独り歌へる
若山牧水
第2歌集
明治43年1月1日,八少女会発行。
菊判。定価45銭。
本書を本書発行当時誕生せし友緑葉が長男
佐藤静樹君に呈す
自序
私は常に思つて居る、人生は旅である、我等は忽然として無窮より生れ、忽然として無窮のおくに往つてしまふ、その間の一歩々々の歩みは実にその時のみの一歩々々で、一度往いては再びかへらない、私は私の歌を以て私の旅のその一歩々々のひびきであると思ひなして居る、云ひ換へれば私の歌はその時々の私の命の砕片である。
多人数のなかに交り都合よく社会に身を立てて行かうがために、私は私の境遇その他からいつ知らず二重或は三重の性格を添へて持つやうになつて来た、その中には真の我とは全然矛盾し反対した種類のものがある、自身にも能くそれに気がついて時には全く耐へ難く苦痛に思ふ、而も年の進むと共に四六時中真の我に帰つて居る時とては愈々少くなつて来た、稀しくも我に帰つてしめやかに打解けて何等憚る所なく我と逢ひ我と語る時は、実に誠心こめて歌を咏んで居る時のみである、その時に於て私は天地の間に僅かに我が影を発見する。
芸術々々とよく人は言ふ、実のところ私はまだその芸術と云ふものを知らない、断えず自身の周囲に聞いて居る言葉でありながらいまだに了解が出来難い、だから私はそれ等一切の関係のなかに私の歌を置くことが出来なかつた、私は原野にあそぶ百姓の子の様に、山林に棲む鳥獣のやうに、全くの理窟無しに私の歌を咏み出で度い。
私は私の作物を以て、斯うして生れて来た自己の全てをみづから明かに知らむがための努力であると今のところでは思つて居る、それ以上他に思ひ及ぼす余裕が無い、歌を咏むのも細工師が指輪や簪をこしらへて居るのとは違つて、自己そのものを直ちに我が詩歌なりと信じて私は咏んで居る、歌と言ふもの詩と言ふものといふ風に机の上にぶち転がして考へらるることを私は痛く嫌ふ、自己即詩歌、私の信念はこれ以外に無い。
一首々々取出して見ると私の歌などは実に夥しく拙い、技巧の不足なもの、内容の空虚なもの、嘘をついて居るものなどばかりで、自ら満足し得るものとては殆ど絶無である、それかと云つて全然是等を棄却し去ることは容易に出来ない、一首のうちに何処か自分の影が動いてゐて、なかなか思ひ切つて棄てがたい、いま夫等を拾ひ集めてこの一巻を編んだ、これからも尚ほ私が本当に生きて居る間、私は何処までもこの哀はれな歩をとぼとぼと続けて行かねばならぬのであらう。
歌の配列の順序は、出来るだけ歌の出来た時の順序に従ふやうに力めた、前の歌集「海の声」の編輯を終つたのが昨年の四月の廿日頃で、それからの作はたしか同月廿五日の夜武蔵百草山に泊つた時を以て始つて居る、そして本書の編輯を終つたのは本年七月の十日頃偶然にも同じ百草山の頂上の家に滞在して居る時に於てであつた、つづまりこの「独り歌へる」一巻はその間約一ケ年に亘る私の内的生活の記録である、その時その時に過ぎ去つた私の命の砕片の共同墓地である。
詩歌書類の一向に売れない現今にあつて、特にわがために本書出版の労をとられた八少女会同人諸君に対し深く感謝する。
今夜ほ陰暦九月十三日、後の月の当夜である、夙冴えて時雨が時々空を過ぐる、街をば伊藤公暗殺の号外が切りに走つて居たが既にそれも止んだ、本書の校正刷を閲しこの序文を認めて、自身の昨日の歌を見て居ると色々に思ふことが多い。
明治四十二年十月廿六日深夜
若山牧水
独り歌へる 上の巻
自明冶四十一年四月
至同 十二月
いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや
みんなみの軒端のそらに日輪の日ごとかよふを見て君と住む
おのづから熟みて木の実も地に落ちぬ恋のきはみにいつか来にけむ
女あり石に油をそそぎてほ石焼かむとす見るがさびしき
いざ行かむ行衛は知らねとどまらばかなしかりなむいざ君よ夙く
何はおきあはれみ請ふるその眸の先づこそ見ゆれえはうらむべき
若ければわれらは哀し泣きぬれてけふもうたふよ恋ひ恋ふる歌
斯くねたみ斯くうたがふがわが恋のすべてなりせばなど死なざらむ
うらかなしこがれて逢ひに来しものを驚きもせでひとのほほゑむ
悲しまず泣かずわらはぬ昼夜に馴れしかいまはさびしくもなし
うちしのび夜汽車の隅にわれ座しぬかたへに添ひてひとのさしぐむ(以下或る時に)
野のおくの夜の停車場を出でしときつとこそ接吻をかはしてしかな
摘みてはすて摘みてはすてし野のはなの我等があとにとほく続きぬ
山はいま遅き桜のちるころをわれら手とりて木の間あゆめり
鬢の毛に散りしさくらのかかるあり木のかげ去らぬゆふぐれのひと
木の芽摘みて豆腐の料理君のしぬわびしかりにし山の宿かな
春の日の満てる木の間にうち立たすおそろしきまでひとの美し
小鳥よりさらに身かろくうつくしく哀しく春の木の間ゆく君
静かなる木の間にともに入りしときこころしきりに君を憎めり
君すててわれただひとり木の間より岡にいづれば春の雲見ゆ
山の家の障子細目にひらきつつ山見るひとをかなしくぞ見し
ゆく春の山に明う雨かぜのみだるるを見てさびしむひとよ
狭みどりのうすき衣をうち着せむくちづけはてて夢見るひとに(以上)
古寺の木立のなかの離れ家に棲みて夜ごとに君を待ちにき
ものごしに静けさいたく見えまさるひとと棲みつつほつ夏に入る
