死か芸術か

                    若山牧水

第5歌集
大正1年9月23日,東雲堂書店発行。
四六判。定価70銭。



 本書の初めに

 本書には昨年の秋に出版した「路上」以後の作を収めた。昨年九月から本年七月まで、即ち我が忘れ難い明治年号の最終一年間に成つた歌である。

 明治四十五年七月二十一日に惶しく原稿をまとめて書肆に渡し、翌二十二日に私は東京を去つてこの郷里に帰つて来た。父危篤の急電に接したがためであつた。それで、本書の体裁などもあらましのことを相談しておいたきり、あとは校正まで東雲堂の西村辰五郎君を煩はした。原稿は自身で認めた。配列の順序は例によつて歌の出来た時の順序に従うた。一首々々の上にまだ鮮かな記憶が存してゐる。

 「昨年の春出版した「別離」以後の作約五百首をあつめてこの一冊を編んだ。昨一年間に於ける我が生活の陰影である。透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動揺と朦朧とを投げて居る。あてのない悔恨は、これら自身の作品に対する時、ことに烈しく著者の心を刺す。我等、真に生きざる可からざるをまた繰返して思ふ。」と「路上」の初めに書いて居る。その悔恨と苦痛とをばそのまままた本書の上にも推し及ぼさなくてはならぬことを心から悲しく思ふ。
 ことに、これから数年間、この零落し果てた山おくの家にこのまま留つて、憐れな老父母を見送らうと決心した今日、いままで我がままを極めてゐた自身の生活を見返る時、更に多少の感慨の動くを禁じ得ないのである。この「死か芸術か」を界にして、私の生活はどう移つて行くであらう。これからの我が背景を成すべきこの郷里は山と山との峡間五六里の間に渉つて戸数僅かに三百に満たぬ村である。其処から一歩も出ることなしに暮して行くつもりで居る。

 一昨夜来の大雨で、我が家のすぐ下の渓は一丈余も水が増した。渓から直ぐ削つたやうに聳え立つた向うの山の中腹には矢張りこの雨のために急に三つ四つの真白な小さな滝が懸つた。峯には深い雲が白く澱んで居る。
 この頃漸くこの二階の部屋まで上つて来られるやうになつた父は、この小さな滝の一つを指して、あの小市滝にあの位ゐ水が落るやうになつたから、もうこの雨もあがる、と独りごとのやうに私の側で云つて居る。

 明治大帝御葬儀の話、乃木将軍殉死の噂も何だかよその世界に起つたことのやうに遠く遠く耳に響く。実際この村に於てはそれらの事よりこの雨で栗が何升余計に拾へたこと、積んでおいた材木が何本流れたことの方が遥かに重大な事件であるのだ。

