路上

                    若山牧水

第4歌集
明治44年9月12日,博信堂書房発行。
菊半截。定価70銭。



自序
 昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一冊を編んだ、昨一年間に於けるわが生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動揺と朦朧とを投げて居る。あての無い悔恨は、これら自身の作品に対する時、ことに烈しく著者の心を刺す。我等、真に生きざる可からざるを、また繰返して思ふ。
   明治四十四年九月
                      若山牧水


          自明治四十三年一月
          至 同四十四年五月

海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
わが足のつきたる地もうらさびし彼の蒼空の日もうらさびし
静やかにさびしき我の天地に見えきたるとき涙さしぐむ
死にがたしわれみづからのこの生命食み残し居りまだ死に難し
光無きいのちの在りてあめつちに生くとふことのいかに寂しき
手を触れむことも恐ろしわがいのち光うしなひ生を貪る
たぽたぽに樽に満ちたる酒は鳴るさびしき心うちつれて鳴る
寂しさは屍に似たるわが家にこの酒樽はおくられて来ぬ
この樽の終のしづくの落ちむ時この部屋いかにさびしかるべき
酒樽をかかへて耳のほとりにて音をさせつつをどるあはれさ
おとろへしわが神経にうちひびきゆふべしらじら雪ふりいでぬ
ゆふぐれの雪降るまへのあたたかさ街のはづれの群集の往来
ひとしきりあはく雪ふり月照りぬ水のほとりの落葉の木立
白粉のこぼれむとする横顔に血の潮しきたりたそがれにけり
窓かけのすこしあきたるすきまより夜の雪見ゆねむげなる女
投げかけし女ひとりのたましひをあはれからだを抱きなやめり
酔ひはてて小鳥のごとく少女等はかろく林檎を投げかはすなり
のびのびと酒の匂ひにうちひたり乳に手を置きねむれる少女
一時の鐘とほくよりひびきいや深に三月風吹く夜のなやむかな
枕より離れしときのしづかなる女のひとみわれに対へり
倦みはてしわれのいのちにまつはりつ断えなむとして匂ふ黒髪
みさをなきをんなのむれにうちまじりなみだながしてわがうたふ歌
かなしげに疲れはてつつわれいだく匂へる腕ゆいかに逃れむ
あわただしく汝をおもひゆふぐれの窓かけのかげに涙ぐみぬる
玉のごときなむぢが住める安房のなぎさ春のゆふべをおもひかなしむ
うれひつつ歩めば赤き上靴のしづかに鳴れり二階のゆふべ
数知れぬをんなとちぎり色白のこのわかき友は酒をこのまず
身も投げつこころもなげつものをおもふゆふべかへさの電車の隅に
相寄りつ離れつ憎みなつかしみ若きをとこのむれのどよめく
夕まぐれ酒の匂ふにひしひしとむくろに似たる骨ひびき出づ
沈丁花青くかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきゆふべ
われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す
獣あり混沌として黄に濁る世界のはてをしたひ歩める
なほ耐ふるわれの身体をつらにくみ骨もとけよと酒をむさぼる
酒すすればわが健かの身のおくにあはれいたましき寂しさの燃ゆ
あな寂し酒のしづくを火に落せこの薄暮の部屋匂はせむ
酒のためわれ若うして死にもせば友よいかにかあはれならまし
帰りくればわが下宿屋のゆふぐれの長き二階に灯のかげもなし
書き終へしこの消息のあとを追ひさびしき心しきりにおこる
光線のごとく明るくこまやかにこころ衰へ人を厭へり
おとろへの極みに来けむ眼に満てるあらゆる人の憎し醜し
蹌踉と街をあゆめば大ぞらの闇のそこひに春の月出づ
深深と赤き灯よどむいろ街を酔うて走れば足音がする
ひとつ飲めばはやくも紅く染まる頬の友もわが眼にさびしかりけり
まれまれに相見る友のいづくやらむさびしげなるに心とらるる
歯を痛み泣けば背負ひてわが母は峡の小川に魚を釣りにき
父おほく家に在らざり夕さればはやく戸を閉し母と寝にける
ふるさとは山のおくなる山なりきうら若き母の乳にすがりき
ふるさとの山の五月の杉の木に斧振る友のおもかげの見ゆ
