台德院殿御實紀卷一 慶長十年四月に始り六月に終る御齡二十七
台德院殿御諱は秀忠。  東照宮第三の御子。御母は西鄕氏。愛の方と聞えし。後に從一位を贈られ。  寳臺院殿と申。(御年譜。創業記。家忠日記。武德大 成記。列祖成績。 寳臺院殿實は戶塚氏にて。五郞大夫忠春といふものゝ女なりしを。外祖西鄕禪正左衛門正勝が子左衛門尉淸員養ひて子とし。宮仕にまいらせ しかば。西鄕の局と稱せられしなり。以貴小傳。)天正七年四月七日  公を遠江國敷知郡濵松の城にてうみまいらせらる。  公御幼名を  長麿どのと聞え 奉る。このとき土井甚三郞利勝が七歲なりしを。近侍の臣に付らる。(利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし。)十一年正月 元日三河。遠江。駿河。甲斐。信濃五州の國士等。濵松城にまうのぼり。新正を賀し奉りし時。  御父君と共に拜賀をうけ給ふ。(天正七年御兄岡崎三郞信康 君御事ありし後。次の御兄秀康卿は豐臣家の養子とならせられしかば。今年に至るまでいまだ世子を定め給ふ事見えず。この時より世子に立せ給ひしかと推考せ らる。)十三年靑山藤七郞忠成。內藤彌三郞淸成をもて。はじめて傅相の職に置る。(家忠日記には淸成が名なし。)十五年八月八日從五位下に叙し給ひ。十六 年正月五日正五位下にのぼらせらる。十八年正月三日駿府を發して。はじめて京におもむかせ給ふ。これは豐臣關白秀吉公御ゆかりとならせ給ひて後。  公に はいまだ御對面ましまさざる故なるべし。この時御年十二にならせ給ふ。井伊兵部少輔直政。酒井右兵衛大夫忠世。內藤彌三郞淸成。靑山藤七郞忠成供奉す。そ の十三日都に入らせ給ふ。關白よりは長束大藏大輔正家をして迎へらる。十五日聚樂城にのぼり御對面あり。關白悅なゝめならず。𡰱孝藏主して後閤にいざな はれ。大政所みづから御髮をもゆひあらため。御衣御はかせまでも新なるを進らせ。關白より名の一字をさづけて  秀忠君と稱しまいらせられ。みづから御手 を引て外殿に出られ。直政等を近くめして。  大納言にはよき子をもたれ。年のほどよりもおとなしく。さぞよろこばるべし。田舍風をかへて都ぶりに改め返 すなり。  大納言にもさぞ待かねらるべきに。いぞき歸國あるべしとて。直政。忠世。淸成。忠成等にも。金衣服あまたかづけものせられて。各暇給はり   公を供奉し。十七日京を出て二十五日駿府の府にかへらせ給ひぬ。二月廿四日御甲胄始あり。此頃關白は小田原の北條を征せんがため。關西の大軍を引卒し。三 月には相摸の國まで攻下り。廿九日には湯本堂にて諸將を集め。酒宴をひらき軍議ありける時。  御父君にむかはれ。  秀忠を呼てこの大軍をみせらるべし とありければ。やがてこのところに招かせ給ふ。大久保新十郞忠常時に十一歲。一人御供してまいる。その時關白みづから甲胄をとり出し  公にきせまいら せ。我武運にあやかり給へとて。御背をなでられしとぞ。十二月廿九日從四位下侍從にすゝみ給ふ。此時酒井右兵衛大夫忠世をもて補佐の臣となさる。十九年十 月左近衛權少將として武藏守と稱し給ふ。十一月八日都におはして。參議をかけ右近衛權中將にならせたまひ。十二月十七日江戶の城にかへらせ給ふ。文祿元年 朝鮮征伐の事おこりて。  御父君にもこの二月二日江戶をいでまし。肥前名護屋の陣におもむかせ給ふ。公には榊原式部大輔康政。酒井河內守重忠。本多彥次 郞康重等をしたがへ。江戶の城を留守したまふ。その八月京にては豐臣家の大政所うせられしかかば。八月十五日御吊のために都にのぼらせらる。九月九日從三 位にのぼり權中納言に任じ給ふ。十月二日御歸城あり。二年正月  御父君いまだ名護屋にわたらせ給ひければ。公かはりて關東八州の國士等歲首の賀をうけ給 ひ。その閏九月二日御上洛あり。これは太閤のかたに。このほど男子生れられしを賀せらるゝがためなり。此年大久保相摸守忠隣傅相に加へらる。三年忠隣が子 新十郞に首服加へしめ。御名の一字を給はり忠常となのり。又西鄕孫九郞にもおなじくたまはり。忠員となのらせらる。これ御家人等に  公の御一字を賜はる 始とぞ聞えし。四年には御父子とも聚樂の第にとゞまりましけるが。御父君には五月にいたり。江戶にかへらせ給ひ。公は猶京の邸宅を留守し給ふ程に。太閤と 關白秀次と。父子のなかに事おこりしかば。秀次さしあたりたる害をのがれんために。  公を劫し質とせんとはかり。朝とく使まいらせ。朝餉參らすべしとて 迎へしに。相摸守忠隣その謀を察しければ。甚三郞利勝をはじめ五六人に御供せしめ。忍びやかに伏見の御館にわたらせ給ふ。この時利勝がすゝめによりて。竹 田路にはかゝらず大路をへてつゝがなく伏見におはしまし。太閤のもとに渡らせ給ひしかば。太閤大方ならず喜て。眞に新田殿の子之と稱賛せられしとぞ。こは   御父君都を出たゝせ給ふ御門出のとき。ひそかに  公を召て。我東にまかりたらんあとにて。かならず殿下と秀次の間に事起るべし。その時おことにはか まへて。太閤の御方にまいらるべきよし。仰をかれしが故とぞ。九月十七日太閤のはからひにて。故淺井備前守長政の季女をかしづき  公にまいらせ。北方と 定められ御婚禮行はる。(贈從一位崇源院殿。)此姉君二人あり。一人は太閤の思ひ者となりて。世には淀殿といふ。その次は京極宰相高次の妻となりて。後に 常高院といふ。その末はこの北方なり。後に大御臺所と申奉りしはこの御方なり。(大御臺所を太閤養女として。  公を御聟に定められしともいふ。)慶長元 年四月十一日伏見の城にて。北方の御腹にはじめて姬君(千姬。)を設け給ふ。二年  公東にまして。武藏の稻毛に狩し給ふ御路より。痘瘡をなやみ給ひし が。程なく愈給ひて。三年八月太閤病重きよし聞召。その十九日いそぎ京にのぼらせらる。このほど豐臣家の奉行等うちうちはからふ旨ありて。京伏見甚物さは がしかりしかば。  御父君の仰にて。  公はその夜俄に伏見をいでゝ。九月二日江戶にかへらせ給ふ。五年會津中納言景勝謀反の聞えありければ。  御父 君これを征伐し給はんがため。東西の大軍を引具し。打てくだらせ給はんとて。先  公をば白川口の惣大將と定らる。  御父君には五月十六日大坂を打立給 ひ。廿六日駿河の沼津にいたらせ給へば。  公よりは御迎として。相摸守忠鄰。本多佐渡守正信を御使せらる。七月十九日  御父君に先立て江戶を御出馬あ り。惣軍六万九千三百六十人とぞ聞えし。下野宇都宮に陣どらせ給ふ。廿四日  御父君は小山に陣し給ひし所。大坂にて石田治部少輔三成が。幼主秀賴をさし はさみ。關西の諸大名に牒し合せ。伏見を攻圍む事急なるよし注進ありしかば。俄に  公を宇都宮より小山の御營にまねき給ひ。從軍の諸將を會集し。今より 直に會津へをし入給はんか。または一先上方へ引返し。大坂蜂起の賊徒を誅せらるべきにやと問せられしに。上方の賊徒を誅せらるべきに定まり。會津の押へに は三河守秀康卿をとゞめられんとて。  公に仰せて宇都宮を秀康卿にゆづりわたさせ給ふ。このとき上方蜂起の事を聞召。いかにも御憂悶の御けしきにわたら せられ。御庶兄秀康卿には。こと更笑をふくみ。よろこばしげに見え給ひ。御同母弟の下野守忠吉朝臣には。いかにも勇氣するどく御出馬をいそぎ給ひければ。 時の人々。三河守殿には此一亂に乘じて。我こそ家をつぎ天下に旗を立んとの御心。下野殿には此度こそ初陣の高名して。世にも人にも我武功をしらしめんとの 氣象あらはれ。  公にはもし監國の甲斐なからんかとの。御思慮なるべしと評しけると聞えしかど。實は此時御憂悶の御思念。ふかく見えさせ給ひしこそ。終 に繼躰守父の良主に定まり給ふ御瑞相にはわたらせ給ひけめ。八月朔日には御先手の諸將はや關西に發向す。この頃越後國またみだれしに。堀丹後守直寄賊を伐 て功ありければ。  御父子より御書を給はり褒し給ふ。廿四日  公には東山道を打てのぼり給はんとの事にて。榊原式部大輔康政を先手として。惣軍三万八 百餘人宇都宮を打立給へば。三河守秀康卿馬にてはるばる送らせ給ひしが。御互に馬上にて御密語ありて手を分ち給ふ。其ことはしる者なし。九月朔日には信濃 國小諸につかせらる。眞田安房守昌幸は石田が方人なりければ。上田の城に立籠り。御道をさまたげんとす。よて御使して。天命の歸する所をさとし給ふこと再 度に及びしかども。昌幸あへてしたがはず。さらば上田を先攻落して。御上洛あるべしと軍議一决して。六日の早旦に御馬を染屋まですゝめらる。しかるに昌幸 謀をまうけて防ぎ。御味方利あらず。翌日かさねて攻られんとありしに。本多佐渡守正信頻りに御父君の戰期におくれ給はんかと諫めてやまざりしかば。この所 には森右近大夫忠政。仙石越前守秀久等を押にとゞめ置て。十日に和田峠をうちこえ給ふ。このとき式部大輔康政前驅し。本多豐後守康重後殿をつとむ。これよ り先  御父君ははや美濃の赤坂に陣し給ひ。  公の來り給ふをまたせられ。山本新五左衛門重成。大久保助左衛門忠益を御使とし。關原の戰期をつげ給ふと いへ共。此程秋霖日をかさね。諸方の溪水みなぎり。從駕の諸軍木曾川をわたりかね。留滯する事三日なり。  公には十七日信濃の妻籠にて。此御使にあはせ 給ひ。大におどろかせられ。晝夜道をはやめ草津までつかせ給ひしが。その時はや關が原の合戰は。味方凱歌をとなふる最中なれば。いそぎ  御父君の御本陣 にわたらせ給ひしかども。  御父君思召旨やありけむ。御不豫なりとて御對面なければ。  公をはじめ從駕の將卒。恐れ思ふことかぎりなし。康政が申旨あ りて  御父君御心とけ。廿日大津にて御對面ましましければ。君臣悅限りなし。(一說には本多上野介正純が  神祖を諫て。  若殿の關原の戰期におくれ 給ひしは。全く  若殿の御過にはあらず。父佐渡守がしわざなれば。佐渡を罪し給ふべしと申けるも。この時の事とぞ聞えける。)  公には直に大津を出て 伏見に赴き給ひ。  廿四日伏見におはしつく。廿六日  御父君にも同じくわたらせ給ひ。御物語どもありて。廿七日  御父君は大坂の西城にいらせられ。   公は二丸に入給ひ。廿八日同じく 敕使をむかへ給ふ。十月五日毛利中納言輝元大坂木津の别莊を出て。本國安藝に迯かへらんとする聞えありしかば。   公追かけてうたせ給はんと。十六日御出馬の由聞て。輝元大におどろき。井伊兵部少輔直政につきてさまざまに陳謝しければ。御ゆるし蒙りて御出馬をとゞめら る。このころ  御父君いかゞ思召けるにや。大久保相摸守忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉等の老臣をめし。我 今男子三人もてり。いづれにか我家國をゆづるべき。卿等が思ふ所をつゝまず申べしとありけるに。正信は三河守殿。武勇絕倫智謀淵深にして。しかも御長子な れば。これこそ御世つぎには定まらせ給ふべけれと申。直政。忠勝。親吉等も各申旨區々にして定まらず。忠隣ひとり。亂を治め敵に勝は。武勇を先とすといへ ども。天下を平治し給はんとならば。文德にあらずしては基業をたもち給はん事かたし。三人の御子みなこれ聖子にわたらせ給へば。御武勇武藝の短長は論ずべ きにあらず。  中納言殿はもとより謙遜の御志ふかく。御孝心又あつし。そのうへ文德智勇を兼備ましまし。久しく御家嫡に備はり給ひ。位望また御兄弟にこ えて。天意人望の歸する所なり。いかで繼體守文の主に定め給はざるべきと申。  御父君とかくの仰もなかりしが。一二日をへて又六人の老臣をめして。相摸 申所我意にかなへり。家督すでに定まりぬと仰ければ。各慶賀して退きぬとぞ。(今案ずるに。此  公世子に定まり給ひし事は。明文なしといへ共。濵松城に て國士の拜賀を受給ひしに始り。御位階もまた御兄弟の並にこえ給へば。今忠隣が議を待て定給ふべきにあらず。  神祖もとより。 公の仁孝恭謙の御德すぐ れ給ふをもて。守文の主と定め給ひしはいと明らかなり。しかるに當時諸老臣をめして。かく議せられしものは。國本を動搖し給ふべきにあらず。たゞ人心の向 背を試て。宗廟社稷の大計を定め給ひしものなるべし。)十一月十六日また大坂をいでゝ。伏見城にかへらせ給ひ。十八日御參內あり。十三日  御父君より井 伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。柳原式部大輔康政。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣を御使として。今度關原の凱旋天下旣に定りぬ。戰功の諸將に州郡 を分ち給はることをいそがるべきや。まづ根本在城の地を定めらるべきにや。二者いづれを先とせんか。御存慮を仰進らせらるべきとのことを。仰遣かはされし かば。不肖の身いかでかゝる大事を定むべき。とにもかくにも神算を仰ぎ奉り。みづからは御庭訓をもて。永く守城の功をたもつべきなりと御答ありければ。   御父君御けしきうるはしく。終に江戶をもて定鼎の地たるべしと仰出さる。六年正月  御父子とも大坂の西城にましまし。大小の政事を沙汰し給ふ。三月三 日豐臣中納言秀賴大坂城の西城に。  御父子を迎へ奉り。申樂を設け饗し奉らる。かへらせ給ひて後秀賴西城二丸にまかりて。  御父子の御來臨を謝せら る。廿四日  公には大坂二丸を出て伏見に移り給ふ。廿七日  公ならびに秀賴。ともに大納言にのぼり給ふ。(一說に廿八日につくる。)廿九日  公御參 內ありて拜賀し給ふ。御同母弟下野守忠吉朝臣も。この日從四位下侍從に叙任したまふ。  九月晦日公第二姬君。(珠君。)を加賀中納言利長の弟猿千代利 常。(後中納言。)に嫁し給ふ。此月  公伏見を出て江戶の城にかへらせ給ふ。七年正月十九日關東にて。二十万石を割て  公の御厨料にあて給ふ。その二 月十五日水野隼人正忠淸を  公の御家人になさる。八年二月十二日  御父君伏見の城にましまして。征夷大將軍の宣旨を蒙らせ給ふ。その七月廿八日  公 第一の姬君。(千姬。)大坂に送らせ給ひて。內大臣秀賴の北方に定まり給ふ。其十一月七日。  公右近衞大將をかねて。右馬寮御監になり給ふ。九年二月四 日  公の仰として東海東山北陸の三道に一里塚を築かしめらる。この七月十七日北方また御產ありて  若君生れ給ふ。これ  大猷院殿の御事なり。十年二 月  御父君はとくより都にまします。  公は江戶より御上洛あるべしとて。その行列をとゝのへ給ふこと。例よりは嚴重なり。これは大將かけ給ひはじめて 御上洛たるが故なるべし。上杉伊達佐竹最上をはじめ。外樣譜第の諸大名あまたしたがひ奉る。  公は廿四日御發輿。廿八日三島驛につかせ給ひ。雨により三 日とゞまり給ひて。三月十日また淸洲にとゞまり給ひ。城主忠吉朝臣饗し奉られ申樂あり。十七日より三日膳所にとゞまり給ひ。後陣の輩をまたせられ。廿一日 伏見の城に入給ふ。このほど都鄙の男女街衢にみちてその御行裝を拜し奉る。これより先朝鮮の孫文彧等宗對馬守義智にしたがひ都に來り。隣交を修めんとす。 よて  右大將殿御入洛の御行裝をおがましむべしとのことにて。都にとどめ置れしかば。韓人もけふ道に拜伏しておがみ奉れり。廿九日には  內へ參らせ給 ひ。大將の御拜賀あり。四月朔日御父君やゝ御齡もたけ給へば。征夷の重職御與奪の事をしきりに奏し給ふ。  內にもことはりと聞召けるにや。七日御心のま またるべき旨仰進らせらる。  御父君かねての御本意の事なれば。御よろこび大方ならず。十日には御參內ありて謝し聞えあげらる。(御九族記。創業記。家 忠日記。武德大成記。烈祖成績。古人物語。)
慶長十年四月十六日。この日天氣快晴。二條の城に 勅使廣橋權大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿。 宣命使西洞院少納言時直參向あり。參仕辨は小河坊城 右中辨俊昌。告使は康總幷押小路大外記師生。壬生官務孝亮宣旨を持參し。  公征夷大將軍に補せられ。正二位內大臣にのぼらせられ。淳和弉學兩院别當氏の 長者として。牛車をゆり隨身兵仗をたまはらせ給ふ。御齡二十七にぞならせ給ふ。この日  御父君も伏見より二條の城にわたり給ふ。けふより  御父君を ば。  大御所と稱し奉る。  公篤恭謙遜の御德備らせ給ひ。御孝心たぐひなくおはしましければ。御代ゆづらせ給ひし後も。萬の事どもみな  大御所の御 教をうけとはせ給ひ。いさゝかも御心にまかせ給ふ事はなかりしとぞ。この日御庶兄參議三河守秀康卿は權中納言にのぼり。御弟下野守忠吉朝臣は從三位左近衛 中將にのぼり。上總介忠輝朝臣は從四位下右近衛少將にのぼられ。池田新藏利隆は從四位下の侍從にのぼり。右衛門督に改む。その外從五位下に叙せらるゝもの 若干なり。榊原小十郞康勝は遠江守。松平三郞四郞定綱は越中守。大久保右京教隆は亮となり。大久保主膳幸信は正となり。高力左近忠房は大夫。永井傳八郞尙 政は信濃守。靑山藤藏幸成は雅樂助。高木善次郞正次は主水正。秋田東太郞實季は城介。松平善四郞正朝は壹岐守。板倉又右衛門重宗は周防守。板倉宇右衛門重 昌は內膳正。織田莊藏長政は丹後守。松平孫六郞康長は丹波守。羽柴帶刀正利は壹岐守。內藤全一郞忠興は帶刀。柴田七九郞康長は筑後守。土井甚三郞利勝は大 炊頭。渡邊久左衛門茂は山城守。(重脩譜にはこの月廿六日としるすといへども。廿四日諸大夫行列の中に名あるをもて。この日を是とす。)松平右京康親は筑 後守。溝口孫左衛門善勝は伊豆守。保科甚四郞正貞は彈正忠。森川長十郞重俊は內膳正。水野監物忠元は大監物。牧野九右衛門信成は豐前守。井伊弁之助直孝は 掃部助。渡邊庄兵衛勝は筑後守。鳥居久五郞成次は土佐守。牧野新次郞忠成は駿河守。諏訪小太郞賴水は因幡守。德山則秀入道秀現は三位法印になる。(舜舊 記。創業記。慶長見聞書。慶長日記。武家補任。家忠日記。家譜。慶長日記追加。寬政重脩譜。寬永系圖。 この人々の叙任。諸書月日の異同多しといへども。 こゝに出して其大躰を概見せしむ。)○十七日公伏見城より上洛し給ふ。山內土佐守一豐は弟修理亮康豐の子國松を養ひて子とす。  大御所松平隱岐守定勝の 女子を養ひとらせ給ひ。御子として國松に嫁せしめらる。よて粧田千石をよせ給ふ。(創業記。當代記。寬政重脩譜。)○十九日山內土佐守一豐その子を引つれ 伏見にまうのぼり。  兩御所に拜謁し謝し奉る。  大御所より備前光忠の御刀來國光の御脇差。  御所より則重の御刀。新藤五國光の御脇差をたまはり。 父土佐守一豐にも則重の御刀をたまふ。(寬政重脩譜。)○廿二日伏見より御上洛あり。初鹿野傳右衛門昌久子傳四郞信吉を。御弟五郞太君につけられ。采邑三 百石たまふ。(舜舊記。家譜。)○廿四日酒井右兵衛大夫忠世在京の料とて。近江の栗太野洲日野三郡の內にて采邑五千石加へらる。渡邊山城守茂大番頭にな る。この日  御所は二條の城にわたらせ給ふ。豐國社務萩原慶鶴丸兼從太刀折紙もて拜賀す。神龍院梵舜も同じく拜し奉る。又小姓宮崎金三郞泰隣死し。弟千 勝泰勝家をつぎて今年初見す。(寬永系圖。寬政重脩譜。舜舊記。家譜。)○廿六日  御所御拜賀の參內し給ふ。御車之。其行列一番雜色十二人警を唱へ棒を もつ。二番左右に御物荷。次に長持四人。次に公人朝夕人。次に御長刀。同朋權阿彌。傘持侍十人從ふ。三番先行左は板倉伊賀守勝重。右は靑山常陸介忠成。各 先に長刀小者六人。侍二人。後に傘持一人。侍十五人從ふ。四番隨身十二人。左は牟禮鄕右衛門勝成。內藤右衛門某。柳原隼之助忠勝。川口長三郞近次。高木九 兵衛正次。神戶石見守某。右は島田兵四郞利正。靑山善四郞重長。成瀨淸吉正武。岩瀨吉左衛門氏興。大久保與一郞忠辰。森川金右衛門氏信。各先に左右に小者 十人づゝ。口付五人づゝ從ふ。五番白丁十二人。六番諸大夫歩行にて左右にたつ。左蜂須賀阿波守至鎭。松平越中守定綱。靑山伯耆守忠俊。佐野修理大夫信吉。 大久保右京亮教隆。高力左近大夫忠房。石川玄蕃允康長。內藤帶刀忠興。有馬玄蕃頭豐氏。九鬼長門守守隆。佐藤駿河守堅忠。中川修理大夫秀成。瀧川豐前守忠 征。佐々淡路守某。稻葉藏人道通。津田長門守高勝。毛利伊勢守高政。三好丹後守房一。寺澤志摩守廣高。富田信濃守知信。水野河內守守信。脇坂淡路守安元。 土方丹後守雄氏。生駒左近將監正俊。桑山伊賀守元晴。水野市正忠胤。脇坂主水正安信。土屋民部少輔忠直。鍋島和泉守忠茂。諏訪因幡守賴水。柴田筑後守康 長。溝口伊豆守善勝。烏居土佐守成次。羽柴壹岐守正利。堀淡路守直重。森川內膳正重俊。土方河內守雄久。牧野豐前守信成。西尾因幡守吉定。渡邊山城守茂。 大久保加賀守忠常。右は淺野采女正長重。柳原遠江守康勝。阿部備中守正次。仙石越前守秀久。靑山雅樂助幸成。小出信濃守吉親。眞田伊豆守信幸。大久保主膳 正幸信。加藤左馬助嘉明。池田備中守長吉。山崎左馬允家盛。古田兵部少輔重勝。戶川肥後守達安。山城宮內少輔忠久。佐々信濃守長成。金森出雲守可重。竹中 伊豆守重利。三好因幡守一任。佐久間河內守政實。渡邊筑後守勝。藤堂佐渡守高虎。德永左馬助昌重。能勢伊豫守賴次。本多常陸介某。本多大學助忠純。田中隼 人正忠政。內藤若狹守淸次。新庄越前守直定。古田大膳大夫重治。北條左衛門大夫氏勝。永井信濃守尙政。高木主水正正次。津田丹後守某。堀伊賀守利重。日下 部伊豫守某。松下右兵衛尉重綱。水野隼人正忠淸。板倉周防守重宗。土井大炊頭利勝。井伊掃頭助直孝。次に御長刀。次に布衣の侍四人。左安藤次右衛門正次。 小澤瀨兵衛忠重。右に倉橋內匠助政勝。久永源兵衞重勝。次に御車。牛二疋。牛飼二人。龓八人。白丁五人。榻持一人。布衣侍左右八人。左は松平勘助信房。安 藤與十郞正次。本多百助信勝。松平助十郞正勝。服部中保正。右は服部與十郞政光。渡邊半四郞宗綱。小粟庄二郞政信。次に御傘。次に布衣侍十六人。左は村越 內膳某。神尾五兵衛守世。島田庄五郞利氏。河村善次郞重久。久貝忠三郞正俊。小栗甚六郞某。䕃山佐助貞廣。內藤久五郞直政。右は山口小平次重克。興津久七 郞某。今村彥兵衛重長。中根喜八郞正時。長谷川讃岐正吉。山岡五郞作景長。三宅半七郞重勝。天野左兵衞康勝。各烏帽子着の侍一人づゝ具す。次に酒井宮內大 輔家次御劔を奉る。傘持一人。小者十八人具す。七番騎馬の諸大夫。左小笠原信濃守秀政。松平丹波守康長。小笠原左衛門佐信之。本多出雲守忠朝。牧野駿河守 忠成。內藤左馬助政長。大久保相摸守忠隣。榊原式部大輔康政。右は松平安房守信吉。松平甲斐守忠良。松平周防守康重。本多伊勢守康紀。皆川志摩守廣照。鳥 居左京亮忠政。平岩主計頭親吉。酒井右兵衞大夫忠世。各前に長刀一柄。小者六人。烏帽子着侍六人。後に侍十五人を具す。次に上杉中納言景勝卿。毛利宰相秀 元。京極宰相高次。伊達越前守政宗。島津陸奥守忠恒。福島左衛門大夫正則。松平上總介忠輝朝臣。佐竹右京大夫義宣。最上出羽守義光。堀左衛門督秀治。蒲生 飛驒守秀行。(家忠日記。慶長記こゝに前田筑前守利常を加ふとはへども。利常加冠叙任。重脩譜藩翰譜備考等に五月に見ゆるが故に除く。)塗輿にのり。召具 の侍小者上に同じ。别に諸大夫布衣の侍。幷に敷革持を加ふ。  御進謁の時。  主上に銀千枚。  儲君へ百枚。  女院へ二百枚。  女御へ百枚進らせ られ。長橋の局以下の女房へ百枚かづけられ。其餘の作法は。慶長八年二月今の  大御所御拜賀の時にかはらず。(創業記。當代記。家忠日記。烈祖成績。武 德編年集成。 世に傳ふる所は。この時關東より供奉の大名小名。冠服の用意なく大に思ひなやむもの多かりしなかに。伊達政宗がごとき大名すら裝束をもたら さず。靑山圖書助成重をもてうちうちきこえ上て。  神祖より着御の御袍をたまひ。その日やうやう供奉をつとめしとぞ。當時質素のさまをもひやるべし。大 三河志。)此日松浦式部卿法印鎭信に。西洋渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)○廿七日公卿二城に參向して。御昇進を賀せらる。この日夕かけて伏見城へ 還御なる。(烈祖成績。創業記。)○廿八日  公の姬君御祈願の事有て。春日の社に御參ありて。御衣一襲。米五十石奉納し給ふ。(春日記錄。)○廿九日御 家人赤井市郞兵衛忠家死す。其子豐後守忠泰家つぎ二千石を領し。弟六兵衛公雄に忠泰が䕃料千石を給ふ。この忠家は丹波の產にて。織田右府豐臣關白に歷事 し。  大御所伏見向島に御座のとき。參謁して御家人に加はり。采邑千石賜はりしが。關原の戰に供奉し。頗る戰功有て。又千石加へたまひしなり。(家 譜。)◎この月よりして。土井大炊頭利勝と安部彌一郞信盛と二人。かはるばる二條城の唐門を警衛命ぜらる。又前田中納言利長卿。子猿千代利常と共に伏見に 來謁し。金五千枚。加賀絹五百端。時服百領献じ。  大御所には金三千枚。加賀絹三百端。時服五十領を奉り。  兩御所より御刀をたまひしとぞ。けふ有賀 式部種政死して。その子半三郞種次家をつぐ。またしばしば雷風雨有て。駿遠洪水みなぎり島田驛の民舍を押流す。この時より島田の地は川となり民舍を東にう つさる。(家譜。創業記。烈祖成績。寬政重脩譜。當代記。慶長年錄。)○五月朔日將軍宣下の賀儀として。諸大名二條城へまうのぼる。(烈祖成績伏見城につ くる。)外樣のともがら銀時服を献じ。普第の衆よりは太刀幷に馬代靑銅三百疋を獻ず。この日五島淡路守盛利に。西洋渡海の御朱印をたまふ。(創業記。家忠 日記。御朱印帳。)○三日將軍宣下の賀儀として。伏見の城にて申樂催さる。四座の申樂群參す。內外の諸大名まうのぼりて饗せらる。  大御所ははるかに。 月見の櫓にのぼらせたまひてこれを御覽ぜられ。申樂の可否をたゞされければ。申樂等ことごとく恐悕せしとぞ。此日廣橋大納言兼勝卿。勸修寺權中納言光豐卿 も伏見にのぼり饗せられて。をのをの金五十枚。時服三十領つかはさる。また有馬修理大夫晴信へ。西洋ならびに柬埔寨へ渡海の御朱印をたまふ。(烈祖成績。 慶長日記。慶長見聞錄。大三河志。御朱印帳。)○四日けふも伏見の城にて猿樂あり。觀世金春等これをつとむ。昨日まうのぼらざる諸大名。けふ登營して饗せ らる。(慶長日記。)○五日又おなじ。  大御所けふも月見櫓にて遠く御覽あり。此程  兩御所の厮隷等二三十人。左右に分れ鬪爭し殺傷あまたなり。これ 江戶より私の遺恨ありての事とぞ聞えし。(當代記。慶長年錄。慶長見聞錄。)○六日この四月春日の論講屋にて。寺僧二人殺害せし者あり。これを搜索せら るゝがために所々に高札を建らる。もしかの賊をうたへ出るものあらんには。同類たりとも其罪をゆるし。賞金三十枚下さるべしとなり。(春日記錄。)○八日 大御所より大阪の右府秀賴公久しく御對面なければ。出京ありて伏見にて謁見せらるべきむね。うちうち高臺院(故太閤秀吉政所。)をもて大坂へ仰つかはされ しに。秀賴の生母大虞院(世に淀殿と稱せし是なり。)これをきゝ。以の外いきどをり。ゆめゆめあるまじきことなり。もし秀賴上洛をすゝめらるゝに於ては。 秀賴母子とも大坂にて自殺すべきよしをこたふ。これは故太閤恩顧の輩秀賴上洛あらば。不慮の變あるべきなりなどゝ。うちうち告し者ありし故なり。よて京洛 の農商等この事を聞及び。すは京攝の間に戰爭おこらん事近きにありとて。老たるをたすけ幼きをたづさへ。家財を山林に持運び。騷動なゝめならず。この日岐 阜黃門秀信卿高野山にて卒す。此卿は右大臣信長公には孫。三位中將信忠卿の長子。はじめ豐臣太閤秀吉公いまだ筑前守たりし日。主の敵明智光秀を討伐しての ち。この卿を擁して軍國の政を令せられしが。其身關白に任じ。天下の兵權を掌握するに及びて。卿をば尾州岐阜の城を授け。正三位の中納言に任じける。しか るに關原の役に逆臣石田に黨して籠城せしかば。關東勢に攻おとされ降人となりぬ。されど右府の舊好を思召され。猶助命ありて高野山に蟄居せしめられしな り。(當代記。慶長日記。藩翰譜。)○十一日御名代として上總介忠輝朝臣大坂に赴き。右府秀賴公に謁見せらる。秀賴公悅なゝめならず。これは近日に江戶へ かへらせ給ふ事を。告させ給ふとぞ聞えし。この日こたび御上洛の供奉したる前田中納言利長卿。上杉中納言景勝卿をはじめ。關東北國の諸大名。さきだちて歸 國の暇を給ふ。是よりさき中納言利長卿の子猿千代利常首服加へ。從四位下侍從に拜任し。御家號を賜はり松平筑前守と稱す。  大御所より長光の御刀。光包 の御脇差をたまはり。  御所より長光の御刀。吉光の御脇差をたまひしとぞ。(利常の元服。慶長日記には四月八日とす。其外みな五月とす。今重脩譜幷に藩 翰譜備考にしたがひこゝに出す。)又商人浦井宗普に呂宋國渡海の御朱印を下さる。(烈祖成績。創業記。大三河志。武德編年集成。寬永系圖。御朱印帳。)○ 十二日林三官に西洋渡海の御朱印をたまふ。(御朱印帳。)○十五日關東御下向のため伏見御發輿あり。甚雨により繕所崎にとゞまり給ふ。(創業記。當代 記。)○十六日水口驛にやどらせ給ふ。此日有馬修理大夫晴信に柬埔寨幷に西洋渡海の御朱印を下さる。此頃諸國洪水の聞えあり。(當代記。御朱印帳。)○十 七日龜山に御とまりあり。(當代記。)○十八日桑名にやどらせらる。(當代記。)○十九日けふも桑名にやどらせらる。又僧梵舜伏見へまうのぼり  大御所 に拜謁す。(當代記。舜舊記。)○廿日淸洲に御止宿あり。(當代記。)○廿三日雨により。けふまで淸洲にわたらせ給ひ。中將忠吉卿饗奉り申樂を催さる。 (當代記。)○廿四日雨晴ければ淸洲を出たゝせ給ふ。(當代記。)○廿六日淸洲にて御家人六人。その家僕を中將忠吉卿の家士甲賀左馬助といへるもの打擲せ しを憤り。六人の輩左馬助が津島よりの歸路を待切てかゝり。左馬助を打はたし。その從者四人奴一人をも切てすて。六人の中一人も深手負たり。かくても迯去 ず。土人等かけあつまりければ。六人は民家にこもり腹切て死す。六人の姓名はつたへざればしるさず。このころ江戶にても。近習の人の奴と越前中納言秀康卿 の足輕等と。遺恨ありとて双方黨をむすび。二三十人鬪死すといふ。(當代記。武德編年集成。)○廿七日松平出羽守忠政が遠州橫須賀の城に駕を拄給ひ。忠政 に駿馬をたまふ。其外銀時服をもくださる。(寬永系圖。)○廿八日芝山小兵衛正員死す。遺跡三百石二子小兵衛正親にたまひ。正親が䕃料を合て八百石とな る。この頃富田信濃守知信と姻族坂崎對馬守直盛と確執に及ぶ。そのゆへは知信が妻は對馬守直盛が姉なり。直盛ちかく召つかふ小童を罪ありとてうたせしに。 直盛が家人に浮田左門といふものあり。かねてかの小童と知音をむすびしかば。童が仇をむくひんとて。童をうちし者をうちて。坂崎が家を立さりしが。直盛が 父安心入道このもの遂にうたるべきをあはれみ。文かきてさづけ。聟の富田が家にをくりやりてかくまはしむ。直盛かくときゝ。速に左門をかへしたまふべきよ し使もていひ送る。知信が妻もふかくこれをなげきしかば。知信はかのもの今は逐電して家にあらずとこたへ。實はふかく隱し置ける故とぞ聞えし。これ十八年 にいたり富田が家亡びぬることのもとゝはなりぬるなり。(家譜。寬政重脩譜。創業記。當代記。藩翰譜。)◎此月甚雷二三度。烈風ことにさむかりしとぞ。又 池田宰相輝政卿の伏見の亭にならせ給ふ。御茶を奉る。太刀幷に銀を下され。妻にも金時服をかづけらる。慶長見聞書。寬永系圖。)○六月四日江戶城にかへら せ給ふ。(御年譜。創業記。)○六日長田理助吉久死して。其子理兵衛吉廣家をつぐ。この吉久も小田原幷に奥州の御陣に供奉せしものなり。(寬永系圖。家 譜。)○十一日吉田の僧梵舜伏見にまうのぼり拜謁す。その自注せる謠抄十册を獻ず。外題は近衛龍山公の書とぞ。(舜舊記。 此書今御文庫に存す。)○十五 日坂崎對馬守直盛伏見城にのぼり  大御所に謁し。富田信濃守知信が不義を訴ふ。江戶に訴て上裁を仰ぐべしと仰下されければ。いそぎ發足して江戶に赴く。 これ直盛は知信を討果さむとて。みづから勢州安濃津の城へ赴しに。知信は城にあらず。よて出會せし家司を强て召ぐし訴へ出けるとぞ。(創業記。當代記。) ○廿日吉田の梵舜伏見城にのぼり  大御所に謁し奉る。神祇道服忌のことをとはせたまひ。梵舜が答ふる所審なりとて御感を蒙る。(舜舊記。)○廿二日花房 越後守正幸卒す。壽八十二。此正幸は志摩守正成が父にて故宇喜多中納言秀家の老臣たり。そのむかし秀家の父直家の時より。大內尼子浦上等と合戰の度ごと に。勇功をあらはしけるが。播州室津小豆島にをいて。數多の海賊襲ひ來りしに。正幸大雁股の矢にて賊の魁首を射殺す。賊等大に恐れ只その弓勢を感じ。のち に正幸が名を雕付し矢を返し送る。しかのみならずやさしき情ありて。細川玄旨法印にしたがひ敷島の道をも學び。高砂の古松の根を得て文臺につくり。  大 御所に獻ぜしが。今も水府に傳へられしとぞ聞えし。其子正成宇喜多の家を去て。 當家につか へ奉るに及て。正幸は猶其家に閑居して終りしなり。(寬永系 圖。家譜。)○廿八日加賀能登越中三國領主前田中納言利長卿致仕して。その子松平筑前守利常原封を襲しめらる。此卿は故贈從一位大納言利家卿の長男にて。 織田右大臣信長公の聟たり。わかゝりし時より志津が嶽。石動。末森等をはじめとし。筑紫關東の戰に至るまで。父卿と共に終に不覺の名をとらず。豐臣關白よ り越中國三郡をたまひ。羽柴の家號をあたへられ。從四位下侍從に叙任し。肥前守とぞ稱しける。天正十七年四月少將にすゝみ。文祿四年中將に轉じ。慶長二年 九月廿八日參議して。三年四月廿日從三位に昇階し中納言に任ず。太閤薨ぜられしとき。秀賴の傅たるべきむね遺言あり。父の卿は四年閏二月三日卒せしかば。 その所領越中國及び加賀國二郡八十一万石を領し。能登國は弟能登守利政ぞ領しける。此年八月廿八日利長は入部の爲加賀國に赴し後。石田治部少輔三成が謀に て。利長謀反のよし風聞し。すでに討手向ふべしと聞えしかば。利長大にいかり討手をまつてたゝかはんとす。されども家の老臣等よくいさめて。老母ならびに 家臣等が質人を關東へまいらせ。あやまりなきむねをあらはしければ。をのづから世のうたがひもとけぬ。五年  大御所奥の會津を征伐の事仰出されしによ り。利長も北國の大將として。うちたゝんとせしに。上方また軍起りければ。大聖寺の城をせめ落し。小松の城下に戰て。金澤の城に引かへし。また關原の戰に も北國より打てのぼり。九月廿日大津の驛にて見參し奉る。このとき御ゆるし蒙りて。弟猿千代利常を家子とし。しかのみならず   御所の姬君を降したまは るべしと仰下さる。弟利政はこたびの軍に參らざれば。かの所領は沒收せられ。利長勳功の賞として能登國に加賀の能美江沼二郡そへてくだしたまはり。またく 加賀能登越中三國の主となる。けふ致仕して十九年五月廿日越中國高岡の城にて卒す。五十三歲。正二位權大納言を贈られしとぞ。(寬永系圖。家譜。藩翰譜。 寬政重修譜。 世に傳ふる所は。秀賴の母堂大虞院より。此ほど利長のもとへひそかに消息を贈らる。そのむねは。利長父のときより故太閤の恩惠をうけしこと 山海よりもふかし。豐臣家の大事近きにあるべし。秀賴の賴ませたまはん事。よもいなみ給ふべからず。あらかじめ心得給はるへきよしなり。利長これをみて大 に驚き。老父利家生涯大坂に昵近し。國にかへらずして終をとる。これ故太閤の恩に報ゆる所なり。吾又關原の一戰に。右府に對して疎略の覺なし。今關東の恩 に浴して三國の領主たり。  兩御所に忠をつくし。この恩にむくひんの志他なし。そのうへ今四海昇平に屬し。四民やや安堵の思ひをなすとき。豐臣家に於て 賴ませたまはんとの御事とは何事にや。もし貨財等の事ならんには。國力をつくし進らせて舊恩に報ゆべければ。早々仰たまはるべしと答ける。また利長家臣本 多安房守政重を使とし。此旨  大御所に訴ければ。  大御所御感斜ならず。かくて利長かく煩はしき世にすまん事心うしとて。利常に家國をゆづり。其身能 登國を養老の地とし二十萬石を領し。此村の茶人平野藤四郞短刀黃金三百枚を献じ。致仕せりとぞ聞えし。大三河志。)又朝鮮人三人來着す。兩國和平の事を議 するためとぞ聞えける。この日久旱雨を得て。萬民よろこぶことかぎりなし。又この春呂宋暹羅に渡海の商船一艘も歸り來らず。海上風濤の變にあへるにや。さ だかならず。このころ  內裏にては。  先皇の御爲に八講行はれんとて。南都北嶺の僧綱凡僧群參せし所。經始のことを競望してやまず。學德拔群の者此事 つかふまつるべしと宣下ありければ。山徒大に憤りて皆歸山し。その旨を伏見城にうつたふ。  大御所聞召。こたび宣下の旨をもて。永く式法とすべきよし。 嚴に令せられたりとぞ。(慶長年錄。當代記。)◎この月伏見は雨ふり洛中は雨なし。◎このとし去年のごとく旱して。攝州昆陽の池水あせ魚多く死す。(慶長 見聞錄。)
台德院殿御實紀卷二 慶長十年七月に始り十二月に終る
