思ひ出  抒情小曲集




抒情小曲集
おもひで
著及装幀
北原白秋
序詩外七章
二百十五篇
東京
東雲堂
京橋区南伝馬町三丁目十番地




この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上と、愛弟 Tinka John に贈る。
Tonka John.



わが生ひたち


  …………時は逝く、何時しらず柔かに影してぞゆく、
      時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。
                      (過ぎし日第二十)


   1

時は過ぎた。さうして温かい苅麦のほめきに、赤い首の蛍に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい「思ひ出」の哀歓となつてゆく。
 捉へがたい感覚の記憶は今日もなほ私の心を苛だたしめ、恐れしめ、歎かしめ 苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歳以前の Life はいかにも幼稚な柔順しい、然し飾気のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。さうして驚き易い私の皮膚と霊とはつねに螽斯の薄い四肢のやうに新しい発見の前に喜び顫へた。兎に角私は感じた。さうして生れたまゝの水々しい五官の感触が私にある「神秘」を伝へ、ある「懐疑」の萌芽を微かながらも泡立たせたことは事実である。さうしてまだ知らぬ人生の「秘密」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔の光を放つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番ひにも震慄いたのである。
 尤も、私は過去追憶にのみ生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不満足な為めに美くしい過ぎし日の世界に、懐かしい霊の避難所を見出さうとする弱い心からかういふ詩作にのみ耽つてゐるのでもない。「思ひ出」は私の芸術の半面である。私は同時に「邪宗門」の象徴詩を公にし、今はまた「東京景物詩」の製作にも従ふてゐる。従てその一面をのみ観て、軽々にその傾向なり詩風なりを速断せらるゝほど作者に取つて苦痛なことはない。如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き尽した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現実に執する私の心は時として一椀の査古律に蒸し熱い郷土のにほひを嗅ぎ、幽かな泪芙藍の凋れにある日の未練を残す。見果てぬ夢の歎きは目に見えぬ銀の鎖の微かに過去と現在とを継いで慄くやうに、つねに忙たゞしい生活の耳元に啜り泣く。さはいへ此集の第三章に収めた「おもひで」二十篇の追憶体は寧ろ「邪宗門」以前の詩風であつた。まだ現実の痛苦にも思ひ到らず、ただ羅漫的な気分の、何となき追憶に耽つたひとしきりの夢に過ぎなかつた。さりながら「生の芽生」及「Tonka John の悲哀」に輯めた新作の幾十篇には幼年を幼年として、自分の感覚に抵触し得た現実の生そのものを拙ないながらも官能的に描き出さうと欲した。従つて用ゐた語彙なり手法なりもやはり現在風にして試みたのである。畢竟自叙伝として見て欲しい一種の感覚史なり性欲史なりに外ならぬ。実際私は過去を全く今の自分から遊離したものとして追慕するよりも、充実した現在生活の根底を更に力強く印象せしめんが為に、兎に角過去といふわが第一の烙印を自分で力ある額の上に烙きつけやうと欲したのである、とはいふものゝ、私はなほこの小さな詩集の限りある紙面に於て企画した事の十分の一も描写し得なかつたのを悲しむ、幼ない昔は兎に角秘密多き少年時代の感情生活はまだ/゛\複雑であり神経的である。私はなほ何らかの新らしい形式の上にその切ないほど怪しかつた感覚の負債を充分に償ひ得べき何らかの新らしい機会の来らんことを待つ。
 「断章」の六十一篇は「邪宗門」と同時代の小曲であつてその以後の新風ではない。それは恰度強い印象派の色彩のかげに微かなテレビン油の潤りのさまよふてゐるやうに彼の集のかげに今なほ見出されずして顫へてゐたものである、私はかの私の抒情の「歌」とゝもにこの「断章」のやうな仄かな芸術品が「邪宗門」や「東京景物詩」やその他の異なつた象徴詩の間にも、なほ純なるわかき日の悲しみを頼りなく伴奏しつゝあつた事をせめては首肯して欲しいのである。
 私は兎に角、可憐なさうして手ごろの小さい抒情小曲集を、私のなつかしい人々の手に献げたいと思つて、なるべく自分に親しみの深い、稚い時代の「思ひ出」を茲に集めた。従て私の生ひたちなり、生れた郷土の特色なり、予め多少は知つて戴く必要がある。

   2

 私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠のにほひには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を超えて、わが街に入り来る旅びとはその周囲の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして歩むにつれて、その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨、或は赤褐黄緑その他様々の浮藻の強烈な更紗模様のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてた Noskai 屋(遊女屋)の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩む昼すぎを小料理の黒いダアリヤの花に歎き、酒造る水となり、汲水場に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽ぎ、気の弱い鶩の毛に擾され、さうして夜は観音講のなつかしい提燈の灯をちらつかせながら、樋を隔てゝ海近き沖ノ端の鹹川に落ちてゆく、静かな幾多の溝渠はかうして昔のまゝの白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。
     *
折々の季節につれて四辺の風物も改まる。短い冬の間にも見る影もなく汚ごれ果てた田や畑に、刈株のみが鋤きかへされたまゝ色もなく乾き尽くし、羽に白い斑紋を持つた怪しげな高麗烏(この地方特殊の烏)のみが廃れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、さうして青い股引をつけた櫨の実採りの男が静かに暮れてゆく卵いろの梢を眺めては無言に手を動かしてゐる外には、展望の曠い平野丈に何らの見るべき変化もなく、凡てが陰欝な光に被はれる。柳河の街の子供はかういふ時幽かなシユブタ(方言鮠の一種)の腹の閃めきにも話にきく生胆取の青い眼つきを思ひ出し、海辺の黒猫はほゝけ果てた白い穂の限りもなく戦いでゐる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに昼もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。
     *
 いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる、麦がのび、見わたす限りの平野に黄ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に薫り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を窶し、哀れな巡礼の姿となつて、初めて西国三十三番の札所を旅して歩るく(巡礼に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、単にお嫁め入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに廻り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンカチと鎚を鳴らし、片思の薄葉鉄職人はぢり/゛\と赤い封蝋を溶かし、黄色い支那服の商人は生温い挨拶の言葉をかけて戸毎を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかゝるころには街道のところどころに木蝋を平準して干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑の女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの円天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。
 さはいへ大麦の花が咲き、からしの花も実となる晩春の名残惜しさは青くさい芥子の萼や新らしい蚕豆の香ひにいつしかとまたまぎれてゆく。
 まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸の一部をふと学校がへりに発見した沖ノ端の子供の喜びは何に讐へやう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廃れかけた舟舞台には桜の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も腿せはてたものではあるが、水天宮の祭日となれば粋な町内の若い衆が紺の半被に棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替え、日を替ゆるたびに歌舞伎の芸題もとり替えて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歓を尽くして別れるものゝ何処かに頽廃の趣が見えて祭の済んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。
 この騒ぎが静まれば柳河にはまたゆかしい蛍の時季が来る。

  あの眼の光るは
  星か、蛍か、鵜の鳥か、
  蛍ならばお手にとろ、
  お星様なら拝みませう……

 稚い時私はよくかういふ子守唄をきかされた、さうして恐ろしい夜の闇にをびえながら、乳母の背中から手を出して例の首の赤い蛍を握りしめた時私はどんなに好奇の心に顫へたであらう。実際蛍は地方の名物である。馬鈴薯の花さくころ。街の小舟はまた幾つとなく矢部川の流を溯り初める。さうして甘酸ゆい燐光の息するたびに、あをあをと眼に泌みる蛍籠に美くしい仮寝の夢を時たまに閃めかしながら水のまにまに夜をこめて流れ下るのを習慣とするのである。
     *
 長い霖雨の間に果実の樹は孕み女のやうに重くしなだれ、ものゝ卵はねば/\゛と瀦水のむじな藻にからみつき、蛇は木にのぼり、真菰は繁りに繁る。柳河の夏はかうして凡ての心を重く暗く腐らしたあと、池の辺に鬼百合の赤い閃めきを先だてゝ、●(ヒヘン+「其」)くが如き暑熱を注ぎかける。
 日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、溝渠には水涸れて悪臭を放ち、病犬は朝鮮薊の紫の刺に後退りつゝ咆え廻り、蛙は蒼白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しさうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はかうして平原の到るところの街々に激しい流行病を仲介し、日ごとに夕焼の赤い反照を浴びせかけるのである。
 この時、海に最も近い沖ノ端の漁師原には男も女も半裸体のまゝ紅い西瓜をむさぼり、石炭酸の強い異臭の中に昼は寝ね、夜は病魔退散のまじなひとして廃れた街の中、或は堀の柳のかげにBANKO(椽台)を持ち出しては盛んに花火を揚げる。さうして朽ちかゝつた家々のランプのかげから、死に瀕した虎剌拉患者は恐ろしさうに蒲団を匍ひいだし、ただぢつと薄あかりの中に色変えてゆく五色花火のしたゝりに疲れた瞳を集める。
 焼酎の不摂生に人々の胃を犯すもこの時である。犬殺しが歩るき、巫女が酒倉に見えるのもこの時である。さうして雨乞の思ひ思ひに白粉をつけ、紅い隈どりを凝らした仮装行列の日に日に幾隊となく続いてゆくのもこの時である。さはいへまた久留米絣をつけ新らしい手籠を擁えた菱の実売りの娘の、なつかしいい「菱シヤンヲウ」の呼声をきくのもこの時である。
     *
九月に入つて登記所の庭に黄色い鶏頭の花が咲くやうになつてもまだ虎剌拉は止む気色もない。若い町の弁護士が忙しさうに粗末な硝子戸を出入りし、青白い薬種屋の娘の乱行の漸く人の噂に上るやうになれば秋はもう青い渋柿を搗く酒屋の杵の音にも新らしい匂の爽かさを忍ばせる。
 祇園会が了り秋もふけて、線香を乾かす家、からし油を搾る店、パラピン蝋燭を造る娘、提燈の絵を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋(飴形は飴の一種である、柳河特殊のもの)の二階に取り残された旅役者の女房、すべてがしんみりとした気分に物の哀れを思ひ知る十月の末には、先づ秋祭の準備として柳河のあらゆる溝渠はあらゆる市民の手に依て、一旦水門の扉を閉され、水は干され、魚は掬はれ、腥くさい水草は取り除かれ、溝どろは奇麗に浚ひ尽くされる。この「水落ち」の楽しさは町の子供の何にも代へ難い季節の華である。さうしてこの一騒ぎのあとから、また久濶ぶりに清らかな水は廃市に注ぎ入り、楽しい祭の前触が、異様な道化の服装をして、喇叭を鳴らし拍子木を打ちつゝ、明日の芝居の芸題を面白ろをかしく披露しながら町から町へと巡り歩るく。
 祭は町から町へ日を異にして準備される、さうして彼我の家庭を挙げて往来しては一夕の愉快なる団欒に美くしい懇親の情を交すのである。加之、識る人も識らぬ人も酔うては無礼講の風俗をかしく、朱欒の実のかげに幼児と独楽を回はし、戸ごとに酒をたづねては浮かれ歩るく。祭のあとの寂しさはまた格別である、野は火のやうな櫨紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何処からともなく漂浪ふて来た傀儡師の肩の上に、生白い華魁の首が、カツクカツクと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶から掻き消されるやうに消え失せて、寂しい寂しい冬が来る。
     *
 要するに柳河は廃市である。とある街の辻に古くから立つてゐる円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼札が紅いへらへら踊の怪しい景気をつけるほかにはよし今のやうに、アセチリン瓦斯を点け、新たに電気燈をひいて見たところで、格別、これはといふ変化も凡ての沈滞から美くしい手品を見せるやうに容易く蘇らせる事は不可能であらう。ただ偶々に東京がへりの若い歯科医がその窓の障子に気まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向の旅人が殆ど泊つたけはひも見せないで立つて了ふ。ただ何時通つても白痴の久たんは青い手拭を被つたまゝ同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕す禿頭は硝子戸の中に俯向いたぎりチツクタツクと音をつまみ、本屋の主人は蒼白い顔をして空をたゞ凝視めてゐる。かういふ何の物音もなく眠つた街に、住む人は因循で、ただ柔順しく、僅にGonshan(良家の娘、方言)のあの情の深さうな、そして流暢な、軟かみのある語韻の九州には珍らしいほど京都風なのに阿蘭陀訛の溶け込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。風俗の淫らなのにひきかへて遊女屋のひとつも残らず廃れたのは哀れぶかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間体を恐るゝ――利発な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至つたのであらう。いまもなほ黒いダアリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は昼もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。

   3

 柳河を南に約半里ほど隔てて六騎の街沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫の諢名であつて、昔平家没落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて来て初めて漁りに従事したといふ、而してその子孫が世々その業を継襲し、繁殖して今日の部落を為すに至つたのである。)畢境は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南国的な、怠惰けた規律のない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面に取すまして廃れた面紗のかげに淫らな秘密を匿してゐるのに比ぶれば、凡てが露で、元気で、また華やかである。かの巡礼の行楽、虎列拉避けの花火、さては古めかしい水祭の行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は温ければ漁り、風の吹く日は遊び、雨には寝ね、空腹くなれば食ひ、酒をのみては月琴を弾き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊楽に結びつけ、遊楽のなかに微かに一味の哀感を継いでゐる。
観世音は永久にうらわかい町の処女に依て斎がれ(各の町に一体づつの観世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配り、或は小屋をかけていろいろの催をする。さうしてこの中の資格は処女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新しい妙齢のものが代つて入る。)天火のふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子の大提灯は、またわかい六騎の逞ましい日に焼けた腕に献げられ、霜月親驚上人の御正忌となれば七日七夜の法要は寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣づるとては、わかい男女夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌参らんかん……の淫らな小歌に浮かれて媾曳の楽しさを仏のまへに祈るのである。
 沖ノ端の写真を見る人は柳、栴檀、柘榴、櫨などのかげに、而も街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍薬の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を画く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香の滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二条の大きな樋に極まり、渦を巻いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
 今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋の生鼠壁の隣に越太夫といふ義太夫の師匠が何時も気軽な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、桜のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相対して同じ様な生鼠壁の旧家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私はTonka John(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油醸造を止した。
南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英の生えた旧い土蔵づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、渋い店格子を透いて、銘酒を満たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁の一つに、紺色の可憐な燕の雛が懐かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は広く、店全幅の薬種屋式の硝子戸棚には曇つた山葵色の紙が張つて、その中ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の絵の、眼の青い、そして胸の白い女の横顔のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを続けてゐた。その戸棚を開けると緑礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだめの葉、中には売薬の版木等がしんみりと交錯がつた一種異様の臭を放つ。それはある漂浪者がこゝに来て食客をしてゐた時分密かに町の人に薬を売つてゐたのが、逝くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、旧い話であらう。
 庭には無論朱欒の老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠は長閑に槌を鳴らし、赤裸々の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り回り、さうして街の水路から樋をくぐつて来るかの小さい流は隠居屋の涼み台の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒桶を洗ひ真白な米を流す水となり、同じ屋敷内の潴水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然るのち、ちゆうまえんだの菜園を一周回して貧しい六騎の厨裏に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ昼は赤い鬼百合の咲く畑に夜は幽霊の生じろい火が燃えた。
 世間ではこの旧家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋」と称へた。実際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石数高く、魚類の問屋としては九州地方の老舗として夙に知られてゐたのである。従て浜に出ると平土、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜、西瓜、たまには鵞烏、七面鳥の類まで積んで来て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々は、血のついた腥くさい甃石の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を真赤に開けては、激しい夕焼の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
 私はかういふ雰囲気の中で何時も可なり贅沢な気分のもとに所謂油屋のTonka Johnとして安らかに生ひ立つたのである。

   4

 私の第二の故郷は肥後の南関であつた。南関は柳河より東五里、筑後境の物静かな山中の小市街である。その街の近郊外目の山あひに恰も小さな城のやうに何時も夕日の反照をうけて、たまたま旧道をゆく人の瞻仰の的となつた天守造りの真白な三層楼があつた。それが母の生れた家であつて、数代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であつた。
 私もまたこの小さな国の老侯のやうに敬はれ、侍かれ、慕はれて、余生を読書三昧に耽つた外祖業隆翁の真白な長髭のなつかしさを忘るる事が出来ぬ。私は土地の習慣上実はこの家で生れて――明治十八年二月二十五日――然る後古めかしい黒塗の駕籠に乗つて、まだ若い母上と柳河に帰つた。
 私は生れて極めて虚弱な児であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外気に当るか、冷たい指さきに触られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危険極まる児であった。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆んど壊れ物に触るやうな心持ちで恐れて誰もえう抱けなかつたさうである。それで彼此往来するにしても俥からでなしに、わざわざ古めかしい女駕籠を仕立てたほど和蘭の舶来品扱ひにされた。それでもある時なぞは着いてすぐ玄関に舁ぎ据ゑた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりをもう蒼くなって痙攣けて了つたさうである。
 三歳の時、私は劇しい窒扶斯に罹つた。さうして朱欒の花の白くちるかげから通つてゆく葬列を見て私は初めて乳母の死を知つた。彼女は私の身熱のあまり高かつたため何時しか病を伝染されて、私の身代りに死んだのである。私の彼女に於ける記憶は別にこれといふものもない。ただ母上のふところから伸びあがつて白い柩を眺めた時その時が初めのまた終りであつた。
 次に来た乳母はおいそと云つた。私はよく彼女と外目の母の家に行つては何時も長々と滞留した。さうして迎ひの人力車がその銀の輪をキラキラさして遥かの山すその岡の赤い曼珠沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすぢ道を懐しさうに音をたてて軋つて来るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の様に何ものかを探し回てもう馴つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ帰らうとも思はなんだ。
 かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出来た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを嗅ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉虫と斑猫と毒茸と、……いろいろの草木、昆虫、禽獣から放散する特殊のかをりを凡て驚異の触感を以て嗅いで回つた。かかる場合に私の五官はいかに新らしい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄い紗に冷たいアルコールを浸して身体の一部を拭いたあとのやうに山の空気は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
 南関の春祭はまた六騎の街に育つた羅漫的な幼児をして山に対する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭物見の前後に顫へながらどんぐりの実のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で触つた。

