みなかみ

                    若山牧水

第6歌集
大正2年9月10日,籾山書店発行。
菊半截。定価70銭。



本書を亡き父に捧ぐ



 本書の初めに

 本書には大正元年九月ころから詠み始めて、翌二年三月に及ぶ約半年間の作歌五百余首が輯められてある。即ちわが前歌集「死か芸術か」に続くものである。その半ケ年を中心に前後約一年間、私は郷里日向国尾鈴山の北麓に帰つてゐた。父の病気、父の死亡、及び久しくうち捨てておいた家事の整理などに烈しく心を痛めながら作つてゐた歌である。
 分たれた五章は歌の出来た時の順序を示したものである。なかで、初めの一章などは従来の我が詠みぶりと大差がないが、次ぎの「黒薔薇」以後に及ぶと、よほど其処に変化が起つて来てゐる。
 この変化に就いて自ら多少の説明を加へたい心地もするが、今はまだその時でないと思ふ。そして此等の作の価値はとにかく、斯くの如き傾向の生じたことは、私の歌の歴史にとり強ち無意味のことで無いと私は自ら信じてゐる。尚ほこの事に関しては広く一般の批評意見を聴きたいものと望んでゐる。私の心中に斯ういふ変化の起りかけてゐたのは決して昨今のことではなかつた。然し、昨年偶然父の病気のために郷里に帰つて、苦痛ではつたが極めて清純な孤独の境地に身を置くことを得たために、かねてから芽を出しかけて
ゐた希望が殆ど何の顧慮障礙なくして自由に外に表れて来たといふかたちであつた。単に歌に対するのみでなく、自他の生活に対する考へなども余程よく変つて来たと認めらるることを、本書の出版に際して私はわが郷里の山河に感謝したい。尚ほ暫く其処に留るつもりでゐたのであつたが、いろいろの事情から今年の五月また惶しく上京して来てしまつた。折角、彼の深山蒼海の間に養はれた尊い心持をむざむざ亡ぼして了ひはせぬかと心痛して居る。

 思ひ出のために、本書に縁ある写真三葉を挿入しておいた。父の写真は死ぬる前々年あたりのものである。平常極めて健康な人であつたが、昨年の夏七月急に病くなつて床についた。初め半身不随のやうな容子で、積年の酒毒であらうと皆云つてゐたが、私が帰つて暫くすると、殆ど全快した。十一月十四日の朝、いつも私は独りだけ二階の部屋に寝てゐたので、その日も何心なく二階から降りてゆくと、勝手の台所に丹前を着て父が寝てゐる。朝早くから斯んなところにどうしたのだと訊くと、側にゐた母が、なアに昨夜の飲みすぎだらうと笑ひながらいふので私も何心なく戯談など云ひかけて、やがて毎朝やるやうに裏の山に散歩に出かけた。二十分間も歩いたかと思はるるころ姪が泣き声を張り上げて呼びに来た。驚いて馳け帰つてみると父は既に人事不省であつた。しがみついて呼びたてても聞える風はなく、一言をも発せず、惶しく口うつしに吹き込む水をも嚥み下さず、医者が来て二三度試みた注射も効無く、終に不帰の人となつてしまつた。病名は脳溢血、年は六十八歳であつた。祖父若山健海の長男で、立蔵と呼んだ。祖父の代から医者で、酒を過すのと我がままなのとで評判はさまざまであつたが、近郷ひとしく彼の技倆をば重んじてゐた。私と違つて彼は甚だ寡言で、飽くまで善良な性質を持つてゐた。そのくせ、幼い山気を胸に断たなかつた人で、山林や鉱山などに幾度も手を出して祖父の残していつた財産をば忽ちにして空費してしまひ、後には家宅庭園の修繕をなす余裕すら持たなかつた。それで、また平気なものであつた。私とは親子といふより寧ろ親しい友達といつた様な関係を保つてゐた。永い間の私の不孝に対しても露ばかり怒るでもなく恨むでなく、終始他に対して私を弁護愛撫することにのみ力めてゐた。一度、病気も快くなつてゐたので、今年の春には両人相携へて上京する約束が出来てゐたのである。いろいろな大きな病院を参観し、いろいろな好い酒と料理とをあさることを子供のやうな彼がどんなに楽しんでゐたであらう。考へだせば、いつもの微笑を失はずに冷く眠り去つた彼の顔が眼に浮び、いつでも涙が流れてくる。相見、相笑ふことの出来なくなつた今日彼に対する尊敬と愛慕とは荒れすさんだ私の胸の中に日ましに深く浸んで行きつつある。「今日の仏ほど、さまざまな人に泣かれた仏は御座りませぬ」といつて泣いてゐた葬式の日の人々のことすら、なつかしく思ひ浮ばれて来る。
 第二の写真にあるのが即ち父の死んだ家、三十年前に私の生れた家である、石垣も塀も門も庭も何年か前に頽れたままに任せてあつて、頽靡そのものの姿のやうだ。第三は南面の家の庭先からやや東に向つて見た峯と渓とである。渓も私などの生ひ育つたころよりずつと水も少くなり、一切苔の深い岩石のみであつた河床が、山林濫伐から来るといふ毎年の洪水で悉くけばけばしい礫原と変じて、いやな渓になつてしまつた。前面の山は尾鈴山の連山の一つで七曲峠といふ嶮しい山なのだが写真の具合でたいへん低くやさしく見える。この渓の下流の海に入るところが私の大好きな美々津といふ古い港で「海及び船室」などに収められた海の歌は大方其処で出来たものである。

 まことに郷里坪谷村の一年間は、私にとつて今までにない内省的な、割合に豊かな生活を遂げさせてくれたと思つてゐる。その生活の滴りがこの短いかたちの詩のなかに幾分でも落ちてゐてくれれば幸ひであると思ふ。
 今日は八月二十一日、あと三日すれば私の第二十八回目の誕生日に当る。私の上京後、彼の山の家にうつらうつら病んでゐるといふ老母の上にも、四六時中おちつきのない時間にのみ追はれてゐる私自身の上にも、静かな祝福のあれかしと祈られてならない。
   大正二年八月二十一日
                         若山牧水



