續國史大系第九卷凡例
一本卷には德川實紀の中東照台德二公の紀を收め逐次六卷を以て全編を終るべし原本はもと元老院にて傳寫せられたるものにかゝり頗る善本なり今は更に各條下引用せる所の諸書を參考して訂正を加へたり
一本書は德川幕府の官撰にして大學頭林衡總裁の下に成島邦之助司直旨を奉じて編述したるものにかゝり局を司直の家に開き文化六年より起稿して嘉永二年に至りて成る故にもと唯々題して御實紀と稱したり今通稱に從ひて全編を通じ德川實紀といふ
一原本には日ごとに項を分ち月にかけたれども續史愚抄吾妻鏡の例にならひ今はすべて月の上に○符を日の上に○符を加へ之を連記して別行に揭げず年末季末月 末の雜載も之に准じて◎符を加ふるとまた同じ而して原本の體平頭となれるものも便宜上二字を定格にし以て闕字の躰と區別しまた之を一行中に連記したり
一鼇頭には特に注意すべき史實を標注し讀者閱讀の便に供せり而して上欄下欄を區別せんが爲めに上或は下の小字を傍注したり
一文字の異同及び校者の按文はすべて本文の右傍に注し〔 〕符を加へたること旣刊の諸書に同じ
一參考の諸書は大抵各條の下に注せられたる引用書に同じきを以て今こゝにその目を揭げずすべて省畧に從ふ
續國史大系第九卷目次
德川實紀第一編
御實紀成書例★一
御實紀總目錄★六
引用書目★六
東照宮御實紀
卷一(世系—弘治二年)★一七
卷二(弘治二年—天正五年)★三○
卷三(天正六年—十六年)★四三
卷四(天正十七年—慶長八年)★五七
卷五(慶長八年二月—四月)★七四
卷六(慶長八年五月—九月)★八四
卷七(慶長八年十月—十二月)★九四
卷八(慶長九年正月—六月)★一○二
卷九(慶長九年七月—十二月)★一一三
卷十(慶長十年正月—四月)★一二四
東照宮御實紀附錄
卷一(幼時より信長との講和に至る)★一三三
卷二(一向亂より味方原戰に至る)★一四○
卷三(信玄との合戰より長篠戰利に至る)★一五三
卷四(伊賀路危難より長久手合戰に至る)★一六五
卷五(秀吉との和睦より小田原征伐に至る)★一七六
卷六(關東就封の時のこと)★一八八
卷七(聚樂亭茶會より名古屋陣に至る)★一九五
卷八(慶長元年大地震より同四年京坂騷擾に至る)★二○四
卷九(同五年六月上杉征伐より同八月江戶歸城に至る)★二一二
卷十(關ケ原戰の時のこと)★二二○
卷十一(關ケ原戰後より慶長十年に至る)★二二八
卷十二(駿府にありし時のこと)★二三七
卷十三(駿府にありし時のこと)★二四五
卷十四(大坂冬陣の時のこと)★二五二
卷十五(大坂夏陣の時のこと)★二六一
卷十六(大坂落城より薨去に至る)★二七二
卷十七(德義に厚かりしこと)★二七九
卷十八(人を審鑑せしこと)★二九三
卷十九(人言を採用せしこと)★三○五
卷二十(儉素なりしこと)★三一三
卷廿一(政治に關せること)★三一八
卷廿二(文事に關せること)★三二九
卷廿三(武備に關せること)★三四一
卷廿四(鹿狩及鷹野に關せること)★三四九
卷廿五(雜)★三五六
台德院殿御實紀
卷一(慶長十年四月—六月)★三六六
卷二(慶長十年七月—十二月)★三七九
卷三(慶長十一年正月—六月)★三八九
卷四(慶長十一年七月—十二月)★三九九
卷五(慶長十二年正月—六月)★四○九
卷六(慶長十二年七月—十二月)★四二六
卷七(慶長十三年正月—六月)★四三八
卷八(慶長十三年七月—十二月)★四四七
卷九(慶長十四年正月—六月)★四六一
卷十(慶長十四年七月—九月)★四七二
卷十一(慶長十四年十月—十二月)★四八○
卷十二(慶長十五年正月—四月)★四八八
卷十三(慶長十五年五月—八月)★四九九
卷十四(慶長十五年九月—十二月)★五○九
卷十五(慶長十六年正月—五月)★五一九
卷十六(慶長十六年六月—九月)★五三四
卷十七(慶長十六年十月—十二月)★五四二
卷十八(慶長十七年正月—四月)★五五四
卷十九(慶長十七年五月—七月)★五六四
卷二十(慶長十七年八月—十二月)★五七三
卷廿一(慶長十八年正月—二月)★五八五
卷廿二(慶長十八年三月—六月)★五九四
卷廿三(慶長十八年七月—九月)★六○五
卷廿四(慶長十八年十月—十二月)★六一一
卷廿五(慶長十九年正月—三月)★六一九
卷廿六(慶長十九年四月—六月)★六三三
卷廿七(慶長十九年七月—九月)★六四四
卷廿八(慶長十九年十月朔日—十五日)★六六一
卷廿九(慶長十九年十月十六日—廿九日)★六七三
卷三十(慶長十九年十一月朔日—十五日)★六八四
卷卅一(慶長十九年十一月十六日—卅日)★六九八
卷卅二(慶長十九年十二月朔日—十五日)★七一二
卷卅三(慶長十九年十二月十六日—廿九日)★七二四
卷卅四(元和元年正月—三月)★七三六
卷卅五(元和元年四月)★七四六
卷卅六(元和元年五月朔日—六日)★七五九
卷卅七(元和元年五月七日—廿九日)★七六七
卷卅八(元和元年六月—閏六月)★七七九
卷卅九(元和元年七月)★七八八
卷四十(元和元年八月—十二月)★八○二
卷四十一(元和二年正月—三月)★八一五
卷四十二(元和二年四月—六月)★八二五
卷四十三(元和二年七月—九月)★八三四
卷四十四(元和二年十月—十二月)★八四二
卷四十五(元和三年正月—四月)★八四九
卷四十六(元和三年五月—八月)★八五六
卷四十七(元和三年九月—十二月)★八六六
卷四十八(元和四年正月—六月)★八七三
卷四十九(元和四年七月—十二月)★八八○
卷五十(元和五年正月—六月)★八八七
卷五十一(元和五年七月—十二月)★八九六
卷五十二(元和六年正月—六月)★九○九
卷五十三(元和六年七月—十二月)★九二○
卷五十四(元和七年正月—七月)★九二九
卷五十五(元和七年八月—十二月)★九三七
卷五十六(元和八年正月—六月)★九四四
卷五十七(元和八年七月—十月)★九五一
卷五十八(元和八年十一月—十二月)★九五八
卷五十九(元和九年正月—五月)★九六五
卷六十(元和九年六月—七月)★九七四
台德院殿御實紀附錄
卷一★九八三
卷二★九九○
卷三★九九七
卷四★一○○二
卷五★一○○八
續國史大系第九卷目次畢
續國史大系第九卷
德川實紀第一篇
御實紀成書例
恭しく編修する所の歷朝實紀は。史局の目錄を根據とし。かたはら內外の簿籍をかねとり。また家傳の正しきも參考する所あり。されど明曆より前は目錄多半毁 ちたり。よりて西城日記および世につたふる殘編斷帙をさぐり。家牒野史をもてこれを補ひ。彼是を校正し虛實を審定して漸く一代の大體をなす。しかれどもな ほ遺脫を免るゝ事を得難し。猶この後證とすべきものを得ば其遺闕を補正すべきなり。
一體例は我が朝文德三代の實錄をもとゝし。漢土にては唐の順宗實錄と明淸の實錄をもて標凖とす。されば古今宜を殊にし和漢制異なれば。ひたすら  皇朝の さまにもならひがたく。又漢土の制はことさら遵用し難き事共多し。いたづらに虛文浮辭を學び事實にもどるべきにあらず。よりて彼是を斟酌して别に成書例一 篇をつくりて卷首に冠す。
一御一代の始に。幼年よりの御才德御昇進の次第等を略記す經濟雜誌社集
るは。順宗以來實錄の體によれり。  東照宮御紀は開卷の第一なれば。まづ  當家發祥の緣故をしるし。それより御軍陣の次第を略記し。慶長八年  將軍 宣下に至り。はじめて編年の躰をなせり。  台德廟の御紀も粗これにおなじ。一御一代御政蹟の巨細ことごとく記載せば。汗牛充棟にもいたるべければ。何事 も一々しるすことを得がたし。よりてただ其大事を載て小事ははぶく。されどまた瑣義末事たりとも大政の得失にあづかりしことはこれを洩さず。其他御善行御 嘉言の簿錄。又は口碑につたへて後の御模範ともなるべき事はあつめて附錄とす。
一附錄も  東照宮の御言行諸書に載る所。眞僞錯雜し玉石混淆すれば。今是を正史に比較して疑しきを袪し正しきを採れり。卷首に御幼年より薨御までの御言 行を年月にしたがひて統紀し。其餘は事類を分ちて記載し。瑣細の御事は卷末に附して雜事の部とす。享保の附錄も大略同樣なり。但國躰古今殊别なれば。附錄 の躰も又必しも同じき事を得ず。その他歷朝の附錄御遺事闕逸して類を分つにおよばざるは。其事の大小輕重につき順叙してこれを錄す。
一將軍宣下。御轉任。御兼任。御元服。御婚禮。御新喪。御法會の如き大禮にいたりては。歷世其儀註を載たり。其他每年元旦佳節の拜賀。嘉定玄猪の式などよ りして。すべて年ごとに定まりし殿中の行事は。御一代のはじめの年に載て其翌年よりこれを略す。若例に異なる事あればまた其よしを記す。但し定例のうちに も。每年出さゞればかなはざる事あるはこの限にあらず。たとへば京大阪在番の番頭番士。ならびに宇治採茶の御暇歸府のごときは。初年にしるして其後ははぶ く。祖宗御三世の間は日記闕たれば。採茶の事も所見にしたがひてしるす。京坂の御目付のごときは。其人々を年每にあらためてさゝるれば。定例の番順と異な るをもて。年々に之をいだすの類なり。
一京都に進ぜらるゝ御使。また京都より下さるゝ御使。また日光久能の  御宮の御使。紅葉山寬永增上の兩寺御參詣御代參のごときは。每年定りしことなりと いへど。これ尊々の大義にあづかれば瑣細の事までもこれを略せず。されど又京都にて所司代御使して事はてしなどは。江府の記錄に載せざるあれば略しぬ。 こゝには府より御使立られしのみを書す
一三家三卿へ下さるゝ御使賜物等。これまた親々の大義にかかはりし事なれば洩さず。されどそれも御能によりての御使。又は每年御鳥下され。暑寒御尋の御使 などはいふまでもなき定例なれば。其始にのみしるして後はみな略せり。是 天朝ならびに  御祖廟より差等して省書するとしるべし。されど  祖宗御三代 の間は。三家を始諸大名諸國司までの賜物。又は饗膳御茶たまはりし事どもゝ。皆定例にあらざるは詳に書して繁芿をいとはず。
一日光門跡增上寺方丈のもとに下さるゝ御使賜物等。これ又御祖墳の地なるをもて波及せし所なればこれをもらさず。されど月每定りし御祈禱の布施または符籙献ずることきは。はじめにのみしるして後ははぶけり。
一万石より上の人々參覲就封のこときその初年にのみ書す。されど三家溜詰の人々はこの限にあらず。その他は首座の人の姓名を記し餘は略す。されど故ありて おほやけより滯府命ぜられしは記す。但し看病のため就封のいとま賜はり。又は滯府の御ゆるしありしは。私のことに屬すといへども。ことごとくしるしてもら さず。遠國の奉行等赴任のいとま賜はるも是に准じ。初度のみ記して後は略し。故あるをばこどごとく記す。
一皇朝の實錄五位以上の卒日畧傳を附し。漢土の實錄は八省諸郡守の如き又卒日に小傳を錄せり。今布衣より上の諸官人卒日に傳を立むとすれば事しげきにたへ ず。よて万石より上の人をかぎりて其子に家ゆづりし日に傳をしるす。 祖宗御三代の間は諸大名の襲封月日詳ならざるもあれば。卒日に傳を出せしもあり。又 万石以下といへども。殊更武功の輩。又は搢紳家の有識。或は高名の宿儒。をよび御歸依の釋徒等。すべて非常の輩はその傳を出せしもまゝあり。
一初見は布衣より上の子どもより姓名を出す。そが下はたゞ人員のみを擧ぐ。家督の拜謁は万石より上といへども。御刀献ずるほどの人のみを書しその他はのせ ず。跡目は布衣より上の人のみ姓名を書きて其下は人數のみをのす。國初 御二代は布衣以下といへども。初見家督分地等ことごとく載たり。是國初史籍闕逸多 ければ。遍く記して遺漏なきを欲するが故なり。  緣組養子などは數多ければこれを記載するにたへず。よりて葭莩の親あるよりを記して衆人はみな略す。是 等政治の得失にもかゝはらず。ことに煩碎にして卷帙のかさなるをいとひてなり。されど故ある養子はことごとく記す。
一有司の黜陟はさらなり。增秩辭職等は見參ゆりたる御家人より記載すべけれども。是又繁多なれば。やむことを得ず布衣より上の人のみを錄す。されど新に職を設られしか。又は處士庶人より材藝もて新に召出されしなどは。特别なれば錄す。
一番入は其人員のみを錄して姓名に及ばず。  皇朝の實錄六位以下人員のみ書す例なり。これも  御二代は姓名をしるせり。內外の職をならぶるときは。外廷を先とし內班を次とす。
一和漢の實錄人の姓名を記すに必位署を冠しむるといへども。今書する所は万石より上は姓名のみ記して。必國持城主等をもて其人の品格をわかち。万石より下 は職名をしるす。其內止事を得ずして万石より上にても少老は職名を加ふ。これ宿老と混ずるをもてなり。すべて姓を稱せず家號を用ゆるは。武家の制おのづか らことなればなり。
一此書はすべて武家の制によて  天朝の事に混ぜざれば。書法も别に一體をなせり。万石以上のうち國持城主領主をもて家格を三にわかち。又その品秩は四品 以上。石万以上。布衣以上。御目見以上と四段にわかち。各そのことにより甲の事は何以上より書し。乙の事は何以下より記さずといふ體例を立て。古今制をこ とにし公武の體まちまちなる事を知らしむ。たとへば卒日に傳をかくるは万石より以上にかぎり。御役替は布衣以上にかぎり。養老の賜は見參の人より以上にか ぎるの類これなり。
一京都より出し宣命位記はさらにもいはず。異國より奉りし書表。又は成し下さるゝ御書等其文詞を載すべしといへども。今の制秘して示さゞる事ゆへ。しばらく明錄の例によりこれをかく。水火豐歉等の事諸國より報告するなどもまたおなじ。其內世にいちじるしき事は載るもあり。
一若君伴讀の人定られし。または武藝の師命ぜられしは御蒙養の要なれば。つまびらかに記して後の範とす。
一每年近習諸番の土の騎射。歩射。乘馬。其他武藝及ぴ徒士の水練御覽をはじめ。南部仙臺の馬御覽幷に其事により兩家臣に賜物。又は御鷹野の御得物供奉して鳥射し番士に賜物あるが如きは。當時講武の盛意より出でし事なれば。煩瑣といへども常に記して遺さず。
一林氏の講書又は儒臣醫員書籍編みて獻じ。或は家藏の書を献じ詩文獻ずることき。皆崇聖右文の寓する所。ゆへに重複をいとはずしてこれを載す。
一昌平坂の學舍。寬政より前はいまだ官に歸せずといへども。其時旣に御興學のはしをひらき。文治の一助をなすにたりしかば是を書す。神田の醫學もこれに傚ふ。測量所にあづかりし事も亦敬天授時の一端なればこれを書す。
一年七十以上のもの老疾にて職を免ずるとて褒賜せらるは。始て  嚴有院殿御代に見ゆれど定例に非ず。享保よりこのかた養老の御盛意にて恩典となされしな れば。小吏厠役にいたるまでも記載せんと欲すといへども。其數多くしてことごとくのするにいとまなければ。見參の御家人より上のみを出す。其他の事はみな 布衣以上の人より記し。此事にかぎり其下に及びしは。養老の盛典を擴充せしめしなり。
一何によらず事を命ぜられ又は物賜はる類は。布衣より上を記し其下は省きけれど。例に異なる事にて其人にかぎり功業を見るべきは。下吏といへどもこれを載 す。もし數人にて一事をなし得たる時は。重職の姓名のみ書て屬吏は職名のみを記す。屬吏の職名のみ出せるは。重職の人あづからざる事としるべし。
一黜罰かうぶるは懲惡の事なれば。見參の御家人より上は皆書す。下吏厠役にいたりてはこれを略す。赦行はれしは下が下といへどその人員を書す。仁政のひろく及ばむ事を專とすればなり。
一出家社人等は。靈牌所の别當職等にて朝に關係せしは書し。其他は故あるのみを記す。法親王及び攝家門跡など應接の事は。  天朝を敬禮したまふ一端なれば。一々にこれを記す。
一大禮ありて万石より上の人々一同に物獻ずるは。其定れる日に係く。故ありてその日獻らず後日に獻るは省く。謝恩の使なりしなども。ゆへあるはしるし其他ははぶく。
一朝鮮琉球の使臣朝見。阿蘭人入貢御覽をはじめ。海外に係はる事は一々記してもらさず。
一孝子順孫又は特異の行ひありて褒顯せられしは。賤者といへども是を書す。その略傳を載るは明錄の例なり。
一天朝の御即位。立坊。立后。大甞會。改元など。みな江府にて其事仰出さるゝ日に其事をのす。改元にはそれによりし奏表の類を書す例といへども。是等みな  天朝の事にして府にあづからざる事なれば錄せず。
一法令條約等その事大なるは全文を錄す。武家諸法度のこときこれなり。不時に仰出さるゝ條約は。その大要を删修して錄す。
一大禮に前導の人の姓名を出すは明錄の體なり。御太刀御刀御沓の役を記すはちなみに出せしなり。松平美濃守吉保が私撰の書の例を用ゆ。
一盜賊考察を命ぜられし事を記すは。三代實錄撿非違使の事をのせし例なり。火災の地巡視の事を記すは。類によてかたはらに及びたるなり。
一銀山の役採藥の人を命ぜられしは。三代實錄の例によて書しぬ。
一日蝕星宿の兩犯大火洪水など。すべて天變地妖の類は。野史傳記にみゆる所もその證あるは記して。和漢實錄の體にしたがふ。城下の火災は大火のみを記して。史局日錄の載る所といへども瑣々たるははぶく。
一一年の結尾に戶口田賦の惣計を書し。租稅免除等の事もつとも記載すべきなれど。これは今の法秘してつたへざる事なれば。やむ事を得ずしてもらす。
一禁裡仙洞女院春宮。ならびに我が歷世の御諱。幷御臺所若君の御生母等は平頭に書す。御宮靈廟の類もこれに同じ。されど  禁裡仙洞の造營修理をはじめ。 其御方々の御附ならびに御宮靈廟等の别當職命ぜらるゝの類は闕字とし。其他御庶子の類よりはみな闕字に及ばず。御院號のごとき若君御產所御生母にのみ殿の 字をもて稱し。其他は御近族といへどもみなはぶけり。
一御一代の末卷。文德錄は葬埋の日までを記し。光孝錄は崩日にとゞまり葬日を載せず。ともに一代の體を成さゞるに似たり。今さだめて御喪禮御追贈の日にて 筆をたつ。されど御葬禮の日より御追贈の日にいたるまでの間。嗣君の御事にあづかりしはみな書せずして本編に出す。旣に吉保が私記も此例なり。
一御隱退ありしは。淸和陽成の二錄讓位の日にて筆をとゞめ其餘を記さず。御一代の終りをつくさゞるの遺憾あり。今舊唐書玄宗記の例によりて。御隱退より薨ぜらるゝまでの事ども。その概略を記して遺漏の憾なからしむ。
一本書は出典を注せずといへども。副本に至りては每條の下悉く原書の名を出す。附錄のこときも又同し。但享保以下の附錄は近代の事なれば。專仰高錄享保錄等に據れりといへども。舊家の遺傳故老の口碑に得しもの多ければ。一々に注せんも煩碎に過れば。をしなべて是を略す。
御實紀總目錄
成書例 總目錄 引用書目 一册
東照宮御實紀 十册
御附錄 二十五册
台德院殿御實紀 六十册
御附錄 五册
大猷院殿御實紀 八十册
六册
嚴有院殿御實紀 六十册
御附錄 二册
常憲院殿御實紀 五十九册
御附錄 三册
文昭院殿御實紀 十五册
御附錄 二册
有章院殿御實紀 十五冊
御附錄 一册
有德院殿御實紀 六十二冊
御附錄 二十册
惇信院殿御實紀 三十一册
御附錄 一册
浚明院殿御實紀 五十五册
御附錄 三册
本編 四百四十七册
附錄 六十八册
通計五百十六册
引用書目
三代實錄 本朝通鑑
日本紀略 皇代略記
大鏡 大鏡裏書
日本史 日野記
西洞院記 勸修寺記
三藐院記 䕃凉軒日錄
光源院殿記 御湯殿上記
御日記 年錄
慶長日記 增補慶長日記
慶長日記追加 慶長年錄
慶長年錄補 慶長見聞錄
慶長見聞書 慶長見聞案紙
慶長見聞案紙書拔 元和日記
增補元和日記 元和年錄
續元和年錄 御年譜
御年譜附尾 駿府記
駿府政事錄 駿府政事錄脫漏
家忠日記 家忠日記追加
烈祖成績 創業記
創業記考異 業記增補
大三河志 國朝大業廣記
東遷基業 當代記
别本當代記 慶元日記
慶元通鑑 續通鑑
東武實錄 武德編年集成
万代元万日記 慶延略記
元寬日記 寬永日記
增補寬永日記 寬永日記補闕
御側日記 正慶承明日記
明曆日記 明万日記
三家記 尾州日記
紀州日記 水戶日記
大內日記 公儀日記
國師日記 金地院日記
舜舊記 坂上池院日
吉良家日記 曾我日記
玉虫日記 慶明錄
寬明日記 江城年錄
江城年錄異本 紀年錄
榊原日記 万年記
史館日錄 万天日錄
續年錄 誠貳日記
人見私記 人見私記二田錄
承應年中行事 視聽日錄
九曆雜記 治世略記
永日記 八朝紀聞
湯原日記 寬文日記
寬文御朱印帳 延寳錄
近世東西略史 憲廟實錄
松陰日記 廟學事實誌
寳正治代記 間部日記
折燒柴之記 天享吾妻鑑
御小納戶日記 御小納戶留帳
御納戶日記 御納戶留帳
坂本日記 時代記
歷世表 年表
三遠平均記 岡崎記
德川啓運錄 松平由緖書
名將名言記 東照宮御遺訓
神祖將軍宣下記 將軍宣下行列記
中原職在記 中原職忠記
參向記 東照宮御鎭座記
東照宮記 烏丸光廣卿紀行
御造營記 神廟齋會記
東照宮三十三回御忌記 日光御神事記
猷廟御忌日記 慶安元御法會記
慶安元御社參記 嚴廟御忌辰日記
中堂供養記 新建瑠璃殿記
日光御參詣記 御宮參記
御宮參儀注 享保御社參始末記
安永御社參記 幼君慶賀式
御元服記 西城降誕記
公孫降誕記 御七夜献物記
三殿慶會集 規式帳
御道具帳 御太刀帳
御腰物帳 進上記
聚樂行幸記 御上洛記
御入內記 寬永行幸記
别本寬永行幸記 憲廟御成記
享保御成記 享保遠御成記
享保遠御成一件 御鹿狩私記
御鹿狩留帳 皇統紹運錄
尊卑分脉 御系圖
御系略 御先祖書
德川家傳 德川傳記
德川榮松錄 三松錄
柳營譜略 舊考餘錄
文廟御傳略 月光院殿御事略
以貴小傳 柳營婦女傳
玉輿誌 外戚傳
三家考 御九族記
皇族私譜 親王系譜
寬永系譜 藩翰譜
藩翰譜續編 藩翰譜備考系圖
寬政重脩譜 天和書上
貞享書上 寬政呈譜
三家譜 紀伊家傳
紀伊系圖 紀藩古書
紀藩玉條 水戶家傳
三藩譜略 田安家譜
一橋家譜 越前年譜
諸家系圖纂 万世家譜
南山巡狩錄系圖 知譜拙記
役人系圖 儒職家譜
諸門跡譜 諸寺世譜
本願寺系圖 斷家譜
廢家寄書 大友系圖
武田系圖 豐臣家譜
淺井家譜 長澤系圖
新見系圖 井伊万千代記
井伊畧傳 藤堂高虎記
毛利家記 酒井家記
酒井家舊記 筒井家記
里見家記 氏家記
松平太郞左衞門家傳 櫻田御殿記
靑山家傳 大河內家傳
有馬傳記 堀傳記
越智家傳 柳澤家傳
片桐家傳 島津家譜
細川家譜 黑田家譜
奥平家譜 榊原家譜
大久保家譜 土井家譜
阿部家譜 牧野家譜
鳥居家譜 成瀨家譜
中山家譜 久世家譜
大岡家譜 大島家譜
今村家譜 山田家譜
大庭家譜 鈴木家譜
半井家譜 吉田家譜
天野家譜 山名家譜
富永家譜 岡村家譜
加納家譜 木村家譜
木村傳記 高木源廣錄
松平外記書上 濵野書上
由井書上 伊藤安兵衞先祖書
明君德行錄 君臣言行錄
紀君言行錄 紀賴宣卿物語
光政行狀 土津靈神言行錄
西山遺事 吉備烈侯遺事
桃源遺事 明語集
忠政遺狀 阿倍定次記
信綱記 信綱言行錄
酒井空印言行錄 堀田上野介上書
本多丹後守上書 柳保山行實
惺窩行狀 羅山行狀
羅山年譜 羅山文集
羅山紀行 後藤庄三郞紀行
丙辰紀行 鵞峯文集
林春齋記 林春齋聞書
御文庫來曆志 御文庫目錄
御文庫始末記 古曆便覽
節季蝕記 令條記
令條記拾遺 令條
令條留 制法留
制度留 柳營禁令
武家嚴制錄 武家嚴制錄續編
武家嚴制錄補 法令雜錄
大成令 憲教類典
文廟御令條 長崎御新令
令典類纂 享保御書付留
政要前錄 町觸
公卿補任 大臣補任
公卿家傳 公卿傳目錄
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三輪七右衛由緖書 町年寄由緖書
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植木屋日記 彈左衛門由緖書
東照宮御實紀卷一
かけまくもかしこき  東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる  水尾のみか ど。御諱惟仁と申しき。是は  文德天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に  淸和天皇と稱し奉る。 天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿。常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と號せらる。親王の御子二人おはす。經基經主といふ。經基王は淸和のみか どの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と稱し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊豫。但馬。美濃。武藏。下野。信濃等を歷任し。太宰大 貳。左衛門權佐。式部少輔。內藏頭等を累任せられ。鎭守府の將軍に補し。正四位上に叙せらる。これぞ後の世にいふ源氏の武者のはじめなりける。後に神靈を あがめて六宮權現といつぎ祭られ。舊邸の地を蘭若となし。大通寺遍照心院と號す。經基王の御子八人。滿仲。滿政。滿季。滿實。滿快。滿生。滿重。滿賴とい ふ。長子滿仲朝臣。  朱雀。  村上。  冷泉。  圓融。  花山。  一條の五朝に歷仕し。春宮帶刀の長より兵庫右馬允。兵部少輔。春宮亮。治部大 輔。左馬權頭。藏人頭。攝津。越前。伊豫。美濃。武藏。下野。信濃。陸奥等の守。常陸。上總の介に累遷し。正四位上に昇られ。老年の後多田院を造營し。剃 髮して多田新發知滿慶と稱す。滿仲の子六人。賴光。賴親。源。賢賴信。賴平。賴範といふ。第四の子賴信。  一條。  三條。後一條。後朱雀の四朝につか へ。從四位上。伊勢。美濃。河內。甲斐。信濃。相摸。下野。伊豫等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬權頭。  冷泉院の判官代。鎭守府將軍に補任し。內の昇殿をゆるさる。河內國壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕ず。賴信の子賴義。河內。伊豆。甲斐。信濃。武藏。下 野。陸奥。出羽。相摸。伊豫等の守。常陸上野介を歷て。左近將監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。 小一條院判官代。鎭守府將軍になり。正四位下に 叙し內院の昇殿をゆるされしが。鎭守府に年をふること九年にして。夷族安倍貞任を征討して功勳世にいちじるし。賴義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義 家はそのはじめ石淸水の寳殿にして元服せられしかば。八幡太郞とは稱せられき。此人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば。東國の武者 贄をとりて御家人と稱するもの少からず。正四位下。左衞門尉。左馬頭。左近將監。治部兵部の少輔。武藏。相摸。陸奥。出羽。下野。河內。伊豫等の守を經て 鎭守府の將軍たり。弱冠のむかし父賴義にしたがひ奥に下り。九年の苦戰に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のことし。また東奥の任にあり て淸原家衡武衡をせめふせて其武威いよいよかゞやけり。義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は從五位下。帶刀長。加賀 介。式部大輔。ゆへありて都を出下野國に下り。足利の别莊に幽居し。薙髮して荒加賀入道と稱しける。その子義重。義康。季邦とて三人あり。長子義重に新田 の庄を讓り。次子義康に足利の庄をゆづられける。新田足利の兩流に分るゝは本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて新田太郞となのり。叙爵して大炊助 に任じ。後入道して上西と號し。上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國凈海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば。諸國の源氏蜂 起するに及びて。義家朝臣の曾孫賴朝。伊豆國蛭小島より旗あげして諸國の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故にその招に應ぜざりしか ば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。是しかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎭守府將軍を贈り給へり。入道の子七人。義俊。 義兼。義範。義季。經義。義光。義佐といふ。四郞義季は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大 入道と號す。新田庄世良田の鄕德川の邑に住せられしより。其子孫德川世良田を稱する事とはなりぬ。義季の子三人。賴氏。賴有。賴成といふ。長子賴氏。始は 世良田孫四郞といふ。鎌倉將軍賴嗣幷に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。從五位下三河守に叙任す。世良田長樂寺に寺領寄附の文書を藏せり。賴氏の子經氏。 教氏。有氏とす。(大系圖には經氏を江田三郞滿氏とす。)二子教氏は世良田次郞とも又三河次郞とも稱し。また德川を稱し。後に靜眞と號す。(此二世三河守 に任じ三河次郞と稱ぜられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徵とすぺし。豈奇遇ならずや。)教氏の子を家時とす。世良田又次郞また孫太郞とも稱し父に先だち てうせらる。(長樂寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき。)家時の子を滿義とす。世良田彌次郞また孫四郞ともいふ。新田左中將義貞に屬し。南朝に仕へて忠勤 を勵みしが。義貞うせられし後一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田德川の間に隱れ住む。後に宗滿と號す。(世には此滿義を太平記にのせし江田三郞光 義とす。又教氏の弟三郞有氏の子江田彈正行氏を光義の事なりともいふ。いづれ是なりや。)滿義の子二人。政義。義秋といふ。(大系圖第十三にのする所かく のことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。德川系圖。新田松平譜。大成記等にのする所も前說のことくなれば今これにしたがふ。三家考に滿義の子 義周。その子義時。其子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず。)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記大成記にその傳詳にのせず。波 合記といへるものには。政義南朝の尹良親王((後醍醐天皇には御孫。宗良親王には御子なり。))の御子。良王を守護し。三河にともなひまいらせんとして波 合にて討死されたりと見ゆ。德川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永德の頃新田一門波合にて皆討死せられしに。新田義宗の子相摸守義陸の討もらさ れ。後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ。底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし。母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州靈山にて旗擧あ りし時。上野の世良田大炊助政義。桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑なく見ゆ。)政義の子を修理亮親季といふ。親季の子 を左京亮有親とす。有親の子を三郞親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが。京鎌倉より新田の黨類を搜索ひまなかりしかば。この危難をさけんがため故 鄕をさすらへ出られ。(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ搜索しきりなれば。父子孫三人東西に立ちわかれ世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへど も。鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに。小山犬若丸に方人して奥州に下り。新田義陸を大將と守立んとせられしに。その事ならずして新田。小山。田村 黨皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに。小山が一亂より搜索嚴なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて 討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に來りたまひ。稱名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて。其墳今も稱名寺に存す。)時宗の僧となり 山林抖藪のさまをまねび。父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが。宗門のちなみによて三河國大濵の稱名寺に寄寓せられ。こゝにうき年月を送られし間 に。有親はうせ給ひしかば。その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。又此國酒井村といへるに。五郞左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄 唯人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。德太郞忠廣(又小五郞親淸ともつたふ。これ今の世の酒井が家の祖なり。)といふ。さて五郞 左衞門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに。其頃同國松平村に太郞左衞門信重とて。これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが。いか なるゆへにか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに。今親氏やもめ居し給ふを見て。其女にあはせて家をゆづらんとこふこと頻なり。親氏もとよ り大志おはしければ。かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆづり。其身は信重が懇願にまかせ松平村に移り。其女を妻としその讓をうけて松平太郞左衛 門となのられけるが。松平酒井兩家ともにきはめて家富財ゆたかなりし程に。貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ。近鄕の舊家古族はいふに及ばず。少 しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみをむすばれしほどに。近鄕のものども君父のことくしたしみなつかざるはなし。親氏ある時親族知音を會し宴を催し もてなされて後。吾つらつら世の有樣をみるに。元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして應仁以來長祿寬正の今にいたりて。足利將軍 家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し。臣は主を殺し子は父を追ひ。人倫の道絕萬民塗炭のくるしみをうくること今日より甚しきはなし。吾また淸和源氏の嫡流 新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近國を伐なびけ。民の艱難を救ひ武名を後世にのこさむとお もふはいかにとありしかば。衆人もとより父母のことくおもひしたしむ事なれば。いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち身に叶へる勤勞をいた すべしとうけがひしかば。兼て慈惠を蒙りたる近鄕のもの共。招かざるに集まり來しほどに。まづ近鄕に威をたくまじうする者の方へ押寄せて。降參する者をば 味方となし。命にさからふものは伐したがへられしかば。ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも。大畧はその威望に服しけ る。(當家發祥その源はこの時よりと知られける。)卒去有りて松平鄕高月院に葬り。芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりといふ。)その跡 をつぎて是も太郞左衛門と稱せらる。父親氏の志をつぎ。弱をすくひ强を伐て貧を惠み飢をすくはれしほどに。衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。その頃 洞院中納言實熙といへる公卿。三河國に下り年月閑居ありしに。(世には實熙三河に左遷ありしよし傳ふるといへども。應仁より後は都爭亂の巷となり。公卿の 所領はみな武家に押領せられ。縉紳の徒都に住わびて。ゆかりもとめ遠國に身をよせたる者少からず。この卿も三河國には庄園のありしゆへ。こゝにしばらく下 りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の沉淪をあはれみ懇に扶助せられ。すでに歸洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば。卿もあつくその恩に感 じ。歸京の後公武に請ひて泰親を三河一國の眼代に任ぜられしかば。是より三河守と稱せらる。この時岩津岡崎に兩城を築き。岩津にみづから住し。岡崎にはそ の子信光を居住せしめらる。泰親の子六人。長子信廣に松平鄕をゆづり。松平太郞左衛門と稱す。(今三河の鄕士松平太郞左衛門が祖なり。)二男は和泉守信 光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親。四男は出雲守家久。五男は筑前守家弘。六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬 り。良祥院殿とをくらる。信光家繼て岩津岡崎の兩城主たり。此人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ。此時よりぞいよいよ其一門は國中に滋蔓 し。ますます近國近鄕其威望かくれなく。國人歸降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家。(是を竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今其後なり。)二男は右京 亮親忠。是を嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釋門に入りて安穩寺昌龍と號す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信豪が祖。)五男紀伊守 光重。(大草の松平といふ。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが。此筋今は絕えたり。)六男八郞左衛門光英。七男彌三郞元芳。(御油の松平といふ。深溝 の松平といふもこの筋なり。今圖書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり。)八男次郞右衛門光親。(能見の松平といふ。次郞右衛門光福。河內守親 良等の祖なり。)九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郞親則。(長澤の松平といふ。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす。)此外は其名つ まびらかならず。この時畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ。其外所々攻め取りて三河國三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事 にて。かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す。(岩津の信光明寺をいとなみ。卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その 跡をつがる。子九人。太郞親長は岩津を領せられ。二男源次郞乘元(後加賀守。)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乘完等の祖。)三男次郞長親をもて 家督と定めらる。四男彌八郞親房。(後玄蕃助。)五男は釋氏に歸し超譽と號し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光。(西福釜の松平といふ。)七男左馬助長 家。(安祥と稱す。)八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乘淸。(瀧脇の松平といふ。監物乘道。丹後守信德等が祖。)明應二年十月の頃三河國上野城主阿部孫次 郞。寺部城主鈴木日向守。擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせける に。親忠一門家兵を引率し井田の鄕に出張し。わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十餘級を討とらる。この後は西三河の 國人大半は歸降し勢いかめしく聞えける。この合戰に討死せし敵味方の骸をうづめ。額田郡骸鴨田といへる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に讓り入 道して西忠と號せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる。)長親ゆづりを受て出雲守と稱し安祥に住 せらる。子五人。長子を次郞三郞信忠。二男右京亮親盛。(福釜の松平といふ。)三男は內膳正信定。(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖。)四男甚太郞義 春。(東條の松平といふ。)五男彥四郞利長。(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寳等が祖。)長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば。衆よくなびき したがふ。この頃今川修理大夫氏親駿遠兩國を領し。三河も過半はその旗下に屬しけるが。近來西三河はいふまでもなし。東三河の國士どもやゝもすれぱ今川を 去て長親にしたがはむとする樣なるを見て大に驚き。其所屬北條新九郞入道早雲を將とし一萬餘の兵を率して。永正三年八月廿日庶兄太郞親長が籠りたる岩津の 城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討つて出。岩津の後詰して早雲が大軍を迫ひ拂はる。此勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さ るに長親ははやく遁世の志ありしかば。いまだ壯の齡にてかざりをおろし道閱と號し。長子忠信に家をゆづられ。所領悉く庶子にわかちさづけ。風月を友とし連 歌をたのしみ。八十あまりの壽をたもち。曾孫  廣忠卿の御時までながらへて。天文十三年八月廿一日終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿といへり。信忠家 をつがれし後藏人また右京と稱せらる。子三人。長子は次郞三郞淸康君。二男は藏人信孝。(三木の松平といふ。)三男は十郞三郞康孝。(鵜殿の松平とい ふ。)信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ。新降の國人共やうやうそむきけるほどに。譜代の郞黨にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしか ば。信忠其機を察せられ。何事も殘り多き齡ながら。僅十三になり給ふ淸康に世をゆづり。頭おろし春夢と號し大濵の稱名寺に閑居ありしが。四十に一二餘りし ほどにて享祿四年七月廿四日父道閱入道に先立てうせられしかば。これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。その太郞 淸康君。これ  東照宮の御祖父に渡ら せ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歲にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず萬にいみじくわたらせ給へば。