『近世名誉英雄伝』

菊池真一所蔵。明治17年6月3日御届。岡田良策編輯。辻岡文助出版(金松堂か)。小本。黒色表紙。和装。銅版。題簽下部に「全」とある。序記は「明治十七年孟夏」。半丁(1頁)の下段に人物名と図と和歌、上部に人物伝概略を記す。50人掲載。明らかな誤字は訂正した。

[島津三郎][西郷吉之助] [有栖川宮][大隈重信] [西郷慎吾][五代才助] [中牟田倉之助][花房勝之進] [永山弥一][篠原冬二郎] [副島次郎][伊達遠江守] [長岡良之助][黒田了助] [照山主計][河野良之進] [鳥尾小弥太][川路正之進] [谷守部][前原一格] [山田市之允][井上馨] [増田宗太郎][辺見十郎太] [村田新八][徳川大納言] [田中不二麿][岩下方平] [四条隆謌][山田頴太郎] [坂田桃太郎][亀井隠岐守] [島津淡路守][奥平謙輔] [藤堂仁右衛門][三好重臣] [寺島秀之助][多賀谷長門] [三国八郎][澤宣嘉] [小野寺主水][野津道貫] [東伏見宮][東久世通禧] [黒田筑前守][橋本実梁] [岩倉具視][小原仁兵衛] [島津修理大夫][三条左大将]


島津三郎

公は故薩摩守斉興の第二子にして忠義君の父なり先帝児島三郎の忠義に劣らじ迚名を三郎と賜ふ公文武に長じ維新前より国事に尽力せらるゝことは短紙に尽す能はず勤王の勲功を賞せられ賞典十万石を賜はる明治七年にいたり左大臣に拝せらる然るに其後官を辞し本国桜島に赴かれ専ら閑雅を好れ花月を以て楽みとなし老身を養ひ給ふときく久光君之なり
あし原の御国の手振古へにはや吹返す春の初風

西郷吉之助

薩州の人にして初名を吉之助といふ後隆盛と改む又南洲と号す身体偉魁才略非凡慷慨なるを以て三度大島に流さる赦免の頃故に大島三右衛門といふ戊辰の役には参謀となり関東に下り奇計謀略其図に当り軍功第一等と称すべし其賞典二千石を賜はり陸軍大将近衛都督となる征韓論の行はれざるを憤り本国に帰りて暴挙に及び官兵と戦ひ遂に敗れて城山に自害す時に十年九月廿四日なり
雲はるゝ天のさか鉾跡たれて入日まはゆき霧しまの山

有栖川宮

宮は一品熾仁親王の子にして熾仁と称す天保七年に生る始め太宰帥宮といふ明治元年征討大総督に拝せられ錦旗節刀を賜ひ東北の逆を平げ成功を奏せらる四年に至り福岡藩知事となり八年元老院議官となられ尋で議長に進み十年西南暴動起る宮再度征討大総督に拝せられ諸将を率ゐて之れを平げ后陸軍大将又左大臣に任ぜられたり又霞堂と号し詩文に長じ給ふ
動きなき岩根の苔も池水の翠におなし色そなそへて

大隈重信

佐賀藩士にして其性敏悟経済の術に長じ且文武を兼戊辰の役には藩兵を率ゐて江戸に来り大ひに処分す夫より奥羽に進み平定の功を奏す后召されて参与となり大蔵大輔に推せられ又大蔵卿に進み参議となり十年西郷党乱を起す時に西京に在り輜重欠かず又北越御巡幸の供奉として赴れしが帰府の后官を辞し改進主義の総理とならる
いろ/\の草木はなへておもしろく匂ひ初ぬる梅の一ト枝

西郷慎吾

西郷隆盛の舎弟にして先名を慎吾と称す幼き時より兵学に長じ頗る果断あり戊辰の役には藩兵を率ゐ各所に転戦して軍功尤も多く維新の后朝命に由り英国に留学し帰朝に及んで陸軍中将に拝せられ七年三月台湾問題として都督たり九年米国に渡りて博覧会総裁とならる十一年文部卿又陸軍卿に転じ十三年参議后ち農商務卿を兼らる今従道君之れなり
日の本に光りを添て外国の湊を照す秋の夜の月

