春泥集
与謝野晶子
一人はなほよしものを思へるが二人あるより悲しきはなし
楽はつねに変ると云ふ如く桃いろの衣上じろみつつ
立ちよれば黒き車の踏板にとんぼのうつる夏の夕ぐれ
いと重く苦しき事をわが肩に負はせて歳は逃足に行く
遠方のものの声よりおぼつなかみどりの中のひるがほの花
あはれなる疎さとなりぬかりそめはかりそめとして恨み初めしを
さてもなほ余所にならじと頼むこと古きならひとなりにけるかな
秋くれば腹立つことも苦しきも少ししづまるうつし世ながら
古さとの小き街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ
わがかひな人かいなぐり打擲すこの悪夢さへ一人寝るさへ
あかつきの竹の色こそめでたけれ水の中なる髪に似たれば
百人の馬鞍までもととのへぬ君を見る日の輿守れとて
見ぐるしきわざと云ふとか人の世の掟の外のことと云ふとか
数しらぬわれの心のきざはしをはた二つ三つ彼や登りし
限りなく思はるる日の隣りなるもの足らぬ日のわれを見に来よ
戸に寄りて藁の管より息を吹く童きたりぬきさらぎの春
しら梅の一重の花のちるころの青空を飛ぶ船もてまゐれ
夕立は兄のものなる斑黒の赤革の鞍ぬらして霽れぬ
温室の棚とならまし花おきて一年眠る棚とならまし
張交せの障子のもとに帳つけしするがやの子に思はれし人
春雲のややとぎれたる日に見出づ草のなかなるしら菊の花
尼女院子の先帝の直表吊る釘ふと思ひ皮革包懸く
都べのひろき大路を行きながら谷の底とも思はるる時
二日三日旅のここちか云ふことのわれに寂しき家のうちかな
ふるさとは冷きものと蔑し居り父の御墓の石だだみゆゑ
男をも灰の中より拾ひつる釘のたぐひに思ひなすこと
美くしさ足らざることを禍と思へる母のいつきてしわれ
朝顔の小き花はうらがなし恋しき人の三十路するより
初夏の金龍山の鐘ひびく若き小姓の縞ちりめんに
何よりも消やすきものとこの頃の命をおもふ君が恋人
きくことは円く足らへど云ふことは多く狂ほしわが心から
飯つけて白魚釣ると云ふことをまことしやかに見るは誰が子ぞ
あしもとのかんざし君にひろはせぬ窓には海の燐光のてる
身をそばめ給へる人とはらからの中に乳母のあはれがりける
赤蜻蛉風に吹かれて十あまりまがきのうちに渦巻を描く
旅の日のわたくしごとを思へりともの云はぬとき君をそしりき
このごろは乳ばなれしたる子のごとし五夜なな夜は肱まげて寝る
この人は何によらまし書きなれし手して歌かく君によらまし
わが素足ふしどに到る廊歩むほどはいといと神の人めく
ひたすらに余所の少女を語るより悪心おこり口びるを吸ふ
宿世をばあへて憎まずわが涙いとこころよく湧きいづる日は
われの云ふ悲しきことと世の人の悲むことと少しことなる
やや黄ばむあぶら菜の先見るごとく夕月にほふかつらぎの山
なほ少し忘れずに居ることなどを口ばしるより優しきはなし
少女子の心みだしてあるさまを萩すすきともあなどりて見よ
ひんがしに月の出づれば一人の秋の男は帆柱を攀づ
神仏あらはれしごと思はれしわが世の三とせ忘れかねつも
春の夜の人の中にも若草のみそか人持つ君はめでたし
たでの花簾にさすと寝ておもふ日のくれ方の夏の虹かな
夕されば忍びて馬車をおくりくるならひとなりぬ憎からねども
よそごとに涙こぼれぬある時のありのすさびにひきあはせつつ
しろがねと緑をうらに表にし二十のこころひろごりて行く
夏の野にとりいれすなり裸麦その香おもほゆわかき日の恋
よき香する毒のしたたる心地してよらずなりたるある家の窓
うす紅に薄のなびく初秋の河原につどふ嘴ぼそ鴉
戸あくれはニコライの壁わが閨にしろく入りくる朝ぼらけかな
垂幕もとばりも春はひだつくれ思ふ人らのたはぶるるごと
親ゆゑに口をしかりし二十とせは何にもあらず君を得つわれ
おもしろく悲しく妬くさまざまに変る心のうづ巻を愛づ
さはやかに黒瞳にほへる君去りしあとの椅子より凉風ぞ吹く
五月雨に帰りも行かずあなにくし張文庫にも隠してましを
ひとりゐて雁をきくかな味わろき夜の食事のいく時の後
五日ほど手枕からず世のつねのことと軽くも身をおもはむや
おきふしに悩むはかなき心より萩などのいとつよげなるかな
この人を君が愛でざることわりを数ふるばかり賢けれども
一本の枯柳よりこぼれ来ぬ君が心の雪こぼれ来ぬ
山の上氷れる池をかこみたる常磐木を吹く初春のかぜ
牡丹みなうまやの前の枯草の匂ひを立てぬ春の雨の日
仏などわが見及ばぬきはながら恋の如くに頼まばよけむ
二十まで人見ざりつるおのれをば毒木の類とおもひ放ちし
われにして非分のことと知りながらよその恋路をやめよとぞ祈る
たちばなの林の中にこほこほと柱けづりぬ初夏の人
あるかぎりよき夢を見てくれなゐの林檎は眠る糠の中にて
遠方のいかづち聞えいちじくの青き葉かげにしら萩のちる
はかなかるうつし世人の一人をば何にもわれはかへじと思へる
大鏡ひとつある間にあかつきの風しのびきたりぬ