御內外樣のとも がらもこの君成長ましまさば。終に中國に旗擧し給ふぺしと末賴母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたゝび來りて 旗下に屬するやから少からず。岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。淸康君十四歲にてこ れをせめんとて。元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻拔かれ。猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおも ひ。をのが最愛の女子をもて 淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば。これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再此城本家 に歸せしなり。)世には安祥の三郞殿と稱しその武威を恐れける。享祿二年五月の頃 三河はみな御手に屬しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統せら れんとの御志にて。牧野傳藏信成が吉田の城を乘とらんとて。安祥を打立ち給ふ。信成終にかけまけて。兄弟をはじめ主從悉く討死す。かくて 淸康君は直に吉 田川の上の瀨ををし渡し吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば。 淸康君その城に入て人馬のいきを休め。一兩日の後田原の城にをし寄給 ふ。城主戶田彈正少弼憲光大におそれ。これも忽に降參す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒すすめ奉る。 淸康君は此勢に乘じ近邊の城々にをし よせよせせめぬき給ふ。破竹のことき勢に辟易して。牛久保の牧野新次郞貞成。設樂の設樂神三郞貞重。西鄕の西鄕新太郞信貞。二連木の戶田丹波守宜光。田峰 野田の菅沼新八郞定則。その外山家。三方。築手。長間。西郡の輩風を望みて歸降す。享祿二年尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎野呂(一に科野につく る。)を攻めぬき。おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。天文二年廣瀨の三宅寺部の鈴木等と戰て敵みな敗走し。その冬信州の大軍を迫 拂はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三郞信光。美濃の國士數十人かたらひ 淸康君へ志 をはこび。もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。 淸康君もとより望所の幸なりと。一萬餘の軍勢にて。天文四年十二月尾州へ發向し給はむと。ま づ森山へ着陣あれば。美濃の國士共もみなこゝにまいり。贄をとりて拜謁し。やがて信秀を淸洲より引出さんと。謀をめぐらし近鄕を放火せらる。しかるに叔父 內膳正信定もとよりはらくろきものなりしが。いつしか志を變し織田がたに內通し。安祥の虛をうかがひ本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ。  淸 康君も酒井大久保などいへる舊臣等の諫にしだがひ。まづ軍をかへさるべきに定りぬ。その頃阿倍大藏定吉といへる。御家に年ふるおとななりけるが。此者織田 に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大におどろき其子彌七を近よせ。我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。我もし不慮に誅を蒙るとも。汝 はいかにもして世にながらへ。父が寃をすゝぐべしとなくなく庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外騷動す。 淸康君これを制し給はんと外のかた に立ち出給ひ。木戶を閉よ取迯すなと指揮し給へる御聲を聞て。かの彌七は父大藏唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。 淸康君の立給ふ御うしろにはしり寄て。 御肩先より左の脇の番をかけ。たゞ一刀に切付たり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者其も。だゞあきれはてたるよ り外の事なし。扈從に植村新六郞とて十六歲の若者。御刀とりて御かたはらにひかへしが。其御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切ふせたり。衆人この時にいた りかの大藏をとらへ糺問するに。定吉ありし事どもかくさずものがたり。吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも。君に二心をいだくものならず。しかし ながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて。首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば。聽人もさすが定吉を誅するにも及 ばず。ともかくも道閱入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虛に乘じ追討せんは必定なれば。いそぎ君の御なきがらを守護し。軍を全くして一時もはやく歸 國せむにはしかずと。衆軍俄に周章狼狽し。鎧の袖を淚に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ傳へしは此時の事なりとぞ。 淸康君はじめには昌安入 道が息女(春姬と申せしなり。)をむかへ北方と定め給ひしかど。琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず。後近鄕の鄕士靑木築後守貞景が女をも て北方となさる。此腹に  贈大納言廣忠卿生れさせ給ふ。是  東照宮の御父なり。此北方は御產後にとくうせ給ひしかば。又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政 が離婚せし。大河內左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郞秀成にはかりあはせたまひむかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河內氏を 水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。 淸康君逝去は天文四年十二月五日。忠政の死は同十二年七月十二日なれば。 淸康君におくるゝ事九年にして死せし なり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ。)かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立歸り。 其ほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ。御骨をば大樹寺におさめ。  善德院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。隨念寺記に菅生丸山に御火 葬して。其地に御塚ありしゆへ。  烈祖永祿四年隨念寺をその地に造營し給ふと見え。又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ 嫁せず。 淸康君御事ありし後。御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば。今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨 ありて。三所に葬りたるものなるべし。)この君時に廿五歲。さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを。おしみてもなをあまりある御事なり。三河 にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき。上下たゞ火をけちたる如く驚歎して。ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人等。か の大藏が事を入道に申て御下知を乞しに。入道なくなく仰せけるは。彌七が大罪全く狂氣のいたす所なれば。父大藏が罪にあらず。大藏は舊にかはらず忠勤をつ くすぺしと仰せければ。定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。  廣忠卿その頃はいまだ  仙千代とていとけな くおはしけるを主となし。御家人をのをのかしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ。今年はわづかに十歲にならせたまふ。御弟二人 御妹一人あり。その一人は源次郞信康。その次は釋門に入て後に大樹寺の住職となり成譽と號す。御妹ハはじめ。長澤の松平上野介康高の妻となり。後に酒井左 衛門尉忠次の妻となる。さて天文五年二月のはじめ。織田信秀は 淸康君の御事を聞定め。今は岡崎も空虛なるべし。西三河を併呑せん事この時にありと。八千 の人數をして三河に發向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども。さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと。宗徒の輩血をすゝつて誓をなし。井田鄕に をいて敵をむかへて决戰し。おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林植村高力などいへる究竟のともがら四十人餘戰沒す。かの內膳信定は  淸康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが。 淸康御事ありし後また奸計をめぐらし。老父の入道へしきりにこびへつらひて。今は  幼君の後見 となり。岡崎の政務を專らにし。何事もおもふまゝにふるまへば。御家人等もせん方なくいまは信定を尊敬する事主のごとく。敢てその命にそむくものなし。阿 倍定吉は信定がめざましきふるまひ多きを見て。かくては  幼君の御ため終にあしかりなんとて。ひそかに  仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢 神戶城主東條右兵衛督持廣は 淸康君の御妹聟なれば。定吉  幼主を持廣に賴みしばし神戶にしのび居たり。持廣夫婦は  仙千代君を我子のごとくいたは り。こゝにて首服をくはへ。をのが一字をまいらせ。  二郞三郞廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病沒し。其子上野介義安は父の志を背き織 田方に內通し。  廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば。定吉大におどろきまた  廣忠卿をともなひ神戶を迯出て。遠州懸塚の鍛冶が家にしばら く忍ばせ奉り。その身駿河に行て今川治部大輔義元をたのみ。  廣忠卿御歸國の事をこふ。義元もとより近國を併呑し終には中國に旗を立んとの素志なれば。   速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郞兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を盡しける。御叔父 藏人信孝。十郞康孝。その外林。大原。成瀨。八國。大久保黨等これに應じ。  若君當家の正統にましませば。國に迎へ奉らん事を議しあひ。今川義元は   廣忠卿を歸國せしめ。岡崎をはじめ三州一圓をのが旗下に屬せしめん下心なれば。東三河與力の士をかり催して。先  廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ。   廣忠卿に陪從せし御家人等を先鋒とし。織田方旗下に屬したる東條の城主吉良左兵衛佐義鄕を攻しめ義鄕も討死す。信定これを聞おどろき。  若君を國に入 しめじと樣々心がまへせしかど。普第の御家人一致して天文六年五月朔日終に  廣忠卿を岡崎に迎へ入奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感狀今林肥後守忠英 が家に存せり。)信定も今は力をよばず又老父入道にたよりて  廣忠卿へ降參しいく程なく病沒せり。この後岡崎には藏人信孝。十郞三郞康孝兩叔父を後見と し。大藏定吉等おもふまゝに軍國の事をとり行ふ。  淸康君後の北方(華陽院殿御事なり。)いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり。(傳通 院殿御事なり。)定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり。  廣忠卿の北方となし奉る。天文十一年十二月廿六日此御腹に  若 君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ當家の  烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳來 寺峰の藥師に御祈願ありて。七日滿願の夜藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより。身重くならせ給ふなど。日光山の御緣起にも記されし事多し。)石川 安藝守淸兼蟇目をなし。酒井雅樂助正親胞刀を奉る。御七夜に  竹千代君と御名參らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後。その子下野守信元は今 川方を背き織田がたにくみせられぬ。  廣忠卿聞給ひ。吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に內通する信元が緣に結ぼふるべきにあ らずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは  竹千代君三の御歲なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。さ てその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて。北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは。わが兄 下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り來りたりと聞ば。定めて憤りて一々切りて捨らるゝか。又は髮を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず。 左もあらんにはわらはこそ緣盡て兄のもとにかへさるゝとも。  竹千代を岡崎にとゞめをけば。岡崎のものを他人とは思はず。そのうへ下野殿と  竹千代と は叔姪の中なれば。終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて。いかに申せ ども聞入れ給はねば。御送りのともがらもせんかたなく。その所の民どもに御輿をわたし御暇は申けれど。猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居た りしに。はたして刈屋より混甲二三十人出來たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに。御送りの岡崎士等はいづかたにあるやとい ぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして。岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ歸りしが。今程ははや岡崎へや至りつらん。追かけても及ぶまじと仰けれ ば。刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姊君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが。家廣も  廣忠卿すでに北方を御離婚ありし に。我又水野が緣につらなるべからずとて。その妻をも刈屋に送り歸したりしに。信元大に怒りて送りのもの一人も殘さず伐て捨つ。こゝに於て後までも。   廣忠卿の北方は女ながらも。海道一の弓取とよばれ給ふ名將の母君ほどましまして。いみじき御思慮かなと世にも聞傳へて感歎せぬはなかりけり。  廣忠卿の 御子は  竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元。後に康元。生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。 女君は多刧姬と申。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ。後にその弟與一郞忠吉にあはせ給ひ。其後また保科彈正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に正光に降嫁ありし    烈祖の御妹は。  傳通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり。)その次は市塲殿とて荒川甲斐守賴持(又義虎。)に嫁し給ひ。後に筒井紀伊 守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姬と申。長澤の源七郞康忠に嫁したまひき。  廣忠卿にはこの後田原の城主戶田彈正少弼康光の女をむかへ給ひしかど。こ の御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郞信乘が子兵庫の頭親良といへるも。桑谷の右京大夫忠政といへるも。內藤豐前守信成といへるも。實はこの卿の御子 なりしともつたへたり。十四年彌生のころ御家人岩松八彌何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり。(隣國より賴まれて 刺客となりしといふ。)御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給は ず。此時も植村新六郞外のかたより來ながら。おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ。共にからぼりの中におちいり。終に組敷て八彌を伐はたす。この植村さ きに  淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ。今度また八彌をも其座をさらず首をとり。二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と。感じうら やまぬ者ぞなかりける。このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに。三州にても上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井將監忠 尙等をはじめ。是に內應する徒もすくなからず。こゝに又藏人信孝は  廣忠卿を翼立せし功により。その威權肩をならぶる者なかりしかば。縱恣のふるまひ多 かりしを。大藏定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し。信孝が矯逸そのまゝにすてをかれば。むかしの內膳信定がふたゝび生せしごとくならんと。よ りよりに  廣忠卿をもいさめたり。十六年正月頃卿御病惱にわたらせ給へば。御名代として信孝を今川がもとへ歲首の御使に赴かしめ。其跡にて信孝が三木の 領地を沒入しければ。信孝歸りて大におどろき。吾翼立の功ありて罪なし。何の故にかく所領を沒入せられしぞ。これは定て吾をにくしと思ふ大藏等が讒訴のい たす處ならむとて樣々陳謝すれども。これをとりつぐ者もなければ。終に憤りにたへずしてこれも織田方に內應の志を抱きけり。此ほど道閱入道殿もうせ給へ ば。織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責落し。其子三郞五郞信廣をこめ置。渡理筒針に砦をかまへ。上和田に三左衛 門忠倫。上野に酒井將監忠尙を置て掎角の勢を張れば。もとの信定が子內膳淸定。山中の權兵衛等もこれに應じ。岡崎孤城となりて甚危し。國中大に亂れてあけ ても暮ても互の爭戰やむ時なし。この時筧平三郞重忠は岡崎の御家人なりしが僞て忠倫に降參し。したしみつよて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれし かば。岡崎がたは大に悅び織田方は援助を失ひしに。信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと用意する由聞えしかば。岡崎 にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひけれは。  竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを。駿州に質子た るべしとの事にさだまり。石川與七郞數正。天野三之助康景。上田萬五郞元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七郞忠 正。江原孫三郞利全等すべて廿八人。雜兵五十餘人。阿部甚五郞正宣が子德千代(伊豫守正勝なり。)六歲なりしをあそびの友として御輿に同じくのせてつかは さる。こゝに田原の戶田彈正少弼康光は  廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し。西郡より 吉田へ入らせ給ふ所を。康光ハ其子五郞政直とこゝろをあはせ。御供の人々をいつはりたばかり船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀悅び 大方ならず。熱田の加藤圖書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息  竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはな れ我かたに降參あるべし。もし又そのことかなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。卿その使に對面し給ひ。愚息が事は織田がたへ質子にをく るにあらず。今川へ質子たらしむるに。不義の戶田婚姻のよしみをわすれ。中途にして奪取て尾州に送る所なり。  廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の舊好を 變ずべからず。愚息が一命は霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。  竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名 古屋萬松寺天王坊にをしこめ置て。勤番きびしく付置しとぞ。今川義元も卿の義心に感じ。さらば援兵つかはすべしとて。遠江幷に東三河の勢をさしむけ。三州 小豆坂にて織田勢と合戰し。織田方終に引き返す。藏人信孝織田方へ內通すといへども。三左衞門忠倫うたれし後は同志のともがら衰落するを憤り。みづから大 明寺村に打て出あえなくうたれ。權兵衛重弘も山中城より落うせしかば。織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば。岡崎にも防戰の用意專らにす といへども。織田方は大軍岡崎は小勢なれば。いかがはからはんと上下心をなやます。其中に  廣忠卿には去年以來御心地例ならずましまししが。日にそひお もらせ給ひ。天文十八年三月六日廿四歲にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを。一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大 樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松應寺の舊記をあはせ考るに。この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて。ふたゝび今川へ加勢を請たまふ最中。   廣忠卿逝去ましましけるゆへ。御家人等此事織田方へ聞えんことを恐れ。其頃ふかく御歸依ありし法藏寺教翁和尙と內話し。岡崎近き大林寺にて後のわざし。 能見の原に內葬して後。今川へも其旨告やり大樹寺に葬禮を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造營あり。松應寺是なりといふ。)  慈光院殿と をくり又  瑞雲院殿とも申。慶長十六年大一統の後にぞ。  大納言ををくられ  大樹寺殿と號したまふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をく はへて二萬餘騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を殘しその外二三の丸まで攻おとし。今川がたの總將雪齋和尙がはからひにて。信廣と  竹千代 君と人質替の事を申送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家繼しが。もとより勇銳の大將なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窘困すると 聞て。是をすくはんため尾州を發し鳴海まで出陣せしが。安祥旣に陷ると聞て引返さんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長も悅て約を定め 十一月十日三河の西野笠寺まで  竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八郞忠俊などいへる岡崎普代のつはもの出むかへ受取て。信廣をば織田 方へ引渡す。  君は天文十六年六歲にて尾州の擒とならせられ。八歲にしてことしはじめて御歸國あれば。御家人はいふまでもなし岡崎近鄕の土民までも   君の御歸國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。  竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日  竹千代君また駿府へ おもむきたまひしかば。義元は少將宮町といふ所に  君を置まいらせ。岡崎へは駿河より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり。御家人等をも每 度合戰の先鋒に用ひたり。  君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし 書に。  廣忠卿うせ給ひ  竹千代君いまだ御幼稚なれば。敵國の間にはさまりとても獨立すべきにあらず。織田方に降參せんといふもあり。又は今川は舊好 の與國なれば。今川に從はんこそ舊主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に。義元いちはやく岡崎へ人數をさし向城を勤番させければ。岡崎の 御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に屬したりと見ゆ。此說是なるに似たり。)
東照宮御實紀卷二 弘治二年に始り天正五年に終る
竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。關口刑部少輔親永(一本義廣に作る。)理髮し奉 る。義元一字をまいらせ。  二郞三郞元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此 御事なり。二月には義元がはからひにて三河國日近の城をせめんと。  君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに。城將奥平久兵衛貞直 よく防て義春討死す。この城は三尾の國境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ。酒井大久保をはじめ宗徒の御家人をそへて守らし む。織田上總介信長これを聞。柴田修理亮勝家を將として攻させけるに。御家人等力をつくし防ければ。勝家深手負て引かへす。義元大に御家人等の武勇を感じ ぬ。  君義元にむかはせ給ひ。それがし齡すでに十五にみち。いまだ本國祖先の墳墓にも詣です。願はくば一度故鄕に歸り祖先の墳墓をも掃ひ。亡父の法事を もいとなみ。故鄕にのこせし古老の家人へも對面仕たしと仰らる。義元も御志のやむごとなきをもて。やむことを得ずしばしの暇まいらせければ。  君御悅 なゝめならずいそぎ三河へ立ちこえたまひ。御祖先の御墓に詣給ひ御追善どもいとなませ給ふ。此時岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住 居けるに。  君仰けるは。吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請べければ。そのまゝ本丸にあるべしとて。御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこ れをきゝ。さてさて分别あつき少年かなと感じけるとぞ。爰に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人。今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ岡崎 にて賦稅の事を司りしが。忍び忍びに粮米金錢を庫中にたくわへ置。こたび君御歸國ありて。普第の人々對面し奉りよろこぶ事かぎりなき中にも。忠吉は君の御 手をとり。年頃つみ置し府庫の米金を御覽にそなへ。今よりのち  我君良士をあまためしかゝへたまひ。近國へ御手をかけたまわんため。かく軍粮を儲置候な りと申ければ。  君御淚を催されその志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し年頃諸方の交戰に我家人をかりたてゝ。普第の家人どもこれがために討死する者 多きこそ。何よりのなげきなれとて。更に御淚をながしなきくどかせたまひける。古老の御家人等是を見聞し。御年のほどよりも御仁心のたぐひなくわたらせ給 ふさま。御祖父  淸康君によく似させたまふことゝて。感歎せぬはなかりけり。翌年の春にいたり駿府へかへらせ給ひぬ。御名を  藏人元康とあらためたま ふ。これ御祖父 淸康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。弘治も四年にて改元あり永祿となりぬ。  君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわた らせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歲十七にて御初陣なり。この軍中にて  君古老の諸將をめされ御指揮ありしは。敵この一城にかぎる べからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を斷べしとて城下を放火し引とり給ふ。酒井雅樂助正親石川安藝守淸兼な どいへるつはものどもこれを聞て。吾々戰塲に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大將の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかな る名將にかならせたまふらんと落淚してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御舊領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ腰刀をまいらせたり。 そのちなみに織田方にかゝへたる廣瀨擧母伊保等の城をせめ。石が瀨にて水野下野守信元と戰給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略。古老の輩感服せざ るはなし。此頃岡崎の老臣等駿府に行て。  元康旣に人となり歸城するからには。駿府より置れし城代其外人數をば引取給ひ。舊領かへしたまはりなむやと請 けれど。義元我明年尾州へ軍を出さむとす。其ちなみに三州へも赴き境目を查撿して舊領を引わたすべし。それ迄は先あづかり置べしとあれば。岡崎の老臣ど もゝせん方なく。ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三郞信康君と稱したま へるは是なり。此頃織田信長は父信秀の箕裘をつぎ。兵を强くし國をとますの謀をめぐらし。美濃伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと。鳴海近邊所々に砦をまう け兵をこめ置と聞。今川義元大に怒り。さらば吾より先をかけて尾州をせめとり直に中國へ旗を立んと。是も國境所々に新寨を設け兵をこめし中にも。まづ大高 城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが。此城敵地にせまり軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども。この事なし得んとうけがふ者一人も なし。しかるに  君はわづかに十八歲にましましけるが。かひがひしくうけがひたまひ。敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城內へはこび入しめられければ。 敵も味方もこれをみて。天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて。今の世まで大高兵粮入とて名譽のことに申ならはしけ る。(大高送粮の事異說區々なり。その一說尤審なり。其ゆへは信長寺部擧母廣瀨の三城へ兵をこめ置て。今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには。鷲津丸 根兩城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。  烈祖はやくその機を察せられ。先鷲津丸根兩城を捨て寺部の城下を放火し。その城へせめかゝらん躰を示し給へ ば。鷲津丸根の兩城は寺部を救わむ用意する其ひまに。難なく軍粮をば大高城へ運送したまふといふ。此說是なるがごとし。)此後も義元の指揮によつて寺部梅 津廣瀨等の城々を攻給ひ。又駿府へ歸らせ給ふ。あくれば三年義元用意旣にとゝのひしかば。駿遠三の軍四萬餘を引具し尾州表へ發行す。  君もその先隊にお はし給ひ。先丸根の城をせめ落したまひ。やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて。鵜殿にかへて  君をして是を守ら せ。其身は桶峽間に着陣し陣中酒宴を催し勝ほこりたるその夜。信長暴雨に乘じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば。今川方大に狼狽し前 後に度を失ひ逃かへる。  君はいさゝかもあはて給はず。水野信元より義元討れし事を告進らせて後。しづかに月出るを待て其城を出給ひ。三河の大樹寺まで 引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番等は。義元討死と聞て取ものもとりあへず逃去ければ。その儘城へ入せ給ふ。君八歲の御時より駿府に質とせられ。他 の國にうき年月を送らせ給ひ。ことし永祿三年五月廿三日。十七年をへて誠に御歸國ありしかば。國中士民悅ぶ事かぎりなし。(義元より兼て武田上野介。山田 新右衛門等を岡崎の城代に置しが。今度尾州出軍に及びまた三浦飯尾岡部等をして岡崎を守らせけるに。義元討死を聞此輩みな逃去ければ。難なく御歸城ありし となり。)君の御母北方は岡崎より刈屋へかへらせ給ひて後。尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ。こゝにて男女の子あまた設け給ひ しが。  君は三の御年别れ給ひし後は御對面も絕はてし故。とし頃戀したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ。幸に今 度尾州へ御出陣ましますちなみに。阿古屋へ立よらせたまはんとて懇に御消息ありしかば。御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に屬し織田 方なれど。御外戚紛れなき事なれば何かくるしかるべきとて。その用意して待ち設たりしに。  君やがてその館にましまして御母子御對面ましまし。互に年頃 の御思ひのほどくつし出給ひて。なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に三人並居し男子を見給ひ。これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとて すぐに御兄弟のつらになさる。是後に因幡守康元。豐前守康俊。隱岐守定勝といふ三人なり。信長は義元を討取て後は。  君にも織田方に組したまふらめとは かりし所に。君は岡崎へかへらせ給ひて後も。擧母梅津の敵とたゝかひ拂楚坂石瀨鳥屋根東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば。信長も思ひの外の 事とぞおもはれける。義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず。寵臣三浦などいへるものゝ侫言をのみ用ひ。空なしく月日を送 るをみて。信長は  君をみかたとなさんとはかり。水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに。君も氏眞終に國をほろぼすべきものな りとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば。信長も悅なゝめならず。かくて  君淸洲へ渡らせたまへば信長もあつくもてなし。是より兩旗 をもて天下を切なびけ。信長もし天幸を得て天下を一統せば。  君は旗下に屬したまふべし。  君もし大統の功をなしたまはゞ。信長御旗下に參るべしと盟 約をなして後。あつく饗應まいらせて歸し奉る。これは永祿四年なり。東條の吉良義昭今はまたく御歒となり。しばしば味方の兵と戰てやまざりしが。其弟荒川 甲斐守賴持兄弟の中よからねば御味方となり。酒井雅樂助正親を己が西尾の城に引入れしかば。吉良も終には利を失ひ味方に降參す。味方また今川方西郡の城を せめて鵜殿藤太郞長照を生どる。長照は今川氏眞近きゆかりなれば。氏眞これを愁る事甚しき樣なりと聞て。石川伯耆守數正謀を設け。かの地にまします若君と 長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな數正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。  君ことし御名を  家康とあらため給ふ。 (永祿四年十月の御書に  元康とあそさばされ。五年八月廿一日の御書には家康とみゆ。)六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長か くむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り所々のたゝかひやむ時なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず。此ほど小坂井牛窪邊 の新寨に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより。一向專修の門徒等俄に蜂起する事ありしに。普第の御家人等これにくみする もの少からず。國中騷擾せしかば。  君御みづからせめうたせたまふ事度々にして。明る七年にいたり門徒等勢をとろへて。御家人どもゝ罪をくひ歸順しけれ ば。一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。このさわぎに時を得て吉良義昭。荒川賴持。松平三藏信次。松平監物家次。松平七郞昌久等又反逆して をのが城に立こもりしかど。かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏眞より小原肥前守鎭實をこめ置て岡崎の虛をうかゞへば。是にそなへられんがた め。岡崎よりも喜見寺糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに。氏眞吉田を救はむがため二万の軍 をもてこの寨をせめかこむ。  君かくと聞召三千の人數にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。歒の人數は味方に十倍し。その上後詰 を防がせむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諫けれど。  君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ來ると聞て救はそらんに は。信も義もなきといふものなり。萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千 の備をけちらして一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし。翌朝信俊を召し具せられ。將卒一人も毁傷なく敵 勢を追立々々難なく岡崎城へ歸らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて天下後世まで其御英武を感歎する所なり。(後年豐臣大閣のもとに  烈祖をはじめ諸將會集有 し時。誰にかありけん古老のもの  烈祖に對し奉り。先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ。天下に美談と仕候と申上ければ。  烈祖否々それも若氣の所 爲なりと宣ひ。微笑しましましけると傳へき。)小原鎭實も吉田の城をひらき。田原御油等の敵城もみな攻おとされ。東三河。碧海。加茂。額田。幡豆。室飯。 八名。設樂。渥美等の郡みな御手に屬しければ。吉田は酒井忠次にたまはる。これ當家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。八年には牛窪の牧野。野田 の菅沼。西鄕。長篠。筑手。田嶺。山家。三方の徒もみな氏眞が柔弱をうとみ。今川方を去て 當家に歸順しければ。今は三河の國一圓に平均せしにより。本多 作左衛門重次。高力左近淸長。天野三郞兵衛康景の三人に國務幷に訟訴裁斷の奉行を命せらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は。高力は溫順に して慈愛ふかく。天野は寬厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば。志慮あるべしとも見えざりしに。國務裁斷にの ぞみ萬に正しく果敢明斷なりしかば。その頃三河の土俗ども。佛高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謠歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司ど らしめたまひしは。