五代才助

薩州の人にして先名を才助といふ維新後友厚と称す又号を松陰別号を竹々山人といふなり其性聡頴夙に憂国勤王の志気深し諸藩の英士と親交し大ひに謀る処あり戊辰の役には衆に先立関東に下り桐野等と共に臨機の策を旋らし国事に尤も尽力せらる平定後開拓の事務に心労し北海の運輸を盛にして今に尚国益を謀らる
我家の賑ひのみか民草もいやしかるへき心つくしを

中牟田倉之助

中牟田倉之助は戊辰の役参謀と也奥羽に出張して各所に於て軍功少なからず中にも松前函館の戦争は殊に激しく脱兵は海軍及び陸軍と二手になり要地に拠りて官軍に抗す此時再度水陸の将となり赤塚源六岡啓三郎等と共に函館に進み脱艦回天蟠龍の二艦と砲戦ししば/\苦戦に及ばれけるが遂に賊魁を降し平定の功を奏せらる今陸軍中将にして其美名は高し
浜千鳥鳴音も絶て此頃は浪間に遊ふ影たにもなし

花房勝之進

氏は因州の藩士にして其性頴悟和漢の学に通じ戊辰の役には藩兵を率ゐ軍監たり江戸及び奥羽に出張して軍功屡なり平定後諸官を経て弁理公使となり朝鮮に赴く明治十五年彼の国の頑固党発起してより戦地を切抜て本邦に引揚再度談判をひらいて服さしめ帰朝せらる之れより外務三等出仕に拝せられ勲二等を賜ふ又魯国全権公使となり任所に赴く今義賢君之なり
皇国のみいつ光りはいやまして皆異国のあふくなりけり

永山弥一

鹿児島藩士にして幼名を劣斎といふ旧藩の茶道を勤めけるが其性剛邁頗る武術に長じたり維新前より勤王の大義を主張し戊辰の役には藩兵の隊長となりて関東に下り総野及び奥羽の戦争にも軍功あり平定の后陸軍少佐に拝せられ開拓屯田兵を設けられける時長となる職を辞して故山へ帰り十年西郷暴挙の時其徒に加はり軍敗れて自ら腹を割り以て死す
花も皆ちりての後は誰をかも語りもやらぬうたて世の中

篠原冬二郎

鹿児島藩士にして先名冬彦後に国幹といふ其性温和敦厚なれ共事に臨めば奮然として鬼神も怖るゝが如し伏見の開戦より続て東下上野屯集の彰義隊を撃の時は黒門口に向ひ山兵防戦強かりしかとも篠原は飛玉の下を潜りて山内に切入り彰義隊を破る平定後陸軍少将に拝せられしが征韓論の行れさるより暴挙に及で十年四月吉次越に戦死す
見る哉月を干潟の白浪も消て八代によせては返す

副島次郎

佐賀藩士にして通称を次郎といふ現今種臣と称するなり天資頴敏博学にして先人を圧す夙に世の一変するを先見し諸藩の英士と親交し大ひに国事に尽力せらる戊辰の役に臨みては能く策を献じ維新後歴官して参議に任ぜられ外務卿を兼らる特命全権大使となり清国に使しのち致仕して清に遊び李鴻章と文交して大ひに美名を輝す皆人の知る処なり
新しき年を迎て鴬の声さへ高く御代のゆたけき

伊達遠江守

伊予国宇和郡宇和島の城主にして高十万石を領せらる侯頴敏博く和漢の学に渉り詩及び和歌を●らせらる戊辰の役には速かに藩兵を出して総野両州及び奥羽に出張せしめ奮激突戦屡軍功ありしは各藩に劣らず平定後はまた賞典を賜り維新以来東京に在住せられ華族と称すその後召されて議官に拝せらる伊達宗城君これなり
隅田川花やいかにと問ふ人にとく答ふべき一枝も哉

