東照宮御實紀附錄卷一
かけまくもかしこき  東照神君。應仁よりこのかた蠭のごと亂れ瓜のごと分れし百有餘年の大亂を打平げ。久堅の天ながく。荒がねの地かぎりなき洪業を開か せ給ひし御事蹟は。つばらに本編にかきしるし奉りぬ。御嘉言御善行のこときに至りては。悉く本編に載べくもあらざれば。今諸書に散見する所の。疑はしきを さり正しかるべきをつみとりて。藻鹽草かきあつめ本編の末に附し奉るにこそ。抑まだ御幼穉の御程よりあやしくさとくおはしまして。なみなみの兒童の及ぶ所 にあらざる事はいふべくもあらず。八歲にならせられし時。尾張の織田信秀が爲に囚れ。同國名古屋の天王坊といふにおはしませし時。熱田の神官御徒然を慰め 奉らんとて。黑鶇といへる小鳥のよく諸鳥の音を似するを獻じければ。近侍等いとめづらしきものにおもひめで興じけり。  君御覽じて。かれが珍禽を奉りし 心えはさる事なれども。おぼしめす旨あれば返しくださるべしと聞え給へば。神官思ひの外の事にて持歸りぬ。その後近侍にむかはせられ。この鳥はかならず。 己が音のおとりたるをもて。他鳥の音をまねびてその無能をおほふなるべし。おほよそ諸鳥皆天然の音あり。黃鳥は杜鵑の語を學ばず。雲雀は鶴の聲を擬せず。 をのがじゝ本音もて人にも賞せらるれ。人も亦かくのことし。生質巧智にして萬事に能あるものは。かならず遠大の器量なき者ぞ。かゝる外邊のみかざりて眞能 のなきものは。鳥獸といへども大將の翫には備ふまじきなりと宣へば。承りしものども。まだいとけなくわたらせたまひ。ひろく物の心もしろしめさぬ御程に て。かゝることおもひ至らせ給ふは。行末いかなる賢明の主にならせ給はんと。あやしきまでに感じ奉りぬ。後に聞ば。黑鶇ははたして本音のなき鳥なりとぞ。 後年に至り豐臣太閤の諸將を評せられしにも。今川氏眞織田信雄など。華奢風流の事はよくなし得たれど武門の器にともし。  德川殿は何ひとつ技藝のすぐれ し事は聞えざれども。將に將たる器量を備へられしと感ぜられし事あり。いかにも御幼稚の御ほどより。衆人に殊なる御本性におはしましたるならむと。今さら 膽仰せらるゝ事になん。(故老諸談。道齋聞書。)
五月五月兒童の戱とて。隊を分ち石もて打あふを。俚語にいんぢうちといふは。石打といふ詞のよこなまりしにて。ふるくより兒戱とせしは。全く戰國爭鬪の風 童部にもをしうつりしなるべし。  君はいまだいとけなくて駿河の今川がもとにおはしける時。石打見そなはさんとて。近侍の者の肩に負れ阿部河原に出ませ しに。一隊は三百人あまり。一隊は百四五十ばかりなり。人々みな多勢の方により來て見んとす。  君われは小勢の方にゆかむ。小勢の方の人は自ら志を一决 して恐怖の念なく。隊伍もいとよく整ふものぞと仰せければ。かの侍。この君  何をしろしめしてさは仰せらるゝぞといぶかしく思ひしが。程なく打合はじま りしに。多勢の方一さゝへもせず敗走し。見物の者もそが方にゆきしは。人なだれにおしすくめられ。からうじて迯ちりぬ。この事聞き傳へし者ども。御年の程 にも似つかはしからぬ御聰明の御事かなと。感じ奉らぬはなかりしとぞ。(故老諸談。太平夜談抄。)
按に大勢の方は農民なり。微勢の方は武士なり。微勢の方かならず勝むと仰られしが。果して其ごとくなりしといふ說もあり。
天文廿年正月元日今川が舘におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座して拜賀す。 君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人 の子ならんといふに。 松平淸康が孫なりといふ者あれど信ずる者なし。其時  君御座をたちて緣先に立せられ。なにげなく便溺し給ふに。自若として羞怎の さまおはしまさず。これにより衆人驚嘆せしとぞ。(紀年錄。)
駿府におはしませし頃。一日大祥寺といふ禪刹へ成せられしに。鷄廿羽ばかりかひ置きしを御覽じ。住僧にこの鳥一羽われにあたへぬかと宣へば。住僧皆なりと も獻らん。菜圃を啄みあらせども。をのれと生育いたし候へば。先そのまゝに飼置きぬと申せば。咲はせられながら。この法師は鷄卵くふ事はしらぬかと仰ら れ。後に駿河御領國となりし時。かの住僧殊勝の者なりとて。めして寺領御寄附ありしとなり。(君臣言行錄。)
鳥居伊賀守忠吉は 淸康  廣忠の二君につかへ奉り。君の駿河にわたらせ給ひし時。今川がはからひにて松平次郞左衛門重吉と共に御本國にとゞまり。賦稅の 事を奉行せしめられしかば。忠吉が子彥右衛門元忠をば。  君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが。  君は十歲彥右衛門は十三歲なり。斯る折から殊に悅 ばせ給ひ。朝夕したしみかたらひ給ふ。そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと。彥右衛門に教へ諭し給ひけるが。据方よからずとていからせ給ひ。椽より 下に突き落し給ひければ。御側にありあふ者ども。忠吉が忠誠を盡すあまり。己が愛子までをまいらするに。いかでかく情なくはもてなさせたまひそと諫め奉り しを。忠吉は後にこのこと傳へききて。なみなみの君ならんには。御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに。いさゝかその懸念おはしまさで。御心の儘に 愚息をいましめ給ふ。御資性の濶大なるいと尊とし。この儘に生立せ給はゞ。行末いかなる名將賢主にならせ給ひなん。それがし犬馬の齡すでに傾き餘命いくば くもなし。御行末を見つがん事かたし。彥右衛門汝は末永くつかへ奉り。萬につけてをろそかにな思ひそとて。かへりてが己子のもとへは嚴しく申送りしとぞ。 人みな忠吉が忠貞にして私なきを感じけり。(鳥居家譜。)
按に。鳥居が家譜には。伊賀守忠吉駿府に附そひつかふまつりし樣にしるせしは誤にちかし。忠吉はこの頃岡崎に殘りて御領の事奉行してありしなり。
尾張におはしませし頃。織田の家士河野藤右衛門氏吉ことにいたはり奉り。常に百舌鳥山雀などさまざまの小鳥ども獻じ御心を慰めければ。御手づから葵に桐の 紋ぼりたる目貫をたまひ。後々もその厚意を忘れ給はで。關原の後にめし出して御身近くめしつかはれぬ。またおなじ頃鷹狩に出給ふに。鷹それて孕石主水が家 の林中に入りければ。そが中にをし入りて据上げ給ふ事度々なり。主水わづらはしき事に思ひ。三河の悴にはあきはてたりといふをきこしめしけるが。年經て後 高天神落城して孕石生擒に成て出ければ。彼わが尾張に在し時。我をあきはてたりと申たる者なればいとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよとて。遂 に自殺せしめられしなり。(東武談叢。三河の物語。)
弘治二年正月十五日御年十五。駿河國にて御首服加へ給ふ。今川義元加冠し。關口刑部少輔親永理髮し奉る。其年尾州の織田信長三河の城々を侵掠するよし聞え ければ。  君義元にむかはせられ。それがし齡已に十五にみちぬれど。いまだ本國祖先の墳墓を拜せず。哀願くはしばしの暇賜はり故鄕にかへり。亡親の法養 をもいとなみ。かつは家人等にも對面せまほしと仰ければ。義元も御孝志の深厚なるに感じ。仰の儘にゆるし聞えぬ。君大によろこばせ給ひ。いそぎ三河へ御返 ありて。御祖先の御追善どもくさぐさ執行れ。御家人等もこぞりて悅ぶ事大方ならず。岡崎にわたらせ給ひても。本丸には今川より付置し山田新右衛門など城代 としてありけるに。  君岡崎はわが祖先以來の舊城といへども。それがしいまだ年少の事なれば。これ迄のことく本城には今川家より附置かれし山田新右衛門 をその儘すゑ置れ。それがしは二丸に在て。よろづ新右衛門が意見をも受くべきなりと仰せ遣はされしかば。義元大に感じ。朝比奈などいふ家長にむかひ。この 人若年に似合はぬ思慮の深き事よ。行末氏眞が爲には上なき方人なりとて喜びけるとなん。(岩淵夜話别集。)
弘治二年柳原兵部といへる者良馬を獻る。無双の駿蹄にして名を嵐鹿毛といふ。是を誓願寺の住僧泰翁もて室町將軍家へ進らせらる。光源院殿感悅斜ならず。手翰及び短刀を贈らる。是ぞ  當家より柳營へ通信ありし權與なり。(武德大成記。)
按に。其頃京都將軍駿馬をもとめ給ひ。織田家へも命ぜられけれども。とかくさるべき馬も奉られざるよしを聞召。元三河の國大林寺の住僧泰翁。今は京の誓願 寺の住職して。常に室町殿へも懇にまいりつかうまつるよし聞召してやありけん。其泰翁をしてまいらせられしなり。其時將軍家よりくだされし手書は今も秘府 につたへたり。(この泰翁縉紳家にもひろく交り。知音多かりしかば。此後彌公家堂上の人々へも媒介せし功をもて。後に三河國岡崎の城下に寺地を賜ひ。泰翁 院誓願寺を建たるなり。世俗傳ふる所の三河記等に。この嵐鹿毛を進らせられし事を。今川義元が執せし事のごとく傳へしは。全く誤傳としるべし。)
今度早道馬事。內々所望由申候處。對松平藏人佐被申遣。馬一疋(嵐鹿毛。)則差上段。悅喜此事候。殊更無比類働驚目候。尾州織田上總介方へ雖所望候。于今無到來候處。如此儀别而神妙候。此由可被申越事肝要候。尙松阿可申也。
三月廿八日 書判
誓願寺泰翁
駿河におはしけるころ。今川がはからひにて御家人阿部大藏定吉。石川右近某の二人に岡崎の留守させ。烏居伊賀守忠吉。松平次郞右衛門重吉二人は御領の事を 奉行させ。賦稅はみな義元押領せし間。忠吉ひとり辛苦して年比米錢どもあまた貯へ。かねて軍儲に備置きしが。御歸城ありしをまちつけて忠吉よろこびにたえ ず。御手を引て藏ども開て御覽にそなへ申けるは。それがし多年今川の人々にかくしてかくものせしは。  我君はやく御歸國ありて御出馬あらば。御家人をも はごくませ給ひ。軍用にも御事欠まじき爲にかくは備置きぬ。それがし八旬の殘喘もて朝夕神佛にねぎこしかひありて。今かく生前に再び尊顏を拜み奉ること は。生涯の大幸何ぞこれに過ぎむやと。老眼に泪をうけて申ければ。君にも年比の忠志。かつ資財までを用意せしを感じおぼしめし。さまざま懇に仰なぐさめ給 ふ。この時忠吉錢を十貫づゝ束ねて竪に積み置きしを指して。かく積置ば何程かさねても損ることなし。世人のする如く橫につめばわるゝものなりと聞え奉りし かば。後々までも此事思召し出され。錢をつむにはいつもその如くなされて。こは伊賀が教しなりと常々仰せられしとぞ。(鳥居家譜。)
岡崎に還らせ給ひし比にや。一日放鷹にならせ給ひけるに。折しも早苗とる頃なるが。御家人近藤何がし農民の內に交り早苗を挿て在しが。  君の出ませしを 見て。わざと田土もて面を汚し知られ奉らぬ樣したれど。とくに御見とめありて。かれは近藤にてはなきか。こゝへよべと仰あれば。近藤もやむことを得ず面を 洗ひ。田畔に掛置し腰刀をさし。身には澁帷子の破れしに繩を手繈にかけ。おぢおぢはひ出し樣目も當られぬ樣なり。そのときわれ所領ともしければ。汝等をも おもふまゝはごくむ事を得ず。汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば。かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に從ふ習なれば。 今の內は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて。世を渡るこそ肝要なれ。憂患に生れて安樂に死すといふ古語もあれば。末長くこの心持うしな ふな。いさゝか耻るに及ばずと仰有て御泪ぐませ給へば。近藤はいふもさらなり。供奉の者どもいづれも袖をうるほし。盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。 (岩淵夜話别集。)
永祿二年今川義元大兵を起し。尾張の織田信長を攻亡し。上方に打つて上らんとて。國境所々にまづ新砦を搆へ。大高の城をば鵜殿長助長持をして守らしむ。織 田方にはこれを支むため大高に對城をかまへ。丹家の城は水野帶刀。山口海老丞。柘植玄蕃。善照寺の城は佐久間左京。中島の城は梶川平左衛門。鷲津の城は飯 尾近江守。同隱岐守。丸根の城は佐久間大學をこめ置防禦の備をなし。其外寺部擧母廣瀨の三城をも取立。大高の通路を遮りければ。城中糧食乏しくしてほとん ど艱困に及ぶ。義元いかにもして城中に糧を送らむとおもひ。家のおとなどをも集め評議したれども。この事なし得んとうけがふ者一人もなかりしに。  君纔 に十八歲にましましけるが。かひがひしくも此事うけ引せ給ひ。其年四月九日の夜半ばかり岡崎を出立せ給ひ。松平左馬介親俊。酒井與四郞正親。石川與七郞數 正先鋒奉はり。大高。丸根。鷲津等の諸城を打こえ。はるか隔りし寺部の城に攻かゝらしめ。御みづからは精兵八百ばかりに輜重千二百駄を用意して。大高のこ なた二十餘町ばかりにひかへ給ふ。先手寺部に押よせ木戶を破り火を放ち。そが光に乘じてさつと引上。また梅坪にをしよせおなじさまにせめ戰ひ。二三の丸ま で押入銃聲おびたゞしく聞えければ。丸根鷲津の城兵等大高をばすて置。みな寺部梅坪の援兵に打て出。諸城ともに人少きよし細作かへりきて聞えあげしかば。 時こそ至れと急に兵を進めて。難なく粮を城中に送らせ給ひけり。  君にはおもふ樣に仕すまして御人數をあつめて引上給ふ。鷲津丸根の城兵かへりきてたば かられしを悔れどもかひなし。はじめ岡崎をうち立せられし時。酒井石川等の老臣等あながちに御出馬を止めけるが。さらに聞入たまはず。御歸城ありし後。老 臣等いかにしてこの奇功を奏せられしと伺ひけるに咲はせ給ひ。たゞ大高に兵糧を入むとのみ思へば。丸根鷲津その外の城兵ども。みな大高にはせあつまりてさ またげむとすべし。ゆへに兩城に押よせ敵兵をたばかり出し。そが虛に乘じて粮を入れしなり。近きを捨て遠を攻るは兵法の常にして。あながち奇とするにたら ずと仰られしかば。いづれもみな感嘆し。今の御弱齡にてかく軍略に通ぜられしは。天晴末賴しき御事かなとかしこまざる者なし。これ今の世までも大高兵粮入 といひて。第一の御若年の御美譽にもてはやし奉る事にぞ。(武邊咄聞書。)
大高の城に兵粮を入給ひし後。今川義元より。西三河は御舊領なれば御心のまゝに切取給へとあつて。寺部。梅坪。廣瀨。擧母。伊保等の御手勢もて攻取給ひ。 勳功ある者共に分ち給ふ。御家の人々もはじめて。御武略のすぐれ。あやしうおゝしくおはしますこと。 御祖父の君(淸康君。)。に似させ給ひしとて一同感 悅し奉り。今川義元も大高の奇功を稱して。龍馬の種が龍馬を生むとは。この  君の御事ならんとてめで奉りてとぞ。(武德大成記)
今川義元今度尾州表發向するに及び。  君をば鵜殿にかへて大高城を守らせしに。義元はからずも桶峽間に於て織田信長が爲に討れし時。  君にはその沙汰 聞し召つれど虛實いまださたかならず。かゝる所に御母方の御おぢなりし水野下野守信元より。淺井六之助道忠してそのよし告奉りしは。義元旣に討れぬ。今川 が持の城々皆明退たり。  君にもはやく其城を捨て御本國へかへらせ給へと申す。御家人等も同じ樣に勸め奉る。  君聞しめし。野州外家の親ありといへど も。當時織田方に屬する上はその言信じ難し。もしそのいふ所の實ならざらんには。故なくして當城を明退き人に後指さゝれんは。武門の耻辱是にすぎず。道忠 をば捕へ置て味方の一信を待べしと仰ありて。今までは二丸におはせしを俄に本丸に移らせ給ひ。ひとへに守禦の備をなし給ふ。しばしゝて岡崎の城守りたる鳥 居忠吉が方より。事の樣詳に聞えあげ。且今川より岡崎の城守らせし者共も引退よしなれば。さらば此城引はらへと仰在て。道忠を饗導となされ。宵の間は道た どだどし。月待出て引取と命ぜらる。諸人は一刻もはやく引んと思ふに。いと悠然として忩忙の樣見え給はず。時刻にもなれば道忠に松火を持しめ御先に進まし む。古兵のいひしごとく。夜中に敵國ををしゆくにはその習あり。騎馬を十町ばかり先に立て。歩行立には松火を持しめずと仰ありて。艱阻の所每に道忠松火を 振べしと定められ。上下卅人ばかりの士卒を隨へ。切所に一人づつ殘して後れ來る者にしらしめ。路々一揆共を追はらひつゝ池鯉鮒に出まして。遂に恙なく岡崎 の城に還らせ給ひしなり。今川の人々この事承り傳へて。己が身に引くらべて恥かしき事に思ひ。織田信長も。信義あつく末たのもしき大將なりと稱し奉りけ り。この歲御年十九にならせ給ひしとぞ。(東遷基業。落穗集。岩淵夜話别集。)
岡崎に還らせ給ひ。さきに今川より番衛せしめし者共駿河にかへらしむるに臨み。彼等を御前近くめされ。汝等かへり氏眞に申べきは。こたびの凶變おなじく驚 き思召所なり。さりながら信長いま大利を得て。將驕り卒怠るのときなれば。其不意を伐ば味方勝利うたがひなし。一日もはやく兵を進められんには。それがし も手勢引連さび矢の一筋も射て。故吏部の舊恩に報ぜんとおもふ。よくよくこの旨氏眞はじめ諸老臣に申通よと仰けり。しかるに氏眞もとより天資闇弱にして。 父が仇むくひん志もなく。たゞ平常のことく佛事作善にのみ日を暮●。又三浦右衛門抔いふ姦臣を寵任し。普第の老臣を踈遠にしければ。上下離畔して國政も日 にそひて頽敗す。其後も出軍の事度々仰勸られしかども。氏眞酒宴亂舞にのみ耽りて何の心付もなし。このほど信長よりは。しばしば水野信元をもて講和を請ば しかば。氏眞父の吊合戰は孝子の至情より起れば。急遽に出て其機を失はぬを肝要とすべきを。かく日月經てもその沙汰に及ばざれば。わが義元への志も是まで なりとて。これより織田家と講和の議は起りしなり。(東武談叢。落穗集。)
水野信元が織田家に申すゝむるにより。尾張より瀧川左近將監一益もて。石川與七郞數正が許に和議の事いひ送りしかば。老臣等めして此事いかゞせむと議せら る。酒井忠次云く。 當家只今の微勢もて織田今川兩家の間に自立せむ事かたし。氏眞元より闇弱にして酒色に耽り。父の仇むくひん志もなければ。其滅亡遠か らじ。信長は當時並なき英傑にして威名次第に遠近に及ぶ。信長と事を共にし給はゞ。行末 當家の御爲是に過たる事は候まじ。かなたより和議を乞こそ幸な れ。速に御承引あれと云。その時また御家人どもいづれも申けるは。 當家もとより今川の一族被官といふにもあらず。たゞ世々の舊好により年頃その助援を受 るに似たりといへども。  君いまだ御幼年にて駿府におはせし程。御領國の賦稅はみな義元が方に收め。戰あるに及んではいつも御家人をもて先鋒とし。そが 死亡をもかへり見ず。いと刻薄なる處置は尤怨ありて恩なしと申べしと申者多かりしに。  君も戰に臨むで一命を隕すは。元より士たるものゝ常なれば何ぞか なしむに足む。たゞわが身かの國に人質とせられてのち。普第の者をしてあへなくかれが爲に討死せしめしこといくばくぞや。これぞわが終身の遺憾なれと仰ら れて。御泪をうかべられしかは。諸人もみな士を愛する御志の至りふかきを感じて。いづれも袖をうるほしけり。かくて御盟約定りければ。尾州淸洲におはして 信長に面會し給ひ。今より後互に力を戮せ心を同うして。天下を一統せむよし誓文に載られ。誓書をば讀終りし上にて灰に燒て神水となし。兩家歃飮し給ひ永く 隣好を結ばせ給ひしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。)
尾州へおはしましける時。信長も御道すがらの橋梁修理加へ。さまざま御まうけせらる。淸洲の城へ渡御あれば。御行裝を拜まんとてかの國の者等城門の邊に立 つどひていとかしがまし。此時本多平八郞忠勝は年わづか十四にて供奉せり。御馬前に御長刀もちて供奉しながら。三河の  家康が兩國の好を結れんが爲に來 られしに。汝等何とてなめげなる擧動するぞと大聲にて罵りければ。皆その猛勢に恐れて忽に靜謐せりとぞ。かくて信長は二丸までいで迎へ先立して本丸へ入れ 奉る時。植村新六郞家政御刀かゝげて御後に從ひしを。信長の家人咎めて。何者なればこゝまで闌入せしといふ。家政我は  德川が內に植村新六といふ者な り。主の刀を持てまかるをば何故に咎らるゝぞといへば。信長きかれ。新六參たるか。これはかくれなき勇士なり。汝等妄りに不禮なせそとて。やがて盟約の議 畢りてのちさまざま饗し奉り。新六をもその座へ呼出し。今日はじめて汝が勇氣をみしに。むかしの鴻門の會の樊噌にもこえたりとていたく賞美せらる。この新 六が父新六某は 淸康君を害し奉りし阿部彌七をうちとり。そののち岩松八彌が 岡崎殿に鎗付しを即座に打とめ。一身二度の忠節を顯しけるが。今の家政も幼 年より數度の戰功をはげみ忠勤怠りなければ。後年その世々の勳功を賞せられ。御家號をも賜はるべきなれども。植村が氏稱は他國にも聞え 當家の眉目にもな れば御家號は賜はらず。たゞ御名の一字を賜りて家政とめされ。御軍扇幷に一文字の御刀賜ひ。直參の徒三十騎を付させられしとぞ。(武德大成記。貞享書 上。)
今川氏眞織田家と講和ありしよし傳へ聞て大にいかり。使を岡崎へ參らせ。今度舊約を變ぜられ尾張と和睦せらるゝ由なれば。駿府に留置れし北方。及び御息を も害しまいらせし上にて。御領國へ出馬してその事糺明せんといひ送りければ。その使を御前にめし出されて仰有しは。我年比故吏部の厚恩を受し事大方なら ず。今何ぞこれを忘却せんや。されども尾張は隣國にして且强敵なれば。當分講和の躰にもてなさでは軍謀とゝのひ難きゆへ。まげてその意に從ひしのみ。實の 和議にあらず。いつにても氏眞父の仇をむくひんため尾張へ出張あらんには。兼ても度々申せし如く先陣うけたまはり。錆矢一筋射懸申べきは相違あるまじと仰 られしかば。氏眞も心とけてしばしが程出軍の儀にも及ばざりしとなり。(武德大成記。落穗集。)
此卷は。御幼穉の御時より織田家と御講和ありしまでの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷二
一向亂のとき正月三日小豆坂の戰に。大見藤六は前夜まで御前に伺公し。明日の御軍議をきゝすまして賊徒に馳加はりしかば。  君近臣にむかひて。明日は ゆゝしき大事なれ。藤六さだめてこなたの計略を賊徒にもらしつらん。汝等よくよく戰を勵むべし。我もし討死せば藤六が首切て我に手向よ。これぞ二世までの 忠功なれと仰けり。かくて明日藤六と石川新七兩人眞先かけて攻きたり。新七は水野惣兵衙忠重が爲に突伏らる。藤六には水野太郞作正重打むかひ。汝のがすま じとて打むとす。藤六弓引て。せがれめよらば一矢に射とめむとまち搆へたるをもかへりみず。正重鑓提て間近く進むに。流矢來て藤六が腕にたてば。弓矢を捨 太刀拔んとする所へ正重鑓付しが。札堅くして徹らす。藤六拔はなちて正重が胄を切けるにこれも切得ず。よて太郞作も鑓すて刀にて切り合ひ。終に藤六を切倒 しければ。倒れながらせがれ無念なりとて念佛唱るところを。其首打落す。かくて二人討れければ賊徒みな敗走す。正重藤六が首を御前へもち參りしかば。藤六 をば汝が討たるか。汝が一代の忠功なれと御稱譽あり。又針崎を責られし時。御手鑓もて渡邊半之丞を突たまひしに薄手にて逃行所を。石川十郞右衛門渡邊が前 に立て  君にむかひて突かゝる。其時內藤四郞左衛門正成はまだ甚一郞と云ひし比なるが。御側より弓引て二人を射る。二人とも射殺されければ賊徒直に敗走 す。正成は渡邊には甥なれども。大義親を顧みず射倒せしとて御感斜ならず。其比織田殿諸家にてすぐれし武勇の者の名を記し。自ら點かけて置れしに。この正 成も若年ながら點かゝりし者なりとぞ。(貞享書上。)
正月十一日上和田の戰に賊徒多勢にて攻來り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから單騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。 賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に與すといへども。正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陷るとも何かいとはんとて。鋒を 倒にして賊徒の陣に向て戰死す。この日御胄の內に銃丸二とゞまりけるが。御鎧かたければ裡かゝず。戰はててのち石川家成に命ぜられ。重治が屍を求め出して 御手をかけられいたく嘆惜し給ひ。上和田に葬らしめ厚く追善をいとなまれしとなん。又この日柴田七九郞重政己が名を矢に彫て射たりしが。その矢に中り死す るもの數十人。賊徒その精兵に感じ。重政が放ちし矢六十三すぢをとりあつめて御陣に送りしかば君御覽じて。御賞譽のあまり御諱の字賜ひ康政とめされ。六十 三の文字を旗の紋とし。名をも矢の數にならひ七九郞とめされしなり。(東遷基業。岡崎記。貞享書上。)
正月二日より十一日まで日每に數度の戰あり。御自も太刀擊し給ふこと度々なり。後年伏見にて加藤主計頭淸正が謁見せし折。よも山の物語ありて。佐々成政が 豐臣太閤の爲に肥後國收公せられ。淸正小西兩人に分ち賜はりし時。國中一揆起りしを。淸正が武功にて速に打平げし事を仰出され。一揆の魁首木山彈正を討取 しを。淸正いつも名譽におもひほこりかにいひ出ることなれど。われもむかし領內に一揆おこりて日ごとに苦戰度々なりきとて。新野何がしといふ者をめし出 し。彼等も弓もて我に近づき旣に射むとせしとき。われににらまれ弓を捨て遁たるを。汝は今に覺えたるかと仰られしかば。淸正これをうけたまはりて。己が武 功はいふにも足らぬ事とおもひ。且感じ且耻て御前を退きけるとぞ。(續明良洪範。)
門徒等歸降の折約定ありしは。昔よりの門徒は御ゆるしあり。その身一代門徒に歸依せしは罪に處せられんとなり。しかるにあまたの人の內に。昔よりの門徒も 咎め仰付られんとありしに。これは昔よりの門徒なりと申上しかば。むかしとは伊弉諾伊弉冊の尊のことと思召されぬ。親鸞は近き世のことなりとて科に處せら れしもあり。又戶田三郞右衛門忠次は佐崎の本證寺にありと聞しめし。たはけめ。彼は元來淨土門にて一向門徒にもあらざるを。呼と有て召出されしに。忠次人 に語りしは。殿の召るゝゆへ出ぬ。全く臆して狹間をくゞりしにあらずとて。さて三日の內にこの砦をせめ落さむと申す。いかなる計略か有とはせたまへば。道 塲の下水の樋の口廣し。これより人をいれて燒立るほどならば即座に落んといふ。よて大久保七郞右衛門忠世に命ぜられ。忠次を鄕導としかの砦を攻しめ。遂に 是を陷る。この時忠次奮戰して鐵砲に中りて疵蒙りしかば。御感あつて國光の御脇差をたまひけるとぞ。(古人物語。武德編年集成。)
一亂おさまりて歸降の者とりどり見え奉りける內に。小栗又一忠政御前に出ければ。  君忠政が胸元を捕へ給ひ。汝此後宗門を改むべきや。さなからんには只 今一刀にさし殺さんとて御指添をぬかせ給へば。忠政いさゝか驚遽の樣なく。御手討にならんとても改宗はなり難しと申せば。汝が樣なる者は殺さんも無益なり とて突放し給ふ。忠政かさねて。只今こそ法華に改め候はんといふ。  君聞しめし。手刄に逢ても改宗はならぬといふ詞の下より。又法華にならんとは何事ぞ と咎め給へば。忠政士たる者が御手討になるがおそろしとて改宗すべき哉。たゞ一命を御助あるといふ上命のかしこさを謝し奉らん爲に。法華にならんとは申け るといへば。  君もおぼえず御咲ありけるとなり。又天野三郞兵衛康景もおなじ門徒なりしが。此度淨土に改宗して戰功を盡し。馬塲小平太といへる大剛の賊 徒を討取しかば。御感有て阿彌陀の木像をたまはるといへり。(續明良洪範。天野譜。)
按に一說には。此事石川又四郞が事とせり。又四郞一向亂の後信長に隨ひ。其後またたちかへり御鷹狩の御道筋にて見え奉りしに。又四郞が胸取て引よせ御膝の 下に組しかれ。汝淨土に改宗はすまじき哉と宣へは。いかにも成がたしと申す。よて衝放給ひて汝は普第の者にてはなきかと仰らる。又四郞やがて起揚り容を改 め。仰のごとく淨土に改むべし。さきのことく御膝下に組しかれては。いかに主君にても御受は申上難しとあれば。咲はせられしとなり。(池田正印覺書。)
永祿六年三月今川方の設樂郡一宮の城を攻取られ。本多百助信俊に五百ばかりの勢をそへて守らしむ。七年に至り今川氏眞大軍を率ひ。武田信虎に八千を分ちて 援路を遮らしめ。一万二千の兵をもて一宮を十重廿重に責圍めば。防戰ほとんど艱危に及ぶよし聞しめし。援兵を出し給はんとす。この時御勢はわづか二千にす ぎず。老臣等いさめて云く。氏眞暗弱なりといへども義元以來舊功の者猶おほし。其上虎狼と呼るゝ信虎に遊軍を分て援路を支ゆればゆゝしき大事なり。よくよ く御思案あれといふ。  君聞しめして。おほよそ侍たる者は信義の二を忘るべからず。敵城を攻取しのみにてそのまゝ明置は。ともかうもあれ。旣に家臣に命 じて守らしむる上からは。その急あるに臨み救ふべきは元より期したることなり。さるを敵が多勢なり。計略が勝れしなどいふを恐れて。家臣の戰死するをよそ に見て救はざるべきや。主の大事は被官がすくひ。被官が危急は主の助る常の事なり。もしこたびの軍難義に及び討死せば。これ何がし運命の盡る所なれ。いま はたゞ敵の多少にも計略の善否にもかゝはらず。ひらに進めよと打立せ給へば。諸卒も皆盛意のかしこきに感じ奉り。勇み進んで今川の大軍を何ともおもはず。 信虎の備を傍に見なし。たゞちに一宮の城際に押付給へば。百助もよろこびに堪ず城門を開て迎へ入奉る。この時今川勢は御備の嚴整なるにおそれたゞ茫然とし てありけるが。やがてこゝろ付。信虎が勢をまとめ一同に責かゝらんとひしめく處に。  君にははや御入城ありて御湯漬めし上られ。此所に一宿し給ひ人馬の 勞を休められ。翌朝本多をめしぐし給ひ城を出ませば。敵は案に相違し。あれあれといふ內に。御備は眞丸に成て引退く。百助が手勢五百たゞちに信虎が備を突 き崩すこと度々なり。とかうして酒井左衛門尉忠次。石川伯耆守數正。牧野右馬允康成御迎に參り。段々に備をたて敵の襲路を斷ければ。今川勢迫うつ事叶は ず。御勢は一人も毁傷なく御歸陣あり。これ一宮の後詰とて後々まで御武功の一端にもてはやし奉る事なり。右馬允康成己が領邑牛窪にかへり。一族をあつめて   君の御武略は兼て承及びし事ながら。此度の御手段を見てはじめて其實なる事をしれり。かゝる大將の太刀かげを賴み奉りてぞ。行々功をもたて名をもほど こせ。これぞ一家繁榮の基なれといひしとか。はるか年經てのち御上洛の時山岡道阿彌この事いひ出で。その頃より武道に志ある者は。みな御名譽のよし傳稱せ しと申上しかは。そはわが若年のほどのことにて若氣の至なりと仰有て。微笑したまひしとなり。(岩淵夜話别集。)
永祿七年五月野田牛窪の城攻られしに。峰屋半之丞貞次鐵砲に中りその疵愈ずして死す。その妻男子なければ女子をともなひ鄕里に引籠りてあり。後にその邊に 鷹狩せさせたまひし折。御鷹それてかの宅地にいる。御供の人々走り入て鷹を据上しに。かの寡婦これをとがめ。人々は何とて寡婦の家に案內もなくて闌入せら るゝぞと高聲にのゝしる。君は何者の後家なるかと御尋あれは。貞次が妻なりと申す。貞次に男子はなきやと御尋により。六歲になる女子たゞ一人ありと申上れ ば。いと哀とおぼしけるにやその女に貞次が舊領をたまひ。鳥居源一郞をもて婿とし貞次が家繼しめられしとぞ。(家譜。)
同年十一月武田信玄御英名をしたひ。家人下條彈正して酒井左衛門尉忠次に書簡を贈り。この後は兩家慇懃を通ずべきよしをのぶ。其書の表に啐啄の二字をしる せり。人々いかなる故を詳にせず。其頃伊勢の僧江南和尙といへるがたまたま岡崎を過て東國に赴かむとするにより。石川日向守家成この字義をとひしかば。鳥 の卵殼を破るにその時節あり。早ければ水になり遲ければ腐るといふ意なりと答へけるよし御聽に達し。すべて萬事に時を失はざるをもて肝要とす。主將たらん 者は殊更此意を失ふまじと宣ひしなり。後に又柴山小兵衛正員をめし。鷹をかふにもよく夜据をなし。時節を伺ふて鳥を捉事は。昔聞し啐啄の意なりと仰られし とぞ。(武德編年集成。)
今川氏眞 當家を攻むとて信玄へしかじかせんといひ送りければ。信玄もその計略の調はざるを知て。心中にはおかしと思ひながら暫同意の體にもてなし。心安 くおもはれよなどよき程に答て。さて 當家へは下條彈正を進らせそのよしつばらに告奉り。いさゝか御心なやまさるゝまでもなし。もし氏眞出馬せばかへりて ともにうち亡しなんと申上げしかは。  君宣ひしは信玄は酸刻の人かな。されどかくせずばはかゆくまじと仰られぬ。また氏眞が駿河を出亡せし後に信玄と御 和議有て。誓紙の文に川をかぎりて兩國の分界とせむとかき定られしは。大井川の事にてありけり。しかるを入道が心中には。 當家いまだ御若年におはしませ ば。今川義元が扱ひ奉りし折のことくせむと思ひあなづり。三河の里民の人質などをとりしゆへ。こなたより咎め給へば。誓紙に川切としるせしは天龍川切なり といふ。こゝにて大にいからせ給ひ。天龍川はわが城溝のこときものなり。何ゆへに天龍切といふべきや。かゝる權譎のやからは行末たのまれずと仰有て遂に隣 交を絕れしなり。(武邊咄聞書。古人物語。)
永祿十一年三月遠州の城々攻取給はんとて。尾藤彥四郞等が籠りし堀川の城を責らる。先陣は松平勘四郞信一。榊原小平太康政なり。康政己が配下の士にむか ひ。われ若年なるをかゝる寵任を蒙り一隊の主將となり。その上御諱の字をさへ賜はりし御恩の深高なること山海にも比し難し。明日の戰にはかならず一番乘し て盛意にむくひんとて。其日のつとめてより紺地に無の字の指物さし。笹切といふ鎌鎗を提げ一番に城にせめ入り。散々戰て深手二ケ所負しを。家人等肩に負ひ なを進みて城に附いり。遂にその城を乘取れり。班軍の後やがて康政が營にならせたまひ疵を御覽あり。深手にてとても生べしとも思しめさねば。なからむ後の 事つゞまず申置と仰ければ。康政もかしこみて。此度その配下の伊奈中島の兩人忠戰衆にすぐれしかば。兩人に御恩賞あるべき之。此外には思置こと侍らずと申 せば。即ち二人を御前へめし御感狀を授らる。その後康政が疵思ひの外に平愈して見え奉りしに。御けしき斜ならずさまざま慰勞の御詞を加へられしとぞ。(武 德編年集成。家譜。)
永祿十二年これより先松平の御稱號を止められ。德川の舊氏を用ひ給ひしかども。舊冬此よしはじめて京都將軍家(義昭。)
へ申請れ。近衛左大臣前久公もて叡聞に達せられ。去冬十二月九日 勅許ありて。この正月三日將軍家より口宣案にそへて御內書御太刀を贈らる。(武德編年集成。)
改年之吉兆珍重々々。更不有休期候抑
德川之儀遂執 奏候處。
勅許候。然者口 宣案幷女房奉書申調
指下之申候。尤目出度候。仍太刀一腰進上候。
誠表祝儀計候。萬々可申通候也。
正月三日 義昭
德川三河守殿
今川氏眞が籠りし遠州掛川の城を攻られし時。城將日根野備中が甥同彌吉手痛く戰ひしに。御旗下の水野太郞作正重渡り合ひて。彌吉が首取て立上らんとせし所 に。敵又弓をもて正重が腰を射ければ。深手ながら引取けるを聞し召。丸山淸林といへる外科醫をめして。正重の疵太切なればいかにもして平愈せん樣に療養せ よと仰あり。淸林もかしこきことに思ひ。殊更心用ひて治療せしゆへ。日頃へて恙なく平快せしなり。又後年甲斐若御子にて北條と御對陣の折。久世三四郞廣宣 北條が內野中六右衞門といふ者を打取し時。面に疵蒙りしかば。御手づから藥を付させ給ひ。是も淸林に療治仰付られ。三四郞が鼻の落ぬやうにと命ぜられしと ぞ。これらみな士を愛し給ふ御心の一端を伺ひしるべきなり。(續武家閑談。柏崎物語。)
織田信長越前金が崎手筒山の兩城を攻落し。旣に朝倉が居城へ押寄むとせし所に。江洲の淺井父子心變りして朝倉と牒し合せ。信長を前後より挾み伐むとするよ し注進あり。信長大に狼狽せられ。木下藤吉郞秀吉をとゞめ後殿とし。速に旌を返さんとせられしが。此の時急遽にして  君にそのよし告奉るにも及ばず。い そぎ軍伍も定めず引上からうじて朽木谷へかかり危急をまぬかれけり。  君には御微勢なれどもよく隊伍をとゝのへ。秀吉が苦戰する時每度これを援て敵を追 ちらし。いさゝか道路の妨なく若狹路にかゝりて御歸陣ありしなり。御歸京の上信長に御面會ありしとき。秀吉もかへり。來て。此度は  德川殿の御援助によ て十死をまぬがれ。一生を得たりと披露しければ。信長も  君に向ひいたく禮謝せられしとなり。後年長久手の役終り御上京ありし時。秀吉  君御在洛の間 厨料進らせんとて。先年金崎退口の時をのれ德川殿に助られ。江州守山にて川田といふ地士を呼出され鄕導とせられしゆへ。われ恙なく歸京する事を得しは。全 く  德川殿の御智略による所なりとて。守山にて三萬石の地を進らせしとぞ。(落穗集。武德大成記。御和談記。)
姉川の役に織田家の援兵として三千の勢を引ゐて馳せ上らせ給ひ信長に御對面あり。信長申さるゝは。軍期近きによて諸手の備は皆定め訖ぬ。  君にはたゞ戰 のよはからん方を援給へとなり。  君はるばる援兵として打上りしかひもなく。打込の軍せんは永き弓矢の瑕瑾なり。さらんには速に本國に引き返さむにしく べからずと宣へば。信長さらば淺井はわが當の敵なれば。朝倉が方にむかはせ給はんや。朝倉大勢なればたれにてもわが旗下のものを加へ參すべしといふ。公そ れがし小國にて小勢をつかひなれて侍れば。大勢を指揮せん事思ひもよらず。又心もしらざらむ人と打語らはんもむづかし。朝倉何萬騎なりともそれがしが手勢 ばかりにて打破り見參に入べけれと仰ければ。信長さりながら北國の大勢を御勢にのみに任せたらんには。信長又天下嘲のをまぬかるべからず。物の用には立侍 らずとも。一二人にても召具せらるべしといへば。さらば稻葉伊豫守良通をかし給はるべきやと宣ふ。稻葉は小身にて勢も持候はぬ者なれども。御望にまかせ參 らすべしと有て。伊豫守千にも過ぬ人數を引ゐて御勢に馳加はる。かくて明日に成ぬれば。御勢姉川を打こして朝倉が一萬五千の大軍にかけ合せしばし戰ひ給ひ しが。遂に敵勢を切崩し給へは。かの伊豫守も後陣に控へしのみにて手を下すにも及ばず。織田家の備ははじめ江州勢の爲に切靡けられ。旣に負色に成りしを。 御勢の朝倉に切勝し餘勇をふるひ。又淺井が陣に橫合より切て懸らせ給へば。織田勢もこれに力を得て備を立直し。遂に勝利を得たり。戰畢りて後信長いたく御 武略を賞し。備前長光の刀を進らせけり。この役に織田家の寸兵をかり給ひて北國の大軍を切り崩し。又淺井をも追なびけ給ひしは類なき御事なりとて。日本國 中に感ぜぬものはなかりしとぞ。(藩翰譜。落穗集。常山紀談。)
按に一說に。前日の軍議にては  君は淺井。信長は朝倉にむかふべしと定められしを。その日の曉に至り信長より俄に毛利新介秀詮を使として。よべの軍議は かく定めつれど。淺井はわが當の敵なれば信長むかひ侍るべし。  君には朝倉に向はせ給へと申送られしとき。酒井忠次わが軍列すでに定まりしを。今更かへ んとせば列伍亂るべし。此事はいなみ給ひて然るべしといふ。  君淺井は小勢朝倉は大軍なり。大軍の方へむかふといふは勇士の本意なれ。とかう織田殿の命 にこそまかすべけれと。急に御陣を立直して朝倉が方に向はせられしとぞ。
稻葉伊豫守良通ははじめより後陣にひかへ居て本意なく思ふ處に。織田家の先陣淺井が爲に切靡けられし樣を御覽じ良通にむかひ給ひ。我が兵すでに敵を切崩し つれば。御邊こゝにありても詮なし。いま織田殿の戰危く見ゆれば援けむとおもふなり。こゝは御邊が先陣すべき所なりと宣へば。伊豫守も承り直に橫筋違に川 をうち渡し。淺井が陣へ打てかゝる。君又御先手の面々へ命ぜられしは。汝等今朝よりの戰にあまたゝび奮鬪しさぞ疲れたらん。その儘に折敷て休息すべし。こ たびは旗本の備もて切勝んと仰有て。稻葉に續き敵陣へ打かゝり給ひ。遂に難なく淺井を追崩し給ひしなり。(落穗集。)
この軍議の時  君軍は●の手にて勝利のあるものなりと宣ひしを。池田庄三郞信輝もその席にありしが。何ゆへに敵を二の手まで越させ申すべきやとほこらし げにいふを。  君聞し召し。さはあり度ものなれと。さらぬ樣にて御座を立せられしが。戰に及んで信輝淺井が先鋒の爲に散々切崩され。酒井忠次が備へ崩れ かゝれば。忠次おことは昨日の廣言にも似ぬ樣かなといひながら。長刀の鐏もて信輝が馬の三途を打しかば。馬おどろきて落馬しぬ。其頃の人々。庄三郞は忠次 が爲に落打されしなど。誤り傳へしことも有しとか。(落穗集。)
この戰に先陣うけたまはりし酒井左衛門尉忠次。小笠原與八郞長忠。菅沼新八郞定盈等川を打渡せしに。向の岸高くして上りかねしを見て。二の手に備へし榊原 小平太康政ゑい聲上て。先陣をうちこして先に進まんとす。酒井が兵後れてはかなはじと思ひ。競ひかゝりて遂に前岸に上り得て勝ことを得たり。  君後に榊 原が二陣の仕方後來の摸範とすべし。二の手はかくあらまほしと仰られけり。又戰のはじめ朝倉の先鋒かち誇りしには目をかけ給はず。長澤藤藏某を斥候に遣は され。直に敵の二三の陣の間やゝすきたる所に。橫合より打てかゝらせ給へば。敵勢裡崩して。惣敗軍となりしなり。信長より授け奉りし感狀の文に。今日大功 不可勝言也。先代無比倫。後世誰爭雄。十樊噲百張良といへども。日を同うして語るべからずなど。御雄略のほどを賞嘆して進らせしとぞ。(常山紀談。碎玉 話。)
