渓谷集

                    若山牧水


第12歌集
大正7年5月5日 東雲堂書店発行。
菊半截。定価60銭。



  秋の曇冬の晴

   秋ぐもり
起き出でて見る軒さきの枝葉みな垂れて輝かずけふも曇るなり
おほかたは曇りつづきし長月のそのすゑつかたの今日もまた曇る
さりげなく起居はすなれ秋曇る家に篭れば悔ゆること多し
秋咲きのくれなゐダリヤやうやうに咲きしと見ればけふも曇れり
秋立ちてはや幾日ならむなにしかもかの西の風は吹き立たざらむ
長火鉢の抽斗あけてかき探すしめりがちなるわが粉薬
軒さきの木立に見ゆる朝霧の動ける見えてけふは晴るるか
   秋 晴
軒晴れて風の冴ゆれば貧しさも忘れてうごくわがうからどち
夕雲の細くたなびき地にひきて輝く見れば秋はさびしき
裏光るひろ葉ほそき葉窓に見えて秋風聞ゆ西晴れゆけば
   睡 蓮
やとばかり驚き見たる一鉢の睡蓮の花は友の呉れしとふ
   失 題
渓川の澄めるこころはかたよりてひそかにものを避くとこそすれ
おだやかに妻にものいふやすらけきこころをわれの持たぬものかも
下をのみ見て居るごときおもひしてわが眼うとましきこの日頃かな
いつしかも斯くはなりけめこころ刺す苦しきこともひとに告げなくに
うつとりと疲れてものを見てゐしが狂ほしく吾子の恋しくなれり
吾子よ吾子よとこころに呼びて瞼には涙たまれりさびしきものを
   貧しき庭
たけ高くわれ越ゆべしとおもひゐし鶏頭は尺に足らで花咲けり
きのふけふ野分吹けども枝葉のみ茂り暗みてダリヤは咲かず
枝葉のみ黒み茂りて秋づきしわがダリヤ畑に蕾は見ゆる
蜘蛛の巣のしじにからみて朝な朝な露ばかりなるわがダリヤ畑
小鉢より庭にうつせし糸萩の伸びいそぎつつ今は花咲けり
庭せまく小草茂りつとりわけて露しとどなる糸萩の花
このしばしこころ休まするてだてとて草に水やることおぼえたり
しののめの霧晴れぬ間に起きいでて庭に花見ること覚えたり
酒のみの主人とおもへ庭の隅に植ゑられし草は胡椒青蓼
わが庭の紫苑ダリヤの花かげに夕晴れぬればうごく風みゆ
小さければ抜き棄つべしと思ひゐし鶏頭はいよよ色冴えて咲く
   雨と風と
秋草は晴れてこそ見め長月のこの長雨に腐れつつ咲きぬ
雨のいろ土に浸み入り黒みたる園のながさめにダリヤ叢咲けり
なごりなく吹き荒らされし暴風雨後の庭は土さへ新しく見ゆ
手をつけむ術なきごとくすておきし暴風雨後の園に花はみな咲けり
しけあとの落葉朽葉の下づみを伸び出でて咲けりダリヤの花は
大しけに洗はれて出でし花畠の荒土に垂れてダリヤは咲けり
ながながと折れたるままに先青みわづか擡げてコスモス咲けり
   秋 暁
朝の月ひくくかかりて練馬野の大根畑に日は輝けり
刈りあとの水田ひかりて影うつるわが朝戸出の静けくもあるか
うごきなきすがたに見えて遠峯に雲こそかかれ秋のしののめ
黄葉せる櫟の木かも刈りあとの水田の畔にとほく光るは
この朝のわきて寒けく遠空にましろに晴るる富士見えにけり
わが頬の凍るおぼえて朝風に吹かれ急げば冬畑晴るる
行きずりの眼にこそうつれあかときの櫟のもみぢすがれ咲く菊
   昼
この年の秋を雨おほみ土けぶるけふの日和に畑にぎはへり
一人のおほき男のあらはれてあゆみいでたり青葱畑を
秋ならでいつか見るべき山のうへの彼の真白雲かがやけるはや
やはらかく照るは桜か畑の畔のほそほそつづく雑木の黄葉
つち掘れる金属の音のをちこちに冴えつつ真昼せきれい飛べり
はつはつに秋を霞める武蔵野の練馬の里の汽車よりぞ見ゆ
   草 花
中にありて黄菊は霜に強からしさかり過ぐとふ菊のはたけに
褪せ褪せていまだは朽ちぬむらさきの薊のはなに薄霜の見ゆ
   桐 畑
めぐらせる籬の楓もみぢして桐のはたけはさびにけるかも
落つる葉のいづれ乾びてひろければうづたかきかも桐のはたけに
晴れし日は冴えてたふとく曇りてはくもりて白し冬の桐の木
   冬 晴
竹薮の蔭あらはなる赤土の乾きまひつつ続く冬晴
時として曇れば薮の片かげの竹に来る鳥似つきてぞ見ゆ
この冬は時雨も降らで庭さきにつのぐめる木木塵うきて見ゆ
こもりゐの家のめぐりのほこりだち晴れつづく頃に咲ける梅かも
けふもまた曇は晴れて庭の木に来啼く雀のこゑのさびしも
浅薮の竹の垂枝の葉ごと葉ごと赤らみ見えて晴続くかも
工場前あさ黄のいろの服つけし男出でをり落葉林に
坂みちの落葉古りつつ片岡のこの櫟原春めくものか
うらうらと伸び静まれる馬のつらかすかに笑ふ冬のひなたに