椎のはな栗の木の花はつ夏の木の花めづるひとのほつれ毛
あな胸のそこひの恋の古海の鳴りいづる日を初夏の雲湧く
樹々の間に白雲見ゆる梅雨晴の照る日の庭に妻は花植う
くちつけをいなめる人はややとほくはなれて窓に初夏の雲見る
わが妻はつひにうるはし夏たてば白き衣きてやや痩せてけり
香炉ささげ初夏の日のわらはたち御そらあゆめり日の静かなる
はつ夏の雲あをそらのをちかたに湧きいづる昼麦の笛吹く
燐枝すりぬ赤き毛虫を焼かむとてただ何となくくるしきゆふべ
とこしへに解けぬひとつの不可思議の生きてうごくと自らをおもふ
このごろは逢へばかたみに絵そらごとたくみにいふと馴れそめしかな
別れてきさなりき何等ことなげに別れきその後幾夜経ぬるや
あめつちに頼るものなしわがなみだなにいたづらに頬をながれたる
はたた神遠鳴りひびき雨降らぬ赤きゆふべをひとり酒煮る
夕されば風吹きいでぬ闇のうちの樹梢見ゐつつまたおもひつぐ
われひとり暮れのこりつつ夕やみのあめつちにゐて君をしぞおもふ
夕やみのややに明るみ大ぞらに月のかかればやや思ひ凪ぐ
ひとりなればこのもちつきの夏の夜のすずしきよひをいざひとり寝む
八月の初め房州軽井沢に遊びぬ、その頃詠める歌三十五首。
火を噴けば浅間の山は樹を生まず茫として立つ青天地に
天地の静寂わが身にひたせまるふもと野に居て山の火を見る
八月や浅間が嶽の山すそのその荒原にとこなつの咲く
麓なる山のひとつのいただきの深草のなかゆ見し浅間山
夕空の風をしぞおもふ火の山のけむりほ遠くうちながれたり
夢も見ず旅寝かさねぬ火の山の裾の月夜の白き幾夜を
火の山の裾の松原月かげの疎き月夜をほととぎす啼く
火の山やふもとの国に白雲の居る夜のそらの一すぢの煙
大ぞらに星のふる夜を火の山の裾に旅寝し妻をしぞ思ふ
夜となればそらを掩ひて高く見ゆ白昼は低しけむり噴く山
夜の山のけむりにやどりうす赤う地のそこなる火のかげの見ゆ
火の山にしばし煙の断えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき
女ありみやこにわれを待つときく斯くおもひつつ山の火を見る
月見草見ゐつつ居ればわかれ来し妻が物思ふすがたしぬばゆ
黒髪のそのひとすぢのこひしさの胸にながれて尽きむともせず
わかれ来て幾夜経ぬると指折れば十指に足らず夜のながきかな
ゆるしたまへ別れて遠くなるままにわりなきままにうたがひもする
青草のなかにまじりて月見草ひともと咲くをあはれみて摘む
あめつちにわが跫音のみ満ちわたる夕さまよひに月見草摘む
ものをおもふ四方の山べの朝ゆふに雲を見れどもなぐさみもせず
紅滴る桃の実かみて山すその林ゆきつつ火の山を見る
虫に似て高原はしる汽車のありそらに雲見ゆ八月の昼
白雲のいざよふ秋の峰をあふぐちひさなるかな旅人どもは
糸のごとくそらを流るる杜鵑あり声にむかひて涙とどまらず
うつろなる胸をいだきつ真昼野にわが身うごめき杜鵑聴く
ほととぎす聴きつつ立てば一滴のつゆより寂しわれ生きてあり
あめつちの亡び死になむあかつきのしじまに似たり杜鵑啼く
わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く
胸にただ別れ来しひとしのばせてゆふべの山をひとり越ゆなり
さらばなり信濃の国のほととぎす碓氷越えなばまた聞かめやも
瞰下せば霧に沈めるふもと野の国のいづくぞほととぎす啼く
ふと聞こゆ水の音とほし木の蔭に白百合見出でながめいるとき
身じろがずしばしがほどを見かはせり旅のをとこと山の小蛇と
秋かぜや碓氷のふもと荒れ寂びし坂本の宿の糸繰の唄(坂本に宿りて)
まひる日の光のなかに白雲はうづまきてゆくふもと国原(妙義山にて)
旅びとはふるきみやこの月の夜の寺の木の間を飽かずさまよふ(三首奈良にて)
はたご屋へ杜の木の間の月の夜の風のあはれに濡れてかへリぬ
伏しをがみふしをがみつつ階のゆふべのやみにきえよとぞおもふ
大いなるうねりに船の載れるとき甲板にゐて君をおもひぬ(播磨灘にて)
いと遠く君がうまれし国の山ながめてわれは帆柱に凭る(瀬戸の海にて)
雲去ればもののかげなくうす赤き夕日の山に秋風ぞ吹く(四首故郷にて)
峰あまた横ほり伏せるふもとなる河越えむとし蜩を聞く
父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる
一人のわがたらちねの母にさへおのがこころの解けずなりぬる
とき折りに淫唄うたふ八月の燃ゆる浜ゆき燃ゆる海見て(日向の海辺にて)
星くづのみだれしなかにおほどかにわが帆柱のうち揺ぐ見ゆ
蓄音機ふとしも船の一室に起るがきこゆ海かなしけれ
なにものに欺かれ来しやこの日ごろくやし腹立たし秋風を聴く
秋立てどよそよそしくもなりにけり風は吹けども葉は落つれども
忘れ得ずさびしきままにまたしてもさびしかりしを思ひつづくる
とも思ひかくトもおもへどとにかくにおもひさだめて幸祝せむ
いねもせで明かせる朝の秋かぜの音にまじりてすずめ子の啼く
うらさびし尽きなく行ける大河のほとりにゆきて泣かむとぞおもふ
闇うれしこよひ籬根のこほろぎの身にしむままに出でて聴くかな
地のそこに消えゆくとおもひ中ぞらにまよふともきこゆ長夜こほろぎ
霧ふればけふはいつより暮はやきゆふべなりけりこほろぎのなく
時として涙をおぼゆ草木の悠々として日を浴ぶる見て