若き身のくたびれ心それに似るうす紅いろの桜草かな
君来りほのほを煽るくれなゐのほのほの外の青きを煽る
一尺の中を氷の風かよひへだたれること千里のごとし
君が船水の上をばすべり来ぬいちじくの葉を中にしきつつ
君を待つ心のやうに花束の花かわき行くこの夜ごろかな
思ふこと残りなく云ふ秋かぜの口はたのもし聞きのよろしも
わが如く君ゆゑに泣く人ひとりこの世にあるが苦しかりけり
よろこびを重ぬると云ふおろかなる少女となりてありぬ幾とせ
われ歌ふ水いろの花ちりかへる君がめぐりの風の中より
幼き日われのまたなく嫌ひたる万年青の草をめで給ふ君
おのれらも共に塵ぞと思へどもくろ髪よきは妬まるるかな
いつしかとこすもす咲きぬ草の中細雨の前のともし灯のごと
てのひらに氷をおけば何となくおのれてふ身にしたしみ覚ゆ
恋をしてこのごろ経ると髪白き長者の問に云ふこともこれ
わが耳に入らぬことにもうなづきぬ人待つ人はあはれなるかな
ふるさとの肩脱ぐ女はだしの子憎くしもなくおもかげに見ゆ
菊月のこよひ秋尽くなつかしき白ぶすまをば見にもこよかし
残りなく皆ことごとく忘れむと苦しきことを思ひ立ちにき
若き子の香ばしきこと云ふ中にまじらむと咲くうす色さうび
わが胸はうつろなれどもその中にいとこころよき水のながるる
軒近く青木のしげるここちよさそのごと子らのたけのびて行く
絵草紙を水に浮けんと橋に泣く疳だかき子はわれなりしかな
みちのくの庄内よりの文に云ふ少し忘れて冬ごもりする
くらがりに橙皮を刻む久松に悲しき話聞きぞおぼへし
水無月の水のほとりにほのかなる細き灯ともすひあふぎの花
子のわれを守れる刀かかる時男を殺すものと知れども
扇をば歯に当つる子のうすものの袖に青羽の蟷螂きたる
浅草寺御堂に拝むかきつばたきざはし下るそのかきつばた
一生の絵巻の上の絵そらごととこの絵そらごと憎からぬかな
わが門を夜中に開くる翁云ふ若ざかりこそいとめでたけれ
横ざまにそねむ人らの中に居て初恋の日の心わすれず
とがあるは君かや身かやあなけうともの云はぬこと朝に至る
夜となるとくり色の灯をもて来る高野の山の僧房の秋
飽くしらず稲葉の風を大寺の堂に登りて食へる男
岩代の会津の庄の少年の腹切りし山いゆきくらすも
清原の女も石川の女郎もこの大御代に用無しとする
十二まで男姿をしてありしわれとは君に知らせずもがな
絵の筆の胡粉おきたる絹にしもうす紅ひくが如き風吹く
あかつきや厨の人の語る声きくごと馴れておもふ鶯
いつまでも朝やけのごと罌粟のごとにほへるものと思ひしこころ
注ぎたれば油壼なる油尽くものあぢきなき秋の夜半かな
ここにして爪きる時をぬすみぬと垂幕いづる髪と素肌と
もの書きぬ障子の外の霧おもひはたうち日さす都おもひて
せせらぎに河鹿が鳴けば石も鳴くおなじやうにも土くれの鳴く
わが昼の風呂桶に来て蝶ひとつ眠る悲しさ秋のかなしさ
思ふ子は蔓鍋さげて父よびぬ霧の入りくる夕がれひ時
灯のかげにまみの濡れたる人の居ぬあねもねの花にほふ如くに
彼に逢ひこれ見に来むと二かたの心をとるは苦しきものぞ
獅子王に君はほまれをひとしくすよろこぶ時も悲む時も
わがよはひ盛りになれどいまだかの源氏の君のとひまさぬかな
十日ほどしか思へりとすこやかに云ふ人ながら涙ながせり
わりなくもわれはまことに疎まるとはなはだしげに云へば慰む
わが前にありとし思ふ水いろの幕をうごかす秋の風かな
いとあはれに改り行く人の親の心をわれも知る日となりぬ
初夏やよきこと語り若き人ひと日寝くらすたちばなの花
湖に川のそそぐや否あらず君が心のわれにおちくる
春の夜は明方近くなりにけり浅川の水しろがねをのぶ
恋すればかりそめ言も憎からず空だきのごと身にしむものを
すさまじきものの中にも入れつべき恋ざめ男恋ざめ女
秋風は男の恋の如くにも軽くも聞えおもおもと吹く
土に落ち破れし瓦はまた欠けぬなほも然らむ明日に明後日に
ほととぎす石竹色のとばりよりくろ髪の子のいづる暁方
ひとり居て夜の籐椅子のかなしきはおほよそごとの忘られぬため
恋人は空の果より遠方にやりつるものと旅をおもへり
落椿くちたる庭は猫の声よりきたるごとたそがれとなる
さびしかる銀杏の色のくわりんの実机にありぬ泣かむと寄れば
恋ならぬ他をうながしてわが心つよきならひをつくりけるかな
もの恐れせずとやうやく思ふ日は生みし女の髪尺を過ぐ
われを恨み天台座主の如き顔君のする時かなしくなりぬ
石楠花や御嶽詣を見おくりて汗もしとどに山の鳥啼く
わがはした梯子の段の半より鋏おとせし春の昼かな
梅の花ましろの閨にあるごとく寝たり睦月の月光の中
誰そ来りぬすみ見するや若き日の命の家のたからの君を
別れむと云ふまじきことひとつ云ひおひめつくりぬありのすさびに
岩清水八幡の山のおほ神の社頭の藤のありあけの月
賜ふなる酒よりもなほうれしきは役者なりける日を語ること
ことごとに未来をさやにさして云ふ妹とわれ中たがへしぬ