   大正元年九月十八日
                 日向の国尾鈴山の北麓にて
                               若山牧水



 手術刀

蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街を我が行く
あるかなき思ひにすがりさびしめる深夜のわれと青夏虫と
わが家に三いろふたいろ咲きたりし夏くさの花も散り終りけり
かなしくも痛みそめたるものおもひ守りて一日もの喰べず居り
野にひとり我が居るゆゑかこのゆふべ木木のさびしく見えわたるかな
根を絶えて浮草のはなうすいろに咲けるを摘めばなみだ落ちぬれ
粟刈れるとほき姿のさびしきにむかひて岡にあを草を藉く
独り居ればほのかに地のにほふなり衣服ぬぎすてて森に寝ねて居む
おほいなる青の朴の葉ひと葉持ち林出づればわが身さびしも
いかに悲しく秋の木の葉の散ることぞ髪さへ痛め、いのち守らむ
わが痛めるいのちの端に触れ触れて秋の木の葉の散りそめにけり
なにに然かおびゆるものぞ我がいのち身をかためたるすがた寂しも
いづくやらむこころのすみのもの思ふかたちは見ゆれ痛むともなし
かもめかもめ青海を行く一羽の鳥そのすがたおもひ吸ふ煙草かな
わが手より松の小枝にとびうつる猫のすがたのさびしきたそがれ
ただひとつ風にうかびてわが庭に秋の蜻蛉のながれ来にけり
しのびかに遊女が飼へるすず虫を殺してひとりかへる朝明け
地にかへる落葉のごとくねむりたるかなしき床に朝の月さす
鬱々とくるわより帰りひとを見ず朝の林に葉をわけて入る
わが髪にまみれて蟻の這ふことも林は秋のうらさびしけれ
あたたかき身のうつり香を悪みつつ秋の青草噛めば苦かり
秋花の茎を噛み切る歯のさきのつめたさよ、朝のこのうつり香よ
秋の市街しづかに赤く日を浴びぬやがてなつかしきわが夜は来む
高窓の赤き夕日に照らされて夜を待つわれら秋の夜を待つ
秋の街にゆふべ灯かげのともることいかなれば斯く身にし沁むらむ
なにやらむ思ひあがりて眼も見えず秋の入日の街をいそぎぬ
酒無しにけふは暮るるか二階よりあふげば空を行く烏あり
蛍のごとわが感情のふわふわと移るすがたがふつと眼に見ゆ
我がうしろ影ひくごとし街を過ぎひとり入りゆく秋植物園
植物園の秋の落葉のわびしさよめづらしくわが静かなること
ふるさとの南の国の植物が見ゆるぞよ秋の温室の戸に
うなだれて歩むまじいぞ桜落葉うす日にひかりはらはらと散る
あぢきなく家路のかたへ向きかふる夜霧の街のわがすがたかな
其処に在り彼処にみえしわがすがたさびしや夜の街に霧降る
ねがひしはこの静けさか今朝のわがこころのすがた落葉に似たり
秋かぜや日本の国の稲の穂の酒のあぢはひ日にまさり来れ
心のうへ狭霧みな散れあきらかに秋の日光に親しましめよ
眼をあげよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ
それ見よさびしき膝の濡るるものさかづきを手になにを思ふぞ
見も知らぬをんなのそばにひと夜来てねむらむとするこころの明るみ
友を見てかなしきこころ潮しきたる、見まはせど酒に代ふるものもなき
あはれまこと雨にありけりまたしても降るか、さきほど星の見えしに
動物園のけものの匂ひするなかを歩むわが背の秋の日かげよ
身も世もなく児をかはゆがる親猿の真赤きつらに石投げつけむ
秋の入日、猿がわらへばわれ笑ふ、となりの知らぬ人もわらへる
秋の日の動物園を去らむとしかろき眩暈をおぼえぬるかな
はつとして歩みをとどめなにやらむ払ふがごとく癖ぞ袖振る
停車場に入りゆくときの静かなるこころよ眼にうつる人のなつかし
好むとなき煙草を手づから買ふことがうれしくもあり、停車場の店に
袂よりたばこ取うでて火をつくるときのこころをなつかしと思ふ
わびしやなまたも夜つゆの軒したにかへりて雨戸たたかねばならず
帰りきてまちを手さぐり灯をともすその灯をともす、うれしや独り
眼の見えぬ夜の蝿ひとつわがそばにつきゐて離れず、恐しくなりぬ
ひとり寝の夜のねまきにかふるとてほそき帯をばわが結ぶかな
ひとりねの枕にひたひ押しあてていのりに似たるよろこびを覚ゆ
わが寝ざめ、こころかなしくかきくもりいためる蔭にこほろぎの啼く
常磐樹の蔭には行かじ、秋の地のその樹のかげのなにぞ憎きや
眼馴れたるこの樹四時に落葉せず黒き実ぞなる、秋風立てば
かなしくも我を忘れてよろこぶや見よ野分こそ樹に流れたれ
いつとなく秋のすがたにうつりゆく野の樹々を見よ、静かなれこころ
飛べば蜻蛉のかげもさやかに地に落つ、秋は生くこと悲しかりける
秋の地に花咲くことはなにものの虚偽ぞことごとく踏み葬るべし
なに恨むこころぞ夕日血のごとしわが眼すさまじく野の秋を見る
手を切れ、双脚を切れ、野のつちに投げ棄てておけ、秋と親しまむ
秋となり萩はな咲けばおどろきてさしぐむこころ、見るにしのびず
われとわがを指吸ひつつ身もほそく秋に親しむ野の独りかな
草原は夕陽深し、帽ぬげば髪にも青きいなご飛びきたる
歩きながら喰はむと買ひし梨ひとつ手に持ちながら入りぬ林に
眺め居ればわが眼はつちとなりにけり秋の木の影落ちたる地に
黒き虫くろき畑のつちのかげに昼啼いて居りほそくないて居り
森よさらば、街へいそがむくろ髪のなびける床をおもふに耐へねば
見てあればこころ痛みてたへがたし深夜あやしき汝がすがたかな
くれなゐのりぼんをつけて夜の挨拶する子を見れば悲しとぞおもふ
昼は野の青き日に触れ、夜は燃ゆるひとの身にふれ、秋は悲しき


