賜 天覧 台覧
日本児童文庫
竹取物語・今昔物語・謡曲物語
文学博士 和田万吉著
ARS
竹取物語・今昔物語・謡曲物語
装幀・恩地孝四郎
口絵挿画・太田三郎
謡曲物語
白楽天(はくらくてん)
支那(しな)の唐(とう)の代(よ)に、白楽天(はくらくてん)といふ名高(なだか)い文章家(ぶんしようか)がをりましたが、時(とき)の帝(みかど)の命(めい)を受(う)けて、日本(につぽん)に渡(わた)つて、我国(わがくに)の人(ひと)たちの智慧(ちえ)がどのくらゐであるか視察(しさつ)することになりました。
海路(かいろ)遥(はる)かに漕(こ)ぎ出(だ)して、日本(につぽん)の九州(きゆうしゆう)のある港(みなと)に着(つ)きました。こゝに暫(しばら)く碇(いかり)をおろして様子(ようす)を見(み)てゐますと、一人(ひとり)の老人(ろうじん)が一人(ひとり)の若者(わかもの)と一艘(いつそう)の小舟(こぶね)に乗(の)り釣(つ)りをしてゐるのが眼(め)にとまりました。そこで白楽天(はくらくてん)はまづ視察(しさつ)の緒(いとぐち)を得(え)ようと思(おも)つて声(こゑ)をかけました。
「そなたは日本(につぽん)の人(ひと)か」
すると、老人(ろうじん)は答(こた)へました。
「さよう、日本(につぽん)の漁師(りようし)でござる。あなたは唐(とう)の白楽天(はくらくてん)でおいでぢやな」
突然(とつぜん)、かういはれて、白楽天(はくらくてん)はびつくりして問(と)ひ返(かへ)しました。
「今(いま)来(き)たばかりであるのに、白楽天(はくらくてん)と見(み)たのはどうしたわけぢや」
「唐(とう)の国(くに)の方(かた)ではあるが、名(な)は夙(はや)くから日本(につぽん)に聞(きこ)えてをります。誰(だれ)も知(し)らぬ者(もの)はないくらゐであるから、お名前(なまへ)を申(まを)したのでござる」
「たとひ名(な)だけは聞(きこ)えてゐても、これがその人(ひと)であると知(し)るのは不思議(ふしぎ)ぢや」
「この国(くに)の人(ひと)の智慧(ちえ)を試(ため)さうとして白楽天(はくらくてん)の来(こ)られるといふ噂(うはさ)は、どこまでも広(ひろ)まつてゐますので、西(にし)の方(ほう)から船(ふね)が来(く)ればその人(ひと)と、実(じつ)はとうから待(ま)つてゐました。今(いま)見(み)れば唐船(とうせん)に乗(の)つてお出(い)での人(ひと)、これを白楽天(はくらくてん)と見(み)るのは眼鏡(めがね)違(ちが)ひでもござるまい。言葉(ことば)もわからぬあなたたちと、話(はなし)のしようもない。その暇(ひま)も惜(を)しいので釣(つ)りをします。御免(めん)なさい」
「まだ尋(たづ)ねたいことがある。舟(ふね)を寄(よ)せなさい。なんと老人(ろうじん)、この頃(ごろ)日本(につぽん)では何(なに)を遊(あそ)びごとにするか」
「さういふあなたの国(くに)では何(なに)を遊(あそ)びごとにするのぢや」
「唐(とう)では詩(し)を作(つく)つて遊(あそ)ぶよ」
「日本(につぽん)では歌(うた)を読(よ)んで心(こゝろ)を慰(なぐさ)めます」
「はて歌(うた)といふはどんなものかの」
「天竺(てんじく)でいふ霊文(れいもん)が唐土(とうど)の詩賦(しふ)、唐土(とうど)の詩賦(しふ)が日本(につぽん)の歌(うた)ぢや。そのようなことは知(し)つてゐられるはずぢやに、さてはこの老人(ろうじん)の心(こゝろ)を試(ため)すおつもりな」
「いや、さういふわけではない。それでは眼(め)の前(まへ)の景色(けしき)を詩(し)に作(つく)つて聞(き)かせよう。青苔(せいたい)衣(ころも)をおびて巌(いはほ)の肩(かた)にかゝり、白雲(はくうん)帯(おび)に似(に)て山(やま)の腰(こし)をめぐる。なんとわかつたか老人(ろうじん)」
「青苔(せいたい)の詩句(しく)面白(おもしろ)い/\。日本(につぽん)の歌(うた)はかうでござる。苔(こけ)ごろも着(き)たる巌(いはほ)はさもなくて衣(きぬ)着(き)ぬ山(やま)の帯(おび)をするかな」
「不思議(ふしぎ)ぢや、賤(いや)しい漁師(りようし)の身(み)で、かように心(こゝろ)ある歌(うた)を読(よ)むとは一体(いつたい)そなたは何者(なにもの)ぢや。名(な)を聞(き)きたい」
「さういはれてはお恥(は)づかしい。名(な)などはないものでござる。しかし、歌(うた)を読(よ)むのは人間(にんげん)に限(かぎ)つたことではない。生(しよう)あるものは皆(みな)歌(うた)を読(よ)みます」
「なに生(しよう)ある物(もの)はなんでもとな。すれば鳥(とり)や獣(けだもの)も」
「歌(うた)を詠(えい)ずるためしはたくさんあります。花(はな)に啼(な)く鶯(うぐひす)、水(みづ)に栖(す)む蛙(かはづ)までも、唐土(とうど)では知(し)らぬが日本(につぽん)では歌(うた)を読(よ)みますので、老人(ろうじん)も一通(ひととほ)りは読(よ)みますのぢや」
老人(ろうじん)は、それから、孝謙天皇(こうけんてんのう)の御代(みよ)に、大和(やまと)の国(くに)高天寺(たかまでら)の人(ひと)が、鶯(うぐひす)が梅(うめ)の木(き)にとまつて初陽(しよよう)毎朝来(まいちようらい)、不遭(ふそう)還本栖(げんほんせい)と鳴(な)くのを聞(き)いたが、これを訳(やく)して見(み)ると、「初春(はつはる)のあしたごとには来(き)たれども遭(あ)はでぞ還(かへ)る本(もと)のすみかに」となる。その外(ほか)同(おな)じような例(ためし)は数(かぞ)へ知(し)れぬほどに多(おほ)いことを話(はな)すと、白楽天(はくらくてん)は深(ふか)く感服(かんぷく)いたしました。
老人(ろうじん)はなほも突(つ)つ込(こ)んで、舞楽(ぶがく)に合(あは)せて歌(うた)をうたふ日本(につぽん)の国風(こくふう)を見(み)せて、一(いつ)そう楽天(らくてん)の心(こゝろ)を和(やはら)げて国(くに)に帰(かへ)らせようと思(おも)ひ、その舞楽(ぶがく)を見(み)てはどうかといひますと、白楽天(はくらくてん)はその役々(やく/\)をする人(ひと)も見(み)えぬのにと、不審(ふしん)そうな様子(ようす)をしますので、老人(ろうじん)は、
「誰(たれ)もをらぬが差(さ)し支(つか)へはない。わしだけあれば舞楽(ぶがく)は出来(でき)る。鼓(つゞみ)は浪(なみ)の音(おと)、笛(ふえ)は海中(かいちゆう)の龍(たつ)の吟(ぎん)ずる声(こゑ)で間(ま)に合(あ)ふ。それに舞(ま)ひ人(びと)はこの老人(ろうじん)……」
といつて、つつと海中(かいちゆう)にはひりました。
やがて、住吉明神(すみよしみようじん)が西(にし)の海(うみ)から神体(しんたい)をあらはされて、白楽天(はくらくてん)を呼(よ)んで諭(さと)されるには、
「われ住吉明神(すみよしみようじん)の力(ちから)のあるうちは、なんとしても日本(につぽん)を他国(たこく)から窺(うかゞ)はせることは出来(でき)ない。早(はや)く唐土(とうど)に帰(かへ)れ戻(もど)れ」
さう仰(おほ)せられると、やがて伊勢(いせ)、石清水(いはしみづ)、賀茂(かも)、春日(かすが)、鹿島(かしま)、三島(みしま)、訪諏(すは)、熱田(あつた)その他(た)の神々(かみ/゛\)があらはれ、中(なか)にも厳島(いつくしま)の明神(みようじん)は龍宮(りゆうぐう)の姫君(ひめぎみ)でありますから、海上(かいじよう)に浮(うか)んで海青楽(かいせいらく)を舞(ま)はれましたが、ほどなく神風(かみかぜ)が起(おこ)つて、白楽天(はくらくてん)の乗(の)つてゐる唐船(とうせん)を次第(しだい)に西(にし)へ/\と吹(ふ)き流(なが)して、とう/\支那(しな)の地(ち)に着(つ)けてしまひました。これも神国(しんこく)であるわが国(くに)のありがたいところで、日本(につぽん)はいつまでも動(ゆる)がぬ国(くに)となつてゐます。
養老(ようろう)
元正天皇(げんしようてんのう)の御代(みよ)に、美濃(みの)の国(くに)の多度山(たどさん)に不思議(ふしぎ)な泉(いづみ)が湧(わ)き出(だ)しました。その味(あぢは)ひは甘(あま)くて良(よ)い酒(さけ)のようで、ある貧(まづ)しい家(いへ)の孝子(こうし)がこれを汲(く)んで親(おや)に飲(の)ませて老(おい)を養(やしな)はせてゐるといふ噂(うはさ)が都(みやこ)に伝(つた)はりました。お上(かみ)のお役人(やくにん)が勅命(ちよくめい)をかうむつて、このことの嘘(うそ)かほんとうかを視(み)て来(く)るために美濃(みの)の国(くに)に下(くだ)つて、やがて養老(ようろう)の滝(たき)の辺(へん)に着(つ)きました。
その時(とき)、親子(おやこ)と思(おも)はれる二人(ふたり)の者(もの)が、年寄(としよ)りは杖(つゑ)にすがり、若者(わかもの)は水桶(みづをけ)を提(さ)げて出(で)て来(き)て、養老(ようろう)の滝(たき)の水(みづ)は薬(くすり)の力(ちから)があつて、身(み)も心(こゝろ)も健(すこや)かになつたと喜(よろこ)びながら通(とほ)りました。役人(やくにん)はこの老人(ろうじん)を呼(よ)びとめて、
「尋(たづ)ねたいことがある。そなたたちはかねて聞(き)き及(およ)んだ養老(ようろう)の親子(おやこ)の者(もの)か。我(われ)らは朝廷(ちようてい)のお使(つか)ひであるぞ」
といつて、勅使(ちよくし)に立(た)つたわけを述(の)べ、まづこの泉(いづみ)を養老(ようろう)と名(な)づけたわけを尋(たづ)ねると、老人(ろうじん)は恐(おそ)れ多(おほ)い聖慮(せいりよ)に感(かん)じ入(い)つて、
「いかにもお尋(たづ)ねの親子(おやこ)の者(もの)でございます」
と答(こた)へて、
「養老(ようろう)の滝(たき)のいはれを、仰(おほ)せに従(したが)つて申(まを)し上(あ)げませう。こゝに伴(ともな)ひましたものは、わたくしの子(こ)でございますが、朝晩(あさばん)、山(やま)に分(わ)け入(い)つて薪(たきゞ)をとり、里(さと)に持(も)つて参(まゐ)つて売(う)つて来(き)ては、わたくしたち夫婦(ふうふ)を養(やしな)つてくれます。ある時(とき)、山路(やまみち)の疲(つか)れに喉(のど)の乾(かわ)きを覚(おぼ)えまして、何心(なにごゝろ)なくこの水(みづ)を汲(く)んで飲(の)みましたところ、たゞの水(みづ)と違(ちが)つて、心(こゝろ)もすが/\しく身(み)の疲(つか)れもなくなりましたそうで……」
すると、若者(わかもの)も老人(ろうじん)の言葉(ことば)に次(つ)いで話(はな)しました。
「仙人(せんにん)の家(いへ)で用(もち)ひるとか申(まを)す薬(くすり)の水(みづ)とは、かようのものかと思(おも)ひまして、嬉(うれ)しさのあまり、その水(みづ)を器(うつは)に入(い)れて家(いへ)に持(も)ち帰(かへ)り、年寄(としよ)つた父母(ちゝはゝ)に進(すゝ)めましたれば……」
「飲(の)むと等(ひと)しくわたくしも老(おい)を忘(わす)れました」
と、老人(ろうじん)もつけ加(くは)へました。
「朝(あさ)も床(とこ)を離(はな)れるのにものういといふこともありません」
と若者(わかもの)がいへば、老人(ろうじん)も続(つゞ)けて申(まを)しました。
「夜(よる)の寝覚(ねざ)めにも寂(さび)しさを感(かん)ずることもありませんし、心(こゝろ)は若(わか)い人(ひと)同様(どうよう)に勇(いさま)しくなりました。それでこの泉(いづみ)を名(な)づけて養老(ようろう)の滝(たき)と申(まを)します」
役人(やくにん)はこれを聞(き)いて感心(かんしん)しました。
「まことにありがたい祥瑞(しようずい)でめる。してその薬(くすり)の水(みづ)といふのは、この滝川(たきがは)の中(なか)でも取(と)り分(わ)けてどこを指(さ)すのであるか」
「それは、この滝壺(たきつぼ)の少(すこ)しこちらの岩(いは)の間(あひだ)から出(で)る水(みづ)でございます」
老人(ろうじん)の言葉(ことば)にしたがつて、役人(やくにん)がその水(みづ)を見(み)ると、いかにも澄(す)みとほつた山水(やまみづ)で、なるほど薬(くすり)の水(みづ)らしく、まことに老(おい)を養(やしな)ひそうに思(おも)へました。この水(みづ)が、老人(ろうじん)を養(やしな)ふならば、壮年(そうねん)の人(ひと)にも薬(くすり)になるはずであるから、これを帝(みかど)にまゐらせたら、御寿命(ごじゆみよう)も久(ひさ)しからう。それにしても、かうしためでたい世(よ)に遇(あ)つた老人(ろうじん)たちも我(われ)らも運(うん)のよいことであると、役人(やくにん)も喜(よろこ)びました。
老人(ろうじん)親子(おやこ)はこの水(みづ)を帝(みかど)に捧(さゝ)げ奉(たてまつ)らうとして掬(すく)ひ取(と)りながら、支那(しな)の晋(しん)の代(よ)に出(で)た竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)が、酒(さけ)を薬水(やくすい)として心(こゝろ)をのべた故事(こじ)などを引(ひ)いて、その酒(さけ)にもました水(みづ)であるとたたへたり、また彭祖(ほうそ)といふ仙人(せんにん)が菊(きく)に滴(したゝ)る露(つゆ)を飲(の)んで七百年(しちひやくねん)の寿(よはひ)を得(え)たといふ話(はなし)をしたり、また雨露(あめつゆ)は草木(くさき)を育(そだ)てるものでいはば薬(くすり)の水(みづ)のようなものであるが、老人(ろうじん)も雨露(あめつゆ)の集(あつま)つて出来(でき)たこの泉(いづみ)で老(おい)を養(やしな)ふことが出来(でき)るなどと話(はな)しました。