港よりすくひ船行く夜明がたばるこんに嗅ぐ黄色のさうび
清らなる菰の中なる夏の花わが姉の子の少女おもはる
古のこころいためる人もみな三日ほどのこと忘れかねけむ
この壁にわが倚る時はつねにしも灰色の幕たれさがるかな
川の杭五つただしきかたちして鴉のせたるいまいましさよ
憂きことの繁き祓にそのかみの恋の反古をば大幣に振る
京少女君はそれらのこと云ふに涙をすこしうちおとしつつ
西の京大阪かけてはしきやし吉井勇のあそぶ初夏
わが椅子の前にもて来ずとこしへに仕うまつると云ふしるしをば
三味線の糸より細き雨ふると櫺子の外の消息を聞く
唯ひとつ青かづら這ふ石のごとかつらぎ山はありぬ月夜に
入海の引潮どきに聴きなれしあなづらはしき波の音かな
そそのかし日のくれ方に君引きしひと間の中のひなげしの花
何ごとか泣寝に人は臥しくらしあかずもわれのいとほしき頃
誰そやそも七とせの前三とせ前ときどき死ぬるばかり妬むは
兄たちは林走ると木叩くと薄にかたる風のわらはら
つり鐘の音に交りてちやとひびく足なへ殿にわがまゐる銭
人まへにわれら面の色かはるわづらはしさはなき日となりぬ
わが二十初瀬の御寺のゆく春の石だたみ踏みものを思へる
それぞれに五つの指の動くごと人ら船漕ぎ朝の海行く
秋の日のだりやの花の中を来てひと時あまりたたむきに寝し
藍がちのむらさき色の夕ごろも車より出づ口づけてのち
不可思議は君が二つに分つ恋われかたはしも欠かであること
たちまちに身も世もあらぬ悲しさをわが来し方に見いづる心
頬あかめて君が炭櫃の火を吹ける息に似たらむ春風を待つ
まろ鏡紫銅のふちの中にあるなでしこの花風にそよげる
みじか夜のしののめ近き大路ゆく靴の音こそなまめかしけれ
いみじかる道の掟を假名書にならひし人は誰ならなくに
ほとほとも他事に埋もれありしこと流星のごと思ひ出しかな
悲しくも恋わきまへぬやからにもまさりて心あらぶる夕
髪乱し人来て泣きぬうらがなし豆のまき髭黄に枯るる頃
憂きときに泣きて思ふは死にあらず世の人並にそのかみのこと
けふはなほわが情もてよろこびをみこころに呼ぶ幸のあれども
青海に冷たき秋の水おとす川二つある腰越のさと
恨みおふわが思ひ出は黒檀の箱なづることなつかしきかな
ものの筆こころ進みて書きたるがしぶるにひとしな詫びそね君
泣きまどひうすき情をうらむ子にわれを頼めと云ひくらす人
おのれをばかたゐの子とも高名の人ともなにか今はおもはむ
こし方はいとしも暗しその中に紅き灯もてるわが二十の日
恋しとも何とも云はず見てあれば恋のはてともとり給ふ君
思ふ子は相ならび行く大ぞらのやうなる道を風に吹かせて
ほこらしく泥亀一つたもとよりとりて出すも母方の叔父
おもしろき夕ぐれなれば戸を出でて臭橙をとりて預言者に打つ
天地もこころも家も喪の如し君がかへらむその夕まで
あぢきなき小胆者となりはてぬ君が妻ともならばなるべく
いと軽くかきそこなひの文のごと昨日きのふをおもへる少女
君いまだ大殿ごもりいますらむ鶯来啼くわれは文かく
たなつもの中にうれしきとりいれは粟の黄なると黍のくろきと
夏の夜は馬車して君に逢ひにきぬ無官の人のむすめなれども
あか切れの手もて擦る目の何なれば玉の如きと幼形見し
うしろよりうかがふ如くうるしちる五間ばかりも離れて行けば
逢ふまでのものの障りをおもひ泣くわれは七日に老いにけらしな
十月は思ふ男の定まれるあとと如くにのどかなるかな
矮人わが殯屋の料にすとしろき埴もて瓦焼くとき
よりそひて煙草を喫めと灯をすりぬかはたれ時の水際のまど
わが指を麦魚にらみぬ水草の花のしろきを二つ三つ摘めば
うす雪や梅をかざせば羽子板の鷺娘よりなまめかしけれ
わか草の妻と籠りて愛で知れぬ元朝の雪二日の雪を
云ひがたきねぢけたる恋持つことをはづかしとせず妬む日ねもす
死ぬばかり若き心をまどはせしその世の恋もこのごと終る
折りたまへ開け給ふべき戸じるしに廊に散らさむひなげしの花
浜茶屋の子持ちの女しみじみとわれらをば見る夕月夜かな
秋立ちぬこの朝はやく逢ひにこし白木の下駄の緒の縹より
自らを后とおもふたかぶりを後おもはじとせしにあらねど
衣桁なるうすき衣に風の吹くこの間に隣る優婆塞の経
思はるるわがはばむより恨みにも泣きにも君によらぬ少女ら
かつてわが求めしものの一つにはあらじかとしも物をおそるる
驢をよびて驢に鞍おきて鞍につけちるをよろこぶ山吹の花
三十路などそらはづかしき年かぞへ君がかたへにあらじと思ひぬ
しみじみと口なぐさめをなす人もなさるる人もあはれなる頃
あはれなる疎さとなりぬかりそめはかりそめとして恨み初めしを
霜ばしら冬ごもりして背子が衣縫へと持てきぬしろがねの針
誓ふとて心ただしく云ひいづる古き言葉をおろかになせそ
たえず来て石の槌もて胸をうつ強きこころの君におもはる
客中の恋とあやしき消息を都へやるは誰にかあるらむ
よしなくも語りとられぬ瑠璃色のその濡れいろの言の葉にわれ
