武田信玄

                     幸田露伴

 古(いにしへ)の事(こと)でも今(いま)の事(こと)でも虚談(きよだん)には面白(おもしろ)いのが多(おほ)くて、おもしろいのには虚談(きよだん)が多(おほ)い。真実(しんじつ)の事(こと)は虚妄(きよまう)の談(だん)よりおもしろかるべきであるが、少(すくな)くとも虚談(きよだん)の製造者(せいざうしや)に瞞着(まんちやく)され了(をは)りて、そしてそれを面白(おもしろ)いと思(おも)ふやうな人(ひと)に取(と)つては、虚談(きよだん)ほど興味(きようみ)があつて、精彩(せいさい)があつて、気韻(きゐん)生動(せいどう)して、且又(かつまた)権威(けんゐ)を有(いう)するところの、有難(ありがた)いものはないのである。虚談(きよだん)の生(しやう)ずるのは、誤訛(ごくわ)もあり、誇張(こちやう)もあり、修飾(しうしよく)もあり、又(また)故意(こい)の捏造(ねつざう)もあり、無意(むい)の演繹(えんえき)もあり、他(た)を排(はい)し我(が)を立(た)てんとするよりの計謀的(けいぼうてき)宣伝(せんでん)もあり、其他(そのた)種々(しゆ/゛\)の原因(げんいん)よりして生(しやう)ずるので有(あ)るが、虚談(きよだん)でも何(なん)でも構(かま)はないから、自分(じぶん)に面白(おもしろ)いと思(おも)はるゝものを面白(おもしろ)いとして嬉(うれ)しがつて信受(しんじゆ)する人(ひと)が世間(せけん)には甚(はなは)だ多(おほ)いからして、虚談(きよだん)は何時(いつ)の世(よ)にも幅(はゞ)を利(き)かして、終(つひ)には実際(じつさい)の方(はう)が卻(かへ)つて虚談(きよだん)に圧(あつ)せらるゝやうになるのである。へリオトロープの宝石(はうせき)、隠簑(かくれみの)、隠笠(かくれがさ)などの実存(じつぞん)を信(しん)ずるのは、多(おほ)くの人(ひと)に取(と)つては面白(おもしろ)いのである。有(あ)ることの有(あ)るといふ直接(ちよくせつ)証拠(しようこ)は容易(ようい)に提出(ていしゆつ)し得(う)るが、無(な)いことの無(な)いといふ直接(ちよくせつ)証拠(しようこ)は無(な)い。無(な)いことを無(な)いと証拠(しようこ)立(だ)てようとすれば、有(あ)るといふ証拠(しようこ)を一々粉砕(ふんさい)し尽(つく)して否定(ひてい)しきるよりほかはない。そんな事(こと)が出来(でき)る訳(わけ)のものではないから、一度虚談(きよだん)が何人(なんびと)かによつて成形(せいけい)されると、それを無(な)いものにすることは中々(なか/\)容易(ようい)でない。そこへもつて来(き)て、世人(せじん)の多(おほ)くは虚談(きよだん)でも面白(おもしろ)ければ面白(おもしろ)いものに執着(しふぢやく)を持(も)つから、ヘリオトロープの宝石(はうせき)や隠簑(かくれみの)や隠笠(かくれがさ)の神力(しんりよく)を肯定(こうてい)する為(ため)には、自分(じぶん)が背中(せなか)に物(もの)を抛着(はうちやく)されたり、頭顱(とうろ)を撲(う)たれたりしても、それでも忍耐(にんたい)してゐるものである。をかしいにも何(なん)にも、斯程(かほど)をかしいことはないが、それでお互(たがひ)に噴飯(ふきだし)もせずに居(を)るところは、おもしろいと云(い)へば、これもおもしろいには相違(さうゐ)ない。
 釈迦(しやか)でも老子(らうし)でも、基督(キリスト)でも、蓋(けだ)し今(いま)の人々(ひと/゛\)が釈迦(しやか)であり老子(らうし)であり基督(キリスト)であると思(おも)つてゐるものは、恐(おそ)らくは虚談(きよだん)の集塊岩(しふくわいがん)であつて、ほんとの釈迦(しやか)や老子(らうし)や基督(キリスト)は今(いま)の人々(ひと/゛\)が想(おも)つてゐるやうなものではないかも知(し)れぬ。文献(ぶんけん)上(じやう)に精確(せいかく)に証拠(しようこ)立(だ)てられるところでは、老子(らうし)の如(ごと)きは、後世(こうせい)になるだけ種々(しゆ/゛\)の虚談(きよだん)が塗附(ぬりつ)けられたり、鍍金(めつき)されたり、彫刻(てうこく)されたりして、そして立派(りつぱ)な太上老君(たいじやうらうくん)となり、道教(だうけう)の祖師(そし)となり、仙人(せんにん)の親分(おやぶん)となり、終(つひ)には其(そ)の使(つか)つてゐた小童(せうどう)や牛(うし)までが大魔力(だいまりよく)を有(いう)するものとなつて、下界(げかい)で勝手(かつて)な事(こと)をするやうに捏上(でつちあ)げられるに致(いた)つたのである。 武田信玄(たけだしんげん)、上杉謙信(うへすぎけんしん)、何(なん)といふ立派(りつぱ)な面白(おもしろ)い取組(とりくみ)だらう。川中島(かはなかじま)の大戦(おほいくさ)、長光(ながみつ)の陣太刀(ぢんだち)、鉄団扇(てつうちは)、謙信公(けんしんこう)は、「せがれめ、せがれめ」と云(い)つて信玄(しんげん)を小忰(こせがれ)扱(あつか)ひにして斬(き)つてかゝる。信玄公(しんげんこう)は天下(てんか)を心(こゝろ)に掛(か)ける程(ほど)の者(もの)が自(みづか)ら佩刀(はいたう)を揮(ふる)ふやうなことではならぬと、危急(ききふ)の場合(ばあひ)にも刀(かたな)を抜(ぬ)かずに、牀几(しやうぎ)に腰(し)を据(す)ゑたまゝ軍配(ぐんばい)団扇(うちは)で謙信(けんしん)をあしらつた。イヤ実(じつ)におもしろい。すばらしい。素敵(すてき)だ。どつちが勝(か)つたのだ、謙信(けんしん)が勝(か)つた、信玄(しんげん)が勝(か)つた。どつちが偉(えら)いのだ、信玄(しんげん)が偉(えら)い、謙信(けんしん)が偉(えら)い。コイツ甲州(かふしう)猿(ざる)め、降参(かうさん)しろ、と一方(ぱう)が言(い)へば、何(なん)だ越後(ゑちご)の角兵衛獅子(かくべゑじし)め、其(そ)のでんぐり返(がへ)るのが車懸(くるまがゝ)りの陣法(ぢんぱふ)か、と一方(ぱう)が冷笑(あざわら)ふ。講釈師(かうしやくし)のたゝき立(た)てた扇(あふぎ)の響(ひゞ)きが勇(いさ)ましく今(いま)に伝(つた)はつて、四百年(ひやくねん)近(ちか)くも過(す)ぎて終(しま)つた龍闘(りようとう)虎争(こさう)の余焔(よえん)が今(いま)でもイキリ立(た)たうといふのだから信玄(しんげん)贔屓(びいき)も謙信(けんしん)好(ず)きも、互(たがひ)に其(そ)の誰(たれ)からともなく聞(き)いて覚(おぼ)えてゐる面白(おもしろ)い談(はなし)を大切(たいせつ)に信受(しんじゆ)し愛惜(あいせき)して捨(す)てないで、啀(いが)み合(あ)ふものさへある位(くらゐ)である。最初(さいしよ)が何年(なんねん)も勝負(しようぶ)つかずで相(あひ)争(あらそ)つたのだから、末(すゑ)に至(いた)つても勝負(しようぶ)の決(き)まらうやうはない。が、若(も)しも真(しん)の事実(じじつ)だけだつたら、これほどにもなるまいが、信玄(しんげん)謙信(けんしん)の両雄(りやうゆう)が孰(いづ)れも世(よ)を逝(さ)つてから、徳川氏(とくがはし)の太平(たいへい)の無事(ぶじ)の代(よ)になつた時(とき)、信玄方(しんげんがた)の将士(しやうし)の末孫(ばつそん)、謙信方(けんしんがた)の将士(しやうし)の末孫(ばつそん)等(ら)が、互(たがひ)に自分(じぶん)等(ら)の祖先(そせん)等(ら)、ひいては祖先(そせん)等(ら)が仕(つか)へた英主(えいしゆ)に愛着(あいぢやく)を有(も)つて、互(たがひ)に負(ま)けず劣(おと)らずに、父祖(ふそ)代々(だい/\)語(かた)り伝(つた)へ聞(き)き伝(つた)へた事蹟(じせき)を、訛誤(くわご)も誇張(こちやう)も修飾(しうしよく)も捏造(ねつざう)も演繹(えんえき)も論説(ろんせつ)も宣伝(せんでん)も其(その)他(た)の種々(しゆ/゛\)のものをも含有(がんいう)させ傍題(はうだい)にして、云(い)ひ張(は)つたが為(ため)に、それからそれへと伝(つた)へ拡(ひろ)めて、終(つひ)に天文(てんもん)弘治(こうぢ)永禄(えいろく)のほんとの戦(たゝかひ)と、徳川期(とくがはき)の其(そ)の実際(じつさい)の影法師(かげぼふし)の戦(たゝかひ)と二度(ど)の長(なが)い戦(たゝかひ)とが重(かさ)なつて、いよ/\両雄(りやうゆう)は偉(えら)いものになり、川中島(かはなかじま)は凄(すさ)まじい戦(たゝかひ)になつたのでもあらう。影法師(かげばふし)の戦(たゝかひ)の方(はう)は、兵粮(ひやうらう)も要(い)らぬし、天候(てんこう)時候(じこう)の束縛(そくばく)も被(かうむ)らないから、随分(ずゐぶん)勝手次第(かつてしだい)に戦(たゝか)はれたことと想像(さうざう)され、うその鼬(いたち)ごつこ鼠(ねずみ)ごつこも勝手次第(かつてしだい)に増長(ぞうちやう)しあつたことと想像(さうざう)される。
 といふものは、甲州(かふしう)武士(ぶし)は武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)後(ご)に徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)したものが少(すくな)くなかつた。これは何(なに)も家康公(いへやすこう)が勝頼(かつより)の首級(しゆきふ)に対(たい)して礼(れい)を以(もつ)て待(ま)つたから、それで甲州(かふしう)武士(ぶし)の心(こゝろ)を得(え)たなどといふ伝説(でんせつ)に本(もと)づくまでもなく、家康公(いへやすこう)が拠(よ)つた地方(ちはう)の関係上(くわんけいじやう)、自然(しぜん)と徳川氏(とくがはし)に招致(せうち)されて徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)したのである。北条氏(ほうでうし)が亡(ほろ)びて、北条氏(ほうでうし)麾下(きか)の士(し)が多(おほ)く徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)したのも同(おな)じ事情(じじやう)である。徳川氏(とくがはし)麾下(きか)の働(はたら)き手(て)は、三遠駿(さんゑんすん)の士(し)が一分(ぶ)、甲州(かうしう)の士(し)が一分(ぶ)、小田原(をだはら)の士(し)が一分(ぶ)といふ訳(わけ)で、これは皆(みな)自然(しぜん)の地理(ちり)上(じやう)の関係(くわんけい)から出(で)たことであり、家柄(いへがら)力量(りきりやう)功績(こうせき)等(など)、近処(きんじよ)ならば自然(しぜん)と知(し)られ、遠方(ゑんぱう)ならば知(し)られない訳(わけ)だから、上方(かみがた)大名(だいみやう)や中国(ちうごく)西国(さいごく)の大名(だいみやう)へは、たとへそれが英主(えいしゆ)であつても態々(わざ/\)これに属(ぞく)しに行(ゆ)くものはない道理(だうり)で、召抱(めしかゝ)へる方(はう)でも素性(すじやう)も心術(しんじゆつ)も知(し)れたものなら喜(よろこ)んでも召抱(めしかゝ)へるべき訳(わけ)であるのに、まして家康公(いへやすこう)は早(はや)くから海道(かいだう)の名将(めいしやう)と謡(うた)はれた方(かた)であるから、甲州(かうしう)武士(ぶし)が主家(しゆか)没落(ぼつらく)の後(のち)、自然(しぜん)に心(こゝろ)を帰(き)し身(み)を寄(よ)せた訳(わけ)である。それで此等(これら)の士(し)を用(もち)ゐ、武田家(たけだけ)で教育(けういく)された其(そ)の好果(かうくわ)を利(り)して、家康公(いへやすこう)は愈々(いよ/\)其(そ)の英雄的(えいゆうてき)本領(ほんりやう)を発揮(はつき)されたのである。三河(みかは)武士(ぶし)と甲州(かふしう)武士(ぶし)とは互(たがひ)に励(はげ)み合(あ)ひ競(きそ)ひ合(あ)つて、徳川氏(とくがはし)の為(ため)に勲功(くんこう)を立(た)てたのである。明治(めいぢ)の前(まへ)でも徳川氏(とくがはし)の旗下(はたもと)と称(しよう)したものの中(なか)には、甲州(かうしう)武士(ぶし)の系(けい)は甚(はなは)だ少(すくな)くないのであつて、それは著明(ちよめい)の事実(じじつ)である。武田信玄(たけだしんげん)はもとより天稟(てんぴん)の武将(ぶしやう)の才(さい)で、信玄(しんげん)が出(で)てから武田氏(たけだし)の弓矢(ゆみや)は甚(はなは)だ強(つよ)くなり、其(そ)の訓練(くんれん)や節制(せつせい)や精神(せいしん)教育(けういく)は殆(ほと)んど完全(くわんぜん)に近(ちか)いものになつた。で、これと争(あらそ)つた徳川氏(とくがはし)でも、北条氏(ほうでうし)でも、味方(みかた)が原(はら)、三(み)まぜ峠(たうげ)等(とう)、いづれも散々(さん/゛\)に塩(しほ)を附(つ)けられてゐるのであるし、上杉氏(うへすぎし)のほかには当時(たうじ)に於(おい)て甲州勢(かふしうぜい)を正面(しやうめん)の敵(てき)とするのを憚(はゞか)らないものは無(な)かつたのである。此(こ)の甲州(かふしう)武士(ぶし)を家康公(いへやすこう)が招致(せうち)したのは至当(したう)の事(こと)であつて、此等(これら)の者(もの)が武辺(ぶへん)沙汰(ざた)に後(おく)れを取(と)るまいの意気(いき)から徳川氏(とくがはし)の為(ため)に材(さい)を伸(の)べ勇(ゆう)を奮(ふる)つて力(ちから)を致(いた)したのは決(けつ)して少(すくな)くない。剛強(がうきやう)誠実(せいじつ)の三河(みかは)武士(ぶし)と練達(れんたつ)勇猛(ゆうまう)の甲州(かふしう)武士(ぶし)があつたればこそ、後年(こうねん)家康公(いへやすこう)が天下(てんか)を掌中(しやうちう)にするに至(いた)つたのである。徳川氏(とくがはし)の軍法(ぐんぱふ)にも、随(したが)つて甲州流(かふしうりう)の節度(せつど)の幾分(いくぶん)採用(さいよう)されたらうことは、如何(いか)に謙虚(けんきよ)に観察(くわんさつ)しても、必(かなら)ず存(そん)すべきことである。いや然様(さう)で無(な)くとも、鄰家(りんか)に碁(ご)の強(つよ)い者(もの)があつてこれと戦(たゝか)ふと、度々(たび/\)敗績(はいせき)しながらも、何時(いつ)となく其(そ)の手口(てぐち)を覚(おぼ)えて、敗績(はいせき)を我(わ)が師(し)として自然(しぜん)に強(つよ)くなる。家康公(いへやすこう)の信玄(しんげん)に於(お)ける場合(ばあひ)も丁度(ちやうど)それと同(おな)じである。で家康公(いへやすこう)の大功(たいこう)成(な)つて、天下(てんか)太平(たいへい)となつた後(のち)、其(その)前(まへ)から存(そん)した兵法沙汰(へいはふざた)軍学沙汰(ぐんがくざた)、城取(しろとり)縄張(なはばり)、斥候(せきこう)陣押(ぢんおし)、進退(しんたい)駈引(かけひき)、そんな種々(しゆ/゛\)の事柄(ことがら)が論議(ろんぎ)され、実験(じつけん)の所有者(しよいうしや)たる古老(こらう)が凋落(てうらく)するに附(つ)けて、所謂(いはゆる)軍学(ぐんがく)なるものが卻(かへ)つて尊(たふと)ばるゝやうになつてくる折柄(をりから)、信玄公(しんげんこう)を担(かつ)ぐ甲州風(かふしうふう)の軍陣(ぐんぢん)の談(だん)が世間(せけん)に取交(とりかは)されたらうことは明(あき)らかなことである。又(また)他(た)の一方(ぱう)には歴史(れきし)の囘顧(くわいこ)が起(おこ)つて来(き)て、色々(いろ/\)の談(だん)が取交(とりかは)される。又(また)有力(いうりよく)な一因(いん)には、往事(わうじ)の記録(きろく)が整理(せいり)され出(だ)す、即(すなは)ち修史(しうし)の事(こと)がはじまる。そこで徳川氏(とくがはし)の敵(てき)ではあつたが、師(し)でもあつたやうな信玄(しんげん)が、徳川氏(とくがはし)の敵(てき)の手足(てあし)ではあつたが、後(のち)には股肱(ここう)にもなつた甲州(かふしう)武士(ぶし)等(ら)によつて様々(さま/゛\)に語(かた)られ、それから又(また)徳川氏(とくがはし)には屈(くつ)せられたが、徳川氏(とくがはし)をも敵(てき)とするを敢(あへ)てして、謙信(けんしん)以来(いらい)の威武(ゐぶ)に誇(ほこ)つてゐる上杉家(うへすぎけ)の者(もの)等(ら)の信玄(しんげん)に対(たい)する反抗的(はんかうてき)余焔(よえん)も燃(も)えたことであらう。それこれで永坂釣閑斎(ながさかてうかんさい)跡部大炊介(あとべおほゐのすけ)さへ居(ゐ)なければ武田家(たけだけ)は鉄(てつ)の如(ごと)く強(つよ)かるべきやうに書(か)かれた甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)も出(で)れば、信玄(しんげん)の頭(あたま)の鉢(はち)を伏鉦(ふせがね)でも敲(たゝ)くやうに謙信(けんしん)が敲(たゝ)いたよしを記(しる)した輝虎注進状(てるとらちうしんじやう)のやうなものも出(で)るに至(いた)つたのであらう。又(また)、甲州流(かふしうりう)軍学(ぐんがく)も出来(でき)上(あが)れば、謙信流(けんしんりう)軍学(ぐんがく)も出来(でき)上(あが)つたのであらう。
