秋風の歌

                    若山牧水


第7歌集
大正3年4月13日,新声社発行。
菊半截。定価65銭。



 自序

 私の著してきた歌集に、「海の声」「独り歌へる」「別離」(前の二集より選抜し更に新作を加へたるもの)「路上」「死か芸術か」「みなかみ」があつた。今また昨春以来の作数百首を輯めて本集を編んだのである。さうするたびごとに、私は不知不識のうちに小休みなく移りゆく我が生命のすがたをまのあたりに見る思ひがして、一種云ひ難い感想にとらはるるが常である。さきには、歌は直ちに我そのものであつた、今でも無論我を離れての歌は一首もない、然しその間に、単に生命の表現または陰影であるといふより、われとわが生命を批評して居る如き傾向を生じてきたと思ふ。のみならずそれは単なる批評にとどまらずして、われとわれに対する希望や嘲笑や、要するにその向上発展を促がしてゐるものと思はるる。われとわれを生んでゆくに要する一の力であり、その道程であると謂つてよいと思ふ。
 本書の校正に従事してゐる間、どうしたものか私は今までになくしみじみと時のちからを感じた。刻々に来り、過ぎゆく時といふものが自分の血や肉と終始してゐるのをまざまざ見てゐる如きを感じて、思はず慄然とした。さうして、顧みて自分の歌に対し今までと異つた可懐しみと力とを感じ、同時に自己に対し、歌に対し、悲しい慊厭咀咒の情を覚ゆる事実に従来に見ぬものがあつた。とにかく、私はいままた此処にこの集を残して、更に新たな歩みを続けて行かねばならぬ。希くば留めしものに光あり、我が行くてに光あれと祈りながら、さびしい校正の筆を擱く。
   大正三年三月廿日
                         若山牧水