自らを泣かまほしかりそれに似ぬ君の清さを泣かまほしかり
二十二はしからず三と四となれば捨身となりて今日をつくりぬ
むらさきと白と菖蒲は池に居ぬこころ解けたるまじらひもせで
若き人皆よろこべる初夏も唯青にびの色のここちす
日輪はめでたし五十日雨雲のちりぼふことを許さぬ時に
桃いろにうづまき白きしとねをば船に並べて水夫われを待つ
わが二十秋の朝に紅なしの友染著るはさびしきものを
岡崎の大極殿の屋根わたる朝がらす見て茄子を摘む家
八月や髪干す人に何ごとかおほく語れるきりぎりすかな
男ゆゑ泣くをいとひし少女子は君にいみじき涙をそそぐ
楽しげに子らに交りてくだものの紅き皮むく世のつねの妻
指の先つよく押へて云ふことのをさなかりけりかりの別れに
牛羊屠る人などなき世にも女の族はものおもひせし
懴悔してこのきりぎしを一息の間に下るべき心やしなふ
初夏の雨をながむるここちよさ浅草寺のきざはしに居て
夏ちかく君見むきはにわづらひて小床に嗅げるくちなしの花
耳遠き留守居の人とはかなくも暫し語りてかへりぬと書く
あかつきの秋山ゆけば風ふきて五輪の塔のいただきの鳴る
円山の杉のみどりの蔭に吹く真葛が原の六月のかぜ
またの日はやや奥山の青つづら這ふ岩がねにかたりにしかな
わが妻は妹背のみちをわが定めわが初めたるものと思へる
そら寝して丁子の香かぐはわれ君が行く時口そそぐ時
ことろんと井(濁点つき)オロンひびく水いろの風がおこりて白鳥を吹く
少女子は何のそなへもなきものを矢のごとしげく文たまふかな
旅に行かばいつも変らぬこと云はで心の湿る消息もせよ
なほ人に逢はむと待つやわが心夕となれば黄なる灯ともる
門守に砂魚をあたへて帰りゆく湯帷布見ゆ松のあはひに
ほととぎす白の袷の裾ならべ五人います法華寺の衆
汲みて飲む酒かもされで香する煙のみ湧くあやしき甕よ
思ふことわが掩ふ時あさましき人とや見ゆる冷たくや見ゆる
百くさのもの思ふべく門を出づ一すぢごとは身の痩するゆゑ
もの思へば草の中なる二もとの円葉柳に秋のかぜ吹く
誰の泣く涙ともなく白やかに露のおく夜となりにけるかな
ことつひに此処にいたるとすすり泣くとらはれ人もあはれなるかな
三十路をば越していよいよ自らの愛づべきを知りくろ髮を梳く
春の日のかたちはいまだ変らずて衰へがたの悲しみも知る
初秋や黄皮の椅子にたそがれの光いざよふ高楼にゐる
麦こがし匂へる広きいたじきに都の人をおもへる少女
わが背子は世の嘲りを聞くたびに筆をば擱きて物をおもへる
よろこびと悲しみと皆君によりするとばかりはうたがひもなし
五人ははぐくみ難しかく云ひて肩のしこりの泣く夜となりぬ
梅雨去ると白がすり著し夕よりおほくおもはずあぢきなきこと
朝顔はひとつなれども多く咲く明星いろの金盞花かな
ある時にわれの盗みし心よと公ざまに行きてかへさむ
恋と云はば遠いにしへのことよりも今日きのふをば少し語らむ
えも云はぬ裸の少女舵とりて船やるごとき夏の夜の月
烈しかる恋するものはこの時のこの場の運におひこめられぬ
新しき荷風の筆のものがたり馬券のごとく禁ぜられにき
妬みゆゑいく年前にかへりこしわが心ともだりや花さく
あてやかに花の咲く日に逢ふ如し恋の蘇生か恋のねたみか
はした女が蓬のにほふ風呂敷を水にすすげば泣かまほしかり
秋かぜやわがはらからのきちがひの帰りしあとの白き夕ぐれ
蜂蜜の青める玻璃のうつはより初秋きたりきりぎりす鳴く
今もはた心枯るるにあらねどもまみえざらむと髪のなげけば
ある家のぴやのの前に夜更しをなしつる人の戸をたたく音
空に似る澄みし心をうしなひて言葉にゆらぐ夢にそぞろく
生れ来てものの光もあまた見ぬ若ものとして人のながむる
自らが何ごころもてなし初めしこととも知らぬこのごろのこと
あさましく疎ませ給ふわれ故にひがごともぜむ命も死なむ
梅もどきはらはらちりぬ解き俵みだらにかけし蔵のきざはし
二日三日踏みにぞ通ふ君が家の初夏の夜の灯にぬれし石
ゆく末のうらはかなげに見ゆるより外に唯今うらめしさなし
彼の少女ゆるすべからぬこの人もかろがろ忘る相も住めれば
佐保姫の髪すく音とわれおもふ高山に啼くうぐひすの声
秋の雨たまたまけふは何ものも交へず君の心と語る
この風流男うなじまかれず肱まげて寝る夜ありとは人に知らゆな
天地のもののまぎれに生れにしかたはむすめの人恨む歌
花かごの夏花紅しゆきてぬる小床の傍の一間の棚
灰いろの壁の中にもかくれぬと思へりわれの男に来しを
白つばき枝をわたしてもの云はず君かへりし日氷に似る日
思ふこと下にかくして君ありしこの十年のわれのおとろへ
はかりごと教へて別る雨あがり合歓が葉を捲くくれ方の園
うす紅の名しらぬ花をうかべたる野分の朝の沼の水かな
わが机袖にはらへどほろろちる女郎花こそうらさびしけれ
世の中に上もなしとは何ごとか髪かこころかやはきかひなか
わが知らぬ女王のいます世界をば夢にうつつに見給ふが憂し