  秩父の秋

   十一月のなかば、打続きたる好晴に乗じ秩父なる山より渓を歴巡る、その時の歌。
朝の山日を負ひたれば渓の音冴えこもりつつ霧たちわたる
朝雲の散りのかすけさ秋冴えし遠嶺に寄ると見れば消えつつ
筏師の焚きすてていにしうす霜の川原のけぶりむらさきに立つ
はだら黄の木の間に見えて音もなく流るる此処の淀深からし
朝晴のとほきに見ゆる草山のまろきいただき黄葉せる見ゆ
瀬のひびきにまじりて聞ゆ向つ岸杉の茂みの樫鳥の声
杉山の茂みのなかゆまひ出でて渓越す鳥の光る秋の日
啼く声の鋭どかれども鈍鳥の樫鳥とべり秋の日向に
真砂なす石も動きて渓川の秋の浅き瀬ながれてやまず
石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の渓間に
朝曇やがてほのぼの明けゆくにつらなりわたる山黄葉かな
たたなはるだんだら山の雑木山黄葉しはてていまは散らむとす
八重山の折りのひだひだにこもらへる雑木のもみぢつばらかに燃ゆ
ひとよさの泊りの背戸辺おもはぬに杉の花咲けり枝もとををに
水痩せし秋の川原の片すみにしづかにめぐる水車かな
瀬のなかにあらはれし岩のとびとびに秋のひなたに白みたるかな
瀬に乗れる長き筏のまがりつつ流れゆく見れば夕かぎろへり
ほそほそとうねりながるる真白木の筏かなしも秋晴れし渓に
一人乗り二人乗りたるとりどりに筏は過ぎぬ秋光る瀬を
うらら日のひなたの岩に片よりてながるる淵に魚あそぶ見ゆ
片よりて青淵なせる岩渓のしづかにはあれどくるめき流る
胡桃の樹枝さしかはし渓あひの早瀬のうへに薄黄葉せり
白き雲かかりては居れ四方の峰の際あざやかに秋晴れにけり
自転車の走せぬけ行ける渓ぞひの秋の往還晴れわたりたり
ほそほそと軒端を越えて菊の花の白きが咲けり瀬のそばの家に
岩はしる滝津瀬のうへに古榎欅植ゑ並め住み古りし見ゆ
山の鳥の啼く音にもふと似て聞ゆをりをり起る機織の音
若杉の白木伐り乾せる片山の見のはるけしも秋のひなたに
円山の芒の穂なみ銀のいろにひかり靡きてならぶ幾山
わが妻の好める花の濃むらさき竜胆を冬の野に摘めるかな
妻が好む花のとりどりいづれみなさびしからぬなきりんだうの花
からからと黄葉鳴りつつ低き木のわれをめぐれる野の日向かな
うららけき冬野の宮の石段の段ごとに咲くりんだうの花
初冬の野のうららけさ来てみればもみぢせぬ草も木もなかりけり
冬の野の枯葉もみぢ葉ながめつつかきかがみ居ればさびしくぞなる
枯草のいろにまがへる蝗ゐてをりをりとべり初冬の野辺
斯くばかり紅葉づるものと知らざりし木苺の葉を摘めば枝さへ
めづらしき木草たづぬる植木屋の爺とあひにけり広き冬野に
楢櫟わかき木どちの黄葉して押しひろごれり此処のいただき
草枯れて岩あらはれし冬の野のいただきに居れば鵯鳥の啼く
ひこばえの楢の小枝に実のなりてつぶつぶと見ゆもみぢ葉のかげに
山窪に酔ふばかりなる日の照りてひとりくるしき冬日向かな
たそがれのいろの澄めるやとほ空のひかりにならぶ冬草の山
をちこちの峰のとがりにうらさむく夕日にほひて秋霞せり
下払ふ杉の木山の男たち声のあらさよ山雀も啼き
手洗へば飛沫は寒し杉山の荒岩のかげにながれたる水
夕餉にと鹹鮭焼ける杉の葉のにほひ寒けき渓ぞひの宿
厨にて焚ける杉の葉板戸漏り煙りきたりて涙をさそふ
飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる山家の冬の夕餉なりけり
晴れよとし祈れど西の山山に立つ雲みれば雨もよしとおもふ
いかめしき白塗の鉄の橋ゆけば秋渓の水のせせらぐ聞ゆ
川原には吹くとしもなき風ありて秋のうらら日寒けくもこそ
早渓の出水のあとの瀬の底の岩青白み秋晴れにけり
古杉と苗植ゑなめしわか山とならびて晴れぬ秋のよき日に
生ひきほふ杉生につづく草山の峰の雑木の黄葉せる見ゆ
かぎろひて見えもこそすれ真ひなたに傾き立てる若杉の山
草山のまろき峰こそつづきたれ燃ゆるともなき薄黄葉して
秋渓の水の痩せしをかなしみて筏あげ乾せる筏師の群
さざれ石の浅瀬の水のさやさやに鳴りさやぎつつ筏はくだる
砂擦れる筏のひびきはつはつにきこえほがらけき霜日和かな
きさらぎの芒のわか芽萌ゆるごと杉こそ生ふれ秋霞む山に
ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ赤き蟹ゐて杉の山静か
きりぎしの岩のさけ目をつたひつつ落ち落つる水は氷りたるごと
片山を伐りそぎし杉の高山は秋日の晴にくきやかに見ゆ
霜の後の朝の霞のほそほそと渓の杉生にうちなびきたる
この沢のきはまり合ひてつづきたる遠嶺まろみて秋霞せり
長雨のあとの秋日を忙しみひとの来ぬちふ渓の奥の温泉
秋の渓温泉とはいへど断崖に滴る引きてやがてわかす湯
かぐはしき町のをとめの来てをりてかなしきろかも渓の温泉は
渓おくの温泉の宿の間ごと間ごとひとも居らぬに秋の日させり
杉落葉しげき渓間の湯のやどの屋根にすてられて白き茶の花
釣りランプ静かにともり降り出でし山の時雨にうちゆらぐみゆ
晴るる時杉生は驕り時雨るればむら木の黄葉いろめきて見ゆ
夜の時雨いまはあがると杉むらの山はら這へる朝の霧雲
夜の雨のあとの淵瀬に魚寄ると霧ふ渓間に釣れる児等見ゆ
かの筏父子なるらし老若のうたひてくだる長きその瀬を
だみごゑの錆びはてたれど瀬に乗りてうたふ筏師きけばかなしも
夜の雨に岩みな濡れし朝渓の瀬瀬を筏師うたひて下る
おどろおどろとどろく音のなかにゐて真むかひに見る岩かげの滝
鶺鴒来てもこそ居れ秋の日の木洩日うつる岩かげの淵に
淵尻のながれ細みて水際の黒き岩見えず落葉散りしけり
川くまの真砂に生ふる浅芝の冬枯れはててうつくしく見ゆ
馬車の笛とほく聞えてひそまれる山峡のみちの薄黄葉かな
山みちの落葉ふみつつおのづからおもふかなしき妻子等がこと
目あぐれば黄葉の山の三重つづき四重かさなりて路は晴れたり
黄葉して凪ぎひそみたる低山の雑木が原をあはれとも見つ
落葉積む路のひなたの長ければひとりかなしも身のことを思ふ
みちばたのひなたの落葉かき敷きて憩ふとはすれど心おちゐぬ
さやさやに遠き瀬かよふ山そばのけはしき行けば紅葉散りつつ
夏ならば鮎もすむてふ岩渓の黄葉のかげの瀬瀬の寒けさ
山鳩のするどく飛びて樫鳥ののろのろまひて秋の渓晴る
早き瀬の此処に曲りて幅ひろき秋の川原に子等あそぶ見ゆ
ひちひちと音の聞えてうち上り秋のひなたに光る早き瀬
木がくれにやがてなりゆく細渓のみなかみの山は秋霞せり
この渓よゆるく曲るととく折ると水速けれや紅葉みてゆくに
浅き瀬の底の石つぶつばらかに秋日寒けれ此処の川原に


