(ま)いて見(み)たのが農業(のうぎよう)の初(はじ)めであります。
だから、食料(しよくもつ)を求(もと)める為(ため)に、人間(にんげん)は狩猟(しゆりよう)、漁撈(ぎよろう)、牧畜(ぼくちく)、農耕(のうこう)の四(よつ)つを発明(はつめい)して、いつでも幾(いく)らでも自由(じゆう)に食物(しよくもつ)を得(え)て、飢饉(ききん)に悩(なや)まされるようなことがなくなつたのであります。
着物(きもの)はなくても、裸(はだか)でも暮(く)らせます。家(いへ)はなくても、岩(いは)の中(なか)、木(き)の下(した)にもぐりこめば雨風(あめかぜ)にさらされずに生活(せいかつ)が出来(でき)ます。しかし、食物(しよくもつ)がなければ死(し)ぬ外(ほか)はないから、昔(むかし)から人間(にんげん)はそれを一番(いちばん)大切(たいせつ)に思(おも)ひ、一番(いちばん)骨(ほね)を折(を)つてそれを手(て)に入(い)れることに苦心(くしん)したのです。発明(はつめい)のもとは大方(おほかた)食物(しよくもつ)を得(え)たいといふ欲望(よくぼう)にもとづいてゐます。農業(のうぎよう)が始(はじ)められ、家畜(かちく)が飼(か)ひ始(はじ)められ、土器(どき)が造(つく)り始(はじ)められ、金属(きんぞく)が発見(はつけん)せられたのが、みな新石器時代(しんせつきじだい)であることを思(おも)へば、これらの発明発見(はつめいはつけん)は個々(こゝ)独立(どくりつ)してゐたのではなく、互(たがひ)に関係(かんけい)があつたといふことに疑(うたが)ひはありません。
動物(どうぶつ)の飼養(しよう)、農作物(のうさくぶつ)の栽培(さいばい)は、年毎(としごと)に段々(だん/\)上手(じようず)になり、肉類(にくるい)、穀類(こくるい)、野菜類(やさいるい)の料理(りようり)や保存(ほぞん)の方法(ほうほう)も、以前(いぜん)とは見違(みちが)へるほど巧妙(こうみよう)になりましたが、人口(じんこう)がおひ/\殖(ふ)えるに従(したが)つて、世界(せかい)の人々(ひと/゛\)は食料(しよくりよう)の欠乏(けつぼう)を感(かん)じ、今日(こんにち)ではそれら自然(しぜん)の物産(ぶつさん)の外(ほか)にいろ/\の人造品(じんぞうひん)を造(つく)つて、それによつて栄養(えいよう)を得(え)ようといふ計画(けいかく)をしてゐます。それが即(すなはち)、化学的(かがくてき)食料(しよくりよう)で、ちよつと食(た)べただけで、牛乳(ぎゆうにゆう)一升分(いつしようぶん)だけの滋養分(じようぶん)が取(と)れたり、鶏卵(けいらん)十個分(じゆつこぶん)だけの栄養価(えいようか)があつたりするものが、おひ/\に現(あら)はれて来(き)ようとしてゐます。ヴイターミンA(エイ)とかB(ビイ)とかいふものは、さうした化学的(かがくてき)食品(しよくひん)の先駆(せんく)であり、味(あぢ)の素(もと)などいふものは、人工(じんこう)によつて食品(しよくひん)に美味(びみ)を保(たも)たさうとする努力(どりよく)によつて、私達(わたしたち)の前(まへ)に提供(ていきよう)せられた人工品(じんこうひん)です。これから先(さ)きの食物(しよくもつ)は、少(すくな)く食(た)べて多(おほ)く栄養(えいよう)を得(う)るといふ経済的(けいざいてき)のものでなければなりません。
七、犁(すき)
さて農業(のうぎよう)の始(はじ)められた頃(ころ)には、どんな農具(のうぐ)が用(もち)ひられたかといふ事(こと)が、第一(だいいち)の疑問(ぎもん)であります。初(はじ)め人間(にんげん)が漂泊(ひようはく)して食物(しよくもつ)をあさつてゐた頃(ころ)には木(き)の根(ね)を掘(ほ)つたり、木(き)の実(み)を叩(たゝ)き落(おと)したり、鳥(とり)をぶち落(おと)したり、ある場合(ばあひ)には敵(てき)の頭(あたま)をうち砕(くだ)いたりする目的(もくてき)で一本(いつぽん)の先(さき)の尖(とが)つた棒(ぼう)を持(も)つてゐましたがこれが先(ま)づ農業(のうぎよう)に用(もち)ひられたと思(おも)はれます。
オーストラリヤの土人(どじん)は、今日(こんにち)でもかつたといふ木棒(もくぼう)(第三十六図)を使(つか)つてゐるし、南印度(みなみインド)のクルバル族(ぞく)は、穴掘(あなほ)りの目的(もくてき)に土掘(つちほ)り棒(ぼう)を用(もち)ひてゐます。男(をとこ)は狩(か)りなどに出(で)て、荒(あら)つぽい為事(しごと)をしてゐるから、女(をんな)が子供(こども)をおんぶしながら、土掘(つちほ)り棒(ぼう)でこつ/\と地(じ)を掘(ほ)つて小孔(こあな)をあけ、それに種(たね)を蒔(ま)いたりしたことが、アメリカ土人(どじん)の例(れい)などでそれとわかります。
一本(いつぽん)の土掘(つちほ)り棒(ぼう)が進化(しんか)すると、二叉(ふたまた)の木(き)の枝(えだ)になります。一方(いつぽう)を手(て)で持(も)ち、他方(たほう)を尖(とが)らして、それで浅(あさ)く地(じ)を耕(たがや)したに相違(そうい)ありません(第三十七図)。かうした原始的(げんしてき)な犁(すき)にも、現代(げんだい)の犁(すき)がもつてゐる二要点(にえうてん)が含(ふく)まれてゐます。即(すなはち)、一(ひと)つは地中(ちちゆう)にはひる部分(ぶぶん)で、それが犁(すき)の刃(は)に相当(そうとう)し、一(ひと)つは地上(ちじよう)に出(で)てゐる部分(ぶぶん)で、それが刃(は)に適当(てきとう)の重(おも)さと釣(つ)り合(あ)ひとを与(あた)へる犁(すき)の轅(ながえ)に相当(そうとう)します。
