二人比丘尼色懺悔
 
                         尾崎紅葉
 
 
      (『紅葉全集』第一巻による。振り仮名省略。二重丸括弧は《 》に置き換えた。)
 
 
 自 序
 
二人比丘尼色懺悔成る 例の九華。香夢楼思案麻渓漣眉山等わが机をとりまき。言葉よりまづ大口あいて笑ひ。 爾紅葉。 若気のいたりからまた/\好色の書を著はすか。 喝爾等鞘の塗で兼光か竹光か。判断がなるか。そも色懺悔を題にして妙齢の比丘尼二人が山中の庵室に奇遇し。古を語り今を墓なみあふといふ脚色。一字一涙の大著作即ち是と。薄汚なき原稿をさし出せば手にだも触れず腹を抱え。   扨も企図のしほらしさよ。心根のふびんさよ。茶番狂言の飯炊場が。情なからうか悲しからうか。尺八に似た火吹竹。いかなる音をやいだすらむ。爾性諧謔。爾口善罵。なぐり書の滑稽もの或は怪我の功名に。見らるゝもの出来すやも計られず。爾が悲哀小説―盲人が染小袖の是非。其器にあらずして之を言ふは間違へるなり。●(「句」に「鳥」。補助漢字 区点=7567 16進=6B63)●(「谷」に「鳥」)は済を過ぎず。●(「豸」に「舟」)は●(「サンズイ」に「文」。補助漢字 区点=3869 16進=4665)を渡つて死す。鳥の知に如かざる紅葉。毛物の愚に似たる悪太郎。労して物笑ひの種となるとも。我等が知る所にあらず。
我知る処なり。爾等が知る処に非ず。向横町の東坡きのふ我に教へていふ。貧家は浄く地を掃き。貧女は巧に頭を梳る。ずいぶん骨を折てやつて見なさいと。これわが宗旨ちがひの小説を試むる所以なり。われ諧謔自ら喜べど涙なきに非ず。口よく罵れど慰言なきにあらず。さては力を尽さば縦鼻横目のすなる事。などか我のみならざらむ。英国のシヱークスピアといふは。鬼にもあらず神にもあらずして。一枝の筆に万象の人情世態を写して。泣くやうにも笑ふやうにも得書しと聞く。かれは富家にして下男に掃かしめ。富女にして髪結に梳つらしむるものなれば。手細工の及ぶべきにあらざれど。紅葉果して涙なきか。須らくこの書発市の暁を待て世の看官に問ふべし。淵を素通りしてその底に蛟龍の棲むを見るか。林を一目してその奥に栴檀のあるを知るか。麁忽ばしのたまふなと咳二ツ三ツ。
   一同嘲笑していふ。天水桶には蛟龍湧かず。芋畠には栴檀生えず。紅葉爾が非望の著作は。蛟龍を天水桶に覓めて底をぬき。栴檀を芋畠に探して地を荒らす。笑止/\と帰りゆく。紅葉その影遠くなるまで見送り。やがて二三尺とびすさつて衣紋かいつくろひ。大方の君子に向つて合掌再拝して曰。拙劣の才学もとより変幻の人情を写すに。万分一さへうべからざるを信ず。世間の蜆わが門前の蛤今ほざいたる誇大の過言は。人を見下し罵詈に対する一図の肝癪。ほんの内々だけの高話。真平御免下さるべし。もし方々に悪まれ奉り。色懺悔を見てかなしがり涙を落すものは。書肆の主人ばかりなどの悪評。かの五人の耳にいらば。むごらしやわれは彼等が為に罵殺せられむ。他人にむかつてならば。悪口雑言御心まかせ。たゞ五人へは。コレひそかに/\
  明治廿二年小草生月戯作堂の南軒に
                              紅葉山人戯誌
 
作者曰
一此小説は涙を主眼とす
一時代を説かず場所を定めず。日本小説に此類少し。いかなる味の物かと好心に試みたり。難者あらば。ある時ある処にて。ある人々の身の上譚と答ふべし
一文章は在来の雅俗折衷おかしからず。言文一致このもしからずで。色々気を揉みぬいた末。鳳か鶏か―虎か猫か。我にも判断のならぬかゝる一風異様の文体を創造せり。あまりお手柄な話にあらずといへど。これでも作者の苦労はいかばかり。それをすこしは汲分て。御評判を願ふ
一対話は浄瑠璃体に今時の俗話調を混じたるものなり。惟みるに。これを以て時代小説の談話体にせんとの作者の野心
一前述の通り。世間在来の文とは。下手なりにも趣を異にすれば。読人一見してつらいといふ。作者は少しもつらからず。我つらからざるを人々何ゆへにつらしといふや。専ら句読をたよりに再読の御面倒を請ふ
 
      月 日
                            紅葉山人
 
 
 
 
  発端 奇遇の巻
 
罌粟は眉目容すぐれ髪長し。常は西施が鏡を愛して粧台に眠り。後世なんどの事は露ばかりも心にかけぬ身の。一念の恨によりて。ごそと剃こぼして尼になりたるこそ。肝つぶるゝ業なれ………………百花譜―許六
 