  上総の海
    十一月末、上総国大原海岸に遊ぶ。

   途すがら
葛飾の冬田の原の榛の木のくきやかに晴れて日の寒きかも
榛の枝みだれなびかひ葛飾はこがらしすなり真日照るなかに
停車場の裏の冬田に風わたり田尻にひくき昼の月見ゆ
なだらかに海へくだれる片岡の麦生あをみて木枯の吹く
片空に朱をかき流しこがらしの上総だひらは夕焼けにけり
上総野の冬田行きつつおほけなく富士のとほ嶺を見出でつるかも
かがやきて月照る海ぞ見えきたる冬の夜冴えし汽車の小窓に
松原の蔭の小川にしらじらと照りたる冬の月夜なるかも
   きりぎし
枯草の温とげなるに寝て見ればこの崖の窪に野菊むら咲けり
冬草の枯れしひと葉もかがやけるよき日の崖に浪の音きこゆ
どと上る音ぞ聞ゆる冬草のこの崖のもとに浪さわぐらし
冬の日のひなたに居ればそこ此処と痒くなる身の古りにけらずや
   浪の歌
眼ざめゐてひさしく聞けば浪の音にやがてまじらふ朝の人の声
よべ荒れし月夜の風のあとなれや岸辺濁りて朝焼けにけり
朝日子のかげのあはきに寄る浪も高くは立たず浜真白なり
さしのぼる朝日のかげの濃くなれば早やけぶりたつをちこちの浪
真ひなたのきりぎしの岩に寄る浪のいまはなごみて煙りたるかな
止む間なく光りうねれる浪のむらの昼近づきてなやましく見ゆ
打ちあがる浪のしぶきにさとばかりうつらふ虹の寒けくもあるか
藍湛ふかの沖津辺とながれあひ冬の日の雲ひくくこそ居れ
わがこころ玉と澄みつつさびしきはかの岩かげのひねもすの浪
真白浪つぎつぎ立ちてひもすがら断えねば岩の淋しくぞ居る
霜月の末の寒けど潮騒のひかりなびきてうららけきかも
紺青の濃しといふとも何しかも彼の沖のいろを尽さふべしや
見てあればこころぞ冷ゆる冬の日の沖の青きは限り知られず
大浪の間の傾斜にゆらゆらと揺れ居る浪は光りたるかな
貝取るとわめけるらしも真冬日の白浪がくれ海女が声きこゆ
この海に鳥こそ啼かねたまたまに飛べるを見れば黒き鵜の鳥
はすかひに日のなりゆけばそぎ立てる断崖の面は愁ふるがごと
きりぎしに頭真青き鳥居りて待てども啼かず浪にくぐれり
   旅 館
よりそひて坐るガラス戸をりをりに風に鳴れども沖辺晴れたり
   釣 魚
夕日さす崖の枯草にかき坐り釣する見ればわれも楽しき
崎のかげの此処はかげりて向つ岸夕日かがやき釣れる児等見ゆ
何魚かひとつは釣れといのりつつ見てしその竿つりあげにけり
釣竿を引きたわめつつ釣りあげしこれは荒布か魚ならなくに
釣りあげて手には持てれどはしけやし魚にあらねば身うごきもせぬ
とかくして釣りあげたれば八足にこの木葉蟹草這ひめぐる
   八幡岬に在りて図らず満月を見る
ありがたやけふ満つる月と知らざりしこの大き月海にのぼれり
断崖の草かきわけて登りたれ思ひきやこの月を見むとは
月いまだかがやかざれどわだつみにうつらふ見れば黄金ながせり
断崖の端に立てれば月ひとつわれを照らして海どよもせり
霜月の満ちぬる月の沖辺より昇り来りてこの海寒し
沖辺より昇りいまだもたたぬ月かがよはずしてわれを照らせり
うすいろの大あめつちと今を見よひんがしの海に月さしのぼる
月ひとつ大わだつみのきはまりにのぼりてぞ居るわが向ふかたに
糠星もいまだは照らずわだつみの沖津辺にして月はのぼれり
ひとしきりどよむか浪も月昇りわが立ちつくすきりぎしの下に
   同じ処にて老漁師より鮪つきの話を聞く
漕ぎ出でて十里にならば見えずなるとふ大東崎の端の真白さ
藍澄みて三十尋の底も見ゆとふ沖辺に出でて鮪つく話
餌まけば群りきたる鋭き魚のかぢき鮪を突きめぐるとふ
餌まけば深きより出でて尾鰭うち鮪は群れてうちどよむとふ
舳にて突くまだるしみ跳び入りて素手に鮪をつかみたしといふか
鰡鱸のたぐひにあらで鋭き魚の鮪走るを見せたしといふか
大魚の青黒鮪むらがりてどよむこの沖瀬の速しとふ
鮪突き船は満たせど風を強み三日四日沖に居る日ありといふ