○七月朔日大雨。山內土佐守一豐が養子國松康豐。從五位下對馬守に叙任す。島津陸奥守忠恒に安南。鍋島加賀守直茂に西洋渡船の御朱印を給ふ。(慶長日記。 寬政重脩譜。御朱印帳。)○二日又甚雨。ことし旱すといへども。三州一國は糓を損せず。(當代記。藤長日記。)○三日靑山雅樂助幸成に御書をたまはり大藏 少輔に改む。この日島津陸奥守忠恒へ西洋渡海の御朱印を給ふ。(家譜。御朱印帳。)○五日伏見には諸大名に命ぜられ。本丸を修理せしめたまふ。よてけふよ り  大御所西城にうつりすませ給ふ。(御年譜。創業記。家忠日記。烈祖成績。)○七日使番安藤次右衛門正次。伏見城本丸修理の監使に命ぜられて發程す。 ◎此日申樂催さる。觀世是を勤む。(寬永系圖。慶長日記。)○八日申樂きのふのごとし。○九日けふは丹波猿樂日吉梅若八大夫三人召に應じてこれをつとむ。 夕より雨ふりて。曉におよぶ。(慶長日記。當代記。)○十一日南部信濃守利直家士櫻庭兵助鞍鐙各二具下さる。これ累年其國より引るゝ御馬の事。つかふまつ るが故とぞ。酒井右兵衛大夫忠世仰を傳ふ。(貞享書上。慶長年錄。)○十九日大友左兵衛督義統入道宗巖配所常州にて卒去す。四十八歲。この人大友家の正統 左衛門督義鎭入道宗麟が長子にて。世々九州の探題たるべき身ながら。豐臣太閤の時朝鮮の軍にをこたりしとて。本領を沒入せられ蟄居せし後。其子宗五郞義乘 は  當家の御恩に浴するを忘れ。逆賊石田に徒黨し。西海に下り亂をおこし。又伐負て配流せり。義乘は三千三百石給はり高家に列す。(慶長日記。家譜。  この孫右門督義親に至り。早世にして世つぎなければこの流は絕たり。いまの大友氏は義乘が弟右京正照が裔之。○廿日美濃。尾張。伊勢。三河。遠江洪水。所 々の堤坊崩るゝよし聞ゆ。されども京關東は水害なかりしとぞ。春田半兵衛將吉死。七十三歲。將吉はじめ與八郞また猪之助といふ。岡崎三郞君につかへて。天 正三年五月廿一日三州長篠有見原の戰に。三番鑓して褒賞を得しより後。  大御所につかへて。長久手の戰には岩が崎の城へ御使しけるが。はや落城して城主 丹羽次郞助が首を敵兵取てさらむとするを追かけ。其首取返し御感を蒙り。又十三年吉良の御狩に供奉し。手負たる猪のたけり來りしを組留しかば。御感のあま り猪之助といふ名をたまふ。其外戰功かぞふるにいとまあらず。其子長兵衛久次。二子猪之助吉久皆是より先に召出さる。(當代記。寬永系圖。家譜。)○廿一 日  大御所伏見より京に出まし。二條の城に御滯留あり。これは伏見の本丸修理あるが故とぞ。(舜舊記には十八日とす。)又京の處士林又三郞信勝が博學强 識當時比すべきものなきよし。  大御所かねて聞召ければ。この日永井右近大夫直勝をして俄にめさる。信勝二條城にまうのぼり。はじめて拜謁し奉る。(信 勝初見の事。御年譜には十年とのみしるし日をしるさず。武德編年集成にこの日にかく。いましばらくこれに從ふ。)ときに極﨟淸原秀賢相國寺の承兌元佶など いひて。そのころ耆宿と聞えしともがら。皆左右に侍し奉る。  大御所後漢の光武帝は。高祖よりの世系いかにととはせたまふ所。三人の耆宿等答る事あたは ず。よて信勝に問せ給ふところ。御聲に應じて九世の孫たるよし答へ奉る。反魂香幷に蘭草の種類を問せたまふに。答へ奉る事響の聲に應ずるがごとし。時に信 勝わづかに廿三歲なり。  大御所その敏聰を稱讃し給ふ事大方ならず。洛下傳へて美談とす。これより信勝寵遇日を追てふかし。(創業記。慶長日記。御年 譜。家譜。)○廿三日三河國碧海郡米津村の地をうがち。矢作川の下流を通ぜしめらる。本國所領の輩百石に二人。農民は百斛に一人を課せしめらる。これ   大御所の仰によりてなり。(創業記。當代記。)○廿七日神龍梵舜二條城にまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)○廿九日  大御所知恩院へ渡御あり。(舜舊 記。)◎この月仙臺宰相政宗。最上出羽守義光みな就封の暇賜はり。江戶より各歸國す。(貞享書上。家譜。)○八月三日  大御所二條城にいまして。梵舜を 召見せらる。(舜舊記。)○五日  大御所相國寺にならせたまひ。僧承兌見え奉る。よて吉田二位兼見卿樽一荷献じ。梵舜も素麵を献ず。(舜舊記。)○六日 けふも  大御所豐光院にならせられ。梵舜を召て大甞會の典故。東京の圖等を御垂問あり。(舜舊記。)○十日關東大水。京邊は其害にかゝらず。この日伏見 の城中法制を仰下さる。城中無狀のふるまひをなし。禮を失ふ輩見あたりなば。其由その者にことはりて聞え上べし。殿中一所に會合し。高聲に雜談するものあ らば。同じくことはりて聞え上べし。  御前近き所にて高聲の輩あらば。これもことはるべし。御膳役送の輩怠慢せば聞え上べし。此輩當直の時は必長袴用意 すべし。將碁。棊。諷灑打。扇切。相撲等の遊戱するものあらば聞えあぐべし。御內書をはじめ。すべて右筆等のものかく所へ立よるべからず。仰なくして硯を 借用ゆべからず。もしかゝるふるまひするやからを。そのまゝすて置時は。右筆等も曲事たるべし。諸大名着座の席へ塵芥をすつ置べからず。すべで殿中灑掃以 下心いるべし。厠の外へみだりに尿すべからず。この條目令せらるゝ後違犯の輩あらば。嚴に聞え上べし。かくし置てもれ聞ゆる時は。同朋權阿彌の罪たるべし と之。(慶長日記。當代記。御年譜附尾。)○十三日梵舜二條城にのぼり。  大御所に謁見し奉る。(舜舊記。)○十七日  大御所梵舜を召て伊豆三島明 神。氣比。平野。梅宮等神名を垂問したまふ。(舜舊記。)○廿日けふも梵舜まうのぼる。(舜舊記。)○廿一日快晴なり。  大御所二條城より伏見へ還御な る。(舜舊記。)○廿八日有馬修理大夫晴信に占城渡海の御朱印を給ふ。舟本彌七郞へも安南渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○廿九日梵舜伏見城にのぼ り謁し奉る。(舜舊記。)◎この月  大御所軍陣の令約を仰下さる。喧嘩爭論停禁せらるゝ處。もし違犯の徒あらば。是非をとはず双方罪せらるべきなり。も しくは同僚の義を思ひ。あるは知音の好をもて與黨する時は。本人よりも重く罪せらるべし。隱し置て後日に露顯せば。其主曲事たるべし。先陣の輩へことはら ずして斥候をいださば。曲事たるべし。先手をこえて高名するとも。旣に軍法を背くうへは曲事たるべし。ゆへなく他の備に混入するものあらば。本人の武具馬 具共に奪取べし。しかして後其主申旨あらば。其主もおなじく曲事たるべし。さりぬべき事あらば。其備にことはりて通るべし。人數押の時脇道すべからず。若 脇道する者あらば罪せらるべし。諸事共に奉行の指揮違背すべからず。臨期の御使は誰たりとも其旨違背すべからず。持鎗は軍役の外たり。長柄をもたずそれの み持べからず。もし長柄の外に持しむる時は。其主の馬前に一本備ふべし。陣中にて馬をとり放つべからず。小荷駄押の事は軍勢混入すべからざる旨嚴に令すべ し。若みだりに混入する者は罪せらるべし。押買等狼藉なすべからず。違犯の徒は罪せらるべし。渡船の事一年かぎりに渡るべし。夫馬以下もこれに同じ。他備 に混ずる事は一切停禁す。軍役の外人數多く備るをもて奉公とすれば。いかほども召具すべし。武具馬具以下怠らず用意し何時たりとも速に出陣の心搆すべしと なり。(令條記。)○九月朔日安南にからせすに呂宋渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)○三日角倉了以光好に東京渡海の御朱印たまはり。田那邊屋又左 衛門平野孫右衛門に呂宋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○四日梵舜伏見城にのぼり扇三十柄献ず。(舜舊記。)○八日  御所近日關東へかへらせ給ふ よし聞えければ。吉田二位兼見卿大鷹繚。梵舜は錫鉢を献ず。(舜舊記。)○十日皮屋助右衛門東京渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)○十三日呂宋國王 へ御返簡をゝくらせらる。その請にまかせて商船每年四艘づつ渡海をゆるされ。前に鞍皆具幷に鑓十柄つかはさる。またあんたうにんからせすへ西洋渡海の御朱 印を下され。窪田與四郞みけるに密西耶渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十五日快晴なり。  大御所關東へ赴かせ給はんとて。伏見を御發輿有て。五 郞太丸長福丸兩君をも伴ひ給ふ。此夜永原に泊給ふ。龜井右兵衛佐政矩はこたび御下向供奉の列にかへらる。これ政矩が年頃懇願するによてなり。松平加賀右衛 門康次。成瀨吉平久次に。伏見城留守を命ぜられ。御朱印を賜ふ。城中各所勤番を查撿し。怠者あらば嚴に聞え上べしとなり。又越智右馬允吉長子彌三右衛門吉 廣召出され。  大御所に仕奉る。和田傳右衛門惟長召出され。采邑五百九十石餘をたまふ。(創業記。當代記。寬永系圖。萬世家譜。)○十六日  大御所佐 和山につかせられ。二日御滯留あり。雨ふるによりてなり。(御年譜。家忠日記。)○十七日江戶にて野々山新兵衛兼綱。はじめて  御所を拜し奉る。(寬永 系圖。)○十八日船本彌七郞に柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十九日  大御所赤坂に至らせ給ふ。この日柬埔寨國王に御返簡をつかはさる。 その請にまかせ通商をゆるされ。そのうへ佩刀二口をくらせらる。(御年譜。家忠日記。異國日記。)○廿日岐阜につかせ給ふ。(御年譜。家忠日記。)○廿一 日  大御所稻葉山に狩し給ふ。鹿を得らるゝ事五十五頭。(家忠日記。當代記。 慶長見聞錄には七十七頭につくる。)○廿二日加納の城によぎり給ひ。營築 のさまを御覽ぜられ。みけしきうるはしくして。淸洲の城へ渡らせ給ふ。○廿三日下野守忠吉卿のもとにて  大御所を饗せられ。相撲を御覽に備へらる。本鄕 美作守信富卒す。其子勝三郞賴泰慶長四年八月死せしとき。嫡孫五右衛門一本病者たれば。次孫虎王丸勝吉父が遺跡千石をたまはりたれば。信富が遺領はたまは らず。この信富は若狹國本鄕に世々しるよしゝて。代々足利家の近臣たり。信富光源院義輝將軍につかへ。奏者番として將軍家の禮式に精熟せり。のち織田家に 屬し。又  大御所に仕奉る。もとよりその人となりをしろしめされければ。將軍宣下のとき信富を伏見に召て。汝は世々室町將軍家の禮法にあづかりしものな れば。よくその典故を辨たるべし。今より我家に於て奏者の事をつかさどるべしと面命有て。伏見の城邊に宅地を賜はり。衰老の事なればとて。永井右近大夫直 勝に扶助せしめられしが。七十五歲にて終をとれり。(家忠日記。家譜。 按ずるにこの人 當家にて奏者の職を置れしはじめなるべし。又永井右近大夫直勝こ れよりさき仰を蒙り。細川幽齋法印の閑居にまかり。足利家營中の典故幷に文書の式法を學ぶ事。其家傳にみえたり。今又信富につけ置れしをもつて考れば。  當家創業のとき定められし禮式は。此人の功多しとみゆ。)○廿五日岡崎へつかせ給ふ。こゝにとゞまりたまふ事四日。酒井五郞助忠知に廩米五百俵賜はり。小 姓を命ぜらる。時に十三歲。(御年譜。當代記。家譜。)○廿八日長升四郞右衛門に柬埔寨渡海の御朱印を給ふ。(御朱印帳。)◎是月庄田三大夫安信。孫小右 衛門安照。親見彥左衛門正勝子彌三郞正盛初見し奉る。又諸大名封邑幷に諸寺社領の稅額查撿の惣奉行を西尾隱岐守吉次に命ぜられ。津田小平次秀政。牧助右衛 門長勝。犬塚平右衛門忠次これにそひたり。又安南國王へ御返簡ををくらせられ。長刀二柄太刀一把つかはさる。(寬永系圖。紀年錄。)○十月朔日大御所遠州 中泉につかせ給ふ。こゝに十五日までとゞまらせ給ひ所々田獵せらる。其折ふし掛川の城に立よらせ給ひければ。城主松平隱岐守定勝子弟等をひきつれて拜謁 す。  大御所その樣を御覽じ。子弟等よく成長し國家の藩屏とするにたれり。島津忠恒。淺野長政等皆 當家に緣をむすばん事を懇望す。忠恒が女子を汝が嫡 男河內守定行に婚姻をむすび。長政が女子を汝が二男越中守定綱にめあはすべしと仰をかうぶる。(御年譜。創業記。當代記。貞享書上。)○九日故小田原北條 の醫田村安栖長頥御家人に列しけるがけふ死す。其子安栖長有此十二月家つぎ初見す。(家譜。)○十二日柬埔寨國王に鳥銃二十二挺ををくらせらる。(御朱印 帳。)○十五日中泉を發輿し給ふ。(創業記。當代記。)○十七日駿州田中に至りたまひ。こゝにとゞまらせたまふこと四日。  御所には江戶より川越に狩し 給ふ。(當代記。榮松錄。)○廿二日駿府につかせたまふ。(御年譜。家忠日記。)○廿三日淸水にわたり給ふ。○廿四日三島にとゞまり給ふ。○廿五日小田原 に着御あり。○廿六日藤澤にいたらせらる。○廿七日神奈川につかせ給ふ。○廿八日江戶の城に入給ふ◎この月下野守忠吉卿腫物なやませたまふ。又石谷十右衛 門政勝めし出され大番に入らる。  戶田藤右衛門政次も初見して御家人に加へらる。また柬埔寨國王書簡を進らせ。虎皮蜂蠟以下の方物を献ず。御返簡をつか はされ。太刀脇差ををくらせらる。(當代記。寬永系圖。異國日記。)○十一月六日原彌二右衛門に東埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十日致仕松 平備後守淸宗卒す。其所領は子玄蕃頭家淸天正十年より襲封す。この淸宗は和泉入道殿の長子右京亮守家より五代備後守淸善が子にて。はじめ今川家の方人小原 肥前守鎭吉がこもりし三河の吉田城をせめしより。永祿十一年今川氏眞が遠州掛川の城にありし時。これをせめてしばしばたゝかひ。三方原の戰畢て同國堀江の 加勢に赴き。天正三年長篠の戰には酒井左衛門尉忠次に屬し。鳶巢山の要害を燒て勝利を得。のち又武田勢の押として。橫須賀口を守りし功により。釜田御厨の 地を加へたまふ。九年高天神の城責に首級を得。甲斐の武田亡びしとき。宗徒の人々ともに彼國に入て。北條左衛門大夫氏勝と黑駒に戰て打破る。十年長子玄蕃 頭家淸に竹谷の領所をゆづり。その身は别に二千貫の地を領し。與力五十人を屬せらる。尾州長久手の軍には。駿州興國寺の城をまもり。十二年石川日向守家成 とおなじく掛川の城を守り。又鹽井原の城を守て武田の勢と戰ふ。これ等の賞として遠江國にて所領たまはる。(上張菅谷龜甲等の邑なり。)小田原の軍には吉 原を守る。致仕せしのち。十九年奥州御陣には。ふたゝび出て江戶西城を守り。けふ六十八歲にて卒す。(寬永系圖。寬政重脩藩。藩翰譜。)○十一日矢部九郞 兵衛利忠死して。のちに其子藤九郞忠政家をつぐ。この利忠ははじめ小田原の北條につかへしが。北條亡びてのち御家人に加へられ。野口をあらためて矢部と稱 す。(寬永系圖。 家譜には慶長十一年死すとあり。)○十三日土佐國高知城主山內土佐守一豐が子對馬守康豐に。原封二十萬二千六百石をつがせらる。康豐父 の遺物師匠坊の釜入を献ず。この一豐は鎭守府將軍秀鄕朝臣十代の孫山內首藤刑部亟義通が後胤。但馬守盛豐が三男なり。父兄は尾張國上の織田家につかへて。 弘治三年岩倉の合戰に討死す。一豐幼て父兄にはなれ。ひとゝなりて織田豐臣家につかへしばしば加恩有て。天正十三年若狹國高濵の城主となり。其年又近江國 長濵の城にうつり對馬守と名のり。十八年遠江國掛川の城にうつる。この時五萬石領し。後一萬八千石の地を加恩あり。慶長五年の秋  大御所會津を征したま はんとて。御進發有しとき。一豐は先陣に在て下野國宇都宮にいたる。かゝるとき上がた又軍おこりぬと聞えしかば。從軍の諸將。妻子は皆大坂にとゞめ置きた れば。周章なゝめならず。一豐が妻さるさかしき婦人なれば。さるべき家士をくだしで。上方の樣くはしく告たり。かくて小山宇都宮にありあふ諸將を御本陣に めして。その心々をたづねたまひしとき。福島左衛門大夫正則は最初に御味方たるべきよし聞えあげたり。一豐引つゞき進み出。それがしが城海邊にあり。速に 御勢をもて守らせらるべし。年頃たくはへ置し兵粮も乏しからず。次には一豐が郞等等の妻子從類は。ことごとく吉田の城に參らすべし。人質のため召置るべ し。一豐は先陣に隨て軍つかふまつるべしと申せしかば。滿座の人々一つらに是に同意して。大計旣に定まりぬ。  大御所大に悅ばせ給ひ。やがてそのむねに まかせらる。一豐先陣の人々と共に馳上て。關原の軍にその功莫大なりしかば。このとし土佐一國をたまはり。土佐守とは名のらしめらる。入部の謝聞え上んと まうぼりしとき。  大御所所領の稅額をとはせ給ひしに。凡二十萬二千六百石とこたへ奉りければ。大におどろかせ給ひ。さては思ひしよりも小國なり。長曾 我部が故太閤の臨駕の待まうけし有樣。百万石ばかりにおもひしかば。賜ひしものをと仰けるに。一豐感淚に堪ず。かたじけなきことにおもひける。八年三月廿 五日從四位下にのぼせられ。此九月廿日卒す。齡六十なりとぞ。(寬永系圖。藩翰譜。寬政重脩譜。)○十五日芠萊渡海の御朱印を大坂藥商甚右衛門へくださ る。(御朱印帳。)○十七日  大御所御放鷹のため。川越忍邊にわたらせ給ふ。忍城番內藤忠兵衛正次は二十四孝の間にて拜謁す。このころ御狩塲にて蹲踞す るものあり。その名をとはせ給ふ。夏目次郞右衛門吉信が子なりとこたへたてまつる。其夜本多佐渡守正信が御前に侍ひつるに。吉信が子に片目なるものありや ととはせ給ふ。正信うけたまはり。いかにもさる事の候。長右衛門信次と申たるものゝ候ひしが。鐵炮の捻扱にふれにて眼をやぶる。外科丸山某が療治して。命 はつゝがなかりしとおぼへ候と申あげしかば。さては濵松の城中にて人をうちて立退し男なるべし。その罪輕からずといへども。父吉信が忠節いまにをいてわす れず。そのものゝ罪も年月ふる事なれば。ゆるすべしと仰ありて召かへされ。御家人に加へらる。この信次大坂の役には諸道具押をつとむるといふ。(家忠日 記。當代記。家譜。寬永系圖。)○廿五日  御所けふ江戶より鴻巢にわたらせ給ふ。こゝに十二月廿日ごろまでましまして。日每に遊獵し給ふ。この日筑波山 神領の御朱印を給ふ。常陸國筑波郡筑波鄕五百石は。供僧别當所納たるべし。宮中山林竹木等免許せらるゝうへ。この旨を守て國家安全の懇請を抽べきとの御事 なり。(創業記。令條記。)◎この月天野佐五兵衛門正長初見したてまつり大番に入る。正長鷹つかふ事を鍛練せしかば。のちに請て御手鷹師となる。豐臣家に 仕し堀因幡守秀信實父新庄駿河守直賴。去年御勘氣ゆりければ。秀信もめされてこのほど江戶に參り。  御所に拜謁す。このころ柬埔寨國王書簡をたてまつ り。鳥銃ならびに孔雀彩羽等を献ず。よつて御返簡をつかはさる。又下旬より信濃國淺間山燒ること甚しく。翌年の正月にいたるまでたえず。(寬永系圖。家 譜。異國日記。慶長見聞書。)○十二月二日はじめて江城書院の番士四組を置る。靑山伯耆守忠俊。(寬永系圖には十五年とす。)水野隼人正忠淸。內藤若狹守 淸次。松平越中守定綱其番所になさる。伯耆守忠俊は奏者の事をもかねしめるる。京六條の仁兵衛に。大泥國渡海の御來印を下さる。豆葉屋四郞左衛門。大黑屋 長左衛門に柬埔寨。渡海の御朱印を下され。長崎喜安へ西洋渡海の御朱印下さる。◎此日服部石見守正就改易の罪に處せらる。こは近日江戶市井にて不慮に殺害 せらるゝもの多し。たれの所爲たるをしらず。よて高札をたて賞金をかけて。その賊を搜索せしめらる。しかるにそのころ伊奈熊藏忠次が從者。使にまかるとて 市中を通しを。正就白晝に切すてたり。よて正就を查撿ある處。人違のよし申といへども。其陳狀あきらかならず。さては近日みだりに路人を殺害したるも。正 就が所爲ならんと世人沙汰しけり。これは正就が父石見守正成が時より。本國伊賀を出て三河に來りつかへ奉る。正成はじめ半藏といひし時より夙夜の勞怠ら ず。御先手にありて數度の高名し。世には鬼半藏とよばれたる勇士なり。父子二代共に同心二百人をあづかり。采邑三千石を領す。しかるに所屬の同心はもと伊 賀の國士どもにて。正就も同等の者なれども。正就は父の時より忠勤し。戰功多きをもて登庸せられ。今その官長たり。同心等はさきに織田右府本能寺にて事あ りし時。  大御所堺の津より大和路をへ。伊賀路にかゝりかへらせ給ふとき。鄕導したる國士どもなり。正就もしその本をおもふときには。鄕黨の故舊どもな れば。いかに今官長なればとても。からくあたるべきにあらず。慈愛を加ふべきを。さはせず奴僕にひとしくかりつかひ。家作營造のとき壁ぬり材を切事までを 課役し。其命にしたがはぬ者には俸米ををさへてさづけず。よて二百人の同心ども大にいかり。徒黨して奉行所へ目安をさゝげ。弓銃を用意し近所の寺院へ立こ もる。よて查撿を加へらるゝ處。正就が非道かくれなければ。同心二百人正就が所屬をはなれ。足輕大將大久保甚右衛門忠直。久永源兵衛重勝。服部中保正。加 藤勘右衛門正次等に分附せらる。されども正就が訴ふる旨により。その首謀の同心十人は死刑に處せらるゝ處。迯去しものありしが。妻子を質とし搜索せられし かば。みづからうたへ出て腹切しものもあり。其中に二人はいまだ出ず。市中にかくれあるよし聞て。正就これを切てすてんと待ゐたるに。彼者正就が門前を通 りければ。正就大に悅び飛で出。追かけて後より切たをしけるに。いかゞ見あやまちけむ。彼者にはあらで熊藏忠次が使者なりしかば。陳謝するに詞なく。かく 罪蒙りしとぞ。(家譜。武德編年集成。御朱印帳。慶長日記。慶長見聞書。)○八日土井大炊頭利勝島田兵四郞利正を御使として。龜井右兵衛佐政矩が家にのぞ み。政矩に近侍を命ぜらるゝむねを傳へしめらる。これは政矩去年本多上野介正純成瀨隼人正正成につきて。  大御所に願ひしは。政矩年頃外樣の列にさぶら ふ事本意ならねば。左右に近侍せん事をこひ奉るよしなり。よて  大御所よりそのむね仰つかはさるる故とぞ聞えし。(寬永系圖。)○十日下野守忠吉卿急病 にて危篤なりしが。漸くに蘇息せらる。瀧野爲伯定一藥にてとみに平快し給ひける賞に。  大御所より銀百枚たまはり。法印にのぼらしめらる。(慶長日記。 家譜。)○十二日內藤右京進正成死して其子圖書助忠俊家をつぎ。七千石の內二千石を弟掃部助忠成に頒つ。(家譜。)○十五日南海風濤甚しく。八丈島の邊に 大山涌出せりとぞ。(御年譜。當代記。)○廿一日昨夜より大雪連日に及ぶ。中にも北國はさらにもいはず。近江の國深さ八尺にをよぶといふ。(當代記。)○ 廿六日  大御所忍川越より江戶城にかへらせたまふ。靑山常陸介忠成五子天方主馬助通直采邑五百石たまふ。この日伏見城下有馬玄蕃頭豐氏邸より失火し。諸 大名邸宅千餘ならびに立賣町等燒亡す。(御年譜當。代記。寬永系圖。)◎この月安部彌一郞信盛書院番命ぜらる。(寬政重脩譜。)◎此年柳原式部大輔康政の 女を養ひとらせたまひ。池田右衛門督利隆に降嫁せらる。其時靑山常陸介忠成は輿渡の役となり。土井大炊頭利勝は貝桶の役を勤む。安藤對馬守重信。鵜殿兵庫 頭。(石見氏長といふこの人なるべし。)伊丹喜之助康勝供奉す。池田が家には淺野彈正大弼長政。其子左京大夫幸長。黑田甲斐守長政。加藤肥後守淸正。蜂須 賀阿波守至鎭。加藤左馬助嘉明待迎へ奉る。此事により利隆へ靑江の御刀。左文字の御脇差。馬二疋を賜ふ。又松平隱岐守定勝四子長十郞定實は  大御所掛川 城に渡御の時初見し。仰により後大奥にて養育せらる。又宗對馬守義智朝鮮國和平の儀つかさどり。信使來聘有しを褒せられ。肥前國に於て二千八百石加恩あ り。かつ邊域居住の故もて。三年に一度づゝ參覲すべしと命ぜらる。朝倉藤十郞宣正使番仰付られ。二百石加賜有て千石になさる。久貝忠三郞正俊徒頭となり。 高木九兵衛正次。高木九助正綱。徒頭川村善次郞重久は布衣の侍に加へらる。毉員曲直瀨養安院正琳は仰により江戶に伺候せしめらる。由良新六郞貞繁。松平加 賀右衛門康次は伏見西城勤番命ぜらる。本多縫殿助康俊二子淸三郞忠相七歲。本多三彌左衛門正重子源十郞正貫十三歲。伊東右馬允政世三子虎之助政勝十歲。中 山勘解由照守子助六直定七歲初見し奉る。長井又五郞吉正子五右衛門吉次。城和泉守景茂二子玉虫助大夫重茂。小笠原丹齋貞經子源次郞經治も同じ。毛利家に仕 し柳澤監物元政子左太郞元吉は八歲。山田勘左衛門正次。橫山源助正勝子甚左衞門正次。朝比奈左近宗利子勘右衛門良明七歲。戶田右門氏鐵子新次郞氏信は   大御所に初見し奉る。良明は小姓になる。大久保甚左衛門忠直子荒之助忠當。小澤瀨兵衛忠重子牛右衛門忠秋。金吾秀秋に仕へし堀田勘左衛門正吉は。召出され 書院番にいり。依田肥前守信守二子平左衛門政勝。幸田五左衛門繼治子七兵衛友治。小林傳四郞吉勝三子十兵衛重忠。豐臣家に仕へし小林田兵衛元長は召出され 大番となり。庄與左衛門直能子淸助直重は小十人に入番し。佐々與左衛門定次は鷹師となる。山口但馬守重政二子島之助重長。村瀨左馬助重治子淸藏重次。三枝 彥兵衛守吉子宗四郞守憲。伴五兵衛重盛子作平重正。小笠原彥三郞長行養子與左衛門貞利。中根吉四郞正勝。洛の醫南倉專益正休等も今年より奉仕す。一柳監物 直盛が二男禪門直家七歲。  兩御所に拜謁し。質子として江戶に住しければ。月俸八十口をたまふ。後美作守たりしはこれなり。もとの金吾黃門秀秋の老臣平 岡石見守賴勝召出され。濃州の中にて一萬石の地を封ぜらる。雀部新六重良八百石。神野八郞兵衛忠泰二百五十石たまはり。竹腰小傳次正信は五千石下され。駿 府郭內井伊兵部少輔直政が舊宅の地に居住すべしと命ぜられ。兵器調度までたまふ。山下彌藏周勝には月俸をたまふ。藤川庄次郞重勝百五十石加へられ。四百五 十二石一斗になる。駒井宮內昌長は信州松代在番命ぜられ。駒井右京親直。跡部民部良保に加へらる。また下野國黑羽の領主大關左衛門督資增致仕し。甥彌平治 政增に所領二萬石つがしめらる。この資增が家は武藏七黨のその一にして丹治氏なり。同國大關村に住せしより家號とす。肥前守淸高より十四代の孫右衛門佐高 增が三子にして。兄土佐守晴增。結城右衛門佐義親の養子となり。二子美作守淸增父の家つぎしが。子なくして卒せしかば。晴增これよりさき結城の家を去り處 士となり。志を豐臣太閤に通ぜしかば。太閤より舊領一萬三千石たまはり忠勤を盡せしが。病にかゝりて致仕し。その子彌平治政增幼稚たれば資增封をつぎ。慶 長五年上杉御追討のとき小山の御陣へ參り。政增を證人として江戶にまいらせ。岡部內膳正長盛。水谷伊勢守勝俊。服部一郞右衛門保英を加勢として。籠城の用 意とゝのひたり。此忠勤を感じ給ひ。下野陸奥兩國の內にて加恩たま。ひすべて二萬石領しけるが。政增やゝひととなるにより。家ゆづりて致仕し。十二年四月 朔日三十二歲にて卒せしとぞ。大河內又次郞正勝死して其子長四郞忠次つぎ。新見市右衛門政成死してその子市右衛門政勝は。文祿二年より别に仕へ奉る。酒井 權介實明死して其子權介實重つぎ。氏井孫右衛門吉正死してその子甚五兵衛吉勝つぎ。中岡兵部玄利致仕して甥治部元利もて家をつがしめらる。また  御所靑 山常陸介忠成が邱に渡御ありて。忠成點茶をたてまつりければ。小藏の葉茶壺を賜ふ。角倉了以光好は命を奉じ丹波國世木庄殿田村より。保津を經て大井川にい たるまでの水路をつくり漕運を通ず。また後藤庄三郞光次に仰せて壹歩金を造らせらる。これかねて光次が建議する所とぞ聞えし。又豐臣右大臣秀賴公京相國寺 に法華堂を造立し。寺領壹萬五千石を寄附せらるとぞ。又蠻船はじめて烟草をのせ來る。京人その種をうへて。專らその烟を吸ふ事風尙となり。天下にあまね し。この事益少く多損きをもて。令をくだし禁ぜらる。(寬永系圖。家忠日記。烈祖成績。家譜。寬政重脩譜。大三河志。紀年錄。武德編年集成。慶長年錄。)
台德院殿御實紀卷三 慶長十一年正月に始り六月に終る御齡二十八
慶長十一年丙午正月元日群臣江城にまうのぼり。歲首の拜謁し奉る。今朝  大御所の御かたにならせられ慶賀したまふ。この日大雪。日ねもすやまず。(創業 記。家忠日記。御年譜。當代記。)○二日追儺の式行はる。  大御所御かたにて謠曲あり。去年よりして伊豆國銀山金銀多くいでゝ佐渡國にをとらず。代官彥 坂小刑部元成をかへて。大久保石見守長安にその地を勾當せしめらる。元成は贓罪をたゞされ改易せられ。長子二子共に家に押こめらる。(國恩錄。榮松錄當。 代記。)○三日立春謠曲始あり。大久保久六郞忠高死して。その子新右衛門忠重家をつぐ。(榮松錄。家譜。)○四日朝鮮國和平をこふにより。文祿の役に俘囚 とせし彼國人を今年歸國せしむべきよし仰下さる。(慶長見聞錄。)○七日三浦助右衛門儀持死して。その子助八郞久儀家をつぐ。(寬永系圖。)○九日宮崎筑 波泰景死す。長子半兵衛泰重父に先立てうせ。其子庄次郞重次其跡をつぎしかば。こたび泰景が采邑は公に收めらる。泰景は武田信玄勝賴二世につかへ。天正十 六年より御家人となり。小田原陣をはじめ所々に供奉し。けふ八十四歲にて終をとれり。(家譜。寬政重脩譜。)○十二日去冬より今日まで。風雪連日やまず。 寒風殊に甚し。(當代記。)○十五日風ことに烈し。(當代記。)○十九日江戶城修築を仰出さる。池田右衛門督利隆。其弟藤松丸。福島左衛門大夫正則。加藤 肥後守淸正。加藤右馬助嘉明。黑田筑前守長政。細川內記忠利。京極若狹守忠高。同丹後守高知。淺野但馬守長晟。山內對馬守康豐。有馬玄蕃頭豐氏。鍋島信濃 守勝茂。森右近大夫忠政。寺澤志摩守廣高にその事を仰付らる。脇坂淡路守安元。小出大和守吉政。古田兵部少輔重勝。保科肥後守正光。最上出羽守義光もおな じ。義光には御內書をたまひ。本多百助信勝はおなじ惣堀奉行目付を仰付らる。(武德編年集成。寬永系圖。)○廿日田中筑後守吉政が二子主膳吉信。このほど 物に狂ふさまにて。近習の家人を手討にする事百十三人にをよびしが。けふ侍童を討んとして。かへつてそれがために害をうけしとぞ。(創業記。當代記。坂上 池院日記。)○廿五日惣奉行職內藤修理亮淸成。靑山常陸介忠成罪蒙り職奪はれ籠居す。此ごろ江戶にては本多佐渡守正信に淸成忠成二人を加へて。關東惣奉行 の職とせられ。大小の政事をさたし。その權最重し。しかるにこのほど  大御所武藏下總邊所々にわたらせたまひ。鷹狩りしたまふ。江戶の  御所よりは嚴 にその所々に令して。  大御所の狩塲にて鳥獸とる事を禁ぜらる。あるとき  大御所御狩にならせたまふ地に。わなむすび黏繩ひきてありしを御覽じ。御け しきよからず。こは誰がしわざぞと問ひ給ふ。農民等內藤靑山兩奉行のゆるしを蒙りて。かくのごとしと申ければ。さてはそのこと  將軍にはしりたまはぬに やと。以の外の御けしきなり。  御所このよし聞し召て大におどろかせたまひ。內藤靑山の二人誅せらるべきよしを。阿茶の局につき伺はせたまふ。局もよく 心得て二人がことをさまざまに申けれども。  大御所さらに仰せ出さるゝ旨もあらざれば。  御所はいよいよおそれたまひ。佐渡守正信をめしてひそかにか たらはせ給ふ。正信うけ給はり。  御所御孝心ふかくましますがゆへにこそ。天下の御ゆづりをもうけつがせ給ひつれ。たとひいかなる事のありとも。  大 殿の御こゝろにそむかせ給ふべきにあらず。內藤靑山旣に  大殿の御けしきにたがへるからには。誅せられむ事いふにやおよぶべき。しかしそれがし存る旨の 候へば。一まづ參りて御けしきうかゞひ侍らんとて御前を退き。正信は  大御所御狩の塲に參り。さてもおそろしきことの候。江戶の  御所には內藤靑山が 事。  大殿の御憤りふかきよし聞し召。速に兩人を誅せらるべきにさだまりぬ。兩人が事もあはれむべしといへども。さしあたり正信が身老年に及び。江戶の 奉行職を勤。大小の機務をさたせんには。  大殿の御けしきにたがふ事あるまじとも申がたし。さればこの後かならず誅せられん事疑なし。哀れ  大殿の御 かたはらに召かへされ。首をつぎ申たしと申ければ。御けしき忽にとけ。  將軍さほどまで兩人が事いからせ給ふにやとて阿茶の局を召。二人が命失はん事し かるべからず。この旨いそぎ申をくるべしと仰ありしかば。局よりいそぎそのよし聞えあぐ。江戶の  御所には大によろこばせたまひ。兩人誅をまぬかれしと ぞ。(創業記。當代記。藩翰譜。 今按るに。正信が碑文にもこのことをのせ。正信が諷諭に長ぜしを稱譽し。先輩も正信を譽るもの多し。されども  神祖兩 人をいからせたまふ事は。黏繩かけし事をいからせ給ふにはあらず。兩人關東惣奉行の職にありて權威あるまゝに。御狩の地をもはばからず。農民にゆるして かゝるふるまひさせし。その志をいかり給ひしなるべし。正信また兩人が罪死にあたらざる事をしらば。彼等積年忠勤の。功勞小事をもつて誅せらるべきにあら ざる道理をこそ聞えあぐべきに。諷諭の趣意疑ふべき事あり。此後大坂の戰おこらんとするにのぞみ。大久保忠隣が罪蒙りしも。正信が其權を妬みしより。おこ るをもつて照しみれば。今靑山內藤も正信と同僚たるゆへ。その權を妬むこゝろより。かゝる時に乘じて兩人を陷れたるにあらずとはいひがたし。)藤堂佐渡守 高虎の子大助高次六歲。江戶に參りて拜謁し奉り。大學助と名乘べきよし仰下され。兼光の御刀國光の御脇差をたまふ。  大御所にはさきに伏見の城にて拜謁 せしが。こたびも拜謁し御みづから則重の御わきさしを下さる。これより先父高虎は仰をもまたずして妻子を江戶にうつりすましむ。  大御所はなはだ其忠志 を感じたまへりとぞ。(寬永系圖。家忠日記。)◎此月中旬より。江戶府內市中所々火災あり。其外京は吉田奈良の手盖。江州上坂本。野洲武佐。三河の吉田。 赤坂。遠州の白須賀。橋本。上野の館林等。その他邊鄙所々火災多し。また野州宇都宮山にては。旗のことき氣あらはれ。奥平大膳大夫家昌居城にては。旗竿の 上に鳩の子十二うまれしが。羽翼成てとびさりぬ。また家昌が江戶の邸內庭上に生首あらはる。また島津兵庫頭義弘は呂宋國に書簡ををくり。通交の道をひらか んとすとぞ聞えし。(慶長日記。當代記。)○二月朔日日蝕す。(當代記。)○二日小笠原兵部大輔秀政が長子幸松丸。(十三歲。)次男春松丸。(十一歲。) ともに御前にめして元服せしめられ。御名一字たまはり。叙爵しで幸松丸は信濃守忠脩。春松丸は大學頭忠政となのる。この二人の母は岡崎三郞君の御女にし て。まさしく  大御所の御外孫なり。(寬永系圖。)○四日淺野彈正大弼長政に。隱栖の料とて常州眞壁にて五万石たまふ。長政去年より妻子を携て江戶に住 し。常にまうのぼり。あるは御茶給はり。あるは御宴に侍する事しばしばにて。その賜邸に臨駕も數度に及ぴ。其たびだびの若干の賜物あり。  兩御所の寵遇 尤あつかりしとぞ。(寬永系圖。慶長日記。寬政重脩譜。 世に傳ふる所は。長政を召れて。   御所より眞壁五萬石たまふ事仰出されしとき。長政は長子紀 伊守幸長。今紀伊一國を封ぜられてある事なれば。をのれかさねて多くの所領たまはらん事。いかゞ恐ある事と思ひ。御請申上ざりしに。  大御所後にこの事 聞召。長政をめして。其方今度眞壁の城地辭退するよし聞及ぶ。これこそその方生涯の不覺といふものなれ。長子紀伊守こそ國主なれ庶子右兵衛采女兩人をば何 とせんと思ふにや。  將軍の賜はらんとあるこそ幸なれ。何ほどももらひため末子どもにゆづるべしと仰ありければ。長政かしこみて御請せりとぞ。異本落穗 集)○五日小笠原信濃秀守政が請をゆるされて。兵部大輔と改め稱す。(家譜。)○十二日一色次郞照直死す。子なかりしかば采地七千百六十石餘のうち。致仕 せし父宮內義直に本領五千百六十石餘をたまひ。家つがすべき子養べしと仰下され。義直が隱栖の料千石。および照直にたまひし新恩二千石は收めらる。(家 譜。寬政重脩譜。)○廿七日烈風。南方にあたりあやしき黑雲たなびく。(當代記。)◎この月江戶城修築の事により。兼て仰を承りたる西國大名參府して。を のをの家士に命じ。人數若干伊豆の國につかはし石材をとらしめ。三千餘艘にのせて江戶に運送す。石垣七百間。高十二間。あるひは十三間の料なり。この價百 人持の石は銀二十枚。ころた石一箱金三兩にさだめしとぞ。關東の諸大名は去年御上洛の供奉したるにより。この課役をゆるされ。供奉せざりしともがらは。千 石一人の定制をもて。人夫を出さしめらる。(當代記。)○三月朔日快晴。江城經營をはじめらる。藤堂和泉守高虎仰を奉りて。本城二三丸を經營し。佐久間河 內守正實其奉行す。これは 當家定鼎の地となさるゝより。五方の諸侯朝聘するに。城郭狹くしてその禮を行ふ事を得ざれば。こたび廣くなしたまはんとてな り。(坂上池院日記。御年譜。家忠日記。武德編年集成。 世に傳ふる所。神祖高虎に改築の繩張を仰付らるゝとき。本丸最狹くして便よからねば。あらためて 廣むべしとありしに。高虎答へけるは。本丸廣きに過れば籠城のとき利少し。二三丸は今より少し廣くて然るべしと申て。その申旨にしたがはれしとぞ。慶長見 聞錄には七日江戶御城普請はじめとあり。慶長日記。)○二日江馬與右衛門一成死して。その子三彌秀成つぐ。(寬政重脩譜。)○三日越前中納言秀康卿の長子 長松丸。御前に召て首服加へられ。御名一字賜り從四位下右近衛權少將に叙任じ。三河守忠直朝臣と稱せらる。此日京極宰相高次の子熊麿忠高。從五位下侍從に 叙任し。若狹守と稱す。伊達越前守政宗に常州信太筑波河內三郡のうち。龍が崎にて芻牧の地一万石を賜ふ。(慶長日記。貞享書上。)○四日大に氷雨ふりて大 雷す。(當代記。)○十二日代官伊藤保兵衛助次に。賦稅皆納の御書をたまふ。(先祖書。)○十三日  大御所御上洛の事かねて仰さだめられしかど。雨によ りて延滯したまふ。(御年譜。創業記。當代記。)○十五日  大御所江戶を發輿まします。相摸國鎌倉の土人井をうがちしに。銀茶釜銀壺を堀得しかば。御道 にいでゝさゝげ奉る。關東のことなれば。江戶の御所にさゝぐべしと仰出され。江戶へ持參りて奉る。この日神奈川にとまり給ふ。(慶長年錄。御年譜。創業 記。當代記。)○十六日藤澤につかせたまふ。(御年譜。)○十七日小田原にやどらせらる。(御年譜。)○十八日三島に至り給ふ。(御年譜。)○十九日淸水 にわたらせらる。(御年譜。)○廿日駿府にとゞまらせ給ふ。この城內藤豐前守信成が守る所なり。明年はこの城にわたらせ給ひ。御莬裘の地となさるべけれ ば。まづ修築を命ぜらるべしとて。城內を親巡し給ふ。猿樂觀世金春の兩人。子弟等あまた引具し江戶へ參らむとて。御道にて  大御所に謁し奉る。江城經營 中なれば。汝等まかり下らん事無用なりとて。歸鄕すべしと仰出され。彼等各望を失て歸途につく。(御年譜。烈祖成績。武德編年集成。當代記。)○廿五日駿 府を發して田中に着せらる。此日駿府城造營の奉行川勝主水正秀氏に。御書をたまひ其勞を慰せらる。また同じ事により。此年  御所よりも御書をたまふ。 (御年譜。當代記。創業記。寬政重脩譜。)○廿六日中泉に着たまふ。(御年譜。)○廿七日雨にて御滯留あり。(御年譜。)○廿八日昨今兩日大雨。天龍川橋 落て往還自由ならず。よて猶中泉にとゞまらせ給ふ。(慶長年譜。)○廿九日雨ふるといへども。御輿をうながされ。岡崎へ至り給ふ。(御年譜。)◎此月阿倍 善大夫重眞召かへされ拜謁をゆるさる。父四郞兵衛忠政 當家を退て勢州へまかりたる時。重眞はしばらく蒲生飛驒守氏鄕につかへて奥州にあり。九戶の陣に火 矢を一揆原の城に射こみて高名す。又氏鄕の郞從等數百人黨をむすび會津を立退しとき。氏鄕の命をうけてその張本人を射殺したり。かく射藝に達したるのみな らず。世々忠勤の子孫たるをもて。ふたゝび召に應じたりしとぞ。(寬永系圖。)◎此春  大內 仙洞狹隘にして。朝儀とゝのひがたき由聞召。諸大名に課せ て。月卿雲客の邸宅を外へ引うつし。  禁裡 仙洞の地境を恢弘せしむる事。東北各壹町餘とぞ聞えし。この頃關東雨ふらず。麥壠みな枯稿す。(大三河志。 當代記。)○四月朔日  大御所名古屋に着御あり。(御年譜。創業記。家忠日記。)○二日岐阜に至りたまふ。(御年譜。)○三日赤坂につかせらる。(御年 譜。)○四日彥根こわたらせらる。井伊右近大夫直勝が家士松下志摩拜謁して。天國作の御脇差御紋の羽織をたまはる。久旱けふ雨を得たり。駿州以西の諸國は 麥よくみのる。(御年譜。家譜。當代記。)○五日永原につかせ給ふ。(御年譜。創業記。家忠日記。)○六日御入洛ありて。伏見城にいたらせたまふ。(三藐 院記。舜舊記。)○八日赤井刑部少輔幸家死す。其子藤右衛門幸長はさきに信州上田の戰に討死す。孫七郞兵衛善幸後に召出さる。(寬永系圖。)○九日神龍院 梵舜伏見城にのぼり  大御所に謁し奉る。(舜舊記。)○十日また同じ。江城にては。細川內記忠利けふより人夫を出し石垣を築きはじむ。  御所みづから 親巡したまひ忠利拜謁す。(舜舊記。家譜。)○十一日江戶城天守第二重の樓櫓經營のことを。伊達越前守政宗に仰付らる。その請によてなり。(武德編年集 成。)○十九日柳生但馬守宗巖卒す。壽八十歲。この宗巖は菅丞相の末にして。遠祖大膳亮永家よりこのかた。小柳生の庄の地頭として。代々春日の社領を沙汰 しける。宗巖は松永彈正忠久秀と共に。三好修理大夫長慶にしたがひ。そのゝち織田家につかへしが。のちに身わづらはしくなり。入道して柳生の庄に引こも る。文祿三年其子又右衛門宗矩と共に拜し。御麾下に候し。慶長五年秋  大御所奥の上杉御追討のため御下向のとき。宗矩御供にしたがひ奉る。石田逆謀によ り上がたへ引かへし。打てのぼらせたまふに及んで。宗矩をめし。汝いそぎ本國にかへり。父に告て國人を催し。軍おこすべきよし仰下され。宗巖にも御書をた まふ。關原の戰終りてのち。宗矩に本領二千石をたまはりしかば。宗巖故のごとく柳生に閑居せり。この宗巖上泉武藏守秀綱(長野信濃守業正が被官上州箕輪に 住す。)より劔法をつたへ。その妙を得しかば。  大御所よりしばしばめされて劔法を言上せしが。けふ終りをとれり。(寬永系圖。藩翰譜。寬政重脩譜。) ○廿日神龍院梵舜伏見城にのぼり。  大御所に拜謁しもの奉る。(舜舊記。)○廿八日  大御所御參內。直に伏見へ御歸城あり。此日伏見城石垣修築の事 を。万石以下のともがらに課せらる。万石以上のともがらは。明年駿府の城修築を課せらるべきによりこの役は除かる。(御年譜。創業記。當代記。)○廿九日   大御所の仰により。武經七書を梓にのぼせ。海內に廣行せしめらる。(武德編年集成。)◎この月細川內記忠利侍從にのぼせらる。德山秀現法印則秀が子五 兵衛直政初見す。(家譜には十年の事とす。)內藤豐前守信成駿府を轉じて。江州長濵の舊城をたまひ。城廓修造の料として銀五千枚を下され。美濃飛驒近江の 役夫をして營築せしめらる。そのとき汝にこの地を給ふ事は。上方筋警衛。かつ北越より京攝の要路たれば。それを監せしめられん爲なりと仰下さる。京相國寺 に山門を建立せしめらる。こは金吾中納言秀秋卒去有しとき。蓄米二万石を池田宰相輝政あづかりたるゆへに。その米を施入してこの用にあてらるゝ處なり。ま た榊原式部大輔康政居城上州舘林にて腫物なやむよし聞えければ。江戶より酒井右兵衛大夫忠世。土井大炊頭利勝をつかはされ看侍せしめたまひ。また醫員延壽 院玄朔道三親淸子父子。其外內外科どもをして治療せしめられ。其上井上半九郞正就。朝倉藤十郞宣正。高木九兵衛正勝。大久保與一郞忠益。神尾五兵衛守世。 弓削多源七郞昌吉等。日夜奔走してその病をとはしめらる。  大御所よりも村越茂助直吉を御使してとはせらる。(家忠日記。寬永系圖。寬政重脩譜。創業 記。當代記。家譜。慶長日記。)