 落葉と自殺

手探ぐれど手には取られず、眼開けば消えて影無し、さびしあな寂し
自殺といふを夢みてありき、かなしくも浮草のごとく生きたりしかな
わが眼こそ愁ひの巣なれ、晴れわたる秋の日かげにさびしく瞑づる
夜も昼も愁ふればとてなぞは斯く眸も暗く濁りはてけむ
窓ひらけばぱつと片頬に日があたるなつかしいかな秋もなかばなり
あきらかに秋は潮し来ぬ、にごりたるわれのいのちの血の新たなり
枯草のわが身にあはれ血のごとく、夜深き市街、雨落ちきたる
雨、雨、雨、まこと思ひに労れゐき、よくぞ降り来し、あはれ闇を打つ
かなしげに霧に月照り、娼婦等の群れたる街のわがうしろ影
月の夜の街の夜霧に鳥のごとくさびしき姿、行くか何処へ
秋更けぬ、落葉に似たるわが愛のかなしき瞳ぬれてかがやく
窓ひとつ北にひらきてうす暗きこの部屋の好さよ、友が椅子に倚る
あてもなく見知らぬ街路に歩み入り、とある二階に夕飯を食ふ
わづかなる窓のあひさにうす曇るゆふべの空を見つつ箸取る
もの蔭に眠るがごとく郊外の墓地にひと知れずけふも来りぬ
瞑ぢよとてかなしく瞼撫づるごと墓場の樹樹の葉の散りきたる
わがめぐり墓場のつちに散りしける落葉はなにの言葉なるらむ
ひろひ来し墓地の落葉の散れる部屋、灯かげに独りねころびて居る
停車場の黒き柱に身をもたせ汝が行く国の秋をおもふかな(五首、友を送りて)
ふり返るなかれといのり人ごみのうしろ姿をじつと見送る
どよめける旅客のなかにただひとり落葉のごとくまじりし汝よ
東京を人目しのびてのがれ出づる汝がうしろ影、われも然かせむ
別れ来て銀座の街に秋の木木かげ濃き午後を行けば靴鳴る
秋、飛沫、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ
まだ踏まぬ国国恋し、白浪の岬に秋の更けてゆくらむ
秋かぜの紀伊の熊野にわけ入らむ、鳥羽の港に碇をあげむ
法隆寺のまへの梨畑、梨の実をぬすみしわかき旅人なりき
大和の国耳なし山の片かげの彼の寺の扉をたたかばや此の手
   十月、十一月、相模の国をそこここと旅しぬ、歌三十一首。
茶の花を摘めばちひさき黒蟻の蕋にひそめり、しみじみ見て棄つ
わが身は地、畑のくろつち、冬の日の茶の花のなどしたしいかなや
秋の相模に畑うつひとよ、汝がそばにわれ草抜かむ、旅のひと日なり
歩み居れば森もいつしか尽きにけりいざ帰らばやいざ帰らばや
松ばやし暴風雨に仆れし木をさがす相模の友の背丈のたかさよ
相模の秋おち葉する日の友が妻わすられぬ子に似てうつくしき
縁がはの君が真紅のすりつぱをふところにして去なむとおもふ
ほどもなく動きいだせる夜の汽車の片すみにわれ静かに眼をとづ
膝に組む指にいのちをゆだねおきて眼をこそ瞑づれ秋の夜汽車に
あをあをと海のかたへにうねる浪、岬の森をわが独り過ぐ
浪、浪、浪、沖に居る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ
地よりいま生れしに似る、あを海にむかひて語るふたつ三つの言葉
またもわれ旅人となり、けふ此処のみさきをぞ過ぐ、可愛しきは浪
うねり寄る浪に見入れば、ゆらゆらと浪のすがたし、こころ悲しむ
見てあれば浪のそこひに小石揺れ青き魚揺れ、わが巌うごく
深きより悲哀こころにうかび出づ、見よ海のうへに鳥啼いて居り
沖津辺に青浪うねる、浪のかげにわが暗きこころ行きて巣くへる
海は死せでありけり、青き浪ぞ立つ、いたましいかな砂にわが居る
わがめぐり濡れし砂より這ひ出づる蟹あまたあり、海に日沈む
ただひとり知らぬ市街に降り立ちぬ、停車場前に海あり、浪寄る
鳶いろのひとみの児等のゆきかへる日本の港にわれも旅人
黒いろのあやしき鳥よ、やよ烏ここの港に数おほき烏
行くにあらず帰るにあらぬ旅人の頬に港の浪蒼く映ゆ
海にひとつ帆を上げしあり、浪より低し、悲しや夕陽血に似て滴る
朱のいろの浪かなしけれ、落日に眼瞑づればおつる涙のあつさ