小栗又一忠政はじめは庄次郞といひしが。此戰の時年わづか十六歲なり。敵兵一人御側近く伺ひよるを見て。御物の信國の鎗取てわたりあふ內に。御勢どもあつ まり來て遂に敵をうち取ぬ。  君庄次郞が年若けれど心きゝたるを賞せられ。今日の功一番鎗にも越たりとてその鎗をたまはりけり。その後も度々の御陣に一 番鎗を入しかば。又一かと仰有て名を又一と改めしとぞ。又大塚甚三郞某は敵と鎗を合せしに己が鎗折れければ。敵の鎗取てその敵突伏●を御覽じ。又ない働を 仕たるぞ。又內又內と仰ありて。これもこれより又內と改稱す。大久保荒之助忠直も敵の鎗取て奮戰せしかば。荒が事を仕たると仰られて。金の御團扇を賜ひし より荒之助と改稱す。榊原隼之助忠政は敵の首取て御覽に備へしに。折しも御馬副の人なければ忠政に侍ふべしと有て。御手綱の七寸に取付て居たり。忠政只今 御方の常に御惠蒙る者どもの。敗走する樣の見ぐるしさよ。かゝる時は誰か奮戰して御恩に報ひ奉らんかと述懷しつれば。尤と聞しめし。後に遠州濵名にて七十 貫の地をたまはりしとなり。(諸家譜。柏崎物語。續武家閑談。)
元龜二年四月武田信玄御領國に攻來るよしきこえ。濵松より吉田城に御座あり。信玄の先鋒山縣三郞兵衛昌景多勢引つれ攻來る。  君三の曲輪の櫓に扇の御馬 幟立て。敵陣の樣つくづく御覽あり。酒井左衛門尉忠次が打て出でむといふを制し給ひ。敵陣の樣を見るに城を責むとにあらず。我をおびき出し彼の松原にて伏 兵もて討むとするならん。よく見よ今にかなたより武功の者を出して戰を挑むべし。こなたよりも一騎當千の者を出して。鑓ばかり合せしめよと宣ひしが。果し て敵方より廣瀨鄕右衛門。三枝傳右衛門。孕石源右衛門など土橋まで進み來りしかば。城中よりも酒井左衛門尉忠次。戶田左門一西。●津土左衛門時隆等打てい で。互に詞をかはして渡り合しが。やがで彼方より引取しなり。此時御推察のことく山縣が備の後には。馬塲美濃守。內藤修理亮。小幡。眞田等あまた備をかく し。御みづから打て出給はゞ。信玄は御油の宿の方より吉田の西口にかゝり。吉田を攻拔べき手術なりけるとなり。山縣勢の跡には足輕の樣に見せて人數を少し づゝ殘し置しは。甲州言葉にてかゝりかんといふものにて。敵を誘よせ諸所にかんを起して喰留ん手術なりと忠次に仰付られしが。後年廣瀨鄕右衛門御前へ出し とき。此事かたり出給ひしかば。鄕右衛門その時甲州の計略全く御明察に少しも違はざりしとて驚感し奉りけるとぞ。(御名譽聞書。)
同年夏秋の頃武田の大兵三遠の邊境を侵掠するにより。信長使を濵松に進らせ。早く濵松を去て岡崎へ退かせたまへといふ。  君時宜にしたがはんと御答有 て。後に侍臣に仰られしは。此濵松を引ほどならぱ我弓矢を踏折て。武夫の道をやめんものをとて笑はせられしとぞ。其後老臣等。こたびは大事の戰なれば尾張 へ御加勢を乞れんといふ。君我いかに微運に成たりとも。人の力をかりて軍せんは本意にあらずとて聞せ給はず。老臣かさねて。信長よりは度々援助をこはるゝ に。こなたよりは是まで一度もこはせられず。隣國相助べきはもとよりの事なれば。こたび仰遣はされしとてわが國の恥辱といふにもあらずと强ちに勸め奉り。 味方が原の役に至りやうやく尾張より援兵を進らせしなり。(柏崎物語。)
見付の退口に大久保勘七忠正は一言坂にて鐵砲を打損じけるゆへ。わづかの間にてなどかく打損ぜしと尋給へば。勘七平常の通に打ぬと申上ければ。上意にそは 見付より走り來り。氣息のあしさに打損ぜしなり。かゝる時は加樣にうつものなりとつばらに御教諭ありしかば。いづれも感歎せしなり。又この日本多平八郞忠 勝度々奮戰して敵を追拂ひ。  君にも難なく濵松へ御歸城あり。御途中より成瀨吉右衛門正一もて忠勝が許へ仰下されしは。今日の働日頃の平八にあらず。 たゞ八幡大菩薩の出現ありて。味方を加護し給ひしと思召すよし御感賞ありしとぞ。甲州人がからのかしらに本多平八といふ狂句をかきて。見付の臺へ立しもこ の時の事なり。(柏崎物語。)
按に伊賀路御危難の時にも。忠勝が事を八幡菩薩の出現せしとて賞せられし事あり。さる武功の者ゆへ度々おなじ御賞詞賜はりしなるべし。
元龜三年十二月武田信玄かさぬて大兵を率ひて濵松近く攻來る。人心恟々として穩ならず。この時鳥居四郞左衛門忠次斥候うけたまはりはせ還りて。敵大勢にて 行伍の樣もまた嚴整なればたやすく戰をはじむべからず。早々御先手を引還させ給へ。もしまた一戰を遂られんならば。わが軍列をとゝのへ鐵炮迫合に時を移 し。敵の堀田邊まで打出むを待て戰をはじめば。万が一御勝利もあらんか。これも全勝の道にはあらずと申す。  君聞し召御氣色あしく。信玄なればとて鬼神 にもあらず。又大軍なればとておそるゝにもたらず。汝平生は大剛のものなるが。今日何とて臆したるやと仰らるれば。忠次  君常は持重に過させ給ふが。今 日は何とて血氣にはやらせ給ふぞ。心得ぬ御事なれ。只今に某が申せ●事を思ひ當らせ給ふべしとて御前を退しが。御家人に向ては。今日の戰かならず御勝利な るべし。をのをの進むで忠戰せよと言捨て。みづからは敵軍にはせ入て討死す。渡邊半藏守綱も斥候に出しが立ち歸り。今日の戰はあやうからんと申上れば。い よいよ御けしきあしきにより。御側に候ひし大久保治右衛門忠佐。柴田七五郞康忠はせ出むとするを。守綱制してゆるさず。  君たとへば人あつてわが城內を 踏通らんに咎めであるべきや。いかに武田が猛勢なればとて。城下を蹂躝してをしゆくを。居ながら傍觀すべき理なし。弓箭の恥辱これに過じ。後日に至り彼は 敵に枕上を蹈越れしに。起もあがらで在し臆病者よと。世にも人にも嘲られんこそ後代までの恥辱なれ。勝敗は天にあり。とにもかくにも戰をせではあるべから ずと仰ければ。いづれも此御詞に勵され。勇氣奮决して遂に兵を進られしとぞ。(東遷基叢。)
この軍旣に敗れ殆ど危急に及ぱせ給ふ時。夏目次郞左衛門吉信は兼て濵松城を留守せしが。いそぎ手勢引具し御前に馳參じて御歸城を勸め奉る。  君われかゝ る負軍し何の面目ありて引返すべきや。且敵わが軍後を競へば兵を返さん事もかたし。たゞ此所にて討死せんと宣ひて聞入給はねば。吉信御馬の口取し畔柳助九 郞武重にむかひ。我は  君に代りて討死すべし。汝は速に御供して歸城せよといつて。自ら廿五騎を打從へ十文字の鎗取て。かしこくも御名をとなへ追來る敵 と渡り合ひ。おもふ樣に戰ひて打死す。この間に武重は御馬の口取て引かへさんとするに。御鐙踏立て二三度蹴させ給へども武重いさゝか動かず。强て御馬を引 立濵松の方へ引返す。敵猶も追かけ來れば松井左近忠次戰疲れて林の中に息ついで居しがにはかに走りいでゝ。御着脊長の朱色に成て敵の目に付はとて。己が鎧 を着せかへ奉り己れ御鎧を給はり。又己が馬をも奉り。みづから松井忠次と名乘て敵を二三度追崩す。武重はからうじて供奉し濵松に歸りて御門明けよといふ に。番兵たやすくうけがはねば。殿の御供して助九郞が歸たるぞとよばわるを聞て。はじめて御門を明て入れ奉る。即ち助九郞に命じて城外を巡視せしめ。御腰 にざゝせられし扇を助九郞に賜ひしが。折しも雨にうるほひて扇の紙と骨の離れしをもて。後に助九郞が家の紋となしける。忠次もはじめ林中より出でしとき蔦 の葉の胄の上に附きたるを御覽じて。汝が今日の功莫大なり。この後は蔦の葉をもて家のしるしとし後裔に傳へよと命ぜられ。今に家の紋となしぬ。はるか年經 て後夏目吉信の二子をめし出して。我その時危難をまぬかれいま天下一統の業をなせしも。全く汝が父の忠節によれりと御淚をうかべて仰せられしとぞ。(貞享 書上。大三河志。)
この戰に夏日が外にも忠戰を抽でゝ御感にあづかりし者少からず。水野太郞作正重は敵の追來るに度々取つてかへし。敵を追はらひ難なく御歸城あり。  君の 仰に。一日七度の鎗といふことは聞傳へたれど。今日の太郞作が働にはいかで及ぶべきとて御賞詞あり。天野三郞兵衛康景は胄付の首提て御後に附隨ひ。內藤四 郞左衛門正成もおなじく從ひ來りしが。敵の弓を持しもの御側ちかくよりくるを見て。正成汝は何者なりと咎むれば。康景後よりその弓を踏落すゆへ敵にげはし る。又孕石忠彌といふ者御馬の尾を捉へて引とゞめむとす。  君御刀もて馬尾を切拂はれ忠彌が倒るゝところへ。松井左近忠次馳來り忠彌を討とむ。小笠原次 右衛門定信は山縣昌景が手に打むかひ。能敵討て黃の四半の先へ茜の吹貫出し指物に。首とり添て御覽に備しかば。御感なゝめならず。かゝるところへその父信 倫戰死せしよし告げ來りしかば。直に引返し戰塲に馳むかふ。折しも敵三人して父の首をあらそふ所へ行あひ。二人をば即座にうちとり一人に手負せ。父がしる しを得てかへりぬ。おほよそ軍中にて父が仇をその座に打得し事。天の冥助にかなひしといふべしとて重て御感あり。細井喜三郞勝宗も御跡打て戰死せしが。そ の家僕木梨新兵衛疵七ケ所負ながら。主の仇打て勝宗が首をもとり返し。御前に出ければ。御褒詞をくはへられ錢一貫文下され。汝黑馬に乘て功を建てたれば。 このゝちは黑と氏を改むべしと仰あり。勝宗は嗣子なければ遺跡を弟の喜八郞勝久に繼しめらる。大久保新十郞忠隣若年なるが馬に離れてさまよふ樣御覽じて。 かれ救へと宣ふときに。小栗忠藏久次折しも敵の馬奪ひ得て乘來しが。此御詞承るとひとしく馬より飛下りて新十郞を扶けのせて。己が身は股に鑓疵負ひながら 少しも屈せず引退く。野中三五郞重政も御馬に添て引退くところに。甲州侍長何がし七八騎にて御先に塞がるを。  君長め長めとのゝしらせ給ふ。重政即ち長 を馬より突落し首をとる。こは近年まで小姓勤めし者なるが。御家を出で信玄へ仕へしなり。御歸城の後三五郞に御盃下され信國の御刀を引る。盃に三日月を蒔 繪にしたれば。向後此を吉例として三日月をもて紋とせしめらる。又御危急なりし時鈴木久三郞御麾賜りて討死せんと申す。  君汝一人を討せてわが落ち延む こと本意にあらずとて聞せたまはず。久三郞はしたゝかなるものなれば大に怒りて眼を見はり。さてさて愚なる事を宣ふものかなとて。强て御麾を奪取りて只一 人引き返し奮戰す。御歸城の後あはれむべし久三定めて戰死しつらんと宣ふ所へ。久三郞つと歸りきて御前へ出ければ。殊に御けしきうるはしく。汝よく切り拔 しと仰ければ。久三郞思ひしよりも手に立ざる敵の樣に侍るはとさらぬ顏して座し居たり。櫻井庄之助勝次は濵松の玄默口を守て居しが。朱鞘の大小さしたる敵 の手負て引き退くを誰も追者なかりしが。勝次是をみて走り出でそが首を取。外にも一級とりて還りしかば。大御に御感有りて。汝が七本のねぢ馬連の指物は重 くて便よからず。茜の四半を指物にせよと仰有て。この後改めしとぞ。(武功實錄。家譜。柏崎物語。貞享書上。東遷基業。東武談叢。)
濵松に歸らせ給ひし時。けふの大敗にて城中の者ども御安否もしらざれば。大手より還御あらばさだめて驚恠しつらんとおぼしめし。わざと城溝邊を乘廻し惣懸 口より入せ給ふ。植村正勝天野康景に命じて大手を守らしめ。鳥居元忠に玄默口を守らしめ。且命ぜられしは。城門は明置て後れ來るものを入るべし。その上敵 近よるとも門の明しを見ば疑ひて遲疑すべし。門外四五ケ所に燎火を燒かしめよ。さてさて埓もなき軍して殘念なりと仰有て。久野といふ侍女が供せし湯漬を三 度かへてめし上られ。御枕引よせ高鼾にて打ふさせ給ふ。左右の者は今日の大敗に一同人心ちもなきに。少しも驚かせ給ふことなし。かゝる所に高木九助廣正。 信玄が近臣大隈入遣といふ容貌魁偉の者を討取りて來る。その首御覽じて。城中の人こゝろおだやかならざれば。汝はこの首を太刀につらぬき。信玄を討取しと いはゞ。汝が勇敢は元より衆の知所なれば。たれも眞と思ひ心おちつくべしとありしかば。廣正仰のまゝに。今日敵の大將信玄をば高木廣正が討とりたりと。大 音あげて城中を呼りめぐりしかぱ。人々さてはとはじめて安意せしとぞ。暮がけに甲州の馬塲信房。山縣昌景城下までせめ來たりしが。御門の明しを見て昌景 は。城兵よくよく狼狽せしと見えて門とづるいとまなしと見ゆ。速に攻入むといふ。信房これを制して。德川殿は海道一とよばるゝほどの名將なれば。いかなる 計策あらんも計りがたし。卒爾の事なせそとて遲々する內に。烏居元忠。渡邊守綱打ていでければ。二人恐怖して引返しけり。その後目をさましたまひ。信玄は さだめて引返しつらんと仰ありしが。その夜味方犀が崖の敵の陣におしよせ鐵炮打かけしかば。武田勢大に狼狽し。さすがの信玄勝ても恐るべき敵なりとて。軍 をまとめて引きとりしとぞ。(前橋聞書。四戰記聞。大三河志。)
甲斐の馬塲美濃守信房後日に信玄にかたりしは。こたびの戰に三河勢末々まで决戰せざる者はなし。その死骸を見るに。此にむかひしは皆俯伏し。濵松の方にむ かひしは仰倒せり。いづれも戰死せしにて一人も遁走せしはなしと思はるとて大に感歎しけり。すべてこの時御家人あまた戰死し殘少になりければ。  君御淚 をうかめられ。われ小國にてかく家人を打せては。この後戰せんこと難しと仰られ。戰死の者の子孫は年の長幼を論ぜずめし出して家繼しめられしとぞ。中根喜 藏利重は戰の最中に北條より武田が援軍としてむかはせし近藤出羽助實と鎗を合せ。御馬前にて戰死す。しかるに利重子なかりしかば家絕んとするをあはれませ 給ひ。その女子松平九郞兵衛正俊が妻となりて生し子。天正十二年京より還御のとき。岡崎の松原に母と共にありしを御覽じ。利重が外孫なりとてめし出され。 中根喜藏とめさる。時に三歲なり。いとありがたき御事なり。(武德大成記。武功實錄。家譜。)
石川善助といへるはわづか三十貫ばかりとりし御家人なり。一とせ 當家を立さり加州へゆきて三百貫の地に在付しが。こたびの御敗軍をきゝ彼地を去て立かへ り。此度上方よりめし抱へられしものどもは。みな戰を恐れ遁げ散ぬと承ぬ。上方の弱兵ども何の御用にか立候はん。某身不肖には候へ共。御先度を見屆ん爲立 還りぬ。哀れ願くは一旦の罪は御ゆるし蒙らんといふ。  君汝がなきとてわが事欠べきやと宣ひしが。實はその質直なるを喜ばせ給ひ。元のごとくめしつかは れしとぞ。(明良洪範。)
此卷は一向門徒の亂より。味方原御軍までの間の事をしるす。
東照宮御實記附錄卷三
天正元年正月武田信玄三州野田の城を責ける時。城將菅沼新八郞定盈よりかくと注進す。  君我やがて援兵を出さむまでは。味方の城々堅く持抱ゆべし。すべ て籠城は橋々との上意にて。直に軍を笠頭山まで進め給へり。後に本多豐後守廣孝はしばしと仰られしは。いかなる儀なるかとうかゞひしに。まづ籠城の心得は 門を堅め弓銃をくばり。敵を城門の橋まで思ふ圖に引きよせ俄に打立射立。敵の陣伍亂るゝ樣を見すまして門より打て出で。一散して輕く引とれば城は持よきも のなり。さるに籠城とだにいへばまづ橋を引て自ら居ずくまるゆへ。兵力振はずして遂に攻落さるゝなりと仰けり。後年伏見籠城の時大坂勢責寄しに。城中の松 の丸の橋を引たるよし聞しめし。籠城には橋なき處にも橋をかけてこそあるべきに。懸來りし橋を引程ならば。城はこらゆまじと仰られしが。果して四五日過て 落城の注進ありしとぞ。(御名譽聞書。酒井家舊藏聞書。)
同じ年四月武田信玄入道病死せしよし。御城下にもとりどりいひ傳へしを聞しめし。御家人等に仰ありしは。もしこの事實ならんにはいと惜むべきことにて喜ぶ べきにあらず。おほよそ近き世に信玄が如く弓箭の道に熟せしものを見ず。われ年若き程より彼がことくならんとおもひはげむで益を得し事おほし。今一介の使 もて其喪を吊はしめずとも。彼が死を聞て喜ぶべきにあらず。汝等も同じ樣に心得べきなり。すべて鄰國に强將ある時は。自國にもよろづ油斷なく心を用ゆるゆ へ。おのづから國政もおさまり武備もたゆむことなし。これ隣國をはばかる心あるにより。かへりてわが國安定の基を開くなり。さなからんには上下ともに安佚 になれ武道の嗜も薄く。兵鋒次第に柔弱になりて振拔の勢なし。かゝれば今信玄が死せしは味方の不幸にして。いさゝか悅ぶ事にてなしと仰あり。是より御分國 の者共いづれも御詞を學びて。信玄が死をおしき事とのみ申あへりしとか。又ある時人には向ふさすといふことなければ。その心がけも自ら薄くなるなり。信玄 が世にありし程は味方にとりて剛敵なれば。彼をむかふさす標的として常に武道をみがきしゆへ。家卒までも甲州の戰にはいつも紛骨を盡せしなり。むかふさす といふことは誰も忘れまじき事ぞと常常仰ありしなり。孟子に敵國外患なきものは國必ず亡ぶといひし詞に。いとよく似かよひし上意にて。かしこくも尊くも承 るにぞ。上杉謙信も越後の春日山に在て信玄が死を聞て。折しも湯漬を喰て居しが。箸を投すて食を吐出して。さてさて殘多き事哉。近代に英傑といふべきはこ の入道のことなるを。今は關東の弓矢柱なくなりしとて。はらはらと淚を落せしといふ。謙信も信玄と常々爭鬪せしはさるものにて。天下の爲に人物の亡謝する をおしみしは同じ。英雄の胸襟かく有べしとおもはる。こなたの盛慮も同樣の御事と伺るゝにぞ。(岩淵夜話。武邊咄聞書。萬千代記。)
天正二年四月乾の城攻給はんとて。先陣和田谷まで進しに。折しも大雨降つゞき川水溢れ出。その上敵兵御跡を切取るよし聞しめし。速に御勢を返されんとする に。野伏ども出て御道を支れば。大久保七郞右衛門忠世殿して。三藏山といふところまで引上られ。しばし後陣の來るを待て休はせ給ふ所へ。玉井善太郞が股を 鐵炮に打ぬかれて來る。君御馬をくだり善太郞に乘しめんとす。善太郞勿躰なしとてあながちに辭し奉る。七郞右衛門忠世も手を負ひ。忠世が同心杉浦久三久勝 も同じく手負退兼しを見て。忠世己が馬を久勝に與へ乘しめんとす。久勝己が如きものは何人死したりとも何事かあらん。もし大將討るゝならばゆゝしき大事な り。弓矢八幡照覽あれわれは乘まじといふ。忠世乘度はのれ。のるまじくは心儘にせよ。我が馬はこゝに捨置とて歩行立に成てゆく。よて兒玉甚右衞門。久勝を かゝへて馬にのせ引取ぬ。  君このよし聞しめし。强將の下に弱兵なしとはこの事ならんとて御賞感淺からず。この時光明山の住僧高繼といへるが御路の案內 し奉り。寺中に立よらせ給ひしに。高繼勝栗を進ければ一つめし上られて御けしきよく。光明山にて勝栗くひし事。これぞげにかうみやう勝栗なり。行末目出度 吉兆なれと宣ひ。これより後々までかうみやう勝栗とて。かの寺より奉る御嘉例となりしとぞ。(柏崎物語。武德大成記。落穗集。光明山書上。)
按に杉浦が家譜には久勝がことを味方が原の時のこととし。忠世が馬矢に中りしを見て。久勝己が馬を忠世にあたへみづから歩行立に成て敵陣へ馳入り。敵一騎 討とりそれが馬に乘て還りしかば。御感狀をたまはりしといへり。後年信州城攻の時御軍令に背しとて。  台德院殿切腹仰付られぬ。  君後にこのよし聞● めし御けしき損じ。かゝる勇士はたとひ軍令に背くとて殺すべきことかはと仰けるとぞ。
大賀彌四郞といへるははじめ中間なりしが。天性地方の事に達し算數にもよく鍛鍊し。物ごとに心きゝたる者なれば。會計租稅の職に試みられしによく御用に立 しかば。次第に登庸せられて三河奥郡廿餘村の代官を命ぜられ。其身濵松に居ながら折々は岡崎にも參り。  信康君の御用をも勤めければ。今はいづ方にも彌 四郞なくては叶はぬといふ程になり。專らの出頭人とぞなりにける。此者元より醇良にもあらぬ人の。思ひの外時に逢しより。次第に驕奢につのり奸曲の擧動ど も少からず。御家人の內舊功ある者も。己が意にかなはざればあしざまにいひなし。又おのが心にしたがへばよくとりなしければ。御家人いづれも內には憎み怨 ぬ者もなかりしかど。兩殿の御用にたち威勢ならびなければ。たれ有てそが惡事を訐發する者もなし。かゝる所に近藤何がし戰功有て采地賜はるべきにより。彌 四郞が許に行て議しけるに。彌四郞いふ。御邊がことはわれよきにとりなせしゆへこの恩典にも逢しなり。この後はいよいよ精仕して我にな疎略せそといへば。 近藤いかつて何ともいはず直に老臣の許に行て。新恩の地返し奉らむといふ。いかなる故と問ふにしかじかのよし述て。某いかに窮困すればとて。あの彌四郞に 追從して地を賜はらん樣なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のことくならんには。一粒なりとも受奉りては。武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出で 御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らんと云てきかざれば。老臣等も詮方なくそのよし御聽に達しければ。御みづから近藤を召て。汝に加恩とらするは彌 四郞が取なしに非るはいふまでもなし。汝嚮に岡崎にありて早苗取しときわがいひし事を。今にわすれはせじと宣へば。近藤感淚袖をうるほして御前をしりぞき ぬ。其後又ひそかに近藤をめして。彌四郞が事つばらに問せ給へば。近藤承り彼元より腹あしき者にて種々の惡行あれども。當時兩殿の寵遇を蒙るゆへいづれも 顧望していひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ。御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれとて。種々の惡事どもかぞへ立て言上し。 なほ詳なることは目付もて尋給へといふ。  君聞しめし驚かせたまひ。追々に拷鞫し給へばひが事ども出きぬ。よて老臣をめして。かほどの大事を何とてわれ にはいはざりしと仰ければ。さむ候この事かねて相議しけれども。彼かねて兩君の御かへりみ深き者ゆへ。臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ。大に 御けしきを損じ。かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしとおもひ。今まで遲々せしは臣等が怠り謝し奉るに詞なしといふ。よて彌四郞をばめし囚て獄につなぎ。 その家財を籍收せしむるにをよび。彌四郞が甲斐國と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は。此度彌四郞が親友小谷甚左衞門。倉地平左衛門。山田八藏等彌 四郞と一味し勝賴の出馬をすゝめ。勝賴設樂郡築手まで打ていで先鋒を岡崎にすゝめば。彌四郞  德川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ。その勢を引き入れ   三郞殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠兩國の人質をとり置なば。三遠の者どもみな味方とならん。しからば  德川殿も濵松におはし。かねて尾 張か伊勢へ立のき給はん。是勝賴刄に血ぬらずして三遠を手に入らるべしとなり。勝賴この書を得て大に喜び。もし事成就せんには恩賞その望にまかせんと。誓 詞を取かはして築手まで兵を進めけり。かゝる所に惡徒の內山田八藏返忠して信康君にこの事告奉りしより遂に露顯に及びしなり。よて彌四郞が妻子五人を念志 原にて磔にかけ。彌四郞は馬の三頭の方へ顏をむけ鞍に縳り。濵松城下を引廻し。念志が原にて妻子の磔にかゝりし樣を見せ。其後岡崎町口に生ながら土に埋 め。竹鋸にて往來の者に首を引切らしめしに。七日にして死したりとぞ。小谷甚左衞門は渡邊半藏守綱めし捕むとて行向ひしが。遁出て天龍川を游ぎこし二股の 城に入り。遂に甲州に逃さりたり。倉地平左衛門は今村彥兵衞勝長。大岡孫右衛門助次。その子傳藏淸勝。兩人してうち取りぬ。山田八藏は御加恩ありて。祿千 石を賜はり返忠の功を賞せられしとぞ。後日に至るまで度々彌四郞が事悔思召よし仰出され。我そのはじめ鷹野に出むとせしに老臣はとゞめけるを。彌四郞ひと り勸めつれば我出立しなり。これ等の事度々に及び。老臣等終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば我家殆むど危し。恐れても愼しむべき は奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては人の賢否邪正を識りわけ。言路の塞らざらんをもて。第一の先務とすべしと仰られしとなり。(東武談叢。東遷基業。 御遺訓。今村大岡山田家譜。)
長篠の前竹廣村の彈正山に御陣をすえられけるに。御家人等武田の猛勢を聞おぢして。何となく思ひくしたる樣を見そなはし。酒井左衛門尉忠次をめしてゑびす くひの狂言せよと命ぜらる。忠次かしこまりつと立て舞けるが。兼ての絕技なれば一座の者みなゑつぼに入て哄と笑ひ出しにより。三軍恐怖の念いつとなく一散 してけり。さて本多榊原等をめし軍議せしむるにいづれも味方が原の例を引て。いと御大事なりといふ。  君むかしは信玄なり今は勝賴なるぞ。さまで心を勞 するに及ばずと宣ひしかば。諸人もいよいよ勇氣百倍しけるとぞ。(東武談叢。)
おなじ戰の前信長が許におはしけるに。稻葉一鐵入道。此度  德川殿の催促によりて兵を出し給へども。もし信玄死せりと僞りて不意に打て出ることもあらば いかゞせむといふ。  君聞し召。信玄の死せしと思ふ事三條あり。第一は昨今兩年打續き同じ月日に。甲州にて万部讀經を執行へり。二には去年このかた彼國 の者共多く我方に參仕す。三には穴山梅雪入道緣邊の事違約せり。これらをもてをしはかるに。その死せしこと疑ふべくもあらずと仰けれは。信長稻葉に向ひ。 汝何を知りてかようなき事をいひ出せるとていたくいましめらる。其後御陣に歸らせ給ひ。井伊。本多。榊原の三臣をめして。敵は多勢味方は微勢なれば。戰も し難儀に及ばゞ討死せんより外なし。よて  信康をば岡崎に還さんとす。汝三人の內一人は。  信康を守護して本國に歸るべし。鬮もて定めよと仰あれば。 三人何とも御請申さでありしかば。御氣色損じけるを見て康政進みいで。臣等いづれも御馬前にて討死せんは兼て期したる事なれども。若殿に從ひて立ち歸らん 事は。上意に從ひ難しといへば。又何と仰らるゝ旨もなくやゝ御けしき直らせ給ひ。御陣所の後のものしづかなる所へ  三郞殿を招かせられさきの旨仰られし かば。  信康君。年若き某一人岡崎に歸りたりとも何の益か侍らん。それよりは  父君こそ御歸城有て領國を守護し給へ。某は御身代してこゝにて討死せん と宣ひて。中中聞入給はざればこの儀もまた止みぬ。こなたにはかくまで持重しておはしませしが。戰に及むで甲州勢思ひの外に打負て味方大功を奏せられし は。元より天運にかなはせられし御事とは申しながら。戰に臨むで恐るといふ聖訓には。よくもかなへりと申奉るべき御事にぞ。(久米川覺書。古老夜話。)
この戰に信長より使もて。先手の指揮し給へといひこされしかば。內藤四郞左衛門正成かきの澁帷子きしまゝにて出むかひ。御指圖かうぶりて軍すべき  家康 にてなし。某等も又  家康に仰の旨申すまでも候はずといひはなちてその使をば返しぬ。信長これをきかれ。  德川殿には末々の者までただ人ならずとて感 歎ありしなり。又戰に及んで甲軍の樣を御覽じ。今日の戰味方かならず勝利ならん。敵陣丸く打かこむ時は攻がたし。人數を布散して多勢の樣に見するは。衆を 賴むの心あればかへりて勝やすしと仰せけるを。酒井忠次承りていたく感服せしとぞ。(紀伊國物語。前橋舊藏聞書。)
國の主たらんものは弓箭の作法よろしきをもて第一の要務とす。武田信玄はこれに熟せしゆへ兵鋒も亦つよし。我かの遺臣を使ひて見しに。别にかはれるふしは なけれども。たゞ弓箭の穿鑿ゆきとゞき。諸卒までも苟旦のこゝろなきゆへ。陣列も自ら剛强に見ゆるなり。長篠の役にも我と信長と兩手十万ばかり。勝賴はわ づか二万程なり。こなたは栅を三重にゆひけるに。勝賴何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり。若其折瀧澤川の渡を前に當て對陣せば。わが兩手多勢とい へども十日と持こらへずして引退くべし。その時追伐せば十が八九は勝を得べきに惜しきことならずや。さりながらかく後々までも兵鋒の强かりしは。全く入道 が時より。三軍の調練よく屆きし故なりとて御感賞ありしとぞ。(中興源記。)
後年藤堂和泉守高虎御前に伺公せしとき。武士の武をたしなむはいふまでもなけれども。あまり猛勇に過てはかへりて怯弱に劣る事あり。そのかみ武田勝賴常に 血氣にはやりし本性なるをわれとくより見透したれば。長篠の戰にわざと栅をふり優にもてなせしを。例のいちはやきくせにて。ゆくりもなく切かゝりしゆへ。 たゞちに敗亡せしなり。元より怯惰ならば家臣の諫言をも用ひ。かくもろくは亡ぶまじものをと仰あり。又これにつきて思召に。天下の主たらんもの第一慈悲を もてよしとす。さりながら慈悲の過たるは刻薄に劣る事あり。譬へば家臣の內に弓馬の嗜なく。朝夕酒色に耽る類の者を見のがし置ば。をのづからその風餘人に もをしうつり。兵鋒も次第に弱みもてゆくなり。ゆへに心あらん君はかゝるものをきびしく刑戮し。衆人に目をさまさしめはじめて本心を得せしむるなり。汝い かゞ思ふと仰あり。高虎承り。いかにもかしこき仰の旨聞えあぐ。さらば夜話の折からこの旨將軍家へも言上せよと有ければ。高虎折を以て此よし申上けしに。   台德院殿いたく感じ給ひ。武勇も慈悲も過てはあしゝとの御教諭こそ。子孫の末までも語り傳へて炯鑑にせめとて御自ら物にしるし置給ひぬ。高虎またこの 由を申上しに。  將軍にはさる心づきなき人にはあらざれども。孝心の深きよりして。親の詞を反故になさじと思ひ。かくしるし給ふならんと宣ひ。御愼篤の 御性質をいと御賞嘆ありしとぞ。(藤堂文書。)
長篠の籠城すでに終りし後。奥平九八郞定昌をめし出され。定昌若年といひ數日の間小勢もて大敵を引うけ窮城を保ちし事。誠にためしなき働といふべしとて御 感斜ならす。またその七人の家長等をめし出て此度の忠節を賞せられ。汝等が子孫後代に至るまで見參をゆるさるゝよし仰付られ。今に奥平が家人每春謁見を給 はるは。此時の例による所なりとぞ。定昌には作手。田嶺。長篠。吉良。田原の內。遠州。刑部。吉比。新庄。山梨。高邊等の地若干下され。姉川の役に信長よ り進らせし大般若長光の御刀をも下され。又信長より申さるゝ旨あるにより。第一の姬君もて定昌に降嫁せしめらる。その後定昌岐阜へ參り信長に謁見せしに。 信長もいたくその功を賞せられ。定昌が此度の勳功武士の摸範ともなれば。向後武者之助と改名せよとて。己が一字を授け信昌と名乘らしめ。そが上にもさまざ ま引出物せられしなり。(貞享書上。)
甲州士の內にも山縣三郞兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に應ぜぬよし聞しめし。そ はいとめでたきことなり。信玄が內の山縣は大なる兎缼なり。かの魂精の拔出て 當家普第の本多が子に生まれ來りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけら れ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。  台德院殿の御伽にめし加へらる。後年石川數正が京都へ立去し後。 當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山 縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附屬せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん樣にも り立べし仰付られぬ。これらをもても山縣をば厚く御感賞ましましける事はかりしるべきにぞ。(落穗集。)
大天龍の迫合に近藤傳四郞某手負ひて。渡邊半藏守綱を見かけ汝我を助けよといへば。半藏己が取たる首を投げすてゝ傳四郞を負ひ。三里ばかり引退きける由聞 せ給ひ。味方一人討るれば數千人が弱みとなるなり。味方を助くるは七度鎗を合せたるよりも勝れりと仰有て。今よりは守綱を鎗半藏とよぶべしと仰られしな り。またこの時斥候の者あまた命ぜられ。退口に及むで己がじゝ馬どもを先にこし。歩立に成て引退ける內に島田意伯もありけるが。仰に意伯が馬もかしこにあ るはと仰せられしが。この騷擾の間にいかゞして見しらせ給ひし事と。あやしきまで御强記の程を感じ奉りけるとぞ。(備陽武義雜談。武功雜記。)
天正三年八月遠州諏訪原の城責取給ひ。改めて牧野城と唱へしむ。さて誰かこの城守るべきと宣ふに。大事の地なればいづれも容易に御受するものなし。時に松 井左近忠次進み出て。某が守り奉らんとかひがひしく申上れば御けしき大方なら ず。よて松平の御稱號御諱の字賜はり。松平周防守康親と名乘らしむ。こは周 武王が股紂王を牧野にて攻亡せし故事おば しいでゝ。勝賴を殷紂に比し康親を周武になぞらへ。かくは命ぜられしなりと傳へしはまことにや。(貞享書上。落 穗集。)
天正三年八月光明山諏訪の原二城責とられ。又小山の城を圍れしに。武田勝賴は過し長篠大敗の後甲を繕ひ死を吊ひ。重ねて二万の大兵もて後詰し。先陣すでに 岡部藤枝までに進み來る。この時御人數を引き上られ井呂崎の岡までいたらせ給ひ。  信康君をめし。是まで敵にむかふ樣にして引取りしが。この後は敵わが 軍後にあり。おことは若年にしていまだ戰陣にも習熟せざれば。こゝよりは我に先立て引退れよとの給へば。  信康君いかで父君を跡なして引退かむやとて。 かたみに御辭讓ある所へ酒井忠次馳來り。只今急遽なり。兩殿はともあれ某はまづ引返さむとて御先に引退ば。  君も忠次につぎて兵を收めらる。其時  信 康君は敵の程合を見合せ給ひ。後殿してしづじづと引せ給ふ。  君はこの樣土臺にて御覽じ。天晴ゆゝしき退口かな。かくては勝賴十万の兵もて攻來るとも打 破ることなるまじと御賞賛有て。牧野の城へいらせ給ひしとぞ。(武德編年集成。)
遠州二股の城攻られし時本多平八郞忠勝は供奉し。內藤四郞左衛門正成はその比足痛により從ふ事かなはず濵松城を守れり。折しも風雨烈しくて夜中に軍をかへ され濵松にいたらせ給ふに。忠勝まづ人をはしらせ。  殿の御歸城なり。早く御門を明よといはせけるに。正成關鑰を固うしてあけず。忠勝自らかへり來て門 をたゝきよばゝれども。正成櫓にのぼり。この暗夜に誰なれば  殿の御還などいつはるぞ。かしがましそこのかすば打ち殺さんとて。鐵炮に火繩はさみて指麾 すれば。忠勝もいかむともすることあたはず。やがて  君還らせ給ひて。四郞左我が歸たるはと宣へば。正成御聲とは聞つれど尙いぶかしくや思ひけん。狹間 より挑燈を出したしかに尊顏を照して後。いそぎ御門を明て入奉る。後に正成を御賞美ありて。汝が如き者に城を守らせ置ばいとうしろ安し。いかなる詐謀の敵 ありとも拔とることかなふまじ。守城はかくありたき事と仰られしとぞ。(碎玉話。)
天正六年三月武田勝賴遠州へ出張せし時。大須賀五郞左衛門康高が甥彌吉御軍令にそむき。勝賴が旗本へ打ちいり高名せしかば以の外怒らせ給ふ。彌吉恐れて本 多平八郞忠勝が家ににげ入て御免をねぎしかども。御ゆるしなく終に切腹仰付らる。何事も寬仁におはしけれど。軍令にそむきし者などはかく御宥恕なかりき。 (柏崎物語。)
天正六年三月越後の上杉輝虎入道謙信。春日山にて卒せしよしを聞召て。武田入道が死せし後はまた謙信ほど弓箭とりまはす者は今の世にはなかりしに。これも またはかなくなりぬ。かく年を追て名譽の弓箭取打續き死し絕る事。世の爲いとおしむべき事と仰られしとぞ。この入道いまだ世に在りし程は。  君の御英名 をしたひはるかに越路より書翰を捧げ慇懃を通じ。  當家に力を合せ甲斐の武田を打滅さんと約し奉りし事も有しゆへ。わきてその死を惜ませ給ひしなり。又 水谷正村入道蟠龍齋といひしは。下野の結城が幕下にて東國に名高き弓取なりしが。これも當時天下にこの君ならでは。共に關東を切平げんものあらじと思ひ。 石野丹波といへる家人を進らせ書翰を呈し。一度御馬を關東へ進められんには。その主晴朝を勸めて御先手奉らんと申上ぬ。かく遠方の國々よりもはやうより御 風采をしたひ。歸屬の心を抱くもの數多有しといへり。(落穗集。貞享書上。)
武田勝賴大軍を率ゐ遠州橫須賀まで打て出で濵邊に陣どり。  君御父子も御出馬ありて。入江を隔てゝ互に鐵炮迫合あり。  信康君鈴木長兵衞某一人めしつ れ。敵陣近く乘よせ。其樣見そなはして。いそぎ戰をはじめ給へと仰上られしかば。  君かれは大勢味方は小勢。殊さら地利にもよらで戰をはじめば勝事有べ からず。この後とてもおなじ樣にこゝろ得らるべし。さりながら年若き程のはやりかなる心には。さ思はるるも理なりとて軍を班されしなり。後に老臣に向ひ。 三郞が弓箭の指圖は過分の事なり。しかしこれは一人の思慮にはあるまじと仰られしとなり。(岩淵夜話别集。)
岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世兩人も。御ふるまひのあらあらしき事ども。條件にしるして御覽に入ければ。三郞がかゝる 所行あらば。定て汝等二度も三度も諫を納し上にて。尙聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年若きものゝ事をや。 いかにと問せ給へば。兩人さむ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諫言など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠 言進め奉るもの候はずと申せば。  君今の世に比干伍子胥が如き忠臣なければ。諫を進めざるも理なれとて。又何と仰らるゝ旨もなし。其後三郞君御生害あり はるか年經て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことねぎ奉りしに。三郞今にあらばかく天下の事に心を勞すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたる やと仰ければ。忠次何ともいひ得ずひれふして在しとか。又幸若の舞御覽ありし時兩人にも見せしめられしに。滿仲の曲にをのが子美女丸をもて。主にかへて首 切て進らせしさまを御覽じて。兩人にむかはせ給ひ其事となく御落淚し給ひ。兩人あの舞はと仰られしかば兩人大に恐怖せり。又或時三郞殿のかしづき渡邊久左 衛門茂に向はせ給ひ。汝等は滿仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事もあり。また關原の役にあさとく御旗を勝山に進められし時も。さてさて年老て骨の折 るゝ事かな。悴が居たらば是程にはあるまじと獨言の樣に仰られしとか。唐國にも漢の武帝が衛太子の事有し後に。望子の臺を築き朝夕にその方ざまを望み見 て。いさちなげかれしといふは。悲しきことのさりとは自らなせる事なれ。これは御父子の間に何の嫌疑もおはしまさず。たゞ少年勇邁の氣すすとくおはしませ しを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御擧動の在しも。軍國の習にてあながち深く咎め奉る事にあらず。さるをかの兩人織田家の奸計に陷り。かし こきまうけの君をあらぬ事になし奉りしは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歲の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみはかり奉るに。袖の露 置所なくおぼえ侍るにぞ。(武邊雜談。東武談叢。寬元聞書。)