○五月二日神龍院梵舜伏見城にのぼり。  大御所に拜謁す。この日より暴風連日。(舜舊記。當代記。)○五日脇坂淡路守安 元江戶城普請を助けしにより。  大御所より御書を給ふ。(寬政重脩譜。)○六日大久保甚右衛門忠長死してその子甚九郞忠重繼て。相摸守忠隣に屬し小田原 に住す。忠長は平右衛門忠員が七子にて。はじめ僧となりて。三州和田村妙國寺のうちに一宇をたてゝ閑居せしを。  大御所御覽じて召出され。岡崎三郞君に つかへたてまつる。三郞君御事ありし後は。兄七郞右衛門忠世と共に二股城を守り。後に兄弟中違ひて御旗本にまいり仕へ奉りしが。天正十八年小田原陣のと き。伊奈熊藏忠次に命じて忠世と和談せしめられ。再忠世に屬して小田原城下八幡山に住し。五十三歲にてけふうせぬるなり。(家譜。)○七日京極若狹守忠高 從四位下にのぼる。(武家補任。 藩翰譜備考系圖には寬永三年とす。)○九日神龍院梵舜伏見城にのぼりて。  大御所に拜謁す。(舜舊記。)○十日小姓兼 歩行頭松平若狹守近次改易せらる。こは關原の前に伏見城にて戰死をとげたる五左衛門近正が二子なりしが。このころ甲州士西山といふ者闇夜にうたれたる事あ り。その賊さだかならず。近次がしわざかとうたがはる。そのうへ宮仕する女房と密通の聞えあるゆへとぞ。(創業記。慶長年錄。)○十一日神龍院梵舜伏見城 にのぼる。(舜舊記。)○十三日井伊右近大夫直勝從四位下に叙し。兵部少輔と改稱す。この日伏見城邊怪異さまざまあり。古き祠より挑燈のことき光物いでゝ 飛行し。豐後橋の邊に落る。また加藤肥後守淸正の邸中よりも。行燈のごとき光物飛いで。洛中にても光物飛行す。その音車のごとし。都人呼て破車といふ。先 年も二度かかる怪物あり。いづれも凶兆といへり。(家譜。當代記。)○十四日上野國舘林城主榊原式部大輔康政卒す。五十九歲。嫡男出羽守忠政は外祖大須賀 五郞左衛門康高が世繼となりしかば。三男遠江守康勝をして原封十万石を襲しめらる。此康政は仁木右京大夫義長の後胤。伊勢國壹志郡の住人七郞右衛門淸長が 子七郞右衛門長政が二男にて小平太といふ。永祿三年十三歲にして初見し。この年より近侍し奉り。同じ六年上野城の戰に高名し。そのゝち首服くはへしとき。 御名の一字賜はり康政とめされ。一方の大將をうけたまはる。おなじ十一年三河堀川の城攻より。遠州の天方。犬居。光明。高天神。長篠。近江の姉川。駿河田 中等の戰に勇をふるひ。功をあらはさずといふ事なし。天正十年甲斐國にて北條と戰ひ。十二年長湫の戰に先陣し。前田蟹江の城をせめ破り。十月御陣を班され し後。小牧山に留り守り上方の押へたり。豐臣關白の妹君御ゆかりさだまり給ひしとき。關白の召によりて都にのぼる。關白みづからその旅舘におはして。康政 が手をとりて。かく  德川殿としたしくなりぬ。康政等がことき勇士あまた候事。秀吉が悅之とおほせ。翌日の見參にも引出物多く給はり。妹君下向したまひ し時も。康政が家に立よらせらる。其年十月御上洛の御供して。十一月九日從五位下に叙し式部大輔と稱す。 當家の御家人叙任のはじめなり。十八年小田原の 陣はてゝ。上野國舘林の城を賜はり十万石を領す。文祿元年正月二日より。今の   御所につけらる。慶長四年正月豐臣家の奉行人等ひそかに軍兵を催し。伏 見の御舘を襲はんとせし時も。康政東國よりのぼる道にてかくときゝ。よくはからひて近江の勢多に新關をかまへ。旅人をとゞむる事三日にして關をひらく。諸 國よりあつまりたる旅人たゞ一時にはせ入しを。江戶より多勢のはせ付しとおもひ。大坂の輩大に氣をくれして。その事終にはたさず。康政がはからひ奇特なり とて御感なゝめならず。五年上杉を征伐あらんとて。打て下らせ給ひし時には。  御所の先陣うけたまはりて下る。上方逆徒蜂起のよし聞えて。  御所山道 をうつてのぼらせたまふに。眞田安房守昌幸御道をさへぎり。籠城してさまたげんとす。本多佐渡守正信が申旨をきかれ。間道をへてのぼらせたまふ。康政は眞 田が謀何ほどの事かあらん。若打出なば蹴散し其城ふみやぶつてくれん物をとて。をのが手勢ばかりにて眞田が城にせまりをし通るに。眞田あへてとゞめんとも せず。關原の戰終て後近江の草津にて。  大御所思召旨やありけん。しばらく御父子御對面なかりしに。康政深夜にひとり  大御所の御陣に參り諫進らせし に。御心とけて速に御對面おはしければ。  御所の御悅なゝめならず。御みづから御筆をそめられ。康政が此度の忠志 當家あらん限りは。子々孫々に至る迄 も忘るゝ事あるまじと遊ばされけるとぞ聞えける。井伊直政本多忠勝もこれをきゝ。わどのこたび身をすてゝいさめあらそひしにより。御父子の御中たいらかに わたらせたまふ事。凡天下の大功なり。いかなる戰塲の勳にもまさるべしと。申稱してやまざりしとぞ。かく 當家三老のその一にて。元勳の宿將なりしが。こ たび大病と聞召。老臣をつかはし。醫官をはせ療養を加へしめ。日々に御使あつてとはせ給へども。遂に卒しぬと聞えしかば。  御所御なげき淺からず。阿部 備中守正次御使して賻たまふ事多し。伏見にもこのこと聞し召おどろかせ給ひ。村上彥太郞吉勝を吊使として下されしとぞ。此日また伏見城にては。西郡の局頓 に逝去せらる。これは三州西郡の城主鵜殿三郞長持の女なり。(長持を以貴小傳藤助長忠とあり。)第二の姬君普宇の御方をうめり。こははじめ北條左京大夫氏 直の北方になりたまひ。氏直うせてのち豐臣太閤の媒にて。池田宰相輝政に嫁したまひぬ。局この日うせられしかば。京の本禪寺に葬りて蓮葉院とをくらる。 (寬永系圖。藩翰譜。慶長日記。以貴小傳。)○廿二日水野石見守長勝より矢を獻ず。(家譜。)○廿五日大風雨。京邊は廿年此かたの洪水といふ。江戶城修築 のため。豆州より運送の石をつみのせたる鍋島信濃守勝茂船百廿艘。加藤左馬助嘉明が船四十六艘。黑田筑前守長政が船三十艘くつがへり破損す。其外三艘五艘 枚擧するにいとまあらず。關東この水害にかゝり麻大に損ず。(當代記。慶長年錄。)○廿六日越後國春日山城主堀左衛門督秀治卒す。その子吉五郞に原封四十 五万石を襲せらる。この秀治は利仁將軍八代の孫權大夫季高が末孫左衛門督秀政が長男なり。父の秀政織田豐臣の世にありて。智謀勇畧拔羣なりしかば。越前の 國北の庄をたまはり。四位の侍從に叙任ず。秀治父につぎ四位の侍從に叙任し。慶長三年四月二日越後國をたまひ今の城に住す。五年の秋上杉を討たせたまはん とありし時。北陸道より奥に攻入べきよし仰を蒙りしが。上方蜂起したれば東海東山二手にわかれて攻のぼらせ給ふによつて。秀治は奥にむかふにおよばず。越 後に有て上杉勢をふせぎ。國中ことごとく平ぎしにより。  兩御所より御感狀をたまはる。十年四月御上洛の供奉しけふ卒す。年三十一とぞ。(寬永系圖。藩 翰譜。)○廿七日松田勝右衛門政行沒しければ。その子三郞兵衛勝政に家つがしめられ。遺領二千石の內千石をたまふ。この政行は始め前田德善院玄以法印の被 官たりしが。關東の戰畢てのち。その十月加藤喜左衛門正次を以てめしいださる。政行德善院の被官にて。京洛の風俗地理を詳に知るゆへ。喜左衛門正次に副て 所司代の事を攝行すべしと仰付られしとぞ。(家譜。)◎この月江戶城の石垣溝渠成功せり。此ころのことにや。福島左衛門大夫正則が婢亡命して。池田宰相の 藩中にかくれゐたるを。福島が家僕見しりて。厨におしいりてその婢をとらふ。池田が家の奴等。こは狼藉なりといかりあつまりて福島が家士をからめとる。正 則これをきゝて。江戶築城の事によりては。是にあづかるともがら。家人奴僕にても爭論を禁ぜられ。違犯の徒は死罪たるべきにさだめらる。よて封境を出る日 その事奴僕等までも嚴に命じをきぬ。しかるにかゝるひがごと引出したる罪輕からずとて。池田が家へ使をたてゝ。その婢と僕を家に引もどして首をきる。さて この事は我婢僕よりこと起り。池田が家の僕等は罪なければ。必とがめらるべからずといひ送りしとぞ。正則とにかくに暴橫の所行多かりしが。この一事甚謙遜 のふるまひなりと諸人稱美せり。(當代記。慶長年錄。)○六月朔日江戶にて。  御所の二郞君生れ給ふ。(柳營譜畧には三月七日。御九族記に五月七日。御 系畧。三松錄。慶長見聞書には六月朔日。歷世表に十二月とす。いまその多にしたがひてこゝに收む。慶長日記と慶元記に十三年とするは。またくあやまりなれ ばとらず。)  御臺所の御腹なり。のちに國松君と稱せらるゝはこれなり。よて諸大名樽肴を江城に献じ賀し奉る。この日地震兩度。(御系圖。慶長見聞書。 當代記。)○二日神龍院梵舜伏見城にのぼりて。  大御所に謁し奉る。(舜舊記。)○三日常陸國下舘城主水谷伊勢守勝俊卒しければ。のちにその子彌太郞勝 隆して遺領三万二千石をつがしむ。この勝俊は伊勢守治持が二男出羽入道幡龍齋正村が弟なり。入道が女子は結城左衛門督晴朝が室にして。家つぐべき男子なけ れば。弟を養て子とせしなり。晴朝に屬して戰功多し。豐臣關白天下を掌握ありしより本領を安堵し。右京大夫伊勢守と稱し。天正のはじめより  大御所に歸 順し。しばしば使節をさゝげ物を獻ず。十八年關東にいらせたまふときも。御先にまいり案內し奉る。關原のときは仰によりて皆川廣照とゝもに。野州に陣どり て佐竹を押ふ。天下定まりてのち水谷。多賀谷。山川岩上等は。もとより結城家の四天王とよばれたるものどもなればとて。中納言秀康卿につけられ。越前の國 にうつらんとしけるが。美濃國河戶の渡りよりめしかへされ。御家人に加へられふたゝび本領を安堵し給ふ。齡六十五歲にて卒せしなり。(家譜。寬永系圖。藩 翰譜。)○四日これよりさき駿府の城改築の事。この七月朔日よりことはじめあるべしと。美濃。尾張。飛驒。遠江。三河の諸大名に仰下されしが。この日また あらためて。明年正月より經營はじむべしと仰下さる。(創業記。當代記。)○七日上林久德久茂死して其子六郞勝永つぎ。父の職命ぜらる。この久德が先祖は 代々足利家につかへ。久德が父加賀守久重は。豐臣關白より宇治の代官に命ぜられ。はじめて茶園をあづかる。これよりさき織田殿京本能寺にて事ありし時。   大御所和泉の堺より俄にかへらせたまふとき。久茂は家僕近隣のやからを催し。赤布を引さき袖印に付て。百人計木津川の邊より御道の案內し奉り。宇治田原 へいでゝ多羅尾がもとにて御膳を奉らしむ。これをはじとめして豐臣關白の時となりても。御上洛あれば常に近侍して。懇の御氣しきを蒙り。久茂が家にもなら せられ。御茶獻りし事もしばしばなり。加恩百石たまひて四百九十石になさる。關原の時も石田がもとより討手をさしむけしが。關原戰終て後かの討手にむかひ し田邊惣兵衛を伐て奉りしかば。御鎗御鞍等を給ひ褒せられ。其外たまふ處の茶具等若干なり。入道して久德と號し。六十五歲にてけふ終をとる。入道が母は佐 々木六角右京大夫入道承禎が女にて妙秀尼といふ。茶を製する事巧なりしかば。  大御所しばしばそれが茶を召る。いまも祖母昔と名づけし茶は。この老母の 遺法なりといふ。(家譜。)○十日江戶城修築成功せしかば。これにあづかりし諸大名皆就封のいとまたまふ。猶一萬石に大石二づつ課して獻ぜしめらる。池田 宰相輝政に御刀幷に馬をたまはり。池田備中守長吉備前三郞國宗の御脇差。ならびに馬を賜ふ。細川內記忠利も馬をくださる。(創業記。寬永系圖。家譜。)○ 十一日大番頭水野備後守分長。所領を三河國新城にうつされ。加賜ありて一萬石となる。今迄は九千八百二十石を領せしなり。(寬政重脩譜。 家譜には十八日 とあり。)○十二日高橋掃部入道に密西耶渡海の御朱印をくだされ。後藤宗印に芠萊渡海の御朱印をくださる。(御朱印帳。)○十三日神龍院梵舜伏見城にのぼ り。  大御所にみえ奉る。(舜舊記。)○十六日伊勢國松坂城主古田兵部少輔重勝卒す。その子希代丸重恒六歲の幼稚なれば。弟大膳大夫重治に封地を治めし めらる。此重勝が父は左衛門重利とて。豐臣關白いまだ羽柴筑前守と申さるときその侍大將となり。播磨國三木の城にて討死す。重勝關白につかへて。伊勢國松 坂の城を領し三萬五千石になさる。關原のはじめに會津の御陣にしたがひ奥にむかひければ。をのが城には家人助左衛門をとゞめてまもらしむ。上方みだれ石田 治部少輔三成使をたてゝ。松坂の城を取んとせしかど。助左衛門これにしたがはず。其間に重勝はせのぼり。をのれは城に有て兵士を分て安濃津にさしむけ。富 田信濃守知信を助く。大坂よりは鍋島信濃守勝茂一萬餘兵を引具して。松坂の城を攻かこむといへどもたやすく落されず。關原の軍畢りてのち。この恩賞として 二萬石加へられて。五萬五千石を領しけふ卒す。時に四十七歲なり。(寬永系圖。藩翰譜。)○十七日島津陸奥守忠恒に御一字をたまはり。家久とあらたむ。 (武家補任。)○十八日渡邊備後守金銀山探索の事を命ぜらる。(萬世家譜。)○十九日大河內又次郞正勝死して。その子長四郞忠次家つがしめらる。(寬永系 圖。重脩譜には十年に係て月日を記さず。いま家譜による。)○廿日神龍院梵舜伏見城にのぼり。  大御所に謁し奉る。(舜舊記。)○廿九日神龍院梵舜伏見 城にのぼり。  大御所に謁し奉る。(舜舊記。)○晦日飯河新右衛門盛之死して。その子藤次郞盛政家をつぐ。(家譜。)◎此月江戶城修築成功していとま給 はりし諸大名。皆伏見にまいり  大御所に謁し奉る。加藤肥後守淸正は同伴の諸大名にすゝめて。大石あるは百貳百。あるは五十三十づゝ獻ぜしむ。さきに一 萬石に二づゝの制をもて。さゝぐべしと仰出されし故なりとぞ。菅沼もとの織部正定盈五子翁助吉?七歲にして召出され。近習に召つかはる。川井作兵衛政忠は 始め駿河の今川につかへ。また甲州の武田につかふ。その父丹波某は  大御所そのむかし今川がもとにおはしましけるとき。しろしめしけるものなればとて。 柴田七五郞康忠執申により拜謁し。此月駿府に召出され五百俵賜はり。伊豆銀山奉行仰付られ。同心五十人つけらる。其子善兵衛政善(家譜彌五助正岑に作 る。)同じく召出され大番にいる。此頃長崎をはじめ。紀州薩州ならびに三浦にも蠻船着岸す。(創業記。寬永系圖。家譜。寬政重脩譜。慶長見聞錄。)
台德院殿御實紀卷四 慶長十一年七月に始り十二月に終る
○七月二日炎暑殊に甚し。江戶近郊久しく雨降らず。(慶長見聞書。)○五日織田河內守長孝卒す。こは有樂入道の長子にて。關原のとき父子とも御味方にまい りしかば。長孝别に一萬石を給ひしなり。その子長則家つぎ河內守と稱す。伏見城には神龍院梵舜まうのぼり。  大御所に拜謁す。(家譜。藩翰譜。舜舊 記。)○十三日內藤仁兵衛忠政卒す。齡七十五歲。この忠政は甚五左衛門某の四男にして。四郞左衛門正成が弟なり。若年より  大御所につかへ數度の軍功あ り。永祿六年一向門徒一揆のとき。二心なく軍忠をはげます。此時御使として勢州に赴く。海上にて賊船頻に銕炮をはなつ。忠政みづから銕炮をもて賊首をうち 殺す。殘黨大に恐れ船をこぎもどし迯去しかば。恙なく勢州にいたり御使をつとめ。三州にかへりて御感を蒙る。その後忠政いたわる所多かりしかば隱居せしか ど。關原へうつらせ給ひし後。時々召て謁し奉り。關原のときには石川日向守家成とゝもに。江戶西城の當番をつとむ。其後  大御所駿府にうつらせ給ふべき によりて。忠政も隨ひ奉るべしと仰下されしかば。まづかしこにうつりて。程なく卒せしなり。(寬永系圖。家譜。)○十七日菅沼越後守定吉卒して。其子藤十 郞定俊此年九月家をつぐ。この定吉は信濃守定氏が子にて。はやくより  大御所につかへ奉り。遠州三方が原駿州田中三州長篠尾州長久手以來戰塲にしたがは ずといふ事なく。高名する事少からず。天正十八年關東御入國のとき。采邑三千五十石給ひ。文祿元年 當家にてはじめて大番頭三隊を置れしに。定吉その一人 にえらばれ。肥前名護屋御陣よりかへらせ給ひし後。今の  御所に附られ。けふ五十四歲にて卒せしなり。(家譜。)○十九日伏見城に神龍院梵舜まうのぼり て。  大御所に拜謁し山桝眞壺をたまふ。(舜舊記。)○廿一日船頭堺木屋彌三右衞門に。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○廿三日下總國佐倉に 錢通用のを令下さる。下總國佐倉より東の地に於てしかみ錢通交すべし。但割錢欠錢新錢はえらび取べし。こはその請によて制を定め下さるれば。もし違犯の者 は嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。)○廿六日武州忍城代高木筑後廣正卒す。壽七十一。その子九介正綱家を襲で。父の原職を仰付らる。この廣正父は七 郞左衛門重正とて。三州高木に生る。廣正永祿のころより科野。石が瀨。鳥屋根の城責。一向門徒の一揆御誅伐の御供し。元龜元年姉川の戰に軍功をあらはし。 同じ三年三方原の戰には。武田信玄が近習六人剛勇の法師武者を討とり。大隈入道といへる大力の法師と組打しその首をとり。仰をうけて信玄の首伐りたりと唱 へ。濵松城中の騷擾をしづめしかば御感を蒙り。大隈が面頰を給ふ。天正三年遠州小山陣に軍功を勵し。同九年歩卒二十人をあづかり。十二年長久手合戰に同心 を引ゐて敵の首級を得。十八年六百石の加恩をたまはり。歩卒三十人を預り。文祿元年先の采邑をうつされ。加恩ありて二千石給はり。慶長四年廣正が采邑二千 石の地。預らるゝ所の歩卒五十人は。長子九介正綱にゆづり。菅沼小大膳定利にかはりて忍城を守り。城邊三千石の地。及びその家人五十人をあづかり。養老の 料千六百石をたまふ。のち御前に候して  大御所御戰塲の事を聞え上べきむね御懇詞たまはりしが。年老ければ平川口より乘輿してまうのぼる事をゆるされ。 けふ卒せしなり。また長崎奉行長谷川波右衛門重吉死す。嗣子なく家絕たり。(寬永系圖。家譜。寬政重脩譜。)○廿七日  大御所伏見より二條の城へ渡御な り。此日阿野喜三右衛門へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御年譜。御朱印帳。)○廿八日  大御所二條の城へ渡らせ給ひ。神龍院梵舜をめして。  先代   帝王陵墓の事を垂問したまふ。(舜舊記。)○晦日またおなじ。(舜舊記。)◎この月越前中納言秀康公惣督として  禁裏  仙洞の宮殿垣墻經營の事始あ り。小堀作助政一奉行たり。太田新六郞重正二子新六郞資宗は。七歲にて伏見に參り拜謁す。(大成記。家忠日記。寬政重脩譜。家譜。 寬永譜には年をしるし 月を脫す。しばらく編年に從ふ。)○八月二日二條城にて  大御所申樂御覽あり。(舜舊記。)○三日又同じ。神龍院梵舜も召れてみせしめらる。(舜舊 記。)○六日  大御所相國寺子院豐光院へわたらせたまひ終日御遊あり。此日舟本彌七郞へ天南渡海の御朱印。角倉了似へ東京渡海の御朱印を下さる。(舜舊 記。御朱印帳。)○八日神龍院梵舜二條城へまうのぼりて拜謁す。(舜舊記。)○十一日  大御所御參內あり。五郞太丸長福丸兩君も同じくまいらせたまふ。 ともに從四位下に叙せられ。五郞太丸君は右兵衛督に任ぜられ。義利朝臣(後義直と改らる。)となのらせ給ふ。長福君は右近衛權少將に任ぜられ。常陸介賴將 朝臣となのらせたまふ。(後に賴宣と改らる。)けふ神龍院梵舜は二條城にまうのぼり謁し奉る。又長崎惣右衛門へ暹羅渡海の御朱印を下さる。(御年譜。創業 記。舜舊記。御朱印帳。)○十二日二條城より伏見城に還御なる。(舜舊記。)○十五日藤堂佐渡守高虎に江戶城修築繩張の功を褒せられ。備中後月小田兩郡二 萬石加封せらる。此時和泉守に改む。(大三河志。 これは丹羽五郞左衛門長秀が三男宮內少輔高吉を。豐臣太閤の命により高虎の養子とせしが。高虎實子生 るゝに及び。高吉は家臣のごとくなりて終りぬ。其舊領をこたび高虎に合せられたるなり。藩翰譜。慶長日記。)この日林三官へ呂宋渡海の御朱印を下さる。又 占城國王へ御書幷に甲胄六領。大刀四把。腰刀一把。脇刀五把贈せられ。其國產の奇楠香を求め給ひ。かつ兩國通交の事を仰つかはさる。こは林三官が呂宋へ赴 くにより。其たよりに占城へ仰遣はされしなりとぞ。又有馬修理大夫晴信へ暹羅渡海の御朱印。檜皮屋孫左衛門へ柬埔寨渡海の御朱印。平野孫左衛門へ呂宋渡海 の御朱印を下さる。此日松波但馬守重隆八十二歲にて卒す。その子梶平重正は甲斐の武田に御使をつとめ。あるひは所々の御陣に從ひ奉りし事有しが早世し。二 子六藏重次は文祿年中より。兄重正が遺跡を賜はり奉仕す。(御朱印帳。異國日記。紀年錄。寬永系圖。家譜。)○十六日春日社修理料として。米二万俵を一乘 院門主尊勢大僧正に寄せ給ふ。(武德編年集成。)○十七日小河三益死して。其子惣左衛門賴勝家をつぐ。この三益は勢州の產にて流浪せしが。能書なりしゆへ 召出され。今の  御所に御手本を奉りしとぞ。(家譜。)○廿日神龍院梵舜伏見城にまうのぼり拜謁す。(舜舊記。)○廿一日大風なり。この日占城渡海の御 朱印を林三官へ下さる。(當代記。御朱印帳。)○廿六日西尾隱岐守吉次卒す。この十月七日に養子丹後守忠永に遺領一万二千石襲せられ。二子小左衛門吉定に 忠永が䕃料二千石のうち七百石を分たしめらる。この吉次ははじめ小左衛門と稱す。吉良上總介滿氏が後胤にて。尾張の國に生れ。織田家につかへ三千石を領 す。  大御所和泉の堺の地御遊覽のとき。織田右府の命をうけて饗應の役となり。六月二日本能寺にて右府事有しのち。御供して伊賀路を踰岡崎に至り。やが て召に應じて御家人になり。所々の御陣に從ひ奉り。天正十八年放鷹のとき油をひさぐ者御先を遮りしかば。彼を討とて御刀を授給ふ。吉次追かけ斬て兩斷とす といへども。二三歩ばかりがほどそのまゝあゆみて倒れしかば。その御刀を油賣と名づけ給ふ。後これを吉次にたまふ。その年九月十日采邑五千石を賜はり。慶 長四年十月三日從五位下に叙し隱岐守と稱し。七年七千石を加へられて一万二千石を領し。騎士二十五人を預らる。衰老の後も御伽の列にありてしばしばまうの ぼり。けふ七十七歲にて終りをとれり。(寬永系圖。寬政重脩譜。藩翰譜。)○廿七日  大御所伏見城より二條城にわたらせ給ふ。神龍院梵舜まうのぼり見え 奉る。(御年譜。舜舊記。)○廿九日夜より大風。美濃。近江。北伊勢。四國。中國。海潮おし入たりとぞ。(當代記。)◎この月柬埔寨國王より書簡幷に六種 の方物を献ず。甲胄二領をつかはさる。また大泥國王より書簡幷に花綾を献じ。我國の商船かしこにわたり侵掠するよしをうたふ。御返簡ををくられかの商船歸 朝せば速に其罪を糺し。誅戮を加へらるべしと答たまふ。松前民部大輔慶廣は五年前より。その國要害の地に新城を築く事。凡六年にしてこのころ成功す。よつ てその城を福山と名づく。また加藤肥後守淸正は熊本の居城に。觀世をめして申樂を張行し。唐織薄板等をはじめ。美服白銀若干を纏頭し。なを其悅びにたえず とて  大御所へ唐織の衾十献じ奉る。(紀年錄。寬永系圖。當代記。 世に傳ふる所。淸正はこのころ伊達政宗が仙臺の城に。團助といふ妓を京より呼よせ歌 舞妓をなし。近國群集させしときゝ。當時第一の工夫なりと感心し。申樂等數人を居城にめし國人に見物せしめ。またお國といふ妓を京よりめし。歌舞妓など催 しけるといへり。當時外樣の大名等が情實かゝる事と見えぬ。武家閑談。)又大番頭山口但馬守重政今年より。三年が間伏見城番をつとむ。(貞享書上。)○九 月朔日大風雨。琉球國むかしより島津に屬すること久し。しかるに近來貢をはこばず。島津陸奥守家久その家人三員つかはして。そのゆへをたゞすといへども。 かれ明國をはゞかりて承服せず。よてそのよしを聞えあげて。征伐せん事をこひしかばゆるし給ふ。(當代記。貞享書上。寬永系圖。 琉球國は家久十代の祖陸 奥守忠國が時に。普廣院義教將軍より給はり。嘉吉の頃より附庸たりしといふ。烈祖成績。)○二日相國寺長老承兌伏見城にのぼり。吉田神宮寺幷に寺領の事を 聞えあぐる。(舜舊記。)○三日神龍院梵舜。足利學校三要。伏見にまうのぼり  大御所に拜謁す。(舜舊記。)○七日三河國額田郡成道山大樹寺を。  勅 願所に准ぜられ綸旨を給ふ。そのうへ現住暹譽に常紫衣をゆるさる。これ御執奏によりてなり。(大樹寺舊記。)○十日神龍院梵舜伏見城にのぼりまみえ奉る。 (舜舊記。)○十一日島津陸奥守家久左近衛中將にのぼせらる。長田金平白茂の二子金平白勝めし出さる。(藩翰譜備考。寬永系圖。)○十三日片桐市正且元。 大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重伏見城にのぼり。豐國社の條約ならびに社頭石燈籠の事を聞えあげ。御ゆるしを蒙る。(舜舊記。)○十四日豐國社務萩原慶 鶴丸。神龍院梵舜ともに伏見城へまうのぼり。  大御所へ慶鶴丸より紅梅裏綸子を献じ。梵舜は論語抄五卷。環翠軒抄。(卷數詳ならず。)道白奥書の玉篇五 卷を献ず。御けしき大方ならず。僧承兌三要も御側に侍りて。しきりに稱讃せり。(舜舊記。)○十五日呂宋渡海の御朱印を安當にからせすに下さる。その國の 官人へ御書幷に甲胄四領をつかはさる。醫員片山與安宗哲法印にのぼる。(御朱印帳。寬政重脩譜。)○十七日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる。日吉社勸請の事 をとはしめ給ふ。又萩原慶鶴丸元服の作法。堂上の並たるべきよし仰出さる。◎此日船頭須山へ西洋渡海の御朱印を下さる。(舜舊記。御朱印帳。)○十九日さ きに柬埔寨へ赴きし商船。風濤にへだてられ達する事を得ざるよし聞えければ。かさねてその國王へ御書をつかはされ。かの國上品の奇楠香を求め給ふ。よて金 屏風五双をくらせ給ふ。また原彌次右衛門へ天南渡海の御朱印を下さる。さきにその國より沈香廿斤白𥿻五匹を献ぜしとぞ。(異國日記。御朱印帳。)○廿日 國松君けふ宮參し給ふ。このころの事にや。朝鮮の僧惟政(松雲と號す。)來朝して和議をこふ。京本法寺に寓居し。伏見にまうのぼり  大御所に拜謁し。先 に生擒せられしものをこふ。よりてこの國にとゞまらんと願ふものはとゞめられ。歸國をねがふものはかへさる。(年錄。紀年錄。)○廿一日  大御所伏見城 をいでゝ江戶におもむかせたまふ。かねては十九日御首途あるべしと定られしかど。大雨によてけふに及びしなり。又越前中納言秀康卿には。伏見城留守すべし と命ぜらる。けふ追分に於て保田甚兵衛則宗はじめて  大御所に拜謁す。その日水口の御旅館にめし。小堀作助政一をもて本領三千五百石賜はる。これはもと 太閤秀吉公の家人なりしが。こたび召出されしなり。又武藤理兵衛安成は增田右衛門尉長盛が家人にて。今は入道し山城國薪村の酬恩菴に閑居せしを。永井右近 大夫直勝。本多上野介正純。成瀨隼人正正成。安藤帶刀直次。板倉伊賀守勝重をもて。しきりに召れて御家人になさる。これ賦稅の會計にくはしければなり。五 百十石餘給はり。後に駿府にめして勘定の事をつかさどらしめらる。この日暹羅國王に御書をつかはされ。上品の奇楠香並精鐵の鳥銃を求め給ふ。よて甲胄三領 長大刀十柄つかはさる。また西村隼人に柬埔寨渡海の御朱印を給ふ。(御年譜。創業記。當代記。寬永系圖。家譜。異國日記。御朱印帳。)○廿三日江戶城殿閣 落成により。  御所本城にうつらせ給ふ。諸大名酒樽を献じ賀し奉る。これあらかじめ  大御所は伏見にましませば。  御所には江戶の本城にうつりすま せ給ふべしと。仰進らせられし故とぞ。この日  大御所の御十一男鶴千代君常州河內郡下妻五萬石を封ぜらる。時に四歲なり。朝比奈雲齋をして城代たらし む。(御年譜。創業記。慶長日記。藩翰諳。烈祖成績。)○廿七日  御所江戶より戶田邊に放鷹の御遊あり。(慶長年錄。)○晦日  大御所白須賀にやどら せ給ふ。この日風雨甚し。また近日雪しばしばなり。(創業記。)◎是月松平兵庫頭親良の子甚三郞行隆召出されて小姓になる。安藤次右衛門正次江戶より御使 として駿城に越き。修築の事を監せしめらる。また安南王より書簡を奉り方物をまいらせければ。御返簡つかはされ長刀十柄をくらせ給ふ。今年九月にいたり關 東禾稼熟せず凶饑す。(家譜。紀年錄。當代記。慶長見聞書。)○十月朔日   大御所白須賀に滯留したまふ。霖雨によりてなり。この日桑山治部卿法印宗榮 卒す。齡八十三。この法印はじめ修理大夫重晴といふ。剃髮して果法院と號す。太閤秀吉公いまだ江州長島の城におはせし時よりしたがひ。柴田修理亮勝家と江 北にて戰はれしとき。志津嵩邊の要害を守る。後に大和大納言秀長卿に屬し。但州竹田の城を領し一萬石給はり。また紀州和歌山の城にうつり三萬石を領す。濃 州妹尾の城責。紀州山地の戰に功あり。秀次關白のことありし時に。太閤の命をうけて伏見城の大手を警衞す。其勞を褒せられ泉州にて一萬石を加へらる。慶長 五年關原の戰には。  大御所の御書を給はり。嫡孫修理大夫一晴とおなじく和歌山の城を守る。その年退隱し本領二萬石を一晴にゆづり。一萬石は次子伊賀守 元晴に領せしむ。(一說一晴に一萬六干石。元晴に一萬六千石ともいふ。)法印の子九郞五郞一重は先達てうせければ。嫡孫一晴家つぎて後朝鮮の戰に軍功あ り。關東のとき父法印と共に御味方しければ。この年一族の所領を大和國に移され。(一晴一萬六千石。元晴二萬六千石。左近貞晴三千石といふ。)九年二月廿 八日一晴もまた祖父に先達てうせぬとて。その弟左衛門佐一直家をつぎしなり。これよりさき一晴が卒せし時。遺領配分のこと申おきしかど。法印是を用ひず。 沒するにのぞみ養老料一萬六千石の內。六千石は元晴。一萬石は元晴が子又四郞淸時へゆづるべし。一直は一萬六千石たるべしと申置たり。よて上裁をこひける に。法印沒前の詞にまかすべしと仰下さる。(武德編年集成。寬永系圖。藩翰譜。家譜。)○六日  大御所駿府につかせ給ひ。駿城經營の地を沙汰し給ふ。こ の城より南にあたり。河野邊といへる地まで恢弘せられ。明年搆造あるべしと仰出さる。(御年譜。創業記。)○七日內田全阿彌正次(はじめ新六郞。)死し て。其二子三郞兵衛貞親家をつぐ。この正次永祿七年初見し眤近を命ぜられ。卅四歲のとき仰により全阿彌と改め同朋となり。尾州小牧陣に高名し。けふ六十歲 にて死す。(寬永系圖。)○八日今屋宗中へ暹羅渡海の御朱印を下さる。かの國半南土美解留閤古邊果伽羅那加へ御書ならびに甲胄三領。中卷十柄をつかはさ る。(御朱印帳。)○十八日村上文左衛門勝友死す。其子文三郞勝信して家つがせらる。(寬永系圖。)○廿六日  大御所駿府にとゞまらせ給ふ事廿一日にし てけふ御發輿あり。江戶におもむかせらる。先に駿城を河野邊にうつし給はんとの命有しを。再び改めこれまでのまゝにて。少しく南北の地を恢弘すべしと仰出 され。有度。安部。廬原の三郡にわたりて築かせらる。(創業記。當代記。)◎是月諸國の金堀ども伊豆の金鑛をうがつべきよし。京中に高札を立られければ。 諸國より其事をのぞみはせ下るもの雲霞のごとし。又小姓組石谷市右衛門政勝大番に轉ず。菅沼藤十郞定俊は燒火の間番頭となり。矢部藤九郞忠政初見の禮をと る。(當代記。家譜。)○十一月二日下野守忠吉卿病を養はるゝとて。大久保加賀守忠常が芝浦の邸におはしたるが。今日俄に絕入し給ふ。醫官延壽院道三いそ ぎまいりて藥をまいらせたれば。少しく快氣を得たまふ。(慶長年錄。)○四日  大御所江戶城に歸りいらせ給ふ。(御年譜。創業記。)○六日靑山常陸介忠 成。內藤修理亮淸成御勘氣をゆるさるゝといへども。政務にはあづからす。是より先長福君常陸介と稱せらるゝがゆへに。忠成は播磨守に改む。宗對馬守義智使 もて聞えあげしは。先に朝鮮國へ兩國和融の御旨を傳へしに。かの王これにしたがひ。明國よりつけ置所の番兵をかへらしめ。使者をまいらせ聘禮をおさめんと す。その使はや對州までまいりたるよし聞えあぐる。  兩御所御感なゝめならず。其使へ  兩御所より御刀幷銀を下され。そのうへ朝鮮の聘使には九州にて 米千石給ふ。この日江原九郞右衛門信次死して。その子九郞右衛門秀次つぐ。また此夜伊勢の桑名火あり。市廛三百餘軒この災にかゝる。(家譜。創業記。當代 記。寬永系圖。)○十一日堀吉五郞御前にめして首服加へられ。御名の一字たまはり御家號をゆるされ。從五位下に叙し松平越後守忠俊と改む。(慶長年錄。慶 長日記。)○十二日跡部九郞右衛門昌忠死して。その子九郞右衛門幸次家をつぐ。(寬永系圖。)○十五日里見梅鶴丸御前にめして元服せしめられ。御一字たま はり。從四位下に叙せられ安房守忠義と改む。  大御所には川越邊へ狩し給へり。(創業記。當代記。御年譜。)○廿二日德山二位法印則秀入道秀現卒す。沒 前のに願より采邑五千石をわかち。長子五兵衛直政に三千石。女壻九藏英行に二千石を賜ふ。(英行後遁世して踪迹をしらず。采邑收公せらる。)この秀現もと は美濃國人にて五兵衛則秀といふ。織田家につかへしが。志津嶽の戰に緣によりて柴田勝家に方人し。勝家ほろびて後高野山に閑居せしが。前田大納言利家卿に むかへられ加州に至る。慶長五年より御家人に加へられ。もとの采邑五千石給ひ。入道して秀現と稱す。十年四月二位法印に叙せられ。けふ六十三歲にて終りを とりしなり。(家譜。)○廿八日越後國春日山の城主松平越後守忠俊が曾祖堀太郞左衛門秀重卒す。七十五歲。其子左衛門督秀政は先達て卒し。孫左衛門督秀治 も今年うせ。曾孫越後守忠俊その封を襲たり。此秀重世々美濃國に住し。齋藤山城入道道三に屬し一方の大將たり。のちに織田豐臣兩家につかへしばしば戰功あ り。一萬石を領し。關原のゝち  當家につかへ。曾孫越後守忠俊が封內にて。别に一萬四百石を領しけるが。けふ終りをとりしなり。この日酒井與七郞忠利叙 爵して備後守と稱す。(寬永系圖。家譜。藩翰譜。家忠日記。 慶長日記には十二月につくる。系圖には年ありて月日なし。)○晦日  大御所河越よりかへら せ給ふ。此日大番天野佐五右衛門正長鷹を調練する事を得たりしかば。手鷹師に仰付らる。(慶長年錄。家譜。)○十二月二日  御所御放鷹にならせたまふ。 古河下妻佐竹舊領邊を巡視あらせられんためとぞ。これ  大御所の仰によりてなり。この日里見安房守忠義侍從に任ず。(創業記。當代記。慶長日記。)○五 日藤堂和泉守高虎封地より。江戶城搆造の事によて書簡を奉る。よて御返書たまふ。(寬政重脩譜。)○七日田彈へ渡海の御朱印を明人五官に下され。かの國の 香材をもとめたまふ。よて其國王へ太刀大脇差ををくらせらる。(御朱印帳。)○八日國松君の傅役を加藤新太郞某。內藤仁兵衛政吉。天野傳右衛門淸宗。大河 內金七郞某に仰付らる。(金七いくほどなくて死しければ。小塚右衛門佐某にかへ命ぜらる。)永井主膳某。秋田三平季長。橋本吉平某。伊奈備前守忠政子牛之 助忠雪。佐野三四郞某同じく小姓になる。また故豐臣太閤政所の沙汰として。京東山將軍塚の地を引て一寺を建立し高臺寺と號し。太閤夫婦香火院とせられんと 經營せられければ。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守淸正人夫を出す。寺領五百石寄らる。筒井伊賀守定次が伊賀の上野の城火あり。城下士商の屋舍ことごとく 燒失し。城中儲蓄の兵粮みな災にかゝる。また松平周防守康重の家士岡田升右衛門元次は。永祿のころより康重にしたがひ戰功あるをもて。その子內記元勝を御 家人にめし出さる。こゝに阿茶局と聞えしは。甲州武田の家人飯田筑後某が女にて。今川の家人神尾孫右衛門忠重に嫁しけるが。忠重死して後  當家に宮仕 す。心さかしき女なれば。  大御所の御けしきにかなひ。長久手以來所々の御陣にも供せられて。萬に出頭せしものなるが。この元勝をその養子になされて神 尾を稱す。局の子又兵衛守世が弟となりて。のちに備前守といひしはこれなり。この日永樂錢の通用を停禁せらる。(慶長年錄。慶長日記。寬永系圖。家譜。) ○廿三日伊勢國長島城主菅沼志摩守定仍第三の弟左近定芳もて原封二万石をつがしむ。この定仍は織部正定盈が長子にて。關原軍のとき父定盈は江戶に留守し。 定仍は駿州興國守幷に府中の城をまもり。戰終りてのち濃州岐阜の城を守る。翌年上州阿保より今の地にうつり。父につぎて後多病なれば。療養のため京都に寓 居せしが。去年十月廿五日三十歲にて卒せしなり。(寬永系圖。藩翰譜。)○廿四日伊達越前守政宗が女を。上總介忠輝朝臣に婚嫁せしめらる。よてこの事にあ づかる政宗が臣十餘輩御前に召て。御刀及び時服をたまふ。(寬政重脩譜。)○廿五日那須與一資景爵ゆるされて左京大夫とあらたむ。(寬永系圖。)○廿六日 小笠原孫惣信重死す。其父安藝信元は御ゆるしを得て。上總富津の采邑に閑居す。(寬永系圖。)◎この月伊豆駿河郡代兼駿府町奉行井出甚助正次叙爵して志摩 守と稱す。又  大御所忍へ御狩にならせ給ひしとき。榊原七郞右衛門淸政は。館林に病を養て閑居せしに御使あり。病もし快ば忍までいでゝ。拜謁すべしと仰 くだされしかば。參りて見參す。然るに駿州久能は要害の地なれば。汝まかりてこれを守るべしと仰付らる。(寬永系圖。寬政重脩譜。家譜。)◎この年下野守 忠吉卿薩摩守と改めらる。遠藤但馬守慶隆子內匠慶勝は從五位下に叙し長門守と改め。中井藤右衛門正次もおなじく叙爵し大和守と改む。牧野內匠頭信成大番頭 となり。堀因幡守秀信。大島茂兵衛光政が子左大夫光盛。川口久助宗勝三子茂右衛門宗重。牧助右衛門長勝子又十郞長重は書院番にいり。遠山小右衛門景政子小 右衛門景次。久保平左衛門勝正四子五郞兵衛勝氏。伊東長兵衛弘祐子九郞左衛門祐久大番に入番す。後藤六右衛門正次は納戶番となり百俵たまふ。牧野傳藏成里 銕炮同心五十人あづけられ。大手門を警衛せしとき。  大御所御狩のついで。その番所の前を過させたまふ事ありしに。成里は十四歲の男子五六といへるを引 つれて拜伏せしかば御覽じて。この兒年の程より長大にして勇士の相あり。今よりよく  將軍へ忠勤すべし。成里は伊豫守と改め。五六は傳藏となのらせよと 仰有しとぞ。成里は三子あり。長子は將監成信とて。池田宰相輝政がもとに客として。後京の東山に隱遁し。生涯風月を樂しみ仕官をもとめず。二子宇右衛門成 教は輝政につかふ。五六は末子なりしが。こゝに於て遂にめし出され。のちに父の家つぎて傳藏成純といひしはこれなり。天野孫左衛門久次は常陸介賴宣朝臣に つけられ。あらたに千石給ひ。其家祿三百石はその子源藏重房にたまふ。保田甚兵衛則宗は丹波の篠山に御使す。鳥居彥右衙門元忠の四子左門忠時十五歲。初見 して小姓となり。波多野次郞有綱も召出され小姓になる。河合長助良承は鷹役となる。大番頭水野備後守分長。三浦監物重政伏見西城の勤番を命ぜらる。新庄駿 河守直賴四子宮內直房。伊藤喜左衛門景春子喜太郞景俊。山田五郞兵衛直時子甚平勝時。本多三彌左衞門正重子千介正包初見の禮をとる。林又三郞信勝も江戶に 參りて。はじめて拜謁す。小林傳四郞吉勝五男左次兵衛重勝。諏訪因幡守賴水子松千代忠恒。本多飛驒守成重の子作左衛門重能。靑木伊豆義勝  大御所を拜し 奉る。義勝が妻はそのかみ御よしみあるものにて。伏見に於て召出され。金時服たまはり月俸を下されしとぞ。(寬永系圖。寬政重脩譜ともに年月をのせず。) 西尾豐後守光教養子主水正氏教は證人となりて江戶に參り拜謁す。有馬大學豐長六歲なり。兄玄蕃頭豐氏が質として江戶に參り。  兩御所に拜謁す。稻富伊賀 守直家子喜大夫正直。辻兵助某。田村半兵衛直吉子庄左衛門直久。靑沼左近昌長子友右衛門正成。豐臣家に仕し河島善貞。黑田筑前守長政家臣井上右兵衛庸名召 出されてつかへ奉る。岩間勘兵衛正時子九郞左衛門正次。大竹源太郞正吉。織田家につかへし渡邊孫左衛門久勝。  大御所の御方にめし出されてつかへ奉る。 久勝は采邑千石給ふ。正吉は大番となり現米四十石たまふ。堀美作守親良慶長七年より病により。封地を養子鶴千代に讓り。一万二千石の地を養老の料として伏 見に住しが。今年駿府に出て眤近せん事を願ひしかば。  大御所の御感を蒙り。その旨江戶に仰進らせられ。親良江戶に來り奉仕し。廩米一万二千俵を賜ひ。 養老の料は鶴千代にかへしあたふ。庄田松聲安次に二千石たまふ。川口久助宗勝廩米を采地に改め。五百石加へられ二千五百石になさる。大草源右衛門忠成忍に 於て死す。其子與十郞忠守家をつぐ。この忠成三州大草の住人にて。高天神長篠以來。數度の御陣にしたがはずといふことなし。ことし六十歲にてうせぬ。加藤 助左衛門景治死してその子長大夫景吉つぎ。門奈半兵衛宗家伏見にて死す。その子三郞右衛門宗次つぎ。伊澤吉兵衛政重致仕し。子源右衛門正信家つぐ。代官萬 年七郞右衛門正勝死す。(家譜によれば子七郞右衛門高賴もこの年六月廿一日死といふ。二子彌三郞正賴は召出されて别家となり。嫡孫三左衛門久賴も召出され し年月傳はらざれば。遺跡相續の事詳ならず。)後藤久印正勝死してその子六右衛門正次家をつぐ。久印は駿河處士にて御談伴に召加らる。またこれより先慶長 九年に拓植宮之助正勝爭論し。大手門にて其退出を待うけ。花井小源太某その外二人とたゝかひ。小源太をさし殺し二人にも深手負せたり。その罪により切腹せ しめらるゝといへども。若年にて勇猛の擧動せしを哀れみ給ひ。その所領五百石を老父拓植平右衞門正俊にたまひ。すべて千四百石を領す。  大御所水野對馬 守重仲をめして。常陸介賴宣朝臣やゝひとゝなりたまひぬれば。殊更にたのみ思召むねの御懇旨を蒙る。又このころ伊達越前守政宗がもとにならせ給ふ。數寄屋 にて御茶を献ず。政宗に長光の御刀。その子總次郞に大原貞守の御刀來國俊の御さしぞへをたまふ。  御所藤堂和泉守高虎が第にわたらせ給ひて終日の御遊あ り。御刀ならびに銀子御服を賜ふ事あまたあり。◎今年三冬の間寒氣烈しき事三五日に過ず。その外皆溫暖なり。柑類枯るゝもの多し。(武家補任。家譜。寬政 重脩譜。寬永系圖。武德編年集成。貞享書上。當代記。)