 ことに軍学(ぐんがく)沙汰(ざた)は信玄(しんげん)の旗下(はたもと)五人衆(にんしう)の一人(ひとり)に山本勘助入道鬼斎(やまもとかんすけにふだうきさい)といふ逸物(いちもつ)があつて、これが左(ひだり)のめつかち右(みぎ)びつこ、身(み)の丈(たけ)矮(みじか)く色黒(いろくろ)く、容貌(ようばう)醜陋(しうろう)にして、信玄(しんげん)でさへ其(そ)の男振(をとこぶり)の余(あま)りなのに呆(あき)れたが、これほどの見苦(みぐる)しい男(をとこ)で而(しか)も名(な)を得(え)たるは器量(きりやう)想(おも)ひはかるべしと感心(かんしん)し、且(かつ)は又(また)信玄(しんげん)が頼(たの)み切(き)つたる老臣(らうしん)板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)をして推挙(すゐきよ)せしめた男(をとこ)であつた。此(こ)の勘助(かんすけ)は十二の時(とき)、三州(さんしう)牛窪(うしくぼ)の牧野新三郎成定(まきのしんざぶらうなりさだ)の被官(ひくわん)の大林勘左衛門(おほばやしかんざゑもん)といふものの養子(やうし)となつたが、父(ちゝ)は駿州(すんしう)富士郡(ふじごほり)の山本村(やまもとむら)の八幡宮(まんぐう)の神主(かんぬし)吉野浄雲入道貞倫(よしのじやううんにふだうていりん)の子(こ)で、今川家(いまがはけ)に仕(つか)へて士(し)となり山本氏(やまもとし)を称(しよう)した弾正貞久(だんじやうさだひさ)といふものであつたといふ。勘助(かんすけ)は貞久(さだひさ)の四男(なん)だつたので、源助貞幸(げんすけさだゆき)と云(い)つた時分(じぶん)養子(やうし)にやられて、勘左衛門(かんざゑもん)の養子(やうし)だから勘助(かんすけ)となつたのだが、年(とし)二十の頃(ころ)に故(ゆゑ)有(あ)つて養家(やうか)を辞(じ)して、諸国(しよこく)遍歴(へんれき)に出(で)かけたといふが、失敬(しつけい)ではあるが察(さつ)するところ上杉謙信(うへすぎけんしん)に斬込(きりこ)まれても驚(おどろ)かぬ信玄(しんげん)でさへ驚(おどろ)いた男振(をとこぶり)だつたから、勘左衛門(かんざゑもん)に娘(むすめ)があつたとすれば、恐(おそ)れ入(い)つて引退(ひきさが)つたからの事(こと)でもあらう。併(しか)し勘助(かんすけ)は幸(さいはひ)に失恋(しつれん)して神経(しんけい)衰弱(すゐじやく)になるやうな男(をとこ)ではなく、心掛(こゝろがけ)のたしかなものであつたから、伯父(をぢ)山本帯刀左衛門成氏(やまもとたてはきさゑもんしげうぢ)に兵法(へいはふ)を学(まな)び、又(また)同国(どうこく)寺部(てらべ)の鈴木日向守重辰(すゞきひうがのかみしげたつ)にも従(したが)ひ学(まな)び、其上(そのうへ)諸国(しよこく)遍歴(へんれき)三十余年(よねん)といふから、随分(ずゐぶん)長(なが)い間(あひだ)の放浪(はうらう)生活(せいくわつ)をしたもので、放浪(はうらう)生活(せいくわつ)も此位(このくらゐ)続(つゞ)ければ寂(さ)びが付(つ)いておもしろからう。五体(たい)不具(ふぐ)になつたのも、此(こ)の放浪(はうらう)中(ちう)に兵法(へいはふ)の仕合(しあひ)から得(え)た不幸(ふこう)だつたともいふ。母(はゝ)は今川家(いまがはけ)の臣(しん)の庵原安房守忠胤(いほばらあはのかみたゞたね)の妹(いもうと)であつたから、其(その)縁(えん)によつて庵原(いほばら)に食客(しよくかく)となつてゐる中(うち)、信玄(しんげん)に仕(つか)へたのだが、其(その)時(とき)に天文(てんもん)十二年(ねん)、年(とし)五十二だとある。軍鑑(ぐんかん)には手(て)も不自由(ふじいう)な人(ひと)とあるが、それでも信玄(しんげん)の謀将(ぼうしやう)として、所謂(いはゆる)甲州流(かふしうりう)の軍学(ぐんがく)には勘助(かんすけ)が必(かなら)ず引合(ひきあひ)に出(だ)されるほどで、永禄(えいろく)四年(よねん)九月十日(ぐわつとをか)、川中島(かはなかじま)の大戦(おほいくさ)に、其(そ)の不自由(ふじいう)な身(み)の六十九歳(さい)の老体(らうたい)を馳駆(ちく)奔突(ほんとつ)させた挙句(あげく)、大小(だいせう)八十六ケ処(しよ)の創(きず)を負(お)うて、悪戦(あくせん)苦闘(くとう)し、川中島(かはなかじま)八幡原(はちまんばら)の草(くさ)の中(なか)に魂魄(こんぱく)をたゝきつけて戦死(せんし)したところは、実(じつ)に痛快(つうくわい)壮快(さうくわい)の好男子(かうだんし)である。勘助(かんすけ)は蓋(けだ)し初(はじめ)から兵法(へいはふ)軍学(ぐんがく)を以(もつ)て自(みづか)ら立(た)つたのであらう。勘助(かんすけ)の弟(おとうと)山本帯刀成行(やまもとたてはきなりゆき)といふものも兵学(へいがく)を得(え)て居(ゐ)たのであらう、永禄(えいろく)十一年(ねん)三月(ぐわつ)遠州浜松(ゑんしうはままつ)の城(しろ)を徳川家康(とくがはいへやす)の為(ため)に修築(しうちく)したと云(い)はれてゐる。駿州(すんしう)久能山(くのうざん)に恐(おそ)ろしい深(ふか)い井(ゐど)があるが、俗伝(ぞくでん)に勘助(かんすけ)が鑿(ほ)つたのだと云(い)つてゐる。兎(と)に角(かく)此(こ)の勘助(かんすけ)が甲州(かふしう)の兵事(へいじ)に何程(なにほど)の貢献(こうけん)をしたかは不明(ふめい)だが、かゝる男(をとこ)の信玄(しんげん)麾下(きか)に居(ゐ)たことは、後(のち)の甲州流(かふしうりう)軍学(ぐんがく)と言(い)ふものに所以(ゆゑ)無(な)きを思(おも)はしめぬ一楔子(せつし)になつてゐる。勘肋(かんすけ)が放浪中(はうらうちう)に諸国(しよこく)諸家(しよか)の軍事(ぐんじ)政事(せいじ)の得失(とくしつ)を研究(けんきう)して居(を)つたので、用(もち)ゐらるゝに及(およ)んで其(そ)の善(よ)しとするところを信玄(しんげん)に献策(けんさく)して用(もち)ゐしめたことは、蓋(けだ)し有(あ)るべき事柄(ことがら)である。
 世(よ)の甲州流(かふしうりう)軍学(ぐんがく)と言(い)ふものは、小幡勘兵衛景憲(をばたかんべゑかげのり)を祖(そ)とする。景憲(かげのり)は山本勘助(やまもとかんすけ)を宗(そう)とする。併(しか)し景憲(かげのり)は勘助(かんすけ)に直接(ちよくせつ)師事(しじ)したのでも何(なん)でもない。勘兵衛景憲(かんべゑかげのり)は甲州(かふしう)の宿将(しゆくしやう)小幡虎盛(をばたとらもり)の後(のち)で、昌盛(まさもり)の二男(なん)だが、其(そ)の生(うま)れたのは元亀(げんき)三年(ねん)だから、僅(わづか)に十一歳(さい)の時(とき)に武田勝頼(たけだかつより)は亡(ほろ)びたのである。で、幼時(えうじ)から徳川氏(とくがはし)に仕(つか)へて、関(せき)ケ原(はら)、大坂(おほさか)の前役(ぜんえき)にも出陣(しゆつぢん)したが、大坂(おほさか)との和談(わだん)が一旦(たん)成就(じやうじゆ)した時(とき)に、大野治房(おほのはるふさ)の招(まねき)に応(おう)じて、大坂方(おほさかがた)へ入(い)り、板倉伊賀守勝重(いたくらいがのかみかつしげ)や松平隠岐守定行(まつだいらおきのかみさだゆき)と諜(しめ)し合(あは)せて、関東方(くわんとうがた)の為(ため)にスパイとなつたのである。かゝる男(をとこ)が大坂(おほさか)に居(ゐ)たのであるから、大坂(おほさか)の様子(やうす)は手(て)に取(と)る如(ごと)く関東(くわんとう)に知(し)れ、随(したが)つて容易(よういに)に亡(ほろ)ぼされたわけで、大坂(おほさか)亡(ほろ)びて後(のち)は御使番(おつかひばん)となつたのである。此(こ)の勘兵衛(かんべゑ)も一通(ひととほ)りの者(もの)ではない、自分(じぶん)の所領(しよりやう)の三分(ぶん)の一を村上荘次郎(むらかみしやうじらう)といふ者(もの)、他(た)の三分(ぶん)の一を杉山八蔵(すぎやまはちざう)といふ者(もの)に与(あた)へて、自己(おのれ)は残(のこ)れる三分(ぶん)の一を得(う)るに甘(あま)んじたといふ。斯様(かう)いふ男(をとこ)で、そして甲州(かふしう)の士(し)早川三左衛門(はやかはさんざゑもん)、広瀬景房(ひろせかげふさ)、辻弥兵衛(つじやへゑ)、小宮山八右衛門(こみやまはちゑもん)、仁科肥前守(にしなひぜんのかみ)、辻甚内等(つじじんないら)に就(つ)いて武田家(たけだけ)の軍法(ぐんぱふ)を問(と)ひ、又(また)、岡本半助(をかもとはんすけ)、赤沢太郎右衛門(あかざはたらうゑもん)、益田民部等(ますだみんぶら)にも学(まな)び、又(また)甲州(かふしう)北郡(きたごほり)に隠居(いんきよ)してゐた岡本実貞入道(をかもとさねさだにふだう)をも招(まね)いて益(えき)を請(こ)うたりして、終(つひ)に甲州流(かふしうりう)軍学(ぐんがく)を以(もつ)て世(よ)に鳴(な)り、列侯(れつこう)諸士(しよし)の其(その)門(もん)に入(い)るもの二千(せん)余人(よにん)に及(およ)んだといふことである。勘兵衛(かんべゑ)の弟子(でし)北条安房守氏長(ほうでうあはのかみうぢなが)は北条流(ほうでうりう)の祖(そ)となり、氏長(うぢなが)の弟子(でし)山鹿甚五左衛門義矩(やまがじんござゑもんよしのり)は山鹿流(やまがりう)を編立(あみた)てたのだから、名高(なだか)い山鹿素行(やまがそかう)も景憲(かげのり)の孫弟子(まごでし)の訳(わけ)である。信玄(しんげん)及(およ)び武田家(たけだけ)の事(こと)を記(しる)したものの中(うち)で古(ふる)いものは甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)である。軍鑑(ぐんかん)は虚実(きよじつ)混淆(こんかう)して確実(かくじつ)の史料(しれう)として取(と)ることは難(かた)いものであり、且(かつ)また高坂弾正(かうさかだんじやう)の撰(せん)にかゝるといふことは断(だん)じて信(しん)ぜられぬものであるが、決(けつ)して生(なま)新(あたら)しい偽書(ぎしよ)ではない。古(ふる)いことは古(ふる)いものである、武田氏(たけだし)滅亡(めつばう)を距(さ)ること遠(とほ)からぬ世(よ)に出来(でき)たものである。勘兵衛(かんべゑ)は甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)の闕(けつ)を補(おぎな)ひ誤(あやまり)を正(たゞ)さんとしたやうに云(い)はれてゐる。併(しか)し夏目繁高(なつめしげたか)は、勘兵衛(かんべゑ)が甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)の闕文(けつぶん)を補(おぎな)ひ、大(おほい)に甲州(かふしう)武田(たけだ)の兵法(へいはふ)を興起(こうき)す、と記(しる)してゐる。勘兵衛(かんべゑ)は非常(ひじやう)に長命(ちやうめい)で、寛文(くわんぶん)三年(ねん)九月(ぐわつ)九十二歳(さい)で死(し)んでゐるが、勘兵衛(かんべゑ)存命中(ぞんめいちう)、蓋(けだ)し勘兵街(かんべゑ)の七十七の賀(が)の頃(ころ)門人等(もんじんら)が打寄(うちよ)つて記(しる)したと見(み)ゆる正保(しやうはう)四年(よねん)の誌文(しぶん)は、文章(ぶんしやう)も朴拙(ぼくせつ)で古(ふる)さの思(おも)はるゝもので、其(その)中(なか)に、景憲(かげのり)天性(てんせい)人(ひと)の宇下(うか)に立(た)つを欲(ほつ)せず、燕雀(えんじやく)を睥睨(へいげい)するの知(ち)、鴻鵠(こうこく)を慕(した)ふの志(こゝろざし)有(あ)り、唯(たゞ)願(ねが)ふところは先君(せんくん)信玄公(しんげんこう)創業(さうげふ)垂統(すゐとう)の規矩(きく)、殊(こと)に軍旅(ぐんりよ)の制法(せいほふ)は之(これ)を詳(つまびら)かにせんと、故(ゆゑ)に甲信(かふしん)両国(りやうごく)の士(し)、普(あまね)く其(その)門(もん)に入(い)り、故実(こじつ)を尋探(じんたん)し、委曲(ゐきよく)に之(これ)を記録(きろく)し、悉(こと/゛\)く其(その)語(ご)を綴集(てつしふ)し、編(へん)して五十帖(でふ)と為(な)し、名(な)づけて甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)と号(がう)す、而(しか)も景憲(かげのり)心(こゝろ)未(いま)だ満(み)たずとして、又(また)益々(ます/\)天下(てんか)に遍歴(へんれき)し、其(その)志(こゝろざし)を立(た)てんことを願(ねが)ふ、とあつて、其(そ)の下(しも)には景憲(かげのり)が致仕(ちし)して諸国(しよこく)修行(しゆぎやう)を試(こゝろ)み、兵法(へいはふ)軍学(ぐんがく)禅宗(ぜんしう)に苦心(くしん)した事(こと)を記(しる)してあり、其後(そのご)関(せき)ケ原(はら)大坂(おほさか)等(とう)の役(えき)に参(さん)じたことを記(しる)てある。して見(み)れば甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)は勘兵衛(かんべゑ)が若(わか)い時(とき)、関(せき)が原(はら)役(えき)の前(まへ)(関(せき)ヶ原(はら)役(えき)の時(とき)は勘兵衛年(かんべゑとし)二十九)即(すなは)ち青年(せいねん)時代(じだい)に、自分(じぶん)と同(おな)じく徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)した甲州(かふしう)諸士(しよし)等(ら)に信玄(しんげん)盛時(せいじ)の事(こと)を聞(き)きて、追慕(つひぼ)憧憬(どうけい)の念(ねん)、慷慨(かうがい)悲愴(ひさう)の情(じやう)、研究心(けんきうしん)、批評心(ひひやうしん)、何(なに)や彼(か)やを取交(とりま)ぜ、且又(かつまた)今(いま)は徳川氏(とくがはし)に属(ぞく)してゐる諸(しよ)将士(しやうし)の感情(かんじやう)や智識(ちしき)や意見(いけん)をも取交(とりま)ぜて記(しる)したるものと想(おも)はれる。史実(しじつ)の誤訛(ごくわ)や不足(ふそく)やは、もとより史家(しか)でも記録(きろく)でもない諸(しよ)将士(しやうし)の記憶談(きおくだん)を其侭(そのまゝ)伝(つた)へたのであるから、自然(しぜん)生(しやう)じ勝(がち)の事(こと)で、しかも勘兵衛(かんべゑ)に語(かた)つた諸人(しよにん)も亦(また)一々いち(/\)実際(じつさい)に遭遇(さうぐう)又(また)目撃(もくげき)した人(ひと)のみではなく、伝聞(でんぶん)に之(これ)を得(え)たことを語(かた)つたらうから、後世(こうせい)の考証家(かうしようか)に其(その)失(しつ)を攻撃(こうげき)されるやうな誤謬(ごびう)を含(ふく)んだとて、それは無理(むり)も無(な)いことであらう。で、事実文編(じじつぶんぺん)の巻(まきの)十四に採録(さいろく)されて居(を)る逸名氏(いつめいし)の景憲(かげのり)門弟子(もんていし)の正保丁亥(しやうはうていがい)の記文(きぶん)を信(しん)ずれば、甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)は勘兵衛(かんべゑ)の手(て)から出(で)たもので、其(そ)の成立(せいりつ)の事情(じじやう)も大概(たいがい)は分明(ぶんめい)する。
 此(こ)の勘兵衛(かんべゑ)が無論(むろん)甲州方(かふしうがた)に左袒(さたん)して軍鑑(ぐんかん)を編(あ)み、しかも二千(せん)余人(よにん)も門人(もんじん)を有(いう)する兵学家(へいがくか)として後(のち)に至(いた)つて世(よ)に威張(いば)つて立(た)つたことは、信玄(しんげん)と対抗(たいかう)した家(いへ)で、しかも関(せき)ケ原以後(はらいご)は押(おさ)へ付(つ)けられた上杉家(うへすぎけ)及(およ)び其(その)将士(しやうし)等(ら)に取(と)つて不快(ふくわい)の事(こと)でないわけはない。輝虎注進状(てるとらちうしんじやう)は事実(じじつ)其時(そのとき)のものとは受取(うけけと)り難(がた)いし、又(また)何人(なんびと)が作(つく)つたかも知(し)らぬが、併(しか)し上杉方(うへすぎがた)から出(で)たものであらうことは疑(うたがひ)無(な)い。林家(はやしけ)修史(しうし)の時(とき)に際(さい)して出(で)て来(き)たものであらうと想像(さうざう)されるし、川中島(かはなかじま)五度(ど)合戦次第(かつせんしだい)は寛文(くわんぶん)年間(ねんかん)に林春斎(はやししゆんさい)が本朝通鑑(ほんてうつがん)を編(へん)する時(とき)に史料(しれう)に供(そな)へんため上杉氏(うへすぎし)より当時(たうじ)の閣老(かくらう)酒井雅楽頭(さかゐうたのかみ)に呈(てい)されたものと奥書(おくがき)にあるが、およそ同(おな)じ頃(ころ)に出(だ)されたものででもあらう。イヤ然様(さう)いふ史料(しれう)の方面(はうめん)でなく、軍学(ぐんがく)の方面(はうめん)を一寸(ちよつと)考(かんが)へて見(み)ると、越後流(ゑちごりう)即(すなは)ち謙信流(けんしんりう)の軍学(ぐんがく)といふものがある。何人(なんびと)が編(あ)み出(だ)したもので、何時(いつ)頃(ごろ)から出来(でき)たものか知(し)らぬが、これも其(そ)の軍学(ぐんがく)の系伝(けいでん)が後(のち)まで存(そん)して、三徳流(とくりう)などといふ支派(しは)まであるところを見(み)ると、いづれは越後(ゑちご)武士(ぶし)の建立(こんりふ)であらう。甲州流(かふしうりう)で山本勘助(やまもとかんすけ)を宗(そう)とするが如(ごと)く、越後流(ゑちごりう)では謙信(けんしん)の謀将(ぼうしやう)であつた宇佐美駿河守定行(うさみするがのかみさだゆき)を宗(そう)とする。いづれ宇佐美氏(うさみし)の後(のち)か、然(しか)らずも越後武士(ゑちごぶし)が上杉家(うへすぎけ)の制度事蹟等(せいどじせきとう)を聴集(きゝあつ)めて編立(あみた)てたものと考(かんが)へられる。そして丁度(ちやうど)武田家(たけだけ)に於(お)ける甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)と同(おな)じやうに、上杉家(うへすぎけ)に於(お)ける春日山日記(かすがやまにつき)三十巻(くわん)が出来(でき)てゐる。これは半分(はんぶん)史伝様(しでんやう)のもので、半分(はんぶん)軍学様(ぐんがくやう)のものであること、猶(な)ほ甲陽軍鑑(かふやうぐんかん)が史伝軍学(しでんぐんがく)雑糅混淆(ざつじうこんかう)して居(ゐ)るが如(ごと)くである。名(な)は堂々(どう/\)としてゐるが、文章(ぶんしやう)識見(しきけん)に古風(こふう)の味(あぢ)が少(すくな)くて多分(たぶん)は軍鑑(ぐんかん)の後(あと)に出来(でき)たものであらうと思(おも)はれる。恐(おそ)らく越後(ゑちご)軍学者(ぐんがくしや)の手(て)に成(な)つたものと鑑定(かんてい)して大差(たいさ)はあるまいし、且又(かつまた)軍鑑(ぐんかん)を向(むこ)ふ側(がは)に取(と)つて編成(へんせい)されたものと猜(すゐ)しても、余(あま)り邪猜(じやすゐ)でもあるまい。
 甲越(かふゑつ)川中島(かはなかじま)の長(なが)い烈(はげ)しい闘争(とうさう)の後(のち)に、太平(たいへい)になつてからも影法師(かげぼふし)の戦争(せんさう)が復(また)繰返(くりかへ)されたと自分(じぶん)が言(い)つたのは斯様(かう)いふ意味(いみ)である。併(しか)し双方(さうはう)の言分(いひぶん)を割引(わりびき)無(な)しに買取(かひと)つて、そし両方(りやうはう)を取組(とつくみ)合(あは)せて、信玄(しんげん)謙信(けんしん)を相(あひ)争(あらそ)はしめると、それは甚(はなは)だ面白(おもしろ)い華々(はな/゛\)しいものが眼前(がんぜん)に展開(てんかい)して来(く)る。虚談(きよだん)でも面白(おもしろ)いものは人(ひと)が好(す)くから、面白(おもしろ)くしようと思(おも)へば虚談(きよだん)を取入(とりい)れるに限(かぎ)る。虚談(きよだん)は多(おほ)くの人(ひと)には多分(たぶん)面白(おもしろ)いものであるのだから。但(たゞ)し然様(さう)いふやうにして出来(でき)たものには、既(すで)に甲越軍談(かふゑつぐんだん)のやうなものもあれば、講談師(かうだんし)等(ら)が読(よ)み拡(ひろ)げて来(き)た俗説(ぞくせつ)も沢山(たくさん)ある。山陽(さんやう)も澹泊(たんぱく)も皆(みな)流布(るふ)の説(せつ)を其侭(そのまゝ)取(と)つて、火(ひ)の如(ごと)く花(はな)の如(ごと)き文(ぶん)を為(な)したり、霜(しも)の如(ごと)く日(ひ)の如(ごと)き論(ろん)を下(くだ)したりしてゐる。今更(いまさら)前人(ぜんじん)の後塵(こうぢん)を拝(はい)して其(そ)の余威(よゐ)を籍(か)ることも要(い)るまい。