   5

 さて、柳河の虚弱なびいどろ罎は何時のまにか内気な柔順しいさうして癇の虫のひりひりした児になつた。私はよく近所の児どもを集めて、あかい夕日のさし込んだ穀倉のなかで、温かな苅麦やほぐれた空俵のかげを二十日鼠のやうに騒ぎ回つた。さうしてかくれんぼの息をひそめて、仲のいい女の児と、とある隅の壁の方に肩を小さくして探し手を待つてゐる間に、しばしば埋もれた鶩の卵を見つけ出し、さうして棟木のかげからぬるぬると匍ひ下る青大将のあの凄い皮肉な昼の眼つきを恐れた。
 日の中はかうしてうやむやに過ぎてもゆくが、夜が来て酒倉の暗い中から●(「酉」+「元」)すり歌の擢の音がしんみりと調子をそろへて静かな空の闇に消えてゆく時分になれば赤い三日月の差し入る幼児の寝部屋の窓に青い眼をした生胆取の「時」がくる。
 私は「夜」といふものが怖かつた。何故にこんな明るい昼のあとから「夜」といふ厭な恐ろしいものが見えるか、私は疑つた、さうして乳母の胸に犇と抱きついては眼の色も変るまで慄いたものだ。真夜中の時計の音はまた妄想に痺れた、Tonka John の小さな頭脳に生胆取の血のついた足音を忍びやかに刻みつけながら、時々深い奈落にでも引つ込むやうに、ボーンと時を点つ。
 後には昼の日なかにも蒼白い幽霊を見るやうになつた。黒猫の背なかから臭の強い大麦の穂を眺めながら、前の世の母を思ひ、まだ見ぬなつかしい何人かを探すやうなあどけない眼つきをした。ある時はまた、現在のわが父母は果してわが真実の親かといふ恐ろしい疑に罹つて酒桶のかげの蒼じろい黴のうへに素足をつけて、明るい昼の日を寂しい倉のすみに坐つた。その恐ろしい謎を投げたのは気狂いのおみかの婆である、温かい五月の苺の花が咲くころ、楽しげに青い硝子を砕いて、凧の糸の鋭い上にも鋭いやうに瀝青の製造に余念もなかつた時、彼女は恐ろしさうに入つて来た、さうして顫へてる私に、Tonka John 汝のお母さんは真実のお母さんかの、返事をなさろ、証拠があるなら出して見んの――私は青くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついたものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。丁度何かで不機嫌だつた父は金庫の把手をひねりながら鍵の穴に鍵をキリリと入れて、ヂロツとその児を振りかへつた、私はわつと泣いた。それからといふものは青い小鳥の歌でさへ私には恐ろしいある囁きにきこえたのである。
 そりばつてん、Tonka John はまた気まぐれな児であつた。七月が来て観音様の晩になれば、町のわかい娘たちはいつも奇麗な踊り小屋を作へて、華やかな引幕をひきその中で投げやりな風俗の浮々と囀づりかはしながら踊つた。それにあの情の薄くて我儘な私と三つ違ひの異母姉さんも可哀い姿で踊つた。五歳六歳の私もまた引き入れられて、真白に白粉を塗り、派出なきものをつけて、何がなしに小さい手をひらいて踊つた。

   6

 静かな昼のお葬式に、あの取澄ました納所坊主の折々ぐわららんと鳴らす鐃●(カネヘン+「跋」の右側)の音を聴いたばかりでも笑ひ転げ、単に仏手柑の実が酸ゆかったといつては世の中をつくづく果敢なむだ頃の Tonka John の心は今思ふても罪のない鷹揚なものであつた。さうしてその恐ろしく我儘な気分のなかにも既にしをらしい初恋の芽は萌えてゐた。
 美くしい小さな Gonshan.忘れもせぬ七歳の日の水祭に初めてその児を見てからといふものは私の羞恥に満ちた幼い心臓は紅玉入の小さな時計でも懐中に匿してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた。
 私はある夕かた、六騎の貧しい子供らの群に交つて喇叭を鳴らし、腐れた野菜と胡蘿葡の汚ごれた溝どろのそばに、粗末な蓆の小屋をかけて、柔かな羽虫の纏れを哀しみながら、ただひとり金紙に緋絨の鎧をつけ、鍬形のついた甲を戴き、木太刀を佩いて生真面目に芝居の身振をしてみたことがあつた。さうして魚くさい見物のなかに蚕豆の青い液に小さな指さきを染めて、罪もなくその葉を鳴らしながら、ぱつちりと黒い眸を見ひらいて立つてゐたその児をちらと私の見出した時に、ただくわつと逆上て云ふべき台辞も忘れ、極り悪るさ俯向いて了つた――その前を六騎の汚ない子供らが鼻汁を垂らし、黒坊のやうな赭つちやけた裸で、不審さうに彼らが小さな主人公の顔を見かへりながら、張合もなく何時までも翻筋斗をしてゐた事を思ひ出す。
 あの日はまた穀倉の暗い二階の隅に幕を張り薄青い幻燈の雪を映しては、長持のなかに蔵つてある祭の山車の、金の薄い垂尾をいくつとなく下げた、鳳凰の羽の、あるかなき幽かな囁きにも耳かたむけた。
 かうした間にも夏の休暇には必ず山をたづねた。さうして柳河の Tonka John はまたその一郷の罪もない小君主であつた。路に逢ふほどの農人はみな丁寧にその青い頬かむりを解いて会釈した、私はまた何事もわが意の儘に左右し得るものと信じた。而して自分ひとりが特別に天の恩寵に預つてるやうな勝ち誇つた心になつてたゞ我儘に跳ね回つた。
 黒馬にもよく乗つた、玉虫もよく捕へては針で殺した、蟻の穴を独楽の心棒でほぢくり回し、石油をかけ、時には憎いもののやうに毛虫を踏みにじつた。女の子の唇にも毒々しい蝶の粉をなすりつけた。然しながら私は矢張りひとりぼつちだつた。ひとりぼつちで、静かに蚕室の桑の葉のあひだに坐つて、幽かな音をたてては食み尽くす蚕の眼のふちの無智な薄褐色の慄きを凝と眺めながら子供ごころにも寂しい人生の何ものかに触れえたやうな気がした。
 夜になれば一番年のわかい熊本英学校出の叔父がゆめのやうなその天守の欄干に出てよく笛を吹いた。さうして彼方此方の秣や凋れた南瓜の花のかげから山の児どもが栗毛の汗のついた指で、しんみりと手づくりの笛を吹きはじめる。さうして何時も谷を隔てた円い丘の上に、また円るな明るい月が夕照の赤く残つた空を恰度花札の二十坊主のやうにのぼつたものである。
 かういふ時、私は昼の「催眠術」の代償として─―この快活な叔父が曾て催眠術の新書を手に入れた事があつた。それからといふものは無理に私を蚕室の暗い一室に連れ込んで怪しい眼付やをかしな手真似を為はじめた、私は決して眠らなかつた。始めはよく転げて笑ったものの、後にはあまりに叔父の生真面目なのに恐ろしくなつて幾度か逃げやうとした。顫へてゐる私の眼の前には白い蛾の粉のついた大きな掌と十本の指の間から凝と睨んでゐる黒い眼、……蚕の卵の弾く音、繭を食ひ切る音、はづんだ生殖の顫へ、凡てが恐怖に蒼くなつた私の耳に小さな剃刀を入れるやうに絶間なく泌み込んで来る。私は何時も最後には泣き出したのである。――そのパノラマのやうな夜景のなかで、亜拉比亜夜話の曾辺伊伝の譚や、西洋奇談の魔法使ひや、驢馬に化された西蔵王子の話を聞かして貰つて、さうして縁の紅い黒表紙の讃美歌集をまさぐりながらそのまま奇異な眠に落ちるのが常であつた。

   7

私はその当時まだあの蒼い海といふものを曾て見たことがなかつた。海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の真白な蝙蝠傘の輝きであつた。それは夏の真昼だつたかも知れぬ、痛いほど眼に泌んだ白色はその後未だに忘れることが出来なかつた。それが何時だつたか、それからどうしたか、さつぱり私には記憶がない。それが不図したことからある近親の人の眼を患つて肥前小浜の湯治場に滞留してゐた頃、母と乳母とあかんぼと遥ばる船から海を渡つて見舞に行つた当時の出来事だといふことがわかつた。その話から、不思義に Tonka John の記憶にもまだ残つてゐたことを聞いた時のその人の驚きはをかしいほどであつた。何故ならばその当時私はまだほんの乳のみ児で当歳か、やつと二歳かであつたのである。次で乳母の背なかから見た海は濁つた黄いろい象の皮膚のやうなものだつた。さうして潮の引いたあとの潟の色の恐ろしいまで滑らかな傾斜はかの大空の反射をうけた群青の光沢とともに、如何に私の神経を脅かしたか、瀉といふものを見たことのない人には到底不可解のものであらう。この詩集には載せなかつたが、矢張り「思ひ出」の中に私はその時の恐怖を歌つたものがある。

  海を見てはじめおそれぬ。
  そは何時か、乳母の背に寝て、
  色青き鯨の髯を売るといふ老舗見ごと。

 それから年を経て、私はその瀉のなかに「ムツゴロ」といふ奇異な魚の棲息してゐることを知つた。そうしてその山椒魚に似た怪しい皮膚の、小さなゐもり状の一群を恐ろしいもののやうに、覗きに行つた。後には吹矢のさきを二つに割いて、その眼や頭を狙つて殺して歩いたこともある。瀉にはまた「ワラスボ」といふ鰻に似て肌の生赤い斑点のある、ぬるぬるとした静脈色の魚もゐた。魚といふよりも寧ろ蛇類の癩病にかかつた姿である。「メクワジヤ」と称する貝は青くて病的な香を発する下等動物である。それを多食する吝嗇の女房はよく眼を病んで堀端で鍋を洗つてゐた。「アゲマキ」といふ貝は瀟洒な薄黄色の殻のなかに、やはり薄黄色の帽子をつけた片跛の人間そのままの姿をして滑稽にもセピア色の褌をしめた小いさな而して美味な生物である。その貝を捕る女は半切を片手に引き寄せながら板子を滑らしては面白ろさうに走つてゆく。恰度、夏の入日があかあかと反射する時、私達の手から残酷に投げ棄てられた黒猫が黒猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々した瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに断末魔の爪を掻きちらした一種異様の恐ろしい粘彩画の上を、女はまた軽るく走りながらその板を滑らせては光沢つやと平準してゆく。さうして汐の静かにさしてくる日没後の傾斜面は沈着いた紫色の光を帯びて幽かに夕づつのかげを浮べる。かうした瀉の不可思議は私らの幼年時代に取つては実に怪しくも美くしい何かしら深い秘密を秘めた恐怖と光の魔宮であつた。
 それは兎もあれ、十六の初旅に小蒸汽や赤い商船のかげに見た門司の海の凄いほど透きわたつた濃藍色はどんなに私をして新しい西洋の香に噎ばしめたであらう。さうしてその翌年長崎旅行の途次汽車の窓から見た大村湾の風光は実にかの絵にのみ見た広重の海の青さであつた。

   8

 蛇目傘を肩にしてキツとなった定九郎の青い眼つきや、赤い毛布のかげを立つてゆく芝居の死人などに一種の奇妙な恐怖を懐いた三四歳の頃から私の異国趣味乃至異常な気分に憧がるる心は蕨の花のやうに特殊な縮れ方をした。
 かういふ最初の記憶はウオタアヒアシンスの花の仄かに咲いた瀦水の傍をぶらつきながら、従姉とその背に負はれてゐた私と、つい見惚れて一緒に陥つた―─その生命の瀬戸際に瓢然と現はれて救ひ上げて呉れた真黒な坊さんが不思議にも幼児にある忘れがたい印象を残した。
 日が蝕ひ、黄色い陰欝の光のもとにまだ見も知らぬ寂しい鳥がほろほろと鳴き、曼珠沙華のかげを鼬が急忙しく横ぎるあとから、あの恐ろしい生胆取は忍んで来る。薄あかりのなかに凝視むる小さな銀側時計の怪しい数字に苦蓬の香泌みわたり、右に持つた薄手の和蘭皿にはまだ真赤な幼児の生胆がヒクヒクと息をつく。水門の上に蒼白い月がのぼり、栴檀の葉につやつやと露がたまれば胆のわななきもはたと静止して足もとにはちんちろりんが鳴きはじめる。日が暮れるとこの妄想の恐怖は何時も小さな幼児の胸に鋭利な鋏の尖端を突きつけた。
 ある夜はわれとわが霊の姿にも驚かされたことがある。外には三味線の音じめも投げやりに、町の娘たちは観音さまの紅い提燈に結ひたての髪を匂はしながら華やかに肩肌脱ぎの一列になつてあの淫らな活惚を踊つてゐた。取り乱した化粧部屋にはただひとり三歳四歳の私が匍い廻りながら何ものかを探すやうにいらいらと気を焦つてゐた。ある拍子に、ふと薄暗い鏡の中に私は私の思ひがけない姿に衝突かつたのである。鏡に映つた児どもの、面には凄いほど真白に白粉を塗つてあつた、睫のみ黒くパツチリと開いた両の眼の底から恐怖に竦んだ瞳が生真面目に震慄いてゐた、さうして見よ、背後から尾をあげ背を高めた黒猫がただぢつと金の眼を光らしてゐたではないか。私は悸然として泣いた。
 私の異国趣味は稚い時既にわが手の中に操られた。菱形の西洋凧を飛ばし、朱色の面(朱色人面の凧、Tonka Johnの持つてゐたのは直径一間半ほどあつた。)を裸の酒屋男七八人に揚げさせ、瀝青を作り、幻燈を映し、さうして和蘭訛の小歌を歌つた。
 私はまたいろいろの小さなびいどろ罎に薄荷や肉桂水を入れて吸つて歩るいた。また濃い液は白紙に垂らし、柔かに揉んで湿した上その端々を小さく引き裂いては唇にあてた。さうして私の行くところにはたよりない幼児の涙をそそるやうに、強い強い肉桂の香が何時でも付き纒ふて離れなかつた。
 うつし絵の面に湿つた仄かな油のにほひはまた新しい七歳の夏を印象せしめる。私はよく汗のついた手首に、その絵の女王や昆虫の彩色を痒いほど押しては貼り、剥してはそつと貼りつけて、水路の小舟に伊蘇普物語の奇しい頁を翻へした。
 無邪気な悪戯の末、片意地に芝居見を強請んだ末、弟を泣かした末、私は終日土蔵の中に押し込められて泣き叫んだ。その窓の下には露草の仄かな花が咲いてゐた。哀れな小さい囚人はかうして泣き疲れたあと、何時もその潤んだ●(「目」+「匡」)に幽かな燐のにほひの泌み入る薄暗い空気の気はひを感じた。そこには旧い昔難波(ママ)した商船から拾ひ上げた阿蘭陀附木(マツチのこと柳河語)の大きな函が湿りに湿つたまま投げ出されてあつた。私はそのひとつを涙に濡れた手で拾ひ取り、さうしてその黄色なエチケツトの帆船航海の図に怪しい哀れさを感じながら、その一本を抜いては懐かしさうに擦つて見た。無論点火する気づかひはない。気づかひはないが、ただ何時までも何時までも同じやうにただ擦つてゐたかつたのである。麹室のなかによく弄んだ骨牌の女王のなつかしさはいふまでもない。
 Tonka Johnの部屋にはまた生れた以前から旧い油絵の大額が煤けきつたまま土蔵づくりの鉄格子窓から薄い光線を受けて、柔かにものの吐息のなかに沈黙してゐた、その絵は白いホテルや、瀟洒な外輪船の駛しつてゐる異国の港の風景で、赤い断層面のかげをゆく和蘭人の一人が新らしいキヤべツ畑の垣根に腰をかがめて放尿してゐるおつとりとした懐かしい風俗を画いたものであつた。私はそのかげで毎夜美くしい姉上や肥満つた気の軽るい乳母と一緒に眠るのが常であつた。
 頑固で、何時もむつつりした、旧い家から滅多に外へも出た事はなく、流行唄のひとつすら唄へなかつた私の父にも矢張り気まぐれな道楽はあつた。あの陰気な稲荷の巫女や、天狗使ひや、(A+B)2……などの方程式で怪しい占ひをした漂浪者や、護摩を焚く琵琶法師やを滞留さしては、いろいろな不思議を信じた行為の閑暇にはまた七面鳥を朱欒のかげに放ち、二三百の白い鉢に牡丹を開かせ、鶏を飼ひ、薔薇を植ゑる事を忘れなかつた。さうして様々に飽きはてては年毎にその対手を替へた。鶏を鶩に替え、朝顔のために前の薔薇を根こそぎ棄てて了つた。さうして遂にはちゆうまえんだに豚小屋まで設けたほど、凡てが投げやりであつた。
私はまた五島平土の船頭衆から長崎や島原の歌も聞いた。年の師走には市が立つてそれらの珍客を載せた大船はいつも四十艘五十艘と港入りした。酒造のほかに何の物音もしなかった沖ノ端の街は急に色めき渡つて再び戦のやうな「古問屋の師走業」がはじまる。さうしてこの家の旧い習慣として、その前後に催さるる入船出船の酒盛には長崎の紅い三尺手拭を鉢巻にして、琉球節を唄ふ放恣にして素朴な船頭衆のなかに、柳河のしをらしい芸妓や舞子が頑くなな主人の心まで浮々するやうに三味線を弾き、太鼓を敲いた。その小さい舞子のなかの美くしい一人を Tonka John はまた何となく愛しいものに思つた。