剛柔たがひにすくひ寬と猛とかね行はせられし所。よく政務の大躰を得給ひしものなりと。世上にも此時旣に感稱せしとぞ。)九年十二月廿 九日叙爵し給ひ三河守と稱せられ。十年信長の息女御入輿ありて信康君御婚禮行はる。十一年正月十一日  君又左京大夫をかけ給ふ。このごろ京都には三好左 京大夫義繼幷にその陪臣松永彈正忠久秀反逆して。將軍義輝卿をうしなひまいらせしかば。都また亂逆兵馬の巷となる。將軍御弟南都一乘院門主覺慶織田信長を たのまれ都にうつてのぼらるゝにおよび。信長よりのたのみをもて 當家よりも松平(藤井。)勘四郞信一を將として御加勢さし向給ひしに。信一近江の箕作の 城攻に拔群の働きして敵味方の耳目をおどろかしければ。信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと稱美し。着したる道服を脫て當座の賞とせられしとぞ。 かの今川氏眞は日にそひ家人どもにもうとまれ背くもの多くなりゆくをみて。甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し。駿河の國はいふまで もなし。氏眞が領する國郡を侵し奪はんとす。氏眞いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ迯かくれしに。朝比奈備中守泰能は心ある者にて。 をのが遠江の國懸川の城へむかへとりてはごくみたり。是よりさき信玄入道は駿府に攻入らんにハ。後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ。 まづ當家に 使進らせ。大井川を限り遠州ハ御心の儘に切おさめ給ふべし。駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ。  君もその乞にまかせたまひ。さらば遠江 の國を切したがへたまはむとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郞定盈がはからひにて。井伊谷の城はやく御手に屬し。同國の士ども多くしたがひしに。信玄入道家 士秋山伯耆信友見付の宿に陣し。當國のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞召。かくてハそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやく其所を退かずば御み づから伐て出で誅せらるべしとありて。はや御人數も走りかゝる樣をみて。信友かなはじと思ひ信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には當家に和して。大井川 を限り遠州をば御心にまかせたまへと言ながら。陰には 當家を侵し遠州をも併呑せむ爲。信友遠州へ出張して遠州の人數をつのり國士をまねきしなり。この後 山縣昌景をして御勢を侵さしめしも。みな僞謀のいたすところなり。)遠州の國士等多半御味方にまいりければ。懸川の城外に向城をとりたてゝ氏眞をせめ給 ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力盡しかば。和睦して城をひらきさらんとするに及び。  君はかの使に對し。我幼より今川義元に後見せられし舊 好いかで忘るべき。それゆへに氏眞をたすけて義元の讎を報ぜしめんと。意見を加ふること度々におよぶといへども。氏眞侫臣の讒を信じ我詞を用ひざるのみに あらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故。止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども。更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於て は。幸小田原の北條は氏眞叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏眞を駿州へ還住せしめんとて。松平紀伊守家忠をして氏眞を北條が許へ送らしめられけ る。北條今川兩家のもの共もこれを見て。げに  德川殿は情ある大將かなと感じたり。かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。是より先三河一國歸 順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次石川家成二人を左右の旗頭として是に屬せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の數正にゆ づり。その身は大久保松井等と同じく遊軍にそなへ。本多榊原等は御旗下を守護す。大井川を境とし遠州は御領たるべき事は。兼て信玄入道盟約のことなれば。 この五月御領境を御巡視あるべしとて。五六百人の少勢にて御出馬ありしをみて。入道が家士山縣三郞兵衛昌景といへるもの行すぎがてに御供人といさかひし出 し。それをたよりに御道をさへぎり留むとす。御勢いかにもすくなきが故いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乘じ是を追討せんとひしめく所に。御供の中より 本多平八郞忠勝一番に小返しゝて。追くる敵を突くづす。榊原小平太康政。大須賀五郞左衛門康高等追々に返し來りて突戰すれば。山縣も終に勝がたくやおもひ けむ。早々駿州へ迯入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絕し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども。その實は父を追て家をうばひ姪を倒し國をかすむ。天倫た へ人道旣に失へり。隣國の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず。)世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば。入道やむ事を得ず罪を山縣に歸して蟄居せしむと いへども。天下みな入道が姦をそしらざる者なし。  君にはさすがに今川が舊好をおぼし召。氏眞が愚にして國を失へるをあわれみ給ひ。山縣昌景が駿府の古 城を守り居たるを追おとしたまひ。北條と牒し合せられ氏眞を駿府にかへりすましめんと。城の修理等を命ぜられたり。この經營いまだとゝのはざる間に信玄入 道かくと聞て大に驚き。また駿府城にせめ來り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招きその城ふたゝび奪ひ取る。氏眞は兎角かひがひしく力をあはする家 人もなければ。後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが。北條氏康卒して後氏政が時に至り。小田原をもさまよひいでゝ濵松に來り。 當家の食 客となりて終りける。是より先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされ濵松の城と名付らる。永祿十三年に號またあらたまりて元龜と稱す。濵松の城規摸宏 麗近國にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ。ことし彌生信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ。又援兵 を望まれしかば。君にも遠江三河の勢一萬餘騎にて。卯月廿五日敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金 が崎の城に押よせらるゝ所に。信玄のいもと聟近江の淺井備前守長政朝倉にくみし。織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば。信長大におどろ き。とるものもとりあへず。 當家の御陣へは告もやらず。急に朽木谷にかゝり尾州へ迯歸る。木下藤吉郞秀吉にわづか七百餘の勢をつけてのこされたり。秀吉 は  君の御陣に來りしかじかのよしを申救をこひしかば。快よく請がひたまひ。敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢 にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉旣に危く見えければ。㝡前秀吉が賴むといひしを捨て行むに。我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知 有て。御みづから眞先にすゝみ鐵砲をうたせたまへば。義を守る御家人いかで力を盡さゞらん。敵を向の山際までまくり付。風の如くに引とりたまふ。椿峠まで のかせ給ひしばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ。秀吉も馬を馳せ來り。もし今日御合力なくば甚危きところ。御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。 かくて信長は淺井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先淺井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御み づから三千餘兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の橫山の城へはをさへを殘し小谷の城下を放火す。淺井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郞景紀を 將として一万五千餘騎着陣し。六月廿八日姉川にて戰あり。はじめ信長は朝倉にむかへば  君には淺井とたゝかひ給へとありしが。曉にいたり信長越前勢の大 軍なるをみて俄に軍令を改め。我は淺井をうつべし。 德川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからず といなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のまゝに。大軍のかたにむかわんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひた まふ。かくて越前の一萬五千餘騎  君の御勢にうつてかゝれば。淺井が手のもの八千餘騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげ てかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北國に名をしられたる眞柄十郞左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。淺井方は磯野丹波守 秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよいよさはぎ亂て旗本もいろめきだちぬ。  君はるか にこの樣を御覽ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郞忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引 提て淺井が大軍の中へおめいてかゝる。 ほこりたる淺井勢も  德川勢に橫をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ。 淺井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またく  德川殿の武威による所なりとて。今日大功不可勝言也。先代無比 倫。後世誰爭雄。可謂當家綱紀。武門棟梁也との感書にそへて。長光の刀その外さまざまの重器を進らせらる。(これを姉川の戰とて御一代大戰の一なり。)こ の後も佐々木承禎入道朝倉淺井に組し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豐後守康重。松井左近忠次に二千餘の兵を率してす くはしめたまふ。此頃越後國に上杉謙信入道とて。軍略兵法孫吳に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏眞が媒にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道 悅なゝめならず。當時海道第一の弓取と世にきこえたる德川殿の好通を得るこそ。謙信が身の悅これに過るはなけれとて。左近忠次まで書狀を進らせ謝しける が。是より御音問絕せず。この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二郞三郞信康となのらせたまふ。二年正月五日  君は從五位上に のぼり給ひ。十一日侍從に任ぜらる。三年閏三月金谷大井川邊御巡視ありしに。此頃信玄入道は當家謙信入道と御合躰ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく   德川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天龍川を境とし兩國を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さ ては同盟を變じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。 君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてゝ手を出す事なし。入道こそ前に秋山山 縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝ せ給ひけり。信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しはじは三河遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千餘騎。入道みづから 四万五千餘の大軍をぐして遠江國にうちいり。多々良飯田などいへる城々せめ落し濵松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ 多けれど。兵術軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび當時その右にいづる者なし。 當家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につ かへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇氣さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。 十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば。夏目次郞左衞門吉信が 討死するそのひまに。からうじて濵松に歸りいらせ給ふ。(夏目永祿のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立 べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて  君敵中に引かへしたまふをみて。手 に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を濵松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)その時敵ははや城近くをしよせたれば。早く 門を閉て防がんと上下ひしめきしに。  君聞召かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々歸る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりと も我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の內外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寢 ありしが。御高鼾の聲閫外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡邊等の 御家人突て出で追拂ふ。其夜大久保七郞右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。穴山梅雪が陣に鐵砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯に陷りふみ殺 さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきは濵松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戰とて大戰の二なり。)また武田が 家の侍大將馬塲美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道と  德川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戰にうたれし三河武者。 末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。濵松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠 江の國をまたく  德川殿にまいらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中國九國までも手にたつ人なく。やがて六十餘州も大方事行て 候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。元龜も三年に天正とあらた まる。信玄はいよいよ軍伍をとゝのへ。正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て。終に菅沼新八郞定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て。たばかりてこれを生 取しが。山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび歸ることを得たり。この城攻の時入道鉄炮の疵を蒙り。四月十二日信濃國波合にてはかくなりぬ。  君は信玄が 死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取進すものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悅ばずおし むべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますその寬仁大度を感じ。御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口眞似をせしとぞ。此彌生頃信康君 御甲胄はじめ有て。松平次郞右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足 助の城兵も迯うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目出たしとて御歸城あり。やがて酒井忠次。平岩七之助親吉を大將にて遠江國天方。三河の國可久輪。 鳳來寺。六笠。一宮等の城々責おとす。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて。六か所の城々一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。二年正月五日   君正五位下にうつり給ふ。二月八日次郞君生れたふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。信玄が子の四郞勝賴血氣の勇者なりければ。父にもこえて万に ゆゝしくふるまひしが。去年長篠の城を攻とられしを憤り。高天神の城を攻る事急なり。  君これを救はせたまはんとて。信長の援軍をこわせ給ふ。勝賴   德川織田兩家の軍勢後詰すと聞て。城主小笠原與八郞長善(また氏信。)駿河の鸚鵡栖にて一万貫の地をあたへむとこしらへて降參せしめ。引つゞき濵松を責む としばしば遠州へはたらき。九月には二万餘の軍勢にて天龍川まで出張す。こなたも濵松より御出勢有て備をはらせたまへば。勝賴も謀ありと見て引返す。三年 二月頃御鷹がりの道にてて。姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覽ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが。氏眞奸臣 の讒を信じ直親非命に死しければ。この兒三州に漂泊し松下源太郞といふものゝ子となりてあるよし聞召。直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任 ありしが井伊兵部少輔直政とて。國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。そのころ長篠の城は奥平九八郞に賜はりて是を守りけるに。勝賴は 當家の御 家人大賀彌四郞といへる者等を密にかたらひ。岡崎を乘とらんと謀りしも。その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば。ますますいかりやむときなく。長篠城を とりかへさんと二万餘騎にて取かこむ事急なりとへども。九八郞よくふせぎておとされず。  君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば。信長もこれをた すけて。兩家の勢都合七万二千にて五月十八日   君は高松といふ所に御陣を立られ。信長は極樂寺山に陣せられしが。廿日の夜酒井忠次が手だてにより。鳶 の巢山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきりたる夜にまぎれて廣瀨川を渡り。廿一日の明仄敵寨に火をかけ燒立しに。長篠城 よりも城門を押開き。九八郞城兵を具して切て出前後より捲り立れば。武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信實もうたれ。祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ど も悉く攻おとされたり。信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて  君と謀をあわせられ。備の前に堀をうがち壘を築き栅を二重三重にかまへ。老 練の輩をして鉄炮數千挺を打立しむ。血氣の勝賴夜中より勢をくり出すをみて。御家人大久保七郞右衞門忠世。治右衛門忠佐兄弟。今日の軍は 當家は主戰織田 方は加勢なるに。織田勢にかけおくれては我輩の恥辱此上あるべからずとかたらひ。一同に栅より外にすゝみいづ。武田方にも。山縣昌景。小幡上總貞政。小山 田兵衛信茂。典廐信豐。馬塲美濃信房。その外眞田。土屋。穴山。一條等の名あるやから入かわりわり栅を破らんと烈戰するといへども。兩家の鐵炮きびしく打 立て人塚を築くほど打殺せば。いさみにいさむ甲州勢も面むくべき樣もなくさんざんにやぶられで。さしも信玄が時より名をしられたる山縣。內藤。土屋。眞 田。望月。小山田。小幡など云るもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬塲は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて。勝賴は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送 りして取てかへし。一足もひかず討死す。この時高坂彈正昌信(又虎綱。)海津の城を守りてありしが。勝賴血氣の勇にほこりかならず大敗せん事を察し。勢を 途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。武田が家にて老功の家人どもこの戰に數を盡して討死せしかば。是より甲州の武威は大におとりしとぞ。この日兩 家に討取首一万三千餘級。その中にも七千は 當家にて討取れしなり。又味方の戰死は兩家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郞君この陣中におわして父君と 共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝賴も大に驚き。歸國の後その家人等にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出來り。指揮進退のする どさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八郞六町にもたらざる搔揚にこもり。數万の大軍にかこまれながら。終に一度の不覺なく後詰を 待ちゑて勝軍せしは。古今稀なる大功なりと。信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり。(世には九八郞はじめ貞昌といひしが。此時信昌とあらた むといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家傳には定昌と書しといふ。)  君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武 田が家へ質子としてありけるを。勝賴磔にかけし事なれば。こたび第一の姬君を(龜姬と申。)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申さ れし所とぞ聞えし。信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ。  君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ歸陣あり。  君は岐阜におはしま して信長援助の勞を謝したまふ。信長さまざま饗せられ。長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを長篠の戰とて大戰の三とするなり。)かく て後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしにこの城々も力おとし。あるは迯さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往來の要路。しかも駿州田 中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて 御家號幷に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寬永系圖にはこの人御家號たまはりしは。永祿六年東條の城給ひし時の事と す。孰是なりや。) 君はこの勢に乘じ引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝賴城々責とらるゝと聞て。ふたたび兵をつのり小山の後卷すと聞えしかば。前後に 敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郞君あながちに 乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。  君は上の臺まで乘上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝賴十万騎なりと もおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。勝賴が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝの はねば。高坂が諫にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七郞右衛門忠世に給ふ。四年正月廿日濵松の城 にて。甲胄の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし。)此彌生勝賴また遠州へ發向す。橫須賀は高天神の押と して大須賀五郞左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。  君濵松より後卷したまへば。今度も高坂が强て諫め賴勝も引かへしけるが。瀧坂鹽買 坂邊に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へかへる。是より先上杉謙信入道酒井 忠次に書簡を送り。  君と謀を合せて勝賴を攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を責らるゝ時。天野宮內右 衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがた し。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を迯出鹿が鼻の城にこもる。  君もさのみ人馬を勞した まわんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ迯去る。かくて後も勝賴はしばしば遠州にはたらきて。 濵松を襲はんとする事しばしばなりしといへども。さしてし出したる事もなし。信長卿はことし大納言より內大臣に昇られ兵威ますます盛なり。五年十二月十日   君も四位の加階ましまし。その廿九日右近衛の權少將に任じたまふ。(當時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭將軍を翊戴し。三好松永を降參せしめ。佐々 木六角を討ち亡し。足利家恢復の功をなすにいたり。强傲專肆かぎりなく䟦扈のふるまひ多きを以て。義昭殆どこれにうみくるしみ。陽には織田殿を任用すると いへども。その實は是を傾覆せんとして。ひそかに越前の朝倉。近江の淺井。甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姊川の戰おこるゆへんなり。その明證は高 野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり甲州の武田。越後の上杉。相摸の北條は關東北國割據中最第一の豪傑なるよし聞て。この三 國へ大和淡路守等を密使として。信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。しかれば織田氏を誅伐せんには。當時 德川家與國の第一 にて。織田氏の賴む所は 德川家なり。故に先 德川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し。中國へ旗を擧んとて。信玄盟約を背き無名の軍を興し。遠三を侵掠 せんとす。是三方原の大戰おこるゆへんなり。勝賴が時にいたりまた義昭より。北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるゝ。その使は眞木島玄蕃 允なり。此文書又勝光院につたふ。是勝賴がしばしば三遠を襲はんとする所にて。長篠大戰のおこるゆへんなり。義昭ついに本意を遂ず。後に藝州へ下り毛利を たのまる。これ豐臣氏中國征伐のおこる所之。しかれば姊川三方原長篠の三大戰は。 當家において尤險難危急なりといへども。その實は足利義昭の詐謀におこ り。朝倉武田等をのれが姦計を以て。また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院將軍よりこのかた。室町家は人の力をかりて功をなし。その功成て 後また他人の手をかりてその功臣を除くを以て。万古不易の良法として國を建し餘習。十五代の間其故智を用ひざる者なし。終に其故智を以て家國をも失ひしこ と豈天ならずや。)
東照宮御實紀卷三 天正六年にはじまり十六年に終る
天正六年武田四郞勝賴はしきりに遠三兩州を侵掠せんとしてしばしば勢を出せば。濵松よりも武田がかゝへたる駿州田中の城をせめたまはんとて彌生の頃御出馬 あり。井伊萬千代直政ことし十八歲初陣なりしが。眞先かけて手勢を下知する擧動。天晴敵味方の耳目を驚かす。其外小山の城責。國安川橫須賀等の戰いつはつ べしとも見えざる處に。越後の上杉謙信 此月十三日四十九歲にて世をさりぬ。これより先に入道は小田原の北條氏康の子の三郞景虎と。姪の喜平次景勝と二人 を養ひて子となし置つるが。入道うせて後この二人國をあらそふ事たえず。景勝心ときおのこなれば。勝賴が寵臣長坂跡部といへる者をかたらひ。こがね二千兩 づゝを贈り。勝賴が妹をむかへてその聟となり。永く武田が旗下に屬すべし。先は當座の謝儀として上野一國にこがね一万兩そへて進らすべし。いかにも加勢し 給はるべしと申送れば。利にふける勝賴主從速に應じ。終に景虎を伐亡して景勝父謙信の家をつぐ。勝賴もとより北條氏政が妹聟なり。さるゆかりをもおもはで 財貨に心まよひ。氏政が弟の三郞を亡す加勢せしを氏政甚うらみ憤り。いかにしてかこの怨を報ぜんと思ひ。やがて  當家にちなみ進らせ織田家へもよしみを むすぶ。七年の卯月七日に濵松の城にしては三郞君生れたまふ。御名を  長丸君と名づけたまふ。是ぞ後に天下の御ゆづりをうけつがせ給ひし  台德院殿太 政大臣の御事なり。御母君は西鄕の局と申。 さしつづき翌年この腹にまた四郞君生れ給ふ。是薩摩中將忠吉卿とぞ申き。勝賴は  當家北條と隣好をむすび給 ふと聞て大におどろき。さきむぜざれば吾亡ぶる事近きにあらんとて。さまざま謀畧をめぐらしける事ありし中に。築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時 より。年頃定まらせたまふ北方なりしが。かの勝賴が詐謀にやかゝりたまひけん。よからぬことありて八月二十九日小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。(野 中三五郞重政といへる士に。築山殿討て進るべしと命ぜられしかば。やむ事を得ず討進らせて。濵松へ立かへりかくと聞え上しに。女の事なればはからひ方も有 べきを。心をさなくも討取しかと仰せければ。重政大におそれ是より蟄居したりとその家傳に見ゆ。これによればふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂 助直吉とも。又は岡本平右衛門石川太郞右衛門の兩人なりとしるせし書もあれど。そはあやまりなるべし。)信康君もこれに連座せられて。九月十五日二俣の城 にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御傅なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろき濵松へはせ 參り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よらかぬ御行狀あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ 給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが首をめさるべく候と申けるに。  君聞しめして。三郞が武田にかたらはれ謀反すといふを 實とは思はぬなり。去ながら我今亂世にあたり勍敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには。我家亡んこと 明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家國亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんに は。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又汝が首を刎て三郞がたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三郞終にのがるべき 事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御淚にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覺え ず。なくなく御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。當時の情躰ははかりしるべきなり。また三郞君御勘當ありしはじめ。大久保忠世に預けら れしも。深き思召有ての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が滿仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替らしめしさまの舞を御 覽じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ說あり。いかゞ。誠なりやしらず。)かゝることどもにはかなく年もくれて。八年正月五 日には從上の四位し給ふ。武田がたの城々は次第におちいり。彌生にいたり遂に高天神の城も責落さる。この城小笠原與八郞長善が武田へ降りし後。八年をへて ふたゝび 當家にかへる。その間大須賀康高橫須賀の寨に有て日々夜々に攻たゝかひ。久世。坂部。渥美などいへる屬士ども身命をすてゝ苦戰しければ。こたび 數年の勞を慰せられ。をのをの采邑にかへりしばし人馬を休ましめらる。十年信濃國福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とは むすぼふれたる中ながら勝賴のふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案內せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむ かはれ。其子三位中將信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。  君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏 政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の國へ迯歸る。   君の御勢は二月十八日濵松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨るこ とふかし。今度甲州に攻いらんには。國中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寬仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降參のも の等は。しろしめす國內の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち惠み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝賴を うらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地藏堂に參り  君に對面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝賴は梅雪典廐逍遙軒などいへる一門親戚にも おもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郞信勝と共にうたれ たり。  君の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪あないし先鋒の諸將富士の麓八代郡文殊堂市川口よりをし入た り。こゝに成瀨吉右衛門正一といへるは。さきに當家を退し時甲州にありしかば。武州士どもとしたしかりしゆへ。今度仰をうけてかの輩を募り招きければ。も とより御仁愛は隣國までも及びし故。折井米倉などいへるもの一番に歸順せり。信忠卿古府へ着陣せられければ。  君もその所におはしまして對面したまひ。 又諏訪へおもむき給ふ。右府は十四日波合にて勝賴父子の首を實撿せらる。その時汝が父信玄は每度我等に難題をいひかけこまらせたり。首に成てなり共上洛し たしといひしと聞しが。汝父が志をつぎて上洛せよ。我も跡よりのぼるべしと罵られ。頓て其首共を市川口の御陣へをくり見せ給ふ。  君は勝賴の首を白木の 臺にのせ上段に直され。厚く禮をほどこし給ひ。今日かゝる姿にて對面せんとはおもひよらざりしを。若氣にて數代の家國を失はれし事の笑止さよとて御淚をう かめ給へば。甲斐の國人どもかくと聞傳て。はやこの君ならずばとなづきしたひ奉る。信長は武田の舊臣ども上下のわかちなく。一々さがし出して誅せらる。君 はかの者共生殘りて餓死せんもいとおしき事とあはれみ給ひ。甲信の間に名を得たる者をば。悉く駿遠の地にまねきはごくませられ。又勝賴父子はじめその最期 まで附從ひつる男女のなきがら共。田野の草村に算を亂して鳥獸の啄にまかせたるを。武田が世々の菩提所惠林寺も。織田家をはゞかりてとりおさめんともせ ず。  君さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の廣嚴院といふ山寺の僧に仰せて。その屍ども懇に葬ら しめ。其所に一寺をいとなみ天童山景德院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしと ぞ。十九日には右府父子軍功の諸將士に勸賞行はるゝとて。  德川殿今度神速に駿州の城々責取給ふ。その功輕からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田 殿に對し。今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いま濵松に寓居すれば。駿河を氏眞にあたへかの家再興せしめんかと仰けれぱ。 信長きかれ。何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば。我にかへしたまへとて氣色以の外なれば。やむ事を得ず御みづからの御領となされしといふ。)梅雪 入道も  君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永く  德川殿の旗下たるべしとて屬せらる。さて右府國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。か へさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは  君しろしめす所なるがゆへに。其道すがらの大石をのけ。大木をきりはらひ。道橋をおさめ られ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで 下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへ  德川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛あり しとぞ。(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路 をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)卯月のはじめに右府は八代郡姥口より富士の根方を分いられ。阿 難迦葉坂をへて上野が原井出の鄕邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大將家狩倉の古跡などまでたづね。大宮の旅舘にわたらせられしかば。  君こゝに侍迎へて 饗し給ふ。