消えやらぬ大あめつちの生物のひとつのわれに秋かぜぞ吹く
君がいふ恋のこころとわがおもふ恋のさかひの一すぢの河
白粉と髪のにほひをききわけむ静かなる夜のともしびの色
いと拙き歌きくごとし秋の夜のしづかなる夜に君怨言いふ
おきたまへうらみつらみもこのごろのわれらに何の興かあるべき
秋立てばよく逢ふ夜なり灯のかげになみだながれてわりもなきこと
夕ぐれの街をし行けばそそくさと行きかふ人に眼も鼻も無し
わが胸に旅のをとこの情なしのこころやどりてそそのかすらく
物おもへばただ茫漠のあめつちにわれただ独り生くとさびしき
秋たてば街のはづれの楢の木の木立に行きてよくものをおもふ
秋はもののひとりひとりぞをかしけれ空ゆく風もまたひとりなり
わがこころ行くにまかせてゆかしめよ世にこれよりのなぐさめは無し
蝋燭の灯の穂赤きをつくづくと見つめゐてふと秋風をきく
めぐりあひしづかに見守りなみだしぬわれとわれとのこころとこころ
秋晴のまちに逢ひぬる乞食の爺の眸見て海をおもひぬ
牛に似てものもおもはず茫然と家を出づれば秋かぜの吹く
午すぎのつかれごころにとぼとぼとうつり来あはれひとの恋しさ
野菊ぞとさも媚びなよるすがたして野に咲く見れば行きもかねつる
湯槽より窓のガラスにうつりたる秋風のなかの午後の日を見る
落初めの桐のひと葉のあをあをとひろきがうへを夕風のゆく
人の声車のひびき満ちわたるゆふべの街に落葉ちるなり
眼とづればはるかにとほくとぼとぼと日に追はれゆくわがすがた見ゆ
秋かぜは空をわたれりゆく水はたゆみもあらず葦刈る少女
足とめて聴けばかよひ来河むかひ枯葦のなかの葦刈りの唄
魚釣るや晩秋河のながれ去り流れさる見つつ餌は取られがち
わだの原生れてやがて消えてゆく浪のあをきに秋かぜぞ吹く
相むかひ世に消えがたきかなしみの秋のゆふべの海とわれとあり
ゆふぐれの沖には風の行くあらむ屍のごとく松にもたるる
音もなうゆふべの海のをちかたの闇のなかゆく白き波見ゆ
行き行きて飽きなば旅にしづやかにかへりみもなく死なむとぞおもふ
ひたすらに君に恋しぬ白菊も紅葉も秋はもののさびしく
病みぬれば世のはかなさをとりあつめ追はるるがごと歌につづりぬ
あれ見たまへこのもかのもの物かげをしのびしのびに秋かぜのゆく
わかれては昨日も明日もをとつひも見えわかずしてひたに恋しき
少女子のむねのちひさきかなしみに溺れてわれは死にはてしかな
恋ひに恋ひすさみはてぬるわが胸に植うべき花をなにとさだめむ
君見れは獣のごとくさいなみぬこのかなしさをやるところなみ
なほ飽かずいやなほあかず苛みぬ思ふままなるこの女ゆゑ
長椅子にいねて初冬午後の日を浴ぶるに似たる恋づかれかな
なにものに追はれ引かれて斯く走るおもしろきこと世に一もなし
あららかに梢の枯葉うち落し庭掃く僧のその面がまへ
とぼとぼとありし若さのわがむねにかへり来るなり君をいだけば
この林檎つゆしたたらばありし日のなみだに似むとわかき言いふ
あはれそのをみなの肌しらずして恋のあはれに泣きぬれし日よ
あはれ神ただあるがままわれをしてあらしめたまへ他にいのる無し
かかる時声はりあげてかなしさを歌ふ癖ありきそれも止みつる
わが住むは寺の裏部屋庭もせに白菊さけり見に来よ女
消えもせず恋の国より追はれ来し身にうつり香のあはくかなしく
見かへるな恋の世界のたふとさは揺れずしづかに遠ざかりゆく
世に最もあさはかなればとりわけて女の泣くをあはれとぞおもふ
黒牛の大いなる面とむかひあひあるがごとくに生くにつかれぬ
ほこり湧く落日の街をひた走る電車のすみのひとりの少女
仰ぎみてこころぞながる街の樹の落日のそらにおち葉するあり
道化者つらの可笑しきあの友が恋にやつれてやや痩せてけり
われうまれて初めてけふぞ冬を知る落葉のこころなつかしきかな
落ちし葉のひと葉のつぎにまた落ちむ黄なる一葉の待たるるゆふべ
あめつちの静かなる時そよろそよろ落葉をわたるゆふぐれの風
はつ冬のころのならひの曇り日は落葉のこゑのなつかしきかな
早やゆくかしみじみ汝にうちむかふひまもなかりきさらばさらば秋
忍び来てしのびて去にぬかの秋は盲目なりけりものいはざりき
大河のうへをながるる一葉のおち葉のごとしものもおもはず
わが妻よわがさびしさは青のいろ君がもてるは黄朽葉ならむ
めぐりあひふと見交して別れけり落葉林のをとこと男(戸山ケ原にて)
冬木立落葉のうへに昼寝してふと見しゆめのあはれなりしかな
武蔵野は落葉の声に明け暮れぬ雲を帯びたる日はそらを行く
ありのすさび落葉のなかに見いでつる松かさの実を手にのせてみぬ
かすかなる胸さわぎこそたへられね黄葉ふりしきる冬枯の森
いかにせむ胸に落葉の落ちそめてあるがごときをおもひ消しえず
ふりはらひふりはらひつつ行くが見ゆ落葉がくれをひとりの男
木の葉みな落ちつくしたる寒林は斯のごときことおもふによろし
いと静かにものをぞおもふ山白き十二月こそゆかしかりけれ
梢より葉のちるごとくものおもひありとしもなきにむねのかなしき
なにとなくさびしうなりぬわが恋は落葉がくれをさまよふごとく
荒れはてし胸のかたへにのこりぬるむかしのゆめのうす青の香よ
うす赤く木枯すさぶ落日の街のほこりのなかにおもはく
窓あくればおもはぬそらにしらじらと富士見ゆる家に女すまひき
日向ぼこ側にねむれる犬の背を撫でつつあればさびしうなりぬ