   9

 舌出人形の赤い舌を引き抜き、黒い揚羽蝶の翅をむしりちらした心はまたリイダアの版画の新らしい手触を知るやうになつた。而してただ九歳以後のさだかならぬ性慾の対象として新奇な書籍――ことに西洋奇談――ほど Tonka John の幼い心を掻き乱したものは無かつた。「埋れ木」のゲザがボオドレエルの「悪の華」をまさぐりながら解らぬながらもあの怪しい幻想の匂ひに憧がれたといふ同じ幼年の思ひ出のなつかしさよ。
 外目の祖父は雪の日の炉辺に可哀いい沖ノ端の孫を引きよせながら懐かしさうに仏蘭西式調練の小太鼓の囃子を歌つて聴かす外にはまだ稚い子供に何らの読書の権能をも認めて呉れなかつた。当時民友社ものを耽読してゐた若い叔父はただ「夢想兵衛胡蝶物語」一冊しか自由に読まして呉れぬ。祖父の書架を飾つた古い蘭書の黒皮表紙や広重や北斎乃至草艸紙の見かへしの渋い手触り、黄表紙、雨月物語、その他様々の稗史、物語、探偵奇談、仏蘭西革命小説、経国美談、三国志、西遊記等の珍書は羅曼的な児童の燃えたつ憧憬の情を嗾かして遂にはかの厳格なる禁断を犯かさしむるに到つた。
 私はよく葡萄棚の下に緑いろの日の光を浴びながら新らしい紙の匂ひに親しみ、赤い柿の実の反射にぼやけた草艸紙の平仮名を拾つては百舌の啼く音をきき耽つた。私は本のひとつひとつの匂ひや色や手触の異なる毎にそれぞれ特殊なある感覚の悲しみを嗅ぎわけた。私は梨の木に上つて果実の甘い液にナイフの刃をつける時も、ゐもりの赤い腹を恐れて芝くさのほめきに身をひたす時も、赤ん谷の婆(母の乳母で髪の白いなつかしい老婆だつた)のところに山桃採りにゆく時にも、絶えず何らかの稗史を手にしないことは無かつた。私はたゞ感動し、昂奮し、あらゆる稚い空想に耽つた。
 ある日の午後円い玉葱の花に黄色い日光が照りつけて、昼の虫が幽かにパツチパツチと鳴いてゐる時、私はその上の丘の芝生に寝ころびながら初めて自分の身体から泌み出る強い汗の臭を知つた。さうして軟風のいらいらと葱の臭を吹きおくるたびに私はある異常な霊の圧迫を感じた。かういふ日が続いて私は遂に激しい本能の衝動に駆られた。さうしてその日から非常に昼の太陽を恐るるやうになつた。
 愈「春の覚醒」の時代が来た。さうして赤い青い書籍の手触りに全官感を慄かしてるた私はまたその以外の新しい世界を発見し得た恐怖と喜びに身も霊も顫はしながら燃えたつ瞳に凡てのものを美くしく苦るしくさうして哀しく、寂しく感じ得るやうになつた。さはいへ、私もまた喜怒哀楽の情の激しい一面に極めて武士的な正義と信実とを尊ぶ清らかな母の手に育てられて、一時は強ひて山羊の血の交つた怯儒な心に酒を恐れ煙草を悪み、単に懐中鏡を持てゐたといふ丈けで友人とも絶交しかけたほど偽善的な十四の春を迎へた。さうして何時までも女を恐れた。淫らな水郷に育つた私はかうして不思議にも清らかな清教徒としての少年期を了つた。
 尤もその偽善的な傾向も長くはなかつた、無意識に圧迫された本然の性情は何時の間にか新らしい反抗の炎を上げた。その苦しい前後に当つて私は激しい神経の衰弱をおぼえた、さうしてただひとり静かに瞑想し思索する病的な夜の鳥の心になった。さうして私の少年期の了るころ、常に兄弟のやうに親しんだ友人の一人は自刃して遂にその才気煥発だつた短い一生の最後を自分の赤い血潮で華やかに彩どつて、たんぽぽのさく野中のひとすぢ道を彼の墓場へ静かに送られて行つたのである。残された私はまた陰欝な、そのなかにいらいらとした紅い戯奴のやうな心を閃めかす気の短い感情の激しい二十歳の生活に入つた。さうして若鷲の巣立ちを思はせるやうに忙たゞしく東京をさして上つた。

 10

 私が十六の時、沖ノ端に大火があつた。さうしてなつかしい多くの酒倉も、あらゆる桶に新らしい金いろの日本酒を満たしたまま真蒼に炎上した。白い鶩のゐた潴水、周囲の清らかな堀割、泉水すべてが酒となつて、なほ寒い早春の日光に泡立つては消防の刺子姿の朱線に反射した。無数の小さい河魚は酔つぱらつて浮き上り、酒の流れに口をつけて飲んだ人は泥酔して僅に焼け残つた母家に転がり込み、金箔の古ぼけた大きな仏壇の扉を剥がしたり歌つたり踊つたりした。私は恰度そのとき、魚市場に上荷げてあつた葢もない黒砂糖の桶に腰をかけて、運び出された家財のなかにたゞひとつ泥にまみれ表紙もちぎれて風の吹くままにヒラヒラと顫へてゐた紫色の若菜集をしみじみと目に涙を溜めて何時までも何時までも凝視めてみたことをよく覚えてゐる。
 その後以前にも優るほどの巨大な新倉が建ち、酒の名の「潮」とともに、一時は古い柳河の街にたゞひとり花々しい虚勢を張つてはゐたものの、それも遂には沈んでゆく太陽の断末魔の反照に過ぎなかつた。その十年の短い月日のなかに、廃れてゆくものは廃れ、死んでゆく人は死に、ただひとり古い木版画の手触のやうに、残つてゐた懐かしい水郷の風俗も多くは忘られて、たゞ小さな街に残つた気も狭く口先のみ怜悧なあの眼の狡猾らい人士のみが小さな裁判沙汰に生噛りの法律論を闘はして徒に日をおくるばかり、季節の変るたびに集まつた旅役者も大方は新顔の陋しい味も風情もないものになつて了つた。さうして食ひつめものの商人は門司、佐世保、大牟田などの新らしい繁華を慕ふて奔り、金歯入れた高利貸は朝鮮にゆき、六騎の活気ある一団は六十余艘の小舟に鮟鱇組の旗じるし翻へしながら遠洋漁業の途にのぼるかして、わかい子弟の東京へゆくものさへ、誰一人この因循な故郷に帰らうとはせぬ。かやうにして街に残されたものは真菰臭い潴水に釣を好む楽隠居か、ただ金庫の前に居眠りをして一生を過ごすあの蒼白い素封家の Tonka John(良家の息子、やや馬鹿にしていふ言葉である。)かで、追ひ追ひに旧家は廃れ、地方の山持、田地持の類も何時しかに流浪の身となつた者が多い。母の家も祖父の没後よくある例の武士の商法とかで、山林に手を出し、地方唯一の名望家として政治屋にまた盛に担ぎ上げられたが為めに瞬く間に財産を傾け尽くして、今はあの白い天守の屋根に屋根の艸が秋毎に赤い実をつくる外には、広い屋敷は見るかげもなく荒れはてて了つた。加之、火災後の長い心労と疲憊の末、柳河の「油屋」として、九州の古問屋として数代知られた旧家も遂には一家没落の憂き目を見るやうになつた。
 私がこの「思ひ出」の編纂に着手し初めたのは、ちやうど郷家の旧い財宝はあの花火の揚る、堀端のなつかしい柳のかげで無惨にも白日競売の辱しめを受けたといふ母上の身も世もあられないやうな悲しい手紙に接した時であつた。而して新らしい創作に従つてゐる間に秋となり冬が来て、今はまた晩春の悩ましい気分に水祭の囃子や蚕豆の青くさい香ひのそことなく忍ばるるころとなつた。国よりの通知には愈酒倉は解かれ、親子兄弟凡てあの根ざしの深い「思出の家」から思ひきつて立ち退くべき時機が迫つたといふ事であつた。而して馴れぬ水仕業に可憐な妹の指が次第に大きく醜くなつてゆきますといふ事であつた。かうしてこの小さな抒情小曲集も今はただ家を失つたわが肉親にたつた一つの贈物としたい為めに、表紙にも思出の深い骨牌の女王を用ゐ、絵には全く無経験な癖に首の赤い蛍や生胆取や John や Gonshan の漫画まで挿んで見た、而して心ゆくまで自分の思を懐かしみたいと思つて、拙いながら自分の意匠通りに装幀して、漸くこの五月に上梓する事となつた。なほこの集に挿んだ司馬江漢の銅版画は第一回の競売の際古道具屋の手に依て一旦埃塵溜に投げ棄てられたのをそつと私の拾つて来たものであつて、着色の珍らしい、印象の強い異国趣味のものだつたのが写真の不鮮明な為め全く原画の風韻を失つて了つたのはこの上もなく残念に思はれる。畢竟私はこの「思ひ出」に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く訣別しやうと思ふ。過ぎゆく一切のものをしてかの紅い天鵞絨葵のやうに凋ましめよ。私の望むところは寧ろあの光輝ある未来である。而して私の凡ての感覚が新らしい甘藍の葉のやうに生いきと強い香ひを放つてゐる「刹那」の狂ほしい気分のなかに更に力ある人生の意義を見出すことである。終にたつた一人の愛する妹の為めに、その可憐な十の指の何時までも細くしなやかならんことを切に祈つて置く。
                    TONKA JOHN.
一九一一、晩春、
    東京にて。


(目次省略)


序詩


思ひ出は首すぢの赤い蛍の
午後のおぼつかない触覚のやうに、
ふうわりと青みを帯びた
光るとも見えぬ光?

あるひはほのかな穀物の花か、
落穂ひろひの小唄か、
暖かい酒倉の南で
ひき揉しる鳩の毛の白いほめき?

音色ならば笛の類、
蟾蜍の暗く
医師の薬のなつかしい晩、
薄らあかりに吹いてるハーモニカ。

匂ならば天鵝絨、
骨牌の女王の眼、
道化たピエローの面の
なにかしらさみしい感じ。

放埒の日のやうにつらからず、
熱病のあかるい痛みもないやうで、
それでゐて暮春のやうにやはらかい
思ひ出か、たゞし、わが秋の中古伝説?




骨牌の女王 童謡



金の入日に嬬子の黒

金の入日に嬬子の黒――
黒い喪服を身につけて、
いとつつましうひとはゆく。
海のあなたの故郷は今日も入日のさみしかろ。
夏のゆく日の東京に
茴香艸の花つけて淡い粉ふるこのごろを、
ほんに品よきかの国のわかい王もさみしかろ。
心ままなる歌ひ女のエロル夫人もさみしかろ。

金の入日に繻子の黒、──
黒い喪服を身につけて
いとつつましうひとはゆく。
九月の薄き弱肩にけふも入日のてりかへし、
粉はこぼれてその胸にすこし黄色くにじみつれ。
金の入日に嬬子の黒、
かかるゆふべに立つは誰ぞ。


骨牌の女王の手に持てる花

わかい女王の手にもてる
黄なる小花ぞゆかしけれ。
なにか知らねど、蕋赤きかの草花のかばいろは
阿留加里をもて色変へし愁の華か、なぐさめか、
ゆめの光に咲きいでて消ゆるつかれか、なつかしや。

五月ついたち、大蒜の
黄なる花咲くころなれば
忠臣蔵の着物きて紺の燕も翔るなり、
銀の喇叭に口あててオペラ役者も踊るなり。
されど昼餐のあかるさに
老嬢の身の薄くナイフ執るこそさみしけれ。

西の女王の手にもてる
黄なる小花ぞゆかしけれ。
何時も哀しくつつましく摘みて凝視むるそのひとの
深き目つきに消ゆる日か、過ぎしその日か、憐憫か、
老嬢の身の薄くひとりあるこそさみしけれ。


焼栗のにほひ

玉乗の児よ、戯奴よ、身振をかしき鈴振よ。
また、いはけなき曲馬の児、
赤き上着にとり澄ます銀笛吹きの童らよ。

げにげに汝ら、しをらしく、あるはをかしく、おもしろく、
戯れ浮かれて鄙びたる下司のしらべに忘るれど、
いづこともなき焼栗の秋のにほひを嗅ぐときは
物思ふらむ嘆くらむ、かつは涙もしたたらむ。

すべり転がる玉の上に、暗き楽屋に、
汗臭き馬の背に、道化芝居の花道に、
玉蜀黍を噛みしむる、収穫の日の
盲目のわかき女に見るごとく、
物の哀れをしみじみと思ひ知るらむ、浅艸の秋の匂に。


黒い小猫

ちゆうまえんだの百合の花
その花あかく、根はにがし。──
ちゆうまえんだに来て見れば
豌豆のつる逕に匍ひ、
黒い小猫の金茶の眼、
鬼百合の根に昼光る。

べんがら染か、血のいろか、
鹿子まだらの花弁は裂けてしづかに傾きぬ。
裂けてしづかに輝ける褐の花粉の眩ゆさに、
夜の秘密を知るやとて
よその女のぢつと見し昨の眼つきか、金茶の眼、
なにか凝視むる、金茶の眼。

黒い小猫の爪はまた
鋭く土をかきむしる。
百合の疲れし球根のその生じろさ、薄苦さ、
掻きさがしつつ、戯れつ、
後退りつつ、をののきつ、
なにか探せる、金茶の眼。

そつと堕胎したあかんぼの蒼い頭か、金茶の眼、
ある日、あるとき、ある人が生埋にした私生児の
その児さがすや、金茶の眼、
百合の根かたをよく見れば
燐は湿めりてつき纒ひ、
球のあたまは曝らされて爪に掻かれて日に光る。
なにか恐るる、金茶の眼。

ちゆうまえんだの百合の花、
その花赤く、根はにがし。──
ちゆうまえんだに来て見れば
なにがをかしききよときよとと、
こころ痴れたるふところ手、半ば禿げたるわが叔父の
歩むともなき独語ひとり終日畑をあちこち

 註。ちゆうまえんだ。わが家の菜園の名なり。


足くび

ふらふらと酒に酔ふてさ、
人形屋の路次を通れば
小さな足くびが百あまり、
薄桃いろにふくれてね、
可哀相に蹠には日があたる。
馬みちの昼の明るさよ、
浅艸の馬道。


小児と娘

小児ごころのあやしさは
白い小猫の爪かいな。
昼はひねもす、乳酪の匙にまみれて、飛び超えて、
卓子の上、椅子の上、ちんからころりと騒げども、騒げども、
流石、寝室に瓦斯の火のシンと鳴る夜は気が滅入ろ…
いつか殺したいたいけな青い小鳥の翅の音。

娘ごころのあやしさは
もうせんごけの花かいな。
いつもほのかに薄着してしんぞいとしう見ゆれども、
昼が昼なか、大それた強い魔薬に他こそ知らね、
赤い火のよな針のわな千々に顫えて虫を捕る、虫を捕る。
なんぼなんでも殺生な、夜は夜とてくらやみに。


青い小鳥

知らぬ男のいふことに、
青い小鳥よ、樫の木づくり、わしの寝床が見馴れたら
せめて入日につまされて鳴いておくれよ、籠の鳥、
牛乳が好きなら牛乳飲まそ、
野芹つばなも欲しかろがわしの身体ぢやまま為らぬ。
何がさみしいカナリヤよ、
――よしやこの身が赤い血吐いていまに死なうとそなたは他人。
じっと黙んだ嘴にケレオソートが泌むかいな。

死んだ娘のいふことに、
青い小鳥よ、担荷の上のわしの姿が見えぬとて
ひとの涙のうしろからちらと鳴くのか、籠の鳥、
弔むそなたの真実は
金の時計か、襟どめか、惜しい指輪の玉であろ。
何がかなしいカナリヤよ、
――よしやこの身が解剖をされて墓へかへろとそなたは他人。
やつといまごろ鳴いたとて死んだ肌がなんで知ろ。

わしの従兄弟がいふことに
青い小鳥よ、樫の木づくり、おなじ寝どこに三人まで
死ぬる命の贐に鳴いて暮らすか、籠の烏、
ケレオソートにや馴染みもしよが、
いつも馴染まぬ人の眼が今ぢやそなたも厭であろ。
何がせはしいカナリヤよ。
――よしやこの身が冷たくなろと息が締れよとそなたは他人。
死なぬさきから鳴かうとままよ、あとの二日でわしも死ぬ………………


みなし児

あかい夕日のてる坂で
われと泣くよならつぱぶし…………

あかい夕日のてるなかに
ひとりあやつる商人のほそい指さき、舌のさき、
糸に吊られて、譜につれて、
手足顫はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。

あかい夕日のてる坂で
やるせないぞへ、らつぱぶし、
笛が泣くのか、あやつりか、なにかわかねど、ひとすぢに
糸に吊られて、音につれて、
手足顫はせのぼりゆく戯け人形のひとおどり。