港の岸ちひさき旗亭、船を見て林檎噛み居れば煤煙落ちきたる
港には浪こそうねれ、夕陽は浪より椅子のわが顔に映ゆ
木の花のごとく匂ひて明けてゆく夜はうらがなし、はな札を切る
横浜の波止場の端に烏居り、我居り、烏われを逃れず
冬の日の砂丘の蔭に砂を掘る、さびしき記憶あらはるるままに
浪に酔ひしかほろろほろろに我がこころすすり泣きして海辺を去らず
たまたまに朝早く起き湯など浴び独り坐りてむく林檎かな
庭の冬樹のはだへにあたる日のいろと、朝林檎をもとむるこころと
掌のうへの林檎の重み、あるとなき朝のなやみに瞑ぢたる瞳
見よあれ、うれしげに手にも持つことか今朝の林檎のなどてや斯からむ
林檎の真白き肉にいとちさきナイフをあてぬ、思ひは淋し
林檎林檎さびしき人のすむ部屋にやるせなげにも置かれし林檎
おとろへし生命の酸味のひややかに澄む朝なり、手にとる林檎
冬の陽のあたる片頬にひそやかにさしそへてみぬこの紅き実を
なにやらむさびしき笑ひ浮きいづる片頬にあてぬつめたき木の実
うるはしき冬にしあるかな独りさびしくこもれる部屋にけふも夕陽す
はらはらと降り来てやみぬ薄暗き窓辺の樫の葉に残る雪
はらはらに雪はみだれつうす黒き樫の葉は揺れ我が窓暗し
糸のごとくけむりのごとく衰へしわれの生命にふるへて、雪降る
雪ぞ降るわれのいのちの瞑ぢし眼のかすかにひらき、痛み、雪降る
木に倚れどその木のこころと我がこころと合ふこともなし、さびしき森かな
眼のまへに散りし木の葉に惶しくもの言はむとし涙こぼれぬ
森のなかにちさき畑あり、夕日さす、麦の青き芽いたましきかな
地よ感謝す、汝とし居れば我がこころしづかに燃えて指も触れ難し
地よ汝に対ひてわれの坐りしを記憶せよ今日さびしき日なりき
海の岸にうづくまるもこの森に来て木の根に居るもわが眼開かず
わが手足われの生命のそのままに今日こそ動け、死なむとぞ思ふ
あはれ広き森にしあるかな、眼をとほくはなちてはまた瞑ぢて開かず
落葉せる林に入ればいらいらと皮膚こそ痛め、何に怖づるぞ
死は見ゆれど手には取られず、をちかたに浪のごとくに輝きてあり
この掌の土とわれのいのちの滅ぶこと、いづれなつかしいづれ悲しき
木の根に落葉かき藉き手をあつる我が広き額のなつかしきかな
出づるな森を、出づるな森を、死せるごときその顔を保て、出づるな森を
あはれいま煙のごとく燃えいづる朽ちし生命ぞ、触るるなおち葉
斯く居る間に手足の爪の尺と延びよ、わが皮膚森の朽ちし葉となれ
冬の陽は煙に似たり森も似たり、さびしきわれのうしろ影かな
むぐらもちわが爪先の落葉のかげの地掘り、わがいのち燃ゆ
土竜来よ、地にかくれて冬の陽のけぶれるを見ざるべし、出で来よ土竜
その枝折りこの枝を折り、一葉無き冬がれの森に独りあそべり
   信濃より甲斐へ旅せし前後の歌、十六首。
山に入る旅人の背のいかばかりさびしかるべきおもへわが友
おなじくば行くべきかたもさはならむなにとて山に急ぐこころぞ
問ふなかれいまはみづからえもわかずひとすぢにただ山の恋しき
友よいざ袂わかたむあはれ見よ行かでやむべきこのさびしさか
さびしさを恋ふるこころに埋れて身にこともなし、山へ急がむ
山恋ふるさびしきこころなにものにめぐりあひけむ、涙ながるる
ひとすぢにひとを見じとて思ひ立つ旅にしあれば消息もすな
なにゆゑに旅に出づるや、なにゆゑに旅に出づるや、何故に旅に
山に入り雪のなかなる朴の樹に落葉松になにとものを言ふべき
雪ふかき峡に埋れて木の根なす孤独に居らむ、陽も照るなかれ
ただひともと伐り残されし種子松の喬くしげれり春となる山
枝もたわわにつもりて春の雪晴れぬ一夜やどりし宿の裏の松に
ただ一羽山に鳥の啼くことも幹にわが影のうつるもさびしや
雪のこる諏訪山越えて甲斐の国のさびしき旅に見し桜かな
をちこちに山桜咲けりわが旅の終らむとする甲斐の山辺に
見わたせば四方の山辺の雲深み甲斐は曇れり山ざくら咲く