 故郷

ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り
朝づく日うすき紅葉の山に照りつちもぬくみて鵯鳥の啼く
独りなれば秋の小山の日だまりの朝の日かげを酒と酌まうよ
ほと照れりわが吸ふほどの風もなき山の窪地の秋の朝の日
蝋燭のともるにも似む朝づく日かなしき山をわが歩み居り
眼や病める涙ながれてはてもなし秋の朝日の裏山行けば
秋のおち葉栴檀の木にかけあがり来よと児猫がわれにいどめる
爪延びぬ爪を剪らむと思ひ立ち幾日すぎけむ、日々窓晴るる
まだら黄に枯れゆく秋の草のかげ啼くこほろぎの眸の黒さかな
草山に膝をいだきつまんまろに真赤き秋の夕日をぞ見る
草山にねてあるほどにあかあかと去にがてにすと夕日さすなり
樹のかげぞながうなりゆく山の端の秋の夕日に染みつつ居れば
阿蘇荒れの日にかもあらめうすうすとかすみのごとく秋の山曇る
ながめゐてなつかしがりしこの山にいまこそ登れなみだのごとく
血啜るとだにの児はだに這ふにや似む夕日の山をわが攀ぢのぼる
浮みいで松のみ青くひかり居りけはしき山の秋の夕日に
秋の夕日にうかみ煙れる山山の峰かぞへむとしてこころさびしき
心より落ち散れる葉にものいはむさびしきわれとなる日ありや、森
秋の山柴にひそめるだにの児もいまは夕日のいろに染みゆく
母が飼ふ秋蚕の匂ひたちまよふ家の片すみに置きぬ机を
ふた親もわが身もあはれあかあかと秋の夕日のかげに立つごとし
いづくにか父の声きこゆこの古き大きなる家の秋のゆふべに
まんまるに袖ひきあはせ足ちぢめ日向にねむる、父よ風邪ひかめ
父よなど坐るとすればうとうとと薄きねむりに耽りたまふぞ
とりわけて夕日よくさす古家の西の窓辺は父のよく居るところ
ほたほたとよろこぶ父のあから顔この世ならぬ尊さに涙おちぬれ
父よいざ出でたまへたすけまゐらせむこの低き岡越ゆることなにぞ
わがそばにこころぬけたるすがたしてとすれば父の来て居ること多し
さきのこと思ふときならめ善き父の眉ぞくもれる眉ぞ曇れる
親と児のなかのかなしき約束の解かれぬままにいま朽ちむとす
秋の日あし追ひつつうつる群をおひ父ひもすがら蝿うちくらす
二階の時計したの時計がたがへゆく針の歩みを合はせむと父
父がのを聞くがつらさにわれもせし咳くせとなりあらためがたし
老いふけし父の友どちうちつどひ酒酌む冬の窓の夕陽
どの爺のかほもいづれもみななつかしみな善き父に似たる爺たち
かくばかり踏まれてもなほうすうすと青き芽をのみふくとすや生命
蜜蜂も赤く染まりて夕日さすかなしき軒をめぐるなりけり
痛き玉掌にもてるごとしふるさとの秋の夕日の山をあふげば
あかあかと秋の入日にそめられて落穂ひろへる、姪かあらじか
夕日の家かずをたがへて時をうつ古き時計も生きたるごとし
なにをかもよろこびとせむふるさとに埋るる身は梨腐るごとし
眼いつぱいに悲しき顔の見えてきぬわれの疲労のなかより来にけむ
壷のなかにねむれるごとしこのふるさとかなしみに壷の透きとほれかし
つるむ小鳥うれたる蜜柑おち葉の栴檀家をめぐりて夕陽してあり
栴檀の葉に秋のきたるは質わろき玉のひそひそ光れるごとし
太陽にむかひしがめつくせるわがつらの皮膚のこはばりも朝はうれしき
園には鶏蜜柑朝の日枇杷のはな父がたちいで摘める柚子の実
しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、輝ける市街の停車場の見ゆ
しんしんと頭痛めり、悲しき幻影、下の関の海峡に高き窓つくる
憎まれ者のわれに媚びむとするこころにやわが部屋に鏡台を置くといふ姪
鰯のみ食ひつつ幾日すぎにけむ栴檀の葉の日々散る家に
煙草の灰がぼつたりと膝におちしときなつかしき瀬の音聞えくるかな
おお、夜の瀬の鳴ることよおもひでのはたととだえてさびしき耳に
一ところ山に夕日のさせるごとく東京の市街をおもひてぞ居る
寸ばかりちひさき絵にも似て見ゆれおもひつめたる秋の東京
数寄屋橋より有楽座見るものごしにこころをなしておもふ秋の市街
相模の港津の国のみなといづくもみな秋となるらむ旅をしぞおもふ
一りんの冬の薔薇のうすくれなゐなつかしきものに手にもとるかな
冬の薔薇われを憎める姉の娘が折りてあたへしくれなゐ薔薇
わが園の山梔子の実の日ごと黄くなりまさりゆき雪も降らず居り
くちなしのちひさく黄なる実をふたつにさけば悲しき匂ひ冬の陽に出づ
わが生は浪、海のなかなるひとつの浪まつさをの浪ゆたゆたの浪
久しくひかりを見ざる眼のごとくそこひ痛みて友のこひしき
為すことみな悔とならざるなき我が日今朝も新しく輝きてあり
薔薇の花びらのごとく鮮かに起きてあり薔薇の花びらのごとく冷き朝に
愛すべきは朝の光線なりまことに光線にむかへる我が疲れし瞳なり
さるにても不思議なるわが健康かな鉄の砕片のいよいよ黒く輝けるごとし