この二叉式犁(ふたまたしきすき)に改良(かいりよう)を加(くは)へたものが、シリヤの古(ふる)い記録(きろく)に見(み)えてゐます。それは第三十八図(だいさんじゆうはちず)の如(ごと)く全部(ぜんぶ)自然木(しぜんぼく)であつて、たゞ僅(わづ)かに刃(は)(ロ、ハ)と長柄(ながえ)(イ)とを丈夫(じようぶ)に結(むす)びつけるために、支柱(しちゆう)(ホ)が人工(じんこう)でつけられてゐるだけです。柄(え)(ニ)は初手(しよて)から刃(は)についてゐるものです。このシリヤ犁(すき)は、二人(ふたり)がゝりで使(つか)はれたもので、一人(ひとり)は長柄(ながえ)を持(も)ち、一人(ひとり)は刃(は)が地上(ちじよう)へ出(で)ないように、小(ちひ)さい柄(え)(ニ)を押(おさ)へつけたものです。
エジプトの古(ふる)い画(え)を見(み)ると、人(ひと)が犁(すき)を引張(ひつぱ)つて耕作(こうさく)してゐる図(ず)があります。しかし、昔(むかし)から働(はたら)くことはあまりすかなかつたものと見(み)え、犁(すき)を牛馬(ぎゆうば)に牽(ひ)かせることがはやり出(だ)しました(第三十九図)。その時代(じだい)の犁(すき)はシリヤ式(しき)よりも一段(いちだん)進歩(しんぽ)したもので、刃(は)の幅(はゞ)がずつと広(ひろ)くなつてをります。刃(は)の幅(はゞ)が広(ひろ)ければ、畦(うね)も広(ひろ)く作(つく)られるわけであるし、柄(え)が二本(にほん)あつて両手(りようて)で握(にぎ)るから、為事(しごと)も楽(らく)に出来(でき)たことと思(おも)はれます。
この式(しき)は大分(だいぶ)久(ひさ)しい間(あひだ)、最初(さいしよ)のまゝで用(もち)ひられてゐましたが、ローマ人(じん)がそれに改良(かいりよう)を加(くは)へました。プリニウスといふ人(ひと)の書(か)いた本(ほん)を見(み)ると、犁(すき)の掘(ほ)り返(かへ)す深(ふか)さを制限(せいげん)するために刃(は)の前方(ぜんぽう)に二個(にこ)の車輪(しやりん)をつけ、車輪(しやりん)と刃(は)との間(あひだ)に荒(あら)おこしの副(そ)へ刃(ば)がつけてあつたといふことです(第四十図)。 その後(ご)一千年(いつせんねん)ばかり経(た)つて、サキソンでは征服王(せいふくおう)ウイリヤムの治世(ちせい)には、古代(こだい)エジプトの犁(すき)に車輪(しやりん)と副(そ)へ刃(ば)とを取(と)りつけ、それを四頭(しとう)の馬(うま)に曳(ひ)かせました(第四十一図)。これ以後(いご)は取(と)るに足(た)るような改良(かいりよう)もなく、旧式(きゆうしき)の木製犁(もくせいすき)で満足(まんぞく)してゐましたが、十六七世紀(じゆうろくしちせいき)の間(あひだ)に多(おほ)くの改良(かいりよう)が加(くは)へられました。
千六百五十二年(せんろつぴやくごじゆうにねん)に出版(しゆつぱん)せられた書物(しよもつ)に、二重犁(にじゆうすき)(第四十二図)といつて、一時(いちじ)に二畦(ふたうね)を耕(たがや)すことの出来(でき)るものゝ説明(せつめい)が出(で)てゐますが、それがどれだけ実用(じつよう)に役立(やくだ)つたかはわかりません。
十八世紀(じゆうはつせいき)の初(はじ)めになつて、やうやく値(ね)うちのある改良(かいりよう)が加(くは)へられました。それは刃(は)の外(ほか)に土(つち)わけの板(いた)をつけたもので、オランダの犁(すき)造(づく)りが工夫(くふう)したのですが、すかれた土(つち)を高(たか)く盛(も)り上(あ)げると同時(どうじ)に、それを砕(くだ)き、雑草(ざつそう)を全(まつた)く土中(どちゆう)に埋(うづ)めてしまふので、大変(たいへん)農民(のうみん)に重宝(ちようほう)がられました(第四十三図)。
この板附(いたつ)き犁(すき)は十八世紀(じゅうはつせいき)に、英国(えいこく)を初(はじ)め文明諸国(ぶんめいしよこく)で、摸倣(もほう)、採用(さいよう)されたが、尚(な)ほそここゝでは木製(もくせい)の不完全(ふかんぜん)なもの(第四+四図)が用(もち)ひられてゐました。千八百年頃(せんはつぴやくねんごろ)の書物(しよもつ)に、犁(すき)の製造方法(せいぞうほうほう)を述(の)べて、「土(つち)わけ板(いた)は長持(ながも)ちするように、柾目(まさめ)を削(けづ)つて作(つく)り、また磨滅(まめつ)を防(ふせ)ぐために、古(ふる)い草取(くさと)り機(き)の刃(は)か、薄(うす)い鉄片(てつぺん)か、或(ある)ひは古(ふる)い蹄鉄(ていてつ)かゞ釘附(くぎづ)けにされるが、全体(ぜんたい)は木製(もくせい)で、底(そこ)と脇(わき)とには薄(うす)い鉄板(てついた)が張(は)られるが、刃(は)は鋭(するど)い鋼鉄製(こうてつせい)であつた。副(そ)へ刃(ば)も鉄製(てつせい)で、真直(まつすぐ)な舵取(かぢと)り棒(ぼう)が、木製(もくせい)の柄(え)と直角(ちよつかく)になるように装置(そうち)される。労働者(ろうどうしや)はちよつとした手(て)かげんでこれを動(うご)かし、極(きは)めてのろくさい為事(しごと)をしてゐる」と、書(か)いてあるので当時(とうじ)の耕作(こうさく)の様子(ようす)がよくわかります。 十八世紀(じゆうはつせいき)は世界(せかい)の文明(ぶんめい)が一度(いちど)に進(すゝ)んだ時代(じだい)で、農具(のうぐ)もまた一大進歩(いちだいしんぽ)を見(み)ました。即(すなはち)、人口(じんこう)もだん/\と殖(ふ)え、昔(むかし)より広(ひろ)い面積(めんせき)の畑(はたけ)を耕(たがや)す必要(ひつよう)が起(おこ)り、便利(べんり)な、速(はや)く動(うご)く犁(すき)が求(もと)められましたが、米国(べいこく)の如(ごと)き未開墾(みかいこん)の処女地(しよじよち)の多(おほ)い場所(ばしよ)では、一(いつ)そうその必要(ひつよう)があつたのです。「必要(ひつよう)は発明(はつめい)の母(はゝ)だ」と申(まを)す通(とほ)り、この要求(ようきゆう)が遂(つひ)に進歩型(しんぽがた)の犁(すき)を発明(はつめい)させました。