近きわたり寺やたづねてめぐらなむ女を棄ててややさびしかり
別るる日君もかたらずわれ云はず雪ふる午後の停車場にあり
別るとて停車場あゆむうつむきのひとの片手にヴイオロンの見ゆ
別れけり残るひとりは停車場の群集のなかに口笛をふく
独り歌へる 上の巻終り
独り歌へる 下の巻
自明治四十二年一月
至同 七月
大鳥の空をゆくごとさやりなき恋するひとも斯くや嘆かむ
男といふ世に大いなるおごそかのほこりに如かむかなしみありや
ほのかにもおもひは痛しうす青の一月のそらに梅つぼみ来ぬ
うきことの限りも知らずふりつもるこのわかき日をいざや歌はむ
清ければ若くしあればわがこころそらへ去なむとけふもかなしむ
ゆめのごとくありのすさびの恋もしきよりどころなくさびしかりしゆゑ
枯れしのち最もあほれ深かるは何花ならむなつかしきかな
男なれば歳二十五のわかければあるほどのうれひみな来よとおもふ
斯くばかりこころ弱かりいつの日にわが悲しみの尽きむとすらむ
けだものの病めるがごとくしづやかに運命のあとに従ひて行く
一月より二月にかけ安房の渚に在りき、その頃の歌七十五首。
ふね待ちつ待合室の雑沓に海をながめて巻たばこ吹く
思ひ屈し古ぼろ船に魚買の群れとまじりて房州へ行く
武蔵野の岡の木の間に見なれつる富士の白きをけふ海に見る
物ありて追はるるごとく一人の男きたりぬ海のほとりに
病院の玻璃戸に倚れば安房の海のあなたに伊豆の山焼くる見ゆ
まつ風の明るき声のなかにして女をおもひ青海を見る
なにほどのことにやあらむ夜もいねで海のほとりに人の嘆くは
われひとり多く語りてかへり来ぬ月照る松のなかの家より (人を訪ねて)
ともすれば咯くに馴れぬる血なればとこともなげにも言ひたまふかな (おなじき時に)
海に来ぬ思ひあぐみてよるべなき身はいづくにも捨てどころなく
とやかくに思ひひがめてわれとわが清きこころを蝕みゆかむとす
病むごとしけふもねがての枕べに這ひまつはれる海のひびきは
藻草焚く青きけむりを透きて見ゆ裸体の海女と暮れゆく海と
われよりもいささか高きわか松の木かげに立ちて君をおもへり
朝起きて煙草しづかにくゆらせるしばしがほどはなにも思はず
日は日なりわがさびしさほわがのなり白昼なぎさの砂山に立つ
ここよりは海も見えざる砂山のかげの日向にものをおもひぬ
いづかたに行くべきわれはここに在りこころ落ち居よわれよ不安よ
風落ちて渚木立に満ちわたる海のひびきの白昼のかなしみ
きさらぎや海にうかびてけむりふく寂しき島のうす霞みせり
火の山にのぼるけむりにむかひゐてけふもさびしきひねもすなりき
大島の山のけむりのいつもいつもたえずさびしきわがこころかな
晴れわたる大ぞらのもと火の山のけむりはけふも白々とたつ
夕やみに白帆を下す大船の港入りこそややかなしけれ
けふは早や恋のほかなるかなしみに泣くべき身ともなりそめしかな
海よわれ思ひあまればいつもいつも汝をしたひて来て泣くものを
梅はただ一もとがよしとりわけてただ一輪の白きがよろし
君もまたくるしきときに君おもふ薄情者をとがめたまふや
少年のゆめのころもはぬがれたりまこと男のかなしみに入る
あはれこころ荒みぬればか眼も見えず海を見れども日を仰げども
人見れば忽ちうすき皮を着るわが性ゆゑの尽きぬさびしさ
天地に享けしわが性やうやうに露はになり来海に来ぬれば
つひにわれ薬に飽きぬ酒こひし身も世もあらず飲みて飲み死なむ
やまひには酒こそ一の毒といふその酒ばかり恋しきは無し
あさましく酒をたふべて荒浜に泣き狂へども笑ふ人もなし
愚かなり阿呆烏の啼くよりもわがかなしみをひとに語るは
あめつちにわが残し行くあしあとのひとつづつぞと歌を寂びしむ
わがこころ濁りて重きゆふぐれは軒のそとにも行くをこのまず
けふもまた変ることなきあら海の渚を同じわれがあゆめり
安房の国海にうかびて冬知らず紅梅白梅いまさかりなり
けふ見ればひとがするゆゑわれもせしをかしくもなき恋なりしかな
おなじくは弱き男のいづくまでよわかるものかわれ試しみむ
海に行かばなぐさむべしとひた思ひこがれし海に来は来つれども
耳もなく目なく口なく手足無きあやしきものとなりはてにけり
眼覚めつるその一瞬のあたらしきおのれを見出で慄然と泣く
心より歌ふならねばいたづらに声のみまよふ宵をかなしむ
海あをくあまたの山等横伏せりわが泣くところいまだ尽くる無し
やどかりの殻の如くに生くかぎりわれかなしみをえは捨てざらむ
なつかしく静かなるかな海の辺の松かげの墓にけふも来りぬ
このごろは夜半にぞ月のいづるなりいねがての夜もよくつづくかな
いつ知らず生れし風の月の夜の明けがたちかく吹くあはれなり
物かげに息をひそめて大風の海に落ちゆく太陽を見る
蜑が家に旅寝をすれば荒海の落日にむかひ風呂桶を据ゆ
蜑が家に旅寝かさねてうす赤き榾の火かげに何をおもふか
白々とかがやける浪ひかる沙白昼のなぎさに巻煙草吸ふ
いたづらにものを思ふとくせづきてけふもさびしく渚をまよふ
青海の鳥の啼くよりいや清くいやかなしきはいづれなるらむ
これもまたあざむきならむ『いざ行かむ清きあなたへ』海のさそへど
砂山の起き臥ししげきあら浜のひろきに出でて白昼の海聴く
いと清きもののあはれにおもひ入る海のほとりの明るき木立
砂山のばらばら松の木のもとに冬の日あびてものをおもふは
わがほどのちひさきもののかなしみの消えむともせず天地にあり