 夏の日の苦悩

我が赤児ひた泣きに泣く地もそらもしら雲となり光るくもり日
ああつひにあか児は泣をやめにけり妻の乳くびに喰ひいりにけむ
膝に泣けば我が子なりけり離れて聞けば何にかあらむ赤児ひた泣く
なに故に泣くかよ吾児よすやすやと寝入ればあはれ吾児なるものを
ことさらに泣かすにや子に倦みしにやかたはらにゐて手もやらぬひと
妻はしたにわれは二階にむきむきにちさき窓あけくもり日に居る
片手のばせばとなりの屋根にとどくなりわれの二階のまどのくもり日
或時は寝入らむとする乳呑児の眼ひき鼻ひきたはむれあそぶ
啼きまよひ鳶こそ一羽そらにまへくもり日もわれも流れ流るる
一枚の亜鉛のいたのうす板のきらめき光るわがこころかな
太陽のありかもしらずひたぐもり曇りかがやき窓あけかねつ
風くもり蛇の如くに煙這ひ屋並のたうちわが窓をとづ
ほろほろと遠く尺八なりいでぬこのくもり日のまどのいづれぞ
涙さへ出でぬ眼なりけりみちばたの石のごとくもとぢし眼なりけり
油なすものうさつらさほてほてとからだほてれど空を見てをり
うつうつと浮かずなげかずかなしまぬこのこころ何にならむとすらむ
梅雨雲の空に渦まき光る日はこころ石とも冷えてあれかし
憂欝は饐えてかたなくなりにけり蜘蛛の児となり這ひ出でよこころ
あやふきはこころなりけりゆらゆらに甕にまたく満ちてうごかず
大いなる呼吸一つ吐かむねがひにて曇りにおもき窓はひらけど
夏深しいよいよ痩せてわが好むつらにしわれの近づけよかし
雑草に花咲くごとくいまのわが唇より声のたえず出づるも
すたすたと大股にゆき大またにかへり来にけり用ある如く
わが顔は酒にくづれつ友がかほは神経質にくづれゐにけり
踏みもせよなげうちもせよしかはあれ折れくづれむちから今はわれになし
とりあぐる事なかれいまはわがこころ畳のちりにまみれをはりぬ
ぺつぺつとつばきしにけりわが舌になにかほこりのたまれるごとく
くまもなく探りまはれど指の先頭のなかに触るるものなし
おほいなるぱいぷ買ひたし大いなるぱいぷくはへて睡りてありたし
折しもあれ借金とりが門をうつくもり日の家の海の如きに
わが皮膚に来て濡るる煤煙そのごとくひとりを悲しむ心燃えをり
しくしくと額に汗湧き手足にわきあぶらの如し腐れる海の如し
時は来ぬ飯をくらへと鳴りいづる市街の汽笛曇りたるかな
曇り日の光の中に蚋なきて汗ひややけきわが身をめぐる
   水明君と浅草にあそぶ。歌三首
七月のあさくさの昼いとまばらにひとが歩めりわれがあゆめり
あさくさの曽我の家五九郎のばかづらに見入りてなみだながすなりけり
鼻のさきにたまれるつゆは何ならむわがものうさが泣けるなりけり
   山蘭君とともに酔ふ、歌二首
朝まだき夏の市街のかたすみの酒場に酔ひをれば電車すぎゆく
夜ふけし夏の銀座のしきいしのつめたきを踏みよろぼひあゆむ
木綿蚊帳わが児ひしひし泣きいづるあかつきとはやなりにけるかな
東京の七つ八つなる小娘の眼の小悧巧さわれとあそばず
いつしかに頭かたぶけ昼のまどとほき電車を聞いてゐにけり
児をあやすとねぢをひねればほつかりと昼の電灯つきにけるかな
わが窓の四方にからむ電線は蜘蛛のやぶれ巣けふも曇れり
ものいはぬ我にすすむるうす色の昼のひや酒妻もかたらず
大木の群れて暗きをおもひいで植物園に行かむとぞ思ふ
植物園にゆかむと思ひ憂しと思ふ昼の電灯ともりたる部屋に
わが頸のみじかきことを悲しみぬおほいにわれをののしらむとし
横浜に行かずやといへば言は無く帽子をとりてさきに立つ友
停車場の大扇風器向日葵のごとく廻れり黙せる群衆に
廃駅にならむといへる新橋の古停車場の夏の群衆
指もてつまめば汗ぞしみらに光り居りはだへさびしや蝉啼きやまず
くもり日に啼きやまぬ蝉と我が心語らふ如くおとろへてをり
わが立つや夏の市街のつちほこり麺麭の匂ひに似て渦をまく
追ふことを我慢して見むと思ひ立てば蝿くまもなくわが顔を這ふ
あはれ身はうしほ腐れる海ぞこにむぐれる魚か汗湧きやまず
燻りけぶれる昼の日ざしにかきつぐみ瓜をたづねて夏の街いそぐ
瓜屋なる主婦よく肥えみせさきに昼の電灯ともりゐにけり
手にとればたなごころより熱かりき昼の市街のみせさきの瓜
かきつぐみうましともなくやめもせず大いなる瓜喰みてわがをり
あまからず酸くさへあらぬ大いなる瓜をはみつつものを思へり
しとしとに汗は湧けどもうちつけに暑しともなく萎え居るなり
瓜食めばそことしもなく汗滲み昼のやぶ蚊の身をなきめぐる
ものうしやあまりに瓜をはみたれば身は瓜に似て汗ばみにけり


