一口剣
 
                                幸田露伴
 
 
      上 篇
 
 元気よかりし雲雀の声、入り相の鐘に収まりて、春の日の暮れ方しづかに、柳の蔭より段々暗うなりゆけば、頓ては小流れの傍の白躑躅ばかりを染め抜いて、地の塵は見せぬほどの月の光り柔らかに世界を罩め、霞みわたる鎮守の杉の森、庄屋殿が背戸の竹薮そよりともせで、諸鳥夢にあたゝまる夕べの景色、風流知らぬ男もさも心持好さそうに眺めて啣へ煙管のけぶり長閑なれば、嚊は昼休みに一寸摘んで置きし土筆煮て、我が手柄を疲れたる夫の膳に薦めんといそがしい中にも、背面から廻りて踞み居る肩越しに首を出す我子に、これかと乳房見せて共に笑ふ風情、極楽は此処より遠からじと思はるゝ田舎に、さりとては村はづれの一軒屋、柱よろけて家根の藁大分黒く、然も去年の冬は何として凌ぎしぞ、あら打ちの壁土あらかた崩れ落ちて、今それより洩るゝ問答の語気ゆたかならず、癇ばしりたる女の声も蓮葉に、まだ欲しいと云はるゝか、其大きい腹も身の内、大概にせらるゝがよし、わたしの足はもう酔つたれば厭なりいやなり、歩行くは厭なり、それに銭でも持つて行くことか、何時も払ひをわるくして置て借りに来るのに向ふは商売でも碌な顔せず、先刻もたつた二合ばかりと、三合と云ひたいところを弱身あれば此方から遠慮して出たるに、あの伴頭め、酢を嘗めたやうなむづかしい容貌をして、此三十日は確かに勘定すまして下さる当がござるか、三月も前の分がまだ其儘になつて居る始末、しかと御請け合ひなさらずば上げ憎うござると、鹿爪らしい切り口状、此のはげあたまめ、人の運は一寸さきも知れぬものを行く末を見た風な云ひ草、あてがござるか無いかとは能く能くさげすんだ言葉、なんの地酒の少しぐらゐよしや一石三石借りになつたとて、蛙の居る溝の水を産湯にあび、藁筵の上で這ひ/\稽古して育つたおのれら土百姓に見くびらるべき罪はもたず、歯糞一ぱいの口をして小癪なこと云ふたと一本やり込めてやりたかつた所なりしが、さうしては今夜飲めずと、虫を杉の香に殺し、くやしいのを耐へ、無理に御世辞笑ひをあんな奴に振りかけて遣つて、ほんに先月はお気の毒な事しました、実は地金の廉いのを余分に買ひ込みましたため、お払ひ申すことが出来なくなりましてまことにどうも、其代り今度は鋤鍬や鎌など色々と注文を受けて居りますれば、間違ひなく先々のも一どきに御勘定いたしませうと、仕事も無いに真赤な嘘を一寸こしらへて甘く欺して来た仕誼なれば、又行くのはわたしは厭なり、飲みたくば御自身で白鳥さげてお出でなされ、あまり気の利いたものではなし、わたしはもう沢山、ナニ、おれはまだ酔はぬとお云ひのか、成程半分の余はわたしが飲んで仕舞ひました、それで悪いのならば、あやまつて、アヽ眠たし、おわび申して寝ませう、夜は短し、愚図々々せずと殿様もおやすみなされ、フヽヽゑゝまだ何を五月蝿く小言云はるゝか、親切な人ならわたしに裏の清水一杯汲んで持て来て、酔ひ覚めの甘露をすゝめるほどの事は働きの無い腕でも成りそうなものなに、何処の国に男が酒飲ましてと女房をせがむことのあるものぞ、オヤ御叱りでは恐れ入ります、お叱りは恐ろしい事、イエどう致して、殿様を馬鹿になどは致しませぬ、まことに能く才覚のお廻りなさる、智恵のお有りなさる、貧乏にはおなりなさらぬ、奥方の衣類櫛簪を質にはおいれさせなさらぬ結構な殿様をどういたして馬鹿などには少しも致しませぬ、昨日此頃の様に苦しからぬ世をわたり、将軍さまの御鬢を吹く風が通ふ江戸の町で大きうなつたわたしが、かゝる草深き片里の酒屋の奉公人などに易く取扱はれぬも皆殿様のお蔭なれば、中々ありがたく思ふて居りまする、と見事に饒舌つて退て、がち/\と炉ぶちをはたき、何の詰つてある煙管の腸ぞ、鈍なものめが、役たゝずと抛り出せば、今までおとなしかりし亭主の声少し太く、酒買ひに行くが厭ならいやでよし、我に突きかゝつて来るには及ばず、恨みがましい文句は云はば互にあり、我もおのれ故にはもう一年で天晴れ師匠様より許しを受け立派な刀鍛工になるべかりしに、ついした事よりおのれに引かれて、あの武蔵守正光殿に鞴の初中終の吹き様から教へて戴きし大恩を余所にし、共に逃亡して故郷へ帰つたれば、一徹な親父様の承知なされず、師匠の家の敷居内へ足踏みのならぬやうな事して来たもの、我家の鴨居の下はくゞらせじ、其女と別れて武蔵の守殿に詫び叶ふたらば兎も角、左なくば勘当と云はれし其時、おのれも覚えて居やうが、おのれの涙ぐんだ眼と我眼と見合せてふびんさ堪らず、勿体なかつたが親父様に背を見せ二人手を引き合つて、それから此所に落ち着いたものの好い仕事はなし、口惜しけれど農具鍛工となりさがつて此通り、おのれが叔母の家を出る折、浚つてきたと云ふた金も衣類も皆無くなつたのがおのれは腹立ちなら、師匠様親父様に逢ふ事ならぬのが我はなさけなし、アヽもう今夜は酒は飲むとも甘くもあるまじ、愚痴は五分々々、云ふも詮なき業はやめて我も寝るべしと、妻に怒りし言葉の末もろく遂には独り言をしほに立ち上りて、みづから戸締りせんと、貧すれば是も不如意の雨戸がぢ/\引き寄せしが、帰りさまにいぎたなく臥したる女を見て思はず睨め付しや、おのれめに迷ふて、と口の内につぶやきける。
 されど情ばかりで義の無い出来合ひの夫婦中、濃いだけ互に許せし勝手より、いさくさが出て一悶着、済んでは又も情ばかり残るか、お蘭、お蘭とやさしう呼びて、寐びえするなと何やら掛けてやる様子、其時女房いきなり飛び起きて、閉めし戸を瓦落り明けしまゝ駈け出す姿しどけなく、衣裾ほらほら脛白し。
 