都さへ……蕭条いかに片山里の時雨あと。晨から夕まで昨日も今日も木枯の吹通して。あるほどの木々の葉―峯の松ばかりを残して―大方をふき落したれば。山は面瘠て哀れに。森は骨立ちて凄まじ
茶の煙だにあがらずば。山賤も知らぬ。谷陰に誰がすむ庵。かくてもなを捨難き浮世の面影のこす菱垣。疎らに結ひ繞らし。竹は虫食み縄朽ちたれど。枯蔦の名残惜しく取縋るまゝ流石に倒れもやらず。二本の黒木を入口のしるしばかり。茅葺の屋根は歳に黒み。落懸る檐風に傷はしく。風情は月にばかりの破壁。強くはふめぬ竹椽。切株の履脱から左へ三尺。其処に筧の水……水ほどにもなく絶えせぬ雫。阿伽桶に滴る音。やう/\幽に疎らになるは。桶の口凍るにや―夕暮の風寒し。 麓路に梅香りて―扠は春。窓外の山白くなれば。冬ぞと知る。此処には暦日なく。昼は伐木の音にくれ。夜は猿の声に更け。鐘も鶏も。響かず聞えず。恋する身には。上もなき隠れ家……なれど愛欲を棄てかゝらねば。一日仮の住居も難し。夕日影木末に薄らぎ。反古張の障子赤くなれば。程なく鉦の音其内に。   何処よりか来たる法衣の人。塗笠目深く冠りて。門に立休らひ  《頼む》と音なふは女の声。鉦の音絶て。障子の外に現はれしも法体の女。鼠木綿の布子に黒染の腰法衣。頭巾着たるが門外を窺ひ。
 《何御用で御坐ります》
 《行脚の比丘尼で御坐りますが。慣れぬ山路に迷ひまして難義を致します。御無心ながら一夜の宿りを願ひたく。御看経のお邪魔を致しました》  寒気に慄く声
 《御覧の通りの茅屋。夜の物とて御坐りませんが。お厭ひなくばさア……さアおは入遊ばしまし》
客の比丘尼は凍る手のもどかしく。笠の紐とく/\椽に立寄り。草鞋とつて主人が勧むる微温湯に足を濯ぎ。導かれて炉に近く坐を占め。初対面の挨拶。やがて渋茶一椀。饗応ぶりにさしくべる榾の。焚上る炎に客は背ける顔。主人は何心なく見るに。俗に在りし昔の我ならば。ねたましく思ふほどの容色。今さへも見て。臭骸の上を粧ふて是とは覚えず―地水火風空も。よく形造らるればかほどの物か。自分は二十一歳。二ツばかりは少かる可し。此眉目容姿―この年頃。菩提の種には何がなりし。まだ爪紅の消え切らぬ指に。珠数つまぐる殊勝さ……過て哀れなり。我身に思ひ較べて。うるむ涙を。炉の榾掻動かして。烟しと擬らはす。
客も主人を見れば。世に捨らるべき姿かは。世に飽くといふ年かは。或は我に似たる身のなれる果か。聞かせたし語らせたし。我が事人の事。
互ひに一様の思はあれど。言ひ出す機会なく。山路の険阻―麓の川の名―仏堂伽藍―昨夜の氷。其等を題に他事を物語る。 粥熟せしとて主客夕餉の箸をとり。やがてまた少時の物語。     《旅の疲もさぞ。心置かず御寐なれ》   と紙帳釣下して。切に主人の勧むれば。明朝を契りて客はまづ臥戸に。
里ならば初夜撞くほどに夜は更けて。山を吾物に暴らす風―夫に吹転けじと。松の梢に取附く梟の濁声。夫に呼吸を詰まらして。月に哮く狼の遠音。庭にたまりし落葉の。又夫が為めに揉まれて。どッと一度に板戸を打てば。夢を破られし客の比丘尼は。目を見開き……今眠りしと思ひしに……同じ床に主人の寐姿。外は凄く内は寒く。目を閉ぢても心は冴え。微かなれど耳につく主人の鼾。枕辺に夜を護る行燈の火影。紙帳の反古の文字。鮮やかに読まれければ……読む気もなく―寝られぬまゝに首をあげて。眼近なる一通を見るに
 一書……書置……の事
   一筆申のこし候。我此度戦場へ罷り向ひ候上は。一命はなき物との御覚悟有之度候。勝負はもとより時の運に候の間。相構て捨る命に極まれるにも候はず。やがて目出度凱陣致さん事も。有之べきかなれど。兼て今日を期し候千歳の一時。仇に過すべきや。日頃の主恩を報ず可きに候得ば。比類まれなる忠戦に美名を留め可申所存に候。宿世いかなる縁に候てか。忝なくも御上様の御仲立を以て。おんみと祝言致し候過分の条。人々に羨まれ候ひしも。夢の世のしばしにて。浅からぬ御情の嬉れしく。玉椿の八千代。二葉の松の末と頼みしも。今は仇と相成候。連添てより今日まで廿日に足ぬ時の間に。覚束なくも友白髪の年月を縮め。あかぬ思の短き契。長の別の今と相成候ては。なまじゐのかたらひこそ。残念至極に存ぜられ候へ。始めより斯ある可としり候はむには。いかに御心其底浅からずとも。将又主命重ければとて。仮の世の契は。思もかけざる事と。女々しくも後悔致され候。よしなき契ゆへに。御身にも数の苦労相かけ。また我とても此のみ。死出の迷ひと相成申候。 翌日にも我討死と聞及ばれ候とも。構て狭き了簡いだすまじく様。暮々も頼入候。一図の心より世を墓なみ。髪を切衣を染め。わがなき魂の修羅道の苦艱を救はむなどゝ。思し立たん事尤も不所存の至りに候。主の御為には。家を忘れ身を忘れ候は。武門の掟に候へば。吾家の面目吾身の本懐何事か之に過候はんや。妄執少も無之。往生致し候べく候。たゞ折々思ひ出され候とき。一遍の廻向御身の口からなし下され候はば尤も過分に候。おん身はまだ年若く在し候得ば。何方へなりとも似合はしき縁辺を求められ。万々年の御寿命の後。冥土にてかさねて対面を期し候。此義はわが一生の願ひに候。暮々も違背あるまじく候。もし聞き入れ申さゞるに於ては。未来永劫他人と相成るべく候。別封去状認め置候の間可然身のふりかた取計らはれ度候。当坐の用までに金子五十両。革籠の内にさし置申候。春雨の香は殿より拝領の品なれば。平常大事にかけ候を。此度兜に焚しめ出陣いたし候余りを。遺物と思召下され度。取急がれ候まゝ名残おしき筆とめ候かしこ
      若葉殿
涙に碍げられながら読了る文。 じつと首を傾け。また文を詠め  《はて……似た手跡もあるもの。小四郎様に    其儘。誰の筆やら……宛名ばかり……》
暫らく思案に沈み   《あァ―気の迷ひ》
口にはいへど心に掛るか。半頃から七八行見返へして。
 《乱世の習とはいひながら。酷たらしいお連合の討死……南無阿弥陀仏……其故の御発心か……お道理……似た身の上もあるもの》
人の哀れ―吾哀れ。一時にさしぐむ涙。
 《あァつ思へば夢の浮世》
主人の尼は不図目覚まし。客のつぶやきを聞尤めて。
 《どう遊ばしました》
客は鼻をつまらせ
 《お―お目覚遊ばしましたか。只今このお文を拝見致しまして……》  主人は眉を顰め   《文……》
 《このお書置》
不注意をわれと悔ゆるか。主人は《あッ》と言ひしまゝ。言葉は次で出でず。扨は秘する事か。卒爾なと心付きし如く。客も言葉をためらひしが
 《このお書置の若葉様とおツしやるは。あなたの俗のお名で御坐りますか》
此山中の詫住居。遁世してより若干の月日。いつにも今の法名だに。知りて呼ぶ人なし。まして俗の名―若葉……他人の名か。 鈍や我耳に珍らしく聞ゆ。  我名……若葉……俗の名……俗の時。それを思へばはや涙。萎れ声にて。
 《はィ若葉と申しました》
書置の名宛は若葉。討死せしは慥にこの人の夫。傷はしや……女とて深き思遣。夫が言葉となりて。
 《運あらば目出度帰ると是には書て御坐りますが。あなたの其お姿では。まさしく討死をなされた事と存ぜられますが……》
 《仰せの通り敢ないさ…最期を…は…はイ遂ました》
 《これほどお勇ましい御決心では。定めしまア花々しい働を遊ばされた事で御坐りませうなァ》
 《はイ……ようお尋ね下さいました。人伝に聞きますれば。武士の手本と成様な。それは/\目覚ましい働きを致して果てたとの事。私までがどんなにか嬉しう御坐います》
 《けなげな事をおツしやるだけ。お心の中が御推量申されて。他人の私まで涙が飜れます》
 泣けと言はぬばかり。主人は両袖を顔に当て。
 《お察し下さいまし》  と……言ふにや。声はちぎれて。鮮かに聞えず
 《よしない事を申し出して。お歎きをかけましたは私の無調法。御免遊ばしまし》
 《なンのあなた勿体ない……おやさしいお心に絆されて。不躾な……お詫なら私から申すので御坐ります》
  やう/\涙を収め。
 《先程から私一人が味気ないやうな。お話ばかり致しまして……お見受申せば。あなたも花の盛を其御姿……尼法師には勿体ない御標致……》
 《アレお弄り遊ばします》
紅らむ顔を枕にさしつけ。嬌羞を笑む初心の風情。振袖きた昔が見たし―嘸やしほらしい声で普門品。見れば麗しく。思へばいぢらし。無慈悲な親……これほどの娘を此姿。