なにかわかねど、ひとすぢに
見れば輪廻が泣いしやくる。
たよるすべなき孤児のけふ日の寒さ、身のつらさ、
思ふ人には見棄てられ、商人の手にや弾かれて、
糸に吊られて、譜につれて、
手足顫はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。

あかい夕日のてる坂で
消えも入るよならつぱぶし…………


秋の日

小さいその児があかあかと
とんぼがへりや、皿まはし…………
小さいその児はしなしなと身体反らして逆さまに、
足を輪にして、手に受けて、
顔を踵にちよと挟む、
足のあひだにその顔の坐るかなしさ、生じろさ。
落つる夕日のまんまろな光ながめてひと雫。

あかい夕日のまんまろな光眺めてまじまじと、
足を輪にして、顔据ゑて、小さいその児はまた涙。
傍にや親爺が真面目がほ、
鉦や太鼓でちんからと、俵くづしの軽業の
浮いた囃子がちんからと。

知らぬ他国の潟海に鴨の鳴くこゑほのじろく、
魚市場の夕映が血なまぐさそに照るばかり、
人立ちもないけうとさに秋も過ぎゆく、ちんからと。
小さいその児がただひとり、
とんぼがへりや、皿まはし、…………

人形つくり

長崎の、長崎の
人形つくりはおもしろや、
色硝子……青い光線の射すなかで
白い埴こねまはし、糊で溶かして、砥の粉を交ぜて、
ついととろりと轆轤にかけて、
伏せてかへせば頭が出来る。

その頭は空虚の頭、
白いお面がころころと、ころころと…………

ころころと転ぶお面を
わかい男が待ち受けて、
青髯の、銀のナイフが待ち受けて、
●、●、薄う瞑つた●を突いて、きゆつと抉ぐつて両眼あける。(●はメヘン+「匡」)
昼の日ながにいそがしく、
いそがしく。

長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや。
色硝子…………黄色い光線の射すなかで
肥満女の回々教徒の紅頭巾、唖か、聾か、にべもなく
そこらここらと撰んで分けて撮む眼玉は何々ぞ。
青と黒、金と鳶色、魚眼の硝子が百ばかり。

その眼玉も空虚の眼玉、
ちよいとつまんで●へ当てて(●はメヘン+「匡」)
面よく見て、後をつけて、合はぬ眼玉はちよと弾き、
ちよと弾き
嵌めた、嵌めたよ、両眼嵌めた、…………
露西亜の女郎衆が、女郎が義眼をはめるよに、
凄やをかしや、白粉刷毛でさつと洗つてにたにたと。
外ぢや五月の燕ついついひらりと飛び翔る。

長崎の、長崎の
人形つくりはおもしろや。
色硝子…………紅い血のよな日のかげで
白髪あたまの魔法爺が真面目顔、じつと睨んで、手足を寄せて、
胴に針金、お面に鬘、寄せて集めて児が出来る。
児が出来る。

酷や、可哀や、二百の人形、
泣くにや泣かれず、裸の人形、
赤う膨れた小股を出して、頭みだして、踵を見せて、
鮭の卵か、児豚の腹か、水子、蛭子、を見るがよに、見るがよに、
床に積れて、瞳をあけて、赤い夕日にくわと噎ぶ。
くわと噎ぶ。

人形、人形、口なし人形、
みんな寒かろ、母御も無けりや、賭博うつよな父者もないか、
白痴か、狂気か、不具か、唖か、堕胎薬を喫まされた
女郎の児どもか、胎毒か……
しんと黙つてしんと黙つて顫えてゐやる。
傍ぢや、ちんから目さまし時計、
ほんに、ちんから、目さまし時計
春の小歌をうたひ出す、
仏蘭西の銀のマーチを歌ひ出す。

長崎の、長崎の
人形つくりはいぢらしや、
いぢらしや。


くろんぼ

くろんぼのまだうらわかい母親は
くろんぼの嬰児の円い頭を撫でさすり、
乳をのませ、
滑るその手もしなやかに黒い頭を撫でさする。

長崎の異人屋敷の棕梠の花、
カステラ色の棕梠の花。
その日あたりに足投げいだし、
ものおもふくろんぼに抱かるる
くろんぼの児よ。

くろんぼの児は乳をのみ、
頭をなんとなく撫でらるる快さに
静こころなくつく呼吸の、
出で入る呼吸の、
光沢のある母の皮膚を、
なめらかなその胸を
また滑らかに撫でかへす…………

夏の午過ぎ、ついちろちろと鳥のこゑ、
水平線のかがやきは銀を流して一線に。

母親の夢は何をおもふ。
無心に乳をのむくろんぼの
その児の、
黒い手のひらに握られて、
しめやかに匍ひいづる
首の赤い一匹の、その蛍……………………




断章 六十一



断章

  一

今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、
銀の小笛の音もほそく、ひとり幽かに、
すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、
薄き光に。

  二

ああかなし、
あはれかなし、
君は過ぎます、
薫いみじきメロデアのにほひのなかに、
薄れゆくクラリネツトの音のごとく、
君は過ぎます。

  三

ああかなし、
あえかにもうらわかきああわが君は、
ひともとの芥子の花そが指に、香のくれなゐを
いと薄きうれひもてゆきずりに触れて過ぎゆく。

  四

あはれ、わが君おもふ●オロンの静かなるしらべのなかに、(●は「ヰ」に濁点)
いつもいつも力なくまぎれ入り、鳴きさやぐ驢馬のにほひよ、
あはれ、かの野辺に寝ねて、名も知らぬ花のおもてに、
あはれ、あはれ、酸ゆき日のなげかひをわれひとり嗅ぎそめてより。

  五

暮れてゆく雨の日の何となきものせはしさに
落したる、さは紅き実の林檎ああその林檎、
見も取らず、冷かに行き過ぎし人のうしろに、
灰色の路長きぬかるみに、あはれ濡れつつ
ただひとつまろびたる、燃えのこる夢のごとくに。

  六

あはれ友よ、わかき日の友よ、
今日もまた街にいでて少女らに面染むとも、
な嘲みそ、われはなほわれはなほ心をさなく、
やはらかき山羊の乳の香のいまも身に失せもあへねば。

  七

見るとなく涙ながれぬ。
かの小鳥
在ればまた来て、
茨のなかの紅き実を啄み去るを。
あはれまた、
啄み去るを。

  八

女子よ、
汝はかなし、
のたまはぬ汝はかなし、
ただひとつ、
一言のわれをおもふと。

  九

あはれ、日の
かりそめのものなやみなどてさはわれの悲しく、
窓照らす夕日の光さしもまた涙ぐましき、(「窓」は「窗」+「心」)
あはれ、世にわれひとり残されて死ぬとならねど、
わが側遠く去るとも人のまた告げしならねど、
さなり、ただ、かりそめのかりそめのなやみなるにも。

  十

あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、
ほのかにも見いでつる、われひとり見いでつる、
青き果のうれひよ。
あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。
ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる
あはれその青き果のうれひよ。

  十一

酒を注ぐきみのひとみの
ほのかにも濡れて愁ふる。
さな病みそ街のどよみの小夜ふけて遠く泌むとも。

  十二

女、汝はなにか欲りする。
ゆふぐれの、ゆふぐれのゆめふかきもののにほひに、
かくもまた汝とともに接吻けて、接吻けて、接吻けてほのかにも泣きつつあらば、
あはれ、またなにの願か身にあらむ、ああさるをなほ
女、汝はなにか欲りする、
ゆふぐれの、ゆふぐれのふたつなき夢のさかひに。

  十三

なやましき晩夏の日に、
夕日浴び立てる少女の
余念なき手にも揉まれて、
やはらかににじみいでたる
色あかき爪くれなゐの花。

  十四

わが友よ。
君もまた色青きぺパミントの酒に、
かなしみの酒に、
いひしらぬ慰籍のしらべを、
今日の日のわがごとも、
あはれ、友よ、思ひ知り泣きしことのありや。

  十五

あはれ君、われをそのごと
清しとな正しとなおもひたまひそ。
われはただ強ひて清かり。
失せもあへぬそのかみの日の怯れたる弱きこころに、
ああかなし、われはさは強ひて清かり。

  十六

哀知る女子のために、
われらいま黄金なす向日葵のもとにうたふ。
哀知る女子のために。

  十七

『口にな入れそ。』
色紅くかなしき莓葉かげより今日も呼びつる。
『口にな入れそ。』

  十八

われはおもふ、かの夕ありし音色を。
いと甘き梔子の映えあかるにほひのなかに、
埋もれつつ愁ふともなくただひとりありけるほどよ、
あはれ、さは通りすがりのちやるめらの肩をかへつつ、
ひとうれひ――ひいひゆるへうと荷担夫の吹きもゆきしを。
あはれまた、夕日のなかに消えがてに吹きも過ぎしを。

  十九

嗚呼さみし、哀れさみし、
今日もまた都大路をさすらひくらし、
なにものか求めゆくとてさすらひくらし、
日をひと日ただあてもなうさすらひくらす。
嗚呼さみし、哀れさみし。

  二十

大ぞらに入日のこり、
空いろにこころ顫ふ。
初恋の君をおもふ
われの未練ぞ、
あはれ、さは暮れはつるらむ。

  二十一

いとけなき女の子に
きかすとにはあらねど、
たはむれにきかしぬる
わかき日の歌よ。
わが恋ふる君も知らねば。

  二十二

わが友はいづこにありや。
晩秋の入日の赤さ、さみしらにひとり眺めて、
掻いさぐるピアノの鍵の現なき高音のはしり、
かくてはや独身の、独身の今日も過ぎゆく。

  二十三

弥古りて大理石はいよよ真白に、
弥古りてかなしみはいよよ新らし、
弥古りて弥清く、いよよかなしく。

  二十四

泣かまほしさにわれひとり、
冷やき玻璃戸に手もあてつ、
窓の彼方はあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。
泣かまほしさにわれひとり。

  二十五

柔かきかかる日の光のなかに、
いまひとたび、あはれ、いまひとたび、
ほのかにも洩らしたまひね、
われを恋ふと。

  二十六

蝉も鳴く、ひと日ひねもす、
『かなし、かなし、ああかなし、今日なほひとり。』

  二十七

そを思へばほのかにゆかし。
かの古りし朱塗のうつは、
そがなかに薫りにし
馬尼拉煙草よ。
いつの日のゆめとわかねど。

  二十八

あはれ、あはれ、すみれの花よ。
しをらしきすみれの花よ。
汝はかなし、
色あかき煉瓦の竈の
かげに咲く汝はかなし。
はや朝明の露ふみて
われこそ今し
妹の骨ひろひにと来しものを。

  二十九

青梅に金の日光り、
地は濡れて鈴虫鳴く。
日暮らしの日暮らしの雨の絶間に、
いつしらず鈴虫鳴く。

  三十

あはれ、さはうち鄙びたる
いはけなき玉乗の子が危なげの足にあはせて、
かすかにも弾き鳴らすヰオロン弾きの少女。

  三十一

いまもなほ
ワグネルのしらべに
日をひと日浮身をや窶したまへる。
かなしきは女ぞかし。
離り来て野辺におもへば
露くさの花の色だにさはひとり求めわぶるなる。

  三十二

わが友は色あかき酒を飲みにき、
われはサイダア、
あはれかかる淡つけき愁もて
わかき日をや泣かむとする、弱き子の心ぼそさよ。

  三十三

あはれ、去年病みて失せにし
かのわかき弁護士の庭を知れりや。
そは、街の角の貸家の
褪めはてし飾硝子の戸を覗け、草に雨ふり、
色紅き罌粟のひともと濡れ濡れて燃えてあるべし。
あはれまた、そのかみの夏のごとくに。

  三十四

ああ、あはれ、
青にぶき救世軍の
汚ごれたる硝子戸のまへに
向日葵咲き、
堀端を半纒ひとりペンキ壺さげて過ぎ行く。
いづこにか物売の笛
ああ、ひと目――日の夕、
われはいま忙しなの電車より。

  三十五

縁日の見世ものの、臭き瓦斯にも面うつし、
怪しげの幕のひまより活動写真の色は透かせど、
かくもまた廉白粉の、人込のなかもありけど、
さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなさ、涙ながるる。

  三十六

鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。
いそがしき活動写真煤びたる布に映すと、
かりそめの場末の小屋に瓦斯の火の消え落つるとき、
鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。

  三十七

あはれ、あはれ、
色青き幻燈を見てありしとき、
なになればたづきなく、かのごとも涙ながれし
いざやわれ、倶楽部にゆき、友をたづね、
紅のトマト切り、ウヰスキイの酒や呼ばむ、
ほこりあるわかき日のために。

  三十八

瓦斯の火のひそかにも声たつるとき、
われ、君を悲しとおもひ、
靴ぬぐひの皮に
踵なる土踏みなすり、
別れ来て、土踏みなすり、
ほの黄なるしめり香の、かの苑の香を嗅げば、
いまさらに涙ながる………………

  三十九

忘れたる、
忘れたるにはあらねども…………
ゆかしとも、恋ひしともなきその人の
なになればふともかなしく、
今日の日の薄暮のなにかさは青くかなしき、
忘れたる、
忘れたるにはあらねども…………

  四十

つねのごと街をながめて
ナイフ執りフオク執り、女らに言葉かわせど、
色赤きキユラソオの酒さかづきにあるは満たせど、
かなしみはいよいよ去らず、
かにかくにわかき身ゆゑに涙のみあふれていでつつ。

  四十一

かかるかなしき手つきして、
かかる音にこそ弾きにしか、
かかるかなしきその日の少女。

  四十二

あかき果は草に落ち、
露に濡れて、
日をひと日戦きぬ、かくてまた香だに立て得じ。
雨霽れて、日の射せば、甘く、かなしく、
物求食り、物求食り、寄りも来る音の
レグホンの雄の鶏の、あはれそがけたたましさよ。

  四十三

葬式の帰途にか、戯れに笛吹き鳴らし、
もの甘き靄の内さざめきてたどる楽師よ。
哀れ、汝ら、
薄ぐらき路次の長屋にひと時の後やあるらむ。
さはれなほ吹き鳴らし吹き鳴らし長閑に消えつつ、
うら若き服の鄙びのいろ赤く、なにか眺むる。
日はしばし夢の世界に目を放つ、黄金の光。…………

  四十四

顔のいろ蒼ざめて
ゆめ見るごとき眼眸、
今日もまた、わかき男、
空をのみ空をのみ見やりて暮らす。

  四十五

長き日の光に倦みて
熟れし木の果は
やはらかき吐息もて地にぞ落ちたる。
またひとつ…………そよとだに風も吹かねど。

  四十六

かなしかりにし昨日さへ、
かなしかりにし涙さへ、
明日は忘れむ、肥満れる君よ。

  四十七

廃れたる園のみどりに
ふりそそぎ、ふりそそぎ、にほやかに小雨はうたふ。
嬰粟よ、嬰粟よ、
やはらかに燃えもいでね…………

  四十八

なにゆゑに汝は泣く、
あたたかに夕日にほひ、
たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらぼふ。
さるを女、
なにゆゑに汝は泣く。

  四十九

あはれ、人妻、
ふたつなきフランチエスカの物語
かたらふひまもみどり児は声を立てつつ、
かたはらを匍ひもてありく、
君はまた、たださりげなし。
あはれ、人妻。

  五十

いかにせむ…………
やはらかに
眼も燃えて、
ああ君は
唇をさしあてたまふ。

  五十一

色赤き三日月、
色赤き三日月、
今日もまた臥床に
君が児は銀笛のおもちやをぞ吹く、
やすらけきそのすさびよ。

  五十二

柔らかなる日ざしに
張物する女、
いろいろの日ざしに
もの思ふ女、
柔らかなる日ざしに
張物する女。

  五十三

われは怖る、
その宵のたはむれには似もやらで、
なにごとも忘れたる
今朝の赤き唇。

  五十四

いそがしき葬儀屋のとなり、
駅逓の局に似通ふ両替のペンキの家に、
われ入りて出づる間もなく、
折よくも電車むかへて、そそかしく飛びは乗りつれ。
いづくにか行きてあるべき、
ただひとり、ただひとり、指すかたもなく。

  五十五

明日こそは
面も紅めず、
うちいでて、
あまりりす眩ゆき園を、
明日こそは
手とり行かまし。

  五十六

色あかきデカメロンの
書に肱つき、
なにごとをか思ひわづらひたまふ。
わかうどの友よ、
美くしきかかる日の夕暮に、さは疎くたれこめてのみ、
なにごとをか思ひわづらひたまふ。

  五十七

あはれ、鉄雄、
静かなる汝が顔の蒼さよ、
声もなきは泣きやしつる、
たよりなき闇の夜を
光りて消ゆる花火に。

  五十八

ほの青く色ある硝子、
透かし見すれば
内部なる耶蘇の龕にひとすぢの香たちのぼる。
街をゆき、透かし見すれば
日の真昼ものの静かにほのかにも香たちのぼる。

  五十九

薄青き歯科医の屋に
夕日さし、
ほのかにも硝子は光る。
あはれ、女、
その戸いでていづちにかゆく…………
黄なる陽に汝を見れば
われもまたほの淡き歯痛をおぼゆ。

  六十

あはれ、あはれ、
灰色の線路にそひ、
ひとすぢの線路にそひ、
今朝もまた辿りゆく浅葱服のわかき工夫、
汝もまた路のゆくてに
青き花をか求むる、
かなしき長きあゆみよ。