くだもののごとき港よ横浜の思ひ出は酸く腐り居にけり
とある旅館の窓の硝子にうつりゐし秋の港の朱の帆黄なる帆
黒き帽子黒き背広着て街路ゆくとありめづらかに来し友のたよりに
さなりげに都は冬のつめたくて汝が恋人も輝きてあらむ
健康の完かりせばこのさびしさ消えむかとおもふ、朝、冷えし鏡
あはれ悲し玉にくもりのなきごとく健かならむ健かならむ
われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき
斯る気質におはする母にねがはくは長き病の来ることなかれ
母が愛は匁のごときものなりきさなりいまだにそのごとくあらむ
そそくさと夕陽にうかみ小止みなく働く庭の母を見じとす
夕されば炉辺に家族つどひあふそのときをわれはもとも恐れき
母にも姉にも対座をいとふ臆病のわれのこころの澄みたるかなや
飲むなと叱り叱りながらに母がつぐうす暗き部屋の夜の酒のいろ
わづかの酒に酔ひては母のつねに似ずくちかろく、夜のかなしかりけり
猫が踊るに大ぐちあけてみな笑ふ父も母も、われも泣き笑ひする
あはれ今夜のごとく家族のこころみな一いろにあれ一いろにあれ
姉はみな母に似たりきわれひとり父に似たるもなにかいたまし
くちぎたなく父を罵る今夜の姉もわれゆゑにかとこころ怯ゆる
あはれみのこころし湧けるときならむしみじみものいふ母の悲しも
母をおもへばわが家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし
くづ折れてすがらむとすれど母のこころ悲哀に澄みて寄るべくもなし
こころより母を讃ふるときのありそのときのわれのいかにかなしき
うちつけにものいふことをも恐れ居るその児をなほし憎みたまふや
なま傷にさはらぬやうに朝夕の世間話にも気をおく納戸
ひとを憚りてわれを叱れる父の声きかむとして先づ涙おちぬれ
父と母くちをつぐみてむかひあへる姿は石のごとくさびしき
家に出づる羽蟻の話も案のごとくこの不孝者のうへに落ち終りけり
母、姉、われ、涙ぐみたる話のたえま魚屋入り来ぬ、魚の匂へる
なぜに斯く蜂多きならむわが家の軒のめぐりは蜂ばかりなり
斯くおほく蜂に見馴れてはいつしかに友だちのごともおもはるる、冬
酔ひざめの水の飲みすぎしくしくと腹に痛みて冬の朝来ぬ
ときどきに部屋より出でて身に浴ぶる冬の日光のうす樺いろよ
帽子なしに歩くくせつきしふるさとの冬の日光のわびしいかなや、
母の声姪の泣くこゑとりどりの肉声さびしわが家の冬
西の窓の障子の紙が血のごとく夕陽にぞ染む父の背後に
鶏ぬすむ猫殺さむと深夜の家に父と母とが盛れる毒薬
泥棒猫をころして埋むる山際の金柑の根のつちの荒さよ
死んだ猫をさげし指さきに金柑をつみてくらへどきたなしとせず
ほとほと不要となりし父のテーブルを借りきて二階の窓辺にぞ据ゆ
前の山より反射する冬の日光のしづけき明るみ包めり書斎を
その障子もこの窓もみなしめきりて冬の夕陽に親しみて居り
椅子ながら山山の間の落日を見居れば、二階、父の入り来ぬ
葉よりさらにみどりに透けるちさき虫薔薇の葉に居りき、夕陽に透ける薔薇に
花いちりん葉が三四枚まがりくねれる九寸ほどの薔薇よ、この冬の薔薇よ
薔薇の葉を喰ふ虫を見出しこの部屋のなにやら明るくなりし思ひす
夕陽のかげちひさき黒き虫のふん机に散りてあり、薔薇に虫居り
鹿の角を十四五本もなげ入れし古びし箱を見いでけり、朝
父が猟りしものなりと云ふ鹿の角真黒くすすけ宝石に似る
低声に卑俗なる唄うたひつつ夕陽の椅子を離るるはよき
褪せてちればつぎなる小枝さして置く薔薇とわれとの冬の幾日
斯くあきらかに秋の日光がわが肌にさせるは痛き冷笑に似たり
わが肌に触るるもの眼にうつるものいづれか痛き冷笑にあらざる
信ぜむとねがひ信じたりとおもひ思へどもこころの何処にか細き風吹く
わが朝夕の生活をうすき板のごとく思ひて裏より覗かむとする
はたと踏みつけむわが生の地にも斯のごとき冬の夕陽が散りてあるべしと思ふ
わが窓に黒き幕来て垂れてあり汝が生を静かにはぐくめよとて
梟のごとくわれを見守るもあり、杜鵑の如くかすめ行くもあり、悔ぞ群れたる
起き出でて戸を繰れば瀬はひかり居り冬の朝日のけぶれる峡に
今朝もよく晴れたり、今し朝食後の散歩に越ゆるちひさき冬の山
五日がほど読書に過ぎぬ、つかれたる暗き頭に親しきこの冬
静かなれ冬の日、わきてけふ一日、朝よりこころ死せるがごときに
机のうへの二りんの薔薇にも愛憎の湧く日なり、眼昏し
青杉の大枝をさせば北窓の机小暗しわれの読書に
山河みな古き陶器のごとくなるこのふるさとの冬を愛せむ
   十一月三日、今年はすでに天長節の日にあらず、悲しみてうたへる歌三首
曇りなき十一月三日の空の日のかなしいかなや静かに照れる
かしこしやこの一もとの菊にさへ大御心ののこれるごとき
野に生ふる草山にそびゆる樹のごときこのこころもて悲しみまつる