好かぎりし梅の白きをすきそめぬさびしきことのおほき春かな
おぼろおぼろ海の凪げる日海こえてかなしきそらに白富士の見ゆ
海のあなたおぼろに富士のかすむ日は胸のいたみのつねに増しにき
安房の国の朝のなぎさのさざなみの音のかなしさや遠き富士見ゆ
うちよせし浪のかたちの砂の上に残れるあとをゆふべさまよふ
思ひ倦めば昼もねむりて夢を見きなつかしかりき海辺の木立
おぼろ夜や水田のなかの一すぢの道をざわめき我等は海へ
おぼろ夜のこれは夢かも渚にはちひさき音の断えずまろべる
おぼろ夜の多人数なりしそがなかのつかね髪なりしひとを忘れず
日は黄なり灘のうねりの濁れる日敗残者はまた海に浮く
男なり為すべきことはなしはてむけふもこの語に生きすがりぬる
鳥が啼く濁れるそらに鳥が啼く別れて船の甲板に在り
わかれ来て船の碇のくさり綱錆びしがうへに腰かけて居り(以上)
このままに無口者となりはてむ云ふべきことはみな腹立たし
おのづからこころはひがみ眼もひがみ暗きかたのみもとめむとする
角もなく眼なき数十の黒牛にまじりて行かばややなぐさまむ
鉛なすおもきこころにゆふぐれの闇のふるよりかなしきは無し
ただ一つ黒きむくろぞ眼には見ゆおもひ尽きては他にものもなし
思ふも憂しおもはねばなほたへがたし思ふとてまたなにをおもはむ
恋といふうるはしき名にみづからを欺くことにややつかれ来ぬ
いふがごと恋に狂へる身なりしがこころたえせずさびしかりしは
おほぞらのたそがれのかげにさそはれて涙あやふくなりそめしかな
なにごともこころひとつにをさめおきてひそかに泣くに如くことは無し
あはれまたわれうち棄ててわがこころひとのなさけによりゆかむとす
恋もしき歌もうたひきよるべなきわが生命をば欺かむとて
かりそめの己がなさけに神かけていのちささぐる見ればあはれなり
つゆほども酔ふこと知らぬうるはしき女をけふももてあそべども
月見草咲くよりあはく恋ざめの胸にほのかにあはれみの萌ゆ
あさましき歌のみおほくなりにけりものの終りのさびしきなかに
いかにして斯くは恋ひにし狂ひにし不思議なりきとさびしく笑ふ
狂ひ鳥日を追へるよりあはれなり行衛も知らずひとの迷へる
わがいのち安かりしかなひとが泣きひとが笑ふにうち混りゐて
爪延びぬ髪も延び来ぬあめつちの人にまじりてわれも生くなり
心いよよ独りをおもふ身にしみていよいよひとのなさけしげきまま
よるべなき生命生命のさびしさの満てる世界にわれも生くなり
うちたえて人の跫音の無かるべき国のあらじや行きて死なまし
よそ目には石のくれなどそれよりも物おもひなき身と見えつべし
斯くつねに胸のさわがばひろめ屋の太鼓うちにもならましものを
行くところとざまかうざま乱れたるわかきいのちに悔を知らすな
酒飲まば女いだかば足りぬべきそのさびしさかそのさびしさか
沈丁花みだれて咲ける森にゆきわが恋人は死になむといふ
大天地みどりさびしくひそまりぬ若き男のしづかに愁へる
汚れせずわかき男のただひとりこのあめつちをいかに歩まむ
青わだつみ遠くうしほのひびくより深しするどし男のうれへる
水いろのうれひに満てる世界なりいまわがおもひほしいままなる
降ると見えずしづかに青き雨ぞふるかなしみつかれ男ねむれる
ニコライの大釣鐘の鳴りいでて夕さりくればつねにたづねき
酒飲まじ煙草吸はじとひとすぢに妻をいだきに友のがれたり
この器具さびしきひとの朝夕につかへていかにさびしかるらむ(煙草入を贈られしに)
消息もたえてひさしき落魄の男をいまだ覚えたまふや(つぎ四首さる人のもとへ)
おもへらく君もひとりのあめつちに迷ひてよるべあらざらむひと
うす暗きこのあめつちの或るところ君在りとふをつねにわすれず
君おもへばあたりあまりにかがやかずゆふぐれどきの如なつかしき
あらためてまことの恋をとめ行かむ来しかたあまりさびしかりしか
恋なりししからざりしか知らねどもうきことしげきゆめなりしかな
いざ行かむいづれ迷ひは死ぬるまでさめざらましをなにかへりみむ
帰らずばかへらぬままに行かしめよ旅に死ねよとやりぬこころを
とこしへにけふのいのちの花やかさかなしさを君忘るるなかれ(哀果の新婚に)
声あはせて歌をうたへり春の日の四辻にして救世軍は
真昼日の小野の落葉の木の間ゆきあるかなきかの春にかなしむ
春は来ぬ落葉のままにしづかなる木立がくれをそよ風のふく
安房の国海のなぎさの松かげに病みたまふぞとけふもおもひぬ
海に沿ふ松の木の間の一すぢのみちを独りしけふも歩むか
君が住む海のほとりの松原の松にもたれて歌うたはまし
山ざくら咲きそめしとや君が病む安房の海辺の松の木の間に
憫れまれあはれむといふあさましき恋の終りに近づきしかな
かなしきはつゆ掩ふなくみづからをうちさらしつつなほ恋ひわたる
飽き足らぬふしのみしげき恋なりきそのままにして早や逝かむとや
はや夙くもこころ覚めゐし女かとおもひ及ぶ日死もなぐさまず
女なればあはれなればと甲斐もなくくやしくもげに許し来つるかな
憫れぞとおもひいたれば何はおき先づたへがたく恋しきものを
逃れゆく女を追へる大たほけわれぞと知りて眼眩むごとし
斯くてなほ女をかばふ反逆のこころが胸にひそむといふは
なにか泣くみづからもわれを欺きし恋ならぬかは清く別れよ
唯だ彼女が男のむねのかなしみを解し得で去るをあはれにおもふ
林なる鳥と鳥とのわかれよりいやはかなくも無事なりしかな