  六十一

新詩社にありしそのかみ、
などてさは悲しかりし。
銀笛を吹くにも、
ひとり路をゆくにも、
歌つくるにも、
などてさは悲しかりし。
をさなかりしその日。




過ぎし日



泪芙藍

罅入りし珈琲碗に
泪芙藍のくさを植ゑたり。
その花ひとつひらけば
あはれや呼吸のをののく。
昨日を憎むこころの陰影にも、時に顫えて
ほのかにさくや、さふらん。


銀笛

        病弟鉄雄に
思ひ出の、夜の、空の
ほの青き瓦斯の火に、
しみじみと
銀笛の音ぞうれふ。

そこはかと粉雪ふり、
梅の花黄になげく
その苑の、
身のいたき衰弱や。

罅うすき硝子戸に
肋膜のわづらひに、
その胸に、
かの泌みる音はほそし。

写真屋の焼あとに
鶯の鳴きつかれ、
珈琲店にまた、
薄荷酒の冷えゆけば、

霊の病める手に、
げに一夜、きざまれて、
ひとりまた
音にかつのる、そのなげきよ。




過ぎし日は鍼医の手凾、
天鵝絨の紫の凾、
柔かに手を触れて、珍らしく
パツチリとひらいた凾、舶来の凾。

銀かな具のつめたさ、
SORI-BATTEN びらうどのしとやかさ、
そのびらうどに
薄う光る針。

顫える針をつまんで、
GONSHAN の薄い肌を刺すこころ、
やるせない夏の真昼のその手つき。

つかれと、かなしみと、ものおもひ、
官能の欲…………
こころにくいほど落ちついて
しんみりと刺す盲人の手。

過ぎし日は鍼医の手凾、
天鵝絨の紫の凾、
柔かに手を触れて、なつかしく、
パツチリと閉めた凾、舶来の凾。

 註。Sori-batten. 然しながら。方言。阿蘭陀訛?
   Gonshan.   良家の娘。柳河語。


陰影

なつかしき陰影をつくらんとて
雛罌粟はひらき、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。

晴れやかに鳴く鳥は日くれを思ひ、
蜥蜴は美くしくふりかへり、
時計の針は薄らあかりをいそしむ…………

捉へがたき過ぎし日の歓楽よ、
哀愁よ、
すべてみな、かはたれにうつしゆく
薄青きシネマのまたたき、
いそがしき不可思議のそのフイルム。

げにげにわかき日のキネオラマよ、
思ひ出はそのかげに伴奏くピアノ、
月と瓦斯との接吻、
瓏銀の水をゆく小舟。

なつかしき陰影をつくらんとて
雛嬰粟は顫へ、
かなしき疲れを求めんとて
女は踊る。


淡い粉雪

       Tinka John 作
淡い粉雪はブリツキの
薄い光に消えてゆく、
老嬢のさみしさか、
青いその日も消えてゆく。


穀倉のほめき

思ひ出は穀倉の挽臼の上に
ぼんやりと置きわすれたる蝋燭の火か、
黄いろなる蝋燭の火は
苅麦と七面鳥の卵とに陰影をあたへ、
悪戯者の二十日鼠にうちわななく。

柔かに泣く声は物忘れゆく女のごとく、
薄あかりする空窓の硝子より、
ふけゆく夜のもののねをやかなしむ。………
黄いろなる蝋燭のちろちろ火。

いまだに大人TONKA JOHN のこころは
かの穀物の花にかくれんぼの友をさがし、
暖かにのこりたる祭のお囃子にききふける…………

さみしき曙の見えて
顔青き乞食らのさし覗かぬほどぞ、
しづやかに燃え尽きむ
美くしき蝋燭のその涙、…………

 註。Tonka John. 大きい方の坊つちやん、弟と比較していふ、柳河語。
   殆どわが幼年時代の固有名詞として用ゐられたるものなり。
   人々はまた弟の方をTinka Johnと呼びならはしぬ。阿蘭陀訛?


初恋

薄らあかりにあかあかと
踊るその子はただひとり。
薄らあかりに涙して
消ゆるその子もただひとり。
薄らあかりに、おもひでに、
踊るそのひと、そのひとり。


泣きにしは

美はしき、そは兎まれ、人妻よ。
ほのかにも唇ふれて泣きにしは、
君ならじ、我ならじ、その一夜。
青みゆく蝋の火と月光と、
瞬間にほのぼのとくちつけて
消えにしを、落ちにしを、その一夜。
さるになど光ある御空より
君はまた香を求め泣き給ふ。
あな、あはれ、その一夜、泣きにしは
君ならじ、そのかみのわが少女。


薊の花

今日も薊の紫に、
刺が光れば日は暮れる。
何時か野に来てただひとり
泣いた年増がなつかしや。


カステラ

カステラの縁の渋さよな、
褐色の渋さよな、
粉のこぼれが眼について、
ほろほろと泣かるる。
まあ、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植ゑた石竹。


散歩

過ぎし日のおもひでに
植物園を歩行けば、
霜白く、薄黄水仙の芽も青く、
鳴く鳥すらもほのかなれや、仏蘭西の赤靴…………

骨牌のこころもちに
クロウバのうへをゆけば
朝はやく、あるかなきかの香も痒く、
鳴く虫すらもほのかなれや、仏蘭西の赤靴…………

かの蒼白き年増を
恐れて、そつと歩めば、
日は光り、いまだ 茴香の露も苦く、
鳴くこころすらもほのかなれや、仏蘭西の赤靴…………


隣の屋根

夕まぐれ、たれこめて珈琲のにほひに噎び、
古ぼけし和蘭陀自鳴鐘取りおろし拭きつつあれば
黄に光るザボンの実ぽつかりと夕日に浮び、
黒猫はひそやかにそのかげをゆく……
あたたかき足跡のつづきゆく瓦の塵よ。
風重きかの屋根に香濃き艸こそなけれ。
●りゆく日のあゆみたまゆらに明ると見つつ、(●は「日」の下に「咎」)
過ぎし日のやるせなき思ひ出はまた●りゆく。(●は「日」の下に「咎」)


見果てぬ夢

過ぎし日のしづこころなき口笛は
日もすがら葦の片葉の鳴るごとく、
ジプシイの昼のゆめにも顫ふらん。
過ぎし日のあどけなかりし哀愁は
こまやかに匂シヤボンの消ゆるごと
目のふちの青き年増や泣かすらん。
過ぎし日のうつつなかりしためいきは
淡ら雪赤のマントにふるごとく、
おもひでの襟のびらうど身にぞ泌む。
吹き馴れし銀のソプラノ身にぞ沁む。
過ぎし日のその夜の、言はで過ぎにし片おもひ。


高機

高機に
梭投げぬ。
 きりはたり。

その胸に
梭投げぬ。
 きりはたり。

高機に、
その胸に、
 きりはたり。


歌ひ時計

けふもけふとて気まぐれな、
昼の日なかにわが涙。
かけて忘れたそのころに
銀の時計も目をさます。


朝の水面

朝の水面の燻銀、
泣けばちらちら日が光る。
わしがこころの燻銀
けふもさみしくちらちらと。


青いソフトに

青いソフトにふる雪は
過ぎしその手か、ささやきか、
酒か、薄荷か、いつのまに
消ゆる涙か、なつかしや。


意気なホテルの

意気なホテルの煙突に
けふも粉雪のちりかかり、
青い灯が点きや、わがこころ
何時もちらちら泣きいだす。




柔かなる月の出に
生じろき百合の根は匂ひいで、
鴉の鳴かで歩みゆく畑、
その畑に霜はふる、銀の薄き疼痛…………

過ぎし日は苦き芽を蒔きちらし、
沈黙はうしろより啄みゆく、
虎列拉病める農人の厨に
黄なる灯の声もなくちらつけるほど。

霜はふる、土龍の死にし小径に、
かつ黒き鳥類の足あとに、故郷のにほひに、
霜はふる、しみじみと鍼をもてかいさぐりゆく
盲鍼医の触覚のごと。

思ひ出の月夜なり、銀の痛き鍍金に、
薄青き光線の暈かけて慄く夜なり。
放埒のわが悔に、初恋の清き傷手に、
秘密おほき少年のフアンタジヤに。

霜はふる。
ややにふる、
来るべき冬の日の幻滅…………


時は逝く

時は逝く。赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく、
穀倉の夕日のほめき、
黒猫の美くしき耳鳴のごと、
時は逝く。何時しらず、柔かに陰影してぞゆく。
時は逝く。赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。




おもひで



紅き実

日もしらず。
ところもしらず。
美くしう稚児めくひとと
匍ひ寄りて、
桃か、IKURIか、
朱の盆に盛りつとまでを。
余は知らず、
また名もしらず。
夢なりや。――
さあれ、おぼろに
朱の盆に盛りつとまでを、
わが見しは
紅き実なりき。

 註。Ikuriの果は巴丹杏より稍小さく、杏よりはすこしく大なり、そ
   の色血のごとし。


車上

春の夜なりき。さくらびと
月の大路へ戸を出でぬ。
灯あかき街の少女らは
車かこめり、
川のふち
霧美くしうそぞろぎぬ。

美き人なりき、花ごろも
かろく被ぎて、――母ぎみの
乳の香も薫ゆり、――薔薇のごと
われをつつみぬ。
ひとあまた、
あとの車もはなやぎぬ。

いづれ、月夜の花ぐるま、
憂き里さりて、野も越えて、
常うるはしき追憶の
国へかゆきし。──
稚子なれば
はやも眠りぬ、その膝に。


身熱

母なりき、
われかき抱き、
ザボンちる薄き陰影より
のびあがり、泣きて透かしつ
『見よ、乳母の棺は往く。』と。

時に白日、
大路青ずみ、
白き人列なし去んぬ。
刹那、また、火なす身熱、
なべて世は日さへ爛れき。

病むごとに、
母は歎きぬ。
『身熱に汝は乳母焦がし、
また、JOHNよ、母を。』と。――今も
われ青む。かかる恐怖に。




ひと日なり、夏の朝涼、
濁酒売る家の爺と
その爺の車に乗りて、
市場へと。──途にねむりぬ。

山の街、――珍ら物見の
子ごころも夢にわすれぬ。
さなり、また、玉名少女が
ゆきずりの笑も知らじな。

その帰さ、木々のみどりに
眼醒むれば、鶯啼けり。
山路なり、ふと掌に見しは
梨なりき清しかりし日。


鶏頭

秋の日は赤く照らせり。
誰が墓ぞ。風の光に
鶏頭の黄なるがあまた
咲ける見てけふも野に立つ。

母ありき、髪のほつれに
日も照りき。み手にひかれて
かかる日に、かかる野末を、
泣き濡れて歩みたりけむ。

ものゆかし、墓の鶏頭。
さきの世か、うつし世にてか、
かかる人ありしを見ずや、
われひとり涙ながれぬ。


椎の花

木の花はほのかにちりぬ。
日もゆふべ、椎の片岡、
影さむみ、薄ら光に
君泣きぬ、われもすがりぬ。
髪の香か、目見のうるみか、
衣そよぎ、裾にほそぼそ、
虫啼きぬ、──かかるうれひに。

ああ、かくて、君よいくとき、
かく縋り、かくや泣きけむ。
そのかみか、いまか、うつつか、
さて知らじさきの世のゆめ。


男の顔

ふと見てし男の顔は
夜目ながら赤く笑ひき。
そことなく囃子きこえて
水祭ふけし夜のほど、
乳母の背にわれねむりつつ、
見るとなく彼を憎みぬ。

その顔は街の灯かげを、
あかあかと歩みつつあり。
乳母もさは添ひてかたりぬ。
かくて世にわれただひとり。
大太鼓人は拊ちつけ
後より絶えず戯けて
嘲りぬ。──われは泣きにき。


水ヒアシンス

月しろか、いな、さにあらじ。
薄ら日か、いな、さにあらじ。
あはれ、その仄のにほひの
などもさはいまも身に泌む。.

さなり、そは薄き香のゆめ。
ほのかなる暮の汀を、
われはまた君が背に寝て、
なにうたひ、なにかかたりし。

そも知らね、なべてをさなく
忘られし日にはあれども、
われは知る、二人溺れて
ふと見し、水ヒアシンスの花。


鵞鳥と桃

なにごとのありしか知らず、
人さはに立ちてながめき。

われもまた色あかき桃
掌にしつつ、なかにまじりぬ。

河口に今日しはじめて
小蒸汽の見えつるといふ。

朝明の霧にむせびし
西国の新らしき香よ。

そが鈍き笛のもとより、
鵞の鳥は鳴きてのぼりぬ。

ひとむれのその鳴きごゑよ、
しらしらとわれに寄り来つ。

そはかなし、『見も知らぬ児よ、
汝が紅き実を欲し。』といふ。

いひしらぬそのくちをしさ、
逃げまどひ、泣きてかへりぬ。

母上に賜びし桃の実、
われひとり食べむものを。


胡瓜

そのにほひなどか忘れむ。
ほのじろき胡瓜の花よ。
そのひと日、かげにかくれて
わが見てし胡瓜の花よ。

かの日には歌舞伎見るとて
父上にせがみまつりき。
そがために小さき兄弟
日をひと日家を追はれき。

弟は水の辺に立ち、
声あげて泣きもいでしか。
われははた胡瓜の棚に
身をひそめすすり泣きしき。

かくてしも幼き涙
頬にくゆるしばしがほどぞ、
珍らなる新らしき香に
うち噎び、なべて忘れつ。

さあれ、かの痛らき父の眼
たまたまに思ひいでつつ、
日をひと日、泣きも疲れて
数へ見てし胡瓜の花よ。


源平将棊

春の夜の源平将棋、
あはれなほ思ひぞ出づる。
ただ一夜あてにをさなく
ほのかにも見てしばかりに。

その君はわれとおなじく
かぶろ髪、ゆめの眸して
紅の玉をとらしき。
われは白、かくて対ひぬ。

春の夜の源平将棋、
そののちは露だにあはず、
名も知らず、われも長じて
二十歳の春にあへれど。

などかまた忘れはつべき。
紅のとらす玉ゆゑ、
いとけなく勝たせまつりし
そのかみの春の夜のゆめ。




日は皐月、
小野のしら花
鈴状に咲きて夜あけぬ。
静なり、ひとり坐れば。
静なり、ひとり坐れば。――
くるる戸の
 きしるにほひも。

君は早や、
麦の青みを――
鈴鳴らし朝の祷りに、――
白ぎぬに摺りもこそゆけ、
白ぎぬに摺りもこそゆけ、
野の寺へ。――
 かくも思ひぬ。

ああしばし、
星のうすれに、
髪なぶる風のなよびも、
水鳥のほののしらべも、
水鳥のほののしらべも、
われききぬ。
 きみがこころも。


人生

野の皐月、空ものどかに、
白き雲ゆるかにわたり、
畑にはからし花咲き、
雲雀また妙にうかびぬ。

南向く白き酒倉、
そがもとにわれはその日も、
幟立つ野の末ながめ
ゆめのごとむきし仏手柑。

かすかにも囃子はきこえ、
笛まじり風もにほへど、
父のまたゆるしたまはぬ
歌舞伎見をなにとかすべき。

かくてまたすすり泣きつつ、
実をひとり吸ひもてゆけば
酸ゆかりき。あはれ、それより
われ世をば厭ひそめにき。


青き甕

  青き甕にはよくコレラ患者の死骸を入れたり、これらを幾個となく
  担ぎゆきし日のいかに恐ろしかりしよ、七歳の夏なりけむ。

『青甕ぞ。』――街衢に声す。
大道に人かげ絶えて
早や七日、溝に血も饐え、
悪虫の羽風の熱さ。
日も真夏、火の天爛れ、
雲燥りぬ。――大家の店に、
人々は墓なる恐怖。
香くすべ、青う寝そべり、
煙管とる肱もたゆげに、
蛇のごと眼のみ光りぬ。

『青甕ぞ。』――今こそ家族、
『声す。』『聴け。』『血糊の足音。』
『何もなし。』──やがて寂莫。――
秒ならず、荷担夫一人、
次に甕、(これこそ死骸、)
また男。――がらす戸透かし
つと映る刹那――真青に
甕なるが我を睨みぬ。
父なりき。――(父は座にあり。)――
ひとつ眼の呪咀の光。

『青甕ぞ。』──日もこそ青め、
言葉なし。――蛇のとぐろを
香匐ひぬ、苦熱の息吹。
また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
母なりき。――(母も座にあり。)――
がらす戸の冷たき皺み。
やがてまた一列、――あなや、
我なりき。――青き小甕に、
欷歔りつつ黒き血吐くと。
刹那見ぬ、地獄の恐怖。


赤足袋

肩越しにうかゞふ子らに、
沙弥が眼はなべて光りぬ。──
日の一時、水無月まなか、
大なる鐃●ひびき、(●はカネヘン+「跋」の右側)
亡者めく人びとあまた
香炉焚き、棺衣めぐり、
群れつどひ、両手あはせぬ。

長老は払子しづしづ
誦経いま、咽び音まじり、
広澄みぬ。――七歳の我は
興なさに、此時膝に
眼うつせば、紗の服がくれ、
だぶだぶの赤足袋。――をかし、
髯づらに涙ながれき。

『南無阿弥陀。』――沙弥が眼光り、
払子ゆれ、風湧く刹那、
一斉に念仏起り、
老若も、男女も、子らも、
赤足袋も、咽ぶと見れば、
層高の銅拍子、――あなや、
われ堪へず、――笑ひくづれき。