 
 少時して片手に徳利さげながら片手に褄とつて、小草の露の珠を踏み分け、惜気もなくおぼろ月に美しき面を見せつゝ戻り来しお蘭、我家を一寸覗いて後、足を清めて静かに上り、ぼんやり考へ居たる男と炉をはさみて坐りぬ。酒あたゝまるを待つ間長々と、此は唖、彼は盲目の中淋しかりしが、頓て鉄瓶より小壜引き抽き一盃飲んで見て、お蘭其猪口を直に男の手に載せ、サアお燗も丁度よし、心よくあがつて下され、先刻のいさくさはわたしが負けましたれば、あの兀頭を骨折つて口説き落し漸くこれだけ又取つて来ましたを、ホヽヽ、ほめてやつて、堪忍して下され、あやまりますに、機嫌直して笑ふて仕舞ふて下され、まあお重ね、と折れて出て、惚れた女が侑むるにたわいなく、受けて、遣つて、貰つて、又差して、強ひて重ねさせて、すけてやつて、双方酔ふてゆつたりして、見れば女房が水髪の少しく乱れたるも可愛らしく、亭主がでつぷり肥え居て、しかも常から愛嬌ある顔の、眼の中いき/\と涼やかな今、ひとしほ憎からず。
 夫婦互に睦ましく語らへば、妙なもの哉、心やはらぎたる女の声次第に細く、男は却つて興に乗ずる故か気も大きく声も高くなり、くらしを苦にするお蘭の話しを打ち消して、ハヽハヽと奥底なく笑ひ、天井の一番遠き隅へ酔を吹きかけつゝ、其様にくよ/\せずとも居れ、思ふ同志かうして暮せば、下物は塩からき香の物ばかりでも我は嬉し、さきのやうにそなたに怒られさへせねば貧乏も左程に悲しからず、蒲団は無くとも十布の菅薦、きみをなゝふにわれ三布にと、江戸を出る前そなたも元気よく、陸奥の果てへなと連れて退いて下され、憂さもつらさも厭ひませぬ、と小歌まじりに我に云ふたではないか、と女の頬をちよいと突く、其指先を捕へて痛くはないほど噛んで突つぱなし、およしなされ、わるさなさるゝな、そんな手であどけなく悦びしは浮気で逢つた昔、可笑しくもなし、女房なればこそ心配して世帯じみた野暮な話しも酔に出て来て為るものを、と尻目づかひに力を入れてツンとしながら睨めば、男は頭掻き/\、さう云はれては面目なし、縁とは云へ夫婦になつてから亭主のくせに帯ひとすぢ買つて遣ることもならず、実は能く愛想をつかさずに居て呉れるが若しや見限られはせまいかと此太い腹の中でひや/\することも間々あるが、我とて一生かうでもあるまじ、又よい運の芽が萌えて。サア其運の芽の萌ゆるが此儘では些覚束なけれど、何ぞ楽しみにする的がありますか、と推されて男は少し行きづまりしが、ハヽハヽヽと笑つて、マア飲みやれ、と猪口をわたし丁寧に注いでやり、扨昂然と身を反らして、別に変つた目当もなけれど、かう見えても此の正蔵は当時天下に第一と云はるゝ武蔵守正光殿が教を受け、かたじけなくも天の麻比止都禰の命の流れを汲んで、腕は十二の春より鍛ひ、四方詰め、三枚張り、二枚ばり、いづれも会得し、つかね、上わかし、伸べ鑠かしの呼吸を心得、陰陽大事の焼刃渡し、甚深秘密の湯加減まで確と骨髄に刻み付けて忘れず、棒剣、五分ぞり、八分反りの次第より、ひら作り、菖蒲づくり、冠り落しの色々まで宙に覚えて、短剣長剣作るに成らずといふ事なし、かくあさましく零落れながら高慢すると思ふか知らねど、恐らく日本六十余州の刀鍛工、見渡した処我が上に立たせべきものも無し、道にたづさはりし先後こそあれ我が朋輩弟子を我眼にて択み取りにして相槌となし、一心こめて打つて上ぐるならば師匠が作にも劣らざるのみかは、虎徹繁慶をもをさ/\凌ぎて天晴れ末代に伝はるべき宝剣をも成し得べしとは日頃此胸の中に蟠まれり、されど悲しきは世にまことの眼をもてる武士は少く、正宗といへば●(カネヘンに「祖」。補助漢字 区点=6926 16進=653A)下の腐りたるをも千両に買ふものあれど、名もなき鍛工の作といへば五十年の生命を僅か二尺たらずに縮めて鍛ひ成したる利刀にも、五匁の銀を惜むが常なり、然しわれ此腕に覚えあれば何日かは名をあげ家を起す時来るべしといふに、つく/゛\聞き惚れ居たりし女房満面に笑みを含みて、名もあがり家も富まば何程嬉しからうぞ、其時わたしを我儘者とて捨て玉ふな、忘れもせぬ去年の春、私が迷ふたが無理だつたか、ゑゝ此の憎い男め、とお蘭がさす猪口を正蔵手ごと握りて、何の捨てゝ好いものか此の我儘者をと、あとはひつそりして、ゆる/\わたり来る遠寺の鐘の音低き軒を繞り、眠そうなお月さま桔槹のあがれる端に憩ひ玉ふ。
 