  伊豆の春

   一月元旦加藤東籬君と共に駿河沼津なる狩野川の川口に宿る。
とほく来て寝ぬるこの宿静けくて夜のふけゆけば川の音きこゆ
向つ岸水際につづく篁のなびき静もる冬のひなたに
一夜さに山に雪つみわが宿の庭のたかむら朝雨の降る
   翌二日汽船にて伊豆土肥へ越ゆ
わが船に驚き立てる鴨の群のまひさだまらずあら浪のうへに
片空に崩れかかれる雪雲のなだれのはしは降りてかあるらし
なだらかにのびきはまれる富士が嶺の裾野にも今朝しら雪の見ゆ
浪の間に傾き走るわが船の窓に見えつつ富士は晴れたり
   二月七日今度はわれ一人にて土肥へ赴き月末まで滞在す、その時の歌のうちより。
   早春雑詠
よりあひて真すぐに立てる青竹の薮のふかみに鶯の啼く
菅山の海ちかみかもこの朝けほのかに降りて雪消えにけり
軒ごとに梅の花咲き乾びたる枯田の里にけふは雪降る
ただ一木青みて見ゆる梅のはなさびしくもあるか梅の林に
東風吹くや霞みなびくと見るまでにこの沖津辺は潮ぐもりせり
入り残る月ぞ寒けき沖津辺は東風立つらしき潮曇して
柴山の柴のかげなるしら梅のわか木の花は雪のごと咲く
曙のをぐらき薮の奥深みほのかなるかも白梅の花
海かけて霞みたなびくむら山の奥処に寒き遠富士の山
薪に樵るはやしの雑木つのぐみて茜さす見ゆ山のひなたに
雨雲のたたなはりつつ山あひの春のあけぼの渓川の鳴る
枯草の小野のなぞへの春の日にかぎろひて咲く白梅のはな
大沢のせまれる坂の日あたりにひとつら赤し春の杉むら
しらじらと枝に咲きみち梅のはなかがよふもとに立てば明るし
ひそまりて久しく見ればとほ山のひなたの冬木風さわぐらし
かれ草のかぎろふなかにひそまりてねむるとはすれものの思はる
かなしきはさす日のひかり枯草のかげに坐りてうつつなく居るに
柴山の椿がもとにゆきあへる丹の頬のをとめはぢらへるかも
崎山のはたけの畔のあさぢはら沖ひろく見えて浪寄るきこゆ
かすみあふ四方のひかりの春の日にはるけき崎に浪の寄る見ゆ
角石のつぶらの石のとりどりにかぎろふ浜に待てる船かも
石あらき入江の浜にひとりゐてあそべるけふの霞みたるかな
枇杷山のはだらに続くしば山の春浅みかも日の寒くして
ふるき葉の楢の梢のちりやらでさやげる林繍眼児居る見ゆ
わだつみのけぶれる蔭のもろもろの崎も煙りてわが見るさびし
このわたり端山低山おしなべて梅しろく咲けり寒き春日に
いぶせみて見ればあたりの低山に白梅のはな咲きしづもれり
うちわたす冬田のくろの低山のそのしば山のけふも晴れつつ
とほ山のおほにまろめるいただきは枯菅ならし今朝雪の見ゆ
なだれつつ空をおほへる山ごしの雪もよひ雲を出でてあふげり
かぎろひの上れる原のかたすみに赤錆びたてり冬のたかむら
篁も杉の木立も赤さびてしづもれる里の温泉には来し
冬川の石のあひだのながれ水流れ清みて芹生ひにけり
柴生ふる川原に出でてけふの日を温み居れば瀬の高鳴れり
ひと日見し山のかすみのつぎつぎて霞みわたれり海のむかひに
ここに見る海のむかひの駿河路の低山脈にかすみたなびく
春立つと沖辺かすめる湯の町にひとり篭りてさびしくも居る
梅の花はつはつ咲ける海ぎしの温泉にきたり幾日経にけむ
わだなかに入江の端ののびゆきてこころかなしもかき煙らへり
とびとびに岩かあるらし春の日のとろめる入江浪動く見ゆ
ほのぼのと煙草の酔の身にはしみ東風寒きかも朝のなぎさに