挨拶

祭の日、美くしき人も来ましき。
稚き女の友もあつまりぬ。
あるは、また、馬に騎りて
物むつかしき武士の爺も来ましき。

楽しかる祭なれども、
われはただつねにおそれぬ。

祭の日、むつかしき言のかずかず
挨拶ひ、父は笑ましき、
禿頭するするとかきあげながら――
われもまた為ではかなはじ、かのごとも大人とならば。

楽しかる祭なれども、
われはただつねにおそれぬ。


あかき林檎

いと紅き林檎の実をば
明日こそはあたへむといふ。
さはあれど、女の友は
何時もそを持ちてなかりき。
いと紅き林檎の実をば
明日こそはあたへむといふ。


恐怖

乳母なれどわれは恐れき。
夜も昼も『和子よ。』と欷歔り、
『骨だちぬ。』われを『死なば。』と、
母よりも激しき愛に、
抱擁めつ。――『かなし。』とばかり。

乳母なれど、せちに恐れき。
執着よ、臨終の刹那、
涙なき老の眼は、
母よりも激しき愛に
我みつめ――青く白みき。

乳母なれど、いまも恐れぬ。
疑問に悲しみ乱れ、
わが泣けば馴寄り水如し、
『吾子よ、吾ぞ。』(夜は二時ならし。)
『汝が母。』と――青き顔しぬ。


乳母の墓

あかあかと夕日てらしぬ。
そのなかに乳母と童と
をかしげに墓をながめぬ。

その墓はなほ新らしく、
畑中の南瓜の花に
もの甘くしめりにほひき。

乳母はいふ、『こはわが墓』と、
『われ死なばここに彫りたる
おのが名の下闇にこそ。』

三歳のち、乳母はみまかり、
そのごともここに埋もれぬ。
さなり、はや古びし墓に。

あかあかと夕日さす野に、
南瓜花をかしき見れば
いまもはた涙ながるる。




生の芽生



石竹の思ひ出

なにゆゑに人々の笑ひしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚き三歳のむかしなれば。

暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき真昼なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

誰が家か、われは知らず。
われはただ老爺の張れる黄色かりし提燈を知る。
目のわろき老婆の土間にて割きつつある
青き液出す小さなる貝類のにほひを知る。

わが悩ましき昼寝の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の両手は
弾機のごとも慌てたる熱き力もて
かき抱き、光れる掾側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹の花。

無邪気なる放尿…………
幼児は静こころなく凝視めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後にて擽ゆし、絵艸紙の古ぼけし手触にや。

なにごとの可笑さぞ。
数多の若き漁夫と着物つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも霊動かす。

柔かき乳房もて頭を圧され、
幼児は怪しげなる何物をか感じたり。
何時までも何時までも、五月蝿く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸す、
その汗の臭の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後にぞ居れ。

なにゆゑに人々の笑ひつる、
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚き三歳の日のむかしなれば。

暑き日なりき、
物音もなき鹹河の傍のあかるき真昼なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖より
尿しつつ………われのただ凝視めてありし
赤き花、小さき花、目に痛き石竹の花。


幽霊

覚醒むれば
しんしんと水の音近し、
わが乳母の心音かそは
夜は暗く……耳鳴す………青葱畑………

いづこにか夜芝居の篠きこゆ、本釣きこゆ、
恐ろしき道すがらその肩にかぢりつき、
手をのべてからめども、首すぢは『お岩』のごとく、
髪のけの青かりしかな、韮の香の噎さへしつ。

月もなく、星もなし、
然れども或るものは戯れのごと
黄なる毛のにほひして走り過ぐ――
わが乳母の魂ぎりし声、
ゆくりなく、眼に入りし
蒼き火の光なき幻影。

銀色の憂欝に、夜は青く輝きわたり、
しんしんと水の音冴えつ。
倒れしは、わが乳母か、息絶えしその背より
ふと見れば
幽霊は冷やかにほほゑみぬ。――あなやそは乳母。


願人坊

雪のふる夜の倉見れば
願人坊を思ひ出す。
願人坊は赤頭巾、
目も鼻もなく、真白な
のつぺらぼんの赤頭巾。
「ちよぼくれちよんがら、そもそもわつちが
のつぺらぼんのすつぺらぼん、すつぺらぼんののつぺらぼんの、
坊主になつたる所謂因縁きいてもくんねへ、
しかも十四のその春はじめて」…………
踊り出したる悪玉が
願人坊の赤頭巾。

かの雪の夜の酒宴に、
我が顫へしは恐ろしきあるものの面、「色のいの字の」
白き道化がひと踊…………

乳母の背なかに目を伏せて
恐れながらにさし覗き、
淫らがましき身振をば幽かにこころ疑ひぬ、
なんとなけれどおもしろく。

「お松さんにお竹さん、椎茸さんに干瓢さんと…………
手練手管」が何ごとか知らぬその日の赤頭巾、
悪玉踊の変化もの。

雪のふる夜の倉見れば
願人坊を思ひ出す。
雪のふる夜に、戯けしは
酒屋男の尻かろの踊り上手のそれならで、
最も醜く美しく饑ゑてひそめる仇敵、
おのが身の淫ごころと知るや知らずや。


あかんぼ

昨日うまれたあかんぼを、
その眼を、指を、ちんぽこを、
真夏真昼の醜さに
憎さも憎く睨む時。

何かうしろに来る音に
はつと恐れてわななきぬ。
『そのあかんぼを食べたし。』と
黒い女猫がそつと寄る。


ロンドン

夏の日向にしをれゆく
ロンドン草の花見れば
暑き砂地にはねかへる
虫のさけびの厭はしや。

かつはさみしき唇に
カステラの粉をあつるとき、
ひとりとくとく乳ねぶる
あかんぼの頭にくらしや。

夏の日向にしをれゆく
ロンドン草よ、わがうれひ。

  松葉牡丹のことをわが地方にてはロンドンと呼びならはしぬ。
  その韻いまもわすれず。


接吻

臭のふかき女きて
身体も熱くすりよりぬ。
そのときそばの車百合
赤く逆上せて、きらきらと
蜻蛉動かず風吹かず。
後退ざりつつ恐るれば
汗ばみし手はまた強く
つと抱きあげて接吻けぬ。
くるしさ、つらさ、なつかしさ、
草は萎れて、きりぎりす
暑き夕日にはねかへる。


汽車のにほひ

汽車が来た、――釣鐘草のそばに、
何時も羽蟻が飛び、
黄色い日があたる。
JOHN は母上と人力車に。――
頭のうへのシグナルがカタリと下る。面白いな。

もうと啼く牛のこゑ、
停車場の方に白い夏服が光り、
激しい大麦の臭のなかを、
汽車が来る…………真黒な鉄の汗の
静まらぬとどろき、とどろき、とどろき…………

汽車が奔る…………真面目な両の眼玉から
向日葵見たいに夕日を照りかへし、
焦れつたいやうな、泣くやうな、変に熱い噎を吹きつける。
油じみた皮膚のお化の
西洋のとどろき、とどろき、とどろき、とどろき…………

汽車が消ゆる…………ほつと息をして
釣鐘草が汗をたらし、
生れ変つたやうな日光のなかに、
停つた人力車が動き出すと、
赤い手をしたシグナルがカタリと上る。面白いな。


どんぐり

どんぐりの実の夜もすがら
落ちて音するしをらしさ、
君が乳房に耳あてて
一夜ねむればかの池に。

どんぐりの実はかずしれず
水の面に唇つけぬ
お銀小銀のはなしより
どんぐりの実はわがゆめに。

どんぐりの実のおのづから
熟れてなげくや、めづらしく、
祭物見の前の夜を
二人ねむれば、その胸に。

どんぐりの実のなつかしく
落ちてなげけば、薄あかり、
かをる寝息のひまびまや、
どんぐりの実は池水に。


赤い木太刀

赤い木太刀をかつぎつつ、
JOHNはしくしく泣いてゆく。
水天宮のお祭が
なぜにこんなにかなしかろ。

悲しいことはなけれども、
行儀ただしく、人なみに
御輿のあとに従へば、
金の小鳥のヒラヒラが
なぜか、こころをそそのかす。

街は五月の入日どき、
覗き眼鏡がとりどりに
店をひろぐるそのなかを、
赤い木太刀をかつぎつつ、
JOHNはしくしく泣いてゆく。


糸車

糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
金と赤との南瓜のふたつ転がる板の間に、
「共同医館」の板の間に、
ひとり坐りし留守番のその媼こそさみしけれ。

耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば、
微かに匂ふ綿くづのそのほこりこそゆかしけれ。
硝子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに、
水路のほとり月光の斜に射すもしをらしや。
糸車、糸車、しづかに黙す手の紡ぎ、
その物思やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。


水面

ゆふべとなればちりかかる
柳の花粉のうすあかり、
そのかげに透く水面こそ
けふも*Ongo の眼つきすれ。

またなく病めるおももちの
君がこころにあまゆれば、
渦のひとつは色変えて
生胆取の眼を見せつ。

恐れてまたも凝視むれば
銀の*Benjoのいろとなり、
ハーモニカとなり、櫂となり、
またもかの児の眼となりぬ。

柳の花のちりかかる
樋のほとりのやんま釣り、
ひとりつかれて水面に
薄くあまゆるわがこころ。

  Ongo. 良家の娘、小さき令嬢。柳河語。
  Benjo.肌薄く、紅く青き銀光を放つ魚、小さし。同上。


毛虫

毛虫、毛虫、青い毛虫、
そなたは何処へ匍ふてゆく、
夏の日くれの磨硝子
薄く曇れる冷たさに
幽に幽にその腹部の透いて伝はる美しさ。
外の光のさみしいか、
内の小笛のこいしいか、
毛虫、毛虫、青い毛虫、
そなたはひとり何処へゆく。


かりそめのなやみ

ゆく春のかりそめのなやみゆゑ
びいどろの薄き罎に
肉桂水を入れて欲し、
カステラの欲し。

鉛の汽車の玩具は
紫の目に痛し。
銀紙を透かせば黒し。
わが乳母の乳くびも汚なし。

硝子戸に日の射せば
ザボンの白い花ちりかかり、
なんとなう温かうして心空腹じ。

カステラをふくみつつ、その黄いろなる、
われはかの君をぞ思ふ、
柔かき手のひらのなつかし。
小さきその肩のなつかし。

かかる日に、かかる日に、
からし菜の果をとりて泣く人の
その肩に手を置きて、
手を置きて、ただ何となく寄り添ひてまし。


道ぐさ

芝くさのにほひに
夏の日光り、
幼年のこころに
*Wasiwasi 啼く。

伴にはぐれて
うつとりと、
雪駄ひきずる
真昼どき。

汗ばみし手に
羽虫きて、
赤き腹部すり、また、消ゆる、
藍色の眼の美くしや。

つかず離れぬ
その恐怖、
たらたら坂を
またのぼる。

芝くさのにほひに
夏の日光り、
幼年のこころに
Wasiwasi啼く。

  * 油蝉の方言。




夏の日なかのヂキタリス、
釣鐘状に汗つけて
光るこころもいとほしや。
またその陰影にひそみゆく
蛍のむしのしをらしや。

そなたの首は骨牌の
赤いヂヤツグの帽子かな、
光るともなきその尻は
感冒のここちにほの青し、
しをれはてたる幽霊か。

ほんに内気な蛍むし、
嗅げば不思議にむしあつく、
甘い薬液の香も湿る、
昼のつかれのしをらしや。
白い日なかのヂキタリス。


青いとんぼ

青いとんぼの眼を見れば
緑の、銀の、エメロウド、
青いとんぼの薄き翅
燈心草の穂に光る。

青いとんぼの飛びゆくは
魔法つかひの手練かな。
青いとんぼを捕ふれば
女役者の肌ざはり。

青いとんぼの奇麗さは
手に触るすら恐ろしく、
青いとんぼの落つきは
眼にねたきまで憎々し。

青いとんぼをきりきりと
夏の雪駄で踏みつぶす。




夏の日なかに青き猫
かろく擁けば手はかゆく、
毛の動けばわがこころ
感冒のここちに身も熱る。

魔法つかひか、金の眼の
ふかく息する恐ろしさ、
投げて落せばふうわりと、
汗の緑のただ光る。

かかる日なかにあるものの
見えぬけはひぞひそむなれ。
皮膚のすべてを耳にして
大麦の香になに狙ふ。

夏の日ながの青き猫
頬にすりつけて、美くしき、
ふかく、ゆかしく、おそろしき――
むしろ死ぬまで抱きしむる。


おたまじやくし

おたまじやくしがちろちろと、
粘りついたり、もつれたり、
青い針めく藻のなかに
黒く、かなしく、生いきと。

死んだ蛙が生じろく
仰向きて浮く水の上、
銀の光が一面に
鐘の「刹那」の音のごとく。

おたまじやくしの泣き笑ひ
こゑも得立てね、ちろちろと、
けふも痛そに尾を弾く、
黒く、かなしく、生いきと。
おたまじやくしか、わがこころ。


銀のやんま

二人ある日はやうもなき
銀のやんまも飛び去らず。
君の歩みて去りしとき
銀のやんまもまた去りぬ。
銀のやんまのろくでなし。


にくしみ

青く黄の斑のうつくしき
やはらかき翅の蝶を、
ピンか、紅玉か、ただひとつ、
肩に星ある蝶を
強ひてその手に渡せども
取らぬ君ゆゑ目もうちぬ。
夏の日なかのにくしみに、
泣かぬ君ゆゑその唇に
青く、黄の粉の恐ろしき
にくらしき翅をすりつくる。


白粉花

おしろひ花の黒きたね
爪を入るれば粉のちりぬ。
幼なごころのにくしみは
君の来たらぬつかのまか。
おしろひ花の黄と赤、
爪を入るれば粉のちりぬ。


水虫の列

朽ちた小舟の舟べりに
赤う列ゆく水虫よ、
そつと触ればかつ消えて、
またも放せば光りゆく。


いさかひのあと

紅いシヤツ着てたたずめる
TONKA JOHN こそかなしけれ。
白鳳仙花のはなさける
夏の日なかにただひとり。

手にて触ればそのたねは
莢をはぢきて飛び去りぬ。
毛虫に針をつき刺せば
青い液出て地ににじむ。

源四郎爺は、目のうすき、
魚かついでゆき過ぎぬ、
彼の禿げたる頭より
われを笑へるものぞあれ。

憎き街かな、風の来て
合歓の木をば吹くときは、
さあ一れ、かなしく身をそそる。
君にそむきしわがこころ。


爪紅

いさかひしたるその日より
爪紅の花さきにけり、
TINKA ONGO の指さきに
さびしと夏のにじむべく。

  Tinka ongo.小さき令嬢。柳河語。


夕日

赤い夕日、――
まるで葡萄酒のやうに。
漁師原に鶏頭が咲き、
街には虎剌拉が流行つてゐる。

濁つた水に
土臭い鮒がふよつき、
酒倉へは巫女が来た、
腐敗止のまじなひに。

こんな日がつづいて
従姉は気が狂つた、
片おもひの鶏頭、――
あれ、歌ふ声がきこえる。

恐ろしい午後、
なにかしら畑で泣いてると、
毛のついた紫蘇までが
いらいらと眼に痛い。…………

赤い夕日、――
まるで葡萄酒のやうに。
何かの虫がちろりんと
鳴いたと思つたら死んでゐた。


紙きり虫

紙きり虫よ、きりきりと、
薄い薄葉をひとすぢに。
何時も冷たい指さきの
青い疵さへ、その身さへ、
遊びつかれて見て泣かす、
君が狂気のしをらしや。
紙きり虫よ、きりきりと
薄い薄葉をひとすぢに。


わが部屋

わが部屋にわが部屋に
長崎の絵はかかりたり、――
路のべに尿する和蘭人の――
金紙の鎧もあり、
赤き赤きアラビヤンナイトもあり。

わが部屋にわが部屋に
はづかしき幼児の
ゆめもあり、
かなしみもあり、
かつはかの小さき君の
なつかしき足音もあり。

わが部屋に、わが部屋に
奇異なる事ありき、
かなしきはそれのみか、
その日より戸はあかず、…………
せんなしや、わが夢も、足音も、赤き版古も。

わが部屋に、わが部屋に
弊私的里の従姉きて
蒼白く泣けるあり。
誰なれば誰なればかの頭
医者のごと寄り添ひて眠るやらむ。

わが部屋にわが部屋に、
ほこらしく、さは二人。


監獄のあと

廃れたる監獄に
鶏頭さけり、
夕日の照ればかなしげに
頸を顫はす。

そのなかにきのふまで
白痴の乞食、
髪くさき女の甘き恐怖もて
虱とりつる。

ある日、血は鶏頭の
半開の花にちり、
毛の黄なる病犬の
ひとり光りぬ。

そののちはなにも見ず、
かの犬も殺されて
しどけなき長雨の
ふりつづく月はきぬ。

廃れたる監獄に
鶏頭さけり、
夕日のてればかなしげに
頸を顫はす。


午後

わが友よ、
けふもまた骨牌の遊びにや耽らまし、
かの転がされし酒桶のなかに入りて、
風味よき日光を浴び、
絶えず白きザボンの花のちるをながめ、
肌さはりよきかの酒の木香のなかに日くるるまで、
わが友よ、
けふもまた舶来のリイダアをわれらひらき、
珍らしき節つけて『鵞鳥はガツグガツグ』とぞ、そぞろにも読み入りてまし。


アラビアンナイト物語

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
菱の咲く夏のはじめの水路から
銀が、みどりが…………顫へ来て、
本の活字に目が泌みる。

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
赤い表紙の手ざはりが
狂気するほどなつかしく、
けふも寝てゆく舟の上。

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
葡萄色した酒ぶくろ、
干しにゆく日の午後に
しんみりと鳴る、櫓の音が………