三郞殿二股にて御生害ありし時。撿使として渡邊半藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三郞殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。   君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも淚流して居し內に。本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今 度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。  君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七が  淸康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の 當家 にさゝはる事かな。此後は御差料の內に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半藏は三郞殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あた はず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君  御雜話の折に。半藏は兼て剛强の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り 傳へてひそかに思ふやうは。半藏が仕兼しをこの山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものう くやなりけん。 當家を立去り高野山に入て遁世の身となりしとぞ。(柏崎物語。)
七年駿河國持舟の城を責られし時。先鋒の松平周防守康親等を制し給ひ。城兵打て出るとも味方をとゞめ。一人も出合まじと命ぜられ。わざと弱き樣を見せ。城 兵の引入とき附入にし。烈しく戰て攻取られしとぞ。この時城將三浦兵部が首をば。康親が家人岡田竹右衛門打取しを。竹右衛門己が親姻の一色何がしが功にせ んと思ひ一色に與しを  君御覽じ。いやいや兵部が首は竹右衛門が討取しなり。餘人の功にすなとて。御紋の旗と御具足を竹右衛門にたまはり。その功を賞せ らる。この竹右衛門は大剛のものにて度々軍功ありて。御感に逢し事もまたしばしばなりしとぞ。(三河物語。貞享書上。)
高天神の城責られし時。城中より幸若與三大夫が御陣中に供奉せしよし聞て。今は城兵の命けふ明日を期しがたし。哀れ願くは大夫が一さし承りて。此世の思出 にせむといひ出ければ。  君にもやさしき者共の願よなとおぼしめし。大夫を召して。そが望にまかすべし。かゝる時は哀なる曲こそよけれと宣へば。大夫城 際近く進みよりたかたちをうたひ出でたり。城兵みな塀際によりあつまり。城將の栗田刑部丞も櫓に昇り。一同に耳を傾け感淚を流してきゝ居たり。さて舞さし ければ。城中より茜の羽織着たる武者一騎出きて。その頃關東にて佐竹大ほうといふ紙十帖に。厚板の織物指添等とりそへて大夫に引たり。かくて明日の戰に城 兵皆いさぎよく戰て討死す。殊さら茜きし武者は晴なる働して死しぬ。軍はてゝ後敵の首どもとりどり御覽に備へし內に。顏の樣十六七ばかりと見ゆるが。薄粧 し齒くろめ髮なでつけ。男女いづれとも見分がたきがあり。君その眼を明て見よ。眸子上に見返してまぶたの內に入り。白眼ばかり見えば女と知るべし。黑眼明 らかにみえば男なれと宣へば。筓もて目を開き見るに眸子明らかなれば男の首に定む。後に聞ばこは刑部最愛の小性に時田鶴千代といふ者にて。討死の樣いと優 にやさしかりとぞ。いづれも御明識に感服しけるとか。又此城落むとせし時。二丸にて武者一騎輪乘する樣をはるかに御覽じ。俄に御先手へ仰傳へられしは。只 今に城中より眞先かけて乘出る武者あるべし。かまへて支へとゞむべからず。若强ひて止めむとせば味方損ずる者多からんと。御使番に命じ乘廻して制せしめら る。やがてかの者城よりかけ出ければ仰の如く路を開きて通しけり。これは甲斐の侍橫田甚五郞尹松なるが。落城のよしを本國に注進せんため。城兵の討死をも かへりみず。たゞ一騎大衆の中をはせぬけて甲州へかへりしなり。この尹松後に武田亡て 當家に參り。處々の御陣に供奉し度々戰功をあらはし武名世にいちじ るし。五千石賜りて御旗奉行にまで進みしなり。(落穗集。家譜。明良洪範。)
天正八年七月の比濵松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに。數萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならす。御みづから社頭へましまし しばし御奉幣ありし後。扇子をもてうち拂ひつゝ御下知ありしかば。蜂みな四散す。よて社の跡を淸め汚穢なからん樣にせよと命ぜられ。松を植しめ五社の松と ぞ申ける。(拍崎物語。)
甲斐の府に入せ給ひし時。信玄このかた大罪のものを烹殺せしといふ大釜あまたありしを。駿遠三に一つ一つ引移せと命ぜらる。本多作左衛門重次この事承り例 の怒を發し。殿の御心には天魔の入かはりしにや。かの入道が暴政をよしと思召。ようなき物をあまたの費用もて引移させ給ふこそ心得ねとて。をのれ其釜ども 悉く打碎き水中に棄てけり。君大に打ち咲はせ給ひ。さてこそ例の鬼作左よと仰られしとぞ。又馬塲美濃守氏勝が娘さる所に隱れ居るよし聞しめし。鳥居彥右衛 門元忠に命じて搜索せしむるに見えざるよし申てやみぬ。其後さきに隱れ居と申せし者かさねて御前へ出し折から。又候此事尋給ひしに。その者御膝近くはひよ り。まことはその娘元忠が方に住つきて。今は本妻の如くにてあると申せば。あの彥右衛門といふおのこは。年若きより何事にもぬからぬやつなりと高聲にて御 咲あり。其頃元忠同國黑駒にをいて北條が兵と戰ひ。敵の首あまた討とりしを賞せられ郡內を賜はりけり。此地は汝が鎗先にて取得しなり。我が與ふるにあらず 永く領せよと仰られしとぞ。(岩淵夜話。東遷基業。鳥居家譜。)
按に一說には。山縣昌景が組の者に和田加助といふがありて新に召抱られしに。信玄が時上州箕輪の城責に峯法寺口にて働せし趣を御糺しありしが。相違の事あ りて召放されぬ。元より武功の者なれば鳥居元忠己が方にひそかに養ひ置しを。御聽に入る者ありし時。彥右衛門めはきやうすい奴かなとのみ仰られ。その後何 の御沙汰もなかりしとぞ。又鳥居家譜に元忠が女子馬塲美濃守氏勝が娘の設る所とみえたれば。本文に元忠馬塲が娘を迎へしといふも據所なきにあらず。
甲斐の者どもめし出て武邊の事御尋ありしに。武田が家法にて矢を用ゆるに鏃をゆるく箆を强くするは。敵に中りて鏃の肉の中にとゞまり。後後まで痛ましめん が爲なりと申ば。武田が法はさもあれわが方にてさる事なせそ。敵なりとも盜賊いましむるとは異なり。當座に射中て働事かなはず味方に利あればたれり。かゝ る慘酷の事するに及ばず。わが方にては箆中を强く鏃のぬけざらん樣にすべしと仰せられき。(武功實錄。)
甲州御手に入し時。平岩七之助親吉もて代官の職命ぜられ。奉行は成瀨吉右衛門正一。日下部兵右衛門定好。目付は岩間大藏左衛門某之。また甲州人もて沙汰聞 の役とせられ。專ら國中の動靜を告べしと命ぜらる。その輩に教へ給ひしは。おほよそ國を治るに國人親附せざれば何事もしれ兼るものぞ。沙汰の二字は小石と 沙と土の入雜りてわけかぬるを。水にて動し洗へば土流れて小石あらはるゝなり。見えざれば洗はん樣もなし。主人のためにあしからぬ程の事ならば。聊物とり てもくるしからじと仰けり。又信玄以來の諸士の忠否を正し給ひ。武功の譽ある者は其證狀を奉らしめ新にめし抱へられ。あるは本領安堵の御書を賜ふもあり。 あるは舊地削らるゝもあり。又武田代々の香火院惠林寺は右府が爲に燒れしを。形のごとく再建せしめ。歷世の靈牌どもをすへ置とて費用の金を下され。勝賴自 殺の地にも供養のため一宇を刱創せられ。かくとりどり䘏典を施されしかば。國人なべて御仁政をかしこみしたひ。心をよせ奉らざる者はなかりしとぞ。(岩淵 夜話。)
甲斐の一條。土屋。原。山縣が組の者共は。おほかた井伊直政が組になされ。山縣昌景が赤備いと見事にて在しとて。直政が備をみな赤色になされけり。この時 酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども。それより若輩の直政を引立むが爲に。かれに附屬せしむと宣ひければ。忠次承り。仰の如く直政若年な れども臆せし樣にも見え侍らねば。かの者共附け給はゞいよいよ勉勵せんと申す。その比榊原康政。忠次が許に來り。甲州人を半づゝ引分て。われと直政兩人に 付らるべきに。直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後もし直政に出合ば指違へんと思ひ。今生の暇乞に參 たりといへば。忠次さてさて御事はおこなる人哉。殿には我に預けむと宣ひしを。我勸めたてまつりて直政に附しめし之。さるを聞分ずして卒爾の擧動もあら ば。  殿へ申すまでもなし。汝が妻子一族をみな串刺にしてくれんずものをと。以の外にいかり罵りけるとぞ。(武功實錄。)
此卷は武田信玄と御合戰よりはじめ。長篠御勝利の後甲斐國御手に入しまでの事をしるす。)
東照宮御實紀附錄卷四
天正十年五月織田殿の勸めにより京に上らせたまひ。やがて堺の地御遊覽終り。旣に御歸洛あらんとせしに。茶屋四郞次郞淸延たゞ一騎馳來り。飯森の邊にて本 多平八郞忠勝に行あひ。昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし樣つばらに語り。忠勝四郞次郞とゝもに引返し。御前に出てこのよし申す。  君聞しめしおどろか せ給ひ。今この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に歸り知恩院に入り。腹切て右府と死を同じうせんとて。御馬の首を京のかたへむけられ半里ばかりゆか せ給ふ所に。忠勝又馬を引返し酒井忠次。石川數正。榊原康政等にむかひ。若年のものゝ申事ながら。  君御歸京有て無益の死を遂られんよりは。速に本國に かへらせ給ひ御勢をかり催し。明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれといへば。忠次老年のわれらかゝる心も付ざりしは。若者に劣りし事よとてその むね申上しに。われもさこそは思ひつれども。知らぬ野山にさまよひ山賊野伏の爲に討れんよりはと思ひ。歸洛せんとはいひつれ。誰か三州への案內知りたるも のゝ有べきと仰ければ。さきに右府より堺の鄕導にまいらせし長谷川竹丸秀一は。主の大事に逢はざるをいかり。哀れ光秀御追討あらんには。某も御先討て討死 し故主の恩に報じなん。これより河內山城をへて江州伊賀路へかゝらせ給ふ御道筋のもの共は。多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば。何れの路も障 ることはあらじと。かひがひしく御受申せば。  君をはじめたのもしきものに思しめす。さて秀一大和の十市玄蕃允が許に使を馳て案內させ。木津川に至らせ たまへば。忠勝柴船かりて渡し奉り。河內路へて山城に至り。宇治川にて河の瀨知りたるものなければ。忠次小船一艘求め出てのせ奉り。供奉の諸臣は皆馬にて わたす。その邊にいつき祭る吳服大明神の神職服部美濃守貞信社人をかり催し。御先に立て鄕導し奉れば。鄕人ばら敢て御道を妨る者なし。江州信樂に至らせ給 へば。土人木戶を閉て往來を止めたり。此地の代官多羅尾四郞光俊はこれも秀一が舊知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戶をひらかせ。御駕 を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が 年頃崇信せし勝軍地藏の像を御加護の爲とて獻る。(慶長十五年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる。)さきに堺を御立ありしとき。供奉の面々に金二枚 づゝたまひ。かゝるときは人ことに金もたるがよし。何れか用をなさんもしれずと仰られけり。こゝにて多羅尾に暇くだされ。伊賀路にかゝらせたまへば。柘植 三之丞淸廣はじめ。かねて志を 當家へ傾けし伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案內し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州 大濵の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟麥米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て獻る。菜はなきかと のたまへば蜷の鹽辛を進む。風味よしとて三椀聞しめす。かくて御船大濵に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎 へ御歸城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ數日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします 事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ。(武道雜談。永日記。貞享書上。酒井家舊藏聞書。續武家閑談。)
この御危難の折御道しるべして勳功有しものどもさまざまなり。山口玄蕃光廣といひしは多羅尾四郞兵衛光綱が三男にて。山城の宇治田原の城主山口勘助長政が 養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許にいひつかはせしにより。光廣實父多羅尾が方へ申をくりて。己れ御迎に出て田原の居城へ入奉 り。これより供奉して江州の光綱が家へ案內し奉り。伊賀路の一揆ども追拂ひつゝ白子まで御供せしかば。光忠の御刀及新地の御判物たまはれり。又山岡美濃守 景隆は代々江州勢田の城主にて京都將軍家に勤仕す。弟の對馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれ共。逆黨に背き瀨田の橋を燒斷て追兵を支 へ。御駕を迎へ賊徒を追拂ひつゝ。伊賀の闇峠まで供奉せり。又伊賀の侍柘植三之丞淸廣といひしは。これよりまた天正九年三河に參謁して。伊賀のもの共皆織 田家をそむき。當家に屬せんとす。願くは御書をたまはらんと申上しに。 當家織田家と交深けれは御書をたまはる事かたし。たゞ元のことく本領を守るべし。 もし 當家に從はんとならば御領國に迁るべしと之。その後伊賀の者猶織田家の命に從はざれば。右府大にいかられ悉く誅伐せらるゝにより。みな山林に遁隱て 時節を伺ふ所に此度の事起りしかば。淸廣をのが一族傳兵衛甚八郞宗吉。山口勘助。山中覺兵衛。米地半助。其外甲賀の美濃部菅三郞茂濃。和田八郞定教。武島 大炊茂秀等を勸め。みな人質出して鄕導し。鹿伏兎越の險難をへて伊勢まで御供す。後年關原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し。御本陣に參りて警衛し奉る。 この折伊勢路まで御供せし輩は。後々召出されて直參となり。鹿伏兎越まで供奉し半途より歸國せし二百人のものどもは。服部半藏正成に屬せられ。伊賀同心と て諸隊に配せられしなり。またこの年六月尾州にて召出されしは。專ら御陣中の間諜を勤め。後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附屬する伊賀も のゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島。美濃部。伴などいふやからは直參となり。その以下は諸隊に配せられて。與力同心となされしもありしなり。(諸 家譜。武德編年集成。伊賀者由來書。)
武田亡びてのち織田右府駿河國をば 當家へ進らせ。甲斐國をば其臣川尻肥前守鎭吉にあたへ。よろづ御心添あらまほしき旨右府よりたのまれしゆへ。こなたに もまめに受引たまひ。度々川尻が方へ御使つかはされ御指諭ありしが。鎭吉もとより疑念ふかきをのこゆへ。こなたの御深意をかへりてあしざまにおもひ。かつ 甲州人の皆 當家に從ひ。鎭吉に服するもの少きは。全く 當家の御所爲なりと思ひ誤り。諸事京のものとのみ相議し。國人にはひたすら心置しゆへ。國人もい よいよ心服せずして。川尻をにくむものおほし。かゝる所に此度右府の凶事有て。瀧川左近將監一益も上州を捨て上洛すれば。川尻もさこそ思ひ煩ふべしと思 召。その舊友なれば本多百助信俊をつかはされ。萬事心安くかたらふべし。もし上洛あらんには此ころ信濃路は一揆起りて危しと聞。百助に案內せしめわが領內 を經て上らるべしなど。ねもごろに仰つかはされしに。鎭吉いよいよ疑を起し。百助に己を討しめられん御謀と思ひ。密に人をして百助を害せしむ。此事忽に聞 傳へて甲人一揆を起し鎭吉を討とりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及しかば。われかねて信長と約せし事もあれは。彼が謀議の爲にもと思ひ百助をつかはせ しに。かゝる無道人にあひておしき侍をあへなく殺さしめし事の口おしさよとて。泪數行に及ばせたまひぬ。このとき老臣等。速に御勢を催し川尻が罪をうち給 へとすすめしに。それは川尻が二の舞にて。  家康などがする事にてなし。先その儘よとの上意なれば。又と申上べき樣もなくてやみぬ。かくて川尻死せしの ち甲州主なければ。その間をうかがひ北條氏政父子責入よしとりどり風聞し。國人も北條が民にならんは念なし。 當家より御旗をむけられなば皆々打かたら ひ。時日をうつさず甲州一國を切取んとうつたふるもの多かりしかども。さらに聞しめしいれず。たゞ明暮奉行人に命じ國人の忠否を正し。武道の御穿鑿のみを 專らとせられ。いささか競望の念おはしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話。)
甲斐の若御子にて數月の間北條氏直と御對陣有しとき。氏直より一族美濃守氏規して和議の事こひ申により。上州を北條が領とし。甲信二國は 當家の御分國と せられ。且督姬のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約すでにさだまり。氏直も野邊山の陣を拂て退かんとするに及ぴ。平澤の朝日山に砦 を築しむるよし聞しめし大にいからせたまひ。われ先年駿河に有しとき氏規と舊好あるをもて。こたび彼が强ちにこひ申にまかせ。盟約を定め且姻家たらん事を もゆるしぬ。さるにわが領國の內に城築く事不當の至なれ。この上は有無の一戰を决すべしと仰有て。朝比奈彌太郞泰成もてこの由北條が方へ仰つかはさる。こ のとき敵は平澤より信濃路引拂はんとする所に。 當家の御先手は若御子の上に押上り。もし北條が答遲々せば直に打てかゝらん形勢したれば。大に恐れ早々人 質出し。朝比奈と共に新府の御陣にまいり。異議なきよしをさまざま謝し奉りければ聞しめしとゞけられ。こなたよりも人質をつかはされ。兩陣互に引拂ひしと なん。(落穗集。武德編年集成。)
この對陣のとき味かたの內誰なりとも。鐵炮打かけて敵陣の樣試みよと仰有しに。いづれも遲々せしが。甲州の侍曲淵勝左衛門吉景承りぬといつて。足輕めしぐ し鐵炮持せてはせいで。その子彥助正吉は父が指物を相圖として。斥候をしつゝ馳廻るさまを御覽じ。たれもかのさまをみよとて床机より下り立せられ御杖もて 二たび三たび地を扣かせたまひ。曲淵は年老ぬれど武道のうきやかなる樣かな。彥助も父に劣らぬ若者よとて。殊にめでさせ給ひしとなん。(家譜。)
天正十一年の事にや。京より九年母といふこのみを獻りしものあり。こは其頃南洋よりはじめて舶載して。いとめづらかなるものなれば。百顆ばかりを分ちて小 田原の北條が許に贈らせ給ひしに。かの家臣どもだいだいと見あやまりて。めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや。濵松には稀なると見えたり。こゝには あまたあり進らせんとて。だいだいを長櫃に入れ。役夫八人にかゝせて獻りけり。  君小田原のものどもこの菓をあぢはひもせず。たゞだいだいとのみ思ひと りて。かゝるなめげの擧動する事よ。主人はともあれ。家臣等がかゝる粗忽の心持にては。家國の政事を執行ふに。いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰ら れしとなり。(東武談叢。)
長久手の役に夜中小牧を御立有しが。勝川といふ所にて夜ははや明はなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覽じ。哀むべし次郞助一定討死しつらんとのた まふ。こは丹羽次郞助氏重仰を蒙り岩崎山守りしが。池田勝入が爲に戰て討死せしなり。さてこの所は何といふぞと御尋あれば。勝川甲塚といふよし申上。こは めでたき地名なり。今日の勝利疑ひなしとて。このときためぬり黑糸の御鎧に椎形の御胄をめされ。御湯漬をめし上らる。士卒に御下知有しは。人數押の聲ゑい とうとうといふはあしく。ゑいとうゑいといふべしと命ぜられ。いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊万千代直政が赤備一隊をやりすぎて。行伍の亂れしを御覽 じ。あれとゞめよ足並亂して備を崩すことがあるものか。木股はおらぬか淸左衛門は居ぬか。木股に腹を切せよとて。御使番頻りに馳廻りて制すれば漸くにしづ まりぬ。直政山を越て人數を押むといふに。廣瀨三科の兩人小口にて息がきれてはならぬといふ。直政何ならぬ事があるものかといふ所へ。近藤石見馳來り。 かゝる事は若大將の知事にてなしといひつゝ。直政が馬のはな引かへし。脇道より敵陣へ打てかゝる。  君は竹山へ御上有し所へ。內藤四郞左衛門正成還來 て。御先手崩れぬ。今日の御軍おぼつかなし。兵をおさめ給へといふ。高木主水正は御勝軍なり。早く御勢をすゝめたまへといふ。本多正信はかゝる御無勢にて 大敵にかゝりたまふべきや。みだりの事ないひそと制す。主水いかに彌八。御邊は座敷の上の御伽噺や。會計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異な り。今日は御大將の進まで叶はせられぬ所なり。速に御出あれといへば。  君も咲はせたまひながらさあ出んとて。金の扇の御馬驗を押立て進ませ給へば。敵 は是をみて。さてこそ 德川の出馬有しぞ。大事なれとおどろきあはてゝ色めき立を。森武藏守長一打立て制すれどもきゝいれず。とかうする內に鐵炮に中て死 しければ。これを御覽じ。婿めが備は崩るゝぞ。勝入が陣を崩せとのたまふにより。御家人等我先にと馳入て高名す。勝入も引なかへせと下知すれど。崩れ立て いよいよ敗走する所に。永井傳八郞直勝遂に勝入を討とりしかば。これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語。東迁基業。)
池田森の兩將旣に討れ。上がた勢惣崩して敗走す。味かたこれを追討ゆくをとゞめたまひ。砂川よりこなた十町ばかりにて引上させ給ひぬ。そのとき秀吉は大敗 を聞いきまきて馳來り。龍泉寺の上の山に金の瓢簞の馬印をおし立たり。もし味かた十町も追過なば。荒手の大軍に出合て戰難儀なるべきに。早く其機を察し引 上給ひしゆへ。勝を全うしたまひしなり。  君ははるかにかの馬印を御覽じて。筑前賴み切たる先手の三人まで討せ。さぞせきたるらんとてはゝゑませ給ふ。 榊原康政進み出で。仰のことくいかにもせきたるとみえて。馬廻ばかりにて走り出候。今ぞかれを討とるべき機會なりといへば。又咲はせられ。勝に勝は重ねぬ ものぞ。一刻も早く小幡に引取れとて。渡邊半藏守綱を殿として小幡に引とられ。其夜又小牧に御歸陣有しなり。此日秀吉は犬山に在て茶を點じて居し所へ敗軍 の告有しかば。大にいかり直に出馬し。龍泉寺の邊にて軍の狀を尋られしに。  德川殿は旣に小幡に引取られしといへば。秀吉且いかり且感じ馬上にて手をう ち。さてさて花も實もあり。もちにても網にてもとられぬ名將かな。日本廣しといへどもその類又と有まじ。かゝる人を後來長袴きせて上洛せしめんは。秀吉が 方寸にありといはれしとか。(渡邊圖書小牧長久手記。落穗集。)
按に一說に。このとき酒井忠次秀吉を討は今日にありといひしに。勝て胄の緖をしむるといふはこゝぞと仰らるれば。忠次重ねて。一陣破て殘黨全からずと申せ ば。唯今こそよき圖なりといふ內に。敵はや栅を附たれば。明日は秀吉に降參したまふべしといひしとか。これも康政と同じ事を兩樣にいひ傳へしなり。
本多平八郞忠勝は小牧山に殘り守りしが。秀吉が大軍押出すをみて遮伐んといふ。酒井忠次。石川數正きかざれば。己が手勢わづか八百人もて川水にそひ。秀吉 が大軍と睨あひつゝ川ごしに押て行。秀吉其大膽にして且忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば。旣に御勝利にて小幡に引入給ふときゝ。今は心安しとて御道筋 に出て拜謁し。かゝる御大事に臣を召具したまはざりしは。よくよく御見限ありしと申上れば。  君われ身を二つに分たる心地して。汝を小牧に殘し置しゆ へ。心やすく勝軍せしなりと仰られて。直に供奉命ぜられ小幡に入らせたまひしなり。(柏崎物語。)
小幡の城にて榊原康政。大須賀康高等御前へ出で。今宵敵陣の樣を伺しめしに。晝の程長途を馳來りしゆへ。みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討か けて辛き目みせんと申ければ。御首を振せられ。いやいやとのたまひてとかうの仰もなし。みな御前をまかでしのち本多豐後守廣孝をめして。汝城門を巡視し一 人も門外へ出すべからずと有て。間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を觸られ。成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ。必ず夜討かけ給ふならんと人々思ひし に。小牧へ御馬を入られしかば。誰も誰もおもひよらぬ事とて感じ奉りぬ。後日濵松にてこの折の事語り出たまひ。汝等が夜討せよといひしは秀吉をうち得んと 思ひてか。またはたゞ戰にかたんとまでの事かと尋たまへば。互に面を見合せやゝ有て。秀吉を討とるまでの思慮も候はず。たゞ必ず御勝利ならんと思ひしゆへ なりと聞えあげしかば。われもさは思ひし事よ。敵を皆殺にしても。秀吉をうちもらしなばかへりてあしく。晝の戰に池田森の兩人を討しさへ。一人にてもよか りしと思ひつれと仰ありしとぞ。(岩淵夜話别集。)
按に菅沼藤藏定政が譜には。旣に小幡の城に入らせ給ひ。斥候の者して敵の樣伺はしめしに。今にも襲ひ來らんよしいふ。よて藤藏定政をめして。彼等がいふ所 いぶかし。汝行てたしかに見てこよと仰あり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳出て伺ひ終り。かへりきて申上しは。敵は皆甲をぬひで飯くひ居たり。今來らん樣にて なし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におはして大敵にかこまれなば。ゆゝしき御大事なりとて。小牧に御陣をうつしたまへと勸め奉れば。我もさこそは 思ひつれとのたまひて。重ねて小牧に御動座あり。果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといへども空壘なれば案に相違し。いたづらに軍を班せしとぞ。
この戰に平松金次郞は。茜の羽織に十文字の鑓をもち一番に勝入が陣に蒐入て。敵の首三級取て見參に入しかば御感あり。追討の時はも鎌て草を薙ぐが如しとい へば。首もたゞ一つ取て足れり。多級を貪るに及ばずと仰られたり。又大脇七兵衛は金次郞と同じく先陣に進みたるが。此度の鑓は金次郞一番なりと仰ける所 へ。七兵衛つとまいり。某も其塲に侍しが。弓射よとの命有しゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ樣の御賞詞は蒙るまじきをと申せば。しばし御思案の樣にて。 汝がいふ所のことく是をしるしにとらせんとて。御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしと之。又高井助次郞實重といひしは。其父藏人實廣今川の家臣な るが。桶狹間の戰に討死し。助次郞も亦氏眞につかへ終始節を改めず。この戰に諸人いづれも高名したるに。助次郞一人は何の仕出せし事もなく。あまりの面目 なさに泪ながして居しかば。汝は古主氏眞の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば。けふの戰に敵の首取たるよりはるかにまされり。歎に及ばずと仰られしか ば。助次郞は思ひよらず面目を施しける。小笠原淸十郞元忠は兼て弓籠手をこのみてさしけるを御覽有て。弓籠手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働の ならざるものぞといましめたまひしが。この戰に元忠敵三人切伏しに。右の腕を打落され左の手に太刀の腕貫をかけて働しが。終に討死せしとなり。又成瀨小吉 正成このとき十七歲なりしが。敵陣に蒐入て首一取來て御目にかくれば。その勇を稱せられ。唯今旗本の人數少し。汝はこゝに止れとのたまふ所に。御先手の崩 れかゝる樣をみて。正成また馳出んとするに。馬の口取轡を控て放さず。正成柴武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて。鞭打てあふれども猶放さ ず。君この躰を御覽じ。士の討死すべきはこゝなり。放してつかはせとのたまへば。口取放すとひとしく敵陣に馳入て。味方の退くものどもを勵しつゝ奮戰し。 又首を得てかへりぬ。のちに正成が戰功を賞せられ。汝の働は宿將老帥にもまされりとて。根來の騎士五十人を附屬せられしとぞ。(感狀記。)
玉虫忠兵衞といひしは。甲州の城意庵が弟にて信玄謙信に歷事し。後に  當家に參りこの役にも供奉し。御行軍のさま拜覽して有しが。  君忠兵衛にむかは せ給ひ。今少し見合せて鑓をいれて見せん。よく見よと仰ありしが。程なく御勝になりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは。  君の御軍略は甲斐越後にはおとらせ たまふとも。御勇氣の凛然たる事ははるかに優らせ給へり。末賴もしき御事なりといひしとか。或ときの仰に。玉虫はたはけたるをのこなれども。軍陣には眼の 八つづゝあると仰られしとぞ。のちに上總介忠輝朝臣につかへ。浪華夏の役に軍監つとめけるが。指揮のさまあしかりしとて。御いかりありて追放され。玉虫に はあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雜記。古士談話。大坂覺書。)
初鹿野傳右衛門信昌は。甲斐の加藤駿河守が次男なり。同國に入らせたまひしとき。傳右衛門さまざま走廻りて勳功有しかば召抱へられんとせしに。己が舊知の 四百貫に。實父駿河が遺領二百五十貫の地を共に書入て。證狀となして捧げしかば。兄。丹後及弟彌平次郞兩人。傳右衛門が一人して父が遺領とらん樣なしとい ひ爭ひ訴へ出しに。御糺ありて。たゞ四百貫の舊知のみをたまひければ。傳右衛門大にふづくみて。此度召出されし人々の內には。親兄弟の者を結び入てしるし 出せしを。そのまゝくだされしもあるに。己ればかりは賜はらざるのみならず。あまさへ奉行人の前に引出され拷掬にあひぬれば。この後人に面むけん樣もなし とて。さきに賜りし御朱印のうち二か所に墨をぬり。この御朱印は反古に成たり。我等がごとく走り廻りても何の詮かあらんとて。人々にむかひ口さがなく廣音 吐てゐたり。このよし岩間大藏左衛門聞付て。もとより傳右衛門とは中あしければこれ究竟の事と思ひ。そのゆへ目安にかき連ねて奉りければ。御糺ありしに目 安にまがひなければ。大に御いかり有て。おごそかに警しめ給ふべけれども。世世武名ある家筋なれば。死一等を宥めて其祿收公せらるゝとなり。かくて傳右衛 門舊知にも離れ。流浪の身となりて有しが。此度の戰にひそかに御陣に從ひ。三宅彌次兵衛正次と同じく敵の首取て。內藤四郞左衛門正成に就て披露をたのみけ れども。御咎蒙りし者ゆへはゞかりて聞え上ず。其折  君はるかに御覽じ付られ。傳右衛門これへまいれと上意なれば。御前に出しに。汝往年の罪により一旦 はいましめつれども。久しからずよびかへさんと思ひしに。よくもこゝまで供して高名せしぞとかへすべす仰けれは。傳右衛門かしこさのあまり淚ながして拜伏 す。其時彌次兵衛正次も傍より進みいで。さきに某一番鎗の仰を蒙りしが。まことは傳右衛門某より一町あまりも先にて。敵の首得たりと申せば。彌次兵衛も直 實なるものよと。これも御賞譽を蒙りしなり。小幡藤五郞昌忠は甲斐の小幡豐後守昌盛が子なり。武田亡びて後 當家に仕へ奉り。甲州の新府にて北條と御對陣 のとき。平原宮內といふ者北條に志を通じけるよし露顯し。御前にて人の刀奪て切廻り。あまたの人に手負せける所へ。昌忠走りきて宮內を切とむ。宮內倒ざま に拂ふ刀に昌忠右の手首うち落されぬ。其功を賞せられ父が本領給ひ。また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたはに成しかば。今は世のま じらひせん事も叶はじ。暇たまはらんとこひ出しに。左の手はなくとも右の手にて太刀打はなるべし。あながち辭するに及ばずとて。もとのことくめしつかはれ たり。さてこの日の戰に昌忠敵の首二切て御覽にそなへ。また外に首二もち出で。これは家僕が取しなりとて棒げしかば。汝が家人のとりし首を。我に備ふるは 何事ぞと咎め給ひしかば。昌忠かしこまつて御前をまかりでぬ。後  にむかはせたまひ。かれ左の手首なけれども。そのとりし首は家僕が力を添しにあらずと いふをしらしめんとて。家人のとりしをば别に見せしめしならん。とかく甲州人には油斷がならぬと仰られしとぞ。又水野太郞作正重は己が隊下の同心。銃もて 森武藏守長一をうち落し。敵陣の色めくをみて正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り。敵陣に蒐入しを御覽じ。御馬廻に命じ同じくかけ破らしむ。軍終てのち今日の 戰大久保忠佐こそ。先登して大切を立しとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違たまひしならんとはおもへども。あながちいひもあらそはざりき。重ねて軍功 を論ぜらるゝに及び。又この事仰出されしかば。正重もつゝみかねて忠佐に向ひ。尾崎より乘下せしは某なり。御ことは其折渡邊彌之助光と同じく久下に控られ たり。餘人ならばかゝる事もいひあらがふまじけれど。御邊は數度の武功もありながら。上の御見違を幸に。人の働を己が功に成さんとおもはるゝか。御邊に似 合ぬ事といへば。光も正重が申所いさゝか相違なし。某も見屆たりと申す。  君つばらに聞しめし分られ。さてはわが見違しなり。正重心にかくるなと御懇諭 有しかば。正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は。池田が士卒を射しに守綱鑓を落しければ。孫之丞敵 の中へかけ入り敵を突ふせ。其鑓を取てかへり守綱にかへしければ。この働武藏坊辨慶にもまされり。今より氏を武藏と改むべしと仰有て。あらためしなりと ぞ。(岩淵夜話列集。落穗集。家譜。)
小牧對陣の折 當家及び織田信雄が勢。敵の二重堀に攻かゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば。その旨秀吉に告るもの有しに。秀吉折しも碁を打て居られし が。二重堀破れば兵を出すべし。早くしらせよといつてもとのことく局に向ひ居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ。敵もし後詰にいづるほどなら ば。こなたよりも攻かゝらん。さまでになくば戰ふなと仰られ。日中に及び兩陣引上ける。後に筑紫陣の折秀吉この事をいひ出され。先年小牧の時など攻かゝり たまはざりしといふに。  君その折家臣どもは皆軍せよと勸めつれど。何がしは小牧より勢をこなたに引付むと思ひしゆへ。かゝらざりきと宣へば。秀吉も手 を打て感嘆し。をのれも二重堀破れば。小松寺より大勢を出し戰はゞ。必ず勝なんものをと思ひしといはれける。誠に敵も味かたも良將のよく軍機を熟察有し は。期せずして符を合することくなりと。森右近大夫忠政が人にかたりしとぞ。(小牧戰話。)
小牧山へ御陣をすへられしとき。秀吉が方には隍をほり栅をつくるを御覽じ。信雄にのたまひしは。先年長篠にてわれ故右府とゝもに。かゝる手術して武田勝賴 を待うけしに。勝賴血氣の少年ゆへ陣をみだりて切かゝりしに。こなたは待設けし事なれば思ふ圖に引付鐵炮にて打すくめ。勞せずして勝を得しなり。今秀吉そ の故智を用ひ栅などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我等を。勝賴と同じたぐひの對手と思ふとみえたりとて咲はせ給ひしとぞ。(落穗集。)
瀧川一益が秀吉に一味して。尾州蟹江の城に籠るよし告有し時。尾州淸洲におはしけるが。すみやかに御出馬有べしとて。奉書もて諸所へ觸しめらる。尊通とい へる右筆その狀をかきて御覽に入しに。可出馬とある文に至り。可字除くべし。軍陣の書は一字にても心用ひてかくべきなり。いま大敵を前に受ながら。可出馬 とかけば文勢ゆるやかに聞ゆ。出馬するものなりとかゝばその機速なりとて。かきかへしめられしとぞ。同じ城責のとき瀧川が內に。瀧川長兵衛といふ名ある者 を捕へ來りしに。そが命を助けて返せとのたまへば。捕しものやむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものをかへし給へば。 當家の兵鋒日數重ねても撓む ことあるまじと思ひ。城兵をのらかづ退屈すべしと思しめしてなり。酒井忠次はこの城直に攻潰べしといふに。まづ其まゝにして置と仰られ。九鬼が粮米を船に 積て。城に入るゝをも支へんともしたまはざれば。  君には城攻を忘れ給ふかとさゝやきいふも聞入たまはず。ひそかに人に命じ城中の動靜を伺はしむるに。 此度一益秀吉に賴まれて籠城しつれども。かくすみやかに御出馬あらんとは思ひもよらざりしといふを聞たまひ。今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入てみよとて その旨仰つかはされ。且城將前田與十郞を切て出さば。一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを。家人等相議し前田を切て出しければ。約のことく一益を ゆるして城を受取らしめらる。一益が退去に及び追伐んといふを制して聞たまはず。これも一益ほどの者をゆるさせたまふといはゞ。秀吉方のものども思ひの外 にて心を置べし。その上唯今一益を扶け給ふとも。のちに秀吉其まゝにはすて置まじと仰られしが。果して秀吉一益が前田を殺せしをいきどほり。丹羽長秀が領 內越前五分一といふ所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝいひしは。志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は 當家御一代の勝事にておはします。この 後詰のとき折しも湯あみしておはせしが。その告あるとひとしく湯まきめしながら御出馬あり。從ひ奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入て。殘 卒はいまだ上り終らざる內に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書。小早川式部物語。老人雜話。)