おもひやるかのうす青き峡のおくにわれのうまれし朝のさびしさ
親も見じ姉もいとはしふるさとにただ檳榔樹を見にかへりたや
衰へてひとの来るべき野にあらず少女等群れて摘草をする(五首戸山が原にて)
めづらかに野に出で来ればいちはやく日光に酔ひつかれはてける
つみ草のそのうしろかげむらさきの匂へる衣のかなしかりけり
梢あをむ木蔭にすわりつみ草のとほき少女を見やるさびしさ
かの星に人の棲むとはまことにや晴れたる空の寂し暮れゆく
ふと寄れば昔なじみの或るをんななほ三味ひきて此家に住みける
見詰めゐてふけたまひしと女いふみづからの老はいかに知るらむ
三味をおくをんなのまへの夜の白さわが古着物わびしかりけり
はや既に浸みをへけむわが五体酒をのめども酔ふことをせず
ややしばしわれの寂しき眸に浮き彗星見ゆ青く朝見ゆ
風光り桜みだれて顔に散るこころ汗ばみ夏をおもへる
いちはやく四月の街に青く匂ふ夏帽子をばうちかづきけり
かのをとめ顔の醜し多摩川にわか草つみに行かむとさそふ
われ二十六歳歌をつくりて飯に代ふ世にもわびしきなりはひをする
小田巻の花のむらさき散りてありまれにかへれるわが部屋の窓
頬をすりて雌雄の啼くなりたそがれの花の散りたる桜にすずめ
わが歌を見むひとわれのおとろへて酒飲むかほを見ることなかれ
徳利取り振ればかすかに酒が鳴るわが酔ざめのつらのみにくさ
月の夜半酔ひざめの身のとぼとぼとあゆめる街の夏の木の影
あと月のみそかの夜より乱酔の断えし日もなし寝ざめにおもふ
風ひかり桃のはなびら椎の樹の落葉とまじり庭に散りくる
いねもせず白き夜着きて灯も消さずくちずさむ歌のさびしかりけり
初夏の木木あをみゆく東京を見にのぼり来よ海も凪ぎつらむ(友へ)
別れたるをんなが縫ひしものなりき古き羽織を盗まれにけり
貧しければ心も暗し虫けらの在り甲斐もなき生きやうをする
やうやくに待ちえしごとくわがこころあまえてありぬ病みそめし身に
濁りたるままにこころは凪ぎはてて医師の寝台によこたはるかな
命より摘みいだすべき一すぢのさびしさもなしかなしさも無し
思ひいでて寝ぬ夜しもなきあはれさの二年を経てなほつづくらむ
なほもかく飽くことしらずひとを思ふわれのこころのあはれなるかな
ふらふらと野にまよひ来ればいつのまにさびしや麦のいろづきにけむ
はらみたる黒き小犬の媚びもつれ歩みもかねつ青き草原
いつ知らず摘みし蓬の青き香のゆびにのこれり停車場に入る
摘草のにほひ残れるゆびさきをあらひて居れば野に月の出づ
あを草に降りくる露をなつかしみ大野に居ればまろき月出づ
わがいのち尽きなばなむぢまた死なむわが歌よ汝をあはれに思ふ
花見ればはなのかはゆし摘みてまし摘むともなにのなぐさめにせむ
六月中句、甲州の山奥なる某温泉に遊ぶ、当時の歌二十二首。
雲まよふ山の麓のしづけさをしたひて旅に出でぬ水無月
たひらなる武蔵の国のふちにある夏の山辺へ汽車の近づく
糸に似て白く尽きざる路の見ゆむかひの山の夕風のなか
辻辻に山のせまりて甲斐のくに甲府の町は寂し夏の日
初夏の雲のなかなる山の国甲斐の畑に麦刈る子等よ
雲おもくかかれる山のふもと辺に水無月松の散り散りに立つ
遠山のうすむらさきの山の裾雲より出でて麦の穂に消ゆ
山あひのちさき停車場ややしばし汽車のとまれば雲降りきたる
停車場の汽車のまどなる眼にさびし山辺の畑に麦刈れる子等
山山のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな
大河の岸のほとりの砂めく身のさびしさに思ひいたりぬ
山越えて入りし古駅の霧のおくに電灯の見ゆ人の声きこゆ
わが対ふあを高山の峯越しにけふもゆたかに白雲の湧く
おほどかに夕日にむかふ青山のたかき姿を見ればたふとし
木の葉みな風にそよぎて裏がへるあを山に人の行けるさびしさ
しらじらととほき麓をながれたる小河また見ゆ夕山を越ゆ
青巌のかげのしぶきに濡れながら啼ける河鹿を見出でしさびしさ
わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな
泣きながら桑の実を摘み食ふべつつ母を呼ぶ子を夕畑に見つ
酸くあまき甲斐の村村の酒を飲み富士のふもとの山越えありく
ゆふぐれの河にむかへばすさみたるわれのいのちのいちじろきかな
かへるさにこころづきたる掌のうちの河原の石の棄てられぬかな