 黒薔薇

納戸の隅に折から一挺の大鎌あり、汝が意志をまぐるなといふが如くに
飽くなき自己虐待者に続ぎ来たる、朝、朝のいかに悲しき
新たにまた生るべし、われとわが身に斯く云ふとき、涙ながれき
静かにいま薔薇の花びらに来て息へるうすきいのちに夜の光れり
こころづけば鏡に薔薇がうつりてあり絵具のごとくわが顔の動けるそばに
ふと触るればしとどに揺れて陰影をつくるくれなゐの薔薇よ冬の夜の薔薇よ
ひらかむとする薔薇、散らむとする薔薇、冬の夜の枝のなやましさよ
はち切るるごとき精力を身に持ちたしと呼吸をぞとむる、薔薇のくれなゐ
わが生存力はいまだ火を知らざる如し、油に黒く濡れて輝けど
傲慢なる河瀬の音よ、呼吸はげしき灯のまへのわれよ、血のごとき薔薇よ
悲しみとともに歩めかし薔薇、悲しみの靴の音をみだすなかれ薔薇
吸ふ呼吸の吐く呼吸のわれの静けさに薔薇のくれなゐも病めるが如し
わがかなしさは海にしあればこのごとき河瀬の音は身に染まず、痛し
やうやくに馬の跫音のきこえきぬ悲しき夜も明けむとすらし
日に蒼みゆく神経質になりゐしにふと心づきぬ、とある冬の朝
餓ゑたる虫幹にひそめる樹のごとくわが家の何処にか冷たさのあり
愛すべきただ一りんの薔薇あり、この日のわれの静かなるかな
斯る孤独に我が居るときに見出でたる一りんの薔薇を愛でも悩める
薔薇を愛するはげに孤独を愛するなりきわが悲しみを愛するなりき
虚しき命に映りつつ真黒き玉のごとく冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き枝葉の薔薇を踏まむ、かなしきものを滅ぼさむため
薔薇に見入るひとみ、いのちの痛きに触るるひとみ、冬日の午後の欝憂
悲しみの影も滅びつ、見入りたる一りんの薔薇の黒くしぞ見ゆ
古びし心臓を棄つるがごとくひややかに冬薔薇のくれなゐにひとみ対へり
聞き馴れては虫もどこやら鉱物の音するごとし、もはや冬なり
愛する薔薇を蝕ばむ虫を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるるごとくに
机の前の夜の山よりまひて来し濃みどりの蛾のとびてやすまず
日光が行燈のごとく灯のかげがわが心の光明の世界に似たり
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ、悲しき寝醒の漸く眠りを思ふときに
わが悲しみは青かりき、水のごとかりき、火となるべきかはた石となるべきか
わが煙草の煙のゆくとき、夕陽の部屋薔薇はかなしき鬱憂となる
しづかなる休息、冷やかなる休息、この木漏日のごとき休息
この冬の夜に愛すべきもの、薔薇あり、つめたき紅の郵便切手あり
ひいやりと腰のあたりがなにものにか触れしがごとくくづるる冥想
疲れしにや、いないまやうやく痛める眼にかなしき朝を見むとするなり
わが孤独に根を置きぬればこの薔薇の褪する日永久にあらじとぞ思ふ
思ひつめてはみな石のごとく黙み、黒き石のごとく並ぶ、家族の争論
ゆふぐれのわが家の厨の喧燥は古沼のごとし、西に高き窓
家のいづくにか時計ありて痛き時を打つ、陰影より出でよ、出でよとて打つ
窓よ暗かれ、わが悲しき孤独の日に、机のばらのさむきくれなゐ
ついと眼をそらして、つとめの如く薔薇を見る、愛する読書にも尚ほ耽り得ずや
黒鉄のごとき机に身を凭せて薔薇にひややかに眺め入りたる
わが孤独の悲哀にひそかに触るるごとく、冬の夜の薔薇にうちむかひ居り
懐疑は曇れる日の海のごとし、痛きにほひにいのちもまた曇るなれ
昨夜のわれとこよひの我と肉体のほかいづくに係りありて生けるにや
あるがままを考へなほしてみむとするこころと絶対に新らしくせむとする心と
ひとの眼の哀楽はただよく描かれし布の上のつめたき絵なり
ともし斯くもするはみな同じ、やめよ、さらばわれの斯くして在るは
いづれ同じことなり太陽の光線がさつさとわが眼孔を抜け通れかし
感覚も思索もいちど断れてはまたつなぐべからずつなぐべくもあらず
窓に倚れば悲哀は朝のごとく明るく、鳥に似てわが命の影もさすなり
窓際は悲しめる女の皮膚のごとし、いないなその如くわれもまた悲し
わが瞳は涙に濡れてかがやき日に照らされし万象はみな死にて冷し
陽を浴びつつ夜を思ふはこころ痛し、新しき不可思議に触るるごとくに
脂肪にや額の皮膚のこはばれる或る冬の日の午後、多き蜂
青やかに光れる鎌ひとつ地の上に在り、足跡はあれど人は見えず、真昼
髪延びし後頭部にも居るごとし、一疋の蜂、赤いろの蜂
斯くばかり明るき光さす窓になにとて悔をのみ思ふらむ
この山梔子の実に似ても静かなれかし、何故にわれの斯くあわただしきや
やや深きためいきをつけば、机のうへ、真青の薔薇の葉が動く、冬の夜
高き窓より一すぢの薄明り、さすげなれども冷しわが眼
窓は傷のごとし、いためるいのちの上に光り射すことを恐るればなり
窓に向ふとき、わが眼古びし蝋のごとくこはばることあり、瞑ぢて居るべし
窓より光線を見るも厭はし、わが眼松の皮となるに似たれば
運命とは言はじ、在るがままのこの一りんの薔薇のごとく悲しきもの
薔薇は薔薇の悲しみのために花となり青き枝葉のかげに傲れる
なめらかにしてあぶらのごとき夜、窓を包めり、窓辺には薔薇とわれ
ラムプを手に狭き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ、深き闇の部屋に
あまりに身近に薔薇のあるに驚きぬ、机にしがみつきて読書してゐしが
冬をしかと捉へてわが皮膚の血を注さむとするがごとき寂しさ
言葉に信実あれ、わがいのちの沈黙より滴り落つる短きことばに
忘れものばかりしてゐるやうな、おちつきのない男の机の鮮紅薔薇
さうだ、あんまり自分のことばかり考へてゐた、四辺は洞のやうに暗い
自分のこころを、ほんたうに自分のものにするために、たびたび来て机に坐るけれど
全く自由な絶対境がないものなら、斯うして眺むる薔薇はうつくしい
昼は昼で、夜は一層薔薇が冷いやうだ、何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまに薔薇がはらはらと散つた、朝、久しぶりに来た暗い机に
じいつと薔薇に見入るこころ、じいつと自分に親しまうとする心
薔薇を貰ひに隣家へ姪をやつた、人知れぬ涙ぐましい心地で
北向きの暗い机にたびたび来ては坐るがすぐ読書にも疲れる
斯うしてじいつと夜のばらを見てゐるときも心は薔薇のやうに静かでない
薔薇が水を吸ひやめたやうだ、玻璃のちひさな瓶の冬のばらが
しかたなさにばらを見てゐるのかも知れぬあかい薔薇、つめたい薔薇
考へだせばみなからつぽのやうに思へてくる、机のうへの冬薔薇の美しいこと
散つてみれば案外な花弁の大きさ、薄さ、紅さ、冬の夜の机の薔薇
無論さうして働いてうまい物を食ふのもいい、さうしてゐ給へ、君はほんとに健康さうだ
さういふこともあらう、さうであらう、何しろ自分は自分で忙しい
太陽の光線は地球の表皮だけに功能があるのだらうかなどとも考へる
自分をたづぬるために孔を掘り、孔ばかりが若し残つたら
朝など、何だか自分が薄い皮ででもあるやうに思はるるときがある
焚火、焚火、焚火に限るやうになつた、このごろの自分に最もふさはしい焚火
叔父さん、今朝氷がはつたと姪が呼ぶ、さうか眼が痛いほどいい気持だ、寝床
冷い、冷いと心からふるへて炉のそばに寄つてゆく、朝のわが身をいとしいと思ふ
木の切端を投げだしたやうにめいめいの朝の膳が並んだ、炉には焚火
ランプの灯は石油のやうな憂欝で、窓の夜と私とにそそぐ
さうさ、●(「鼠」+「安」)鼠のやうに飲んでやる、この冬の夜の苦い酒
真黒な布で部屋を張りつめ、椅子も机も、服までも黒くしたい