 秋日小情

音に澄みて時計の針のうごくなり窓をつつめる秋のみどり葉
夕かけて照りもいだせる秋の日にさそはれて家を出でにけるかな
郊外や見まじきものに行き逢ひぬ秋の欅を伐りたふし居り
かの欅あはれならずや秋風にい群れて蝉の啼きも入りたる
秋の葉の日に光るかなひそひそと急ぐははやも散りしきりつつ
かなしきは日の光なり秋の樹にしとどに青葉散りしきりつつ
今はとて穴にいそげる秋虫のつめたきこころ憎みかねつも
秋の森に蝶こそ一羽まひ出でたれやがて青葉にとまりてうごかず
すずかけの落葉ひろふとかいかがめば地の匂ひてまなこ痛めり
すずかけは落葉してあり吹くとしもなき秋風のあさの路傍に
玉に似てこころふとしも静まりぬ路傍のおち葉踏むに耐へむや
わがこころの底ひにものを見むとするさびしさのなかにけふもこもれり
死にゆきしわが恋ごころを絵の如くながめてゐしがやがてかなしき
食はむとてしばしおきたるうす青の林檎に蜂のとまりゐにけり
くだものの皮を離れぬ秋の蜂ちさきをみつつ涙ぐみける
秋の夜栗の話のなかにしてふとふるさとの母おもふかな
母ひとり拾ふともなく栗ひろふかの裏山の秋ふかみけむ
養樹園をさなき木木のもみぢしてうちつらなりて散りてゐるなり
大いなる鋏の手とめ園丁はわれに木の名を教へけるかな
朝ぐもりはれゆく空に風見えてさびしさに酒をわがのめるかな
静ごころしづかに居よとさしぐまれまなこうつして見やるさかづき
梨の果の舌ざはりさへうとましきわが静ごころわが朝の酒
いつしかに夏はすぎけりきりぎしの赤土原に蟻の這ひをり
いつしかに夏はすぎけりただひとり野中の線路われの横ぎる
きれぎれに市街の上に雲散れりつめたきかなや夏のおとろへ
おそ夏の草葉のほねのかたきにもこころいらだちあざけりをおぼゆ
脚ひとりちからをおぼえかぎりなく歩まむとする晩夏の野や
たたずみて蟻に見いれるわがすがたごうごうと汽車かたはらをすぐ
わびしさや何をうらみつなに悔ゆるおそ夏の雲のちれる夕ぞら
或る時は落葉の如くものわびしくもの憂く眸をとづる小犬よ
此処はしも窪地にあればひややかに土ぞにほへる来よ来よ小犬
或る時はあはれを乞へるをとめ子のなみだの如く眼をあぐる犬
かにかくに静かに眠れこころより満ちたらひなば起きておもへよ
ひややかにうすらにわれに聞ゆるは若き盲目の歩む杖の音
あめつちにわが身ひとりの凭る机ひややかにしも待ちてあれかし
夜の雨なれがこころはいづくぞとわが身つつみて降りしきるなり
しみじみとあふげば夜の雨のつぶいづれか胸にしまざらめやは
ねがはくはひらたき板にふるごとくわれのこころに降るな夜の雨
村雨のちとの晴間をはれやかに街に日の照りわが出で歩む
公園にわがごときもの入りゆきてにほへる街の児等みるは憂き
知る人も無けれ電車のかたすみにしづかに重き眼をとぢにける
今はみにくき我がこころかな瞳さへ錆びたる針となりて動かず
眼ひらけば紙の障子があかあかと夕日に染みて風もきこゆる
秋風のゆふべのそらにひともとのけやきの梢吹かれて立てり
夜の雨にぬれゆく秋の街並木ぬれつつわれも歩みてをりき
絶望といひ終焉といひ秋の日のダリアの如き言葉のかずかな
おやおやと思ふ心に昨日すぎけふも暮れけりものうき日かな
老人のましてをんなのせせこましき心をなんと拾うてをられむ