この発明(はつめい)に与(あづ)かつて力(ちから)のあつたのは、トマス・ジエフアーソンといふ政治家(せいじか)です。彼(かれ)は千七百八十八年(せんしちひやくはちじゆうはちねん)にフランスを旅行(りよこう)して、途上(とじよう)、農民(のうみん)が犁(すき)を使(つか)つてゐるのを見(み)て、そのぶかげんさに驚(おどろ)き、日記(につき)に「なんといふのろまさだ、一体(いつたい)なんのために犁(すき)を造(つく)つたのか、わけがわからぬほどだ」と記(しる)してゐます。彼(かれ)は心(こゝろ)のうちで、一体(いつたい)犁(すき)は深(ふか)く土壌(どじよう)を掘(ほ)り返(かへ)すために造(つく)られたものだから、この点(てん)に力(ちから)を注(そゝ)いで改良(かいりよう)を施(ほどこ)さなければならぬと考(かんが)へ、千七百九十三年(せんしちひやくくじゆうさんねん)に理想的(りそうてき)なものを造(つく)りました。それは理論(りろん)からわり出(だ)したもので、科学的(かがくてき)、数理的(すうりてき)ではありましたが、決(けつ)して実用的(じつようてき)なものではありませんでした。
ジエフアーソンとほとんど同時代(どうじだい)に、二ユー・ジヤーシイ州(しゆう)にチヤールス・ニユーボルドといふ農民(のうみん)がありました。彼(かれ)は今(いま)までの犁(すき)の効力(こうりよく)がないのは、木(き)と鉄(てつ)とを混用(こんよう)してゐるからで、それは当然(とうぜん)全部(ぜんぶ)を鉄製(てつせい)にしなけれならぬと考(かんが)へ、干七百九十六年(せんしちひやくくじゆうろくねん)に、全部(ぜんぶ)を鋳鉄(ちゆうてつ)で造(つく)つた犁(すき)を工夫(くふう)しましたが、土地(とち)の農民達(のうみんたち)は、鉄気(てつき)は畑物(はたもの)に害(がい)を与(あた)へ、剰(あまつさ)へ雑草(ざつそう)を繁(しげ)らせるといつて、せつかく造(つく)つた鉄製犁(てつせいすき)を採用(さいよう)しませんでした。で、彼(かれ)は失望(しつぼう)して、その製造(せいぞう)を中止(ちゆうし)しました。
然(しか)るに千八百十九年(せんはつぴやくじゆうくねん)に、ニユー・ヨーク州、シツピオのジエスロー・ウツドといふ人が、ジエフアーソン式(しき)とニユー・ボルド式(しき)との長所(ちようしよ)を組(く)み合(あ)はせて、一種(いつしゆ)特色(とくしよく)のある鋳鉄製(ちゆうてつせい)犁(すき)を発明(はつめい)し、すぐその特許権(とつきよけん)を得(え)ました。ウツド式(しき)は各部(かくぶ)が組(く)み合(あ)はせ式(しき)だから、壊(こは)れたら,その部分(ぶぶん)だけを修繕(しゆうぜん)すればよいので、便利(べんり)だといつて歓迎(かんげい)せられ、千八百二十五年(せんはつぴやくにじゆうごねん)には半鉄半木製(はんてつはんもくせい)の旧式犁(きゆうしきすき)は、全(まつた)く文明国(ぶんめいこく)から駆逐(くちく)されてしまひました。
現在(げんざい)用(もち)ひられてゐる犁(すき)は、干八百十九年(せんはつぴやくじゆうくねん)以来(いらい)、度々(たび/\)改良(かいりよう)されたものであるが、形(かたち)に於(お)いてはウツド式(しき)を離(はな)れることが出来(でき)ません。そこでウイリヤム・エツチ・シウオードといふ人(ひと)は、「米国民(べいこくみん)に取(と)つては、ジエスロー・ウツドぐらゐ、大恩恵(だいおんけい)を与(あた)へてくれた偉人(いじん)はない」と、いつて、彼(かれ)の功労(こうろう)を讃美(さんび)しました。
しかし、この優良型(ゆうりようがた)でさへ、刃(は)は僅(わづ)かに一本(いつぽん)であつたから、西部諸州(せいぶしよしゆう)の如(ごと)く未開地(みかいち)の多(おほ)いところでは、為事(しごと)がのろくて堪(た)へられなかつたから十九世紀(じゆうくせいき)の中頃(なかごろ)にはがんぐ・ぷらうといふ複式犁(ふくしきすき)(第四十五図)が発明(はつめい)せられ、一時(いちじ)に四畦(ようね)或(あるひ)は五畦(いつうね)を耕(たがや)すことが出来(でき)るようになりました。その動力(どうりよく)は初(はじ)めは馬(うま)でしたが、今日(こんにち)では蒸気力(じようきりよく)を用(もち)ひ、最近(さいきん)ではがそりんを用(もち)ひてゐるのもあります。
八、鎌(かま)
先(ま)づ犁(すき)を発明(はつめい)して土地(とち)を耕(たがや)し、それに種(たね)を播(ま)くようにした人間(にんげん)は、次(つ)ぎにはその収穫(しゆうかく)を集(あつ)める必要(ひつよう)が生(しよう)じたので、色々(いろ/\)と思案(しあん)して鎌(かま)を発明(はつめい)しました。
初(はじ)め穀物(こくもつ)は粗末(そまつ)な、真直(まつすぐ)な小刀(こがたな)で刈(か)り取(と)られたに相違(そうい)ないが、経験上(けいけんじよう)、もしも刃物(はもの)が少(すこ)し曲(まが)つてゐたなら、一(いつ)そううまく刈(か)れるだらうといふ考(かんが)へを起(おこ)して、原始人(げんしじん)は遂(つひ)に『刈(か)り鈎(かぎ)』即(すなはち)、鎌(かま)を発明(はつめい)したのです(第四十六図)。鎌(かま)は半円形(はんえんけい)を呈(てい)して、内側(うちがは)に刃(は)のある小刀(こがたな)の一種(いつしゆ)で、刃(は)の一端(いつたん)は光(ひか)り、他端(たたん)は袋(ふくろ)になつて木(き)の柄(え)がつけられ、穀物(こくもつ)を刈(か)る場合(ばあひ)には、左手(ひだりて)で穀草(こくそう)の上部(じようぶ)を握(にぎ)り、右手(みぎて)に持(も)つた鎌(かま)でその下部(かぶ)を刈(か)り取(と)ります(第四十七図)。