                     ─旅の歌をはり─
めづらかに明るき心さしきたりたまゆらにして消えゆきしかな
このままに衰へゆかばこの酒のにほひもやがて身に耐へぬらむ
さやりなく青蔦の葉のもつれあふそのよろこびを夜の床にする
高空に雲のうかべるあめつちのありのすさびも身にさびしけれ
枕敷きすひ終りたるひとすぢのけむりにこころなぐさめて寝む
ふるさとの浜に寄るなる白波の絵葉書をもてかへり来よとふ
夏の夜やここら少女のひとりだにわがものならぬかなしみをする
心ぬけし頬をかすかにながれたるこの涙こそわりなかりけれ
わだつみのそこのごとくにこころ凪ぐ樅の大樹にむかふゆふぐれ
すさみたるこころのひまに濡れて見ゆ木の根に散れる青石かわれ
この瞳しばしを酒に離れなばもとの清さに澄みやかへらむ
あかつきの寝覚の床をひたしたるさびしさのそこに眼をひらくなり
この鼻のひくきが玉にきずぞかし肌のきよさよよく睡るひとかな
なげやりのあまきつかれにうち浸り生きて甲斐あるけふを讃へむ
衰ふる夏のあはれとなげやりのこころのすゑと相対ふかな
涙ややにうかび出づればせきあげしかなしみは早や消えて影なし
影さへもあるかなきかにうちひそみわがいのちいま秋を迎ふる
いひがひなきわれみづからへつらあてかとすれば死に親しまむとす
君住まずなりしみやこの晩夏の市街の電車にけふも我が乗る
三味をひく手もとのふりのいかなればこよひのかくも身にはしむらむ
かりそめの一夜の妻のなさけさへやむごともなし身にしみわたる
蝉とりの児等にをりをり行き逢ひぬ秋のはじめの風明き町
をみなへしをみなへし汝をうちみればさやかに秋に身のひたるかな
青やかに夜のふけゆけばをちかたに松虫きこゆ馬追も啼く
虫なけばやめばこころのとりどりにあはれなることしげきよひかな
洪水にあまたの人の死にしことかかはりもなしものおもひする
またさらにこぞの秋まで知らざりしいのちの寂に行きあへるかな
   九月初めより十一月半ばまで信濃国浅間山の麓に遊べり、歌九十六首。
名も知らぬ山のふもと辺過ぎむとし秋草のはなを摘みめぐるかな
朴の木に秋の風吹く白樺に秋かぜぞふく山をあゆめば
城あとの落葉に似たる公園に入る旅人の夏帽子かな(小諸懐古園にて)
秋風や松の林の出はづれに青アカシヤの実が吹かれ居る
秋晴のふもとをしろき雲ゆけり風の浅間の寂しくあるかな
浅間山山鳴きこゆわがあぐる瞳のおもさ海にかも似む
わがごころ寂しき骸を残しつつ高嶺の雲に行きてあそべる
酒飲めばこころ和みてなみだのみかなしく頬をながるるは何ぞ
秋かぜの吹きしく山辺夕日さし白樺のみき雪のごときかな
なにごとも思ふべきなし秋風の黄なる山辺に胡桃をあさる
胡桃とりつかれて草に寝てあれば赤とんぼ等が来てものをいふ
かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ
あはれ見よまたもこころはくるしみをのがれむとして歌にあまゆる
残りなくおのが命を投げかけて来し旅なれば障りあらすな
旅人は松の根がたに落葉めき身をよこたへぬ秋風の吹く
かなしみに驕りおごりてつかれ来ぬ秋草のなかに身を投ぐるかな
小諸なる医師の家の二階より見たる浅間の姿のさびしさ
秋風のそら晴れぬれば千曲川白き河原に出てあそぶかな
薄暗きこころ火に似て煽り立つ野山もうごき秋かぜの吹く
顔ぢゆうを口となしつつ双手して赤き林檎を噛めば悲しも
秋くさの花のさびしくみだれたる微風のなかのわれの横顔
わがこころ碧玉となり日の下に曇りも帯びず歎く時あり
秋くさのはなよりもなほおとろへしわれのいのちのなつかしきかな
われになほこの美しき恋人のあるといふことがかなしかりけり
松山の秋の峡間に降り来れば水の音あをしせきれいの飛ぶ
うちしのび都を落つる若人に朝の市街は青かりしかな
身もほそく銀座通りの木の蔭に人目さけつつ旅をおもひき
絶望のきはみに咲ける一もとの空いろの花に酔ひて死ぬべし
黄ばみたる広葉がくれの幹をよぢ朴の実をとる秋かぜのなか
かへり来て家の背戸口わが袖の落葉松の葉をはらふゆふぐれ
せきあげてあからさまにも小石めく涙わりなき小夜もこそあれ
濁り江のうすむらさきの水草のここにも咲けば哀しわが生は
衰ふる夏の日ざしにしたしみて昼も咲くとや野の月見草