長岡良之助

旧熊本藩主細川越中守護久君の令弟にして先名を良之助と称す維新後護良と改む侯天資頴敏文武に長じ曽て賢才を以て称せらる慶応年間より国事に頗る尽力せられ其季年に大藩五諸侯を●さる時に侯又その選に中れり戊辰以来内外の事務を勉励せられしは皆人の知る処なり明治十三年特命全権公使に拝せられ任所へ赴かれたりといふ
梅に匂ひ桜に染し佐保姫の霞の衣はるやきぬらん

黒田了助

旧鹿児島藩士にして前名を了助といふ后清隆と称す戊辰の役には参謀となりて東下し進んで奥羽の各所に転戦し軍功尤も尠なからず又蝦夷函館の戦争にも参謀となり撃て之れを平ぐ後歴官して参議兼開拓使長官陸軍中将たり明治八年特命全権弁理大使となり朝鮮国に使す十年西南大ひに乱る時に柳原公と供に薩州に到りて頗る処分せらる
黒船に立る烟りの末遠く外国迄も行渡らはや

照山主計

照山主計は広島藩士にして司令官なり明治元年八月藩兵を引率し会津領内に打入り毎戦勝利を得るも地理の悪敷を以て屡苦戦に及びけるが中にも火玉峠の戦争敵兵剛強味方大ひに難戦なり然れども屈せず自ら真先に進んで衆敵を切靡かし首二級を提て味方の陣中に引返し大ひに軍功を立られたりといふ
短夜にしはしまとろむ其中も仇うち払ふ夢(ママ)結ひ目

河野良之進

河野良之進は芸州藩士にして武勇勝れ会津進軍の際融進寺口又火玉峠の戦ひには死憤の勇を尽して敵の首四級をあげ敵味方の眼を驚す夫れより毎戦後れを取らず中にも九月十四日若松城外廓を乗取の時は衆敵に当り一歩も退す遂に敵の首三級を得て尚ほ追撃に及び味方をはげまし大ひに戦功を立られたり
諸共に国の御為とひたすらに軍立こそ嬉しかりけれ

鳥尾小弥太

長州の藩にして武術に達し頗る兵学に長ず勤王の素志深く戊辰の役初め伏見の開戦には藩兵を励し東軍の大兵を破り夫より関東に下り奥羽に出張して軍功多く平定後に陸軍中将に任ぜられ広島鎮台司令長官たり七年前原党乱を山口に起す時に之れに出張して平く又詩文和歌に長じ号を得庵といふ方今禅学に志れたりとかきゝぬ
玉くしけ明行空を見渡せはなほ山の端に月ぞ残れる

川路正之進

鹿児島藩士にして前名正之進といふ後に利良と称す戊辰の役卒族の長たり伏見の開戦より引続き東下し進んで奥羽に到り北越等に転戦し中にも新潟長岡会津の戦争には殊に難戦なりしが皆之を破りて軍功尤も多く明治四年東京府大属に任ぜられ後大警視となり其冬欧米各国を巡回し十年陸軍少将を兼任され西南を鎮定し十二年再び欧州に航し帰朝して病で卒す
薩摩潟嵐に月も見へぬまゝ雲かくれしぞ怨みなりけり

谷守部

土州の人にして先名を守部と称す後干城と改む其性剛邁正義絶倫なり初め江戸に来り安井息軒翁の門に入りて漢学を収む明治元年大軍監とな所々に転戦して其功尤も尠なからず後陸軍少将に拝せられ熊本鎮台司令長官たり時に西郷の徒暴動なせしが君熊本に籠城して賊をして上京せしめず平定後中将に昇任せらる又号を隈山と称し詩文和歌に長し文武共に芳名なり
熊本の大城の梢月更て旗のたなひく八代の里

前原一格

長州の藩士にして前原一誠の弟なり其性剛勇撃剣に長せり戊辰の役には越後口に出張して長岡の戦争敵大軍を以て囲む味方之が為に苦戦隊長も討死せんと雖も一格は屈せず単身縦横して衆敵を切靡し遂に血路を開きしといふ明治七年一誠等と暴挙に及び軍敗れて鹿児島に渡り桐野に属して官兵に抗し肥後川尻口に戦死すといふ
見もやらぬ片山里の遅桜誰為迚か咲ほこるらむ

