砂丘

                    若山牧水

第8歌集
大正4年10月15日。博信堂書房発行。
菊半截。定価70銭。



 自序

 本集には『秋風の歌』以後、即ち昨年の春から今日までの作を集めた。ただ巻末「ふるさと」の一章のみは一昨々年から一昨年の春にかけ郷里滞在中及び上京の途中に詠んだもので『みなかみ』に編入すべきであったのを誤つて今まで落してゐたものである。「曇日」は東京小石川寓居中、その他は当地移転後の作である。
 今までは常に旧く詠んだものを巻首に置いて順次新作に及ぶ編輯法をとつてゐたが、今度はその反対に新作を初めに置いた。
 一歌集を編むごとに何かしらものを思はせられるのは常であるが、今はそれを筆にするのも煩はしいほど静かな気もちになつてゐる。このままで今少し澄み入つた作歌の三昧境に進みたいものである。
   大正四年九月十四日
                    三浦半島海浜にて
                         著  者



 山の雲

   下野より信濃へ越え蓼科山麓の春日温泉に遊ぶ、歌四十五音
朝空に黄雲たなびき蜩のいそぎて鳴けば夏日かなしも
朝霧は空にのぼりてたなびきつ真青き峡間ひとりこそ行け
少女子がねくたれ帯か朝雲のほそほそとして峰にかかれり
蜩なき杜鵑なき夕山の木がくれ行けばそよぐ葉もなし
わがこころ青みゆくかも夕山の木の間ひぐらし声断たなくに
岨路のきはまりぬれば赤ら松峰越しの風にうちなびきつつ
空高み月のほとりのしら鷺のうき雲の影いまだ散らなく
雨待てる信濃の国の四方の峰のゆふべゆふべを黄雲たなびく
   山深く鳥多し、燕の歌
あはれこは風の渦かもつばくらめ峡間の空にまひつどひたる
有明の月かげ白みゆくなべに数まさりつつとぶ山燕
   尾 長
尾長鳥その尾はながく羽根ちさく真白く昼をとべるなりけり
尾長鳥石磨るごとき音には啼き山風強みとびあへぬかも
   杜 鵑
朝雲ぞけむりには似るこの朝けあわただしくも蹄くほととぎす
ほととぎすしきりに啼きて空青しこころ冷えたる真昼なるかな