 信玄(しんげん)は新羅三郎義光(しんらさぶらうよしみつ)以来(いらい)の名家(めいか)たる武田(たけだ)の家(いへ)に、大永(だいえい)元年(ぐわんねん)に生(うま)れたといふのが通説(つうせつ)である。父(ちゝ)は左京大夫信虎(さきやうだいふのぶとら)、母(はゝ)は武田氏同族(たけだしどうぞく)大井上野介信達(おほゐかうづけのすけのぶたつ)の女(むすめ)で、生(うま)れた歳(とし)に遠州(ゑんしう)の福島兵庫(ふくしまひやうご)といふものと信虎(のぶとら)と飯田(いひだ)河原(がはら)で戦(たゝか)つて、信虎(のぶとら)が大勝(たいしよう)を得(え)、兵庫(ひやうご)を誅(ちう)したので、因(よ)つて勝千代(かつちよ)といふ幼名(えうめい)を賦(あた)へられたといふ。併(しか)し福島(ふくしま)の戦死(せんし)は大永(だいえい)元年(ぐわんねん)の前年(ぜんねん)で、永正(えいしやう)十七年(ねん)十一月(ぐわつ)二十三日(にち)であるから、大永(だいえい)ではなからう、且又(かつまた)父信虎(ちゝのぶとら)は寅歳(とらどし)生(うま)れ故(ゆえ)に虎(とら)の印(いん)を用(もち)ゐてゐるが、信玄(しんげん)は龍(りう)の印(いん)を用(もち)ひてゐる、蓋(けだ)し辰年(たつどし)生(うま)れであらう、といふ推断(すゐだん)から、永正(えいしやう)十七年(ねん)辰歳(たつどし)の誕生(たんじやう)とする説(せつ)もある。人(ひと)の誕生(たんじやう)没年(ぼつねん)などといふものは、種々(しゆ/゛\)の都合(つがふ)づくから、辰年(たつどし)生(うま)れでも巳年(みどし)生(うま)れのことに粧(よそは)ふたり、子年(ねどし)に死(し)んでも丑年(うしどし)に喪(も)を発(はつ)したりするもので、すでに信玄(しんげん)の死(し)んだ時(とき)も当時(たうじ)表向(おもてむき)には長(なが)い間(あひだ)死(し)なぬことにしてゐたといふ説(せつ)さへある位(くらゐ)であるから、(信(しん)ぜられぬが)両説(りやうせつ)のいづれが真実(しんじつ)か知(し)れぬ。併(しか)し兎(と)に角(かく)表面(へうめん)に大永(だいえい)元年(ぐわんねん)に生(うま)れたことになつて居(ゐ)たのだらう、それは天文(てんもん)五年(ねん)に信玄(しんげん)十六歳(さい)で元服(げんぷく)し、勅使(ちよくし)下向(げかう)あつて、従(じゆ)五位(ゐ)に叙(じよ)し、大膳太夫(たいぜんだいふ)兼(けん)信濃守(しなののかみ)に任(にん)じ、将軍(しやうぐん)足利義晴(あしかゞよしはる)より晴(はる)の字(じ)を賜(たま)はつて、晴信(はるのぶ)と名(な)づけられたことには諸説(しよせつ)異論(いろん)の無(な)いところを見(み)れば、逆算(ぎやくさん)して大永(だいえい)元年(ぐわんねん)生(うま)れとなる。或(あるひ)は永正(えいしやう)十七年辰歳(たつどし)生(うま)れで、戦後(せんご)ではあり、年末(ねんまつ)に際(さい)したので、翌年(よくねん)の春(はる)三月(ぐわつ)、芽出度(めでたく)祝(いは)はれたのかも知(し)れない。どちらにしても日(ひ)は二十三日(にち)となつてゐるのが考(かんが)へどころである。併(しか)し叙任(じよにん)の事(こと)さへも、家督(かとく)の後(のち)であつたらうと思(おも)はれるので、強(し)ひて確説(かくせつ)することなどは出来(でき)ないし、確説(かくせつ)する必要(ひつよう)も無(な)いことである。信玄(しんげん)大永(だいえい)元年(ぐわんねん)巳年(みどし)生(うま)れの説(せつ)の有力(いうりよく)の証(しよう)は、江州(がうしう)多賀明神(たがみやうじん)に天文(てんもん)十四年(ねん)に於(おい)て信玄(しんげん)が奉(たてまつ)つた願文(ぐわんもん)に、晴信(はるのぶ)誕生(たんじやう)辛巳(かのとみの)歳(とし)也(なり)とあるのが考証家的(かうしようかてき)には動(うご)かぬ証拠(しようこ)だ。
 信玄(しんげん)幼時(えうじ)の事(こと)は別(べつ)に伝(つた)ふることもない。勝千代(かつちよ)でゐた後(のち)に、大炊頭(おほゐのかみ)と云(い)つてゐた時(とき)があつた位(くらゐ)の事(こと)しか知(し)れぬ。確実(かくじつ)の談(はなし)か何様(どう)かは知(し)らぬが、十三歳(さい)の時(とき)の事(こと)として伝(つた)へられた蛤(はまぐり)の話(はなし)がある。若(も)しそれが事実(じじつ)ならば年齢(ねんれい)には相違(さうゐ)があるらしいが、事実(じじつ)は一寸(ちよつと)面白(おもしろ)い。それは斯様(かう)いふ談(はなし)である。駿河(するが)の今川義元(いまがはよしもと)の妻(つま)は信玄(しんげん)の姉(あね)である。其(そ)の姉(あね)の方(かた)から甲州(かふしう)なる信玄(しんげん)の母(はゝ)のところへ貝(かひ)おほひの遊(あそ)びの為(ため)に沢山(たくさん)の蛤貝(はまぐりがひ)を贈(おく)り越(こ)した。そこで母君(はゝぎみ)から勝千代(かつちよ)に此(こ)の蛤貝(はまぐりがひ)の大小(だいせう)を扈従(こしよう)共(ども)に吩付(いひつ)けて撰(よ)り分(わ)けさせよとの事(こと)であつた。勝子代(かつちよ)即(すなは)ち後(のち)に信玄(しんげん)は母(はゝ)の命(めい)によりて、大(だい)なる好(よ)き貝(かひ)を撰(えら)んで奥(おく)へまゐらせた。其(そ)の余(あま)りの貝(かひ)が、畳(たゝみ)二畳敷(でふじき)ばかりに大方(おほかた)充(み)ち填(つ)まりて、高(たか)さも高(たか)いところは一尺(しやく)ほどにも山積(さんせき)した。貝(かひ)おほひの用(よう)の貝(かひ)は余(あま)り小(ちひ)さいものではないから、余(あま)つた貝(かひ)も相応(さうおう)の貝(かひ)であらうが、勝千代(かつちよ)は扈従(こしよう)に算(かぞ)へさせたら三千(ぜん)七百余(ひやくよ)あつた。其時(そのとき)諸士(しよし)の参候(さんこう)する者(もの)があつた。勝千代(かつちよ)は諸士(しよし)に、こゝなる蛤(はまぐり)は凡(およ)そ何程(なにほど)あるだらうか、推量(すゐりやう)して見(み)よ、と云(い)つた。諸士(しよし)は心々(こゝろ/゛\)に推量(すゐりやう)して、或(あるひ)は一万(まん)五千(せん)、或(あるひ)は二万(まん)などと答(こた)へた。その時(とき)勝千代(かつちよ)が、人(ひと)の数(かず)も実(じつ)は是(かく)の如(ごと)く多(おほ)くはあらぬものであらう。五千(せん)の人数(にんず)を持(も)つたらば何(なに)をするにも心(こゝろ)のまゝである。と云(い)つたといふ事(こと)である。如何(いか)にも面白(おもしろ)い談(はなし)で、成程(なるほど)五千(せん)となると一寸(ちよつと)見積(みつも)れぬ数(かず)である。勝千代(かつちよ)の言(げん)は勿論(もちろん)軍旅(ぐんりよ)戦陣(せんぢん)の事(こと)に就(つ)きてであるが、当時能(たうじよ)く五千(せん)の兵(へい)を用(もち)ゐたならば他(た)を圧(あつ)し我(われ)を立(た)つるに足(た)りるでもあつたらう。勝千代(かつちよ)の此(この)言(げん)を聞(き)いたもの、軍陣(ぐんぢん)の経験(けいけん)ある者(もの)等(ら)、舌(した)をふるつて驚(おどろ)いたといふ事(こと)である。雄将(ゆうしやう)勇士(ゆうし)の幼立(をさなだち)には、兎角(とかく)此類(このたぐひ)の逸話(いつわ)があるもので、徳川家康公(とくがはいへやすこう)が幼時(えうじ)菖蒲(しやうぶ)切(き)りの争(あらそひ)の見物(けんぶつ)に、小勢(こぜい)の方(はう)が勝(か)つと云(い)はれたことや、毛利元就(まうりもとなり)が幼時(えうじ)厳島(いつくしま)社参(しやさん)に際(さい)して、家人(かじん)が中国(ちうごく)一国(こく)を此(この)君(きみ)に取(と)らせたまへと祈(いの)つたといふのを、何故(なにゆゑ)日本(につぽん)全国(ぜんこく)を取(と)るやうにとは祈(いの)らぬぞと罵(のゝし)つた談(はなし)や、北条氏康(ほうでううぢやす)が十二の時(とき)に鉄砲(てつぱう)の音(おと)を初(はじ)めて聞(き)いて吃驚(びつくり)したのを自(みづか)ら慚(は)ぢて腹(はら)を切(き)らうとした事(こと)や、士分(しぶん)でも里見(さとみ)の正木大膳(まさきたいぜん)が十二三で馬(うま)を乗(の)り習(なら)ふ最初(さいしよ)から片手綱(かたたづな)で乗(の)らうとして、師(し)が之(これ)を制(せい)したのに対(たい)して、侍(さむらひ)の将(しやう)たらんものが徒歩(かち)にて鎗(やり)を合(あは)すべきや、馬上(ばじやう)に働(はたら)かんならば、片手綱(かたたづな)を達者(たつしや)に習(なら)ひ覚(おぼ)えてこそと云(い)つたことなど、皆其(みなそ)の或(あるひ)は英明(えいめい)、或(あるひ)は雄偉(ゆうゐ)、或(あるひ)は俊邁(しゆんまい)、或(あるひ)は豪爽(がうさう)の性質(せいしつ)を語(かた)るもので、まことに面白(おもしろ)い。が、逸話(いつわ)の類(たぐひ)は割引(わりびき)して聞(き)かぬと、虚談(きよだん)に乗(の)せられる。面白(おもしろ)い談(はなし)には虚談(きよだん)が多(おほ)いからである。信玄(しんげん)幼時(えうじ)の蛤(はまぐり)の談(はなし)も十三の時(とき)の事(こと)でないだらうことは確実(かくじつ)である。何故(なぜ)といへば信玄(しんげん)十三の時(とき)は天文(てんもん)二年(ねん)に当(あた)り、天文(てんもん)二年(ねん)には今川義元(いまがはよしもと)はまだ義元(よしもと)にならずに、善徳寺(ぜんとくじ)の喝食(かつしき)で承芳(しようはう)と称(しよう)して居(ゐ)たのであり、信玄(しんげん)が十五の年(とし)、天文(てんもん)四年(よねん)の四月(ぐわつ)、兄(あに)の今川氏輝(いまがはうぢてる)が死(し)んでから其(そ)の遺言(ゆゐごん)で寺(てら)を出(で)て俗(ぞく)に還(かへ)り、次兄(じけい)の良真(りようしん)と争(あらそ)つて克(か)つて後(のち)に、天文(てんもん)五年(ねん)に今川家(いまがはけ)を継(つ)いで、辛(から)くも従(じゆ)四位下(ゐげ)治部太夫駿河守(ぢぶだいふするがのかみ)となつたのであるし、信玄(しんげん)の姉(あね)を娶(めと)つたのは信玄(しんげん)十七の年(とし)、天文(てんもん)六年(ねん)の二月(ぐわつ)であるから、信玄(しんげん)十三歳(さい)頃(ごろ)に今川(いまがは)から蛤貝(はまぐりがひ)など来(き)さうな訳(わけ)はないのである。で、此(こ)の話(はなし)は仮令(たとひ)真実(しんじつ)でも、信玄(しんげん)十七八歳(さい)位(ぐらゐ)の時(とき)の事(こと)でなければならぬ。人数(にんず)積(つも)りの事(こと)などは、如何(いか)に信玄(しんげん)でも十三位(ぐらゐ)では余(あま)りマセ過(す)ぎてゐる。併(しか)し蛤(はまぐり)の談(はなし)が真実(しんじつ)ならば、十八九歳(さい)にしても実(じつ)に偉(えら)い、悟(さと)りどころに甚(はなは)だ味(あぢ)のある談(はなし)で、流石(さすが)は信玄(しんげん)だと云(い)ひたいことである。
 前(まへ)に言(い)つた天文(てんもん)五年(ねん)に勝千代(かつちよ)十六歳元服(さいげんぷく)の事(こと)は軍鑑(ぐんかん)の載(の)するところで、且(か)つ又(また)今川義元(いまがはよしもと)の取持(とりもち)を以(もつ)て是(かく)の如(ごと)くと記(しる)してあるが、これは何様(どう)もをかしい。今更(いまさら)甲陽軍鑑(かふようぐんかん)の記事(きじ)を駁(ばく)したとて興(きよう)もないことだが、松平予州(まつだひらよしう)が、信玄(しんげん)の叙任(じよにん)並(ならび)に嫁娶(かしゆ)の事(こと)、何(なん)の歳(とし)にか有(あ)りけむ、其(その)実(じつ)は詳(つまびらか)ならず、と云(い)つてゐる方(はう)を信(しん)じたが可(か)である。元服(げんぷく)は勿論(もちろん)年齢(ねんれい)さへ適当(てきたう)なら其(その)儀(ぎ)があるべきだが、叙位(じよゐ)任官(にんくわん)は大抵(たいてい)家督(かとく)に立(た)つてからあるのが常(つね)で、父(ちゝ)信虎(のぶとら)が甲州(かふしう)に居(ゐ)しかつてゐる中(うち)に、廃嫡(はいちやく)しようと思(おも)つてゐたといふ勝千代(かつちよ)に叙任(じよにん)を求(もと)めてさせよう理(り)も薄(うす)いから、旧伝(きうでん)の通説(つうせつ)もよい程(ほど)に聞流(きゝなが)すべきである。又(また)すべて理窟(りくつ)を云(い)はずに旧説(きうせつ)を信(しん)ずるにしても、今川義元(いまがはよしもと)の取做(とりな)しといふ箇条(かでう)だけは取去(とりさ)らねばならぬ、義元(よしもと)が武田家(たけだけ)の縁者(えんじや)となつたのは天文(てんもん)六年(ねん)で、其(その)前(まへ)は武田家(たけだけ)と今川家(いまがはけ)と別(べつ)に交情(かうじやう)が好(よ)かつたのでも何(なん)でもなく、むしろ互(たがひ)に敵(てき)であつたからである。
 扨(さて)信玄(しんげん)が父(ちゝ)の信虎(のぶとら)を逐出(おひだ)したといふことは通説(つうせつ)になつてゐる。そして信玄(しんげん)の雄材(ゆうさい)大略(たいりやく)を称(しよう)する者(もの)までが、信玄(しんげん)は偉(えら)いことは偉(えら)いが、ひどい人(ひと)だと云(い)ふことを敢(あへ)てしてゐる。安積覚(あさかかく)などになると、信玄(しんげん)父(ちゝ)を逐(お)ひて自(みづか)ら立(た)ち、天倫(てんりん)を毀滅(きめつ)す、大本(たいほん)既(すで)に虧(か)く、威(ゐ)は鄰境(りんきやう)に振(ふる)ひ、名(な)は百世(せい)に垂(た)るといへども、観(み)るに足(た)らざる也(なり)、と云(い)つてゐる。又(また)、信玄(しんげん)が父(ちゝ)を逐(お)うた故(ゆゑ)をもつて、終身(しうしん)論語(ろんご)を読(よ)まなかつたといふ俗伝(ぞくでん)を其侭(そのまゝ)受入(うけい)れて、終身(しうしん)敢(あへ)て論語(ろんご)を読(よ)まずと雖(いへど)も果(はた)して何(なん)の益(えき)あらんやと云(い)つてゐる。又(また)、信玄(しんげん)廃退(はいたい)せられ、群臣(ぐんしん)の列(れつ)に就(つ)き、僅(わづか)に一隊(たい)の長(ちやう)となり、材略(さいりやく)展(の)ぶるところなくして、而(しか)して●(「片」ヘン+「戸」の下に「甫」)下(ようか)に老死(らうし)し、後世(こうせい)復(また)信玄(しんげん)といふ者(もの)を知(し)らざるも、それで可(よ)いではないか、と極論(きょくろん)してゐる。もとより倫常(りんじやう)を扶植(ふしよく)し、道義(だうぎ)を標榜(へうばう)するをもつて念(ねん)としてゐる儒教(じゆけう)の言(げん)としては、然様(さう)いふやうな厳正(げんせい)に論(ろん)ずるのが過(あやま)つては居(ゐ)ないけれども、しかも事情(じじやう)の考覈(かうかく)に疎(そ)にして、論議(ろんぎ)の苛酷(かこく)に勇(ゆう)なるの失有(しつあ)るを免(まぬ)かれない。信玄(しんげん)が父(ちゝ)信虎(のぶとら)を逐(お)うたといふのは、大分(だいぶ)俗伝(ぞくでん)とは距離(きより)のある事情(じじやう)があつたに疑(うたがひ)無(な)い。一概(がい)に俗伝(ぞくでん)を其侭(そのまゝ)受入(うけい)れて、信玄(しんげん)を梟●(けものへん+「竟」)(けうけい)の雄(ゆう)とのみ看做(みな)すのは、何様(どう)も正当(せいたう)ではないらしい。戦乱(せんらん)の世(よ)の事(こと)は、太平(たいへい)の世(よ)に机辺(きへん)に坐(ざ)して聖経(せいけい)賢伝(けんでん)を引張(ひつぱ)り出(だ)して論(ろん)ずるやうにはならぬ。又(また)戦乱(せんらん)の世(よ)の人(ひと)は、太平(たいへい)の世(よ)の人(ひと)のやうに、義理(ぎり)押(お)し道理(だうり)押(お)しばかりで、形式(けいしき)辞令(じれい)の通(とほ)りに何事(なにごと)をも処(しよ)して行(ゆ)くものとも思(おも)へない。外(そと)に現(あら)はれたところは、信虎(のぶとら)国外(こくぐわい)に去(さ)り、信玄(しんげん)国内(こくない)に拠(よ)つたことではあるが、父子(ふし)の間(あひだ)に何様(どう)いふ黙契(もくけい)秘旨(ひし)があつたかも知(し)れない。表面(へうめん)ばかりで判断(はんだん)するのは、無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である。まして戦乱(せんらん)の世(よ)の事(こと)は、内(うち)に於(おい)ても外(そと)に於(おい)ても、ひた押(お)しの論議(ろんぎ)では悉(つく)せぬところの委曲(ゐきよく)があるものと思(おも)はねばならぬし、それから又(また)内部(ないぶ)の云伝(いひつた)へも外間(ぐわいかん)の云囃(いひはや)しも、一々言葉(ことば)通(どほ)りには信(しん)ぜられぬものである。例(たと)へば信玄(しんげん)が小田原(をだはら)へ攻入(せめい)つた時(とき)に、鎌倉(かまくら)八幡(まん)へ参詣(さんけい)しようとすると云(い)つたから、小田原方(をだはらがた)では信玄(しんげん)鎌倉(かまくら)へ行(い)つたなら引包(ひつつゝ)んで撃(う)たうと思(おも)つたから鳴(な)りを鎮(しづ)めて信玄(しんげん)の思(おも)ふまゝに行動(かうどう)するのを待(ま)つてゐたのである。ところがそれは計略(けいりやく)の云触(いひふ)らしで、信玄(しんげん)は三増(みます)峠(たうげ)へかゝつて引取(ひきと)つたのである。これは内部(ないぶ)からの言触(いひふ)らしが虚(うそ)であつたのである。又(また)信玄(しんげん)が永禄(えいろく)十二年(ねん)六月(ぐわつ)十七日(にち)に駿州(すんしう)三島(みしま)に働(はたら)いて陣(ぢん)した時(とき)、津浪(つなみ)にあつて八幡大菩薩(まんだいぼさつ)の小旗(こばた)を失(うしな)つて退(しりぞ)いた節(せつ)は、北条家(ほうでうけ)では信玄(しんげん)敗軍(はいぐん)して旗(はた)を捨(す)てて退(しりぞ)いたと云(い)つたのである。これは外部(ぐわいぶ)からの虚(うそ)であつたのである。戦乱(せんらん)の世(よ)の際(さい)には、計策(けいさく)の秘(ひ)を含(ふく)んだ虚(うそ)もあれば、勢威(せいゐ)を張(は)るための意(い)を含(ふく)んだ虚(うそ)もある。若(もし)夫(それ)計謀(けいぼう)深遠(しんゑん)にして、敵(てき)の計(けい)に就(つ)いて我(わ)が計(けい)を成(な)し、其(その)計謀(けいぼう)が永(なが)く外間(ぐわいかん)の浅人(せんじん)の窺(うかゞ)ひ知(し)るところとならずして終(をは)るやうなことであつたら、後(のち)のものはたゞ群盲(ぐんまう)摸象(もざう)の言(げん)を為(な)すに止(とゞ)まるであらう。此点(このてん)は考(かんが)へなくてはならないことである。