「まことにあり難(がた)い薬(くすり)の水(みづ)ぢや。急(いそ)いで都(みやこ)に帰(かへ)つてこの趣(おもむ)きを奏聞(そうもん)いたそう」
と、役人(やくにん)は申(まを)しました。
「わたくしたちのような下民(かみん)の上(うへ)まで御心(みこゝろ)におかけ下(くだ)さいますことは、誠(まこと)に忝(かたじけな)く畏(おそ)れ多(おほ)うございます」
と老人(ろうじん)もいつて、勅使(ちよくし)に礼(れい)をして、そこを立(た)ち去(さ)りました。
その時(とき)、ふいに天(てん)から光明(こうみよう)がさし、滝(たき)の響(ひゞ)きも澄(す)んで、空(そら)には面白(おもしろ)い音楽(おんがく)が聞(きこ)え、時(とき)ならぬ花(はな)が降(ふ)り初(はじ)めました。これは、たゞごとではない。神霊(しんれい)などの来現(らいげん)ではないかと思(おも)つてゐると、案(あん)のごとくこの多度(たど)の山神(さんじん)があらはれて、治(をさ)まる御世(みよ)なればこそ、薬(くすり)の水(みづ)の祥瑞(しようずい)もある。自分(じぶん)はこの御世(みよ)の長(なが)く久(ひさ)しく続(つゞ)くように守(まも)つてゐる神(かみ)であると説(と)き示(しめ)して、舞(ま)ひを奏(そう)して君(きみ)と臣民(しんみん)との同心(どうしん)合体(がつたい)を祝(いは)つて天(てん)に昇(のぼ)られました。
田村(たむら)
東(あづま)の国(くに)から、都見物(みやこけんぶつ)に上(のぼ)つた僧(そう)が、都(みやこ)に着(つ)いて東山(ひがしやま)清水寺(せいすいじ)に来(き)ました。ちようど春(はる)のなかばで、境内(けいだい)は桜(さくら)の真盛(まつさか)りでした。中(なか)でも地主権現(じしゆごんげん)のお堂(どう)の辺(へん)の花(はな)が見事(みごと)でした。そこへ一人(ひとり)の童子(どうじ)が来(き)かゝりました。見(み)ると、手()てに美(うつく)しい帚(はうき)を持(も)つて花(はな)の木蔭(こかげ)を掃(は)き浄(きよ)め出(だ)しました。僧(そう)はよい相手(あひて)が出来(でき)たと思(おも)つて、
「あなたは花守(はなも)りでいらつしやいますか」
と、きゝますと、童子(どうじ)は、
「さよう、こゝの地主権現(じしゆごんげん)に仕(つか)へてゐる者(もの)でございます。花時分(はなじぶん)には、いつも木蔭(こかげ)を浄(きよ)めますから、花守(はなも)りとも申(まを)されませうし、また、権現(ごんげん)の御奴(みやつこ)ともいはれませう。どちらにしても権現(ごんげん)に縁(ゆかり)のある者(もの)と御覧下(ごらん)下(くだ)さい」
「なる程(ほど)、さう見(み)えます。ついてはこの御寺(みてら)清水寺(せいすいじ)のいはれ因縁(いんねん)を詳(くは)しく話(はな)して下(くだ)さい」
そこで童子(どうじ)は程(ほど)よいところに座(ざ)を構(かま)へて、当寺(とうじ)の来歴(らいれき)を話(はな)しました。
「この清水寺(せいすいじ)と申(まを)しますは、大同(だいどう)二年(にねん)に初(はじ)めて建(た)てられたもので、建(た)てた人(ひと)は坂上田村麿(さかのうへのたむらまろ)将軍(しようぐん)でございます。むかし、大和(やまと)の国(くに)子島寺(こしまでら)といふ寺(てら)に賢心(けんしん)といふ僧(そう)がありまして、絵像(えぞう)木像(もくぞう)にしたのでない、生(い)きた体(からだ)の観音様(かんのんさま)を拝(をが)みたいと祈(いの)つたところ、ある時(とき)、木津川(こつがは)の上手(かみて)から金色(きんいろ)の光(ひかり)がさしたので、何事(なにごと)かと思(おも)つて、そこに行(い)つて見(み)ると、一人(ひとり)の老人(ろうじん)がゐました。その老人(ろうじん)のいふのには、私(わし)は行叡(ぎようえ)居士(こじ)といふ者(もの)ぢや、お前(まへ)は一人(ひとり)の施主(せしゆ)を待(ま)つて大(おほ)きな寺(てら)を一(ひと)つ建(た)てゝ貰(もら)ひなさい、と、かういつて東(ひがし)の方(ほう)へ飛(と)んで行(い)つてしまひました。その行叡(ぎようえ)居士(こじ)といふのは誰(たれ)あらう観音様(かんのんさま)がこの世(よ)にお現(あらは)れなさつたのであり、また一人(ひとり)の施主(せしゆ)を待(ま)てとあつたその施主(せしゆ)は坂上田村麿(さかのうへのたむらまろ)でありました。たゞ今(いま)も清水(きよみづ)といふ名(な)の通(とほ)り清(きよ)い流(なが)れに縁(えん)のある深(ふか)い誓(ちか)ひの数々(かず/\)をお立(た)てになつて、観音様(かんのんさま)はどのようにもして人間(にんげん)を救(すく)はうと思(おぼ)し召(め)して、この世界(せかい)にお姿(すがた)をお見(み)せになるとは、ありがたいことではありませんか」
と、語(かた)り聞(き)かせたので、僧(そう)は、
「よいお方(かた)にお目(め)にかゝつて仕合(しあは)せでございます。また四方(しほう)に見(み)えてゐるのは、みな名所(めいしよ)でございませう。お教(をし)へ下(くだ)さい」
と、頼(たの)みますと、童子(どうじ)は、
「さよう、みな名所(めいしよ)です。お尋(たづ)ね次第(しだい)教(をし)へて上(あ)げませう」
「まづ、南(みなみ)の方(ほう)に大(おほ)きな塔(とう)の見(み)えるのはどこですか」
「あれは歌(うた)の中山清閑寺(なかやませいがんじ)で、それから先(さき)の今熊野(いまくまの)まで見(み)えてをります」
「それでは北(きた)の方(ほう)で夕暮(ゆふぐ)れの鐘(かね)の音(ね)がするのは、なんといふ寺(てら)ですか」
「あれは鷲尾(わしのを)のお寺(てら)です。あゝ、もし御覧(ごらん)なさい。うしろの音羽山(おとはやま)から峯(みね)の月(つき)が出(で)て、この地主(じしゆ)のお前(まへ)の桜(さくら)にうつる風情(ふぜい)のよいことは、真(しん)に見物(みもの)ですよ」
といふので、僧(そう)はなる程(ほど)と合点(がてん)して、童子(どうじ)と一(いつ)しよに、『春宵(しゆんしよう)一刻(いつこく)値千金(あたひせんきん)、花(はな)に清香(せいきよう)あり月(つき)に蔭(かげ)あり』といふ古(ふる)い詩(し)を思(おも)ひ起(おこ)し、また桜(さくら)の木(こ)の間(ま)を洩(も)れてさす月明(つきあか)りに、花(はな)の散(ち)り交(か)ふ様(さま)は雪(ゆき)の降(ふ)るように見(み)えるなどゝ賞(ほ)めて、こゝの花(はな)が、よそのにまさつて一際(ひときは)美(うつく)しいのも、所(ところ)がらであるなどゝ話(はな)し合(あ)ひましたが、僧(そう)はこの童子(どうじ)がたゞの者(もの)でなさそうなのに心(こゝろ)づいて、名(な)を尋(たづ)ねますと、童子(どうじ)は立(た)ち上(あが)つて、
「名(な)を知(し)りたいなら、私(わたし)の帰(かへ)つて行(ゆ)く方(ほう)を御覧(ごらん)なさい」
と、いつて、地主権現(じしゆごんげん)の社(やしろ)の前(まへ)から遠(とほ)くへ行(ゆ)くかとおもふと、じきに隣(とな)りの田村堂(たむらどう)の戸(と)を開(あ)けて内陣(ないじん)にはひつてしまひました。
そこで僧(そう)はいよ/\、その童子(どうじ)が神仏(しんぶつ)の化現(けげん)であることを知(し)りまして、今夜(こんや)は一晩(ひとばん)この桜(さくら)の蔭(かげ)にゐて、なほこの上(うへ)の御利益(ごりやく)にあづからうと思(おも)ひ、法華経(ほけきよう)を読(よ)んで夜(よ)を更(ふか)しました。
すると、その夜(よ)の夢(ゆめ)に、甲冑(よろひかぶと)を厳重(げんじゆう)に装(よそほ)つた立派(りつぱ)な武将(ぶしよう)が現(あらは)れまして、お経(きよう)の手向(たむ)けを喜(よろこ)び、今生(こんじよう)後生(ごしよう)と世界(せかい)を別(べつ)にした僧(そう)が自分(じぶん)と言葉(ことば)を交(かは)すのも、ひとへに観音(かんのん)のお力(ちから)であるといひました。僧(そう)はまのあたり、この奇蹟(きせき)を見(み)まして、どなたでおいでなされるかとききますと、田村麿(たむらまろ)の霊(れい)は、
「人皇(にんのう)五十一代(ごじゆういちだい)、平城天皇(へいぜいてんのう)の御代(みよ)にあつた坂上田村麿(さかのうへのたむらまろ)ぢや」
と答(こた)へ、その後(あと)に言葉(ことば)をつゞけて、そのむかし、都(みやこ)に近(ちか)い伊勢(いせ)の国(くに)、鈴鹿山(すゞかやま)の鬼神(きじん)(悪者(わるもの))を平(たひら)ぐべき勅命(ちよくめい)を受(う)けて出陣(しゆつじん)した時(とき)に、この清水(きよみづ)の観音(かんのん)に参詣(さんけい)して軍(いくさ)の勝利(しようり)を祈(いの)り、近江(あふみ)から伊勢(いせ)に入(い)る間(あひだ)もひとへに観音(かんのん)の力(ちから)を頼(たの)み、土(つち)も木(き)も我(わ)が大君(おほきみ)の国(くに)のものであるのに、その国内(くにうち)に鬼神(きじん)などが住(す)んで御威光(ごいこう)に従(したが)はぬといふはずはないと、固(かた)く決心(けつしん)して軍(いくさ)を進(すゝ)めました。さて、鈴鹿山(すゞかやま)に近(ちか)づきますと、鬼神(きじん)は大勢(おほぜい)で鬨(とき)の声(こゑ)をあげて官軍(かんぐん)を脅(おびやか)してゐます。田村麿(たむらまろ)は陣頭(じんとう)に立(た)つて敵(てき)に向(むか)ひ、
「なんと鬼神共(きじんども)、よつく聞(き)け。むかし藤原千方(ふぢはらのちかた)といふ悪者(わるもの)に使(つか)はれた鬼(おに)も、朝廷(ちようてい)に叛(そむ)いた天罰(てんばつ)を被(かうむ)つて、ほどなく滅(ほろ)びてしまつたではないか。まして、こゝは帝城(ていじよう)に遠(とほ)からぬ鈴鹿山(すゞかやま)で、御稜威(みいつ)をおそれぬとは何事(なにごと)だ」
と、責(せ)めると、鬼神(きじん)は怪(あや)しい術(じゆつ)をつかつて、黒雲(こくうん)を起(おこ)し、火(ひ)になつた鉄(てつ)の雨(あめ)を降(ふ)らせ、何千人(なんぜんにん)ともわからぬ勢(せい)でひしめいてゐます。さすがの田村麿(たむらまろ)も、これは容易(ようい)なことではいかぬと思(おも)つてゐますと、不思議(ふしぎ)にも身方(みかた)の軍隊(ぐんたい)の旗(はた)の上(うへ)に千手観音(せんじゆかんのん)が御光(ごこう)を放(はな)つて空中(くうちゆう)を飛行(ひぎよう)せられ、数多(あまた)の御手(おんて)に大慈悲(だいじひ)の弓(ゆみ)を把(と)り、大智慧(だいちえ)の矢(や)をつがへて雨霰(あめあられ)のごとく射(い)かけられますと、その矢(や)が鬼神(きじん)の頭(あたま)の上(うへ)に落(お)ちかゝるので、鬼神(きじん)は一人(ひとり)も残(のこ)らず斃(たふ)れてしまひました。これは全(まつた)く観音(かんのん)の力(ちから)であります。観音経(かんのんぎよう)のうちに、観音(かんのん)を信(しん)ずる者(もの)は、もし敵(てき)があつて我(われ)を殺(ころ)さうとしても、その咒(のろ)ひや毒薬(どくやく)が、かへつて本人(ほんにん)の身(み)にあたつて斃(たふ)れると説(と)いてありますが、まつたくその通(とほ)りでありました。とかう話(はな)しながら、その戦(たゝか)ひのさまをして見(み)せて、また、もとの堂(どう)にはひつて行(ゆ)かれました。
忠度(たゞのり)
和歌(わか)の名人(めいじん)、藤原俊成(ふぢはらのしゆんぜい)に仕(つか)へた人(ひと)で、主人(しゆじん)が亡(な)くなつてから仏道(ぶつどう)にはひつて僧(そう)となつた人(ひと)がありました。修行(しゆぎよう)の為(ため)に西国(さいごく)へ行(ゆ)かうと思(おも)つて、都(みやこ)を立(た)ち出(い)でて須磨(すま)の辺(へん)に来(き)かゝりました。その時(とき)、一人(ひとり)の老人(ろうじん)が薪(たきゞ)に花(はな)を添(そ)へたのを背負(せお)つて出(で)て来(き)て、山(やま)のある方(ほう)へ行(ゆ)かうとしました。この老人(ろうじん)が独言(ひとりごと)をいつてゐるのを聞(き)きますと、
「この須磨(すま)の浦(うら)は寂(さび)しくて、うき世(よ)離(ばな)れがしてをるわい。ちら/\見(み)える漁船(ぎよせん)や、細(ほそ)く立(た)ちのぼる汐焼(しほや)きの烟(けむ)りや、岸(きし)の松(まつ)吹(ふ)く風(かぜ)などみな寂(さび)しいものぢや。こゝにまた、この浦(うら)の山(やま)かげに一本(ひともと)の桜(さくら)があるが、これは亡(な)くなつたある人(ひと)の記念(きねん)の木(き)ぢや。ちようど、時(とき)も春(はる)で、花(はな)もあるから薪(たきゞ)に折(を)り添(そ)へて、その花(はな)を手向(たむ)けてまゐらう」
と、かういつてゐるのです。僧(そう)は老人(ろうじん)にむかつて、
「あなたはこの辺(へん)の山人(やまびと)ですか」
「さうです。この浦(うら)の海士(あま)でございます」
僧(そう)は老人(ろうじん)の言葉(ことば)を聞(き)きとがめて、
「海士(あま)ならば浦(うら)で為事(しごと)をなされそうなものであるのに、山(やま)の方(ほう)へ行(ゆ)かうとなさるからは、山人(やまびと)といひそうなものぢや」
「海士(あま)が汐(しほ)を汲(く)んで焼(や)かずにうちやつて置(お)きませうか」
「なるほど、汐(しほ)を焼(や)くには」
「汐木(しほき)といつて薪(たきゞ)を採(と)らねばなりませぬ」
「近(ちか)いうしろの山里(やまざと)に」