       中 篇
 
 むく/\と肥りて大きなる白狗を供になし、銀ぐさり御自慢の淀屋橋が二ツ提げを腰にぶらつかせて、両手を後面に組んだまゝ、正蔵殿能く精が出ます、と声かけて、のそりと入り来る五十以上の爺を、お蘭見るより亭主の返答を横から奪つて、うすべりの塵埃をはたき、マア旦那様、是へおいでなされ、其処は火が飛びます、火いぢりの仕事場はまことに危なうござりまして、サアお構ひなくずつとこちらへ御通りなすつて、と下には置かず口早に饒舌れば、ハア姉御の世辞は甘いものでござる、どうしても江戸の衆は違ひます、村一番の愛想よしだと若い者達がほめるが、実は其の無理でない、と無遠慮な評はしながらも、向ふ鎚の小僧が横を過ぎて茶の間に上つてから、女房が汲んで出す麦湯を戴いて飲むさま、流石庄屋の礼儀正し。
 其間に亭主炉前を立ち手を洗つて来り、丁寧に時候の挨拶すれば、唯はい/\と受け応へばかりして、さて膝の上に指の股ひろげて載せ居たりし手を少し後へ引き、言葉をあらため、今日わざ/\まゐつたは外でもなし、実は其の、此村の鍛工を同道して明日御城下の御家老様の御宅まで来いとお知らせが来たなれば、実は何事かと魂消たが、実は其の、おたがひに実は悪党ではなし、実は又、あしき事にはあらざれば当人もろとも安堵してまかり越せとの、実は有り難い事故、実はさつぱり訳が分らぬが、実は其の、正蔵殿、万一そなた兇状持ちでゞもあるなら、実は大変なれど、そなたはまこと、実は善人で、実は其の、少し不了見で、実は其の近所の娘とねんごろし合つて欠落して来たといふだけの事とおもつて居るが、実は肥り過ぎて腹は布袋のやうだがあまり色男のそなた、実は又、ほかに不義密通でもありはせまいかと疑ひもしたるが、それがあらはれたにしては御家老の所へ呼び寄せられるが変なり、実は又、今の殿様は結構な有り難い殿様で、下々の事をどういふものか詳しく御存知で、孝子貞女などは此村でばかりも三人呼び出されて青緡を賜はつた位なれば、そなたも何か良い事のあるではないかともおもへど、実は其の、親に勘当を受けて居る孝子もなし、又そなたの女房は他人に向へば東し風でそなたには西風だといふ噂なれば、実は、姉御耳をつぶして居て下され、実は其の、たしかに御ほめにあづかるほどの貞女でもあらずと考へられるが、兎も角も明日は我等と共に城下に行くべし、他へ出ることはなりませぬぞ、仔細分るまでは我等も、実は其の、心配でならねど、御上の御用は謹みてする我等故、実は其の、知らせに来たり、実は其の、実は其の、ヱヽ、実は其の、用は是れだけなりし、さらば明朝、と云ひ捨て一礼し、犬に送られ導かれて帰り行くうしろ影、小僧は見送りて指さしながら、ハヽヽ、あの附け髷が日に光る、ハヽヽあの附け髷が。
 