一体(いつたい)、この鎌(かま)はいつ頃(ごろ)から使(つか)はれたかわかりませんが、石器時代(せききじだい)の遺物中(いぶつちゆう)には珪石(けいせき)で造(つく)つた類似(るいじ)の道具(どうぐ)があるし、青銅器時代(せいどうきじだい)の遺物(いぶつ)にも原始的(げんしてき)な青銅製(せいどうせい)の鎌(かま)が見出(みい)だされます。従(したが)つて初(はじ)めて使(つか)はれた場所(ばしよ)もわからないが、エジプトか、バビロニヤあたりであらうと思(おも)はれます。テーベにある古(ふる)い建(た)て物(もの)の壁画(へきが)に、エジプト人(じん)が鎌(かま)を使(つか)つてゐる図(ず)がありますが、それでは二人(ふたり)の男(をとこ)が鎌(かま)で穀物(こくもつ)を刈(か)り、それを他(た)の一人(ひとり)の男(をとこ)が集(あつ)め、更(さら)に他(た)の一人(ひとり)の男(をとこ)が穂(ほ)をこく場所(ばしよ)に運(はこ)んでゆくと、牛(うし)がその鈍(のろ)い足(あし)でそれを踏(ふ)んでゐる光景(こうけい)があり/\とうかゞはれます。エジプトで古(ふる)くから鎌(かま)を使(つか)つてゐたことは疑(うたが)ひがございません。
エジプトで鎌(かま)が用(もち)ひられたように、古代(こだい)の文明人(ぶんめいじん)、即(すなはち)、バビロニヤ人(じん)、ヘブライ人(じん)、ギリシヤ人(じん)、ローマ人(じん)も、それを使(つか)つてゐたと想像(そうぞう)されます。
この鎌(かま)に第一(だいいち)の改良(かいりよう)を企(くはだ)てたのは、紀元(きげん)百年頃(ひやくねんごろ)で、それに手(て)をつけたのは、当時(とうじ)世界第一(せかいだいいち)といはれたローマの農民(のうみん)でした。ローマの大鎌(おほがま)(第四十八図)は、現今(げんこん)の冶樹刀(やじゆとう)に似(に)たもので、幅(はば)の広(ひろ)い、目方(めかた)の重(おも)い刀身(とうしん)が、長(なが)くて真直(まつすぐ)な柄(え)につけられ、二本(にほん)の手(て)で草(くさ)を刈(か)るために用(もち)ひられました。
それから後(のち)、千年(せんねん)ばかりの間(あひだ)は、ヨーロツパでは全(まつた)く農業(のうぎよう)が顧(かへり)みられなかつたので、農具(のうぐ)の改良(かいりよう)といふものはほとんど見(み)られませんでした。が、中世紀(ちゆうせいき)の末(すゑ)になつて、ローマ式(しき)大鎌(おほがま)に多少(たしよう)の改良(かいりよう)が施(ほどこ)されました。
即(すなはち)、フランドルの農民達(のうみんたち)が、ヘイノー大鎌(おほがま)(第四十九図)といはれた改良鎌(かいりようがま)を造(つく)りました。それは立派(りつぱ)な広刃(ひろば)と、曲(まが)つた柄(え)とから出来(でき)てゐて、使(つか)ふ場合(ばあひ)には、左手(ひだりて)に持(も)つた鈎(かぎ)で穀草(こくそう)の茎(くき)を一処(ひとところ)に集(あつ)め、右手(みぎて)に持(も)つた大鎌(おほがま)で穂(ほ)を刈(か)り取(と)ります。以前(いぜん)のものに比(くら)べれば、進歩(しんぽ)はしてゐますが、まだまだ十分(じゆうぶん)とはいへない無細工(ぶさいく)なものでした。
この次(つ)ぎに、くれーどる大鎌(おほがま)(第五十図)といふのが出来(でき)ました。くれーどるといふのは、『刈(か)り草(くさ)配列機(はいれつき)』などと堅苦(かたくる)しい訳(やく)がついてゐますが、実(じつ)は刈(か)り穂(ほ)受(う)けのことで、刃(は)に沿(そ)うて横(よこ)に木製(もくせい)の指(ゆび)があり、それで刈(か)り取(と)つた穂(ほ)を一束分(ひとたばぶん)づゝかき集(あつ)めて、地上(ちじよう)に落(おと)してゆく働(はたら)きをいたします。初(はじ)めの刈(か)り穂(ほ)受(う)けは、指(ゆび)の数(かず)も少(すくな)く、長(なが)さも短(みじか)かつたが、アメリカでは植民時代(しよくみんじだい)にだん/\それを長(なが)くし、且(か)つ数(かず)をも殖(ふ)やしました。
このアメリカで改良(かいりよう)せられた新型大鎌(しんがたおほがま)が、革命時代(かくめいじだい)にヨーロツパで歓迎(かんげい)せられ、十八世紀(じゆうはつせいき)の末(すゑ)には、外(ほか)の旧式鎌(きゆうしきかま)を全(まつた)く駆逐(くちく)してしまひました。
ところがアメリカでは、この刈(か)り穂(ほ)受(う)け附(つ)き大鎌(おほがま)でさへも、農民(のうみん)を満足(まんぞく)させることが出来(でき)ませんでした。そのわけは十九世紀(じゆうくせいき)の初(はじ)めに、うんと効率(こうりつ)の多(おほ)い鋳鉄製(ちゆうてつせい)改良犁(かいりようすき)が造(つく)られて、以前(いぜん)に何倍(なんばい)する広大(こうだい)な畑(はたけ)が耕(たがや)され、従(したが)つて多量(たりよう)の小麦(こむぎ)が播種(ばんしゆ)されて、その穂(ほ)は十分熟(じゆうぶんじゆく)しても、とてもそれを刈(か)り入(い)れることが出来(でき)ません。一(いつ)たい小麦(こむぎ)の穂(ほ)は、ちようど熟(じゆく)し切(き)つた時(とき)に刈(か)らねばならぬが、そのとりいれ時(どき)は僅(わづ)かに三四日(さんよつか)で終(をは)ります。その短(みじか)い間(あひだ)にかたづけてしまふことは、従来(じゆうらい)の大鎌(おほがま)ではおぼつかないので、勢(いきほ)ひ一(いつ)そう改良(かいりよう)された鎌(かま)が発明(はつめい)されねばならぬことになり、その必要(ひつよう)に迫(せま)られて、人手(ひとで)以上(いじよう)に急速(きゆうそく)に刈(か)り取(と)れる鎌(かま)を造(つく)り出(だ)すものが現(あら)はれました(第五十一図)。