 《おいたはしうぞんじます。どういふ因縁で御発心遊ばしましたか。お包み遊ばす事でなくば。お物語が承りたうぞんじます》
 《はイお心にかけられた其尋問。思出すも涙の種。はかない身の上で御坐ります》
姫百合は首を垂れ。ホロリ飜す露一ト雫。湿む声を震はして。
 《両親ともに世に在りながら。頼む夫に死別れ。味気ない身の浮世を観じ。仏の御弟子となりまして。話しにきゝ―絵で見たやうな旅路を。同行もなくさまよひあるき。死ぬにもましな艱難辛困。夫の事は片時忘る間は御坐りませぬが。また其様な時は両親が一入恋しくなりまして。身も世もあられぬ思ひでござります。今宵も道に迷ひまして。心細く途方に暮れました処ろ。火影を目的にお門まで参りまして。御無心を申しあげましたに。心よく御承知被下。またお目に懸ツてお話申せば。お優しいお心―おやさしいお言葉。どうやら姉様のやうに思はれて。もうあしたから廻国致すがいやになりました……どうぞお傍におめし仕ひ遊ばして。阿伽を汲め。花を折て来い……汚れた物の洗ひ濯ぎ。何なりと御用を仰つけて下さりまし……もし……お…お願ひで御坐ります》  真白く細き手を合せ。涙浮ぶる眼に主人の顔を。なつかしげに見つむれば。主人は顔を横にして。かれが涙を拭ふとき。此が袂も濡れたりし。
 《よう……おッしやいました。不束な私を姉……私も親身の妹にでも逢ふやうに思はれます。物心つく頃に両親をなくし。幼少からお上へ御奉公申上げ。縁づいて間もなく夫の討死。何の便もない身の上。あなたのやうな妹でもあつたなら。憂を語る相手にもならうかと。ゆうべお目もじ致した時。つく/\思ひました。御覧の通りしがない活計。御辛抱さへ遊ばしますなら。十年が二十年なンの……いつまでも御出遊ばしまし》    言葉に真実を顕はせば。客はなを涙―悲しいか……嬉しいか。
 《そンなら今夜から姉上様……》
見かはす顔……見詰あふ眼
 《い…い…妹》
わァつと声を立てゝ。正体なく伏転ぶ右と左
 《もし姉様……もう此からは他人では御坐りませぬ。お互ひに身の上を打明て。お話しが致したう御坐ります。あなたのそのお姿を見るにつけ。どうも不審が霽れませぬ》
 《この姿に不審とは……》
 《さればで御坐ります。御書置に尼法師となるならば。未来まで縁を切るとの事。その御遺言にお背遊ばして。御法体は何故で御坐ります》
 《あァ夫をおつしやつて下さりますな。あなたがおつしやッても。草葉の陰から夫に申されるやうな思ひがいたします。あの通り呉々書置に夫を申しましたも。私の行末を心にかけての事。其志を無に致したいことはござりませぬが。たとひ七生まで縁切られましても。あなたどうまア二度の夫がが持てませう……そンな女と思はれましたが。ざ……残念口お……惜うぞんじます。討死と聞いた時は。いッそ自害とまで思ひつめましたなれど。短慮は出すなとの遺言。それかと申して生甲斐もない身……世間の人は子にも親にも。替えて惜しむ―命のやりはがないと申すのは。前世にいかなる悪業を致した報ひでござりますやら……  夫といふは私し同様。幼ない折双親に死別れ。伯父とやらに―これとても実の伯父では御坐りませぬ。いはゞ他人に育てられ。縁者といふは御坐りませぬ。もし私がない後では。死だ夫の命日忌日を。誰あッて廻向を致してくれませう。修羅の妄執もなく。成仏すると立派に申しても。合戦とはいひながら人の命を取ツた夫。あの世で仏様がおゆるしなさるはづは御坐りませぬ。私が出家いたした為に。夫の未来の苦艱が少しでも助かる事なら。連添ふ女房の役目。去られましても……私の寸志。夫ゆへのこの姿で御坐ります。たゞ返す/\恨めしいは。「わがなき後で再縁せよ……」余りといへば私を見下た言葉。つれ添ふた日はわづか半月ばかりゆゑ。私の心を疑ぐツての言葉かは知りませぬが。女夫となるまでの私の苦労……》
客の比丘尼は流石に処女気。
 《そンならあの恋婿様とやらで御坐りますナ》
問ふには何の心もなけれど。靡く性ある柳は。無心の風に靡く。主人は口籠り。
 《は……はィ》 いひながら羞かしげに笑み。顔を背けて。
 《お羞かしい事を申すやうで御坐りますが。私が御奉公致して居る中から。思ひ初めました夫。若気の至りから文などをつけましても。噂の高い律儀な生。露ほども打解ける気色が見えませぬゆへ。くよ/\思ひ続けて。煩らひつきましたを。日頃私をいとしがツて下さるお主様のおとり持で。やう/\念願が叶ひ、やれ嬉しやと思ふ内に。隣国との合戦―夫の出陣。翌日は別れといふ前の日は。食事はおろか物さへ言へず。たゞ泣くと夫の顔を見るばかり。武士の妻ではないかと叱られましても……いかに武士の妻だとて。夫婦一世の別れが泣かずに居られませうか。先祖から家に伝はる三方白の兜を。殊の外秘蔵致して居りましたが。今度の合戦に夫を冠て出陣致すと申しますに。忍緒がいかにも見苦しく古びて……しかもちぎれさうな処も御坐りましたゆへ。もしもの事があつてはと。新らしくくけて附易て置きましたを。一方ならず喜んで。是をそもじと思つて。是に対しても卑怯な振舞はせぬ。目出度帰るを待つて居よ……此一言が今だに恨めしくてなりませぬ水くさい……口ばッかりその様な気安め……鎧櫃の中にはこの書置……兼て討死の覚悟なら。かう/\となぜ打明けておッしやッては下さりませぬ……恨みで御坐ります。夫とお話し下すッたら。何の未練がありませう。夫の目前で自害を遂げ。冥土へ参つて待て居りましたに。町人風情の女にでもおッしやる事か。……命長らへろの―夫を持てのと……夫ばッかりか去状まで……見るも汚らはしい其場で引裂て……仕……仕舞ました》
昔の恨みを―其時喞たむにも其人なければ。胸に苦しく包みし恨みを―つれなかりし夫の前に。喞つ如く口説たてられ。《気の毒―主人は。当惑―己れは》
 《お道理では御坐りますが。其もみンなあなたを御苦労に遊ばしてお計ひなされたを。お恨みなされては勿体ないと申すものでござります》
 《其を思はぬでは御坐りませぬが。女子と申すものは。我ながら愚痴なもので御坐ります。つれない―水臭いと。人様にまで恨がましい事を申すほどな夫が。なぜまたこの様に恋しい事で御坐りますやら。どうか成仏致すやうにと。お経は読でも上の空。勿体ない如来様のお顔までが。夫の顔に見えまして。心の迷ひはすこしも消えず。夜昼のわかちなく。恋しい―懐かしいで。胸の安まる暇は御坐りませぬ。姿ばかりが仏の御弟子―心はやつぱり浅ましい愚痴な女。この通り書置を紙帳へ張て。これを見ては思出し。また思出しては之を見。毎夜この中へ伏せりまして。夫と添寝を致す思ひ。仏様の冥罰も忘れ。未来の苦艱も覚悟の上。仏様とも神様とも思ひますは夫ばかり……早く……今にもあの世へ参つて。夫と一所に苦艱が受て見たう存じます。まだしもお主様がお出遊ばしましたら。力にも成りますに。夫が討死の其後の合戦に。お二方とも御生害。お家はつゐに断絶して。館の跡は薄尾花。今は枯野の姿でござります》
 《お主様まで御滅亡とは。重ね/\のお不仕合。そのお歎きは御尤で御坐ります……とはいふものゝやッぱり前の世からの約束事。過去た昔は長い夢とお断念遊ばして。煩悩をすてゝ一心に御廻向遊ばすが何よりと存じます。今更どの様にお歎きあそばしても。死なれた方の生帰るではなし。今までの迷をお霽しなされて。心からの出家を遂げ。仏様にお仕へ遊ばすがお連合様の為には。此上もない弘誓の船で御坐ります。あなたに御異見申上る私では御坐りませんが。親身の妹がお身の為を思ツて。申す事と思召し。かならず小ざかしい―さしでものと。おさげすみなされて下さりますなェ》
主人の胸を射透す意見。其中はに理を籠め。実を含む。これが廿歳に足らぬ乙女の口からか。  寒地の花は盛待つ。莟の間きる毛衣。早く世の苦を知る者は。天も自から理発に生む。
 《御心切に……おつしやッて下さいました。仇や疎には思ひませぬ》
 《私風情の言葉を……難有うぞんじます》
主人の尼は涙に冷ゆる目元を。気味悪げに押拭ひ
 《先程から手前勝手な事ばッかり申して……どゥぞあなたのお身の上をもお聞かせ遊ばしまし。御苦労になる事は及ばずながらまた私が。お慰め申したうぞんじます》
今まで泣きしは人の身の上。主人が優しき言葉に。新ためて我とわが身をなく涙。  無言に萎れ返る。其も暫時。 《えヱ今となッて心弱い》自ら励まして。
 《左様ならお聞下さりまし。かういふ訳でござります》
 