佐々內藏助成政越路の雪をふみ分つゝ。さらさら越などいふ險難の地を歷て。ひそかに濵松へ來て。まづ  君が信雄を援け給ひしを感謝し奉り。この上いよい よ心力をつくし。織田家の興立せん事を願ふよし申す。  君も成政が深冬風雪をおかし。はるばる參着せしを勞せられ。われ元より秀吉と遺恨なし。たゞ信雄 が衰弱をみるにしのびずして。故織田殿の舊好をわすれかねて。わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしときけば。わがこれ までの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政舊主の爲に義兵を起さんならば。援兵をばつかはすべしとねもごろに待遇し給ふ。成政かしこまり御物がたりの 序に。  君を信玄に比し己れを謙信になぞらへ。自負の事どもいひ放ちつゝ。かへさに信雄が許にゆきて。京に責上らんとそゝのかしけれど。信雄は已に秀吉 と和せし上なれば成政が言に從はず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降參せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき。高力與次郞正長めして仰有しは。佐々 は頗る人傑なり。かかる者には知人になりて。その樣見習置がよしと仰あり。酒井忠次は成政が自負をいかり。かゝるおこなるものに御加勢あらんは無用なりと 申せば。かれもとより大剛の士なれば。その勇氣にまかせ失言あるも理なり。さる事にかゝはるべからずと仰有しとぞ。(柏崎物語。)
眞田安房守昌幸。上田。戶石。矢津の城々明渡さんといふより。御家人をつかはされ請取しめんと有しとき。眞田は信玄の小脇差といはれしほどの古兵にてあれ ば。さだめてかの城々も守備堅からん。その上彼が兄長篠にてわが勢の爲に討れたれば。此度吊ひ合戰すべきなど思ひまうけしもしるべからず。彼がことき小身 ものに。五ケ國をも領するものが打負なば。いかばかりの恥辱ならん。こは保科芦田などに扱せよと仰けれども。老臣强て申請により大久保鳥居などの人々に。 二万ばかりそへてつかはされしが。果して眞田が爲に散々打まけて還りしがは。いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。老臣重ねて兵を出さんと申上しに。岡部 彌次郞長盛に甲信の兵をそへて。信州丸子表に出張し眞田が樣を見せよと命有て。長盛丸子に於て眞田と戰ひしに。打勝て眞田上田に引退しかば。ことに長盛が 戰功を御賞譽有しとなり。(御名譽聞書。)
三河草創よりこのかた。大小の戰幾度といふ事をしらざれども。别に 當家の御軍法とて定れる事もなく。たゞそのときに從ひ機に應じて御指麾有しのみなり。 長久手の後豐臣秀吉たばかりて。 當家普第の舊臣石川伯耆守數正をすかし出し。數正上方に參ければ。 當家にて酒井忠次とこの數正の兩人は第一の股肱に て。人々柱礎のことく思ひしものゝ。敵がたに參りては。この後こなたの軍法敵に見透されば。蝱に目のぬけしなどいふ譬のことく。重ねて敵と戰はん事難かる べしと誰も案じ煩ふに。  君にはいさゝか御心を惱し給ふ樣も見えず。常よりも御けしきよくおはしませば。人々あやしき事に思ひ居たり。其頃甲斐の代官奉 りし鳥居元忠に命ぜられ。信玄が代に軍法しるせし書籍。及びそのとき用ひし武器の類。一切とりあつめて濵松城へ奉らしめ。井伊直政。榊原康政。本多忠勝の 三人をもて惣督せしめ。甲州より召出されし直參のものをはじめ。直政に附屬せられしともがらまで。すべて信玄時代に有し事は何によらず聞え上よとて。樣々 採摭有し上にて尙又取捨したまひ。 當家の御軍法一時に武田が規矱に改かへられ。其旨下々まであまねく令せしめ。近國にも其沙汰廣く傳へしめられたり。 (岩淵夜話别集。)

此卷は伊賀路の御危難より。長久手御合戰の後までの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷五
長久手の戰に上方勢おもひの外に敗績しければ。秀吉いまはひたぶるに 當家と和議を結ばんとおもひ。まづ織田信雄と講和し信雄をかたらひて。御長子お義丸 殿を秀吉養ひまいらする事となり。元服させ三河守秀康と名乘せかしづき給。されどもこなたにはいまだうちとけさせ給ふ御さまにもおはしまさねば。秀吉度々 使をまいらせしうへ。猶又土方下總守雄久をしてかさねて慇懃を通じ。近きほどに御上洛ありて。秀吉御父子にも御對面あらまほしく。かつは都方の名所ども御 遊覽もあらせられば。御心をも慰め給ふべうもやと懇に申をくられしかば。  君聞しめし。われ今何事の有て秀吉にあふべき。秀康が事は秀吉が子に進らせし うへはわが子にあらず。親の秀吉にさへ用なきに。何の用ありて其子の秀康にあふ事を求めんや。織田殿世におはせしほど都にも上り。名所舊跡みな遊覽しつれ ば。今さら見まほしとも思はず。このごろはたゞ分國にありて朝夕鷹を臂にし。犬引て野くれ山くれかりくらす。これに過たる樂なし。さりながらもし秀吉己が 兵威をもて。あながちに我を上せんとはからはゞ。われも又其心得あり。つゝまず申せとのたまへば。雄久大に恐れ。これ秀吉が命ぜられしにてはなし。全く某 一人の私意もて。御氣色とりしまでなりといひすてゝ。いそぎ京へ迯のぼりしとぞ。(岩淵夜話别集。)
其後秀吉妹の朝日の姬君もて  御臺所に進らせ。そのうへにも母の大政所をも岡崎へ下して。御上洛をすゝめたてまつれば。今はあながちに辭せんもあまり心 なきに似たり。いかゞせんと議せらる。酒井左衛門尉忠次等の老臣申けるは。秀吉が心中いまだはかりがたし。御上りあらん事よしとも存ぜず。万一彼怒を發し 大軍をもて責下るとも。上方勢の手並は長久手にて見透したれば恐るゝに足らずとて。皆御上洛を止めたてまつる。  君聞しめし。汝等がいふ所理なきにあら ず。さりながらよく考へみよ。本朝應仁よりこのかた大亂うちつゞき。四海の民一日として安きことを得ず。今天下漸靜謐ならんとするに及んで。我又秀吉と干 戈を交へば。騷亂いよいよやむ時なくして。人民これが爲に命を喪ふ者多からん。豈いたましからずや。さればわが一命もて天下万民の命にかゝり。上洛せんと 思ふなりと仰ければ。忠次等もさまで思召定め給ひし御事ならば。臣等又何事をか申上べきとて退きぬ。此御詞承りしもの。末終に天下の父母とならせ給ふべき 御德は。この御一言にあらはれたりと評したてまつりける。殷湯王が百姓過あらば朕一人にあり。萬方罪あらば罪わが身にありといはれしも。同じ樣の御事と伺 はるゝにぞ。さて都へ出立せ給ふにのぞみ。御留守奉る者に仰置れしは。もし我都方にて事有ときかば。  大政所御臺所も速に京にかへしまいらすべし。この 人にはもとより大事にあづかりしにもあらず。又家康は婦人を下手人にとりしなど人に嘲られんは。なからん後までの恥辱なれば。かまへてわるびれたる擧動す なと。かへすべすのたまひ置れしとぞ。(逸話。)
御上洛ありて茶屋四郞次郞淸延が家もて御旅館となさる。秀吉よりは使もて御上京を賀せしめ。夜に入ひそかに微行して來られ。年久しくて對面しこゝらの𣡸 懷皆散じぬ。扨此度  德川殿をはるばるこゝまで迎へまいらせしは。秀吉をして天下の主たらしめん事をたのみ進らするよしいはる。  君聞しめされ御身正 しく天下の主とならせ給ひながら。何とてかくは宣ふぞ。秀吉いやさることの候ぞ。秀吉今位人臣を極め勢天下をなびかすといへども。其はじめ松下が草履取し 奴僕たりしを。織田殿に取立られし事は誰かこれを知らざらん。かゝれば天下の諸大名陽には敬服すといへども。內心にはあなづり思ふもの少からず。あはれ願 くは明日對面せんに。その御心がまへしてたまはるべし。秀吉をして天下一統の功を全うせしめ給はん事。  德川殿の御心一つにありとありければ。  君今 はたむすぼれたる御中となり。かく上洛さへつかふまつるうへには。何事も御爲あしうは存ぜず。ともかうもよきにはからふべけれとうけひかせ給ひ。さて明日 大坂城にわたらせ給ひ。諸大名群集の中にて太刀馬どもさゝげられ。敷居隔てゝいかめしきさまにけいめいしてもてなさせ給ひしかば。秀吉よろこびに堪ずさま ざま饗したてまつり。物どもあまた進らせけり。これよりして天下の大小名。殿下の人質出して迎へられし德川殿すらかく關白を敬禮せらる。われわれいかで輕 爾にすべきとて。いよいよ尊崇する事前日に十倍せしとか。(玉拾集。)
御上洛の折大和大納言秀長朝の御膳たてまつるとて迎へたてまつりしとき。秀吉も俄に其席に臨まる。白き陣羽織の紅梅の裏つけ。襟と袖には赤地に唐草の繡し たるを着したり。秀吉がたゝれし後にて秀長と淺野彈正長政とひそかに申上しは。彼陣羽織を御所望あるべしと申。  君某今までかゝる事人にいひし事なしと いなみ給へば。二人これは殿下物具の上に着せらる陣羽織なれば。こたび御和議有しからはあながちに御所望ありて。この後殿下に御鎧は着せ進らすまじと宣へ ば。關白もいかばかり喜悅ならんと申す。  君もうなづかせ給ひ。秀長の饗席旣に終り秀吉と共に坂城に上らせらる。このとき諸大名皆並居て謁見す。秀吉い はく。毛利浮田をはじめ承られ候へ。われ母に早く逢度思へば。  德川殿を明日本國に還すなりとて。又  君にむかひ。今日は殊に寒し。小袖を重ねられ よ。城中にて一ぷく進らせ馬の餞せん。御肩衣を脫し給へといへば。秀長長政御側によりきて脫す。君そのとき殿下の召せられし御羽織を某にたまはらんと宣へ ば。秀吉これはわが陣羽織なり。進らすることかなはじといふ。  君御陣羽織とうけたまはるからは。猶更拜受を願ふなり。  家康かくてあらんには。重ね て殿下に御物具着せ進らすまじと宣へば。秀吉大によろこばれ。さらばまいらせんとてみづから脫て着せ進らせ。諸大名にむかひ。唯今  家康の秀吉に物具さ せじといはれし一言をおのおの聞れしや。秀吉はよき妹婿を取たる果報のものよといはる。この日諸大名の陪從多しとて秀吉奉行人を咎れば。かねて少く連候へ と申付しにと申せば。秀吉うち笑ひ。  德川殿御聞候へ。この所よりわづか淸水へゆくにも。人數の三万か二万と申されしとぞ。次の年駿城にて井伊直政。本 多正信に。去年秀吉が許にて我に陣羽織を所望せしめしは。  家康が一言にて四國中國の者を鎭服せしめん爲なり。次に近所へゆくにも二万か三万といひし は。兵威をもて我をおどさんとてなり。例の秀吉が權詐よと仰られしとぞ。はたして其事十日を過ずして。四國中國はさらなり。しらぬひや筑紫のはてまでもい ひ傳へて。關白の兵威の盛なるを稱しけり。又あるときの仰に。わが上京せしとき秀吉ひそかに旅館に來り我にむかひ三度まで拜禮す。その事しりし秀長。淺野 長政。加々瓜某。茶屋四郞次郞四人には誓紙させ他言をとゞめしときく。かく諸大名を出し拔て事をはかる人には。中々力押にはなりがたし。よくよく時節を待 て工夫あるべしと仰ありしとぞ。(續武家閑談。)
北條氏直へ姬君住つかせ給ひしより四年になれども。いまだかの父子に對面し給はず。こたび氏政父子伊豆の三島まで詣るよし聞しめし及ばれ。御使もて會面せ まほしき旨仰つかはされしに。氏政が方にも。さこそ存ずれ。但黃瀨川を越てこなたへわたらせ給ふやうあらまほしとの事なり。このとき酒井忠次等うけたまは りて。氏政がかくうつけたる答のまゝに。川をこして渡御ましまさば。世の人。  德川殿は北條が旗下になりたりなどいひ傳へば。 當家の名折此上なし。ひ らに思召止らせ給へと諫めたり。  君名位の前後を爭ふは詮なき事之。さきに信玄謙信の兩人和議を結ばんとて。犀川を隔でゝ會面せしとき。謙信ははやりが なる性質ゆへ。信玄よりさきに下馬せしを。信玄はいまだ下馬せずして應接せしかば。謙信大に怒り其塲より鐵炮打出して合戰に及び。又十五年が間爭戰やむと きなし。其ひまに織田殿は上方に切て上り大國の主となり。我も織田に力を合せて一方に自立する事を得たり。この入道等とく和融して軍したらば。織田殿も我 も一支も成がたきを。いらぬ爭ひに年月を過したる中に。他人をして大功を立しめし事のうたてさよ。今氏政實心もて我に接するからは。我何ぞ其下にたつ事を いとはむ。天下一統の後にて。上につくとも下に立とも其おりに議すべけれ。今の位爭は無用なりとて。遂に時日を定め三島におはして氏政父子に御對面ましま せり。そのとき氏政父子は上座に着れ。一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す。  君は氏政より下に着せられ酒井忠次。井伊直政。榊原康政ばかり陪座す。一通 り献酬終りし後美濃守氏規進み出て。御宴進まさるうちに上方の軍議をなされんかといふ。  君上方の事はとくに定め置つれば今さら議するに及ばず。けふの 對面はかたみにうちとけて。こゝらの宿念をもはらし。且はこの後無事ならん爲なり。まづ兩國の堺なる沼津の城をはじめ。城々みなとりこぼちて堺界なしにせ んと思へば。もし上方に事あらば。我手勢五万のうち三万をひきゐて切て上らば何條事かあらん。又奥方に出馬し給ふ事もあらば。某先手うけたまはりて切靡け 申さんに三年は過さまじ。とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば。氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ。よろこぶ事限りなし。かくて酒宴も闌に なりて。  君自然居士の曲舞をかなで給ひ。黃帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば。松田大道寺等同音に。  德川殿は當家の臣下になり給ひぬとは やしたつれば。氏政もゑつぼに入てきゝ居たり。酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ。川いづれの邊にて候と舞出たれば。氏政太刀を忠次に引る。忠次又おしい たゞき小田原の老臣等にむかひ。我等は加樣なる結搆の海老をすくひあてゝ候と高らかにいひけり。忠次が歌のうちに鎌倉くだりといふ詞の有しを。小田原の山 角上野介いまはしくやおもひけん。たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上りと舞留ける。大道寺いひけるは。酒井殿は鎌倉下りなれば。山角は熱田の宮 まで切り上り候ととりなして。主方も客人もをのをの興に入たり。氏政ゑひすゝみて  君の御膝へよりかゝり。御指添をぬき取て。京兆には若かりしほどよ り。海道一の弓取とよばれし人なり。その刀を居ながら㧞とりし氏政は大功なれと戱れける。此とき松田尾張守。  德川殿にははや當家の臣下におはしませ ば。何の嫌忌かおはしまさんといふ。この日北條が御もてなし實に善美をつくせり。宴はてゝ後歸らせ給ふ。北條より山角紀伊守して御見送の役を勸めしむ。御 かへさの道すがら沼津の外郭の塀及ひ櫓をみな毁撒せしめ。本丸ばかりを御旅館の設に殘され紀伊守に見せしめ。こたび親會せし上は封境の險も無用なればかく 取こぼちたり。この旨氏政父子によく傳へらるべしと仰含められしゆへ。小田原にもうしろやすくなり。いよいよ 當家を慕ひ隣交をこたらざりき。かゝりしか ば世には。  德川殿は小田原と結緣ありし上に。今度の會盟またいかなる事を議し給ふもはかりがたし。そのうへ軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞 えければ。豐臣家の上下。さきに彼方に降附せし石川數正が事を。古曆古箒と名付て用なきものゝ樣におもひあざけりけるとなん。(駿河土產。校合雜記。)
小田原よりかへらせ給ひし後。本多正信にむかはせられ。北條も世が末に成たり。やがて亡ぶべし。松田と陸奥守と二人の樣にて知れりと宣ひしが。果して後に 敗亡のさま。松田の反覆はいふ迄もなし。陸奥守氏輝も氏政なくば氏直を輕祝して。その國政をほしいまゝにせんかとの。御推考にたがはざりしとぞ。(紀伊國 物語。)
天正十八年の春  長丸君を都に下せ給ひ。はじめて秀吉に見參せしめらる。秀吉大によろこび  君の御手をひき。後閣につれゆきさまざまもてなされ。大政 所みづから御ぐしをゆひ直し御衣裝をも改めかへ。金作の太刀はかしめ。重ねて表方に誘はれ。御供せし井伊直政等にむかひ。  大納言殿には幸人にてよき男 子あまたもたれしな。  長丸いとをとなしやかにてよき生立なり。たゞ髮の結樣より衣服の裝みな田舍びたれば。今都ぶりに改めてかへしまいらするなり。い はけなき子を遠き所に置れ。  亞相もさぞ心ぐるしく侍遠に思ふらめ。とく供奉してかへれとて。直政はじめ人々にもとりどりかづけものしてかへされしな り。  君には此度小田原征討の事起りしにより。  長丸君を質子の御下心にて上せ給ひしに。秀吉速●●へされしはやがて出馬あらんときに。我領內の城々 をからんとての謀略ならんと御先見ましましければ。本多正信を召ていづれもその用意せよと仰ありて。三河より東の城々修理加へられ。道橋をも修理加へられ たるが。三日ばかりありて京より秀吉みづからの書翰もて。城々からん事を請れしかば。いづれも機を見給ふ事の速なる。神明不思議なりと感じたてまつりしと ぞ。(東遷基業。)
東征の軍議ありて秀吉關東の輿地の圖を出して。  君と共に撿視してありし折。眞田安房守昌幸もその末席にありしを。秀吉安房もこゝにきて圖をみよ。此度 汝に中山道の先鋒をいひ付るぞといはる。昌幸は  德川殿とおなじく秀吉の待遇ありしを。世にかしこき事に思へり。秀吉また别に昌幸をよび。  家康が許 にゆきて禮謝し間をよくせよ。長きにはまかるゝものぞといはれ。富田左近を昌幸にそへて。御旅館に參らせまみえしむ。  君もとより昌幸の反覆を憎ませ給 へども。秀吉が紹介なればいなみ給ひがたく。よきほどに應接してかへされぬ。後に左近をめして。安房が事は過つればせんかたなし。このうへは石川伯耆守な どを。同じ樣に連來らざるやうに賴むと仰られしとぞ。(老人雜話。)
東征の前かた甲州の士小宮山又七昌吉小長柄奉行を仰付らる。又七は年若けれども。その兄內膳友信主の勝賴が先途を見とゞけて討死せし心ざま。あつぱれ忠誠 の者と思召る。內膳子なきがゆへ昌吉をもてその遺跡をつがしめ。かゝる重役をも仰付られしなり。全く兄が忠義を賞しての事なれば。昌吉よくこの旨心得て。 此度の命を己が功勞と思ふべからずと御教諭ありしかば。昌吉はいふまでもなし。諸人みな。忠義の士は死後まで旌表の典を蒙る事と。かしこまさるはなかりし なり。(東遷基業。)
秀吉旣に駿河の三枚橋まで下られしよし聞えければ。榊原本多の人々。こたび秀吉たまさかの下向なれば。こなたの御領中に於ても。殊更の御もてなしなくては かなふまじと申す。  君われもとくよりさは思ひつれど。外におもふ旨あればまづ捨置なりとて。その後ひそかに彼等を召れ。われ秀吉の樣をみるに。己が才 畧もて一世を籠絡せんとする人なれば。我又これに對して才智だてをして。智謀ある人とみられむはかへりてあしきなり。とかう物事にこゝろづかで。たゞ篤實 一ぺんの人と思はれんこそよけれと宣ひて。御饗待の樣も並々の事にて别に耳目を驚かすまでの事はなかりしとぞ。(老士物語。)
秀吉駿府の御城に宿られし時。御みづからもおりたちて御あつかひあり。城中どよみにぎはしきおりふし。本多作右衛門重次は。これよりさき御用の事ありて遠 境にまかりしが。今日還り來り旅裝のまゝにてその所へつと入來て。にがごがき顏して大音あげ。殿々とよびたてまつり。さてさて殿は愚なる事せさせ給ふもの かな。おほよそ國の主たるものが。己が居城あけて人にかす理のあるべきや。さる御心にては。人が女房衆をからんといはゞかし給ふべきかなど。思ふまゝの事 いひはなちて己が宿にかへりぬ。  君もあまりの事に何のうつけをいふぞと仰られ。後に京の人々にむかひ。かれは本多作左といふて。  家康が父祖の代よ り今に至るまでまめにつかへ。あまたゞひ武功もあるものなるが。もとより田舍武士にてたゞあらげなくおこなるふるまひのみして。心のまゝの事をいひもし行 ひもし。人をば虫とも思はぬものなり。されど今日の事といひ。人々の前をもかへりみず。あのことき無禮をふるまふやつなれば。  家康とさしむかひしおり は。いかに心ぐるしからざらん。各くみはかりたまふべしと宣へば。人々その作左こそ上方にも承及たる勇士なれ。かゝる勇士持せらるゝは。實に御家の重寳と こそ申べけれと。一同感じけるとぞ。(岩淵夜話。落穗集。)
秀吉沼津まで着れしかば。  君は織田信雄とおなじく。浮島が原の邊まで出まして。待むかへ給ふところへ。秀吉が前驅餌差鷹飼ともうちつれて通るうちに。 稻富喜藏といへるは  君かねてしろしめすものなるが御前を平伏して。過ぎがてに。殿下もやがて來らせ給はん。いと異樣なる御行裝なり。見給へといひさし てゆく。そのおり甲斐の曲淵庄左衛門御供に候せしが。三尺餘の朱鞘の大刀に大鍔かけてさしたるを御覽じ。御みづからの御佩刀とさしかへ給ふ。かくするうち に秀吉が馬旣にちかづきぬ。そのさま金の唐冠の兜に緋をどしの鎧を着。緋純子の袖なし羽織に紅金襴のくゝり袴。作髭をし。金の大熨斗付の太刀二振はき。金 の土俵のうつぼに征矢二筋さしておひ。金の瓔珞の馬鎧かけたる駮の馬に乘られしが。  君と信雄の立せらるゝを見て。俄に馬より下り慰勞の詞をのべ。かの 團扇もて  君の御刀の柄をおさへ。近頃よき御物ずきかなとほゝゑみながら。いざ同じく參らんと連立て數町ばかりおはせしが。諸大名追々出迎へたてまつれ ば。殿下はもはや御馬にめさるべしと聞え給へば。秀吉さらば軍中に禮なしとかきく。御ゆるし蒙らんとて又馬にうちのりぬ。外々の大名へはみな馬上より聲か けて通らしとぞ。(天元實記。武家閑談。)
按に一說に。このとき秀吉馬より下り太刀の柄に手をかけ。信雄。  家康逆心ありときく。立上られよ一太刀まいらんといふ。信雄は面あかめて何ともいふこ とならず。  君は秀吉が左右の者にむかはせられ。殿下の軍始に御太刀に手をかけ給ふことのめでたさよ。いづれもほぎたてまつれと高聲に仰ければ。秀吉又 といふ詞なく。重ねて馬に打乘て過行ぬ。そのとき見しもの。  君のいささか動し給はざる御樣に感じけり。又小田原の陣中に。  君と信雄と秀吉が陣にお はして還らせ給ふとき。秀吉十文字の鎗の穗をはづし。御名を呼かけて追かくれば。  君右に持せ給ひし御刀を左にもちかへ。立ておはしければ。秀吉大に笑 ひ鎗を持かへ。鐏のかたを  君にむけたてまつり。これは年比己が秘藏せし品なれば。今日參らするとてなげ出されしかば。  君おもひよらざる賜物とおし いたゞかせ給ひて。持歸り給ひしとぞ。信雄ははじめ秀吉が追かけしさまみてうち驚き。  君にもかまはず早々急ぎにげ出ぬ。これよりいよいよ秀吉が爲に見 限られしとぞ。是も同日の談にて。姦雄の人を試むるに泰然としていさゝか變動の態見えさせ給はざる御識度いとたふとし。
三月十八日秀吉三枚橋の邊巡視終りて長窪に至り。諸將をつどへて此度の軍議をせらる。秀吉德川殿にはかねて海道一の弓取とうけたまはる。こたびの計略い かゞしてよからん。指導あれかしとありしに。  君聞しめし。北條が家はその祖早雲入道已來。國富み兵强くして武功の者少からず。今度殿下の御征討を承 り。定めて主に代り打て出で防戰すべきに。これまで一人も兵をまじへざるは。はや殿下の御軍威を恐るゝとみえたり。此後とても出ることはあるまじ。さらば 惣軍を二手に分け。一手は韮山一手は山中を攻んに。何ほど臆したる敵なりとも。己が城攻らるゝに救はざる者はよもあるまじ。そのとき殘る一手をもて戰ひな ば然るべうもや候はんかと宣ふ。秀吉大に感じ。さらば北條が後詰をば  德川殿にまかせたてまつらんといはる。  君いかにも奉りなん。先年甲信の堺にて 北條と七月より十一月まで對陣せし事のありしに。十が九は勝利を得侍りぬ。されども此度は敵地の戰といひ。かれ又無双の險要に據れば。いかなる計策せんも はかりがたし。万一仕損じなば二の手の勝利は殿下をたのみ奉ると宣ふ。秀吉高らかにうち笑ひて。二の手は秀吉いかにもうけたまはるべし。  德川殿を一番 に進ませ秀吉二の手をつめば。日本國中はいふに及はず。高麗大明まで攻入る共。恐るゝに足らずとて大によろこばる。重ねて秀吉。兩城を攻るに敵もし出合ざ らんときはいかんと問はる。  君そのときは兩城のうち一城を攻落し。其勢をゆるめず某手勢をひきゐ。山中の古路をへて酒勾早川へ押出して陣を取しき。關 東の城々より小田原への通路をたつべし。殿下は惣勢をひきゐて小田原へ押詰給へと宣へば。秀吉酒勾筋に敵城はなしやと問はる。君鷹の巢。足抦。新庄の三城 あり。秀吉その城々をもいかゞし給ふといへば。この城々は必明退べし。先年武田信玄二万の兵もて。小田原近邊まで攻入しときもこの城々落失たり。まして此 度の兵威を望み一支もなく落行なん。秀吉もし逃ざるときはいかゞといへば。  君それこそ某が望むところなれ。速に手勢もて攻落すべし。先年對陣のおりも 五六百の家人もて築井の城をせめ。彼がうちに名を得し內藤周防を討取。關本の城に押寄大道寺を追落せし事もあり。彼が弓箭のほどはかねて知たれば。いさゝ か恐るゝに足らずと事もなげに申させ給へば。秀吉はじめ滿座の大小名。いづれも御智算の周遍して。殘る所なきを感じたてまつりける。秀吉その夜は沼津にか へられ。重ねて地圖を取出し諸將と評議し。いよいよ  君の御指圖にしたがひける。このとき黑田勘解由孝高も秀吉が供して。  君の御陣にも折々伺公し軍 法の物語せしが。こたびの城攻始より終に至るまで。いさゝか  君のはからせ給ひしに違はねば。或人にいひしは。德川殿は頂の上より爪の端まで。弓箭の金 言にて束ねし名將なれ。殿下も軍議となれば。  德川殿の口を待て後に發兵せらるるなりといひしとぞ。(讀武家閑談。)
織田信雄ひそかに  君に勸めまいらせしは。こたび秀吉の下向こそ幸の事なれ。北條と諜し合せ前後より挾み討ばかならず志を得んといふ。  君秀吉我を信 じてこそ。わが領內をも心ゆるして通行すれ。いがて反覆の事して信義を失はんやと仰らる。またこの陣に關白わづか十四五騎ばかりにて居られしときをみて。 井伊直政唯今こそ秀吉を討べき時なりと。ひそかにさゝやきけれど。  君かれこたび我をたのもしきものにおもひて來りしを。籠のうちの鳥を殺さんやうなる むごき事はせぬものぞ。天下をしるはをのづから運命のありて。人力の致すところにあらずと仰ければ。直政もえうなき事いひ出しと思ひ。面赤めてありしと ぞ。(明良洪範。寬元聞書。)
山中旣に落城せし晚方。戶田左門一西御本陣に參り。今日の一番乘は中村式部が內に渡邊勘兵衞といふ者のよしなれども。實は某と靑山虎之助某と兩人折よく參 り合せ。一番に乘入りしにまがひなし。上方の黃母衣の者も見とゞけて候へば。この旨仰立られよと申す。榊原康政取次てこのよし聞え上しかば。  君聞しめ し。我婿の氏直が城をわが手勢もて取たりとても。さのみ出かしたる事にてもなし。汝等が勳功はわれさへ聞置ばすむことなり。虎之助にもいひ傳へて。重ねて この事いふまじとの上意なれば。左門も口を閉て。その折の事問ものあれば。塲狹き所ゆへしかとわきまへずとのみいひはなちて居たり。虎之助は大にふづく み。用なきむだ骨をもて勘兵衛が手抦にせしも。あまりわが殿のおとなし過しゆへといひふらしけるを。御聽に入るゝものありしに。靑山がさいはゞそのまゝい はせて置と宣ひ。前に御咎もなかりき。その後關東御移のとき。左門に武州鯨井にて五千石たまはりしは。此ときの賞に宛行はれしなりとぞ。(天元實記。)
按に家譜には虎之助このとき討死せしとみえたれば。本文に記す所は别人なるも知るべからず。凡家譜と記錄と異同のあるは。家譜をもて正しとすれども。强ち記錄の說みなあやまれりともいふべからず。
小田原長陣の事ゆへ米價踊貴してやまざれば。いかゞして此價を低くせんといふ。  君何ほども高くかへと上意なれば。そのことくせしに。小田原は米價高し 持ゆきてうれとて。海陸より我先にと競ひ集り。俄に米價低くなりしとか。また伊奈熊藏忠政御前へ出しとき。此度去年より御領中の米豆貯ふべき命ありしゆ へ。重ねて用意し沼津まで運輸し置ぬ。この地に來りて承れば。山中の價も江尻沼津と同じ樣なり。さればはるばる運費をかけんよりはと存じ。この地の米を買 求めぬ。かほど合點のゆかぬ儀は侍らずと申す。  君こは長束大藏政家がする事なれ。大藏はさして武功はなきが。万事に才幹あるものゆへ。秀吉が意にかな ひ追々拔擧せられ一城の主にも成たれ。惣じて國の主たるものが常に物事節儉にして浮費を省くは。事あるにのぞみ用度の不足なからしめんが爲なり。さるを常 に儉約にして。事あるにも慳恡ならば。金銀米錢は何の用をかすべき。土石にも劣りたるものなれ。汝そが職にありながら。かゝる事に合點の至らぬといふは。 我も又合點がゆかずと仰られしとぞ。(古人物語。天元實記。)
宮城野口。竹浦口を攻られしとき。かねて先鋒は當家二陣は秀次と定められしに。秀次うちこして前に進まんとす。よて村越茂助直吉をもて秀次が方へ仰つかは されしは。秀次先陣うたれん事年若き御心にはさもあるべし。いと神妙の御事なり。わが陣頭を開て通すべし。  家康もその餘勇を求めて。勝利を得んと思ふ なり。たゞし敵は地戰。味方は客戰にして地の利にくらし。そのうへ今日日暮に及んで。山下に陣取は兵法のいむ所なり。今夜はまづこの所に屯し。明朝先陣打 ればしからんかと仰つかはされしかば。秀次且感じ且恥て。其夜は箱根山の半腹に陣取。終に夜篝を燒ひて夜をあかしけるとぞ。(天正記。)
井伊直政酒勾川のかたにむかひしに。森を後にして陣せよと命ぜられしに。河原に陣どりしを御覽じて大に御氣色損じ。敵城近く備を立るには樹陰を後にして。 敵に勢の多少を見透されざるをもて主とす。さるを味方の足數までみゆる所に備ふるは。以の外なりと仰ければ。直政さきに御諚有しゆへそが通りに備を立しな りと申せば。御馬上にて小刀をぬかせ給ひ。御腰物にてうちならしたまひ。此かねの罸を蒙る法もあれ。わがいひしはかしこにはあらざるものをと仰られ。小刀 をうち折てすて給ひしとぞ。又その邊を巡視ありて酒勾川の端に下らせ給ひ。海ばたより城內を俯視してかへらせ給ふとき。供奉の者城際を通るを見給ひ。敵も し城より打ていでゝ味方討死もせば。敵に勢を添べし。又逃去らんも見ぐるし。汝等はしれた事をするものかな。城の巡視は城際より乘廻し。橫より見るこそ作 法なれと宣ひしとぞ。又諏訪の原御本陣とせられ。內藤四郞左衛門正成。高本主水助淸秀。渡邊忠右衛門守綱。筧助大夫正重。渡邊半藏重綱を殘し給ひ。汝等は こゝに陣取れとて。御みづからは年若き者五六騎召具して巡視に出給ひ。還御の後內藤等の陣取の樣見そなはし。汝等年比軍陣になれし者なれば。少しは心得つ らんと思ひしに。などかくふつゝかなる樣よと。散々に御叱りありて陣取をかへしめ給ふ。かゝる圍城のうちよりは白晝には打て出ぬものなり。夜討より外の術 なし。夜討も城よりは出ずしてことゞころに隱れ居て。我陣の後よりうちかゝり。輕くかけ破りて城に引入んとするものなり。されば其心得して城際の陣取は。 裏を表のごとくにとるものなりと仰られしとぞ。(三河之物語。)
笹郭を御巡視ありし後。大久保治右衛門忠佐。高木主水助淸秀に命ぜられ。本陣の小屋をかけしめられしに。城にむかひし所を厚く後を薄くかくるを御覽じて。 敵は虎口より出べし。堀越には出ぬものなり。ゆへに後の方を厚くとるが古法なりと宣ひて改めしめられたりとぞ。又同じ曲輪を攻られんと議せられしとき。其 邊に橋を渡して距闉の樣なるもの有。井伊直政をめして橋が橋がとばかり仰あり。直政さまざま思ひをめぐらし。橋下の水の淺深を試みよとの盛慮ならんとおも ひ。橋下に杖を立て水痕の及ぶ所を驗として御覽に侍へしかば。とかうの仰もなく又はしがじがとばかり宣ふ。かさねて直政其所に久しくたゝずみ撿祝するに。 橋桁殊更撓みけるを見て心づき。急ぎ馳かへりかくと申あぐ。  君聞しめし。さればその事よと仰らる。おほよそはじめ命ありしより。直政が思ひ得しまで は。四十八時ばかりへしとぞ。さて直政に屬せられし甲塚の廣瀨美濃。三科筑前は老功の者なれば。この郭攻む樣直政かれとはからへと宣ひ。直政相議せしに二 人うけたまはり。御家人の子弟の年若きかぎりすぐり出て攻手にあてられば。子弟の出戰すときかば。その父兄等己が子弟等に功名を立させんと思ひ。われもれ もと出來りてをのづから多勢になるべし。万一仕損ずるとも子弟の事なれば。させる恥辱にあらずと申すにより。そのごとく命ぜられしかば。果して大勢あつま り來て攻かかり。かの橋邊に至りしとき。諸勢いさゝかあやぶみためらひしに。直政はこゝなりと思ひ。この橋危しとてつゞきの郭をとらであるべきやとて。み づから橋詰まで進み銃取て放つに。火藥强かりしかば筒裂て指を損ず。されどもいさゝかひるまず曳聲あげて進みより。遂に曲輪を乘取けり。  君の神算妙諭 はいふまでもなし。直政もよく御詞の旨をふかく思ひ久しく考へてあだにせざりしゆへ。かゝる奇功をも奏すれとて人々感じけるとぞ。(東武實錄。前橋聞 書。)
長陣の間にさまざまの流言ども出きて。  君と信雄と北條に同意有て諸陣を燒拂ひ。城よりも同時に討て出るなど。根もなき事紛起してやまず。秀吉小早河左 衞門督隆景のすゝめにしたがひ。みづから  君の御陣を巡視すとて。伊達染の小袖に緋純子の羽織を着。脇差ばかりさし。刀をば從者に持せ。信雄。隆景。其 外陪從の者も皆脇差ばかりさし。高聲に雜談しつつ御本陣に參られ。午の皷うつ比より夜中まで宴樂あり。其後又信雄が陣へも  君と隆景と秀吉にしたがひて おはし。また重ねて  君と信雄とを秀吉の本陣に招請せられ。晝のほどは申樂行はれ。夜に入り酒宴まうけ小唄おどりとりどりにて。夜一よ遊びくらして曉に かへらせ給ひ。この後諸陣にもかたみに行かひして會宴まうけ。人心漸穩になりければ。浮說もいつとなくやみしなり。これ北條はまさしく  君の御ゆかりに おはしませば。かゝる雜說も出來しゆへに。  君ひそかに秀吉と仰合され。かくははからわれしとぞ。このときの小唄とて後にまで傳へしは。人かひ舟は沖を こぐとても。うらうら身をしづかにこげ。我等を忍ばゞ思案して。高いまどからすなをまけ。雨が降といふて出逢はん。(落穗集。)
松平石見守康安はこの役に大番頭奉りて供奉しけるが。あるとき  君城中にむかひ。御みづから矢を放ち遠近を試み給ふに。侍臣等城中まで御矢入りつと申せ ば。城までは程遠し。弓勢のをよばん樣なしと宣ひ。康安をめし。汝は聞及びし精兵なり。試みよと仰あり。康安射しに多くは土居にて落ぬ。數矢のうちにたゞ 一筋城墻を貫きしがあり。よて左右の者に仰けるは。康安が弓勢すらかくのことし。さるを汝等わが矢城中に入しといふは。全く諂諛のいたす所なり。かまへて かゝることは申さぬものぞといましめ給ひしとぞ。また本目權左衛門義正はもと松平氏なりしが。箱根山中の案內したてまつり高名ありしかば。汝は侍の眼な り。この後は氏を本目と改むべしと仰有て。これより本目に改めかへしといふ。(家譜。)
甲相の境なる三增峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せし め。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)
小田原落城のころ二子山の下たいらに御本陣をすへられ。小高き所をかたどり。かたへに御鎧櫃を置。その上に板二枚を渡し御寢所とす。夜中御傍に大河原源五 右衛門といへる十五六ばかりの小姓ふしてありけるが。惣陣の騷がしきを聞付て。俄にはね起てひしめけば。かの板にあたりいよいよ驚き。御寢なりしを起した てまつりこのよし申上しに。汝は若年にてものに馴ざるゆへ。かくそらおどるきするなれ。敵が夜討すれば必弓銃の音するものなり。こは味方の鬪諍するか。あ るは馬を取放せしならん。さはぐ事なかれとて。いさゝかおどろき給ふさまはおはしまさゞりしとぞ。(武家閑談。)
北條ほろびて後人々に仰られしは。武田信玄は近代の良將なりしが。己が父の信虎を追出せし餘殃子にむくひて。勝賴さしもの猛將たりしが運傾くに至り。普第 恩顧の者まで離畔してはかなく亡びしは。天道その親愛の恩義なきを憎み給ふゆへとしらる。小田原は百日ばかりの圍城に。松田尾張が外は反逆のもの一人もな し。氏直が高野に赴きしときも。命をすてゝも從はんと願ふもの多かりき。これ早雲已來貽謀のたゞしくして。諸士みな節義を守りしがゆへなりと仰られしとな ん。
此卷は豐臣家と御和睦より。小田原征代までのことをしるす。
東照宮御實紀附錄卷六
小田原いまだ落城せざる前かた。  君と信雄と共に秀吉が笠掛山の新營におはしけるとき。秀吉この山の端に城中のよく見ゆる所あり。いざおなじくゆきて見 んとて立出給ひ。やゝしばらく城のかたを見わたしながら軍議どもせられしに。秀吉いはく。この城落去せば城中の家作ども。そのまゝ  德川殿に明渡して進 らせんに。殿は此所に住せらるべきやいかにと問はる。 君の御答に。後日はしらず。さしあたりては此城に住せんより外なしと宣ふ。秀吉聞れ。それは甚よか らず。この所は東國の咽喉にて樞要の地なれば。家臣のうち軍略に達せし者に守らせ。御身はこれより東の方江戶といふ所あり。地圖もて撿するにいと形勝の地 なり。その所を本城と定められんこそよけれ。やがて當地の事はてば秀吉奥州まで征伐せんと思ふなり。そのおり江戶の城に立より。かさねて議し申さんといは れき。かゝれは御轉封の事も江戶に御居城の事も。此陣中より旣に內々定議ありて。落城の後に至り秀吉より申出せしなり。さて御轉封仰出されしはじめには。 こたびも北條がときのごとく。小田原に住せ給ふや。又は武家の先蹤を追て鎌倉に定居あらんかなどとりどり議しけるうちに。江戶に定まりければ。いづれも驚 嘆せしとなり。そのとき秀吉。大久保七郞右衛門忠世をめして。汝は  德川家の股肱なれば。此城に箱根山をそへて德川殿よりたまはるべしといはれし。これ ぞ大久保が家にて代々この城守る事の權輿なり。秀吉陽には 當家の爲に重任をえらぶ樣に見ゆれど。實は東西變あらんときの事を思ひ。何となく忠世に私恩を 施されしものなり。本多忠勝に佐藤忠信の胄たまひしと同日の所爲なりとしらる。(天元實記。大業廣記。落穗集。)
天正十八年七月小田原の城落去しければ。この度の勸賞に北條が領せし關東八州をもて。 當家の駿遠三甲信の五國にかへ進らするよし關白申定られしとき。   君御迁移の事を御いそぎ有て。同じ八月朔日にははや江戶の城に移らせ給ひ。又下々に至りては八九兩月のころおほかた引迁りすみければ。大坂へ御使つかは され。五ケ國引渡さんと有しかば。秀吉大に驚かれ淺野長政にむかひ。三遠甲信の四國はいそがば此頃にも引移るべけれ。駿河は其居城なり。それを引拂といふ も。速なるも限ある事なれ。いかでかくは辨ぜしならん。すべて  德川殿のふるまひ凡慮の及ぶ所にあらずといはれしとぞ。(大業廣記。)
小田原落城の前にさまざまの雜說ありて。北條がほろびし後は。 當家の舊地を轉じて。奥の五十四郡にうつしかへらるゝなどいふ說もあり。井伊本多の人々。 もしさる事もあらば。僻遠の地にかゞまりて重ねて兵威を天下にふるふことかなふまじとてひそかに歎息す。  君聞しめし。もしわが舊領に百万石も增加せば 奥州にてもよし。收納の善否にもよらず。人數あまためしかゝへて三万を國に殘し。五万をひきひて上方へ切て上らんに。我旗先をさゝへん者は。今の天下には あるましと仰られしとぞ。(續武家閑談。)
御遷移のころ榊原康政をめして。この城內に鎭守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎭守の神にもあらん。御覽あれとて康政鄕導してそ の所に至らせ給ふ。小き坂の上に梅樹數株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そ なはすと直に御拜禮ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ當城に鎭守の社なくば。坂本の山王を勸請せんとかねて おもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも 當城うごきなくして。御家運の榮えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城壘開柘せらるゝに及び。山王の社を紅葉山 にうつされ。かさねて半藏門外に移し。明曆の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ。 當家歷朝の產神とせられ。菅神の祠は平河門外にうつせしを。 又麴町に引うつして舊跡を存せらる。今の平河天神これなり。(大業廣記。)