長月のすゑともなればほろほろと落葉する木のなつかしきかな
沈みゆく暗きこころにさやるなく家をかこみてすさぶ秋風
汝が弾ける糸のしらべにさそはれてひたおもふなり小枝子がことを
わが母の涙のうちにうつるらむわれの姿のあさましきかな
おほかたの彼の死顔ぞ眼にうかぶこころうれしく死をおもふ時
憫れめとなほし強ふるかつゆに似て衰へし子は肺を病むてふ
恋人よわれらひとしくおとろへて尚ほ生くことを如何におもふぞ
こころややむかしの秋にかへれるか寝覚うれしき夜もまじりきぬ
ほろほろと啼くは山鳩さしぐめるひとみに青し木の間松の葉
黄なる山まれに聞ゆる落葉はかなしき酒の香に似たるかな
むらさきの暗くよどみて光る玉夢ののちにもさびしくひかる
秋かぜの信濃に居りてあを海の鴎をおもふ寂しきかなや
わがいのち闇のそこひに濡れ濡れて蛍のごとく匂ふかなしさ
投げやれ投げやれみな一切を投げ出せ旅人の身に前後あらすな
あざれたるわれの昨日の生活の眼にこそうつれ秋草に寝る
酒嗅げば一縷の青きかなしみへわがたましひのひた走りゆく
秋かぜの都の灯かげ落ちあひて酒や酌むらむかの挽歌等は
こほろぎの入りつる穴にさしよせし野にまろび寝の顔のさびしさ
さらばいざさきへいそがむ旅人は裾野の秋の草枯れてきぬ
山麓の古駅の裏をながれたる薄にごり河の岸はなつかし
火の山のいただきちかき森林を過ぎらむとしてこころいためり
雲去れば雲のあとよりうすうすと煙たちのぼる浅間わが越ゆ
火の山の老樹の樅のくろがねの幹をたたけば葉の散り来る
火の山の焼石原のけむりのかげ西ひがしさし別るる旅人
風立てばさとくづれ落ち山を這ふ火山の煙いたましきかな
見よ旅人秋のすゑなる山山のいただき白く雪つもり来ぬ
眼をとめて暮れゆく山に対ふ時しみじみと身のあはれなりけり
あの男死なばおもしろからむぞと旅なるわれを友の待つらむ
背のいろ落葉にまがひ蜥蜴の子おち葉のなかを行く音寂しも
尺あまり延びし稚松に松かさの実れり秋の山の明るさ
風止みぬ伐りのこされし幾もとの松の木の間の黄なる秋の日
惶しき旅人のこころ去りあへず秋の林に来て坐れども
秋の森ふと出であひし渓間より見れば浅間に煙断えて居り
渓あひの路はほそぼそ白樺の白き木立にきはまりにけり
忘却のかげかさびしきいちにんの人あり旅をながれ渡れる
斯くばかり縮みをはれるものなればこの命またいつか延ぶらむ
眼は濁る腹いつぱいに呼吸づかむうらやすにさへ逢ふ日知らねば
虫けらの這ふよりもなほさびしけれ旅は三月をこえなむとする
終りなき旅と告げなばわがむねのさびしさなにと泣き濡るるらむ
はつとしてわれに返れば満目の冬草山をわが歩み居り
冬枯の黄なる草山ひとりゆくうしろ姿を見むひともなし
草のうへわがよこたはるかたはらに秋の淡雪きえのこり居り
かかる時ふところ鏡恋しけれ葉の散る木の間わが顔を見む
蒼空ゆ降り来てやがて去り行きぬ山辺の雲もあはれなるかな
いただきの秋の深雪に足あとをつけつつ山を越ゆるさびしさ
冬草山鳥の立つにもあめつちのくづれしごとき驚きをする
ものおもひ断ゆれば黄なる落葉の峡のおくより水のきこゆる
秋の日の空をながるる火の山のけむりのすゑにいのちかけけれ
日は暗く浮きあぶらなしわが命ただよふかたに火の山の見ゆ
わがごとくさびしきこころいつの代に誰がうづめけむ山に煙見ゆ
火の山のけむりのすゑにわがこころほのかに青き花とひらくも
火の山を越えてふもとの森なかの温泉に入れば月の照りたる
火の山のけむりのかげの温泉に一夜ねむりて去りし旅人
湯あがりをひとりし居ればわが肌に旅をかなしむ匂ひこもれり
なつかしやわがさびしさにさしそひて秋のあは雪ふりそめにけり
あはれなる女ひとりが住むゆゑにこの東京のさびしきことかな(以下帰京して)
人知れず旅よりかへりわが友のめうとの家にねむる秋の夜
友が子のゆふべさびしき泣顔にならびてものをおもふ家かな
友のごとく日ごと疲れてかへり来むわが家といふが恋しくなりけり
終りたる旅を見かへるさびしさにさそはれてまた旅をしぞおもふ
われを見にくらき都会のそこ此処に住み居る友がみなつどひ来る
電灯のさびしきことよ旅路よりかへりて友が顔を見る夜
                   ─旅の歌をはり─
眼のまへのたばこの煙の消ゆるときまたかなしみは続かむとする
鏡より沈めるひとみわれを見る死に対ふごとなつかしきかな