と、僧(そう)がいひかけますと、老人(ろうじん)は、
「柴(しば)があるのを採(と)りに行(ゆ)きます」
などゝ、問答(もんどう)をしてゐる間(ま)に日(ひ)が暮(く)れかゝりました。そこで、僧(そう)は一夜(いちや)の宿(やど)を老人(ろうじん)に頼(たの)みますと、
「さて/\、あなたは心(こゝろ)のない方(かた)ぢや。この花(はな)の蔭(かげ)ほど、よいお宿(やど)がどこにありませう」
と、老人(ろうじん)にいはれて、
「まことに、花(はな)の宿(やど)といふ言葉(ことば)もありますが、その花(はな)の宿(やど)には誰(だれ)を宿主(やどぬし)とするのでせうか」
と、僧(そう)がたづねますと、
「『行(ゆ)き暮(く)れて木(こ)の下蔭(したかげ)を宿(やど)とせば、花(はな)や今宵(こよひ)のあるじならまし』といふ歌(うた)があります。その歌主(うたぬし)はこの木(き)の下(した)にをられます。それが痛(いた)はしいので、自分(じぶん)らのような海士(あま)でも始終(しじゆう)立(た)ち寄(よ)つて、手向(たむ)けをするのに、お僧(そう)たち仏門(ぶつもん)の方(かた)がお弔(とむら)ひなされぬとは、どうしたことでござります」
と、老人(ろうじん)がいひました。
「『行(ゆ)き暮(く)れて木(こ)の下蔭(したかげ)』と詠(よ)んだ歌主(うたぬし)は、薩摩守(さつまのかみ)」
と、僧(そう)がなかばいひかけました時(とき)、老人(ろうじん)がいひました。
「忠度(たゞのり)といふ人(ひと)は、この一(いち)の谷(たに)の戦(たゝか)ひに打(う)ち死(じ)にをしました。その忠度(たゞのり)に縁(ゆかり)のある人(ひと)が植(う)ゑておいた木(き)がこれでございます」
この話(はなし)を聞(き)いて、僧(そう)は不思議(ふしぎ)の縁(えん)と思(おも)ひました。それは忠度朝臣(たゞのりあそん)は自分(じぶん)の旧主(きゆうしゆ)俊成卿(しゆんぜいきよう)の歌(うた)の友(とも)だちであつたのに、今(いま)自分(じぶん)は忠度(たゞのり)を記念(きねん)する桜(さくら)の下(もと)に来(き)てゐるのは、これも何(なに)かの引(ひ)き合(あは)せであらうと思(おも)ひました。そこで手向(たむ)けの言葉(ことば)と一(いつ)しよに拝(をが)みますと、老人(ろうじん)は感激(かんげき)した様子(ようす)で、
「ありがたいことぢや、今(いま)のお弔(とむら)ひの声(こゑ)を聞(き)いて成仏(じようぶつ)することが出来(でき)ます」
僧(そう)は老人(ろうじん)のこの言葉(ことば)を聞(き)くと怪(あや)しんで、
「手向(たむ)けの声(こゑ)を聞(き)いて、あなたがお喜(よろこ)びの様子(ようす)をなさるは、どういふわけでございます」
「実(じつ)はお僧(そう)のお弔(とむら)ひを受(う)けようと存(ぞん)じて、こゝへ出(で)て来(き)たのです。花(はな)の蔭(かげ)で休(やす)んでゐて下(くだ)されば、あとは夢(ゆめ)でお告(つ)げをいたします。また、都(みやこ)への言(こと)づても頼(たの)みませう」
といつて、花(はな)の蔭(かげ)に寄(よ)るように見(み)えましたが、どこへ行(い)つたやらわからなくなりました。
そこで僧(そう)は一先(ひとま)づこゝから都(みやこ)へ帰(かへ)つて、俊成(しゆんぜい)の後嗣(あとつ)ぎである定家卿(ていかきよう)に、今(いま)の様子(ようす)を告(つ)げようと思(おも)ひましたが、もうその時(とき)は宵(よひ)の月(つき)も落(お)ちたことでありますから、今夜(こんや)はこの花(はな)の下(した)に明(あか)して翌朝(よくあさ)出立(しゆつたつ)することに定(さだ)め、経(きよう)を読(よ)んで忠度(たゞのり)の後(あと)を弔(とむら)つてゐました。すると、その夜(よ)も更(ふ)けた頃(ころ)、夢(ゆめ)のように甲冑姿(かつちゆうすがた)の忠度(たゞのり)が僧(そう)の目(め)に見(み)えて、
「人間(にんげん)の浅(あさ)ましさには、死(し)んだ他生(たしよう)の者(もの)となつても、もとのうき世(よ)に執心(しゆうしん)を残(のこ)して、仏(ほとけ)に成(な)る妨(さまた)げをつくります。自分(じぶん)の詠(よ)み歌(うた)を俊成卿(しゆんぜいきよう)の選(えら)ばれた千載集(せんざいしゆう)といふ勅撰(ちよくせん)の歌集(かしゆう)に採(と)り入(い)れて貰(もら)ひましたものゝ、朝廷(ちようてい)から御勘当(ごかんどう)を蒙(かうむ)つた身(み)の悲(かな)しさには、忠度(たゞのり)といふ名(な)を記(しる)されずに『よみ人(ひと)知(し)らず』と書(か)かれたことは、自分(じぶん)に取(と)つて第一(だいいち)に諦(あきら)められぬことであります。しかし、今(いま)では選者(せんじや)の俊成卿(しゆんぜいきよう)も亡(な)くなられたことでもありますから、俊成卿(しゆんぜいきよう)に仕(つか)へてをられた、あなたに遭(あ)つたのが何(なに)よりの幸(さいは)ひ、あなたから定家卿(ていかきよう)にお話(はなし)あつて、出来(でき)ることならかの集(しゆう)に採(と)られた『さゞなみや志賀(しが)の都(みやこ)は荒(あ)れにしを、むかしながらの山桜(やまざくら)かな』の一首(いつしゆ)に作者(さくしや)の名(な)を著(つ)けて戴(いたゞ)きたい。この事(こと)を夢物語(ゆめものがた)りに申(まを)すのであります」
といひました。
そも/\忠度(たゞのり)は武家(ぶけ)に生(うま)れて軍(いくさ)の道(みち)に長(た)けてゐる上(うへ)に、和歌(わか)を嗜(たしな)んで、多(おほ)くの名歌(めいか)を詠(よ)みました。文武二道(ぶんぶにどう)の達人(たつじん)でありました。後白河天皇(ごしらかはてんのう)の御時(おんとき)、俊成卿(しゆんぜいきよう)が勅(ちよく)を奉(ほう)じて千載和歌集(せんざいわかしゆう)を作(つく)られました。その時(とき)は寿永(じゆえい)二年(にねん)の秋(あき)で、平家(へいけ)の一門(いちもん)は都(みやこ)を落(お)ちて西海(さいかい)に行(ゆ)かうとして、忠度(たゞのり)もあわたゞしい身(み)でありましたが、急(きゆう)に思(おも)ひ出(だ)したことがありまして、山崎(やまざき)の近(ちか)く狐川(きつねがは)の渡(わた)し場(ば)から、取(と)つて返(かへ)して、ひそかに都(みやこ)にはひりました。それで、俊成卿(しゆんぜいきよう)を夜(よる)の間(ま)に訪(たづ)ねまして、鎧(よろひ)の内側(うちがは)から自分(じぶん)の歌集(かしゆう)を取(と)り出(だ)し、卿(きよう)のおめがねに適(かな)つた歌(うた)がありましたら、かの集(しゆう)へさし加(くは)へていたゞきたいと、くれ/゛\も頼(たの)んで、またもとの道(みち)に引(ひ)き返(かへ)して、一族(いちぞく)の人々(ひと/゛\)に追(お)ひつきました。やがて源氏(げんじ)と摂津(せつつ)の国(くに)一(いち)の谷(たに)で戦(たゝか)ふことになのましたが、そこの城(しろ)を落(おと)された平家(へいけ)の人々(ひと/゛\)は皆(みな)船(ふね)に乗(の)つて沖(おき)の方(ほう)へ出(で)ました。忠度(たゞのり)も同(おな)じように船(ふね)に乗(の)らうとして波打(なみう)ち際(ぎは)に出(で)ました。その時(とき)後(うしろ)から源氏(げんじ)の武士(ぶし)に岡部(をかべ)の六弥太(ろくやた)忠澄(たゞすみ)と名(な)のつて六七人(ろくしちにん)の家来(けらい)と一(いつ)しよに追(お)つ駈(か)けて来(き)ました。忠度(たゞのり)は望(のぞ)むところの敵(てき)と、すぐに引(ひ)つ組(く)んで馬(うま)から落(お)ちましたが、六弥太(ろくやた)を取(と)つて押(おさ)へて首(くび)を掻(か)かうとするところへ、六弥太(ろくやた)の家来(けらい)が忠度(たゞのり)の後(うしろ)に廻(まは)つて右(みぎ)の腕(うで)を打(う)ち落(おと)しました。忠度(たゞのり)はそれにも怯(ひる)まず、左(ひだり)の手(て)で六弥太(ろくやた)を投(な)げ退(の)けました。しかし敵(てき)は大勢(おほぜい)であり、自分(じぶん)は痛手(いたで)を負(お)つたのですから、もうかなはぬと諦(あきら)めて、西方(さいほう)極楽浄土(ごくらくじようど)の方(ほう)を拝(をが)み、念仏(ねんぶつ)を申(まを)しますと、六弥太(ろくやた)は太刀(たち)を振(ふ)り上(あ)げて首(くび)を打(う)ち落(おと)しました。さて六弥太(ろくやた)はこの時(とき)まで敵(てき)が忠度(たゞのり)であつたことを知(し)らなかつたが、定(さだ)めて名(な)のある大将(たいしよう)であらう、名(な)を知(し)りたいと思(おも)つて死骸(しがい)を見(み)ると、着(つ)けてゐる簸(えびら)の一矢(ひとや)に歌(うた)を書(か)きつけた札(ふだ)が附(つ)けてありました。それを読(よ)んで見(み)ますと『行(ゆ)き暮(く)れて木(こ)の下蔭(したかげ)を宿(やど)とせば、花(はな)や今宵(こよひ)のあるじならまし。忠度(たゞのり)』とありましたので、さてこそ、これが名高(なだか)い薩摩守(さつまのかみ)忠度朝臣(たゞのりあそん)であつたかと知(し)りました。と、かういふ軍物語(いくさものがた)りをして、忠度(たゞのり)の霊(れい)は後(のち)の手向(たむ)けを、僧(そう)に頼(たの)んで消(き)えてしまひました。
八島(やしま)
都(みやこ)から、諸国行脚(しよこくあんぎや)に出(で)た僧(そう)が讃岐(さぬき)の国(くに)八島(やしま)の浦(うら)に着(つ)きました。日暮(ひぐ)れであつたので、とある漁師(りようし)の家(いへ)を頼(たの)んで一晩(ひとばん)泊(とま)らせて貰(もら)はうと思(おも)つてゐました。そこへ年寄(としよ)つたのと、年(とし)の若(わか)いのと、二人(ふたり)の漁師(りようし)がやつて来(き)ました。この浦(うら)の夜景(やけい)のもの凄(すご)さを話(はな)してゐるようでしたが、家(いへ)に帰(かへ)つて休(やす)まうといつて、今(いま)しも旅僧(たびそう)が目(め)ぼしをつけた家(いへ)にはひりました。
僧(そう)はよいところへ帰(かへ)つて来(き)てくれたと思(おも)つて、その家(いへ)の前(まへ)に立(た)つて、諸国(しよこく)を廻(まは)る僧(そう)でありますが、一晩(ひとばん)泊(と)めて貰(もら)ひたいといひますと、かの若者(わかもの)は奥(おく)へ行(い)つて老人(ろうじん)に取(と)り次(つ)ぎました。
すると、老人(ろうじん)はあまり汚(きた)い家(いへ)であるからお宿(やど)を断(ことわ)れ、といひます。若者(わかもの)はその通(とほ)りを僧(そう)に伝(つた)へますと、僧(そう)は汚(きたな)いことなどは少(すこ)しも構(かま)はぬ、自分(じぶん)は都(みやこ)の者(もの)で、初(はじ)めてこの浦(うら)に来(き)たが、外(ほか)に宿(やど)を頼(たの)む家(いへ)もないから、ぜひ泊(と)めて貰(もら)ひたい、どうぞもう一度(いちど)主(あるじ)に話(はな)して見(み)てくれ、と申(まを)しました。
若者(わかもの)はまた、その通(とほ)り老人(ろうじん)に取(と)り次(つ)ぎますと、老人(ろうじん)は旅僧(たびそう)が都(みやこ)の人(ひと)であるといつたと聞(き)いて、急(きゆう)に同情心(どうじようしん)を起(おこ)し、それでは宿(やど)をいたしませうと答(こた)へました。しかし、家(いへ)といつても蘆(あし)で葺(ふ)いた家(いへ)、敷(し)き物(もの)もろくになくてお気(き)の毒(どく)であると、附(つ)け加(くは)へて僧(そう)をひき入れました。
さて僧(そう)に座(ざ)を与(あた)へた後(のち)、お慰(なぐさ)みになるものは浦(うら)におりてゐる鶴(つる)の群(む)れであるが、その鶴(つる)は雲居(くもゐ)の故里(ふるさと)に帰(かへ)ることがあるけれど、自分(じぶん)はもとの都(みやこ)に帰(かへ)らうをりもない。今(いま)旅人(たびびと)が都(みやこ)の方(かた)であるとうけたまはつて、昔(むかし)を思(おも)ひ出(だ)しました。さても悲(かな)しいことでございます、といつて涙(なみだ)にむせびました。
その時(とき)僧(そう)は白(しら)けた座敷(ざしき)の気分(きぶん)をかへようと思(おも)ひましたのか、
「法師(ほうし)の身(み)には不似合(ふにあ)ひの註文(ちゆうもん)のようですが、むかし、この八島(やしま)は源平(げんぺい)の戦(いくさ)があつたところと聞(き)いてをります。夜(よ)も長(なが)いことですから、ゆるりと話(はな)して聞(き)かせて下(くだ)さい」
と、申(まを)しますと、
「お易(やす)いことです。それではお話(はな)しいたしませう。さう/\、その時(とき)は元暦(げんりやく)元年(がんねん)三月(さんがつ)十八日(じゆうはちにち)のことでした。平家方(へいけがた)は海上(かいじよう)一町(いつちよう)ばかりの先(さき)に軍船(ぐんせん)をうかべ、源氏(げんじ)の勢(せい)はこの水際(みぎは)に打(う)つて出(で)ました。源氏(げんじ)の大将軍(たいしようぐん)のいでたちを見(み)ますと、赤地錦(あかじにしき)の直垂(ひたゝ)れに、紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧(おほよろひ)を着(ちやく)し、馬上(ばじよう)ゆたかに鐙(あぶみ)を踏(ふ)ん張(ば)つて身(み)を延(のば)し、一院(いちいん)の御使(おんつか)ひ源氏(げんじ)の大将(たいしよう)、検非違使(けんびいし)五位尉(ごいのじよう)源義経(みなもとのよしつね)とお名(な)のりになつた、その威風(いふう)は、あつぱれ大将(たいしよう)と見(み)えましたが、今(いま)でもそれが思(おも)ひ出(だ)されます」