台德院殿御實紀卷五 慶長十二年正月に始り六月に終る御齡二十九
慶長十二年丁未正月元日慶會例のごとし。  大御所に御對面ありて歲首を賀せらる。水谷彌太郞勝隆小結烏帽子着て拜謁す。坂本宮內貞吉死して子久五郡重安 家をつぐ。貞吉が父豐前貞次は甲斐の武田が家人なり。武田ほろびて後父子とも御家人に加はり。貞吉長久手の時御供し。慶長五年眞田陣の時より今の  御所 につけられけふ死したり。この日  大御所第十六の姬君生れ給ふ。後に市姬君と申す。御母は太田新六郞康資入道武庵の女にて勝の局といふ。後に英勝院と號 せしはこれなり。常陸介賴宣朝臣去年より痘瘡をなやまる。(家忠日記。御年譜。家譜。寬永系圖。創業記。以貴小傳。當代記。)○二日謠曲はじめ行はる。參 仕の輩みな烏帽子上下を着す。近世めづらしき大儀なりといふ。夜に入て雪ふる。  大御所はけふより痳を惱み給ふ。(當代記。慶長見聞書。慶長年錄。)○ 六日江戶大地震。又大雪。けふより八日にいたる。(慶長日記。當代記。)○七日去年より觀世金春江戶に參りければ。猿樂命ぜられ御覽あること。今日より九 日に至る。市人みな見ることをゆるさる。この日神田下町火あり。よりて芝居に群參の市人等みな退出るとて大に騷擾す。(當代記。慶長年錄。)○九日觀世金 春等の猿樂師等に銀百枚づゝ。その餘の子弟等にも金銀若干かづけられ。連日の勞を褒せらる。(慶長年錄。)○十日追儺の式行はる。(慶長年錄。)○十一日 立春。ことに暖和なり。  大御所このころ痳なやみ給ひしがけふはこと更重く見え給ふ。靑山善右衛門正長死して。その子善四郞重長家つがしめらる。重長が 庇䕃料五百石を合て。二千五百石になる。この正長は三州長篠の戰に高名せしよりして。長久手にも首級を得疵を蒙る。慶長五年歩行頭となりて。六年姬君加州 へ御入輿のとき。かしこに供奉して金澤に年月をへたりしが召か へされ。けふ死せしなり。(創業記。當代記。寬永系圖。)○十二日京醫佐藤慶南三室  大 御所の仰により江戶に召る。(家譜。)○十五日  大御所の御なやみ猶愈またはず。(慶長日記。)○十九日村上文左衛門勝友が子文三郞勝信初見の禮をと る。小俣平右衛門政勝死して。その子平右衛門政貞家をつぐ。(寬永系圖。)○廿日江戶大に地震す。この日連歌師里村玄仍某。  大御所御祈禱のため連歌を 献ず。(其發句。源やけふわかゆてふはるの宿。)薩摩守忠吉卿去年より痘なやまれしが。平愈して淸洲より江戶に參覲せらる。(慶長見聞書。武德編年集成。  大三河志には二月六日參着とす。)常陸介賴宣朝臣酒賜の式行はる。又加藤肥後守淸正が江戶へ人質の爲進らせ置たる男子某九歲なりしが。こたび痘わづらひ て夭す。(慶長年錄。創業記。當代記。)○廿五日  大御所江戶の城を  御所にゆづらせ給ひ。いよいよ莵𦽲の地を駿府にさだめ給ふべしと仰出され。駿 府の城郭を廣め。諸士の宅地を分布し給ふべしとて。その經營を越前。美濃。尾張。三河。遠江の諸大名に課せて人夫を出さしめらる。三枝平右衛門昌吉。山本 新五左衛門重成。瀧川豐前守忠往。佐久間河內守政實。山城宮內少輔忠久に(三枝。瀧川。佐久間が事。寬政重脩譜にはみえず。)奉行を命ぜられ。池田宰相輝 政。おなじ備中守長吉。加藤左馬助嘉明。松平主殿頭忠利。分部左京亮光信。古田大膳大夫重治。有馬玄蕃頭豐氏。毛利伊勢守高政等此事にあづかる。去年より して中納言秀康卿。老臣本多伊豆守富正をして。駿城修築の事にあづからしめらる。富正ある日富士山中に分いり材木を伐りとり。正月にいたり沼津までい でゝ。その功を遂てかへり謁し奉る。  大御所御感を蒙り。左文字の御刀を賜ふ。(慶長日記。貞享書上。御年譜附尾。)○廿六日薩摩守忠吉卿登營して御對 面あり。  大御所近日駿府に赴かせ給ふにより。御事しげくわたらせ給へばけふ御對面なし。卿この日より大久保加賀守忠常芝浦の亭におはしぬ。(慶長見聞 書。)◎是月伊勢國にて漁人鰐鮫を得たり。その丈二十四五尋といふ。この鮫常に鯨を食ふよしなり。(當代記。)○二月朔日日蝕す。(古曆。)○三日烈風。 けふより五日に及ぶ。(當代記。)○六日夜半大に地震す。(創業記。)○七日鍋島加賀守直茂。おなじ信濃守勝茂に西洋渡海の御朱印を給ふ。(御朱印帳。) ○八日伊達越前守政宗櫻田の邸に。  大御所臨駕したまふ。政宗いかにもして御心をなぐさめ奉らんと。圍棋の妙手本因坊算砂。林利玄。中村道碩。象棋師大 橋宗桂等をめしあつめ御遊を催す。政宗へ長光の御刀。其子虎菊丸へ大原貞守の御刀をたまふ。御饗はてゝ御圍棋のはじまるに及び。烈風砂塵を簾中に吹いるゝ 事甚しければ。とみに還御ならせ給ふ。けふ本多佐渡守正信此事を奉行す。(創業記。貞享書上。寬永系圖。 大三河志をはじめ諸書に。この事十一年二月八日 にのせしは誤なり。貞享書上によれば。十一年二月は政宗封地にありしかば。江戶の邸にならせらるるゆへなし。貞享書上によりてこゝにおさむ。)○十二日井 伊兵部少輔直勝が藩士西鄕勘兵衛。鈴木三郞大夫確執に及び爭論す。こは直勝が父兵部少輔直政うせて後。その藩士等双方にわかれ爭論する事絕ず。一昨年   大御所京よりかへらせ給ふとき。この事を聞し召。その張本鈴木石見を追放たれしが。去年も又石見が淸瀨にありしを江戶に召て追放たる。こたびの三郞大夫と いふは石見が子なり。(創業記。)○十三日けふより四日がうち。本城西城の間にて觀世金春勸進能を仰付らる。  兩御所も御棧敷を設られ。諸大名にもみな 課せて棧敷を設けしめらる。よくそのよしを高札にかきて。日本橋。淺草橋。芝札辻。四谷札辻。神田明神前五所にたて。都鄙の人みな見る事をゆるさる。(創 業記。 世に傳ふる所は。こたび家門幷に普第の諸大名に課せて棧敷をつくらしめられ。その輩みな棧敷に列りてこれを見る所に。いかゞしたりけむ水谷皆川の 二人は。この役にもれて棧敷を設けしめられず。  大御所此よし聞召。水谷皆川の兩人は。三遠の時より 當家に志をはこびしものなれば。普第に准じ懇に思 ふ者共なり。こたび普第の大名みな棧敷を設るに。かれ等二人をなどもらしたるやと御不審あり。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣答へて。水谷この頃常州笠 間を警衛して江戶に侍らはずと申。  大御所また宣ふ。凡そ武門にてはかりそめの事にも名を重んずる習ひなり。今度普第の列にもれなば。かれ等本意なかる べし。たとひその身は江戶にあらずといふとも。棧敷をば設けしめ。家司を名代として見物せしむべしと仰ければ。二人に棧敷をわりわたされしとなり。また今 年正月城中にても連日猿樂を催され。今はたかく勸進猿樂をゆるされ。諸大名棧敷を課せられ。都鄙農商男女群參せしめらるゝ。そのゆへいかにとなれば。去年 より  大御所痳疾久しく愈たまはず。京坂にてはこの事を誤り傳へ。御病危篤にわたらせ給ふとて。街談巷說洶々としてやまず。遠國僻境の雜說猶喧びすしか りし故に。これをしづめ給はむとて。かく催し給ひけるが。はたしてこの猿樂催されて後。都鄙の巷說しづまりぬるとぞ。(寬永系圖。紀年錄。)薩摩守忠吉卿 江戶に於て病再發せらる。又足利學校寒松に命ぜられ東鑑を活板せしめらる。是より先相國守の承兌故足利の三要に命ぜられ校正せしめたまひけるを。こたび廣 く世に行はしめられんとてなり。又美濃國にて加納飛驒守某長柄川の邊より異鹿を得る。その角尤大なり。袋角といふものなりとぞ。(當代記。)○十七日駿府 城經營はじめらる。この頃諸大名家士射藝に達せる輩。京東山三十三間堂にてその藝を試むる事絕ず。薩摩守忠吉卿の家士上田角右衛門今年通矢を射て。天下一 の名を得たりとぞ。(家忠日記。慶長年錄。)○十九日松浦法印鎭信へ西洋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○廿日去冬よりこの二月にいたる頃。朝鮮講 和の使來るべしとて。その路々に旅館以下構造せらるゝ所。餘寒はげしく海上風あれて。渡海延滯するよし聞ゆ。また先に勸進能ありし跡に。京より國といふ妓 の來りしをもて。歌舞興行をゆるされしかば。諸人群參して遊觀する者堵のごとし。(創業記。當代記。)○廿四日美濃國德野の領主平岡石見守賴勝卒しけれ ば。その子牛右衛門賴資わづかに三歲なるをして。家つがしめらる。この賴勝は攝州溝杭の產にして。父を對馬守賴俊といふ。金吾中納言秀秋の家の老なり。   大御所御上洛の後しばしば金吾へも御音問をかよはせ給ひしかば。賴勝も金吾が使に參り常に見參せり。慶長五年の秋東西の軍一時に起る。秀秋は石田三成が すゝめによりて。美濃の松尾山に陣どるといへども。秀秋はじめより無二に東國方に志し。賴勝また黑田勘解由入道如水が聟なりければ。金吾をいさめ入道が男 甲斐守長政と謀を通じ必裏切すべきよしを。をのが家士神木淸兵衛。齋藤與右衛門を江戶に參らせて申。かさねて弟加賀守資重を質として本國へ進らせ。そのゝ ち美濃國關原の戰に原の南の丸山邊に陣をはる。金吾裏切して上方の軍をかけやぶりしかば。その勸賞として金吾に備前。備中。美作の三國をたまはる。賴勝に も金吾より備前の小島にて二萬石の領地をあたふ。いくほどなく賴勝は讒人の詞により流浪せしが。山岡彥阿彌景友  大御所の命をつたへて。憚所なく諸國經 歷をゆるされ。九年八月晦日いまの地をたまはるべき旨の御朱印を賜ひ。十年拜謁し。これよりして長く歸順して德野に住し。けふ卒せしなり。とし四十八。 (寬永系圖。家譜。藩翰譜。寬政重脩譜。)○廿六日薩摩守忠吉卿病こゝろよく。まうのぼりて拜謁せらる。  御所御悅なゝめならず。  大御所はけふも駿 府にうつらせ給はんの御いそぎにより御對面なし。(當代記。 世に傳ふる所。  大御所この卿病發るはじめより。この病終に全快あるまじく思召ければ。な まじゐに御對面あるまじと思召とらせたまひし所なりといふ。武德編年集成。)卿退出られし後にはかに危篤に及ばれし由聞えければ。  御所大におどろかせ 給ひ。いそぎその寓居大久保加賀守忠常が芝浦の亭にならせらる。(當代記。)○廿八日  大御所にも薩摩守忠吉卿病篤のよし聞召。俄にならせ給ふ。  大 所御連技あまたわたらせ給ふが中にも。この卿は御同腹にて殊更御したしみふかくおはしましければ。御使絡繹として絕ず病躰を尋させ給ふ。(創業記。武德編 年集成。)○廿九日  大御所江城を御發輿ありて駿府に赴かせ給ふ。相州中原にて數日御放鷹し給ふ。この頃御旅館に金の茶釜をはじめ。茶噐類うせてみえ ず。よてその夜の番士會田勝七某を掛川へ。落合長作道一を田中へ。岡部藤十郞某を沼津に召あづけられて糺察せらる。(創業記。)◎是月榊原七郞右衛門淸政 去年の仰によりて。駿州にまかり久能の城を守る。中間頭大刀彌太郞某自殺す。去年伏見に於て中間等へ月俸下されし時に。贓罪ありし所とぞ。(寬永系圖。慶 長年錄。)○三月朔日越前中納言秀康卿は伏見城留守としておはしけるが。瘡をわづらひこゝろよからず。このよし駿府に申て就封せらる。この頃京所司代板倉 伊賀守勝重が官邸に怪異あり。空中より礫を打事事甚し。何の所爲たる事をしらず。(創業記。當代記。)○三日江城修築のために。關東万石以上は一万石廿坪 の定制をもて。粟石を江戶に貢す。上野の中瀨邊より運漕すといふ。(當代記。)○四日この夜月のかたち常に異なり。(慶長見聞書。)○五日尾張國淸洲城主 三位中將兼薩摩守忠吉卿うせ給ふ。廿八歲なり。この卿は  大御所第四の御子。今の  御所同胞の御弟にて。童名を福松丸と申。はじめ東條甚太郞宗忠のよ づきとならせられ。忠康と稱せらる。後に下野守從五位下になされ。文祿元年二月武藏國忍の城を給はり。十萬石領せらる。慶長五年の秋上杉追討のとき。   大御所の大駕にしたがはせ給ひ。下野國にいたり給ふとき。上方の軍起り井伊本多の兩人を軍監として。御先手の諸將打てのぼるにおよび。海道の惣大將として これを引具し(この卿海道の惣大將として打てのぼらせたまふこと。加藤左馬助嘉明が家記と。其家人黑田が記せし關原記により。藩翰譜にのする所しかり。) 攻のぼり。尾張の淸洲の城にいたり給ひ。福島池田等を先陣とし。宗徒の大名に井伊本多をつけて。岐阜の城にさしむけ勝軍しつと聞召。卿もはせむかひ給ひ。 中納言秀信の降をうけ。城をば味方に守らせらる。關原の戰に及て。井伊兵部少輔直政先陣の人々が軍せむ樣みせ參らすべしとて。御勢をばもとの御陣にとゞめ られ。歩武者三百計ぐせられ。直政案內して。福島が陣のわきよりつとはせぬけ。敵の陣に切ていり。時うつるまで戰はせ給ひ。しばらく御馬をやすめらる。か かる所に島津兵庫入道義弘負軍し此所をおちてゆく。直政これを追かくる。卿もつゞきはせ給ふ。島津が郞等松井三郞兵衛と名のつて。卿にはせむかひ打かくる 太刀を。弓手の袖にうけとめて松井が馬手のわたかみより切こみ。引組て兩馬の間におちかさなり。とつてをさへてちつともはたらかせず。島澤九兵衛つと參り ければ。これ首とれとてうたせらる。其時松井が太刀にて卿右の手の指疵つけ給ひ。御馬旣にはなれぬれば。井伊が侍江坂が馬を參らする。軍終て後松井が首見 參に入給へば。  大御所御感斜ならず。此年十月七日尾張國をたまはり。淸洲の城にうつり住せ給ひ。明ければ六年三月廿八日從四下の侍從にのぼせられ。十 年四月十六日從三位に昇階せられ。左近衛權中將に任ぜられ。十一年薩摩守に改られ。御名をも忠吉卿とかへ給ふ。ことし二月江戶に參らせ給ひけるに。同十三 日違例以の外にわたられければ。  御所ことに聞召驚かせ給ひ。御みづからとはせたまふ。これより先大久保加賀守忠常が家を御旅舘となされ。  大御所も 忠常がもとにならせ給ひしが。日をへて病おもくならせ給へば。はやく御歸國ありて。治療を加へらるべしとて江戶を出させられ。けふ芝浦にてかくれ給ひぬ。 是より先  大御所井伊。本多。榊原。大久保等の諸老臣をして。御世嗣の事を議し給ひしとき。井伊直政しきりに此卿の武功を稱讃し。各その思ふ旨を申なか に。大久保相摸守忠隣ひとり。今の  御所恭謙の御德を稱しければ。終に守文の主に定まり給ひぬ。この卿をして守文の任を得せしめざるは。忠隣が申旨に起 りしところなり。しかるに卿この事をききたまひ。忠隣が建白の議論は天倫の順序といひ。才德の優劣といひ。かたく國本を正し。誠に國家の大計なり。私論に あらず。末たのもしき社稷の臣といふべしとて。これより大久保父子をしたしませ給ふ事大方ならず。江戶にまいらせ給ふ時は。常に大久保が家をのみ旅舘とな されたり。この一事をもて。卿の德量の廣き常人の及ぶ所ならざるをしるべし。  御所御連枝多き中にも。ことに御したしみ深く。卿の病中日夜にとはせ給 ひ。いさゝかも病怠らせ給へば。  御所も御快く御膳もめしあげられ。危篤のよし聞召ば御湯も召上られず。ふししづみなげかせたまひしとぞ。御兄弟友干の 御情篤くわたらせ給ふ事。曠世ためしなきほどの御事と。朝野聞傳て感淚をながさざるものなし。卿の北方は井伊直政が女なりしが御子なかりしかば。御あとの 絕ぬるはおしむべきのかぎりなり。  大御所この日三島驛にやどらせ給ふ。江戶よりは卿の事を告給はむとて。土井大炊頭利勝急に御使の仰を蒙り發程す。井 伊兵部少輔直勝が母江戶に參らんとして。居城江州佐和山を發輿せし所。  大御所より先上州安中に住しむべしと仰下さる。安中も直勝が所領なる所とぞ。こ の日末吉勘兵衞利方死して。其子孫四郞吉安家をつぐ。(創業記。當代記。大三河志。烈祖成績。武德編年集成。藩翰譜。慶長見聞書。家譜。)○六日薩摩守忠 吉卿の家士石川主馬吉信。稻垣將監忠政。中川淸九郞某けふ殉死せしとぞ。(當代記。薨日記。 一說に五日。一說に正木左京千本掃部といふ名をしるす。又四 十八人といふ說もあり。家忠日記追加。)又卿の醫瀧野爲伯某は卿うせ給ひしより。病をとなへ京に閑居す。後召かへされ天樹院御方につけらる。(家譜。)○ 七日江戶よりの御使土井大炊頭利勝三島の御旅館に參り。  大御所へ薩摩守忠吉卿卒去の事を聞えあぐる。(武德編年集成。)○九日昨夜より今朝にいたり風 雨ことに烈しく。城上の板塀民家等破損す。この夜駿府興國寺の城主天野三郞兵衛康景。その子對馬守康宗と共に逐電して踪跡しれず。其故いかにといへば。康 景この頃居宅いとなまむとて。竹木多く伐取りたくはへ置しに。夜每に盜人ありてこれをとる。よて足輕をつかはしてこれを守らせければ。盜人も大勢黨を催し むらがり來るにより。番のものども禁ずることを得ず。刀ぬきて切立れば。盜人も是に恐れて逃はしる。此盜人共は外ならず同國富士の下野田原といふ所の百姓 どもなり。其中には疵蒙りし者もありしかば。天野が足輕どもと口論してかくて疵負ぬとて。代官井出志摩守正次がもとへうたふ。正次是をまことゝし天野が方 へ使をたてゝ。御料の民をほしゐまゝに毁傷する罪かろからねば。其足輕が首切てわたさるべしといひ送る。康景かの使にむかひ。康景が番兵ども無勢なるがゆ へに。盜賊一人をだに殺し得ず。わづかに手疵おはせて逃したる條。すこぶる無念の至りなり。康景が畜ふる所の竹木を每夜盜む者のあるゆへ。足輕共に命じて 守らせたるなり。いはんやかの盜人は御料の民たる事をしりて。刄傷せしにはあらず。もし御料の民としりぬるとも。ぬすみする者をいましむることのあらざら むや。康景が命じで番させし者を。盜人のために下手人として出さむ事思ひもよらずとこたふ。かくてこのほど  大御所駿河におもむかせ給はんとて。三島の ほとりをならせ給ふとき。かの疵蒙りしもの御輿近くはしりいで。天野が足輕と口論して刄傷せられぬ。御代官より天野殿のもとへ下手人を乞るゝといへども。 天野殿あへて請ひき給はず。かへりて我々を盜人と名づけらる。よろしく御裁斷願ふ所なりと申。よて近臣等をして檢知せらるゝに。その脊に刀のあと五六所あ り。これ逃走る所をきられたりといふ。  大御所聞召。康景に於て不道の擧動あるべきにあらず。訴ふる民の僞るにもやと思召れ。よくよく御糺明あるべしと 仰下され。本多上野介正純に令せらければ。正純たゞちに天野が興國守の城に行。和殿私の儀をたてんとすれば。公の威を損ずるにいたる。かれは土民といへど も御料の民なり。足輕は和殿の私人なり。まげて代官へ下手人を出されんことこそあらまほしけれと諫む。康景聞て。直を曲て曲れるに從ふこと本意ならず。康 景が足輕卑賤なる奴原といへども。其罪にあらざるを曲て殺さんや。しかりとて我義を守りて。公の威を損せんことは。御政道のさまたげなれば。しかじ我身罪 を蒙りていかにもなりなむと答ふ。正純もせん方なく諫かねて立歸りしが。遂にいづこともなく立さりしとぞ。この康景は天野藤內遠景が末孫にて世々三河の住 人なり。其父甚右衛門景隆  大樹寺殿の御時よりめしつかはれしが。天文十六年八月  大御所いまだ御幼稚のとき。今川家に質として駿河に赴かせ給ひし に。康景十一歲にて御供す。田原の戶田彈正少弼康光御道にてこれをうばひ。尾州のあつ田に入まいらせければ。御供の人々みなあきれまどひし中に。康景ひと り心しれる郞黨に文かきて故卿にかへし岡崎につかはし。その樣をば告參らせける。十八年十一月駿河勢安祥の城を責落し。織田三郞五郞信廣を生取。人質がへ として君を駿河へ迎へ參らせし時。康景おなじく從ひ奉る。弘治二年御軍始のときより。小田原陣にいたるまで。その高名かぞふるにいとまあらず。これより先 三河一國御手に屬しける時。高力與左衛門淸長。本多作左衛門重次と此康景をあはせて。三人奉行職に定られ。大小の事を沙汰せらる。當時民間の諺に。佛高刀 鬼作左とちへんなしの天野三郞兵衛といひしも。康景が寬と猛との間にありて。僞なく黨なく政の平らかなりしをしるべし。關原の戰には關原にとゞまり守り。 慶長六年の春今の城たまはり万石の列に加はりぬ。この康景上にしては公の政を害せず。下にしては私の恩をやぶらず。一人の罪なき者をつみせむ事をいとひ。 其身万石の祿をすつる事ものゝ數とせず。其志を遂行ひしも。またありがたき人物といふべき者なり。これより康景に附屬有し遠州士は。みな本多佐渡守正信に つけらる。(當代記。武德大成記。家忠日記。藩翰譜。慶長見聞書。 康景は遂に小田原西念寺に隱遁して。慶長十八年二月廿四日卒す。齡七十八歲。其子對馬 守康宗左兵衛康勝寬永五年に至り召出され。三子六右衛門康世も寬永七年に召され。再び御家人に列す。家譜。)○十一日  大御所駿府につかせ給ふ。(一說 に十三日につくる。)林又三郞信勝もかしこに參る。此年仰によりて薙髮し道春と號す。(寬永系圖には日をしるさず。今は大三河志によりてこゝに係く。)時 に廿五歲。これより土木の料をたまひ。駿府に宅地をいとなみ又江戶に赴く。駿城經營のため諸國より集りたる人夫のうち。薩摩守忠吉卿の家士等卿のうせ給ふ を聞て歸國せず。其役をつかふまつるべしと仰下さる。(御年譜。創業記。大三河志。)○十七日薩摩守忠吉卿の家司小笠原和泉守吉次が子監物忠重は。幼童た りし時より卿の寵眷を蒙りしが。去年よりいさゝか御けしきにたがひ。奥州松島に蟄居す。しかるに卿のうせ給ひしをきゝ。俄に松島にたち出しが。卿增上寺に 葬らるゝよしをきゝて。この日寺にいたりて殉死す。(當代記。 世に傳ふる所は。忠重の父和泉守吉次は。こたび葬埋の事萬に沙汰しけるが。これにあつかる 下吏に。殉死の輩も同じく葬るべければ。その棺を四つ設て置べしと令す。下吏聞て殉死のものは三人なり。然るに棺を四設けよとあるはあやまりなるべしとて かくと申せば。和泉守吉次大に腹立て。我等が令することいなむ事のあらんやといへば。下吏せんかたなく棺四を設て。その三には先日切腹せし石川。稻垣。中 川三人の骸を收む。その一は空棺にして方丈に置。みな和泉守吉次は老耄せりとて嘲りしに。この日其子監物忠重寺にはせ付。住持存應を賴み勘氣赦免を靈幄に つげて。其前にて腹切しかば。この棺に收めて殉死の列に加へたり。忠重が寵童佐々喜藏((一に佐々木淸九郞また佐々喜內。))もまたその主のために追腹切 て。同じく葬られしとなり。異本落穗集。)また其臣平岩長右衛門親直も近來相州浦賀に閑居せしが。卿の卒去を聞て同じく追腹切て死したり。(家譜。)○十 九日道路の制を令せらる。堤と河邊との間に。牛馬を放ちかふべからず。道の外をみだりに往還すべからず。樹木接木等に差さはるべからず。此令にそむくもの は。曲事たるべしとなり。(武家嚴制錄。)○廿日從三位中將兼薩摩守忠吉卿を三緣山增上寺中に埋葬して。性高院とをくり參らす。その禮尤嚴重なり。殉死の 五人も懇に葬禮をいとなまる。(慶長年錄。 一百餘年にして葬地もさだかならざりしを。近年寺中安蓮社の後にその遺跡を尋て。再び御しるしをいとなむ。廟 地考。) 廿一日宗對馬守義智朝鮮の聘使呂祐吉慶暹丁好寬をひきつれて入洛するよし。駿府へ注進す。(武德大成記。)○廿五日駿城修築の爲。畿內。丹波。 備中。近江。伊勢。美濃十か國の人夫を召る。五百石に三人の制なり。(一說に五百石に一人といふ。)この人夫先伏見にのぼり。かしこより駿城に送る所の什 器長持以下を運送せしむ。去年江戶の城垣修築にあづかりし人々幷に近習の輩はこれを除かる。また故薩摩守忠吉卿よりおなじ修築のため。駿府へ參らせられし 家士等は歸國をゆるさる。(當代記。創業記。)○廿六日雷雨はげし。(當代記。)○廿七日東美濃邊雹ふり雷鳴す。この雹のために麥麻を損じ翎毛を毁つ。 (當代記。)◎この月觀世今春等の猿樂若干。江戶より駿府に參り拜謁す。金たまふこと差あり。また韓使來聘によりその饗應のため。東海道に居城ある輩は。 駿城修築をゆりて就封せしめらる。また伏見城中儲蓄ある所の財寳。器物。布帛。筵席の類までことごとく駿府へ運送せしめらる。(當代記。慶長見聞書。)○ 四月朔日久旱雨を得て衆人みなよろこぶ。江戶城經營はじめあり。(一說閏四月一日とす。いま御年譜によりてこゝにおさむ。)關東八州。安房。信濃。奥羽の 諸大名これを課せらる。上杉中納言景勝は天守石垣堀浚等の事を奉る。(慶長見聞書。御年譜。創業記。當代記。寬政重脩譜。)○二日大風。(當代記。)○三 日江城經營の役夫に。本月よりの月俸を下さる。また江城の天守石垣を增築せしめらる。去年築きし石垣はその高さ八間。六間は常の石にて二間は切石なり。こ たびは二間築きまして十間とし。土居も二間をまし。廣さは二十四間たらしむ。此日伊奈備前守忠次絕入して又蘇生す。(慶長見聞書。慶長年錄。)○四日雨ふ る。(當代記。)○六日武州足立郡浦和邊大雪。翎毛多く是がために死せり。(慶長見聞書。)○七日林道春信勝江戶に參り初見し。これより講書を聞しめさ るゝ事。十五日の間に黃石公の兵書。漢書張良傳等を講說す。また漢楚興亡の事跡垂問したまふ。やがて大學を講ぜしめられんと仰出さる。(羅山文集。)○十 二日朝鮮信使京着す。その人數四百六人。紫野大德寺を旅館として所司代より饗應す。(春齋記。)○十四日けふより韓使へ京尹米を贈る。三使へ一石づゝ。判 事へ五斗づゝ。上官三十人三斗づゝ。中官百五十五人一斗五升づゝ。下官二百六人に五升づつ。别に薪炭茶是にそふ。三使は天瑞寺。上々官は總見院。奴僕厮役 等は眞殊庵德善寺にやどる。(春齋記。)○十五日昨夜より大雨。(當代記。)○十六日蒲生飛驒守秀行に御家號を給ふ。(續武家閑談。)○廿三日小姓細井金 兵衛勝吉仰をうけて。本鄕にまかり大岡十大夫某を誅す。其功を賞せられ。十大夫が帶せし刀脇ざしを勝吉に下さる。勝吉時十六歲なり。この十大夫は代官たり しが。代官町にて人を殺害し。妻を引つれ逐電したり。よて勝吉に其妻をたすけ。十大夫のみ討べき旨命ぜられしかば。其跡を追て本鄕追分に至り。妻を引のけ 十大夫を討留たりとぞ。(寬永系圖。家譜。)○廿四日朝鮮人をして京東福守淸水寺邊を遊覽せしむ。(舜舊記。)○廿五日伏見城番戶田又兵德直賴死して。其 子五郞右衛門直秀に家つがしめらる。この直賴は味方原に働して手を負ひ。加恩を賜はり。關原の戰に斥候をよくして御感を蒙る。齡つもりて七十八歲。けふ死 しけるなり。(寬永系圖。)○廿七日朝霧ことに深し。(當代記。)○廿八日雨ふる。この日。  御所松平飛驒守秀行がもとへならせられ。御茶を献じて後饗 し奉る。(續武家閑談に。  兩御所と記すといへども。  大御所このとき駿府にましませば。今大三河志等によりて  御所のみをしるす。又このころ秀行 が家司蒲生源左衛門鄕成は宰相氏鄕が時よりつかへて。つねに干戈の間に忠勤をはげみ。世にも人にもしられたる老武者なりしを。秀行近來新進の家人岡半兵衛 重政を寵任し。鄕成を忌嫌ひければ。家士等双方に黨を分ちあらそひやまず。關十郞兵衛一利この事をうたへんとすれば。重政これをとゞめてうたへしめず。よ て鄕成が黨の小倉作左衛門行陰。關十郞兵衛一利等をはじめあまた退身す。鄕成もこれを憤り。祿を辭して去んとするよし聞えければ。  大御所その古老をお しみ給ひ。秀行に命ぜられ。鄕成をとゞめて家士の騷擾をしづめしめらる。(續武家閑談。當代記。)◎この月江州長濵の城。去年より修築せしめられしが落成 せしかば。內藤豐前守信成駿府を出て移る。林道春信勝先に駿府より江戶に參り。日每に侍講しけるが。ふたゝび駿府に參り。韓使江戶に參る道にて接遇し。筆 語すべしと仰付られいとま給はり。又長崎に赴き京にかへる。このとき長崎にて本草綱目を購求し駿府に献じ奉る。又下旬に大坂災あり。市街多く燒失す。(慶 長年錄。家譜。當代記。)○閏四月二日和州多武峯大織冠の像破裂せしよし注進あり。このころ伏見より駿府へ。金銀五百五十駄を運送す。(舜舊記。當代 記。)○四日伏見城下近習の輩の居宅を毁ちさる。此ころ京伏見邊物騷し。黃昏は往來たゆるに至る。(當代記。)○六日朝鮮人京を發し江戶に赴く。これは   大御所の御さたとして。まづ江戶の  御所に拜謁せしむべきためとぞ聞えける。(創業記。當代記。大業廣記。)○八日越前中納言秀康卿北の庄の城にて逝 せらる。三十四歲。この卿は   大御所第二の御子。御母永見氏は家の女房。故ありて三河の產見といふ所にて生れ給ひし後。  御父君御子ともかずまへ給 はず。本多作左衛門重次養ひ進らせ。御兄岡崎三郞君とりて見參に入れ給ふ。御名をば於義丸と申ける。三郞君御ことありて後には。賴もしき御世繼と見え給ひ けるが。天正十二年冬豐臣秀吉公より。御子一人養ひて子とせんと望みこはれければ。やみがたく於義丸の方都にのぼらせらる。秀吉悅大方ならず。元服の儀行 はれ從四位下侍從に叙任し。羽柴三河守秀康と名のらせ。河內國にて一万石參らせらる。十三年七月十一日秀吉關白になられし時。卿をも左近衛權少將にのぼせ らる。この時十二になりたまふ。十五年の春十四歲にて關白にともなはれ筑紫にわたり。一方の大將にて日向の國を平げ。十六年四月十四日左中將にうつる。十 六歲の時伏見の馬塲にて馬をのり給ひしに。關白の廐のあづかり無禮せしとて首打落さる。關白の家人等大に驚きひしめきしを見給ひ。殿下の御家人たらんもの が。秀康に無禮をいたすやうやあるとて。はたとにらみ給ふさま。皆人恐れをのゝく。關白このよし聞給ひ。秀康は心剛なるのみにあらず。早業も人にすぐれた りと感ぜらるゝ事なゝめならず。十八年の春下野國結城左衛門督晴朝が請により。晴朝が娘にあはせてその家の嗣子になしまいらせ。おなじ八月六日その家つぎ て。十万千石の地を領せらる。文祿のはじめ朝鮮のこと起り。肥前の名護屋に陣せられ。三年結城にかへり。又伏見大坂に御舘かまへてうつりすみ給ふ。太閤薨 じて後加藤淸正等の諸大名。石田三成をうたんとせしに。  大御所の御沙汰として三成職解て己が佐和山の城に籠る。猶路のほど覺束なしとて。卿をしてその 城までをくらせらる。同じ九月  大御所重陽を賀せられんがため。大坂に赴かせ給ふ時。大坂の奉行等ひそかにはかつて失ひまいらせむとす。此時卿は伏見の 御舘におはして。御勢をくばらせ給ひしさまを聞召。  大御所あつぱれ三河守は。父には生れまさりたりと御感淺からず。慶長五年の秋上杉御追討として。   兩御所野州まで下らせ給ひしに。上方又軍起ると聞えければ。先此所より引返し上方にむかはせ給ふに及び。本多佐渡守正信が申旨にまかせ。卿をめし此所に とゞまり。關東をしづめらるべしと宣ひしに。卿氣色をかへ。秀康いかで御跡に殘り候べき。只何國までも御先をこそかけ候べけれと答給ふ。  大御所聞召。 上杉は故輝虎入道謙信以來。軍謀戰法に於て肩をならぶる者なし。いま景勝にむかひ軍せんもの。汝が外又あるべしとも覺えず。吾上方へ打てのぼるときは。景 勝必定跡をしたひ打て出べし。その時卿一人之にとゞまつて軍したらんは。弓矢取ての面目。何事の孝行か是に過べきと仰ければ。卿喜て仰にしたがひ。宇都宮 に陣どり上杉を押へらる。關原の戰畢りければ。此度の勳賞に越前國をたまはり。六十七万石を領せらる。六年五月北庄の城を福井と改む。八年二月十二日從三 位參議にのぼり。(貞享書上慶長二年參議とあり。)十年四月十六日正三位中納言にいたり。けふ三十四歲にてうせ給ふ。  大御所の仰により京知恩院滿譽を 越前にくだし。卿のために一寺を建立し。淨光院とをくり參らせ。その寺をもかく名付らる。(御年譜。寬永系圖。藩翰譜。貞享書上。 御年譜には孝顯寺に葬 り孝顯寺殿と申す。其寺曹洞宗なりしかば  大御所の仰によりふたゝび淨宗の寺をたてゝ。改葬せられしとぞ。)○九日越前黃門秀康卿の寵臣土屋左馬助永見 右衛門等けふ殉死す。(當代記。 世に傳ふる所は。これより先薩摩守忠吉卿逝去のとき。家士殉死するもの多きよし聞召。  大御所御けしきよからず。凡そ の臣たる者主恩をしたはゞ。よく其遺命を守り身を全くして。主の子孫を補佐し忠勤すべきを。殉死して何の益あらんや。それを江戶の年寄ども聞ながら。など 禁ぜざるやと仰ければ。こたび秀康卿の逝去を聞とひとしく。殉死する事を禁ずべきよし。  兩御所御內書をもて仰下されける。永見土屋の兩人は。其前に追 腹切しなるべし。駿河土產。)卿の生母万の方はこの歎にたえず。  兩御所の命をもこはずして薙髮し。長勝院と號せらる。後に卿の遺物として  大御所に 左文字の刀。京極黃門定家卿筆の古今集をさゝげられ。  御所に貞宗の刀。五條三位入道筆の伊勢物語を奉られしとぞ。(創業記。慶長見聞書。)○十八日成 瀨小吉正成從五位下に叙して隼人正と稱す。(家譜。)○十九日伏見城より金銀八十駄を駿府へ下さる。(當代記。)○廿二日越前中納言秀康卿長子三河守忠直 この時十三歲。近年江戶におはしけるが。父の喪なれば。いそぎけふ越前におもむかる。(創業記。當代記。)○廿四日越前の家司等へ。  大御所御手書を賜 はり。藩士の殉死を禁じ給ふ。死は易くして生は難し。汝等ながらへて幼主を補導し。國家を保護すべし。越前は肝要の地なれば。别の沙汰もあるべし。もし黃 門の恩を忘れて。さる心がまへあるものあらば。其子孫までも罪せらるべしとの御旨なり。こゝに於て本多伊豆守富正等やむ事を得ず。殉死をおもひとゞまり遂 に剃髮せり。この日朝鮮使江戶に到着す。本誓寺をもて旅館とせらる。此夜旅館饗行はれ。翌日より米薪以下を給す。在京の日におなじ。道中旅館の饗は代官の 沙汰として。鞍馬は各所の城主より供す。すべて鞍馬百五十。駄馬二百。役夫三百人。かの國人は●使三人。上々官二人。中官廿六人。其他都て二百六十九人。 この中には文祿の役にかの國に殘りとゞまりし。本邦人もありしとぞ。大鷹五十据もたらしむ。これは諸城主より鷹師をして。江戶まで据下らせたり。(貞享書 上。黃門年譜。御年譜。創業記。當代記。慶長見聞書。)○廿六日右兵衛督義直朝臣時に八歲なるに。甲州の所領を轉じて尾州一國を封ぜらる。故三位中將忠吉 卿の封地なり。これに濃州のうち又は信州木曾山をそへて。六十一万九千五百石になさる。平岩主計頭親吉も甲陽六万三千石をかへて尾州に於て犬山城を給は り。十二万三千石に封ぜられ。義直朝臣いまだ幼稚の程は。親吉淸洲の城にありて國政を沙汰すべしと仰付らる。(御年譜。武德大成記。創業記。 世に傳ふる 所。平岩親吉男子なかりしかば。  大御所第七の御子松千代君をたまはり。その子とせられしかど。世を早うしたまひしかば。慶長八年義直朝臣甲斐國給はり たまひしとき。親吉を准父の義にて。甲斐の府中五万石((一說六万石。))領して。その國政を沙汰せしめられ。今度又朝臣尾張にうつらせ給ひしに。親吉も 尾州のうちにて城たまはりてうつり。國政を沙汰しける。親吉别に嗣子をばさだめずありしかば。卒して後は犬山にありし親吉の與力士どもは。みな尾州に附屬 すといふ。藩翰譜にはこの朝臣を親吉の養子に准ぜられしとはなく。此殿に附られしとのみしるせしなり。武德編年集成。)○廿七日故越前中納言秀康卿の五子 五郞八直基をもて。結城左衛門督晴朝が家つぐ事と定むべしと仰下さる。晴朝は藤原秀鄕の後胤にて。結城七郞朝光が十六代の孫。世々下野國結城の地を領し。 關東八家のその一なり。晴朝家つがすべき男子なかりしかば。豐臣太閤の仰にて。秀康卿を養ひ世繼とす。秀康卿越前に移らせ給ひし後。晴朝はその國片粕とい ふ地に閑居す。卿の御子あまたありし中にも。直基生れ給ひしはじめより。晴朝迎へとりて養ひ進らせ。結城の五郞八と號せしめ。片粕の館にひととならせられ ぬ。晴朝齡傾き卿に後れまいらせ。ふかくなげきけれども。この孫をそだて參らするに。うさをまぎらし明し暮しぬるとぞ。(大三河志。藩翰譜。)○廿九日松 平隱岐守定勝に伏見城代を仰付られ五萬石になさる。遠州掛川の居城は長子河內守定行に與奪せしめ。三萬石を領せしめらる。このころまで伏見城松丸は。普第 衆交替して警衛し。治部少輔丸は水野石見守長勝。名古丸は日下部兵右衛門定好。江雪曲輪は成瀨吉右衛門正一。戶田曲輪は松平豐前守勝政。戶田又兵衛直賴。 帶曲輪は小笠原次右衛門定信。其外大須賀五郞兵衛某。柘植三之丞淸廣警衛し。この輩京所司代板倉伊賀守勝重並に米澤淸右衛門正勝等とはかりあひて。諸事を 沙汰せしが。定勝城代たるに及び。このともがらは皆駿府に赴く。(日下部定好。成瀨正一が傳によれば。慶長五年のゝち定好正一ともに伏見城留守居となり。 のち隱岐守定勝伏見城代となりし時も。尋常の事は二人連判して行ひ。大事に至りては定勝判形を加ふよししるす。實なるにや。伏見町奉行長田喜兵衛吉正。芝 山小兵衛正親。淀川船奉行は小笠原越中廣朝之。定勝はこの仰を蒙りてのち。駿府に參り謝し奉りし時。  大御所近くめし。伏見は天下の要樞たれば。我居城 とすべしといへども。思召むねあるをもて駿府にうつらせ給ひぬ。そがゆへに伏見城には普第舊好の士數輩をこめ置。武具兵粮もあまた儲畜せらる。もし事あら んとき汝に委任すれは。怠らず守護すべしとさとし給ひしとぞ。このとき御服と鎧及び朱の采幣。靑貝柄の鎗二本。十文字の鎗を拜賜し。伏見近鄕にて鷹塲をた まふ。もとの三位中將忠吉卿に附屬せられし尾州の諸士等。そのまゝ右兵衛督義直朝臣に屬せしめらる。成瀨隼人正正成は堺の政所より駿府に召て。政府の老臣 に加へられしが。是も義直卿傅役に命ぜらる。然りといへども。尾州には平岩主計頭親吉居住す。正成は駿府にありて朝臣を補導すべしとて。猶駿府の政圍に居 ながら。その事を兼しめらる。又忠吉卿の家司小笠原和泉守吉次は關東に召れ。下總佐倉にて二萬八千石を封ぜらる。ことしも旱にて關東は麥みのらず。駿州よ り西はよく熟す。此年今月まで入貢の蠻船來らず(御年譜。創業記。慶長年錄。寬永系圖。寬政重脩譜。武德編年集成。尾張家傳。藩翰譜。當代記。)○五月朔 日土井大炊頭利勝が姪三浦龜千代正次。(時に九歲。)  兩御所に初見して  若君に奉仕す。(寬政重脩譜。)○二日雨ふる。大久保石見守長安佐渡國銀山 の巡察命ぜられかしこに越く。久能の城代榊原七郞右衛門淸政卒しければ。その子內記照久に家つがせられ。父の原職を命ぜらる。此淸政は七郞右衛門長政が長 子にて。弟は式部大輔康政なり。淸政そのはじめ岡崎の三郞君に附られしが。三郞君御事有し後は。世をうき事に思ひしにや。病をとなへ弟康政が所領上州館林 に閑居すること二十餘年なりしが。慶長十一年に至り。駿府久能は要害の地なれば。これを守るべしとの命を蒙り。廩米五千俵をたまひ。今年二月よりかしこに うつり。けふ六十二歲にてうせぬるなり。(當代記。創業記。寬永系圖。家譜。)○六日宗對馬守義智朝鮮信使呂祐吉慶暹丁好寬等をひきつれてまうのぼる。其 王季昭が書簡をば柳川豐前守智永持て。大廣間廣緣に候す。