 秋風の歌

あはれ悲しここらダリアの花を折り倦める心をとりよそはばや
くつきりと秋のダリアの咲きたるに倦める心は怯えむとする
黙然とダリアの花に見入りぬればこころしばらく晴れてゐにけり
園丁は黒き帽着つ一心にダリアの虫に取り入りて居り
たけたかきダリアの園にほそほそと吹く秋風は雨の如しも
園丁の黒帽子よりなほ高くそびえて風に咲いてゐるなり
分秒と時間を惜しむこころもち重きまぶたを瞑ぢむとはする
顔色のややに赤きは健康かこの倦みごこち何の故ぞも
苦き木の根をひねもす噛みて居りぬべしこの蒸心地やるよしもなき
わが額の痩せおとろへに似もつかずつめたきあぶらにじみたるかな
秋の樹の濡れて窓をばつつめるにこころいらだち煙草をぞ吸ふ
ものおもひ戸ざさずあれば秋の日の風はわが頬の熱吸ひてゆく
風もなき秋の日一葉また一葉おつる木の葉のうらまるるかな
紙の障子にせまきガラスのはめられつ冷たき秋の庭園の見ゆ
雨まてる窓べに雨のふりて来ぬ今は身を投げやすらかにあらむ
空のそこひに赤みを宿し夕雨のさと落ちてきぬわが細き窓に
藍色の風のかたまり樹によどみ郊外の秋ふかみたるかな
あを空に高き風吹き樹々の葉に秋日照り栄え額あれにけり
日に白みとほき林を吹く風のさびしいかなや四方をとざせり
群れて散る風の葉を見よわが胸ゆもぎとる如く火のごとく散る
灰のごと風に光りつ空たかくまひもあがりて群れて散るなり
なか空にちり立つ木の葉ひそひそと秋の木立をわれは過ぐなり
骨と肉のすきをぬすみて浸みもいるこの秋の風しじに吹くかな
いとどしく心あやふく傾きてやぶれむとするに風凪ぎにけり
おほらかに風無き空に散りてゐる木の葉ながめて窓とざすかな
夜の読書は海に青魚のあそぶよりかなしいかなや風の聞ゆる
寝さむれば折しも風の過ぎゆきつむなしきひびき残るなりけり
いたづらに咽喉のあたりに呼吸をする生物の如く寝ざめてありけり
わが居るは風のゆくへにあるごとく呼吸を引きつつきいてゐたりき
吸ふいきの吐く呼吸のすゑにあらはるるさびしさなれば追ふよしもなし
生きたるもの死にたるもののけぢめさへ見わかずなりて涙こぼるる
きりきりと歯さへ痛めどこのこころとりなほしえでつかれはてにけり
なまごころややに温みて身にかへりさいはひにして事もなかりき
こころさへなま温く吸ふいきもおほらかにして睡眠ぞきたる
ぽとぽとと油の如くわが瞼にねむりひそかに這ひ寄りにけり
とぢし窓いらだつこころけはしきに耐へつつ風を聞いてゐたりき
しみじみとおとぎ噺をかたり合ふ児等ありき街路の夕やみのなかに
秋霧の茄子のはたけに人居りきやがて車を曳きて去りにけり
すがれつつ落ちゆく秋の木の葉よりいたましいかなわれの言葉は
乏しきを拾ふが如くをりをりに鏡とりいでつらをながむる
歯にかめど苦きつゆさへ出でて来ぬ秋の木の葉となりはてにけり
ひとびとの顔のつめたく見えわたるけふのつどひの家を吹く風
古時計とまれる針の錆びはててむなしきかたをさしてゐるなり
健康よとくわれの身にかへれかし見よ秋の樹樹の葉のちりかひを
歯も砕くるばかり一気に噛みしめむよろこび事にいまだ会はなくに
ばらばらと夜の障子を打つ雨におびやかされて戸外に出でゆく
つめたきは風にありけりわがこころ白布の如く吹かれたるかな
いまだかつておもふがままにとぢしことなかりし如く眼を瞑ぢにけり