 父の死後

あなかしこし静けさ御魂に触るるごとく父よ御墓にけふも詣で来ぬ
御墓にまうでては水さし花をさす、甲斐なきわざをわがなせるかな
この墓場のつめたきもなにかなつかしく樒の木かげを去にがてにする
冷たき、見知らぬ境に入るごとくけふもひそかに墓場にぞ来ぬ
樒のみ茂れる墓場、くらき墓場、此処にしもつひにねむりたまふか
御墓ちかづく、墓場の暗き傾斜よりこころは黒き玉とかがやき
あわただしく薔薇を摘みきて挿しぬ、父逝きてのちのわれのいとしさに
父の死後、いまだ十日を出でず、わがこころ川原の砂の白くすさみたり
喪の家の炉辺、榾火のかげに赤き母が指姉がゆび我が指のさびしさよ
わが厨の狭き深き入口に夕陽さし淵のごとし噤みて母の働ける
ものいはぬわれを見守る老母の顔、ゆふぐれの炉辺のうす暗さよ
いろいろに考ふれど心に染むことなし、来む明日さへ、おもへば恐し
わが幸福の裏には常にわれを見守る冷笑あり、薄き朝のひかりのごとく
空にひくき冬の朝の太陽、底無しのさびしき夜より出でて来しわれ
起きいづれば太陽はとく峰にあり、氷れる渓にのぞみたる家
唖を見て笑はずにゐられぬほどに浮きたちし心は今朝の空よりも碧し
思ひだしたやうに水仙が匂ふ、水仙が匂ふ、朝の読書の机に
朱欒の実、もろ手にあまる朱欒の実、いだきてぞ入る暗き書斎に
明るき山かな、朝の日のさせり、病める鳥かも、木の根にぞ啼く
薔薇を手近に寄せぬ、闇夜の雷鳴に氷のごとくふるへ居るこの机よ
雨のなかの冬の樫の樹、灯の窓より樫にむかへる薔薇のくれなゐ
紺いろの小鳥をたなごころにそつと握り放たじとする、死んだこころ
なんとやら頭ばかりが重たうて歩きにくかりぐつと踏みしめむ
飴のやうに粘土のやうに、このこころ成れ、いろいろに細工してみむ
やす鏡、てらてら鏡、青い鏡に伸びたり縮んだり、我がこころ
この絵のやうにまつ白な熊の児となり、藍いろの海、死ぬるまで泳がばや
きゆうとつまめばぴいとなくひな人形、きゆうとつまみてぴいとなかする
要するにうその話、うたはうたへどわがこころ身にやどらず
啼け、啼け、まだ啼かぬか、むねのうちの藍いろの、盲目のこの鳥
安心できるやうな大きな溜息を吐かうとて背延びしたれば、頭痛めり
冷ゆればすぐに風邪をひく、あはれにもたしかなるわが皮膚かな
餓ゑて一片の麺麭をぬすまむとするごとくわが命の眼ひらけり
何処より来れるや我がいのちを信ぜむとつとむる心、その心さへとらへがたし
眼をひらかむとして、またおもふ、わが生の日光のさびしさよ
闇か、われか、眼ざめたる夜半の寝床をめぐれるもの、すべて空し
何にもあれ貪ることに倦みて来ぬ、わびしや友情にも
地の皮膚にさせる日光と、陰翳と、わがいのちの絵具と、正午の新鮮
死人の指の動くごとく、わが貧しきいのちを追求せむとする心よ
載るかぎり机に林檎をのせざぼん朱欒を載せ、その匂ひのなかに静まりて居る
机のうへ林檎とざぼんとのなかに小さき鏡を置き、読書の疲れを慰めむとす
三つ四つころがれる朱欒の匂ひに書斎は鬱鬱として病めり、わが読書
酒の後、指にあぶらの出でてきぬ、こよひひとしほ匂へ朱欒よ
今朝わが頭は水晶のごとくに澄めり、林檎よ匂へ、朱欒よ匂へ、二月この朝
ざぼんの実の黄にして大なる、りんごの実のそのそばにして悲しみて匂へる
みちのくの津軽の林檎、この林檎、手にとりておもふみちのくの津軽
酔うて居れ、酔うて居れ、ほんたうに酔うて居れ、外目をしながら心が斯う呟く
静座に耐へられなくなれば、ついと立つ、立つて歩く、貧しい心そのもののやうに
人がみなものをいふうとましさよ、わがくちびるのみにくさよ
尽くるなき怠屈のうちにあれかしと思ふ、死人のゆびの動く勿れかしと思ふ
わがたいくつの夜に蟇の啼くが聞ゆ、雨もまばらにわが心にふりそそぐ
疲れたるか頭よ、かすかに耳鳴りのする、耳鳴りのする、いで床へいそがむ
空洞なるわがからだにも睡眠をおもふ時の来ぬ、したしき夜よ
何にもあれ、はや塗らむとぞおもふ、甕を溢るるつめたき絵具、悲しき心
気に入つた甕でもあらば、甕のかたちに、はやなりなまし、わがこころ
身ぶるひをする藍いろの小鳥、そのやうにわれの心も、いざ、身ぶるひをせむ
こころの闇に浸みる瀬の音、心のうつろに響く瀬の音、瀬の音、瀬の音
渓のおとはいよいよ澄みゆき夜もふかめどいづくぞやわがこころは
もとめて得ざるものなしといへる人あり、すべて空しといふ人あり、群れるかな
死を感ぜよ、まことにひとり生けるごとき命を感ぜよ、まことに感ぜよ
裂けばとてこの古甕になにものの入りてあるべき入りてあるべき