 
 藁葺屋根に音もせで降る春の雨も枝に知られて一ト際しなへる山吹の花折々は水に点頭を、障子明け放して身を行書の●のやうにたわいなく柱へ●(「憑」の「心」の代りに「几」。補助漢字 区点=1914 16進=332E)れながら眺め遣りつゝ、あゝ、あれも小本読み倦きた眼を移して我が庭の隅に咲き居しを見付け出せしときのほうが奇麗なりし、其の頃は苦労といふは身だしなみばかり、湯で逢つてさへ近所の同じ歳恰好の娘たちに、お蘭さまのおぐしのいつも御見事なとほめられしほどなりしが、今はそれが鏡へも向はずぐる/\と束ねて、差し櫛もすき透るものはたゞ一枚も持たず、じめ/\する此天気に湿気たる着物一枚とは何といふざまぞや、叔母さまの云ふ事きいて表具師の所へ嫁入りせしならばかうはなるまじきに、其男めの濡れ紙のやうにしなくなしたるを虫が嫌ひ、一つにはつい馴れそめし今の人の大やうなるが骨に浸みて可愛らしく、後先も見ず雲をあてに逃げてからは悲しい目ばかり、それもよけれど一緒に暮らして見れば大やうが大やう過ぎて心の働きが鈍い殿様、ほんにどうして此やうな野呂間に惚れて叔母様に余計な苦労かけたかと、自分で自分の昔しが悔しい時は、思はず髪をむしつて悪口を壁にたゝきつけるほどの日もあれど、それでも怒らず大やうにやさしく扱はれては又急にむら/\と可愛くなつて、我血を吸はれ我肉を剥がるゝとも此人には惜しからずとおもふ夜もあり、それかとおもへば何事か云はれし時など忽ち厭になつて、癪に障つて、訳もなく腹が立つて、我の眼の前に其人の見えて居るのが忌々しく、我が眼をつぶして仕舞ふか其人を灰にして仕舞ふか、どちらかにして仕舞ひたき様な心持する折節は、我罪を責むるのか其人を恨むのかも分らずに苦しくてたまらず、其中いつも癪が起つて足元より寒風ぞつぞと立ち、胸は暫時に厚氷りに閉ぢつめられて、動と倒れて黒闇の底なし井戸に身を逆しまに落ち入るやうな切なさ、しつかりせよと云はれ漸く心附てぼんやり其人の顔を見る時は、アヽ前の世の敵同士ででもある事かと気味の悪い事比へ難き癪のあと、今考へ出しても厭なり、好いた男と共に住みて貧乏するのみか此のくるしみ、是れも若しや添ひ遂げられぬ行く末のしるしかとおもひまはせば、悪縁を結びし初め恨めし、ゑゝほと/\此我が憎くつて/\、我をだましてかゝる運に沈ませし我身の昔が恨めしくつてと、ぐたりとせし身のいつか堅くなり、左の手を強く取りしぼつて、頤埋めし着物の襟を顫き噛めば、折から風に烟つて舞ひ込む霧雨、細き首筋にひやり。
 硫黄の毒の煙り眼に浸み喉に立ちて苦しきを、空中で払ひ退けんとするに、つかめるものならねば我が手の力の及ばざるが口惜しき如く、思ひに熏べられ、迷ひに焦がされて、お蘭そゞろに悲しく、貧家によき名のものは是ればかりの自在鍵より薬罐をおろし、いたづらに湯を我男の湯呑みに注ぎて、一卜口飲めば、これさへ心よきほどは熱からず、水に近きが業腹なり。溜め息一つ色々の恨みに長く、やがて火箸を取つて何心なく灰に埋れし炉の火をかき起せば、豆のやうに小さきが五つ六つ、じつと見る間に痩せ行きてそれも遂に果敢なし。ゑゝ忌々しと訳もなくかき廻し、末は火箸を投げすて、ぐるりと横を向く途端、見付けたり麦畠の間を庄屋と共に此方へ来る夫。
 応、帰つて来られしか、用は何事たりしか早く聞きたきに、あの歩行きやうの大やうで遅いのが歯痒し、我家を見たら駈けて戻つて、女房戻つたと飛び込んでもよさゝうなに、あの年寄の庄屋にまで後れて、アレ霧雨の今晴れて悦んで出て来た蝶々が、肩にとまるやうな薄のろい歩行ぶりは何事ぞ、人が淋しがつて待て居るも察せずに、と思ふ内眉明らかに知るゝほど近くなれば、草履つつかけて四五間走り出で、我が男へは眼ばかり遣つて言葉は庄屋に、好う早くお帰りになりました、道がわるくて定めし御こまりで、と例の早口に話しかくるを、今日は中々皆まで聞いては居ず庄屋は乾枯びた顔に笑窪を作りながら、コレ姉御、魂消なさるな、実は其の其の、実は其の実は其の大変で、えらいもので、青緡では無いほうで黄色のほうで、何にせよめでたしでござる、正蔵殿は良い男でござる、首つ玉にかぢり付いて嘗めてやりなされ、ハッハ、是れは嬉しからう、ハヽ良いの、左様なら又明日舞ひます、と一人嬉しがつて無性に手を振り、一つ所に立ちとゞまり虚空を足で幾度か踏みながら、辻褄の合はぬ事云ふて庄屋はいそ/\と帰るに引き替へ、亭主は屈托に頭重き様子、女房が心は何しら雲につゝまれて中有に。
 