 病院に入りたし

わがちさきまどに隣れる病院のガラス障子はいつも閉れり
午砲鳴るやけふは時雨れて病院のえんとつの煙濃くたちのぼる
白き帽子白き衣着しをとめ等の群れて笑へりガラス戸ごしに
白樫の山茶花のやや茂りたるちひさき庭の病院のまど
病院の広きガラスの照りかへし赤き夕日の散れる冬の樹
わがすめる二階の窓と病院の小高きまどのあひの冬の樹
午後の日の窓にまはれば今日もまたかの看護婦はカアテンをひく
カアテンを引く音くるくるくるくると冴えつつ窓に夕日は赤し
いそぎ足廊下を通ふ看護婦をガラス戸ごしにながめてぞ居る
ガラス戸ごし顔なじみなる看護婦の笑ふにわれも笑ひてゐたり
はらはらと時雨ふる日の病院の二階のガラスにうつる看護婦
ものかげに眠る如くにおくふかく病院に入りねてもあらまし
病院に入りたしと思ひ落葉めくわが身のさまにながめいりたる
病院のつめたきまどべ薬の香記憶に湧きてそれもなつかし
病院にそれこれの人を見舞ひたる記憶をあつめたのしみて居る
そこもわろし此処も痛むとせかせかと身うちのやまひかぞへても見し
樫の葉の青くつめたき一瓶のくすりもがもな飲みて眠りゐむ
病院に入りたしとねがふこのごろの身をかへりみるはあはれなりけり
とりとめて病めりともなく楢の葉のまばらに染まるこころなるらむ
病院のことのみ思ひ居しがふとわが手のよごれに気づき洗ひにと立つ
焼く如き苦きくすりを飲みたしとこころ黄ばみてねがふなりけり
をりをりに死にゆきし友を指折りてかぞへつつこころ冷えてゐにけり
四辺みなつめたき日なりわが心の疲労衰弱をのみ思ひてをれば
病院の重げの扉ときどきの開閉をみてたのしみてゐき
物いはぬ笑はぬ人のおほくゐる家とし思ひその窓をみる
知る人のたえてなかれかし病院の臥床の上のわれとならしめ
新らしき身ともなりなむ古びたるわれの五体を薬もて焼き
東明のあをきひかりのさすごとくながくねむりて眼ざめ来らむ
静けさをこひもとめつつ来にし身に落葉木立は雨とけぶれり
目も重く落葉のこずゑ見上ぐれば欅の木立雨とけぶれり
あぶらなし空にけぶれる落葉の欅も冬の太陽もよし
おち葉焚くけむりの中に動けるはをみなか男かとほき木の間に
おち葉焚くをちこちの煙わがこころもうつらうつらと煙るなりけり