酒井雅樂頭忠世請取て御坐左唐織敷し机上に置。其外の献物鷹五十連。人參二百斤。帽段二百疋白苧 布三十匹。白綿布五十疋。黑麻布三十疋。花文席二十張。白紙五十卷。靑皮十張。虎皮三十張。豹皮二十張なり。かの國禮曹參判吳億齡より。本多佐渡守正信に も書簡をゝくり。虎皮三張。白綿布十匹。白苧布十疋。油紙三張。花文席五張。廣緣に置。大廣間上段に繧𦅘二間を設け。其上に錦の茵をしきて御坐となし。   御所御直衣(春齋記には御冠御裝束黑色とあり。しからば御衣冠たるべし。)にて出御あり。聘使これより先遠侍に伺候す。やがて御使をまちて三使廣緣を すゝみ。中段にまへり拜し奉る。次に上々官二人下段にまいり拜し。上官二十六人廣緣にて拜し。中官は三十人庭上にて拜し。中門の外へ退く。三使の坐は下段 に設く。時に御簾をおろし。御前には四方膳を奉り。三使には金箔たみし足折をもて饗膳をたまふ。饗應の事は本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭 忠世奉行す。三使御盃たまひ。つぎに茶菓を饗し。義智その時宜をはりて通事にさゝやけば。三使坐をたち拜謝してたちもとの殿上に伺候す。上官中官下官ふ たゝびもとのごとく出拜し退く時。正信。忠隣。忠世。中門の外までをくる時互に相揖す。此日上々官は次の間にて饗給ひ。上官を遠侍にて饗せられしとなり。 對馬守義智は緞子五十卷。油布五十端さゝぐ。この日阿部四郞兵衛忠政死す。その長子四郞五郞忠宣は先に戰死し。二子善大夫重忠はのちにめし出され。三子四 郞五郞正元は前にめし出され御家人たり。この忠政實は大久保左衛門次郞忠次が二子なり。もとの四郞兵衛定次が女にあはせて子とし家をつがしむ。忠政生れ得 て精兵の射手なりしかば。天文十四年三河の安祥淸繩手の時をはじめとし。弘治元年蟹江の城責に武功をあらはす。七本鑓のその一人なり。夫よりして永祿天正 の間合戰の度々。弓勢をもて敵を恐悕せしめずといふ事なし。そのゝち大久保七郞右衛門忠世と共に。遠州二股城をまもらしめたまひしに。いさゝか思ふ所あり て父子ともに勢州へ退く。天正十二年長久手の戰にふたゝびめして。岡崎城の留守を命ぜられしに。年老たりとてかたく辭す。このとき七郞右衛門忠世をめすと いへども。忠世信州にありていまだ來らざれば。辭せどもゆるされず。しかりといへども長久手御勝利ありければ。忠政を召にも及ばず。忠政もその事となく所 領に閑居しければ。今の  御所かねて。忠政さるふるつはものたりとしろしめされしかば。しばしば召て軍法を尋させ給ひしが。けふ七十八歲にて終をとれ り。蓑笠之助正尙入道一樂死す。長子仁藏某は先にうせければ。四子服部平十郞正長に二百五十石たまひ。其祀を奉し蓑笠之助となのらしめらる。(御年譜。創 業記。春齋記。寬政重脩譜。善隣國寳記。武德大成記。慶長年錄。寬永系圖。家譜。)○七日安當仁あほんそに摩利伽渡海の御朱印を下され。大賀九郞左衛門に 暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十日京相國寺の長老承兌。さきに江戶に來り寺院修造をこひ奉り。營作料の金を給はりしが。上京する道箱根に於 て。其金を從者に奪ひ去らる。(當代記。)○十一日朝鮮信使にいとまたまはり。其國王季照へ御返簡をゝくらせ給ふ。(御年譜。創業記。 この御書は相國寺 長老西美が草する所といふ。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世この御返簡を本誓寺へ持參す。三使これをむかへ。上々官つゝしんで御返簡を 受取上坐の案上にをく。三使是にむかひ御返簡を拜してのち。御使の老臣を接對す。大三河志。春齋記。)三使に銀二百枚づゝ。長刀五柄づゝ。上々官二人へ銀 百枚づゝ。中官二十六人。下官八十四人へ銀五百枚。其下二百十六人鵞眼五百貫下さる。また本多佐渡守正信よりもかの國禮曹參判吳億齡に返簡をゝくり。相國 寺長老承兌よりも。かの國僧松雲に書簡を贈り。廣く我國の恩信をのべ。文祿の役彼國人の俘囚せられしもの。その心にしたがひ歸國の願するものは。放ちかへ さるゝ旨を達し。承兌よりも重箱六組。錫鉢十。扇百柄をくる。宗對馬守義智にも馬二疋をはじめ若干の賜物有て。信使等を引つれ江戶を發し。駿府に赴くべし と仰付らる。故越前中納言秀康卿の長子三河守忠直朝臣越前福井の城に歸られ。この日父中納言の葬儀を行はる。その作法尤嚴重なり。京より知恩院滿譽を招請 して導師とす。布施物若干。衆人耳目をおどろかせりとぞ。(創業記。異國日記。寬永系圖。當代記。)○十三日韓使江戶を發す。(春齋記。)○十四日この夜 駿府宮崎町失火す。其火に乘じ賊等家々にをし入財寳を奪ふ。すべてこのころ道路にてみだりに行人を殺害するものあれば。賞金をかけてその賊をつのりもとめ しむ。(當代記。)○十八日多田八右衞門正吉死して。その子三八郞正長つぐ。芦屋善三重勝。同僚布施管兵衛某と爭論し。西城大手門にて互に討果す。よてそ の家斷たり。(寬永系圖。家譜。)○十九日朝鮮の信使等駿府に至りて。淸見寺を旅館とす。(御年譜。家忠日記。)○廿日朝鮮信使駿城にのぼり。  大御所 に拜謁し奉る。人參六十斤。白苧布三十疋。蜜百斤。蠟百斤を献ず  大御所烏帽子直衣(春齋記冠裝束翠色とあり。)をめし。繧𦅘錦の茵につかせ給ひ。そ の拜をうけたまふ。三使再拜兩段して退く。このとき駿城殿閣經營いまだ全からず。ゆへに上官中官は許さず。やがて本多上野介正純が邸にて饗行はれ。そのと き大澤兵部大輔基宥。永井右近大夫直勝御使にまいりて。三使へ鐙三領。太刀三柄。銀三百枚。上々官二人刀二口。銀百枚。上官二十六人銀二百枚。中官下官鵞 眼五百貫給ふ。彼國の俘囚數百人。こたびの聘使に附して歸國せしめらる。かれ等歡抃かぎりなし。聘使即日退く。藤枝驛に宿す。(創業記。當代記。春齋 記。)○廿三日駿城本丸經營始あり。天守臺の基石もけふはじめて置る。この日大番頭水野市正忠胤渡邊山城守茂をして。其隊下の番士を引つれ伏見城を勤番せ しめらる。これを三年番といふ。番頭は一年にて交代し。番士は三年にて交代す。八月十二日をもて交代の期たるべしと定らる。山城守茂今年末より上番す。又 松平九郞右衛門忠利。杉浦忠左衛門親俊。渡邊與左衛門某等番士にておもむく。小野麻右衛門高光二十一歲にて。是も山城守茂が隊下にて伏見城番にさゝれし が。この月七日江戶西城下馬邊に於て。人をうちたち退くものあり。高光追かけてこれを討とめ疵を蒙りしかば。御感のうへしばらく。治療のいとまたまはり後 日に上番す。(創業記。當代記。慶長年錄。寬永系圖。)○廿六日平岩主計頭親吉甲州より尾州犬山城にうつる。しかりといへ共先に右兵衛督義直朝臣幼稚の間 は。淸洲城に在て國政を沙汰すべしと命ぜられければ。淸洲城の北丸にうつりすむ。親吉かく轉封せられし後は。甲府の城は小田切大隅守昌吉。櫻井安藝守信忠 本丸を守り。國中の政を沙汰す。又武川津金の士等にも府城を守らしめらる。山高孫兵衛親重。山守甚左衛門信光。靑木與兵衛信安。入戶野又兵衛門宗。蔦木越 前盛次。津金勘兵衛久淸等皆その列なり。川勝主水正秀氏駿城營築にあづかりかしこにて死す。その子丹波守廣綱庇䕃料を合せて三千七十三石餘をたまひ。弟小 三郞重氏某に五百石わかつ。(家忠日記。當代記。家譜。寬永系圖。)○廿九日韓使入洛。(春齋記。)◎この月島津陸奥守家久が使駿府にまかり滯留する間。 海濵に遊び妓を船にのせ酒宴を催し。醉興に乘じたはれたる樣どもせしを。築城のためにあつまりたる諸家の藩士役夫等これをみて大に嘲り笑ふ。島津が使大に 憤り。船よりあがりて鬪爭に及ぶ。このとき衆人皆迯去しが。池田宰相の藩士等のこりたゝかひ。つひに島津が使者を生どる。そのゝち彼使者を追放んとする に。使者がいふ。我かゝる恥辱を蒙り生て人に面を合すべからず。たゞ切腹すべし。さては我に敵したるものをも刑せらるべしといひて。奉行所にこふことやま ず。よて上裁に及びしかば。彼使者二人と池田の藩士。こたび築城の事にあづかる輩の長一人とを戮せらる。(當代記。)○六月二日池田右衛門督利隆御家號を たまはり武藏守と改む。このとき長光の御太刀。來國光の御刀。左安吉の御脇差を賜はり。就封のつゐで鎌倉遊覽をゆるされ。鵜殿兵庫助長秀に鄕導せしめら る。利隆駿府にいたり  大御所に謁し。鷹馬を下さる。(寬政重脩譜。)○三日去月下旬より大旱。暑氣酷烈。衆庶病を得るもの多し。(當代記。)○四日俄 に凉氣生ず。將棊師等京より駿府にまかり。けふ江戶に至る。(當代記。)○七日遠藤但馬守慶隆は駿府城造營により。信濃國木曾山に赴き木材をえらび。駿府 に至て其事を勤るの處。この日岩瀨吉右衛門氏興をして御書を給ひ慰勞せらる。(寬政重脩譜。)○八日韓使大坂にいたる。(春齋記。)○十一日韓使大坂を出 帆す。(春齋記。)○十二日夜東海鳴動す。其聲鼓のごとくにして曉に達す。齋藤宗圓政忠死して子金七郞政吉家をつぐ。(羅山文集。家譜。)○十三日大旱後 雨を得て。衆庶喜悅斜ならず。駿城はこの日地震す。この程奈良猿澤の池水渴る。これ凶兆なりといふ。(當代記。)○十九日逸見左馬助義助子勘右衛門義重初 見し奉る。永井新八郞尙政死す。子なくして家斷たり。この後外孫源右衛門正信。  常憲院殿三丸に御坐のときめし出され。その祀を奉ぜしめらる。(寬永系 圖。家譜。)○廿三日吉祥寺元照仰を蒙り。法問結緣の血脈をさゝぐ。これより天下太平の御祈を仰付らる。(由緖書。)○廿六日松浦鎭信法印その外小西長左 衛門。平野孫左衛門へ。呂宋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○廿九日鈴木左馬之助重春二十三歲にて死す。いまだ男子なければ。所領三千石收公せら る。(家譜。)◎此月小林傳四郞吉勝五子左次兵衛重勝召出されて大番に入。又京にて  大御所の御朱印を贋作して。所司代のもとに持來り人馬を課する者あ り。板倉伊賀守勝重が屬吏これを見あらはして。贋造せるもの幷に持來りしものをからめとり誅す。この十三日雨ふりし後は。いよいよ雨ふらず。ふたゝび旱す といふ。(寬政重脩譜。創業記。慶長見聞書。)
台德院殿御實紀卷六 慶長十二年七月に始り十二月に終る
○七月三日駿府城落成せしかば。  大御所移らせ給ふ。この時  大御所は御齡六十六にわたらせ給ふ。江戶よりは酒井右兵衛大夫忠世を御使として御移徙を 賀せらる。諸大名各賀儀を獻ず。忠世も太刀馬代蠟燭五百挺献ず。忠世仰によりけふより雅樂頭と改む。諏訪部宗右衛門定吉駿府にて御廐の事をつかさどらし む。これ八條近江守房繁より傳へて。乘馬の事妙を得たればなり。今日池田宰相輝政が播州姬路の城に。立入河內守康善  勅使として參向し。廣橋大納言兼勝 卿。勸修寺中納言光豐卿の兩傳奏より詔をつたへ。包永の御太刀寮の御馬をたまふ。輝政は  大御所の御聟として播備兩國主たれば。公武の寵待朝野の威望他 に殊なりしゆへとぞ聞えける。(御年譜。創業記。家譜。寬永系圖。)○九日大坂の右大臣秀賴公より  大御所御移徙を賀して。來國光の刀金十枚さゝげら る。其奏者は遠山民部少輔利景なり。越前少將忠直朝臣よりも。使もて國安の脇差銀二百枚綿五百把獻ぜらる。(慶長年錄。)○十二日大和の長谷觀音上棟な り。石川吉兵衛某深津八九郞貞久兼て沙汰する所とぞ。(武德編年集成。)○十三日駿州淸水より水口谷邊へ。船入の津を開かるべしとて湟をほらしむ。水多く してその事ならず。疏鑿わづかに一日にしてやみぬ。(創業記。當代記。)○廿五日西方に彗星あらはる。この頃西の岡妻塚を。(その所を詳にせず。)鑿て古 鏃三を得たり。是凶兆なりといふ(當代記。)○廿六日美濃國大垣城主石川長門守康通卒す。子ありといへども幼稚たるにより。老父日向守家成ふたゝび出て家 國の事をつかさどらしめ。家成が養老料五千石外孫大久保內記成堯にゆづらしめらる。(成堯是より石川を稱す。)この康通は日向守家成が子にて。家成は 當 家普第の宿老安藝守淸兼が三男なり。康通高天神の城責に首十六切て獻じ。武田滅し年の秋大久保七郞右衛門忠世と同じく甲斐信濃を打從へ。長久手の戰にした がひ奉り。小田原の戰に先陣し。天正八年父家成致仕せしかば家をつぎ。從五位下に叙し左衛門大夫と稱し。後長門守に改め。十八年關東にうつらせ給ひし頃 は。家成伊豆の梅繩五千石を養老の料に賜ひ。康通には别に上野鳴渡二万石賜ふ。此時近習外樣五組かはるばる勤番し。御上洛の時は一組の隊長となり供奉す。 慶長五年關原の戰には淸洲の城を守り。又佐和山の城を攻む。同六年二月今の城賜はり五万石頷し。此日五十四歲にてうせぬるなり。(創業記。家忠日記。寬永 系圖。藩翰譜。)◎是月大井庄兵衛昌次が子長右衛門昌義初見し奉る。又和州多武峯大織冠の像破裂し。血臭甚しきよし注進あり。これ尤天下大凶の兆と聞ゆ。 又其邊深山にては夜々攻城野戰の聲す。そのゆへ何たる事をしらず。土人大に恐怖すといふ。(寬永系圖。當代記。慶長見聞書。)○八月朔日高木主水正正次大 番頭仰付らる。(慶長年錄。慶長見聞書。 年錄等に山口但馬守重政。同日に大番頭になるよししるすといへども。重政は十一年に仰付られし事。寬永系圖幷に 貞享書上共に同じ。いまこれに從ふ。)○四日豐國の社に廣橋大納言兼勝卿勸修寺中納言光豐卿の兩傳奏參向して。 勅額をさづけらる。吉田二位兼見卿下陣に て拜受して神前簾上にうつ。其後二位兼見卿祈念し兩傳奏進拜し。大坂よりの代參片桐主膳正貞隆も拜し。惣神巫みな拜す。大坂より兩卿へ銀十枚。袷一。● 二。帷子二をくられしとぞ。加藤肥後守淸正へ西洋渡海の御朱印。堺木屋彌三右衛門へ暹羅渡海の御朱印。林三官へ西洋渡海の御朱印を下さる。(舜舊記。御朱 印帳。)○六日大雨。(當代記。)○七日大水。三宅源助貞勝死して。その子正勝家をつぐ。(家譜。當代記。)○十二日故中將忠吉卿の北かたは。  大御所 の御沙汰として。上野國安中にうつされ。その母儀とおなじく住居せしめらる。この母はもとの井伊兵部少輔直政が妻なり。この日金森兵部卿法印長近入道素玄 卒しければ。その遺領はのちに二人の息に分たれ。兄出雲守可重に飛驒一國。二男五郞八長光は濃州上有知小倉山城主として二万石餘を分ら給ふ。此とき封地へ の暇たまはるとて。可重に國次の御刀鷹馬を賜ひ。  大御所よりも鷹馬をたまふ。此法印土岐の庶流にて。世々美濃の住人なり。父を金森采女定近といひしと ぞ。法印そのはじめ五郞八長近とて織田家に從ひ。こゝかしこの戰に度々高名をあらはし。天正三年八月一方の大將承り。越前の國をうちたいらげ。その賞とし て大野の郡三が一をたまはりぬ。これよりこのかた北陸の軍に高名せずといふ事なし。三位中將信忠卿甲州に打入給ひしとき。三千人を引つれ甲府にむかふ。此 後織田殿本能寺にてことありしとき。長子忠次郞長則十九歲信忠卿の供して。二條の御所にて腹切て死す。長近は北陸道のつはものなれば。柴田勝家に組しける が。勝家滅びて後羽柴秀吉にしたがひしかば。年ごろの軍功を賞せられ飛驒國をたまはり高山城に住す。これより先入道して兵部卿法印になる。關白秀吉公に近 侍し所々の軍にしたがひ戰功を勵す。また今の   大御所にもしられまいらせしかば。太閤薨ぜられ大坂の奉行人等。さまざまの隱謀かまへけるにも。常に  當家にまいり志をあらはし。上杉御追討にも父子打つれて御供し。上がたの軍おこると聞て。その子出雲守可重は美濃國にむかひて軍し。この入道は  大御所 に從ひ海道より攻のぼる。戰終てのち今度の恩賞行はれ。濃州上有知幷關河州金田にて二万三千石餘の地を加へ給ひ。すべて六万千石餘になされ。齡つもりて八 十四歲。けふ終をとる。(創業記。當代記。寬永系圖。藩翰譜。)○十三日小笠原兵部大輔秀政二子大學頭忠政御前にめされ。左文字の御刀を賜ふ。(寬永系 圖。)○十四日風雨。(當代記。)○十五日三尾濃の三國洪水。これはこの夏農民旱をうれひ。木曾川の水を田地に引入しが。大風雨を得て加納城溝の水と一に なり。河戶川矢橋川どもに押入て。所々堤防崩破し民屋を押流す。駿府の經營多半成功すといへども二丸はいまだならず。凡當城本丸四方百二十間づゝ。其高九 間。天守薹十三間。二丸八百五十間。その高七間。本丸內石垣高さ。あるは七間。あるは五間なりとぞ。すべてこの二三年このかた。江戶駿府伏見等をはじめ。 城々修築拓闢一日もやむときなし。いかさまにも近年のうち戰爭あるべき爲にやと。下民の巷說洶々たり。此日龜井武藏守玆矩に西洋渡海の御朱印。安當仁から せすにもおなじく下さる。(當代記。創業記。慶長見聞錄。御朱印帳。)○十八日駿城御移徙を賀せられて。  禁廷より御太刀。馬代金二枚。綸子十卷。   親王より御太刀馬代金一枚を進らせらる。傳奏廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿小袖二つづ奉らる。江戶  御所よりは御太刀。馬代銀千枚。袷三十。帷 子十。單物十進らせらる。上總介忠輝朝臣より助重の太刀。馬代銀百枚。かなひき二百把。越後布百疋さゝげらる。藤堂和泉守高虎は銀百枚。本多佐渡守正信金 三枚。大久保相摸守忠隣。酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝蠟燭五百挺づつ獻ず。其外諸國の大名より賀儀の獻納。若干にして枚擧にいとまあらず。(慶長年 錄。)○廿二日榊原式部大輔康政に附屬せられし竹尾平右衛門俊久死す。其子四郞兵衛俊勝は天正十一年より近侍し。當時御膳番をつとむ。(寬政重脩譜。家 譜。)○廿六日遠藤但馬守慶隆。駿府城造營の勞を慰せられ。  大御所より御書及び御服羽織を賜ふ。南部寳藏院胤榮迁化す。壽八十七。この僧もとは伊賀伊 賀守といふ。緇流に入て後も兼て武藝を廢せず。ことさら鎗法は楠正成の臣安間了賴よりの傳を得て。その妙を得しかば。身に法衣をまとひ。手に念珠をくりな がら鎗をもたらして往來す。加藤淸正。武田勝賴等もこの僧の鎗法を學べりとぞ。今日もその寺に鎗法をつたへて。其訣を得ざれば住持する事を得ず。世に寳藏 院流と稱するものこれなり。(寬政重脩譜。大業廣記。)○廿八日安南渡海の御朱印を某彌七郞へくだされ。西村隼人へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印 帳。)◎是月小笠原左衛門佐信之。岡部內膳正長盛を伏見につかはされ。城中の武具器械を撿察せしめらる。これ  大御所の仰によりてなり。又伏見番士小尾 仁左衛門光重の父監物祐光。江戶に有て病沒しければ。光重官長にうたへ身のいとま給はり。江戶にかへり喪をとり行ひ。喪事の後三十日をへてふたゝび伏見に 赴く。(慶長年錄。家譜。)○九月朔日致仕松波平右衛門(家譜半右衛門。)勝直死しければ。養老の料五百石を二子平右衛門勝吉にたまはる。(寬政重脩 譜。)○三日藤堂和泉守高虎。江戶城天守臺大手鍮石門經營搆造の事を奉りしにより。  大御所より御書をたまふ。(寬政重脩譜。)○四日有馬修理大夫晴信 に。占城渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○五日此夜洛中光物あらはれ。叡山より南方へ飛行す。同時駿府にも同じく光物あり。その他諸國にもみる者多 し。(當代記。)○六日浦井宗普に西洋渡海の御朱印をたまふ。この日羽柴駿河守高房卒す。こは故龍造寺民部大輔政家の四子にて。はじめは藤八郞といふ。天 正十八年鍋島加賀守直茂國に當て沙汰するに及び。この高房をやしなひて子とし猶龍造寺を稱せしむ。慶長二年より豐臣家につかへ。羽柴の家號をゆるされ。八 年叙爵して駿河守と稱す。  大御所の仰によりて江戶に來てつかへしが。けふ二十二歲にて世を早うす。高房が子季明とて一人有しが。のちに訴ける旨有て奥 の會津にながされ死しければ。龍造寺が統は永く絕ぬ。(御朱印帳。寬永系圖。寬政重脩譜。)○十日遠州新坂町火あり。(當代記。)○十一日遠江國橫須賀城 主松平出羽守忠政卒しければ。後に其子國千代して原封六万石襲しめらる。此忠政實は榊原式部康政が長子なり。外祖大須賀五郞左衛門康高がよつぎとなり。い まの  御所より御名の一字賜はり。五郞左衛門忠政となのる。天正十八年小田原陣の時。本生父康政に從ひかしこに赴き。四月五日その家人を酒勾口に埋伏せ しめ敵兵を追討す。關東へいらせ給ひて後。遠州橫須賀より上總國久留里の城にうつり三万石を領す。慶長四年四月十七日從五位下に叙し出羽守と稱し。五年關 原の戰には。舘林の城を留守すべしと命ぜられしが。舘林をば家士等に守らせ。其身は御駕にしたがひ奉らんことをねがひ。御ゆるしを蒙り。凱旋の後恩賞とし て遠州にて加恩の地をたまひ。再び橫須賀城にうつり六万石領し。ことし廿七歲にて卒せしなり。(寬永系圖。創業記。藩翰譜。)○廿日建部內匠頭高光入道壽 德卒す。その子內匠頭光重父と同じく。攝州尼崎の郡代たり。この入道は近江國の住人にて宇多源氏の流なり。織田豐臣の兩家に歷事して。若州または尼崎の事 を奉行せり。年老て家をば子光重にゆづりけれど。關原の時大坂の催促にしたがひ。毛利。長曾我部。長束の人々と安濃津の城を攻て。遂に城を攻下しける。天 下一統 當家に歸せし後。御とがめもなくて本領を安堵せし事は。光重が妻池田宰相輝政の養女なれば。宰相深くなげき申されしゆへなるべし。かくて入道齡つ もり七十二歲にてけふ終をとりしなり。(寬永系圖。藩翰譜。)◎是月秋山伊兵衛正勝召出され。大番にいりて伏見三年番をつとむ。又豐臣右府秀賴公北野社を 修造せらる。このころ大坂にてしきりに靈社靈地を修造せらるゝ事あり。右府幼稚なればみな生母大虞院の祈願をこむる故あるなるべし。これによりかの母子靈 夢祥瑞しばしばなりと。京攝の土人巷說胸々なり。(寬永系圖。當代記。)○十月二日龍造寺民部大輔政家卒す。こは山城守隆信が子なり。隆信島津がために討 死して後。龍造寺が所領をば家臣鍋島加賀守直茂もはら沙汰しければ。いかにもして父の仇をむくはんとて。豐臣關白へ使を奉り。九州御征伐あらんには政家直 茂先陣の仰蒙らん事を望みける。天正十五年關白島津退治の時。政家直茂眞前に馳參り先陣を給る。島津降參せしかば。龍造寺には本領を給ひ。政家いまだ年若 し。直茂國務を沙汰すべしと命ぜられ。さて政家は從四位下の侍從に叙任し。十八年三月病で致仕し。其男藤八郞高房幼雅なれば直茂に家讓りふけ五十二歲にて 卒せり。(寬永系圖。藩翰譜。)○四日  大御所江戶におもむかせ給はんとて。けふ駿城を御發輿あり。伏見より御供せし近習の輩は。暇給はり伏見へまか る。駿府へ還御までの間に。かへり參るべしとなり。この日  御所第八の姬君生れ給ふ。  御臺所の御腹にて後に御入內あり。  後水尾院の中宮にたゝせ 給ひしなり。(御年譜。創業記。 世に傳ふる所。此姬君生れ給ひしとき。江戶中に異香馥郁たりしといふ。御先祖記。)醫官今大路延壽院道三こたびの御產。 ことさら御なやみつよくわたらせ給ひしを。よく治療し奉りたりとて劔製の短刀を給ふ。又毛利藤七郞秀就。有馬玄蕃頭豐氏。駿府城經營に力をつくしければ。 速成の功を褒せられ御書をたまふ。有馬修理大夫晴信へ占城渡海の御朱印を下さる。(寬永系圖。家譜。御朱印帳。)○六日有馬修理大夫晴信へ柬埔寨渡海の御 朱印を下され。浦井宗普へ西洋渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○七日星合采女正具泰が女後閤に召出され。こたび生れたまひし姬君に附らる。時に七 歲。(外戚傳。 世に傳ふる所。この女次第に登庸せられ。姬君入內の時には三位して肥後局と號す。後に江戶にかへり神尾宮內少輔守勝が妻となれりとぞ。) 渡邊源次仲綱武州入間郡にて死す。七十九歲。子なくして家絕たり。(寬永系圖。)○十四日  大御所駿府を出ましてより。中原邊に御鷹狩日數をかさね。こ の日江戶の西城につかせ給へば。御所兼て西城にならせられむかへ給ふ。  大御所駿府より金三万枚。銀一万三千貫目もたらせ給ひ進らせらる。(創業記。  世に傳ふる所。  大御所江戶より駿城へかへらぜ給ふとき。金十五万枚を  御所にゆづらせ給ひ。其後猶又金をあまた進らせ給ひ。天下に主たる身にては。 非常の變あるとき下民を賑救し給はん時の料たるべし。敢て私の用に費給ふべからずと仰られしといふは。この時の事にや。駿河土產。)まだ中原にわたらせ給 ふ時。梶七郞右衛門某を御使として。相州海老名へつかはされ。高木主水正淸秀入道性順をとはせられ。時服幷御鷹の雁を給ふ。入道隱退して其地に閑居するが 故なり。(大業廣記。)○十六日明人五官へ田彈渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十八日  大御所西城山里の茶亭に於て。  御所をむかへ饗せら れ。上杉中納言景勝卿。伊達越前守政宗。佐竹右京大夫義宣伴食し奉る。  大御所御みづから御茶を點じ給ふ。この日小笠原兵部大輔秀政の妻痘なやみうせら る。こは岡崎三郞君の御女にて。  大御所の御孫なり。暹羅渡海の御朱印を島津陸奥守家久に下さる。(創業記。當代記。御朱印帳。)○廿日  大御所御放 鷹として近郊へならせ給ふついでに。松平國千代が母の亭によぎらせ給ふ。この母は松平因幡守康元が女なれば。一かたならぬ御なからひゆへなるべし。時にこ の母大須賀家に附屬せられし渥美源五郞正勝。久世三四郞廣宣。坂部三十郞廣勝等。國千代幼稚により國務を專にし非道の擧動して家士不和のよしをうたふ。追 て御糺明あるべきよしにて還らせ給ふ。(續武家閑談。)○廿八月本城の茶亭に  大御所をむかへたまひ。茶宴をひらき饗したまふ。(家忠日記。創業記。) ◎この月水野備後守分長子勘四郞元綱江戶に參り仕へ奉る。山角次郞右衛門繁盛死して其子內記直昌家をつぐ。この盛繁は小田原北條の家人にて。氏直に從ひ高 野山に有しを後に召出されしなり。また駿城經營成功しければ。諸國の役夫を放ちかへさる。(寬永系圖。當代記。)○十一月朔日  大御所御放鷹のため。浦 和川越忍の邊へわたらせ給ふ。この日丹羽五郞左衛門長重が飯田町の家より失火し。餘燄飛て田安門災にかかる。又さきに勘發せられし御家人七八人改易せら る。(家忠日記。當代記。 改易せられし御家人の名をしるさゞればたしかならず。さきに御旅館にて茶器紛失せし時。當直の番士等なりや。)○十七日服部市 郞右衛門保英死し。其子市平元正は文祿年中より近侍し。三子平吉保鄕も後に召出さる。此保英石見守保長が長子一平保俊が子にて。永祿十年十三の時よりつか へ奉る。姉川。長篠。長久手。蟹江。甲州の戰にみな軍功あり。關原の時には同心百人をひきゐ野州黑羽根に陣し。奥州の押たりしが。けふ五十三歲にてうけ ぬ。(寬永系圖。)○十九日大雪。曉に撒す。(當代記。)○廿七日故駿州の今川上總介氏眞が長子左馬助範以京にて卒す。としは三十八なり。この時父氏眞は 猶江戶に寓居す。その子五郞直房後に氏眞の養老料を給ひ高家に列す。(寬永系圖。)○晦日この廿日頃より寒氣烈しく。氷雪例年にこへたり。(當代記。)◎ 是月故越前中納言秀康卿の次子虎松丸十一歲。召によりて駿府に參り。  大御所に拜謁せらる。早く江戶にくだり。  將軍に見へ奉るべしとの仰蒙りて汀戶 に參られ。  御所に拜謁せらる。上總國姉崎の地一万石封ぜらる。酒井左衛門尉家次小五郞忠勝。金森出雲守可重二子(幼名詳ならず。)重次。新庄越前守直 定が子新三郞直好初見し奉る。重次は小姓を仰付らる。又戶田三郞右衛門尊次叙爵して土佐守とあらたむ。植村土佐守泰忠は入道して二位法印に叙す。大須賀五 郞兵衛某をめして。遠州橫須賀の城に松平國千代を補佐すべしと命ぜらる。こはもとの五郞左衛門康高が甥にて。さきにめしいだされ二千石賜はり。伏見城の留 守居を勤む。安藤帶刀直次にもおなじく大須賀の國政を補導すべきよし命ぜらる。こゝにて久世。渥美。坂部等が職をうばはるといふ。(貞享書上。寬永系圖。 家忠日記。續武家閑談。)○十二月朔日大雪。(當代記。)○五日又同じ。陸奥國弘前城主津輕右京大夫爲倍京都にて卒す。其三子越中守信枚して。原封四万七 千石つがしめられん事遺書もて願ければ。その請所をゆるさる。これは長子宮內少輔信建は早世し。二子熊信堅江戶にまいり家つがん事を請しかど。父の遺書す でにかくのごとくなるうへは。それにまかせらるへし。熊事は信枚あつく扶助すべしと仰付らる。この爲倍は世々南部の被官として。南部の地に住しけるに。爲 信がときに至り。津輕の地を打したがへ弘前の城にすむ。天正十八年豐臣關白小田原の北條征伐にくだられしとき。奥の大名いまだまいらざるさきに。爲信一番 に馳參りければ。關白大に感ぜられ本領安堵の御教書を下さる。十九年九戶の賊をうたれんとありしときも。速にはせむかひ攻たゝかひ。朝鮮の軍起し時は名護 屋に參り。慶長五年正月廿七日爵ゆるされ右京大夫と稱し。關原のときは東國の先陣に馳加はりて。美濃國大柿の城を攻落す。この後上野國勢多郡にて二千石加 賜あり。すべて四万七千石になされ。この日卒す。年五十八。(寬永系圖。藩翰譜。寬政重脩譜。 重脩譜關原の事をのせず。尤疎脫といふべし。)○十日中山 雅樂助信吉を鶴千代の方につけられ。五千石加へて。本領に合せて六千五百石になさる。(寬政重脩譜。)○十一日遠州原町に火あり。市店ことごとく燒失す。 (當代記。)○十二日   大御所駿城にかへり入らせたまふ。この日伊勢國田丸城主稻葉藏人道通卒す。その子大夫紀通時に五歲。遺領五万石を襲せらる。こ の道通は伊豫入道一鐵が長男兵庫頭重通が子にて藏人といふ。はじめ關白秀吉公につかへて豐臣の氏をたまひ。伊勢の國岩手の城を領す。太閤薨ぜられて後慶長 四年の秋。九鬼大隅守嘉隆と訴論の事ありしに。  大御所の御裁斷にて九鬼非據にさだまりしかば。道通は悅びたえず。九鬼は大にうらみける。五年の秋道通 上杉御追討の御供せしが。仰を蒙る旨ありて道より引返し。をのが岩手の城にとどまり守る。關原の軍おこるに及んで。九鬼は岩手の城を責かこむ。道通は九鬼 が兵粮を燒拂んとしてたゝかひ勝軍しぬ。戰畢て後度會郡今の城給はりてうつる。本領は二万五千七百石なりしが。この時四万五千七百石になされしなり。けふ 卒す。時に三十八歲。(御年譜。創業記。藩翰譜。寬永系圖。 道通一本に通茂としるせしあり。いまは寬永系圖。藩翰譜にしたがふ。)○十三日京北野天滿宮 遷宮あり。大坂右府秀賴より造進せらるゝ所なり。片桐市正且元攝祭す。(舜舊記。)○十四日醫員泰壽命院宗巴死しければ。その子德隣有室して家つがしめら る。この宗巴今大路延壽院道三が弟子にて。國手の名を得しのみならず。國學をも嗜み哥道にも心よせけるにや。徒然草の注犬枕双紙等の著あり。又遠江國原川 町ことごとく燒失す。(當代記。慶長年錄。家譜。)○十五日齋藤金七郞政吉  大御所に謁し奉る。(家譜。)○十八日關東山伏の先達ども入峰の時。天台眞 言兩宗の僧侶より。役錢をとり來りしに。近年僧侶これを出さず。又穢多等本院にいたり。葬具を持かへる事なりしに。近來これも僧等おさへて與へざれば。穢 多等業を失ふにより。山伏等訴狀をさゝげ上裁を仰ぐ。よて本多佐渡守正信がもとにて双方對决せしむ。谷全阿彌某其席にいでゝ。これをあづかりきく。しかる に武州浦和玉藏院看海辨論する所。確據詳明にて僧家の典故を說破しければ。山伏ども詞屈して遂に山伏の非據となりぬ。看海が辨說明白なるよし聞えあぐ。 (慶長見聞書。)○廿二日丑刻駿城火あり。殿閤一宇ものこらず此災にかゝる。  大御所御心地例ならず折ふしわたらせ給ひしかど。本因坊京よりまかりけれ ば。晝は圍棋を御覽じ。夜は早く御床にいらせ給ひ。竹腰小傳次正信御側に看侍せるが。速にかきいだき奉り。御庭へ火をさけたまふ。大番頭松平大隅守重勝大 手の門を警衛し。中山雅樂助信吉は後門を守る。これより先大隅守重勝大手門をとぢて出入をゆるさゞれば。焚死のものすくなからず。  大御所は大手の方よ り出給はんと仰けるを。村越茂助直吉大手は衆人群集し雜喧なれば。後門より出ますべしと申。信吉門をひらき燭をはり。歩卒を左右に列し。守備を嚴にし喧擾 を禁じ。小傳次正信が家に導き奉り。こゝに其夜をあかし給ふ。かくて信吉は速に後閤にはせかへり。鶴子代君猶襁褓の中におはしけるが。餘燄はや後宮に及び しかば。乳母かきいだきまいらせ。はしり出んとせしかど。四方皆烟にて行方しらず。鷹架のほとりにたゞずみ。聲をたてゝ泣いたり。信吉この聲をきゝつけ烟 の中へとびいり。鶴千代君をばをのれいだきとり。かの乳母には小袖に水をそゝぎ上よりおとひ。手を引てやうやうと逃出たり。信吉危急の所にありて精密の心 がまへせりと。  大御所感賞し給ふ。後宮の內門常に男子の出入を嚴禁せらるゝといへども。御家人幷に右兵衛督義直朝臣の家士廿一人。かの門をおしやぶり 後宮に入て。朝臣の御生母お龜の局をはじめ。女房等あまた扶助し。器財もかれこれおひになひて火をさけしむ。卿の乳母宮內卿の局は。路を失ひ悲歎していた るを。平岩主計頭親吉が家士本多小五郞。米倉小傳次すくひてたづさへさりぬ。義直卿大にかの者等がふるまひを悅せ給ひ。  大御所にかくと聞えあげたまひ しに。かの廿一人が制法を犯す罪を正され。後みな改易せられしとぞ。おかちの局(後に英勝院と聞えし人なり。)多くの人におしもまれ。すでに踏殺さるべか りしを。某とかいひし御家人みつけ。これを救ひ御庭へ引出したすけたり。局悅大方ならずこれもかくと聞えあげしかば。その者よく擧動たりとのみにて。别に 仰出さるゝ旨もなかりしが。後に及び。俄なる火事なれば誰々も前後をわきまへず。たゞ御前のさまいかにと思ひ。專一に志して御側にはせ參るべきを。さはな さず奥に入て女房等を引出せしは。臆せるなりとの事にて遠流に處せらる。すべて此火後宮女房の。夜の物置所へ手燭を置しが。其火屋壁の張付にうつり。廣き 殿閣へ一時にもえひろごりし事なれば。男も女も內外たゞあきれて。ものにあたりまどひ入亂れて蹂躙せしゆへ。燒死毁傷する者百人にあまりぬ。女孺の事とり 行ふこちやといふ女房は。衆人の中にて踏殺さる。かゝる中にも君達姬君をはじめ。さるべき女房はみなつゝがなく立退たり。常々御刀收められし匣二御次の間 に置れしが。其中に卅四五ばかり收められし匣はとり出せしかど。七十二いりし匣は重くしてとり出し得ざれば匣を打やぶり。其御刀どもはみな池の中へ投入た り。御文庫寳藏は恙なかりしかども。御座に置れし御寳物ども。一として烏有たらざるはなし。其かみ豐臣太閤より進せられたる白雲の茶壷眞壷。正宗の御脇 差。三原の御脇差。獅子の笛等も燒ぬ。折節在駿の大小名われをくれじと。人數引具し城中に馳つき消防せし中に。堀丹後守直寄いちはやく寳藏にはせつき火を 打けしたるにより。數の寳物をはじめ若干やけず。又消防の料に直寄兼て造り置たる器ことに。をのが名幷器械いくつといふ事をかきしるし。こゝかしこに捨置 たり。この頃いまだ火すくふべき器械たくはへし人もまれなり。直寄がすて置し器とりて消防せしものあまたなれど。今度消防の功ひとへに直寄一人に歸す。   大御所も聞召。兼て用意のほど神妙なりとて御感淺からず。(御年譜。創業記。慶長見聞錄。當代記。坂本日記。雜談。中山家譜。烈祖成績。大三川志。藩翰 譜。)○廿三日  大御所竹腰小傳次正信が家にまします。(創業記。當代記。)○廿四日  大御所本多上野介正純がもとへうつりたまふ。これより日々城中 燒跡を見巡り給ひ。燒し金銀其外龜局の貯金千五百枚。万局五百枚。かちの局三十枚。阿茶局三百枚燒たるをばみな取あつめ。奉行等に命ぜられ久能山につかは し。榊原內記照久にあづけしめらる。これ後に改鑄せしめられん爲とぞ。この日國々の大名等に令せられ。この火災のため御けしきうかゞはんとて。馳參る事を 停めらる。よて諸國の大小名の使。奉りもの献ずること日ごとに絡繹たり。また長崎後藤宗印へ暹羅渡海の御朱印を下さる。また山中山城守長俊卒す。その子八 藏宗俊は先に伏見にて初見し。駿府に御供して近侍す。この長俊もとは橘內とて近江に生れ。佐々木承禎入道につかへ。又柴田修理亮勝家。丹羽五郞左衛門長秀 等に從ひ。後に堀左衛門督秀政がもとへ寓居せしを。豐臣太閤めし出し。爵給はり山城守と稱し。一万石の地を領す。その頃より  大御所にも御恩あつく蒙り しかど。關原の時大坂にありしをもて。石田が方人に類しければ。所領をば沒入せらるといへども。别の義をもて洛陽に閑居せしめ。  兩御所御上洛の折ふし 絕ず召見せられ。もの賜ふ事しばしばなり。卒するとし六十一。(創業記。當代記。慶長見聞書。御年譜。家忠日記。御朱印帳。寬永系圖。)○廿七日相國守長 老承兌蛻す。此僧頗る文才あり。又言論に長じ雄辨すぐれたるゆへ。洛內外寺院の政事。異國往復のことなどとらしめられ。恩寵ならびなかりしかば。諸人の崇 敬大方ならず。よて頗る驕恣にして威福をはりしにや。嘲誹する者も少からざりしとぞ。(舜舊記。慶長見聞書。)○廿八日松平五郞八直基使もて  兩御所へ 物献じ。結城の家づきしを謝し奉る。諏訪因幡守賴水が子松千代御前に召て首服を加へられ。御一字賜はり小太郞忠賴(忠恒と改む。)と稱す。よて備前一文字 の御刀給ひ。烏帽子素襖をかづけらる。(家譜。寬政重脩譜。)○廿九日京より工匠雲霞のごとく駿府へ下る。これ駿城火後經營あるべきが爲なり。近年天主教 盛に行はれ。駿府にてもその教に入者多く。所々に寺院をいとなみ法をとくもの。神祇を罵り佛法を誹謗し。神社にいばりし佛像を焚き。暴逆いたらざる所な し。ほとんど國をみだらんとする萠蘗。すでに生ずるとしらるれば。  大御所聞召。大に御心をなやまし給ふ。(舜舊記。慶長見聞書。慶長年錄。)◎この月 伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衛門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才 壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商後藤幷荼屋等が婦女。祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆にいざなひ酒をのまし め。從者等をばそのあたりの樹木に縳り付刀をぬき。若聲立ば伐てすてんとおびやかし。黃昏に皆迯去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。かく命 ぜられしとぞ。(慶長見聞書。)◎この冬  大御所遠州中泉に鷹狩し給ふついでに。掛川の城に御駕を枉たまひ。城主松平河內守定行に銀綿子を賜ふ。定行も 刀を奉る。そのゝち定行江戶に參り。御前にて宴をたまふ。仙石越前守秀久伴食す。御盃に御刀をそへ給ひ馬をくださる。福島左衞門大夫正則その子刑部少輔正 之が近來所行たゞならず。ひとへに狂氣の至す所に似たりとうたへ幽閉せしめしが。正之はこのゝち遂に餓死すといふ。この三冬寒威嚴酷にして。二十年來覺え ざる所なり。(寬永系圖。坂上地院日記。當代記。)◎此年伊丹喜之助康勝子作十郞勝長。水野對馬守重央子藤次郞重長。松平伊豆守信吉子勘四郞忠國二子興吉 郞忠晴。山角次郞右衞門盛繁二子權兵衞吉次。永見新三郞重成初見し奉る。酒依長兵衞昌吉子喜右衞門昌次。花井伊賀定淸子勘左衞門定光は駿府にて  大御所 に初見し奉る。中川修理大夫秀成子淸藏久盛はじめて江戶に參り拜謁し。御前にて內膳と名を給ひ。御盃に來國光の御刀をそへてたまはり。駿府にまいり  大 御所に拜謁しければ。  將軍より名を授けたまひし御祝にとて。鬼栗毛といふ馬を給ふ。小笠原兵部大輔秀政三子虎松丸。(時に九歲。)江戶にて  御所幷 に  若君に拜謁す。御ゆかりあるをもて。此後江城後閣にて生長せしめらる。  御所の御乳母大姥局の姪岡部豐後守長次子內記吉次十歲にて初見し。局の願 により召出され近侍す。酒井河內守重忠子與七郞忠正小姓になる。佐野半四郞政秀二子甚四郞政勝。(時に七歲。)星合采女正具泰三子兵九郞專來(時に四 歲。)共に近習に加へらる。眞野勘右衞門正次子庄次郞正重。(時に九歲。)  大御所方の小姓になる。稻垣平右衞門長茂三子藤七郞重太(時に十七歲。)花 畑番になる。故三位中將忠吉卿の家士别所孫右衞門重家召出され書院番になる。內藤仁兵衞忠政三子甚次郞政吉初見し奉り書院番になる。朝比奈新九郞昌親二子 八左衞門昌澄。石川半左衞門正次。小長谷彌右衞門時重二子七郞兵衛時連。山田五郞兵衛直時子甚平勝時。美濃部右馬允某子文左衛門茂重大番になる。安西彌右 衛門安勝子甚兵衛元眞燒火間番になる。本多左大夫光重。高井助兵衛貞重。庄田松聲安次は駿府番士八十騎の內たり。稻垣平右衞門長茂子藤助重綱父と共に仰を うけて伏見城を守衛す。加藤善藏成吉子四郞兵衞成次。遠山三郞右衛門景次二子忠兵衛景重。●宮太郞左衛門某。三島淸左衞門政次子彌八郞政吉。大井民部少輔 政吉子新右衞門政景等召出され。美濃部次兵衞茂持子與藤次茂勝。根來右京進盛重子小左次盛正。矢頭又一郞重政子金左衞門重次。長田理助吉廣。味方が原にて 討死せし外山小作正成子藤左衞門正勝召出され。  大御所につかへ奉る。堀小太郞正善は本多佐渡守正信の請により。同じく初見し御側に勤仕し。現米百石。 月俸五口を賜ふ。內藤若狹守淸次。酒井備後守忠利。靑山伯耆守忠俊三人を  若君につけられ。傅相の役を命ぜらる。小姓竹腰小傳次正信を右兵衛督義直朝臣 につけられ。五千石加へられ。一万石になさる。味境村如意村を所領とせられ。犬山にて事あらん時は。川を背にし喰留べきよし面命を蒙る。永井彌右衛門白元 使番となり。使番靑山善四郞重長持筒頭になる。使番も故のごとし。布施新次郞重直父孫兵衛重次の家つぎて。弓同心をあづけらる。天野甚右衛門繁昌歩卒二十 人預る。阿部茂右衛門正勝子勘左衛門宗重は召出され手鷹師になる。安藤帶刀直次は遠州にて五千石加へらる。成瀨半左衛門正虎四千石賜はり小姓組になる。山 下彌藏周勝月俸をあらためて。武州にて采邑を賜ふ。毛利甲斐守秀元諸役免許の仰を蒙り。毛利掃部介廣次も領地水害を蒙り。軍役勤めがたきよしを申ければ。 三千石の地諸役免許せられ。その餘は收公せらる。もとの金吾黃門秀秋の老臣稻葉內匠正成めし出され。一万石領せしめらる。富田信濃守知信從四位下に叙す。 肥前國佐賀城主鍋島加賀守直茂致仕し。原封三十五万七千石を其子信濃守勝茂につがしめらる。此直茂實は鍋島駿河守淸房が子にて。龍造寺山城守隆信につか へ。天文のはじめ豐後國の大友宗麟入道龍造寺が肥前國佐賀の城せめしに。直茂馳向ひしばしば戰かち。大友八郞親貞豐後國より。肥前小城郡今山に陣せしを討 て親貞を討取。その他九州所々の戰に武功をあらはし。剛歒をうち敗る事あげてかぞふべからず。天正十八年隆信が子肥前守政家病により致仕するに及び。その 子藤八郞高房幼稚なれば。直茂に國を讓りしより。佐賀城にうつり住て三十五万七千石を領し。猶鍋島を稱し。豐臣太閤にしたがひ兩度朝鮮に押渡り。武名を異 邦にあらはす。太閤薨ぜられてのち軍をかへし。井伊兵部少輔直政により。始て  大御所に無二の忠をつくさん事を建白し。伏見城に御座をうつしたまはん事 を申すゝめ奉る。石田三成密謀を企て京都靜ならざりしとき。いまの  御所の  御臺所を直茂が家にうつし。守護すべきむね仰くだされしかば。かひがひし くうけばり奉り御感を蒙る。慶長五年關原の役にはをのが國に在て。筑後國へ軍を出し。久留米の城を受とり。立花左近將監宗茂がこもれる柳川の城をせめて。 敵あまた討しかば。御書を下され褒せらる。今年致仕してのち元和四年六月三日八十一歲にて終をとれり。加藤善藏成吉死して其子四郞兵衛成次家つぎ。石原四 郞右衛門昌明死して其子藤太郞安昌つぎ。渥美與四右衛門貞教死して子與四右衛門某つぐ。又この春おかちの局の腹に生れたまひし市姬君を。伊達越前守政宗が 嗣子虎菊丸に降嫁の事仰出され。井伊兵部少輔直勝が妹をもて。政宗が長子伊達兵五郞秀宗に配遇の事仰下さる。又林道春信勝には京にて宅地を下さる。又府內 麴町にて隼の坊を分附せらる。(今隼町といふ。この跡なり。)角倉與一光好(。剃髮號了以。)富士川の舟路をひらき。駿州岩淵より甲府に至るまでの運漕を 通ず。國人皆これを便なりとす。又仰により信濃國諏訪より遠江國掛塚まで。天龍川通船の事をも勤む。佐久間久右衛門安政。源六郞勝之等は此年より妻子を率 て江戶に移住す。九鬼長門守守隆伊勢國鳥羽城に在て。駿府城炎上の告をきゝ。早船三艘をはせて駿府に赴かんとするところ。海上風波あらく遠江國御崎相良の 脇島に漂着し。夫より通夜陸地を急ひて駿府に至り。御けしきを伺ひければ。  大御所御感有て。鷹及び黃金を恩賜せらる。(寬政重脩譜。寬永系圖。家譜。 靑山家譜。貞享書上。烈祖成績。)