けふもまた独りこもればゆふまぐれいつかさびしく点る電灯
売り棄てし銀の時計をおもひ出づ木がらし赤く照りかへす部屋
わがままは狂へる馬のすがたしきつかれて今は横はるかな
思ひうみふところ手してわが行けば街のどよみは死の海に似る
ゆふぐれの風にしのびて匂ひ来ぬ隣家の庭の落葉のけむり
かいかがみ路ばたの石手に取れば涙はつひに頬にまろびいづ
帰るといふ世にいとはしきことのあり夜更けてけふもとぼとぼ帰る
歩きつつひとり言いふはしたなき癖さへいつか身につきしかな
街を行きこともなげなる家家のなりはひを見て瞳おびゆる
ひもすがら火鉢かこみてゆびさきは灰によごれぬ庭に吹く風
雪ふれり暗きこころの片かはにほのあかりさしものうきゆふべ
筆とめて地震の終るを待つ時のらんぷの前のわれの秋の夜
恋人の肺にしのべるやまひよりなつかしいかな盃をとる
死をおもふかつて登りし火の山の足もとに見し烟をおもふ
あざわらふ死の横顔にさそはれてわが片頬にものぼる冷笑
『あれ見給へ落葉木立の日あたりにすまひよげなる小さき貸家』
ゆふまぐれ袂さぐれば先づこよひ浄瑠璃をきく銭は残れり
わが部屋に朝日さす間はなにごとも身になおこりそ日向ぼこする
日向ぼこねむり入らむとするころのわが背のかたに散りくる落葉
日向ぼこ酒禁められて衰へしわれの身体が日に酔へるかな
日向ぼこ出勤前の友もまたわが背まくらにうとうととする
日向ぼこ枕もとなるうすいろの瓶のくすりに日の匂ふかな
たべのこしし飯つぶまけばうちつどふ雀の子らと日向ぼこする
路ばたの枯葉ばやしの日あたりにくるわがへりのいつ寝入りけむ
つらかりしもののおもひでなつかしくなりゆくころもうらさびしけれ
蝙蝠に似むとわらへばわが暗きかほの蝙蝠に見ゆるゆふぐれ
ただひとり離れて島に居るごときこころ暫くうごかぬゆふべ
ゆふまぐれ赤いんきもてわが歌をなほしてゐしが酒の飲みたや
ほんのりと酒の飲みたくなるころのたそがれがたの身のあぢきなさ
さきまでのいらいらしさのいつ消えてをんなのそばに斯く座らむ
ややすこし遅れて湯より出るひとを待つ身かなしき上草履かな
槙の葉のあをの葉ずゑにつもる雪きゆるゆきをば見てありしかな
湯あがりのひとにまぢかく居ることの春はかなしきひとつなるべし
白粉のあまきかをりも身にのらぬ湯あがりびとをなにとすべけむ
湯あがりのかほとかほとが鏡のうへいたづらをするかなしき眼をする
ちりやすきはなのにほひにふとふれてなりぬかなしき空のつばめに
わがかほにうすきねいきのうつつなや灯の三階のしたをゆく三味
あれを聴けまくらまくらにしとしととしたたりてくるとほき三味線
かの友もこの友もみな白玉のこころ濁らずさびしきわれかな
独りゐつひとつほしては一つ酌ぐさびしき酒のわれのいのちか
見ればげに二十七なるわがつらと驚かむとてわらふ白き歯
濠ばたの巣より乞食を追ひ立つるわかき巡査のうしろかげかな
風のごとくあとさきもなき苦笑ひつらにうかびぬ独り坐るに
封切れば枯れし野菊とながからぬ手紙と落ちぬわが膝のうへ
狐にも巣ありといへりさびしさや林のおくの眼にうつり来る
ひとりひとり親しきひとと離れゆくこのはかなさの棄てがたきかな
松も見ゆしら梅も見ゆ或るころのさびしき安房をおもひ出づれば
梅やらむとわれをさがして来しひとと松のはやしに行きあひしかな
梅つぼむころともなればいづくよりこのかなしさは身にかへるらむ
ただ二日我慢してゐしこの酒のこのうまさはと胸暗うなる
いづくまでわれをあはれむはて知らぬ汝がこころは海かさびしや
暗く重きこころをまたもたづさへて見知らぬ街に巣をうつすかな
移り来て窓をひらけば三階のしたの古濠舟ゆきかよふ
ふうらりとふところ手して住み馴れぬ門を出づるはうらさびしけれ
移り来て見なれぬ街路の床屋よりいづるゆふべのくびのつめたさ
漂泊のかたみに残すひげなれば斯くやあはれに見えまさるらむ
星あをくながれて闇にかげひきぬわがふところ手さむし街路ゆく
買ひきたりこよひかく着てぬる布団うりはなつ日はまたいつならむ
日もひさしくわれにかかはりなきごとく思ひしかふと少女等を見る
さびしさのとけてながれてさかづきの酒となるころふりいでし雪
雪ふるにさけをおもひつ酒飲みぬひとりねむるはなにのさびしさ
雪ふれりと筆とりあげし消息につい書きそへぬかなしげのこと
ふる雪になんのかをりもなきものをこころなにとてしかはさびしむ