道道の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇指。龍馬三疋進らせらる。日をへて富士安部川をわたり田中 の城に泊られ。また大井川天龍川を越て濵松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。 濵松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃  君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあ まり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごと くその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。五月  君右府の居城近江の安土にわたらせた まへば。穴山梅雪もしたがひ奉る。右府おもたゞしき設ありて幸若の舞申樂など催し饗せられ。みづからの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。 右府やがて京へのぼらるれば。  君にも京堺邊まで遊覽あるべしとて。長谷川竹丸(後に藤五郞秀一といふ。)といへる扈從を案內にそへられ。京にては茶屋 といへるが家(茶屋四郞次郞。本氏は中島といふ。世々豪富之。)を御旗舘となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。  君は先立て都にのぼらせ給ひ和 泉の堺浦までおはしけるが。今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり右府父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて。御供にしたがひし茶屋を ば先にかへさる。又六月二日の早朝かさねて本多平八郞忠勝を御使として。今日御歸洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。  君も引つゞき堺浦を打立給へば。 忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河內の交野枚方邊まで至りし所に。都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て。追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが。忠勝が 側に馬打よせて。世ははやこれまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此 事告申さんため參候といへば。忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを。  君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の 人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。御道の案內に參りし竹丸を近くめし。 我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふ まじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。ま して某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。御 供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。  我君の御大事けふにきはまりぬれば。微 弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。  君年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべか らずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手 向給はゞ。織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上 しかば。  君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山に さまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび    殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ   殿御歸國ありて光 秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申 たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。 御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰あ りしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は  君を途中に於て討奉らんとの 謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる  德川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事 も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案內をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案內さ せ。茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河內の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市よりあないにとて吉川といふ者を進らせ。三日 には木津の渡りにおはしけるに舟なし。忠勝鑓さしのべて柴舟二艘引よせ。主從を渡して後鑓の鐏をもて二艘の舟をばたゝき割て捨て。今夜長尾村八幡山に泊り 給ひ。四日石原村にかゝり給へは。一揆おこりて道を遮る。忠勝等力をつくしてこれを追拂ひ。白江村。老中村。江野口をへて吳服明神の祠職服部がもとにやど り給ふ。五日には服部山口などいへる地士ども御道しるべして。宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ。御供の人々いかゞせんと思ひなやみし所。川中に白 幣の立たるをみて。天照大神の道びかせ給ふなりといひながら。榊原小平太康政馬をのりこめば思ひの外淺瀨なり。其時酒井忠次小舟一艘尋出し  君を渡し奉 る。やがて江州瀨田の山岡兄弟迎へ進らせ。此所より信樂までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども。山岡服部御供に候すれば。山賊一揆もおかす事なく信 樂につかせ給ふ。こゝの多羅尾のなにがしは山口山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ。高見峠より十市が進らせたる御道しるべの吉川には暇給はり。 音聞峠より山岡兄弟も辭し奉る。去年信長伊賀國を攻られし時。地士どもは皆殺たるべしと令せられしにより。伊賀人多く三遠の御領に迯來りしを。  君あつ くめぐませ給ひしかば。こたび其親族ども此御恩にむくひ奉らんとて。柘植村の者二三百人。江州甲賀の地士等百餘人御道のあないに參り。上柘植より三里半鹿 伏所とて。山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ。六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ。其地の商人角屋といへるが舟をもて。主從この日頃の辛苦をかたりなぐさ めらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て三河の大濵につかせ給ひ。七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす。(これを伊賀越とて御生涯御艱難の第 一とす。)八日にはいそぎ光秀を征し給はんとて軍令を下され。駿遠の諸將を催促せられ。十四日に岡崎を御出馬ありて鳴海(一說に熱田とす。)まで御進發あ りし所に。十九日羽柴築前守秀吉が使來り申送られしは。秀吉織田殿の命をうけて中國征伐にむかひ。備前因幡の國人を降附し。備中の國冠河屋の城を責落し。 高松の城を水責にし。彌進んで毛利が勢と决戰せんとする所に。輝元より備中備後伯耆三國を避渡し。織田殿と講和せんと申送る。此事いまだ决せざるに。都よ りして賊臣光秀叛逆して織田殿御父子を弑する注進を聞とひとしく。其よし少しもかくさず毛利が方へ申送り。忽に和をむすび。毛利より旗三十流鐵砲五百挺か りうけ。そのうへ輝元が人質とつて引かへし。十一日攝州尼崎に着陣し。三七信孝。丹羽五郞左衛門長秀等と牒し合せ。十三日山崎の一戰に切勝て。光秀天罰の がれがたく終に誅に服したり。其餘殘黨ことごとく誅伐をとげ候へば。御上洛に及び候はぬよしなり。  君はそのまゝ鳴海より御軍をおさめられ岡崎へかへら せ給ふ。然るに右府の家人共は國々にありて。こたびの亂におどろきあはて守る所をすてのぼりければ諸國まな乱れたちぬ。これよりさき右府甲斐の國を河尻肥 後守鎭吉に賜はりし時。   君近國にましませば萬にたのみまゐらするよし申されしにより。こたびも  君は木多百助忠俊を河尻がもとにつかはされ。此頃 のさはぎに其國中もみだるべし。何事もへだてず百助にはかりあふべし。もしまた急に上洛せんとならば。信州路には一揆蜂起の聞もあり。百助に道しるべさせ 我領內よりのぼるべしと懇に仰下されしを。河尻疑念深きおのこにて。こは謀をもて我をうしなはせ給ふならんとをしはかり。百助に酒のませもてなすさまし て。其夜たばかりて百助をうちころし。其身はいそぎ國人にも隱れて。家兵を引具し甲州を迯出んとす。甲州の者等もとより  君の御德をかしこみなつく事な れば。  君の御使を伐しとて國人大に怒り。追かけて河尻主從をみな討とりぬ。  君は彌武田の舊臣等民間にかくれすむ者を尋召出あるべしと。柏坂峠に旗 を立てまねきたまへば。橫田をはじめこれに應ずる者忽に千餘人に及べり。小田原の北條新九郞氏直は甲州の一揆共をかたらひ。其國を侵掠せんと五万の大軍を 引つれ。信州海野口より甲州に向へば。  君も濵松を打立給ひ同じく甲州にのぞませ給ふに。其國人等粮米薪を献じ御迎に出る者道もさりあへず。古府に陣を すへられたり。これよりさき信濃の諏訪をせめよとてつかはされたる酒井。大久保。本多。大須賀。石川。岡部等。氏直が後詰すと聞えしかば。一先引かへせと て乙骨が原まで引とる所に。氏直勢案の外ちかく追來りしかば。こなたは謀を設け勢を七隊にわかち。敵の大軍嵩にかゝりて先を遮らんとすれば。七隊一度に立 歸り旗を立て蹈こたへ。敵進み兼るとみれば鐵砲をかけながら引退きする程に。敵みだりに追事あたはず。敵は五万にあまる大軍。味方は三千の人數にて七里が 敵間を引つけ。手を負もの一人もなく引取しは。むかしも今もたぐひまれなる退口とて世いたく稱讃す。(是を乙骨退口と稱す。)氏直若御子に着陣すれば   君も古府をたゝせ給ひ。淺生原へおはしまして對陣し給へども。氏直方は御備のきびしきを恐れて手も出さねば。  君は新府にうつらせ給ふ。これより數旬の 間五万にあまる大軍と。八千不足の御人數にて對陣ましまし。帷幄の外へも出給はずゆるゆるとして。かれより和議をむすばせ引取給ふ。天晴不思議の名將かな と世に感ぜぬ者ぞなかりける。北條美濃守氏規は  君今川がもとにおはしたる時よりの御よしみありければ。氏規はかりて上州をば一圓に北條へ渡され。甲信 兩國は御領とさだめられ。又姬君一所を氏直に賜はりなんことを約し。永く兩家の御したしみをむすび。神無月廿九日氏直勢を駿府に引とれば。  君も濵松へ 御馬を納め給ひ。大久保忠世には佐久郡。鳥居元忠には郡內を給はり。其外軍功の輩に新恩加恩をほどこされ。民をなで窮をすくはせ給へば。織田家の暴政を苦 しみし甲信の民ども。萬歲をとなへて歡抃す。十一年五月石川數正を京に御使して。築前守秀吉のもとへ初花といへる茶壺ををくらせ給ふ。秀吉よりも使もて不 動國行の刀を進らす。七月姬君(督姬といふ。)小田原へ送らせ給ひ御婚禮とゝのハせらる。又九月十三日に五郞君生れ給ふ。後に武田万千代丸と申せしは是な り。十月には 勅使濵松へ參向ありて。正下の四位に加階し給ひ右近衛權中將に進ませらる。この頃は國境を沙汰し給はんがため甲州におはしけるに。其事告ま いらすれば。十二月四日濵松へかへらせ給ひ 勅使を饗應せられ猿樂など催され。 勅使には引出物かずがずにてめでたく歸洛せしめらる。十二年二月廿七日三 位の昇階し給ひ參議をかけ給ふ。秀吉は亡主右府の讐敵光秀を忽に伐亡せしより威名海內にかゞやけば。陽には右府の嫡孫三法師丸を輔佐し。軍國の政務を沙汰 するが如しといへども。實は自四海を統一せんとの志專らなれば。三七信孝を亡し。柴田佐久間などいふ織田家の古老どもを伐平らげ。瀧川佐々などいへるやか らも降參させ。北國旣に平均す。北畠中將信雄闇柔といへども。さすが故右府の御子ゆへ舊臣どもみな心をよすれば。先この人を傾けて天下の大業を急にせばや と思ひ立。信雄の家の長どもをあつくもてなしけるにぞ。信雄忽に秀吉の姦計に陷り。其家長ども黨與して。我をかたぶけんと計るものぞと大に怒り。たばかり て家長三人までを誅したり。秀吉終に其計を得て。信雄讒を信じ良臣を誅したりといふを名として信雄を伐亡さんとし。國々の諸大將をかたらひけるに。織田家 の舊臣どもゝ時の勢になびきて信雄の方には參らず。秀吉のかたうどする者のみなり。  君にも秀吉使進らせてこたび我方に御加勢あらんには。美濃尾張兩國 を進らすべしと申まいらせけれど。  君は右府よりの盟約變じがたしとて其使をばかへさる。信雄此時は伊勢尾張を領して淸州の城にありしが。舊臣等もみな そむき秀吉のかたうどすると聞大におどろき。いそぎ濵松に使してすくひをこはれける。  君は右府の舊好あれば。いかで見はなち給ふべきとて。彌生七日濵 松をいでます。小田原の氏政表裏のおのこいさゝか守りおこたるべからずとて。御領國のうち甲州は鳥居元忠。平岩親吉。又上杉景勝が押には大久保忠世。駿相 の堺長窪の城には牧野右馬允康成。興國寺は天野康景。三牧橋は松平康親。深澤は三宅正次。田中は高力淸長に各つはものをそへて守らせられ  君は一万五千 餘騎にて七月十三日淸洲へ御着陣あり。信雄も信長以來の舊好を捨給はず。これまで御出馬ありしを厚くかしこみ淚ながして謝せらる。さて落合村といふ所に屯 し給ひけるが。榊原康政が申旨にまかせ後には小牧山に御陣をすへらる。こゝに池田勝入入道といへるは。右府恩顧の下より人となりしが。これも時勢にひかれ て秀吉のかたうどし。先尾張の國犬山の城を攻とり。聟の森武藏守長一とともに樂田羽黑に打出で。在々所々を燒立たり。味方には榊原。奥平。酒井。大須賀の 輩つきづきに打出で森が勢にはせかゝり。先輕卒を進ませ鐵砲を打かくる。其中にも奥平が勢無二無三に羽黑村の小川ををしわたる。森は鬼武藏とよばれし血氣 の猛將。それが軍師にそへられたる尾藤なにがしも。都邊の敵をのみあしらひたるてだてを三河武士にをしあて。川をわたさば討てかゝらんとゆるゆる待しに。 奥平が三千餘騎會釋もなく突てかゝる。あとより酒井。榊原。丹羽幷松平又七郞家信等つゞいてをし渡り地煙り立て鑓をいるれば。何かは以てたまるべき。家信 時に十六歲。野呂助右衛門といへる剛のものを伐取たり。稻葉一鐵入道はかねて森と牒し合せ段の下に屯し。老波血河に湛ふと高聲にとなへゐたる所に。金扇の 御馬印遙にみゆれば。  德川殿出馬ありしといふ程こそあれ。敵はみな色めき立て。終にかなはず引て犬山へかへる。秀吉は此敗軍を聞て大に怒り。十二万餘 の大軍を具して大坂を出馬し。犬山城につき樂田にうつり。二重堀などいへる要害をかまへて小牧山に對陣す。これは長篠の戰に右府武田が勢を鏖にせられし故 智を用ひしなり。  君小牧山より此備を御覽じ。秀吉は我を勝賴と同じ樣に思ふと見えたりとて。ほゝゑませ給ひしとぞ。卯月六日池田勝入。森長一。堀久太 郞秀政に三好孫七郞秀次を總手の大將とし。二万餘騎の兵をわけて樂田より東の山にそひ。小牧の御陣を右にして篠木柏井にかゝりたり。こは御勢多半は小牧に ありとしりて。みかたのうしろにまはり三河の空虛をうたんとのはからひなり。  君は兼て篠木の鄕民等が告によりかくと察し給ひ。大須賀。榊原幷に水野惣 兵衛忠重。本多彥次郞康重。丹羽勘助氏次。岡部彌次郞長盛などいへる名にあふものらに。甲州穴山勢をそへすべて四千餘の人數にて。敵にしらせじと轡を卷て 龍泉寺山の麓をへ小幡の城にいたらしむ。此城の守將は本多豐後守廣孝とて康重が父なり。兼てことよさせ給ひしかば。所々に人をしのばせ置。敵龍泉寺を出る をみて小牧の御陣へも注進し。大須賀。榊原。水野。岡部等とはかり夜ぶかく小幡より出立ぬ。  君は其注進をきかせ給ふと其まゝ。戌の時ばかりは小牧山を 打立せ給ばへ。信雄も御跡にしたがふ。敵は九日の朝池田父子先陣して。先丹羽次郞助氏重がこもりし諸和村岩崎の城を攻落しもの始よしと大に悅び。浮宇原と いふ所にて首實撿し。二陣の堀は一里をへだて愛知郡檜が根に陣し。惣大將秀次は春日井郡白山林といふ所にて。人馬をやすめかれゐくひてゐたり。折ふし霧深 くものゝあいろも見分ざる所に。味方跡より喰付てはげしく伐てかゝれば。秀次が陣こはいかにとあはてふためき。秀次の軍師と賴みし穗富の某をはじめ。名あ るつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり。味方勝にのり追行所に。二陣の堀が勢かくと見るより旗をすゝめてかけあはせ。火花をちらし烈しく 戰ふ。先手にありし池田森も惣大將秀次敗走すときゝ是を救はんと引かへす。  君は小牧山より三十餘町勝川兜塚といふ所にて御甲胄をめさる。これ當家の御 甲胄勝川と名付らるゝ事のもとなり。(椎形溜塗の御兜黑糸威の御鎧。)御湯漬を聞召ほどに夜は明はなる。こゝに先手の人々はや首取てかへり。御覽ぜさせ奉 る者も少からず。十人の鐵炮頭井伊万千代直政が二千餘兵を先とし。御旗下には小姓の輩幷甲州侍のみ供奉し。直政が勢は富士の根の切通しより進めば。君も其 跡より田の中をすぐに引つゞきかゝらせ給ふ。井伊が赤備長久手の巽の方よりゑいとうゑいゑいとかけ聲して堀が備に競ひかゝる。池田森が人數は山際より扇の 御馬印朝日にかゞやきをし出すをみて。すは  德川殿みづから來り給ふといふより。上下しどろにみだれ色めき立しに。直政が手の者下知してかけたつれば。 森武藏守長一まづうたれ。池田勝入もみだるゝ勢をたて直さんと下知しけるが。永井傳八郞直勝につきふせられ首をとらる。其子紀伊守之助も安藤彥兵衛直次に 討る。この手の大將池田父子森三人とも討れしかば。戰はんとする者もなくひたくづれにくづれたり。味方追討して首をとる事一万三千餘級なり。秀吉は樂田の 本陣にて長久手の先手大敗すと聞て。敵今はつかれたるらん。いそぎはせ付て討とれと其まゝ早貝吹立させ。惣軍八万餘人を十六段になして押出す。小牧山にの こされし諸將の中にも。本多忠勝かくと聞て。  殿の御勢立直さゞる間に。京勢大軍新手を以て押かゝらば以の外の大事なり。忠勝一人たりとも長久手に馳行 て討死せんといへば。石川左衛門大夫康通も尤なりと同意し。忠勝も康通もわづかの勢にて龍泉寺川の南をはせ行ば。京勢は大軍にて川の北をゝし進む。忠勝我 こゝにて秀吉が軍の邪魔をせば。其間には  殿も御人數を立直さるべしとて。秀吉の旗本へ鐵砲打せて挑みかゝる。流石の秀吉膽をけし。さてさて不敵の者も 有ものかな。誰かかの者見知たるやととへば。稻葉一鐵侍りしが。鹿の角の前立物に白き引廻しは。先年姉川にて見覺えたる德川が股肱の勇士本多平八にて候と 申す。秀吉淚をながし。天晴剛のものかな。をのれこゝにて討死し主の軍を全くせんとおもふとみえたり。我彼等主從を終には味方となし被官に屬せんと思へ ば。汝等かまへて矢の一筋もいかくべからずと下知しとりあはざれば。忠勝も馬より下り川邊にて馬の口をすゝがしむ。秀吉其擧動を感ずる事かぎりなし。長久 手にては  君味方の者ども勝に乘じ長追すなと令ぜられ。信雄と共に軍をかへされんとする所に。忠勝馳付て見參せしかば。よろこばせ給ふ事なゝめならず。 直に忠勝に御あとうたせ給ふ。其頃はや千生瓢簞の馬印龍泉寺の上の山へをし出すを  君御覽じて。先手の物頭三人までうたせて。筑前さぞせいたであらふと ほゝゑませながら。小幡の要害へ御馬を納めらる。秀吉息まきて龍泉寺までをしよせたれども。御勢は皆引とりたる跡なれば。大に腹だちおどりあがりおどりあ がり。いそぎ小幡へかけよせんとたけりけるを。かの家人稻葉蒲生等日はやくれかゝりぬと諫めければ。せん方なく柏井に陣どり。翌朝は拂曉に小幡へ攻かゝら ん心がまへせしに。  君其機を察し給ひ。勝は重ねぬ者ぞとて信雄と共に夜中に小幡を立出給ひ。小牧山に御歸陣ありしかば。秀吉が兼て出し置たる斥候の者 どもかくと注進す。秀吉掌を打て長く歎息し。誰か  德川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大將あるべしとは 思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。これも夜明ぬ先に。十二万の軍勢をくり引に樂田へ班軍せり。(これを長湫の大戰といひて大戰の第 四とす。案ずるに此一戰京方は四月六日の朝勝入出軍。同日晝森出軍。一日へだてゝ秀次と堀出軍。先手とは三里をへだてたり。  君には三河迄敵を入たゝせ ゆるゆる岡崎へをし詰て戰はしめば勝といへども。小牧の本陣遠ければ覺束なし。小牧山近邊にて兵を交へば秀吉速に後詰すべし。されば戰塲は長湫の外にはな しと定められ。御先手より四里へだてゝ旗本勢を押出し給ふ。これは上方勢は大軍。御先手は小勢なり。味方初度は勝て後度は敗るべし。上方勢利を得ば勝に乘 じ長追して足を亂るべし。其亂れし所へ井伊が勢と旗本勢五千の人數にて討てかゝらんに。味方勝ざる事はあるべからずと神算旣に定め給ひ。御先手とは四里へ だてゝ御馬をすゝめたまひしなり。)この後秀吉さまざまと手だてをかへて戰つれども。事ゆくべくも見えざれば。心中また謀を考へ出し。信雄をすかしこしら へて和議をぞ結びたりける。かゝりしかば  君も濵松へかへらせ給ひ。やがて石川數正を御使にて信雄へも秀吉へも和平を賀せられける。秀吉今は從三位の大 納言にのぼり。武威ますます肩をならぶる者なし。濵松へ使を進らせて。信雄旣に和平に及ぶうへは。秀吉  德川殿に於てもとより怨をさしはさむ事なし。速 に和平して永く好みを結ぶべければ。  君にも御上洛あらまほしき旨申入しかど。聞召入られたる御かへり言もなかりしかば。秀吉深く心をなやまし。又信雄 につきて申こされしは。秀吉よはひはや知命にいたるといへども。いまだ家ゆづるべきおのこ子も候はず。あはれ  德川殿御曹司のうち一人を申受て子となし 一家の好をむすばゝ。天下の大慶此上あるべからずとこふ。  君も天下のためとあらんにはいかでいなむべきとて。於義丸と聞え給ひし二郞君をぞつかはさ る。秀吉卿なのめならずよろこびかしづき。やがて首服加へて三河守秀康となのらしむ。其頃秀吉卿は正二位內大臣にのぼり。あまつさへ關白の宣下あり。天兒 屋根の尊の御末ならでこの職にのぼらるゝ古今ためしなき事とて。人みなめざましきまで思ひあざみたり。關白いよいよ和平の事を申進らせらるゝといへども。 いまだ打とけたる御いらへもましまさねば。十三年の冬重ねて濵松へ使まいらす。  君この頃泊狩にわたらせ給ひければ。關白の使御狩塲へ參り對面し奉る。   君鷹を臂にし犬をひき給ひながら。我織田殿おはせし時旣に上洛し。名所舊蹟もことごとく見たりしかば。今さら都戀しき事もなし。又於義丸の事は北畠殿 天下のためとてとり申されしゆへ。秀吉の子にまいらせたり。今は我が子にあらざれば對面せまほしとも思はず。秀吉我上洛せざるを憤り大軍をもて攻下らむ時 は。我も美濃路のあたりに出むかへ。この鷹一据にて蹴ちらさんに更に難からずと仰ながら。又鳥立もとめて立出たまふ。かの使かへりて斯と申せば。關白重て 信雄とはかられ。  君の北方先に御事ありし後。いまだまことの臺にそなはらせ給ふ方も聞えず。秀吉が妹を進らせばやと懇に申こはる。淺野彌兵衛長政など よくこしらへで終に御緣結ばるべきに定まりしかば。濵松より納采の御使に本多忠勝をつかはさる。これも關白のあながちに忠勝が名をさしてよびのぼせられし なり。四月十日かの妹君聚樂のたちを首途し給ひ。おなじ廿一日濵松へつかせたまふ。先榊原康政がもとにて御衣裳をとゝのへられて後入輿し給ふ。御輿渡は淺 野長政。御輿請取は酒井河內守重忠にて。其夜の式はいふもさらなり。廿二日御ところあらはしなど。なべて關白より沙汰し給ふをもて。萬に美麗をつくされし さまいはむかたなし。これ後に南明院殿と申せしは此御事なり。此後は關白彌  君の御上洛をひたすらすゝめ申されしが。遂にこしらへわびて母大政所を岡崎 まで下し進らすべきに定まりぬ。  君は宗徒の御家人をあつめられ。關白其母を人質にして招かるゝに。今はさのみいなまんもあまりに心なきに似たり。汝等 思ふ所はいかにと問せ給ふ。酒井忠次等の宿老共は。秀吉心中未だはかりがたし。かの人御上洛なきを憤り大軍にて攻下る共。京家の手際は姉川長湫にて見すか したればさのみ恐るゝに足らず。御上洛の事はあながちに思召とまらせ給へと諫め奉る。(さきに眞田安房守昌幸がそむきしを誅せられんとて御勢をむけられし 時。眞田は秀吉に內々降參せし事ゆへ。秀吉越後の上杉景勝をして眞田を援けて御勢を拒がせ。又 當家の舊臣石川數正は十万石を餌として味方に引付たり。さ れば上杉と謀をあはせ新降の眞田小笠原を先手とし。數正降參の上は  德川家の軍法は皆しるべければ。是を軍師とし三遠に攻下らんとの計畧ありと世上專ら 風說すれば。普第の御家人等は秀吉をうたがひしもことはりなり。) 君聞召。汝等諫る所尤以て神妙といふべし。然りといへども本朝四海の亂旣に百餘年に及 べり。天下の人民一日も安き心なし。然るに今世漸くしづかならんとするに及び。我又秀吉と牟盾に及ばゝ。東西又軍起て人民多く亡び失はれん事尤いたましき 事ならずや。然れば今罪なくて失はれん天下の人民のため我一命を殞さんは。何ぼうゆゝしき事ならずやと仰せらるれば。忠次等の老臣等。さほとまで思召定め られたらんにハ。臣等また何をか申上べきとて退きぬ。是終に天下の父母とならせ給ふべき御德は。天下万民のために重き御身をかへ給はむとの御一言にあらは れたりと。天下後世に於て尤感仰し奉る事になん。旣に御上洛あるべしと御いらへましましければ。關白よろこばるゝ事斜ならず。其神無月四日關白執奏ありて   君を權中納言にあげ給ふ。やがて濵松を打立せ給ひ。同じ廿五日御入洛あれば。其夜關白ひそかに御旅舘をとはせられ。長篠の戰の後十二年にて對面せら るゝとて悅大方ならず。さて  君の御耳に口よせさゝやかれしは。黃門兼てしり給ふごとく。秀吉今官位人臣を極め兵威四海を席卷するといへども。もと松下 なにがしが草履とりて跟隨せし奴僕とは誰かしらざらむ。やうやう織田殿に見立られ武士の交りを得たる身なれば。天下の諸侯陽に畏服するが如しといへども。 心より實に歸順する者なし。今被官となりし者どもゝもとは同僚傍輩なれば。實の主君とは思はず。願くば近日表立しく對面進らせむ時に。其御心して給はるべ し。秀吉に天下をとらせらるゝも失はしめらるゝも卿の御心一にあり。此事賴み奉りたくかく上洛をばすゝめ進らせたりとて。御脊をたゝかれければ。  君聞 召。旣に御妹にそひまいらせ。又かく上洛いたせし上は。ともかくも御ためあしくははからひ候まじと答給へば。關白彌よろこばる。やがて大坂にわたらせ給 ひ。いかめしき作法どもにて御太刀御馬こがね百牧進らせられ。いたく敬屈してぬかづかせ給ふを見聞して。中國筑紫の諸大名まで。大政所を人質として上洛し 給ふ  德川殿猶かくの如し。我々いかでか秀吉を輕蔑する事を得んとて。これより國々の大名關白を尊敬日比に十倍せしとぞ。關白よろこびに堪ずさまざまも てなして。そのかみ秀吉越前金が崎にて討死すべかりしを。卿の御情にて虎口をのがれ。今この身となれり。此御恩いつの世にかはわするべき。神かけて弟秀長 に存かへ申べき心はなしなど巧言をつくされ。供奉の人々にもかづけものこちたく行はれ。十一月五日には  君を正三位にすゝめられ。都を出たゝせられ岡崎 にかへらせ給ひければ。大政所をも都にかへさる。この御送りには井伊直政ぞまいりける。これも關白のことさらの仰にてつかはされし事なれば。直政をもあつ くもてなしてかへさる。都には此ほど御位ゆづりあり(正親町院御讓位。後陽成院御即位。)關白は內大臣より太政大臣にのぼり。氏をも豐臣と賜はる。  君 はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。濵松には元龜二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒うせけるを新に經營せられ。五ケ國 (駿遠三甲信。)の本府と定められ御在城ましましたるなり。十五年には關白九州を討おさめられむとて。畿內近國の軍勢筑紫に發向す。當家よりも本多豐後守 廣孝軍中の御とぶらひとしてつかはさる。折ふし關白の軍勢秋月が巖石の城に攻寄し時なりしに。廣孝馳加て高名せしかば。關白も  德川殿の家人に獵の利ざ る者なしといたく感ぜられしとぞ。扨島津義久も戰まけて降參せしかば。關白も歸洛し給ふ。  君これをほがせ給ふとて都へのぼらせ給ひしに。八月八日從二 位權大納言にうつらせ給ふ。此程駿府にても  長丸君加冠し給ひ從五位下藏人頭に叙任せられ。關白一字を進らせられ  秀忠となのらせ給ひ。その日又侍從 に任じ給ふ。この師走の廿八日には  君また左近衛大將をかけて。左馬寮の御監に補せられ給ふ。是は鎌倉室町このかた將軍家のほか此職に補せられず。いと ありがたきためしなるぺし。十六年には關白聚樂の亭に行幸なし奉るとて。よの中花やきにぎはしき事いふもおろかなり。  君もやがてのぼらせたまふ。今は 上達部にて鳳輦の供奉し給ひ。聚樂にて日をかさねかずがずの御遊ども催さる。御歌は御製をはじめ親王だち上達部殿上人いとあまたなるが中に。  君も松の 葉每にすべらぎの千代の榮をちぎりことぶかせ給ふ。發聲披講などとりどり近き世にはめづらしくめでたき事多し。此時  君は大和大納言秀長ならびに秀次秀 家の中納言と共に。內の仰ごとによて淸花の上首につかせ給ふ。又行幸に先立て井伊直政。大澤基宥は侍從に任ぜられ。其外爵ゆるされし御家人どもあまたあ り。
東照宮御實紀卷四 天正十七年に始り慶長八年に終る
豐臣關白軍威ますます盛にして。しらぬひや筑紫のはてまでも伐平らげ。島津義久も降參しければ。今は六十餘州のうちに東國の北條ばかりぞ猶從ハず。是によ り使を立て召けれどもさうなくうけひかず。(是より先に  君北條と御和平有し時。甲信兩國は君の御領とせられ。上州をば悉く北條が領とすべしと約せられ たり。然るに上州の內沼田は。眞田昌幸が領なればとて北條へ渡さず。よて北條より其旨  君にうたへしかば。  君眞田に沼田を北條へ渡すべし。其代地は 别に賜ハるべしと仰下さるゝと雖。昌幸胸中甚奇險にてこれに從はざるのみにあらず。終に 當家を去て豐臣家へ歸降せり。さるゆへに眞田が命に應ぜざる罪を 討せられんとて。御勢を沼田にむけらるれば。秀吉ひそかに越後の上杉に命じ。眞田をたすけて御勢を拒ましむ。今度北條を關白より召によりて北條使を登せ。 眞田が所領を引渡すべしと仰下されんには。氏政父子快く上洛せんと申により。今度は關白よりの命にて眞田も止事を得ず沼田を北條に渡す。然りといへ共其う ち奈胡桃の地は眞田代々の葬地なればとて。是は眞田が方に殘したり。然るを程なく北條又眞田が留守の家人を追出し其地を奪ふ。眞田又是を憤り其旨を關白に 訴へなげく。關白是に於て北條が反覆常なしと怒らる。これ終に關白東征の名を得る所。ひとり北條が代々關東を押領して。天朝に朝聘せざる罪を以てするのみ にあらざるなり。)氏直今は姬君にそひまいらせしたしき御中なりければ。  君もさまざまにこしらへて上洛を進め給ひしかども。氏直が父氏政はをのれ代々 關東をうち從へ。一族廣く家とみゆたかなれぱ。世におそろしき者なしとのみ思ふいなかうどにて人の諫めをも用ひず。とかくして天正も十八年になりぬ。去年 の程より關白は北條討るべしとて。兵粮の用意軍勢の催促など。いかめしく國々に觸わたさるれば。  君も都にのぼらせたまひ。軍議どもおはしまして歸らせ たまひしが。此春は  若君(台廟の御事。)を都にのぼせ。關白にはじめて對面せさせたまふ。關白よろこび懇にもてなされ。この殿あまりにいはけなくわた らせ給ふを。久しく都にとゞめ參らせば。  父亞相さぞうしろめたくおぼさるべしとて。直政を始め從者等に數々のかづけものしてかへさる。  君は關白こ たび  若君を速にかへされしは。程なく關東へ軍を出されんに。我領內の城々をかりたまはむとの下心なるべし。其心せよと司々に仰下され。城々の修理加へ 道橋おごそかにかまへ給ふ。やがて關白。こたび小田原を征せんとき  君の城々をかし給はむ事を。みづからの消息もてこはせらる。  君もとよりその御心 がまへなれば。とみに其こひにまかせ給ふ。御家人等はいかでかうまでは。兼てよりはかりしらせ給ふらんと。いぶかしく思ひあざみたりとぞ。かくて彌生朔日 關白內へ參り給ひ。年頃絕し例を引出し節刀など賜はりて二日都を立出給ふ。其勢は廿二万餘騎とぞ聞えける。  君は如月十日駿河を出ます。御勢二万五千餘 騎。あらかじめ軍令十三條仰下さる。(君御出陣に軍令を仰くだされしは。小田原と關原と二度のみなり。)教令最嚴なれば軍旅往來の道の煩もなく。御先手は はや由比倉澤邊へ着陣す。關白は十一日に三河の吉田川ををし渡らんとありし時。このわたし塲の奉行せし伊奈といふ男。この程日數へし長雨に川水いたく水か さそひてうづまきながるれば。軍勢をわたされんことかなふべからず。今しばし此所にとまらせらるべうもやと聞えあぐる。關白軍法に。前に川あらん時雨降て 渡らざれ。は後に渡る事を得ずといへり。何かくるしかるべき必渡りなむと仰けるに。伊奈眼に角をたて。こは殿下の仰とも覺えず。雨をいとはず川を渡すは小 軍の事なり。大軍暴漲を犯し川を渡らんとすれば。人馬沈溺少かるべからず。敵この風說を聞んに。十人を百人百人を千人と云つたへ。敵の心には勇をそへ。味 方には臆をまねくものに候はんかといふ。關白手を拍て。   亞相の家には賤吏といへども。皆軍旅の智識多しと感じ給ふ事大方ならず。其諫を用ひこゝに三 日滯留ありて。十九日に駿府につかせらる。關白家に石田三成といふ功者あり。かれ讒謟面諛の奸臣にて。當時天下の諸侯諸士かれが舌頭にかゝりて。身をも國 をも失ふものあげてかぞふべからず。かれ此地に到り  德川殿北條とはむすぼゝれたる中なればその心中はかりがたし。御心用ひなくてはかなふべからずと申 けるにぞ。關白忽に疑を生じ駿府に入かね給ひけるが。淺野長政大谷吉繼等とかくこしらへて。關白も疑とけ城にいらる。廿七日には沼津につかれ。廿八日諸大 將をともなひ敵地の要害を見巡り給ひ  君をむかへて攻城の事をとひはかられ。やがて先北條が手のもの籠置たる山中の城を責落し。韮山の城をせめかこみ。 時の間に箱根山を馳通り小田原の城に押つめらる。是よりさき伊豆の戶倉。泉頭。獅子濵等の城々攻ざるに皆迯落て小田原へ籠る。城中にもさすが八州に名をし られたるおぼえの者共悉くあつまり。兵粮軍勢多くこめ置て堅固に守りければ。たやすくはおとさるべうも見えざりしが。  君の御勢井伊直政眞先かけて宮城 の口篠曲輪等を責破る。其上   君の御計ひによて。北國は上杉景勝。前田利家等を大將とし。眞田小笠原等の諸軍勢上野國より攻入。松枝。深谷。本庄。安 中。武藏の松山。川越。鉢形。三山等の城々を攻下し。御家人本多。鳥居。酒井等の勢は上州和田。板鼻。三倉。布川。藤岡等の城々を攻ぬき。上方勢と共に合 して上總下總の廳南。廳北。伊南。伊北を始め四十八ケ所の城々皆責下し。武藏江戶。岩槻。忍。八王子等の城々も皆落す。それのみならず小田原にも松田某な どいへる腹心の輩。寄手に內通するものも多ければ。いまは孤城守りがたく防戰の手だてをうしなひ。氏政氏直父子はじめ一族家人等皆降をこふをもて。氏政に ははらきらせ。氏直をば助けて宗徒の家人をそへ高野山にをしこめぬ。さすが氏直は  君の御むこなれば關白もさのみからくももてなされず。後には大坂によ びよせ。西國にて一國をあたへんとありしが。不幸にして氏直痘を病てうせければ北條の正統はこゝに絕ぬ。さて關白ハ諸將の軍功を論じ勸賞行ハる。  駿河 亞相軍謀密策。今度關東平均の大勳此右に出るものなければとて。北條が領せし八州の國々悉く  君の御領に定めらる。(秀吉今度北條を攻亡し。その所領こ とごとく  君に進らせられし事は。快活大度の擧動に似たりといへども。其實は 當家年頃の御德に心腹せし駿遠三甲信の五國を奪ふ詐謀なる事疑なし。其ゆ へは關東八州といへども。房州に里見。上野に佐野。下野に宇都宮。那須。常陸に佐竹等あれば。八州の內御領となるはわづかに四州なり。かの駿遠三甲信の五 ケ國は。年頃人民心服せし御領なれば。是を秀吉の手に入。甲州は尤要地なれば加藤遠江守光泰を置。後に淺野彈正少弼長政を置。東海道要樞の淸須に秀次。吉 田に池田。濵松に堀尾。岡崎に田中。掛川に山內。駿府に中村を置。是等は皆秀吉服心の者共を要地にすえ置て。關八州の咽喉を押へて。少しも身を動し手を出 さしめじと謀りしのみならず。又關東は年久しく北條に歸服せし地なれば。新に主をかへば必一揆蜂起すべし。土地不案內にて一揆を征せんには必敗べきなり。 其敗に乘じてはからひざまあるべしとの秀吉が胸中。明らかにしるべきなり。されば御家人等は御國換ありとの風說を聞て大に驚き騷しを。  君聞召。汝等さ のみ心を勞する事勿れ。我たとひ舊領をはなれ。奥の國にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましける とぞ。果して八州の地御領に歸して後。彌我國勢强大に及び。終に大業を開かせ給ふにいたりては。天意神慮の致すところ。秀吉私智私力をもて爭ふべきにあら ざりけり。)又御舊領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召 よせ。關東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御發輿ありて。八月朔日江戶城にうつらせ給ひ。萬歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。 抑此城といふは。むかし鎌倉の管領上杉修理大夫定政第一の謀臣太田左衛門持資入道道灌が康。正二年繩張し長祿元年成功せしが。文明十八年道灌うせて後は。 管領より城代を置て守らせしに。大永四年小田原の北條のために攻とられ。此後は北條より遠山左衛門佐景政して守らせたり。然るに此度御勢共其城せめとらん とてむかひし時。遠山眞田などいへる者共忽に降參して此城を進らす。よて戶田三郞右衛門忠次にうけ取しめられしなり。げにも道灌さる文武の老練にて取立し 城ゆへ。この頃まではいまだ規摸狹少なりしかども。四神相應最上の城地なりといふもことはりにこそ。かくてみうちの人々も駿府より俄に引うつる。七月の始 にこのことはじまり。八月より九月はじめ迄に。五ケ國の御家人大小引拂ひたるよし關白も聞給ひ。いつにはじめぬ  亞相の下知の神速さよと感にたへられざ りしとぞ。やがて井伊。榊原。本多。酒井。大久保等をはじめ。 當家に名ある輩みなしる所多く賜はりけり。關白は此ついでに奥の國いではの境までも打おさ めんとて。先江戶におはしけるに。此城いまだ狹隘にて關白の宿らせ給ふべき寢殿もなければ。北郭平川口の法恩寺といへるを旅舘となされてさまざま饗せら る。關白會津黑川の城までおはしけるに。伊達南部等の國人どもはとく小田原の御陣にまいりしたがひぬれば。なべて背く者もなく。其長月ばかりに歸洛せら る。十九年には奥の大崎葛西の地に一揆蜂起する聞え有により。關白再び出馬せらるべしと聞えければ。君も是をたすけ給はむとて。下總の古河までいたらせ給 へば。一揆みな落うせて平らぎぬと聞ゆ。よてまづ御馬を江戶に納め給ふ。此事に座して伊達政宗重く罪蒙るべかりしをも。  君とかくこしらへて政宗ゆるさ れ國にかへる。夏の末より其一揆又蜂起すれば。京よりは秀次を大將にて軍勢せめ下る。秋の始又   君も御馬を出され。九戶などいへる城を攻落さる。この 中に  君は岩手山に新城をきつがせられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を收公せられ。葛西大崎の地にうつさるべきをあらか じめはかりしり給へば。その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。關白は朝鮮を討んとの思 ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆづられ。其身は太閤と稱せられ。渡海の沙汰專らなれば。  君も文祿元年二月に。東國諸大名の惣大將として江戶 を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ。(秀吉足利氏衰亂の餘をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が强悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうや く一統し万民やゝ寢食を安んぜむとするに及ひ。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる說々あ れども。實は此人百戰百勝の雄畧ありといへども。垂拱無爲の化を致す德なく。兵を窮め武を黷し。終に我邦百万の生靈をして異賊の矢刄になやませ。其はてハ 富强の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して國力を虛耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ國亡ぶるに至ると同日の談なり。人主 つとめて土地を廣め身後の虛名を求めんとして。終には身に益なく國に害を殘すもの少からず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)此いくさにひまなきほ どに。年の矢は射るが如くに馳て文祿も四年に移りぬ。關白秀次ゆづりをうけしより万思ふまゝのふるまひ多かりしかば。人望にそむく事少からざりしに。太閤 また秀賴とて齡の末に生れ出し思ひ子あれば。 いかにもして是を世に立ばやと下心に思ひなやまれける。其ひまを得て石田等の讒臣靑蠅の間言かさなりしか ば。秀次終に失はる。この事に座して伊達。細川。淺野。最上などいへるもの等罪得べかりしをも。  君よく大閤をときさとし給ひて平らにおさまりしかば。 此輩あつくかしこみ。いづれの時にかをのが命にかへても此御恩報ひ奉らんとぞはかりける。慶長元年五月八日には  君內大臣にのぼらせ給ひ正二位にあがら せられ。御內に侍從二人諸大夫十八人までに及べり。十一日御任槐の御拜賀に御參內。牛車御隨身など召具せらる。三年五月五日大閤俄に心地惱ましと聞えしか ば。京坂伏見さはがしき事物にも似ず。其身にも此病終におこたるまじく思はれければ。幼子秀賴の事をのみ思ひわづらはされ。さまざまの掟共さだめ沙汰せら る。まづは諸大名互に和らぎむつましからざれば。幼主のためあしかるべしとて。伏見の城に人々をよびあつめ。其事を石田等の奉行人して令しけるに。もとよ り恨をふくむやから互に和平する事をいなみつれども。  君その所におはしさとし給へば。人々御威德におそれすみやかにかしこまり申たるにぞ。太閤ますま す  君の御威德を感ぜられ。  君を始め前田。毛利。上杉等の人々をまねき。ちかごとたて起證文かゝしめし中にも。  君の御誓書はその身の棺中に納め 葬るべしなど申をかる。初秋のころは其病いささかひまありとて君を病の牀にまねかれ。秀吉が命も今は旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に亂れぬべ し。是を押しづめ給はむ人は。  