 俗伝(ぞくでん)に従(したが)へば、信玄(しんげん)が論語(ろんご)を手(て)にしなかつたといふのは、如何(いか)にも信玄(しんげん)心中(しんちう)の秘(ひ)を語(かた)るやうなことで、然(さ)も/\父(ちゝ)を逐(お)つて自(みづか)ら立(た)つた事実(じじつ)があつた様(やう)に思(おも)はるゝ事(こと)であるが、これも軍鑑(ぐんかん)から出(で)た事(こと)で、是(これ)は、(信虎(のぶとら)逐出(おひだし)の事(こと))信玄公(しんげんこう)御(ご)道理(だうり)千万(せんばん)なれどもそれさへ信玄公(しんげんこう)恥敷(はづかしく)思召(おぼしめ)し、論語(ろんご)を終(つひ)に手(て)に取(と)り玉(たま)はず、論語(ろんご)には一入(ひとしほ)親孝行(おやかうかう)の事(こと)多(おほ)し、とあるのから出(で)た談(はなし)である。論語(ろんご)よりも孝経(かうきやう)の方(はう)が似合(にあ)はしいところであり、孟子(まうし)の方(はう)が猶(な)ほピタリと逐父(ちくふ)自立(じりふ)の人(ひと)には痛(いた)いところがある訳(わけ)ではないか。孝経(かうきやう)孟子(まうし)は手(て)にしたのだつたか何様(どう)だか問(と)ひたい。しかも軍鑑(ぐんかん)第(だい)二品(ほん)には、目録(もくろく)に、信玄公(しんげんこう)舎弟(しやてい)典厩(てんきう)子息(しそく)へ異見(いけん)九十九ケ条(でう)の事(こと)といふ文(ぶん)が載(の)せてある。それは元禄(げんろく)元年(ぐわんねん)の日附(ひづけ)で、前(まへ)には龍山子(りようざんし)謹誌(きんし)とあるが、後(のち)には信繁(のぶしげ)在判(ざいはん)とあり、信玄(しんげん)が書(か)いたのか、信繁(のぶしげ)が書(か)いたのか、実(じつ)は坊主(ばうず)などが書(か)いたのか、小幡勘兵衛(をばたかんべゑ)が書(か)いたのか、甚(はなは)だ不分明(ふぶんめい)であるが、其中(そのなか)には幾(いく)ケ処(しよ)も論語(ろんご)を引(ひ)いてあるのがおもしろい。そんなことは兎(と)に角(かく)、信玄(しんげん)論語(ろんご)を手(て)にせずといふが如(ごと)き瑣談(さだん)は、人々(ひと/゛\)の頭(あたま)に一寸(ちよつと)響(ひゞ)くところのある談(はなし)ではあるが、余(あま)り価値(かち)のあることでもなく、証拠(しようこ)にもならぬことである。
 俗伝(ぞくでん)では信玄(しんげん)父(ちゝ)を逐(お)ふの始末(しまつ)は斯様(かやう)である。信玄(しんげん)まだ晴信(はるのぶ)にもならぬ勝千代(かつちよ)の、十三歳(さい)の時(とき)であるが、父(ちゝ)信虎(のぶとら)に秘蔵(ひざう)の名馬(めいば)の鹿毛(かげ)の癇強(かんづよ)なのがあつて、鬼鹿毛(おにかげ)と名(な)づけて、甚(はなは)だ愛(あい)して居(ゐ)た。それを勝千代(かつちよ)が頂戴(ちやうだい)いたしたいと需(もと)めた。信虎(のぶとら)は我意(がい)強(つよ)く、荒気(あらき)の人(ひと)であつたから、我(わ)が秘蔵(ひざう)の馬(うま)を吾(わ)が児(こ)になりとて素直(すなほ)に与(あた)へるやうな人(ひと)ではなかつた。併(しか)し惣領(そうりやう)の所望(しよまう)ゆゑ無下(むげ)に与(あた)へないとも云(い)へぬので、まだ勝千代(かつちよ)で彼(か)の馬(うま)に似合(にあ)はしくもない、来年(らいねん)十四になつて元服(げんぷく)したら、武田家(たけだけ)重代(ぢうだい)の郷(がう)の義弘(よしひろ)の太刀(たち)、左文字(さもんじ)の脇指(わきざし)、新羅三郎公(しんらさぶらうこう)以来(いらい)の楯無(たてなし)の鎧(よろひ)、八幡太郎公(はちまんたらうこう)の御旗(みはた)も共(とも)に与(あた)へよう、とのことであつた。そこで勝千代(かつちよ)が復(また)言(い)ふには、家(いへ)の御旗(みはた)、楯無(たてなし)の鎧(よろひ)、太刀(たち)、脇指(わきざし)は御重代(ごぢうだい)のものなれば、それは御家督(ごかとく)下(くだ)さるゝ時(とき)にこそ頂戴(ちやうだい)いたし申(まを)しませう、来年(らいねん)元服間げんぷく)いたせばとて、部屋(へや)住(ずみ)の体(からだ)では頂戴(ちやうだい)も勿体(もつたい)無(な)い事(こと)でござりまする、馬(うま)は軍用(ぐんよう)大切(たいせつ)のものでござりますれば、今(いま)より心(こゝろ)がけ乗習(のりなら)ひて、一両年(りやうねん)の間(あひだ)に何方(いづかた)へなり御出陣(ごしゆつぢん)の場合(ばあひ)には、御後備(おんうしろぞなへ)をも勤(つと)め申(まを)すべき覚悟(かくご)で所望(しよまう)申上(まをしあ)げたのでござりまするから、何卒(なにとぞ)御許容(おゆるし)を、とのことであつた。すると信虎(のぶとら)は狂暴(きやうばう)の人(ひと)なので、黙(だま)つて勝千代(かつちよ)が引込(ひつこ)まなかつたのが大(おほい)に癇(かん)にさはつて、家督(かとく)を譲(ゆづ)る譲(ゆづ)らぬは乃公(おれ)の料簡(れうけん)で、誰(たれ)が知(し)つた事(こと)だ、家(いへ)重代(ぢうだい)の物(もの)を譲(ゆづ)つて呉(く)れようといふのに、いやならばいやでよい、次郎(じらう)(後(のち)に典厩信繁(てんきうのぶしげ))を総領(そうりやう)にして、父(ちゝ)の下知(げち)につかぬ者(もの)は逐出(おひだ)して終(しま)ふまでだ、其(その)時(とき)になつて諸国(しよこく)を流浪(るらう)し、手(て)をさげて物(もの)を云(い)ふとも承知(しようち)はすまいぞ、と罵(のゝし)つて、備前兼光(びぜんかねみつ)の三尺(じやく)三寸(ずん)の太刀(たち)を引抜(ひきぬ)きて、勝千代(かつちよ)の使(つかひ)を逐(お)ひ走(はし)らせた。使(つかひ)は頭(あたま)をかゝへて逃(に)げ帰(かへ)つて終(しま)つた。それでは済(す)まぬから、曹洞宗(さうとうしう)の僧(そう)の春巴(しゆんぱ)和尚(をしやう)といふのが仲直(なかなほ)りを取計(とりはか)らつたので、何事(なにごと)も無(な)くて済(す)んだが、此事(このこと)あつてより父子(ふし)の間(あひだ)が心解(こゝろと)けぬやうになつたとある。斯様(かやう)な事(こと)もあつたかは知(し)らぬ。
 勝千代(かつちよ)が父(ちゝ)の愛馬(あいば)を所望(しよまう)したのは、無遠慮(ぶゑんりよ)といへば無遠慮(ぶゑんりよ)だが、悪(わる)いといふほどの事(こと)でもないし、信虎(のぶとら)のこれを与(あた)へなかつたのも、与(あた)へたく思(おも)はなかつたのなら致方(いたしかた)もないことだ。それに対(たい)して勝千代(かつちよ)の申分(まをしぶん)は些(いさゝか)小間(こま)しやくれて小憎(こにく)らしい云分(いひぶん)だつたから、信虎(のぶとら)の不快(ふくわい)に思(おも)つたも無理(むり)は無(な)いが、それに対(たい)しての信虎(のぶとら)の暴怒(ばうど)は、性質(せいしつ)とは云(い)へ年甲斐(としがひ)もないことであつた。曹洞(さうとう)の智識(ちしき)春巴和尚(しゆんぱをしやう)といふのは、誰(たれ)の事(こと)か一寸(ちよつと)不明(ふめい)である。古(いにしへ)府中(ふちう)の万年山(まんねんざん)大泉寺(だいせんじ)は曹洞(さうとう)の寺(てら)であつて、大永中(だいえいちう)に信虎(のぶとら)が天桂禅師(てんけいぜんじ)を招(まね)いて開山(かいざん)とし、分国中(ぶんこくちう)の僧録所(そうろくじよ)とした大寺(だいじ)である。此(この)寺(てら)の二世(せい)の吸江英心(きふかうえいしん)は、信虎(のぶとら)には弟(おとうと)、勝千代(かつちよ)には叔父(をぢ)である。春巴和尚(しゆんぱをしやう)とは吸江英心(きふかうえいしん)の事(こと)でゞもあらうか。英心(えいしん)ならば丁度(ちやうど)斯様(かう)いふ場合(ばあひ)に出(で)て然(しか)るべき俗縁(ぞくえん)もあり、勧解(くわんかい)の地(ち)に立(た)つべき身分(みぶん)でもある。いづれにせよ、斯様(かやう)な事(こと)もあつたかも知(し)れぬ、まんざら一切(さい)が作(つく)り事(ごと)とも思(おも)へず、有(あ)りさうにも思(おも)はれることである。
 人間界(にんげんかい)の事(こと)といふものは、前世(ぜんせ)因縁(いんねん)といふものか何様(どう)か知(し)らぬが、一寸(ちよつと)した事(こと)が核子(かくし)になると、それに●(「夕」の下に「寅」)縁(いんねん)して、善(よ)いのも悪(わる)いのも漸々(ぜん/\)に附加(ふか)増長(ぞうちやう)するものである。丁度(ちやうど)雪丸(ゆきだま)を地上(ちじやう)に転(てん)ずると雪(ゆき)は雪(ゆき)に貼(つ)いて終(つひ)に大雪円(おほゆきだま)になるやうなものである。又(また)、金米糖(こんぺいたう)といふものを製(せい)してゐるのを見(み)ると、芥子粒(けしつぶ)に溶(と)けた砂糖(さたう)を熔皿(いりざら)上(じやう)で澆(そゝ)いで、ミゴ帚(ばうき)のやうなもので●(さんずい+「袞」)転(こんてん)させてゐると、段々(だん/\)に砂糖(さたう)が着(つ)いて、終(つひ)には面白(おもしろ)く奇妙(きめう)な角(かど)が生(は)えたやうな毬子(まり)状(じやう)を成(な)すものである。人間界(にんげんかい)の事(こと)もこれと同(おな)じやうに、一寸(ちよつと)した事(こと)が核子(かくし)になると、段々(だん/\)と好(よ)いものが附着(ふちやく)し重畳(ぢうでふ)したり、又(また)其(そ)の反対(はんたい)の場合(ばあひ)には段々(だん/\)と悪(わる)いものが附着(ふちやく)重畳(ぢうでふ)して、大層(たいそう)好(よ)くなつたり、大層(たいそう)悪(わる)くなつたりするものである。男女(なんぢよ)の間(あひだ)の事(こと)でも、事業(じげふ)の上(うへ)の事(こと)でも、又(また)深仇(しんきう)となるも善友(ぜんいう)となるも、多(おほ)くは些細(ささい)の事(こと)が核子(かくし)になつて、時(とき)の拍子(ひやうし)で、それに種々(しゆ/゛\)の事(こと)が附着(ふちやく)重畳(ぢうでふ)するから起(おこ)るものである。識海(しきかい)の一波(ぱ)、千波(せんぱ)万波(ばんぱ)これより生(しやう)ずる、といふのは何様(どう)も嘘(うそ)でない場合(ばあひ)があるものである。併(しか)し大体(だいたい)に於(おい)ては人(ひと)と/\との間(あひだ)は双方(さうはう)の性質(せいしつ)の親和(しんわ)分子(ぶんし)と反撥(はんぱつ)分子(ぶんし)との存在(そんざい)の割合(わりあひ)に本(もと)づいて、和合(わがふ)を保(たも)つたり背反(はいはん)を致(いた)したりすることも、争(あらそ)ひ難(がた)き事実(じじつ)である。信虎(のぶとら)といふ人(ひと)は、大泉寺(だいせんじ)の画像(ぐわざう)に拠(よ)れば、がりゝとしたやうな人(ひと)で、眉宇(びう)の間(かん)に鷙悍(しかん)の気(き)の溢(あふ)れ見(み)ゆるといふ位(くらゐ)であり、隔世(かくせい)遺伝(ゐでん)で信玄(しんげん)の子(こ)の勝頼(かつより)も剛勇(がうゆう)に過(す)ぎて、上野(かうづけ)のぜんの城(しろ)を素肌(すはだ)で一時(いつとき)攻(ぜ)めに攻(せ)めたり、参州(さんしう)長篠(ながしの)で柵(さく)を三重(みへ)に結(ゆ)つて鉄砲(てつぱう)を有(も)つて籠(こも)つて居(ゐ)る敵(てき)へ取(と)りかゝつたり、すべて荒気(あらき)過(す)ぎてゐるし、又(また)信玄(しんげん)の子(こ)の太郎義信(たらうよしのぶ)も永禄(えいろく)四年(よねん)の川中島(かはなかじま)の戦(たゝかひ)の時(とき)、勝軍(かちいくさ)の後(のち)に甘粕近江守(あまかすあふみのかみ)の小勢(こぜい)を見(み)て信玄(しんげん)が筑摩川(ちくまがは)を越(こ)して三町(ちやう)程(ほど)引込(ひつこ)んで旗本(はたもと)を備(そな)へ立(たて)したのを、退(しりぞ)くまじきところを退(しりぞ)いたとて、信玄(しんげん)ほどの者(もの)、而(しか)も父(ちゝ)であるものを誹謗(ひばう)したり、父子(ふし)不和(ふわ)になつて後(のち)も仲直(なかなほ)しに尽カ(じんりよく)した両僧(りやうそう)を斥(しりぞ)けたり、すべて荒気(あらき)過(す)ぎてゐるところを考(かんが)へると、信虎(のぶとら)は余程(よほど)に我(が)の強(つよ)い荒(あら)い人(ひと)で、晴信(はるのぶ)は母(はゝ)の気(き)を受(う)けて、強(つよ)いばかりでは無(な)く、中和性(ちうわせい)も備(そな)へてゐ、弟(おとうと)の信繁(のぶしげ)信廉(のぶやす)は母(はゝ)の方(はう)に多(おほ)く似(に)て、和(やは)らかなる人(ひと)であつたが、信虎(のぶとら)は随分(ずゐぶん)偏倚(へんき)した気質(きしつ)であり、信玄(しんげん)筋(すぢ)の孫(まご)には又(また)其(そ)の気質(きしつ)が隔世(かくせい)遺伝(ゐでん)で現(あら)はれたものと見(み)える。然様(さう)いふ人(ひと)であつたから、信虎(のぶとら)が甲州(かふしう)を出(で)て駿河(するが)へ行(い)つた時(とき)には、天文(てんもん)十年(ねん)とすれば、年(とし)僅(わづか)に四十八で、男(をとこ)盛(ざか)りであるのに、信玄(しんげん)の母(はゝ)大井氏(おほゐし)は、女(をんな)の事(こと)であるから、信虎(のぶとら)を尋(たづ)ねて駿河(するが)へ行(ゆ)くのも自由(じいう)であるに関(かゝは)らず、甲州(かふしう)に留(とゞ)まつて終(しま)つたところを見(み)ると、大井氏(おほゐし)は思慮(しりよ)が探(ふか)く、物(もの)に堪(た)へることが出来(でき)る人(ひと)で、麁暴(そばう)な夫(をつと)の信虎(のぶとら)より沈毅(ちんき)の子(こ)の晴信(はるのぶ)の方(はう)に身(み)を託(たく)して居(ゐ)たものと考(かんが)へられる。信虎(のぶとら)は駿河(するが)へ行(い)つてから持(も)つた女(をんな)より、左衛門佐(さゑもんのすけ)(或(あるひ)は上野介(かうづけのすけ)に作(つく)る)お菊(きく)の二人(ふたり)を得(え)て居(を)り、お菊(きく)は菊亭大納言晴季卿(きくていだいなごんはるすゑきやう)の簾中(れんちう)になつたと伝(つた)へられてゐる、死(し)んだのは天正(てんしやう)二年(ねん)三月(ぐわつ)五日(いつか)で八十一歳(さい)であるから、随分(ずゐぶん)精力(せいりよく)厚盛(こうせい)の人(ひと)で、信玄(しんげん)が死(し)んでも生(い)きてゐたのであるし、且又(かつまた)其(そ)の長(なが)い漂浪(へうらう)生活(せいくわつ)の間(あひだ)、別(べつ)に困苦(こんく)した様子(やうす)もない。夫人(ふじん)は天文(てんもん)二十二年(ねん)五月(ぐわつ)七日(なのか)逝去(せいきよ)まで、十二年(ねん)といふもの、多分(たぶん)甲府(かふふ)の躑躅(つゝじ)が崎(さき)の北(きた)の方(はう)にあつた出丸(でまる)、御隠居(ごいんきよ)曲輪(ぐるわ)といふのに安居(あんきよ)してゐたのだらうと想(おも)はれる。して見(み)ると信虎(のぶとら)の荒気(あらき)は信玄(しんげん)信繁(のぶしげ)信廉(のぶやす)等(ら)の気質(きしつ)と吸引(きふいん)親和(しんわ)の傾(かたむき)がなかつたのみならず、夫人(ふじん)とも余(あま)り相(あひ)牽(ひ)くやうな処(ところ)はなかつたものであらう。信虎(のぶとら)の気質(きしつ)は余程(よほど)荒(あら)くて、そして剛情(がうじやう)で、孤独的(こどくてき)になつても平気(へいき)で居(を)り、孤独的(こどくてき)にされても平気(へいき)で居(ゐ)たし、妻子(さいし)眷属(けんぞく)から疎速(そゑん)にされるべきやうな点(てん)を元来(ぐわんらい)所有(しよいう)してゐたものと思(おも)はれる。信虎(のぶとら)駿河(するが)行(ゆ)きの事(こと)の生(しやう)ずるに至(いた)つた原因(げんいん)は幾(いく)ケ条(でう)もあらうが、大体(だいたい)は信虎(のぶとら)の気質(きしつ)の偏(かたより)から生(しやう)じたことで、それに鬼鹿毛(おにかげ)の事(こと)ではないまでも、何(なに)かの事(こと)が最初(さいしよ)の一核子(かくし)となつて、段々(だん/\)に種々(しゆ/゛\)の事情(じじやう)が附着(ふちやく)重畳(ぢうでふ)して、其上(そのうへ)に今川家(いまがはけ)其他(そのた)との外的(ぐわいてき)因縁(いんねん)が逼(せま)つて、終(つひ)に父子(ふし)夫妻(ふさい)相(あひ)●(「目」へん+「癸」)(そむ)くやうになつたのであらう。