老松の風にまぎれず啼く鷹の声かなしけれ風白き峰に
なか空にまひすましつつ喘く聞けば天雲も光り輝くとこそ
今日はしも峰越しの風の強ければうす雲も鷹も光り流るる
雲がくれひひろと啼きて行きし鳥峡間の空は光りたるかな
かならず二羽ゐる鳥と仰ぎゐしにあはれ峰越しにまひ寄りにけり
   鶺 鴒
鶺鴒しろがねの銭かぞへゆく冷き声に啼く真昼かな
いしたたきちさきめうとの頬を寄せて啼くよ浅瀬の白石のうへに
いしたたきやまずしもなくさびしさにわが日の昼も更けにけるかな
いしたたきちちと飛びかひ啼く久し真白川原の瀬を浅みかも
木々の影はだらに黒き川隈に啼きつつ去らぬ二羽いしたたき
二羽とのみ思ひしものをいしたたきまたも来啼けり昼深みつつ
   その他
秋の鳥百舌鳥ぞ来啼ける夏山のこの山かぜの真白きなかに
ほととぎす樫鳥ひよ鳥なきやまぬ峡間の昼の郭公のこゑ
何鳥か雛をそだつるふくみ声今朝も老樹の風に聞ゆる
   窓辺遠望
うすものの白きを透きて紅ゐの裳の紐ぞ見ゆこち向くなゆめ
ふくよかに肥えも肥えつれ人怖ぢず真向ふ乳のそのつぶら乳
丈長に濡髪垂らし昼の湯屋出でて真裸躰つと走りたれ
   秋近し
峰のうへに巻き立てる雲のくれなゐの褪せゆくなべに秋の風吹く
みねの風けふは沢辺に落ちて吹く広葉がくれの葛の秋花
   独 居
うららかに独りし居れどうら寒きこころをりをり起りこそすれ
向つ峰にけふもしらじら雲い立ち照り輝くに独り居にけり
輝けば山もかがやき家も照り夏真白雲わびしかりけり
麓辺の路のひとすぢしらじらと見えて向つ峰雲わきやまず
   相模なる妻が許へ送れる歌
相模なるその長浜の白浜に出でてか今日も独り浪見む
峰包み真昼白雲わくなべに汝が黒髪おもほゆるかも
愁ふる時閉ぢゆく癖のその眸を思ひ痛みて立ちてゐにけり
真白なるふとりじしなる双かひなむなしく床にありかわぶらむ
われ独りわが身清しみ眼も痩せつ岨路朝ゆき夕ゆきにつつ
きはまりて恋しき時は三日にしてすへる煙草をひと夜には吸ふ
夜のほどに雨過ぎけらし五百重山今朝みづみづし恋しきぞ君
今もかも身か光りなむ真昼憂し峰にはかかれ天の雲むら
   七月中旬下野なる背山君を訪ねむと思ひ立つ
のちいつか逢ふべきものとたのみつるその時し終に来りけるかも
下野の奈須野が原のなつ草のなかにし君を見む日近づく
   友と相酌む歌
飽かずしも酌めるものかなみじか夜を眠ることすらなほ惜みつつ
盃をおかば語らむ言の葉もともにつきなむごとく悲しく
一しづく啜りては心をどりつつ二つ三つとは重ねけるかも
幾日かけ幾月かけてねがひつる今宵の酒ぞいざや酌みてな
死ぬごとくこころかわける時にして君と相見きうとんずなゆめ
朝は朝昼は昼とて相酌みつ離れがたくもなりにけるかな
時をおき老樹の雫おつるごと静けき酒は朝にこそあれ
那珂川に生けるうろくづ悉くくらへとわれに強ひし君かも
   或夜うち連れて川狩に行く
うばたまの夜の川瀬のかちわたり足に触りしは何の魚ぞも
松明をさしかがやかしわが渡る早瀬の小魚雨降るごとし
   別 離
別れ来しけふの汽車路は夏雲の湧き立つ野辺のなかにしありけり
   別後友が妻へ贈れる
若竹の伸びゆく夏のしののめのすがすがしさに君はおはしき
逢ひしとき姉のごとくも思はれき別れて後ぞなほ思はるる