 海及び船室

   一月初旬より二月初旬にかけ、九州の沿岸を一周せり、歌四十四首。
闇のうちにあまた帆ぞ鳴る、帆ぞ動く、わが汽船の漸く動き出でむとする港に
船室の窓よりやはらかき朝日きたる、いでわがいとしき麦酒を呼ばむかな
涛よりの反射か、船室の朝日の揺るることよ、やはらかきことよ
身体は皮膚のみのごとくつかれたり、船室の窓よりかなしき朝日きたる
酒後の身を朝日が染め、船が揺る、甲板あゆめば飛魚がとぶ
飛ぶ、飛ぶ、とび魚がとぶ、朝日のなかをあはれかなしきこころとなり
太陽のこなたに帆が見ゆる、かげりて黒く死せるごとき帆
すれすれに絶壁の岬を過ぐ、わが船室の時計のおと、
風出でて浪ぞ立つ、朝日いまだ低くして陰翳のみ多き海に
わが顔にまともにさせる濃き朝日、船は揺れに揺れ、濃き朝日
親船をはなるる艀、ゆらゆらと昼のみなとに浮びいでたれ
船のかがみにうつる額の蒼さよな、旅なるわれの眼の痛さよな
朝の甲板にざあざあとして水そそぐ、濃き陽のなかの四五の萌黄服
防波堤に群れゐて市街のひとあそぶ、昼のみなとにうかべるわが汽船
艀なるわれ等見つめてかき噤み真昼の波止場ひと群れて居り
汽船おりてしき石踏めばしんしんと脳にぞひびく、昼のみなと市街
乗換駅、待ちゐし汽車に乗りうつる、窓にま白き冬の海かな
大海の荒の岸辺の浪のかげに人群るる見ゆわが冬の汽車
汽車の窓べに蜜柑の皮をむきつつも身をかきほそめ昨夜のこと悔ゆ
松の青さよ、とある悔をばおもひいで眼の痛きとき、わが汽車の窓に
風たてば有明の海は大いなる白き瀬となるわが小蒸汽船よ
有明の海のにごりに鴨あまたうかべり、船は島原へ入る
冬雲のかげりに暗き島、岬、憂き島原へわが船は入る
船に乗り海を渡る、なんのたのしみぞ、船に乗り縁もなき海を渡る
眼に膜の張りたらむごとき心地して島原へ行く船にわが在り
何のために此処には来にけむ、何処に居るも心になんの変りあるべき
島原は海にうかべるかなしみか、宿屋のてすり、倚ればつめたき
島原の宿屋にこもり昼も出でず、ひとりしわれをはかなみて居り
あはれ此処にもはかなき記憶を刻まむとしはかなき行ひをわがするなりき
風も凪ぎゆふべとなれば有明の海はあぶらの如し、憂鬱
うるはしく笑ふものかな、笑ふなかれ、わがさびしさに相触るるなかれ
箱崎の浜のしら砂ふみさくみ海のなかみち見ればかなしも(海の中道は岬の名なり)
博多なる冬の黒さよ、わが瞳、水の暗さよ、灯のつめたさよ
冬山の国ざかひなるいただきを揺れまがりつつ行けるわが汽車
桜島はけむりを吐かぬ島なりき、あはれ死にたる火の山にありき
梅寒き宿屋の二階、すみの部屋、夕日の薩摩明らけく見ゆ
酔ひざめのこころの水のごとかるに痛しや夕日あかあかと浸む
海の黒さよ、ほそぼそとしてうかびたる佐多の岬の夕日の濃さよ
浪高み船のあゆみの遅さよな、みさきの端の白き灯台
入りゆけば港はおもきらくじつに鴎のむれも灰色に見ゆ
やよ窓に灯をともすなかれ、海はいま薔薇いろに暮る、やよわが黒船
やよ老人、いま船室には君とわれのみ我がさかづきをねがはくは受けよ
船は揺るれども歩むともなし、窓に黒く月夜の陸が見ゆれども動かず

あはれ悲し、いで衣服をぬがばやと思ふ、海は青き魚のごとくうねり光れり
あまり赤く、あまりあまきこの蜜柑かな、海はをんなに似て青く動く日
心のみいらだちて身はガラスの玉のごとし海は動く、ななめに動く
身ぞ染まる、青き笑、人魚の笑、海死にてわが眼石のごとく盲ひたるに
絶壁を這ひあがる、黒き猫とや見えむ、いまかなしき絶壁を這ひ上る
とかくして登りつきたる山のごとき巨岩のうへのわれに海青し
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆を上ぐ
孤独よ、黒鉄のごときこの岩の上にあざやかに我が陰翳を刻め
さかしくも孤独のひとみの輝くことよ、黒鉄なせる岩の間に
かなしくも海に濡れたるわがいのち、わが孤独、あはれ太陽よりかくれまほしき
悲しみに身もいらち、黒く巨いなる岩のかげに尿をぞする、海青く動く
うれし、うれし、海が曇る、これから漸く私のからだにもあぶらが出る
蜘蛛が海よりも大きく見ゆ、眼のまへに松よりさがりし蜘蛛
岬なる鬱憂の森、海は病み、ただ一羽かなしき鳥まへり
身体は一枚の眼となりぬ、青くかがやける海、ひらたき太陽
岩のあひだを這ひて歩く、はだしで、笑ひて、海とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ、岩かげの藍いろの浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ来た、これからまた市街へ帰るのだ
岬の森よりしぶしぶ帰らむとすれば、港の市街にかなしき汽笛鳴る
この帆にも日光の明暗あり、かなしや、あをき海のうへに
水平線が鋸の刃のごとく見ゆ、太陽の真下の浪のいたましさよ
太陽の具合で海がわが額の皺のやうに襞をつくる、呼吸の苦しいこの窓
わが窓の冷たさよ、海はけふ実にいく度びか色彩を変へけむ
少女よ、その蜜柑を摘むことなかれ、かなしき葉のかげの
ひややかに海より広き帆の来りぬ、港の旅館の窓のまへに
微雨のなかに鳥まへり、海の蒼さ、冷たさ、やうやく夜とならむとするこの窓
光無き海、濃き藍色にたたへたり、雨晴れむとして一羽のしろき鳥
闇夜の波は恋するをんなの指のごとし、小ラムプとわれとの窓のしたに
窓から下を見下ろす、つめたい夜がうなじにも背にも
わがこころ、今し鵜のごとくかへり来よ、夜の窓、涛のひびきのみ満てるに
精力を浪費するなかれ、はぐくめよと涙しておもふ、夜の涛に濡れし窓辺に
闇に眼の馴れぬあひだの港の市街、戸出づれば涛の四方にくだくる
かなしき月出づるなりけり、限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に