 
    戦場の巻
 
ふる雪にまがふ卯花威
 一声血になく
   浦松小四郎が事
 
高きは林か。低きは野か。唯一面に白く。なをチラ/\名残をふらす暁の空。岡の方蔭に破れ硝子の薄氷に。縁を取せし小沢近く。古たる梅樹。  下は幹を染分け―上は「紅蕊」を包む―雪。   誰……此美を乱し―此美を傷く……こは何事。 低き梢に。切口から血汐を落す生首三ツ結ひつけて。鋸に柄や附けたる……こぼれ歯の長刀の。朱に染るを幹の二叉に寄掛け。諸膝組で雪を掬ぶ若武者―鎧は……草摺。小袖の下二段を萌黄に威し。上を白糸―其華美さ卯花威。 いかに手痛き合戦やしたる。射向の袖の菱縫の板はちぎれ。草摺の板をほつれて。下る匂の糸。胴の威毛には。血液斑点に染むる散紅葉。●(「盧」に「頁」。第2水準 区点=8101 16進=7121)巻もなく鬢髪大童にふり乱し。額から眉を割て斜に左眼の上を行くは切疵か。紫ばめる唇るの下に。三寸ばかりかすられて。朱をにじむ眼……うす青む面色。 雪一口ごとに呼吸せはし。やがて水際に居去り寄り。氷をおし破りて。丸く砕けたる処へ首をさし伸べ。我顔を水鏡に写して。暫く見詰めたりしが。やがて面の疵を洗ひ。四辺を睨まはして重さうな肩呼吸。 雪に深く弓手をついて。半身起上る……其時……右の股へ……誰……鎗を―草摺の外れから……骨をも貫いたか。《あァつ》と叫びあえず。「吉則」の二尺八寸……閃く……丁と切払ふ。鎗は蛭巻から斜すに切れ。其余勢に二三歩前へよろめく敵を……見れば鉄地の半首……小具足身軽に出立雑兵。手に残る鎗の柄カラリ投棄て。腰刀引抜き。真額に振翳し「二ッになれよ」の身構。若武者はッたと睨めつけ。
 《下郎。推参なッ》
彼は一言も返さず。矢声高く切下ろす。 二三尺飛退つて。股を穿つ鎗の汐首抜取り。敵の胸板目がけて投つければ。体を捻ツて……なを斫懸る。
 《物々しや》
口には言ど初の深手に苦しき進退。片膝ついたまゝ斫込―受流。十二三合亙り合す。  虎は病めども虎。 苛て附入る若武者の切り先を請損じて。敵は右の肩上の外をしたゝか割附られ。―しどろになつて倒かゝるを。透さず二の刀に細首打落ば。気の寛か我にもあらで。●(テヘンに「堂」。補助漢字 区点=3263 16進=405F)と坐し。はツと呼吸。 時しもあれ。耳元近く。手綱烈く掻繰る●(カネヘンに「鹿」の下に「レッカ」。補助漢字 区点=6983 16進=6573)の音。 すはや敵よ……味方か。味方ならば……此処に潔よく腹掻さばいて。首級を彼に頼まばや。我とても生く可き命にあらず。敵ならば……行歩は自在ならずとも。今生の思出。快よく切結んで。美名をかれの口より挙ぐ可し。  《来れ何者》 太刀の血を雪にすり拭ひ。遅しと待つ処へ。青総かけたる白栗毛の。逞ましき逸物の蹄に雪を煙らし。驀地に駆け来る武者一騎。鎧は褐色威。目深に頂くは同毛の六十四間の星兜。獅子頭の前立物に金の鍬形を聳かして。左脇に青貝摺りたる二間柄の大笹穂を横へし騎馬の姿―天晴物慣れたる武者よ。 此処に人ありと心附ずや。馳抜けて通る後より。
 《此は浦松小四郎守真なり。手傷少々負たれど。勇気は少しも衰へず。御不足ながら御相手仕らむ……いかに》
と声をかくれば。かれ俄かに駒首引廻らし。其足を留めて目庇の陰より。守真の顔を篤と見。
 《やーッ小四郎か》
いふは誰。 守真深く怪み。兜の内を伺ひながら。
 《如何にも拙者は小四郎守真貴殿は……》
問はれて。背に閃めく。指物の旗の端をとつて。守真にしめす。見れば緋羅紗に遠山左近之助武重と白し。
 《やーッ伯父上か》 涙声
 《小四郎……珍らしや》  これも涙声。 遽がしく馬を下り。●(カネヘンに「鹿」の下に「レッカ」。補助漢字 区点=6983 16進=6573)とつて進み寄れば。守真恭しく一礼して。
 《其後は御健勝で祝着に存じます》
 《御身も達者で……》
いひかけて眉を顰め。守真の姿をと見……かう見。
 《大分の手傷。面色といひ呼吸といひ。気遣はしい。重手では御座らぬか》
戦場の習とて。親は子をすて。子は親を思ふ暇なく。人の心は剛に流れ。寄手の松火に目さまし。胡●(タケカンムリに「禄」。補助漢字 区点=5080 16進=5270)枕にいぬるまで。やさしき言葉は。かけられも。かけもせず。かゝる時なれば金瘡の血を甞る。大将の慈悲の舌には。惜むべき一命も物かは……棄る気になるぞかし。 人と見れば。うつか―討るゝかの中に。思ひもよらず逢ふは……伯父―聞くは……温言。 ばらばらと玉走る涙は草摺の血を洗ふ。
 《は……はィ》 あとは無く。さしうつむく。  武重は唐綾の燧袋より。金瘡の薬とりいだし。舌頭に湿して指に載せ。
 《さ……さ小四郎薬……面を……》
守真会釈しつゝ顔をさし出せば。武重其頤に手をかけ。疵口に薬を塗りながら
 《ほーッ此は……どうじや痛むか……うーム左程痛まん……外に矢疵でも請られたか》
 《はッ……左の籠手と腰の番ひ……外に一ケ所高紐のあたりへ強く横矢を請ました》
 《左様か》  と声をうるませ   《玉傷は……》
 《幸ひに弾丸はうけたやうに覚えませぬ》
 《玉は受けぬ……其は目出たい……ひどく震へる様子だが如何いたした》
 《只今此処で……》
と倒れたる雑兵を指さし。
 《こ奴に不意に右の太股へ鎗を……》
 《こ奴に……仕留られたのか》
勇気を心に誉る笑顔。守真も淋しげに笑を含み。
 《細首打落してくれました》
 《ふーム天晴》
と守真が乱髪にふりかゝる雪を払ひつゝ。痛手に凋るゝ姿を見て偸かに涙おし拭ふ。 響く……突然……弾丸の音―釣瓶ばなし。 守真むくと首をあげて其方の空を睨め。ふり向く顔と武重の顔。
 《計らざる処にて見参致し今はの際の喜悦……》
 《なに今はの際》
 《はッ此より戦場へ引返し……花々しく斫死致す所存でござります》
 《いゝ所存―いゝ覚悟。さりながら御身が勢は無残な敗軍……あレ……あレ味方が揚る鯨波。今御身が取てかへし。一働きとは天晴……義の潔よしとする処なれど。累卵を以て大石の喩。御身一人次ぐ味方もなく。群がる敵へ斫込で。三面六臂の目ざましい働きをした処が。急に味方の勝利になるではなし。言はゞ犬死……ましてかけ退も不自由な重手をうけて居ながら……余りといへば無謀な量見……如何なる怪我で。名もなき下郎に首級を揚げらるゝやも知れ難い。合戦は今日一日に限るではなし。十分手当をして。英気を養つた其上で。存分の働きをしやれ。何時でも一命は捨らるゝ。一先拙者の館へ立越え。ゆる/\手疵の療治を……のゥ小四郎》
実意を籠めて説勧むれど。忠義一徹の守真。 武重を恨めしげに見遣り。
 《お言葉とも思ひませぬ。死すべき時に死せざれば。死ぬにましたる恥辱を受ると申すに……武運拙なくして味方の敗軍。たとひ手疵を負へばとて。戦場を脱けて此処等を徘徊致すは。我ながら快よく存じませぬ。まして……卑怯者と敵味方の者の思はくも耻かしう御坐るに。此処を落ちて館へ来イ。ゆる/\療治せよ……御心切は御心切なれど。伯父上。平常とは違ひます……名を惜み義を重ずる武士に……夫が仰せ下さるお言葉か。名を惜み義を重ずる武士の……夫が御意見か。余りと言ば女々しいお言葉。此小四郎は命を惜む腰抜物と。おさげすみの上の御戯言で御座りますか。伯父上。亡父と積年御入魂の御馴染。且はその遺言を以て。我子と思召して御意見下さるならば。何故に潔よく討死せよとは。仰せられて下さりませぬ。却て御厚志を恨めしくぞんじます》
当然の理に責められて。武重は―鎗を突き。鞍にもたれ―首を下げて無言なり。返事如何にと。流盻に見やる守真。 かれ一言の答なければ。苛ちて
 《伯父上……さらばで御座ります》
何を思案の武重。言葉は耳にいらざるか。体さへ顔さへ。少しも動かず。鬣の雪に身をふるはして。馬のみぞ高く嘶く。
 《是が此世の御暇乞ひ。―伯母上にも芳野殿にも。守真がくれ/\よろしく申あげましたと御伝言を頼上ます》
次で言ひださんとせしが。懐旧の涙に暫らく咽ばされ。