 三浦半島

   病妻を伴ひ三浦半島の海岸に移住す、三月中旬の事なりき
海越えて鋸山はかすめども此処の長浜浪立ちやまず
ひとすぢに白き辺浪ぞ眼には見ゆ御空も沖も霞みたるかな
春真昼沈み光れる大わだの辺に立つ浪は真白なるかな
うつうつと霞める空に雲のゐてひとところ白く光りたるかな
   春深し
田尻なる雑木が原の山ざくらひともと白く散りゐたりけり
   永 日
地あをく光り入りたる真昼の家菜の花はわれに匂ひ来るかも
棕梠の葉の菜の花の麦のゆれ光り揺れひかり永きひと日なりけり
   妻の病久し
昼の井戸髪を洗ふと葉椿のかげのかまどに赤き火を焚く
かたはらに昼の焚火の燃えしきりあをじろき汝がはだへなるかな
   吾子旅人
昼深み庭は光りつ吾子ひとり真裸体にして鶏追ひ遊ぶ
尺あまり二尺に足らぬ子がたけの悲しくぞなる浜の浪の前に
   或 朝
近づけば雨の来るとふ安房が崎今朝藍深く近づきにけり
この汐風いたくし吹けばふしぶしのゆるみ痛みて沖あをく曇る
   昼の浜
昼の浜思ひほほけしまろび寝にづんと響きて白浪あがる
走れ走れと身うち波うつ息づかひとどめかねつつ昼の浜走る
   夏立つ
夏立つや四方の岬のうす青みあはれ入海荒れがちにして
   夏日哀愁
夏の朝ややに更けゆきわがこころ離ればなれに疲れたるかな
夏草の花のくれなゐなにとなくうとみながらに挿しにけるかな
うす藍のいまは褪せなむあぢさゐの花をまたなくおもふ夕暮
あぢさゐやこよひはなにか淋しきに立ち出でて雨をあふぐ夜の庭
家のうち机のうへの紫陽花のうすら青みのつのる真昼日
わだつみの荒磯の貝をとり来り殻砕きつつさびし昼空
潮ぐもりこの貝あまり新しく磯くさくして食べがたきかな
   微恙
縞ほそき紺の素袷身につけて昼の戸繰れば夏がすみせり
   夜の海
傘さして見れば沖津辺夏の夜の紺の潮騒うかびたるかな
ものうさに幾日か見ずて過ぎにけむこよひ真闇の海ぞさびしき
   朝
しみじみと朝空あふぎ立ちつくす夏の真土の冷きうへに
いまはただ土の匂ひもありがたくたたずみてこそありね朝庭
柿の葉の青きもわれのさびしきもひたすらにして露もこぼれず
柿の葉のこもりてしめる庭のつち朝はわが身も伸ぶ心地すれ
   夏深し
黒がねの鋸山に居る雲の昼深くして立ちあへなくに
   真 昼
いはけなき涙ぞ流る燕啼きうす青みつつ昼更くるなかに
しばらくはうつつともなく真がなしき昼のま夏のわれにしありけり
   朝 霧
入りつ海朝霧ながるをちこちの岬に夏の日は散りながら
横さまに霧は降りつつ黍青しけふも火のごと晴るるにかあらむ
わびしさや玉蜀黍畑の朝霧に立ちつくし居れば吾子呼ぶ声す
   鴉
凶鳥の鴉群れ啼きこもりゐの窓の昼空けぶりたるかな
日のひかり紫じみて見ゆまでに空にとびかひ啼くむら鴉
蛇もいま地にひそめる日ながどき真黒がらすのやまずしも啼く
早苗田のうへをめぐりて啼く鴉早苗萎ゆかに啼くむら鴉
   釣 魚
詮なしや昼の庭木の下くぐり釣りに出でゆくわがこころから
燕啼く真昼大野の日の真下つり竿かたげ行けば遠きかな
麦畑の熟れし片すみ野いばらのかげの小川にけふも来にけり