山田市之允

山口藩士にして通称を市之允空斎と号す勤王の志気深く戊辰の役には参謀となり奥羽に出張して戦地を縦横し軍功尤も屡なりまた脱艦函館に拠り脱走の敗兵皆之に応し松前およひ蝦夷地を略し勢ひ頗る猖獗なり時に君再度海軍に参謀し速かに成功を奏す賞典六百石を賜はる又欧米を巡回し明治十二年参議に任ぜられ方今内務卿を兼らる顕義君これなり
治れるゆたけき御代に相生の松も翠をほこりける哉

井上馨

山口の人にして其性温順学漢洋に渉り勤王の素志深く戊辰のとし東西に奔走して国事の為め尽力せらるゝ事尠なからず維新の後徴されて大蔵大輔に拝せられしが辞職す幾程もなく元老院議官に任せられ又公命に依り英国に官遊し十一年五月帰朝の命ありて帰る七月に至り参議兼工部卿に拝命し十二年外務卿を兼任せられたり
冨士のねになり響くなり大君の万代よはふ民草の声

増田宗太郎

増田宗太郎は豊前国中津の藩士なり幼にして和漢の書を学び后東京に来り洋学を修めまた英国に留学すること数年なり帰国の後生徒に教授す戊辰の役藩兵を率ゐて江戸に来り功を顕はす平定の後本国にかへり私学校生徒と深く交り遥に西郷の逆意を援け中津暴挙の魁首となりしが敗績の後捕へられて斬首せられたり
末ついにいかゝ鳴海の浜千鳥なくねかなしと聞人のなき

辺見十郎太

辺見十郎太は薩藩の士にして頗る豪雄武術に長じ好んで戦法を学び平常撃剣に心を寄せ以て娯む戊辰の役には藩兵に隊長となり関東に下り奥羽に進み衆敵に当りて毎戦之を破り軍功屡なり平定後陸軍に奉職し辞して本国に帰り私学校の生徒を煽動し肥後路に於て官兵に当り遂に敗れて城山に戦死す
紅葉する端山の樹々の梢さへ戦くに付て仇と見る哉

村田新八

村田新八は薩州の人にして其性剛邁頗る武道に達し戊辰の役には藩兵の小隊長にして各所に転戦す中にも白川城攻撃の際は脱兵勢ひ強く味方崩れんとす時に新八は大刀を振ひ敵五人を斬る之に続て藩兵大ひに奮激し遂に大功を立維新後陸軍大佐に拝せられしが西郷の暴動に与し肥後路に出張して抗軍し遂に薩州城山に於て自殺す
後の世に名をはしられん城山の土に屍はよしさらすとも

徳川大納言

尾張名古屋の城主にして高六十一万石余を領せらる初名を慶●後に慶勝と称す幕府の世春嶽公と共に一橋慶喜公を将軍たらんと謀り伊井中将の為に幽する処とならる万延年間長州征討総督たり又戊辰の役には頗る国事に尽力せられ甲信に脱兵押寄せし時は自ら出張し藩兵を指揮し又佐幕の臣を処置せられ一新の日議定たり実に君の美名は諸人の知る処なり
姫小松雪ふみわけてひきつるは君かあえなん千代の為なり

田中不二麿

尾州藩士にして和漢の学に長じ王政復古の際には藩主の命を受け朝家の為め頗る尽力せらる時に藩内佐幕の党相起りけるが大義を主張し之れを処分せらる明治元年中弁を拝せられ又文部卿に転任し給ふこれより先阿州の兵暴動の節は出張して大ひに処分せられたり明治十三年司法卿に拝され其後参事院議長に任ぜらる君の芳名もつとも高し
飛と通りすくる時雨のあとにまた降は山路の松の下露