 秋風の海及び灯台

   東京霊岸島より乗船、伊豆下田港へ渡る
ほてり立つ瞳かき瞑ぢ乗合客の臭きにまじり海に浮べり
電灯は卵つぶせし臭気して船室に赤くともりゐにけり
夜風寒み豚のいばりを煮るごとき船室にこもり伊豆に渡るなり
寝たふれつ死人めきたる乗合客のはだへはだへにひびく夜の涛
ことことと機関ひびきつたひくる秋風の海の甲板の椅子かな
蛙なすちひさき汽船あき風の相模の海にうかびゐにけれ
伊豆の海や入江入江の浪のいろ濁り黄ばみて秋の風吹く
   伊豆の岬に近づきしころ、風雨烈しく船まさに覆らむとす
どどと越ゆる甲板の大なみ船室には五十のひとの生きてゐるなり
ひたひたと涛はわが頬をなめて過ぐ船室の窓に怒るわが頬を
走りかね蛙の如く這ひゐつつ汽船くだくるも死ぬまじとする
いつ知らず涙滲み居り今ここに死なむかと思ふ心のうへに
雲さけて落日は海に漏れにけり赤きにうかび涛の立つ見ゆ
あはれ陸見ゆ白なみがくれ岩も見ゆ死ぬまじ死ぬまじ汽船は裂くとも
屍に鳥よる如く夕ぐれの伊豆の岬に白き浪立つ
はたと停り動かざること岩に似るあらしの海のわがゑびす丸
ふと時計の振子とまりし如くにもこころ冷えきて暴風雨を見るなり
ゑびす丸、甲板ふみたたき、ゑびす丸つひに下田に入りにけらずや
   下田港より灯台用便船に乗りて神子元島に渡る、一木なき岩礁なりき
船は五挺櫓漕ぐにかひなの張りたれど涛黒くして進まざるなり
大涛の蔭を漕ぐとき手もぬれず船はいはほと動かざりけり
船子よ船子よ疾風のなかに帆を張ると死ぬる如くに叫ぶ船子等よ
白刃なし岬並みゐる疾風の海にわれの小船は矢の如くなり
大うねりかたむきにつつ落つるときわが舟も魚とななめなりけり
次のうねりはわれの帆よりも高高とそびえて黒くうねり寄るなり
鯨なすうねりの群の帆のかげに船子等は金属と光りゐにけり
われとわが筋を噛むごと胸いたみ帆柱ぞひに立ちて浪見る
ましぐらに浪にとび入り鰭あをき魚とならむと心はやるも
みだれ立つしぶきにぬれて火のごとくわれの白帆は風に光れり
はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび来て向かむすべなし
かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
伊豆が崎岩礁多き秋風の海はとろとろうづまき流る
やと叫ぶ船子のこゑに驚ろけば海面くろみ風来るなり
とびとびに岩のあらはれ渦まける浪にわが帆はかたむき走る
荒瀬なす岩礁原をすぎも来て真帆はぬれつつ光るなりけり
やうやくに帆に馴れ浪に馴れにつつこころゆるめば海は悲しき
泡だてる岬をややに離れくれば沖は凪ぎゐて雲にかげれり
舳なるちひさき一帆裂くばかり風をはらみて浪を縫ふなり
船子だちの若きはねむり老いたるは風のはなしをわれに聞かする
あはれこは潜水夫の舟にありにけり泡立つ沖の浪に舟居り
しらしらと浪の穂がしらみだれたる沖辺に機械つかふ潜水夫等
ほうほうと声を合せつ空気を送る舟のうへなる潜水夫等の妻
空気送る潜水夫の舟の機械の音疾風の海にたえずひびけり
海底に三時四時をすごしつつあさらふ貝を買はましものを
海虫のやや大きなるかたちして潜水夫は浪にあらはれにけり
潜水夫いま舟に手を寄せ舟の中の妻等あらそひ抱きあげむとす
笛の如わが小さき帆のなりはためき沖をはせつつ潜水夫を見たり
みだれ吹く風にうかべる落葉ともさびしく舟を見てすぎにけり
ある時はうねりにかくれ或時はうねりの嶺に叫ぶその舟
風の海むら立つ浪にかくれつつ声のみぞする潜水夫等の舟
しばらくも揺れのやまざる沖にしてをんなの声をきくは悲しき
遠ざかる潜水夫の舟をさびしみてわが帆をみればぬれてゐにけり
飛沫ちりわが帆のなかばぬれたるに雲を漏れつつ日の射しにけり
いろ赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖辺の岩を見てはしるなり
   その島にただ灯台立てり、看守K−君はわが旧き友なり
友が守る灯台はあはれわだ中の蟹めく岩に白く立ち居り
おほいなる岩のいただき黒蟻と見えつつ友はものを振りをり
われも突立ち答へをせむとひしめけど舟揺れにゆれ這ひて布振る
やと叫ぶ声かも姿目には見えいまだまつたくきこえざるなり
切りたてる赤岩崖のいただきに友は望遠鏡を振りてゐにけり
友がよぶ赤き断崖見あげつつ舟をつけむと浪とあらそふ
岩赤く崖もひとしく濁血の赤かる島の友が灯台
岩赤きその島にしも近づけば浪はいよいよ荒れて狂へり
赤岩の十丈にあまるきりぎしを這ひつつややに友の下り来る
むらだてる赤き岩岩飛びこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
赤き断崖くづれて入江めきたるに舟子等帆おろし舟漕ぎ入るる
砕け立つ浪のすきまに沙魚のごと真赤き岩にとびうつりけり
顔も蒼み人に餓ゑたる饑心地火の如き手をとり合ひにけり
あはれ淋しく顔もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれども
別れゐしながき時間も見ゆるごとさびしく友の顔に見入りぬ
たづさへし我がおくりもの秋の園のダリアの束はまだ枯れずあり
ダリアの花につぎつつ舟子等とりいだす重きは友よ酒ぞこぼすな
歩みかね我が下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれにはかする
友よまづ吾の言葉のすくなきをとがむな心何かさびしきに
うつつともなく浪にもまれし身をはこぶ赤ききりぎしの岩の階段
相逢ひて言葉すくなき友どちの二人ならびて登る断崖
見かへれば舟子等いづれも面あかめ舟流さじと叫び狂へり
石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶ若きその妻
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
友酔はず我また酔はずいとまなくさかづきかはしこころを温む
石室のちひさき窓にあまり濃く昼のあを空うつりたるかな
過ぎ去りし彼が昨日も眼のまへに石と静けきそが顔も見ゆ
石室のしづけかればかもの馴れぬところなればか泪し下る