皮かたき小鯵小ざかな月ちかく喰ひつづけたれば今は菜を思ふ
   浪と真昼と
うねり寄るこの日の浪は日に透きて六つら五つらかさなりて寄る
青渦のみなそこの石をかき鳴らし来寄れる浪は日に透きにけり
岩かげのすくなき砂をかき敷きてまのあたり見れば浪はさやけし
眼のまへに浪はさわげど照りこもる日に蒸されつつよそごとを思ふ
岩のあひをうねり越えては滝となるうらら日の浪を見てたのしめり
   静 夜
起きてゐて身にわるけむとおもひつつこの静夜をいねがてぬかも
ぬばたまの夜の深みに灯つけひそまり居りて身のことを思ふ
疲れたれいまはいねむと小夜床に入ればいよいよ身のおもはるる
   海女(其の一)
崎山の楢の木がくり芝道に出であひし海女は藻の匂せり
また一人とほくには見ゆ荒磯の浪しろき辺に藻をつめる海女
   海女(其の二)
黒岩のこごしき蔭に見出でつるこの海女が子を親しとは見つ
おもはぬに言葉はかけつ面染めてはぢらふ見れば悔いにけるかも
これはまたこまかき藻草摘むものかその手のくびの肉のゆたけく
手くびさへ見つつし居ればこひしさのいま耐へがたしとらむその手を
裳のすその短かけれどものびやかにのびたる脛は神のままにして
篠竹のさやらず生ひてたけたかきこの海女が子は顔もよろしき
ひとみには露をたたへつ笑む時の丹の頬のいろは桃の花にして
椿のいまだふふみて咲きいでぬこの海女が子を手にか取らまし
大浪の来寄り砕けて飛沫あがり飛び避けてわらふその海女が子は
岩かげにかくれてきけば海女が子のをとめどちして笑ふ高声
蜆貝からす貝などうち群れてわらへるごとし海女が子の群
素はだかにいまはならなとおもへるごとその健かの顔はわらへり
汐かむりほほけたれどもたけながのこの子が髪は生きて光れり
丈長の髪はうねりつなよやかにその身はやがて浪にうかびぬ
髪も肩もそのやはら乳も濡れひたり汐のなかにしわらへる少女
浪高みけふは永くは潜らずと笑みてこたふる汐垂らしつつ
口すこし大きしとおもふ然れどもいよよなまめく耐へがてぬかも
おのづから二重くくれし顎の辺の笑ふちからに豈かためやも
   妻が許へ送れる
けふの日をこの柴山のつのぐめる雑木が原に居ると知るべしや
田の道のかたへの芝のぬくとげに日を浮びたれば居て汝をおもふ
たのしみて出でて来しかど楽しみてけふ居るものとゆめなおもひそ
行く旅のいづかたはあれくつろぎてこころ休むる旅とてはなし
かきいだき吾子と眠れる癖つきてをりをりおもふその吾子がことを
はつはつに梅のはな咲くおのづから思ふくるしき世の中のことを
身ごもればこころさとしと聞くものをいかにか汝が独り居をせむ
   土肥より汽船にて沼津へ渡らむとし、戸田の港口にて富士を見る
伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
柴山の入江の崎をうちめぐり沖に出づれば富士は真うへに
野のはてにつねに見なれしとほ富士をけふは真うへに海の上に見つ
崎越すと船はかたむきひとごゑもせぬ甲板に富士を見て居る
冬日さし海は濃藍にとろみつつ浪だにたたぬ船に富士見つ
冬雲のそこひうづまき上かけてなびけるうへに富士は晴れたれ
見る見るにかたちをかふるむら雲のうへにぞ晴れし冬の富士が嶺



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