千八百年頃(せんはつぴやくねんごろ)には、ヨーロツパやアメリカの発明家達(はつめいかたち)が、全然(ぜんぜん)新式(しんしき)の鎌(かま)を発明(はつめい)しようと、いづれも頭痛(づつう)鉢巻(はちま)きで工夫(くふう)を凝(こ)らしましたが、ふと二千年(にせんねん)も前(まへ)にゴール人(じん)の使(つか)つてゐた刈(か)り穂機(ほき)から新工夫(しんくふう)に到達(とうたつ)する暗示(あんじ)を得(え)ました。
一体(いつたい)ゴール人(じん)の刈(か)り穂機(ほき)はどんなものであつたか。紀元(きげん)百年代(ひやくねんだい)のローマの歴史家(れきしか)プリニウスの書物(しよもつ)に、それについての記述(きじゆつ)があります。それは二輪車(にりんしや)の上(うへ)へ、大(おほ)きな空箱(からばこ)を載(の)せたもので、前(まへ)の方(ほう)には穂(ほ)を掴(つか)んで刈(か)り取(と)る刀歯(とうし)が植(う)ゑつけてあり、刈(か)り取(と)つた穂(ほ)は附(つ)き添(そ)ひ人(にん)の手(て)で箱(はこ)の中(なか)に入(い)れられ、牡牛(をうし)が後(あと)から車(くるま)を押(お)して、前(まへ)へ進(すゝ)んでゆく仕(し)かけになつてゐました(第五十二図)。かうした刈(か)り取(と)り機(き)は、しばらくヨーロツパで用(もち)ひられたに相違(そうい)ないが、都合(つごう)の悪(わる)いことがあつたと見(み)えて廃(すた)り、その後(ご)数世紀(すうせいき)の間(あひだ)には全(まつた)く忘(わす)れられてしまひました。
それをイギリス人(じん)が思(おも)ひ出(だ)して、ゴール人(じん)の意匠(いしよう)を応用(おうよう)して、新式(しんしき)の刈(か)り取(と)り機械(きかい)を発明(はつめい)するに至(いた)つたのです。中(なか)でも最(もつと)も注意(ちゆうい)すべきは、イギリスのレミングトン小学校長(しようがつこうちよう)、ヘンリイ・オーグルといふ人(ひと)の発明(はつめい)で、千八百二十二年(せんはつぴやくにじゆうにねん)に、彼(かれ)は従前(じゆうぜん)のものとは全(まつた)く異(ちが)つた、かへつて後世(こうせい)のものに似(に)てゐる刈(か)り取(と)り機械(きかい)の模型(もけい)を作(つく)りました。
このオーグル式(しき)刈(か)り取(と)り機(き)(第五十三図)は、二輪車(にりんしや)の前(まへ)に馬(うま)をつけて曳(ひ)かせます。右側(みぎがは)に装置(そうち)された箱(はこ)の前部(ぜんぶ)には、刀歯(とうし)が列(れつ)を作(つく)つて植(う)ゑつけられた鉄棒(てつぼう)を取(と)りつけ、刀歯(とうし)の直(す)ぐ下(した)には、鎖(くさり)で自由(じゆう)に動(うご)いて、穂(ほ)が歯(は)の間(あひだ)に挟(はさ)まつた時(とき)、それを刈(か)り取(と)るように出来(でき)てゐる鋭(するど)い刃(は)が横(よこた)はつてゐて、車体(しやたい)が前進(ぜんしん)するにつれて、穀草(こくそう)を刃(は)の方(ほう)へ導(みちび)き、それを刈(か)り取(と)ると直(す)ぐ穂箱(ほばこ)に蔵(をさ)められるような装備(そうび)を持(も)つてゐました。
オーグル式(しき)は、大体(だいたい)に於(お)いて現代式(げんだいしき)と似(に)てをり、鎌(かま)の発明史(はつめいし)から申(まを)しますと、極(きは)めて重要(じゆうよう)な位置(いち)を占(し)めるのですが、実用上(じつようじよう)ではどうしたものか、あまり歓迎(かんげい)せられなかつたようであります。
イギリスの発明家達(はつめいかたち)も、かうした風(ふう)に改良鎌(かいりようがま)の製造(せいぞう)に苦心(くしん)しましたが、成功(せいこう)したのはアメリカの技術家(ぎじゆつか)でした。千八百三十一年(せんはつぴやくさんじゆういちねん)の夏(なつ)、ヴアージニヤ州(しゆう)のシエナンドアー渓谷(けいこく)に住(す)んでゐた青年鍛冶(せいねんかぢ)で、名(な)をサイラス・マツコーミツクといつたものが工夫(くふう)を凝(こ)らし、その意匠(いしよう)に基(もと)づいて父親(ちゝおや)の造(つく)り出(だ)した刈(か)り取(と)り機(き)は、どれほどオーグル機(き)を参考(さんこう)したかはわかりませんが、とにかく試運転(しうんてん)には成功(せいこう)して、立派(りつぱ)な結果(けつか)を収(をさ)めました。即(すなはち)、マツコーミツク機(き)は、二頭(にとう)の馬(うま)で曳(ひ)き、午後中(ごごじゆう)に二(に)えーかー、即(すなはち)、二千四百五十坪(にせんしひやくごじつつぼ)ほどの燕麦(からすむぎ)を首尾(しゆび)よく刈(か)り上(あげ)げたといふことです。
マツコーミツクの伝記(でんき)を書(か)いたカツソンの記述(きじゆつ)によると、この機械(きかい)の働(はたら)きが、大鎌(おほがま)を使(つか)ふ六人(ろくにん)の農夫(のうふ)、もしくは小鎌(こがま)を使(つか)ふ二十四人(にじゆうよにん)の農夫(のうふ)に匹敵(ひつてき)するといふことを、当時(とうじ)の人々(ひと/゛\)は容易(ようい)に信用(しんよう)せず、ちようど人間(にんげん)が駄馬(だば)を背負(せお)つて町中(まちじゆう)を歩(ある)き廻(まは)つたといふ話(はなし)同様(どうよう)、嘘(うそ)だときめてしまつたそうです。