 夜の歌

ただひとり淵にのぞめる心地しつ椅子に埋れて酒をまつなり
夕かけて風吹きいでぬ食卓の玻璃の冷酒の上のダーリア
盲目にて目とぢて今宵ひとりにて飲みてあらむと椅子に埋るる
わが目いま魚の如くに細くなりつめたくなりて夜に入るなり
厭はしきにたへむとするはあだなりとささやく酒は月いろにして
われとわが悩める魂の黒髪を撫づるとごとく酒を飲むなり
金属の匂ひしにつつ背の方の灯火いたく更けしづみけり
我がまなこちりのくもりも帯びぬ夜にもののうつるはあはれなるかな
見むとする甲斐なきわざを今日もしてひとみこらすが悲しかりけり
テーブルの白布の上にはらはらと夜の白雪ちると思へり
更けたりな雪しとしとと降るごとく電灯はわれをつつみゐにけり
酒は火と燃え心の底に埋れ居りあやしき髪の冷えにもあるかな
村時雨広葉ぬらして過ぎにけり酔はぬわが身に夜はさびしき
ひとり去り二人去りつつ夜の部屋われのみひとり飲めるなりけり
みな去れ冷き部屋となして去れ夜の椅子にわれのひとり飲めるに
手に額に酒のあぶらの浸みつつ夜はつめたくなりまさるなり
動かじな動けば心散るものを椅子よダリアよ動かずもあれ
をりをりにものの葉などのちるごとく灯かげにうかび女動けり
酔ひしれて見つむる夜の壁の上に怪鳥あまたとべる画のあり
熟れ熟れて果実あやふく散るごとく酔は身うちに破れむとする
風わたる戸の面の庭木見やるさへいとはしくして酒を飲むなり
ただひとり最も隅の椅子に凭りダリアを前に寄せて飲めるも
灯を強みダリアがつくるあざやけきかげに匂へるわれの飲料
肉叉の柄わづか触れば散りてけり夜の机の黒きダーリア
はなびらに宿る夜ふけのともしびにダリアは女の肌の如しも
眼にも頬にも酔あらはれぬ夜なるかな黒きダリアをなつかしみつつ
夜の机われのにほひを嗅ぐごとく黒きダリアを手にとりてみる
つめたきは湧きし血しほかひいやりと灯のかげに身ぶるひをする
荒みたる心見つめて飲みて居ぬ紅きダリアも眼にうとましく
或時はわがけがれたる血の色の塗られし如く夜の花を見る
ダリアよ灯消さば汝が色も濃きあぶらなし闇となるらむ