內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事ことごとく  內府にゆづり進すべし。我子秀賴成長の後天下兵馬の 權をも執るべくは。いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに。  君も御落淚ましまして。我淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲 の後も秀賴君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の爲に遺教をほ どこさるべし。我に於ては决して此重任にあたりがたしと。再三辭退ましまし退き給へば。太閤ハいよいよ心を安ぜず。石田。增田。長束などいへる腹心の近臣 に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に讓られしは。堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣 子劉禪を諸葛亮に託して。輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の  烈祖に 孤を託せられ。天下の兵權をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田增田が詞にまどひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりと さる人の申置しが。今案ずるに此說是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はことごとく詐謀詭計ならざるはな し。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說にまよひ前心をひるがへしたるにはあら ず。  烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が沒期の詐謀に陷り給ハざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且 元に密諭せしは。我家亡びざらん樣にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたゝかひ。我かの 兩國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十万の軍勢。一人も生て歸らん事思ひもよらず。もし希有にして歸る事を得たり共。彼國より此 年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後誰有てか本朝の動きなからん樣にはかる 者のあるべき。此事をよくはからんは。  江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人彌本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ聖主も其 勳を賞し給ひ。萬民も其德になづき其威におそれ。天下はをのづからかの家に歸しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀賴を輔佐して天下をと らんとはかり。此人と合戰を結ばゞ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絕ざらん事を思はば。相かまへて此人によくしたがひつか へて。秀賴が事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我家の絕ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふに これも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し所にて。その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などには此沙汰 なく。小臣の兩人に申置れたると見ゆるなり。)太閤兵馬の權をゆづり進らせむとありしをかたく辭し給ふにより。しからば秀賴幼稚のほどは。天下大小の政務 は  君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀賴保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより  君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主 はたゞ此  君なりと四民なびきしたがふ。石田三成始大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず。いかにもしてかたぶけ奉ら ん事を。內々をのがじゝはからひける。  君は朝鮮に罷りたる十万の軍勢。つつがなく歸朝せん事を御心なやましく思ひはかり給ひしに。これも思召のまゝに 事とゝのひ。軍勢ことなくみな歸り參る。其時島津父子が退陣の働すぐれたりとて義弘祿加へられ。その子忠恒をば四位にのぼせらる。奉行等は秀賴幼稚の間。 私に賞罰行はれん事いかゞなりとさへぎり申たれども。賞罰の沙汰なくしていかで政道を正すべきとて。かく仰定られしかば。奉行等ましてふづくみ憤る事やら むかたなし。とかく此  君秀賴と同じ所におはしませばこそ。世の人望も歸するに似たれ。秀賴を大坂へ迎へとりなば。をのづから  君の御威權も薄らぐべ しと謀り。秀賴の生母をはじめ女房達をたばかり。四年睦月には秀賴を大坂へむかへとる。  君も其御送りとして伏見より大坂へわたらせ給へば。其夜石田小 西等密議し。明朝御歸路を襲ひ伐てうしなひ奉らんとす。されども井伊直政大勢を引具し。鐵砲に火繩かけて御迎に參りければ。大坂方の者共は案にたがひ手を むなしくしぬ。かくて奉行等益姦謀をめぐらすに。今天下人望の歸する所。  江戶內府と加賀亞相の上に出るものなし。しかれば兩雄を鬪はしめ其虛に乘じは からふにしかじとて。先毛利。浮田。上杉等の人々にはかり。利家にさまざま  君の御事を讒訴す。其中にも  君故大閤の遺令に違はせ給ふ事ありとて。利 家等より使立て其旨を申進らせしむ。こゝに於て双方牟楯おこり。兵戰近きにあらんと京伏見騷動大かたならず。兼て志を通じ奉る池田輝政。福島正則。黑田。 有馬。藤堂等は日夜に御舘に參り。大坂よりもし押よする者あらんには。御味方して一戰せんと申たり。  君には今何故にさる事のあるべき。各かくてあらば 世の騷ぎを引出す事あるべし。唯とく歸り給へとぞ宣ひける。(前田德善院この頃ひそかに人に語りしは。弓矢の挌樣々あるものなり。此頃の騷動に。信長なら ばはやく岐阜へ引取給ふべし。秀吉公ならば三千か五千の人數にて直に切て出らるべし。それにあの  內府公はさらにこの騷動を心にもかけ給はず。每日碁を 圍て更に餘念も見え給はず。さてさて弓矢の挌の違し事よと感ぜしとぞ。)此頃は井伊。本多。榊原。石川。平岩の五人を隊將として御家人五隊に分ち。一組 づゝ交代し京の御舘に勤番せしが。此春は榊原康政當番にて上洛するとて熱田邊まで來かかり。此騷動を聞とひとしく。汗馬にむちうち唯一騎にてはせのぼる。 跡より追々馳のぼるもの七百餘人。康政膳所に來るとき直政が伏見より出せし飛脚に逢て。大坂よりはいまだ寄來る者もなしと聞先安堵し膳所に陣取。秀賴の仰 と披露し勢多矢橋邊に新關を置三日が間往來をとゞむ。諸國にても此騷動を聞て。家々家人どもいそぎ來るとて。此關にとゞめらるゝもの幾千萬か數しらず。康 政三日の未の時ばかりに關の戶をしひらけば。群集したる旅人雲霞のごとく京伏見に馳入る。康政其身小具足きて馬印押立。眞先に伏見へ馳參ず。京伏見には此 形勢をみて。關東より  內府の軍勢數限りなく入洛せしと風說すれば。石田はじめ奉行等これを聞。茫然としてたゞあきれたるばかりなり。其中に細川越中守 忠興は利家の聟なれば。此事利家のため尤以て然るべからずと其子利長を諭し。堀尾。中村。生駒のやからとはかり。中に立て双方の平らぎを行ひける。やがて 利家病をたすけ伏見にまかり御對面し。向島の御舘に引遷らせ給はゞ。彼地は要害もしかるべき所なり。不慮の變にそなへ給へなどすゝめ進らせ。心へだてずか たらひて歸る。  君もやがて利家の大坂の舘におはしまし。先日利家が重病をつとめて伏見までまかりたるを謝し給ふ。利家二なく悅び病をつとめて饗し奉 り。我心地終に生べくも思はれねば。利長利政の二子が身の行末を賴み進らす。此夜は藤堂高虎が家にとまらせ給ふ。石田は同志のやからを會し藤堂が家をおそ はんとせしが。これもとかくして其事もとげず。次の日伏見にかへらせ給ひ。やがて向島に引うつらせ給へば。福島。加藤。淺野。黑田。蜂須賀。藤堂をはじ め。伏見にありあふ輩皆まうのぼり。武具馬具酒肴等とりどり奉り賀し參らす。大坂の奉行はさらなり毛利浮田などいへる者等も。日ごとに向島に參り御旨をこ ひ奉る。其うへこのぼどかの利家もうせければ。齒爵ともに  君の上こすものもなく。御威望はありしにまされり。ここに又福島。池田。兩加藤。細川。淺 野。黑田等の七將は朝鮮にある事七年。その間粉骨碎身して苦辛せし戰功を。故大閤勸賞のうすかりしは。全く三成が讒による所なれば。今三成に其怨を報ぜん といかりひしめくにぞ。三成大に驚き恐れ身の置所をしらず。浮田。上杉。佐竹等はかねて三成としたしかりしかば。今この危急をすくハんには。  內府の御 旨を伺ひ御あはれみをこはざる事を得じとはかり。佐竹義宣深夜に三成を女輿にのせて伏見に參り。ひたすら御なさけをこひ奉る。そのほど福島加藤等の諸將 は。三成とりのがさじと跡より追來る。されども  君かひがひしく請がひ給ひ。七將の輩をもとかくさとし給ひ。三成をば職掌を削りて佐和山に蟄居せしめら るゝとて。佐和山まで三河守秀康卿をもて送らしめらる。(三成が大閤沒後に及び。烈祖を害し奉らんと謀りし事。いくたびとなく。  當家の害となる三成に 過たるものなければ。今度七將の輩三成を誅し怨を報ぜんとするこそ幸なれ。只今三成が年來の罪を糺明してこれを誅し。ながく禍をのぞき給ふべけれと。御家 人等諫め奉りしかども。さらにさるみけしきも見え給はず。本多佐渡守正信は帷幄の謀臣なり。正信深夜御寢所に參り。さて  殿は治部が事を如何思召やと申 す。  君聞召。其儀を兎や角やと思案してゐるぞと仰ければ。正信承り。御思慮遊ばし候とあればそれにてもはや安心せり。又何事をか申べきとて直に退出せ りとぞ。これ等君臣の御擧動殆ど凡智のしる所にあらざるが如し。)三成佐和山へ蟄居せし後は。三成同意の輩は大に力を失ひ。御家人に阿諛して奔走す。長束 增田などの奉行人等は毛利。宇喜多。上杉の三老に議し。內府天下の萬機を沙汰し給ふ事なれば。向島の御舘におはしまさんより。伏見の本丸を御住居になさせ 給はんかと聞え奉る。  君は我向島にすまゐするも利家のすゝめによれば。今三老幷に奉行中のすゝめならんには。ともかくも其指揮にまかすべしと仰られ。 閏三月十三日伏見の本丸にうつらせ給へば。前田德善院はからひて。大手をはじめ諸門の鎰ことごとく井伊直政に引渡す。これより後は伏見はひたすら御居城と なりて。御家人等諸城門を警衛す。今は世のなかもことなくおだやかなれば。朝鮮在陣このかた勞をいこひ人馬の疲をも養はんため。諸大名各就封して國務をも 沙汰すべきにやと仰下されしかば。浮田。毛利。上杉。前田等の諸大名をはじめ。生駒。中村。堀尾。幷に加藤淸正。細川忠興等を思ひ思ひに暇賜はり歸國すれ ば。長束などいへる奉行共も。其しる所へ立かへらんとす。重陽には久しく秀賴母子御對面なければ。大坂へ渡らせ給ひぬ。長束增田ひそかに淺野長政がはから ひにて。土方大野などいへるを刺客として。  君大坂にいらせ給はむ時。害し奉らんと用意するよし告げ奉る。よて本多正信等。明日大坂城へ入らせたまふ事 しかるべからずといさめ奉るといへども。井伊直政。榊原康政。本多忠勝等。かくては臆するに似たれば。たゞ其心がまへして御入城候はんにはしかじと申にし たがはせ給ひ。重陽には大坂城へいらせ給ひ。秀賴母子へ御對面あり。井伊。本多。榊原等はをして寢殿まで進んで御側をはなれねば。城中には手を出すものも なくして。平らかに御旅舘に歸らせ給ひぬ。されどこなたもその御心づかひせられ。伏見の御人數を召ける。御留守に秀康卿おはしけるが。此城は我かくてあれ ば何の心づかひかあらん。番頭物頭までも其局を明て。片時もはやく大坂の御旅舘に馳參るべしと指揮し給ふ。此時卿の下知勢配りの樣聞召。  君も吾には生 れまさりたりとて。かつ感じかつ悅ばせ給ふ事なゝめならざりしとぞ。今度  君を害せんと謀りし首謀は。加賀中納言利長。淺野長政と謀を合せて。土方大野 の兩人を刺客に命じたる事なれば。是等が罪をたゞされ後來をこらしめ給はずばかなふまじと奉行等聞え上しに。此事ひろくあらはに罪をたゞさむには。世のさ はぎともなり。秀賴のためしかるべき事ならずと仰られ。まづ長政は所領に蟄居せしめ。大野土方はそれぞれにめしあづけらる。(是實は石田三成と長束增田等 がはかりて。利長長政を陷れて失はんとす。實は利長長政等は 當家に親しみあれば。 當家親眤の徒を離間せんと計りし事いちじるければ。わざと其罪をかろ くとりなさせ給ひしものなるべし。)かくて奉行共にこの頃諸大名多く歸國し諸有司も數少き中に。日々伏見に行かよはんもさまたげ多ければ。我いまより大坂 の西丸に住居して。萬機を沙汰せんはいかにと仰らる。長束增田等もとよりいなみ奉るべきにあらず。このまゝ大坂に御住居ましまして。萬に沙汰し給はむ事。 天下の大幸この上なしと御請し。俄に故大閤心いれて搆造せられたる西丸に。ことにことを添て修理を加へ迎へ奉れば。在大坂の大小名も日々西城にまうのぼり 御けしきをとるにぞ。いよいよ天下の主とは見えさせ給ふ。かくて淺野。土方等それぞれに御かうじ蒙りしうへは。利長がこと捨をかるべからずとありて。ほど なく加賀國へ打て下らせ給ふべしと聞ゆれば。丹羽五郞左衛門長重こひ出で御先手を奉はる。このこと世中ゆすりみちて言のゝしるにぞ。細川忠興はじめ故利家 此かた彼家にしたしみ深き諸大名より。利長のもとへ此旨をつげやるにぞ。利長大におどろき。橫山といふ家司をのぼせ。さらに思ひよらざる旨かへすべす陳謝 し。其母芳春院を質に進らせけるにぞ事なく平らぎぬ。(是江戶へ諸大名の證人を進らせたる起本なり。)明れば慶長五年正月元日。大坂の西丸におはしまし。 諸大名太刀折紙をもて歲首を賀したてまつる。秀賴の近習馬廻の諸士も。組々を分て五日迄拜賀に參る。其にぎはひにるものもなし。睦月の中旬に至り在大坂の 大小名をめし饗せられ。四座の猿樂を催さる。貴賤袖をつらね參りつどふ。御威光故太閤の在世にことならず。石田三成佐和山蟄居の前より。上杉佐竹等と深く はかりかはし。時を得て上杉佐竹と牒し合せ。東國に謀反の色をあらはさんには。  內府みづからこれを征せられんとて。打て下られん事必定なり。其時三成 大坂へ馳參し秀賴仰せと稱し。毛利浮田をはじめ西國諸大名をかたらひあつめ西より軍をすゝめ。  內府を中途にさしはさみ討奉らんには。勝利疑なしと謀を 決しける。景勝が家司直江山城守兼續これもさるふるつはものにて。三成と謀を合せたがひに其事をくはだてしが。今は時こそよけれと景勝をすすめ。領內砦々 を取立て壘を高くし溝を深くし。舊領越後下野邊の鄕民をすゝめ。一揆を起させ騷動せしむれば。近國の領主代官大に驚き上杉叛逆の由。大坂へ注進櫛の齒を引 が如し。上杉就封の後期をこえて上坂せざるゆへなれば。世のさはぎをしづめんため景勝はやく上坂すべしと。御使を下され召どもまいらざるのみならず。豐國 寺の兌長老して。直江が許へ消息してその情を試給ひしに。兼續が返簡傲慢無禮をきはめしかば。今は御みづから征し給はでかなふべからずと仰下さる。大坂の 奉行等は。幼君の代始にこは思ひよらぬ事なり。もし景勝實に叛逆するにもせよ。一二の大名をさしむけられんに何の恐れか候べき。御親征あらんは勿躰なしと 留め奉る。(大坂の奉行等はみな上杉石田の黨類なれば。御親征を遲引して。其中には景勝が防禦の備を全からしめんとするものなり。)されど東征の英慮旣に 決し給へば。いかでこれ等のことばになづみ給はむ。六月のはじめにハ西丸にあまたの大小名めしあはせられ。軍議旣に定まれば。十六日に大坂には佐野肥後守 政信を御留守とせられ。大軍を召具し御出馬ありて。其夜は伏見の城にとゞまらせ給ふ。此城は鳥居彥右衛門元忠。松平主殿頭家忠。內藤彌次右衛門家長。松平 五左衛門近正をとゞめて守らせらる。(君此時。當城へ殘し留る人數不足にて。汝等苦勞なりと仰ければ。元忠承り。某は左は思ひ候はず。天下無事ならんに は。當城守護せん事某と五左衛門兩人にて事たり候べし。もし世に變ありて敵大軍を以て當城をかこまん時は。近國に後詰する味方はなし。とても城に火をかけ 討死するの外は候はねば。御人數多く當城に殘し給はむ事。詮なしと申けるとぞ。)十八日伏見を首途し給へば。池田。福島。細川をはじめ。上方大名は都合五 万餘の勢にて大坂を打立。追々奥へぞ下りける。兼てより軍令嚴重なりければ。農は耕し商は鬻ぎて敢て生產を失はず。行旅は避るに及ばず。万民悅びかぎりな し。大津の城に立よらせ給へば。京極宰相高次晝飯奉る。今夜は石部の御旅舘にとまらせらる。長束正家水口に就封してありしが石部に參り。明朝ハ水口に立よ らせ給ふべし。饗奉るべきよし申てかへる。其夜思召旨ありとて戌の刻俄に石部を立せ給ひ。長束へも去がたき事出來ていそがせ給へば。こたびは立よらせ給は ず。御かへさに立よらせ給ふべしと。御使して仰遣はさるれば。正家大におどろき御跡を追て十九日の晝土山の御休らひ所に參り。御名殘をおしみたてまつれ ば。御感のよしにて御刀賜はり。正家拜謝してかへる。(石田三成此時はいまだ佐和山に有しに。其謀臣島左近今夜佐和山より急に水口の御旅舘へ夜討をかけん といふ。三成聞てそれにも及ばす。兼て長束に牒し合せ置たれば。長束今夜水口にて謀を行ふべしといふ。左近天狗も鳶と化せば蛛網にかゝるたとへあり。今夜 の期を過すべからずと是非に三成をすゝめ。三千人にて蘆浦觀音寺邊より大船廿餘艘に取のり。子刻に水口まできて見れば。はや打立給ふ御跡なりしゆへあきれ はてゝ歸りしといふ。  烈祖の三成をあしらひ給ふ事。三歲の小兒を弄ぶに異ならず。小人小黠もとより量をしらざるを見るべし。)此道すがら鎌倉の八幡宮 にまうで給ひ。右大將家此かた世々の古跡を尋給ひ。江島の辨天金澤の稱名寺などとはせられ。七月二日江戶の城に入せ給ふ。(陪從せし上方大名は。海道を直 に江戶へ着陣すべしと命ぜられ。鎌倉御遊覽には御家人のみ召具せらる。)程なく上方大名御跡より進發の輩も。やがて江戶へ着陣しければ。悉く二丸に召て大 饗行はる。十九日中納言殿先江戶を御進發ましまし。榊原康政先鋒として下野の宇都宮に御着陣あり。御先手の諸大名。十三日より十五日までの間に。太田原邊 まで着陣すべしと定められ。  君は廿一日に御馬を出され。廿四日。小山に御陣をすゑらる。これは鎌倉右大將佐竹追討の佳例によられしとぞ聞えける。佐竹 今度も會津もよりの事なれば。御先手にさされながら打立樣も見えざれば。重て御使を立られ御催促ありけれど。たやすくいらへも聞えず。然れば上杉に一味せ しに疑なしとて。まづ那須一黨ならびに水谷。皆川。太田原等のやからには。そのをさへを命ぜらる。然るに池鯉鮒の宿にて。大坂の家人加賀井彌八郞といへる もの。爭論して水野和泉守忠重を討。彌八郞また堀尾吉晴がためにうたれしが。吉晴も深手負しよし聞ゆ。(是は大谷吉隆がすゝめにより。三成ひそかに彌八郞 に命じ。秀賴より存問の使と稱し江戶へ下し。  君御對面の席にて刺奉れとの事にて。彌八郞を江戶へ下しける。然るに  君いかで斯る詐謀に陷り給ふべ き。御對面なければ彌八郞むなしく歸るとて。道にて堀尾をあざむき忠重に會し。酒宴の席にて忠重を害し。堀尾をも討んとして其身伐れしなり。又三成は大谷 吉隆。安國寺惠瓊等とはかり大坂へ馳參り。秀賴の仰なりとて諸國へ軍令をふれまはし。毛利宇喜田をはじめ小西。立花。島津等。すべて九國中國の大名小名雲 霞のごとくよびあつめ。まづ伏見の城を攻落し。鳥居元忠以下を討取たるよし。追々小山の御陣に注進來れば。御供の人々おどろく事かぎりなし。  君は諸將 を御本陣にめしあつめられ。井伊直政。本多忠勝兩人もて上方逆徒蜂起の事を告られ。諸將妻子はみな大坂に置たる事なれば。うしろめたく案じわづらはれん事 ことはりなり。速にこの陣中を引はらひ大坂へのぼられ。浮田石田等と一味せられん事更に恨とは思はず。我等が領內にをいて旅宿人馬の事はさゝはりなからん 樣令し置たれば。心置なくのぼらるべしと仰下さる。諸將愕然として敢て一語を出す者もなかりし中に。福島正則すゝみ出。我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子 にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。  內府の御ため身命を抛て御味方仕べしといへば。黑田。淺野。細川。池田等はいふまでもなく。一座の諸將みな 御味方に一决し。更に二心なき旨を申す。  君も其座に出まし。諸將の義心を御感淺からず。さては彌會津に攻入て景勝を蹈潰し。其後上方へ進發すべきか。 又は景勝をば捨置てまづ上方へ發行すべきかと議せらる。諸將みな上杉は枝葉なり。浮田石田等は根本なり。會津をすてゝ上方御征伐をいそがるべきにやと申け れば。彌上方御進發に决せらる。(これは前夜に秀康卿に議せられし時。卿いちはやく上方逆徒御征伐を進められしかば。旣に御治定ありし所なり。)しかれば 淸洲吉田兩城は。敵地に近きをもて正則輝政先陣あるべし。引つゞき先手は淸洲に着陣し。我父子出馬を待るべしと仰あれば。正則我居城淸洲をさゝげ進らせ置 ば。御家人に守らせ給ふべし。十万の軍資は兼て備置たりと申。山內對馬守一豐も。我も居城懸川をさゝげ置ば御旗本勢をこめをかれ。後陣を御心安く御進發あ るべきなりと申にぞ。東海道に城もちし輩は。皆異口同音におなじ樣にぞ聞えあぐる。又秀康卿は是非上方の御先手奉はりたしと仰けれど。上杉は謙信以來こゝ ろにくきものなれば。汝が外これを押ふる者あらざればとて御跡にとゞめられ。秀康卿を總督にて伊達。堀。最上。蒲生。相馬。里見。那須黨を上杉のをさへに とゞめ給ひ。福島池田等の諸將に井伊本多を御眼代として差し添られ。七月廿六七日に野州を打立。各證人を江戶城にとゞめをき。八月朔日二日に江戶をたつ。   君は小山御陣にて軍令ことごとく定られ。八月五日江戶へ歸らせ給ふべしと有しに。この頃の霖雨にて栗橋の舟橋をし流したりと聞召。是は會津征伐に諸軍 往來のたよりよからんため設る所なり。今は用なしと宣ひ。乙女岸より御船にめし西葛西へ着せられ。七日に江戶へ歸らせ給ふ。かくて明日にも上方御進發ある べしと聞えければ。御供にされし御家人は。番所より直に發足すべき用意して。草鞋路錢を腰に付てつとめ。玄關前塀重門內には鎗立の栅木をまうけ虎皮の長柄 をかざり。書院の床には御馬印をたてならべ。唯今にも御出馬あるべく見えながらいまだ御出馬もなし。御先手の諸將淸洲に着陣して日數をふれば。御眼代にま かりたる直政忠勝兩人も。いかにせんかと思ひわづらふほどに。江戶より先手諸將の慰勞の御使とて村越茂助直吉をつかはされしが。折ふし風の御こゝ地にてし ばし御出馬に及ばれざる旨のよしを傳ふ。加藤左馬助嘉明心さときものにて。我輩かくてむなしく  內府の出馬のみ待べきにあらず。いざ一戰して忠義をあら はすべしとかたりあひ。各手分して中納言秀信の岐阜の城をせめかこむ。城中にも百々木造などいへる古つはものありて。謀を設けふせぐといへ共。大軍大手搦 手より攻入にぞ。遂には攻やぶられ秀信も降參す。さすが右府の嫡孫なればとて助命せられ。後に高野山に閑居ありてほどなくうせらる。先手諸將は直に大垣城 に對し赤坂に陣とれば。井伊本多より此事江戶へ聞え上ぐ。よて御感淺からず各御書を賜ひ賞せらる。やがて九月朔日  君江戶城を御出馬あり。此時石川日向 守家成。今日は西塞とて兵書に重き禁忌とす。御出馬は御延引あらむにやといさめ申。  君聞召西が塞ゆへ我東よりゆきて是を開くなりと仰られながら。御馬 をすすめ給へば。衆人みな凡慮の及ぶ所ならずと感じ奉らぬ者なし。かくて櫻田までならせ給ふ所へ。岐阜より首桶到着せし注進あれば。增上寺門前に置べしと 命じ給ひて。芝神明の社にならせられ。拜殿にて其首共實撿し給ひ。增上寺へいらせられ住持存應先導して本堂へならせられ。ほどなく立出給ひ。直に御乘物に めされ。今夜は神奈川の驛にやどらせられ。こゝより又御書を淸洲の諸將に賜はり御出馬を告らる。十一日熱田までわたらせられし時。藤堂和泉守高虎御迎に參 り拜謁して御先にかへる。(高虎小山御陣所より暇賜はり御先へまかる時。今度先陣に打てのぼる諸將は。みなこれ豐臣家恩顧の者共なり。一旦の義により御味 方に參るといへども。その實は心中はかりがたし。高虎が催し奉らざるほどは。かまへて江戶を御出馬あるべからずと密に聞え上しが。先手諸將岐阜城をせめぬ くを見て。はや御馬をすゝめ給ふべしと申上しなり。十四日には赤坂へ御着陣あるべしと聞えしかば。かしこに在陣の諸將。手廻の人數ばかり召具し。呂久川の 邊まで來り拜謁す。各この程の軍功を賞せられ。明日は八幡にかけ是非合戰を始むべしと仰られ。その日午刻赤坂につかせ給ひ。直政忠勝等兼て經營して待奉り し岡山の御本陣へいらせらる。此岡山といへるは。  天武天皇白鳳のむかし大友皇子と御軍ありしとき。勝軍を奏せし行宮の地にて。今度又  君御本陣とな され。昔は  天皇此地に於て百王一系の帝業を中興せられ。今は  君ここにして千載不朽の洪圖を開かせ給ふ。いとありがたきためしなるべし。逆徒は浮田 石田をはじめ。かねてより大垣の城にありて赤坂の諸將と對陣し。打てやかゝらん待やたゝかはむと軍議に日を送りける。さるにても  內府このほどは上杉と 合戰最中ならん。上杉が吉左右いつか來らんとそらだのめしてある程に。  內府御着陣ありと見え白旗若干見えたりといふもあり。軍勢雲霞の如くかさみたり といふもありて。城中狼狽なゝめならず。浮田石田等。しからば是を試んとて。浮田が家司明石掃部。石田が謀臣島左近等に人數をそへて。株瀨川邊に出して刈 田せしむ。此邊中村。有馬。田中等が陣所に近かり●かば。これ等の陣所よりこれを蹴ちらさんと人數を出し。株瀨川の堤上にて散々に戰ひける。御本陣より御 覽じ。あの人數引あぐべしと命ぜられ。井伊直政承り。双方火花をちらし混戰する中へ乘入采配を打ふりふり。三家の人數を引まとひ物分れしたる擧動。敵も味 方も聲を擧て稱美せり。大垣城中には浮田石田が先手明石島等歸り來り。  內府御着陣ありし事疑なし。且急に合戰とりむすばるべき形勢なりと申せば。扨は 城外南宮山に備へたる毛利宰相秀元。松尾山に備へたる金吾中納言秀秋が陣甚心元なし。この城へ敵より押の人數をさしむけざる先に諸將出城し。毛利金吾に力 をそへずしてはかなふまじと軍議を決し。夜中大垣城を出で關原に陣をとる。(島津義弘この時弟中書豐久を使とし。今夜關原に出陣する事良謀とは思はれず。 それより今夜中に  內府岡山の本陣を襲伐んには義弘先陣すべし。浮田石田の兩將其時出馬せられ。無二無三に內府の先手へ切懸侯はん樣に下知し給へと申送 りしかど。三成は茫然として是に答ふる事あたはず。島左近すすみ出で。夜討などは小勢を以て大軍を討に利ある事にて。大軍より小勢にむかひ夜討を仕懸る事 は古今なき事なり。今度は天下分目の大合戰なれば。明日平塲にて一戰せむに。味方勝利は更に疑なき事に候と申ければ。其詞に諸將同意して。義弘が計は用ひ ざりしといへり。又一書に。浮田秀家は大垣城に在て寄手を引付戰て時日を送り。毛利輝元立花等が後詰を待て。前後より敵を討破るにしかじといふ。大谷吉隆 も。浮田殿の詞は敵を大事に取ての事なれば尤然るべし。靑野が原に打出。一擧して敵を破らんとするは心元なしといひけれども。三成かたく前議を守りて變ぜ ざれば。秀家も三成が議を破る事あたはず。終に三成が議に决せりとも見ゆ。)明れば九月十五日。敵味方廿万に近き大軍關原靑野が原に陣取て。旗の手東西に ひるがへり汗馬南北にはせちがひ。かけつかへしつほこさきよりほのほを出してたゝかひしが。上方の勢は軍將の指揮も思ひ思ひにてはかばかしからず。剛なる 味方の將卒にきり立られ。其上思ひもよらず兼て味方に內通せし金吾秀秋をはじめ裏切の輩さへ若干いできにければ。敵方に賴み切たる大谷。平塚。戶田等をは じめ宗徒のもの共悉くうたれ。浮田。石田。小西等もすて鞭打て伊吹山に逃いり。島津も切ぬけ。其外思ひ思ひに落てゆけば。味方の諸軍いさみ進て首をとる事 三万五千二百七十餘級。味方も討死するもの三千餘ありしかど。軍將は一人も討れざりしかば  君御悅大方ならず。(大道寺內藏助が物語とてかたり傳へし は。凡關原の戰といふは。日本國が東西に别れ。双方廿万に及ぶ大軍一所に寄集り。辰の刻に軍始り。未の上刻には勝負の片付たる合戰なり。かゝる大戰は前代 未聞の事にて。諸手打込の軍なれば作法次第といふ事もなく。我がちにかゝり敵を切崩したる事にて。追留などと云事もなく四方八方へ敵を追行たれば。中々脇 ひらを見る樣な事ならずと見えたり。是目擊の說尤實とすべし。)   君は今朝より茶縮緬の御頭巾をめされしが。旣に敵皆敗走するに及び。御本陣にて床机 に御腰かけられ勝て胄の緖をしめよといふ事有とて。はじめて御兜をぞめされける。此時御先手の諸將ことごとく參陣して御勝利を賀し奉る。岡江雪御傍にて。 まことに名將の御武德とは申ながら。日本國が二に分れたる大合戰なる所。ただ一日のうちに凶徒ことごとく追ちらされ。我々に至るまでも夜の明たらん心地 す。あはれ御凱歌を行はるべきかと聞え上ければ。  君聞召いかにもことはりなり。去ながら各はじめ諸將の妻子證人として大坂にあれば。心中を察して我又 甚心ぐるし。もはや三日が間には我大坂へ攻のぼり。諸將へ妻子を引渡し安心せしめ。其上にて勝閧の規式をば行ふべしと仰ければ。これを承傳ふる大小名士卒 厠役にいたるまで。げに仁君かなと感歎せざる者なかりしとぞ。十七日には諸勢三成が居城佐和山へ押よせ不日に攻落し。大垣に殘りし敵も皆降人に出ければ。   君は十九日御陣を草津にうつし給へば。こゝに  勅使參向ありて。今度おもはざるに天下兵革起り。四海鼎のごとく沸を以て叡慮をなやまさるゝ所。   內府神速にはせのぼり。一戰に數万の凶徒を討亡す事。古今未曾有の武功といふべし。彌天下大平の政を沙汰せらるべしとの詔を傳へられ。公卿殿上人寺社商工 等までも。思ひ思ひに御本陣に參賀するさま。簞食壺漿して王師をむかふる御威德四海にかゞやけり。  中納言殿には宇津宮より直に中山道にかゝりのぼらせ 給ふ御道にて。信州上田の城を攻給ひしに。眞田昌幸かたく防て從はざれば。こゝに押の兵を殘し御道をいそがせ給ひ。この頃山道より大軍を引つれ御着陣。加 賀黃門利長も北國を平らげ參着しければ。彌大坂城へいそがせ給ふ。これより先大坂城にては西丸に御留守せし御家人を追出し。毛利輝元入かはりて秀賴の後見 と號し萬事を沙汰し。增田長盛ハ秀賴を守護して本丸にありしが。輝元かねてより家司吉川が歸欵する上は。輝元一議にも及ばず城を出で木津の别業に蟄居し。 增田も降參して罪なき旨を陳謝す。今は秀賴母子も薄氷をふむ心地する所。草津の御陣より御使ありて。今度の逆謀みな浮田石田等の姦臣等。私のはからひに て。幼稚の秀賴元來あづかりしらるべきにあらざれば。更に御不審に及ばれざるよし仰つかはさるれば。母子ハいふまでもなく。城中男女初めて蘇生せし心地し 悅事かぎりなし。この後は秀賴母子身上は御はからひにもるべからず。何事も御仁恕を希のみのよし使もて謝し奉る。  君は廿七日大坂城にいらせ給へば。ま た  勅使ありて御入城を賀せられ。京堺畿內の土人まで雲霞のごとく來賀し奉る。石田。小西。安國寺等は生擒られ誅せられ。其餘凶徒の城城。あるは降參し 或は攻おとされ。中國九國にては黑田如水入道。加藤淸正と志をあはせて。凶徒の城々せめ平らげて參着し。東國は上杉景勝が臣直江兼續等をして最上に攻入ら しめしに。伊達政宗も最上を援けて戰しが。これも關原上方勢敗績すと聞て。兼續兵をまとめて引かへす。よて  君大坂に於て今度の賞罰を沙汰せられしが。 まさしく御敵となりし上杉。佐竹。島津等の人々さへ其願のまゝに罪をゆるされ。眞田昌幸なども。其子伊豆守信之が。軍功にかへて父が首つがん事を願ひけれ ば。これもその願のまゝに聞召入られ。あるは本領安堵しまたは所領をけづられ。首討るべきものも多く助命せられ。萬寬宥の御沙汰のみにて。世を安くおさめ 給ひし寬仁といひ。大度といひ。かけて申もなかなかなり。又闕國も多かりしかば。御味方せし人々にわかち賜ふ。越前國は秀康卿。尾張國は忠吉朝臣。加賀能 登越中三國は前田利長。安藝備後ハ福島正則。播磨は池田輝政。紀伊は淺野幸長。筑前は黑田長政。筑後は田中吉政。備前美作は金吾秀秋。出雲隱岐は堀尾吉 晴。豐前幷に豐後杵築は細川忠興。土佐は山內一豐。伯耆は中村忠一。若狹は京極高次。丹波は京極高知。伊豫松山は加藤嘉明。同國今張は藤堂高虎。因幡は池 田長吉。飛彈は金森法印。猶あまたあり。此中にも足利學校の住職三要に仰ごとありて。貞觀政要。孔子家語。武經七書等を校正して梓にのぼせらる。戰國攻爭 間もなく文學をさたし給ふ。是又ありがたき御事なり。明る六年二月には井伊直政。本多忠勝。奥平信昌。石川康昌等をはじめ。功臣の輩に祿あまたくはへ。江 勢濃三遠駿上等の城々をわかち給ふ。其彌生  中納言殿大納言にのぼり給ひ。御參內の日忠吉朝臣も侍從に任ぜらる。六月には膳所崎の城を築て戶田左門一西 におらしめ。七月には蒲生飛彈守秀行に會津を給ふ。これ秀行が父宰相の舊領なりしが。今までは上杉の領せし所なり。九月には  內  院の御料。公卿殿上 人の采邑を查定したまひ。板倉四郞左衛門勝重。加藤喜左衛門正次を京都にをいて大小の沙汰せしめ。其冬江戶に歸らせ給ひ。奥平家昌に宇都宮十萬石を給ふ。 七年正月六日には  君從一位にのぼらせ給へばやがて御上洛あり。大坂にも渡らせらる。五月御參內  院參し給ひ。  女院御所にて猿樂を催され。  主 上も御覽にわたらせらる。此八月御生母  大方殿うせ給ふ。さる艱難の中にうき年月をすごさせ給ひしが。今かゝる御光にあはせ給ひ天下の孝養をうけ給ひ。 古も稀なる齡に五とせまでかさねて。安らかに終をとらせ給ふいとかしこし。十一月には御五男武田万千代丸信吉のかた。下總國佐倉より常陸の水戶に移させ給 ひ此月又都にのぼり萬機を沙汰せられ。明る八年正月には御九男五郞太丸を甲斐國に封ぜられ。池田輝政に備前一國を加へ給ひ。森忠政に美作國を賜ひ。御七男 上總介忠輝朝臣は下總國櫻井より信濃國川中島に轉封せらる。すべて治世安民の御沙汰ならざるはなし。
東照宮御實記卷五 慶長八年二月に始り四月に終る御齡六十二
慶長八年癸卯二月十二日征夷大將軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は廣橋大納言兼勝卿。奉行職事は烏丸頭左中辨光廣。弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀 終て勸修寺宰相光豐卿  勅使として已一點に伏見城に參向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅。其他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束 帶なり。雲客以上は城中玄關にて轅を下り。其以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陽陰頭久脩御身固をつかふまつりて後。紅の御直埀めして午刻南殿に出 給ふ。今日參仕の輩。諸大夫以上直垂。諸士は素襖を着す。  勅使にまづ御對面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事辨みな中段にすゝむ。告使中原職善 庭上にすゝみ。正面の階下に於て一揖し。磬折して御昇進と唱ふる事二聲。一揖して退く。次に廣橋勸修寺兩卿は。上段第二の間の中程に左右にわかれて着座 す。奉行職事參仕の辨等は第三の間に左右に别れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近將監中原職忠征夷大將軍の宣旨を亂箱に入て。小庇の 方より持出て官務にさづく。官務これを捧てすゝむ。大澤少將基宥請取て御前に奉る。御拜戴有て宣旨は御座の右に置。基宥亂箱をもちて奥にいる。永井右近大 夫直勝その箱に砂金二裹入て基宥に授く。基宥是を持出で官務にさづく。官務拜戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持參し。基宥受取て御前に 奉り。箱は基宥とりて奥に入。直勝砂金一裹を入れ。基宥これを持出で大外記に授け。大外記拜戴して退く。其さま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出。次に 大外記右大臣の宣旨持出。次に大外記官務牛車宣旨持出。次に隨身兵仗の宣旨大外記持出。次に淳和弉學兩院别當の宣旨官務持いづる。其度ごとに亂箱に砂金一 裹づゝ入て賜はる。次に職事辨等座を立。次に上卿  勅使太刀折紙もて拜謁せられ基宥披露し。次に職事弁以下太刀折紙持出で。三の間長押の內にて拜し。大 外記以下は太刀を三間の內に置て廣庇にて拜し。官務出納少外記史も同じ。次に陣の官人召使等太刀は献ぜず。廣緣にて拜して退く。次に右近大夫直勝。西尾丹 後守忠永(寬政重脩譜には忠永此時未だ酒井の家に在て主水と稱すとあり。)役送し。兼勝卿に金百兩。御紋鞍置馬一疋。光豐卿に金五十兩。鞍馬一疋遣はされ て後奥に入御あり。次に參仕の官人召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども。文屋綿丸。坂上田村麻呂。藤 原忠文等は禁中に召宣下有しなり。幕府に  勅使をつかはされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大將家にもとひす。其時は鶴岡八幡宮に  勅使をむかへ。三浦次郞 義澄。比企左衛門尉能員。和田三郞宗實。郞從十人甲胄よろひて參りその宣旨をうけとり。幕下西廊にて拜受せられしこそ此儀の權輿とはすべけれ。足利家代々 此職をうけつがれしかど。等持院。寳篋院。鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば。典禮儀注を講ぜらるゝに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法 もほゞそなはりけるなるべし。それも應仁よりこのかたは。幕府また亂逆のちまたとなりぬれば。禮義の沙汰もなし。こたびの儀は其絕たるをつぎ廢れしをおこ され。鎌倉室町の儀注を斟酌して。一代の典禮をおこさせ給ひしものなるべし。(此日の作法は宣下記幷に勸修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども。麁略に して漏脫多し。ひとり出納職忠記詳なれば。今は職忠の記にしたがひてこれをしるし。宣下記。勸修寺記。西洞院記の中にもほゞそのとるべきをとりて補ひぬ。 この時の作法は 當家典禮の權輿といへども。いまだ全備せしにはあらず。これより世々たびだび沿革ありて。今にいたりて全く大備せしといふべし。)次に   勅使上卿をはじめ奉行職事辨を饗せられ。三寳院門跡義演准后出座して相伴せらる。(三寳院は室町將軍家代々宣下のとき。出座して饗應の席に連る例なりし をもて。けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは。滿濟准后の鹿苑院將軍の猶子となられしよりこのかた。代々室町家の猶子ならざ るはなし。其中には室町家の實子にて住職せしもあれば。此門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて。斯る大禮にあづかりし事と見えたり。この外にも室町 家出行の時は。三寳院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この日出座ありし義演准后といふも。靈陽院の猶子なりしとぞ。)この日越前中將秀康朝臣を從三 位宰相にのぼせらる。(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による。)又板倉四郞右衛門勝重は京所司代たるにより。豐臣家の例によりて騎士三十人。歩卒百人 を附屬せらる。又本鄕治部少輔信富はその家代々室町將軍家につかへ。將軍家の制度儀注にくはしければ。この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あ り。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利將軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝將軍につかへけるが。三好長慶が叛逆の時若狹の國本鄕の所領を沒 落し。後に靈陽院義昭將軍につかへ其後織田家にしたがひ。去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり。(將軍宣下記。勸參寺記。西洞院記。中原記。續通 鑑。家忠日記。家譜。寬政重修譜。)○十三日秋元茂兵衛泰朝從五位下に叙し但馬守と改む。此日生駒雅樂頭親正入道讃岐の國高松の城にありて卒す。壽七十 八。この親正が先は參議房前に出で。數世の後左京進家廣が時より。大和國生駒の村に住ければ。終に生駒をもて家號とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。 是親正が父なり。親正父の時より美濃國土田村に住て織田家にしたがひ。後に豐臣家に属ししばしば軍功ありしかば。天正十四年伊勢國神戶の城主とせられ三萬 石を領し。又播磨國赤穗にうつされ六萬石を領し。十五年八月十日讃岐國に轉封せられその國鶴羽浦に住し。また丸龜の城にうつり。このとし堀尾帶刀吉晴。中 村式部少輔一氏と共に豐臣家三中老の一人に定めらる。是より先從五位下して雅樂頭と稱す。小田原の軍にもしたがひ。朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみ たり。文祿四年七月十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。  我君をうしなひまいらせんと謀りし時も。親正。吉晴。一氏の三人心 を一にして其中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時。親正は病にふしければ。其子讃岐守一正に軍兵そへて御 供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば。又上方へ打てのぼらせ給ふ時。一正は御駕に先立て福島加藤等とおなじく海道を發向し。美濃國岐阜鄕戶等の軍 に武功をはげまし。關原の戰にも力をつくしける。父親正は國にありて石田三成が催促に從ひ。家卒を出して丹後國田邊の城責に與力せしかば。關原御凱旋の後 一正は父が本領讃岐國にて十七萬千八百石餘を給ひ。丸龜を改めて高松の城にうつりすむ、親正はなまじゐに田邊の城責に人數を出しければ。其罪を恐れ高野山 に迯のぼり薙髮して謝し奉りける。されど一正旣に軍忠を著はし勸賞蒙る上は。御咎のさたに及ばれず。御免しを蒙りしかば。此後は高松の城に閑居して。一正 にはごくまれけふ終りを取しとぞ。(家譜。藩翰譜備考。寬政重修譜。)○十四日公卿殿上人伏見城に上り將軍宣下を賀し奉る。(西洞院記。)○十五日島津少 將忠恒が使の家司拜謁して歸國の暇たまはる。(天元實記。)○十九日朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するがごとくにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一晝 夜に日月蝕す尤珍事とて喧噪す。(當代記。)○二十五日南都東大寺三庫修理成功するにより。本多上野介正純幷に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井 伊賀守定次幷に中坊飛驒守秀祐これをつとむ。  大內よりは  勅使として勸修寺右大辨光豐卿。廣橋右中辨總光參向あり。この三庫は  聖武天皇の遺物と て。蘭奢待をはじめ紅沈香。麝香。人參。綾羅綿繡。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿。其外屏風。樂衣等五十の唐櫃●納め。千歲近く收藏して朽敗せず。   天朝にも  勅封ありて尤秘藏し給ふ所なり。足利將軍家代々一度。蘭奢待を一寸八分づゝ切て寳愛せらるゝ故事となりて。織田右府も切取て秘賞せられし かば。 當家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに。  聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久 しく  勅封を開かず。庫內朽損漏濕して古物の破壤せむ事思ふべきなりとて。去年六月正純長安等を監せしめ。定次秀祐等奉行し。  勅使參向して  勅封 をひらき。寳物を他所にうつし庫內を修理せしめられ。九月に至る。唐櫃三十は新調して寳物を收貯せしめられしが。このほど告竣に及びしかば。  勅使ふ たゝび參向ありて寳物を庫內に收め   勅封ありしなり。(和州寺社記。筒井家記。)○二十七日三河國鳳來寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壤す。天狗の所 爲なりと流言す。又山中衆徒死亡する者多し。(當代記。)是月井伊万千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。上杉中納言景勝卿江戶に參覲す。櫻田に於て宅 地をたまふ。又諸國の大名より各丁夫をめして。江戶の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに屬する者三人。松平下野 守忠吉朝臣を上首としてこれに屬するもの四人。加賀中納言利長卿を上首としてこれに屬するもの四人。上杉中納言景勝卿を上首としてこれに屬する者三人。本 多中務大輔忠勝を上首としてこれに屬する者四人。蒲生藤三郞秀行に屬するもの一人。伊達越前守政宗に屬する者一人。生駒讃岐守一正に屬する者十八人。細川 越中守忠興に屬する者十人。黑田甲斐守長政に屬する者三人。加藤主計頭淸正に屬する者三人。(以上所屬の徒詳ならず。)淺野紀伊守幸長に屬するものは。池 田少將輝政。堀尾信濃守忠晴。峰須賀長門守至鎭。山內對馬守一豐。加藤左馬助嘉明。中村一學忠一。池田備中守長吉。山崎左馬允家盛。有馬玄蕃頭豐氏。中川 修理大夫秀成。前田主膳正茂勝なり。(淺野家の書上による。)この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ。世に名けて千石夫とよべり。又此時より市街の 名みな役夫の國名を課せて名付しとぞ。又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拜謁して。舊主直政磯山に城築かんと請置しかど。磯山はしかるべしと も思はれず。澤山城より西南彥根村の金龜山は。湖水を帶て其要害磯山に勝るべしと聞え上しに御けしきにかなひ。さらばその金龜山に城築くべしと命ぜられし 上。今の直勝は多病なれば。汝主にかはりて其城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは。直勝多病なりといへども。其弟辨之助直孝とて今年十四歲なる が。父直政が器量によく似て雄畧すぐれて見え候。此者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに。何のおそれか候はんと申ければ。その直孝召つれ來れと 仰あり。守勝かしこみ悅ぶ事斜ならず。速にともなひ見參せしめしに。其面ざし父に似たり。いかさまものゝ用に立べきものぞ。直に江戶へまかりて   中納 言殿によく仕へよとの仰を蒙る。又牧野傳藏成里入道一樂ははじめ豐臣關白秀次につかへ。關白事ありて後石田三成に屬し。關原の戰に石田が味方にて備しが。 石田方大敗に及び家兵十餘人ばかり引ぐし。大敵の中を切拔て池田輝政が備に來りしかば。輝政これを播州にともなひ歸り撫育なしをき。この程輝政御夜話に侍 しける時この事聞え上しに。その傳藏は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戶に奉仕せしめむため。酒井雅樂頭忠世にともなひ江戶へ參る べしと命じたれば。傳藏も同じく江戶へまからせ仕ふまつらしめよと仰らる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に。又先に御勘氣蒙りたる近藤平右 衛門秀用恩免の事聞え上しに。これもゆへなく御ゆるしあり。一樂は此後還俗して傳藏と改む。又松浦式部卿法印鎭信は孫壹岐隆信とて時に十一歲なるをともな ひ。都にまかり初見の禮をとらしむ。鎭信が子肥前守久信は父に先立てうせければ。鎭信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。又  大納言 殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江國久野の所領をうつされし松下石見守重綱。暇給はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野 三郞左衛門安宗入道宗庵に給はり。下總の所領千石を合せ。舊領共に八千五百石になされ入城す。森右近大夫忠政この六日信濃國より美作國に轉封せられたるを もて。信濃國川中島。松城。飯山。長沼。牧の島。稻荷山。五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。又第十の御子長福丸のかた今年二歲にならせ給ふ。訪 諏部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覺書。寬永系圖。寬政重修譜。家忠日記。)○三 月三日伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍從雅宣。勸修寺宰相光豐卿等參賀あり。この日水野孫 助信光死してその子孫助つぐ。(勸修寺記。寬永系圖。)○五日尾崎中務某死して其子勘兵衛成吉つぐ。鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ參謁しければ。歸路諸驛の御朱 印を下さる。(寬永系圖。八幡古文書。)○六日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す。(舜舊記。)○十日中根喜藏正次小姓組に入番す。(寬政重修譜。)○十一 日永井右近大夫直勝を勸修寺宰相光豐卿のもとに御使して。御直廬の事を議せらる。よて  叡聞に達する所。直廬は內廷に設るをもて規摸とする事なれば。長 橋の局をもて御直廬に定らるべしとの內旨を。光豐卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく參りて兩卿よりつたふ。(勸修寺記。貞享書上。)○廿一日伏見城よ り御入洛ありて。二條の新御所に入らせ給ふ。(去年聚樂の御舘を二條に引遷さる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり。)傳奏その外月 卿雲客これを迎へまいらすとて。大佛堂西門邊まで出て拜謁す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿に御懇詞を加へらる。この日森右近大夫忠政就封す。忠政 は封地美作國鶴山に城築事こふまゝにゆるされしかば。やがて新築して後に名を津山と改む。(舜舊記。勸修寺記。作州記。)○廿三日小出遠江守秀家卒す。其 弟五郞助三尹を世繼として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて。母は豐臣大閤の外叔母なれば。豐臣家にはよきぬなからひなり。はやくか の家につかへ從五位下に叙し遠江守と稱し庇䕃料千石を授らる。慶長五年上杉御征伐のとき父秀政は老病に臥ければ。秀家に從兵三百人を加へて御供に侍はし め。下野國小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば。先これを誅せらるべしとて大斾をかへされたるに。秀家も御供す。關原凱旋の後秀家最初より御味方 にまいりし功を賞せられ。千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に應じ。丹後國田邊の寄手に加はりしかども。秀家が軍忠によりて父 兄皆御ゆるしを蒙り。秀家けふ三十七歲にて卒しぬ。(秀家が世つぎ三尹が時。姪大和守吉英が所領を分て一万石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべ て万石以下の輩には傳をたてずといへども。秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ。こゝにその來歷を詳にせざることを得ず。)此 日神龍院梵舜二條御所に出で御氣色を伺ふ。(寬政重修譜。舜舊記。)○廿四日黑田甲斐守長政江戶より上洛し。二條の御所へまうのぼり拜謁す。○廿五日將軍 宣下御拜賀として御參內あり。其行列。一番は雜色十二人。切子棒鐵棒を持て御成を唱ふ。此十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。 (是は御進献の品なり。)下部是をもつ。公人朝夕十人左右にわかれ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀 持一人。龓二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭鞢をもつ。龓二人。笠持一人。長刀持一人。草 履取一人。敷革持一人。四番隨身。左山上彌四郞政次。島田淸左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四郞正盛。渡邊半藏重綱。鵜殿善六郞 重長。橫田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帶劔。弓箭をもつ。龓二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸大夫。風折直垂。太刀小刀を帶 す。(これは帶刀のつとめにあたる。)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狹守近次。戶田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右 近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。內藤右京進正成。秋元但馬守泰朝。松平右衛門佐正綱。松 平出雲守某。七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舍人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀を さし。馬上に御劔をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成瀨小吉正成。安藤彥兵衛直次。榊原甚五兵衛 某。阿部左馬助忠吉。豐島主膳信滿。林藤四郞吉忠。高木善三郞守次。朝比奈彌太郞泰重。石川半三郞某。都筑彌左衛門爲政。右は米津淸右衞門正勝。中山左助 信吉。柴田左近某。橫田甚右衛門尹松。日下部五郞八宗好。長谷川久五郞某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊藏忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九郞左衛門某。八番騎 馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛驒守忠政。松平玄蕃頭家淸。本多豐後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠 良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帶し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。引敷持一人。 九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豐前宰相忠興。若狹宰相高次。播磨少將輝政。安藝少將正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍 四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人從ふ。遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直友は路次行列の事を汰沙す。  禁廷唐門に公卿出迎られ。眤 近衆は直に從ひて長橋にいらせらる。御降車の時勸修寺右大辨宰相光豐卿御簾をかゝげ。四條左少將隆昌御沓を奉り。大澤少將基宥御劔をとり。長橋の局もて御 直盧代とせらるれば。こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拜賀あり。  主上も殊に龍顏うるはしく。本朝百有餘年の兵革を撥正し。四海太平の基を開く事。 ひとへに將軍の武德によると詔あり。天盃たまはらせ給ひ。舞踏拜謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は。  主上へ銀千枚。幷に小袖  親王へ百枚。   女院へ二百枚。幷に小袖。  女御へ百枚。幷に新大典侍の局へ三十枚。權典侍に三十枚。長橋局に五十枚。すけの局大乳人へ三十枚づゝ。新內侍の局へ廿 枚。伊よの局へ十枚。おこやおまみの局へ五枚づゝ。末の女房五人十五枚。女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。帥の局。お乳の人。やゝの おかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。この時池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則は少將にのぼり。加藤主計頭淸正。黑田甲斐 守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎭。山內對馬守一豐。井伊右近大夫直勝ともに從四位下に叙し。淸正は肥後守。長政は筑前守。一豐 は土佐守。忠氏は出雲守と改む。從五位下に叙する者十七人。板倉四郞右衛門勝重は伊賀守。松平次郞右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狹守。三好久 三郞可正は越後守。三好助三郞長直は備中守。佐々木藤九郞高和は民部少輔。松平長四郞正綱は右衛門佐。松平文三郞重成は志摩守。近藤七郞太郞政成は信濃 守。加藤孫次郞明成は式部少輔。石川宗十郞忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三郞勝政は豐前守。內藤四郞左衛門正成は右京進。松前甚五郞盛廣は 若狹守。相良四郞次郞長每は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直友は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五郞作忠泰從五位下に叙し。可澄は 筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豐後守にあらたむ。(將軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年錄。續通鑑。寬永系圖。西洞院記。舜舊 記。武德大成記。成功記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。家譜。藩翰譜備考。寬政重修譜。)○廿六日こたび叙任せし四位五位の武家拜賀のため參內 す。(將軍宣下記。)○廿七日八條式部卿智仁親王。伏見中務卿邦房親王。九條關白兼孝公。一條前關白左大臣內基公。二條前左大臣昭實公。近衞左大臣信尹 公。鷹司左大將信房卿はじめ。公卿殿上人二條の御所に參向ありて今度の宣下を賀せらる。攝家親王は上段。其以下は下段にて御對面あり。この日江戶にて內藤 修理亮淸成。靑山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは。御料私領の農民等。其地の代官幷に領主を怨望して其地を迯去る時は。代官領主より其事を注進すると も。みだりに還住せしむべからず。迯散の年貢未進あらば。奉行所に於て隣鄕の賦稅をもて各算勘し。其事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへ んと思ふ者は。あらかじめ其地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近鄕の 賦稅に准じてはからふべし。年貢高下の事。農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事嚴禁なり。しかりといへども人質をとられ。やむ事 を得ざる時はこの限りにあらず。代官幷に奉行所に再三目安をさゝぐると雖ども。承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もし其事を代官奉行所にうたへずし てさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては。其旨を告うたふるに及はず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事嚴禁なり。たとひ罪科あ りともからめ取て奉行所に出し。上裁をへて定め行ふべしとなり。(將軍宣下記。制法留。)○廿八日禁中方々の女房より。將軍宣下を賀して二條御所へまいら せものあり。(西洞院記。)○二十九日諸門跡二條御所へ參賀せらる。江戶に於て大納言殿。佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書 の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひしゆへとぞ。(西洞院記。慶長年錄。慶長見聞書。)◎是月細川幽齋法印玄旨は足利家代々につか へければ。その身文武の才藝すぐれたるのみならず。武家の故實典禮にくはしく。當時有職のほまれ高かりしかば。永井右近大夫直勝もて。幽齋につきて武家法 令典故を尋問はしめられ。今より後禮法議注を定制せらる。幽齋足利家の禮式を考て。今の世の時宜にしたがひ。家傳禮式三卷をえらびて獻ず。又曾我又左衛門 尙祐といへるが。これも足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり。筆札の故實に精熟せしかば。これより先めして御內書以下の書法を定めらる。(家譜。藩翰 譜。明良洪範。)◎是春關西の諸大名は次第を追て江戶へ參り  大納言殿に拜謁す。伊達越前守政宗が子虎菊伏見より江戶に參り  大納言殿に拜謁し。守家 の御刀。眞長の御脇差をたまふ。  時に五歲なり。この頃江戶彌大都會となりて。諸國の人輻湊し繁昌大かたならず。四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲 霞の如くあつまる。京より國といふ女くだり。歌舞妓といふ戱塲を開く。貴賤めづらしく思ひ。見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせ其歌舞をもてはや す事風習となりけるに。  大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人其嚴格に感ぜしとぞ。(創業記。寬永系圖。當代記。慶長見聞書。)○四月朔 日日蝕することあり。(節蝕記。)○二日醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる。(寬永系圖。)○三日神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)○五 日二條御所にて猿樂催さる。(舜舊記。)○七日猿樂催さるゝ事五日におなじ。この時進藤權右衛門とて山科の農民。森田庄兵衛とて京の商人なり。この兩人そ のわざ堪能なればとて觀世召具してまかり。權右衛門は脇をつとめ。庄兵衛には笛を吹せたるに。とりどり妙手なりければ。殊に御けしきにかなひてともに觀世 座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歲にて。こと更笛音雲井をひゞかしければ。是より子笛とて常に召れしとぞ。(舜舊記。傳記。)○十日智積院に御朱印を たまふ。其文にいふ。學業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舍幷に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひ せは。寺中を追放つべしとなり。(武家嚴制錄。)○十三日石野新藏廣光死して其子新藏廣次づく。廣光は長篠の戰に高名し。今は菅沼小大膳定利が家士を引具 し。此年頃忍城を勤番せり。(寬政重修譜。)○十四日神龍院梵舜二條城にのぼり拜謁し。三光双覽抄の事御尋問あり。(舜舊記。)○十六日二條より伏見城へ かへらせ給ふ。(御年譜。西洞院記。)○十七日伏見城にて將軍宣下御祝の猿樂催さる。けふ雨宮平兵衛昌茂死して其子權左衛門政勝家をつぐ。(當代記。慶長 年錄。寬政重修譜。)○十九日諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代幷に酒樽をさゝげ將軍宣下を賀し奉る。(當代記。慶長年錄。)○廿二日豐臣大納言秀 賴卿正二位內大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿大坂へ參向あり。秀賴卿には此時十一歲なり。江戶よりは靑山常陸介忠成を大坂につ かはされ任槐を賀せらる。(西洞院記。家譜。當代記。)○廿八日御妹●田姬君逝し給ふ。こは  大樹寺殿の御女にて。御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤 の松平上野介康忠に嫁し給ひ。源七郞康直。源助直隆。隼人直宗。この外にも女子二所まうけ給ひ。けふ五十七歲にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくり て。三河國法藏寺におさめられしとぞ。(或は長光又長康に作る。)この日藤澤の淸淨光寺遊行伏見に參り拜謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し。 (家譜。西洞院記。當代記。慶長見聞書。)◎是月池田少將輝政其二子藤松に備前國たまはりしを謝して江戶に參り物多く奉る。  大納言殿御感淺からず。酒 井雅樂頭忠世を御使せられ。滯留の料として粮米を下され。こと更營中に召て御みづから御茶を給ひ。辭見に及びて御刀及虛堂墨跡。幷に鳳凰麒麟と名付られた る駿馬二疋下され。歸國の時は大久保加賀守忠常。安藤對馬守重信をして箱根の關までをくらせたまふ。其優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は歸路又 伏見に參り拜謝して。藤松ことし五歲なり。成長するまでの間は兄新藏利隆に。備前の國務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る。(寬永系圖。寬政重修 譜。)◎この春江戶に參覲せし關左の諸大名辭見して伏見に參る。又長崎の地は天主教の淵藪なればとて。天正十六年豐臣家の頃は。鍋島飛驒守某といへる者に 所管せしめられ。文祿元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原爲信入道一庵をその地の奉行に仰 付られ。法印に叙せらる。これ長崎奉行の權輿とぞ聞えし。よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門。薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる。 これ長崎町使役の濫觴なりとぞ。(年錄。長崎記。)
東照宮御實紀卷六 慶長八年五月に始り九月に終る
○五月四日小笠原越中廣朝死して其子權之亟某家つがしめらる。(寬政重修譜。)○五日午刻三河國雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死する 者多し。(當代記。)○七日下野國烏山城主成田新十郞重長。父左衛門尉長忠に先立て卒す。(斷家譜。)○十九日  大內より廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相 光豐卿御使として薰袋五十進らせらる。この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁し。神祇道幷に日本紀の事ども尋とはせ給ふ。(舜舊記。)◎是月もとの北條の臣 山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて。督姬君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて。北條滅て後千二百石たまはりしかど。定勝年 老たりとて辭退し山林に世をさけて。ことし七十五歲終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて。兼て奉仕せしめ られしなり。佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。毛利黃門輝元入道宗瑞江戶に參り  大納言殿に拜謁す。(寬永系圖。寬政重修譜。)○六月二日瀧川 久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ。  大納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして。一時は死したる事を注進す る使に逢て。かへり來り其よし聞え上しに。勇士の子孫なればこと更拔擢あるべきを。不幸にして世を早くせりとておしませたまふ。(寬永系圖。寬政重修 譜。)○六日武田五郞信吉君(御五男。)の老臣等より藤澤の道塲へ制札をたつる。其文にいふ。寺中に於て屠殺するか。竹木斬伐するか。門內にて蹴鞠相撲等 すべて狼藉のふるまひするに於ては嚴科に處すべしとなり。其連署の老臣は帶金刑部助君松。河方織部永養。近藤傳次郞吉久。宮崎理兵衛三樂。馬塲八右衞門忠 時。万澤主稅助君基といふ。(鎌倉古文書。)○九日貴志兵部正成死す。其子助兵衞正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各别に采邑たまはりしな り。正成は北條氏照が臣なりといふ(寬政重修譜。)○十一日戶澤九郞五郞政盛始て就封の暇たまはり時服を下さる。(寬政重修譜。)○十五日長福丸の方伏見 城にて髮置の式行なはる。(紀藩古書。)○十八日長谷川甚兵衛重成死して子四郞兵衛重次家をつぐ。(寬政重修譜。)○廿二日吉田二位兼見生絹の帷子三。神 龍院梵舜團扇二柄奉る。(舊舜記。)○廿五日大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覽にならせらる。(西洞院記。 志那は大津より湖上三里。吉田村の 北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絕ざる所といふ。近江輿地誌。)◎是月  大納言殿の北方(崇源院 殿の御事。)御長女千姬君をともなひ御上洛あるべしとて。其御首途に先靑山常陸介忠成が許へわれしかば。  大納言殿にもおなじくならせられ。忠成にも茶 入丸壺硯屏など若干ものたまはり。終日御遊ども數をつくされてかへらせ給ふ。北方姬君は其夜忠成がもとにとまらせたまひ。夜明てかへらせ給ひぬ。やがて江 戶をいでたゝせ給ひ。伏見につかせ給ひて御對面ありければ。姬君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど。いとけなき姬君一人 を京へのぼせ給はむを。あながちに御心もとなく思召給へば。御身のわづらはしきを忍びてさしそひのぼらせ給ひしとぞ。(寬政重修譜。家譜。家忠日記。溪心 院文。)○七月三日伏見より二條へわたらせたまふ。(御年譜。西洞院記。)○五日神龍院梵舜二條へまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)○六日一條前關白內基 公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拜謁せられ。御宴ありて御物語 數刻に及ぶ。(西洞院記。)○七日觀世宗雪江戶にまかりしかば。この日江城にて猿樂催さる。(當代記。)○八日大阪より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城に めされ。猿樂催され饗應せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姬君御入輿の事議せらるゝためなるべし。(西洞院記。)○十日神龍院梵舜まうのぼり御けし きうかゞふ。(舜舊記。)○十二日又おなじ。(舜舊記。)○十四日大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歲。父が家つぎて直に拜謁 せしめらる。(寬永系圖。)○十五日二條より伏見城にかへらせたまふ。(御年譜。家忠日記。)○廿四日連歌師里村紹叱沒す。歲は六十五。紹巴が死せしのち は。新治筑波の道にをいて海內の宗匠と仰がれ。柳營年々の御會にも必召れし所なり。(寬永系圖。)○廿五日諸大夫以上の輩登營して拜謁す。近江國膳所の城 主戶田左門一西今年六十二歲なりしが。居城の櫓にのぼり顚墜して頓死せりとぞ。(重修譜は寬永系圖にしたがひ。一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家 譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば。今家譜にしたが ひ。重修譜の說はとらず。)其子采女正氏鐵に遺領三万石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子。天正三年五月三河國吉田にて武田勝賴と御合戰のとき。敵 將廣瀨鄕左衛門と鑓を合せ。また武田左馬助信豐が陣をつき破る。長篠の戰には酒井忠次等と共に鳶巢山の要害をせめぬき。その九月には遠江國小山の圍を解て かへらせたまふ時の殿し。敵追來るを引返しつきやぶる。十二年小牧山にては。仰により丸山の御陣塲を撿點し。十八年小田原御陣には。靑山虎之助定義とおな じくすゝみ戰て功あり。關東にうつらせ給ふ時。武藏國鯨井にて五千石の采邑をたまわり。慶長五年には山道の御供して。信濃の上田城責に  大納言殿御前に をゐて聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ。このとし從五位下に叙し近江國大津の城主になされ。二万五千石加へられ三万石たまわり。そのとき蓮 花王の茶壺を下さる。六年(寬永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり。)大津の城は山口近くして要宮の地にあらずとて。新に同國膳 所崎に城きづかしめて。一西これが主たらしめられしなりとぞ(西洞院記。當代記。寬政重修譜。藩翰譜。 家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書に その證なければとらず。)○廿七日將軍塚鳴動すること二聲。(西洞院記。)○廿八日千姬君(時に七歲。)この日內大臣秀賴公大阪城に御入輿あり。伏見より 御船にて大阪にいたらせ給ふ。御供船數千艘引つゞく。この間十里ばかり兩岸の堤上。東方は辻堅として關西の諸大名とりどり警衛し。西岸は加賀中納言利長卿 の人數のみ戒嚴專ら整備し。立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島邊を警衛す。こと更黑田甲斐守長政は弓鐵炮のもの三百人づゝ出して戒嚴し。堀尾信 濃守忠氏は歩卒三百人に耜鍬もたせて出し。御船に先立て水路の巖石をうがち游滓を通じ。御船の澁滯なからしめしかば。この事後に聞召て。忠氏心用ひのいた りふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぽらせたまふ。大坂城にては大久保相摸守忠隣御輿を渡し。淺野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有 司。大手門より玄關までに疊をしき。其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを。片桐市正且元聞て。  將軍家は專ら儉素をこのみ華麗を惡みたまへ ば。さる結搆ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姬君に附られ執事役命ぜらる。此頃大坂にては。今度姬君御入輿ありてはます ます  將軍家より秀賴公を輔導せられ。後見聞え給ひ。四海いよいよ靜謚たるべしといへども。  將軍家の威德年を追て盛大になり。ことに  將軍の重職 を宣下ありて。諸國の闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ。天下の諸大名はみな妻子を江戶に出し置て其身年々參覲す。これをおもふに天下は終に   德川家の天下となりぬ。さりながら故大閤數年來恩顧愛育せられ。身をも家をもおこしたる大小名。いかでその深恩を忘却し。豐臣家に對して二心をいだかば。 天地神明の冥罰を蒙らざるべきと會議して。故大閤恩顧の大小名を城中に會集し。今より後秀賴公に對し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ。血誓せしむ。この 事は福島左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豐臣氏滅亡の兆とぞしられける。此日信濃國郡代朝日壽永近路死して。其子十三 郞近次家つぎ後に大番になる。(創業記。家忠日記。西洞院記。寬政重修譜。武德編年集成。)○廿九日山城國常在光寺の事により相國寺に御朱印を下さる。そ の文にいふ。山城國東山常在光寺の寺地山林の替地として。朱雀西院の內にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり。(國師日記。)◎是月  大 納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませたまふ。これを初姬君と申まいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど。千姬君ひとり洛陽にのぼせ給 ふを御心もとなく思召て。つきそひのぼらせられ。御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに。月も次第にかさなれば江戶にかへらせ給ふもいかゞなりとて。 いまだ伏見にましましながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は。北方の御姉君におはしければ。こたび生給ひし女御子をばまづこの尻の もとに引とり。御うぶ養よりして沙汰せられ。後にその子若狹守忠高にそはせたまひしは此姬君なり。このころ佐渡の國人等訟ふる旨あるにより。銀山の吏吉田 佐太郞は切腹し。合澤主稅は改易せられ。中川市右衛門忠重。鳥居九郞左衛門某。板倉隼人某。佐渡國中を撿視せしめらる。(家忠日記。溪心院文。佐渡國 記。)○八月朔日たのもの御祝として。  大內へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名まうのぼり當日を賀し奉る。石見國の土人安原傳兵衞おがみ奉る事を ゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鑛を搜得て大久保石見守長安にうたへしかば。長安是をゆるして堀らしむるに。年々に三千六百貫。あるは千貫二千貫を堀出て 上納せしかば。長安大によろこび其事聞えあげしにより。けふ召て見えしめらる。傳兵衛は一間四面の洲濵に銀性の石を。蓬萊のかたちに積あげ車にて引てさゝ ぐ。ことに御感ありて參謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて稱歎せざるものなし。(御陽殿上日記。銀山記。 世につたふる所傳兵衛((一に田兵 衛に作る。))備中早島の產なりしが。年頃銀山を搜索しけれど尋得ざりしかば。おもひくして同國淸水寺の觀音に參籠して祈請丹誠をこらしける。七日にみつ る夜不思議の異夢を蒙り。鍵を授らるゝとみて立かへり。其後銀山を求得て其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ。公の御ゆるしを蒙りて堀はじめしに。銀 の出ることおびたゞしく年々公にみつぎすること若干なり。故に此年頃石州の銀山に諸國の者あつまり來り。山中の繁昌大方ならず。京堺にもおとらぬ都會とな り。傳兵衛が家は甚富をなし。召つかふ家僕千餘人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覽にそなへ御感を蒙りしをもて。今も石見の國より大坂城の 府庫に納る稅銀は。車をもて引事を佳例に傳へたりとぞ。銀山記)○二日  大內より御たのむの御返しとて物進らせらる。この日三河國室飯郡豐川村辨財天祠 の别當三明寺に御朱印をたまふ。其文にいふ。三河國室飯郡馬塲村のうち二十石。先例にまかせて寄附せらるれば。神供祭禮等怠慢すべからずとなり。(御湯殿 上日記。可睡齋書上。)○三日小堀新助正次御使として。石見の安原傳兵衛が積年銀鑛の事に心用ひしを褒せられて。備中と名のらしむべきよし大久保石見守長 安に仰下さる。(銀山記。)○五日遠山民部少輔利景に美濃國志那土岐兩郡に於て六千五百三十一石六斗餘の采邑をたまわる。安原備中改稱を謝し奉り伏見へま うのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落淚におよぶ。(貞享書上。銀山記。)○十日伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君 と名付らる。後に水戶中納言賴房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。此局は安房の里見が家の老にて。上總の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環齋 が女なりしを。入道勝浦の城を退去する時に。小田原の北條が被官䕃山長門守氏廣にあたへたりしかば。氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これ よりさき長福丸のかたを設け。又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後に勝の局御母代にて養ひまいらせき。勝の局は後に英勝院尼ときこえしな り。この日神龍院梵舜伏見城へ●うのぼる。(家忠日記。以貴小傳。舜舊記。)○十一日堀田若狹守一繼より千姬君婚禮を賀し進らせければ。  大納言殿より 一繼に御書をたまふ。(古文書。)○十四日下總國關宿城松平主因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。此康元は久松佐渡守俊勝が二子 にて。はじめ三郞太郞と稱す。母は  傳通院殿なり。永祿三年五月十八日(重修譜は寬永系圖により三月に作る。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ。) 久松が尾張國智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ。御母君に御對面ありしとき。御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見參せしめられしか ば。御座近くめして。我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて。三郞太郞。源三郞。長福三人みな松平の御家號をゆるされ。三 郞太郞御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年三河國西郡の城を父俊勝にたまわりしかど。俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば。康元西郡の城 をあづかる。元龜三年三方が原の役には。其身苦戰し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年甲斐國に御進發の時從ひ奉りて駿河國沼津 の城を守り。又尾張國床奈郡の城を攻落し。長久手の役には床奈郡の城代をつとめ。十八年小田原の軍にも從ひたてまつり。北條亡びて後其城を警衛し。仰をう けて北條が累代の家人武功の者を搜索して家臣とす。是年下總國關宿の城主になされ二万石をたまふ。十九年陸奥國九戶の役に。騎士百五十歩卒一千餘人をひき ゐて。下野國小山にいたりしかば。その多勢を御感ありて。かへらせたまひし後二万石を加へて四万石になされ。是年叙爵して因幡守と稱す。慶長五年關原の役 にはとゞまりて江戶城を警衛し。七年  傳通院殿の御ためにとて關宿の地に佛宇をいとなみて充岳と號す。ことしけふ五十二歲にて卒せしなり。又御弟三郞五 郞家元卒せらる。これは  大樹寺殿御湯殿女房の腹にま●け給へる御子なりしが。十三歲の時より足なへて行歩かなわせられず。外殿にも出まさずしてけふ卒 せらる。五十六歲なりし。法號を正元院といへりとぞ。(寬永系圖。寬政重修譜。大樹寺記。薨日記。 此人の葬地も詳ならず。又法號も康元と同じく見ゆ。疑 なきにあらず。)○十八日三河國大濵の長田八右衛門白吉死す。壽八十四。其子喜六郞忠勝はこれより先别に采邑をたまふ。白吉は  大樹寺殿このかた奉仕せ る者なりしが。天正十年六月和泉國堺に御座ありし時。明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢國白子に着御あり。此時兄平右衛門重元と共に船を催して迎へ奉 り。白吉が大濵の宅におゐて饗し奉りしとぞ。この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。(貞享書上。寬政重修譜。舜舊記。)○廿日三河國額田郡妙心寺室飯郡八 幡に小坂井村のうちにて九十五石。天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石餘。東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀨間村に て七石五斗。遠江國長上郡神立神明に蒲鄕にて三百六十石。豐田郡八幡宮に中泉村にて十七石。敷智郡應賀寺に中鄕にて三十八石。淸源院に中鄕にて十七石。各 社領寺領を寄附したまふ。(寬文御朱印帳。)○廿一日遠江國府八幡宮に同國豐田郡にて社領二百五十石をよせられ。御朱印をたまふ。(寬政重修譜。)○廿二 日三河國碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(寬文御朱印帳。)○廿四日美濃衆高木權右衛門貞利死して。其子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇 䕃料三百石をあはせて二千三百石餘になる。(寬政重修譜。)○廿六日三河國額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石。室飯郡西明寺本宮に長山村に て二十石。