岩下方平

鹿児島藩士にして旧称を佐次兵衛といふ天資頴敏博く和漢の学を収め夙に勤王の志気ふかく維新前より朝家のため尽力せらるゝこと尠なからず復古の際西郷大久保の二氏と共に召されて参与となり内外の事務多端なるも大ひに勉励せられて其任を尽さる職を辞して泉州堺に移住されしが十一年六月再度元老院議官に拝せられたり
春霞立て渡する大空に入江の下にあしやもゆらん

四条隆謌

前大納言隆生卿の子なり先帝の朝には少将たり夙に勤王の士と深く親交せられ国事に力を尽さるゝこと少なからず又三条其他諸卿と共に長州に走り戊辰の役には軍事参謀と也兵を率ゐて東下し奥羽に進み軍功尤も多し后陸軍少将に拝せられ四年山口の脱隊処分として出張され十四年中将また議官を兼られたり
玉の緒は光り消なは人知らす君の守りとならましものを

山田頴太郎

長州の人にして前原一誠の弟なり戊辰の役には兄と諸共関東に下り上野屯集の彰義隊を撃つの日は山下より進み山兵を切立て単身先に突入し縦横相争つて之を破る又奥羽に進みし功あり平定後召されて陸軍少佐に拝せられ熊本鎮台に在り辞職の后山口に暴動を起し屡抗軍して遂に敗れ擒となりて刑せられたり
世にあしと人ないふ共武士の底の心はしる人そ知る

坂田桃太郎

旧高鍋の藩士なり維新後諸潔と改む幼にして安井息軒先生の門に入り漢学を勉励す戊辰の役には東西に奔走し大ひに国事に尽力す明治中興新潟判事に任ぜられ幾程もなく弾正少忠義くに転任すまた開拓幹事に拝せられ官を辞して帰国し十年西郷の暴挙に与し高鍋の藩士を煽動し官軍に抗して敗北し就縛せられて斬首の刑に処せらる
すめらきの御世も守のわかれまし身のわたくしにはつるものかは

亀井隠岐守

石見国鹿足郡津和野の城主にして四万三千石を領せらる戊辰の役には速かに勤王の大義を称し国事に頗る尽力せらる侯素り頴敏文武共に備はり詩及び和歌にも長ぜられ平常和漢の書を閲し以て娯とせられ且つ花月を友とし風雅に志しをよせられたりといふ侯の詠なり迚爰に記す
荒果し道は踏しと身を捨て立し心そ貴とかりける
潮干潟霞に匂ふ桜日は海の底にも春は見へけり

島津淡路守

日向那珂郡佐土原の城主にして高二万七千石余を領せらる其性敏悟素より勤王の志気深く戊辰の役には宗藩に属し藩兵を挙て東北に出張せしめ頗る国事に力を尽さる又佐土原藩士の各所におゐて戦功少なからざる中にも宇都宮及び白川口二本松会津の戦争には軍功殊に諸藩にぬきんでたり平定のゝち賞典三万石を賜ふ
よつの時野山の色はかはれ共空のみとりはかはらさりけれ

奥平謙輔

旧豊前国中津藩の国老たり幼にして文武に達す長じて兵学を収め故あつて本藩を脱し毛利家に仕ふ戊辰の役屡戦功あり平定後奉職すれども之れを辞す予て前原一誠と深く交り明治七年横山俊彦前原一誠を主張者とし以て暴挙に及ぶ一時勝利を得るといへども順逆如何ぞとぐること能はん忽ち敗績して雲州に走り捕へられて刑せらる
国の為思ひそ積る白雪をちらすは今朝の峯の春風

藤堂仁右衛門

藤堂仁右衛門は勢州津の城主にして藤堂和泉守の国老なり其性頴敏頗る果断あり戊辰の初め上京して兵を天王山に屯し幕軍伏見に迫るの時は藩兵を鼓舞し俄然放砲に及んで東軍を破り官軍東下するの時は藩主に代りて総隊長也上野に向ひ彰義隊を撃ち又船橋姉ヶ崎の脱兵を走らせ夫れより奥羽に進んで各所に転戦し大ひに軍功を立られける
君の為国のためとて武士の軍立こそ嬉しかりける