 《不運の小四郎。八歳にして父母に別れ。夫より今日廿五歳の暁まで。伯父上伯母上の御不敏にかけられ。実の親さへ及ばざる御慈愛。山とも海ともたとへ方なき御高恩を蒙り。小禄なりとも給はりて。父の名籍を受嗣ぐ迄に相成しは。偏へにお二方のお骨折。いつかな此御恩報じと。日夜忘るゝ暇もなく思ひ続けて罷り在しに。計らず此度の合戦。伯父上とは敵と味方に別れ/\。勿体なくも大恩ある伯父上に弓をひきしは。私にかえ難き主君の御為。武門の奉公のつらいと申す事。今日始めて思ひ当ました。館へ来いとの今の仰せ。日頃に替らぬそのお言葉。何処までも不敏と思召せばこそ。平常なればいかやうなる無理難題を仰せらるゝとも。身骨を砕いても。御意を背く心は御座りませぬ。まして御心切のお言葉。推しても願ふ処なれど。仮初にも主君を持つ身の上。武士の意気地。小四郎がいふにいはれぬ心の中。御賢察下し置れて。折角の御厚志に背くの段は幾重にも……伯父上……これこの通り手……手を合はして……》
「願ひます」は涙に紛れ。がばと伏せば。声は立ねど武重も。震ふ鎗先に陰されぬ涙。守真曇れる声を励まし。
 《わけて伯母様には……》
少時励みても。また撓む。
 《言語に絶せし御慈愛を被り。常々身のまはりの物何不自由なく賜り。風引ても人を使はされ。気分はどうじや。欲しい物あらば申越せ。この薬を用ゐよ……我子と思しめしての御心労。風引てさへ夫ほどに……此度小四郎が討死せしとお聞遊ばさば。いかなる事に成行かせたまはむかと。今死ぬ際に臨むでも。心に懸る伯母上のお身の上。なる事ならば唯一目。なつかしいお顔を拝し。長年うけし御恩の御礼なりと。せめては一言申上げ。此世に思ひ遺す事なく。快よく生害致したう御座ります。尚又伯父上にも伯母上にも。改めてお詫を致しますは。芳野殿の事》
黙然としてひそ/\涙を拭ひ。耳を清ませし左近之助。わが娘の名を聞くや否。身を背けて鞍の前輪に兜を犇と押つけ。堰留し奔流一時に注ぐ涙。如何なれば……所以あらむ
 《風の便に承まはれば。不束なる小四郎を思ひ詰められ。頼みなきほどのお煩ひ……難有いお志し……御伯父上始め伯母上の御心痛。御推量申します。これと申すもみな不義なる拙者がなす業。御免下さりまし。 芳野殿と拙者とは幼少からの許婚。今日明日と祝言の延/\に相成る内両家の確執。其処へ足下から鳥の立つやうな御台様のお言葉。たツて侍女の若葉と縁組せよ。仲立してとらせると……往生づくめの祝言。御主人の仰なりとも。かね/\許婚の妻を余所にするとは。いかなる人非人と。御二方の思召も御座りませうが。よく/\申すに申されぬ。深い仔細のある事と。お免し下さるやうに願ひます。此度小四郎が討死も。不義の天罰と思召して。御無念をお晴らし下さりまし》
武重は鼻を啜り。声をうるませ
 《なンの……なンの。お身が若葉殿とやらと祝言の義については。拙者を始め奥はいふに及ばず。む……む……娘まで。共々に毎日喜び泣にな……ないて居る。娘芳野は知る通りの不束者。気に入らぬは尤千万……》
いひも切らざるに。矢庭に守真立上り。股の痛手に●(テヘンに「堂」。補助漢字 区点=3263 16進=405F)と倒れ。倒れながら武重の脛楯に取縋り。おろ/\声を震はし。
 《そりや伯父上……そりや伯父上あ……あ……余りでご……御座ります。その様に御立腹では。小四郎が此世の心懸り。冥土の障りになりまする。犬畜生にも劣ツた恩知らずの顔を。御覧なさるもこれ限り。不敏の者と思召して。たゞ一言許してやる……とのお言葉を……さもなくば。あの世へまかり越し。どうも父に逢はす顔が御座りませぬ。何卒お心解られて……これ伯父上ゆ……ゆるしてやるとのお言葉を……土産に心やすく死出の旅が。い……致したう御座ります》
刀を杖に身を起し。力なき足を踏しめ梅の木下に立寄り。花多き小枝を切取つて。武重の前にさし置き。鬢の毛一束切払つて弓手に●(テヘンに「爪」。第2水準 区点=5720 16進=5934)み。
 《伯父上。 此髪の毛は伯母上に……遺物と申すも恐れ多くは御座りますが。たゞ小四郎が討死の記章までに。御届け下さりまし。またこの紅梅の一枝は。芳野殿へ拙者が寸志。先頃お目にかゝつた砌。拙者の庭の梅が開初めたら。是非一枝との御所望。今日は持参しやう。明日はと思ふ内。遂に本意を果さずさ……嘸や今頃は庭の梅も。いゝ詠めで御……御座らうが。其を進ぜる訳には参らず。さいはひの此梅と存じつき。一枝御覧にいれまする。小四郎が魂は此花につきそひ。伯母上にも芳野殿にも。やがて見参いたす心持にて。夫を楽に潔よく討死致します。伯父上には武運長久。御寿命万々歳……死後れては一大事。時刻の移らぬ内……伯父上此……此が長の……長のお別で御座ります》
俄かに涙を掻払ひ。立上らんにも痛手の苦しさ。二三歩をよろめき―よろめき踏出す。鞍に身を寄せ。涙に暮れし武重。鎗取直して突立あがり。鼻声を張揚げ。
 《暫らく……小四郎》
守真は立留り。頭を振り向け
 《はッ何御用で御座ります》
 《何処へ行く》
 《戦場へ……》
言はせも果ず。怒気を含む大音声。
 《黙り召され。先刻から言葉を尽して。言聞かするに。更に用ゆる景色なく。二言目には討死する……》
鼻の頭に「へゝ」と笑ひ
 《さほど命が捨たくば、戦場へ行くまでもない。伯父が相手を致さう。老体ながら御身如き若輩づれの。未練な刃は……》
胸板を。弓手に丁と一トツ叩き。
 《よも立まい。   見事伯父の皺首切つた其上で。まだ刃が鈍らずば。其時こそ戦場へ引帰すとも―切死するとも。御身の勝手。武重此処にある間は。其処一寸も動かす事はならぬ。さァ勝負》
二度三度鎗を引しごいて。身構ゆれば。
 《勝負とは……情ない……》
目も眩み心も消ゆる。いぢらしや守真が無残の姿。強く口には言へど。胸には涙。泣じとすれど曇る声。
 《情ないとは何が……今となつて後れたかさ……さ……勝……勝……》
 《後れも致さねば恐れも致しませぬ》
 《それになぜ勝負は致さぬ》
 《どうあつても勝負は出来ませぬ。其鎗でさ……さ。一思ひに突透して下さりまし》
 《手向ひせんものは死人も同然。左様なものを手に掛るは本意でない。戦場へ向ふも此処で戦ふも。命のやりとりに二ツはない。サ。早く……》
 《いッかな成ませぬ。相手といふは大恩のある伯父上。亘合さむ其鎗は。亡父が秘蔵の笹穂……刃向がなりませうか》
実に其鎗は守真の亡父守道が双なき秘蔵の業物。遺物とてかれに譲れるなり。見るからに思ひ出さるゝ亡人の事―其人の遺言「我子を頼む」 我子とは……小四郎。小四郎は……此姿。武重は鎗をカラリ投げ。立たるまゝ男泣に咽び入。今迄は遠くも隔てぬ戦場の。物騒がしく聞こえしに。先程より寂寥となりしが。えい―えい―わうといふ勝鯨波。俄に天に轟けば守真●(イシヘンに「殷」。補助漢字 区点=4813 16進=502D)と膝を打ち。無念の一声。
 《南無三ツ》
いひも敢ず太刀取直して。咽喉へ突立んとする。武重あはてゝ其手を捕へ
 《逸まるなツ……これ》
太刀をもぎ放す処へ物の具の響。後の方より遠山が郎党一騎馳来り。武重の前に跪き。
 《味方大勝利。敵は最早二三里も引ました。大慶に存じます》
守真のうつむけたる顔をのぞき込み。
 《おー…珍らしや小四郎様》
力なく首をあげる守真。郎党を見て。
 《新六殿か》
 《はッ…おー。おー。そのお手疵は……殿様》
武重と顔見合せ―顔を背け……涙。
やがて武重に何事か囁かれし新六。点首て守真に近き。
 《小四郎様拙者がお伴を仕ります》
 《一先館へ引取られよ》
守真今は為む方なし―戦場へは向はれず……義理の箭に射すくめられ。 自害は得遂げず……恩愛の手に障えられ。死を望む身の……何事ぞ―死を厭ふ人と異ならぬは深手の苦痛。新六の肩をたよりに辛うじて立上り。せわしき呼吸の間より
 《伯父上さらば……》
武重は言葉なく。たゞ返答の首肯。郎党には。
 《新六気を附て参れ》
 《はァつ》
西へ静かに急ぐ二人の後姿。東へ遠く薄らぐ駒の嘶。あとは蹂躙りし雪間の死骸―梅枝の生首。 沢辺の枯蘆風に友摺れて。頂く雪をふり落せば。警き立つ羽音高し二羽の鷺。
 