とある雲のかたちに夏をおもひいでぬ、三月の海のさびしき紫紺
春の日の真黒き岩にあふむけにまろがりて居れば睡眠さしきたる
太陽にあたためられしこの黒きおほいなる岩にいざやねむらむ
白き猫そらになくがにあをうみの春日のかげに啼き居る鴎
われ知らずうたひいだせるわが声のさびしさよ、春日紫紺いろの海
淫慾は冷たかりけり、濃くうすくわが身のうへに照りかげりする
這ひあがり岩のかどより海を見る、さびしき紫紺、さびしき浪のむれ
をちこちに岩のとがれる、陰翳おほき午後四時の紺の海となりにけり
岩かどに着物かきさき爪をやぶりきりぎしを攀づ、椿折るとて
潮引きてつかれはてたる岩かどにせまき海見え浪のうごける
油なし浪ぞねばれる、曇り日の海に群れたる海女のをとめ等
高まりたかまりつひに砕けずにきえゆきし曇り日の沖の浪のかげかな
わが頬のかすかの熱や、小窓より海見てあれば蝙蝠のとぶ
なみ高し、雨後の春日をはらみたる綿雲のかげにみさご啼くなり
石のごと首つきいだし二階なる窓に海見つつ疲れはてにけり
げにながく見ずありけりと海を見にうちいでてきぬこころを運び
夜の海あぶらのごとく油絵のごとく孤独をかなしましむる
春のうみ魚のごとくに舟をやるうらわかき舟子は唄もうたはず
海を見てあり、海に染められわがこころしばしいろづく、海を見てあり
太陽を拝まむ、海もそらもひとつ色なり、いま太陽ををろがまむ
太陽をたのしめとふと心に云ひておどろきて涙ながれぬ
椿の花、椿のはな、わがこころも一枚の絵のごとくなれ一面となれ
紺いろの干潮の海はわがこころの浅きにも似てもの憂かりけり
わびしき浜かな、貝がらのくづ砂のくづいざやひろはむ、海も晴るるに
夜の雨しじにふるなり、沖津辺はかすかにひかりかすかに光る
よるの雨そこともわかぬ海岸にほのじろき泡のつづくなりけり
わがたましひのはしに悲しく染まり居る海の蒼みよ、夜となりにけり
潮引きてあらはれし岩に鴎居り空みて啼けば下りくるがあり
おのづから盲目のごとく岩を踏む、海見れば湧くおもひさびしも
夕陽に透き浪のそこひに魚の見ゆ、あるまじきこと思ふべからず
黙然と岩を見つめておもふこと、ひとに告ぐべききはならなくに
手に触るるわびしき記憶あざやけき悔岩をめぐりて浪ぞむらがる
古き絵の布のやぶれにのこりたるわびしき藍の海となりにけり
日本語のまづしさか、わがこころの貧しさか海は痩せて青くひかれり
太陽かがやき引しほの海は羽あをき一羽の蝶となりてうごかず
をんなの匂ひなりけり、ふと雲がわたれば海のあをくかげれる
たらたらと砂ぞくづるるわが踏めば砂ぞくづるる、あゐ色のうみの低さよ
一湾の海の蒼みの深みゆきわが顔に来て苦痛とぞなる
海もまた倦むらし、わが霊魂は曇らむとす、いづくに動き行かむとするや小蟹よ
木の葉にも盛れるがごとく海は小さし、わが命燃え燃えて、一すぢの青き煙たつ
椿の木、椿の木、わが憂愁にきらきらとひらたき海のうつりかがやく
天地創造の日の悲哀と苦痛とけふわが胸に新たなり、海にうかべる鳥だにもなし
陰翳を知らざるかの太陽のほとりよりうまれて雲のおりてくるなり
けぶりなし揺れゆるる海の反映、陽は黄ばみわが顔の海の反映
ふと浪にむかひてうすく笑ひけり、あやふき岩を降りはてしとき
浪のかげより顔をいだせる海女のあり、眼もあをあをと口笛を吹く
あら砂のすさめるこころ蒼白み海にむかひてうちうめくかな
海よかげれ水平線の黝みより雲よ出で来て海わたれかし
岩かげの浪のひとつのふくらみに彼女のかほをゑがき淋しむ
わが顔の海の反映、一羽のかもめしらじらとしてまひいでにけり
日光のかげのごとくにちらちらと海鳥あまたむれとべるかな
鳥のおほさよちひさき波のたちさわぎ海あさあさとかげりきたりぬ
栖めるかぎりのやどかりをみな殺しつくし静けき岩になすよしもがな