 さびしき周囲

わくら葉の青きが庭に散りてあり朝はひとみのわびしいかなや
くされたる果実に似る悔心地舌にのこるに眼をとぢにけり
われと身に唾する如くあぢ気なく悔いつつ冬の朝日にあたれり
向日葵のおほいなる花のそちこちの弁ぞ朽ちゆく魂のごとくに
死せる鳥むれつつ空やわたるらむわが日はけふもさびしう明くる
思ふままにふるまひてさてなりゆきを見むと思ふに心冷し
言葉とわれとはなれ離れにあるごとき冷き時にいつ逢はるべき
死を思ひたのしむは早や秋の葉の甲斐なきごとく甲斐なかりけり
大河の音なく海に入るごとく明日にいそがむこころともがな
青き幹かの枝を切れかの葉を裂け真はだかにして冬に入らしめ
われならぬ人居りてけふもわがごとくわびしきことをして居たりけり
わがひとみわれのまなぶたこのゆふべつちにもまして冷えて動かず
時として市街のいらかもゆく人も黄なる落葉と見ゆることあり
とりとめて何も思はぬ時多し葉の散る如きわが身なるらむ
ふかきよりうかびいでつつ心ややあらはになりて悲しみてゐき
えんとつに煙わきならび市街みな磧の如し心のごとし
こよひまた眠られぬ身に凍みひびく冬の夜雨は神のごとしも
夜の市街もわが身もしとど凍みとほり氷れとごとく時雨ふるなり
髪の毛のひとつびとつがよごれゆく如きさびしさ身を去りかねつ
静かなる時来よと思ふひややかにわが目わが身にあれかしと思ふ
時わかず心冴ゆればわれと身のおきどころなくさびしかりけり
あはれこは醜くも市街をゆくものか思ひあまりてせんすべもなく
電車よりとびおりするな死にやせむこのごろのごとうつつなければ
さびしさの凍れるかたへ妻も子も老いたる母も動きゐるなり
わが如きさびしきものに仕へつつ炊ぎ水くみ笑むことを知らず
妻や子をかなしむ心われと身をかなしむこころ二つながら燃ゆ
あはれ身は生きものなればこの如く移らふこころとどめかねつも
照りくもり空のをちこちゆきちがふ冬雲の群を窓にいとへり
酒飲まむ酒飲まむ今しきはまりてわがさびしさの凍らむとすに
いまぞわれ氷の上に真裸体にねてゐむほどにかたむきにけり
けふもまたよしなき人を訪ひてけりよしなきことを語り来にけり
この賤しき友の心をうとんずとあやふくも我の動きけるかな
いづれもみな心にあらぬことをのみ云ひてつどへり、集へり、雪の夜
天つ日の匂ひしづかに身にもしみあはれしばしは眠れこころよ
吹きすぎし風のたえまにほつとりと日の匂ひこそ身によどみたれ
冬なれば散る葉もあらずこの木立稀にし来れば涙おつるも
涙たれ落葉が上によこたはるわれの醜きつかれざまかな
ことさらに鳥も啼くがに思はれて落葉木立を立ちいでにけり
たましひのけぶるといふはあまりにも淋しからずや恋となれかし
身に燃ゆるは新しき恋あるはまた埋れゐし夢かにかくにもゆ
こころさへ身さへ落葉のいろもなくさびはてていま燃ゆるこの恋
冬空のあまり乾けば市人もひそかに雪をまつにあらずや
地を踏めど地にいらへなく心のみくくとひびきて人の恋しき
雪積みて今宵はいとどしづけきに夜半にねざめよ人を思はむ
雪どけの軒のしづくにいざなはれ友見まほしく家を出にけり
雪照るや思ひぞいづる郊外のかのひとり者ながく訪ひ来ぬ
片幹にこほれる雪のけぶりつつ入日の中に立てり欅は
われと身の肌のぬくみをなつかしみ梢より散る雪ながめ居り
枯木立木木より雪の散りやまず行きずりの身に西日赤しも
身に添ふは雪のにほひかわがはだの匂ひか西日せちに赤かり
おのづから悲しき声にいでてなく雪の日の鳥西日にきこゆ
雪ふかき落葉の木の間入日さしあまりてここの窓を染むるも
わがそばに火ありて水を煮るを得べし玻璃のうつはに水も満ちたり
火をたたじ沸湯たたじとつとめつつさびしさに或夜起きてゐにけり
なすべきをなさざる故にこの如くさびしきものとなりしやわれは
消すまじと心あつめて埋火にむかへる夜半を雪凍るらむ
ペン一つまへにあるさへひしひしと身にくひ入りてさびしき夜なり
工場街折しも西日真赤きに煙地に垂れわがひとりゆく
工場街とほく歩める少女子のながき羽織に夕日ゆらめけり
ただひとつちさくまじれる教会は扉さしてありき工場街ゆけば
西日赤き街路の辻にひと等うち黙し血みどろの犬咬み合ひて居り
春来ぬとこころそぞろにときめくをかなしみて野にいでて来しかな
この歩み止めなばわれの寂蓼の裂けて真赤き血や流るらむ
われと身を噛むが如くにひしひしと春のさびしき土ふみ歩む
青草の岡にいであひこらへかね泣ける涙のあとのさびしさ
春の雲照りつつ四方をとざせる日高きに立てばわが世悲しも
鶯の啼きてゐにけり久しくも忘れゐし鳥なきてゐにけり
ふと見れば路傍の軒にほこりあび篭にし鳥は啼けるなりけり
さび色のあをき小鳥はあやしげにわれを見つめてやがてまた啼く
つかれはてすわれる岡のもとをすぎ春あさき日の小川流るる
おほぞらに垂れつつ春の雲光りここの林に烏むれ騒ぐ




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