 俗伝(ぞくでん)では勝千代(かつちよ)が信虎(のぶとら)の歓(くわん)を失(うしな)つてからは、勝千代(かつちよ)みづから作(つく)り阿房(あはう)になつて韜晦(たうくわい)し、馬(うま)に騎(の)つては落(お)ちて背(せ)に土(つち)を着(つ)け汚(よご)れたまゝ父(ちゝ)の前(まへ)に出(で)たり、字(じ)を書(か)いても見苦(みぐる)しく書(か)いたり、游泳(いうえい)をして深(ふか)いところへ入(はひ)つてあぶ/\して人(ひと)に助(たす)け救(すく)はれたり、大石(たいせき)大材(たいざい)等(とう)を挽(ひ)く差図(さしづ)をしても手緩(てぬる)くて弟(おとうと)の次郎信繁(じらうのぶしげ)に劣(おと)つたりした。で、信虎(のぶとら)は何(なん)ぞにつけて勝千代(かつちよ)を貶(けな)し屈(くつ)するので、家臣(かしん)等(ら)まで勝千代(かつちよ)を侮(あなど)つたとある。自(みづか)ら韜晦(たうくわい)するといふのは危(き)を避(さ)くるには必要(ひつえう)の事(こと)であるが、俗伝(ぞくでん)の通(とほ)りでは、真(しん)に勝千代(かつちよ)が次郎(じらう)に家督(かとく)を譲(ゆづ)る意(い)があるならば宜(よろ)しいけれども、然様(さう)でなければ父(ちゝ)信虎(のぶとら)を欺(あざむ)くわけに当(あた)つて甚(はなは)だけしからぬことになる。其(そ)の危懼(きく)の地(ち)に在(あ)りて、順従(じゆんじう)謙黙(けんもく)する者(もの)は皆(みな)偽(いつはり)なり、凶悍(きやうかん)信虎(のぶとら)の如(ごと)き者(もの)、誠(まこと)を以(もつ)て之(これ)に事(つか)ふるも、猶(な)ほ未(いま)だ感動(かんどう)し易(やす)からず、況(いは)んや偽(いつはり)を以(もつ)てするをや、と澹泊(たんぱく)が論(ろん)じたのは実(じつ)に至当(したう)の議(ぎ)である。併(しか)しこれも作(つく)り阿房(あはう)の事(こと)が事実(じじつ)でなければ、論(ろん)も糸瓜(へちま)もないことになる。俗伝(ぞくでん)では、天文(てんもん)五年(ねん)の十一月(ぐわつ)に信虎(のぶとら)が兵(へい)を率(ひき)ゐて海野口(うんのくち)の城(しろ)を攻(せ)めた。海野口(うんのくち)は甲州(かふしう)に近接(きんせつ)してゐる信濃(しなの)の地(ち)である。扨(さて)此(こ)の城(しろ)は城中(じやうちう)に人数(にんず)も多(おほ)くて善(よ)く防(ふせ)ぎ戦(たゝか)つた上(うへ)に、平賀入道源心(ひらがにふだうげんしん)と云(い)つて聞(きこ)えた勇士(ゆうし)が加勢(かせい)に来(き)て籠(こも)つてゐたので、中々(なか/\)味方(みかた)の思(おも)ふやうにもならない。それに海野口(うんのくち)は高地(かうち)ではあり、時(とき)は十一月(ぐわつ)から十二月(ぐわつ)へかゝつて、大雪(おほゆき)が来(き)たから、見込(みこみ)の少(すくな)い城攻(しろぜめ)になつた。甲州(かふしう)の将士(しやうし)は相談(さうだん)した。城内(じやうない)に三千(ぜん)ばかりの人数(にんず)はあり、味方(みかた)は七八千(せん)である、もはや今(いま)は年(とし)の暮(くれ)ゆゑ一先(ひとま)づ帰陣(きぢん)し、来年(らいねん)の事(こと)に此(この)戦(いくさ)を延(の)ばしたが宜(よ)からう、敵(てき)も大雪(おほゆき)なり年末(ねんまつ)なり、後(あと)を慕(した)つて城(しろ)から追撃(つゐげき)するといふことも万々(ばん/\)なからうといふので、衆議(しうぎ)一決(けつ)して信虎(のぶとら)へ此(この)旨(むね)を云立(いひた)てた。信虎(のぶとら)も仕方(しかた)がないので合点(がてん)し、それなら明日(みやうにち)早々(さう/\)引取(ひきと)らう、といふことになつた。すると従軍(じうぐん)してゐた晴信(はるのぶ)が、それならば殿(しんがり)をわたくしへ仰付(おほせつ)けられたうござる、と所望(しよまう)した。信虎(のぶとら)はこれを聞(き)いて大笑(おほわら)ひに笑(わら)つて、汝(なんぢ)は武田(たけだ)の家(いへ)の名折(なをれ)を申(まを)すものであるよな、敵(てき)が後(あと)をつけまじと、軍陣(ぐんぢん)鍛錬(たんれん)の者共(ものども)が申(まを)したところであるから、しんがりを致(いた)せと我(わ)が申付(まをしつ)けたにせよ、此(こ)のしんがりは次郎(じらう)に仰付(おほせつ)け下(くだ)されと申(まを)してこそ惣領(そうりやう)の器量(きりやう)ともいふべきである、次郎(じらう)ならば斯様(かやう)な所望(しよまう)はすまい、と遣込(やりこ)めた。遣込(やりこ)められても晴信(はるのぶ)は羞(はぢ)らひもせずして請求(せいきう)を引込(ひつこ)めなかつたので、それならば望(のぞみ)に任(まか)す、といふ事(こと)になつた。それは十二月(ぐわつ)二十六日(にち)の事(こと)で、明(あ)くれば二十七日(にち)の暁天(げうてん)に、信虎(のぶとら)は馬頭(ばとう)を甲州(かふしう)へ向(む)けて立(た)つた。晴信(はるのぶ)は東道(あづまみち)三十里(り)(東道(あづまみち)といふは当時(たうじ)の語(ご)で、上道(かみみち)といふのに対(たい)す。上道(かみみち)は三十六町(ちやう)一里(り)、東道(あづまみち)は六町(ちやう)一里(り)である)ほど後(あと)に残(のこ)り、いかにも用心(ようじん)した体(てい)で、僅々(きん/\)三百(びやく)ばかりの人数(にんず)を下知(げち)し、其(その)夜(よ)は食(しよく)を一人(ひとり)に三人前(にんまへ)ばかりこしらへ、今(いま)にも打立(うちた)つやうな仕度(したく)をし、足袋(たび)、脛巾(はゞき)、物具(もののぐ)をも着(つ)けた其儘(そのまゝ)にし、馬(うま)に秣(まぐさ)を善(よ)く飼(か)つて、鞍(くら)をも置(お)きづめにし、夜(よる)の七(なゝ)ツ時分(じぶん)になつたら打立(うちた)つ覚悟(かくご)にせよ、と自身(じしん)で命令(めいれい)を伝(つた)へた。
 七(なゝ)ツといへば日出(ひので)前(まへ)二時間(じかん)余(あまり)位(ぐらゐ)である。晴信(はるのぶ)の手(て)に属(ぞく)した者(もの)どもは之(これ)を聞(き)いて、成程(なるほど)信虎公(のぶとらこう)の笑(わら)はれたのも道理(だうり)である、何(なん)で此(こ)の寒天(かんてん)に敵(てき)が出(で)て来(く)るものであらう、と内々(ない/\)つぶやいたが、扨(さて)七(なゝ)ツ頃(ごろ)に打立(うちた)つ段(だん)になると、甲州(かふしう)の方(はう)へは行(ゆ)かないで、後(あと)へ戻(もど)るのであつた。主命(しゆめい)ゆゑ是非(ぜひ)はない、前(まへ)の敵城(てきじやう)へ二十八日(にち)の暁(あかつき)に朝蒐(あさがけ)に攻立(せめた)てた。攻(せ)めるのは前日(ぜんじつ)に引替(ひきか)へて、三百人(びやくにん)計(ばか)りであつたが、城中(じやうちう)が狼狽(らうばい)して、はか/゛\しく防戦(ばうせん)もせぬので、勢(いきほひ)を出(だ)して攻入(せめい)ると、易々(やす/\)と攻落(せめおと)し得(え)た。これは二十七日(にち)に敵(てき)が皆(みな)引揚(ひきあ)げたから、人(ひと)の心(こゝろ)は皆(みな)同(おな)じもので、城中(じやうちう)の者(もの)もやれ/\今年(ことし)は先(ま)づ戦(たゝかひ)も無(な)くて年(とし)を越(こ)すことになつたと喜(よろこ)び、平賀入道(ひらがにふだう)も手(て)のものを其(その)日(ひ)に大部分(だいぶぶん)返(かへ)し、自分(じぶん)も二十八日(にち)の昼立(ひるだち)に帰(かへ)るつもりでゆる/\と休息(きうそく)して居(ゐ)たのである。城(しろ)の武士達(ぶしたち)も年(とし)を迎(むか)へる用意(ようい)に喜(よろこ)んで各々(おの/\)里(さと)へ下(くだ)つたのであつた。そこで城(しろ)には幾干(いくばく)も居(ゐ)なかつたから、甲州勢(かふしうぜい)は番(ばん)の者共(ものども)を討殺(うちころ)し、根小屋(ねごや)を焼払(やきはら)ひ、油断(ゆだん)しきつた敵(てき)を二十三十づゝ討(う)つて棄(す)て、剛勇(がうゆう)をもつて鳴(な)つた源心入道(げんしんにふだう)をも討取(うちと)つて終(しま)つた。他所(よそ)よりの加勢(かせい)の者(もの)は、それなりに帰(かへ)つて終(しま)ふよりほかはなく、城(しろ)を取(と)られて終(しま)つたから、相応(さうおう)の勇士(ゆうし)でも張合(はりあひ)が抜(ぬ)けてしまつた上(うへ)に、まさか晴信(はるのぶ)一手(ひとて)の三百人(びやくにん)やそこらの勢(せい)が城(しろ)へ入替(いれかは)りになつたとは思(おも)はず、信虎(のぶとら)の惣軍(そうぐん)に巧(うま)く油断(ゆだん)を謀(はか)られたと思(おも)つたから、取返(とりかへ)しにかゝつて来(こ)なかつた。晴信(はるのぶ)は城(しろ)を落(おと)して主意(しゆい)を遂(と)げ、源心(げんしん)を殺(ころ)したのを手柄(てがら)にして、凱旋(がいせん)した。晴信(はるのぶ)の機(き)を看(み)るの敏(びん)は言(い)ふまでもないことであつたが、それでも信虎(のぶとら)は、それなら城(しろ)を守(まも)つて其儘(そのまゝ)に居(ゐ)て使者(ししや)をよこせば好(よ)いものを、然様(さう)もしないで城(しろ)を捨(す)てて帰(かへ)つたのは臆病(おくびやう)だと貶(けな)した。これは信虎(のぶとら)の無理(むり)で、一旦(たん)は城(しろ)を奪(うば)つたものゝ、内懐中(うちぶところ)を見(み)すかされた日(ひ)には、三百(びやく)やそこらの人数(にんず)で、城(しろ)を守(まも)つて居(ゐ)られるものではない、主意(しゆい)を立(た)て武威(ぶゐ)を示(しめ)した上(うへ)に手際(てぎは)よく引揚(ひきあ)げたのは晴信(はるのぶ)の将才(しやうさい)の愈々(いよ/\)凡(ぼん)ならぬところを示(しめ)したものである。併(しか)し晴信(はるのぶ)を褒(ほ)めて信虎(のぶとら)の気(き)に触(ふ)れては益(えき)も無(な)いことだらう、心中(しんちう)に晴信(はるのぶ)をたゞ者(もの)でないと思(おも)つても褒(ほ)めぬ者(もの)もあり、中(なか)には信虎(のぶとら)の意(い)を迎(むか)へる為(ため)に、空城(からじろ)を落(おと)したのである、と云(い)ふものもあつた。で、晴信(はるのぶ)は此(この)事(こと)あつて後(のち)も、猶(な)ほ以(もつ)て少(すこ)し足(た)らぬところのある人(ひと)のやうに身持(みもち)をして、時々(とき/゛\)駿河(するが)の今川義元(いまがはよしもと)の方(はう)へ頼(たの)み入(い)る由(よし)を申遣(まをしや)つて居(ゐ)た。これが晴信(はるのぶ)十六歳(さい)の初陣(うひぢん)であるが、平賀源心(ひらがげんしん)は力(ちから)も七十人(にん)力(りき)と云(い)ひならはした者(もの)で、多分(たぶん)十人(にん)力(りき)もあつたであらう、四尺(しやく)三寸(ずん)の大太刀(おほだち)を常(つね)に用(もち)ゐて、勇名(ゆうめい)を馳(は)せて居(ゐ)た者(もの)だつたから、後々(のち/\)源心(げんしん)を石地蔵(いしぢざう)に祝(いは)つて大門峠(だいもんたうげ)に立置(たてお)き、源心(げんしん)が大太刀(おほだち)といふのを弓(ゆみ)の番所(ばんしよ)に飾(かざ)つたといふことである。これが信玄(しんげん)初陣(うひぢん)の手柄(てがら)談(ばなし)で、野史(やし)などもそつくり俗伝(ぞくでん)通(どほ)りに載(の)せてゐるのである。併(しか)し此(この)談(はなし)を俗伝(ぞくでん)通(どほ)りに受取(うけと)ると、如何(いか)に信虎(のぶとら)が剛情(がうじやう)の人(ひと)でも、晴信(はるのぶ)の器量(きりやう)に心(こゝろ)づいて、内心(ないしん)には此奴(こやつ)猿利口(さるりこう)なところのある奴(やつ)だ位(ぐらゐ)には思(おも)ひさうなことであり、如何(いか)に晴信(はるのぶ)が父(ちゝ)に忌(い)まれぬ為(ため)に、うつけた風(ふう)を粧(よそほ)うたところが、信虎(のぶとら)をして、ハテナと位(ぐらゐ)は省(かへり)み思(おも)はしむる理(り)である。も一(ひと)つ言(げん)を進(すゝ)めて云(い)へば、晴信(はるのぶ)が作(つく)り阿房(あはう)をするならば何(なに)も斯様(かやう)な事(こと)は為(な)さぬ方(はう)が可(よ)い訳(わけ)だし、斯様(かやう)な事(こと)をする位(くらゐ)ならば、うつけになつて居(ゐ)るなどは無益(むえき)な芝居(しばゐ)である訳(わけ)である。源心(げんしん)を打取(うちと)つた事(こと)は虚談(きよだん)ではなささうであるから、然様(さう)いふ事(こと)もあつたのであらうが、蓋(けだ)し時(とき)が違(ちが)ふので、晴信(はるのぶ)十六歳(さい)の時(とき)の事(こと)ではなからう。又(また)作(つく)り阿房(あはう)も、大(おほ)げさな談(はなし)で、実(じつ)はただおとなしくして、父(ちゝ)に逆(さか)らひ立(だて)をせずに居(ゐ)た位(ぐらゐ)の事(こと)であつたのであらう。されば順従(じゆんじう)謙黙(けんもく)する者(もの)は皆(みな)偽(いつはり)なり、などと手厳(てきび)しく偽(いつはり)の字(じ)を振(ふ)りかざして、晴信(はるのぶ)の心術(しんじゆつ)甚(はなは)だ不良(ふりやう)のやうに怒喝(どかつ)するは、むしろ酷議(こくぎ)である。然様(さう)いふ場合(ばあひ)に、辛棒(しんばう)して不平(ふへい)を堪(た)へ忍(しの)び、賢顔(かしこがほ)して逆(さか)らひ立(だて)をせぬ、それが悪(わる)い訳(わけ)は少(すこ)しもないことである。
 扨(さて)愈々(いよ/\)信玄(しんげん)父(ちゝ)信虎(のぶとら)を逐(お)ふことを語(かた)るべき段取(だんどり)となつたが、世間(せけん)に伝(つた)ふるところでは、其(その)事(こと)を信虎(のぶとら)四十五歳(さい)、晴信(はるのぶ)十八歳(さい)、天文(てんもん)七年(ねん)の三月(ぐわつ)十七日(にち)に晴信(はるのぶ)逆心(ぎやくしん)といふことにして居(ゐ)るが、それが第(だい)一に間違(まちが)つてゐる。松平定能(まつだひらさだよし)の甲斐国志巻(かひこくしまき)の九十四に、勝山記(かつやまき)、飯田系図(いひだけいづ)、壬代記(じんだいき)、神山旧記(かみやまきうき)等(とう)に拠(よ)つて、信虎(のぶとら)四十八歳(さい)、天文(てんもん)十年(ねん)の六月(ぐわつ)の事(こと)として居(ゐ)るのは奪(うば)ふことが出来(でき)ない事実(じじつ)である。且又(かつまた)甲州(かふしう)の中(うち)の所々(しよ/\)に蔵(ざう)する信虎(のぶとら)の印書(いんしよ)の、天文(てんもん)十年(ねん)附(づけ)のものが数通(すうつう)あることは、信虎(のぶとら)が十年(ねん)に於(おい)て猶(な)ほ甲州(かふしう)の主(しゆ)であつたことを証拠(しようこ)立(だ)て、又(また)天文(てんもん)十一年(ねん)からは晴信(はるのぶ)の印書(いんしよ)もあるが、其(その)前(まへ)には曾(か)つてないところを以(もつ)て、十年(ねん)以前(いぜん)に晴信(はるのぶ)が甲州(かふしう)に主(しゆ)とならなかつたことを証拠(しようこ)立(だ)てて居(ゐ)る。野史(やし)などは軍鑑(ぐんかん)に材(ざい)を取(と)つて七年(ねん)の事(こと)としたのであるが、何(なん)としても甲斐国志(かひこくし)の論断(ろんだん)を覆(くつがへ)し得(う)るほどの根拠(こんきよ)をば見出(みいだ)すことは出来(でき)ないから、断(だん)じて軍鑑(ぐんかん)作者(さくしや)の伝聞(でんぶん)の誤(あやまり)であるとせねばならぬ。
 軍鑑(ぐんかん)の記(き)するところでは、天文(てんもん)七年(ねん)戊戌(つちのえいぬ)正月(しやうぐわつ)元日(ぐわんじつ)の式(しき)に、信虎(のぶとら)は嫡子(ちやくし)晴信(はるのぶ)へ盃(さかづき)を与(あた)ふべきを与(あた)へないで、次郎(じらう)へ盃(さかづき)を与(あた)へた。そして正月二十日(しやうぐわつはつか)に板垣信形(いたがきのぶかた)をもつて信虎(のぶとら)から晴信(はるのぶ)へ云(い)ひつかはした其(その)旨(むね)は、太郎(たらう)は駿河(するが)今川義元(いまがはよしもと)の肝入(きもいり)をもつて大膳太夫(だいぜんだいふ)兼(けん)信濃守晴信(しなののかみはるのぶ)と名乗(なの)るに至(いた)つたから、此(この)上(うへ)ながら義元(よしもと)に付(つ)きて万事(ばんじ)異見(いけん)を受(う)け、心(こゝろ)の至(いた)る者(もの)の機(き)、作法(さはふ)をも知(し)るやうに、との事(こと)であつた。晴信(はるのぶ)返事(へんじ)には、兎(と)も角(かく)も父上(ちゝうへ)御差図(ごさしづ)次第(しだい)、といふ事(こと)であつた。それから重(かさ)ねて、板垣信形(いたがきのぶかた)、飯富(おぶ)(オブと読(よ)むので、イヒトミと読(よ)むのはよろしくない)兵部(ひやうぶ)両人(りやうにん)使者(ししや)で、当年(たうねん)三月(ぐわつ)より駿河(するが)へ晴信(はるのぶ)は行(ゆ)きて、一両年(りやうねん)も駿府(すんぷ)に於(おい)てよろづ学問(がくもん)せよ、とのことであつた。これはゆく/\次郎(じらう)を惣領(そうりやう)にして、晴信(はるのぶ)を甲府(かふふ)へ帰(かへ)らすまいとの模様(もやう)である。斯様(かやう)いふのが普通(ふつう)の説(せつ)になつてゐる。これは堪(たま)らない談(はなし)で、正月(しやうぐわつ)元日(ぐわんたん)に嫡子(ちやくし)が嫡子(ちやくし)扱(あつか)ひもされず、しかも次男(じなん)が嫡子(ちやくし)扱(あつか)ひされて、それから今川家(いまがはけ)へ行(ゆ)けと云(い)はれ、猶又(なほまた)両使(りやうし)をもつて愈々(いよ/\)三月(ぐわつ)から駿河(するが)へ参(まゐ)れとの事(こと)だ。両使(りやうし)といふのは厳確(げんかく)徹底(てつてい)を期(き)する時(とき)の使者(ししや)で、一人(ひとり)の使者(ししや)では、後日(ごじつ)になつて、一方(ぱう)では斯(か)く/\申述(まをしの)べたと云(い)つても、一方(ぱう)で然様(さう)いふことは聴(き)かなかつたと云(い)へば水掛論(みづかけろん)になる、そこで両使(りやうし)を遣(つか)はせば、一人(ひとり)が云(い)ふ時(とき)は一人(ひとり)が其(その)座(ざ)で聴(き)いて居(を)り、又(また)其(その)返辞(へんじ)挨拶(あいさつ)も聴(き)いて居(を)り、云(い)はぬ、聴(き)かぬとは決(けつ)してぬけさせぬのである。で、手詰(てづめ)の談(はなし)の時(とき)は両使(りやうし)である。しかも三月(ぐわつ)といふ期(き)まで明(あき)らかになつたのである。晴信(はるのぶ)の身(み)になつて見(み)れば、愈々(いよ/\)堪(たま)らぬことである。成程(なるほど)これでは晴信(はるのぶ)に於(おい)ては立(た)つ瀬(せ)が無(な)いから、逆心(ぎやくしん)もしかねない訳(わけ)であるが、一寸(ちよつと)待(ま)つた、いくらも此処(ここ)に疑(うたがひ)を容(い)れる地(ち)がある。けれどもそれは後(のち)に言(い)ふことにして、俗伝(ぞくでん)をも少(すこ)し辛抱(しんばう)して聴(き)かう。扨(さて)三月(ぐわつ)の九日(こゝのか)になつた。信虎(のぶとら)は駿河(するが)へ行(い)つた。晴信(はるのぶ)を甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)に預(あづ)けて、次郎(じらう)を留守(るす)にした上(うへ)、駿河(するが)より通知(つうち)次第(しだい)に来(こ)いとの事(こと)である。甘利(あまり)に預(あづ)けるといふ。此(こ)の預(あづ)けるといふ言葉(ことば)は、換言(くわんげん)すれば其(その)人(ひと)の自由(じいう)を奪(うば)つて、預(あづ)かり人(にん)をして責任(せきにん)を以(もつ)て保管(ほくわん)せしむるのである。一層(そう)甚(はなはだ)しく言(い)へば抑留(よくりう)押収(あふしう)されてゐるのも同(おな)じことである。晴信(はるのぶ)嫡子(ちやくし)を以(もつ)て然(さ)せる落度(をちど)もないのに、臣下(しんか)に預(あづ)けられて、やがて国外(こくぐわい)に遣(や)られるに決(けつ)したとは何(なん)といふ情(なさけ)無(な)いことだ。成程(なるほど)逆心(ぎやくしん)も起(おこ)しさうなことである。板垣駿河(いたがきするが)、飯富兵部(おぶひやうぶ)は、甲府(かふふ)諸将(しよしやう)の中(なか)でも家柄(いへがら)でもあり、人物(じんぶつ)でもあつて、板垣(いたがき)は後(のち)に信玄(しんげん)の詩作(しさく)に耽(ふけ)つたのを強諫(きやうかん)したので名高(なだか)く、上田原(うへだはら)で村上勢(むらかみぜい)の為(ため)に戦死(せんし)したが、甘利(あまり)と共(とも)に武田家(たけだけ)の重臣(ぢうしん)であつた。飯富兵部(おぶひやうぶ)は後(のち)に信玄(しんげん)の子(こ)の太郎義信(たらうよしのぶ)の事(こと)に関(くわん)して悲(かな)しい死(し)をしてゐるが、勇猛(ゆうまう)であり、思慮(しりよ)もあつて、徳川家(とくがはけ)の井伊直政(ゐいなほまさ)の赤備(あかぞなへ)は、直政(なほまさ)が甲州(かふしう)浪人(らうにん)を多(おほ)く得(え)て飯富(おぶ)の軍容(ぐんよう)を学(まな)んだので、赤備(あかぞなへ)の本家(ほんけ)であり、慓悍(へうかん)な山県三郎兵衛(やまがたさぶろべゑ)の兄(あに)である。甘利備前守(あまりびぜんのかみ)も猛将(まうしやう)で、板垣甘利(いたがきあまり)は武田家(たけだけ)の大臣(だいじん)格(かく)の家(いへ)であり、後(のち)に備前守虎泰(びぜんのかみとらやす)も戦死(せんし)したが、将死(しやうし)して而(しか)も軍(ぐん)乱(みだ)れざりしといふので美談(びだん)を残(のこ)してゐる。手強(てごは)い此等(これら)三人(にん)の間(あひだ)に居(ゐ)て、晴信(はるのぶ)に三人(にん)の同情(どうじやう)がなかつたならば、晴信(はるのぶ)は抑々(そも/\)何(なん)と出来(でき)ようや。信虎(のぶとら)の思(おも)ひ通(どほ)りになるほかはなかつたのである。