 
     怨言の巻
 
 留めても行く春
   なげきに散残る
      よし野が事
 
遠山が館の奥まりたる別室に身を忍び―病を養ふは浦松小四郎守真。 苦悩の中も敗軍の無念やる方なく。戦場の恋しさ胸に絶えず。明日にもあれ。矢一筋射るほどにもならば―この家の人々承引あるまじ―夜に紛れて窃かに脱け出し……その時はいかなる強敵に亙り合はすやらむ。先頃の合戦に。森陰より現はれし武者―鎧は胴丸……黄櫨匂……筋骨の逞ましさ。あはれよき敵。 乱軍の中なれば姓名を名乗り合ふ暇なく。彼は大太刀我は長刀。 二三合あはす間に。崩れ懸る雑兵ばらに隔てられ。勝負を決せざりしこそ遺憾なれ。 あの武者風―あの太刀風。誰が御内の誰なるか。捨つる命ならば。あれほどの刃に。札を試させむぞ武夫の本懐。此度もかけ向ひたらば。あはれいみじき敵に出逢ひ。守真が目覚ましき合戦の様を。其口より人々の語草に伝へたき。 血気に逸つてかく思ひたつ時は。矢も楯もたまらず。夫は心ばかり。矢疵は扨置。太股の鎗疵に。五体のあがきも思に任せず。ぢれて独り泣き。身もだえ―苦痛。足ずり―苦痛……涙……呻声。
 《もォし小四郎様……小四郎様》
枕元に誰そ。優しき声。守真閉ぢたる眼を細々と見開き。
 《おー芳野殿》
 《御気分はいかゞで御座ります。母も一方ならず御案じ申して居りまする》
 《難有うぞんじます。して伯母上は……》
 《一日も早くあなたの御本復遊ばす様にと。此頃は毎朝山の不動様へ日参を致します。もう大方帰るで御座りませう》
 《なニ不動へ……日参……》
青ざめし頬を流るゝ涙。拭はんと夜具の中に手をもがけば。芳野はさし寄り。我袖に柔かく拭ひ。
 《今朝はお顔色がお悪いやうで御坐りますが。また強くお痛み遊ばしますか》
 《いや追々苦痛も薄らぎました。伯母上はじめあなたの御介抱。お礼は言葉に尽くされませぬ》
 《なンの他人がましい。左様な事を思召さずと。御自分の家にお出遊ばす同様に。何なりと御用をおつしやつて下さりまし》
 《拙者ゆへに伯母上は御日参……あア勿体ない。冥加に余る御厚志》     芳野の顔を見護りて。
 《久々御病気とうけたまはりましたが。もり御全快なされたか》
 《私…………はイ…………その病気を御存じで御座りましたか》
裏に怨を含む言葉―麗はしけれど薊の花。 刺ありとしれば手はのびず。 守真は眼を塞ぎ。
 《ゆるして下され》      千言より一句のつらさ。
 《お目出たうござりました》
応ぜぬ答。 目出たいとは何が。 守真の今の身の上に。不吉ならぬはなし。敗軍―武士の最も忌む可き。 服薬―人の最も厭ふ可き。 守真は解せぬか―答なく。解したるか―顔を背く。
 《御祝言遊ばしましたとやら……》
扨は是……此恨みか。 毒を塗りし尖矢。うらかくまで守真の胸。 あツとも言はず身を縮まし。あとは何事をいひ出すかと。血は脈管に浪を打つて。胸は安まらず。 あとの言葉を気遣へば今の無言の気味わるさ。 あツ。口を開く……身は縮む。
 《小四郎様。女と申すものは貞操が大事と申しますが。その様な物で御坐りますか》
荊棘に咲く桜―思ひもかけぬ……奇異な質問 守真は深く訝りながら。しかし容易に。
 《申すも愚。女は貞操を守つて両夫に見えず。男は二君に……》
言ひかけて猶予ふは。我身に耻てか。
 《芳野殿の手前も面目ない……忠臣は二君に仕へず……難有い御教訓。なか/\生長らへて居らるゝ身では御座らぬ。思へばあの時伯父上のお言葉に背いても……》
米を種えて稗―芳野は呆顔。
 《あレ何事で御座ります。私の申した事がお気に障りましたか。その様な心で申したのでは御座りませぬ。女は両夫に見えずと申しますが。殿御は沢山恋人をお持ちなされ……てもよろしいので御座りますか》
守真が気を損じてはと。こは/\ながらいふ怨言。 気を損じてはと。斟酌するは「愛」 怨言は「悪」水火のやうな「愛」と「悪」を。加減する処女心。何処までも悪からぬもの。 守真が答―応といはば。我身を弁護へども……道に背く。 否といはば。道に合へど我身に裏切る。 思案に暮れて口を閉ぢしが。露を厭ふも濡れぬ前。 我身を裏切れ……道に合へ。
 《たとひ男たりとも左様な事を致すやからは。男傾城とか申して武士たるものにはあるまじき挙動で御座る。女とて忠義は忘れてならず。男とて貞操なくては叶はぬかと存じます》
 《其ほどよく御存じの上で……》
他人と縁組は……と詰んとせしが。「はしたなし」と我を誡め。
 《あなたは私が左近之助の娘といふ事を。お忘れ遊ばしましたのか》
守真の心の「箭」は芳野が言葉の「脱兎」を逐ふ。 此処の薮に認る形。瞬く間に彼所の林に其影。 出没謀られざるを。足場も定めず逐まはし。不測の崕を踏外さむかと。気は退けて進まぬながら。
 《なに。 左近之助の娘といふ事……なンで忘れませう異な事をおつしやる》
 《いヽヱお忘れ遊ばしたに相違御座りませぬ》
少し声をうるまし。膝を詰寄せて言ゝ懸れば。
 《何故に其様な事を……》
 《何故……とはお情ない。左近之助の娘なら。幼稚折から浦松小四郎守真の許婚の妻では御座りませぬか。親と親とが誓文許した女夫では御坐りませぬか。もウし……小四郎様》
夜具の袖に取附き。身を震はし。
 《あなたは左近之助に芳野といふ娘がある事をお忘れ遊ばしたので御座りませう。余りといへば……お……お……お情ない》
守真は青く―こけたる手をさし出し。芳野が伏したる肩にかけて
 《なンの其を……八幡忘れは致さぬ》
肩に懸られし。守真の手を握り詰め。
 《なンとおッしやッても。現在私をお見捨遊ばして。外に言換はしたお方と……》
言ふに言はれぬ口惜さは。涙と咽び声が物語る。暫時は其等に物語らして
 《男とて貞操といふ事はあると。只今おッしやッたからは。夫はよく御存じのはづ……》
此処でまた言葉を途切らし……途切らせしは。 はしたなく言過さばと男の心をかねる例の娘気。 なるたけは柔らかに。しほらしくと心を配れど。其人の顔見るからに恋はいやましに募り。募るほど恨みは一卜入深し。 恨があればこそ言葉は恨。 言ふ事は思ふ事―思想の媒。 鏡に花を翳して月の影とは見えず。 此「自然」に逆らひて。泣くに笑ひ。怒るに喜ぶは。世なれし曲者の業なり。
 《それ程御存じの筈……それをいかにお主様の命だとて……また御主様だとて人では御座りませぬか。鬼か蛇でゞもある様に。まるで情を御存じない方でも御座りますまい。たツて今の奥様をお勧め遊ばされたとき。小四郎様。あなたはなぜ私といふ……左近之助の娘芳野といふ。歴とした妻があると。おッしやッては下さりませぬ。 いかに無理なお主だとて。其を推して縁切ッて。今の奥様をとお勧めなさるやうな事がありませうか……其様な事が御座りませうか。母が話に聞きますれば。今の奥様はお主の御台様が御秘蔵な……子のやうに御不敏がられるお傍の衆とやら。其方があなたをお慕ひ成されて。死ぬほどに……他人さへ一命かけて焦れるものを。幼稚馴染の私が。それに愚が御座りませうか。御台様もその心根を不敏に思召し。お上からのお言葉……おとり持で。御縁組なされたとの事。其時のそのお傍の衆の心持はまァどンなに……えヱつ思出しても口惜う御座ります。御台様も御台様。御自分の御傍の衆が不敏なりや。私の心とて。不敏は同じ事。其方が死ぬほどなりや。誰も死ぬほどに思ひますに。あなたの口から此々と訳をお話し遊ばして。御辞退遊ばして下すッたら。いかに御主の権柄づくでも。其を無理にとは。よもやおッしやりはなさるまい。其方とかねて深く言換し。私のやうな不束なものは厭におなり遊ばしたゆへ。言訳もおつしやらず。御意を幸ひに御祝言なされたので御座りませう。なンとで御座ります。小四郎様》
守真が手を握詰め―抱〆め。恋の一念がいはせる恨。日頃に応ぜぬ舌の働き。なよやかに見ゆる庭の若竹も恐ろしや雪を刎返す力はあるもの。
いかに芳野。 知らずや戦国の常として。味方同士に狐疑を抱き。一言の讒に千人の命を失ふ。其の城某の陣。妻を遺し子を送り。人質に誠を明かす頼みなき世の習。春秋戦国の時魯の兵術者呉起といふは。斉との合戦に大将としてさしむけられたき望あれどその妻斉の産なれば。魯人の思はくをかね。神ぞ二心なき真心を明さんがため。露咎なき最愛の妻をわが手にかけ。功名首尾よかりしが。残忍薄行の男よと名立られ。遂には身にふりかゝる禍のあらんかと恐ろしく。魏国へ走りし例もあり。無情なる呉起の振舞。人の人たるものゝ学ぶべきにあらざれど。時にとりては此に似たる心掛なくては叶はじ。小四郎守真八歳にして孤となりしを。父が義兄遠山左近之助陰ながら守り育て。弓引き太刀打業をも伝へ。此までに……。 瑣少の事より両国の合戦さし起り。伯父甥其君を異にすとて。敵味方に立別れたれば。守真は敵の内に伯父と頼む人あり。二心はなきか。油断なく振舞に心附けよなど。あらぬ陰言も耳にいる其矢先若葉が恋慕―もだしがたき主命。 敵の内に伯父を持つさへ。讒口の種となるを。其娘―敵の片われと二世の契……此を大胆にも主の前にて言放つべきか。 祝言は否むべし……我身の浮沈。 主の心を損じて君臣の縁を絶れ。編笠やれ鼓―轍の魚と落ぶれても。むかしの一諾を重ずるがために。不道の君に見放されしと名を立らるゝならば。知行や扶持に心を煩はす守真ならず。義ゆへの浪人ならば犬となツて。肩衣に臂張るよりは心易し。それしきを暁らぬ小四郎か。 それしきを得為ぬ守真か。