 
 何が心配になつて其様に浮かぬ顔せらるゝかと屡々女房に問はれて、是れが苦労の重荷、とごろり、懐中より二十五両づゝみ二つ投げ出せば、お蘭眼を丸くして急に手に取り上げ、如何な事、大金を粗忽にするとは勿体なし、然し余りに不思議で肝が潰るゝ、マア是れはどうして持つて帰られし、と膝すりよすれば、聞て呉れ、今日庄屋殿と一所に御家老さまの御屋敷に上つたれば、少時待たせられて足のしびれを忍ぶ内、やがて恐れ入つた事には立派な御座敷へ侍に案内されて通り、直々に一つ間で御目にかゝつて御用を伺へば、御家老様とは仁体よき中年の御方、御声やさしく、日本一の刀鍛工正蔵とは其方かとの御尋ね、吃驚して畳に頭を埋め、正蔵とは全く私の名なれど果敢なき鍬鍛工、中中日本一など申すにはござなく、それはお人違ひなるべしと申したるに。コレあなたはなぜ其様に弱い事云はれし。
 イヤマア黙つて居よ、イヤ/\辞退には及ばず、其方が業の当世に勝れて虎徹繁慶にもまさるべしといふ事まで告るものあつて残らず御上にも御存知なり、扨わざ/\呼び寄せしも余の義にあらず、上の御意なれば確とうけたまはれと云はれて、惣身に汗かきながら愈々恐れ入つて伺へば、我が領内にそれほどの名工あるを知らず、むざ/\と零落れさせしは残念なりし、急ぎ其者に命じて一卜振の新刀を作り出させよ、其れを効として取り立て得さすべしとの有り難き殿の御覚し召なり、されども其方まづしくして、向ふ鎚にも仕事ある時だけあやしき近所の小僧を雇ひ居るといふことまで明白なれば、我に一切其方の都合よきやう取はからひ得さすべしとの残る方なき仰せなり、其方が相鎚に欲しきものの名を指せば直ちに此方より人をつかはし、江戸よりたりとも京よりなりとも掛け合つて迎へ取るべし、又色々の入費もかゝるべければ貧賤の其方迷惑ならむと、即ち仮りに五十両下し置かるるなり、尚日限百二十日を期して天晴れ業物を鍛ひ成すに於ては十分の御褒美あるべき故、聢と覚悟いたし粗忽なきやう励むべしとの御云ひ渡し、又庄屋に向はれては、正蔵儀は大切の上の御用を勤むるもの故其方充分に心付け便宜を与ふべし、事首尾よく成就せば其方にも勿論御褒賞あるべしとの云ひ渡し、我は何とも云はぬ間にあの庄屋めが一切我に代りて御受け申して帰つて来た、夢みたやうな話し、と始終を語れば、お蘭が眼の周り、眉、口元、両の頬、悦びの潮さして愛嬌の光り照りまさり、ひた/\と男に寄り近づき、くづれさうに無言で笑つて、堪へられずやいきなり男の肩を突きこかし、是れが何の苦労、人を、人をぢらして嬉しい話を心配させながら聞かせて、こんなところで際どく女を嬲る、ホヽ、性悪な真似をなさる、と額越しに睨む眼の中色気するどく、正蔵花の香に酔へる鳥となつて後の声を出しかぬる間に、女は金を神棚へあげて、勿論の事祝ひ酒買ひに戸外へ。
 
 
 嬉しさを汲んで飲む喜び酒の廻り早く、少し乱れて膝の見ゆるも知らず前へずり出し、暗くなる燈火の心を簪でかきたて、ホヽ愈々運の開くる時節か此丁字頭の大きさ、と云へど亭主は見やりもせず黙然たり。わたしは最早これほど酔ふたに、どうしたものぞ其真面目さは、心持でもわるいなら薬買つてまゐりませうか、それともたゞ草臥れてなら横になり玉へ、腰なと叩くべし、と傍近く来て日頃には似ずやさしくさるゝも却つて今宵はつらく思ふ正蔵、冷めたくなりし猪口を取り、女の頚に左りの手をかけながらぐつと飲み乾して、心配するな、どうもせず、といへば、お蘭其まゝ男の膝に我が頭を横にして載せつゝ片手で酒をついでやり、アヽ江戸を出てから初めて伸び/\と気が晴れて胸の痞へも下つたやうな、是れからはたゞ叔母様を、立派になつてから二人揃つて尋ねて驚かせ、むかしをわびて奇麗に許しを受け、又おまへの親父様の勘当もゆるしてもらひ、天下晴れての恋中と古い友達に羨ませて万年も楽しく、ホヽヽ殿様御台さまで中よく暮らすばかり、アヽ行末が見ゆるやうな、と眼を細くしてうと/\としかけ、アヽかうして居る間に眠うなる、わたしは今とろ/\と溶けて行くやうな好い心持、と甘ゆる物云ひの情濃くなづまれて、肉躍るほど可愛きにつけ悲しみ深く、ゑゝ無惨、何として我が腹中の苦しさを告げてまづい事を此しほらしい耳に入れらるべきや、と思はずホロリと落す涙、頬にかゝれば女房飛び起きて男にしがみつき、しけ/゛\顔打ちまもり、此方の人の隠しだては恨めし、先刻よりの様子と云ひ今の一ト雫は何処から出し熱いものぞ、心の底を何故女房には打明けられぬ、おまへのふところに此生命を投げ込んで居るわたしに余所々々しいはあまり酷し、云ふて聞かされたとて善悪ともに後へ退かうやうな未練な惚れやうはせぬ女とはまだ思つて居られざりしか、と繊小な身体を打任せて口説き立つるに、亭主ます/\堪へられず力任せに抱きしめて声曇らせ、お蘭/\、ゆるして呉れ、悪い事は皆我に在り、云ひ出しかねては居たれどもう云はでは叶はぬ仕義、一ト通り聞いて我をそなたの思ふ存分にせよ、実は今日殿様よりの御言葉をうけて我が命も最早断えたり、仔細は語るさへ恥かしきなれど十日ばかり以前の夜、そなたに向つて我が云ひし事のどうしてか残らず殿様の耳に入りしと見え、我を天晴れの鍛工と思ひ込まれての御恩命、あり難いは山々なれど悲しいには此腕が鈍くて、中々師匠を凌ぐほどの名作の出来やう筈なく、御辞退申さうと思ふても過ぎし夜の大言を知つて居らるれば云ひ訳の無きに苦しみ居りし内、庄屋めが御請けして仕舞つたれば其れを云ひ崩すだけの智恵は尚々出でず、ぐづ/\と大金まで頂戴して来たものゝ、帰る道すがらも夢路を辿つて草も木も眼には見えず、所詮良きものを作り出さねば大金迄戴きて置きて御上をいつはる罪、重きお咎めに逢ふは必定、又今さら我が腕前を有り体に申し上るとも御上に虚言せしやう取りなさるれば、是れも御咎めを受くるは知れし事、腕さへおぼえあらば嬉しよろこんで随分と念を入れ鍛ひ成すべけれど、コレどうか許して呉れ、まことは先の夜そなたに云ひしは悪い気でせしにはあらねど、そなたの心をやすめやうばかりに不図出来心でつい口走りし訳、元来は我鍛工の道には十年の余もたづさはつて精を惜まず励み習ひ法はあらかた知たれど、性得不束にてとても天下に名ある鍛工たちの中に出づべき程には至らず、よしや一念を籠めて作るとも人の眼はあざむき難き鏡、忽ち見あらはされて尚さら重き罰を受くべしと思へば、如何にとも仕方なし、此上は頂戴せし金を封のまゝ残し置き、云ひ訳の書き置きをして、言ひ遣りし昔しの朋輩の相鎚うたんと来らざる前に出奔するより外はなし、御慈仁深き殿様に対しても御家老様に対しても、庄屋様に対してもそなたに対しても、合はすべき顔もなく出すべき言葉も知らず、自分ながら腑甲斐なき身を口惜くは思へど正直のところは此の始末、定めし愛想もこそも尽きたるなるべし、されどそなたに見はなされたりともそれを恨める身ではなしと、つく/゛\我が愚を悟りたれば、我をすてゝ働きのある男をば見たて、行末長く栄えて呉れるがまだしも望みなり、さもあらば我は此世をやめて山寺の坊主とも雲水の修行者ともなるべし、くれ/゛\もそなたに好い加減の事を云ひし罪は此苦しみにめんじてゆるして呉れよ、と涙ながらに長々しく語り終れば、お蘭は赤くなり青くなり聞き居しが、此の時常にかへりて、なんの水臭い、別れ話しはやめて下され、誰が男を坊主にさせてよいものか、聞けば皆殿様が余計なお世話、此処ばかりに日は照らず、手を引き合つて逃るに雑作はなし、なんの/\、女房に亭主が云ひ訳には及ばず、ホヽ気を大きくして最少しお飲みなされ、あとの話しは酒にあたゝまつて寝てからと、胆の太い女かな、立上つて戸締りをして来て座について、又一盃仰ぎ、ゑゝお星様の落ちたを見て薄ら寒くなつた、チョッ、何が何様したつて何様なるものぞ、ホヽヽ、惚れたが弱身で負けて遣る。
 