と、老人(ろうじん)が申(まを)します。若者(わかもの)はその後(あと)を引(ひ)き取(と)つて、
「その時(とき)平家方(へいけがた)から言葉(ことば)を掛(か)け、源氏方(げんじがた)からもこたへて、挑(いど)み合(あ)つた後(のち)、平家(へいけ)から、一艘(いつそう)の軍船(ぐんせん)を漕(こ)ぎ出(だ)して、乗(の)り組(く)みの兵(つはもの)ども波打(なみう)ち際(ぎは)に下(お)り立(た)つて、陸(りく)の源氏(げんじ)をさし招(まね)きますと」
老人(ろうじん)が、すぐ次(つ)ぎを続(つゞ)けて、
「源氏方(げんじがた)でも五十騎(ごじつき)ばかりの兵(つはもの)が押(お)し出(だ)しました。中(なか)にも三保谷(みほのやの)四郎国俊(しろうくにとし)と名(な)のつて真先(まつさき)に現(あらは)れますと」
「平家(へいけ)の方(ほう)からは悪七兵衛(あくしちびようえ)景清(かげきよ)と名(な)のつて出(で)て、かの三保谷(みほのや)を目(め)がけて闘(たゝか)つたところ」
「三保谷(みほのや)は太刀(たち)を打(う)ち折(を)つていたし方(かた)なく、少々(しよう/\)後(あと)へ退去(しさ)りますと」
「景清(かげきよ)はすかさず追(お)つ駈(か)けて三保谷(みほのや)の」
「冑(かぶと)の錣(しころ)を掴(つか)んで」
「うしろへ曳(ひ)くと、三保谷(みほのや)も」
「逃(に)げようとして前(まへ)へ引(ひ)く」
「双方(そうほう)、えいやと」
老人(ろうじん)が一(ひと)くさり話(はな)せば、若者(わかもの)がその言葉(ことば)をすぐ受(う)けて、互(たがひ)に話(はな)し続(つゞ)けました。そして老人(ろうじん)は、
「曳(ひ)く力(ちから)に、鉢附(はちつ)きの板(いた)から引(ひ)きちぎつて、二人(ふたり)は前後(ぜんご)へ飛(と)んで別(わか)れました。これを見(み)られた義経(よしつね)が馬(うま)を水際(みぎは)に進(すゝ)められたところを、平家方(へいけがた)の能登守教経(のとのかみのりつね)といふもの、強弓(ごうきゆう)を引(ひ)いて義経(よしつね)を狙(ねら)ひました。それを見(み)た佐藤嗣信(さとうつぎのぶ)はその矢面(やおもて)に立(た)つて大将(たいしよう)の命(いのち)に代(かは)りました。馬(うま)にこらへずに落(お)ちましたとこを、教経(のりつね)の童(わらは)菊王丸(きくおうまる)首(くび)を挙(あ)げんと立(た)ち寄(よ)つたが、嗣信(つぎのぶ)の弟(おとうと)忠信(たゞのぶ)に射殺(いころ)されました。源平(げんぺい)互(たがひ)にこの損害(そんがい)があつたので、船(ふね)は沖(おき)へ、陸(りく)は本陣(ほんじん)に、相引(あひび)きに引(ひ)いて、あとは鬨(とき)の声(こゑ)も絶(た)え、たゞ波(なみ)の音(おと)と松風(まつかぜ)ばかり聞(きこ)えて寂(さび)しくなりました」
と、話(はな)しました。この物語(ものがた)りがまことに委(くは)しく、また目(め)の前(まへ)に見(み)たようであるので、僧(そう)は不思議(ふしぎ)に思(おも)ひまして、老人(ろうじん)の名(な)を尋(たづ)ねますと、老人(ろうじん)は名(な)もない者(もの)、たとひあつても名(な)のる程(ほど)の者(もの)ではないといふように言葉(ことば)を濁(にご)しましたが、また答(こた)へ直(なほ)して、「この海(うみ)の汐(しほ)のひく明(あ)け方(がた)には凄(すご)い戦(たゝか)ひの時刻(じこく)が来(き)ますから、その時(とき)はもう一度(いちど)あらはれて名(な)を名(な)のりませう。夢(ゆめ)を覚(さま)まさずに待(ま)つてゐて下(くだ)さい」といつて立(た)ち上(あが)るかと見(み)ると、老人(ろうじん)の姿(すがた)は見(み)えなくなりました。
僧(そう)は夢(ゆめ)とも現(うつゝ)ともつかぬ境(さかひ)にありましたが、今(いま)しがた老人(ろうじん)が立(た)ち去(さ)る際(きは)に夢(ゆめ)を覚(さま)まさずに待(ま)てとあつた言葉(ことば)にそむかず、浦(うら)の松(まつ)の根方(ねかた)に倚(よ)り臥(ふ)してゐました。明(あ)け方(がた)近(ちか)くなつた頃(ころ)、甲冑(かつちゆう)に身(み)を固(かた)めた武将(ぶしよう)らしい人(ひと)が現(あらは)れました。僧(そう)は大方(おほかた)それと知(し)つて、判官殿(ほうがんどの)かときゝますと、その霊(れい)は、
「いかにも義経(よしつね)であるが、うき世(よ)に執心(しゆうしん)を残(のこ)してゐるために、今(いま)も西海(さいかい)の波(なみ)に浮(う)き沈(しづ)みして、極楽(ごくらく)に往生(おうじよう)することが出来(でき)ぬ」
と歎(なげ)くのを僧(そう)は慰(なぐさ)め、またいましめて、今(いま)までの罪(つみ)を悔(く)いて妄念(もうねん)を去(さ)れ、と諭(さと)しますと、義経(よしつね)の霊(れい)は懺悔(さんげ)のためと、再(ふたゝ)び昔物語(むかしものがた)りをし出(だ)しました。
「思(おも)ひ出(だ)すと、時(とき)も春(はる)、月(つき)も今宵(こよひ)のように冴(さ)え、しかも所(ところ)はこゝで、源平(げんぺい)の兵(つはもの)互(たがひ)に矢先(やさき)を揃(そろ)へ、船(ふね)を組(く)み馬(うま)を並(なら)べて、攻(せ)めつ防(ふせ)ぎつ戦(たゝか)ふうちに、どうしたはずみか、自分(じぶん)は持(も)つてゐた弓(ゆみ)を海中(かいちゆう)に落(おと)したところ、ちようど引(ひ)き汐時(しほどき)で波(なみ)のまに/\流(なが)れて遠(とほ)くの方(ほう)へ行(ゆ)かうとした。敵(てき)に取(と)られてはならぬと思(おも)ひ、馬(うま)を泳(およ)がせて思(おも)はず敵(てき)の船(ふね)に近(ちか)づくと、敵(てき)はこれを見(み)つけて船(ふね)を寄(よ)せ、熊手(くまで)を延(のば)して、自分(じぶん)を打(う)ち取(と)らうとしたが、それにも怖(おそ)れず熊手(くまで)を切(き)り払(はら)つて、とう/\弓(ゆみ)を取(と)り返(かへ)して、もとの陸地(りくち)に駈(か)け上(あが)つた。その時(とき)老臣(ろうしん)権頭兼房(ごんのかみかねふさ)が諫(いさ)めて申(まを)すには、歎(なげ)かはしい御振(おんふ)る舞(ま)ひ、先(さき)だつて渡辺(わたなべ)で梶原(かぢはら)と逆櫓(さかろ)の論(ろん)をなさいましたのも、たゞ我意(がい)をお張(は)りになつてのことでござる。たとひ黄金(こがね)をのべて作(つく)つたお弓(ゆみ)であつたとしても、御一命(ごいちめい)には換(か)へられませぬ。と涙(なみだ)を流(なが)して申(まを)した。その時(とき)自分(じぶん)がいふには、いや/\弓(ゆみ)を惜(を)しんだのではない。自分(じぶん)は源平両家(げんぺいりようけ)の間(あひだ)にいさゝか名(な)を知(し)られたが、まだ良(よ)い大将(たいしよう)といふ誉(ほまれ)を得(え)てはをらぬ。今(いま)この弓(ゆみ)を平家方(へいけがた)に取(と)られて、弱々(よわ/\)しい弓(ゆみ)の持(も)ち主(ぬし)と噂(うはさ)されては無念(むねん)である。たとひ弓(ゆみ)を取(と)り返(かへ)すために討(う)たれようとも、それは運(うん)のつきと諦(あきら)めるよりほかはない。そこで弓(ゆみ)を敵(てき)に渡(わた)してはなるまいと思(おも)ひ定(さだ)めて、かように骨(ほね)を折(を)つたのである。武士(ぶし)は末代(まつだい)までの名(な)を惜(を)しむべきである、と話(はな)すと、兼房(かねふさ)を初(はじ)め居合(ゐあは)せた人人(ひとびと)が皆(みな)感涙(かんるい)を流(なが)した。古(ふる)い言葉(ことば)に『智者(ちしや)は惑(まど)はず、勇者(ゆうしや)は恐(おそ)れず』といふのが武将(ぶしよう)の精神(せいしん)に適(かな)つた言葉(ことば)で、名(な)を惜(を)しむとも一命(いちめい)を惜(を)しまず、身(み)を捨(す)てても後(のち)の記録(きろく)に美名(びめい)を留(と)めたいとおもつた義経(よしつね)の心(こゝろ)の中(なか)は苦(くる)しかつた」
と、いひました。さて義経(よしつね)の霊(れい)は、あの世(よ)でも修羅道(しゆらどう)といつて、常(つね)に軍(いくさ)の絶(た)え間(ま)のないところに堕(お)ちてゐるとみえて、俄(にはか)に景色(けしき)を変(か)へ、
「今日(けふ)の軍(いくさ)の相手(あひて)は誰(たれ)ぢや。なに能登守教経(のとのかみのりつね)といふか。見(み)たところは大層(たいそう)でも手並(てなみ)は知(し)つてゐるぞ。思(おも)ひ出(だ)される壇(だん)の浦(うら)の合戦(かつせん)」
と叫(さけ)びながら、船(ふね)からは鬨(とき)の声(こゑ)を挙(あ)げ、陸(りく)には楯(たて)の垣(かき)を築(つ)いて、互(たがひ)に軍(いくさ)をはじめた後(のち)、剣(つるぎ)の光(ひかり)は月(つき)に輝(かゞや)き、兜(かぶと)の星(ほし)は水(みづ)に映(うつ)つて、敵身方(てきみかた)乱(みだ)れ合(あ)つて、戦(たゝか)ふ様(さま)を仕方(しかた)にして見(み)せましたが、春(はる)の夜(よ)も海(うみ)の表(おもて)から明(あ)けそめて、今(いま)まで敵(てき)と見(み)えたのは群(む)れゐる鴎(かもめ)となり、鬨(とき)の声(こゑ)と聞(きこ)えたのは高松(たかまつ)の浦風(うらかぜ)となつて、義経(よしつね)の霊(れい)も姿(すがた)を隠(かく)しました。これも僧(そう)が一夜(いちや)の夢(ゆめ)でありました。
羽衣(はごろも)
駿河(するが)の国(くに)三保(みほ)の松原(まつばら)のほとりに白龍(はくりよう)といふ漁師(りようし)が住(す)んでゐました。この三保(みほ)の浦(うら)は、万葉集(まんようしゆう)の歌(うた)に『風早(かざはや)の三保(みほ)の浦曲(うらわ)を漕(こ)ぐ船(ふね)の、浦人(うらびと)さわぐ浪立(なみた)つらしも』とある通(とほ)り、浪風(なみかぜ)の荒(あら)いこともありますが、ふだんは景色(けしき)のいゝので名高(なだか)いところであります。ことに今(いま)は、ちようど春(はる)の波(なみ)おだやかに、空(そら)には残(のこ)りの月(つき)が見(み)えて、朝霞(あさがすみ)が棚引(たなび)いてゐるので、どんな人(ひと)もこの風景(ふうけい)を喜(よろこ)ばないものはないと見(み)えまして、白龍(はくりよう)は近所(きんじよ)の漁師(りようし)と連(つ)れ立(だ)つて浜辺(はまべ)に来(き)ました。しばらく松原(まつばら)に立(た)つて一休(ひとやす)みしてゐますと、不思議(ふしぎ)のことには、空(そら)から花(はな)が降(ふ)つてきて、音楽(おんがく)が聞(きこ)え、なんともいへぬ良(よ)い匂(にほ)ひがします。これはたゞごとではないと思(おも)ふ矢先(やさき)にふと目(め)についたのは、じき傍(そば)の松(まつ)の木(き)の枝(えだ)に美(うつく)しい衣(ころも)が懸(か)かつてゐます。側(そば)に寄(よ)つて見(み)ますとその色(いろ)といひ、香(かを)りといひ、世間(せけん)にある物(もの)ではありません。
「よい物(もの)を見(み)つけた。持(も)つて帰(かへ)つて老人(ろうじん)などに見(み)て貰(もら)つて、わが家(や)の宝(たから)にしよう」
といつて、取(と)つて行(ゆ)かうとしますと、どこからともわからず一人(ひとり)の美(うつく)しい女(をんな)が現(あらは)れました。頭(あたま)には天冠(てんかん)を被(かぶ)り、見慣(みな)れぬ衣裳(いしよう)を纏(まと)つた気高(けだか)い人(ひと)であります。それが言葉(ことば)をかけて、
「もし/\、それはこなたの衣(ころも)です。なぜ持(も)つて行(ゆ)かれるのです」
と、いひました。
「これは拾(ひろ)つた物(もの)ですから、取(と)つて帰(かへ)ります」
と白龍(はくりよう)がいひますと、
「それは天人(てんにん)の羽衣(はごろも)と申(まを)して、この世(よ)の人(ひと)に上(あ)げられるものではありませぬ。もとの通(とほ)りに懸(か)けておいて下(くだ)さい」
「この衣(ころも)の主(ぬし)と申(まを)されるところを見(み)ると、あなたは天人(てんにん)でおいでなさいますか。それならいよ/\返(かへ)すことは出来(でき)ませぬ。末(すゑ)の世(よ)までの形身(かたみ)とも国(くに)の宝(たから)とも致(いた)します」
「羽衣(はごろも)がなくては飛(と)び歩(ある)くことも出来(でき)ず、天上(てんじよう)に帰(かへ)らうにも帰(かへ)られませぬから、ぜひ返(かへ)して下(くだ)さい」
この天人(てんにん)の言葉(ことば)に白龍(はくりよう)はいよ/\欲心(よくしん)を起(おこ)しまして、
「何(なに)も存(ぞん)ぜぬうちは、ともかくも、羽衣(はごろも)と知(し)つた上(うへ)は返(かへ)すことはなりませぬ」