 曇  日

   植物園
春あさき御そらけぶりて午前の植物園にひと多からず
朝日さすかの温室のガラス戸のすこしあきたり春浅みかも
木がくれのあを葉がちなる白椿絵かきがひとり描いてゐるなり
かのをとこ立ちてゑがけば紺ふかき背広に春日ゆれてやまずも
常磐樹の蔭にしあればひそひそと地も匂ひて椿描くなり
ひややかに朝風ぞ吹く白つばき咲きは匂へど葉がくれにして
遠つ空ひかりてけぶる春の日の植物園をひとり歩むも
ひややかに光りつれたる青樫のこずゑの御そらけぶりたるかな
鵯鳥のけたたましくも啼くものか樫の木立のあをき春日に
かたすみの杉の木立のうす赤み枯草原にたんぽぽの萌ゆ
植物園のかれくさ原に居る鶫をりをり動き遠くとばなく
ただひともとたんぽぽ咲けるそばに来てかの黒き犬は坐りけるかな
ウヰスキヰひそかに持ちて来べかりし春あさきこの枯草のはら
   樹や病める
とある幹に玻璃の管さし水をとる黒服のをとこ居りにけるかな
大いなる樹の根にあれば黒服の若人いとどさびしくぞ見ゆ
   妻の病久し
病める子がとぢたるこころしばしだにひらくとはせよ淡雪のふる
ひとすぢに降りも入りたるしら雪のかすけき声のあはれなるかな
   梅咲く
年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花をけふ見出でたり
梅咲けばわが昨の日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
   風を愛する癖あり
耐へがたき生心さへ身には燃え夜のくだちゆき風吹きやまず
こらへかね寝床いづれば頬はあつく染りゐにけり風吹きやまず
戸出づれば家のめぐりの落葉樹に光りて夜風吹きゐたりけり
   音羽護国寺
むら立ちの異木に行かず山雀は松の梢にひもすがら啼く
この寺の森に寄る鳥とりわけて山雀のなくはあはれなりけり
   母を憶ふ歌
とある日の朝のさびしきこころより冬の野に出でて君恋ふるかな
子のこころ或ひは親のむきむきに恋しとはいへどいまは燃えぬかも
あは雪を手にもてるごときあやふさを老いませば君につねに覚ゆる
あはれ再び逢ひがたき日の二人の上に今は近しとおもへど甲斐なし
咒ふべきそむきがちなる子のこころ老いたる親のその錆心
今は早やあきらめてかもおはすらめ老いたる人のみなするごとく
落葉樹の根がたのつちにうづくまり君おもひ居れば匂ふ冬の陽
   二月末
うすがすむみなかみの山多摩川の浅瀬に鮎子まだのぼり来ず
   花 屋
水仙のたばにかくれてありにけりわが見出でたる白椿花
   打群れて酒酌みたき人かずかずあり
笑顔泣顔さらぬげにただ見合ひつつ夜明けてもなほ酌まむとすらむ
   この頃の山蘭君へ
萩のはな上枝に見えてそよ風のながめさびしきころにもあるかな
   やや寒し
甲斐が根に雪来にけらしむらさめのいまは晴れてなうち出でて見む
   朝の窓
秋の朝の酒場のつめたさひとびとのつかれたる顔黙し動かず
なかの一人の老いたる顔にうす赤みさすよと見れば眠るなりけり
萎えたるわれのはだへにしみじみと秋の朝日のさして居るなり
さびしさや酒場の小窓にこぼれたる秋の朝日を酌みも取らうよ
秋の朝酒場の鏡に見入りたるわれのひとみの静かなるかな
   秋漸く晩し
崖のつちほろろ散る日の秋晴に漆紅葉のさびしくも燃ゆ
浮雲にとりどり影のうまれつつ真昼の空は傾かむとす
あまりにもこころ渇くにたへかねてとりし煙草よ風白き畑
   独 り
いたましくめづらしきものを見るごとくわが腕をそと撫でてみにけり
秋の夜のほのつめたさにいざなはれ友恋しさは火のごとく燃ゆ