 ところが信虎(のぶとら)の狂暴(きやうばう)には人々(ひと/゛\)も心(こゝろ)を離(はな)してゐた。晴信(はるのぶ)が板垣(いたがき)飯富(おぶ)を頼(たの)むと、二人(ふたり)は晴信(はるのぶ)を主(しゆ)として信虎(のぶとら)に代(か)へた方(はう)が武田家(たけだけ)の利(り)であると考(かんが)へた。預(あづ)かり人(にん)の甘利備前(あまりびぜん)も、晴信(はるのぶ)を拘束(かうそく)する筈(はず)だが晴信方(はるのぶがた)になつて終(しま)つた。晴信(はるのぶ)は又(また)予(かね)てより姉婿(あねむこ)今川義元(いまがはよしもと)を深(ふか)く頼(たの)んで居(ゐ)た。そこで信虎(のぶとら)が駿河(するが)へ立(た)つた後(のち)、晴信(はるのぶ)は内々(ない/\)支度(したく)して、信虎(のぶとら)の思(おも)つたとは反対(はんたい)に、反(かへ)つて今川家(いまがはけ)をして信虎(のぶとら)を抑留(よくりう)せしめた。そして信虎(のぶとら)に随(したが)つて駿河(するが)へ行(い)つた将士(しやうし)の家族(かぞく)共(ども)を人質(ひとじち)にしたから、それ等(ら)の将士(しやうし)も信虎(のぶとら)を棄(す)てゝ甲州(かふしう)へ帰(かへ)つた。晴信(はるのぶ)は遂(つひ)に自立(じりふ)して、甲州(かふしう)に主(しゆ)となつた。義元(よしもと)は手強(てごは)い信虎(のぶとら)を甲州(かふしう)に虎踞(こきよ)せしむるよりも、恩(おん)を晴信(はるのぶ)に売(う)つて、そして年若(としわか)い晴信(はるのぶ)を北方(ほつぱう)の藩屏(はんぺい)たらしめた方(はう)が利(り)と考(かんが)へて、晴信(はるのぶ)を助(たす)けたから、万事(ばんじ)はすら/\と運(はこ)んだ。国中(こくちう)は晴信(はるのぶ)を主(しゆ)と仰(あふ)ぐことを悦(よろこ)んだ。と云(い)ふのが普通(ふつう)に伝(つた)へられてゐる談(はなし)の一切(さい)である。年月(ねんげつ)の相違(さうゐ)は先(ま)づ暫(しばら)く措(お)いて、前叙(ぜんじよ)の通(とほ)りがおよそ真(しん)の事実(じじつ)であるならば、晴信(はるのぶ)は父(ちゝ)の逐(お)ふところとならんとして、謀(はか)つて父(ちゝ)を逐(お)うた、といふことになる。併(しか)し果(はた)して此様(このやう)の事(こと)があり得(え)ようか。先(ま)づ俗伝(ぞくでん)では信虎(のぶとら)が駿河(するが)へ行(い)つたのは義元(よしもと)の許(もと)へ嫁(か)した女(むすめ)を視(み)るのを表(おもて)にして、義元(よしもと)に相談(さうだん)して晴信(はるのぶ)を駿河(するが)へ置(お)かう為(ため)だつたといふのであるが、これが第(だい)一に信(しん)ぜられぬ。廃嫡(はいちやく)したくば其様(そのやう)な細工(さいく)をせずとも、戦乱(せんらん)の世(よ)の事(こと)であるから、親(おや)の目(め)がねにかなはぬといふので、僧(そう)にしようとも詰腹(つめばら)を切(き)らせようとも浪人(らうにん)させようとも、造作(ざうさ)はないことである。わざ/\婿(むこ)に相談(さうだん)して其(その)手(て)を仮(か)りる必要(ひつえう)が何処(どこ)にあらう。若(も)し又(また)婿(むこ)の義元(よしもと)が晴信(はるのぶ)へ同情(どうじやう)して廃嫡(はいちやく)に故障(こしやう)を云出(いひだ)しさうな虞(おそれ)が有(あ)るので予(あらかじ)め義元(よしもと)の諒解(りやうかい)を得(え)て置(お)く必要(ひつえう)があるといふのならば、猶更(なほさら)義元(よしもと)のところへ其(そ)の嫌(きら)ひさうなことを頼(たの)みに行(ゆ)く訳(わけ)はないことである。義元(よしもと)の室(しつ)、即(すなは)ち晴信(はるのぶ)の姉(あね)なども何(なに)も必(かなら)ずしも自分(じぶん)の意見(いけん)に同(どう)じるか何様(どう)か知(し)れたものではない。仮(か)りに自分(じぶん)の意(い)の通(とほ)りに晴信(はるのぶ)を駿河(するが)に置(お)くことに出来(でき)たところで、義元(よしもと)が何(なん)ぞの時(とき)に晴信(はるのぶ)を故国(ここく)に納(い)れようとすること、普(しん)の文公(ぶんこう)が子蘭(しらん)を鄭(てい)に納(い)れんとした如(ごと)くにしたならば、非常(ひじやう)な面倒(めんどう)が起(おこ)るのは知(し)れた事(こと)で、五十に近(ちか)い信虎(のぶとら)自身(じしん)の寿命(じゆみやう)の末(すゑ)を想像(さうざう)したならば、如何(いか)な信虎(のぶとら)でも其(その)位(くらゐ)の事(こと)には気(き)が附(つ)くべきである。又(また)そんな事(こと)にも関心(くわんしん)せぬほど、信虎(のぶとら)が果(はた)して恐(おそ)ろしい狂暴(きやうばう)一点張(てんば)りの人(ひと)で、何(なん)でも関(かま)はず晴信(はるのぶ)を逐(お)ひたいとでもあるならば、其(その)人(ひと)の性質(せいしつ)からして、そんな曲線的(きよくせんてき)の細工(さいく)を為(な)しさうにも思(おも)はれない事(こと)で、甚(はなは)だ怪(あや)しむべきである。で、狂肆(きやうし)の人(ひと)だとならば、あゝいふ細工(さいく)をしようとしたといふのが信(しん)ぜられず、あゝいふ細工(さいく)を為(し)ようとしたならば、然様(さう)いふ細工(さいく)をしさうな人(ひと)が彼様(かやう)な無思慮(むしりよ)の事(こと)をしたといふのが信(しん)ぜられない。
 子(こ)をみること父(ちゝ)に如(し)かずといふ語(ご)がある。まして戦乱(せんらん)の世(よ)に当(あた)つて、国持(くにもち)城持(しろもち)が吾(わ)が児(こ)の善悪(ぜんあく)を考(かんが)へずに居(ゐ)よう訳(わけ)はない。如何(いか)に子(こ)が作(つく)り阿房(あはう)をしたとて、猫(ねこ)をかぶつたとて、幼時(えうじ)から観(み)てゐるものを、馬鹿(ばか)か利口(りこう)か、気(き)のある者(もの)か腑(ふ)ぬけか位(ぐらゐ)の事(こと)が看破(かんぱ)出来(でき)ぬわけはない。大泉寺(だいせんじ)伝説(でんせつ)は作(つく)り事(ごと)でもあらうけれども、信虎(のぶとら)と天桂和尚(てんけいをしやう)とが相談(さうだん)して勝千代(かつちよ)誕生(たんじやう)に霊異(れいい)を飾(かざ)つたのかも知(し)れぬし、密宗(みつしう)であつたものを禅宗(ぜんしう)にしたのも、たゞでない訳(わけ)があつたかも知(し)れず、二世(せい)が信虎(のぶとら)の弟(おとうと)であるところから考(かんが)へても、勝千代(かつちよ)が生(うま)れた時(とき)握(にぎ)つた掌(てのひら)を開(ひら)かなかつたなどといふ勝千代(かつちよ)を神奇(しんき)にする談(はなし)は何処(どこ)からか出(で)たらしい。よし其様(そのやう)な事(こと)は後人(こうじん)の作為(さくゐ)としても、信虎(のぶとら)が勝千代(かつちよ)を愛(あい)して、家(いへ)を起(おこ)し名(な)を揚(あ)ぐる者(もの)となつて貰(もら)ひたいと思(おも)つたらうことは、万人(まんにん)が万人(まんにん)の人情(にんじやう)で、間違(まちがひ)無(な)い希望(きばう)であつたらう。その勝千代(かつちよ)が生長(せいちやう)する間(あひだ)、馬鹿(ばか)か利口(りこう)か観察(くわんさつ)しなかつたらうとは思(おも)へぬ。勝千代(かつちよ)が鬼鹿毛(おにかげ)を欲(ほ)しがつたといふ談(はなし)が虚談(きよだん)でなければ、武将(ぶしやう)としては嬉(うれ)しい気象(きしやう)だと嬉(うれ)しがるべきで、美(うつく)しい侍女(じぢよ)を貰(もら)ひたいと云(い)つたのとは違(ちが)ふ訳(わけ)ではないか、又(また)信虎(のぶとら)が駿河(するが)へ行(い)つてから設(まう)けた子(こ)の上野介(かうづけのすけ)の子(こ)、即(すなは)ち孫(まご)の幼名(えうみやう)を勝子代(かつちよ)と名(な)づけたといふ事(こと)が、信玄(しんげん)父子(ふし)背反(はいはん)の俗伝(ぞくでん)の祖(そ)たる軍鑑(ぐんかん)に見(み)えてゐるが、勝千代(かつちよ)即(すなは)ち晴信(はるのぶ)が気(き)に入(い)らぬ子(こ)であつたなら老後(らうご)に設(まう)けた孫(まご)に何(なん)で其(そ)の同(おな)じ名(な)を付(つ)けよう、むしろそれは勝千代(かつちよ)を愛(あい)してゐたからの事(こと)でなくてはなるまいではないか。
 軍鑑(ぐんかん)は信玄父(しんげんちゝ)を逐(お)つたといふことを首唱(しゆしやう)したものであるに関(かゝは)らず、鬼鹿毛(おにかげ)の談(はなし)でも、蛤(はまぐり)の談(はなし)でも、海野口(うんのくち)の談(はなし)でも、皆(みな)晴信(はるのぶ)の幼時(えうじ)から頼(たの)もしげであつて、信虎(のぶとら)が晴信(はるのぶ)を愛(あい)しさうなことを記(しる)してゐるのが奇異(きい)である。武事(ぶじ)ばかりではない、晴信(はるのぶ)が若(わか)い時(とき)詩作(しさく)に耽(ふけ)つたことを伝(つた)へ、現(げん)に信玄(しんげん)の作(つく)つたところの詩(し)は十七首(しゆ)ばかり伝(つた)はつてゐて、禅僧(ぜんそう)達(たち)が加朱(かしゆ)したか何様(どう)か知(し)らないが、中々(なか/\)刀槍(たうさう)三昧(ざんまい)のみの人(ひと)の詩(し)ではない。北条早雲(ほうでうさううん)は三略(りやく)の講義(かうぎ)を聴(き)いたが、信玄(しんげん)は其疾如風、其静如林等(とう)の語(ご)を記(しる)した旗(はた)を用(もち)ゐてゐた。和歌(わか)も百首(ひやくしゆ)から伝(つた)へられて居(を)り、賤(しづ)の女(め)が塩笥(しほす)の古歌(こか)を引(ひ)いて公事(くじ)訴訟(そしよう)を扱(あつか)ふ士(し)に示(しめ)した談(はなし)も伝(つた)へられて居(を)る。すべて皆(みな)是(こ)れ公事(くじ)から心(こゝろ)を文事(ぶんじ)にも寄(よ)せたのでなけれぼ、然様(さう)はゆかぬものであることを示(しめ)してゐる。其(その)時代(じだい)の教育(けういく)を受(う)くるに堪(た)へ、又(また)或(あるひ)は自(みづか)ら修(をさ)め自(みづか)ら養(やしな)つた好青年(かうせいねん)であつたことを想(おも)はせる。然様(さう)いふ青年(せいねん)を信虎(のぶとら)が愛重(あいちよう)せなかつたらうとは思(おも)へぬことである。よしや何事(なにごと)かの因縁(いんねん)から憎嫉(ぞうしつ)の念(ねん)が段々(だん/\)と募(つの)つて、二男(なん)信繁(のぶしげ)を愛(あい)するやうになつたのかも知(し)れぬが、信繁(のぶしげ)の性質(せいしつ)は何様(どう)も卻(かへ)つて信虎(のぶとら)には気(き)に染(そ)みさうには思(おも)はれぬのである。信玄(しんげん)が天台(てんだい)や禅(ぜん)を学(まな)んだのは後(のち)の事(こと)であらうが、文武(ぶんぶ)両道(りやうだう)、何(なに)やら彼(か)やらに達(たつ)した人(ひと)は、幼時(えうじ)青年時(せいねんじ)に於(おい)ても、定(さだ)めし好童子(かうどうし)好青年(かうせいねん)であつたらうに、人物(じんぶつ)を重(おも)んじて知行(ちぎやう)をも惜(をし)まず与(あた)へ、人物(じんぶつ)の鑑識(かんしき)を大事(だいじ)として将(しやう)たる者(もの)の必要(ひつえう)条件(でうけん)としてゐた彼(あ)のやうな戦乱(せんらん)の世(よ)に、まして吾児(わがこ)の事(こと)であるもの、何(なん)で観察(くわんさつ)せずに居(を)らう。しかし馬(うま)が毛(け)ぎらひするやうに、人(ひと)は人(ひと)と相善(あひよ)しとせぬこともあるもので、所謂(いはゆる)前世(ぜんぜ)の罨敵(おんてき)のやうな虫(むし)の好(す)かぬといふこともあるものであるから、或(あるひ)は親(おや)が良(よ)い子(こ)を嫌(きら)ふこともある。けれどもそれならば勝千代(かつちよ)がまだ生長(せいちやう)せぬ間(あひだ)に、嫌(きら)ひなら嫌(きら)ひであるべきである。叙任(じよにん)もするほどの年(とし)、将軍(しやうぐん)義晴(よしはる)より晴(はる)の字(じ)を貰(もら)つて晴信(はるのぶ)となるほどの年(とし)、三条左大臣公頼(でうさだいじんきみより)の女(むすめ)を娶(めと)つて女房(にようばう)にするほどの年(とし)になつてから、別段(べつだん)の所以(いはれ)も無(な)く廃嫡(はいちやく)したがるほどに嫌(きら)ひさうな訳(わけ)は考(かんが)へられぬ。何事(なにごと)か特別(とくべつ)の事(こと)があつて怒(いか)り憎(にく)むといふのでなければ、一族(ぞく)のおもはく、臣下(しんか)民百姓(たみひやくしやう)のおもはく、他国(たこく)のおもはく、世間(せけん)の評判(ひやうばん)もあつて、親(おや)だからとて然様(さう)勝手(かつて)は振舞(ふるま)へぬものである。暗愚(あんぐ)であるとか、妖姫(えうき)などに迷溺(めいでき)してであるとかならば、然様(さう)いふ事(こと)もあるもので、世(よ)に多(おほ)い御家騒動(おいへさうどう)の種子(たね)にもなるものであるが、信虎(のぶとら)は特別(とくべつ)に暗愚(あんぐ)でもなく、女色(ぢよしよく)に溺(おぼ)れたといふこともなく、家中(かちう)騒動(さうどう)してごた/\したといふこともなくて済(す)んでゐるのが不思議(ふしぎ)である。次郎(じらう)を愛(あい)したため、家中(かちう)も晴信(はるのぶ)を誹謗(ひばう)したなどといふが、然様(さう)でなくても家督(かとく)争(あらそ)ひは起(おこ)りたがるものであり、擁立(ようりつ)の功(こう)を立(た)てゝ威(ゐ)を振(ふる)ひたがるものも出(で)るものであるから、真(しん)に晴信(はるのぶ)を信虎(のぶとら)が悪(にく)み、晴信(はるのぶ)廃(はい)せられ、次郎(じらう)立(た)てられんとするの形勢(けいせい)が見(み)えたものならば、謙信(けんしん)死(し)して景勝(かげかつ)景虎(かげとら)の戦(たゝか)つたやうな理屈(りくつ)で、信虎(のぶとら)去(さ)つて晴信(はるのぶ)自立(じりふ)に際(さい)して次郎殿(じらうどの)を担(かつ)ぐものも出(で)て来(き)さうな処(ところ)であるが、更(さら)に其(その)様子(やうす)がなかつたのも不思議(ふしぎ)である。で、信虎(のぶとら)の国(くに)を出(で)たのは、父子(ふし)相(あひ)容(い)れずして、梟子(けうし)自立(じりふ)するに至(いた)つたとは思(おも)はれない。何(なに)か他(ほか)に事情(じじやう)のあつたものと想(おも)はれる。そして其(そ)の事情(じじやう)は、表面(へうめん)に出(で)てゐる父子(ふし)仲悪(なかあ)しき結果(けつくわ)といふ談(はなし)をもつて掩(おほ)ひ匿(かく)されてゐるものであると想(おも)つても宜(よ)からうと考(かんが)へられる。
 松平定能(まつだひらさだよし)は文化(ぶんくわ)の頃(ころ)甲府城(かふふじやう)勤番支配(きんばんしはい)に任(にん)ぜられた士(し)で、在勤中(ざいきんちう)幕府(ばくふ)の内命(ないめい)を受(う)けて甲州(かふしう)の事(こと)を調(しら)べたものであるが、豆州(づしう)田方郡(たがたごほり)畑毛村(はたけむら)西原善右衛門(にしはらぜんゑもん)といふ者(もの)の許(もと)に伝(つた)はつてゐる今川義元(いまがはよしもと)から甲府(かふふ)へ宛(あ)てた書状(しよじやう)によつて、信虎(のぶとら)は晴信(はるのぶ)に逐出(おひだ)されたり、あげつばを食(く)はせられて駿州(すんしう)へ遷(うつ)つたのではなく、合点(がてん)づくで駿州(すんしう)へ遷(うつ)つたのであると断(だん)じてゐる。但(たゞ)し駿州(すんしう)へ遷(うつ)つた所以(ゆゑん)の委細(ゐさい)は解釈(かいしやく)して居(ゐ)ない。たゞ諸録(しよろく)の記(き)する所晴信(ところはるのぶ)を誹謗(ひばう)する者(もの)とは大(おほい)に異(こと)なり、と云(い)つてゐるだけの事(こと)である。其(そ)の義元(よしもと)の書(しよ)は
 内々以使者可令申候之処、総印軒可参候由承り候条令啓候。信虎女中衆之事、入十月之節、被勘易筮可有御越候由尤候。於此方も可申付候。旁々以天道之相定可御本望候。就中信虎御隠居之事者、六月雪斎並岡部美濃守進候刻御合点之儀候。漸向寒気候毎事御不弁心痛候。一日も早被仰付員数等具承候者御方へ可被有心得候旨申可届候。猶総印軒口上申述候。恐々謹言。
   九月二十三日               義元 花押
    甲府え参
といふのである。句読(くとう)反点(はんてん)は読者(どくしや)の便宜(べんぎ)に今(いま)施(ほどこ)したので、元来(ぐわんらい)は勿論(もちろん)無(な)い。
 義元(よしもと)の此(この)書(しよ)は下村三四吉(しもむらみよきち)といふ人(ひと)も引用(いんよう)して、即(すなは)ち信虎(のぶとら)は納得(なつとく)の上駿河(するが)に退隠(たいいん)せしにて決(けつ)して従来(じうらい)伝(つた)ふるが如(ごと)く信玄(しんげん)が苛酷(かこく)に逐(お)ひ出(だ)せしにはあらざる也(なり)と云(い)つてゐる。且(かつ)又(また)、而(しか)して信虎(のぶとら)を説得(せつとく)して退隠(たいいん)せしめたる所以(ゆゑん)に就(つ)きては、妙法寺記(めうはふじき)(勝山記(かつやまき))に記(き)する所(ところ)其(そ)の消息(せうそく)を知(し)るべきものあり、と云(い)ひて、此年(このとし)(天文(てんもん)十年(ねん)六月(ぐわつ)十四日(よつか)に武田太夫殿(たけだたいふどの)、親(おや)の信虎(のぶとら)を駿河(するが)へ押越(おしこ)し御申候(おんまをしさふらふ)。余(あまり)に悪行(あくぎやう)を被成(なされ)候故(さふらふゆゑ)、かやうにめされ候(さふらふ)、地家(ぢか)出家衆(しゆつけしう)男女共(なんによとも)に喜(よろこ)び満足(まんぞく)致候(いたしさふらふ)事(こと)無限(かぎりなし)、とあるを引(ひ)き、蓋(けだ)し信虎(のぶとら)性(せい)峻厳(しゆんげん)剛愎(がうふく)にして人(ひと)の言(げん)を容(い)れず、平素(へいそ)の所行(しよぎやう)亦(また)暴虐(ばうぎやく)の事(こと)多(おほ)かりしかば、士民(しみん)心(こゝろ)を離(はな)し、之(これ)を怨望(ゑんばう)する者(もの)あるに至(いた)り、若(も)し其儘(そのまゝ)になし置(お)かば遂(つひ)に如何(いか)なる禍乱(くわらん)の起(おこ)らんも測(はか)る可(べ)からざるものあり、是(こゝ)に於(おい)て臣下(しんか)の重立(おもだ)ちたるもの信虎(のぶとら)を隠居(いんきよ)せしめ、信玄(しんげん)を立(た)てん事(こと)を図(はか)れり、と云(い)ひ、又(また)、且(かつ)信玄(しんげん)が信虎(のぶとら)を退隠(たいいん)せしむるにつき之(これ)に勧説(くわんぜい)して納得(なつとく)の上(うへ)駿河(するが)に赴(おもむ)かしめ、敢(あへ)て非常(ひじやう)手段(しゆだん)を取(と)らざりし証憑(しようひよう)明(あきら)かなる上(うへ)は、一も二もなく信玄(しんげん)を非難(ひなん)して大逆(たいぎやく)無道(ぶだう)の老賊(らうぞく)なりとは評(ひやう)すべからず、と論(ろん)じてゐる。それで同氏(どうし)は、余(よ)は更(あらた)めて再言(さいげん)す、天文(てんもん)十年(ねん)六月(ぐわつ)信玄(しんげん)今川義元(いまがはよしもと)と謀(はか)り、父(ちゝ)信虎(のぶとら)を説(と)きて駿河(するが)に退隠(たいいん)せしめ、自(みづか)ら家督(かとく)を継(つ)ぎ甲斐(かひ)の主(しゆ)となると、と論結(ろんけつ)してゐる。