足袋ぬぎてわか草ふめばあぢきなやなにに媚びむとするこころぞも
木木はみなそびえて空に芽をぞ吹くかなしみて居れば踏む草もなし
折しもあれ春のゆふ日の沈むとき樅の木立のなかに居りにき
帰らむと木かげ出づれば、となりの樹、かなしや藤の咲きさがりたる
この額かなしき雨よ濡らせかしものを思ふとなにも知らぬげ
樅のかげ雨もやみにき立ちいでむ、おお蓑虫の濡れてさがれる
さびしといふ我等がこころむきむきに燃えわたりつつ夏となりにけり
はつ夏のときは樹の蔭の地にまろび帽ぬげばいや恋しさの燃ゆ
植物園の松の花さへ咲くものを離れてひとり棲むよみやこに
あるとなきうすきみどりの木の芽さへわが悲しみとなるも君ゆゑ
やるせなきおもひの歌となりもせで植物園に暮るる春の日
地に寝てふと見まはせば春の木のさびしくも芽をふけるものかな
葉を茂みしだれて地に影の濃きこの樫の樹に夏の来にけり
はつ夏の常磐樹のかげのなつかしやこの蔭出でじ日の照るものを
楠の蔭の暗きを憎み樫のかげのくらきを愛でつかなしみて居る
身にちかき木の根木の根をながめやりつめたき春の地にまろび居り
立ち出でつとほく離れて見るときのかの樫の樹の春はさびしき
   四月十三日午前九時、石川啄木君死す。
初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり
午前九時やや晴れそむるはつ夏のくもれる朝に眼を瞑ぢてけり
君が娘は庭のかたへの八重桜散りしを拾ひうつつとも無し
病みそめて今年も春はさくら咲きながめつつ君の死にゆきにけり

酢のごとき入日に浮む麦の穂の穂さきかなしや摘まむと思ふ
しとしとに入日やどせる青麦のあをき穂ずゑを揺すりてもみる
わが蒼き片頬にあたる血のごときいろの入日を貪り吸ふも
背のかたに沈む入日に染められて袂もおもく野を帰るなり
野は入日、いばらのかげにありやなし水もながれて我が帰るなり
入日あかき野なかの村にひと群れて家つくり居り唄の声悲し
夕陽揺り海のうねればうら悲し、わが立つ崎も揺れて沈まむ(五首鎌倉にて)
眼のまへを巨いなる浪あをあをとうねりてゆきぬ春のゆふぐれ
眼に映る陸無し、岬浪にゆれわがかなしみぞひとりたなびく
わだつみの浪の一ひら掌にもちて死なむとぞ思ふ夕陽のまへに
並み立てる岬のあひにゆらゆらと海のゆれ居てゆふぐれとなる
いたづらに窓に青樹の葉のみ揺れわれらが逢ふ日さびしくもあるかな