鳴いそな鳴いそ春の鳥。
ネルのにほひか、酒の香か、
舟はゆくゆく、TONKA JOHN.
魔法つかひが金の夢。

 註 酒を搾り了れるあとの湿りたる酒の袋を干しにとて、日ごと
   にわが家の小舟は街の水路を上りて柳河の公園の芝生へとゆ
   く。わが幼時の空想はまたこの小舟の上にて思ふさまその可
   憐なる翅をばかいひろげたり。




いづこにか敵のゐて、
敵のゐてかくるるごとし。
酒倉のかげをゆく日も、
街の問屋に
銀紙買ひに行くときも、
うつし絵を手の甲に押し、
手の甲に押し、
夕日の水路見るときも、
ただひとりさまよふ街の
いづこにか敵のゐて
つけねらふ、つけねらふ、静こころなく。


たそがれどき

たそがれどきはけうとやな、
傀儡師の手に踊る
華魁の首生じろく、
かつくかつくと目が動く………

たそがれどきはけうとやな、
瀉に堕した黒猫の
足音もなく帰るころ、
人霊もゆく、家の上を。

たそがれどきはけうとやな、
馬に載せたる鮪の腹
薄く光つて滅え去れば、
店の時計がチンと鳴る。

たそがれどきはけうとやな、
日さへ暮るれば、そつと来て
生胆取の青き眼が
泣く児欲しやと戸を覗く…………

たそがれどきはけうとやな。


赤き椿

わが眼に赤き藪椿。
外の空気にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。
いま死にのぞむわが乳母の
かなしき眼つき…………藪椿。

醜き面をゆがめつつ
家畜のごとく、はた泣くは、
わが手を執るは、吸ひつくは、
憎く、汚なく恐ろしき
最愛の手か、たましひか。

かの眼に赤き藪椿
小さき頭脳にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。


二人

夏の日の午後………
瓦には紫の
蘇ひとりかゞやき、
そことなしに雲が浮ぶ。

酒倉の壁は
二階の女部屋にてりかへし、
痛いやうに針が動く、
印度更紗のざくろの実。

暑い日だつた。
黙つて縫ふ女の髪が、
その汗が、溜息が、
奇異な切なさが………

悩ましいひるすぎ、
人形の首はころがり、
黒い蝶の断れた翅、
その粉の光る美くしさ、怪しさ。

たつた二人、…………
何か知らぬこころに
九歳の児が顫へて
そつと閉めた部屋の戸。


たはむれ

菖蒲の花の紫は
わが見物のこころかな。
かつは家鴨の尻がろに
水へ滑るは戯けたる
道化芝居の女かな。
軍鶏のにくきは定九郎か、
与一兵衛には何よけむ。

カステラいろの雛らは
かの由良さんのとりまきか、
ぴよぴよぴよとよく歌ふ。
禿げた金茶の南瓜は
九太夫どのか、伴内か、
青い蜻蛉の息絶えし
おかると名づけ水くれむ。
銀の力弥の肩衣は
いちはつぐさか、――雨がへる
ぴよいと飛び出た宙がへり、

青い捕手の幕切は
ええなんとせう、夜の雨に。


苅麦のにほひ

あかい日の照る苅麦に
そつと眠れば人のこゑ、
鳥の鳴くよに、欷歔るよに、
銀の螽斯の弾くよに。

ひとのすがたは見えねども、
なにが悲しき、そはそはと、
黄ろい羽虫がやはらかに
解けて縺れて、欷歔るこゑ。

あかい日のてる苅麦に、
男かへせし美代はまた
鷲追ひつつその卵
そつと盗るなり前掛に。


青い鳥

せんだんの葉越しに、
青い鳥が鳴いた。
『たつた、ひとつ知つてるよ。』つて、
さもさもうれしさうに、かなしさうに。

日の光に顫へながら、
今日も今日も鳴いてゐる。

『棄児の棄児のTONKA JOHN、
真実のお母さんが、外にある。』

 註 わが幼き時の恐ろしき疑問のひとつは、わが母は真にわが母
   なりやといふにありき。ある人は汝は池のなかより生れたり
   と云ひ、ある人は紅き果の熟る木の枝に籠とともに下げられ
   て泣きてゐたりしなど真しやかに語りきかしぬ。小さき頭脳
   のこれが為めに少からず脅かされしこと今に忘れず。




TONKA JOHN の悲哀



春のめざめ

JOHN,JOHN,TONKA JOHN,
*油屋の JOHN,酒屋の JOHN,古問屋の JOHN,
我儘で派美好きなYOKARAKA JOHN.
"SORI-BATTEN!"

南風が吹けば菜の花畑のあかるい空に、
真赤な真赤な朱のやうな*MENが
大きな朱の凧が自家から揚る。
"SORI-BATTEN!"

麹室の長い冬のむしあつさ、
そのなかに黒い小猫を抱いて忍び込み、
皆して骨牌をひく、黄色い女王の感じ
"SORI-BATTEN!"

女の子とも、飛んだり跳ねたり、遊びまはり、
今度は熱病のやうに読み耽る、
ああ、ああ、舶来のリイダアの新らしい版画の手触り。
"SORI-BATTEN!"

夏の日が酒倉の冷たい白壁に照りつけ、
ちゆうまえんだに天鵞絨葵の咲く
六月が来た、くちなはが堀をはしる。
"SORI-BATTEN!"

秋のお祭がすみ、立つてゆく博多二〇加のあとから
戦のやうな酒づくりがはじまる、
金色の口あたりのよい日本酒。
"SORI-BATTEN!"

TONKA JOHN の不思議な本能の世界が
魔法と、長崎と、和蘭陀の風車に
思ふさま張りつめる…………食慾が躍る。
"SORI-BATTEN!"

父上、母上、さうして小さい JOHN と GONSHAN.
痛いほど香ひだす皮膚から、霊魂の恐怖から、
真赤に光つて暮れる TONKA JOHN の十三歳。
"SORI-BATTEN!""SORI-BATTEN!"

 1 油屋、酒屋、古問屋。油屋はわが家の屋号にて、そのむかし
   油を鬻ぎしといふにもあらず。酒造のかたはら、旧くより魚
   類及穀物の問屋を業としたるが故に古問屋と呼びならはしぬ。
 2 Yokaraka John 善良なる児、柳河語。
 3 朱のMen.朱色人面の凧、その大きなるは直径十尺を超ゆ。
   その他は概ね和蘭凧の菱形のものを用ゆ。
 4 Gonshan. 良家の令嬢。柳河語。


秘密

桑の果の赤きものかげより、午後の水面は光り
奇異なる新らしき生活に蛙らはとんぼがへりす。

ねばれる蛇の卵見ゆ、かつは臭のくさければ
*ガメノシユブタケ顰めつつ毛根を水に顫はす。…………

かなたこなたに咲く花は水ヒアシンス、
その紫に蜻蛉ゐてなにか凝視むれ、一心に。

そのとき、われは桑の果の赤きかげより、
祭日の太鼓の囃子厭はしく、わが外の世をば隙見しぬ。

かの銀箔の歎きこそ魔法つかひの吐息なれ、
皮膚の痛みにえも鳴かぬ蛙の、あはれ、宙がへり。

かかる日にこそわが父母を、かかる日にこそ、
真実ならずと来て告げむ、*OMIKAの婆に心おびゆる。

 1 Omikaの婆。Omikaと呼ぶ狂気の老婆なり。つねにわが酒
   倉に来てこの酒倉はわがものぞ、この酒もわがものぞ、Tonka
   John 汝もわがものぞ。汝の父母と懐かしむ彼やつらは全く
   赤の他人にてわれこそは汝が母ぞよとわれを見ては脅かしぬ。
 2 ガメノシユブタケ。水草の一種、方言。


太陽

太陽は祭日の喇叭のごとく、
放たれし手品つかひの鳩のごとく、
或は閃めく薬湯のフラフのごとく、
なつかしきアンチピリンの粉のごとし。

太陽は紅く、また、みどりに、
幼年の手に回す万華鏡のなかに光り、
穀物の花にむせび、
薄きレンズを透かしてわが怪しき函のそこに、
微かなる幻燈のゆめのごとく、また街の射影をうつす。

太陽はまた合歓の木をねむらせ、
やさしきたんぽぽを吹きおくり、
銀のハーモニカに、秋の収穫のにほひに、
或は青き蟾蜍の肌に触れがたき痛みをちらす。

太陽は枯草のほめきに、玉蜀黍の風味に、
優しき姉のさまして労れども、
太陽は太陽は
新らしき少年の恐怖にぞ――身と霊との変りゆく秘密にぞ、
あまりにも眩ゆき判官のまなざしをもて
ああ、ああ、太陽はかにかくに凝視めつつ脅かす。




夜は黒……銀箔の裏面の黒。
滑らかな瀉海の黒、
さうして芝居の下幕の黒、
幽霊の髪の黒。

夜は黒…………ぬるぬると蛇の目が光り、
おはぐろの臭のいやらしく、
千金丹の鞄がうろつき、
黒猫がふわりとあるく…………夜は黒。

夜は黒…………おそろしい、忍びやかな盗人の黒、
定九郎の蛇目傘、
誰だか頸すぢに触るやうな、
力のない死蛍の翅のやうな。

夜は黒…………時計の数字の奇異な黒。
血潮のしたたる
生じろい鋏を持つて
生胆取のさしのぞく夜。

夜は黒…………瞑つても瞑つても、
青い赤い無数の霊の落ちかかる夜。
耳鳴の底知れぬ夜。
暗い夜。
ひとりぼつちの夜。

夜…………夜…………夜…………


感覚

わが身は感覚のシンフオニー、
眼は喇叭、
耳は鐘、
唇は笛、
鼻は胡弓。

その病める頬を投げいだせ、
たんぽぽの光りゆく草生に
肌はゆるき三味線の
三の糸の手ざはり。

見よ、少年の秘密は
玉虫のごとく、
赤と青との甲斐絹のごとく、
滑りかがやく官能のうらおもて。

その感覚を投げいだせ――
黒猫は眼を据ゑてたぶらかし、
酸漿は真摯に孕み、
緑いろの太陽は酒倉に照る。

全神経を投げいだせ、
紫の金の蜥蜴のかなしみは
素肌をつけてはしりゆく、
いら草の葉に、韮の葉に。

げに、幻想のしたたりの
恐れと、をののきと、啜泣き、
匿しきれざる性のはづみを弾ねかへせ、
美くしきわが夢の、笛の喇叭の春の曲。


昼のゆめ

酒倉の強き臭を嗅ぐときは
夏のさみしく、
油屋の黄なる搾木をきくときは
秋のかなしく、
少年の感じ易さは、怪しさは、
あはれ、ひねもす、
金文字の古き蘭書に耳をあて
黒猫の昼の瞳に見るごとく、
冬もゆめみぬ、ゆゑわかぬ春のシムフオニイ。


朱欒のかげ

弟よ、
かかる日は喧嘩もしき。
紫蘇の葉のむらさきを、韮をまた踏みにじりつつ、
われ打ちぬ、汝打ちぬ、血のいづるまで、
柔かなる幼年の体の
こころよく、こそばゆく手に痛きまで。

豚小屋のうへにザボンの実黄にかがやきて、
腐れたるものの香に日のとろむとき、
われはまた汝が首を擁きしめ、擁きしめ、
かぎりなき夕ぐれの味覚に耽る。

ふくれたるその頬をばつねるとき、
わが指はふたつなき諧楽を生み、
いと赤き血を見れば、泣声のあふれ狂へば、
わがこころはなつかしくやるせなく戯れかなしむ。

思ひいづるそのかみのTYRANT.
狂ほしきその愉楽…………
今もまた匂高き外光の中
あかあかと二人して落すザボンよ。
その庭のそのゆめの、かなしみのゆかしければぞ、

弟よ、
かかる日は喧嘩もしき。


幻燈のにほひ

わが友よ、わが過ぎし少年の友よ、
汝は知るや、なつかしき幻燈の夜を、
ほの青きほの青き雪の夜景を、――
水車しづかにすべり、霏々として綿雪のふる。

ふりつもる異国の雪は陰影の雪おもひでの雪
いつしかと眼に滅えぬべきかなしみの映画なれども、
その夜には
小さなる女の友の足のうら指につめたく、
チクタクと薄き時計もふところに針を動かす………

いとけなきわれらがゆめに絶間なくふりつもる雪。
ふりつもる「時」の沈黙にうづもれて滅ゆる昨日よ。
淡つけきわが初恋のかなしみにふる雪は薄荷の如く、
水車しづかにすべり、ピエローは泣きてたどりぬ。

ほの青きほの青き幻燈の雪の夜景に
われはまた春をぞ思ふ、
マンドリン音をひそめしそのあとの深き恐怖に、
ふりつもる雪、ふりつもる雪、…………ゆゑわかぬ性の芽生は
青猫の耳の顫へをわが膝に美くしみつつ。


雨のふる日

わたしは思ひ出す。
緑青いろの古ぼけた硝子戸棚を、
そのなかの売薬の版木と、硝石の臭と…………
しとしとと雨のふる夕かた、
濡れて帰る紺と赤との燕を。

しとしとと雨のふる夕かた、
蛇目傘を斜に畳んで、
正宗を買ひに来た年増の眼つき、…………
びいどろの罎を取つて
無言つて量る…………禿頭の番頭。

しとしとと雨のふる夕かた、
巫子が来て振り鳴らす鈴………
生鼠壁の徽に触る外面の,
人霊の燐光。

わたしは思ひ出す。
しとしとと雨のふる夕かた、
叉首を抜いて
死なうとした母上の顔、
ついついと鳴いてゐた紺と赤との燕を。


BALL

柚子の果が黄色く、
日があかるく、
さうして熱いBALL.

触れ易いこころの痛さ、
何がなしに
握りしむるBALL.

投げるとき、
やはらかな掌に
なつかしい汗が光り………

受けるとき、
しみじみと抱く音、
接吻………

日が赤く、
柚子の果が黄色く、
何処かで糸操りの車。

なつかしい少年のこころに
円い、軟かなBALLの
やるせなさ…………

柚子の果が黄色く、
日があかるく、
さうして投げかはすBALL.


尿する和蘭陀人

尿する和蘭陀人…………
あかい夕日が照り、路傍の菜園には
キャベツの新らしい微風、
切通のかげから白い港のホテルが見える。

十月の夕景か、ぼうつと汽笛のきこゆる。
なつかしい長崎か、香港の入江か、葡萄牙?仏蘭西?
ザボンの果の黄色いかがやき、
そのさきを異人がゆく、女の赤い軽帽………

尿する和蘭陀人………
そなたは何を見てゐる、彎曲の路から、
断層面の赤いてりかへしの下から、
前かがみに腰をかがめた、あちら向きの男よ。

わたしは何時も長閑な汝の頭上から、
瀟洒な外輪船の出てゆく油絵の夕日に魅せられる。
病気のとき、ねむるとき、さうして一人で泣いてゐる時、
ほんのしばらく立ちとまり、尿する和蘭陀人のこころよ。


水中のをどり

色あかきゐもりの腹のひとをどり、
水の痛さにひとをどり。
腹の赤さは血のごとく、
水の痛さは石炭酸を撒るごとし。

時は水無月、日は真昼、
ゐもりの小さきみなし児は
尻尾もふらず、掌も開かず、
たつた、ふたつの眼を開けて
ついとかへりぬひとをどり…………

風はつめたく、山ふかく、
青い松葉が針のごと光りて落つるたまり水。

色あかきゐもりの腹のひとをどり、
水の痛さにひとをどり。


怪しき思

われは探しぬ、色黒き天鵞絨の蝶、
日ごと夜ごとに針を執り、テレビンを執り、
かくて殺しぬ、突き刺しぬ、ちぎり、なすりぬ。
鬼百合の赤き花粉を嗅ぐときは
ひとり呪ひぬ、引き裂きぬ、噛みぬ、にじりぬ
金文字の古き洋書の鞣皮
ああ、それすらも黒猫に爪をかかしつ。

われは愛しぬ、くるしみぬ………顫へ、おそれぬ。
怪しさは蝋のほのほの泣くごとく、
青き蝮のふたつなき触覚のごと、
われとわが身をひきつつみ、かつ、かきむしる。
美くしき少年のえもわかぬ性の憂欝。


金縞の蜘蛛

ゆく春のあるかなきかの糸に載り、
身を滑らする金縞の蜘蛛。
雨ふれば濡れそぼち、
日のてれば光りかがやく金縞の蜘蛛。
その青き金縞の蜘蛛。

怪しくも美くしき眼は
昼の年増の秘密をば見て見ぬふりにうち顫へ、
うら恥かしき少年の夢を見透かし、
明日死ぬるわが妹の命をかひたと凝視むる。

ゆく春のあるかなきかの糸に載り、
身を滑らする金縞の蜘蛛。
人来れば肢を縮め、
虫来れば捕りて血を吸ふ金縞の蜘蛛。
ただ一日青く光れる金縞の蜘蛛。


兄弟

われらが素肌のさみしさよ、
細葱の青き畑に、
きりぎりすの鳴く真昼に。

金いろの陽は
葡ひありく弟の胸掛にてりかへし、
そが兄の銀の小笛にてりかへし、
護謨人形の鼻の尖りに弾ねかへる。

二人が眼に映るもの、
いまだ酸ゆき梅の果、
土龍のみち、
昼の幽霊。

素肌にあそぶさびしさよ、
冷めたき足の爪さきに畑の土は新しく、
金の光は絶間なく鉄琴のごと弾ねかへる。

かくて、哀しき同胞は
同じ血脈のかなしみのつき纒ふにか、呪ふにか、
離れんとしつ、戯れつ…………

みどり児は怖々と、あちら向きつつ虫を弾ね、
兄は真青の葱のさきしんと眺めて、唇あてて
何かえわかぬ昼の曲、
ひとり寥しく笛を吹く、銀の笛吹く、笛を吹く。




堀端に無花果みのり、
その実いとあかくふくるる。

軟風の薄きこころは
腫物にさはるがごとく。

夏はまた唖の水馬、
水面にただ弾くのみ。

誰か来て、するどきナイフ
ぐざと実を突き刺せよかし。………

無花果は、ああ、わがゆめは、
今日もなほ赤くふくるる。


水銀の玉

初冬の朝間、鏡をそつと反して、
緑ふくその上に水銀の玉を載すれば
ちらちらとその玉のちろろめく、
指さきに触るれば
ちらちらとちぎれて
せんなしや、ちろろめく、
捉へがたきその玉よ、小さき水銀の玉。
わかき日の、わかき日の、ちろろめく水銀の玉。