 大体(だいたい)に於(おい)て下村氏(しもむらし)の説(と)いた様(やう)な事情(じじやう)でもあつたらうと想(おも)はれる。軍鑑(ぐんかん)の記(き)する所(ところ)を一概(がい)に信(しん)じて信玄(しんげん)を苛議(かぎ)するのは担板漢(たんばんかん)の論(ろん)である。併(しか)し義元(よしもと)の書中(しよちう)に、信虎(のぶとら)御隠居(ごいんきよ)之(の)事(こと)者(は)六月(ぐわつ)雪斎(せつさい)並(ならび)ニ岡部美濃守(をかべみののかみ)進候(まゐりさふらふ)刻(きざ)ミ御合点(ごがてん)之(の)儀(ぎ)ニ候(さふらふ)、とあるのは、解釈(かいしやく)が二様(やう)に出来(でき)る。雪斎(せつさい)と岡部美濃守(をかべみののかみ)とが駿州(すんしう)で信虎(のぶとら)に対面(たいめん)した際(さい)に信虎(のぶとら)が駿州(すんしう)に押越(おしこ)されて隠居(いんきよ)することを合点(がてん)したとも見(み)える。然様(さやう)に解(かい)すると、松平豫州(まつだひらよしう)が国志(こくし)に、信虎(のぶとら)合点(がてん)の上(うへ)退隠(たいいん)して駿州(すんしう)へ遷(うつ)りし趣(おもむき)明白(めいはく)なりとばかりは云(い)へなくなつて、信虎(のぶとら)が駿河(するが)へ押入(おしい)れられてから、雪斎(せつさい)、岡部美濃守(をかべみののかみ)の二人(ふたり)と会話(くわいわ)を交換(かうくわん)して、そして隠居(いんきよ)することを合点(がてん)したとも取(と)れる。合点(がてん)の上(うへ)で隠退(いんたい)動座(どうざ)したのと、遷(うつ)つてから隠居(いんきよ)即(すなは)ち家主権(かしゆけん)放棄(はうき)を合点(がてん)したのとは、大分(だいぶん)に差(さ)がある。松平氏(まつだひらし)や下村氏(しもむらし)の説(せつ)のやうに解(かい)さうとすれば、雪斎(せつさい)や岡部美濃守(をかべみののかみ)が甲州(かふしう)へでも行(い)つて信虎(のぶとら)に隠居(いんきよ)を合点(がてん)させた様(やう)に読(よ)み取(と)らなければならぬ。文気(ぶんき)を以(もつ)て言(い)ふと、信虎(のぶとら)が遷(うつ)つてから其(その)節(せつ)雪斎(せつさい)等(ら)に会(あ)つて隠居(いんきよ)を合点(がてん)したやうである。さもなければ御合点(ごがてん)之(の)儀(ぎ)ニ候(さふらふ)と、わざ/\書状(しよじやう)に記(しる)したのは異(い)なことになる。で、若(も)し然様(さう)いふ風(ふう)に読(よ)み取(と)ると、隠居(いんきよ)合点(がてん)の上(うへ)で駿州(すんしう)へ遷(うつ)つたのではなくなる。折角(せつかく)松平(まつだひら)下村(しもむら)二氏(し)が引(ひ)いた義元(よしもと)書状(じやう)も、信虎(のぶとら)の身(み)のまはりの世話(せわ)をする女供(をんなども)を提供(ていきよう)するといふ待遇(たいぐう)上(じやう)の事(こと)に於(おい)て冷酷(れいこく)でないといふ証(しるし)になるのみで、何等(なんら)かの様式(やうしき)或(あるひ)は便宜(べんぎ)で先(ま)づ甲州(かふしう)から信虎(のぶとら)を駿州(すんしう)に遷(うつ)してから隠居(いんきよ)を合点(がてん)させたやうになる。信虎(のぶとら)逐出(おひだ)しの在来(ざいらい)の談(はなし)とは、たゞ信虎(のぶとら)が晴信(はるのぶ)を甲州(かふしう)から逐(お)はうとしたといふことだけがなくなつたのみで、矢張(やは)り信玄(しんげん)逐父(ちくふ)の旧談(きうだん)通(どほ)りになる。そして此(こ)の義元状(よしもとじやう)によつて、六月(ぐわつ)に駿州(すんしう)へ遷(うつ)つた信虎(のぶとら)に九月末(ぐわつすゑ)はまだ女供(をんなども)も提供(ていきよう)せず、十月(ぐわつ)になつてから婢妾(ひせふ)を送(おく)らうとしてゐるといふ事(こと)が窺知(うかゞひし)られ、義元(よしもと)は贅沢(ぜいたく)花奢(くわしや)の今川家(いまがはけ)育(そだ)ち故(ゆゑ)、漸(やうや)く寒気(かんき)に向(むか)ひ候(さふらふ)、毎事(まいじ)御不弁(ごふべん)心痛(しんつう)候(さふらふ)、と信虎(のぶとら)の朝夕(てうせき)不自由(ふじいう)なのに同情(どうじやう)して心配(しんぱい)して遣(や)つてゐるやうに聞(きこ)え、何(なん)だか信虎(のぶとら)の身辺(しんぺん)には頑固(がんこ)侍(ざむらひ)ばかりが監視(かんし)の格(かく)でしかつめらしく控(ひか)へて居(ゐ)るやうに想(おも)はれる。下村氏(しもむらし)は、旁々以天道之相定可御本望候とあるのを中略(ちうりやく)にして除(のぞ)いてあるが、御本望(ごほんまう)の三字(じ)が何(なん)となく人眼(ひとめ)を射(い)る。無論(むろん)晴信(はるのぶ)へ与(あた)へた手紙(てがみ)だが、旁々(かた/゛\)以(もつ)て天道(てんどう)の相定(あひさだめ)は、信虎(のぶとら)が暴(ばう)であつたから是(かく)の如(ごと)くなつたといふ事(こと)歟(か)。可御本望候は、御本望(ごほんまう)たる可(べ)く候(さふらふ)と読(よ)ませるつもりか。旁々以(かた/゛\もつて)より候(さふらふ)までの十二字(じ)には誤脱(ごだつ)があるか。御(おん)の字(じ)の傍(かたはら)に、イ遣とあつたりなどするから、原書(げんしよ)で読(よ)んで見(み)たいものである。何(なん)にせよ此(こ)の義元(よしもと)書状(じやう)は読(よ)み様(やう)次第(しだい)で、余(あま)り晴信(はるのぶ)弁護(べんご)の役(やく)には立兼(たちか)ねるものである。
 書中(しよちう)に出(で)て来(く)る雪斎(せつさい)は臨済宗(りんざいしう)の僧(そう)大原(たいげん)で、これは今川義元(いまがはよしもと)の謀主(ぼうしゆ)である。岡部美濃守(をかべみののかみ)は其(その)名(な)を知(し)らぬが、岡部正綱(をかべまさつな)の父(ちゝ)である。蓋(けだ)し今川(いまがは)の宿将(しゆくしやう)であつて、子(こ)の正綱(まさつな)は後(のち)に義元(よしもと)の子(こ)氏真(うぢざね)の為(ため)に節(せつ)を守(まも)つて甲州勢(かふしうぜい)と戦(たゝか)つたが、信玄(しんげん)これを招(まね)き納(い)れて、三千貫(ぜんぐわん)の地(ち)と騎士(きし)五十人(にん)を附(ふ)し、駿州(すんしう)清水(しみづ)の城(しろ)を守(まも)らせた。山本勘助(やまもとかんすけ)でも初(はじめ)は二百貫(ひやくくわん)だつた。思(おも)へば雪斎(せつさい)も美濃守(みののかみ)も今川家(いまがはけ)では大(たい)したものである。此(こ)の二人(ふたり)が信虎(のぶとら)の事(こと)には関与(くわんよ)してゐるのであつて、今川家(いまがはけ)の方(はう)、及(およ)び軍鑑(ぐんかん)其他(そのた)にも二人(ふたり)が信虎(のぶとら)一件(けん)には何様(どう)いふ風(ふう)に与(あづか)つてゐるのか少(すこ)しも記(しる)してないが、主人(しゆじん)の奥方(おくがた)の父(ちゝ)と弟(おとうと)とに関(くわん)する大事(だいじ)であるから、軍師(ぐんし)と家老(からう)とが揃(そろ)つて顔(かほ)を出(だ)してゐるのも当然(たうぜん)である。美濃守(みののかみ)は後(のち)に義元(よしもと)の不興(ふきよう)を蒙(かうむ)つて一時(じ)浪人(らうにん)したとあるが、それは何(なに)に困(よ)(ママ)つてだか知(し)れてゐない、信玄(しんげん)が其子(そのこ)正綱(まさつな)に突(とつ)として高禄(かうろく)を与(あた)へてゐるのも、其(そ)の忠勇(ちうゆう)を賞(しやう)してのみの事(こと)だか、何(なん)だか考(かんが)へ得(え)て見(み)たい。が、自分(じぶん)の知(し)る限(かぎ)りでは、今川家(いまがはけ)の方(はう)から信虎(のぶとら)一件(けん)に付(つ)いては何(なに)も知(し)るべき材(ざい)を得(え)てゐない。
 扨(さて)こゝで一寸(ちよつと)自分(じぶん)の頭(あたま)の中(なか)に閃(ひらめ)くものがある。それは今川(いまがは)と武田(たけだ)との関係(くわんけい)である。今川(いまがは)は一時(じ)副将軍(ふくしやうぐん)とまで云(い)はれた家(いへ)で、内訌(ないこう)で一時(じ)衰(おとろ)へたが、それでも海道(かいだう)での大大名(だいだいみやう)である。武田家(たけだけ)とは義元(よしもと)以前(いぜん)は敵(かたき)同士(どうし)で、武田(たけだ)の方(はう)が小(ちひ)さくもあれば受太刀(うけだち)側(がは)でもあつたのである。信玄(しんげん)の生(うま)れた頃(ころ)甲州(かふしう)へ攻込(せめこ)んで来(き)た福島兵庫(ふくしまひやうご)も遠州(ゑんしう)の者(もの)であるなら、蓋(けだ)し今川(いまがは)の気息(きそく)のかゝつてゐたものであらう。其(その)翌々年(よく/\ねん)大永(だいえい)二年(ねん)遠州(ゑんしう)の久島(ひさじま)といふ者(もの)が駿河(するが)遠江(とほたふみ)の兵(へい)一万(まん)五千(せん)を率(ひき)ゐて甲府(かふふ)まで乱入(らんにふ)したことがある。駿遠(すんゑん)の兵(へい)を率(ひき)ゐて来(き)たのであるから、是(これ)も今川家(いまがはけ)の気息(そく)のかゝつたものである。当時信虎(のぶとら)は非常(ひじやう)に窮(きう)して、武田(たけだ)の者(もの)ども、自分々々(じぶん/\)の身(み)の上(うへ)のみを思(おも)ふやうになつた。幸(さいはひ)にして信虎(のぶとら)の家老(からう)萩原常陸(はぎはらひたち)といふ者(もの)が計略(けいりやく)を以(もつ)て久島(ひさじま)を討取(うちと)つたから事(こと)無(な)きを得(え)たが、此時(このとき)信虎(のぶとら)はつくづく一身(しん)のほかに味方(みかた)は無(な)い、敵(てき)が強(つよ)い時(とき)は頼(たの)みに思(おも)うた者(もの)も我(われ)を助(たす)くるものではない、と悟(さと)つて、それから心(こゝろ)も苛酷(かこく)になつたといふことである。是(かく)の如(ごと)く今川(いまがは)と相敵(あひてき)し合(あ)つて、武田(たけだ)の方(はう)が苦(くるし)んでゐるのである。義元(よしもと)を婿(むこ)に取(と)るに附(つ)けても、信虎(のぶとら)は北条氏網(ほうでううぢつな)から奪(うば)ひ取(と)つた富士川北(ふじがはきた)の地(ち)をも娘(むすめ)の化粧田(けしやうでん)として今川家(いまがはけ)へ渡(わた)したのである。義元(よしもと)に至(いた)つて復(また)今川(いまがは)は振(ふる)つて、海道(かいだう)では覇(は)を称(しよう)したものであり、北条家(ほうでうけ)は元来(ぐわんらい)が今川(いまがは)をたよつて来(き)て伊豆(いづ)に落着(おちつ)いたものであり、徳川家(とくがはけ)なども既(すで)に家康公(いへやすこう)さへ最初(さいしよ)は義元(よしもと)の元(もと)の字(じ)を受(う)けて元康(もとやす)と云(い)つて居(を)られ、今川(いまがは)の旗(はた)の下(した)のやうな形(かたち)になつて幾年(いくねん)を鬱屈(うつくつ)して居(を)られたのである。信玄(しんげん)に至(いた)つてこそ武田(たけだ)は雄(ゆう)を称(しよう)したが、それでも信玄(しんげん)が代(だい)になつての最初(さいしよ)は、甲州(かふしう)の韮崎(にらざき)だの、若神子(わかみこ)だのまで他国(たこく)ものに押込(おしこ)まれて、韮崎(にらざき)合戦(がつせん)の如(ごと)きは大分(だいぶん)に苦(くる)しかつたのである。是(かく)の如(ごと)き勢(いきほひ)であつたから、今川(いまがは)と武田(たけだ)とは武田(たけだ)の方(はう)が何様(どう)しても下(した)に附(つ)く訳(わけ)で、叙位(じよゐ)にしたところで、義元(よしもと)は従(じゆ)四位(ゐ)下(げ)、晴信(はるのぶ)は従(じゆ)五位(ゐ)下(げ)、実際(じつさい)の力(ちから)も世間(せけん)の用(もち)ゐも、少(すこ)し差(さ)があり、特(とく)に今川家(いまがはけ)は海道(かいだう)繁富(はんぷ)の地(ち)に拠(よ)り、文明(ぶんめい)の度(ど)は自然(しぜん)甲州(かふしう)より高(たか)かつたのである。で、義元(よしもと)は桶峡間(をけはざま)の一戦(せん)で首(くび)を織田氏(おだし)に授(さづ)けて終(しま)つたから詰(つま)らぬ者(もの)のやうに見(み)えるが、決(けつ)して凡常(ぼんじやう)の人(ひと)でもなく、早(はや)くも上洛(じやうらく)して旗(はた)を天下(てんか)に立(た)てようといふ雄志(ゆうし)を有(も)つて居(ゐ)たのである。武田氏(たけだし)と今川氏(いまがはし)と縁家(えんか)になつたのは、何(ど)の家(いへ)から求(もと)めたことか知(し)れぬが、当時(たうじ)今川家(いまがはけ)には雪斎美濃守(せつさいみののかみ)のやうな謀臣(ぼうしん)もあり、朝比奈(あさひな)、庵原(いほばら)、岡部(をかべ)、由比(ゆひ)、三浦(みうら)等(とう)、聞(きこ)えた勇士(ゆうし)もあつて、堂々(だう/\)たるものであつたから、武田(たけだ)が今川家(いまがはけ)内訌(ないこう)のあつた時分(じぶん)のやうに今川氏(いまがはし)に対(たい)した日(ひ)には、寧(むし)ろ武田(たけだ)は併呑(へいどん)されぬまでも蚕食(さんしよく)されるおそれが無(な)いといふ訳(わけ)には行(い)かなかつたのであるし、小笠原(をがさはら)、諏訪(すは)、村上(むらかみ)、信州(しんしう)の諸(しよ)大名(だいみやう)も、中々(なか/\)弱敵(じやくてき)ではないし、随分(ずゐぶん)危険(きけん)の多(おほ)い勢(いきほひ)に在(あ)つたから、後(あと)から云(い)へば今川(いまがは)は氏真(うぢざね)に至(いた)つて衰(おとろ)へ、武田(たけだ)は信玄(しんげん)に至(いた)つて振(ふる)つたものゝ、当時(たうじ)に於(おい)ては、鋒刃(ほうじん)を用(もち)ゐないで威(ゐ)を張(は)る策(さく)からして、今川家(いまがはけ)より婚(こん)を求(もと)めらるれば、武田(たけだ)はいやでも之(これ)に応(おう)じなければならず、今川家(いまがはけ)から同盟(どうめい)を強(し)ひらるれば厭(いや)でも攻守(こうしゆ)を共(とも)にする約(やく)を結(むす)んだ方(はう)が利益(りえき)であつたらうし、南(みなみ)は今川(いまがは)に結(むす)んで置(お)いて、北(きた)の方(はう)は信濃(しなの)大名(だいみやう)に当(あた)つて地(ち)を妬(ひら)いた方(はう)が、甲州(かふしう)を安全(あんぜん)にして、自家(じか)を発展(はつてん)させる所以(ゆゑん)であつたらうから、今川家(いまがはけ)の謀士(ぼうし)から求(もと)めたにせよ、武田方(たけだがた)の策士(さくし)から考(かんが)へ出(だ)したにせよ、どちらから云出(いひだ)しても、姻縁(いんねん)を結(むす)ぶことは害(がい)を薄(うす)くし利(り)を生(しやう)ずる所以(ゆゑん)であつたから成立(なりた)つたのであらう。して両家(りやうけ)が結(むす)ばり付(つ)けば、大(おほ)きな露(つゆ)の球(たま)は小(ちひ)さな球(たま)を引寄(ひきよ)せる道理(だうり)で、それは何様(どう)しても武田方(たけだがた)が致(いた)される訳(わけ)になる。言(い)はず語(かた)らず武田家(たけだけ)から人質(ひとじち)と云(い)つては縁(えん)つゞきの中(なか)で角立(かどだ)つが、晴信(はるのぶ)か、晴信(はるのぶ)の代(だい)がはりで家督(かとく)になるなら他(た)の誰(だれ)かを、客(きやく)あしらひして駿河(するが)へ引寄(ひきよ)せて置(お)くこと、其昔(そのむかし)頼朝(よりとも)が義仲(よしなか)の子息(しそく)の清水冠者(しみづくわんじや)を幕府(ばくふ)に留(とゞ)めたやうにしやうとしたのではあるまいか。今川武田(いまがはたけだ)が一度(ど)も喧嘩(けんくわ)したことがない家(いへ)ならばいざ知(し)らず、相争(あひあらそ)つたことのある以上(いじやう)は、双方(さうはう)を結(むす)びつけるに引力(いんりよく)の大(おほ)きい者(もの)の方(はう)から其(その)要求(えうきう)を出(だ)したとて不思議(ふしぎ)はない。誰(たれ)が雪斎(せつさい)であり美濃守(みののかみ)であつても、縁組(えんぐみ)しただけではまだ不足(ふそく)に思(おも)つて、人質(ひとじち)とは云(い)はずに客遊(かくいう)させて、といふ名(な)で、其(その)実(じつ)は質(しち)を取(と)りたくはなかつたらうか。晴信(はるのぶ)に駿河(するが)へ行(ゆ)くやうにと信虎(のぶとら)の言(い)つたのもまんざら形(かたち)のないことではなくて、信虎(のぶとら)の腹(はら)で惣領(そうりやう)をやりたい事(こと)はないから、惣領(そうりやう)は惜(をし)くも可愛(かはい)くもない甚六(じんろく)抜作(ぬけさく)のやうに扱(あつか)つたり罵(のゝし)つたりしたのも其為(そのため)であつて、先方(せんぱう)さへ承知(しようち)なら次男(じなん)を代(かは)りに遣(や)らうの思案(しあん)であつたが、駿州(すんしう)にも目(め)の鞘(さや)ののはづれた者(もの)はあるから、それでは満足(まんぞく)しないので、愈々(いよ/\)惣領(そうりやう)でなければ満足(まんぞく)しないとならば晴信(はるのぶ)を一二年(ねん)遣(や)る分(ぶん)だ、何時(いつ)でも呼寄(よびよ)せられるやうにして置(お)いて、と甘利備前(あまりびぜん)へ預(あづ)けて置(お)いて、そして自身(じしん)駿府(すんぷ)へ行(い)つて、もう一度(ど)突張(つゝぱ)つて見(み)て、出来(でき)るならば愛子(あいし)を粧(よそほ)ふてある次郎(じらう)を遣(や)らうと、いくら麁剛(そがう)の人(ひと)でも五十に近(ちか)い戦国(せんごく)の老猾(らうくわつ)だ、自身(じしん)出向(でむ)いた。