雪ふればちららちららとさびしさがなまあたたかく身をそそるかな
はつとしてこころ変れば蒼暗くそこひも見えず降るそらの雪
灯のともる雪ふる夜のひとり寝の枕がみこそなまめかしけれ
濠のはた独りをとこがねる家ぞこころして漕げした通ふ舟
水の上にふりきてきゆる雪の見ゆ酒のにほひの身に残りあり
知らぬ間に雨とかはりし夜のゆき酒ののちなる指のさびしさ
草の葉のにほひなるらむいらいらとをんなこひしくなりゆけるとき
かかる日は子供あつめに飴やの爺うたふ唄にもなみださしぐむ
ともすればかなしき愛に陥ちむとすただゆきずりに見むとおもふに
一昔まへにすたれし流行唄くちにうかびぬ酒のごとくに
虚無党の一死刑囚死ぬきはにわれの『別離』を読みゐしときく
がらす戸に白くみだれてふれる雪よりそひて見れば寂しきものかな
わが袖にひとつふたつがきえのこる雪もさびしや酒やにのぼる
身もおもく酒のかをりはあをあをと部屋に満ちたり酔はむぞ今夜
いざいざと友にさかづきすすめつつ泣かまほしかり酔はむぞ今夜
たまたまにただひとりして郊外にわが出て来れば日の曇りたる
多摩川の浅き流れに石なげてあそべば濡るるわがたもとかな
春あさく藍もうすらに多摩川のながれてありぬ憂しやひとりは
多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふ人のあれかし
曇日の川原の薮のしら砂にあしあとつけて啼く千鳥かな
川千鳥啼く音つづけば川ごしの二月の山の眼におもり来る
山のかげ水見てあればさびしさがわれの身となりゆく水となり
山かげの小川の岸にのがれ来てさびしやひとり石投げあそぶ
行くなかれかの人情のかなしきになれがいのちとなにと耐へむや
山の樹よ葉も散りはてて鳥も来ずけふのわれにや似てやすからむ
石拾ひわがさびしさのことごとく乗りうつれとて空へ投げ上ぐ
友もうし誰とあそばむ明日もまた多摩の川原に来てあそばなむ
水むすび石なげちらしただひとり河とあそびて泣きてかへりぬ
枝葉のみ真暗くおもく打ち茂り根は枯るる樹かこころさびしき
西吹かば山のけむりはけふもなほ君住む国のそらへながれむ(答背山君歌四首)
なかぞらに山のけむりの絶ゆる時けだしや君も寂しかるべし
夜の牛乳飲みつつおもひふらふらと浅間の烟に走るさびしさ
松おほき彼の鎌倉の古山に行かばや風のなかに海見む
夜となれば瞳のおくのよろこびのさびしいかなや薄く汗帯ぶ
常陸山負くるなかれとこころのうちいのるゆふべは居る所無し
常陸山つひに負けたる消息は聞くにしのびずわれ歌咏まむ
山を抜く君がちからの衰へかなぎさ落ちゆく汐のひびきか
わだつみの底の濁りか手をつかねものうき空のもとに棲みたる
さびしさは蝶にかも似むこころにはつゆかかはらず過ぐす朝夕
をりをりの夜のわが身にしのび入りさびしきことを見する夢あり
酒飲めば鼻よりうすく血の出づる身のおとろへをいかに嘆かむ
いまは早や生命なるべき酒の香をうらさびしくも恋ひわたるかな
いつとなくわれと身体をたのむこと薄らぎそめて在りぬ昼夜
よぼよぼとわれ慰めに行くわれの姿か徳利あまた並べる
軒したは濁れる海辺手に持つは昼のくるわの浅きさかづき
この家の軒のしたには舟も無し寄る波もなし寂しき海かな
手をうちて踊れるわれのあはれさになほ手をうちてしきりに踊る
かたはらにならぶ銚子の三つふたつ早やうらさびしゑひそめしかな
汐さすやくるわの裏の濁り江に帆を垂れてゆくゆふぐれの船
岸ちかくゆたかに過ぐる大船に人声もなしあをき灯ともる
ゆふぐれの水にうかべばこともなうさびしき群ぞ沖の鴎は
かもめかもめ空に一羽が啼くときは水に入らむと身のかなしけれ
おそらくは舟人ならむ唄のよさはやひけすぎのひやかしの群
かたはらの女去りたるこころよさなみだのごとき朝の酒かな
手まくらのあさきえにしも身にはしめまたの夜逢はむうしやうつり香
ちひさなる舟にわが乗りふらふらと漕ぎいでてゆく春の濁り江
街暗くかすめる裏の濁り江に居群れて啼かぬ海の白鳥
濁り江はかすみて空もかき垂れぬわが居る舟に啼き寄る鴎
枯草にわが寝て居ればそばちかく過ぎる子供のなつかしきかな
かれ草のなかに散りたる楢の葉をひろはむとして手のさびしけれ
われとべば犬も走りぬ目のかぎり薄日流れてかなしき野辺に
悲しめるあるじ離れて目もとほく野末を走る愛犬のあり