しのびかね友をたづねに出でてゆくこのすがた友よあはれとおもへ
   独 居
ひとを厭ふとにはあらねどわがこころひそみひそみて歩むとすらし
こころの端にかたみに触れじふれじとてあらぬ事をば語りゐしかな
   野 分
消えみ消えずみはるけき空にうす雲のうちもたなびき朝野分する
秋の風今朝は吹くぞと閨あけてまだ覚めぬひとをかへりみるかな
わがこころあるにあられず大風のしどろの朝を出でて歩めり
うす青みをんなの膚のかなしくも耐ふるに似たり風のなかの樹
風を強み幹のあをみのいとどしくその根のつちは揺れてやまなく
   平 野
再びは斯く晴るる日もあるまじと惜みつつ日ごと野に出づるかな
おほそらはかすかにうごき動きをりあふむけに草にねれば冷く
大野辺の秋の日ざしをやや強み寄れる木かげは白樫にして
くろぐろと汽車こそ走れ秋の日のその長き汽車のあとに立つ風
野ずゑゆく汽車のかげのみはるかにて秋の日いまだ暮れずあるかな
   垣間見
誰も見じとひとり真はだかほしいまま秋のま昼を化粧す、をんな
   秋立つ
秋といひわれから声に驚きて窓辺にとほき市街見やるかな
   野にひとり
わが膚に夕日しみ入りしみ入るやさびしさはただ涙となるに
夕日さしきりぎりすなきこほろぎなき百舌鳥もいつしか啼きそめにけり
   晩夏郊外
つら並めつものを覗ひ蛙群れをり夏も終りの沼のくろつち
ひとしきり蛙さわぎて静まればこほろぎはつちになきいでにけり
夏ぞらのくゆりさびしみ見つつあれば雲か風かも湧きそめにけり
   若人の群
身のめぐりいづれさびしき人ならぬなきに怖れて狂ひて遊ぶ
   秋 情
さはやかに高くも雲のかよふかな窓の木梢に寄る風もなく
木犀の匂ふべき日となりにけりをちこち友の住みわびし世に
おほそらに照りつつ渡るうき雲も身にしむとさへさびしきものを
さびしさはあけはなちたる秋の窓にひしと流れ来とほき常磐樹
   夏の月
いや冴えに月の冴ゆるにうちしなえさびしきものとなりにけるかな
かかりせば妻をともなひ来べかりしこよひの野辺の月のいろかな
窓の辺の木ぬれのあを葉かき垂れてほこりぞ見ゆる夏の夜の月
   瞑 目
曇りはてしはるけき空の底ひより雨はやうやく降りそめしかな
   朝寂し
眼ざむるやさやかにそれとわきがたきゆめに疲れし夏のしののめ
   あけくれ
貧しさに妻のこころのおのづから険しくなるを見て居るこころ
貧しさに怒れる妻を見るに耐へかね出づれば街は春曇せり
われと身のさびしきときに眺めやる春の銀座の大通りかな
   われと心を励ませど
はした女もあはれむごときひとみして或時のわれを見るにあらずや
思ひ屈しかへり来ぬれば部屋にひとり吾子あそびゐき涙ながるる
   夏日哀愁
土ぼこりにまみれ疲れて風の畑の木かげに入れば居たり青蛇
魚群るるにほひか青葉風に裂けつつ幹にひえびえ蛇這ひてをり
そこ此処とつちの燃ゆるにかなしみて蛇はも幹によぢ登りけめ
つばくらめ地に燻りてとびみだれ風に光れる樹に蛇は這ひ
しみらしみらにわれの疲労の匂ひ出で汗もかわくに行かぬ青蛇
蛇は早やあを葉がくれのわれの目を見いでて細く身を曲げむとす
ひと噛まぬうすいろの蛇風の日のしなえし幹をはひ上る這ひ上る
   夏冷し
みづからのいのちともなきあだし身に夏の青き葉きらめき光る
水無月の朝ぞら晴れてそよ風ふきゆらぐ木の葉に秋かと驚く
   初めて飛行機を見る
春の雲空かきうづめ光れる日飛行機ひとつかけりゆく見ゆ
プロペラのひびきにまじり聞え居り春の真昼の吾子が泣きごゑ
いとかすけく春の青樹のこずゑ揺れ飛行機は雲に消えゆきにけり
飛行機を見送りはてて立ちあがる身に寂しさの満ちてゐにけり