 かなしき岬

うら若き越後生れのおいらんの冷たき肌を愛づる朝かな
笑みながらじつと見つむるまなざしに青みて夏の朝は来にけり
おいらんのなかばねむりて書くふみに青くもさせる朝の太陽
なにやらむ妹女郎をたしなむる姉の女郎に朝はさびしき
摘みては投げつみては顔に投げうちぬおいらんの部屋の朝の草花
お女郎屋の物干台にただひとり夏の朝を見にのぼるかな
初夏の朝の廊下のつめたきにまろびて起きぬ若きおいらん
とられたるままのこの手のうす青さ別れともなきこのあしたかな
手もとらず夏の朝の階子段うつとりとして降りてこしかな
桐の花うすく汗ばみ日ものぼりわがきぬぎぬのときとなりゆく
いつ知らずくるわの恋のあはれさの身にやどれるにしみじみとする
はつ夏の街の隅なる停車場のほの冷たさを慕ひ入るかな
われ人もおなじ心のさびしさか朝青みゆく夏の停車場
しみじみと遠き辺土のたび人のさびしき眼して停車場に入る
朝な朝な停車場に来て新聞紙買ふ男居りて夏となる街
水無月の青く明けゆく停車場に少女にも似て動く機関車
月の夜の青色の花揺ぐごと人びとの顔浮ける停車場
停車場のあまき煤煙のまひ来るレストラントの窓の焼肉
午前九時、起きも出づればこの市街はやも五月の雲にくもれる
青じめり五月の雲にしびれたる市街の朝の若人の眼よ
青いろの酒をしぞ思ふ朝曇る夏の銀座の窓をしぞ思ふ
   五月の末、相模国三浦半島の三崎に遊べり、歌百十一首。
あさなあさな午前は曇るならひとて今日も悲しく海をおもへり
海恋ふる心頭痛に変りゆき午前は曇る初夏の街
恋ひこがれし海にゆくとて買ふシャボンわが蒼き掌に匂ふ朝の街
あらさびしやわが背のかたに少女居りほほ笑める如し海へのがれむ
青色の酒売る店も東京も見すてて海へいそぐ初夏
明日ゆかむ海思ひをればゆきずりの街の少女もかなしみとなる
わが渡る曇れる海にうすうすと青海月なしうつれる太陽
海縁の五月の雲も、わが汽船の濡れしへさきのうらがなしけれ
曇り日の汽船の機関に石炭をつぐ萌黄服、海はわびしき
曇り日やきらりきらりと櫓の光りわがをち方を漕ぎゆく小舟
曇り日の海のかたへをしのびやかにわが古汽船浪ぬひてゆく
わが渡る五号の海に魚海月、さびしく群れてさざ波もなし
古汽船のあぶらの匂ひなつかしく身に浸み来て午後の海渡る
わが古汽船雲のかげりの浪をわけさびしき海をさすよ岬へ
雲深き岬へわたる古汽船のあとより起る夏の青浪
夏あさき岬のはなに立つ浪のなつかしいかなわが汽船を揺る
うら若き肺病やみとこもりゐる船室のまどにうつる夏浪
雲晴るれば海はにはかに紺碧の浪立ちわたり揺るるわがふね
葉の如く浪に揺らるる古汽船にかなしいかなやわが濡れて立つ
青葉の岬、ながきなぎさを打ちぬらし雨の走ればゆるるわが汽船
うす青く雨に尖れる彼の岬へうち寄る浪も悲しかるらむ
漕ぎよせし小さきはしけのゆらゆらと揺れゐて淋しこの古港
浪の穂にかすかにやどる赤きいろ夏の夕日のなやましきかな
かなしげに浪かきわけてわが汽船入り入日の港死せるが如し
皐月の雲のかげりにうずき藍をひきうすき藍ひき伊豆が崎が見ゆ
入日さす岬のはなの汐ひきて青き瀬となりわが瞳いためり
ゆふ浪や五月の海の道化者やどかりの子がせつせとはたらく
死にゆきし人のごとくもなつかしやこの東明の岬の藍色
あかあかと西日にうかび安房が崎相模の海に近く寄るなり
少女子の青パラソルよりなほひろき麦藁帽を着て海に入る
太陽の正面の岬、きずつきて血のたる指し貝ひろふかな
潮引きて崎のするどくなりまさり朝あをあをと松の風吹く
雲のかげ入日の海はむらさきの酒のもたひとなりてゆらげる
岬より入日にむかひうすうすと青色の灯をあぐる灯台
あをやかに双眼鏡にうつり出で五月の沖に魚釣る児等よ
沖辺なる五月の潮うら悲し双眼鏡に泡立ちて流る
なつかしく午後二時ぞうつ、風呂やわかむ、この窓掛にゆるる海の日
灯台の青いろの灯もともりきぬ啼く音をやめよ浪間の千鳥
ゆふされほ沖のかたより晴れかかる五月の雲よ、漕ぎゆく舟よ
うす青き海月を追ひて海ふかく沈まばや、岬、雲に入日す
朝なあさな白雲湧きて初夏の岬の森に啼く鳥もなし
落日見に浪に死ぬともこの崎のきはまるはなに行かばや、落日
月の出の巌の暗きに時をおき浪白く立ち千鳥啼くなり
浪に浮き油のしづく燃ゆる如岬の街に入日するなり
岬越え不思議の邦にくだるごと湾のすみの灯の街に入る