 
    下 篇
 
 お日さまが之ほど高くなつたにまだ寝て居るか、昨夕は定めし嚊に可愛がられて今朝は遅からうと遠慮して来たに、是れは又あまりな、と独り言しながら庄屋立ち止りて、コレ/\と戸を敲けば正蔵吃驚して眼をさまし、見ればあやしや。お蘭、お蘭、用足しに行つたではないか、居ぬか、南無三逃げたか、アッ、ゑゝ五十両引き浚つてか、是れはとばかり魂魄忽ち砕け散つて、身は徒らに立ち上り臥しまろび、我が手に我胸をかき破り、頓ては畳に喰ひ付いて忍びて洩らす悲鳴の声、唯事ならずと背戸を蹴はなし庄屋は躍り入つて、正蔵殿、何事でござる、正蔵殿、正蔵殿。ヤ、庄屋様か、といきなり飛び起きて仕事場へ駈下り、まだ柄もあらぬ鎌取つて突きたてんとする意気込はげしく、既に危ふきを追ひすがつて年寄りの一生懸命に、ま、ま、待てと漸くもぎ放せば、死なではと血眼になつて又我頭を鉄砧に打付けんともがく。あぶない、待て、白痴め、御上御用を務むる庄屋が待てといふに待たぬか、と争へぬ一言に云ひ込められ、五体を土間に投げうつて泣くに声さへあらばこそ。仔細を語れと云はれて唯わづかに指さす行燈、ながむるに老眼の及ばねば近よりて見るに、思へば思ふほど腑甲斐無いおまへには恨み多ければ五十両は其代りに貰ふて行く、と消し炭の跡うすし。
 読めたり/\、五十両嚊に奪られて逃げられたため仕事がならず、それ故、実は其の、死なうとするか、よし/\、五十両はきつと此庄屋が御上への忠義と思ふて立て替ゆべし、決して短気してはなりませぬぞ、実は間男もあるまいが、兼て其の、実は其の、女ッぷりは甘そうだが、実は其の、あんまり利口過ぎて色気過ぎて、お上の御用つとめる庄屋は、実は其の、好かずに居たが憎い女め、然し出来合ひの夫婦は、実は其の、大体かういふ末のもの故、実は其の、是れであきらめるが後学のためとなつて却つて結構でござる、日本一の鍛工を是れしきの事にむざ/\殺しては、実は其の、御上へ此庄屋が済まぬ、そなたが死ねば、実は其の、おれが越度、おれを困らせてもかまはずと急き込むそなたの了見は、実は其の、少し間違へり、きつと狼狽せずに待て/\/\、と入れ歯かみ/\堅くとどめられて、死ぬに処なく生くるに道なく、一切我身は誰のものか分らず。
 