身じろげば素焼の瓶子ころころと簀子にまろぶ父のうたたね
叔母きたり兵隊に似し杭つづく川のさまなど語れとぞ思ふ
秋の雨しぶしぶ降れる庭の石みつめてわれは何を待つらむ
男とは軽き情も千金の宝あたふとおもへるものぞ
今日のひる顔見にくなと云ふことをくりかへしつつわれ云ひしかな
なでしこはほのに黄ばめり海いでて陸のものとも見えぬ月にも
朝の雲洞の中より紅き蟹百もならびていづるさまかな
わが家のこの寂しがるあらそひよ君を君打つわれをわれ打つ
ふるさとの花たちばなのちるけはひひそかに思ふ六月の閨
小床辺の屏風をたたむ暁に啼く虫こそはかなしかりけれ
けふの後わざはひ誰に及ぶべきわづらはしやと涙ながるる
わが昔うら若き日はこの君と世をつつましく思ひて過ぎぬ
うれしさは君に覚えぬ悲しさはむかしのむかし誰やらに得し
十日してまたあぢきなき世にかへるはかなし人の髪のおちざま
凉しげに虎斑の石を濡したる朝ぎよめ愛でわれは笛吹く
恋をする男になりて歌よみしありのすさびの後のさびしさ
わが外に君が忘れぬ人の名の一つならずばなぐさまましを
空いろの息吐く梅の大木もわか草の野もここちよきかな
青き山家近くして五月雨もひるのかぎりは窓よりぞ見る
相よりてものの哀れを語りつとほのかに覚ゆそのかみのこと
波のごとゆるる畳の上に居てなげくわれをば捨ててかへりぬ
わが若き楽の日をくだきたる石の斧をば見ぬ日ともがな
世には似ぬ静かなる身とかく思ふことたらぬ日もみづからは無く
土籠に根のあらはにも入れられし昼がほ見れば面おほはる
わが恋を黒とばり上げ覗き見る黒き人なり斬らましものを
この如くおちいる人は初めよりうれしくもはた憂くもありける
ふるさとのその停車場に歩みよるわが足音を数年なほきく
人の世の掟破りと云ふことを三千日に忘れかねつも
紅の錦の上に灰色の墓場のそばに遊ぶわかうど
城の上の旗をかしくもうちなびき八月のかぜ夕立となる
都をば泥海となしわが子らに気管支炎を送る秋雨
憎むやと口ぐせに問ふ人よりもまた思ふ子の無きを知れども
草の庭前に見ながら飯を食ふ男おもひぬ逢ひにこぬ時
み心の半をわれにかへせよと云ふに過ぎざるさもしき妬み
波こえてあかあかといぬ日を見つつ円き柱に肩するわれは
しののめやよきこと云ひてたぶらかす風とあるなり青柳の枝
栗の花西片町の杉垣の小みちに青き氈しきてちる
たらちねの親うからよりよそ人をむつまじくしも覚えし少女
三月見ぬ恋しき人と寝ねながらわが云ふことは作りごとめく
御心にはなれぬ人のものがたりわれ聞くまでになりにけるかな
夕闇の世界またなくおもしろき中を歩みぬ初夏の人
夕ぐれに狂ひて走る空の風髪にもの云ふ水草の風
見も知らぬ鳥来てすめる如くにもおのれこの頃心をぞおもふ
貝の笛とどろと鳴しわが兄の御嶽詣にゆくが悲しき
美くしきもののすべてを持て来つる少女の世をば人ぞ押しとる
美くしさわれにも似ざるある人に二なく仕ふる僕なりてふ
惜しと云ふ声をきくかな手をぬけておちし玉にもあらなくにわれ
山ざとの小雨の昼はしら埴のかまどの前に鴉きて啼く
何しかも十年の後のわが恋を思はむほどに猛かりぬべき
あなにくし憎しと倦まず君を云ふ人とも君はあやまち居らむ
七日ほど家にこもりて愁ふるに悲しみごころ透き通りゆく
わがあらぬ他の国と思はずてたわやがひなに夜は寝てこよ
夜きたり馬の尾を斬るやからさへ思ふことなる恋なかけそね
うた人の家つぎの子と昨日までかかはりもなき街の少女と
あけがたの春日の宮の十二燈うすく濃く見せ五月雨ぞふる
もの食はむ心おこりぬ夏の月酒の糟よりいでこし如き
親兄の勘当ものとなりはてしわろき叔母見にきたまひしかな
かつてなき眠らぬ夜に逢ひたりと云はずもよしや君が抱けば
彼の人をわれの知るとも知らずとも友に云ふ身はくるしきものを
わが髪のかたはらにしも水いろの絹をひろぐる秋の風かな
初めこそ欠けたることのおほくある母と見えけれたふとく老いぬ
わが胸に錠さしてゆく獄卒の足音どもをほれぼれと聞く
わが鏡めで給ふこと極まりて悲しみの湧く眉をとどむる
あなさびし灯ともし頃のくりいろの廊を吹く初秋のかぜ
この二つの心はやがてまたもなくよく知るものとりなりにけるかな
わが住むは醜き都雨ふればニコライの塔泥に泳げり
夏の月叔父の法師の座を見つつ大物食とささめくは誰
うらめるは心憂けれどいにしへの事うち語り泣く人はよし
逢はぬよしものに託してこしことも三とせになりぬいかがすべけむ
吾妹子はかたじけなくもうれしくもはた哀にも見ゆるものかな
乞ふらくはなほ夜夜を美くしき変心者の夢見せたまへ
わが胸にうれひ来ると知るごとく煙をたつる遠方の里
あらかじめ思はぬことに共に泣くかるはずみこそうれしかりけれ
御空より海より君が解きはなつ長き髪より秋のよりきぬ
童なる女の肩に山ざくらちるをめでつつ端居するかな
さまざまに云ひのがれ居しをかしさは今に変らぬものにぞありける
濃鼠うみたそがるる濃ねずみわが天地の濃ねずみ色