椎の若葉や、崎の港の小学の女教師が弾くハンドオルガン
岬なる古き港にかつを釣る石油発動船の群るる短夜
月ひくく空にうかべり、昼なれば浪にうつらず、行くよわが舟
わが眠る崎の港をうす青き油絵具に染めて雨ふる
みな忘れよ崎のみなとのこのひと夜五月の雨がふりそよぐなり
旅人のからだもいつか海となり五月の雨が降るよ港に
ほろびゆくこの初夏のあはれさのしばしはとまれ崎の港に
ゆく春の海にな浮きそ浪ぞ立つかなしき島よとく流れ去れ
港はや青むらききの夏の魚鰹ばかりを売る街となる
ゆたゆたに湾のくまに潮の満ち入日かなしく崎に浮べり
あを海の岬のはなに立つ浪の消しがたくして夏となりにけり
汐ひけば白くあらはれやがて消ゆ月夜の家に岩見てあれば
やよ海はあをき月夜となるものをわが寝る家に引くな木の戸を
かなしげに潮のなかをかけめぐる青の小魚にさす五月の陽
金ペンのさきのとがりの鈍りゆくころともなりて旅のわびしき
みだれたち冷たく肌に散る飛沫詩人は海はなどてさびしき
うもれたるわが罪悪のかたかげを慕ひて青くよるやこの浪
いまぞ今日、蕾ながらに枯れゆきしわが若き日を海に沈めむ
われみずから鉛のあをききりくちの寂しいかなや若き日を切る
あはれその鉛の蒼き切り屑の散りて残らばいかにとかせむ
昼の海にうかべる月をかきくだき真青き鰭となりて沈まむ
身揺らば青き岬もゆれやせむ昼の月浮くさびしき海に
わが立てる岬をつつみうろくづもともに嘆かむさびしき日のため
雲一片二ひら三ひら浮かずもあれ岬に立ちてわがなげく日に
初夏の雲はただちにわが眉より海に浮ける如しさびしき岬
さびしさは雲にかくれてあらはれぬかの太陽も海に似たらむ
海よ揺れよ詩人のいのちは汝よりつねに鮮かに悲しみて居り
捉りがたき苦痛に蒼くさびはてし我がこの額をとく砕け浪
浪をもて衣をつくれけがれなくあえかに今ぞ眼をつぶりてむ
越えくれば岬かなしくきはまりて海となりまた遠くとほく岬見ゆ
あをあをと雲にかげれる彼の岬このみさきいざとびて渡らむ
いたましき色情狂とならむより浪をくらひて死なむとぞ思ふ
声高く歌ひ終れば眼のまへの世界は蒼し死ぬにかあらむ
海よ悲しあをき木の実を裂くごとく悔はわが身につねに新らし
ゆらゆらと地震こそわたれ月の夜の沖辺に青く死にし岬に
ゆらゆらと地震のわたれば身をくづし戸外の山を見やるおいらん
死んだよに睡る遊女の枕がみ月も蒼みて梟啼くなり
耳すませばまこと梟にありにけりさびしき鳥をきけるものかな
この寝顔開きし小窓に真青に迫りて山が明けそむるなり
海わたる鳥のひとみのさびしさか寝ざめもの読む若きおいらん
この遊女かならず夭く死ぬべけむそち向のかほの夏の朝かげ
あたらしきうすむらさきのこの紙幣夏のみなとの朝の遊女屋
わが廿八歳のさびしき五月終るころよべもこよひも崎は地震する
岬なるふるき港のついたちの朝の赤飯宿屋の娘
水無月の崎のみなとの午前九時赤き切手を買ふよ旅びと
切りすてて海に投げ入れよ入日さす岬のはなに古き墓地あり
崎の港の船の問屋のこの少女の眼の大きさよそのすずしさよ
鰹売ると月夜の海の魚の如人こそさわげ崎の月夜に
さらさらと蒼き月夜の浪ぞ寄る浪うちぎはに積まれし死魚に
月の夜の湾のすみの砂原に声のみの人の群れて死魚売る
海より這ひも出で来て声青く売るにやあらむ彼等は死魚を
あんまりに死魚売る声のかしましきに月夜のみなとわれも寝られず
魚釣れる岬のひとのあの唄は魚の言葉ならむ魚の唄ならむ
ひかり無き楕円の月の海に出づる午前一時のわれのあをさよ
月蒼く海のはてより出でむとす死魚売る声をしばしとどめよ
夜をこめて崎の港に入り来る船は死魚積む船ならぬなし
月の夜の岬に群れて死魚積める帆前船をば待てる商人
死魚積みてあまたの船の入り来れば月夜ゆるがせ港どよめく
みどり児の死にゆく如く月あをき崎の港を出でてゆく船
月の夜の海のなかばのうろくづを釣り得し如くあをき帆をあぐ
ただひとり貝拾ひをれば午後の雲うすうす岬過ぎてゆくなり
鶏(底本では「奚」+「隹」)啼ける磯辺の午後のひき汐やなまの卵をすすり貝とる
ひき汐を悲しむ青きやどかりのあしの小きざみ真蒼き太陽
洞の暗きに貝とりつかれ見かへれば空にさびしくあがる青浪
崎に立ち海のかなしきふくらみに岩を砕きて投げつくるかな
誰となきうらめしき肌刺すごとくうす青き蟹を追ひめぐるかな
真裸体に青浪の中にもまれ来て死にしが如し酒を飲みてむ