といつて、かの羽衣(はごろも)をうしろに隠(かく)して立(た)ち退(の)かうとしました。そこで天人(てんにん)は翼(つばさ)をなくした鳥(とり)のように、天(てん)に登(のぼ)らうとすることも出来(でき)ず、さうかといつて、この下界(げかい)に住(す)むわけにもいきませんので、どうしたらよからうかと気(き)を揉(も)みましたが、白龍(はくりよう)は気(き)の強(つよ)い男(をとこ)ですから、羽衣(はごろも)を返(かへ)す様子(ようす)もありません。どうしようもないので天人(てんにん)は涙(なみだ)を流(なが)してゐます。せめてもの心(こゝろ)やりにと大空(おほぞら)を仰(あふ)いで見(み)ても、たゞ霞(かすみ)が立(た)ち籠(こ)めて天(てん)の路(みち)もはつきりとわからず、あの雲(くも)の行(ゆ)くあたりが自分(じぶん)の住(す)み慣(な)れたところかと思(おも)ひ、たゞ雲(くも)の身(み)が羨(うらや)ましく思(おも)はれました。天上(てんじよう)にゐた時(とき)は聞(き)きなれた迦陵頻迦鳥(かりようびんがちよう)の美(うつく)しい声(こゑ)も、今(いま)は耳(みゝ)に遠退(とほの)いたので、天路(あまぢ)を帰(かへ)つて行(ゆ)く雁(かり)や、波(なみ)の上(うへ)を飛(と)び廻(まは)る千鳥(ちどり)や鴎(かもめ)も慕(した)はしく、空(そら)を吹(ふ)き渡(わた)る風(かぜ)までも懐(なつか)しくなつて、歎(なげ)き悲(かな)しみました。
このあり様(さま)を見(み)て白龍(はくりよう)も、やう/\心(こゝろ)が折(を)れまして、
「あまり、お痛(いた)はしいから、羽衣(はごろも)をお返(かへ)し申(まを)しませう」
といひますと、天人(てんにん)は大(たい)そう喜(よろこ)びまして、
「ありがたうございます。それではどうぞ」
といひます。すると白龍(はくりよう)は、
「いや、待(ま)つて下(くだ)さい、かね/゛\聞(き)いてをります天人(てんにん)の舞(ま)ひの一曲(いつきよく)をこのをりに拝見(はいけん)させて下(くだ)さい。その上(うへ)でお返(かへ)ししませう」
「羽衣(はごろも)が戻(もど)つて天上(てんじよう)に帰(かへ)ることができる喜(よろこ)びに、あなたのお望(のぞ)みをかなへて、面白(おもしろ)い一曲(いつきよく)を舞(ま)つてお眼(め)にかけ、人間(にんげん)の世界(せかい)にのこすことにいたしませう。それには衣(ころも)がなくては舞(ま)はうにも舞(ま)はれませぬから、まづこちらへお返(かへ)し下(くだ)さい」
といひましたが、白龍(はくりよう)は疑(うたが)つて、
「この衣(ころも)を返(かへ)したら、約束(やくそく)の舞(ま)ひを舞(ま)はずに天(てん)に昇(のぼ)つておしまひなさるでせう」
「いや、疑(うたが)ひといふものは人間(にんげん)にはありますが、天(てん)の世界(せかい)には嘘偽(うそいつは)りといふものはありませぬ」
と天人(てんにん)が申(まを)しましたので、白龍(はくりよう)は大(おほ)きに赤面(せきめん)して、
「恥(は)づかしいことをいひました。それではお返(かへ)し申(まを)しませう」
といつて、羽衣(はごろも)を返(かへ)しますと、天人(てんにん)はやがて、これを身(み)に着(つ)けて、霓裳羽衣(げいしよううい)の舞(ま)ひを始(はじ)めました。わが国(くに)で神(かみ)を祀(まつ)るときにする東遊(あづまあそ)びの駿河舞(するがま)ひといふのは天人(てんにん)のしたのに基(もと)づくといひますが、この時(とき)のことを指(さ)すのでありませうか。
さてこの天人(てんにん)はもと月(つき)の宮(みや)に仕(つか)へてゐた者(もの)で、月(つき)の宮(みや)では一月(ひとつき)を二(ふた)つに分(わ)けて、上半分(かみはんぶん)は白衣(はくい)の天人(てんにん)、下半分(しもはんぶん)は黒衣(こくい)の天人(てんにん)が十五人(じゆうごにん)づゝ番(ばん)を立(た)てゝ夜々(よる/\)の勤(つと)めをします。今(いま)舞(ま)ひにかゝつた天人(てんにん)はかりそめに下界(げかい)に降(くだ)つて、月(つき)の宮(みや)でする神舞(かみま)ひを人間(にんげん)に伝(つた)へようとするのであります。
そこでいよ/\舞(ま)ひの曲(きよく)に移(うつ)りましたが、をりから春霞(はるがすみ)の棚引(たなび)く長閑(のどけ)さには、月(つき)の世界(せかい)にあるといふ桂(かつら)の花(はな)も咲(さ)きそうです。また風(かぜ)はこの世(よ)にも通(かよ)つてくるので、天上(てんじよう)でなくても気分(きぶん)のよいことは異(かは)りません。この風(かぜ)がしばらく雲(くも)の行(ゆ)く路(みち)を吹(ふ)き閉(と)ぢましたので、天(あま)つ乙女(をとめ)の姿(すがた)が留(とゞ)まつてこの松原(まつばら)の色(いろ)を添(そ)へるのであります。清見潟(きよみがた)の月(つき)、富士(ふじ)が嶺(ね)の雪(ゆき)、どちらの色(いろ)からか春(はる)は明(あ)け初(そ)めて、松(まつ)の風(かぜ)浦(うら)の波(なみ)の静(しづ)かに晴(は)れ/゛\しい景色(けしき)はなんともいはれません。東歌(あづまうた)をうたふよい声(こゑ)に合(あは)せて、簫(しよう)、笛(ふえ)、琴(こと)などの音(ね)が雲(くも)の外(ほか)まで響(ひゞ)きわたり、山際(やまぎは)を染(そ)める夕日(ゆふひ)の紅(あか)いのと海面(うみづら)を彩(いろど)る波(なみ)の青(あを)いので、取(と)り合(あは)せのよい間(あひだ)で、白衣(はくい)の袖(そで)を振(ふ)る舞(ま)ひ姿(すがた)は、なんとたとへようもない麗(うるは)しいものでした。春風(はるかぜ)のまに/\翻(ひるがへ)る袂(たもと)は大空(おほぞら)の緑(みどり)の色(いろ)にまがひ、または春霞(はるがすみ)のたなびくように見(み)え、美(うつく)しい裳裾(もすそ)を曳(ひ)いて、指(さ)す手(て)、引(ひ)く手(て)の見事(みごと)さには眼(め)もあやになるようであります。そのうちに東遊(あづまあそ)びの曲(きよく)も段数(だんすう)がかさなつて、天人(てんにん)も今(いま)はもとの月(つき)の都(みやこ)へ帰(かへ)らうとして、羽衣(はごろも)を三保(みほ)の浦風(うらかぜ)に靡(なび)かせ/\、松原(まつばら)の空(そら)から浮島(うきしま)が原(はら)の雲間(くもま)に翔(かけ)るよと見(み)ると、また一廻(ひとまは)りして愛鷹山(あしたかやま)から富士山(ふじさん)に舞(ま)ひ上(あが)り、影(かげ)は次第(しだい)に幽(かすか)になつて、とう/\霞(かすみ)の中(なか)に隠(かく)れてしまひました。
六浦(むつら)
京都辺(きようとへん)のある僧(そう)が、東国行脚(とうごくあんぎや)を思(おも)ひ立(た)つて、相模(さがみ)の国(くに)六浦(むつら)の里(さと)に来(き)ました。こゝから船(ふね)で、安房(あは)の国(くに)に渡(わた)らうとして、しばらくの間(あひだ)足(あし)を休(やす)めて、あたりを眺(なが)めてゐますと、すぐ近(ちか)いところに由緒(ゆいしよ)ありげな寺(てら)がありました。寺(てら)の名(な)を人(ひと)に尋(たづ)ねますと称名寺(しようみようじ)と知(し)れましたので、なほ心(こゝろ)をとめて見物(けんぶつ)してゐました。ちようど秋(あき)の末(すゑ)で、山々(やま/\)の紅葉(こうよう)が色(いろ)を競(きそ)つて錦(にしき)を晒(さら)したようであるところなどは、都(みやこ)の辺(へん)にも劣(おと)らぬ見(み)ものと思(おも)へました。すると手近(てじか)い本堂(ほんどう)の庭(には)に木振(きぶり)りの面白(おもしろ)い一株(ひとかぶ)の楓(かへで)があつて、その葉色(はいろ)は不思議(ふしぎ)にも青々(あを/\)として少(すこ)しも紅葉(こうよう)を交(まじ)へないで、まるで夏木立(なつこだち)のようです。これは定(さだ)めて、いはれのあることであらうと考(かんが)へてゐました。
その時(とき)、片田舎(かたいなか)の人(ひと)にしては美(うつく)しく、気高(けだか)いところのある婦人(ふじん)が出(で)て来(き)ました。僧(そう)はよいところへ人(ひと)が来(き)たと思(おも)つて、
「お尋(たづ)ねしたいことがあります。山々(やま/\)の紅葉(もみぢ)は今(いま)を盛(さか)りと見(み)えますのに、この一本(ひともと)の楓(かへで)だけは一葉(ひとは)も色(いろ)づかずにゐるとはどうしたわけでございませう」
僧(そう)の問(と)ひに婦人(ふじん)は答(こた)へました。
「その御不審(ごふしん)は御尤(ごもつと)もでございます。むかし、鎌倉(かまくら)の中納言(ちゆうなごん)為相卿(ためすけのきよう)といふ名高(なだか)い歌(うた)よみがありました。ある時(とき)、紅葉(もみぢ)を見(み)にこゝへおいでになつたところ、山々(やま/\)の紅葉(もみぢ)はまだ早(はや)かつたのに、この木(き)一本(いつぽん)だけは紅(くれなゐ)の色(いろ)濃(こ)く染(そ)めて、ことの外(ほか)美(うつく)しかつたので、為相卿(ためすけのきよう)は深(ふか)く感心(かんしん)なされて、『いかにしてこの一本(ひともと)に時雨(しぐ)れけん、山(やま)に先(さき)だつ庭(には)のもみぢ葉(ば)』といふ歌(うた)を詠(よ)まれました。それから後(のち)、この木(き)は再(ふたゝ)び紅葉(もみぢ)するのを止(や)めて、今(いま)もその通(とほ)りでございます」
そのいはれを聞(き)きますと、僧(そう)は、
「面白(おもしろ)い歌(うた)ですな。愚僧(ぐそう)ふつゝかながら、為相卿(ためすけのきよう)のお弔(とむら)ひに一首(いつしゆ)仕(つかまつ)りました。『ふりはつるこの一木(ひともと)の跡(あと)を見(み)て袖(そで)の時雨(しぐれ)ぞ山(やま)に先(さき)だつ』
「お手向(たむ)け、まことにありがたうございます。いよ/\この木(き)の名誉(めいよ)と申(まを)すものです」
「為相卿(ためすけのきよう)が歌(うた)をよまれてから、この木(き)が紅葉(もみぢ)しないようになつたいはれはいかゞでせう」
「御不審(ごふしん)のありそうなことですが、それはかうでございます。為相卿(ためすけのきよう)の詠吟(えいぎん)にあづかりました時(とき)、この木(き)が心(こゝろ)に思(おも)つたのは、所(ところ)もあらうに、この様(よう)な片田舎(かたゐなか)で、人(ひと)も通(かよ)はない古寺(ふるでら)の庭(には)にありながら、名高(なだか)い方(かた)の詠歌(えいか)にあづかつたのは、自分(じぶん)がひとり山々(やま/\)の木(き)に先(さき)だつて紅葉(もみぢ)したからであります。古人(こじん)の言葉(ことば)に、『功成(こうな)り名遂(なとげ)げて身退(みしりぞ)くは天(てん)の道(みち)』とあるにしたがつて、それで今(いま)に紅葉(こうよう)を停(とゞ)めてゐるのでございます」
僧(そう)は、婦人(ふじん)の言葉(ことば)にいよ/\いぶかしく思(おも)ひ、
「この木(き)が紅葉(こうよう)しないようになつたいはれは面白(おもしろ)くうけたまはりましたが、それほどに深(ふか)くこの木(き)の心(こゝろ)を御存(ごぞん)じのあなたはどういふお方(かた)ですか」
すると、婦人(ふじん)は、
「今(いま)は何(なに)を隠(かく)しませう。私(わたくし)はこの木(き)の精(せい)でございますが、あなたが貴(たふと)くおいでなさいますので、只今(たゞいま)現(あらは)れて来(き)たのでございます。今夜(こんや)はこゝに泊(とま)つて、夜(よ)もすがらお経(きよう)を読(よ)んで下(くだ)さいませ。さういたしますと、また姿(すがた)をお見(み)せ申(まを)します」
といふかと見(み)ると、夕風(ゆふかぜ)の冷(つめた)い古寺(ふるでら)の庭上(ていじよう)に咲(さ)き乱(みだ)れた草花(くさばな)を掻(か)き分(わ)けて、どこともなく消(き)えてしまひました。
僧(そう)は不思議(ふしぎ)に思(おも)ひ、草木(くさき)は無情(むじよう)の物(もの)といふけれども、かういふこともあるものか、それなら夜中(よじゆう)この木(き)の成仏(じようぶつ)を祈(いの)らうとおもつて、木蔭(こかげ)に坐(すわ)つてお経(きよう)を読(よ)んでをりますと、前(まへ)に見(み)えた楓(かへで)の精魂(せいこん)が再(ふたゝ)び綺麗(きれい)な女(をんな)の姿(すがた)であらはれ、お経(きよう)の手向(たむ)けのまことに有(あ)り難(がた)い由(よし)を述(の)べました。
「お経(きよう)に草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しつかい)成仏(じようぶつ)とあるをお疑(うたが)ひなさるな。なほいひたいことがあるなら話(はな)して下(くだ)さい」
と、僧(そう)が申(まを)しますと、楓(かへで)の精(せい)は力(ちから)づいて
「草木(そうもく)には心(こゝろ)がないと申(まを)しますけれど、四季(しき)の時(とき)を違(たが)へず、おの/\その折(を)りを知(し)つて、花(はな)に葉(は)に様々(さま/゛\)の姿(すがた)をあらはします。まづ春(はる)の初(はじ)めには梅(うめ)の花(はな)、つゞいて桜(さくら)の花(はな)ざかり、やがて卯(う)の花(はな)といふうちに夏(なつ)も暮(く)れて秋(あき)が来(く)れば、時雨(しぐれ)に染(そ)める紅葉(もみぢ)のいろ/\となります。これにつけても草木(くさき)に心(こゝろ)がないとは申(まを)されませぬ。私(わたくし)もこのような山里(やまざと)に生(お)ひ立(た)ちながら先(さき)には為相卿(ためすけのきよう)の御歌(おんうた)にあづかり、今(いま)またお僧(そう)の手向(たむ)けをかうむるのは嬉(うれ)しいことです。なほ/\法華経(ほけきよう)の利益(りやく)によつて成仏(じようぶつ)を得(え)させて下(くだ)さい。紅色(こうしよく)を交(まじ)へず艶(つや)も香(か)もないこの身(み)でありますけれど、今夜(こんや)の月(つき)が面白(おもしろ)いので、この青葉色(あをばいろ)の袖(そで)を返(かへ)して一(ひと)さし舞(ま)ひませうか。せめてのお礼心(れいごゝろ)に」