ところが晴信(はるのぶ)は今川(いまがは)へ行(い)つて清水冠者(しみづくわんじや)になるのはもとより厭(いや)だし、内々(ない/\)は自分(じぶん)の代(だい)になつたらといふ功名心(こうみやうしん)は燃(も)やしぬいてゐる。老臣(らうしん)宿将(しゆくしやう)達(たち)は、久島(ひさじま)以来(いらい)、信虎(のぶとら)が愈々(いよ/\)剛愎(がうふく)自(みづか)ら用(もち)ゐて、剛(がう)の者(もの)七十五人(にん)を旗本(はたもと)にして我存(がぞん)一ぱいに振舞(ふるま)ふのに心(こゝろ)を離(はな)してゐるし、国人(こくじん)も亦(また)御屋形様(おやかたさま)に畏(おそ)れては居(ゐ)るが懐(なつ)いては居(ゐ)ないのを見(み)て取(と)り、主人(しゆじん)と一緒(しよ)になつて晴信(はるのぶ)を腑(ふ)ぬけのやうに云囃(いひはや)してもそれは虚言(きよげん)なのが駿河(するが)にも知(し)れてゐるのを悟(さと)つて見(み)ると、これは寧(むし)ろ若殿(わかとの)を今川(いまがは)に渡(わた)すよりも殿(との)を隠居(いんきよ)にして終(しま)つて彼方(あちら)へ置(お)いた方(はう)が、此方(こちら)には大吉(だいきち)利市(りし)で、彼方(あちら)にも十二分(ぶん)であらう、隠居(いんきよ)とは云(い)へまさかに親(おや)を見棄(みす)てて異心(いしん)を立(た)てはすまいと彼方(あちら)でも思(おも)ふだらうと考(かんが)へ、信虎(のぶとら)に随(したが)つて行(い)つた臣下(しんか)の中(うち)の誰(だれ)かから今川方(いまがはがた)の所存(しよぞん)を探(さぐ)らせると、小(せう)の虫(むし)を獲(え)るより大(だい)の虫(むし)を獲(え)れば今川(いまがは)でも十二分(ぶん)であり、晴信(はるのぶ)を立(た)てゝやれば甲州(かふしう)は自然(しぜん)駿河(するが)の藩屏(はんぺい)となる道理(だうり)と、雪斎(せつさい)にせよ美濃守(みののかみ)にせよ物分(ものわか)りは早(はや)い人達(ひとたち)で、そこで信虎(のぶとら)が何(なに)を云(い)つても関(かま)はず、押(おさ)へたバッタにして終(しま)つて、馬鹿(ばか)を見(み)たのは信虎(のぶとら)ばかり、他(た)は皆(みな)三方(ぱう)四方(はう)不足(ふそく)の無(な)い外交(ぐわいかう)成功(せいこう)になつて終(しま)つたのである。ト斯様(かやう)に裏面(りめん)解釈(かいしやく)をすると、ハヽヽ、当(あた)つたか当(あた)らぬかは別(べつ)として、一寸(ちよつと)面白(おもしろ)い。たゞ其(その)跡(あと)を論(ろん)ずれば、矢張(やは)り信玄(しんげん)父(ちゝ)を押越(おしこ)した事(こと)になる。飯富兵部(おぶひようぶ)と板垣駿河(いたがきするが)、雪斎和尚(せつさいをしよう)と岡部美濃(をかべみの)、いづれも佳(よ)い魚(さかな)を手際(てぎは)よく料理(れうり)するに手(て)なれの者(もの)等(ら)で、何処(どこ)かに無理(むり)があつても人(ひと)に旨(うま)く食(く)はせて終(しま)へば身(み)の業(わざ)は立(た)つのである。貧乏籤(びんばふくじ)を魚(さかな)に背負(せお)はせるのに遠慮(ゑんりよ)は無(な)いのである。信虎(のぶとら)が「だしぬけ」を食(く)つた、だしぬかれた、とつぶやいたは真(しん)に其(その)通(とほ)りである。晴信(はるのぶ)はまだ若(わか)い、如何(いか)に偉(えら)い奴(やつ)でも酷(ひど)い人(ひと)でも、自分(じぶん)が魚箸(まなばし)を使(つか)つたのではあるまい、親父(おやぢ)を勘当(かんだう)する芸当(げいたう)をしたのではあるまい。北(きた)では板垣飯富(いたがきおぶ)で、南(みなみ)では雪斎岡部(せつさいをかべ)であらう。後(のち)になつて見(み)ると、成程(なるほど)晴信(はるのぶ)は義元(よしもと)存生中(ぞんしやうちう)は義元(よしもと)の為(ため)になつて居(を)り、今川(いまがは)北条(ほうでう)取合(とりあひ)の時(とき)は兵(へい)を出(だ)して今川(いまがは)の為(ため)にもなつてゐるが、これが思(おも)ひのほかに容易(ようい)ならぬ者(もの)であつたから、義元(よしもと)が岡部(をかべ)に対(たい)して、それほどの者(もの)に蟄居(ちつきよ)させたのも腹(はら)の底(そこ)は見透(みすか)せる。信玄(しんげん)も功(こう)を積(つ)んで来(く)ると世(よ)の中(なか)が分(わか)つて来(く)る。板垣(いたがき)が戦(いくさ)に負(ま)けた時(とき)、負(ま)けた板垣(いたがき)を弁護(べんご)して褒(ほ)めた事(こと)さへあるが、其後(そのご)碓氷峠(うすひたうげ)の大戦(おほいくさ)で板垣(いたがき)一手(て)で上杉勢(うへすぎぜい)を破(やぶ)つて大功(たいこう)を立(た)てた後(のち)には、信方(のぶかた)の忰(せがれ)の弥次郎(やじらう)の扇子(せんす)に、満(み)つればやがて欠(か)くる月(つき)の古歌(こか)を書(か)いて与(あた)へた。それを見(み)てから板垣(いたがき)も心(こゝろ)に虚(きよ)が生(しやう)じて、変(へん)になり、流石(さすが)の弓矢(ゆみや)功者(こうしや)も耄(ぼ)けて戦死(せんし)して終(しま)ふ。飯富兵部(おぶひやうぶ)も信玄(しんげん)の子(こ)太郎(たらう)義信(よしのぶ)逆心(ぎやくしん)に坐(ざ)して剣(けん)を賜(たま)はり自殺(じさつ)、家(いへ)断絶(だんぜつ)である。恐(おそ)ろしいことである。
 義元(よしもと)存生中(ぞんしやうちう)は舅殿(しうとどの)とて信虎(のぶとら)は大切(たいせつ)にされた。自(みづか)ら我卜斎(がぼくさい)と号(がう)したといふが、我卜(がぼく)とは異(い)な斎号(さいがう)である。我(われ)と自(みづか)ら然様(さう)いふ身(み)になつたといふので、我卜斎(がぼくさい)である故(ゆゑ)、信虎(のぶとら)より後(のち)の人(ひと)で、ヒョット斎(さい)の号(がう)も思出(おもひだ)されてをかしい。義元(よしもと)は信虎(のぶとら)を敬(けい)して而(しか)して留(とゞ)めて去(さ)らしめなかつた。信虎(のぶとら)は信玄(しんげん)の軛(くびき)であるから、何(なん)で義元(よしもと)が放(はな)たう。併(しか)し義元(よしもと)が死(し)んで後(のち)に氏真(うぢざね)の世(よ)になつた。氏真(うぢざね)は凡人(ぼんじん)の代表(だいへう)である、決(けつ)して愚人(ぐじん)では無(な)い、何(なに)も彼(か)も大概(たいがい)は出来(でき)た人(ひと)だらうが、大名(だいみやう)としては仕方(しかた)の無(な)い人(ひと)で、自分(じぶん)の父(ちゝ)を殺(ころ)した信長(のぶなが)のために鞠(まり)を蹴(け)たと云(い)はれてゐる。晩年(ばんねん)に及(およ)んで家康公(いへやすこう)は今川家(いまがはけ)と幼時(えうじ)の関係(くわんけい)があつたので、氏真(うぢざね)を憫(あはれ)んで御懇(ごねんごろ)になされたが、其後(そののち)氏真(うぢざね)は公(こう)に謁(えつ)するごとにべん/\だらだらと下(くだ)らない長談(ながばなし)をするので、根気(こんき)の強(つよ)い家康公(いへやすこう)もげんなりなされて、段々(だん/\)疎(うと)んぜらるゝに及(およ)んだといふ。斯様(かう)いふ人(ひと)と信虎(のぶとら)とであるから、双方(さうはう)定(さだ)めし嫌(いや)な奴(やつ)だと思(おも)つたことだらう。それでも氏真(うぢざね)の方(はう)は信虎(のぶとら)を大切(たいせつ)にして家(いへ)に留(とゞ)めて置(お)けば、信玄(しんげん)が今川家(いまがはけ)に不利(ふり)なことをすることは出来(でき)ない。義元(よしもと)は実(じつ)に立派(りつぱ)な保険(ほけん)を附(つ)けて置(お)いて呉(く)れたのである。それだのに氏真(うぢざね)のやうな人(ひと)に会(あ)つては、何(なに)も彼(か)もあつたものではない。信虎(のぶとら)を邪魔者余計者(じやまものよけいもの)のやうに扱(あつか)つた。永禄(えいろく)三年(ねん)に義元(よしもと)が死(し)んで、永禄(えいろく)六年(ねん)の正月(しやうぐわつ)には既(すで)に信虎(のぶとら)は遠州(ゑんしう)掛川(かけがは)円福寺(ゑんぷくじ)に移(うつ)つてゐて、誰(たれ)か我(わ)が方(かた)へ人(ひと)を遣(つかは)せといふ使僧(しそう)を甲州(かふしう)へ遣(や)つた。信玄(しんげん)は日向源藤斎(ひうがげんとうさい)といふ者(もの)を出発(しゆつぱつ)させた。正月(しやうぐわつ)十七日(にち)に源藤斎(げんとうさい)は円福寺(ゑんぷくじ)へ着(つ)いて我卜斎(がぼくさい)の信虎(のぶとら)に謁(えつ)した。信虎(のぶとら)ははや七十になつてゐた。そして義元(よしもと)戦死(せんし)の後(のち)、我(われ)を祖父(そふ)として扱(あつか)はぬから此(この)円福寺(ゑんぷくじ)に移(うつ)つた、国(くに)を出(で)た翌年(よくねん)駿府(すんぷ)で男子(だんし)一人(ひとり)を挙(あ)げた。義元(よしもと)はこれを小舅(こじうと)会釈(ゑしやく)にして、騎(き)二十を預(あづ)けた。上野守(かうづけのかみ)と名乗(なの)つて、当年(たうねん)二十五歳(さい)になる。上野守(かうづけのかみ)が十六歳(さい)の時(とき)に挙(あ)げた子(こ)を勝千代(かつちよ)と名(な)づけた。これが今年(ことし)十歳(さい)になる。上野(かうづけ)父子(ふし)に遇(ぐう)されて、此(この)寺(てら)に去年(きよねん)より居(ゐ)るが、氏真(うぢざね)が今(いま)は上野(かうづけ)父子(ふし)にさへ冷淡(れいたん)千万(せんばん)である。自分(じぶん)はこれより三日(みつか)の中(うち)に上洛(じやうらく)して京(きやう)に住(す)む。公卿(くげ)の菊亭殿(きくていどの)に、上野(かうづけ)の妹(いもうと)の菊(きく)を義元(よしもと)存生(ぞんしやう)の時(とき)祝言(しうげん)させて呉(く)れたから、婿(むこ)の菊亭(きくてい)をたよりて京(きやう)へ上(のぼ)る。上野(かうづけ)父子(ふし)を信玄(しんげん)に頼(たの)むと云(い)へ、と云(い)つたといふ。それから又(また)其(その)夜更(よふ)けて源藤斎(げんとうさい)を招(よ)んで、信玄(しんげん)に恨(うらみ)はあるが過(す)ぎて久(ひさ)しいことだ、信玄(しんげん)にも道理(だうり)はある。今(いま)信玄(しんげん)の名(な)の盛(さか)んなるを耳(みゝ)にして祝着(しうぢやく)に思(おも)ふと信玄(しんげん)に云(い)へ、と云(い)ふことであつた。
 それから又(また)信虎(のぶとら)は、今川家(いまがはけ)は大抵(たいてい)十年(ねん)内外(ないぐわい)に滅(ほろ)びるであらう、氏真(うぢざね)は遊興(いうきよう)を好(この)み、政道(せいだう)武辺(ぶへん)の心掛(こゝろがけ)も無(な)く、三州(しう)岡崎(をかざき)の家康(いへやす)は義元(よしもと)によつて岡崎(をかざき)へ直(なほ)つたが、今(いま)は氏真(うぢざね)を見限(みかぎ)り、信長(のぶなが)に親(したし)んでゐる。駿遠三(すんゑんさん)は家康(いへやす)信長(のぶなが)に取(と)られよう、とて織田(おだ)徳川(とくがは)今川(いまがは)北条(ほうでう)等(ら)に対(たい)する批判(ひはん)を聴(き)かせて、信玄(しんげん)に云(い)へ、といふので、源藤斎(げんとうさい)は信虎(のぶとら)直判(ぢきはん)を受(う)けて証(しよう)として、帰(かへ)つて信玄(しんげん)に逐(ちく)一を語(かた)つた。信虎(のぶとら)は其(そ)の十九日(にち)に立(た)つて上洛(じやうらく)した。信玄(しんげん)は信虎(のぶとら)の言(げん)には余(あま)り注意(ちうい)を払(はら)はぬやうに見(み)えた。
 信虎(のぶとら)がまだ駿河(するが)に居(ゐ)た間(あひだ)に、竊(ひそか)に人(ひと)を京都(きやうと)に遣(や)り、大将軍義輝(だいしやうぐんよしてる)に歎訴(たんそ)して国(くに)へ帰(かへ)ることを請(こ)うたこと再三(さいさん)に及(およ)んだ。そこで義輝(よしてる)は上野秀政(うへのひでまさ)を使(つかひ)として晴信(はるのぶ)を諭(さと)した。信玄(しんげん)は体(てい)よく之(これ)を断(ことわ)つたことがある。室町殿日記(むろまちどのにつき)の記(き)するところである。信虎(のぶとら)は氏真(うぢざね)の自分(じぶん)に注意(ちうい)せぬのを幸(さいはい)として、終(つひ)に京都(きやうと)へ奔(はし)つた。義輝(よしてる)は信虎(のぶとら)を相伴衆(しやうばんしう)とした。そして将軍家(しやうぐんけ)の桐(きり)の紋章(もんしやう)を信虎(のぶとら)に許(ゆる)したといふ。桐(きり)の紋(もん)など貰(もら)つても致方(いたしかた)も無(な)いが、義輝(よしてる)も当時(たうじ)実権(じつけん)が無(な)かつたので、遣(や)れるものは紋(もん)位(ぐらゐ)であつたらう、情(なさけ)無(な)い談(はなし)だ。やがて其(そ)の将軍(しやうぐん)も八年(ねん)の五月(ぐわつ)、眉尖刀(びせんたう)を揮(ふる)つて自(みづか)ら戦(たゝか)つたのも甲斐(かひ)無(な)く、松永弾正(まつながだんじやう)に殺(ころ)されて終(しま)つた。十一年(ねん)には晴信(はるのぶ)が氏真(うぢざね)を逐出(おひだ)して終(しま)つた。信虎(のぶとら)は漂浪(へうらう)して後(のち)、甲州(かふしう)へは帰(かへ)れず、伊奈(いな)にゥ(お)かれて、そこで終(をは)つたと云(い)はれてゐる。軍鑑(ぐんかん)には勝頼(かつより)と信虎(のぶとら)対面(たいめん)のところが描(か)いてあつて、桂薑(けいきやう)の性(せい)、老(お)いて愈々(いよ/\)辣(から)く、信虎(のぶとら)が刀(かたな)を揮(ふる)つたので、小笠原慶庵(をがさはらけいあん)が刀(かたな)を奪(うば)つた一幕(ひとまく)がある。まるで狂人(きやうじん)の沙汰(さた)であるが、それは天正(てんしやう)二年(ねん)九月(ぐわつ)の事(こと)である。天正(てんしやう)二年(ねん)の三月五日(ぐわついつか)に死(し)し、五月五日(ぐわついつか)には春国和尚(しゆんこくをしやう)が、逍遙軒(せうえうけん)手写(しゆしや)の信虎(のぶとら)像(ざう)に題(だい)した讚(さん)さへ出来(でき)てゐる。軍鑑(ぐんかん)は何(なに)を書(か)いてゐるのだらう。春国(しゆんこく)の文中(ぶんちゆう)、菴主(あんしゆ)(信虎(のぶとら)を指(さ)す)之(の)寿考(じゆかう)不惑(ふわく)の頃(ころ)、一朝(てう)袂(たもと)を分(わか)つて胡(こ)と成(な)り越(ゑつ)と成(な)り、終(つひ)に麟鴻(りんこう)を通(つう)ぜず、徒(いたづ)らに像(ざう)を想(おも)ふ者(もの)は何(なん)ぞ、河陽(かやう)満県(まんけん)之(の)桃花(たうくわ)、衣(ころも)に襯(しん)する者(もの)片々(へん/°\)たり、河陽(かやう)左街(さがい)之(の)梅花(ばいくわ)、襟(えり)を襲(おそ)ふ者(もの)芬々(ふん/°\)たり、□□□三十有(いう)余年(よねん)の後(のち)、意(おも)はざりき還郷(くわんきやう)の一曲(きよく)を聴(き)かんとは、是(こ)れ烏鉢(うはつ)の華(はな)か、合浦(がつぽ)の珠(たま)か、鬼神(きしん)も測(はか)る無(な)し、三家(か)村裏(そんり)の黔首(けんしゆ)、万歳(ばんざい)を唱(とな)へ、太平(たいへい)を賀(が)するに至(いた)つて、嗚呼(あゝ)命(めい)なり、斯(こ)の人(ひと)にして斯(こ)の疾(やまひ)有(あ)るや、今茲(ことし)春(はる)の末(すゑ)、訃音(ふいん)忽(たちま)ち至(いた)る、感慨(かんがい)の余韻(よいん)、鴬(うぐひす)も亦(また)叫(さけ)び、鵑(ほとゝぎす)も亦(また)啼(な)き、人(ひと)も亦(また)慟(なげ)きて而(しかし)て涙雨(るゐう)晴(は)れざる者(もの)連日(れんじつ)也(なり)、況(いは)んや孝子(かうし)の哀慕(あいぼ)するをや、云々(うんぬん)とある。烏鉢(うはつ)の華(はな)、合浦(がつぽ)の珠(たま)、と云(い)つてあるところを見(み)ると、故郷(こきやう)近(ちか)く還(かへ)つて忽(たちま)ちに死(し)んだやうである。信虎(のぶとら)三十余年(よねん)の放浪(はうらう)、信虎(のぶとら)も亦(また)業縁消尽(ごふえんせうじん)したであらう。そして信玄(しんげん)も亦(また)其(その)前年(ぜんねん)死(し)んでゐる。信玄(しんげん)死(し)して、遮(さへぎ)るもの無(な)く、甲府(かふふ)へ帰(かへ)つて死(し)んだのか、文(ぶん)が妙(めう)に修飾(しうしよく)してあるから不明(ふめい)であるが、不竟聴還郷(ふきやうちやうくわんきやう)一曲(きよく)とあるから、多分(たぶん)然様(さう)であらう。
 信虎(のぶとら)が今川家(いまがはけ)に在(あ)つた間(あひだ)は随分(ずゐぶん)短(みじか)くなかつた。其(その)間(あひだ)は今川家(いまがはけ)武田家(たけだけ)相(あひ)争(あらそ)ふことがなかつた。信虎(のぶとら)が氏真(うぢざね)時分(じぶん)に、武田膏薬入道(たけだかうやくにふだう)などと嘲(あざ)けらるゝに及(およ)んで、又(また)其(そ)の監視(かんし)が緩(ゆる)んだのを幸(さいは)ひ、駿州(すんしう)を出(で)ようとしたが、氏真(うぢざね)も一度(ど)は抑留(よくりう)して、引間(ひきま)(浜松(はままつ))の玄黙寺(げんもくじ)に置(お)いたとあるが、遂(つひ)に京(きやう)に奔(はし)るに至(いた)つて、信玄(しんげん)は忽(たちま)ち今川家(いまがはけ)と弓矢(ゆみや)の沙汰(さた)に及(およ)んだ。信虎(のぶとら)信玄(しんげん)の間(あひだ)の事(こと)は、何様(どう)もたゞ武田(たけだ)一家(か)の間(あひだ)のみの事(こと)ではなく、武田(たけだ)今川(いまがは)両家(りやうけ)の間(あひだ)の事(こと)のやうである。そして当時(たうじ)の人(ひと)も書(しよ)も、之(これ)を記(き)するを諱(い)んだ為(ため)に、妙(めう)に不可解(ふかかい)の事(こと)になつてゐるのではあるまいか。     (昭和二年、十月作)


昭和十七年三月二十日 印刷
昭和十七年三月三十日 発行

幸田露伴史伝小説集 巻一
   定価 二円六十銭


著者   幸田露伴

     東京市麹町区丸ノ内二丁目二番地
発行者  湯川龍造

     東京市牛込区榎町七番地
印刷者  堀 修造

     東京市牛込区榎町七番地
印刷所  大日本印刷株式会社榎町工場
   
     東京市神田区淡路町二丁目九番地
配給元  日本出版配給株式会社


発行所  東京市麹町区丸ノ内二丁目
      丸ノ内ビルデイング五八八区
     中央公論社
      振替口座東京二四蕃
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