台德院殿御實紀卷七 慶長十三年正月に始り六月に終る御齡三十
慶長十三年戊申正月元日歲首の拜賀例の如し。此日日蝕。世人凶兆といふ。水谷彌太郞勝隆爵ゆりて伊勢守と稱す。時に十二歲なりとぞ。(創業記。家忠日記。 當代記。寬永系圖。)○二日謠曲始例のごとし。松平外記忠實從五位下に叙せられ土佐守とあらたむ。去年駿府の城炎上せしかば。  大御所には本多上野介正 純がもとにわたらせ給ふ。在駿のともがら大小名みなかりの御所にまいりて。歲首の賀を聞え上奉る。江戶よりは酒井左衛門尉家次御使し賀し給ふ。大坂の豐臣 右府は織田左門賴長を使して賀せらる。(創業記。當代記。寬永系圖。慶長見聞錄。御年譜。)○四日伊勢朝熊火あり。わづかに一坊を殘して。その佗ことごと く燒たり。(當代記。)○八日駿府淺間の社に。後閤女房祈願するとて湯立をなす處。猶火災あるべきよし神託なりとて。女房等狼狽かぎりなし。(當代記。) ○十日京より宗桂をめし下し。本因防算砂と對局せしめらる。(當代記。)○十一日圓光寺三要に西洋渡海の御朱印を下され。角倉了以光好に安南渡海の御朱印 を下さる。(御朱印帳。)○十三日去年より七八十日に及び雨なし。この晚雨ふる。(當代記。)○十五日去年より松平國千代が家政つかさどらせられし大須賀 五郞兵衛某。彼家に附屬せられし渥美源五郞正勝。坂部三十郞廣勝。久世三四郞廣宣等。政權を失ひしを憤り。大須賀家を亡命するによて。此三人終身を禁錮せ ん事をこへば。其旨にまかせらる。(續武家閑談。)○十六日雨ふる。(當代記。)○廿一日松前民部大輔慶廣が子若狹守盛廣卒す。この盛廣慶長元年父民部大 輔慶廣と共に。はじめて  大御所に拜謁し。六年五月十一日從五位下に叙し若狹守と稱す。父慶廣が叙爵に先だつこと四年なり。八年  大御所將軍宣下御參 內のとき供奉し。けふ卒す。とし三十七。(寬永系圖。)○廿四日昨夜より大雪なり。  大御所には駿府より田中へわたらせられ御鷹狩あり。攝津國天王寺龜 井の水渴して出ず。衆庶あやしみ巷說區々なり。(當代記。御年譜。)○廿六日武藏國岩槻城主高力河內守淸長卒しければ。その嫡孫左近大夫忠房もて原封二萬 石を襲しむ。その子土佐守正長は父に先だちてうせけるがゆへなり。淸長が父をば新三安長といふ。天文四年  大樹寺殿いとけなくましましける時に。織田備 後守信秀八千人を引具し。岡崎を襲ひ來るに。御一族をはじめ防失射んと欲するもの。わづかに八百人には過ざりしが。安長はその父備中守重長と共に。みかた の人々と同じく伊田鄕に討ていで。眞先かけて父子共に討死す。淸長はそのとき六歲にて孤となりしが。生長の後與左衛門といひ。  大御所いまだ駿府今川義 元のもとにおはしける時よりしたがひ奉り。永祿三年五月大高の合戰よりして。一向宗一揆の時も高名少からず。土呂の善秀寺は淸長が本領たりし高力の鄕と近 隣なりしかば。一揆平治の後仰を承りて。かの地の制法を定め。佛像經卷をとりあつめ彼寺にかへせしかば。國民みな呼で佛高力と稱しけり。七年本多天野等と 同じく。岡崎の奉行職を奉り。十一年遠州御征伐のとき。久野の城は第一の要害にて。久野三郞左衛門宗能が一族こもりたり。こゝに淸長遠州可睡齋の住持は。 宗能が歸依僧なるよし兼てしりければ。かの僧につきて宗能をすゝめしにより。宗能味方に屬しければ。當國のともがら多くは御手にしたがひ進らせたり。これ ひとへに淸長がはからひによる所なりとて御感斜ならず。元龜元年姊川の合戰に高名し。三年三方原の戰に鑓疵を蒙る。天正八年九月廿三日遠州馬伏塚の城に。 鎌田の地をそへて下し給ひ。十年泉州堺よりかへらせ給ふ時。小荷駄の奉行たり。八月駿河田中の城給はりてうつる。十二年豐臣家に御和睦の御使せしかば。秀 吉公悅び大方ならず。十四年叙爵させ河內守と改めしめ。豐臣の姓を賜はり。羽柴の氏をなのらせらる。十八年關東にうつらせ給ひし時。今の城にうつり二萬石 賜はり。また浦和邊一萬石の地の代官を仰付らる。此とし豐臣關白は小田原の北條を平らげ。直に奥に下向せらるとて。岩槻の城に駕をとゞめられしに。淸長よ く待儲しければ。關白大に感ぜられ。歸洛の時使して若干の賜物妻子に及ぶ。慶長五年關原の戰には。海道の御供してのぼり。この月けふ卒す。齡七十九なり。 (寬永系圖。藩翰譜。)○廿九日駿府にて酒井雅樂頭忠世に命ぜられ。武藏國八王子の故北條陸奥守氏輝遺臣武功の者十七人を撰び。鶴松君の家人とせられ。中 山雅樂助信吉に附屬せらる。このともがらに配分すべきため。常陸國眞壁郡の內にて别に三千五百石を給ふ。かの十七人は山口六郞右衛門。山口九郞左衛門。山 口惣兵衛。山口久兵衛。長市右衛門。橫手市兵衛。岡部大左衞門。若林作兵衞。神田伊兵衛。島村孫右衛門。國分左大夫。國分權兵衛。加治長兵衛。加治忠左衛 門。鈴木十左衞門。鈴木長右衛門。久下兵庫といふ。(家譜。寬政重脩譜。)◎この月駿府本丸經營をいそがれ。三遠の內掛川。濵松。吉田。岡崎の人夫を召あ つめ。信濃木曾。紀伊熊野の山々より良材を伐出し。關東の人夫をめして伊豆山の材を採り。ともに駿府に運漕せしむ。關東のともがらはさきに江戶修築にあづ かるをもて。駿城の役を除かるゝといへども。去冬不慮の火災により。ふたゝび課せらるゝ所なり。遠三の人夫は去年韓聘饗待のため。駿城の役をゆるされしか ば。今度の役に課せらる。よて江戶より安藤對馬守重信を御使として。こたび經營の用に江府儲蓄の材木を用ひ給ふべきよし仰進らせらる。此材木運漕のため諸 國浦々にて。通船を查檢せしめ。兵粮賣買の船は嚴に禁じて。渡海せしむべからずと令せらる。鍋島信濃守勝茂は駿城經營の助役を仰下さる。又諸大名より去冬 災にかゝりし。駿城の後閤女房阿茶局等五人へ。金銀衣服若干を贈遺す。(武德大成記。慶長年錄。慶長見聞錄。創業記。家譜。慶長見聞書。)○二月三日大田 善大夫吉勝死す。其子甚四郞吉正は天正八年より召出されつかへ奉る。吉勝は三河の產なり。父を甚四郞吉房といふ。十八歲よりつかへ奉り。弘治三年小河刈屋 のたゝかひに。眞先かけて鑓を合せ。十八町畷にて首級を得。永祿十一年根小屋をやく。それよりして姉川。三方原。長篠。小山。遠目等の戰に高名すくなから かず。晚年三子金兵衛吉矩が許にありて。けふうせぬる之。(寬永系圖。寬政重脩譜。)○四日伊勢の桑名町燒たり。これは去々年このかた。しばしばの災をま ぬかれしが。この日遂に燒失す。(當代記。)○六日雪ふる。(當代記。)○七日長谷川讃岐守正吉死して。その子久三郞正信つぐ。(家譜。)○十二日鈴木友 之助信光死す。後に子友之助重氏召出さる。信光は永祿年中より仕奉りて。所々の御陣に供奉し。或は伏見城の留守居を勤め。のち病て鄕里に閑居し。この日死 せしなり。(寬政重脩譜。)○十三日夕陽常よりも紅なり。彼岸の中日なれば祥端とて下民これを拜するもの群聚す(當代記)○十四日駿府の本城上棟の式行は る。この日水野對馬守重央を常陸介賴宣朝臣の傅相とせられ。三千石加恩有て一万石となり。水戶に赴き國政を沙汰す。此時隊下大番士のうち水野三四郞某。平 岩助右衛門近吉。岩手九左衛門信政。夏目彌次郞定次。酒井金三郞某。鈴木七右衛門某。油比甚太郞正吉。水野甚三郞某。宮川金八政久。粂吉十郞某。夏目彌十 郞某。太田新八某。すべて十二人。及銕炮同心五十人を附屬せられ。番士の采邑六千二百五十石同心給分を給ふ。(創業記。寬永系圖。寬政重脩譜。)○廿日朝 比奈惣左衛門嘉勝二千石加恩ありて。采邑三千石をたまふ。三浦長門守爲春に常州にて。二千石加恩給ひ五千石になさる。(家譜。)○廿七日大坂の右府秀賴公 痘瘡をなやまれしが。難治のよし聞えければ。西國中國の諸大名世上をはゞかり。ひそかにけしきうかゞふ中に。福島左衛門大夫正則のみ速に大坂にはせのぼ り。日々左右に看侍すとぞ聞えける。しかるに右府のなやみやゝ快くて。酒湯の式行はる。(創業記。當代記。武德編年集成。 世に傳ふる所。右府のなやみ大 事に聞えしかば。諸寺諸社に奉幣祈禱もはら行はる。小野の御神奇特の靈驗ありと巷說せりとぞ。慶長見聞書。)この日松井助大夫宗次死して其子助大夫宗重家 をつぐ。(家譜。)○廿八日此ころたまたま雪ありといへども。わづかにうるほへるのみなりしに。此夜より大雨。衆民歡ぶことかぎりなし。今年春寒深くして 桃李花やゝ遲し。(當代記。)○廿九日夕陽雲にうつり其形二にみゆ。色ことに朱し。(當代記。)◎是月靑山圖書助重成に。駿府城經營を監せしめらる。(寬 政重脩譜。)○三月三日駿城殿閤屋舍ことごとく瓦葺になし。御座所はこと更白鑞を沃せしめらる。伊東修理大夫祐慶。駿城去冬災後の御氣色伺ふとて。大燭 臺。中燭臺。手燭各二十づゝ奉る。下曾根三右衞門信正死して。その子三十郞信由家をつぐ。(當代記。慶長年錄。家譜。寬政重脩譜。)○四日九州の宮木右京 進賴久燭臺十。會津の藩士町野左近。岡半兵衞蠟燭三箱づゝ。吉倉六兵衞蠟燭二百挺駿府に獻ず。(當代記。)○五日三緣山にて故三位中將忠吉卿小祥の法會行 はる。千僧供養なり。この日松平五左衞門成重  大御所に初見す。(慶長見聞錄。寬政重脩譜。)○十一日駿府本城落成して。  大御所うつらせたまふ。諸 大名酒樽を獻ず。此日烈風甚雷暫時してやみたり。(御年譜。武德大成記。當代記。)○十七日戶田兵右衞門淸勝死して。その子平右衞門勝吉家をつぐ。(寬永 系圖。)◎この月伊達越前守政宗に御家號を給はり。松平陸奥守とあらためしめらる。(これまでは羽柴をなのりしなり。創業記當代記等また宅間が譜に。十四 年とするといへども。今は寬永譜によりてこゝにしるす。榮松錄には今年十二月廿五日とあり。重脩譜には正月の事とす。宅間が譜には伊織忠次奥州に下り。此 命を傳ふとあり。)よて來國光の御刀を賜ふ。石川四郞兵衞重久。はじめて仕へ大番に入。林道春信勝が弟永喜信澄京より駿府に參り初見し。仰により江戶にま かり拜謁し奉る。棋師等京より江戶にまいる。其技御覽はてゝ駿府にのぼる。又伏見代官の下吏芹澤新平。此正月その土妓。(小銀と字す。)をうばひ亡命し。 妓の舊里肥後の邊境に隱れたるが訴へ出しかば。搦とり駿府に下し獄につながる。(寬永系圖。藩翰譜備考。斷家譜。當代記。)○四月四日比叡山正覺院豪圓は 緞子杉原。橫川西塔は杉原末廣。三州小松原寺は杉原末廣。下妻玉泉院 は杉原を獻ず。(當代記。)○五日醫官今大路道三親淸法印に叙ず。(寬永系圖。)○ 八日上總の鷹塲に森嚴寺を創立有て。故越前中納言秀康卿小祥の法會をいとなみ給ふ。(慶長見聞書。)○十日靑木民部少輔一重緞子の袴。料理鍋。錫切立を獻 じ。淺野彈正少弼長政綿百把獻ず。此頃京より碁師利玄駿府にまいりしかば。道石と每日對局せしめらる。三十番にて道石勝を得る事七番なり。(當代記。)○ 十四日淺野彈正少弼長政は馬代銀三十枚。小袖四獻じ。其子紀伊守幸長は小袖十。羽織十獻じ。多羅尾久八郞光雅は鷹五連。池田宰相輝政が臣乾平右衞門は大緖 十筋さゝぐ。(當代記。)○十六日醫官竹田定宣法印に叙す。(寬永系圖。)○十八日池田宰相輝政二子藤松十歲。三子勝五郞七歲。御前に召て首服加へられ。 藤松は從四位下侍從に叙任し。御家號幷御名の一字給はり。松平左衞門督忠繼と改め。勝五郞は從五位下に叙せられ。これも御家號御名の字給はり。松平宮內少 輔忠雄とあらたむ。忠繼に正宗の御刀。忠雄にも御刀に御馬そへて給ふ。(寬永系圖。家譜。)○廿一日駿府烈風にて民屋傾覆するものあり。尾濃兩州大水。 (當代記。)○廿二日圓光寺三要は杉原幷綾。高野山文殊院勢譽は香蕾散。衆徒中よりは緞子。靑嚴寺玄仙は緞子。三州岡崎法花寺 は杉原扇子を獻ず。(當代 記。)○廿三日子刻光物あり。北より南をさして飛さる。(當代記。)○廿四日某寺僧玄榮は杉原末廣。艮西堂は緞子。旭西堂瑞藏主白羽二重をさゝぐ。(當代 記。)○廿八日島津陸奥守家久は銀千牧。三位法印義久入道龍伯は緞子五十端。島津攝津守忠績は金襽。京知恩院 は厚板五端。その使僧榮傳は錫香箱三十。金 斷丸五包さゝぐ。(當代記。)◎是月大久保石見守長安は銀山檢所の仰を蒙り。去年より佐渡におしわたり。銀鑛を穿つといへども。海水多く鑛中に入て功をな す事を得ず。又奥州南部及び松前邊金山ありとて。佐渡より鑿工等競ひ赴くといへども。松前にては粮乏しきがゆへ飢兆なりとて。領主松前民部大輔慶廣の境に 工人をいるゝ事をゆるさず。福島左衛門大夫正則が長子民部少輔正之は。さきに父正則のために幽閉せられ飢死す。その妻は松平因幡守康元が女なれば。  大 御所には一方ならぬ御ゆかりなり。よてこたびその妻を藝州より。康元が總州關宿の城へ引とらしむ。月半まで雨ふらず。關東麥熟せず。西國はよく熟せしと ぞ。東山建仁寺中名高き古藤あり。花のころは都人群遊す。しかるに今年花さかず。都人是をあやしみ凶兆とす。(創業記。當代記。慶長見聞錄。)○五月朔日 毛利中納言輝元入道宗瑞は帷子五。同じ藤七郞秀就。島津陸奥守家久。福島左衛門大夫正則は帷子十づゝ。京極宰相高次。生駒讃岐守一正。松平伯耆守忠一。京 極修理大夫高知。森右近大夫忠政。細川內記忠利。佐竹右京大夫義宣。堀尾帶刀吉晴。幷孫三之助。島津左馬頭以久。德永左馬助昌重。龜井武藏守玆矩。伊東修 理大夫祐慶。松平國千代は帷子五づゝ。南部信濃守利直帷子四。寺澤志摩守廣高。金森出雲守可重。木下右衛門大夫延俊。本多出雲守忠朝。九鬼長門守守隆。相 馬長門守義胤。相馬大膳亮利胤。眞田伊豆守信之。稻葉彥六典通。宮木右京進賴久。遠藤但馬守慶隆。福原越中守某。速水甲斐守守之。伊東丹後守長次。堀田圖 書助勝嘉。靑木民部少輔一重。淺田孫一郞某。戶澤九郞五郞政盛。織田上野介信包帷子三づゝ。本多縫殿助康俊。平岡牛右衛門賴資。桑山伊賀守元晴。桑山又四 郞淸時。成田左衛門尉氏範。由良信濃守貞繁。朽木河內守元綱。其子兵部少輔宣綱。岡部內膳正長盛。那須修理權大夫資晴。本多因幡守俊政。小笠原左衛門佐信 之帷子二づゝ。里見安房守義康單物五。上杉中納言景勝。德永法印壽昌單物三づゝ。西尾豐後守光敷。吉田希代丸重恒。谷出羽守衛友單物二づゝ。直江山城守兼 續は帷子二献ず。(案ずる●諸大名一統に時服を献ずること。ものに見えたるはこの時をはじめとす。これ三季の賀儀に時服献ずるの權輿にや。)長谷川式部少 輔守知は鎭子五十。紫革十枚献じ。曲直瀨養安院正琳は金盞幷薰衣香廿をさゝげ奉る。この日三州大崎の船手役中島與五郞重好死しければ。その子與五郞重春家 つがしめらる。此重好は板倉周防守重宗が異父兄なりとぞ。父與五郞重次は天正四年遠州舞坂湊にて。武田の兵船とたゝかひ討死し。重好は十八年關東にうつら せ給ひし時よりつかへ奉り。慶長五年より大崎海邊船手の事をつとめしとぞ。(當代記。家譜。)○三日加藤肥後守淸正。最上出羽守義光。松平陸奥守政宗は帷 子十づゝ。加賀中納言利長卿。松平筑前守利常。蜂須賀阿波守至鎭。佐野修理大夫政綱。水野六右衛門勝成。石川玄蕃頭康長。松平隱岐守定勝。松平左馬允忠 賴。田中筑後守吉政子隼人忠政。一柳監物直盛。片桐主膳正貞隆は帷子五づゝ。生駒藤太郞。 藤堂和泉守高虎。立花左近將監宗茂。水谷伊勢守勝隆。堀美作守 親良。仙石越前守秀久。小川壹岐守。 松平丹波守康長。內藤豐前守信成。松平河內守定行。戶川肥後守達安。市橋下總守長勝。松平甲斐守忠良。松浦式部卿法 印鎭信。溝口伯耆守宣勝。分部左京亮光信。酒井河內守重忠。石川肥後守康勝。伊東掃部某は帷子三づゝ。松倉豐後守重政。松平又七郞家信。前田左衛門權佐廣 定。高力左近大夫高房。松平玄蕃頭家淸。織田民部少輔信重。牧野駿河守忠成は帷子二づゝ。關長門守一政。中川修理大夫秀成は單物三づゝ獻ず。また二條准后 昭實公單物三。一乘院門跡尊勢帷子二。三寳院門跡義演准后袷二。三菩提院 杉原扇子。常菩提院門跡某匂袋十。高野山無量光院行昌丁子十斤。桑山伊賀守元晴 道服二。袴一。桑山與兵衛某帷子十。山中主水某銀十枚。坂本新五郞某羽二重五疋。片山小右衛門某具光布二端。中川半左衛門某鎭子二十。尼崎又次郞某紫革十 枚。御藥屋勝七は白布五端さゝげ奉る。(當代記。)○六日西尾豐後守光教が子信濃守教次卒す。時に二十一歲なり。(寬永系圖。)○九日建部內匠頭光重帷子 五獻ず。(當代記。)○十三日中川修理大夫秀成道服五。其子內膳久盛馬代銀五十牧。帷子十。綸子緞子袷十獻じ。高野文殊院勢譽錫切立一双。行人方の僧等高 野紙十束さゝぐ。(當代記。)○十四日悟眞寺 杉原扇子を獻ず。またさきに當家を亡命せし小幡勘兵衛景憲江州愛知川にて爭論し。歒手十餘人に切勝て立退 く。(當代記。寬永系圖。 この景憲いま處士たりといへども。大坂兩度の陣中大功あり。故にいまその名をこゝにかゝぐ。)○十五日哥連師里村昌琢景敏法橋 に叙す。(寬政重脩譜。)○十八日河內國狹山領主北條美濃守氏盛卒す。その子太郞助氏信して。遺領一万石襲しめらる。この氏盛は故美濃守氏規が子にて。小 田原沒落の後 當家にしたがふ。左京大夫氏直卒しければ。豐臣太閤その祀を奉ぜしめらる。よて太閤名護屋の御陣に陪從し。慶長五年關原のはじめ大駕にした がひ。上杉追討のとき下野小山にいたり。やがて西尾隱岐守吉次に屬して關原にむかひたり。六年五月十一日從五位下にて美濃守と稱し。けふ三十二歲にて卒し ぬ。この日飛鳥井宰相雅庸卿帷子五。枕一。匂袋十獻じ。花房又七郞某帷子三。 閑齋 帶三筋。 龍庵 鷹五連。團扇二柄さゝぐ。(寬永系圖。當代記。)○ 廿日所々洪水。(當代記。)○廿三日生駒讃岐守一正妻子を江戶の邸にうつり住しむるにより。讃岐國公役の半をゆるさる。(寬政重脩譜。)○廿四日大坂の右 府乳母をして。伊勢太神宮へ參詣せしめ太神樂を執行す。右府母子祈願ありとてなり。(當代記。)○廿六日宗對馬守義智人參二十斤。柳川豐前調信縮緬二十五 端さゝぐ。(當代記。)○廿九日那須修理權大夫資晴那須紙五束獻ず。(當代記。)◎是月筒井伊賀守定次急に召れて。伊賀上野より駿府にまかる。これ其被官 中坊飛驒守秀祐訴る旨あるによりてなり。またこれよりさき水野六左衛門勝成。京より哥舞妓(出來島隼人と字すといふ。)をひきつれ駿府に下り。其藝をなさ しむ。男女群聚して國中をかたぶく。これより先府中舞妓多くつどひ。土人爭論を引立し靜ならざるにより。令して府中の哥舞妓を追放たしめらる。(當代記。 創業記。)○六月朔日深井丹後守某發約五十端。松倉豐後守重政革三十牧。燭臺五。佐久間久六郞勝宗鷹打板。佐久間左兵衞勝年鷹大緖。鷹旋子を獻ず。(當代 記。)○二日權西堂薰籠一。文殊院弟子宮內卿杉原幷綾。南都五師白布十匹。法輪院。  不動院重順。無量院舜運墨十挺づゝ。同招提寺  墨五挺。同卅三か 寺曝布三區。杉原扇子を獻ず。(當代記。)○八日伊賀國上野城主筒井伊賀守定次所領二十万石收公せられ。其子宮內少輔順定ともに改易せられて。奥の岩城に 配流し。鳥居左京亮忠政にあづけらる。定次は大和一國の領主陽舜房順慶が猶子なり。順慶天正十二年長島の戰にむかひ。病にそみてうせぬる頃は。定次いまだ 四郞と稱したるが。家つぎて大和國を領しぬ。十三年豐臣內大臣秀吉關白宣下ありし日。定次をも侍從に任じ。閏八月伊賀國にうつされ上野の城を領し。伊賀守 に改め。慶長五年上杉御追討のとき御供して奥に下る。上方又みだれぬと聞えければ。仰を蒙り御先に本國に馳のぼりし所。居城には留守の兵ども大坂の寄手に おそれ。城を渡して退たりときゝ。定次大にいかり直に海道の味方とひとつになり。岐阜の城を責落し。關原の戰にも先がけし。敵の多勢を打破りしかば。戰ひ 終て後本領安堵し。再び伊賀の國を領す。然るに此頃は家の老臣等へ對面することもなく。常に田獵をのみ好み。又しばしば大坂にのぼり。定次町の家に有て放 蕩淫樂にふけり。侫臣七八人を愛し。大坂の大野道犬等と交り逸遊を旨とす。兼て筒井が被官たりし中坊飛驒守秀祐は。順慶が時より大和にて武功のふる兵なり しが。まして今は慶長七年より召れて。奈良の奉行をも命ぜられし事なれば。其威權を專らにして。當時肩を幷ぶる者なし。筒井が家臣どもこれを妬む徒もすく なからず。定次に讒訴する事絕ず。定次が新進の寵臣に河村與六郞。松浦佐內といへるもの。こと更に秀祐を忌み妬み。桃谷與太左衞門。服部平七郞などい へ る力士とはかりあはせ。君命なりと矯めて。秀祐を二丸によびよせ討取んとす。万財太郞。布施小太郞などもとより大和士なれば。秀祐に荷擔しひそかにかくと 告しらせたりしかば。秀祐病をとなへ辭して出仕せず。万財布施等と共にをのが家の子五百餘人。ひた甲して逆寄し。河村松浦を討はたさんとひしめく。河村松 浦も桃谷服部等としめしあはせて。千餘人二丸にあつまり。防戰の用意す。こゝに於て城下村里の衆民驚て騷擾なゝめならず。やがて中坊より使して。我君に對 して不忠の覺えなし。各私の宿意を以てかゝる騷動をひき出したれば。とくおしよせて秀祐が首をみるとも。各が首を見せらるるともせらるべしと申送りけれ ば。松浦河村もこれにやおそれけん。大坂の邸へ急使櫛の齒をひくごとく注進せり。筒井が老臣桃谷與次郞國仲名張の城にありしが。此よし聞ていそぎ秀祐がも とにいたり。懇に諫めて干戈をばしづめたり。定次はこの程大坂の邸にて淫酒にふけり。痲疾をやみしが。この注進におどろきにはかに歸城しければ。河村松浦 これを待つけて。秀祐不臣の狀を讒訴す。定次大に怒り。直に出馬して中坊が家を燒亡さんとありしを。年老たる家人どもひたすらにいさめとゞめ。又秀祐をも 意見し。定次の詞なりとて國主の留守にありて。干戈を動かさんとする事非禮甚しければ。双方ともに罪をたゞさるべしといへども。秀祐は老父順慶以來の功臣 なれば。罪するにしのびず。父子ともしばらく故鄕南都に立退くべきかとありければ。秀祐父子不臣の心なしといへども。君讒臣の言を信じ給ふうへは。恨なし といふべからず。しかりといへども今に於て。君臣の禮みだるべきにあらねば。仰にしたがふべしとて。家子百餘人甲胄を帶し立退き。南都へは行ずして駿府に まいり。定次常に淫酒にふけり田獵を專にし。讒臣をしたしみ國政をみだるよしをうたふ。定次もまたかくと聞ておどろき。秀祐が不臣の擧動多よしをうたふ。 駿府に於て双方を召决せらるゝ處。定次養父順慶このかた。豐臣家舊好忘るべからずとはいへども。常にひそかに大坂にまかり秀賴に近侍し。其上酒色に耽り讒 侫をしたしみ。國政をみだる事。一々謝するに詞なかりければ。遂に罪せらるゝとぞ聞えし。(御年譜。家忠日記。藩翰譜。筒井家記。 世に傳ふる所。中坊秀 祐さる功慧の老人なれば。常に駿府に伺公し大久保石見守長安に厚く賄ひ。御家人たらん事を請ふ事久し。長安また奸智ふかきものなれば。秀祐をしたしみその 事を周旋せんとす。秀祐元來大和士にて。南都の事情にくはしければ。かの地の訴訟事をば。常に秀祐にはからはしむる事もしばしばあり。秀祐奈良の奉行たら ん事をこひねがひ。長安に媚をもとめをのが私財をもて。長安が第邸を改造するとて。其子忠右衛門秀政を駿府に呼よせむとす。定次これを聞大に秀祐を怨みけ るより。事おこりしといへり。當代記。)本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝に上野の城請取命ぜちれ。筒井が家士幷に財寳は。心まかせに 持退くべしと令せらる。安藤次右衞門正次をして。其郡邑を撿知せしめらる。(慶長見聞錄。烈祖成績。 寬永系圖。藩翰譜。ともに是を十二年の六月とす。誤 れるに似たり。今成績によりてこゝに收む。)この日洛中大水。河內攝津邊堤防をこえて水おしいる。濃州より東は水害なし。(當代記。)○九日古田希代丸重 恒が老臣古田六左衞門緞子道服五。秋山左三郞菖蒲革十枚。長野次右衞門鷹鞢十。仙石三左衞門碁石を獻ず。(當代記。)○十一日藥師寺極樂坊駿府閑能寺。み な束本を獻じ。西大寺高久は杉原に墨そへて獻じ。身延山久遠寺日重は杉原五束獻ず。四月より雨ふりつゞき。關の東西とも洪水の害にかゝる。(當代記。)○ 十六日故越前中納言秀康卿の女子を。(毛利家の呈譜には慶長七年六月六日。  御所の御養女と定給ひしと云。)毛利中納言入道宗瑞が嗣子藤七郞秀就へ配遇 せらるべしとて。けふ福井より江戶に着せらる。(當代記。)○十七日佐々木利助元次死して。その子左衛門正次家をつぐ。(寬永系圖。)○十九日杉若藤右衛 門某曝布廿疋さゝぐ。(當代記。)○廿一日謙庵某單物五。香物一函。半夏二袋。岡田將監善同弓二挺。箙一本。矢筒一。弓立一獻じ。三州大樹寺 光明寺 束 本を獻じ。九鬼長門守守隆單物十金一枚獻ず。(當代記。)○廿五日本願寺門跡光壽生絹十。銀十枚。坊官下間宮內卿大緖五筋。下間少進法印熊障泥三懸。彥山 北院杉原五束。扇一本。同山內藏坊三大部二函。大戶壽德院藥篩二。南禪寺宗最縮緬一卷。同じ長老崇傳。高雄寺眞海束本。近江佐々木神職杉原を棒ぐ。又松平 越後守忠俊白布六十卷。堀監物直次銀三十枚。堀對馬守某帷子五。蠟燭二百挺獻ず。狩野右近孝信大緖五筋獻ず。(當代記。)○廿七日けふまで三日南風烈し く。西國は高潮にて泊船多く毁損す。(當代記。)◎是月丹波國八上の城主前田主膳正茂勝は。德善院玄以法印の子にて。關原の戰にのぞみ。大坂の催促にした がひ。丹波但馬の人々と同じく。丹後の國に向て。細川玄旨法印の田邊の城をせめかこむ。關原の戰終て後别の儀を以て。本領を安堵せしめられたり。これは父 玄以法印が岐阜黃門秀信卿をいさめて。織田殿の御子孫に於て。たとへ幾代をへさせ給ふとも。 德川殿にむかひ御うしろめたき事候べからず。とにもかくにも  德川殿と共に。安否を同じうせさせ給ふべきなりと。諫めけること明らかなり。又大坂にありて逆徒の密事を告により。石田三成が謀叛の狀にも連署せざりし ゆへにや。しかるに茂勝此ほど物にくるふ擧動多くなりて。宗徒の家人を手討し。或は腹切らせ。そのうへ洛中洛外を狂ひめぐる程に。近江の國水口の邊にて。 土人のために打擲せられ。人心ちもなく打ふしてゐたるを。家人等やうやく尋もとめ得しかば。伏見の家につれかへり押籠て置たり。よて其所領五万石は收公せ られ。堀尾三之助に預らる。また駿府にまかりたる棋師象棋師等其技を御覽はてゝ。暇賜ひ歸洛す。(武德大成記。藩翰譜。當代記。)
台德院殿御實紀卷八 慶長十三年七月に始り十二月に終る
○七月朔日大雨なり。この日江戶よりの御使(姓名傳はらず。)桑名加納佐和山に至り。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝に伊賀上野の城 を。筒井伊賀守定次が家臣等より請取べしとの仰をつたふ。(當代記。慶長見聞書。)○五日本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊兵部少輔直勝。各居城を 發程して伊賀におもむく。(慶長見聞書。)○七日細川內記忠利。船越五郞右衛門景直は帷子五づゝ。藤堂和泉守高虎は帷子三。淺野對馬守某團扇二十五柄。中 坊久三郞某は紫皮十枚。多羅尾次郞右衛門光之手燭二を獻ず。(當代記。)○八日駿河の淺間社にて猿樂あり。これ常陸介賴宣朝臣興行せらるゝ處とぞ。また伊 賀上野城請取のこと奉りたる輩彼地に到着せしよし注進す。(慶長見聞錄。)○九日大坂の右府秀賴公より金十枚さゝげらる。關東郡代伊奈備前守忠次紅花五十 斤。蠟燭二百挺獻じ。赤座內膳永成紫皮廿張。遠州二諦坊庖丁刀二。小刀二。いせき鞍一口奉る。(當代記。)○十日本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政。井伊 兵部少輔直勝。上野の城を請取。忠政は本城。忠勝直勝は二三丸を警固す。(創業記。慶長見聞錄。)○十三日比叡山延曆寺に寺領の御判をたまふ。近江國志賀 郡の內惣計五千石永代寄附せらる。全く寺務たるべしとなり。さきに織田右府叡山を燒亡せしよりこのかた。寺領沒收ありしを。今般新に寄附し給ふ處なり。 (令條記。家忠日記。武德編年集成。)○十四日呂宋の書簡をよましめて聞召る。圓光寺長老崇傳して御返簡を製せしめらる。甲胄二領長刀五柄遣はさる。(異 國日記。)○十七日毛利藤七郞秀就に。もとの越前中納言秀康卿の息女を婚嫁せしめらる。(家譜。)○十八日本多出雲守忠朝紅花二百斤獻ず。此日呂宋王より 金襴五端。緋緞子三端。繻子五端。猩々緋一丈壹尺。いそばにや酒二壺さゝげ奉り。かぴたん緞子一端。長蠟燭五挺。綸子三端。伴天連手巾三。玻璃器五。るい す縮緬十端。金襴二端。綸子一端奉る。(當代記。)○廿日關東郡代伊奈備前守忠次。尾張國村邑の撿地を沙汰す。(創業記。當代記。)○廿二日大坂右府より 長光の太刀一振。金二百枚。松平三河守忠直は國安の脇差。綿五百把。銀二百枚。松平下總守忠明蠟燭二百挺。小出播磨守吉政銀五十枚。袷十。小出右京大夫吉 英銀三十枚。袷五。惟子五。大緖五十筋。小出信濃守吉親袷五。織田左門賴長曝布五十匹。吉田助右衛門某梭櫚箒三十本。栗原右衛門某森下紙廿帖。大德院 杉 原扇子。奈良町中市人曝布廿匹。長左衛門銀五枚。銀座の徒銀廿枚。將棊師道滴大緞子二卷。兩替彌左衛門綸子二端。平野忠五郞大糸原二斤。萬屋市右衛門大白 糸二斤。淀次郞右衛門五色糸一斤。道和子丁子五斤。糸屋七郞右衛門せてん二卷。桔梗屋道因紫皮二枚たてまつる。また柬埔寨王より奇楠香一束。同一木。砂糖 六桶。蠟四包。象牙二本まいらせ奉る。この日木村右衛門信久死して子久右衛門則綱家をつぐ。(當代記。家譜。)○廿五日圓光寺崇傳をして。柬埔寨王の書簡 をよましむ。この日田邊屋又右衛門へ暹羅渡海の御朱印。堺木屋彌三右衛門へ柬埔寨渡海の御朱印をくださる。(異國日記。御朱印帳。)○廿六日伊賀國上野へ 奉書を下され。井伊兵部少輔直勝は其地を守り。本多中務大輔忠勝。松平攝津守忠政は歸國すべしと仰つかはさる。(創業記。)○廿九日昨日より大雨。水野市 正忠胤伏見城在番にせられ發程す。飛鳥井宰相雅庸卿加茂の社人松下某が事を訴ふ。こは鞠道の免許を授くること。飛鳥井家に限るべきよし。織田豐臣兩家の證 狀現然たる處。松下近來みだりに門生をあつめ。免許狀をさづくるが故なり。(當代記。慶長見聞錄。創業記。)◎この月宮上出羽守義光駿府にまいり。御遷徙 を賀したてまつる。(家譜。)○八月朔日中國大水。七十年來ためしなきほどの事にして。京都も水おし入流死のものすくなからず。諸國損害多し。三河より東 はこの害少く。播磨はさらに水害なし。(當代記。)○五日松平右衛門督利隆紫革五枚。關長門守一政銀五十枚。羽織五。袷五。單物五。堀民部直里蠟燭百挺。 稻葉彥六典通羽織三。小西七左衛門某綸子十卷。天鵞絨二卷獻ず。(當代記。)○六日  兩御所。飛鳥井宰相雅庸卿へ鞠道の御判物をたまふ。その文にいふ。 蹴鞠の事。加茂松下某私に弟子をあつむる事。先例いまだなき所なり。家人の前にて曲足を蹴る事あるべからず。色葛袴。無紋有紋薰革。無紋紫皮。閉袴。同 沓。紅上香上紫上。金紗一切着すべからざる旨。 勅書幷に代々證判明鏡なり。しかるを近年これに背くものは曲事たり。今より後みだりに弟子をあつめ。又曲 足をけるたぐひ。違犯の徒は嚴に命ぜらるべしとなり。この日呂宋國の船相州浦賀の湊に着し。書簡幷に方物を獻す。御返簡には。交易のため其國に渡海する我 國民等。もし不良の擧動するものは其國法のごとく所置すべしとの御旨なり。また柬埔寨王に御返簡をつかはされ。刀脇差各五づゝ。馬二匹をくらせられ。王舅 某にも馬一匹下さる。呂宋王へも御返簡幷に太刀二柄。甲胄二領下さる。(令條記。紀年錄。異國日記。)○八日比叡山延曆寺の條目を下さる。山門の衆徒勤學 せざる者。住坊かなふべからず。たゞし山門再興の時より住山の僧。ならびに坊舍建立の者。菲學といへども住山をゆるすべし。學業をつとむといへども。行狀 不良のやからは速に離山せしむべし。顯密の名室においては。學匠をして相續せしむべし。一人にて二三坊を兼住するか。又は坊を無住にする事あるべからず。 住持の外坊領を競望すべからず。坊舍幷に坊領賣買。質券禁斷すべし。衆徒連署して黨をむすび。非議をくはだつるにおいては追放たるべしとなり。此日神龍院 梵舜駿府にまいる。(令條記。舜舊記。)○九日神龍院梵舜駿城にのぼり。  大御所に拜謁し奉る。梵舜は論語抄十册。涵星硯一面獻じ。吉田二位兼見卿日本 紀一帖を獻ず。多武峯神像破裂の事を議せらる。(舜舊記。)○十日  御所江城を御首途ありて駿府におもむかせたまふ。土屋民部少輔忠直をはじめ供奉の輩 若干なり。(御年譜。家譜。)○十二日神龍院梵舜駿城にまうのぼる。  大御所先足利學校三要ともに御前にめして。多武峰祈念の事仰下さる。(舜舊記。) ○十三日大風大雨。(當代記。)○十四日一昨日よりの大雨にて。所々洪水の聞えあり。本間權三郞範安死して子五郞左衛門季重つぐ。(舜舊記。家譜。)○十 五日東福寺南昌院 緞子を獻ず。神龍院梵舜まうのぼる。(當代記。舜舊記。)○十六日藤堂將監嘉以小袖一襲獻ず。(當代記。)○十七日梵舜まうのぼる。 (舜舊記。)○十八日  御所駿城にいらせたまふ。  大御所御よろこびなゝめならず。供奉の輩までみな饗膳をたまふ。  御所より長光の御太刀。銀千 枚。袷三十。單物十。惟子七進らせられ。上總介忠輝朝臣も助重の太刀。銀百枚。越後布百匹。金引二百把獻ぜらる。この日大久保右京亮教隆蠟燭百挺。大久保 主膳正幸信晒十匹。永井信濃守尙政蠟燭百挺。森川金右衛門氏信蠟燭百挺。板倉周防守重宗蠟燭百挺。朽木河內守元綱銀十枚。道服二。小袖三。石河伊豆守貞政 塵取二十。川勝信濃守廣綱毛氈五枚。小出播磨守吉政小袖三。遠山勘九郞方景紫草五枚。住吉屋宗外椶櫚箒廿本。堺宗益紅糸一斤。大和玄修麝香三貝。增上寺存 應杉原一束。緞子一卷。けいかん那須紙。呑龍は一束一本獻ず。(御年譜。武德編年集成。當代記。)○十九日神龍院梵舜。本多佐渡守正信によりて駿城にまう のぼり。  御所に拜謁し三重箱を獻じ。吉田二位兼見卿より。惟子二獻ず。(舜舊記。)○廿日駿城七重の天守上棟あり。大工中井大和正次太刀一振。孔方千 貫文。銀子八袋(廿牧づゝこれにいる。)かづけられ。爵給はり守になる。其以下の諸工人皆祿かづけらる。  兩御所其地にのぞませたまふ。助役せし島津右 馬頭以久に賞譽の御書を給ふ。(創業記。當代記。寬政重修譜。)○廿一日神龍院梵舜  大御所に拜謁して。淺間社幣帛の事を建言す。(舜舊記。)○廿二日 駿城の二丸にて  御所を饗せられ猿樂あり。常陸介賴宣朝臣猿樂まはしめたまふ。高砂。田村。揚貴妃。船弁慶。銕輪。皇帝六番なり。足利三要。崇傳長老。 梵舜等も召れてみせしめらる。(創業記。當代記。舜舊記。)○廿三日梵舜まうのぼる。本多佐渡守正信より呂宋國に書簡をくる。(舜舊記。異國日記。)○廿 五日駿府本城にして  御所を饗せちれ。行平の御太刀をまいらせらる。この日尾張右兵衛督義直朝臣へ。  御所より封地の御判物をつかはさる。增上寺存應 駿府に參る。  大御所に血脉をさづけ奉る。また水野監物忠元蠟燭百挺。井上半九郞正就蠟燭百挺。靑木刑部卿法印重直天鵞絨二卷。大久保相摸守忠隣蠟燭五 百挺。酒井雅樂頭忠世蠟燭三百挺。土井大炊頭利勝蠟燭二百挺。藤堂和泉守高虎銀百枚。本多佐渡守正信太刀。馬代金三枚。松倉豐後守重政塵取十。片桐市正且 元金廿枚。綸子三十端。古田織部正重勝袷十。鳥居左門忠賴綿三十把。戶田備後守重元蠟燭二百挺。高木主水正正次蠟燭二百挺。