江戶城はさきざき北條がとき城代たりし遠山が家居。本丸より二三丸まで古屋殘れり。多くはこけらぶきはなく。みな日光そぎ飛州そぎなどいふものもてふけ り。中にも厨所の邊は萱茨にていとすゝけたり。玄關の階板は幅廣き舟板を三枚ならべて階とし。その餘はみな土間なり。本多正信見てあまり見苦し。外は捨置 せ給ふともこの所は御造營あるべし。諸大名の使者なども見るべきに。いかにも失躰なりと申上れば。  君いはれざるりつばだてをいふとて御笑ひありて。そ のまゝになし置れ。まづ本城と二丸の間にある乾濠を埋られ。その上は大小の御家人の知行割をいそぎ給ひ。榊原康政もて惣督とし。靑山藤藏忠成。伊奈熊藏忠 政二人これを奉り。微錄の者ほど御城ちかきあたりにて給はり。一夜へだつるほどの地は授くまじと令せられ。また一城の主たるものは御みづから沙汰し給ひ。 誠に御いそぎ故大かた一人一村かぎり。また隣村つゞきにて下されけり。この事終りし後御家人へ仰渡されしは。此度給はりし銘々が采邑に。手輕く陣屋を作り 妻子を置。その身ばかり御城へ通勤すべしとて。别に城下には小屋をかけ。その身と僕從輿馬のみをさし置れしなり。路程遠きものは城下の市屋を僦居して日を かさね在府し。當直にあたればまうのぼり番簿に名をしるし置て。又一兩月●采邑に歸住し。すべて簡易の事なりき。その後都下繁榮にしたがひおのおの宅地給 はり。みづからの力もて家屋いとなむ事と成しなり。(落穗集。君臣言行錄。)
はじめて江戶城に入せられし時。御行裝を遙拜せんとて老若男女所せきまで御道のかたはらに並居たり。そのころ增上寺稱名院とて。今の龍の口の邊にありける が。住持存應和尙も衆人と同じく寺門に出て物み居たり。  君御覽じ近臣して。かの僧は何といふと御尋なり。存應つゝしんで。寺は淨土宗にて增上寺とい ひ。貧道は存應と申候よし申す。それは感應。(大樹寺の住持。)の弟子の存應にてあてあるかと宣へば。さん候と申す。よて御馬を下り寺に入らせ給ひ御茶な ど聞しめし。明日又參らんと宣ひて明朝渡御あり。存應思ひよらざる事にて。寺のうち馳めぐりて御もてなし。齋飯すゝめたてまつる。  君御氣色よく 當家 の宗門は代々淨土にて。三河にては大樹寺をもて香火院としつれど。當地にてはいまだ定れる寺なし。幸この寺同宗の事なれば。當寺をもて菩提所とせんと思 ふ。よろづ供養の事和尙に賴むなりと仰ければ。存應も世にかしこき事に思ひ感淚袖をうるほしける。さて師壇の御契約はこの時に定まり。のちに寺を今の芝浦 に引移され。慶長十年はじめて堂塔刱建ありて。一宗の本山として代々の大道塲となされしなり。(啓運錄。事跡合考。)
按に一說に。いまだ小田原におはしませしとき。兼て江戶にて御祈願所になるべき天台宗の寺と。御菩提所になるべき淨土宗の寺を。えらぶべきよし命ぜられて 搜索ありしに。淨土にては傳通院。增上寺の二刹のみ。そがうち傳通院は窮僻の地なり。增上寺は勝地にてかつ江城に近ければ增上寺を菩提所にせられ。御祈願 所は淺草の觀音堂しかるべしと申により。かの二寺の僧を小田原にめして謁見せしめ。そのよし命ぜられ。寺內に建べき制札を下されしともいへり。(落穗 集。)
豐臣關白より。此度の御轉封により井伊。本多。榊原の三臣へはわきて加封あるべきに。各何程賜はらんやと有しに。十万石づゝとおぼしけれとも。十万とのた まはゞ關白その上に增封せよといはれんは必定なりと思召。わざと六万石づゝ給はらんと仰つかはされしに。案のごとくそれにてはあまり少し。十万石づゝ給は れと指諭ありしかばそのことくに下されき。又領邑を渡すに繩をつめず。打出すやうにして割淚すべしと仰付られしが。これも關白より同じ樣の事申をくられし とぞ。(紀伊國物語。)
たんはんといふ者いと滑稽に巧なりしが。常に近侍して親幸を蒙りけり。江戶に御移ありしころ。あるとき黃金一枚持出給ひて。汝ほしくば中にてとれと。御戱 れながら投給ひしに。たんはんあやまたす中にて取り。又二枚これもほしくばとらせんとありて投給ひしに。又中にて取れり。この外にも御手に持せられしをも たまはらんとねぎしに。いやいやとの仰にて御座を立せらる。本多正信御側より。たんはん追懸たてまつれとそゝのかす。たんはん   殿樣御しはき事とて御 後に從ひたてまつれば。  上にも急ぎ後閤に入らせらるゝを。いよいよ追懸たてまつり。  殿は戰塲にてもかく御後を人に見せさせ給ふやといひて。御諚口 まで參り。ゑいゑいおうと高聲に凱歌をとなへて。もとのかたへひきかへせしとなり。このたんはんは下野の宇都宮が氏族にて。氏は失ひしが名をは大和といひ て。一城の主たるものゝはてなるが。常々談伴に候して御かへりみ深く。後々は腰刀もはかず。たゞ遁世者のごとくにてありしとなり。(靈岩夜話。)
御舊領のうちにて。甲斐の國の轉ぜしをばことに御心とゞめさせ給ひ。常々その事を仰出されしなり。さればにや江戶にて御長柄もつ御中間は。武州八王子にて 新に五百人ばかりめしかゝへられ。小祿の甲州侍もてそが頭とせられしは。八王子は武藏と甲斐の境界なれば。もし事あらんときには。かれらに小佛口を拒しめ 給はんとおぼして。かくは命ぜられしなり。同心共は常々甲斐の郡內に往來し。絹帛の類をはじめ彼國の產物を中買し。江戶に持出賣ひさぐをもて常の業とせし めしなり。(落穗集。)
關東にて名門舊族の。時世かはりて沉淪せしものどもをあまためし出され御扶助あり。宮原勘五郞義熙といふは古河御所晴氏が弟左馬頭憲寬が子にて。下總宮原 に住せしをめし出され采地千石下され。のちに高家に列す。由良信濃守國繁は新田左中將義貞の後胤にて。代々上野金山の城主たりしが。小田原の戰の後太閤よ り所領召放されて流浪せしを。名家なればめし出て常陸にて采地給ひ。是も後に高家となさる。一色宮內大輔義直はもと足利家の支族にて。世々鎌倉古河の幕下 に仕へし家筋をもて。めして武州幸手にて五千石餘の地を給はる。江戶太郞高政といひしは。江戶重繼より以來東國の舊家なるが。長尾但馬守顯長が家臣と成て ありしを。江戶を稱するは憚ありとて。母方の氏を冐して小野と改め。御家人にめし加へらる。難波田因幡守憲次は關東管領上杉が幕下に彈正憲重といひて。武 州松山の戰に歌よみて名高きものゝ末なれば。同じく召出され。また北條が家臣間宮豐前守康俊は。山中の城にて戰死せしかば。忠臣の後なればとてその子惣七 郞元重はじめ。一族まで御家人となさる。太田新六郞重正は道灌入道が末裔たるをもてめし出され采地をたまひ。その姊のわづか十三歲になるも同じく御側ちか くめしつかはれ。名を梶とめさる。關原の役より茶臼山の御陣營の地を勝山と改め給ひしとき。汝が名も勝と稱すべしと仰られ改めしなり。この女後々御かへり みふかく姬君一所まうけしが。早世ましましければ水戶賴房卿の御母代となされ。後に英勝院尼と聞えしは是なり。河田伯耆守泰親といふはもと上杉謙信に屬し 武功の者なるが。後に北條にしたがひ上野國利根郡のうちにて三千貫の地を領せしが。北條ほろびて後戰死のものゝ首帳御覽ありしに。泰親が名なければ。定め て當地に居るべしとて。井伊直政に命じて尋ねしむ。泰親はさきに松枝の戰に深手負て。旣に死せんとするよし直政聞え上しかば。かねて聞をよびし忠實の者な れば。死せざらん前にみるべければ。籃輿にのせて連來れとの仰によて。板扉にかきのせて御前にすへ置ば。泰親が側近くよらせられ。いと御愁悼の御さまに て。此疵平愈せば不動山の城主とし。普第の大名に凖ずべし。それまで心のまゝに養生せよと仰ありて。當分の費用にとて月俸百口下されけるが。遂にはかなく なりしかば。その子の助兵衛政親未だ六歲なるを直政が家に養はしめ。年長ずるに及んで父の跡つがしめられしとぞ。(諸家譜。)
北條家の侍どもあまた召出されし內に。下總の臼井が子に吉丸。上總の東金の城主酒井が子に金三郞政成。兩人とも舊家たるをもてめし出され。後年伏見の城造 營終て巡視せられしとき。吉丸御はかし持て從ひ奉りしが。とみの事にて履はく事ならねば。跣にて炎天の折から栗石の上にかゞみ居たり。金三郞これを見かね て履持ゆきて吉丸にはかせけり。その後同僚のものども。いかにも親友なればとて衆人みる前にて。同僚に履はかすることやあるべきと口々にいひ立れば。目付 の者もすて置がたくて御聽に入しに。  君にもかねて聞しめし及ばれ。金三郞をめして御糺有しに。金三郞それがし唯今吉丸と同じ列に侍れども。そのはじめ をいばゝ彼は主家にて侍れば。そが熱石の上にたゞずむを見るにしのびず。草履はかせしまでにて。深きゆへよしあるにも侍らずと申せば。仰に金三郞若年なが ら舊主を思ひ本をわすれざるは。武士の道にかなひ神妙の事なり。その心ならば  家康が恩をも恩とおもふべし。末賴もしき侍かなと御賞美ありて加恩たまは りけり。これより士風やうやく敦厚になり。一日たりとも頭役と仰ぎてその指揮受し者に對しては。後日に我身顯官にへ上りても。會見の折からさきの重役の人 には。必禮義を慇懃にせし事となりしとぞ。(岩淵夜話。)
北條が比は法令惰弛なれば。八州のうらに博戱盛に行はれ。僧俗男女のわいためなく。みなおしはれて行ふことなり。かねて御舊領におはしませしときより。こ の事嚴斷せられしをもて。御遷徒あると直に。板倉四郞左衛門勝重もてきと嚴令を出され。博戱するものは見及びしまゝ追捕して死刑に行はる。ある日淺草の邊 御狩のおり。博徒五人が首を梟木にかけしを御覽じ。罪人梟首するは衆人に見せてこらしめん爲なれば。五人一座の科ならば。某の月日何の地にて犯せしといふ 事を札にかきて。人多くつどふ所にいくつも建置べしと命ぜられ。後には十人一座に捕得しは。十箇所にて誅戮し各所にかけしとぞ。かくおごそかに御沙汰せし ゆへ。一兩年過て八州のうちにこの戱行ふもの絕果たりとぞ。(君臣言行錄。)
小田原の城に氏康柱といふあり。そのかみ北條氏康がときに。荒川何某といふ者逆意企し聞えありて。氏康衆中に於て手刄せしに。その太刀の鋒書院の柱に切込 しを。後々まで大切にし蓋をかけ置て。見んとこふものあれば明て見せしめ。後に叛逆の者の懲戒にせしめん爲殘し置しなり。  當家となりて小田原をば大久 保七郞右衛門忠世にたまはり。忠世が子忠隣に至り。  君御上京のおり小田原にやどらせ給ひ。忠隣めして。かの柱を供奉の人々に見せよと上意ありしに。忠 隣うけたまはり。その柱の立し書院いと荒廢し。柱根も朽果ぬれば。近比立直せしにより柱も取すて侍りぬ。但むかしより玄關にかけ來りし鈴木大學が弓といふ ものは。唯今ももとの所に置ぬと申せば。聞し召れ。北條家は早雲氏綱が代には。豆相兩國のみ領せしを。氏康に至り次第に國を伐ひろげて。遂に東八箇國を全 領せしなり。そのうへ氏康いまだ若年のころ。武州川越の夜軍にわづか八千の兵もて。上杉が八万三千の大敵を切崩し。武名を天下にかゞやかせし事。近き世に はめづらしき英傑といふべし。その名を負し柱なれば。朽たりとも根をつぎても殘し置ば。末々までみる人々武道の勵にもなるべきに。なぞゆへなくは取すてし ぞ。心なき擧動なり。大學が弓などは折ても捨べきものをと宣へば。忠隣大に恐れ入て。惣身に汗し御前をまかでしとぞ。(岩淵夜話。)
三州大沼に住せる處士木村九郞左衛門定元は。此度遷徙の御供し。その子三右衛門吉淸は妻子引つれ。一番に江戶に馳參りければ。土井甚三郞利勝このよし言上 す。  君吉晴が年比住なれし地を離れ。速に馳參りしを賞せられ。御氣色斜ならず。旅裝のまゝにて出よと宣へば。吉晴革の立付はき。亂髮のまゝにてまみえ たてまつる。かねて酒好むよし聞しめされ御前にて數盃下され。吉晴ゑひすゝみてこゝちよきさま御覽じ。伊奈熊藏忠政をめし。三右衛門は酒ずきなれば。よき 地えらみて酒のまむ料につかはせと仰ありて。やがて相州高座郡のうちにて菖蒲澤村百名の地をたまはりしが。今にその邊にてこの領邑の事を酒手知行といふと ぞ。(家譜。)
樽屋藤左衛門といふは水野右衛門大夫忠政が七男彌大夫忠賴が子なり。はじめは彌吉康忠といふ。長篠の役に酒樽をたてまつりしかば。織田右府に贈られしに。 右府大によろこび樽とよばれしより氏を樽と改め。遠州町々の支配を命ぜられしが。こたび御遷移よにり。又江戶市街の事をつかさどらしめ。神田玉川水道の事 をも奉り。東國の升の事つかさどらしむ。この外奈良屋市右衛門。喜多村喜右衛門といへるも同じく御舊領より引移り。樽屋と共に市中幷に水道の事を奉る。守 隨兵三郞といふは甲州にて秤をうりひざぐものなるが。これも御遷移をうけたまはり傳へて速に江戶に來り。多門傳八郞信淸をたのみ。井伊直政もて八州の權衡 奉らん事願ひしかば。はるばる甲斐の國より馳參り神妙におぼしめせば。願ひのまゝ御ゆるしありて御朱印を下されけり。又菓子の事うけたまはる大久保主水と いへるは。その祖大久保藤五郞忠行は左衛門五郞忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり。一向亂のおり銃丸にあたり行歩かなはざれば。 己が在所に引籠りてありしが。もとより菓子作る事を好み折々己が製せし餅をたてまつりけるが。御口にかなひしとて每度もとめ給ひしが。これもこたび御供に 從ひ新知三百石たまひ。そが餅を駿河餅といひて時世うつりて後は。いとめづらかなるものとせり。これより後そが家世々この職奉る事とはなりしなり。(家 譜。武家嚴秘錄。御用達町人來由。)
蒲生飛驒守氏鄕太閤より會津の地たまはり。はじめて就封せし道すがら。江戶へたちより謁したてまつり。かねても親しくせさせ給ひければ。こなたにも殊に御 喜悅にてさまざま御饗應あり。こたび大國の主になられはじめての入部なれば。何がな馬の餞せんと思ふ。何にても望まれよど仰ければ。氏鄕もかしこみたてま つり。何某おもはざる大身になりて何も事欠ぐ事は候はねども。殊更の仰なれば一しほ請申事あり。唯今是へ出たりし色黑き老人の。朱鞘の大脇差さしたるは何 と申者にて候か。いとめづらかなる士と見受たり。これを家人に申給て此度の入部の晴にせまく存ずるなりと申せば。  君聞しめしいとやすき所望ながら。こ れは御望にまかせがたし。彼は曲淵勝左衛門吉景とて若年の比武田がおとなの板垣信形が草履取にて。その子の彌次郞につかへいと賤しき者なり。信玄讒を信じ て彌次郞を誅せしかは。信玄を主の仇なりとて度々伺ひけるほどの。不歒の思慮もなき者なれば。かの國に居ん事もかなはず。  家康がもとににげ來り。今は 見らるゝ如く老衰して何の用にも立ず。さるをまいらせてもかへりて 當家の耻辱なれば。此義はゆるさるべしと宣へば。氏鄕思慮なきにも老衰にもよらざれど も。今の仰承れば深く御心かけてめしつかはるゝとみえたり。强ちに申請んもいかゞなり。此うへはせめて知人になりて。昔物語にても承り度と申すにより。御 前へめし出て信玄勝賴二代の間。合戰の事どもとりどり語り出て聞しめし。氏鄕もいと興に入けるとぞ。(岩淵夜話别集。)
御迁の後はじめて御上洛ありしに。蒲生氏鄕も會津の就封を謝せんため。同じく上京して御參會の折から。會津城經營の樣を尋給ふ。氏鄕いはく。會津の城は芦 名家以來芝土居にて有しを。こたび石垣に築直しぬ。そもそも殿下今不肖の某をもて大國の重鎭となし。そくばくの地下し給ひし上は。せめて居城にても見苦か らぬ程になし置んとて。國々の城地のさまを參見せしに。毛利輝元が安藝の廣島の規摸某が胸にかなへば。會津も是にならひて作出んと存ずる旨申上しに。すべ て城の大小とその主の身分の大小にかなふがよし。本丸はじめ二三の曲輪は塀櫓迄。心を用ひて作出んはいふまでもなし。その外の曲輪一二の門舛形も同じく心 を用ふべし。外郭の塀などは時にのぞみてもたやすくかくる事なるべし。無事のときは土居石垣ばかりにて置たるがよし。廣島のごとく外郭の塀までかくるには 及ぶまし。松永彈正久秀が和州志貴の城に多門櫓といふもの二三の曲輪內に建置しは。居城の便などにはよきものなりと仰られしを。氏鄕つぶさに承りて感嘆 し。その後歸國しかねての經營のさまをかへ。仰のごとく惣郭の塀をばかけず多門櫓たてんとせしが。いまだ竣功に及ばずして氏鄕病にかかり身まかりぬ。よて 後々に至りても會津城の三の丸に。塀櫓なきはこのゆへなりとぞ。(落穗集。)
この卷は關東へ移らせ給ひしおりの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷七
聚樂の亭にて申樂興行ありしに。あるじの關白をはじめ織田常眞。有樂などもみなつきづきかなで。殊に常眞は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり。  君 は舟辨慶の義經に成らせ給ひしが。元より肥えふとりておはしますに。進退舞曲の節節にさまで御心を用ひ給はざれば。あながち義經とも見えずとて諸人どよみ 咲ひしとぞ。後に關白此事を聞れて。常眞がごとく家國をうしなひ。能ばかりよくしても何の益かあらん。うつけものといふべし。  德川殿は雜技に心を用ひ られざるゆへ。當時弓矢取てその上に出る者なし。汝等小事に心付て大事にくらきは。これ又うつけ者といふべしといたくいましめらる。又秀吉夜話の折近臣 等。  德川殿ほどおかしき人はなし。下ばらふくれておはするゆへ。親ら下帶しむることかなはず。侍女共に打まかせてむすばしめらる。この類さまざまに て。すべて言立ればおほやうすぎたる大名なりといふ。關白さらば汝等がかしこしとおもふは何事ぞ。武邊衆にすぐれ國郡をひろく保ち。金銀のゆたかなるをか しこしとは申べけれといふ。其時關白。汝等がおかしといふかの人は。第一武略世に並ぶ者なく。その上關八州の主として金貨もわれよりおほく貯へ置る。かゝ れば汝がおかしとおもへるは即ちかしこきにて。並々の者の測りしるべきならずといはれしとぞ。(士談會稿。岩淵夜話。)
案に醍醐花見の折。關白が近侍の輩  君の御事いひ出てわらひ種にせしを聞かれ。家康が藝は三つあり。常人の及ぶ所にあらず。第一も武略衆にすぐれ。第二 は思慮のよき。第三は金銀を多くもてり。此三つは人に咲はるまじき大藝なり。汝等何を咲ふといはれしかば。近臣ども。  德川殿はなにがよければ。いつも 殿下の贔負せらるゝぞといひしとぞ。これも本文と同じ樣の事をさまざまに傳へしなり。
文祿元年正月二日聚樂の邸にて謠初の式行はる。着座の次第は第一秀次。第二岐阜中納言秀信と定めらる。加賀亞相利家云く。秀信は正しく織田殿の孫なれば第 一たるべし。今日の儀注はたが書しといへば。石田三成。それがし殿下の仰を奉てかきしといふ。よて利家秀吉へそのよしをいふ。秀吉そは理ながら秀次は我甥 にして。ゆくゆくは養子にして家繼せんと思へば第一座に定めしなりとて聽入ざれば。利家は心地あしとて座を起んとす。  君その樣御覽じ。利家しばしまた れよとありて秀吉へ宣ひしは。殿下そのはじめかりにも秀信の後見せらるゝと有しをもて。織田家の舊臣もみな歸服せしなり。いま利家が秀信を上座に立むとい ふも。舊義を忘れざる心より出て。あながち秀信に左袒するにもあらず。かゝらば秀信をば别に奥方にて。拜禮盃酌の議をすませられ。表樣にては秀次を一座に つけ給はゞ。人心事躰に於て兩ながらその宜を得むかと仰られしかば。太閤もその允當の御處置に感じ。仰のことくせられて謠初の式事故なく遂行はれしとぞ。 (武邊咄聞書。)
關白あるとき  君をはじめ毛利。宇喜多等の諸大名を會集せし時。わが寳とする所のものは虛堂の墨蹟。粟田口の太刀などはじめ種々かぞへ立て。さて各にも 大切に思はるゝ寳は何何ぞととはれしかば。毛利。宇喜多等所持の品々を申けるに。  君ひとり默しておはしければ。  德川殿には何の寳をか持せらるゝと いへば。  君それがしはしらせらるゝ如く三河の片田舍に生立ぬれば。何もめづらかなる書畵調度を蓄へし事も候はず。さりながら某がためには水火の中に入 ても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ  家康が身に於て。第一の寳とは存ずるなりと宣へば。關白いささか恥らふさまにて。かゝる寳 はわれもほしきものなりといはれしとぞ。また秀吉ある時  君に尋進らせしは。應仁このかた亂れはてたる世の中をおほかた伐從へつれど。いまだ諸大名己が じゝ心異にして。一致せざるをいかゞせんとあれば。  君おほよそ万の事みなおはりはじめ相違なきをもてよしとす。義理の當る所はなべて人の從ふものなり と御答ありしとぞ。(寬元聞書。武野燭談。)
細川忠興入道三齋が。年老て後  大猷院殿の御前にてむかし今の物語ども聞え上しうちに。そのかみ入道伏見の城にて。あやうきことのかぎりを見侍りしとい へば。いかなることとのたまふに。いつの年にか有けん。豐臣殿下の前にて。  東照宮をはじめ諸大名列席せし時。殿下の宣ふは。われむかしより今迄弓箭の 道に於て。一度も不覺を取しことなしと廣言いはれしに。たれか殿下の御威光に服せざるもの候べき。いづれも上意の通と感稱してあり。其時  君ひとり御け しきかはり。殿下の仰なりとも事にこそよれ。武道に於ては某を御前にさし置れて。かゝる御言葉承るべくも候はず。小牧の事は忘れさせ給ふかとて立あがりて 宣へば。一座のものみな手に汗を握り。すはや事こそ起れとあやぶみしに。關白何ともいはず座を立て內に入れぬ。さてありあふ人々。只今殿下の仰は實に一時 の戱言にて侍れば。  德川殿さまで御心にとめ給ふべからずといへば。いやいや武道の事はいかに殿下なりとも。そのまますて置べきにあらず。今日より殿下 の仰に違ひ御勘事蒙るとも。いさゝかくゆる事なしと宣ふ。とかうして關白また出座せられ。重て物語どもありて。さきの事いさゝか詞色にもかけざる樣なれ ば。いづれも案堵してまかでしなり。その頃入道もまだ年若き程の事にて。今に思ひ出れば何となく胸さはぎせられ侍るといへり。こは秀吉君の御樣を試みむと て。わざとかかる廣言いはれしに。君たゞ余人のごとく敬諾のみしておはせば。かへりて關白のたのみがたなき人と思ひ給はんとおぼして。武道のことには不測 の禍をもかへりみず。たれなりともその下に立べからざる。御實意をしらしめ給はんとて。御けしき迄もかはらせ給ひしならん。魏の曹操が劉備にむかひ。天下 の英雄は只御邊とわれなりといひしに。劉備が飯くひてありしが。持し箸を落せしとおなじ樣の事にて。姦雄の伎倆も天授の明主にあふては。其術を施す事を得 ざるにぞ。(伸書。)
關白伏見にて。古今の名將の上の事をとりどり評論せしに。金吾秀秋むかしよりいひはやす如く。源義經。楠正成なとこそ誠の名將とこそいふべけれといへば。 關白。正成は戰の利なきをしりながら。一命を抛て湊川にて討死せしは忠臣といへども。己が諫の聽れざりしをふづくみて死をいそぎしに似たり。義經は梶原が 姦惡をしらば。はやく切ても捨べきに。すて置て後害を蒙りしは智といふべからす。むかしはしらず今の世にては。  家康に過たる名將はあらじといはれしと ぞ。また關白諸大將の刀をとりよせ。われ其刀の主をあてゝ見むとて。彼よ是よと名ざゝれしが一つも違ふ事なし。前田玄以法印大におどろき。何をもてかく御 覽じ分られ候にやといへば。關白别にかはれる術もなし。先づ秀家は美麗をこのむ性質なれば。金裝の刀はその品としらる。景勝は長きを好めば寸の延たる刀こ れならん。利家は卑賤より起り數度の武功をかさねて。大國の主となりし人なれば。いにしへを忘れずして革抦を用ゆるならん。輝元は數奇人なればこと樣の裝 せし品其差料ならむ。  江戶の亞相は器宇寬大にして。刀劍の製作などに心用ゆる人ならねば。元より修飾もなく美麗もなきなみなみの品。その佩刀ならんと 思ひて。かくは定めつれといはれしとぞ。(古老噺。常山紀談。)
伏見にて太閤。  君をはじめ前田利家。蒲生氏鄕等を饗せられ。それより聚樂にて遊讌し。かへさに  君の御亭に立よられんとあれば。  君はかねてその 御心がまへし給ひ。御亭のうちきよらかに酒掃せしめ。御みづから茶一袋を出して。茶の事奉る守齋といふ者に挽しむ。其日にも成ぬれば。  君はとく聚樂よ りまかで給ひ。茶をとりよせて御覽あるにわづかばかり殘りたり。こはいかなる事と御けしきあしゝ。守齋申は。水野監物忠元がひそかに給はれりといふ。監物 も美少年にして御うつくしみ深き者なり。よて  君また一袋を取出し。こたびも休閑といへる茶道に授しむ。加々瓜隼人政尙。殿下は只今にも渡御ならん。遲 々しては間に逢ふまじ。㝡初の殘茶少しなりともすゝめ奉らんといふを聞しめし。やあ隼人汝も年比われに近侍して在ながら。心掛の薄き事よ。今にも殿下來臨 ありて。茶を進るに及ばすして歸られんともせむかたなし。人の飮あませしものを進めんは。はゞかりある事ならずや。其志にては我に奉仕のさまもおもはしか らずとて。いたくいましめられしとぞ。(碎玉話。)
豐臣秀長。織田信雄など。おなしぐ聚樂の亭にて夜中に游讌ありし時。蠟燭の心はねしに。  君は何げなくおはせしが。秀長はおどろき座をたちし樣を御覽じ 微笑し給ふ。秀長己が怯劣をわらはせらるゝかとおもひいるれる顏して。それがしが火をよけしを。心弱くおぼして笑はせ給ふにやといふ。  君御邊や某など は一大事のあらん時は。殿下の御先をも承るべき者の。かゝる細事に心用ひてなるべきか。まだ若年におはせばさる事までおぼし至らぬなるべしとて。さらにあ げつろふ樣にもおはしまさゞりしゆへ。秀長もかへりて恥らひてやみしとぞ。(岩淵夜話。)
太閤が伽の者に曾呂利伴內といふいと口ときおのこあり。折折は  君の御舘へも參り御談伴に候したるが。或とき伴內。世の中に福の神なりとて。人のうやま ひまつる大黑天の事を申侍らん。まづ人間に食物なければ。一日も生てある事かなはざるゆへ。大黑はその心もちにて米俵をふまへ居たり。さて食ありても財な ければ用度を辨ずる事ならざるをもて。大黑は袋をもちそが口を左の手にて括り。無用の事には財を費すまじとかまへたり。さりながら財を出さでかなはざる時 は。手に持し小槌をもて地をたゝけば。何程もおしげなく打出すなり。又夏冬ともに頭巾を深くかうぶりて居るは。己が身分をわすれかりにも上を見るまじとて なり。すべて人々もこの心がまへせば。永く福祿を保つべしとの心にて。福の神とは申なりといへば。  君汝がいふ所よくその意を得たり。されど大黑の極意 といふことはいまだしるまじ。かたりて聞せん。かのいつも頭巾をかぶりてあれども。こゝが頭巾をぬかでかなはざる時ぞと思へば。その頭巾を取て投すて。上 下四方より目を配り。いさゝかさはるものなからしめむが爲に。常にはかぶりつめてあるぞ。是そ大黑の極意よと宣へば。伴內も盛旨の豁大なるに感じ。後太閤 のに座ありて此事いひ出して。太閤今の世にもわた持のいき大黑があるをしりたるかと尋らる。伴內心得ざるよし申す。太閤いき大黑とは  德川の事よ。汝等 が思惟の及ぶ所ならずといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
山名禪高聚樂にて晴の事ある時。いつも肩の綻たる茶染の羽折を着して候す。或日禪高にむかはせられ。御邊の羽折はことの外に打きれて見苦しと宣へば。是は 故の光源院將軍。(義輝。)の給はりし品ゆへ珍重にして。表立しき時のみ用ひつれども。年月を重ねしゆへかく打切ぬといへば。よくも舊を忘れぬ朴實の人か なとおぼしてわきて御懇遇ありしばしば御館にも伺公せり。ある日禪高の申は。朽木卜齋はことに粗忽の人なりといふを聞しめし。卜齋が粗忽は皆人のしる所な り。御邊の粗忽は卜齋に超たりと我は思ふと宣へば。禪高をはじめ外にありあふ者も。いかなる尊慮かといぶかしく思ひしに。卜齋は粗忽ながらも祖先已來領し 來りし朽木谷を今にたもてり。御邊が祖は六十六州の內にて十一ケ國を領せられしをもて。むかしより六分一殿といへば。山名が家の事にもいひならはせり。さ るをみなうしなひはて今寄寓の身となりて。かしここゝにさまよはるゝは。天下の粗忽これに過たるはあらじと思ふなりと仰ければ。禪高はさまで羞赧の色もな く。げに尊旨の通りにて侍れ。何がし今は六分一の望もなく。せめて祖先の百分一殿ともいはれたしと申上ければ御笑ひ有しとぞ。又天正十六年の比  君御上 京ありて。斯波入道三松が家へ渡御有し時禪高も供奉せり。禪高三松へ應接の樣あまり慇懃に過しかば。還御の後禪高をめし。斯波が家は代々足利の管領といへ ども。其祖は足利の支旅なり。汝が祖の伊豆守義範は新田の正嫡にして。近き比まで數ケ國の大守たり。今むかしの如くに非ずとも。いかで足利の家人に對して かく厚禮をなすべきや。この後は我につかへ忠勤を盡し。重く家國を振起すべしと仰ければ。禪高も殊にかしこしと思へりとか。(靈巖夜話。山名譜。)
聚樂にて談伴のともがらあまた。太閤の前に侍してよも山の物語せしに一人。世の諺にいふ。親に生れまさる子はまれなりといふは尤の事なりといふ。太閤聞て われもまたかくの如しといはる。いづれも解しかねしに。  君はうちうなづかせ給ひ。いかにも仰の通と宣へば。太閤。  德川殿しばし待せ給へ。余の人々 はいかにといへば。いづれもみな頭もたげて案じくしたり。太閤われらが親なるものは。しらるゝごとくきはめていやしの者なりしが某を子に持れたり。某は親 に劣りて子に事を欠よといはれしとぞ。(靈巖夜話。)
浮田黃門が許にて秀吉はじめ申樂見られしに。秀吉庭上に下らむとせられし時。  君先立て下立せ給ひ。秀吉が履が直したまへば。秀吉手をもて  君の御肩ををさへ。  德川殿にわが展を直させる事よといはれしとぞ。(老人雜話。)
奥の九戶に一揆おこりし時。武州岩附の城まで御動座あり。井伊直政をめして。汝は軍裝のとゝのひ次第出陣し。蒲生淺野に力をそへ九戶の軍事を相計るべしと 命ぜらる。この事承て本多佐渡守正信御前に出て。直政は當家の執權なれば。此度の討手にまづ彼より下つかたの者を遣はされ。それにて事辨ぜざらん時にこそ 直政をつかはされば。事躰におゐても允當ならんと申す。  君そは思慮なき者のいふ事なれ。わが壻にて在し北條氏直などがかゝる事をばすれ。いかにとなれ ば事のはじめに輕き者を遣はし。埓があかずとて又重き者をやらば。はじめにゆきし者面目をうしなひ。討死するより外なし。さればゆへなくして家臣を殺さし むる。おしむべき事ならずやと仰られしとか。後年筒井伊賀守定次罪ありて所領收公せられし時。そが居城伊賀上野の城受取のため。本多中務大輔忠勝。松平攝 津守忠政始め數人遣はさる。其折の仰に。伊賀守は江戶にあり。上野の城は家人等のみ守り居れば。かく多人衆をつかはすに及ばざれども。事のはじめにおごそ かにせし事を今さら手輕くせんも。事躰に於て終始符合せず。物に譬へば。膝をかくす程の川をかち渡りするに。高尻かゝげて渡るはあまり用意に過たれど。滔 溺の患はなしと仰られしとぞ。(岩淵夜話。)
內府に進ませ給ひし後。太閤が饗し奉らんとて。こたびすでに任槐の上は。御調度などもなみなみの品用ひ給ふべきに非ずとて。葵の御紋と桐をまきたる懸盤を 製して進らせられければ。かしこきよし謝し給ひ。御亭に還らせられしのち本多正信をめし。人の我をのするにはそれと知てものりたるがよきか。はづしたるが よきかと仰らる。正信先年小笠原與八郞が御方に參りし時。加恩給はりし事は忘れさせ給ふかといひしに。  君うなづかせ給ひしとぞ。こは小笠原はじめ遠江 の城飼郡を領して頗る大身なりしが。 當家に參りし本意は。此方の隙をうかゞひ。遠州一國を己が物にせんと思ひて歸降せしをとくに察し給ひしゆへ。姊川の 役に小笠原に先鋒を仰付られ。必至の戰をせしめられし之。これ彼が我をはからんとするに。わざとはかられし樣して。かへりて彼を制馭し給ひしなり。こたび も豐臣家の待遇に乘て。かの進らせし調度を用ひ給ふは。小笠原が御加恩にのりて危き戰せしと同じ例なりと。正信かおもひはかりて申せしなりとぞ。(紀伊國 物語。)
關白秀次違亂の前江戶へ下向し給にのぞみ。 台德院殿及び大久保治部大輔忠隣に仰有しは。わが下りし後に當て。太閤父子の間にかならず爭隙起るべし。さら むには太閤が方に參るべしと仰ければ。  台德院殿は謹で御承し給ひ。忠隣は當今の靜謐なるに。何事の起るべきかと不審に思ひしが。果して秀次叛逆の聞え 在て。  台德院殿を己が方へ迎へ奉り。是を質となして秀吉へいひ開きせんとはかりしに。忠隣兼て心得居し事なれば。よき樣にあつかひて太閤が方へいれ奉 りし故。 何の御恙もましまさで太閤も殊によろこばれしなり。これも御明識にしてよく未來を察知し給ひしゆへ。かゝる不虞の變をも免かれ給ひしなり。秀次 の變有し後御上洛ありしに。太閤待迎ひられ御手を取て。此度の大事  德川殿上洛を待付て處置せんと思ひしが。遲々してかなはざる事ゆへ。形のごとく申付 ぬといへば。  君の仰に。殿下こたびの御はからひそれがしはよしとも思ひ侍らず。關白もし異慮あらば何れへなりとも配流して番衛附置ればたりなん。さる をかくはかなき事になされしは。おしき事ならずや。殿下いま春秋己にたけ。御子秀賴ぬしまた御幼穉におはせば。もし思はざる變事の出來んに。關白かくして も世におはさば。世の中俄に乱るゝ事もあるまじきにと宣へば。太閤何ともいはで。此後も世の中の事みな  德川殿にまかするといはれしとぞ。(寬元聞 書。)
江城におはしませし時豐臣家の使來りて。朝鮮征伐の事聞え上しに。書院に座したまひ何と仰らるゝ旨もなく。たゞ默然としておは●ぬ。本多正信折しも御前に 侍しけるが。  君には御渡海あるべきやいかゞと三度までうかゞひければ。何事ぞかしがまし人や聞べき。筥根をば誰に守らしむべきと仰られしかば。正信さ ては兼てより盛慮の定まりし事よと思ふて御前を退きけるとぞ。(常山紀談。)
朝鮮の役に初て大御番五組を定められ。一番は內藤紀伊守信政。二番同左馬助政長。三番永井右近大夫尙政。四番粟生新右衛門某。五番は菅沼越後守定吉なり。 いづれも麾とる事をゆるさる。これぞ今の大番組の濫觴なり。後慶長十二年に至り大番頭をして伏見城を戍らしめ。番頭は一年にて交替し。番士は廿四月にて交 替せしむ。これを其ごろ三年番といひしとぞ。(貞享書上。卜齋記。)
名護屋陣の折行軍の次第。第一は加賀亞相利家。第二は  當家。第三は伊達政宗。第四は佐竹義宣と定めらる。其後また太閤の內意にて。  當家の次は義 宣。其次政宗とくりかはりしにより。政宗本意なく思ひその由歎き訴へければ。君もことはりと聞召。政宗佐竹に拘はらずわが陣後に押べし。もし咎むる者あら ば  家康が命ぜしと申べしと有て。政宗仰の如く御跡に從ひ奉る。太閤石田三成もて。  德川殿いかなる故もて。かねての軍令に違はれ政宗を後に附らるゝ となり。  君富田信濃守知勝をして答へ給ひしは。兼てこなたの後陣は本多中務に申付しが。存ずる旨ありて中務を先手に立。ぞの代に政宗を後陣に押せつる なり。そもそも去年奥の岩出山佐沼の城經營の折。政宗若年といひかつ遠國者にて。何事もういういしければ。万事につきて  家康が指諭を賴むと有し故。こ たびも  家康が後に引付。過誤なからしめん樣にせんためなりと仰られしかば。太閤も聞分られ。いかにも亞相申さるゝ所さるべき事なりとて。はじめに令せ し如く  當家の次に政宗と定められぬ。政宗  君の御一言もて本意の如くなりしかば。御恩をかしこむことおほかたならず。此時政宗が惣勢の裝いかにも異 樣なりしかば。京童ども伊達者といひしより。後々までも平常にかはり奇偉の裝するを。伊達をすると俚言にもいひならはせしとぞ。(貞享書上。)
名護屋に赴かせ給ふとて。安藝の廣島に宿らせ給ふ時。上杉景勝が臣瀉上彌兵衛。河村三藏。橫田大學の三人打連て御旅館の前を通りゆくに。  君樓上より大 聲を發せられ橫田大學と呼せらる。大學仰のきて見奉れば。汝とみの事なくばこゝに上れと宣ふ。大學かしこまり二人をやりし過し。己れ一人樓に上りて謁し奉 る。汝が主の景勝は前田利家を討むとて。位次の先從を論ずるときく。いらざること之。早くこの旨直江山城に申て。景勝に諫をいれよと宣ふ。大學速に立かへ り直江にかくと申ければ。兼續も景勝をいさめけるに。景勝も盛慮のかしこきを感じて。その企はやみけるとぞ。かく他家の事までも御心にとめられ。あしざま の事はいましめ諭されしゆへ。御德に懷き從ふ者年月にそひておほかりしとなん。(校合雜記。)
朝鮮に渡りし軍勢永陣思ひくして。戰の樣はかばかしからざるよし聞えければ。太閤諸大名をつどへ。かくては合戰いつはつべしとも思はれず。今は秀吉みづか ら三十万の大軍を率ひて彼國にをし渡り。利家氏鄕を左右の大將とし三手に分れて。朝鮮はいふに及ばず大明までも責入。異域の者悉くみな殺しにせん。日本の 事は  德川殿かくておはせば心安しと有ければ。利家氏鄕等上意の趣かたじけなきよしいふ。其時  君にはかに御けしき損じ。利家氏鄕にむかはせられ。そ れがし弓馬の家に生れ軍陣の間に人となり。年若きよりいまだ一度も不覺の名を取らず。今異城の戰起りて殿下の御渡海あらむに。某一人諸將の跡に殘とゞまつ て。いたづらに日本を守り候はんや。微勢なりとも手勢引連殿下の御先奉るべし。人々の推薦を仰ぐ所なりと宣へば。關白大にいかり。おほよそ日本國中におい て。秀吉がいふ所を違背する者やある。さらんには天下の政令も行はるべからずとあれば。  君尋常の事はともかうもあれ。弓箭の道に於ては後代へも殘る事 なれば。たとひ殿下の仰なりともうけがひ奉ること難しと宣ひはなてば。一座何となくしらけて見えしに。淺野彈正少弼長政進み出て。  德川殿の仰こそげに 尤と思ひ候へ。此度の役に中國西國の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北國奥方の人衆を召具して渡海あらば。國中いよいよ人少に成なん。その隙を 伺ひ異城より責來るか。また國中に一揆起らんに。  德川殿一人殘りとゞまらせ給ひ。いかでこれをしづめたまふ事を得ん。さらばこそ渡御あらんとは宣ふら め。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。惣て殿下近比の樣あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。關白いよいよいかられ。やあ彈 正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。彈正いさゝか恐るゝけしきなく。抑應仁このかた數百年亂れはてたる世の中。いま漸く靜謐に歸し。萬民太平の化に浴せん とするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく國財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう龜が人にとらるゝと申譬のことく。今朝鮮をとら むとせらるゝ內に。いかなる騷亂のいできて。日本を他國の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを。いかでかくはおはするぞ。 さるゆへに狐の入替りしとは申侍れといへば。關白事の理非はともあれ。主に無禮をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常眞前田利家などお しふさがり。彈正そこ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ねば。  君德永有馬の兩法印に命じて。長政を引立 て次の間につれ行て事濟けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。(岩淵夜話别集。天元實記。)
この陣の中比大廳病あつきよしきこえて。秀吉歸洛あるべしとするに及び。  君へむかひ。此度異域征討の半なれど。大廳の病躰心許なければしばらく歸京す る所なり。朝鮮の事は  德川殿にまかせ置ば。いか樣の事出來るとも人の意見をとはるゝまでもなし。はるばる浪花まで議し示さるゝにも及ばず。御心ひとつ もてさるべく决せられよと有て。淺野彈正長政はじめ在陣の諸將をよびよせ。只今  大納言に何事もたのみ置たりとて。其趣をいづれもよく承り置て。  大 納言指麾に違ふ事なかれとて。太閤は直に歸洛せられしなり。こゝに於て人々みな。太閤の深く君を信じ奉りしゆへ。かゝる重事をも委任在しとて。いよいよ   當家へ心を傾けし者出來しとぞ。(淸正記。)
名護屋陣中にて  當家の御陣所の前に淸水涌出て。外の陣所よりも人々來て是を汲ば。小屋を建番人を付て守らしめらる。其頃久旱にて水乏くなりしかば。後 には外人に汲せざりしを。加賀利家の家人來りて强ちに汲取しかば。番人制すれども聽ず。かへりて惡言などいひ出しにより鬪諍に及び。おいおい侍分の者い でゝ兩方三千ばかりの人になり。今にも事起るよと見えし時。本多忠勝榊原康政二人出て制す。忠勝は澁手拭にて鉢卷し。康政は大肌ぬぎ汗に成てとゞむれば。 漸にしづまりぬ。  君にははじめよりこの樣見て。何と仰もなくておはせしが。後に康政が御前に出しとき。汝頃日當陣の見廻として。はるばる  秀忠より 使に越れしゆへ。何ぞもてなしもあらんかと思ひ。珍らしき喧嘩をさせて見せたれ。さぞ勞したらんと咲はせ給ひながら仰られしとぞ。この事太閤聞れしにや。 幾程なく利家には陣替せしめられしとなり。(天元實記。)