千度び恋ひ千度びわかれてかの女けだしや泣きしこと無かるらむ
別れゆきふりもかへらぬそのうしろ見居つつ呼ばず泣かずたたずむ
鼻のしたながきをほこる汝とて斯くは清くも棄てられつるか
別るとて冷えまさりゆく女にはわが泣くつらのいかにうつれる
山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや恋終りゆく
やみがたき憤りより棄てむとす男のまへに泣くな甲斐無く
かへりみてしのぶよすがにだもならぬ斯る別れをいつか思ひし
せめてただ恋に終りの無くもがなよりどころなきこのあめつちに
報いなき恋に甘んじ飽く知らず汝をおもふと誰か言はむや
あさましく甲斐なく怨み狂へるは命を蛇に吸はるるに似る
鳥去りてしろき波寄るゆふぐれの沖のいはほか恋にわかれき
海のごとく男ごころ満たすかなしさを静かに見やり歩み去りし子
別れといふそれよりもいや耐へがたしすさみし我をいかに救はむ
恋ひに恋ひうつつなかりしそのかみに寧ろわかれてあるべかりしを
恋といふつゆよりもいやはかなかるわが生のなかの夢をみしかな
わがこころ女え知らず彼女が持つあさきこころはわれ掬みもせず
再びは見じとさけびしくちびるの乾むとする時のさびしさ
柱のみ残れる寺の壊あとにまよふよりげにけふはさびしき
いつまでを待ちなばありし日のごとく胸に泣き伏し詑ぶる子を見む
詫びて来よ詑びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき
別れてののちの互ひを思ふこと無かるべきなり固く誓はむ
ふとしては何も思はずいとあさきかりそめごとに別れむとおもふ
斯くばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詫びしを許さざりけむ
おもひやるわが生のはてのいやはてのゆふべまでをか独りなるらむ
やうやうにこころもしづみ別れての後のあはれを味はむとす
思ひ倦み断えみ断えずみわがいのち夜半にぞ風のながるるを聴く
灯赤き酒のまどゐもをはりけりさびしき床に寝にかへるべし
きはみなき青わだなかにさまよへる海のひびきかわれは生くなり
冷笑すいのち死ぬべくここちよく涙ながしてわれ冷笑す
死ぬばかりかなしき歌をうたはましよりどころなく身のなりてきぬ
これはこのわが泣けるにはあらざらむあらめづらしや涙ながるる
とりとめてなにかかなしき知らねどもとすればなみだ頬をながるる
わが痛き生命のひびきただ一に冷笑にのみ生き残るかも
わがめぐりいづれさびしくよるべなきわかきいのちが数さまよへり
さびしきはさびしきかたへさまよへり淡きあはれのかぎりを知らず
花つみに行くがごとくにいでゆきてやがて涙にぬれてかへり来ぬ
おほ河のうへをながるるうたかたのさびしき人のけふも髪をゆふ
富士見えき海のあなたに春の日の安房の渚にわれら立てりき
おぼろなる春の月の夜落葉のかげのごとくもわれのあゆめり
まどかけをひきてねぬれば春の夜の月はかなしく窓にさまよふ
首たかくあげては春のそらあふぎかなしげに啼く一羽の鵝鳥
彼はよく妻ののろけをいふ男まことやすこし眼尻さがりたる
街なかの堀の小橋を過ぎむとしふと春の夜の風に逢ひぬる
春の昼街をながしの三味がゆく二階の窓の黄なるまどかけ
春のそらそれとも見えぬ太陽のかげのほとりのうす雲のむれ
ひややかに梢に咲き満ちしらしらと朝づけるほどの山ざくら花
咲き満てる桜のなかのひとひらの花の落つるをしみじみと見る
かなしめる桜の声のきこゆなり咲き満てる大樹白昼風もなし
寝ざめゐて夜半に桜の散るをきく枕のうへのさびしきいのち
海なかにうごける青の一点を眼にとこしへに死せしむるなかれ
よるべなみまた懲りずまに萌えそめぬあはれやさびしこのこひごころ
よるべなき生命生命が対ひ居のあはれよるべなき恋に落ちむとす
はかなかりし恋のうちなるおもひでのすくなき数を飽かずかぞふる
かへるべき時し来ぬるかうらやすしなつかしき地へいざかへらなむ
知らざりきわが眼のまへに死といふなつかしき母のとく待てりしを
をさな子のごとくこころはかなしみぬふと死になむと思ひいたりて
海の辺に行きて立てどもなぐさまず死をおもへどもなほなぐさまず
まことなり忘れゐたりきいざゆかむ思ふことなしに天のあなたへ
根の知れぬかなしさありてなつかしくこころをひくに死にもかねたる
死をおもへば梢はなれし落葉の地にゆくよりなつかしきかな
ゆふ海の帆の上に消えしそよ風のごとくにこの世去なむとぞおもふ
追はるるごと驚くひまもあらなくに別れきつひに見ざるふたりは
若うして傷のみしげきいのちなり蹌踉としてけふもあゆめる
然れども時を経ゆかばいつ知らずこのかなしさをまた忘るべし
ふたたびはかへり来ることあらざらむさなりいかでかまたかへり来む
ほのかなるさびしさありて身をめぐるかなしみのはてにいまか来ぬらむ
思ふまま涙ながせしゆふぐれの室のひとりは石にかも似む
死に隣る恋のきはみのかなしみの一すぢみちを歩み来しかな
故わかずわれら別れてむきむきにさびしきかたにまよひ入りぬる
見るかぎり友の顔みな死にはてしさびしきなかに独りものをおもふ
おぼろ夜の停車場内の雑沓に一すぢまじる少女の香あり
疲れはてて窓をひらけばおぼろ夜の嵐のなかになく蛙あり
ゆく春の軒端に見ゆるゆふぞらの音のにごりに風のうごけり