倉橋內匠助政勝蠟燭二百挺。鵜 殿兵庫頭氏長蠟燭百挺。靑山圖書助成重蠟燭百挺。太田新右衛門信盛大緖五筋。安藤彥四郞重能鞢五指。大岸寺 杉原一本。扇一本。大見寺 も一束壹本獻ず。 又駿府阿部川町を娼街として分賦せらる。土人の請によりてなり。(御年譜。當代記。慶長見聞書。)○廿六日駿城に於て增上寺存應以下。淨宗の僧侶をめしあ つめられ。  兩御所法問を聞召る。これにあづかる僧侶百三十人計なり。竹中丹後守重門先に尾張國名古屋城搆造の時。信濃國木曾山の材木奉行せしにより。 御書及び時服羽織を賜ふ。この日備中國足守領主二位法印木下肥後守入道家定卒す。こは杉原平入道信喜が男にて。故豐臣太閤北政所の兄なり。年若時より豐臣 家につかへ。木下の家號賜はり。叙爵して肥後守と稱し。大坂城の留守として播州姬路の城を領し。二万五千石になされしが。慶長六年  大御所より所領かへ たまはりて備中國にうつり。入道して二位法印に任ず。卒せし年六十六。(此入道羽柴中納言としるせし事見えたり。さらばいつのほど中納言にのぼりしにや。 さだかならず。)入道あまたの男子あり。嫡子少將勝俊は若狹の國にて六万二千石を領しける。慶長五年  大御所上杉御追討として。關東へ下らせ給ひし跡に て。伏見の城をまもりしが。大坂の奉行等石田が計策にくみし。伏見の城へ打手をむけし時。勝俊は 當家の御家人等のみを殘し。其身は都にのぼり政所のかた を守護しければ。關原の戰終りて後所領沒入せられたり。二男宮內少輔利房も若狹國高濵の城を領しけるが。石田が方人なりければ。これも所領は沒入せらる。 されど政所のゆかりをもて。死罪の沙汰にはおよばず。三男右衛門大夫延俊。五男金吾中納言秋秀卿は關東の御味方なりしかば新恩を蒙る。四男信濃守俊定。六 男出雲守某は世を早うしぬ。さて入道が遺領をば勝俊利房の二人にわかち給ひしを。政所あながちに。勝俊にのみことごとく領せしめ。利房にはあたへられざり しかば。  大御所聞し召御けしきに叶はず。其所領皆收公せられしとぞ。これは慶長十四年のことなりき。(舜舊記。寬政重修譜。家譜。藩翰譜。)○廿七日 淺間の社にて猿樂あり。  兩御所共にならせられ御覽じたまふ。翁。三番叟。加茂。通盛。熊野。鍾馗。千壽。重衝。天鼓。善知鳥。葵上。是界。自然居士。 養老。觀世。寳生。金春。金剛等ことごとくつかふまつる。崇傳。三要。梵舜等も陪してみせしめらる。(舜舊記。)○廿八日この比京より。 勅使參向あり て。  禁廷より御太刀金二枚。綸子十五卷。親王(後水尾院御事。)より御太刀馬代金一枚まいらせらる。傳奏廣橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿小袖二 づゝ奉られ。中院中納言入道通勝卿は職原抄二卷奉らる。井家攝津守某碁笥。速水右兵衛尉某大緖。立入河內守某鷹掛十指。速水左近大夫某皮。湯淺右近某鞍。 高祐法印 大緖。相國寺鹿苑院 杉原綾幷に文二册。知恩院 杉原幷に板物一。西傳寺 一束一本を奉る。又有馬玄蕃頭豐氏小袖十。蒔繪長持二。銀百枚。蜂須 賀阿波守至鎭唐織夜着三。臺子五飾。銀百枚。生駒讃岐守一正虎皮三枚。猩々緋一。銀百枚。京極宰相高次小袖十。長持十。銀百枚。京極丹後守高知越前綿三百 把。銀百枚。堀尾帶刀吉晴小袖廿。銀二百枚。松平伯耆守忠一唐織夜着二。錦蒲團一。(裏緞子。)蒔繪長持三。銀百枚。一柳監物直盛小袖十。銀百枚。脇坂淡 路守安元小袖十。銀五十枚。加藤左衛門尉貞泰小袖十。銀三十枚。遠藤但馬守慶隆美濃綿五十把。銀三十枚。西尾豐後守光教越前綿百把。銀三十枚。小川壹岐守 某越前綿百把。銀三十枚。杉原伯耆守長房綿五十把。銀二十枚。福島掃部頭高晴小袖十。銀三十枚。谷出羽守衛友小袖五。銀二十枚。靑木民部少輔一重緞子蒲團 三。銀十枚。蒔田左衛門權佐廣定小袖三。銀十枚。宮木右京進賴久も同じ。伊東丹後守長次道服三。銀十枚。速水甲斐守守之小袖五。銀十枚。堀田圖書助勝嘉小 袖五。銀十枚。多賀左近常長單物五。小出大隅守三尹小袖五。神保長三郞相茂小袖三。福島兵部少輔某。高橋右近將監元種。佐藤孫六郞某。福富兵部大夫某小袖 二づゝ。石川肥後守康勝足もみせ五。銀十枚。山名伊豫守義熙小袖二。鈴木越中守重愛紫革十枚。織田民部大輔信重夜着三。銀五枚。其臣大堀治部椶櫚箒十。長 野次助朝倉山椒を献ず。また水野六左衛門勝成。松平玄蕃頭家淸越前綿百把づゝ。松平主殿頭忠利美濃綿五十把。本多豐後守康重美濃綿二百把。本多縫殿助康俊 江戶綿百把。丹羽勘助氏信。小里助右衛門光親江戶綿五十把づゝ献じ奉る。又鵙屋宗觀緞子一端さゝぐ。(當代記。)○廿九日江戶にては  傳通院殿七回の法 會行はる。松平隱岐守定勝。松平越中守定綱。土井大炊頭利勝その事を奉行す。(慶長見聞書。)◎この月藤堂和泉守高虎。伊豫國宇和島を轉じて。伊勢の國安 濃津其外數郡に。伊賀一國をたまはり。すべて二十二万九百五十石になさる。伊賀は筒井が舊領なり。富田信濃守知信は安濃津より宇和島にうつる。五万石加へ て十二万石になる。(知信が轉封を重修譜十二年とするは誤なり。)又松平周防守康重は常陸國笠間を轉じ丹波にうつり。五万石になる。これ前田主膳正茂勝が 舊領なり。  大御所丹波の國は山陰道の要衝たるをもて。八上の故城ならびに篠山の地圖を御熟覽ありて。藤堂和泉守高虎。松平半次郞重則。玉虫對馬守繁 茂。石川八左衞門重次。內藤金左衞門忠淸等に命ぜられ。池田宰相輝政。有馬玄蕃頭豐氏はじめ。丹後。丹波。播磨。美作。備前。備中。安藝及び南海道の人夫 をめして。篠山に新城を築かしめられ。山上に井をほらしめらる。皆巖石を鑿ちしかば。二年をへて漸く成功したりとぞ。このことにより安藤次右衞門正次監使 としてまかる。又西國の諸大名駿府にまいり。御移徙を賀するもの多し。(慶長見聞書。寬政重修譜。家譜。紀年錄。烈祖成績。創業記。)○九月朔日 勅使廣 橋大納言兼勝卿。勸修寺中納言光豐卿駿城にむかへられ。  兩御所御對面あり。この日木下右衞門大夫延俊銀五十枚。猩々緋合羽五。虎皮五枚。毛利伊勢守高 政銀三十枚。小袖五獻ず。(舜舊記。當代記。)○二日神龍院梵舜に時服二襲かづけらる。梵舜は拾芥抄六冊。大小鼓二具。杉原扇子を獻じ。吉田二位兼見卿太 刀馬代をさゝぐ。(舜舊記。)○三日  御所駿城を御首途あり。江城にかへらせたまはむとて。今夜は淸光寺を御旅舘になさる。この寺にそのかみより備へた る等持院將軍(尊氏。)の像を御覽じたまふ。(慶長見聞書。)○五日駿城にては。こたび參覲の諸大名を饗せられ。常陸介賴宣朝臣猿樂まひて見せたまふ。樂 は高砂。田村。揚貴妃。皇帝。船辨慶なり。天方主馬通直二百五十石加へ給ひ。七百五十石になる。(舜舊記。寬永系圖。)○六日神龍院梵舜歸洛のいとまたま はりて。時服一襲。銀五十枚かづけらる。この日松平筑前守利常は長光の太刀。小袖二十枚。銀千枚獻じ。其臣橫山山城守。奥村伊豫守は小袖五づつ奉る。松平 武藏守利隆は一文字の太刀。小袖二十。銀五百枚。綿百把。池田備中守長吉小袖十。銀百枚。山內對馬守忠義小袖二十。銀二百枚。加藤左馬助嘉明綿三百把。銀 二百枚。加藤式部少輔明成緞子夜着二。蒲團一。森右近大夫忠政小袖二十。銀百枚。山崎左馬允家盛小袖五。銀五十枚。桑山左衞門佐一直蒲團二。銀二十枚。松 平陸奥守政宗小袖十。㝡上出羽守義光。毛利藤七郞秀就。蜂須賀阿波守至鎭。細川內記忠利。生駒讃岐守一正。德永法印壽昌小袖五づゝ。前田中納言利長卿。加 藤肥後守淸正。木下右衞門大夫延俊は小袖四づゝ。上杉中納言景勝卿。京極宰相高次。堀尾帶刀吉晴。堀尾三之助。寺澤志摩守廣高。桑山又四郞淸晴。里見安房 守忠義。島津右馬頭久雄。松平伯耆守忠一。佐竹右京大夫義宣は小袖三づゝ。毛利中納言輝元入道宗瑞。生駒藤三郞某。高橋右近將監元種。德永左馬助昌重。眞 田伊豆守信之。佐野修理大夫信吉。京極丹後守高知。九鬼長門守守隆。有馬玄蕃頭豐氏。谷出羽守衞友。一柳監物直盛。織田上野介信包。堀美作守親良。小川壹 岐守某。伊東修理大夫祐慶。稻葉彥六典通。西尾豐後守光教。分部左京亮光信。森右近大夫忠政。市橋下總守長勝。戶澤右京亮政盛。仙石越前守秀久。關長門守 一政。池田備中守長吉。遠藤但馬守慶隆。南部信濃守利直。本多因幡守政武。相馬大膳亮利胤。那須修理大夫資晴。松平國千代。酒井河內守重忠。本多出雲守忠 朝。松平隱岐守定勝。松平河內守定行。石川肥後守康勝。松平甲斐守忠良。石川玄蕃頭康長。直江山城守兼續。吉田兵左衞門某は小袖二づゝ。久野三郞右衞門宗 能は關東綿百把。大島與兵衞某小袖三。餌合木廿づゝ。道標香爐一。畠山左近將監義眞鷹鞢三十。佐々木次郞右衛門某片口五。地藏院 一束一本獻ず。此日東條 民部卿法印行長死して。其子紀伊守長賴家をつぐ。行長其始め安房の里見に屬し。其後豐臣家の旗下に有て大坂に住居せしに。駿府へまかり御懇詞を蒙る。後太 閤の勘當を受。駿府にまかりしに。老衰せしかば剃髮せしめられ。千石賜はり御談伴に加へられ。六十五歲にてうせぬ。子長賴は書院番を勤む。(舜舊記。當代 記。家譜。)○八日伊賀國上野城勤番松平攝津守忠政に代りて。菅沼左近定芳石川日向守家成が人數を引つれ守る。(創業記。)○九日前田中納言利長卿光忠の 太刀。金百枚。紅羽二重二百端。長持十。毛利藤七郞秀就小袖二十。銀五百枚。松平伯耆守忠一小袖十。杉原越後守某菖蒲皮十枚。織田源五長益入道有樂夜着 三。銀五十枚。鞍鐙。織田孫市郞長則小袖十。銀三十枚。㝡上出羽守義光銀百枚。其臣坂上紀伊守㝡上綿五十杷。江州石山世尊院 白綾一束一本。祝丹波 紫 皮。天橋喜入 革二枚。法然寺 一束一本。行藏坊 一束一本獻ず。(當代記。)○十二日  大御所尾州淸洲の城に渡らせられ。法令を仰出さるべき御旨なり しが。俄に江戶に赴かせ給ふ。まづ江城にはいらせ給はず。所々鷹狩し給ふ。(慶長年錄。)○十三日毛利藤七郞秀就御家號を給はり。松平長門守と改む。是よ りさき從四位下の侍從たり。(家譜。)○十五日江府小石川傳通院經營せらる。土井大炊頭利勝。福島織部爲忠奉行す。(慶長年錄。)○十八日  大御所武州 の府中に御鷹狩あれば。  御所もかしこに渡らせられ御對面あり。(慶長見聞錄。)○廿日松平丹波守康長が總州古河の城災にかゝる。(當代記。)○廿一日 山門三院羽二重廿匹。神光坊 一束一本。遠州可睡齋宋山杉原一束献ず。畔柳助九郞武重廩米百苞。月俸二口くはへられ。所屬同心等の俸米をもしるし奉らし め。此後乘馬して御旗の者を指揮すべしと命ぜらる。(當代記。家譜。)○廿二日和州多武峯大織冠像破裂により。祈念の事仰出されしかば。 勅使として吉田 左兵衛佐兼治。萩原兼從。神龍院梵舜京をいでゝ和州に赴く。(舜舊記。)○廿三日   大御所傳通院に詣給ふ。寺領三百石寄られ。檀林たらしめらる。增上 寺の所化廓山住職命ぜられ。所化三百人を附らる。(これまでは住持もさだまらず。增上寺にて兼領せしなり。)此日富田信濃守知信小袖十。銀五十枚献じ。江 尻江城坊 那須紙一束さゝぐ。(慶長見聞書。當代記。)○廿四日和州多武峯にて。大織冠像平愈の祈禱。吉田左兵衛兼治。萩原兼從。神龍院梵舜執行。古例の ごとし。神像平愈歡喜の聲山中にみちしよし土人流言す。(舜舊記。)○廿五日松平周防守康重。常州笠間より丹州篠山へ轉封せらるゝが故に。條約を授らる。 諸士以上一人も殘らず召具すべし。新抱の小者中間は。新封の地まで召具し。其後はその心にまかすべし。農民この以前に亡命せば曲事たるべし。種借の事は金 銀米錢をもて返辨すべし。租稅未進の事はこの後納るにをよばず。夫馬の事度々轉封の例たるべし。先納の賦稅は康重の券にまかすべし。年期賦稅のために役す る所の男女。米錢をかへしなば本主に渡すべし。轉封にて領主農民みだりに竹木伐取べからず。領內轉封により空宅となりし地の。圍垣を破るべからずとなり。 この日生駒讃岐守一正紫皮二十枚。織田民部大輔信重小袖二。本田若狹守重氏小袖二。餌合十。石川日向守家成毛氈十枚。水江别當 一束一本。大山八大坊實雄 杉原三束。先八大坊 一束五本。淸洲正覺寺 一束一本。三河源空寺 一束一本。隨念寺 も同じく献ず。この日多武峰にて法樂の猿樂あり。又上田万五郞元政 死して。その子万五郞元勝つぐ。(令條記。當代記。舜舊記。寬政重修譜。)○廿八日多武峰祈禱終り。神像平愈のよし京より注進す。(舜舊記。)○廿九日島 津陸奥守家久小袖五。秋月長門守種長小袖二。分部左京亮光信道服五。銀二十枚。金森出雲守可重小袖十。金三十枚。仙養寺。 山中寳藏寺。 安樂寺。 妙眞 寺。 岩槻淨國寺。前報土寺某一束一本づゝ。不動院。山本坊扇子十本づゝ献ず。(當代記。)◎是月駿府御移徙を賀してまかりたる諸大名。皆いとまたまはり 江戶へ參りて賀し奉る。又御手洗五郞兵衛直重養子左平次昌廣初見し奉る。淺野彈正少弼長政。生駒讃岐守一正家族を江戶にうつす。又尾張國撿地終る。菅沼左 近定芳この月より伊賀上野の城を。松平攝津守忠政にかはりて守りしが。このごろ藤堂和泉守高虎就封するにより。これに城を授てかへる。また駿府にて無賴の もの夜々市中を徘徊し。路人を殺害すること絕ず。よて賞金をかけて其賊をつのりもとめらる。このほど京にては谷出羽守勝友の子某。蜂屋伯耆守某。孫某と喧 嘩して。谷は蜂屋を討果し逐電す。(慶長見聞書。寬永系圖。慶長見聞錄。創業記。當代記。)○十月二日松平伯耆守忠一綿百把。比叡山南光坊天海一束一本献 ず。(當代記。)○四日御書を吉田左兵衞佐兼治につかはされ。多武峰神像平愈奇特のよし褒せらる。(貞享書上。)○七日江州菩提院 綸子一卷。江戶天德 寺。 同本泉寺。 大胡。新知恩院。 仙林寺。 一束一本づゝ献じ。意白は扇子十本。大山寺八大坊那須紙一束づゝ献ず。(當代記。)○十日德永左馬助昌重 小袖二。銀五十枚献ず。(當代記。)○十一日稻葉彥六典通道服五。紙子道服五。南部信濃守利直砂金馬代三枚。靑山石見守某弓掛鞢五十。靑山左近某大緖三 筋。寺澤志摩守廣高小袖二銀。五十枚。長床坊 一束一本。光明寺 金襴三卷献ず。(當代記。)○十三日服部中保正二子三九郞保俊。三子三八郞保久召出され 仕奉る。(寬政重修譜。)○十七日林丹波正利死して。其子藤右衞門勝正家をつぐ。この正利は金吾中納言秀秋の家人なりしが。慶長八年はじめて召れて  大 御所に謁し。采邑二千石たまはり。けふ四十五歲にて死したり。(寬永系圖。家譜。)○十九日土岐越前守賴元死して其子市正持益つぐ。(家譜。)○廿日內藤 修理亮淸成卒しければ。その子若狹守淸次して家つぎ。䕃料五千石を合。すべく二萬六千石領し。與力足輕をあづかる。此淸成實は竹田宗仲といふものゝ子なり しを。仁兵衛忠政養て子とす。淸成はじめ彌三郞と稱す。忠政が讓りをうけてつかへ奉り。天正八年より靑山常陸介忠成とおなじく。今の  御所の傅相とな り。關東にうつらせ給ひしとき。相摸國當麻の地五千石たまひ。文祿三年叙爵して修理亮と稱し。其後本多佐渡守正信と同じく。淸成忠成三人關東の奉行職を承 り。慶長六年二萬千石になされ。十一年正月淸成忠成罪蒙りて職ゆるさる。(十一年の條を合せ見るべし。)其後ゆるされて 御臺所方の事をうけたまはりし が。けふ五十四歲にてうせぬるとぞ。(寬永系圖。藩翰譜。)○廿二日京にて大佛殿手斧はじめあり。大坂より右府秀賴公のさたとして再興あるによて。片桐市 正且元雨森出雲守某奉行す。(慶長日記。)◎この月京醫坂民部卿法印宗僊駿府に來り拜謁す。  大御所本多佐渡守正信に仰せて。江戶に參り近侍せしめら る。坂は世々室町將軍家に近侍せる故なるべし。此後  大御所の仰により。家傳の蘇合圓を調合す。また本多上野介正純に命ぜられ。暹羅に書簡幷に甲胄を送 らしめ。其國の鳥銃鹽硝をもとめしめらる。新見七右衛門義淸死して。其子七右衞門正信家をつぐ。義淸は遠州濵松の城にましましけるときより召出され。長久 手合戰のとき首級を得たり。小田原關原の御陣にも軍功をはげまし。この月四十三歲にて死せしなり。(寬永系圖。紀年錄。)○十一月三日酒井伯耆守康治死し て。其子與左衛門重治つぐ。康治は小田原北條の家人なりしが。文祿元年密書を献じ御感を蒙り。御家人に列せしなり。(寬政重修譜。)○四日成菩提院に法令 をくださる。天下安泰の祈念。長日護摩油斷有べからず。教觀二道を專らとなし。佛法執行すべし。院領はその住職の外競望有べからず。院領の賣買。質券等禁 斷すべし。顯密の名室たるが故。學匠をもて相續せしむべし。舊制の旨にまかせ。惡行の徒は速に追放つべし。門前に住居する土人等不良の擧動せは。住僧嚴に 沙汰すべしとなり。(令條記。)○五日奥平美作守信昌官にこひ。私財を捐て京建仁寺中に一宇を建立し。久昌院となづく。(當代記。)○七日西城にならせら れ  大御所を饗したまふ。(慶長日記。)○十二日增上寺存應に代々紫衣をゆるされて。永く勅願所とせらるゝよし綸旨をくださる。この日越中國野々市領主 土方河內守雄久卒しければ。遺領一萬五千石を二子鍋之助雄重につがしむ。長子丹後守雄氏は。さきに伊勢近江等の國に於て。别に一萬二千石を給ひしかば。雄 重もて遺領をつがしめられしなり。この雄久は源滿仲朝臣の子大和守賴親七代の孫土方太郞秀治が後胤なり。父彥三郞信治織田右府に屬し美濃國にむかひ土岐が 勢と戰ひ討死す。雄久二歲にて父におくれ。ひとゝなりて北畠內府信雄につかへ。十八歲伊賀の戰に高名し。天正十一年從五位下に叙せらる。同十二年の春信雄 の命をうけ岡田長門守を誅す。長久手の戰終て信雄と秀吉と中なをりし時。雄久使を奉り事よくとゝのひしかば。尾州犬山の城を授られ四万五千石を領す。慶長 四年大坂にて雄久と大野修理治長と刺客に定められ。殿中にて  大御所をうしなひ參らせんと謀るよし聞えければ。いかなる罪にかをこなはるべかりしに。寬 仁の御沙汰ありて。雄久は佐竹に。治長は結城にあづけらる。五年東西の軍起に及んで。雄久をゆるされ加質の國に使せらる。雄久と黃門利長とふかきゆかりあ ることを。しろしめされしが故あり。關東の戰終りて後。雄久は利長とゝもに大津の御陣に參り拜し奉る。このときさるもの。雄久は去年大坂にて。  君をう しなひ奉らんとせし罪かろからずと申けるを聞召。雄久私に我を仇とせしにあらず。大坂の奉行等が申ことを誠と思ひ。秀賴のために忠を致さむと思ひしは。全 く思慮のいたらざるがいたす所なり。古人舊怨を思はずとこそ聞ゆれ。雄久今度使せし勞を賞せずしてはあるべからずとて。越中國にて所領一万石を賜ひ。七年 正月二日河內守に改め。九年五千石加へ一万五千石になされ。けふ五十六歲にて卒せしなり。(令條記。寬永系圖。寬政重修譜。藩翰譜。)○十五日江城に於て 淨土宗增上寺存應の弟子郭然と。法華宗僧日經と宗論せしめらる。高野山遍照光院賴溪判者たり。增上寺存應。光明寺洞雲。幡隨院智譽。鴻巢勝願寺圓譽等召に よりて出座す。大蓮寺了的。大長守原榮。執筆は光嚴寺の專想なり。聽衆は眞言宗大山寺八大坊實雄。大磯地福寺宥譽。天台は川越仙波喜多院運海。同中院實 尊。淺草寺安養院良慶。禪宗は富田大中寺良雄。桀岑寺宗圓。靑松寺麟昌。吉祥寺泉龍。武家には上總介忠輝朝臣をはじめ。松平飛驒守秀行。松平陸奥守政宗。 淺野紀伊守幸長。南部信濃守利直。新庄駿河守直賴。同越前守直定。本多佐渡守正信。大久保相摸守忠鄰。成瀨隼人正正成。安藤帶刀直次。土井大炊頭利勝。安 藤對馬守重信。大久保石見守長安列座し。本多上野介正純は奉行たり。大長寺原策是にそふ。米津勘兵衛田政。土屋權右衛門重成等警衞す。日經は其弟子達源。 玄廳。玉雄。琳碩。可圓をしたがへ出る。しかるに宗論に及んで日經病を稱し詞を出さゞれば。日經はじめ六僧ともに法衣を奪ひさらる。此後日經等は所々にて この宗論に大に勝たりと僞り。俗人をあざむきてやまざりしかば。翌年正月七日搦とられ。京都にのぼせ洛中を引わたし。刑に處せられしとぞ。この日山角又兵 衛正勝子市右衛門勝重拜謁す。(創業記。當代記。寬永系圖。)○十六日松平飛驒守秀行が龍口の亭に渡御あり。大島治右衛門光成死して其子彌三郞光親家をつ ぐ。光成は織田豐臣 當家に歷事し。慶長五年關原陣のときより御家人に加はり。このとし五十歲にてうせぬるなり。(家譜にはこの月六日とす。 慶長見聞 書。寬永系圖。○廿四日小尾監物祐光死す。(重修譜には慶長十二年として月日をしるさず。今は家譜にしたがひこゝにいだす。)其子仁左衛門光重は兼て小納 戶を勤しが。御勘發によりて家をつがず。(光重寬永十二年二月廿六日再び召出さる。家譜。)◎是月吉辰をえらび。  若君御袴着の儀行はれ。其御袴を靑山 伯耆守忠俊が長子伊勢千代に給ふ。伊勢千代時に五歲なり。父と共にまうのぼり謝し奉る。畠山左近將監義眞京よりまかりて御家人に加はる。義眞は能登の畠山 修理大夫義則が弟彌五郞義春入道の長子なり。入道五歲のとき質子として。能登國より越後の上杉謙信の方へまかりしを。謙信が一族上條の家つがせ一門に列 し。今の中納言景勝卿の婦にあはせぬ。この後に義眞生れしかば。景勝卿より豐臣家 へ質子としてまいらせ置たりとぞ。また水野孫助信秀はじめて  大御所 に謁し奉る。堀小太郞正吉  大御所の仰により江戶にまいり。入道して宗傳と改む。齋藤惣右衛門重吉初見したてまつる。(家譜。武德編年集成。寬永系 圖。)○十二月二日  大御所江城を御發駕ありて。駿府におもむかせたまふ。この日小寒の節にいる。(家忠日記。當代記。)○六日松平主稅成重叙爵して右 近將監と稱す。又山田志賀左衛門正勝死す。其子左吉信勝は松平國丸につかへ。二子惣左衛門直次は蜂須賀が家につかへたり。(信勝が孫甚五左衛門信安がとき 召出さる。)正勝は三州の產にて。松平監物家次與一忠正。松平左馬允忠賴等につかふ。天正十二年長久手の戰に首級四を得たり。一級を一貫づゝにあて永樂錢 をたまひ賞せられとしぞ。(家譜。寬永系圖。)○八日永樂通寳を停禁せらる。其令にいふ。永樂一貫文鐚錢四貫文に充べし。但し今より後永樂は一切停禁し。 通用すべからず。金銀鐚錢もて通交すべし。金一兩に鐚錢四貫文をもて換べし。また鐚錢みだりにつかふべからず。但鉛錢。大われ。形なし。新錢。へいら錢。 以上五品の外は滯らず通用すべし。この令違犯するに於ては曲事たるべしとなり。(令條記。 これは小田原北條關東八州を押領するとき。天文十九年より高札 をたて。關東にては永樂錢のみ通用すべしと令したるより。いつとなく關東は永樂錢のみ。上方は鐚錢のみ通用せしに。 當家一統をさせ給ふに及んで。關東に ても永樂鐚を取交て通用する事により。永樂一文をもて鐚錢四文五文にかへ用ゆるに至る。農商等その善惡をあらそひやまず。騷擾を引起す事度々に及びしか ば。かく停禁せらしとぞ。又この令を十一年の十二月八日なりとす。北條五代記。大三川志。)  大御所は江府を出ませしより。御道すがら鷹狩したまひて。 鶴六十隻。白鳥一隻。鴈鴫は數かぎらず得たまひ。この日駿城にいらせ給ふ。(御年譜。)○十日長坂血鎗九郞信宅死す。その子權七郞信吉先達てうせければ。 三子權七郞一正かねて跡つぎたり。この信宅は三河以來の御家人にて。掛川。姊川。長篠。長久手等數度の軍功あり。天正十年甲州陣の時は穴山梅雪信君に游說 し。信君をして武田勝賴に背き味かたに歸降せしむ。十九年奥州陣のときより。鐵炮頭たり。卒する年六十七。(家譜。)○十一日木原七郞兵衛吉次死して子兵 三郞重義家をつぐ。(家譜。)○十四日伊東修理大夫祐慶弓懸十指。松倉豐後守重政小袖六献じ奉る。(當代記。)○十五日先に淨宗蓮宗の僧等宗論せしによ り。この日碑文谷。平賀。藻原。眞間。中山。池上の僧等より辭狀をさゝげしめらる。大久保石見守長安此事を奉行す。(鹽尻。)○十六日松平陸奥守政宗。島 津陸奥守家久小袖十づゝ。松平長門守秀就は小袖六。前田中納言利長卿。田中筑後守吉政。金森五郞八長光。田中隼人忠政小袖五づゝ。加藤肥後守淸正。福島左 衛門大夫正則。細川內記忠利小袖四づゝ。京極宰相高次。堀尾帶刀吉晴。堀尾三之助。石川玄蕃頭康長。松平伯耆守忠一。京極丹後守高知。寺澤志摩守廣高。水 谷伊勢守勝隆。佐竹右京大夫義宣。島津右京亮某。蜂須賀阿波守至鎭。里見安房守忠義。中川修理大夫秀成。小袖三づつ。毛利中納言輝元入道宗瑞。其臣吉川藏 人廣家。上杉中納言景勝卿。其臣直江山城守兼續。松平武藏守利隆。松平甲斐守忠良。松平國丸。松平玄蕃頭家淸。松平河內守定行。松平左馬允忠賴。松平丹後 守重忠。松平右近將監成重。德永法印壽昌。德永左馬助昌重。土屋民部少輔利直。仙石越前守秀久。水野日向守勝成。內藤紀伊守信正。朽木兵部少輔宣綱。牧野 駿河守忠成。內藤左馬助政長。本多縫殿助康俊。戶田左門氏銕。池田備中守長吉。岡部內膳正長盛。宗對馬守義知。谷出羽守衛友。九鬼長門守守隆。遠藤但馬守 慶隆。戶澤九郞五郞政盛。高橋右近將監元種。佐久間久右衛門安政。本多因幡守政武。木下右衛門大夫延俊。小川壹岐守某。關長門守一政。金森出雲守可重。平 岡牛右衛門賴資。森右近大夫忠政。小堀作助政一。生駒藤三郞某。桑山伊賀守元晴。桑山又四郞淸晴。松倉豐後守重政。津輕越中守信枚。眞田伊豆守信之。西尾 豐後守光教。毛利伊勢守高政。福原越後守某。永島右衛門允某。立花左近將監宗茂。日根野織部正吉明。那須權大夫某。石川肥後守康勝。有馬左近某。一柳監物 直盛。織田孫一郞長則。稻葉大夫紀通。北條大之助某。市橋下總守長勝。相馬長門守義胤。稻葉右近大夫方通。稻葉彥六典通。分部左京亮光信。藤懸美作守永 勝。小笠原左衛門佐信之。相馬大膳亮利胤。伊東修理大夫祐慶。戶川肥後守達安。相良左兵衛佐長每。龜井武藏守玆矩。稻葉平左衛門某。六鄕兵庫頭政乘。南部 信濃守利直。蒔田右衛門權佐廣定。成田左衛門尉長忠。久野三郞右衛門宗能。猪子內匠助一時。片桐市正且元。速見甲斐守守之。伊東丹後守長次。靑木民部少輔 一重。宮木右京進賴久。羽柴刑部卿法印雄利。堀美作守親良。小袖二づゝ。朽木河內守元綱越前綿廿把。靑木刑部卿法印重直小袖二。荼碗茶●一づゝ。島田新十 郞某紫皮三枚。毛利掃部某綿廿把。小刀。武藤淸兵衛某𩚵ふこ。山岡主計頭景以挾箱三銀十枚。赤井豐後守忠泰大緖。松平三郞兵衛某紫皮。小堀藤三郞某肱 突。小倉忠右衛門正次てうき。森左兵衛某緞子。有馬修理大夫晴信繻珍五卷。弓掛鞢十指献じ三郞右衛門唐木綿五端奉る。また南蠻伴天連天鵞絨一卷。綿一卷。 鏡一面。唐紙四十五枚。蠻蠟五十挺さゝぐ。(當代記。)○廿四日吉良上野介義彌侍從にのぼる。松平彌三郞忠實は叙爵して土佐守と改む。(慶長年錄。)○廿 五日靑山圖書助成重加秩ありて一万石になり。連署を仰付らる。(家譜。)○廿六日新庄駿河守直賴入道して宮內卿法印になる。(家譜。)○廿九日右筆神尾勝 左衛門房成死して。その子勝左衛門保重家をつぐ。この房成はもと今川の家人にて。後に武田につかへ。遠州濵松にわたらせ給ふころよりして御家人になり。今 年七十六にて死せし之。(寬永系圖。)◎この月はんやあ國より使を奉りしかば。駿府にめして蕃人拜し奉る。(慶長見聞書。)◎此冬北條出羽守氏重  大御 所の仰により。江戶に參りて拜謁す。又三州足助山家の代官三宅辰之助某。妻子共に斬に處せらる。贜罪あるが故とぞ。すべて今年雨多く雪少く和暖なり。(寬 永系圖。慶長見聞書。)◎是年太田新六郞資宗。佐久間因幡守勝年。櫻井八右衛門正松兼松彌五郞右衛門正直。喜多見半三郞重恒。市岡多右衛門定次。山高三右 衛門信俊。山岡十兵衛景次。秩父彥兵衛重能。大久保源三郞忠知。醫員久志本內藏允常亮初見す。源三郞忠知は十六歲にて直に近侍を命ぜらる。宮崎金右衛門時 重。井出甚之助正成。竹田法印定宣某  大御所を拜し奉る。水野日向守勝成子長吉勝俊仕へ奉り。井上淸兵衛政重。秩父彥兵衛重能。桑山內匠貞利。市岡多左 衛門定次は書院番になり。櫻井市右衛門信利。太田治郞右衛門助重。加藤金內正吉。多門平兵衛信正は大番に入番し。中根傳三郞正吉召出され奉仕す。山岡與左 衛門景孝  大御所の小姓組になる。御手洗左平次昌廣大番になる。駒木根長次郞政次。杉原四郞兵衛正永  大御所がたへつかへ奉る。南禪寺長老崇傳ことし より駿府に參候す。醫員片山與安宗哲駿府に宅地をたまふ。曲直瀨養安院正琳。今大路道三親淸。半井驢庵成信。施藥院宗伯等。交代して半年づゝ江府に在番 す。外科望月崇庵宗慶廩米をくださる。細川紹高全隆父の采邑を下さる。又中川淸藏久盛は內膳正と稱し。伊奈熊藏忠政は筑後守。植村新六郞家政は志摩守と稱 し。小堀作助政一遠江守と稱し。共に從五位下に叙す。政一は駿城作事奉行を勤めたる故とぞ。井伊掃部助直孝書院番頭になり。采邑五千石たまはり。植村志摩 守家政。島田治兵衛利正共に歩行頭になり。島田庄五郞利氏は使番になる。倉地彥左衛門時教は常陸介賴宣朝臣に付らる。御側小姓鍋島和泉守忠茂は病免して。 肥後國蓮池にかへり。兄信濃守勝茂がもとにて病をやしなはしめらる。又このとし伏見城代松平隱岐守定勝には。伏見の邊にて一萬石。江州志賀高島二郡四萬 石。すべて五萬石たまひ。又新封の地へうつる故。その費用として城米二萬石をくださる。小笠原和泉守吉次は下總の佐倉より。常陸の笠間にうつされ。二千石 加へて三萬石たまふ。土井大炊頭利勝一萬石加へて二萬石になる。板倉內膳正重昌は遠州中泉にて米千苞たまはり。田付兵庫助景澄五百石下され寄合に列す。水 野惣右衛門光康は二百十三石餘下され。大久保源三郞忠知新に三百五十石くださる。また稻生新七郞某死して。その子嘉兵衛重次家をつぎ。布施藤兵衛勝重死し て。其子五兵衛正盛家をつぐ。勝重は  大樹寺殿このかたの舊臣たり。今年八十八。河村善七郞重信死して。其子善右衛門重勝つぐ。長井淸大夫盛實死して。 その子淸大夫正實のちに家をつぐ。伏見平左衛門長政死して。其子金右衛門長景つぎ。西川仁右衞門貞景死して。其子與左衛門貞重つぎ。魚住內匠義勝死して。 其子九左衛門義政つぎ。有田九郞兵衛吉貞死して。其子九郞兵衛吉久つぎ。山村甚兵衛良勝致仕し。子七郞右衛門良安つぐ。又諸大名に課せて  大內の石垣を 築しめ。各姓名を其石に彫しめらる。池田備中守長吉も其事にあづかる。松平武藏守利隆就封のいとまたまひ。行光の御脇差をたまふ。又小笠原兵部大輔秀政の 女を。  御所の御養女となされ。細川內記忠利へ降嫁したまふ。  大御所三河の邊御鷹狩のついで。本多縫殿助康俊が西尾の城にしばしば渡らせられ。その 度々康俊御膳を献ず。このころ高野山學侶方遍照光院某と。蓮花三昧院賴溪と訴訟の事有て。  大御所駿府にめし御みづから聞召る。これは賴溪智惠才學のす ぐれたるを。一山嫉妬して騷擾を引おこし。遍照光院某を上首にて。訴論に及びし事さだかなりしかば。某を罪せられ。賴溪は直に遍照光院の住職せしめられ。 駿府に伺候すべしと命ぜらる。池田宰相輝政御ゆるしを蒙り。姬路の城天守を搆へ內郭を弘む。秋月長門守種長駿城經營の助役したりとて。御書たまはりて褒せ らる。伊奈備前守忠次下總船橋太神宮造營の奉行を勤む。儒官林道春信勝其弟永喜信澄ともに。駿府にて論語及韜畧等を進講せしめられ。御文庫の管鑰を掌らし められ。信勝に在住の料三百俵たまふ。(寬永系圖。家譜。寬政重修譜。慶長見聞書。藩翰譜。紀年錄。貞享書上。坂上池院日記。羅山年譜。)
台德院殿御實紀卷九 慶長十四年正月に始り六月に終る御齡三十一
慶長十四年己酉正月元日群臣歲首の拜賀例のごとし。駿城も又同じ。江城より御使もて賀せらる。大坂右府秀賴公も賀使進らせらる。この日江戶にては品川町火 あり。(創業記。家忠日記。御年譜。當代記。)○二日立春。けふ令せらるゝは。奴婢一年期の定めを停禁せらる。もとより商人の外。仕官をやめ處士となりし 者か。または農民臨時にものうりひさぎて。一錢たりともとるべからず。但先々よりさることなし來りたる者は。町奉行米津勘兵衛田政及び土屋權右衛門重成の 券をこひうけて其事なすべし。市中に火災あるとき。仕官の族その地にまかるべからず。刄傷せられし者を隱し置べからす。門立すべからす。布帛もて頰をから げ。其外何にても深く面をつゝみ掩ひたる者あらば。見受しまゝに誅すべし。この令違犯せば嚴科に處せらるべしとなり。(令條記。)○四日江城下本町火あ り。石川玄蕃頭康長が第其災にかゝる。(當代記。)○五日  大御所第十一の御子鶴千代の方。正五位下左衛門督に叙任せらる。この時七歲なり。(武家補 任。 御九族記には十五年とし。藩翰譜には十六年とす。今御叙任ある時は。此時より賴房朝臣と名乘給ひしなるべし。)○七日  大御所尾州淸洲にならせ給 はんとて。けふ駿城を御發輿あり。御道すがら三遠の間に御鷹狩あるべしとて。今夜田中にとまらせ給ふ。(御年譜。創業記。)○十日  御所江城を出まし戶 田。浦和。大宮邊を狩せさせたまふ。この日下野國足利の代官小林十郞兵衛重勝死して。子十郞左衛門時喬つぐ。(慶長年錄。家譜。)○十一日  大御所遠州 中泉の御旅館にいたらせ給ふ。(創業記。家忠日記。 國府八幡神職秋鹿某が宅を。天正のはじめ濵松にわたらせられし時より。御旅館と定められ。秋鹿は久保 といふ所にうつる。此地の代官大石十右衛門某御旨にかなひ。折ふしその宅へも渡御なりて。御荼を献ぜしといへり。武德編年集成。)此日角倉了以光好へ東京 渡海の御朱印。平野孫左衛門。小西長左衛門。安當仁からせす等へ呂宋渡海の御朱印。加藤肥後守淸正へ交趾渡海の御朱印。又淸正及びをりしたんはてんとます へ暹羅渡海の御朱印。明人五官へ柬埔寨渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○十三日  大御所十日より中泉御旅館に渡らせらる。けふ御發輿にて道に鷹狩 し給ひつゝ。濵松につかせ給ふ。(御年譜。創業記。)○十四日吉田につかせ給ふ。(創業記。)○十五日吉良に着御。この日御道に十人ばかり群居して。訴狀 をさゝぐる者ありしかば。御駕近く召れしに。彼者等太刀をさしながら。御駕の側に走り參らむとせしかば御けしきあしく。其不敬をとがめられ。彼追立よと仰 らる。よて御駕近く陪從せし若者ども。成敗せよとの仰なりと承り違ひ。畏り候とて追かけ。一々打とらむとす。旣に一人を打とり。其餘は安西といふ寺に迯入 りしかば。多勢を以て寺をとりかこむ。御供の中に日向半兵衛正成といへるはもと甲州士なり。只今寺へ迯入しものゝ中に。山寺といふ者兼て知音なれば。呼出 しその子細をたづねけるに。彼是は皆甲州武川の士なり。先年故三位中將忠吉卿へつけられ。其老臣犬山城主小笠原和泉守吉次が所屬たり。然るに忠吉卿うせ給 ひ。吉次も關東にて所領かへ給はらんとありしに。吉次は此者ども十二人が采邑をも。其身の所領なりと聞えあげ。其數をあはせてこたびの領地を下されしな り。しかしてこの十二人をもこたび吉次引つれて。轉封の地へうつさんとす。十二人の者はもと御家へめし出され。故羽林へ附られし者なれば。吉次が家僕にあ らず。しかるを吉次十二人が采邑をも。其身の所領に合して。こたび封地の御朱印を申下し。其うへに家僕とおなじく引つれて新封の地へうつらんとするが。あ まりになげかしければ。其故を直訴せんとて。御駕を待まいらせしなり。僻境の寒士不敬の罪を犯せしは。幾重にも謝し給はるべしと申。日向もかくと聞あはれ み。人々をも制しなだめ。十二人の者どもへは食物などあたへ。其夜御旅舘にて內々其よしを聞えあげしに。さては吉次が無道より起りし事にて。彼等が罪には あらず。追て御糺明をとげらるべし。さるにても彼等江戶駿府に參り。老臣奉行等へ訴へ。猶ことゆかずば直訴すまじきにもあらず。老臣奉行にも訴へず麁忽に 直訴をかまふること。士類の法にそむき。全く農民にひとしきふるまひなりとて。御けしき猶よからず。日向がけふの擧動は寄特なりと。稱詞を加へられしと ぞ。この日また江戶市街火あり。(創業記。慶長年錄。當代記。)○十九日右兵衛督義直朝臣就封のため駿府を發駕せらる。(創業記。當代記。)○廿日  大 御所吉良より岡崎につかせ給ふ。この日松平甲斐守忠良が總州關宿城燒亡す。またこの頃中國西國の諸大名等。居城堅固に修築するものあるよし聞召。御けしき にかなはず。(御年譜。創業記。慶長年錄。慶長日記。慶長見聞錄。)○廿三日江城にては酒井左衛門尉家次が子小五郞。御前にめし首服加へられ。御名の一字 賜はり。爵ゆりて宮內大輔忠勝と稱す。右兵衛督義直朝臣は岡崎につかせられ  大御所御對面あり。(寬永系圖。家忠日記。當代記。慶長見聞書。)○廿五日   大御所右兵衛督義直朝臣とゝもに。淸洲の城にいたらせたまひ。こゝに數日とゞまらせられ。城郭經營のこと御指揮あり。大坂の豐臣右府よりは。片桐市正 且元を使として。義直朝臣へ太刀幷に銀百枚進らせ。はじめて淸洲へ就封し給ひしを賀せらる。此日故薩摩守忠吉卿の舊臣等を義直朝臣に附屬せられ。各其采邑 をも改て分ち給ふ。(御年譜。蓬左城記。創業記。慶長見聞錄。當代記。 これよりさき平岩主計頭親吉は。義直朝臣御幼稚のほど。淸洲城にありて國務を沙汰 すべしと命ぜられしにより。朝臣に先達て尾州に赴く。薩摩守忠吉卿の舊臣小笠原和泉守吉次。富永丹波守某。其子雅樂助某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀 勝。松平石見守正廣等は。親吉今度義直朝臣の老臣にて。先達て入城すると聞。親吉の旅舘へ使出してこれを勞ひ。吉次幸に犬山城にあり。立寄て休息あるべ し。饗をも設けなんと申送るに。親吉聞て吾は義直朝臣の准父なり。汝等と同格に交るべき身にあらずとて其返事もせず。直に淸洲へ入域す。小笠原富永等の舊 臣其不禮を憤り。是より親吉と舊臣等確執に及ぶ。かゝりしかば親吉は吉次等の國老ども。多年專恣の擧動を探りて。駿府に訴んとはかるとぞ聞えし。見聞案 紙。)○廿七日美濃伊勢の輩ことごとく淸洲へまかり。右兵衛督義直朝臣入城を賀し。あるは銀二十枚。あるは十枚さゝぐ。奥平美作守信昌の妻は  大御所の 御長女(龜姬若。)なり。本多美濃守忠政の妻は岡崎三郞君の御女なれば。御孫にわたらせらる。この方々  大御所淸洲におはしますよし聞て。信昌の妻濃州 加納よりまかり給ひ。忠政の妻は伊勢の桑名よりまいり給ひ。御對面し給ふ。   大御所とりどり饗せられ各金五十枚づゝつかはさる。水野日向守勝成の家人 神谷左馬助三正江戶に召れ。大番士に加へらる。(當代記。慶長年錄。見分案紙。寬永系圖。家傳。)○廿八日淺野紀伊守幸長淸洲にまかり  大御所に拜謁し 義直朝臣入城を賀し申す。これは幸長が女をもて。朝臣の北方と定めらるべきよし。仰下さるゝがゆへとぞ。これより先淸洲城には。  大御所ならせるゝが故 に。城中灑掃するとて。天守の第一櫓深く鎖して明がたかりしを。あながちにをし開てみれば。柿の衣着て鎗の穗を磨きゐたる者あり。人々あやしみこれをとら へたゞせば。尾三の境にすむ農民なり。ある日山伏の形せしものにいざなはれ。こゝに來りしよしをいふ。盜賊にあらねば罪すべきにもあらずとて幽閉し置ける が。十四五日をへて死けるとぞ。(創業記。慶長年錄。)◎是月伊勢大神宮この九月遷宮の事を仰出され。米六万俵よせ給ふ。又大坂豐臣右府の沙汰として。京 東山大佛再造あり。諸國浦々より良材を運漕し。西國中國四國北國の諸大名この事により。米あるは二万石一万石。あるは三千石五千石づゝ大坂へ送りその費用 を助く。造營は片桐市正且元。森出雲守某奉行す。江戶よりも小島久右衞門某。中村彌左衛門某。正村次右衛門某。淸水久右衛門某。植木久兵衛某監使にまか り。每日工匠數万人をあつめ。其經費日々に千金にあまるゆへ。太閤儲蓄せられし千枚分銅といふあり。石河三右衛門勝政。饗塲民部某奉行し。後藤德乘に命 じ。この分銅を改鑄す。分銅一を鑄分て金九百五六十枚づゝになせりとぞ。これみなかの搆造の費に充るがためなり。又京七條にて土民三面の子を產す。江戶府 內にて金を借すものあり。其さまあやしきよし銀匠等訴るにより獄につながる。(創業記。當代記。增補慶長日記。武德編年集成。)○二月二日京所司代板倉伊 賀守勝重に條約を下さる。其文にいふ。所領の治蹟不良なる輩は再三曉諭し。其上にて猶も不良ならん輩あるは聞え上べし。領主轉封して無主の地は其邊の有司 うけはりて。あたり近き代官に治めしむべし。