此卷は豐臣家聚樂の亭におはしましての事どもより。名護屋陣の事までをしるす。
東照宮御實紀附錄卷八
慶長元年七月十二日地おびたゞしくゆりて。伏見城の樓閣悉く破損す。  君いそぎまいらせ給ひ。太閤に御對面ありてその無異を賀せられ。かつ速に  內の 御けしきを伺はせ給ふべきにやとのたまへば。太閤吾もさこそ思ひつれども。かゝる大變にて陪從の者いまだとゝのはず。幸の事なれば。  德川殿ともに參ら せ給へ。その從士をかり申さめと有て。  當家の陪從ばかりにてともに出立せ給ふ。太閤久しく刀をはかで。けふは殊に腰の邊おもく堪がたし。德川殿の從臣 の內に持せ給れとあれば。  君御みづから持せ給へば。それにてはかへりて心ぐるし。ひらに家臣の中に渡し給へとあるにぞ。井伊兵部少輔直政に渡し給ふ。 とかうする內にかの家人ども追々に馳付て。駕輿も舁來たれば。太閤輿に乘れんとするに及び。こなたの御供に列せし本多中務大輔忠勝をよばれ。汝等が下心に は。今日こそ秀吉を討んによき時節なりとおもひつらめ。されど汝が主の家康は。さる懷に入し鳥を殺す樣なる事はせぬ人なり。さきに我刀を汝に持せ度は思ひ しが。打惡しく隔たりしゆへ。間にあはでいと殘りおほし。汝に持せたらばさぞおもしろかりなんものを。かく思はるゝも汝等は必竟小氣者なれば之。小氣者よ 者よと笑ひながら輿に乘られしかば。忠勝何ともいはずたゞ俯伏して在しとぞ。(柏崎物語。續武家閑談。)
ある時數寄屋の御道具あづかりし者をめして。御茶𣏐をとりあつめもてこよと仰付られ。そが內にて瀨田掃部が削りし𣏐六七本。筒に入て在しをとり出さ れ。御手づから節の所より一つ一つに折しめられ。取捨よと命ぜらる。こはその頃掃部豐臣家の內意を受て。蒲生氏鄕を鴆殺せし聞えありしかば。彼の所爲をい たくにくませ給ひての御事ならんかと人々いひあへりしとぞ。(天元實記。)
大阪の城中にて石田治部少輔三成。頭巾を着しながら火にあたりて在し時。  君のまうのぼり給ふ道筋なれば。淺野彈正三成にむかひ。只今  內府の通らせ らるゝに。さるなめげの樣してはあしからむと。三度までおどろかせしに。三成しらぬ顏して空うそぶきて居たり。長政あまりの事におもひ。その頭巾を取て火 中に投じけれども。三成いかれるけしきもなし。これ三成この頃よりすでに。後日の一大事を思ひ立て在しかば。かゝる細事には心もとめざりしなり。この事後 に聞しめし。さてさてあやうかりし事よ。もしその折三成が怒て長政と切合ならば。われ又長政を見放す事はなるまじきにと仰られしとぞ。この長政は豐臣家に はゆかりありて故舊なりしが。度々三成が讒にあひて。太閤の前を失ひし事の有しに。いつも  君の仰こしらへ給ひて無事なりし故。誠に御仁惠をかしこみ奉 り。後に大坂奉行等が異圖企し時故有て武州に蟄居し。その末子をもて御家人に列せん事を願ひ。御ゆるし蒙て慶長四年采女正長重十二歲にて江戶に參りたれ ば。御けしき斜ならず。同五年より  台德院殿につけしめられ。野州眞岡にて二万石下され譜代になされ。七年松平玄蕃允家淸が娘は御姪女なるを。養せられ て長重に配せられ御待遇淺からず。おほよそ上方の大名の子弟 當家に奉仕する事は。長重をもて權輿とするにぞ。又長政常に寵眷淺からず。  君つれづれの 折ふし長政を召出して共に碁を圍み給ふ。時として長政行道をあらそひ。なめげなる擧動有しを。  君にはかへりて御一興に思召てほゝゑませ給ひたり。長政 が身まかりしのち。しばしが程碁を圍み給ふことおはしまさゞりしが。こはむかし鐘子期が死して。伯牙が琴をひかざりしといふ故事に思ひよそへられて。いと 哀なる御事になん。(寬元聞書。貞享書上。大三河志。)
慶長三年正月二日とみの事にて石淸水八幡宮へ詣させ給ふ。よて供奉の者の服忌など御改あり。こはそのころ御愛想の事おはしませしゆへなりといへり。同じ夜關東にても御家人米津淸右衛門正勝が妻。夢中に一首の和歌をみて。さめて後人々に語りしは。
盛なる都の花はちりはてゝ東の松そ世をは繼ける
これは其頃豐臣殿下すでに薨去ありて。都方次第に衰替しゆへに。 當家は關東におはして。日にそひ御威德のそひまさらせ給ふにより。天意人望の合應する所より。かゝる瑞徵もおはしませしならん。(天元實記。)
伏見にて炎熱の折から。城櫓の上に納凉しておはしけるに。厨所より出入する下部の樣を御覽じて。本多正信に宣ひけるは。下人どもさまざまの物を懷にし。又 は袂の內に入れ持いでゝ。宿直の具の中につゝみてまかづるは。いかさま官物を私すると見えたり。これ全く官長の行屆かざるゆへなりとてむづからせ給へば。 正信承り。こはいとめでたき御事なりといふ。  君聞しめし。下人が盜竊するをめでたしとは何事ぞととがめ給へば。正信そもそもそのかみ岡崎におはしませ し程の御事は申までは候もず。濵松にうつらせ給ひても。御分國廣大に成せ給ひしとはいへども。厨所のもの鰹節一本盜む事もならざりき。さるに當時關八州の 太守にならせ給ひ。海內第一の大名におはしまして。天下の政務をもきこしめせば。國々の守どもより貢物奉る事おびたゞしきゆへ。おのづから饒富にならせら るゝをもて。かゝる盜人も出來れ。これぞ御家の榮へそはせ給ふ御しるしなれば。前波半入がいつも御前にて歌ふ小謌はきこしめさずや。御臺所と河の瀨は。い つもどむどむとなるがよいと申ごとくにて候と申せば。  君も御けしきにて。例の佐渡がいふ事よとてほゝゑませ給ひしとぞ。(靈岩夜話。)
伏見におはしける時張文せし者あり。老臣等おごそかに糺察せんとこふを聞せられ。かゝる事たゞさんとすれば。いやがうへにするものなり。元より丈夫の志あ る者ならばさるかくし事はなさず。これたゞ兒女子がするわざなれば。それを撿出してとがむるもまた同じ樣の心なれ。其儘毁裂して捨よと仰付られしが。此後 は果して絕てせざりしと之。(三河の物語。)
伏見城の天守に茶壺十一を上置れ。壺一つに二人づゝ番附て守らしめらる。三井左衛門佐吉正をもて惣司とせらる。いづれも怠らざる爲にとて厨膳をたまひ。棋 象棋双六の盤などまで遣はされ。隨分心長に守らしめよと命ぜらる。かくて三日ばかり在て。御用の由にて壺二つ取寄給ひ。其後御みづから天守へ渡御ありて番 人等を慰勞せられ。殘の壺ども御覽じて仰けるは。さきに十一あづけ置しを。何とて二つたらぬぞとのたまへば。左衛門佐承り。二つは御用の由にて先日召せら れし故。御使に渡しぬと申す。さればよ兼て汝が公事に念入べしとおもひつれば。大事の茶壷を預けしに。わが取に遣はしたらん時には。汝も其使に付そひてこ そ參るべきに。たゞ使にのみ渡しでよしとおもふは。緩怠の至りなりとておごそかにいましめられしなり。かく何事にも覈實におはしまして行屆かせられしゆ へ。いづれも心用ひてあへて苟旦の事はなさゞりしとぞ。(紀伊國物語。)
豐臣太閤旣に大漸に及び。  君と加賀亞相利家をその病床に招き。我病日にそひてあつしくのみまされば。とても世に在むとも思はれず。年比  內府と共に 心力を合せてあらまし天下を打平らげぬ。秀賴が十五六才にならんまで命ながらへて。この素意遂なんと思ひつるに。叶はざる事のかひなさよ。わがなからむ後 は天下大小の事はみな  內府に讓れば。われにかはりて万事よきに計らはるべしと。返す返す申されけれど。  君あながちに御辭退あれば。太閤さらば秀賴 が成立までは。  君うしろみ有て機務を攝行せらるべしといはれ。又利家にむかひ。天下の事は   內府に賴み置つれば心やすし。秀賴輔導の事に至りて は。偏に亞相が教諭を仰ぐ所なりとあれば。利家も淚ながして拜謝し。太閤の前を退きし後に。  君利家に向はせられ。殿下は秀賴が事のみ御心にかゝると見 えたり。我と御邊と遺命のむねいさゝか相違あるまじといふ誓狀を進らせなば。殿下安意せらるべしと宣へば。利家も盛慮にまかせ。やがてその趣書て示されし かば。太閤も世に嬉しげに思はれし樣なりとぞ。(天元實記。)
太閤の遺命により。淺野長政。石田三成の兩人に命ぜられ。朝鮮の諸勢を引取しめられんとありしが。なを心許なくおぼしめし。藤堂佐渡守高虎にも彼地に渡り 諸勢早々歸帆せしむべしと命ぜらる。その日の夕方仰殘されしむねあれば。高虎かさねて參謁せよと仰遣はされしに。高虎は命を蒙るとひとしく出立して。跡に は留守の家老のみ在と申上しかば。  君御手を拍て近臣に宣ひしは。この佐渡といふおのこは。近頃までは與右衛門とていと卑賤なりしを。太閤その才幹ある を察せられ。追々拔擢せられし程有て。萬事敏捷なる者なり。汝等聞置て後學にせよと仰れしとぞ。かくて高虎名護屋に赴き渡海せむとせしに。これよりさき島 津兵庫頭義弘泗川の戰に明兵あまた討とりしかば。明兵その威に恐れ引退ぬれば。遠からず惣軍皆歸帆せむと注進有ければ。高虎はしばし名護屋に在て渡海に及 ばず。その年十一月に本朝の軍勢殘らず博多へ着岸す。二たび島津が勳切莫大なれば加恩給らんとて。前田利家とその事議せられしに。石田三成云く。これは秀 賴公御代始の事なれば。外々の三老へも議し合されて。しかるべしと有て御商議有しに。浮田中納言秀家ひとり異議を陳て從はず。よて五奉行の人々その事申上 れば。  君の仰らるゝは。今秀賴幼年におはせば。みづから天下の賞罰定めらるゝ事は。十四五年もへずばかなふまじ。それまでの間功ある者を賞せず。罪あ る者を罰せずしては。天下の政治いかにも立べからず。人々はいかゞ思はるゝとあれは。前田德善院は愚僧も仰のことく存ずるといひ。增田長盛は太閤おはせば こたびの加恩は十万石の內にてはあるまじといふにより。三成一人面あかめて在しなり。その後薩摩大隅兩國の中にて。島津に一万石まし給はりしとぞ。(天元 實記。寬永系圖)
太閤薨ぜられし後は。京大坂の間浮說區々にして人心おだやかならず。其比加賀亞相利家重病に侵され。今はかうよと見えし比。生前にいま一度謁見せむとこひ 奉る。そのころ利家が異心測りがたければ。堅く臨駕をとゞめたまへといふ者ありしに。亞相が心はわれよくしれり。さる反覆の者にてはなし。まして彼すでに 病をつとめてわが方に來りしを。我遲々してゆかざらんには。かへりて世の浮說しづまりがたしとて。遂に彼家におはしぬ。亞相もかく降臨ましませしを世に嬉 しげにおもひ。病あつしくて衣裝を正すこともかなはず。されば上下をば側に置て見え奉る。其身なからん後も賤息の事を見捨給はるなと返す返すいひ出しか ば。  君にも其樣を御覽じて。哀におぼし召御淚をうかめられ。  家康かくてあらむには。心安く思ひ給ひねと仰られて。何事もなく還御なりぬ。亞相より 家人德山五兵衛直政もて御親訪ありしを謝し奉りければ。浮說もいつしか靜まりて。人心も何となく落居しなり。ある傳には。利家その子利勝をよびて。今日   內府を招くにより。汝が心得はいかにと問ひしに。今朝とくより饗應の設共みなしつるといふ。さて還御の後かさねて利勝を招き。己が臥せし褥の下より白刄 を取出し。さきに吾汝に問しとき汝さるべき答をせば。われ病中ながらも  內府とさし違へんと思ひしものを。口惜の事ならずや。今の三奉行はじめ一人も人 材のなき事よ。わがなからん後は天下はかならず內府の掌握に歸すべし。されど汝等が事はよくよく賴み置つれば。疎畧にはせらるまじ。汝等も又敬事して怠る ことなかれといひ置て。いく程もなくはかなくなりしとぞ。(戶田左門覺書。公程閑暇雜書。)
大坂の大老奉行等より安國寺惠瓊長老。生駒雅樂頭親正。中村式部少輔一氏。堀尾帶刀吉晴等を使として御舘に進らせ。近比  君には故太閤の遺命に背かれ。 妄に諸大名と緣を結ばせ給ふは以の外の御事なり。かくては某等も前々のことく。天下の事共に議し申さん事も成難しといふ。  君聞しめして。我故殿下の終 にのぞみ。幼主の事をかへすべす遺托ありしゆへ。日夜心力を盡してその爲よからんことをはかる所なり。さるに方方近比は何事も我に議し合されず。别人の樣 に疎々しくのみもてなさるゝは何事ぞ。もし我扱よからず思はれば。ひそかに心を添られ。ともに議し正しなば。殿下の遺命もたちそれがしも世にそしりを免か れなん。しかるに今あらためてかゝる事いひ越るゝは。穩當の所爲とも思はれず。かく人々にうとまれては。重任にありても詮なし。やがて致仕し關東へ下り。 代りには武藏守をよび昇せて當地にさし置なん。この旨誰をもて誰にいひ告べきや。方々指圖給はるべしと宣ひ。又安國寺に向はせられ。御僧はいつよりか三人 の列になられし。我もいまだ知らざる所なり。すべて大老奉行より用事とあるは。天下の政務にあづかりし事なり。御僧出家の身としてたが命を受て。みだりに 三人の中に徘徊せらるゝや。今日はまげてゆるしかへすといへども。重ねてかゝる所へ出るに於ては。きと沙汰せむ樣もあれと。おごそかに咎め給ひしかば。惠 瓊は面の色をかへ。わなわなふるひ出せしとぞ。同じ比加藤左馬助嘉明が御けしき伺として伺公せしに。折しも物具取出されて御覽有しかば。この具足は故殿下 の賜はりしなり。近日大坂の四老奉行。  家康と干戈を交へんとの風聞あり。よて今取出して撿點するぞと宣ふ。嘉明承り。只今の世に當りてたれか  內府 公に對し奉りて。軍する者のあるべきと申て御前をまかでしとぞ。(紀伊國物語。天元實記。落穗集。)

向島の御邸より伏見城に移らせ給ひしとき。松平右衛門大夫正綱をめして。城の屋上にのぼり。もし火もえ出る所あるか。その外怪しげなることあらば聞え上よ と命ぜられ。夜半過るころ御みづから正綱が居し所へ。礫をもて打おどろかし給ひしとか。後にすべて新らしき所にうつりし夜などは。思はざる惡徒どもの。燒 草つみ置て燒立ることもあるものなれば。よくよく警しめねばかなはぬものなりと仰られき。向島の本邸におはしまして。古城の營築せしめ給ふ比。夜中など俄 に路次口裏門などよりしのびて川岸まで出たまひ。江戶町といふ所にある小濵與三郞が家より御船にめして。向島の堤にのぼらせたまひ。向島におはするかと思 へば。又俄に本邸に還らせられ。おほよそ一夜の內に二度づゝ。かなたこなた行めぐらせ給ふこと。五十日ばかりに及びしとぞ。其折は扈從の者も親しきかぎり 三人か五人に過ず。餘はみないぎたなくて知り奉る者なし。常は何事もつゝみかくし給はぬ御本性なりしが。この程はいたく忍びてものせさせ給ひしとぞ。(前 橋聞書。卜齋記。)
向島の邸へ御移ありし比。菱垣あまたゆひ渡して。いと御戒備嚴重なり。御門を明て御長柄鐵炮など修理す。新庄駿河守直賴伺公して。かゝる時はいかなる急變 あらんも側り難し。御門を閉しめ給へといふ。  君門をうてば敵にあなづらるゝものなり。只打出して玄關にて用意するがよしと宣へば。直賴も盛旨の豁大な るに恐服せしとぞ。(落穗集。)
ある日向島の御舘へ。加藤細川の人々伺公して武邊の物語あり。いづれも是迄の御武功の事承り度と申上しに。土岐山城守定政をめし。人々に語てきかせ候へと 上意之。定政  君の御事を申さず。其座にあり合し御家人の名をいひしらせ。さてこれが父はいづくの軍にかゝる働し。かれが親はいつの年いかなる功名せし などゝかぞへ立て。つぎつぎ物語せしかば。  君の御武功はおのづから言をまたずして顯はれしとぞ。いかにも御稱譽の樣。よく其躰を得しと人々感じて。か く武功のものおほく持せらるれば。終末にこの  君天下の主に成せ給はんかと。下心におもひけるとなん。(駿河土產。)
細川越中守忠興は兼て 當家へ志を通じたれば。陽には大坂の奉行共が姦計にくみし。彼等の內議を聞出して一々言上す。ある日長束大藏大輔政家忠興にむか ひ。今宵內府が舘を襲はむと群議已に一决せり。御邊も力を合されよといふ。忠興云。  內府の勇略今の世に立ならぶ者なし。味方定見もなくしてみだりに戰 をしかけなば。いかに利を得むやといつて從はざれば。其夜の議は遂ずなりぬ。明日忠興御舘に參りて。しかじかの由聞え上しかば。われもほゞその事を聞つ れ。もしさらむにはわが舘に火をかけ。東北の廣地に出て是を防がむと思ひつれと仰ければ。忠興も兼て成算のおはしたるに感じて退きたるとぞ。(武德大成 記。)
おなじころ伏見の御舘淺まにしてかつ御無勢なれば。御居所をかへられ。六條門跡を御賴在て彼寺中へ立のかせ給ふか。さらずは京極宰相高次が大津の城に御動 座あるべきかなど。とりどり議しけるに。  君の仰に。長袖の門をたのみては。軍に勝たりとも心よからず。又大津の城へいらば。  家康は敵を恐れて落た りなどいはれ。重ねて兵威を天下に振ふことかなふまじ。たゞこのまゝにて在んこそよけれとて。更に御恐怖の樣もおはしまさず。泰然としておはせば。敵方の ものもあへて手を下す事もならざりしとなり。この時井伊兵部少輔直政。關東より御勢をめし上げ給はんかと伺ひしに。わが手勢こゝにありあふ者二千ばかりも 在ん。もし不虞の變あらんにも。此人數にては軍するに事かくまじとて聞せ給はず。德善院法印この比の事を評して。かゝる時に出合て。織田右府ならば。岐阜 まで引退るべし。故太閤ならば五千か三千にて切て出たまふべし。さるを  內府はいさゝか御動轉なく。日々に棋局をもてあそび。何げなき樣して沈靜持重し ておはせしは。なかなか名將にもその上のあるものなりと評したるとか。(紀伊國物語。三河之物語。)
加藤主計頭淸正。同左馬助嘉明。淺野左京大夫幸長。池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則。黑田甲斐守長政。細川越中守忠興の七人の徒。先年朝鮮の戰にい づれも千辛萬苦して軍忠を勵み。武名を異城にまでかゞやかせしが。其比石田三成軍監として賞罰己が意にまかせ。偏頗の取計のみして。歸陣の後太閤へさまざ ま讒せしにより。この七人には少しも恩典の沙汰に及ばず。よて七人會議して三成を打果し。舊怨を報ひむとするにより。大坂中殊の外騷擾に及び。三成も窘窮 してせむすべしらざる所に。佐竹義宣は三成とは無二の親交にして。且頗る義氣あるものなれば。ひそかに三成を女輿にのせてをのれ付そひ。大坂をぬけいで伏 見に來り。向島の御舘に參りてさまざま歎訴し奉れば。  君には何事も我はからひにまかせらるべしと御承諾ましまし。やがて御使を七人の方へ遣はされ。仰 下されしは。當時秀賴幼穉におはせば。天下物しづかにあらまほしく誰も思ふ所なり。まして人々はいづれも故太閤恩顧の深きことなれば尙更なるべし。三成が 舊惡はいふまでもなけれど。彼已に人々の猛勢に恐れて。當地へまで逃來りし上は。おのおのの宿意もまづ達せしなればこれまでに致され。此上は穩便の所置あ らむことこそあらまほしけれとの御錠なり。この時七人の者は三成をうちもらせしをいきどほり。伏見まで馳來り。是非討果さむとひしめく所に。かく理非を分 てねもごろの仰なれば。さすが盛慮に背きがたく。まげて從服し奉りぬ。されど三成かくてあらむも世のはゞかりあれば。佐和山に引籠るべしと仰られて。結城 三河守秀康君もて護送せしめ給ひしかば。三成もからうじて虎口をのがれ。己が居城に還る事を得たり。そもそも三成 當家をかたぶけ奉らむとはかりしこと一 日に非ずといへども。またその窮苦を見給ひては。仁慈の御念を動かし救濟せしめたまふ御事。さりとは寬容深仁の至感ずるにあまりありといふべきにぞ。(天 元實記。)
後年駿河におはしまして。今の世に律義の人といふは誰ならむといふ者有しに。その律義なる人はまれなるものなり。こゝらの年月の內に佐竹義宣が外は見たる 事なしと宣へば。永井右近大夫直勝いかなるゆへかと伺ひ奉りしに。汝等もしる如く。先年大阪にて七人の大名ども石田三成を討むとせし時。義宣一人三成を扶 持してわが方へ來り。さまざまこひし旨有をもて。われ七人の者をいひこしらへ。三河守して三成を佐和山まで送り遣はさしめしなり。其折もし途中にて三成 を。かの大名どもに討せては。義宣己が分義立ずとて道筋へ橫目を付置。万一違變あらば討ていでゝ秀康に力を合せむとて。上下軍裝して在しとなり。これは誠 の律義人といふべけれ。關原の時は何れへもつかず國に蟄し兩端を抱きしゆへ。其儘にも捨置がたく移封せしめしなり。はじめより我方に屬し忠勤を抽んでむに は。本領はそのまゝに遣し置べきに殘りおほきことなり。とかく律義はよけれども。あまり律義すぎたるといふには。一工夫なくてはかなはざる事なりと仰有し とか。(駿河土產。)
島津修理大夫義久入道龍伯は朝鮮初度の役に。豐臣太閤の命により肥前名護屋に赴しが。再度の時は龍伯も渡海すべしとありしに。君その年老て異域に渡らん事 をあはれませ給ひ。さまざま申たまひ入道はゆるされ。その弟の兵庫頭義弘を渡海せしめらる。これより入道御恩をかしこみ奉る事大方ならず。慶長四年その家 臣伊集院源次郞忠眞日向庄內の城にこもり島津に叛きしとき。入道家人にいひ付是を征せしめ。喜入大炊久正を使としてこのむね言上に及び。かつ庄內の地圖を 御覽に入れしかば。久正を御前にめし。地形の險易人衆糧食の多少をつばらに御尋有し上にて。こは地利を得し敵なれば俄に責落さむとせば。かへりて士卒あま た損ぜん。日を曠して糧の盡るをまたばおのづから力つきて落去せむ。忠恒は少年の事なれば血氣にはやり急ぎ責落さんとすとも。入道堅く是を制して。兵衆を 傷はざらむ樣にせよと仰られしが。果して命の如くにして責取しとぞ。(寬永系圖。)
慶長四年九月九日重陽の佳儀として。坂城にまうのぼらせ給ひしが。城中には兼て異圖あるよし群議まちまちなれば。本多中務少輔忠勝。井伊兵部少輔直政はじ め宗徒の人々十二人。いづれも用心して供奉せり。櫻の門迄おはしませし比。門衛の者扈從のものおほしとてとがむれども聞入ず。增田右衛門尉長盛。長束大藏 大輔正家出迎て案內し奉る。井伊本多等十二人は御跡に附そひ。御使番の輩五人は玄關に伺公す。かくて奥方に通らせたまひ。秀賴母子に對面したまひ。御盃ど も出てとりどり御賀詞をのべらる。この時かの十二人の者どもは次の間まで伺公し。其樣儼然たれば。城中にもかねての相圖相違して。敢て異議に及ばず還らせ 給ふ折から。わざと厨所の方へ廻らせ給ひ。一間四方の大行灯のかけたるを見そなはし。是は外になき珍らしき者なり。わが供の田舍者共にも見せ度と在て。酒 井與七郞忠利をもて御供の者悉く召よばれて見せしめられ。內玄關より靜にまかでさせ給ひしなり。かゝる危疑の折といへどもいさゝか御平常にかはらせ給は ず。人なき地をゆくがことく御處置ありて。鎭靜をもて騷擾を帖服せしめ給ひし御大度は。いとたうとく仰ぎ奉らるゝにぞ。(慶長見聞書。)
此卷は慶長元年大震の事をはじめ。伏見大坂の間騷擾の事どもをしるす。
東照宮御實紀附錄卷九
慶長五年會津の上杉御追討の儀仰出されしころ。大坂の奉行人等いづれも。連署をもて御出馬を止め奉りけるは。近年東國打續き凶饑にして兵食もともしく。其 上雪天にもさしかゝらば諸軍艱困すべし。當月はまづ思ひ止らせ給へといへども聽せ給はず。加藤主計頭淸正も山岡道阿彌に就て諫め奉る條件には。第一當時か しこくも   內府の重任を御身に負せ給ひながら御親征に出立せ給ふは。あまり輕忽の御擧動と世の人思ふべし。第二には今の御老躰にて。長途の御旅行いと ゆゆしき御大事なり。第三には御出陣ありし御跡にて。奉行人等景勝といひ合せ。東西より一時におこりなば。御進退頗る難義なるべし。さらむよりは細川。福 島。黑田。池田。藤堂等の人々に征討の事仰付られ。それにてもいまだ御心危くおぼしめさば。伊達政宗。最上義光。堀久太郞などそへ給はゞ。いとたやすく軍 功を奏すべし。御親征はとゞまらせ給へとなり。  君聞しめし。淸正が申所はさる事ながら。われ弓馬の家に生れ若年より戰塲をもて家としぬるに。近年かゝ る重任をうけ軍旅の事みな忘れ果ぬ。幸こたびの征討は老後の思ひ出なればいさましくおもふなり。東西に敵起りたるとも何程の事かあらん。心安く思はるべ し。淸正には軍略智勇天下にその倫なし。こたび伏見に在て  禁闕を守護せしめたくは思へども。筑紫邊の事心許なくおもへば。いそぎ歸國あつて其用意せら れよと仰下されしかば。淸正それがしも諸將と共に。東國の御先鋒奉はらんとこひ奉れども御ゆるしなし。遂に暇給はりて肥後國に下向しけるとぞ。(明良洪 範。)
上杉御追討に立せ給はんとて。大坂の西丸にて諸人謁見し奉りしに。渡邊半藏守綱をめし。南蠻より舶來せし鳩胸の鎧に椎形の胄を賜ひ。汝年比忠勤を盡せしに より。殊更の思召もてこれを賜れば。この鎧着し一しほ若やきて。こたびの御先仕れと有て。附属の足輕五十人まして百人になされ。御供命ぜられしとぞ。(貞 享書上。)
會津御追伐として下らせ給ふとて旣に大坂を打立せたまひ。伏見の城に御とまりありけるも。六月十七日の夜のことにて。鳥居彥右衛門元忠御前にいでゝ何事や らん聞えあげゝる。後に今度當城の留守人數少にて。汝等一しほ苦勞ならんと仰有けるに。彥右衛門申上けるは。恐ながら今度會津御進發は大切の御事なれば。 御人數一騎も多く召連られてこそ然るべけれ。內藤彌次右衛門家長。松平主殿助家忠も御供命ぜられ。當城は本丸をそれがし守り。外郭を松平五左衛門近正に守 らしめ給はば兩人にて事たるべしと申せば。そはいかゞと仰ありければ。元忠重て申けるは。今度御進發の御跡にて今日のことく平穩ならんには。それがしに近 正兩人にて事たるべし。もし又世の變出來り大軍にとりかこまるゝに於ては。近國に後詰せん味方はなし。たとへ此上五倍七倍の御人數を殘し置せ給ふとも落城 せんは疑なし。されば御用に立べき御人數を無益に留守させ。戰死せしめむこと勿躰なく存ずる故。かくは申上なりと申ければ。其後はとかうの仰もなく。其か み駿河の今川のもとに人質として宮が崎におはしましける時。  君は御十一元忠は十三にて。艱苦を共になし給ひし事など仰出され。御物語に夜もふけたれ ば。明日は定て早く御進發有べし。短夜に候へばはや御寢遊ばされ候へと申ながら。先も申上し如く會津表御進發のあとにて。上方筋别儀もなく候はゞかさねて 見參すべし。もし又世の變も候はんには。これぞ今生の御暇乞にこそ候べけれとて。御前をまからんとせしが。老人長座して立兼し躰を見そなはし。小姓に命じ 手を引て退座せしめ給ひしが。其跡にて近臣等御側へ出て見奉れば。しきりに御袖にて御泪をのごはせおはしましけるとなり。(落穗集。)
案に關原軍記に。元忠は御落泪ましましけるを見て井伊直政にむかひ。  我君は御齡やうやうたけ給ひ御心臆し給ふにや。御少壯より駿遠三の合戰に險阻艱難 を盡させ給ひ。今天下分めの御大事にいたり。御家人の身命をおしむべき時にあらず。それを我々が命を捨む事をいたましく思召は何事ぞや。われわれ如きが五 百か千の命を捨む事。何のいたましき事あらんと大にのゝしりたりとしるしぬ。さる事もありしにや。
伏見を御立有て京極宰相高次が大津の居城に立よらせ給ひ。高次晝の御膳を獻ず。高次が內室。(崇源院殿御姉。)松の丸殿に始めて御對面あり。又高次が家人 黑田伊豫。佐々加賀。多賀越中。瀧野圖書。山田三左衛門。同大炊。赤尾伊豆。安養寺聞齋。今井掃部。岡村新兵衞等をめし出され夫々名謁し奉る。其內に淺見 藤兵衛といふ名は兼て聞召しらせ給ひ。かれはしづが嶽にてはなきやと宣へば。高次仰の如く以前柴田が方に仕へ候と申す。  君かれがことは年頃聞及びし者 之。高次には元より士を愛せらるゝ故名ある者多く持れ。末賴もしき事かなとのたまへば。かの家の郞等ども承り傳へて。我等が事までかく御心にとめらるゝ は。かしこき御事なりと思ひ。後に東西軍起りて高次籠城せし折も。諸人一しほ勇氣を勵ましけり。わづかの御一言にても。人心を興起し給ふ御事いとたうと し。(落穗集。)
大津を立せられて江州石部に宿らせ給ふ。水口の城主長束大藏大輔政家父子御旅館まで出迎へ。明日己が城中に於て御茶を獻るべし。願くは御駕を停め給へと申 す。  君其志の程を謝せられ。御腰物を賜ひて政家をかへさる。其夜戌の刻ばかり密に告者のありて。俄に石部を御立ありて。水口をばまだ曉深く過させ給 ひ。御跡より渡邊半藏守綱を御使として水口に遣はされ。兼ては其居城に立よらせ給はんあらましなりしが。とみの事出來ていそぎ出立せ給ひぬ。いと殘りおほ くおぼしめすよし仰せ遣はさる。政家大に驚き即ち守綱とともに追付奉り。井伊直政もていさゝか别心なきよしを聞え上しかば。御輿の側にめしてねもごろの仰 あり。たゞ急事によて違約に及びしなり。いさゝか心にかくる事あるべからず御歸陣の折は必立よらせ給ひ。目出度御茶をもこはせ給ふべしなどねもごろに宣へ ば。政家もかしこみて犬山まで送り奉りしなり。この折しも石田三成は同國佐和山にありて。政家と牒し合せさまざま思ひまうけし事どもありしが。かく意表に 出て神速に通御ありしゆへ。彼等が姦計はみな齟齬せしとなり。この時御供のものいづれも刀の下緖に火をくゝり付て通れと命ぜられしが。水口の土人是を見 て。關東勢の鐵炮の數は。さてさておびたゞしき事よとて皆驚懼せしとぞ。(關原大成。武德安民記。武功雜記。)
此度下らせ給ふ比の事なりしが。ある夜近臣等御側に伺公して御物語ありしに。此頃世上にて當家のうはさ何と申ぞと仰られしかば。米澤淸右衛門正勝さらに正 躰なしと申候。そのゆへは世にしるごとく。東西に敵をうけておはします事なれば。大坂の奉行等が人質を取かため諸大名も引付給ひ。伏見の城にもおほくの御 人數をこめられ候上にて。會津の御進發あるべきを。さる事もましまさでたゞ御進發をいそがせ給ふは。さらに御正躰は候はぬと申ものと我等も存奉ると。さも にがにがしく御顏を犯し。思召にさはれかしと申上けれども。さらにかはらせ給ふ御氣しきもなかりしとぞ。また東征の御道すがら軍事にはいさゝかも御心をと めさせられず。朝夕たゞ鷹の手當のみを事とし給ふ。本多忠勝かくては  當家の破滅近きにありと申せば。いやとよわが此ごろうつけたる樣に見ゆるは。かく せでかなはざればなり。まてまて今に汝等もよき事あらむと仰られしが。果して仰のごとく符合せしこそありがたけれ。(永日記。酒井家舊記。)
駿府の城過させ給ふに。城主中村式郡少輔一氏はこの頃膈を煩ひてあれば。此度東征の御供にも供奉かなはざるよし申て在城しける故。村越茂助直吉をもて一氏 が病躰を尋たまふ。一氏しきりに御立寄をこひ奉れば城內に入せたまひ。城代橫田內膳が宅にて晝の御膳を奉る。一氏は歩行もかなはざれば人に負れながら。や うやう御前へいざり出て見え奉る。はじめのほどは一氏が病を申立て。御供を辭し申かと疑はせ給ひしが。此躰を見そなはして實にも哀とおぼしめし。一氏が手 を取せ給ひ。かくまでの事とは露しろしめさず。今さらおどろき思召よし懇の上意ありて御淚をそゝぎ給ふ。一氏もなみだながし。この年頃御隣國をかためて每 度失儀に及びしは。全く主命のもだしがたき所本意にあらず。こたび病あつしきにより御供にもるゝ事。老後の口おしさ是に過ず。愚息一學いまだ幼稚なれば。 舍弟彥右衛門一榮を御供に奉るよし申。なからむまでの事を賴み奉る。今迄國境をかため抗衡の力をつくせしは。各其主のためにする所。いさゝか御こゝろにか けさせ給はず。一學が事は我かくてあらんほどは。心安かるべしとの仰を蒙り。そが家臣新村加兵衛。大藪新八郞。小倉忠右衛門三人を御家人になし申たきよし ねぎければ御ゆるしあり。後に三人とも江州蒲生郡にて采地を賜ふ。かくて一氏には備前長光の御刀を下され。それより三枚橋の城にて一榮夕の御膳を奉り。一 氏が病躰とても出陣はかなふべからず。汝兄が陣代勤むべしとて信國の御刀を給ひ。これより供奉に列せしとぞ。(關原大成。東武談叢。)
本願寺の光佐が。先妻の腹に設けし嫡子を光壽といふ。後妻の生し次子を光照といへり。光佐が死せし後豐臣太閤その後妻が美婦の譽たかきを聞及ばれ。めしよ せて寵眷せられたるより。光照をもて光佐が嗣とし本願寺を繼しめ。光壽をば早く隱居せしめ。眞常院とて子院の住職となさしむ。光壽も我身犯せる罪もあらで 面目をうしなひしを。  君にも兼てさるまじき事とおぼしめしたり。さるに此度の戰の前に及び。光壽京を出て關東へ赴き金川の御旅舘にて見え奉り。愚僧が 門徒の者ども美濃近江の間にあまた候へば。此度彼等に一揆をおこさせ。御味方をなさしめんと申せば。  君その心ばへは奇特に思召せども。一揆の事はまづ 無用にいたされ。御僧は是より江戶におもむきて滯留せらるゝとも。又は上方へかへらるゝとも。心まかせにせらるべしと仰られたり。其頃黑田長政もまた一向 門徒をして。上方に蜂起せしめむと勸め奉りしに。われ賊徒を誅するに。何とて法師の力をからんやとて聞せ給はず。其後慶長七年光壽が事不便に思召。特更の 御執奏にて光壽を門跡になぞらへ。别に東六條に伽藍を營建して。一刹を開かしめ給ひしかば。光壽は彌陀如來の弘慈も是には過じと。世にかしこき事と思ひ。 これより此宗東西兩派に别るゝ事とはなりしなり。(岩淵夜話。)
下野國小山の驛に御陣をすへられ。景勝追討の御計略をめぐらさるゝ所に。伏見を守りし鳥居彥右衛門元忠が許より注進しけるは。近日石田治部少輔三成其居城 佐和山を出て大坂に赴き。同意の諸大名をかたらひあつめ。偏に  當家を傾け參らせん結搆とおぼえたり。さだめて近日此城に責寄るべし。城中の御家人みな 志を一致にして。堅固に拒ぎ守れば御心安かるべしとなり。君聞しめし驚き給ひ急に御使をもて。こたび從行の諸將を御本陣にめしよばれ。井伊本多の兩人もて かの注進狀を見せしめ給ひ。三成事昨年以來の恥辱を雪がむとて。異圖を企て諸大名をかたらふと見たり。景勝も定めて同意ならん。この事彼が心中より出しは いふまでもなけれど。秀賴が爲とある上は各も其命に背かむ事かたし。ましていづれもの人質大坂にあれば。それをすてゝ家康にくみせられん事。我ながら心ぐ るしく思ふなり。抑軍國の習にて。けふは味方と見えしもあすは敵とならんことめづらしからず。されば今人々大坂にかへられんとも。  家康などか怨を挾む べき。速に是より引かへして大坂へ赴るべし。路次の煩いさゝかあるべからすと。辭をつくして仰らる。そのとき何れもとかうの御答もせざる內に。福島左衛門 大夫正則一人進み出。  內府の仰はさる事なれども。此度の事全く三成が計より出て。天下を亂さんとするにまがひなし。人々はいかにもあれ。正則に於ては   內府の御味方して。かの凶徒を誅戮せんと有ければ。黑田甲斐守長政傍より。左衛門大夫が申さるゝ如く。某等も今更凶徒に與せん所存かつて候はず。たゞ 存亡を。 御當家とともにすべしと申ければ。其外一座の面々いづれもこの人々のことく。御籏下に從ひ奉らんよし各誓書を奉りけり。此事のはじめひそかに長 政を御陣にめして。御密議あらむとせしに。長政とくに正則が陣所にゆきて。さまざまいひこしらへてのち。御陣に參りかくと申上ければ。御けしき殊にうるは しく。長政が忠誠にしてかつ才略あるを感賞し給ひけり。かゝれは會議の時に及び正則一番に御請申し。その外の人々もみな御味方に屬せしなり。(關原大成。 藩翰譜。)
上方の軍議已に一决しければ。景勝が押には結城三河守秀康主を殘さるべしとおぼして。松平玄蕃允家淸御使として。その旨仰遣はされしに。秀康主大にいから れ。上方の戰を打捨て此表に殘りとゞまらん事思ひもよらず。たとひ  父君の仰なりとも。此儀には從ひ奉りがたしとて。御家臣梶原美濃守。原隼人兩人を玄 蓄允にさしそへて御本陣に參らせ給ひ。上方出陣の事御願あり。  君かの兩人をめし。三河守が年若き心にはさこそ思はれんも理なれ。御直に仰聞らるべき旨 あれば。いそぎ御本陣に參らせ給へとあつて。來らせ給へば。御對面の上にて仰けるは。此度上方の敵は何十万騎ありとも。みな烏合の勢にて何程の事かあら ん。抑上杉が家は謙信入道より已來。弓矢取て天下に並ぶものなし。景勝又幼弱の昔より軍の中に生長して武名遠近にいちゞるし。今かれに向てたやすく軍せむ 者あるべからず。さるをおことがかたきにとらんは。此うへなきめいぼくならずや。その上此度上方へむかふ人々。又はその家人の人質みな江戶にとゞめつれ ば。もし關東の守かたからずば。諸人の心もおのづから堅からずして勇氣振ふべからず。彼是につけてもおことこの地にとゞめずしては。かなはざるなりと宣へ ば。守殿も終に領承し給ひければ。  君も世に嬉しき御樣にて御淚をながしたまひ。御みづから御きせなが一領取出したまひ。扨此鎧は  家康がまだ若かり し頃より身に附て。一度も不覺を取たる覺へなし。父が佳例になぞらへ。今度奥方の大將承て。名を天下に揚たまへとて進らせ給へば。守殿も心とけて御心地よ く御受したまひしとぞ。このとき本多佐渡守正信守殿の御側にすゝみより。よくも殿は御受申させ給ひたり。  大殿をして一統の功を立させ給ふも。此御うけ の御一言にて定まりぬ。天晴  內府の御子にてましますぞとて。御膝をたゝき立て悅びしとぞ。さて後に守殿にも軍の機要を仰示されしは。景勝もし打て上る とも。宇都宮の邊にて支給ふな。やり過して利根川をこしたりときゝなば。諸勢一度に押出しその跡をつけしたはゞ。敵かならず取て還すべし。其時諸勢を下知 して。一戰に雌雄を决し給へと仰られしとぞ。(武德大成記。藩翰譜。)
津田小平次秀政はじめ織田豐臣兩家につかへ。この時  君の御供して小山まで來りしが。上方の注進を聞せたまひ御けしきよからず。御側に伺公せし者も何と いはむ樣もなくて在しに。秀政進み出て。やがて上方の逆徒を誅伐し。安國寺が調度を沒收せられんに。かれが珍藏せる肩衝の茶入を賜はらば。是をもて朝夕茶 事を專らにし。大平を樂まんといひ出しにより。御けしき直り。いかにも汝が願をかなへてとらせんと仰られしが。後御勝利に屬しければ。兼て御ゆるしのごと く。かの茶入をば秀政に下されしとぞ。(家譜。)
小山の御道すがら近臣に向て。われ麾を忘れたり。あれなる竹林に入て。串になるべき小竹を伐てこよと命ぜらるれば切て奉りしに。帖紙をとり出給ひ。御鞍の 前輪に當て切裂給ひ。竹にゆひ付て二振三振うちふり給ひ。景勝を切靡けんはこれにて足ぬべしと仰られ。後にまた還御のとき彼竹林を見そなはし。上方の敵を 破らんは麾も無用なりとて打すて給ひけり。其折東西に大敵起りしかば。人心何となく恐れはゞかる樣なれば。かゝること仰られて人心を鎭壓したまひしなるべ し。(常山紀談。)
小山より還御の折洪水にて。利根川の舟橋推流しければ。代官等かけ直さむかと伺ひしに。舟橋は全く會津に向により。諸軍の便よからしめん爲にかけしなり。 上方へむかふには無用なれば改架に及ばずと仰有て。小山と古河の間にある乙女川岸より御舟にめされ。西葛西につかせられ。江戶へ御歸城ありしかば。人々そ の迅速なるに感じ奉りしとぞ。(士談會稿。落穗集。)
花房助兵衛職之といひしは。はじめ浮田黃門に仕へしが。かの家臣等が訴論の事により佐竹義宣に預られ。此度佐竹が方をのがれ出て御陣に參りければ。  君 こたび義宣石田にくみし打て出べきやと問せ給ふ。職之承り。義宣はきはめて持重の人なれば。切て出る事あるべからすと申す。さらば義宣かならず出まじとい ふ誓狀を書て奉れと宣へば。職之承り。父子の間といへども人心は計りがたし。この儀は御ゆるし蒙らんとて書て進らせず。  君近臣にむかはせられ。助兵衛 は兼て聞及びし高名の者なるが。將器にあらずと仰けるを。一座にありあふ者。何ゆへかゝる事仰らるゝかとあやしみ思ひけり。其後職之生涯落魄して終りぬ。 後に人に語りしは。かの誓狀を奉れと仰せられしは。全く三軍の心を安からしめむためなれば。書て奉りし後にもし佐竹が打て出たりとも。何か苦しからん。さ るを我心おさなくて。あまりかたくなにいなみて。誓書を奉らざりしこそ今さら遺憾なれ。名將の一言半句もおろそかには承るまじき事なりといひて。いとくひ 思ふさまなりしとぞ。(忠士淸談。)
案にこの職之後に大阪の役まで生ながらへ。松平左衛門督忠繼が手に屬し。肩輿に乘て出て拜せしかば御けしきよく。さすが平日武邊をふむゆへ。老かゞまりて も出陣せしは。大剛の者といふべしと御感あり。またその子の池上本門寺に喝食と成て居しを召出され。榊原康政が一族に准へ。榊原左衛門職直とて  台德院 殿につけらる。一旦御けしきに違けれども。其武功をば忘れたまはざるゆへなり。
伏見の籠城に佐野肥後守忠成は。兼て後閤の女房だち阿茶の局などあづかり奉りて本丸に在しが。大阪の奉行等より申むねありしかば。かの人々を伴ひて城を 出。大和路へて相知れる者の方にあづけ置。引返して鳥居內藤等とおなじく討死す。此よし聞しめして。彼わが命をうけて女どもを預りたれば。それを守護して ともかくも時宜に應じてよきに從ふべきを。いかなれば己が預かりし者をば人手に渡し。そが任にもあらざる籠城して戰死せしは。忠が忠に立ずおしき事なりと 仰られけり。かゝるゆへにや死後にその祿三千石を收公せられ。子の主馬成職に俸米五百俵賜りけるとぞ。(續明良洪範。家譜)。