ちやるめらの遠音や室にちらばれる蜜柑の皮の香を吐くゆふべ
うしなひし夢をさがしにかへりゆく若きいのちのそのうしろかげ
わが生命よみがへり来ぬさびしさに若くさのごとくうちふるへつつ
わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり尽くるを知らず
玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室に疲れてかへり来しかな
ガラス戸にゆく春の風をききながら独り床敷きともしびを消す
四月すゑ風みだれ吹くこよひなりみだれてひとのこひしき夜なり
あめつちのみどり濃き日となりぬ我等きそうてかなしみにゆく
また見じと思ひさだめつさりげなく静かにひとを見て別れ来ぬ
真昼の日そらに白みぬ春暮れて夏たちそむる嵐のなかに
ただ一歩踏みもたがへて西ひがしわが生のかぎりとほく別れぬ
うす濁る地平のはての青に見ゆかすかに夏のとどろける雲
めぐりあひやがてただちに別れけり雨ふる四月すゑの九日
ゆく春の嵐のみだれ雨のみだれしづかにひとと別るる日なり
かなしみの歩みゆく音のかすかなり疲れし胸をとほくめぐりて
しめやかに嵐みだるるはつ夏の夜のあはれを寝ざめながむる
夏を迎ふおもひみだれてかきにごりつかれしむねは歌もうたはず
旅人あり街の辻なる煉瓦屋の根に行き倒れ死にはててける
いつしかに春は暮れけりこころまたさびしきままにはつ夏に入る
空のあなた深きみどりのそこひよりさびしき時にかよふひびきあり
あをあをと若葉萌えいづる森なかに一もと松の花咲きにけり
底知らず思ひ沈みて真昼時一樹の青のたかきにむかふ
大木の幹の片へのましろきにこぼれぬる日の夏のかなしみ
窓ちかき水田のなかの榛の木の日にけに青み嵐するなり
大木の青葉のなかに小鳥啼く細かに昼の日をみだしつつ
とりみだし哀しみさけび讃嘆すあああめつちに夏の来れる
生くといふ否むべからぬちからよりのがれて恋にすがらむとしき
ひややかにことは終りき別れてき斯くあるわれをつくづくと見る
思ひいでてなみだはじめて頬をつたふ極り知らぬわかれなりしかな
女ひとり棄てしばかりの驚きに眼覚めてわれのさびしさを知る
甲斐もなくしのびしのびにいや深にひとに恋ひつつ衰へにけり
忽然と息断えしごとく夜ふかく寝ざめてひとをおもひいでしかな
怨むまじやなにかうらみむ胸のうちのゆかしきこころ斯くちかひける
ありし夜のひとの枕に敷きたりしこのかひなかも斯く痩せにける
わが恋の終りゆくころとりりどりに初なつの花の咲きいでにけり
音もなく人等死にゆく音もなく大あめつちに夏は来にけり
海山のよこたはるごとくおごそかにわが生くとふを信ぜしめたまへ
きはみなき生命のなかのしばらくのこのさびしさを感謝しまつる
あなさびし白昼を酒に酔ひ痴れて皐月大野の麦畑をゆく
青草によこたはりゐてあめつちにひとりなるものの自由をおもふ
畑なかにふと見いでつる痩馬の草食みゐたり水無月真昼
ひややかにつひに真白き夏花のわれ等がなかにあり終るべし
棕梠の樹の黄色の花のかげに立ち初夏の野をとほくながむる
初夏の野ずゑの川の濁れるにものの屍の浮きしづみ行く
けだものはその死処とこしへにひとに見せずと聞きつたへけり
水無月の洪水なせる日光のなかにうたへり麦かり少女
遠くゆきまたかへりきて初夏の樹にきこゆなり真昼日の風
木蔭よりなぎさに出でぬ渚より木かげに入りぬ海鳴るゆふべ
みじか夜のころにはじめてそひねしてもののあはれを知りそめしかな
松咲きぬ楓もさきぬはつ夏のさびしきはなの咲きそめにけり
郊外に友のめうとのかくれ住む家をさがして麦畑をゆく
夜のほどに凋みはてぬる夏草の花あり朝の瓶の白さよ
少女子の夏のころもの襞にゐて風わたるごとにうごくかなしみ
母となりてやがてつとめの終りたるをみなの顔に眼をとめて見る
停車場に札を買ふとき白銀の貨のひびきの涼しき夜なり
夏深しかの山林のけだもののごとく生きむと雲を見ておもふ
麦の穂の赤らむころとなりにけりひと棄てしのちのはつ夏に入る
いつ知らず夏も寂しう更けそめぬほのかに合歓の花咲きにけり
わがこころ動くともなく青草に寝居つつ空の風にしたがふ
夏草の延び青みゆく大地を静かに踏みて我等あゆめり
深草の青きがなかに立つ馬の肥えたる脚に汗の湧く見ゆ
夏白昼うすくれなゐの薔薇よりかすかに蜂の羽音きこゆる
わが友の妻とならびて縁に立ち真昼かへでの花をながむる
麦畑の夏の白昼のさびしさやふと讃美歌のくちびるに出づ
黄なる麦一穂ぬきとり手にもちて雲なきもとの高原をゆく
高原や育の一樹とはてしなき真白き道とわがまへに見ゆ
麦畑のなかにうごける農人を見ゐつつなみだしづかにくだる
わが顔もあかがねいろに色づきぬ高原の麦は垂穂しにけり
ひややかに涙はひとりながれたりこころうれしく死なむとおもふに
われみづから死をしたしくおもふころ誰彼ひとのよく死ぬるかな
火の山にけむりは断えて雪つみぬしづかにわれのいつか死ぬらむ
渚より海見るごとく汪洋とながるる死のまへにたたずむ
もの思へばおもひのはてにつねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
夏白昼あるかなきかのさびしさのこころのうへに消えがてにする
松葉散る皐月の暮の或るゆふべをんな棄てむと思ひたちにき