といつて、立(た)ち上(あが)つて舞(ま)ひ始(はじ)めました。さうかうするうちに、長(なが)いと思(おも)つた秋(あき)の夜(よ)も明(あ)け方(がた)になつたらしく、鶏(とり)の声(こゑ)も聞(きこ)え、鐘(かね)の音(ね)も響(ひゞ)き、浦風(うらかぜ)、山風(やまかぜ)がしきりに吹(ふ)いて紅葉(もみぢ)を散(ちら)らすと、月(つき)はこれに照(て)り添(そ)つて、庭(には)一面(いちめん)はいよ/\明(あか)るくなりました。この上(うへ)夜(よ)も明(あ)け放(はな)れたらわが姿(すがた)も恥(は)づかしからうと思(おも)つたのか、楓(かへで)の精(せい)は暇(いとま)を告(つ)げて影(かげ)を隠(かく)しました。
鉢(はち)の木(き)
鎌倉(かまくら)から出(で)た行脚僧(あんぎやそう)(実(じつ)は執権(しつけん)北条時頼(ほうじようときより)が出家(しゆつけ)して最明寺入道(さいみようじにゆうどう)道崇(どうそう)となつたのです)が諸国(しよこく)を経廻(へめぐ)つて、ある年(とし)の冬(ふゆ)、信濃(しなの)の国(くに)に来(き)てゐましたが、あまり雪(ゆき)が深(ふか)くなりましたので、一度(いちど)鎌倉(かまくら)へ帰(かへ)つて、来年(らいねん)の春(はる)ふたゝび修行(しゆぎよう)に出(で)ようと思(おも)ひました。やがて上野(かうづけ)の国(くに)にはひつて佐野(さの)の渡(わた)りに着(つ)きました時(とき)に、しばらくやんでゐた雪(ゆき)がまた降(ふ)り出(だ)して、足(あし)の運(はこ)びが難渋(なんじゆう)になりました。そこで今夜(こんや)はこの里(さと)に宿(やど)を借(か)りようと思(おも)つて、とある人家(じんか)の門(もん)に立(た)つて、宿(やど)のことを頼(たの)みますと、妻女(さいじよ)らしい人(ひと)が出(で)て来(き)まして、易(やす)いことではありますけれども、主人(しゆじん)が留守(るす)でありますからお宿(やど)は出来(でき)ませぬと申(まを)します。僧(そう)は、それでは主人(しゆじん)の帰(かへ)られるまで門(もん)の外(そと)で待(ま)ちませうと答(こた)へて待(ま)つてゐました。妻女(さいじよ)は外(そと)へ出(で)て主人(しゆじん)を迎(むか)へてこのことを話(はな)さうといつて出(で)て行(ゆ)きました。
そこへ、この家(や)の主人(しゆじん)の佐野(さの)源左衛門尉(げんざえもんのじよう)常世(つねよ)といふ人(ひと)が着物(きもの)に降(ふ)りかゝる雪(ゆき)を払(はら)ひ払(はら)ひして帰(かへ)つて来(き)ながら、独言(ひとりごと)に、
「あゝ、降(ふ)りも降(ふ)つた雪(ゆき)ぢや。世(よ)に不足(ふそく)なく暮(くら)してゐる人(ひと)はさぞこの景色(けしき)を賞翫(しようがん)することであらう。白楽天(はくらくてん)が『雪(ゆき)は鵞毛(がもう)に似(に)て飛(と)んで散乱(さんらん)し、人(ひと)は鶴●(「敞」の下に「毛」)(かくしよう)を被(き)て立(た)つて徘徊(はいかい)す』と詠(よ)んだのも、雪(ゆき)を褒(ほ)めた詞(ことば)である。今(いま)降(ふ)る雪(ゆき)は自分(じぶん)が以前(いぜん)時(とき)を得(え)てゐた頃(ころ)の雪(ゆき)と変(かは)りはせぬが、今(いま)の自分(じぶん)は鶴●(「敞」の下に「毛」)(かくしよう)を被(き)て散歩(さんぽ)する身(み)でもなく、胸(むね)も合(あ)ひかねる粗服(そふく)を着(き)けてこの寒(さむ)さを凌(しの)ぐ苦(くる)しさ、さても面白(おもしろ)くない雪(ゆき)の日(ひ)ぢやよ」
とつぶやいて、わが家(や)に近(ちか)づきますと、思(おも)ひも寄(よ)らず妻(つま)が雪(ゆき)の中(なか)に立(た)つて自分(じぶん)を待(ま)つてゐる様子(ようす)です。仔細(しさい)を聞(き)くと、修行(しゆぎゆう)の僧(そう)が来(き)て宿(やど)を頼(たの)んだので、門(もん)の外(そと)に待(ま)たせておいて、迎(むか)へに来(き)ましたといひます。常世(つねよ)は、その僧(そう)はどこにおいでかといひますと、妻(つま)は後(うしろ)を向(む)いてそれを教(をし)へました。僧(そう)は待(ま)ちかねて、常世(つねよ)にむかひまして、
「愚僧(ぐそう)のことでござる。まだ日暮(ひぐ)れには間(ま)もござるが、この大雪(おほゆき)に行(ゆ)き悩(なや)みまして、一夜(いちや)の御厄介(ごやつかい)にあづかりたいので」
「それはお易(やす)いことでござるが、あまりむさくるしい家(いへ)でござるによつて、お宿(やど)は致(いた)しかねます」
「いや/\、見(み)ぐるしいことなど、なんとも思(おも)ひませぬ。どうぞ一夜(いちや)を明(あか)させて下(くだ)さい」
「ご難儀(なんぎ)はお察(さつ)し申(まを)します。お泊(と)め申(まを)したくは思(おも)ひますが、我等(われら)両人(りようにん)すら住(す)みかねてゐるくらゐで、お宿(やど)はなんとも致(いた)しかねます。こゝから十八町(じゆうはつちよう)さきの山本(やまもと)の里(さと)と申(まを)すところには宿貸(やどか)す家(いへ)もござるから、日(ひ)のあるうちに一足(ひとあし)もはやくおいでなさい」
僧(そう)は常世(つねよ)のこの言葉(ことば)に望(のぞ)みを失(うしな)ひましたが、なほ一度(いちど)念(ねん)を押(お)しても聴(き)き入(い)れてくれなかつたので、すご/\と立(た)ち去(さ)りました。妻(つま)はその後影(うしろかげ)を見送(みおく)つて気(き)の毒(どく)でたまらず、
「私達(わたくしたち)がこのように、おちぶれるといふのも、前(まへ)の世(よ)で良(よ)い種(たね)を蒔(ま)かなかつたからでありませう。せめてはこの世(よ)で修行者(しゆぎようしや)などに縁(えん)を結(むす)んでおいたらば、後(のち)の世(よ)を無事(ぶじ)に送(おく)るたよりともなりはしますまいか。どうにかしてあのお僧(そう)にお宿(やど)をしてお上(あ)げなさいませ」
と、夫(をつと)に勧(すゝ)めますと、常世(つねよ)も、なる程(ほど)と思(おも)ひまして、
「その志(こゝろざし)があるなら、なぜあの修行者(しゆぎようしや)のをられたうちにいひ出(だ)さなかつた。いや、この大雪(おほゆき)にまだ遠(とほ)くは行(ゆ)かれまい。今(いま)から追(お)つついてお留(と)め申(まを)さう」
といつて、門(もん)の外(そと)に出(で)て、降(ふ)りしきる雪(ゆき)の中(なか)を遠(とほ)く望(のぞ)んで僧(そう)の姿(すがた)を認(みと)めましたので、大声(おほごゑ)を挙(あ)げて、
「旅(たび)のお方(かた)、お宿(やど)申(まを)しませう」
と呼(よ)んだが、雪風(ゆきかぜ)に妨(さまた)げられて聞(きこ)えないと見(み)えて、僧(そう)はこちらを見返(みかへ)りもせず、本(もと)から積(つも)つた雪(ゆき)と今(いま)降(ふ)る雪(ゆき)の間(あひだ)に立(た)つて、行(ゆ)く先(さき)を定(さだ)めかねたか、一(ひと)つところに立(た)ちすくみ、衣(ころも)の袖(そで)に積(つも)る雪(ゆき)を打(う)ち払(はら)ひ/\する様子(ようす)は、古(ふる)い歌(うた)に『駒(こま)とめて袖(そで)打(う)ち払(はら)ふ蔭(かげ)もなし、佐野(さの)の渡(わた)りの雪(ゆき)の夕暮(ゆふぐ)れ』とある歌(うた)のこゝろにそつくりであります。もつともこの歌(うた)の佐野(さの)は大和路(やまとぢ)の佐野(さの)、こゝは東路(あづまぢ)の佐野(さの)で、所(ところ)は違(ちが)ふけれど、里(さと)の名(な)の同(おな)じであるのも一(ひと)つの奇(き)であります。そこで常世(つねよ)は歩(ある)き慣(な)れた道(みち)であるから、降(ふ)り積(つも)る雪(ゆき)の中(なか)も迷(まよ)はず、僧(そう)の立(た)つてゐるところに追(お)つついて袂(たもと)を取(と)り、お疲(つか)れでもありませうから、むさくるしうはありますがお宿(やど)いたしませうといひますと、僧(そう)は大(おほ)きに喜(よろこ)んで、常世(つねよ)に案内(あんない)されて、その家(いへ)にはひりました。
かりそめに人(ひと)と人(ひと)が相遇(あひあ)ふ縁(えん)をば一樹(いちじゆ)の蔭(かげ)の宿(やど)りに譬(たと)へてありますが、それは雨(あめ)を避(さ)けての場合(ばあひ)のこと、これは雪(ゆき)の夕(ゆふ)べの宿(やど)りで、少(すこ)し異(ちが)つてはゐますけれども、一時(いちじ)の辛(つら)さを凌(しの)ぐ心(こゝろ)は同(おな)じことであります。ところが、この家(や)は檐(のき)も朽(く)ちてあばら屋(や)に近(ちか)いので、家(いへ)の中(なか)にゐるといつても、草(くさ)を枕(まくら)の野宿(のじゆく)に似(に)たものでありますから、やすんだところで夢(ゆめ)は結(むす)ばれず、霜(しも)が結(むす)ぶであらうといひたいくらゐです。
常世(つねよ)は僧(そう)を家(いへ)に招(まね)き入(い)れたものゝ、宿(やど)をしたかひに、出(だ)してもてなさう物(もの)がないのに当惑(とうわく)して、妻(つま)に相談(そうだん)したのち、粟(あは)の飯(めし)でも召(め)し上(あが)るかときゝますと、
「それは日本一(につぽんいち)のこと、どうぞ下(くだ)さい」
との答(こた)へに、常世(つねよ)は恥(は)づかしいところをこらへていひ出(だ)したことが聴(き)かれたのを喜(よろこ)んで、妻(つま)を呼(よ)んで膳(ぜん)ごしらへをさせ、
「粟(あは)の飯(めし)も詩(し)や歌(うた)に詠(よ)んだのは面白(おもしろ)うござるが、私(わたくし)たちは今(いま)これで露命(ろめい)をつなぐことになりました。むかし、唐土(もろこし)の盧生(ろせい)が五十年(ごじゆうねん)の栄耀(えよう)を夢(ゆめ)に見(み)たのも粟(あは)の飯(めし)炊(た)く間(あひだ)と聞(き)きましたが、私達(わたくしたち)も盧生(ろせい)のように夢(ゆめ)でも見(み)て昔(むかし)を思(おも)ふことがあつたら、少(すこ)しは慰(なぐさ)むこともありませうけれど、御覧(ごらん)の通(とほ)り住(す)み荒(あら)したこの宿(やど)は、松風(まつかぜ)が烈(はげ)しく吹(ふ)いて、夜中(よじゆう)落(お)ちついても寝(ね)られませぬので、昔(むかし)を夢(ゆめ)に見(み)る折(を)りもなく、何(なに)を思(おも)ひ出(だ)しようもござらぬ」
といつて、涙(なみだ)を催(もよほ)しましたが、夜(よ)が更(ふ)けて寒(さむ)さも募(つの)つて来(き)ましたのに心(こゝろ)づき、何(なに)か火(ひ)に焚(た)いて煖(あたゝ)めたいと考(かんが)へました。
「いや、思(おも)ひついたことがござる。鉢植(はちう)ゑの木(き)があります。それを伐(き)つて焚(た)き火(び)を致(いた)しませう」
と常世(つねよ)がいふと、
「鉢(はち)の木(き)をお持(も)ちでござるか」
と僧(そう)が聞(き)きます。
「私(わたくし)が世(よ)に出(で)てゐました程(ほど)は、鉢植(はちう)ゑの木(き)を好(この)みまして、たくさん持(も)つてをりましたが、浪々(ろう/\)の身(み)にはこれも無用(むよう)と存(ぞん)じて、皆(みんな)人(ひと)に進(しん)ぜました。今(いま)は梅(うめ)、桜(さくら)、松(まつ)の三鉢(みはち)だけ残(のこ)してあります、御覧(ごらん)なさい、あの雪(ゆき)を持(も)つた木(き)でござる。私(わたくし)の大事(だいじ)にしたものですが、今夜(こんや)のおもてなしに、これを焚(た)いて火(ひ)におあて申(まを)しませう」
といつて起(た)たうとするのを僧(そう)は止(とゞ)めて、
「思(おも)ひも寄(よ)らぬこと。お志(こゝろざし)はありがたうござるが、あなたが、いつかまた世(よ)に出(で)られた時(とき)のお慰(なぐさ)みになる物(もの)を、むざ/\と伐(き)つておしまひなさらぬがよい」
「いや、この身(み)はどうせ埋(うも)れ木(ぎ)で、花(はな)の咲(さ)く世(よ)に遭(あ)はうとも思(おも)ひませぬ」
といひますと、妻(つま)も言葉(ことば)を添(そ)へて、そのような御遠慮(ごえんりよ)には及(およ)ばぬといひます。やがて常世(つねよ)は庭(には)に下(お)りまして、鉢(はち)の木(き)の雪(ゆき)を払(はら)つて見(み)ましたが、さすがに長(なが)い間(あひだ)丹誠(たんせい)をかけた物(もの)でありますから、三本(さんぼん)のうちを、どれから伐(き)らうと心(こゝろ)の中(なか)で迷(まよ)ひましたが、つひに三本(さんぼん)とも伐(き)つて、僧(そう)の前(まへ)に持(も)つていつて、囲炉裏(いろり)にくべてもてなしました。
かうまで厚(あつ)い志(こゝろざし)に僧(そう)も深(ふか)く感(かん)じ入(い)つて、よい火(ひ)にあたつて寒(さむ)さを忘(わす)れた喜(よろこ)びを述(の)べた後(のち)、主(あるじ)は名(な)のある人(ひと)であらうと思(おも)ひまして、名(な)を尋(たづ)ねますと、それ程(ほど)の者(もの)ではないといひます。二度(にど)も三度(さんど)も押(お)し返(かへ)してきゝましたので、さう包(つゝ)んでもゐられず、佐野(さの)源左衛門尉(げんざえもんのじよう)常世(つねよ)がなれの果(は)てと答(こた)へました。今(いま)の身(み)になり下(さが)つたわけをいぶかしいと申(まを)しますと、親族(しんぞく)のうちに悪(わる)い奴(やつ)があつて、それに領地(りようち)を取(と)られてこの通(とほ)りといひました。僧(そう)はこのことを聞(き)いてゐましたが、