この機械(きかい)をマツコーミツクの発明(はつめい)したのは、前述(ぜんじゆつ)の通(とほ)り千八百三十一年(せんはつぴやくさんじゆういちねん)でしたが、千八百三十三年(せんはつぴやくさんじゆうさんねん)に、彼(かれ)の機械(きかい)と同様(どうよう)の歓迎(かんげい)を博(はく)した刈(か)り取(と)り機(き)の発明者(はつめいしや)、バルチモアーの水夫(すいふ)オベツド・ハツセイが、特許権(とつきよけん)を先(さ)きに取(と)つてしまひました。そこで実験(じつけん)の始(はじ)めはマツコーミツクであり、特許(とつきよ)の初(はじ)めはハツセイであるといふことに人々(ひと/゛\)がきめてしまひました。
これら二人(ふたり)の意匠(いしよう)はほとんど同(おな)じですが、ハツセイ式(しき)の特点(とくてん)は、三角形(さんかくけい)鋼鉄製薄板(こうてつせいうすいた)の鋭利(えいり)な刀(とう)が、平(ひら)たい棒(ぼう)に並(なら)べて植(う)ゑつけてあつて、従来(じゆうらい)のものより一(いつ)そう早(はや)く、鋭(するど)く、刈(か)り取(と)ることが出来(でき)るのでした(第五十四図)。それはともかく、これらの二人(ふたり)は、世界(せかい)が要求(ようきゆう)してゐる通(とほ)りの軽便(けいべん)な刈(か)り取(と)り機(き)を造(つく)つて、農業(のうぎよう)の進歩(しんぽ)に貢献(こうけん)したことは特筆(とくひつ)すべきで、共(とも)に近世(きんせい)発明家中(はつめいかちゆう)の偉人(いじん)といつてもよろしい人格(じんかく)であります。
二人(ふたり)の刈(か)り取(と)り機(き)は、大仕掛(おほじか)けのアメリカ農場(のうじよう)では大歓迎(だいかんげい)を受(う)けましたが、特(とく)に西部諸州(せいぶしよしゆう)の農民(のうみん)にはあり難(がた)がられました。それについて面白(おもしろ)い一(ひと)つの逸話(いつわ)があります。千八百四十四年(せんはつぴやくしじゆうよねん)のこと、マツコーミツクは、オハイオ州(しゆう)、ミチガン州(しゆう)、イリノイス州(しゆう)、アイオア州(しゆう)を旅行(りよこう)したが、イリノイス州(しゆう)にさしかゝると、黄熟(こうじゆく)した大麦(おほむぎ)の畑(はたけ)が、さん/゛\に牛(うし)や豚(ぶた)に荒(あら)らされてをります。あまりのもつたいなさに、どういふわけかと人(ひと)に尋(たづ)ねますと、百姓(ひやくしよう)は昼夜兼行(ちゆうやけんこう)、家内総出(かないそうで)で働(はたら)いてゐますが、鎌(かま)の刈(か)り取(と)る力(ちから)には限(かぎ)りがあつて、全(まつた)く手(て)が廻(まは)りかねてゐるのですと答(こた)へました。「こゝだな!」と、舌打(したう)ちして、マツコーミツクは新発明(しんはつめい)の改良(かいりよう)刈(か)り取(と)り機(き)売(う)りひろめの決意(けつい)をなし、千八百四十七年(せんはつぴやくしじゆうしちねん)チカゴへ移住(いじゆう)して工場(こうじよう)を建(た)て、盛(さか)んに新型機械(しんがたきかい)の製造(せいぞう)に取(と)りかゝりました。
と、一箇年(いつかねん)足(た)らずで五百台(ごひやくだい)の註文(ちゆうもん)があり、十箇年(じつかねん)の間(あひだ)に二万五千台(にまんごせんだい)を売(う)り上(あ)げましたから、ちようど一箇年(いつかねん)に三十(さんじゆう)まいるづゝのわり合(あひ)で、販路(はんろ)を西方(せいほう)に拡張(かくちよう)したわけになります。実(じつ)に盛(さか)んな勢(いきほ)ひでした。
しかし、ハツセイやマツコーミツクの機械(きかい)とても、まだ/\完全無欠(かんぜんむけつ)とは申(まを)されません。第一(だいいち)、刈(か)り取(と)つた穀物(こくもつ)を台(だい)から移(うつ)すのに、附(つ)き添(そ)ひ人(にん)が一人(ひとり)ゐて熊手(くまで)で掻(か)き下(おろ)してゐましたが、それを改良(かいりよう)して人手(ひとで)を借(か)りないようにすれば一(いつ)そう便利(べんり)であります(第五十五図)。そこで千八百六十五年頃(せんはつぴやくろくじゆうごねんごろ)には、この点(てん)を改良(かいりよう)して、熊手(くまで)と把稈機(はかんき)とを結合(けつごう)したものが発明(はつめい)されました。把稈機(はかんき)は多数(たすう)の廻転(かいてん)する腕(うで)をもち、腕(うで)はそれ/゛\一(ひと)つづゝの熊手(くまで)をもつてゐて、腕(うで)が廻転(かいてん)するごとに穀草(こくそう)を刈(か)り取(と)り刀(かたな)の方(ほう)へ引(ひ)きつけるばかりではなく、刈(か)り取(と)られたものを掻(か)き集(あつ)めて、それを地(じ)べたに落(おと)す装置(そうち)をもつてゐました(第五十六図)。この自動把稈機(じどうはかんき)の発明(はつめい)は、たしかに一人(ひとり)の人手(ひとで)を省(はぶ)いたので、一時(いちじ)は刈(か)り取(と)り機(き)の最良品(さいりようひん)と目(もく)せられましたが、まもなく更(さら)に五六人(ごろくにん)の手(て)を減(げん)じ得(う)るような新式機(しんしきき)が発明(はつめい)せられて、マツコーミツクやハツセイの機械(きかい)は旧式(きゆうしきになりました。
新式機(しんしきき)の特色(とくしよく)はどこにあるかといふと、自動束稈装置(じどうそくかんそうち)が完成(かんせい)せられて、立派(りつぱ)に自動的(じどうてき)に穀物(こくもつ)を束(たば)ねました。前(まへ)の機械(きかい)では、掻(か)き集(あつ)めて地上(ちじよう)に落(おと)した麦(むぎ)の穂(ほ)を、束(たば)にして一々(いち/\)縛(しば)るのには、少(すくな)くとも五六人(ごろくにん)の人手(ひとで)がかゝりますが、新式機(しんしきき)では全(まつた)くそれが省(はぶ)けます。この自動束稈機(じどうそくかんき)は、初(はじ)めには針金(はりがね)を用(もち)ひましたが、千八百八十年以後(せんはつぴやくはちじゆうねんいご)には、細縄(ほそなは)を用(もち)ひて麦束(むぎたば)を縛(しば)るように改良(かいりよう)せられました。