影のごとくこよひも家を出でにけり戸山が原の夕雲を見に
皐月ゆふべ梢はなれし木の花の地に落つる間のあまきかなしみ
ひとつひとつ足の歩みの重き日の皐月の原に頬白鳥の啼く
日かげ満てる木の間に青き草をしき梢をわたる昼の風見る
見てあればかすかに雲のうごくなり青草のなかによこたはるとき
わがいのち空にみちゆき傾きぬあなはるかなり遠ほととぎす
たそがれの沼尻の水に雲うつる麦刈る鎌の音もきこえ来る
なつかしさ皐月の岡のゆふぐれの青の大樹の蔭に如かめや
落日のひかり梢を去りにけり野ずゑをとほく雲のあゆめる
けむりありほのかに自し水無月のゆふべうらがなし野羊の鳴くあり
わが行けばわがさびしさを吸ふに似る夏のゆふべの地のなつかし
麦すでに刈られしあとの畑なかの径を行きぬ水無月ゆふべ
椅子に耐へず室をさまよひ家をいで野に行きまたも椅子にかへりぬ
野を行けば麦は黄ばみぬ街ゆけばうすき衣ををんな着にけり
やうやうに恋ひうみそめしそのころにとりわけ接吻をよくかはしける
強ひられて接吻するときよ戸の面には夏の白昼を一樹そよがず
いちいちに女の顔の異るを先づ第一の不思議とぞおもふ
六月の濁れる海をふとおもひ午後あわただし品川へ行く
とかくして動きいでたる船虫の背になまぐさき六月の日よ
月いまだひかりを知らず水無月のゆふべはながし汐の満ち来る
海のうへの月のほとりのうす雲にほのかに見ゆる夏のあはれさ
少女等のかろき身ぶりを見てあればものぞかなしき夏のゆふべは
いささかを雨に濡れたる公園の真の大路を赤き傘ゆく
桐の花落ちし木の根に赤蟻の巣ありゆふべを雨こぼれ来ぬ
枝のはし三つほど咲けるうす紅の楓のはなに夕雨の見ゆ
いたづらに麦は黄ばみぬ水無月のわがさびしさにつゆあづからず
八月の街を行き交ふ群集の黙せる顔のなつかしきかな
とこしへに逢ふこと知らぬむきむきのこころこころの寂しき歩み
あめつちに独り生きたりあめつちに断えみたえずみひとり歌へり
六七月の頃を武蔵多摩川の畔なる百草山に送りぬ、歌四十三首。
涙ぐみみやこはづれの停車場の汽車の一室にわれ入りにけり
ともすればわが蒼ざめし顔のかげ汽車のガラスの戸にうつるあり
雨白く木の間にけぶる高原を走れる汽車の窓によりそふ
水無月の山越え来ればをちこちの木の間に白く栗の咲く見ゆ
とびとびに落葉せしごとわが胸にさびしさ散りぬ頬白鳥の啼く
啼きそめしひとつにつれてをちこちの山の月夜に梟の啼く
たそがれのわが眼のまへになつかしく木の葉そよげり梟のなく
夕山の木の間にいつか入りも来ぬさだかに物をおもふとなしに
あをばといふ山の鳥啼くはじめ無く終りを知らぬさびしき音なり
わがこころ沈み来ぬれは火の山のけむりの影をつねにやどしぬ
桧の林松のはやしの奥ふかくちひさき路にしたがひて行く
青海のうねりのごとく起き伏せる岡の国ありほととぎす行く
わが死にしのちの静けき斯る日にかく頬白鳥の啼きつづくらむ
紫陽花のその水いろのかなしみの滴るゆふべ蜩のなく
煙青きたばこを持ちて家を出で林に入りぬ雨後の雫す
拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり
かたはらの木に頬白鳥の啼けるありこころ恍たり真昼野を見る
日を浴びて野ずゑにとほく低く見ゆ涙をさそふ水無月の山
松林山をうづめて静まりぬとほくも風の消えゆけるとき
真昼野や風のなかなるほのかなる遠き杜鵑の声きこえ来る
梅雨晴の午後のくもりの天地のつかれしなかにほととぎす啼く
山に来てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
或るゆふべ思ひがけなくたづね来しさびしき友をつくづくと見る
幹白く木の葉青かる林間の明るきなかに歩み入りにき
わが行けば木々の動くがごとく見ゆしづかなる日の青き林よ
かなしめる獣のごとくさまよひぬ林は深し日は狭青なり
はてしなくあまたの岡の起き伏せり眼に日光の白く満つかな
別るべくなりてわかれし後の日のこのさびしさをいかに追ふべき
棄て去りしのちのたよりをとりどりに思ひつくりて夜々をなぐさむ
ゆめみしはいづれも知らぬ人なりき寝ざめさびしく君に涙す
あるときはありのすさみに憎かりき忘られがたくなりし歌かな
遠くよりさやさや雨のあゆみ来て過ぎゆく夜半を寝ざめてありけり
ゆくりなくとあるゆふべに見いでけり合歓のこずゑの一ふさの花
きはみなき旅の途なるひとりぞとふとなつかしく思ひいたぬ
六月の山のゆふべに雨晴れぬ木の間にかなし日のながれたる
ゆふぐれの風ながれたる木の間ゆきさやかにものを思ひいでしかな
ゆふ雨のなかにほのかに風の見ゆ白夏花のそぼ濡れて咲く
はるばると一すぢ白き高原のみちを行きつつ夏の日を見る
放たれし悲哀のごとく野に走り林にはしる七月のかぜ
かなしきは夜のころもに更ふる時おもひいづるがつねとなりぬる
鋭くもわかき女を責めたりきかなしかりにしわがいのちかな
七月の山の間に日光のあをうよどむに飛ぶつばめあり
暈帯びて日は空にあり山々に風青暗しほととぎす啼く
生くことのものうくなりしみなもとに時におもひのたどりゆくあり
うち断えて杜鵑を聞かずうす青く松の梢に実の満ちにけり
わがこころ静かなる時につねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
独り歌へる 下の巻終り
[はじめにもどる]