又芳野が怨言に。許婚の我に秋を吹かして。萌え出る草の若葉に見替しとは。そもや乱心しての言葉か……心得ぬ。此守真は甲冑を伊達に衣る男傾城と見たか。十余年の長の月日。小四郎が顔ばかりに気を奪はれて。皮一重内の腸は。仇に見過せしか。芳野といへば筒井筒。振分髪の許婚。其両親は海山の恩を受けたる伯父と伯母。思案の外に迷へばとて。この義理を忘れやうか。若葉との祝言に熱鉄の盃を酌み新枕の針の床に。鬼と添寝の夢を結びしは。讒言の外に身を措く一時の策略。もし芳野の事をいひ出して。二心の汚名を受けなば。味方の笞に背を破られ。敵に濺ぐべき血汐をむざ/\流し。剰さへ馬革に裹べき屍を藁席に巻かれなむ。此身一時の苦痛は忍ぶに難からざれど。万代不朽の悪名は。守真が恥辱祖先の名折。かほどの事を土百姓は甘んずるか。素町人は得忍ぶか。武士は得忍ぶか守真が甘んずるか。常に似ぬ愚痴の繰言。 爾がそれを言にはあらじ―恋が其をいはするか―恋には誰が性根を奪はれし。  此程守真が戦場へ向ひしに。二ツの目的あり。  一に主恩を報ずる事。二に遠山夫婦の恩を受け。芳野を妻と定めながら。若葉に添しは余義なき主命。 半日なりと添ひしからは。主命に背かず若葉の心を無にせず。扨は一命を捨て。遠山夫婦未婚の妻芳野へ言訳の事。出陣の砌遺したる書置も。此心を籠しなり。  かくは思ひながら。今更なまじゐに言出しても。疑心の鬼は挫ぐに難しと。半句も吐かず。 答なきを芳野はなを恨めしく。
 《お主様のお取持で御縁組遊ばした奥様。それをとやかう申すでは御座りませぬが。つィ此間まで此処へお出遊ばした時は。女房とお思召してか。可愛らしい情らしいお言葉をかけて下さりましたに。今度戦場からお帰り遊ばしてと申すものは。恩に着せるなンのと申すでは御坐りませぬが。三度の食事からお薬のお世話まで。女房の役目と心嬉しく。人手にかけず及ぶだけは。御介抱申上げても。いつも御機嫌わるく。頼みもせぬ事をといはぬばかりの御様子。私の不束なは御一処にお遊び申した幼稚時から御承知のはづ。其を今始まりでも致したやうに。急につれなく遊ばすのは。御同欲と申すもので御座ります。幼稚時から恋ひ慕て居るものを……よしやお気にめさずとも。よそ外の方を奥様にあそばしたゆへ。定めし口惜くも無念にも思ツて居やう。不敏なものだと露ほども思召しがあるならば。責めて気安めなりと優さしいお言葉ぐらゐは下さりさうなものと。この頃のつれないなされ方を見るにつけ。恨めしいやら悲しいやら……く……口惜しいやら……かうかうだと母に申せば。みンなお前の不束からと……取つかうにも頼まうにも……》
聞けば悪からぬ心―哀れの述懐。 守真の骨は砕るばかり。芳野の胸は裂るほど。袂を噛占て畳に伏し。涙は惜まず声を惜みて泣く。やうやく面をあげ。頬にかゝる鬢の乱れ毛の濡れたるを。掻払ひ掻払ひ
 《いッそ死たう御座ります》
 《死にたい……》
 《はイ楽ない命を長らへて。こンな苦労を致すより……》
 《惜からぬ身をいつまでも……口惜しい日を送るより……》
不思互ひに見合す顔。 見合す間もなく背ける顔。 芳野は涙を拭ひ。守真は眼を閉づる。
恋に死ぬるも命―名に捨つるも命。 因縁いかなればかく惜からぬ命の人。二人まで相逢ふ事か。 憂世は独りの憂世ならず。
「はァつ」と守真の太き溜息に驚かされて。芳野の眼はかれに向く。 其顔色は光沢なく青ざめ。頬骨の露はなる。二ケ所の疵の赤黒き。面影かはりて其人とも思はれず。 此前逢し時は。今凄味を添ふる乱髪。其を油艶やかに取上げ。今愁に濁る眼。其も冴々しく愛嬌を含み。今苦痛に慄く紫の唇。其も丹く潤ひ。何一つ恋を媒たぬはなかりしに。哀れ何一つ愁を語らぬはなき今。
見るにつけ其人の盛なりし越方を思出し。行末いかにかなるらんなど心細く推計り。目ばたきもせず守真の顔を見護る内。芳野の心には「憐」の情「懐旧」を呼出し。「懐旧」「恋」を催し。 無情されても其人の傍―瘠衰へても其人の顔。 ならぬ恋かと思乱れて。重き枕に喞たる時を思へば。薄々の酒も茶よりはまし。 夢になりと面影の通へと。願ひし事さへありしを。嬉しや楽しや今の我。 芳野は愁の中の我を忘れて。淋しさうに笑を含む―思慮定まらぬ処女気。「悲」も手のうら返して「喜」。 蝶は紅に遊ぶ間に。風に吹かれて紫に眠る。
芳野の初々しき笑顔に。守真も思はず笑み返す。 今となツて何を羞づるか。芳野自からも知らで。顔少し背けて振袖の袂を拈り《どうしてあの様にはしたなく言過したか》  思へば一倍の嬌羞さ。
 《芳野殿……芳野殿》
和らかに守真が呼声。 拈る振袖を横顔に翳し。其隙から男の顔を詠めて。
 《はイ》
 《芳野殿。改てお願が御座りますが聞て下さるか》
 《あノ私に……叶ひます事ならば何なりと……》
 《必らずお聞き下さるか》
親しく問ひ懸られて。嬌羞さも薄らぎしか。枕近くにぢり寄り
 《その代り私のお願も……》
 《其は申すまでも御座りませぬ》
 《小四郎様きツと……あノきツとで御座りますか》
思ひの外の挨拶は疑惑の種。
 《武士に二言は御座りませぬ》
淀みなく言放てば。紅らむ顔を。袂に包む嬉しさ。
 《お嬉しうぞんじます》
守真は二ツ三ツ咳く苦痛に。眉を皺め。
 《改めてお尋ね申すも異な物で御座るが。あなたは此小四郎を二世の夫と思召す其お心に。詐は御座りませぬか》
言ひ切ざるに折返して。
 《今更其をお尋ね遊ばしますか》
 《相違は御座りませぬナ》
恋に最も恐るゝは「疑念」。芳野は声を湿ませ。
 《あらゆる神様仏様を誓にたてゝ。此に詐は御座りませぬ》
 《其ほど思ふて下さる拙者に。なぜ陰し立を成さる》
語気を鋭く詰り懸る。 思も寄らぬ難問。途方に暮れてはや…涙
 《小四郎様あなたは根もない事を造えて。私の願を叶えぬやうに。遊ばすお心で御座いますナ》
 《小四郎は左様な卑怯ものでは御座らぬ。あなたの深く包むで居らるゝ事を。疾くより見抜て居ります……一昨日伯父上から御便が御座りましたらうが》
 《えヱつ》   驚くを見て。さこそといふ笑を含み。
 《そのお便を聞かして下され》
いかにして守真は知りけむ。此便といふは左近之助が陣中から凱戦の吉報。   敵の大将は不意の夜討に自害をとげ。名あるは同じ道にと屍を晒し。憶せるは降人となり。落人となりけり。此便に母を始め下人まで。われが命拾ひせる嬉しさ。父が目出たき帰館は。小四郎がやる瀬なき遺恨。 笑ふてよきやら泣てよきやら。芳野の胸苦しさ。 《父上がお帰り遊ばす》。 と機嫌顔に母がいふを。義理にも泣顔はならず。人情としても喜ばねばならず。 嬉しいが五分なれば。悲しいも五分。父の凱陣言ひ換て敵の敗軍。其と聞かれたら嘸や守真の歎。戦の吉報を母から耳に入るゝと同時。目に浮ぶは守真が涙の顔。心に浮ぶは守真が遺憾の情。  《此上もなく目出たいに何を不吉な……涙を出す》 と母に詰られて包むによしなく 《嘸小四郎様が御無念で……》 と一思ひに言放てば《道理》 と一言。あとは貰ひ泣にして暫時あり。 《味方敗軍と聞かれたら利かぬ気の小四郎殿。早まツた事するも知れず。此は父上がお帰りまで必ず秘めて……》 《あイ》と覚束なく答えたりしが。今守真にとひつめられ 《語らうか》母の言葉の如く。もしもの事ありては…… 《陰さうか》我恋は此返事一ツに成りもし。破ぶれもす。 実を語らば。一時我恋叶ふても。小四郎様の一命。 語らずば我恋は此儘朽ちて我命まで……我恋─人の命。いづれ軽重の別なく。思案に迷ひしが……我から語らずとも終には露はれむ。
 《母の堅い申しつけゆへ。深くお包み申して居りましたが。陰し立てする水臭い女と。お疑遊ばすゆへ申上ます……から。どうぞ私のお願を……》
 《慥に……》
 《屹度で御座りますか。 実は敵方はさん/゛\に破れて。大将までが討死。あしたあたりは父上も帰ると母上の話しで御座ります》
 《なニ大将までう……う……討死……》
苦痛を忘れて跳起。 五体を震はし歯を喰〆め。
 《む……無念口惜しい》
逆立ツ眉。血走る眼―駭く芳野は守真に取附き。
 《小四郎様……もシ小四郎様》
縋るを突除け。枕元の鞘巻に手を掛れば。突除られし芳野。また其手にしがみつき。
 《何事を……御生害か》
 《しィつ》
芳野は忍ばす声に力を籠め。
 《逸まツた事をして下さりますな》
女ながらも一生懸命。男なれども病苦の瘠腕。白き手と。青き拳の間に。二寸輝く刃の光。 振解き―抜放す力はなく。無念と苦痛をまぜし守真の呼吸―驚駭と恐怖にせはしき芳野の動気。それの漸く静まる時。
 《父上も明日は帰りますゆへ。御相談遊ばしましたら。よい御分別も御座りませう。御短気はどうぞ……小四郎様》
痺るゝ手から鞘巻をもぎ放され。守真は無言―投首。今此所で。自害覚束なしと思へば。
 《いかにも……伯父上に御目に掛て……》
詐偽と知らねば
 《はイ。どうぞさう遊ばして……》
 《芳野様……芳野様》   書院の方に侍女の声。
 《どうぞ御短気を遊ばしますな。此馬手指はお預り申して参ります》
芳野は鞘巻を懐に押入れ。乱鬢を掻き―眼を拭ひ。
 《お風を召ます……御寐なりまし》
 《此儘でよろしう御座る》
 《左様ならば後ほどまた……》
力なく立上り。しほ/\と襖を開く。
 《芳野殿》
 《はイ》
ふり向く顔をつく/\見て
 《伯母上に……よろしく……》
 《はイ……必ず御短気を……》
首肯く守真。出行芳野。知るや其鞘巻は遺物―黒髪を切れとて。
 