刈(か)り取(と)り機(き)の進歩(しんぽ)は単(たん)にこれに止(とゞ)まらず、更(さら)に驚(おどろ)くべき力(ちから)をもつた完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)の発明(はつめい)を見(み)るに至(いた)りました。この機械(きかい)は畑(はたけ)の穀草(こくそう)を刈(か)り取(と)り、脱穂(だつすい)し、簸(ふる)ひ分(わ)けした上(うへ)に、ちやんと袋包(ふくろづつ)みにしてしまふといふ完全(かんぜん)なもので、一方(いつぽう)では四(し)めーとる乃至(ないし)七(しち)めーとるの刈(か)り取(と)り棒(ぼう)が、その鋭(するど)い刃(は)で小麦(こむぎ)を撫(な)で刈(が)りにしてゐると、他方(たほう)ではその穀類(こくるい)が迅速(じんそく)に袋(ふくろ)づめにされて、いつでも近所(きんじよ)の倉庫(そうこ)とかすてーしよんとかへ送(おく)られるようにされます。
この完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)は、三四十頭(さんしじつとう)の馬(うま)に曳(ひ)かせるか、或(あるひ)は蒸汽車(じようきしや)で運転(うんてん)されるかするので、一日(いちにち)僅(わづ)かに五十(ごじつ)せんと足(た)らずの費用(ひよう)で、百(ひやく)えーかー(即(すなはち)わが十二万二千四百坪強(じゆうにまんにせんしひやくつぼきよう))の小麦畑(こむぎばたけ)を刈(か)り上(あ)げ、脱穂(だつすい)、簸(ふる)ひ分(わ)けの後(のち)、袋詰(ふくろづ)めにまでされるのであります。だから、マツコーミツク時代(じだい)以前(いぜん)に百人(ひやくにん)の人手(ひとで)を要(よう)した為事(しごと)が、この機械(きかい)では楽(らく)に一日(いちにち)でかたづけることが出来(でき)るわけです。なんと、恐(おそ)ろしい進歩(しんぽ)ではありませんか。人間(にんげん)の知識(ちしき)の限(かぎ)りない進歩(しんぽ)は、将来(しようらい)どんな刈(か)り取(と)り機(き)を工夫(くふう)するか、あらかじめそれを物語(ものがた)ることは出来(でき)ません。
とにもかくにも、この完全収穫機(かんぜんしゆうかくき)は、その名(な)の通(とほ)り、沢山(たくさん)な農具(のうぐ)のうちで、最(もつと)も巧妙(こうみよう)に造(つく)られたものだといふことが一般(いつぱん)に認(みと)められてゐて、完全(かんぜん)な機械(きかい)の例(れい)に屡々(しば/\)ひき出(だ)されてをります。
九、臼(うす)
犁(すき)で地(ち)を耕(たがや)し、鎌(かま)で刈(か)り入(い)れて、臼(うす)で搗(つ)けば、穀物(こくもつ)はもはや食物(しよくもつ)になります。で、こんどは臼(うす)のお話(はな)しをいたしませう。
人間(にんげん)が初(はじ)めに使(つか)つた臼(うす)は、地(ち)から生(は)えぬきの大岩(おほいは)へ穴(あな)をあけ、其中(そのなか)へ穀物(こくもつ)を入(い)れて、手(て)で持(も)つた石(いし)でそれを圧(お)しつぶすようにしたものでした(第五十七図)。さう遠(とほ)い昔(むかし)のことではありません。アメリカ、ニユー・ジヤーシイ州(しゆう)のトレントンの大通(おほどほ)りに、かうした原始的(げんしてき)の臼(うす)が残(のこ)つてゐて、曾(かつ)ては世界中(せかいじゆう)到(いた)るところにこの種(しゆ)の臼(うす)の用(もち)ひられてゐたことを示(しめ)してゐました。しかし、岩(いは)のないところでは、造(つく)りつけの臼(うす)が出来(でき)ないから、外(ほか)から石(いし)を持(も)つて来(き)て、それにこつぷ型(がた)の凹(くぼ)みを作(つく)りました(第五十八図)。それが即(すなはち)、石臼(いしうす)の起(おこ)りであります。
最初(さいしよ)の石臼(いしうす)は槌(つち)を伴(ともな)ひます。その槌(つち)は通例(つうれい)木製(もくせい)でした。こんな粗(あら)つぽい製粉器(せいふんき)が、今日(こんにち)でも尚(な)ほスコツトランドで用(もち)ひられて、大麦(おほむぎ)をたゝき潰(つぶ)してゐるのは奇観(きかん)です。
これと似たもので、槌(つち)を使(つか)はずに杵(きね)を使(つか)ふ縦臼(たてうす)があります(第五十九図)。その杵(きね)の先(さ)きが溝(みぞ)のつけてある鉄片(てつぺん)で包(つゝ)まれてゐるものが、ちよい/\見受(みう)けられました。
杵(きね)で搗(つ)いてゐるうちに、杵(きね)を廻(まは)して搗(つ)くと一(いつ)そう効果(こうか)の挙(あが)がることを自然(しぜん)に知(し)つて、古代人(こだいじん)は次第(しだい)に杵(きね)を廻(まは)しながら搗(つ)く習慣(しゆうかん)をつくるに至(いた)つたのですが、その廻(まは)して搗(つ)くといふ原理(げんり)を応用(おうよう)して、新(あら)たに工夫(くふう)されたものが、板石臼(いたいしうす)であります(第六十図)。
板石臼(いたいしうす)は大小二枚(だいしようにまい)の板石(いたいし)からなつてゐて、その間(あひだ)に穀物(こくもつ)を入(い)れ、石(いし)の摩擦(まさつ)でそれを粉(こな)にする仕掛(しか)けであります。南(みなみ)アフリカ探検家(たんけんか)として有名(ゆうめい)なリヴイングストンは、この臼(うす)について次(つ)ぎのように書(か)いてをります。
「粉挽(こなひ)き男(をとこ)は膝(ひざ)をついてしやがみ、両手(りようて)で上石(うはいし)を掴(つか)んで、ちようどぱん屋(や)が粉(こな)でもねつてゐる時(とき)のような工合(ぐあひ)に、上石(うはいし)を下石(したいし)の凹(くぼ)みの上(うへ)に置(お)き、それをしきりもなく前後(ぜんご)に動(うご)かすので、石(いし)の重(おも)さへ人(ひと)の重(おも)さまで加(くは)はつて、穀物(こくもつ)は砕(くだ)きつぶされて、上石(うはいし)と下石(したいし)との間(あひだ)から地上(ちじよう)へこぼれる」