鉄砲の弾のごとくに野を走るわが愛犬を見るもさびしき
枯草にわが寝て居ればあそばむと来て顔のぞき眼をのぞく犬
ゆふまぐれ遊びつかれてあゆみ寄る犬と瞳のひたと合ひたる
うす曇りなまあたたかき冬の日に犬とあそぶはかなしきことぞ
ましぐらにわれを馳け抜き立ちどまり振返る犬の眼を打擲す
かなしきは愛のすがたか口笛にとほく野ずゑを馳せ来る犬
膝にゐて深き毛を垂れ樫の葉に夕日散るときわが小犬鳴く
指に触るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ
杉の樹をつと離れたる夕風のなかの烏の大いなるかな
一本の杉の木の根に起きかへるわがかげ長し野は薄日かな
若き日をささげ尽くして嘆きしはこのありなしの恋なりしかな
秋に入る空をほたるのゆくごとくさびしやひとの忘られぬかな
はじめより苦しきことに尽きたりし恋もいつしか終らむとする
おもかげの移るなかれとひとのうへにいのりしことはまたくあれども
五年にあまるわれらがかたらひのなかの幾日をよろこびとせむ
一日だにひとつ家にはえも住まず得忘れもせず心くさりぬ
わがために光ほろびしあはれなるいのちをおもふ日の来ずもがな
ほそほそと萌えいでて花ももたざりきこのひともとの名も知らぬ草
わびしさやふとわが立てる足もとの二月の地を見て歩み出づ
石油をつぐ音きこゆ二階より薮ごしに見るちひさき家に
薮ふかく窓のもとよりうちつづく友が二階の二月の月の夜
ふつとして多摩の川原のなつかしく金を借り来て一夜寝に行く
砂のなかに顔をうづめて身をもだえ泣くごとくして去りぬ川原を
かへるさは時雨となりぬ多摩川の川辺の宿に一夜寝しまに
わが顔に触れて犬あり枯くさの日向にいねてもの思ふとき
杉の木の間ものおもふわが顔のまへ木漏日のかげに坐りたる犬
まさむねの一合瓶のかはゆさは珠にかも似む飲まで居るべし
誰にもあれ人見まほしきこころならむけふもふらふら街出で歩く
わが部屋にわれを待つべく一樽に酒は断たねどされどさびしき
其処此処の友はいましも何をしてなに思ふらむわれ早も寝む
わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
三階の玻璃窓つつみ煤烟のにほへるなかにひとり酒煮る
芝居見て泣けるなみだをひと知れずぬぐはむとして身をはかなみぬ
平土間のほこりにまみれわがなみだ頬をながるるわびしいかなや
かなしみにこころもたゆく身もたゆく酒もものうし泣きぬれてゐむ
うち見やる舞台のほかのさびしさにつまされてこそぬぐへ涙を
しくしくとまたもなみだの眼ににじむこの劇場のはなれともなや
そこはかと深山の松葉ちることか寝ざめのこころ寄るところなし
わだつみの底にあを石ゆるるよりさびしからずやわれの寝覚は
明けがたの床に寝ざめてわれと身の呼吸することもなにぞさびしき
寝ざむればうすく眼に見ゆわがいのち終らむとするきはの明るさ
眼のさめてしづかに頭もたげつつまたいねむとす窓に星見ゆ
夜ふかく濠にながるる落し水聞くことなかれ寝覚むるなかれ
先づ啼くは濁る濠辺のいしたたきほの青き朝を寝ざめてあれば
かなしくもいのちの暗さきはまらばみづから死なむ砒素をわが持つ
青海のひびくに似たるなつかしさわが眼のまへの砒素に集る
一つぶの雪にかも似む毒薬の砒素ぞ掌に在りあめつちの隅
なとがめそ腐るいのちを恐ろしみなつかしくこそ砒素をわが持て
死にてのちさむく冷ゆれど顔のさま変らずといふ砒素はなつかし
まなこ閉ぢ口をつぐめるさびしさに得耐へずついと立てど甲斐なし
ふるさとの美美津の川のみなかみにさびしく母の病みたまふらむ
さくら早や背戸の山辺に散りゆきしかの納戸にや臥したまふらむ
病む母よかはりはてたる汝が児を枕にちかく見むと思ふな
病む母のまくらにつどひ泣きぬれて姉もいかにかわれを恨まむ
病む母を眼とぢおもへばかたはらのゆふべの膳に酒の匂へる
病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃くらむふるさとの父
葉をすべる露のごとくになげやりのこころとなりて行くは何処ぞ
終に身を酒にそこなひふるさとへ帰るか春のさびしかるらむ(友へ)
わが暗きこころを海に投げ入れむ沈みて巌となりて苔生ひむ
あめつちに独り生きたるゆたかなる心となりて挙ぐるさかづき