鄕中の農民山論水論をいひあらそひ。武器を用ひ鬪爭に及はゞ。闔鄕の民を誅戮すべし。井堰搆造の人夫は其便に したがひ。闔鄕の男丁を驅使すべし。賦稅不足の地は先に撿斷せし者に。大久保石見守長安。板倉伊賀守勝重。米津淸右衛門正勝が家士をそへ。水帳もて坪入を なし。不足をばのぞきさり現額をもて定むべしとなり。(令條記。)○四日  大御所右兵衛督義直朝臣をともなはせられ。駿府にかへらせたまはむとて。この 日淸洲城をいでゝ岡崎にいたらせ給ふ。(創業記。慶長年錄。)○五日岡崎を出たゝせ給ふ。故薩摩守忠吉卿老臣富永丹波守某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀 勝。松平石見守正廣等御不審のことあれば駿府に參るべしと仰下さる。又美濃尾張兩國去年洪水にて毁壞せし堤防を。修築すべしと令せられ。其他の領主八百名 に二人。農民は百名に一人を課せらる。駿府近習の輩は此役を除かる。(慶長年錄。創業記。當代記。)○十一日  大御所右兵衛督義直朝臣と共に駿府にかへ らせ給ふ。常州笠間城主小笠原和泉守吉次を駿府に召のぼせらる。是も故薩摩守忠吉卿第一の老臣なる故なるべし。島津陸奥守家久は先年御許を蒙りしより。琉 球征討の用意とゝのひしかば。今日家久も山川といふ湊まで出馬し指揮を加へ。樺山美濃守久高。平田太郞右衛門增宗を大將とし。兵船一百餘艘に三千餘の軍兵 をのせて。薩州を發し琉球に押渡り。先大島に着して德島に押寄る。島人千人ばかり防戰せしかど。遂に打勝て三百餘人が首をきり。その餘は皆降人に出しと ぞ。(御年譜。創業記。慶長年錄。寬永系圖。)○十二日酒井雅樂頭忠世上野國善養寺の地五千石くは へたまひ。一萬五千石になる。(寬政重修譜。)○十九 日本多上野介正純。   大御所の御使として江戶に參る。これは常陸介朝臣に駿遠三のうちにて。所領進らせらるべしとの御旨とぞ聞えし。又(創業記。當代 記常州とあるは誤なり。いまは家譜にしたがひ駿遠三とす。)そのついでに上方大名の質子等。怠らず查撿を加へたまふべしとの御旨をも。傳へ聞えあげしと ぞ。江戶にては大番士をはじめ。昵近の御家人等に命ぜられ。馬揃を御覽じ給ひ。馬物具さはやかに駿足多く蓄へし輩には褒物あり。大番近藤惣兵衛吉次には百 俵加恩したまふ。(創業記。當代記。家譜。 重修譜には加恩の事見えず。はじめより三百俵とす。)○廿日九州諸大名駿府に參覲し御移徙を祝し歲首の賀聞え 上る。これは去年さゝはる事有てまいらざりし輩なり。關東の輩もまた歲首を賀し奉るもの多し。松平陸奥守政宗去年御家號たまはりたるを謝して拜賀し奉り。 金百枚。馬二疋。脇差二腰。唐織緞子の夜物十献じ。阿茶の局をはじめ五人の女房だちへも金五枚づゝをくり。諸老臣幷に松平右衛門大夫正綱。秋元但馬守泰 朝。板倉內膳正重昌。榊原內記照久等へも。銀五十枚づゝをくる。その外贈遺若干なり。(慶長年錄。)○廿六日本多上野介正純江戶より駿城にかへり參りて。 御返答を聞え上る。此日駿河町奉行兼代官井出志摩守正次病なくして頓死す。その子小姓甚之助正成家つがしめらる。(創業記。寬永系圖。家譜。)○廿八日京 師日蓮宗二十一寺より。先に罪せられし日經に黨せざるよしの。證狀をさゝげしめらる。(當代記。慶長年錄。)○廿九日この夜奈良の奉行中坊飛驒守秀祐。伏 見の家に有て賊の爲に害せらる。そのゆへは秀祐伊賀の筒井が家の老たりしほど。彼家に仕へし中山といふものありしが。筒井家亡びてのち。志摩の九鬼が家に 身をよせて居たりしが。舊主滅亡は全く秀祐が讒なりとおもへば。其仇をむくはんとたくみしが。それとはなくて秀祐が家をとひ來りしに。秀祐かゝることとは しらず。故舊の事なればとて家にとゞめ。何げなくかたらひしに。今夜遂に秀祐が寢所に忍びいり秀祐を討て立のき。其上伏見の街頭に高札をたて。我身は筒井 家の世臣たり。舊主の仇を報んがため中坊をば討果しぬ。やがて又其子をも斬て後に。我はうたへ出て切腹すべしとしるし置たりとぞ。(當代記。)◎是月大久 保金兵衛忠勝初見す。(寬永系圖。家譜。寬政重修譜。)○三月朔日黑田筑前守長政駿府へ參覲し歲首を賀して銀百枚献じ。また所領筑前は遠國なれば。いまだ 御移徙の賀儀聞えあげずとて。别に金三十枚。時服十。唐織夜物一。唐織小衾一。塗籠弓十挺。虎皮靱百献ず。江戶にては去年小笠原兵部大輔秀政第四の女をも て。  御所やしなはせ給ひ。細川內記忠利に降嫁し給ふ。これ千代姬と申。岡崎三郞君御女の御腹なり。この日江府を出給ひ豐前國へ赴き給ふ。御供は土井大 炊頭利勝。鵜殿兵庫頭氏長伊丹喜之助康勝奉り。大番五十騎供奉せしめらる。この日駿河氷雨ふる。又武州葛西邊雷はげしく鳴震ひ。氷雨ふりて。農家十七八戶 破れ。震死するもの多し。總州關宿にては雷杉の木に震す。又信濃の淺間山燒事甚し。慶長元より二三年の間もかくの如し。天下大凶兆と下民妖言洶々たり。 (創業記。慶長年錄。家譜。寬政重修譜。貞享言上。坂上池院日記。)○四日駿城にて黑田筑前守長政。寺澤志摩守廣高をはじめ。九國より參覲の輩を饗せら れ。常陸介賴宣朝臣猿樂舞をなしみせ給ふ。また先日より故薩摩守忠吉卿の舊臣等を。駿府に召て御糺明のことあり。今日富永丹波守某幷に雅樂助某。戶田加賀 守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守正廣。年頃不良の咎により所領沒入せられ。富永父子淸洲を追却せしめらる。また忠吉卿うせ給ひし時。殉死しつる小笠原 監物忠重が知己の僚友三人。先年淸洲を去て播州に赴き。池田宰相の家に寓居せしがこれも誅せらる。(按ずるに平岩主計頭親吉新に淸洲の政務をとるにあたり て。先代の舊臣等と睦からざること。先にしるせり。よて舊臣等が短をうたへしものなるべし。)故越前中納言秀康卿の寵臣土屋左馬助昌春は。卿卒せられし時 殉死す。その子主殿介忠次家つぎ越前大野の域主として四万石を領せしが。忽に罪蒙て所領沒收せられ。其城は小栗五郞左衛門正高に賜はる。(按ずるに其罪た しからなぬにや。)また故中坊飛驒守秀祐が子左近秀政家つがしめられ。父の原職をつぎ奈良奉行となり。大和近江公料の地を勾當せしめらる。(慶長年錄。創 業記。武德年集成。家譜。 寬政重修譜には月日をしるさず。よりて家譜にしたがひ此日にかく。)○五日下野日光山座禪院に寺領の御朱印を下さる。寺中宅地 幷門前足尾村神主社人宅地等。先規のまゝ相違あるべからず。就中山中たる故土人等。みだりに黨を結ぶ事あらん時には嚴に制止すべし。すべて勤行社役等怠慢 すべからずとなり。この日高力左近大夫忠房が武州岩槻の居城燒たり。(此事を十二年とする書多し。今寬永系圖。藩翰譜。家譜に從ふ。)又渡邊主水久勝。山 中八藏宗俊共に采邑千石下さる。(令條記。家譜。)○六日去月廿日頃より雨多く風はげしかりしが。けふこと更寒さ冬のごとし。里は雨にて山は雪ふる。使番 安藤次右衛門正次越後の國郡邑查撿命ぜられまかる。又加藤肥後守淸正けふ伏見を出て。駿府江戶に參覲す。(慶長年錄。寬永系圖。當代記。)○九日宮城右京 進賴久死して。其子十二郞豐嗣家をつぐ。(寬政重修譜。)○十二日高野山火あり。寺坊七百餘宇燒失す。(寬政重修譜。)○廿三日千代姬君伏見に到らせ給 ふ。豐前國よりは細川が家司松井佐渡康之こゝにむかへ奉る。土井大炊頭利勝は御輿を佐渡にわたし。こゝより辭して江戶におもむく。鵜殿兵庫頭氏長。伊丹喜 之助康勝は猶豐前まで護送す。此頃前田中納言利長卿。莬裘の地と定めたる越中富山城災ありて。財寳ことごとく烏有となる。たゞし吉光の脇差落柴壺肩衝ばか り此災をまぬかるゝといへり。(家譜。慶長年錄。)○廿五日雷鳴し。山近きあたりは霰ふる。野州那須宇都宮邊雹降り。鴈鴨等の諸鳥過半傷死す。(當代 記。)○廿六日藤堂和泉守高虎駿府に參覲し。去年伊賀一國に伊勢數郡そへて賜はりしを謝し奉り。銀二百枚。時服五獻ず。此日故の薩摩守忠吉卿第一の老臣た りし小笠原和泉守吉次。罪蒙て下野國笠間の城召上られ。所領三万石沒入せらる。是も富永丹波守某子雅樂助某。戶田加賀守信光。松平攝津守秀勝。松平石見守 正廣等が連座之。凡て其黨與せし輩はさらなり。其親戚等までも淸洲城下を追却せらるゝ者數をしらず。居宅以下皆收公せらる。(說上にみえたり。慶長見聞案 紙。)○廿七日蒔田左兵衛權佐賴久卒しければ。其子源六郞義祗家つぎ。新恩の地七百石はか へし奉り。原祿千百二十五石たまふ。賴久の先は足利左馬頭義氏 二子左馬四郞義繼の後なり。義繼三州吉良に住し。のち陸奥國にのがれ。夫より六代治部大輔治家が時鎌倉に來る。治家が六代の孫左兵衛督賴康に至り。相州蒔 田に住し蒔田の吉良と稱し。小田原北條に屬す。賴康が子は左兵衛佐氏朝といふ。賴久は氏朝の子にて。武州世田か谷にうつる。天正十八年  神祖に初見し。 十九年采邑千百二十石餘たまひ。慶長五年關原に供奉し。翌年七百石加へたまはり。伏見城全阿彌郭を勤番し。けふ四十二歲にてうせぬるなり。(寬永系圖。寬 政重修譜。)○廿九日藤堂和泉守高虎を駿城にて饗せられ。常陸介賴宣朝臣の申樂をみせしめたまふ。又故豐太閤の時大坂に勤番せし四座の申樂ども。今よりの ちは駿府にまかり。勤仕すべしと仰下さる。このころ  大御所いさゝか御なやみあり。御眼もかすませ給ふよし聞ゆ。(當代記。慶長年錄。慶長見聞錄。慶長 見聞案紙。)◎この月村田與右衛門高勝代官となる。又藤堂和泉守高虎はじめ諸家より。質子を奉らん事を聞え上。家司の子弟を江府にまいらす。(家譜。寬政 重修譜。)○四月朔日島津陸奥守等家久が琉球を征する軍艦。けふ那覇の津に着し中山の兵と戰を接ゆるよし聞ゆ。(寬永系圖。)○三日池田宰相輝政妻子をと もなひ駿城に參り拜謁し。其子藤松松千代をば江府にまいらしむ。この日島津が軍兵琉球の都城を攻破り。中山王尙寧を生擒せしとぞ。又小栗甚丞吉次死して。 其子八十郞吉忠家をつぐ。(創業記。當代記。慶長見聞錄。寬永系圖。)○四日松平武藏守利隆の妻。備前岡山にて男子(新太郞光政なり。)誕生あり。此妻は 榊原式部大輔康政が女にて。  御所養ひとらせ給ひ。利隆にあはせられしなり。よて江戶より牧野豐前守信成を御使として。帷子單物袷銀子ををくられ。其兒 に靑江の御刀信國の御脇差を給ひ。又かの妻にも備中のうちにて。粧田千石をつかはさる。この日未申の交白雲東西にたなびく。其長さはかりなし。此雲東方よ り消はじむ。天正十一年志津嶽戰の前もかくのごとしといふ。又駿城の前殿庭上に。四肢に指なき者弊衣をまとひ髮をみだし。靑蛙を食したゞずみゐたり。近習 の輩大にあやしみ搦取て誅せんとす。しかるを聞召て。罪すべきにあらずとて追放たる。又三州五油の驛災あり。驛舍ことごとく燒失す。(寬永系圖。當代記。 御年譜。)○八日夕陽ことに朱くして。朱鞠のごとき雲一むら日の邊をめぐる。風更に烈し。旱兆といふ。(當代記。)○十一日  大御所いさゝか御不豫なり しが。けふはやゝ御快ならせ給ふ。今夜大雨。此日島津が勢琉球をせめ平げ國人皆降參し。其主尙寧を擒にし歸帆せんとするよし聞ゆ。(當代記。慶長年錄。) ○十四日龜井豐前守玆矩に仰せて。松平周防守康重が女を娶らしめらる。此日和州吉野山の隱士堀江治部大輔教賢卒す。こは伊勢國司の一族にて。祖父中納言親 泰伊勢國星合の域に住せしかば星合を稱す。父宰相具種は星合大河內の兩城を保ちしが。教賢が子采女正具泰をやしなひ世繼とせしかば。教賢後見して有しが。 國司亡びてのち織田信雄聘を厚くして。召事しきりなりしかど。終に固辭して仕へず。吉野山中に閑居して年月を送り。壽八十二にて終をとれり。具泰子孫後に 召出され。今御家人に列す。(寬永系圖。寬政重修譜。)○十六日甲斐國代官平岡右衛門道成致仕入道して樵雲と號。其子岡右衛門千道家つぐ。(家譜。寬政重 修譜。)○廿四日千代姬御方豐前の中津につかせたまひて。細川內記忠利と合卺の禮行はる。よてこの御かたには。豐後國にて千石粧田をつかはさる。(寬政重 修譜。)○廿八日池田宰相輝政の長子藤松江府に參り。初見の禮とりて。再び駿府にのぼりければ。けふ駿城にて申樂あり。常陸介賴宣朝臣を初め。藤松幷に其 弟勝五郞松千代みなこれをつかふまつらる。(當代記。慶長年錄。)○廿九日猿樂あり。金春。觀世。寳生。金剛等つかふまつる。(慶長見聞案紙。)◎是月宰 相輝政の妻は。その生母西鄕局日蓮宗を尊奉ありければ。三子松千代日蓮宗たらしむ事をこはる。よて御ゆるし有て其上御家號たまはり。松平左近輝澄と改めし められ。吉光の御小脇差を下さる。(家譜。)○五月朔日三井寺領寺務の御朱印を。照高院道澄准后につかはさる。其文にいふ。三井寺領近世寺務たる所。全く 相違あるべからず。守護不入たるの上は。みだりに山林竹木を伐とるべからず。殺生を禁斷し坊舍門前寄宿等免除せしむ。あるは修學怠慢の僧。あるは行狀不律 の輩は退寺せしむべし。武士郞黨以下の居住を停禁すべし。猶長日懇祈の精誠を抽べしとなり。又修驗道の御朱印を。聖護院門跡興意法親王につかはさる。修驗 道のこと古來の法度にまかすべし。愛宕山の事各國山伏に同じければ。結袈裟金地等免許し。諸役以下を課すべし。もし違犯のやからは。嚴制を加ふべしとな り。又駿城にては猿樂あり。(令條記。慶長日記。)○二日先月より關東西旱す。今日雨を得て衆民大に喜ぶ。この日亦駿城猿樂あり。金春。金剛。寳生。大 藏。梅若。日吉等つかふまつる。(當代記。)○三日松平飛驒守秀行の妻(神祖第三の姬君。振姬君といふ。)駿府にまいらる。此日若狹國小濵の城主京極宰相 高次卒しければ。其子若狹守忠高して。原封九万二千百石餘つがしめらる。この高次は宇多天皇の御末近江國住人佐々木源三秀義より四代。京極近江守氏信に十 八世の孫長門守高吉が嫡男なり。累代江北の地を領す。高次が姉はじめ若狹の武田孫八郞元明が妻となりしが。元明死してのち豐臣關白秀吉公の寵を蒙り。松丸 殿と申す。高次の母また淺井下野守祐政の娘なりければ。一かたならぬゆかりつき。高次いまだ小法師丸といひし時より。關白の覺あさからず。天正十二年近江 國田中の鄕にて。二千五百石與へらる。十三年七月十一日從五位上侍從に叙任し。近江守又若狹守に改む。十四年一倍の加恩あり。十五年七月十四日同國大溝に て加恩あり。一萬石にせられ。十六年四月十四日從四位下にのぼらせられ。十八年小田原陣の後二萬八千石になる。十九年四月十一日大閤朝鮮を征せられんが 爲。西の京にて犬追物興行のとき。高次その事司り近江の諸士討手をつとめしむ。文祿二年五月廿三日肥前名護屋にて明使來朝のとき。配膳の役をつとめ。四年 大津の城主にせられ。若狹の內をそへて六萬石になさる。この年左少將にすゝむ。また淀殿の妹を妻とせらる。(これ江戶  御臺所の御姉にて。常尊院と申せ しなり。)慶長元年從三位宰相に叙任す。これより先  神祖御上洛のとき。大津城の大破を御覽あり。修理料として銀三十貫目たまふ。四年の春大坂の奉行等 よからぬはからひせしころ。伏見の御館はあまりにあさまなりしかば。をのが大津の城に迎へ奉らんと申。  大御所御感あさからず。五年の秋石田が叛逆せし 時。一旦大坂の催促にしたがひ。北國に發向すといへども。江州東野より馳かへる。大坂近きあたりにては。高次ひとり關東の方人して。大津の城にたて籠る。 關東より攻のぼらせたまふほど。今一二日を待得ず城を開て立退ぬ。されば  大御所も高次いましばし城をたもちたらんには。近江一國をばたまふべきものな りと。ふかく惜ませ給ひしとぞ。やがて若狹國小濵城主にせられ八萬五千石領し。六年江州高島にて七千石加へたまひ。九萬二千百石餘となり。四十七歲にてけ ふうせぬるなり。(創業記。慶長年錄。寬政重修譜。寬永系圖。藩翰譜。)○五日池田宰相輝政の妻子駿府をいとま給ひ。播磨の姬路にかへらるゝにより。かの 妻に金二百枚。銀千枚。綿千把つかはされ。其子藤松へ正宗の御脇差を賜ひ。勝五郞松千代へも御脇差を下さる。此日高力土佐守正長三子虎助長次。叙爵して河 內守と稱し。相馬信濃守盛胤とおなじく。上壇給事を仰付らる。(創業記。慶長年錄。)○八日尾張右兵衛督義直朝臣の亭にて。常陸介賴宣朝臣を饗せらる。本 多上野介正純。松平右衛門佐正綱。成瀨隼人正正成。永井右近大夫直勝。安藤帶刀直次等これにあづかる。この日番士落合長作某は鬼界島。饗塲勝七某は隱岐の 島。岡部藤十郞某は伊豆大島にながさる。一昨年の三月御旅館にて。茶具失ける事に座せしによりてなり。この夜大雨曉にいたる。(慶長年錄。)○十一日伯耆 國米子城主松平伯耆守忠一頓死す。子なくして家絕たり。よて其所領十七萬五千石收公せらる。弓氣多源七郞昌吉。久貝忠三郞正俊。朝比奈源六泰勝撿使に命ぜ られ。古田大膳大夫重治。一柳監物直盛をもて。其城を請取勤番せしめらる。此忠一は中村式部少輔一氏が子なり。慶長五年  大御所上杉御追討のため。京よ り下らせ給ひしとき。一氏駿州沼津の城にて。すでに病牀にふしたり。  大御所村越茂助直吉を御使にて。彼病をとはせ給ひしとき。其子一學にも長光の御刀 賜ひ。六月廿五日彼城にいたらせ給ひしかば。家人橫田內膳が宅にてさまざまの御まうけし。其身輿にかき乘られてかしこにまいり。一氏重病に侵され。此度の 御供にさぶらはぬこそ遺恨に侍れ。愚息いまだ幼なし。弟彥左衛門一榮に軍勢付て參らすべきに候と申詞さへ。誠にくるしげなるありさまにて。さだかには聞え ず。こののちいくほどなく卒しければ。一學わづかに十一歲。伯耆一國たまはりしは。全く亡父が志に報ひ給ふ所とぞ聞えける。やがて今の  御所の御前にて 首服加へられ。御家號幷に御名の字賜ひ。叙爵させて松平伯耆守忠一と稱す。また  大御所松平因幡守康元の女をやしなはせたまひ。忠一が妻となさる。かく 厚き御かへりみを蒙りしかど。ことし二十一歲にて卒せしとぞ。(藩翰譜には忠一舊功の老臣橫田內膳が。常に直諫するをにくみ。饗宴に事よせ城にめして討果 す。內膳が子主馬助大に憤り。父が飯山の城に楯籠る。忠一軍勢をさしむけ其城をせむ。近國の騷動大かたならず。主馬助終に防ぎ兼。城に火をかけ腹切て死 す。  大御所このよし聞召御氣色以の外損じ。姬君に付進せられし道家長右衛門幷に安井淸次郞天野宗葉などを召て罪せらる。この後忠一江戶に參覲せしか ど。府內にいることをゆるされず。品川の驛に籠居しけるが。日をへて召れ見參し。ぼとなくうせぬるとあり。此說のごとくならむにはこの家絕たるは子なきの みにはあらざるべし。)京極若狹守忠高江戶にありしが。父宰相高次うせければ。いとまたまはり急に就封す。(寬永系圖。家忠日記。紀年錄。藩翰譜。慶長年 錄。)○十七日  御所この日藤堂和泉守高虎が邸にならせ給ふ。高虎駿府より金春を召よせて猿樂を催す。(創業記。)○十八日藤堂和泉守高虎がもとに。在 江戶の諸侯をまねき。饗して猿樂あり。此日渡御ありしを。よろこびのあまりに催す所とぞ聞えし。淺野紀伊守幸長が家人松原內記といふもの。賊(右內といふ 小童也とぞ。)のために殺されしを。幸長憤り駿府にうたふ。よてその賊の伯父なりし僧を搦取て獄につながる。又打越左近光隆死して。子左近光久つぐ。(當 代記。寬永系圖。)○十九日この日より霖雨。(慶長年錄。)○廿三日生駒讃岐守一正に一國の課役半をゆるさる。去年より其妻子江戶にうつり住がゆへとぞ。 (家譜。)○廿九日琉球征伐にむかひし島津が軍勢。けふ薩州に凱旋せしとぞ聞えし。(慶長年錄。)○廿七日板倉內膳正重昌。是まで給はりし粟米を改めて采 邑たまふ。(家譜。寬政重修譜。)○廿九日大雪。美濃國加納三ケ所に震す。(當代記。)◎是月和州筒井家の舊臣井戶若狹守覺弘を。江戶にめして拜謁せしめ らる。靑山圖書助重成是を沙汰す。(寬永系圖。武德編年集成。)○六月朔日駿府後閤女房の局より失火す。からうじてうちけしぬ。是に坐せられて。女房二人 遠流せられ。その下婢二人焚刑に處せらる。(當代記。)○二日松平飛驒守秀行の妻。駿府をいでゝ奥に下らる。よて  大御所より金二百枚。銀千枚。綿千把 つかはし給ふ。(東武實錄。 あるは百把につくる。)○三日岡野越中守融成入道江雪卒す。此江雪は伊豆の產にて北條の支族なり。伊豆の田中を領せしより田 中と稱し。小田原北條につかへ板部岡に改め。剃髮して江雪と號す。北條へ御ゆかりむすばせ給ふ時に。かのかたより使命を奉る。十六年氏政よりの使として京 に赴く。豐臣關白より北條へ。沼田の城わたされしとき。江雪これを受とる。又北條亡び小田原の城を。關白より 當家にあづけらるゝに及んで。江雪見參して わたし奉り。其後關白江雪にむかはれ。汝さきに上洛し氏政が使命を通ず。その時沼田の城をわたさば。北條父子一人は上洛すべしと。かたく約しながら。忽に その詞をひるがへし。父子上洛せざりしは。氏政が僞りか汝が奸計かと責問せられしに。江雪答へけるは。北條父子叛逆の心はさらになし。興亡は天なり。たゞ し天下の大軍をひきうけて。日を重ね籠城せしは。面目といふべし。今はたゞ某が首を刎られん事を待のみなりと。詞すゞしく申ける。關白大に感じ。ゆるして 近侍せしめらる。此とき又あらためて岡野と稱す。慶長五年には山岡道阿彌影友とおなじく。 當家に志をはこび忠義をあらはす。此後影友とゝもに近侍しける が。けふ伏見にをいてうせぬ。とし七十四。(寬永系圖。寬政重修譜。)○四日筑後國久留米城主田中兵部大輔吉政卒。其こひ置しまゝに。四子隼人正某原封三 十二万五千石をつがしめ。御名の一字たまはり。筑後守忠政とあらたむ。(この襲封。重修譜には四月とす。今は貞享書上にしたがふ。)長子民部少輔吉次は故 ありて籠居するが故とぞ。この吉政本國近江の人にて。世々高島郡田中といへる地に住しければ。田中とは號せしなり。父は惣右衛門重政といふ。吉政早くより 豐臣家につかへ。關白秀次公いまだ三好と稱せられたる頃より。その方につけられ五千石賜はりしが。秀次關白養父太閤と中たがひしはじめ。吉政はしばしば關 白を諫めしかば。忌遠ざけられしをもて。關白罪蒙られその家人等皆誅せられけるなかに。吉政けつく太閤の御感にあづかり。天正十六年三月十七日叙爵して兵 部大輔と稱し。のち筑後守に改め。十八年十月廿日三河國岡崎の城にうつり。五万七千石になさる。其後八万五千七百石を領し。慶長元年七月廿七日一万四千二 百石餘加へて十万石になり。太閤より○十九日宇都野與五郞正成死して。其子作右衛門正信家をつぐ。正成は  大樹寺殿このかたつかへたてまつり  大御所 の御時にいたり。三方原長篠等に供奉し。六十二歲にてうせぬ。(寬政重修譜。)○廿二日霖雨やゝはれたり。近國田圃みな凶をつぐ。(當代記。)○廿五日松 平飛驒守秀行の家長蒲生源左衛門鄕成は。秀行が淫酒にふけり。新進の臣長野半兵衛重政を寵任する憤り。其子源三郞鄕喜。聟蒲生彥大夫以下。おほく會津を退 く。よて  大御所の仰として。鄕成が所領四万五千石の內一万石を。玉井數馬定祐にさづけ。長沼の城主とし。一万石を岡越後にさづけ猪苗代城主とし。一万 石を蒲生五郞兵衛鄕治にさづく。(武德編年集成。)◎是月三河國上和田に蟄居し。その產神犬頭明神の社職となりし大久保平大夫忠重子源次郞忠之大番に召出 され。廩米二百俵給ひ。腰物持役となる。これは一族相摸守忠隣彥左衛門忠教等がこひ奉るによてなり。此頃京にて荊組皮袴組と號する無賴の徒七十人搦取。そ の魁首四五人を誅し。其黨類ことごとく追放たる。(家譜。)
台德院殿御實紀卷十 慶長十四年七月に始り九月に終る
○七月五日島津陸奥守家久琉球を征し。其王を生擒せしよし注進するにより。其軍功を賞せられ。家久に御書を給ひ。三位義久入道龍伯幷に兵庫頭義弘入道惟新 にも。同じく御書を給ひ褒せらる。(家忠日記。)○六日伊藤淸右衛門正俊死して。その子助藏正重家をつぐ。(寬永系圖。寬政重修譜。)○七日  大御所よ り島津陸奥守家久に。琉球の軍功を賞せられ。其地を家久に下さる。凡琉球の稅額十二万石餘といふ。また猿樂金春其技をつかふまつりはてゝ。暇給はり駿府に おもむく。この日本多上野介正純後藤庄三郞光次沙汰し。崇傳長老に呂宋の御返簡をつくらしめらる。(御年譜。家忠日記。當代記。異國日記。)○八日土藏番 頭小林兵部大輔正忠死して。其子半兵衛正信家をつぐ。(家譜。)○十一日本多上野介正純御旨を傳へて。崇傳長老に阿蘭の御返簡をつくらしむ。かの國王こた び始て書簡幷に印子盃二。糸三百五十斤。鉛三千斤。象牙二さゝげて。今より後は永く通商せむ事をこふ。よて入船の津を定め。舍舘をも置れん事をこふまゝ に。ゆるさるゝ旨をぞしるしける。(異國日記。)○十二日上田兵庫元俊沒す。其子万五郞元政も父に先立て死しければ。孫万五郞元勝して家つがしめらる。元 俊が父は 淸康君につかへ奉る。母は石川安藝守淸兼が女なり。元俊三州明大寺合戰のとき。  大樹寺殿の先鋒にて。松平藏人信孝を討とる。此とき金の三本 傘の指物をゆるさる。いまの  大御所に至り。信孝一旦御敵たりといへども。御從祖叔父たるをもて。其孤女の沈淪を憐みたまひ。元俊に嫁せしめらる。元俊 武勇といへども明大寺合戰のとき疵蒙り。行歩わづらはしかりければ。其後軍陣の供奉はかなはず。常に留守してありしが。今年八十一歲にて終をとる。(家 譜。)○十三日本多上野介正純より。島津陸奥守家久がもとへ消息もて。  大御所琉球の大功御感賞の旨をつたふ。(島津文書。)○十四日京都にて  當 今。(後陽成院。)の御いつくしみを蒙る女房廣橋局。(廣橋大納言兼勝卿女。)唐橋局(中院也。是軒通勝卿女。)をはじめ五人の女房等。猪熊侍從教利。鳥 丸左大辨光廣。飛鳥井少將雅賢。難波少將宗勝。大炊御門左中將賴國。花山院少將忠長。德大寺少將宣久。松木侍從宗澄。牙醫兼保備後賴繼等に挑まれてしばし ば參會し。酒宴亂行に長しけること露顯し。兼保を拷問せられしに。ことごとく白狀せしかば。逆鱗大方ならず。この輩男女ともに。死刑に處せらるべしとの內 旨により。京より板倉伊賀守勝重を駿府に召下して。そのことを議せらる。こゝに及び猪熊侍從教利罪を恐れて逐電す。教利は豐臣太閤のときも淫行の聞えあ り。今度も又この徒の魁首なり。この人の妻は前田中納言利長卿の女なり。織田長益入道有樂の子左衞門佐長政。教利を導て亡命せしめければ。これも連座すべ しとぞ聞えける。此日織田左京亮信好卒す。こは右府信長公第十の子なりしが。嗣子なければ其家絕ぬ。又ことさらに令して煙草を禁ぜらる。烟を吸とて火をあ やまつもの多ければなり。(創業記。當代記。慶長年錄。武德編年集成。)○十五日下野國高田專修寺僧正堯眞に御朱印をたまふ。專修寺住職幷に諸國末寺等綸 旨にまかせ。先規のごとく進退相違あるべからずとなり。(令條記。)○十六日諸國大水。美濃遠江兩國は水かさ去年より高き事。三尺ばかりとぞ聞えし。(慶 長年錄。)○十七日大番頭松平丹後守重忠山口但馬守重政に。伏見城在番の條約を授らる。其文にいふ。喧嘩爭論嚴に停禁せらるゝ所。違背のやからは理非をい はず。双方ともに罪せらるべし。あるは親戚あるは知音とて荷擔せば。其罪本人よりも嚴重に處せらるべし。何事たりとも出城すべからず。番士等故ありて出城 する時は。番頭兩人にうたへ。其指揮にまかすべし。もし番頭さはる事あらば。組頭にこひて出城すべし。此條令をかたく守るべし。もしゆるし置てみだりなる ことあらんには。番頭曲事たるべしとなり。又酒井雅樂頭忠世。土井大炊頭利勝。安藤對馬守重信。靑山圖書助重成。連署の令には。城中番士同僚の外地に參會 すべからず。番所には常に武器得道具設置べし。戍役の間京地の人一切召置べからす。城中へ諸人出入せしむべからず。戍役の間日簿を嚴に注記すべし。もし饗 宴催とも一汁二菜にかぎり。酒は二返たるべし。上下とも市中の浴室におもむくべからず。嚴に火をいましむべし。これ等肝要たれば。いさゝか油斷すべからず となり。又本城前門は。山口但馬守重政家士に。番頭より人をそへて警衛せしむべし。本城より西城にまかる所の門は。重政人數もて警衛すべし。後門は松平丹 波守重忠家士に。勤番與力の輩より人そへて警衛せしむべし。警衛のこと前後をさだめらるれば。五十人の中たとひ病者ありとも。廿五人は門櫓に警衛なさしむ べし。晝の更替は二度たるべし。表の番士二人。裏の番士二人不寢の番として。途中にて行あふべし。番頭は番所に夜臥すべし。小笠原左衛門佐信之。稻垣平右 衛門長茂警衛せし所は重忠勤番すべし。酒井作右衛門重勝は先規なし來りしまゝに勤番すべし。岡部內膳正長盛警衛せし所は。土岐山城守定義勤番すべし。太皷 役坊主の直所。ならびに定番所に無狀の事あらば。前門番の輩過失たるべし。この條目かたく守るべしとなり。また阿蘭につかはさるゝ御朱印の券をつくらしめ らる。その文にいふ。蘭舶來着のとき。何方の湊たりとも。異議あるべからず。今より後此旨を守り往來すべし。いさゝか踈易あるべからずとなり。ちやくすく るうんへんけふらんすひつくゐあふらはむはんてむふろくきうあすへいけへつかはさるゝ所四通なり。又代官黑川左京亮正秀死して。子與兵衛正直家をつぐ。 (令條記。家忠日記。異國日記。寬政重修譜。)○十五日錢貨通用の令を下さる。金一兩をもて永樂錢一貫文に換べし。京錢は四貫文たるべし。鉛錢無形大割新 錢へいら錢の外は。えらばず通交すべし。金一兩もて銀五十目にさだむ。この金をもて賦稅幷に物貨ともに用ゆべしとなり。(令條記。)○廿日阿媽港渡船停禁 の御朱印をつかはさる。其文にいふ。吾邦の商船阿媽港にいたること。其國人難澁するよし聞ゆれば。嚴に停禁せしむ。もし此令にそむき着船するときは。其國 法のごとく處置すべしとなり。(異國日記。)○廿五日堺木屋彌三右衛門へ。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○晦日本多豐後守康重が三州岡崎城災 あり。火藥收貯の櫓より失火すとぞ聞えし。(創業記。)◎是月伏見戍役にさゝれし松平丹後守重忠。山口但馬守重政幷に加番土岐山城守定義いとま給はり江戶 を發す。又美濃國郡邑を撿地せしめらる。また駿府にては市街に令し。風流躍を催さしめらる。また鳥居又左衛門吉次死して。其子又兵衞吉長家をつぐ。井戶若 狹守覺弘新に廩米三千俵たまひ。御家人に加へらる。(慶長年錄。家譜。寬政重修譜。)○八月四日さきに故松平伯耆守忠一が伯州米子の城。收公の監使にさゝ れたる朝比奈源六泰勝。久貝忠三郞正俊。弓氣多源七郞昌吉に。大久保相摸守忠隣。本多佐渡守正信連署の下知狀をさづく。其文にいふ。寺社人幷に農商に對 し。武家の家僕等ひが事ふるまふべからず。みだりに竹木伐取べからず。農民等其國を亡命せば曲事たるべし。地頭代官等非據の沙汰あらんには。御使幷に番頭 及び其國の老臣等へうたへ出べし。この條違犯の徒は。嚴科に處すべしとなり。又各所に刈草塲の制を令せらる。先々より入交り刈草せし地を。あるは鍬目を 付。あるは境を立。あるは屋敷搆をなし置。草からしめざるものは曲事たるべし。先々の例のごとく。はゞかりなく刈とるべしとなり。この日岡部內膳正長盛。 下總國山崎より丹波國龜山にうつり。二万石加恩ありて。舊領に合せて三万二千石になる。(令條記。武家嚴制錄。家忠日記。 藩翰譜は六日にかけ。重修譜に 八月とし。後に二千石加へ給ひ。三万四千石になるとしるす。)○九日京畿大風。(當代記。)○十日大風。江州にては大に禾稼を損ず。美濃尾張三河は。午よ り亥まで尤はげし。(當代記。)○十二日江戶より上番の輩。伏見城にいたりしかば。是まで勤番せし水野市正忠胤。渡邊山城守茂はじめ。其番士百人皆交替し てかへる。此日菅沼左近定芳が所領伊勢長島洪水なりとぞ。(寬永系圖。家譜。)○十六日有馬玄蕃頭豐氏。丹波國篠山城搆にあづかりしを褒せられて御內書を 賜ふ。藤堂和泉守高虎は同城經營の時。繩張を改め正し。且搆造の助役せしかば。これも御內書たまはり御感の旨を仰下さる。(貞享書上。)○十八日東寺に法 令の御印書を賜ふ。其文にいふ。東寺高野は相互に學業相續すべし。もし不學の徒其室を汚に於ては。持律の僧をもて引かふべし。觀智院は一宗の勤學所なり。 かの經藏に收貯の諸聖教は。他に類本なきがゆへに。尤以て尊重すべし。こたび一卷も欠漏せず其書目を查撿して。副本を繕寫し。高野山靑巖寺にをくり。其經 藏に收貯し修學の資となさしむべし。專ら古跡の學室を再興して。修學專一たるべし。東寺醍醐眞言教相の學室廢絕に及ぶこと。尤以て怠慢といふべし。無學の やから寺領を沙汰することあるべからず。速に修學の興行あるべしとなり。(令條記。)○廿一日永田庄九郞政次死して。其子傳左衛門重路家をつぐ。(寬永系 圖。寬政重修譜。)○廿四日先手頭加藤惣市郞正次死して。其子傳吉正信家をつぐ。此正次は惣右衞門正成が子にて。永祿六年三州に於て一向宗一揆の時。小豆 坂針崎にて高名せしを始とし。吉田。牛窪。姉川。遠目。長久手等の合戰に軍功をはげまし。齡つもりて七十七。けふ終をとりし之。(寬永系圖。)○廿五日龜 井武藏守玆矩に。暹羅渡海の御朱印を下さる。(御朱印帳。)○廿七日今年初春より雨多し。正月よりけふに及び。雨ふる日をかぞふるに。百廿日に及べりと ぞ。(當代記。)○廿八日關東眞言宗古義の諸寺に法令を下さる。其文にいふ。一年兩度法談の日嚴に增减あるべからず。二季の稽古一季たりとも懈怠すべから ず。本寺住山かならず三が年をとぐべし。本寺住山すといへども。學業精勤せざるものには。能化をゆるすべからず。談義の所々に於ては。能化の下知に從ふべ し。本寺住山の間其宗の本書あまねく受學すべし。たとひ教相の所學あり共。事相の傳授なきものには。能化をゆるすべからず。常に佛法興隆のため。宗旨如法 の行儀を專ら守るべし。古跡の一寺一山に於ては。かならず學匠の能化住せしむべし。この條々かたく守るべしとなり。また高野山長老に下さるゝ法令の文にい ふ。上品の古跡に於ては。學業次第にて相續すべし。兩門中廿所の名室は。碩學の徒相續すべし。當門首の二院は天下の能化所たれば。かならず碩學器量の輩住 持たるべし。こは佛法興隆のため。かたく此旨を守るべしとなり。又大山寺别當八大坊へ下さるゝ法令にいふ。前不動より上は。永代淸僧潔戒の地たれば。かた く此旨を守るべし。これより先火宅僧幷に山伏及び俗士等住居せしを止て。别當八大坊より改め令し。淸僧のみ住しむべし。十二坊の檀越幷に山林諸堂の賽錢等 は。一物たりとも相違なく。淸僧に進退せしむべし。この令を守り佛法興隆有べしとなり。(令條記。武家嚴制錄。)◎是月松平越中守定總下總國山川にて一万 石加恩ありて。一万五千石になる。又江戶にて大久保治右衛門忠佐宅失火し。內藤若狹守淸次この災にかゝり。家寳ことごとく燒夫せり。これより先永樂錢の通 用を禁ぜられけるに。このとし駿府江戶賦稅の會計に。永樂錢を用ひらるゝをみて。農商通用をゆりたりとおもひあやまり。衆黎永樂錢を買求るもの多かりしか ば。また停廢の事を令せらる。(寬政重修譜。當代記。慶長年錄。)○九月朔日大番頭水野市正忠胤が邸に。松平左馬允忠賴をまねき茶宴を催す。隊下の大番士 久米左平次某。服部半八某。宇治茶匠八大夫等この會にあづかる。宴畢て圍棋の興を催す。左平治半八と對局するに及び。左馬允忠賴兼て半八をふかく愛しけれ ば。半八に勝しめんがため。其棋局を見てしきりに助言せしを。左平次心にふづくみ。局終りて後しきりに惡言をはき。半八をのゝしる。半八これを憤り。脇差 ひきぬき左平次をきる。左平次も脇差をぬかむとするを。八大夫その中央に飛いり。双方を引わけてみれば。左平次が手に薄手負たり これにては忍ぶべきにあ らずと。左平次また立あがり。半八に切かけんとすれば。一座の人々双方にとりつき押へとめむとす。左平次そのとき左馬允忠賴をつく。忠賴も脇差をぬき左平 次をきるとき。大勢かけあつまりつゐに左平次をば討留しが。半八は門外にかけ出。三浦彥八某が從者の馬ひきてむかひに來るを見。その馬に飛のり相州の采邑 に立退たり。(慶長年錄。)○二日遠州代官秋鹿彌太郞直朝死す。其子小姓長四郞朝正家つぎ遠州にかへりすむ。よて庇䕃料四百石を收公せらる。(家譜。)○ 九日角南刑部卿法印重義死す。その子主馬重勝父子共に慶長九年よりめし出され。重勝は小姓の番士となる。この重義ははじめ宇喜多黃門につかへ。宇喜多家ほ ろびてのち御家人に列し。月俸千口たまはり。伏見の松丸を守り。この日死す。年七十二。(寬政重修譜。)○十六日もとの伯耆國米子城主松平伯耆守忠一が遺 臣等をめして。その罪をたゞされ。家司四人切腹せしめられ。また罪蒙るもの多し。沼間主膳興淸。野一色賴母助重。志村加兵衛資只。小倉安右衛門正能等は。 關原の戰功をもてめし出され御家人に列し。興淸は廩米五千俵。助重は采邑二千石賜はる。忠一の妻は松平因幡守康元が女なるを。今の  御所やしなひとらせ 給ひ。忠一にあはせ給ひしゆへ。これも江城に迎へ給ふ。(按ずるに。中村が臣等罪蒙りし事。忠一子なくして國除かるゝに及び。財寳ども故なく失し事どもあ り。その家司等が專恣のさま聞えしなど。しるせしもあれど。藩翰譜にしるせしごとく。忠一世にありしほど。其老臣橫田內膳を討て。其子主馬助籠城し。國中 騷動せし事ありて。それにあづかりし安井。道家。天野などいふものども。上裁をへて誅せられしをみれば。これらの事により御糺明ありて。其罪をたゞされし なるべし。)又丹波國篠山城落成して。其奉行せし使番內藤金左衛門歸謁す。これ去年四月より經營し。二年を經て落成する所なり。  大御所其搆造のさま嚴 重堅固に過て遲緩せし事。御けしきにかなはず。本多上野介正純大久保石見守長安等これに座して。御けしきを蒙る。京北野天滿宮石鳥居顚倒す。(慶長見聞 書。慶長年錄。)○十八日さきに罪をのがれ京師を出奔せし猪熊侍從教利。この十六日九州にてとらへられ。籠輿にのせてこの日京にいる。(慶長年錄。)○廿 一日伊勢內宮けふ遷宮あり。これを拜せんとて貴賤群聚す。その時社壇鳴動せしよし聞えたり。(御年譜。慶長年錄。)○廿三日板倉伊賀守勝重駿府を辭して上 洛す。これは殿上人等女房達と會飮せし淫行あらはれ。主上逆鱗甚しく。其罪をたゞすべしとの內旨をうけて。勝重駿府にまかり執政の輩と議し。  大御所の 御旨をうかゞひけるに。  大御所禁中むかしよりかゝるたぐひなきにあらず。ひたすら寬宥の御沙汰あり。聖德をほどこし給はゞ。衆人耻をしりて後來を謹む べしと。諫め進らせらるゝ旨。勝重に仰付られて上洛し。うちうち  叡聞に達せしめらる。信濃國飯山の城主皆川山城守廣照は。そのはじめ上總介忠輝朝臣を 養ひ參らせければ。今も朝臣につけられ。傅相の職にをかれぬ。しかるに朝臣壯年に及ばるゝほど。暴橫のふるまひのみ多くして。國中の上下なげきくるしむを もて。舊きものどもいさむるといへども用ひられず。廣照ふかくなげき。さまざまと諫めけれど。今はをのれらが力には。御行あらたまらせ給ふべしとも思はれ ずとて。同僚山田長門守正世。松平讃岐守某とうちつれ。駿府に參て此よしを愁訴す。朝臣江戶にありてかくと聞給ひ。大におどろき駿府へはせのぼられ。廣照 舊功をたのみ。やゝもすれば恣なるふるまひをあらはす。山田等その與黨なりとうたへられければ。その國老幷國奉行進士淸三郞等を召て。對决せしめられし に。廣照等忽に罪蒙る。されど廣照は舊功のものなればとて。罪一等をなだめられ流刑に處せらる。松平出羽守淸直は國老の中にても。思召旨やありけむ。此對 决の座には召れさりしかが。我其職にありて。一人この大事にもるべきにあらずと。推て登營せしを。  大御所其座を通らせ給ひながら御覽じて。淸直ば誰が 召て此座に列りしや。若輩もの何をかしらんとて。追かへせと仰ければ。淸直力なく退く。其跡にて廣照等が罪をば决せられしとぞ。淸直はこの後閉戶して家に 蟄居せしが。ゆるされて出仕せり。(慶長年錄。藩翰譜。 世に傳ふる所は。はじめ  大御所の御方に召つかはれし小童龜井三九郞とて。亂舞堪能の者なり。 朝臣には異父同母の御あねむこなりければ。かたがた此技おしへ進らせよとて。朝臣につけさせらる。三九郞双なき朝臣の寵臣にて。後には遠江守と稱し。國家 の事一人に委任し。よからぬ&