 ふるさと

   春の歌
菜の花のにほひほのかに身にも浸む二月の日とはなりにけるかな
しとしとと春の雨こそ地には降れ居るとしもなきわがこころかな
こころ怒れば血さへ裂しく身にはうつ寂しいかなやわが皮膚を見よ
たべもののせゐにや指の荒れやうようす青き枝に山椒を摘む
山に栖めば煤はつかねどわがこころつちくれのごと乾きくづるる
峯にのぼり鳥がねきけば春がすみ霞める四方の悲しく光る
松の木の伐られしは杉の木の伐られしよりあはれ深かり春の深山に
鶯よ鶯よとて息ひそめ聞いて居りしがとびさりにけり
まつはるはかすみか松の脂の香か峯のとがりの春日かなしも
汗をさまれば霞つめたく浸みきたる峯の上の午後にとほく海見ゆ
ひそひそと山にわけ入りおのづから高きに出でぬ悲しや春日
春がすみこもれる山に啼く烏を驚かさじとわがこころ熱し
峯の上なる老木の松のひともとの枝のしげみにつどふ春風
わな張りてあたり見かへれば春の山しみらにつちの匂ふなりけり
乾きたる庭にたまたま出でて立てば黄き蝶のまひて来にけり
家出て見ればそらには雲雀やまに蟇春が悲しとひたなきに啼く
闇のなかに動く葉のあり音ぞする窓さへ濡るる春の深夜に
   なまけ者
なまけ者がふと気まぐれに芹つみに出でて嘆きぬあはれ春よと
あはれこは野蒜なりけりあをいろのほそながき草の野蒜なりけり
   不孝の児を持てる老人に暫しの安息もなし
春あさき田じりに出でて野芹つむ母のこころに休ひのあれ
余念なきさまには見ゆれ頬かむり母が芹つむきさらぎの野や
   瀬戸内海
瀬戸の海や浪もろともにくろぐろとい群れてくだる春の大魚
瀬戸はいづれも瀬となりたてるひき汐の午後なり六十五噸の小蒸汽船
   明石人丸神社
をろがむや御はしに散れるひとすぢの松の落葉もかりそめならず
ありし日はひとしほ松のしげり葉の繁くやありけむ君をしぞおもふ
袖かざし君が見にけむ島山にけふ初夏の日ぞけぶりたる(淡路島見ゆ)
   嵯峨清涼寺
はつ夏の雲のひかりや松風や嵯峨の清涼寺にけふ詣でけり
罌粟の実のまろく青きがならび居り清涼寺よりわが出で来れば
清涼寺の築地くづれし裏門を出づれば嵯峨は麦うちしきる
   遠江弁天島
浜つづき夏のおほそらはるかにて立つしら浪のけぶりたるかな
   日向国耳川
あたたかき冬の朝かなうす板のほそ長き舟に耳川くだる
   美々津の磯
老人よ楽しからずや海は青しやよ老人よ海は青し青し
岩をおこし松をこぐとす、老人のそのうしろ影その青き松
   福岡医科大学
窓おほき医科大学の教室に松のかげこそいとさはにさせ
松原は海にかも似むそのかげの医科大学の赤き煙筒
   おもひで二三首
はりつめし力をふといま感覚のうへに知る、おもひでのわびしさよ
キスを否める時そむけし癖の横顔の冷さのいま身には沁みぬれ
わが重き帽子をとれ服をぬげ、思ひ出のなかの悲しき女よ
   ゆく秋
菜を洗ふ話なれども夕日のなか若きをなごの声のよろしも
味気なき夕なるかな眼の前の膳の酒さへ炉の焚火さへ
山に風来ぬ山ぞ鳴る、冬の午後の日うす赤きなかに
膝にねむれる児猫のこころにも触れぬやう心かなしき冬の日だまり
窓の前の林に風の吹きすさびけふも啼き啼きすぎし小鳥よ
軒端なるちひさき山も鹿の子まだら紅葉となりて冬の来にけり
   心あぶなし
やがてして耳のかゆきに耳をかくわが身をつつむ春の光線
身体のうち眼の玉ばかり何として斯く重きやらむ蟇なく春日
指見れば指ばかり眼とづれば眼ばかり、春のひなたに蝶が群れとぶ
さまざまに指を動かし眼とぢ眼をあけあやしきものにわれを思へり
くちにふくめば疑ひもなきこのうまさやめられぬ酒の悲しかりけり
どうせ斯うなりア棟木を外せえんやらさ柱ひきぬけそれえんやらさ
藍甕に顔をひたしてしたしたに滴る藍を見ばやとぞ思ふ


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