指さきにちさき杯もてるときどよめきゆらぐ暗きこころよ
なにとせむすこし酔ひたる足もとのわが踏む地よりかなしみは湧く
いまは早やとらへ難かり蒼暗き空に離れてわれの悲しむ
眼も鈍くこころくもればおのづから眉さへ暗し春の街見ゆ
雪消えてけふもけむりの立つならむ浅間よ春のそらのかたへに
あは雪のとけてながれむ火の山のかの松原に行きて死にたや
静かなりし日にかへらむとこころより思へるごとしわれのよこ顔
をりをりは見えずなれどもいつかまた巣にかへり居り軒の蜘蛛の子
わが部屋に生けるはさびし軒の蜘蛛屋根の小ねずみもの云はぬわれ
誰ぞひとりほほゑめばみないちやうに酒をしぞ思ふ部屋のゆふぐれ
大君の城の五月の森林にゆふさりくればともる電灯
河を見にひとり来て立つ木のかげにほのかに昼を啼く蛙あり(以下十三首下総稲毛にて)
いつのまに摘みし菜たねぞゆびさきに黄なるひともと持てる物思ひ
かくばかり清きこころぞあざむくになにの難さと笑みて為にけむ
眼とづるはさびしきくせぞおほぞらに雲雀啼く日を草につくばひ
根のかたにちさく坐れば老松の幹よりおもく風降り来る
海光る松の木の間の白砂をあゆむもさびし坐らむも憂し
かなしさに閉ぢしまぶたの瞼毛にも来てやどりたる松の風かな
耐へがたくまなこ閉づればわが暗きこころ梢に松風となる
波もなき海辺の砂にわが居れば空の黄ばみて春の月出づ
なぎさ辺の藻草昆布のむらがりのなつかしいかな春の月出づ
眼も開かず砂につくばひ夕風の松の木の間にわがひとり居る
しら砂にかほをうづめてわれ祷るかなしさに身をやぶるまじいぞ
このこころ慰むべくばあめつちにまたなにものの代ふるあらむや
なにはなく夭死せむとおもひゐし彼はまことにけふ死ににけり
思ふとなく思はるることさびしけれさもなき友の死にゆきしとぞ
よべもまた睡られざりき初夏の午前の街に帽かむり出づ
酒を見てよろこぶわれのよこ顔をながめて居ればさしぐみ来る
衣ぬげば五月の松のこずゑより日あをく流れ肌に匂へる
松脂の匂ひかわれの寂びしめるいのちのはしか一すぢとなる
森出でてあをき五月の太陽を見上ぐる額のなにぞ重きや
かたはらの地を見詰めて松の根にわれの五月をさびしがるかな
松の葉のしげみにあかく入日さし松かさに似て山雀の啼く
こまやかに松の落葉の散りばへるつちより蝉の子の這ひ出づる
ゆく春のゆふ日にうかみあかあかとさびしく松の幹ならぶかな
わが肌の匂ふも肌のうへを這ふ蟻のあゆみもさびしき五月
松の葉の散りしく森にいぬるとてわが手枕のいたむ昼かな
松の根の落葉にいねてものを思ふ夏の背広の紺の匂ひよ
松ばやしわが寝て居ればひらひらと啼いて燕がまひ過ぎしかな
あなあはれいつかとなりの楢の葉に這ひもうつれる蓑虫の子よ
松やにのあをき匂ひの血となりてわが身やめぐる森の午後の日
草わけて雲雀の巣をばさがすとてわれの素足のいたむ昼かな
美しく縞のある蚊の肌に来てわが血を吸ふもさびしや五月
日も青きすすきの原に虫を啄みつばくらあまた群れあそぶかな
松の花うすく匂ふにさそはれてわが鬱憂の浮き出でむとす
おほいなるむらさきの桐手に持てばわが世むらさきに見ゆる皐月野
わかやかに立てるすすきにふと触れし小指の切れて血のしみいづる
下総の国に入日し榛はらのなかの古橋わが渡るかな(以下下総市川にて)
はり原やものおもひ行けばわが額のうすく青みて五月けぶれる
あを草のかげに五月の地のうるみ健かなれとわれに眼を寄す
ただひとり杉菜のふしをつぐことのあそびをぞする河のほとりに
薮すずめ群るる田なかの停車場にけふも出で来て汽車を見送る
しろき花散りつくしたる下総の梨の名所のあさき夏かな
袖ひろき宿屋の寝衣着つつ見るアカシアの花はかなしかりけり
あめつちの青くけぶれる河の辺の葦原に巣をまもる葭切鳥
身を寄せし草のしげみのふかければうらなつかしく物やおもはむ
ゆく春の草はらに来てうれひつつ露ともならぬわがいのちかな
あを草の野辺をかへればわが影のいつしか月となりにけるかな
町の裏川蒸汽船より降り立てば花火をあげて子供あそべり
榛はらのあをくけぶれる下総に水田うつ身はさびしからまし
ありなしの貧しき恋になになればわが泣くことの斯くも繁なる
                        路上をはり

[はじめにもどる]


E-Mailkikuchi@konan-wu.ac.jp