夏となり何一つせぬあけくれのわれに規則のごとく歯の痛む
黒いろの虫のやうなる商人がわが部屋に来てさいそくをする
うす青き夏の木の果を噛むごとくとしの三十路に入るがうれしき
まづしくて蚊帳なき家にみつふたつ蚊のなき出でぬ、添ひ臥をする
かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
この熱い朝湯よ汗は出てしまへ青の木の葉の如くなりてむ
かへるさや酒の飲みたくなりゆくをじつとはぐくみ居るよ電車に
朝さすや買うてかへさにしほれたる夏草の花を一りんざしへ
皿、煙管、ソース、お茶などときどきに買ひあつめ来て部屋を作れる
わがくせのながいかはやも何とやらたのしみとなり、為す事もなし
忘れ居し一りんざしの夏花にしんみりとする午後のひとりよ
朝の飯すごすまじいぞこの心しんみりとゐて筆とりてまし
わが好きの眼とづるに似し心地今日もふらふら芝居見にゆく
指先に拭けばなみだにほんのりと汗もまじりて夏はわびしき
夏の日の芝居の笛のかなしさよはやく夜となれ曇り日となれ
友はみな兄の如くも思はれて甘えまほしき六月となる
水無月や木木のみづ葉もくもり日もあをやかにして友の恋しき
六月末、多摩川の上流なる御嶽山に登りぬ、歌八首。
鉄道の終点駅の渓あひの杉のしげみにたてる旅篭屋
あをやかに山をうづむる若杉のふもとにほそき水無月の川
多摩川のながれのかみにそへる路麦藁帽のおもき曇り日
頬につたふ涙ぬぐはぬくせなりし古恋人をおもふ水上
揺るるとなく青の葉ずゑのゆれて居る渓の杉の樹見つつ山越ゆ
ふるへ居る真青の木の葉つみとりて瞼にあつる、山はさびしも
おく山の木かげの巌にかかりたるちひさき滝を見つつ悲しき
山禰宜の峰の上の家のあさゆふのさびしき飯を三日食みにけり

夏の部屋、うつとりと絵本かさねたる膝のほとりの朝のなやみよ
なかなかに絵を見ることもこの朝のおちゐぬむねにかなしかりけり
死にゆきしひとのゑがける海の絵の青き絵具に夏のひかれる
けふも晴るるか暗きを慕ふわがこころけふも燃ゆるか葉月の朝空
夏はいまさかりなるべし、とある日の明けゆくそらのなつかしきかな
やはらかき白き毛布に寝にもゆく昼のなやみか仏蘭西へ行く(山本君を送る)
巨いなる蜂わが汗の香をかぎて身をめぐり居り啼声さびし
わが薄き呼吸も負債におもはれて朝は悲しやダーリアの花
うつとりとダリアの花の咲きて居り、ひとのなやみを知るや知らずや
肺もいまあはき労れに蒼むめりダリアの園の夏の朝の日
とほり雨朝のダリアの園に降り青蛙などなきいでにけり
とほり雨過ぎてダリアの園に照る葉月の朝の日のいろぞ憂き
夏の樹にひかりのごとく鳥ぞ啼く呼吸あるものは死ねよとぞ啼く
(以下二首、初版になし。再版以後右の「夏の樹」の歌の前に追加)
夏深き地のなやみか誘惑か、朝日かなしも、ダーリアの咲く
夏の園花に見入りてつかれたる瞳のまへを朝の蝶まふ


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