「それならば、なぜ鎌倉(かまくら)に出(で)て訴(うつた)へなさらぬ」
といひますと、
「人(ひと)には運(うん)といふものがござつて、その運(うん)の尽(つ)きる時(とき)は致(いた)し方(かた)のないもの。早(はや)い話(はなし)が最明寺殿(さいみようじどの)でさへ高(たか)い御身分(ごみぶん)を捨(す)て、行脚(あんぎや)においでなされました」
と、常世(つねよ)はいひましたが、急(きゆう)に心(こゝろ)づいたものか、
「かように落(お)ちぶれは致(いた)しましても、心(こゝろ)まで朽(く)ち果(は)てはしませぬ。御覧(ごらん)の通(とほ)り、これに鎧(よろひ)も薙刀(なぎなた)も、また馬(うま)も一匹(いつぴき)持(も)つてをります。すは鎌倉(かまくら)に大事(だいじ)があると聞(き)きますれば、ちぎれてゐてもこの鎧(よろひ)を着(ちやく)し、錆(さび)はしてゐますけれどこの薙刀(なぎなた)を持(も)ち、痩(や)せてはをりますがあの馬(うま)に乗(の)つて一番(いちばん)に駈(か)けつけ、もし軍(いくさ)が始(はじ)まれば敵中(てきちゆう)に躍(をど)り込(こ)んで、よい相手(あひて)と切(き)り合(あ)つて死(し)なうと覚悟(かくご)してゐます。さようのをりもなくて、このまゝであつては、たゞ飢(う)ゑ死(じ)にを致(いた)すまで、それが無念(むねん)でござる」
と、吐息(といき)をついて歎(なげ)きました。
僧(そう)は常世(つねよ)の心中(しんちゆう)を察(さつ)して、懇(ねんごろ)に慰(なぐさ)め、善人(ぜんにん)がいつまでも非運(ひうん)に沈(しづ)むはずもあるまいから、心(こゝろ)を強(つよ)くしてゐるのがよいと、なんとなしに頼(たの)もしく聞(きこ)えることをいひました後(のち)、急(きゆう)に思(おも)ひ出(だ)したことがあつたのか、今夜(こんや)はこれでお暇(いとま)申(まわ)すといつて、家(いへ)を出(で)ようとしました。常世夫婦(つねよふうふ)は、たつてこれを止(と)めましたが、一向(いつこう)に聞(き)き入(い)れませんで、
「いつか、鎌倉(かまくら)に上(のぼ)られる時(とき)があつたら、愚僧(ぐそう)をお尋(たづ)ね下(くだ)さい。数(かず)ならぬ法師(ほうし)ではあるが、お力(ちから)になることもありませう」
といつて、常世(つねよ)の家(いへ)をむりやりに立(た)ち去(さ)りました。
それから幾日(いくにち)かたつて、鎌倉(かまくら)に坂東(ばんどう)八箇国(はつかこく)の軍兵(ぐんぴよう)を呼(よ)び集(あつ)めることがありました。その仔細(しさい)はわかりませんでしたけれども、早打(はやう)ちの者(もの)が諸国(しよこく)を催促(さいそく)して廻(まは)りました。それが上野(かうづけ)の国(くに)にも来(き)ました。佐野(さの)の里(さと)にゐた常世(つねよ)は、これを聞(き)くや否(いな)や、かねての用意(ようい)の通(とほ)り、一刻(いつこく)もおくれまいと、みすぼらしい出立(いでた)ちで、瘠(や)せ馬(うま)に乗(の)つて駈(か)け出(だ)しました。そして金銀(きんぎん)をちりばめ、磨(みが)き立(た)てた甲冑(かつちゆう)の武士(ぶし)の群(むら)がり行(ゆ)く間(あひだ)を、押(お)し分(わ)け/\鎌倉(かまくら)を指(さ)して行(ゆ)きました。
さて鎌倉(かまくら)に着(つ)いて、幕府(ばくふ)に出頭(しゆつとう)して見(み)ますと、前(まへ)の執権(しつけん)時頼入道(ときよりにゆうどう)道崇(どうそう)は立派(りつぱ)な袈裟法衣(けさころも)を着(つ)けて政所(まんどころ)の正面(しようめん)に坐(すわ)り、八州(はつしゆう)の大名(だいみよう)小名(しようみよう)の寄(よ)り集(あつま)つたのを見渡(みわた)した後(のち)、そばに控(ひか)へてゐた二階堂(にかいどう)某(なにがし)を近(ちか)づけて、この諸軍勢(しよぐんぜい)の中(なか)に出立(いでた)ちの際立(きはだ)つて見(み)ぐるしい侍(さむらひ)が一人(いちにん)ゐるはずであるから、それを見(み)つけて呼(よ)んでこいと申(まを)しました。二階堂(にかいどう)はかしこまつて、その趣(おもむ)きを家来(けらい)どもに伝(つた)へて捜(さが)させますと、案(あん)のごとくそれに相当(そうとう)する窶(やつ)れ切(き)つた武士(ぶし)が一人(ひとり)をりました。それは、他(ほか)でもない源左衛門尉(げんざえもんのじよう)常世(つねよ)でありました。大勢(おほぜい)の中(なか)から召(め)し出(だ)されたので、凶(きよう)か吉(きち)かを測(はか)りかねながら道崇(どうそう)の前(まへ)に出(で)ますと、道崇(どうそう)はいそがはしく声(こゑ)を掛(か)けて、
「やあ、佐野(さの)源左衛門尉(げんざえもんのじよう)常世(つねよ)。先(さき)だつて大雪(おほゆき)の日(ひ)に宿(やど)を借(か)りた修行者(しゆぎようしや)を見忘(みわす)れはすまいな」
といふのを初(はじ)めに、この度(たび)の勢揃(せいぞろ)ひは常世(つねよ)の言葉(ことば)の真(まこと)か偽(いつは)りかを試(ため)さうがためにしたこと、また宿(やど)を頼(たの)んだ時(とき)、鉢(はち)の木(き)を伐(き)つてもてなした厚意(こうい)は忘(わす)れぬ、それに酬(むく)いるために、加賀(かゞ)で梅田(うめだ)の庄(しよう)、越中(えつちゆう)で桜井(さくらゐ)の庄(しよう)、上野(かうづけ)で松井田(まつゐだ)の庄(しよう)を与(あた)へて、本(もと)の領地(りようち)に加(くは)へることを申(まを)し渡(わた)し、常世(つねよ)をさしまねいて墨附(すみつ)き(証文(しようもん))を授(さづ)け、一同(いちどう)の諸氏(しよし)には暇(いとま)をやつて国々(くに/゛\)へ引(ひ)き取(と)らせました。
常世(つねよ)はこの上(うへ)もない面目(めんもく)を施(ほどこ)して、初(はじ)め笑(わら)つた人々(ひと/゛\)の顔(かほ)を見返(みかへ)し、例(れい)の痩(や)せ馬(うま)に跨(またが)りながらも、乗(の)つてゐる主(ぬし)は勇(いさ)んで佐野(さの)に帰(かへ)りました。
望月(もちづき)
信濃(しなの)の国(くに)の住人(じゆうにん)安田庄治(やすだのしようじ)友治(ともはる)といふ武士(ぶし)は、同(おな)じ国(くに)の人(ひと)望月秋長(もちづきのあきなが)と領地(りようち)の境争(さかひあらそ)ひなどから仲(なか)が悪(わる)うございましたが、それがだん/\募(つの)つて、とう/\秋長(あきなが)の為(ため)に討(う)たれてしまひました。乱(みだ)れた世(よ)の習(なら)ひで、友治(ともはる)は討(う)たれ損(ぞん)になり、安田(やすだ)の家(いへ)に仕(つか)へた人々(ひと/゛\)は散(ち)り/゛\に去(さ)つてしまひ、残(のこ)つたのは友治(ともはる)の妻(つま)と一人子(ひとりご)の花若丸(はなわかまる)の二人(ふたり)でありました。すると望月(もちづき)の方(ほう)では、安田(やすだ)の子供(こども)がゐては、いつ仇討(あだう)ちをされようも知(し)れないといふ心配(しんぱい)があるので、いつそのことに親子(おやこ)の者(もの)も失(うしな)はうと、内々(ない/\)隙(す)きを窺(うかゞ)ふ様子(ようす)がありました。この噂(うはさ)を聞(き)いた友治(ともはる)の妻(つま)は、一旦(いつたん)故郷(こきよう)をはなれて身(み)を隠(かく)し、折(を)りを見(み)て秋長(あきなが)に怨(うら)みの刃(やいば)を報(むく)い、家(いへ)をも回復(かいふく)しようとつよい決心(けつしん)をしました。そこで心細(こゝろぼそ)くも親子(おやこ)二人(ふたり)は安田(やすだ)の庄(しよう)を立(た)ち出(い)でましたが、頼(たよ)る人(ひと)でもありましたか、まづ京都(きようと)を指(さ)して上(のぼ)り、道々(みち/\)も心落(こゝろお)ちつかず涙勝(なみだが)ちな旅寝(たびね)の夜(よ)をかさねて、近江(あふみ)の国(くに)守山(もりやま)の宿(しゆく)に着(つ)き、そこの冑屋(かぶとや)といふ宿屋(やどや)に泊(とま)りました。
ところで、この冑屋(かぶとや)の主人(しゆじん)といふのは、もと安田(やすだ)の家(いへ)に仕(つか)へて小沢刑部(こざはのぎようぶ)友房(ともふさ)と名(な)のつた人(ひと)でありましたが、主人(しゆじん)友治(ともはる)の討(う)たれた後(のち)はこゝに落(お)ちついて、宿屋(やどや)を開(ひら)いてゐたのでした。今夜(こんや)泊(とま)つた二人連(ふたりづ)れの客(きやく)が、信濃(しなの)の国(くに)から上(のぼ)つて来(き)た人(ひと)と聞(き)いて、懐(なつか)しく思(おも)ひ、そつと物(もの)の隙(す)きからのぞいて見(み)ますと、久(ひさ)しくおとづれを絶(た)つてゐた旧主(きゆうしゆ)の妻子(さいし)であるのに驚(おどろ)きました。親子(おやこ)の人(ひと)は世間(せけん)を憚(はゞか)つて湿(しめ)りがちの様子(ようす)です。それを見(み)ると痛(いた)はしくてたまらなくなつて、そつとその部屋(へや)にまゐりまして、昔(むかし)の名(な)を名(な)のつて、親子(おやこ)に力(ちから)をつけ、慰(なぐさ)めたりしました。花若(はなわか)は父(ちゝ)に逢(あ)つたように思(おも)はれて友房(ともふさ)に取(と)りつきました。友房(ともふさ)はその子(こ)の顔(かほ)をつく/゛\見(み)ますと、旧主(きゆうしゆ)の面(おも)ざしにそつくりなので、思(おも)ひもよらぬ再会(さいかい)を喜(よろこ)んで、手(て)に手(て)をとりあつて泣(な)きました。そこで、親子(おやこ)は急(きゆう)に力(ちから)づき、主従(しゆじゆう)の縁(えん)の深(ふか)いのを覚(さと)り、これまでの憂(う)さ辛(つら)さを物語(ものがた)つて時(とき)の過(す)ぎるのも忘(わす)れてゐましたが、友房(ともふさ)は旅(たび)の疲(つか)れを察(さつ)して、親子(おやこ)を奥(おく)の間(ま)に案内(あんない)して退(しりぞ)きました。
一方(いつぽう)の望月秋長(もちづきのあきなが)は安田(やすだ)を討(う)つたことから、京都(きようと)の将軍家(しようぐんけ)の咎(とが)めを受(う)けまして、長年(ながねん)京都(きようと)に留(と)められてゐましたが、いろ/\と申(まを)し分(わ)けしたので、やうやく無罪(むざい)のいひ渡(わた)しを受(う)け領分(りようぶん)の信濃(しなの)に帰(かへ)る許(ゆる)しが出(で)ました。で、喜(よろこ)んで早速(さつそく)京都(きようと)を立(た)つて、その晩(ばん)近江(あふみ)の国(くに)守山(もりやま)に来(き)ました。家来(けらい)に、よい宿屋(やどや)をたづねさせようとしましたが、その時(とき)望月(もちづき)の名(な)を名(な)のらずに、よい工合(ぐあひ)に計(はか)らへといひつけました。家来(けらい)は多(おほ)くの宿屋(やどや)の中(なか)から、冑屋(かぶとや)を選(え)り出(だ)して案内(あんない)を乞(こ)ひながら、主人(しゆじん)は信濃(しなの)の国(くに)の大名(だいみよう)で只今(たゞいま)京都(きようと)から下向(げこう)する望月秋長(もちづきのあきなが)といひかけて、急(きゆう)に口(くち)を抑(おさ)へ「ではござらぬ」といひました。冑屋(かぶとや)の主人(しゆじん)は早(はや)くもそれと心(こゝろ)づきましたが、「どなたでもよろしうございます」と答(こた)へて、宿(やど)のことを承知(しようち)しました。
友房(ともふさ)は旧主(きゆうしゆ)の家族(かぞく)がわが家(や)に泊(とま)つたことだけでも思(おも)ひも寄(よ)らなかつたのに、また同(おな)じ日(ひ)に、怨敵(おんでき)望月(もちづき)の落(お)ち合(あ)つた不思議(ふしぎ)に呆(あき)れましたが、これは花若親子(はなわかおやこ)が大望(たいもう)成就(じようじゆ)の時(とき)が来(き)たものであるとこをどりして、そつと親子(おやこ)のゐるところに行(い)つてこのことを知(し)らせ、どうかして今夜(こんや)のうちに敵(てき)を討(う)たせようと考(かんが)へた末(すゑ)に、一(ひと)つの計略(けいりやく)を思(おも)ひつきました。それはこの頃(ごろ)、この辺(へん)に盲御前(めくらごぜ)といふ芸人(げいにん)があつて、旅客(りよきやく)の慰(なぐさ)みに、謡(うた)ひをうたひなどして、酒(さけ)の席(せき)を賑(にぎ)はすことがはやつてゐましたところから、母(はゝ)を盲御前(めくらごぜ)に仕立(した)て、また花若(はなわか)には鞨鼓(やつばち)を打(う)つて舞(ま)ひを舞(ま)はせ、亭主(ていしゆ)は酒(さけ)をしたゝかにすゝめて望月(もちづき)を酔(よ)はせ、その後(あと)で獅子舞(ししま)ひを舞(ま)つて、そのすきに敵(かたき)を取(と)つて抑(おさ)へるといふ趣向(しゆこう)にしました。親子(おやこ)はこれを聞(き)いて大(おほ)きに喜(よろこ)びまして、何事(なにごと)も頼(たの)むといひますので、友房(ともふさ)は委細承知(いさいしようち)の趣(おもむ)きを述(の)べました。
よい時分(じぶん)になつて、亭主(ていしゆ)の友房(ともふさ)は酒肴(さけさかな)を持(も)つて望月(もちづき)の座敷(ざしき)に来(き)まして、めでたい下向(げこう)の祝(いは)ひにさし上(あ)げるといひ、また花若(はなわか)に手(て)を引(ひ)かれて出(で)て来(き)た盲御前(めくらごぜ)を引(ひ)き合(あは)せて、慰(なぐさ)みに謡(うた)ひをうたはせられいといひますと、望月(もちづき)の家来(けらい)は主人(しゆじん)よりも自分(じぶん)に、よい慰(なぐさ)みと思(おも)つて、なんでも面白(おもしろ)い一曲(いつきよく)をと註文(ちゆうもん)しますと、御前(ごぜん)は、