華井寺に牛窪鄕中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。渥美郡常光寺に堀切鄕にて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗 の御朱印をたまふ。(寬文御朱印帳。 世につたふる所。西明寺はもと㝡明寺と書たり。この日住僧御前にめして。㝡明寺はことさらの靈跡といひ。鷺坂の軍に 寺僧等も力をいれて忠勤せしかば。寺領境內悉く寄附したまふべし。其上に汝が寺の本尊彌陀佛は。こと更その由緖をもしろしめしたれば。この後西明に改むべ しと面命ありて。御印書にも西明としるし下されたりといへり。寺傳。)○廿七日島津少將忠恒薩摩國より。宇喜多前中納言秀家。其子八郞秀親に。桂太郞兵衛 幷に正與寺文之といへる僧をそへ。大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば。大辟に處せらるべしといへども。忠恒があながちに愁訴するの みならず。其妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて。其罪を减じ遠流に定められ。先駿河國に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島 へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は關原にて大敗せしかば。伊吹山に迯入しかども。從卒みな迯失てせんかたなく。やうやうと饑餲を忍び薩摩國へ落 くだり。島津をたのみ露の命をかけとめたり。其時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば。秀家が踪跡を尋させられ しに。正次答けるは。秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど。其後は主從わかれかれにかくれ忍で行衞をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ。其隱る 所を申さぬに疑なしとて。かへりて其忠志を感ぜられ。金十枚を給ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘藏せし鵜飼國次の脇差いかゞなりけむかと御尋ありし に。正次關原の邊にて搜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより。本多上野介正純。德山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに。正次伊吹山中 にて秀家を深く忍ばせ置し事。五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添たりと申。其詞符合せずといへども。その主を思ふ事厚きがゆへに。己が美を揚ず と感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ。(創業記。家忠日記。貞享書上。宇喜多記。寬政重修譜。 正次がこと浮田家 記。落穗集。東遷基葉。板坂卜齋覺書等の說大同小異なるがゆへ。今は寬永系圖。重修譜によりて其大畧を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑賜はりし を慶長七年十月二日とすといへども。秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば。采邑賜はりしも此後ならざる事を得ず。よて本文其年月はのぞきて書せ ず。)○廿八日三河國加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石。碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石。引佐郡方廣寺に井伊鄕奥村にて四十九石餘。幡豆郡龍門寺に 下町村にて十一石。遠江國周知郡一宮に一宮鄕にて五百九十石。社領寺領を御寄附あり。(寬文御朱印帳。)○廿九日伏見より御上洛ありて知恩院へならせたま ひ。御建立の事仰出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超譽住職せられし地なり。かつ  當家代々の御宗門淨土宗の本山なればなるべし。(舜舊記。)◎是月 伊達越前守政宗江戶より暇給はり就封し。去年新築したる仙臺の城にうつる。よて鷹幷金若干を賜はる。又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乘に賜はる。 しかりといへども一乘幼稚の間は。その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。靑山播磨守忠成よりつたふ。(貞享書上。寬 永系圖。)○九月朔日神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ。(舜舊記。)○二日山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より 護送して駿河國久能山に下らしむ。彌死罪を减ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る。(貞享書上。)○三日豐後國臼杵城主稻葉右京亮貞通卒し ければ。長子彥六典通に遺領五万六千石をつがしむ。この貞通は故伊豫守良通入道一鐵が子にて。父と共に織田家につかへしばしば軍功あり。織田右府本能寺の 事ありて後豐臣家に屬し。太閤の軍にしたがひ又戰功少からず。天正十五年の冬從五位下侍從に叙任し。美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後。慶長 五年の秋大坂の奉行等が催促に隨ひ。我身は犬山の城を守りしが關東に通じ。東軍尾張國にいたると聞て。井伊直政本多忠勝がもとに使立て御味方に參るべきよ し申す。八月廿日かくともしらで遠藤金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て。子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり。遠藤が陣を散々に打やぶり。其後貞通か ねて關東の御味方に參りたり。されども猶合戰の勝負を决せられんとにやといはせければ。遠藤金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。此よし聞 えければ。貞通旣に御味方に參るといへども。をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり。さりながら郡上の城は遠藤が累代傳領の地なれ ば。下し賜ふべきよし已に仰下されしにより。貞通には别に所領たまはるべきとて。十二月今の城たまはり。所領の地加へて五万六千石を領し。この日京の妙心 寺中智勝院にありてうせぬ。歲は五十八とぞ。この日また松平長四郞正永初見す。(寬政重修譜。家譜。)○六日吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は足 利左馬頭義氏が二男左馬頭義繼三河國吉良の庄を領せしより吉良と號す。その十一代の孫左兵衛佐成高武藏國世田谷村に住し。これより世田谷の吉良と號す。成 高が子左兵衛督賴康。其妻は北條左京大夫氏綱が女之。その子氏朝にいたるまで北條にしたがひてありしが。北條亡びてのち上總國生實に迯る。關東やがて   當家の御領となりければ。天正十八年八月朔日江戶へうつらせ給ひし時。氏朝江戶に參り初て見參す。その子源太郞賴久に上總國長柄郡寺崎村にて千百二十石餘 の采邑を賜はりしかば。氏朝は入道して世田谷に閑居し。年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ。(寬政重修譜。)○九日伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢 兩宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは應仁このかた四方兵革の中なりし故。伊勢兩宮荒廢きはまる事百年に過たり。天正十三年十月慶光院の開 基淸順尼。豐臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて。この時もかく令せられしなるべし。(武家嚴制錄。續通鑑。)○十一日武田五郞信吉君卒去あり。こは 第五の御子にてはじめ萬千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局。後には下山の方と稱す。外戚のちなみによりて武田を 名のらせられ。天正十八年下總の小金にて三万石たまはり。文祿元年同國佐倉の城主になされ四万石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば。つねに引こ もりおはしけるが。慶長七年十一月常陸國水戶に轉封せられ十五万石賜ひ。けふ廿一にてうせ給ふ。淨鑑院と法號して水戶城內の心光寺に納めらる。(延寳七年 九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地に引うつされ。向山に於て淨鑑院をいとなみ香火院とせらる。)世つぎなければ封地は收公せらる。よて伏見 江戶に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゞふ。又三河國額田郡龍海院に御朱印を給ふ。其文にいふ。三河國額田郡妙大寺村の內。寺家門前一の橋より西は田 畔下宮まで。南は下宮吉池の辻まで。東は六所の谷境。北は門前一の橋限り先規のことく寄附せられ。竹木諸役免許せらる。佛事勤行懈怠あるべからずとなり。 又同國渥美郡興福寺にも。吉田鄕のうち二十石の御朱印を下さる。(此龍海院は 淸康君御夢を卜したる圓夢が寺にて。世にいはゆる是の字寺といふ是なり。) 此日長田金平白勝はじめて奉仕す。(御年譜。家忠日記。藩翰譜。康長年錄。寺傳。寬永系圖。)○十六日大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ。(寬 政重修譜。)○十九日遠江國敷智郡普濟寺に濵松寺島村にて七十石。大通院に濵松庄院內門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田鄕にて三十石。龍秀院には有玉村 にて二十五石六斗餘。甘露寺には万解村にて二十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗餘。濵名郡 金剛寺に中鄕にて五十石。藏法寺に白須賀村にて十三石。豐田郡寳珠寺に岡田鄕にて三十二九斗餘。三河國渥美郡龍根寺に吉田村にて二十五石餘。幡豆郡法光寺 に法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ。(可睡齋書上。)○廿一日遠江國榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる。(可睡齋書 上。)○廿三日安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く。(寬永系圖。)○廿五日三河國室飯郡上谷寺に牛窪村にて廿石。遠江國豐田郡光明寺に二俣山東 村一圓。佐野郡㝡福寺に原谷村にて廿五石餘。靑林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十七石。長福寺に原谷村にて十四石。旭增寺に原谷村にて十二 石。永源寺に名和村にて十二石。山名郡海江寺に堀越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に笘野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豐 田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲齋に野邊村にて十五石。玖延寺に二俣鄕珂藏村にて二十石。增參寺に向坂村にて十三石。學 圓寺大寳寺に高岡捴領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野邊村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村 にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寬文御朱印帳。 世に傳ふる所は。天正四年光明山に御在陣の時。光明寺虗空藏菩薩に御祈願をこめられしは。もし思召まゝに 天下を平均し。萬民水火の苦をすくはせたまひなば。當村●圓に此寺に寄附し給ふべしとて。又其時の住僧高繼にも其よし御物語あり。天下平均せば此旨うたへ 出よと仰下されしとぞ。よて高繼この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば。御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の 地なりしかば。今度御朱印を下されしに。定善を上善としるしたまはりしかば。此後上善寺と改めしとぞ。貞享書上。牛窪記。)この日後藤長八郞忠直死して子 淸三郞吉勝つぐ。(寬政重修譜)○晦日島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり。(貞享書上)◎是月一尾小兵衛通春始て拜謁して奉仕 す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎭入道宗麟が女なり。通春久我を稱せしがこれより一尾と改む。又武田五郞信吉君につか へたる松平加賀右衛門康次。成瀨吉平久次召返されて再び御家人に列し。康次は目付になる。又江戶芝浦內藤六衛門忠政が宅地を轉じて。其地の高邸に愛宕權現 の祠を搆造せしめ。石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月泉の堺浦より閑道をへて三河にかへらせ給ふとて。大和路より宇治信樂 にいたらせ給ひ。土豪多羅尾四郞右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。其時光俊が家に傳へし愛宕權現の本地佛將軍地藏の靈像を献ず。こは鎌倉右大將家護身の本尊 にて我家につたへたり。いつも戰塲にもたらして尊信するに。危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御歸路守護のためこの靈像を献じ進らすべしと申けれ ば。其志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に來れば。この像奉祀のために此僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。其後年頃神證 をして奉祀せしめられしに。今度其祠を造營せられ。神證が居所をも作らしめられ。遍照院といふ。今の圓福寺是なり。(寬水系圖。寬政重修譜。多羅尾家譜。 圓福寺記。林鍾談。)◎是秋大河內喜兵衛政綱歸り參り再び御家人となる。慶長四年末子平次郞政信が緣者大久保庄右衛門某を切害し。信濃國へ迯去しをもて。 政信も  大納言殿御憤を恐れしばらく退去して有けるに。伏見より御免を蒙り今度歸參せしとぞ。又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次。伏見にて初見の禮をと り。左國弘の御脇差を賜ふ。時に三歲なり。五島淡路守玄雅が子孫次郞盛利。花房志摩守正成が子彌左衛門幸次。根來右京進盛重が子小左次盛正。杉原四郞兵衛 長氏が子四郞正永(于時八歲。)初見し奉る。松田勝左衛門政行が養子善衛門勝政初て奉仕す。(時に十四歲。)この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するによ り。奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持參る良刀と引かへ盜去る事度々なりしを。中山雅樂助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしか ば。御感ありて金二枚褒賜せらる。(寬政重修譜。寬永系圖。貞享書上。)
東照宮御實紀卷七 慶長八年十月に始り十二月に終る
○十月朔日鎌倉鶴岡八幡上宮造替あるにより遷座あり。造替の奉行は彥坂小刑部元正これをつとむ。この日蝕す。(御造營記。節季蝕記。)○二日河村與惣右衛 門某。木村惣右衛門勝正に淀川過書船支配の御朱印を下さる。其文にいふ。大坂傳法尼崎山城川伏見上下する所の過書船。公役として年中銀二百枚課せしむべ し。官用の船は例のごとく。川筋折々船替すべし。武家船は課銀をとるべからず。商物を積載するに於ては嚴に查撿を加ふべし。木材の如きは直に武家の邸內へ 收めしむべし。木材商へ渡さしむべからず。二十石積の船課は銀五百貫目納むべし。船に大小ありといへども銀課は二十石積の船に准じて收むべし。鹽藏の魚物 課稅も上に同じ。下り船の米は二割をとり收むべし。新過書三十一人船一艘づゝのすべし。かく定めらるゝ後。船持商人に對して非義を申かくるに於ては。嚴に 命ぜらるべしとなり。(家譜。木村傳記。)○三日山岡道阿彌景友が邸へならせ給ふ。景友子なきがゆへに。兄美作守景隆が子主計頭景以が嫡子新太郞景本と て。今年八歲なるをともなひ出て。初見の禮をとらしめ養子とせん事を聞えあぐる。よて景本に吉光の御脇差を給ふ。此御脇差は甲斐の武田が累世の秘藏とせし 物なりとぞ。又景友に伏見成山寺の二王門幷に多寳塔を下され。三井寺に寄進せしめられしとぞ。(寬永系圖。家忠日記。續武家閑談。)○四日神龍院梵舜伏見 にまいり木練の柿を献ず。伊勢兩宮幷に大甞會の事を御垂問あり。この日澁谷文右衛門重次を長福丸の方へつけらる。(舜舊記。)○五日安南國より書簡幷に方 物をまいらせて。去年方物を獻ぜしとき。御答禮として甲胄以下の器械をつかはされしを謝し奉る。よて金地院崇傳に御返簡を製せしめられ。御答禮として長刀 十柄をゝくらせ給ふ。(異國日記。)○九日津輕右京大夫爲信伏見にのぼり拜謁して御氣色伺ひ奉る。此日尾崎勘兵衛成吉伏見城の守衛にありて死しければ。其 子勘兵衛正友家つがしめらる。又相摸國馬入の渡より大磯平塚の間氷降る。其大さ日輪の如し。隣國にはすべてこの事なし。(西洞院記。當代記。寬政重修 譜。)○十五日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見にまうのぼり拜謁し。兼見卿は綾衣。梵舜は筆を献ず。(舜舊記。)○十六日右大臣の御辭表を捧げ給ふ。(公 卿補任。)○十八日伏見城を御首途ありて江戶に還らせたまふ。五郞太丸とて今年五歲なるをともなはせ給ふ。かねては永原までわたらせ給はんとの御事なりし が。長福丸とて二歲になり給ふ御子。あながちに御跡をしたはせ給へば。これもふりすて給ひがたく。にはかに其用意つくらせ給ひしかば。時うつりてこよひは 膳所にやどらせ給ふ。今朝島津右馬頭以久初見し。日向國佐土原城三萬石を給ふ。龍伯入道幷に少將忠恒が請奉るによれり。又大番三浦庄右衛門直次に采邑二百 石下さる。粟屋市右衛門吉秋死して子市右衛門忠時つぐ。(創業記。西洞院記。寬政重修譜。寬永系圖。)○十九日龜山にやどらせ給ふ。○廿日名古屋にやどり 給ふ。この日土屋市之亟勝正。岡野平兵衛房恒の二人仰を蒙りて近江國中を巡視す。(寬政重修譜。)○廿一日岡崎につかせ給ふ。○廿二日吉田。○廿三日濵松 城にとまらせ給ふ時。松平左馬允忠賴に吉光の御脇差を下さる。(寬永系圖。)○廿四日中泉につかせらる。○廿五日懸川にやどらせ給ふ。この日立花左近將監 宗茂江戶高田の寳祥寺(一說に淺草寺中日恩院といふ。)に閑居せるをめして。陸奥國棚倉にて一萬石を賜ふ。宗茂は庚子の亂に大坂の催促に隨ひ。軍勢を引具 し伏見の城をせめやぶり。勢田の橋をかため大津の城を責落しけるが。關原の味方敗績すと聞て本國に引返しをのが城に楯こもり。鍋島が軍勢押寄ると聞て。家 人等を出し散々に防ぎ戰ふ。かゝる所に黑田如水入道。加藤肥後守淸正馳來て双方をなだめしかば。宗茂は居城を淸正に渡しけり。如水淸正等こと更に歎き申け れば。其罪をなだめられ領國をば悉く收公せられき。宗茂はこの後淸正に養はれ。肥後國高瀨といふ所に閑居しける間。淸正が奔走大方ならず。翌年の春にいた り宗茂暇ある身なれば。此ほど都近き邊の名所古跡をも遊覽せまほしと請しに。淸正もことはりと聞て。又旅の用意をもねもごろにあつかひて都へのぼせたり。 宗茂は都をはじめ南都和泉の堺までも心しづかに一覽し。三年がほど山水の間に優遊しけるが。しきりに江戶のかたゆかしく覺えければ江戶の方にまかり。戶塚 の驛より本多佐渡守正信に消息してことのよし告たりしかば。正信まづ高田の寳祥寺まで來るべしといふ。宗茂其詞にしたがひかの寺に着て旅のつかれをやすめ ける。  大納言殿もとより宗茂が勇有て義を守る志をふるくしろめしたれば。正信より土井大炊頭利勝もて伏見にて其よし聞えあげしめられ。忽に御ゆるしあ りてかく新恩に浴せしとぞ。(寬政重修譜。藩翰譜。立齋聞書。久米川覺書。 一說に  大納言殿よりは三萬石賜はり。書院番頭を命ぜらるべきにやと伺はせ 給ひしに。宗茂は老鍊の宿將なれば。所領は少しともいづ方にてもさるべき所を撰び城を授けよと。伏見より御下知ありけるといへり。寬永系圖に。宗茂居城を 淸正にわたし速に江戶に至り。其翌年奥州にて二萬五千五百石給はりしとあるは大なる誤なり。又國恩錄に。慶長十一年正月二日とするも誤なり。)又松平隼人 佐由重三河國松平鄕にありて卒す。壽八十一。こは永祿三年七月廿五日三河國刈屋の軍に深手負て。世のつとめかなひがたく。舊領の地に年頃籠居してけふ終を とりたるなり。その子太郞左衛門尙榮は庚子の亂後江戶に參り奉仕し。慶長十八年にいたり舊領松平鄕を賜はりて采邑二百五十石になる。(寬政重修譜。)○廿 六日田中にとまらせ給ふ。加藤太郞左衛門成之死して子源太郞良勝つぐ。この成之もはじめ源太郞と稱し織田家につかへ。後に 當家にめし出されつねに近侍 し。庚子の役に每度御先手に御使し。思召のままにことはからひて御感にあづかりしが。今年伏見にあり五十二歲にて死せしなり。其子良勝わづかに十歲なりし かば。去年たまはりし加恩五百石は收公せらる。(寬政重修譜。寬永系圖。)○廿七日田中にやどらせらる。○廿八日駿府。○廿九日三島。○晦日小田原◎是月 柬埔寨國王より書簡並に獅角八。鹿皮三百枚。孔雀一隻をまいらせ。其國叛人を征討する事あるをもて戎器を請ふ。よて金地院崇傳をして其御返簡をつくらし め。其請にまかせて太刀廿把を贈らせられ。本邦の刀銳利他國に比倫なし。もし懇望するに於ては望にまかせらるべしと仰つかはさる。又菅谷左衛門太夫範政。 上總のうちにてたまはりし采邑千石に加へて。舊領常陸の筑波郡にて五千石を給ふ。この範政は代々常陸小田城主小田讃岐守氏治入道天庵につかへ。天庵太田三 樂のために小田の城を奪はれし時。範政别に喜多餘の城を築て天庵を居らしめしに。梶原美濃守景國又その城を攻落す。範政三日が間にその城を攻て。梶原を追 落し其城をとりかへし。小田原北條亡びて後同國高津村に蟄居せしを。範政年ごろ其主のために忠功を立し事を聞召。文祿元年 當家に召て采邑給はりしに。今 度御前にめしいでゝ先の軍功を御直に聞召。其軍畧を御感ありてかく加恩せられしとぞ。又松平與右衛門淸政死す。壽九十六。その子右近淸次つぐ。又宰相秀康 卿。下野守忠吉朝臣江戶へ參覲せらる。この時秀康卿は越前より出られて中山道にかゝり。上野國碓水峠を越えらるゝとて橫川の關を過らるゝ時。關の番人等卿 の供人の中に鐵炮を備られたるを見とがめてこれをさゝへたり。卿聞給ひ從者をして。これは番人等が秀康なる事をしらずして遮るなるべし。秀康なればくるし からぬほどに。そこ開て通すべしといはせられけるに。番人共聞て。たとひ秀康卿にもあれ何人にもあれ。公より鐵炮查撿すべしとて置れたる關を。通すべきに あらずと罵りければ。卿大に怒り給ひ。天下の關所に於て秀康に無禮ふるまふは天下を輕蔑するものなり。其まゝに捨置べからず。悉く打殺せとありければ。番 人ども肝を消し早々迯走て江戶にまいりこのよし訴へしに。  大納言殿聞召。(諸書これを  烈祖とす。しかれども此時  烈祖は御道中なれば。江戶にう たへしを聞召たるは  台德公なり。今は大三河志に從て  台德公とす。)番人ども秀康卿を抑留せんとせしは人をしらざるなり。卿にうち殺されず死を免れ しは番人共の大幸といふべしとて笑はせ給ひ。别に仰せ出さるゝ事もなし。(これ  台德公友愛の情あつく。殊さら秀康卿御庶兄の事ゆへ。最御優待他に殊な る一端なるべし。さりながらその時勢今を以て論ずべからず。世に越前の家は制外なりといふはこの時よりの事とす。)又淺野紀伊守幸長。加藤肥後守淸正も參 覲す。幸長が女を五郞太丸のかたに御配偶あるべし。淸正が女を長福丸の方に御婚儀むすばれん事を約し下されしも此頃の事とぞ聞えける。(異國日記。寬政重 修譜。寬永系圖。御年譜。蓬古城記。淸正記。 世に傳ふる所。淸正が江戶の宅地は外櫻田辨慶堀今井伊が邸の地なり。外門前にかしの木を植ならべし故かしの 木坂とよべるといへり。事跡合考。)また毛利黃門輝元入道宗瑞は伏見より暇給はり歸國し。この後は周防國山口に莵裘の地いとなみうつりすみしとぞ。(寬政 重修譜。)○十一月朔日藤澤にやどらせ給ふ。○二日神奈川につかせらる。○三日江戶城に還御なり。(この還御を續通鑑武德編年には冬とのみあり。日記摘要 には十二月とす。十二月とするは誤なり。今十月十八日伏見御首途より日を推してみるに。今日還御ならざることを得ず。よりて推考してこゝにしるす。)○五 日目付松平加賀右衛門康次三河にて四百六十石餘をたまふ。(寬政重修譜。)○七日  大納言殿右近衛大將をかけ給ひ右馬寮御監を兼給ふ。この日長福丸の方 を常陸國水戶の城主になされ廿万石に封ぜらる。(御年譜。武家補任。創業記。 翌年五万石加へられ廿五万石にせられし之。)○九日烏丸左中辨光廣江戶にま いるとて洛を發す。(創業記。 本月七日  台德院殿右大將御兼任ありしゆへ。其宣旨持參せしなるべしといへども。是を受給ひし事諸書に見えず。今しばら く光廣參向をしるして後の證とす。西洞院記。)○十一日松平久助忠直死す。こは長澤の松平兵庫頭一宗が次男次郞兵衛親昌が孫にて上野介康忠が聟なり。(こ の事妙心寺記。長澤系圖。武德編年にのみ見えてさだかならず。)松平隱岐守定勝長子遠江守定友遠江國懸川城に於て卒す。年十九。(妙心寺記。寬政重修 譜。)○十六日安房國館山城主里見左馬頭義康卒しければ。その子梅鶴丸(後に忠義。)に遺領十二万二千石を襲しめらる。この義康其先は義家朝臣の三男足利 式部大輔義國の嫡男新田大炊助義重の二男里見太郞義俊が十代刑部少輔義實が後なり。義實が父刑部少輔家基は結城中務大輔氏朝と共に。鎌倉管領左馬頭持氏の 子春王丸安王丸を下野國結城の館に迎へ取て。上方の勢と戰はんとせしに。其城落て家基も討れしかば。義實家人を具し小舟に取のり安房國に落行しが。後に國 人共を討平げ白濵の城をかまへ住し。其子刑部少輔成義が時上總國をも討したがへ。これより上總安房兩國を合せ領せり。成義が子上總介義通うせし時其子太郞 義豐わづかに五歲なりしかば。弟左衛門督實堯に國をゆづる。義豐成人に及びても實堯これをかへさず。よて義豐怒て叔父實堯を稻村の城にて討とりぬ。實堯が 子安房守義堯また軍起して義豐を討亡し。終に安房上總兩國を押領し。御弓の左馬頭義明の味方となりてしばしば小田原の北條と戰ひ。武藏相摸下總の地をも こゝかしこうちしたがふ。其子左馬頭義弘の子安房守義賴はこの義康が父なり。父につぎ岡本の城にありて。是も北條と國をあらそひ戰やまず。天正十八年豐臣 關白北條追伐に下向ありし時その味方しければ。從四位下の侍從に叙任せしめ羽柴の家號をゆるされ。後に館山に城築てうつる。庚子の亂に大斾にしたがひ奥に むかはんとせしに。上方の逆徒蜂起し引かへし打てのぼらせ給へば。義康等は少將秀康朝臣の麾下に屬し上杉佐竹等と戰はんとす。然るに關原の一戰逆徒悉く敗 績して上杉佐竹も降人に出ければ。義康には常陸國鹿島の郡を割て三万石下し給はる。ことし三十一歲にて卒せしなり。(里見記。 里見家記といへる書には。 豐臣太閤より小田原へ參陣せしを賞せられ。上總の三浦四十餘鄕を賜はりしを。關原の時病と稱し出軍せざりしゆへ四十餘鄕の地を收公せられ。わづかに鹿島の 地にて三万石たまはりしゆへ。里見の君臣臍を嚙て悔恨すとあり。いづれか是なるや。)○十八日松前志摩守慶廣參覲す。在府の料とて月俸百口給ふ。此後永例 となる。(寬政重修譜。)○廿五日榊原式部大輔康政御上洛の供奉及び在京の料として。近江國野洲栗太蒲生三郡の內に於て五千石を賜ふ。又元重の御刀及ひ國 綱の鎗二柄を下さる。(寬政重修譜。)◎是月丹羽五郞右衛門長重召出されて。常陸國古渡に於て一万石の地を賜ふ。長重は庚子の亂に加賀國松任の城にこもり て出陣せず。前田中納言利長卿近國の叛徒を討平げんがため出軍して。長重にも軍を出さん事をすすむるといへども。催促に應ぜず。遂に合戰に及びしかば。關 原平均の後賞罸をたゞされし時所領を沒入せられしに。長重はこの後郞從兩三人を伴ひ江戶に來り。品川邊に閑居して異心なきをあらはしけり。  右大將殿も とより長重とは懇に御したしみありければ。しばしば長重が事なげかせ給ひしによりかく召出されたり。又長重が弟左近長次も兄と同じく品川に閑居しけるが。 これも召れて  右大將殿へ初見し奉る。(寬政重修譜。 芝泉岳寺舊記に。長重兄弟が閑居したる寺中田田中內匠某家をかりて。從者は十三人なりしとい ふ。)○十二月二日  右大將殿河越へ放鷹のためならせらる。(當代記。慶長年錄。)○三日淺間山鳴動する事三四度に及ぶ。其音三河美濃兩國の間に聞ゆと いふ。○廿日山岡備前守景友入道道阿彌卒す。こは故美作守景之が四男。はじめ僧となり邏慶と稱し。三井寺の光淨院に住す。天正元年二月靈陽院義昭將軍いつ しか織田右府の威權を忌て。武田信玄淺井長政等と通じて是を討んとはかられし時。邏慶も足利家の命を奉じて石山堅田邊に要害をかまへ立こもるといへども。 織田の大勢に攻られしかば城兵勢盡て城をのがれさる。これより邏慶還俗して八郞左衛門景友とあらため。織田家につかへ備前守と稱しける。十年右府本能寺に て事有し時。景友膳所にて勢多の船ををしとめ。明智光秀をして渡る事を得ざらしむ。光秀ほろびて後豐臣家につかへ。入道して道阿彌と號し所々の戰塲にした がひ。恩遇を蒙り宮內卿法印になされける。太閤うせられて後大坂の奉行等が 當家を傾けまいらせんとはかりしこと度々なりしに。入道いつも無二の御味方と して御館をぞ守りける。慶長五年奥の會津にむかはせ給ひしに御供し。弟源太景光入道甫庵は伏見城を守りて。上方の軍おこりし時城中にて討死せり。又下野國 小山の御陣にて御供の諸將をあつめ軍議ありしにも。入道幷に岡江雪二人をして仰をつたへしめらる。人々皆御味方して先陣うつてのぼるべきに决しければ。入 道は福島掃部頭正賴が加勢として伊勢國長島城に立こもり。原田隱岐守胤房と戰ふ。しかるに關原の戰味方勝利して凶徒みな敗走すときゝ。入道手の者引具し城 を出て川船にとりのり大鳥居にさしかゝる時。長束大藏少輔正家が敗走して來るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百餘切て又桑名城にをしよせ。氏家內膳正行廣 兄弟を降參せしめ。又神戶龜山水口等の城を請取て大津に參りしかば。  兩御所入道がふるまひを感じ給ふ事斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫與力十 人同心百人をあづけられ。近江國にて九千石の地をたまはり。其內四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。ことしその家にわたらせ給ひし 時吉光の短刀を給はる。齡六十四にしてけふうせぬる之。姪主計頭景以が子新太郞景本を養子とすといへども。景本いまだ幼稚なれば仰によりて景以その遺跡を 相續し。甲賀組の與力同心をあづけらる。このとき景以にこれまでたまはりたる三千石は收公せらる。(寬政重修●。 景友萬石に列せずといへども。創業の功 臣なれば傳をこゝに出す。)○廿三日此夜大雪。京にては三條曇華院火災あり。(當代記。)○廿八日太田原出雲守增淸に百石加へられて千五百石になさる。 (寬政重修譜。)◎是月阿部勘左衛門宗重を  右大將殿の御方に付らる。朝倉右京進政元。弟七左衛門景吉共に拜謁し鶴千代の方に付らる。(寬政重修譜には 月日を記さず。今は當代記年錄による。)又  右大將殿土方河內守雄久が外櫻田の邸へならせ給ひ鞍馬を下さる。(寬政重修譜。)◎是年京極宰相高次が子熊 丸。(時に八歲。)小笠原安藝信元が子孫三信重。眞野金右衛門重家が子惣右衛門勝重。駒井次郞左衛門昌長子長五郞昌保。大久保喜六郞忠豐三子六右衛門忠 尙。角倉了以光好子與一玄之。織田家に仕し島彌左衛門一正。(後に使番となり千五百六十石賜ふ。)金吾黃門に仕へし林丹波正利。武田につかへし瀨名左衛門 貞國はじめて拜謁す。正利にはやがて舊領にひとしく采邑たまはるべしとて元采邑二千石賜ひ。貞國にも二百石賜ふ。京の外科醫奈須與三重恒が子二郞四郞重 貞。織田家に屬せし內藤喜右衛門政長は  右大將殿に初見す。牧野成里入道一樂は仰によりて江戶に參り  右大將殿に初見し。束髮して傳藏と改め。この時 めされたる長の御袴を賜ひ采邑三千石賜ふ。板倉伊賀守勝重三子主水重昌。長谷川波右衛門重吉弟左兵衛藤廣。天野伊豆重次二子にて故麥右衛門正景の養子たり し麥右衛門重勝。武島大炊助茂幸が子七大夫茂成。黃門秀秋に仕し矢橋嘉兵衛忠重。川勝主水正秀氏が弟太郞兵衛重氏はじめて仕へ奉り。忠重は采邑五百石。近 江國矢橋村舊宅の地をも給ひ詰衆に加はる。牧野傳藏成里が二子五六成純。石原小市郞安長子小大夫安正。長田喜兵衛吉正養子十大夫重政。飯塚兵部少輔綱重二 子半次郞忠重。(時に十二歲。)渡邊忠右衛門守綱三子忠四郞成綱。織田家に仕し中村四郞兵衛長次。安藤三郞右衛門定正子忠五郞定武。多喜六藏資元が子十右 衛門資勝は  右大將殿御方に召出され。重政は納戶番。忠重は小姓となる。長次には二百石賜ふ。先に本多中務大輔忠勝に附屬せられし都筑彌左衛門爲政。彼 家を去て信濃國松本に閑居してありしをめされ。是を  右大將殿に附られ采邑六千石賜ひ。其子惣左衛門言成は越前家に附らる。天正の頃故有て 當家を退去 したる武島大炊助茂幸三子與四郞茂貞。再び御家人になされ采邑二百石下さる。又大久保石見守長安に佐渡の奉行をかねしめられ。山口勘兵衛直友。柘植三之丞 淸廣。伏見城定番命ぜられ。長野內藏助友秀伊勢の山田奉行仰付られ。長谷川左兵衛藤廣長崎奉行になり。小堀新助正次備前國の制法を沙汰せしめらる。土方河 內守雄久二子鍋雄重(時に九歲。)  右大將殿小姓になる。三浦長門守爲春は長福丸の方補導の臣とせられ。封地水戶に赴く。靑山伯耆守忠俊百人組の頭とな り五千石たまはり。騎士廿五人歩卒百人をあづかる。久永源兵衛重勝は  右大將殿御方に附られ。五百五十石加恩ありて五千二百石になされ。騎士十人同心五 十人をあづかり。先手弓頭となる。二千石は騎士同心の給地にたまはりしとぞ。三井左衛門佐吉正は歩行頭となる。千村平右衛門良重は信濃國にて一万石。遠江 の國中にて鐚錢千四十貫餘の地を所管とし。榑木の事をも沙汰せしめらる。靑木與兵衛信安は甲斐國武川の本領を給り。かの地に住居して五郞太丸のかたにつけ らる。其外成瀨內匠正則。津金修理亮胤久をはじめ武川津金の輩子弟等廿人。幷鷹師西村仁兵衛某。倉林四兵衛昌知を同じくつけらる。大久保甚右衛門忠長が子 牛之助長重は書院番に加へられ。多田八右衛門正吉が子三八郞正長。大久保三郞右衛門忠政三子三郞右衛門忠重。遠山四兵衛直吉子新次郞景綱。武田家に仕し今 川平右衛門貞國は大番にいり。忠利は三百石。貞國は二百石下さる。鳥居久五郞成次は叙爵して土佐守と稱し。內藤三左衛門信成は豐前守と稱し。小出万助三尹 は大隅守と稱し。同助九郞吉親は信濃守と稱し。池田彌右衛門重信は備後守と稱す。津金勘兵衛久淸武藏國鉢形の采邑を改めて甲斐國の舊領を賜ふ。(稅額詳な らず。)山寺甚左衛門信光も舊領三百九十石賜ふ。みな武川津金の地之。米倉加左衛門滿繼甲斐の舊領に復し甲府城の勤番を勤む。大岡兵藏忠吉は相摸國にて百 六十石餘を給ふ。金森兵部卿法印素玄五畿內に於て放鷹の地を賜ふ。又池田備後守重成の子備後守重信。永見新右衛門勝定が子權右衛門重成。渡邊彌之助光の子 彌之助勝は父死して家つぎ。勝には父の原職を命ぜられ足輕をあづけられ。夏目万千代某は死して子なき故に采邑を收公せらる。池田備中守長吉は伏見城の修築 を奉はり。松平又八郞忠利。吉田兵部少輔重勝。遠藤左馬助慶隆は近江國彥根の城新築の事を奉はり。慶隆は美濃國加納の城をも築かしめられ。吉川藏人廣家は 御許蒙りて周防國橫山に城を築く。細川越中守忠興は江戶運送廻船の事をつかうまつらしめらる。角倉了以光好仰を蒙りて安南國に船を渡して通商す。又有馬玄 蕃頭豐氏が子生れしかぱ吉法師丸と名を賜はり。其家司吉田掃部助に御刀を賜ふ。是は御養女連姬の御方の所生なるが故なるべし。山村甚兵衛良勝は父三郞左衛 門良侯の遺跡を去年つがしめられしにより。父の遺物茶壺を献ず。又松平(中村。)伯耆守忠一は封地伯耆國岡山の城にありて。家の老橫田內膳村詮を誅す。忠 一ことし僅に十五歲。身の行ひ强暴なりし故內膳直諫の詞を盡せしを憤りて。饗宴に事よせ自ら是を斬る。內膳きられて其所を走り出るを。近臣近藤吉右衛門馳 むかひて打とゞむ。內膳が召具したる小童これを見て。主の刀をぬいて忠一に切てかゝる。天野宗葉をしへだて。其童をば安井淸次郞道家長右衛門切てすつ。內 膳が子主馬助かくと聞て父が居城飯山にたてこもる。忠一が家人これに組するもの少からず。忠一大に怒て軍勢をさしむけ飯山の城を責かこむ。こゝに於て隣國 までも騷動大かたならず堀尾山城守忠晴出雲隱岐の軍勢を出し忠一を助く。城中にこもる所の兵柳生五郞左衛門(但馬守宗矩が弟なり。)をはじめ。一人も命い きんと思ふものなく防戰すれば。寄手討るゝもの數をしらず。其後柳生をはじめ城兵も次第に討れければ。主馬助城に火をかけ主從ことごとく腹切て死す。此事 江戶に聞えければ大に御氣色損じ。忠一が寵臣安井。近藤。天野。道家四人をめして子細を尋とはせ給ふ。忠一いまだ幼弱之。たとひひが事はかるとも。それを 諫めざるのみならず。主の惡を迎合してふるまふ事以の外なりといからせ給ひ。安井。天野。道家三人は忽に誅せらる。(道家は先に姬君に附られし人なり。) 近藤一人は助られもとのごとくつかへしめらる。これは近藤はじめ忠一が內膳を誅する密議を聞て忠一を諫しに。忠一さらに聞入ず。さては幼弱の人のみづから 大剛の兵誅せられんこと危しと思ひ。ひそかに長刀携て奥の間に忍びゐて。終に內膳を討とめしふるまひ。にげなからざればなり。又伊丹長作重好は小栗次郞光 宗を討果して逐電し。黑田筑前守長政にあづけられし石尾越後守治一は御ゆるしを蒙り。又三河國大林寺に百石の御朱印を下さる。又白銀町の日輪寺を淺草に引 うつさる。又京中市街の市人を十人づゝ黨を定められ。その黨中に一人も惡行の者あらんときは。同組のもの悉く同罪たるべしと令ぜらる。これは京伏見この頃 盜賊橫行の聞えあるにより鞠治せられんがためなり。又京の處士林又三郞信勝洛中に於て朱註の論語を講ず。聽衆雲のごとくあつまる。こゝに於て淸家の博士舟 橋外記秀賢等大に猜忌して。凡本朝にして經典を講說する事。  勅許あらざれは縉紳の流といへども講ずべからず。まして凡下の處士かゝるふるまひ尤奇怪な り。速に其罪を糺明あるべきなりと奏しければ。  禁廷よりこのことを議せられしに。  御所聞召て。聖道は人倫を明らかならしむるためなれば。ひろく講 說せしむべきことなり。これをさまたげんとするもの尤狹隘といふべし。彌ゆるして講說せしむべしと仰らる。これより信勝はゞからず洛中に於て程朱の說を主 張して經書を講讀す。これ本朝にて程朱の學を講ずる濫觴なりとぞ。(貞享書上。寬永系圖。寬政重修譜。家譜。佐渡記。大業廣記。蓬左記。斷家譜。藩翰譜備 考。慶長見聞錄。落穗集。由緖書。町年寄書上。當代記。烈祖成績。東鑑。)
東照宮御實紀卷八 慶長九年正月に始り六月に終る御齡六十三