接吻後

怖ろしきその女、
なつかしきその夜。

翌の日は西よりのぼり、
恐怖と光にロンドン咲く。
血のごとく赤きロンドン。
われはただ路傍に俯し、
青ざめてじつと凝視めつ。

血のごとく赤きロンドン。
ロンドンに
弾ねかへる甲虫、
――ある事を知れるごとくに。

はねかへる甲虫、
われはただロンドンに
言葉なく顫へて恐る。
――わが生の第一の接吻。


たんぽぽ

   わが友は自刃したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より
   静かに釣台に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの
   一両名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穂の
   毛を踏みゆきぬ、友、時に年十九、名は中島鎮夫。

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕にしたたるや、
君がかなしき釣台は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めてゆく、
君がかなしき傷口に
春のにほひも泌み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
昼のつかれに触れてゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
円い穂の毛に、そよかぜに、…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日もたんぽぽに、
絶えて声なき釣台の
かげも、霊もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野辺をこまかに顫へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
虫の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぼの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣台は
ひとり入日にゆられゆく…………




柳河風俗詩



柳河

もうし、もうし、柳河じや、
柳河じや。
銅の鳥居を見やしやんせ。
欄干橋を見やしやんせ。
(駅者は喇叭の音をやめて
 赤い夕日に手をかざす。)

薊の生えた
その家は、………
その家は、
旧いむかしの遊女屋。
人も住はぬ遊女屋。

裏のBANKOにゐる人は、………
あれは隣の継娘。
継娘。
水に映つたそのかげは、………
そのかげは
母の形見の小手鞠を、
小手鞠を、
赤い毛糸でくくるのじや、
涙片手にくくるのじや。

もうし、もうし、旅のひと、
旅のひと。
あれ、あの三味をきかしやんせ。
鳰の浮くのを見やしやんせ。
(馭者は喇叭の音をたてて、
 あかい夕日の街に入る。)

夕焼、小焼、
明日天気になあれ。

 * 縁台、葡萄牙の転化か。


櫨の実

冬の日が灰いろの市街を染めた、――
めづらしい黄ろさで、あかるく。
濁川に、向ふ河岸の櫨の実に、
そのかげの朱印を押した材木の置場に。

枯れ枯れになった葦の葉のささやき、………
潮の引く方へおとなしく家鴨がすべり、
鰻を生けた魚籠のにほひも澱む。

古風な中二階の危ふさ、
欄干のそばに赤い果の万年青を置いて、
柳河のしをらしい縫針の娘が
物指を頬にあてて考へてる。

何処かで三味線の懶い調子、―─
疲れてゆく静かな思ひ出の街、
その裏の寂しい生活をさしのぞくやうに
「出の橋」の朽ちかかつた橋桁のうへから
*YORANBANSHO の花嫁が耻かしさうに眺めてゆく。

久し振りに雪のふりさうな空合から
気まぐれな夕日がまたあかるくてりかへし、
櫨の実の卵いろに光る梢、
をりをり黒い鴉が留まつては消えてゆく。

 * 嫁入のあくる日盛装したる花嫁綿帽をかぶりて先に立ち、渋き紋
   服の姑つきそひて、町内及近親の家庭を披露してあるく、風俗花
   やかなれども匂いと古く雅びやかなり。


立秋

柳河のたつたひとつの公園に
秋が来た。
古い懐月楼の三階へ
きりきりと繰り上ぐる氷水の硝子杯、
薄茶に、雪に、しらたま、
紅い雪洞も消えさうに。

柳河のたつたひとつの遊女屋に
薊が生え、
住む人もないがらんどうの三階から
きりきりと繰り下ぐる氷水の硝子杯、
お代りに、ラムネに、サイホン、
こほろぎも欄干に。

柳河のたつたひとりの NOSKAI は
しよんぼりと、
月の出の橋の擬宝珠に手を凭せ、
きりきりと音のかなしい薄あかり、
けふもなほ水のながれに身を映す。

「氷、氷、氷、氷、…………」

 * 遊女、方言。


水路

ほうつほうつと蛍が飛ぶ………
しとやかな柳河の水路を、
定紋つけた古い提灯が、ぼんやりと、
その舟の芝居もどりの家族を眠らす。

ほうつほうつと蛍が飛ぶ…………
あるかない月の夜に鳴く虫のこゑ、
向ひあつた白壁の薄あかりに、
何かしら燐のやうなおそれがむせぶ。

ほうつほうつと蛍が飛ぶ…………
草のにほひする低い土橋を、
いくつか棹をかがめて通りすぎ、
ひそひそと話してる町の方へ。

ほうつほうつと蛍が飛ぶ……………
とある家のひたひたと光る汲水場に
ほんのり立つた女の素肌
何を見てゐるのか、ふけた夜のこころに。


酒の黴

  酒屋男は罰被ぶらんが不思議、ヨイヨイ、足で米といで
  手で流す、ホンニサイバ手で流す。ヨイヨオイ。

  1

金の酒をつくるは
かなしき父のおもひで、
するどき歌をつくるは
その児の赤き哀歓。
金の酒をつくるも、
するどき歌をつくるも、
よしや、また、わかき娘の
父知らぬ子供生むとも…………

  2

からしの花の実になる
春のすゑのさみしや。
酒をしぼる男の
肌さへもひとしほ。

  3

酒袋を干すとて
ぺんぺん草をちらした。
散らしてもよかろ、
その実となるもせんなし。

  4

●すり唄のこころは(●は「酉」+「元」)
わかき男の手にあり。
擢をそろへてやんさの、
そなた恋しと鳴らせる。

  5

麦の穂づらにさす日か、
酒屋男にさす日か、
軽ろく投げやるこころの
けふをかぎりのあひびき。

  6

人の生るるもとすら
知らぬ女子のこころに、
誰が馴れ初めし、酒屋の
にほひか、麦のむせびか。

  7

からしの花も実となり、
麦もそろそろ刈らるる。
かくしてはやも五月は
酒量る手にあふるる。

  8

櫨の実採の来る日に
百舌啼き、人もなげきぬ、
酒をつくるは朝あけ、
君へかよふは日のくれ。

  9

ところも日をも知らねど、
ゆるししひとのいとしさ、
その名もかほも知らねど、
ただ知る酒のうつり香。

  10

足をそろへて磨ぐ米、
水にそろへて流す手、
わかいさびしいこころの
歌をそろゆる朝あけ。

  11

ひねりもちのにほひは
わが知る人も知らじな。
頑くなのひとゆゑに
何時までひねるこころぞ。

  12

微かに消えゆくゆめあり、
酒のにほひか、わが日か、
倉の二階にのぼりて
暮春をひとりかなしむ。

  13

さかづきあまたならべて
いづれをそれと嘆かむ、
●き酒すなるこころの、(●はクチヘン+「利」)
せんなやわれも酔ひぬる。

  14

その酒の、その色の、にほひの
口あたりのつよさよ。
おのがつくるかなしみに
囚られて泣くや、わかうど。

  15

酒を醸すはわかうど、
心乱すもわかうど、
誰とも知れぬ、女の
その児の父もわかうど。

  16

ほのかに忘れがたきは
酒つくる日のをりふし、
ほのかに鳴いて消えさる
青い小鳥のこころね。

  17

酒屋の倉のひさしに
薊のくさの生ひたり、
その花さけば雨ふり、
その花ちれば日のてる。

  18

計量機に身を載せて
量るは夏のうれひか、
薊の花を手にもつ
裸男の酒の香。

  19

かなしきものは刺あり、
傷つき易きこころの
しづかに泣けばよしなや、
酒にも黴のにほひぬ。

  20

目さまし時計の鳴る夜に
かなしくひとり起きつつ
倉を巡回れば、つめたし、
月の光にさく花。

  21

わが眠る倉のほとりに
青き光放つものあり、
蛍か、酒か、いの寝ぬ
合歓木のうれひか。

  22

倉の隅にさす日は
微かに光り消えゆく、
古りにし酒の香にすら、
人にはそれと知られず。

  23

青葱とりてゆく子を
薄日の畑にながめて
しくしく痛むこころに
酒をしぼればふる雪。

  24

銀の釜に酒を湧かし、
金の釜に酒を冷やす
わかき日なれや、ほのかに
雪ふる、それも歎かじ。

  25

夜ふけてかへるふしどに
かをるは酒か、もやしか、
酒屋男のこころに
そそぐは雪か、みぞれか。


酒の精

『酒倉に入るなかれ、奥ふかく入るなかれ、弟よ、
そこには恐ろしき酒の精のひそめば。』
『兄上よ、そは小さき魔物ならめ、かの赤き三角帽の
西洋のお伽譚によく聞ける、おもしろき…………。』
『そは知らじ、然れどもかのわかき下碑にすら
母上は妄りにゆくを許したまはず』
『そは訝しきかな、兄上、かの倉の内には
力強き男らのあまたゐれば恐ろしき筈なし』
『げにさなり、然れども弟よ、母上は
かのわかき下脾にすらされどなほゆるしたまはず。』(ママ)
酒倉に入るなかれ、奥ふかく入るなかれ、弟よ。』


紺屋のおろく

にくいあん畜生は紺屋のおろく、
猫を擁えて夕日の浜を
知らぬ顔して、しやなしやなと。
にくいあん畜生は筑前しぼり、
華奢な指さき濃青に染めて、
金の指輪もちらちらと。

にくいあん畜生が薄情な眼つき、
黒の前掛、毛繻子か、セルか、
博多帯しめ、からころと。

にくいあん畜生と、擁えた猫と、
赤い入日にふとつまされて
瀉に陥つて死ねばよい。ホンニ、ホンニ………


沈丁花

からりはたはた織る機は
仏蘭西機か、高機か、
ふつととだえたその窓に
守宮吸ひつき、日は赤し、
明り障子の沈丁花。


NOSKAI

堀の BANKO をかたよせて
なにをおもふぞ。花あやめ
かをるゆふべに、しんなりと
ひとり出て見る、花あやめ。

かきつばた

柳河の
古きながれのかきつばた、
昼は *ONGO の手にかをり、
夜は萎れて
三味線の
細い吐息に泣きあかす。
(鳰のあたまに火が点いた、
潜んだと思ふたらちよいと消えた。)

 * 良家の娘、柳河語。

AIYAN の歌

いぢらしや、
ちゆうまえんだのゆふぐれに
蜘蛛が疲れて身をかくす、
ほんに薊の紫に
刺が光るぢやないかいな。
(*ANTEREGANの畜生はふたごころ。
わしやひとすぢに。)

 1、下碑、児守女、柳河語。
 2、あの畜生?


曼珠沙華

GONSHAN.GONSHAN.何処へゆく、
赤い、御墓の曼珠沙華
曼珠沙華、
けふも手折りに来たわいな。

GONSHAN.GONSHAN.何本か、
地には七本、血のやうに、
血のやうに、
ちやうど、あの児の年の数。
GONSHAN.GONSHAN.気をつけな。
ひとつ摘んでも、日は真昼、
日は真昼、
ひとつあとからまたひらく。
GONSHAN.GONSHAN.何故泣くろ。
何時まで取つても、曼珠沙華、
曼珠沙華、
恐や、赤しや、まだ七つ。


牡丹

ほんにの、薄情な牡丹がちりかかる。
風もない日に、のう、
紅い牡丹が、のうもし、ちりかかる。
ひらきつくした二人がなかか、
雨もふらいで、のうもし、ちりかかる。


気まぐれ

逢ひに来た*ちの
日の照り雨のふるなかを、
*Odan mo iya,Tinco Sa!
しやりむり別れたそのあとで、
未練な牡丹がまたひらく。
Odan mo iya,Tinco Sa!

 1、ちのは雅言のとやなり。来たの、来たんですつて。柳河語。
 2、Odanはわたしなり、TinGosaは感嘆詞なり、全体の意味はあら
   厭だよ、まあ。同上。


道ゆき

鰡と黒鯛と、
黒鯛魚と、
鱈と、のうえ、
肥前山をば、やんさのほい、けさ越えた、ばいとこずいずい。

後家と、按摩さんと、
按摩さんと、
後家と、のうえ、
蜜柑畑から、やんさのほい、昨夜逃げた、ばいとこずいずい。


目くばせ

門づけのみふし語りがいふことに
高麗烏のあのこゑわいな。
昼の日なかに生れた赤子
埋めた和尚が一人あるぞえ。

古寺の高麗烏のいふことに、
みふし語りのあの絃わいな。
今日も今日とて、かんしやくもちの
振られ男がそこいらに。

 *鄙びて粗末なる一種の琵琶を抱きて卑近なる物語を歌ひながらゆ
  く盲目の門づけなり、地方特殊のものにてその歌ひものをみふし
  と云ふ。


あひびき

*きつねのてうちん見つけた、
蘇鉄のかげの黒土に、
黄いろなてうちん見つけた、
昼も昼なかおどおどと、
男かへしたそのあとで、
お池のふちの黒土に、
きつねのてうちん見つけた。

 * 毒茸の一種、方言、色赤く黄し。


水門の水は

水門の水は
児をとろとろと渦をまく。
酒屋男は
半切鳴らそと擢を取る。
さても、けふ日のわがこころ
りんきせうとてひとり寝る。


六騎

*御正忌参詣らんかん、
情人が髪結ふて待つとるばん。

御正忌参詣らんかん、
寺の夜あけの細道に。

鐘が鳴る。鐘が鳴る。
逢うて泣けとの鐘が鳴る。

 * 親鶯上人の御正忌なり。


梅雨の晴れ間

廻せ、廻せ、水ぐるま、
けふの午から忠信が隈どり紅いしやつ面に
足どりかろく、手もかろく
狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま…………

廻せ、廻せ、水ぐるま、
雨に濡れたる古むしろ、円天井のその屋根に、
青い空透き、日の光
七宝のごときらきらと、化粧部屋にも笑ふなり。

廻せ、廻せ、水ぐるま、
梅雨の晴れ間の一日を、せめて楽しく浮かれよと
廻り舞台も滑るなり、
水を汲み出せ、そのしたの葱の畑のたまり水。

廻せ、廻せ、水ぐるま、
だんだら幕の黒と赤、すこしかかげてなつかしく
旅の女形もさし覗く、
水を汲み出せ、平土間の、田舎芝居の韮畑。

廻せ、廻せ、水ぐるま、
はやも午から忠信が紅隈とつたしやつ面に
足どりかろく、手もかろく、
狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま…………


韮の葉

芝居小屋の土間のむしろに
いらいら泌みるものあり。
畑の土のにほひか、
昨日の雨のしめりか。
あかあかと阿波の鳴戸の巡礼が
泣けば…………ころべば…………韮の葉が…………

芝居小屋の土間のむしろに、
ちんちろりんと鳴いつる。
廉おしろひのにほひか、
けふの入日の顫へか、
あかあかと、母のお弓がチヨボにのり
泣けば…………なげけば…………虫の音が…………

芝居小屋の土間のむしろに
何時しか泌みて芽に出る
まだありなしの韮の葉。


旅役者

けふがわかれか、のうえ、
春もをはりか、のうえ、
旅の、さいさい、窓から
芝居小屋を見れば、

よその畑に、のうえ、
麦の畑に、のうえ、
ひとり、さいさい、からしの
花がちる、しよんがいな。


ふるさと

人もいや、親もいや、
小さな街が憎うて、
夜ふけに家を出たれど、
せんすべなしや、霧ふり、
月さし、壁のしろさに
こほろぎがすだくよ、
堀の水がなげくよ、
爪さき薄く、さみしく、
ほのかに、みちをいそげば、
いまだ寝ぬ戸の隙より
灯もさし、菱の芽生に、
なつかし、泌みて消え入る
油搾木のしめり香、






明治四十四年五月二十日印刷
明治四十四年六月五日発行
正価九十銭
不許複製
著者  北原白秋
発行者 西村寅次郎
    京橋区南伝馬町三丁目十番地
印刷者 横田五十吉
    神田区松下町七八番地
発行所 東雲堂書店
    東京市京橋区伝馬町三丁目十番地
    電話京橋一六三九、振替五六一四番





北原白秋氏既刊書目
邪宗門  第一詩集  売切
思ひ出  叙情小曲集 新版





北原白秋氏近刊書目
東京景物詩  新詩集  一巻
抒情歌集   第一歌集 一巻





新選 名著複刻全集 近代文学館
昭和49年11月20日 印刷
昭和49年12月1日 発行
(第13刷)
北原白秋著
思ひ出
東雲堂書店版

刊行 財団法人 日本近代文学館
   東京都目黒区駒場4−3−55
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編集 名著複刻全集編集委員会
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