三好重臣

長州藩士にして其性頴博学和漢に渉り且兵学に長ず戊辰の役には夙に藩兵を率ゐて京師に在り東軍伏見の関門に迫るの時撃て之れを破り夫れより江戸に下り奥羽に出張して軍功尤も屡なり平定後陸軍少将に任せられ明治十年鹿児島暴動の際には野津少将と倶に肥後路に進み吉次越の難戦にも之を破り遂に賊徒を平げ芳名をあげられたり
春霞赤間が関に立こえて月はさたかに見へぬ夜半哉

寺島秀之助

薩藩士にして其性剛邁博学衆才文武倶に備はりし英傑也戊辰の役伏見の開戦より引続き軍監となり関東に下り江戸脱兵を処分す彰義隊を諭すが為め上野に赴き大ひに順逆を論ずれ共屯集の徒退散せず故に討罰の日黒門口に進み奮激して之れを破りまた奥羽に進み軍に及んでしば/\功あり平定後歴官して高位高官に上り異名は今に赫けり
未入力

多賀谷長門

久保田藩士にして其性剛邁武勇あり戊辰の役藩主佐竹右京大夫断然勤皇を以て賊中に孤立し藩兵を出して以て会米等の先鋒と戦ふ時に長門は小野寺主水等と謀事を牒し合せ敵の寄るを待つ此時庄内兵先手となり進んで領内に入り本城に近く長門時分を謀り伏兵を起して破る其功諸人の上に出ると云其他軍功屡あり
峯遠く聞ゆる鹿の声さへも絶てきこえぬ秋は来にけり

三国八郎

旧越前の人にして福井藩士なり後に由利公正と称す其性頴敏文武に達す藩主の命を受け幕府の為大ひに尽すことあり戊辰の際は断然勤王の大義を主張し藩士を一定なさしめ兵を東北に出し以て軍功あり平定後召されて参与となり又東京府知事に拝せられ後元老院議官に転任せらる幾ばくも無く官を辞し鉱山開鑿に従事されたり
新らしきこゝろの花も言の葉も道に匂はん春は来にけり

澤宣嘉

卿は孝明天皇の朝に主水正にして嘉永年間攘夷の説大ひに起り天下事あらんとするに際し国事に頗る尽力せらる幕府の忌む処となり三条公等と長州に走ります/\国家のため耳を謀らる明治元年に至り会津征討の時督将となり秋田に在り庄内米沢兵迫るに及んで之れを向へて接戦し頗る艱苦せられたるも遂に成功を奏せらる六年に及び病の為薨す
涼しくも月の桂の匂ふなり花の香とめし袖の名残に

小野寺主水

小野寺主水は久保田藩士にして佐竹家の隊長なり戊辰の役藩主は断然勤王を主張し賊中に孤立して以て防ぐ庄内米沢南部等の兵押寄せし時は藩士を挙て防戦す尚ほ僧兵を募る此時小野寺主水は百方国事に心を砕き僧兵を引率して領外に出張し能く衆敵を破り接戦もつともしば/\なり中にも南部勢を撃つの時は大勝利を得られ頗る軍功あり
花の日と又月の夜も世の中を思ひめくらす秋の暮かな

野津道貫

鹿児島藩士にして其性頴敏和漢の学に長じ又兵学に達せらる戊辰の役には藩兵の長となり伏見に在りて東軍を破り進んで関東に下り奥羽に出張し毎戦奮激して之れを破り軍功屡なり平定後陸軍少将に任せらる明治十年西郷党を撃つの時肥後路高橋の戦ひには賊徒に奪はれし聯隊旗を取り返し頗る勇名をあげられたり
霧島の雲きり晴て嬉くも再度見つる武蔵野の月

東伏見宮

仁孝天皇の御養子にして伏見邦家親王の子なり始め仁和寺宮と称す二品に叙せらる明治元年には征東将軍に拝せられ越後口より進みける此時長岡城に奥羽の兵屯集して勢ひ又盛んなり宮各藩の兵を励し奮闘力戦せしめ之れを陥れ大功を立らる平定後陸軍少将たり西南の役にも肥後路に赴かれ其功を奏す方今中将に任ぜらる
君か代は幾世ふる共かはらめや年立ことに新たまりつゝ