 
 投げ込むやうにして又五十両の金は庄屋殿より贈られたり、我腕は鈍し、刀はうたねばならず、アア如何にしても我腕の鈍きが無念なり、おもへば/\かゝる果敢なき葎家に人間らしくもなく唯お日さまの光りを偸みて鋤鍬など僅に作り、露の命をつなぎ居し見るかげもなき此虫のやうな我を、尊き御心にかけられてわざ/\あり難き殿様の御意、離れまいぞと連れ添ひし女にさへ見かぎられて、古草履より易く捨てられしほどの虫に劣りし此の我を、御領内の民の数の中に入れておぼしめし下さるさへ勿体なきに、然も技量を試して取りたてやらんとは何処まで厚きおなさけぞ、それに何ぞや、先には浅間しくも迷惑なりと鄙しき心の内にて思つたる我、能く其時に罰が当つて血反吐をはかざりし、考へれば今かたじけなさが骨に徹して、五臓六腑は有りがた涙の湯気に煮ゆれど、口惜し/\、山海の御恵みに酬ゆる鵜の毛ばかりの業もできず、ゑゝ我は此儘に死ねる筈のものか死ねぬ筈のものか、白痴にもせよ阿呆にもせよ、男一匹腕二本、片輪には親が生んで下さらざりし満足の此男の姿をもつて恩義知らずの畜生となりすまし、刀は作れませぬとは誰の口をかりて云ひ得べきや、アヽなさけなし、云ひ甲斐なき我、天にも地にも見放されて此世にも彼世にも六尺に足らぬ身体のやり所なし、是も何故、眠が覚めて見れば恨めしき一念の迷ひよりお蘭といふ錆に性根の鉄を食はれて、昨日までも昨夕までも腐れ合つて居しためなり、置きざりにせられて憎きは憎けれど、あれの憎いより尚憎きはむかしの我、師匠様に背きし過ち、親父様を悩ませし罪で今又我が其通りな目に逢ふて苦しめらるゝは是非もない廻り合はせと、運はあきらめもすべけれど自分の咎はあきらめられず、叱、何がよくて我心に泥を入れしあの女めが可愛かりし、何がよくて我を自滅の黒闇に引落とせしあの悪魔めと逃亡したりし、何が、何がよかりし、叱、我歯で食ひ取つて捨たきやうな惰弱の所行、悔んでも及ばねど若し我れ横道へ入らず真面目に業一方をつとめて居たりしならばかゝる時には、多くの弟子の中にも取り分け我を贔屓にして下されし師匠様にも相鎚を頼みて、充分勇みすゝみ見事に鍛ひあげんものを、悲しいには明日か明後日来るべき古朋輩にも業前劣つて、然もおのれは欠落者とさげすまるべければ、何を楯にしてのめ/\此面を合さむ、仮令ば惜からぬ我が余命を犠牲にして諸天善神に捧げ、一心のまことを凝らし精気を竭し、我が肝胆を小わかし大わかしの烈火に焦がし、三万二千七百六十八度の鎚に打つて打つて鍛ひに鍛ひあぐるとも、ゑゝ、ゑゝ、此汚れたる我が祈願は神も取り上げ玉ふまじ応護の力も仮し玉ふまじ、ゑゝ絶体、絶命、粉になつて飛べ我が五体、烟りと失せよ我が一命、神にも仏にもよりすがるべき望みの緒断えて、頼み奉るべき木蔭は我罪に雨漏り、蒙るべき大慈の光も我が罪の黒雲が遮ぎつて届かず、死ね、死ね、殺せ、殺せ疾く、虚空の風が毒となつて罪深き此我をせめては早く殺せ、殺して我をと、懺悔に絞る血の涙、遺恨にきしらす牙の音、唇いつか噛み裂かれて青みたる顔の頷に引く紅ひとすじ酷し。
 