龍騎兵いで入るたびに旗とりてわれをまもるもこちたくなりぬ
めでたさを目に見あつめし自らがわれ美くしと思ひしものを
君行ける百里も近きここちする雨ののちなるうす色のそら
おん心うらより覗くことばかりして生がひのいかであるべき
この恋は中ごろとなりおのれより君が獄にかくれけるかな
相よればまだ知る人のなしと云ふはかなごとする人は誰誰
その眠おだやかならぬあかしをば君が額に見る日は寒し
よそ人がおとろへしなど無礼なること云ふばかり痩せて妬みぬ
一人の慈母にひとしき人を見ぬあはれさびしき世にあるわれは
あなかしこ誹謗のやから五逆をもをさめて捨てず恋のみひかり
上総なる銚子の海の秋風は黒き声あぐ沖にいそべに
元日は晴れ二日にはかつらぎの峰ましろにぞ雪のふりける
ましろなる蕾ばかりの貝がらを蜻蛉羽ふりとびめぐるかな
その昔はじめて君と洛外の霧にまかれし日もおもひ出づ
生涯に我を忘るる日と云ふはあるべからざることか否否
君を待つ門燈台にべに蟹のはひ上りゆく夏の夕ぐれ
あやまちをはなはだつよく悔ゆるとか手なふれそとも云はぬわれゆゑ
ももいろのくさり緑のしろがねのこの千条のくさりわれひく
灰だみし霧檐を這ひしろき鳩ほのかに舞へる秋の寺かな
地震ゆりぬ梨子色の壁ゆるがしぬあぢきなき日に著く文のごと
わが袂家鴨の脚ににごしたる水に濡れつつ摘みし芹の葉
日も夜もおん名を呼びぬ下根なる念仏宗の僧ならねども
病みて恋ふおのれはさもしわが家に待たれて来る君はめでたし
しののめのあかりに踏みし路ゆゑに蝶とおもひし藤の花びら
いつまでも思ひ下すにあらぬなり衰へそめて逢はむとぞ思ふ
道を行くかのあさましきちぢれ髪それなどにこそ生るべかりし
君死なば思ひなけむと知りえたる日より心は逆しまに行く
しかすがに凍らむとして凍らぬは心なりけり忘れぬがため
風あらくわが簑を打つ馬の背に滝のきこゆる山のうまやぢ
八月にほととぎす聞く山あそび沙羅の林の朝じめりかな
冬の夜もうすくれなゐの紙のはし散れる灯かげは心ときめく
もとめ居しわれの心はうちならび君が心と死にてありける
わが頼む男の心うごくより寂しきは無し目には見えねど
秋の風針につきたる青き糸一尺ばかりひそかにうごく
ここちよく青みわたれり紅の椿のもとの一寸の雪
いかづちをとりて男になげうたん力なき身と定められにし
目うつくしわれのかひなに葬りてありし眠りのよみがへる時
わが妻も相住みすなる琴弾も雪のふる日はたをやかに見ゆ
いづかたか二方にはする心とは知れどもいまだ行方知らずも
かきつばた真菰にまじるわが背子がよろしからざる男に交る
山中のはりがね橋も霧に濡れはつ夏の夜はあけにけるかな
木がくれし嵯峨の小みちを一人行くわが髪の香もなつかしみつつ
春雨や薬の棚をあけはなち毒をえらべる人のまぼろし
やはらかにわれの心の埴かへしなわすれ草の種まきし人
おとろへをうれふるきはにあらねども歌のあはれになりにけるかな
いさむるは往ねよと云ひて目をとぢぬわがこの心いとたけしかし
その昔よこしまもなく頼みてし日もこの頃も男かはらず
ふれつるは髪なりけるか風なるか手かまぼろしかあるは頬なるか
そら色の衣を吸はせて君ありぬ椅子のうしろの籐のあじろに
しづく程血吐するわれの病ゆゑ経になじめる春のくれがた
わが知らぬ君がむつごとわが胸に浮びくるたび牡丹おとしぬ
王ならぬ男の前にひざまづくはづかしき日のめぐりこしかな
うぐひすや青き渚に船来やと高く登りて見るは誰がため
えぞ菊の中に交れるいたましき鳥かぶとのみ見ゆる古さと
いにしへのこと云ひつづけいつまでも変らぬさまのむつごともしぬ
男をば日輪の炉にあぶるやとひと時磯に待てばむづかる
語ることいと嘆かしく物食むがつらき日つもり涙おほかり
風きたり山を吹く日に裾野原むらさめふりて羊歯の波うつ
天地を氷の羽につつみつつ大しら鳥がさむき息つく
恋と云ふ思ひを知りて日もおかず男まうけぬあなまがまがし
石竹の瓶のもとにて息づくは今死ぬほどに抱かれし人
ひなげしの花の畑をたもとほりくるめきすやと問ひ給ふかな
春の夜はしらしら明けて墓場なる松よりたちぬ青鷺のむれ
夏の花みな水晶にならむとすかはたれ時の夕立の中
君がことわがこと知れるやから居てもの云ふ時は心くもりぬ
わが齢を知らましと云ふはかりごとその人達に与す王者も
くるくると器械まはれば黄なる埴鉢のかたちすあぢきなきかな
片岡に歌をうたへば小雨ふり野ばらの中を狐のとほる
袂より二つつなげる桜の実おとせし君をおもひ初めてき
来ぬことは寝わすれごとと云ひなしに人の来し時さめし夢かな
うしろより危しと云ふ老のわれ走らむとするいと若きわれ
かにかくに恋はめでたし身にかかるよろこびなどは数ならねども
わたつみは秋ともあらず山の方はつかに青し夕ぐれの風
夏の草なまぐさきまま堂に入り磬をたたけば夕立きたる
恋するに飽く日あるとかあらぬとか遠方人がささめき居るは