小山より江戶へ還御あると直に。上方へ御出馬あらんと一同思ひ居たりしに。御陣觸有し上にて廿日あまり御滯留なり。されどその間御家人へ命ぜられしは。何 時によらず俄に御出陣あるべきも計らざれば。いづれも懈怠なく相守。御城の宿直に當りし節は。番所より直に御供せむ心組して上直せよと。その頭々よりいひ 渡せしゆへ。いづれも草鞋路錢まで腰に付て宿直にいで。又二三日づゝ隔て番士を頭の宅へよびよせ。御供の用意油斷なき樣にいましめとなり。其折は御玄關の 前塀重門の內には新に鎗立を作らしめ。虎の皮の御長抦鑓を立ならべ。御書院の床の上には御馬印を立置れ。即時にも御出陣あるべき樣にて在しとなり。(落穗 集)。
御出陣の前かた增上寺存應和尙御前にいでゝ。この度御出馬により御領內の寺社にて。怨敵退散の御祈禱命ぜられんかと伺ひしに。いづれの寺社がよけむと仰ら る。鎌倉の八幡宮こそ第一なれと申す。此神はわが若年の頃より朝夕祈念すれば。今改めて祈禱に及ばず。幸ひ靈武の神なれば常陸の鹿島大明神佛にては兼ての 祈願寺に申付たれば。淺草の觀世音しかるべしとて。兩所へわきて祈誠懇丹を抽づべきよし。宮司别當等へ仰下されぬ。こは鎌倉右幕下平家追討の節の舊躅を遵 行せられしなりとぞ。さて九月朔日より祈禱興行し一七日滿願により。兩所より使もて符籙を奉りけるが。十四日の夕方に岡山の御陣までもて參りしに。その日 は中村右馬の手の迫合にて御陣混擾しければ。明日奉らむとてひかへしが。十五日は早朝よりの大戰にてその暇なし。十六日の晚方藤川の臺の御陣へ參りて捧け れば。御けしき大方ならず。已に御勝利の上は兩人とも馳歸り。この後は怨敵退散の祈を止め。天下安全の精誠をぬきむづべしと仰下されしとぞ。(天元實記。 落穗集。)
先鋒の諸將海道打て馳上る內に。黑田長政には仰聞らるべき事のあれば立歸るべしと。奥平藤兵衛貞治もて仰遣はされ。藤澤のこなた厚木といふ所にて。藤兵衛 追つき其由申せば。長政引返し其夜御前に出しに。福島左衛門が心なを計り難しと宣へば。長政承り。かれ元より石田治部と不和なれば。更に御疑あるべから ず。もし别心も候はんには長政いかにも異見を加へ御敵にはなし申まじ。其上にも聞ざらむには。それがし彼とさし違へんのみ。ともかうも正則が事に長政にま かせ給へと申せば。御けしきうるはしくて。長久手の戰にめされし齒朶の御胄に。鞍置る馬を長政に賜はりけりとぞ。(校合雜記。)
岐阜の城攻の撿點として。安藤治右藤門定次を遣はされ。戰訖て定次江戶へ參り。上方の諸將岐阜を攻落し。合渡の戰にも打克しと申上しかば。合渡より呂久川 までの間に討れし敵の死骸は。いづれの方へむかひて在しと尋給ふ。みな大垣の方に向て臥したりといふを聞せられ。さては味方追討せしに疑なしと仰られて。 御けしきうるはしかりしとなり。(古事談。)
此卷は會津御追討に下らせたまひ。下野小山より江戶に還御ありしまでの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷十
上方の逆徒御誅伐の御出陣九月朔日と仰出されしに。石川日向守家成朔日は西塞なれば。日をあらため給はんかと聞え上たりしに。西方ふさがらばわれゆきて是 を開かん。何のはゞかる事かあらむとて御出馬ありし之。この春奉りし年筮を占せられしに。習坎の初六を得させられしとか。其時前後に大敵を受けたまひし姿 は。坎卦の爻の辭に云重險に陷とも申すべけれども。よく恐戒おはしませしゆへ。終に凶を轉じて吉になされしならん。(武德大成記。武邊咄聞書。)
江戶を御首途の日外櫻田の御門にいたらせられしころ。濃州岐阜より井伊本多の呈書來り。去る廿五日石田治部が手の者を福島正則が家人うちとりしとて。その 首級入し桶品川まで到來せしよし注進あり。增上寺の門前にさし置べきよし命ぜられ。やがて御發駕あり。その比芝神明の社はいと小祠にて。本祠の前にわづか の拜殿あり。それへ渡御なりてかの首ども御覽じ。御門出の吉兆なりとて御けしき斜ならず。また增上寺へ立よらせ給へば住持の存應迎ひ入奉り。本堂にて御拜 あり。しばし御やすらひありて程なく立せられしぞ。(武德大成記。大業廣記。)
此度の御出陣いとしのびやかにおはしまして。御旗もしぼらせ御籏印御馬印も目に立ぬ程にせられ。三島に着せらるゝと。御馬印は熱田へもてゆけと仰せて。奉 行人もそはでたゞ御小人ばかりにて御先へまかり立。大垣に着御ありて後はじめて旗幟などをし立て。いとおごそかに見えければ。上方勢はじめて目を驚かせし とぞ。(聞見集。卜齋記。)
岐阜に御着陣ありしとき厚見郡西庄村龜甲山立政寺の住持。大なる柹を献りけれぱ殊にめでさせたまひ。はや大垣が手に入たるはと仰られて。その柹をまきちらして近臣等に賜りければ。いづれもあらそひて給はりしとぞ。(天元實記。)
御進發の御道すがらさる僧をめして。汝今度の戰は勝敗いかにあらんと問せられしに。此僧答けるは。果して御負軍なるべしと申す。そのゆへいかにとなれば。 大敵をたゞ一時に挫べしとの思召御表にあらはれ候。かくてはかならず御勝利あるべからずと申す。扨は何と思案してよかるべきにやと仰らるれば。願くは天下 安泰に伐治め。萬民塗炭の苦を免かれしめ。諸寺諸社の頽廢せしをも興隆せむと。大悲の御兜に忍辱の御鎧をめされ。たゞ天地神明のために逆賊を征討せしめむ 思召にさへましませば。御勝利疑あるべからずと御請せしかば。これ至極の理なりと感ぜさせ給ひ。この僧を戰塲にめしぐせられ。敵味方の戰死の者どもを。ね むごろにとむらはしめられしとぞ。(新著聞集。)
按に新著聞集に。關原の御道にて旅僧に行あひ給ひ。この說を尤と聞召軍陣にめし具せられしが。この僧後に增上寺の觀智國師といふよししるせしは誤なり。源譽はこの時すでに增上寺の住職し。また關原御出陣に寺社祈禱の事など勸め奉りし事もあれば。その時の事誤傳せしなり。
水野六左衛門勝成は井伊本多の指揮によて。曾根村にありて大垣の敵の鎭壓としてありしが。岐阜に御着あるを承り諸將とおなじく待迎へ奉る。  君勝成にむ かはせられ。曾根は險要の地ときく。諸手の人夫をもて兩三日のうちに。古城を改築せむ事なるべきやと尋給へば。勝成何ほど大勢にても中々五六日にはなりが たしと申す。さらば汝はこれまでのことく曾根にかへり備へよと宣ふ。勝成某はじめ御出陣まで曾根にあらむと中書兵部の兩人に約しつれば。いま御着のうへは 御旗下に候ひて。戰功をはげまさんといふ。  君汝などは外々の者とかはり。とにかく我等の事第一におもふべきを。己が一箇の功をのみ立むと思ふは。汝に は似つかはしからざる事かなと警め給ひしかば。勝成理に服してまた曾根に引返せしとぞ。また坂崎出羽守成政戰の前かた御前にて。此度は某精力をつくして戰 功を抽むよし申上しかば懇の御謝詞あり。近臣等出羽がしれたる事申すに。あまり御優待に過たる御答かなといへば。あの樣なる者には此樣にいふて置がよしと 仰られしとか。(落穗集。武功實錄。)
九月十三日岐阜につかせ給ひ。翌朝御出立ありて御陣押の樣を敵に見せまじとて。大垣の方をよきて長柄川呂久川を渡りこし西の保山をへて。赤坂の後なる虛空 藏山と南禪寺山との間なる余池越を通らせ給ふとき。諸大名御途中まで出迎ひて謁し奉る。この時御輿のうちより南宮山につゞきし敵のさまを御覽じ。御輿の傾 く程御頭を出され。御またゝきもなく見めぐらしておはせしに。柳生又右衛門宗矩近よりて。此度御上意めでたし。いづれもこれにさぶらふと申せばはじめて御 心づかれ。おのおの太儀に思しめさる。明日は早々戰を始むべし。かならず勝利ならむと宣ひしとなん。この時本多忠勝御輿によりて。筑前中納言秀秋御味方せ むと黑田長政をもて申出。すでに人質も取かはしぬと申す。何と秀秋が返忠するとか。さらば戰はすでにかちたりと高らかに仰ければ。諸人これを承りてよろこ び勇むことかぎりなし。戰に及びて小西助右衛門正重。(家譜助兵衛或は助大夫とす。)西尾伊兵衛正義兩人を秀秋が備へし松尾山につかはされ。かの陣の體を うかゞはしめしにかへり來て。秀秋いかにも裏切すべき樣なりと高聲に申上ければ。その時は。かゝる事はひそかにいふべきものなれ。もしさなからむには。諸 軍の氣をくるゝものなりと仰ありしとなり。(黑田家譜。前橋聞書。古人物語。)
十四日大垣城中よりこなたの御出陣の樣を伺はしめんとて。浮田石田の家人ばら株瀨川を渡りて刈田をすれば。中村一學忠一が手の者出合てこれを追退け。川を 渡りこす樣を御覽じ。あれ川切にをひとめはせずしてと仰らるゝうちに。果して又敵に追返されければ近臣にむかはせ給ひ。我等がいはぬ事か。あれを見候へと のたまひ。井伊兵部少輔直政。本多內記忠朝に仰付られ。諸勢を引上させ給ひしとなり。この迫合に有馬玄蕃頭豐氏が家人稻次右近。敵方橫山監物に組伏られし 所を。右近が若黨監物を引倒して己が主に監物が首をとらせける。かゝる所にまた何者か來りてその若黨の首切てにげ去りぬ。後に御糺しあれば堀尾信濃守忠氏 が家人の由なり。またく味方伐の事ゆへ右近その旨訴出しに聞召。何をいふぞかゝる打込の軍にはさる事もあるものぞ。その儘にてすて置と仰けり。同じ時敵方 に白しなへの指物させし者。幾度となく後殿して引き退きし樣いかにも殊勝に見えければ。あの白しなへが武者振を見よと度々仰られしとぞ。これは石田がうち に林半助といひしものなりとぞ。(天元實記。)
戰の前日諸軍の合詞をあらため給ひ。かねては山か麓か麓か山かといふを。山は山麓は麓といふべしと仰出され。又總軍の左の肩に角取紙を付られ。味方打なき樣にすべしと命ぜられしとぞ。(落穗集。)
十四日の夕方右筆關左馬之助をめして。明日軍果し後に關東へ遣はさるべき御書各狀三通に。江戶留守の者への連狀一通を認むべしと仰付られ。十六日藤川の御 陣にて昨日の書狀はと宣へば。左馬之助かねてしたゝめ置しを御覽に備ふ。あて所は三河守秀康主。伊達政宗。最上義光へ一通づゝ。江戶の御留守は本城新城と もに連名に認むべしとありて一通殘りければ。左馬之助こは佐竹義宣が方へ遣はされんかと伺へば。いづかたへもつかぬものをと仰らる。左馬之助いづれへもつ かずば猶更つかはさるゝがよけむと申す。いやいやとの仰にて。さて汝この狀をかきしに今十五日と書きしはさる事なれど。巳の刻とまで前方より時刻をはかり てかきしは。いかなるゆへかと問はしめらるれば。左馬之助敵は大軍味方は小勢なれば。巳の刻より午の刻まてにかたせ給はずはかならず御負なるべし。さらば 御書も不用なりとおもひて。かくはしるし侍りぬといへば。御笑ありしとなり。この左馬之助元來善書のみにあらず。その才覺も御意にかなひければ。四百石賜 はりて右筆の組頭のごとくにてありしが。後にまた加恩ありて使番になされしとぞ。(靈岩夜話。)
十四日の晚かた黑田長政より。家臣毛屋主水をもて言上の旨あり。御前へめし出し御物語あり。敵は何ばかりあらむと問せ給ふ。主水御陣の緣のはしによりなが ら。某が見し所にては二三萬もあらむかとおもはるゝと申す。そはおもひの外の小勢かな。外々の者は十萬もあらむといふに。汝一人かく見つもりしはいかにと あれば。仰のことく總勢は十萬餘もあらむなれども。實に敵を持し者はわづか二三萬にすぎじといふ。こは金吾毛利の人々。かねて御味方に參らむといふを內々 傳へ聞てかく申せしゆへ。  君にも思召當らせ給へば殊に御けしきにて。御前にありし饅頭の折を主水に賜ふ。主水戴き御緣に腰をかけながら。饅頭を悉くく ひつくしてまかでしなり。跡にて御側のものに。かれが本氏を尋置べきにと宣へば。毛屋主水と申す。いやとよ彼が毛屋を氏とせしは。越前の地名にてその本氏 にあらず。毛屋にて軍功ありしゆへ。地名をもて氏とせしなりと仰せらる。末々の陪臣までの事をいかにして御心にとゞめられしとて。御强記の程を感じ奉れ り。またこの日の夜半ばかり福島正則より祖父江法齋を使に參らせ。敵勢こよひの中に大垣を出て。牧田海道をへて關原表へをし出す樣に見え候。此方にも明日 早天に戰をしかけ敵を切崩し候はむ。早々御馬を進め給へとなり。よて法齋をめし出し。正則が勸むることく御出馬あるべき旨仰聞られ。御湯漬めし上られ御用 意をなさる。往年長久手にて三好秀次を切くづし給ひしこと語りいで給ひ。このたびも彼の大勢をどつと追崩してと仰られながら御馬にめさる。御胄はと申せ ば。いやいやとの仰にて。茶縮緬のほうろく頭巾をめして御出陣ありしなり。この時御手水をめし御陣の緣へ出おはしまして。近臣等をめし呼れ。敵の陣どりし 山々の篝火を指し給ひ。あれを見よおびたゞしき事にてはなきか。夜あけばかの敵どもを蹈ちらさむ。汝等も父や祖父のつらにくそをぬるなと仰ければ。いづれ も御前を退き。只今の上意を承りては血首を提て御覽に入るゝか。さなくば我々が首を敵にとらるゝか二つの外はなしと。いよいよ奮勵して勇氣百倍せしとぞ。 (落穗集。)
十五日の朝勝山より關原へ御陣をすゝめらるゝとき。さてさて年がよりて骨の折る事よ。悴が居たらばこれほどにはあるまじ。內藤四郞左がこねば斥候に遣るべ き者もなし。渥美源吾は居たらむよべとの上意にて。源吾勝吉まいりければ。敵の樣見てこよと命ぜられしが。やがて馳かへり。今日の御軍かならず御勝利なら む。早く御旗をすゝめ給へと申。先手のかたに鐵炮の音聞ゆるやと問せ給へば。誰もいまだ御答せざりしに。年頃御馬の口取にすりと字せし老人あるが。殿よ戰 はすでにはじまりしと見えたり。はやく御馬を出し給へといふ。汝何を知りてかさはいふぞ。すりさきまで鐵炮の聞えしが。今やみつれば。さだめて鎗合になり しならむと申す。さらば閧の聲をあげよと命ぜらるれば。いかにも恰好の時節なれと申す。その折御身をもたげいさゝか飛せられ。御輕捷の樣を近臣にしめし給 へば。いづれもその御擧動を感嘆するに。かのすりひとりは糞がにの飛だ程にもなしと惡言はくを。とがめもし給はでほほゑませ給ひておはせしとぞ。又辰刻ば かりに本多三彌正重御陣に參り。敵合遠し今少し御陣をすゝめ給へといふを聞せられ。口脇の黃なるほどにていはれざる事をと宣へば。三彌御次に退き。なんぼ う口脇は黃なるにもせよ。遠さは遠しといひて居りしとなり。又朝のほど霧深くして鐵炮の音烈しく聞えければ。御本陣の人々いづれもいさみすゝむで馬を乘廻 しつつ。御陣もいまだ定らざるに野々村四郞右衛門某あやまりて。  君の御馬へ己が馬を乘かけしかばいからせ給ひ。御はかし引拔て切はらはせ給ふ。四郞右 衛門はおどろきてはしりゆく。なほ御いかりやまで。御側に居し門奈助左衛門宗勝が指物を筒より伐せ給へどもその身にはさはらず。これ全く一時の英氣を發し 給ふまでにて。後日に野々村をとがめさせ給ふこともおはしまさざりしとぞ。(古人物語。落穗集。卜齋記。)
米津淸右衛門正勝敵の首取來て小栗又一忠政に向ひ。我ははや高名せしといふ。忠政かねて淸右衛門と中あしければ。汝がしらみ首とるならば。我は胄附の首取 てみせむといふて先陣へ馳ゆく。淸右衞門はかの首を御覽に入しかば。使番つとむる者は先手の樣を見てはやく本陣に注進するが主役なり。首の一つや二つ取て 何の用にか立とて警め給ひしなり。忠政はやがて胄付の首とり來て淸右衛門に。これ見よ汝になるほどの事が我になるまじきかといひて。その首をば路傍の谷川 に捨てけり。また大野修理亮治長は先年の事により佐竹が方に預けられしを。こたび御ゆるし得て御本陣に候せり。戰のはじめ先陣にゆきて敵の首とりて馳かへ りしに。匠作これへと仰にてその功を慰勞せられ。もはや先手にすゝむに及ばずと宣ひ。岡江雪とともに御本陣にありしとぞ。この折治長が得し首は誰とも知れ ざりしが。後にきけば浮田が家に高知七郞左衛門といふ者なるよし聞召。さほど名ある者としらば。我その折たしかに見て置べきにと宣へば。治長は首一つにて 兩度の御賞詞を蒙りしと。時の人みなうらやまぬものはなし。(落穗集。明良洪範。)
この日辰刻に軍はじまり。午の刻におよびてもいまだ勝敗分れす。やゝもすれば味方追靡けらるゝ樣なり。金吾中納言秀秋かねて裏切すべき由うちうち聞えしが いまだその樣も見えず。久留島孫兵衛某先手より御本陣に來り。金吾が旗色何ともうたがはし。もし異約せむもはかりがたしといへば。御けしき俄に變じしきり に御指をかませられ。扨はせがれめに欺かれたるかとの上意にて孫兵衛に。汝は金吾が陣せし松の尾山にゆき。鐵炮を放て試みよと宣へば。孫兵衛組の同心をめ しつれ山の麓より鐵炮うちかけしかば。筑前勢はじめて色めき立て麓へ下せしとぞ。(天元實記。)
この日の戰未刻ばかり全く御勝利に屬しければ。藤川の臺に御本陣をすへられ。御頭巾を脫せられて裏白といふ一枚張の御兜をめし。靑竹を柄にして美濃紙にて 張し麾を持しめ兜の緖をしめ給ひ。勝て兜の緖をしむるとはこの時の事なりと仰られ。首實撿の式を行はる。諸將も追々御陣に馳參り。首級をさゝけて御覽に備 へ御勝利を賀し奉る。一番に黑田甲斐守長政御前に參りければ。御床机をはなれ長政が傍によらせられ。今日の勝利は偏に御邊が日比の精忠による所なり。何を もてその功に報ゆべき。わが子孫の末々まで黑田が家に對し粗略あるまじとて。長政が手を取ていたゞかせ給ひ。これは當座の引出物なりとてはかせ給ひし吉光 の御短刀を長政が腰にささせ給ふ。本多中務大輔は御前にありて諸將への御詞を傳ふ。福島左衛門大夫正則進謁せしかば。今日の大功左衛門大夫をはじめ。その 外の者どもいづれも其働目をおどかしぬと申せば。正則忠勝が人數扱の樣げに比類なしといへば。忠勝おもひの外の弱敵にて候といふ。  君中務は今にはじめ ぬ事よと上意あり。やがて下野守忠吉朝臣は手を負れ。布もて肘をつゝみ襟にかけて出で給ふ樣を御覽じて。下野は手負ひたるかと宣へば。朝臣薄手にて候と答 へ給ひながら座につかる。井伊兵部少輔直政も鐵炮疵を蒙り靱に手をかけ。忠吉朝臣に附そひ參り忠吉朝臣の勳功の樣を聞えあげ。逸物の鷹の子は皆逸物なりと 稱譽し奉れば。そは上手の鷹匠がしゝあてよきゆへなりと宣ひ。汝が疵はいかにとて御懸硯をめしよせ。御膏藥を取出して御みづから直政が疵に付給ふ。直政か しこみ奉りていはく。今日某が手よりこのみて軍をはじめしにあらず。全く時分よくなりしゆへ守殿と共に手始せしといへば。いたく御賞美あり。其次に本多內 記忠朝大太刀血にそみて。鎺元五六寸ばかり鞘にいらざるをさして御前に出るをみそなはして。忠朝若年なれども武勇のほど父祖に愧ずと宣ふ。織田源五郞入道 有樂は石田が家臣蒲生備中が首を提げ來りしかば。有樂高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者 なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。入道が子河內守長孝も戶田武藏守重政が胄の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覽あるに。い かゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の樣して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。は じめてこの作の  當家にさゝはる事をしり。御家の爲にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を拔きてその鎗を散々に切折りしとぞ。金吾秀秋は參陣 遲々しければ。村越茂助直吉を遣はされてめし呼る。秀秋長臣二十人ばかりをしたがへて參り芝居に跪てあり。  君御床机より下らせ給ひ。かねて懇誠を通ぜ られしうへに。また今日の大功神妙の至なりと宣ふ。秀秋かたじけなき由を申し。  明日佐和山討手の大將を望みこふによて御ゆるしあり。この時金吾が見參 せし樣を見て。後日に福島正則が黑田長政に語りしは。こたび  內府勝利を得られしといへども。いまだ將軍にならせられしにもあらず。さるに秀秋黃門の身 として芝の上に跪き手を束ねし樣は。いかにも笑止にてはなきかといへば。長政さればよ鷹と雉子の出合とおもへばすむ事よと笑ひながらいふ。正則こは御邊が 贔負のいひ樣なれ。鷲と雉子ほども違はむかといひて笑てやみしとぞ。(武德安明記。明良洪範。天元實記。)
十五日の申刻より大雨降出し。車軸を流すことくなれば。飯を炊く事ならず。御本陣より御使番馳まはり諸陣に觸しめられしは。かゝる時は飢にせまり生米を食 ふものなり。されば腹中を損ずべし。米をよくよく水にひたし置。戌の刻に至り食すべしと仰諭されしかば。いづれも尊意のいたらぬくまなく。ゆきとどかせら るゝを感じ奉れり。さるに不破の河水溢れ出て戰死の尸骸を押流し水の色血にそみしかば。浸せし米もみな朱色に變ぜしとぞ。(落穗集。)
朽木河內守元綱はこの日の夜に入り。細川忠興にたより御本陣に伺公し。元綱一旦敵方にくみせし罪は遁るゝ所なしといへども。脇坂中務少輔安治が陣に屬し御 味方の色をあらはしたり。あはれ御ゆるし蒙りて後日の忠功をはげまさしめむといふ。  君聞召。其方などの如き小身者は。草の靡きといふものにて深く責る に及ばず。本領安堵これまでの如しと仰ければ。元綱も盛慮の寬洪なるに感じ。淚落して御前をまかでしとなん。(東遷基業。)
金吾秀秋等佐和山の城責しとき。城中に籠りし津田喜太郞淸幽といへるものは元御家人たりしをもて。船越五郞左衛門景直に命じ淸幽を城外へ呼出し。三成すで に敗北しぬ。城中の者ども速に城を明て歸降すべし。淸幽は一度御家にも召使はれしものなれば。厚く恩賞あらむとなり。淸幽某すでに身を城將に委するから は。これにそむかんこと本意にあらす。仰はかしこけれどしたがひ奉ること叶はずと申切て城にかへり。三成が弟木工頭一成に告。一成いかゞせむと議すれば。 淸幽三成には  德川殿に敵對し給へども。君をばさまであしともおぼさず。いま三成と君の妻子を助けられば。撿使をうけて腹切給はんか。さらずば力の及ば むだけ防戰して討死せられんか。此二の外なしといふ。一成さらば最初の議にしたがはむとて。明日城を渡し奉らむにより。村越茂助を撿使に給はれといひ出し が。其うちに城中に違心の徒ありて本丸に火を放ち。寄手俄に責入しかば。一成は淸幽に後事を托して自殺す。淸幽は脇坂中務少輔安治が家人村瀨忠兵衛と戰 ひ。忠兵衛を捕へ是を證として同僚十一人と同じくその塲を切ぬけ。御陣にまいりそのよし申上れば。汝そのかみわが家人たりといへども。近日の擧動かくこそ あるべけれとて。淸幽父子をめし出し。同僚十一人は大坂におもむき秀賴につかへしめよとありて。大坂にて佐和山防戰の功をもてをのをの祿仕を得たり。淸幽 は後に尾張義直卿に屬せしめらる。一とせ淸洲御通行の折平岩親吉をめして。淸幽はもと尾張の產にして。且二心なく誠實の者なれば。何事ぞあらむには一方の 任をうちまかせても。あやうき事なしと仰られしかば。淸幽も感淚をながし終身御詞のかしこきを人々に物語けるとなん。(家譜。)
この卷は關原御發向より御勝利の後までの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷十一
關原の役に  中納言殿は木曾路をへて。九月十三日大津の宿に御着あり。其日は御不豫とて御對面なし。あくる十四日御快然のよしにて。  中納言殿はじめ 奉り供奉の者までみな謁見す。  中納言殿此度御遲參により。大事の戰に合せ給はざるよし謝し奉らせ給ふ。  君の仰に。さきに參陣の期限申つかはせし使 のもの。違言なきにしもあらざるべし。あながち心を勞せらるゝに及ばず。およそ此度のごとき大戰は圍碁と同じ樣のものなれ。樞要の石だにとり得ば。對手の 方に何ばかり目を持し石ありともそが用にたゝぬものぞ。こたびの一戰にだにうちかたば。眞田がごときの小身は何ほど城を持固めたりとも。遂には聞おぢして 城を明て降參せんより外なし。此度供奉せし者の中に。かゝる事議せし者はなきかと尋給へば。  中納言殿戶田左門一西こそ上田表にてかゝる事申出せしと て。つばらに仰上させ給へば。供奉の人々の方を御覽じ左門と召されしに。一西聞得ざりしかば。  中納言殿御高聲にてめし呼る。一西おどろきて御前へ出し に。御菓子を兩の御手にてすくはせ給ひて下され。汝は小身にて口がきかれざるな。やがて口のきかるゝ樣にしてとらせむと宣へば。一西あまりのかしこさにい まだ御請もせざるうちに。  中納言殿御側より御懇の仰を蒙り。かたじけなきよし御執謝あり。これまで一西は武州鯨井にて五千石下されしが。明くる慶長六 年江州膳所の城をあづけ給ひ三万石になされしなり。その時本多正信をめして。こたび膳所の城新築ありしが。この所王城に近くして樞要の地なり。誰に守しめ むと問せたまへば。正信しばし思案して。戶田左門一西こそ武勇もすぐれ且天性誠實なれば。これに過たるはあらじと申せしにより一西に定まりしとぞ。(天元 實記。明良洪範。)
加賀中納言利長は北國を切したがへ大津の御陣へ馳參り。土方勘兵衛雄久と共に謁し奉る。  君御けしき斜ならでその功勞を賞せらる。利長。此度丹羽宰相長 重はじめ逆徒にくみせしといへども。先非をくひ某に就て降謝をこひ奉るうちに。關原の戰すでに御勝利に屬しぬれば。今更忠功を勵むべき便なし。あはれ願く は一旦の科をば御ゆるしありて。後効を勤めしめむといへば。御邊が請るゝ所は何事も申すまゝたるべけれど。この事においてはかなひがたし。抑宰相が亡父長 秀死期の樣武士の本意にあらずとて。故太閤のいかり大方ならず。すでにその所領をも沒收せられむとありしに。われ長秀とかねがね親好あるをもて不便に思 ひ。かれこれといひなだめて本領安堵せしのみならず。長重また官位までも昇進せしはみなわが舊恩ならずや。さるを忘却して賊徒にくみし。剩御邊と干戈に及 びし事死刑にも處すべき者なりと宣へば。利長なほまたさまざま言を盡して陳謝し。  中納言殿も御傍より御解說ありしかばからうじて御ゆるしあり。利長の かくまでこはるれば。まげて長重が一命をばゆるしつかはすにより。小松の城を明て利長に引渡し。何地へなりとも立退べしとて。雄久をもて長重が方へ仰遣さ る。利長また越前北の庄の城主靑木紀伊守一矩も同じく御ゆるし蒙らむとこひ奉れば。かゝる族は外々にもあるべし。城だに明退ば一命をばゆるし遣すべしと仰 られしとなり。(天元實記。)
石田治部少輔三成。大谷刑部少輔吉隆二人が行衛しれざれば。田中兵部大輔吉政に命じ追捕せしめらる。この時三成はなみなみの者にあらざれば。けふ落人とな りても明日は又いかなる企せむもはかりがたし。しかるを田中一人に搜捕せしめらるゝはいかなることにかと私議するものあり。いくほどなくて吉政石田を捕へ 出て進らせぬ。その時の仰に。田中はかねて治部と中がよかりしゆへ。いさゝか嫌疑なきにしもあらざりしが。此度の功によてわが疑ははれたりと仰ければ。諸 人はじめて盛慮の深遠なるを感じ。もし此度吉政石田をとらへ得ざらむには。その身いかにあやうかりなむと いひ合りしとぞ。(武功雜記。)
石田三成をとらへ來りし時その狀をたづね給へば。三成關原の戰敗て後伊吹山に逃入り草津の驛に出しが。天運のつくる所にて。折しも腹病を煩ひ出し。詮方な くて身を樵夫にやつし獘衣を着し。腰に鎌を挾みかくれ居りし處を捕たりといふ。御前伺公の徒。かゝる大逆を企る者が。死をおしむことのうたてさよと口々に いへば。聞召て。おほよそ人は身を全してこそ何事も遂るものなれ。大望をおもひたつ身にては一日の命も大事なり。末練といふにあらず。早く衣類をあたへ食 事なども喰るゝ樣にして進めよ。もし病氣ならば醫者にも見せしめ。よく扶助してよろづ不自由ならざらむ樣にはからへとて。父の仇なれば鳥居彥右衛門元忠が 子久五郞成次にあづけらる。成次仰のごとくねむごろにいたはりしゆへ。さすがの三成も淚流してその厚意を感ず。數日へて成次見え奉り尊意の辱きを謝し。且 亡父元忠が一命を奉りしは全く君の御爲なれば。あへて三成が所爲とも思ひ侍らず。元より私の遺恨あるべきにあらず。さりながら三成は天下の御敵なれば。餘 人にめしあづけられむかと申上けしに。御感ありて。本多上野介正純に預けられしとぞ。(岩淵夜話。鳥居家譜。)
十九日御上京の御道すがら。何者ともしれず黑き具足を着。鹿毛の馬に乘り。金のさいづちの指物さして御路の先を行者あり。其あはひ十町ばかりもへだてり。 供奉の者は心付ず。さだめて大名の使番にてもあらむかといふ。  君にははるかに御覽じとめられ。あらためよと宣ひて速に物色せしに。敵方の落人なれば。 成敗せよとありて路傍にて切捨にせしとなり。(明良洪範。)
浮田黃門秀家は戰負て後伊吹山へにげ入り。家人進藤三左衞門正次といふ者たゞ一人附從へり。正次秀家にいふやうは。日ごろ君が御身に附られし烏飼國次の脇 差は衆人の知る所なれば。これを某にたまはらば。某  德川殿に參りはからはん樣あり。御身はいかにもこの地を遁れ薩摩がたへ下り給へとすゝめて。正次か の脇差もて本多忠勝が陣に參り。某主の秀家を手にかけその死骸をば深くうづめ。差料の烏飼國次の脇差を持參したりと申せば。忠勝何ゆへ撿使をうけずして。 ひそかに秀家が尸をうづめしといへば。正次厚恩の主なればたとひ手にかくるとも。いかで其首敵に渡し梟木にかけむや。抑此脇差は秀家が常に愛して身をもは なさゞりしことは。  內府公にも知しめせば。御覽にいれ給はれといふ。忠勝これを御覽に入れしにまがふべくもあらず。かれ秀家を害せずばよも  當家に 降ることはあるまじとて御家人に召加へらる。其頃人人。主を害して己が功にせむとす。後にはいかなる御誅伐にあはむもはかりがたしと咡きけり。さて秀家は 虎口をまぬかれ。からうじて薩摩へ下りけるが。後にそのよし聞え。かの國に仰ごと下り秀家をめしよばる。よて正次が前言の齟齬せし事を糺明に及びしに。正 次承り。いかにもはじめは秀家を遁さしめむとて詐言を申せしなり。主の爲にこの身を失はむは元より期したる所なれば。この上はいかなる重科にも處し給はれ といふ。この旨聞召。己が一命をすてゝ主をすくはむとせしは。あつばれ忠義の者かなと御賞詞ありて。ありし月俸をそのまゝ賜はりたり。秀家が八丈島へ遠流 せられし後も舊恩を忘れず。しばしば海舶の便に米金を送るよし聞えしかば。これも御感にあづかり采邑五百石賜はりしとなん。(武家閑談。寬永系圖。)
按ずるに家譜には。初正次秀家に從ふこと三日にして。その後は行衛を知らずといひ。又仰により關原の邊にゆき國次の刀を求め出て獻り。後に秀家薩州にある と聞えてめしよせられ。正次が事を御糺しあれば。かれ秀家にしたがふこと五十日あまりなりといふ。しかるを三日といひしは。全く主のためをおもひ詐言をい ひてその期を延せしは。げに忠臣といふべしとて御感ありしとなり。おほかた本文とおなじ樣にして。いさゝか異なり。こゝに附記して一說に備ふるのみ。
大津の城巡視ありしに山岡道阿彌御供にありて。此度京極高次上方の大敵を引うけ。數日の防戰感ずるに堪へたり。たゞ一日を持かゝへずして明退しは。近頃殘 多き事なりと申せば。何と仰らるゝ旨もなく。たゞ奥平九八が長篠籠城の折は此樣の事にてはなし。戰終て後見たりしに。壁は土をふり落して籠の如く。戶板は 鉛丸にうちぬかれて障子の如くなるを。莚疊をたてかさねなどして持こらへたるはと御物語ありしとなり。(太平雜話。)
本多佐渡守正信  中納言殿の御供して。二條の御城にて謁し奉りし時。石田三成が息。妙心寺のうち壽性院が弟子になりて。すでに幼年より釋徒にも成てある 事なればゆるし給はれとかの住持はじめ一山の僧共願ふよし御物語あれば。正信承りそれは早く御許あるべし。三成は 當家へ對し奉りてはよき奉公せし者なれ ば。そが子の坊主一人や二人たすけ給はるとも。何のさゝはりかあらむと申す。  君三成が我に奉公せしとはいかにと咎め給へば。正信さむ候。こたび三成妄 意にかかる事企てずは御勝にもならず。 當家一統の御代にもなるまじ。さすれば治部は 當家への大忠臣と存ずれといへばほほゑませ給ひ。おかくずもいへば いはるゝものとの御戱言ありしとぞ。(靈岩夜話。)
按ずるに此石田が子の僧。其願のまゝ助命ありて。後には濟院和尙といひて泉州岸和田に居しが。年老て後は岡部美濃守宣勝ゆへありて。よく扶助して終りをとりしとなり。
關原の役すでに終て大久保治部大輔忠隣。本多佐渡守正信。井伊兵部少輔直政。本多中務大輔忠勝。平岩主計頭親吉の人々をめし。我男子あまたもてるが。いづ れにか家國を讓るべき。汝等おもふ所をつゝまず申せとの仰なり。正信は三河守殿こそ元よりの御長子といひ。智略武勇も兼備はり給へば。此殿こそまさしく監 國にそなはらせ給ふべげれと申す。直政は下野守忠吉卿然るべしといひてやまず。其外もまちまちにして一决せず。忠隣一人爭亂の時にあたりてこそ武勇をもて 主とすれ。天下を平治し給はんには。文德にあらでは大業守成の功を保ち給はんことかたし。  中納言殿には第一御孝心深く。謙遜恭儉の御德を御身に負せら れ。文武ともに兼ね備らせたまへば。天意人望の歸する所このうへにあるべしとも思はれずと申し。其日はそのまゝ何とも御沙汰なくして各退去せしめられし が。一兩日過て先の人々をめし。忠隣が申す所吾が意にかなへりとて。遂に御議定ありしとかいひ傳へし。  抑中納言殿年頃儲位におはし。御官途も外々の公 達より進ませ給ひ。すでに關東へ御遷ありし時。諸臣及寺社等へなし下されし御書は。  皆中納言殿の御署狀なれば。儲位の定まらせ給ひしはいふまでもな く。その比より旣に御位をも讓らせ給はむ尊慮にてありしなれば。この時に臨みかゝる異議おはしまさんにもあらねど。關原御凱旋天下一統のはじめなれば。な ほ群臣人望の歸する所をこゝろみ給ひしものなるべしと。恐察し奉る事なれ。(武德大成記。烈祖成績。)
この戰終て後しばし大坂の西丸におはしまし。井伊。本多。榊原の人々して此度諸將の勤怠を糺し。忠否を明にせしめ。天下の機務を議せしめられ。本多上野介 正純して訴訟のことを司らしむ。又この人々を  中納言殿御方に進らせ。此度の闕國もて有功の者に宛行むとす。さるにてもまづ御居城をばいづくに定め給は むか。江戶をもてその所となされむかと御意見を訪はしめたまふ。  中納言殿御答には。某年若くして何のわきまへか候べき。天下を經理せむにさりぬべき所 をもて御居城と定め給ふべきか。しかればいづれも盛慮にまかせらるべしとなり。よて遂に江戶をもて御本城となし。秀賴をば大坂に居らしめ攝津河內の兩國を 授けられぬ。其比老臣等申上るには。こたび逆徒等秀賴が名を借て大亂を起せしも。全く坂城の險要をたのめばなり。このまゝさし置れば。後々とても同じ姦計 おもひ立もの。出來むもはかりがたしと申せば。  君秀賴元より幼穉にして何事をかしらむ。さるを今當城を追のけて他所に引うつさば。天下において利あり とも。われ何ぞこれをなすにしのびむやとてきかせ給はず。片桐市正且元をもて秀賴が輔導たらしむ。かくてぞみなその公平仁慈の御處置に感服して。天下一同 安心せしとぞ。(武德大成記。)
福島左衛門大夫正則は此度の大功により。安藝備後の兩國を賜はり。はじめて襲封を謝し謁見せし時。家長三人も謁をゆるさる。第一備後神邊の城主福島丹波 は。片足なへて進退思ふ樣ならず。第二同國三好の城主尾關石見は兎缺なり。第三同國本條の城主長尾隼人は一眼なり。(一說隼人は長みじかく耳遠く。左手き かずといへり。)いづれも片輪なれば御側に侍せし者思はずに咲出ぬ。謁見終りて後御けしきあしく。汝等かの三人の不成なるを見て咲たるな。凡人はいつの時 いかなる働して片輪にならむもはかりがたし。かの三人は武勇の譽たかき者どもなれば。正則が家にても追々に家長にまで取立られ。  家康が目通にも出ると あるは。なんじやう榮耀の事ならずや。されば汝等が悴心には彼等にあやかり度と思ふべきなり。さるまことの心付なきゆへ咲も出るなれ。惣じて武士は生れ付 ぬ片輪になるものよと覺悟をきはめねば。武功はなし得ざるものなれ。我心には彼等をば。汝ごとき若者には煎じても飮せたく思ふなりと御教諭ありしかば。人 々何事に付けても尊諭のかたじけなきことゝかたみに感じ思へりとぞ。(岩淵夜話。校合雜記。)
土方勘兵衛雄久。大野修理亮治長の兩人も本領安堵を命ぜらる。この兩人は先年大坂の奉行等が內意をうけて君を害し奉らむとはかりし者どもなれば。此度そが 一命をたすけらるゝだにあるを。本領安堵とはあまり寬典に過たると申者ありしに。いやとよかの兩人奉行の指揮をうけて。  家康をだに害せば。秀賴が爲に ならんと一すぢに思ひこみしは。我に對しての敵なれど。秀賴がために忠臣といふべし。まして今度修理は淺野幸長に屬して岐阜の城をも攻め。又關原の戰には わが本陣に伺公して。石田が備へ矢の一すぢも射かけ度と幸長もてこひ出。敵方に名あるものをうちとり頗忠勤を抽でぬ。雄久も小山より我使を奉りて北國に赴 き。前田利長と共に諸事を相議し。わが爲に馳廻り一かどの微功なきにあらず。古人の舊惡を思はずとこそいひしに。ましてかの兩人の所爲秀賴が爲を思ひしな れば。舊惡といふにもあらず。かたがたその功を賞すべきことなりと仰られき。漢の高祖が丁公を誅して雍齒を賞せし故事よりも。なほ寬宥の御所爲ははるかに まさらせ給ふと。人みな仰服し奉りしなり。(岩淵夜話。)
淺野左京大大幸長は此度の戰功によて。甲斐の國を轉じて紀伊國三十七万石に封ぜらる。就封のゝち後藤庄三郞光次暇給はりて。熊野祠へ參詣して還り謁せし 時。汝は熊野のかへさは幸長が許へも尋ねしや。幸長何をもて汝をもてなせしと問はせ給へば。さむ候幸長紀伊河と申す所へ舟行せし供に參り。網引し魚など捕 なぐさめ申し候。又山狩鷹狩に出し折も參りしが。これはいと目ざましき見物にて候ひき。それにつきたゞ某が思慮の及ばぬ事の候。はじめの度は雉子山鳥ある はむじなの獲物多かりしかば。さだめて歡喜ならむと思ひしに。其日はさむざむ腹立て。勢子奉行はじめすべて役懸の者みな勘事に逢ぬ。次の度は何の獲物もな ければ。さだめて不興ならむと存ぜしに。おもひの外心地よげにて。諸役人殊に出精せしとて。慰勞の餘それぞれに賜物とらせぬ。これぞ今に考へ得ぬ事にて侍 れと申ければ聞召。汝等が思慮には及ばぬ筈なり。幸長が所爲は眞の鷹山にて。物數の多少による事にてなしと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長五年二月廿八日  今上(後陽成院。)第二の皇子政仁(後水尾院。)親王宣下あり。御母は近衛信尹公の女之。帝かねて御寵愛ましまして御位をゆづり給 はむとおぼす。しかるに是よりさき中山大納言親綱卿の女の腹に生れさせたまひし第一の皇子良仁(後仁和寺覺深法親王。)を。親綱德善院法印玄以と相議し。 豐臣太閤にこひて菊亭右府晴季公もて奏聞し。先立て親王宣下ありしにより。ひきこして政仁を坊に立給はむこともはゞかり思召けるが。このころに至りその事 內々仰せ進らせられ。御內慮をはからせ給ひしに。  君もかねて良仁を親王にせられし事よしとも思召ざれば。御答の趣には。子を知るは父にしくはなしとい ふは古今の通議にて侍れ。臣もまた男子多くもてり。何れをもて嗣子とせむも臣が思ふ所にありて。他人の議すべきにあらざれば。  朝家においても一二の皇 子いづれをもて皇嗣に定め給はむも。みな叡慮にこそまかせらるべけれ。但し第二の皇子は槐門のよせ重くおはしませば。坊に居給はん事しからむかと御奏聞あ りしにより。天感なゝめならずして。遂にその議に决せられしとぞ。(武德大成記。)
關原の御一戰に上方の凶徒すでに天誅に伏し。四海一統して 當家の御威德を仰ざる者なし。然るに年へてもいまだ將軍宣下の御沙汰なければ。  內よりも御 けしき給はり。諸大名の中よりもよりよりいひ出しものもありしとか。其比藤堂和泉守高虎。金地院崇傳侍話の折から何となくこの事いひ出。世にははや將軍宣 下の慶賀聞えあげむなどいふよし申しければ。  君聞かせ給ひ。さる方の事はいそがぬ事ぞ。只今さし當りては天下の制度をたて。萬民を撫育して安泰ならし めむこそ急務なれ。まして諸大名どもゝ國替所替等にて。いづれも多事なるに。我一人己が私をはかるにいとまあらむやとて。御心にもかけ給はぬ御樣なれば。 兩人御謙德の厚きに恐感して退きしとなん。(落穗集追加。)
慶長六年十月伏見を御立ありて。あくる十三日江州佐和山に着御あり。城主井伊兵部少輔直政は頭役の者ども引つれ。中門番所に出てまちむかへ奉る。御輿ちか くなればいづれも平伏してあるに。足輕の中に一人首をもたげて。何事やらん聞えあげたり。通御の後直政が頭役の者糺聞せしに。その足輕すゝみ出て。御糺ま でも候はず某にて候。年久しく見え奉らざれば。久々にて御目に懸るといひしのみなりと申す。頭役いよいよ驚愕し。これ全く狂人の所爲なれ。いかゞせむとて 同僚と相議してある所へ。本丸より中門の番頭よびに來れば。さはこのことならむと思ひ。そのものゝ腰刀もぎとり番人附て警めよといひ捨て馳ゆきしに。直政 さきに通御の折から。  上へ向ひ。御久敷と申上げし者のあるを承らずやといへば。さん候。しかじかのよしにてその者いましめ置きぬといふ。直政いやさる 事にあらず。その者に知行あたへよとの上意なれば。新知百石申付るなり。番ゆるして家に歸らしめよとあれば。番頭は思ひの外にてまづ安心し。立ち返りてそ の事申渡す。直政かさねて御前へ出でしに。かの足輕には何ほど知行とらせしと御尋あれば。百石遣はしぬといふ。  君御頭をかゝせられ。よくよく役にたゝ ぬやつならむと仰られしとぞ。この足輕は直政がいまだ年若くて御小性勤め。寵眷ふかゝりしころ。御庭ちかき邊に直政が家居作らしめ折々渡御ありし時。この 者も直政に給事して御前へも出でしゆへ。  上にも御見覺ありてこたびその舊故をおぼしめし出て。かくは仰下されしなり。(天元實記。)