慶長九年甲辰正月元旦  右大將殿新正を賀し給ひ。次に在府の諸大名諸士江戶城に登り慶賀し奉る。(御年譜。創業記。家忠日記。)○二日昨夜より大雪。八 日に至る。(慶長見聞書。)○七日若菜を祝はせ給ふ。この夜追儺。(慶長年錄。)○八日立春。○十日足利學校主僧寒松貞觀政要の訓譯を献ず。御氣色にかな ひ酒井備後守忠利。戶田藤五郞重宗をもて寒松に時服金を給ふ。柴田七九郞康長燒火間番頭命ぜらる。けふより京淀川の堤修築せしめらる。板倉伊賀守勝重これ を監す。大坂城よりも片桐市正且元をしてこれに涖ましむ。(慶長見聞書。當代記。慶長年錄。寬永系圖。舜舊記。)○十三日天滿茨木屋又左衛門。尼崎又左衛 門。安南國渡海通商の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十四日京富森堤を修築せしむ。板倉伊賀守勝重これを監視す。(西洞院記。)○十五日松平(蒲生。) 飛驒守秀行に召あづけられたる新庄駿河守直賴。其子越前守直定と共に府にめされて  兩御所に拜謁す。この父子庚子の亂に石田三成が催促に應じ。伊賀國上 野城に立籠りたるをもて。關原御凱旋ののち秀行に召あづけられ。陸奥の會津に閑居せしめらるゝといへども。反徒にくみせしは其本志にあらざる事聞召とゞけ らるゝによてこたび召出され。常陸下野の內にて所領三万三百石給ひ。常陸國麻生に住せしめられ。此後はよりより御談伴に候し。諸家へならせ給ふ時もしばし ばめされて陪侍せしめらる。(寬永系圖。家譜。)○廿日具足御祝例のことし。連歌興行又同じ。立こすや霞を松の若みどり。(三益。)雨そゝぐ夜のあけぼ のゝ春。(右大將殿。)月にふく風の高こちしづまりて。(紹之。 慶長見聞書。)○廿五日榊原九右衛門正吉死す。其子大番組頭八兵衛正成家をつぐ。この正 吉は永錄三年五月。尾張國丸根城の戰に鎗を合せしを始とし。廣瀨の城責。一向專修の亂。姉川長篠等の戰にいつも供奉して戰功をはげみしものなり。齡詳なら ず。(寬政重修譜。)○廿七日松前志摩守慶廣に蝦夷交易の制三章を授らる。其文にいふ。諸國より松前の地に出入する者。慶廣に其旨告ずして夷人と交易せば 曲事たるべし。慶廣に告ずしてみだりに渡海して。夷人と通商する者あらば。速に府にうたへ出べし。夷人は何方に往來するとも心まかせたるべし。夷人に非義 を申かくべからず。これに違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(家譜。令條記。)◎是月松平三郞四郞定綱江戶に參り拜謁す。仰により  右大將殿につかへ しめらる。その時本多佐渡守正信に命ぜられ。定綱その器に應じ登庸せらるべしとて。先下總國山川の地五千石たまふ。故の武田七郞信吉君の家司万澤主稅助君 基。馬塲八左衛門忠時。宮崎理兵衛三樂。近藤傳次郞吉久。河方織部永養。帶金刑部助君松士籍を削らる。この輩は穴山陸奥守信君入道梅雪以來の舊臣どもなり しが。信吉君年若くおはしければ。封內賦稅の事などほしゐまゝにはからひ私慾を專にせしとて。穗坂常陸介某。有泉大學某。芦澤伊賀守某。佐野兵左衛門某等 うたへ出しかば。營中にめして双方對決せしめられしに。万澤等語塞がりしかばかく命ぜられしなり。又筒井伊賀守定次參覲し新年を賀し奉る。(寬永系圖。貞 享書上。慶長年錄。筒井家記。)○二月四日  右大將殿の命として。諸國街道一里每に堠塚(世に一里塚といふ。)を築かしめられ。街道の左右に松を植しめ らる。東海中山兩道は永井彌右衛門白元。本多左大夫光重。東山道は山本新五左衛門重成。米津淸右衛門正勝奉行し。町年寄樽屋藤左衛門。奈良屋市右衛門も之 に屬してその事をつとめ。大久保石見守長安之を惣督し。其外公料は代官私領は領主沙汰し。五月に至て成功す。(家忠日記。當代記。慶長年錄。寬永系圖。津 輕志。町年寄由緖書。大三河志。落穗集。世に傳ふる所は。昔より諸國の里數定制ありといへども。國々に異同多かりしが。近世織田右府領國の內に堠塚を築 き。三十六町を以て一里とさだむ。豐臣太閤諸國を撿地せしめ三十六町にさだめ。一里每に堠塚をきつがしむ。此時又改て江戶日本橋を道程の始に定め。七道に 堠を築かれしとぞ。其時大久保石見守に。堠樹にはよい木を用ひよと仰ありしを。長安承り誤りて榎木を植しがいまにのにれりとぞ。落穗集。武德編年集成。) ○六日靑山常陸介忠成。內藤修理亮淸成。大久保石見守長安。長谷川七左衛門長綱。伊奈備前守忠次奉りて。長吏(非人の長なり。)彈左衛門に江戶小田原の傳 馬下知狀をさづく。其文にいふ。江戶より小田原まで。驛馬一疋を立べし。これは鹿毛皮白皮に製せしめられんためなれば。滯る事あるべからずと之。(由緖 書。)○十日深夜怪音四方に鳴動する事五六度。(其音はじめはどんどん後ばたばたとす。)何の怪たるを知らず。(當代記。)○十五日榊原式部大輔康政が二 子伊豫守忠長卒す。歲廿。兄國千代忠政は外祖大須賀五郞左衛門康高が家をつぎし故に。忠長嗣子となり御一字を給はり。叙爵して伊豫守と稱しけるが。けふ卒 しければ康政は三男小十郞康勝をもて嗣子と定む。(寬永系圖。)○十六日上杉中納言景勝北方うせぬ。これは武田晴信が女にて菊姬といひしなり。(慶長日 記。)○廿八日大和國布施領主桑山修理大夫一晴伏見に於て卒す。子なければ弟久八一直に遺領一万三千二十石餘を襲しむ。この一晴は故の大納言秀長につかへ たる九郞五郞一重が子にて。はじめ豐臣家につかへ朝鮮の軍に彼國にをし渡り。番手の船を打破り勇戰し。慶長元年五月十一日叙爵して修理大夫と稱し。五年祖 父治部卿法印重晴と同じく關東の御味方し。紀伊國和歌山城を守り。又叔父左近大夫貞晴と共に新宮の城をせむ。城將堀內安房守氏善降を乞て大野に迯れしか ば。かの地平均し。此年封を襲て和歌山二万石を領し。叔父伊賀守元晴に一万石を分ちあたへ。六年和歌山を轉じ大和國葛下郡布施にうつり。けふ三十歲にて卒 せしなり。(寬政重修譜。)○廿九日相摸國戶塚(富塚ともしるせり。)の土人等彥坂小刑部元成にうたへしは。戶塚の村年頃驛馬の事つかうまつりしを。今度 藤澤程谷の兩驛よりこれをはぶき。宿驛の列にあづからしめず。よて戶塚一村生產を失へば。よろしく藤澤程谷の兩驛に曉諭せられ。古來のごとく戶塚の一驛を 立給はん事を希ふとの事なり。(案に此後上裁ありて。藤澤程谷の間に又戶塚の一驛を置事ゆるされしなるべし。)又小堀新助正次卒しければ。その子作助政一 をして遺領一万二千四百六十石餘を襲しめ。二千石を次男次左衛門正行に分ちあたへ。父が例のことく備中の國務をつかさどり松山の城をあづけらる。此正次は 故勘解由左衛門正房が子にて。はじめ近江の淺井家に屬し。後に豐臣太閤につかへて大和大納言秀長に附屬せられ。大和和泉紀伊三國の郡代となる。其後高野山 御詣のとき。御路すがらの事を沙汰せしにより御かへりみを蒙り。秀長卒しその子中納言秀俊も世を早うせしかば。再び豐臣家につかへ五千石を領しけるが。慶 長五年上杉御追討の供奉し下野の小山にいたる。此時より常に麾下に屬し。九月關原の役にもしたがひしかば。その十二月舊領を賜ひ。備中國の內にて一万石加 へられ。すべて一万四千四百六十石餘を領し。備中の國務をつかさどり松山の城を守り。また板倉伊賀守勝重。大久保石見守長安とおなじく五畿七道の事を相議 し連署して。六年伏見城作事の奉行し。七年近江國撿地の事をつかさどり。八年備前國に赴き制法を沙汰し。ことし江戶に參るとて二月十九日相摸國藤澤の驛に をいて卒しぬ。歲は六十五なり。(鎌倉古文書。寬政重修譜。寬永系圖。)◎是月相摸國中原に放鷹し給ひ。高木主水助淸秀入道性順が海老名の隱宅に立よらせ 給ひ。鷹の取し雁を下したまふ。また遠江國中泉に傳馬の御朱印を給ふ。この頃關東邊の神祠佛宇修造せらる。また久松多左衛門定次召出され近侍す。(高木源 廣錄。遠州古文書。創業記。寬政重修譜。)○三月朔日御上洛あるべしとて江戶城を御發輿あり。五郞太丸長福丸兩公子をともなはせ給ひ。御道すがら伊豆國熱 海の溫泉にゆあみし給ふとて。七日御滯留ましまし。此間御みづから御獨吟の連歌をあそばさる。春の夜の夢さへ波の枕かな。あけぼの近くかすむ江の船。一村 の雲にわかるゝ鴈啼て。つきづき百韻に滿しめ給ふ。こゝに陸奥國仙臺に猪苗代兼如といへるは。其父兼載とて宗祇法師が高足の弟子にて名高き連歌の宗匠な り。仙臺少將政宗また風月のすき者にて。これを聘召して其國につかへしが。兼如其子にて今箕裘をつぎ當時堪能の聞えありしかば。兼如にこの御連哥を見せし め給ひ批評を命ぜられ。後にこの賞として兼如に金一枚を賜ふ。(熱海御滯留の間。何日より何日に至りしといふ事は詳ならす。)又吉川藏人廣家病臥のさま聞 しめされ。東條式部卿法印して。この地溫泉の湯五桶を廣家がもとへ搬送せしめらる。(御年譜。創業記。家忠日記。武德編年集成。貞享書上。大三河志。由緖 書。)○二日松前志摩守慶廣に兼光の御脇差幷に時服五領を給ふ。又武川の輩に加恩あり。小尾監物祐光に百石。柳澤兵部丞信俊に百廿石。伊藤三右衛門重次に 百十八石八斗。曲淵庄左衛門正吉に八十石。曾根孫作某に五十六石四斗二升。曾𨾛民部定政に八十六石。折井九郞三郞次吉に六十石。折井長次郞次正に九十 石。曾𨾛新藏定淸に百十石。有泉忠藏政信に五十石。山高宮內信直に七十五石。靑木與兵衞信安に八十石。靑木淸左衛門信正に二十石。馬塲右衛門尉信成に百 石。折井市左衞門次忠に二百石給ふ。この餘百六石七斗八升は次忠にあづけらる。(家譜。貞享書上。寬政重修譜。)○五日小栗庄右衛門正勝に采邑五百五十 石。忍城番天野彥右衛門忠重にもおなじく五百五十石給はる。(寬政重修譜。)○十五日下總國相馬郡德万寺に。市川卿に於て二十石の御朱印を下さる。又武藏 國足立郡大宮の社に。高鼻村落合村にて合三百石の御朱印を下さる。(寬文御朱印帳。)○十九日益田傳次郞某に采邑三百三十石賜はる。この父外記某は三方が 原の戰に御馬前にて討死せしが。其頃傳次郞幼年なりし故此度本領を賜ふ。御朱印の券書に外家の苗字をしるされしゆへ。この後益田を改め柘植と稱す。今紀邸 につかふ。又駿河國龍泉寺に寺領二十石よせ給ふ。これは  右大將殿御生母  寳臺院のかた御墳墓の地なるが故なり。後に龍泉寺を改めて  寳臺院と號 す。又相摸國鎌倉郡天王の社に五貫文の地をよせられ。常陸國東條の庄興祥寺に廿石の地をよせられ。寺中山林竹木諸役免許の御印書を下さる。(貞享書上。日 記。寬文御朱印帳。慶長日記。)○廿日致仕黑田勘解由次官孝高入道如水卒す。齡六十九。此孝高は父を美濃守識隆といふ。小寺藤兵衛政識に屬し。その苗字を あたへて小寺を稱せしめしが。政識死して子なかりしかば識隆その兵卒をしたがふ。播磨國姬路において孝高うまれしに。幼より弓馬の道に達したるのみにあら ず。敷島の大和歌を嗜みける。十七歲より常に戰塲にのぞみ。眞先かけて功名をあらはす事なみなみならず。天正元年織田右府上洛のとき。孝高も都にのぼり謁 見す。右府たのもしき者に思はれ。吾中國を征伐せん時は心汝を以て先手に用ひんと約せらる。其後羽柴筑前守秀吉右府の命を蒙て中國へ伐て下るとき。孝高使 を出しこれをむかふ。秀吉悅なゝめならず兄弟の契りをむすぶ。八年秀吉别所長治が三木の城を攻落し。こゝを居城とせんとありし時。孝高姬路は國の中央にし て。ことに船路のたよりよければとてその城をゆづり。其身は國府山城に退去す。秀吉いよいよその志の私なきを感ぜられ。始て一万石をさづけらる。十年毛利 を攻られしとき。孝高がはからふ事ども少からず。しかるに京にて右府逆臣明智光秀がために弑せられし告あるにより。秀吉毛利と和睦し京都へ打てのぼられし に。孝高。毛利宇喜多が旗數十流かりうけて秀吉の先隊にすゝみ。光秀誅に伏す。十一年秀吉柴田勝家と中たがひ矛楯に及びしにも。孝高又秀吉の味方して先登 せしかば。千石を加へられ近江國山崎城にうつり。長曾我部を征せられし時には軍監として四國に發行し。阿波讃岐の城々を攻落し。筑紫の軍にしたがひ豐後日 向をへて薩摩國に攻入しにより。其軍功を賞せられ豐前の六郡をさきあたへられ。十六年五月從五位下に叙し勘解由次官と稱す。孝高が豐臣家のために忠ある事 かくのごとしといへども。秀吉これに大官大國をあたへられざりしは。孝高が勇略終に人の下風に立べからざるを察して忌れしものなり。孝高また其意をしりけ れば。はやく所領を長子吉兵衛長政にゆづり。その身は猶太閤に近侍し軍事をたすく。  このとき入道して如水と號す。このゝち小田原の軍にしたがひ。朝鮮 に渡海し軍勢を督しける。慶長三年太閤薨ぜられし後。かの家の奉行等やゝもすれば  烈祖をかたぶけ奉らんとせしに。孝高かねて御恩遇の厚をかしこみしか ば。常に家臣を具して伏見の御館を守護し。福島加藤等をすゝめ御味方となし。五年上杉御追討のため奥に下らせ給ふに及んで。長政は御供にしたがひ。入道は 所領中津にありしに。石田三成謀叛し上方またみだるゝと聞て。隣國の敵いまた蜂起せざる先にこれをうち從へて。關東の忠勤に備へんと豐後にいたり。敵の要 害ども見めぐりて中津川にかへる。この頃大友義統が三成にくみし。細川忠興が木付の城をせめかこむ。孝高は速に中津を發し同國竹中源助重利を味方に屬し。 兵を分ちて木付の城をすくはせしに。此兵ども石垣原にて大友が兵と大に戰て。名あるものども數多討とる。其後如水着陣して義統を生擒し。又垣見和泉守一直 が富來の城。熊谷內藏允直陣が安喜等の城々攻落し。九州半は旣になびきしたがふ。かくて豐前にかへるとて居城に立よりもせず。香春が嶽小倉城等を攻ぬき。 筑後に入て久留米の城柳川の城を請とり。九州の城々皆平らぎ法制を定め。これより薩摩國に攻入んとせしに。關原旣に御凱旋ありければ。御書を給はりて其大 功を御感淺からず。又薩摩國に攻入事はしばらくこれをとゞめらる。長政は關原の軍功を賞せられて筑前國をたまふ。六年如水今度九州平均の功莫大なれば。官 位封國望のまゝに賜はるべき旨仰ありしかど。入道齡旣に傾たり。長政旣に大國を賜はりし上は。かしこに隱遁して老を養はまほし。この外更に所願なきよし申 て致仕し。けふ終をとりしなり。(寬政重修譜。 致仕の人はその致仕の日に終身の事業をしるすといへども。如水  當家の御ために忠勤せしはみな致仕後の 事なれば。今别例をもて卒去の日にその傳をしるさゞる事を得ず。又世に傳ふる所は。この入道死に臨み其子長政に遺言せしは。汝は吾に生れまされし事五條あ り。其一は吾は織田豐臣の二代につかへ。三度其旨にたがひ閉居せり。汝は  德川家父子の意に應じ終に一度の過失なし。第二には吾は生涯所領十二萬石に過 ぎず。汝は五十萬石の大身になりたり。第三に我は手をおろしたる武功なし。汝は自身の高名七八度に及ぶ。第四に吾は思念をこらしたろ事なし。汝常に思念深 し。第五我男子は汝一人なり。汝は男子三人あり。この五條皆汝が父に生れまさりし所なり。たゞ老父汝にましたる事二條あり。その一は我死ときかんに。我召 つかふ者はいふまでもなし。汝が家士をしなべて愁傷し。力を落さゞる者あるべからず。汝が死たる時はかく愁傷するものあるべからず。これ臣を見る事平生我 に及ばざるがゆへなり。次に吾は當時博徒の隨一なり。是汝が及ばざる所なり。關原の時東西の軍勝敗决せざる事百日に及ばゞ。我西國より切て登り。勝相撲に 入て天下を併呑すべし。其時は一子の汝までも一局に打入むと思ひしなり。その一塲に臨み妻や子も顧みず。この大博奕は汝が及ぶ所にあらず。又これは汝にと らする形見の品なりとて。紫の袱子につゝみし物をさづく。長政開きみるに草履一隻木履一隻と溜ぬりの飯笥なり。其時入道又。死生を一塲に定むる大合戰に思 慮も分别もなるべからず。草履木履かたがたはかけねば大合戰なるべからず。汝才智あまりありて何事も深念深慮すれば大功はなし得べからず。又飯笥は兵粮を 蓄ふ事忘るべからず。いかにも無用の浮費をはぶき兵粮用意怠るべからず。この外思ひ置事なしといひながら瞑目におよびしとぞ。(慶長見聞書。)○廿一日竹 內喜右衛門信重死してその子八藏信次つぐ。(寬政重修譜。)○廿二日和泉國岸和田城主小出播磨守秀政卒す。その子大和守吉政に遺領三万石を襲て岸和田にう つりすましめられ。吉政がこれまで領せし但馬國出石城六万石を。其子右京大夫吉英にゆづらしめらる。秀政が長子遠江守秀家は去年卒せしかば。その子大隅守 三尹に八千石を分ち給はり。舊領を合せ一万石になさる。この秀政は代々尾張國中村にすめる五郞左衛門正重が子なり。豐臣家につかへ太閤の姑にそひしゆかり をもて。諱の字をさづけ秀政となのらしめらる。後に  當家にしたがひ。けふ六十五歲にて卒せしなり。(寬政重修譜。)○廿五日越前宰相秀康卿の四子北の 庄にて生る。五郞八となづく。後に大和守直基といふ是なり。又依田肥前守信守死して子源太郞信政つぐ。(貞享書上。寬政重修譜。)○廿九日快晴。伏見の城 に着せ給ふ。畿內西北國よりこれに先立て都にのぼりたる諸大名追分まで出てむかへ奉る。時に鑓二柄。長刀一柄。狹箱二。御先追ふ歩行士廿人ばかり。乘輿の あとより騎馬のもの十人ばかり從へすぐる者あり。諸人定めて本多上野介正純にあらずやなどさゝやきしが。あとより來る下部にとへば。  將軍家にわたらせ 給ふといふに大に驚き。伏見邊にて追付しかば御輿をとゞめられ。各これまではるばる迎へ奉りし事を謝し給ひて御入城あり。御簡易御眞率の事と驚歎せざるも のなし。御旅中も御供の騎馬十廿卅騎ほどわかれかれにのりつれ。思ひ思ひに物がたりし。其中には手拍子打て小歌をうたひ。片手綱にてさゝへの酒をのみなが らまいりたる事なりしとぞ。この日酉刻頃より夕陽の邊白雲飛揚する事數しらず。去年二月十五日。この正月元旦にもかくの如くなりしとぞ。(御年譜。西洞院 記。板坂扑齋覺書。當代記。)◎是月黑田筑前守長政。父如水入道遺物とて備前長光の刀幷に茶入木の丸を献じ。  右大將殿に東鑑一部をさゝぐ。こは小田原 の北條左京大夫氏政。豐臣太閤との講和の事はからふとて。如水かの城中へまかりし時氏政の贈りし所にて。今御文庫に現存せり。靑山作十郞成次めし出され小 姓となる。又松平庄右衛門昌利が子傳市郞昌吉召出され  右大將殿に付らる。武藏國足立郡氷川大明神へ三百石の地を寄附せらる。其中の百石は天正十九年よ り寄附せられし所なりとぞ。又三條曇華院を大坂の秀賴より造營せしめらる。又この頃膳所が崎へ伊勢の御神飛來らせ給ふとて。詣る男女雲霞の如し。(寬政重 修譜。寬永系圖。寬文御朱印帳。當代記。)○四月朔日この日日蝕す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿伏見城へ參向せられ御對面あり。やがて京へわたら せ給ひて。上達部殿上人には御對面ましますべしと仰いださる。(西洞院記。)○五日伏見大坂にありし諸大名。みな伏見城にまうのぼり歲首を賀し奉り。各時 服かつげらる。近藤織部佐重勝が遺領一万石をその子信濃守政成に賜ふ。この重勝は織田家の臣間見仙千代につかへし彌五右衛門重鄕が子にて。重勝も間見が家 人たりしが。間見天正六年伊丹の城にて討死せしとき。右府もとより重勝が武名をしられしかば。召て堀久太郞秀政に屬せらる。秀政卒して後その二男美作守親 良に屬し。慶長三年豐臣家堀が所領を越前より越後にうつさるゝに及んで。重勝には親良が封地の內にて别に一万石を分ちあたへらる。其後重勝養子七郞太郞政 成を携て大坂に參り。はじめて拜謁しける時。其先祖の事をとはせ給ふに。たゞ尾張國にすめる九十郞といふものゝ孫に候へども。稚くて父にわかれ候へばくは しき事はしらざるよし聞え上しに。汝が祖父は尾張國高圃の城を守り 當家に忠ありしものなり。汝が子を召出さるべしとの仰を蒙りしかば。政成を奉りし時 に。政成十三歲。小姓に召出されぬ。重勝は京にすみてこの正月廿四日うせぬ。年は五十二なりとぞ。(創業記。當代記。寬政重修譜。)○六日昨日におなじ。 諸大夫以上時服かつげらるゝもの。昨今すべて九十八人なり。(舜舊記。當代記。)○十日神龍院梵舜まうのぼり春日八幡宇都宮等の事跡を御垂問あり。この日 松前志摩守慶廣に鷹幷驛馬の券をたまふ。(舜舊記。家譜。)○十一日市人西野與三に占城國渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十二日代官長谷川七左衛 門長綱卒す。其子久五郞某といふ。(寬政重修譜。 此家絕しゆへ家つぎし事詳ならず。)○十四日昵近の公卿伏見城に參向して拜謁あり。(西洞院記。)○十 八日松前志摩守慶廣滯府の料として月俸二百口給ふ。(家譜。)○廿日越前宰相秀康卿江戶へ參り。  右大將殿御氣色伺むため發程あり。雨のために遲引し廿 九日に淸洲までおはしぬ。  右大將殿あらかじめ目付の輩に令せられ。諸驛の道路茶亭等洒掃おごそかにせしめ。又鷹師等を途中に出迎へしめ心まかせに鷹狩 せしめ。江戶へつかせらるゝ時は  右大將殿御みづから品川の宿までむかへさせたまひ。直にともなひ給ひて二丸にやどらせられ。僕從の類は大手門前大久保 相摸守忠隣が家にやどらせられ。卿滯留の間は市に本城にめして饗宴を開かれ。實に家人の禮をとらせ給ひ友干の情をつくさせ給ふ。衆みな感ぜざるものなかり しとぞ。又南部信濃守利直が家人北尾張に  右大將殿御自書ならびに縮布三十反下さる。これは奥の馬度々御廐に引れし事をつかうまつりしによれり。この後 櫻庭兵助にも同じ事により。御自書幷に鞍鐙をたまふ。(越前年譜。落穗集。貞享書上。)○廿一日淺野紀伊守幸長が家にならせ給ふ。(御年譜。)○廿三日關 東大風雨洪水。(當代記。)○廿五日下野國板橋領主松平五左衛門一生卒しければ。その子松千代成重に所領一万石をつがしめらる。この一生は故五左衛門正近 が子にて。天正十三年十一月十六日濵松にをいてはじめて見え奉る。(時に十六歲。)慶長五年父近正伏見城にて忠死せしかば。其遺領をつぎ上野國三藏に住 す。ほどなく上野國の所領を下野國板橋にうつされ。加恩ありて一万石を領す。七年佐竹右京大夫義宣が封地を移さるゝにより。五月八日松平周防守康重。由良 信濃守貞繁。菅沼與五郞某。藤田能登守信吉等と共に水戶の城を勤番す。佐竹が舊臣車丹波等一揆をおこし。城をうかゞひし時。密に忍び入らんとせしを。一生 が番所にて見とがめていけどり。其懷をさぐりて一揆の廻文を得たり。この夜一揆は三丸の八幡小路までよせ來るといへども。一生かねて其心して防しかば一揆 利を失て退く。翌日一生城番の人々と同じく謀り。丹波をはじめ酋賊ことごとくとらへ。江戶へうたへ誅戮せしめたり。今年三十五歲にて卒せしなり。(寬政重 修譜。)○廿七日內藤修理亮淸成。靑山常陸介忠成。伊奈備前守忠次●相摸國藤澤の里正をめして戶塚驛訴論の事を裁斷す。(古文書)◎是月島津少將忠恒薩摩 國を發して上洛せり。(寬政重修譜。)○五月朔日  右大將殿御使(此御使の名つたはらず。)筑前國博多へつかはされ。黑田筑前守長政が父如水入道が死を とはせられ御自書をたまはり。香銀二百枚下さる。(家譜。)○二日神龍院梵舜伏見城にのぼる。御尋問により豐國明神臨時祭の事を聞え上る。(舜舊記。)○ 三日本多上野介正純。板倉伊賀守勝重より長崎舶來の白糸の事を令す。唐船着津の時かねて定めらるゝ所の父老等會議し糸價を定むべし。その價いまだ定まらざ る間は。諸商長崎のみなとへ入事をゆるさず。糸價治定の後は心まかせに商買すべしとなり。これは先に長崎へ唐船入津せし時。白糸若干つみのせ來りしに。こ れを買とる者なければ旣につみ歸らんとせしとき。京堺の商人來り費をいとはず。其糸をことごとく買とり。その翌年もまた若干のせ來りしにも。京堺の商人あ まさず買取しかば。其賞として此後白糸はみな京堺のもの幷に長崎の土人買取て後。その餘の諸物は諸國の商人買とるべしとて。其制は糸百丸は京商。百丸は長 崎商と定め。堺商は百廿丸と定めらる。これ先につみ來りたる糸多くは堺商買とりし故とぞ聞えし。この時より糸割符の者十人と定めらる。諸國の商人輻湊する 時。これを頭領するものなければ。混亂する事多きが故なり。又松平飛驒守忠政江戶へ參覲す。(京監拔書。當代記。)○七日下野守忠吉朝臣。攝津國有馬の溫 泉に浴せんがため淸洲を發程あり。(創業記。)○十三日程谷驛に驛馬の事を命ぜらる。(古文書。)○十六日三河國賀茂郡長興寺の住職を義超に命ぜられ御朱 印をたまふ。また神龍院梵舜伏見城にまうのぼり。僧承兌幷に水無瀨宰相親具入道一齋も拜謁す。吉田二位兼治に淸心圓を賜ふ。(古文書。舜舊記。)○十八日 吉田二位兼治に御判物を給ふ其文に曰。豐國明神社家の事。左兵衛佐旣に吉田院を相續すれば。當社の事は先令の如く慶鶴丸に。二位の弟神龍院梵舜教導して何 事も令すべし。明神御倉代官等の事異議すべらず。社中役人社頭以下の事社法の古例をみだるべからず。社務進止永く相違あるべからずとなり。(舜舊記。)○ 十九日吉田慶鶴丸神龍院梵舜伏見城へのぼり。昨日御判物たまはりしを謝して。慶鶴丸より單物十太刀馬代を献じ。梵舜より錫鉢二。權少輔某より扇十柄献じ。 豐國大明神臨時祭一番は狩衣三十騎。二番は田樂廿人。三番は上下京の市人造花笠鋒。四番申樂たるべき旨建白す。(舜舊記。)○廿八日松前志摩守慶廣從五位 下に叙し伊豆守とあらたむ。(家譜。 慶廣今までは叙爵せずして私に志摩守と稱せし之。)◎是月先に  右大將殿より命ぜられたる諸國堠塚ことごとく成功 す。德永式部卿法印壽昌が二子式部昌成召出されて近侍せしめらる。靑山藤藏幸成は御勘氣を蒙る。佛郞機工渡邊三郞太郞に豐後國葛城村にて采邑百石たまは り。御名の一字を御みづから給ふ。この後御用器械にもみな康の字を銘とするといふ。(家忠日記。寬永系圖。貞享書上。)○六月朔日江戶城修築はじめあり。 (創業記。當代記。)○二日福島左衛門大夫正則  右大將殿御けしきをうかゞはんとて封地を發程す。(當代記。)○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり豐國大明 神臨時祭の事建白す。(舜舊記。)○六日近江國彥根に新城築かるゝによて。役夫粮米運漕の事を板倉伊賀守勝重。日下部兵衛門定好。成瀨吉右衛門正一連署し て。菅沼伊賀守定重をよび三河の代官松平淸藏親家入道(一に親宅に作る。)幷東意等につたふ。この構造奉行は犬塚平右衞門忠次。山本新五衞門重成なり。ま た伊丹宗味へ呂宋渡海の御朱印を下さる。(古文書。御朱印帳。)○十日伏見城より二條へわたらせ給ふ。昵近の月卿雲客御道にむかへ奉る。(西洞院記。 御 年譜幷に伊達家貞享書上に。今日  右大將家御入洛としるせしは誤なり。  台德院殿この時は江戶にましませしなり。)○十二日片桐市正且元。山內土佐守 一豐。神龍院梵舜。二條にまうのぼり豐國社臨時祭の事を議せらる。(舜舊記。)○十三日松前伊豆守慶廣御參內の時供奉すべしと命ぜらる。(家譜。)○十五 日神龍院梵舜まうのぼる。この日六鄕彈正道行卒す。其子兵庫頭政乘は是より先に。常陸國府中に於て一万石をたまはりて别に家を立たり。(舜舊記。寬政重修 譜。)○十六日 御參內あるべしとて嘉定の式を止めらる。然るに雨ふりしかば 御參內ものべらる。江戶にしては山田次郞大夫正久が子彥右衛門正淸。初めて   右大將殿にまみえ奉り小姓となる。(西洞院記。寬永系圖。)○十七日聊暑氣におかされましまして御藥の事あり。(創記業。當代記。)○十八日御不豫に よて 御參內をのべ給ふ。(西洞院記。)○廿日相良左兵衛佐長每老母を證人として江戶へ參らするにより。驛路人馬の御朱印を給ふ。これ西國大名の江戶へ證 人を參らする權輿なりとぞ。(寬永系圖。)○廿二日御平快により 御參內。御直垂にて御輿にめさる。月卿雲客ことごとくまいり唐門の前にて迎奉る。  內 にて御三献。女院の御方にて二献。長橋の局にて一献あり。この日叙爵十六人。松平又八郞忠利は主殿頭。松平勘四郞信吉は安房守。水野三左衛門分長は備後 守。水野新右衛門長勝は石見守。安藤五左衛門重信は對馬守。三淵彌四郞光行は伯耆守。三好爲三一任は因幡守。三好新右衛門房一は丹後守。佐々喜三郞長成は 信濃守。森宗兵衞可政は對馬守。能勢總右衛門賴次は伊豫守。東條某長賴は伊豆守。西尾某教次は信濃守。遠藤左馬助慶隆は但馬守。分部龍之助光信は左京亮。 佐久間將監實勝は伊豫守と稱す。(西洞院記。寬永系圖。續武家補任。貞享書上。)○廿三日攝家はじめ大臣公卿殿上人ことごとく二條城に參向して拜謁あり。 參議以上太刀目錄をさゝぐ。此日堀尾帶刀可晴從四位下にのぼせらる。安藤次右衛門正次常陸國水戶の監使にさされ暇給ふ。下野國宇都宮明神の社御造營の事仰 出さる。よて靑山常陸介忠成。內藤修理亮淸成。伊奈備前守忠次連署して材木の事を令す。大河內金兵衛秀綱は造營の奉行す。(西洞院記。寬政重修譜。寬永系 圖。古文書。 慶長五年關原の逆徒御征伐の時。當社に御奉幣ありしにより。同七年社領を增加せられ。今年社を御造營有し之。)○廿四日二條城にて猿樂を催 し給ひ。故豐臣太閤北政所高臺院のかたをまねき饗せらる。(西洞院記。)○廿五日相國寺にならせられ僧承兌に五色五十給ふ。この日坪內惣兵衛家定に與力十 騎あづけらる。(舜舊記。寬政重修譜。)○廿七日承兌が學舍へならせ給ふ。圍棋の御遊あり。今日暑甚し。黃昏雷雨。(西洞院記。)○廿八日松前伊豆守慶廣 歸國の暇を給ふ。(家譜。)◎是月大旱。攝津國昆陽池の鯉鮒等多く死す。島津少將忠恒仰により陸奥守と稱す。又近衛左大臣信尹公病臥のよし聞しめして御藥 をくり給ふ。又相良左兵衛佐長每が老母證人として江戶に參りければ。月俸五十口たまひ。長每にも備前の實長の御刀をたまふ。(當代記。寬政重修譜。西洞院 記。貞享書上。)
東照宮御實紀卷九 慶長九年七月に始り十二月に終る
○七月朔日二條城より伏見城に還御あり。井伊右近大夫直勝が近江國佐和山城を彥根にうつさる。これ直勝が父兵部少輔直政が遺意をもて。その臣木股土佐守勝 去年聞えあげしによりてなり。この城は帝都警衛の要地たるにより。美濃。尾張。飛驒。越前。伊賀。伊勢。若狹。七か國の人數をして石垣を築かしめらる。松 平主殿頭忠利。遠藤但馬守慶隆。分部左京亮光信。古田兵部少輔重勝。また越前宰相秀康卿。下野守忠吉朝臣。平岩主計頭親吉。石川長門守康通。奥平美作守信 昌。本多中務大輔忠勝。富田信濃守知信。金森長近入道法印素玄。筒井伊賀守定次。一柳監物直盛。京極若狹守高次等に仰せて人數を出さしめらる。山城宮內少 輔忠久。佐久間河內守政實。犬塚平右衛門忠次して奉行せしめられ。城中要害規畫はことごとく面諭指授し給ふ所とぞ聞えし。(創業記。當代記。舜舊記。井伊 畧傳。木股日記。貞享書上。寬永系圖。家譜。)○五日平野孫左衛門呂宋國渡海の御朱印。高瀨屋新藏に信州渡海の御朱印を下さる。福島左衛門太夫正則江戶を 發程して上洛す。此日大雨。近江國佐和山に雷震す。役夫死する者十三人。毁傷三十人に及べりとぞ。(御朱印帳。當代記。)○十一日片桐市正且元伏見に參 る。  右大將殿より小澤瀨兵衛忠重を御使として。井伊右近大夫直勝に御書をたまはり。築城の勞を慰せられ。其事にあづかりし諸有司にも御書を給ふ。又吉 田二位兼見卿采邑のうち。水田四十八段圃十四段をその男左兵衛佐兼治に分たしめらる。柘植平右衛門正俊が二子宮之助正勝。恨ありて小姓花井小源太某を殺害 して自殺す。(舜舊記。家譜。武德編年集成。 重修譜には駿府にての事とするは誤なり。)○十七日越前宰相秀康卿伏見の邸に渡らせ給ふ。(貞享書上幷に越 前家譜に。 兩御所渡御ありしとするは誤れり。此時  台德院殿は江戶におはしましけるなり。)御饗應ありて後相撲を御覽にそなへ給ふ。相撲數番の後越前 の相撲嵐追手と。前田家の相撲頭順禮と角力す。これをけふの關相撲とすれば。其座に居ならびたる諸大名諸士腕をにぎり堅唾をのんでひかへたり。順禮は衆に こえし大男なり。嵐はことに小男にてつがふべきものとも見えざりしが。やゝいどみあひしにやがて嵐は順禮をとつて大庭に投付しかば。一座聲をたてゝ褒美す る。其聲鳴もやまず。嵐勝ほこり廣言はなつて傍若無人の躰。諸有司御前なりとて制すれば。いよいよ倨倣のさま各制しかねし時。秀康卿庭上にむかひ白眼たま へば。一言も出されざるに嵐忽に畏縮して退く。衆人卿の威風を感ぜざる者なし。けふの御設ことさら興に入らせ給ひ。夕つげて還御ありしが。後までも秀康卿 の威風を感じ給ひしとぞ。この日江戶にしては巳刻前  右大將殿の北方御產平らかにわたらせたまひ。こと更男御子生れ給ひしかば。上下の歎喜大方ならず。 御蟇目は酒井河內守重見。御箆刀は酒井右兵衛大夫忠世つかうまつる。(諸書  大猷院殿御誕生を十五日又は廿七日とするは誤なり。今は御年譜。御系圖によ る。)このほど鎌倉八幡宮御造營の折からなれば。神慮感應のいたす所と衆人謳歌せしとぞ。永井右近大夫直勝が三子熊之助直貞とて五歲なりしを召出され。   若君に附られ小姓になさる。又稻葉內匠正成が妻。(名をば福といひしとぞ。)かねて  御所につかうまつりけるをもて  若君の御乳母となさる。これは 明智日向守光秀が妹の子齋藤內藏助利三が女にて。利三山崎の戰に討死せし後。母は稻葉重通入道一銕が娘なりしかば。母子ともに一銕がもとにやしなはれてあ りしが。後に正成が妻となる。男子をも設けしに。いかなる故にや正成が家をいで。このとし頃江戶の後閤につかうまつりてありしとぞ。後に春日局とておもく 御かへりみを蒙りしはこれなり。又腰物奉行坂部左五右衛門正重は御抱上をつかうまつりしとて廩米百俵を加へらる。(御年譜。貞享書上。落穗集。慶長年錄。 慶長見聞書。寬永系圖。柳營婦女傳。藩翰譜。寬政重修譜。)○十八日致仕故伊勢國長島の城主菅沼織部正定盈卒す。其子は志摩守定仍なり。此定盈は故織部正 定村が子にて天文十一年三河の野田に生る。はじあ今川氏眞に屬しけるが。永祿四年 當家今川と矛盾に及ばせ給ひし時。定盈幷に田峯の小法師設樂西鄕等は。 多くの敵の中より出で 當家に屬し奉る。其九月氏眞大軍にて野田の城を攻かこみし時。力をつくし防戰しければ。寄手より和議を乞しにより。城をわたし高城 といふ所に砦を築き移る。氏眞またこの砦を攻るといへども堅く防て落されず。この年牛窪の牧野等を征したまふに。定盈先登して家人等も粉骨をつくす。五年 正月より岡崎の城にて御謠初の席につらならしめらる。其六月今川方見附の城を攻んとて出軍するひまをうかゞひ。夜に乘じて野田の城をせめとり。再び舊地に 復す。七月廿六日今川勢西鄕の城を攻取しに。孫六郞淸員その難をのがれて野田に來る。定盈もとより從弟のちなみあれば。其旨聞え上西鄕の舊地に城を築て淸 員に住せしむ。今川又三河國一宮の砦を攻るのとき。定盈淸員と共に軍功あり。七年吉田の城攻にも戰功をあらはし。十一年遠江國いまだ歸順せざるをもて定盈 謀を獻じて井伊谷刑部の城を攻落し。兵をすゝめて濵松の城にむかふ。城兵同士軍して戰死せしかぱ。濵松の城をも乘とり。いよいよすゝんで敵數人をうちと り。十二年正月久野城主三郞左衛門宗能が一族等。今川氏眞に內應する者多かりしかぱ。仰を受て彼城を守り。三月七日懸川堀江等の城攻に軍功を勵み。元龜元 年六月姉川の戰には。定盈病臥せしかば家人を出して戰はしめ。二年武田が臣秋山伯耆守晴近すゝめて田峯。長篠。作手のともがら多く武田に屬せし時も。其使 を追返してしたがはず。天正元年信玄大軍を引ゐさまざまの術を盡し城の水の手をとり切しかば。定盈一人自殺し城兵を救はんことを約して定盈出城せしを。信 玄生捕て城に籠置て我手にしたがはしめむとせしかども。かたく拒て其詞に應ぜず。信玄もやむ事を得ず山家三方の人質と換ん事をこふ。則御許容ありて互に相 かへて。定盈は野田城にかへる。七月廿日長篠を攻給ふとき久間中山をまもり。二年野田城は先の戰に破壞多かりしかば。大野田に城築てうつり。四月十五日勝 賴大軍にて城をかこむ。家臣等籠城とてもかなふまじきよし諫しかば。城を出で野田瀨をこえ西鄕まで退く。勝賴また山縣昌景をして西鄕をせめしむ。定盈西鄕 淸員をたすけて堅く防て敵を追返す。三年五月長篠の戰には。定盈案內者として鳶巢砦が伏戶の敵を追うち。家人等多く高名す。六月小山の城攻にも外郭をせめ やぶり。其後上杉謙信と御よしみをむすばれし時。謙信よりも定盈がもとに誓書を贈る。九年三月高天神落城の時も功少からず。十年甲斐の國にいらせ給ふと き。定盈が謀にて諏訪安藝守賴忠を歸順せしめ。乙骨の軍にはみづから首級を得。今川が勢を破る。十二年四月小牧山を守り。家人をして長久手の戰に軍忠をあ らはし。十月より小幡の城を守り。關東にいらせ給ふのち野田をあらたあ。下野國阿保にて一万石たまはり。其後致仕して子定仍に家ゆづり阿保にありしが。庚 子の亂には别の仰を蒙り江戶の城を留守し。慶長六年定仍に伊勢國長島の城給はりしかば。定盈も長島にうつりすみ。けふ六十三歲にて卒せしなり。(寬永系 圖。寬政重修譜。)○十九日神龍院梵舜伏見城にのぼり團扇をたてまつる。左兵衛佐兼治も出仕すべき旨仰下さる。(舜舊記。)○廿一日江戶より安藤次右衛門 正次御使として伏見にのぼり。  若君誕生の事を告奉る。殊更御喜悅有て  若君の御小字を  竹千代君と進らせ給ふ。又下野守忠吉朝臣は此程伏見にあり て心地例ならざれば。暇を賜ひ尾張の淸洲にかへらる。又宰相秀康卿は伏見の邸に大名を招き猿樂を催さる。(寬永系圖。國朝大業廣記。創業記。當代記。)○ 廿二日腰物奉行野々山新兵衛賴兼死して。其子新兵衛兼綱家をつぐ。此廿二三日三河國鳳來寺山鳴動すれば。衆僧本堂に會集して騷擾甚し。(寬政重修譜。當代 記。)○廿三日江戶城にて  若君七夜の御祝あり。上總介忠輝朝臣。設樂甚三郞貞代。松平伊豆守信一。西鄕新太郞庸員。松平右馬允忠賴。小笠原兵部大輔秀 政。松平外記忠實。松平丹波守康長。水野市正忠胤。小笠原右衛門佐信之。牧野右馬允康成。本多伊勢守康紀。松平周防守康重。此賀莚に伺候せしめらる。水野 淸六郞義忠が二子淸吉郞光綱。稻葉內匠正成が三男千熊正勝。岡部庄左衛門長綱が季子七之助永綱召出され  若君に仕へしめらる。(貞享書上。寬永系圖。  長綱が姉は大姥とて  台德院の御乳母之。)○廿四日吉田左兵衛佐兼治伏見城に登り拜謁し奉る。(舜舊記。)○廿五日松平右衛門大夫正綱が養子長四郞信綱 召出され。  若君につけられ月俸三口給はる。時に九歲。このとし六月より久しく旱せしにこの日暴雨。(寬永系圖。當代記。)○廿六日菅沼信濃守定氏卒し ければ。其子新三郞定吉家をつぐ。此定氏は大膳亮定廣が四男にて  淸康君の御代よりつかへ奉り。永祿のはじめより元龜天正の頃しばしば軍功をはげみ。け ふ八十四歲にてうせぬるなり。(寬政重修譜。)◎この月伏見城修築ありて西國諸大名其事を役す。こと更藤堂和泉守高虎は水の手繩手の石垣を修築せり。(貞 享書上。 寬政重修譜には慶長七年六月とす。)○八月三日三河國目代松平淸藏親家入道念誓が子淸藏親重つぐ。此入道は松平備中守親則より出て長澤松平の庶 流なり。父を甚右衛門親常といふ。はじめ岡崎三郞君に仕へしが。わかくしてあらあらしき御ふるまひありしを諫かね。職を辭し入道して念誓と號し籠居せし を。濵松の城におはせし頃召出され御茶園の事など命ぜられ。入道が珍藏せし初花の茶壺を献じければ。望の儘に御朱印の御書をたまはり。葵の紋用ふることを も許され。三河一國の賦稅をつかさどらせられしが。齡つもりて七十一歲にてけふ沒せしとぞ。(寬政重修譜。由緖書。 此子孫三河國額田郡土呂鄕にすみて松 平甚助と稱す。)○四日神龍院梵舜伏見城にのぼり。豐國明神臨時祭の日を聞えあげて本月十三日と定む。板倉伊賀守勝重。片桐市正且元と共に奥殿に於て御談 話に侍し奉る。又出雲國松江城主堀尾出雲守忠氏卒しければ。其子三之助わづかに六歲なるに。原封二十四万石をつがしめられしが猶いとけなければ。祖父帶刀 先生可晴をして國政をたすけしめらる。此忠氏は可晴の二子にて。  右大將殿御名の一字給はり國俊の御刀を下さる。慶長三年伏見の地さはがしかりし時。父 と志をおなじくして。 當家に忠節をつくし。五年  右大將殿にしたがひ下野國宇都の宮にいたる。此時  御所には同國小山に御着陣ある所。石田三成等反 逆の色をあらはすのよし告來りければめされて軍議あり。山內對馬守一豐。忠氏にむかひ。今日御前に於て一座の思慮を御たづねあらんにはいかゞこたへ奉らん やととふ。忠氏答て。我は居城濵松を明て捧奉るべきの間。御人數を入をかれ御上洛あるべしと言上すべしとなり。旣にして會津には押の勢をのこされて上方御 進發に事决するにより。七月廿八日忠氏御先手の諸將と共に小山を發し。八月十四日尾張國淸洲の城に着陣す。廿二日諸將岐阜城をせむ。忠氏は池田。淺野。山 內の人々と共に上の瀨河田の渡にむかふ。忠氏たゞちに川上よりこえて一番に鎗を接し。一柳直盛と共に敵の後にまはりて攻けるが故に敵敗走す。忠氏が手に討 取所の首二百廿七級なり。廿三日諸將瑞龍寺山の城をせむ。忠氏鄕土川をわたりて大坂の援兵を追崩し首級を得たり。此よし江戶に言上するの所。廿九日御感狀 を下さる。このとし出雲隱岐兩國に封ぜられ二十四万石を領し。又仰によりて忠氏が妹を石川宗十郞忠總に嫁す。このとき  右大將殿より日光長光の御刀を給 ふ。八年三月廿五日從四位下に叙し出雲守に改め。けふ廿八歲にて卒す。この時香火の銀二百枚を給ふ。此日酉刻より大風。諸國損害多し。(舜舊記。寬政重修 譜。當代記。)○五日大風昨日の如し。申刻より雨ふり出る。(當代記。)○六日舟本彌七郞へ安南國渡海の御朱印を給ふ。(御朱印記帳。)○八日江戶にて   若君三七夜の御祝あり。著座の輩濵松城の舊例を用らる。(慶長見聞書。)○十日大久保石見守長安佐渡國よりかへり參りて。かの國銀山豐饒のよし聞えけれ ば。御けしきうるはしくして。長安にかしこの地を所管すべしと面命あり。(當代記。 これより先に上杉家にて佐州を領せし時は。その國より砂銀わづかに出 けるが。御料となりしより一年の間に出る所萬貫にいたる。又石見の銀山も。毛利家にて領せし時はわづかに砂銀を產せしを。御料に歸して後一年の間に四千貫 を出すに及ぶとぞ聞えたり。天命の眞主に歸する所。是等においてもしるべきなり。佐渡記。)○十二日桑山久八一直叙爵して左衛門佐と改む。(家譜。)○十 三日細屋喜齋に安南國渡海の御朱印を下さる。この日雨により豐國の社臨時祭を延らる。(御朱印帳。舜舊記。)○十四日伊勢。尾張。美濃。近江等大風。伊勢 の長島は高波にて堤をやぶり暴漲田圃を害す。この日京には豐國の社臨時祭あり。豐臣太閤七年周忌の故とぞ。一番幣帛左右に榊狩衣の徒これをもつ。次に供奉 百人淨衣風折。二番豐國の巫祝六十二人。吉田の巫祝三十八人。上賀茂神人八十五人。伶人十五人。合て騎馬二百騎。建仁寺の門前より二行に立ならび。豐國の 大鳥居より淸閑寺の大路を西へ。照高院の前にて下馬す。三番田樂三十人。四番猿樂四座。次に吉田二位兼見卿。慶鶴丸左兵衛佐兼治つかうまつる。猿樂二番終 る時大坂より使あり。豐國大門前にて猿樂一座に孔方百貫づゝ施行せらる。(當代記。舜舊記。)○十五日相摸國鎌倉鶴岡八幡宮造營成功により遷宮あり。この 奉行は彥坂小刑部元成つかうまつる。(これは今年御上洛のをりから。御參ありて御造營の事仰出されしとぞ。造營記。)京には豐國社臨時祭行はる。上京下京 の市人風流躍の者金銀の花をかざり。百人を一隊として笠鉾一本づつ。次に大佛殿前にて乞丐に二千疋施行。次に騎馬の料に千貫文づゝ施行し。片桐市正且元奉 行す。伏見の仰によりて神龍院梵舜出て神事をつとむ。(舜舊記。)○十六日片桐市正且元。神龍院梵舜伏見城にのぼり。臨時祭の事聞えあぐる。御けしきこと にうるはし。(舜舊記。)○十七日高城源次郞胤則死す。こは北條が麾下にして下總國小金の城主たりしが。小田原落城の後伏見に閑居せしを。今年御家人に召 加へられしに。病にふしいまだつかへまつるに及ばずして沒せり。其子龍千世重胤いまだ幼稚なれば。外族佐久間備前守安政に養はれ。元和二年にいたりめし出 されしなり。(寬永系圖。寬政重修譜。)○十八日唐商安當仁に呂宋國渡海の御朱印を授らる。三枝勘解由守昌。下總國香取郡にて新に采邑五百石賜ふ。(御朱 印帳。寬政重修譜。)○廿三日大島雲八光義卒す。壽九十七歲。遺領一萬八千石餘を分て。長子次右衛門光成に七千五百石餘。二子茂兵衛光政に四千七百十石 餘。三子久左衛門光俊に三千二百五十石餘。四子八兵衛光朝に二千五百五十石餘を給ふ。沒前の願によてなり。此光義。父を左近將監光宗といふ。新田の庶流に て遠祖藏人義繼が時美濃國に住し大島を稱す。光義幼くて父にわかれ國人と地領をあらそひ合戰する事絕ず。しばしば武功をあらはし射藝の名世に高し。後に織 田右府に屬しいよいよ軍功をはげみ。元龜元年姉川の戰に先がけし。天正元年近江の國にて越前の兵と戰ひ。長篠の戰にも功あり。やがて豐臣家に屬し。慶長三 年二月豐臣家より與力同心の給地を合せて一万千二百石を給ふ。庚子の亂には小山の御供に從ひしに。石田三成叛逆の告あるにより。上方に妻子をのこせし諸士 はかへり上るべしとの仰ありしかども。光義兼て 當家の御恩遇を蒙る事厚きに感じたりとて。妻子を捨て關原に供奉しければ。領地をくはへられ一萬八千石餘 になさる。光義生涯戰にのぞむ事五十三度。感狀を得る事四十一通。今度病に臥してもしばしば御使を以てねもごろの御尋どもあり。けふ卒したりとぞ。(寬政 重修譜。)○廿五日商人與右衛門に暹羅國渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)○廿六日細川越中守忠興封地にありて病にふしけるが。おもふむねあるにより 長子與一郞忠隆。二子與五郞興秋には家ゆづらず。兼て質子として江戶に參らせ置たる內記忠則を家子とせむ事をこひければ。其望にまかすべき旨  兩御所よ り御書を賜ひ。また岡田太郞右衛門利治して病をとはせられ。忠利にも歸國して看侍すべき旨御ゆるしあり。安南國へ御書をつかはされ。先に方物捧げしをもて 一文字の御刀。鎌倉廣次の御脇差をつかはさる。又末次平藏に安南國渡海の御朱印。角倉了以光好に東京渡海の御朱印。田邊屋又右衛門へ呂宋渡海の御朱印。與 右衛門に大泥國渡海の御朱印。平戶助大夫に順化渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(家譜。異國日記。御朱印帳。)○廿八日佐竹右京大夫義 宣。去年より新築したる出羽國久保田の城成功してうつりすむ。よて湊城をば破却す。(寬政重修譜。)○廿九日神龍院梵舜伏見城へまうのぼる。この日また池 田宰相輝政が伏見の邸にならせられ饗し奉り。輝政に恩賜若干あり。其北方へも金二千兩たまはる。(舜舊記。)○晦日金吾中納言秀秋が家司平岡石見守賴勝。 讒のために金吾家を出で處士となりてありしを召出され。美濃國にて一萬石賜ふ。故宇喜多中納言秀家が臣花房志摩守正成も召出され。備中國にて采邑五千石賜 ふ。また林丹波正利が子藤左衛門勝正初見し奉る。(寬政重修譜。寬永系圖。)◎是月瀧川久助一乘幼雅なるがゆへに。一族三九郞一積とて中村一學忠一が家人 なりしを召て後見すべしと命ぜらる。これは其家士野村六右衛門が。一乘わづかに二歲にて今の采邑領せんは。そのはばかり少からざれば。名代をもて何事もつ かうまつらむ事を願ふ。よて一乘齡十五歲に至るまでは三九郞一積二千石の地を領し。二百五十石は一乘幷にその祖母母を養育せしむべしと仰付らる。又安藤三 郞右衛門定正死して子忠五郞定武家繼て今年初見す。又毛利中納言輝元入道宗瑞都にのぼりて見え奉る。又江戶築城の料として十萬石の額にて。百人にて運ぶべ き石千百二十づゝの定制としてさゝぐべきよし令せられ。其費用とて金百九十二枚給ふ。舟の數は三百八十五艘とぞ聞えし。これによて大石運送する輩は。池田 宰相輝政。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守淸正。毛利藤七郞秀就。加藤左馬助嘉明。蜂須賀阿波守家政。細川越中守忠興。黑田筑前守長政。淺野紀伊守幸長。 鍋島信濃守勝茂。生駒讃岐守一正。山內土佐守一豐。脇坂中務少輔安治。寺澤志摩守廣高。松浦式部卿法印鎭信。有馬修理大夫晴信。毛利伊勢守高政。竹中伊豆 守重利。稻葉彥六典通。田中筑後守忠政。富田信濃守知信。稻葉藏人康純。古田兵部少輔重勝。片桐市正且元。小堀作助政一。米津淸右衛門正勝。成瀨小吉正 一。戶田三郞右衛門尊次。幷に尼崎文次郞なり。秋月長門守種長この修築の事にあづかる。また諸國に課せて大材を伐出さしむ。諸國より運送せし材木を積置 所。今の佐久間町河岸なりとぞ。岡野融成入道江雪齋の孫權左衛門英明を携て伏見にのぼり拜謁す。英明時に五歲なり。入道が采邑をばこの孫につがしむべしと 命ぜられ。入道が二子三右衛門房次は江戶にまかり  右大將殿につかうまつるべしと命ぜられしが後に紀伊家に屬せらる。(寬永系圖。寬政重修譜。覺書。町 書上。)○閏八月九日吉田二位兼見卿。神龍院梵舜伏見城へまうのぼり。兼見卿より明珍の轡一具。梵舜筆數柄を獻ず。(舜舊記。)○十日近日御出京あるべし と聞えければ。公卿殿上人諸門跡みな伏見城にのぼり辭見し奉る。西洞院少納言時直薰物を獻ず。(西洞院記。)○十一日商人榮任に東京渡海の御朱印を下さ る。(御朱印帳。)○十二日島津陸奥守忠恒。五島兵部盛利。幷に平戶傳助に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。又陸奥守忠恒には暹羅國渡海の御朱印を下さる。窪 田與四郞にしん洲渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十三日岡田太郞右衛門利治を御使し細川越中守忠興の病をとはせ給ひ。  右大將殿よりも。其家司 松井佐渡に御書を給ふ。(貞享書上。)○十四日伏見城をいでゝ江戶におもむかせ給ふによて。五郞太丸長福丸の御方々をも引つれ給ひぬ。飛鳥井參議雅庸卿御 道まで送り奉る