翡翠なるかんざし震ひ砂におつ由比が浜辺の悲しき夕
わが心知りやすからず思ふことこのごろ多くなりにけるかな
恋ならねど悲しき時にゆくりなく別れし人はおもひ出となる
火のありと障子を川に投げ入るる人のはしこき秋の夕ぐれ
東大寺普請の足場とるを見て地軸ばらばら崩すここちす
大らかに日ぐるまの芽は手をひろげ遊びごとする日光の中
ほのかにも親ききつけて君がこと云ひくだすこそ苦しかりけれ
忘れえぬ云ひがひなさも月日へてやうやくつらき心となりぬ
われを見て老ゆとそしるはあはれにも若き日もたぬやからなるかな
黒き髪はなだにも見ゆ花うつ木かばいろに見ゆ夏の夜の月
わが庭の草の中より二尺ほどいでたる萱に風吹く夕
砂原になげいだされしあはれなる男とぞ思ふ女とぞおもふ
珍しきもの語りしぬいそのかみむかしおぼゆる君がふるまひ
月しろの世界よりこしうすあかり薔薇にさしてほととぎす啼く
うとまれていまだいく日もたたなくに尼ごこちしてわれはさびしき
なほよその欲りするものをとれと云ひぬおほどかめきしはかなごとかな
自らを殺しかねつも十年の君が馴染の妻とおもへば
長松が旧年よりの寝のたらぬ顔に誰が子ぞ雪つぶてする
なつかしき道頓堀の初しばゐ雪はふれども車より行く
なき友を妬ましと云ふひとつよりやましき人となりにけるかな
冬は来ぬましらげ米の押敷すゑ神にまつらふかつらぎの山
ゆく春や孟宗竹の夕かぜのここちよかりし口づけののち
自らははかなごととも天地の一大事とも思はぬ歎き
たをや女は面がはりせず死ぬ毒と云ふ薬見て心まよひぬ
うらさびし毛虫の繭の色に似て油の凍る瓶の底など
からきことあまた経てこし妹背にはかかはりもなき若き日の夢
幽霊のお露のきたる夜の舞台うすくらがりにしら菊の咲く
何ものに心をそそぐはしきやし天稚彦とおもへる人に
去年ありし赤児の笑にたぐへつるこすもすの花匂ふ秋きぬ
大殿に孔雀を飼ふと云ふ如く我をも愛でよ貴人ならば
蕗の葉の旧きを掃けばむらさきの牡丹の芽とも見ゆる蕗の芽
つと白きましろの鳥のあまた飛ぶぴやのの下にわたつみの湧く
おろかなる心が建てし楼台のくづるる音もここちよきかな
開かれておのれ入りたる大門よのちも閉ぢざるこの大門よ
心をば大しろがねの板として空に張るなり秋風吹けば
夏川に大きけものの歯の如きかぶらを洗ふ里男かな
水に行くサツフオオの死か蛇に身を噛ませたるクレオパトラか
髪に来て山風舞ひぬ塩の湯のかへでの形のからかみのもと
(以下卅五首塩原に遊びて)
秋の日のかのまた川の桜沢けはしき峡に水のおどろく
岩の湯は陶器のごと対岸に唯ひとつあり風な吹きそね
あはれなる蔦の紅葉は手に枯れぬ羽団扇に似る板屋紅葉も
前の馬車煙草のけぶり三筋立て霧ふる山の塩原に入る
山の滝岩にかかるはしら衣に似るものながら音のおどろし
橋築る隣にいたく古りし橋人も通はずかささぎの居る
人きたり高原山の雷鳥の巣などを語る石の湯ぶねに
那須の原紅葉の中の黄なる葉の大木に来て馬の息吐く
紅硝子張りたる馬車の上すぐる那須野の原の秋のむら雨
六番のおとりと呼べる塩の湯の少女はさびし三味を弾けども
塩原の福渡戸のあけがたの岩より下るかづらの紅葉
山の蔦頭にまきて岩つたふ君はをりふし水かがみしぬ
十丈の杉の木立のなかにある枕流閣の夜の水おと
馬車の人はりがね橋をあやふげに眺めてすぎて秋の日くれぬ
渓づたひして来し人と水際の湯なる少女とめぐり逢ひにき
わが馬車に紅葉は積めどあぢきなし山出づる日は急がぬものを
心冷ゆきりぎし歩む馬車よりも危きことをかつてしながら
めでたきは大空さへも見がたかる深山の中の砥に似たる道
わが宿の黒ききざはし岩の湯のしろききざはし渓に並びぬ
塩の湯の三百段のきざはしを下る目に見るたかはらの山
塩原の小夜の河原の野立石半ぬらして山の雨晴る
時雨ふる中にのぼるは湯どころの塩釜の靄畑下戸の靄
箒川舟を浮けまし船底を一瞬のまにくだかせてまし
紫のきりぎしのもと曲りゆくあたりの淀は一ひろの幅
桟道に夕日の照れば哀れなり危きもののあからさまなる
あかつきのかのまた川の湯の樋より紅葉の中にのぼるしら雲
白き指なよにもの云ふ秋の夜は名所絵なども憎からぬかな
相並び岩の上をば渡り行く中の湯の湯気塩の湯の湯気
岩窟の湯に居て見れば皆青しかのまた川の紅葉藻の屑
岩の上に素肌の少女来て立ちぬ湯気が描きたるまぼろしの絵か
おほらかに思は悲し那須の野へ高原山を馬車出づる時
髪長き人のうれひに似たる石青し男の石はましろし
知らぬまに酒たうべたる御者ありて田舎の馬車もをかしくなりぬ
塩原の山より出づる馬車小し那須野が原の秋霧の中
大鏡たばこの火をばさやかにもうつす夕となりにけるかな
しろがねの薄の屏風の古びゆくごとくに秋の冬になり行く
鋭からずとはがねの黒き鋏をばうちなげきつつ絹切るわれば
うすぐらき鉄格子より熊の子が桃いろの足いだす雪の日
いつしかと紫の藤ちるごとくおとろふること今にいたりぬ