 酔樵歌

われも木を伐る、ひろきふもとの雑木原春日つめたや、われも木を伐る
春の木立に小斧振ることのかなしさよ、前後不覚に伐りくづしけり
さくさくと伐りてありしが、待てしばし、しばしはものをおもはざりける
栂の木のしげれるかげに小半どきあまり小斧ふり伐りたふしける
春の木は水気ゆたかに鉈切れのよしといふなり春の木を伐る
山柴の樫の冬青木のいろいろあるなかに椿まじれるかなしかりけり
椿の木は葉のしげければぽつたりとつめたき音してつちにたふるる
わが伐りし木木のみだれてたふれたる青きすがたを見てあるしばし
ややありて指にはまめのできてきぬもはややめむと木かげに坐る
青木伐り、つかれて村のむすめたち夜床のくしきはなしをぞする
さびしさにむすめの群に入りゆけばひとりのむすめわれにいふことに
峰高み海見をすれば春がすみをどめるをちに青く見ゆかに
ながめ居ればかすみのをちに見えきたる海あり海のなかに島あり
あの山この山粘土細工のごとくにも見えきたるなり淋しみて居れば
人声ぞとおもへば烏にありにけり春日けぶれるみねの松山
見おろせばふもとに山の幾うねりうねれるにみな松の生ひたる
をのへなる松の山こそ明るけれそのまつ山に入りゆく樵夫
そこかしこ山に老木の松をもとめ大まさかりをふるふ男よ
そのそばに子どもと犬とがついて居り大まさかりを振るきこりのそばに
つぎつぎに伐り倒さるる松の木をながめて居れば春日さびしも
どよめかしまつたく松のたふれ終りぬ大まさかりの汗ばめるかな
わな見にとまだきに行けばおほいなる兎かかり居りわれを見て啼く
わな張りしは椿のかげにありにけりうさぎかかりて椿散り居り
霞に濡れて黒くつめたく山がせまる、窪地のしげみに雉子待つわれに
かすんだ山にをりをり風が来る、樹が鳴る、わが手の銃のつめたさよ
つつの音がわれとわがこころに響く、深夜の酒のごとくひびく
我がかなしみに火をつけるやうに、地団太踏みて鳥を逐ふなり
見知らぬ窪地の灌木原におりて来た、見廻せば、見まはぜば春の鳥啼く
傷つきて鳥かかりたる喬木に攀ぢむとて走せ寄れば、青き樅の樹
テーブルの上いつぱいに枝はひろがり咲き群がる躑躅、夜の青い瓶
ペンさきに滲み出るインキ、ふと顔をあぐれば顔をつつめるつつじ
赤いつつじの咲きみだれた夜のテーブルに洋灯をつけて、すぐ消した
夜になれば健康の恢復して来るごときわが身体、ラムプのかげの躑躅
黄色なつつじもあると思ふ、この血のごときつつじのほかに、夜のテーブル
不眠症ととざさぬ窓と戸外の闇と、ときどき机に落つる赤い躑躅
わけとてはなくぢだんだを踏んでよろこんでみた、喜んだとてなににならうぞ
居るところを失くしたこころがうつとりとかなしい日光を見つめて居る
遠い麓に杉の木がまばらに立つて居る、人の生にある悲哀のやうに
焼酎に蜂蜜を混ずればうまい酒となる、酒となる、春の外光
わがこころは極りなし、底もなし、ふたもなし、その心先づありやなしや
万葉集、いにしへびとのかなしみに身も染まりつつ読む万葉集
人麿の歌をしみじみ読めるとき汗となり春の日は背をながるる
からくりめけるわれのこころのはたらきのはたと止まれり、雲雀うららうらら
この国に雪も降らねばわがこころ乾きにかわき春に入るなり
穴だらけのわが心のその穴にこの穴に小鳥が眼を出しぴいとなき、ぴいと啼く
藍甕に顔をひたしてしたしたにしたたる藍を見ばやとぞ思ふ
鶺鴒が雲雀の声によく似るとこころに云ひてあふぐ春の日
気がつけばこの春はいまだ椿を見ず、くれなゐの花をさびしくおもへり
曇日のかすみのなかに烏啼き鶺鴒啼き渓にのぞみてこの窓の高さよな
じつと忍んで見て居れば、蟇が啼く、大きな咽喉をあけて春の日に啼く
オヤ、そこにも啼く、なかに椎の樹二三本、けららけららと蟇啼きかはす
蟇の眼のかなしさよ、つまが恋しとひたなきに啼くその蟇の眼
踏めばくづるる山の赤つち、乾いた土、どこにしのんで蟇の啼くぞえ
ほろほろとつちのくづれて蟇の啼く、きりぎしの春のつちのわれめに
水甕に烙きつけられしつめたい青い裸体画のやうなわがこころ
触れなばただちにものをばわれのいろに染めむ火のごとき心燃えたたず居り
なやましき匂ひなりけり、わがさびしさの深きかげより鰭ふりて来る
をんなが濡れた絵具のごとくそばを通る、つめたいさびしい春の一日
我がうてるうさぎ雉子の肉つねに厨の釘に絶えざり、春暮れかかる
夜ふけの厨にうさぎの股をさきとりて火にあぶるとき、きたれる孤独
なにはあれ第一の峰にのぼらむとかすめる山の背を歩み居り
深山わけ入り朽木の松のふしを掘るその松の節たいまつとなる
けむりありて山に野火燃ゆ、くもり日のひかれるそらを啼きゆく烏
太陽のかげりてゆけば悲しみつ雲いでて照ればよろこびぬ峰のとがりに
朝の囲炉裡猫もとりわけあまゆるをあやしてあれば啼けるうぐひす
けふも雨ふる、蛙よろこびしよぼしよぼに濡れて桜も咲きいでにけり
ねられぬままに起きて机の椅子に凭る、家をつつめる夜の雨かな
春雨にみかさまさりて谷ぞこを石のながるるねざめてぞ聞く
春の日のぬくみかなしも、ひたすらに浅瀬にたちて鮎つり居れば
瀬の鮎子わが痩脛もきよらかに寒みいたみて春はゆくなり
鳥うちのかへさは夜となりにけり山ざくらさへうちかざしたる
すずしげに顔の感覚はたらけり、のちのつかれをおもはずもがな
不眠症のラムプのかげのわが夜明、瓦たたきて雨ふりしきる
夜の蝶のこの濃ねずみのなつかしや、このいろなせる帽子かぶらむ
いだ釣ると春の川瀬につどひたるふるさとびとら黒き衣着る
わが好きはこの灌木の原なれや、高くそびえてかげる樹もなし
くだらぬものおもひをばやめにせむ、なにか匂ふは屁臭蔓か
海いろにうちかげり居りかづら取るとてわがひとり入る尾鈴の山は
樅に這ふ青きかづらよそのかづら取らむと樅をのぞみつつ行く
いとながきかづらにありけり青きかづら引けども引けども尽きむともせず
春の日や老いしかづらのあをあをと葉をつけて居り青かづら引く
いとながく青きかづらをわれの引く身うちのちからこめてわが引く
ぬすみする人のごとくにひそひそと深山にひとりかづら引くなり
わが身十あまりあはせてなほ足らぬふとき樅なりよきかづら生ふる
かづら生ふるは山の北かげ春の日のにほひもさむき山の北かげ
青かづら篭にみちみちぬいまはとてかへらむとすれば山も暮れにき

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