 
 吐く息苦悩に重く、膝ぐみ緊乎として諸肌推しくつろげ、便々たる我腹を左りの手にて二三度撫でながら、得もの取つて観念の眼を濶と開き、いで今突き立んとする途端、見れば手にせしは庄屋殿にもぎ放されし鎌也。不覚々々、死ぬ事はならず、死ねるべき義理か、我をあはれみて金まで仮されし恩を仇にし、死なんとせしは不覚なりし、さりとて此まゝ長らふべき我ならず、刀を作らんか、口惜しや我腕は鈍し、作らざるべきか、一刻も生ては居られず、さては死ぬべきか、死は易けれど死すとも済むべき云ひわけにはならず、所詮刀を作り出す外どう考へても我が為すべき道はなし、作つて見むか、作るとも無益は知れし事なり、作らずには居られず、作るべきか作るべきか、アヽ覚束なし、作らざるべきか作らざるべきか、作らずには矢張り居られず、とても作らずには居られず、作つて見むか、作るべきか、作ると決心なすべきか、作らば万一よきものを成し得るかも知らず、イヤ/\万一はあてにはならず、さらば作らざるべきか、如何にするとも作らずに済むべき理なし、作ると決心すべきか、必死と作るべきか、是非に勝れし業物を作り出さんと覚悟すべきか、覚悟すべきか、応、最早是れより外に何あるべきや、作れ、作れ、作るべし、当代第一の一刀を打つてあぐべし、古今無双の良刀を鍛ひ出すべし、我折れ、かたじけなくも御ンなさけ厚き仁君の恩命を頭に戴き、御家老様庄屋殿がやさしき親切を身に締め、十余年来師匠様が胸より我胸へ吹き込んで下されし教への為めに鈍いながらも勁くなりし此腕をふるつて、あはれ魂魄を金輪際生へ抜きの鉄砧と据え堅め、陽の鎚には恩に酬はん陰の鎚には義に背かじと、歯をくひしばつて力を籠め打ち、未練の思ひは横に切り目、卑怯の心は縦に切り目の鏨を入れ、折つては返し割つては合はせ、十五度鍛つて四を一に錬りつゞめて、満身の熱血を地金と丸め、無垢の一念を刃金と乗せ、此腹中の猛火熾んに幾度か爍したて爍したてゝ結び付け、水打ち銑透し謹み/\油断なく、刃土を削つて扨其後こそ一期の大事の焼刃わたし、湯玉を跳らす誠の涙に唯願ひ奉るは神力の加護、仮令此身は即座に生命召さるゝとも露惜しからず、名利のために祈るにはあらざればあはれみ玉へ神も仏も、斯くて湯加減誤まりなく一刀成就するものならば、よもや世の中の欲に使はれ誉れを望みて打つ鍛工が作には劣るまじ、天国天の座神息が昔しは知らねど云ひ伝へたる村正が話し、近くは助弘が新刀正宗と呼ばれたるも、皆一心の真実を天晴れ打つて出せしのみ、ゑい、今まではおろかなりし、小烏小狐鬼切り鬚切り、抑も何者が作りしぞや、夜叉にもあらじ菩薩にもあらじ、我も同じき人の身を受けて、指も十本揃つたり脊骨もまがらず確乎とせり、死なじ死なじ、あだには死なじ、よし、神国に男と生れて虫の如くに死すべきやと、心機一転。変る顔色、眼中憤りの朱にかゞやき、逆立つ鬢髪は燃え上がる黒烟り、天も焼くべし焦がすべし。
 
 
 稲荷山の土、播州の鉄、是はと庄屋が驚くほど取り寄せて、不浄を払ふ注連縄家の周りに張り詰め、其後は正蔵釘一本小刀一挺人の頼みを受けず、一向に刀ばかり作つては捨て作つては捨て、自分は勿論相鎚の男共をも如何に説きしや戸外へも出さず、百二十日忽ち過ぎて殿より催促の使者来れば、何とぞお待ち下さるべし、左なくば我気に入らぬ作に我銘打つて差上ぐるよりは腹掻き破つて死すべしとの口上、役人驚き色々云へどもさらに聞き入れねば是非なし。殿も終には、正蔵が云ふところ詰りは我が命を大切におもふてなれば、他の頼みを受けざるに於ては其まゝに許し置くべしと仰せらるれば、呆るゝは庄屋ばかり。されど是も、常に晨は早くより鎚の音暁天の星に響かして、夏過ぎ秋去るも休むといふ事なく正蔵の励み居るに免じて、後は其まゝに許し置きける。
 斯くて後は氷と水の名を変じて堅く、案山子の鳥にとまらるゝ冬となつても、落葉のひるがへる風の中に此村は冴え渡る錚鏘の声を聞き、畑やく煙り空に横折れて霞の隙にあそぶ糸遊の長閑たる春が来ても、妻呼ぶ雉子の外の音ありて、帷子時も袷時も、雲をつらぬき月を落す響きに人々見足らぬ夢を驚かされしが、三年またゝく間にたちて、或日白狗頻りに吠ゆる時、何事と庄屋出て見れば、清き顔に充分の活気を含みて家の前に立てる髪髯ぼう/\たる男。久しや正蔵殿。
 
 
 樹木緑り深く築山泉水見事なる御庭先に、庄屋より又少し後に正蔵恐れ入つてかしこまり、片唾を飲みながら唯何となく涙ぐんで扣へたり。並み居る諸士斉々たる中に悠然と坐し玉ひし殿、今近侍がとりつぎて参らする一刀の鞘静かに払ひ玉へば、忽ち電光一閃帽子先より走つて、天晴れ業物見るさへまばゆし。尚能く●(カネヘンに「祖」。補助漢字 区点=6926 16進=653A)本より切先まで、切先より又手元まで眸を凝らして見玉ふに、肌濃やかに光り和らぎ、地の色秋の空を湛えて如何にも青く澄み渡り、煮あざやかに匂ひ深く、刃は一条の霜白く冴えて、爽やかなる帽子先眼もあやに、珠をも貫くべき風情、つく/゛\眺めて居玉へば、刀上雲湧き潮乱れて、忽ち春の雪の烏毛にちらつき、又星影の水底にゆらぐが如きもの現はれ来り霞み去り、生けるに等しき有様は、もしくは神龍の化して成れるにはあらずやと怪しまるゝまでの希代の妙作。流石に心を奪はれて言葉もなく、茫然と酔心地にて居玉ひしが、頓て右の手に持玉ひし儘乗り出して殿。正蔵、よくぞ作りし、美しさは十分の作なり、されど美し過ぎて覚束なし、切れ味は如何に、と云はるゝや否、次の語を何いださせ参らすべき、正蔵我を忘れ勃然と御椽の上に躍り上りて仁王立に突立ちはだかり、便々たる腹を丁とたゝきて。切れ、是れを、たしかに二つになつて見せむ。
                       (明治二十三年八月)
 

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