 
     自害の巻
 
 吉野は春若葉は夏
   われは世を秋の
     露の命の事
 
行燈の覚束なき火影。隙間偸む風に揉れて。明……滅……定めなき人の命。屏風立まはしたる床の上に。我篠楯も寛むほど。瘠哀へし脛を組み。陣刀に縋つて乱髪の頭を垂れ。我目にも我身を今宵が見納め。 一死と覚悟は極めながら。心といふ物ある間だは。気に懸けらるゝ此世の事。  主命に是非なく。心外の契。とはいひながら初枕―忘られぬ物。 妻―我に焦れし女。 若葉―名は詐にて姿は花と人の誉物。気立もやさしくしほらし。 これ程の女が恋婿とて。身に替て大事に労るを。懐にいる窮鳥―鳥は言葉もなく情もなく。猟師は殺生に慣れて心自から荒し。 其さへ之を射らず 筒井筒の芳野を思はぬにあらねど。半月たりとも妻の若葉。にくからう道理はなし。 その悪くからぬ妻……心にかゝる。またの逢瀬を未来にたのみ。生がひもなく取遺されし心の中……しかも女心。出陣の時十分悲ました上。又鎧櫃の書置。 命の絶えざりしか。心の狂はざりしか。玉の緒絶つばかりが殺生ならず。絶たずして絶つにます苦。 無残な……無慈悲な……此が女夫の間にする戯か。離別の折責めては笑顔を見せ。頼もしき言葉をもかけべきに。未練を残させじと無情せしは可憫の妻……可哀の若葉。忽然胸に浮ぶ離別の有様。
更衣初の六日……「春の曙」……聞けば暖かに長閑のやうなれど。雪を底に持つ空。灰色に曇りて。日出前のいとゞ薄暗く。芽ざし柳をしごく朝風に。鎧は寒て霜を浴び。足も踏留らぬ寒気。 二番鶏に凄まじく啼立られ。式台へ立出る若武者。引添ひて妻と覚しき美女。真紅の忍緒を手ぐつて。五枚錣の二方白の兜を。馬手重げに捧げ。弓手は揚巻の形を繕ひ或は。赤銅魚子の覆輪かけて。螺鈿の桜を散らせる。黒鞘の埃を袖にて一拭ひ。 夫に死花飾らせんとか……けなげにも。 哀れを知るや其処に跪る郎党の。さも悪気に半頬当たるが。鋭き上眼づかひに主人を見遣り。草鞋を直しながら。白く―太き息を吐く濁声。
 《大分白むで参りました》
若武者は首肯くばかり。やがて草鞋の紐を結び。立上て二度三度足踏して。
 《若葉……兜》
声の下。郎党心得て。物をもいはず若葉の手より。もぎ放すやうに兜を請取る。凋れて式台に座したる若葉。じり/\と居去ツて夫の草摺に縋れば。振むける顔―見上る顔。 両人ながら身を動かさず声を出さず―。只見詰合しが。四つの眼ばたき。自から隙なく繁くなりて。堪えずや一雫……若葉か。次で一滴……守真か。 跡は執れを誰のと分たず。 傍に見る郎党は。手持無沙汰の気の毒顔。手に持つ兜の星を数へて。素知ぬ風にもてなす。 若葉は女気の脆く。一声わッと啼たつるに。守真もたまりかね。草摺にかけし妻の手を執り。引寄する時。郎党と顔見合せ……其手を苛らしく振払ツて。一足踏出す
 《暫し》
と言ひながら鐺に取附くを。またふり切り。
 《健固で……参れ六郎太》
俯す若葉の耳に響く足音。 すはや行く。
 《御無事で……》
いふも嗚咽声。 矢庭にたちあがり―逐ひかけ門口まで走り出で見れば。其処に。 あレ二人の姿……急足に。 まだ袖や草摺の音も間ゆる間近。
 《声が掛たい……六郎太の手前……えェ名残が惜しい》
門の柱にしがみ附き。身悶え―足踏み―袂を喰裂き
 《えーツ……えーツ……えーツ》
胸は沸える。五臓はちぎれる。身を伸ばして見亙せば。二人の影は二尺ばかり。右か……左は威毛白し。白きが夫。えェ重なり合ふ。叱……六郎太脇へ寄れ。
 《あノ閃きは長刀……長刀は守真様》
姿はいつか朧……霞みて。霞の中に薄黒きを心当に。其人と詠め入りしが。生憎眼を曇らす乾ぬ涙。 拭ひてまた見れば。その薄黒き粒も跡なく消ゆる。消えてほしき霞は消えもせで。
念力に砕るほど。柱を抱きしめたりし腕の力は。次第/\に弱り。今はたゞ始め犇と取附きし形ばかり。五体はたゝかれし如く労れ果て。桃色に腫上る眥重げに。何を見む目的もなく。見詰る瞳は少しも動かず。茫然と立つ心の中は無念無想。悲しいも無く。恋しいもなく。夫もなく吾身もなし。慈悲に殺すといふこと。此世にありとせば。此時此若葉の命を絶つぞ是。 守真が向ひし方より。風が運ぶ陣鐘―雲に響く宝螺の音。 心づきしか目ばたきする若葉。 眼を閉ぢ手を合せ。
 《南無正八幡大菩薩》
    * * * * * * * * * *
 守真《思ふまい……女々しい》
此一言が唇を出るやいな。太刀も鞘から。 火影近くさし寄せ。鍔元より切先まで。切先より鍔元まで。見上げ―見下ろす帽子から五六寸に。一団の血の曇。守真にッと笑み。
 《是……肩先を……》
敵を斫らむず太刀―我身を護るべき太刀。 今は……我腹を裂く……此が我本意か。そもまた太刀の本意か。 主を殺す不忠の太刀……とはいひ乍今死なずば。君に対して臣たるの道に背き。伯父伯母には人たるの義理立ず。父母の在します冥土の手引。また我守真を臣たらしめ。人たらしめ。且は嬉しき対面さするは此太刀 身は護らずとも。義を守り。忠を守る―太刀の本意―我本意。 同じくは捨る命ならば。にくき敵一人たりとも。多く手に懸け死すべかりしを。鈍や伯父に説伏られ。久しく渇せし爾に。思ふまゝ血を啜らせでやみしは。爾が長年奉公の志を酬ひざるに似て。守真が畢生の落度。もし精あらばよしなき主取りて。一代功名も成さず。果は腐れし腸に汚がさるゝを。遺憾とも耻辱とも思ふ可し。我なき後誰が手に渡るとも。守真が佩刀たりしを。ゆめ暁られな。 暁られなば未練者の指料よと囃されて。誰帯ぶる人なく。光を糞土に埋め。われからの錆に朽果る事。よき誡のこの守真。
 《父上の遣物と思へば。太刀までが懐かしい……一刻も早く懐かしい父上母上に対面しやうか》
取直す太刀を袖に巻き。切先少し露はして。襟押寛げ。下腹を弓手に撫廻はし。
 《書置なりと認めて。伯父上伯母上に此まで受た御恩のお礼を述べたいものだが。矢疵の為にどうも手が……… あすはいよ/\伯父上も目出たくお帰り遊ばすことか。伯父上が御無事でお帰りなさるは何より重畳……それにつけて味方の総敗軍。殿までが無残な御最期……な…何が目出……たいのやら……あす勇むでお帰りなさる矢先へ。小四郎の切腹。さぞ仰天遊ばす事であらう。日頃あれほどにおぼしめして下さるお心では。大抵のお歎きではあるまい。どれほどお恨み遊ばすか。あァ……勿体ない。伯母上はまた女だけに御病気にでもお成遊ばしたら。日頃痺弱いお体……今日聞けばわれ故の日参……あ……あ……有難涙がこぼ……れる。かねての堅い約束を無にして。若葉との縁組。定てお腹も立うに。この戦でなくば宿元へ安否を知してやりたい。誰の思ひも同じ事。若葉が独りでどのやうにか苦労して居らう……此様な言葉が偽にも出るものか……また芳野殿の心切。今日の恨み一々道理其心を知らぬではなけれど。どうで一日か二日の命。なまなか思の種をのこしては。後の為になるまいかと。お身の為を思つてわざとつれなく致したので御座る。若葉に心が引かされてと疑はれて。薄情者とさぞ恨れて御座らうが。幼少からの馴染の守真。その様な男でないは。よく御承知で御座らう。此も因縁とあきらめて。思ひ切て下され。再び此世へ生れ替ツて参ツた時には。今最期の一念で。きつとあなたの顔を見覚えて。必ず女夫になりまする。あなたもどうぞ忘ずに居て…此世ではな…なき縁…心にもない不実を致した段はどうぞ許して下され。焦れて重病になられたとの事。小四郎が生て居る中……逢瀬の頼がある中でさへそれほど……今夜自害して果たらば……あァ……思ひ遣られる。 お二方が命に替て御秘蔵のあなたゆへ。もしもの事があつては。お二方の御苦労はどれほどか。あまり歎いて煩はぬやうにして下され。それが何より小四郎への供養……芳野殿頼みます》
更行く鐘に驚かされ。忙がはしく涙掻払ひ。
 《南無阿弥陀仏》
声の下。あァつといふ叫喚。 突立しか……沸出す血汐。左の小脇から五六寸。病苦に震ふ手は進まず。唇を噛裂くまで力を籠めて。じり/\と一文字に……仕て遣つたり右の傍腹まで……敢なく絶る命。
    * * * * * * * * * *
    * * * * * * * * * *
 《そンなら夫守真の……》
 《小四郎様のお内方か》
こは/\とばかり呆れ果て。互ひに顔。 板戸洩る日影白く。紙帳に騒ぐ風寒し。ほの/\と明る一夜。
 

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