東久世通禧

村上源氏三位通岑卿の子なり孝明天皇の朝には少将たり嘉永以来朝家の為尽力せらるゝを尠なからず又三条卿と共に長州に走り国家の為に心を労し復古の際東西奔走せられて其功尤も多く又勅命により海外各国を巡廻し帰朝後外国事務総裁兵庫裁判を兼らる又開拓長官となられ方今元老院議長たり君は号を竹亭と称し詩文書画をよくせらる
思はすもなきにし風やおしむらん涙かさごの島のさきもり

黒田筑前守

筑前国早良郡福岡の城主にして高五十二万石余を領せらる其性聡敏文武を兼備し能く藩士を愛し藩政行届きて国内よく治る戊辰の役官軍関東に下るの時は速かに藩兵を挙先鋒として東下し総野二州の脱兵を撃ちまた奥羽に出張して大ひに戦功を立て福岡の兵しば/\苦戦に及びしも皆之れを破るといふ平定後一万石を賞与せらる
ぬけ出て御国を思ふ真心を代々に伝へよ武士の道

橋本実梁

前大納言橋本実●卿の子なり其性聡敏語学和漢に渉り且兵学に通ず朝家の為め尽力少なからず維新の際には東海道鎮撫将軍に拝せられ柳原前光卿と共に薩兵を引率して関東に下向し夫れより北越に進みまた仙台等の各所に転じて大ひに功を立らるゝといふ明治元年以来諸官を歴て式部権助に拝せられ現今に至り芳名いよ/\高し
新玉の年のはしめの寿きは万代迄とかはらせらまし

岩倉具視

卿は村上源氏具慶朝臣の子也天資頴敏正義絶倫嘉永以来朝家の衰へたるを歎き心を尽して皇室を補佐し有志を招き謀る処多く維新の際には東海道鎮撫将軍たり明治二年に至り大納言に拝し四年外務卿に転じ右大将に移り全権大使となりて欧米各国に使す九年む従一位に叙せられ十年西国の乱をこる卿東京に在り大ひに策を旋す十六年病の為め薨ず太政大臣を賜らる
新玉の年の始の賑ひに御国の田鶴もおとろきもせす

小原仁兵衛

氏は大垣藩の国老にして号を鉄心といふ其性頴敏文武に達す幕政の世長藩福原越後兵を率ゐて京師に上り事を謀らんとす時に仁兵衛は一隊の長にして之れに向ひ伏兵を置て越後の来るを待ち撃て破る戊辰の役には藩の隊長となり各所において戦功あり復古の後召されて参与となり辞して故山に帰る明治六年病の為に没せらる
見渡せは霞こめたる山の端に余る雉子の朝の声かな

島津修理大夫

薩州鹿児島郡鹿児島の城主にして七十七万八百石余を領せらる天資豪邁文武に長ず前左大臣久光公の子にして方今忠義と称す夙に勤王の志気深く戊辰の役には大軍を東北に出し脱走の徒及び奥羽の兵を撃たしむ各藩強なりと雖も薩藩の力戦に及ふ者なく遂に平定の功を奏し賞典十万石を賜り従二位に叙せらる実に維新の大功は短紙に尽せず
代々を経ていよ/\たけき武士の大和たましひ今そ知られん

三条左大将

贈右大臣実万卿の第二子にして孝明天皇の朝には中納言たり文久二年勅命を奉じて江戸に来り幕政を革め攘夷の議を謀らる然るに朝議変ずるに及んで諸卿と長州に遁る戊辰の役に左大将となり関東に下向在り幕府を処分せらる后ち右大臣より左大臣に拝せられ遂に四年に至り従一位太政大臣とならる今実美公として国家柱石の君といふべし
世にとめて千代を照さん異国のちりにけかれぬ大和魂

(奥付)
明治十七年六月三日御届

編輯人   東京府平民
       岡田良策
        浅草区西三筋町
        三十四番地
出版人   仝
       辻岡文助
        日本橋区横山町
        三丁目二番地


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