馬などの夜くることを防ぐ杭越えぞわびしき宿の門口
身を隠す心まどひもなすべかりたそがれに聞く人の三味線
夕月はうす藍色の裾ひきてあなぐらの口いでくる女
手の中の紅き花びら吹けばちりぬおんさかづきの前のたはぶれ
やごとなき母か老いざる麗人かはかるべからずのちの日のわれ
昔より泣かしめずして狂はしむ近づき来なるそこばくの人
水仙は白妙衣きよそへど恋人持たず香のみを焚く
釜の湯をたらひにとれば白き湯気母と子をまき出でて梅這ふ
元朝や経の声する大寺にかげろふもゆる軒下の土
年越えぬわれを繞れる色糸の渦巻ひとつ越ゆるここちに
とこしへに若きわが世の証をば春立つ朝に思ひ知るかな
水盤にわが頬をうつす若水をまた新しき涙かと見る
八とせまで都に住めど旅にして猶春に遇ふここちこそすれ
家こぞり遊べば籠の青鸚鵡ねたげに声をたつる正月
わが卓にめでたく白き寒牡丹ひとつ開きて初春はきぬ
春立てば身を祝ふより子を祝ふ親ごころともなりにけるかな
世に未だ親ありし日の元朝と比べて今朝の楽まさる
かの人もその人も皆あらたまれ春の初めに祝ぐ言もこれ
しら梅のうすらつめたき心地よさ元朝に知るこの心地よさ
新しき初春は来るかにかくに驚くことの多き世は来る
初春の宴の卓の客ごとにかざせと切れる寒牡丹かな
わが脊子とわが子等がため生くる甲斐あれとぞ祈る初春の人
君きたるきのふも今日も恋人は馬場の柳の中に羽つく
おもふこと若きがままにわが夢の楽しきままに初春に入る
初春のむらさきの衣きる少女七人まじる酒ほがひかな
皷をば何とて打つぞ新しくやれ舞へ春の初めにと打つ
初春の朝わが子等の踏む庭の青木に光るしら玉椿
むらさきの袖振る子等をわが著たる心地に眺む初春の街
春くれば荏原の大根かぶら菜も清く目ざまし我と一つに
御注縄青きを焚けば木がくれし社のごとく煙る庭かな
みづからを愛でん己を楽まんさせずば春もさびしきものを
初春の愁は早くわれに湧く紅き梅をば折りてかざせど
髮いまだ黄ばまず心火の如し哀みて聴く喜びて観る
わが脊子に四十路ちかづくあはれにも怒らぬ人となり給ふかな
わが家の低き床した日の射せば流れて入りぬ雪どけの水
われの影肩痩せて見ゆ柳をば折ると手のばす寒き木のもと
むらむらとぺんぺん草の尖出でて濁れる水の溢れたる庭
霜ばしら小町の後の骨踏むと戯れて言へど寒き路かな
那須の山たかはらの山壁のごと薄く霞みて霰ふりきぬ
いくばくも若き日なしと思はねどわが手に満たす春の日の花
あるときは醜き石はわれなりと殊更めきし文を書く人
かの蕾花となるよりたはやすく思はれ人となりにけるかな
しろがねの器に盛れどだりやこそ悲しかりけれまして灯ともる
いやしとははたらく蜂を思はねど女王蜂こそ見のよろしけれ
清らにもあした目覚めて独寝の硝子の箱に似る閨を出づ
さかづきをなおきそ歌をなたゆみそ新しき世の少女みやび男
わかき子が海のあなたを慕ふこと之にまされる奇怪あらんや
驚かしをののかしめよさて後に貴に静かに思はしむべく
髪赤き少女の来ては樟の根に泣きし丘をば覚えいますや
さもしくも二間ばかりの簾せし軒こそ見ゆれ我のこしかた
わが涙そのみなもとの似るやらむ行く川見れば泣かれぬるかな
ただひとり太きぱいぷを啣へたる舳の人の黒き夕ぐれ
金色に柑子のおほくなれる樹の下にきたりて馬のおどろく
あぢきなくなどか帰るを思ふらんわが家をさへ旅のここちに
見にも来よ水かがみして大いなる翡翠の櫛に髪を梳く時
巡礼かはた琴弾かかにかくに流れてありく旅に出でまし
わが髪を水の明りにかきむしり貪るこころ多しやと泣く
春の雨板屋を漏りてわが脊子の歌の下がきあぢきなく濡る
うつむきて芝居の桝に物書けばかの桟敷より人のどよめく
おほらかに柏木の鳴る極月のわが森かげのあかつき月夜
旗二つ寒きすがたし橋にきぬ薄雲なびき雁の鳴くとき
いと重く哀しき事をわが肩に負はせて歳は逃足に行く
泥をもて集つくることを知る鳥の若き燕も身の痩せて呼ぶ
わが歌は少しづつ見よひと花を日毎に摘みて若やぐが如
よしと見るおのが歌をばその脊子もよしと言ふ日の八とせ続ける
みづからに阿ねることをよしとする禍をさへわが幸とする
砂原にいたどりの芽の赤きをば春雨ぬらし霽れにけるかな
わが命すすりて泣けりしろがねの盤より噴ける水のけしきに
身に過ぐる若き命をもてあましみやびをの君救へと叫ぶ
くま笹の白き斑うつる二月の雪解の水に翡翠の鳴く
からたちの林ならぬを何れより入らんと惑ふ鈍きみやび男
我等なき空国のごと歎つなと物のはずみに言はまほしけれ
青柳の長きを切れば大君の御輦に鳴る鈴をしぞ思ふ
黄ばみたる幾重の襞の頂に三寸ばかり青白き山
消息はいづれ真とたのまれず書く人よりも我の迷へば
細き川あした漲るわが恋もひと夜のほどにここに到りぬ
ひとり見る水の鏡にいとあまた少女の影のさすは何ごと
濃き赤の椿こぼれてうづだかき切崖のもと行く水の鳴る
春の日となりて暮れまし緑金の孔雀の羽となりて散らまし