このアフリカの挽(ひ)き臼(うす)は、やはり杵(きね)を廻(まは)して搗(つ)くと効果(こうか)が挙(あ)がるといふ原理(げんり)を応用(おうよう)したものではありますが、上石(うはいし)を特(とく)に廻(まは)るように造(つく)つたものでないから、もう一奮発(ひとふんぱつ)してそれをぐる/\廻(まは)るようにすれば、上石(うはいし)に柄(え)のついてゐる本当(ほんとう)の挽(ひ)き臼(うす)が出来(でき)るわけです。
例(れい)によつて初(はじ)めの挽(ひ)き臼(うす)がどこで造(つく)られたかはわかりませんが、古(ふる)い文明国(ぶんめいこく)にはそれ/゛\形(かたち)の異(ちが)つた臼(うす)がございました。しかし、形(かたち)は異(ちが)つてゐても原理(げんり)は同(おな)じですから、どこかで初(はじ)め発明(はつめい)せられたものが、だん/\と他方(たほう)に拡(ひろ)がつていつたものでせう。先(ま)づ古代印度(こだいインド)で用(もち)ひられた臼(うす)の説明(せつめい)から始(はじ)めませう。
古代印度(こだいインド)の挽(ひ)き石(うす)(ママ)は、上石(うはいし)と下石(したいし)とからなりたつてゐます。上石(うはいし)の底面(ていめん)の中央(ちゆうおう)には孔(あな)があいてゐて、それを下石(したいし)の上面(じようめん)の中央(ちゆうおう)に凸出(とつしゆつ)してゐる旋回軸(せんかいじく)へはめこみます。上石(うはいし)には把手(とつて)がついてゐて、それを廻(まは)せば上石(うはいし)がぐる/\廻(まは)つて、穀物(こくもつ)は上石(うはいし)の中央(ちゆうおう)の孔(あな)から下石(したいし)の上(うへ)に落(お)ち、上石(うはいし)と下石(したいし)との間(あひだ)に挟(はさ)まつて潰(つぶ)され、殻(から)も粉(こな)も一緒(いつしよ)に臼(うす)からこぼれ落(お)ちます。穀物(こくもつ)はいくらか自然(しぜん)に穴(あな)の中(なか)へ入(はひ)りますが、人(ひと)が常(つね)に手(て)を下(くだ)してそれを助(たす)けることにしてゐました。これが漏斗(じようご)のもとになつたのです。
次(つ)ぎには昔(むかし)ユダヤ人(じん)の間(あひだ)で用(もち)ひられた臼(うす)の説明(せつめい)をしますが、それは下石(したいし)が上石(うはいし)よりも大(おほ)きく、上石(うはいし)の一端(いつたん)に挽(ひ)き木(ぎ)がつき、他端(たたん)に旋回軸(せんかいじく)があつて、二人(ふたり)の婦人(ふじん)がそれを挽(ひ)いたのであります(第六十一図)。『新約聖書(しんやくせいしよ)」中(ちゆう)の「馬太伝(マタイでん)」第二十四章(だいにじゆうししよう)第四十一節(だいしじゆういつせつ)に、『二人(ふたり)の女(をんな)、うすひきをらんに、一人(ひとり)は取(と)られ、一人(ひとり)は遺(のこ)されん』と、いふ句(く)がありますが、臼(うす)の形(かたち)を照(て)らし合(あ)はして見(み)ると興味(きようみ)がございます。
古代(こだい)ローマの臼(うす)は、一(いつ)そう進歩(しんぽ)したもので、粉(こな)が下石(したいし)の横側(よこがは)の孔(あな)から出(で)るように造(つく)られてをり、現今(げんこん)、台所(だいどころ)で使(つか)はれてゐるこーひー臼(うす)と形(かたち)がよく似(に)てゐます(第六十二図)。
スコツトランドの手臼(てうす)(第六十三図)は、大分(だいぶ)形(かたち)が異(ちが)つてゐますが、極(きは)めて手軽(てがる)で、今日(こんにち)でも尚(な)ほそれを使(つか)つてゐるところがあるそうです。
紀元(きげん)七十九年(しちじゆうくねん)、ヴエスヴイオ火山(かざん)が噴火(ふんか)した時(とき)に、当時(とうじ)の大都会(だいとかい)であつたポムペイ市(し)は、灰(はひ)のために埋没(まいぼつ)されました。近年(きんねん)同市(どうし)の発掘作業(はつくつさぎよう)が行(おこな)はれ、昔(むかし)の物(もの)がいろ/\と見出(みいだ)されましたが、そのうちの珍(めづ)らしい一(ひと)つは臼(うす)(第六十四図)であります。その臼(うす)は日本(につぽん)の磨(す)り臼(うす)によく似(に)てをり、上臼(うはうす)は砂時計(すなどけい)の形(かたち)に作(つく)られ、上(うへ)の半分(はんぶん)は漏斗(じやうご)として用(もち)ひられ、下(した)の半分(はんぶん)が穀物(こくもつ)を砕(くだ)くのに用(もち)ひられる。第六十五図(だいろくじゆうごず)の如(ごと)く、下臼(したうす)は円錐形(えんすいけい)で、その上(うへ)に上臼(うはうす)の下半(かはん)がかぶさり、上臼(うはうす)が回転(かいてん)すると下臼(したうす)とすれて粒(つぶ)を磨(す)り砕(くだ)くのです。上臼(うはうす)の中(なか)ほどにくびれがあり、そこに二本(にほん)の把手(とつて)がついてゐて、それを人(ひと)が持(も)つか、馬(うま)、牛(うし)が曳(ひ)くかして、臼(うす)のぐるりを廻(まは)りますと、臼(うす)はおのづから廻転(かいてん)します。これで、紀元(きげん)一世紀(いつせいき)の頃(ころ)に、既(すで)に牛馬(ぎゆうば)の力(ちから)を借(か)りて臼(うす)を廻(まは)らせたことが明(あき)らかになります。
これらの外(ほか)、いろ/\の改良(かいりよう)が施(ほどこ)されて、臼(うす)の種類(しゆるい)は多(おほ)くなりましたが、中(なか)でも目立(めだ)つのは紀元(きげん)五十