「一万箱王(いちまんはこおう)が親(おや)の敵(かたき)を討(う)つたところをうたひませう」
といつて内々(ない/\)相手(あひて)の心(こゝろ)をさぐりますと、家来(けらい)はあわてゝ、それは差(さ)し合(あ)ひがあるからといようなことをいひます。秋長(あきなが)は知(し)らぬ顔(かほ)をして、
「いや苦(くる)しうない。すぐにうたへ」
といひましたので、盲御前(めくらごぜ)は曾我物語(そがものがた)りの一節(ひとふし)をうたひました。それが終(をは)らうとしました時(とき)、花若(はなわか)は焦(あせ)つて、
「そりや、討(う)たう」
と叫(さけ)びましたので、望月主従(もちづきしゆじゆう)は驚(おどろ)いて身構(みがま)へをしました。友房(ともふさ)は「しばらく」と制(せい)しまして、只今(たゞいま)討(う)たうと呼(よ)んだのは、御前(ごぜん)の謡(うた)ひのあとには、この稚児(ちご)が鞨鼓(やつばち)を打(う)つにきまつてゐますので、打(う)たうといつたのでござるといひ開(ひら)きましたので、主従(しゆじゆう)は安心(あんしん)して、稚児(ちご)に鞨鼓(やつばち)を打(う)たせることにしました。秋長(あきなが)は、亭主(ていしゆ)にも、何(なに)か芸(げい)をと所望(しよもう)しますと、かねて打(う)ち合(あは)せておいた通(とほ)り、稚児(ちご)の口(のち)から獅子舞(しゝまひ)を註文(ちゆうもん)なされといひました。
そこで亭主(ていしゆ)は獅子舞(しゝまひ)の支度(したく)をといつて引(ひ)き下(さが)りました。その間(あひだ)に花若(はなわか)は鞨鼓(やつばち)を打(う)つて舞(ま)つてゐました。やがて舞(ま)ひがをはる頃(ころ)、亭主(ていしゆ)は獅子頭(しゝがしら)をかぶつて座敷(ざしき)に出(で)て来(き)ましたが、実(じつ)は獅子頭(しゝがしら)の下(した)には鉢巻(はちま)きをし、懐(ふところ)に匕首(あひくち)を忍(しの)ばせてゐました。笛鼓(ふえつゞみ)の囃子(はやし)に合(あは)せて面白(おもしろ)く舞(ま)ひ狂(くる)ひながら、時々(とき/゛\)望月(もちづき)の方(ほう)を見(み)ると、興(きよう)に乗(の)つて重(かさ)ねた杯(さかづき)に酔(よ)ひが廻(まは)つて眠(ねむ)りこけてゐます。その時(とき)急(きゆう)に獅子頭(しゝがしら)を外(はづ)して花若(はなわか)に目配(めくば)せしながら、望月(もちづき)に飛(と)びかゝつて手込(てご)めにしました。
花若(はなわか)は友房(ともふさ)の助(たす)けによつて、復讐(ふくしゆう)の本望(ほんもう)を遂(と)げました上(うへ)、また友房(ともふさ)の心(こゝろ)づくしで再(ふたゝ)び家(いへ)を興(おこ)して、永(なが)く繁昌(はんじよう)したといひます。
小鍛冶(こかじ)
一条天皇(いちじようてんのう)の御代(みよ)に都(みやこ)三条(さんじよう)に、宗近(むねちか)といふ刀鍛冶(かたなかじ)の名人(めいじん)がありました。三条(さんじよう)の小鍛冶(こかじ)と呼(よ)ばれたのはこの人(ひと)のことであります。ある夜(よ)、帝(みかど)の御夢(おんゆめ)に神(かみ)のお告(つ)げがありましたので、この宗近(むねちか)に御用(ごよう)の剣(つるぎ)を打(う)たせらるべき由(よし)仰(おほ)せ出(いだ)されまして、勅使(ちよくし)橘道成(たちばなのみちなり)といふ人(ひと)が、宗近(むねちか)の家(いへ)に出向(でむ)いて、霊夢(れいむ)によつて御剣(ぎよけん)一振(ひとふ)りの御用(ごよう)がある旨(むね)を伝(つた)へました。その時(とき)、宗近(むねちか)は申(まを)しました。
「勅命(ちよくめい)の趣(おもむ)き謹(つゝし)んでうけたまはりました。しかしながら、さようの大切(たいせつ)な剣(つるぎ)を打(う)ちますには、私(わたくし)と同(おな)じ程(ほど)の者(もの)が合槌(あひづち)を打(う)つてくれませぬとむづかしうございます。これはいかゞ致(いた)しませう」
「その方(ほう)の申(まを)すところは、もつともであるが、神(かみ)のお告(つ)げによつての勅(ちよく)であるからは、早早(そうそう)御請(おんう)け申(まを)し上(あ)げるがよからう」
と道成(みちなり)に説(と)き諭(さと)され、さすがの宗近(むねちか)も当惑(とうわく)して、どうしたらよからうと思(おも)ひ悩(なや)みましたが、今(いま)は御政治(ごせいじ)も正(たゞ)しいから、神(かみ)のお助(たす)けもあるであらうと、たゞそればかりを頼(たの)みにして、つひにお請(う)けを申(まを)したので、勅使(ちよくし)は宮中(きゆうちゆう)に帰(かへ)られました。あとに、宗近(むねちか)はつく/゛\と思案(しあん)して、一大事(いちだいじ)を仰(おほ)せつけられた、とても人力(じんりよく)ではかなはぬことであるから、すぐに氏神(うじがみ)、伏見(ふしみ)の稲荷(いなり)に参詣(さんけい)して、心(こゝろ)を籠(こ)めて神(かみ)の助(たす)けを祈(いの)らうと、かう思(おも)つて、やがて、稲荷(いなり)の神前(しんぜん)に平伏(へいふく)してゐますと、どこからともなく気高(けだか)い顔貌(かほかたち)の童子(どうじ)が一人(ひとり)あらはれまして、宗近(むねちか)の側(そば)に立(た)ち、
「そなたは三条(さんじよう)の小鍛冶(こかじ)であらうな」
といひます。この童子(どうじ)を見(み)ますと、たゞ人(びと)ではないと覚(おぼ)えましたので、名(な)を尋(たづ)ねますと、童子(どうじ)はそれには答(こた)へずに、
「帝(みかど)から御剣(ぎよけん)を作(つく)れといふ勅命(ちよくめい)があつたらう」
と、図星(ずぼし)を指(さ)されて、いよ/\あやし思(おも)ひ、
「只今(たゞいま)、御請(おんう)け申(まを)し上(あ)げたばかりの勅命(ちよくめい)を、早(はや)くも御存(ごぞん)じであるのは不審千万(ふしんせんばん)でございます」
「そなたが不審(ふしん)に思(おも)ふももつともであるが、古(ふる)き言葉(ことば)に『隠(かく)れたるより顕(あらは)るゝはなし』といひ、また卑(いや)しい諺(ことわざ)にも『壁(かべ)に耳(みゝ)、岩(いは)に口(くち)』といふではないか。それはともあれ、ひとへに君(きみ)の御恵(おんめぐ)みを頼(たの)んだらば、御剣(ぎよけん)の出来(でき)ぬことはあるまい」
と、力(ちから)をつけ、それから、大和(やまと)、唐(から)に亘(わた)つて刀剣(とうけん)の威徳(いとく)を述(の)べていはれるには、遠(とほ)くは漢(かん)の高祖(こうそ)の剣(けん)は強暴(きようぼう)の秦(しん)を亡(ほろぼ)し、隋(ずい)の煬帝(ようだい)の剣(けん)は周(しゆう)の国(くに)を倒(たふ)したのを初(はじ)めとして、唐(とう)の玄宗皇帝(げんそうこうてい)の臣(しん)鍾馗(しようき)は幽魂(ゆうこん)となつて君(きみ)に仕(つか)へ、名剣(めいけん)を揮(ふる)つて悪鬼(あつき)を退(しりぞ)けた。近(ちか)くわが国(くに)のためしを引(ひ)けば、景行天皇(けいこうてんのう)の御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)は、東国(とうごく)の夷征伐(えびすせいばつ)の命(めい)を受(う)け、軍兵(ぐんぴよう)を率(ひき)ゐて下(くだ)り給(たま)ひ、数度(すうど)の戦(たゝか)ひに夷(えびす)どもは皆(みな)降参(こうさん)したので、尊(みこと)は一先(ひとま)づ御安心(ごあんしん)あつた。時(とき)は十月(じゆうがつ)の末(すゑ)、紅葉(もみぢ)も冬枯(ふゆが)れ、薄雪(うすゆき)は早(はや)くも遠山(とほやま)にかゝつてゐるのを御覧(ごらん)なされてあるところへ、一旦(いつたん)降服(こうふく)と見(み)せた夷(えびす)どもは俄(にはか)に起(おこ)り立(た)ち、四方(しほう)から尊(みこと)を取(と)り囲(かこ)んで攻(せ)め鼓(つゞみ)を打(う)ち、枯(か)れ草(くさ)に火(ひ)をつけたので、焔(ほのほ)は炎々(えん/\)と燃(も)え上(あが)つた。尊(みこと)はその時(とき)、宝剣(ほうけん)を抜(ぬ)いて四方(しほう)の草(くさ)を薙(な)ぎ払(はら)ひ給(たま)ふと、名剣(めいけん)の威霊(いれい)で嵐(あらし)が起(おこ)つて、草(くさ)についた火(ひ)を吹(ふ)きまくつた。そこで焔(ほのほ)はかへつて夷(えびす)の頭(あたま)の上(うへ)に蔽(おほ)ひかゝつて、数万(すまん)の悪者(わるもの)どもは残(のこ)らず焼(や)き殺(ころ)されてしまつた。この後(のち)、国(くに)の内(うち)静(しづ)かに治(をさ)まり、民(たみ)の心(こゝろ)は安(やす)まつた。これまつたく、この草薙(くさな)ぎの剣(つるぎ)の徳(とく)である。いま宗近(むねちか)が打(う)つべき御夢想(ごむそう)の御剣(ぎよけん)も、定(さだ)めて草薙(くさな)ぎの剣(つるぎ)のように名(な)を後世(こうせい)に残(のこ)すことであらう。良(よ)い鍛冶(かじ)の評判(ひようばん)を得(え)た宗近(むねちか)は安心(あんしん)して帰(かへ)るがよいと、諭(さと)しました。
「剣(つるぎ)の威徳(いとく)の御物語(おんものがた)りはお祝(いは)ひの言葉(ことば)としてありがたくうけたまはりました。して、これまでに、この身(み)にお力(ちから)をお添(そ)へ下(くだ)されるあなたは誰方(どなた)でございますか」
宗近(むねちか)が、かうたづねますと、
「それは誰(だれ)でもよい。たゞ我(われ)を頼(たの)もしく思(おも)つて、まづ家(いへ)に帰(かへ)つて剣(つるぎ)を打(う)つべき支度(したく)をして我(われ)を待(ま)て。我(われ)は神通力(じんづうりき)を以(もつ)て身(み)を変(か)へ、程(ほど)なく行(い)つて力(ちから)を添(そ)へよう」
といつて、童子(どうじ)は稲荷山(いなりやま)の奥深(おくふか)く立(た)ち隠(かく)れました。
宗近(むねちか)はこの不思議(ふしぎ)の神(かみ)のお告(つ)げに力(ちから)を得(え)て、家(いへほ)に帰(かへ)るとすぐに壇(だん)を築(つ)き、注連縄(しめなは)を張(は)つて不浄(ふじよう)を遠(とほ)ざけ、神棚(かみだな)を飾(かざ)つて御幣(ごへい)を捧(さゝ)げ、宗近(むねちか)卑(いや)しい身(み)をもつて勅命(ちよくめい)をかうむり御剣(ぎよけん)を打(う)ち申(まを)すこと末代(まつだい)までの名誉(めいよ)ではあれど、たゞこの名誉(めいよ)の為(ため)に打(う)たうとは仕(つかまつ)らず、畏(かしこ)い勅命(ちよくめい)を空(むな)しく致(いた)すまいとの一念(いちねん)なれば、願(ねが)はくはこの国(くに)の神々(かみ/゛\)、宗近(むねちか)を憐(あはれ)みて御助(おんたす)けあれと、天(てん)を仰(あふ)ぎ、地(ち)に俯(ふ)して誠(まこと)を籠(こ)めて祈(いの)つてをりますと、先(さき)の童子(どうじ)のお告(つ)げに違(たが)はず、稲荷(いなり)の神体(しんたい)があらはれ、御剣(ぎよけん)を打(う)つべき支度(したく)が出来(でき)たと知(し)つて約束(やくそく)の通(とほ)り合槌(あひづち)を打(う)ちに来(き)たといつて、壇(だん)の上(うへ)に登(のぼ)られましたが、添(そ)へ役(やく)であるからとて、宗近(むねちか)の前(まへ)に坐(すわ)つて、
「打(う)つべき鉄(てつ)はどこに」
とのお言葉(ことば)に、宗近(むねちか)は夢(ゆめ)の心地(こゝち)で恐(おそ)る/\鉄(てつ)を取(と)り出(いだ)し、神(かみ)の指(さ)し図(ず)に従(したが)つて、まづはつしと打(う)つと、神(かみ)はこれを迎(むか)へてちようと打(う)たれます。それよりちよう/\と槌数(つちかず)を重(かさ)ねて打(う)ち立(た)てる音(おと)は天地(てんち)に響(ひゞ)き渡(わた)りましたが、やがて打(う)ち納(をさ)めて、表(おもて)に小鍛冶宗近(こかじむねちか)といふ銘(めい)を切(き)れば、稲荷明神(いなりみようじん)はこの時(とき)の弟子分(でしぶん)とあつて、裏(うら)を反(かへ)して小狐(こぎつね)と鮮(あざや)かに銘(めい)を切(き)られました。この剣(つるぎ)の焼(や)き刃(ば)は雲形(くもがた)の乱(みだ)れやきでありましたので、むかしの天(あめ)の叢雲(むらくも)の御剣(みつるぎ)もかういふ物(もの)かと思(おも)はれました。かうして天下(てんか)に二(ふた)つとない、二(ふた)つ銘(めい)の御剣(みつるぎ)が出来上(できあが)ると、神体(しんたい)は雲(くも)に乗(の)つて稲荷山(いなりやま)に帰(かへ)られ、宗近(むねちか)は御剣(ぎよけん)を朝廷(ちようてい)にさし上(あ)げました。これこそ太平(たいへい)の世(よ)の御守(おんも)りにならびない宝物(たからもの)とあつて、稲荷(いなり)の神(かみ)の御助(おんたす)けを記念(きねん)する為(ため)に小狐丸(こぎつねまる)といふ名(な)をつけられました。
(をはり)
日本児童文庫
昭和三年三月二日印刷
昭和三年三月五日発行
竹取物語・今昔物語・謡曲物語
[非売品]
版権所有
著作者 和田万吉
編輯兼発行者 東京市小石川区表町一〇九
北原鉄雄
印刷者 東京市小石川区久堅町一〇八
君島潔
印刷所 東京市小石川区久堅町一〇八
共同印刷株式会社
発行所 東京小石川表町一〇九
アルス
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