弘道館学則

                      徳川斉昭

一、凡そ学館に出入する者は、当に親製の記文を熟読し、審に深意の在る所を知るべし。神道聖学の其の致を一にする、忠孝の其の本を二にせざる、文武の岐るべからざる、学問事業の其の效を殊にすべからざる、皆宜しく記文の意を奉承し、黽勉服膺すべし。

一、神道聖学の義は、記文に之を論ずること備はれり。宝祚の窮りなく、君臣父子の大倫天地と与にして易らざるは、此れ乃ち天地の大道、大化の詔に称する所の惟神なる者にして、天祖の極を立てたまひし所以なり。而して唐虞三代の治教は、天孫の資りて以て皇猷を賛けたまひし所にして、亦た人倫を明にする所以に非ざるはなし。其の致は則ち一なり。学者宜しく神を敬ひ儒を崇び、以て斯の意を推し広め、忠孝の大訓を遵奉すべし。私見を偏執し、妄に異議を生ずること勿れ。

一、古へに六国史の撰有り。而して古事記を最も旧しと為す。書紀等は之に次ぐ。其の載する所の天祖神器を伝へたまひし詔勅は、詳明にして万世の宝訓たり。国史の外、載籍尚ほ存する者有り。亦た以て稽古に資すべし。律令は則ち経世の大典にして、格式も亦た考拠に備ふべし。東照宮及び威義二公の言行法令は、則ち当今の規則にして、而して義公の修史の大義以て明なり。其の他古今の群書旁く羅ねて以て智識を広むるは、皆な温故知新の事なり。学者之を忽にすること勿れ。

一、文武の芸を習ふ者は、当に文武の道を以て本と為すべし。徒に技芸の士と為るべからず。天朝は素より武を尚ぶ。而して近古に称する所の武士の道は、節義を重んじ廉恥を明にし、文道は彜倫を叙し、徳業を修む。皆な忠孝仁義に出でざるはなし。即ち文武帰を同じうする者。知らざるべからず。

一、君子は実行を務め、己を修め人を治む。仁なり。能く仁を行ふを徳行と為す。而して言語政事文学の如き、其の才の長ずる所に随ひて以て之を行事に施すは、実学に非ざることなし。是れ学問は即ち事業にして、未だ嘗て其の塗を殊にせず。故に孔門の四教なる文行忠信は、皆其の日用実践する所の者なり。学者徒に高遠深奥を務めて而して実行を後にすること勿れ。

一、道を論ずるは、宜しく聖経に本づくべし。而して後儒の説の如きは、則ち以て参考に備へよ。宜しく末を先にして本を後にすべからず。義公甞て言へらく、古来の名賢鴻儒各々見る所有り。広く蒐め博く採り、之を用ひて偏せざれば則ち善し。偏見を執り、一隅に拘泥すれば、則ち儒中の異端なり。学者宜しく斯の意を体すべきなり。

一、経を講ずる者、或は博く諸経に通じ、或は専ら一経を治め、各々好む所に従へ。而して孝経論語は則ち尤も宜しく精思翫味曲暢旁通して、務めて之を実事に施すべし。史を読む者は、宜しく躬ら其の時に処り親しく其事に遇ふが如くすべし。視て以て陳述と為すべからず。其の他詩歌文辞天文地理医卜譜牒等、各々其の長ずる所に因り以て時用に適して可なり。博聞多識も亦学者の一事にして、雑書に渉り雑芸に習ふが如きも亦た必ずしも禁ぜず。但し流に従て源を忘れ、甘んじて曲芸の徒と為るも、亦た恥づべきなり。
 聖人が天文を観るは、天地の大徳に則り、陰陽の変を窮め、以て天下の務に応ずる所以にして、暦象授時は、人事に於て尤も急なりとなす。若し人事を外にして、而して徒に空理を説かば、天文も亦た無用に属す。

一、兵を論ずるは、之を実戦に用ふる所以にして、運用は其の人に存す。武技に肄ふは、則ち以て戦陣の用に供し、是を武士の芸と為す。時好を逐ひて、膠劣を分寸に較べ、徒に演場の技と為す勿れ。
 戦争の世、将士の賢否一ならず。姦雄に至りては、則ち暴戻残忍にして、不情も亦甚し。而して後世の武人、或は其の智勇に眩し、妄に之を称揚す。大に風教に害あり。武を講ずる者、宜しく仁暴の弁を審にし、義勇を尚慕し、以て自ら砥礪すべし。

一、文武の諸生、謹みて弟子の職を奉じ、礼譲を以て相交り、忠孝を以て相勧め、陰を惜み力を勉めて以て有用の材を成すべし。中行の士は誠に貴ぶべし。狂狷も亦た聖賢の与する所、斐然として章を成し、進取の益亦た多し。閹然として世に媚び、誤りて郷原の人と為る勿れ。諧謔放肆にして、甘んじて無頼の徒と為る勿れ。●(滔の偏がリッシンベン)慢怠惰にして、以て老来枯落の歎を貽す勿れ。

 

『勤王文庫』第弐編(大正8年初版。昭和6年11版。大日本明道会)による

 

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