慶長六年十二月關西の諸大名に課して京二條を營築せしむ。その折城溝の狹きにより二間堀廣げしむ。池田三左衛門輝政。加藤左馬助嘉明等は今少し廣くせむと 申上げしに。いやこれにてたれり。もし世變出來てこの城せめ圍るゝとも。しばしがほどはもちかゝゆべし。そのうちには近畿の城々より後詰も來り。とかうす るうちには江戶より大勢はせ上るべし。さらばせばきと思ふがよし。萬一敵にせめとられし時。味方より取返さむにも便よし。功力をついやすに及ばずと仰られ ぬ。又ある時の仰に。堀は幅をせばくほり。下には鎗を振廻さるゝほどにするがよし。又城の方をなぞへにむかひを急にすべし。水のある堀もせばくて船の自由 にならぬほどがよし。寄手へ鐵炮のちかくあたるもよし。江戶の西丸の外堀は廣くほり過ぎたりとて。其ころ御不興なりしとかいひ傳へし。(古人物語。)
二條にて御物語の次。當時天下には加藤肥後守淸正に及ぶ者はあるまじと宣ふを。折しも本多佐渡守正信空眠して居しが目を見開き。殿は誰が事をほめ給ふかと いへば。加藤肥後がことよと宣ふ。そは太閤が時に虎之助といひし小悴が事かと申せば。肥後が事を知らぬ者やあると仰せらる。正信某年老いて物忘れすること のうたてさよ。されど  殿は信玄謙信始め數多の名人の上を御覽じつくされし御目にて。加藤などのことほめ給ふはいかにぞや。さるにても加藤が爲には上な き名譽なれといへば。肥後が事はわれよくしれり。當時西國のことまかせ置ぬれば心安けれども。かれには一つの疵あればひたぶるにたのみがたしと宣ふ。正信 何事にて侍るかと申せば。物にあやうきこゝろあり。今少し心落付ば實に立幷ぶものはあるまじと宣ふ。正信上意の如くあやうきこゝろありて。剛氣に過しは大 なる疵なれ。武田勝賴もかゝる癖ありしゆへ。遂には國をも失ひしなれ。おしむべしべしといふ。折しも末座に京の商人など陪して承り居しが。後に淸正に告げ 知らせければ。淸正さては  君には我を心あやうきものとおぼすよと心付て。これより物ごと愼密にして持重になりしとなり。後年正信が子上野介正純この事 を父にとひければ。正信こは實に淸正をほめ給ふにあらず。そのころ  當家草創の比なれば。彼もし鎭西の人々にすゝめて。秀賴に與黨せしむるならばゆゝし き大事なれ。彼のあやうき心なくばと仰せられし御一言を承りしより。彼何となくおもりかになりて。生涯過誤なくて果てしなり。これ  君の御智略の深遠に して。凡慮のはかり知るべきにあらず。それをたゞそのこととのみ思ひて我にとふは。汝が智慮の淺きとやいはむ。その心にては天下の機務をとる事がなるもの か。よくよく工夫せよと諭しけるとぞ。又正信後には淸正としたしくなりしに。ある時正信內意をうけて淸正に諷諭せし事三箇條あり。第一は當時西國の諸大名 みな浪華に着岸すると直に。駿河江戶に參覲する事なるに。淸正はいつも大坂に數日とゞまり。秀賴の起居を候してのち東國へ參覲す。それにも及ぶまじ。第二 は近頃諸大名參覲の折。從兵も昔よりは减少せしに。淸正は以前にかはらず多勢を召具するは目立ちていかゞなり。第三には當時淸正が樣に面に鬚多く生し置く ものなし。謁見の折など異樣に見ゆれば。これを剃落さればいかにとなり。淸正きゝて。この三條御邊の詞をまつにも及ばず。某もかねて心づき。世の譏評にも ならむかと思ひつるが。さりとて又改めかぬる事どもなり。御邊も知らるゝ如く某はじめは故大閤の拔擢によて肥後半國を賜り。 當家になりて小西が舊領をま し賜はり。一國の主となりしは。 當家の御恩はいふまでもなけれど。そのかみ舊恩うけし太閤の御子のおはす所を。よそに見て空しく通らむは武士の本意にあ らざれは。今さらこの事やめがたし。次に參覲の陪從を减ぜば。費用も省き家臣もよろこぶべき事なれども。西國の大名常は在國して。御用の折のみ召るゝなら ばともありなむ。近頃のごとく交代して參覲するからは。何ぞ臨時に御用仰付られむもはかり難し。さらむには領國遙に隔たりて。國許の人めしよばんに急遽に は來らず。すこしなりとも當地に有合ものどもにて御用を辨ぜむ爲に。餘人よりは多くめしつるゝなれば。これまた减じがたし。三つには頰鬚すり落さば我もさ ぞ心すゞしくなりなむと思へども。年若きよりこの鬚に頰當をし甲の緖をしむるに。その心地よさいふばかりなし。今かゝる御治世に出逢ても。心地よさの忘れ がたさに。思ひ切て剃り落しがたし。御邊が懇志もていはるゝ事を。一條も承引ぬとありてはいかゞなれど。今も申すごとくなればよく聞き分けて。あしからず 思はれよといひしかば。正信思ひの外にてその旨言上せしに。淸正がいひごとかとばかりにて咲はせられしとなん。 (駿河土產。)
慶長十年  台德殿より淺野彈正少弼長政に。常州眞壁にて四万石。江州愛知川にて五千石下されけるを。長政あながちに辭し奉れば。長政を召して。此度の賜 地を辭するは汝が一代の不思案なり。嫡子紀伊守こそ大國を賜てあれども。右兵衛采女の兩人もあるにいらざる謙退ぶりかな。  將軍よりくるゝとあらば。な に程も貰ひ置て。子孫の爲にせよと上意ありしによて。其明日御請を申上しとなり。(天元實記。)
この卷は關原御勝利の後慶長十年ごろまでの事をしるす。
東照宮御實紀附錄卷十二
慶長十年四月征夷の職御與奪ありて  將軍家は江戶におはしまし。  君には駿府の古城を御修理ありて御居城とせられ大御所と稱し奉る。その頃皆朱玳瑁の 鎗は。殊さら武功の者ならでは持しめまじきよし仰出されしに。此度修理奉る細川越中守忠興が丁塲のうちに。皆朱の鎗持せしもの。菖蒲皮の立付をはきて。下 吏三十人ばかりめしつれて指揮するものあり。目付の輩みとがめてその名をとふに。細川がうちに澤村大學なりと答ふ。よてその事聞えあげしに。その澤村は若 き折は才八といひて。小牧の役に太閤二重堀に砦をかまへ。あまた人を籠置しに。われ長久手の戰にうち勝ちしかば。太閤も二重堀たもつ事ならで退かむとしけ れども。もしわが小牧より追討む事ををそれ。みづから數万の兵もて靑塚といふ所にそなへ。二重堀を明けのくを。織田信雄追うちして彼軍敗北せし時。細川越 中一人後殿して信雄が軍と戰ふ。その時この澤村一番に鎗を合せしをわれまのあたり見及たり。かゝる剛勇の者に皆朱玳瑁の鎗は持しめむがためにこそ。なみな みの者には禁ずべしと令じたるなりとの仰により。大學は大に面目を施し。かしこさ身にあまり感泣せしとぞ。(天元實記。)
御隱退の前かた  將軍家へ仰進らせられしは。小身の旗士へはわきて目をかけてめしつかはるべき事なり。同じ大名といふうちにも。三河以來の譜代より拔擢 せられ万石につらなりし者は。  當家と興亡を共にすれども。外樣國持の輩にいたりては。各そが家を大事と思ふからは。時にしたがひ勢につき。たゞ家名の 長く存せむことをもて主とするは古今の常態なれば。これまたふかくせむるにたらずと宣ひしとぞ。(駿河土產。)
駿府へ移らせ給ひし年の十月江戶へおはして。これまで江戶の西城に貯へ置れし黃金三万枚。銀子一万三千貫目をそのまま  將軍家へ進らせらる。その時江戶 の老臣へ仰ありしは。これは御身の奉養にもちひ給はず。天下の物と思召て此うへにも積貯へ給ふべし。平常の國費は年每の入額もて辨じ。成だけ浮費を省き金 貨を多く貯へ給ふべし。かく貯へ給へといふは何のためなれば。第一は軍國の費用に備へ。第二は不虞の大災にて。御居城はじめ城下の士民まで燒亡にあひて艱 困せむに。これを賑救あらむがため。第三は日本國中に守護地頭を建置て。万民飢渴せざらん設はあるなれど。またいかなる凶荒打續てそが力も及ばざる時に は。上より守護地頭に力をそへて。それぞれに頒布して救荒の政を施されむがためなり。これぞ天下の主たる者の本意なれ。かゝるをもて當年の入額何程餘分あ りとも。あだに心得てさまで功績なき者に。みだりに新地與る事あるべからず。  將軍にはいまだ年若き事なれば。このゝち男子いくばく出生あらむもしれ ず。これまでわが末子にとらせし祿額もあれば。  將軍の子達もこれに准じ。五万七万ばかり遣はしては國體においていかゞなり。故に天下の祿額のかねて减 ぜぬ樣にいたし置事經國の第一なり。その旨よく心得て。將軍にも申上よと仰せられしとぞ。(駿河土產。)
これも御隱退の前かた。江戶より本多佐渡守正信御用奉て駿河へまかりし時正信に仰られしは。我若年の時は軍務繁多にして學問するいとまなし。よて生涯不學 にして今此老齡に及べり。さりながら老子がいひし詞なりと人に聞置しは。足る事を知て足る者は常に足るといふ詞と。仇をば恩をもて報ずるといふ二語は。若 きほどより常に心にとめて受用せしなり。  將軍にはわれと違ひかねがね學問もせらるゝ事なれば。さだめて聖賢の格言どもあまた心得てあるべければ。この 語のみをもちひられよといふにはあらざれども。汝等が心得までにいひ置なりと宣へば。正信感銘して江戶にかへりそのよし申上げしかば。  將軍家直に御硯 をめして。御みづから右の二語を記し給ひ。御座右に糊して置せ給ひしとぞ。其後また金地院崇傳に命じ。この語を大書せしめて平常の御座所にかけ置れて常々 御覽あり。その御親筆はゆへありて內田平左衛門正世が所持せしを。  大猷院殿聞し召てその子信濃守正信に仰下されて。御取よせありて御床にかけられ。麻 の上下めして御拜覽ありしとぞ。(駿河土產。)
江戶老臣のうち誰にてかありけん。江戶より御使奉りて駿河へまかりしに。御前近く召れ。汝は  將軍の心に叶ひてつかはるゝと見えて。此度も使に越されし な。おほよそ主の心にかなふはいとかたき事なるに。かくめみせよきはかしこき事なり。かゝるに付ても汝が心懸また第一なり。すべて大小の諸臣をして  將 軍へおもひつかしむるも。又怨をふくましむるも。みな汝等が心ひとつにある事なり。第一主人の氣に入り威權の歸するにしたがひて。驕奢の心いつとなく出來 る者なれば。わが身の尊くなるにしたがひ。いよいよ愼謹にして物ごと粗略にすべからず。また人を推薦するにもいさゝか私意なく。その人品の邪正をたしかに 見定めて。性質良忠にして奉行頭人にもなるべき器あらば。我と中あしくとも私隙をすてゝこれを登庸すべし。第二は重役のくせにてをのれ一人して万事を沙汰 し。人には何もいはせぬ樣にしたく思ふ心の出來るものなり。この心あらば何程聰明にして才幹ありとも甚害あるものなり。これを物にたとへば。舁夫の駕輿を かくに。其長同じ程の者が二人あるうへに。また添肩の者がありてこそ。長途險所をもかき行なれ。いかに剛力なりとも一人して輿かくことはかなはず。その身 の長短つり合ねばあやうき事なり。天下國家を治るは上もなき重荷なれば。その重荷を持こらへて落さゞらんために。數多の諸役人を建設け。それぞれの位祿を も與へ置なり。さるををのれ一人して主の對手になりて擔當せむと思ふは。大なる心得違なれ。舁夫に添肩のあるがごとく。よき老臣あまたあつまり。奉行頭人 もそれぞれ任にかなひ。何事も思ふ所をつゝまずうち明て相議し。殊さら善とおもふ事をとりもちひば。万民も歸服し天下長久の基なれ。すべて和漢とも世々の 名臣といはるゝものは。一己の功を建むとのみ思はず。賢哲を撰み材能をすゝめて。主の資とするをもて第一の急務とす。汝等常々この旨同僚と相議し。輔導の たすけあらむ樣に心がけよと仰られしとぞ。(駿河土產。)
駿河にて宰相賴宣卿の邸へ渡御あるべき御あらましなりしころ。土井大炊頭利勝はいまだ御側近くつとめしころなりけるが。此度の事により彼邸にまかりて。安 藤帶刀直次が諸事指揮する樣見習へと仰付られ。利勝日每に彼方にゆきて見しに。諸役人帶刀が前へ出て。このことはいかゞせむと議するに。己が意にかなふこ とは領承し。かはざる時はいやあしゝとばかりいひて何の指揮もせず。よてその者同僚と重議せしうへにて出てうかゞふに。又意にかなはざれば幾度もかくのこ とし。終に允當を得て後許容することなり。利勝おもふに人の物をとふにあしとばかりいはむより。直にかくせよと指揮あらばそのこと速に辨ぜむといふ。直次 某犬馬の齡すでにたけて。このうへは死なむのみなり。かく諸役人を遇するは。若き殿に人物を作りなして進らするなり。我指揮をうけてさへすればすむとのみ おもへば。人々何事にも思慮を用ひず。万事未熟にてよき人物は出來ものなりといひしをきゝて。利勝大に感じ。こゝが  君の見習へと仰られし所ならむと心 付。後々機務を司るに及びて。下僚より議する事あるとき。わが意に應ぜざれば。そはさる事なれどもまた何とか仕方もあるべきか。同僚に相議してかさねてい ひ出られよ。同僚にて辨ぜずば親族または家臣とも商量して申されよとありて。いよいよ評議をかさねて理にかなへば。いかにも尤之。その通にてよしといひし とぞ。これも  君の御教諭によりて。利勝後に天下の良佐となりけることゝ人々感歎せり。(古諺記。)
何役にや欠員ありし時土井大炊頭利勝をめして。何がしは人物性行いかにと御尋あり。利勝承り。その者は常に臣が方に出入せざれば。人物の善惡聞え上がたし と申す。  君聞し召し御けしき損じ。なべて諸旗本の善惡を知らぬといはゞわが非理なれ。いまとふ所の者はさのみ人にしられまじき程の身分の者にてもな し。さるをしらずといふてすむ事か。汝等は家人の善惡を常に見定めて。わが用ひん時にいひ聞かするが主役なれば。いづれにもしらずといふ事を得ず。汝を かゝる心かけの淺露なる者と知らで。年若ながらも用にも立むと思ひて。老職に登庸せしはかへすべすもわが過誤なれ。よくよくかうがへて見よ。惣じて武邊の 心懸ふかく志操あるものは。上役に追從せぬものぞ。されば重役の許に出入せざる者のうちに。かへりて眞の人物はあるなれ。そが中にて人材を撰ぶこそ忠節の 第一なれ。いま雜庫のうちに名高き刀劍埋れてありときかば。たれもほり出しわれにしめしよろこばせんと思ふべし。刀劍は何ばかりの名作といへども治國の用 にたゝず。我常にいふ所の寳の中の寳といふは。人材にしくはなしといふ語を空耳にきくゆへ。かゝる卒爾の對をもすれ。汝等が方へ朝夕立入りして相知れるも のばかり出身するならば。諸人の心立次第にあしく。みな阿諛謟侫の風になりはてん。おほよそ家國の體は人の一身の如し。人身の元氣衰ればかならず死するご とく。大名の家にても人々耻を知り義を守るは一藩の元氣なり。諸人の義氣うすくなり。鼻はまがりても息さへ出ばとおもふ樣になりゆき。主の恩をかしこしと もおもはず。たゞ眼前をよくとりかざり。互に觀望するをもて巧智とし。人心次第に澆漓して家法の頽敗するにいたりては。遂に亡滅の基引出すなり。汝が只今 の失言はさしゆるすといへども。この後はきとつゝしみていさか粗忽のことなく。わが命をよくよく遵守せよと誡め給ひしとなり。(岩淵夜話。)
一とせ尾張國御通行の時。薩摩守忠吉朝臣に御所望ありて。その國の鍛工のきたひし小刀剃刀の類を供奉の面々 へ下されけり。その時朝臣むかしよりこのかた 御武邊の御物語うけたまはり度よしを仰上られければ。古きはなしをきゝ度とある心懸ならばよしと宣ひしのみにて。别におはなしはなかりしとぞ。(駿河土 產。)
慶長十一年江戶の城改築ありしとき。藤堂和泉守高虎をめして。泉州老練の事なればよく參議し。思ふ所つゝまず申さるべしとありて。指圖を出され高虎と共に 御覽じ。この所はかくかしこはかうよとて。御みづから朱墨もて引直したまひ。おほよそ城取といふものは。あながち人の才智もて作り得るものにあらず。その 地勢に應じ自然と出來るものなりと上意ありて。その圖定まりて後  將軍家にも見せ奉れと仰ありて御覽に入れしに。つばらに御覽じ。申樣もなき經營の御規 摸かなと御感賞あり。その後諸大名に課して經營をはじめられ。竣功の後殊更に高虎が勞をねぎらはれ。加恩の地二万石賜はりしとぞ。(藤堂文書。家譜。)
慶長十二年三月薩摩守忠吉朝臣江戶にて病卒ありし時。近臣稻垣將監。石川主馬。中川淸九郞など追腹切しと聞しめし殊に御けしきあしく。江戶の老臣共は何と て制せざるぞ。制してもきかずば。  將軍へも申しおごそかに咎申付べきにと上意ありて。かさねて仰けるは。おほよそ殉死は昔よりある事なれどいとえうな き事なり。それほど主を大切に思はゞ。己が身を全うし後嗣につかへ忠義をつくし。萬一の事あるにのぞみ一命をなげうたむこそ誠の忠節なれ。何にもならぬ追 腹きるは犬死といふものなり。畢竟は主のうつけにてかねて禁じ置ざるゆへなりと宣ふ。このよし江戶へも聞え。その閏四月越前黃門秀康卿北の庄にて卒去あり しとき。  將軍家よりかの家長等へ御書をたまはり。第一殉死をとゞめられ。駿府よりも同じ旨仰下さる。その大略は。黃門卒去あられしにより。殉死のもの あらむと聞召及ばれぬ。一旦の死はやすく後嗣を守立て節をつくすはかたし。北の庄は北國樞要の地にして國家鎭禦の第一なれば。黃門へ忠義をつくさむと思ふ ものは。一命を全して後命をまつべし。ゆめゆめ無益の死を遂べからず。もし此旨違背においては子孫までも絕さるべしと仰下されしなり。この御書いまだ彼地 に到着せざる前かた。永見右衛門。土屋左馬助などいふ黃門の近臣死せしのみにて。その餘は殉ぜしものなかりき。かくかねがね嚴禁ありしゆへ。  君大喪の 折も  台德院殿御事の時も一人も殉死はなかりしなり。(駿河土產。慶長見聞書。貞享書上。)
薩摩守殿卒せられし時  君は伊豆の三島におはしけるが。江戶より土井大炊頭利勝御使してかくと聞え上しに。さこそ御痛悼おはしまさむかと思ひけるに。頃 日の病體にてはさもありなむと仰ありて。例のことく鶴の𦎟作れ鷹野にも出むとて。さして御悲歎の樣にもおはしまさず。天海僧正にがにがしき事と思ひなが ち御前に出て。薩摩殿の御事によてさぞ御歎おはしまさむかと思ひつるに。かゝる御けしきにては愚僧までも安心なりと申す。  君又われはたゞ  將軍の親 弟を失ひて哀戚あらむかと。是のみ心にかゝると仰られしなり。秀康卿卒去のときはかへりて御愁傷申ばかりなし。こは薩摩殿はかねてより病體さはやき給ふま じと思召定めらしれゆへ。大事に及びてもさまで御哀痛もなく。秀康卿元來御長子といひ。且度々軍陣の御用にも立せられ。今はまた北國におはして常にとほど ほしくのみましませしうへに。薩摩殿卒後いまだいくほどなく。さしつゞきこの卿もうせたまひしゆへ。とりあつめ一しほ御愁悼深かりしならむと人々思ひはか りしとなむ。(池田正印覺書。駿河記。)
秀康卿の病中にかねて。佐の局とて  君にもしろしめしたる女房を駿河に進らせられ。秀康こたび重病にかゝりとても世にあらむものとも思ひ侍らねば。うち うちこのよし仰進らせるゝなり。  君聞召驚かせ給ひ。わが子多き中にも秀康は長子といひ。殊更勇烈にして度々軍功もありしものなり。さるをたゞ越前一國 のみあたへ置ては本意ならず。此度の病平愈せばその祝儀として。近江下野のうちにて二十五万石ましあたへ百万石になし下されむ。汝とく越前にかへりこの旨 申聞て。慰めよと仰ありて。御書付を下されければ。局は夜を日についでいそぎ立かへりしが。三河の岡崎にて卿の告をきゝ。又駿河に引かへし御前へ出しに。   君にはこの折棋を圍みておはせしが。聞せ給ふと御愁悼の樣かぎりなし。局はかの御書付を取出して。こは大切の御書なれば返し奉るとて上れば。女ながら も心きゝたる者よとて受取せ給ひしとぞ。かの藩士等は內々この事きゝ傳へて。いらぬ女の利發だてよといひけるとか。(天元實記。貞享書上。)
慶長十三年十二月武州河越に御鷹狩あり。その頃新庄越前守直賴は剃髮して宮內卿法印とて御供せしが。直賴に仰ありしは。近ごろ下總國の海上に一人の隱者あ りときく。いと淳直の者にして華飾なく財利をむさぼらず。常に一瓢を軒にかけ里民の贈與をまちて食とす。もし瓢中むなしきときはあながち求ることなし。氏 姓をきくにたゞ三好家の者とのみいらふ。直賴が父藏人直昌は先年攝津江口の戰に討死す。其始末かれ定めてしりつらん。汝ゆきてとひ來るべしと仰ありしか ば。直賴かの海上にゆき隱士の家求めいでしに。七十あまりの老僧法華經を讀誦して居たり。名は惣歸居士といふ。直賴其庵に入りて對面し。四方山の物語きゝ し序にかの江口のこといひ出て。新庄といふ人の討死の樣及び其家人の首級實撿せし事などかたる。直賴もおもはず淚をうかべ。その新庄といふ人こそわがなき 父直昌が事なれ。さて又御邊が姓名は何といはるゝかと問ひしに。隱士もいと驚歎の樣にて何とも名乘らず。直賴またその時。金の采配取て三軍を指揮せし武者 ありときゝしは。誰が事なりといへば。これぞ某が事なれとばかりにて終に姓名をかたらざられば。直賴辭して河越にかへりその旨申上しに。  君も甚御感あ りしとぞ。(寬永系圖。)
駿府にて淨土法華の宗論起りて旣に對决に及ばむとす。まづ法華僧を御前へめして。汝明日の對决にかちなばゆゝしき眉目なれ。さて負たる淨土僧をばいかゞす べきやとたづね給ふ。僧申すは。かの首刎られその宗を絕し給はゞ。かさねて宗論起りて上裁を勞する事もあるまじきなりと申す。また淨土僧をめして同じ樣の 事とはせ給ふに何とも御請申さず。しひてとひ給へば。宗論の起るも各の祖師を尊信するゆへなり。彼等が負候とてあながち御咎にも及ぶまじ。そのまゝにさし 置れてよからむといへば。御けしきかはり。我かく切問するに汝實情を白さぬかとなほなほ責問給へば。さらば宗論に負しは其宗の耻辱なれば。三衣を脫せしめ たまはんのみといふ。こゝにおひて御けしき直り。かの僧神妙に思召御膳を下されまかでぬ。後に近臣に明日の論にはいづれがかたむと汝等は思ふと上意なれ ば。いづれも决しがたしと申す。仰に必淨土かちなむ。いかむとなれば日蓮僧は淨土にかたばその首を刎よとは。そが邪念より起りて釋德に似つかはしからぬい ひ言なり。淨土は三衣を脫せむのみといふ。これ出家相應の答なり。故に淨土かたむと思ふなりと宣ひしが。果して明日宗論はじまりしに淨土の方かちぬ。人々 御明察にして御詞の露違はぬに感じ奉りぬ。この後はいたく宗論を禁ぜられしとぞ。(校合雜記。)
蜂須賀家政入道蓬庵が駿城にまうのぼりしとき。さいつころ秀賴公のけしきうかゞはむため坂城に參りしに。大野修理亮治長密に申けるは。入道には故太閤の厚 恩うけられし事は。今において忘却はあるべからず。此のちとても万事たのみ進らするよし物語候ひき。かゝる事入道のみ聞置てもいかゞなれば。內々聞え上る と申ければ俄に御けしけ損じ。入道には年老てしれたる事いはるゝな。先年關原のときわれ殊更に仁典もて秀賴の一命をたすけ置のみならず。攝河兩國もて封邑 とし安樂にすごさしむるに。何の不足かあらむ。さるを入道が口よりかゝることいひ出てよきものかと仰らるれば。蓬庵もかしこまり入て御前をまかでぬ。こは 浪華の騷亂の前方の事にて。さる御下心ありて宣ひしなりとぞ。(駿河土產。)
駿府の不明の御門は小十人の徒更番して守ることなり。ある日村越茂助直吉他所へ御使に參り。日暮に及び御門に至れば旣に御門は閉たり。村越茂助なるが御使 はてゝたゞいま歸れり。御門を明られよといふ。番の者期限後れたれば明ることかなはずといひしらふ所へ。安藤彥兵衛直次も通りかゝり。こは茂助に紛れな し。ひらに明て通されよといふ。小十人云。方々は重き御役をもつとめられながらさることいひてよきものか。この御門はかねて日暮の後は人を通すまじとの御 定なれば。誰にも通す事はかなはずとて終に明ざりけり。このよし聞しめして。この日當番の小十人兩人へは加恩たまはり。常々よく御門を固守するとて賞せら れ。後に二人とも紀伊家に附屬せられしとなり。(駿河土產。)
常に鎌倉右幕下の政治の樣御心にやかなひけむ。その事蹟共かれこれ評論ありし事多し。賴朝石橋山の戰にうちまけ朽木の中にひそまり居しを梶原景時がたすけ しとき。景時ちかごと立て。君もし後日天下の主になり給はゞ。景時を執權職にせられよといひしを賴朝うけがはれぬ。さりながら若惡事もあらむには刑戮に處 すべしといはれしは。かゝる艱困の中といへども。大將たらむ人の體面をうしなはざりしは。實に將軍の器といふべし。又賴朝が七騎落の時。先例あしゝとて一 人の供奉を减じたるはいかなる故ぞ。かゝる時は一人にて多きがよきにと仰らる。また賴朝陰晴をよく見さだむる者をめし呼て。浮島が原に出て天氣を見定し む。その者天氣は見なれし所にては分りやすく。さなき所にてはしれがたしといひしとか。こはいと尤の事なりと仰らる。また賴朝姪が小島に潜居の時家僕にか たられしは。われもし本意とげて天下の兵權を掌に握ることもあらば。かならず汝に恩祿とらせむといはれしを。その者あざ咲て居けり。後に賴朝將軍職になら れてあまねく恩賞行はれしとき。その者の沙汰には及ばざりき。よてその者むかしの事いひ出しに。汝はむかしわが詞をを咲ひしをわすれしにやといはる。其者 いや某わすれは候はず。さりながらよくかうがへて見たまへ。そのかみよりうき年月さまでたのもしく思ひ奉らぬ主君に。今まで附そひ進らせし某を。はじめよ り此君に仕へて功名をも立むとおもひし人々にくらべては。某がかたかへりて忠義に候はずやといひしかば。賴朝も理に屈してその者に厚恩を施されしとか。こ は其者の詞いと尤なれと仰せられけり。また夜話の折御談伴等申すは。賴朝は古より名將といひ傳れども。平家追討にさゝれし三河守範賴。伊豫守義經二人の弟 はすぐれて軍功もあるを。後に誅戮せしは少恩の至ならずやと申せば。  君外々の者どもはいかゞ思ふと宣へば。いづれ同意のよしを申す。その時それは世に いふ判官びいきとて。老嫗兒女など常に茶談にする事にてとるにたらず。すべて天下を治むるものは。己が職をゆづるべき嫡子の外。庶子の分には别に異禮を施 すことなし。其親族たるをもて國郡の主になし置といへども。これを遇するにいたりては外外の大名とかはれることなし。よてその兄弟たるものも身をつゝしみ 上を敬し。萬事を篤實にせばよし。もし兄弟の親をたのみにし無道の擧動するを。親族なればとて見のがしては外樣の示にならざるなり。親族のわいだめなく理 非を分明に行ふこそ。天下の主たらむ者の本意なれ。驕奢無道ならば配流に處。もし反逆の企もあらむには死刑に行はねばならぬなり。すべて天下の主の心と大 名の心とは大にかはるものなり。さる大體をわきまへずして賴朝を非議するは。これまた老嫗兒女と同日の所見なれと仰られしとぞ。(駿河土產。)
慶長十五年諸大名に命じ●尾州名古屋の城を改築せしむ。そのころ福島左衛門大夫正則。池田三左衛門輝政にむかひいひけるは。近年江戶駿河兩城の經營あり て。諸大名みなこれがために疲弊せり。されどいづれも天下府城の事なれば誰も勞せりともおぼえざるなり。この名古屋は末々の公達の居城なるを。これまで我 等に營築せしめらるゝはあまりの事なり。御邊は  幸大御所の御ちなみもあれば。諸人のためにこの旨言上せられよといふ。輝政は何とも答へざりしが。加藤 淸正大にいかり正則にむかひ。御邊は卒爾なる事いはるゝものかな。經營をいとはるゝならば人に議するまでもなし。はやく自國に馳せかへり兵を起さるべし。 さる事もなりがたくば台命に違ひて。えうなきこといひ給ひそといたくいましめければ。正則も面あかめて居たり。後にこのこと聞せ給ひ輝政をめして。諸大名 度々の經營に難義すときゝぬ。さらばいづれも本國に馳かへり城地を固くし。人衆を集めてわが討手のいたるをまつべしと仰●れば。いづれも大に恐怖しすみや かに人夫をかりあつめ。夜を日に繼て經營をはじめ土地をならし。二十万の人夫もて西海南海の大石を伊勢三河の大船もて運致し。石壘をきづき城溝をほりいく ばくもなくして竣功せしとぞ。(武德大成記。)
東照宮御實紀附錄卷十三
一年駿府より江戶へ渡らせ給ひしに。  將軍家はじめ奉り  竹千代君及び國千代の方もまちむかへたまひ。大奥へいらせられて  御臺所も御對面あり。御 座に着せられし時。竹千代殿これへれへと御手をとりて上段にのぼらせたまへば。國千代の方もおなじくのぼり給はむとし給ふに。しゝ勿體なし。國はそれにと て下段に着せしめられ。御菓子進められし時もまづ  竹千代殿へ進らせ。次に國へも遣せと仰せらる。後に  御臺所にむかはせ給ひ。嫡子と庶子とのけぢめ はよく幼き時よりさだめ置てならはさゞればかなはぬものなり。行すへ國が堅固に生立ば  竹千代藩屏の臣たらむはいふまでもなければ。今よりその心掟し給 へ。これ國がためなりと仰られ。また  將軍家の方を御覽じ。  竹千代はよくもよくもあの人のおさな生立に似たれば。一しほわが愛孫なれと宣へば。   將軍家も盛慮のかしこさを謝し進らせられ。  御臺所は何と仰らるゝ旨もなく。たゞ面あかめておはせしとか。そのころ  御臺所には殊さら國千代の方をい とをしみふかくましましければ。內々にては何事も  竹千代君より御權つよく。近侍の者または女房などもおほく國千代の方にあつまり。えうせずは引こして 儲位にも居給はむかなど流言どもありしが。この日の御もてなし格别なりしより。いづれもはじめて嫡庶の分おはしますことを知り。人々のつかふまつりざまも あらたまりて。國本いよいようごきなく定らせ給ひしとぞ。(落穗集。武德編年集成。)
江戶より駿河に參謁せし者ありしに。この比將軍には機務の暇には。何を業となし給ふと問はせらる。そのもの常々武道の御穿鑿のみなりと申上れば。  將軍 軍法の事聞れむとならば榊原式部こそよけれ。かれはおほくの人の中に。多人數使ふ事心得し者なり。よくよく彼に尋ねらるべし。一人一箇の武勇は穿鑿ありと も。何の益かあらむと仰られしとぞ。(寬永系圖。)
ある年の正月江戶より歲首の賀使として。酒井左衛門尉家次を駿府へつかはさる。家次見參の所折烏帽子の下に綿帽子かぶりしが。いかゞしけむ烏帽子脫て綿帽 子あらはれしかば御けしきあしく。本多佐渡などは老年といひ。且もとよりおどけたる者なれば。綿帽子かぶる事もあれ。左衛門等が若年にてそのまねする事や はある。我等が方は隱退の事なればともかうもあれ。江戶にて諸大名列見の席などにて。かゝるなめげなる裝しては。  將軍へ對してそのはゞかり少からずと て。いたくむづからせ給しかば。折ふし阿茶の局御側にありて。昨夜左衛門風引て今朝の見參かなふまじといひこせしが。初春のことにもあればつとめても拜賀 に出よ。そゞろさむくば衣服をかさね。綿帽子きても苦しかるまじと申つかはしけるゆへなるべし。全くわらはが所爲にて。左衞門が心づからなせしには侍らず と御けしきとりしかば。やがて御心とけて。さる事にてもありつらむと仰あれば。左衛門はからうじて御前をまかでしとなり。(續明良洪範。)
駿河の阿部川に遊女の住る市街あり。府城にちかきをもて旗下の少年ども。動もすれば花柳にふけり。遊惰にのみなりゆくをもて町奉行彥坂九兵衛光正遊女町を 二三里遠き所へ引うつさむと申す。  君九兵衛をめして。今まで城下に住る市人をこと所にうつさばいかにとの給へば。さありては市人買賣の度を失ひ艱困す べしと申す。さらば阿部川の遊女もうり物にてはなきか。さるを遠地にうつさば阿部川の者たづきなりがたからむ。これまでのことくさし置との上意なり。かく てかの地次第に繁榮するにしたがひ。旗下のものはをのづから遊宴に長じ。窮困するよし聞えければ。その年の秋にいたり光正をめし。此頃市中の躍の聲城中に も聞えていと賑はし。我も見まほしと思ふなり。衣裝など新に調るに及ばず。常のまゝにて躍をせさせよと仰下されしかば。駿河の市街を三に分ち。躍子はやし 方まで城中に入て思ふさまに歌舞し。赤飯酒などたまひ三箇夜興行ありしなり。そのゝち阿部川の躍はいかにと尋ね給へば。遊女町ゆへ除きぬと申す。  君年 寄りては男子のむくつけき躍ばかりてには興にもならず。女子の躍見たく思ふなりと宣ひて。俄に阿部川の町へ仰ごと下りて。遊女の中にも名あるものは。そが 名をしるして奉れとありて。銘々こゝをはれと用意し。その夜にもなればとりどり御覽ありて後。高名の遊女どもをは板緣のう へにめし上られ。一人づゝその 名を御尋あり。暇給はるときは御次にて菓子賜ひ。同朋福阿彌もてひそかに仰傳へられしは。此後とても俄に銘々が名さして召よばるゝ事もあるべければ。いづ れもかねて心得置くべしとなり。かくて遊冶の輩このよし聞傳へて。遊女のうちいづれか上の御目留りになりて召れむもしれず。御尋の時いかなる事申上むもは かりがたしとはゞかり恐れて。少しも身分あるものは。この後花街に通ふことはやみしとなり。(駿河土產。)
駿河にて宿直にあたりし番士等夜半過るまで所々遊行し。辻相撲など見物してかへるに。一人づゝ殘りて番することなり。ある夜ふと表方へ渡御ありしに。例の 如く一人殘り居しを御覽じ。如何にしてみなみな宿直を明しぞ。そのうへ餘人はみな出しに汝一人殘り居て何かせむ。臆病ならずばうつけものなるべしとのゝし らせたまへば。この後は一二人殘らむとする者なくみな遊行とゞめしとぞ。又城中にて年少の番士等うちよりて座敷相撲とりし所へ。ふとならせければ。いづれ も平伏してあり。その時。このゝち相撲をとらば疊を裡返にしてとれ。福阿彌が見付たらば。疊の緣が損ぜむとて腹立べしと仰られ。别にとがめもし給はざり き。後に番領等この事聞傳へ。おごそかに禁ぜしめしとぞ。(駿河土產。續武家閑談。)
按ずるに慶長十二年正月廿九日相州中原へ御止宿ありしが。夜行殿にありしところの御茶器盜賊のために紛失す。よてその夜當番の者御科を蒙る。これは番衆その夜辻相撲見物に出て知らざるなりと。慶長聞書にも見えたり。當時かゝる事つねづねありしとみえたり。
御上洛ありて二條城におはしませしころ落書する者おほし。所司代板倉伊賀守勝重これを搜索せむといふ。  君そのまま捨置べし。そもそもいかなること書しぞ。みそなはさむとあれは。御所柹にたにざく樣のものつけしをもち出て御覽にそなふ。
御所柹はひとり熟して落にけり木の下に居て拾ふ秀賴
御覽じて。このうへとても落書禁斷すべからず。はしたなき事ながらわがみて心得になることもあれば。そのまゝにせよ。幾度も御覽あらむと仰られしぞ。(古人物語。)
慶長十年九月廣橋亞相兼勝卿。勸修寺黃門光豐卿。兩傳奏より。春日若宮兩社の木千折れたり。抑神本のかるゝはむかしより國家の大事。兵亂の兆といひ傳ふる よし申さる。  君兩社ともに刱建より以來。あまたの星霜を重ねしとなれば。古木の折まじきにもあらず。あながち恠異とするにたらず。  將軍家へ申して 修植を願ふべしと仰付られしとぞ。(天元實記。)
あるとき本多佐渡守正信に仰られしは。われ  將軍家へ厚恩をつねに施し置せらるゝと宣へば。正信天下を御讓ありしはこのうへなき御恩なりと申せば。いや 家を子に讓るはめづらしき事にもなしと宣ふ。こは君の御代に何事もむづかしげになし行ひたまはゞ。後にかへりて  將軍家の御寬容をよろこび。いよいよし たしみ奉る者あらむかとの御下心なりしとぞ。黑田孝高入道如水が死期ちかくなりて。その臣下に種々の難題いひかけてくるしめしは。其子の長政をわがなき跡 にて。よくおもはしめむとての所爲なりといひしと。おなじ樣の御心用かと思はるゝにぞ。又はかなき事にもさる上意ありしは。いづれの時にか御舟遊ありし に。天野五郞大夫をめし鯉の調理命ぜられしに。鯉躍て海に入むとせし所を。魚箸もておさへて調しければ。いづれも其技の絕妙なるをほめあへり。上意に五郞 大夫のたわけものめと宣へば。本多正信何ゆへかく仰らるゝかとうかゞひしに。その身一代は名人の名をとれ。子孫にいたりてさるものなからむには。かへりて 子孫をして父に劣れりといはしめむ。誰も子孫をおもはぬ者はあらじと仰られしとぞ。(古人物語。)
慶長十七年三月  將軍家江戶より駿河へ參らせ給ひし時。さまざま御もてなしありて御茶進らせ給れし後。投頭巾の御茶入を贈らせらる。これは茶人の名を得 し珠光といへるが。はじめてみておぼえず頭巾を落せしより名を得し。天下第一の名器なりとか。其比御談伴の徒  將軍家も殊更かしこみおぼしめし給ふよし 申上しかば。汝等も  將軍にねだりて投頭巾の茶によばれよとて。殊の外御けしきよくて御はなしありしは。人の子をほしがるも。早く家をゆづりあたへその 所行を見さだめ。安心して殘の齡を過むがためなり。さりながら家をゆづるは容易ならず。子の才器にもより年の程もあるものなり。そのうへには時勢人心をと くとかうがへてゆづり渡すべきなり。家の重器などにいたりては。家つがせざる前かたにも追々にゆづり渡し子に安心さするもよし。おほよそ世の習にて家ゆづ るとなれば。何によらず一時に子にさづけ。己が身一つになりて隱所に引籠るを本意とし。人もこれを見て心いさぎよき事とてほむるなり。または秘藏の器をば 隱居して後も持かゝへ。折々子に分ちあたへて。その心をとる親もあり。抑わが若かりしほどより。世の父子の樣を見もしきゝもするに。はじめはかたみに慈孝 深かりしも。隱家家督の後に いたり。いつとなく不和になりしためし少からず。こは父子の情愛においてはもとよりかはる事はなけれども。人々年たけて後は とかく成長の子を煩はしく思ふと。又子たる者の老たる親を大切とおもはざるより。互に隙出來て他人にも不和に見ゆるなれ。さる折は親の方より道具のひとつ とつもゆづりあたへば。子も心落居て他人の嫌疑も散ずべし。子をして不幸の名をとらせぬ樣にせむこそ。親の本意なれと上意あれば。いづれも皆感歎してうけ たまはる所に。またかさねて仰ありしは。隱居して後實に子と中あしくなり。わが子へさまざま艱苦をかけ隱居に似合ぬ奢侈をこのみ物數寄をし。莫大の費用を 子に遺し。後には世のまじらひもならざるごとく貧困になりゆく例少からず。父に不利なるは子の仕樣のよからぬゆへとはいひながら。よくその本をたゞさば親 の過誤なれ。古語に子をしるは親にしくはなしといへば。親としてわが子の善惡を見しらざるは大なる怠なれ。わが怠なりともすでに家を讓り渡せしうへは。わ が心にかなはぬ事なりとも。おほかたはまづ忍むで居てさまざま教戒諷諭して。ながく家を治めさせむ樣にはかるべきなり。四民ともに家繼せむ子は。よくよく その才器を見さだめてこそ讓るべけれ。これ人々己が祖先へ對して第一の孝道なれ。殊さら國郡の主たらん者。いかにわが子不便なればとて。任にかなはぬもの に家をゆづらば。家臣をはじめ國民までも禍を蒙り。後には敗亡にいたるなり。たとひ嫡子たりとも不孝にして任にかなはずばこれを廢し。庶子のうちか一族の うちを擇みて家督とすべし。この所においていさゝか疑惑なく斷然として行ふを。國主の本意といふぞかしと仰られしとなむ。(岩淵夜話。)
最上出羽守義光はやうより心を 當家にかたぶけ。出羽よりはるばる書信を通じ。織田豐臣の兩家へも 當家を紹介して歸順せしなり。其後京伏見にて危疑の間 も。人より先に御館に伺公して守護し奉り。關原の役には御味方して上杉景勝と戰ひ。忠勤なみなみならざりしかば。  君にもいとたのもしきものにおぼした り。この義光年老て後慶長十七年のころひさしく病にかゝり。起居も自由ならねば再び見え奉らではてむは本意なしと思ひ。出羽よりはるばる病をつとめ駿府に 參謁す。かねてこのよし聞召ければ。本多上野介正純に仰付られ途中に出迎へしめ。御玄關まで乘輿をゆるされ。進謁の時も御座近くめしよばれ。つぶさに病躰 をとはせたまひ。御手づから御藥下され。早く封地にかへり心のまゝに療養すべし。かへさに江戶にも立より  將軍にも拜謁せよと懇の仰ありしかば。義光も 淚ながしてかしこみ奉て退でし後に。御使もて夜の物布帛かずがず下され。やがて江戶に參り  台德院殿にも見參し奉りしかば。おなじさまに御優待ありて。 賜物かずがずかづけ給ひ。且義光が長子家親今在府の間。年來の國役三が一を免除せしめ給ふ旨仰下され義光感恩に堪ず。かくて歸國の後十九年正月遂に身まか りしとぞ。(武德大成記。寬永系圖。)
藤堂和泉守高虎も太閤在世の時より。 當家に心をかたぶけ進らせ。殊に關原の前後には忠勤をつくせし事大方ならず。かかりしかばこなたにもその精忠を察せ られ。御家人と同じ樣に御心やすくおぼしめし。何事も議し合されしなり。御老後には常にめして御談伴とせらる。その頃高虎も齡旣にかたぶきて兩眼うとけれ ば。御前わたりに侍らむ事恐れありとて辭し奉りしに。土井大炊頭利勝もて。  君御晚年にならせられ。和泉と